4.南船北馬集 

第十二編

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南船北馬集 第十二編

 

1.冊数1冊

2.サイズ(タテ×ヨコ)188×127㎜

3.ページ

 総数:126

 目次:〔2〕

 本文:89

 付録(日本全国講演開会地総計表):35

(巻頭)

4.刊行年月日

 底本:初版 大正5年6月29日

5.発行所

 国民道徳普及会

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信越三州一部巡講日誌

 大正四年九月、郷里において両親の法要を営まんと欲し、帰郷を約しおきたれば、その往復途中、講演の依頼を受け、約二週間の巡講をなす。

 九月二十九日 晴れ。朝七時、上野発。午時、長野県小諸に着駅。これより軽便に転乗し、中込駅に降車し、更に腕車を走らすこと約一里にして、南佐久郡臼田町〈現在長野県南佐久郡臼田町〉小学校に至り講演をなす。開会時間すこぶる精確なり。当地には余の明治三十七年に設立せし修身教会の旨趣に基づきて開設せる佐久修身談話会あり。発会以来、十年間継続して今日に至るという。今回の開会はその会の発起にかかる。もし幹部の人を挙ぐれば、中学校長与良熊太郎氏、医師中島誠氏、小学校長佐々木勝実氏、蕃松院住職西田霊苗氏、弥勒寺住職足立信順氏、青沼村長日向治之助氏(以上三氏は東洋大学出身)等なりとす。余は今より二十年前、哲学館拡張のために本郡を一周せしことあり。その当時の山河の形勢は、今なお脳裏に印象をとどむ。昨今、蚕期すでに過ぎて、穫稲期いまだきたらず、稲田一面深黄を浮かぶ。その間に桑葉の衰うるあり、蕎花のむらがるありて、晩秋の光景を現ず。宿所豊庫旅館の浴室は庭内にレールを敷き、左右に移動し得る装置を有する新意象なり。よろしく自動浴室と名付くべし。

 三十日 曇りのち雨。午前中、南佐久を発して、午後四時、越後の郷里すなわち来迎寺村に着す。

 十月一日 晴れ。早朝、来迎寺より随行黒田忠恕氏とともに軽便に駕し、小千谷町より腕車をとり、車行十一里にして南魚沼郡塩沢町〈現在新潟県南魚沼郡塩沢町〉に着す。ときに午後一時なり。来迎寺よりここに至る道程は十四里ありとす。午後二時、開会。主催は町教育会、会場は小学校、発起は会長井口隆氏、僧侶石井経宗氏、郵便局長会田駒三郎氏等なり。しかして休憩所は井口旅館なり。本町は従来、薄荷円の製造をもって世に知られしも、近年、宝丹、仁丹等に圧せられて、その業大いに衰えたりという。これより六里をさかのぼれば、旧三国街道の二居、浅貝の山駅に達すべし。今は三国村と称す。山高く谷深く、気候寒冷にて米穀を生ぜずといえども、昔時は人馬の来往、昼夜たゆることなく、客舎軒を比べおりたりしに、信越線開通以来、旅客ほとんど皆無のありさまにて、人口は年を追って減じ、現今の戸数五十三戸、その所有の地価総じて二千円、実に寂寞たる寒村となれり。しかして村長の年給に至りては全国無類にして、年額四百八十円、もしこれを戸数に割り渡さば、一戸九円以上を支出せざるをえざる割合なりという。当夜、暗をつきて車をめぐらすこと約一里、郡役所所在地たる六日町〈現在新潟県南魚沼郡六日町〉に至りて開会す。会場は小学校、発起は極楽寺岡部岩雄氏、弘長寺小林了海氏、万歳寺広島教信氏、小倉町長、小島校長、今成青年会長等にして、宿所は恵比須屋旅館なり。余のここにきたるは二十年目に当たる。更にさかのぼりて三十五、六年前には、東京より帰郷の途次、必ずこの地に一泊して翌朝の便船に駕せしことあり。魚野川を隔てて鶏冠山、金城山を望めば、なんとなく懐旧の感を誘起す。塩沢、六日町ともに、開会時間は極めて正確なり。

 二日 曇り。午後、六日町を発して行くこと五里、北魚沼郡小出町〈現在新潟県北魚沼郡小出町〉に至り、正円寺にて夜会を開く。発起は町長西山弥一郎氏、警察署長沢田喜惣治氏、校長五十嵐篤一氏なり。宿所川善旅館は軒下に清流を抱き、左右に両橋を控え、やや風致よし。この日の途上、八海山の雲間に巍立せるを望みて一吟す。

  八海破雲峰頂高、魚川経雨水滔々、秋晴南沼郡中路、一望山河気象豪、

(八海山は雲を破って高くいただきがそびえ、魚野川は雨後の水をあつめてとうとうと流れる。秋晴れの南魚沼郡の道を行き、一望すれば山河ともに風気、形象は豪気である。)

 魚川とは南北魚沼を貫流せる魚野川をいう。他県には防風林、防砂林あるも、魚沼郡内のごとく頽雪防止林あるを見ず。今日の途上にもこの防止林あり。

 十月三日(日曜) 晴れ。朝、親戚関係ある伊倉長三氏来訪あり。これより腕車を駆り、半里強なる堀之内村〈現在新潟県北魚沼郡堀之内町〉に至り、小学校にて開演す。発起は森山汎愛氏、八木純吉氏、米山喜一氏にして、休憩所は渡辺旅館なり。旅館の宿料表を見るに、一等一円、二等八十銭、三等六十銭と記す。当地にも親戚関係の宮祐吉氏あり。日まさに暮れんとするとき車をめぐらし、約二里を隔つる薮神村〈現在新潟県北魚沼郡広神村〉有志家山本丑太郎氏宅にて休憩し、小学校にて開演す。村教育会長星野正斎氏、校長金沢米治氏の発起なり。演説後、更に十余丁を隔つる広瀬村〈現在新潟県北魚沼郡広神村〉字並柳関矢孫一氏の宅に至り宿泊す。同家は郡内屈指の素封家にしてかつ旧家なり。先代関矢橘太郎氏は四十年前の親友なりしも、今は隔世の人となれり。また、本村の資産家酒井文吉氏も同じく旧友なりしも、これまた昨秋、不帰の客となれり。よって所感一首を賦す。

  破水源頭再洗塵、江山独与我行親、談余偶及旧知事、多作幽冥界裏人、

(破間川の源のあたりにふたたび訪ねて俗塵を洗い流す。江山のみがわが旅を親しく迎えてくれる。談話のうちにたまたま旧知のことどもにおよべば、多くは幽冥境を異にした人々となっていた。)

 破川とは破間川をいう。その川は水の清きと、所産の香魚の味美なるとをもって名あり。

 四日 快晴。午前、広瀬村字下条小学校において講演をなす。村長佐藤又一郎氏、校長目黒市郎氏の発起にかかる。しかして親戚にしてかつ旧友なる専明寺住職松木行賢氏がその主動者にして、関矢孫一氏、酒井俊一氏その助力者なり。午後、広瀬渓頭にさかのぼること二里、須原村〈現在新潟県北魚沼郡守門村〉普門院に至りて開演す。村長武本高忠氏、校長高橋勇吉氏、農佐藤熊一郎氏等の発起なり。この地には発電所あれば、村内電灯を用う。黄昏、更に車をめぐらして専明寺〔広瀬村〕に入宿し、当夜、松木氏の設置せる母之会のために一場の談話をなす。

 五日 晴れ。この地方の寒暖は朝気〔華氏〕六十五、六度、日中〔華氏〕七十四、五度、本年は平年よりも温暖なりという。穫稲期すでにきたりて、二、三分どおりを刈り終わる。聞くところによるに、この地方の迷信の一として、菅笠の表に大道寺孫九郎と書するあり、これ雷よけのマジナイなりという。むかし、大道寺孫九郎は剛勇無双なりし故ならんとの説あり。郡内の名物の一種と数えらるるは、舞茸〔まいたけ〕と名付くるきのこなり。これを刈羽郡にては躍茸〔おどりたけ〕というはおもしろし。午前中に広瀬村を発し、車行四里、川口村〈現在新潟県北魚沼郡川口町〉小学校に移りて開演す。校舎は明治九年の建築にして老朽の色あるも、軒前に長江を一瞰するを得て、眺望じつに絶佳なり。発起は校長大森九郎次氏、村教育会長中林杳氏にして、宿所は資産家古田島要治郎氏の宅なりとす。その邸も岩頭断崖の上にありて、臨川の好位置を占む。居宅は庭園とともに目下、改築工事中なり。松木行賢氏は余を送りきたり、ここにて相別る。

 六日 晴れ。車行二里、小千谷より軽便に駕し、正午十二時、来迎寺駅発、姫路直行車に投ず。越後地は穫稲いまだ半ばに達せざるも、富山県はすでに全部終了せり。当夜十一時半、越前国福井市〈現在福井県福井市〉に着し、ただちに佐佳枝下町慶福寺に入る。随行松尾徹外氏は余にさきだちてここにあり。住職恵美竜円氏は数十年来の相識なり。今より十四年前、福井県下周遊の際にも、ここに止宿せしことあり。門庭、堂宇ともに清美にしてかつ閑雅なり。当市滞在中は毎夕その宅に宿し、同氏の厚意をになうことすくなからず。

 七日 曇りのち雨。午後、本派本願寺の経営にかかる北陸中学校、および県立高等女学校において講話をなす。中学校長は楠法竜氏、教頭は関恵秀氏なり。つぎに、女学校長は南浮智成氏、教頭は柴原砂次郎氏(哲学館出身)なり。夜に入りて、春山小学校に至り更に談話をなす。校長は松原富氏なり。

 八日 風雨。驟雨数回きたる。午前、市立商業学校(校長加地吉彦氏)、午後、赤十字社(主事中沢弘恭氏)において講演をなし、更に大谷派別院に移りて講話をなす。その主催は一心会にして、恵美氏の外に原厳修氏、横山晋氏の発起なり。夜に入りて、順化小学校(校長北川倹治氏)に至り談話をなす。この日、県庁理事官湯沢三千雄氏来訪あり。

 九日 晴雨不定。朝、福井市を発し、武生にて換車して今立郡粟田部村〈現在福井県今立郡今立町〉に至る。里程五里あり。越前毎日新聞社長谷口閴電氏(哲学館大学出身)同行す。午後開演。会場は了慶寺、発起は正弥浄教氏、横山善右衛門氏、角与太郎氏、道正治郎兵衛氏、法幸治郎三郎氏等、宿所は富田治郎右衛門氏宅なり。当夜、わずかに十町を隔つる岡本村〈現在福井県今立郡今立町〉細井藤右衛門氏宅に至りて講話をなす。同家養子細井重作氏は哲学館大学出身なり。再び粟田部へ帰りて講話をなす。この地方は奉書紙、鳥之子紙の本場なり。

 十月十日(日曜) 晴れ。午前に粟田部を発し、福井市を経て坂井郡金津町〈現在福井県坂井郡金津町〉に至る。福井をへだつる約六里、会場および宿寺は永宮寺なり。住職太子堂了諦氏の発起にかかる。この寺は聖徳太子に縁故ありとて、姓を太子堂という。よって太子の賛を賦す。

東洋将尽処、仏日照乾坤、光沢今尚浴、上宮太子恩、

(東洋の地のまさに尽き果てるところ、仏の光は天地を照らす。光沢には今もなお浴して、聖徳太子の恩沢は深い。)

 更に夜会を開く。

 十一日 晴れ。午前中、再び福井市に帰り、県立中学校に至りて講話をなす。校長は大島英助氏なり。午後、本派別院において開催せる仏教青年大会に移りて講演をなす。原厳脩氏その幹部たり。当日は県知事佐藤孝三郎氏、市長山品捨録氏、および警察署長の演説あり。別院輪番は野崎流天氏なり。この夕は織物検査所において、仏教顕正会のために開演す。山品市長その会長たり。

 十二日 晴雨不定。朝、県立農林学校にて講話をなす。校長は出田新氏、首席は太野悦太郎氏なり。これより汽車に駕して三国町〈現在福井県坂井郡三国町〉に移り、昼夜両度講演をなす。会場は智教寺、発起は木津祐斯氏、花園将氏、柳村柳村氏なり。姓と名と同一文字なるは他にその類なかるべし。室吉旅館に一休して、即夜帰京の途に就く。本町をへだつること一里の所に芦原温泉あり。近来大いに発展し、温泉客舎数戸あるうち、紅屋をもって第一とすという。

 越前は穫稲期に入るも、いまだ三分の一を刈尽するに至らず。ただし当国は真宗最盛の地にして、昨今各戸報恩講の仏事を営むためにすこぶる多忙を極む。ここに仏教の盛況を一言せんに、檀家は寺院の子弟の修学費、女子の結婚費までを負担し、しかのみならず住職の負債までを引き受けて弁償すという。実に寺院万歳、僧侶めでたしの地というべし。また、民家にては室内を寺式に設置し、仏檀を正面に置き、他室はその前に長く張り出し、多数の人を集合し得るようになりおれり。これ民家にてかわりがわり談僧を招き、法座を開くためなり。一年中農繁期を除くの外は、各部落において毎夜説教ありという。寺院の説教よりも民家の説教の盛んなるは越前の特色なり。故に他県よりたえず説教僧が入りきたる由。かく今日は仏教依然として隆んなるも、この勢いを幾年の後まで継続し得るやは大いに考慮するを要し、かつ僧家は今より深く警戒するところあるを要するなり。

 十三日 晴れ。昨夜十二時半、福井を発し、今朝六時半、京都に着す。御大典の予参をなすためなり。ときに私用ありて大阪へ往復し、当夕八時京都発にて十四日午前八時帰京す。車中に越前再遊の七絶一首を浮かぶ。

再転法輪入越南、九竜川上覚秋酣、講余幸有香魚好、併得雲丹酒自耽、

(再び仏法を説きつつ越前の南部に入れば、九頭竜川のほとりでは秋もたけなわの思いがした。講演の余暇には香魚の美味もあり、それとともに雲丹を得て酒をおのずからたのしんだのであった。)

 帰京後、二十三日と二十四日両日を卜して、哲学堂内設置中の御大典紀念図書館の披露をなすことに定め、各所へ左のごとき案内状を発す。〔以下、原文のまま〕

(前文略之)去る明治三十九年拙者神経衰弱の為に自ら哲学館を隠退し私産を挙げて之に寄附し財団法人を組織せしより療養旁日本全国各郡各郷を巡遊して国民道徳の普及を計らんと欲するに当り之と同時に東京市外に学生青年等の精神修養的公園を設置せんと欲し豊多摩郡野方村字江古田の地内に哲学堂を建設することに定め爾来十年間苦心経営独力拮据の結果幸に四聖堂六賢台三学亭宇宙館皇国殿唯物園唯心庭等を併置し又御大典紀念として着手せる図書館及陳列所も略落成候に付本月二十三日及二十四日午後一時より五時までの間に朝野紳士の御来堂を乞ひ堂内御一覧を願ひ度茲に御案内申上候何分市街と懸隔せる地なれば何等の御饗応は出来兼候へ共粗茶だけ差上申度候間当日郊外御散策又は御出駕の御序に御立寄被下候はゞ大幸此事に候

哲学堂の位置は新宿駅より一里、目白駅より二十三丁、中野駅(又は柏木駅)より十八丁、新井薬師より十丁有之候

本堂は七八分通り出来上り候に付今後は時々日曜講演又は講習会を開催致心得に候然し全部完成までには尚ほ数年を要すべく其間に図書館陳列所を充実する外に三祖苑史蹊を増設し更に進んで庭外に学生監督所も設置致度心算に候而して他日愈々完成の上は決して之を子孫に譲与するの念慮なく全部を挙げて国家社会に貢献する微衷なればツマリ拙者の死後之を遺物として世間へ進呈し以て国恩世恩に報謝する心得に候此段御記憶願度候

 そのとき余の来賓に対する挨拶は左のごとし。〔以下、原文のまま〕

今日は斯る僻陬へ御枉駕被下、御立寄の栄を辱うせるは誠に有難く衷心より深く感謝する所であります、折角の御光臨に対し、何等の御饗応も出来兼、汗顔の至りなれども、聊か粗末の茶とビール丈備置たれば、御適意に召上り下されたい、何分礼を知らざる野人の事なれば、御待遇上種々失敬の点も多かるべきも、御宏量を以て御許容あらんことを祈ります、庭内は大半落成とは申しながら、未だ完備せざる所多きも、各所御高覧を賜はり度、此に道順を申上げて置きませう、

四聖堂・↓理想橋、理外門(開扉則扉作屋)読書堂 絶対城、聖哲碑、大観台・↓論理関帰納場、演繹観、一名傘亭・↓唯心庭先天泉、心字池、鬼灯、主観亭等・↓独断峡、学界津。二元衢、造化澗、経由 唯物園 自然井、後天沼(扇状沼)、原子橋(扇骨橋)、狸灯、神秘洞、物字壇、客観盧等・↓三祖苑 設計中・↓感覚巒、経験坂、筆塚、経由 六賢台・↓鬼神窟 随意休憩・↓万象庫 内地旅行記念物陳列所・↓三学亭・↓宇宙館、皇国殿 休憩

追て今後の継続事業は、御大典紀念図書館の内容を充実する外に、時々講話又は講習会を開きて、青年学生を指導し、猶ほ進て庭外に監督所を設けて、自ら学生監督の任に当りたいと思ひます、今日世間の学生を見渡すに、各学校に於て斐然として章を成すも、之を裁する所以を知らざるもの多き様なれば、不肖ながら老後の残生は専ら之を学生監督指導の任にあてはめ、国恩の万一に報いたい志望であります、斯くして本堂を完成し、且つ維持法を確立したる上は、固より子孫に譲与するの念などは毛頭も之れなく、全く国家に貢献する本意なれば、他日永眠に就く場合には、全部を挙げて財団法人にする歟、若くは政府に献納する決心なること、併せて御承知下されんことを願上ます、

 その後、各新聞にて紹介を得たるも、『万朝報』の記事最も簡明なれば、左に転載す、〔以下、原文のまま〕

豊多摩郡野方村大字江古田の和田義盛遺跡和田山へ、文学博士井上円了氏が経営中の精神修養的公園及び哲学堂の建設落成の域に達したので今廿四日朝野の人々を招き一覧せしめる、博士は最初哲学館の移転地として購入し、同館が東洋大学の認可を受くるに及んで記念として孔子、釈迦、瑣克剌、韓図を奉崇せる四聖堂を此処に建立した、其後大学は移転しない事となり、次で博士は病の為め私材十余万円を大学へ寄附して退穏すると共に此地全部を引受けて理想的庭園を開き市郡の青年学生等の精神修養場たらしめんと計画し大活動で全国を周遊し、講演に揮毫に得た報酬を投じて、更らに東洋三国の賢哲を奉崇せる六賢台、神儒仏の碩学を奉崇せる三学亭を創建したのだ、之れ等を総称して哲学堂と呼ぶのである、設計は皆意を用ひ、各所の名称は悉く哲学に因んだ語を適用してある、庭園は丘上と丘下に別れ、丘下に左右両翼があつて、右翼に物字園を左翼に心字庭を設く、之れは唯物論と唯心論とを表示したもので、唯心庭には意識駅、直覚径其他十二の名所がある、巡覧するには常識門を潜つて髑髏庵で休憩した上、四聖堂より六賢台へ登り、右折して筆塚を過ぎ経験坂を降つて唯物園に逍遙し、水流に沿うて唯心庭へ至り論理境を経て四聖堂へ返へり、最終に三学亭へ登るが順である、園内には図書館、博物館もある、博士の死後は是等総べてを政府へ献納するか公共団体へ寄与する積りだそうな、因に毎日朝八時より晩五時まで、一般公衆の観覧を許す、(以上新聞記事)

 本年六月以来一日の休暇も取れざれば、心身を休養せんと欲し、十月二十七日より箱根小湧谷三河屋に入浴すること一週日に及ぶ。函山漫吟一首あり。

  昨雨函山鎮路塵、秋晴今日暖如春、霜風未染林巒色、只与白雲流水親、

(昨日の雨で箱根の山路の塵もしずまり、秋晴れのきょうは春のような暖かさとなった。霜をふくんだ風はまだ林や山の色を染めるにいたらず、ただ白雲流水とともにしたしみいつくしむのである。)

 今秋は暖気のためにいまだ紅葉期に入らず。また客中、御大典奉祝の予吟をなす。

搢紳雲集洛陽宮、盛典如斯前後空、四海八巒帰聖徳、千門万戸仰仁風、謳歌声漲山河震、旭日旗連天地紅、草莽微臣将献寿、吾皇宝祚永無窮、

(高貴なる人々が京師に雲のごとくつどう。御大典はかくのごとく空前絶後の盛典である。海内と八州のすべてがご聖徳に帰依し、幾千幾万の人々はそのご仁慈を仰ぐ。ほめたたえる歌声はみなぎりて山河をも震わすほどであり、旭日旗は天地をあかくいろどるほどに連なる。民間のとるに足りぬ臣下〔私〕は帝のご長寿を祝福せんとする。わが皇室、天子の位は永遠に窮まりないのである。)

 御大典当日(十一月十日)は哲学堂に謹慎して祝意を表し奉る。

 

     信越三州一部開会一覧表

   県    郡     町村    会場    席数   聴衆     主催

  長野県  南佐久郡  臼田町   小学校    二席  七百五十人  佐久修身談話会

  新潟県  南魚沼郡  六日町   小学校    二席  一千人    寺院有志

  同    同     塩沢町   小学校    二席  七百五十人  町教育会

  同    北魚沼郡  小出町   寺院     一席  八百人    教育会連合

  同    同     堀之内村  小学校    二席  四百人    村教育会

  同    同     薮神村   小学校    二席  四百五十人  村教育会

  同    同     広瀬村   小学校    二席  三百五十人  村教育会

  同    同     同     寺院     一席  四百五十人  母之会

  同    同     須原村   寺院     二席  三百人    村教育会

  同    同     川口村   小学校    二席  三百五十人  教育会および婦人会

  同    同     同     同前     一席  四百五十人  軍人分会および青年会

  福井県  福井市         私立中学校  一席  五百人    北陸中学校友会

  同    同           高等女学校  一席  六百人    校長

  同    同           小学校    二席  三百五十人  春山教育会

  同    同           商業学校   一席  三百人    同校

  同    同           赤十字社   一席  百五十人   看護婦人会、愛国婦人会

  同    同           大谷派別院  一席  五百五十人  一心会

  同    同           小学校    二席  六百人    順化教育会

  同    同           県立中学校  一席  六百五十人  同校講演部

  同    同           本派別院   一席  一千人    仏教青年会

  同    同           織物検査所  一席  百五十人   顕正会

  同    同           農林学校   一席  三百五十人  農友会

  同    今立郡   粟田部村  寺院     三席  四百人    仏教青年会

  同    同     岡本村   民家     一席  二百五十人  有志者

  同    坂井郡   三国町   寺院     一席  五百人    仏教婦人会

  同    同     同     同前     一席  五百人    町青年会

  同    同     金津町   寺院     四席  八百人    上宮教会

   合計 三県、一市、五郡、十三町村(六町、七村)、二十七カ所、四十二席、聴衆一万三千八百人

    演題類別

     詔勅修身     二十二席

     妖怪迷信       三席

     哲学宗教       十席

     教  育       三席

     実  業       二席

     雑  題       二席

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栃木県東北部巡講日誌

 大正四年十二月一日 晴れ。朝七時、上野発にて随行松尾徹外氏とともに栃木県に向かい、小山および下館にて両度換車し、芳賀郡真岡町に停車する際、郡長中津川秀太氏、車中へ来訪せらる。午前十一時、益子町〈現在栃木県芳賀郡益子町〉に着し、午後、小学校にて開演す。この日、風寒くして野外田間に薄氷を見る。郡視学宮本勇氏ここに出張せらる。主催は町青年会にして、発起者は町長平野良知氏、助役小熊浜吉氏、同鯉淵次儀氏、青年会長篠崎忠亮氏(校長)、副会長豊田甲之助氏等十一名なり。しかして宿所は岡田屋旅館とす。当町の物産は陶器にして、一年の産額十万円以上と算せらる。しかるに市中を一過するも、一戸として陶器を陳列せる大店なく、人をして陶器町たるを知らざらしむるはすこぶる奇なり。いわゆる良賈は深く蔵するの意か。これ能州輪島が日本一の漆器製産地なるにかかわらず、その市中に漆器を開店せる家なきと同一般なり。また、本町には灸点をもって有名なる寺あり。その名を鶏足寺という。毎月旧暦の十七日、二十七日を灸日と定むるに、当日は数百名の病者遠近より群来し、門前市をなす由。一時その日を新暦に定めたるも、病客更にきたらず、よってたちまち旧に復したりと聞く。人これを評して、灸は旧と音相通ずるにより、旧を用うるが当然なりという。

