アクトとジェストのはざま

アクトとジェストのはざま

豊島重之

花は美しい。花の絵や写真は美しい。互いによく似た二つの文。だが、いざ二の句を継ごうとすれば、たちまち切りのない問いに襲われる。花は自然の能産力の徴(しるし)だが、その花を描いた/撮った絵や写真は人間やテクノロジーの能産力の徴である。自然とアートはその徴において似ているが、違いも大きい。

アートは人間が「アクト=為す/つくる」のに対して、自然はあえて言えば「ジェスト=身振り/身震い」する。内燃力に基づく点は同じでも、自然には手段/目的がなく、美という規範/枠組みも表現/批評という自己意識すらない。

目的なき合目的性。平たく言うと、自他も利害も欠いた自動運動。虫には虫の、魚には魚の、繰り返される生死のジェストがあるのみ。それを美しいと思う/言う人間がいる。無論それを自然は知らない。アートが自然をどんなに模倣しようとも、その目的なき合目的性には達し得ない。

美的判断はひたすら「快」の主観に結ばれたティスト=センスであって、知的判断とは厳に異なるとカントは言う。美=快の対象を所有できない断念の地点にこそ美=快のセンスが生じると。逆に言えば、享受により美は色褪(あ)せ、快は不快に転じかねない。ただ、美しいと思う/言うことに留めること。その内実を問わないこと。そこには絶えざる遠ざけ/隔たりがある。それを私たちICANOF(イカノフ)は「喪の作業/喪のジェスト」と呼びたい。

この二つの文。しかし、これらは文とは言いがたい。花は美しい、に主語が欠けている。しいて補うなら、快の主観/非享受のセンスは、であろうか。

先日の教科書検定のニュースは各紙ともトップ扱いで世間の耳目を引きつけた。沖縄戦における痛ましい住民の「集団自決」をすべてが日本軍の強要によるとは限らない、と初めて報じたからだ。快の主観と非享受のセンスは今しも引き裂かれつつあるのだろうか。

あと二つ。柄谷行人講演録「文字論」と某大学教授による「携帯メール文字論」。前者は検定を通らず後者はすり抜けた。この拙稿もまた漢字・平仮名・片仮名どころか種々の記号が混交して、さながら携帯メール文字同然である。

面妖きわまりないメール文字表記に日夜没頭する女子中高生たちにとっても、いつなぜどのようにして、日本語の書字法がこうした漢字仮名交じり文として成立したのか、一度も疑問に思わなかったとは考えにくい。それを解き明かした作者本人が、教育現場では先生も教えられないほどの論旨だから検定ボツが妥当だと述べている。

でも、私たち生徒は答えがほしいのではなく問いが、問うことの姿勢が奪われるどんな現場も「美しくない」と、しきりに思うのだが。

(初出:「東奥日報」/2007年4月10日)