演劇のアポトージス 第三章《geoglyphの身体/hieroglyphの演劇》

[演劇のアポトージス 第三章]———— 2009年11月21〜23日/御茶ノ水「カンバス」/モレキュラー新作演劇『マウスト』公演に寄せて————

《geoglyphの身体/hieroglyphの演劇》

豊島重之 TOSHIMA Shigeyuki(モレキュラーシアター演出家)

(1)

ナスカ高原に眺望されるいくつものジオグリフ=地上絵。コンドルやクモ、シャチやリャマにまじって、巨大なハチドリもまた「一筆描き」されている。意外にも見過ごされがちだが、ハチドリほど一筆描きに相応しいアイコン=図像はまたとあるまい。実際にナスカの先人たちがどれほどの工程を要したかはともかく、一筆描きの描法それ自体には、そういってよければ「瞬間の永遠」が託されているからだ。あるいは永遠の次の一頁、その肥沃な翌面=ヨクメンが。

ハチドリの静止飛行には一分間に500回の心拍を要するという。そのエネルギー源は花の蜜だが、三時間に一度は補給しないと生きられないともいう。ハチドリの静止のダンスは、それほどのアクロバティックな静止、当のハチドリ自身には大袈裟に聴こえるかもしれないが、生死を賭した静止なのだ。ハチドリの天敵は、ほかならぬハチであり、そのハチを追い払うために「羽ばたき返し」という得意技を駆使する。むろん500回どころの心拍では済むまい。通常の移動飛行にも1000回を要することもあるというから。この得意技はどこか、ベンヤミンがクレーの絵からヒントを得た、あの「新しい天使」に似てはいないだろうか。次々と廃墟化していく過去を「見返し」ながら、後ろ向きに未来へと飛翔する「アンゲルス・ノーヴォ」の羽ばたき返しに。

(2)

どの本の表紙にもオモテ(表1)とウラ(表4)があり、オモテ表紙の次の頁(表2)とウラ表紙の直前の頁(表3)を「見返し」という。和裁でも洋裁でも、袖口や裳裾などの始末や、身ごろの端の合わせ目を折り返して、ともぎれを工夫するのと同じように、本の「見返し」にも、ひそかな華美を競うのが装幀者の常であった。それで「見返し」のことを装幀用語では「花布」とも称した。表紙が花なら、その翌面の見返しは、さしづめハチドリが群れる「花の蜜」である。たっぷりと花の蜜をふくんだ布地は、一歩二歩と進み往くごとに足をとられる底なしの沼地でもあろうか。うっかり車の群れが飛び交う交差点のド真ん中に立ちすくんでしまったド、読者にだけ不意に訪れる至福の陥穽でもあろうか。

読まれるべき中身が、何にもまして本の生死を決するのは言うまでもない。しかし読み始める前に、あるいは読み終わったあとに、ハチドリの静止飛行の「羽音=buzzing(バズイング)」を聴きのがすなら、なんとも勿体ない話ではないか。たとえばカフカ『城』の序奏まもなく、測量師の耳底に混信してくる電話のなかのハチドリの羽ばたき返しを聴きのがすなら。それにしても一体、ここで「測量」されているものとは何か。何度でも甦る全体主義社会の不穏な羽音、どこまでも内旋してやまぬ書物という迷宮、延々と「書き継ぐ」ことと測量の「線を引く」こととの等号、むしろ「測量という名のノミナリズム」。はるか太古の測量図への引込線こそが、その翌面に圧延されていたとは。

(3)

日頃から「写真」という日本語には違和感があった。真理や真実、御真影はおろか、ことの真相を写しとるなんて、あまりに純真というか天真爛漫というか、真にうけるほうがどうかしていると常々思ってきた。学生時分に、真=マにうけずに、間=マをうけたらどうかと思いつき、「写間=シャカン」と銘打ったりもしたが、写間距離が遠すぎたせいか、誰からも相手にされずじまいだった。そこで、被写体と相即不離であれば文句はなかろうと開き直り、写真部の塵埃まみれの暗室に引きこもって、その塵埃を転写する「写塵=シャジン」に挑んではみたものの、またしても反応はいまひとつだった。きっと「写尽=シャジン」しきれていなかったのだろう。マン・レイとデュシャンによる「埃の飼育」の二番煎じですかね。ある観客のひとことが耳に突き刺さった。大学図書館から借り出した「埃の飼育」の図版を、とつおいつ下宿で眺めては、これのどこがいいんだと青二才は口走っていた。

