花を喰う魚のタナトス引かれ唄 あかり謙「・・・林静一論」への反論

花を喰う魚の

タナトス引かれ唄

あかり謙「・・・林静一論」への反論

とよしましげゆき(医二)(*1)

甘ったれるな!という威勢のよい投稿が本社に寄せられた。ここに、あかり謙「林静一論」(本紙一月一五日号)に対する反論として掲載する。「実存的なのが他の凡百のヤクザ映画と違って救いだ。」と述べる筆者自身の主張にとって、「凡百とは?」と静かに問うて見たい気持ちになる。情況の作り出すガラクタの中に塗れる者にとって、凡百なものとは、他ならぬ「実存的」な空位であったし断じて、下宿にマンガを積んで、その積んだ高さに酔いしれて、情況の現実を忘れることではなかった。現代的スペシャリストの典型をここに紹介しようと思う。(編集部)

あのやせっぽちのロシナンテを

後頭無形のカテドラルにみたてて

墨汁をデラデラと塗りたくった

その日ついに花は身をそいだか

その日ついに花は凍てついたか

何がアドレッセンスだ、青春からの訣別に美学なんかあるか、今更にこんな御託を並べる余地が東北大学新聞にあるとはなんとも無残だねえ。ネガとポジを取り引きする写真屋とはとっくの昔手を切ったはずだし、一切の崩壊を目のあたりに見て震える奴などかなぐり捨てたはずではなかったのか。あかり氏はいざ知らず、俺なんかは安無派だからこそそういう転形期の力学は「熱い抽象」として身ごもり、出逢う出逢われるの変位論は既に常識なんさ。アドレッセンスからではなく、自分の書きしたためた論文から、どうしようもなく離れてゆく自分が不安なんだろ?甘ったれるな!疾走それ自体をもっと構造的に尖鋭化しなければ、りゅうの匕首はてめえののどものを早くもかき斬ってるだろうよ(MDM2号を見よ)。どうせ極私的なんて志郎康の真似をするんだったら最後まで筋を通して、《報恩》は<このあなたの息の根を止める私の力はあなたが作ったのです>で説明がつくと色白ビルトイレちゃん(現代詩手帖'68年7月号)を登場させるぐらいしな。そうすりゃ山田の姉さんが息子である少年に向かって「ねえー瓜切ったから食べない?」という訳がわかるというもんよ。

おっさんメロンかサチコが出

たぞ

おっさんは前線に向かってほれ

ほれと逃げていった

おっさんメロンかサチコが出

たぞ

おっさんは蜂起してカンカン帽

子を寝タバコでこがす

おっさんメロンかサチコが出

たぞ

おっさんはよ、よるなと言いな

がら獄門テルミドールから帰っ

てくる

あかり氏の舌足らずな文章の中で決定的に欠損しているのは奇しくも「林静一論」である。即ち「花の紋章」は「巨大な魚」と「花散る町」との合成ベクトル上にあり、「花散る町」は「赤とんぼ」「あめりか生れのせーるろいど」と、「山姥子守唄」との合成延長上にあり、「山姥子守唄」は林の初期短篇「アグマと息子と食えない魂」「おお暁の光に」「吾が母は」の集約点とみるならば彼の作品はピラミッド平面として整理できる。逆ヒエラルキーとはその時、彼の作品の重み、彼の志向深化を指す。にもかかわらず「花の紋章」は他に比べて見劣りがするのは何故か?それは「花散る町」の共同幻想性が人物設定の時間的変化としてしか表われず、昭和35年の遷移空間に何らしたたかな飛程を与え得なかった為か、もう一つ「巨大な魚」の全体論の展開が(三歩進んで四歩下がるだった)事か、いずれにしろ「花の紋章」は林自身が清順を好きなこと、最終回で少年が家に駆け込むシーン(刺青一代)第一回で女にゃわからねえとりゅうがチーちゃんを振りほどくシーン(東京流れ者)等から考えて、ひたすらヤクザ映画のパターンを組み込みたかったバラ一つではある。

