3.東洋心理学

P291

  東洋心理学 

 

 

1. 冊数

   1冊

2. サイズ(タテ×ヨコ)

   143×215mm

3. ページ

   総数:128

   本文:128

4. 刊行年月日

   不明。ただし,『妖怪学講義録』(明治27年10月5日)の付録に,正科講義録として「東洋心理学 館主井上円了」とあり,この第8学年度講義録の第1号が明治27年11月5日発行と記されているので,このころと推測される。

5. 句読点

   なし

6. その他

   (1) 底本には「甫水井上氏蔵」の印があり,見出しや誤植の訂正と考えられる朱筆が加えられていたので,本書はそれに従って訂正・統一を施した。

   (2) 底本にはまとめられた目次がなく,また本文の見出しも不統一であったが,原本の125ページ以下の「全講の分段」として表示されたもの(端緒などは含まず)が適当と考えられたので,これを用いた。

(巻頭)

   (3) 「心所法四十六種」「心所法五十一種」の漢文などの引用文は『仏教心理学』(本選集第10巻収録)にもあり,校合と検討の上,主に同書の引用文を用いることとした。

                       館主 井上 円了 講述

                          境野  哲 筆記  

       端  緒

 東洋心理学はシナ、インド、日本における心理説を比較的に講究するを目的とす。中において最もその説の開けたるものはインドなるべし。インド哲学中、外道諸派にても数論〔サーンキヤ Samkhya〕のごとき、勝論〔ヴァイシェーシカ Vaisesika〕のごときは、最も参考すべき点多きものなり。しかれども仏教をもってインド諸学中、心理講究の最も詳細なるものとなさざるべからず。故にまず仏教より始むべし。自余の心理は往々参照するをもって足れりとす。

 心理学は西洋において最も近代に始めて起こりたるものにして、古代ギリシアの心理説のごときはいまだ一科の学をなしたるものにあらず。これを称して心理学と名付くるは不当にして、むしろ呼んで精神学というべし。仏教またしかり。その論中、心理に関することあるも、これに心理学の名称を与うべからず。しかれども、その中につきて心理に関する諸説を集めきたりてもっぱらこれを講述するが故に、仮に名付けて心理学の称を用うるなり。しかして仏教中にて心理説として見るべきものは倶舎、唯識の二論これなり。しかれどもこの二論も決して純然たる心理学にはあらず、むしろ純正哲学に属すべきものなりといえども、仏教中にてはこの二論を離れて講究すべき心理なきは明らかなり。しかして『倶舎論』のごときは心理上に立てたる物心二元論なり。もしその論を再考すれば分析的多元論なるを知るべし。さりながらその説明の方法はいずれも主観的にして、いわゆる主観的二元論あるいは主観的多元論と称すべきものなり。ただし仏教内部よりこれをみれば客観論と名付くべし。その主観的と称すべきゆえんは、客観的説明に属する問題を主観的に解釈するを見ればなり。たとえば人身を五蘊より成ると談ずれども、五蘊中ただ色蘊の外〔のみ〕客観的にして、余の四すなわち受、想、行、識はみな主観的の分類なればなり。また仏教にては客観的分類においても常に主観をもととするの風ありて、客観の境遇を視聴等の五感に従い色、声、香、味、触の五境となすがごときは、これを主観的といわずしてなんというべきや。かつその客観世界も、畢竟主観の力によりて成るものとなすなり。たとえば『倶舎論』には主観的因果をもって世界を説明するがごとき(因果に客観的と主観的との別ありて、仏教はこれを主観的として善悪因果をもととせり)、あるいは有情の業力によりて世界の成立を説明するがごとき、みな主観的にあらずということなし。『倶舎論』分別業品に曰く、「有情世間および器世間に、おのおの多くの差別あり。かくのごとき差別はだれによって生ずるや。」(有情世間及器世間、各有多差別、如是差別由誰生)〔*1=・有」なし *2=由誰而生〕と。頌にいわく「世の別は業によって生ず、思および思の所作となり。思はすなわちこれ意等にして、所作はいわく身と語となり。」(世別由業生、思及思所作、思即是意等、所作謂身語)と。すなわち身、口、意上の善悪の業によりて世界の差別を生ずというものにして、すなわちこれ唯心論なり。故に仏教中の最も客観論なりと称せらるるものといえども、その論旨の帰するところは主観的にして、『倶舎論』のごときはよろしく主観的二元論、あるいは主観的多元論と称すべきゆえんにして、その大いに西洋心理説と差異あるゆえんなり。西洋の心理学は客観的心理学なり、仏教の説くところは主観的心理学なり。これもとより偏廃すべきものにあらず、学者すべからくふたつながらこれを講究することを要す。つぎに『唯識論』に至りては純然たる主観論にして、しかも一元論なり。すなわち倶舎の多元より歩を進めてその説を成せるものというべし。今、東西心理の差異を比較するに左のごとし。

  心理 西洋―経験的 帰納的 発達的 心象的 客観的 理学的 究理的 学術的         唯物的 理論的

     仏教―独断的 演繹的 分解的 心体的 主観的 哲学的 道理的 宗教的         唯心的 応用的

 しかして西洋にてはその結果を教育上に応用し、仏教はこれを宗教上に応用したり。故にもし西洋の心理をもってひとり心理学とすれば、仏教の説には到底心理学の名を与うべからざるべし。しかれども心理学研究の方法に種々ありとし、仏教の研究もまたその一なりとなすことを得ば、仏教また一種の心理学を説くものとして不可なることなかるべし。

       心の名義

 仏教においては、心について、心、あるいは意、あるいは識等の名を与えり。もっともこの三者は、あるいは同意味をもって用いらるることあり、あるいは異意味に用いらるることあり。梵〔サンスクリット〕語によれば、心は質多(質多耶)といい、あるいは質帝、波茶等とも音訳す。意とは末那(マナス Manas)という。(英〔語〕のマン(Man)すなわち人というは、これより出ず。マンとは思量の義にして、生物中思量を有するものはただ人のみなるが故、マンをもって人とするに至りしなり)。故に英語にこれをマインド(Mind)と訳す。識は毘若南(ビジュニャナー Vidjnana〔Vidjnana〕)なり、あるいは毘若底とも記せり。英語にこれをノーレッジ(Knowledge)と訳す。

 心すなわち質多とは集起の義なり、意とは思量の義なり、識とは了別の義なり。『七十五法記』(上巻一九丁)にいわく「心法はあるいは名づけて心となし、あるいは名づけて識となす。」(心法者或名為心 或名為識)〔*=・惑名為意」あり〕と。また『法宗源』(四丁)にいわく「心法はあるいは名づけて意となし、あるいは名づけて識となす。集起の故に心と名づく、すなわち七心界なり。思量するが故に意と名づく、すなわちこれ意処なり。了別するが故に識と名づく、すなわちこれ識蘊なり。」(心法者或名為意、或名為識、集起故名心、即七心界、思量故名意、即是意処、了別故名識即是識蘊)と。その七心界とは『頌疏』(巻一の六三)にいわく「六識の外においてさらに意界を加えて七心界と名づく。」(於六識外更加意界名七心界)とあり、『倶舎論』にては心、意、識を分かちて六識となせども、その体もと一体なるが故に心、意、識もその名異なれども、また等しく同一体となすなり。されどこれを区別するがため、同一心の上に「過去を意と名づけ、未来を心と名づけ、現在を識と名づく。」(過去名意、未来名心、現在名識)となし、心の過、現、未に変遷する上につきてその名を分かてり。また蘊、処、界の三に分かつあり。「心はこれ種族の義、意はこれ生門の義、識はこれ積聚の義なり。」(心是種族義、意是生門義、識是積聚義)とせるうち、中種族はすなわち界にして、生門はすなわち処、積聚はすなわち蘊なり。故にまた曰く「界の中に心を施設し、処の中に意を施設し、蘊の中に識を施設す。」(界中施設心、処中施設意、蘊中施設識)と。これ三科の区分法なり。つぎに唯識の上にありては八識の分類を設く。すなわち八識の上にて心、意、識を分かつときは第八阿頼耶を心となし、この心一切の種子を含蔵してすべて心作用を発起するものとなし、第七識は意にして、前六識を識となすなり。故にこの法によるときは心、意、識をいちいち八識に配当するをもって、前の小乗に同じからず。しかしてこの前六識はいわゆる了別を義として、眼は色、耳は声、鼻は香、おのおのその了別するところを異にす。第七識(第六識を意識と呼ぶは第七識によるの識なるによる)は思量の義にして、思量によりて我執法執の妄想妄念を起こすが故に、これを意というなり。第八識は心にして、集起を義とし諸作用を集め起こす根本識なり。『成唯識論』(五巻八丁)に曰く「集起を心と名づけ、思量を意と名づけ、了別を識と名づく。これは三の別義なり。かくのごとき三の義は八識に通ずといえども、勝れて顕なるにしたがって、第八を心と名づく。諸法の種を集めて、諸法を起こすが故なり。第七を意と名づく。蔵識等を縁じて、つねにつまびらかに思量して我等となすが故なり。余の六を識と名づく。六の別境の麁動に間断するにおいて、了別し転ずるが故なり。」(集起名心、思量名意、了別名識、是三別義、如是三義雖通八識、而随勝顕第八名心、集諸法種起諸法故、第七名意、縁蔵識等恒審思量為我等故、余六名識、於六別境麁動間断了別転故、)とあり。つぎに唯識より一段進みて起信に至るときは心、意、識の別をなさず、純然たる唯心一元論なり。『起信論』にては、真如と生滅と合したるこの一心を阿黎耶識という。阿黎耶は阿頼耶(Alaya〔Alaya〕)と同一なり。その弁明は『起信論義記』および『翻訳名義集』等に見えたり。『義記』の注によれば「阿梨耶および阿剌耶はただ梵の言訛なり。」(阿梨耶及阿剌耶者、但梵言訛也)とあり、畢竟は同一物なりと知るべし。しかれども起信にありては心に生滅不生滅の二を説き、この二和合して一にあらず異にあらざるを名付けて阿黎耶識とするものなれども、唯識にありていわゆる阿頼耶識とは生滅心の体に与うる名称なり。しかるに起信は更にその上に一歩を進めて、本体の上より論じたるものなり。すなわち「いわゆる、不生不滅と生滅と和合して、一にあらず、異にあらず、名づけて阿黎耶識となす。この識には二種の義あり、よく一切法を摂し、一切法を生ず。いかんが二となす。一には覚の義なり、二には不覚の義なり。」(所謂不生不滅与生滅和合、非一非異、名為阿黎耶識、此識有二種義、能摂一切法、生一切法、云何為二、一者覚義、二者不覚義)とありて、覚も不覚もただこの一心より起こるというなり。阿黎耶識はここに訳して無没識といい、また蔵識という。そはともあれ、この心、意、識の字はもと梵語の訳名にして、もとよりシナに適当の文字なかりしが故に便宜上当てはめたるまでにして、決してシナ固有の心、意、識の文字と同一の意義を有するにあらず。シナにて「心」とは心、意の総称にして、荀子の『解蔽編』には「心なる者は形の君にして、神明の主なり。」(心者形之君也、而神明之主也)とあるは、心は身を支配する根本なるが故にかく解釈したるまでなり。『礼記大学疏』には「総じて万慮を包む、これを心という。」(総包万慮謂之心)とある。これ真に心の定義なるべし。「意」はシナ本来の意味に従うときは西洋にいわゆるWillとはなはだ相近しというべし。『正韻』には「志の発なり。」(志之発也)といい、『礼記大学疏』には「情を意念する所となす。これを意という。」(為情所意念、謂之意)とあり。すなわち心の発動帰向せるいわゆる「心ばせ」を指すものなり。「徐鍇曰く、これを外にあらわすを意という。」(徐鍇曰見之於外曰意)と、またこの意なるべし。これを「心ばせ」というは、心の発動して外にはせ出ずるが故なり。つぎに「識」には種々の意義あり。「『玉篇』にいわく、識認なり。」(玉篇云識認也)とは認識の義なり。また詩の『大雅』に「識らず、知らず、帝の則にしたがう。」(不識不知順帝之則)というは無意識をいうなるべし。あるいはまたこれを記憶の義にも用うるなり。今日普通に使用する意味は認識の義なり。以上、仏教の心、意、識とシナの心、意、識との相違を見ることを得べし。その他、心に関したるものにては情と性との二あり。情はシナおよび仏教はともにこれを悪しき意味のみに用うるは人の知るところにて、董仲舒の「人欲これを情という。」(人欲之謂情)と説ける、すなわちこれなるべし。また『白虎通』には「喜怒哀楽愛悪を六情という。」(喜怒哀楽愛悪謂六情)とあり、あるいは一般に喜怒哀楽愛悪欲を七情となす。仏教にても情は一般にその悪しき意味に用いて、これを迷悪の根本となすものなるは人の知るところのごとし。故にこれらは、今日心理学上にいわゆる情とは意義大いに異なるものなり。また性は『中庸』に「天の命ぜる、これを性という。」(天之命之謂性)とあり、『通論』には「性とは生なり。」(性者生也)とありて、人の生まれながらの性質なり。仏教にても仏性、心性等というは心の本性を意味するがごとし。シナにありて古来心理上最も議論の盛んなるは、実にこの性論にありき。性善説は孟子これを唱えてより一大論端を開き、あるいはこれを悪とし、あるいはこれを混とするあり。しかして悪の起源はこれを情に帰し、その情のいかにして起こるやの問題は、はしなく宋朝諸学者の一論題となりたり。西洋にては(英語によるに)心の総称をMindといい、またSpirit(精神)、Soul(心魂)等の名称あり。スピリットは心の最も純精なるところを指すものにして、ソウルはこれをマインドに比するに一個人の心を指し、マインドは心全体を指すの別なきにあらず。また心の種類は仏教上通例六識八識となせども、あるいは八識に真識を加えて九識となすことあり、あるいは一〇種あるいは一一種となすことあり、よろしく『華厳孔目章』唯識編を見るべし。『宗鏡録』には四種の心を左のごとく示せり。

  一、紇利陀耶、ここに肉団心という(身中の五臓の心なり)。

  二、縁慮心、これはこれ八識にして、ともによく自分の境を縁慮するなり。

  三、質多耶、ここに集起心という。

  四、乾栗陀耶、ここに堅実心といい、また真実心という。これはこれ真心なり。

  一、紇利陀耶、此云肉団心(身中五臓心也)

  二、縁慮心、此是八識、倶能縁慮自分境、

  三、質多耶、此云集起心、

  四、乾栗陀耶、此云堅実心、亦云真実心、此是真心也、

 なお種々の分類あれども、不必要なるが故に略すべし。以上、心の意義を略弁したるのみ。もしその各種のことはくわしく七十五法、百法等につきて研究すべし。

 以上、心につきその解釈を挙げたるが故に、進んで更に心理学上に説き入ることとすべし。今これを説かんとするには、まず二元論一元論の二に分かつを要す。物心二元論とはすなわち『倶舎論』の説これなり。唯心一元論とはすなわち唯識宗これなり。実大乗もまた名付けて一元論となさざるべからずといえども、これ真如一元の説にして、普通の唯心一元とはその意義大いに異なり、かつ直接に心理学上に関係すること少なきが故に、これを省略すべし。

 

     第一門 物心二元論すなわち『倶舎論』の心理

 『倶舎論』にては万有を分かちて七十五法となす。また色、受、想、行、識の五種(五蘊)となすこともみな人の知るところにして、更に十二処十八界等となすも、また煩わしく述ぶるの要なかるべし。ただし、ことの順序上、いささかここに一言すべし。

 七十五法は大いにこれを分かてば有為法無為法の二となすことを得べし。有為法はまたこれを色心の二法に大分す。故に倶舎宗は二重の二元論の性質を有するものにして、有為無為二元の外に、更に色心二元を立つるものなり。これを複性二元論という。西洋にも神と物心の二元、更に物と心の二元を立つる複性二元論あり。これすなわち仏教倶舎とその性質を同じうするものなり。左に二者の比較を図示すべし。

 しかれども倶舎にて呼びて無為法となすも、これに対して無為と称すべき物柄ありて存するにあらず。たとえば涅槃の寂静なるありさまのごとき、これを名付けて無為となす。故にその無為はただ消極的のものにして、積極的の解釈にあらず。しからば倶舎の複性二元において無為有為の二元ははなはだ力なきものにして、形は複性に似たりといえども、実は単性の色心二元論というて不可なることなきなり。しかしてこの色心二元を分かつときは多元にして、いわゆる色心二法を細分して七十二法となすときは七十二法ことごとく実有の体とするが故、名付けて多元論となすも不可なることなし。されどこの多元は実は一、二の本源より出でたるものなりと説明するものありて、この説によるときはたとえば数論の二十五諦において自性我知を本源とし、変易の二十三諦はすべてこの自性の一元より出で、自性の外に存するものはただ我知のみと説くがごとしという。

  二十五諦 自性

       変易二十三諦

       我知

 故にこの説によるときは、『倶舎論』は一元論あるいは二元論ならざるべからず。されど普通にはこれを多元論とみなすもの多し。しかるにこの七十二法のうち、実体ありとすべからざるもの少なからず。たとえば物の関係あるいは作用に属すべきもののごときこれなり。故に結局ついに二元論に帰するに至るべしといえども、倶舎宗は多く七十五法の実有を本意とするが故に二元にして多元なるものとみなさざるべからず。これを一個人の上に考うるときは五蘊となる。五蘊はこれを開けば十二処となり十八界となる。十二処十八界等は、これを七十五法と対合することを得。すなわちただ分類の方向の異なるのみにして、その体もとより異なるにあらず。その詳密なる対合図のごときは、長ければ今これを略すべし。

        五位

  七十五法 色法一一・・・・・・・ 色法

       心法・・・・・・・・

       心所有法四六

       心不相応行法一四・・  心法 有為

       無為法三・・・・・・・・・・ 無為

 つぎに三科の法を略図すれば、第一に五蘊の原語左のごとし。

       五蘊(塞建陀)Skandha(Bundles or Aggregates)

  五蘊 色 Rupa〔Rupa〕(Form)むしろMatterの方適当なるべし

     受 Vedana〔Vedana〕(Perception)Feeling の方適当なるべし

     想 Samdjna〔Samjna〕(Consciousness)これこそPerceptionとすべきか

     行 Karman(Action)

     識 Vidjinana〔Vignana〕(Knowledge)

 これを七十五法に比するに、色には五根、五境および無表色を含み、行には五八ありて、中に心所四四、不相応行一四を含み、識に六ありて眼、耳、鼻、舌、心、意識これなり。受と想とは心所有法の一なれば、おのおの一なり。

       十二処

  六根……眼、耳、鼻、舌、心、意処

  六境……色、声、香、味、触、法処

 右のうち法に心所不相応行三、無為および無表色を含むなり。

       十八界

  六根……眼、耳、鼻、舌、心、意根

  六境……色、声、香、味、触、法境

  六識……眼、耳、鼻、舌、心、意識

 右のうち法境に心所不相応三、無為無表色を含むこと前に準ず。故に五蘊の分類法のみひとり三無為を欠くこと知るべし。

 以上『倶舎論』の万有分類の法を示したるが故、つぎに物心の二元につき、外界および内界の二部に分かちて更にこれを詳論すべし。なかんずきて外界論は物理、天文、生理に関して心理上に関したるものにあらずといえども、仏教は元来唯心的の考えあるものなれば、外界の説明もまたはなはだ心理的なり。すなわち客観的説明にあらずして主観的説明なり。故に仏教の心理を明らめんと欲せば、まず仏教の外界論より始めざるべからず。故に今講述の順述を分かちて、

  第一段 物質論

  第二段 世界論

  第三段 人身論

となすべし。今はまずその物質より始むべし。

 

      第一大段 客観論

       第一段 物質論

 物質とはすなわち色にして、原語「ルーパ」なり。色とは『翻訳名義集』に「倶蘭吒はここに色といい、質礙なるを色という。」(倶蘭吒此云色、質礙曰色、)とあり。色につき、その義解に変壊と質礙の二あり。これまさしく西洋の物質すなわち「マター」に相当す。物質とは延長Extensionを性とするものなりとはデカルトの下したる解釈なり。その他、物質の解につき『哲学字書』には種々の説明あり。あるいは空間を占領して延長を有し、吾人の五官によりて覚知するものなりといい、あるいは物質に客観性および主観性の二あるものとす。

  客観性 礙性(Impenetrability)

      延長(Extension)

      分性(Divisibility)

      惰性(Inertia)

      重量(Weight)

  主観性 色

      声

      香

      味

      触

 これあたかも仏教の解釈と符合するものなり。もしまた色の種類を考うるに、七十五法にては色法に一一種ありとし、五根、五境、無表色これに属す。また阿毘曇に三種の色を明かせり。

一は可見有対色  すなわち色塵の一法にして、眼の見るところとなす。極微にかりて成ずるところを、名づけて有対となす。

二は不可見有対色 いわく眼等の五根にして、これ勝義根なり、声等の四塵とはこれの九法にして、眼の見るところにあらず。みな極微にかりて成ずるところなり。

三は不可見無対色 すなわち無表色なり。

一者可見有対色  即色塵一法、為眼所見、仮極微所成、名為有対

二者不可見有対色 謂眼等五根此勝義根也、声等四塵此之九法非眼所見皆仮極微所成

三者不可見無対色 即無表色

 この三者中、第一第二はこれを物質と名付くべしといえども、第三に至りては全く仏教特殊の説あり。仏教中にもまたこれを色中に加うると加えざるとにつき争論ありといえども、倶舎にありてはこれを色中に加うるの説を取る。しかれどもその実、無表色は非物非心となすべし。これより物質論を『倶舎論』の説明に基づき、一は極微所成説、二は四大所成説となすことを得べし。

       一 極微所成説

 極微とは物質を分析して最小の極に至り、再び分析することあたわざるものをいう。すなわち「もろもろの色を分析して一極微に至るを色の極少となす。極微はこれ最細の色にして断截すべからず、乃至、分析すべからず。」(分析諸色至一極微 為色極少、極微是最細色、不可断截、乃至不可分析)〔*=・故一極微」あり〕といい、あるいは「色の極少にしてさらに分かたるることなきが故に極少の名を立つ。」(色之極少更無分故立極少名)といい、あるいは「極微はこれ最細の色にして長、短、方、円等にあらず。」(極微是最細色非長短方円等)という。故に極微はすなわち理学上に分子元素これなり。しかるにこの極微なるものは、すでに目これを見ることあたわざるものなれば、変礙の義なきが故に色と称すべからずといえる問いに答えて、極微相集まれば変礙の義生ず、故に極微にも変礙の義ありと称するも不可なることなしという。『倶舎論』中には『婆沙論』を引きてこれに関する数個の問答を挙げたり。このことは西洋分子論においてもまた一問題とするところにて、分子元素は延長を有するか有せざるか、もし延長なき分子ならば、なにほどあつむるも延長ある物質となるの理解すべからず。零に零を加うるも同じく零なり。故に分子元素というも、ただ最細小と称すべきも延長なきものとはいうべからず。しかるにもし延長あるものとせば、分割することを得るものならざるべからず。果たして分割し得る以上は元素というべからず。故にあるいは曰く、分子は延長なく、あたかも数学上における点と同一のものなりといい、あるいは分子とは力の中心なりといい、その他種々の説をなすものありといえども、要するに元素相あつまりて延長的物質をなす以上は、細微なりといえどもなお多少の延長あるものとするは穏当なるべし。故に極微もまた変礙あるものとして可なり。

 『婆沙論』によるに、極微の物質を組成するや、七極微集まりて一微をなし、七微集まりて一金塵をなし、漸次七数をもって相増加するものとす。けだし七とは四方上下と、および中心の体とを合するが故なり。すなわち曰く、「四面上下の六方、および心を七となす。」(四面上下六方及心為七)と。今、七数増加のありさまは左のごとし。

          7極 微=1 微

          7 微 =1金 塵=(7×7=49極微)

          7金 塵=1水 塵=(49×7=343極微)

          7水 塵=1兎毛塵=(343×7=2401極微)

          7兎毛塵=1羊毛塵=(2401×7=16807極微)

          7羊毛塵=1隙遊塵=(16807×7=117649極微)

