1.日本仏教

P19

  日本仏教 

 

 

1. 冊数

   1冊

2. サイズ(タテ×ヨコ)

   227×155mm

3. ページ

   総数:346

   序言: 4

   目次: 17

   本文:325

(巻頭)

4. 刊行年月日

   底本:初版 大正元年9月10日

5. 句読点

   あり

6. その他

  (1) 原本の図表目次は省略した。

       序  言

 今回南半球周遊の際、出会わしたる日本人より、素人が師に就かずして了解し得るようなる仏書を編述せよとの勧告を受けたるが動機となりて、ここに本書を起草することになった。その述ぶる仏教はインド仏教にあらず、シナ仏教にあらず、わが日本にていにしえより講じきたりし仏教なれば、これを題して『日本仏教』と名付くることに定めた。

 すでに本書の緒論中に述べしがごとく、海外におる同胞は、外国人より日本の仏教につきてときどき尋問を受くるも、答弁することができぬから、仏教を研究してみたいと思い、日本より仏書を取り寄せて見ても、あまり術語多くして了解し難いのに困っておらるるということである。英文や独語にて書いた仏書は多少あるけれども、日本の仏教とは大いに相違しておるから、答弁の益にたたぬということも聞いておる。ここにおいて余は日本仏教をなるべく術語を用いずして、編述するの必要を感じたる次第である。

 また日本におる同胞中にても、たとえば官海にあるものや、実業に従事するものなどは、従来一般に仏教を目して愚夫愚婦の玩弄物のごとくにみなしたりしが、近年に至り仏教の教理の深遠なることを聞き、その一端を知りたいとの希望を起こし、仏書をのぞいて見ても、やはり難解の文字の多きのに閉口しておらるるとのことである。

 近頃は神儒仏三教会合の結果、宗教家と教育家と握手するようになりたれば、わが国の教育家も仏教の大要を知る必要あることになってきた。西洋にありて教育に従事するものが、ヤソ教のなんたるを知らずして、その職を尽くすことあたわざるがごとく、わが国の教育家も全く仏教を知らずして、いずくんぞよく責任を満たし得んやとは、余の年来の疑問であった。もとよりわが社会における仏教の勢力は、西洋社会におけるヤソ教のごとくはなはだしからざるも、とにかく仏教が千数百年間、世道人心を維持しきたり、維新前なかんずく徳川以前の教育は、ほとんど全く仏教によりて支配せられたること明らかなれば、今日といえども家庭においては積年の習慣により、無意識的に仏教の感化を受けておることが多い。されば教育家が教育の実績を挙げんとするには、仏教の大体を知るを要すること当然であろうと思う。

 余はここに教育家は仏教を知るを要すというのは、決して教育家は仏教を信ずるを要すとの意ではない。知るということと、信ずるということとは別問題である。しかるに従来は仏教を学ぶをもってただちに仏教を信ずることのように考え、教育家は宗教の外に立たねばならぬということを誤解して、仏書を読むことすらも避ける傾向であったが、今日に至りてはかかる傾向は自然になくなり、教育家一般に仏教のなんたるを知らんとする志望を起こすようになりたるは、余輩の大いに歓迎するところである。ことに今日教育家が仏教家と提携せんとするにおいては、一層その勢いを助長することになりたるに相違ない。しかるに仏書をひもとくに及んで、難解の文字多きために差し控えるものの多きは、教育社会の現状のごとくにみえておる。

 右様の次第なるをもって、余は浅学ながら時代の要求に応ぜんと思い、速やかに腹案を作り、日本仏教を広く世間に紹介することに着手するに至った。これすなわち本書である。余はさきに年を重ねて仏教を研究せしことあるも、その後久しく種々の事情のために、中絶の姿になりたるにもかかわらず、その教理の大要のごときは、今なお脳裏に印象しおることなれば、今春帰国以来、長途の疲労を医せんと欲し、箱根温泉に入浴せるを好機とし、早々禿筆を走らせて、本書を編述することになった。なにぶん客居中にては参考書類に乏しきために、記憶に存するものを土台として書き綴りたることなれば、多少の誤謬なきを保し難きも、日本仏教の梗概を世間に紹介するの端緒を開くことだけは、これにて足ると信じておるところである。

 それ故に本書のごときは、もとより仏教の入門に過ぎざれば、到底これによりて仏教の全斑をうかがい知ること難けれども、ひとたび大体の系統が分かれば、その上に一歩を進むることは至って容易である。かつ余がもっぱら注意したる点は、だれにても本書を一読すれば、師に就かずして仏教の大要を会得し得るように、殊更に言文一致的語調により、なるべく術語の代わりに普通語を用いたる次第なれば、世間一般の人々に試みに一読せられんことを望み、なかんずく教育家諸氏の一覧を煩わさんことを切に望むところである。本書編述の由来と所望とを一言すること、くだんのごとし。