 二日 快晴。暁寒〔華氏〕三十八度、瓶水氷を結び、厳冬に入るの思いをなす。この日、東京にては御大典の大観兵式あり。車行一里余にして田野村〈現在栃木県芳賀郡益子町〉に至り、昼間、小学校、夜間、妙伝寺において両度開会す。宿所もまた妙伝寺なり。同寺は真宗本派にして、住職毛利定寿氏は今回の主催とす。村長柳務氏も助力あり。本村は純然たる農村なり。

 三日 晴れ。田野を発し、益子を経て七井村〈現在栃木県芳賀郡益子町〉小学校に至りて開演す。行程約二里、校前の旅館田中屋に少憩せるに、宿料上等七十五銭、中等五十銭、下等三十五銭の掲示あり。なお聞くところによるに、酒一升上等五十銭という。物価低廉の地なるを知るに足る。田地の収穫は一反につき二石ないし三石以上、しかして売価一反二百円ないし三百円という。これまた安価なりとす。当地発起は村長小滝為吉氏、校長石塚幸八氏等にして、宿所は県会議員佐藤俊明氏新築邸宅の楼上なり。軒前の風光、四時春のごとくすこぶる佳なるにより、春明楼と命名す。当地は真岡鉄道の終点なり。従来、宇都宮と笠間との中央に位せる小駅にして、いずれへも六里を隔つ。浄土宗の一本山なる大沢山円通寺は本村にあり。

 四日 晴れ。ただし風寒し。七井より車行二里にして小貝村〈現在栃木県芳賀郡市貝町〉字文谷に至る。この日、途上吟一首を得たり。

  東毛曠野路漫漫、木落草枯眼界寛、車上行看冬已満、晃山雪色射人寒、

(東毛の広々とした野をゆく道はながながとつづき、木の葉も落ち、草も枯れはて、視界もひろがる。車上に行きゆきてみれば、冬はすでに満ちあふれ、日光山の雪の色は人を射すくめるようにさむざむとしている。)

 日光の三山ともに雪をいただきて鼎立せる状を望見するは大いに壮快を覚ゆ。会場兼宿所たる光賢寺は真宗大谷派なり。住職加藤靝正氏は発起者として大いに尽力あり。その他、郡書記水野𨩃太郎氏(臨時村長)、医師桜井平造氏、教員邦井国松氏、有志家小峯房吉、関沢秀雄、佐藤保平、吉住縫治、大久保均の五氏等の発起にかかる。この地方はタバコの産地にして、馬背に載せて続々タバコを運出するを見る。

 十二月五日(日曜) 快晴。朝寒〔華氏〕三十七度。暁霜雪のごとし。車上寒気靴に徹し、指頭痛みを感ず。東京よりも寒気平均五、六度強きを覚ゆ。文谷を発し林巒の間を上下して那須郡に入り、烏山町を経て那珂村〈現在栃木県那須郡小川町〉小学校に至る。行程六里余、途上麦田多し。郡視学橋本新太郎氏ここにありて迎えらる。午後開会。村教育会の主催にして、村長青柳与平氏、校長市村隆氏の発起にかかる。本村は那珂川に面し、平原に踞し、新開地の趣あるも四通八達の便を有す。

 六日 穏晴春のごとし。霜気をおかして客舎を発し、那珂川の仮橋を渡り、渓山の間に入ること一里余にして馬頭町〈現在栃木県那須郡馬頭町〉に至る。この地方は養蚕に適すという。更に小渓の間に入り行くこと半里にして矢又小学校に至り、午前より午後にまたがりて開演す。主催は郡通俗教育会にして、発起は町長大森鉄之助氏、助役藤田庄之助氏、馬頭校長笠井捨松氏、矢又校長和田勇氏等なり。演説後、更に車をめぐらして馬頭町に至り、倶楽部兼劇場において夜会を開く。主催は町教育会にして、発起は前のごとし。しかして宿所は川崎旅館なり。その後楼は二箇の土蔵を土台石に代用して建設したる新案の建築なれば専売特許の価あり。当町は前後に天然の山屏風をめぐらし、寒風を防止せるために比較的温暖なりという。今夕の寒暖〔華氏〕五十八度。

 七日 晴れ、ただし風あり。渓間にさかのぼること二里、大内村〈現在栃木県那須郡馬頭町〉谷川小学校に至りて開演す。この大字より茨城県国界まで半里、大子町まで三里ありて、馬頭より大子に出ずる駅道に当たり、毎日馬車の往復あり。村内第一の物産はタバコとす。開会発起は村長岡田政之氏、教員高橋鹿之助氏等九名、および谷川小学校同窓会なり。講演後、車をめぐらして馬頭町川崎屋に帰る。途中、寒風砂をまき面をつききたる。

 八日 快晴。馬頭を発し、那珂川を渡船して七合村〈現在栃木県那須郡烏山町・小川町〉字白久に至る。行程一里余。会場は小学校代用の長泉寺なり。午前、開演す。村長佐藤茂氏、校長高橋寒二郎氏の発起にかかる。本郡に入りてより車上所見を賦したる一絶あり。

  珂水源頭試客遊、渓行数里度林邱、暁霜如雪山田白、埋没麦芽青已抽、

(那珂川のほとりで旅客の遊びをなす。谷ぞいに行くこと数里、林や丘を経たものである。暁の霜は雪のように山や田を白々とそめているが、うもれていた麦の芽の青みがすでに地表にみえる。)

 午後、更に車を走らすこと二里、烏山町〈現在栃木県那須郡烏山町〉小学校に至りて開演す。発起は町長川俣英夫氏、助役小峯関三氏、書記五味門寿氏なりとす。当夕、真宗大谷派寺院慈願寺において夜会を開く。住職那須信英氏の主催なり。この町には川俣町長の経営にかかる私立中学あり。当地は郡内第一の商業地なるも、交通の不便を欠点とす。宿所叶屋旅館は三層楼なり。

 九日 晴れ。この日、東京市御大典奉祝会あり。朝、烏山より渡船して境村〈現在栃木県那須郡烏山町、芳賀郡茂木町〉小学校に至る。里程約一里、茨城県に隣接す。開会は午前なり。村長佐藤金五郎氏、校長内藤六助氏の発起にかかる。本村は製紙を業とするもの多く、ことに西内紙の本場と称し、年額十万円を産出すという。午後、更に烏山を経、向田村〈現在栃木県那須郡烏山町〉向田小学校に移りて開演す。行程約二里。村長岡本長夫氏、区長石川峯吉氏、教員磯博氏、郡会議員樋山勇次氏等の主催なり。宿所は有志家羽石広美氏宅にして、新築まさに成り、用材またよし。

 十日 晴れ、しかして風。向田より再び烏山を経、車行約四里、丘陵の起伏せるありて、駅路高低多し。荒川村〈現在栃木県那須郡南那須町〉鴻野山小学校に至りて開演す。村長塩谷敏氏、校長吉成兼太郎氏等の発起なり。演説後、更に車行二里、宝積寺駅より汽車に駕し、西那須駅に降りる。日まさに暮るる。山風吹き荒み砂土を巻く。寒気また強し。灯を照らして腕車に移り、行くこと一里余、郡内の首府たる大田原町〈現在栃木県大田原市〉に入り、奈良屋に宿す。この間には人車鉄道あり。本夕、郡長富田美次郎氏来訪せられ、旅館において晩餐をともにす。奈良屋は一名美和亭と呼ぶ。奈良のハタゴヤ三輪の茶屋よりその名を取れりというはおもしろし。夜に入りて風力更に烈を加う。聞くところによれば、本郡の名物はカラ風、雷鳴、カカー天下の三なりという。群馬県の名物に同じ。余は今より三十七年前(明治十二年)、この町を一過せしことあり。その当時を回想するに、茫として夢のごとし。ただ、街路の両側に水の流れおりたるを念頭にとどむるのみ。

 十一日 穏晴。早朝、東洋大学幹事郷白巌氏の師たる則道謙氏(洞泉院住職)来訪あり。午前、県立中学校に至りて講話をなす。校長は田村安太郎氏なり。その校に奉職せる人見伝蔵氏は哲学館大学の出身たり。午後、小学校にて更に開演す。町長大橋直次郎氏、校長生沼米太郎氏、宗教家中井本儀氏の主催にして、忍精寺住職増田大忠氏、有志家石和田幸太郎氏等助力せらる。この学校の天井に妖怪の形を印せる跡あれば、怪しみてなにものの所為かとたずねたるに、生徒が雑巾がけをなしたる際に、おもしろ半分にその雑巾を上へ投げて印せしめし跡なりという。他府県の某学校にこれに類したる跡ありて、妖怪騒ぎを引き起こせしことあるが、その正体この事実によりて説明し得べし。当夕、宿所において郡長、町長等十七名の諸氏と会食す。本郡は東西約八里、南北十六里半、面積九十三方里、人口十五万人、町村三十一個、学校百三十校を有する大郡なり。那須村一カ村の面積が足利郡より広しという。郡内の名所としては佐久山村字福原に那須与一の碑あり。湯津上村に日本三大古碑中の第一と称せらるる国造の碑あり。ともに大田原より二里内外の地点に存立す。しかして那須の殺生石は十余里を隔つ。もし大田原の名物いかんを問えば、納豆とカラ風なりという。また、郡内の宗教としては曹洞禅最も多し。各町村の開会は橋本郡視学の周到なる注意になり、時間すこぶる精確なりしは、他の模範とするに足る。

 十二月十二日(日曜) 快晴。朝寒〔華氏〕三十六度。午前、美和の茶屋を発し、馬車にて西那須に至る。中間に乃木神社の新たに設立せられしを見る。その地は狩野村に属す。これより汽車によりて黒磯町〈現在栃木県黒磯市〉に移り、小学校にて開演す。この辺りは一体にもと那須野の原にして、荒野海のごとくなりしが、今は耕地横縦に連なる。黒磯のごときは全く各県の移住民より成れる新開町なり。街路の幅九間、小学校の敷地約一万坪を有するは、新開地たるを証するに足る。物産はタバコと薪炭を主要なるものとす。本町より那須湯本温泉まで四里、板室温泉まで六里なりという。開会主催は町長山口兵吉氏、校長菊池慶吉氏なりとし、宿所は駅前の烟草屋旅館なりとす。余は昨年十月下旬、福島行の途上ここに一泊せしが、その後間もなく全焼せし由なるも、今は新築全く成る。その向かい側に湯本温泉旅館小松屋支店あり。

 十三日 快晴。再び汽車により黒田原駅に着するに、駅前の松林の間に炭俵積みて山を成す。一目して薪炭の産地たるを知る。もしその価を聞けば、炭一俵(五貫目入り)売価普通三十銭、最上等四十銭なりという。更に腕車にて行くこと一里余にして芦野町〈現在栃木県那須郡那須町〉に入る。地勢高低多く、道路佳ならず。当町は昔時奥羽街道に当たり、旅客多く休泊せしも、国道の変更と鉄路の懸隔とにより、全く農村に化し去れり。余は明治十二年この駅に一泊して、翌朝白川に入りたるを記憶す。会場建中寺は清閑なる禅寺なり。鈴木智道氏これに住す。発起は町長加藤信太郎氏、校長阿美重知氏、学務委員渡辺彦兵衛氏等にして、宿所は丁子屋旅館なり。

 十四日 晴れ、かつ風。朝、芦野より黒田原を経、鉄路によりて西那須駅に降車す。那須郡九日間の開会も滞りなく終了し、その間案内の労をとられたる橋本郡視学にここに至りて別れを告げ、かつその厚意を謝す。ときに塩谷郡視学臼井友四郎氏の迎えらるるに会し、ともに馬車に同乗して塩原村〈現在栃木県那須郡塩原町〉に向かう。天ようやく曇り、風ようやく寒し。福渡旅館満寿屋に着せしときは午後一時を報ず。西那須駅より道程約六里、会場小学校は門前にあり。郡長岩田亀松氏もここに出張せらる。演説後、烈風雪を吹ききたり、寒気膚を裂かんとす。宿所に帰りて一浴の後、数名の発起諸氏とともに杯を交ゆること両三回、満身たちまち回春を起こす。主人臼井吉左衛門氏は村長にしてかつ発起人なるが、客に酒をすすむること最も巧みなり。その他の発起者は学務委員池田鎤橘氏、下塩原校長小林浩三郎氏、上〔塩原〕校長高瀬趣氏、妙雲寺住職平元徳宗氏等とす。

 十五日 雪のち晴れ。夜来の積雪約二寸に及び、暁窓一面に銀世界を現ず。余の塩原に浴詠することここに数回なりしも、雪景に接触せるは今回をもって初回とす。よって一句をとどむ。

  春もよし夏はなほよし秋もよし、冬も亦よし塩原の里、

 午前十時、馬車にて雪途をうがち、箒根〔村〕〈現在栃木県那須郡塩原町〉関谷小学校に至る。この間二里半の途上、両崖の林頭に玉屑を点綴せる光景は、実に吟賞するに余りあり。よって一詠す。

  山風醸雪昼冥濛、入夜泉楼客亦空、暁起開窓天地白、塩渓無処不玲瓏、

(山から吹きおろす風は雪をもたらして、昼もなおうす暗く、夜に入って温泉旅館の客もまた少ない。朝早く起きて窓をあけて見れば、天も地も白く、塩原の谷は玉のように美しいところなのである。)

 馬車中に炬燵の設備あるはすこぶる新意象なり。先年、山口県岩国の錦川において船中に炬燵の設備あるを見たりしが、塩原の馬車と好一対というべし。箒根開会主催は村長印南束氏、校長江連初太郎氏等なり。この校庭内に駐蹕紀念碑あり。その文を一読するに、今上天皇陛下には皇太子殿下の当時三十回駐蹕したまいし学校なるを知る。けだし全国無類ならん。演説後、軌道に駕し軽便に乗じて、再び那須郡西那須野村〈現在栃木県那須郡西那須野町〉駅前の大和屋旅館に入る。行程三里のところを約三十分間にて達せり。今夕は臨時〔に〕本村長田島弥三郎氏、僧侶丘誓成氏、校長下司新四郎氏等の依頼に応じて、倶楽部において演説をなす。大田原より郡長は郡視学を伴いて出席せらる。当村はもと故三島〔通庸〕県知事の力によりて設立せる新開村なり。村内に三島神社あり。

 十六日。西那須より鉄路により矢板駅に降車し、更に車行一里、塩谷郡泉村〈現在栃木県矢板市〉小学校に至りて開演す。村長石下仙平氏、校長高橋吉一氏等の発起にかかる。県視学矢板大安氏ここに出張あり。演説後、車をめぐらし、矢板町住吉屋本店に帰宿す。本町もまた、三十七年前一泊せし余の旧跡なり。今は昔日の寒村なりしに反して郡内の首都となる。

 十七日 晴れ。暁気室内〔華氏〕三十四度。午後、矢板〈現在栃木県矢板市〉小学校にて開演す。主催は学校組合会にして、町長小野崎吉一郎氏、校長福富準四郎氏、有志家君島与一郎氏等の発起にかかる。当夕、岩田郡長をはじめとし、課長加藤国松氏、同高田彦四郎氏等と会食す。聞くところによるに、矢板町は宇都宮へも九里、日光へも九里、宇都宮と日光との間もまた九里なれば、まさしく等辺三角形をなす。かつ古来、日光のバカ九里と称し、いずれの地よりも九里ありという由。矢板よりも九里、宇都宮よりも九里、喜連川町よりも九里、氏家町よりも九里、今市よりも九里ありとす。今市より日光は里程二里なるも、その間に七里と名付くる村落ありて、これを一過するにより九里と唱えきたるとは滑稽なり。

 十八日 晴れ。矢板より汽車に乗じ氏家駅に降車し、更に人車鉄道に移り、走ること約二里にして喜連川町〈現在栃木県塩谷郡喜連川町〉に入る。当町は大田原と同じく旧城下にして、もと奥羽街道の要駅たり。町名はむかし狐川と書きし由。狐川と聞けば、余の研究的町村なるがごとし。会場は小学校、主催は通俗教育会ならびに各宗寺院、発起は町長笹沼仲右衛門氏、校長伊藤齢吉氏の外に僧侶大野宋達、菊地亀乗、黒羽照栄の三氏なりとす。当町には私立女学校二校ある由。

 十二月十九日(日曜) 晴れ。車行一里、熟田村〈現在栃木県塩谷郡氏家町・高根沢町〉字狭間田小学校に至りて開演す。発起は村長塚原貞一郎氏、校長肥後与平氏、区長坂本辰之助、高橋直吉、小野勘次郎三氏なり。休憩所に当てられたる青木義雄氏の邸宅は、華族の別荘的構造と風致とを有す。熟田は純然たる農村にして、しかも村名のごとく米田よく熟すとの評あり。一反の収穫平均六俵、小作料は二俵ないし二俵半なる由。演説後、車を駆ること一里強にして氏家町〈現在栃木県塩谷郡氏家町〉駅前綿屋旅館に入宿す。

 二十日 晴れ。午後、氏家町小学校において開演す。町長石井信六氏、校長斎藤兼三郎氏等の主催かつ発起にかかる。この地鬼怒川の畔にあり、鬼怒川とは名を聞くもなお恐ろしきを感ず。その実、さほどの激流にあらず。晩食後、汽車にて宇都宮市〈現在栃木県宇都宮市〉に向かう。臼井郡視学には塩原以来連日案内の労をとられ、かつ別れに臨みて腹内用の防寒品を寄せられたるを謝す。当夜、県教育会の主催にかかる通俗講話会に出演するに、一天雲なく満月皎々、霜気稜々たり。会場は女子師範学校講堂にして、発起は県理事官新開渧観氏および県視学村上沼一郎氏なりとす。新開理事官は県下三郡長へ紹介の労をとられたり。宿所は一等旅館白木屋本店なり。

 二十一日。午後、高等女学校に至り、校友会のもとめに応じて講話をなす。現今生徒七百名以上、女学校中の大校なり。校長伊藤裕氏はもと哲学館の出身にかかる。その縁故をもって今回は種々斡旋せられたり。首席教諭稲葉賢介氏も助力あり。宇都宮の名物は干瓢火鉢なり。伊藤氏より達磨形の大火鉢を恵まらる。これを携帯して午後三時発に乗り込み、六時帰京す。

 栃木県東北三郡の風俗、人情、言語等を一括して示さんに、土地広く原野多きために県下の北海道をもって目せらるも、交通の便相応に開け、人口戸数も決して稀少なるにあらず。人気は概して淳朴なり。宗教の勢力弱きも茨城県よりも勝れり。迷信もはなはだしきを認めず。学校にいたりてはその数非常に多く、塩谷郡のごときは十六カ町村にして六十七校を有す。すなわち一村四校以上の割合なり。町村の負担の重さを推知するに足る。各学校に大抵みな教員住宅を併置す。市街の道幅は一般に広く、七間ないし九間あり。風呂は多く旧式の鉄砲風呂を用い、長州風呂、五右衛門風呂ともに行われず。旅館にては毎朝必ず茶に添うるに梅干をもってす。これ関東式なり。農家の茶菓子は漬け物を用うるを常とす。これ九州式なり。方言としては、藁を積みて塚形をなせるものをノーといい、刈稲を乾かすために横木に掛けたるものをオダマキといい、独木水車をバッタラともバンカラともいう。塩谷郡内にて聞くに、名詞の下にメを添うる癖あり。例えば蚊をカメといい、馬をウマメという類なり。これ南部や秋田のコを添うるにひとし。また、那須郡内にて聞くに、市子口寄せをワカという。多く婦人にして、人のもとめに応じて予言をなす。その中に二種ありて、弓を鳴らして祈請するものと、一種秘密の箱に向かいて祈請するものある由。これ他府県の市子に同じ。要するに言語は東京語に近く、解しやすく通じやすし。かつ茨城県よりもいくぶんか発音の正しき点あるを覚ゆ。語尾にダンベを付くるは全く関東式なり。

 二十二日。新潟県の郷里より舎弟井上円成病気危篤の電報に接し、二十三日の急行にて郷里に向かう。信州より雪を見、郷里にて雪を踏む。病気も幸いに危篤を免れたるをもって、ただちに上京す。気候の不同のために風邪をになって帰る。

 

     栃木県東南三郡開会一覧

 郡     町村      会場     席数   聴衆     主催

芳賀郡   益子町     小学校     二席  五百人    町青年会

同     田野村     小学校     一席  三百五十人  寺院

同     同       寺院      一席  二百五十人  同前

同     七井村     小学校     二席  五百五十人  村役場

同     小貝村     寺院      二席  三百五十人  村内有志

那須郡   大田原町    中学校     一席  四百人    校友会

同     同       小学校     二席  六百人    町内有志

同     馬頭町     小学校     二席  四百五十人  郡教育会

同     同       倶楽部     一席  八百人    町教育会

同     烏山町     小学校     二席  九百五十人  郡教育会

同     同       寺院      一席  二百人    寺院

同     黒磯町     小学校     二席  三百人    町長および校長

同     芦野町     寺院      二席  三百五十人  町役場

同     那珂村     小学校     二席  八百人    村教育会

同     大内村     小学校     二席  四百人    同村

同     七合村     寺院      二席  三百五十人  同村

同     境村      小学校     二席  二百五十人  村教育会

同     向田村     小学校     二席  三百五十人  同村

同     荒川村     小学校     二席  三百人    同村

同     西那須〔野〕村  倶楽部     二席  四百人    同村

塩谷郡   矢板町     小学校     二席  五百五十人  学校組合会

同     喜連川町    小学校     二席  六百五十人  教育会および寺院

同     氏家町     小学校     二席  五百五十人  学校および役場

同     塩原村     小学校     二席  百五十人   学校組合会

同     箒根村     小学校     一席  二百人    同村

同     泉村      小学校     二席  三百五十人  学校組合会

同     熟田村     小学校     二席  四百人    学校組合会

宇都宮市          女子師範学校  一席  五百人    県教育会

同             高等女学校   一席  七百五十人  校友会

   合計 一市、三郡、二十三町村(九町、十四カ村)、二十九カ所、五十席、聴衆一万三千人、日数二十一日間

    演題類別

     詔勅修身     二十席

     妖怪迷信      六席

     哲学宗教      七席

     教  育      三席

     実  業      五席

     雑  題      九席

P394--------

大正四年度報告

 例によりて余の本年中における事業を報告せんに、著作の方にては、

  大正徒然草     全一冊  大正四年六月二十一日  妖怪研究会発行

  哲学堂ひとり案内  全一冊  大正四年十二月十五日  国民道徳普及会発行

  南船北馬集  第十編 二月四日発行  同十一編 十二月十八日発行

 哲〔学〕堂経営の方は図書館の新築を完成し、霊明閣を創建し、陳列所を開設し、帰納場および三祖壇を築造せり。

 つぎに、巡講の方は前掲の合計を再記して総計を表示すべし。

  十七郡、九十五町村、百八カ所、二百一席、四万三千五百五十人(岡山県)

  一市、九郡、六十二町村、九十カ所、百四十七席、三万七千六百十人(秋田県)

  一市、五郡、十三町村、二十七カ所、四十二席、一万三千八百人(信越一部)

  一市、三郡、二十三町村、二十九カ所、五十席、一万三千人(栃木県三郡)

   総計 三市、三十四郡、百九十三町村、二百五十四カ所、四百四十席、十万七千九百六十人(大正四年度)

 すなわち演説四百四十席を重ね、聴衆十万七千九百六十人に対して国民道徳の講話をなせしなり。

 もしこれに明治三十九年より昨年末までの総計を合算すれば(その表は第十集の巻末にあり)、

四十六市、三百四十九郡、一千六百二十九町村、二千百四十八カ所、三千九百八十四席、百二万九千九百五十人(注意、この合計中には郡町村の二、三カ所重複せるものあれば他日訂正すべし)。

 すなわち明治三十九年はじめて地方巡講に取りかかりし以来、十カ年間における総合計にして、二千百四十カ所において、三千九百八十四席の演説を重ね、百二万九千九百五十人の聴衆に対して講話せしなり。

     (付)哲学堂会計報告

一、収入合計 金一万二千四十五円五十九銭

   内訳 金六千九百三十六円七十九銭     前年度剰余金

金四千九百五十三円七十銭      揮毫謝儀

金五十二円也            篤志寄付

金百三円十銭            銀行利子

一、支出合計 金八千三百十三円五銭也

   内訳 金三千五百円也(一月二十九日)   基本財産へ移す(第一回)

金二千八百十五円五十四銭      図書館、霊明閣建築費

金九百三円七十四銭         庭園修繕および新設費ならびに図書館陳列所器具購入費

金四百三円七十銭          書籍、報告、規則等印刷費

金六百九十円七銭          事務費、俸給、郵税および図書館披露会諸費

差し引き 金三千七百三十二円五十四銭      剰余金

 

