アプフォルメル断章

アプフォルメル断章

——豊島重之とダムタイプ——

有森静

説教師も世俗の演説家も、詩人も散文家も、船頭も葬儀人夫も、英雄も臆病者も、みんなが同じように、人生は流れである、ということに一致しているのではないか。それだのにどうして反復などという愚かなイデーに思いふけるのだろう。そればかりかそのイデーを原則にしようなどとはなんという愚かなことであろう。

(キルケゴール「反復」岩波文庫訳)

実験の実験性は新しさや古さの目安には還元されない(もしもそれが実験的だと察知されたとしたら、十分に実験的ではなかったのだ)。畢竟、芸術は質量との格闘に他なるまい。その意味で芸術は何も語らない。たとえば、ダムタイプと豊島重之のモレキュラーに共有される方法意識は「生産と享受」の関係の組み替えであり、単なる生産とその消費形式を切り崩してみせる——上演芸術という制度における享受もまた、抑圧の代償として最初から方向づけられているからだ(真に畏怖すべきは享受や消費のマーケティングの圧制から逃れることは出来ないという冷徹な自覚のほうだ)。しかも、これらの「運動」の何らかの認知済の理論モデルへの参照は困難である。今日、共同体の経験にとってこれほど政治的な戦略はない。上演芸術に立ちあう経験は、言葉の定着に回収されはしないし、むしろその境界を越えて行く経験であるが、一つの共同体の経験に基づいた共通の諒解事項と密接に共謀しあっている。冒頭に引いたキルケゴールが反語的に呈示してみせる反復——心理小説の擬態のもとに「反復」篇がただ思考の実験のために書かれ、それどころか反復はやがて未来の思考を決定づけるだろうと予告さえされている。

「形式を問うこと」が想像力を有すこと、切片化・平面性の思考が創意をもたらすことを発見(あるいは再発見)したのは豊島重之の功績である。ダムタイプには芸術的テロルにちかい感性がある。視ることの批判・視ることの変更を企図した豊島が絶対的なタブローの屹立にこだわったぶん、いくらか「古典的」に見えるほどだ。モレキュラーには正対を強いられることの(結果的に一つの奥行に拘束されることの)眼のきまじめさがあり、ダムタイプには俯瞰を強いられるパノブチコン的内部の息苦しさがある。しかし、そこに通底するゾンデの怜悧さには——海上宏美=オスト・オルガンの「絶対演劇宣言/ノンブルパラタクシス」を加えてもよいが——今日、畏敬に値する何事かの産出がある。自己目的化した(堕落した)演劇的カタルシスに回収されてしまうのではないテクストのテクスト性の回路に、カタルシス的異化とは次元の異なるもう一つの次元がある。絶対演劇のモチーフは加算する芸術の破産を宣言している。そうした観点から振り返るなら「浜辺のアインシュタイン」という建築物は大いなる時代錯誤の残骸と映るかもしれない。シェーンベルクやデュシャンが伝統的な芸術観に突きつけた(𠤎首)の鋭さの延長上でジョン・ケージ以後、実験的な手法とししての反復芸術は、主題とその展開というそれまでの連続性・同一性優位の上演(演奏)に対して素材と過程そのものの直接的呈示、不連続という新しい構造を対置してみせたといわれる。ウィルソンとグラスの伝説的な前衛オペラ「浜辺のアインシュタイン」の上演構造は、個々のパフォーマーたちの秀でた技量もさることながら反復されるシーンからシーンへの転換(暗転)の圧倒的な迫力、転換への信頼に看られる形而上学は、紛れもなく70年代を劃する感性そのものだったろう。ケージやカニンガムに代表される方法意識を踏まえたうえでもう一度、連続性・同一性のほうへ不連続としての流れそのものに上演のちからを見出している。どんなに多様性のモチーフに満ちあふれ記号やシンボルの諸断片に満ちあふれていてもその人工の楽園から一つの未統一のビジョンを暗示して浮かび上がらせようとする手法(統辞法)にみられる弁証法の痕跡は、本質的に一つの主体にその多様性を回収してしまうモノローグ体にほかならない(アインシュタインという集合名詞はそのことの暗喩にほかならない)。そこでは多領域での同化の問題、上演空間の遠近法がもたらすアプリオリ、タブラ・ラサが疑われていない。構築的・建築的感性、近代的知性はたやすく立体空間と同化してそれを信じて疑わない。

