小島一郎の北海道——〈北上するまなざし〉

小島一郎の北海道——〈北上するまなざし〉

(1)

どうやら写真家には二つの相反する志向性が見受けられるようだ。北上する眼差しと、南下する眼差しと。とかく北方系の作家は普遍性の希求と結びつく南下の志向に捕われやすく、対照的に南方系の作家は異例性の希求と結びつく北上の志向に傾きがちだと思われている。いっとき東京へと南下を試みたとは言え、青森に生まれ青森に没した小島一郎は、そのどちらの類型にも帰属されがたい、それだけでも例外的な存在と言えよう。とりわけ「津軽」や「凍れる」の個展で知られる限り地元青森の、いわば通り一遍に「北の写真家」と呼ばれかねないけれども、さらにその北へ、北海道どころかオホーツクやシベリアへと赴く〈北上する眼差し〉を決して手放さぬ作家でもあったからだ。

一口に言えば、私達は小島を、郷土には稀な孤高の、それも1950〜60年代前半のモダニストとしてではなく、歴史的にも/(死の権力を免れ得ない)時間的現実にあっても、未来的にも/(生の権力が浸透し尽くす)空間的現実にあっても、それらの徴候を欠かさぬ〈北の異例性〉を模索した単独者=サンギュレールとして、新たに捉え返してみたい。本展の中でもこの展示室Eだけ、故意に小島のオリジナリティを坐視したかのような、やや風変わりな容態を呈しているとしたら、ひとえにそうした展示の狙いが反映されたために他なるまい。

 

(2)

人目に触れることのまずないネガという物質と、人目に触れることの断然多いプリントという物質。にもかかわらず小島にとって、およそ写真家にとって、ネガそのものは写真ではない。生前、小島が発表した写真作品は、覆い焼きと複写の多用、要するに敢えて粒子を粗くしたり中間的な陰影を排してコントラストを強調したり、代表作「津軽」や「下北」の写真のほぼ全作がネガに手を加えたものである。「小島のトランプ」として有名な、あの名刺判サイズの選択もまた、ネガから起こした撮影者自身による〈写真〉であることを告知して余りある。ところが、小島が何度も足を運び、大量のネガを残している北海道にあっては事態は一変する。本展企画担当の高橋しげみ学芸員の粘り強い調査考察によれば、現時点で北海道をプリントにしたのはたったの3点。1962(S37)年「凍れる」個展に紛れ込ませた北海道の2点と、写真に手を染めはじめた1954(S29)年頃、写真家小島一郎としては最初期に発表した函館の立待岬の1点。さらに踏査すれば、もう数点見つかるかも知れないが、そのことにそれ以上の意味はない。

いま私達の眼前には、その数点以外の膨大な北海道ネガがある。北海道のネガ/ネガの北海道しかない、と言い換えてもいい。この事態を必ずしもネガティヴに考える必要はない。北海道というトポスが担った、担わせられた歴史的/政治的な陰画がそこに「声高にではなく」焙り出されるとしたら。小島にとって北海道のネガ/ネガの北海道とは、この列島/群島のネガであり、それに連なる大陸の、そう言ってよければ世界のネガでもあるからだ。ネガというマテリアリティ=物質性の切れ切れが、それぞれの光景からもたらされる歓待と隷属の、もはや取り返しのつかないマテリアルな過去性と、撮影者自身によるプリント=マテリアルであることを永遠に奪われた未来性を私達に喚起するだろう。この展示室に迷い込んだ来訪者たちもまた、壁面にピン留めされたネガの片々を、それぞれ身を乗り出して視界を狭めて、接写さながら接視することになったかも知れない。しかし、いくつかの理由から私達はネガそのものを展示するという構想を断念した。その理由のいくばく かを次に述べよう。

 

(3)