等にして、以下七隙遊塵を一蟻とし、七蟻を一虱とする等、なお限りなしと知るべし。これらはひとり仏教のみの説なるや、あるいはインド古来の所説なるや、なお考うべし。インド外道中にありては、その分子派あるいは物理学派と称せらるる勝論(すなわち衛世論師)にありてもまた、実に世界万有の極微所成なることを説けり。しからばこれ、果たしてインド古代より存せるところの説なるか。今、勝論に従うに、その十句義を立つるうち第一句義の実(Substance)に九性ありとし、すなわち(一)地、(二)水、(三)火、(四)風、(五)空、(六)時、(七)方、(八)我、(九)意を実の九種とし、なかんずきて地水火風はすなわち極微所成のものなりとなすなり。故に欧州人は呼びてこれをインドの分子学派あるいは物理学派といえり。これ、はなはだ仏教小乗の所説と相似たるものなり。しかるに欧米において分子論と称せらるるものは、みな多くは唯物一元の説を持するものなりといえども、この勝論にありては全く二元論にして、ただその極微を立つるは客観の物質上のことのみ。これまた仏教とその説を同じうするものというべし。西洋の分子論は紀元前四〇〇年代、ギリシアにおけるレウキッポス、デモクリトスの説に初まる。インドの分子論はるかにこの以前にあり、勝論はその年代つまびらかならざれども、少なくとも仏教同時ごろにこれを唱えしものありて、決して西洋分子論以後のものにはあらず。これ人をして、あるいは西洋分子論はインドより入りきたりしものにあらずやとの疑いを起こさしむるゆえんなり。しかれども史上もとより確証なきが故に、到底これを断言することあたわざるはもちろんなり。ギリシア最初の分子論によるときは、宇宙万有は分析すべからざる最微の分子より成るところにして、およそ宇宙間には空虚の場所と充実せる場所との二あるうち、そのいわゆる充実せる場所とはすなわち分子の占領せる場所をいう。ただその分子の体はなはだ微細なるが故に、目見るべからず、手感ずべからず。しかれども他の充実せざる場所すなわち空所の存するによりて、その間に動揺することを得。したがって互いに集散離合して、もって諸種の現象を呈すという。しかれども各一分子の中にはもとより空所なきが故に、到底分割することを得べからず。すでに不可析的物体なるをもって、所造もしくは所成の物体にあらず、いわゆる不生不滅、不変不化の体なり。しかして変化生滅あるは集散離合の結果に外ならずという。デモクリトスの想像説によれば、分子の性質はみなことごとく同一にして、わずかにただその形とその大小とを異にするに過ぎず。しかるにすでに形に大小あるが故に、大なるものは重くしてはやくおち、小なるものは軽くしておもむろに下がる。故をもって同性質の分子もその動揺するに当たりては、互いは相衝突し集散して、万差の現象を呈すとなす。故に分子に軽重の差あるゆえんは全くその形の大小によるものにして、一物一体の軽重はその分子集合の粗密の度により、空所を有するの同じからざるによるとなす。この想像の今日より見るときは、その誤謬たるもとより明らかにして、余が弁解を待たざるなり。ただデモクリトスは、我人に分子所成の原理を指示するにおいて西洋哲学間の元祖たるのみ。また同氏はひとり物質の分子所成を説けるのみならず、心もまた分子より成るものとなし、心を組成するところの分子は火の分子と同一にて、極めて精微に、かつその形円状なりとなしたり。故にこれを西洋唯物論者の元祖とす。これインド二元的分子論者と同じからざるゆえんなり。デモクリトスにつぎ、ギリシアにおいて分子論を主張したるものはエピクロスなり。エピクロスはデモクリトスのごとく分子の数はもとより無限なりとなすも、形状には限りありと説く。かつその説のデモクリトスに異なるは、分子自体の運動衝突は大小軽重の差のみによるにあらずして、その体の墜下するに当たり直下せずして横斜の運動をなすゆえんは、分子自体の性質として特に意志のごときものありて、自らこれをなすものなりと説きたり。後れてローマの詩人エクレシウスもまた分子論者として名あるものなり。また近世初年に至り、フランスのガッサンディまた分子論を唱う。これを近世分子論の初祖となす。その説はもっぱらエピクロスを祖述したるものにして、分子の回旋運動は分子中に存する勢力によりて起こるものにして、分子はあたかも活動物のごとき作用を具するものなりとせり。その後にニュートンに至りて分子の説始めて大いに明瞭となり、ここに想像の範囲を脱して確実の学説をなすに至れり。その後、学者続々輩出して研究に研究を重ね、客観的物質の説明はすでにその理を尽くせりといえども、心性精神のいかんに至りてはいまだ明らかならざるところあり。かつ物心万有の本源実体を論ずるに至りては、ニュートンの碩学大家すら天帝造物の想像を唱うるなり。しかるに三千余年前におけるインドの分子論は、もとより西洋今日の分子論と同一のものにあらざれども、西洋よりははるかに古き以前に起こりしことは疑いなし。

 西洋の分子説に従うときは、分子(パーティクル〔particle〕)の更に小なるものを小分子(モレキュール〔molecule〕)といい、小分子の更に細なるものは微分子(アトム〔atom〕)という。微分子とはすなわち化学上のいわゆる元素なり。小分子は物質としての最小なるものなり。更に進んでこれを細分するときは微分子となりて水素および酸素に分かれ、もはや水の性質を有せざる別物となる。しかれども分子の大小すら、もとよりこれを計算することを得るにあらず。ただ一水滴をもって地球の大に比せば、小分子は弾丸の大に比すべきとの説あるを聞けり。もし微分子の大小を算定するに至りては、到底想像の及ぶところにあらず。すでに微分子は有形の体なるや否やは一大問題なり。他語にてこれをいえば、物質的延長性のものなるや、またただ力の中心に過ぎざるかについて古来異説あり。もし延長あるものとせば、微分子なお分割すべきものならざるべからず。もし力の中心にして形体なく延長なく、なお数学上の単点のごとしといわんか。その相集まりて延長的物質を成すの理解すべからず、延長なきもの積んで延長をなすといわば、零に零を乗じて有数を生じ、無に無を乗じて有を生ずべしといわざるべからず。これ論理の許さざるところなり。ここにおいて、ライプニッツの想像説のごときもの自然に起こりきたるに至る。その説によるときは、物質といい心性というも、もとより実に二あるにあらず、ともに同一種の元子にして、ただその発達の度の異なるによりて有形となり無形となるという。しかれども、かくてはなおいまだ元子そのもののなんたるや、物心そのもののなんたるや、いまだ了解し得たりというべからず。これ、その物心二元論の古来世に存するゆえんなるべし。欧州にありても物質論は、古代と近世とにおいてその意決して同じからず。すなわちギリシアの当時デモクリトス等の説によるときは、元子の数は無限無量なるも、その性質はことごとく同一なりとなせしといえども、近世の分子論は元素の数をもって六〇ないし七〇種ありといい、中において金属非金属の二類を分かち、各種みなその性質を異にするゆえんを知り、もっていかにして千差万別の万有を構成することを得るやとの疑問を解釈することを得たり。これをインドの勝論および仏教倶舎の説に考うるに、インドの説はすべて分子をもって性質の同じきものとなさざるなり。すなわち各種の極微はみな同一に地水火風四大より成るといえども、四大の分量に差異あるが故に、分子の性質もまたおのずから相異ならざることを得ざるなり。また西洋古代の分子は近世のいわゆる小分子の謂〔いい〕にして、今日に至りては小分子の上に更に微分子の存することを発見したり。しかるにインドのいわゆる極微もまた、決して今日の化学的元素の謂にはあらずして、物質的小分子の考えなるがごとし。たとえば極微の七数増加のごときを見るも、その体は延長的物質分子なることは明らかなり。しかれどもまた極微は分割すべからずと考うるときは、化学性のものとも考うべきか。『倶舎論』には極微の変礙性のものなるや否やの問答を掲げ、相あつまりて変礙の物質を成ずる以上はまた変礙性のものとせざるべからざるゆえんを説明せるを見れば、むしろ極微は物質的延長性分子とせん方穏当なるべし。また西洋にては分子の説はもとより一般の許すところなりといえども、分子論本来の性質としては唯物的一元論に帰着せり。しかるにインドの分子論はこれに異なりて、心性をも分子所成なりとするギリシア古代の説にも同じからず。また心性は物理的勢力の変態なりとするの説にも同じからずして、物質以外において心性の説明をなせり。故にインドの分子論は物心二元論者の一種なりというべし。しかるに、西洋の分子論は学者累代輩出してその説漸次に発達し、ついに今日の域に達するを得たりといえども、惜しむかな、インドの分子論は後学いたずらにいにしえを墨守して、かつて一歩を進めたることなきが故に陳腐の説となるに至る。しかれども、なお大いに講究思考するにおいては、またあるいは発明するところなしというべからず。学者あにゆるがせにすべけんや。

       二 四大所造説

 四大所造の説は、インドにおいて最も古くよりすでに存したるものにして、西洋にてもギリシアの学者は早くこれを唱出したるものあり。これまた東西の暗合というべし。仏教の四大説は広く諸経諸論に談ずるところなりといえども、最も精細なるものを『倶舎論』となす。論の頌いわく、

大種はいわく四界にして、すなわち地、水、火、風なり。よく持等の業を成じ、堅、湿、煖、動を性となす。

大種謂四界 即地水火風 能成持等業 堅湿煖動性

 何故にこの地水火風を四大と名付くるや、『倶舎論』に説くところによるに左のごとし。

  大 一、一切の余の色の所依の性なり

    二、体の寛広なり

    三、地等の増盛なる聚の中における形相の大なり。

    四、あるいは種々の大事の用を起こすなり。

  大 一、一切余色所依性(性)

    二、体寛広(体)

    三、於地等増盛聚中形相大(相)〔*=或於〕

    四、或起種々大事用(用)

 あるいは大を名付けて界ともいう。その理また論に出でたり。なおその四大の作用および性質は左のごとし。

  (体)    (相)    (用)

  地……………堅……………持

  水……………湿……………摂

  火……………煖……………熱

  風……………動……………長

 以上の四大はいかなる極微、いかなる物質にありても決して離るべからざるものにして、これに仮実の二種を分かつべし。仮の四大とは吾人が平常見聞するところの地水火風にして、実の四大とは万有に通じて遍在するものをいう。たとえば目前の火にも実はこの四大を具し、水にも実にこれを具備す、ただその具するところの分量の多寡によりてその別ありとなす。『倶舎論』には種々の例証を出だしてこの理を説明したり。すなわち水の寒によりて氷となるは水に地の性あるを証し、金銀の熱によりて溶解するは金銀(地)に水の性あるを証し、またその撃ちて熱を生ずるは火の性あるを証すといえり。「『〔倶舎論〕慧暉〔抄〕』いわく、四大によるが故に、まさに色身等あり。水の摂むることあるが故に散せず、火あるが故に煖かなり、風によって出入息あり、云々。」(慧暉云由四大故方有色身等有水摂故不散有火故煖由風有出入息云云)とあり。この例証はもとより今日の学説に合するものにあらず。しかれども四大のごときは、これをもって地水火風そのものをいうにあらずして、一般に万物に通ずる性質なりとするときは、すこしも怪しむべきものにあらず。なお今日の理学において固体、液体、気体の三を分かつに等しかるべし。しかして液体は寒によりては固体となり、熱によりては気体となるというは、あたかも一物に三性を具するものにして、火にも四大あり、風にも四大ありというに同じ。ただ後代『倶舎論』を解するもの、四大をもって今日の固、液、気の三性に配合することを知らざるが故に、これを西洋の学説に対して説明するに大いに困難を感ずるなり。しかるにもしこの四大を西洋の固体、液体、気体の分類に比するときは左のごとくなるべし。

  地……………堅……………固体

  水……………湿……………液体

  火……………煖

  風……………動 …………気体 流体

 ギリシアにてもこの四大説の行われたるは前にいうがごとし。すなわちタレスの水をもって万有の原体となすに始まり、エンペドクレスの四大をもって万有の元素となすの説を生ずるに至るも、これあたかもインドにおける地論師、服水論師、火論師、風論師等の説を合して、勝論もしくは仏教が四大所成説を立てたるに似たり。しかれどもエンペドクレスの四大説は、いわゆる現実の四大をもって万有の元素となしたるものにして、仏教の四大所造説と同じからず。この点においてはインドの思想はるかにギリシアの上にありというべし。

 シナにもわが四大説に類似せる一種の説行われたり。これを五行説となす。五行の中には四大中に存せざる一物を加えたり。すなわち木これなり。

 五行を四大に比するときは、「木」は四大の中になくして五行の中にあり、「風」は四大の中にありて五行の中になし。五行はギリシアの四大の比にあらずして、また仏教の四大とも異なれり。仏教は物質の上にこれを説くのみにして、精神には別にその元素あるものとす。しかるにシナの五行は物質のみならず、精神の上にもこれを説き、木の性、火の性、土の性等ありという。けだし太極分かれて陰陽となり、陰陽は五行の気となり、その気形を取りて万物となるものなりと知るべし。古代の説として、また実におもしろき思想ありといわざるを得ず。ただ五行中に木を加えたるに至りては、比較上異様の感なきにあらず。木は生活物の一種にして、もしこれを五行中に加えれば動物も人間も加えざるべからず。いわんや五行中に別に心と称すべきものなきをや。かつ五行中に風を加えざるもまた精密なるものにあらず。これらの点より考うるときは、五行の分類はむしろ四大説に劣れるものと称すべきなり。

 以上、地水火風の四大説につき、これをシナの五行説およびギリシアの四大説に比較して論じたるが、これより物質の体相につきて論ぜざるべからず。その体相論を分かちて変遷論、恒有論の二段とす。すなわち変遷論とは物質の現象につきて論じ、恒有論とは本体につきて論ずるなり。

         甲 変遷論

 まず変遷論を考うるに、事々物々変々化々してとどまらざることはだれもみな知るところなるが、仏教にはその状態を四段に分かつて生、住、異、滅の四相となす。この四相の変化を有するものを名付けて有為法となす。有為とはすなわち変遷生滅を有する状態をいうなり。故に『倶舎論』第五にいわく、「もしこれ(生住異滅)あれば、まさにこれ有為なるべく、これと相違すればこれ無為法なり。」(若有此(生住異滅)応是有為、与此相違是無為法)と。また曰く、「よく起こすを生と名づけ、よく安んずるを住と名づけ、よく衰えしむるを異と名づけ、よく壊せしむるを滅と名づく。」(能起名生、能安名住、能衰名異、能壊名滅)と。これ有為無為および生、住、異、滅の義解なり。これにまた本相、随相の二種あり。あるいは本相を大相といい、随相を小相という。本相とは生、住、異、滅の四相をいい、随相とは生生、住住、異異、滅滅をいう。その義すなわち生を生ぜしめ、住を住せしめ、異を異せしめ、滅を滅せしむるをいう。換言すれば、四種の本相のいちいちをあるいは生ぜしめ、住せしめ、滅せしめ、異ならしむるをいう。故に『倶舎論』第五にいわく、「諸行の有為なるは四の本相により、本相の有為なるは四の随相による。」(諸行有為由四本相本相有為由四随相)とありて、本相は随相により、随相は本相により、二者相まちて有為変遷の状態を見るなり。また本随二相の別は、本相は一相にしてよく四相を生ずる力を有するも、随相は一相にしてただ大の一相のみを生ぜしむるなり。すなわち生生は大の生のみを生ぜしめ、住住は大の住のみを住せしむる力あるのみ。この二種の四相によりて、世界万有は時々刻々互いに因となり果となりて、変化してやまざるものなり。その状態を『原人論』に述べて曰く、「身はすなわち生、老、病、死にして、死してまた生ず。界はすなわち成、住、壊、空にして、空じてまた成ず。」(身則生老病死、死而復生、界則成住壊空、空而復成)と。また同書にその変化の窮まりなきゆえんを示して曰く、「念々に生滅して、相続して無窮なるは、水の涓々なるがごとく、焔の燄々なるがごとし。」(念々生滅、相続無窮、如水涓々、如焔燄々)〔*1=念 *2=涓〕と。また曰く「劫々生々に、輪回すること絶えず、終わりなく、始めなきは、井を汲む輪のごとし。」(劫々生々、輪回不絶、無終無始如汲井輪)〔*=劫劫生生〕と。その説たるや、ギリシアのヘラクレイトス氏の転化論に似たり。これによりてこれをみるに、仏教は進化論にあらず、また退化論にあらず。生住二相は進化にして、異滅二相は退化なり。しかして生、住、異、滅、四相循環して終わりてまた始まり、生滅相続して窮まりなきゆえんに至りては、これを循化論といわざるべからず。循化論とは、進化退化前後循環して転化するをいう。シナの変遷論は多く退化論により、西洋の変遷論は近ごろ多く進化論によるも、おのおの一方に偏するところありて、いまだ変化の実相を尽くすに足らず。今これを退化論に考うるに、人間社会ともに退化してその結局に至らば、天地万物ことごとく滅尽するのときなかるべからず。もしそのひとたび滅尽したる後を考うるに至らば、到底退化説の説明し得るところにあらず。また西洋進化論は実験をもって証明したる確説なりというも、動植物学者が論定するところのものと、物理学者が算定するところのものと、その結果全く相反するを見る。動植物学者は生物全体に進化して無限に向かいて発達するごとくに論ずれども、物理天文の学説に考うるに、将来永遠の年月を経たる後は、地球も太陽も世界全体が破壊して、その組織を滅尽するときありという。果たしてしからば、天文学者は退化説を主張し、生物学者は進化説を主張すといわざるべからず。この両説を合考せば、進化極まりて退化あること明らかなり。もしその説を仏教に考うれば、世界の変化は進化にもあらず退化にもあらず、いわゆる循化なることを知るべし。

 しかれどもかくのごときは、仏教中の生滅界すなわち現象界につきて与えたる説明なり。もし不生不滅界すなわち涅槃界に対していうときは、進化をもって目的とせざるを得ず。なんとなれば、吾人の目的は生滅界を去りて涅槃界に入るにあり。けだし仏教にこの世界の変遷窮まりなき状態を示したるは、畢竟その裏面に不生不滅の安楽界あることを告げんためなり。すでにこの世界は生滅界なる以上は苦界なり迷界なり。これに対して涅槃は楽界なり悟界なり。吾人もし苦界を去りて楽界に至らんことを望まば、必ず生滅界を去りて涅槃に入ることを期せざるべからず。かくして吾人の目的すでに生滅の苦界を去りて涅槃の楽界に入るにありとせば、これ決して退化説にあらず循化説にあらず、いわゆる進化説なり。

 これを要するに、仏教の世界観は表面に変遷生滅の状態あることを示して、裏面に不生不滅の楽界あることを示し、もって吾人に早くこの世界を去り涅槃に入ることを勧めたるものなり。これそのいわゆる宗教たるゆえんなり。

         乙 恒有論

 以上、すでに世界変遷論を述べたり。故に以下、これより恒有論を説かざるべからず。そもそもこの世界の事物は変々化々して際涯なしといえども、その変化中におのずから常住恒存の理ありて存するを見る。これ畢竟世界の裏面に不生不滅の涅槃界あるを証すべし。まず変遷生滅中に不生不滅常住の体あるゆえんを示さんに、『倶舎論』には変遷相続の状態を示して曰く、「たとえば灯焔が刹那滅といえども、しかしてよく相続して、余方に転じ至るがごとく、諸蘊もまたしかり。」(譬如灯焔雖刹那滅而能相続転至余方、諸蘊亦然)と。そのことは後に『五蘊論』を説くときに述ぶべし。かくして世界の変化が相続して間断なきゆえんを考察しきたらば、必ずその中に不滅の理の存するを知るべし。これをもって『婆沙論』三九巻に曰く、「自体は改易することなく、功能が転変す。」(自体無改易、功能転変)と。また同書二一巻にいわく、「われ作用を説いてもって因果となす。諸法の実体はつねに転変することなく、因果にはあらざるなり。」(我説作用以為因果、諸法実体恒無転変非因果)と。また『倶舎論』第一にいわく、「自宗に十八界はみな三世に通ずと許し、体は三世において改易することなし。」(自宗許十八界皆通三世、体於三世無改易)〔*1=違自宗許十八界皆三世通、続く二〇字省略 *2=相於三世無改易故〕と。これをもって倶舎宗は「三世は実有にして法体は恒有なり。」(三世実有、法体恒有)の原理を唱うるなり。すなわち諸法の体は過去、未来、現在の三世にわたりて実有恒有なりとするなり。これすなわち今日理学上説くところの物質不滅、勢力恒存、運動永続の理法に合するなり。

       三 五境成物説

 以上、物質に対する客観的説明を示したれば、これより主観的説明を述べざるべからず。すなわち主観的説明とは物質をわが感覚に従って分類するをいう。たとえば物質を分かちて色、声、香、味、触の五境となすは、いわゆる主観上の分類なり。これ仏教の物質分類の眼目にして、まず吾人の官能を分かちて眼、耳、鼻、舌、身の五根となし、これに対する境遇を色、声、香、味、触の五境となす。かくのごときの分類法はシナ学者のいまだ唱えざるところにして、西洋心理学者とインド心理学者中にのみ存するなり。かつまた物心二元の分類も、西洋とインドとにこれを見るも、シナにありては聞くあたわざるなり。ただシナ学者は陰陽二元説を立てて、一切万物の体相変化を論ずるのみ。今ここに仏教の五根五境の分類を示さんとするに、五境の第一なる色は色心二法の色とはその意義を異にし、色心二法の色は物質にして、五境の色は眼界に属する色なり。その解釈にいわく、「五根五境これ色といえども、差別をなすことこれ勝なるが故にひとり色処の名を立つ。」(五根五境雖是色為差別是勝故独立色処名)と。知るべし、眼界に属する色は色中最勝なるものなることを。しかしてこの色を大別して顕色形色の二種となし、細別すれば二〇種となる。その表左のごとし。

  二色 顕色(一二種) 青、黄、赤、白、影、光、明、闇、雲、煙、塵、霧

     形色(八種)  長、短、方、円、高、下、正、不正

 『倶舎頌疏』にこれを解していわく、「日焔を光と名づけ、月、星、火、薬等の諸焔を明と名づく。光明を障えて生ずるものあり、中において、余色の見るべきを影と名づけ、これに翻ずるを闇と名づく。」(日焔名光、月星火薬諸焔名明、障光明生、於中余色可見名影、翻此名闇)と。また形色の正不正を解していわく、「形の平等なるをこれを名づけて正となし、形の平等ならざるを名づけて不正となすなり。」(形平等名之為正、形不平等名為不正)と。また『宝疏』にこれを解していわく、「火によりて煙と名づけ、いまだ散らざるを塵と名づけ、地より水気ののぼる、これをいいて霧となす。」(因火名煙、未散名塵、地水気騰謂之為霧)と。また顕色は全く眼の感覚に属するも、形色に至りては多少触覚に関係を有するなり。しかれども吾人が視覚上にこの二種の別あること明らかなり。故に色を分かちて顕色形色の二種となすに至りては、おもしろき分類法というべし。また、これに空一顕色を加うれば総計二一色となる。その空一顕色とは空界の色をいう。あるいはこれを明闇の中に摂すれば、別にその一種を設くるを要せず。もしこれを西洋分類法に考うれば、二者大いにその別あるをしるべし。今、西洋心理学の一書によりてこれを考うるに、視覚を分かちて光覚筋覚の二種となす。その光覚は全く視覚にのみ属すれども、その筋覚は筋肉の感覚と関係するものなり。図表すれば左のごとし。

  視覚 光覚 光

        色

        沢

     筋覚 運動

        形状(方円)

        大小(長短)

        距離

        容量

        位置

 つぎに声境につきては八種を分かつ。その表左のごとし。

  声八種 有執受大種 有情名の可意声

            有情名の不可意声

            非有情名の可意声

            非有情名の不可意声

      無執受大種 有情名の可意声

            有情名の不可意声

            非有情名の可意声

            非有情名の不可意声

  声八種 有執受大種 有情名可意声

            有情名不可意声

            非有情名可意声

            非有情名不可意声

      無執受大種 有情名可意声

            有情名不可意声

            非有情名可意声

            非有情名不可意声

 すなわち有執受とは有心のもの、無執受とは無心のものをいうなり。また可意声とは好声をいい、不可意声とは悪声をいう。今『有宗七十五法記』上巻にいわく、「心心所法は共に執持するところを摂めて依処となし、有執受と名づけ、これに翻ずるを無執受と名づく。この有執受の中の語業を有情名と名づく。よく詮表するが故に。拍手等の声を非有情名と名づく。詮表するあたわざるが故に。風、林、河等の発するところの音声を無執受大種を因となすと名づく。無執受の中の有情名は化人の語声をいうなり。」(心々所法共所執持摂為依処名有執受、翻此名無執受、此有執受中語業名有情名、能詮表故拍手等声名非有情名、不能詮表故、風林河等所発音声名無執受大種為因、無執受中有情名者謂化人語声)〔*=心〕と。この説明によりて知るがごとく、有執受大種に属するものは言語および拍手等の声にして、言語はよく思想を詮表するをもってこれを有情名の声と名付け、拍手は表詮するあたわざるをもって非有情名に属するなり。無執受もこれに準じて知るべし。また可意声とはわが意に適する声にして、歌讃等のごときこれなり。不可意声とはわが意に適せざる声にして、罵詈等のごときこれなり。しかして大種とはこれを解していわく、「一切の声はみな、四大によってあい撃発するが故なり。」(一切声皆因四大相撃発故)(遁麟)と。すなわち地水火風の四大によりて一切声を発するによる。以上は仏教の声境に関する分類なるが、もしここに西洋の聴覚に与うる分類を挙ぐれば左のごとし。

  聴覚 (一)情覚

     (二)音覚

     (三)智覚

 すなわち情覚とは、音響の感覚にわが感情の加わりて苦楽を感起するをいう。音覚とは聴覚の本分にして、音響の高低軽重を感ずるをいう。智覚とは、智力の聴覚に加わりて距離もしくは位置を判定し得るをいう。その分類は仏教の分類ももとより異なるところありといえども、もしその二者を比較すれば、仏教の分類のかえって細密なるを知るべし。