ある評論家は国内の地下演劇的伝統との断絶を強調し批判したが(より世界的な視野で)豊島ほどその手の「伝統」を意識している者はいないと言っていい。上演に同化して——つまり表現の意味内容の次元に捕われて——対象化するのを止め、劇場の第4の見えない壁たる前面を大胆にもラティス〔格子〕で覆うモレキュラーのそのラティスの向うに眼を凝らしさえするなら、詩的な形象や統辞法と戯れてみせる豊島がいるではないか。ダムタイプと絶対演劇とを頒つのはその先の地平である。絶対演劇には引き算の痕跡があり(否定の否定、神経症的)、ダムタイプ〔DUMB TYPE〕は乗算への過剰な信仰を告白する(肯定の肯定・強度、反復強迫的)。事実、ダムタイプ「ph」のコンピュータ制御で(文字通り)機械的に反復運動する高低2機のトラス・バーは、現実的なものの産出に徹底している。いずれにせよ上演において、大きな全体を志向したり(遠近法のもとに積み重ねていく総合芸術)、何らかの全体性を投影・反映したりする方向(コスモロジーへの志向はその典型)への批判、「全体は虚偽である」〔アドルノ〕ことを見抜いてしまったものの方法意識に帰着する。相対主義を標榜しながら(ポストモダン)、または相対主義者然と日常で振る舞いながらその実、強固な絶対主義的心性を無意識裡に隠しもっている——たとえばその「自然主義的」自己同一性を一瞬たりとも信じて疑わない——共同体の経験(とそれに基づく芸術)への反逆である。その意味でこの相対的絶対主義に対する絶対的相対主義とでもよぶほかない一つの闘争がはじまったのである。単なる(全体に回収されてしまう)部分でも断片でもない一つの全体性の産出に「命懸けの跳躍」が賭けられている。「主題とその展開」から「測量と記譜」、関係概念から函数概念への転回である。そこにロジカルな思弁でもプラクティカルな実践でもなく、敢えて簡潔に「文化ではなくアートだ」としか叫びえなかった豊島の方法意識の特異性が存している——筆者の質問に応える形で豊島は「文化でなくアートだと、いまや軽口で安手な言葉だけど、消極的ながら文化よりはアートのほうがいいと。どんな地平かと問われたらアートの地平、それもイマージュでなくロジックの地平ロジックの刻印なのだと。」と発言している(私は豊島のこの発言だけを引用しようと思う。作家の他の発言が「信用に値しない」からではなく、上演行為と言説との区別をなお経験主義的に尊重したいからだ)。また、この文化が豊島に先行した前衛演劇の旗手たち、とりわけSCOTの鈴木忠志が意識されているのは言うまでもない。また、このアートが矮小化されて理解されてはならない。ここで豊島は今日一体どこにアートがあるのか、絶対的なアートがあるのか、皆相対的な(軟弱な)ものだけではないかと反問しているのだ。人畜無害の人間ドラマが再現される演劇が文化や芸術の美名のもとに流通しているのが現状だからだ。

奇妙にも豊島が演劇人にして精神科医であることに誰も触れたがらない。氏がラカン理論のみならず反精神医学の思想に通暁した精神科医であることの意味は、既成のドラマツルギーから抜け出るうえで私には本質的、決定的だったと思われる。豊島の方法意識の伝統からの断絶、あるいは連続その何れかを強調するのでも、一つの概念への還元でも、事の真偽を検証する為でもなく、私は一つの方法論的アプローチを呈示してみるにすぎない(上演の場で展開される思考の運動に直に触れる為の障害にならないように)。——たとえば転形劇場を率いた太田省吾の代表作「小町風伝」でもっとも強烈な印象を残すのは、箪笥や卓袱台などの家具や建具を背負った役者たちが冒頭と終幕と二度、ヴィバルディの曲にのって独特のスローモーションで登退場するシーンだろう。最終場、それらのオブジェは能舞台の濃密な空間で何と劇的なるものの受苦・情動に彩られていたことか。対してモレキュラー「肖像画商会」(「ロクス・パラソルス」改作)では前景・後景二面のラティスを往還するタブロー(23枚のパネル)の純粋な移し替え作業に俳優たちの所作の大半が費やされるのだが、誰しも一つの感慨に打たれない訳にはいかない。ベケット以降、現代演劇が歩いてきたその道のりの長さについて、あるいはその遠さの意味・価値について。ベケットの延長上で太田省吾は構成(とその身体論)の中心に「抑圧」の哲学をもち込んだのであり、だからこそそこでは抑圧されたものの回帰(表象の回帰)、背景や装置と化すモノも登場人物たちも抑圧の心理的、美的意匠をまとってパレードを繰り広げることになるのだ(そこには芸術的にきわめて質の高い象徴的運動の一貫性と流動性がある)。別の角度からいうなら太田省吾は、劇場の外の過酷な現実世界から抑圧の抑圧性を奪い返してみせたのだ。豊島はこの図式をもう一度反転させ、つねに再生し、派生する表象と意味との間の連接を断ち切ることで、過剰なもの・余剰のもの(アウラ)を引き摺りながら未だ死に切れずにいるモノを目覚めさせる、いわばモノのモノ性を捉え返してみせるのだ。この意味でも豊島は反 - 演劇に留まらない。むしろ前衛演劇を継承して、その否定から出発したつかこうへいや野田秀樹たち小劇場運動の台詞劇が投げ捨てたもの、あえて無視したもの、時代に支配的な力によって踏みにじられたものを測量し記譜しなおすのだ。何れにしても太田省吾では、異化的手法による「抑圧からの救済」が主題となる(「抑圧 - 解放」図式の見事な具現化というほかないような)。同じように勅使河原三郎の一連のダンスに支配的な哲学は「想起」である。(キルケゴールも指摘するように)想起は反復の退嬰化した一形式にほかならない。そこでは回帰色の濃い「出口なしの孤独」という陳腐でナルシスティックな身振りの強度のみに仕える肉体が顕示されて終わる。そのダンサーとしてのまた振付家としての才能に反して勅使河原の構想力・構成力は旧態依然であり、上演=自己表現(自己表出)、上演空間=立体観のロジックから出られない——その典型が89年の「体の夢」であり、百歩譲ってこうした印象が意図的なモードの要請に基づくものだとして「モンタージュ」に到ってなお三浦雅士氏のようなリニアルな記述を許し、有象無象の陳腐な文学的感性・粉飾をよび寄せてしまうからには、私には本質的な欠陥だとしか思えない(その啓蒙的な役割を理解したうえで、文芸批評の様式を踏襲してそのままスライドさせてしまう三浦氏のダンス批評に誰も異議申し立てしないのが私には解せない)。いずれにしろ、時代のモードへの安易な迎合や分かりやすさを求める大合唱にこびへつらく心性は、「万人に愛されたい」と願うのと同様の自己欺瞞的な病の顕在化にほかなるまい。

