ZERO−BONE FILMあるいは眼底の映画

ZERO−BONE FILMあるいは眼底の映画

豊島重之

(1)

死んでゆく人の眼を見た/部屋の中を駆けまわり駆けまわり/何かを探すようだった/それから曇りはじめた/霧をおびたようにぼんやりして/やがて瞼は重なりあった

エミリ・ディキンスン(中島完訳)

ロバート・クレイマー(以下RKと表記)の眼にふと止まった二艘の小舟、それだけが手がかりである。ジム・ジャームッシュの映画『デッドマン(DEADMAN)』(九六年)とモレキュラーシアター(筆者が主催する演劇集団)の舞台『オシリス(OS-IRIS/OSCILLIS)』。どちらが上瞼でどちらが下瞼なのか、それがどのように近接し、やがてどのように接合(And then ---soldered down)することになるのか。

RKにとってこの二作がとりわけ重要な「折り目」だったという意味では無論ない。そういう意味でなら、まずグラウベル・ローシャやクロード・ニュリザニーの映画やハイナー・ミュラーの舞台を挙げるだろうし、忘却へと「折られる目」の折られるその音を聴きのがさないRKのことだから、世界の辺境で、それも信じがたいほどの悪条件下で、黙々と創られた異能の映画や舞台を真っ先に挙げるかもしれない。

確かに『デッドマン』については、やっとアメリカから何かが生まれつつある、とRKは評したらしい。誇張して言えば、生地アメリカを離れて、フランスを拠点に世界という辺境を見すえながら、精緻にして苛烈な思考を「映画との共闘」に注いでいたRKにとって、『デッドマン』以前にはアメリカ映画は無いも同然だったのだ。一方、『オシリス』はと言えば、九九年六月、北フランスでの新作撮影中の一日を割いてRK夫妻がパリのモリエール劇場まで駆けつけてくれた。舞台上で発声された吉増剛造の詩の断章「〝わたし〟につれられて、〝わたし〟につれられないときどうしてこゝに来たのだろう。強制収容所の、終着駅で、〝わたくし〟は、そこが駅から十五分程に、驚いていた、〝青森〟が現れていた、〝とうとう〟、森に戻って来て居た、・・・〟初めての森に、・・・。」にRKは強い関心を寄せ、その仏訳を手にワインをしばし酌み交わした。RKがルーアンで急逝するのはその五ヶ月後である。ひょっとしたら『オシリス』はRKの見た最後の舞台だったのかもしれない。その程度の希薄すぎる理由、私にはそれで充分である。

(2)

『オシリス』の主たるテクストは、吉増剛造の二冊の詩集『オシリス、石ノ神』と『「雪の島」あるいは「エミリーの幽霊」』からの十数篇で成り立っているが、未収録の詩が一篇だけあって、それはベケットの映画『フィルム』(六四年)をめぐって書かれた『不揃いの、フリム、光が』である。そこに吉増が引用したエミリ・ディキンスン(以下ED)の一節、言うまでもなくそれが本稿の冒頭の孫引きなのだが、EDがひどい眼疾を患い「失明恐怖」に苛まれた頃に書かれた詩であり、しかもこの一人の友の臨終には、南北戦争の累々たる屍が重ねられていることに注意しておこう。私たちがこの一節を耳にすることになるのは、上演も終盤にさしかかり、「撮影の演劇」とも呼ぶべきこの舞台が不意に「現像の演劇」へと転轍されたかにみえる工程である。確かに「それから曇りはじめた The Cloudier become —」には私たちの不意を突くところがある。それが急転直下、突かれた不意となって身を翻してくるのだ。その時、このEDの六行が舞台上に「裏焼き」してみせるものとは何なのか。

それこそ「OS-IRIS」、即ち虹彩の骨、目の骨、端的に言えば、眼底にほかならない。それは「イ・シ(石)のフ・ネ(舟)」の形をしている。石の別名がイ・メ(夢)である。死を、忌むべきものとして封印された目に映じるものは、はるかフェ・ニ・キアのフ・ネであり、フォ・ネー(声)のホネとも言うべきフェニキア文字であり、それが刻まれた石板のひとかけらである。舞台上に去来するものがそうした石板の数々なのだということを、ひとり眼底は見のがさないだろう。ここには、落雷で地中深く埋められた石は火を通して言葉を話す、と先住民の呪術師が主人公に語る『デッドマン』とじかに響きあうものがある。

