3.真怪

P345

真  怪

 

 

1. サイズ(タテ×ヨコ)

  180×125㎜

2. ページ

  総数:88

  序 : 2

  本文:86

3. 刊行年月日

  初版:明治20年5月2日

  底本:再版 明治33年10月15日


(巻頭)

4. 句読点

  なし

5. 発行所

  哲学書院

P347

真  怪

序  言

 さきに『おばけの正体』の序文中に、真怪の方は他日別に発表することを予告したるに、その後諸方より督促しきたるものあり。このごろ幸いに旬余の少間を得、世間にて真怪と称する事項、およそ百種を集め、通俗をして了解しやすからしめんと欲し、各項を問答体に組み立て、匆々筆を走らせ、ここに一編を完成するに至れり。題して『真怪』という、すなわち、真怪は果たして実在するかいなやを証示するの意なり。もしそれ、詳細の説明に至っては、各科の専門に属することなれば、余の浅学の到底当たるところにあらず。したがって書中、仮定、臆断にわたるところもすくなからず。読者請う、これをゆるせよ。

 古来、民間に伝われる怪談の書類すこぶる多きも、大抵みな小説的に構造せるものなれば、なるべく近年に起こりたる事実について説明を試みんと欲し、最近二十年間、新聞「雑報」中に散見せるものを探り、数十項を得てこれを抄録摘載す。この段、各新聞社より許容せられんことを請う。

 

  大正八年二月 著 者 識  

真  怪

第一項 真怪有無の問答

 (問う) むかしは、俗人はもちろん学者までみなことごとく、天地間には真の妖怪、真の不思議があるものと信じていたが、今日はわずかに普通教育を終わり、ようやく人間らしくなったくらいのものまで、すべての妖怪、不思議は迷信である、妄想であるといって、いかなる事実でも、一言半句の下に打ち消してしまうようになってきた。一体、人間は宇宙間に生息する一動物に過ぎぬ。進化論にては、人間と猿とは兄弟の間柄と申しておる。わが国でもむかしは、猿は人間に毛が三本足らぬとかいい伝えておる。猿よりまさること毛三本ぐらいの人間が、いかに知識が進んだとしても、宇宙の広大無辺なるに比較すれば、井蛙管見の類に過ぎぬ。仏経の中には「思惟の心をもって如来、円覚の境界を測度するは、なお蛍火を取りて須弥山を焼くがごとし」との語があるが、われわれの知識をもって世界万類を究め尽くそうとするは、なお蛍火を集めて太陽の代わりに用いんとするにひとしきものである。されば、世地間には人知にて測り知ることのできぬものがあるべきはずで、真の妖怪も真の不思議もありという方が当然と思う。これは決して理論ばかりではない。実際世間に起こった事実中に、いくらも不思議、不可解のものがある。しかるにその事実を無視して、ただ一概に文明の世界には不思議はないなどと断言するは、妄断もまたはなはだしといわねばならぬ。ついては、真怪の有無について、貴説いかんを承りたいと思う。

 (答う) 余は三十五、六年前より妖怪研究に着手し、世間より妖怪の問屋とみなされ、地方ではお化けの先生、幽霊の先生などの異名を付けて呼んでおるくらいなれば、真怪の尋問に対しては、己の本職と心得て、喜んで意見を述べておきたい。余が妖怪に関する著書としては、『妖怪学講義』『妖怪叢書』『妖怪百談』『おばけの正体』等あって、真怪の有無はそのうちに散説してあるはずだ。まず、余の妖怪の分類表を挙示して、順次に話をすることにしたい。

妖怪

虚怪

偽怪(人為的妖怪) 誤怪(偶然的妖怪)

実怪

仮怪(自然的妖怪)

物怪(物理的妖怪) 心怪(心理的妖怪)

真怪(超理的妖怪)

 この分類は、妖怪研究着手当時より今日まで自ら用いておる。まず第一の偽怪は、人がなにか目的あって故意につくりたる妖怪にして、第二の誤怪は、妖怪にあらざるものを偶然誤って妖怪と認めたるものなれば、二者ともに虚怪の部類で、妖怪の鑑札を請求する権利のないものである。つぎに第三の仮怪は、天地自然の道理にもとづきて起これる妖怪なれば、自然的妖怪と称してよい。また、物理学や心理学の道理に照らして研究すべきものなれば、科学的妖怪、または合理的妖怪と申して差し支えない。これに対すれば、虚怪の方は、通俗的妖怪または迷信的妖怪と呼んでよかろう。余がこの自然的妖怪を仮怪と名づけたわけは、その怪たるや、偽怪、誤怪に比すれば実怪であって、妖怪の価値あるものなれども、物理、心理等の科学に照らせば、天地自然の道理より起こることが分かり、別段不思議とするほどのものでないから、仮の妖怪としなければならぬ。これに物怪と心怪とを分かち、すべて物理、化学、動物、植物等の物質的諸学によって研究する方を物怪と名づけ、心理学の研究に属する方を心怪と名づけ、物理的、心理的の二種を分かつことにしてある。第四の真怪は、実怪中の実怪にして、心理も物理もその力及ばず、人知以上にしてわれわれの知識に超絶せる妖怪なれば、超理的妖怪と名づけておく。もし、仮怪を科学的とすれば真怪は哲学的である。しかも、哲学には現象と絶対との別あれば、仮怪を実怪中の現象的妖怪と名づけ、真怪を実怪中の絶対的妖怪と名づけてもよかろうと思う。

 この妖怪分類中に真怪を置く以上は、余の意見が真怪ありというの論なることは、問わずして明らかである。ただ余は、世間にて真怪にあらざるものを真怪と定め、偽怪も誤怪も物怪も心怪も、みな真怪の待遇を受けておるありさまである。あたかも等外も判任官も奏任官も、みな大臣の待遇を受けておると同様なれば、その資格を判然と区分して妖怪の名分を明らかにしようというのが、余の妖怪研究に取り掛かったわけである。ついては、およそ真怪と思わるるような事実をいちいちあげて尋問してもらいたい。余はしばらく審査官の位置に立って、真否の判断を下してみようと思う。

第二項 田間に停車場を幻出せる不思議

 (問う) ただいま御諭示の次第はよく分かり、ありがたく感じました。されば仰せに従い、遠慮なくおたずね申し上げましょう。これまで見聞せる事実中には、たくさん真怪と思わるる事柄があって、どれからおたずねすればよいか自ら惑うほどである。そのうちで取りあえず心に浮かんだことから伺いますが、今より数年前、江州〔近江の国〕の東海道本線に起こった出来事が、いかにも不可解の怪事かと思わる。最初、草津駅と大津駅との間には停車場のなかったのを、近年石山駅が新設せられた。そののち間もなく一夜深更、暗を破りて西方より進行し来たれる汽車が、いまだ石山駅には達せぬと思うのに電灯の光を認め、停車場に相違ないと考え、急に機関車をとどめて停車した所が全く田間であって、実際の停車場はなお先方十余丁も隔たっていたそうだ。翌朝になって線路を検せしに、夜中停車せし場所において狸の死体を認めたという話がある。つまり、狸の仕業にて田間に停車場を現出せしめたに相違ない。これらは真の妖怪であろうと思うが、いかがでしょうか承りたい。

 (答う) ただいまたずねられたる怪事は、果たして事実のままなるや、または実際よりもおまけをつけて大きくした話なるや分からぬけれども、もしこれを事実として見るに、余は物理的仮怪であると思う。すなわち、物理の道理より自然に起こる現象にして、格別不思議とするほどのものでなかろう。湖水のごとき水面には、気候と空気との関係上、水上に濃霧を起こすことがある。例えば、気候が激変して空気の温度が急に上がったようなときに、空中の水気が最も濃厚なる霧となり、その霧が深夜暗黒の場合に鏡の代用をなして、数丁隔たりたる停車場の電灯を反映することがある。多分、石山駅の電灯が湖上の濃霧に反映したを誤認せしものかと思う。その停車せし場所がまさしく琵琶湖に接近せる田間であるから、濃霧の作用に帰してよろしい。さなければ、水面に映射せる電灯であろう。かく考えきたらば、毫も不思議ではない。

第三項 狐狸が汽車を停車せしめた怪事

 (問う) 夜中、誤認したる停車場は濃霧の反射とするも、翌朝、線路の上に狸の轢死せしを見出だせしは不思議ではなかろうか。すでに今より二、三十年前、京浜の間において夜中汽車進行中、先方よりしきりに汽笛を鳴らして、他の汽車の走り来たるを認めた話もある。その当時は鉄道が単線であったから、衝突を恐れて途中に停車したるに、先方より汽車は来たらず、翌朝に至りて見るに、線路のそばに狐の死体が横たわっていたそうである。この事実より推して、前夜の汽笛は、全く狐が汽笛を鳴らしてだましたに相違ないとの評判であった。その後、山陽線にもこれと同様の出来事の起こったことがある。かように狸や狐の死体のあるのは不思議と思います。

 (答う) 狐が汽笛を鳴らしたという話は、当時の新聞にて余も読んだことがある。そのときは深夜であったから、風の向きにより遠方の汽笛が非常に近く聞こえ、人をして誤認せしめたものらしい。先年、九州にて筑後川に架したる鉄道の橋梁を、深夜汽車の通行せざる時刻を計り、その近傍のものが橋上を渡り、中間にて近く汽笛を聞き、臨時の発車ありしものと認め、あわてて水中に飛び込んだ話がある。しかるに、その汽笛は遠方の工場の汽笛であって、汽車ではなかった。遠くの汽笛があまり近くに聞こえたために、この失敗を招いたのである。かように、夜が更けると遠い音が近く聞こゆるから、京浜線や山陽線の汽笛話は、遠方の汽笛を誤認したのであろう。つぎに、狸や狐の轢死話は信ずることはできぬ。もし事実とすれば、偶然の出来事と見なければならぬ。そのわけは、もし狐狸に神変自在の作用ありて、よく汽笛や停車場を空中に現出せしめ得るならば、汽車のためにひかれて斃さるるような愚を演ずるはずはない。犬や猫ですらも汽車をよけることを知っておるに、人をばかす力ある狐狸が轢死するなどは、常識で考えてみても受け取られぬ話である。これは全く人の付会したに相違ない。すべて妖怪談には尾や鰭をつけていいふらすものであるから、狐狸の仕業にしたいために、ことさらに付け加えたものと思う。

第四項 井〔戸の〕神が人を殺せし事実

 (問う) 一昨年、上州〔上野の国〕利根郡沼田町近在に一大怪事が起こったことがある。その年洪水があって、一部落全く濁水に浸され、井戸の中まで浸水して、味噌も糞も一緒になり、減水の後、井戸替えをしなければ井水を飲むことができぬ。よって、各戸みな井戸ざらいをいたした。そのうち、ある家の庭前にある井戸が、不思議にも井底に入るとたちまち斃れてしまう、はじめに一人斃れ、つぎに入りたるものまた死し、三度目に入らんとせし者は半死半生にて上がって来た。ついに、この井戸にはなにかの祟があるに相違ない、あるいは井戸の神の所為ならんと思い、石を入れて埋めてしまった。これについていろいろの憶説を流伝したが、今もって不可解である。どうか御教示を仰ぎたい。

 (答う) その井戸はすでに埋めてしまった以上、試験することができぬから断言しかねるけれども、不思議とするほどの事柄ではない。余の想像するところによるに、井底に入りたるものが即時に死せしは、洪水のために地層に変化を起こし、井の中に、人の呼吸に害ある毒ガスが噴出したためであろうと思う。地底には往々毒ガスの鬱積しておることがあって、鉱山を掘る際には、そのガスにつき当たりて斃れるものがある。多分、今の井戸もその近傍に毒ガスの鬱積せる所ありて、洪水のために地層が変化すると同時に、その鬱積せるガスの出口が自然に井底に開いたのであろう。他家の井戸はそのガスと絶縁であったために無難を得たるも、今の井戸に限りて毒ガスの噴出があったと見れば、毫も不思議とするに足らぬ。

第五項 八幡知らずの怪談

 (問う) 井戸の怪事については少々古伝説に属すれども、伺っておきたいことがある。それは「八幡知らずの森」の話であって、昔より名高い怪談になっておる。伝説によれば、その森林の中に井戸がある。もし、人来たってそのそばに至れば、井の中より美人現れ来たり、手を取りて井底へ引き入れてしまう。そうすると再び帰って来ることができぬというが、これも不思議ではありますまいか。

 (答う) 八幡知らずの話はたびたび聞こえておるのみならず、その場所は東京市中より四、五里離れたる近郷なれば、先年一度たずねて見たことがある。今でもその森は依然として残っておるが、四面に柵をめぐらして人のふみこめぬようになっておる。それゆえに外から覗いたばかりで、中を探検せずに帰って来た。古伝説によりて想像するに、そのうちにある井戸は天然の毒井であろうと思う。すなわち、井底より自然に毒気を噴出する井戸らしい。摂州〔摂津の国〕有馬には鳥地獄と名づくる噴泉がある。その名の起こりは、鳥が飛んでその泉上に来ると、たちまち斃れて落下してしまう。よってこれを毒泉とみなし、維新前は厳重に木柵をめぐらし、人をして決して近づかしめぬことになっていた。しかるに、明治年代になって化学的試験を行ってみたところが、純然たる炭酸泉なることが分かり、毒泉にあらずして薬泉であると知れ、爾来、有馬名物として瓶に詰め、盛んに輸出しておる。しかして、鳥が上より落ち来るのは、その泉より発する炭酸の気を呼吸するために斃るるのである。これと同じく、八幡の森の中の井戸も、その底より強き炭酸ガスのごとき、人の呼吸に有害なる気を噴出し、そのそばに至るものはこの毒気を吸って、井の中に斃れ込むのであろう。美人出現などは、小説的に構造したものに相違ない。かく想定すれば、この怪事も物理的仮怪にすぎぬこととなる。

第六項 山上に大入道出現の怪事

 (問う) かつて越後の人に聞いた話だが、長岡近在に大胆剛気の人あって、すこぶる冒険家で、夜中の旅行を好み、世の中には恐ろしいものなどは決してないと自信し、天狗も幽霊もあるものでないと断言していたそうだが、ひとたび大妖怪に出会して後、心機一転し、非常の臆病ものになったという話がある。その出来事は明治初年のころで、この勇者が東京へ上ったついでに、相州〔相模の国〕の大山へ登りたいと思い、山麓に至り旅店のものに聞けば、そのときまだ山開きがないから、登山すると神罰があるといってとめるにもかかわらず、神罰も天罰もあるものかと申して登山し、その日は山上の堂内にやどりて一夜をあかしたるに、なんの異状もなかったが、翌朝明るくなって、堂を出て見回したところが、目前に大入道の怪物が立っておるのを認め、さすがの豪胆もこれに度胆を奪われ、ビックリして前へたおれ、人事不省の状態になった。暫時の後ようやく気が付いて見れば、その大怪物は消え去ってしまい、幸いに一命を全うして下山し、これより後は普通以上の臆病ものとなり、冒険はもちろん、夜道もせず、そのときの恐ろしさを語りて、「世の中には妖怪はあるに相違ない」と申していたそうだ。この人は決して嘘詐りをいうようなものではないと聞いたが、これは真怪でありましょうか、いかが。

 (答う) 山上において大怪物を見たことは事実とみてよろしいが、これを真怪とすることはできぬ。余の想像では前に申せしごとく、濃霧の作用ならんかと思う。先年『妖怪学講義』中に、オーストリアのブロッケン山と、羽州〔出羽の国〕の月山の妖怪を紹介したことがあるが、ブロッケン山は山上に大いなる人影が幻出するとて、わざわざ見物に登る人がある。その怪影は人の影が夕日に照らされ、後峰にかかれる濃霧に映るのであるそうだ。これと同じく月山にては、登山のものが旭日の御来迎と称して、谷間に大いなる人影が現れ、人が歩けばその怪影も歩くそうである。これはすなわち、そこに立っておる人の影が旭光に投げ出されて、谷間の濃霧にうつるのであろう。深山の濃霧はすこぶる濃厚であって、鏡の代用をする力がある。

深山のみならず、海上にもよくこれに似た話がある。余が千葉県の九十九里で聞いた話に、ある夏の夜、海上に大怪物が現れたといって、人々騒ぎ立ったときに、その村の小学校長が聞き込み、自身も海浜へ出て見たそうだが、評判のごとく海上に大いなる人影があらわれておる。自分が歩けばその怪影も歩き、わが方にて手をあぐれば、かれもまた手をあげる。そのときには海を右に控え、提灯を左に持っていたが、もし提灯を右手に移すと、たちまちその怪物がなくなってしまう。よくよく検するに、その夜は海上に濃霧がかかっていたので、たやすく原因を知ることができた。すなわち、海岸に立っておる人の影が、提灯の光で海上の濃霧にうつったことが知れたと、これを実験した校長から聞いている。江州〔近江の国〕の石山駅の幻影も、この話に照らせばなお一層疑いを解くことができる。これらの実例に考えきたらば、相州大山の大入道は、全く登山者の影が旭光に照らされて、後方の濃霧にうつったものであることは疑いないと思う。

暫時の後その幻影が消失したのは、濃霧の晴れたせいであろう。かく想定しきたらば、前の話とひとしく物理的仮怪であって、真怪を去ることなお遠しといわなければならぬ。

第七項 火の玉、狐火の不思議

 (問う) 世間では狐火、天狗火、竜灯、火の玉、人魂の話がたくさん伝わっておる。そのうちには、これぞ真怪ならんかと思わるる不可解の火がある。古書に載せたるものは信を置き難しとするも、現在その事実が所々にあるから、ここに一昨年の『新潟毎日新聞』紙に掲載ありし、越後北蒲原郡水原在天王の、火の玉実験談だけを挙げて他を略しておく。

 豪農市島家で名高い天王の北方約二里の所に、中の目新田という部落がある。その周囲は一面の湿田で、ところどころに葭などが生い茂って、蒲原の昔をしのばせておる。すなわち、不思議の発源地はこの田圃の中である。しかもその不思議が、大正の今日、だれの目にも瞭然と見ゆるのである。

 不思議とはなにか。それは火の玉である。雪降る冬のころは見たという者はないが、春から秋へかけての時節、雨模様の生ぬるい風の吹く夜にはきっと現れる。その大きさは刻々変わるから分からぬが、小なるときは手提灯の火ぐらいで、大きくなったときには白山神社の御提灯よりもまだ大きくなる。そして、それが炎々たる炎をあげて燃えつつ、あちこちと飛び回るのである。

 夏の夜、水を引きにゆく人々は、ほとんど提灯代わりになるほどの明かりで、村の入り口まで送ってもらうことがたびたびあるそうだ。こんなことは再々あるので、付近の人はもうあまり恐れもせぬが、初めて見た人は胆を潰してしまう。けれども、まだだれもその正体を見届けたものがない。

 あるとき鴨うちに出かけた猟師が、大盥の中に造った室の中から銃口を向けて鴨の集まるのを待っていたとき、折からの暗の空に、パッと尺玉の開いたような明かりをもって現れた例の大火の玉、それがいつまでもフラフラしておるので鳥はさらに寄り付かない。あまりの腹立たしさに狙いを定めて一発ズドンとやった。すると火の玉はたちまち消えた、と同時に盥もろとも宙に持ち上げられ、アッと思う間にその場へ投げ出されたまま猟師は人事不省に陥り、翌朝、迎えの者に助けられてようやく帰ったということだ。これからみると、対手次第で種々な芸当を演るらしい。

 また、天王に永く駐在しておる某巡査も、ややこれに類した苦い経験をなめたそうだ。同氏の直話によれば、ころは明治の末ごろである。ある雨夜の晩、佩剣姿厳めしく巡回に出かけた帰途、にわかに頭の上が明るくなったので、ハッと上を見ると、大火の玉がクルクル回っておる。「アア、火の玉、火の玉」と思わず呼ぶやいなや、かの火の玉は二、三間の所まで肉薄し来たって、炎々たる炎はいやがうえに燃えあがっておる恐ろしさ。自分が急げば火の玉も急ぐ、自分が止まれば火の玉も止まる。かくすること二、三回に及んだが、さらに去りそうにも見えず消えそうにもない。が、恐ろしくなって、われ知らず一目散に村まで駆けつけて、手近の農家をたたき起こして飛び込んだ。

 正気に返ってみると、まだ身体のふるいはやまない。家人は不審がる。さりとて職掌柄、ありのままを話すもきまり悪く、あまり寒くもなかったが、寒さにかこつけ、焚火に夜を明かして帰ったとのことである。この奇々怪々の事実に遭遇した氏は、早速新発田署へ報じた。すると間もなく、署長以下探検に来るとの通知があったが、いかなる都合か今に沙汰止みとなって、正体はますます疑問のうちに葬られてある。

 この火の玉談などは、どうしても真の妖怪であるかと思われますが、いかん。

 (答う) 俗に不思議火と唱うるもの、例えば火の玉、狐火、竜灯のごとき、その原因まちまちにして、あるいは地中より発するガス、あるいは空中より生ずる電気、あるいは地上に接近せる流星、あるいは腐朽せる草木、あるいは夜光を放つ魚虫、あるいは電気を発する禽獣等、種々あれば、ただ一言にて断定を下すことはできぬ。そのうち多くは地中より生ずる燐火、または燐化水素のごときガスである。むかしは狐火を狐の嫁取りと称し、多くの狐が提灯を付けて歩くと申し、画にまでかいてある妖怪はだれも信じないが、すこしく道理の分かった人は、狐が口に骨をくわえてこれに息気を吹きかけると、その気が火になると唱えておる。実際これを目撃したというものもある。しかし余は、やはりある一種のガスであろうと思う。

そのわけは、狐火の発するには、たいてい気節と地位とが一定しておる。もし狐の所為ならば、どこにも起こり、いつでもありそうなものである。また、日本中に狐の全くすまぬ島が多いが、その島にもかかる火を発する場所があるという点より考えても、狐の火でないことが分かる。つまり地層の情態により、火に見ゆる一種のガスを発すべき場所があって、気候と空気との関係上、発生するときとせざるときとがあるのと思う。今、引証せられた越後天王の火の玉は俗に人魂というので、死んだ人の魂魄が火になって現れるのであると民間にて申すけれども、その説はもとより迷信にして取るに足らぬ。人の霊魂が火であるはずはない。もし火であるならば、日本国内だけでも毎年百万ないし二百万の人が死する割合であるが、これがみな火の玉になって現れそうなものだ。いよいよ幾百万の火の玉が出てきたならば、電灯もランプもいらず、全国不夜城となるわけだ。これほど調法なことはなかろう。今聞いた新聞の記事によれば、湿田とある、すなわち沼田である。

むかし海の州であったに相違ない。かかる場所に多く燐化水素のごときガスを発生するものと見えて、火の玉が出るといわるる地は、たいてい湿地または沼田である。ゆえに、天王の火の玉はガスであろうと思う。猟師が鉄砲を放ちたればその火が消えたのは、集まりしガスが散ったのである。ただし、猟師そのものが盥とともに空中に持ち上げられたというのは、猟師の恐怖の一念より起こせる心理作用と見なければならぬ。巡査の実験談に、われと火の玉と進退去留をともにせしことが出ておるが、これはいずれの火の玉の場合にも起こる現象で、火の玉そのものが軽きガスの一塊なれば、人の追うと逃げるとによりて、空気に多少の流動が起こり、その流動に従って火の玉も移動するのである。また、その光が炎々と大きく見えたのも、己の心で大きくしたのに相違ない。よって、火の玉の妖怪も真怪の仲間入りはできぬ。

第八項 不知火の怪象

 (問う) 狐火や火の玉は、ただいまの御説明によりて真怪でないことは分かったが、わが国の歴史上もっとも名高き大妖怪は筑紫の不知火である。今日にても毎年、天草や島原で実見することができるから、古代の妄説とはいわれぬ。すでに肥前、肥後はもと火の国と称せしが、その名は不知火より起こったと聞いておる。その実況については古今の数書に出ておるが、そのうち『西遊記』の記事を見るに、

 筑紫の海に出ずる不知火は、例年七月晦日の夜なり。昔より世に名高きことにて、今も九州の地にては、諸国よりこの夜は集まり来たりて見ることなり。

 予は、かかる奇異のことのみ探らんためばかりに下れることなれば、盆後早く長崎を立ち出でて、雲仙が岳に登り、それより島原に出でて、城下より舟に乗り、天草に渡り、天草の惣象といえる山の峰にて、不知火を見物せり。まず島原にて、「不知火を見るは、いずれの地よろしきや」とたずね問うに、「肥後国宇土、八代、松ばせの辺りの浦々よし。また、ことによく見ゆるは天草の島なり」というにぞ。さらば天草に渡るべしと便船たずぬるに、辺土ゆえに便船もなければ、小さき猟船をかりて渡る。

 案内の人、指さして、「右なるは鼠島なり、左は大島なり、それは三つの島、これは幾島」と数々おしう。げに海上三里ばかりに、いと小さく島々見ゆ。「不知火はいずれに出ずるや」と問うに、「島々見ゆるあたり」という。はじめのほどは人里も遠く、いとものすごき島山なりしが、おいおいに不知火見物の人々出で来たりて数十人に及ぶ。みな、この国より二日路、三日路をも来たりて見物する人々なり。

 今年は例よりは残暑も強けれど〔も〕、かかる海辺の高山に、ことに空はこころよく晴れたり。小夜風〔も〕おもむろに吹きていと涼しければ、夜の更くるも知らず、はや夜半にもなりしかど不知火のさたなし。今年はじめて見る人は、「今宵はいかなることぞ」「不知火は出でざるや」「ただしはそらごとなりや」など口々にいう。予も怪しみいたりしが、八つ近きころ(午前二時ごろ)に、はるか向こうに波を離れて赤き色の火〔一つ〕見ゆ。しばらくして、その火左右に分かれて三つになるように見えしが、それよりおいおいに出ずるほどに、海上〔わたり〕四、五里ばかりが間に百千の数をしらず。明らかなるあり幽かなるあり、きゆるあり燃ゆるあり、高きあり低きあり、誠にはなはだみごとにして目を驚かせり。その火の色みな赤くして、灯燈の火を遠く望むがごとし。例えば、大阪の天神祭りをおびただしく集めて見るに異ならず。実に諸国より来たり見るも、いたずらならず。所の人に問うに、年によりて、多きことも少しきことも定まらずとぞ。今年はすぐれて多く出でたるも、予が幸いというべし。

 広き海中に出ずることなれば、天草に限らず、肥後地よりもいずれの浦にても、みなよく見ゆるなり。しかれどもいかなるわけにや、高山に登るほど多くみごとに見ゆるとて、この山なども群集せるなり。この夜はこのあたりの者、海中に竜神の灯明を出だしたまうなりとて、恐れて渡海の船を禁ず。猟船といえども、この一夜は乗ることなし。過ぎし年、肥後の士ひそかに小舟に乗りて、かの火の出ずる所に至り見るに、ただその火、前後に遠くありて、わが船近くは一つも見えざりしとぞ。予も今宵まのあたり見しかど、いかなる火ということを知るべからず。昔の人の不知火と名づけおきしも、もっとものことと覚えし。

 さて、夜明くるまでかくのごとくにして、旭日出ずれば、火の光漸々に薄くなりゆきて、星とともに消滅す。むかし、火の前の国、火の後の国と名づけられしも、故あることなり。

 この記事を見ても実に不可思議である。名前がすでに不可解の意を有しておるから、真の妖怪の中に加えてはいかがでありましょうか。

 (答う) 不知火は昔より名高い妖怪であるから、先年、あたかもその期節に肥前の島原に宿泊せしにつき、一夜十二時に起きて夜明けまで海岸に立ち、海上を望んだことがある。しかし、そのときには不知火が現出しなかった。聞くに、風のあるときには現出せぬとかにて、その夜少々風があった。翌晩は一層風が強く吹いたから見物に出なかった。むかしは竜神の所為と申したが、近年はいろいろの説が起こり、一説には海底噴火口があって、時期により火を噴出するというものあれども、信ずることはできぬ。また一説には、光を放つ細虫が無数発生する故であるというも、ある専門学者が海水を顕微鏡にかけて見たけれども、痕跡を認めぬというから、これも信ぜられぬ。

しかるに一昨年来、両度大仕掛けの探検をしたことが新聞に掲げてあったが、その結果も不得要領で終わり、依然として知らぬ火となっておる。この探検にては漁火を誤認したもののごとく伝えられたが、余が筑後柳川に至りし際、校長が数年前に探検した話を聞いた。これも漁火説であった。その話によるに、海中に浅瀬があって、潮の引くときに漁村のものがタイマツを付けて、貝拾いに出ておるのであったと申しておる。しかるに余は別に一説を唱え、先年著せる『おばけの正体』の中に書いておいた。もとより、今日一般に不知火を見たといううちには、漁火や汽船の火を誤り認めるのが多かろうと思う。ただ今の『西遊記』の記事も、貝拾いのタイマツらしい。しかし、この火は景行天皇以来つづいておる出来事なれば、二千年以前も漁火を誤認したのとは考えられぬ。余が、まさしく島原にてたびたび目撃せし人の話を聞くに、時は七、八月の晦日前後にて一週間ぐらい続き、毎夜三十分ずつ後れて出る。しかして、光は赤くなく、むしろ青白い方であるとのことだ。この話によるに、海潮に関係あることは疑いない。

つまり、海中の浅瀬へ満潮のときに四方より波が押し寄せ、互いに打ち合うより起こるのと思う。七、八月は海水も、炎日に照らされて塩分が強くなっておる。そのころは暗夜に海上にて舟をこぐに、波は非常に光りて燐火のごとくに見ゆるものである。これは櫂で波を撹乱するときに、塩分の摩擦より光を見るのであるが、これと同じく、潮と潮とが打ち合いて光を発するのであると考えらるる。かく想定すれば、不知火も知火となり、不可解も可解となる。

第九項 山神に命を救われたという不思議

 (問う) 近刊の『変態心理』雑誌に、「近代の珍書幽事考料」と題し、各種の妖怪談を連載してあるが、そのうちに信州山間の一怪事を、左のごとく掲記してある。

 これは明治九年六月四日の夜のことなるが、信濃国小県郡大門村というは、群峰東西南を囲繞したる山間僻地の孤村にして、農間には炭焼きをもって業とす。該村の南に当たりて本沢と唱うる深山幽谷は、雲霧常に覆い、猛獣の巣窟ありて白昼も奔走す。夏に至れば大蛇を見ることありて、最もおそるべき幽谷なるが、該村の平民清水市蔵ほか一名と、右場所に小屋を結びて同居し、炭焼きしていたり。三日より翌四日の夜半ごろまで、暴風雨篠を突くがごとく降る。しかるに両人、夜食終わり炉辺に近寄り雑話のうち、卒然としてもの寂しく凄々たるにぞ、一名寂寞を語れば、また一名も寂々たる旨を告げ、ますます寂々として、実に生きたる心地なきに至る。折節、なにものか戸外に来たりて「退去せよ、退去せよ」としきりに告ぐる声すれども、咫尺も弁ぜざる黒暗の雨夜なれば、いよいよ恐縮し心魂を昏迷せしが、その地より七、八間を隔てて、壮健なる同業の者両人、小屋を設けて宿せるを思い出だし、にわかに木皮に茅をつかねて火を点じ、この光にてようやく同業のもとに着きて、九死に一生の心地してその始終を物語りしけるに、しばらくありて、大岳の崩れたるごとく震動す。その声山谷に響き、あたかも百千の大雷一時に墜落したるかと、四名の者驚愕して、この上いかなることあらんも計り難しと、終夜眠らずして東方の白むを待ちて、明くるやいなや、ただちにかの場所に至り見るに、巽の方の大岳崩れ、炭竃ならびに小屋の辺りは一つの小山となりたり。

もし、前夜ここを退去せずんば、二名の屍は万人の力を尽くし掘りうがつとも、一毛骨をも得ることあたわざらんに、「退去せよ、退去せよ」と通知せしはなにものなるを知らず。かかる天変地妖の大災害を前知するは、なんぞ人のよく及ぶところならん。つらつら案ずるに、前知したまうはこの山に鎮祭し奉る大山祇の神ならんと、炭焼きを業とする輩、平生この山に入るごとに、必ずこの神を信仰し、冥助を祷る。ゆえに猛獣、大蛇の禍害もなく、深山幽谷の一蝸廬に臥して生計をなすことを得て、ことにかくのごとき大危難を救助したまうなり。ああ、誠敬もて神につかうれば、神は加護したまわざることなきものなるを、この一項を見ても知るべきなり。予、このことを該村人に聞きつ。よって、これを四方に告ぐるなり。

 右の記事が事実ならば、真に不可解と思わる。いかがでありましょうか。

 (答う) その記事によれば、山神の冥助に帰してあるも、今日にては学理上説明することができる。すべて地下において大変動を起こす前に、地上の空気に異変を生じておるに相違ない。当夜に限りてもの寂しく、たえかぬるように感じたるは、その地気に打たれたのである。しかして、「退去せよ」という命令をききこみたるは、地下に大変動を起こす前に小震動を生じ、その響きに接したのであろう。両人とも、そこにいかねて他へ移ろうと思っておる際に、異様の響きをきき、これを「退去せよ」と誤認したものらしい。汽車に乗って機関車の走る音をきくと、わが心の予想どおりに聞こゆるものである。品川駅なら「品川品川」と聞こえ、大森駅なら「大森大森」と聞こえてくる。先年、近江鉄道の株券が、全く利益の配当がないから、その汽車の響きが「株ただ株ただ」と聞こゆるとの評判で、余もこれに駕せしときに、確かに「株ただ」と聞き取ったことがある。これと同様に、退去しようと思う予想をもって聞くから、地響きまでがそのとおりに聞こえたに相違ない。よってこれは、地層内部の変動から予告を得たのである。それゆえに、かかる話は物理的妖怪にして、物理自然の道理によって説明ができる。しかして神の霊験は、物理以外、感覚以上において、至誠の精神中に感ずるもので、モット高尚であると余は信じておる。

第一〇項 山形県の浮き島の不可解

 (問う) 地層という話について思い付いたから承っておきたい。世に七不思議と申すものがある。越後の七不思議が親方で、その子分には諏訪の七不思議、遠州の七不思議等がある。今日にて、それらの不思議はだれも不思議と思わぬから、伺うに及ばぬ。ただ、山形県にて名高い大沼の浮き島だけは不思議と思う。もとより、自ら実視したわけではないが、聞くところによると、沼の上に幾つも浮き島があって、船のごとく浮かんでおる。その上には木もあり草もあり、人が乗ることもできるそうだ。しかして、その島が風のないのに動き、また、風の吹くときはかえって風に逆らって動くとのことだが、これは不可解である。地層、地質の中に秘密的装置のあるものか、いかがでしょう。

 (答う) この浮き島については、余は先年その近傍へ行ったから、ぜひ見物したいと思ったが、時間の余裕がなくて目的を果たすことができなかった。その場所は、西村山郡寒河江町より最上川の渓間に入ること六里の山間にあるはずだ。その浮き島は葦や蘆の根が固まって、その上に地がかぶされたものである。ちょうど筏の上に地を乗せたようなものだ。ただ、その島が風なきに動き、風に逆らって進むだけが妖怪である。むかしならば、池中に竜蛇がいて動かすのであるというであろうが、今日では、沼池の内部の地形と水流の状態によると思われる。すなわち、その地と水の関係にて、水中に水の流動があるらしい。その水底には必ず湧出する水があるに相違ないから、その水が原動力となって、風の有無にかかわらず水中には流動が起こると思う。かく考えきたらば、自然的のもので、神秘的ではないことになる。

第一一項 井の中に自然に籾の生ずる不思議

 (問う) 物理的妖怪の方面は大体承ったが、神社仏閣にて伝えきたれる、神仏に関する霊跡、霊験についてたずねておきたい。これに関する事柄はすこぶる多く、いちいち尋問はできぬが、二、三事項にとどめておきます。滋賀県北江州虎姫村内に元三大師の誕生地があって、栄光山玉泉寺という寺がたっておる。堂側に産湯水と称する井戸がある。毎年八月七日は母御の没せられし命日にて、その日には不思議にも、井戸の水の上に籾が浮かんでいる。その籾を拾い上げて、年の豊凶をうらなうと聞いておる。これはどういうものでありましょうか。

