歓待のモノクローム

歓待のモノクローム 〜モレキュラーシアター月島公演評〜(11月28日/東奥日報紙に掲載)

前嵩西一馬

八戸市のモレキュラーシアターによる演劇『ILLUMIOLE ILLUCIOLE イリュミオール・イリュシオール』公演(芸術文化振興基金助成/豊島重之演出/大久保一恵・苫米地真弓ほか出演)が、去る11月7日から3日間にわたり、東京月島のTEMPORARY CONTEMPORARYで行われた。

「ようこそ!」。商品たちが交換価値の値札を握りしめ市場への出番を待ち続けるはずの倉庫という極めて近代的な空間に、歓待の台詞が突如響き渡る。スターリンに粛清される直前の演出家メイエルホリドの最後の言葉たちが、外界への通路を極端に絞り締め上げた声帯/政体から漏れ出る。演劇空間の出現に幕は要らな い。その声なき声は、「歓待」に潜む「黒イ出自」を炙り出す。歓待という明るい光景には、今そこで客人をもてなす主人がかつてその家の客人であったかもしれないという、声も出ない影がついてまわる。

プロジェクターを子宮の位置に両手で固定し、強権的、救済的、ときに啓蒙的でさえある強い光を、別の光源によってすでに投影された光の枠に重ね書きする、ダンス・プロジェクショニスト(DP=踊る映写技師)。二つの光源を持つダンサーの影たちは、三方の白壁に身を投げ出す。一つの影からゆっくりと起き上がるもう一つの影。メイエルホリド主義、すなわちホルマリン漬けの形式主義者たち(formalinists!)から決然たる幽体離脱を試みるメイエルホリド自身の姿をそこに見る。

DPの手ぶれを通して、二重の光の枠はゆらぎの鼓動を放ち、観る者に世界のまばたきがあることを教える。観る者のみならず世界もまた、存在する。では世界は何を観るのだろう。ステージと観客席の境界に腰を下ろす一つ目三つ足の証人は、そのことを裏づけてくれる。遠隔操作のカメラは、観客の誰よりも低い視点から一部始終を記録していた。ダンサーたちが床に崩れ落ちる瞬間、肢体が死体となるその瞬間を見上げるような虫の視点を見逃してはならない。

長時間立ち続けのDPがその役目を交替するとき、膝骨がぽきぽきと音をたてる。疲弊したメディア(現代の審問官)がその目先を移す瞬間、何かが脱臼する。「歓待」の反対語は「拉致」かもしれないしそうでないかもしれないという、この国に向けられる待ったなしの留保。常に死角に廻ることが目論まれるこのやっかいな、しかし世界を一瞬ほくそ笑ませることのできる空間では、テクストの語感と身体の五感の互換が執拗に繰り返される。

舞台終盤、メイエルホリドの年譜が早回しで読み上げられる。真の職業を持つ者の一生は、その消失点に向かって加速する。銃殺の「音」が聞こえた直後——舞台の照明が消えるまでのわずかの間、サーチライト=スポットライトを浴びながらもがき苦しむ芸術の姿態が焼きつく。月島の倉庫に佇む白壁に、生者の臭跡(シ ミ)は残された。粛清不可能な使用価値をそっくりそのまま置き忘れる。それは世界を白黒込みで歓待する作法となる。

(まえたけにし・かずま/那覇生れ・コロンビア大学人類学専攻)