  明治四五年黄梅まさに熟せんとするとき       著 者 誌  

 

     第一講 緒 論

       第一節 講述の主旨

 今より三〇〇〇年を隔つる大むかしにありて、インド、ガンジス河畔に発源したる仏教は、なんびとによりて開説せられたかというに、申すまでもなく釈迦仏である。その仏の時代は諸説紛々として一定し難きも、西洋にてはセイロン島、ビルマ国等の所伝に考証して、およそ西暦紀元前五、六百年代と定めてあるが、わが日本にては異説の多きにもかかわらず、一般にとるところの年代は、西暦紀元前一〇二七年に降誕せられ、同じく紀元前九九八年に成道せられ、同じく紀元前九四九年に入滅せられ、その寿約八〇歳とする説である。その説の真偽は別問題としてさしおき、これよりまさしく述べんとするところはもっぱら日本伝来の仏教にあれば、年代もまたわが国の伝説による方が適当であろうと思う。ただし釈迦仏一代の伝記のごときは、他書に譲りてここに略し、ただ日本に相伝せる仏教につきてその教義の大綱を略説するつもりである。しかしてその目的とするところは全く仏教を知らざる初学初心の人々に、要領概略を知らしめんとするに外ならざれば、なるべく術語を避け、細径に入らず、根本の筋道のみをたどることに定めておく。

 右様の次第なればここに講述するところはその程度至って低くして、仏教入門の階梯に過ぎぬ。もし専門の仏書に至りては、その多きこと汗牛充棟もただならず、ほとんど幾万冊あるかを知らぬほどなれば、更に進んで仏教の奥義を究めんとする志あるものは、漸々順序を追うて研修することは、必ずしも困難というわけではない。ただ従来の研究法が今日の事情に適せずして、初歩と称する書物においてすらも、多く難解の術語を用い、実に初学者をして苦しましむることはなはだしき有様である。故に余は今日の初学者に仏教入門の便利を与えんために、浅学ながら講述を試みることに定めた。もしこれを学校の系統に対照するならば、本講述のごときはその程度小学校初等科の教科書ぐらいに当たるであろうかと思う。

 インドに起こりし仏教の源流が世の移るに従い、多少の盛衰を経て、一方は次第に南地に弘まり、他方はようやく北地に伝わり、南部派、北部派の別を生ずるに至った。今日現存するセイロン、ビルマ、シャム、安南諸邦および東インド諸島の仏教のごときはそのいわゆる南部派に属し、西蔵〔チベット〕、シナ、蒙古、満州、朝鮮、日本の仏教は北部派に属することになる。この南部派は北部派のいわゆる小乗に当たり、北部派はおおむね大乗である。しかして古代は、大乗小乗共に北地に流伝し、日本へも、小乗宗を伝えたことあるも、今日のわが宗としては大乗のみである。ただし、現今といえども大乗を学ぶの階梯としては、必ず小乗を兼修することになっておる。

       第二節 大乗小乗の名義

 文字どおりの意味にては小乗は小さき乗物、大乗は大きな乗物の義にして、古来前者は小人の乗物、後者は大人の乗物と解しきたった。つまりこの乗物に乗りて目的地に至るの義であるから、釈迦仏の説かれたる教を指してただちに乗と呼び、その教の深浅高下に従って、浅薄なる方を小乗といい、深遠なる方を大乗というのである。しかして大乗が北方に伝わり、小乗が南方に栄えしは、草木が風土気候に応じて生育を異にするがごとく、宗教も国俗民情に応じて弘通を異にする故であろう。

 従来北部派の仏教にて伝うるところによれば、釈迦仏は初め永き年月の間は小乗ばかりを説き、終わりに大乗を説かれたる次第なれば、大乗こそは出世の本懐を顕示せられたる真実教にして、小乗などはここに引き入れんとする階段に過ぎぬ、いわゆる随機開導の方便教に外ならぬものと定めてある。実際上両乗を照合するに、小乗は浅薄にして、大乗は深遠なるのみならず、種々の点において多大の相違がある。小乗は実行的にして、大乗は理論的である。小乗は悲観的にして、大乗は楽観的である。小乗は自利的、個人的にして、大乗は自利兼利他的である。それらの区別はのちに至れば自然に分かることなれば、ここに詳述せぬ。右様の相違あるために、大乗の方にては小乗を擯斥して外道と申しておる。外道に内外二種を分かちて、仏教の対敵たる婆羅門教を外の外道と呼び、小乗を内の外道と名付けておく。