 (答う) この寺へは余も先年参詣したことがある。そのときは村長の案内にて住職に面会し、毎年井の中より浮かび出でたる籾を見せてもらった。村長の言わるるには、こればかりは実に不思議であって、世間では寺内におるものが知らぬ間に籾を入れるのであろうと申せども、自分はこの近傍に住しておるが、だれ一人、故意にするもののないことは保証するとのことであった。これに類した一事は、熊本県阿蘇郡北小国村宮原にもある。その方は籾でなく小形の円鏡が水中に現れるので、ある神社の前と記憶しておるが、小さき古池があって、水清ければ底までよく見とおされる。毎朝その水底を見るに、円鏡の現れておることとおらぬことがある。また、円鏡の多く出ることと少なく出ることがある。これによって吉凶を卜することになっておる。これはまだ説明ができる。その池底には小円鏡が幾個もはいっていて、下から水が少しずつ噴き出しておるようだから、一夜のうちに水の微動によって、その鏡が池底の砂や枯れ葉のうちに隠れることと、現れることがあると思う。また、雨の降る夜は一層鏡の移動が起こるわけである。

 しかるに、元三大師の井の中の籾は、だれも入れぬのに、一夜に浮かび出ると申しておる。余考うるに、故意に入れるもの全くなしとすれば、偶然の出来事と思う。その近辺はみな農家であるから、籾を取るときに風の作用にて自然にその中に入りたるものを、お祭りのときに水をかきまわすために、浮かび出るのではないかと思う。世間にては、かかる怪事をもって神仏の霊験を証拠だてようとしておるが、かかる時代はすでに過ぎ去り、今日はかえって人をして信仰の念を減ぜしむるようになる。

筑前の太宰府に飛び梅があるが、菅公〔菅原道真〕謫居のときに、その梅が京都より飛んで太宰府に至ったといい、また、紀州の高野山に独鈷の松があるが、弘法大師がシナにて投げられた独鈷がその枝に掛かったと伝えておる。今日、小学校を卒業した仲間に、かかる話を信ずるものは一人もない。これらは、時代と人知とによって解釈を違えなければならぬ。昔時は神仏の徳を崇めるために、自然に神秘、奇怪を付会するようになったものである。しかるに今日は、その奇怪的着物を脱する方が、神仏の霊徳をしてますます神妙ならしむることになる。ただ、世間に知識の程度のいたって低きものがあるから、しばらく古伝説を保存するもやむをえない。これに類したる話が名高い神社仏閣にはたくさんあれど、ここに略しておく。

 要するに、元三大師の籾の話のごときは、故意にあらざれば偶然であるというのが余の説である。もし、真に仏が物理の規則を左右する力ありとするならば、仏に祈願すれば、種をまかずに米もできそうなものだ、消毒しなくとも、伝染病の黴菌が消滅しそうなものだ。また、籾のごときものをもってよりも、モット高尚の霊験を現示すべきはずである。しかるに、仏は因果の原則をもととなされておるから、決して物理の規則を破る御方でないことは明らかである。されば、籾の霊験談は大いに矛盾しておると思う。

第一二項 大火の中に仏様だけ焼けずにいた不思議

 (問う) 滋賀県には近年偶然起こった奇跡談がある。これもやはり北江州であって、坂田郡東黒田村字本郷法証寺が近年全焼にかかったとき、全部灰燼に化した中に、木像と貴重の巻物だけが、灰中にありながら全く焼けずに残っていたということから、仏陀の冥護という評判が立った。そのときには水も掛けず、そのままにして置いたのに、焼けなかったのは不思議に思われます。

 (答う) 北江州の東黒田村辺りは余も承知しておる。もし、全く水を掛けず捨て置いたのに焼けぬとすれば、別にその原因を考定しなければならぬ。その辺りは低地にして湿気多く、往々水を噴出する地盤なれば、地中より発する水気が保護したのと思う。もし仏の冥護があるならば、火事にかかりそうのないものである。

第一三項 神に祈って身代わりをした霊験

 (問う) 世間一般に、神社仏閣に祈願を掛ければ、必ず霊験があるものと信じておる。また、確かに霊験を感じた実例がすくなくない。左にその一例を、『変態心理』中に出でたる数十年前発行の『曙新聞』より抄録しておく。

 東京牛込箪笥町住居、東京府士族度会某は、老年にて家事の用に立たぬ上、主婦も昨年の秋ごろより病気づきしに、後には中気の症となりて半身不随、起臥も心に任せかねし病体なれば、十七になる娘のお糸が、わが身をもって母の死にかわらんことを氏神赤城神社に祈願をこめ、本年一月ごろより毎夜、社頭の井戸の水を浴びて身体を清め、「日ごろの念願納受ましまし、母が病気を本復なさしめたまえ」と一心不乱に祈祷して、去月中旬ごろまで一夜も欠かさず歩みを運びし効験にや、さばかりの病気も日増しに快く、ついに平癒したり。お糸はいうに及ばず、家内のよろこび大方ならず。しかるに間もなく、お糸はかぜの心地と打ち臥せしに、次第次第に重くなり、十七歳を一期として帰らぬ旅に出立したり。

 かくのごとく、神に祈願すれば身代わりができるものでありましょうか、承りたい。

 (答う) ただいまの病気平癒の一条は、余の主唱しておる心理療法と申すものである。すべて神仏を信念し祈請して病気に効験あるは、みな心理療法と見なければならぬ。娘が母の病気の本復するよう、一心をこめて祈請しておることを母が知れば、神の力で平癒すると信ずるから意志が強くなって、病気に打ち勝つことができるようになる。これに反して娘の方は、神がわれをして代わらしめて下された以上は、われは必ずほどなく病死するであろうとの決心非常に強くなれば、死期を早めるようになる。これも心理作用である。詳細のことは拙著『心理療法』の書中について見るがよい。

第一四項 守り札の霊験談

 (問う) モー一つ、神仏についてたずねておきたいことは、神社仏閣より出だす御守り札の一事である。戦争中に兵卒が御守りを所持せしために、負傷を免れたという話もある。また、病人が御札のおかげで病気がなおったという話もある。そのうち特に承りたいのは水天宮の御札である。どこでも川に落ちて溺死したものの死体を探るに、水天宮の御札を流して試みることになっておる。そうして、その札の沈んだ所を探ると必ず死体がある。これは百発百中で実に不思議と思う。

 (答う) 御守り、御札が護身になり、火事や災難よけになるということは、心理的作用の方で、これを信ずる人には慰安の効力があるも、御守りを所持したから戦場で負傷せぬという道理はない。そのことは、だれも精細に統計したものはない。たまたま千百人中に一人の負傷を免れることあれば、それだけを吹聴するようになっておる。また、病気のなおるというのは、余が唱うるところの慰安より生ずる心理療法である。つぎに、水天宮の御札で溺死者の所在を知るというのは、拙著『おばけの正体』中に説明せしとおり、心理作用にあらずして物理作用と申してよい。もし川の中へ御札を流さば、その札は必ず深淵の水の渦を巻いておる所に沈む。人の死体もそういう場所に沈んでおるものだ。ある地方の学校の教師が、御札の代わりに自分の名刺を流して試みた話を聞いておる。やはり、その名刺の沈んだ所に死体があったそうである。余は決して神仏の霊験をむやみに否定するものでないが、従来の霊験談はあまり浅薄にして今日に適さぬからして、これを高尚に進めたいと思う。

第一五項 天狗の筆跡の妖怪

 (問う) 伊豆の伊東に天狗の詫証文というものがあって、確かに天狗の書いた文字と称し、某寺の宝物になっておるそうだが、それもついでに承りたい。

 (答う) むかしより狐狸の書画、天狗の筆跡と称して保存されておるものがあって、余も二、三回見たことがある。狐には書が多く、狸には画が多く、天狗にはわけの分からぬ文字が多いようだ。いずれも人の書いたものに相違ない。ただ、狐狸や天狗が人に化けて書いたとか、乗り移って書いたとか伝えておるけれども、それはただ伝説だけのものである。伊東の天狗の証文は日蓮宗の寺の宝物になっていて、余も一両度見せてもらったことがある。その文字は梵字に似て梵字にあらず、満蒙〔満州と蒙古〕の文字のごとくにしてそうにもあらず。つまり一種異様の文字で、おそらくはなんぴとも読み下すことはできまいと思う。先年、その縁起も聞いたが忘れてしまった。ただ、伊豆のうしろの山路の森の中を通行するときに、木の上に天狗がいて落としたのを拾ってきたというだけを記憶しておる。この証文はだれが書いたかというに、むろん、人であると答えざるを得ない。そのわけは、いったい天狗というものは、果たしてあるものかないものかを考えてみれば分かる。余は先年、『天狗論』を著して己の意見を発表したことがあるが、高山に登ると気象が変わりて、異様の感が起こってくる。これより種々の想像が集まって天狗談が起こったに相違ない。しかして、画に書いた天狗の図、すなわち赤顔、高鼻、山伏の服装をなせるものはズット後にできたもので、足利時代より始まっておる。よって余は、人にもあらず獣にもあらざる一種異様の天狗は、世になきものと断言しておいた。先年、南洋へ漫遊したとき、船中にて濠洲〔オーストラリア〕居住の西洋人で、その面貌のよく天狗の顔に似たものを見た。

そこで、足利時代にはじめて西洋人が日本に渡ったから、画工がこれを加味して天狗の顔を描いたに相違ないと思った。

 要するに、伊東の証文も天狗にあらずして、何者かは知らざれども、人の筆に成りたることは疑いない。これについて思い付いた話がある。余が今より二十年前、伊豆天城山麓の上河津村の一旅店に宿せしときに、その襖の文字が一字も読むことができぬのみならず、ドコが始めでドコが終わりかも分からぬ。「なんぴとの書なるや」とたずねしに、数年前、白髪の老翁が数日間滞在中に、「襖を書いてやろう」と申して書かれたのであるが、だれに見せても読む人がない。宿帳には鹿児島県士族と記名してあると聞いた。もしこれが五十年以前ならば、天狗の書として取り扱われたであろうと思った。

第一六項 四、五百歳生きた人があるという奇談

 (問う) 古来、人が信仰堅固なれば、即身成仏することができ、死しても骨肉が朽ちぬといい、また養生がよければ、五百歳、千歳の寿を保って仙人になるともいい、世間にミイラになっておる遺骸がある。これは即身成仏したのであろうか。また、仙人については種々伝説があるうちに、今より十年前に、『読売新聞』の「妖怪地理」と題する記事中に、会津の実相寺の話が掲げてあった。

 会津の郭外に実相寺という〔寺〕がある。この寺の二十二世桃林契悟禅師というは、世に名高い残夢のことで、自ら秋風道人という。世に〔源〕義経の臣、常陸坊海尊のことであるといわれておる。本邦神仙伝中の錚々たる者である。残夢は天文年中、ここに来たりて住持となったが、つねに数百年前の、源平時代の話をして、とりわけ義経および弁慶の事跡にはくわしかった。平常、檀家から招かるれば、一日に何度でも斎をするが、また幾日間一食せざるも、少しも飢色なかった。嗜好といっては、枸杞飯を食うのみであった。枸杞につきては、本邦には、古来これを霊木とするの迷信があるので、〔滝沢〕馬琴の『〔近世説〕美少年録』にもこのことが載せてある。すなわち、枸杞千年の老木の根は、小狗の形をして、夜中走り動く。

陶朱之介が癩病にかかったとき、これを取って食ったら、悪疾たちまちに快復したとある。かかる霊木であるから、残夢は、これを嗜好して数百年の長寿を保ったのであろう。滋眼大師、かつて残夢とともに枸杞飯を食って、霊妙の味あるを感じて、「残夢の長生するのは、事を急がずに、平常枸杞飯を食うからである」といった。残夢の事跡には奇々怪々の伝説が多いが、要するに、未然に知り、未見に知り、鬼神風雷をも駆使したと伝えられてある。天正四年二月二十九日、みずから碑上に月日と名とを記し、引導を書しおわりて、豁として目を開き、筆をなげうち、棺に入って示寂した。その後、文禄年中、壙をひらきてこれを見るに、ただ空棺ばかり、形骸をとどめず、四大空に帰していた。これすなわち、神仙道にいわゆる尸解したものである。

 この記事はいかにも不思議のようであるが、真怪の中に加わるものか承りたい。

 (答う) 古来、律僧が穀物を断ち、木の実のみを食しておれば、即身成仏してミイラになるとの俗説は聞いておる。日本中にて余の直接に見たミイラは、越後の望の弘智法印と、山形県酒田の即仏堂のミイラだけである。これらはみな木食して修行したということだ。生理学上でも、木食のみしたならば、死しても朽ちぬようになる道理があろうかと思う。しかし、これが果たして即身成仏ならば、仏は木石に異ならぬものとなるが、マサカ仏は木石ではあるまい。世間の俗説は、もとより信ずるに足らぬ。つぎに、実相寺の契悟禅師については余も若松で聞いておるが、百歳以上ぐらいは生きていた人であろう。会津の高田町に生まれし天海僧正は、百三十何歳も生きていたというから、この禅師も長生きした人に相違ない。しかし、四百年も五百年も生きていたというのは、他人が長生きを形容したまでと思う。ただ、数百年前の源平時代をまのあたり見たように話すのは、その人の記憶が非常に明瞭であって、幼時書物で読んだ事柄が、まのあたり目撃した〔と〕同様に心中に浮かび出てくるのであろう。これを話す当人も、現に目撃したように感じておると見てよい。例えば、夢があまり明瞭であるときは、夢と現実とを自分で区別のできないことがあると同様だ。

ゆえに、実相寺談もこれと同じく、記憶と実際とが同一になったのであろう。余がある老僧から聞いた話に、入定して昨年のことを一心に考え出し、さらにさかのぼりて一昨年のことを思い出し、だんだん順次にさかのぼると、小児のときのことまで分かるようになり、さらにさかのぼりて、生前のことをも知れるようになると申された。これは心理作用でできぬことはあるまいと思う。もとより生前のことは、幼時よりの記憶が働いて作り上げるに相違ない。この道理に照らしてみれば、実相寺の話は決して不思議でなく、当たり前である。ただし、後に棺を開いて見たれば形骸がなかった一事は、キリストの奇跡に類した話で信ずることができぬ。

第一七項 幽霊の写真についての不可解

 (問う) つぎに、幽霊の写真について真怪と思わるることがある。その一例に、やはり十年前発行の『都新聞』で見た話をおたずねしておきたい。

 東京市深川区富川町三十一番地に中村三蔵という人あり。神習教の信者にて、同区仲大工町の天地教院の教長前羽清鏡に帰依浅からざりしが、三蔵の末子に久吉という当年十二歳の男子あり。いたって利発の質なるより、蝶よ花よと愛で慈しみおりしに、昨年の暮れより病気となり、百方手当てを尽くし、前羽にも依頼してその本復を祈りし効もなく、去る五月十六日に哀れ亡き人の数に入りしかば、双親は泣きの涙にて野辺の送りを営み、三十日過ぎて天地教院に依頼し、さらに神式の霊祭を行い、霊匣に納めて床の間に安置し置きたるに、その後九日を経て、今は他家に縁づける三蔵の次男某が訪れ来たり。

携えてきたりし写真器を取り出し、父三蔵、弟某と、三蔵の妹高津らくというを座敷にて撮影し、やがて家に帰りて現象したるに、コハいかに、らく子の写れる写真の方に、白衣を着け頭陀袋を掛けいる少年の姿彷彿と見ゆるに驚き、よく見れば紛う方なき久吉の姿にて、しかもまた、床の間の匣に向かって左の方に、半身を匣にもたせて、髪黒く白襟紋付きの着物をきたる婦人の姿さえ鮮明と見えしが、年輩、容姿の上より考うれば、三十六歳にて死去せる三蔵の母、すなわち久吉の祖母に当たる者によくにたり。さてまた、三蔵とその次男の並び写れる写真の方を見るに、これも霊匣の前に白髪の老媼の姿ありありと写りおれるが、これは三蔵の三代ほど前に、六十五歳にて死亡せる老女あれば、多分その姿なるべしとのことに、いずれも奇異の思いをなし、知る辺に吹聴したりしかば、やがて界隈にてだれ知らぬ者なきほどの評判となりいるとぞ。

 この話はいかにも不思議と思うが、いかがでありましょうか。

 (答う) その一事も、真怪をさることなお遠しである。余が幽霊の写真についてはじめて実見したのは、明治十一年のことである。熊本の鎮台におる兵士が写真を写したときに、当人のそばにボンヤリ、他の兵士の姿が現れていた。つくづく見るに、その前年、西郷戦争〔西南戦争〕のとき、同隊で戦死したものによく似ているから、その幽霊が写ったに相違ないとの評判であった。その後たびたび実見したが、幽霊そのものには姿も形もないはずだ。決して写真に写るべきものでない。だんだん聞くところによるに、写真屋が前に用いた種板を十分ふいておかぬときには、前に写した人の姿がボンヤリ写ってくることがあるそうだ。これは偶然の出来事である。また、他の方面から反射したる影が、写真の中に写ることもあるそうだ。これも偶然である。そのほか、写真屋が故意に作ることもあると聞いておる。先年、釈雲照律師が写真をとられしとき、律師の頭から光明の発しておるところが写っていた。信者はこれを見て活仏に相違ないと申したが、だんだん調べてみると、写真師が故意に光明を付け加えたのであったとのことだ。

 そのゆえに、幽霊の写真は偶然か故意かの二つであろうと思う。今の深川の幽霊談も、大抵これに準じて推量してもらいたい。

第一八項 仙人の姿が写真にあらわれた不思議

 (問う) モー一つ、写真の不思議についてたずねておきたい。それは岩手県上閉伊郡仙人峠の仙人の写真である。この頂上に仙人祠と称する小祠〔が〕あって、あるときその祠畔で写真をとったところが、仙人の姿が写ったそうだ。これは偶然の出来事か、または故意的人工か、または真怪か承りたい。

 (答う) 余は一昨年、仙人峠を越えしとき、頂上の茶屋に一休し、仙人の写真談を聞き、主人より現に見せてもらったことがある。聞くところによるに、数年前降雪の中、一人の土木技師が写真器を携帯して来たり。その茶店に休みしに、なんぴとも通行するものなく、店前にも家はもちろん、人影は全くないときに、技師が主人を呼び出だして、写真をとったそうだ。後に写真を焼き付けて見るに、主人のかたわらに、いと老いたる白髪長髯の老翁がハッキリ写っていた。技師も大いに驚いて、その複写を茶店に郵送したのを主人は秘蔵しておる。これを偶然とするか。主人のほかに一人も人影なきに、写るはずはない。されば故意とするか。その技師は正直の人で、決して偽造して人を欺くようなものでないということだ。けれども公平に考えてみるに、仙人が写真に写るならば、姿、形があるに相違ない。姿、形があるならば、人目に触れるはずである。しかるに、その写真をとるときにはむろん姿は現れておらず、またその前にも後にも右ようのことなく、ほかにも頂上で写真をとった人もあろうが、一度もそのようのことがない。またこれまで、だれ一人として現に仙人の姿を見たという話もない。これらの点より推量するに、茶店の主人も技師も知らざるところに、隠れたる事実があるであろうと思う。とにかく、このくらいの妖怪は、まだ真怪帳の登録はできぬ。

第一九項 墓場の奇跡談

 (問う) 墓場の奇跡について伺いたいことがある。明治三十八年発行の『電報新聞』に、左のごとき記事が掲げてあった。

 一昨昨年、信州の栗葉峠という所に電信柱を設置したときである。その第百二十三号の電柱を立てる所が、ちょうど一つの墓に当たった。それで、先か前かへ少し寄せて、墓を破らぬようにしようと工夫間で相談したが、ナアニかまうものかと、ついにそこへ立てることにして穴を掘った。すると底から、手足一本も不足のない人骨が現れた。ゆえに、その骨をその近傍に埋めて電柱を立て、その日の仕事を終えてみな帰宅した。翌朝、工夫らが仕事に来て見ると、これはしたり、昨日立てた百二十三号の柱が、風も吹かぬに倒れていた。工夫は不審に思いながらもまた立て直して、その日の仕事を終えて帰りかけ、そこを通るとまたまた電柱が倒れている。工夫はますます不審に思って、その日はそのままに帰ってしまった。さて、翌朝またその柱を立て直したが、その日の夕暮れまでには異状なく立っていたので、まず安心と帰ってしまって、その翌朝、みな先を争って来て見ると、こはそもいかに、またまた地上に倒れていた。そして、その穴はチャンと埋まっていた。また不思議にも、先の日骨を埋めた所に、ズボンと穴があいていた。ハテナと思ってみなそこを掘って見ると、先の日埋めた骨がない。工夫は互いにうなずき合って電柱の穴を掘って見ると、そこには、先の日の白骨がチャンと入っていたのである。さすがの工夫らも薄気味悪くなったので、ついにほかへ電柱を立てたが、それきりなんの異状もなかったのである。

 これもいかにも不思議に思われるが、いかがでありましょうか。

 (答う) 新聞の記事ばかりでは解釈しかねるが、その当時の実際を探検してみなければならぬ。しかし、今日となっては探検もできぬ。ただ、余が聞いた一話を参考に備えておこう。地名は忘れたが、ある田舎の村で、人家を離れた所の路傍に大いなる石地蔵が立っておる。あるとき、その地蔵が向きを変え、道の方に背を向けておるようになった。そこで、村内の者が三、四人集まりてヤット向きを直し、道の方へ向けても、一夜のうちにまたうしろむきになっておる。再三元どおりに直すけれども、いつも知らぬ間に向きが変わっておる。その石は重量があって、少なくも三、四人、力を合わせねば動かすことができぬのに、一夜のうちにかくたやすく向きがかわるについては、人間業ではない。地蔵さんが村内に大災あることを知らせんために、かく変位なさるのであると信じ、村民みな恐れ入っていたそうだ。しかるに、とうとう原因が発覚した。その村内に非常の腕力家があって、朝未明に起き、人の知らざるうちに石地蔵を動かし、その向きをかえたのであったという話を聞いておる。これは、人の好奇心より起こる怪事である。今の電柱の墓場騒ぎも、このようなことではあるまいか。決して真怪とするほどのことではない。

第二〇項 石地蔵が鮮血を流した不思議

 (問う) 石地蔵について、数年前『福島新聞』で見た話がある。その事実はもとより信じ難いけれども、ついでながら御意見を伺っておきたい。その記事は左のとおりである。

 チト遠方の出来事なるが、去る十六日、静岡県小笠郡横地村大字奥横地、福井佐吉の次男哲吉という少年が、四、五人の友達とともに同村内なる石地蔵の前にて遊戯中、戯れに石を拾って石地蔵の面部に投げつけしに、怪しいかな、地蔵は目から小鬢にかけて打ち割るるとともに、鮮血さっとその割れ目よりほとばしりしかば、子供らは驚きおそれて蜘蛛の子を散らすがごとく逃げ出し、さらに一町ほど隔てし字牛池の用水池にて遊泳しおるうち、哲吉は地蔵の血潮が気にかかりて精神に異状を呈し、ついに水中にて惨死を遂げたるより、一村の騒ぎとなりて、老若男女われもわれもと群がり来たりしが、いかにも地蔵の面部より血潮が流れおりしかば、一同奇異の感におののき恐れ、興覚寺の住職に読経を頼みてその祟を除かんと、目下大騒ぎをなしおる由なり。

 (答う) この記事を見ただけではなんとも説明ができぬ。いったい、今日まだ神仏の霊験をこのくらいのものと思っておる人があるのは、嘆かわしき次第である。石地蔵は石であって、生きておるわけではない。たとい石をあてても鮮血などの流るるはずでないことは、小学児童にも分かりそうなものだ。もし、これを事実として見たならば、あるいはその割れ目もその血も、前からあったのではなかろうか。もとより血といっても、そこが少しく赤ずんだ色をしておれば、すぐに鮮血などときめてしまうから、そのもとはなんの色か分からぬ。たとえ、前からあっても気が付かずにいて、石を投げつけてよく見たときに、はじめて発見したかも知れぬ。

 先年、栃木県のある小学校で化け物沙汰が起こり、一教室の天井に化け物の姿があらわれたということである。果たして、その教室の天井には化け物の姿が見えておる。しかるに、だんだん調べてみるに、ズットその以前からあった姿で、一度生徒が教室の雑巾がけをした際に、その雑巾を天井へ投げ付けた所が、跡形が残っていたのだそうだ。それを、あるとき他の生徒が見て異様の姿に見ゆるから、化け物といい出して以来、見れば見るほど化け物らしく見ゆるようになったそうだ。

 茨城県にてもこれに類した話を聞いておる。これと同じく、前からあった割れ目と赤色を、そのときはじめて気付いたのではなかろうか。とにかく、真怪でないことは明らかである。なんとかして、世間の神仏信仰の程度を向上させたいと思う。

第二一項 奥州恐山の三大不思議

 (問う) 地蔵尊について、モー一つおたずねしてみたい。かかる話は観音にも薬師にもあることなれど、いま地蔵の話が出たから、一を聞いて他を推知することにします。このごろ青森県の恐山に登って帰った人の話に、その山上には賽の河原があって、地蔵堂が立っておる。その近傍に人家は全くなく、これより数丁離れた所に寺坊があり、登山の客はこの坊に宿ることになっておるそうだ。その賽の河原と地蔵尊について、三つの不思議が伝わっておる。その一は、夕刻、客が河原へ行って小石を積み上げて置くに、翌朝行って見れば、一夜のうちにその石がみな崩れておる。その二は、深夜、人の静まった後に、地蔵尊の錫杖を鳴らされる音をよく聞くことができる。その三は、夜中雨の降った翌朝、堂内を見るに、地蔵尊に着せてある衣が、戸外で雨にあったようにぬれておる。この三大不思議だけは事実であると申したが、いかがのものでありましょうか。

 (答う) 奥州〔陸奥の国〕の恐山は名高いもので、昔より霊山としてある。余はその山麓までは行ったが、山上へは登ったことはない。しかし話に聞いておるに、山上に極楽と地獄があるそうだ。旧南部領の人は、死なば必ずここに至ると申して、生前に一度は必ず登山するということだ。さて、ただいま聞いた三不思議は、実験してみなければ説明は付きにくいが、余の想像にては、第一の、積んだ小石が一夜のうちに崩れるのは、雨または風の作用で自然に崩れるのと思う。あるいは、もしその場所が池のそばならば、波が風に打ち寄せられて崩すかも分からぬ。第二の、錫杖の音は、他の音を誤認するのであろう。深夜になると遠い音が近くに聞こえ、細い声が案外大きく聞こゆるものである。石の上に水の滴る音も、こちらより迎えて聞けば、錫杖の音にもなるものだ。第三の、地蔵尊の衣がぬれておるのは、山上は空気が非常に湿っておるものだが、湖畔は一層その度を増して湿気が強いであろう。ことに雨夜はその湿気が非常に多くなるはずであるから、その気のために堂内の衣が雨にあったようにうるおうのと思う。右は余の憶説に過ぎぬけれども、真の不思議はこのような浅薄のものであってはならぬ。

第二二項 仏が身代わりに立たせられた事実談

 (問う) 今より三十五年前、神奈川小田原町に起こった出来事が、当時の『明教新誌』に載せてあった。その大要は、小田原町幸町に紺屋業を営める広井徳平という人がある。その家は真宗篤信者で、ときどき寺参りをして法義を喜んでいたるが、その年五月十六日夜、檀那寺に説教があるので、自宅は雇いおける職人らに留守居をさせて、大雨を冒し親子四人連れにて参詣し、説教すんで帰らんとして寺の門を出ずると、何者か黒き物にて顔を包み、突然現れ出でて、刀を抜いて斬り付け、四人とも斬られ、「人殺し、人殺し」と呼びつつ近傍の家に逃げ込み、巡査もそのことを聞いて駆け来たり。調べてみるに、四人とも無難で負傷もしておらぬ。これは仏のおまもり下されたものと信じ、早速自宅へ帰って、仏前に御礼を申し上げようと存じ、仏壇の扉をあけて見るに、アラ不思議や、三尊の絵像に刀で切ったようなきずがついていた。これは仏が身代わりに立って下されたに相違ないとて、一同感泣の涙にむせんだという話である。この話は前の話とは違い、霊怪不思議に思われるが、いかがお考えでありましょうか。

 (答う) その話は当時聞いて小田原に行き、その家をたずねたことがあるが、実際、内仏の絵像にはきずのようなものが現れておる。しかし、仏が身代わりなされたと信ずることはできぬ。この絵像のきずと殺害事件とは全く別物と思う。途中で斬り掛けた刀は、真刀か木刀かステッキか不明である。しかして仏壇の絵像は、他の原因にて、きずに似た痕跡ができたのであろう。絵像は生きた仏様ではない。仏様が身代わりなされたとて、絵像にきずのつくはずはない。あるいは留守居の職人の所為なるかも計り難い。ここにその原因を断定することはできぬけれども、なにかその裏面に隠れたる事実が宿っておると想像ができる。もし仏様が本当におまもりなされたならば、凶漢の手足も身体も動かなくなって、斬り掛ける働きもできぬようになるべきである。よって、これらはまだ霊怪不思議とはいわれぬ。

第二三項 天狗の姿が歴然と現れた話

 (問う) 伊勢の三重郡竹永村福王山という山の上に毘沙門堂があって、毎年その堂の祭りのときに信者が堂内へこもると、確かに天狗が姿をあらわすという不思議談を聞いたことがある。もし、その事実も御承知ならば話していただきたい。

 (答う) この話は、先年その地方を巡講のときに聞いたが、昔は堂にこもりておる間に、深夜庭内の池を隔てて、大木の台の上にあらわるる天狗の姿を拝んだものだそうだが、明治になってから全くなくなったということだ。それは、むかし、天狗の面をかぶり装束をつけたものが台の陰に隠れていて、深更になって盛んに火を焼き、その煙の中に姿をあらわしたものだそうだ。かかる事柄は、むかしは神社仏閣ともに往々あったことだ。人知の程度が低いから、そこへつけ込んで信仰を釣ろうという方便に、かかる故意的妖怪を用うることが起こる。先年岡山県で聞いたが、同県下の三大不思議と称するものは、備中の釜鳴り、備前の田植え、美作の夜桜である。その三者ともに各国の一の宮にあって、神力の霊瑞不思議の証跡となっておる。そのうち備前の田植えとは、一の宮の御祭りのときに、一夜に稲苗が神力によって現出する怪事である。余の伝聞するところによるに、この怪事は前もって人為的に設備せるものの由にて、近来は人知の進歩に応じて田植えを廃したということである。

 これに類する仕方は西洋にもあるとみえて、数年前、京都の『日出新聞』に左の記事が掲載してあった。幸いに切り抜きを保存しておいたから、参考用としてその文を拝借しておく。

 ローマ法王の最盛時代で、仏国の僧侶は名実ともにその支配に属していたときの話である。金も名誉も相当にある一青年がP警察署に出頭し、直接署長に面会を求めて保護を願い出でた。その申し立てはこうである。

 「父は私を廃嫡する様子です。私は国法に触れたこともなければ、徳義上の罪人でもない。そうかといって父の命令に背いた覚えもないのですが、単に父と一緒に天主教を迷信せぬ、宣教師を尊敬せぬばかりを、廃嫡の唯一条件としております。それから父は、単に私を不信者として機嫌を損ねとるばかりではありません。全然無神論者として悪魔のごとく忌み嫌っとる様子です。父の意向を知ったのは宅の老僕からです。老僕はある日、父の遺言書を見たそうです。それには私を廃嫡して、遺産全部を寺に寄付すると書いてあったそうです。一年前まで平穏無事に暮らした私の家庭も、これですっかり平和を破壊せられましたのです」

 署長の挨拶はこうである。

 「どうも君のいうことは不明瞭な点が多いが、どうも警察が関渉する事件ではないようです。もっとも、君の立場としては気の毒な話ですが、御親父は別に法律上の無能力者でない限りは、その所有財産を勝手に処分する権利があるので、警察力でそれを左右することは不能です。君としても少々はやまっております。いよいよ御親父の遺言書が効力を生じて、君の権利が毀損せられた場合、初めて公力に訴えて救済手段を講じても遅くはない。とにかく今のところでは、署長として君を保護してあげるわけにはいかぬのです」

 青年は折り返して、

 「警察力をかりる必要があるのです。父は詐欺にかかって私を廃嫡の決心をしたのですから、ぜひ保護を仰がねばなりません」

 「ふん、詐欺だって、全体どうせられたんです。詳しく話してごらん」

 「実は昨夕、この件につき父と口論したのですが、父の問わず語りによると、死んだ母の亡霊が現れます。そして地獄の苦しみを訴えた上、不信者の私を廃嫡して、遺産全部を寺へ寄付しなければ、母の亡魂は未来永劫、浮かぶ瀬がないと訴えるそうです。父はそれを信じきっとりますが、ばかばかしい、今の世に幽霊なぞあってたまるものですか。父はきっと詐欺にかかっとるのです。山坊主に一杯食わされとるのです」

 「ふん、どうも山坊主の芸当らしいな。しかし君も承知のとおり、仏国はローマ法王と特別条約を結び、天主教の坊主を特別に保護しつつあるから、確かな証拠がないと、軽々しく坊主を検挙するわけにゆかぬ。やりそこなって無罪にでもなった日には、署長の職を棒にふらねばならぬ。わるくすると、こっちが縛られるかも知れぬ。だから君は、確かな証拠を押さえて告訴することになさい。そのときは十分保護もします。坊主はふん縛ってあげます」

 青年は不得要領のまま警察署を引き下がる。一カ月後の夕方、青年は血相かえてまた警察に駆け込んだ。今夜こそは警察力をかり、山坊主を取り押さえたいというのだ。署長はその後の様子はと聞くと、青年は乗り気になって、

 「立派な証拠があがりました。まず第一番に、『母の亡霊は宅では出現せぬ。埋けてある寺の墓場に限る』と父はいいます。墓場はS村にあります。母は永らく肺を病み、S村に転地療養中亡くなりましたので、その村に埋けたのです。つぎは、門番の話によると、父は先月来二度までも深夜、天主教のX坊主と一緒に宅を出かけました。帰りは二度とも夜明けになったそうです。おまけに、帰宅するときの父は、非常に落胆している。それから三度まで母の供養をしました。今夜も父は外出しましたが、すぐそのあとから門番が、X坊主とつれだって父が出かけたと報告しました。今夜こそ父は山坊主にだまされて、偽幽霊の母にあいに行ったのです。私は今夜いよいよ廃嫡せられるでしょうが、この罪もない一青年が山坊主のため、財産全部を横領せられるを不愍と同情して下さるなら、どうか警察力をかして下さい。今夜こそ跡をつけて行けば、山坊主の奸手段をあばくことができます。それとも、貴下はローマ法王の権力におそれ、このあわれな私を保護して下さることはできませんか」

 署長は厳然として、

 「仏国公民はいずれも、平等に国家の保護を受くる権利がある。不肖ながら私も警察署長の職をけがしとる以上は、できうるだけは国民の権利を擁護します。ローマ法王におそれて、国の法律を曲げるほど臆病ではありません。けれども、君がはじめの訴えによると、ただ取り留めのない感情問題のようでしたから、保護を否んだ次第です。しかし、今夜の申告によると十分の証拠があるから、もはや遅疑する場合ではない。山坊主を縛ってあげます。ええと今八時ですから、まだ時刻が早い。二時間後に出直しておいでなさい。それから注意しておきますが、本件はもはや警察の手に渡ったのですから、君はどこまでも秘密を守らなければいかぬ。だれにも口外してはいけませんぞ」