  以上 大正四年十二月三十一日決算

P395--------

鎌倉遊寓記

 大正五年一月元旦。朝九時、京北中学に至り、湯本〔武比古〕校長旅行中なれば、氏に代わり勅語を捧読して賀辞を述ぶ。その日の拙吟、左のごとし。

  干是丙陽支是辰、喜吾頑健遇斯春、誰疑国運従今後、如日如竜必大伸、

(十干はひのえ、十二支はたつの年、喜ぶべし、われ頑健にしてこの新春を迎えたるを。いまより後、国運が太陽のごとく竜のごとく、必ずや大いにのびゆくであろうことを、だれがうたがうであろうか。)

 四日。東洋大学の新年宴会に出席し、余の境遇につきて卓上演説をなす。その要旨を括約すれば、紳士が田舎にあれば人これを呼びて田紳という。されば学者が田舎におれば、人必ずこれを田学というべき理なり。余の今日の境遇はそのいわゆる田学なり。これに反して常に都下に起居し、位階を帯び、官禄にはむ学者は官学というべし。官学もとよりとおとしといえども、田学また決していやしむべきにあらず。これを食物に比考するに、鯛のサシミ、鯉のイキツクリなどは官学に類するものなり、豆腐料理のごときは田学にひとしきものなり。田学は田楽と音相通ず。故に余は豆腐の田楽をもって自ら任ずるものなり。鯛のサシミは貴人の膳に上るも貧民の口に入らず。しかるに豆腐の田楽は貴人にも貧民にも通じ、その調法なることは鯛の比にあらず。田学はすなわち田楽にして余は田楽となり、学問の料理を貴賎貧富に向かいて供給するを本分とすというにあり。

 年末より風邪にかかり、新年に入るも咳嗽いまだ去らず。よって海岸へ転地せんと欲し、にわかに思い立ち一月七日より相州鎌倉に遊寓す。寓所は八幡社前角屋旅館なり。実に十四、五年ぶりにてここに遊ぶに、なんとなく今昔の間に多大の変遷ありしを認む。なかんずく鎌倉駅と江之島との間に開通せる電車と、海浜および山手の間に群立せる別荘とは、大いに面目を改めたるを覚ゆ。ただし八幡前通りの両側に茅屋の多きは数十年のむかしに異ならず。角屋もまた茅屋旅館なり。しかれども八幡前の旅館としては角屋を第一とす。その家は頼朝時代より継続し、先祖より当代まで五十七代との説なり。これに次ぐものを松岡館とす。八幡と停車場との中間にあり。また、停車場付近としては倶楽部の隣地に小町園あり。もし長谷方面に至らば鎌倉第一の大旅館三橋あり。風評には鎌倉中にて金の最も多いのも三橋、負債の最も多いのも三橋という由。また、材木座方面にては光明寺の隣に光明館あるも、料理の方を本位とする由なり。海に面したる所に中島館、海鴎館あるも、ともに小旅館なり。八幡社の裏門前に丸屋旅館ありて、一時は繁昌をきたし余も先年滞留せしことあるも、今より数年前、宿客中に首くくりせしものありて以来、人の迷信を買い、客のきたり宿するものなく、ついに廃業のやむなきに至れりという。角屋に隣れる三橋支店も、ある事情のために閉鎖せり。鎌倉客中の拙作数首を左に掲ぐ。

  社頭懐古動吾情、廟宇与人共変更、七百年来興廃跡、只留銀杏一株栄、

(鎌倉八幡宮のほとりに昔をおもい、いささかわが情も動かされ、みたまやも人もともに変遷す。七百年に及ぶ興廃の歴史の跡には、ただ一株の銀杏の木のみがのこって葉を茂らせるのである。)

  由井浜頭山角囲、光明寺対稲村崎、英雄夢跡今何在、吊古人唯拾貝帰、

(由比ヶ浜のあたりは山すそがかこみ、光明寺は稲村ヶ崎に対してたつ。英雄の夢の跡も今やいずこにあるであろうか。いにしえの人を弔いつつ、ただ貝を拾って帰ったのであった。)

  鎌都風物幾回遷、唯有仏身千古伝、今日俗僧堪一喝、金胎為餌釣銅銭、

(鎌倉の風物はいくたびかの変遷をへたが、ただ大仏は千古よりそのまま伝えらる。しかし今日の俗僧は一喝にもたえて、金銅の胎内に入れることを材料にして銭を集めているのだ。)

  一路祠門対夕陽、鎌倉宮是護良王、暮鴉呼起当年事、未拝神壇已断腸、

(ひとすじの道にたつ寺門は夕日に向かい、この鎌倉宮は護良親王をまつるところである。日暮れになくからすの声は当時の出来事を思い起こさせて、社殿に詣でる前にすでにはらわたを断つ悲しみがわきおこる。)

  七里浜頭祖跡尋、追懐往事感殊深、無心波亦知題目、撲岸声成妙法音、

(七里ヶ浜のほとりに開祖日蓮の跡をたずね、すぐる当時のことどもを思えばことさらに感懐は深い。無心にみえる打ち寄せる波もまたお題目を知るのであろうか。岸辺をうつ波音は妙法の声となるのであった。)

  海上鬱然仙嶼浮、旗亭連棟繞祠頭、登山客是殺風景、不賽神前先入楼、

(海上にこんもりしげる世俗を離れたような島が浮かび、料亭が軒をつらねて江ノ島神社のあたりをめぐっている。登山の客はまた無風流なことに、神前に詣でるよりさきにまず楼閣に入るのである。)

  併得房山総海寛、東瀟八景望漫々、吐煙戦艦過湾外、欲問琶湖有此観、

(房総の山と海の広さを望み、東方に瀟湘八景の広々とひろがるを見る。煙を吐いて戦艦が遠く湾外をよぎり、果たして琵琶湖にこうした風景があるであろうか。)

 また、「鎌倉や夏草などの夢醒めて電灯影裏に洋館を見る」もまた懐古の一作なり。

 ついでながら、本年二月初めに東京の某二大新聞(すなわち『大勢新聞』と『毎夕新聞』)に掲載ありし記事につき一言を付記せんとす。『大勢新聞』に曰く、〔以下、原文のまま〕

文学博士井上円了氏は今を距る二十有余年前東洋学を標榜して精神界の指導に志し哲学館を小石川白山に私設して幾多教学界の人材を養成し明治三十六年組織を大学の制に改めて哲学館大学とし更に三十九年東洋大学と改称して現に其の名誉学長たる外京北中学校京北実業学校京北幼稚園等を設けて教育界に貢献し又近年は在京の日稀れなる位に地方を遊説して社会徳教の向上に尽瘁し、傍ら府下和田山の地を卜して哲学堂と称する精神的遊園地を建設し将来は東京市に寄附せむとする等其の国家的社会的功績顕著たるに拘はらず今回の旌彰に漏れたるに就け世間奏請者の不注意を非難する者おほからむとする由なるが今其の内容顛末を探聞するに御大典に先き立ち東京府庁及本郷区役所より博士の履歴書を徴したる事あり其際博士が洩れ聞きし所に依れば位階勲等の旌彰ある準備なりとのことにて斯くては公表後に至つて如何に拝辞せむとするも甲斐なきしと、曾つて福沢諭吉氏は其の叙勲の噂を聞きて未前に拝辞して事なかりしも長谷川泰氏は公表後に拝辞せしため今に藍綬褒賞の宙に迷へるの滑稽あり、されば旁々以て之れを公表前に拝辞する方事面倒ならずとなし東洋大学に於ては予め其の筋に向け博士に旌彰拝辞の意志あることを通じ更に博士自身も高田文相と相識の間柄なれば非公式に拝辞の意志を齎らしたりとのことなるが、固より旌彰の内容は何なりしや知るべからずと雖も或る筋より聞く所に依れば勲三等の叙勲なりと博士は先年長谷場純孝氏の文部大臣たりし時代、棚橋絢子女史他三四女流教育家に対し叙勲の事ありし当時も東京府聴及び本郷区役所より博士に対しても其閲歴の取調べを為せしが其の際も同様旌彰のためなるを聞きし博士は自分は疾くに官海に志を断ちて無位無官民間教育家を以て任じ国民道徳の向上に一生を託するものであるから位階や勲等を授かるは素志ではない、仮りに旌彰されるとするも決して個人の私すべきことではない、金額の多寡は敢て論ぜぬから東洋大学の為めに維持奨励の金子でも下附されるのなら有難く御受をする、故に叙勲等の事は予め拝辞するといふことを某の代議士を通じて長谷場文相まで漏らしたことあり、(『毎夕新聞』の記事も大体これに同じければ略す。)

 右の記事が新聞に掲載ありしことは余は全く知らざりしが、友人よりその話を聞きて大いに恐縮したることなり。余は自らそのことを人に語りしことなきに、なにびとの口より伝わりしやを知らず。されどすでに新聞上に公になりし以上は秘することもできず、人よりその真非につきたずねらるる向きもあれば、ここに内情を自白することとなす。先年明治天皇御大葬の当時、突然その筋より表彰の件につき履歴書を提出せよとのご沙汰あれば、余はこれに対して、明治の昭代に生まれて国家の大恩をにないながら、なんらの報恩もできざるに、表彰を拝受するなどは誠に恐れ多きことなり、ことに拙者の素志は無官、無位、無勲章にて一生を送らんとするにあれば、ご奏上なき内にご辞退申し上げたき趣を、友人を介して文部大臣および東京府知事へ申し上げたることあり。しかるにまた昨秋、御大典前に履歴書進達の内命ありたれば、前同様の旨意にて再び友人を介し文部大臣および次官に、もし表彰のご沙汰ならば前もってご辞退申し上げたき由拝陳せしことあり。知人中には新聞記事を読みて、何故に辞退せしかとたずねる人もあれば、余は拙作を賦して微衷の存するところを示せしことあり。

  微衷聊欲報皇恩、北馬南船席不温、無位無官吾事足、終生何敢伺権門、

(わずかな真心をもっていささかなりとも皇室の恩にむくいようとして、北に馬にのり、南には船にのって席の温まる暇もなく講演の旅をつづけている。無位無官にしてわがことは十分であり、一生涯、どうして権威ある人々の門を訪ねることがあろうか、ありはしない。)

  日就月将文運新、聖恩余沢及微臣、生遭昭代吾栄大、何望勲章飾老身、

(日に月に文化の機運はいよいよ新たに起ころうとしている。天皇の恩沢の余りは数ならぬ私にも及んでいる。生きてこのかがやく御代に会うは私にとって最大の栄誉であり、いったいどうして勲章を望んでこの老いた身を飾る必要があろうか、ありはしないのだ。)

 後日、人の誤解を招かんことを恐れ、鄙懐を漏らして知己の心友に告ぐ。

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伊勢国巡講第一回日誌

 大正五年二月十一日、夜九時、東京駅発。随行は松尾徹外氏なり。

 二月十二日 晴れ。ただし風寒し。朝七時半、伊勢国四日市市〈現在三重県四日市市〉に着す。午前、市立高等女学校にて開演す。校長藤枝好徳氏の主催なり。これより車行二十丁、午後、三重郡海蔵村〈現在三重県四日市市〉小学校にて開会す。本村は郡役所所在地なり。陶器万古焼の本場にして、一カ年産額五万円なりと称す。発起は村長瀬谷金治氏、校長水谷善太郎氏、学務委員鈴木富三郎氏等にして、宿所は正福寺なり。晩来寒気加わり飛雪を見る。

 二月十三日(日曜) 晴れ。夜来降雪ありて暁色一面白し。数時の後みな消尽す。郡視学中山与三郎氏は先年伊賀巡講中の旧知なるが、再び郡内巡講の案内せらる。この日東行一里、日永村〈現在三重県四日市市〉小学校にて開演し、旧家松岡忠四郎氏宅にて宿泊す。その宅は明治天皇前後四回御駐輦の光栄をになわせられ、今なお玉座儼存す。余、所感一首を賦す。

  勢東一路叩松局、聞説幾回鳳輦停、無位吾身亦多幸、隣居玉座拝余馨、

(伊勢の東の一路をたどり、松岡家に宿泊のへやをもとむ。聞くところではいくたびか天皇の乗り物がとめられたという。なんの位階もない私の身にとって幸い多いことは、玉座の隣室にいてのこりの香を拝したのであった。)

 更に一首を書して壁頭にとどむ。

  太政維新日、鸞輿此駐留、余光長不滅、玉座照千秋、

(大政のあらたなる日に、天子の乗り物はここにとめられた。その栄誉は長く滅びず、玉座の輝きは千年の後までも照らすであろう。)

 その庭内に一個二千貫の巨石あり、一柱五方形の草亭あり、また噴泉の水車を転ずるあり、人工的瀑布の設備もあり。発起は村長八島治平司氏、学務委員浅川晁氏等なり。当所の名物長餅は平らかにして細長く、その形牛舌に似たるをもって、一名牛の舌餅という。餡餅なれどもその味濃厚ならず。

 十四日 晴れ。車行約一里、追分より参宮街道に入り、河原田村〈現在三重県四日市市〉小学校にて開演す。本村は丘陵一面に三、四万株の柑樹を培養しつつあれば、将来は果樹村となるべしとの評なり。隣村楠村には哲学館出身中川守邦氏の宅あれども、本人は米国に渡りて商業に従事す。発起は村長宮田岩太郎氏、助役今村民蔵氏等にして、宿所は岡田久馬氏宅なり。

 十五日 晴れ。更に車をめぐらすこと二里余、四日市を経て羽津村〈現在三重県四日市市〉小学校にて開演す。村長富永四郎氏、校長桑原重雄氏の発起なり。午後五時、車行二十丁、四日市常徳寺に入宿し、湊座劇場にて夜会を開く。建築広闊清新なるも、聴衆、場にあふる。主催は窓友会、発起および尽力者は校長松田一海氏、宗教家転法輪多珂麿氏、会員伊藤一郎、富田照文、生川次郎、川村甚一、西脇三之助諸氏なり。四日市は雅名を泗港という。余のここに開演するは三十六年目なり。当市の一等旅館は大正館と松茂楼なりと聞く。近作一首あり。

  遙々東海五旬程、到処民謡慰旅情、伊勢与津互相待、尾張名護独依城、

(はるばると東海五旬の道のり、いたるところで聞く民謡は旅情をなぐさむ。その文句に、伊勢は津でもつ、津は伊勢でもつ、尾張名護〔古〕屋は城でもつとある。)

 十六日 晴れ。車行二里余、八郷村〈現在三重県四日市市〉小学校にて開演す。幅六間、長さ十二間の講堂あり。村長島豊太郎氏は役場勤続五十六年の久しきに及ぶ。その齢七十五歳、なお矍鑠たり。親友前田慧雲氏は本村に戸籍を有する由。校長は和田美恵次郎氏なり。主催は本村および下矢知村、下野村の連合にかかる。

 十七日(旧正月十五日) 晴れ。昨夕は有志家平田武氏宅に宿し、今朝その山荘に登臨す。松林の間に休亭あり。伊勢海、知多半島を一望するを得。主人のもとめに応じて鶴雲台と命名す。これより車行一里余、富田町〈現在三重県四日市市〉に至る。会場は小学校、宿所は四日市屋なり。三重県に入りて以来はじめて旅館に宿す。町長橋本譲氏、校長小出亀三郎氏等の発起にかかる。従来、当所は焼き蛤の名物をもってその名高し。しかるに今日は製網をもって特産とす。また、海水浴場あり。霞陽館最もよしという。郡長今村真橘氏来訪せらる。哲学館出身者として寺院に鷲崎理器氏、南部光雄氏あり、教育家としては松浦杖作氏(中学校教員)あり。当町には漁家多し。漁夫ははだし、裸体の習慣あれば、湯屋にて、はだしもしくは裸体にてきたるものは入浴を禁ずとの掲示ありと聞く。

 十八日 晴れ。今朝、当地にある第二中学校において講演をなす。校長は田村左衛士氏、首席教諭は宮沢林平氏なり。これより車行二十町にして川越村〈現在三重県三重郡川越町〉に移る。本村は飴およびもやしの産地にして、年額二十万円と称す。一村の空気なんとなく甘味を帯ぶるがごとく感ず。会場および宿所の光輪寺はすこぶる富裕の寺院にして、諸事完備せり。住職横瀬善俊氏は不在なり。発起は村長寺本由松氏、校長伊藤重平氏等とす。

 十九日 晴れ。汽車にて弥富駅へ降車、これより腕車にて行くこと数丁、鍋田川を渡り、更に小舟にて水路に棹さし、桑名郡木曾岬村〈現在三重県桑名郡木曽岬町〉会場小学校に入る。本村は木曾川と鍋田川との間に挟まるる一島にして、渡船場八カ所を有す。また、村内を一貫せる小流ありて、各所へ来往するに腕車の代わりに小舟を用う。小ベニスの趣あり。弥富より一里半、桑名まで二里と称す。郡視学沢雄氏ここにきたりて迎えらる。副業は海苔の製造なり。発起は村長富田末三郎氏、校長金丸直太郎氏にして、宿所は収入役白木金一郎氏宅とす。本村はこのごろ愛知県の方にて、伊勢より割きて尾州に編入せんとの運動あるも、村民はこれに応ぜざる由。その理由を聞くに、大神宮様のお膝下にて育てられしものなれば、今更大根屋の養子になることは好ましからぬといいおるというは、大いにおもしろし。

 二月二十日(日曜) 晴れ。ただし風強し。早朝、木曾川を渡る。その幅六百間の大江なり。午前の会場は伊曾島村〈現在三重県桑名郡長島町〉小学校、休憩所は村役場なり。しかして発起は村長伊藤増太郎氏、校長大場貞吉氏等とす。哲学館出身潮田玄丞氏、大阪より来訪あり。午後、更に長良、揖斐の二大川を渡る。風強く波高し。里程約一里半、桑名町〈現在三重県桑名市〉に着す。会場は劇場中橋座にして、本町と赤須賀村連合の主催なり。この日、舟中吟あり。

  濃山江岳雪漫々、風力如刀冷徹肝、認得桑名城外岸、梅花独有破春寒、

(濃美の山々は川も山もすべて雪におおわれて、吹く風の強さはあたかも刀刃のごとくするどく、冷たさは肝にしみ入る。桑名城外の岸辺のあたりに、梅の花のみがこの春の寒さを破って咲いているのを見たのであった。)

 宿所は松花楼なり。郡長大井順之介氏来訪せらる。

 二十一日 晴れ。午後、郡教育会に出講す。会場は郡役所なり。当夕、松花楼において大井郡長沢視学、高等女学校長豊田宣氏、高等小学校長前田松之助氏等とともに会食す。桑名は米相場と時雨蛤とをもってその名全国に知らる。

 二十二日 曇り。朝、軽便に駕し、大社駅に降り、これより約一里にして員弁郡大長村〈現在三重県員弁郡東員町〉小学校に至り、午後開演す。桑名より三里余ありという。村長は伊藤斎次郎氏、校長は長崎平一郎氏なり。更に軽便に駕し、その終点たる北大泉村字楚原に着す。郡役所所在地なり。当夕、宿所倶楽部において郡長郡茂徳氏、視学池住保太郎氏等と会食す。

 二十三日 曇りのち雨。午後、郡内第一の素封家和波鉱太郎氏の別宅にて小憩の後、車行約一里、大泉村〈現在三重県員弁郡員弁町〉円願寺に至り開演す。住職は山阿隆成氏、村長は出口久明氏なり。

 二十四日 晴れ。車行三里余、途中、阿下喜を経て十社村〈現在三重県員弁郡北勢町〉小学校に至りて開演す。宿所は慶楽寺、住職は藤田充実氏なり。しかして発起は村長川瀬浅之助氏、校長菊地覚一氏なり。この地は桑名へ七里、美濃養老へ三里、関ケ原へ八里とす。数日前、本村小学校において調査せしに、尋常六年生と高等生合計百九名のうち、名古屋を知れるものは五人、大廟は三人、鉄道に駕したるものは六人、海を見たるものは三、四人、京都を知れるもの一人もなかりしという。この日、途上吟あり。

  員弁川頭駅路長、左山雪白右山蒼、渓村二月春風遍、松竹林間梅漏香、

(員弁川のほとりに街道が長くのび、ここは左の山は雪をもって白く、右の山は青々として見える地である。谷あいの村の二月は春風があまねく吹きわたり、松や竹の林間には梅の香がただよっているのである。)

 本郡は鈴鹿山脈と養老山脈との間に延長せる平坦部なり。

 二十五日 晴れ。山路一里のところ、車道を迂回し、阿下喜経由、中里村〈現在三重県員弁郡藤原町〉会場小学校へ二里半あり。校内に挿花数十瓶を陳列す。発起は村長林潔氏、校長小川宗太郎氏にして、宿所は明正寺なり。本郡は米産地なるも、往々茶園、桑圃ありて養蚕、製茶を副業とす。

 二十六日 晴れ。車行一里半にして西藤原村〈現在三重県員弁郡藤原町〉敬善寺に移る。本村は鈴鹿連山の最高峰藤原岳の麓に位せるをもって、宿寺の屋陰に残雪を見る。開会は住職藤岳敬順氏、村長児玉宇右衛門氏、校長児玉九郎治氏の発起なり。

 二月二十七日(日曜) 晴れ。風ありて寒く、ときどき雪片をもたらしきたる。早朝、寺背より攀躋四、五丁にして鳴谷聖宝寺に詣するに、妙心寺派の古刹にして境清く景美なり。かつ懸瀑をもってその名高し。ただし冬時は寂寥たり。

  踞山鳴谷寺門深、攀到香台雪気侵、禅客不参僧不住、唯聞飛瀑破蕭森、

(山によってたつ鳴谷聖宝寺の門は奥深く見え、仏殿にのぼれば雪の気配がしみわたる。参禅の人もなく、住む僧もなく、ただ飛瀑の音のみが山の静かさを破っているのである。)

 これより車行一里余、東藤原村〈現在三重県員弁郡藤原町〉西教寺にて開演す。村長宮木承禅氏は哲学館出身なり。校長は伊藤耕一郎氏とす。この地方にては薪炭を産出する由。一俵十二貫目につき、その価一円なりという。

 二十八日 快晴。今朝、寒気〔華氏〕三十八度、瓶水氷を結ぶ。三重県に入りて以来はじめて結氷を見る。車行約二十丁にして治田村〈現在三重県員弁郡北勢町〉に移る。ところどころ野梅満開、花香客車を襲う。会場円満寺は先年全焼にかかり、本堂再建まさに成る。開会は住職服部秀美氏、村長服部実蔵氏等の発起にかかる。宿所は浜田屋なり。

 二十九日 大雨。夜来過暖のためなり。車行二里、午前、梅戸井村〈現在三重県員弁郡大安町〉小学校に至りて開演す。校舎設備は郡内第一との評なり。伊藤彬夫氏その校長たり。しかして村長は日沖徳次郎氏なり。シナ公使日置益氏この村より出ず。午後、半里を隔つる稲部村〈現在三重県員弁郡東員町〉小学校に転じて開演し、当夕、貴族院議員木村誓太郎氏の宅に宿泊す。開会は令息木村秀興氏、村長南部専蔵氏等の発起なり。郡長も出席せらる。

 北勢三郡は真宗最も盛んにして、員弁郡は大谷派の勢力地とす。郡内の慣例として毎年一月、二月の間に祖師忌を営む。住職は毎日檀家をめぐりて読経を勤む。そのたびごとに食事を供せらる。一日に十回ぐらい食事を重ぬることありという。また、民間には迷信ありと見えて、往々家屋の外壁に「子供ルス」と書して張り付くるあり。これ麻疹のマジナイなりという。子供二人あれば二枚、三人あれば三枚張り付くる由。あるいはまた、この地方にては狐狸談もすくなしとせず、狐にダマサルルことをナゼラルルというもおかし。また、北勢にて腕車の二、三台つづきて通過するときは、子供が「オッカー出でて見よ、お嫁さんが来た」というもおもしろし。伊勢は暖地でありながら、江州と同じく布団の中に置き炬燵を用う。桑名製の軽便なる炬燵あり。風呂は五右衛門風呂を用う。

 三月一日 晴れ。今朝、稲部村を発し、三重郡桜村に至らんとするに、里程約三里半のところ、道路不良なりとて軽便および汽車に駕し、桑名、四日市を迂回して桜村〈現在三重県四日市市〉に至る。四日市より二里を隔つ。中山郡視学さきにここに着してわが行を迎えらる。会場西勝寺は郡内屈指の巨刹にして、十二間四面なり。村長小林繁太郎氏、校長阿部清一氏、助役田中秀夫氏の発起にかかる。東洋大学出身石見竜華氏、川島村より訪問あり。

