HEY!ソリチュードたち!——『飢餓の木 2010』刊行に寄せて

HEY!ソリチュードたち!——『飢餓の木 2010』刊行に寄せて

豊島重之 TOSHIMA Shigeyuki (ICANOFキュレーター・本書編者)

本書(イメージ)の表紙カヴァー

吉増剛造「八戸、裸(蟲)メモ、2010年8月31日脱稿」©YOSHIMASU Gozo

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以文社+ICANOF新刊!2010年10月4日発売予定!

『飢餓の木2010』

共著:吉増剛造・豊島弘尚・鵜飼哲 ほか

編者:豊島重之

上製+カヴァー+オビ(タテ246 × ヨコ261ミリ)

カラー72ページ+モノクロ108ページ

ISBN978-4-7531-0185-6 C0072 ¥2858E   定価:本体2858円+税

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本書『飢餓の木 2010』の2010とは刊行年のみを意味しない。本書の主題たる「未生の飢餓の思考の震度」を地中深く海中深く「測深=ソンダージュ」しつづける2010年代の未踏の徴候をも視野に入れている。いまこのくにでは何が起きているのか。このさき私たちはどんな異様な事態に首まで浸かることになるのだろうか。一方に派遣村が、他方に屋台村が賑わいをみせ、一方に限界集落が、他方に限界なき自己決壊が刺し違える、この捉えがたい冠水の事態がいつかみた光景でないとしたら? メディアに露見する事例は氷山のほんの一角にすぎない。なのに、たちまちメディアも食傷して人々の食傷を先取りしたかのように、次々と目先を変えては人々の目移りをこれでもかと促していく。しかし本当に食傷しているのは、メディアでもこの無縁社会でもなく、「食することの傷み/食せぬことの傷み/食を受けつけることの叶わぬ傷み」、いわば食傷自体のほうではないのか。そこに、飽食の20世紀末のあとに到来した「21世紀的ハンガー」の異貌のサントーム=徴候が兆している。

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もとより「飢餓」には複数のさまざまな歴史性が帯電されているばかりか、いまだ知られざる前史と後史にもまた「KwiGuaの怪物性」が身を潜めているにちがいない。こうした主題の萌芽を私は、とりわけ三人の、それぞれ圏域を異にする著作から触発されたように思う。世界的な詩人としては無論、特異な写真・映像作家としても名高い吉増剛造、近年そのモチーフに〈飢餓の大鴉〉〈飢餓の世界を映しだす臥し待ち月の手鏡〉を描破する画家豊島(とよしま)弘尚、ジュネ研究・デリダ哲学の第一人者たる文学思想・政治思想の先鋭鵜飼哲、この三氏を主要著者として、さらに領域横断的な執筆陣を加えた共著を世に問うことが、数年前から私のささやかな夢、ベケット風「Brief Dream」となったのは疑い得ない。

2001年9月のICANOF第一回展の招待作家である吉増剛造さんに、2010年9月の第十回展への再訪を願おうと心中ひそかに意を決したのはいつ頃だったろうか。2005年11月、赤坂でモレキュラーシアターが主催した大掛かりな『ベケット・イマネンス』企画において、吉増さんの講演と鵜飼さんの講演が火花を散らしたことが、忘れがたい契機の一撃となったのではなかろうか。そのスリリングな応酬は本書に再録されているので、未見の読者にはぜひとも御一読されたい。ともあれ本書の刊行の遠い震源が、五年前の鵜飼・吉増対話にあったことは、いくら特筆しても特筆し足りないほどなのだ。じつは画家の豊島(とよしま)も多くの聴衆にまじって、この二人の応酬に瞠目していた一人であった。言葉を交わさずとも三者が揃い踏みした「Brief Dream」の始まりに言葉は要らない。