 夜陰に乗じて、四人乗り込んだ箱馬車はS村さして警察の門を出たのである。しかし、馬車はS村に乗り込まなかった。村はずれの小さな森陰にひき込んだ。中から出たのは警察署長を先頭に、無神論者の青年、それから警部補と平巡査が一人、同勢四人であったが、警官はいずれも目にたたぬよう平服をきていた。

 「まず、地理から研究しておかねば不便だ。まだ十一時だから、偽幽霊の出現には少々早い。その間に付近の地理を調べておこう」と署長がいうがままに、四人は村はずれにある墓場をさして出かける。森の小陰にあるので昼でさえさびしい所が、真夜中近いので森として、生きたものは犬の子一匹もいない。墓番は居酒屋で飲んどるらしい。番小屋の戸には錠がおりとる。墓場の真ん中にある礼拝堂も、これまた締め切ってあった。

 「君のおふくろの墓はどれです」と署長は無神論者にたずねる。雲間を漏れくる星の光さえまれな闇夜なので、さがすのに一骨折れたのであるが、やっとたずね出したところで、署長は四辺を見回して、「どうも勝手が悪いぜ、姿を隠す潅木も見当たらない」

 巡査は番小屋に入る工夫をして、窓ガラスの破れに古新聞をはった所を見付けだし、そこからはい込んだ。鍵を持ち出して署長に渡したのである。

 署長はすばやく部署を定める。

 巡査が持ち出した鍵で礼拝堂の戸を開けた。署長と無神論者は中へ入る。あとは巡査に命じて、もとのとおりに外から錠を下ろさした。鍵は番小屋の中にかえして、破れた窓の新聞紙も気取られぬように修復させた。最後に、万一をおもんぱかった署長は、警部補と巡査を、墓の入り口にある溝の中に待ち伏せさしたのである。十一時半の時計が鳴ると同時に足音がしたので、署長と無神論者は礼拝堂の窓に立ち寄る。中は真の闇なので、こちらはさとられぬようにして、山坊主の芸当が安心して見届けられた。はなはだ好都合だと互いにうなずきあったのが、ガラリと反対の不都合をきたした。

 思いがけず礼拝堂の錠をあける音がしたので、驚いた。ふたりはきわどいところを、やっとのことで祭壇の陰にかくれる。それと同時にふたりの男が入って来た。一人は手に龕灯を提げとる。一人はいうまでもなく青年の父で、五十前後の好々爺が大層ふさぎ込んでおいでなさる。一人は山坊主のXで、やせてはいるが見上げるほど丈高く、がっしりとした骨組みの男だ。骨ばかりの渋面には、灰色にするどい両眼が、濃い眉毛の奥でぎょろりと気味悪くひかっとる。山坊主は小ろうそくを祭壇にともして、もったいそうに御経を読み上げると、迷信家の好々爺は祭壇の階段にひざまずいて、しきりと黙祷をはじめた。やがてそれが済むと山坊主は、福音書と聖水撒きを捧げ奉って、もったいそうにそろりそろりと礼拝堂を出て行く。あとからは好々爺が、聖水盤と小ろうそくをこれまた捧げ奉ってついて行く。そのまたあとから、祭壇の陰をはいだした署長と無神論者は、さとられぬようにそっと窓の下に行く。今度は無神論者の母の墓が、真正面に見下ろされたのである。

 山坊主は迷信家の好々爺をお伴につれ、できるだけもったいぶって呪文を唱えながら、墓の周囲をぽつりぽつりと三度回ったところで、墓前にたちどまる。ろうそくの火影に福音書をひもとき、これまたできるだけもったいぶった声で、いいくらいの所を三行半ほど読み上げる。それから好々爺がおそるおそる捧げ奉る聖水盤に、三度聖水撒きを突っ込んで、墓石の上に聖水をふりまいたところで、山坊主は好々爺をつれて礼拝堂の前まで引き下がる。山坊主は墓石に向かって高らかに祈祷をしていたが、その声が次第にふるえてくる。神でも乗り移ったように森厳な声となる。

 最後に、天地に響き渡る大声を上げて、

 「姿を見せぇ! 姿を見せぇ! 姿を見せぇ!」

と三度宣告する声の下から、墓石の陰より青白い煙とも霧ともわからぬものがたち上る、と見るまに、朦朧たる人の影が浮かんだのであるが、青白い煙が次第にうすれゆくにつれて、白衣の亡霊がはっきりと墓石のうしろに現れ、しきりと手招きする。妻の亡霊と信じきった迷信家は、声をたてて泣き出した。

 山坊主はもったいぶったところで、

 「その方は全体何者か?」

 亡霊は恨めしそうな声で、

 「生ある間はアンナ・マリアと呼ばれた女でございますが……」

 「自分のたずねることは、なんでも答えができるか?」

 「はい、できるだけなんなりとお答えいたします」

 「しからばたずねるが、その方はなぜ自分の祈祷をうけながら、地獄の苦しみを解脱することができぬ。なぜ迷って出るか?」

 「はい、解脱したいのはやまやまですが、まだ時節が到来しませんので」

 「時節とは?」

 「息子の無神論者が罰せられると同時に、地獄から解放せられて天国に行かれます」

 「息子は罰せられとるではないか。その方の亭主は息子を勘当して、遺産は寺に寄付するはずになっとるではないか?」

 「そればかりではまだ不十分です」

 「どうしたら天国に行けるのだ?」

 「息子を宅から放逐してしまい、遺産を寺に寄付する遺言状を、正式に公証役場で登記せんと、どうも浮かばれません」

 だまされきった好々爺も、息子を放逐せよとはあまりに残酷だと思ったので、

 「お前もすこしは倅の身になっておやり。放逐するのはあんまりじゃないか」

 「どうあっても息子を放逐せねば、わたしは未来永劫、地獄の責め苦から浮かぶ瀬はありません」

 恨めしそうな、またかなしそうな声で、幽霊はしきりとかきくどいていたが、急にけたたましい声をたてて、

 「ああらおそろしや、鬼が来る、火の車で鬼が迎えに来た。神よ救いたまえ、助けたまえ!」と叫びだした。亡霊は地獄の責め苦が近寄ったと見える、狂気のようになって、墓の周囲を駆け回りだしたのである。

 時分はよしと合図の口笛がやみに響き渡ると同時に、署長の手は山坊主の肩をつかんで、

 「御用だ!」と一喝くらわした。

 入り口の溝に待ち伏せした警部補と巡査は、幽霊をひきずりながらやって来た。何者かと正体を見届けると寺男である。頭から白布をかぶり巧みに亡霊に化けた寺男は、死んだ無神論者の母に似せた、蝋細工の面をかぶっていたのである。法廷で寺男が答弁した口供によると、なんでも死んだ女の肖像を手本に、蝋の面をこしらえたのであるそうな。

 さて、山坊主の処分はどうなったかというに、ローマ法王との特別条約があるので、仏国政府の手では罰するわけにゆかぬ。遺憾ながら法王庁の裁判に付せられたのであるから、禁固とは名ばかりで、山坊主は仏国のある僧院で、楽隠居としゃれ込んだ。もちろん酒もあれば女もある、博奕も打ちほうだいという、結構な罪人なのである。

 ばかばかしい幽霊騒ぎがもたらした、価値ある産物がたった一つある。ほかでもない、勘当するとまで決心していた迷信家の好々爺は、急に機嫌が直って、息子と仲直りをする、と同時に天主教をすてて、清教徒に改宗したのである。

 右のごとき故意的方便が、今日なお宗教界に存するは困ったものである。宗教の改良というよりも、信仰の革新の必要がある。まず第一に、迷信を離れて正信に移るようにしなければならぬ。余は信仰に三種を分けて迷信、理信、仰信とし、その義解を左のとおり定めておく。

迷信・・道理に背いたものを信ずること。

理信・・道理に合したものを信ずること。

仰信・・道理に超えたるものを信ずること。

 これは背理的信仰、合理的信仰、超理的信仰と名づけてもよい。また、愚俗的信仰、学術的信仰、宗教的信仰と申しても差し支えない。しかして、宗教のいわゆる正信は仰信にして、これを助くるに理信をもってすべきものと思う。しかるに、今日なお迷信の範囲を脱することができぬとは残念の次第である。かかるありさまなれば、これに乗じて詐欺とひとしき手段をめぐらすものもできてくる。よって余は、信仰そのものを向上せしむるは、今日の急務と思っておる。

第二四項 再生の確実なる徴証

 (問う) 仏教には六道輪廻の説あって、ひとたび死してもたちまち再生しきたると教え、その信者の話によれば、確かに再生の実例がある。例えば、一家において子供の死んだときに、手か足に墨にて印をつけて葬ると、後にその家または親類に子供の生まれたるのを調べてみると、果たしてその印を持っておる。これは再生の証拠であると申すが、いかにも真怪らしく思わる。いかがでありましょうか。

 (答う) 再生については、先年、地方の有志家より妖怪研究会へ報道を寄せられたことがある。その文二通を掲げておこう。

 美濃国山田大助氏の報に、近日某新聞の記載するところによれば、わが美濃国本巣郡北方村九番地、飯沼常七といえる人の次男万治が、本年の二月はじめて出生せしに、その背に谷口治兵衛の五字を負えり。よって、これを再生児なりという者ありし由。(明治二十年の報知)

 千葉県和田喜学氏の報に、予は明治十六年十一月中、遠江国浜名郡白須賀駅、医師河合周造氏に寄寓せしが、その際、右河合氏より左の奇話を聞けり。曰く、「同郡上の原村に田村荘兵衛という人あり。この人は幼名を勇吉といい、再生児なり。今その由来をたずぬるに、荘兵衛の父におゆうといえる一女子ありしが、年十歳にして、ある年の一月に死去せり。ときに一僧あり、来たり告げて曰く、『貴家、いま愛児を失うといえども、深く悲しむに足らず。亡児おゆうは、本年十一月二十四日をもって、男子となりて必ずこの家に再生せん。その分娩のとき、赤子の左掌を検せよ。必ず徴証あらん。かつ、その子はまさに勇吉と名づくべし。なお、毎月八日、十四日は固く精進すべし』と言い終わりて、飄然として去れり。一家すこぶるこれをあやしみしが、その年の二月、妻懐妊し、果たして異僧の予言にたがわず、十一月二十四日に至り男子出産せり。よってその左掌を検せしに徴証ありしという。これすなわち今の荘兵衛にして、今年四十九歳なり。その父は数年前に没せしが、母は今年七十九歳、またそのときの産婆は今年八十一歳にて、いずれも今なお生存せりと。よって予は同月二十三日、親しくその母につきてこれをただししに、実にさることありきと語れり、云云」

 かかる話は、事実と対照すると案外に感ずることがある。先年、北海道小樽の寺田某の宅にて、鶏が菊桐の印紋ある卵を産みたりとて大評判となり、余も一見したが、卵の外面になにやら判明せぬ斑紋がある。よほどわが精神の方で予期して見れば、少々菊桐に似ておるかと察せらるるくらいに過ぎぬ。美濃の谷口治兵衛なども不明の斑紋があって、これをみる人の心で迎えてそのように鑑定したものと思う。ただいまの遠州の話も、多分この類であろう。かくのごときは物理的妖怪と申すものであって、真怪ではない。

第二五項 動物の謝恩に関する美談

 (問う) 神社仏閣の奇跡、霊験については一とおり御説を拝聴しましたが、動物の謝恩ということにつき不審の事柄があります。牛や馬でも人間のごとくに、果たして謝恩、報徳ということを知るものかいかん、伺いたい。先年発行の『都新聞』に、左の記事が掲げてありました。

 弘化年間、防州の片田舎に、与平という至極朴訥の農夫がいた。あるときその近所のひとが、老衰してヨボヨボとなった一頭の馬をある百姓の手から買い取って、とある磧にひきゆき、撲殺してその皮をはごうとするところへ、かの与平が通りかかって、その光景を見て心のうちで思うようは、「ああ、牛馬というものは実に情けないものじゃ。壮健でいたときは田鋤きや荷駄でさんざんにこき使われ、老衰したといってはブチ殺されて、太鼓の胴に張らるるとはなんたる因果のことであろう」となみだを流して不愍がり、ついにそのひとに交渉して、若干の利金を与えてその老馬を買い取って家につれ帰り、牛舎のそばに入れてこれを飼養していた。馬はその恩に感じてか、与平が馬小屋の前を通るたびに前足を折ってひざまずいて、謝恩の意を表していたのであったが、飼うこと一両年にしてその馬は病んで死んだ。与平はその死骸をていねいに、小丘の櫨の木の下に埋めてやった。

 スルト、その夜の夢に馬の霊があらわれて、深く生前の恩を謝し、かつ「報恩の万分の一には、作物のみのりを保護すべし」と言って消えうせた。それより与平の作物は、年々不思議にもその収穫他に倍し、比年ならずして村内屈指の有福の身となった。そこで与平の死後に、その子孫は、かの櫨の木の下へは馬頭観音を建立して、如是畜生の菩提を懇ろに弔ったそうである。惜しいことには、与平というもののいた村名を逸したことだが、動物愛護の一美談である。

 もし、この記事のとおりであるならば、実に真怪であると思います。

 (答う) 牛馬に謝恩の行為のあることは、古来の美談すこぶる多い。よって、道徳心は人間特有でなく、動物にもいくぶんかあるものと許さなければならぬ。ただ、その発達進化の程度において、人間と動物との間に高下の相違がある。ゆえに、人もし進化論によって人獣同祖の理を知らば、牛馬に謝恩の情あることは毫も不思議でなく、かえって当然と申してよろしい。ただし、右の記事の終わりの、馬の霊が夢にあらわれたというのは、当人の心理作用と見なければならぬ。また、この夢を見て以来作物ができるようになったのは、当人が夢告を信じた結果である。夢に作物をよくしてやると聞いて、爾来、一層耕作に力をこめた結果、収穫も多くなったに相違ない。よって、これまた不思議とはいわれぬ。

 ついでに、『霊獣奇譚』中に獣類の道徳につき諸例を列挙してあるが、その末段に犬の謝恩の一節が出ておるから抜記しておく。

 愛媛県東宇和郡多田村の古谷周道氏の邸宅の前に一つの建物あり。近隣の畜犬、ここに十数日前、数頭の子を産みたり。同建物は当時物置のごとくなしおけるをもって、主人は犬を追わず、かえって食物の手当てなどなしていたわりおりしが、そののち幼犬もおいおい成長し、各所を歩き回るくらいに至りたり。しかるに、不思議にも母犬はいずれともなく一匹の鶏をくわえ来たり、たまたま主人の庭前にあるを見てその前にさし置き、尾をうごかし声を発して三拝し、その状あたかも前日の恩を謝するもののごとし。古谷氏も、さては近隣の畜鶏を盗みしものなるべしとて、村中を問いたずねさせしが、いずれの家にも畜鶏を取られたりというものなし。さて、また一日を隔てて同じく一匹の鶏を口にくわえ来たり、また前のごとくす。ここにおいて古谷氏は、挙動のなみなみならざるは、前日産所を貸し与え、ときどき食物などを与えたる報恩の意なるべしと、大いに感じたりとなん。

 この奇談も不思議のようであるが、犬にはかかる美談がことさら多い。ゆえに、彼らにも道徳的行為の端緒を有していると考えなければならぬ。ただし、獣類の行為には反射的が多く、人間のごとく明瞭なる意識をもって行うのではない。よってただいまの犬も、その飼い主が前に数回鶏を捕らえさせ、これに賞与を投じたことがあったものらしい。その習慣がかかる行為を呈するに至ったのと思う。ちょうど、猟犬が鳥を捕らえて主人のもとへ捧ぐると同様であるから、不思議とするに足らぬ。

第二六項 野狐の謝恩談

 (問う) 動物の謝恩については、前の話よりも一層不可思議の実例が、今より十年前に『福井新聞』上に見えていた。それは野狐の謝恩談であります。

 茨城県那珂郡馬渡村前浜の農夫某の妻が、さきごろ松林にて枯れ枝伐採中、一匹の子狐が戯れおるを認めて難なく取り押さえ、自宅へ帰りて鶏の空き篭へいれおきしところ、同夜十二時過ぎと覚しきころ、「人の子もわが子も同じだ」と繰り返す声の聞こえしを家人のだれかれが耳にしたのが、あるいは村童の所為ならんとその夜はそれで済みけるも、その後毎夜のごとく同一時刻に同じ声の聞こゆるより、四日目の夜、声がすると同時に裏表へ手配りして戸外を見ても、何者もおらざりしにぞ。いよいよもって不審を起こし、さては、狐の親がわが子恋しさのあまり毎夜慕い来るならんと、翌朝、子狐にさんざん御馳走をして油揚げの土産まで添え、最初捕らえし小松山まで抱え行きて放ちやりしところ、その翌朝、だれも来たような様子なかりしにかかわらず、溌刺たる大鯛一尾台所の上にありしより、これは親狐が謝礼に持ち来たれるならんと、同地方ではもっぱらの評判なりと。

 これなどは真怪と見てよいかと思うが、いかがでありましょうか。

 (答う) その記事だけ読んでは不思議に感ぜらるるが、事実の果たしてこのとおりかいなか問題である。とかく、かかる話にはおまけがつき、針小棒大になることが多い。その一例として、明治四十年一月発行の『信濃毎日新聞』の怪談を参考に掲げてみよう。

 新年早々薄気味悪き怪談は、上高井郡須坂町においてかまびすしく伝えられる。まず、その巷説より記さんに、同町字春木町の某、過日、字新町の某質商より古蒲団を買い入れたるが事の起こりにして、一夜、某の妻おナニがその蒲団を用いて眠りに就きしに、草木も眠る丑三つころ、アーラ不思議や、その蒲団が、

「姉ー、暖かいか、暖かいか」とよび起こせり。翌早朝この由、夫に物語れば、それは神経作用なるべし。今夜はわれ試みんとて、同夜その蒲団を用いしに、夜は深々と更くるころ、「兄ー、暖かいか、暖かいか」と、前夜妻に言いたるごとく聞こゆるにぞ。不審にたえず、翌日早々この蒲団を破りて子細に改めしに、コハいかに、上側は新しき綿にて包み、中は古綿のみにて、しかも親指を切断せるごときもの二本あり。かつ、古綿はことごとく血潮に汚れおるより、その驚きひとかたならず、ただちに警察署に届け出でたりというにあり。噂は巷に伝わりて、いたるところ寄ると触ると、この怪談にて持ち切りのありさまなり。

 この記事だけ読んだらいかにも不思議と思うであろうが、さらに後報として、左の報知が掲載してあった。

 先項のごとく容易ならざる怪談の喧伝せらるるをもって、ただちに同地なる特派員をして探知せしめたる結果は、左のごとくなり。

 元来噂のみなれば、青木町の居住者とのみにして、そのなんぴとなるやを知るに由なく、されば、まずその居宅を探知せんと同町に至り、両三戸たずねしも当町内にはさる噂なし。このほど某が確かめに来たりしよりはじめて知りたるほどなれば、いずれなるやを知らずというにぞ。いかにせばやと躊躇せしが、幸いに同町内の知人に逢い右の次第を語りしに、それは多分、この町内に寄留せる下高井郡平隠村生まれの大工職、小林定五郎方の出来事なるべしとのことを聞き、すなわち同家近傍に至りて聞けば、昨年十一月下旬、同家において更紗形蒲団四、五枚を屋根に干し、かつ、妻カイが古蒲団で気持ちが悪いから急に洗濯しようと思うと、女の常とて近所の者に話したるが原因なるべしと。また一説によれば、定五郎は近所にてあまりよくいわれぬ人物にて、近ごろ少しく家計のよくなりしより、なにかにつけ同業者のねたみを受けおるためなるべしと。なお、進んで定五郎に面会してその直話を聞けり。同人の曰く、「昨年十月、同町恵比須講の二、三日前、新町小桝屋古道具店より、更紗形蒲団六枚を金十五円にて買い求め、十一月十日ごろ、妻がこれを洗濯して屋根に干し置きしことはありき。されど、いまだ噂のごとき異状はなし。自分もこのごろより、しばしば同様の噂を聞きおりしも、自宅がそのもとならんとは少しも知らざりき。

その蒲団も今ここにあれば御覧下され」と記者に示せり。されば、要するにこの噂は、上高井郡日野村字高梨辺りより起こりしもののごとく、かくて次第次第に喧伝せられしものなれば、一説のごとく、定五郎の家計豊かになり、現今、市川橋修繕工事の請け負いをなすほどに至りしかば、あるいは同業者のねたみより、悪策を巧みて一発放ちしねらいの鉄砲が、うまく図に当たりしものなるべし。

 この後報を一読しきたらば、だれも不思議と思った夢が全くさめるであろう。これは、余のいわゆる偽怪すなわち人為的妖怪である。それゆえに、茨城県の狐が返礼に鯛を持って来たという話も、眉に唾液をつけて聞くべきものと思う。もし、これを事実とすれば、「人の子もわが子も同じ」と聞きしは幻聴であろう。鯛を持ち来たりしは、何者かの人為的に出たものらしい。ゆえに、これまた真怪ではない。

第二七項 禽獣が屍を人に見せぬ不思議

 (問う) 禽獣が人に己の屍を見せぬということも不思議のように思う。雀でも鴉でも鼠でもたくさんおるが、死体を発見することはいたってまれである。これはどういうものか、ついでに承っておきたい。

 (答う) その問題について先年、妖怪研究会で答案を募集したことがある。そのとき集まった答案中、因幡国気高郡大郷村、谷口勇治氏の寄書が最も要領を得ているようなれば、その全文を左に掲げておく。

 鳥獣は毎日多く死するに相違なきも、その死骸を見ること少なきは、世人の常に不思議とするところなるが、予はこれを左の二因によるものなりと信ず。

 第一因は、彼ら鳥獣の死にひんするや、その病躯を隠蔽する性質あるによる。けだし、彼ら弱肉強食の鳥獣は、常に外敵の襲害をおそるることはなはだしく、その巣穴を営むにも、林★(莽の大が犬)の下、断崖の辺り、あるいは老樹の梢上等、本能的巧知をもって、できるだけ他動物の発見し難く、また近接し難き箇所を選ぶ。その疾病、傷害等に悩むに際して、病弱の体を隠蔽せんとするは当然にして、その多くは、この発見し難き巣穴に避隠す。これ、その死屍の人目に触るること少なきゆえんなり。ゆえに、ひとり死骸のみならず、彼らの巣穴を発見することもまれなり。しかして、たまたま彼らの巣穴を発見することあるも、その中に死骸を見ることなきは、彼らの高等種族のものは、かの猫の己の糞を嗅んで隠蔽するがごとき観念をもって、同棲の死屍を土下に埋めて隠蔽する等のこと、なきにしもあらず。また、鳥類のごときも、死屍を永く巣中に放置するがごときことなくして、これを巣外に排除するなるべし。されば、人家に飼養する犬猫の死骸の多くは、軒下、床下に横たわるを見、やや人家に接近しやすき狐狸の、闘争もしくは過失によって死せるものは、往々田圃に見ることあり(予はかつて狸の死骸を、一回は圃上に見、一回は農家の肥料溜めに陥りて死したるを見しことあり)。また、小鳥の朝夕糢糊のとき、電線、白亜等に衝突して死せるあるは、しばしば目撃するところなり。

予かつて、動物の死にひんして、その体を隠蔽するものなることは、実視せることあり。数年前のことなりしが、一猫来たって、予が愛鶏を害せしをもって、その恨みを報ぜんことを謀り、一日、該猫の来たれるをうかがい、長棒をふるって一撃せしに、頭部に命中して、猫はその場に倒れ、四肢をもがきて苦悶せしが、予はその惨状を見るに忍びず、自ら惨酷の所為を悔いて他に出で去りしも、数時の後その生死を見んと欲し、再びその場に至りて見るに、死屍のあらざるをもって、そのよく死に至らずして逃れ去りたるを怪しみいたりしが、数日を経て、数間をへだたりたる藁芥の下に隠れたる死屍を発見したり。

 つぎに第二因は、彼らの下等種族のもの、特に鳥類の死屍のごとき、多くは他動物の食餌となり果つるによる。狐、狸、犬、猫、鷹、鳶、梟、烏の族、昼夜間断なく探餌に営々として飽くことを知らず、険をおかし闘いを格して貪食を事とす。小動物の死屍、なんぞ人目に触るるのいとまあらん。

 この説明に照らして考うれば、不思議とするに足らざることが分かるであろう。

第二八項 犬神持ちの霊怪作用

 (問う) 動物の怪談について別に承りたい一怪事は、長州〔長門の国〕や石州〔石見の国〕では、犬神持ちの家があるそうだ。犬神とは一種の霊怪作用を有する動物で、その形は人目に触れぬものらしい。かかる動物の住しておる家が一定しておる。その家を犬神持ちと称して、子々孫々相伝わるとのことである。しかして、その家では犬神を使い、もし他人の所有しておるものを見てホシイとの念を起こせしに、その人が授けぬときは、犬神を取りつかせて悩ます。そのありさまは、東京辺りの狐つきと同様である。これを犬神つきと名づけておくそうだ。また食物などは、犬神持ちの人がひとたびホシイという念をかけると、すぐに腐敗するということを信じておる。先年、新聞ではない、直接に石州津和野町の人の話に聞いたが、近在の人が両人一緒に、町の魚屋にて一尾の鮮魚を買い、これを二つ割りにしておのおの片身を携え、道を異にしておのおの自宅に帰ったそうだ。そのうちの一人は、途中で犬神持ちの人に遇った。帰宅のうえ検するに、魚肉のすでに腐敗しておるを認めた。これに反して、犬神持ちに遇わぬ方は腐敗していなかった。よってその腐敗の原因は、犬神持ちがホシイとの念を掛けた故であると申しておる。この話を聞いて実に不思議と思ったが、いかがのものでありましょうか。

 (答う) 犬神のことは、三、四十年前研究したことがある。その本元は四国であって、四国には古来狐がおらぬから、すべてのつきものは犬神または狸である。なかんずく阿波、土佐は犬神沙汰が多い。そのほか日向、豊後、周防、長門および芸州、石州の一部分では、やはり犬神を信じておる。それから、その家は系統を追って子々孫々に伝わるという迷信は、犬神ばかりではない。なかんずく、最も名高いのは出雲の人狐である。これに次いでは木曾の管狐、群馬、埼玉のオサキ、備後の外道などである。その系統は社会から排斥せられ、他の家と縁組みができなくなる。これらはむろん迷信の大なるものだが、今もって依然として存するは困ったものと思う。ただいまたずねられた鮮魚の片身が腐っていたということは、仮にこれを事実としてみるに、物的方面と心的方面の両方より考えなければならぬ。物的方面では、その魚の取り扱い方いかんによっては、早く腐敗することがある。もし、その片身を風通しの悪い所に置けば、腐敗が早い道理だ。つぎに心的方面では、途中犬神に遇ったから必ず腐るであろうと予期して食するから、さほど悪くないのも腐ったように感ずるが、犬神に遇わざる方は、少々悪くともさほどに感ぜぬものである。ゆえに、かかることは不思議でもなんでもない。純然たる迷信と申さねばならぬ。

第二九項 オサキが蚕を盗む不思議

 (問う) オサキの御言葉について思い出したが、群馬県では、人がオサキを使って他家の蚕を盗むということを、一般に信じておるらしい。ときどき蚕児の紛失することがあるそうだ。あるいは鼠の所為ならんかとて、養蚕室へ鼠の出入りする口をことごとくみなふさぎ、外から何者もはいられぬように戸口をシッカリ締め切り、室内には番人を置いて終夜守らせておくのに、蚕児の一部分がなくなっていた。これはオサキの仕業とするよりほかに説明ができぬとの話を聞いたが、実に不思議でありませんか。いったい、オサキはかかる妙用を有するものでありますか。

 (答う) この蚕児紛失の件については、群馬県のみならず埼玉県にも起こり、一時流行のようになったので、ちょうどそのころ、余は妖怪研究に従事していたから、わざわざ出張して調べてくれとの依頼を受けたことがある。ただいまの話の、厳重に戸締まりをして夜番を置くのに蚕児がなくなるというのは、番人そのものの所為であろうと思う。そういうことが流行する場合には、番人そのものが故意に蚕児を持ち出すこともある。これは一種の好奇心で、人をして不思議に感ぜしめたいと思う一念より、おもしろ半分にするのである。もし、故意でなければ、番人が睡眠中、無意識にすることもある。人間の精神作用に意識と無意識とのあることは説明を要さぬが、この無意識作用に睡遊ということがある。あるいは夢遊ともいう。すなわち、睡眠中起き上がって夢中でする作用のことである。よく子供が夜中、急に起き上がって駆け出したり、戸を開けたり、種々のことをなしながら本人全く覚えぬ。これがすなわち睡遊と申すものである。つまり、番人がオサキが盗むということを信じておると、睡眠中自らオサキとなりて取り出し、しかも翌朝目がさめて全く覚えぬのであるらしい。よって、一種の睡遊作用である。このことは心理学を研究すれば、すぐに不思議でないことが分かる。

第三〇項 一日中に全国の名山を一巡した話

 (問う) さきに天狗の文字については御説を拝聴したが、まだ天狗の作用の上にいろいろ不可解のことがあるから、質問申し上げたい。よく世間にて、天狗につれられて日本中の名山をことごとく見物して帰ったという話がある。その時日はわずか一日か二日ぐらいのあいだに過ぎぬ。かかる短時間に全国が一巡できるはずはない。これこそ真怪ではなかろうか。

 (答う) ある寺の小僧が日暮れに和尚に追い出され、村外れまで出てみたが、行き場に困り、ブラブラしておるところへ、フトいと年寄ったる老翁が現れ、小僧に向かい、「われは天狗である。汝、われとともにわがすみかに来たれ」といいながら、天狗が小僧をかかえて空中にのぼり、ある高山のいただきにのぼり、それより天狗の案内にて諸方の名山を巡りたる後、小僧が自宅へ帰りたいと申すゆえ、天狗がつれて帰ったという話は、各所に伝わっておる。これは天狗の所業でなくして、小僧の夢である。実際、一昼夜ぐらいの短時間に全国を一周することができるはずはない。つまり、小僧が寺から出てみたが行く所に迷い、精神恍惚として夢の境界を現したのに相違ない。幼少のときより天狗の話を聞いておるからその記憶が働き、眠らずして夢同様の境界になり、谷間や薮の中を夢中にかけめぐりながら、全国の山々をめぐりつつある夢を描いておる。かくして、その夢のさめて正気に復したときが、まさしく帰って来たときとなるのである。しかして、その夢を見ておる間は、全く薮の中などに起臥しておるに相違ない。もとより、そのときは精神に異状を起こしておるから、二、三日ぐらいは食わず飲まずとも、さほど飢渇を感ずるものでない。このことは精神病患者について見ることができる。また、その小僧を探したところが、薮の中で発見したという実例も聞いておる。その他、民間にて伝うる神隠しというのも、これと同様である。かく考えきたらば、別に不思議の点はない。

第三一項 山怪の不思議談

 (問う) 山中において強壮の男子が急に倒臥し、人事不省に陥ることがある。これを世間では天狗の所業に帰しておくが、本当に天狗であろうかいかが、伺いたい。

 (答う) 深山幽谷に入るものは、ときどき気絶卒倒し、手足も動かず、言語も通ぜぬようになることがある。これは天狗の所為でなく、山気に打たるるのである。この怪事に関し、明治三十二年ごろの『妖怪通信』に、長崎県の話を載せてあった。

 去るころの『読売新聞』に記するところによるに、長崎県南高来郡諸村にては、古来、温泉山〔雲仙岳〕に登るときは、必ず摶飯と梅干しとを携うべし。梅干しは霧を払うの妙薬にして、摶飯は「だらし」を予防するがためなりとの言い習わしあり。「だらし」とは一種の妖怪的飢餓病とのみあって、いまだこれを明白に実験したる者あらざりしが、長崎高等学校医学部生徒某氏は自らこれを実験し、また他人がこの怪病にかかるを見たりという。今その話を聞くに、右の学生はこのころ、暑中休暇を得て帰村せんとする途次、右の村と小浜村との間なる山中字小田山の頂上、矢筈の下手辻と称する坂道において、一人の男、野に倒れおるを見たり。その男、学生を見るよりかすかな声にて、「『だらし』にかかりて困りおるゆえ、摶飯あらば賜れ」という。学生はかねて「だらし」のことを聞きおるをもって、用意の摶飯を与えけるに、男は喜びてこれを食し終われば、間もなく力付きて馳せ下れり。

さて、右の学生が実験したるは、去年十二月下旬午後四時ごろの、冬季休業のため帰村せんとて、右の山路に来かかりしに、たちまち空腹となり、ひもじさいや増して、身体の疲労尋常ならず、手足しびれてすくみたるがごとく、ちょっとも動けず。強いて足をあぐれば、その重さ千鈞をひくがごとく、手を動かせば、縛られたるに似たり。困じ果てて石に腰打ちかくれば別に苦痛も感ぜざるが、立てば身の重さ少しも減ぜず。進退ここにきわまりながら叫べども応ずる人なきに、ぜひなく這うがごとくに坂を攀じ登りはじめたるが、たちまち昏絶倒臥して死生を弁ぜざるもの十数分、その前は時候にも似ず全身すこぶる熱暖なりしが、このときに至り、はじめて野嵐の冷え渡るを覚えて目をさまし、それより千辛万苦して、わずかばかり離れたる横道の茶店にたどりつき、蕎麦数椀食したれば、身心はじめてわれにかえり、寒さも相応に感ずるごとくなりて、まずつつがなく郷里に帰着したり。これ、すなわち「だらし」に取り付かれたるものなるが、里俗には、何か食物を携えおればこの魔にかからずといえど、実際においては、鰯売りの男が鰯の傍らに昏倒したる例あり。

その他、数人の同行者が一時におかされたるの例あり。勇怯いかんにかかわらずといえば、神経的の山怪にもあらずと見え、結局は空腹に乗じて、人体内に一種強力の麻痺を与うる空気のためなるべしという。

 この話のごとく、不時に卒倒するのは天狗のごとき怪物の所為でなく、山中の空気にあてられたのである。よって余は、これを物理的妖怪の中に入れておく。

第三二項 夜中、天狗に引き出された実例

 (問う) 徳島県に天狗寺があって、その寺の住職が夜中熟睡しておるところを天狗につれ出され、はしごを用いずして鐘楼の屋根の上にあげられていたという話を聞いておるが、その事実はいかがでありましょうか。

 (答う) 徳島県の天狗寺というのは、多分小松島町の、ある真宗寺院のことであろう。その寺ならば、先年行ってみたことがある。聞くところによれば、今の住職の先代に当たる住職が、熟睡の後に起きて戸外に出でて、鐘楼の屋根へ上がり、夜の明くるまでそこにいた。そのことは家族の者だれも知らぬ。翌朝起きてみると、住職が見えぬ。戸をあけると鐘楼の上におるを発見した。しかして住職の方では、室を出でてそこにのぼったことは全く覚えておらぬ。翌朝、人に呼びかけられて、はじめて気が付いたそうだ。むかしはかかる出来事があれば、すぐにその原因を天狗に帰したものである。今日は天狗を借用せずとも説明ができる。これは前に述べた睡遊である。そのとき住職は睡遊を起こし、夢中歩き出して鐘楼の屋根にのぼり、翌朝まで夢中の状態を継続したのである。しかして、はしごなしに屋上へのぼったのは、鐘楼の傍らに樹木があって、この木に登れば屋根の上に移ることができる。多分、その木によってのぼったのであろう。睡遊にはいろいろ複離なる出来事があって、西洋の心理書には珍しい実例がたくさん出ておるが、余のわが国にて聞いた話にも、なかなかめずらしい例がある。木から屋根へ移ったくらいのことは、決して奇怪ではない。しかし、あまり話が長くなるから、他の例は略しておく。

第三三項 文字知らぬものが能書になった事実談

 (問う) 天狗の怪事についてモー一つ御教示を煩わしたいのは、天狗の所に至ったものが文字を習って帰り、元来字の書けぬものが、にわかに能書になったという話を聞いておる。これが事実ならば、真に不可思議であると思われます、いかが。