実は、邦訳で八行足らずのこの詩は引用部に続いて「探したものが何かを告げぬままに——/眼が見つけだしたのならよいのだが」という二行で締め括られる。その場に置き去りにされた者にとっての安堵のような、それまでの切迫感がにわかに失速したかのような弛緩した印象を与える二行である。閉眼するまでの刻々の事態を、放心しきった体と疲弊しきった祈りとで、それでも諦めきれずに辿り直しているからだろうか。そうではない。この二行は閉眼以前を稀薄になぞったものではなく、すっかり火の気の失せた「黄色いフォーク」(EDの言う稲妻)の目が、そこに放置され、物と化した閉眼をじっと捉えて離さない、そういう二行なのだ。この底冷えのするイロキューションが、閉眼以後に差し向けられているのは明白である。では、その閉眼が見たもの、ハンダづけされた瞼(Soldered eye)に裏焼きされてくるものとは何だったのか。ひとつはEDの自筆草稿である。どの詩も一行が二語か三語だけでたちまち改行し(つまり邦訳の一行はしばしば原文の数行に相当する)、あちこちにハイフンやダッシュやコンマやブランクが多用され(それらはアルファベットでは足りずにEDが発明した新しいフェニキア文字なのだ)、その上、ほぐれた鞭(まだら蛇)かハミングバード(蜂鳥)にも似た筆触の斜体大文字が頻出する。こうした息づまるような息づかいを線刻 score した譜面 score を可能ならしめた端緒は失明恐怖にはちがいないが、EDは快癒することでそこから脱しようとしたのではなく、「私は恐怖で生きてきた/・・・・/恐怖は私の心に強いる/亡霊の助けなしにゆくことは/まるで絶望にいどむようなあの場所へゆくことを——」、むしろ恐怖を鉱脈として掘り進んでいった、その露天掘りのドローイングこそがEDの自筆譜であり、石の舟を導く「亡霊的な」海図でもあったと言うことができる。

(3)

私はこれを「レム書法」とひそかに名づけている。周知のごとくREM=Rapid Eye Movement とは、海馬—間脳系ニューロンの電位活性による、閉眼睡眠時の間歇的な急速眼球運動のことである。たとえばカフカ。たとえば掌編『田舎医者』。吹雪の夜の急患、しかし遠くの村まで往診に行くための馬は昨夜死んだばかりだ。すると豚小屋から二頭の馬が馬丁とともに姿を現わす。獣の目をした馬丁が小間使いのローザ(薔薇の意)を襲いはじめるやいなや、一気に馬車は村に着き、医者は重病人の若者が仮病だと知る。死にたいだと? こっちこそ死にたいくらいだ。すると二頭の馬がいななき、若者の脇腹には忽然と傷口ができている。露天掘り同然の蛆虫が湧く、薔薇色の傷口が。君は助からない、お手上げだ。すると村の小学校のコーラスとともに、やにわに丸裸にされた医者は若者の傷口と添い寝させられる。君の誤りは全体を見ないことだ。この傷口は森の斧の二打ちにすぎない。医者は外套の袖口を釘で引き裂くほど急いで帰途に着くが、あれほど元気だった二頭の馬は、老いた豚よろしく一向にスピードが上がらない。こうして馬車は今も雪の荒野を彷徨っている。——この間田舎医者の眼球は細部から細部へと盛んに動き続ける。一番の気がかりを暗に打ち消すかのように、無用な細部ほど明晰に。カフカが睡魔に襲われながら書き継ぐのを常としたことはよく知られている。しかし私ならもっと単刀直入に言う。カフカこそ「REM書法」の作家ではないかと。だから、各パッセージは病的なまでに明晰なのに、パッセージ同士の継ぎ目はノンレム状態のために脱臼を強いられ、物語全体としても繋がりの不可能な(覚醒時にいくら辻褄を合わせたとしても、ディテールが鮮烈なだけに無理があろう)、そして未完の様相を呈することになるのだ。