 しかし南部派に属する小乗方面にては、北部派の大乗をみて非仏教とし、釈迦仏の説にあらずして、後世の偽造なりと論じておる。その果たして仏説なるか非仏教なるかは最後において一言するつもりである。ただしわが日本にては大乗を真実の仏説なりとして伝えきたりし故に、日本仏教を講ずるには、もとよりその見地に立ちて観察しなければならぬ。これに反して近時西洋に入りし仏教は、南部派たるセイロンやビルマの系統に属するをもって、その源がすでに小乗なれば、欧米人はいまだ大乗を知らず、したがって大乗の名を聞きてただちに非仏教と速断するがごとき有様である。これ余が年来大いに遺憾とするところなれば、ここに日本仏教を講ずるも他日、西洋に日本の大乗教を紹介するの端を開かんとする微意なることをあらかじめ断りおかねばならぬ。

       第三節 日本仏教の事情

 わが日本の大乗仏教はシナ、朝鮮を経て今より一三六〇年前(西暦五五二年)初めてここに入りきたり。これより次第に弘通し、シナより直接に宗派を伝えたるもあり。また日本別開の宗派も起こりて、現今存在せるその主なる宗名を挙ぐれば、天台宗、真言宗、禅宗、浄土宗、真宗、日蓮宗等にして、これを細別すれば四十余派となる。そのいちいちにつきて詳しく説くことはできぬけれども、大体につきては後に述ぶる考えである。これらの諸宗はみな大乗宗なるが、これに更に権大乗、実大乗の二種を分かつ。すなわち権とは権仮と続きて、カリの義、実とは真実と熟してマコトの義である。前に掲げたる天台宗、真言宗等はみな実大乗に属しておる。その外、華厳宗と名付くる一宗がある。これも実大乗である。ただわが日本に法相宗と名付くる一宗が現存しておるが、これだけは権大乗である。

 わが仏教はシナ、朝鮮より伝わりしにもかかわらず、その本家たる両国にては現今廃頽を極め、ほとんど活気を失って死物同様になっておる。故にその国の僧侶に尋ねても、大乗小乗のなにものにしていかなる相違あるかですらも知ることが難しかろうと思わる。これに反して日本にては仏教大いに衰微せりと申しても、なお僧侶は小乗も大乗も共に研究しておるから、その区別を知らぬほどの愚僧は至ってすくない。故に大乗仏教を知るには広き世界、多くの国々の中にて、日本に限ると申さねばならぬ。果たしてしからば大乗教を世界万国に紹介する責任は、われわれ日本人にありと断言してよろしい。

 日本人の欧米およびその他の海外諸邦にあるものに対して、かの地の人がときどき仏教の質問をするということだ。けだしかの人達は日本に仏教の盛んなることを聞いておるから、いずれの日本人も仏教の大要を心得ておるという考えである。しかるに海外に寄留せる日本人は、大抵みな仏教のなんたるを知らぬ故、質問に答弁することができぬ。己の家は仏教を奉じ、己の父母は仏教中の某宗を信じておることを知りても、それ自身は全く仏教に対し、盲目同様であるのがわが国の常態である。余思うにこれは知らざる人の罪にあらずして、教えざる人の罪であろう。一体わが国の仏教は習慣仏教にして、各自の家に伝われる宗旨のなんたるを知らず、ただ名前だけ某宗の信徒なりと自称しておる。また僧侶はその教えのなんたるを説かずして、ただ葬祭の儀式を行うのみを本務としておる。かかる有様なれば、余はもっぱら大乗仏教の深遠高大にして、小乗教とは雲泥の相違あることを、近くは一般の日本人に知らしめ、遠くは海外万国の人に伝えたいと思う。これ余が講述を企てたる原動力である。

 小乗は悲観教、厭世教にして、大乗は楽観教、世間教なるも、古来シナおよび日本に伝えきたりし大乗教がなんとなく厭世的語気を帯びおることは事実である。これ教理そのものの果たしてしかるにあらずして、当時における社会の風潮の影響なることは疑いない。これをわが数千年間の歴史に考うるに、古来全く国際競争場裏に国家の独立を維持するの必要なかりしはその主要なる原因である。しかるに今日に至りては農工商を問わず、一般に海外万国と共に競争し、互いに奮闘せざるを得ざる時機となり、進取的気風、活動的精神を宗教上より養成するの急要を感ずることになりたれば、大乗の真面目たる楽観的活動主義を大いに鼓舞しなければならぬ。余は大乗の教理を講ずると同時に、その中に含まれる活動主義をも述ぶる予定である。

