1.純正哲学講義

P13

  純正哲学講義 

 

 

1. 冊数

   8回に分けて講義録に掲載

2. サイズ(タテ×ヨコ)

   220×147mm

3. ページ

   総数:126

   本文:126

(巻頭)

4. 刊行年月日

   哲学館講義録 第6学年 1号(明治25年11月5日),4号(12月5日),6号(12月25日),8号(明治26年1月15日),13号(3月5日),18号(4月25日),20号(5月15日),35号(10月15日)

5. 句読点

   なし

6. その他

  (1) 筆記者は本間与吉(館内員)。

 

 

 本学年第一年級純正哲学は哲学総論より始まり,東洋哲学、西洋哲学の二段に分かちて講義ある予定にして、西洋哲学は講師の自著『哲学要領』前編によりて講述あるはずなれば、別に筆記を要せず。故に本学年度講義録には、哲学総論と東洋哲学の二編を掲載すべし。

   哲学総論

文学士 井上 円了 講述  

館内員 本間 与吉 筆記  

 総論は左の数段に分かち、逐次講述すべし。

  第一段 哲学の定義および理学との関係を論ず

  第二段 哲学の分科および純正哲学の位置を論ず

  第三段 哲学上の用語解釈

  第四段 学派の起源および発達

  第五段 哲学の応用および実益

 これよりただちに第一段について講述すべし。

       第一段 哲学の定義および理学との関係を論ず

 哲学すなわち原語にてフィロソフィー(philosophy)なる字は、もとギリシア語の愛智を義とする文字より転化しきたれるものにして、そのはじめてこれを用いたる者はギリシアの碩学ピタゴラス氏なり。その後プラトン氏、アリストテレス氏等のこの語に与えたる解釈あるもその義一定せず、近世に至り学者またおのおのそのみるところに従って種々の義解を下すといえども、その諸義解を大体より分類すれば、主観より与えたるものと客観より与えたるものとの二つに過ぎず。しかして主観より与えたるものは思想を本とし、客観より与えたるものは万有を本とせり。今一つの分類は哲学だけについて与えたるものと、理学に関係して与えたるものとの二種あり。今日学問といえば理、哲の両学を指すなり。故にこの二学は相混同せずして、その異点を指示せざるべからず。いにしえの哲学に与えたる義解は理学と相混淆して、その区域判明ならず。その物理学のごときは、今日なおナチュラル・フィロソフィーと称するなり。

 これより古来この学に与えたる各義解を挙げてこれを観察せんに、諸学中の学、諸術中の術(アリストテレス氏)、または思想の学、原理の学、事物の道理を考究する学といい、コント氏は宇宙の現象を解釈する学といい、スペンサー氏は理学と相区別して、理学は一部分の学にして、哲学は総体統合の学なりといえり。およそ理学はその研究する事物につきこれを一貫する原理を発見し、この原理によりて組織せらるるものなるに、哲学は各理学において考定せしところの原理を採り、これを統合するものなり。しかれどもこれは、客観すなわち外界の方より両学の区別を立てたるものなり。そもそも哲学は心を本とし、理学は外界の物につきて経験を本とするものとす。しかるにコント氏のごとく、哲学をもって宇宙の現象を研究するものとすれば、両学の相混淆するを免れず。氏は純正哲学のごとく無形の上に考想することを排斥して、いちいち経験に訴えたるものにあらざれば、もって学問となすべからずとし、その経験すべからざるものの上に空想を労することは古風の哲学にして、今日にありては不適当の研究法とせり。これ氏の卓見にして、哲学研究の方法ほとんどこれより一変せり。スペンサー氏また氏の影響を受けて、その哲学原理中には可知的と不可知的の二つを説きながら、今日われわれが研究すべきものは、経験の範囲内においてなし得べき可知的事物に限るとせり。ただコント氏のごとく宇宙の現象を解釈する学なりとのみいうときは、理学との区別立たざるが故に理学をもって一部分の学となし、哲学をもって全体の学すなわち諸学の原理を統合するところの学なりとなせり。これ前に示せる分類中の、客観上万有の辺より与えたる義解なりとす。しかれどもかく一方に偏するときは、哲学は諸理学の供給を待ちて、しかるのちこれを統合するものとならざるべからず。哲学はただに諸理学の供給をまちてこれを統合するのみならず、また理学そのものの基本を定むるところのものならざるべからず。これにおいてか、哲学は思想の学なり、原理原則の学なりとして考えざるべからず。すなわち主観上思想の辺よりも義解を下さざるべからず。けだし理学研究の本拠たる経験も、もと思想に基づくものなり。故にまた理学経験の本源にさかのぼり、人智思想の真源を発見せざるべからず。しかる上はひとり客観の一方に偏せず、また主観の研究を尽くし、両方面より定義を与えざるべからずとす。

 初めに主観的内界の方より述べんに、この世はなにとなにより成り立ちておるかというに、物と心の二者より成ると考えて可なるべし。わが見るところの森羅万象、これを総称すれば物という。しかしてこれを知るところのもの、これを心という。すなわち物をして物たらしむるものは心なり。目を開けば万有森然として外にあり、目を閉づれば万象炳焉として内にあり、外にあるこれを外界の物質といい、内にあるこれを内界の心象という。これを標示すれば左のごとし。

  心 心性 能観 主観 心界 内界

  物 物質 所観 客観 物界 外界

 哲学定義の二様は、一は心よりあずかると、一は物よりあずかるとによりて相分かるるなり。

 前陳のごとく、宇宙これを観じ去れば物心の二つに過ぎず。故にこれを宇宙の二元という。しかるにこの物やこの心や、いかにしてこの宇宙に出でたるか、第一これを時間上に考うれば物よく心を生じたるか、そもそも心よく物を生じたるか、茫としてそのよりてきたるところを知るべからず。第二これを空間上に考うれば物、心の上に存するか、心、物の上に存するか、目を開けば万有歴然外にありて物よくわが心を包むがごとく、眼を閉じれば万象整然内に存してわが心よく物を包むがごとく、漠然としてそのよりておるところを知るべからず。第三これを性質上に考うれば、一は延長を有して、一はこれを有せず。かくのごとく相反対するところのもの、そのよく融合して世界をなすはなんぞや。淵乎としてそのしかるゆえんを知るあたわず。これにおいてか、物にあらず心にあらずして、よくこの二者を創造して互いにその位置を保たしめ、よくこの二者を媒介して融合せしむるところの、第三者たる一体を立てざるべからざるに至る。その体、実に霊妙不可思議なり。この不可思議の一体、これを名付けて神という。物心の外、更に一元を加えて三元となすこと上のごとし。

 しかるに数千年来、相弁難攻撃していまだ決定せざるところの大難問は、この三元の上にあり。純正哲学上の問題は、全くこの三元の間に彷徨するなり。すなわち唯物一元を立つる者あり、唯心一元を立つる者あり、物心異体を唱うる者あり、物心同体を唱うる者あり、有神を主張する者あれば無神を主張する者あり、虚無を説く者あれば常識を談ずる者あり。

 さてこの三者につきては、物心は人智のたしかにその存在を認むるものなるが故に、議論上やや帰着するところなきにあらずといえども、神に至りては無形無象にして、得てこれを認識するあたわず、ただ思想上にこれを推測憶定するのみ。故に神の解釈においては、古来いくたの変遷を経たり。あるいはヤソ教のごとく、有意有作にして宇宙を創造し、あわせて賞罰をつかさどること、ほとんど人類に類するがごとき想像を有する者あり。あるいは儒教の太極のごとく、物心の本源とする者あり。あるいは仏教の真如のごとく、物心二元の本体として、しかも同体不離の関係を示す者あり。ヤソ教のごとき解釈を下すときは、これを天神と称し、儒の太極または仏の真如のごとき解釈を下すときは、これを理もしくは理想と名付くるをもって適当とす。すなわち左のごとし。

 しかして物につきて研究するの学は理学にして、心につきて研究するの学は哲学なり。神につきてもこれが有無もしくは性能を研究するときはまた哲学中に入るものにして、神をたしかにあるものとして、これを人事上に応用するときはこれを宗教という。

 今、宗教と学問との区別をのぶれば、(一)学問は知識を本としこれによりて宇宙の真理を究めんとす、宗教は信仰を本として安心立命を図る。(二)学問は疑を本として研究を初むるも、宗教は古人先輩の説を確実にして動かすべからざるものとしてその指導に従う。(三)学問は真理を将来に向かいて尋ね、宗教は真理を過去に定めおくなり。故に学問は「作りて述べざる」(作而不述)を主義とすれども、宗教は「述べて作らざる」(述而不作)をもって主義とす。すなわち学問の得るところは「日々新たにして、また日は新た」(日日新而又日新)なりといえども、宗教は数百千年を経るもその宗旨の大本は決して新たなることなきなり。けだし学問は理論により、宗教は実行を尊べばなり。もしそれ人々ことの実際に臨み、いちいちこれが理論を探討し、しかるのちにこれを行わんとすれば、その標準、月に移り年に変わりて人にそのよるところを失わしめ、もってその心を定むるあたわず。これ宗教は既定の真理によらざるべからざるゆえんなり。これを第一の区別となす。つぎに第二の区別は、この世界には人智によりて知り得べきものと、知り得べからざるものとの二あり、一を可知的世界といい、一を不可知的世界という。学問は人智を起点としてこの可知的世界を知り尽くさんとするものにて、宗教はこの不可知的世界を説くものなり。これを図解すれば左のごとし。

 しかして学問の目的は不可知的世界をしてことごとく可知的世界に入れ、一事の知るべからざるものなきに至りてとどむるにあれども、実際上いまだここに至るあたわず。かつ人智のついに進行してここに達し得べきものなるや否やは、また一難問に属するなり。しかるに宗教はかえって不可知的より説ききたるものなるが故に、いずれの宗旨も無限絶対のものをもって本体となさざるなし。学問は人間をもって万有中の最霊なるものとし、すなわちその智力をもってよく宇宙の真理を発見するに足るものとすれども、宗教においては人間の一生をもって、無限の時間空間に包まるるところの最小最短にして、最もあわれむべき瞬息の生活を営みつつあるものとみなし、この短小なる人間の智力をもって宇宙の真理を究めんとするがごときは、到底企て及ぶところにあらずと観念し、一に不可知的境より可知的境に示したるところのものを信拠するより外なしとす。しからばいかにして吾人は不可知的境の真理を知得せしやというに、吾人が学問上研究の結果によりてこれを知得するにあらず、天啓もしくは啓示によりてこれを知得せるなりというなり。しからばこれをなにものが伝達せしぞというに、聖人もしくは神使のこれを告げたるなりというなり。しかしてその聖人はヤソ教の始祖たるイエス・キリスト、仏教の開祖たる釈迦牟尼仏のごとき、これなり。

 すなわちこれらは不可知的の形を変じて人間社会に降りたりといい、または吾人より幾千倍優れたる聖人なりとするなり。さればその顕示は、吾人短小の類族はただ謹虔して、これに信順するより外なきものとす。すなわち学問の方向は可知より不可知に進まんとし、宗教の方向は不可知より可知に及ぼさんとするものにして、その性質相反対せるものと知るべし。ここに双方の異点を概括すれば左のごとし。

  学問 疑 真理未定 推理 可知より不可知に向かい

  宗教 信 真理既定 啓示 不可知より可知にきたる

 仏教のごときも、真如の理は一定不変のものなりとして遵奉するが故に宗教なり。しかるに今日、何故にこれを哲学の中に加えてインド哲学の名称を与うるやというに、仏教の起こらんとするときすでに数種の哲学ありて相抗論せるをもって、勢い他に対してわが真理とするところを人智推理上説明せざるべからず。故にその当時よりすでにすでに学問的組織を有して、宗教と哲学との両性質を兼備したる宗教となれり。すなわち今日、仏教が宗教にして哲学の称呼を世間よりきたせるゆえんなり。

 上来の学問と宗教との区別をのべおわりたるが、これより理学と哲学との区別をのべんに、理学の研究するところのものは有形にして、哲学の研究するところは無形なり。有形のものを研究するにはいかなる手段によるかというに、感覚によらざるべからず。無形のものを研究するにはいかなる手段を用うるかというに、思想を用いざるべからず。感覚によるが故に実験を主とし、思想を用うるが故に論理を主とす。またこの二者の異点を概括すれば左のごとし。

  理学 物質 有形 感覚 実験

  哲学 心性 無形 思想 論理

 これによりて哲学の定義を下せば、哲学は思想の学なりといわざるべからず。これすなわちこの学に定義を与うる、二大分類中の内界すなわち主観の方より与えたるものなり。

 これより外界より与うるところの定義を述べんに、外界より与うるところのものは、理学との区別を与えながら哲学の定義を定むるものなり。しかしてこれを定むるの前に、学問の発達順序を述べざるべからず。理学のごときは実験によるの学なるをもって前説を排すべき証拠十分ならざれば、容易に自説をもって前人の所説に代ゆるあたわずといえども、哲学は無形の学なるをもって、いかようにもその説を立て得べき傾きありて、古来哲学は諸学中最も学説の変遷著しきものとす。しかれどもこれ表面上の観察にして、裏面にかえりてこれを観察すれば、研究の条路、一系統を追うて発達せること物理学、化学等に寸分も異なることなし。すなわち前人の説に一歩一歩を加えて、もって今日の進歩を見るに至れるものなり。しかしてその異点とするところは、ただ客観上より宇宙の原理を研究すると、主観上より研究すると、これあるのみ。しかれどもその宇宙の原理を探究するは、すなわち一なり。いかなる卓識の士ありといえども、古来の哲学を研究せずして、一派独創の哲理を構設するあたわず。これ哲学は自然の発達を経きたりて条路を探り、系統を追い、更に一歩一歩を加うるにあらざれば、真理に到達するあたわざるゆえんなり。哲学もと高尚の学なりといえども、はるかに古代にさかのぼりてその所説をみれば、間々一笑に付すべきほどのものあるを免れず。たとえばギリシア哲学の祖すなわち西洋哲学の祖ともいうべきタレスのごときは、宇宙の本体は水なりと論定せり。これを今日の知識に比ぶれば、そのはなはだしく幼稚なるを知るべし。これをもってこれをみれば、古代の哲学は研究するに及ばざるがごとしと考うる者あるべけれども、これ大いなる誤りにして、一応は必ず古代の哲学を研究し、もって思想発達の順序を探討せざるべからず。それ学問の発達は樹木の一種子より発達すると同じく、その始めはもとより簡単幼稚なるものなり。しかれども発達せる樹木につき、その幹の堅実なるゆえん、その枝の交錯するゆえん、その葉の繁茂せるゆえんと、なお将来いかに発達すべきかを知らんと欲せば、その種子の状態、性質につき十分なる研究を尽くさざるべからざるがごとく、今日発達せる哲学を知り、かつ一段の見識を開かんと欲せば、また古代幼稚なる哲学につき、その性質、状態を討究せざるべからず。すなわち古代において哲学の起こりし理由、および当時の哲学思想のいかにありしかを知悉せざるべからず。しかるのち中古に下り近世に及び、その変遷発達の次第を研究すべし。これにおいてか、これを統合しこれを批判し、更に新智見を加え、一歩をその上に進むることを得べし。突如としてカントの哲学ここに起こりたるにあらず、前にヒュームありて、後にカントを起こせり。忽然としてヘーゲルの哲学ここに起こりたるにあらず、カントこれを前に唱え、ヘーゲルこれを後に成せり。俄然としてスペンサーの進化哲学起これるにあらず、ダーウィンのこれを当時にひらくあればなり。しかりしこうして、哲学の進歩は決してここにとどまれりというべからず、すなわち真理の研究は決してここに尽きたりというべからず。今に及びて哲学上更に一大進歩を致さんと欲せば、一方においては西洋哲学に洞達し、また一方においては東洋哲学に精通し、両般の材料を結合し、もって大哲学を組織せざるべからず、あに西洋哲学を講究するのみをもって安んずべき秋ならんや。これ余がかねて東洋哲学に通ぜざるべからずというゆえんなり。

 さて往古は哲学といえばすべての学問に当てはめたるものにして、種々の学を混合せり。ギリシアの四大学派と称する、すなわちソクラテス学派、プラトン学派、ストア学派、エピクロス学派のごとき、その学科を分類すれば論理、物理、倫理の三科に分かる。しかしてこれを概して哲学と称せり。近世に及びて哲学の区域分明となり、その組織大いに整頓するに至れりといえども、みな源をこの混然たるギリシア哲学に発せざるなし。しかしてその整頓に至れるゆえんを考うるに、中世以後ようやく学問を宗教より独立せしめ、近世に至り理学を哲学より分離せしめたるによるなり。

 そもそも古代の哲学はなにをもってかくのごとく諸学を混合せしやというに、まず哲学はいかなる問題を解釈せんがために起これるものなるかを考えざるべからず。すなわち哲学はこの目前を遮る宇宙万有はいかなるものぞという問題を解釈せんとして起これるものにて、前に述ぶるがごとく、ギリシア哲学の祖タレスはこれ水の変化なりと説きたりし。爾来これを解釈するに、あるいは客観上より物理的の考察を下し、あるいは主観上より論理的の解釈を下し、ついにソクラテス以後に及びては倫理の重要を感じて、これが研究を主要とするに至れるをもって当時の哲学組織を分解すれば、この三科の混合をみるなり。しかるに世を経るに従って社会の事物ようやく繁雑となり、その思考せざるべからざる事情はすこぶるその種類を増加せり。この繁雑複合せる万般のことをいちいち研究せんには、限りある人智のよく及ぶところにあらずして、各部のこといちいちこれを精密に考究せんとすれば、勢い類を分かち科を設け、哲学外別に個々専門分業の道を開かざるべからざるに至れり。これにおいて後世、各部類分業の学起こる。すなわち今日のいわゆる理学なるもの、これなり。すでに吾人の考究すべき事物をば、これを分けて各専門の科学に譲るに至りたれば、哲学のごときはただ古人がかつて従事せし学問の骸骨にして、むなしく古代学問の名称を史上にとどむるに過ぎざる不必要のもののごとく考うべけれども、各部専門科の起こるに従って、いよいよ哲学の必要を感ずるなり。なんとなれば、各部事物の理法はいよいよ明白に知らるるといえども、これ各部個々の理法にして、そのよく一般事物に共通するところの真理なるや。換言すれば宇宙万有に通ずる真理なるや否や、また宇宙万有全体の真理はいかにということにおいては、茫乎として知るところあらざるなり。もしその全体の真理を知らんと欲せば、必ずや百科の諸学を総合する学ありて、万有の規則を総合統一せざるべからず。すなわち諸理学において考定せしところの諸理法を総合して、宇宙万有一統の真理を帰納し、更にその真理を事物の上に演繹せざるべからず。しからざれば学問全体の統一を保つあたわずして、支離分裂の憂を免るるあたわざるなり。今、一比喩をもってこれを説明せんに、ここに一の未開なる国ありとせよ。当時社会の事情至って簡単なるをもって、国土の中央なる一部落の酋長が一体を統轄しいたりしが、国ようやく開け、人民ようやく増加し、社会の組織ようやく複雑になるに従って、勢い各地方に地方庁を設けて一部分の整理をなさざるべからず。しかれども政権をことごとく地方に分与して更に中央政庁を設けずんば、決して一国の団体を結成することあたわざるべし。かつただ各部そのなすところに任せて、更にその上に立ちてこれを統轄するものなきときは、各部の政令相背反せざるを保し難し。故に地方に県庁、郡役所のごときもの分立するときは、必ず中央政府ありて各地方の事情、政令を総合して一国政治の方針を定め、もって各部分をして一組織の発達を遂げしめざるべからず。哲学の必要なるこれと同じく、初め簡単なる酋長政府の起こるは古代哲学の起こるにたとうべく、中ごろ各地方庁の起こるは各理学の起こるにたとうべく、ときに地方を統轄する中央政府の必要を感ずるは哲学の必要を感ずるにたとうべきなり。

 真理研究の法、これを英国風をもっていうときは実験を本とし、各部門事物の規則を比較抽象しきたりて各科の理学を組織し、各理学の理法を更に抽象概括しきたりて哲学を組織す。しかして哲学は、その目的とするところ宇宙全体の真理を発見するにありて、その問題とするところは古代タレス氏が初めて研究に従事するところのものとすこしも異なることなきなり。今、理学と哲学との関係を示せば、なお上のごとし。

 イロハニホ等は一個一個の事物を表し、伊呂波は一個一個の事物より抽象して得たる規則を表す、これ理学の本分なり。しかして甲は各科の規則を更に概括しきたりて得るところの宇宙の大理法を表す、これ哲学の本分なり。