カフカ的なREM書法のトリアス(三つ組み)とは、第一に細部が明晰であること、つまりは「全体を見ないこと」。医者が若者をさとす「君の誤り」とは、この書法自体に向けられた、カフカ自身の矜持と戦意にほかならない。第二にトワイスネス、即ち同じことが事態を変えて二度生起するということ。ローザが傷口となり、傷口は袖口に転ずる、というように。そして第三に、REMのEが Ear のEでもあるということ、めまぐるしく居を移すのは眼球のみならず、カフカのあの「尖った耳」なのだ。錠を閉ざしたローザの扉を馬丁が蹴破る音と二等馬車の爆進とが並置され、その二頭のいななきと傷口の虫のひしめきとが、村の子供たちの戯れ唄と森の斧の二打ちとが、見境いもなく事態を急転させていく。たとえば『城』の第十八章、Kは「深夜の陳情」をめぐるビュルゲルの長広舌(陳情とは、陳情人に対して成されるものだったのだ!)に半覚半醒のまま対している。そのひと言ひと言が覚醒時よりも明晰にKの耳を打つ。まさしく閉眼のもたらす Rapid Ear Movement である。カフカはそれを「勝利のシャンパングラス」だと言う。グラスが地面に砕ける音さえ聴える。その破片が足の裏に突き刺さり、びくっとしてKは眼を醒ます。その直後である。Kが最も知りたいと望んでいた「城への唯一の入口」について、ビュルゲルの長広舌がレム的なボルテージを上げるのは。そんな時に限って眠りの深みに落ちるKの耳には「かたかた廻れ、水車よ廻れ」という呪詛めいた声が、勝利のように響くのである。書かれる物語は、現にそれを書きつつある身体をめぐる物語なのだ。それがREM書法の紐帯である。——河口まで引き返そう。私たちは『デッドマン』づたいに遠く上流まで、あまりに急ぎ足で来てしまったのだから。

(4)

『デッドマン』は、死んでゆく人の眼(Dying eye)からハンダづけされた瞼(Soldered eye)までの、「死のレッスン」をうけながら一人の死者が死地に赴く「イ・メ(夢)の映画」である。勿論すでに死相の色濃いアメリカ帝国と帝国の映画を道連れに。西部劇の定型とロードムーヴィーの定型を一歩も踏みはずさないのが何よりの証左である。東部から西部の終点までの汽車、山越えの馬、川越えのカヌー、先住民の最後の砦から杉の葉に埋もれた舟で「水の鏡の地」へ。その全行程に渡って、帝国の死地という死地が惜しげもなく、短いショットで丹念に折り込まれていく。そのどれ一つとっても、点景というには舌を巻くほど練り込まれた点景が、それこそレム的なストロークで生滅を繰り返すのだ。全篇を貫くあの黒画面のフェイディングがそれを支えている。ニール・ヤングの呻くようなギターを伴う「Then Cloudier become --」、それが鋭利なストロークであればあるほど、辺りには亡霊的な異臭が立ちこめてくるのだ。もはや一人の死者の目を通して、死地が描かれているといった事態ではなく、映画というダイイング・アイに灼き込まれて、フィルムが焦げている事態だからではないか。火夫の煤の匂いに始まり、バッファローの毛皮の匂い、紙製の薔薇の香水の匂い、機械油と汗とシガー、血と精液と硝煙、杉の葉と川面を打つ雨の匂い、そして何よりも瞼を閉ざすハンダの匂い。イ・メの映画はオルファクトリー(嗅覚)・フィルムの異称なのである。