 二日 晴れ。約一里の間、軽便に駕して菰野村〈現在三重県三重郡菰野町〉に至る。旧城下なり。会場は小学校、宿所は鰻善旅館とす。しかして発起は村長福村直衛氏、校長近藤謙蔵氏、および鵜川原、千種、県各村長なり。これより約二里を隔てて鉱泉あり、湯之山温泉という。その地位山腹にありて遠望に適す。旅館は寿亭を第一とし、これに次ぐものを杉屋とする由。日暮に及びて山風、雪片を散じきたる。

 三日 晴れ。車行約一里半、竹永村〈現在三重県三重郡菰野町〉小学校に至りて開演す。今村郡長も出席せらる。発起は村長谷貫一氏、区長松岡已之吉氏、校長諸岡久次郎氏、および保々、朝上両村長校長なり。本郡は概して米産地にして、菰野の関取米、竹永の竹成米はともに全国に名声を博す。竹成米のごときは田一反につき平均十俵の収穫あり。毎年、籾種を輸出する穀高は田八反歩の収穫に相当すという。宿所高田派願行寺は規模大ならずともいえども、堂内および庭内ともに清麗なり。本村には福王山毘沙門堂あり。人きたりてその堂内に通夜すれば万病みな癒ゆ。また、これに登参して御鬮〔みくじ〕を探れば米相場にあたると伝えられ、従前は桑名より来詣するもの多かりしという。

 四日 曇りのち雨。今朝、竹永村内の名所の一たる石刻五百羅漢を一見し、菰野を経て行程三里半、水沢村〈現在三重県四日市市〉に向かう。そのうち二里は丘陵起伏、道路したがって佳ならず。本村の特産は外国輸出向けの茶なり。所在の丘山、茶のために青しの観あり。毎年茶期には婦人を雇い入るるに、平均一人につき一日十貫目を摘む由。しかして摘み賃は一貫目につき七、八銭を要求すという。この日の会場、宿所とも一乗寺なり。本村長辻格天氏および小山田村長豊住梅松氏の発起にかかる。三重郡内は十日間の久しき、中山郡視学各所へ案内の労をとられたるを謝す。

 三月五日(日曜) 晴れ。水沢を去り車行一里にして鈴鹿郡椿村〈現在三重県鈴鹿市〉に入る。会場小学校は高地にありて伊勢海を一望するを得。学校より宿所医師森川主一郎氏の宅まで約十丁を隔つ。郡視学田川忠夫氏ここに来会せらる。

 六日 晴れ。椿村の谷間に石大神、屏風岩の奇勝あり。かつ大小合して百余の瀑布あり、そのうち白滝を最大とす。朝食後、歩を渓頭に進め、所見一首を賦す。

  椿谷風光称絶倫、毎移一歩趣加新、不只百瀑懸渓上、併見屏嵓与石神、

(椿村の谷あいの風景はほかに類をみないと称すべく、一歩すすむごとに新たなおもむきが生ずる。一百余の瀑布が谷にかかるのみならず、あわせて屏風岩と石大神が見られるのだ。)

 これより車を駆り行くこと二里強、久間田村〈現在三重県四日市市、鈴鹿市〉に至る。途上曠原平野を一過するに、松林茶園これに交ゆるに麦田桑圃をもってするを見る。会場は保智院にして、宿所は村長大久保正一氏の宅なり。その家四辺石壁をめぐらし、林泉古色を帯ぶ。村内第一の旧家なりという。主催は青年会にして、会長田中定治郎氏、副会長大久保正治氏、校長館幸治郎氏の発起にかかる。当地にて学友八木光貫氏の兄、久保田恒麿氏に面会す。

 七日 晴れ。車行一里弱、途中桑林を一過して石薬師村〈現在三重県鈴鹿市〉に入る。本村は旧東海道の一駅にして、今なお余影をとどむ。ことに当地の石薬師は天然の岩石に刻したるものにして、弘法大師の作なりという。信者は遠近より匕杓を携えてここに詣し、その柄に炙を授かる。かくするときは小児の胎毒を治するの効ありと信ず。その寺は真言宗なり。会場小学校の中庭に奉安室あり。全く神社式の構造なり。発起者は村長平尾久太郎氏、校長渡瀬与三郎氏、助役加藤弥太郎氏等にして、平尾氏もっぱら尽力あり。郡長小森安太郎氏ここに来会せらる。宿所石田旅館の掲示を見るに、宿料甲種八十銭、一円、一円五十銭、乙種四十銭、五十銭、六十銭の六等に分かつ。文学博士佐々木信綱氏はこの駅に生まれられしという。

 八日 寒晴。山風ときどき雪片をもたらしきたる。車行二里余、川崎村〈現在三重県亀山市〉に入る。本村には日本武尊の御墓あり。会場は小学校、宿所は西願寺、主催は青年会、発起は住職峯啓依氏、村長滝見極氏、校長原五郎氏等なりとす。本村の特色は寺院の多き一事にして、約五百戸の戸数に対し十二カ寺を有す。また、本郡内西願寺の寺号三カ所ありというも奇なり。

 九日 晴れ。この朝春寒、瓶水薄氷を浮かぶ。車行亀山を経て約二里半、神辺村〈現在三重県亀山市、鈴鹿郡関町〉小学校にて開演す。村長西村政二郎氏、校長岩間俊一氏、清福寺住職長岡大仁氏等の発起なり。宿所は有志家井崎熊太郎氏の宅にして、主人よく酒を飲み、またよく客を遇す。かつ家庭円満なりというを聞き、「何よりも羨ましきは君が家の、家内仲よく三度のむ酒」を書して贈る、当夕、小森郡長も同席せらる。

 十日 晴れ。車行関町を経てようやく山谷の間に入る。左右植林多し。加太村〈現在三重県鈴鹿郡関町、阿山郡伊賀町〉に至りて開会す。行程約三里、実に鈴鹿山中の一郷なり。会場小学校と宿所伊勢屋との間、約半里を隔つ。旅館は駅前にあり。開会は村長林弥蔵氏、校長仲野治三郎氏等の発起にかかる。本村は伊賀国境に接続す。

 十一日 夜来雨、暁来晴れ。加太より関町〈現在三重県鈴鹿郡関町〉まで二里の間を汽車にて移る。会場は地蔵院、宿所は会津屋、発起は町長太田健蔵氏、校長伊東千吉氏なり。関町は鈴鹿山麓にありて、東海道と参宮街道の岐路に当たり、昔時は旅客雲集せる要駅なりしも、今日は大いに衰微をきたせり。また、関の地蔵尊の名は海内に響き渡り、昔時は毎日の賽銭高平均六、七円ありしというも、今日は縁日の外には参拝者跡を絶つという。この地蔵尊は行基菩薩の作と称す。江州木ノ下浄信寺(時宗)の地蔵は木ノ下方よりつくり、関町地蔵院(真言宗)の地蔵は木の上方にて刻し、飯南郡朝田村朝田寺(天台宗)の地蔵は木の中央にて作られ、一木三体の地蔵尊と伝えきたる。一説には関の名は江州の木下に対し、末木より転化せりともいう。ことに俗謡の「関の地蔵さんに振袖きせて、奈良の大仏さんを聟にとる」によりて一層その名は天下に高し。余は漢詩をもってこれを訳す。

  願使地蔵帯長袂、迎来大仏為其婿、民謡一首我曾聞、今拝慈尊顔果麗、

(願わくばお地蔵さんに振袖きせて、奈良の大仏さんを迎えて婿にしたい。この民謡の一首をかつて聞いたのであったが、今、慈愛のお顔を拝すればなるほどうるわしいのであった。)

 なにびともこの俗謡によりて関の地蔵は体躯偉大ならんと予想せるも、その実極めて小身なり。これ殊更に不釣り合いをよみたるものならん。また、一休禅師が褌をきせてこの地蔵を開眼せりとの伝説あり。禅師の歌に、

  釈迦は過ぎ弥勒は未だ出でぬ間の、かゝる浮世に目あかしの地蔵、

とあり。また、俗謡に「関の地蔵さんは頭が円い、鴉とまればなげしまだ」というもおもしろし。つぎに、旅館会津屋は地蔵院の真向かいにあり、小満の遺跡として世に知らる。俗謡に「関の小満が亀山かよひ、月に雪駄が二十五足」、また「関の小満の米かす音は、三里聞えて五里響く」と伝うるあり。

 三月十二日(日曜) 曇晴。晩に至りて雨。関より亀山町〈現在三重県亀山市〉まで一里半の間を腕車にて一走し、旅館柏屋に入る。会場は女子師範学校講堂なり。校長東基吉氏とは旧識あり。主催は教育会、青年会、軍人会にして、発起は町長西大次郎氏、軍人会長松本義一氏、小学校長小林荘七氏、青木家平氏等なり。当町法円寺住職海野覚夢氏は旧友なるも、相会せざること二十余年、その髯尺余に及び、白極まりて黄を帯ぶ。県下第一の長髯の称あり。同氏および藤本徹定氏の依頼に応じて夜間、浄土宗の寺院にて開演す。亀山客中所感の一絶あり。

  勢陽春路賞花行、随処猶存古駅名、西有地蔵東石薬、由来両仏護亀城、

(伊勢への春の道を花をめでつつ行けば、いたるところに古い地名が残されている。西に関の地蔵尊があり、東に石薬師如来があり、昔からこの両仏が亀山城をまもっているのである。)

 郡内は各所にて田川郡視学、奔走の労をとられたり。

 ここに北勢を去りて南勢に移るに当たり、見聞に触れたる点を摘載すべし。魚類の伊勢海老を勢州にては志摩海老という。これ志摩の特産にして伊勢に産せざる由。勢州にては溜〔たまり〕屋と醤油屋との別あり。豆のみにて醸造するを溜といい、豆に麦を和したるものを醤油という。しかして溜に色ありて醤油に色なし。東京のいわゆる醤油のごときは伊勢にてこれを溜という。伊勢にては一度溜をしぼり取りたる糟にて味噌を作る。故に味噌の味佳ならずとの評なり。三重県にて昔時は犬をして腕車の先引きをなさしめたるも、後に県令をもって禁ぜられ、今日は荷車に限りて犬の先引きを用う。これも伊勢特色の一なり。県下には式内神社多し。

 十三日 晴れ。早朝、亀山を発し、参宮線にて高茶屋駅に着し、これより車行一里半にして一志郡鵲村〈現在三重県一志郡三雲町〉に至り、高田派明照寺にて開演す。途中、菜圃多し。発起者は村長黒瀬修二氏、校長川村直三氏、助役前川甚次郎氏、収入役北口次郎兵衛氏等なり。黒瀬村長は村治上大いに功績ありという。会場住職は藤沢俊雄氏とす。午後、松ケ崎村〈現在三重県松阪市〉字六軒に移り、劇場松盛館にて開演す。村長早川辰太郎氏、助役新谷駒蔵氏、校長榊原耕自氏等の発起なり。宿所磯辺屋は参宮街道旧式の旅館にして、浴場は南勢名物の棚風呂なるは一宿のあたいあり。この棚風呂は江州の桶風呂と好一対にして、節倹主義に基づきたるものなるべし。棚の一面に小戸ありてこれより湯中に入る。その湯極めて浅し。往々異様の形をなせるあり。また、鵲村と松ケ崎との間に天白と名付くる村あり。先年、新村名を定むるに当たり、各区相集まりて己の字名を主唱し、終夜異論紛々、天明に達するもいまだ決せざりし。故に結局、天白と定めしというは奇談なり。

 十四日 晴れ。車行約二里半、郡衙所在地たる久居町〈現在三重県久居市〉に至る。主催は郡教育会、会場は郡役所、発起は郡長川島駒吉氏、郡視学川村克巳氏、郡書記奥山吉太郎氏、同堀内民次郎氏、町長竹下鉞次郎氏等にして、揮毫主任は稲垣鉄吉氏なり。当夕、宿所竹亭において郡長、校長等と会食す。食後、妙華寺において更に講話をなす。住職中川実慧氏の主催なり。久居と津市との間一里半、軽便鉄道あり。

 十五日 晴れ。早朝、久居を発し、雲出川の長橋を渡りて川合村〈現在三重県一志郡一志町、久居市〉小学校に至る。車行一里、雲出川は県下大川の一にして、南勢、北勢の分界線と称せらる。川合村の発起は青岩寺住職清水谷覚氏、校長大谷芳郎氏、村会議員野垣内仲氏等なるも、清水谷氏最も尽力せらる。同氏は哲学館出身なり。その寺は高田派連枝格の寺なりと聞く。本県下にては「本ひきや小山の青岩寺」云々の俗謡人口に膾炙し、ほとんど一人もその寺名を知らざるものなしという。小山は大字の名称なり。午後、川合を去り、車行二里、雲出川に沿ってさかのぼる。駅路の左右は丘陵多し。当面の布引山は半空に横たわり、あたかも布を張りたがるがごとき形をなす。これ伊賀の境線なり。会場には大三村〈現在三重県一志郡白山町、久居市〉字二本木の劇場共栄座をもって当てらる。この駅は昔時、奈良より山田に出ずる参宮街道なりしも、今は旧式の旅館一戸ありてわずかに余影をとどむるのみ。主催は青年会、発起は村長上田一郎氏、吏員谷三雄氏なり。当夕、劇場の前隣旭屋旅館に宿す。

 十六日 晴れ。二本木より波瀬村〈現在三重県一志郡一志町〉まで山行一里の間なるも、車路を迂回したるために二里半となる。途上、桑園と松林の多きを見て、養蚕と採薪とを業とするもの多きを知る。波瀬は山間の一村落なるも、なお劇場を有す。会場および宿所は曹洞宗安楽寺なり。開会は村長金児政男氏、助役向川勇作氏の発起にかかる。晩来、天寒くして雪片の飛ぶを見る。

 十七日 晴れ。暁寒〔華氏〕三十八度、降霜結氷を見る。枕上初めて鴬声を聴く。夜来の降雪のために布引山頭一帯白し。この日山路をとり、群巒起伏の間を横断して駅道に合す。往々山路狭くして腕車の通じ難き所あれば、あるいは乗車しあるいは歩行して川口村〈現在三重県一志郡白山町〉に至る。行程一里半、この辺りは多く薪炭を産出す。マキ一束七、八本あり。その価一銭五厘とは廉もまたはなはだし。労働賃銀も一般に安価にして、人車賃一里十五銭ぐらいなり。途上、参宮客の三々五々列を成せるを見て一詠す。

  連山一帯雪如敷、渓漸盤旋路漸迂、雲出川頭人作列、破寒三月向神都、

(布引山をはじめとして連なる山々一帯は雪をこうむって白く、谷はしだいにめぐるようになり、道もしだいにまがりくねって続く。雲出川のほとりを人が列をなして行くのは、三月の寒をおかして伊勢に向かう人々なのである。)

 会場および宿所は浄土宗の中本山西称寺なり。主催は川口村、八ツ山村、家城村、大井村連合にして、川口村長藤田才太氏および有志者宮田一郎氏、最も尽力あり。本村には聖武天皇御行在所の遺跡と川口関趾ありという。また、天台宗真盛派開山真盛上人の遺跡あり。本村盛伝寺はその薙髪せられし寺なり。しかして隣村大井村はその誕生地なりという。故をもって一志郡内には真盛派の寺院多し。関趾に関する古歌に「川口の関のくぎのき跡絶えて、むかしにかよふ秋風の音」の一首ありと聞く。

 十八日(旧二月十五日) 晴れ。当面の遠山、奈良県字陀郡に接する所、雪なお白し。しかして梅花は半ばすでに落つ。川に沿いて渓間に入る。本県の模範林あり。渓ようやく深く山ようやく高く、植林のために両岸一面に黒し。車行四里にして八知村〈現在三重県一志郡美杉村〉に入る。会場は金剛寺、宿所は伊勢万旅館別宅なり。発起は村長真柄恒吉氏、助役中村義雄氏、および八幡村、伊勢地村、太郎生村各村長等とす。八知村には明治六年以来小学校長を勤続せられし多喜貫一氏ありしが、十年前に没去せられ、今は頌徳碑の立てるを見る。この地方の労働賃銀を聞くに、山稼ぎの人夫は弁当持ちにて一日五十銭、婦人はその半額ぐらいなりという。客中作一首あり。

  八知渓上勝堪探、車路高低傍碧潭、喜見寒村務林業、千山樹色緑於藍、

(八知村の谷のほとりの景勝はたずねる価値がある。人力車の通る道はしきりに高低するも、みどり深いよどみをかたわらにして楽しませる。このわびしげな村は林業に精出していることを喜ばしく思う。多く山々の樹の色は藍よりも緑と見えたのであった。)

 三月十九日(日曜) 晴れ。車行約一里、杉林蒼々の中をうがちて、県会議員藤田政次郎氏別宅に少憩し、更に歩行約一里、比津嶺を上下す。山林の鬱然たるは大和吉野山中に入るの思いあり。嶺頭より背視すれば一山の聳立するあり、これを大洞山という。また、霧山城趾を望みつつ嶺を下り、更に車行一里にして多気村〈現在三重県多気郡多気町〉字上多気旅館三木屋に着す。合計三里となる。会場は小学校、発起は村長結城実之助氏、校長鳥谷尾友次郎氏等なり。この地は北畠氏累代居城の跡なれば、北畠神社あり。学校と比隣をなす。社前所感一首を賦す。

  客遊今日入仙源、吊古霧山城麓村、千載老杉護孤廟、読書堂畔拝忠魂、

(旅人として今日は仙人が住むような里に入り、古霧山城のふもとの村に古人をいたむ。千年の老いた杉がぽつんとあるみたまやをまもっており、読書堂のかたわらに北畠氏の忠魂に敬意を表したのであった。)

 晩にこの地の名物トロロをすすりて、「名物のトロロに酔てトロ★★(原文では、くの字点表記)と、眠る心地は浄土なりけり」とよむ。山中の食事を聞くに、夏時は一日六回、冬時にても五回なりという。夏時、朝四時の食事を朝茶といい、九時を小昼、十二時を昼、三時を八ツ茶、六時を夕飯、夜十時を夜食という由。炭の代価は一俵五貫目、並三十九銭、上等五十四銭と聞く。

 二十日 快晴。早朝、多気客舎を去り、大峠を上下して飯南郡柿野村に至る。その里程三里半、降坂屈折すこぶる長し。柿野より宮前村〈現在三重県飯南郡飯高町〉まで約三里、合計六里半。宮前慶法寺にて開演し、江戸屋旅館にて休憩す。村長岸成記氏、校長池田文平氏の発起にかかる。郡視学万木保郎氏ここにきたりて迎えらる。当所は郡内山間部の都会なり。演説後、腕車を駆り、櫛田川に沿いて岸頭をさかのぼること四里、途中、日すでに暮れ、星をいただき霜を踏みて夜八時、川俣村字七日市旅館香畝に着す。月すでに上る。この旅館は山間の客舎なるも、もと紀州侯松坂往復の宿所なりとて上段の間を有す。

 三月二十一日(春季皇霊祭) 晴れ。渓行約一里、森村〈現在三重県飯南郡飯高町〉小学校に至りて午前中に開演す。村長小倉吉右衛門氏、校長谷林蔵氏の発起なり。これより波瀬村を経て奈良県吉野郡界まで五里あり。渓幽に樹静なる間に、残梅と新鴬とに送迎せられつつ進行す。この辺りはすべて林業本位なり。午後、川俣村〈現在三重県飯南郡飯高町〉字富永小学校にて開演す。村長宮本覚助氏、郵便局長吉川源三郎氏、および西田、堀井、伊藤三校長の発起にかかる。本村の出身者として大谷嘉兵衛氏あり。従来里芋の産地なれば、昔時民家の常食として芋粥を用いしが、近来芋畑を廃して桑田となせしより、茶粥を常食となす。あるとき小学校教員が生徒を引率して他地方に出でて旅館に一泊せし際、米飯は珍しかるべければよろしくたくさん食すべしといいたれば、常に粥にて慣らされたる腹故、夜中みな腹痛を起こせし由。この一例によりて、いかに山間僻地なるかを推知すべし。

 二十二日 雨。午前七時、万木視学とともに川俣香畝館を発し、宮前を経て粥見村〈現在三重県飯南郡飯南町〉に至る。車行五里、約五時間を費やす。櫛田川は水底、両岸とも全く巨巌盤石累々として相重なり、綿々として相連なり、往々奇観を呈するあり。

  春雨蕭々暁未晴、隔渓林末白雲生、櫛田川上山難認、唯聴鴬声与水声、

(春雨がふりそそぎ、夜明けとはなったがまだはれず、谷をへだててたつ林の果てに白雲がかかるかに見えた。櫛田川の上流の山すら見えず、ただうぐいすの声と水音をきくのみであった。)

 粥見会場は第一小学校、発起は中尾実之助氏、校長堀内啓治氏の発起にかかる。同校裁縫室にて喫飯し、これより雨をおかして車行一里、柿野村〈現在三重県飯南郡飯南町〉第一小学校に移り、午後開演す。村長渡辺文之助氏、校長和田実氏、同榊嘉太郎氏の発起にかかる。当夕、枕水楼に宿す。枕頭、櫛田川の水声耳を襲いきたる。

 二十三日 終日、春雪霏々。車行一里、大石村〈現在三重県松阪市〉不動院側の旅館水月楼に休泊す。会場は第一小学校、発起は村長一木新助氏および各校長なり。旅館と不動堂との間に瀑布ありて、夏時納涼の客群集すという。また、駅路に隣れる断崖を炮烙岩と名付け、奇勝の一に加えらる。

 二十四日 雪また粉々。車行三里弱、丘陵を上下して大河内村〈現在三重県松阪市〉字桂瀬西方寺に至り開演す。その本尊の阿弥陀仏が微笑せりとの縁起より山号を微笑山といい、仏号を歯吹の弥陀という。浄土宗なり。当夕、酒造家堀木斉右衛門氏の宅に宿す。本村より山嶺を隔てて一志郡内に飯福田と名付くる霊場あり。これを伊勢山上と唱え、大和大峯山上を模擬せるものなりという。しかしてその険峻は大峯以上との評なり。伊勢にて大峯へ登山し得ざるものは飯福田に登詣する由。

 二十五日 晴れ。晩来降霰あり。車行二里弱、松阪町に至り、軽便に駕して射和村〈現在三重県松阪市〉に着す。会場は小学校講堂なり。宿所にあてられたる村役場は御大典紀念の新築にして、その壮麗よく人目を引くに足る。階上に図書館あり。蔵書約一万冊、みな村長竹川信太郎氏の寄贈にかかる。同氏の祖父は竹川竹斎と称し、佐藤信淵翁の門に学び、経世家をもって世に知らる。朝廷より特に贈位のご沙汰ありたり。役場の図書はすなわちその遺書なり。この地わずかに一橋を隔てて多気郡相可村と相対す。これ、余が十五年前巡講せし所なり。

 三月二十六日(日曜) 快晴。行程約二里の所を軽便により大道駅に着。これより三丁にして花岡村〈現在三重県松阪市〉字駅部田光明寺に至り、ここに開会かつ宿泊す。昨来の雪気のために遠山みな白し。郡長川田茂通氏は病臥中なりとて、郡書記市川勝治郎氏代わりて来訪せらる。開会発起は村長亀井徳蔵氏、校長岩出易造氏等なり。この日、軍人追弔会あり。本村内山室妙楽寺の山上に鈴屋大人本居宣長翁の墳墓あるを知るも、時間なきために参拝するを得ざりしは遺憾なりとす。ただし拙作を賦して山主に贈る。

  妙楽寺高篭瑞煙、両竜山静絶塵縁、卜斯霽月光風地、鈴屋先生就永眠、

(妙楽寺の高い所にめでたい霞がたなびき、両竜山は静かに俗世の縁を絶つかのごとくである。この明月、風光の地をえらんで、鈴屋先生は永眠されたのである。)

 二十七日 温晴。春霞靄々、遠山矇々たり。午前、車行一里半余、松阪を経て伊勢寺村〈現在三重県松阪市〉小学校、軍人追弔会の席上にて演説をなす。村長家城助太郎氏、校長原田熊吉氏等の発起なり。本村の岩内瑞厳寺は郡内の勝地にして、庭内に十二景を有すという。午後、更に松阪を経て朝見村〈現在三重県松阪市〉に至る。車行二里半、小学校にて開演す。村長笠井弥氏、校長山名嘉造氏の発起なり。本村は全く農村にして、平均一戸につき一町五反の田地を有し、収穫は一反につき五俵の平均なりという。当夕は有名なる朝田地蔵の寺すなわち朝田寺に泊す。毎年八月十六日より二十三日まで地蔵祭あり。毎夜群衆満堂、ことに二十三日夜は志州より老婆来集し、徹夜盆踊りをなす。これ大漁を祈るためなりという。故に一詩を賦す。