       第四節 仏教教義の多端

 仏教はヤソ教に比するに哲学的理論を基礎とし、その上に建設したる宗教なれば、局外の人が了解するに必ず困難を感ずるであろう。なかんずく大乗をもって特にはなはだしとすることは余も承知しておる。けだし西洋哲学中ドイツ哲学が最も深遠にして難解と称せらるるも、大乗はそれ以上であるかと思う。ことに実大乗のごときは、独国哲学者カントやヘーゲルなどのいまだ論到せざりし点にまで進入し、理想の秘密を開示せるものである。故に昔時は専門家の外は仏理の妙旨をうかがい知ることはできぬと考えて、ついにこれを度外に置くようになった。しかし今日の進歩せる知識の目より見れば、決して難解にあらずして、その教理の深遠なるは、ヤソ教の浅薄なるよりも、かえって人の智欲に満足を与うることを得るわけである。

 教理の深遠なる外に宗旨の多岐多端に分かるる点も、ヤソ教より仏教の方の了解するに困難なる理由中に数えねばならぬ。ヤソ教は経典も『バイブル』のみにして、教理が至って単純である。したがい宗派の異なるに応じて、多少の見解を異にすることあるも、決して仏教のごとくはなはだしくない。これに反して仏教は小乗、権大乗、実大乗、おのおの全く異なりたる教義を有し、もしこれを細別すれば、幾とおりの異説に分かるるかほとんど数え難きほどである。畢竟するに釈迦仏は世間雑多の人々を済度するには、多岐多端の教義を説かなければならぬと考え、あたかも病に応じて薬を与うるがごとく、人々の病根一ならざれば、一とおりや二とおりの薬方にては無効であるとの主意より多様に説き示されたものである。

 かくその所説は多岐多端にわたるも、一株の樹木にあまたの枝葉を分出せるごとく、その根本に至りては一大原理が存するから、もしその原理を尋ねて枝末に及ぼすに至らば、決して難解を訴うるに及ばぬ。古来の仏教を解説したる人は、みな枝葉のみに着眼して、根本を示さざる余習があった。故に余はその弊を避けて、根本の原理のみをたどりて解説する心算である。

       第五節 仏教の起点および目的

 仏教はその根基として哲学の道理を包含すというときは、釈迦仏所説の目的は哲学にあるか宗教にあるかの疑問ありて起こるであろう。もし余の所見をもって論ずれば、仏の本意は宗教にあること明らかである。しかして哲理をこれに加えたるは、その当時の事情のしからしむるところなるに相違ない。すなわち釈迦仏在世の日は、インドにて諸派の哲学の競起せし時代なれば、これを大別してあるいは六大学派、あるいは九六派あったと申しておる。かかる学派を相手として哲理を闘わすにあらざれば、人をして仏教を信ぜしむることができぬ。よって一種独創の哲学を説きて、その基礎の上に宗教を建設するに至った次第である。

 哲学と宗教との別は古来異説ありて、細かに論究しきたらば、判然たる分界を定むることもできぬ。ただここに仏教につきて試みに哲学と宗教とを類別せんに、人の智力によりて天地万有の本源実体を推究する方を哲学といい、すでにその実在を認め、信念の力によりてこれに接触融合せんことを求むる方を宗教というのである。この定義によりて仏教を一瞥するに、大乗小乗共に一半は哲学、一半は宗教なるを知り、あわせて哲学を階梯として宗教の目的地に至らしむる本意なることが分かる。これまた仏教のヤソ教に異なる点である。故に余はかつて仏教を指して哲学的宗教と名付けておいた。

 もし小乗と大乗とを対照するときは、小乗の説くところの哲学は世界の表面上の観察にして、その論理はすこぶる浅薄である。これを哲学といわんよりも、むしろインド古代の理学(理化学)という方が適切と思う。あるいは哲学中の自然哲学に属するものであろう。しからざれば経験哲学に当たるとみてよろしい。これに反して大乗は純然たる哲学にして、すこぶる哲理の高妙深遠を究めたるものである。そのうち権大乗は心理哲学、実大乗は理想哲学と定めて差し支えない。なお詳細のことは本論に入りて述ぶることにしようと思う。