その意味でもロードムーヴィーは文字通り道行きの映画だが、それには先住民虐殺や強制移住法やゴールドラッシュや南北戦争に始まる(植民地の成り上がりが内外に植民地を乱造していく)帝国の出自を同行させなくてはならない。そこでまず、十八世紀後半の大英帝国の詩人・画家ウィリアム・ブレイク(以下WB)が召喚される。前述の死のレッスンは、イノセンス(無染の歌)からペーパー・ローズの女(セルの書)を介してハル(幻覚)の谷間を彷徨するエクスペリエンス(無明の歌)に符合するとも言えるからだ。次に十九世紀後半の東部の詩人ED(西部の終点の町「マシーン」の支配者がディキンスンと呼ばれるのは、偶然でもなければ戯れでもあるまい)、およびEDと同時代の大英帝国の数学者によって書かれた『鏡の国のアリス』からノーボディ(以下NB)が召喚される。白のキングとアリスとの「無人」問答が、この映画でも三人のカニバリスト(一人はアリスか赤ずきんを擬した女装をしている)の間で繰り返されるが、それさえWBとNBにとっては、死者もまた人を殺す、死者は字ではなく血で詩を書くというレッスンなのだ。こうしたヴォードヴィルめく「夜の森のピカレスク」を欠いては、この映画からレム—ノンレム的な律動が多分に失われてしまうだろう。白のキングが空言する「二人の使者」とは、卯茶義(うさぎ)と呼ばれる先住民の呪術師NBと、某氏也(ぼうしや)と呼ばれる東部から流れて来た会計士WBのことで、その上、NBが「往って還ってきた」使者、つまり無明(むみょう)へと開かれた覚者なら、WBは「往くだけで還ることを知らない」イノセンス、つまり無明(エスクペリエンス)へと閉ざされた半覚半醒者である。ここに、前述したカフカ『田舎医者』のレム的な往還をみるのはたやすい。それ以上に、向こうの道をやって来る「無人」、即ちノーボディの歩きぶりが、無方に往っては多方に還るとでもいうようなベケット的な歩行を示しているのを見過ごしてはなるまい。無方と多方という「二方」の間で、一方、二方、・・・と果てしなく数えあげられては斧のように忘れ去られる「HO(呆)の歩行」。

NBがWBに興味をもったのは、あとでそうと知って最後まで同行することになるにせよ、最初は、十九世紀初頭にすでに没している詩人と同姓同名だったからではない。WBが死者だったからである。それも、「イ・シ」を嵌めこまれた目でなおも「映画のイ・メ」を追い続ける「尾のような」不思議な形をした死者だったからである。無論、死者のそばに寄り添っていたディキンスンの「まだら馬」がNBを呼び寄せたにはちがいない。言い換えれば、NBが「傷ついた鹿がもっとも高く跳ねる」(ED)ことを知っていたからであり、「鳥の銀色に光る原理」(ED)が胸の傷口に垣間みえたからである。身体をもたぬ者 NoBody にとって、WBはさしずめ WorstBody か WreckedBody(最悪の、破滅の身体)であり、そこにこそ映画の WonderBody(驚異の身体)が宿っていたからである。

(5)

『デッドマン』がカフカの小説『アメリカ』の映画化だと言ったら首を傾げる人でも、小説のラストではミズーリ河沿いに汽車でこれから赴くことになる、結局は書かれることのなかった「オクラホマ野外劇場」の映画化だと言い直したら、少しは耳をそばだててくれるだろうか。「アメリカ」はマックス・ブロートの命名であって、カフカ自身は日記では「失踪者」と、書簡では「アメリカ小説」(以下ANと略記)と呼んでいた。その伝で言えば『デッドマン』こそ「アメリカ映画」(以下AFと略記)なのではないか。

ちなみにストローブ=ユイレの映画『アメリカ(階級関係)』(八六年)についてはここでは一切ふれない。ANの冒頭、客船の火夫は、まずスーツケースの錠を開け閉めしている身振りとして登場する。それが、ロスマンのスーツケースがすでに垂ワれていて、今頃はこんな風に中身を物色されているはずだという含みであるのは明らかだ。AFの冒頭、汽車の火夫は、走り去る窓外に目をやるWBに「まるで船に乗ってるみたいじゃないか」といきなり話しかける。「頭の中の水は景色のように動いているのに、どうして舟は停まったままなんだい。」言われてみれば確かにWBは、瞼を閉ざすたびに姿を変える車内の乗客に、じっと写真のように見つめられていた。「マシーンに仕事の口がある。これが契約書の手紙だ。」それを手に取りながら火夫は言う。「俺は字が読めない。手紙なんか信用しないんだ。」早くも火夫はWBがデッドマンであることを、少なくともダイイング・アイであることを宣告しているのである。ANの火夫が、冷遇に対する直訴 suit(スーツ)に随行(スーツ)させ、唐突に伯父を出現させることによって、ロスマンのアメリカ上陸を保証したように、その実、船の迷路からの追放を宣告したように。付け加えておくと、AFでスーツケースが忘失されてしまうのは、マシーンのホテルの女セルの部屋からWBが慌てて逃げ出した時であった。ANにおいては、書き出しから忘失されたスーツケースは、火夫のベッドのすぐ頭上に響く楽隊の足音に始まり、クララやテレーゼやブルネルダらを縫うようにして、ラッパの天使ファニーまで、レム的な組曲 suite(スーツ)として伏流することになる。

