状況論2 - ”関節青空私観”なるもの 発語の原景志向へと赴く

状況論2 - ”関節青空私観”なるもの 発語の原景志向へと赴く

豊島重之(フォーク・シンガー)

1 我々は一体誰であるか

我々は図らずも人間であり、人類である。かつまた残念ながら、今なお幻想領域における秩序であり国家である。我々の遠い先人、師父たちのあらゆる立居振舞の中にはぐれてはたまり、浮いては沈んできた記憶の歴史でもあった。

私が道を歩く。その時国家が私を歩いている。私の煙草の一吸いに、秩序が私を吐いていた。そして我々が言葉を引き受けた時、不意にやってきたものがある。大我と小我の新たなる亀裂である。小我の目路の辿るところ、手の触れる万象には、いつも大我が宿っている。大我より一面に降りてくる刻々の死が、小我たる我々の生でさえあった。

そして今、たち顕われてくる世界が人間性を受肉し、大我は天界に去った。あいまいもこたる現象荒野に置きざりにされた小我こそが、大我をも担わねばならなくなった。そしてまたしてもあの海だ。我々の我々たる所以、世の流れの世の流れたる所以を身ぐるみ幻想化し直す他ない。さらに、青空一枚頭にのせた一個の気息でありたい、というささやかな明題すら確認の受肉が要るのだ。

2 何故に今必要なのか

終末というはやりやまいが地球地方を覆っている。たんたんとやり過ごすことのできぬのは、我々の良心的自我の脆弱さだ。なぜなら終末にまつわるテクノサイド、ポストニルヴァナ、エコシステムこそ、他己たる自我をぶ厚く抉り、現象平面と潜象球体の安易な接合が、大我と小我の重合を廃棄するという血脈を徐々に透過しつつあるからだ。決して〝自然に帰れ〟でもなければ〝人間に帰れ〟でもない。

一方、こやかましい我々の日常の中にさえ、幻想秩序や幻想文明がますます来賓然と拡充してきている。こういう大気の循環の中では、宗教、哲学、理論物理までが色彩を弱め、形相をやせさせている。同時代の道行よ、どういう了見だ。眼を転ずれば、オリエンティールング(*1)というスポーツが気を吐いている。あれは文化だ。体の芯を青空が降りてゆけば文化をも越え得る。夢は眠りを眼ることはなく、眠りは夢を夢みることはない。そんな時間覚。先頃のロック・メルヘン「桜の園」に端緒がうずくまっていた。そういう時だ。今こそ、小我と大我の巨きな措定が方法されねばなるまい。

3 何がその根となるか

充満なる欠除。欠除たる充満だ。この行間には、途方もない天界がどうと横たわっている。そこには人間性の介入する間隙はない。そこでは人間は了っている。ただその終焉が持続するだけだ。気、象をなして形。象、気をなして色。だから盲いのアーニャは色に立ち会ったはずだ。

では世界はどうなのか。世界へのメ線は相の露われ方にあると言ったはずだ。美も生もリアリズムすら、枝葉のことでしかない。それらをそれらたらしめているもの、それこそ根だ。先人の言うを待たず、世界の内時間触覚とも言うべきもの、賢治の言を借りれば香り、のようなものだろうか。しかもいまだ言葉であり、むしろ言葉の根である。

4 如何にして根は這うのか

世界は眼の生地で織り合わされている。さながら痛みの現象のように。何億光年もの彼方より発せられた光芒が、我々の皮膚に達してはじめて、体の内から生まれ堕ちたように、痛みは影となる。だから眼と地続きであることが、現象と潜象とがせめぎあう分水嶺として顕われるのを待て、むしろその開示を自らに予感するために、たわいのない海にさえ眼をこらせ。ただひたひたと眼をこらせ。眼にとって世界は影である。茫洋として流れ、深くもある。影狩りの行方には、空崩しや間滅びも待ち受けている。容易ならざる歴程と認ずべきであろう。な(*2)れば—、青空に関節を!

眼振(マブリ)に持続を!

錬遊術よ、来たって我らに交れ。青空よ、他意なき我らを容れよ!

5 如何なる器に、熟されるか

もとより我々は、社会存在であると同時に自然存在である。あたかも卵が、果実に属しつつ、生むことと生まれることの時間を所有しているように。我々の所有する言葉とあまりにも酷似しながら、むしろそれは業である。

だからこそ不断なる内省が、地下水の如く錬遊術を貫通していなければならない。そしてあらゆる師父に耳を傾け、あらゆる自然に耳を与えよ。それが批評となる。南部昔コにもマブリというもののけが出てくるではないか。影の気配や、根の予感なるものは、そうして尖鋭化されよう。その時、我々のほつれ毛ほどの表情も、一見徒労と思われる営為すら無方に散らせられよう。

6 再度、受肉されるべきは

果たして今なお小我と大我の新たなる措定。そして影への根。そのつづれおりとともにあること。さらに、我々を生み出す力が、そのまま我々が生み出す力たること。おお、この六乗(りくじょう)が天の中門に走り、地の中相を抜かんとする嶮峻たる出立であることを—。畢竟ここには、現在の我が観あるのみ。

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前週の誤植訂正——二段目の<1>は工藤孝二氏の序の謂であり、五段目の水墨村は火星村である。いくら沼人だろうと、水星と火星では星ほどの違いがある。氏の名誉のためというよりは<30>の屹立のために敢言しておく。

(原文のまま)

(初出:「デーリー東北」紙リレー討論地方文化考<31>より/1973.11.9)

採録者註

(*1)原文のまま

(*2)採録者が入手したコピー原稿では一文字欠落しており、微かに読める断片から「な」あるいは「さ」と推測される。ここでは「な」とした。