       第六節 術語の解釈

 仏教に関する従来の著書は、ひとり釈迦仏所説の本経のみならず、後世および現今の解釈書に至るまで、あまり多く術語を用い、門外漢をしてその意を了解するに苦しましむる有様なれば、余は全く日用の普通語のみをとりて詳説を試むる予想なれども、仏教中の主眼となりおる文字だけは、いくぶんか引用しなければならぬ。たとえば真如、万法、涅槃、菩提のごとき術語である。これらの術語までを除くときは、更にその講義が仏教らしく感じられぬようになるから、多少の術語は必要と思う。ついてはあらかじめその略解を示さねばならぬ。

 仏教の哲学上にては宇宙の本体を指して真如という。真如とは真実不変の義にしてその本体の変化なく生滅なく、永住実在するの意味である。これに対して宇宙間に現見せる物心万象を万法という。その法の字はすべて有形無形の物柄を指したる語にて、一切の物質のみならず精神までも総括し、有形無形を合して万法と申すのである。この真如と万法とを合称するときに事理という場合もある。事は事相ともいい、現象の義にして万法に当たり、理は理性と熟して真如のことである。念のために左にその配合を示しておく。

  宇宙 真如 理性 理

     万法 事相 事

 この真如と万法との関係を究明する理論的方面は哲学にして、万法の世界にある吾人が真如の本体に接触融合する実行的方面は宗教である。しかしてこの両面にわたり、すべて真如の実在を証見する場合において、その智慧の方を菩提と名付け、かくして証見せられたる対境の理体の方を涅槃と名付く。涅槃はあるいは万法の世界の生滅あるに対し不生不滅と訳解することあるも、つまり真如の体をいうのである。また菩提の智を覆いて涅槃の理をみることを得ざらしむる障礙物を煩悩と名付く。あたかも月光を遮る雲にひとしきものである。この煩悩の迷雲を払い去りて真如涅槃に合体するに至れば、これすなわち成仏にして、そのいわゆる仏とは吾人が煩悩を断尽して、涅槃を証得するに至りたる境涯をいうに外ならぬ。この仏をあるいは如来ともいう。如来とは真如より来現の意味なりと伝えておる。この如来の境涯に至るをもって仏教における究竟の目的としてある。

 その他にも全仏教共通の術語と各宗派特殊の術語とありて、随時引用せざるを得ざることあるも、のちにその場合において解釈を添うる方が便利ならんと思う。また説明の都合上、哲学の術語たる絶対相対、客観主観、一元二元等を仮用することあるも、これらは普通に慣用しおる語なれば、格別解釈の必要なかるべきも、もし解し難き恐れある語は、その都度略解を付することにし、ただ左に講述の順序だけを示しおくつもりである。

       第七節 講述の順序

 仏教は真如を本境とし成仏を目的とするをもって、吾人がこの人間界より進みて向上する道を説く方を出世間道という。すなわち世間を出離するの義である。これと同時に吾人がこの世界に生存する間に、自他のために尽くすべき種々の心得を説く、その方を世間道という。しかして余の講述はこの二道の中、初めに出世間道を説き、終わりに世間道に及ぼす順序である。その出世間道の中に哲学の理論に重きを置く宗旨と宗教の実際を主とする宗旨との二種ありて、おのずから相分かれておる。これに便宜上、理論宗、実際宗の名目を付し、理論宗より説き始めて、実際宗に及ぼす予定である。

 つぎに理論宗は哲理に重きを置くと申したれども、その実、哲学宗教の両面を有し、しかも宗教をもって目的としておる。ただ実際宗に対比して仮に理論宗と名付けたるまでである。故に、その理論宗中に哲学門と宗教門との二部門を分かちて置くの必要がある。従来の仏教にて用うる智目門、行足門の語はまさしく哲学門と宗教門に当たる。智目とは智慧の眼にて宇宙の真理を達観する方なれば、哲学門である。行足とは実際の修行によりて目的地に到着する方なれば、宗教門である。しかし余は智目門、行足門の代わりに、哲学門、宗教門の語を用うることにした。

 大体かく分科を定めて、哲学宗教両門の下に更に小乗、権大乗、実大乗を分かち、そのいちいちにつきて順次講述することに定めておる。しかしてその教理はもとよりわが日本において現に講究せるところによるから、これを題して『日本仏教』と称し、左のごとく表示する考案である。

  第1図表

       日本仏教 出世間道 理論宗 哲学門 小乗

                         大乗 権大乗

                            実大乗

                     宗教門 小乗

                         大乗 権大乗

                            実大乗

                 実際宗

            世間道

 そのうち最初に小乗の哲学門を説きて、権大乗、実大乗に及ぼし、つぎに小乗の宗教門を講じて、同じく大乗に及ぼす順序をとることにしておる。

 