 これによりてこれをみるに、今日もし理学の研究を廃せば、哲学は古代の有様に立ち帰らざるべからず。なんとなれば、哲学がよりてもって研究する材料を供給する道絶ゆればなり。これに反してもしまた哲学の研究を廃せば、理学は成立することあたわず。なんとなれば、理学のよりてもって実験する原理原則を考定する根本滅すればなり。かつ哲学なくして理学一方により宇宙の真理を探究するは、なお舟の霧海中に進行するがごとく、舟の行くはすなわち行くべしといえども、その果たして目的とするところに向かいて進航するや否やを知るべからざるなり。故にこの二学は互いに相待つものなりと知らざるべからず。しかして理学の研究するところは主として各部分の理法を考定するにありて、哲学の研究するところは主として全体の理法を論定するにあるなり。これにおいてか、スペンサー氏のごときは、

  理学は部分の学すなわち部分を統合する学

  哲学は全体の学または統合の学すなわち全体を統合する学

なりと定義を下せり。これ外界より理学に対して与うるところの定義なりとす。

       第二段 哲学の分科および純正哲学の位置を論ず

 前段において哲学の定義を講述し終わりたれば、これより一歩を進め、哲学中に種々の学科の起こるはいかなる理由あるによるかを講明すべし。この問題は、さきに哲学は思想の学なりという定義によりて説き明かすものとす。およそ学問には必ず研究の相手とするところのものありて、一学科中の諸分科もまたこれより起こるものとす。すなわち哲学の相手とするところのものは心なり、また神なり。しかしてこの二者は共に無形なり。故に哲学は無形の学なり。しかして心は形なしといえども、象なしということを得ず。すなわち時々刻々、吾人が心面に浮かびきたるところの念想は、心自らが明らかにこれを知るなり。故に心は無形にして有象なるものなり。しかるに神に至りてはただこれを思うのみにして、なんらの象あることなし。あるいは有神論はこの山川草木、禽獣虫魚、みなこれ神の現象なりと説けども、これ物の象にして神の象にあらず、もしくは神の間接の象たりとするも、決して神の直接の象にあらず。すなわち神は無形にして無象なるものなり。この無象につきて研究するは純正哲学にして、有象につきて研究するは心理学なり。純正哲学は神の本体すなわち神体につきて研究するものにして、普通に唱うるところの神にあらず。普通の神は吾人のごとき形相を有するものと思いおるが故に、ともすれば神の出現せるにあいたりとか、神の宣告を受けたりとか、種々奇怪の談あるなり。けだし神の思想も次第に変遷しきたりて、初めは神は真に形質ありと思い、つぎには現象のみありと思い、つぎには全く無象なりと考うるに至れり。これカント、ヘーゲル等の卓越なる大哲学者の説なり。故にこの無象の神は、かの普通の神に区別して、理体もしくは理想と称するなり。

 更に考うるに、神の体のみひとり無象なるものにあらず、心の体も物の体もまた無象なり。故に心理学は心体の学にあらずして心象の学、理学は物体の学にあらずして物象の学なりとす。すなわち心理学は喜怒苦楽の情感や、思量弁別の智力や、決心断行の意志につきて研究するもの、理学は吾人の五官を刺激する有形物象につきて研究するものとす。これをもって心物共にその体のなんたるを研究するにおいては、純正哲学の範囲内においてせざるべからず。これに至りて諸君は、一大疑問のその脳中に起こりたるならん。そは物質は物の本体にあらずして現象なりということ、これなり。吾人が見聞知覚するところの物質の外に本体ありということは、容易に解すべからざることにして、むしろかかる道理あるべからずと思うならん。これ余が一応その弁明をなさざるべからざるゆえんなり。今諸君この机を見れば明らかにその存在を認むるなれども、机の外に別に机の本体についてはなにものをも認めざるべし。それしかり。しかりといえども、試みに思え、諸君がこの机を机として認むるはなにによるか。すなわち諸君の触官はこれに触れて抵抗、寒温を覚え、視官はこれをみて光沢、形色を覚え、これをたたけば聴官に音声を覚え、これを嗅げば嗅官に香気を感じ、これをなむれば味官に甘苦を感じ、もってその存在を認むるなるべし。もしこの五官なくんば、なにによりてその存在を認むるを得んや。換言すれば、この五感にて感得するものを次第に除却せば、ついに机なきに至らん。すなわち机の机たるは、この五感すなわち感覚の所成ということを得べし。物には本来形象を具有するにあらず、物が心に触るるか心が物に触るるか、いずれにしても物と心と相触るるその間に生ずるところの形象にして、この形象は物心いずれの本具真相にもあらず。ただこれを主観の方においていうときは心象にして、客観の方においていうときは物象なり。これをもってこれをみるときは、通常吾人がいわゆる物なるものは、これ物の本体にあらずして現象なることを知るべし。しかしてその現象は、その根源なきに偶然に生ずるものにあらずして、必ずこれを生ずるその本体なかるべからず。これ物象の外にこれが本体ありというゆえんなり。論者あるいはいわん、吾人が感覚するところのそのまま、これ物なりとしても不可なかるべしと。しかれども試みに思え、同一種の人類にしてその人異なるときは、感覚また同じきを得ず。その人同じきもその身体の事情、少時と老時と相異なり、また身体中の部位異なるときは、その感ずるところまた異なり、すなわち唇頭指先に感ずるところと、手背足蹠に感ずるところと異なるのたぐい、これなり。また身体中の部位同じきも、その部位の事情異なるに従い、その体熱、疲労等の事情を異にするときは、平時に異なるの感を生ず。これをもってこれをみるときは、だれの感ずるところはこれ外物の真情にして、またいずれの時、いずれの部に感ずるところはこれ外物の真情なるやは、得て知るべからざるなり。また空間の遠近、時間の長短等の感想も、生物の種類に従い、また人類中にても、高等に発達せるものと発達のなお低きものとに従い、また一個人につきても年齢の老少、経験の多寡、職業の性質等に従いて相異なるなり。たとえば一里の道程を行くに、少時においてははなはだ長き感をなすも、壮時においては格別の長途と思わず、老人の一カ月と小児の一週とは、ほとんど同様に感知するものなり。これをもってこれをみれば、いかなる生物の感知するところはこれ真なるか、なにほどの年齢のときに感ずるところはこれ真なるか、得て知るべからざるなり。ただ吾人人類はその神経の組織ほとんど相同じきをもって、相類する感をなして相怪しむことも少なしといえども、その神経組織の吾人よりも進化せざるところの魚介昆虫に至りては、もとより吾人と同一の感あるべからざる理由なり。また吾人人類にても今より数十倍の進化発達を遂ぐるに至らば、その感ずるところ今日よりも数等完全を得るに至るべきは、理のまさにしかるところなり。故に吾人の世界を解すると、鳥類の世界を解するとは、はなはだ相異ならざるべからず。もし他の遊星界に人類の棲息するありとせんか、彼らの解するところと吾人の解するところと、果たして相同じきや否やを知るべからず。釈迦仏のこの世界をみると、吾人のこの世界をみるとは、苦楽清汚の差なきを保すべからず。故に曰く、吾人が日常見聞知覚するところの物は、これ物の真情すなわち物の実体にあらずして、その現象なるを悟らざるべからず。いずくんぞ感覚するそのままが、これ物の真情なりということを得んや。吾人の感覚思想はなお不完全にして、いまだ物の真情を洞見するあたわざるなり。すでに物象の外に物体あるを悟らば、心象の外に心体あるゆえんを悟り得べし。すなわち純正哲学において考究するところは、神体および物心両体の三無象、これなり。

 以上、神、物、心の三体はもと無象なるが故に、これが研究の法は少しも実験によることを得ずして、純粋に思想すなわち論理によりて推究せざるべからず。故にこの三体につきて研究するところの学、これを純正哲学という。しかるにかの心理学のごときは、もと有象のものを研究するが故に、実験に訴うることを得べし。すなわち吾人が心頭に現出する諸種の心象を彙類して、感情、智力、意志の三部に分かつがごとき、これなり。故にこれを実験哲学という。つぎに学問には、理論を主とすると応用を主とするとあり。理学にもただ物象の原理を探究するところの物理学および純正化学と、これが原理を実際に応用する方法を講義する器械学、製造学等の応用理学との別あり。実験哲学においても、単に心の現象およびこれが規則を探究する心理学と、その心理の研究に得たる原則を応用する倫理、論理、審美、および教育の諸学との別あり。すなわち倫理は意志の応用を論じ、論理は智力の応用を論じ、審美は情感の応用を説き、教育はまたこれら諸学の理法を人間発達の上に応用するものなり。右、心理、論理、倫理、審美、教育等は一個人の上につきて研究するものなれども、この外に衆人結合の上につき研究するところのものこれあり、社会学これなり。社会とは一団の衆人が協力、分業の組織をなせるものをいい、この社会が一段進歩して政治上の組織機関を有するに至れば、これ国家なり。社会学はかく衆人結合の現象につきて研究するものなるが故に、また実験哲学中に入るるべきものなり。しかしていまだその応用を論ずるものにあらざるが故に、理論部に属するものなり。しかるにここに一疑問あり、そは社会はすでに吾人の視聴に触るる実形を有するものにて、なおこれを一個の有機物とみなすべきものなり。すなわちこれを有形学たる理学の部門に属せしむる方適当なるがごとしという、これなり。しかれども有機物の四肢百体のごときは、その各部分みな有形の筋肉をもって相連接しおれども、社会はただ人と人との関係によりて連接するものにして、その関係は各人の意識上の約束等にして、無形の連絡なり。かつその現象のごときも無形の精神より発するものなれば、これを研究する学はもとより哲学に属さざるべからず。しかしてその応用科は政治、法律、経済等の諸科なれども、これまた各理論のみを研究する部分と、応用のみを研究する部分あり。すなわち政治学にありては政理学と、法律学にありては法理学のごとき、これなり。

 すでに実験哲学に理論、応用の二部門ある以上は、これを推して純正哲学にもこの二部門ありと考うるなり。理論の部門において研究するところのものは、物、心、理の三体なることは、さきに弁明するがごとし。しからば応用の部門にはいかなるものあるかというに、すなわち物心理三体につき研究して得たる原理を、直接に応用するものならざるべからず。しからばその原理をば那の辺に応用するかというに、これを人心の上に応用しきたりて宇宙万有の真理を了悟せしめ、心を安んじ命を立てしむる、これなり。およそ一理論あれば、必ず一応用なかるべからず。純正理学の応用には器械学、製造学、あるいは農工の諸学ありて、厚生利民の実用を遂げ、実験哲学の応用の部には倫理、審美、論理、教育、政治、法律、経済等の諸学ありて、人間の品位を高め、智力の程度を進め、社会の安寧を保つなり。しかして純正哲学の理論は、これを人心の上に応用して脱苦得道せしむるものとす。換言すれば、吾人の霊魂をして静平安楽ならしむるものとす。しからばすなわち応用中の最も高尚なる位置を占むるものにあらずや。この高尚なる一大応用、これをなんとなすか。曰く、宗教これなり。論者あるいは難じていわん、泰西の国その哲学あるはギリシアに始まり、ソクラテス、プラトン、アリストテレス三氏のごときは、その説やや高尚玄微に達すといえども、いまだこれを応用して世にそのソクラテス宗、プラトン宗、アリストテレス宗なるものあるを聞かず。ことに近世に及びては哲理の思想勃然として煥発し、イギリスにおいてはベーコン、ヒューム、スペンサーの諸氏あり、フランスにおいてはデカルト、コントの諸氏あり、ドイツにおいてはライプニッツ、カント、ヘーゲル、ハルトマンの諸氏あり。その説、幽微玄妙いよいよ出でていよいよ精なりといえども、いまだ諸氏の宗教あるを聞かざるなり。しかして宗教は別にヤソ教のあるありて、哲学と宗教との区域もっとも判明なり。哲学諸家にはいまだその応用の宗教あらずして、キリストの教えはこれ哲学の上に構成せるものにあらず。すなわち宗教はもとより宗教にして、その宗教たるべきゆえんの性質をもって構成し、哲学はもとより哲学にして、哲学たるべきゆえんの性質をもって組織せり。二者の性質、二にして一ならず、なんぞ哲学の応用はこれ宗教なりということを得んやと。それしかり。しかりといえども、これ西洋の一方を見ていまだ東洋の一方を見ず、目を一隅の上に注ぎていまだ世界の上に注がざるものなり。そもそも泰西人のもって宗教となすところのものは、天啓もしくは啓示によりて立つるところの教えを指す。しかるに哲学はもっぱら思想上に宇宙の真理を研究するをもって職分となす故に、哲学者はその神子の宣告と説き、神使の予言と談ずるをもって妄誕不経となし、次第に攻撃破砕してほとんどその根拠を失わしめんとす。これをもって西洋哲学はむしろ宗教の構成を破壊するの傾きあるも、その原理をもって宗教を生み出すところの母たること、あたわざるもののごとし。宗教もまた哲学を忌避し、はなはだしきはこれを擯斥するの勢いありて、いまだ自家所依の原理を哲学中より求むるがごとき親密の関係は、すこしもこれあらざるなり。故に西洋今日の宗教は、決して哲学研究の成果すなわち哲学の応用ならざるは明らかなり。しかるに眼を一転して東洋の仏教を観察するときは、明らかに哲学を応用せるものなることを知るなり。仏教の起こるや、始め釈迦仏が一九出家して入山学道し、一二年の久しき苦行難行を忍び、深思淵考、一旦豁然として大悟するところあり。宇宙の真理洞然として了得し、これを衆生に説法せるもの、これを仏教となす。すなわち仏教はこれ釈迦仏、哲理研究の成果を人心上に応用せるものにあらずして、なんぞや。しかして前にのべたる物、心、理の三体の原理は、歴然として一仏教中に応用せらるるを見るなり。請う、いささかこれを弁ぜん。それ仏教の哲理を解くや有、空、中の三段に分かる。その有宗には倶舎のごとき小乗教あり、その空宗には法相のごとき権大乗教あり、その中宗には天台、華厳等の実大乗教あり。倶舎の説くところは法体恒有と立て、すなわち宇宙万有の本体をもって実在となすものにして、わがいわゆる物体なり。法相の説くところは阿頼耶縁起と立て、宇宙万象本来空なれども、ただ心識の一源より開発するところとなすものにして、「森羅万象はただ識の変ずるところなり。」(森羅万象唯識所変)となす。その阿頼耶識はわがいわゆる心体なり。天台の説くところは万法即真如、真如即万法と立て、非有非空の中道を開示す。その真如はわがいわゆる理体なり。これをもってこれをみれば、一仏教中、物心理三体の原理を具有して欠くるところなし。これを応用して倶舎、法相、天台等の諸宗を生ずるなり。かくのごとく哲学と宗教との関係至って親密近接にして、宗教は純正哲学の応用なりというを得べし。これ泰西の諸学諸教において、いまだかつて見ざるところなり。

 論じてここに至れば、更に一難を起こす者あらん。曰く、東洋学教の関係はすでにこれを了せり、しかるに西洋学教の関係これと相齟齬するものなんぞや。もしその関係の親密なること、ひとり東洋諸国に行われて西洋諸国に行われざれば、いまだ世界普通の道理としてこれを信認するあたわざるなりと。余はこの惑いを解かんために、再び学教の性質を複説するのやむを得ざるに際会せり。それ学教の相差異するところの性質は、哲学は真理を未来に期し、宗教は真理を既定となし、哲学は疑をもって起点となし、宗教は信をもって起点となす。しかれどもこの二者必ずしも永くその位置を保つものにあらずして、研究の結果に真理を了得し、しかるのちこれを人心に応用すれば、すなわち哲学変じて宗教となるなり。釈迦の宗教すなわちこれなり。しかるに西洋の哲学は、甲説これに起これば乙説かれに起こり、ないし丙、丁、戊、己、競起対立して相弁難攻撃し、たとえ師説を継ぐと称するも、その欠点を発見してこれを修補するをもって務めとす。これ西洋哲学がいまだ一定不変の真理に到達せざるものにして、もし釈迦のごとき卓越非凡の大聖哲の出づるありて諸説を統合し、もって一大真理を発明するときは、必ずやその原理を人心上に応用して、一大宗教を構成することあるべし。釈迦のごときも、いまだ一学の興起せるものあらざるの場合に突然としてあらわれたるものにあらずして、釈迦の当時すでに数十種の外道ありて、それらの学者、相弁難攻撃せりという。なんぞ西洋の今日の哲学、諸説紛々いまだ統一するところあらざるに似たるなからんか。すなわち一大哲学者のこの間に起こりて諸説を統合するは、それちかきにあるか、またとおきにあるか、けだし早晩これを見ることあらんことを予想し得べし。しかしてその起こるや西洋にあるか、また東洋にあるか、余はその東洋に起こらんことを希望するものなり。今や西洋にありてもすでにヤソ教の時勢に適せざるを知りて、哲学者はみな哲学上の道理に基づきて新宗教を組織せんことを務むるにあらずや。かくして他日、西洋の宗教上に大変動を生ずるに至らば、必ず哲学的宗教すなわち純正哲学の応用に属する新宗教を見るに至るべし。しかるに東洋にありては三千年前釈迦すでにこの革命を実行したるも、今日また東西両哲学を統合して、一大革命を全世界の宗教上に宣告するの時運に会すというべし。西洋の哲学者は、すでにこの目的に向かいて準備に汲々たるを見る。わが東洋の学者も、あに徒然として傍観するのときならんや。余、更に宗教と哲学との関係の密切なるゆえんを左に述ぶべし。

 そもそも宗教には道理を本とせずして信仰を本としたるは、当時の人民その智力劣等にして、これに説くに高尚深遠の理義をもってするも、聾のごとく唖のごとく、少しも解するところあらざるべし。キリストの当時のごときも、人民知識の程度は神をもって有形有意と思いて、これを信受せしむるに適するのときなりしなり。故にキリストをもって神の子とあがめ、その説法をもって神の啓示なりと信ぜり。しかるに西洋諸国、一六世紀以後理学の進歩著しく、人民の知識大いに発達し、またキリスト当時の人民にあらざるなり。そのなお今日に隆盛なるがごとき観あるは、千数百年来習慣の勢いしからしむるもの多しとす。人民すでにしかり、いわんや深大なる思想を有する哲学者においてをや。間々社会の習慣にはばかりてこれを弁護するがごときものありといえども、そのいわゆる神なることばはヤソ教のいわゆる天神を指すにあらずして、非物非心の理体を意味するもの多し。その義むしろ仏教所説の真如に近し。今更に一歩を進めて哲学の変じて宗教となるゆえんをのべんに、まず個々の哲学者に観察を下すを可とし、哲学者はもとより疑をもって起点となすといえども、ついに疑をもってやむものにあらずして、その研究の窮極するところは、自ら厚くこれを信ずるや、もちろんなり。その懐疑派の哲学者が万事万物の有無を疑中に没了するも、懐疑そのものの真理なりということは自ら厚くこれを信ずるものといわざるべからず。学問の目的は吾人の疑を解きて信に帰するにあり。故に個々の哲学者はその研究の究極に至れば、自家の哲学は変じて自家の宗教となりてやむなり。もしその説の衆人に信ぜられて教会的外形上の組織をなすときは、すなわち厳然たる一宗教となるものなり。フランスのコントの人間宗を創立せるがごとき、これなり。西洋哲学はなんぞその応用の宗教となりしものあらずといわんや、コント宗のあるあり。往者モーゼおよびキリストのごとき一宗教を構成せるものも、ただ厳粛なる哲学組織の上に立てたるものにあらずというまでにて、やはりその当時相応の思想により天神の実在を発見し、もってこれを人衆に説示したるものにして、また一種の哲学思想の上に建立せるものといわざるべからず。ただこれを今日の哲学に比して精粗、完不完の差あるのみ。

 更に顧みて仏教上をみるに、世間に一難を起こす者あらん。すなわち仏教は哲学なるか宗教なるか、仏教をもって哲学となすときは東洋に宗教なきなり、もし宗教となすときはこれ東洋に哲学なきなりと。余はこれに答えていわん。仏教はもとより宗教なり、しかれどもそのよりて立つところの原理は、これ哲学よりきたれるなり。故に仏教部内に入りてその原理原則のなんたるを研究し、あるいは自宗所依の理論と他宗所依の理論とを比較判論するときは、これ哲学なり。二者の関係もっとも緊密なるものとす。西洋の教学二途相乖睽するに似ざるなり。論者あるいはいわん。釈迦すでに諸派の外道を伏して一大真理を闡明すといわば、なんぞ一仏教中に有、空、中の三宗相分かれてその理義を異にするや、釈迦の発明するところいまだ尽くさざるところあるか、そもそも後人の釈迦の真意を解釈するに、その意見おのずから他岐に分かれたるにあるか、はなはだ惑いなきあたわず。また仏教は哲学の原理に基づきて組織せる宗教となすときは、哲学と共に世の進歩に応じて変遷せざるを得ざるべしと。余はこの点につきては、東洋哲学を講ずるに及びて詳述するところあるべしといえども、今その要点のみを摘示せんとす。およそ釈迦につきての見解に大体二様あり。(一)は種子としてこれをみると、(二)は成木としてこれをみる、これなり。成木としてこれをみるは、万理をその表に備えつくすとなして、これを観察し講明するにあり、種子としてこれをみるは、万理をその内部に含み蔵すとなして、これを開発し顕揚するにあり。換言すれば、仏教の全理は釈迦の説法中に顕勢力となりて存するか、潜勢力となりて存するかにあり、畢竟釈迦をみるに、余は表裏内外の両面よりするものなり。

