4.解説
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解 説 井上円了と著述 三浦節夫
一 修学と人間形成
井上円了は、 明治の初期から大正の初めにかけて、 哲学者、 仏教者、 教育者として活動し、 近代日本の創出のために独自の寄与をなした功労者である。 その活動の分野は、「人生の二大事業は著述と教育にあり」と自らも述べているように、主として数々の著述と教育事業の形で、後世のわれわれへの、大きな遺産として残されている(以下、 円了と略す)。
この『井上円了選集』は、そのような円了の二大事業の一つである「著述」について、 単行本と講義録を選び出し、 各分野の主要著述を網羅し、 初めて体系的に編集したものである(円了の「教育」については、 既刊の『東洋大学百年史』全八巻を参照されたい)。
『井上円了選集』では、 円了の原著を現代表記化して収録するとともに、 巻末にそれらの著述に関する解説等を付して、 現代の読者に向けてその意義を明らかにした。 したがって、 各分野の円了の著述については、 それぞれの解説を参照されることをお薦めしたい。 最終巻にあたるこの第二五巻の解説では、 円了の著述の原点を探り、 また著述の全体像を概観したいと考えている。
円了の人間形成の基礎は、 主に修学によって形成されたものと考えられている。 修学の期間は二〇年余りに及んでいるが、 その過程はおよそつぎのようになっている。
安政五(一八五八)年三月~ 生家・真宗大谷派慈光寺の後継者として父から真宗の教育を受ける
明治元年三月~二年四月 蘭方医・石黒忠悳の私塾で漢籍の素読・数学の初歩を学ぶ
明治二年八月~五年一二月 旧長岡藩の儒者・木村鈍叟より漢学を学ぶ
明治四年四月二日 東本願寺にて得度
明治六年五月~同年八月 高山楽群社で英語の初歩を学ぶ
明治七年五月~一〇年七月 旧長岡洋学校で洋学と数学を学び、 卒業後は数学と漢学の助手となる
明治一〇年九月~一一年三月 京都の東本願寺の教師教校英学科に学ぶ
明治一一年九月~一四年七月 東京大学予備門に学ぶ
明治一四年九月~一八年七月 東京大学文学部哲学科に学ぶ
このように、 円了の修学は、 住職である父からの教育に始まり、 漢学、 数学、 洋学を学び、 その後、 創設間もない近代日本の最初の高等教育機関・東京大学で体系的な再教育を受け、 それを基礎として西洋で発達した哲学などの人文諸科学を修めたのである。
明治一八年に二七歳で東京大学を卒業した円了は、在学中から始めた著述活動をさらに活発に発展させ、二年後の明治二〇年に『仏教活論序論』という九冊目の単行本を刊行して、 社会に大きな影響を与え、 若き論壇家として注目されるようになった。 同書の冒頭で、「人だれか生まれて国家を思わざるものあらんや。 人だれか学んで真理を愛せざるものあらんや。 余や鄙賤に生まれ、 草莽に長じ、 加うるに非才浅学なるも、 またあえて護国愛理の一端を有せざるものにあらず。」と、 自己の精神を述べている。 ギリシアに誕生したphilosophyは明治時代に「哲学」という言葉で翻訳されたが、 周知のように、 その原義は「智慧を愛求する」ことである。 初期の東京大学で哲学を学んだ円了は、この精神をよく理解し、 日本社会への哲学の普及を志した。 その歩みの根本精神を「護国愛理」と言っているが、 それは、 真理を愛求し(物事を研究して真理を明らかにする)、 その成果を活用して(著述と教育を通じて行う)、 国家・社会の発展に貢献することを意味していた。
円了は、 自己の「ものの見方・考え方」に基づき文章を著して、 それを新聞・雑誌・単行本などによって公表し、 国家・社会の発展に貢献することを目的に著述活動を展開したのであるが、 その原型は青少年期の人間形成にあったと考えられる。 それに関する事柄として、 つぎのようなことが挙げられる。
