クロストークII

クロストーク II(1977)

大下ユミコ(八戸工業大学講師:当時)

豊島重之

豊島 トータルメディアって直訳すると違ったニュアンスになりますね。全表現とか全媒体とか。やっぱりトータルメディアと言うしかない。まぁ、総合的な時空間の創出というよりは、大がかりなコンサートと言った方が自分としては、なんかスッキリします。

大下 当然、出てくるべくして出てきたという感じはありますね。ただ、トータルメディアというのは、豊島さん達もそうだけど、舞踊とか演劇の分野では割合やられてきた事なんじゃないかしら。

豊島 ひらめきのレベルでしたけどね。ぼくらなりに先どりしてやってたわけだけど、結果的には観客がついてこれない状況だった。今度の場合、今だったらかなりポピュラリティ(大衆性)を持ちうるんじゃないかという感じと、まだちょっと早いかなという感じとが、自分の中でからみあっていますね。やっぱり前段階的なものになるかもしれないけど。

大下 フリープレスの3号を読んで思ったんだけど、今度のは、舞踊や演劇じゃなく、音楽に焦点を合わせたトータルメディアというか、それが発想としてはあるわけでしょう?

豊島 あるわけですね。実際、自分から愉しみを創っていくという姿勢が余りにも少なすぎるというか、ぼくらより若い世代というのは、まぁ同世代も含めて、ひらめきというか、嗅覚がすごくにぶと思いませんか?

大下 嗅覚の衰弱ぶりというのは本当に感じますね。よくそれで済むもんだと学生によく言うんだけど、俺達はそれでいいんだと言うもんだあkら、私も、あなた達がよければそれでいいけど、という事になっちゃう。

豊島 学生にメッセージを書かせてみたら、初めて詩を書いたという人が多かったんです。半強制的でなければ詩作の欲求がわかなかったという事は、どういう嗅覚なんだろうと思っちゃうわけですよ。

大下 最も熱いはずの世代がそういう肌寒い情況にあると思うと、なんかゾッとしますね。

豊島 だから、音楽あたりからでも突破口を創っていければ、という事になる。

大下 でも、音楽が若者の生活に深く浸透しているからと言って、音楽を軸としたトータルメディアが、そうたやすくポピュラリティを持てるわけじゃないでしょう?

豊島 イージーに構えられる分だけ内部的な規制が入ってくるし、音楽というメディアとの関わりにもそれなりに手続きがあって、それがぼくら自身に限界や不自由さやあつれきを強いる事にもなるわけですし。

大下 類型的になるかもしれないけど、社会が未発達の段階ではすべてトータルメディア的だと思うんです。それが、それぞれに分化し、各々の分野が高度化してくる。そして現代になって、それが原点に立ち戻ったのか、それとも新しいかたちで発見されたのか、いずれにしても同時代的傾向として、もう一度トータルし直していく動きはどの領域でもありますね。例えば一人の作家、太宰なら太宰、賢治なら賢治を、文学はもちろん宗教哲学歴史医学化学風土史などあらゆる分野を結集して相対的に捉えかえす研究が盛んですし、又、記録される以前の伝承や火曜を扱う口承文芸学会というのがあるんだけど、むしろ国文学者は少なくて、古代史や民俗学や文化人類学の人が多く参加しているわけですよ。

豊島 そう言えば芸術療法学会もそうですね。精神科医のみならず心理学や美大の研究者をはじめ重症児施設の現場の人達やアーティストも集まってる。最近外国で注目を浴びている表現病理学会も多分にそういう性格をもってると思うし、当然の傾向でしょうね。

大下 上代の宗教儀礼ね、あれはトータルメディアそのものだったんじゃないかしら。神をよぶ、おろすあたりは宗教だけど、神人共に歓を尽くすのは言わばアートでしょう。神事には演劇的要素が尽き物だし、儀礼に不可欠な工芸的要素もあれば、そこから生じてくる歌垣には文学・音楽・舞踊がないまぜになって入りこんで、お祭り騒ぎにもなっていく。

豊島 土俗的なフリーセックスというか、祝祭に裏うちされた狂気も入ってくるのでしょう。

大下 その時できた子供は神からの授かり物として罪悪感無く受け入れられていくわけね。

豊島 ハレ(聖)とケ(俗)とか、共同体意識も根深く関わってるだろうから、文化人類学的な要素も当然あるでしょうし、人間のすべての観念と身体とすべての表現形態の渾沌とした領域というか、宗教儀礼なるものは本来、トータルメディア的世界なんですね。

大下 そういう原トータルメディアの世界を新トータルメディアの世界として提示したんじゃないか、という感じが今度の公演にあるような気がしますよ。

豊島 確かに新しい次元でトータルメディアが発想されたはずなんだけど、実際問題としてなかなか難かしい。例えばトータルメディアのトータルに焦点を絞るか、メディアに絞るかでずいぶん違ってきますよね。あっちで音楽が鳴ってて、こっちで舞踏がやられ、目の前をオブジェが移動してて、隣で赤ちゃんが泣いてて、自分の後に映像が投写されたりしてても、人間ってのはなんか感じとってるはずなんだけど、同時的に全部を感じとってるんじゃないかという見方と、一瞬一瞬感じてる世界しか感じてないんじゃないかという見方とがあると思うんです。

大下 厳密に言えば、人間それ自体がすでにトータルメディアを内包しているんですよね。

豊島 一瞬一瞬別な世界を感じとってるとは言っても、決して二者択一的な感じ方をしてるわけじゃない。つまり排中律、真ん中がなくてどっちかだという、これは安直な苦悩なんだ、ところが二者択一の真ん中に実に多様な選び方があるわけですよ。そういう二つの世界をつなげているブリッジング(架橋)のところに、つまりその架橋の多様性に焦点を合わせるとトータルメディアが現出する、ぼくはそう思いますね。

大下 というのは、メディアよりはトータルの方に、重きをおくという事?

豊島 というより、メディアとメディアそしてメディアとトータルを橋渡ししている両義的な世界に自重をかけるという事ですね。言いかえれば、ぼくの世界とまわりの世界、自世界と異世界とを接触させている、そういう世界ですね。今度の公演に企画参加してくれる若い人達は、トータルメディアを総合芸術みたいに捉えているかもしれないけど、ぼくの参加の仕方はちょっと違う。非連続と非連続とをつなげている連続性をどうするか、という事なんですね。もはや非連続では満足できないわけなんです。音楽には、そういうある種の体系づけの要素が潜在的にあるわけ、だから音楽を軸としたトータルメディア発想が出てくるわけなんです。

大下 でも、その体系づけというのは、完成度というよりは連続性の嗅覚みたいなもんですね。いい意味でのクラシシズム(古典主義)でしょう?

豊島 ただ、これまで嗅覚的にやってきた事をもっと緻密にしたいと、しきりに思いますね。だから、ぼくが深くタッチしない方がかえってデオニュソス的空間ができるかもしれないですよ。

大下 あちこちいたるところで色んなメディアが非連続に色んな事をするという感じになるでしょうね。ストーリー性も説明役もいないわけだから。そしてその連続性を発見するのはむしろ観客の方だという事でしょうね。

豊島 そうした時に問題になるのはカタルシス(浄化・昇華)ですね。最後をどうするか、やった側がやった事の総体をどう受けとめるのか、という事になると思うんです。

大下 完成後の高さよりは、そういう事も含めてトータルメディア志向そのものに期待したいですね。まあ、今度の正月公演は結局みないとわからない感じですね。

豊島 本当には、正月は多くの人にみてもらいたいですね。

(初出「トータルメディア」no.4/1977)