 これまでの宗教家の考えにては、その宗祖はすでに宇宙の真理を説き尽くしたるものにして、もはやこの上に一歩を進むることあたわざるものとせり。これ宗祖の所説をもって成木とみなし、かつ顕勢力となりて外部に発示せるものとみなして考うるものなり。しかるにまた別に宗祖以来の変遷発達につきて論ずるときは、宗祖の所説をもって種子とみなし、潜勢力とみなすことを得るなり。すでに種子として考うるときは、これを培養し発達せしむるところの任は、現今および将来の宗教家にありといわざるべからず。しかれども、もし宗祖所説の大本と相異なるものを唱うるあらば、これ発達にあらずして変革といわざるべからず。そもそも発達なるものは、なお桃の種子を培養して桃の成木を見るがごとく、その状態は種子と成木との相異を見るといえども、桃の桃たるゆえんは少しも異ならずして、ただ桃の状態が内に潜蔵してあるものを開発して、これを外に顕出せしむるのみ。植物を発達せしむるには肥料を要するがごとく、宗教を発達せしむる、またこれが材料を要す。しからば今日の材料とすべきものはいずれなるかというに、科学これなり。しかれども、もし科学の一方に偏するときは学術に傾き、実際の用を示さざるに至る。換言すれば、宗教の性質を失うに至る。これ大いに注意せざるべからざる要点なりとす。それ理論の要素は疑にして、実際の要素は信なり。もし信の要素を棄却して疑の要素のみを採用するときは、社会の状体は破壊に赴きて結合の実なきに至るべし。これと同様に、宗教も理論としてその真理を講究するには疑をもってせざるべからずといえども、これを実用して安心を定むるに至りては信を本とせざるべからず。その真理研究の一方にありては、宗祖は真理の種子を与えたるものなれば、諸種の科学の培養によりてその発達を期せざるべからず。また応用の一段に至りては、宗祖の言語中に真理の全分を開顕し尽くせりとみなして、一心にこれを信ぜざるべからざる理なり。

 以上は宗祖の所説をみるにつき両様あることをのべたるが、これより両様を結合したる上につきて余が考えを述べん。それ釈迦は宇宙全体の真理を見透して広大無辺の思想を有したる者なれども、世人をしてその己の悟るところと同様に悟らしめんには、当時世人の知識はこれを了悟し得べき程度に至らず、故にやむをえずその了悟し得るだけの程度に応じ、その思想界の一小部分を説示せる者なり。人の思想は通常の考えにては言語および文章の力に頼りて、ことごとくこれを伝達し得るものとなせども、その高妙なる思想は到底言語道断、言亡慮絶といいて、言語文章によりて発表しあたわざるものあり。すなわち吾人も、「言うに言われぬ」ことのあるを自ら経験して知るものなり。いわんや釈迦が広大の思想においてをや。その当時の言語文章をもって、ことごとくみなこれを説示しあたわざるや必せり。もし向後幾千万年にして言語文章の完全に発達せしならば、始めてこれを了悟するの位置に進むべきか、その次第に研究を積み、一歩一歩進みて釈迦の大思想に体達する、これを発達という。この発達はやはり釈迦所説の大思想を一部分ずつ開発するものにして、その進歩はすなわちこれに達する階級たるのみ。従来仏教家は一段に想定して曰く、釈迦の所説は真にその発見の大真理を十分に開示せるものなれば、そのままこれを世間に伝え、更にその発達改良を加うるを要せずと。これ保守的の考えにして、釈迦を成木とみなせるものなり。また釈迦の所説は古代の説にして、今日の道理に適合せざるものあれば、よろしく今日の学理に照らして新研究をその上に加え、多少の改良発達を図らざるべからずとするものは、これ進歩的の考えにして、釈迦は真理の種子を与えたるものとなす論なり。しかるにここに結合折衷的の考えをなすときは、釈迦の思想は完全円満なるものなれども、その言語文章によりて今日に伝うるものはその大思想の一部分に過ぎざれば、我人はこれを開発してその全部分に体達せざるべからずとなすにあり。語を換えてこれをいえば、釈迦の思想は主観上にありて完全にして、客観上にありて不完なりとなすにあり。左にその理由を説明すべし。

 吾人の思想は主観上にありて最大完全なるも、これを実際に当てはめんとするには、必ずこれが制限を受けざるを得ず。これたとえば、吾人は心内に純全の円形を想像するを得るも実際にはこれをえがくを得ず、吾人は神通自在に宇宙を翶翔するの想像をなすことを得るも実際には地上数尺の上にだも翶翔することあたわず、吾人の想像は空中に楼閣を築くことを得るも実際には一礎だも空中に置くことあたわず、人の思想の実際上において制限を受くるや、かくのごときものあり。釈迦もその広大無辺の思想を実際に当てはめんとするに際し、当時の言語文章に制限せられて、ことごとくこれを顕示するあたわざるの事情あり。しかるに不完全なる言語文章により、わずかにその一小部分を開示したるものをもって釈迦の思想ここに尽くせりとなすは、釈迦をみること小なるものにして、またこれによりて釈迦の思想ははなはだ不完全なるものとするは、釈迦をみること深からざるものなり。

 以上陳述するところによりて、純正哲学と宗教との関係を大略了得すべしと信ず。これより純正哲学と諸学との関係を約言すべし。純正哲学は哲学中の哲学、無形学中の無形学、統合学中の統合学にして、万学の宗帰なり。余はさきに哲学をたとえて中央政府のごとしとなしたるが、その比較をとるときは、純正哲学は中央政府中の内閣に該当するものというべし。しかるに世間一派の理学者は、ともすれば宇宙万象は理学上の研究をもって説明しつくすことを得るものとなし、純正哲学をもって無用の学と考うるなり。また哲学中の実験心理学の研究を主とする者もまた、心は現象の外に一も知るべからず。その心体を論ぜんと欲する純正哲学のごときは、畢竟空想の学なりとなすなり。これ地方政府あれば、別に中央政府の必要なしとするもののごとし。しかるに地方政府の必要あればあるほど、中央政府の必要あるがごとく、諸科の理学の必要あればあるほど、また純正哲学の必要あるものなり。また八省あればこれを統一する内閣を要するがごとく、哲学の各科ここに備われば、これを統一する純正哲学の一層必要を感ずるものなり。

 いにしえの哲学は憶想的、独断的にして、なお圧制政府が地方の事情をもくみ取らずして政令を発するがごとくなりき。しかるに今の哲学は、諸学において供給するところの原理を帰納的に総合して論断を下すなり。なお文明政府の、地方の事情をくみ取り、ここに全体の方針を定めて政令を発するがごとし。なにをもって諸学の原理を総合せざるべからざるかというに、諸学において探究するところに一任すれば、到底宇宙全体の真理を発見することあたわざるが故なり。たとえばテーブルを各面において探り、他面を顧みざるがごとし。傍面につきてこれを探れば、長さは二尺ばかりにして、そこには引き出しの設なし。前面につきてこれを探れば、長さは三尺ばかりにして、引き出しの設あり。更に後面においてこれを探れば、長さはやはり三尺ばかりなるも、別に引き出しの設なし。もし各面一方において探り得たるところをもって机全体の形状なりと憶想せば、あるいはこの机は長さ三尺にして引き出しなしとするものあらん、あるいは長さ二尺にして引き出しなしとするものあらん、あるいは長さ三尺にして引き出しありとするものあらん。そのいずれが真なるを知らず。これをもって机における真の形状を知らんと欲せば、各面において探り得たる形状を総合して、しかるのちに机全体の形状を知り得べし。すなわち各面的研究の外に、全体的研究を要するなり。学問もまたこれと同じく、各理学は宇宙の各部を研究するものにして、更に宇宙の全体を知らんと欲せば、純正哲学の必要欠くべからざるゆえんを知るべし。

 今一つ純正哲学における必要なる点は、諸学の原理を総合したるのちに更に諸学に向かいて規則を与うる、これなり。一例を挙げてこれをいえば、諸学において研究の縄墨となるべきものは因果の規則なり。しかしてこの規則は哲学中の論理学が諸学に向かいて給与するところの規則にして、またその規則の原理を論定するものは実に純正哲学なり。

 アリストテレス氏の哲学において形、質の二義を論じてより、哲学者これを述ぶる者多し。その形質というは、たとえば樹木において、その形は本来種子中に備わるものなれども、そのこれをみたすゆえんの質は、外部よりきたるとするなり。もし種子中に本来桃たり梅たりの形を備うるものにあらずとすれば、桃種より梅樹を生じ、梅種より桃樹を生ずることもあるべきはずなるに、そのしからざるゆえんのものは、その種子中すでにその原形を備うればなり。しかれどもその体質は外部より入りきたりて、これをみたすものたり。純正哲学においてもその純正哲学たるべき原形は本来存するものなれども、これが体質は理学よりきたるものたり。理学においてもその原形は本来固有なれども、その体質は感覚によりて得るところの諸種の経験よりきたるものとす。しかるに感覚なるもの、もし虚偽にして信ずるに足らざるものなりとせば、理学は得て成立せざるものとす。よしやこれを構成するも、虚偽なる体質によりて成るものは、すこしも信用するに足らざるものとなるなり。しからば感覚は果たして正確なるものなるか否やという研究に至りては、理学自らは決してこれを定むるの力なし。なんとなれば、感覚の真偽を断ぜんとするも、やはり感覚によりて得てきたる実験上の知識をもってするの外なければなり。もしこれをもってかれを検定せんとなさば、なお同種の二本の尺(ものさし)ありて、その一本の尺の正否を判ぜんとせば、他の一本の尺をもって測るがごとく、到底なしあたわざるところなり。しからば人間の感覚の正確なるものなるや否やは、何学においてこれをなすかというに、純正哲学においてこれをなすものなり。純正哲学において感覚は正確なるものなりと許可するにおいて、理学は初めて十分の力をたくましうすることを得べし。また理学の原形ともいうべき因果の法則の果たして正確なるものなるや否やも、純正哲学においてこれを定むるところのものなり。理哲両学の相待つや、かくのごときものあり。しかるに人はその従事するところに従って重要とするの感情強きものなるをもって、哲学者は哲学の外に理学の必要なしと思い、理学者は理学の外に哲学の必要なしと思い、しかしてその相より相助くる、かくのごとく緊切なるところあるを知らざる者あり。故にみな偏僻の論といわざるべからず。それ果たして不必要なるものならんか。暫時の間は世に成立することを得べきも、永く成立することの得ざるべし。しかるに理哲両学の両々相待ち永くこの世に成立するを見ても、その果たして必要の学なるを知るべし。

 つぎに実用上の関係につきていささか弁ぜざるべからざるもの、これあり。そは諸学諸術の人身にもっとも近接なるものの早く社会に用いらるること、これなり。すなわち医学のごときはただちに肉体の存亡に関するものなる故に、もっとも早く世人に歓迎せられ、そのこれにより得るところの利益ももっとも多しとなす。つぎには衣食住の供給者なり。これ生命を保護するゆえんの重要物たればなり。哲学のごときは、ともすれば世人に空疎迂濶の学術とみなされ、遁世者のもてあそぶべきものなりと考うるもの多し。けだし哲学を研究するも、もって寒暑をふせぐに足らず、もって飢渇をみたすに足らず、もって病苦をいやすに足らず、人生においてなんらの実用なきもののごとくなるをもってなり。しかれども哲学をもって空疎迂濶の学となすこそ、真に空疎迂濶の考え

  学問 理学(有形学) 理論(これを略す)

             応用(これを略す)

     哲学(無形学) 実験哲学(有象哲学) 理論 心理学

                           社会学

                        応用 論理学

                           審美学

                           倫理学

                           教育学

                           法律学

                           経済学

                           政治学

             純正哲学(無象哲学) 理論 物体哲学

                           心体哲学

                           理体哲学

                        応用 物体宗

                           心体宗

                           理体宗   宗教

なりとなさざるべからず。これ身をもってもっともわれに近しと思うものにして、いまだ心のもっともわれに近きを思わざるものなり。しかしてこのもっともわれに近き心を研究するの学は、すなわちこれ哲学なり。しかるに心はもと無形にして、これが研究の結果を応用するところの事実また無形にして、理学の研究を応用する事実のごとく形体を備うるものにあらざるが故に、世人これが実際を知らざる者は、空疎迂濶なりと速断するを免れず。しかるに哲学の応用は、論理となりて論弁の形式を与え、審美となりて美情を喚起し、倫理となりて行為の紀律を示し、教育となりて能力を開発し、宗教となりて安心立命の法を得せしめ、この他、法律となり、経済となり、政治となり、社会の秩序を保ち、その富強をたすけしむ。その功効顕著にして、理学の功果と相伯仲す。哲学、あに空疎迂濶の無用学ならんや。これにおいてか、学問の全系を示し、斯学の位置を了知せしめんと欲す。

 以上すでに純正哲学の位置を論定したれば、これに続きて古今数大家の哲学分類を挙げ、ならびに哲学上研究すべき諸問題を示さんとす。まずギリシア古代哲学において、アリストテレスはその哲学を理論と応用の二部に分かち、その理論部においては論理、物理の諸学を論じ、応用部においては政治、経済、倫理の諸学を論ぜり。近世哲学において、ベーコンは万有と人間と神との三者を哲学の問題とし、デカルトは物、心、神の三者を研究の目的とし、ヴォルフはその哲学を実体哲学即物体哲学と、心理学即心体哲学と、宇宙哲学と、神理学即神体哲学との四大部に分類せり。カントの批判哲学にては純粋道理批判、実際道理批判、断定批判の三大部に分科せり。これけだしアリストテレス哲学の組織によるものにして、すなわち理論と実際とに分かちたるものなるが、世間往々理論と実際と相合せざるものあるが故に、第三部断定批判を説きて、理論と実際の二者を結合せるものなり。カントの学を継承してこれを大成せりと称するところのヘーゲルは、その純理哲学において画然、論理学即理想哲学、心体学即心体哲学、物理学即物体哲学の三大部に分論せり。しかるにスペンサーはその哲学を可知的論と不可知的論の二大部に分かち、その心体といい物体といい理体というがごとき無形無象のものは、吾人が相対知識の圏外にあるものとして、不可知界に一括して深く論究せず、その可知界の現象をば、進化の大法に支配さるるものとして、これを論定せり。哲学原理に説くところのもの、すなわちこれなり。しかしてその進化の順序に従い、まず生物学を著し、つぎに心理学、つぎに社会学、つぎに倫理学に及ぼせり。これをスペンサーの哲学の五大部と称す。

 このほか古今の哲学士が著すところの書は、その意見互いに異なるものありといえども、その問題とするところは、畢竟、物、心、理の三者に過ぎず。これ余が純正哲学において論究するところのものはこの三者にして、その分類もまた、したがってこの三者に分かちたるゆえんなり。しかれどもこれ大体の分類にして、この三者を論究せんとすれば、なお時間、空間、勢力の三者を解釈せざるべからず。すなわちこれが性質、および三者が物に属すべきものなるか、また心に属すべきものなるか、そもそも独立自存するところのものなるかを究明せざれば、物、心、理の三問題においてもまた分明せざるところあるなり。このほか人間の大目的の有無、その目的のなんたるを論ずるもまた純正哲学に属す。しかして究竟するところは人間生命の大法なり。この大法を応用して安心立命を講ずるもの、これ宗教なり。故に宗教は純正哲学の応用となすなり。

       第三段 哲学上の用語解釈

 本論に入るにさきだち、哲学上使用するところの諸術語を解釈するもまた、ここに必要なりとす。およそ吾人が宇宙間に立ちて、その目前に現見するもの、これを物質または客観または外界と称し、脳裏に動起するもの、これを心性または主観または内界と称す。しかしてこの二者を合して物心二元といい、または物心両界という。物心の二者その差異するところは、物には延長を有すれども、心にはこれを有せず、故に心は無形にして、物は有形なり。この二者をもって宇宙を解するにおいて、宇宙万象はみな心の現象にして、心を離れて物なしとするものを唯心論といい、また心は物を離れてあるものにあらず、その抽象的の概念と称せらるるものも、畢竟感覚より成立するものにして、感覚は物によりて成立す、故に物外無心なりと立つるもの、これを唯物論という。これらは共に一元を立つるものなるが故にまた一元論と称し、これに対して物心の併存を唱うるもの、これを二元論と称す。しかしてその心といい物というも、みな吾人の意識上に存するものなるが故に、共に現象という。しかるにかく現象の生ずるには、その本源の体なかるべからず。たとえば鏡中に現見するところの影像あれば、必ず鏡前にその体なかるべからざるがごとし。これを本体もしくは実体という。これをもって哲学にて厳密にこれをいえば、通常人の称する物心は物象および心象と称し、それに対してこれが本源実体をば物体および心体と称するなり。また心といい物というも、畢竟物に区別して心といい、心に区別して物といい、また物の中にても人といい獣といい、草といい木といい、土といい水というも、心の中には憎いといい愛しいといい、喜ぶといい怒るといい、善といい悪といい、真といい偽というも、みな対待相望して生ずるところのものなるが故に、吾人が一切の経験知識をば、これを相対という。すでに相対あれば、その相対の諸象を包蔵して渾然たる、すなわち名物すべからざるところのものなかるべからず。これを強いて名付けて絶対という。しかれどもこの絶対というも、相対に対していうところのものなるが故に、やはり相対性の絶対なり。なお深く考うればその相対というも、絶対の存するよりしてこれに区別していうところのものなるが故に、絶対性の相対といわざるべからず。かくのごとく絶対より相対を考え、相対より絶対を想し、相輾転してやむときなし。これ実に哲理の妙というべし。しかしてこの相対のものを考うるに、みな生滅変化して永劫に常住なるものにあらず。しかるに相対の本体たる絶対においては無生滅、無変化にして、常住恒存なりと考えざるを得ず。故にまた相対の方をば有限といい、絶対の方をば無限という。無限なるものは、なにものにもよるところなきが故に独立といい、有限なるものは、無限なるものによるものなるが故に依立という。その能依は世界にして、所依は神なりとの論あれども、世界は相互依立にして、世界の外に世界をつなぎとどむる体ありとは考うべからず。もしありとするも、その神をつなぎとどむるものはなんなりやという問いは際限なく起こりて、究極なきに至るべし。今また絶対と相対に関する語類を挙ぐれば、絶対は単一なり平等なり無象なり不可知的なり、相対は雑多なり差別なり有象なり可知的なり。なんとなれば、二個以上の絶対ありとすれば、これ相対にして、絶対にあらず。また区域あり差等あり現象ありというときは、はや絶対の性質を失える考えなり。また相対について唯一の相対ありとか、また現象なく不可知的なりというときは、これ過誤の論理たること明らかにして、はや絶対を意味するものとなればなり。

 つぎに現立(existence)および有体(being)と名付くる文字を用うることあり。これ万有成立に関する語にして、事物の実在を意味するなり。これに対して心性に関する語あり、すなわち思想(thought)、観念(idea)のごとき、これなり。思想とはこれに広、狭の二意あり。デカルトの延長と思想とをもって物心両界を区別するがごときは、この語を広き意味をもって使用したるものなり。もし狭き意味をもって使用すれば、心意中の虚想たる概念、断定、推理を総称したる語と知るべし。また観念なる語は、狭義なる思想の語と同様に使用することあれども、多くは吾人が心内に現ずる一事一物の影像を指すなり。

 つぎに懐疑および独断なる語は、すべて事物の存在を疑い、ついに物も心も虚無なりと考うるに至るもの、これを懐疑派といい、事物の存在および関係を自己の憶想をもって断定して、更に疑わざるものを独断派という。懐疑は疑に過ぎ、独断は信に過ぐ。世間一般の人を注目するに、懐疑的の人あり、独断的の人あり。古来、哲学の弊は懐疑に傾くにあり、宗教の弊は独断に偏するにあり。

 また常識および唯理なる語あり。常識とは常人の知識を義とし、自己の考えをもって事物の存在を疑うにもあらず、また仮定するにもあらず、普通人の知識をもって標準となすものなり。唯理は普通人においていかに考うるにもかかわらず、深くこれが判断を論理に訴うるものをいう。