  朝田寺裏地蔵尊、賽客如雲来入門、聞説年々盆八月、満堂歌舞徹宵喧、

(朝田寺の奥に地蔵尊が安置され、参拝の客は雲のごとく寺門を入る。聞くところでは毎年盆の八月には、本堂いっぱいに歌い踊って、かまびすしく連日徹夜するのである。)

 この寺へは各所より人の死したるときに衣類を納むるを常例とす。毎年一回これを売却するに三、四百円の収入ありという。これに対抗する参詣所は松阪町岡寺、厄落としの観音となす。毎年初午の日に各所より大鏡餅を献納する常例なるが、これを入札にて売却するに三百円以上の収入ありという。

 二十八日 晴れ。午前、車行一里半、漕代村〈現在三重県松阪市〉小学校にて開演す。村長辻柳吉氏、校長菌部実蔵氏の主催なり。野外を一望するに菜花すでに黄を吐き、春色ようやくたけなわならんとす。午後、更に車行十余丁にして櫛田村〈現在三重県松阪市〉に入る。会場小学校を楴水校と称す。けだし櫛田川の雅名より取りたるならん。村長飯田重蔵氏、校長近藤浅吉氏の主催なり。当地は参宮街道の駅場にして、旧時の旅館もみぢ屋にて晩餐を喫了し、更に腕車にて二十五丁を走り徳和駅にて乗車し、夜行にて東京に向かう。

 三重県の巡講いまだ終了せざるも、実地見聞の一端を紹介せんに、県下は斯民会の普及せること日本第一と称せらる。その実行規約中に時間励行と献酬廃止の箇条あるも、これを実行せる町村ははなはだすくなし。すべてなにごとでも、言うはやすく行うは難きものたることを証するに足る。伊勢と伊賀とは同県下なるも、風俗上大いに相違するところありと聞く。伊賀は京都、奈良の風に傾き、衣住に重きを置きて食事を節倹す。毎日茶粥をすすり粗食に甘んずる民俗なるが、伊勢は東京風に似て粥を用いず、衣住よりも食事に重きを置く。また、学校にても伊賀は競って外形を美にするも、伊勢は外形よりも内容に重きを置く等の別ありという。宗教に至りては北勢と南勢とは全く相異なりて、北勢は真宗多く、したがって信仰強く、南勢は禅宗多く、ほとんど無宗教なり。食物につきては、伊勢は田舎まで名菓の大いに呼ぶべきものを製し、一般に上等の菓子を用う。また、茶碗蒸しの中に多く銀杏の代わりに椎茸を入るる風あり。南勢の風呂の特色は前すでに述べたるが、実に一種特別にして、戸棚造りあり、箱造りあり、厨子造りあり。要するに五右衛門風呂の上に戸棚を載せたる構造なり。その湯多きも、座して臍を浸すに至らず。方言につきては格別通じ難きほどのもの少なきも、二、三特殊のものを挙げんに、南勢にては、

ソンナニをソゲニといい、ヤワラカイをヤワコイといい、キナクサイをカンコクサイといい、できヌをデコンといい、アンナニソンナニできヌをアゲソゲコゲデコンという。

 南勢の商店にては品切れにてお客の注文に応じ難いときに、ツライコトデゴザイマスという。これは東京のオアイニクサマというに当たる。南勢の山間にてアグラカクことをロクという。皆様ロクニナサイとはアグラカキナサイの意なり。ある人はこれを解してアグラは六の字の形になる故というも、けだし楽〔らく〕の訛音ならん。また、山間にてカンをつけたる酒をヤキガンという。その他、疲レタことをカイタルイというも伊勢の方言なり。また、南勢にてはコーいイアガッテといい、北勢にてはコーいイサガッテといい、上がると下がるの別あるはおもしろし。南勢にて学校を卒業したことを学校を上がったというも奇なり。また、南勢にて百姓が田畑に行くを沖へ行くという由。これ、昔の海が今は田になりたるを示すものなり。田中に積みたる藁塚を北勢にてススミといい、南勢にてスズキという。うるちともちごめとを混じてつきたる餅を北勢にてタガネといい、南勢にて弥次郎餅といい、西勢にてウルカ餅という由。また、氷柱をカナボウというは伊勢の俗語なり。南勢中、山田には格別の方言ありと聞く。例えば行キナサランカというべきをイカハランカといい、ソウダネーをソウダナイといい、ワタシラハをワタシドキヤというの類なり。

 二十九日、朝八時半帰京。三十日午後、東洋大学卒業式に出席し、大内学長病中につき代わりて証書を授与す。三十一日午前、京北中学卒業式に列して訓辞的演説をなす。

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伊勢国巡講第二回日誌

 大正五年四月一日。夜九時、東京駅を発して、再び三重県に向かう。随行は静恵循氏なり。

 四月二日(日曜) 晴れ。ただし風寒し。ときに春寒いまだ去らず、桜花いまだ発せず。午前九時、津市〈現在三重県津市〉着。午後、津市字下部田善徳寺にて講話をなす。当市開会は二十六年目なり。夜に入りて、新町〈現在三重県津市〉光沢寺にて開演す。昼夜ともに高田派寺院組合の主催にして、善徳寺住職山川真鏡氏、光沢寺住職比良田清通氏、および芳川琛海氏、的屋智光氏等、大いに奔走尽力せらる。その結果、揮毫所望者数百名の多きに達し、哲学堂維持金も望外の多額を拝受するに至る。宿所は桜水旅館なり。客室広く料理よし。器物更に奇なるも、その特色は門に入りてまず勝手場を一見し、左に湯殿、右に便所に応接して玄関に達する一事なり。

 四月三日(神武天皇祭) 晴れ。風なお寒し。午前は赤十字支部〔津市〕において講話をなす。徳風会、三重婦人会の主催にして、久保政子、富田好子の発起なるも、服部亮厳氏(河芸郡上野村住)もっぱら斡旋せらる。午後、劇場泉座において市教育会の主催にかかる通俗講話に出講す。会長内多正雄氏(市長)の発起なり。

 四日 晴れ。早朝、知事馬淵鋭太郎氏を官邸に訪問し、理事官山岡国利氏、吉田茂氏を歴訪して安濃郡新町正覚寺(真宗本派)に至り、午前開演す。住職正親連城氏の発起なり。午後、新町小学校において郡教育会のために講話をなす。郡長山中恒三氏、郡視学田中幸一郎氏、書記小西藤吉氏等の発起にかかる。当夕は津市に帰り、旅館古梅軒に宿す。客室の新かつ美なる点にては当市第一の旅館という。もしその大なるものを挙ぐれば聴潮館あり、大観亭あり。山中郡長来訪せらる。

 五日(旧三月節句) 晴れ。ただし風あり。車行約一里、安東村〈現在三重県津市〉に至る。ときすでに四月に入るも、春風いまだあまねからず、ただ桃花のわずかに蕾を含むを見るのみ。昼間は小学校にて村斯民会のために演説をなす。村長別所伊之助氏、校長中里格助氏の発起なり。夜間は宿所因蓮寺住職今井竜城氏、会場正円寺住職蒔田学氏の主催にて開会す。両寺とも大谷派にして互いに隣接す。今井氏は旧知のかどにて特に尽力せらる。本村の特色は、むしろ製の風車にて米をつく一事なり。ところどころにその装置を見る。また、村内各戸墓地を有せざるも特色の一なり。全村ほとんど真宗にして、死者あればこれを火葬に付し、遺骨の一部分を京都本山大谷廟所へ納め、他はすべて灰とともにすつる由。この方法は他地方にても学びたきものなり。昔時、本村に安東焼と名付くる陶器ありしが、今は津市に移り、阿漕焼となれりという。村内に垂髪と書する奇姓あり、これをウナイとよむ。

 六日 晴れ。夜来鈴鹿連山に雪を飛ばし、暁天はるかに皚々を望む。朝気〔華氏〕四十四度。車行二里半、高宮村〈現在三重県安芸郡美里村〉小学校にて開会す。郡教育会の主催なれば、田中郡視学も同行せらる。村長は樋口源之丞氏、校長は梅田虎之助氏なり。本村は津より伊賀上野に通ずる駅道に当たる。国境まで二里半あり。地勢は郡巒をもって囲繞せらる。産業は養蚕なりとす。演説後、更に車をめぐらすこと三里、津市古梅軒に帰宿す。

 七日 晴れ。午前、車行約三里、明合村〈現在三重県安芸郡安濃町〉に至る。この間には軽便鉄道あり。村内木綿織の産地なりとて、いたるところ機声をきく。会場は小学校、主催は郡教育会なり。学友紀平正美氏はこの村より出ず。午後、対岸の安濃村〈現在三重県安芸郡安濃町〉松原寺に移りて開会す。その距離約半里あり。寺門は丘腹に跨立し、櫛田山に対向す。主催は紀念仏教会にして、住職上杉大定氏、および生桑教厳、菊地俊良、倉田慶友、橘静憲諸氏の発起なり。上杉氏大いに尽力あり。余に贈るに、すこぶる古奇を極める土焼き大黒をもってせらる。余は哲学堂に陳列せんことを約す。

 八日 穏晴。春光和融。安濃村より河芸郡一身田町〈現在三重県津市〉までは、一里の間松丘を昇降して達すべし。里道狭くして車行大いに苦しむ。まず旅館辰巳屋に入り、少憩ののち高田派本山勧学院に至り、学生に対して講話をなす。稲垣三寿氏その主事たり。午後、男爵常盤井法主に拝謁す。つぎに本堂を参拝して所感一首を得たり。

  人家櫛比一身田、中有両堂高聳天、五百年前移法礎、専修念仏此宣伝、

(人家は櫛の歯のごとく一身田の町に軒をつらね、なかでも祖師堂と阿弥陀堂は高く空にそびえている。五百年前に布教の礎がおかれ、専修念仏がこの地に唱えられるようになったのである。)

 祖師堂は二十四間四面、阿弥陀堂は十八間四面なり。更に布教場に転じ、町教育会のために講話をなす。発起かつ尽力者は、稲垣氏の外に町長今井源之進氏、仏教会幹事平松伊三郎氏、小学校長国府佐七郎氏なり。辰巳屋は二十五年前に宿泊せし旅館なるが、その特色は長さ十余間の長座敷を有するにあり。

 四月九日(日曜) 快晴。午前、一身田を発し、三里の間軽便に駕して郡役所所在地たる白子町〈現在三重県鈴鹿市〉に至る。菜花地に敷きて、身は黄金世界にあるの思いをなす。途中、子安観音の傍らを過ぐ。婦人、安産の祈願のために参詣すという。会場は浄土宗悟真寺、宿所は与禄亭、発起は町長佐倉藤太郎氏、徳義会員栖原利七氏、田淵福松氏、ほか七名なり。悟真寺庭前に老松の傑物あり。当町は郡衙所在地なれば、郡長片岡宇太郎氏来訪せらる。また、視学岸本千秋氏不在なれば、郡書記村田勝蔵氏案内せらる。物産としては染物用の型紙を製造す。この辺り一帯の海岸は波声鼓のごとしとの故をもって、鼓浦と呼ぶ。よって一吟す。

  風起万波鳴、自成天楽声、此灘君勿怪、鼓浦是其名、

(風は幾万もの波を起こして鳴り、おのずから天然の音楽となる。この海岸についても、君よいぶかしく思うなかれ。波の音が鼓の打つ音に似て、鼓浦と名づけたのである。)

 十日 曇りのち雨。軽便と汽車とにより白子より飯南郡松阪町〈現在三重県松阪市〉に移り、午後、小学校講堂にて開演す。町長大村福五郎氏、工業学校長三上虎太郎氏等の発起なり。当夕、常念寺にて開演す。住職小妻啓瑞氏の発起なり。この日、大村町長の案内にて公園に至り、本居大人の故屋、遺物を拝観す。

 十一日 晴れ。春暖大いに加わる。早朝、松阪を発し、直行汽車にて十時十二分河原田駅に着し、これより腕車にて行くこと約一里、河芸郡神戸町〈現在三重県鈴鹿市〉に入る。会場は当町高田派別院内なり。聴衆充溢、堂内立錐の地なし。町長西尾寿繁氏、校長小林恭三郎氏、郵便局長内田英三郎氏、郡会議員竹嶋英幹氏、および玉垣、河曲、飯野、一宮各村長等、みな尽力あり。旧友真岡湛海氏(飯野村寿福院住)また大いに援助せられ、ただに聴衆の充溢せるのみならず、揮毫所望者も津市に次ぐべき大多数に達せるは、特に謝するところなり。宿所山海楼は三層楼にして田間に孤立す。四面の眺望すこぶるよし。ことに菜花満開の期節なれば、左の詩句、忽然として胸中に湧出す。

  四月飄然客勢陽、春風一路菜花香、三層楼上看相訝、身在黄金界裏郷、

(四月、飄然として伊勢の旅人となった。春風の吹く道に菜の花がかおる。三層の楼上より眺めれば、菜の花の色が広がり、あたかも黄金の世界に身をおいたかと疑うほどであった。)

 この夜、箕田村〈現在三重県鈴鹿市〉まで一里の間を往復し、同村小学校にて開演す。育英会長西川実氏(校長)、顧問松岡宇之助氏(村長)の主催なり。深更に至りて山海楼に帰着す。

 以上、伊勢各郡を巡了せり。その風俗、言語等は前すでにこれを掲載したり。また、度会、多気両郡は十四、五年前一周せしにつき今回は巡講せず。他県にては伊勢乞食と呼ぶも、伊勢にては勢州人正直なるをもって、伊勢児正直の転訛なりという。また「伊勢は津で持つ」の歌は、石は積んで持つより転じきたれりという。

 

     伊勢国開会一覧

 市郡    町村    会場     席数   聴衆     主催

津市          劇場      二席  六百人    市教育会

同           寺院      二席  五百人    高田派寺院組合

同           赤十字社    二席  百人     徳風会および三重婦人会

四日市市        高等女学校   一席  四百人    校長

同           劇場      二席  千二百人   市窓友会

三重郡   富田町   小学校     二席  五百人    町村連合

同     同     中学校     二席  五百二十人  同校

同     海蔵村   小学校     二席  三百五十人  同村

同     日永村   小学校     二席  三百人    同村

同     河原田村  小学校     二席  四百五十人  村役場

同     羽津村   小学校     二席  四百人    村教育会および青年会

同     八郷村   小学校     二席  五百五十人  三村連合

同     川越村   寺院      二席  五百五十人  同村

同     桜村    寺院      二席  七百五十人  三村連合

同     菰野村   小学校     二席  六百人    四村連合

同     竹永村   小学校     二席  五百五十人  三村連合

同     水沢村   寺院      二席  六百五十人  二村連合

桑名郡   桑名町   郡役所     一席  百五十人   郡教育会

同     同     劇場      二席  千百人    通俗講話会

同     木曾岬村  小学校     二席  四百人    通俗教育会

同     伊曾島村  小学校     一席  三百人    通俗教育会

員弁郡   大長村   小学校     二席  三百五十人  自治研究会

同     大泉村   寺院      二席  六百人    斯民会、青年会

同     十社村   小学校     二席  五百人    村青年会

同     中里村   小学校     二席  六百人    村青年会

同     西藤原村  寺院      二席  七百人    村長、校長

同     東藤原村  寺院      二席  六百五十人  村青年会

同     治田村   寺院      二席  七百人    村青年会

同     梅戸井村  小学校     二席  四百人    同村

同     稲部村   小学校     二席  三百人    同村

鈴鹿郡   亀山町   女子師範学校  二席  七百人    教育会、青年会、軍人会

同     同     寺院      一席  百人     寺院

同     関町    寺院      二席  四百五十人  同町

同     椿村    小学校     二席  三百人    同村

同     久間田村  寺院      二席  五百五十人  村青年会

同     石薬師村  小学校     二席  五百人    同村

同     川崎村   小学校     二席  八百人    村青年会

同     神辺村   小学校     二席  三百五十人  同村

同     加太村   小学校     二席  三百人    同村

一志郡   久居町   郡役所     二席  七百人    郡教育会

同     同     寺院      二席  四百五十人  住職

同     鵲村    寺院      二席  六百人    同村

同     松ケ崎村  劇場      二席  九百人    同村

同     川合村   小学校     二席  六百人    寺院および学校

同     大三村   劇場      二席  七百人    青年会

同     波瀬村   寺院      二席  五百五十人  青年会

同     川口村   寺院      二席  八百人    四村連合

同     八知村   寺院      二席  四百五十人  四村連合

同     多気村   小学校     二席  五百人    村教育会

飯南郡   松阪町   小学校     二席  八百五十人  町教育会等

同     同     寺院      二席  四百五十人  同寺

同     宮前村   寺院      二席  四百五十人  通俗教育会

同     森村    小学校     二席  四百人    二村連合

同     川俣村   小学校     二席  四百五十人  通俗教育会

同     粥見村   小学校     二席  六百人    通俗教育会

同     柿野村   小学校     二席  七百五十人  通俗教育会

同     大石村   小学校     二席  三百五十人  通俗教育会

同     大河内村  寺院      二席  四百人    同村

同     射和村   小学校     二席  六百人    青年会

同     花岡村   寺院      二席  四百五十人  村役場

同     伊勢寺村  小学校     二席  六百五十人  同村

同     朝見村   小学校     二席  四百五十人  三村連合

同     漕代村   小学校     二席  二百五十人  同村

同     櫛田村   小学校     二席  三百五十人  同村

安濃郡   新町    小学校     二席  七百五十人  郡教育会

同     同     寺院      二席  三百人    高田派寺院

同     同     寺院      二席  二百人    同寺住職

同     安東村   小学校     二席  三百人    村斯民会

同     同     寺院      二席  三百五十人  同寺住職

同     高宮村   小学校     二席  七百人    郡教育会

同     明合村   小学校     二席  七百人    郡教育会

同     安濃村   寺院      二席  六百人    同寺住職

河芸郡   白子町   寺院      二席  五百人    徳義会

同     一身田町  布教所     二席  一千人    町教育会

同     同     勧学院     一席  百五十人   同院

同     神戸町   別院      二席  千二百人   町有志

同     箕田村   小学校     二席  五百人    育英会

   合計 二市、八郡、六十三町村(十町、五十三村)、七十七カ所、百四十九席、聴衆四万七百二十人

    演題類別

     詔勅修身     六十二席

     妖怪迷信     三十三席

     哲学宗教     三十二席

     教育         十席

     実業         五席

     雑題         七席

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美濃国西部巡講日誌

 大正五年四月十二日。朝、伊勢国神戸町を発し、河原田駅より汽車に駕し、名古屋にて換車して岐阜県西濃巡講の途に向かう。正午十二時、岐阜県に着し、車行約一里にして稲葉郡市橋村〈現在岐阜県岐阜市〉に入り、浄土宗中本山立政寺において南部教育会のために講演をなす。郡視学総山文兄氏出会せらる。氏は六年前、東濃巡講中の旧識なり。発起かつ尽力者は村長井上喜多郎氏、校長瀬川柳平氏、日置江、佐波、鶉、益部、三里、本荘、鏡島各村長および校長なりとす。この地方は雨傘と縮緬織の産地として知らる。宿所は付属寺安祥院なり。立政寺は歴史上由緒ある古刹にして種々の奇跡あり。この境内の池には蛙鳴かず、薮にはマムシ住せず、林には雷落ちずという。しかし地震はこの霊場をおかし、尾濃震災の際は七堂伽藍全倒せし由。本荘村大洞善吉氏は哲学堂賛成の厚意を表せらる。

 十三日 曇り。車行三里、川橋を渡ること三回、堤防を上下すること数回、桑園麦田の間を一過して黒野村〈現在岐阜県岐阜市〉に入る。ときに彼岸桜、各所とも満開。また、初めて蛙声を聞く。車上より金華山を望めば桜雲のむらがれるを見る。所見のままを詩中に入るる。

  渡水踰隄日幾回、桑林断処麦田開、春闌稲葉山如畵、一簇桜雲凝繞台、

(川を渡り、堤をこえること、日にいくたびか、桑林の切れたところに麦畑が広がる。春はたけなわ、稲の葉のしげり、山は絵のごとく、ひとむらの桜の花が楼台をめぐって咲いている。)

 主催は北部教育会、会場および宿所は本派別院なり。会長石川俊雄氏、副会長西垣丈吉氏、黒野村長国島文太郎氏、学務委員郷雄太郎氏、吏員中村喜作氏および連合村長、校長の発起にかかる。

 十四日 晴れ。黒野より武節橋を渡り、岐阜市を経て那加村〈現在岐阜県各務原市〉西市場に至る。行程四里、会場および宿所は法蔵寺なり。主催は那加村ほか五カ村にして、村長遠藤彦治郎氏、助役松岡清重郎氏、校長仙石鎌次郎氏等の尽力にかかる。宿寺住職は平野履道氏なり。庭前に名山の横臥するあり。その名を夕暮富士という。

 十五日 雨。行程一里、蘇原村〈現在岐阜県各務原市〉光泉寺に至りて、午前開演す。主催は本村および各務、前宮等五カ村連合にして、蘇原村長安積清右衛門氏、校長松浦三喜太郎氏、助役横山才治郎氏、収入役坂井孫太郎氏等、もっぱら尽力あり。郡長村上定吉氏、特に来訪せらる。午後、更に車を転じ、鵜沼村〈現在岐阜県各務原市〉小学校に移りて開演す。雨はなはだし。発起かつ尽力者は村長阿部源市氏、校長秋山勘次郎氏、収入役山田和市氏、僧侶長岡義純氏、郡会議員佐守喜代松氏等とす。宿所は空安寺なり。鵜沼は旧中仙道の駅にして、木曾川を隔てて尾州犬山城と相対す。本村には蛇を祭れる社ありと聞く。

 四月十六日(日曜) 晴れ。和風習々、春光煕々。車行二里半、鏡ケ原の平原を一過す。松林あり麦圃あり草原あり、薩摩薯の産地とす。本日は羽島郡中屋村〈現在岐阜県各務原市〉西入坊において開演す。当寺は親鸞聖人および蓮如上人に由緒ありという。開会発起は住職小島秀一氏、村長小島弥曾治氏、校長永田碩彦氏等なり。郡長斎藤実直氏は視学関谷竜逸氏を伴いて出席せらる。当所は絹織の産地にして、戸として機声を聞かざるはなし。女子一日の織り賃、朝より夜までにて四、五十銭ぐらいなりという。

 十七日 晴れ。車行二里、八剣村〈現在岐阜県羽島郡岐南町〉に移る。途中、民家の庭前に鶏卵大の小石をむしろのごとく敷きつめたる壇あり。これ茄〔子〕苗を培養する所なりという。また、各所機声を聞きて一吟す。

  濃陽四月賞花行、婦務織工男力耕、車過木曾江畔路、不聞鴬語聴機声、

(濃尾の四月は花をめでつつ行くによい。この地では女性は機織りにつとめ、男性は農作業につとめている。車で木曾川のほとりの道を行けば、うぐいすの声はきこえないが機の音がきこえてくるのである。)

 当地の会場は小学校、休憩所は村内の富豪渡辺次郎氏宅、発起は村長大塚吉太郎氏、校長津田健次郎氏なり。午後、車行一里弱、郡衙所在地たる笠松町〈現在岐阜県羽島郡笠松町〉に移る。その途中の堤防上に根精様と名付くる小祠あり。赤塗りにして小稲荷社のごとし。その祠内に男根形の長さ三、四尺なる石を安置す。花柳病にかかるもの、これを祈願すという。実に異風の迷信なり。町に入る所の堤上には桜林あれども、大半すでに落花せり。会場は小学校、発起は町長巌田郁郎氏、校長堀愛次郎氏なり。昨日当地の大祭日なりしために聴衆いたって少なし。宿所四季の里は木曾川の岸頭に立ち、江上の風景一園に集まる。長橋を隔てて尾州と相対す。旧暦三月十五夕に当たり、月色天に満ち、春宵一刻直千金の趣あり。拙作一首を得たり。

  一帯長橋一帯川、四時光景集軒前、岳陽楼不如斯里、気象何只限万千、

(一本の長い橋に一本の川、四季おりおりの風光は軒の前にひらかれる。かの岳陽楼よりする景観もこの里の風景には及ぶまい。天然のおもむきはどうして千態、万態に限られようか。)

 当夕、斎藤郡長、関谷視学等と会食す。

 十八日 快晴。日融風和。農家すでに春耕に就く。車行一里にして足近村〈現在岐阜県羽島市〉に至り、小学校にて開演す。校舎は田間にあり。発起は村長岩越金次郎氏、校長花村倭二郎氏、助役馬島小左衛門氏、願教寺住職馬島賢証氏等なり。当夕、収入役近藤昭氏の宅に宿す。春月朦朧、蛙声花影のおのずから吟情を動かすあり。夜に入りて、はじめて蚊影を見る。

