ヴィトカツィとモレキュラー

ヴィトカツィとモレキュラー

豊島重之(「ヴィトカツィ研究会」代表)

「演劇好き」なる語感は今や素朴に解されるより肩身の狭い開き直りと受け取られがちだが、「ポーランド人の演劇好き」は筋金入りだと聞く。そこには根深い国情と隷属の歴史から来る「自己劇化」の傾向、二重支配と二重自己さえエフェメラ(かげろう)と思い定めた「倦みに倦んだ批評精神」が垣間見える。翻って「日本人の演劇好き」はなんとエフェメリックなのだろう、一時の現実逃避のように思えてしまうのだ。このことはポーランド演劇の先駆者ヴィトカツィを視点に置くと一層はっきりする。彼は1910〜30年代に活躍した劇作家・画家・小説家・写真家・哲学者である。また無頼派・高踏派・パトリオット(憂国の士)・ジャンキー(麻薬実験者)・フェチ(蒐集家)・フェミ(女性好き)そしてカタストロフィスト(破局主義者)でもあった。とは言え、稀代のマルチ・メディア・アーティストなどと呼称しても彼の実像に何ら迫ったことにはならない。本名のイグナツィ・ヴィトキェーヴィチを転倒・圧縮してヴィトカツィと自称したが、彼の意に反して小枝ちゃんとかミジンコ野郎の含意で受け取られたらしい。尤もその蔑称さえ自ら娯しんで多用する処が彼の本領なのだ。ポーランド文学者関口時正氏は、強いてこの固有名ヴィトカツィを訳すなら、ミジンコの鞭毛や精子の尾を連想させることから「振鞭体(しんべんたい)」なる造語が考えられると言う。けだし、名訳である。勿論、関口氏一流のユーモアなのだが、そこには「純粋形式」なる芸術理論を探究した哲学者の自己劇化が伺えるし、蔑称としても一級品と言ってよいからだ。「このタコ・糸切れポストモダン」より「この振鞭体!」と罵倒される方がなんぼか愉快なことか。

来たる11月1・2・3日、このヴィトカツィの振鞭体をモレキュラー・シアターが演劇として両国シアターX(カイ)の舞台に乗せる。題して『肖像画商会』。出演はイスタンブールから初来日の映画女優シャヒーネ・ハティオール、そして大久保一恵ら八戸の女優陣。しかも、この舞台は9月中旬、ヴィトカツィの生地ワルシャワと本拠地クラクフで世界初演したものの本邦初演ということになる。モレキュラーを見ずしてヴィトカツィは語れない。私はごく控え目に述べたつもりである。

(初出:(確認中)/1992年)