 また外界の事実をもって本拠となし、経験によりてその哲理を構成するを帰納哲学といい、内界の思想をもって本拠となし、論理によりてその哲理を構成するを演繹哲学という。このほか哲学の論派に種々の名称ありといえども、今これを略す。

 以上述ぶるところの哲学諸派を近世哲学の諸大家に配当するに、ベーコンは帰納哲学に属し、デカルトは演繹哲学に属し、またデカルト、ライプニッツ等は共に独断派にして、ベーコン、ロック等は経験派なり、しかしてヒュームは懐疑派なり。またリードの哲学は常識論にして、カントの哲学は唯理論なり。あるいはカントの学を批判哲学という。そのほか諸派の名称は本論に入りて述ぶべし。つぎに時間および空間につきて一言せざるを得ず。なんとなれば、これ大いに哲学家の思想を凝らすところなればなり。今二物ありて同処をみたさんとするには、必ず時間上においては前後の別を生ぜざれば、決して成り立つべからず。また二物ありて同時に成立せんとするには、空間上において二処に併存するにあらざれば、決して成り立つべからず。論理学の原則において、同時に有たり無たることあたわずということあり。たとえばここに茶碗あると同時になしということを得ず。しかれども、もしその場所を異にするときは、同時に有たり無たることを得るなり。これを要するに、二物両存には異時同空と異空同時には有たり無たることを得れども、同時同空には有たり無たることあたわざるなり。空とは空間をいう。また客観においては時空両間を要すれども、主観においては時間のみを要して空間を要せず、これまた両観の異点となすに足る。心の諸象はなにほど起伏、生滅、変遷するも、時間の上にのみ成立し空間を要せず、物象の転変移動するには空間を要すると共に時間をも要するなり。しかるにここに心理学上よりの一疑問あり。そは、心はa……bのごとく間隔せる両点を一度に思うことを得るなり。心もし時間のみを要して空間を要せずとならば、かかる場合にまずa点を思うて、しかるのちにb点を思うべきはずなり。しかるにその一度に心上に思わるるは、心にもまた空間を要するがごとしとしかり。意識において両点を感ずるは、論者のいうごとく、その実、両点一度に感ずるにあらずして、まずa点を感じ、しかるのちにb点を感ずるなり。しかれどもその前後の時間きわめて駿速にして、同時一度に両点を感ずるがごとくに想するなり。吾人が同時に二事二物を考うることあたわざるは、これ心は空間を有せざるゆえんなり。心もし空間の形式を有するならば、同時に諸反対の思想を考出すべきに、その決してなしあたわざるは、これがためなり。もっとも事務に俊敏なる人を見れば、心を数事に傾注して滞りなくこれを裁断するの有様は、実に傍人をして同時に数事を考うるかの疑いを抱かしむることあれども、心理学上一部の論者は決してかかる理由なしとし、かくのごときは、やはり前後の転移きわめて短速なる時間をもってこれをなすものとするなり。しかるに反射作用においては、同時に数様の働きをなすなり。すなわち心臓の血液を輸出すると、肺臓の空気を吸入すると、胃臓の食物を消化すると、同時に行われて前後の次第あるなし。この反射作用は、心性作用の一変して器械的作用すなわち物理作用となりたるものなり。

 また時空は有限なりや無限なりやというに、無始無終、無本無末なりとす。今、時間をば幾万年の後には限りあるべしと想するも、その後の時はいかにという考えが起こりきたりて、際限なきなり。空間においても幾百万里の外には空間なかるべしと想するも、それ以外の空間はいかにという考えがただちに生じて、また際限なきことなり。故に曰く、時空は無限なり。

 また時空は主観性のものなりや客観性のものなりやというに、先天派にては、時空は心に本来固有せるものにして主観の一形式なり、故に一心ここに起これば二間ただちにこれに伴うといい、後天派にては、時空は物と物との関係に固有するものにして、物と物との左右に併立するを空間となし、前後に継続するを時間となし、心の固有にあらざるなりという。なおこれを説明して曰く、今、二針尖をもって人身を刺激するに、足などにおいては二、三分以上離さずしては、両尖をもって刺せりと感ずるを得ず、しかるに指端においてはわずかに二、三厘を隔つるも、よく両尖のわれを刺すを弁識す。空間の知識は、かくのごとく手足の外物に接触してその距離を感知し得ること、あるいは歩行によりて経過する距離の経験等より抽象したるところの知識なり。時間においても一現象去りて一現象のきたるその間、前の印象のようやく判明を失うの程度、あるいは一物を永く手上に挙げ、ようやく筋肉の疲労を覚ゆるの感覚等より抽象しきたるところのものにして、これより無限の空間、時間の観念を想出するも、これは経験以外のことにして、その実、空想たるに過ぎずと。先天派はまたいう、時空もし物に固有なるものならば、物のなくなるときは時空も共になくなるはずなるに、吾人は宇宙無一物の有様を想像することを得れども、時空絶無の有様を想像することあたわず、吾人は万象の創始以前なる真空真寂の有様を想像することを得れども、そのときに時空皆無の有様をば到底想像することあたわざるなりと。しかるに経験派はいう、時、空の二つを到底われわれが想像より離すことを得ざるは、人生まれてよりいずれの時、いずれの所においても経験上この二者を感触せざることなければなり。これをもって自然に習慣性をなして、常に心に固着するに至れり。しかしてその実、本来心に固有せるものにあらざるなり。しかるに物に至りては、ある時と所にはその形を現ぜざることを経験するが故に、吾人はよく万象絶無の有様を想像することを得るなりと。しかるに先天派はなおいう、経験派が物ありてしかしてのちに時空ありと称し、時空をもって物の属性のごとく考うるは大いなる誤りにして、吾人は時空の考えなしに一物をも考うることあたわず。時空の考えまずわが心中に存して、しかるのちにわが目前に物象を認むるを得るなり。これ時空は本来心に固有するところにして、経験の結果によりて知得するところにあらざるなりと。このほか時空の二者につき精密詳細に論究するときは、なお種々の議論ありといえども、本段はただ術語の解釈にとどまるものなれば、時空の詳しき説明はこれを他日に譲るべし。とにかく時空の二者は宇宙の経緯となりて、森然たる万象、一としてこの二者の間に包括されざるものあらざるを知了すべし。しからばすなわち吾人の身はこの二者につながれてあるものにして、到底それが紐維を断ちて、その外に脱出することあたわざるなり。しかるにはなはだ奇怪なるは、吾人は決して同一の時間と同一の空間中には、一瞬一息の間といえどもとどまることあたわず。死生の海に一葉の身躯を浮かぶる間は、必ず常に異なれる時間と異なれる空間にさおさしつつ行くなり。ただに一生死のごとき最短なる間のみならず、生前幾億万年間にひとたび経過したる時と所が、死後幾億万年を隔つとも、再び同所同時に会合することあたわざるなり。思うてこれに至れば、一生一死の宇宙の大海、万象の波間に出没隠見するその状態、実に奇中の奇、怪中の怪、不可思議中の不可思議といわざるべからず。

       第四段 学派の起源および発達

 一の純正哲学中に何故に数個の学派の発生せしやを考うるに、そもそも哲学、宇宙万有のなんなるかという問題を解釈せんとするより起こりたるものなるが、そのこれを解釈するや茫々無限の宇宙、森羅無限の万象を相手とするものなるをもって、もとより一観察、一思想の下に説破し得るところにあらず。あるいは表面より解釈せんとするものあれば、あるいは裏面より解釈せんとするものあり。あるいは経験を本としてこれを説き、あるいは思想を本としてこれを説くものあり。あるいは物の辺よりこれを論じ、あるいは心の辺よりこれを論ずるものあり。あるいは単一より衆多にくだり、あるいは衆多より単一にさかのぼるあり。これ諸流諸派の起こりしゆえんなり。しかしてその表面、経験、衆多より解釈するものは、その議論常に帰納的にして、その裏面、思想、単一より解釈するものは、その議論常に演繹的なりとす。さてその宇宙万象は単一なりとの思想の何故に起こるかというに、およそこの森羅万象を次第に観察するに、一貫普遍の理法に支配せらるるを見るより、かかる差別無限の象はその本と同体にして単一なるものなるべし。もし差別のままに個々特別に独立自存するものならば、決して同一方向に運行変化することなかるべきものなりとの考えを起こすに至れるなり。しかれどもまた一方より考うれば、その性質全然相反するものの、宇宙間に存在するがごとく思わるるなり。これ一方に単元を唱うるものあれば、また一方には多元を唱うるものあるゆえんなり。しかしてそのいわゆる単元のいかなるものを立て、多元のいかなるものを立つるかは、以下説くところの分類につきて知得すべし。

 およそ哲学諸派を分類するに、あるいは外部上の地位および歴史によるものあり、あるいは内部上の性質および組織によるものあり。その第一種の外部によるものは、まず世界中の哲学を地位上より大分して東洋および西洋の二となし、その東洋部にはシナ、インド、ペルシア、アラビア、エジプトの諸哲学あり。しかして西洋部においては、その哲学の一系統によりて発達せるをもって、歴史上よりこれを古代哲学および近世哲学の二となし、この二は更に地位上より古代哲学をギリシア、ローマの二となし、近世哲学を英国、大陸の二となし、その英国哲学をまたイングランドとスコットランドの二となし、大陸哲学をフランス、ドイツの二となす。今これを概括すれば左のごとし。

 つぎに第二種の内部によるものをのべんに、まず哲学流派の性質、組織を大分して、無元論と有元論の二類となす。甲は宇宙万有の存在を疑いて虚無となすものにして、近世ヒュームの論、これなり。乙は宇宙万有には根元実体ありと立つるものにして、これまた一元、二元、多元の諸派に分かる。しかして一元論には唯物一元を立つる者あり。ギリシアにありてはデモクリトス氏、エピクロス氏、近世にありてはガッサンディ氏、ホッブズ氏等のごとき、これなり。あるいは唯心一元を立つる者あり、バークリー氏のごとき、これなり。あるいは本質一元を立つる者あり、スピノザ氏のごとき、これなり。理想一元を唱うるものあり、ヘーゲルのごとき、これなり。

  哲学 東洋哲学 シナ哲学

          インド哲学

          ペルシア哲学

          アラビア哲学

          エジプト哲学

     西洋哲学 古代哲学 ギリシア哲学

               ローマ哲学ならびに中世哲学

          近世哲学 英国哲学 イングランド哲学(単称英国哲学)

                    スコットランド哲学(蘇国哲学)

               大陸哲学 フランス哲学(仏国哲学)

                    ドイツ哲学(独国哲学)

仏教もその万法差別の虚妄にして、真実体はただ平等無差別真如なりと説くごときは、これ理想一元論といわざるべからず。二元論者中あるいは現象的二元論を唱うる者あり。これ普通人の常識に訴えて、物もあり心もありと説き、しかしてその物といい心というも、物の実体、心の本体というがごとき高尚深遠の意を有するにあらずして、だれにても認めおるところの現象につきていうものなり。いわゆるリードの常識論、これなり。これに反して吾人が平常、物といい心というは、現象にして本体にあらず。現象は生滅不定のものなれども、本体は湛然として常住絶対の体なりと唱うる者あり。これを実体論者という。しかして心にも物にも共にその実体ありて、おのおのその体を異にすると立つるもの、これを実体的二元論と称す。カントの説すなわちこれなり。しかれどもこの二論は、いまだ物心二体の関係を明示するに至らざりき。しかるにまた、物心二元は理想の一元より発達したるゆえんを示したる者はシェリングにして、氏は絶対一元より相対二元を分化したる説を唱うるものなり。しかしてその論、絶対と相対との同体なるゆえんを唱うるにあらず。これに反してヘーゲルは物心両体の同体不離を論じたるものにして、その論は物心同体論というべし。仏教においても色即是空、空即是色、真如即万法、万法即真如と立つるもののごときは、また物心同体論といわざるべからず。その多元論中、通常人の考うるがごとく、物もあり心もありかつ神もありとするものは、これを三元論と称すべく、またギリシアのエンペドクレスの宇宙の原体を地、水、火、風の四者に帰したるがごときは、これを四元論と称すべく、シナ人の水、火、土、金、水をもって万象の根元となすがごときは、これを五元論と称すべし。またライプニッツのごとく無限の元子を立つる者あり。以上はみな多元論なり。また物理学者のごとく無数の分子を立つる者も、あるいは多元論と名付けてしかるべし。このほか善悪の二元を立つる者あり、ペルシア哲学のごとき、これなり。愛憎の二元を説く者あり、エンペドクレスのごとき、これなり。また多元の転化を論ずるヘラクレイトスのごとき者あり。また万有の進化を論ずるダーウィンのごときものあり。今便宜のため、以上の諸説を概括すれば左のごとし。

 この表中、物心異体論とはリード氏の唱うるがごとき常識の二元論をいう。すなわち常人の物心全くその体を異にすと信ずるもの、これなり。また多元論中無数元論とは、ライプニッツ氏の無数元子の実在を唱うるがごときをいう。

  哲学 無元論(虚無論)

     有元論 一元論 唯物一元論

             唯心一元論

             理想一元論

         二元論 現象的二元論

             実体的二元論

             物心異体論

             物心同体論

         多元論 三元論

             四元論

             五元論

             無数元論

       第五段 哲学の応用および実益

 純正哲学の応用は、これを学問上の応用と実際の応用とに区別すべし。

 第一 学問上の応用とはいかなることかというに、純正哲学は諸学の原理原則にさかのぼりこれを考定するところのものにして、諸学は実に純正哲学において考定するところの原理原則によりて組織せらるるものなり。たとえば心理学は純正哲学において人の知識、思想の原理原則を発見し、しかるのちにその学の組織いよいよ整い、その学の進歩いよいよ著しかるべし。論理学は帰納、演繹なる二大法規の上に組織せらるるものなり。しかして帰納、演繹二大法規がそのよりて成り立つところの因果の理法、思想の原則を究明するものは、すなわち純正哲学なり。倫理学は人間の大目的のなんたる、善悪の標準のなんたるによりて成立するものとす。しかしてこれらの原理を考定するものは、すなわち純正哲学なり。理学は実験の証明によりて成立するものなり。しかして実験の果たして真実となすに足るや否やを考定するもの、また純正哲学なりとす。このほか政治学、経済学、法律学等、一般の学問はみなその原理原則の考定を、純正哲学に仰がざるなし。故に純正哲学は学問の大本にして、諸学はこれが応用なりということを得べし。しかれども純正哲学のこれらの大理大法を発見するには、また必ずその材料を諸学に取らざるべからず。純正哲学は諸学において収集するところの事実もしくは規則を集めて、これを総摂統合して一大原理を発見し、この原理をば更に諸学の上に当てはめて、従来不整頓なりし組織を整理し、もしくはその各規則中に相互に矛盾するものを脩補して、その学の進歩発達を促すものとす。見よ、イギリスにおいて諸学の考定に実験を主とせしより諸学の進歩著しく、ドイツにおいて諸学の考定に論理を主とせしより諸学の発達著しきは、みなその源を、イギリスにありてはベーコンの早く実験哲学を唱えたるにより、フランス、ドイツにありてはデカルトのつとに思想哲学を唱えたるに発せずんばあらざるなり。また近年スペンサーが宇宙進化の大原理を哲学上に考定し、この大原理を生物、心理、社会、倫理(スペンサー氏初めに哲学原理を著し、つぎに生物、心理、社会、倫理と相次第して著せり)の諸学の上に応用して、この章諸学において著大の改新と発達とを見るに至れり。これをもって純正哲学と諸学との関係は前すでにのぶるがごとく、中央政府の地方政庁におけるがごとく、総摂統合の作用を有するものなり。しかれども中央政府の発布する命令規則は、地方の情状を集合しこれを斟酌して案定するがごとく、純正哲学の材料とするところは諸学よりきたる外これなきなり。かくのごとく純正哲学はその材料を諸学にとるといえども、そのこれをもって考定せし真理は諸学の一般に原則とするところの大法たるは、なお中央政府において、地方の事情より統合しきたりて発布したる規則は、地方の遵守する規則となるがごときものとす。

 第二 実際上の応用はなにかというに、宗教これなり。学問上の応用は吾人に間接なるものなれども、実際上の応用すなわち宗教は吾人に直接なるものなり。なにをもって学問上の応用は吾人に間接なるかというに、純正哲学において考定するところの大原理は、いったんこれを諸学自身の上に応用し、しかるのちに我人の上に応用するをもってなり。たとえば心理学のごときは純正哲学の応用なるも、更にその理を人性開発上に応用して教育法となり、理学もまた純正哲学の応用なるも、更にその理を応用して航海学、製造学、器械学となり、数学も再びその理を測定上に応用して測量術となるがごとし。しかるに宗教は純正哲学の道理を直接にわが心の上に応用して、他の諸学のごとく間接にあらざるなり。

 これをもってこれをみれば、純正哲学の応用はこれを吾人の上より望めば、直接と間接の二種なることを知るべし。しかして心理、論理、倫理のごときは、すでに無形学すなわち哲学の範囲に属するものなるが故に、人々容易にその純正哲学の応用なることを承認すべしといえども、有形学すなわち理学がまた純正哲学の応用なりというに至りては、たやすく了解し難しという人あるべし。否、奇怪の感を起こす者もあるべし。故に今、少しく詳しくそのことを述ぶるの必要なるを知る。そもそも余は第一段において、物に象と体とあることを論じたり。しかして純正哲学において研究の相手とするところのものは物体にして、理学の相手とするところのものは物象なり。しからばその区別判然相分かれて、純正哲学の原理は純正哲学の原理にして、あえて理学に応用せらるべきものにあらざるがごとし。しかれどもその物体あり物象ありと考定するところのものは、これ純正哲学にして、理学の研究するところにあらず。理学は物象の在否、真偽の考定は純正哲学に譲り、しばらくその実在を仮定して、その上に実験を施すところの学なり。もし物象の存在は果たして真なるか否やを考定するものなかりせば、理学はなにほど実験を施し、なにほど規則を発明するも、これによりて得たる規則の果たして真なるや否やを確かむることあたわざるものなり。かかる不確実なるものならば、だれか理学そのものの上に信用を置く者あらんや。理学者が汲々研究するところの事業は、あたかも影を捕らうるがごとく徒労のこととなり、ついにその研究を廃するより外なかるべし。しかるに純正哲学において物象の実在を考定するが故に、理学者は初めて泰然としてその学の基礎を定めて研究することを得、世人もまたこれを信取し利用することを得るなり。古代かつて懐疑の学一時流行して、学問研究の衰えたることあるは、これ万有を虚無となすの説が人心を支配し、研究をもって徒労なりと思惟せしめたるの結果にあらずんばあらざるなり。人の思想の純正哲学の影響を受くるや、かくのごとくそれ大なるものあり。故に曰く、理学は純正哲学において定むるところの原理の上に成り立つものなり。つぎに事物の実験は、ことごとく感覚によらざるべからず。その感覚を経ざるものは、これを実験というべからざるなり。しかして理学においての研究は、感覚そのものの真偽にあらずして、その上に成立する実験に外ならず。しかるに感覚そのものの真偽得て知るべからざるものならば、実験もいまだ事物の真偽を証明するの力なしといわざるべからず。もしまた理学において、まず感覚の真偽を定むべしというに、所依の理学がなんぞ能依の感覚を究明し得るの理あらんや。故に感覚の真偽を究明するもの、理学の外に別に存せざるべからず。純正哲学すなわちこれなり。かつそれ理学の研究は実験を本とすというの意は、ただ実験をその研究の手掛かりとするの意にして、いたずらに実験上見たり聞いたり、なめたりかいだりするのみにして理学が成り立つと思うは、大いなる間違いなり。事物の実験は、いったん感覚に触れたる材料を思想の審判所に呈出して、これが性状を弁別契合審定し、もってその関係を詳悉せざるべからず。かくのごとくせざれば、もって事物の規則を考定することあたわざるなり。換言すれば、客観的事物に主観的思想の力を加えて、事物の規則を知るものなり。しかしてその思想の作用および状態は、心理学においてこれを説くといえども、これが範疇を定め、もしくはその本源にさかのぼり、これが真実無妄なることを究むるは、これ純正哲学のなすところなり。故に曰く、理学は純正哲学の基礎の上に構成せる屋舎なり。しかれどもその両学の進歩は互いに相待つものにして、理学が供給する事実、規則を待たずして、純正哲学単独に進歩し得るものと考うべからず。その関係は、なお理学が純正哲学の進歩を待ちて進歩すると同一なり。