ところで、たとえ一瞬でも日常的経験からの離脱を希求する主体にとって抑圧も想起も希少性のものであることに疑いなく、同化するのに格好の装置なのだ。対して豊島の反復——一回性でも無限反復でもなく二度性の反復——はフロイト(=マルクス主義的)の抑圧とラカンのいう排除(forclusion/棄却)ほどにもちがう、遠く隔たっている。前者の装置が二重に——上演=表象の場においても享受=同化の場においても——「自己からの脱出と自己への回帰という自己同一性の運動」〔井上摂〕に他ならないことを、またここにも低音部で「抑圧 - 解放」図式の残響が遠く谺しているのが見てとれる、ナルシシズム的同化を許してしまう、その悪循環的幻想の皮膜を豊島は徹底して暴いてみせるのだ。おそらく豊島は演劇史上(上演芸術史上)初めて排除の哲学を持ち込んだのであり、(シニフィアンとよぶしかない)一つの機能の発見と——アプリオリを奪い同時にタブラ・ラサを埋めるものとしての——その行使に努めたのだ。まさに事物の一状態でも、一つの対象でもなく、差異化の一原理でもあるような(これはおよそ鋭敏な芸術的感性、あるいは一度でも上演の側に携わったことのある者になら真に驚くべきことなのである)。事実、私たちはこれまで上演にとって特権的だと信じられてきた諸領域・諸要素での脱・特権化、再・対象化、再・素材化に出くわす(したがってモレキュラーの舞台では隠されているものが何もない。そういってよければ劇場の無意識が奪われているのだ)。まず前述の劇空間の第4面全体を3×8枚のタブローが覆う前方のラティス(格子)——これは隣接/並置〔パラタクシス〕の事態であり、ベケット劇では待ち望まれていたある実在がついに到来しなかったが、象徴的な実在の一者はいまや姿を変えて巨塊のように唐突に断定的に初めから構築されてある——、つぎに本来イメージやイデーが投影されるもっとも神聖な地平たるホリゾントには後方のラティスが占めている(この二つめのラティスを数枚のタブローが占めるとそれ自体は陳腐な斑模様の図柄が投射されているのが分かる仕掛けになっている。しかしこの単純な仕掛が見える者にしか見えない。直視さえすれば常にそこにあるのに)。23枚のパネル=タブローは二つのラティスを往還し、常に観客の視線の範囲内に留まる。一枚のタブローにとっての境界線もまた消失すること事態を拒みつづける。そして、つねに枠(闇)と空白の存在を見る者に主張しつづけることになる(全体は部分=断片の隣に置かれるにすぎない。まさに隣接しているのだ)。通常のシーンからシーンへの転換(多くは暗転)は前方ラティスの全面をタブローが覆うことで示される——ここでも通常のドラマツルギーでは死活問題である処の転換およびそれへの反逆の方途も共に自ら閉ざされているわけだ。こうした事態は果たして断絶だろうか持続だろうか——。前面ラティスの左上の一角・24枚目の格子には1シーン777秒が計6回カウントダウンされるデジタル式発光ダイオードの表示板で占められている。数を刻む物理音と共に乱数表によって不規則に数を告知する機械音声がはいる——この機械音声は巧まずして女優たちが交互に読みあげる「肖像画商会」の二つのテクストへの異化(批評)となっている。どんなに無機質を装っても肉声の肉声性(感情)は残されるものだからだ——。フォーサイスにさえも特権的に残されている聖域、ダンサーや装置が激しく出入りするだけでなく、崇高さの感情を演出する深淵たる暗闇、機械処理された哄笑が谺する暗黒の顎門、舞台の両袖もまた奪われている。客席の視線が届く裸のそこには役者たちおよびパラソルが常に静に待機しているだけだ。かれ・かの女たちは待ち、そして反復する。左右の両袖で時にタブローの傍で、ただ待機し、ただ反復する。私が今回もっとも感銘をうけたのは、777秒間唯一特権的にサイレントに包まれるシーン・5、ケージの「4分33秒」に倣って豊島の「777秒」とよびたい秀逸なシーンである(便宜的にシーンとするが、豊島に寄り添えばシーンでもセリーでもなく、おそらくプラトーだろう)。誰もがカウントダウンする物理音・機械音声の幻聴に苛まされ、やがて深さを追求したあまたの才能が(例えば太田省吾が)あれほど執着して見せた沈黙、沈黙もまたその実、沈黙のイマージュに他ならないことが示される。沈黙のイマージュである、無垢なら無垢の無垢性を奪う、無垢の物質化があるのだ。シーンの中ほど床に4つの額縁が敷かれて「カサのダンス」とでもよぶほかない、譬えようもなく美しい形象とリズムを合わせもったダンスが静に繰り広げられる。しかも、その床面=第5の壁を生成するものとして144台のTVモニターを敷きつめて見せた天児牛大+ソニー的知性・感性に対する(「フィフス—V」)、それ自体見事な批評になっている。おそらく何年もの試行錯誤の果てに見出されたであろう前述のシニフィアン(厳密には対象a)とは、かくも論理主義と心理主義との中間的な媒質のことである(この中間性の場所は、井澤賢隆氏流に肯定的にいえば弛緩であるが、そしてそれ自体質の高い希少性のものであることに疑いないが、やはりある種の曖昧さは残していると思う)。