「銅葉刻字2010」©YOSHIMASU Gozo

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ICANOF企画展は当初より「メディアアートショウ」を謳っているが、吉増剛造ほど、その名に相応しい布陣はまたとあるまい。第一回展では、余白や裏面の黒地を寸鉄の言葉で埋め尽くす「ポラロイド写真」と、文字のオブジェとも彫刻の音楽ともいうべき「銅葉刻字」を組み合わせたワークショップ・パフォーマンスに挑み、多くの来館者を魅了した。第十回展では、どんな映画史をも逸脱してしまう映画史のアノマリーたる作品、詩人自ら「gozoCine(ゴーゾーシネ)」と名づけた風変わりなショートムーヴィー作品と、「nakedwriting(ネイキッドライティング)」とも「裸蟲メモ」とも称する手描きスクリプト作品を発表する。述べるまでもなく、十年の懸隔を渡り合うこれら四種の表現メディアは、本来の詩人の余技でも、いずれ完成されるべき詩作の下書きや草稿の類いでもない。また意外なことに、ポラロイド写真や多重露光写真の達成が嵩じてDVD映画へとデジタル進展したのでも、タガネで鏤刻(るこく)する銅葉刻字が、虫眼鏡でも判読不能なくらい色分け手描きでびっしり鏤刻された「裸蟲メモ」へとアナログ変容したのでもない。銅葉作品も手描きスクリプトも、凄絶な時間を要する文字のオブジェ/彫刻の音楽であることに変わりはない。これら四種とも、そのつど吉増剛造固有の詩的営為の王道であり、横道(おうどう)にして黄道(こうどう)もしくは坑道にして盲道にほかならず、彼以外の誰にも果たし得ない「詩業」そのものなのだ。

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——犬と狼の間で、飢餓と喪の地峡で、吉増剛造の比類なき映画詩と豊島弘尚の絵画詩との出会い頭に、鵜飼哲の〈飢餓の思考〉が峻立する!

本書のテーマ、とりもなおさず本展のテーマでもある「飢餓の思考」もまた、直接的には鵜飼哲著『応答する力』(青土社刊)所収の「黒田喜夫の動物誌」、および『主権のかなたで』(岩波書店刊)所収の「歓待の思考」による活断層に来歴する。そのことは、本書所収の鵜飼さんの三つの講演を一読されるなら、おのずと歴然としてくるだろう。2009年11月、モレキュラー『マウスト』公演(御茶ノ水のカンバス)での鵜飼さん講演の客席には、上演テクスト提供者たる画家の矢野静明さんはもとより、前方には吉増さん、側方には李静和さん、そのずっと後方には豊島(とよしま)弘尚の姿もあった。帰り際に豊島(とよしま)は、鵜飼さんの話が聴けて来年の《KwiGua展》にどうやら新作を描けそうだな、と言い残して駅に引き返していった。それ以前から打診していた出品を、正式に快諾したという意味以外に取りようがなかった。その証左のひとつが今回展示される『狂児かえる——黒田喜夫詩より』という書作品である。つい最近になって、これも打合せを終えての帰り際に吉増さんから、昔ね、確か櫟画廊か村松画廊かで彼と遭ってるよと、ふと耳打ちされた絶妙のタイミングに、辛うじて平身を保ちつつ内心はもう不意打ちを喰らったプラナリアであった。歓待とは「歓」をひたすら「待」つことなのだと、「待」たれつづける「歓」を禁じ得なかった。

「手描き通信2010」©TOYOSHIMA Hironao

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一抹のユーモアで締めくくろう。なによりも本書の特色は、ヨシマス作品とその関連テクストを右開きタテ組みでレイアウトし、トヨシマ作品とその関連テクストを左開きヨコ組みでエディトリアルしていき、その出会い頭に三つの鵜飼講演を配することにある。だがそうなると、頁表記、目次、奥付け等をどうするか。当初、思案していたTATEの「T-001〜」、YOKOの「Y-001〜」という頁表記では、「TOYOSHIMA」作品と「YOSHIMASU」作品のイニシャルと偶然にも、あまりにも符合してしまうため混乱を避けて敢えて逆転させるべく、タテ組み右開きを「R-001〜」、ヨコ組み左開きを「L-001〜」と頁表記することにした。(拙稿『四角いベケット』を笑覧された読者にはお馴染みの「ReadとListen/wRiteとteLL/coRioLisとos-iRis・osciLLis」を想起されるかもしれない)。言われないと誰も気づかないような、こんな凡庸な工夫にも「飢餓の思考」の一端が呼応していることを痛感させられる。末尾ながら、全国配本の労を執ってくれた以文社をはじめ、ICANOFを10年もの間、見守ってくれた方々に感謝を込めて本書を送り出したい。

——ピンチ(危機)ハンガー(飢餓)を手に、足下の闇を照らして歩む、HEY! ソリチュードたち! そう、きみのことだ、よるべなき、HEYだ!

これは単に風変わりな「詩画集と映画論集と演劇論集」の異種バトル本ではない、〈飢餓の木〉は、HEY! 21世紀少年必読の「甦る死者の書/未生の古文書」だ、〈飢餓の木〉は、2010年代の危機の徴候をよるべなく生きるための海図・星辰図、それとも、HEY! 飢餓の歩き筋のための指南書=アルス・ノトーリアだ!

(2010年10月4日発売予定『飢餓の木2010』収録の編集後記に加筆したもの)