ディキンスンはWBの前にどのように現われたのだろうか。肖像画として。そう言ってよければ亡霊としてである。WBはオフィスで仕事の口を反古にされ、社長に直訴すると言う。一同が笑う。なぜなのか。直訴しても無駄だからか。カフカ『鉱山の訪問』に登場する十一人の技師たち、その十一番目の小使い、技師とは名ばかりの変人だからか。WBは構わず社長室に入る。社長の肖像画。机にはシガーが煙をくゆらせている。人の気配はない。WBはしばし室内を見回す。いきなり肖像画から罵声が飛ぶ。「自分の墓にディジーを咲かせる仕事でも探すんだな。それがおまえにお似合いだ。」

ディジーがEDの詩を想起させるのはいいとして、ここにはロスマンに絶縁状を叩きつけたANの伯父がいる。まるで汽車の火夫の叩き上げのような、帝国の火口がいる。あるいは『城』の秘書クラム。Kはたった一度だけクラムを正面から直視している。酒場の壁の小さな覗き穴ごしに。それこそ写真か肖像画のように細部まではっきりと。やがてその穴から、秘書然とした命令調の、冷然と卑猥を併せもつ低い声がかかる。Kと抱き合っていた娘フリーダを誘う、拒みようもない呼び声が。オフィスの連中が笑ったのは、亡霊が亡霊と話をつけようとしている、そう見抜いたためだったのではないか。WBがディキンスンのまだら馬に乗って、彼の差し向けた殺し屋たちに追われながら、NBとともに谷を越え川を越えていく、その一部始終が「オクラホマ劇場」である。そのカフキエスクなイーディッシュ曲馬団の壮麗にして猥雑な大団円が、AFでは奥地のそのまた奥の院にそびえる、ジャームッシュ的な呪術共同体にほかならないが、さらにその先に「水の鏡の地」なるものがあるわけでは決してない。それは、二人の火夫を水先案内人としてANとAFがヒタリ雁行してきたオクラホマ劇場のことだったからだ。ありていに言えば、この鏡は何ものも映さない奇態な鏡なのだ。私たちは、ただ、水の鏡の地なる言葉を示されることによって、知るのみである。何を? 閉じた両瞼を延々と映しだす「眼底の映画」を。

(6)

