平行性の演劇——日本演劇の最高水準の呈示

平行性の演劇 ——日本演劇の最高水準の呈示

西堂行人(演劇批評家)

八戸の豊島重之とモルシアターが、東京でも数少ない見識を持った劇場T2スタジオで上演した「f/Fパラサイト」は、東京の劇状況に鋭い亀裂をさしこみ、先端的な客層に深い衝撃波を送りこんだと言っていいだろう。「f/F」に先立って、プレビュー「パラサイト II」もわたしは見る機会に恵まれたが、この二作を通じて、彼らの試みは東京の劇状況の中でも際立って異色であり、ある意味では一頭地を抜くものであることをわたしは確信した。

「パラサイト」二作に登場する漏斗とは、身体にとりついた寄生虫である。漏斗は演ずる者たちの行動を寄生し、視界は単孔によって狭窄的となり、身体はその中心軸を失って、とめどなく神経の先端細胞へと吸い寄せられていく。その結果、身体はついに一個の漏斗にとって代わられてしまうのだ。これはドゥルーズ/ガタリの「器官なき身体」の逆立、すなわち「身体なき器官」をもくろんだものであろう。器官と化した身体は、もはや汗やつばきの迸る“生身の肉体”という六〇年代以降の神話性とは、無縁の地点に立っており、いうなれば「中心をもたない身体」を示唆するものであろう。

一方、パラサイトとはパラレル、すなわち並列・平行状態をも想起させる。例えば、若い現代音楽家吉井直竹による音は、ここでは劇を支える効果である以上に、劇の本体そのものを形づくる。彼の音はあらかじめつくられた音楽ではなく、その場において生み出された音であり、それをテープデッキは同時録音・同時再生することで、劇の時間が悪無限的に折り重ねられているとも言いうるからだ。

ドラマとは対立であり葛藤だというセオリーに照らし合わせると、この「パラサイト」に現れた積層化・平行性とは、一種の“非戦状態”を意味しよう。豊島重之は、この交わることのない非戦状態に劇の新たな概念を想定していることはほぼ間違いない。

対立・葛藤それゆえの弁証法は二元論を前提とするが、パラサイトは、その前提そのものを無化し空洞化する。ノイズとは、いわばその結果生み出された非生産的な兆候にほかならない。それは<中心>をひたすら疲弊させ、衰弱を招き、限りなくゼロへ近づけるものだ。言い換えれば<中心をもたない身体>を生産し、消費までもが生産されようとしている。二元的な対立があいまいになっていく現在、<中心>は地滑りを起こし、限りなく衰弱していく。「パラサイト」はそうした状況認識に立って、その衰弱に一層の拍車をかけていることは論をまたないだろう。

こうしたことには、演劇の近代的な展開が必ず権力を問題にしてきたこと、したがってそのドラマは否応なく権力奪取劇を志向せざるを得なかったことに対する痛烈なイロニーが含まれている。なぜなら、権力奪取もまたもう一つのの権力を生み出すことで環を閉じてしまうのだから。

二つの「パラサイト」から、わたしは近代的な思考の産物である演劇から脱出するための想像力の過程に遭遇した。それが東京から遠く離れた八戸という場所で純化され、熟成されてきたことにわたしは大きな衝撃を受け、感服させられた。ひるがえって東京の劇状況を顧みると、ほとんどこうした試みが絶えてしまったことに改めて心の寒くなる思いがする。なるほど「パラサイト」よりも華麗で娯楽性に富んだ舞台は数限りなく存在しよう。けれども、演劇の先端的な試みや実験つまり“前衛”と呼びうるものは絶無にひとしいのだ。その結果、東京の劇状況は驚くほど一元化している。

豊島重之とモルシアターは疑いもなく、現在の日本演劇の最高水準の一つとして注目せねばならないだろう。(1986.12.1「デーリー東北」紙より抜粋)

(初出「f/F・PARASITE」/1987)