島で私は、スプレッド・ビーバーとフライング・スネークに遭った

島で私は、スプレッド・ビーバーとフライング・スネークに遭った

Spread Beaver and Flying Snake:

Fit of Gaze by Screen of Fitting-room in《Culture of Dust》

豊島重之

(1)演劇のダスト/島のゴースト

夜のバルト海をフェリーで渡ったことがある。

ヘルシンキからターリンへと続く黒い海面は、心なしか息苦しいまでに分厚いタール状をなして夜の深さを呑みこんでいた。ちょうど湾岸戦争直後で、旧ソ連の核物質がバルト海に大量に廃棄されているとの噂を耳にしていたせいだろうか。目路の及ぶ限り漆黒の闇、漆を何度も丹念に重ね塗りしていくその刷毛目も、その穂先のほつれる音も嗅ぎわけられずに、果たして船は進んでいるのか引き返しているのかさえ判然としなかったのを覚えている。だから、三原港から鷺港へと向かうフェリーの最終便があのシッコクの夜を甦らせたとしてもそう唐突とは思えない。

それは島でのワークショップと上演に、たえず遠ざかりゆく微光と、その分だけ腫れあがってくる風袋(ふうたい)との接面を兆すものであったからだ。言いかえれば、『HO・koriの培養』の主題が「ヒ・カリ」を視えなくさせ、「ホ・コリ」を視えるようにすることにあったからだ。

具体的には、映像を上演するのではなく映写幕を上演してみるということ。そう、映写幕は登場したり退場したりする。映写幕は口をきく。きかなければ、きく口をつける。スク・リーン(sc・reen)は、たとえば夜の遠ざかりに紛れたままのシマ・ウルシの「シ音」やハケメ・ホサキの「ホ音」といった、塵や埃りが立てるような音ならざる音から演算されるものでなくてはならない。

島の名はサキ/サギ。確かに、クレーン車が林立する岸壁や中州で鷺を何羽も見かけたけれど、それは名の定着に資するのちの辻褄というものだろう。まず、海の視界をサ(裂・開)ク/サエギ(遮・閉)ルものとしてシマは立ち顕れたにちがいない。サヘ(迫・騒)ギ立つシキ(仕切)リ、即ちスク・リーンとして。

やがてそこに往き来が生ずるにつれて、サク・サキ・サイ・セキ・スク・サカイ(柵・崎・塞・砦・関・城・境)が識別・差異化されていくのだが、シマのシとは、シキ別・サイ化されえぬ未知や畏怖のマ(間・天・海・山)に接するシ(止・嘴)であり、そこにサワ(触・障・澤・躁)めく最先端部のことである。マにサカ(逆・栄)らってマの所在をシラ(告・治)せるシルベ(標)である以上に、そのシルシ(徴)を口ごもるようにサヘ(喋・囀)ることですらあった。

いわば、サキ・シマはサキ=シマに等しい。sc・ene(光景)とsc・ope(視界)を分岐するsc・reenになるともっと通りが早い。sc・atter(散乱)をsc・an(走査)してsc・arce(稀少)からsc・ale(尺度)を打ちだし、sc・ar(創痕)の両側にsc・ore(譜面)とsc・ript(草稿)を産出する、それがsc・reenなのだ。

(2)幕=膜のアンフィニティフ

スク・リーンの両端、言うまでもなくそれがハ(葉・刃・歯)とホ(穂・火・歩)である。

ハは「前方」の風袋に歯を立て、前方を「掬」っては「張りを発して」突き進む尖端であり、ホは「下方」の中空に歩を蹴り、下方に「巣く」っては「掘りを欲して」めくれ返る尖端である。言いかえれば、ハは吐きだされた息のように「到来する時間」に次々と飛びかかっては呑みこまれ(弾じけ剥がれ果つ)、ホはほとばしる火口のような(過去化ではなく)「先取りされた時間」に次々とくべられては消息を断つ(葬り解ぐれ乾つ)。海面に立つシハ(皺)めいたハ(波)と、深海に立つ墓列(チムニー)めいたホ(穂)をイメージしてもいいだろう。