 (答う) 天狗から書を学んできたという話はたびたび聞いておるが、その中に最も不思議といわれておるのは、阿波国美馬郡貞光村の事跡である。これは明治維新前、旧藩時代の話であるが、今なお直接にその人を知っておるものが存命しておるであろう。その話の概略は、貞光村のある民家に白痴の子息があった。子供のときに書を習わせ字を教えてもサッパリできぬから、教育せずに捨て置き、厄介ものにみなされてあった。しかるに、成長した後フト身を隠し、どこへ行ったか分からなくなった。そのとき親たちは、川へでも落ちて死んだであろうと思っていたが、数日を経て帰って来ていうには、天狗の所へ行き、書道と剣道とを学んできたといい、その後は昼夜の区別なく反古紙に字を書き、竹やぶの中で竹を相手に撃剣を試みておる。その熱心は一とおりでない。最初のうちはだれも相手にせず、白痴になにができるものかと度外視していたが、これまでなにほど教えてやっても毫も書けなかった書がひとりでにだんだん上達し、撃剣もその村内に先生がおるから、そんなに熱心なら相手になってやろうといって、試合をしてみたところが、なかなか上手である。だんだん稽古を重ねるうちに、撃剣の名人となり、これまで白痴として軽蔑していたものが、みな敬服するようになった。そのこと徳島藩に聞こえ、撃剣の師匠にかかえられ、相当の手当てをもらうことになり、自活の道も立つようになった。

そこで親戚の者が申すには、「生涯独身ではおられまいから、女房を迎えよ」と勧むるに、当人いうには、「妻帯のことは天狗様より厳禁された」と申して、勧めに応じない。書もおいおい上達して、人のもとめに応じて額なども書いたのがあるそうだ。かくして数年経過せる後、再三、人より妻帯を勧められ、ついに当人もその気になって妻を迎えた。そうすると、せっかく熟達したる撃剣も書もパッタリできなくなり、もとの白痴に戻ったという珍しい話で、ツマリ、白痴に生まれて白痴で終わってしまった話である。

 これは嘘偽りのない事実ということを、余は三十年前、その近郷の脇町で聞いた。これをなんと解釈するかというと、天狗の所へ遊びに行ったと申すのは、前の話のごとく、人跡なき山の中で夢を見ていたに相違ない。その夢に天狗の姿が現れ、「われ、汝に書道と撃剣とを授けてやるから、その代わりに生涯妻帯をするな」と命令を下されたのであろう。これと同時に彼の心機一転し、精神状態がコロリと変わってきたのである。これを宗教上にては、天啓を授かったということになる。蓮門教の島村みつ子や、天理教の中山みき子なども、これと同様と見てよろしい。余の考えにては、白痴に二種あると思う。絶対的白痴と相対的白痴との二つである。絶対的の方は、脳髄の実質に大欠損あって全く見込みなきもの、相対的の方は、欠損はないが精神を使用するに当たり、その運転がぐあいよくゆかぬ情態にあるものであろう。

ゆえに相対的の方は、ある格段なる機会に遭遇し、好良なる刺激を受くれば、生来の白痴が面目を一新するに至るわけである。すなわち、夢中における天狗の啓示が、この機会を彼に与えたに相違ない。つぎに、書道、剣道の上達したのは、全く彼の信仰の力である。すなわち、天狗の啓示を信ずること厚きために、専心一意、全力をその点に集注することができたのである。文字の方は、幼時習わせられたのが土台となりて、急に発展したに相違ない。それから、妻帯すると同時にもとの白痴にかえったわけは、最初天狗より固く禁ぜられておったのを、その禁を破ったから、これでは天狗に対して相済まぬことをしたと思う一念に、精神運動の綱が切れて、もとの白痴に立ちかえったのである。すでに彼の術は天狗と連絡しておるから、その連綿が断たるれば、精神が働かぬようになるのは怪しむに足らぬ。

 この事実談ですらも真怪の仲間入りができぬと知ったなら、他の天狗の奇跡談の不思議でないことは、自然に分かるであろう。

第三四項 狐狸、天狗が乗り移って字を書いた話

 (問う) ただいまのお話は、幼時、書を学んだことがあるから、後にその種子がみのって書けるようになったと見られましょうが、幼時より全く書を知らず、「一」の字の縦横ですらも分からぬ純然たる無教育者が、にわかに字の書けるようになった話がありますが、これは真怪か、いかが。

 (答う) 一文不知の者が文字を書くということは、狐狸がついたといわるるとき、または天狗が乗り移ったといわるるときにある。これは精神作用が権衡を失い、一局部に偏依〔倚〕して働くときに起こる。かかる場合には、当人が額なり看板なり、なににても文字が目に触れるときに、その意味が分からなくも、文字の形を深く脳裏に印象することができるものである。その印象を明らかに再現し、これを手本として書くから、文字ができるのである。つまり、精神がその一点に集注する結果と見てよろしい。ゆえに、かかる精神に異状を起こした場合に字の書けるのは当たり前であって、不思議とはいわれぬ。

第三五項 コックリ様の霊怪作用

 (問う) 先年、コックリ様といって、竹を三本ゆわい、その上にお盆またはお鉢の蓋を載せ、さらにその上に二、三人手をかけて置き、これにいろいろのことをたずぬるに、いちいち竹の足をあげて答える。例えば、病気がなおるかなおらぬかをたずねんとするに、「もし病気がなおるならば足をあげてくれ」と申して、果たして竹の足があがれば必ずなおる。その詳細は、当時の雑誌にて見たこともある。

 (前略) 座中の一人盆に向かい、よんで曰く、「コックリよ、コックリよ、汝の座をここに設けたり。速やかに来たれ」また曰く、「コックリよ、コックリよ、すでに来たらば、そのしるしとして盆を右方にめぐらせ」また曰く、「この盆を右方にめぐらすをいとわば、なんぞ左方にめぐらさざるや」このとき、盆の徐々に運行するを見る。けだしこの動作たる、突然行わんと欲するもあたわず、少なくとも三、四回以上、これを試みざれば動かず。もっとも、一回この動作を呈せし家は、その後いずれの日にこれを行うも来たらざるなく、かつその来たるや迅速なり。また曰く、「その盆をして一周せしめよ」このとき、盆全く一周す。また曰く、「汝、狐なれば、この足(三本の竹のうち一本を指していう)をあげよ」このとき足あがらざるをもって、衆その狐にあらざるを知る。また曰く、「汝、天狗ならば、この足をあげよ」このときまた足あがらざるをもって、衆その天狗にあらざるを知る。また曰く、「しからば汝、猫ならんか。果たして猫ならば、この足をあげよ」このとき竹の足あがること一寸ばかり。ゆえに猫の来たると仮定す。また曰く、「汝、この足を三寸ほどあげよ」このとき竹の足あがること三寸。

また曰く、「汝は甲村より来たるや。もし果たして甲村に住するものならば、この足をあげよ」このとき足あがらざるをもって、すなわち甲村より来たらざるを知る。また曰く、「もし乙村ならば、この足をあげよ」このとき足あがるゆえに、乙村より来たるものと断定す。また曰く、「汝はふざけに来たるや」このとき足あがらざるゆえ、ふざけにあらずと断定す。また曰く、「しからば、汝は物教えに来たるか。物教えに来たるならば、この足をあげよ」このとき竹の足あがる。すなわち、その吉凶禍福を告ぐるために来たるを知る。また曰く、「それがしの家には出火等の禍ありや」このとき足あがらず。すなわち災いのなきを知る。また曰く、「しからば、それがしの家には幸福ありや。もし幸福あらば、この足をあげよ」このとき足あがらず。また曰く、「しからば、福来たらざるか」このときまた足あがらず。また曰く、「しからば、いまだ全く明らかならざるか」このとき足あがる。すなわち、禍福いまだ知れずと判断す。またしばらく、「汝の年齢は幾歳なりや。一歳を一足として、この足をあげよ」このとき竹の足あがること十回なるをもって、この猫の年齢十歳なるを知る。また曰く、「明日は晴天なれば、この足をあげよ」このとき足あがらず。また曰く、「しからば、明日は雨天なりや」このときまた足あがらず。また曰く、「しからば、雪天なりや」このとき一本の足徐々としてあがる。衆すなわち翌日は降雪と断定す。(中略)

また、コックリに向かって問うて曰く、「汝は一本の足にておどるや」このとき足あがらず。また問う、「汝は三本の足にておどるや」このとき足あがらず。また問う、「汝、二本の足にておどるや」このとき足あがる。すなわち、その二本の足にておどるべしと断定す。また問う、「軍歌にておどるや」このとき足あがらず。また問う、「情死節にておどるや」このとき足あがらず。また問う、「しからば、相撲甚句にておどるや」このとき竹の足あがる。よって一人、相撲甚句を歌い、竹の足二本とその歌の調子に合わせ、こもごもその足を上下す。歌人の音声清らかにして調子熟すれば、その足の上下一層迅速にして、座中を縦横におどりあがる。すでにこのときに当たっては、これまで三人にてなしたるも、ただ一人にて、よくその足をして上下せしむることを得るに至る。

 かかる粗造の仕掛けで、なにをたずねてもよく答え、かつ予言までするというは、実に不思議と思う。いかがでありましょうか。

 (答う) コックリのはじめて流行したときは、余がまさしく妖怪研究を始めた当時であって、これを取り調べて世の中へ発表したものは余である。そのことは拙著の『妖怪玄談』および『妖怪学講義』中にくわしく書いておいたから略しておく。これより十五、六年を経て余が再度の洋行したときに、欧州にはプランセットまたはフランデルと名づくるものが流行していた。これはコックリの変形で、しかも改良したものである。コックリは足をあげるだけであるが、フランデルは三本の足の付いた三角形の板があって、その三本の一本は鉛筆を付けてある。そうして、その下には大きなる白紙を敷き、その上に二、三人が手を載せて置くと、自然に動き出し、紙の上に文字が現れてきて、なんでもたずねに応じて答えを与える仕掛けである。このフランデルもその後わが国へも伝わってきて、一度哲学堂で実験会を開いたこともある。しかして、その理屈はコックリと同じことだ。これを一口に言えば、手を載せておる人の心中にて予期することが、知らず識らず筋肉に働いて運動を伝え、その結果が、かの仕掛けの足の上に現れるのである。もとよりその仲間には、少なくとも一人だけは、これを信仰するものが加わらなければならぬ。信仰者は一心をこめて精神を集注するから、無意識にて、よく意向を手の筋肉に表現することができる。

 よって、コックリもフランデルも真怪を認可するだけの価値がない。

第三六項 石が予言をする不思議

 (問う) コックリのほかに、石でも運命を前知することができると聞いておるが、その方はいかがでありましょうか。

 (答う) そのいわゆる石とは、石の重量によって運命を判断することであろう。例えば、伊豆修善寺の「御伺いの石」の類である。美濃の揖斐郡内には、これと同じものが二、三カ所ある。また、山形県村山郡内にも二、三カ所ある。その他、諸方にあるが、石に限ってはおらぬ。木像や金仏をも用いておる。例えば、山形県北村山郡大高根村字白鳥には、銅製の不動尊を運命前知法に用い、その銅像の軽重によって、一家の災難、一身の病患有無を判定するのである。すべて物の軽重は手の感覚にては不分明のもので、したがって、意向によって重くもなり軽くもなる。自ら重かろうと予期してあぐれば、軽きものでも非常に重く感ずることになる。ことになんぴとも、石なり銅なりに向かって運命を伺わんとする前に、心中に多少予期するところがある。その予期が意識的または無意識的に手の筋肉の上に働いて、軽重の感覚を起こさしむるのであるから、前のコックリと同一理にもとづいて説明ができる。よって、これも決して不思議とするに及ばぬ。

第三七項 卜筮にて運命を前知する不思議

 (問う) 運命予知法については、種々承りたいことがあります。今日、世間一般に行わるる卜筮、人相、家相、墨色等、幾とおりあるか、いちいち列挙し難いほどである。少しく学者気取りの人は、一概に愚民の玩弄物のごとくにみなして擯斥するけれども、そう見下げたものではなかろう。すでに卜筮のごときは数千年間相伝わり、今日においてもこれを信ずるものすくなくない。かつ、その筮法が適中せる場合がなかなか多い。諺に「あたるも八卦、あたらぬも八卦」と申すも、実際あたる割合が多いと思う。少なくとも十中七八はあたるようである。そうすると卜筮も不思議のように思わるるが、いかがでしょうか。

 (答う) 卜筮のことは『妖怪学講義』第四部門〔純正哲学部門〕中にくわしく述べておいたから、詳説する必要はない。ただここに、あたる割合が多いというわけだけ申しておこう。余の説は、卜筮は大事をなすに当たり、自分の判断にて決し難きときに、運を天に聴くの心得にて筮竹によるだけのものと思う。決して人間の運命を卜定し得るものでなかろう。しかし、実際あたる割合の多いのは、別に理由のあることだ。第一に、卜筮のあたらぬ方は世間に伝わらずして、あたるのばかりが伝わりて評判にのぼるから多いようになる。第二に、適中しないことでも、解釈の仕方によって適中したようになる。例えば、卜筮によれば来年夏は家族に死人があるというにもかかわらず、その夏死人はなかった。ただし、その前に火災にかかったとするに、火災で災難払いをしたから、死人を免れることができたというように解釈すれば、世間ではやはり適中したと思う。第三に、わが精神作用によって適中するようになることがある。例えば、半年の後には発病するとの判断を受け、これを信じて神経を起こせば、ちょうど半年後に病にかかるようになるものだ。第四に、筮者の多年の経験すなわち熟錬によって、いくぶんか将来を予想することはできる。第五に、筮者の熱心が加わるときには、精神集注の結果、ある度までは、普通の知識以上に察知力を進めることができる。これらの理由によって適中する割合が多くなるも、決して不思議とすべきものではない。

第三八項 人相がよく適中する話

 (問う) 人相家がよく人の心中を透視し、その人の思うとおりシッカリ当てられたという話がある。知人某が東京で有名の人相家をたずねたときなども、当方より一言も発せざるうちに、寸分たがわず、その身分、職業、家族関係より心状に至るまで、いちいち当てられたと申しておる。これは人相の名人になれば、不思議の天眼通を有するようになるものかいかが、御伺いいたしたい。

 (答う) 人相と精神と関連しておることは、いまさら説明するまでもないから、名人になれば心状を透視することもできようが、しかし、ある程度までのものと思う。世間普通の人相見などのいうことは、決して当てにはならぬ。その中には詐欺に近いような手段もあるとか申すことだ。

 今より二、三十年前のことだが、遠州〔遠江の国〕浜松の者で上京し、日本橋区内の旅館に滞宿していた。そのとき旅館の番頭が、「この近傍に人相鑑定の名人があって、人の運命などをくわしくあてるから、ぜひ一度見てもらいなさい」と勧められて、ある日たずねたところが、郷里から年齢、職業、家内の事情、上京の目的までことごとくあてられた。あまり不思議にたえずして他の者に聞いてみると、その番頭と人相見との間に内約があって、前に内通しておいたのだそうだ。これは余の妖怪学にては、人為的偽怪の部類に入る。しかし名人となれば、面相や挙動を見て内情が分かるべきはずと思う。ちょうど名医が一見したばかりで、病がいずれの部分にあるを知ると同様である。けれども、人相家の言うがごとく、何月何日に剣難がある、火難がある、発病する、死亡するなどの判断があたる道理はない。もし、あたれば偶然に過ぎぬ。ただし発病や死亡などは、その人の精神作用で予定どおりに運ぶこともある。

第三九項 墨色判断の適中談

 (問う) 人相に類したもので、墨色判断というものを聞いておる。この墨色判断だけで運命の判断ができたということは不思議である。また、自分で書いた字でなく、他人が代わって書いたのでも判断ができるというのは、一層不思議と思いますが、いかが。

 (答う) 墨色も人相と同じく、ある程度まではその人の性質を表現するものであるから知れる道理である。自署の姓名だけ見ても、いくぶんかその人の性質のあらわれておることが分かる。また、親子兄弟の間に面相が似ておると同様、筆跡も似ておる点がある。他人がなにほどまねても、本当に似せることのできぬのは筆跡である。ゆえに西洋にては、証文や受け取りに印形を用いずして、自筆で姓名を記すことになっておる。右の次第であるから、筆跡は人格を表顕するものと見てよろしい。畢竟、墨色判断もこの理によって起こったものであろう。しかし、今日墨色を本業とするものは全く器械的にして、無意味のことをやっておる。まず、判断を請う人に太く「一」の字を書かせ、一年間の運命を見るには、その周辺を尺度にて十二に割り、その一区画ごとの墨の凹凸加減を見て、何月に吉事あり、何月に凶事ありとの判断を下すことになっておる。もし一カ月中を見るには、その周辺を三十に割って、やはり右のごとく判断するのである。かかる判断が適中することあるは偶然でなく、精神作用がその判断を予期して結果を迎うるまでのものである。また、他人をして代筆せしむるということは、例えば、病人があって自身は外出のできぬ場合に、他人が代わって墨色師の宅に至り、代筆する場合である。もし、その代人が一心をこめ、本人となって書くときには、多少本人の性質を表顕し得る道理なきにあらざれども、ただ無意識に「一」の字を引いただけでは、全く無意味である。もし、この方法によって適中することあらば、前と同じく偶然にあらざれば精神作用である。

すべてかかる判断は、知識の低いものには慰安と警戒を与うる効力があるから、昔時においては、多少その必要ありと許してよろしい。例えば、何月になれば病気がなおると判断さるれば、大いに病人の意志を強くして、苦悶を減ずるの効果がある。また、来年は凶事あるべしと聞かされて、自ら大いに警戒することにもなる。しかし、今日はその必要なきはずであるから、かかる迷信より脱するようにつとめたいものと思う。

第四〇項 家相、方位の適中談

 (問う) つぎに、家相、方位はいかがのものでありましょうか。今日、なお民間では一般に信じておる。また実際、家相、方位の悪い家は災難あることは疑いないようである。いわゆる「論より証拠」であって、なにか道理以外に、不可思議の原因が存するのではありますまいか。

 (答う) 家相、方位の中にはいくぶんか道理の存するわけあれば、全く排斥すべきものではない。世間にある化け物屋敷、妖怪邸宅と称するものを見るに、たいてい家相、方位がよくない。あるいは湿地にして北向きであったり、空気や日光の流通が悪かったりして、実に陰鬱、不愉快の住宅である。かかる家に住すれば、病人や死人の多くなるのは当たり前と思う。しかし、昔より民間に伝わっておる家相、方位は、迷信、妄想がたくさん加わっておる。例えば、鬼門、金神のごときはその一例である。鬼門も金神もみなシナ伝来の古説にして、日本固有のものでない。ある学者の説に、むかしシナにて、東北の角にあたって鬼の住んでおる島があって、この方角をおかすと、その鬼が祟をなすといい伝えたのが鬼門の起源で、そのいわゆる鬼の島とは日本のことだと申してあるが、その説が日本に入り、日本人が恐れるは滑稽に近いと思う。

 備中の井原町は、各戸みな街路と斜角をなして並んでおる。なにゆえに街路に向かって建てぬかと聞けば、方位が悪いといい、また盛岡市内の家は、南部富士と称するすこぶる格好のよい山を控えながら、その方面はみな壁でふさぎ、開いてない。これも方位が悪いからだと申しておる。もとより、土地の形勢によって家の建て方、窓のあけ方のよしあしがあり、また風の向きにも関することもあれば、あながち家相、方位を無意味とすることはできぬけれども、今日の学説に照らして、従来の家相、方位説は迷信が多く混入しておるから、根本的に大改良を加えなければならぬ。

第四一項 日柄に吉凶ある話

 (問う) つぎに、日柄のよしあしはいかん。これはむろん迷信と思うけれども、西洋にても金曜や十三日は不吉の日としてあるということを聞いておる。また実際、これまで不吉と定めてある日に婚礼などを行うと、思いがけない凶事が起こってくるようだが、これには別段深い意味はありますまいか承りたい。

 (答う) 西洋にても日柄のよしあしを申すも、これは西洋の迷信である。わが国は、西洋に幾倍して日の吉凶がやかましい。しかし、いずれも迷信なることはいうをまたぬ。例えば、葬式は友引の日に出さぬということにきまっておる。友引とは六曜の中の名目にして、六曜とは先勝、友引、先負、仏滅、大安、赤口である。この六つを、七曜同様に日に配当して繰ってゆくことになっておる。よって、友引の日は六日目にある割合となる。この日に葬式を出すと友を引くと申して、引き続いて六人死ぬと唱え、大禁物にしてある。もし、万やむをえず、その日に葬式を行うときは、必ずオモチャ用の人形を六個買い求め、これを棺桶の中へ入れて葬ることになっておる。そうすると、その人形が代理するからよいとの説などは、笑うべきの至りである。東京の火葬場のある所には乞食が多く住んでおるが、彼らは六日目に日曜がくるから休むと申しておる。そのわけは、六日目の友引には葬式がないから、彼らに用はない、すなわち友引が彼らの日曜に当たるわけである。これに反して、吉事には友引がよいことになる。よって大神宮の結婚式などは、その日が最も多忙であるとのことだ。また、葬式は寅の日を嫌う所が多い。そのわけは、「虎は千里走って千里帰る」というから、その日に葬式すると、死人が千里の遠方へ行って、すぐに幽霊となって戻って来ると申しておる。すべて日柄、縁起などは、みな迷信より起こっておる。

しかし、昔より長く慣例となってきたことは、容易に改変することができぬ。また、強いてこれを破ると、一家の内にても迷信家の神経を起こさしめ、当人の精神作用にて病気、災難を招くことがある。さなくとも、世間からかれこれ非難を受くるようになる。よって漸々徐々、教育の進歩と相伴って改良を計らなければならぬ。

 右の次第であるから、日柄の悪い日に事を行えば災難を招くというのは深い意味があるのでなく、いわゆる神経作用で、わが心より災難を招くようになるまでに過ぎぬ。すべての縁起や厄年なども、みなこれと同様と心得てよろしい。

第四二項 九星の運命前定法

 (問う) 近来、民間にて九星ということが非常にやかましくなり、その日の九星を見なければなにごともできぬと申す人がある。とにかく、このとおり世人が九星を信仰するというについては、ただ迷信とばかり見ることはできまい。必ず神秘のわけが含まれていて、実際上に効験のあることかとも思われる。いかがでありましょうか。

 (答う) 今より数十年前には淘宮が流行したことがあるが、このごろは九星流行と変わってきた。その実、淘宮も九星も大同小異に過ぎぬ。かえって治心の点では淘宮がよいように思う。畢竟、このごろ九星の大流行は、各新聞に毎日掲載してあるからだ。淘宮の方は十二支にもとづいて立てたもので、九星は陰陽にも干支にも関係はしておるも、一より九までの数について組み立てたものである。シナにおいて『河図洛書』ということを伝えておる。伏犠のときに河水より図を出だした。これが易の八卦である。禹王のとき、洛水より書を出だした。その書に九星の数位が現れておったということである。

その数を天の星に配当して、一白、二黒、三碧、四緑、五黄、六白、七赤、八白、九紫の名目を立て、これを年に配し、月に配し、日に配し、またこれに五行の相生、相剋を配合して吉凶の判断を下すのであるが、今日の学理に没交渉と見なければならぬ。昔日はシナ崇拝であって、今日は西洋崇拝となり、シナを軽蔑するにもかかわらず、卜筮、人相、家相、方位、九星は依然としてシナ崇拝なるは、矛盾しておると思う。ただ九星の効力を挙ぐれば、慰安と警戒の二事であろう。もし、これを信ずる人が、吉なりと知らば慰安の助けとなり、凶と知らば自ら警戒することになる。

もし、全く知らざるときは、慰安も警戒もないと同時に、かえって安心である。諺に「知らぬが仏」というが、はじめより知らざる方がよろしい。いやしくも、知れば必ずいくぶんか神経を起こすことになり、くわしくなればなるほどよけいに神経質となり、なにごともいちいち九星に照らさざればできぬようになる。その上に、今日は不吉であるから外出を見合わすようにならば、日用の不便をきたすことが多くなるから、かくのごときは害多くして益少なしと断言してよろしい。これはひとり九星についてのみではない。卜筮、人相、家相についても同様である。要するに、真の妖怪、真の不思議が分からぬから、かかることに迷うようになる。

第四三項 姓名判断の当否

 (問う) ついでにモー一つ承りたい。近ごろ民間に姓名判断を唱え、姓名の字画によってその人の運命の吉凶を判断することが流行しておる。そのために改名を願い出ずるものがある。これは多少理屈のあることか、また全く無意味であろうか、いかがでしょう。

 (答う) 姓名判断は余が伝授したように言い触らすとか聞いておるが、ときどき郵便や電話で、私の名はかくかくであるが、運命の吉凶を判じてくれ、また、子供が生まれたにつき、よき名を付けてくれと申しくるものがある。およそ今より十四、五年前、一人あって来訪していうには、「自分は姓名によって運命を判断することを発見したが、その前に先生がすでに主唱されておると聞いたから、御説を承りに来た」と申すから、その判断法をたずねたれば、字画をかぞえる方法であった。それではわが主唱する方法とは全く違うことを話してやった。すなわち、余の説は名称教育法であって、人の名がその人を教育するということである。例えば、中村正直という人は正直の人である、山岡鉄太郎という人は鉄のごとく堅い人である、虎吉といえば性質も虎に似てくる、熊太郎といえば熊に似てくる。これみな、己の名が己を教育するということになる。その一例に、哲学館創立の際入学したものに、比較的「哲」の字の付いた人が多かった。これは、自分の名に誘われて入学する気を起こしたに相違ない。このとおり自分の名に導かれて、その性行が名を実現するようになる。これを余は名称教育と名づけた。その話をしただけであるのに、余が伝授したなどいわるるのは、誠に迷惑千万と申さねばならぬ。

 いったい、姓名の字画がその人の運命を支配するという道理はない。たとえ、古代歴史上名高い人の姓名の字画を土台として組み立てたにしても、決してこれをもって運命判断の規則とすることは、非論理もまたはなはだしといわねばならぬ。しかるに、世間多くの人は、字画について運命が悪いといわるると、なんとなく気にかかり、不安を感ずることになる。ゆえに、はじめより「知らぬが仏」主義をとり、その方に耳を傾けぬがよろしい。かつまた、そのようなことを苦にして神経を起こすような人は、いかに改名しても好運を迎うることはできぬ。ツマリ、意志の薄弱なる人であるから、好運は決して近づくものでない。世の古今、国の東西を問わず、好運はつねに意志の強固なる人に宿るものである。ゆえに人は平素、意志の修養をしなければならぬ。その修養は世界において真の不思議を開現して、わが心をこれに結託するにありとは、余のもっぱら唱道するところである。しかるに、世間多くの人は千重万重の迷雲の間に彷徨し、真怪の明月をさること幾億里なるを知らざるありさまなれば、実に二束三文の価値のなき運命説に惑わさるることになる。あに長嘆息せざるを得んやである。

第四四項 巫女の神通力

 (問う) 運命を前知するに巫女というものがある。たいてい無教育、無知識の婦人であるけれども、よく言い当てる力を有し、ほとんど神通力を持っておるかと思うほどに、事実と適中することが多い。それゆえに、民間では今日なお巫女を信仰しておる。これは一種の不可思議なる作用を有しておるものかいかが、伺っておきたい。

 (答う) 巫女はその地方地方により、市子とも口寄せともいい、東北にてはエタコともオワカともオナカマともいい、岡山県ではカンバラといい、琉球ではユタといい、種々の名称あるが、たいてい無教育の婦人である。土地の不便の所ほど巫女の勢力盛んにて、八丈島のさきに青島という〔の〕があるが、その島にては医者がおらぬから、巫女が代理をしておる。小島にもかかわらず八十人の巫女がおるそうだ。この知識の程度の低いものが、よく人の知らぬことを話したり、分からぬことを当てたりすることにつき、まずその心理状態を一言しておきたい。知識の進んだ人は精神が平均して働き、一局部に偏することなきも、無教育者、なかんずく婦人は思想が健全でなく、局部に偏倚しやすき状態を有し、もしその神経質の者は精神が病的になりやすい性質を具し、いわゆるヒステリー的になるものである。よって、巫女のごときは一種の偏狂ともいうべき病的精神を有し、常識の軌道をはずれておるものである。明治四十四年十月発行の『二六新報』に、巫女に類したる行者の記事が載せてあった。

 六日午後ごろ、日比谷署へ一人の老尼、羽織袴のいかめしき従者三人を従えて出張し、「自分はこのたび阿弥陀仏の命を受け、国家の大事のためはるばる佐賀県より出発し、日本橋区元大工町二十八番地、旅館藤屋方に止宿し、仏命を畏き辺りへ奏上せんとするものなれば、よろしく手続きを依頼したし」とのことに、弘田署長はてっきり狂人ならんと従者なる黒田某を取り調べしに、同尼は佐賀県三養基郡田代村字部辺、安養院住職稲富ハツと称し、全くの行者にして、十歳の折出家し、五十五年間、日本全国のあらゆる宝山を巡拝し、自然の会得にて過去三千年、未来一千年のことは、いかなる難問にても答うることを得べしとのことに、弘田署長はただちに応接室に同人を呼び入れ、その理由を聞くに、きたる四十五年十二月三日に至らば、第二の日露戦争開かるべければ、その用意あるべく上奏のため出京したるものなるも、妾は目に一丁字なく、なにごとも仏の教示をまって申し上ぐると、約一時間にわたる国家未来のことを申し立て、理路整然として少しの渋滞もなく、実に不思議なり、云云。

 この一例のごとく、狂人に見ゆるも、思想が局部に偏倚するだけ、その一局部は常人以上の働きがあって、無教育不似合いの賢きことを言い出だすものである。かつ巫女はたいてい一種の信仰を有し、人の尋問に答えんとするとき、なにか拝みを始め、その間に精神を統一し、散乱せる心を一点に偏注せしむるから、その場合には平素知らぬことが知れ、分からぬことが分かり、本人も不思議に思い、他人も神通力を有するかを疑うほどになるものである。

第四五項 亡者の消息を伝うる不思議

 (問う) 巫女が亡者の消息を語るに、当人が全く知るはずのないことを明らかに告げ、その亡者の在世のときや臨終のときなどの話をするに、誠によく事実に適中するそうである。これについて、モー一層くわしい説明を承りたい。

 (答う) 巫女は病的であるだけ、一局部の精神作用は非常に聡明になり、したがって、これに関連する感覚が非常に機敏になっておる。そこで、常人の考え得られぬことを説き、常人の感じ得られぬことを知るものである。例えば、巫女が亡者ありし家に至り、その消息を話すに当たり、四囲の境遇や前後の事情を洞察すること、ほとんど神通力あるがごとくに精神の発作を現ずるものである。これと同時に、そのことに関連する心内の記憶が、よく復活して働くものである。人間は生まれて以来、ひとたび耳に触れ目に入りたることは、必ず脳裏に印象をとどめておくものと考えねばならぬ。よって、なんぴとも心内には無数無量の観念が貯蔵されておる道理である。その無数無量の貯蔵中、現に心面に発顕せる観念は、何万何億分の一にも達せぬほど少数であることと知らなければならぬ。今ここに、心面に発顕せるものは顕識と名づくれば、発顕せざる方は潜識である。よってわれわれの意識界を、顕識界と潜識界との両界に分けておいてよろしい。しかるに、巫女が亡者の消息を語る場合には、その精神の偏注力により、潜識界の観念が再現して、当人の平素思い出だし得ぬことが記憶に浮かび出ずるようになる。これは精神自然の規則にして、決して不思議でないと思う。しかし、巫女の言うことがすべて事実に適中するわけではない。およそ七、八分はあたっても、二、三分は違うものである。余はたびたび、巫女の予言のはずれた話を聞いておる。

先日も会津地方にて物の紛失せしとき、巫女に聞いた結果、大変の間違いを生じた話を聞いた。

 また先年、岡山県巡講のときに聞かせられた話もある。美作の国にて夜中民家へ強盗が入り来たり、家族五人を惨殺し、その家を焼いて跡を隠せし事件が起こり、警察にて百方捜索するも手掛かりが見当たらぬ。そのとき、県下に名高いカンバラすなわち巫女がいて、その言うことは百発百中との評判なれば、念のため彼にたずねてみようという相談になり、呼び寄せて聞きしも、彼も大事件なれば恐れたものとみえ、「ドーしても私には分かりませぬ」と答えたそうだ。

 要するに、巫女の言ことごとくあたるわけではないが、一、二点符合することがあると、すべてがみな適中したように評判するものである。

第四六項 天啓によって病気を洞察する不思議

 (問う) 巫女が診察せず、ただ人の面を一見しただけで、病気の有無をあてると申すも、それはただいまの説明にて分かりますが、神仏の啓示を得たために、人の病気が分かるということがある。天理教の開山などはその一例である。また、かつて数十年前に聞いた話に、信州須坂町の近在で村名も人名も忘れたけれども、ある農家の子息、その年齢は二十五、六で、久しく病気にて臥床し、だんだん憔悴して、医薬も効力を奏さぬようになり、家族の人たちは到底快復の見込みなかろうとあきらめていた。しかるに、その当人が一夜、夢に仏様が現れ、告げていわるるには、「汝は病人にあらず。自ら病気をつくり、自ら病人と思っておるのであるから、明日より寝ておらずに起きてみよ」と、明らかに宣告を受けた。かくして夢覚め、その夢告を信じ、起き上がってみるに、病気らしくないから、室を出でて家族が食事をしておる室に至れば、みな大いに驚き、「どうして急に病気が平癒したか」といわれ、夢告のわけを話したところが、両親も大いに喜び、「それは仏様より命を助けてもらったのである」と申され、そののち数日の間に、もとのとおりに全快した。これよりのち、他人の顔を一見すると、すぐにその人の病気の有無が分かり、それをマジナッてやるに、みなよく平癒すること不思議である。これを聞いて、毎日遠近より病人がその家に集まるようになった話を記憶しておるが、これはいかがのものでありましょうか、重ねて御教示ありたい。

 (答う) 夢告によって病気が平癒したという話は往々聞くところであるが、それは病気の性質によることと思う。例えば、自分の神経で病気を重くし、あまり病気を苦にするために薬石も効力のないときのごときは、一夜の夢告で病因を断つことができ、たちまち平癒することがある。つぎに、人の病の有無が分かるようになったのは、夢告を信じた結果が心機を一転するに至り、前述の巫女のごとく、ある一局部において異常の作用を現ずるに至ったのである。人の心には、推理と直観の二作用が備わっておる。初対面の人に対して、即時にその人の心状を感知するは直観作用であって、種々の事情を推究して心状を了得するは推理作用である。医師の人の病を診断するにも、一見してすぐ感ずる方と、容体を聞いて推知する方と二様がある。しかしてその直観力の、生来特に発達しておるものと、さほど発達しておらざるものとがある。また、推理力が進むに従って直観力を減ずることもある。あたかも算盤をはじくことが上手になると、目の子勘定が下手になると同様だ。その代わり算盤の下手の者は、かえって目の子勘定が達者である。ただいまの、人の顔を見てただちに病状を知るのは推理でなく直観であって、当人が夢告と信仰との力により、心理状態の変動を起こすと同時に、直観力の発達したのであろう。また、当人のマジナイが大いに効験あるのは、余のいわゆる信仰療法で、その理由は拙著『心理療法』の中に説明しておいた。

第四七項 催眠術の治病における効験

 (問う) 病気治療法については、近年催眠術を応用するもの多く、種々の名義、名目の下で催眠治療を実行しておる。その中には、医師の方にて不治症と認められたる病人が全治することがある。素人の考えではいかにも不思議と思わるるが、いかがのものでありましょうか。