 つぎに、香境につきて仏教の分類を考うるに左のごとし。

  香境 好香

     悪香

     等香

     不等香

 すなわち好香とは沈〔香〕麝〔香〕の類をいい、悪香とはネギ、ニラの類をいい、等香、不等香とは曰く、増益を等香と名付け、損減を不等香と名付くと。すなわち『頌疏』に解するところによるに、「沈檀等を好香と名づけ、葱薤等を悪香と名づく。好、悪香の中、依身を増益するを名づけて等香となし、依身を損減するを不等香と名づけ、損増なきものは好悪香と名づく。」(沈檀等名好香葱薤等名悪香、好悪香中増益依身名為等香、損減依身名不等香、無損増者名好悪香、)と。また一説には香に三種を分かつ。曰く、好香、悪香、平等香これなり。『有宗七十五法記』にこれを解していわく、「依身を増益するを名づけて好香となし、依身を損減するを名づけて悪香となし、前の二用なきを平等香と名づく。」(増益依身名為好香、損減依身名為悪香、無前二用名平等香)と。もしまた西洋分類によるに、嗅覚を分かちて肺覚、嗅覚、触覚の三となす。肺覚とは香臭の種類に応じて、あるいは胸を悪くし呼吸を圧するがごとき類をいう。触覚とは鼻孔内の皮膚を刺激して、針にてつくがごとき感覚を生ずるの類をいう。

 つぎに、味境に対する分類は六種あり。すなわち左のごとし。

  味境六 苦、酢、鹹、辛、甘、淡

 その解釈は別に説明を要せずして知るべし。もしこれを西洋の分類に対照するに、西洋にありてはそのいわゆる味覚を分かちて胃覚、味覚、触覚の三種となす。たとえば人の胃において好まざるものはその影響を味の上に及ぼし、あるいは胃において好むものはまたその影響を味の上に及ぼすの類をいう。触覚とは、舌面の皮膚に感覚を与うる一種の触覚をいうなり。

 つぎに、触境につきて左のごとく一一種に分かつ。

  触境一一 地、水、火、風、軽、重、滑、渋、飢、渇、冷

 これを『〔倶舎〕頌疏』に解していわく、「堅なるを地となし、湿なるを水と名づけ、煖なるを火と名づけ、動なるを風と名づけ、はかるべきを重と名づく。これに翻ずるを軽と名づけ、柔煗なるを滑と名づけ、麁強なるを渋と名づけ、食欲を飢と名づけ、煖欲を冷と名づけ、飲欲を渇と名づく。」(堅為地、湿名水、煖名火、動名風、可称名重、翻此名軽、柔煗名滑、麁強名渋、食欲名飢、煖欲名冷、飲欲名渇)と。これを西洋分類に比較するに、冷、飢、渇は有機感覚すなわち体覚に属するものなり。およそ西洋の触覚に関する分類は、第一を触覚とし、第二を圧覚とし、第三を温覚とす。そのいわゆる触覚は物の形状大小を感別するをいい、圧覚とは重量を感知するをいい、温覚とは寒暖を感知するをいう。このうち圧覚と温覚とは体感および筋感に関するところにして、通例これを触覚外に一類を設くるなり。

 以上、仏教分類と西洋心理学の分類を掲げたれば、二者の同異を示すため、更に感覚全体に対する西洋分類の全表を示すときは左のごとし。

  感覚 有機感 筋肉上

         神経上

         血行および栄養器

         寒暖上

         呼吸上

         消化上

     智力性 有機および智力上 味覚

                  嗅覚

         智力上 触覚

             聴覚

             視覚

 この表によりて対照するに、西洋分類と仏教分類ともとよりその性質を異にせりといえども、またおのおのその長所あること明らかなり。もっとも西洋分類は学者その意見を異にして種々の方法あるも、余はもっぱらベーン氏心理書に表示するところによれり。

 つぎに、仏教の色法中無表色と名付くる一種あり。これ西洋心理学者のいまだ説かざるものにして、これを物質の一種となすは西洋諸学者の決して許さざるところなり。しかるに仏教にこれを説きたるは、宗教の善悪の作用を説明するに必要なるところあるによる。かつこの一種を色法中に加うるは仏教中においても異説あり。もしこれを色心二法に配するときは、色法にも心法にも属せざるが故に、むしろこれを非色非心の一法として置かざるべからず。しかるに今、倶舎により色法の一種としてここに掲ぐ。『倶舎論』巻一にその字義を解していわく、「無表は色業をもって性となすこと、有表業のごとしといえども、しかも表して、他をして了納せしむるにはあらず。故に無表と名づく。」(無表雖以色業為性如有表業而非表令他了納故名無表)〔*1=表示雖 *2=了知〕と。『倶舎』の頌にいわく、「この身と語との二業は、ともに表無表を性となす。」(此身語二業倶表無表性)と。またいわく、「無表に三あり。律儀と、不律儀と二にあらざるとなり。」(無表三律儀、不律儀、非二)と。『倶舎論』にその律儀を解していわく、「よく身と語とを防ぐが故に律儀と名づく。」(能防身語故名律儀)〔*=大正蔵にはこの文なし〕と。またいわく、「悪戒の相続をよく遮し、よく滅するが故に律儀と名づく。」(能遮能滅悪戒相続故名律儀)と。つぎに非二を解していわく、「二にあらざるとは、いわく律儀にあらず、不律儀にあらざるなり。」(非二、謂非律儀、非不律儀)と。その意義を『倶舎七十五法大意』に説きていわく、「無表色とは何とも其様子の見せられぬもの故に表示が出来ぬと云ふことにて無表色と云ふ其体は強き善悪の身語業の四大種の気分がうつりて身語の作業を離れて善悪の身語の業を作せし通りの功能が始終其の身につきて離れぬものが無表なり四大の勢力にてできる故に色に属す左れどもうつり香の様なるものにて急度したる物体なければ極微の所成にあらず極微にて造らねば体質ありて物を礙へざれば色とは云へども質碍の性にあらず「質碍にあらずして色なり。」(非質碍色)となすは此の無表に限るなり故に無表は色の仲間にてはあれども常途の色にはあらずと意得べし」と。その他、無表色につきて善悪に関する分類多しといえども、心理学として講ずる必要なければ、ここにこれを略す。

       第二段 世界論

 上来、倶舎論哲学を客観論、主観論の二段に分かち、その客観論を更に物質論、世界論、人身論の三段に分かちしが、そのうちすでに物質論は主観客観両方より論弁し終われり。故にこれより世界論につきて述べざるべからず。

 まず初めに世界の名義を考うるに、これ空間時間を合わせたる名称にして、なお宇宙というがごとし。すなわち『翻訳名義集』によるに、「『楞厳経』にいう。世を遷流となし、界を分位となす。汝今まさに知るべし。東西南北、東南、西北、東北、西南、上下を界となし、過去、未来、現在を世となすなり。」(楞厳経云、世為遷流、界為分位、汝今当知東西南北東南西北東北西南上下為界、過去未来現在為世也)〔*1=・経」なし *2=方 *3=東西南北、東南西南、東北西北、上下〕と。故にその界はすなわち空間にして、その世はすなわち時間なり。これをもって仏教には三世十界というなり。宇宙の解釈もまたこれと同じく時間空間を意味す。今これを『淮南子』に考うるに、その斉俗編にいわく、「往古来今これを宇といい、四方上下これを宙という。」(往古来今謂之宇、四方上下謂之宙)と。これをもって知るべし。

 つぎに世界分類を考うるに、仏教中に世界を分かちて、あるいは二種とし、あるいは三種とす。その二種の説は左のごとし。

  世界 一、衆生世界(正報あるいは正果)

     二、器 世 界(依報あるいは依果)

 あるいはこれを衆生世間、器世間という。またこれを三種に分かつときは、一には五蘊世間、二には衆生世間、三には国土世間となる。あるいはまた世界を欲界、色界、無色界の三種に分かちて、これを三界という。またこれを一〇種に分かつことあり。いわゆる六凡四聖なり。これを名付けて十界という。六凡をあるいは六道あるいは六趣あるいは六穢と名付け、これに対して四聖を四浄という。その表左のごとし。

  十界 六凡 地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天

     四聖 声聞、縁覚、菩薩、仏

 この六凡すなわち六道を、あるいは分かちて五種とすることあり。そのときは修羅を略して、天もしくは餓鬼もしくは畜生に摂するなり。また世界の大数を挙ぐるときは三千大千世界という。『倶舎頌』にいわく、「四大洲と日月と蘇迷盧と欲天と梵世とおのおの一千を一小千界と名づく。この小千の千倍をいいて、一中千と名づく。この千倍が大千にして、みな同一に成じ、壊するなり。」(四大洲日月蘇迷盧欲天梵世各一千名一小千界、此小千々倍謂名一中千、此千倍大千、皆同一成壊)〔*1=千 *2=説〕と。すなわち世界の数が千に満つるを小千世界とし、この小千世界の千倍を中千世界といい、中千世界の千倍を大千世界という。これを合して三千大千世界という。故にもし数をもって表示すれば、1,000×1,000×1,000=1,000,000,000すなわち一〇億なり。これを総じて娑婆という。『感通伝』には娑婆則大千総号という。実に世界の無量無数なるを知るべし。故にあるいは十方微塵世界ともいうなり。これをもって『起信論』には「虚空は無辺なるが故に世界は無辺なり。世界は無辺なるが故に衆生も無辺なり。」(虚空無辺故世界無辺、世界無辺故衆生無辺)と。故にもし仏教の世界論を述べんと欲せば、まず空間論、時間論を述べざるべからず。

       一 空間論

 仏教にて空間はこれを虚空という。その虚空を無辺となすをもって空間の無限を唱うるものなるが、『倶舎論』巻一にこれを解して曰く、「虚空はただ無礙をもって性とす。無障なるによるが故に、色、中において行ず。」(虚空倶以無礙為性、由無障故色於中行)〔*=但〕と。また『正理論』には「虚空は色等の有為を受容するなり。」(虚空容受色等有為)と。また単に空と名付くるとも、虚空とその意義を同じうすることあり。『十住心広名目』にいわく、「空はすなわち諸相をば尽くし、もろもろの色を受容するの義なり。一切法は相と体ありて四大を出でず。もし諸相みな尽きれば、すなわちこれ空輪なり。」(空則諸相尽、容受諸色之義、一切法有相体不出四大、若諸相皆尽即此空輪也)と。この解釈は真言宗の地、水、火、風、空、識、六大中の空大に与えたるものなるが、また成住壊空のいわゆる空も、諸形諸相の滅尽してただ虚空のみを存するの状態をいうなり。そのいわゆる空間は無涯無限なりとするは仏教の説なり。もし有限の空間につきて、仏教の定むるところの距離寸尺につきてこれを考うるに、通例由旬の語を用いるなり。その由旬はこれを『倶舎論』に考うるに、第一二巻にいわく、「竪に四肘を積みて弓となす。尋という。竪に五〇〇弓を積みて一倶盧舎となす。乃至〔中略〕八倶盧舎を説いて一踰繕那となす。」(竪積四肘為弓謂尋、竪積五百弓為一倶盧舎、乃至説八倶盧舎為一踰繕那)〔*=一六文字の省略あり〕と。そのいわゆる一肘は『花厳経音義』には一尺五寸とし、『頌疏』には一尺八寸とし、『宝疏』には二尺とし、しかして一倶盧舎は「『恵〔慧〕暉』いわく、三六〇歩を里となす。一倶盧舎を成す。一倶盧舎は二里なり。」(恵暉云三百六十歩為里成一倶盧舎一、倶盧舎二里也)と。これによりてこれを考うるに、

     4肘×500弓×8倶盧舎=16000踰繕那(由旬)

もし一肘を一尺五寸とすれば、一踰繕那は16000×1.5=24000尺となるなり(踰繕那とは旧訳に由旬といい、シナにこれを限量と訳す)。ある一説に倶盧舎を五〇尺となす。もし一倶盧舎を二里とすれば、一踰繕那は一六里なり。今、仮に一踰繕那を一六里と定むれば、須弥の高さは八万四〇〇〇由旬にして、その深さまた八万四〇〇〇由旬なり。『起世因本経』一巻にいわく、「須弥山王の下は海水に入ること八万四〇〇〇由旬、上は海水を出ること八万四〇〇〇由旬なり。」(須弥山王下入海水八万四千由旬、上出海水亦八万四千由旬)と。故にその高さは水底よりこれを量するに二六万八八〇〇里、もし一由旬を二〇里とすれば三三万六〇〇〇里なり。

       二 時間論

 つぎに時間につきてこれを考うるに、その時間の最短なるを刹那とし、その最長なるを劫という。しかして前後に従って分かつときは過去、現在、未来の三世となる。その三世の解釈は『倶舎論』一巻によるに、「無常のすでに滅せるを過去と名づけ、もしいまだすでに生ぜざるを未来と名づく。すでに生じて、いまだ謝せざるを現在と名づく。」(無常已滅名過去、若未已生名未来、已生未謝名現在)と。また刹那と劫との解釈につきて『倶舎論』にいわく、「時の極めて少なきを刹那と名づけ、時の極めて長きを劫となす。」(時之極少名刹那、時之極長名為劫)と。また『倶舎頌』にいわく、「極微と字と刹那とは、色と名と時との極少なり。」(極微字刹那、色名時極少)と。今ここに刹那の長短につきて『倶舎論』に説くところによるに、いわく、「刹那の一二〇を一怛刹那となし、六〇怛刹那を一臘縛となし、三〇臘縛を一牟呼栗多となし、三〇牟呼栗多を一昼夜となし、乃至、三〇昼夜を一月となし、総じて一二月を一年となす。」(刹那百二十為一怛刹那、六十怛刹那為一臘縛、三十臘縛為一牟呼栗多、三十牟呼栗多為一昼夜、乃至三十昼夜為一月、総十二月為一年)〔*=一二文字の省略あり〕と。また慧暉曰く、「一度の弾指に六五刹那あり。」(一度弾指有六十五刹那、)と。『仁王経』にいわく、「一念に九〇の刹那、九〇〇の生滅あり。」(一念有九十刹那九百生滅)と。『西域記』にいわく、「時の極めて短きを刹那というなり、云々。」(時極短者謂刹那也云云)。しかして刹那は訳して一念という。これ時間の最短なるものなり。

 また時間の最長なる劫とは、『明蔵法数』にこれを解していわく、「劫は梵語に劫波といい、華に分別時節という。いわく人寿八万四〇〇〇歳の時より、一〇〇年を歴過すれば、すなわち寿一歳を減ず。かくのごとく減じて人寿一〇歳に至ればすなわち止む。また一〇〇年を過ぎればすなわち一歳を増す。かくのごとく増して八万四〇〇〇歳に至る。この一増一減を名づけて一小劫となす。かくのごとく二〇増減を名づけて一中劫となす。総じて成、住、壊、空の四中劫を成じて一大劫となす。」(劫梵語云劫波、華言分別時節、謂人寿八万四千歳時、歴過百年則寿減一歳、如此減至人寿十歳則止、復過百年則増一歳、如是増至八万四千歳、此一増一減名為一小劫、如是二十増減名為一中劫、総成成住壊空四中劫為一大劫)と。すなわち劫に大中小の三種ありて、その大劫に至りては到底年月をもって算定すべからず。しかるに仏教は、更にその劫の積もりて最大なるものを阿僧企劫という。これを訳して無数時という。今、阿僧企なる数を『倶舎〔論〕』によりて考うるに、その一二巻にいわく、「『解脱経』に六〇数を説く中に、阿僧企耶はこれその一の数なり。いかんが六〇なるや。かの経に言うがごとし。一のみありて余数なきを一となし、十の一を一〇となし、一〇の一〇を一〇〇となし、乃至、一〇の跋羅攙を大跋羅攙となし、一〇の大跋羅攙を阿僧企耶となす。この数の中において、余の八を忘失す。もし大劫を数えてこの数の中の阿僧企耶に至れば、劫無数と名づく。この劫無数をまた積みて三に至るを経中に説いて、三劫無数となす。もろもろの算計の数え知ることあたわざるにあらざるが故に、説きて三劫無数となすを得。」(解脱経説六十数、中阿僧企耶是其一数、云何六十、如彼経言、有一無余数為一、十一為十、十十為百、乃至十跋羅攙為大跋羅攙、十大跋羅攙為阿僧企耶、於此数中忘失余八、若数大劫至此数中阿僧企耶、名劫無数、此劫無数復積至三、経中説為三劫無数非諸算計不能数知、故得説為三劫無数)〔*1=無余数始為一 *2=一十 *3=二五行の省略あり〕と。これによりてこれを見るに、その数たるや五二位を有する大数にして、これを数字に換言せばその数字中零を有すること五一の多きに及ぶ。すなわちつぎのごとし。

     1,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000

 これを阿僧企の数となす。しかるに阿僧企劫というときは、その時間の久遠なること想像の及ぶところにあらず。故に仏教は空間をもって無限とし、時間もまた無限とせることは、これによりて察知するに足る。しかしてその無限の中に無数無量の万物万類ありて変々化々してやまざるも、その本体に至りてはもとより不生不滅なりとす。これ仏教の客観に対する宇宙観なり。

       三 三界論

 すでに時間空間の無限なることを述べたれば、その中に現ずる種々の世界につきて述べざるべからず。故に以下、序を追って説くべきが、まず三界を述べんに、『翻訳名義集』によりてこれを解すること左のごとし。

  三界 欲界………欲に三種あり。一に飲食、二に睡眠、三に媱欲なり。

     色界………形質は清浄、身相は殊勝なるも、いまだ色篭を出でず。

     無色界……かの界の中において、色のあらざるが故なり。

  三界 欲界………欲有三種、一飲食、二睡眠、三媱欲

     色界………形質清浄、身相殊勝、未出色篭

     無色界……於彼界中、色非有故

 また『三界義』にいわく、「欲界の衆生、三事をそなえるが故に欲界と名づく。一は睡眠あるが故に、二は段食あるが故に、三は媱欲あるが故に。この三事あるが故に欲界と名づくなり。色界の天人は浄妙なる色あるが故に色界と名づく。身相の端厳等これなり。無色の天人は形色あることなく、ただ心あるのみなるが故に、無色界と名づくるなり。」(欲界衆生具三事故名欲界、一者有睡眠故、二者有段食故、三者有媱欲故、有此三事故名欲界也、色界天人有浄妙色、故名色界、身相端厳等是也、無色天人無有形色、唯有心故名無色界也)と。もし三界の種類を挙ぐれば、欲界に二十処あり、色界に四禅あり、無色界に四天あり。これを表示すること左のごとし。

  欲界二十処 八大地獄 一、等活  二、黒縄 三、衆合 四、号叫

             五、大号叫 六、炎熱 七、極熱 八、無間

        畜生

        餓鬼

        四州 南、贍部州(また南閻浮提とも名づく) 東、勝身州(また東弗           婆提ともいう)

           西、牛貨州(また西瞿耶尼ともいう)  北、倶盧州(また北鬱           檀ともいう)

        六欲天 一、四王天 二、忉利天  三、夜摩天、

        四、兜率天 五、楽変化天 六、他化自在天

  色界四禅(一名四静慮) 初禅三天………焚衆天、梵輔天、大梵天

              二禅三天………少光天、無量光天、極光天

              三禅三天………少浄天、無量浄天、遍浄天

              四禅八天……無雲天、福生天、広果天、

                    無煩天、無熱天、善現天、

                    善見天、色究竟天

  無色界四天 一、空処天

        二、識処天

        三、無所有天

        四、非非想天

 以上これを三界六道二十八天という。しかるにまた欲界をあるいは分かちて六道となす。すなわち、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天なり。その欲界の天は今述べたるがごとく六天あり。しかして天の数は欲、色、無色界を合して二六天あることは今すでに表示せるが、あるいは天を数えて三十三天となす。その数え方は諸経説くところ異同あり。今『護命経』によるに欲界六天、色界一三天、無色界一四天、これを合して三十三天となす。その名称左のごとし。

  三十三天 欲 界 黄曾天 玉完天 何童天 平育天 文挙天 麻夷天

       色 界 越衡天 濛翳天 和陽天 恭華天 宗飃天 皇笳天 堂躍天

           端静天 恭慶天 極瑶天 元載天 孔昇天 皇崖天

       無色界 極風天 孝芒天 翁重天 江申天 阮楽天 曇誓天 霄度天

           元洞天 妙成天 禁上天 常融天 玉降天 梵度天 賈奕天

 また『因本経婆沙論』に説くところの三十三天は左のごとし。

夜摩 兜率陀天 化楽 他化 自在 梵衆 梵輔 大梵 小光 無量光天 光音

 小浄 無量浄 徧浄天 福生 福受 広果 無想 無煩 無熱 善見 善現 

色究竟 無辺空処天 無辺識処 無所有所 非想 非非想処天 堅首天 持鬘天

 常憍天 四王天 日月星宿天

 その他にも異説あれども、必要なければこれを略す。

 以上、すでに世界の種類を略示したるをもって、これよりその構造成立を論ずべし。『倶舎論』によるに、世界構造は有情の業力によりて次第次第にその形をなすに至れりとす。すなわち『倶舎論』巻一一にいわく、「有情の業の増上力をもって、まず最下において虚空に依止して、風輪生ずることあり。広さ無数にして、厚さ一六億踰繕那なり、云々。」(有情業増上力、先於最下依止虚空、有風輪生、広無数、厚十六億踰繕那云云)。その世界の大初に生じたる風輪はいたって堅くして、これを大力あるものが金剛をもって金力をこめて打つとも、たとえ金剛は砕くるとも風輪は損ずることなしという。その風輪上に雲霧起これり。その雨車軸のごとく水輪をなす。その輪の深さ一一億二万由旬なりという。このとき更に風を起こしてこの水を搏撃し、結びて金となる。その金輪の厚さ三億二万由旬にして、水金二輪の厚さその径一二億三四〇〇半由旬、その周囲三六億一万三五〇由旬なりという。かくのごとき世界説は、今日学術上これを見るに実に妄誕不稽を極めたる説なるがごとく見ゆれども、もしその風輪を気体とし、その水輪を液体とし、その金輪を固体とするときには、この世界説はまさしく今日の世界説に合するを見るべし。なんとなれば、今日の学術にありては星雲説を唱え、世界の大初にいまだ固体も液体もその形を結成せざるに当たりて、高熱のガス体あたかも星雲のごときもの虚空間に横たわるありて、その体ようやく熱度を減じて液体となり、更に熱度を減じて固体となり、ついに今日の世界を現ずるに至る。この学説と仏教の説と、世界構造の順序において互いに一致するところあるはまた奇というべし。

 かくして風輪、水輪、金輪の三輪相成りて、その上に国土を生ず。その下に空輪あり。空輪は風輪、水輪、金輪の最下に位する虚空なり。その虚空たるや実に無辺無涯なり。風輪等はみなその上に依止して住す。また金輪上に住する国土には九山八海あり四州あり。その中央に蘇迷盧すなわち須弥山あり。これを訳して妙高山という。その余の八山は中央の妙高山を囲みて立ち、八山のうち前七山を内と名付け、第八の山を鉄囲山と名付けて、これを外となす。すなわち前七山と第八山の間に四大州あるによりて内外を分かつなり。今『凡聖界地章』によりてこの九山の名称および状態を示すこと左のごとし。

第一の山は、梵には犍駄羅山という。ここに持双山という。頂に双跡あるが故なり。等しく七金山と名づくるは、みな純金の所成なればなり。水に入る量等は、等しくならびにみな八万踰繕那なり。もろもろの宝樹多くして、この山の水を出ることおよび山頂の厚さの量と、みな四万踰繕那なり。

第二の山は梵に伊沙駄羅山という。ここに持軸という。峰は車軸のごとく、水より出ること二万踰繕那なり。厚さの量もまたしかり。

第三の山は、梵に竭地洛迦山という。これ宝樹の名なり。この方の檐木に似たり。山上にこの宝樹多くして、樹に従って名となす。水より出ること一万踰繕那になり。厚さの量もまたしかり。

第四の山は、梵に蘇達梨舎那という。ここに善見という。見る者、善ととなうるが故なり。水より出ること五〇〇〇踰繕那にして、厚さの量もまたしかり。善見山の内海は広さ一万踰繕那なり。

第五の山は、梵に頞湿縛羯拏という。ここに馬耳という。山の形、馬の耳に似たるが故なり。水より出ること二五〇〇踰繕那にして、厚さの量もまたしかり。馬耳山の内海は広さ五〇〇〇踰繕那なり。

第六の山は、梵に毘那岨迦山という。ここに象鼻山という。〔山の〕形、象の鼻に似たるが故なり。水より出ること一二五〇踰繕那にして、厚さの量もまたしかり。

第七の山は、梵に尼民達羅山という。これはこれ魚の名なり。山の形、魚の觜に似たるが故なり。水より出ること六二五踰繕那にして、厚さの量もまたしかり。この山の内海は、広さ一二五〇踰繕那なり。

