見えることと見えないことの明滅

見えることと見えないことの明滅 

八角聡仁(やすみ あきひと/批評家、近畿大学教授)

八戸市民有志による「市民アートサポートICANOF(イカノフ)」の企画展が今年で第九回を数えた。決して規模の大きな展覧会ではないものの、その先鋭的なヴィジョンは既に広く知られており、毎年新たに打ち出される刺激的なコンセプトと時宜を得たプログラムに注目する芸術家やジャーナリストは少なくない。必ずしも生活の中にアートが根付いているとは言い難い日本の地方都市にあって、市民の自発的なイニシアティブでこうした活動を持続することは、さまざまな意味で容易であるはずがなく、おそらく目に見えないところで積み重ねられているに違いない関係者の尽力にまずは敬意を表したい。

目に見えることと目に見えないこと、それは今回の「Blinks of Blots and Blanks」(通称BBB展)と題された展示の内容とも関わっている。イカノフ企画展で一貫してその中心に置かれてきた写真というメディアの本質的な可能性は、人間の目には見えていなかったものを見せることにあった。八戸市美術館の壁面を埋めつくすように展示された写真家・露口啓二の三百点あまりの作品は、いまや日常的にも、そして美術館という空間においてさえあまりに「自然」なものとなった写真を、言葉=タイトルを伴った「作品」という人工物を通して内側から批判的に検証している。それはイメージの滲み(残像の揺曳)によって、映画がまさしく可視と不可視の明滅によって成立していることを喚起する詩人・吉増剛造の「gozoCine――エッフェル塔(黄昏)」にも通底する。題材の隔たりにもかかわらず、両者の作品が「水」と「地名」を重要なモチーフとしていることは偶然ではない。写真や映画は、「川」や「雨」ではなく「水」を(すなわち「見ず」を)、その物質と運動を見ることを促したからであり、地名とは自然と文化の間のズレを指し示しているなにものかだからである。

肉眼では見えないものを映し出す写真が、人間の視覚に入り込んで以後、絵画も根本的な変容を迫られた。もはや絵画は自明の事物を外側から描くのではない。そこに何が描かれているのか、それを問うためにこそ絵画が描かれるという事態を、伊藤二子の作品は衒いなく描き出す。そこに描く身体の行為と時間が凝集されているとすれば、そもそも人間の身体やその動きは目に見えるものだろうか。特別プログラムとして上演された大久保一恵と田島千征によるダンス作品はそれを問いかけているだろう。さまざまなジャンルの交錯を通してわれわれの視線は日常の制度から僅かに移動し、例えばここに綴られている文字が読みうるのは、黒いインクとともにその余白によっていることに気づかされる。 

(初出:「デーリー東北」/2009.10.15)