つぎに哲学の実益を述べんに、これまた一般社会の上に益するものと、一個人の上に益するものとの二あり。その一般社会を益するものは間接にして、一個人を益するものは直接なり。まず社会を益する方を挙ぐるに、大いにこれを分けて四となす。政治、道徳、宗教、教育、これなり。この四者の改良進歩は、実に哲学の進歩によらずんばあらず。(一)政治における人権および自由等の観念は、もと純正哲学の研究によりて確定せられたるものにして、他学の考定し得べきものにあらず。初めはただ暴君虐吏の圧制に抗せしがために、政略的、誘導的に自由主義を唱導せしものありといえども、その確固不抜動かすべからざるの大原理の上に権利、自由の道理を構成せしは、全く純正哲学の考究によりたるものにして、すなわちこれらの原理は、人生の先天性および大目的のなんたるを論定するより生ずるところのものとす。(二)宗教においては、遠く二、三千年の前より起これるものありといえども、そのよく今日に存して勢力あるものは、純正哲学の学理に照らし多く相戻らざるものなるか、あるいは純正哲学の進歩に促されて改良補修せしところのものならずんばあらず。もしそれ昔時に廃亡して跡なきもののごときは、その立つるところの旨趣大いに純正哲学の学理に違背するものならずんばあらず。(三)道徳においては、上古より各人自ら実行にあらわしおりたるものにして、学理の開けざる時代においては今日より道徳の度高しと推測するものありといえども、いにしえは地広くして人少なく、生存競争のはげしからざるために、おのずから無欲の状あるものとす。伏羲神農時代の人情は、道徳としてこれをみなすよりも、むしろ渾沌たる未開の有様となしてみなすべきものなり。今日のごとく地狭く人多く、生存の競争はげしき時代にありては、到底人をして太古無欲淳朴の有様におらしむるあたわず。必ずや一方においては生存の競争をなしながら、他方に向かいては不道不義なる行為を避け、進んでは他人をも補助せざるべからず。これが適宜の法則すなわち道徳的義務のいかんを知らんと欲せば、また学問によりてこれを会得せざるべからず。しかして人は何故に義務を履行せざるべからざるかの道理は、これ人間最大目的のなんたるを考定するより生ずるものとす。そもそもいかなる行為はこれ善にして、いかなる行為がこれ不善なるかを定めんには、まず善悪の標準を定めざるべからず。その善悪の標準および人間最大目的のいかんを論定するは、すなわち純正哲学なり。(四)教育においては、いにしえも経験によりてその必要を知り、多少種々の方法によりて施したるも、更に道理を解せざる盲目的教育法なれば、あるいは大いに人性の発達を妨げしことも多かりき。しかるに心理学の開け純正哲学の進むに及んで、大いにその道理を明らかにし、したがってその方法を改良し、今日のごとき整頓せる教育を見るに至れり。

 政治の人権における、宗教の神における、道徳の善における、教育の心における、みな無形のものなり。無形のことは、無形の学を待ちて進歩せざるべからず。物理学いかに開くるも、天文学いかに進むも、動物植物の学いかに明らかなるも、人権を知り神を知り、善を知り心を知ることあたわず。なんとなれば、これらの学は有形の学なればなり。有形の学は、ひとり有形の事物を進歩せしむべし。しかるに有形の進歩は、人の視聴に触るるものなるをもって、世人はかの電線を見、鉄道を見、蒸汽船を見て、その利用の著大なるに驚嘆し、その他、機械の精巧なる、建築の壮大なるに感服し、しかしてこれらの進歩を促せるものは理学なるをもって、今日の文明はひとえに理学の進歩に頼ると速断せざるもの、ほとんどまれなり。なんぞ知らん、文明の進歩は有形の進歩と無形の進歩と相待つものにして、今日の文明はひとり有形の進歩のみならず、無形の進歩また著しきものあるを。もし世人の速断するごとく、ひとり有形の進歩に眩惑して無形の進歩を忘却するときは、世はますます物質的、外形的の粧飾に流れて、人権を貴ぶところの政治思想も金力のために支配せられ、道徳も金力のために左右せられ、宗教も営利的となり、教育も商売風に変じ、共に卑劣に陥り、精神的、思想的の真や善や美は地を払うに至り、真正の文明は得て望むべからざるに至らん。故に曰く、一方において有形の進歩すると共に、無形の進歩をも企図せざるべからず。有形の進歩を企図するは理学を盛んにするにあるがごとく、無形の進歩を企図せんと欲せば、実に哲学を盛んにせざるべからざるなり。

 哲学の吾人に実益を与うるは、ひとり以上の四者にとどまらざるなり。この四者の外に直接に吾人に実益を与うるなり。すなわち吾人の心の上に偉大なる功能を与うるなり。たとえば哲学を研究するによりて、吾人の思想はこれがために精密にせられ、吾人の情操はこれがために高尚にせらるるがごときをいう。有形の事物はその性質、状態等、分明に五感の上に覚知せらるるものなるをもって、これを研究するに容易なりといえども、無形の事物は形相の捕捉すべきなきをもって、その研究はなはだ困難なりとす。故によく思想を練磨せざれば、その理を思弁するあたわず。これ純正哲学の、よく人の思想を精密にするゆえんなり。諸般の学もとより人の思想を精密にするの効ありといえども、そのもっとも効力あるは数学、論理学、純正哲学の三科とす。数学のごとき、平生に適用する部分は至って浅近なるものにて足るといえども、その高等普通学校において代数、幾何、三角等、難深なる問題を解釈せしむるは、実用上よりもむしろ思想練磨の目的によりて採用するものなり。論理学は思想の使用法を用ゆるものにして、これを学ぶ者は諸学を研究するにおいて、もしくは学術を講演する場合において、大いに思想の順序を正しくせしむるものなり。純正哲学は吾人に宇宙の大原理を知らしむると共に、すこぶる吾人の思想を精密にするものなり。また何故に哲学は吾人の情操を高尚にするやというに、世間普通人が情の上の楽は肉体五感の欲を遂ぐるにあり。情感に等級あり、五感上の情を情欲といい、道徳上の情、愛真の情を情操といい、前者は下等にして動物一般に有するところ、後者はことに人類の有するところなり。しかして人類の貴ぶところは、この情操を養いて行為を高尚にするにあり。純正哲学を学ぶ者は常に深遠微妙の真理世界に逍遥するが故に、ただに愛真の情を養うのみならず、感覚上の快楽を営求せず、道理界裏に無上の楽境を開くに至る。古今哲学者の操行多くは清廉潔白なるは、ここに基づかずんばあらざるなり。また哲学を学ぶ者は想像力を進むることを得べし。想像に二種あり、感情上の想像と道理上の想像と、これなり。前者はただ苦楽の上に不合理なる影像をえがくものにして、地獄のごときはこの世界中もっとも苦しきもののみを収集して作れるもの、極楽もまたもっとも楽しきもののみを収集して作れるものなり。もし地獄、極楽は真にありとするも、今日われらの処する五感、世界の事物と必ず多少異なるところなかるべからず。未来すなわち死後の冥界は不可知の世界なり、感覚以外の世界なり、不可知の世界の事物はまた不可知の事物なり。しかるにそのことごとく現世の感覚上の事物をもって構成せるものは、これ現世の事物にして、しかも苦楽の関するものを選び、我人の情感上に組み立てたるものなり。地獄の絵画はひとり東洋仏教諸国にこれあるのみならず、昔時ヤソ教においてもこれを用いたることあり。その象景ほとんど東洋のものに似て、ただ鬼の形異なるのみ。その東西両洋、情感想像の期せずして相合する、かくのごとし。これ道理上了解すべからざるものにして、ただわが情感に満足を与うるに過ぎず。しかるに道理上の想像は、推理上なかるべからざる象景を心中にえがくものにして、コロンブスのアメリカを発見せしは、発見してしかるのちにアメリカを知るにあらず、発見せざる前にアメリカあるを想せしなり。しかして発見前、遠洋万里を隔ててよくこれを想像したるものは、智力道理の上に訴えたるものなり。コペルニクスの天体上の想像、ニュートンの引力の想像のごとき、みなこれなり。諸学もとより多少の道理的想像力を養わざるにあらざれども、その最もこれを養うは、純正哲学に過ぎたるものなかるべし。なんとなれば、純正哲学は無象において研究するものなるが故に、いちいちこれを想像に訴えざるべからず。しかも道理の推究によりて観想するところなるをもって、その一に苦楽に訴うるところのもののごとく不合理なるものにあらず。故に哲学に従事する者は、未発の事件を予想するにおいて大いに力を与うる者なり。それ吾人がこの世にある間は、日夜未来の予想に心を労し、もってこれが準備をなすものなり。これを小にしては一身、一家の経営なり、これを大にしては一国、一社会の政治なり。政党が主義綱領を掲げて運動するは、未来の成果を予想するに出づ。商法家が物品の仕入れをなすも、農業家が植物を栽培するも、みな未来における物価の高低、天気の燥湿を予想せざるべからず。予想の吾人に要用なる、挙げてしかして数うべからざるなり。しかれども、もしそれ道理推究の想像に頼らずして、みだりに感情上の想像に頼り、もって諸事を施設するときは、小にしては一身の福利をそこない一家の財産を破り、大にしては国家社会の政道を乱り衰と亡とを免れざらしむ。あにまた恐れて、しかしておそれざるべけんや。道理的想像の吾人に必要なるや、かくのごとし。しかしてそのよくこれを養うものは、純正哲学にしかざるなり。また哲学に従事する者は、志望を遠大にするの利あるべし。人は目前のことにのみ齷齪すれば、一時一刻の間に事物を処弁するの才能も長ずべしといえども、遠大高尚の志望を養うことあたわず。小賈の★(釒+四)銖分釐に役々たる俗吏の刀尖筆頭に、遑々たるその人品気象の次第に淪降し、跼蹐して遠大博宏の志尚なきは、職としてこれにこれよらずんばあらず。しかるに哲学を研究する者は、常に思念を茫々無念の宇宙にはせ、無限の時間と無限の空間をもって経緯となし、万国を一念におさめ、千載を一慮に寓し、寂然として大玄の恒久を思い、湧然として万物の転化を考え、洸洋自恣、物よく思想の馬前を遮ぎるなし大といわざるべけんや。その卓落宏遠の志尚は、これを政治に適用すれば、よく千百載を統摂する大経綸となり、これを一家に適用すれば、数世を経営する大経済となるべし。哲学を学ぶもの、あにこれ恍乎として自失する者のみならんや。また哲学に従事する者は、その精神を安定することを得べし。もし人、事理を解せざるときは、必ずその心をくるしめて安静なることを得ず。ことにその天災、不幸に遭遇せしときをもってしかりとなす。しかるによくその免るべからざるの理、のがるべからざるの命を知るときは、平然として恨むところなく、湛然として憂うるところなし。いわゆる安うして命に就くものなり。宗教によりて心を安んずるは信仰をもってし、哲学にかりて心を安んずるは道理をもってす。人智ようやく進むときは、単純なる信仰はもってその心を安んずるに足らず。まさに純正哲学の道理に訴え、もって迷心を安定せざるべからず。およそ迷に小なるものと大なるものあり。心の方向、死後の有無に関して生ずるところの迷は、迷中の大なるものなり。死後の冥路をおそるれども、そのこれを避くるゆえんを知らず。思を苦しめ慮を煩わすも、そのこれを医する方法を知らず。滔々たる天下みなこれなり。しかして心の猶予を決し、死後の有無をつまびらかにし、もって霊魂の安静を得るものは、宗教と哲学とを除いて、一もこれを示すものあらざるなり。哲学上推究しきたるときは、心そのものに至りて不思議を感ぜざるを得ず。我人の猶予恐懼するも心なり、猶予恐懼せざるも心なり、未来の有無を疑うも心なり、未来の有無を疑わざるも心なり。一心を捕らえ去りてこれを寂静無為の境に幽すれば、百憂なんぞ熬煎するあらんや。仏教に三界唯一心という、誠にしかり。しかりといえども、心は実に強悍なる武夫のごとし。しいてこれを捕らえんと欲すれば、かえってわれを傷つく。漸次にこれをいだくるに道理をもってし、鍛錬積年もって、その光をして暗黒世界を照らさしめざるべからず。

 

   東洋哲学

       総  論

 前すでに説明せるがごとく、哲学を研究するに東西両洋に分かちてこれを講述するは、一種の研究法なり。すでに哲学総論を講述し終われば、これより東洋の哲学を講ずべし。東洋の哲学はエジプト、ペルシア、アラビア、インド、シナの五に分かつといえども、エジプト、ペルシア、アラビアは発達せず。故にその講究すべき価値あるものは、インド、シナの二哲学とす。

 まず性質上、東洋哲学を西洋哲学に比するに、左の異点ありとす。第一は東洋哲学は数派の系統を有すること、第二は東洋哲学は事実の考証に乏しきこと、第三は東洋哲学は応用を目的とすること。

 第一 西洋哲学は古代と近代とを分かち、近代中英国と大陸とを分かち、英国の哲学またイングランドとスコットランドとに分かち、大陸の哲学またフランスとドイツとに分かつといえども、その本を尋ぬればみな一系統に出づ。すなわち西洋の近世哲学はギリシア哲学の再興なり。しかるに東洋においてはエジプト、アラビア、ペルシア、インド、シナ等、おのおの相異なれり。かつ西洋哲学においては、ひとたび起こりたる哲理は前者を結合して後者を誘起し、その間相参照して講究することを得しども、東洋哲学は個々に発生したるが故に、相参照すること少なし。ただシナ宋代の哲学は、仏教の影響を受けたるあるのみ。概するに東洋哲学は各国各系の哲学なりというべし。

 第二 東洋においては実際に偏したる哲学と、理論に偏したる哲学ありといえども、共に事実によりて考証すること少なく、独断的に説明せり。たとえばシナにては、老荘は無形上に理想の研究をなし、孔孟は理想を離れて実際の道徳を研究せり。故に老荘は理論に偏し、孔孟は実際に偏せり。もっとも孔子の学にても、易の『繋辞伝』のごときはよほど高尚なる理論ありといえども、孔子はなるべく理を説くことを避けたり。要するにシナの学は先天的演繹風の学問にして、往聖前賢の説を基本として説けり。孔子は尭舜を祖述し、「述べて作らざる」(述而不作)をもって主義とす。老子に至りては尭舜よりはるか以前の伏羲黄帝のころの有様を想像してこれを景慕し、これを基本とせり。いずれも事実によりて考証せしものにあらざるを知るべし。西洋においてギリシア哲学の祖と称せらるるタレスのごとき、想像を用いざるにあらずといえども、その本意とするところは宇宙を観測して帰納的の説明をなせり。シナのごとく前人の説を基本として祖述せしものにあらず。近世に至るに及びますます事実の考証を貴び、つとめて空想憶断を避くるに至れり。しかるに東洋においては、近世に至るに及びても依然として旧套を脱せず、なるたけ前人の説に違反せざるをつとめり。もっともインド古代の哲学中には、多少事実上に考証して新説を立てたるものあれども、次第に旧説に拘泥して新説を抑ゆるに至れり。故にその発達を見ること少なし。エジプト、アラビア、ペルシアのごときは、古代において一時屈起せしままにして、更にこれを継いで進歩を加うるを見ず。

 第三 東洋の哲学はその理論いかに高尚なるものといえども、そのこれを説くは、みなことごとく人間社会に応用せんがためにして、西洋のごとくあくまでも真理を究めんとするものにあらず。西洋の哲学は真理を究むるが第一の目的にして、人事に応用するが第二の目的なり。東洋の哲学はこれに反して人事に応用するが第一の目的にして、真理を研究するが第二の目的なり。故に西洋は理論哲学にして、東洋は応用哲学なり。これをもってインドの哲学は宗教の上に応用し、シナの哲学は道徳政治の上に応用せしなり。一は安心立命を得せしめんがため、一は秩序安寧を保たしめんがためなり。西洋哲学もその理論の応用せられたるもの少なからずといえども、その本旨は真理を探るにあり。これをもって、西洋にては宗教と哲学とは相分かれて発達せり。東洋にては人間社会をいかに統治し、いかに支配すべきや、また各人の心をばいかに修めしむべきやをもっぱら問題として考究し、西洋は宇宙の真相はいかに、万物の関係はいかに、またこれらはいかなる紀律すなわち天則の下に支配さるるやを、もっぱら問題として討究せり。故に東洋においては人事社会に関する学問の外は発生せずといえども、西洋においては右の問題を討究するの必要に促されて、天文、地理、博物等、実験の学を起こすに至れり。東洋においても間々これら自然物の討究に従事せるものありしといえども、世道人心にかかわりなきものとして軽蔑せられたり。シナにおいては古代、天文学等よほど進歩せしことありしといえども、雑科の中に繰り込まれ、末学として擯斥されたれば、その発達せざるもまた所以(ゆえ)あるかな。西洋においてはシナ人のいわゆる雑科なるもの大いに進歩し、またはなはだ盛んにして、これより純正哲学に向かいて材料を与うるに至れり。

 東西両洋哲学の間にこれら三点の相異あるは、必ずこれが原因なかるべからず。請う、これよりその理由を説明せん。この原因を考うるには、まず東洋諸国ことにインド、シナの有様を考えざるべからず。およそ社会の発達するは、気候、地形、人種、交通、人情、風俗、政治、宗教、教育等に関す。しかしてこれらの西洋と異なる点は、すなわちその学問の性質において互いに相異なる原因なりと知るべし。

 第一は地形上において、東洋は大国と大国と相隔絶して交通少なし。故に各国各系の哲学を有せり。ギリシアにおいては国内数個の独立州ありといえども、国小にして、山また小なり。故に互いに交通し、また互いに競争せり。故をもって諸家の哲学また互いに交通競争せり。しかるにギリシア衰え、ローマ起こるに及び、その学ローマに入る。ローマ帝国瓦解に際し一時暗黒の世となり、哲学全く地を払えり。近世欧州の諸強国を形成するに及びて、その国際の競争と共にその学大いに再興せるも、畢竟ギリシア一系統の時を経、所を換えたるものに過ぎず。しかるに東洋の諸大国は、その興亡は多くその国内において行われ、他の大国が一進して他の大国を倒すがごときこと少なし。これをもって、その土地に起こりたる哲学は、その土地内において盛衰せり。これ東洋哲学の、各国その発達の系統を異にするゆえんなり。

 第二 東洋哲学の、事実の考証に乏しきはいかなる原因によりしかというに、やはりインドといいシナといい、広大なる大国にして山河相隔り、他と交通することの少なきに原由せずんばあらず。かかる国においては、民族の遷転も西洋諸国のごとくはげしからず。広く諸国の事実を比較することも、西洋諸国のごとく便ならず。すなわちかくのごとき民族の変遷少なく、他国と交通の少なき人民に対しては、自然に古人を基本として政治をしき、道徳を教うるに至るなり。故にシナのごとき、夏殷周三代より漢魏晋以下に至るまで、みな太古の尭舜を尊崇して神聖なるものとなし、その遺教に随順するを主義とせり。もし人にしておのおの新思想をもって世に唱うるに及べば、一定の綱維ようやく乱れて革命を惹起するに至る。故に革命創業の君主は、恭しく尭舜の遺法にのっとると称して当時に適応なる紀制を立て、なるべくこれを動かさず、もって民をして因襲の久しき習慣をなさしめ、一統一治の下に鼓腹撃壌し、あえて背反することなからしめんと企図せり。これその学問一に往聖前賢を祖述敷衍することをつとめ、あえて新説をもってその間に卓発するものの少なきゆえんなり。しかるに他の交渉刺激の多き国にありては、その主治者が古人を尊崇せんと欲するも、他国にこれよりまさる学説のあることを発見するときは、人民争いてかこれに趨向し、その学説によりて更に研究するの新路を開かざらんや。ギリシア古代においては、その国内数個の独立州ありて相競争し、人心も至って活発にして、他を凌駕せんとするの気象は、おのずからその思想に活動を与え、前人の説に黙従せず、独立にわが研究をなさんとし、他州において勝れたる学説あれば、これを参照して更に数等優れる哲学を構成して、名誉を高めんとせるものなり。いわんや海路の便ありて小アジア、エジプト、アラビア等に交通し、貨物の輸入のみならず、思想の輸入またおびただしきものあり。これをもってその学問、一国前賢の思想に拘束せられずして、新を競い、奇を争うて研究せり。かくのごとく西洋は新を求め、東洋は古を仰ぐもの、その原因実に地形の上に存せりといわざるべからず。インドは少しくシナと異なり、やや西方との交通あり。現に歴山王〔アレキサンダー〕のインドを征せしがごときは、相互に影響を及ぼせるものあるべし。故にその当時は、インドに新説の屈起せしことありしを見る。しかれどもその後著しき交通もなく、かつ文運自然に衰えきて、また前代の教説に支配せられて諸学進歩の有様に陥りたるは、慨せざるべけんや。それ新を求むる者は事実によりて考証し、この証拠によりて前者を排斥するにあらざれば、もってその説を世人に信任せしむるあたわず。これをもってその勢い、事実考証の一点に趨向するに至る。しかるにいにしえを慕う者はむしろ事実の考証を避けて、古人の説と矛盾するをふせがざるべからず。その勢い憶断空想をもって古人の説を弁護し、はなはだしきは牽強付会の説をもって、瞹昧の間にこれを没了するに至る。