第八の山は、梵に斫迦羅山という。ここに鉄囲といい、純鉄の所成なり。水に入ること上のごとく、水より出ること三一二半踰繕那なり。厚さの量もまたしかり。鉄囲の内海は、広さ三億二万二〇〇〇踰繕那なり。その水は鹹苦なり。中における大洲は四あり、中洲は八あり、小洲は無数なり。人、傍生、餓鬼、捺落迦等その中に雑居す。その業力にしたがいて、住するところおのおの異なり。

第一山者、梵云犍駄羅山、此云持双山、頂有双跡故、等名七金山者、皆純金所成、入水量等等並皆八万踰繕那、多諸宝樹、此山出水及山頂厚量、皆四万踰繕那、

第二山者、梵云伊沙駄羅山、此云持軸、峰如車軸、出水二万踰繕那、厚量亦然、

第三山者、梵云竭地洛迦山、此宝樹名、似此方檐木、山上多此宝樹、従樹為名、出水一万踰繕那、厚量亦然、

第四山者、梵云蘇達梨舎那、此云善見、見、者称善故、出水五千踰繕那、厚量亦然、善見山内海、広一万踰繕那、

第五山者、梵云頞湿縛羯拏、此云馬耳、山形似馬耳故、出水二千五百踰繕那、厚量亦然、馬耳山内海、広五千踰繕那、

第六山者、梵云毘那岨迦山、此云象鼻山、形似象鼻故、出水一千二百五十踰繕那、厚量亦然、

第七山者、梵云尼民達羅山、此是魚名山形似魚觜故也、出水六百二十五踰繕那、厚量亦然、此山内海広一千二百五十踰繕那、

第八山者、梵云斫迦羅山、此云鉄囲、純鉄所成、入水如上、出水三百一十二半踰繕那、厚量亦然鉄囲内海、広三億二万二千踰繕那、其水鹹苦、於中大洲有四、中洲有八、小洲無数、人傍生餓鬼捺落迦等雑居其中、随其業力所住各々異、

 以上、八山の説明なるが、この八山の間にはおのおの一つずつの海ありて、合して八海となる。いま『倶舎論』によりて八海の名称を示せば、第一海すなわち須弥山と第一山との間にある海を須弥海という。そのつぎを由乾陀海といい、そのつぎは伊沙陀海、そのつぎは阿羅置海、そのつぎは修騰娑海、そのつぎは阿于那海、そのつぎは毘那陀海、そのつぎは尼民陀海という。その最後、尼民陀の山際より鉄囲の山際に至るまでの距離三億六万三二八八由旬なり。第一の海はその広さ八万由旬にして、その余の六海は半数ずつを減ずるなり。

 つぎに内外両山の間に位せる四大州を説かんに、これまた『凡聖界地章』によりてその名称および状態を示せば左のごとし。

山南 南の瞻部洲は、樹によりて名となす。旧に閻浮提というは訛なり。『起世経』にいわく、閻浮樹の下に閻浮那檀金の聚あり。高さ二〇由旬なり。南瞻部洲は、北は広く、南は狭し。三辺の量は等しくして、各二〇〇〇踰繕那なり。南辺はただ広さ三踰繕那半のみにして、人の面もまたしかり。

山東 東の毘提訶洲は、ここに勝身という。旧に弗婆提というは訛なり。乃至、『倶舎論』にいわく、三辺は各二〇〇〇踰繕那あり。東辺は三五〇由旬那なり。地形は半月のごとく、人の面もまたしかり。

山西 西の瞿陀尼洲は、『起世経』にいわく、ここに牛施という。一大樹ありて、鎮頭迦と名づく。その本の縦広七由旬ありて、地に入ること二一由旬、高さ一〇〇由旬、枝葉の垂れ覆うこと五〇由旬。下に石牛ありて、高さ一由旬、故に名を立つるなり。

山北 北の倶盧洲は、『起世経』にいわく、鬱怛羅究溜は、ここに高上といい、地形は畟方なり。四面は各二〇〇〇踰繕那あり。人の面もまた方なり。

山南 南瞻部洲者、従樹為名、旧云閻浮提訛也、起世経云、閻浮樹下有閻浮那檀金聚、高二十由旬、南瞻部洲北広南狭、三辺量等各二千踰繕那、南辺唯広三踰繕那半、人面亦然、

山東 東毘提訶洲、此云勝身、旧云弗婆提訛也、乃至倶舎論云、三辺各有二千踰繕那、東辺三百五十由旬那、地形如半月、人面亦然、

山西 西瞿陀尼洲、起世経云、此云牛施、有一大樹、名鎮頭迦、其本縦広有七由旬、入地二十一由旬、高百由旬、枝葉垂覆五十由旬、下有石牛、高一由旬、故立名也、

山北 北倶盧洲者、起世経云、鬱怛羅究溜、此云高上、地形畟方、四面各有二千踰繕那、人面亦方、

 この南瞻部州の下二万由旬を過ぎて、この間に地獄ありという。かくのごとき世界説は、今日の学術上攻究するに足らざるがごとしといえども、古代のインド人がすでにかくのごときの世界あることを信ぜし以上は、なにによりてこの説を信ずるに至りしや、またなにものがこの想像をえがき出だせしや。これを研究するは大いに学術上有益の問題にして、また興味あるものなり。たとえそのことたる、いかなる空想妄説にもせよ、原因なくして起こるべきものにあらず。すでに原因ありとすれば、必ずその理を攻究することを得べし。ことに今日のごとき比較学の必要なるときに当たりては、宗教を論ずるにも哲学を講ずるにも、古来各人種の想像したるものを比較してその理を究めざるべからず。果たしてしからば、インド古代の説ならびに仏教中に存する世界説をも、決して度外視することを得ず。故に余は東洋哲学研究の材料としてこれらの古説を掲ぐるなり。

 つぎに天体につきて日月星辰をいかように解するかを考うるに、『倶舎論』にいわく、「日、月、衆星はなにによりて住するや。風によりて住す。」(日月衆星依何 住、依風而住)〔*=・而」あり〕と。また日の下面は火球所成にして、月の下面は水球所成なりとあり。しかしてその日も月も、この土地をさること妙高山の半ばに達せり。また日月の直径は、日は五一由旬にして、月は五〇由旬なり。また星の最小なるものは一倶盧舎にして、最大なるものは一六由旬なりという。

 つぎに地下の状態を考うるに、種々の地獄みなその下にありという。『順正理論』によるに、「この瞻部洲の下、二万踰繕那を過ぎて、阿鼻旨あり、云々。」(此瞻部洲下過二万踰繕那有阿鼻旨云云、)。その地獄の種類は総じて八種あり。(一)等活地獄、(二)黒縄地獄、(三)衆合地獄、(四)叫喚地獄、(五)大叫喚地獄、(六)焦熱地獄、(七)大焦熱地獄、(八)無間地獄なり。今『往生要集』によりて各地獄の状態一斑を示せば左のごとし。

初に等活地獄とは、この閻浮提の下、一〇〇〇由旬にあり。縦広一万由旬なり。この中の罪人は、互いに常に害心を懐けり。もしたまたま相見れば、猟者の鹿に逢えるがごとし。おのおの鉄爪をもって互いに★(爪+國)み裂く。血肉すでに尽きて、ただ残骨のみあり、云々。

二に黒縄地獄とは、等活の下にあり。縦広、前に同じ。獄卒、罪人を執えて熱鉄の地に臥せ、熱鉄の縄をもって縦横に身に絣き、熱鉄の斧をもって縄にしたがいて切り割く。あるいは鋸をもってさき、あるいは刀をもって屠り、百千段と作して処々に散在す、云々。

三に衆合地獄とは、黒縄の下にあり。縦広、前に同じ。多く鉄の山ありて、両々相対す。牛頭、馬頭等のもろもろの獄卒、手に器仗を執り、駆りて山の間に入らしむ。この時、ふたつの山、迫りきたりて合せ押すに、身体摧け砕け、血流れて地に満つ、云々。

四に叫喚地獄とは、衆合の下にあり。縦広、前に同じ。獄卒の頭、黄なること金のごとく、眼の中より火出ず。赭色の衣を著たり。手足長大にして疾く走ること風のごとく、口より悪声を出して罪人を射る。罪人、惶れ怖れて、頭を叩き、哀れみを求む。「願わくば、慈愍を垂れて、少〔小〕しく放捨せられよ」と。この言ありといえども、いよいよ瞋怒を増す、云々。

五に大叫喚地獄とは、叫喚の下にあり。縦広、前に同じ。苦の相もまた同じ、云々。

六に焦熱地獄とは、大叫喚の下にあり。縦広、前に同じ。獄卒、罪人を投じて熱鉄の地の上に臥せ、あるいは仰け、あるいは覆せ、頭より足に至るまで、大いなる熱鉄の棒をもって、あるいは打ち、あるいはついて肉摶のごとくならしむ。あるいは極熱の大いなる鉄鏊の上に置き、猛き炎にてこれを炙り、左右にこれを転がし、表裏より焼き薄む、云々。

七に大焦熱地獄とは、焦熱の下にあり。縦広、前に同じ。苦の相もまた同じ、云々。

八に阿鼻地獄とは、大焦熱の下、欲界の最底の処にあり、云々。

初、等活地獄者、在於此閻浮提之下一千由旬、縦横一万由旬、此中罪人互常懐害心、若適相見如猟者逢鹿、各以鉄爪而互★(爪+國)裂、血肉既尽、唯有残骨、云云

二、黒縄地獄者、在等活下、縦横同前、獄卒執罪人、臥熱鉄地、以熱鉄縄縦横絣身、以熱鉄斧随縄切割、或以鋸解、或以刀屠、作百千段、処々散在、云云

三、衆合地獄者、在黒縄下、縦広同前、多有鉄山、両山相対、牛頭馬頭等諸獄卒、手執器杖駆令入山間、是時両山迫来合押、身体摧砕、血流満地、云云

四、叫喚地獄者、在衆合下、縦広同前、獄卒頭黄如金、眼中火出著赭色衣、手足長大、疾走如風、口出悪声而射罪人、々々惶怖叩頭求哀、願垂慈愍、小見放捨、雖有此言弥増瞋怒、云云〔*=罪人〕

五、大叫喚地獄者、在叫喚下、縦広同前、苦相亦同、云云

六、焦熱地獄者、在大叫喚之下、縦広同前、獄卒投罪人、臥熱鉄地上、或仰或覆、従頭至足、以大熱鉄棒或打或築、令如肉摶、或置極熱大鉄鏊上、猛炎炙之、左右転之、表裏焼薄、云云

七、大焦熱地獄者、在焦熱下、縦広同前、苦相亦同、云云

八、阿鼻地獄者、在大焦熱之下、欲界最底之処、云云

 これ仏教の地獄の位置および状態の一斑なり。しかしてかくのごとき説はひとり仏教のみに存するにあらずして、古代宗教はおおむねかくのごときの想像をなせり。しかしてその想像は往々東西符合することあり。これ一方の思想が他方に移りてしかりしものか、はたすこしも交通なきも偶然合せざるものか、各国人種の想像を比較して研究するにあらざれば知るあたわざるなり。これらよりして、世人が比較学の必要を知ると同時に、仏教中の天文地獄説等もまたこれを講究する必要を知るに至れり。従来仏教中の天文地獄説等は、一方には勧善懲悪の手段となし、一方には当時の天文地質学等の状態を示すものなり。故に当時にありては世間は一般にその説を信じて万世不変の学説のごとくせしかども、今日実験学の進歩により天体および地球説に一変し、まただれもこれらの説を唱うるものなきに至り、たまたまかくのごとき説を述ぶるものあれば、人みな嘲笑してともに語るに足らずとなす。しかるに今日、学術研究上よりこれらの説の必要を知るに至れり。世間の人こいねがわくば、これを古代の妄説として度外視することなかれ。

 以上は世界に器世界、衆生世界の二あるうちの、器世界につきて仏教中に説くところの世界説を述べたるものなるが、これより有情世界につきて仏教の説を示さざるべからず。

 有情世界も器世界と同じく変化してやまず、いわゆる有為転変の世界なり。故に有情の身体も寿量も増減して変化するものとす。しかしてその身量および寿命は場所および年代によりて異なり、たとえば北州人は身量の長さ三肘半、これより天上世界に上るに従ってその長さを増し、色究竟天に至れば増して満六〇〇〇にみつという。けだしその尺度は由旬ならん。寿命もまたしかり。たとえば北州は一〇〇〇歳を定寿とす。これより天に上ればその寿命の長きもの六〇中劫なるものあり。また地獄等に至りては等しく長きものにして、極熱地獄はその寿量半中劫、無間地獄は一中劫なりという。しかるに世界の上に成住壊空の変遷あるをもって、身量寿命にも増減消長あり。まずここに壊劫の状態を考うるに、これに趣壊、界壊といえる二種あり。またその界壊に有情壊と器世界壊もあり。もし地獄餓鬼等の欲界、有情ことごとく絶滅するに至り、有情を感ずべき業因全く尽き、宇宙間一人の有情なきに至り、天界にも地界にも活物を見ざるに至ることあり。これを有情世界を壊すという。そのときなお器世界の存するありといえども、その器〔世〕界も最後にことごとく破壊して、その結局虚空のみを存するに至る。今その器世界破壊して空劫となる順序を示さんに、初めに七個の太陽現出し、その熱力により海水ために涸渇し山陵ことごとく焼失す。更に風ありてその間に生じ、猛炎を吹きて上界に至らしめ、もって上界の天宮梵宮ことごとく焼尽するに至る。『倶舎論』第一二巻にいわく、「欲界の大猛焔の上に昇るを縁として、色界の火焔を引生す。余の災もまたしかり。」(欲界大猛焔、上昇為縁、引生色界火焔、余災亦爾)〔*=火〕と。かくのごとく地界の有情生命尽くるより、ないし器世界尽くるまで、総じて壊劫と名付く。かくして宇宙間虚空のみを存するに至る。これを空劫という。しかるにその虚空中微風生ずるありて、これより世界また始まらんとす。すなわち「『倶舎論』にいわく、一切の有情の業の増上力によりて、空中にようやく微細の風の生ずることあり。これ器世界のまさに成ぜんとする前相なり。風ようやく増盛して、前に説きたるところのごとき風輪、水輪、金輪等を成立す。」(倶舎論云、一切有業増上力、空中漸有微細風生、是器世界将成前相、風漸増盛成立前所説風輪水輪金輪等)〔*1=一切有情業 *2=・輪」なし〕と。これにおいて世界また始まる。空劫終わりて成劫となり、成劫終わりて住劫となり、更に壊劫となり空劫となりて、循環やまざるは実に世界の真状なり。

 以上、壊劫につきて七日の天に現出するありて天地を焼くに至りしことを述べたりしが、これ大の三災の一なり。その他、水災風災あり、これを合して大の三災という。この大の三災に対してまた小の三災あり。小三災とは、第一に刀兵、第二に疾疫、第三に飢饉なり。刀兵の災はただ七日間のみ、疾疫は七月七日間、飢饉は七年七月七日間継続すという。つぎに起こるものは大の三災なり。大三災とは、最初に七個の太陽現出して大災を生じ、七回の火災ありて後に一回の水災あり、かくしてまた七回の一水災と八回の七火災との後に風災あり。この三災によりて全く器世界を壊滅するに至る。そのいわゆる七回の一水災と八回の七火災との後に一回の風災ありとは、これを詳言すれば、初時に七回の火災ありてつぎに一回の水災あり、第二時にもまた七回の火災ありてつぎに一回の水災あり、第三時、第四時、第五時、第六時、みなかくのごとく七火災のつぎに一水災あり。しかして第八時に至りて七回の火災ありて一回の風災ありという。故に大の三災とは、八個の七火災と一個の七水災と一回の風災とあるなり。かくのごとき順序によりて有情世界、器世界、ともに壊滅するに至る。しかしてすでに壊滅し終わればまた始まる。かくのごとくして際涯なきは実に世界の状態なれば、仏教はこれに基づきて世界の変遷を説き、これを応用して宗教上に安心成道の法を講ずるなり。

 以上論じきたりしところの仏教の世界論を一結するに当たり、まず古今東西の世界説を一括して示さんとす。そもそも各国人種の世界開闢説につきて想像するところのもの元来一ならずといえども、要するに有終有始論と無始無終論との二者に出でず。有始有終論は今日の世界を見て必ずその大原因あるべきを想定し、世界の本源を神に帰し造物主を立つるものにして、これ今日ヤソ教等にて唱うるところの天地創造説なり。これを有始論というべし。しかるにもし今日の世界をもって不生不滅、不増不減のものとなし、その起源を考うるときは必ず開端の点なきを知るに至るべし。これを無始論という。仏教等に唱うるところのものこれなり。この二者ともに因果の理によりて想定せること疑いなしといえども、有始有終論は因果に開端の起源を立て第一原因を論ずるものなれば、予はこれを直線因果論という。これに反して無始無終論は、因と果とは互いに相待ちて作用をなすいわゆる相待の性質を有するものにして、原因は結果に対するの因に過ぎず。もし原因の原因に対すれば前時の因もまた果となる故に、決して事物そのものに因果の定まりあるにあらず。これをもって、いかなる原因もその場合に応じて果となり、いかなる果もその場合に応じて因となる。かくして、ついに開端の原因なく終局の結果を見るべからず。これをたとうるに、雨はなにによりて生ずるか、その原因を探れば必ず海面より蒸騰せる水蒸気によりて生ずるを知るべし。しからばその海水の原因はいかにと問えば、一は雨水の積集するにより、一は百川のこれに朝宗せるによるなり。しかしてその百川の原因は、もとこれ天より下降せる雨水なり。故に雨の原因は地上の水にして、地上の水の原因はまた雨なり。これによりてこれをみるに、一方の原因は他の果となり、他の果はまた更に他の原因となり、因果循環してやまず。今この世界もまたこれと同じく、事々物々変々化々してやまざるものなれば、その中に因果相続して、前因後果互いに循環してやまざるものなり。これをもって、世界の変化に開端の起源なく、また終局の結果なしとなす。これ畢竟世界そのものは不生不滅なる理を証するに足る。この理により推究すれば、無始無終論起こらざるべからず。予はこれを環線因果論と名付く。仏教はこの環線因果論により世界開闢を説明せるものなり。もしこれを学術上に照らして推究するときは、直線因果論は学術未開のときにありては一般に信ぜしものなれども、今日にありては環線因果論の真理なるを知るに至る。しかして因果の理たるや世界の現象上に見る規則にして、もしその本体に至りては不生不滅永続恒存して変化なきものなれば、もとより因果の道理によりて論ずべからず。故にもし世界を分かちて現象と本体との二種となすときは、因果は現象上にのみ存するものにして本体上に存するものにあらず。しかれどもその現象たるや元来本体より発するものなれば、現象上環線因果の存するは事物の変化そのものの無始無終循環して際涯なきを知るべく、これと同時にその本体の不生不滅なるを知るに至るべし。これをもって、現象上変化の無始無終論と本体の不生不滅論と一致するを知るべし。かつその理たるや、今日理化学の一般に唱うる物質不滅、勢力保存、運動永続の道理と相合するものなり。故に仏教に環線因果論あるは、今日の学説に偶然符合すというべし。

 つぎに変遷論を考うるに、古今東西の学者世界の変遷を論ずるに、あるいは進化を取るものあり、あるいは退化を取るものあり。しかして仏教は前すでに述べたるがごとく、進化にもあらず退化にもあらず、この二者を合してその中を取るものにして、これを循化論という。また世界の目的につきては、あるいは一定の目的ありとなすものあり、あるいはなしとするものあり。仏教にありては因果必然の理法によりて世界の変化を説明するものなれば、もとよりヤソ教の天帝創造説のごとき、世に一定の目的あることを唱うるものにあらず。しかれどももしこの世界の本体を探るときは、不生不滅の真如ありてその上に万象を現示し、天地万有みなことごとく真如開発の現象なれば、世界に一定の目的ありというもまたあえて不可なることなし。故に仏教は世界の結局につきて目的論と非目的論とを折中して、その二者を兼ぬるものというべし。また世界の状態を論ずるに、可知的となすものあり、不可知的となすものあり。経験論者は単に可知的現象のみを論じて本体を論ぜず、理想論者あるいは実体論者は可知の範囲を超えて不可知の本体を論ずるなり。仏教は不可知論の一種なるも、また全く経験上の実理を問わざるにあらず。一方にありて形而上の哲理を講じながら、他方にありては天地万有の現象を経験的もしくは分解的に論ずるところあり。これをもって、仏教にては世界を分類して有為無為の二法となし、その有為は可知的現象界にして、その無為は不可知的実体界なり。この無為世界を証明するに有為世界よりし、その有為を論ずるに分析法と総合法との二様ありて、小乗はそのいわゆる分析法によるものにて、大乗はそのいわゆる総合法によるものなり。仏教にてその一を析空論といい、その二を体空論という。大乗のことは後にいうべし。小乗の析空論は前すでに述べたるがごとく、世界を分類して七十五法とし、あるいは身体を分かちて五蘊とし、万有を分析して四大あるいは極微とし、もって不生不滅の体あることを証明するなり。すでに不生不滅の体あることを知れば、その体たるやすなわち不可知的の本体にして、宇宙天地万有のよりて分かれ、よりて起こるところの本源なり。しかしてその本体を論ずるに至りては、大乗の説明を待たざるべからず。小乗はただこれに達する階梯を示すに過ぎず。

 また世界の本源実体を論ずるにつきて有神論と無神論との二説ありて分かれ、あるいは一神論凡〔汎〕神論の二説ありて起こる。今、仏教は有神論にあらずして無神論なるは予が言を待たざれども、そのいわゆる無神とはヤソ教のごとき造物主宰を立てざるのみにて、仏教のいわゆる真如もこれを活動性のものとなすときは、その論を有神論と名付くるもあえて不可なることなし。果たしてしからば、仏教は有神論無神論の二者を合してその中を取るものというべし。また一神論凡神論の上につきては、仏教は凡神論なりとは世間一般に唱うるところなれども、もし平等的神体を説かずして差別的仏身を立つるに至りては、凡神論というよりむしろ一神論といわざるべからず。仏教にてはすでに仏身に法、報、応の三身を分かち、その法身は凡神的神体なれども、報身応身は一神的神体なり。これをもって仏教には一神凡神両説ありて、やはりこの二説を合してその中を取るものというべし。これを要するに、仏教の宇宙論ならびに世界観は、吾人の住する世界は変化生滅の世界にして苦楽浮沈の世界なり、たとえ吾人はその中にありて苦を去り楽を得んと欲すれども、到底望むべからざるものにして、これ吾人の免るるべからざる常道定則なり。故に吾人もしその苦を脱せんと欲せば、この世界を脱離する道を取るの外なし。これ仏教に世間の外に出世間道を説くゆえんにして、これ有為無為の二法を分かつゆえんなり。故にその目的は全く吾人をして迷界を脱して悟界に入り、苦界を避けて楽界に趣くことを勧むるものにして、その目的たるや抜苦得楽に外ならず。その理を示すに当たり、まずこの世界の苦界なることを説き、つぎにこの世界外に楽界あることを証せざるべからず。すなわち小乗の世界論はもっぱらこの世界の苦界なることを示したるものなり。しかしてその説明に用うるところの天地構造論のごときは、前すでに示せるがごとく、これを今日の学理に照らすに古代の妄説と評するより外なしといえども、その仏教の目的を達するにおいてはすこしも不都合なるところあらず。なんとなれば、その目的はこの世界の苦界なることを示すにあればなり。その天界の距離、天体の位置のごとき、今日の推歩に照らして合せざるところあるも、これまたすこしも仏教の目的を達するにおいて不都合なるにあらず。もと仏教は唯心論にして、三界唯一心の理を唱えもって宗教を組織せるものなれば、この外界万有天地諸象のごとき、みなわが心よりえがきあらわしたる現象に外ならず。故に須弥の有無、地獄の有無のごとき、あるいは天上界の有無のごとき、仏教の唯心説を論定するにすこしも関係なきものというて可なり。世間往々須弥説をもって仏教の神髄骨目のごとく考うるものあれども、これいまだ仏教を知らざるものにして、たとえ須弥説の仏教中に散見するところあるも、これ一大仏教の爪頭毛端に過ぎざるさまつの部分にして、その説の立つと立たざるとをもって仏教の盛衰を憂うるに足らざるは、識者のみな知るところなり。故にもし仏者にして今日の学説に合して仏教を論定せんと欲せば、よろしく泰西哲学家の唱うるところの唯心論もしくは理想論を研究して、仏教の唯心の理を証明することに力を用ゆべし。また世間の仏教を評論するものも、須弥説をもって仏教の眼目となさず、よろしくその唯心説において可否すべし。