(1)円了は真宗寺院の後継者として誕生したのであるが、 当時の寺院の住職は地域共同体の知識人としての役割を担っていて、 その後継者も次代の知的指導者となることが当然のように周囲から期待されていた。 したがって、 そのような社会的指導者としての自覚をもつように、 円了も教育された。
(2)円了は青少年期における精神の軌跡を『仏教活論序論』で述べている。「余、 幼より世人とその好悪を異にし、 人の楽しむところにして余かえってこれを憂え、 人の憂うるところにして余かえってこれを楽しむ。・・・出でて江山の間に入れば、 草木の森々としておのずから鬱茂し流水の悠々として去りて帰らざるを見、 心ひそかに怪しむところありて家に帰りてその理を思う。・・・これ余が衆と共に群せざるゆえんなり。長じて学を人に求むるに及び、一見一聞みな余が感を惹起し、 日夜黙座してただその理を思うのみ。」自らこう述べるように、 理性(知性)的傾向が強かった。
(3)石黒忠悳は円了が一〇歳にして学んだ先生であるが、 石黒は『懐旧九十年』という自伝の中で、 豪雪のために開塾できないと考えたある日の朝に、 悪天候にかかわらず来塾したのが円了ただ一人であったと述べている。 このように、 円了には向学心があり、 また知的好奇心が強かったと言われている。
(4)長岡洋学校は創立期にその校名を幾度か変更しているが、 円了が学んだときには新潟学校第一分校、 仮学校、 長岡学校と三度変わっている。 この洋学校を卒業し、 続いて教師の助手(授業生)をしていたとき、一八歳の円了が中心になって組織したのが「和同会」である(現在も新潟県立長岡高等学校に存続している)。 円了が「論語により和して且つ同ずる」の意味から命名したこの和同会の目的は、「相互の懇親を厚うし、 演説の稽古を為さん」とするものであった。 当時は演説や討論を公開で行う時代ではなかったが、 円了には青年にして自らの意見を主張する傾向があった。
(5)修学の過程で比較的短期間であったのが、 京都の東本願寺の教師教校である。この教師教校は、 真宗大谷派教団が将来の人材育成のために一万か寺の中から優秀な子弟を選び、 宗学と西洋諸学を併せて学ばせる学校であった。 円了は教師教校英学科の数人の一人に選ばれて、 さらに教団の給費生として東京大学へと留学した。 東京大学への留学生となったことは、 日本仏教を代表する大教団の歴史的使命を担っていることを意味し、 円了はそのような自覚と目的意識(思想)をもっていた。
(6)東京大学時代の円了について、 大学から文部省への公式文書の中に残されている記録がある。 第三学年の和文学の教授・木村正辞は、「万葉集字音仮字用格ヲ授ケタリ是亦毎週一時間ツ、ナリ此学年中小官ヲシテ殊二満足セシメタルハ法学四年生ニテハ奥田義人哲学三年生ニテハ井上円了ノ両人タリ」と報告している
(『東京大学第四年報』起明治一六年九月止同一七年一二月)。このことは円了の知的理解力と文学的資質を高く評価していると考えられる。
円了はこのような環境の中で、 その資質と能力を開花させ、 社会的自覚をもった知的青年として成長したのである。 明治一八年、 二七歳で大学を卒業した円了は、 学位授与式おいて文学・理学・法学・医学の合計四七名の総代となり、 その謝辞の終わりにあたって、「世道文運ヲ興起シテ大二国家二為ス所アランコトヲ務ムルノミ此ノ如クニシテ生等始メテ学士ノ栄位二対スルノ義務ヲ全ウ」すると述べて、「学士」としての社会的責任を明らかにしている。
二 生涯における著述活動
漢学塾から大学の哲学科までの修学と人間形成・思想形成が、 円了における著述活動の大きな条件の一つであった。 もう一つの条件は、 青少年期が明治時代という日本の歴史の転換期に重なったことである。「創業の時代」と言われたこの時期は、 文明開化のもとに、 西洋の文明・文化が積極的に導入され、 近代化への歩みが始まり、さまざまなところで試行錯誤が繰り返された。
