見える/見えない、アンフラマンス

見える/見えない、アンフラマンス

《絶対演劇とアンフラマンス》

北山研二(フランス文学・デュシャン研究)

マルセル・デュシャンの死後、未発表のメモが少なからず発見された。そのなかにアンフラマンス(infra mince / infra-mince / inframince)に関するメモが46点ほどあった。inframinceとは、minceが「薄い」という意の形容詞であり、infraが「下の、以下の、下位な」などの意をあらわす接頭辞なので、「薄い」とは形容できないほど薄い状態や現象を指す形容詞なのだろう(日本語に対応させるならば、「超薄な」か「極薄な」くらいだろう)。メモに「アンフラマンス(形容詞)、名詞ではない——けっして実詞にしないこと」という記述があるので、おそらくいままでの語彙や概念で名指すことのできない何かしらの現象や機能などを指している。さて、アンフラマンスは、ひとが世界を認知あるいは認識するときの(あるいはそうしないときの)諸感覚の限界に関与する。諸感覚は一般に制度的に承認された(あるいは意味づけされた)範囲の対象しか受け取らないが、デュシャンはこの限界を越えたところにこそ字義どおりの新しい言語、新しい世界、もうひとつの次元(時間が加えられるとは限らない第四の次元)をアンフラマンスな分離によってかいま見る。数学でいう次元決定の「切断」によってかいま見るように。したがって、既成の諸感覚に訴える芸術にせよそれら諸感覚に基づく認識論にせよ、それらは既知の対象の配置換えでしかなく、もうひとつの次元に参入できないのだから、問題にならないのである。

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では、アンフラマンスとはどのようにして見いだされるのか。デュシャンは言う。「ビロードのズボン・・・(歩いているときの)二本の脚のこすれ合いでできる軽い口笛のような音は、音が示すアンフラマンスな分離である」(聴覚的アンフラマンス)。あるいは、「(ひじょうに近いところでの)銃の発射音と標的上の弾痕の出現の間にアンフラマンスな分離」がある(聴覚的・視覚的アンフラマンス)。アンフラマンスとは、あるものとあるものとが分離するとき見いだされる。あるいは、「(ひとが立ったばかりの)座席のぬくもりはアンフラマンスである」(視覚的・触覚的アンフラマンス)。ひとの現前と不在の一瞬の差はアンフラマンスなのである。すでに明らかだろうが、ここにエロティックなニュアンスを見て取ってもよい。エロティックな境位にこそアンフラマンスの分離が明確にはたらくからだ。いまさら言うまでもないが、デュシャンはエロティックな作品を作り続け、機会があるごとに、エロティスムこそ遍在し四次元の世界に通じるものだと繰り返した。デュシャンは言う。「タバコの煙がそれを吐き出す口と同じように匂うとき、二つの匂いはアンフラマンスによって結ばれる」(嗅覚的アンフラマンス)。ここでは「結ばれる」という用語を用いているが、それは「分離する」と同義である。アンフラマンスは分離と結合の境界のありようであり、分離と結合の蝶番をなしているのだから(「分離は雄と雌の意味をもつ」)。また、そこには類似的なものにおける差異、アンフラマンスな差異の反復を見て取ってよい。「大量生産による〔同じ鋳型から出た〕二つの物体の(寸法上の)差は、最大限(?)の正確さが得られたときに、アンフラマンスとなる」ことが確認されるからだ。似ていなければ差異は生まれない。反復はアンフラマンスな差異によってはじめて成立するのである。似るだけが問題になるのは近代までの論理つまり隠喩による同定の論理である。それから逸脱するのは、換喩による差異/隣接の論理なのである(ルーセル的創作手法がその一例である)。

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アンフラマンスによって、デュシャンは非同定の世界に割り込む。デュシャンは言う。「いく本かの絵の具のチューブが一点のスーラになる可能性はアンフラマンスとしての可能なものの具体的<説明>となる」(視覚的アンフラマンス)。そうであるならば、たとえば、聴覚的嗅覚的触覚的アンフラマンスは一瞬のことなので引き延ばして確認しようとしてもできないものの、視覚的アンフラマンスならば凝視することによって確認できるのだろうか。デュシャンは言う。「ひとが眼差しに提供するもの〔いかなる分野であれ眼差しに差し出すためのあらゆる実行〕と、(ちらっと見てすぐ忘れてしまう)大衆の冷ややかな眼差しとの交換。ほとんどの場合、この交換はアンフラマンスな分離の価値をもつ(つまり、あるものが賞賛され、注視されればされるほど、アンフラマンスな分離は少なくなるということである)」。凝視するとき、アンフラマンスは逃れ去る。対象を認定する(あるいは認定できない対象を排除する)見ること・聞くことを土台にして契約的に築かれた近代的主体、統一的個体ではアンフラマンスはとらえられないのである。

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モレキュラー・シアターの「シュロス/シュリフト」「ロクス・パラソルス」そしてOST-ORGANの「ハムレットマシーンパラタクシス」はアンフラマンスな分離の隘路にある。それぞれ、観客があるいは一般にひとが見る(見て取る)ことをそして聞く(聞き取る)ことを頓挫させてしまうからである。演劇であるからには、見ることも聞くこともともに成立させないというわけにはいかない。事実、見る行為、聞く行為はとりあえず約束されている。しかし、モレキュラー・シアターにあっては、セノグラフィー(ブラインドや二分化された舞台)やパフォーマーの並列的分散的動きにより見ることは分断され、引き裂かれ、寸断され、切断され、遮断されたかと思うと、移動を強いられ、分散され、停止され、押し戻されてしまう。そして見えるものは隣接的に遠ざかり迂回し他者化して一瞬回帰するが、また遠ざかる。

一方「ハムレットマシーンパラタクシス」にあっては、見ることはなにがしかの対象を見ることではなく(なぜなら情報量は加速度的にゼロに向かうからだ)、見る行為自体の不動化と空洞化へ導かれる。パフォーマー(?)がゆっくりと動くとき、見ることを再び強制するが、それはただただ再不動化と再空洞化の行程をたどる。そして見える者は過剰露出により見えなくなる。いずれの場合にあっても、見ることが一瞬果たされるがすぐにも頓挫してしまうのである。

聞くことでも両者は同じである。一方はカフカやルーセルのテクストへの擬態的参照を行い、他方はミュラーのテクストの断片の不完全な多重音を並列させながらずらし反復強迫的に吐き出すが、一方は意味はとりあえず成立するそぶりを見せて切れ切れに散乱し、他方は意味が成立しそうなところで霧消する。ともあれ、ここでは現象していることは字義どおりそのものとして現象していることとして肯定しなければならないし、現象していないことについても現象していないこととして肯定しなければならない(つまりそれぞれ相対的なあるいは持続的な価値を失って絶対項として成立し散乱し霧散する)。しかし、実際は両者の分離はアンフラマンスなのである。「可能なものは生成を内包する・・・、一方から他方への移行はアンフラマンスにおいて起こる」。移行の瞬間だけがアンフラマンスにかかわり、「結果にはいかなる関心も示さない」のである。

(初出「絶対演劇」/1992.3.14発行)