 (答う) わが国において、催眠術を治病に応用することを始めたのは、馬島東伯翁である。翁は明治十九年ごろよりもっぱら催眠療法を研究し、その効験の顕著なるを見て余の宅に来たり、「催眠術によれば、診断を用いず、薬石をからずして、病気の平癒すること実に不思議である。その理由を哲学上より説明ありたい」との依頼を受け、そののち翁の催眠術治療を実視し、ことに明治二十年秋、余が哲学館を創立せしにつき、その翌年館内において、生徒のために実験を依頼せしこともあった。しかして、これに対する余の説明は、病気に肉体より発するものと、精神より起こるものとの二様あると同時に、これを治する方法にも、肉体よりするものと、精神よりするものと二道なければならぬ。余は、前者を生理療法と名づけ、後者を心理療法と名づけた。今日、医家の用うる治療法は、肉体方面の生理学にもとづきて組み立てたれば、生理療法というべきものである。これに対して催眠術のごときは、単に精神作用にもとづくから、心理療法と名づくるが適当である。もとより、心理療法は催眠術に限るわけではない。すべて神仏の力、または加持祈祷の効力によって病気が平癒するのは、みな心理療法である。また、御水や呪文でなおるのも心理療法である。世間に伝うるところのマジナイには、奇々怪々のものが多い。その中にはすこぶる滑稽のものがある。例えば、痔を治するマジナイに、飴を筒の中に入れて半日振っておれば心ずよくなると申すが、これは「雨(飴)ふって地(痔)固まる」という諺より起こったということだ。

かかる滑稽的マジナイがその功を奏するとは、マジナイそのものの力にあらずして、これを信仰する結果である。

 しかして、信仰は精神作用なれば、余は心理療法と命名した。その詳細は拙著『心理療法』に譲って略しておく。ただし、あらゆる病気が催眠術でなおるわけではない。精神が病気平癒の障害をなしておる場合、または神経が病気を増進しておるときに、心機一転せしむるために効験があるのである。

第四八項 催眠術の霊怪作用

 (問う) 催眠術に感じたものに対し、施術者が命令すれば、その命令どおりに挙動を実現し、また、「幽霊が来た」といえば幽霊を実視し、「狐がおる」といえば狐を目撃するのも、いかにも霊怪のように考えらるるが、その理由も聞かしていただきたい。

 (答う) その理由を述ぶるには、催眠の心理状態を説明しなければならぬ。もし、生理学や心理学の上より説くことは、ただむつかしくなるばかりで、通俗には分かるものでない。よって、だれもたやすく了解のできるよう、通俗的に話すことにしようと思う。催眠術は夢を呼び出す法と解釈しておきたい。およそ催眠に感じたるときの心状は、真に眠ったのではない。心はさめておるが、各観念が静止して、自分でその観念を主宰する力を失っておるありさまである。そうして施術者の命令に応じて、これに関連せる観念が働いて、夢のごとく、ないものが目に見ゆるようになる。例えば、「幽霊がおる」と命令すれば、心中に有する幽霊の観念が夢のごとく起ききたって、目前にその形を現ずるのである。しかし、その形は夢と同じきものなれば、当人に見ゆるだけで、他人には見えぬ。それゆえ、催眠術は決して不思議のものではない。

第四九項 催眠中に未知を知る不思議

 (問う) 催眠に感じたるときには、全く一度も見たことなき物や、一回も経歴したことのない場所を明らかに見、または話すことができるのは、不思議ではありますまいか。

 (答う) この未見を見、未知を知るということは、催眠のときに限らぬ。普通の夢の場合にも往々あることだ。例えば、ドイツのカイゼルを見ざるものがカイゼルを見、ロンドンを知らざるものがロンドンを実視する場合である。しかし、われわれの心中には前にも述べしごとく、無量の観念が貯蔵されておる。カイゼルやロンドンは直接に目撃せざるも、間接には書で読み、または人より聞いたことがあるに相違ない。たとえその観念は平素働いておらぬも、潜識となって隠れておる。それが、目をさましておる間には他の観念に妨げられて現出せぬも、夢の中にては他の観念が休んでおるために、かえって現出するに都合がよい。催眠の場合でも、他の観念が静止して邪魔をせぬから、施術者の命令に応じて、これに関連する部分だけが潜識の貯蔵中より出てきたるに好都合である。また、人には想像力があるから、かかる場合には、潜識中より必要の観念を引き出して構造することができる。それゆえに、これまた不思議とはいわれぬ。

第五〇項 外界に実在せざるものを見る不思議

 (問う) 夢の場合には、心内にいろいろのものを見るだけだが、催眠のときや、狐つきの場合には、外界に現見するのであって、少しく事情が違うように思わる。夢の境界が外界に投げ出さるるわけについて、さらに説明を願いたい。

 (答う) この外界に実在せざるものを見るは、催眠や狐つきのときのみでなく、発狂のときにも、または病気にて熱が高くなったとき、またはあまり衰弱したとき、またはヒドク恐怖したり、強く予期したり、または身心の非常に疲労したりするときは、往々起こるものである。これを心理学上にては、幻覚または妄覚と名づけておく。この幻覚、妄覚は、眼球内の網膜に強き印象を受けたるときに、その印象が後まで残って生ずることあるも、多くの場合は精神内部より視神経を刺激して、外界に幻像を現出することになる。その理由をごく分かりやすく申すには、われわれの心は幻灯仕掛けと見るがよい。幻灯は器械の内部に細小なる写真を入れてある。そうして、その内方より強き光線をもって照らすと、その写真が器械の中より外に映射して、大なる幻影を外界に現出するものである。これと同じく、われわれの心内には細小極微の写真が、ほとんど無尽蔵に貯蔵せられておるに、その一局部を内部より強く刺激すると、その影像が眼球のレンズを通して、外界に現出するに至るわけである。しかして、その刺激を与うる原因は、信仰、予期、恐怖、体熱、衰弱、疲労等、種々あるものだ。衰弱や疲労の場合には精神作用が平均を失い、一局部に偏倚し、偏注するようになる。よって、心内のある一局部が比較的強く刺激を受くるから、幻影を投げ出すものである。ただし、幻影を見る場合は、多く外界の暗黒にして不明瞭のときに起こることを忘れてはならぬ。もし白昼、外界の判明しておるときは、外界より入りきたる光線のために、幻像が打ち消されてしまう場合が多い。ゆえに、不判明の場合が、幻覚、忘覚を起こすに最も好都合となるわけである。

第五一項 夢で病気を予知する不思議

 (問う) ただいま夢との比較談が出ましたから、夢についての不可解の点を承りたい。健康者が、よく「夢に発病を見たれば、果たして両三日を経て発病したことがある」といい、また、「死することを夢みて、果たして死亡したものもある」と申しておる。ただ、人より伝聞するばかりではない。実際、わが友人に腫物の夢を見て、のち腫物を発したものがある。また、わが郷里に、夢に神が現れて、「汝、来年夏までに死するから用意せよ」と告げられて、果たしてその夏死んだものもある。これらは実に不思議に思われますが、ドーゾ御教示を請いたい。

 (答う) この、夢で病気や死亡を前知するということにつき、二様の理由がある。第一に、夢は精神の一部分が起きて、他の部分は休んでおるのであるから、醒覚のとき自ら感知し難きことが、かえってよく分かる場合がある。すなわち、夢の中にては他の邪魔になる観念が休んでおるから、微少の病因を感知することができる。ちょうど夜ふけ、人のしずまったときに、かえって微細の声が聞こゆると同様だ。すべて病気は、外に発する前に内にきざしておるも、醒時には心が外界に引かれておるから感ずることができぬ。しかるに睡眠中は、精神と外界との交通の門戸に当たれる耳目五官が閉鎖されておるから、夢中の識界に微小の病因を感知することができ、その結果、発病を前知するようになる。第二に、なにごとでも固く信仰すれば、予期するとおりに精神の方から運んでゆくものである。例えば、ただいまの話のごとく、夢に「来年夏、汝は死す」との神告を受け、これを衷心より信ずるときには、精神が身体を指揮して、夢告どおりに運ばせるものである。もし、他の例について申さば、明朝は三時に必ず起きると固く期して眠るときは、朝寝坊のものでも、その時刻に目のさめるようになると同様である。

 そのほか死期を夢みるなどは、生理状態が知らず識らず心内に予告を与えておるものだ。その予告は、醒時よりも夢中の方が感じやすい。これらの理由によって、夢中の予告、前知が起こるのであるから、毫も不思議とするに足らぬ。

第五二項 夢で透視した実例

 (問う) 熊本県人吉町に米良以平という人がおる。その話に、「一夜、夢に大火を見、驚きさむれば室内にはなんらのことなく、起きて家中を探るも、別に変わったことはない。念のために庭先を見回ったところが、五間離れた水車の小屋の中に、灯器が柱の上より落ちて燃え上がっておるを発見し、水を運んで消し止めた」とのことを聞いたが、夢の中では、隔離せる出来事も知ることができるものでありましょうか。

 (答う) 夢の中では、起きておる間に感ぜられぬことを感ずる例は多々あるが、それは不思議とはいわれぬ。眠っておるときは心の全部が休んでおるに、一局部だけ起きておるところへ、外より微細なる音響がこれに触るれば、他の妨げものがないから、明らかに感ずることができるはずだ。よって、ただいまの話は、灯器の落ちた音が耳に入って、大火の夢を喚起したものらしい。水車場に灯器を掛けてあることを知りたるものが、かかる音を聞かば、必ず夢の中で想像を描くであろう。あるいは、灯器が落ちて燃え上がっておるその光気を、ボンヤリ視覚で感得したのかも知れぬ。いずれにしても、さほど不思議の出来事ではない。

第五三項 夢中に傑作、名吟を得た実例

 (問う) モー一つ夢について伺いおきたいことは、夢中に自ら知らずして詩を作り、歌をよみ、文をつづり、しかもそれがなかなか名作であったことを聞いておる。例えば、昔の話なれども、『新著聞集』に、夢中に神告同様、左の詩ができたことを載せてある。

六十四年混<<二>>世塵<<一>>。夢中不<<レ>>覚養<<二>>残身<<一>>。不<<レ>>来不<<レ>>去是何物。二月花開南谷春。

(六十四年、世塵に混じる。夢中に覚えず残身を養う。来たらず去らず、これなにものぞ。二月花開く南谷の春)

 その他、難解の語句が分かったり、数学の難問題の解答ができたりする実例も聞いておる。いかにも不可思議のごとく思わるるが、御説明を請います。

 (答う) その例は西洋の心理学にたくさん挙げてある。決して珍しくもない。また不思議でもない。これは、さきに述べた睡遊の一種である。すなわち、睡眠中無意識的に、精神のこれに関連せる部分だけが働いてできるのである。それには、夢中の方が他の妨げになる観念が休んでおるから、かえって都合がよい。人が読書または著述するに、夜ふけて邪魔になる刺激のないときがかえってよいと同様だ。しかして、起きて自分に覚えぬのは、一局部の作用であるからだ。もし精神内を一家の内に比するに、主人が寝ている間に、子供が画をかいて主人の枕元へ置くようなもので、主人目がさめて、ドーしてその画ができたか全く知らぬと同様で、夢中の一局部の働きは一家の子供の作用にひとしく、心の主人は休んでいた間の出来事であるから、目がさめても知るはずはない。よって、かかる実例は心理学の道理で説明ができる。

第五四項 習わぬ経が読める不思議

 (問う) 民間にて、元来教育なく、一つの字も解せざる無知文盲の者が、発狂して書物を読み上げたという話がある。例えば、明治維新前の出来事なれども、わが郷里の富豪に雇われていた下女が、発狂して『論語』の一章を読み出したことを聞いておる。このことだけは不思議にたえぬが、なにかしかるべき理由のあることでありましょうか。

 (答う) 習わぬ経を読み上げた話は、狐つき、天狗つきの場合にもあることで、これは不思議でもなんでもなく、勧学院の雀が『蒙求』をさえずるの類である。昔時、中等以上の家庭では、子供に『論語』は必ず読ましたもので、毎日声を発して、「子曰く、学んで時にこれを習う」と素読させるきまりであった。もとより、その家の下女は教えられぬけれども、その声がたびたび下女の耳に入れば、無意識ながらも必ず脳中に印象をとどめてあるはずだ。それが発狂したために、その印象せる部分を内部より刺激さるれば、また無意識的に口に発する道理である。近年ある地方にて、下女が発狂して英語を話したということも聞いておる。その原因は、今の家庭では『論語』を教えぬ代わりに、子供を中学校へ入れる。そうすると、学校で教えられた英語をうちへ帰って復習する。よって下女は、無意識にこれを聴き込んで記憶しておるから、発狂の場合に再現するわけである。もし、維新前の下女が発狂して英語を話し、今日の下女が『論語』を読んだりしたならば、それこそ不思議である。さなくして、昔の下女の『論語』は、毫も不思議とするに足らぬ。

第五五項 狐つきに狐の毛がついている不思議

 (問う) 狐つきの場合に、狐の身振りをしたり、狐の音声を発したり、狐のすきなものが食べたくなったりするのは精神作用にして、自分は狐であると偏信しておるから、自ら好んで狐らしくしてみせたい気になる故であることは、貴著によって十分承知しておる。また、その当人に狐が目に見え、狐の声が耳に聞こゆることも、上来の御説で幻覚と承知しておるが、ただここに解し難いのは、狐つきの寝ておる所に狐の毛が落ちておる、あるいは枕の下、あるいは蒲団の間、あるいは袂の中に狐の毛があると申すのは、いかなるわけでありましょうか。このことも承っておきたい。

 (答う) その毛は決して狐の毛ではない。犬の毛や猫の毛である。狐つきの本人は、ドーかして狐であるように人に見せたいと一念に思い、われすなわち狐となり、狐の観念がその人の人格の中心となっておるから、いろいろ工夫して、狐つきを装うようになるものである。そこで、なんでも手近にある毛を取って、己のそばに置くようになる。もし他人がこれを見て、「狐の毛が落ちてるから、狐が来たに相違ない」といえば、本人大満足である。また、他人も狐がついたと信じておるから、その毛について詮議もしない。しかるに、余が一度狐つきの所で見たのは、猫の毛であったようだが、一昨年群馬県にて聞いた話では、ある狐つきが、袂よりしきりに長い毛を引き出すから、よく見るに馬の毛であったそうだ。それゆえに、毛が付着していることは少しも不思議ではない。

第五六項 深夜、美人と赤子を見た怪談

 (問う) 佐渡には狐がおらぬから、その代わりに貉にだまさるるといい、その貉の首領を二岩団三郎と称し、二岩山に祠を建てて祭ってある。その団三郎が、今でもときどき人を誑惑するそうだ。その中には実に奇々怪々のことが多い。ここに、明治三十八年の『電報新聞』の記事について伺いたい。

 佐渡の相川へ行く道に中山峠という山がある。今は山腹に新道開通して、坦々砥のごとく往来安全なれど、以前は峠の上を往来したので、山坂険しくなかなかの難所であった。その峠の半ば過ぎ、くだり坂となる辺りに、ひときわ茅萱茂った所がある。そこは一人で通ると、昼でもなおさびしい。いわんや深更のころは一人も通行しない。もし深夜に通ると、すごいほどの美人が赤子を抱えて出で来て、これを旅客に抱かせるのであるが、はじめのほどは小児だけに軽いが、抱いておるうちに、それがだんだん重くなり、果ては手しびれ足つかれて倒るるのである。ところが不思議なるかな、鶏鳴が聞こゆると忽然、抱いたる赤子の形も影もなく消え失せるということだ。あるいは終宵相撲を取ったが、天明になって見ると、相手と思ったのが棒杭であったとやら。かかることで旅客を苦しむるものは、二つ岩の団三郎という、金箔付きの貉の業であるということであった。

 これも幻覚、妄覚であろうとは承知しておるも、その道を通行する人は別に精神に異状あるのでなく、また虚心平気でおるのに、かかる怪事あるは、なんとなく不思議に思われます。

 (答う) この新聞記事は、前に述べた幻覚の作用に相違ない。しかして、その幻覚を起こす原因は、境遇と恐怖と伝説と予期とにより、精神の異状を起こし、夢同様の境界に入るので、決して虚心平気ならざることは明らかである。まず、その場所は草木が茂り人通りがない、ものさびしき所で、勇気ある人でも恐怖心を起こすものである。また、この道では二岩団三郎が人を誑惑するという伝説は、前に聞いていたに相違ないから、自ら予期したに違いない。

 左に、茨城県の新聞に見えた狐惑談を参考に備えておこう。

 那珂郡神崎村久慈川沿岸に近来、古狐出没し、通行人をたぶらかすとの風評ありたるが、ここに姓名不詳、三十五、六歳の男、去る四日、久慈郡西小沢村大字落合方面より同河畔に通りかかり、午後四時ごろより翌朝まで迷わされ、ようやく石神村にたどりつきたるあり。その後、前地落合字土蔵の料理店の酌婦三人は、摘み草に行き、同沿岸にて道に迷い、白昼、他人の救助を得て帰宅したり。また七日、大字本米崎、萩野谷矢之助居宅新築中にやとわれおる大工某は、七日午後七時ごろ、同所より帰宅の途中に迷わされ、二昼夜帰宅せず。ために家人は不安にたえず、前矢之助方へ迎えに行く途中、坂本村大字石名坂にて本人に遇い、その理由をたずねたるに、当人は、「突然一人の請負師に出会い、仕事を頼まれたるところから、その工事を見に行き、今その帰りなり」と答うるに、「しからば、二昼夜とも工事を見ていたのか」と問えば、当人は、「いや、いずれにも宿泊せず、盛大なる工事を見物したり」と答え、自宅に連れ行きたる後も、「額田村にさきの請負師待ちおるゆえ、ぜひ会わなければならぬ」と騒ぎ始めたるより、家人は手当てを加え、ようやくにして覚醒したるが、「昨日はどこをどう歩いたのか、自分にも不明なり」といいおるなど、いかにも怪しき限りなれば、同地村民は、「これみな古狐の所業なり」と噂し合えるが、いずれにしても面妖な話なり。

 この話などが狐惑の標本と申してよろしい。前の佐渡の怪事およびこの茨城県の出来事のごときは、自己催眠と申すものだ。さきに催眠術について述べたが、術という方は施術者があって催眠を誘起するのである。しかるに、もし、人によって誘起せらるることができるならば、自分自身でも催眠状態になり得るはずであるから、この場所は狐、狸がい、人を誑惑するというを知って、そのことを思い出すと精神は変わってくる。これが催眠術の暗示であって、この暗示によって自身で催眠状態に陥るのである。よって、狐、狸の誑惑談は自己催眠として考うれば、なにも不思議とすべき点はない。

第五七項 猿猴に関する怪談

 (問う) 狐、狸の怪談は普通で珍しくないが、明治四十年発行の『報知新聞』に、猿猴の怪談が掲げてあった。

 福島県岩瀬郡白江村大字深渡戸、赤塚助次郎方にては、このごろ毎夜、不思議の怪物現れ出でて、種々の危害物を家内に投げ込むと届け出でたるより、同地駐在巡査はただちに現場を取り調べたるが、実に不思議にて、その本体を認むることあたわざる旨、須賀川署に報告したれば、渡辺警部は菱田刑事とともに現場に出場し、数日滞在して捜査に従事したるも、やはり踪跡を得ず。よって、警察部保安課にて鏡淵巡査を特派して、もっぱら探偵せしめたる顛末を聞くに、同地は部落三軒にて、助次郎の居宅は山林に近く、妖怪の最初あらわれしは本年七月中にて、薪に火の付けるを家内に投げ込み、あるいは俵の口に当てる、俗にサンダワラと称するもの、およびとうもろこしの豆をもぎ取りて撒き、あるいはじゃがいもなどを投げ込むこと毎夜のごとく、ときには家内に忍び入りて飯を食い尽くすことあるをもって、助次郎は試みに飯櫃の上に十貫目くらいの石を載せて臥したるが、翌日に至り石を取り除きて空櫃となしあり。いかにも正体の知れ難きを遺憾とし、村内より血気の消防夫二十名ばかり頼み、居宅を包囲して警戒せしも、依然、怪物はいずこよりか竹片を投げ込みたりき。

鏡淵巡査の出張せし際には、床板をしきりとたたきて歩き回るより、見届けくれんと種々工夫したるも、目的を達せざりしが、助次郎の談によれば、「怪物の出でたるときは、飼い犬あれど、ただ唸るのみにて別に吠えもせず、数十羽の養鶏にも危害を与うるがごときことなし。怪物の噛じりしという、大根漬けに付ける歯痕を見しに、人間の歯より細かにて、他に歯痕の付きたる所なければ、つかみ噛じりしものなれば、貉、鼬の類ならず、猿猴の所為なるべしと推測したり」という。その証拠には、去る三十八年十二月中、同地より一里ばかり隔てし、妙見山北方の高畑と称する所の炭焼き小屋にて、膨大なる老猿が数十尾の子猿を連れ込み、炭焼き人の留守中に乗じて、子猿に飯をたかせ、己は小屋に掛けおきし襤褸を着け、兵児帯を締めいたるを見付けて打ち殺せる例ありと。かくて数日前に至り、降雪に際し、怪物の足跡を見たるところ、蹄ある足跡ありたる趣にて、とかく大評判となりおれるが、いまだだれ一人として正体を実見せしものなし。なお、助次郎の長女に今年十九歳の、田舎にまれなる娘あるより、猿猴が娘に恋慕して来たるなりといい、あるいはこの家の先祖に猿遣いの老婆ありて、猿を祀りおくが、祭事をなさざるより祟るなりなどの飛語さえ伝えられ、ために娘の縁談も破約となりしと。

 右のごとき怪談に対しては、いかなる説明を与えてしかるべきや、念のために伺いおきたい。

 (答う) 怪談には狐、狸のみならず、犬にもあれば猫にもあるから、猿にもありそうなものだ。しかし、いずれにしても、動物そのものが人の精神や感覚を左右し得るものでなく、人の心より産み出すものである。ただいまの福島県の怪談のごときは、猿の所作でないことはむろんだが、これは拙著『妖怪百談』および『おばけの正体』中に掲げておいた投石の怪事と同じく、外より動物が入り来たりしのでなく、内より家族の一人がすきをうかがって、かかる怪事を営むのである。その多くは十五歳以上、二十歳ぐらいの年若き婦人の所為なりしことは、他府県にてしばしば発覚した事実である。少女がかかる怪事をなすの動機いかんというに、これに二とおりある。

 その一は常的であって、例えば一種の好奇心で、人の驚くのがおもしろいということより怪事を行うの類である。あるいは利欲より起こすのもある。その二は病的であって、ただ一とおりの好奇心でなく、一段その度が高まり、自ら抑制することができないようになっておる。これに自知的と不識的とがある。自知的の方は、自ら怪事をなせしことを覚知しておる場合で、不識的の方は、自らなしながら後に覚えぬ場合である。しかしてその不識的は、動機発作のときにしばらく他の人格となって怪事を断行し、ただちにもとに復するがごとき場合である。すなわち、人格の一時的転換とでも名づくべきであろう。かくのごとく他の人格となるを、俗間では狐、狸がついたというけれども、われわれの精神の内部において人格の観念が転換するので、決して動物の霊がわが心内に移住するのではない。

第五八項 大坊主に苦しめられた怪事

 (問う) 明治三十八年の『電報新聞』に、東京某地に住める風花生の寄書中、左の怪談が載せてあった。

 私の叔父が窮していたとき、本所相生町に大層安い家を借りた。その家へ引き移って三日目、叔父はその妻を下谷の親類へ、泊まりがけに出して、一人、床の間に添った座敷に寝ていると、明け方、もう薄く日の色が戸の間に見ゆるころ、押入の戸を開けて、あばたのできた大きな坊主が出て来て、ひらりと叔父の上へ馬乗りにまたがり、夢のごとく、また真実のごとく、うんとばかり咽喉を締めるので、叔父は驚き、床の間に置いた末貞の短刀を取ろうとしたが、どうしても力が足りなくて取れないで、ただどたばたと争い苦しんだが、その切なさが漏れて、あっと叫んだ自分の声に、ふとわれに返ると、坊主はいない。薄く汗をかき、息切れもして、争ったさまがはっきり見えるので、すこぶる気丈な叔父も怖くなり、ちょうど日がうっすり戸の間を漏れるを幸い、早く開けっぴろげようと、がらり一枚、戸を引き開けて薄暗い手洗鉢の下を見ると、一人の小僧がしゃがんで笑っているので、ぞっとしたが、手洗いのひしゃくを取って怖いながらもたたきつけると、小僧は四つんばいになったと見えたが、いつか狸らしいねずみ色の、四つ足になって、たちまちに塀の外へ消えたという。叔父はすぐその家を引き払ったが、よく聞くと、その家は質屋の跡という悪い家で、叔父が借りる前の髢屋は、かみさんが発狂して咽喉を突いて死ぬし、そのまた前のお役人は、のんだタバコの煙が、人の顔になったので仰天するなど、住む人、みないじめられるのだそうだ。

 かくのごとき怪談は、ドーいうふうに解釈してよろしかろうか。ことにその借りた家に、前に自殺したものがあったとすれば、その怨霊が残っていて、後に住む人までを苦しめるのであろうか、教えを仰ぎたい。

 (答う) その怪談の初段は、俗にいうウナサレタのである。身心の衰弱または疲労した場合に起こるもので、普通にある出来事だ。例えば、朝起きるときに精神も五官も同時に起きるが当然なるも、衰弱または疲労を感じている場合には、一部分が起きて、他がまだ眠っていることがある。すなわち、ただいまの場合のごときは、目と心は起きて、身体がなお眠っているのである。そのときには、身体が自由にならぬから非常に重量のあるように感じ、これに目の幻覚が相伴い、幻影を見るようになったのである。そのつぎの、小僧が四つ足に変じたというのは、幻覚の継続であるが、その逃げ出したのは、犬か猫か、あるいは鼬か狸であったろう。それが幻覚上、小僧に見えたに相違ない。最後の、質屋の跡とか、自殺者があった跡とかいうことは、前の話と連絡のないことで、別事項と見なければならぬ。

第五九項 海中より怪物を救い上げた怪事

 (問う) 今より三十年前、尾州〔尾張の国〕知多郡横須賀近辺の漁夫が、親子両人にて鮮魚を漁船に積み、夜中こぎて熱田に向かう途中、海上に何者か首だけ出して動きおるを見、あれは海の中に陥って溺れつつあると思い、早速引き上げて船中へ入れ、ものをたずねてもなにも答えぬ。寒中のことなれば、蒲団を着せて休ませておき、漁夫は相かわらず両人にて舟をこぎ、夜のまさに明けんとするとき熱田に着し、蒲団を取って見るに、その下に何者もおらぬから、いかにも不審にたえぬ。さきに救い上げてやったものは人間でなく、海中の怪物であったろうとの評判が伝わっておる。これも幻覚でありましょうか。

 (答う) その当時の状態を精査せざれば、なんとも判断はできぬ。もし、漁夫両人が恐怖心より幻覚を起こしたとすれば詮議の必要がないが、伝聞のままにては精神に異状があったらしくない。そうすると、人為的と見なければならぬ。あるいはその怪物は、なにか故あって、自殺するつもりで海中に飛び込んだのかも知れぬ。あるいは、悪事を働いて海中に身を隠したのかも知れぬ。その姓名や人相を知られては困る事情があって、熱田へ着く前に逃げ出したものと思わる。さなければ、好奇心より真の怪物に思わせるために、故意に身を隠したのか、いずれにしても真怪でないことは明らかである。

第六〇項 掛軸の霊験

 (問う) 幻覚、妄覚には全く関係ないが、数年前『信濃日報』に、「掛軸の霊顕」と題して左の記事が載せてあった。

 下伊那郡伊賀良村下殿岡区、矢沢亀太郎方にて、祖先以来所有する掛物一軸は、奇妙なる霊顕あり。子なき人がその掛物を借り受けて信心すれば、子をもうくること不思議なりとて、遠近より借り受け申し込みすこぶる多く、すでに二十余人はみな妊娠せりというが、同家の娘お何は、養子を迎えてより八人の子女あり。いずれも壮健なりとは、いよいよ奇妙なことかな。

 もしこれを事実とすれば、不思議のように考えらるるが、どうでありましょうか。

 (答う) これに類した怪事はいくらもある。美濃国不破郡静里村、安田氏の庭内にも懐妊石あって、婦人これに一踞すれば、たちまち懐妊すと伝えておる。また、相州三浦郡大津の信誠寺の庭内に銀杏の老樹があるが、その枝の節が乳形をなせるより、婦人がこの樹に向かって祈願すれば、必ず乳は出ると申している。また、尾州東春日井郡小牧町近在にある間久野観音が、乳の出でざる婦人の祈願所になっておる。評判には、男子でも祈願を掛くれば出乳すというが、その話は当てにならぬ。要するに、これらはみな信仰作用によるもので、余のいわゆる心理作用である。すなわち信仰の力によって、乳に関連しておる神経の中枢へ精神を集注することができるから、出乳の結果を見るのである。しかし、その身体が生理的に到底出乳を許さぬ組織になっておれば、できぬに相違ない。

第六一項 熊本師団の一大怪事

 (問う) 熊本の師団には、西南戦争当時より引き続き、ときどき一大怪事が起こる。その怪事は、明治四十四年発行の『国民新聞』の記事を借りて概略を御覧に入れます。

 歩兵第二十三連隊の兵士は毎年七月ごろ、中隊一斉に真夜中に奇声を放ちて鬨の声をあげつつ起き直り、寝台および板床等を打ちたたき、しかも彼ら自身はこれを知らざる不思議のことあり。十五日夜も、第八中隊二回、第七中隊一回、叫声をなしたるが、その声営外に聞こえたり。叫びし兵士にただせば、「ただ胸をおさえられて、苦しさにたえず叫びたり」といい、また、「四列縦隊の一隊が凱旋して営門を入るを見たり」ともいい、叫びて自らこれを知らざるが不思議なり。本年も六月中に数回あり。十五日も三中隊の一部がこれにおそわれたりと。

 一人が夢におそわるることは普通あるけれど、かく多数が同時におそわるるのは不思議と思いますが、いかが。

 (答う) この話は名高いもので、前からたびたび聞いておる。また、これには由来があって、むかし墓場の跡へ兵営を建てた故であるとか聞いておる。最初はその地について縁起の悪い由来がもとであろうが、その後はだんだん遺伝してくるのである。妖怪にも遺伝と伝染とがある。前に一怪事が起こると、後にそこに住するものはこれを遺伝して、同じ怪事にあうことが多い。また、一人が怪物を見たというと、他人に伝染して同時に見ることも、決してまれなる例ではない。今、熊本連隊の怪事はこの遺伝と伝染より起こり、つまり精神作用である。最初、不吉の由来があると、その話が兵隊の心中に記住しておる。たとえ顕識となっていなくも、潜識中に存している。しかして、夜中一人がウナサれて大声を発すると、他の者も睡遊を誘起し、これに唱和するようになる。よく聞く話であるが、深更四、五人づれにて墓地を通行し、紙幡でも掛かっているのを見て、幽霊の幻覚を起こし、声をあげて「幽霊」と呼べば、その声が暗示となって、四、五人のもの同時に催眠を感伝し、同一の幽霊を現見すると同様だ。その話が後に入営するものに相伝わり、遺伝的に相続するものである。

第六二項 化け物屋敷の怪象

 (問う) 世間に化け物屋敷または妖怪家屋と称するものが、昔にもあり今日にもあり、西洋にもあり東洋にもあり、田舎にもあり都会にもありて、なかなか少なくない。あるいは幻影を見、あるいは幻響を聞く。これらはすべて幻覚、妄覚より起こると思わるれど、そもそもかかる怪談の起こる原因は一定していましょうか、伺っておきたい。

 (答う) 前にいろいろ説明した事柄を総合すれば、妖怪家屋のことはみな説明ができるわけだ。今、ここに世間普通の化け物屋敷の状態を参考にして、その起源を話すことにしよう。明治四十一年発行の『東京日日新聞』に、左の記事が掲げてあった。

 高崎市十五連隊の兵営にほど近き竜見町百十二番地に、噂高き妖怪屋敷あり。閑静瀟洒たる一構えなれば、軍人、官吏等の住居には適当なるも、いかなるわけにや、これまで永く住居する者なく、目下麻布三連隊付きなる石原大尉が三年前住居せし折、その令息に対して異様の婦人姿見え、果ては大わずらいをなしたることありしより、にわかに癖がつき、ついで同地連隊付き少佐吉野某の代となりては、同じく他の家人に見えず、当時五歳の令嬢にのみ見えたるは、島田の娘姿。哀れや、令嬢は夜な夜なこれにおそわれて、家人を驚かすことありしと。さらに、近来やかましく伝えらるるは、同連隊付き陸軍三等軍医、正庄勇之助氏が昨年十二月、家族をまとめてこの家に引き移りしに、はじめのほどはなんの異状あらざりしも、去る二月ごろより夜ごとに異形の人影現れて、同氏を悩まし、氏はついに、これがために精神に異状を呈し、今は純然たる狂人となり、職をやめて、現に興津辺りに静養しつつあり。その留守中、馬丁某も同じく物の怪におそわれ、いたたまらずなりて、帰京したりという。これ、もとより取るに足らぬ怪談なれども、奇を好む人情とて、それからそれと言い伝え、ヤレこの地は昔、首切り役人の邸なりしとか、六部某が囲碁の恨みより殺害せられたる怨恨、今なお去らずして、祟をのこすものなりとか、あられもなき取り沙汰かまびすしという。

 さらに、明治四十年の発行の『大阪朝日新聞』に掲載の、同市梅田の化け物屋敷の記事をも左に抄録しておく。

 曾根崎警察署の右側に、五、六年前来、怪物屋敷の噂やかましき家あり。二階建ての新宅にて、間数も多く庭も広く、紳士の住居としてはずかしからぬ家なれど、一年を居付きたる人なく、はなはだしきは二、三カ月にて転居すもあり、評判ますます高くなりたり。昨年夏ごろ、さる相場師移り住みたるが、台所にかくまいある多くの三宝が、毎晩はしごに一個ずつ載せ置かれあるに、あやしと思いて、種々探索したるが知れず。のち怪物屋敷と聞き知りて、驚き転宅せしことあり。その後しばらく空き屋となりいたるが、昨年冬ごろ、瀬山某と名乗る鉱山師が借りうけ、下女の三人も置き、にぎにぎしく生活しいたれば、一時は怪物談も立ち消えの姿となりしが、先々月、主人が鉱山用にて旅に出でて、留守居の婦人ばかりとなるや、またぞろ怪物どもはそろそろと暴れ出し、その物音、あたかも二、三人の男が荒れ回るごとく、襖を突き雨戸をたたき、畳をつき上ぐる騒ぎに、家人は毎夜おちおちと寝付きもならず、恐ろしさに、出入りの俥夫を頼み泊まりもらいたるに、これはまたひどくうなされて、物の役に立たず。あくる夜よりは慄毛を震いて、もうごめんなされと逃げ帰るありさまに、女中、下女は一層おそろしがり、だれは昨夕便所で三つ目入道を見た、彼は庭先に死人の首を見たなど、尾に鰭付けて、毎夜縮こまりいたる由を、そのころ帰宅したる主人が聞き、

「そんなばかな話があるものか。化け物と見えるのは、みなお前たちが神経のなす術なり。こわいなら稲荷下ろしをしてやろう」と、知人の周旋にて一昨夜、西区阿波堀三丁目の袋物商にて、傍ら祈祷師をする山口市兵衛を呼び、稲荷下ろしをなしもらいしが、このことたちまちに曾根崎署の聞くところとなり、市兵衛は帰りの途中に押さえられて、大枚二円の礼物をも取り上げられしが、怪物屋敷の荒れ方は、その夜かえってはなはだしかりしという。化け物の正体見たきものなり。