 第三 東洋哲学の応用を主とするも、地形上前のぶるがごとく他国との往来交渉少なきが故に、豪傑も賢哲も更に外寇に意を用いず、ひとえに内乱の起こらざらんことにのみ心を注げり。内乱を予防するは、人民の競争心を減殺するより善きはなし。競争心を減殺せんには、大いに温良恭謙の徳風を振起するにしくはなし。故に政治も学問もみな徳風を振起するをもって目的となし、世道人心に関係せざる学問はつとめてこれを排斥せり。これ東洋哲学の応用を主とするゆえんにして、ことにシナ孔孟の学は心を修め身を修め、もって治国平天下に至るまで政治と学問とを一致せしめ、仁義をもって一貫せり。老荘のごとき洸洋無為を説き、世道人心に関係せざるもののごとしといえども、当時大道衰え、仁義の名を借りて陰悪をなすを憤り、太古敦朴の風に返さんとせしものなれば、その実は大いに世道人心を救済せんとせしものなり。もし敵国、外患の多き国柄においては、人心おのずから外国に向かうが故に内乱の恐れなく、国民団合して敵国と優劣を争い、かえって競争心を発揚するものなり。この競争心の発揚はおのずから学問思想の上に影響して、広く宇宙万有の上に真理を討究するに至り、その勢いは因襲して近世に及び、もって日新の学説を見るに至れり。

 これをもってこれをみるに、地形の相異なるは人情、風俗、政治、国体を異にするの原因となり、その結果は学問上に著しき不同を生じ、かれは数国一系の哲学なれども、われは各国各系の哲学を有し、かれは事実の考証を主として日新の学説を発見し、われは事実の考証に乏しくして溯古の風に傾き、かれは理論によりて真理の探求を主とし、われは実際に向かいて治国の効果を主とするに至れり。そのよりてきたるや、久しくしてかつ遠しというべし。以上は地形一方より論じたるものなり。しかして地形の外に気候、地味、産物、職業等、種々の原因あれども、今これを略す。

 以上のべきたるがごとく、東洋哲学を西洋哲学に比するに三大異点ありといえども、学説そのものにつきて観察すれば、ギリシア哲学に類似せるものすくなしとせず。天地開闢の説のごとき、ギリシアにつきてはその歴史の示すところ、初めは神の代にして、つぎに人の代となせり。インド古史これに類し、シナの古史において伏羲神農以前の帝王なるものは、ほとんど神霊なるもののごとくにこれを記せり。日本においては古事記、旧事記、日本書紀の示すところ、神武天皇以前を神代と称し、神代またこれを分けて天神七代、地神五代となせり。シナ人の開闢説は陰陽分化論にして、陰陽の未分化せざるこれを太極となす。太極は無極にして、声もなく香もなく、名物すべからず。この体開発して二儀を生ず、二儀は四象を生ず、四象は八封を生ず。二儀は陰陽をいい、四象は太陽、少陽、太陰、少陰をいい、八卦は乾、兌、離、震、坤、艮、坎、巽をいうなり。日本の開闢説はいかにというに、天地陰陽のいまだ剖判せざるや、渾沌たること鶏子のごとく、溟涬にして牙を含めり。すなわち清軽なるもの礴礰して天となり、重濁なるもの淹滞して地となるに至り、神聖ありその中に生ずと、これなり。つぎにギリシアのピタゴラスは数をもって万物の原儀となし、奇偶の二数に分かち、奇をもって完数となし、偶をもって不完数となし、善悪、正邪みなこれによりて分かるると論ぜり。実に奇偶二数をもって万物万差を生ずる根源となすものなり。その説シナ人の陰陽の二をもって一切万物を説明し、これを数に配して奇数を陽となし、偶数を陰となすものに暗合すというべし。エレア学派のクセノパネスは単一を立てて、これより万物を生ずとなせり。シナにおいても太極より万物を生ずとなせり。ただシナ人は、万物を生じたる後における今日においては万物実有なりと考えたれども、エレア学派においては、ただに太初において単一なるのみならず、今日においても単一なり。その吾人が万物万差の境を見るは、これ感覚上の虚妄なりとせり。エンペドクレスが愛憎二原力を説きたるは、また陰陽二気の説に似たり。また同氏は地、水、火、風をもって宇宙の四元となせるは、インドの四大の説に同じ。シナの水、火、土、金、水の五行説また、ややこれに類せり。またギリシアにおいてタレスが宇宙水体論を唱えたるは、インドの服水論師が説くところに類し、アナクシメネスの気体論はインドの風仙論師が説くところに類し、ヘラクレイトスの火体論はインドの火論師が説くところに類す。インドにおいては色心の二法すなわち物心二元を説明す。ギリシアにおいても物心の二元を説明し、これが区別を立てたり。インド倶舎宗において細微の元子を説くは、ギリシア原子学派の説に類し、インドの真如論はプラトンの理想論に類し、シナ公孫竜の堅白同異の弁は、エレア学派のゼノンが弁証学に類し、ことに詭弁学派の論法に似たり。インドの因明は西洋の詭弁学に比するに、はるかに精微高尚なるものにして、アリストテレスの創唱せる演繹論理法とほぼ相同じ。ソクラテスの倫理説は孔孟の道徳説に類し、子思の中庸はアリストテレスの中庸説に似たり。つぎに学風をもって相比ぶれば、ピタゴラスが精神をもって純善なるものとなし、肉体をもってこれを拘束する獄屋となし、その精神の自由を得るはこの肉体を離るるに至り、その拘束中において精神を汚すときは未来は悪処に転生し、これを汚さざれば未来は善処に転生す。善悪二業、相因縁して転回極まりなしとせるは、仏教の六道輪廻に類し、しかしてその学舎を立てて静坐観法せしめ、また肉食を禁ぜしは、ほとんどインド仏者が修業の法に類せり。東西の学説学風かくのごとく相類似する点の多きは、そもそもいかなる原因によるかというに、これには二種の説あり。その第一説に曰く、太古において相交通せりとのことは、歴史上これをたしかむるを得ずといえども、なにほどかの交通ありたるには相違なかるべし。インドとギリシアは、よほど久しき以前より交通せり。フェニキア人のごときは航海をもって生業とせし者にて、インド、ギリシアの間に往復せり。ピタゴラスがインドに留学せりとのことは疑わしきも、ギリシアはつとにエジプト、ペルシアと交通連絡あり。しかしてペルシアはインドと相隣りす。これをもってインド、ギリシアは、ペルシアの媒介によりて間接に相互の影響を受けたるにはあらざるか。そのインドが公然とシナに交通せるは後漢の明帝の時なるが、それ以前といえども、いくぶんかの交通をなせしなるべし。これをもってこれをみれば、古代においても間接には東西を一貫して多少の交通ありたることが、その相互の思想上に類似の点多きゆえんなるべしと。その第二説に曰く、たとえ交通なきにしても、同じ人間にして、同じ陸地の上に住み、同じ脳髄神経を有せし上は、その考うるところ、期せずして相符合するものなかるべからず。およそ人の論理思想の進歩は一の系統を追うものなれば、自然に任せおくも同じ考えの生ずることあるべし。必ずしも交通もって思想を通ずるを要せざるなりと。この二説はいずれも道理ある考えにして、いずれをも棄つるを得ず。故に余はこの二説を併用し、交通のもって思想を交換せしこと、論理自然の発達によりたること、共に東西両洋学説の類似点多きゆえんとなすなり。

 これまでは東西学説の同異を比較し、その原因を論じたるが、これより東洋学攻究の目的を論じ、もって総論を結ばんと欲す。古代にありては東西両洋共に学問盛んにして、東洋の学説は西洋に優るあるも、劣るあらざるなり。中世に及び、東西両洋の学問共に衰えたり。しかるに西洋においては、近世に至りギリシアの学問を再興し、新学説も相ついで屈起し、もって今日、世界開闢以来未曾有の盛況を見るに至れり。東洋はこれに反して、近世に至るもその発達進歩を見るあたわず、依然として旧套を用いるのみ。しかれども東洋人は、その祖先が学問を創起せし以来今日に至るまで、その学説の種子を絶やさざるように継続せり。もっともインドにおいてはほとんど絶えたるも同様なれども、日本、シナの二国は世の汚隆盛衰あるにもかかわらず、師授弟承もってその全体の系統を保続しきたれり。その久しき間の学風は解釈的にして、前聖往賢の説をば金科玉条となし、つとめてその範囲を脱出せざることに注意し、あるいは憶測をもってこれを解説し、あるいは古書に依拠してこれを考証し、ほとんど新学説を唱えたるものなし。しかるにわが国鎖閉の天地にわかに開け、突如として欧米文化の人族に交際するに及び、それ以前にわれを尊びかれを卑みたる反動として、しきりにかの事物を尊崇し、学問のごときは西洋にのみありてわが国にはなきものと思惟するに至り、汲々としてかの学問を攻究することなりし。しかるに西洋においてはその自国の学説のみならず、遠くインド、シナの古代の学説をば東洋学として研究し、その流行日々に盛大に赴けり。今その一斑を述べんに、東洋学の盛んにかの国に行わるるに至りしは近代のことなり、すなわち一九世紀の中葉以後なり。しかれどもその源を探れば、西暦一七八三年にサー・ウィリアム・ジョーンズ氏が、インド、サンスクリットの詩を訳して西洋学問社会に示したるが始めなり。これまでは欧州人は東洋諸国をばヤソ以外の国なりと軽蔑し、学問等のあらざる国土なりと憶想せり。しかるにサー・ウィリアム・ジョーンズ氏がひとたびインドの詩を訳示せしより、始めて東洋にもかかる優等なる文学あることに気付き、サンスクリット(散斯克)語研究の必要を感じたりという。翌一七八四年に氏はインドの都府カルカッタにアジア協会なるものを創設し、東洋学研究の端緒を開けり。爾来その研究、欧州本土に推し及ぼし、一八三二年にオックスフォード大学において、サンスクリット学科の教授をウィルソン氏に託せられたるをもって教授の始めとす。一八五一年にモニール・ウィリアムス氏はサンスクリット語と英語との対訳字書を著し、大いにインド学研究の便を学者に与えたり。これと同時にフランス、ドイツにおいて多くの東洋学者出で、ますます東洋学を振作せり。イギリスにては一八二三年ロンドンにおいてローヤル・アジアティック・ソサエティーすなわちアジア学会を起こせり。また一八二八年には資金を拠出してアジア書籍を翻訳する事業を開き、一八六五年までには八三巻の多きに及べり。すでにして一八七三年に万国東洋学会を組織し、フランスの都パリにおいてその第一回を開会し、一八七四年にその第二回をロンドンに開き、爾後一、二年を隔てて諸国輪番にこれを開けり。もって西〔洋〕人が東洋学研究に熱心なるを知るべし。余、往年欧米巡回の途次に、日本、シナ、インドの文学、歴史、哲学の西〔洋〕文に翻訳され、または西〔洋〕人の著書にかかわるものを取り調べ、大いに驚嘆せしことありし。すなわちロンドンのトリビナーは東洋学に関する書籍のみを発行する書店にして、その書目を検せしに、日本の言語文学に関するもの一八種あり、シナの言語文学に関するものは七七種あり、インドの言語文学に関するものは三九七種あり、また東洋宗教すなわち仏教、儒教、回教に関するもの九九種ありし。ドイツのライプチヒに至り東洋書類の目録を閲せしに(これは書籍の目録のみを書いて売り出す本にして、その東洋部を閲せしなり)、日本の歴史に関するもの五三種、文学に関するもの三〇種あり、シナの歴史、地理、宗教に関するもの九五種、言語、文学に関するもの一二一種、インドの史学に関するもの一二八種、考古学に関するもの二〇種、哲学に関するもの三七種、サンスクリット文学に関するもの三九七種あり、またインドのパーリ語に関するもの三一種あり。その他、蒙古、西蔵〔チベット〕、安南〔ベトナム〕に関するものまた多しといえども、いちいちこれを挙ぐるにいとまあらず。また西〔洋〕人の仏教を評論著述せしもの、すべて六二部あり。その発行所はロンドンより二九部、オックスフォードより三部、英領インドより五部、米国ニューヨークより一部、パリより八部、オランダより一部、スイスより二部、ロシアより二部、ベルリンより三部、ライプチヒより一部、ドレスデンより一部、地方の発行三部、これなり。これ明治二二年の調査なるが、その後四年間の増加は推して知るべきなり。今日その各国有名の大学はみな、インド学、シナ学科を設けざるはなし。また大学の外に東洋学専門の学校も少なからず。かくのごとくイギリス、フランス、ドイツ、ロシアの諸強国において、汲々として東洋哲学を研究するは、その因由いずれにあるか。近来日本人の考うるがごとく、東洋の学は学ぶの価値なし、物の用に立たぬものならば、利害を計量するに敏なる西〔洋〕人が、なんぞかくのごとく汲々たるの理あらんや。それ必ず一大理由の存するなからんや。これ吾人の慧眼もってその理由を看破せざるべからざる一大問題なりとす。請う、余が所見を述べん。

 泰西において学問の盛んにしてしかも発明進歩の著しきは、有形実験の学にあり。無形理想の学においてはこれを古代に比するに、はなはだしき径庭あるものにあらず。ただ古代はややもすれば空想に陥りたるも、近代は材料を有形学に取るの便宜あるをもって、いささか進歩せるところあるのみ。しかれども、無形学全体の根源基礎はギリシアにありとす。しかるに東洋古代の無形学は、その精微玄妙なること優かにギリシア哲学の上にあるをもって、学者すこぶる景慕するところあり。近代かの土において論じ尽くし説き終わりて、ほとんど余蘊なき哲学の常套を脱して、更に一機軸を出だし、一段その歩武を深遠の境に進め、もって哲理思想の完成を遂げんと欲せば、勢い探求の方針をここに転じ、もって根源を発見せざるべからず。これその第一の理由なり。第二の理由は、かの国人が競争心の盛んなるに基づく。泰西諸国、競争の盛んなるはひとり兵力戦備の上にあるのみならず、工業者は工をもって競い、農業者は農をもって競い、商業者は商をもって競い、学者は学をもって競い、イギリス人一新説を唱うれば、フランス、ドイツまた新説を立てんとし、関をうかがい隙に投じ、余力を残さずそのつとむるや、戦争よりはなはだしというべし。しかしてそのよりてもって新説を出だすところの根底は、イギリス、ローマの学にありたりし。これをもって近代ギリシア、ローマの古書は、非常の勢力をもって学者間に珍重せられ、古文学の花は一時欧州の学園に爛漫たりし。しかるに今やこれらの古書はことごとくその邦語に翻訳せられて、これを尊重するの熱もようやく冷め、その発達もほとんど極点に達せんとす。すなわち別に新説を立てて学海の競争に打ち勝たんには、勢い東洋の古学を探討し、もって新基礎を得ざるべからず。これ泰西諸国が相期せずして東洋学を歓迎し、汲々として渉覧のつまびらかならんことを競うゆえんなり。これを要するに、彼らは互いに競うて最もさきに東西の学を大成し、世界の思想を尽くし、もって万世の基礎を定めんと企図せり。その期望や広大なりというべし。彼らの期望は政治上においても何国が最も早く東洋の全権を握り、もって覇威を世界に振るわんとせり。これただちに東洋の浮沈興亡に関する大問題たり。政権をもってわが独立を保たんか、また学問をもってわが独立を保たんか、政治上の独立もとよりつとめざるべからず、しかれどももし学問上の独立を失うときは、政治上の独立また得て全うすることあたわざるべし。なんとなれば、政治上の独立なるものは、外交の強硬なると兵力の強盛なるをもって致すべく、しかしてこの二者は、国人が精神思想の独立と密着の関係を有す。国人にして独立の精神思想なくんば、なにをもって外交および兵力の強きことを得んや。国人の精神思想をして独立ならしむるものは、実にその国固有の学問を維持しこれを発達し、もって愛国自重の心を養成するにあり。わが国維新の前に当たり、しきりにわれを尊重してかれを擯斥せるは、いまだ世界の大勢に通ぜざるをもって、ややもすれば極端の弊を免れざりしといえども、強国環視禍心を挟みてわれに臨むに当たり、よくわが独立を維持し、もって維新の大業を奏したるゆえんのもの、深く邦人がわが学問文物を愛重し、独立心のすこぶる盛んなりしに原因せるを知らざるべからず。しかるにそのいったん四境の閉鎖を解き、かれが文物を輸入するに及びて、心驚き目くらまし、たちまちかれを崇拝してわれを蔑視し、数千年来、生長発達せしわが学問を抛擲し、滔々たる天下靡然として西学の一方に傾き、ほとんどわれわれ固有の学問あることを忘れたるもののごとくなりし。爾来邦人やや悟るところあり、固有の学問再興の機運に向かうといえども、これまた一時の風潮に乗じたるもの多く、真に固有学問の尊重すべき観念を有するものに至りては、けだしまたまれなりとす。それ日本は東洋学のことごとく集まれる国なり。前に漢学入り、後に仏学を迎え、千有余年の長き学者相継ぎて覆養長達し、世道人心を結合し、風俗習慣を形成し、天下億兆用いて、しかして尽きざるものあり。しからばすなわちこれら固有の学問は、ひとり学問としてこれを敬重すべきのみならず、また国家独立の元素として尊重せざるべからずとす。すなわちこれを維持し発達するの急務なることは、政治上の独立の急務なると、なんぞ相譲らんや。泰西学者はかのギリシア、ローマの古学をば、及ぶだけこれを保存しこれを受用し、古書ことごとく講究し終わりて寸分の余地を残さず。これをたとうるに、開墾の業すでに終わり、寸壌尺土を余さざるもののごとし。しかるに頭を一転して東洋の諸学を顧みれば、数十万部の書籍は累々として荒野に遺棄せらるるの有様なり。ここに溝渠を通じ肥料を加えて、これを整理しこれを長育し、もって当代に受用するゆえんの術を講ぜざるべけんや。かの慧眼なる学者は、たちまちその鋭利なる耒耜をこの荒蕪せる学境に投じ、汲々として穣々たる嘉穀を収穫せんとつとめり。かの邦国地狭く人多く、生活の競争はついに万里の波涛を越え、西は北米の大広野すでにその植民をもってみたし、東はインド、豪州を略有し、民を移し地を開き、ついに東洋諸国を挙げてその領土に帰せんと欲す。これに加うるに、観念の競争は更にわが学境を略有せんと謀れり。東洋の危勢は土地、学問共に迫れりというべし。しかるにわが学者いたずらに西学の糟粕をなめてこれに安んずるにおいては、いまだ泰西の諸学に精通するに及ばずして、わが諸学は早く彼らが研究し尽くすところとなり。異日わが学問を研究せんとすれば、あおぎて頭を垂れて教えを彼の髯下に受けざるを得ざる、奇怪なる境遇に陥らざるを保すべからず。現にインド語学のごときは、はるかに泰西の大学に至りてこれを学ぶのやむをえざるの形勢を呈せるにあらずや。いやしくも邦下の独立に志あらん者は、一日も猶予すべきの秋にあらざるなり。否、奮然として大望を企図すべきの秋なり。なんとなれば、わが国はすでに東洋諸学の巣窟たるの位置にあるのみならず、あわせて西洋の諸学に通ぜるをもって世界の思想を統合し、万世不抜の哲理を建立する、実にわが国より便なるなければなり。この大目的を達するの手段は、ただ東洋諸学の田圃により、ここに泰西の諸学を折衷融合し、もって新鮮完美の果実を収穫するにあり。この未来多望多福なる境遇にありながら、なんぞ縮々としてかれが糟粕に甘んずべきの秋ならんや。余が本館を設けたるゆえん、いささかここに見ることあればなり。ああ、また最大快事ならずや。