例えば、 円了が東京大学で学んだphilosophyは、 明治の初期には「哲学」と表記することもまだ定まっていなかった。 その呼称として「汎知学」「愛知学」「理学」と翻訳されることも少なくなかったのである。
このような状況の中で、 東京大学は近代日本の最初の高等教育機関として創設され、 西洋で発達したさまざまな知識・学問を日本に導入するという歴史的使命を担っていた。 この草創期の東京大学で修学した円了自身は、「一学年に一人だけの入学者」であり、 特別に育成されたエリートでもあり、 学位授与式の謝辞のように「世道文運ヲ興起」する大きな歴史的使命を自覚していた。 そして、円了がその役割を果たすものとして選んだものの一つが、 最新の知識・学問を日本国家に普及させる著述活動であった。
あまり知られていないが、 著述が歴史的社会的に大きな影響をもたらすことを、 円了は福沢諭吉の著書などから学んでいる。 そのため、 近代日本の啓蒙家思想家としての福沢を、 自らの著述活動のモデルと考え、 日本では未開拓であった哲学などの学問の著述を積極的に展開したのであった(拙稿「福沢諭吉井上円了・寺田福寿・小栗栖香頂」『福澤諭吉年鑑』第二三号、 一九九六年)。
円了の生涯における著述活動は、『井上円了関係文献年表』(東洋大学井上円了研究会第三部会、 一九八七年)によって詳細にわたって知ることができる。 同書によれば、 円了の初めての論文は、『開導新聞』第二二号に発表された井上甫水「印度史の抄訳」である(甫水は生まれた浦村に因んだ号である)。 図(次ページ)のように、変体仮名を含む五○○字ほどの文章で、 明治一三年一〇月二〇日に掲載された。 当時、 円了は二二歳で、 東京大学予備門の四年生であった。
このように、著述活動は東京大学在学中から始められているが、 著述家となるための修練は、 主にこの『開導新聞』を場として行われている。『開導新聞』は円了が留学生として派遣された真宗大谷派(東本願寺)の機関紙であった(安藤州一「開導新聞の発行」『現代仏教』第一〇五号、 一九三三年七月号参照)。
この『開導新聞』には前身があり、「明治十一年の八月に、 大谷派本願寺の機関誌『法の燈火』が発行せられた。 それが第百三十号に至つて『開導新聞』と改題して世上に現はれた。 これが明治十三年の七月で、 編集兼印刷人は江村秀山で、 東京銀座二丁目九番地に開導の本社が置かれた。」この新聞は教団の情報を伝える機関誌であるとともに、 和漢洋の諸学者の寄稿文を積極的に掲載し、一般にも市販されたものである。 回数については当初、 明治一三年が毎月六回、一四年が毎月一〇回、一五年には隔日に発行されている(終刊は明治一六年五月)。編集者の江村秀山は、 佐渡の大谷派の門徒(在家)に生まれたが、 出家して京都の高倉学寮で宗学を学び、 さらに大阪の慶応義塾で西洋の学術を研究した人である。(前掲の安藤州一は「明治十三四年頃、 東京に於て、 寺田福寿氏や江村秀山氏の諸師が、 社会に向つて仏教を紹介したのは、 仏教の社会化の初めである」という。 寺田福寿は、 円了が創立した哲学館の三恩人の一人であった。)
この『開導新聞』には一つの綱領があり、「我等は社会の先頭に立ちて、人智の蒙昧を開かねばならぬ、 仏教者は昔日の旧習を棄てゝ、 文明開化に順応せねばならぬ、 耶蘇教は攻撃せねばならぬ、 西洋の学問は知らねばならぬ。 此等の思想は、一言すれば文明開化の四字に帰する」というものであった。
この新聞の第二二号目に円了の最初の原稿が掲載されたのであるが、 翌一四年には「主客問答」を九回にわたり連載し、 一五年にも「耶蘇教防禦論」「僧侶教育法」「宗教篇」の三論文を発表している。 さきのような文明開化を編集方針とした江村秀山や寺田福寿などは、 東京大学文学部哲学科に在学中の円了に注目し、 将来において著述家となる人物として育てたと考えられる。