小島一郎が死力を尽くして撮ろうとして撮りきれなかった北海道、語弊を怖れずに言えば、翌年の小島に夭逝をもたらした1963(S38)年12月の北海道撮影行。それが最後の撮影地になると内心、凍れる/痺れるように察していたに違いない、撮られた場所/撮りそこねた場所/写真にするための(マテリアルな)時間がもう残されていなかった場所の切迫とは何だったのか。一つには、そこが代表作「津軽」や「下北」の写真的な原生林であったからである。もとより津軽半島や下北半島は北海道と地続きであり、そのうえオホーツクやシベリア・アラスカという(ロマンともサブライムとも異なる)未踏のアクチュアリ ティとも輻輳していたからである。

1944(S19)年、小島は敗色濃厚な中国戦線に召集され大陸各地を転戦している。その酷薄な経験が戦後、小島を写真に、とりわけ北海道撮影行に駆り立てたことは想像に難くない。まして、漸くの思いで復員した郷土の見るも無残な廃墟を前にした経験もまた、単に途方に暮れた喪失感や疲弊に満ちた解放感ではなかったはずだ。一体この戦争とは何だったのか。開拓/開発/テーマパーク建設という名の駆逐/収奪/未曾有の災厄。それは生地に茫然と立ち尽くした者にとって、戦前の終わり/戦後の始まりでは毛頭なく、むしろ写真と災厄の重奏を強いる「絶えざる戦前の絶えざる再—開」に等しく、それこそ北海道なる〈死地のトポス〉の別名ではなかったか。小島は道内各地を彷徨しながら、いくら払拭しても甦ってきてやまない中国転戦のヒリつく体感とともに、津軽や下北のアーキタイプ=祖型が畳み込まれた北海道開拓の歴史的/政治的な「原記憶の地勢図」を辿り返していたのではないか。

 

(4)

もはや〈場所〉の語源、起源を欠いた根源としての〈場所〉を、あるいは山田秀三のアイヌ語地名研究による「シリ=地/トゥカリ=手前/ペッ=海に迫り出した懸崖」を私達は想起しないわけにはいかない。遅くとも17世紀以降、財政的な根拠の乏しい松前藩は幕府から黒印状を取り付け「場所請負制」を一方的に導入した。その場所請負人として実働した奸商たちが先住アイヌとの商い場=交易地を〈場所〉と称したのであった。〈場所〉は強引に先住アイヌを隷属下におきつつ道内各地に点々と、さらには樺太や千島にも半ば侵略的に配 置されていった。いま私達が、写真に撮った場所とか撮ろうとして何度も足を運びながら撮れなかった場所とか、あれこれ写真に理屈をつける、そのおまえの場所性は結局何なのだとか、平然と語り交わされるけれども、〈場所〉の一語にはそうした辛苦の記憶がインスクリプト=刻印されているのを忘れてはなるまい。 いち早く小島の北海道ネガの委曲がそれを明証していると言ってもいい。

ネガのまま放置された北海道、ネガとしてさえ撮られなかった北海道、厳冬の津軽・下北にそのまま折り返される北海道ネガという厳冬、さらにその先の北のシリ=圏域/見果てぬトゥカリ=異域にまで眼差しを繰り込んでいた小島と私達が、まさしくいま遭遇しうるのは、そうした〈シリ/トゥカリ=場所〉において以外ではない。それがどんなに酷薄な事態だろうと、それこそが一つの希望なのだ。仮にネガを基底材=シュブジェクティルと呼ぶなら、この展示室Eに〈場所が生起する〉投射体=プロジェクティルに賭けてみるという、よるべなき希望。ネガは深傷を負うことなしに、最悪の場合、ネガであることを失態することなしに投射され得ず、投射され得たとしても場所が生起するとは限らない、それも自明であろう。むしろ投射体の〈非—生起の一擲〉、あるいは予測不能な危機の一閃。なぜなら第一の立会人は〈不在〉の小島一郎自身に他ならず、私達来訪者は、この時空の裂け目を経験する愉悦/非—愉悦を、小島とともに浴びることになるのだから。

豊島重之(ICANOFキュレイター)

映像提供

映像データ制作:宮内昌慶・米内安芸・高沢利栄(ICANOF)

(初出:青森県立美術館にて開催中「小島一郎 - 北を撮る - 戦後の青森が生んだ写真界の 「ミレー」展」会場配布チラシより)