 十九日 晴れ。車行一里にして美濃縞織物の中心たる竹ケ鼻町〈現在岐阜県羽島市〉に入る。本郡は全く平坦部にして、ただ堤防の縦横に連亘せるを特色とす。午後および夜分とも大谷派別院にて講話をなす。昼間は町教育会、夜間は婦人法話会の主催にかかる。しかして教育会の方は会頭太田藤十郎氏、副会頭水谷静吉氏、理事坂倉三造氏、婦人会の方は別院輪番春愛義誠氏(哲学館出身)および丹羽博清氏の発起なり。この地方は蓮根の産地なりとて、蓮根羊羮を製す。また、本町は孝順慈善をもってその名ある仏佐吉の郷里なり。

 二十日 晴れ。午前、車行二里、八神村〈現在岐阜県羽島市〉金宝寺において開会。村長井野口金六氏、校長中島喜瀬八氏の発起なり。午後、更に車をめぐらすこと約半里、下中島村〈現在岐阜県羽島市〉小学校において開演す。発起は村教〔育〕会長小川量之助氏(医師)、村長高味友三郎氏、校長林清吉氏等なり。当夕、小川会長の宅に宿す。夜中、蚊声をきく。

 この地方の特色は、明治二十四年度の大地震の結果にかんがみ、学校校舎は必ず前後左右の戸壁外に支柱を有すること、また、大川の間に挟まりてときどき水害にあうために、民家に二階造り多く、多少資産あるものは庭内に一丈ぐらい高き土山を作りおくこと等なり。

 二十一日 曇りのち雨。腕車に駕し再び八神村を経て海津郡海西村〈現在岐阜県海津郡平田町〉に至る。行程一里半の途中、長良川を渡船す。会場は万念寺、主催は軍人会、発起は会長菱田勇逸氏、収入役近藤長氏、軍人宇野八郎氏、住職黒田実慧氏等なり。演説後、菱田会長宅にて午飯を喫す。この辺りはすべて農村なるが、地主と小作との間に融和を欠くの悪風ありという。午後、更に車行一里にして今尾町〈現在岐阜県海津郡平田町・海津町〉に至り、西願寺にて開演す。住職は佐藤豊氏なり。しかして発起は区長田中万三氏、町長馬淵外太郎氏、校長横山八三郎氏、収入役岡本吉勝氏なりとす。

 二十二日 雨。今尾町より長堤を一走すること一里にして高須町〈現在岐阜県海津郡海津町〉に入る。郡内の首府なり。会場は別院、発起かつ尽力者は町長西善太郎氏、校長飯尾英一氏等とす。郡長山脇一次氏病中なれば、郡書記代わりて来訪せらる。郡視学は野田繁三郎氏なり。会場は別院、宿所は旅館福島屋とす。旅宿表には一等一円二十銭、二等一円、三等七十五銭、四等五十銭、五等三十五銭とあり。当地の理髪料は男子は七銭、女子は五、六銭、すこぶる安価なり。本郡の農家は一日四回食事をなす。朝飯は六時、お茶漬けは十時、昼飯は二時、夕飯は七時とす。

 本郡の方言につきて聞きたる二、三を列挙せん。

氷柱をカナゴ、オタマジャクシをオタマゴッツリ、ヒキガエルをフクガイロ、追ってくることをボッテクル、アグラカクことをジョウラカク、価イクラというべきをイクラジャイモ、メッタニというべきをヘイトニ、メッタニナイというべきをヘイトニナイ。

 語尾にナモシを付くること多し。人を呼ぶに大将というは軽蔑するの意を含む。アグラをジョウラカクというは常楽の意なりとの説あれども信じ難し。

 四月二十三日(日曜) 雨。早朝五時に起き、六時前に高須を発し、揖斐川を渡船し、車行総じて二里半、烏江駅に着す。これより養老鉄道に駕し、大垣にて換車し、不破郡役所所在地たる垂井町〈現在岐阜県不破郡垂井町〉に降車す。車窓より一望するに、菜圃梨園相連なり、黄白相映ずるところ大いに詩味あり。所吟、左のごとし。

  長堤一道高於屋、山遠春郊宜極目、菜麦田間挟梨園、看疑村外彩雲蔟、

(長い堤の道は家々よりも高く通じ、山は遠く、春の郊外は目を楽しませるにはまことによい。菜と麦畑との間には梨園がはさまれるように存在し、それは村外にいろどる雲のむらがりたつかとさえ思われた。)

 会場は劇場泉座、主催は郡青年会、発起は郡長吉田勝太郎氏、課長木村勇三氏、郡視学安江房吉氏等なりとす。この日、知事島田剛太郎氏も出席せられ、大雨にもかかわらずすこぶる盛会なり。郡役所にて休憩せるが、その邸内を汽車が一貫して過ぐるは全国無比ならん。当夕、郡長、署長等と宿所扇屋において会食す。

 二十四日 晴れ。午後、車行二十丁、府中村〈現在岐阜県不破郡垂井町〉に転じ、小学校にて開演す。村長中村定吉氏、校長高木清太夫氏、助役岩田元栄氏の発起なり。演説後、扇屋に帰宿す。この夜、蚊帳をつる。これ蚊を防ぐためにあらずして虫を防ぐためなり。

 二十五日 雨。車行一里、青墓村〈現在岐阜県大垣市〉に至りて午前開演す。会場は延長寺、主催は青年会長水上信一氏、校長相山茂平氏等なり。この地には〔源〕義朝の子の殺されし跡あり。また、照手姫の井あり。この井側の雑草に触るればたたりありとて、手を付くるものなき由。午後、車行一里半にして綾里村〈現在岐阜県大垣市、養老郡養老町〉に移る。途中、静里村の旧家安田育爾氏の庭内にある懐妊石を一見す。その大きさは五寸角の角石にして、地上に出ずる高さは七、八寸ぐらいの小石なり。婦人きたりて一踞すれば必ず懐妊すると伝えきたる。故に遠く京阪地方より、子なき婦人が夫婦相伴いてときどきたずねきたるという。その石は樟の化石との説なり。この伝説は三百年前より起これりという。綾里村会場および宿坊は浄徳寺、発起は村長佐藤俊二氏、校長西村善之丞氏、住職桑原教尊氏等なり。ときに蛙声夜を徹す。青墓村の字名に昼飯村あり。この珍名を聞くに、昔時善光寺如来の難破よりお移りなさるる際に、この地にて昼飯されし遺跡なりと伝えり。

 二十六日 晴れ。車行一里半、赤坂町〈現在岐阜県大垣市〉正福寺に移りて、午後開演す。演説後、当所の名山金生山に登る。山上に松林あり茶店あり、豆腐と芋の田楽とを名物とす。もしその尽頭に至れば真言宗の一寺院あり、堂内には虚空蔵菩薩を安置す。これを福虚空と唱え、福を求むる信者、遠近より日々来詣すという。その書院にて一休するに、山河の眺望絶佳なり。尾濃二州の平野を一瞰するを得。その光景あたかも五色の氈を縦横に敷くがごとし。黄所は菜花、緑所は麦田、紅所は蓮花草、黒所は村落、白所は川なり。所吟一首あり。

  松林赤路石頭懸、攀到山嶺思豁然、不啻虚空蔵助福、山河一望寿当延、

(松林と赤土の道が岩石にかかるように、かくて山の頂に至ればからりと心も開ける思いがする。虚空蔵菩薩が福を授けてくれるのみならず、山河を一望できるのは寿命ものびる思いがするのであった。)

 この山上に眺望台を新築してまさに落成せんとし、余に命名を託せられ、万象閣と選定す。登路約十丁、ただ山上に水なきを欠点とす。開会発起は助役高橋紋次郎氏、同清水治吉氏、校長熊野敏夫氏等なり。この日、町内の神社に遷宮式ありたるために、聴衆比較的少なし。当町の物産は大理石と石炭なり。金生山は全部その石をもって成る。また、石仙焼と名付くる陶器を産す。すこぶる雅致あり。

 二十七日 晴れ。午前、赤坂正福寺を発し、軽便に駕し、大垣を経て養老郡に入る。不破郡は名所旧跡の多きこと県下第一とす。そのうち最も名高きは関ケ原古戦場なるも、討尋するのいとまを得ず。この地方の方言を聞くに、よだれをヨドといい、藁塚をスズミといい、蛙児をオタマガエルまたはオココロという。本日の会場は養老郡上多度なるも、郡視学山口儀十郎氏の案内にて養老駅に降車し、腕車を用い登ること十七丁にして養老公園千歳楼に至り、ここに休憩す。少憩ののち歩すること七丁、渓頭を一巡す。余は六年前、この地に来遊せしことあり。そののち更に改修を加え、一段の風致を添え、面目を一新す。昼食後、更に車を走らすこと約一里、上多度〈現在岐阜県養老郡養老町〉小学校にて開演す。主催は郡教育会にして、尽力者は村長日比琢三氏、助役中村常三郎氏、校長橋本悦二氏等なり。再び車をめぐらして千歳楼に帰宿す。本公園は郡設にして、本楼は迎賓館なり。余の一行が郡賓をもって優待せられたるは大いに謝せざるを得ず。養老は紅葉の期節を最もよしとするも、昨今桜花すでに散じ、新緑の残花を護するの風色は秋期以上なり。よって一詠す。

  多度山根春色移、緑紅交染万林枝、初知養老風光美、却在残花新葉時、

(多度山のふもとに春が移りきて、緑とあかい花の色がまじわって、すべての林の枝を染めている。初めて養老の地の風光の美しさは、桜の残りの花のいろどりと新しい葉のころにあると知ったのである。)

 多度山根を千歳楼頭と改めてもよろし。この夕、郡長東島卯八氏来訪せられ、ともに会食をなす。当所の旅館は菊水と村上と並び立つも、村上館の名はなはだ俗なり。雅号を豆馬亭と称するも人その意を解せず。よって余は閣名を選んで養仙閣となす。

 二十八日 晴れ。養老より車行約一里半、郡役所〔所〕在地たる高田町に至る。その前、養老寺を訪ねて宝物を一覧す。その中に国宝あり。所感一首を賦す。

  養老渓頭樹作行、飛泉懸処気清凉、欲知孝子当年跡、回杖尋来不動堂、

(養老の谷のあたりに樹々は列をなし、滝のかかるところより清涼の気が生じている。孝行息子の当時の跡をたずねたいとおもい、杖をめぐらせて不動堂に来たのであった。)

 境内に不動堂あり。真宗に属す。住職より当地渓上に産出せる天然石、すなわち葡萄石と紫雲石各一個を恵与せらる。この日、高田町永楽屋にて喫飯の後、車行半里余、日吉村〈現在岐阜県養老郡養老町〉西徳寺に至りて開演す。村長大久保精一郎氏、助役高木慶次郎氏、住職本田円明氏、その他安田為三郎氏、鷲見鶴吉氏の発起なり。当夕は永楽屋に帰宿す。

 二十九日 曇りのち雨。午前、高田より車行二里余、渓間に入り一之瀬村〈現在岐阜県養老郡上石津町〉本善寺にて開演す。桑原権之助氏、日比愛三氏の発起なり。この地は伊勢員弁郡より関ケ原に出ずる県道に当たる。午後、高田町〈現在岐阜県養老郡養老町〉専念寺にて開演す。本郡はすべて郡教育会の主催なれども、特に尽力せられたるは東島郡長、山口郡視学の外に、課長太田兵作氏、書記西脇欽一氏、町長神尾格氏、校長田中長秋氏、会場住職笹墳俊海氏等なり。当町は名産として養老酒を醸出す。郡内の方言としては、オ出デナサイをオンサイといい、クダサイをクンサイといい、久シブリをヤットカメという。

 四月三十日(日曜) 雨。高田駅より鉄路に駕し、大垣にて乗り換え、岐阜にて降車、これより腕車にて長良橋を渡り、長良川にそい大雨をおかして行程三里を走り、厳美村〈現在岐阜県岐阜市〉に至る。途中に土仏山日王寺と標記せる寺を見る。珍名なり。会場は小学校、主催は郡教育会、発起は教育会長福井清通氏(郡長)、幹事森川泰次郎氏、同鷲見盛次氏、小学校長各務義雄氏、村長土本寛逸氏、宿泊所は有志家小沢三郎兵衛氏宅とす。この夜、蚊声を聞く。本日は各所において養蚕の掃き立てをなす。

 五月一日 快晴。前日の行路をとりて岐阜に出でて、これより更に車行二里、麦田みな穂をぬきんで、菜花すでに実を結ぶ。ひとり蓮花草の隴頭を飾るありて、残春の光景に応接しつつ本巣郡役所所在地たる北方町に着す。宿泊所は三桝楼なり。玄関の入口に「学而時習之」の扁額を懸く。料理店としては異例の額なり。新築まさに成り、楼上の眺望大いによし。岐阜へ往復する電車はこの隣地より発着するの便あり。午後、真桑瓜の本場と呼ばるる真桑村〈現在岐阜県本巣郡真正町〉に至り、小学校にて開演す。村長白木明治氏、校長若原彦造氏の発起にかかる。若原氏は先年、東濃において相識となれり。

 二日 曇り。午後、郡役所楼上において講話をなす。主催は北方町〈現在岐阜県本巣郡北方町〉ほか九カ村連合にして、発起かつ尽力者は郡長大野薫氏、署長大橋熊吉氏、郡視学田中平太郎氏、北方町長加木屋孜氏、校長佐藤貞次郎氏、その他各村長、校長なりとす。尽夜、揮毫に忙殺せらる。

 三日 晴れ。午前、車行一里半、船木村〈現在岐阜県本巣郡巣南町〉美江寺小学校にて開会す。発起は村長久世亀吉氏、校長吉田万六氏なり。午後、車行半里余、鷺田村〈現在岐阜県本巣郡巣南町〉受念寺にて開演す。青年会長久世進氏、軍人会長馬淵源次氏、収入役石谷伍一氏、校長村瀬博氏、巡査部長金子徳三氏等発起なり。当夕は美江寺山県屋旅館に帰宿す。この町は旧中仙道の駅にして、余は四十年前、徒歩旅行の際一泊せしことあり。その当時宿泊せし一新講旅館亀屋、今なお存すという。また、当地の地名に十三条、十四条ないし十九条と名付くる字ありというもおもしろし。

 四日 穏晴。美江寺より車行一里、揖斐川の鉄橋を一過して安八郡に入る。この辺りは盛んに蓮華草を培養して、その種実を他県に輸出す。方言これをゲンゲという。故に田頭一面に紅なり。会場は三城村〈現在岐阜県大垣市〉、和合村組合立小学校、発起は組合長桐山泰一氏、三城村長松永九三郎氏、和合村長安田新一郎氏等なり。当夕、三城村有志家横幕清三郎氏宅に宿す。また、この地に残馬という姓あり。横幕、残馬ともに奇姓なり。

 五日 温晴。揖斐川堤上を行くこと一里にして川並村〈現在岐阜県大垣市〉役場に休憩し、小学校にて開演し、更に車行一里、大垣町新玉屋旅館に宿泊す。村長大橋平右ヱ門氏、校長栗野幸太郎氏の発起なり。

 六日 晴れ。郡役所を訪問して浅草村〈現在岐阜県大垣市〉、洲本村組合小学校に至る。校舎新築まさに成る。発起は河合角太郎氏、増田俊蔵氏等なり。しかして宿所は大橋政尾氏の宅なり。一望隴頭、蓮花草の氎を敷くがごときを見る。

 五月七日(日曜) 大風雨。車行大いにくるしむ。名森村〈現在岐阜県安八郡安八町〉まで近道一里半の所、大垣を迂回し、揖斐川を渡船し、行程三里となる。二人びきなるも二時間半を費やす。会場は小学校、発起は村長鈴木淳一氏、校長村瀬耕作氏等なり。

 八日 晴れ。車行一里、墨俣町〈現在岐阜県安八郡墨俣町〉に至る。会場は満福寺、主催は町教育会、発起は会長関谷喜之助氏、副会長土屋亀次郎氏、助役渡辺喜問二氏、および住職熊谷玄城氏等なり。この地はもと垂井より名古屋に通ずる街道の駅に当たる。この街道を美濃路回と唱え、中仙道と東海道を接続する駅路なり。町内料理店多し。この地には大閤一夜造りの城跡あり。宿所加野旅館は雅名を晴帆楼という。長良川に枕し、楼上の人影水中に落つ。前に平原を望み、左に金華山に対し、風光の美は四季の里をしのぐ。望中一詩、忽然として湧出す。渡船あり、鉄索によりて来往をなす。

  良川一道擁楼台、鉄索相扶船去来、晩酌未終烟漸散、金華山影入残杯、

(長良川の川すじに楼台晴帆楼がある。鉄索によって渡船が往来している。晩酌のまだ終わらぬうちに夕霧も消えて、金華山の山影が残りの杯にうつるように思われた。)

 宿泊料は八十銭と一円との二等あり。すこぶる廉なり。

 九日 快晴。直行二里半の所、大垣を迂回し、軽便に駕して神戸町〈現在岐阜県安八郡神戸町〉に移る。同文字にして摂州はコウベといい、勢州はカンベといい、濃州はゴウドという。また、名古屋に同字の姓あり、これをカンドと呼ぶ由。途中、藤花、桐花の満開を見る。神戸会場は広善寺、主催は町長林恒治郎氏、宿所は日吉館なり。この日、県知事より彰表せられたる孝子菅井伊三郎氏の披露ありて、郡長竹内伊之助氏も出席せらる。氏は先遊の際、郡上郡において相識となれり。

 安八郡の特色は、全郡山もなく丘陵もなき一事なり。これと同時に巨大なる堤防あり。全郡の堤防の面積は千三百町歩に及ぶと称す。揖斐川の大堤防は、その幅平均二十五間ないし三十間ありという。昔時は水害の多きをもって世に知らる。堤上ところどころに小祠あり。これみな水神を祭るものなり。その代わりに各町村戸々清泉噴出し、井水をくむを要せざる便を有す。余の本郡客中の所見は左のごとし。

  堤上馳車破暁霞、農田不処不囲家、西濃五月残春色、留在隴頭蓮草花、

(堤の上を車を走らせて朝がたの霞を破って行けば、農田が家々をすべてとり囲んでいる。美濃の西の五月は春の景色が残り、田のうねのあたりにはなお蓮の花をとどめている。)

 郡内農村の生活を聞くに、自宅にて一年中に魚類を購入して食する家は、十戸につき一戸ぐらいに過ぎず、九戸までは野菜のみを食すという。郡内は郡視学病中にて、郡書記かわりがわり各所へ案内せらる。

 十日 穏晴。汽車にて岐阜市〈現在岐阜県岐阜市〉に降り、本派別院にて真宗青年会のために講話をなす。発起者は河村透氏、渡辺栄吉氏、篠田樹一氏等なり。なかんずく河村氏尽力あり。演説後、日すでに暮るる。電車にて二里の間を走り、山県郡役所所在地たる高富町〈現在岐阜県山県郡高富町〉に至り、浄光寺に宿す。

 十一日。午後開演。住職長島義賢氏の発起なり。この日、岐阜にて夜行に乗車す。長良川の鵜飼の鮎猟は今夕より始まるという。十二日朝、帰京す。

 大正五年五月十四日より和田山哲学堂にて、毎日曜哲学道話の講演を開く。六月四日より哲学堂図書館を公開す。

 

     美濃国西部開会一覧

 市郡   町村    会場  席数   聴衆     主催

岐阜市        別院   二席  七百人    真宗青年会

稲葉郡  市橋村   寺院   二席  五百人    南部教育会

同    黒野村   別院   二席  六百人    北部教育会

同    那加村   寺院   二席  五百人    六村連合

同    蘇原村   寺院   二席  四百五十人  五村連合

同    鵜沼村   小学校  二席  五百五十人  村教育会

羽島郡  笠松町   小学校  二席  三百人    町村教育会

同    竹ケ鼻町  別院   二席  一千人    町教育会

同    同     同前   一席  八百人    同別院

同    中屋村   寺院   二席  三百人    役場および教育会

同    八剣村   小学校  二席  三百人    青年会

同    足近村   小学校  二席  七百五十人  教育会および青年会

同    八神村   寺院   二席  四百五十人  教育会

同    下中島村  小学校  二席  六百人    教育会

海津郡  高須町   別院   二席  七百人    町長、校長

同    今尾町   寺院   二席  五百人    役場

同    海西村   寺院   二席  五百五十人  在郷軍人会

不破郡  垂井町   劇場   二席  一千人    郡青年会

同    赤坂町   寺院   二席  五百人    町役場

同    府中村   小学校  二席  四百人    青年会、軍人会

同    青墓村   寺院   二席  三百五十人  青年会

同    綾里村   寺院   二席  三百五十人  青年会

養老郡  高田町   寺院   二席  五百人    郡教育会

同    上多度村  小学校  二席  五百五十人  同前

同    日吉村   寺院   二席  五百人    同前

同    一ノ瀬村  寺院   二席  四百人    同前

山県郡  高富町   寺院   二席  二百人    住職

同    厳美村   小学校  一席  三百五十人  郡教育会

本巣郡  北方町   郡役所  二席  五百五十人  十町村連合

同    真桑村   小学校  二席  四百人    村長、校長

同    船木村   小学校  二席  四百五十人  村青年会

同    鷺田村   寺院   二席  五百五十人  軍人会、青年会

安八郡  墨俣町   寺院   二席  七百五十人  町教育会

同    神戸町   寺院   二席  五百人    同町

同    三城村   小学校  二席  五百五十人  村教育会

同    川並村   小学校  二席  四百五十人  軍人会、青年会

同    浅草村   小学校  二席  五百人    村有志

同    名森村   小学校  二席  二百五十人  村教育会

   合計 一市、七郡、三十六町村(十一町、二十五村)、三十八カ所、七十四席、聴衆一万九千六百人

    演題類別

     詔勅修身      三十席

     妖怪迷信     二十五席

     哲学宗教      十二席

     教育         六席

     実業         一席

     雑題          無

P448--------

付 録 日本全国講演開会地総計表

 

 明治四十五年四月付発行の本集第六編に開会地総計表を掲げしも、右は哲学館拡張当時の分と国民道徳講演とを合載せしにつき、今回はこれを別記し、かつ大正元年以後の分をも併記して総計することとなす。

 表中の「前」とは前回巡講の略符にして、明治二十三年より明治三十八年まで十六年間の哲学館拡張巡講地を表示す。

 表中の「後」とは後回巡講の略符にして、明治三十九年より大正四年まで満十年間の国民道徳普及の巡講地を表示す。

 表中の「通計」とは「前」と「後」とを合計し、その中より重複せる分を除きたる総計なり。

 表中の「未開会」は大正四年末までにいまだ一回も講演開会せざりし郡を表示す。この分は大正五年一月以後、巡了する予定なり。

 明治三十五年度の開会地名のその後併合して変名せる分は、すべて大正四年度の職員録によりて訂正を加えり。

 表中、市郡下の六号割註〔小さい文字〕はすべて前回を表し、その他は後回を表す。

 

 ○畿内(五カ国)

   山城国 前一市、後一市二郡二町

(市)京都市、京都市

(紀伊郡)伏見町

(久世郡)宇治町

(未開会郡―愛宕、葛野、乙訓、宇治、綴喜、相楽、六郡)

   大和国 前一郡一村、後九郡二十七町村

(生駒郡)郡山町

(山辺郡)二階堂村

(磯城郡)三輪町、香久山村

(宇陀郡)榛原町、松山町

(高市郡)今井町、真菅村

(北葛城郡)高田町

(南葛城郡)御所町、吐田郷村、掖上村

(宇智郡)五條町

(吉野郡)下北山村、上市町、下市町、四郷村、高見村、小川村、川上村、国樔村、竜門村、大淀村、吉野村、南芳野村、天川村、宗桧村、賀名生村

 (未開会郡―添上、一郡)

   河内国 後一郡四町村

(北河内郡)枚方町、四条村、門真村、交野村

 (未開会郡―南河内、中河内、二郡)

   和泉国 後一市一郡二町

(市)堺市

(泉南郡)岸和田町、貝塚町

 (未開会郡―泉北、一郡)

   摂津国 後二市四郡十二町村

(市)大阪市、神戸市

(三島郡)茨木町

(有馬郡)三田町

(川辺郡)伊丹町、尼崎町

(武庫郡)御影町、須磨町、今津村、精道村、都賀浜村、大庄村、武庫村、良元村

 (未開会郡―西成、東成、豊能、三郡)

畿内合計 前一市一郡一町村、後四市十七郡四十七町村

 通計 四市十七郡四十八町村(前後重複の分はこれを除く、以下同断)

  (未開会合計 十三郡)

 ○東海道(十五カ国および豆南諸島)

   伊賀国 後二郡五町村

(阿山郡)上野町、河合村、山田村

(名賀郡)名張町、阿保村

 (未開会郡―無)