 その他、相州小田原の化け物屋敷の話が、明治四十三年の『やまと新聞』に見えたれば、それも転載しておく。

 神奈川県小田原町緑町四丁目字揚土は、往昔上杉謙信が小田原攻めのときの道筋なりとて名高き所なるが、神奈川県第二中学校所在地にて、昔の名残さえなきに、同校門前に一軒の廃屋あり。大久保氏時代の武士屋敷とて、永き星霜を経し古家なるが、その奥座敷十畳の間の長押に、先代の置き忘れしものか、一間半銀杏穂の古鎗あり。移り住む人も手を付けぬと見え、幾歳かの塵はうずたかく積もりて、なんとなくものすごきに、これまで同家に移り住みし人は、いずれも十日ぐらいにて転宅するより、化け物屋敷の評判高かりしが、このほど岩瀬某、宮田某の両人が移り住みしに、果たして怪しきこと多く、夜中、人の足音するかと思えば、風なきに襖バタバタ外れ、果ては寝かせおきし子供が不意に起き上がり泣き出すなど、不思議なることのみなるが、両人とも強情の男とて、襖を釘付けにし、相変わらず住居しおれるが、不思議は今にやまざるより、近隣にては古鎗の精なるべしとて大評判なり。

 なお、そのほか妖怪屋敷の報道は山をなすほどあれども、たいてい大同小異に過ぎざれば前掲の三記事だけにとどめ、その原因について一言しておこう。これに種々あるうち、歴史的伝説や由来のあるのが主なる原因となっておる。例えば、東京の番町に妖怪屋敷の多いのは、昔話の番町皿屋敷の伝説が起因である。また臨時の出来事、例えば、自殺したものがあったとか、病人のたえたことがないとか、あるいはその家に永く住まうものがないとか、また長く空き家になってイツまでも借り手がないとかすると、化け物屋敷の風説が起こる。かかる風説があると、これを聞いてその家に住するものは必ず神経を起こし、幻覚を生じて幻影を見、幻響を聴くようになるものだ。これに種々の想像を付会して、針小棒大の評判が伝わってくる。また、偶然病気を起こし、幻影でも見ると、だんだんその家の由来をたずね、実際関係なきことまでをそのことに結び付け、なんの祟とか、なになにのうらみとかいい伝うるようになる。前例の高崎市および小田原町の怪時の原因話のようなことが風評になるものだ。

 また、大阪梅田の話のごとき、恐ろしい音がして騒ぎ立てるというのは、古屋または永く空き屋となった家には、鼠や鼬や貂の非常に大きく、かつ老いたるものがいて、恐ろしい音をさせて騒ぐものである。余は、友人大宮孝潤氏に聞いた話がある。同氏がセイロン島に客居のとき、化け物屋敷の貸し屋があって、貸し賃が案外安いから、これに引っ越したれば、深夜になると恐ろしい音がして、一とおりの騒ぎでない。なんとかして、その正体を見届けたいと思い、いろいろ工夫を凝らし、いよいよ見届けたれば、恐ろしい大鼠が数匹住んでいることが分かったそうだ。かかる音がすると疑心暗鬼を生ずる道理で、神経より大仕掛けの化け物を産み出すことになる。

 ついでに話しておこう。化け物屋敷には余の偽怪、誤怪が多く加わっているもので、その実例は拙著『おばけの正体』にたくさん載せてある。今ここに、明治四十四年の『毎夕新聞』の怪事談の一節を参考に掲げておく。それは吟葉という人の投書である。

 子細あって名前をあらわすことはできないが、日本橋区内、しかも本社とはあまり遠からぬある家で驚かされた話だ。主人というのはあまり質のよくない方で、界隈でも鼻つまみの男だが、私の友達でKという法学書生が、妙なことからその男と懇意になって、ある夜訪問したそのときのことである。なにか貸借関係のゴタゴタした問題について、法律上の権義を教えてもらいたいとかいうことで、Kは夕方から出かけて行って、子分めいたやつと三人、三つ鼎で遅くまで話をしていると、やがて蕎麦の御馳走が出た。ざる蕎麦だったそうで、めいめいの前へ三つずつ蒸篭を重ねて出したが、Kは一つだけ食って、膳を横へ押しやりながらしきりに書類を調べていると、なにか物の気配がするので、ふとみかえると、自分の横に三尺の袋戸棚がある。その戸棚の戸が二寸ばかり開いていて、中からやせこけて火箸のような手がヌーッと出た。Kはおどろくまいことか、はっと血が凍って息がつまると、その手がKの食い残した蕎麦をつまんで、スーッと戸棚のうちに消え込んだ。Kは身体に似合わない臆病な男だ。これを見るともう真っ青になってしまって、ろくに挨拶もせずにその家を逃げ出した。ところが、あとでダンダン聞いてみると、戸棚の手はお化けでも幽霊でもない。姪に当たるお何という小娘を、主人はいつもひどい虐待をして、この前日にもなにか落度があったとかで、一日一晩こうして戸棚にほうり込んでおいたので、娘は空腹さにたまらず、戸のすきから手を出して蕎麦をつまんだ次第。「幽霊の正体見たり枯れ尾花」だ。

 かようの妖怪がずいぶん加わっているから、決してそのまま信じてはならぬ。

第六三項 幽霊有無の問答

 (問う) 妖怪屋敷の話には、たいてい亡魂や怨霊や死霊、生霊のことが加わっておるようだが、幽霊は全くないものか、どうでしょうか。ずいぶん幽霊話には不思議のことが多いと思います。

 (答う) 余は、はじめより幽霊実有論者の一人であるが、世間普通の幽霊は虚怪か仮怪にして、真の幽霊でないことを主張しておる。全国の新聞紙上にときどき幽霊話が載せてあるも、みな真の幽霊と信ずることのできぬものばかりである。念のため、数年前、仙台市の『河北新報』に掲げられた一項を抜抄しておく。

 ある日午後六時ごろ、桃生郡前谷地村字前谷地小字山崎二十二番地、伊藤トナセ、妹ハルエは、姉のトナセが居家の後方に当たる山林へ薪木取りにと出かけ、その留守中に居家の戸外に当たり、異様の物影あらわれたるにより、よくこれを見るに、亡父の容貌に似寄りたる、丈四尺ぐらいにして、ほおかむりをなし、白衣を着したるものあらわれ、低声にて、「己は墓場にあり心配なし。ただ、その方とものみ大切にすべし」などいい、また「空腹なれども、なにもなければ帰る」など発言し、居家後方に行きたりという。その後、毎夕刻二、三回出没したる赴なるも、その場所は一定せず。かつ、腰部より下は見えざるのみならず、姉のトナセおよびその次男勇喜らは、右のごとき異様の変化を見しことなく、ただ妹ハルエのみ数回見しという。いとも怪しき話なれば、受け持ち巡査は変化の正体を確かめんとて、村役場宿直員らと数回同家に至りしも、別段怪しと思うこともなければ、ここに一策を案じ、家主に命じて夕刻に至り、おおよその出ずるという場所に木炭を散布せしめおき、翌朝に至りて検せしところ、直径二寸余の狸の足跡(?)点々数個ありたる趣なり。元来、トナセ宅の後方には山林ありて、八幡山というに引き続きおり。平素、同地方人が「八幡山には狸が棲息しおる」と言いおれば、妖怪の正体は必定、狸ならんとの噂あり。もっとも、変化を見しというハルエは、精神に異状を呈しおるものにして、普通人の能力を有せざる趣なれば、如上の事実によりて察するに、全く狸のために魅せられしものなるべし。

 かかる幽霊談が世間に多く伝わっておる。最後、これを狸の所為に帰してあるが、たとい狸がすんでいるとしても、少女の見た幽霊は、一時の幻覚、妄覚なるに相違ない。

 モー一つ、先年『中央新聞』に出でたる東京深川の幽霊話は左のとおりである。

 深川中島町六、網島平七は女房きくとの間に長女なかというがありて、もとは横浜の相当の青物問屋なりしが、不景気続きにて資産を失い、七年前に上京し、前記中島町なる三畳一間の破れ家を借り、魚河岸の軽子となり、辛くもその日を送りいたが、去月二十七日早朝魚河岸へ出かけしが、間もなく帰宅し、自宅へ入るやいなや脳充血を発し打ち倒れしより、付近の者が集まり介抱し、一時蘇生せしも、以来重患に陥りしに、きくは無情にも夫の病気を看護せず、日夜近所を遊び歩くより、平七は大いにきくの所業をうらみつつ、ついに同月三十日、悲惨の最期を遂げしが、きくは死体を火葬になし、白骨を深川本村町の菩提寺へ預け、埋葬もせざりしに、本月三日の夜、きくの枕頭へ死せし平七が現れし夢を見しが、爾来、毎夜同じ夢を見るより、きくは自宅にいたたまれず、毎夜付近の箱職倉沢由之助方ほか数軒へ宿泊しおるが、毎夜必ず呻吟さるるより、いずれも平七の亡霊の祟なりと恐れつつありしが、きくは本月八日に至り、同区蛤町の魚商某の妻となり、前記の家屋は空き家となりしに、だれいうとなく、右の空き家に毎夜平七の幽霊が出てると大評判となり、毎夜見物に出かくる男女多しと。

 右らが普通の幽霊談であるが、これはもとより神経作用より産み出せるものなるを、世間では亡者の霊魂と信じておる。ゆえに、その話は幽霊あるの材料とならずして、かえって幽霊なしの材料となるのみである。

 また、世間では火の玉を幽霊と唱え、ときどき大騒ぎをすることがある。先年発行の石川県金沢の新聞に、「幽霊の怪火」と題して左の報道があった。

 近ごろ江沼郡山中小学校付近へ幽霊の怪火燃ゆとて、昨今毎夜十時ごろより、同運動場付近へ押しかくる群集多しとのこと。子細を聞けば、去月二十六日夜とか、同町の津田忠治という老爺が親類に当たる、同町小泉力松方に不幸あり。同十二時ごろ小泉方に赴く途中、同小学校運動場の横手を通る際、ボーッと立ち現れし幽霊あり。白き火の見えしと思う間に、無数の火の玉となりしにぞ。忠治は魂消え心転倒し、無我夢中にて駆け出し、小泉方へ飛び込みたり。しかるに、その翌日はまた、同町八百物商八木市松方の下女が、十一時ごろ同所を通り合わせて、幽霊の怪火を見たりというが噂の種となり、もともと同運動場は、昔桑畑なりしを山中町にて買い上げ、小学校の運動場となしたるものなるが、古き昔は墓場なりしといえば、さることもあらんとて、さてこそ毎夜毎夜の見物人、押すな押すなのありさまなりと。

 かかることは加賀に限らぬ。全国ドコでも、怪火を見ると幽霊といっておる。また、昔の墓場の跡だとあるも、墓場の中に亡者の霊が永く住しておるはずはない。いかなる幽霊実有論者でも、このような幽霊を信ずることはできぬ。

第六四項 三歳の女児が亡父の幽霊を見た話

 (問う) 文学士石幡伊三郎氏は日露戦役の際、通訳官となって旅順へ出張し、外人を戦場へ案内せる途次、流丸に当たって即死せられた。これと同時日に東京の自宅にては、保母が三歳の女児を負って、九段招魂社に参り、家に帰ると女児が、「今日はおとうさんに遇ってきた」と申したそうだ。その後、電報に接して即死のことが分かり、されば、女児が招魂社にて父の幽霊を見たのであるという話を聞いた。三歳の小児が幻覚を起こしたのでありましょうか。

 (答う) これは幻覚ではない。女児が招魂社は戦争に出た人を祭る所と聞いて、おとうさんのいる所と思い、遇ってきたといったのであろう。

第六五項 幽霊が下女の袖を切り取った話

 (問う) 話は昔時の出来事であるが、むかし江戸柳原の酒屋某の妻が死んだ後、ある日の夕暮れにその幽霊が現れ、下女の袖を引いたれば、下女ビックリ仰天してたおれ、一時気絶したから人が寄り来たり、顔に水をそそぎ、声をあげて呼びかけ、ようやくにして気が付くようになったが、よく見ると幽霊に引かれた袖が切り取られいた。あまり不審なれば、翌朝亡妻の塚に至って見るに、その取られた袖がまさしく石塔の上にかかってあったと、『新著聞集』に書いてある。これは果たして幽霊の所作でありましょうか、いかが。

 (答う) この幽霊は人為的偽怪と思う。何者かが戯れに幽霊の姿を装って、下女をおどかしたのであろう。しかるに、下女があまり驚いて気絶せしを見て、自らその責めを幽霊に託して免れんと思い、墓場へ行って、切り取った袖を石塔に掛けたのに相違ない。これに類した事実がほかにもある。三州〔三河の国〕田原町在で、某寺の裏に幽霊墓と伝えられておる墓があって、深夜そこに至らば、必ず幽霊にあうといわれておる。ある夜、青年が寄り合ったときに、今夜はクジ引きをして、クジに当たったものが幽霊墓の探検をしようということになり、一人の青年が出かけて行く間に、寺の小僧が墓場の陰に隠れて、幽霊のまねをして見せたところが、青年は真の幽霊と思い、卒倒して気絶したが、小僧もビックリし、寺に帰ってそのことは全くかくし、だれにも話さぬために、本当に幽霊が出るということになったそうだ。その小僧は今は五十歳以上であるが、若きときにかかる悪戯をしたことがあるとの自白話を聞いた。また、備中の阿哲郡某寺の住職が、少年時代に墓場や暗所にい、紙に化け物の顔をえがき、これを己の顔に張り付けて、人を驚かせしことがたびたびあったとの話も聞いておる。ゆえに、幽霊に偽物の多いのに注意せねばならぬ。

第六六項 遠距離の間に不意の出来事と死との符合談

 (問う) 世間に伝うる幽霊は、ただいまのごとき浅薄のものばかりでなく、モット不思議の幽霊も少なくない。例えば、一家に奇怪の出来事が起こった場合に、親戚の者が死んだ知らせを得た。または、夢に遠方にいる人の死を見たるに、果たしてその時刻に死んだという符合談は、百人千人のうちには必ず二、三人の実験がある。これなどは幽霊の不可解の一つと思う。いかがでありましょうか。

 (答う) 秋田県および青森県地方では、タマシイと幽霊とを区別し、人が病気にかかり、いまだ絶命せぬうちに、遠方の親戚、友人の目に触れたり、夢に現れたりするのをタマシイといい、死んだ後に姿をあらわす方を幽霊と申しておる。また、人の死せんとするときには、タマシイの形が現れずとも異様の出来事が起こったり、奇怪の音が聞こゆるものと信じておる。先年、青森県隠仙道人より、自ら不思議を実験したること二度ありとて、左のとおり報道があった。

 当県下南津軽郡黒石町(青森より八里くらい)に、三浦孫次郎といえる、余が母の兄なる人ありけるが、去る明治三十一年一月末方より病にかかり、日を追って癒えず、漸次重くなりて同年四月下旬、危篤の報ありしより、余が母も看病せんと趣きしが、五、六日を経て病勢大いに軽くなり、医師もいまだ心配するには及ばずとのことゆえ、みなみな安堵して、五月七日に母もひとまず帰宅せり。しかるに同じく九日、なにごころなくみな家業に従事するうち、午前十時半、店の方面にてガターンと強く音せるに驚き、至り見れば、店棚の上に掛けたる額(幅八寸、長七尺くらい)の、しかも両方を二寸釘にて打ち付けたるが、縁も放れて落ちたりける。取り外しさえ容易ならぬを風もなきにと、なにげなくまた打ち直さんとせしところへ、郵丁の「電報」といい来たりしゆえ、早速ひらき見しところ、黒石町よりにて電文「イマシンダ」という死報にてありき。さては、今のはそれなるかと、みなみな不思議と思い合いけり。

 また、余が親族にて蜆貝町に住みける斎藤浅吉といえる人ありけるが、去る明治三十年春のころより胃病にかかり、初秋に至りてなお快癒を見ず。余、一日同氏を見舞いしところ、長々の病床にやせ衰え、わずかに呼吸あるのみの情態にて、もはやこの世の人とも思われず。家人を慰め、その日は立ちかえりしが(当時、余は一町離れたる博労町に住みき)、同日午後十時ごろ、土蔵の前にパチーンと音して、大なる空き樽のたがが切れ外れたり。余も不思議と思いしが、女、子どもは同氏の魂なりとて、身震いしておそれける。翌朝、果たして同家より報じて曰く、「父、昨夜瞑せり」と。

 右〔の〕二つの出来事は、霊魂の作用か自然の偶合かはともかく、余が実験せしことなれば、参考のため報告す。

 かかる出来事を不思議に思う人が多いけれど、これは偶然の出来事が、自然に死と暗合したのである。もし、暗合せぬ場合には、記憶に留めずして、暗合したときばかり話に残るから、不思議に思うに過ぎぬ。それゆえに、これらはまだ真怪帳に登録することはできぬ。

第六七項 夢と事実との符合談

 (問う) 青森県の話は起きていたときの出来事だけだが、さらに夢の符合についての御説明を願いたい。

 (答う) 夢については、余は自ら試験したことがある。先年、妖怪研究の際、夢は符合するかせぬかを試みんと思い、毎夜の夢を書いてみたが、人の死んだ夢の一度も当たったことがない。以前、哲学館の事務員に大田某という老人が、二十四、五年も勤続していた。余は旅行先にて三回、当人の死んだ夢を見、その時日を書き留めたことあるも、一度もあたらぬ。これによって推すに、世間にもあたらぬ夢が多いが、すぐに忘れてしまい、たまたま夢が事実と符合すると、そればかり長く記憶して世間に吹聴するから、非常に多いように思うまでである。仮に日本国民七千万人が、平均十人につき毎夜一人だけ夢見るものと定むるに、一カ年に二十五億五千五百万の夢がある割合になる。その中に百や二百の符合した夢があっても、ただ偶然の暗合とすべきで、決して不思議ではない。よって余は、世間でいう夢知らせがあったとの話は、たいてい偶然の暗合と思っておる。

第六八項 二人の夢が全く事実と符合した実例

 (問う) 一人が夢見ただけならば暗合としてよいが、二人も三人も同一の夢を見て、その夢が事実に符合したということがある。例えば、越中国の玄巣某の住職せる寺にて、一夕、住職が夢ともウツツともつかず、半眠半覚の間に、檀家某の老爺現れて、「砂糖をなめたいが、あいにく自宅に蓄えなければ、少量でよいから貸していただきたい」というゆえ、砂糖を与えたところが、大喜びながら、その姿が自然に消えてしまった。いかにも不思議と思っていると、翌朝その老爺の死去の通知に接した。そのときに、使いの者に臨終の際の模様いかにとたずねしに、そのまさに瞑せんとするとき、「砂糖をなめたいから、一塊だけ与えてくれ」といわれしも、「あいにく砂糖が尽きて、ない」と答うるを聞いて、「ああ残念だ」といいつつ絶命したと聞き、昨夜の幻影は老爺の幽霊に相違ないと思った。この話がただ住職だけならばさほど不思議でないが、その悴は商用で越後の高田に宿泊中、夢に父がしきりに砂糖をもとめておるを見たが、その翌朝、電報にて「昨夜父死す」の急報を得、大急ぎで帰宅すれば、臨終のときのありさまが夢と符合していた。この報道は貴著『妖怪学講義』の中に掲げてあった。かく数十里も離れて、両人の夢がよく事実と合したのは、真に不思議と思われます、いかが。

 (答う) 遠方にいて両人の夢が符合したという話は、その他にもいくらもあるが、これをすぐに、死人の霊が先方へ至って臨終を知らせたものと見ることはできぬ。ただいまの越中の話のごとき、もし老爺の霊が先方へ現れて言語を発することができるならば、己の臨終状態を告ぐべきが当然である。ただ砂糖がほしいだけでは無意味だ。なにゆえに永別を告げざるか。よし砂糖の所望を告ぐるにしても、「われは死期に迫っているから、砂糖だけ食べて死にたいと思う」というべきはずである。しかるに、用事の眼目たる臨終を告げずして、余波たる砂糖のみを通じたというは不都合の霊感である。よって、この話は偶然の暗合と見なければならぬ。到底、真怪の価額のないものである。

第六九項 幽霊の寺参りの実験談

 (問う) たびたび聞くことなるが、寺院の住職の話には、檀家に死人があれば、必ず本堂に幽霊の参詣するものであると申しておる。先年『河北新報』の中に、宮城県牡鹿郡の幽霊の寺参りの実話が載せてあった。

 予が(起草者自らいう)牡鹿郡渡波町宮殿寺に客たりし際、ある夜妙齢の婦人、髪を被りて寺の台所に現れ、水瓶より手びしゃくをもって鉄瓶に水をくみ、これを炉辺に持ち来たりて鉤にかけしまでは、多くの女幽霊のよくすることなれば、また御客様かと住職はなにげなく見てありしに、その幽霊に限りて、色あくまであおざめし上に、緑の黒髪を振りかぶり、白衣して住職の寝たる方に面し、鉄瓶の下の埋火をおこして、灰とともに吹き上げたる真紅の光が、その蒼白の顔に映りてすごかりしさまに、住職も胆をつぶして、一時は衾をかぶり床の中にて「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と唱え明かし、翌朝になりて、難産のために死せし某家の女の知らせを得たることなりということを聞けることあり。また、予は同寺にある間、前記種々なる物音を耳にしたることありて、幽霊の他の物体の音を発せしむることについては、いささかの疑いも抱かざるなり。

 かかる実話は真怪に感ぜらるるが、いかがでありましょうか。

 (答う) その話の末段の物音ということは、もっぱら寺院で聞く話である。深夜、本堂の戸をあける音がしたとか、廊下を歩く音がしたとか、鐘を鳴らす声がしたとか申す。その後に、檀家のなにがしが死んだ知らせがあった。その知らせによって、前夜の音は幽霊の寺参りであったときめる。しかし、その音はなんの音か分からぬ。さきに不知火について、漁火や汽船の電灯を誤認した話のように、鼠の騒ぐ音も、雨風の物に触るる音も、窃盗の歩く音も、みな幽霊にしてしまうから当てにならぬ。つぎに前段の方で、住職の幻覚、妄覚が、偶然事実に合したといわなければならぬ。そのわけは、もし、幽霊が姿をあらわして寺参りするならば、ただちに仏前に向かって礼拝すべきである。鉄瓶を掛けたり、埋火をおこしたりする必要はない。天気や空気の関係上、夜気しんしんとして、常に変わってさびしく感ずることがある。かかる夜には、病人の絶命するものが多いと同時に、寺院に住んでおるものは、必ず死人を予想して眠るものだ。そうすると、あるいは夢に死人があらわれ、あるいは深夜、目に幻覚を浮かぶるものである。かつて余は、鴉のなき声の悪いときに人が死ぬ、火の玉の飛ぶときに人が死ぬという話を説明して、これ空気の媒介より起こると思う。気候が激変して空気に変動を与えた場合には、長く床に就いておる病人は息を引き取るものである。また、かかるときに鴉が鳴くもので、火の玉も飛ぶものである。いったい、人間は空気を呼吸しておる動物であるから、空気の事情によって生命も支配せられておる。魚類の生命が水によって支配さるると同様だ。よって、病人の絶命する時日は、大いに天気と空気とに関係しておることは必然の道理である。

しかして、天気のぐあいにより、夜中などにイヤニさびしく、また気味悪く感ずることがある。かかる場合に死人が多い。ゆえに、その気を仮に死気と名づけておこう。そういうときには、寺院に住す人などはその気に促されて、死人の夢を見たり、死人の幻覚を浮かべたりするものである。これを死気に襲われたと申してよかろう。かかる死気を感ずることは、起きておるときよりも夢の中の方が適するものである。ここにおいて、死人と夢とが符合することが起こりがちになるものであるから、このくらいのことはまだ不思議とはいわれぬ。

第七〇項 老媼の幽霊が縁側にひざまずいておる実見談

 (問う) 同新聞〔『河北新報』〕に、仙台市内にて実験せる、右以上の不思議談を載せてある。この方は一層奇々怪々の出来事と思う。

 予(記者自らいう)、かつて当市東九番丁蓮池、報恩寺の一室に客たりしことあり。その夏の夜も早や二時を告ぐるころ、読書に倦み寝に就かんと小用に出でしが、隣室の障子を開けて、今し内便所に至る縁側へ下りんとする刹那、一老媼の予の前につくばいて、なにごとか物言わんとするを見し一瞬間に、白衣蓬髪の右老媼は早や暗中にその影を消せしゆえ、予は「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と称号し、小用を済まして室に帰り、ただちに寝に就きて夜の明くるを待ちしに、門前の某なる者、早旦、寺に来たりて、「昨夜二時ごろのことなり、当寺前々住職の妾お何婆(しかも予が借りいたる部屋にかくまいられしという者)寄る辺を失い、来泊中、老病にて落命せしにつき、せめて同住職の墓側にばかりも葬りくれずや」と嘆願し来たりしことあり。

よって予ははじめて、昨夜の老媼が、果たして予の部屋に前々住職の伽をなした仇者が果ての幽霊かと首肯されしことあり。また、当時の住職の談に、「今もなお当地方裁判所の書記なる人の父が、同寺檀徒総代就職中、長病にて自宅に療養中、羽織袴いかめしき仕度して寺に来たり、『爾来、誠に御無沙汰ばかり、云云』と立派なる挨拶をなすゆえ、住職は、かの病衰者の今し、かくも全快し来たるはずなしと、腕に掛けたる珠数すりあわして弥陀六字の名号を唱いければ、ただちに消散し、その夜落命、翌朝寺への知らせを得て、はじめて死有の時を知れりということも聞けることあり。その他、かかる例極めて多し。

 これも死気のしからしむるところでありましょうか。

 (答う) この話を説明するには、やはり前後二段に分けて申さねばならぬ。前段は多分、幻覚か妄覚であろうと思う。夜中熟睡のとき、小便に促されて起きる場合は、もっとも幻覚、妄覚を起こしやすいものである。余の旧友が深夜便所へ行かんとするとき、縁側へ出ると、すぐ前に大入道が肥満の体躯のままたっておると見、大いに驚いた話がある。しかるに、その大入道は炭俵であった。また、余が郷里の知人が、夜ふけて歩いておる途中、疲れて眠りを催しつつ行くに、路傍に大きな材木が長くなっておるを見て、これに腰掛けて一休みせんと思い、腰をおろすと、その大材が急に動いて逃げ去り、自身は田の中へしりもちをついた。よく気を留めて見たれば、それは鼬が路傍に横たわっていたのであったそうだ。これらの話と前段の話とを比考すれば、いずれも幻覚なることが分かる。夜中無理に目をさまし、眠気半分のときは小なるものが大きく見え、ツマラヌものが化け物に見ゆるものであるから、多分、縁側の先に猫か鼬がいたのであろう。これを朦朧たる目で見たから幻影を浮かべ、老媼に見えたのと思う。そうして、ことに婦人の姿に感じたのは、寺院に止宿しておるから、寺へは老婆が常に近づくことを知り、また、死んだときに婦人の幽霊が夜中寺参りするということも聞いておるから、無意識ながらも、心中に予想が働いておる。

この予想が幻覚と結び付いて、ただいまのごとき幻影を現した〔の〕であろう。しかるに、たちまちその影を失ったのは、幻影のもとたる猫か鼬が暗裏へ逃げ去ったのと思う。翌朝、先々住職の妾が死んだという通知は、全く別事故にして、偶然合したまでである。もし、その妾がなにか思うところあって幽霊の姿を現じたものならば、そのように瞬間時に消え去るには及ばぬはずである。〔幽霊の〕姿のままで思うところを告げたらよかろう。これによって考うるに、目に見た幻像と先々住職の妾の死亡とは関係なき事項にして、偶然相合したものと見なければならぬ。

 つぎに、後段の幽霊が威儀堂々として平素の疎闊を述べて挨拶した一条は、受け取り難い話である。いかなれば、もしその人が臨終に際して寺へ参ったものならば、「長々病気のところ、薬石効なくこの世を去るにつき、告別に参りました」というべきが当然である。また、その住職のみならず、親戚、知友へも同様姿を現して回りそうなものである。しかるに、事実はそうでないとすれば、他に解釈を求めなければならぬ。すなわち、住職はその人の重病を知っておるから、潜識中にその観念があって相続していたに相違ない。そこへ自然の天候、空気が病人の絶命するようになったときに、病人はそのために永眠に就き、その気すなわち、余のさきに名づけたる死気が住職の心中に感じ、潜識中に相続せる観念を促し、住職をして妄覚を起こさしめ、幻影を見るに至ったものと思う。かく解釈すれば、これまた真怪とはいわれぬ。

第七一項 一人の身に幽霊が付き添い二人に見えた話

 (問う) 先年、兵庫県播州加西郡某村において、男女ともに井戸に落ちて情死を遂げたことがある。男の方は後に蘇生し、逃れて伊勢参宮に出かけたが、その途中、客舎に宿泊中、自分ひとりなるに、宿屋の方では御膳二人前を持ち来たるに驚き、当人ついに自殺したという話を聞いておる。これは、果たして宿屋の方では女の幽霊が同行して来たのが見えて、二人前の膳を備えたのと思われますが、いかがでしょうか。

 (答う) その話は、宿屋の方で二人と見たのではなかろう。当人が、自分ひとり生きておるのは義理として相済まぬ、必ず婦人の怨念が己の身辺を離れまいと思うの一念から、催眠状態になり、一人前の膳が二人前となって見えたので、全く当人の幻覚であろうと思う。

第七二項 海中で溺死した幽霊の帰宅談

 (問う) 一昨年発行の『妖怪新百話』と題する書中に、幽霊の帰宅談が載せてあるが、こればかりは真怪のように思われる。その顛末は左のとおりであります。

 若州〔若狭の国〕の小浜の西津という漁師町に、お鶴という五十くらいに見ゆる婆さんで、魚売りを業としておるものがあった。もとより漁夫の妻であるから、無知蒙昧ではあるが、虚言をいうような人間ではない。その婆さんの話に、己の亭主は甚左と申し、漁業を生計としていたが、ある夏、鯖のよくとれるとき、甚左は四、五名の仲間とともに鯖釣りに出かけた。いったい鯖釣りというものは、渺々たる海上に木の葉のような小舟をうかべて、三里も五里も沖へ出るのであるから、必死の覚悟がなくてはできぬ仕事である。甚左の船を出した後に南風が強く吹き出し、海上が荒れてきた。お鶴は心配でたまらぬから、一生懸命夫の無事を祈っていた。しかるに近所の評判では、沖へ出た船は一艘も帰って来ないということで、漁師町は大騒ぎになった。お鶴は二人の子供(兄は六歳、弟は三歳)を抱え、もしや九死に一生を得やしまいかと、今日と過ぎ明日と暮らしている間に、三七二十一日となった。そこで、わが夫も沖の藻屑と化したこととあきらめ、今日は三七日の法事を営み、心ばかりの供養をした。

二人の子供はおとなしく仏壇の前へすわって、小さき愛らしい手を合わせ、「南無阿弥陀仏」と唱うるを見ては、お鶴は胸の張り割けるような思いをなしながら、子供に夕飯をたべさせ、跡かたづけをしておるとき、門口に悄然立ってる人影に驚き、だれが来られたかと、よく眺めて見れば、夫の甚左である。お鶴はあまりのうれしさに、あっけに取られておる。甚左は「イヤ、今度はえらい目にあった。ヨウヨウ今浜辺へ着いたが、子どもには変わったことはないか」と問えば、お鶴は「おまえさん、よく助かって帰って来て下された。早く家へおはいりなさい」と言われ、甚左が家へあがるを見ると、衣類が潮水に浸されてダラダラ雫が落ちるうえに、ところどころ破れたり裂けたりしておるし、髪は乱れ、顔に傷もあるから、衣類を着かえさせ、膏薬も張らせた。甚左は膳に向かい食事しながら、「今度はえらい暴風で、船はただ一吹きに吹きかえされてしまい、身はたちまちに逆巻く波に巻きこまれ、板子一枚につかまったことは覚えておるが、それからあとはちっとも覚えがない。いよいよ気が付いて目をあけて見ると、波うち際に砂にまみれていた」という。お鶴は、「なんにしても、コンナめでたいことはない。実は、今夜は三七日の法事をしていたところである」といいながら、早速床をのべ、甚左と二人の子供と一緒に寝た。

お鶴はこれまでの気苦労のつかれでグッスリと熟睡し、翌朝いつもより遅く起き、夫はつかれてまだ寝ていようと寝所を見ると、子供だけよく眠っているが、大事の夫が見えない。ドコをたずねてもいない。また、ドコも雨戸があけてないから、外へ出たはずはない。アー不思議だと思い、よく寝ていた跡を調べると、昨夜着かえさせた着物ばかりがあって、濡れて破れた脱ぎ捨ての着物と、甚左の姿とが煙のように消えて跡形がない。これは狐か狸のいたずらであろうか、それとも子供の心に引かれて、魂魄が遇いに来たのであろうか、ドーも今に分からずにいますとは、お鶴婆さんの話であった。

 右の御説明を聞かせてもらいたい。

 (答う) この話を婆さんの事実談として見るに、狐狸でもなく、幽霊でもないことはむろんであるが、幻覚、妄覚でもなく、自己催眠でもない。これは全く婆さんの睡眠中の夢である。あまり精神を労し、または一心を凝らすときには、夢境と現実との区別が立たぬようになり、夢を実際ありしがごとくに感ずるものである。よって、婆さんは三七日の法事を営み、夕飯後子供を寝させ、己も眠ったのであると思う。その睡眠中に夢がハッキリ現実のごとくに現れ、夫の姿を見、話を交え、濡れ衣を着換えさせ、子供といっしょに休んだということは、全部夢に見たのであろう。しかるに、婆さんはあまり夢がハッキリ記憶に宿っておるから、夜前実際に起こったことと信じていたと思う。かく解釈すれば、なにも不思議ではない。もしそうでなく、幽霊が来て話をしたり、飯を食べたりしたなどは、ドーしても受け取れぬ話で、真怪にあらずして妄怪というべきものである。

第七三項 病中の霊魂が親類をたずねた実例

 (問う) 先年、宮城県登米郡の某村に起こった出来事は、某家の老母が重病にて枕についているに、ある夜、一時人時不省に陥り、死せしかと思う間に、気がついて申すには、「今、十町ほど離れている親類の家まで行って来たが、その家では多人数寄り合って騒いでいた」という。翌日、親戚の方へ聞けば、その夜は無尽講がありて人が集まっていたが、婆さんがのぞき込んだのを見たというものもあり、また、途中で遇ったというものもあり、いかにも不思議で、その評判が今もって伝わっている。これは、人事不省の間に婆さんの霊魂が先方へ行ったのであるか、いかがでありましょう。

 (答う) 右ようの話もときどき聞いておる。催眠術などにもこれに類した話がある。昨年ある雑誌で見たが、福来〔友吉〕博士の話に、美濃の大垣で、ある教員で洋服を着けた人に催眠術を施し、「大垣の公園(城跡にあり)を見物して来たれ」と命令したれば、その人は公園を見しことのないのに、催眠中に見物した。後に、公園に設けてある茶店に照会したれば、「ちょうど同じ時刻に、洋服つけた、年ごろ何歳くらいの人が見に来た」と答えた。これは、当人の観念が姿を現して公園を実視したのであるという話だが、余はこれを信ぜぬ。洋服着た、年ごろの同じ人は一人に限らぬ。よって、茶店で見た人は、別人であろうと思う。また数十年前、尾州〔尾張の国〕知多郡大野、光明寺で聞いた話に、ある日、檀家某の老父が死去せる通知が来たが、その朝、当人は本堂へ参詣したのを確かに見たというものがある。その時刻にはすでに死んでいたはずだから、これは幽霊の寺参りに相違ないという評判であった。この話は多分、後に聞いて想像を描き出したものかと思う。よく夢に火鉢の炭のはねた音に驚かされて目をさまし、ちょうど戦争の夢を見ている最中に、鉄砲の声が発したと思ったというような話があるが、その中には、音そのものの原因を、目のさめる瞬間に想像で組み立てることがあるようだ。ツマリ、結果から因果を産み出してくることである。よって、某氏が死んだということを聞いて、朝本堂で見た人は別人であったのを、想像が働いてその人にしてしまったのかと思う。これと同じく、登米郡の婆さんを見たとか、遇ったとかいうのも、後に聞いたときに、想像で実視したように考え出したのではあるまいか。