サハリンのママはお酌しながら

「散ります散ります」

せーるろいどの肩細くして

「散ります散ります」

福印ふろしきマントの怪傑りゅ

うは

「えっ?だれの子だ、いえ!」

水杯に唇を漏らして立ち上がる

「えっ?だれの子だ、いえ!」

いないわ!そんな人バラ一つであるが故に、風花親分が天と書道して「うーむまずいな、字が死んでおる」とぬかすコマ一つが手足バタバタ涙が出る程うれしいという見方に俺なんか慣れているわけよ。ついでに図にのっちゃえば、ジェノバの「サハリンの灯は—」は「花散る町」にもあったけどなかなか効いてるね、草月にも出品した「かげ」はピーナッツだった、「巨大な魚」の伊東きよ子「りんごの花咲く頃に—」や現在「ガロ」に連載中の「花の詩」の都はるみ「さようなら—」のヒーヒー失業には及ばないけど、そんな中で、「つまらんケンカは何になる」とあかり氏の頭を一なでした後、安保闘争の漁網にもれた、あるいはその時間帯の陰にどうと倒れる男の勝負がある。天退がこれ一瞬夢にんじん(凶区21号)と言う所をスコラ風にボナパッてみようか。まず一方の支柱は、「おっさんメロンかサチコがでたぞ」なる呪文(合言葉)で始まる無名者の攪乱がなかなかな横すべりに終っちまう下痢原則へのテロル(その発動の仕方が「犯された白衣」のように実存的であるのが他の凡百のヤクザ映画と違って救いだ)—サチコをいいようにした(セミの抜けがらが勃ちマラに見えるコマ)おっさんの胸中は、そのために首をくくってしまうサチコの兄貴(顔も役柄も戸浦六宏に酷似)に反して不可解だし、その位相は幼介時の争にも回路するが—出発の起点に居たおっさんを消す(つまり報恩)りゅう(おっさんの弟分でモーサチコの兄貴の弟でも、またそうでなくても説明がつく)を否定的媒介として家をより明確化しようという林の一貫した骨髄、いわば「火の玉だあ!」(戦無派であることの自家撞着ダイラボッチ)が林の闇空狭しとひしめいているわけである。

東京へ!

東京へ!

東京へは誰も来なかったのだわ

もう片方の支柱は言うまでもなく「花の紋章」である。林自身は<花>をパタン通り、白い着物と赤い着物との間にあるもの、地と暴力の聖化、死地に赴く男達がその背に負うものとしているかも知れぬが、絵柄から独断する俺の視点は<常に情況に立ち会えぬもの>に赴く。「せるろいど」の女しかり、「赤とんぼ」の母しかり、「魚」のふさえしかり、風鈴が鳴って始めて(*2)気づくサハリンのママしかり、唯一人山田の姉さんのみ、男の勝負に駆け込むがおっさんの亡がらに泣きつくだけで<だから幸せになってもいいじゃないか>という論理は既に俺の原体験だったからこそ、<わかるかよう、あんたにゃ殺せん!>の「日本昆虫記」のとめを想起させるふさえを取る。堤玲子は、女は暴動性そのものでありながら個人的内乱に終始して総体的暴動には決して到り得ない(NON創刊号)を書いたがむしろ、子供の耳をひっぱたいたり、間男のチン斬り、宿六の首をけずるその接点で<巨大な魚>を幻視する<花>こそが「邪鬼じゃ邪鬼じゃ」の<花の紋章>を奪取するならば、雪降りしきる浪打際をデンデンと走疾(*3)しても魚を殺すどころから東京へ行き着けぬ死人の泰彦を超えて<花>達は巨大な魚に出逢えるのではないか、その時ふさえは<あんたにゃ殺せん、私か征夫にしか>というもろの咽喉元を内時間権力として持ち得るのだ。

さて林自身は「花の紋章」に到って征夫の原器である少年と、母の側とのどちらに決着の火の手を握らせるべきか往きなずむ迷路を「巨大な魚」では、泰彦(父)の痛みとふさえ(母)の痛みとに明示していた。つまり作品の緻密な構造性においては林は逆行の隘路に膝を抱く、見よ、苦もなく繰り返す(花)の詩!しかるに、これら著述からすっぽり抜け落ちた部分—そう、「赤とんぼ」論は泰彦の側からマモルとのマトリッリス(*4)総体を乱反射させておいた(サンキスト同盟機関誌MDM3号)—に交錯させて俺は今ふさえの側から死相の現在分詞に突きささるトリガー・インパルスを抉り出したい、なぜならそれは、一瞬の均衡を維持した二つの支柱が次の直後全面傾斜あるいは多元性シーソーを形成し始める原動力の核だからだ。

よく行く呑み屋の朝鮮人のオヤジは金魚や熱帯魚が好きらしく大きな水槽に飼っていて、俺は一度酔った勢いで、除虫菊の一輪を水槽に投げ込んだことがあったが、目ざとくかぎつけた一等デカイ金魚が上がってきてすぐさま喰わえ込んではあわてて吐き出していた。。(*5)また近くのラーメン屋(これまた朝鮮人夫婦)には壁に大きな魚拓が二、三枚はってあった。

つまり全体論とは林の言う国家美ではなく<花>達の特権的結託、いわば何によっても情況に立ち会えぬ者が、一体何によって情況に立ち会えるのかという下意識の尨大。<花>の魚の巨大さを追い抜く程の加速度的増殖。食傷気味も惰性を超越して、喰うのではなくもはや喰わされている魚は死の本能が透視される。かといって国家の死骸は二義であり、俺が見届けたいのは全体性の相好の一切とその位相空間の構造だ。中原佑介風に言うなら巨大な魚拓は熱核エネルギーの光速遮断による形而上だ。エルナが死んだら今度はエレーナが製造するんだ。

巨大な魚よ、奥村チヨではないがあなたの眼の中でわたしは<花>になる、あなたを遂には窒息させる程にかぐわしい香気のおびただしい葬列、そんな女達が魚の岸にあわれてつんつん椿の身をそぐようにして投与し続ける、「足立てて食べるんじゃないよっ」

(初出:「旬刊 東北大学新聞 第478号 第二本紙(1)」/1969.03.25/1部10円)

採録者註

*1    東北大学医学部2年生当時、豊島重之が使用したペンネームと思われる。

*2    原文ママ「始めて」

*3    原文ママ「走疾」

*4    原文ママ「マトリッリス」

*5    原文ママ「。。」