現在というスク・リーンは、やみくもに何かを喰い破り(ハ)、しかしそれがどこに捕食(ホ)されたかは分からない、そういう得体の知れない獣なのだ。私は騒然とノイズが散乱する上演の最中に、不意に映像を削(そ)ぐようにして飛来し、小さな弧を描いて暗部へ駆け抜けた「尾のようなもの」を現認した。

埃りの粒子を帯電させたスプレッド・ビーバーとフライング・スネーク。今はそう呼んでおく。ホ・コリはひとたび立ったら、静まるのには日数(ひかず)がかかるのだから。

スプレッド(散霧状の)ビーバーは幻覚剤である。スピードやマックスより強力なヤツだという。スプレッド・イーグルが翼を拡げた鷲ならば、スプレッド・ビーバーは体表を平べったく拡げて今にも獲物に飛びかかろうという殺気を隠さない。X Japanのhideのソロバンドも同名であるが、そちらはビーバーの毛皮の敷物のことで、要するにhide(ヒデ)with hide(ハイド=獣皮・鞭)、hideous(ヒデアス)な縊死体(いしたい)を安置させるに適わしいバンド名ではあった。

一方、フライング・スネークはボルネオの熱帯雨林キナバルに棲息する。キナバルは現地語で霊山をさすが、まさに蛇は霊のように樹上から樹上へと滑空する。みるみるうちに身を扁平にさせ両翼を迫(せ)り出すようにして飛ぶのだ。文字通り一匹の爬虫類がキナバルのである。そこにはヒトが両翼ならぬ両手をもつことへの悦ばしき殺気が漂っている。

上演のどこがスプレッド・ビーバーで、どの瞬間がフライング・スネークであったかは問題ではない。もとより、語頭と語尾だけで図体をもたないスク・リーン状のGHOSTなのだ。とはいえ、そこにアンフィニティフ(不定詞)の演劇を駆動させようというのなら、そのスク・リーンの形状だけでも明示しておかなくてはならないだろう。

(3)素描=光面のアンフィニティフ

ここに一葉のデッサンがある(図1)

どこか飄然とした角ばった横顔の、二人の人物が鼻つき合わせて対座している。

二人は端然とチェスの手合わせでも愉しんでいる風であり、隣人同士が憤然と塀ごしに言い合いをこじらせている風でもある。一方は小さな咳がとまらず、もう一方は大きなくしゃみがとまらない、ただそれだけかもしれない。どこか海沿いの寒村、最寄りの派出所、とくにそうした設定に何の根拠もないのだが、ともかく言葉の通じない相手に向かって空しく口角泡を飛ばしている様子であり、いやその反対に、思いがけず見透かされたような一言をポツリと呟かれでもしたのか、それまで糾問していた方が虚を突かれて二の句が継げずにいるところ、そうもみえてくるから不思議である。

さながらトロンプ・ルイユ=騙し絵とでも言おうか。いやそれには根拠がある。左の横顔の絶句した口の描線に目をこらして頂きたい。それが鼻の描線でもあることにたちまち気づかれたはずである。今にも噛みつかんばかりの憤怒の形相が、プイと真横に顔をそむけた冷笑の形相にめまぐるしく交代して、全体の図柄のみならずその局部にあっても、見る者にトロンプ・ルイユを仕かけてくるのである。

ありふれた日常の曲折、その襞にべとついた性的=政治的な情動のカリカチュア。そうとも言えるし、そこに留まらないとも言える。この角ばった横顔から、凍りついた無関心と倦(う)みきった不寛容をみてとるだけでは充分ではあるまい。

この不揃いの「四角い頭部」には、なにか別の、平面性の異類が潜んでいるようなのだ。のっぺりと圧延されたがために「口が鼻を噛み砕き、鼻が口を引きちぎる」ような殺傷力を俄然手に入れてしまった、そう、あのスプレッド・ビーバーとフライング・スネーク。そしてそれこそがスク・リーンの形状なのであった。