そういうように解釈すれば、奇でもなければ怪でもない。いったい、人の心には形体がない。これを言い換えれば、延長がない。延長のあるものは物質である。これが古来、学術上に物と心との別と定めておく点である。すでに形体も延長もないとすれば、われわれの感覚にて直接に、心そのものを実見することのできるはずはない。よし、霊魂は身体を離れて浮遊することができるとしても、人の目に触れるべきものではない。しかるに、知識の程度低きものは、形体のあるものと信じ、幽霊が夜中、寺の戸をあけたとか、足音がしたとか申しておる。すでに形体がない以上は、堂へ出入りするに戸をあける必要はないはずだ。いわんや足音がするなどは、笑うべきのはなはだしきである。

第七四項 乃木大将の幽霊談

 (問う) 明治四十三年の『報知新聞』に、乃木〔希典〕大将の幽霊談が掲げてあったが、それは左のとおりである。

 時は明治三十七年十一月三十日、日露両国の勇将勇士は、旅順二〇三高地に相対して、砲煙弾雨天地を閉ざして激戦数合のその間に、第三軍の司令官乃木大将第二の令息、歩兵少尉保典氏は、この日の初更十時ごろ、海鼠山の攻頭路付近を偵察中、突如敵弾は飛びきたって、あなやという間に少尉を斃して、あわれ青春二十四歳のうら若き骸は、攻頭路頭の露と消えた。悲報はほどなく電話を通じて、二里ばかりを隔ったる父将軍の営所に達した。折しも将軍は、まさに熟睡の最中であった。居合わせた人々は報を聞いて、みな愕然として、処置に迷った。将軍の長男勝典氏も近く南山に戦死したのに、今また重ねてこの悲報である。実にいうにも忍びない。しかし報告せぬわけにはいかぬ。だれかかれかと詮議すれども、だれあって「わが輩がいこう」と言い出す者は一人もない。果てがないので、ぜひなくも参謀白井少佐(今は大佐)がその任に当たって、悄然として将軍の室を訪れた。

 白井参謀は眠れる大将を起こして、「閣下、閣下、実に御不幸な報告を申し上げねばなりません」と、すぐには言い出しかねて躊躇した。将軍は「なんだ」と問い返される。ぜひなく電話のことをいうと、将軍はただ「そうか」といわれて、「実は、今ここへ倅が来た。『なにしに来たか』と聞くと、『お父様に会いに来ました』といった。ところが副官の徽章をつけていないから、『いくらお父様に会いに来たのでも、副官の徽章をつけていないとは不都合じゃないか、帰れ』としかってかえしたところだが、それじゃア、君だったのか」といわれた。これは当時、陣中で人々のもっぱら噂していた話である。これらもつまり、感応という霊妙なる精神作用であろう。

 この話は、ドー説明したらようござりましょう。

 (答う) これはその当時評判の話で、余もよく承知しておる。日露戦役後、戦争中に戦死したのを、その遺族が醒時または眠時に感見した実例があったら、通知を請うことを、余は新聞に広告した。これに対して寄書せしものが二、三十名あったが、そのうちには事実の符合にあらずして、事実が似ておる、または関連しておる方が多かった。例えば、夢に当人の墓を見たとか、当人が家に帰ったのを見たとかいう話が多い。墓と死んだという事実は連想しておるけれども、同一の事実ではない。戦死したそのときには、墓はできておらぬはずである。また、家に帰ったということと、戦場で死んだということは、これまた事実は違うと見なければならぬ。それを、世間ではすぐに符合したと申しておる。戦争当時にあっては、兵隊の父兄は毎日、その安否ばかりを気に掛けておる。ことに何方面に今日激戦があるとの電報や号外があると、兵隊の父兄にはすぐに、己の子弟は討ち死にするであろうとの予想が起こってくる。その予想が原因となって幻覚、妄覚を描き出すなどは、ありがちの事柄である。そうして、その幻妄と戦死とがまさしく相合すると、すぐに幽霊が戦死を知らせに来たときめてしまう。これらは予想し得らるる範囲内であるから、決して不思議ではない。ただ、いまの乃木大将の話は、令息の戦死を予想し得らるる事情を有しておる。その予想が内に動いて、夢現の間に幻影を見るに至り、戦死の事実と偶合したのである。例えば、前夜寝るときに、気候が蒸しあついから雨が降ろうと予想して眠った場合に雨の夢を見たが、翌朝目がさめて見るに、果たして雨が降っていたと同類の話であるから、まだ真の不思議とすることはできぬ。

第七五項 噂をすれば影がさす不思議

 (問う) ついでに一つ承っておきたい事柄は、幽霊には関係ないが、世間で、「噂すれば影がさす」「人ごと言わば目代おけ」とか申すことがある。果たして、そのときに噂している人が来るようである。これは、さきの心が感じて来たとも思われぬ。いかが考えたらよろしゅうございましょうか。

 (答う) これには二様の解釈を与えなければならぬ。第一は、人のウワサというものは、大抵その人の来そうなときに起こるものである。たれがしは久しく来ないが、モー来そうなものだと思うときに、その思想に促されて話が出るもので、また、来る人も、久しく無沙汰しておるが、今日はたずねてみようという気になって来るのが、ちょうど合することになる。これは、双方の思想の予促である。あたかも、友達に無音をしておるから、手紙を差し出したところが、先方も同じ考えで書翰を出し、双方合することがあると同様だ。人間の心は、ある点において時計仕掛けのようなもので、離れていても思想の推移するぐあいが似ていて、ときどき偶合することのあるものだ。第二は、噂と実際との合した場合だけが話に伝わり、記憶に残るもので、合せざる場合は、だれも注意しない。進化論で至適者生存というが、これと同じく偶合者生存、不合者消滅というものである。

第七六項 深夜、山中に美人出現の事実談

 (問う) 再び乃木大将に立ち戻って伺いたいことは、明治四十二年の『東京日日新聞』に、左の記事が掲げてあった。

 学習院長伯爵乃木大将が昨年来、院内官舎に生徒とともに起臥し、生徒を愛撫すること、慈母の赤子におけるがごときものあることは、あまねく世に知られておる事実だが、生徒の方でも大将を敬慕し、まるで御父さんのように考えておるとみえて、院長院長と付きまとう。ついさきごろのことだが、一生徒がどこで聞いてきたか、「大将は昔、妖怪に出遭ったことがあるそうだ」といいだしたので、寄宿生談話会のおり、大将に「その話をして下さい」と懇望した。大将は「そうそう、若いときにそんなこともあったよ」と、しずかに語り出でたのは、玉井山上の妖怪一件であった。「自分は今でこそ、あまりこわいなどと思うことはないが、少年時代には非常に臆病で、朋友にもしばしば侮られたほどであった。なんでも十五、六のころ、そのときはまだ長門の萩にいたが、一夜にわかの用事で、七、八里隔たった町まで使いを命ぜられた。いやともいわれんから、こわごわながら一人夜道をたどって、玉井山まで行ったのは、草木も眠る丑三つ時、山気身に迫って肌に粟を生じ、風は全く落ちて、動くものは樹の間をもれる星のまたたきと自分ばかり。心細くもトボトボとなお山深く入って行くと、濃い靄が一面に降りて、咫尺も弁じなくなった。

これは困ったと思って、さぐり足で進んで行くうち、突然自分の前一、二間はなれた所に、蛇の目の傘をさし、白足袋をはいた女が、ヌッと現れた。咫尺も弁ぜずという濃い靄の中で、その傘と白足袋だけがはっきり見えるのだから、これは心の迷いか狐狸の悪戯か、なんにしてもほんとうの人間ではあるまいと、身構えして右の方に避けて通ろうとする。その女は傘で上半身を隠したまま行き違って、フッと消えてしまった。不思議なこともあるものと、恐ろしくなって道を急いだが、しばらくすると、またその女が自分の前へ現れ、今度も前のとおり、行き違うやフッと消えた。今になっても、あれはどういうものか、あるいはどうして見えたのか、わからないで、実に不思議だと思っておる」

 右は乃木大将ですら不思議と申されておるが、われらには真怪に感ぜられます、いかが。

 (答う) 乃木大将はいかに知仁勇兼備であっても、妖怪専門の学者ではない。諺に「餅屋は餅屋、酒屋は酒屋」であるごとく、各専門家の判断をまたなければならぬ。この記事を熟読するに、臆病と、深夜と、暗黒と、濃霧と、疲労と、山上深林の境との諸事情を総合すれば、恐怖心より幻覚、妄覚を生ずるに最も好都合の状態であるから、大将が自己催眠の状態に陥りて、幻影を見られたに相違ないと思う。

第七七項 夜中、枕元へ妙齢の女子が幻出した話

 (問う) 同新聞〔『東京日日新聞』〕に、モー一つ大将の妖怪談を載せてある。

 (乃木大将の話の続き) もう一度、これはだいぶ後だが、軍務を帯びて加賀の金沢へ行ったとき、三層楼の妖美人に、二日続けて悩まされたことがある。そのとき泊まったのは三階建ての宿屋で、自分は見晴らしのよい三階座敷に陣取った。さて、夜に入って「床を敷け」というと、老人の下婢が、「二階にのべてございます」というから、変なことをすると思って、「では今夜は二階で寝るが、明日の晩は三階に敷いてくれ」と頼んでその晩は寝たところが、その翌晩も依然二階に床をのべたので、これは夜具を三階に運ぶのが辛いからであろうと、婆さんを呼んでしかりつけ、三階に移させトロトロと寝たら、だれかその室に入って来た者がある。枕もとに置いた有明灯は明また滅、薄暗い中を透かして見ると、奇怪千万、齢若い女がしょんぼり座っている。ジッと見ておると、自分の枕もとへ来て、蚊帳越しに自分の顔のそばへ顔を寄せてくる。これはと思って跳ね起きたら、だれもいない。夢ででもあったろうと、また寝るとまた来る。寝さえすれば出て来るので、とうとうまだ夜の明けないうちに起きたが、そんなことは人には話せないから黙っていたが、その晩よそから帰って、婆さんに「床は敷いたか」ときくと、「三階にのべました」という。少々閉口してしぶしぶながら寝ると、果たしてまた出て来た。その晩もロクに寝ずじまいで、夜が明けると、婆さんが、「旦那は二晩ともロクにお寝ないようですが、もう今晩からは二階でおやすみなさい」と勧告したので、ついに降参してしまった。

後で聞けば、その旅館の主人が、妻を虐待して三階の柱に縛りつけ、妻は恨みを残して死んだのだそうだが、まだその話を聞かないうちに幽霊を見たのだから、これもいまだに不審に思っておると。

 前の話は幻覚、妄覚と見てよいが、この話に至っては、実に不思議中の不思議に考えられます、いかが。

 (答う) このことを説明する前に論じておきたいことがある。世間では惨死を遂げた室には、永く怨霊が残っていて、縁、ゆかりのない他人を悩ますと信じている。これは全く道理の分からぬ話である。そもそも霊というものは無礙自在にして、ドコへでも移動し得るものである。決してその一室に固着しておるはずはない。しかるに、その室に限るというのは怨霊そのものにあらずして、人の迷信より連想するだけのものに過ぎぬ。また、怨霊が恨みをはらすためならば、これを惨死せしめたものの家族か子孫を悩ますべきに、全くの他人を苦しめる道理はない。もし、家族も他人も見境なしに苦しめるならば、怨霊は狂犬同様である。人間ならば、狂人といえども自他の区別を知っておる。それゆえに、惨死のあった室であるから、その怨念に悩まされると思うのは、迷信にほかならぬ。つぎに、ただいまの三階の幻影は、乃木大将が惨死のありしことを知らぬときに起こったから、大将の予想でないことは明らかである。ついては、その夜の乃木大将の精神の内状いかんの探検をしなければならぬ。

 しかし、今日にてはもとよりその探検はできぬから、推想するよりほかに方法がない。余の推想によるに、その夜は大将の精神に過労を感じていたか、もしくは胃中に不消化を起こしていはしなかったかと思う。寝るときに胃が不消化を起こしていると、怖い夢を見たり、ウナサれたりするものである。そうして、婦人の姿を見たのは、夢現中に起こりし幻影に相違ない。すなわち一種の夢である。かく解釈しきたらば、これまた不思議とは見られぬ。

第七八項 惨死者と怪室との関係

 (問う) その他、旅館中に一種の怪室あって、その室に寝るものに限ってウナサれたり、幻影を見たりする話が、諸方にあることを聞いておる。そうして、その室にはむかし虐殺とか惨死とかありし由来が必ず伝わっておるも、ここに泊まる旅人は全く伝説を知らぬのに、睡眠中に悩まされたり苦しめられたりする話は、みなただいまと同様に解釈してよろしかろうか、伺っておきたい。

 (答う) 旅館の客室中に妖怪部屋があって、余はその室に寝たことは数回あるが、そういう室に限って陰気を帯びておる。すなわち、空気や光線の流通あしく、建て方がよくない。よって、惨死などの由来談を知らぬものでも、かかる室に宿すると、その陰鬱の気に襲われるということがある。さきに死気の話をしたが、死気のほかに陰気というもののあることを知らなければならぬ。また、人の長く住せざる家にもこの陰気があるから、妖怪屋敷などもできてくる。また、妖怪室や妖怪宅地の惨死などの由来談は知らぬといううちに、顕識の方には知らぬが、いつの間にか耳より入って、潜識中に存しておることもある。その潜識が夢中に働いて、妖怪の幻境を組み立つる場合が起こるから、本人が知らなかったというのは必ずしも当てにならず、その他は前の説明を参考すれば、たいてい解釈がつく。

第七九項 夫婦両人にて夜中妖怪を見た話

 (問う) 茨城県多賀郡大津町の某氏が、一夜、妻とともに枕を並べて横臥していたが、夢ともつかず現ともつかず、夢寐の間に窓より何者か、細く長く白い手を出して己の枕に触れんとしたから、その手を強く握ったと思うと、間もなく醒覚した。そのとき妻の方にても同様の夢を見、細き手が己の頭の髷を恐ろしい力でつかんだと思っておるうちに、夢がさめたそうだ。翌朝になって見ると、妻の着けたる筓が三つに折れてあったという話を聞いたが、その手はなにものの手でありましょうか。

 (答う) その話は少しも奇怪の点はない。はじめに妻が夢中、偶然、手を伸ばしたのであろう。主人はその手を夢現の間に見て、窓より、長い手が出たように感じ、これは妖怪と思って力をこめてその手を握ったが、そのとき手と思ったのは幻視であって、妻の筓をシッカリ握ったので、そのために筓が折れたに相違ない。しかして、妻は主人の手を出したのを、ウツウツ夢の中に見て妖怪の手と思い、頭をつかまれたごとくに感じたのであろう。

第八〇項 下総佐原の大妖怪談

 (問う) 貴著『妖怪学講義』に、保多守太郎氏の通知として掲載ありし記事は、ただいまの話に似たところあれども、真に不思議中の不思議と思わるるから、その本文を掲げて御説明を請います。

 余(保多氏)、本年すなわち明治二十七年四月、下総国香取郡香取村に遊びし折、佐原小学校の教員数名と懇意になりしが、その人々より、同地近傍に隠れなき怪談なりとて、おもしろき一話を聞き得たり。今その要領を記さんに、香取郡小見川町に皆花楼とて、旅店と割烹店とを兼ねたる一楼あり。今より七年ほど前の四月中旬のことなりとか、一日客あり(当時郡書記をつとめたる者なるが、姓名ははばかりて言わず)、この楼に宿せしが、その夜十一時ごろまでも眠りに就くことあたわず。衾を打ちかずきながら、書籍、雑誌など読みいたりしに、ようやく眠気づきて、やや華胥に遊ばんとする折しも、枕辺の方に物音して人の気はいするままに、驚きて目を開き見れば、こはいかに、今までかすかなりし燭火の光、煌々とあたりまばゆきばかり照り輝きて、あなたの壁際に、年ごろ二十あまりとも覚しき女の、鮮血にまみれて蓬の黒髪振り乱し、いとものうらめし気ににらまえたる眼光のすさまじさ。見るより客の驚きは例えんに物なく、たちまち五体打ちすくみて、覚えず一声絶叫せしかば、楼下に臥したる宿の主人、この物音に驚きて、いそぎくだんの客の間に走り行き見れば、客はすでに面色土のごとくなりて、声も得立てず、冷汗身を浸して打ち伏しいたりという。

しかるに、このことありてより三年後、また、たまたま一客あり、この楼に宿せしが、この人は(これも当時郡書記をつとめいたる人)、かつて前の怪事を耳にしたることなかりしなり。さてその夜、床に入りていまだ眠りに就かず、ほのぐらき灯火の光に、あたりの屏風、襖の絵など打ち眺めいたる折しも、立て切りある襖の間より、白く細長き女子の腕現れ出でたり。宿の下婢などの戯れならんと思いければ、ただ黙して注視しいたるに、しばらくして隠れたり。しかるに、これと同時に、隣室に泊まり合わせたる客人(県会議員某)、たちまち一声高く叫びて、急に人を呼ぶもののごとし。前なる客、驚きて声を掛け、ゆきてその故を問うに、隣客の答うるよう、「われ今、夢に墓場を過ぎしに、墓石の間より白く細長き女子の腕現れてわが袂を引くに、驚きて振り放たまくすれども、五体すくみて動くことかなわねば、思わず声をあげて人の救いを求めたるなり」と。よって、前に実見したるありさまを語りて、互いにその奇におどろきたりという。さてその後、二人のうちいずれにかありけん、

たまたまかの三年前に怪事に出あいたる人と相会したる折、ふと右の話打ち出でたるに、前なる人聞きていたくうち驚き、「われもかつて、かの楼にて怪異を見たることありしが、今思い出でても肌に粟する心地す」とて、前の話をつぶさに語り出でて、なお互いにその月日を問い試みたるに、奇なるかな、前後の怪事あたかも同月同日に当たりたりければ、いずれも再びその奇におどろきたりという。かくて後、だんだんかの旅店の来歴をせんさくしたるに、その前代の主人、性すこぶる苛酷にして、かつて一婢を虐待し、ついに死にいたしたることありとぞ。

 右の不思議談は、妖怪中の横綱と思います。

 (答う) この一話を説明するには、初、中、後の三段に分けておきたい。初段は鮮血の話、中段は白手の話、後段は来歴の話として、その各話は全く関係なき独立の出来事と思う。まず初段の鮮血蓬髪の女影を見しは、前の乃木大将三階楼上の話と同じく、当人の身心の事情より、幻夢を妄出して、ウナサれたのに相違ない。これは一時偶然に起こったものであろう。中段の襖の間より白き手の出でしは、さきに引証したる『毎夕新聞』の、戸棚の中より手が出たという話と同じく、実際下女が手を出だせしを見たのであると思う。そのときの下女はなんの目的で手を出だせしか断定し難きも、実際生きておる婦人の手に相違なかろう。しかして、その下女がつぎに隣室に至り同じく手を出だせしに、客がたまたま墓場の夢を見ておる最中なれば、その夢と結び付いたらしい。ツマリ、客が夢見つつ、半睡半醒の間に下女の出だせる手が視覚に触れ、恐怖の念を起こすとともに、ウナサルルに至ったのと思う。後段の虐待云云は、ほとんどキマリ文句で、かかる魔夢にかかったときには、必ず付会することになっておるから、その事実の真否、はなはだ疑わしきものである。よし、これを真にありしこととするも、鮮血、白手の談には絶縁のものと見てよろしい。また、前に述べしがごとく、その室において数年前、虐待されし出来事があったとしても、その怨霊が他人を悩ます道理なく、また、その室に固着しておる道理もない。最後に、同月同日ということは偶然に過ぎぬ。

もしまた、果たして同日でありしかは、各手帳に記して比較したわけでなければ疑わしいと思う。時日のことは、たいてい後より想像をもって組み合わせること多きものなれば、何月は確かにしても、何日は疑わし。かつまた、同月同日ということが下女の虐殺されし命日ということでなくば、その幽霊が出るのは無意味である。たとい命日としてみても、怨念はその日でなくては働くことのできぬ道理なければ、やはり無意味である。よって、かかる話は妖怪の横綱どころでなく、幕下に編入すべきものだ。

第八一項 狐が赤子を盗み出した怪事

 (問う) 聞くところによれば、今より三十四、五年前、栃木県芳賀郡田野村に起こった大怪事の話は、その村内にはときどき狐の悪戯をなすことがある。某民家にて雉子を捕らえ、これを大切にして飼養しおきたるに、ある夜、狐が来たってその雉子を盗み去った。主人いうには、「子供よりも大事に思っていた雉子を奪い取るとは、不埓の狐だ。むしろ、雉子を返して子供を取って行け」とどなったそうだ。そうするとその夜になって、雉子を返し、その代わりに、妻が抱いて寝ていた赤子を知らぬ間に持ち出して、いずれへかつれて去ってしまった。よって、近所のもの相集まり、百方捜索すれども見当たらず。かくして数日を経たる後、新宅の井戸の中にて赤子の体を発見したるに、全身にきずを帯びて死んでいた。これより、村内大挙して狐退治に取りかかり、トウトウ一頭の老狐を探し得て、これを射殺した。その後は狐の悪戯が全くなくなったという話である。これは実に真怪のようですが、いかが考えてよろしゅうありましょうか。

 (答う) その話の前後を照らしてみるに、狐と、雉子や赤子を奪い去ったのとは、全く関係なき問題である。もとより、その村内に老狐が住し、ときどき出でて悪戯をなすことはあったであろう。しかし、雉子と赤子とを持ち去ったのは、狐にあらずして人為に相違ないと思う。その人為は、好奇心でやったのではあるまい、一種の病的であろう。ツマリ、放火狂や殺人狂のように、精神のある一点に異状を起こしていたものらしい。他の点は普通の人と少しも変わっていないで、ただある一点だけが変わっているので、これを心理学では偏狂と名づけておく。狐つきのうちにも、ときどきこの偏狂がある。もし、その村に老狐が出て、いろいろの妨害をするとの評判が立つと、年若の婦人にして気の弱いものは、狐つきの偏狂にかかることがある。その偏狂の発作するときには、自ら狐となって種々の悪戯をなし、発作時間経過すると、平常の精神状態になるものだ。これはさきにも申したごとく、狐が乗り移ってではなく、その人の精神が狐を予期して、自ら起こす病的である。よって、田野村の怪事は一時の狐つき的偏狂にして、狐為にあらずして人為であるとは、余の意見である。しかして、偏狂にかかりし人は遠くにあらずして、家内または近隣にあらんと思うも、余が実地を探見せしにあらざれば、断言はできぬ。とにかく、真怪でない〔こと〕だけは保証する。

第八二項 駿州川崎町の大怪事

 (問う) 貴著『妖怪学講義』「雑部門」中に、静岡県榛原郡川崎町の妖怪談を載せてあった。その報道は鈴木喬太郎氏自身の通信としてある。

 予が妹、当年九歳六カ月なる者、かねてより尋常小学校に入学し、道程およそ三十町ばかりある所を、日々通学して怠らざりしが、明治二十三年六月二十七日も、例のごとく弁当(方言、ムスビあるいはオヤキといいて、飯を握りあぶりたるもの)を毛糸の嚢に入れて携え行き、午前の課業終わりたる後、喫せんとしてこれを開けば、嚢は依然としてくくりたるままなるに、握り飯はあたかも蛹の脱せし繭のごとく、すべて指頭大の穴ありて、中の空虚となれるを見、心ひそかにこれをあやしみたれど、他に飢えを支うべき料なかりしをもって、そのまま喫了せり。さてその日の業おわり、まさに帰らんとして、携え来たりし傘を開けば、周辺より中心の方に数寸を隔てたる所に、一列の小孔、周辺に並行して一周せるを見、帰りてこれを家人に示し、あわせてつぶさに当日の怪を語る。よって、予はその傘を検し、あるいは悪戯のためかと疑い、百方これをただせども、毫もさる覚えなしと答うるのみ。ここにおいてか、疑団ますます解けず。しかれども、この怪やなお、あるいはこれを解くことを得ん。その握り飯の怪に至りては、恍惚としてさらに捕捉すべきところなし。ただ、その実物を見ざるをうらみとなす。すなわち、これを実験せんと欲し、翌二十八日は土曜日にして、課業は正午限りなるにかかわらず、ことさらに平日のごとく弁当を携帯せしめき。

帰るに及びて開き見れば、果たして前日妹の言いしところのごとし。よって、「途中、異変なかりしや」とたずねしに、自宅をさることおよそ二十七、八町の所にて、なんの障害もなかりしに、突然腰部に重みを感ぜしと同時に転倒せり。このとき、そばになにものもおらず、かつ弁当の嚢にも異状なかりしをもって、そのまま学校に携え行き、家に帰るまで、さらにあやしむべきことなかりし旨を語れり。予はさらにこれを試みんと欲し、同月三十日、例のごとく弁当を携えしめ、「前日転倒せし場所に至らざる前に、まずこれを開き検せよ」と命じたり。よって妹は、家をさることおよそ二十二、三町の所に至り、まずこれを検せしに、すでにことごとく一孔のうがたれたるを見たりしとぞ。

さて、そのまま再び嚢に入れて進み行きしに、あたかも前日転倒せし場所に至り、また、たちまち倒れたりしをもって、再び開き検せしに、前にすでに一孔をうがちありしうえに、さらに反対の方面にも同大の孔のうがたれしを見て、いよいよ恐怖にたえず。帰途は道を他に転ぜしが、十町ばかり来たりしとき、父のたまたま他に行くに逢い、つぶさにその状を告げ、自身の弁当ならびに同行者三人の弁当を開きてこれを示せし後、もとのごとく嚢に入れ、父に分かれて家に向かい行くこと一町ばかりにして、なんとなく気味あしくなり、思いがけなく転倒せしゆえ、さらにこれを検せしに、このたびは一部分の欠けてうせたるを見しとぞ。予は妹につきてこの状をきき、また父につきてその途中に逢いしときの状を問い、さらにその携え帰りし握り飯を見しに、みな妹の言にたがわざりき。もっとも、この類の怪事はこのたびにとどまらず、すでに昨秋一、二回、今年の春以来十数回ありし由にて、中には同一の人にて三、四回もかかることにあいし者ありという。

ただし、この怪にあうものは、予が近隣の子弟に限るものにや、他にはいまだ聞かず。また、大人にしてかかることにあいし者あることなし。

 右は狐の所為ではなかろうが、いかにも不思議に思われます。

 (答う) この話は当時の諸新聞にも見え、多少相違の点もあれど、大体は弁当の飯がなくなっておるという話である。他の報道にては、その場所にあしき狐がいて、悪戯をするのであるとも書いてあった。余は実際を見ぬからなんとも判断はつかぬが、想像によれば、少女の行為かと思う。ただし、故意より出たか、または精神に一時的異状を起こしてなしたのかは疑問である。余の考えにては、一時的異状を起こしたものらしい。途中に悪い狐がいる話を聞いておると、少女などはその場所に至れば、すぐに精神に異状を起こし、己が狐のつもりになって、飯をとり出し、暫時の後、精神そのもとに復すれば、自ら全く覚えざるものである。途中に転倒せしなどは、確かに異状に相違ない。先年、石州〔石見の国〕迩摩郡内の一農家に起こった出来事に、家内の者は少女を留守居にしてみな田畑へ出た後に、馬が廏屋より抜けて逃げ出したことが再三続いた。そのことを少女にたずぬれば、化け物が来て廏屋の横木をはずしたのを見たとのことだが、よくよく調べてみしに、少女の精神に異状があって、自身で横木を外したのだそうだ。この例に比考すれば、静岡県の話も、少女の精神作用ならんかと思う。しかして、大人にかかることなき理由は、年の長ずるに従い、精神が堅実になるからである。とかく少女のごときは、精神薄弱で、移りやすく変じやすいから、一時的偏狂を起こすようになる。

第八三項 猫の幽霊が芝居見に行った奇談

 (問う) 狐が人の姿に化ける話はたくさんあるが、『万物幽霊怪話』の中に、猫の幽霊が女隠居に化けて、芝居見物をしたという奇怪談が載せてあった。その御説明を願いたいと思い、ここに話の大略を述べておきます。

 東京の向島に一人の隠居が住んでいた。いわば楽隠居という身分で、土蔵付きの立派な家に住まい、一匹の白猫を飼っていた。この隠居がその猫を愛することは非常なもので、たびたび芝居見物につれて行くほどであった。ある日のこと、不意に猫のゆくえが分からなくなった。いくら探しても知れぬ。隠居の失望はいわん方なく、それを苦にしたわけでもあるまいけれども、間もなく病を起こし、身動きもできぬほどに重くなった。しかるに、隠居が病床に臥してから、一週間ほどのことである。劇場の若者がこの家の勝手口へ来て、「昨日は御当家の御隠居様が私どもの劇場へお出で下さって、誠にありがたきしあわせでござります」と言いつつ、一枚の勘定書を差し出したが、こちらでは一同不審でたまらぬ。「御隠居様は一週間ほど以前から重き病にかかって、昨日あたりは前後不覚という仕末で、なかなか芝居見物どころの騒ぎではないから、なにかの間違いではありませんか」というと、劇場の若者は、「全く御当家の御隠居様に相違ありません」という。「それではどんな着物を着ていましたか」と問うと、「市楽の三枚重ねに、黒の紋羽二重の被布を召してありました」と答える。なるほどそういわれると、その着物は隠居の好みの衣裳である。何者かその衣類を盗み出し、隠居様の風を装って見物に行ったのであろうというので、一同はすぐさま土蔵の衣類を調べてみると、市楽の衣服と紋羽二重の被布も歴然としてあるが、その衣服の間に、ゆくえ不明の白猫が、両眼を開いたまま死んでいた。これより、その衣服とともに猫をば厚く葬ってやると、ちょうど同じ時刻、御隠居様も息を引き取ったそうだ。

 この話は、いかように考えたらよろしゅうありましょうか。

 (答う) 世間ではこの話を聞いて、すぐに猫の幽霊が化けて芝居見物に行ったに相違ないと思うか知らぬが、猫はなんの目的でかかることをするか、猫の意志こそ実に奇々怪々である。もし、猫が死んで後、御隠居様に愛せられたかどで、枕元にいて看病したというなら道理が分かっているが、芝居見物は無意味である。もし、この話を事実と見たならば、人為的妖怪であろう。あるいは人違いかも知れぬ。多数の人の出入りする場所には、偶然人を誤認することのあるものだ。さなくば、故意に出でたるものと思う。いずれ、前に隠居のおともして、たびたび芝居見物に行ったことのある出入りの者が、その着物を取り出して見物に行き、帰りて着物を返すときに、猫の死体をその間に入れたのではないか。その死体の所在を、前より知っていたと見なければならぬ。しかして、その死体を着物の間に入れたわけは、芝居見物を猫に帰して、自分が支払いの責めを免れようという策略であろう。右はあまり想像が過ぎるようなれど、従来発覚せる人為的偽怪の実例より推測するに、かかる結論に達せざるを得ぬことになる。

第八四項 シナで幽霊が正体を見せた話

 (問う) 話がむかしに立ち戻るが、ついでながら伺っておきたい。シナの阮瞻という人が『無鬼論』を著し、世の中には幽霊はおらぬと唱えたところが、老人がたずね来たり、相対して互いに幽霊の有無を争いたる結果、老人の有鬼説が阮瞻の論に押しつぶされてしまった。そうすると、老人はいかにも残念に思い、たちまち形相を変じて鬼の姿を現じ、「これでもまだ幽霊はおらぬというか」と申した話が伝わっておる。これはどう説明したらよろしゅうございましょう。

 (答う) シナ人は小説的空想を構成することに巧みなれば、その伝説は信じ難い。もし、これを事実とすれば、老人が議論にまけて残念と思ったために、大いに憤怒し、この小僧、生意気言うなという態度で、目をいからし、顔色を変じて、大喝をくらわしたのを、形容して伝えたものであろう。

第八五項 海中に幽霊出現の怪事

 (問う) 幽霊は陸上ばかりではない。海中にも現れ、石州〔石見の国〕浜田では、海上の荒れるときには、海亡魂の呼び声が聞こえ、「救ってくれ」と叫ぶ声がするといい、また、波間に亡魂が頭を現出すと申しておる。また、両三年前の『新総房』の紙上に、海中の幽霊の記事が載せてあった。

 上総国君津郡木更津町吾妻五百六十一番地、漁業五味栄治郎は去月二十八日夜十時ごろ、同所沖合板津鼻付近において漁業中、突然船体に異状を感じ、艫の方を見れば、角帯を締めたる年ごろ三十前後の男が、茫乎として水中に立ちおり、栄治郎を見てカラカラと打ち笑うさまのものすごさに、栄治郎はさながら冷水を首筋より打ちかけられたるごとくに感じながらも、「だれだ」と声をかけたるに、その男はそのまま掻き消すごとくに消えうせたるが、栄治郎はそれ以来発熱し、目下病床にありて苦悶しおるが、そのことありて後、同所星野浅治郎もまた、同所海中において漁業中、怪しの女が蝶々模様の浴衣を着、髪振り乱して、船の小縁よりはい上がらんとするを見、仰天して逃げ帰りたることもあり。そのほか同町、田淵源之助もまた、同所において女の幽霊を見たりといい、目下、噂同町に盛んに伝えられつつあるが、聞くところによれば、右は去る四十一年中、同所海中において無理心中をなしたる、木更津町渡辺茂平の長女とめと、情夫なる同郡金田村中島、鮨屋元木常右衛門の長男円蔵の亡魂ならんとのことなり。あまり当てになった話ならねど、右両名の親戚らは、去る一日、両人のために施餓鬼を行いたりとのことなり。

 右らは、みな幻覚と心得てしかるべきか、これもついでながら承っておきたい。

 (答う) 海上の幽霊には、舟幽霊もあれば、亡魂もある。従来、舟幽霊と称して、舟の幻影を空上に見るというのは、蜃気楼と同じく、空気の中に舟影の浮現するのと思う。つぎに、海中に死したるものの亡霊が呼ぶ声を聞くというのは、沖合の怒潮を聴いて幻聴を起こせしに相違なく、また、『新総房』の怪談もむろん幻覚である。ただし、海上において非常の大シケに会したときは、実にその景色の恐ろしきものであると聞いておる。先年、『海国日報』の中に、老漁夫の実験談を掲げてあったから、参考のつもりで抜抄しておく。

 星も見えぬ雲の低い陰気な晩に、木の葉のような漁船に乗って、沖合八、九十マイルも出て御覧なさい。そりゃもう慣れたものでも、ずいぶんすごうございます。雨さえポツリポツリとやってくると、真昼中なら鮫でも鯨でも手どりにしようという剛の者でも、いやに気が重くなります。昼は耳にもはいらない潮の声、波の音が、わが舟をオッ取り囲んで、百里も千里も三万里も遠いこの世のはてから、ものすごい声をはなって寄せて来る。空のはて、波の限り、漁火一つ見えぬ真夜中、ただ見るものは白い波の穂頭ばかり、それがまた黒い海の底から、さながら海坊主の頭でも持ち上げるようにぬうっと上がって、ザザァっと砕ける。消えては現れ、隠れてはまた際限もなく寄せて来る。例えば、執念深い幽霊を切っても切っても消えぬよう、それがだんだん雨風激しくなるてぇと、それこそいよいよものすごい。こういうときに、船頭は歌をうたいます。全くこんな時候のいいのに、「鳥も通わぬ八丈島へ……」なんとやられると、鬼でもなかずにゃあいられません。それをまた遠くから聞いたとき、なんともかともいわれない気がします。しかし、歌声もだんだん細って、風は激しく、波が狂ってひたひたと寂寞の身に迫るとき、舟を押すその舳先に、パッと二丈も三丈も波をけって立つ火柱。

これが一度や二度どころか、波が次第に高くなり、風がいよいよ荒るるにつれて、右に左にボーっ、ぱーっ、鬼火の青いはすごいというが、この赤い火が突然に海の底から抜け出すときは、足元に地獄の蓋が開いたようで、もだえて死んだ亡者の怨念が、自分たちを引き入れにでも来たものかと、老爺は今でも思います。