元々が埃の堆積に痕跡を走らせただけのデュシャンの作品、さながら古代都市か未来都市の建築模型を接写したものである。それも一回きりでなく、百日に一度とか百年に一度とか、その撮影頻度にはどういう決め事と情動が隠されていたのか。「塵に塵が降り積もる」にはどういう放置の条件と巧まざる環境が求められていたのか。二十年三十年ならまだしも二年前と三年前とで、なんら委細の変わらぬ写真記録に、そもそもどういう意味があるというのか。やがて、それが冒頭のナスカの地上絵を、秘めたる参照項にしていることに気づかされるまで。のちに私が『HO-koriの培養』と題した演劇を、都内(東横女子短大・門前仲町天井ホール)や瀬戸内海(建築家鈴木了二設計の佐木島コテージ)で上演したのは1998年前後のことであった。

(4)

中国語圏では写真のことを「照相=ジャオシン」という。この「照=ジャオ」はドイツ語圏の「観=シャオ(Schau)」と同音であり、シャオビューネなら劇場を意味する。辞書をひけば、展示一般のほか、眺めのよい景観でもあり、転じて世界認識をもたらす観点・見地をもさすとある。要するに、観る主体の一等席が「観」なのだ。ところが「照」はその対極にある。観ることを切り裂いて、どこからともなく照り返してくる「反劇場・反展示・反世界観」。観照という悟達を意味する一語を顧みるまでもなく、「観」を厳しく戒める最大の蜜は「照」にあるのを忘れてはなるまい。能舞の四つの挙措「切る・しおる・照る・翳る」。ここで私ぎりの憶断をいえば、「照る」とは日が照るのではなく、その身振りがにわかに光を発してくる佇まいのことであって、もしそうなら、蜜は、密とも書換されていいはずだ。

2001年ICANOF第一回企画展のプレイヴェント「写真家港千尋トーク」は、八戸イタコの民間シャーマニズムの話題に始まり、ハノイや台北の「伝神絵=エピファニー・ドローイング」で締めくくられた。慌ただしく前線に駆り出されていった若い戦没兵には、まともな遺影など一枚も遺族には残されていない。遺品の認識票に貼り付けられた極小の、しかも変色・腐蝕・破損の絶えない出征時の肖像以外には。その写真だけを頼りにルーペで拡大模写しつつ、故人そっくりの手描きの遺影をつくるのが伝神絵師(でんしんえし)である。その一本一本の線描には、死者の往き暮れた魂の繊維が、生前の一挙手一投足のたびに発火してきた神経叢が、まさに神業のごとく復元されている。もはやそれを単に民間シャーマニズムの残滓と看做すことはできない。「伝神=デンシン」とは、字義どおり「シャシン」の隣人、少なくとも写真という「測深=ソクシン」の営みにほかならなかった。

(5)

もう一度、ナスカの地上絵に立ち返ることで締めくくりとしよう。この高原はあまりに広大で、隣接する台地から一つ一つのジオグリフの全貌をとても眺望することはできない。では、このハチドリの静止飛行を一体、誰が観たのだろうか。ナスカの先人にとって、頭上の神々、日月の運行、あるいは神の使者コンドル、その翼をのせた風向きや雲行きに観せるためのものだったろうか。それとも先人たちの脳裡には、どこぞの未来に可能となる「空飛ぶメーヴェ」が、大凧や鳥船(とりふね)がいち早く飛び交っていたのだろうか。おそらく半ば、そうにちがいない。

しかし残り半ば、私にいわせれば鳥瞰図ならぬ虫瞰図、つまりは眺望しないこと、それがハチドリの図像かどうか杳として察知も類推も叶わぬまま、その一本一本の線刻をとぼとぼと往き暮れること以外にはない。先人たちがそうして線刻していった測量工程そのままに、その全貌はついに明かされえぬ名ばかりの『城』の、名ばかりの測量師に負わされた苦役のままに。その苦役の神経叢の翌面に、そう、いましも歩を進めるその足の裏に、いわば伝神の照相が宿っている。ハチドリのほほえみ返しが。

※ICANOF「www.hi-net.ne.jp/icanof/

※モレキュラー〈provisional〉「http://sites.google.com/site/moleculartheatre/

(本稿の初出は、2009年刊[所沢ビエンナーレ引込線]図録に掲載された拙稿『ICANOFは「バタイユ=交戦」状態にある』の全文ではなく部分掲載である。第32回ICANOF八戸芸術大学市民公開講座〈資料〉として、当日80名ほどの来場者に配布されたリーフレットに圧縮転載された。このゲイダイは2009年9月21日(月=祝)八戸市美術館2Fギャラリーで開催されたアーティストトーク『写真・映画・絵画・ダンス ーーそのめくるめく回流』への問題提起としての含意もあった。出席:写真家露口啓二・批評家八角聡仁・造形家伊藤二子・身体表現:及川廣信/進行:ICANOF米内安芸・豊島重之によるスリリングなトークも、いずれ本欄で一読できる機会があろう。)