ベケット読唇/誤唇法=il-lip ir-read

ベケット読唇/誤唇法=il-lip ir-read

豊島重之

サミュエル・ベケット生誕百年に当たる二〇〇六年末、モレキュラーシアターは晩年の戯曲二作『オハイオ即興曲・カタストロフィ』を三軒茶屋のシアタートラムで上演した。それは、同時期の散文『ワーストワード・ホー』に基づく一九九六年スタジオ錦糸町での上演以来、欠かさず伏流・蠕動させてきた〈写真演劇〉の一つの到達点でもあった。そこには写真を視覚的表象としてではなく、舞台上の言語=身体に匹敵するものとして、つまり表現性を揮発させた作業性の身振りとして捉え返す狙いがあった。舞台上で何枚もの写真を現像し、そのまま客席に展示するには、どれほどの煩瑣な手続きを踏まなくてはならないか。モレキュラーの俳優たちは測ったように手順に没頭しながら、しばしば測りかねる事態にも即応しうるオペラシオネルな身振りを、写真の介在によって強いられたことになる。演劇である以上、やる側に屈託はないが見る側の屈託は測りがたい。だが少なくとも、写真はイメージの再演ではなく身振りの近傍であり、むしろ身振りをエマージする転轍機でさえあった。

〈写真とはギャグ=猿ぐつわ/開口器である〉と銘打って編著を刊行したことがある。gag=猿ぐつわが発話を禁じ、肉声を奪う限りにおいて、イコンとシンボルを締め出された写真にインデックス=指標性の強度をもたらし、その反面、よく歯科で見かけるgag=開口器をかませる限りにおいて、被写体や撮影者の不在の口のみならず見る者の不在の口さえも半開きのままにしておく。写真はひたすら黙しているばかりか、誰の目にも触れられずに遠ざかってやまない。写真はそうした二重のgeste=ジェスト/身振りを呈する。写真のイメージは不動でも永遠でもなく、映画とは異なる仕方で、動的な切片(ドゥルーズ)なのだ。そう言えば、ジョルジョ・アガンベンが『人権の彼方に(原題=目的のない手段)』の中で、「身振りは、純粋な手段性としての、言語活動の内にあること、であり、・・・言語活動の内では把握されない、という身振りなのである。身振りは常に、語の本来の意味でのギャグである。」(高桑和巳訳)と述べているのを後で知って、その符号にやや啞然とさせられた。

身振りが極限にまで切り詰められた演劇と言えば、誰しもベケットを思い浮かべるだろう。首だけの、足だけの、口だけの、目だけの、それどころか、息だけの演劇。いちいち列挙するには及ぶまい。但し、それをモダニズムの文脈でミニマリズム演劇と称するのは早計だろう。十九世紀後半から二十世紀前半にかけて発明された、ディオラマ・パノラマ・電話・蓄音機・タイプライター・無声映画・セアンス=降霊会・ヴォードヴィル=寄席芸・ディクタフォン=口述録音機/テープレコーダー・ラジオ・テレビ・・・。ベケットは当時最先端のテクノロジー・メディアを最新かつ大胆に演劇に導入してきたかに見える。反面、演劇がラジオ・ディクタフォン・無声映画・テレビに導入、正確には変換されたとも言える。メディアと演劇をめぐるベケット的二重のジェスト。この列挙から写真が脱落しているのはそのためだろうか。

「左脚が支点となり、右脚は踵から爪先に旋回運動を受けながら地面から持ち上がる。爪先は最後に地面を離れる。この脚全体が前方に運ばれ、次いで足が踵から地面に触れる。この時、旋回を終えて爪先だけで支えられている左足が地面を離れる。左脚が前方に運ばれ、右脚の側方を通過する。左脚はこの時、右脚に接近するが、ついでこれを追い越し、左足が踵から接地する。この時、右足が旋回を終える。」(同上訳)

まるで連続写真めいた精緻な歩行の描写。これは一体、ベケットのどの戯曲どのテクストからの引用だろうか。『ワット』か『ことの次第』か『まだもぞもぞ』、それとも未邦訳の『光線の長い観察』からの一節か。実は、ベケットが生まれる丁度二十年前の一八八六年にジル・ド・ラ・トゥーレットが記述した『足跡測定法』からの引用である。彼は声と歩行の共失調をもつトゥーレット症候群の命名者として知られている。シャルコーのヒステリー公開講義が一世風靡したように、この時代に身振りの大乱調が未曾有の注目を浴びることになり、その公準もまた必要とされたからである。マイブリッジやマレーによる連続写真の瞠目すべき成果もその一つであり、さらにはシネマトグラフの発明、無声映画の誇張も辞さない身振りの喧噪が陸続する。トゥーレットによる緻密な幾何学は、密かに軍事教練として延命しつつも、まもなく人々は制作でも行為でもない身振りに関心を失っていく。ひとりベケットを除いては。彼には、擾乱を補完するはずの公準こそが面妖極まりない身振りに思えたからではないか。

ベケットはなぜ写真というメディアを避けたか。唯一の無声映画『フィルム』の中で七枚の写真を破り捨てるシーンを想起しよう。写真が身振りを凝固させてしまうのではなく、反対に二重の身振りが共起することを知り尽くしていたからだ。彼がさまざまなテクノロジーに関心を向けたのは、〈写真という書法〉を戯曲やシナリオに陥入させることにあったからだ。

もとより、前期の小説と長篇戯曲、散文詩と見まごう後期の短篇と縮減される一方の戯曲を持ち出すまでもなく、ベケットのエクリチュールは、文字テクストのさまざまなモードを往還させてきた。だが私に言わせれば、小説と散文短篇とは異なるメディアである。スクリプトと〈下書き=rough〉とはジャンルが違うとまで過言したい気に駆られる。アガンベンに倣って、それを「言語活動の内では把握されない、言語活動の内にあること」が液状化した事態と呼んでいいかも知れない。テクストの書法から幾つもの括弧をはずし、統辞法をも揮発させ、その寄る辺なき残滓のみをラフ=辛苦として提示する。ことによるとphotog-rough-y。ベケットはモレキュラーとは違って、目に見えるかたちでは演劇に決して写真を用いようとはしなかったが、その一方では多くの肖像写真を残している。その端正なまでにジェストを欠いた口元を読み取る/読み違えることが可能だとすれば。

——ベケット演劇と写真/収容所性については新刊「舞台芸術」11号、「pg press 06」所収の両拙稿、及びベケット討議所収の『写真集パンタナル』(表参道ナディッフ・丸善丸の内本店で発売中)を併読されたい。

(初出:月刊「現代詩手帖」2007年4月号)