 そればかりか、難船しかけるときなんどは、特にこの火柱が多く出る。そのうえ大きな火の玉が波から波へ躍ったり転げたりして、どことなく、さようさ、マア周囲を囲む暗の中、深い千尋の底からか、波や風の怒号の中々、それはそれはいうにいわれぬ、世にも悲しい泣き声や、また恐ろしい笑い声が、何百人の声となって聞こえます。ナアニ、そりゃあ気のせいもありましょうが、二度と三度出くわしたものならば、だれでも嘘とは思いません。

 この話にあるごとく、大シケになると燐火か電気か知らねど、怪光を現出し、波の上へ転げるように見ゆるものだそうだ。俗人は海亡魂が出ると思うも無理はない。しかし、これは物怪の部類で、物理自然の道理より起こるものである。

第八六項 透視眼の不可解

 (問う) これより問題を転じて、透視眼につき御意見を承りたい。先年、熊本の御船千鶴子、丸亀の長尾幾子の透視問題は、一時大いに世間を騒がしたが、その後火が消えたようになっている。いったい、透視というものはでき得るものか、いかがでしょう。

 (答う) 透視は古代も今日もいつでもあることで、決して千鶴子や幾子に限ったわけでない。従来、中座とも幣付きとも神おろしともいろいろ名称があるが、一人に幣束を持たせて神前に座せしめ、これに神を乗り移らせる方術がある。その場合にも、透視的作用を現すことがたびたびある。また、巫女や狐つきや催眠術の場合にて、ときどき起こることである。しかるに、これを千鶴子や幾子の専売特許のように思ったのは、抱腹の次第である。例えば、某家にて祈祷者が狐つきに向かい、「早く去れ」と命じたれば、狐つきがいうには、「しばらく待って下さい。今、門外に犬が寝ているから、その犬が去ったならば出て行こう」と答えた。そのとき、まさしく門外に犬が臥していたそうだ。これも透視に相違ない。また、催眠中の下女に向かい、隣室にて書く文字をたずねると、よく当てるそうだ。これも透視である。さて、透視はできるものかできぬものかは、ツマリ、程度の問題と思う。名医が病人の面を見て病源が体内のいずれにあるを知るのも、識者が初対面の人についてその心状を察知するも、みな透視の一種である。また、専門の研究家は、その方面において透視の力を有しておる。例えば、動物学者モールスが、京浜線の汽車の窓より眺めただけで、大森の塚の中に貝があることを洞知したなどは、みな透視である。また、盲人がこの室には人がおるかおらぬか、この向こうには家があるかないかが分かるというのも透視である。

 ゆえに余は、透視はでき得るものにして、決して不思議でないと信じておる。

ただ、人によって程度の相違がある。よく透視する人は、壁を隔てて隣室を透視し、垣根を隔てて隣家を透視し、蓋を覆って箱の中を透視するであろう。この普通以上の透視は、その人の生来と熟練と信仰との三要素がそろわねばならぬ。生来とは、その人の神経組織が、生まれながら透視に適するようにできていることである。信仰とは、神仏またはなんなりとも、ある一物に向かい、己の精神を寄託する作用である。かくして、散乱せる心を統一して、一点に集注せしむるようになる。これにもとより経験、熟練が相伴わねばならぬ。しかして、その透視は感覚の力か思想の力かという問題も起こってくる。この問題は心理学専門家に一任すべきであるが、ここに愚考の一端を述ぶれば、感覚、思想ともに関係しておるはむろんであるも、推理にあらずして直観、直覚の方である。通常のわれわれの感覚は限られておるけれども、精神が統一せられて一点に集注ができれば、通常感じ得られぬことを感じ得るようになり、あるいはまた、X光線同様の作用も起こるかと思う。

また、かかる場合には、普通働かぬ感覚が働いてくるようになる。進化論によれば、幾億万年の大昔、人間が動物であった当時の感覚が、今日その作用の潜在するあり、なお遺伝しておると申すが、かかる感覚が精神集注の結果、再現することもあるかも知れぬ。よって透視は、決して理外の理として度外に置くべき問題でない。

第八七項 読心術、読覚術の不可解

 (問う) 西洋には読心術や読覚術が伝わっていて、人の心の中を読むというが、これも透視眼でありますか。

 (答う) 西洋には神霊実験会があって、透視もやれば読心もやる。わが国でも近年、これに類する会ができておるはずだ。その原因は、神霊が宇宙間に実在していて、人や物を媒介とし、種々霊妙の作用をなすことを実験するのであるが、今日の心理学にても説明ができる。例えば、前に述べたコックリやフランデルも、読心の一種である。余が先年、米国ニューヨーク市に滞在中、某会社の支店長の夫人(日本人)が友人の紹介にて、神霊実験会に出席したときの話を聞いた。まず会場に入ると、卓上にABCのアルファベットを大きく書いた表が置いてあったが、夫人に向かい、「アナタの実家の父上の姓名を、神霊にたずねて当てましょう」といって、そのABCを指にて探り、「頭文字はKである、つぎの文字はIである」などと、数回探りて姓名全部のツヅリを当てたそうだ。これは決して不思議ではない。わが国の巫女が、知らぬことをあてると同様で、神経作用が機敏にしてよく熟練しておると、当てられる人の注意を読むことができるようになる。例えば姓が木村ならば、ABCを一字ずつ探る間に、Kの文字にくると、これが頭文字であるということに注意する。その注意が感覚に表顕するから、その表顕を感受して分かるようになるのである。あるいは一室の一隅に物を隠させて置き、その人の手を振りつつ室内を一周するに、隠せる場所に至れば注意状態が変わる。これを神経より手の先に伝えておる。その感覚を感知してあてることになる。よって、読心、読覚は決して不思議ではない。

第八八項 隔離せる人の心を読む実例

 (問う) 人と人とが接しておらず、室を異にして互いに隔たっていても、なおよく当てると申すが、いかが。

 (答う) 読心術の試験には、中間に第三者を立たせ、当てる人がその右の手を握るならば、当てられる人は左の手を握り、しかもよく当てるという。また、第三者を人の代わりに針金を用い、双方でその一方を握っていても、よく当てるともいうが、いずれも一方の感覚が、電信のごとくに伝わって分かるのである。その他、全く第三者を用いずして当てることもある。これは、前の透視眼と同じ道理より起こるのである。

第八九項 猫にも読心術ある話

 (問う) 貴著『迷信と宗教』の中に、岡山県土井氏の宅にて起これる一怪事を掲げてありましたが、それは猫が人の話すがごとく、鳴き声をあげてなんでもあてるという話と記憶しておる。これも猫が読心術に通じておると申してよろしいか、いかが。ついでながらおたずね申しておきたい。

 (答う) 猫が読心術に通じていたら、それこそ真怪である、いな妄怪である。かの話は、その家の令嬢が非常に猫を愛し、日夜、己の膝や手の上に置いて、身辺を離さぬほどにて、令嬢の感覚がただちに猫に伝わるようになったのである。そうして人の問いに、この病気は何カ月後に全快するか、この紛失した品物は何里先にあるかといえば、猫は鳴き声の数にて、その月数や里数を告げてくれることになっていた。これは、令嬢の予想が感覚を経て猫に伝わり、猫はほとんど器械的となって発動するようになったのである。ちょうど、コックリの足にてあてたり、石の重量にてあてたりすると同様であって、猫がコックリの仕掛けの作用をしておるのであるから、別段不思議ではない。

第九〇項 千里眼の不思議

 (問う) つぎに、千里眼についても教示を願いたい。世間には、ただ近距離の物体を透視するのみでなく、数十里、数百里隔たりたる場所に起こった出来事を、洞見することができると申しておる。先年、山口県阿武郡徳佐村に巫女があって、遠方の出来事をよくあてるとの評判で、その近郷某の教員が、神戸におる近親の者より久しく音信不通なれば、その消息を聞きたいと思ってたずねたれば、巫女が言うには、「本人は病気危篤である。生死のほど計り難い」と話され、先方へ問い合わせたれば、確かに重病で危篤であったが、幸いに快方に赴いたとの返事を得た話を聞いておる。これは、果たして洞見したのでありましょうか。

 (答う) 日本でも西洋でも千里眼と称して、千里の先までも透視、洞見ができるとの説あれども、まだ帰納的に立証することはできておらぬ。巫女や狐つきや中座などが、まれに遠方のことをあてる場合もあるけれども、外れる場合が多いから当てにならぬ。ただ、いまの徳佐の巫女は、久しく通信がないと聞いて、病気危篤を察知したものらしい。巫女自身は神に伺って分かったと思っておるであろうが、当人が直覚的に見聞したことが無意識的に働いて、神の啓示のごとくになって心内に発現してくるのであるから、その千里眼があたったということは、毫も不思議とするに足らぬ。

第九一項 東西両洋の千里眼の実例

 (問う) 明治四十四年、『都新聞』に千里眼を論じた中に、日本と西洋との実例を引証してあった。左に抜抄して御意見を伺っておきたい。

 日本で例を挙げてみるならば、かの徳川家康を助けて、政治上に大功があった天海大僧正などには、ことにこの種の奇跡的逸話が多い。天海が晩年江戸を去って、川越の喜多院に隠居をしておる時分のこと、ときどき納所の坊主に向かって、「今日は上様が、かようかようの存じ寄りを老中どもに問われた。昨日は本多佐渡奴が、柳鴬において、かようかようのことをしでかした」などと言い出すのが、時を経てみると、いちいち掌を指すように当たっていた。また、家康が駿府で死んだとき、天海はただちにこれを覚知して、あわただしく山門を走り出で、街道より江戸通いの駄馬を賃雇いして、真っ先に千代田城に駆けつけたという事実もある。

 つぎに西洋の方で、天海より少し後れた時分、スウェーデンにスウェーデンボリという有名な神秘的哲学者があった。この人は一生独居主義を標榜して、菜食家で、生涯茶もコーヒーも飲まなかったというくらいの、いたって無欲清廉な哲人であったが、この人が当時住んでいたスウェーデンのストックホルムから、約三百マイルを隔てた、イェーテボリという所に到着し、その日、ちょうど九月の初めの土曜日の夕刻であったが、カステルという紳士の招待を受けて、相伴の客十五人ばかりと一緒に席にあったが、午後六時ごろになると、彼は不安にたえざる色を面に現して、突然に「今、ストックホルムに大火がある」といい出し、続いて「余の友の家ももはや一軒焼けてしまった。余の家もまた危ない」と。席にあった一同がこの言葉に驚いて呆気にとられておると、八時ごろになり彼はまた言うよう、「ああ、ようやく鎮火した。余の家から三軒目のところまで焼け、そこで消し止められた」と。

 当時、その両地の間隔三百マイル、二日間かからなければ消息が知れない。あまり不思議なことを言うものだから、その翌朝、イェーテボリの知事が、使いをこの哲学者のところへ遣わして聞いてみた。哲学者は昨夜のとおりに委細を物語った。ところが、月曜日すなわち三日目の朝になると、ストックホルムから飛脚が到着した。その飛脚の語るところによれば、哲学者の語ったところと少しもたがわない。同時刻、同事態の大火がまさにあったのである。この話はヨーロッパで昔から、確たる事実として伝えられておるものである。

 これらは真の不可思議に感ぜられます。

 (答う) この両人とも、名高い哲学者兼宗教家である。第一に、天海僧正については、今日伝えておることが果たして事実か疑わしい。とかく、かかる高僧に対しては、その徳を高めんために小説的奇怪談を付会することが多い。もとより非常の人であるから、その想像が適中したこともあろう。また、入定して精神を統一する場合には、他の人の感じ得られぬことを知る場合もあろうけれども、かく事実がいちいち符合するということは、他の高僧についての奇怪談と同様でないかと思う。つぎに、スウェーデンボリは幽明の間に往来して、よく神秘に通じた人として知られておる。したがって、その言行を書いたものには奇々怪々のことが多く、いちいち信ずることはできぬけれども、もし、人間の感覚が非常に機敏になったならば、わが方の精神が先方へ飛行して実視するのでなく、空気の媒介で数百里離れた所の大火ぐらいは感ぜらるる道理である。ただし、何軒焼けて、どの家で鎮火したということは、知れようとは思われぬ。この点は、いくぶんか話におまけが付いておるであろう。

第九二項 五十里を透視した実例

 (問う) 数十年前、文学士で山田一郎という人、早稲田大学を去り、静岡で新聞を発行しておられたことがあった。同氏が早稲田を去るときに、前島密氏を校長にせよと主唱したけれども、いれられなかった。その後三年すぎて静岡の寓所で、夢に前島密氏が校長になったことがハッキリ現れ、翌朝目がさめていかにも不審に思い、早速新聞社に至り、『東京新聞』を繰り返し見るも、なんらの記事も出ていぬ。そこで、夢だから当てにならぬと思い込んでいたが、そのつぎの朝『東京新聞』を見るに、前島氏、早稲田の校長になりしことが明記してあった。そのときには、静岡では『東京新聞』が一日後れて着するそうである。そうすると、五十里隔てて事実が分かったということになる。これは夢の千里眼とでもいうべきであろうが、いかがでしょう。

 (答う) それは千里眼ともいえず、また精神の感応というものでもない。案ずるに、山田氏は前島校長説を固執しておると、三年間その考えが、あるいは顕識となり、あるいは潜識となって働いていたに相違ない。それゆえに、各方面の新聞や通信の中に出でたる早稲田のことが、大となく小となく自然に同氏の心内に採集せられ、その記憶の総合ができ、これより得たる予想が夢の中に現れたのが、実際と符合したのであろう。すべて天気のよしあしでも、いろいろの事情を総合すればあたると同様で、人事も種々の事情を総合すれば当たるようになるものだ。

第九三項 百里間感応の実例

 (問う) 再び夢の話に立ち戻り、世間にていうところの霊夢につき、貴著『妖怪学講義』「宗教学部門」の、近江国大菅吉太郎氏の通知につき、御意見を伺いたい。その大要は、維新前、彦根の藩士に寺沢友雄という人があって、一夜、同藩士某の邸外を通行せしに、垣の上に半身をあらわし、前後を見回しておる人を認め、月の光に照らして見れば、その家の主人である。しかるに、その主人は江戸詰めにして不在のはずなれば、不審にたえず、翌朝その家に至ってたずぬれば、夫人も同時刻、良人の影の障子に映ぜしを見たとのことである。その後、江戸より急報が来たが、果たして主人は、同時日に熱病にかかって不帰の客となったことが知れた。この感応は、主人死するときの一念の思いが百余里相伝えて、かかる形影を現ずるものであろうか、いかが。

 (答う) この報道のままならば、窃盗に相違なかろうと思う。垣根の上に半身を現したのは、窃盗がまさに家に忍び入らんとする前に、庭内の様子を見回しておるときで、その姿を月の光でのぞいただけではハッキリ分からぬから、主人と誤認したらしい。つぎに、夫人が障子に人影の映るを見たのは、窃盗が家の内に忍び込んで、縁側で室内の様子をうかがっていたときと思う。そのとき、夫人が起きてまだ眠らぬことが分かったから、窃盗も逃げ去ったのであろう。後に時日が符合したというのは、数日を経て病死の知らせを得たのであるから、一、二日の相違があったかも分からぬ。もし真に同日とすれば、偶合と見なければならぬ。

第九四項 神霊感見の実例

 (問う) かつて貴説に承ったことがあるが、明治初年の七月ごろ、上総の某村の者が五人連れで伊勢参宮をすまし、帰路、伊豆の三島駅の旅館に宿泊中、同行の一人が霍乱にかかり、その翌日夕刻、不幸にして病死した。これと同じ日、同じ時刻、上総の当人の家にて両親が晩食をしておるところへ、倅の姿が忽然と現れ、間もなく消え去ってしまったという話である。これは、当人の霊魂が空中五、六十里を飛行してその家まで行ったものであるか、いかがでありましょう。

 (答う) この話は事実とするも、その時日が果たして正確に合せしやいなやは、なお疑問である。両親は倅の安否を気遣っておるから、薄暮朦朧としたときなどには、精神作用にて幻影を見ることあるは不思議でない。両人同時に見ることも、精神の伝染によって偶然起こるものである。例えば、前にも述べたるごとく、両人にて墓畔を通り、互いに幽霊を予期しておる際、一人が「幽霊」と呼ぶと、他の一人もその呼び声が暗示となって催眠状態に入り、幽霊を幻視するようになると同様である。時によって『稲生物怪録』の話(『妖怪学講義』中に出ず)のごとく、一家みな催眠状態に入り、毎日毎夜幻影を見ることもある。それゆえに、両親が同時に見たということは、一人が「アレ見よ、倅が帰ったよ」と呼べば、他はこれに感伝して見るのであるから、それだけではまだ不思議とはいわれぬ。そうして、倅が三島旅館で死んだのは昔のことであるから、十日余りもおくれて知ったに相違ない。その死を聞いて幻影を回想し、ハッキリ記憶せずして臆断し、同日同時であったとにわかに時日を認定することが多いから、時日符合は疑わしいと思う。もし、これを世間普通の解釈によらば、必ず倅の幽霊が死んだ知らせに自宅に帰って、両親に己の姿を見せたのであるというであろう。これこそ、実に不合理きわまる説である。今その説に従い、幽霊が数十里の遠空を飛行してわざわざ知らせに来たならば、なにゆえに、途中三島駅にて病気にかかり、何々旅館にて死せしことを、ありのまま告げざるや。幽霊もまた不親切といわなければならぬ。よってこの一事も、まだ真怪と認め難いと思う。

第九五項 四歳の小児の感応談

 (問う) モー一つ貴説について記憶しておる話は、高知県の怪事である。およそ今より三十年前、高知市に住する河野某氏が、十余里を隔つる郡役所へ在勤を命ぜられ、老父を高知市の自宅に残し、そのとき子供はなく、ただ自身と妻と両人にて赴任地に行きしに、赴任中はじめて男児をあげ、その子が四歳のとき、ある日曜、同僚が遊びに来たり。昼十二時ごろ座敷にて、両人相対し酒を飲みつつよもやまの話をしているところへ、四歳になる子は屋外に遊んでいたのが急に座敷へ駆け込み、大声あげて「オトーサン、オトーサン」と呼ぶから、「何用か」とたずねしに、「今、オジーサンが死んだよ」という。もとよりその子は任地において生まれ、オジーサンの面もよく知らず、また常にオジーサンのことを話しもせざるに、奇怪のことをいうとは思ったものの、高知市よりの通信には父は壮健ということであり、子供などが生死を知るはずもないから、一言の下にしかりつけ、「オジーサンは死にはせぬから、外へ出て遊んでおれ」と命じ、平気で酒を飲んでいたが、十分か〔十〕五分過ぐると再び駆け込み、「オトーサンよ、オジーサンが死んだ」と叫ぶも、またしかりつけて外へ追い出し、少しも気を留めずにいたそうだ。しかるにその夜十二時ごろ、一家よく熟眠しておるところを、しきりに戸をたたきて呼ぶものがある。その声に目をさまし、「だれか」と問えば、高知市におる近親のものである。「なにゆえ、かかる深更にたずねて来たか」と問えば、その昼十二時ごろに、父が急病で死んだ知らせに来たのであった。

そのときはまだ電信が通じておらぬために、近親のものが山路をこえ、徒歩して来たから、夜半になったが、実際死んだのは、子供が駆け込んで告げたと同時刻、すなわち十二時ごろであったそうだ。これはいかにも不思議であって、ドーして四歳の幼児に、そのことが分かったでありましょう。

 (答う) この話は河野氏より直接に聞いておることなれば、事実疑いないと見てよい。ただ、その幼児がいかなる感想によって、オジーサンの死を感得したかが知りたいものである。これは前の話と違い、オジーサンの幽霊を見たのではあるまい。また、偶然の暗合とすることもでき難い。そこで、世間では必ず無線電信説を持ち出すであろう。すなわち、オジーサンの精神が電流を起こし、その波動が相伝わり、四歳になる孫に感じたという説が起こるであろう。この仮定説を立つるには、なにゆえにその孫だけに感じて、その両親に感じなかったかの理由が分からなければならぬ。往々百里、二百里隔たりたる所で、急に死んだ場合に、精神の無線電信により、即時に感知したという話があるが、もし無線電信同様のものならば、だれにも一様に感ずべきはずである。しかるに、親戚に限って感じて、他人に感じない。また、親戚中でもわずかに一、二の人だけにとどまるということになっておる。それはなにゆえなるやの道理を説明する人がない。そこで、無線電信説が成立せぬのである。今ここに余の仮定説を述べ、もってこの難問を解説しておこう。

 世間のいわゆる無線電信の電気は物質性電気である。われわれの精神は物質性ではない。しからば、精神は電気のごとしといっても、精神性電気と物質性電気を別にして取り扱わねばならぬと思う。余はこれを、仮に物電と心電と名づけておく。すでに物電すら遠方へ感伝することができるならば、心電はむろん感伝すべきである。しかもその感伝は、物電のごとく親疎の別なく、一般にあまねく感伝するわけであるが、ただこれを感受する人の方にて、感知し得ると得ぬとがある。あるいは親子とか、あるいは兄弟とか、すべて血縁あるものは、身体も精神も同一の遺伝性を有しておる。

 換言すれば、身心ともに同一の質分を備えておる。そこで、心電が通じて来ても、他の人には感知せずして、質分を同じくせる親戚に限りて感知することが起こる。また、親戚間は顕識、潜識を通じて、各自の意向が常に待期し、互いに引き合っておる。換言すれば、求心性作用を具しておる。これに反して、他人は遠心性の状態になっておる。そこで、他人が感知し得ぬ微小の刺激を感知し得るわけになる。他人でも平素親密にしてよく気の合った間には、心電を感知することあるのは、この道理にもとづくと思う。

果たしてしからば、親戚の者はみな一同に、死者の一念より発する心電を感知すべきに、実際は感知せざるものの多きはいかんというに、それはその瞬間における精神が、これを感知するに最も適好の状態にあるを要する故であって、かかる状態にあることは、最も希有の場合であることを承知しておかなければならぬ。かくのごとき仮定をもって高知県の場合を見るに、四歳の幼児だけがこれを感知するに適好の心状を有し、他は不適好であったに相違ない。この心電説はなお研究を要する問題なれども、右の仮定説にて解釈し得るとすれば、まだ真怪とすることはできぬ。もしこれを強いて真怪とすれば、せいぜい準真怪ぐらいのものであろう。

第九六項 熊本市内の幽霊実見談

 (問う) 近刊の『実見妖怪談』と題する書中に、熊本の幽霊談が掲げてあった。その大要を略記するに、熊本市内高麗門という所に、禅定寺といえる曹洞宗の古刹がある。その寺には和尚と、長老の寂玄、小僧の正道と、納所の祐心と、寺男の作平とが住んでおる。今は故人になった文士藤本氏も、その寺に同居していた。その藤本氏の実見談である。ころは秋の末で、暮れ方、作平が山門へのぼって入り相の鐘をつけば、寂玄長老は本堂に行って夕べのお勤めをする。藤本氏は障子を開け放ち、茫然となすこともなく、庭前を眺めていた。そのうちに急に咽が渇き出したので、たち上がって庫裏の方へ行こうとするとき、薄暗い仏壇の前に合掌しておる一人の婆さんがあった。だれかとよく見ると、当山の重なる檀那田中の隠居で、黒縮緬の被布を着た六十ばかりの、茶筌髪の、色の白い、やせた、上品な老人であった。大層熱心な信者で、この春まで一日も参詣を欠かしたことのない人であるが、病気のために久しくその姿が見えなかった。しかるに、多分病気が全快したので参詣したことと思って、藤本氏は別段怪しみもせず、台所へ行き水を飲み、炊事をしておる祐心と無駄話をして、また元の部屋、すなわち仏殿の傍らの十畳敷きの室へ帰った。

そのとき寂玄もお勤めをおわって、法衣のまま隠居に挨拶をして、「御病気と承っていましたが、モーお快うございますか。珍しい御参詣で」といえば、隠居は会釈したまま、なおその座をたたなかった。寂玄は一楫して寝寮の方へ行ってしまった。藤本氏は庭の掃除をしながら、小僧の正道と悪戯をしておるところへ、祐心から夕飯の知らせがあったから庫裏の方へ行くと、茶の間の方で和尚の晩酌の相手をしておる寂玄に呼ばれ、「先刻、本堂へ田中の隠居が参詣したのを君は知ってるだろう」とたずねられ、「あー、知ってるとも」と答えた。そうすると、和尚が笑っていうには、「二人ともなにを寝ぼけておるか。一昨日、私が見舞ったら、お母の容態は今日か明日かという騒ぎであった。そのようの病人が、どうして十町からある道を歩いて、当院まで来られるものか。だれか人違いだろう」とその話を打ち消すから、寂玄は「全く田中の隠居に挨拶したに相違ない」というも、和尚は信じない。そこで藤本氏は、「今、寂玄さんの言わるるとおり、田中のお母が確かに参詣しおられました」と弁解すると、和尚も「どうも不思議だ」といって怪しんでいた。このとき寂玄が和尚に向かい、「ただ変なことには、隠居が本堂へやって来て、仏前に座ったときには、門も玄関も締め切ったはずだのに、どこからはいられたかが分からぬ。また、帰るときには、どこをぬけて帰られたかが知れぬ。ますます不思議だ」と申しておる。

間もなく庫裏へたずねて来たものがある。祐心が取り次ぎすると、「夕方、田中の隠居が息を引き取られました」との訃報であるから、一同はいまさらに気味悪く、ゾッと襟元より冷水を掛けられたように感じたというのが、熊本の幽霊談の大要である。これを事実談とすれば、いかにも不思議に考えられるが、やはり心電作用と申すものか、いかがでしょう。

 (答う) 世間の人々には一種の奇癖があって、妖怪、不思議に関する出来事は、なるべく補綴潤色して、真の不思議に仕上げたいという傾向があるから、事実談と称してあることも、いくぶんか割り引きをして考えなければならぬ。余が「妖怪の受け売りいつも掛け値あり」とよみおけるがごとく、掛け値の多いのに閉口しておる。ただいまの熊本の怪談も、なお詮議を要する点あれども、ここに掛け値なき事実と見て解釈するに、藤本氏と寂玄と共通の幻像と見なければならぬ。その幻像を起こさしめたる原因は、田中の隠居が臨終において寺へ参りたいという一念が、いわゆる心電作用により両人の心に感伝して、かかる幻影を見るに至ったと断定せざるを得ぬこととなる。もし、しからずして、隠居の霊魂が身体より抜け出して、その形を現せりとするときは、心に形体のあることになり、物と心との別も立たぬようになるから、余の立場ではどうしても信ずることができぬ。よって余は、両人の心より反影したものと思う。

第九七項 心電感伝の説明

 (問う) ただいまの心電説によれば、前例の下総の両親が倅の幻影を見たのも、乃木大将の令息の幻影を浮かべられたのも、心電の感伝ではなかろうか、いかが。

 (答う) あるいは心電の感伝がいくぶんか助けたかも知らぬが、世間で申すごとく、先方の幽霊が飛行して来たのではない。元来幽霊は、さきにも述べしごとく、形体を具有しておるべきものでなく、文字そのものについて考えても、幽という字も霊という字も、姿や形のない、ツマリ、われわれの目で見ることのできない意味の文字である。よって心電に照らすときは、その瞬間において、倅なり令息なりの一念が心電によって伝え来たり、その親の心に一種の刺激すなわち感動を与え、その感動に促されて心内より幻影を現出するに至った。すなわち、幻影はこれを見たものの精神的作用で、主観的産物である。しかして、心内よりこの幻影を起こさしめた真因は、先方より伝え来たれる心電であると解釈しなければならぬ。かく解釈すれば、その幻影がなにゆえに先方へ起こったありのままを伝えぬかという難問も、会通することができる。それゆえに、上総の出来事は心電説で解説してもよいが、これを真正なる妖怪とすることは、あまり大早計であると思う。

第九八項 念写問題の解決

 (問う) 近ごろ、透視眼に接続して念写問題が起こっておるが、これに対する貴説を伺いたい。

 (答う) 念写のことは、余はどうしても信じられぬ。もし、これができるものならば、真怪でなくて魔怪である。わが心内において文字や物体を念じても、それが写真に写るはずはない。写真に写るならば、その形が客観的に光線に映射されなければならぬ。そうなると、心と物との区別がないものになると同時に、従来築き上げたる学術の根底が破れてしまう。また実際、念写の実験が奇々怪々、一種の手品のようになっておる。哲学上では物心二元論と一元論とがあり、また一元と二元とは一体両面などの諸説あるも、われわれの実験範囲においては、物心二者その性質を異にすることは、なんぴとも疑わぬところである。それを根底より破壊するに至っては、魔怪として取り扱わなければならぬ。

第九九項 精神の力で物品を動かす実例

 (問う) 西洋の神霊実験会の報告を見るに、精神の力で物品を自由に動かすことができる実例があげてある。例えば、座敷の中央にあるテーブルが、なんぴともこれに接せずして移動するとか、廊下の瓶が自然に空中に舞い上がるとかいう話があるが、これは真怪と見てよいか、いかがでしょう。

 (答う) この話も真怪の仲間入りはできぬ。テーブルが動くとか躍るとかいうのに二とおりあって、その一つはわが国のコックリである。コックリは西洋伝来にして、かの地のテーブル・ターニングまたはテーブル・トーキングのことで、これは人がテーブルの上に手を掛けておるから、動いても不思議ではない。もう一つは全く手を掛けず、人とテーブルとは絶縁であるのに、テーブルがひとりで動いたり躍ったりするという。これは奇怪千万である。神霊会の仲間だけならば、一心に予期する結果、あるいは幻覚の感染により、一同がテーブルの動くように見ることは不思議でない。しかるに、これを信ぜざる他人が虚心平気で傍観するに、やはり動くというに至っては、奇怪といわなければならぬ。もっとも、他人でもその室に入れば、その仲間の信仰に感染して幻覚を起こすことはある。すでにその室は彼らの信仰の空気をもって満たされておるから、その室に入るものは多少その気に化せられて、心状に異動を起こすようになるものだが、そういう場合ばかりでなく、偶然起こることがあるそうだ。その中には、故意に手品式に仕掛けておくのもあろう。

 ただ、余が直接に聞いた話に、先年、南米チリ国首府サンチャゴに客居中、日本公使館の方々の実視談がある。この首府に、以前日本にチリ公使として来ていた人の家族の家があって、その家には前公使はなくなり、未亡人と娘が住んでおる。そうしてその家族はみな、かの地にある神霊実験会の仲間であって、ときどき実験もあるらしい。ある夕べ、わが公使館の人たち両人づれでその家をたずねた。

そのとき、座敷の真ん中に小さきテーブルが置いてあり、未亡人と娘とたずねた両人と、そのテーブルの周囲に環座していた。そうすると、そのテーブルが自然に動き出し、娘の方へ進んで行き、その娘の胸部へ付着した。そのとき娘は眠るがごとく、人事不省の状態であった。未亡人がいわるるには、これは神霊の所為であって、ときどき起こることがあると話された。これを見た両人は、その意外の出来事に驚き、だれも手を触れず、また手品的仕掛けがあるでもなく、また、そのようのことが起ころうと全く予期しておらぬから、真に不思議と思ったそうである。余が首府に入るや、第一番にその話を聞かされ、かつ、その説明をもとめられたが、余も自ら実視せざることなれば、半信半疑で答えることができなかった。もし、かくのごときことが事実あるものとすれば、実に奇怪千万である。もとより、人の精神は一種のエネルギーである。その精神が充溢すると、エネルギーが物力に伝わりて運動を起こし、その運動がテーブルの上に実現したと解釈するか、しかしテーブルだけに運動を現示するとは解し得ぬ。

また、人間の精神が果たしてそこまでに至り得るかが大疑問である。これには、なにかほかに原因のあることと思う。とにかく、不思議ではあるけれども、余は半信半疑であって、さらに大いに研究すべき問題としておる。もし念写が魔怪ならば、これは準魔怪としておきたい。決して、これをただちに真怪ときめることはできぬ。

第一〇〇項 真怪の実相

 (問う) 前来、世間に伝われるありとあらゆる不思議を挙げておたずねしたが、一つとして真怪の認定を得ることができず、あるいは偽怪、あるいは誤怪、あるいは仮怪、あるいは魔怪となってしまう。しからば、宇宙間に真正の真怪はないときめてよろしゅうござりましょうか。

 (答う) しからず。真怪もとより存するに相違ない。これより真怪を説明して聞かそう。宇宙間の諸現象を分かちて客観、主観、すなわち物心両界にするのが古来のきまりである。しかして、物界には物の規則あり、心界には心の規則あって、物の規則は物的科学によって精密に立証せられ、心の規則は心的科学によって詳細に論明せられ、また、その両界の関係は哲学によってこれまた明示せられておる。これらの諸説に照らせば、世間にて伝うる千妖百怪の疑団はことごとく氷釈瓦解して、青天白日となる。しかるに、さらに一歩を進め、その物自体はなにか、その心自体はなにかというに至っては、物的科学も心的科学も筆を投じ口を緘し、造化の妙、谷神の玄と冥想するのみである。これこそ真正の真怪にして、真の不可思議というものだ。もしまた、心を離れて物を認むるあたわず、物を離れて心を識るあたわず、二者相関の本源を究めんとするも、幽玄の深雲の中に入りて、一歩も進むことできず、知識もはねつけられ、道理も自滅してしまうに至り、結局、物心の差別が空寂に帰するようになる。その体を哲学上にては、仮に絶対とも無限とも名づけておくが、言亡慮絶の境にして、真怪中の真怪、不思議中の不思議とせざるを得ぬこととなる。また、時間の限りなきを探り、空間の際なきを究むるも、やはりこの玄境に達するようになる。これが正統の真怪である。

 この大真怪に比すれば、世間の妖怪は、真怪の大海に浮かべる水泡にひとしきものに過ぎぬ。

すでにこの真怪を自認自得して、目前現在の事々物々を達観洞視すれば、真怪の光輝を感見することができる。これは真怪の余光である。しかし、これを感見するには、わが心底に潜在せる活眼を開発しなければならぬ。これを真眼と名づく。

この真眼を開発するものは、古今東西のうちに幾人もない。あたかも暁天の星のごとくである。ここにおいて、世間多数の者は、真怪ならざるものまでを、みな真怪のごとくに誤信しておる。誠にかなしむべく憐れむべきの至りである。人もし真眼を開き、この真怪を達観して世間を見渡せば、事々物々について不可思議の光景に接見して、此土寂光の一生を送ることができる。ゆえに、余は一喝して曰く、「迷雲を払って真月を見よ、妄眼をぬぐって真怪に接せよ」と申しておる。

 ついでに、宗教上の神仏についても一言しておこう。上来の説明では、神も仏もないようになるかと考える人があるかも知れぬが、決してそうではない。神や仏は不可思議中の不可思議で、全く別途の法門である。およそこの宇宙を観察するに、表裏両面がある。そのうちにて上来の所説は、みな表面の観察に過ぎぬ。しかして、神や仏は裏面の観察によって、その実在を知るべきである。すなわち、表面の観察にて物心の本源たる絶対の体あるを知り、これを真怪の根本とするに、裏面の観察によれば、その絶対の内容を知ることができる。表面の絶対は玄妙というべきも、霊妙とは名づけ難い。活動とはいえるが、霊動とは申しにくい。また、わが心的作用の上にては、表面の観察は外観により、裏面の観察は内観によるの別がある。そのいわゆる内観は心内を反省するので、さきの真眼にあらずして霊眼により、心底深きところに住する霊性を認めて、ここに先天の声を聴き、さらにその声をたどりて先天の霊源にさかのぼり、はじめて不可思議の霊光に接することになる。この霊光の体がすなわち神仏である。

 しかして、その体は表面観の絶対にして、つまり同一体の外景と内光の相違に過ぎぬ。この内光に接触する道に、わが霊眼が原動の位置に立って自ら霊源にさかのぼるのと、受動の位置にいて、いながら霊光を感受するのがあるから、仏教にても自力宗、他力宗の二門が分かれておる。この宇宙の裏面観において宗教を立つるのが余の新案にして、追って別に詳述するつもりなれば、詳細の説明は他日に譲っておく。