     第二講 小乗哲学門(一)

       第八節 婆羅門教の大意

 小乗を講ずるには婆羅門教の大意を述べなければならぬ。婆羅門教はインド固有の宗教にして、仏教もその中より生まれて、新たに一機軸を出したるものなれば両教の間に大いなる関係がある。ことに小乗のごときはその一部分は婆羅門教と申してもよろしいほどによく似ておる。さなくとも釈迦仏は婆羅門信者を相手にして仏教を説かれたから、所々にその教説を引用しておる。故にここにざっと同教の立て方を略述する必要があると思う。

 婆羅門教は『ヴェーダ』と名付くる経典に基づきて自然に起こりたる宗教である。しかしてその経典は四部より成り、共にインド民族の最古の神話伝説を集めたるものにして、別に一定の教祖ありて開説せるものではない。その経典の初めの部は多神教のごとくみゆるが、次第に一神教に変遷しておる。その一神はすなわち大梵王である。この神が世界を創造せしことを説く点は、ややユダヤ教やヤソ教に似ておる。しかしてそのいわゆる梵王は天界の最上天に住しておるといい、その所在の天国に至るを吾人の目的と説く点もよく似ておる。これを要するに婆羅門教は造物主宰を立つる有神教の最古のものである。

 インドは古代にありてすでに哲学思想の大いに発達せる国なれば、婆羅門教説が後に分派して、各派の間に種々の異論を生じ、あるいは大梵王は人身の中に住すといい、あるいは万物の中に住すとも説きて、有神教以外の諸説も出でたれども、これもとより余波にして、造物主宰を立つる方が正統の教説である。故に仏教が哲学上にて婆羅門教に反対を唱えたる主なる点は、その造物主宰を否定するにありと申してよろしい。すなわち釈迦仏は小乗において天界を説きながら、すでに梵王の造物主宰を否定し、独特の新見をもって世界の起源を立証するに至った。これ両教が原理の上において相違せるゆえんである。

 婆羅門教は外界における一切万物の実在を既定し、その上に天界の実在を説示するものにして、物界を本とする方である。すなわち哲学上のいわゆる客観論である。かの梵王もやはり客観的実在にして、吾人の精神より生じたるものではない。これに反して仏教は心界を本とするところの主観論である。たとえ小乗は大乗のごとく純然たる主観論にあらざるも、いくぶんか主観論に傾いておる。しかるに小乗が一見客観論のごとくなるために、大乗より貶せられて外道の一種とみなさるることもある。

       第九節 客観主観の説明

 世間普通に用うる哲学の術語は説明の必要なきも、全く哲学の用語を知らざるものに対し、念のために簡単なる解釈を添うるに、吾人が目を開きて現前するところの物象の境域は、これを外界または物界または客観界といい、目を閉じて自知するところの精神の世界はこれを内界または心界または主観界という。この客観界を本として説く方を客観論といい、物質の外に精神なく、心界は全く物界の所産に過ぎずと断定する方を唯物論といい、これに反して主観界を本として説く方を主観論といい、心界を離れて物界なきを主唱する方を唯心論という。また物心両界の対立並存をとる方をば二元論といい、これに対すれば唯物論も唯心論も一元論となる。この物心二元の外に更にその本体の実在を立つる方を絶対論といい、これに対する物心二元論は相対論となるわけである。

 絶対の本体を単に理または理体と名付くるときは、宇宙は物心理の三者となり、その三者につきていずれが真に実在するかは、古今を通じて西洋哲学の大問題なるが、インド哲学においても古来の大疑問である。しかして婆羅門教の普通に説くところにては、物心両立を許し、梵王をもってその本源となすものなれば、物心理三者を立つるに似たれども、その所見は全く客観界を本としたる観察なれば、その梵王も客観的造物主にして、真の理体にあらず。したがって客観論というべきものにして、絶対論ということはできぬ。この点において仏教の小乗はたしかに一段進みたる見解を有する論なることが分かる。

 小乗の所立は大体において物心二元論にして、その二元の実在を客観の方面より証明せる点は客観的二元論なれども、そのうちにおのずから主観論の意を漏らし、主観的二元論の趣向を有するは、婆羅門教に異なるところである。また梵王そのものをば現象界に属するものとし、更にそれ以上に不生不滅の涅槃界を立つるは、婆羅門教を離れて大乗に合するわけである。今これを表示すれば上図のごとく、万法の事界を物心両界に分かち、更にその外に物心を否定せる涅槃界あることを説く。これが小乗の立て方である。

