裂開!付会!乱反射!

裂開!付会!乱反射!

豊島重之(千一年王国・作演出)

舘鼻岸壁──かつては鯨漁の守護神たるおエビス様を祀った岩場、今や眼前に拡がる臨海コンビナートに包囲されつつそこだけ未だに風景化近代化を拒む“裂け目としての場所”、そこに三つの断片を無造作に投げこもう。

(1)明治末期の鯨会社焼打事件(たった一夜の漁民一揆)(2)東日流外三郡史に描かれた安日彦長髄彦伝説(縄文土偶と荒吐五王の制で東北一帯に編まれた反国家)(3)コロディのピノキオ(人形から人間へという去勢即ちエディプス三角形)──三つとも禁止と侵犯の物語に繋がれているのは言うまでもない。たとえば(3)における悪非を成すたびに成長し、老父(木彫師=作者)への奉仕によって縮小する(物語に引き戻される)鼻とは、母性(るり色の仙女の呪術=禁止)を媒介とするエディパルな結び目であるのは明きらかだ。そういた枠組や虚構を脱色・脱臼させ、全ゆる命名や規定を横ざまにズラしつつ、どうやってそこから“裂け目としての場所”に適わしい“裂け目の乱舞”を自生させることができるだろうか。

(1)から言えば、無告の窮鬼(異議申し立てとしての言葉と怨恨の封印)たる事を拒んだ千余の漁民が結集し檄をとばし焼打の虚に出たタテハナとは、満場一致の暴力の発動点としての神話的な場所であるとともに、それゆえ一人取り残された無告の窮鬼としての不在者が今なお佇む脱神話的な場所だと言えよう。無告つまり禁止としての言葉(中心)を予め断たれ、窮鬼としての情念(周縁)さえ脱臭されたこの不在者こそ裂け目としての存在である。裂け目である以上、それは直ちに無数の肉片や無謀な牽強付会たとえば(2)+(3)から長須根彦とヘノキオという命名の殺到を、そして異形の裂け目の乱舞を喚起する。

たとえばこうだ。

抜けるような青空とうそみたいな自然がある。それは抜けるような少年(オ)とうそみたいな水(ヘノキ)を喚起する。しかも少年はあたかも自己にとっての自己意識のように木を長須(鯨)根彦と呼んで憚らず、そのことによって自らを脱自化空白化し、そしてそれは抜歯として、またタテハナ感覚(垂直嗅覚)以外の全知覚の喪失として表象されている。この間の抜けたというより、抜けた間としてのオ少年が勿論弟長須根彦であって、どうやら兄阿鼻彦(アとはオの否定、不在に対して肯定、存在を示唆する)との結託による父殺しを回避遁走したらしい。そのため阿鼻彦はタテハナ感覚を喪失して水平的な関係性の、それこそ阿鼻叫喚のぬかるみに喘いでいる、言い換えれば弟を失った兄は父(木彫師ヘベット)もスケープゴート(身代り山羊)としての無告の窮鬼をも演じなければならない。供儀の留金で刺し貫かれ化膿して“腫れた足”という意味のエディプスに対して、抜けた歯の文節体である少年達(舘鼻子供会)の“歯形のついた長い脛”が弟長須根彦ではなく兄阿鼻彦の足に刻印づけられているのはこの事を指していよう。

いずれにせよ、ヘノキオ長須根彦なる接合体は裂け目としての場所(舘鼻)から喚起された裂け目としての存在(垂直嗅覚)として、母や自然との共生あるいは自他未分のカオスの裂開の一瞬としてあるにも拘らず、その事には無自覚が粧われ、いやむしろ過剰な嗅覚(万能鼻)によって巧妙に隠蔽されているというべきだろうか。

ハナ(太初)に過剰(贈与・負債)を措けば我々は永久にその過剰の消尽(死の交換と再生産・中心/周縁)という物語に奉仕することになる。しかしそれをパラドクスを孕んだ根源的不均衡と捉え返すなら、我々はそこにハナ(起源そして先端)としての差異や欠如、間や裂け目を見出すことができる。言うまでもなく、この裂け目を隠蔽(排除・文節化)して初めて構築されるものこそ、言葉即ち意味や価値、体系や制度、自己や内面といった前述の物語に他ならない。とすれば、そういう物語の暴力を切り崩し全ゆる囲い込みを骨抜きにしていく作業とは、裂け目そのものの体現、たえず横ざまにズレゆく不均衡の自乗運動として捉えられなくてはならない。

完全ではなく間然を!

全体を照らしだす断片としてではなく断面そのものの分裂生成乱反射を!

(初出「東北演劇祭・八戸」/1983.8.20-21)