『オシリス』は「口の演劇」である。口とは「OS-IRIS」、即ちカメラの絞りの口のことだ。舞台全面は二十四の口をもつラティス状の壁で覆われていて、次々とランダムに口が空き、時にはタンデムにパラレルに、口が抜かれて絞りが全開するやいなや、矢継ぎ早に口は引き返し、立ちどころに二十四の口は埋め戻されてしまう。つまり観客の視方は再び全面遮断の状態に立ち返るのだ。勿論、その口の往還の途上で、舞台後方にも、全く同じ二十四の口をもつラティス状の壁がもう一対あることに気づかぬ者はいない。デューラーが考案した単一の焦点に基づく遠近法装置がここでは二十四の多焦点に基づく「中絶的な遠近法」とも言うべき特異な光学装置に一変している。虚焦点=零—であるサイファもまた前面ラティスの左上の口に発光ダイオードとして固定され、しかもそれが六六六秒から〇〇〇秒へとカウントダウンする場面=プラージュを六回反復して、上演時間を厳密に規定することによって、サイファが浮遊するシニフィアンとして機能することをあらかじめ禁じているのである。言い換えれば、第一プラージュでこの演劇は終わっている、OS=口は開かれては閉ざされる、舞台上ではあと五回似たようなことが繰り返されるだけだと、あらかじめ観客に告知しているようなものなのだ。『オシリス』が口の演劇なら、『デッドマン』は「口の映画」である。絶えまなく血が流れて、決して渇くことのない傷口の映画である。それは主人公WBの胸の傷口のみならず、今なお病識を欠いた自傷強迫さながら、帝国とその映画が自らの胸をえぐり続ける傷口をも意味している。なぜなら、帝国の終端(こそが帝国の火口なのだが)であるマシーンの町で、ディキンスンの息子の銃弾を浴びたWBの傷口には、その許婚者セルの胸の傷口が重ね焼きされているからである。一発の銃弾はセルとWBの胸を串刺しにしたのだ。それゆえWBの傷口が塞がらずに済むためには、よく喋る口とよく食べる口、この二つの口との道行きが欠かせない。WB自身がしだいに無口になっていくからであり、夜の森でビーンズを口にした翌朝、死相の色がいや増していた通り、死者が二度死ぬためにはものを口にすることができないからである。よく喋る口が、先住民の言葉で口八丁を意味するエクセベチュという別名を持つNBであるのは勿論だが、ディキンスンが選んだ三人の殺し屋のうち二人は「よく食べる口」のための兵糧であって、最初からそれを見込んで三人を差し向けたという点は見落とせまい。東部に売られ、さらに宗主国へ、そこでWBの詩と版画に衝撃をうけ、やがて西部に「舞い戻った口」は言う。自分の詩を忘れたのか。舟を造っても雨雲は来るぞ。起きて死者の骨を耕せ、と。死地へ死地へと「往くほかない傷口」は、鹿の亡骸と添い寝して傷口に鹿の血を補うほかはない。慄然とするほど美しい場面である。「彼とだけは出会うたびにきっと/息がつまってきて/背筋にゼロを感じるのです(Zero at the Bone)」——彼とは誰か。「櫛ですくようにさっと草がわかれ/まだらの槍が見える/足もとで草が閉じると/もうあちらで草が開きます」(ED)——川べりの草や木を梳くように、まだら馬がいななく。二人を乗せたカヌーは交易所の岸を離れた。もうお別れだ、ディキンスン。しかし無論そこは、マシーンを遠く離れたディープウェストではあっても、帝国の外部というわけにはいかない。その証拠に、WBの胸にはセルのこしらえたペーパー・ローズがいまだに匂っている。カニバリストは迫っている。マシーンの町の入口には舟の形をした棺がいくつも立ち並んでいたが、そのずっと奥処の先住民たちの亡霊的な要塞にさえ、骸骨と並んでミシンが半ば土に埋まっていたではないか。

(7)

踏み板から踏み板へと歩いた/心してそっと/頭上には星 そして/足の下はたしか海/知らなかった/もう一足が最後の一インチになることを——/この危なげな足取りこそ/人の経験と呼ぶもの(ED)

『オシリス』は、正面性 Façadity の演劇のようにみえて、その実、「直下型演劇 Theatre of Plank」である。プランクとは、船の舷側から海中に突き出た板の上を、目隠しをした捕虜や罪人に歩くことを強制し海に落とす(中島完の訳註)、その踏み板のことである。確かに、ツイン・ラティスでできた舞台上を、常にファサディティを保ちながら、一枚の口(それは画布つまり帆であるが)を運ぶには、往きと還りの二人の漕ぎ手がいなくてはならない。しかも、口を運ぶ者はその口によって視界ゼロの状態に封じられている。帆を張られた歩行がどうすれば可能なのか。プランクからプランクへとREM歩行を試みるしかないのではないか。EDが経験と言い、WBが無明と称したものを、NBなら死者の骨を耕す演習と、いわば Zero at th Bone から切り出された映画「ゼロボーン・フィルム」と言うだろう。『デッドマン』もまた、プランクからプランクへとREM歩行を強いられた映画だったのではないか。いや、むしろ『Walk The Walk』(九六年、監督:ロバート・クレイマー)。歩行を歩くこと。〝わたし〟につれられて〝わたし〟につれられないとき、どうして〝わたくし〟は・・・。三者三様に、プランクからプランクへと無明(むみょう)を踏みしめていく演習。いや、よそう。RKの映画について何事か口にする無染(むぜん)も余白も、私には無残にもない。それに、RKは息をやめたのではなく、息の仕方を変えただけなのだから。

(初出:スタジオ・マラパルテ発行「sagi times 2・1/2」/2000年3月8日)