       第一〇節 小乗の人身観

 小乗の哲学はまず人身観によりて吾人の成来するゆえんを説き、つぎに世界観によりて世界の生起するゆえんを説いたものである。その人身観にありては吾人の身体を分析して、元来なにものより成りたるかを究め、ついに無我の理を達観するに至った。およそ吾人はだれにても己の身体の中に一個固定せる自己すなわち我の本体ありて、永く実在せるものと信じ、ために我慢、我情、我見、我執をつのり、その結果罪悪を醸するに至るも、つらつら身体を分析して考察しきたらば、たちまちかくのごとき固定せる自我の本体の永存実在せざることを発見し、我慢、我情等の執着は全く迷妄なることを自覚するに至るに相違ない。したがって無我の理を達観すれば、自然に罪悪の原因を断滅するを得るというのが人身観の結論である。

 わが身体中にかくのごとき固定せる我体実在すと立つる方を実我説と名付け、その実在を否定する方を無我説、または我空説と名付けておる。しかるに婆羅門教は実我説をとり、各自の我体が永く実在して、梵王所住の天界に至るべしと説き、あるいは実我はすなわち梵王なりと解する一派もあるほどなるに、仏教はこれに反対して無我説を主唱したるものである。ことに小乗の人身観はこの無我の理を証明するに外ならずと申してよろしい。しかしてそのいわゆる我とは常一主宰を義とすと解しきたり、吾人の身体中に常在せる一物ありて、一切の動作を主宰すと信ずる俗説につきて与えたる名目である。通俗のいわゆる霊魂およびヤソ教のいわゆる霊魂もこの我に当たることになる。

 かかる無我の理を証明するにいかなる論式を用いしかを考うるに、小乗は全く分析的方法によりたるものである。まず吾人の身体を分析して果たして我の実体常在せるかを考察するに、肉体の方は物質的元素より成り、精神の方は精神的元素より成り、この物心二元があるいは集合しあるいは離散し、新陳代謝して種々の変化生滅を起こすのみにして、一物一法たりとも固定永存せるものはない。たとえば河水の新陳代謝して一刻もとどまざるがごとく、わが身体は身心共に種々の元素が新陳代謝して休止することはない。もし遠く河水を望むときは固定不変の水あるがごとく見ゆると同様に、わが身体中にも実我あるがごとくに考えらるるも、これ全く妄見なりと論決するのが小乗の無我観である。

        第一一節 人身の成立

 小乗中にも昔インドにおいて種々の宗派分出し、あるいは二〇部となり、後に五〇〇部となりて、互いに異見を競い、正邪を争いたる由なるが、そのうち有部宗と名付くる宗義を伝えたるものに『倶舎論』と名付くる書物がある。この書物は釈迦仏所説の小乗経に基づきインドにて作られ、シナにて訳されたるものなるが、この論を所拠として開きたる宗旨を倶舎宗と申しておる。わが日本の各宗共にこれを小乗の標本として研究しおることなれば、余もその所説をかりて小乗教を代表せしむるつもりである。よって以下単に小乗と申しても、倶舎宗の所説に基づきたるものと承知ありたし。

 小乗の人身観にては人身を分析して色受想行識の五種となし、更にこれを総括して色心二法と定めておる。そのいわゆる色法は物質のことであるから、その所立は物心二元論に当たる。しかして受想行識の四種は心法にして、精神の分類である。受とは感受の義にして、心理学の感情に当たり、想とは取像の義にして想像の語に当たるも、外物の形象を心面に写出して、その影像を浮かぶる作用なれば、知覚作用を帯びておる。行とは行動の義にして、意志動作に関する作用の総名である。識とは了別思量の義にして、感覚および思想に当たる。これを合称して五蘊と申しておるが、蘊は積集の義にして、これらの諸元が積集して、人身を合成する故にかく名付けたるものである。すなわち五種の元素とみてよろしい。


  第3図表

       人身 五蘊 色法(物質) 一

             心法 四 受

                  想

                  行

                  識

 この五種の中、色法すなわち気体を組成せる物元につきては、これを五根五境に分けておるが、五根とは五官のことにて、眼耳鼻舌身である。つぎに五境とはその五根の対向する境遇の意味にて、色声香味触である。すなわち色境は眼官の対象、声境は耳官の対象ないし触境は身官の対象なることは説明を待たぬ。