   伊勢国 前三市五郡十三町村

(市)津市、宇治山田市、四日市市

(桑名郡)桑名町

(河芸郡)一身田町

(飯南郡)松阪町

(多気郡)相可村

(度会郡)宿田曾村、五ケ所村、穂原村、南海村、鵜倉村、吉津村、島津村、柏崎村、滝原村

 (未開会郡―員弁、三重、鈴鹿、安濃、一志、五郡)

   志摩国 前一郡八町村

(志摩郡)鳥羽町、的矢村、鵜方村、波切村、甲賀村、立神村、和具村、浜島村

 (未開会郡―無)

   尾張国 前一市三郡六町村、後一市一郡一町村

(市)名古屋市、名古屋市

(丹羽郡)古知野町、布袋町、岩倉町

(海部郡)津島町

(知多郡)半田町、大野町、常滑町

 (未開会郡―羽栗、中島、二郡)

   三河国 前一市四郡五町村、後一市十郡四十九町村

(市)豊橋市、豊橋市

(碧海郡)大浜町、安城町、高浜町、小川村、明治村

(幡豆郡)西尾町、西尾町、寺津村、福地村

(額田郡)岡崎町、岡崎町、福岡町

(宝飯郡)豊川町、蒲郡町、豊川町、蒲郡町、国府町、牛久保町

(渥美郡)田原町、福江町、伊良湖岬村、泉村、野田村、老津村、高師村、牟呂吉田村

(八名郡)大野町、八名村、下川村、石巻村、賀茂村、舟着村、山吉田村

(南設楽郡)新城町、海老町、東郷村、鳳来寺村

(北設楽郡)田口町、段嶺村、本郷村、上津具村、稲橋村

(東加茂郡)足助町、旭村、阿摺村、賀茂村、盛岡村、下山村、松平村

(西加茂郡)挙母町、三好村、高橋村、猿投村、小原村

 (未開会郡―無)

   遠江国 前一市四郡七町村、後一市一郡一町村

(市)浜松市、浜松市

(小笠郡)掛川町、平田村

(周智郡)森町、山梨町

(磐田郡)袋井町、見附町、中泉町

(榛原郡)川崎町

 (未開会郡―浜名、引佐、二郡)

   駿河国 前一市二郡三町村、後一郡一町

(市)静岡市

(安倍郡)清水町、清水町

(志太郡)藤枝町、焼津村

 (未開会郡―駿東、富士、庵原、三郡)

   甲斐国 前一市八郡十五町村

(市)甲府市

(東山梨郡)勝沼町、日下部村、七里村

(東八代郡)英村

(西八代郡)市川大門町

(南巨摩郡)鰍沢町、増穂村、西島村

(中巨摩郡)鏡中条村

(北巨摩郡)韮崎町

(南都留郡)谷村町、瑞穂村

(北都留郡)上野原町、大原村、広里村

 (未開会郡―西山梨、一郡)

   伊豆国 前二郡二十五町村

(賀茂郡)下田町、松崎町、仁科村、岩科村、南上村、三浜村、竹麻村、南中村、中川村、稲梓村、上河津村、下河津村、三坂村、稲取村、稲生沢村

(田方郡)三島町、伊東村、修善寺村、中大見村、上狩野村、下狩野村、江間村、田中村、韮山村、戸田村

 (未開会郡―無)

   相模国 前一市三郡四町村、後二郡二町

(市)横須賀市

(鎌倉郡)鎌倉町、戸塚町

(高座郡)藤沢町

(愛甲郡)厚木町

(中郡)大磯町、秦野町

(未開会郡―三浦、足柄上、足柄下、津久井、四郡)

   武蔵国 前二市十二郡十九町村、後二市九郡五十二町村

(市)東京市、横浜市、東京市、横浜市

(豊多摩郡)中野町、淀橋町、渋谷町

(北豊島郡)板橋町、巣鴨町、中新井村

(南葛飾郡)船堀村

(南多摩郡)八王子町

(北多摩郡)立川村

(北足立郡)浦和町、浦和町、桶川町、大宮町、志木町、蕨町、鳩ケ谷町、中丸村、膝折村

(比企郡)松山町、小川町、玉川村、松山町、八和田村、平村、伊草村、西吉見村

(秩父郡)大宮町、大宮町、小鹿野町、樋口村、国神村、大滝村、下吉田村、槻川村、大河原村、大椚村、名栗村

(児玉郡)本庄町、本庄町、児玉町、松久村、七本木村、神保原村

(大里郡)熊谷町、熊谷町、深谷町、妻沼村、花園村、榛沢村

(北埼玉郡)忍町、羽生町、羽生町、不動岡村、新郷村、手子林村、太田村

(南埼玉郡)岩槻町、岩槻町、越ケ谷町、菖蒲町、久喜町

(北葛飾郡)杉戸町、幸手町、吉田村、吉川村、松伏領村

(入間郡)川越町、豊岡町、毛呂村、三ケ島村、三芳村

 (未開会郡―荏原、南足立、西多摩、久良岐、橘樹、都筑、六郡)

   安房国 後一郡六町村

(安房郡)北条町、保田町、曦町、和田町、富崎村、太海村

 (未開会郡―無)

   上総国 前一郡二町村、後五郡二十二町村

(市原郡)八幡町、鶴舞町、海上村

(君津郡)木更津町、久留里町、佐貫町

(夷隅郡)大多喜町、勝浦町、大原町、長者町、国吉町

(長生郡)庁南町、茂原町、庁南町、茂原町、一宮町、土睦村

(山武郡)大網町、東金町、松尾町、成東町、片貝村、二川村、睦岡村

 (未開会郡―無)

   下総国 前四郡五町、後一郡一町

(千葉郡)千葉町

(印旛郡)成田町

(猿島郡)境町、古河町

(北相馬郡)取手町

(香取郡)佐原町

 (未開会郡―東葛飾、海上、匝瑳、三郡)

   常睦国 前一市五郡十二町村、後一市六郡三十一町村

(市)水戸市、水戸市

(西茨城郡)笠間町、岩間村、西那珂村

(稲敷郡)生板村、龍ケ崎町、生板村

(筑波郡)谷田部町、谷井田村、北条町

(真壁郡)下館町、下妻町

(結城郡)結城町、水海道町、宗道村

(新治郡)土浦町

(久慈郡)太田町、大子町、久慈町、黒沢村、依上村、天下野村

(那珂郡)湊町、大宮町、菅谷村、戸多村、神崎村、石神村、佐野村、川田村

(多賀郡)豊浦町、大津町、高鈴村、日高村、松岡村、高岡村、北中郷村

(行方郡)麻生町、潮来町、現原村、手賀村、行方村、武田村、大和村

(未開会郡―東茨城、鹿島、二郡)

   付

豆南諸島 後三島十一村

(大島)元村、野増村、差木地村、波浮港村

(八丈島)大賀郷村、中之郷村、三根村

(小笠原島)父島大村、同扇村、母島沖村、同北村

東海道合計 前十二市五十五郡百二十四町村、後六市三十九郡百七十一町村

 通計 十二市七十六郡三島二百九十一町村ほかに三島十一町村

  (未開会合計 二十八郡)

 ○東山道(十三カ国)

   近江国 前一市六郡七町村、後十二郡八十八町村

(市)大津市

(神崎郡)北五個荘村、八日市町、南五個荘村、北五個荘村、伊庭村、能登川村、八幡村

(愛知郡)愛知川町、愛知川町、稲村、秦川村、東押立村、豊椋村、稲枝村、葉枝見村

(蒲生郡)八幡町、常楽寺村、八幡町、日野町、武佐村、桜川村、北比都佐村、鏡山村、桐原村、西桜谷村

(犬上郡)彦根町、彦根町、高宮町、多賀村、西甲良村、日夏村、河瀬村

(坂田郡)長浜町、長浜町、北郷里村、春照村、南郷里村、大原村、柏原村、東黒田村、醒井村、入江村、鳥居本村、法性寺村、神田村

(甲賀郡)水口町、土山村、佐山村、寺庄村、長野村、三雲村

(野洲郡)守山町、北里村、中里村、河西村

(栗太郡)草津町、大宝村、葉山村、金勝村、志津村、老上村、瀬田村、上田上村、大石村、山田村、物部村

(滋賀郡)坂本村、堅田町、石山村、下阪本村、真野村、和迩村、小松村

(高島郡)今津町、大溝町、安曇村、朽木村、広瀬村、新儀村、海津村、饗庭村

(伊香郡)木之本村、塩津村、北富永村、古保利村、南富永村

(東浅井郡)虎姫村、朝日村、竹生村、小谷村、田根村、上草野村、東草野村、七尾村、湯田村

 (未開会郡―無)

   美濃国 前一市、後一市七郡三十四町村

(市)岐阜市、岐阜市

(安八郡)大垣町

(恵那郡)岩村町、長島町

(土岐郡)土岐津町、多治見町、瑞浪村

(可児郡)御嵩町、兼山町、姫治村、平牧村

(加茂郡)太田町、八百津町、川辺町、加治田村、西白川村

(武儀郡)上有知町、関町、神淵村、富之保村、洞戸村

(郡上郡)八幡町、嵩田村、下川村、相生村、口明方村、奥明方村、西和良村、和良村、東村、山田村、弥富村、牛道村、上保村、高鷲村

 (未開会郡―稲葉、羽島、海津、養老、不破、揖斐、本巣、山県、八郡)

   飛騨国 後三郡二十一町村

(大野郡)高山町、久々野村、清見村、丹生川村、荘川村、白川村

(吉城郡)古川町、船津町、国府村、河合村、上宝村、阿曾布村

(益田郡)萩原町、小坂町、中原村、上原村、竹原村、下呂村、川西村、高根村、朝日村

 (未開会郡―無)

   信濃国 前二市十二郡四十九町村、後五郡三十五町村

(市)長野市、松本市

(南佐久郡)臼田町、野沢町、小海村、穂積村、青沼村、海瀬村、田口村、臼田町

(北佐久郡)岩村田町、小諸町、望月村、茂田井村、山部村

(小県郡)上田町、東内村、神川村、別所村、塩尻村

(埴科郡)屋代町、松代町、杭瀬下村

(更級郡)稲荷山町、上山田村、牧郷村、笹井村

(上高井郡)須坂町、井上村、小布施村

(下高井郡)中野町、平穏村

(上水内郡)朝陽村、高岡村、鳥居村、中郷村、三水村、古牧村

(下水内郡)飯山町、常盤村、柳原村

(南安曇郡)豊科村、東穂高村、温村、高家村、梓村、明盛村

(北安曇郡)大町、池田町村

(東筑摩郡)中川手村、島立村、笹賀村

(西筑摩郡)福島町、吾妻村、駒ケ根村、木祖村、奈川村

(諏訪郡)上諏訪町、下諏訪町、境村、玉川村、北山村、米沢村、中洲村、湖南村、平野村

(上伊那郡)〔伊那町〕、高遠町、朝日村、中箕輪村、宮田村、赤穂村、飯島村

(下伊那郡)飯田町、山吹村、市田村、座光寺村、上郷村、喬木村、松尾村、千代村、平岡村、下條村、竜丘村、伍和村、伊賀良村

 (未開会郡―無)

   上野国 前二市五郡十町村

(市)前橋市、高崎市

(群馬郡)渋川町、伊香保町、白郷井町

(碓氷郡)安中町、松井田町、八幡村、里見村

(山田郡)桐生町

(邑楽郡)館林町

(佐波郡)伊勢崎町

(未開会郡―勢多、多野、北甘楽、吾妻、利根、新田、六郡)

   下野国 前一市三郡四町村、後一市五郡二十五町村

(市)宇都宮市、宇都宮市

(上都賀郡)鹿沼町、足尾町

(芳賀郡)真岡町、山前村、益子町、田野村、七井村、小貝村

(下都賀郡)栃木町

(塩谷郡)矢板町、喜連川町、氏家町、塩原村、箒根村、泉村、熟田村

(那須郡)大田原町、馬頭町、烏山町、黒磯町、芦野町、那珂村、大内村、七合村、境村、向田村、荒川村、西那須野村

(足利郡)足利町

 (未開会郡―河内、安蘇、二郡)

   磐城国 前三郡三町、後七郡三十七町村

(田村郡)三春町、小野新町、守山町、常葉町、七郷村、片曾根村、美山村、都路村

(刈田郡)白石町

(伊具郡)角田町

(亘理郡)亘理町

(相馬郡)中村町、鹿島町、原町、小高町、太田村

(双葉郡)富岡町、浪江町、久之浜町、大野村、新山村、木戸村

(石城郡)平町、四倉町、小名浜町、内郷村、湯本村、窪田村

(石川郡)石川町、川東村、浅川村

(西白河郡)白河町、矢吹町、五箇村、金山村

(東白川郡)棚倉町、竹貫村、鮫川村、常豊村、石井村

 (未開会郡―無)

   岩代国 前一市、後一市六郡二十二町村

(市)福島市、福島市

(耶麻郡)喜多方町、塩川町、猪苗代町

(安積郡)郡山町

(岩瀬郡)須賀川町

(安達郡)二本松町、本宮町、小浜町、太田村

(伊達郡)川俣町、掛田町、保原町、梁川町、小手川村、藤田村、飯野村

(信夫郡)瀬上町、岡山村、清水村、庭坂村、大森村、平野村

 (未開会郡―南会津、北会津、河沼、大沼、四郡)

   陸前国 前一市九郡十一町村

(市)仙台市

(柴田郡)大河原町

(名取郡)岩沼町

(宮城郡)原町

(玉造郡)岩出山町

(遠田郡)涌谷町

(志田郡)古川町

(栗原郡)若柳町、築館町、一迫村

(桃生郡)広淵村

(牡鹿郡)石巻町

(未開会郡―黒川、加美、登米、本吉、気仙、五郡)

   陸中国 前一市一郡一町、後一郡五町村

(市)盛岡市

(稗貫郡)花巻町

(鹿角郡)花輪町、小坂町、毛馬内町、大湯村、尾去沢村

(未開会郡―岩手、紫波、和賀、胆沢、江刺、西磐井、東磐井、上閉伊、下閉伊、九戸、十郡)

   陸奥国 前二市五郡七町村

(市)青森市、弘前市

(西津軽郡)鯵ケ沢町、木造町

(南津軽郡)黒石町

(北津軽郡)五所川原町、板柳村

(上北郡)野辺地町

(三戸郡)八戸町

 (未開会郡―東津軽、中津軽、下北、二戸、四郡)

   羽前国 前二市五郡五町

(市)山形市、米沢市

(東村山郡)天童町

(西村山郡)寒河江町

(北村山郡)楯岡町

(最上郡)新庄町

(西田川郡)鶴岡町

(未開会郡―南村山、東田川、西置賜、東置賜、南置賜、五郡)

   羽後国 前一市七郡十六町村、後一市八郡五十八町村

(市)秋田市、秋田市

(飽海郡)酒田町、松嶺町

(南秋田郡)土崎港町、五城目町、土崎港町、五城目町、船川港町、内川村、富津内村、馬川村、一日市村、飯田川村、大久保村、払戸村

(北秋田郡)鷹巣町、大館町、扇田町、釈迦内村、鷹巣町、大館町、扇田町、十二所町、米内沢町、阿仁合町、釈迦内村、矢立村、上大野村、前田村

(山本郡)能代港町、能代港町、二ツ井町、浜口村、鹿渡村

(仙北郡)大曲町、六郷町、大曲町、六郷町、神宮寺町、角館町、金沢町、荒川村、高梨村

(平鹿郡)横手町、浅舞町、沼館町、十文字村、横手町、角間川町、沼館町、浅舞町、増田町、植田村、栄村

(雄勝郡)湯沢町、湯沢町、稲庭町、西馬音内町、三梨村

(由利郡)本荘町、金浦町、象潟町、平沢町、矢島町、亀田町、院内村、東滝沢村、石沢村

(河辺郡)新屋町、仁井田村、四ツ小屋村、川添村、戸米川村、種平村、船岡村

 (未開会郡―無)

東山道合計 前十五市五十六郡百十三町村、後四市五十四郡三百二十五町村

 通計 十五市九十五郡四百二十一町村

  (未開会合計 四十四郡)

 ○北陸道(七カ国)

   若狭国 前三郡七町村

(遠敷郡)小浜町、今富村、瓜生村

(三方郡)八村、耳村

(大飯郡)高浜村、本郷村

 (未開会郡―無)

   越前国 前一市八郡二十八町村、後一市二郡四町村

(市)福井市、福井市

(足羽郡)麻生津村

(吉田郡)西藤島村

(坂井郡)三国町、丸岡町、金津町、芦原村、鷹巣村、棗村、吉崎村、大安寺村、鶉村、三国町、金津町

(大野郡)大野町、勝山町、上味見村、下味見村

(今立郡)鯖江町、上池田村、粟田部村、国高村、糸生村、河和田村、粟田部村、岡本村

(丹生郡)四ケ浦村、越廼村、国見村、織田村、三方村

(南条郡)武生町

(敦賀郡)敦賀町

 (未開会郡―無)

   加賀国 前一市四郡三十四町村

(市)金沢市

(江沼郡)大聖寺町、黒崎村、山代村、山中村、動橋村

(能美郡)小松町、木津村、寺井村、浅井村、沖杉村、草深村、千針村、山口村、串村、金野村、宮内村

(石川郡)松任町、金石町、美川町、鶴来町、旭村、二塚村、出城村、柏野村、笠間村

(河北郡)津幡町、高松村、倶利伽羅村、金川村、七塚村、東英村、種谷村、中条村、大浦村

 (未開会郡―無)

   能登国 前四郡四十四町村

(羽咋郡)羽咋町、高浜町、河合谷村、北大海村、末森村、志雄村、若部村、東土田村、釶打村、富来村、西増穂村

(鹿島郡)七尾町、余喜村、大呑村、徳田村、越路村、滝尾村、鳥屋村、田鶴浜村、熊木村、中島村

(鳳至郡)輪島町、穴水町、宇出津町、仁岸村、阿岸村、黒島村、七浦村、櫛比村、浦上村、大屋村、三井村、河原田村、南志見村、町野村、島崎村、東保村、中居村、兜村、鵜川村、諸橋村、三波村

(珠洲郡)飯田町、小木村

 (未開会郡―無)

   越中国 前二市八郡五十八町村、後二市二郡五町村

(市)富山市、高岡市、富山市、高岡市

(上新川郡)東岩瀬町、針原村、大庄村、大広田村、船峅村、熊野村、大久保村

(中新川郡)滑川町、東水橋町、上市町、宮川村、東谷村、舟橋村、柿沢村、音杉村、高野村

(下新川郡)魚津町、生地町、三日市町、入善町、舟見町、泊町、椚山村、大家庄村、若栗村、浦山村、新屋村、横山村、野中村

(婦負郡)八尾町、寒江村、熊野村

(射水郡)伏木町、新湊町、小杉町、下村、黒河村、二口村、横田村

(氷見郡)氷見町、布勢村、阿尾村

(東砺波郡)城端町、井波町、中田町、福野町、出町、五鹿屋村、般若村、油田村、太田村、柳瀬村、南般若村、下麻生村、城端町、井波町、平村、上平村

(西砺波郡)石動町、福光町、戸出町、北蟹谷村、西野尻村

 (未開会郡―無)

   越後国 前三市十四郡百町村、後一市三郡九町村

(市)新潟市、高田市、長岡市、長岡市

(北蒲原郡)水原町、葛塚町、新発田町、笹岡村、熊堂村、本田村

(中蒲原郡)村松町、新津町、沼垂町、亀田町、白根町、庄瀬村、袋津村、茅野山村、酒屋村、曾川村

(西蒲原郡)巻町、燕町、地蔵堂町、吉田村、麓村、福井村、粟〔生〕津村

(南蒲原郡)三条町、見附町、加茂町、今町、中之島村、塚野目村、田上村、大面村

(三島郡)与板町、寺泊町、出雲崎町、村田村、脇野町村、本与板村、関原村、王寺川村、深才村、来迎寺村、片貝村、塚山村

(古志郡)十日町村、上北谷村

(南魚沼郡)六日町、塩沢町、六日町、塩沢町

(中魚沼郡)十日町、千手町村、水沢村、田沢村、貝野村、鐙坂村、仙田村、上野村、真人村

(北魚沼郡)小千谷町、小出町、小出町、薮神村、広瀬村、須原村、堀之内村、川口村

(刈羽郡)柏崎町、石地町、新町村、加納村、野田村

(東頚城郡)安塚村、奴奈川村、山平村、浦田村、松代村、松之山村

(中頚城郡)直江津町、新井町、板倉村、頚城村、里五十公野村、黒川村、上黒川村、柿崎村、旭村、上杉村、斐太村、中郷村、関川村、豊葦村、原通村、姫川原村、津有村、保倉村、潟町村、犀潟村、上吉川村、明治村、板倉村

(西頚城郡)糸魚川町、名立町、能生町、大和川村、木浦村、東早川村、根知谷村、田海村

(岩船郡)村上町

 (未開会郡―東蒲原、一郡)

   佐渡国 前一郡三町、後一郡十三町村

(佐渡郡)相川町、河原田町、両津町、相川町、河原田町、両津町、沢根町、小木町、高千村、二宮村、羽茂村、真野村、金沢村、畑野村、新穂村、河崎村

 (未開会郡―無)

北陸道合計 前七市四十二郡二百七十四町村、後四市八郡三十一町村

 通計 七市四十二郡二百九十五町村

 (未開会合計 一郡)

 ○山陰道(八カ国)

   丹波国 前五郡十町村

(南桑田郡)亀岡町

(何鹿郡)綾部町

(天田郡)福知山町

(氷上郡)柏原町、久下村、佐治村、成松村、黒井村、石生村

(多紀郡)篠山町

 (未開会郡―北桑田、船井、二郡)

   丹後国 前三郡三町村

(加佐郡)舞鶴町

(与謝郡)宮津町

(中郡)峰山町

 (未開会郡―竹野、熊野、二郡)

   但馬国 前二郡二町、後五郡二十町村

(城崎郡)豊岡町、豊岡町、城崎町、香住村、国府村、日高村、竹野村、清滝村

(出石郡)出石町、出石町、高橋村、資母村

(朝来郡)生野町、梁瀬村、竹田村

(養父郡)八鹿村、広谷村、関宮村

(美方郡)村岡町、浜坂町、照来村、温泉村

 (未開会郡―無)

   因幡国 前一市、後一市三郡十七町村

(市)鳥取市、鳥取市

(八頭郡)若桜町、智頭村、用瀬村、河原村、安部村、賀茂村

(岩美郡)大岩村、本庄村、宇倍野村、三戸古村

(気高郡)鹿野町、豊実村、吉岡村、小鷲河村、宝木村、正条村、青谷村

 (未開会郡―無)

   伯耆国 前二郡三町村、後三郡二十一町村

(東伯郡)倉吉町、長瀬村、倉吉町、八橋町、宇野村、日下村、由良村、東郷村

(西伯郡)米子町、米子町、境町、御来屋町、淀江町、大高村、大和村、大篠津村

(日野郡)二部村、溝口村、江尾村、根雨村、黒坂村、阿毘縁村、宮内村、石見村

 (未開会郡―無)

   出雲国 前一市一郡三町、後一市六郡三十三町村

(市)松江市、松江市

(八束郡)本庄村、講武村、秋鹿村、揖屋村、熊野村、玉湯村、宍道村

(能義郡)広瀬町、安来町、母里村、荒島村、能義村、布部村、比田村

(仁多郡)三成村、横田村

(大原郡)大東町、木次町、加茂村

(飯石郡)掛合村、赤名村、頓原村、三刀屋村、鍋山村、志々村、西須佐村

(簸川郡)今市町、杵築町、平田町、今市町、杵築町、平田町、直江村、久村、布智村、知井宮村

 (未開会郡―無)

   石見国 前五郡十町村、後六郡三十七町村

(安濃郡)大田町、波根西村、大田町、波根西村、佐比売村、川合村、波根東村

(迩摩郡)大森町、温泉津町、宅野村、大国村、大森町、温泉津町、大国村、大家村、波積村、五十猛村、静間村

(邑智郡)川本村、市山村、矢上村、市木村、出羽村、都賀村、浜原村

(那賀郡)浜田町、江津村、浜田町、江津村、三隅村、国分村、有福村、川波村、跡市村

(美濃郡)益田町、益田町、高津村、豊田村、東仙道村、都茂村、種村、安田村、鎌手村

(鹿足郡)津和野町、津和野町、畑迫村、日原村

 (未開会郡―無)

   隠岐国 後四郡八町村

(周吉郡)西郷町、中条村、東郷村

(穏地郡)五箇村、都万村

(海士郡)海士村

(知夫郡)黒木村、浦郷村

 (未開会郡―無)