       第三段 人身論

 仏教には世界を分かちて七五種となし、人身を分類して五種となす。すなわち五蘊なり。五蘊の解釈は前すでに掲げたるがごとく、蘊とは聚の義または取蘊の義をなす。すなわち蘊聚、取蘊の二義あり。取とは煩悩をいう。『倶舎論』にこれを解していわく、「もろもろの有為法の和合聚の義、これ蘊の義なり。」(諸有為法和合取義、是蘊義、)〔*=聚〕。また取蘊につきて『倶舎論』にいわく、「蘊は取より生ず。蘊は取に属す。蘊は取を生ずる。」(蘊従取生、蘊属取、蘊生取)の三義あり。しかして無為法に至りては蘊と名付くべからず。なんとなれば、無為には蘊聚の義および取蘊の義なし。故に蘊は有為法に限る。今、人身を分類するときは色、受、想、行、識なる五種の蘊によりて成る。その名義はさきにすでに一言せしも、今ここに考うるに、その色とは肉団身を称す。すなわち吾人の肉体なり。その肉体上に眼、耳、鼻、舌、身の五根あり。その受は領納を義として精神中の所作用なり。想は取像の義にして能作用なり。行は心所法四六種中受想の二種を除き、余りの四四と、および不想応行法の一四とを合して五八種を総称するなり。つぎに識は心王のことにして精神の主作用なり。これに対し受想行は属作用なり。かくのごとく人身を分類するゆえんは、全く無我の理を証明するに外ならず。けだし仏教には「我」をもって悪の根本とし、また迷の本源となす。もし吾人をして無我の理を証せしむることを得ば、悪を断ち迷を転ずることを得と定むるをもって、無我を証するために五蘊の分類を設くるなり。およそ悪の原因を論ずるに二種あり。その一は客観的に論じ、その二は主観的に論ず。その客観的に論ずるものは悪の原因を外界にありとし、主観的に論ずるものは内にありとす。外界にありとするものは外界をもって我人の悪心をよび起こす本源なりとし、わが精神外物に触れて種々の欲念を起こし、これによりて本来明了なる精神が悪念に変ずるに至る。かくのごとく考うるときは、吾人の悪念は感覚上より生ずるものなり。これに反して吾人想像上より悪念を起こすことあり。思想そのものが道理に暗く理非を弁ぜざるをもって起こすところの悪あり。これいわゆる無智的悪なり。あるいはまた悪に先天性後天性を分かつことあり。先天性悪を論ずるものは、吾人精神中本来悪ありと唱うるものにして、たとえば荀子の性悪説のごとく、人性もと悪と唱うるものなり。これに反して後天性悪を論ずるものは、吾人の精神本来悪を有するにあらざるも、生後種々の経験、教育等そのよろしきを得ざるために、外界より悪念を養成するに至るとなす。これを要するに、悪の原因を論ずるものの中に、客観的、感覚的、後天的の三者はともに悪をもって外界よりきたるものとし、主観的、思想的、先天的の三者は内界より生ずるものとするなり。かつまた先天的悪を論ずる中に、悪の原因を無智に帰するものと、必然に帰するものとの二説あり。無智によりて生ずるものとなす説は、吾人の精神が道理に暗く理非を弁ぜざるために種々の迷悪を生ずるなり、もしその道理明らかにその智力発達すれば、自らその迷悪なるを知りて悪心を翻して善心となすことを得。これに反して必然的悪を論ずるものは、人性本来悪なればわが力をもって到底悪を翻して善となすを得ず、必ず神力を待つにあらざれば功を奏することあたわず、今仏教は悪の原因を我執より生ずるものとなすも、その実吾人の無智より生ずるものとなす説なり。故に吾人もし道理的に無我の理を証するに至らば、たちまち悪を翻して善を開くことを得るなり。しかしてまたその善は吾人本来有するところにして、決して外界より得るものにあらず。またその悪も吾人の先天性無智によりて生ずるところのものなり。故にその悪は先天性なり。これをもって善悪ともに先天となすは仏教の論なり。あるいはまた悪の原因を情に属するものと、智に属するものと、意に属するものとの別あれども、仏教は智力をもってもととして組織せる宗教なれば、智情意中、智をもって悪の本源となし、また善の根本なりとなす。すなわち智の明らかなると暗きとによりて善悪を生ずるなり。しかして精神そのものの本来をいうときには純善なるものと定む。故に「一切の衆生はことごとく仏性あり。」(一切衆生悉有仏性)と説ききたりて、いかなる人も善良なる仏性を有す。その仏性は吾人の無智の迷雲に覆われて、その光を発することを得ず。しかしてその迷雲は、吾人一代に得たる経験によるにあらず、過去世において得たるものとす。

 以上の善悪および迷悟に関しては、なお後の主観論に入りて論ずるはずなればここに略す。ただここに精神分類のことにつきて西洋心理説に比較してこれを考うるに、およそ心性の分類を二種となすものと三種となすものあり。仏教はやはり二種を立つるものにして、その二種とは心王、心所これなり。シナにありては別に精神の分類法なしといえども、天地万有ことごとくこれを陰陽に分かち、したがって精神もまた陰陽二種に分かつ。以上はこれまた二種の分類というべきなり。西洋にありてはリードのごときは智意の二種に分かちたれども、ハミルトンは智、情、意の三種に分かてり。これよりさきトマス・アクィナス氏のごときは先智力智力の二種を分かち、先智力とは智力にさきだって存するものにして、吾人の感覚、体欲、想像のごときこれなり。しかるにガッサンディ氏は感覚、想像、智力の三種を分かち、カント氏は覚性、悟性、理性の三種に分かつ。しかるにリード氏、ステュアート氏のごときは智意の二に分かち、ブラウン氏また外感内感の二種を分かち、しかしてハミルトン氏以後の心理学者は多く智、情、意の三種に分かちて論ぜり。かくのごとく心性作用に二種を分かつは、東西知らず識らず一致するところありといえども、西洋心理学者の分類法と、仏教の心所、心王の分類法とは大いにその性質を異にするは、予が弁解を待たずして知るべきなり。

 この人身論につきて論ずべきことなお多しといえども、つぎの主観論に譲る。

 

第二大段 主観論

 前数段は仏教心理の前論として客観論を掲げ、これを物質論、世界論、人身論に分かちて、外界万有に関する部分を論明せり。しかれどもこれらはもとより心理学の範囲にあらず、むしろ物理、天文、生理に属する諸学なり。しかれども仏教は客観論、外界論を主観上より観察したるものにして、その目的ただ心の理を証明せんとするにあれば、心理学を講ずるには物質世界の人身等を論ずるを必要とす。これにおいて心理学の前論としてその一端を開示せり。すでに客観論を説明し終われば、これより主観論を述べざるべからず。これ仏教の心理学に属する部分にして、また仏教の眼目とするところなり。今、便宜のために左の八段に分かちてこれを講ぜん。

  第一段 分類論

  第二段 心象論

  第三段 心体論

  第四段 因果論

  第五段 惑業論

  第六段 善悪論

  第七段 苦楽論

  第八段 涅槃論

       第一段 分類論

 仏教にては精神を分類して心王、心所の二種となすことは前すでに述べしところなるが、心王につきてはその作用の異なるによりて、これを六種に分かつ。いわゆる六識なり。その六識につきて、その体一なりとするものと別なりとするものと二説あり。しかして『倶舎論』はもとこれ六識体一の説なり。その体一なるも、根に従ってその名を異にす。これをたとえんか。六個の窓を有せる一室あり、中に一頭の猿を放たんか。この猿や、あるときは頭を南窓に出だし、あるときは面を北窓に出だすといえども、その猿や一なり。南窓に頭を出だせるの猿と、北窓に面を出だせるの猿とは窓に別体なりとせんや、ただただ時を異にせるのみなり。心体もこれと同じく、その体もと一なりといえども、五根五官の異なるに応じて六識の別を見るなり。すでにその体一なれば、二識同時に併起することあたわずとするは、識体一なりと立つる説明なり。この説たるや大いに西洋の心理学と異なるところあるは、余が言を待たずして明らかなり。西洋心理説によるに、わが心は脳髄中に存して、外界に対する五種の感覚は神経組織によりて脳髄に伝達し、これによりて始めて六識上に現ずるなり。これをもって、吾人は五種の感覚を有するも、意識そのものが眼、耳、鼻、舌、身の五官の窓に向かいて出ずるにあらず、五官の窓が外界の事情を中央の意識に通じて意識ここにこれを感ずるなり。これをもって、意識の体は一なるも種々の作用をほとんど生起することを得。しかるに、仏教の六窓一猿の譬喩によれば、意識そのものが五官の窓に向かいて出ずるがごとく論ずるをもって、これを今日の心理説に比するに、内より外に向かうと外より内に向かうとの異あり。

 また『倶舎論』の上にて、心体は一なるをもって六識同時に併起するあたわずとするは、今日の心理学に一致するがごときも、また異なるところあり。今日の心理学においても、意識作用は前後続起することを得るも、同時に併起するあたわずとなす。しかれども、これ明瞭なる智識思想にかぎることにて、もしその不明瞭なるもの、もしくは下等の意識にして反射無意識作用と区別し難きものに至りては、もとより同時に諸作用を併起することを得べし。今左に、識体一なりということにつきて、二、三の書に出ずるところを示すに、『婆沙論』第五にいわく、「心所法に多種ありといえども、心はただ一のみ。」(雖心所有法有多種、心惟一)〔*=心所法雖有多種而心唯一〕と。『倶舎論』第一にいわく、「おのおの彼々の境界を了別し、総じて境の相を取るが故に識蘊と名づく。これも、また差別すれば六識身あり、云々。」(各々了別彼々境界、総取境相、故名識蘊、此亦差別有六識身云云、)。同論第四にいわく、「心、意、識の体は一なり、云々。」(心意識体一云云、)。『大乗〔法苑〕義林章』にいわく、「根にしたがいて別するといえども、体性これ一なり、云々。」(随根雖別、体性是一云云、)。『宝疏』にいわく、「依に就いて分別して六となす。またこの識は一なり、云々。」(就依分別為六、又此識一云云、)。これ六識体一の証明なり。

       第二段 心象論

 つぎに心所法はこれを分かちて四六種となす。左表のごとし。

  心所法四六種 (一)大地法一〇

         (二)大善地法一〇

         (三)大煩悩地法六

         (四)大不善地法二

         (五)小煩悩地法一〇

         (六)不定地法八

 この四六種は仏教中の心理学に属する部分なれば、左にその各種の解釈を示すべし。そのうち漢文に属する分は大抵『倶舎論頌疏』の解釈を用い、和訳に属する分は『倶舎頌論七十五法大意』と題する書による。もしその二書の外に他書を参考することあらば、必ずその書名を掲げん。



    第一 大地法の一〇種

受  ・受とはいわく領納にして、これに三種あり。苦、楽、倶非との差別あるが故なり。」(受謂領納、此有三種、苦楽倶非、有差別故、)(受とは好悪中庸の境の通りにうけとりてちがへぬ性分なり。)

想  ・想とは像を取るなり。いわく、前境において差別の相を取るなり。」(想者取像、謂於前境取差別相、)(想とは此方より境の模様を取り此れくらゐなるものと切りわける性分なり。)

思  ・思とは造作なり。いわく、よく心をして造作するところあらしむ。」(思者造作、謂能令心有所造作、)(思は事を案して身口を動す本となる性分なり。)

触  ・触とはいわく、触対なり。根、境、識の三、和合して生ずるものにして、よく触対することあるなり。」(触謂触対、根境識三和合而生能有触対、)(触とは触対にて境へふりむける様にする性分なり。)

欲  ・欲とはいわく、所作の事業を希求す。」(欲謂希求所作事業、)(欲は何によらす望のつく性分なり。)

慧  ・慧とはいわく、法においてよく簡択あり。」(慧謂於法能有簡択、)(慧は何によらすえらひわける性分なり。)

念  ・念とはいわく、縁において明記して忘れず。」(念謂於縁明記不忘、)(念はよくおぼへて居る性分なり。)

作意 ・作意とは意を動作す。いわく、よく心をして警覚せしむるを性となす。」(作意者動作於意、謂能令心警覚為性、)(作意は気をつける性分なり。)

勝解 ・勝解とはいわく、よく境において印可す。この事、このごとくして、かくのごとくならざるにあらずと殊勝の解を起こす。」(勝解者、謂能於境印可、此事如此、非不如是、起殊勝解、)(勝解はよく合点をする性分なり、世間の人の呑込たと云ふ所か勝解の心所なりと意得へし。)

三摩地・三摩地とはここに等持という。平等に心を持して一境において転ぜしむ。また心所を持す。強に従いて心と説く。」(三摩地者、此云等持、平等持心於一境転、亦持心所従強説心、)(三摩地は定の梵名なれとも修得せし定法にあらす、只た心の一処に住して余処目をふらぬを定と云へは、此の定の心所は定心散心に通するなり。)

    第二 大善地法の一〇種

信  ・信とは澄浄なり。水清の珠、よく濁水を清むるがごとく、心に信珠あらば心をして澄浄ならしむ。」(信者澄浄也、如水清珠能清濁水、心有信珠令心澄浄、)(信は正直に意得てきれいなる性分なり。)

勤  ・勤は精進なり。いわく、よく心をして勇悍ならしむるを性となす。」(勤者精進、謂能令心勇悍為性、)(勤はだんだんはりのつく性分なり。)

行捨 ・捨とは沈掉を捨離し、心をして平等ならしめ、無警覚の性なり。」(捨者捨離沈掉、令心平等無警覚性、)(捨は偏倚(かたより)のせぬ性分なり。)

慚  『有宗七十五法記』にいわく、「造るところの罪において、自ら観じて恥ずることあるを慚と名づく。」(於所造罪、自観有恥、名慚、)(慚は自分の身を顧みて面目なく思ふ性分なり。)

愧  『有宗七十五法記』にいわく、「造るところの罪において、他を観じて恥ずることのあるを愧と名づく。」(「於所造罪観他有恥名愧)(愧は他人に対して面目なく思ふ性分なり。)

無貪 同書にいわく、「無貪はいわく、已得、未得の境界において、耽著し、希求し、相違せる愛染心なきを名づけて無貪となす。」(無貪者、謂於已得未得境界、耽著希求相違、無愛染心、名為無貪、)(無貪はほしがらぬ性分なり。)

無瞋 同書にいわく、「無瞋はいわく、情、非情において損害の意なく、哀愍の種子なるを説きて無瞋と名づく。」(無瞋者、謂於情非情、無損害意、哀愍種子、説名無瞋、)(無瞋は人の気を損せぬ性分なり。)

不害 ・不害というは、いわく無煩なり。」(言不害者、謂無煩、)〔*=無捐悩〕(無害は人の障りにならぬ性分なり。)〔以下の注は、東洋大学哲学堂文庫所蔵『倶舎七十五法大意』と校合し、大きく相違する点のみ記す。 *=不〕

軽安 ・軽安とは、軽はいわく軽利なり、安はいわく安適なり。善法の中において堪任するところあるを心の堪任の性と名づく。」(軽安者、軽謂軽利、安謂安適、於善法中有所堪任、名心堪任性、)(軽安は懶気(ものうげ)のなき性分なり。)

不放逸 ・不放逸とは、もろもろの善法を修するなり、云々。またいわく、よく心を守護するを不放逸と名づく。」(不放逸者修諸善法云云、又云、能守護心、名不放逸、)(不放逸はやりはなしならす慎しみ よき性分なり。)〔*=「の」あり〕

    第三 大煩悩地法の六種

痴  ・痴とは愚痴にして、また無明と名づく、境に迷いて起こるが故に。また無智と名づく、決断なきが故に。また無顕と名づく、彰了することなきが故に。」(痴者愚痴、亦名無明迷境起故、亦名無智無決断故、亦名無顕無彰了故、)(無明は即ち愚痴にて闇昧にして訳の分らぬ性分なり。)〔*=訣〕

放逸 ・もろもろの善を修せざるなり。これはもろもろの善を修するの所対治の法なり。」(不修諸善是修諸善所対治法、)〔*=・逸者放逸」あり〕(放逸はやりはなしにして慎まさる性分なり。)〔*=不慎なる〕

懈怠 ・心の勇悍ならざるは、これ前に説くところの勤の所対治なり。」(心不勇悍、是前所説勤所対治、)〔*=・怠謂懈怠」あり〕(懈怠は心にゆるみのつきて間のぬけて続かぬ性分なり。)

不信 ・不信とは心をして澄浄ならざらしむ。これ説くところの信の所対治なり。」(不信者令心不澄浄、是 所説信所対治、)〔*=・前・あり〕(不信は正直ならすして意立てのきれいならさる性分なり。)〔*=意ろ立て〕

昏沈 ・昏沈とはいわく、身心の重き性なり。善法の中において堪任するところなく、また身心の無堪任の性を名づく。」(昏沈謂身心重性、於善法中無所堪任、亦名身心之無堪任之性、)〔*1=・昏沈謂」は「昏者昏沈。謂」 *2=・之」なし〕(昏沈は懶気なる性分なり。)〔*=惛〕

掉挙 ・心をして静かならざらしむ。」(令心不静)(掉挙は心のすわらずさわがしき性分なり。)

    第四 大不善地法の二種

無慚 『有宗七十五法記』にいわく、「自ら観じて恥ずることなきを、説いて無慚と名づく。」(自観無恥、説名無慚、)(無慚とは自分の身の上に対して面目なきことを知らぬ性分なり。)

無愧 同書にいわく、「他を観じて恥ずることなきを、説いて無愧と名づく。」(観他無恥、説名無愧、)(無愧は他人の身の上に望んて面目なきことを知らぬ性分なり。)

    第五 小煩悩地法の一〇種

忿  『有宗七十五法記』にいわく、(以下の九種またこの書による)「忿は情、非情において、心をして忿を発せしむ。」(忿者於情非情、令心忿発、)(忿は「あれはすまぬ」と面へ出していきどほる性分なり。)〔*=・ 」の記号なし〕

覆  ・覆とは自らの罪を隠蔵す。」(覆者隠蔵自罪、)(覆とはこれを知られてはならぬとかくす性分なり。)

慳  ・慳とはいわく、財法にして巧施に相違し、心をして悋惜せしむるなり。」(慳謂財法巧施相違令心悋惜、)(慳はこれをやってはならぬとはなさぬ性分なり。)

嫉  ・嫉とはいわく、他のもろもろの興盛事において、心をして喜ばざらしむ。」(嫉謂於他諸興盛事、令心不喜、)(嫉は他の盛事を忌む性分なり。)

悩  ・悩とはいわく、もろもろの有罪事に堅執し、これによりて取らず、諌誨を理すがごとし。」(悩謂堅執諸有罪事、由此不取如理諌誨、)(悩は自分の無理なることを推し立て他の言ふことを聞き入れずして難義させる性分なり。)

害  ・害とは、他において逼迫の事をなし、これによりてよく打罵等を行ず。」(害者於他為逼迫事、由此能行打罵等、)(害は人の障りになることを仕出す性分なり。)

恨  ・恨とはいわく、忿の所縁の事の中において、数々尋思し、怨を結んで捨てざるなり。」(恨謂於忿所縁事中、数々尋思結怨不捨、)〔*=数〕(恨は外には出さずして他をにくむ念を始終内に持つ性分なり。)〔*=外かへは〕

諂  ・諂とはいわく、心の曲がれるなり。これによりて如実に自らをあらわすあたわず。あるいは、おさむるにあらざるを矯し、あるいは、方便を設けて解明せざらしむ。」(諂謂心曲、由此不能如実自顕、或矯非撥、或設方便、令不解明、)〔*=令解不明〕(諂はねぢけて内の心を見せず機嫌を取る性分なり。)

誑  ・誑とはいわく、他を惑わし先に籌度す。方便を設け、人をして後に顛倒の解を生ぜしむ故なり。」(誑謂惑他先籌度、設方便令人後生顛倒解故、)〔*=後時生〕(誑は言ひまぎらして人をまどはす性分なり。)

憍  ・憍とは、自法に染着するを先となし、心をして傲逸ならしめ顧みるところなし。」(憍染着自法為先、令心傲逸無所顧、)〔*1=著 *2=顧性〕(憍は己れをよしとする性分なり。)

    第六 不定地法の八種

尋  『有宗七十五法名目』にいわく、(以下七種またこの書による)「尋とはいわく、尋求。心の麁なる性なり。」(尋謂尋求心麁性、)(尋はあれはと意付く気味にて麁(あらく)分別する性分なり。)

伺  ・伺とはいわく、伺察。心の細なる性なり。」(伺謂伺察心 細性)〔*=・之」あり〕(伺はとくと様子を見る気味にて細(こまかく)分別する性分なり。)

睡眠 ・睡眠とはいわく、心をして闇昧ならしむるを性となす。」(睡眠謂令心闇昧為性、)〔*1=・謂」なし *2=昧略〕(眠はとろくなりておぼえのなき様になる性分なり。)

悪作 ・悪作とは、悪作の事を縁じて心に追悔する性なり。」(悪作 縁悪作事、心追悔性、)〔*1=・者謂」あり *2=・事」なし〕(悪作は善悪の事に就て前に作せしことを悪しきことをなせしと後に悔る性分なり、善事を悔るは悪なり悪事を悔るは善なり。)

貪  ・貪とはいわく、愛なり。」(貪謂愛、)〔*=貪愛〕(貪はあるが上にほしがる性分なり。)

瞋  ・瞋とはいわく、恚なり。」(瞋謂恚、)〔*=瞋恚〕(瞋は人の気をわるくさせる性分なり。)

慢  ・慢とはいわく、他に対して、心自ら挙ぐる性なり。」(慢謂対於他、心自挙性、)〔*=心自挙恃凌蔑於他説名為慢〕(慢は他に対して高ぶる性分なり。)

疑  ・疑とはいわく、諦の理において、猶予するを性となすなり。」(疑謂於諦理、猶予為性、)〔*=於諦理猶予性名為疑〕(疑は四諦の理を猶予して決せさる性分なり。)

 以上、心法中の心所に属する諸法を掲げてその解釈を示したるが、これは西洋心理学に比較せんとするに、大いにその趣を異にするをもっていちいち対照することはなはだ難し。しかしてその諸法はこれを智、情、意三者に配すれば、情と意に属するもの最も多し。ことに意に属するもの多きにおるがごとし。これ畢竟、仏教そのものは心理学にあらずして宗教なるによる。また心所法中には智、情、意三者に配当すべからざるものあり。睡眠のごときは三者の作用相休みたる場合なれば、智とも情とも意ともいうべからず。故に余はそのいちいちを心理学に対照することをなさざるなり。

 この心王および心所法を、あるいは心と名付け、あるいは意と名付け、あるいは識と名付くるの別あるは、前すでに述べたりしも、今ここに『倶舎』の頌文を挙げてこれを示さんに、「心と意と識とは体一なり。心心所は有依と有縁と有行相と、相応となり。義に五あり。」(心意識体一、心々所有依、有縁、有行相、相応義有五、)と。これを『倶舎論』に解釈して曰く、「集起の故に心と名づけ、思量の故に意と名づけ、了別の故に識と名づく。また、あるが釈していわく、浄、不浄の界あり、種々に差別するが故に名づけて心となす。すなわち、これは他のために所依止と作るが故に名づけて意となし、能依止の故に名づけて識となす。故に心と意と識との三つの名はあらわすところの義に異ありといえども、体はこれ一なり。」(集起故名心、思量故名意、了別故名識、復有釈言、浄不浄界種々差別故名為心、即此為他作所依止故名為意、能依止故名為識故心意識三名所詮義雖有異而体是一)〔*=作能依止〕とありて、心、意、識その名異なるといえどもその体一なり。また『倶舎論』に、かの心心所を有所依と所縁と行相と相応と名付くるゆえんを解していわく、「心心所をみな有所依と名づく、所依の根に託するが故に。あるいは有所縁と名づく、所縁の境を取るが故に。あるいは有行相と名づく、すなわち所縁の品類を差別するにおいて、等しく行相を起こすが故に。あるいは相応と名づく、等しく和合するが故に。」(心心所皆名有所依、託所依根故、或名有所縁、取所縁境故、或名有行相、即於所縁品類差別等起行相故、或名相応等和合故、)とありて、要するに心心所諸法はみな相応相関してその作用を呈するものなり。これに対して相応せざるものあり。これを不相応行法という。

 その不相応行法は、『倶舎論』においては心王、心所と同じく、おのおのその体あるもののごとくに論ずれども、これ全く諸種の作用および関係に与えたる名称に過ぎず。これを七十五法中に加えたるははなはだ了解し難きがごとしといえども、もと倶舎の説は事物の現象作用上の法体を論じたるものにして、実体なきものも一種の法としてその部類を設けたるものなり。これその見の浅近なるゆえんにして、同一仏教中にありても大乗の識見をもってこれを見れば、『倶舎論』の説は浅近に過ぎたるを知るべし。しかして不相応行法の名称および解釈は左のごとし。

    心不相応行法の一四種

得  『有宗七十五法名目』いわく(以下一四種当書による)、「得はいわく、獲と成就となり。」(得謂獲成就)(得とは身に付けて離さぬ様にするものなり。)

非得 ・非得は、上と相違す。」(非得者与上相違)〔*1=非得此相違 *2=・者」なし〕(非得は身の上を離して持たさせぬ様にするものを云。)〔以下の注は東洋大学哲学堂文庫所蔵『倶舎七十五法大意』と校合した。〕

同分 『七十五法記』いわく、・もろもろの有情の展転して類の等しきなり。」(諸有情展転類等)(人は人、牛は牛、馬は馬、それぞれの類を同じ様にするものがあるを云ふ。)

無想果同書いわく・もし無想天において、法よく心心所をして滅せしむることあらば、名づけて無想となす。」(若於無想天有法能令心々所滅名為無想無想天)〔*1=生 *2=心〕(無想天は生れて生死の中間五百大劫の間だ心々所の起るをとめて起させぬ様にするものがあるを云ふ。)〔*=心〕