明治一七年は円了にとって、 卒業後の進路を決めなければならない時期であった。 恩師の石黒忠悳は文部官僚への道を勧めたが、 面接した文部大臣に対して、 円了は、 東本願寺の給費生であることを理由に官途に就くことを辞退した。 京都の教団へ戻れば、 教学のエリートとしての道が用意されていたはずであった。 仏教界初の文学士であったからでもある。 しかし、 円了は、「明治政府の神仏分離令による排仏棄釈運動で衰退した仏教界を近代化してその勢力を回復するには俗人となって活動するほうが有効である」と主張して、 教団の戻るようにとの命令を固辞した。
この大学卒業前の明治一七年から、 円了は「排孟論」を東京大学の学術雑誌『東洋学芸雑誌』に、「哲学要領」を『令知会雑誌』に、「余が疑団何の日にか解けんー耶蘇教を排するは理論にあるか」を仏教新聞『明教新誌』こと、一般の新聞・雑誌に連載している。 その後も、二年間にわたり数々の独創的な論文を執筆し、 新聞・雑誌に発表し続けた。 俗人となって、 円了がまず取り組んだことが、 このような著述活動であった。 円了の哲学の普及、 東洋哲学としての仏教の問題提起は、 衰退していた仏教界を近代化へ導く礎となった。 この成功に続いて、円了は明治二〇年に、 現在の東洋大学の起源である哲学館を創立した。 人生の二大事業のもう一つはこのようにして始められたのである。
円了の著述活動はその後も続けられたが、 生涯における著述数を知るために、『井上円了関係文献年表』をもとに、 統計をとったところ(数編に分かれているものも、 同一書名は1と数えた)、 単行本・講義録は一二七冊、論文・その他(漢詩、 趣意書、 報告など)は六三八編に達していた。
つぎの「井上円了著述統計表」は、年別の著述活動を知るために、つぎの方法(単行本・講義録の刊行数は、全3編のものは3と数えた、 新聞・雑誌などの掲載数は、 連載ものをそれぞれ1と数えた)により計算したものである(円了の場合、先に新聞・雑誌に掲載された論文が、のちに単行本になったケースがあるが、 数としたはそれぞれに加算されている)。
井上円了著述統計表
和暦 西暦 年齢 単行本・講義録の刊行数 新聞・雑 数誌の掲載
明治13 1880 22 1
明治14 1881 23 10
明治15 1882 24 20
明治16 1883 25 2
明治17 1884 26 23
明治18 1885 27 2 34
明治19 1886 28 5 71
明治20 1887 29 10 23
明治21 1888 30 3 31
明治22 1889 31 3 16
明治23 1890 32 6 31
明治24 1891 33 8 17
明治25 1892 34 9 23
明治26 1893 35 8 14
明治27 1894 36 4 18
明治28 1895 37 4 22
明治29 1896 38 6 20
明治30 1897 39 5 12
明治31 1898 40 17 11
明治32 1899 41 3 16
明治33 1900 42 11 12
明治34 1901 43 4 17
明治35 1902 44 14 17
明治36 1903 45 5 33
明治37 1904 46 11 71
明治38 1905 47 76
明治39 1906 48 1 47
明治40 1907 49 2 35
明治41 1908 50 2 26
明治42 1909 51 4 10
明治43 1910 52 2 6
明治44 1911 53 1 18
大正 1 1912 54 5 26
大正 2 1913 55 3 2
大正 3 1914 56 5 11
大正 4 1915 57 4 11
大正 5 1916 58 6 7
大正 6 1917 59 4 7
大正 7 1918 60 3 3
大正 8 1919 61 2 7