ところで、このデッサンの作者は誰か。マラパルテの西原多朱である。もっとも、それは作者にすればいささか寝耳に水のことで、こちらの一方的なたたら足だと一笑に付されかねないところだが、さりとて、作者名を伏せてすますわけにもいかない。

ありていに言えば、これは佐木島コテージのsc・ript(手書き)の平面図であって、パティオで行われる上演に必要な電源配置だけが分かればよい、それによって持参する延長ケーブルの分量もおのずと決まる、そのためだけに西原さんがザッとsc・ribble(走り書き)してくれたファクシミリなのである。

その証左にこのデッサンには次のようなメッセージが書き添えられている。

「×=一階外部電源 △=一階内部電源 ○=二階外部電源 *右側の建物に関しては、本日、中に入れなかった為、不明ですが、左と同じ位あると思います。 *コテージ内庭は砂がしいてあるため、ガタガタします。」——この末尾は、ワゴン式ビデオプロジェクターによる移動投影という当方の構想はムリではないかという示唆であり、実際その通りだったのだが。

上演を終えた今となっては、このファクシミリは何十信ものやりとりのうちの一信にすぎず、今後ほかの誰かに同様の情報を送るにしても転用できる代物ではない以上、作者自身がとうに廃棄してしまった可能性も高く、いわんや作者と呼ばれること自体、そう呼ぶ側のデリカシーだけが問われていると言ってもよい。こうした消息にあってもなお、このデッサンの光沢は少しも褪せることがない。それは上演の行われる場の図面であるのみならず、上演と同時進行した「上演の裏地」の地面でもあったからである。

(4)恣意と停止のアンフィニティフ

世界を止めることができる。それはひとつのフィクションである。

世界を止めることはできない。これもひとつのフィクションである。

この二つのフィクションを不用意に正対させてみる。あの二匹の語頭と語尾が組んず解(ほぐ)れつするにまかせて、それとも互いの不寛容と無関心をじりじり隔たるにまかせて。けれど用心深くあってはならない。無造作に互いの虚を突き、虚の虚を突かれるにまかせて。

「鷺ポイエーシスⅡ」が投げかけた問い、トランスフィクションの一端がここにある。なぜなら、上演とは「シ」=止めることであり、上演の裏地とは止めることのできないものだからである。それはシマの「マ」を意味しない。マではなくサキ=シマが、そう「名」ざすこと=「数」えることが、裏地を喰い破って上演の表皮に露頭してくるのを止めることができない、そこをさしている。

およそ、上演である限り、裏地をもたないことはできず、裏地をもつ限り、上演は止めることができない。それは、上演は見ることができない、と言っているに等しい。極論すれば、上演だか何だかよく分からないものに立ち会わせられていると。それは、世界を止めることができない、ということに似ている。むしろ、世界を止めることにおいて、それは露呈してくる、と言ったほうが正確だろう。

上演とは止めることである、という主題が主題たりうるのは、そうした問いが自家崩壊を招きかねない場所においてであり、「ガタガタしてしまう内庭」以上に足場のひどい、設問と不問が互いの身を削りあうような済(な)し崩しの難路においてなのだ。

もう一度デッサンに横目を走らせてみよう。上下・左右・裏表、どの辺縁をどの輪郭にどう嵌(は)めこんでみても決してピタリと接合することのないジグソーの二片。咳やくしゃみとも聴取不能な会話の吹きだしとも思えた矩形の三片を補ってみても事態は同じである。このさまざまな残余、いたる処に出没する齟齬の切片、それは不揃いの頭部の不揃いの動きを意味するのではなく、反対にその動きを止めること、シマのシをさしている。

『HO-koriの培養』がマルセル・デュシャン由来であることに準ずれば、それはこのデッサンの「停止原基」と言える。のみならず、上演を駆動させた図面=地面こそが上演の停止原基であったと。モレキュラーシアターが1996年に始動した写真演劇は、ベケット『Worstward Ho』に基づく『HOの演劇』と銘打ったことで、一部にセクショナリズムめいた曲解をおびきよせたが、それとて、こうした『HO-koriの培養』の展開=転回を前にすごすごと、かつ、そそくさと席を立つがいい。