       シナ哲学

         第一 概 論

 世界いずれの邦国といえども、盛衰の変化なきことあたわず。したがいて学問また盛衰の変化なきことを得ず。学問のまさに興らんとするや、学者所々に輩出して種々の学説を立つ。その衰えんとするや、四方学者を出だすこと少なく、学説また一方に偏固す。そもそも歴史の研究に二種の区別あり。(一)は盛衰変遷の跡につきて事実のままを記するものにして、これを普通の歴史といい、(二)は盛衰変遷の原因結果を探究するものにして、これを歴史哲学もしくは文明史という。今シナ学問上の盛衰変遷を知らんと欲せば、まず第一種の研究法なる事実上につき、前後二大期に大別すべし。すなわち東周以後秦に至るまでを前期となし、漢以後を後期となす。後期は宋朝をもって中心となす。つぎに第二種の研究法に基づき、これが原因事情を探討せんに、後世期の基づくところは前世期にあり、しかして前世期の基づくところはまた東周以前にありとす。周末において学者踵をもちいて輩出し、弁難攻撃の盛んなる、文章議論の雄健なるは、実に学問上の一大奇観にして、あたかもギリシア、インドの古代に髣髴たり。したがいてこれが原因を探るはまた、哲学史上愉快なる事業となす。その原因の第一は周以前にあり。すなわち上は伏羲神農、黄帝尭舜時代より、下は禹湯文武周公の時代にあり。この古代数聖の観念は、実に周末哲学の種子たるものなり。孔子も憲章文武、祖述尭舜といえり。これ前代の種子を受けて、そのままこれを発育せることを明言せるものなり。老子は孔子よりも一段往古にさかのぼりてその基礎を置き、すなわちその基づくところは伏羲神農黄帝にあり。しかれども、その古代の種子を生長せしめたるはすなわち同じ。孔子の教えはこれを儒教といい、老子の教えはこれを道教という。シナの哲学は判然この二大派に区別せらる。老子を受けてこれを議論せる者は荘周にして、孔子を受けてよく実際に恰当するの議論をなしたる者は孟軻〔孟子〕なり。しかるにこの前代の種子は何故にかく舒暢せしやというに、ほかに事情の存するあるなり。

 第二 その事情は実に交通の開けたるにあり。周、天下を平らげて諸侯を封ず。数代を経てその政衰え、□度礼典次第に壊れ、強は弱をあわせ大は小をのみ、その陵夷して戦国となるや七国となり六国となり、あるいは使聘を通じて連衡合縦の策を講じ、あるいは説客を派して転禍為福の術を施す。交通の頻繁なる、これを前代泰平の時に比するに数倍を加う。これ諸種の学術を起こせるゆえんなり。およそ物は単独にては生長することを得ず、学問の発達またこの理を免るるを得ず。諸多の知識、相待ちて生長することを得べし。その知識の集まるは交通の媒介による。ギリシアの早く知識の発達せるは、その国地中海に突出し、つとにエジプト、小アジア、ペルシア、インド諸国と交通を開き、各国の知識を輸入せしによる。また西洋近世哲学の起こりたるは、封建の制度ひとたび破れて、人民各国と交易するの道とみに開け、諸国の思想を混和せるによる。爾来更に通商航海の道を拡張し、広く万国の材料をあつむるを得るに及びて、たちまち長足の進歩をいたせり。ダーウィン氏の進化論のごとき、その材料はこれを海外に得たるもの多きにおるという。いずれの邦国も交通の大いに開くるに至りては、知識思想の発達進歩を促すは明らかなる事実なり。今それシナの周末におけるも、各方の知識、互入交和して新思想を発揮せるはまた、道理上しからざるを得ざるなり。

 第三 更にこれのみならず、当時競争の盛んなりしは、またこれが一原因をなせり。周末腕力の競争に伴ってまた思想の競争を惹起し、学者、社会の研究をして非常に活発ならしめたり。なお近年、欧州諸国兵備の競争の盛んなると共に、学問の競争またはなはだ盛んなるがごとし。しかれどもここに考うべきは、戦乱は必ずしも学問を誘起するものにあらず。大戦激闘昼夜やむときなしというごとき場合においては、のどかに道理を研究するの余裕なく、手足ある者みな兵とならざるべからず。かくのごとくんば、なにをもって学問の誘起せらるることを得んや。わが国応仁以後、天下麻のごとく乱るるに及びて、王朝数百年間に発達せし学問は次第に衰え、わずかに五山の僧徒によりて維持せられたるがごときは、これが適例となすべし。しかるにシナ周末のときは、乱れたるはすなわち乱れたりといえども、数大国が連衡もしくは合縦によれる遠軍長征の戦闘にして、各国その領内において内乱の頻々やむなく、乱麻のごとく入り込みたるにあらず。遠軍長征の際といえども、あるいは弁士、説客がために、激戦に至らずしてやめることもしばしばなりき。弁士、説客は、周末の争衡をして案外に長からしめたる者なり。これをもって一方には、学者をして学問上の競争をなすの余裕あらしめたり。けだし列国競争の歳月が延引するに及びては、ひとり腕力の競争のみにては打ち勝つべからざるを経験し、智力の競争をも惹起するはまた自然の勢いなりとす。西洋にても器械の進歩は兵制の競争よりきたれり。またいったんほかの国を略せる上は、ひとり腕力をもってこれを鎮撫するに足らず。一は無形の教学によりて人心を感化せざるべからざるをも経験するをもって、学問の必要をも惹起するものとす。

 第四の事情は、反動という一動力のこの際に起こること、これなり。このときに当たり文武周公の遺法はますます衰え、利己の一辺と腕力の一方とに傾き、大道まさに地を払わんとす。これをもって往聖前賢の遺緒を継ぎたる学者は、慨然としてこれを憂え、奮然蹶起提唱もって古道を挽回せんと謀り、あるいは書を著して大いに抱負を吐出せんと企つるもの、陸続として輩出せり。孔子は七十余君にまみえて文武の道を行わんことを説き、そのついに成すべからざるを見て、退きて詩書、礼楽を削り、法を後世に垂れ、『春秋』を作りて、乱臣賊子をして恐懼するところあらしめ、孟子は斉梁の君に説きて、仁義をもって民を救わんことを勧めたり。その初めて梁の恵王にまみゆるや、まず擘頭に説破して曰く、「王、なんぞ必ずしも利といわん。また仁義あるのみ。」(王何必曰利亦有仁義而已矣)と。またもってその感慨を察するに足る。孟子またその成らざるを見て、退きて万章の徒と『孟子』七編を作れり。老子、荘子は仁義の説を捨てて、更に人心を一段古朴の境に導かんとして無為恬澹の教えをひらき、各書を著してその旨趣を述ぶ。このほか諸子百家、紛然として起こり、おのおの満腹の経綸をのぶ、みな時勢の頽敗に感起せられたるものにあらざるなし。これをもってその言と文と、あるいは雄健豪爽、あるいは洸洋自恣おのおの特色あり。志尚深遠にして、万丈の気炎あり。後世のいたずらに辞を弄し文をてらうものと、同日にして論ずべからず。これ鬱勃たる胸臆を吐出したればなり。これこれを反動という。要するにシナ周末における学問屈起の原因は、第一上代の種子と、第二交通の媒介と、第三競争の誘起と、第四反動の勢力に、これよるなり。

 前すでに周末において学者輩出して、おのおの新説を提出したる原因を述べたれば、これより秦以後シナ哲学の盛衰せしゆえんに論到すべし。周末における春風一過、百花爛漫として一時に盛を競いたる光景が、秦に至りにわかに衰えたるは、秦の儒を坑にし書を焚き、大いに学問の勢力を減殺せるによらずんばあらず。前漢の孝武帝、儒術をもって治世の具となすに及び、学問また起こるといえども、そのなすところ訓詁の学にとどまり、一人として周末のごとき活発なる新思想を発揮する者あらざりし。後漢の明帝に至り仏教渡来し、この国人にとりては未曾有の学説を耳にするに至りたれば、その刺激によりて従来の学問も一段の活気を生ずべきはずなるに、そのしからざりしは、これ仏教の勢力なお微々にして、いまだシナ伝来の学説を圧倒するの盛況に至らざりしをもってのみ。すでにして仏教の勢力次第に浸漸漫延し、唐に至るに及びて容易ならざる勢力を生ずることとはなりぬ。しかして一方に儒学を顧みれば、かえって退歩の状なきにあらず。昌黎〔の〕韓退〔韓愈〕これ大いにこれを慨し、たちて仏教を排し儒道を興さんとせり。諌仏骨表〔論仏骨表、仏骨を論ずるの表〕『原道』その他の諸編を読みて、ほぼその議論をうかがうことを得べし。その説たるはなはだ浅薄なるものなりといえども、学者これがために撹起せられ、ようやく再興の気運を開かんとせり。しかしてシナ哲学の念、回復して周末の学説よりも一段高深の域に達せるは、実に宋朝にありとす。そもそも春秋のとき孔子の大いに仁説を唱道せるは、当時道徳の衰頽せるを救わんがためにして、別に理論を構成せしにあらず。かつ高く天命天道を談ずることを務めざりし。また孟荀、性善悪の説あれども、その性のいずれよりきたれるか、その根源を探究することなかりしなり。しかるに仏教においてはその理論すこぶる精微深遠にして、大源絶対の辺に論到せざるをみれば、従来の学説にては到底これと衡争するを得ざるを悟り、別に儒書の中に頼りてもって原理を立つべきものを求め、ついにこれを易の太極に得て、これをもって道の大源と定め、大いに儒教の学理を構設せしものは周子の太極説なり。これより儒者の思想次第に高遠となり、ついに朱子のこれを大成するに至れり。これを宋学といい、また程朱の学、また単に朱学ともいう。全体の議論よりいえば、潜々仏教に取りたるところはおおうべからざるの跡ありといえども、とにかく異分子を吸引しきたりてこれをその学に結合し、大いに従来の説を進めたるものというべし。今宋代有名の学者を列挙すれば、周濂渓(周子)、張横渠(張子)、邵康節(邵子)、程明道、程伊川、陸象山(陸子)、朱晦庵(朱子)、その他、欧陽修、司馬温公、蘇老泉、蘇東坡等あり。学問、文章共に振古の力量を有し、もって宋一代の文華を爛発せり。これ仏教の刺激によれるものなり。宋ほろび元起こり、学者ただ宋学の糟粕をなむるのみにして、また新学説を提げてたつ者なく、学問沈淪停滞の弊に陥れり。元ほろび明起こるに至りても、またまたしかり。ひとり一世の奇傑王陽明の、卓然として一新説を唱え出だせるを見る。その説、仏教の唯心説に近く、大いに良知の理を発揮せり。これ一は朱学の反動にして、また一は禅学の影響を受けたるものなり。明ほろび秦起こるに至りて、学風一変して漢代訓詁の風にかえり、加うるに考証をつとむることとなり、また宋明の間に屈起せる哲学的研究をなす者なし。慨していえば、両漢より次第に衰え、唐に至りやや興り、宋に及びて全盛に達し、それより次第にまた衰えて、もって今日に及べり。しかして仏教のシナにおける、宋朝以後次第に衰うるを見るなり。これをもってこれをみれば、両漢以後シナ哲学の盛衰は、おもに仏教刺激の強弱に原由せりというも、失当にあらざるべしと信ず。かつ儒教に仏教の学説を混入せしことはもちろんにして、仏教もまたいくぶんか儒教の影響をこうむりたるの跡あり。すなわち異分子と異分子と相あうや、一時衝突して氷炭相いれざるの傾きありといえども、しばらくにして両者互いに相混和するところあれば、学問知識の性質としてまた、やむをえざるものというべし。これすなわち思想進化の要因たりとす。

  学  派

 春秋より戦国に及びて道徳、政治、兵法、法律、弁論の上において、数種の学派を生ぜり。これを分類すればおおよそ左のごとし。

  儒 家  孔子 曾子 子思 孟子 荀子

  道 家  老子 関尹子 荘子 列子

  楊 家  楊子

  墨 家  墨子

  法 家  申子 韓非子

  政法家  管子 商子

  弁論家  蘇秦 張儀

  兵 家  孫子 吳子

  論法家  公孫竜

 孔子の尭舜、禹湯、文武、周公の道を祖述するや、これに反動せる者は道家なり。もっとも老子の時代につきては異論少なからずといえども、その書中、仁義をしりぞけたる言あるを見れば、孔子とほぼ同時代なるを知るべし。儒、道の二家は孔老の前よりありたるものなるが、その発達せるは春秋戦国の時代なり。春秋より戦国に至りては時勢も大いに変遷せるをもって、同学派中にても多少の変遷あるを免れず。孔子は仁の一字を説きたるが、孟子のときに至りてはこれのみにては足らず、更に義の一字を添えて仁義を唱えり。荀子のときに及びて世いよいよ下り、礼譲地を払わんとするに至れるが故に、人々を大道に導かんにはまず礼をもって率いざるべからずと思惟し、大いに礼を論ぜり。その性悪説を唱えたるもまた、時勢の大いにあずかり関するところなり。西洋においてもホッブズのとき英国大いに乱れたれば、その観察するところに基づき、人の本心は利己自愛に外ならずといいて性悪説を唱え、これをして善行を保たしむるには政府の法律によらざるべからずと思い、政府法律をもって行為の標準なりとまで論ぜり。荀子の礼はホッブズがいう法律と同義にあらずとするも、紀律縄墨をもって人の行為をして依則するところあらしめんとの旨意に至りては、すなわち同じ道家にても、老子の説くところ簡潔にして意味深長なるも、荘子に至りては老子のごとく簡単の語にては間に合わず、勢い議論をもってこれを行わざるべからず。その説くところ洸洋自恣にして、奇抜の語多し。しかして老荘の学派より申韓のごとき法家を出だせるは、最も奇なりとなす。老荘の貴ぶところは無為なり、申韓の重するところは干渉なり。何故にかく反対せる者を出だせるかというに、また時勢のしからしめたるなり。老子は人情の私利に走りやすく、その智巧ある者は名を仁義に借りて、その私をすますことあるを憎むなり。故に仁義のごとき名の美なるものを避けて、虚無恬澹を重んずるに至るなり。韓非子また、人情の弊ついに政道を乱すにみるあるなり。故に人主をして愛憎の偏を去りて、紀律によりて臣民を賞罰し、名実相かなわしめんと欲するのみ。その主意、人情の偏私を絶たしめんとするは、老荘の虚心無念の旨意に淵源せるを知るべし。ただ当時の勢い人心いよいよみだる、到底老荘のごとく虚無恬澹の一道を唱導するも益を収むるあたわざるをもって、名によりて実を責むる刑名主義と変ぜるのみ。楊子は己を愛し、墨子は兼ね愛するを説く、みな儒家に反対して一家言をなせる者なり。孟子畢世の力を尽くしてこれを排撃し、「よく言いて楊、墨をふせぐ者は聖人の徒なり。」といえり。漢以後に至りては儒道二家に帰括す。仙家のごときは道家の一分派なり。仏法の入りてより儒、仏、道の三教並び行われたり。宋朝に至り人の思想の発達するや、ようやく三教の争端を開けり。別して儒、仏の二道は互いに抗排せり。その結果、三教一致論を起こすに至れり。宋の商英、曰く、「儒は皮膚を療じ、道は血脈を療じ、仏は骨髄を療ず。」と。また宋の孝宗皇帝、曰く、「仏をもって心を治し、道をもって身を治し、儒をもって世を治す。」と。けだしおのおのその長ずるところあるをもって、協合一致ならび用いるの意なり。他家はしばらく置き、儒、道の二家につきその要を提げその異を示し、もってシナ哲学の概略を了せんと欲す。