合計 182 857
これによれば、明治二〇年前後と、二十五年前後に活動のピークが見られ、三〇年代は隔年に活動が活発化している。新聞・雑誌で年間掲載回数が七〇を超えているのは、明治一九年の『明教新誌』などへの連載であり(これが『真理金針』として単行本となった)、これによって社会的に高い評価を受け始めた時期である。また同じく明治三七・三八に七〇回を超えているのは、欧米社会における道徳・倫理の状況をモデルとした修身協会連動のために自ら雑誌を発行した時期である。
円了の著述活動の中間にあたる明治三二(一八九九)年に、当時の有力雑誌『太陽』が読者に投票に呼びかけて各界の「明治十二傑」を選んだことがある。その結果をみると、文学家の代表は加藤弘之が第一位(一七一四一票)で、 円了は第一六位(二四〇票)となっている。 宗教家の代表は釈雲照が第一位(一〇九七五票)で、円了は第四位(九七五票)となっている。 教育家の代表は福沢諭吉が第一位(一八四二二票)で、 円了は第一五位(一五六票)となっている。 このように、 円了の活動は三つの世界で知られ、 もっとも高いものは宗教関係であったが、 当時における著名人であったことがわかる。
円了の著述は、 哲学、 宗教(仏教)、 倫理、 心理、 妖怪学、 旅行記、 随筆その他に分類されるが、一つの専門分野にとどまらない傾向があり、 哲学と仏教、 哲学と宗教、 宗教と教育など、 現在の呼び方で言えば「学際的なもの」が少なくないことが特質となっている。 その典型は妖怪学であると言われている。
このような特質は、 前期の著述から見られているが、 前期はどちらかと言えば、 西洋の学術理論を分かりやすく紹介したものが多く、 後期になると理論から応用へと、 その比重が移る傾向がある。 福沢や円了を「啓蒙家」として概括することが見られるが、 両者は在野で活躍した著述家・教育家であり、 ともに「実際」の問題を重視した点で共通性があると考えられる。
さきの統計表をみると、 円了の著述活動は明治一三年の二二歳からはじまり、 大正八年に中国・大連で客死するまで、 海外視察や体調不良によって一時的に減少することはあっても、 生涯にわたり止むことなく継続された、 人生の一大主流であったと言えよう。
この『井上円了選集』は単行本や講義録の総数一五九冊のうち主となる九六冊(六〇%)を中心に編集されたものである。 さきの第二四巻は『星界想遊記』『円了随筆』『円了茶話』『円了漫録』『日本周遊奇談』という随筆 を収録した。 この第二五巻は『甫水論集』『円了講話集』という論集と講話集を主としたが、 その他として数点の「初期論文」を併せて収録した。 初期論文を取り上げたのは、 円了の思想形成を知り、この選集の原点を考える参考になると考えられたからである(円了の哲学館・東洋大学関係の文書は『東洋大学百年史』を参照されたし)。
『井上円了選集』の刊行は、 昭和六二(一九八七)年の東洋大学百周年の記念事業としてスタートしたものであるが、 平成一六(二〇〇三)年のこの第二五巻で完結する。 途中の平成五~八(一九九三~九六)年まで、 東洋大学史の刊行で編集作業が重なることを避けて中断されたが、 刊行年数は合わせて一三年間に及んでいる。
各巻の解説等については、ここで氏名を一々挙げることを控えるが、 各分野の専門家にお願いして、多くの方々のご協力をいただいた。 また、 円了の著述には漢文の引用や漢詩が多く、 現代の読者のために、 読み下し文や現代語訳を作成することが必要であった。 その原稿については、 仏教関係は田村晃祐氏(東洋大学名誉教授)、漢詩などは新田幸治氏(東洋大学文学部教授・井上円了記念学術センター所長)にご協力をお願いした。 編集作業に当たっては、 三浦節夫(井上円了記念学術センター 専任研究員)、 山内瑛一氏(井上円了記念学術センター資料室員)、 大橋秀明氏(株式会社フクイン)が担当した。