豊島=モレキュラーの反復は、孤絶と言っていいほど先行する、あるいは同時代の上演芸術の何れとも似ていない。直接的な影響関係を探すのは困難であり、その試みの特権性において際立っている。この反復と形式化の遭遇をめぐる驚くべき実験は、どのような雑音によっても打ち消されはしないし、豊島(をはじめとする絶対演劇)は反復の概念を——隠喩的な方法で、つまり同一性の(表現の意味内容の)次元でうけとめるのではなく——ラディカルに(文字通りに)それを形式にまで高めて展開する方法論を心得ているのである。その転回の成果一点だけでも、私には驚くべきことのように思われる。そして豊島を襲った無理解の根の深さに驚き、その狭量を軽蔑し落胆する(豊島の困難もそこにある)。豊島は今日、上演というテクストが繰り広げられる場所——たかが「出口なき現実」のそれも凡百の芸術が再現してみせる反映などではない、その出口なさの意味やまたその救済の可能性でもない、タブローとよぶに値する地平にまで引き上げられた単なるモノにも心にも還元できないテクストのテクスト性の場所。恐らくカフカとルッセルの読みから切り出された場所、形式にもないようにも還元されない、むしろ積極的に形式と内容の区別の意味が切り崩されるような——そうした場所において思考することのできる、戦闘的とでも形容するほかない徹底した考察を行う数少ない芸術家の一人である。

豊島の方法論の水準に匹敵できるのは唯一、前述のダムタイプの「ph」、それも異文化圏という他者の視線に鍛えられたと覚しき93年版「ph」だけであろう。断言してもよい、「ph」の政治性の産出は、表現の意味内容への同化と外の状況論的文脈との往還だけでは絶対に捉えることができない。今日、もっとも信頼にたる演劇批評の担い手である西堂行人氏と内野儀氏が、自らの形而上学の罠に捕らわれて「掟の門前」で——あたかも豊島の仕掛けたラティスに阻まれるかのように——状況論的な言説に終始してしまうのは、私には奇妙なことに思える。この点(門外漢たる私にも)密かな疑義があり「MUNKS」同人の誰一人、モレキュラーやダムタイプを論じる批評言語を持っていないのではないか(ぜひ、市場で反論を展開していただきたい)。

表題はabsolu-とArt informelとを掛けた豊島重之の造語。

(初出「ダンスと批評 et」no.9/1993年3月20日発行)

採録者註