 それ道を論ずるに二致あり。一は天道よりいうと、一は人道よりいうと、これなり。老子は自然すなわち天道の上に説を立てたるをもってこれを尭舜以前に探り、天地未開のときの有様を想像してこれを論ぜり。孔子は人為すなわち人道の上に説を立てたるをもってこれを尭舜以下に求め、礼楽刑政を設けたる理由を思考してこれを唱えり。故に儒道二家とるところの大体の相異は、自然と人為と、これなりと知るべし。老子、『道徳経』開巻の首に曰く、「道の道(い)うべきは、常の道にあらず。名の名づくべきは、常の名にあらず。無名は天地の始、有名は万物の母。」と。道は広大無辺にして物の対比すべきなく、遼焉として絶対なり。されば真の道はこれなりとして定むることを得ず、またこれこそ道なりと指名することを得ず。もしこれなり、かれなりとするときは、他と区別することになりて絶対にあらず相対となる故に、道とすべきものは常の道にあらずというなり。また名なるものはもと他と区別する符号なれば、もし名付くべきものならばまた、常の名にあらずというなり。また曰く、「物あり混成し、天地に先だって生ず。寂たり寥たり、ひとり立って改わらず、周行して殆れず、もって天下の母たるべし。われその名を知らず。これに字して道という。強いてこれが名をなして大という。」と。その絶対の道をもって道としたるや明らかなり。また曰く、「大道すたれて、仁義あり。智慧出でて、大偽あり。六親和せずして孝慈あり、国家昏乱して忠臣あり。」と。また曰く、「聖を絶ち智を棄てれば、民の利は一〇〇倍せん。仁を絶ち義を棄てれば、民は孝慈にかえらん。巧を絶ち利を棄てれば、盗賊あることなけん。」と。儒家のいわゆる仁義忠信をもって道の末なるものとなし、つとめて心を無為に遊ばしめんとするなり。意を強めてこれをいえば、社会人情をもって土芥と同視するもののごとし。富貴利達のごときは、秋毫もその念頭に浮かばざるを主とす。孔子は全くこれに反し、社会人情を重んじ、仁義を行い、礼楽をしき、世道人心を安んずるをもって目的となす。すでに民をおもんずるをもって目的とするが故に、孔子は進んで取るの意あり。老子は世事を放着するをもって、退きて守るの風あり。孔子は常にいう、「いやしくもわれを用うる者あらば、期月のみにして可ならん。三年にして成すことあらん。」と。またいう、「もしわれを用うる者あらば、われはそれ東周をなさんか。」と。その進取の意ある、おのずからみるべし。老子はいう、「天下は神器なり。なすべからざるなり。」と。またいう、「罪は欲するべきより大なるはなく、禍いは足るを知らざるより大なるはなく、咎は得んことを欲するより大なるはなし。故に足ることを知るの足るは、常に足れり。」と。退守の風またおのずからみるべし。老子は天地の化醇を体して、あえて人意を加えず。孔子は人間の性情を本として修治を要す。一は治乱をもって自然となし、一は人為となす。自然となすが故に放任となり、人為となすが故に干渉となる。道を天地に体するが故にその道たる深遠にして解し難く、道を人間に体するが故に平易にして解しやすし。「子、怪力乱神を語らず。」とありて、不可思議なることをば、つとめてこれをいうを避けたり。孔道の性情に基づきてその説くところ平易なるは、これ後世に弘まりたる一原因なりとす。孔子は世に近づかんとしたれども、老子は世と離れんとせり。しからば老子は治国平天下に志なきかというに、決してしからず。その志すところは孔子と異なるなきなり。ただこれを達する方向を異にするのみ。息軒翁の老子を評せる語にいう、「耼は隠者にあらざるなり。くわしくその書を玩ぶに、みな憂世を慨する時の言なり。ただその志す時、言辞の表れあるも、苦読者はこれを迎うるあたわざるのみ。」と。また孔、老の二学が道の本体とするところも異なるなきのみ。ただこれを説くに当たり、その本についてこれを説くと、末においてこれを説くとの異あるのみ。天地自然の大道も、人倫の大道も一なるものなり。なんとなれば、人倫の基づくところは天地自然の大道なればなり。孔子の基づくところは易にあり、易に陰陽循環して天地万物を成すことを説く。孔子これを人事に応用しきたる。人道の上に盛衰を説くは、四時の栄枯によりて説けるものなり。四時の栄枯、人事の盛衰はみな陰陽の道にして、陽極まれば陰を生じ、陰極まれば陽を生じ、循環してやまず。孔子もとより深くここにみるあるなり。故に両者は共に天を本とせる者なり。老子はいう、「天網は恢恢たり、疎にしてしかももらさず。」と。またいう、「天の道は、それなお弓を張るがごときか。」と。またいう、「天道は親なし、常に善人にくみす。」と。これらの語は、儒家にていうところとはなはだ相似たり。『書経』に曰く、「天道は善をさいわいし、淫をわざわいす。」と。また曰く、「ただ天は親なく、克敬これ親」と。また曰く、「皇天は親なく、ただ徳これ親」と。また『論語』には、「罪を天に獲れば、祷るところなきなり。」といい、「天、徳をわれに生ぜり。桓魋それわれをいかん。」といい、「天のいまだこの文を喪ぼさざるや、匡人それわれをいかん。」といい、また子夏の言に、「商これを聞く、死生、命あり、富貴、天にあり。」といえり。かくのごとく禍福吉凶、死生栄枯等、人智の測るべからざるものにおいては、その淵源を天に帰すること二家共に同じ。老子のごときは、「大道すたれて、仁義あり。」とまで思い切りたることをいえども、いまだかつて天を排斥せざるなり。それ道に体あり、用あり。老〔子〕は体によりて説き、孔〔子〕は用によりて説けり。易に「形而上はこれ道をいい、形而下はこれ器をいう。」とあり、この語をもって二家を差別すれば、老〔子〕は形而上を説き、孔〔子〕は形而下を説きたる者なり。宋の蘇轍の言に、「老子は道を体として物を要せず。」と、簡にしてよく老子をうがてりというべし。孔子すでに道の用を主として説かんとするが故に、高尚にして解し難きの論は、つとめてこれをいうことを避けたるものにて、玄微なることに全く考えなきにはあらず。空理を避け、実行をつとめしめんと欲せしが故なり。すなわち世弊を矯めんがためなり。その言に曰く、「君子はその知らざるところにおいては、けだし闕如なり。」と。また、「いまだ人に事うることあたわず。いずくんぞよく鬼に事えん。」と。また、「いまだ生を知らず、いずくんぞ死を知らん。」と。子貢かつていえり、「夫子の文章は、得て聞くべきなり。夫子の性と天道とをいうは、得て聞くべからざるなり。」と。もって孔子が容易に性または天道のごとき深遠の談をなさざりしを知るべし。しかれどももし孔老二子の局外よりこれを望むれば、おのおの一方に偏するを免れず。すなわち老子は道の体に偏し、孔子は道の用に偏し、老子は天道に偏し、孔子は人道に偏せり。故におのおの一得一失ありといわざるべからず。老子はあまりに高尚の論を唱えたるために、世と相適せずして人と相離るるに至り、利益するところすくなし。孔子はよく人道を明らかにして裨益はなはだ多しといえども、高尚の道理を知ることあたわず。これは局外よりの評論なれども、身をその時代に置き、いかなる説を唱えて世を救わんかという場合には、勢いいずれかの一方によらざるを得ず。なんとなれば、物の曲がりたるを矯めんとするには、その反対の方向の極端にまで引き戻さんとして勢いを加うれば、初めてちょうどよき所に引きなおるものなり。孔子当時の弊、人々恒心を失い秩序を顧みざるをうれうるなり。故につとめて仁恕の心法を説き、礼文の節度を勧めたるなり。老子は人々醇朴の心を失い、功名のちまたに狂奔するを憂うるをもって、つとめて太古無為の化を説き、人欲の熱度を冷却せしめんと企てたり。すなわち老子は天道の一方により、孔子は人道の一方によりたる者なり。その実は孔子の裏には老子あり、老子の裏には孔子あるなり。なんとなれば、孔子の望みのごとく人々仁恕の心に立ちかえるときは、醇朴の風おのずから行われて、功名に狂奔するがごとき鄙劣の行なきに至るべく、また老子の望みのごとく人々無為をもって処世の要とするに至らば、仁義礼智おのずから適中を得て、あえてこれをもって功名の器械に供するがごとき、譎詐の手段をめぐらす者なきに至るべければなり。ただその説くところ、おのおの一極端なるをもって非常の差あるがごとしといえども、その効果に及んでは彼此同一に帰せざるべからず。そもそも孔子は一切のことみな人為より成ると考え、世を治むるにも人為をもって遂げ得べく、身を治むるにも人為をもって遂げ得べく、もし人為を尽くしても成らざる場合は、天為なりとあきらむるより外なしとせるなり。しかしてその天為のなんたるは、これを不問に付し去るなり。故にかつて曰く、「天を怨まず、人を咎めず、下学して上達す。われを知る者はそれ天か。」と。また曰く、「道のまさに行われんとするや、命なり。道のまさに廃せんとするや、命なり。公伯寮、それ命をいかん。」と。分からざるに至ればみなこれを天命に帰して、その以上を言わず。おもえらく、人間の智識にて知り得られ、人間の力にて行い得らるることをなせば足れり。いたずらに議論を費して、実行に疎なるは益なきなりと。故に天命なる語は、孔門に取りてはほとんど不可知の異名なりとみるべきなり。かかる主義なるをもって、道徳の実効には利あれども、知識思想は進むことあたわず。孔門の短所、実にここにあるなり。それ知識思想の進歩は疑に疑を加え、次第に精思して了解に至りてやむにあり。しかるに通常の考えにて分からざるに至れば、ただちにこれを天命に帰して放着するは、知識の進歩を妨げ、世の文明は古聖往賢の考え出だせる礼文の範囲より超ゆることあたわざるに至るなり。シナ人の思想の空疎にして科学起こらず、その文明はついに三代の盛に超駕することあたわざりしもの、深思究尽の学風の開けざるに起因するもの多かるべし。世の文明は仁のみにして発達するものにあらず、また智の物を開くことなかるべからず。孔門の学は仁一方にして、智に疎なり。換言すれば、道徳にもっぱらにして、知識に迂なりというべし。しかれども時の弊風を矯めんには、勢い仁の一方に偏らざるべからず。後の孔孟を学ぶ者、これこれを悟らずして、ただちに仁の一方をもって治国平天下の実を挙ぐべし。いたずらに知識に労するは益なきなりという者は、いまだ孔孟の表面を見て、その神髄をうかがわざる者なり。さてまた老子の方はあまり放任に過ぎ、一概に無我無欲にして、退きて守ることを勧むるが故に、社会の競争場裏に立ち進みて文明に達することあたわず。競争は社会の生気なり、競争やめば社会死せざるを得ず。いやしくも社会のあらん限りは、なんのときか競争なからんや。しかして競争は人間天賦の欲念より起こる。欲念は人の生気なり、欲念消ゆれば人枯木に同じ。いやしくも人の生存してある限りは、一日も欲念を絶つことを得ず。欲に大小あり、もし大小の欲共に絶たば、死するより外あるべからず。いかに老子無欲を勧むるも、かかる極端なる考えにては決してなかるべし。もしその道果たして天下の先導者となり、万世の功名を希望するがごとき大いなる欲念を絶たしむるにあらば、社会に競争という生気を冷却して、次第に衰微せざるを得ず。競争は進取なり、進取は実に人間が最大目的に達するゆえんの津筏なり、これなくんばようやく人間の等位をくだすに至るなり。故に老子の道は到底単用すべからざるの道にして、ただあまりに功名に熱狂し、これがために人情にもとれることをなすがごとき人に、少しくこれを心得せしめて効あるのみ。老子の学が人の競争心を冷却するは、これその短所といわざるべからず。しかれども当時の勢いたる周室すでに威権を失し、諸侯驕横ひそかに天下を略せんと欲する者あり。その臣民中才気ある者は、みな機に乗じてなすところあらんとす。競争ようやく盛んにして、乱離測るべからざるものあり。老子これを憂えて極端無為の説を吐きたるのみ、またやむべからざるに出づるなり。しかるにもし今日において老子を服膺して、そのままこれを人に及ぼさんとする者あらば、これ老子の真意を悟らざる者なり。およそ書を読み教を解することは、必ずその当時の形勢をかんがみ、著者唱者が目的の存するところを省み、もってこれを了解せんことを要す、あにひとり孔老二子の書と教にとどまらんや。今便宜のために儒道二家の異点を概括すれば左のごとし。

  孔子 道用・・人道・・尭舜以下・・形而下・・社会以内・・進取・・干渉

  老子 道体・・天道・・尭舜以上・・形而上・・社会以外・・退守・・放任

 かくのごとく相違すといえども、天下を救わんとするの目的は一致なり。二道共に宋代に及びてその理論大いに精密となれり。これ仏法なる強敵ありて、互いに議論を上下したるが故に大いに刺激となり、ここにその発達を見るに至りしなり。しかるにその競争ひとたびやみてより、三道ともに次第に衰微するに至れり、嘆ずべきなり。

       インド哲学

 インド哲学は、余が三、四両月、本館においてまさに開筵せんと欲する日曜講義において詳述するつもりなるをもって、ここには同講筵にて説き及ぼさざる事柄だけを大略述べんとす。

 インドは歴史の備わりておらぬ国なるが故に、年代をつまびらかに知ることははなはだ困難なりとす。ただ他国との比較上より、ほぼその新古を定むるのみ。たとえば釈迦の誕生および入滅の年代のごときは、本邦に伝うるものと西洋に伝うるものと同じからず。しかして本邦に伝うるものもまた大いに異同あり。ここに他国との関係より調うれば、西洋紀元前二、三千年のころより帝王ありて、その国を支配せしことを知る。西洋との交通は紀元前より開けしに相違なきなり。フェニキア人、エジプト人は紀元前一〇〇〇年代のころよりして、なにほどか西洋とインドとの間に貿易を通ぜしことは明らかなり。紀元前五一二年にペルシアの王ダレイオスがインドの一部を征服せしことは歴史上に見えたり。紀元前三二七年には歴山大王〔アレキサンダー〕がインドを征服せしことはまた歴史上の事実なり。その後しばしば兵戈の交渉ありしことも、諸多の関係によりて知らるるなり。ただいかんせん、インドの歴史にては、これらの年代をつまびらかにすることあたわず。その信用すべき歴史あるは、紀元一〇〇〇年以後のことにかかわる。ジンギスカン、タメルラン〔チムール〕等がインドに攻め入りしことは、その国の歴史においても知らるるなり。また紀元一五一九年より一五二六年の間には、スルタン、バーブル、インドを攻めてマホメット帝国を建立せり。欧州人がこの国に植民せしはこれより後のことにして、ポルトガル人は第一六世紀より移り、続きてフランス人、イギリス人の植民あるに至れり。紀元一六〇〇年にはインド会社起これり。しかるにインドの地に哲学の興発せる順序のごときは、容易に知ることを得ず。ただ哲学上、種々の学派が他国にさきだちて起こりしことは、比較上にて知ることを得るなり。これよりその学派につきて略述するところあるべし。

 インドの学派中、最も古きものは婆羅門学派なり。この学派は、インドの開闢史たる四ヴェーダ(これを毘陀〔吠陀〕と記す)に基づきて開きしものなり。四ヴェーダとは『リグ・ヴェーダ』『ヤジュル・ヴェーダ』『サーマ・ヴェーダ』『アタルヴァ・ヴェーダ』、これなり。このヴェーダは、今日の調べにては世界最古の書ならんというも、その年代つまびらかならず。今婆羅門学派は、この毘陀神典に基づきて立つるものなり。これに反対して神を立てざるものと、また両者の中間位を取るものとあり、すなわちインドの学派は都合三大学派に分かつことを得べし。これに名を命ずれば信神学派、不信神学派、中間学派というべし。しかれども通例には六大学派に分かちおるなり。

 信神学派の方に二派あり、ミーマーンサー、ヴェーダーンタ、これなり。不信神即無神学派には仏教学派あり。仏教は婆羅門に反対して、因縁和合説をもって立てたるものなり。またインドに禅那(ジャイナ)教と名付くるものあり、紀元八〇〇年ごろに盛んになりしという。その教、前二者を折中せしものなりというも、やはり無神教に属するものなり。中間学派の中に尼耶也(ニヤーヤ)なるものあり、理論学派または正理学派という。開祖はゴータマ(釈迦と同名異人なり)と名付く。この学派は十六諦とて一六の原理を立て、心の不死不滅なることを証明す。諦は原理または範疇ともいうべき義なり。つぎにヴァイシェーシカあり、伽那陀(カナーダ)氏の立つるところにして、物理を本とせるものなり。これに属するものに『勝宗十句義論』あり、その書、今に伝わる。この学派を勝論といい、その論、物質は極微分子より成り、しかして極微分子はおのおの異なれる性質を有せるものなりと説き、音声の分子や光明の分子ありという。故にこの派は唯物主義をとるものとみなすべし。つぎに僧佉(サーンキヤ)学派あり、数論という。数はインドの原語にたずぬれば論究の意味を有す。その開祖は伽毘羅(カピラ)と名付くる人なり。この派に『金七十論』ありて、今に伝わる。この派の議論は二十五諦すなわち二五の原理を立てたるものなり。これを約説すれば自性と我知者との関係を説けるものにて、自性は万有自然をいい、我知者は神我をいう。すなわち物心の二元を説けるものなり。二者の関係をたとえて曰く、我知者は跛者のごとく目あれども行くことあたわず、自性は盲者のごとく足あれどもみることあたわず。これをもって我知者は自性に負われ、我知者の目にて方角を定め、自性の足にて行くなり。この関係について迷悟の別を立つ。また瑜伽(ヨーガ)学派なるものあり。これは僧佉の一部分なれども僧佉と少しく異なり、僧佉は畢竟無神論なれども瑜伽は造物主を立つ、これ異なるところなり。以上、インドの諸学派を細別すれば、その数はなはだ多く、その説の今日に伝わらざるものもあり、おおむねこれを九十五種の外道といえり。およそインドの諸学派中、相継承して今に伝わるものは、仏教と婆羅門教との二なり。なおシナ周代に起これる諸学派の今日に伝わるもの、わずかに孔、老の二教あるがごとし。

 婆羅門教の大意 この教一名をインド教と称して、インド固有の宗教なり。この宗旨は四部のヴェーダ神典の外に、マヌなる法典とによりて組成せるものなり。この教インドにおいてはよほどの勢力を有するものにして、仏教その後に起こり一時インドに弘まりしためこの教衰えたるも、また勢力を回復して仏教の上に出でたり。これインド国の成立は、この教より導かれたるものなるが故なり。この教にていうところは大卵化成とて、初め卵中にブラフマンという神ありて、なにかなさんと考え、ついに世界を造らんことを思い立ち、卵を両分して出できたれり。しかして身体の各部が何々となりたりとか、種々の奇談あり、はなはだ日本の古史に似たるところあり。インドに三神あり。ブラフマンは本にして、この神世界を造らんとして三の神を作る。ブラフマンもと中性の神なるが、自ら化してブラフマーという男神となれり。これを創造の神となす。つぎにヴィシュヌという神を生ぜり。これは創造せるものを守る神にして、保護神となす。つぎにシヴァという神を生ぜり。これは創造せるものを破る神にして、破壊神となす。しかして世界はこの三神の力によりて成壊盛衰すと説く。これより種々宗派に類したるものも生ぜり。あるいはブラフマーを祭るものあり、あるいはヴィシュヌを祭るものあり、あるいはシヴァを祭るものあり、しかしてシヴァを祭るもの最も多し。これシヴァ神は破壊をつかさどるをもって、これを恐れてその怒りを慰むるものなりという。またブラフマーを祭るもの最も少なし。これブラフマー神は創造をつかさどるをもって、すでに創造されたるこの世界は、ただ破壊なからんことを欲するのみにして、ブラフマーを祈るの必要ははなはだ少なきが故なりという。さて初めブラフマーが山川国土を作れる順序はしばらく置き、その人族を作れる順序は、第一にその口よりこの教の僧侶を出だし、第二にその腕より軍人を出だし、第三にその胸より商売を出だし、第四にその足より奴隷を出だせりと。これをインドの四等人族といい、その間画然たる権力の分界を存す。かくのごとくインド社会の情状とこの教の唱うるところと相同じきをもって、多数人民の信仰深く、勢力強大なりとす。あるいはいう、釈迦はこの階級を打破して、平等に帰せしめんがために仏教を唱えりと。前にも述べたるがごとく、この教に数派の宗旨ありて、おのおのその信ずるところの神をもって真神となし相争うの風あれども、要するにその目的とするところはブラフマンの本体に復帰するにあり、この目的に達せんがために種々の戒法戒律ありて、はなはだ厳重なるものなり。そのはなはだしきは、毎年恒河〔ガンジス川〕とジャムナ〔ヤムナ〕河との合流の所に身を投じて死す、このとき両岸に見物人群集をなし、かの溺死者に対して非常の感賞をなす。これこの投身をもって信者最高の行となせばなり。かつ投身して早く死する者をもって、神の早くこれを受け取るものとなすなり。また良人、他人を殺して大罪を行うときは、その妻たる者、自ら身を殺して良人の罪をあがなう。その他の儀式はみな蛮風なるのみならず、生活なき者にまで滅罪式を行うなり。夜分に牝牛をひきいて土地を経過せしむればよくその土を清むとなし、衣服に水を吹けば衣服また滅罪すと信ずる等、笑うべきものはなはだ多し。この教においては、輪廻転生の説をば仏教以前より説けりという。その経論の中には高尚なる哲学風の教説あり、また取るに足らざる妄誕の混ぜるもあり。ブラフマンも一方よりみれば創造神のごとく、一方よりみれば万有神教の説のごとく釈せるもあり。思うにこの教は、世界各宗教の根本にあらざるか。仏教もこれにおくれて起こり、ヤソ教もこれにおくれて起これり。これをもって、比較宗教学を研究するには欠くべからざるの宗教なりとす。

 仏教の大意 余は日曜講義において仏教の哲理をば発達的に詳述するをもって、ここにはわずかにこの教の年代に関することと、釈迦説法の順序を簡短に述べおくにとどむるべし。釈迦出世の年代は種々の異説あり。シナ、日本に伝うるものと、西洋に伝うるものとは、よほどの差あれども、その出生地たるインドの歴史の不完全なるがために、確固とこれを定むること難し。日本にてやや一般に採用するところは周の昭王二六年、すなわち西洋紀元前一〇二七年四月八日に誕生すとするなり。その地は中インド、カピラヴァストゥ城なり。族は釈迦、姓は瞿曇(ゴータマ)、幼名は悉達多(シッダールタ)、後に牟尼という。父は浄飯王といい、母は摩耶夫人という。西洋に伝うるところは紀元前六〇〇年ころとあり、東洋の伝説と四百余年の差あり。

 釈迦一九歳のとき人の生老病死を観じ、深夜宮をのがれて山に入る。六年あるいは一二年間、出家入山して深く宇宙の理を究め、心性の源を探り、三〇歳の〔一〕二月八日暁天明星の爛々たるとき、菩提樹下に端坐して豁然として正覚を成す。正覚以後三七〔さんしち〕日の間に『華厳経』を説く、これを根本法輪という。これ実大乗のきわめて高尚なる道理をば、仏悟りのままに説き出だせるものなるをもって、聴者これを解するあたわず、聾のごとく唖のごとくなりしという。日昇りてまず高山を照らすというは、このときなり。すなわち転じて『阿含』を説き、つぎに『方等』、つぎに『般若』、つぎに『法華』『涅槃』を説けり。『阿含』に四とおりあり、『四阿含』という。小乗の教なり。『方等』は大小乗、通説なり。『般若』以上はみな大乗深進の教理なり。『法華』は正覚後四〇年を経て、霊鷲山にありて説けるものにして、これを摂末帰本法輪という。以上の次第は、天台宗にて五時の説法と立つるところなり。

       ペルシア哲学

 ペルシアの哲学は、ペルシアの火教〔拝火教〕と名付くる一種の宗教に基づく。その教は最も古き説にして、あるいはペルシア教ともいい、あるいは火教ともいう。この宗旨を開きたるものはゾロアスターという人にして、その年代つまびらかならず。一説には西暦紀元前一二〇〇年代の人なりという。この宗にて用いるところの書はゼンドアベスター〔『ザンド』『アベスタ』〕なる経典にして、ゾロアスターの作るところなりと伝う。その経は五巻にして、経中にゾロアスターが神より告知されたることを記せり。この教にて説くところは、世界に善悪の神あり、善の神をオルムッズ〔オールマズド〕といい、悪の神をアーリマンという。一切の万物はみなこの二神のあらわすところにして、そのあらわるるは二神の互いに相争うによる。その争うや、一方に生あれば一方に死あり、先に昼となれば後に夜となり、春夏秋冬の循環となり、寒熱涼炎の交代となり、盈虧となり、栄枯となり、千差万別転々起伏して、やむときなしという。あたかもシナ陰陽、二元往来順還の説に似たり。その異なるところは、シナにては宇宙の変化を気の上に立て、火教にては神の上に立て、シナの二元は和合すといい、火教の二元は争闘すというにあり。火教にては人の生命はこれ善神の与うるところにして、その死亡は悪神のこれを害するなりというなり。またこの教の特異とするところは火を拝するにあり、火教の名これよりきたる。この火は宗祖が天より持ちきたれるものと信じて、今に至るまで滅せず。回教徒の侵入するに及びてペルシア国はほろぼされ、この信者はインドに移住せり。まさに紀元六三八年なり。その住所はボンベイなり。インド人はこの火教徒を呼びてパルシーという。一八四九年の調査によるに、ボンベイにある者一一万四七九八人あり。しかしてこの教徒は他教徒と結婚せず、また他教徒の作れる食物を食わず、肉食多妻を禁じ、姦通の罪はこれを罰するに死をもってすという。

       エジプト哲学

 エジプトの哲学は、エジプト古代の神の話なり。この国人は世界の開発を説くに、天地万物の生ぜざる前にこれを発展造出すべき種子なり、一切の原因を包含せり、これをピローミスという。ピローミスは実に太初最上の神にして、これよりして種々の神を生ぜり。オシリス(男)、イシス(女)の二神はもっとも要用なる神にして、この二神の結婚によりて万物を生ぜりというなり。その説によれば、人の死生は循環やまざるものなり。オシリスはかつて死してまた生きたり、他物またしかり。人死すれば、その精霊はいったん精神世界に行きて光を放ち、のちにまたこの世にかえるという。かかる妄誕は、哲学としては講究すべき価値なきものなり。神名ははなはだ夥多にして、火の神、水の神、山の神、海の神等、いちいち枚挙すべからず。しかしてイシス神最も信仰を受くという。