シルシめく「シルメキ」

シルシめく「シルメキ」

高沢利栄(モレキュラー代表・ICANOF事務局)

いまだ誰も書いたことのない未来の余白、したがって誰にも読まれたことのない古文書の行間=ブランクスと、もはや誰の記憶からも忘失された太古の痕跡、したがってコドモたちの打ち消そうにも打ち消すことの叶わぬヤキやリスカの瘢痕の残映=ブロッツが、思いがけなく明滅=ブリンクスしあう徴候の現在 ――〈シロとシミのシルメキ〉。

2001年9月以来、毎年欠かさず八戸市美術館で開催されてきた市民アートサポートICANOF(イカノフ)企画展が、今年も9月18日から開催される。はからずも「NY同時多発テロ」とともに、ひとびとの脳葉に刻まれることとなった地方発信の現代美術展であるだけに、その「同時多発性」には改めて驚かざるをえない。「NY」とは、ノリが読めない、なくしたものは甦らない、という含意のイニシャルだったのだろうか。

シロとシミは、どうにか了解できる。じゃあ、シルメキは? 少し湿っぽく、ファニーな響きは「徴(しるし)めく」から由来する造語らしい。「なんのことだろう」と、立ち止まらせてしまうのがICANOFらしいところか。とすると、シロだって単に余白や行間をさしているに留まらず、「ノリしろ=糊しろ」や「伸びしろ」、かたしろ=形代やよりしろ=依代まで遠く思考を運んでくれるのかもしれない。

いつだったか、ICANOF展ゲストの口からこぼれた言葉が耳に染みついて残っている。「才能とは、影響を受けることのできる能力のことではないか」。ふだん思いだすこともない言葉ではあるが、仕事先へ買い物へと、とぼとぼと行く途中に、ふと目にし、耳にする空の色や虫の声、行き交う表情の晴れや曇り。そうしたものに知らず支えられて、歩を進める日々の暮らしがある。

ある時、じっと立ち止まり、一枚の写真から滴る水脈の微かな匂いにとらえられる。あるいは、いつか北の先人が踏み折った小枝の音を聴くかもしれない。札幌の写真家露口啓二にとって今夏の「東川フォトフェスタ特別賞」受賞後、初の大規模な300点展示《ミズノチズからオホーツク・シモキタへ》には、まさに時を超えて届く「シルメキ」が兆されているだろう。

折しも2009年、詩集+写真集『表-紙 omote-gami』で毎日芸術賞受賞の詩人吉増剛造によるDVD+book『キセキ KI-SE-KI』が刊行された。そこに収録された一篇の映像作品『エッフェル塔(黄昏)』にもまた、不思議な「シロとシミのシルメキ」を見てとるに違いない。それに加えて批評家倉石信乃の映像作品、造形家伊藤二子の新作、大久保一恵・田島千征のダンス公演や及川廣信ワークショップ、アーティストトークなどの、峻烈で多彩な「シルメキ」にも立ち止まってみたい。

『Blinks of Blots and Blanks』。こうした構想力に対して、ICANOF展は今年も日本芸術文化振興基金の助成事業に指定されたが、そこには数年掛かりの実践が裏づけられているのを見落とすことはできない。南の沖縄との遭遇なくして、北の北海道との邂逅はありえない、というのがICANOF展のモチーフであり、スタンスでもあったからである。

満を持してようやく北海道の作家を八戸に迎えることになったICANOFの長く険しい旅程。余白とシミの瞬き。ジャンルと地域を超えた芸術が互いに浸透を深め、作品の余白・空所や裏側の染み・汚れを伴いつつ、来訪者の全身的知覚に交響・明滅することを願っている。

(本稿は、2009年9月11日付け東奥日報紙夕刊[アートの散歩道〈5〉]に、字数オーヴァーのため随処に割愛されて掲載されたものの草稿である。)