デュシャンとマン・レイの共作「埃りの培養」(1920年)は一枚の写真である。タブローでもオブジェでもインスタレーションでもなく写真なのである。

それは、ガラス板上に堆積させた四ヶ月か六ヶ月かの埃りに「大ガラス」の要素を線刻(sc・ore)した作品を撮影したものだが、まさにそのことにおいて当の作品は廃棄される。仮に埃りの作品が現存するとしても、もはやそれは写真とは似ても似つかぬ風貌をしているにちがいないし、写真自体がそうしたことに徹底して無関心なのであり、さらには、この写真さえあればいくらでも埃りの作品を複製できるかというと、そのことには残酷なまでに不寛容なのである。写真は作品というものの停止を宣言するのだ。

(5)ホ・コリの培養ということ

では、図面=地面として振戦するスク・リーンはどうなのか。

もとより、スク・リーンは「ヒ・カリ」を止める装置であり、ヒ・カリでできたフィクションをそこに現出させるのだが、ヒ・カリそのものはフィクションの裏地に回りこんでしまう。そして、スク・リーンを振戦させることによって、ヒ・カリはいつでも裏地を突き抜け、表地を透かして身を乗りだしてくる構えなのである。

しかし、そのようにして見出されるヒ・カリこそがフィクションというものではないか。なぜなら、スク・リーンの物質性は完膚なきまでに骨抜きにされているからである。漆黒の刷毛目として見いだされる微光には、まだしも物質性の片鱗があったけれども。

とすれば、スク・リーンが「ヒ・カリ」を止める装置であるためには、スク・リーンを止める装置がもう一張り必要とされるだろう。それがあの図面=地面上の切片、「ホ・コリ」と名ざされた上演の停止原基である。

ホ・コリが立ち、やがて静まる、そのようにヒ・カリは見いだされなくてはならず、従って上演もまた、そのように行われなくてはならない。スク・リーンの振戦を、ホ・コリの立つ前方と静まる下方において止めること、それを培養という。

「裏返しのほこり [ガラスの裏側から見えるほこり] の質を金属名あるいはその他の名として言及すること。」

(『マルセル・デュシャン全著作』北山研二訳)

デュシャンに即応して私なら、ガラスごしの埃りという未知の金属を「ホコリウム」とか「ノミナリウム」とか、つい命名してしまうのだが、それを「別の名」で呼ぶことができるのは、ほかならぬ詩人吉増剛造ではなかったろうか。

「・・・辿りついて島と島の間の庭の狭さに驚いていた/これは/海ではない、・・・」

「真夏の中庭の鳥は、濃淡を啄ンでいて、それが/“鳥のゆめ”であったのかも知れなかった」

「飛(トウブ)、止(トウ)、止籬(トリ)たちよ」

(詩集『「雪の島」あるいは「エミリーの幽霊」』、集英社刊)

頭部—島部—飛鳥(トウブトウ)—止(トウ)。

口や口々が埃りを立てて崩落したあとで、埃りが静まるように口にされた言葉たち。

第一のパッセージが、世界を止めること/上演とは止めることだ、を図らずも告知し、第二のパッセージが、世界を止めることはできない/上演の裏地の止めがたさ、を一瞬かいまみえた寒雷の光景として突きつけてくる。そればかりか、庭の狭さや鳥のゆめという停止原基において、この引用全体を「ホ・コリの裏地」の別名に一変させてもいる。

しかも、その停止原基さえも停止させてしまう第三のパッセージが繰りだされるに及んでは、私ならずとも慄然とさせられるのではあるまいか。サキ=シマはここまで連れだされている/ここまで私たちを連れだしているのだ。

(初出:スタジオ・マラパルテ発行「sagi times 02」/1999年8月1日+2008年1月29日著者による若干の加筆)