山陰道合計 前二市十八郡三十一町村、後二市二十七郡百三十六町村

 通計 二市三十五郡百三十六町村

  (未開会合計 四郡)

 ○山陽道(八カ国)

   播磨国 前一市十三郡三十九町村、後八郡十四町村

(市)姫路市

(明石郡)明石町、明石町、垂水村、平野村、魚住村

(美嚢郡)中吉川村、三木町、北谷村

(加東郡)社町、社町、中東条村、小野村

(多可郡)中村、津万村、黒田庄村、松井庄村

(加西郡)北条町、北条町

(加古郡)加古川町、高砂町、加古川町

(印南郡)伊保村、阿弥陀村

(飾磨郡)余部村、御着村、広村、置塩村、菅野村

(神崎郡)船津村、粟賀村、屋形村、田原村、香呂村、甘地村、田原村

(揖保郡)龍野町、網干町、新宮村、大津村、斑鳩村、御津村、龍野町

(赤穂郡)赤穂町、高田村、有年村、上郡村、鞍居村、船坂村

(佐用郡)佐用村、三日月村、平福村

(宍粟郡)安師村、神戸村

 (未開会郡―無)

   美作国 後五郡十九町村

(苫田郡)津山町、大野村、院庄村、久田村、泉村、羽出村、高野村

(英田郡)倉敷町

(真庭郡)勝山町、久世町、湯原村、八束村、木山村、川東村

(勝田郡)勝間田町

(久米郡)加美村、大井西村、倭文東村、福渡村

 (未開会郡―無)

   備前国 前一市一郡一町村、後六郡三十七町村

(市)岡山市

(上道郡)西大寺町、財田村、平島村、三蟠村

(和気郡)伊里村、和気町、三石町、片上町、福河村、伊里村

(邑久郡)牛窓町、邑久村、国府村、鹿忍村、幸島村

(赤磐郡)潟瀬村、豊田村、佐伯本村、周匝村、笹岡村、鳥取上村、西山村、高陽村

(児島郡)味野町、日比町、甲浦村、鉾立村、山田村、荘内村、灘崎村、琴浦村、郷内村、藤戸村、興除村

(御津郡)石井村、金川村、建部村、長田村

 (未開会郡―無)

   備中国 後八郡四十三町村

(上房郡)高梁町

(阿哲郡)新見町、神代村、野馳村、熊谷村、豊永村、刑部村

(浅口郡)玉島町、連島町、寄島町、黒崎村、里庄村、鴨方村

(小田郡)矢掛町、金浦町、美川村、中川村、新山村、北川村、稲倉村

(後月郡)井原町、西江原村、共和村、三原村、芳井村、県主村

(都窪郡)倉敷町、妹尾町、福田村、清音村、三須村

(吉備郡)庭瀬町、岩田村、大井村、生石村、箭田村、久代村、日美村

(川上郡)成羽町、吹屋町、落合村、手荘村、富家村

 (未開会郡―無)

   備後国 前一市、後一市九郡六十二町村

(市)尾道市、尾道市

(深安郡)福山町、川北村、下岩成村、下竹田村、大津野村

(沼隈郡)松永町、鞆町、津之郷村、山南村、田島村、藤江村、千年村

(芦品郡)府中町、新市町、有磨村、宜山村、服部村、戸手村、常金丸村、大正村

(神石郡)油木村、高蓋村、福永村、豊松村、新坂村

(比婆郡)庄原町、東城町、西城町、小奴可村、山内西村、比和村、上高野山村、口北村

(双三郡)三次町、八次村、原村、君田村、布野村、作木村、田幸村、川西村、三良坂村、吉舎村

(甲奴郡)上下町、甲奴村、田総村

(世羅郡)甲山町、東村、西大田村、神田村、吉川村、上山村、津久志村、大見村

(御調郡)三原町、栗原村、中庄村、市村、上川辺村、河内村、宇津戸村、坂井原村

 (未開会郡―無)

   安芸国 前二市、後二市七郡五十一町村

(市)広島市、呉市、広島市、呉市

(豊田郡)忠海町、御手洗町、本郷村、上北方村、沼田西村、長谷村、戸野村、久友村、大崎南村

(賀茂郡)西条町、竹原町、三津町、賀永村、下野村、東高屋村、郷原村、広村

(安芸郡)下蒲刈村、仁保島村

(佐伯郡)廿日市町、草津町、厳島町、大竹町、五日市町、大柿村、中村、大野村、地御前村、津田村、玖島村、砂谷村、八幡村

(安佐郡)可部町、戸山村、伴村、祇園村、三川村、緑井村、深川村、鈴張村

(山県郡)壬生町、本地村、大朝村

(高田郡)吉田町、刈田村、丹比村、北村、来原村、小田村、坂村、井原村

 (未開会郡―無)

   周防国 前五郡八町村、後六郡五十四町村

(玖珂郡)岩国町、岩国町、柳井町、新庄村、伊陸村、祖生村、高森村、北河内村、桑根村、広瀬村、本郷村、秋中村、灘村、由宇村

(大島郡)久賀町、小松志佐村、平郡村

(熊毛郡)室積町、室積町、平生町、三丘村、周防村、塩田村、光井村、曾根村、佐賀村、田布施村

(都濃郡)徳山町、下松町、花岡村、徳山町、下松町、花岡村、福川町、湯野村、富田村、須々万村、末武北村

(佐波郡)防府町、防府町、華城村、西浦村、中関村、右田村、小野村、島地村

(吉敷郡)山口町、西岐波村、山口町、小郡町、西岐波村、東岐波村、井関村、嘉川村、秋穂二島村、名田島村、大道村、吉敷村、宮野村、仁保村、大内村、小鯖村

 (未開会郡―無)

   長門国 前一市五郡十五町村、後一市五郡四十四町村

(市)下関市、下関市

(厚狭郡)船木村、吉田村、王喜村、生田村、厚東村、船木村、厚東村、厚西村、高千帆村、須恵村、藤山村、宇部村

(豊浦郡)長府町、豊東村、川棚村、長府町、豊東村、川棚村、田耕村、阿川村、粟野村、滝部村、西市村、岡枝村、内日村、小串村、黒井村、豊西上村、安岡村、勝山村

(美禰郡)大田村、秋吉村、大田村、西厚保村、大嶺村、於福村、共和村、秋吉村、綾木村

(大津郡)深川村、黄波戸村、菱海村、向津具村、深川村、黄波戸村、菱海村、向津具村、三隅村、仙崎村、俵山村、日置村

(阿武郡)萩町、萩町、明木村、吉部村、小川村、奈古村、山田村、三見村

 (未開会郡―無)

山陽道合計 前六市二十四郡六十三町村、後四市五十四郡三百二十四町村

 通計 六市五十九郡三百六十町村

  (未開会無)

 ○南海道(六カ国)

   紀伊国 前一市七郡三十三町村、後一郡一町村

(市)和歌山市

(伊都郡)高野村、高野村

(有田郡)箕島町、湯浅町、保田村、宮原村、広村

(日高郡)御坊町、南部町、印南町、湯川村

(西牟婁郡)田辺町、南富田村、川添村、日置村、周参見村、田並村、潮岬村、富二橋村

(東牟婁郡)新宮町、古座町、高池町、田原村、下里村、那智村、本宮村

(南牟婁郡)木本町、五郷村、尾呂志村

(北牟婁郡)尾鷲町、相賀村、桂城村、赤羽村、二郷村

 (未開会郡―海草、那賀、二郡)

   淡路国 前二郡三町村、後二郡十三町村

(津名郡)洲本町、志筑町、洲本町、岩屋町、浦村、生穂村、都志村、山田村、郡家村、江井村、育波村

(三原郡)市村、市村、倭文村、広田村、阿万村

 (未開会郡―無)

  阿波国 前一市四郡四町村、後一市九郡十町村

(市)徳島市、徳島市

(板野郡)撫養町、撫養町

(麻植郡)川島町、川島町

(美馬郡)脇町、脇町、半田村

(三好郡)池田町、池田町

(勝浦郡)小松島町

(那賀郡)富岡町

(海部郡)日和佐町

(名西郡)石井町

(阿波郡)市場町

 (未開会郡―名東、一郡)

   讃岐国 前二市一郡一村、後二市七郡二十八町村

(市)高松市、丸亀市、高松市、丸亀市

(香川郡)仏生山町、鷺田村、中笠居村、上笠居村、太田村

(綾歌郡)坂出町、滝宮村、山田村、川西村、岡田村、山内村

(仲多度郡)琴平町、善通寺町、多度津町

(三豊郡)観音寺町、豊浜町、常磐村、辻村、詫間村

(小豆郡)土庄町、草壁村

(大川郡)長尾村、志度町、三本松町、津田町、長尾村

(木田郡)氷上村、池戸村〔=平井村〕、古高松村

 (未開会郡―無)

   伊予国 前一市三郡三町村、後一市十二郡六十六町村

(市)松山市、松山市

(上浮穴郡)久万町、川瀬村、柳谷村、弘形村、小田町村

(喜多郡)大洲町、内子町、五城村、新谷村、宇和川村

(東宇和郡)宇和町、野村、土居村、貝吹村

(北宇和郡)宇和島町、宇和島町、吉田町、愛治村、三間村、岩松村

(南宇和郡)御荘村、一本松村

(西宇和郡)八幡浜町、三瓶村、川之石村、喜須来村

(温泉郡)道後村、三津浜町、北条町、生石村、垣生村、余土村、石井村、荏原村、久米村、道後村、御幸村、潮見村、河野村

(伊予郡)郡中町、上灘村、中山村、松前村、原町村、砥部村

(越智郡)今治町、今治町、菊間町、大井村、関前村、岡山村、宮浦村、上朝倉村、東伯方村、津倉村、桜井村

(周桑郡)小松町、壬生川町、田野村、三芳村

(新居郡)西条町、氷見町、大生院村、泉川村、金子村、神郷村

(宇摩郡)三島町、川之江町、土居村

 (未開会郡―無)

  土佐国 前一市四郡五町村

(市)高知市

(長岡郡)国府村

(香美郡)山田町

(安芸郡)安芸町、田野村

(高岡郡)須崎町

 (未開会郡―土佐、幡多、吾川、三郡)

南海道合計 前六市二十一郡四十九町村、後四市三十一郡百十八町村

 通計 六市四十一郡百五十六町村

  (未開会合計 六郡)

 ○西海道(十一カ国 付 沖縄)

   筑前国 前二市、後二市九郡四十町村

(市)福岡市、若松市、福岡市、若松市

(朝倉郡)甘木町、宮野村、三奈木村、大三輪村、夜須村

(筑紫郡)太宰府町、住吉村、曰佐村、席田村、千代村

(早良郡)姪浜町、原村、入部村、脇山村

(糸島郡)前原町、長糸村

(糟屋郡)香椎村、宇美村、志賀島村

(宗像郡)東郷村、下西郷村、河東村

(鞍手郡)直方町、植木町、若宮村、新入村

(嘉穂郡)飯塚町、大隈町、頴田村、稲築村、穂波村、上穂波村、千手村、宮野村

(遠賀郡)芦屋町、八幡町、折尾村、香月村、長津村、島門村

 (未開会郡―無)

   筑後国 前一市一郡一町村、後一市六郡二十六町村

(市)久留米市、久留米市

(三池郡)大牟田町、三池町、江浦村、二川村

(山門郡)柳河町、瀬高町、富原村

(三瀦郡)大川町、城島町、木室村、木佐木村、大善寺村

(八女郡)福島町、黒木町、水田村、岡山村、光友村、辺春村、木屋村、横山村、中広川村

(三井郡)御井町、善導寺村

(浮羽郡)吉井町、吉井町、田主丸町、椿子村

 (未開会郡―無)

   豊前国 前一市二郡二町村、後二市六郡四十一町村

(市)小倉市、小倉市、門司市

(企救郡)企救村、東谷村、足立村、曾根村、松ケ江村、柳ケ浦村、東郷村

(京都郡)行橋町、豊津村、苅田村、黒田村、犀川村、伊良原村

(田川郡)香春町、後藤寺町、添田村、糸田村、神田村、方城村

(築上郡)椎田町、八屋町、椎田町、千束村、黒土村、合河村、岩屋村、西吉富村、上城井村

(下毛郡)中津町、中津町、尾紀村、三保村、城井村、三郷村

(宇佐郡)四日市町、宇佐町、長洲町、八幡村、安心院村、南院内村、駅館村、封戸村、東院内村

 (未開会郡―無)

   豊後国 前一郡一町、後十郡四十一町村

(南海部郡)佐伯町

(北海部郡)臼杵町、佐賀関町

(大野郡)三重町、犬飼町、牧口村、田中村

(直入郡)竹田町、長湯村、久住村、城原村、荻村

(大分郡)大分町、鶴崎町、戸次村、日岡村、植田村

(速見郡)別府町、浜脇町、豊岡町、日出町、杵築町、御越町

(東国東郡)国東町、安岐町、富来町、伊美村、熊毛村

(西国東郡)玉津町、高田町、田染村、田原村、岬村、臼野村

(日田郡)日田町、日田町、大鶴村

(玖珠郡)森町、北山田村、万年村、東飯田村、野上村

 (未開会郡―無)

   肥前国 前三市二郡三町、後三市十四郡五十四町村

(市)長崎市、佐賀市、佐世保市、長崎市、佐賀市、佐世保市

(佐賀郡)春日村、中川副村

(藤津郡)多良村、八本木村、能古見村、北鹿島村、南鹿島村

(杵島郡)武雄町、北方村、福治村

(西松浦郡)伊万里町、有田町、黒川村、大川村、大坪村、曲川村、大山村

(東松浦郡)唐津町、唐津町、浜崎村、鬼塚村、相知村

(小城郡)小城町、牛津町、多久村

(神埼郡)神埼町、蓮池村、城田村、脊振村

(三養基郡)鳥栖町、基山村、田代村、麓村、中原村、北茂安村、三川村

(西彼杵郡)矢上村、瀬戸村

(東彼杵郡)大村町

(北高来郡)諌早町

(南高来郡)島原町、愛野村、堂崎村、東有家村、南有馬村、口之津村、加津佐村

(北松浦郡)平戸町、福島村、志佐村、世知原村、山口村、佐々村

(南松浦郡)福江村、富江村、岐宿村、大浜村

 (未開会郡―無)

   肥後国 前一市、後一市十二郡八十七町村

(市)熊本市、熊本市

(飽託郡)春日町、高橋町、川尻町、小島町、大江村、清水村、池上村、西里村、奥古閑村、藤富村

(宇土郡)宇土町、三角町、松合村

(玉名郡)高瀬町、伊倉町、長洲町、南関町、弥富村、江田村、高道村、六栄村、緑村

(鹿本郡)山鹿町、来民町、植木町、広見村、山本村、三玉村、千田村

(菊池郡)隈府町、大津町、陣内村、合志村、泗水村、西合志村、田島村、加茂川村

(阿蘇郡)宮地町、馬見原町、内牧町、坂梨村、山田村、北小国村、南小国村、白水村

(上益城郡)御船町、甲佐町、木山町、浜町村、六嘉村、高木村

(下益城郡)松橋町、小川町、隈庄町、守富村、中山村、東砥用村、西砥用村

(八代郡)八代町、鏡町、宮原町、吉野村、野津村、和鹿島村、有佐村、種子山村、河俣村、竜峰村、宮地村、太田郷村、松高村、植柳村、下松求麻村、上松求麻村

(葦北郡)日奈久町、佐敷町、田浦村、水俣村

(球磨郡)人吉町、上村、多良木村

(天草郡)本渡町、富岡町、牛深町、姫戸村、上村、今津村

 (未開会郡―無)

   日向国 後八郡三十七町村

(宮崎郡)宮崎町、佐土原町、大淀村、田野村、生目村、瓜生野村、広瀬村、住吉村、檍村、赤江村、木花村

(南那珂郡)飫肥町、油津町、南郷村、福島村

(北諸県郡)都城町、三股村、山之口村、高城村、庄内村、高崎村

(西諸県郡)小林村、高原村、飯野村、加久藤村

(東諸県郡)高岡村、本庄村

(児湯郡)高鍋町、美々津町、下穂北村、三財村、川南村、都農村

(東臼杵郡)延岡町、細島町、富高村

(西臼杵郡)高千穂村

 (未開会郡―無)

   大隅国 後三郡十二町村

(囎唹郡)東志布志村、財部村、大崎村、松山村、末吉村

(姶良郡)加治木村、国分村、横川村

(肝属郡)鹿屋村、小根占村、垂水村、花岡村

 (未開会郡―熊毛、一郡)

  薩摩国 後一市七郡二十二町村

(市)鹿児島市

(鹿児島郡)谷山村、西桜島村

(揖宿郡)喜入村、今和泉村、指宿村

(川辺郡)加世田村、東加世田村、東南方村、川辺村、知覧村

(日置郡)吉利村、伊作村、阿多村

(薩摩郡)隈之城村、入来村、佐志村、上東郷村

(出水郡)上出水村、下出水村、阿久根村

(伊佐郡)大口村、東太良村

 (未開会郡―無、ただし大島郡あり)

  付 西南諸島

   壱岐国 後一郡六町村

(壱岐郡)武生水村、沼津村、那賀村、田河村、石田村、香椎村

 (未開会郡―無)

   対馬国 後一郡二町村

(下県郡)厳原町、鶏知村

 (未開会郡―上県、一郡)

   琉球国 後二区二郡二村

(区)那覇区、首里区

(国頭郡)名護村

(島尻郡)糸満村

 (未開会郡―中頭、一郡)

西海道合計 前八市六郡七町村、後十市二区七十九郡三百七十一町村

 通計 十市二区七十九郡三百七十三町村

 (未開会合計 二郡、ほかに大島郡と対州下県郡あり)

 ○北海道(十カ国)

   渡島国 前一区二郡二町村、後一区一郡一村

(区)函館区、函館区

(亀田郡)大沼村

(茅部郡)森村

(桧山郡)江差町

   後志国 前一区七郡七町村、後一区八郡十町村

(区)小樽区、小樽区

(寿都郡)寿都町、寿都町、黒松内村

(歌棄郡)歌棄村

(磯谷郡)磯谷村、磯谷村

(岩内郡)岩内町、岩内町

(余市郡)余市町、余市町

(美国郡)美国町、美国町

(積丹郡)余別村

(古平郡)古平町、古平町

(小樽郡)銭函村、朝里村

   天塩国 前一郡一町、後四郡六町村

(増毛郡)増毛町、増毛町

(留萌郡)留萌村

(苫前郡)羽幌村、焼尻村

(上川郡)士別村、名寄村

   北見国 後六郡十町村

(利尻郡)鬼脇村、鴛泊村、沓形村、仙法志村

(宗谷郡)稚内町

(枝幸郡)枝幸村

(紋別郡)紋別村、湧別村

(常呂郡)常呂村

(網走郡)網走町

   根室国 後一郡三町村

(根室郡)根室町、和田村、落石村

   釧路国 後二郡三町村

(釧路郡)釧路町

(厚岸郡)厚岸町、浜中村

   十勝国 後一郡二町村

(河西郡)帯広町、大津村

   石狩国 前一区二郡二町村、後一区六郡十四町村

(区)札幌区、札幌区

(上川郡)熊碓村、旭川町、近文村

(空知郡)岩見沢町、岩見沢町、妹背牛村、砂川村、歌志内村、市来知村

(札幌郡)江別村、琴似村、軽川村

(石狩郡)石狩町

(厚田郡)厚田村

(夕張郡)栗山村、由仁村

    日高国 後四郡四町村

(浦河郡)浦河町

(三石郡)三石村

(静内郡)下下方村

(沙流郡)門別村

   胆振国 前一郡一町、後三郡五町村

(室蘭郡)室蘭町、室蘭町

(勇払郡)早来村、鵡川村

(幌別郡)幌別村、登別村

北海道合計 前三区十三郡十三町村、後三区三十六郡五十八町村

 通計 三区三十九郡六十二町村

 ○新領土

   台湾 後九庁二十七街庄

(台北庁)台北街、基隆街、滬尾街、仇份庄、焿仔藔庄

(宜蘭庁)宜蘭街、羅東街

(桃園庁)桃園街、興南庄

(新竹庁)新竹街、苗栗街

(台中庁)台中街、東勢角街、彰化街、鹿港街

(南投庁)康封家庄

(嘉義庁)嘉義街、斗六街、五間暦庄、新営庄、南靖庄

(台南庁)台南街、安平街、打狗街、凰山街

(阿緱庁)阿緱街、蕃薯藔街

   樺太 後二町

  大泊町、豊原町

   朝鮮 付

満州 後七町

(朝鮮)京城、仁川、釜山、平壌

(満州)大連、安東県、凰凰城

以上総合計

 ○総合計

前回巡講(自明治二十三年至明治三十八年)

 五十七市三区二百三十六郡六百七十五町村

後回巡講(自明治三十九年至大正四年)

 三十五市五区三百四十五郡三島および諸領土千六百一町村二十七街庄

前後総通計(重複せる分を除きて通算す)

 六十二市五区四百八十三郡三島諸領土二千百四十三町村 街庄は町村中に合算す

未開会郡(北海道新領土を除く)

 九十九郡―外に大島郡と下県郡あり。もし県別にして大正四年十二月までに全く開会せざる郡を表示すれば左のごとし。

東京府全八郡中―荏原、南足立、西多摩、三郡

京都府全十八郡中―愛宕、葛野、乙訓、宇治、綴喜、相楽、北桑田、船井、竹野、熊野、十郡

大阪府全九郡中―西成、東成、豊能、泉北、南河内、中河内、六郡

神奈川県全十郡中―久良岐、橘樹、都筑、三浦、足柄上、足柄下、津久井、七郡

(兵庫県全二十五郡開会ずみ)

(長崎県全七郡一島開会ずみ)

新潟県全十六郡中―東蒲原、一郡

(埼玉県全九郡開会ずみ)

群馬県全十一郡中―多野、北甘楽、吾妻、利根、新田、五郡

千葉県全十二郡中―東葛飾、海上、匝瑳、三郡

茨城県全十四郡中―東茨城、鹿島、二郡

栃木県全八郡中―河内、安蘇、二郡

奈良県全十郡中―添上、一郡

三重県全十五郡中―員弁、三重、鈴鹿、安濃、一志、五郡

愛知県全十八郡中―愛知、東春日井、西春日井、葉栗、中島、五郡

静岡県全十三郡中―駿東、富士、庵原、三郡

山梨県全八郡中―西山梨、一郡

(滋賀県全十一郡開会ずみ)

岐阜県全十八郡中―稲葉、羽島、海津、養老、不破、揖斐、本巣、山県、八郡

(長野県全十六郡開会ずみ)

宮城県全十六郡中―黒川、加美、登米、本吉、四郡

福島県全十七郡中―南会津、北会津、河沼、大沼、四郡

岩手県全十三郡中―岩手、紫波、和賀、胆沢、江刺、西磐井、東磐井、気仙、上閉伊、下閉伊、九戸、二戸、十二郡

青森県全八郡中―東津軽、中津軽、下北、三郡

山形県全十一郡中―南村山、東田川、西置賜、東置賜、南置賜、五郡

(秋田県全九郡開会ずみ)

(福井県全十一郡開会ずみ)

(石川県全八郡開会ずみ)

(富山県全八郡開会ずみ)

(鳥取県全六郡開会ずみ)

(島根県全十二郡一島開会ずみ)

(岡山県全十九郡開会ずみ)

(広島県全十六郡開会ずみ)

(山口県全十一郡開会ずみ)

和歌山県全七郡中―海草、那賀、二郡

徳島県全十郡中―名東、一郡

(香川県全七郡開会ずみ)

(愛媛県全十二郡開会ずみ)

高知県全七郡中―土佐、幡多、吾川、三郡

(福岡県全十九郡開会ずみ)

(大分県全十二郡開会ずみ)

(佐賀県全八郡開会ずみ)

(熊本県全十二郡開会ずみ)

(宮崎県全八郡開会ずみ)

鹿児島県全十一郡中―熊毛一郡ほかに大島

沖縄県全三郡中―中頭、一郡

以上合計 未開会九十九郡

(備考)この合計表の大正四年度報告の総計表に合せざるは、すべて重複せる市町村を除きて精算せしによる。また、市町村の併合せられしものを大正四年度の職員録に照らし最近の市町村に訂正せしによる。

  前回すなわち哲学館拡張当時は日本固有の神儒仏三道の学を振起する急務を講述するにあり。後回すなわち国民道徳巡講は御詔勅の聖旨を開達するにありて、前後多少の相違あるも、帰着するところは尽忠報国または護国愛理の微衷を実現せるに外ならず。故にこの総計表は余が社会国家に対して尽くすところの事業の進行程度を示すものと自ら信ずるところなり。よって後日のためにこの総計表を作る。

   大正四年十二月三十一日記了