無想定同書いわく「もろもろの外道は無想は異熟なりと計して、真の解脱なりとなし、彼を証することを求めんがための故に無想定を修す。これまた法よく、心心所をして滅せしむることあらば、名づけて無想となす。」(諸外道計無想異熟為真解脱、為求証彼故修無想定、此亦有法、能令心々所滅名為無想)〔*=心〕(無想定は「第四の根本定によって無想定に入る」(依第四根本定入無想定)その定に住するあいだは心々所の現行をとめるものを云ふ。)〔*=入〕

滅尽定・また無想定のごとく、よく心心所をして滅せしむ。この滅尽定は、最も寂静なるがために極めて涅槃に似たり。」(亦如無想定能令心々所滅此滅尽定最為寂静、極似涅槃)〔*=心〕(滅尽定は「非想、非非想定によってこの定に入る」(依非想非非想定入此定)その定に住する間 心々所の現行をとめるものを云ふ。)〔*1=・は」あり *2=心〕

命根 ・命の体はすなわち寿なり。これよく煗と識とを持す。」(命者体即寿也此能持煖与識)(命根は「因に酬いて得するところの果報」(酬因所得果報)を一期の間持ちこたへて続かするものなり。)

生  ・よく起こすを生と名づく。」(能起名生)(生は「いまだ起こらざる法」(未起法)を起こる様にするものなり。)

住  ・未来に用を起こし、よく安んずるを住と名づく。」(未来起用能安名住)〔*=・未来起用」なし〕(住は、起りし法をとどめる様にするものなり。)

異  ・よく衰えしむるを異と名づく。」(能衰名異)(異は起りし法をかわる様にするものなり。)

滅  ・よく壊せしむるを滅と名づく。」(能壊名滅)(滅は起りし法をつぶれる様にするものなり。)

名身 『七十五法名目』いわく「名すなわちこれ想なり。惣説を身と名づく。」(名即是想惣説名身)〔*=「惣説名身」なし〕(名詮自性と云へば或いは松或いは竹と但だ物体を召ぶものを云ふ。)〔*=名詮自性〕

句身 同書いわく「句はいわく、章なり。」(句 謂章也)〔*=・者」あり〕(句詮差別と云へは女松男松葉竹(はちく)真竹(まだけ)と云ふ如く、其物の訳を分ちて何れと一方へ片付る様にするを句と云ふ。)〔*1=句詮差別 *2=訣〕

文身 同書いわく「文はすなわち字なり。」(文即字也)〔*=文者謂字〕(文即是字と云へとも墨書の文字にあらず声上の屈曲をいえば声の唇舌 歯喉に掛りて「あいうえお」等のあやめの分るを文と云ふなり。)〔*1=・牙」あり *2=・ 」の記号なし〕

 以上、第二段心象論終わる。

       第三段 心体論

 以上は心心所諸法につきて論じたるものにして心の現象に外ならず。これを総じて心象という。この心象に対して心体なかるべからず。しかるに『倶舎論』の心理を論ずるは単に心象上に法体を論じたるものなれば、心体そのものにつきてはいまだ論究せざるなり。そのいわゆる心法はみな心象に外ならず。これをもって心象に数十種を設くるも、もしその心体に至りてこれを見れば、元来その体一ならざるべからず。しかして小乗にありてはいまだその心体の存するゆえんを知らず、これ全く大乗を待たざるべからず。すでに大乗に入れば、その初門なる『唯識論』においてすでに心体の存するゆえんを証明せり。故に心体論は大乗に入りて講ぜざるべからず。しかれども小乗の心象論は、大乗心体論を証明する順序階梯として欠くべからざるものなり。すでに小乗において心象上法体を論じて三世にわたりて生滅なしと説き、いわゆる「三世は実有にして法体は恒有なり。」(三世実有法体恒有)と説きたるものは、自然にその中に不生不滅の心体あることを暗示するものなり。これ大乗に心体不滅論の起こるゆえんなり。これを西洋心理学に比するに、小乗の心法論は経験学派の心理もしくはカント氏以前の心理学のごとく、心象上に心体を論じたるものなり。しかるにカント氏に至りて、心象を離れて事物の本体あることを証明すると同時に現象外に心体を論ずるに至り、その後の学者は心体一元論を開明するに至れり。これをもって、カント氏が後の学説は仏教中の大乗に比すべし。余もここに心体論を述ぶるはずなれども、上来講述するところ全く小乗の学説を説明するにあれば、大乗の心体論はここにこれを略せんとす。もし心象作用のみ論ずるにおいては、すでにその名称解釈を示したれども、いまだその作用に欠くべからざる規則を述べざれば、これよりその規則を述べんとす。すなわちその規則とは因果必然の理法に外ならず。この理法は今日百科の諸学のともに許すところなれども、仏教の因果と諸学の因果とはおのずからその性質を異にするところあり。すなわち諸学の因果は物理的にして、仏教は心性的因果なり。諸学は機械的にして、仏教は道徳的なり。前者は形而下的にして、後者は形而上的なり。しかして諸学はその因果の理法によりて研究を施し、仏教もまたその固有の因果の規則に基づきて宗教を立つるに至りては更に一致すというべし。換言すれば、因果の理たる仏教も諸学もともにこれを根本的原理とするところなり。そもそも仏教にて転迷開悟を説くも安心立命を談ずるも、全くこの因果の理法に外ならず。故に左に因果論を述ぶべし。

       第四段 因果論

 まず『倶舎論』によりて因果の名目を挙ぐるに、因に六種、縁に四種、果に五種を立て、これを六因四縁五果という。まず六因とは(一)能作因、(二)倶有因、(三)同類因、(四)相応因、(五)遍行因、(六)異熟因なり。左に逐次これを述べん。

 (一)能作因 能作因とは『倶舎』の頌にいわく、「自を除いて余は能作なり。」(除自余能作)と。『頌疏』これを解していわく、「自を除くとはただ有為の法なり。いわく有為法の生ずるその自体を除く。自体は因にあらざるが故に、すべからく除くべきなり。余は能作とは、正しくその体を明かす。有為法の生ずる時、自体を除くほかの余の一切の法はみな障をなさざるを能作因と名づくが故に、頌に余の字一切法に通ずと。いわく有為無為みな能作因の体なり。」(除自者唯有為法也謂有為法生除其自体々々非因故須除也余能作者正明因体有為法生時除自体外余一切法皆不為障名能作因故頌余字通一切法謂有為無為皆能作因体也)〔*=自体非〕とありて、能作因は一切法に通ずる原因なれば、他五因もみなその中に属すべき理なれども、特に他五因を別置せる以上は、その五因中に属さざるものはこの能作因に属せざるべからず。故にまた『頌疏』はこれを辞して、「所余の五因はみな別名あり。ただ能作因はいまだ別名あらず。いわく、余の五因に簡別せらる故に、この能作因は総称を標するといえどもすなわち別名を受けるなり。」(所余五因皆有別名唯能作因未有別名謂余五因所簡別故此能作因雖標総称即受別名也)といえり。

 (二)倶有因 倶有因とは頌にいわく、「倶有は互いに果となる。大と相と所相と心を心随転においてするとのごとし。」(倶有互為果如大相所相心於心随転)と。これを釈していわく、「倶有とは倶時にして、しかしてあるなり。互いに果となるとは倶有因を釈すなり。」(倶有者倶時而有也互為果者釈倶有因也)と。その頌の中に大とは四大のことにして、四大は相互に因となるをもって倶有因なり。また相、所相とは、これまた互いに因となり果となるをもって倶有因なり。心随転とは、心と心所と互いに相待ちて因果をなすことにして、これまた倶有因なり。かくのごとく同時更互の因果を総じて倶有因という。また諸因相合して一果をなすを倶有因という。

 (三)同類因 頌にいわく、「同類因は相似なり、自部地なり、前生なり。」(同類因相似自部地前生)と。『頌疏』の解にいわく、「同類因は相似なりとは、いわく善の五蘊が善の五蘊のために相望めて同類因となり、染汚は染汚のために、無記は無記のために、五蘊を相望むるときも、まさに知るべし、またしかり。」(同類因相似者謂善五蘊与善五蘊展転相望為同類因染汚与染汚無記与無記五蘊相望応知亦爾)〔*=・同類因相似者」なし〕と。自部地とは自部中の他地をえらびて、自部中においてただ自地を取りて同類因となす。その地とは九地をいう。九地とは欲界、四禅、四無色をいう。前生とは自地中においてただ前生を取りて同類因となす。すなわち前生の地とはただ過去現在に通ずるなり。すなわち過去世は現在世のために同類因となり、現在世は未来世のために同類因となるなり。

 (四)相応因 頌にいわく、「相応因は、決定して、心心所にして、同依なり。」(相応因決定心心所同依)と。釈にいわく、「相応因は、心心所の法を要す。すべからく同依とすべきを、まさに相応と名づく故に決定という。」(相応因者心々所法要須同依方名相応故言決定)〔*=心〕と。これ心法と心所法と相応して果をなすをいう。

 (五)遍行因 頌にいわく、「遍行は、いわく前の遍なり。同地の染の因となる。」(徧行謂前徧為同地染因)〔*=遍〕と。『頌疏』の釈にいわく、「遍行とはいわく十一の遍使および相応する倶有法なり。十一の遍使とはいわく、苦諦に七あり。五見と疑と無明となり。集諦に四あり。邪見と見取と疑と無明となり。これら諸法はあまねく五部の染法のために因となり、名づけて遍行となす。」(徧行者謂十一徧使及相応倶有法也、十一徧使者謂苦諦有七五見、疑無明也、集諦有四邪見、見取、疑、無明也、此等諸法徧与五部染法為因名為徧行)〔*=遍〕と。『頌疏』にまた遍行因と同類因との別を示して曰く、「遍行因は五部の果を取るために名づけて通因となす。もし同類因がただ自部の果のみなれば通因にあらざるなり。」(為徧行因取五部果名為通因若同類因唯自部果非通因也)〔*=遍〕と。

 (六)異熟因 頌にいわく、「異熟因は不害とおよび、善のただ、有漏とのみなり。」(異熟因不善及善唯有漏)と。解していわく、「ただ、もろもろの不善とおよび善と有漏とのみ、これ異熟因なり。異熟法なるが故なり。問う。何によって無記は異熟を招かざるや。答う。力、劣なるによるが故なり。朽敗の種のごとし。問う。何によって無漏は異熟を招かざるや。答う、愛に潤されることなきが故なり。貞実なる種に、水の潤沃なきがごとし。また、地に繋するにあらず。いかにしてかよく地に繋する異熟を招かんや。」(唯諸不善及善有漏是異熟因、異熟法故問何縁無記不招異熟、答由力劣故如朽敗種、問何縁無漏不招異熟、答無愛潤故如貞実種無水潤沃又非繋地如何能招繋地異熟)〔*1=・問」なし *2=・答」なし〕と。また異熟の名義を解していわく、「因はこれ善悪、果はこれ無記なり。異類にして熟するを名づけて異熟となす。」(因是善悪果是無記異類而熟名為異熟)と。更に異熟因と他との別を示していわく、「倶有等の四因は、ただ同類にして熟す。いわく、因は果とともに性同じなるが故に。能作の一因は同異を兼ねて熟すなり。いわく、同性の果もあり、異性の果もあるが故なり。今の異熟因はただ異類が熟すなり。」(倶有等四因唯同類熟謂因与果倶性同故能作一因兼同異熟謂有同性果有異性果故今異熟因唯異類熟)と。すなわち異熟とはその因善もしくは悪にしてその果無記なるをいい、因と果とその類異なるをもって異熟という。

 この六因を三世に配せば、遍行、同類の二因は過去、現在二世に通じ、異熟、相応、倶有の三因は三世に通ずるなり。しかして能作は三世および非世に通ず。非世とは無為なり。

 つぎに四縁とは(一)因縁、(二)等無間縁、(三)所縁縁、(四)増上縁なり。(一)因縁とは因すなわちこれ縁の義なり。(二)等無間縁とは前後心心所の体おのおの一なるが故にこれを名付けて等もなし。心心所中の受の体これ一なるが故に余の想等またしかり。無間とは前の心心所、後の心心所を生ずる中間に余心間隔なきをいう。(三)所縁縁とは曰く、所縁の境が縁となりてよく心心所法を牽生す。(四)増上縁とは増上すなわち縁なり。

 以上、六因四縁の配合は左表につきて知るべし。

 

 つぎに五果とは(一)異熟果、(二)等流果、(三)離繋果、(四)士用果、(五)増上果なり。離繋果の頌にいわく、「離繋は慧によって尽くすなり。」(離繋由慧盡)〔*=訓読は『国訳一切経』毘曇部に従った〕と。これを無因となすは六因なきが故なり。この法体はこれ果なりといえども、六因につきて生ずるところにあらず。これを士用果となすなり。つぎに異熟果は異熟因によりて得るところの果なり。増上果は能作因によりて得るところなり。同類遍行二種の因によりて得るところを等流果となす。

 

 以上は仏教の因果分類を『倶舎論』に基づきて示したるなり。もし『唯識論』によらば大同小異にして多少の異なるところありといえども、今もっぱら小乗につきて論ずるをもって『倶舎論』分類のみを掲げたるなり。その分類は西洋因果法に比考するにもとより異なるところ多しといえども、西洋諸学に用うるところの因果と、仏教諸宗に説くところの因果と、大いにその性質を異にするところあり。すでに前に述べしがごとく、仏教は主観的因果法にして、西洋諸学は客観的因果法なり。あるいは仏教は心性的因果法にして、諸学は物質的因果法なり。しかして因果の理たるや、物質万有の上にありてはこれに超えたる確実なる道理なしといえども、これを心性上に応用するに当たりては、西洋学者の説いまだ一致せざるところなり。なんとなれば、物質と心性とは大いにその性質を異にし、物質は徹頭徹尾因果の理法によりて支配せらるるによりてその規則は必然なり。心性はなんらの規則にも従わざるをもってこれを自由と名付く。これをもって古来意志自由論あり。けだし自由と必然とは正反対にして、自由なるものは不必然なり、必然なるものは不自由なり。これ物心二者の本来その性質を異にするゆえんなり。しかるに仏教にては物理上必然の理をただちに心性上に応用して、心性もまた因果必然の理法に支配せらるるものとなす。これもとより自由意志論者の許さざるところなり。しかりしこうして、今日物理的必然の理を心性上に応用して、精神作用もまた必然の理に支配せらるるものとなす。しかるに西洋においても自由意志論に反対して必然論を唱うるものありて、今日の心理学は全くその理によりて講究するに至れり。故に仏教の必然論はかえって今日の学説に一致するがごとしといえども、また大いに異なるところあり。なんとなれば、今日諸学のいわゆる因果と仏教のいわゆる因果とは、すでに主観客観の別あり。また仏教は唯心的にして、諸学は唯物的なり。故に今日の諸学が仏教因果論を評して、決して道理に一致するものと許さざるなり。しかしてその両者の異なるところは、諸学は心をもって物に属するものとし、仏教は物をもって心に属するものとなす。甲は唯物にして、乙は唯心なり。これその二者の一致すべからざるゆえんなれども、今日唯心唯物の二論ならび行わるる以上は、決して唯物的因果のみを見て真理となすべからず。もし唯心上よりその理を考究すれば、必ず仏教の因果論を取らざるべからず。しかりしこうして、因あれば必ず果あり果あれば必ず因ありとの規則は、古今を通じて諸学のことごとく一致するところなり。いかなる懐疑学者といえども因果そのものを排すべからず。なんとなれば、すべての理論は必ず因果の理によらざれば成立すべからず。古来ヒューム氏のごとき極端なる懐疑を唱うるものは因果の理法を排斥せりといえども、自ら因果の理によりて因果を排斥せるものなれば、これ決して因果を排するものにあらず。仏教はこの理によりて宗教を組織し、善因善果悪因悪果を説きて、脱障得果転迷開悟の目的は全くこの理法によるとなす。これその教の因果教あるいは因縁教の称あるゆえんにして、神仏といえどもその理法の支配を免るるあたわず。世間の学者もし仏教の因果は唯心論の上に立つるものなるを知りてその理を攻究すれば、たやすく仏理の真味を了得すべし。

       第五段 惑業論

 これより惑業論を述べんとするに、これ宗教に関する問題にして心理学に属する論目にあらざれば、ここにわずかにその一端を述ぶるをもって足るべし。そもそも仏教にて、吾人の生死流転の間に出没して苦界に沈淪するは、全く惑業のしからしむるところとなす。小乗『倶舎論』のごときは仏教中の客観論すなわち実体哲学なれども、前にもすでに述ぶるがごとく、仏教外よりこれをみれば純然たる主観論すなわち唯心論にして、世界万有の差別はみな吾人の業力業感によりて生じ、またその作用は精神より発するものとす。故に初講端緒論に引用したるがごとく、『倶舎』の頌文に曰く、「世の別は業によって生ずる思および思所作なり。思はすなわちこれ意業にして、所作はいわく身と語となり。」(世別由業生、思及思所作、思即是意業、所作謂身語、)とありて、その思はさきのいわゆる心所法の一種にして思の心所なり。その心所は他の心所より勢力強きをもって、よく世界の差別を生ずる能力ありとなす。これその唯心論たるゆえんなり。それ業には身、口、意の三種ありて、思はその中の意業にして思所作は身口の二業なり。故に頌文に「所作はいわく身と語となり。」(所作謂身語)というなり。しかりしこうして、業にも善あり悪ありて、一切の迷悪はみな無明煩悩より生ずとなす。この煩悩につきて、『唯識論』等には煩悩、所知の二障を分かちて解釈せり。およそ吾人の迷執に我法二種ありて、五蘊の用に迷いて一種の我体ありと固執するを我執といい、五蘊の体に迷いてその体実に存せりと妄信するを法執という。しかして我執を根本として生ずるものを煩悩障といい、法執を根本として起こるものを所知障という。しかるに『倶舎論』にてはこの二障を染汚無知、不染汚無知の二種となす。染汚無知は無明を体とするをもって煩悩障に当たり、不染汚は無知劣慧を体とするをもって所知障に当たるべし。また、この二障を天台にては見思、塵沙、無明の三惑となす。すなわち見思惑は煩悩障にして、塵沙、無明は所知障なり。今『倶舎論』の名目によるに、煩悩を称して無知といいあるいは無明と称するも、みな煩悩に外ならず。果たしてしからば、煩悩惑業はみな吾人の無知無明より生ずること明らかなり。故にもし吾人の智力明らかならば、必ずよくその迷執を排して悟界を開くことを得べし。換言すれば、吾人の迷悟の別は心智の明闇によるなり。これ仏教の智力宗たるゆえんにして、その宗をあるいは名付けて智力標準宗と称するも可なり。しかしてそのいわゆる智力は、普通心理学に説くところの智、情、意中の智力とその意を異にし、心象上の有限性智力を義とするにあらずして、心体上の無限性智力をいうなり。これ仏教の宗教たるゆえんなり。しかれども、ひとり無限性智力を説きて有限性智力を説かざるにあらず。けだし仏教のいわゆる有漏無漏は煩悩を有すると有せざるとの別なれども、余がいわゆる有限無限とその意を同じくし、因果にも有漏無漏を分かち善にも有漏無漏を立つるは、みな仏教が有限無限の両範囲にまたがりて迷悟を説くによる。これを要するに、仏教の哲学を一変して宗教を立つるは惑、業、苦の三道を説くにあり。惑は煩悩の異名にして迷の原因なり。業は吾人の身、口、意の上に発する善悪の行為にして、煩悩によりて造るところの作業なり。この惑と業とを因として感ずる果に苦楽の差別あり。故に苦楽は迷の結果なり。すでに迷の原因を述べたれば、これより善悪および苦楽につきて一言せんと欲す。

       第六段 善悪論

 吾人の身、口、意三業の上には善あり悪あり不善不悪あり。不善不悪はこれを無記という。無記にまた有覆無覆の別あり。覆とは『唯識論』巻三に解するところによるに、「覆とはいわく染法にして、聖道を障げるが故に、またよく心を蔽い不浄ならしむが故に。」(覆謂染法障聖道故、又能蔽心令不浄故)とありて、有覆無記とはその性煩悩にしてしかも善悪にあらざるものをいい、無覆無記とはその性煩悩にあらずまた善悪にあらざるものをいう。しかして善悪の定義解釈に至りては『倶舎論』(巻一五の一二右)によるに、「業に三種あり。善と悪と無記となり。その相はいかん。頌にいわく、安と不安と〔それらに〕あらざるとの業を、善、悪、無記と名づく。論じていわく。かくのごときを名づけて、善等の業相となす。いわく、安穏なる業を説いて名づけて善となし、(中略)不安穏なる業を名づけて不善となす。」(業有三種、善悪無記、其相如何、頌曰安不安非業、名善悪無記、論曰、如是名為善等業相、謂安穏業説名為善(中略)、不安穏業名為不善)とありて、安穏と不安穏とをもって善悪を分かつなり。またそのつぎの論に、「欲界の善の業を説いて名づけて福となし、(中略)もろもろの不善の業を説いて非福と名づく。」(欲界善業説名為福(中略)諸不善業説名非福)とあり、『婆沙論』(巻五一の初右)に、「性、安穏なるが故に善と名づけ、(中略)性、安穏ならざるが故に不善と名づく。」(性安穏故名善(中略)性不安穏故名不善)とあり、『唯識論』(巻五の一七左)に、「よくこの世と他の世とに順益をなすが故に名づけて善となす。(中略)よくこの世と他の世とに違損をなすが故に不善と名づく。」(能為此世他世順益故名善(中略)能為此世他世違損故名不善)とありて、これ順益違損をもって善悪を分かつなり。また『婆沙〔論〕』の一説には、「苦果を引くを悪となし、楽果を引くを善となす。」(引苦果為悪、引楽果為善)とあり。これを要するに、善悪の標準は幸福快楽もしくは利益の有無をもってこれを立つるなり。これ西洋倫理学の主楽教および功利教にて立つるところの標準に異ならざるがごとしといえども、主楽教の苦楽および功利教の利害は全く人間社会の上につきて論ずるのみ。しかるに仏教の苦楽利害は過去、未来、現在の三世の上にて説くものなり。これその二者の大いに異なるところなり。あるいはまた『本業瓔経』には、「理に順ずるを善といい、乖背するを悪と名づく。」(順理云善乖背名悪)とあり、そのいわゆる理とは正理をいう。もしこの解釈によるときは道理標準説なり。故に仏教には幸福標準説と道理標準説の二様ありと知るべし。換言すれば、仏教は直覚教および功利教に立つるところの二種の標準説を有するものなりと知るべし。けだし苦楽禍福をもって善悪を分かつは結果につきて定むところのものにして、順理背理をもって善悪を分かつは原因につきて定むるところのものと知るべし。

       第七段 苦楽論

 善悪の定義解釈を示しおわれば、これより苦楽の定義解釈を述ぶべし。さきに掲げしがごとく、五蘊および心所法の中に受の一種あり。受とは感受の義にして、普通心理学の感情これなり。その苦に三受五受の別ありて、三受とは苦、楽、捨の三者にして五受とは苦、楽、憂、喜、捨なり。捨とは不苦不楽の情況をいう。もし苦楽の定義を考うれば、『唯識論』(巻五の二二左)に「順境の相を領して身心を適悦するを、説いて楽受と名づく。違境の相を領して身心を逼迫するを、説いて苦受と名づく。中容の境の相を領して、身においても、心においても、逼にもあらず、悦にもあらざるを不苦楽受と名づく。」(領順境相適悦身心説名楽受、領違境相逼迫身心説為苦受、領中容境相於身於心非逼非悦名不苦楽受)とあり、もし苦楽を身心の二者に分かちて説くときは五受となる。今『略述法相義』(巻上の三二右)によるに、「身を適悦するを説いて楽受と名づけ、心を適悦するを説いて喜受と名づく。乃至、身を逼迫するを説いて苦受と名づけ、心を逼迫するを説いて憂受と名づく。」(適悦身説名楽受、適悦心者説名喜受乃至逼迫身説名苦受、逼迫心者説名憂受)とあり。これによりて仏教の苦楽の義解を知るべし。これみな善悪の業によりて招ききたすところの結果なり。しかして仏教の目的は全く苦を避けて楽につくに外ならず。人あるいは仏教を目して多苦教となすも、その実快楽教なり主楽教なり。すでに『起信論』に「いわゆる衆生をして一切の苦を離れ、究竟の楽を得せしむるとなす。」(所謂為令衆生離一切苦得究竟楽)とあるを見て知るべし。かつ仏教の目的を表示するには、必ず転迷開悟もしくは脱苦得楽にありという。転迷開悟とは生死の苦を転じて涅槃の楽を開くの意にして、脱苦得楽とその義を一にす。ただその説の今日のいわゆる主楽教と異なるは、この現在の世界をもってすべて苦界となし、これを去りて涅槃の楽岸に達するをもって目的とするにあり。けだしこの世にも苦あり楽ありといえども、その苦楽は相対性なり有限性なり。これに反して涅槃は無限絶対の楽界なり。故に仏教は、有限性苦楽の境遇を脱して無限性楽界に達することをもって唯一の目的とするものなり。

       第八段 涅槃論

 論じてこれに至れば、小乗の涅槃につきて一言せざるを得ず。さきに七十五法を分かちて有為無為の二類となしたるが、その無為に択滅、非択滅、虚空の三種あり。そのいわゆる択滅無為は択力すなわち慧力によりて証得するところの無為にして、涅槃これなり。けだし仏教には三種法印ありて、もって仏説の真偽を判定する標準となす。これを三法印という。三法印とは諸行無常、諸法無我、涅槃寂静をいう。すなわち『智度論』(巻二二)に、「仏法の印に三種あり。一は一切の有為法は念々に生滅してみな無常なり。二は一切無我、三は寂滅涅槃なり。」(仏法印有三種一者一切有為法念々生滅皆無常、二者一切無我、三者寂滅涅槃)〔*=念〕とあるこれなり。また『法華玄義』(巻八)には、「これに印するがすなわちこれ仏説にして、これを修して道を得るなり。三法印なきはすなわちこれ魔説なり。」(印之即是仏説修之得道、無三法印即是魔説)とあり。しかるに倶舎宗の哲学は有為の諸法に対しては諸行無常諸法無我を証明し、無為法につきては涅槃寂静を論定するものに外ならず。しかりしこうして、小乗の涅槃は大乗の涅槃と異なりて消極的涅槃なり死物的涅槃なり。『倶舎光記』(巻六)に、「涅槃を滅と名づけ、体あることなし。灯は涅槃のごとく、灯謝に体なし。心に解脱を得れば、蘊は滅し、体なきなり。」(涅槃名滅而無有体如灯涅槃灯謝無体心得解脱蘊滅無体)とあり。これによりてこれをみるに、諸煩悩滅尽して空無に帰したる状態を指して涅槃という。故にその涅槃は、灰身滅智身心都滅の涅槃にして死物的なり。これに反して大乗の涅槃は活物的なり。その他、涅槃の問題につきて論ずべきことなお多しといえども、むしろ宗教上の問題にして心理学上の論題にあらざればこれを略す。

 すでに小乗の心理を講述してここに至れば、更に大乗心理学を講ぜざるを得ず。大乗心理学は『唯識論』の心理にして唯心一元論なり。上来述ぶるところの小乗心理中に往々『唯識論』を引証したりしも、いまだもっぱら大乗心理として述べざりき。故にこれより大乗心理に移るべし。

 

     第二門 唯心一元論すなわち『唯識論』の心理

 『倶舎論』は物心二元論にして『唯識論』は唯心一元論なることは前すでにこれを述べたるも、精密に『唯識論』を考うるときはやはり二元論なり。しかしてその二元は物心二元にあらずして有為無為の二元なり。その理由は後に至りて述ぶべし。また『唯識論』にて一切万法はみなその本来の種子より開発せるものとなすに至りては多元論と称せざるを得ず。なんとなれば、種子の数多元なればなり。今その大意を述ぶるに、第一門のごとく客観論主観論の二大段に分かつを要せず。なんとなれば、『唯識論』は物心二元論にあらざればなり。ただこれを有為論無為論の二大段に分かつべし。なんとなれば、『唯識論』は有為無為二元論なればなり。しかして有為論は更にこれを分かちて心象論心体論および体象関係論の三段に分かちて講述すべし。

 

      第一大段 有為論

       第一段 心象論

 ここにいわゆる心象とは心所法をいう。小乗にては宇宙万有を分類して七五種となせども、大乗唯識にては百法となす。その百法の分類左表のごとし。

  百法 色法一一種………………………

     心王法八種………………

     心所法五一種……………

     不相応法二四種…………心法  有為法

     無為法六種

 そのうちここに有為法として論ぜんと欲するものは心王法および心所法をもって限りとし、その他を略するの意なり。すなわち心王はこれを心体と名付け、心所はこれを心象と名付け、これより心所法を述ぶべし。しかして大乗の心所法は小乗の心所法と大抵相同じきも、また往々異なるところあれば、左に『唯識論』〔『成唯識論』〕および『唯識大意』〔『二巻抄』〕に示せる解釈を転載すべし。まず心所法の分類を掲げ、つぎにその解釈に及ぶべし。

  心所法五一種 遍行五

         別境五

         善一一

         煩悩六

         随煩悩二〇

         不定四


    第一 遍行の五種

作意 ・警覚してまさに心の種を起こすべきを性となし、心を引きて自らの境におもむかしむるを業となす。」(警覚応起心種為性、引心令趣自境為業、)〔*=能警心為性。於所縁境引心為業。謂此警覚応起心種引令趣境故名作意〕(作意の心所と申は、心を警(さま)し起らしむる心にて、心を引て自境に趣かしむるなり。)〔以下の注は大蔵経の『二巻抄』(小山憲栄師唯識大意発揮本)と校合し、大きく相違する点のみ記す。 *1=驚 *2=以下なし〕

触  ・触とは、心心所をして境に触れしむるを性となし、想、愛、思等の所依たるを業となす。」(触者令心心所触境為性、想愛思等所依為業、)〔*1=・触者」なし *2=受想思等〕(触の心所とは、心を心(所、縁)か知るべきことに能く触れしむるなり。)〔*=(所、縁)なし〕

受  ・受とは、順違と倶非との境相を領納するを性となし、欲を起こすを業となす。よく合、離、非二の欲を起こすが故に。また、心をして等しく歓感、捨の相を起こさしむるをいう。」(受者領納順違倶非境相為性、起欲為業、能起合離非二欲故、亦云令心等起歓感捨相)〔*1=謂 *2=愛 *3=以下の一〇文字なし〕(受の心所とは、楽をも、苦をも、心の中の愁喜をも、又捨とていづれ(苦、楽)にも非ざることをも、心に受取る心なり。)〔*=(苦、楽)なし〕

想  ・想とは、すなわち境において相を取るを性となし、種々の名言を施設するを業となす。いわく、自らの境の分斉を安立する故に、まさによくしたがいて種々の名言を起こす。」(想則於境取相為性、施設種々名言為業、謂安立自境分斉故、方能随起種々名言、)〔*1=謂 *2=像 *3=要境分斉相 *4=・故」なし〕(想の心所とは、殊に物の形を知り弁へて、其品々の名を説く心なり。)〔*=品〕

思  ・思とは、すなわち境において相を取るを性となし、善品等において心を役するを業となす。よく境の正因等の相を取るがために、自らの心を駆役して、よく善等を造るなり。」(思則於境取相為性、於善品等役心為業、為能取境正因等相、駆役自心能造善等、)〔*1=・則於境取相為性」は「謂令心造作」 *2=・為」なし *3=・謂」あり *4=令造善等〕(思の心所とは、心を善にも悪にも無記にも、作りなす心なり。)

    第二 別境の五種

欲  ・欲というは、所楽の境において希望するを性となし、勤依するを業となす。」(言欲者、於所楽境希望為性、勤依為業、)〔*=・言欲者」なし〕(欲の心所とは、善をも悪をも無記をも、希望する心なり。)〔*=無記の事〕

勝解 ・勝解とは、決定せる境において、印持するを性となし、引転すべからざるを業となす。」(勝解者、於決定境印持為性、不可引転為業、)〔*=・勝解」なし〕(勝解の心所とは、何事をもひしと思ひ定る心なり。)

念  ・念とは、かつて習せる境において、心をして明らかに記せしめ、忘れざるを性となし、定が依たるを業となす。いわく、しばしばかつて受けるところの憶を憶持して、しかも忘失せず、よく定を引くが故なり。」(念者於曾習境令心明記不忘為性、定依為業謂数憶持曾所受憶、而不忘失能引定故)〔*1=・念者」なし *2=境 *3=・而」なし〕(念の心所とは経て過ぎしことを心の内に明に記して忘れぬ心なり。)〔*1=心所と云は *2=過ぎにし *3=忘ざる〕

三摩地 ・三摩地とは、ここに等持といい、所観の境において心をして専注ならしめて散らざることを性となし、智が依たるを業となす。いわく、得、失、倶非の境の中に定によりて心をして専注ならしめて散らず、この便によりて決定の智を生ずることあり。」(三摩地者、此云等持、於所観境令心専注不散為性、智依為業、謂 得失倶非境中由定令心専注不散、依斯便有決定智生、)〔*1=・三摩地者此等持」なし *2=・観」あり *3=決択〕(三摩地の心所とは、心を何事にても知らんと思ふ事に止めて散乱せしめさる心なり、是をは亦は定の心所と名く。)〔*1=心所と云は *2=とゞめて *3=心所とも〕

慧  ・慧というは、所観の境において揀択するを性となし、疑いを断つを業となす。いわく、得、失、倶非の境を観ずる中に、慧によりて推求して決定を得るが故なり。」(言慧者、於所観境揀択為性、断疑為業、謂観得失倶非境中、由慧推求得決定故、)〔*1=・言慧者」なし *2=簡択〕(慧の心所とは、万の知らんと思ふ事は、心を静めて得失を能く簡ひ弁へて、疑を除く心にて、「これすなわち智なり。」(是即智也)、無漏智は禅定より生すと「いうは、これなり。」(云是也)。)〔*=心也〕

      此十種(遍行五種、別境五種)は皆善なる時もあり、不善なる時もあり、無記なる時もあり、性は不定なれとも、徧行は一切の心にあり、別境は三界の衆生に定て有り、故に不定の心所と名けず、〔*1=( )内はなし *2=・定て」あり〕

    第三 善の一一種

信  ・信というは、実と徳と能において、深く忍じ楽じ欲して心を浄ならしむるを性となし、不信を対治して善をねがうを業となす。」(言信者、於実徳能深忍楽欲心浄為性、対治不信楽善為業)〔*=・言信者」なし〕(信の心所と云は、世の常に信を起すと「いう、これなり。」(云是也)、誠の法を見聞して貴く目出度き事と深く忍ひ願ひを澄み浄き心なり。)

精進 ・精進というは、善悪の品における修断の事の中にて勇悍を性となし、懈怠を対冶し、善を満ずるを業となす。」(言精進者、於善悪品修断事中勇悍為性、対治 満善為業)〔*1=・言精進者」なし *2=・懈怠」あり〕(精進の心所と云は、善を修するに勇み進みて精しき心なり。)〔*=・進みて」なし〕

慚  ・慚というは、自と法の力によりて賢と善を崇重するを性となし、無慚を対治して悪行を止息するを業となす。自と法の力とは、自とはいわく、自身なり、法はいわく、教法なり。いわば、我がかくのごときの身とかくのごときの法を解し、あえてもろもろの悪を作さんや。」(言慚者、依自法力崇重賢善為性、対治無慚止息悪行為業、自法力者、自謂自身、法謂教法、言我如是身解如是法敢作諸悪耶、)〔*1=・言慚者」なし *2=以下の二六文字なし〕(慙の心所と云は、自にも恥ぢ、自ら法に恥て、諸の罪を作らざる心なり。)〔*1=慚 *2=法にも恥じて〕

愧  ・愧というは、世間の力によりて暴悪を軽拒するを性となし、無愧を対治して悪行を止息するを業となす。世人、譏呵するを世間力と名づけ、悪ある者を軽すれども親しまず、悪法の業を拒みて作さざるなり。」(言愧者、依世間力軽拒暴悪為性、対治無愧止息悪行為業、世人譏呵名世間力軽有悪者而不親、拒悪法業而不作也、)〔*1=・言愧者」なし *2=以下の二三文字なし〕(愧の心所と云は世間に恥ぢ諸の悪を造らす、他の思はくを恥るなり。)〔*=つみ〕

無貪 ・無貪というは、有と有具において著なきを性となし、貪著を対治して善を作すを業となす。有と有具というは、上の一つの有字は、すなわち有の果なり。有具とは、すなわち三有の因なり。」(言無貪者、於有々具無著為性、対治貪著作善為業、言有々具者、上一有字即有之果、有具即三有之因、)〔*1=・言無貪」なし *2=有 *3=以下の二一文字なし〕(無貪の心所と云は、万の事を貪ることのなき心なり。)

無瞋 ・無瞋というは、苦と苦具において恚なきを性となし、瞋恚を対治して善を作すを業となす。苦と苦具というは、苦とはいわく、三苦なり。苦具とは苦の因なり。」(言無瞋者、於苦々具無恙為性、対治瞋恚作善為業、言苦々具者、苦謂三苦、苦具者苦因、)〔*1=・言瞋者」なし *2=苦 *3=恚〕(無瞋の心所と云は、心にかなはぬこと我に背く人ありとも少しも怒ることなき慈心なり。)〔*=・少しも」なし〕

無痴 ・無痴は、もろもろの事と理において明解するを性となし、愚痴を対治し善を作すを業となす。」(無痴者、於諸事理明解為性、対治愚痴作善為業、)〔*1=・無痴者」なし *2=理事〕(無痴の心所と云は、万の事に明にして、物の理に愚なる事なき心なり。)〔*=・所」なし〕

軽安 ・軽安というは、麁重を遠離して身心を調暢し、堪任するを性となし、昏沈を対治して、転依を業となす。重きを離れるを軽と名づけ、身心を調暢するを安と名づく。」(言軽安者、遠離麁重調暢身心堪任為性、対治昏沈転依為業、離重名軽、調暢身心名安、)〔*1=・言軽安者」なし *2=以下の一〇文字なし〕(軽安の心所と云は、身も心も時安く覚えて心うれしきなり、此心所は常のには起らず、定に入りたる時に起るなり。)〔*1=・時」なし *2=常の時は〕

不放逸 ・不放逸というは、精進と三根の所断と修において防し修するを性となし、放逸を対治して一切の世、出世の善事を成備するを業となす。」(言不放逸者、精進三根於所断修防修為性、対治放逸成備一切世出世 善事為業、)〔*1=・言」なし *2=成満 *3=・間」あり〕(不放逸の心所と云は、罪を防ぎ善を修する心也、世の常に恣に罪を作るをは放逸の人と申候、是はかれと相違して殊に罪をは造らじと思ふ心なり。)〔*=そ〕

行捨 ・行捨というは、精進三昧にして、心をして平等ならしめ、正直にして無功用に住するを性となし、掉挙を対治して静かに住するを業となす。」(言行捨者、精進三昧令心平等正直無功用住為性、対治掉挙静住為業、)〔*=・言行捨」なし〕(行捨の心所と云は、心を平等正直ならしむる心なり。)

不害 ・不害というは、もろもろの有情において損悩をなさず、瞋なきを性となし、よく害を対治して、悲愍なるを業となす。」(言不害者、於諸有情不為損悩無瞋為性、能対治害悲愍為業、)〔*=・言不害者」なし〕(不害の心所と申は、物を愍みて損し悩さぬ心なり、慈悲とは無瞋と不害とを申なり、無瞋は慈なり、不害は悲なり。)

      善の十一とは是也、誰もみな此善心の起る時は此十種必す皆起るなり、禅定を得たる人は軽安も起るなり、是の故に十一皆起るなり、譬へは心王の忠臣孝子の如し、〔*1=・種」なし *2=・禅」のみ〕

    第四 煩悩の六種

貪  ・貪というは、有と有具において染著するを性となし、よく無貪をへだてて苦を生ずるを業となす。苦を生ずとは、いわゆる愛の力によりて蘊を取りて生ずるが故なり。」(言貪者、於有々具染著為性、能障無貪生苦為業、生苦者、謂由愛力取蘊生故、)〔*1=・言貪者」なし *2=有 *3=・生苦者」なし〕(貪と云は、万の物を貪ぼり、有るが上にもほしく拙き心なり、貪の有力は威を以て取り、無力は他に従て求む。)

瞋  ・瞋とは、苦と苦具において憎恚するを性となし、よく無瞋を障〔さ〕えて不安と悪行の所依なるを業となす。不安とは、心に憎恚を懐きて多く苦に住するが故に、ゆえに不安なり。」(瞋者、於苦々具憎恚為性、能障無瞋不安悪行所依為業、不安者心懐憎恚多住苦故、所以不安、)〔*1=・言瞋者」なし *2=苦〕(瞋は我に背くことあれは善事にても必す怒る心なり。)〔*=瞋る〕

慢  ・慢とは、己をたのみ、他に高挙するを性となし、よく不慢を障えて苦を生ずるを業となす。生苦とはいわく、もし慢あれば、徳、有徳において心は謙下ならず。これによりて死生輪転して窮まりなく、もろもろの苦を受くるが故なり。」(慢者恃己於他高挙為性、能障不慢生苦為業、生苦者謂若有慢於徳有徳心不謙下、由此死生輪転無窮受諸苦故、)〔*1=・慢者」なし *2=・生苦者」なし *3=生死〕(慢と云は我身を恃んて人を慢り少も謙下なき心なり。)〔*=・恃んて」は「憑て」〕

無明 ・無明とは、もろもろの事と理において迷暗なるを性となし、よく無痴を障えて、一切の雑染の所依なるを業となす。雑染の所依とは、無明により痴、邪見、貪の煩悩を起こすなり。煩悩にしたがいて業はよく後生を招く。雑染の法なるが故なり。」(無明者於諸事理迷暗為性、能障無痴一切雑染所依為業、雑染所依者、由無明起痴邪見貪等煩悩随煩悩業能招後生雑染法故、)〔*1=・無明者」なし *2=理事 *3=・雑染所依者」なし *4=・謂」あり〕(無明をは又は痴と名く、万の事物の理に闇き心なり。)

疑  ・疑とは、もろもろの諦と理において猶予するを性となし、よく不疑の善品を障えるを業となす。善品を障えるとは、猶予をもっての故に善は生ぜざるなり。」(疑者於諸諦理猶予為性、能障不疑善品為業、障善品者以猶予故善不生也、)〔*1=・疑者」なし *2=以下は「謂猶予者善不生故」〕(疑と云は何事にても其理を思ひ定むること能はずして兎角に物を疑ふの心なり。)〔*=・兎角に物を」なし〕

不正見 ・悪見とは、もろもろの諦と理において、顛倒して推度する染の慧を性となし、よく善見を障えて苦を招くを業となす。けだし悪見の者は多く苦を受くるが故に。この見に五つあり。いわく、身、辺、邪、見取、戒禁取なり。」(悪見者、於諸諦理顛倒推度染慧為性、能障善見招苦為業、蓋悪見者多受苦故、此見有五謂身、辺邪、見取、戒禁取也、)〔*1=・悪見者」なし *2=以下は『成唯識論』の五見の説明を省略して、述語のみを挙げている〕(不正見 僻(ひが)事つよく思ひ定て実の道理を知らさる心なり、論には悪見とあり。)〔*=・は」あり〕

      煩悩の六と申は是なり。

    第五 随煩悩の二〇種

忿  ・忿というは、現前に対して、境を饒益をせざるにより憤発するを性となし、よく不忿を障えて仗を執るを業となす。仗を執るとは、仗はいわく、器仗なり。忿恨を懐く者は、多く暴悪身なる表業を発するが故に、瞋の一分の摂なり。」(言忿者、依対現前不饒益境憤発為性、能障不忿執仗為業、執仗者、仗謂器仗、懐忿恨者多発暴悪身表業故瞋一分摂、)〔*1=・言忿者」なし *2=・執仗者仗謂器仗」 *3=謂懐忿者 *4=此即瞋恚一分為体〕(忿と云は、腹を立て仗を取て人を打んと思程に怒る心なり。)〔*=嗔る〕

恨  ・恨は、忿を先となすによりて悪を懐きて捨せず、うらみを結ぶを性となし、よく不恨を障える熱悩を業となす。熱悩とは、恨みを結ぶ者は含忍することあたわず、つねに熱悩するが故なり。」(恨者由忿為先懐悪不捨、結冤為性、能障不恨熱悩為業、熱悩者結恨者不能含忍恒熱悩故、)〔*1=・恨者」なし *2=怨 *3=・熱悩者」なし〕(恨と云は人を恨むる心なり、恨みを結ぶ人は残念口惜しとて押さへ忍ふこと能はずして心の内常に悩むなり。)〔*=推へ〕

悩  ・悩は、忿と恨を先となし、暴悪を追触し、恨戻を性となし、よく不悩を障える蛆螫を業となす。いわく、往の悪を追い、現の違縁に触れて必ず恨戻にしたがいて、多く囂、暴、兇、鄙、麁の言を発し、他を蛆螫するが故に、これまた瞋の分なり。」(悩者忿恨為先追触暴悪恨戻為性、能障不悩蛆螫為業、謂追往悪触現違縁必便恨戻多発囂暴兇鄙麁言蛆螫他故、此亦瞋分也、)〔*1=・脳者」なし *2=暴熱 *3=心 *4=此亦瞋恚一分為体〕(悩と云は、腹を立て人を恨むに依て僻み戻り、心の中常に安からず、物を言ふに其言囂くして険しく鄙しく、暴らく腹ぐろく毒々しき心なり。)

覆  ・覆とは自作の罪において利誉を失うことを恐れて隠蔵することを性となし、よく不覆を障える悔悩を業となす。罪を覆すれば、すなわち後に必ず悔悩す。安穏にあらざるが故に、貪痴の二の分なり。」(覆者於自作罪恐失利誉隠蔵為性、能障不覆悔悩為業、覆罪則後必悔悩、不安穏故貪痴二分、)〔*1=・覆者」なし *2=謂覆罪者 *3=・貪痴二分」なし〕(覆と云は、名利を失はんことを恐れて罪を作るを覆ひ蔵くす心なり、罪を隠す人は必す後に悔み悲むことあり。)

誑  ・誑というは、利誉を獲んがためにいつわりて有徳を現す詭詐を性となし、よく不誑を障える邪命を業となす。矯りて現す等と言うは、いわく、矯誑の者は心に異謀を懐きて多く不実なり、邪命の事なるが故に。これ貪痴の分なり。」(言誑者為獲利誉矯現有徳詭詐為性、能障不誑邪命為業、言矯現等者謂矯誑者心懐異謀多不 実邪命事故、此貪痴分也、)〔*1=・言誑者」なし *2=・言矯現等者」なし *3=・現」あり *4=此即貪痴一分為体〕(誑と云は、名利を得んか為に心に異なる謀を回らして矯(かたま)しく徳ありと現はす偽り心なり、世の中に誑惑者と云は此心の増せる人なり。)〔*=顕〕

諂  ・諂とはいわく、他を罔する故に、矯りて異儀を設ける諂曲を性となし、よく不誑を障える教誨を業となす。諂曲の者は他を罔冒するが故に、曲げて時のよろしきにしたがい、矯りて方便を設けて、もって他の意を取る。あるいは己の失を蔵して師友の正しき教悔に任せざる故に、貪痴の分なり。」(諂者謂罔他故矯設異儀諂曲為性能障不誑教誨為業、諂曲者為罔冐他故、曲順時宜矯設方便以取他意或蔵己失不任師友正教誨故亦貪痴分也、)〔*1=・諂者」なし *2=為 *3=険曲 *4=不諂 *5=・謂」あり *6=・故」なし *7=為 *8=此即貪痴一分為体〕(諂と云は、人を瞞まし迷され為に時に随ひ事に触れて奸しく方便を回らし人の心を取り、或は我過を蔵す心なり、世の中に諂曲の者と云は此心増せる人なり。)〔*=迷さんが〕

憍  ・憍とは自らの盛んなることに深く染著を生じて酔傲なるを性となし、よく不憍を障える染が依たるを業となす。これ貪の分なり。不憍は、すなわち無貪なり。」(憍者於自盛事深生染著酔傲為性、能障不憍染依為業、此貪分也、不憍者即無貪也、)〔*1=・憍者」なし *2=此亦貪愛一分為体〕(憍と云は、我身をいみじく盛なる者に思ふて栄へおごり高ぶる心なり。)〔*=・高ぶる」なし〕

害  ・害とは、もろもろの有情において心に慈悲なく、損悩するを性となし、よく不害を障える逼悩を業となす。逼悩の義というは、害ある者は他を逼悩する故に、瞋の一分の摂なり。」(害者於諸有情心無慈悲損悩為性、能障不害逼悩為業、言逼悩之義 有害者逼悩他故瞋一分摂、)〔*1=・害者」なし *2=悲愍 *3=・言逼悩之義」なし *4=・謂」あり *5=此亦瞋恚一分為体〕(害と云は人を哀れむ心なり、情なき心なり、世の中に慈悲性もなき者と云は此心の増せる人なり。)〔*=・心なり」は「心なくて」〕

嫉  ・嫉というは、自らの名利に殉じて他の栄うるに耐えず、妬忌するを性となし、よく不嫉を障える憂戚を業となす。憂戚の義というは、嫉の者は他の栄うるを聞見して深く憂戚を懐きて安穏ならざるが故に、また瞋の分を体となす。」(言嫉者殉自名利不耐他栄妬忌為性、能障不嫉憂戚為業、言憂戚義者、嫉者聞見他栄深懐憂戚不安穏故、亦瞋分為体、)〔*1=・言嫉者」なし *2=・言憂戚義」なし *3=謂嫉妬者 *4=此亦瞋恚一分為体〕(嫉と云は我身の名利を求むるが故に人の栄へたるを見聞して深くねたましき事に思ふて喜ざる心なり。)

慳  ・慳というは、法と財に耽著して慧捨するあたわず。我恡を性となし、よく不慳を障うる鄙畜を業となす。また、貪の分なり。」(言慳者、耽著法財不能慧捨我恡為性、能障不慳鄙畜為業、亦貪分也、)〔*1=・言慳者」なし *2=財法 *3=悋の俗字 *4=此即貪愛一分為体〕(慳と云は、財宝に耽著して人に施す心なく弥々貯へんとのみ思ふ心なり。)〔*=弥た〕

無慚 ・無慚とは、自と法を顧みず、賢と善を軽拒するを性となし、よく慚を障えて悪行を生長するを業となす。」(無慚者、不顧自法軽拒賢善為性、能障於慚生長悪行為業、)〔*1=・無慚者」なし *2=礙〕(無慚と云は、身にも法にも恥ぢずして善根を軽しめ諸の罪を作る心なり。)〔*=軽くして〕

無愧 ・無愧とは、世間を顧みず、暴悪を崇重するを性となし、よく愧を障礙して悪行を生長するを業となす。いわく、世間に顧みられるところなき者は、暴悪を崇重して過非を恥じず。よく愧を障えて悪行を生長するが故なり。」(無愧者、不顧世間崇重暴悪為性、能障礙愧生長悪行為業、謂於世間無所顧者崇重暴悪不恥過非能障於愧生長悪行故、)〔*1=・無愧者」なし *2=・能」なし *3=諸悪行〕(無愧と云は、世間の見聞にも恥ちすして諸の罪を崇むる心なり無恥の人と申は此無慚無愧の増せる人なり。)

不信 ・不信というは、実と徳においてよく楽欲を忍びず、心の穢を性となし、よく浄心を障えて堕依するを業となす。堕依というは、不信の者は多く懈怠するが故なり。」(言不信者、於実徳能不忍楽欲心穢為性、能障浄心堕依為業、言堕依者、不信之者多懈怠故、)〔*1=・言不信者」なし *2=浄信 *3=・言堕依者」なし *4=謂不信者〕(不信と云は貴き目出度きことを見聞しても忍ひ願ふ心なくして穢れる心なり、かゝる人は多く懈怠なり。)〔*1=すとも *2=事 *3=穢濁なる〕

懈怠 ・懈怠というは、善悪の品において修断事の中に懶堕なるを性となし、よく精進を障える増染を業となす。懈怠をもちいる者は、染を滋長する故なり。」(言懈怠者、於善悪品修断事中懶堕為性、能障精進増染為業、以懈怠者滋長染故、)〔*1=・言懈怠者」なし *2=謂〕(懈怠は諸の善事の中に懈り懶き心也、かゝる人は又多く不信なり。)

放逸 ・放逸というは、染浄の品において防修することあたわず、縦蕩を性となす。不放逸を障えて悪を増し、善を損ずる所依を業となす。」(言放逸者、於染浄品不能防修縦蕩為性、障不放逸増悪損善所依為業、)〔*=・言放逸者」なし〕(放逸と云は罪を防ぎ善を修する心なくして、恣に罪を造る心なり。)

惛沈 ・惛沈というは、心をして境に堪任することなからしむるを性となし、よく軽安と毘鉢舎那とを障えるを業となす。」(言惛沈者、令心於境無堪任為性、能障軽安毘鉢舎那為業、)〔*=・言惛沈者」なし〕(惛沈と云は重く沈み溺れたる心なり矒重として目のくらむ様になるなり。)

掉挙 ・掉挙というは、心をして境に寂静ならざらしむるを性となし、よく行捨と奢麼他とを障えるを業となす。」(言掉挙者、令心於境不寂静為性、能障行捨奢麼他為業、)〔*1=・言掉挙者」なし *2=摩〕(掉挙と云は動き騒しき心にて物にのり易くをだてる心なり。)

失念 ・失念とは、もろもろの所縁において明記することあたわざるを性となし、よく正念を障える散乱の所依を業となす。有るがいわく、念の一分なり、あるいはいわく、痴の一分なり。」(失念者、於諸所縁不能明記為性、能障正念散乱所依為業、有云念一分、或云痴一分、)〔*1=・失念者」なし *2=以下は後説を要約したもの〕(失念と云は取りはずし物を忘るゝ心也、斯る人は多く散乱なり。)

不正知 ・不正知は、所観の境において謬解するを性となし、よく正知を障えて毀犯するを業となす。有るがいわく、慧の一分の摂なり。有るがいわく、痴の一分の摂なり。」(不正知者、於所観境謬解為性、能障正知毀犯為業、有云慧一分摂、有云痴一分摂、)〔*1=・不正知」なし *2=以下は後説を要約したもの〕(不正知とは知るべきことを謬て解し、斯る人は事を毀り犯す心なり。)〔*=と云は〕

散乱 ・散乱は、心をして流蕩ならしむるを性となし、よく正定を障える悪恵の所依を業となす。」(散乱者、令心流蕩為性、能障正定悪恵所依為業、)〔*1=・散乱者」なし *2=・於諸所縁」あり *3=慧〕(心乱と云は心を散し乱す心なり、是故に散乱と名く。)

      随煩悩二十と云は是也、此中に無明と惛沈と相似て弁へ難し、無明は闇く迷へり、重く沈み溺れたるに非す、惛沈は唯闇く迷へるに非すして重く沈み溺れたるなり、掉挙と散乱と又弁へ難し、掉挙は譬へは一の事に向て其心騒しきなり、且つ心をして解を昜へしむるなり、散乱は数多の事に於て兎角移て乱るゝなり、且つ縁を昜しむるなり。〔*1=只 *2=乱れたる〕

    第六 不定の四種

睡眠 ・睡眠は、身をして自在ならざらしむ昧略を性となし、観を障えるを業となす。無心の位にありて仮にこの名を立つ。」(睡眠者、令身不自在昧略為性、障観為業、有 無心位仮立此名、)〔*1=・睡眠者」なし *2=・中略」あり〕(睡眠の心所と云は、心を暗く狭からしめて身を自在ならさらしむるなり、人の眠むるは此の心所の起れる時なり。)

悪作 ・悪作というは、所作の業をにくんで追悔するを性となし、止を障えるを業となす。これすなわち、果において仮に因の名を立つ。先に所作の業をにくみ、後にまさに追悔すべし。故に悔を先に作さざれども、また悪作の摂なり。追悔の言のごとく、これわれ作せるをにくむなり。」(言悪作者、悪所作業追悔為性、障止為業、此即於果仮立因名、先悪所作業、後方追悔、故悔先不作亦悪作摂、如追悔言 是我悪作、)〔*1=・言悪作者」なし *2=・我先不作如是事業」あり〕(悪作は万の我作す所を悪しきことしたりとて後に悔む心なり、かゝる故に 悔の心所と名く。)〔*=・又」あり〕

尋、伺・尋伺というは、尋はいわく、尋求なり。心をして忽遽ならしめ、意言の境において麁転するを性となす。伺はいわく、伺察なり。心をして忽遽ならしめ、意言の境において細転するを性となす。二つの法の業用は、ともに安、不安をもって身心に住する分位の所依とするを業となす。意言の境というは、意所の境を取るは多く名言によるを意言の境と名づく。」(言尋伺者、尋謂尋求、令心忽遽於意言境麁転為性、伺謂伺察、令心忽遽於意言境細転為性、二法業用倶以安不安住身心分位所依為業、謂意言境者、意所取境多依名言名意言境、)〔*1=・言尋伺者」なし *2=・二法業用倶」は「此二倶」 *3=以下の一七文字なし〕(尋、伺と云は物を云はんとて万の事を推し量る心なり、是に取て浅く分別する時には尋と名け、深く分別する時をは伺と名くるなり。)〔*=時をは〕

 以上、心象論は心所の解釈にとどめて、これより心体論に移るべし。

       第二段 心体論

 さきに『倶舎論』にありては心王、心所を合して心体となし、色心諸法の実体を指して心体といいたることありしも、ここに余がいわゆる心体は心王を義とするをもって、まず心王の名称および種類を表示すべし。

  心王八種 六識とはすなわち眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識なり(小乗に同じ       )。

       第七識とはすなわち末那識なり。

       第八識とはすなわち阿頼耶識なり。

  心王八種 六識即眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識(小乗に同し)

       第七識即末那識

       第八識即阿頼耶識

          甲 末那識論

 前六識は小乗と同じければ別に説明をなさず。第七識すなわち末那識は意識と訳し、思量を義とす。『唯識論』には「この識は聖教に別に末那と名づく。つねにつまびらかに思量すること余識にすぐれたるが故なり。」(是識聖教別名末那恒審思量勝余識故)とありて、その体第八識を所依とし、その能縁の作用を所縁として起きるものなりという。換言すれば、阿頼耶識の見分を縁として、実我実法ありと思量するものをいう。これ我法二執の起こる根源にして、迷執のよりて生ずる本源なり。故にあるいはこれを名付けて無明識または智障識と称す。これを今日の心理学に考うるに、別にかくのごとき名称を設くるを要せずといえども、仏教はもと宗教にして、ことに世間外道の実我実法論に対して我法二空の理を示さんことを目的とし、心性作用中特にこの一種の識体を立つるに至る。しかしてその作用は外界に対して起こるものにあらざれば、これを内門転となす。かつその生起するや間断あるにあらず。故に恒審思量というなり。第六意識は外界に対して五識とともに起こるときと、また外界を待たず内界のみにて起こるときあり。故に内門転、外門転を兼有するなり。また第六意識は、その作用の発現するときと発現せざるときあり。たとえば睡眠の熟せるときのごときは、第六意識は五識とともにその作用を休止するなり。故に第六意識は恒審思量というべからず。これを西洋心理学に比するに、心王八識は智情意中、智力に当たり、前五識は感覚に当たり、第六識は想像思考に当たり、第七末那識はやはり思考すなわち推理作用に外ならざるべし。

          乙 阿頼耶識論

 つぎに第八阿頼耶識を考うるに、これを訳して蔵識という。その中によく一切諸法の種子を含蔵して、よく一切諸法を生起するによる。かくして一切諸法の生起する根本なれば、あるいはこれを名付けて根本識もしくは本識と名付く。しかしてその種子とは西洋哲学の元子にして、ライプニッツおよびロッツェ諸氏の唱うるところの元子に同じ。故に『唯識論』は一種の元子論というべし。もし元子の性質作用を論ずるに至りては、唯識家とライプニッツ氏とはもとより大いに異なるところなり。まず第八識と前七識との関係を考うるに、能蔵、所蔵、執蔵の三義あることを知らざるべからず。能蔵所蔵とは第八識と前七識と対望して立つるところの名目にして、第八識は一切の種子を包蔵せるをもって能蔵なり。前七識は第八識中に種子を薫習する作用あれば、これに対して第八識は所蔵となる。故に第八識と前七識とは互いに能蔵所蔵の作用ありと知るべし。つぎに執蔵とは第八識と第七識と対望して立つる名目にして、第七識は第八識の能縁の作用を見て我法二執を起こすをもって能執蔵にして、第八識はその反対なれば所執蔵なり。これより第八識所蔵の種子につきて一言せざるべからず。

          丙 種子論

 それ種子に名言種子と業種子との二類あり。名言種子は諸法の親因となるべき種子にして、ただちに諸法を生起する原因となる。業種子とはよく名言種子の親因を助けて現行せしむる種子にして、これ助縁なり。また種子に本有と新薫との二種を分かつ。本有種子は無始以来法爾として自存せるものをいい、新薫種子は前七識の現行より第八識中に薫習せるものをいう。『唯識論』および『述記』によるに、護月論師はただ本有説を唱え、難陀論師はただ新薫説を唱え、護法論師は新旧合生論を唱えりという。この関係はあたかも西洋哲学において、知識の起源に関してライプニッツ氏は本然論を唱え、ロック氏は経験論を唱え、カント氏は一半本然、一半経験論を唱えたるに類す。かくして第八識中の種子は開発して前七識の現行を生じ、前七識の現行は薫習して第八識中に種子を蔵するなり。これを「種子は現行を生じ、現行は種子を薫ず。」(種子生現行、現行薫種子)という。なお草木の種子より花実を生じ、花実より種子を生ずるがごとし。しかしてその現行と薫習とは相互に因となり果となり、展転相生じて際限なしとなす。これを『唯識論』に「三法は展転して因果は同時なり。炷の焔を生じ、焔生の炷を燋がすがごとく、束蘆の更互に相よるがごとく、因果は倶時にして、理は傾動せず。」(三法展転因果同時、如炷生焔焔生燋炷、亦如束蘆更互相依、因果倶時理不傾動)といえり。そのいわゆる三法とは、能生種子と所生現行と能薫種子とをいう。これ仏教一家の特論にして、西洋哲学中にいまだこれに類するものあるを見ず。かつその説は純正哲学に属し、決して心理学の範囲内において論ずべからず。故に余はただその大意を講述するにとどまり、これが批評をなすを欲せず。

       第三段 体象関係論

 すでに心象論および心体論を掲げ、もって心王、心所の大要を講ぜり。これよりその二者の関係を論ぜんと欲しここに体象関係論を掲ぐるも、その実、体象の関係を論ずるにあらずして、物心の関係もしくは内外の関係を論ずるなり。そもそも『唯識論』は唯心哲学にして、外界万象は「みなただの所変なり。」(皆唯識所変)と論定し、「実に外境なく、ただ内識のみありて外境に似て生ず。」(実無外境唯有内識似外境生)と説き、あるいは「実に外色なく、ただ内識のみありて変じて色に似て生ず。」(実無外色、唯有内識変似色生)と説きて、もって唯心論を証立す。これ『唯識論』の小乗に異なるところにして、その心理の小乗心理に異なるゆえんなり。この理は前論すなわち心体論においてすでに略述せるも、物心の関係を明らかにするにあらざれば、これをつまびらかにするを得ず。故にここに体象関係論を掲ぐるなり。

          甲 四分論

 さて『唯識論』にて外界万有を識心の所変となすにつきては、四分論、三量論、三類境論等の論目あり。今これを略解するに、四分とは相分、見分、自証分、証自証分の四種にして、相分とは吾人が外界に対するとき心面に浮かぶところの事物の現象相状をいう。すなわち目前の諸象にして心面の影像なり。見分とはその影像を見照了別する作用なり。自証分とはその見分を証知認定する作用なり。証自証分とは更にその自証分を証認する作用なり。もし相分と見分とを対すれば、相分は所縁所観にして、見分は能縁能観なり。この見分に対しては自証分能縁となり、この自証分に対しては証自証分能縁となり、しかして証自証分に対しては自証分能縁となる。もしその関係を鏡の比喩によりて説明するに、相分は鏡像のごとく、見分は鏡面のごとく、自証分は鏡体のごとく、証自証分は鏡背のごとしという。『百法問答抄』(巻二)には「八識はその体凝一といえども、功能は転変して四に分かるるなり。」(八識雖其体凝一功能転変分四也)とありて、すなわち一心の作用を分かちて四種となすなり。かく論ずるときは、相分は心外に存するもののごとしといえども、これまた内識の転変より生ずるものとす。故に『唯識論』に「もろもろの内識は転じて我法の外境の相に似て現ず。」(諸内識転似我法外境相現)とあり。

          乙 三量論

 つぎに三量とは現量、比量、非量の三種にして、現量とは直接的知識にして感覚知覚上の作用なり、比量とは間接的知識にして想像および推理上の作用なり、しかして非量とは知覚および推理の誤用なり。たとえば、東京にて現に墨堤の桜花を見てその色を感覚するは現量にして、その花につきて故郷の花を推想比知するは比量なり。しかして非量には似現量と似比量との二種ありて、似現量とは感覚知覚上の誤認にして、杭をもって人となすの類なり。なお幻覚というがごとし。似非量とは雲霧を誤り煙となし、もって邪に火ありと証認するの類なり。これを八識に配合するときは、左表のごとくなるべし。

 

 また四分を能量、所量、量果に配することあり。すなわち能量とは量は量度の義にして、識心の作用によりて外界を量度するをいい、所量とはこれによりて量度せられたる境遇をいい、量果とはすでに量度し終わりたる位をいう。これを丈尺をもって物品を量るにたとう。すなわち物品を所量に比し、丈尺を能量に比し、これによりて何尺何寸あることを定むる智を量果に比するなり。もしこれを四分に配合すれば左のごとし。

  第一、相分は所量、見分は能量、自証分は量果なり

  第二、見分は所量、自証分は能量、証自証分は量果なり

  第三、自証分は所量、証自証分は能量、自証分は量果なり

  第四、証自証分は所量、自証分は能量、証自証分は量果なり

 故に相分はただ所量、見分は能量、所量に通じ、後二分は能量、所量、量果の三に通ずるなり。以上はみな識心の作用を種々に分類したるものに外ならず。しかしてその要は唯識所変の理を証示するにあり。その他三類境と名付くる論目ありて、これまた唯心上物心の関係を証明せるものなれば、左にその解釈を掲ぐべし。

          丙 三類境論

 三類境とは性境、独影境、帯質境の三種にして、性境とは真実の境を義とし、能縁の心によりて所縁の境の真相を覚知するをいう。たとえば眼等の五識が外境を縁ずるときのごときこれなり。独影境とは影は影像を義とし、心外にその体なき虚影を妄見するをいう。たとえば第六識がみだりに亀毛を見、空華を縁ずるの類これなり。帯質境とは帯は兼帯を義とし、質は本質を義とし、能縁の心が本質の自相を得ずといえども、その境相本質に似て生ずるをいう。すなわち第七識か第八識を縁ずるときのごときこれなり。しかして本質とは外界の物質の本体をいう。

 以上述ぶるところ、これを要するに、「森羅万象はただ識の所変なり。」(森羅万象唯識所変)の理を証明するに外ならず。すなわち内外両界中、外界の諸境をもって第八阿頼耶識の相分とし、自体の転変によりて生ずるものとなすに至りては、純然たる唯心論なること明らかなり。もしその唯心は絶対的なるか相対的なるか、あるいは現象的なるか本体的なるかを論じきたらば、相対的および現象的唯心論なることまた疑いをいれず。なんとなれば、『唯識論』の主義は人々各別の唯心を唱え、甲には甲の唯心、乙には乙の唯心ありと説くをもって、いわゆる相対差別の唯心論なること瞭然たり。これをもって、甲の識心の上に現ずる世界と乙の識心の上に現ずる世界と、多少異同なきあたわず。そのうち衆人の共同して有するものと、人々各別なるものあり。この理を示すに共変不共変の説あり。共変とは衆人共同の種子より現起して衆人共同して受用するものをいい、不共変とは各人別々の種子より現起して各人別々に受用するものをいう。このうち、また共中の共、共中の不共、不共中の共、不共中の不共を分かてり。かくのごとく人々の唯識各別なるをもってその所変また各別なりと立つるは、実に大乗唯識論の唯心論なり。ここにおいて更に一論ありて起こる。すなわち唯識の本体はなにものなりや、第八識は自存自立のものなるか、あるいはそのよりて立つところの本体ありやを問わざるを得ず。その理は心理学以外の問題なれども、これよりその一端を講述すべし。

 

      第二大段 無為論

 小乗心理学にありては客観論、主観論を分かち、主観論は因果論、惑障論、善悪論、苦楽論、涅槃論までを論述したるも、大乗は有為論、無為論を分かちて因果論、惑障論等を略し、ただちに無為論を略述せんと欲す。

 大乗百法の分類によらば、無為に六種を分かつと、虚空、択滅、非択滅、不動、想受滅の五種の無為は真如無為を形容せる仮名に過ぎず。故に『唯識論』に「この五はみな真如によって仮立する。」(此五皆依真如仮立)とあり。ここにおいて真如の解釈を掲ぐるを要す。真如とは、『唯識論』巻二によるに「理は妄倒にあらざるが故に、真如と名づく。」(理非妄倒故名真如)とあり、また同論巻八によるに「真とはいわく、真実にして虚妄にあらざるをあらわす。如とはいわく、常なるごとく、変易なきを表す。」(真謂真実顕非虚妄、如謂如常表無変易)とあり、また『起信論義記』に「真とは体の偽妄にあらざるなり。如とは性の改変なきなり。」(真者体非偽妄、如者性無改変)とありて、不生不滅、不変不化、常住真実の本体をいう。すなわちその体たるや宇宙万有の実体にして識心思想の本体なり。その体と世界の関係を説くに至りては、大乗中権大乗と実大乗と大いにその見を異にす。唯識宗はすなわち権大乗にして、その真如と世界との関係は直接にあらずして間接なり。なんとなれば、その論ずるところ、真如の自体開発してただちに世界を現立することを説かず、これを説くは実大乗に限る。かくのごとく真如自体の開発を説くもの、これを真如縁起という。しかるに『唯識論』は前講に述ぶるがごとく、第八阿頼耶識より一切諸法の種子を開現して世界万有を縁起することを説く。これを頼耶縁起という。しかして阿頼耶識と真如とはその体一にして、ただその作用を異にするのみ。すなわち唯識宗は、阿頼耶識は真如を体とするも真如自ら世界を開現するにあらずとなす。これをもって「真如は凝然として諸法を作さず。」(真如凝然不作諸法)という。これ唯識宗の説なり。もし実大乗の説によらば、真如の水動きて万法の波となるという。

 かくして唯識宗において真如と世界との関係を示すに、遍、依、円三性の説あり。その三性とは、

一、遍計所執性 遍とはあまねく遍じ、計とは計度し、あまねく一切法を計ずるが故に遍計と名づく。

二、依他起性 色心の諸法は因縁に従って生じ、みな依他と名づく。

三、円成実性 諸法の真実体の性は円満成就して円成実と名づく。

一、遍計所執性 遍者周遍、計者計度、普計一切法故名遍計

二、依他起性 色心諸法従因縁生皆名依他

三、円成実性 諸法之真実体性円満成就名円成実

 すなわち遍計所執とは、我法二空を見て実我実法ありと固執する妄見をいい、依他起性とは、一切物心の諸象はその実体あるにあらざるも、他の因縁によりて仮に和合して生起するをいい、円成実性とは、真如の理性にしてその体円満実成なるをもってその称あり。これを有無をもって判別すれば、遍計は空にして、依他と円成とは有なり。遍計を空とするは、その体全く虚妄なるによる。故にこれを妄有とす。依他を有とするは、因縁によりて仮にその体を現ずるによる。故にこれを仮有とす。しかして円成は真有なり。故にこの三性は、非有非空の唯識中道の理を示すものなり。その他、真如無為につきて論ずべきこと多しといえども、心理学以外の論題なればこれを略す。

       結  論

 上来講述せるところ、今これを一結せんとするに当たり、全講の分段を表示すること左のごとし。

  第一門 物心二元論すなわち『倶舎論』の心理

    第一大段 客観論

      第一段 物質論(一、極微所成説 二、四大所造説 三、五境成物説)

      第二段 世界論(一、空間論 二、時間論 三、三界論)

      第三段 人身論

    第二大段 主観論

      第一段 分類論

      第二段 心象論

      第三段 心体論

      第四段 因果論

      第五段 惑業論

      第六段 善悪論

      第七段 苦楽論

      第八段 涅槃論

  第二門 唯心一元論すなわち『唯識論』の心理

    第一大段 有為論

      第一段 心象論

      第二段 心体論(甲、末那識論 乙、阿頼耶識論 丙、種子論)

      第三段 体象関係論(甲、四分論 乙、三量論 丙、三類境論)

    第二大段 無為論

 かくのごとき分段を設けて講述したるが、その中には純正哲学、倫理学、宗教学に関することも混入せり。これ仏教は単純の心理学にあらずして、哲学および宗教を混同せるによる。ただ心理学として特に講ずべき部分は色心二法のうち心法論にして、なかんずく心王、心所論なり。しかして小乗と大乗と心理上の見を異にするところあるは、その間におのずから深浅高下の別あるによる。たとえば心王のごときは、小乗はわずかに六識を説き、大乗は六識以上に七識八識を説くを見て、大乗は小乗の上に一歩を進めたるものなるを知るべし。左に小乗と大乗との哲学上の異同を説き、もって両乗の心理説にも懸隔あるを示すべし。

『倶舎論』も『唯識論』もともに二元論なるも、前者は物心二元論にして、後者は体象すなわち有為無為二元論なり。換言すれば、現象的二元論と本体的二元論の別あり。

『倶舎論』も『唯識論』もともに多元論なるも、前者は差別的多元論にして、後者は平等的多元論なり。換言すれば、前者は「三世は実有にして法体は恒有なり。」(三世実有法体恒有)の原理の上に法体の多元論を説き、後者は森羅万象の唯識所変の原則の上に種子の多元を説くの別あり。

 この『倶舎論』の「三世は実有にして法体は恒有なり。」(三世実有法体恒有)とは、五蘊の外に別に我体なしといえども、五蘊の法体は恒有なりとの説をいう。これ小乗は我空法有説と呼ばるるゆえんなり。これに反して大乗は唯識一元の理によりて、心識の外に我体も法体もなしと立つるをもって、いわゆる我法二空説なり。その他、原因論も涅槃論もともに大乗と小乗と大いに高下の等級を異にす。これによりてこれをみるに、大乗は小乗を超駕して、その上に発達したるものなるを知るべし。