  第4図表

       色法 五根 眼根、耳根、鼻根、

             舌根、触根

          五境 色境、声境、香境、

             味境、触境

 その各境につきて詳細の分類あり。その分類の外に別種の名目等あれども、ここに略しておく。

 この対境の分類より一歩を進むれば主観論となりて、外界万象は精神作用に帰することになるけれども、小乗はいまだこの点までに論到せずしてとどまり、これをして純然たる主観論に帰せしむるは全く大乗を待たねばならぬ。もしその物質を分析して分子元素となし、その物質元素の由来を説く方は、人身観より一歩を進めて世界観に属する問題なれば、のちに述ぶることにしようと思う。

       第一二節 精神の分析

 つぎに精神の方は先述のごとく受想行識の四種に分けておるが、更にこれを心王、心所の二類に総括しておく。心王とは心界の王者の義にして、精神の主作用に名付けたる名目であり、心所とは心所有法の略称にして、心王の臣属の義であり、心王に随従して起こる作用をいうのである。これを受想行識に配当すれば、受想行は心所にして、識は心王のことになる。けだし仏教にて識というときは感覚と思想とを意味し、これを精神の本位と定めてあるから、心界の王者に当たることになる。更にこれを表示すれば左のとおりである。

  第5

  図表 心法 心所・・受、想、行

        心王・・識

 まず識の分類より述ぶるに、これを六種に分かち、眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識としてある。そのうち前五者は眼にて色を識別し、耳にて声を識別し、ないし身にて物の形質を識別する作用なれば、心理学のいわゆる感覚に当たる。最後の意識は感覚の上に位する作用にして、推理作用、思想作用を総称する名目である。たとえば垣を隔てて煙の上がるを見、かしこに火あるべしと推定するは、眼識にあらずして意識である。煙の上がるを見たるは眼識なれども、火そのものを見たるにあらず。しかるに火ありと断定するは意識作用のしからしむるところとする。故に意識は推理思想に当たるわけである。

 つぎに心所は心王の起こるときにこれに付随して起こる諸作用を総括したる名目なれば、大体につきてこれを受想行の三種に分かつも、細別するときは数十種の多きに及び、ここにいちいち弁明するの余地なければ略しておく。これを要するに小乗にありては、人身を分析して色受想行識の五種より成り、この五種相集まりて仮に和合する間はわが身あり、わが生あり、彼我自他の差別あるをみるも、ひとたび解散すればそのいわゆる我なるものはない。あたかも木や石や瓦が集まりて家屋を成すがごとく、この木石を分散すれば家屋もなくなると同様である。故に吾人の一生は五蘊仮和合の境涯であると論定しきたり、実我説に対して無我説を主唱するに至った。かく実我を否定するも、五蘊仮和合の我を否定するのではない。これを仮我として、実我とせざるだけである。以上、小乗の人身観の大略を述べ終わった。

 

     第三講 小乗哲学門(二)

        第一三節 小乗の世界観

 すでに小乗の人身観は無我の理を証明するに至りしを述べたれば、更に一歩を進めて世界観の端緒を説かねばならぬ。前述のごとく小乗にては世界万象を分類して、色心二法すなわち物心二元となしたるも、更に細別するときは七二法となる。この諸元があるいは相合しあるいは相離れて、変化生滅を現ずる故に、これを有為法と名付けておる。有為とは転変の義にして、生滅変遷を有する状態を意味する語である。すべてこの世界の万象は人類動植、山川日月、そのなんたるを問わず、時々刻々、生滅変遷を継続して休止することなき有様なれば、これを指して有為の世界と申すのである。その万象を分類して、七二種とし、その諸法が離合集散して種々無量の変化を現すというのが、小乗の世界観の要旨である。

 つぎにこの有為の諸法に対して別に全く生滅変遷なきものがある。これを無為法という。たとえば虚空のごとき、または涅槃のごときは生滅なきものなれば、無為法中に帰することになる。その無為法に更に三種を分かち、これを有為法の七二法に合して、七十五法と定むるのが、小乗中倶舎宗の分析論である。畢竟するに一切万法を包容せる宇宙を分析するに、七五とおりの法体あるのみにて、その他に一事一物なしとの結論である。今七十五法いちいちの説明はこれを略し、ただ宇宙の分類表だけを掲げておこう。

  第7図表

       宇宙 有為法(生滅法) 色法(物元)

                   心法(心元)

          無為法(不生滅法)

 この七五種の法体につきては、無為法はもちろんのこと、有為法といえども、その本体には生滅なく変遷なく、常住実在せるものと説いておる。しかして吾人が生滅変遷をみるのは、諸法の本体のしかるにあらずして、その本体の集散離合するに外ならずという。これを法体恒有説と名付けておく。言い換うれば、七十五法の本体は常に存して生滅することなしとの説である。これが小乗諸派中の有部宗の説にして、その宗を有部と名付けたるも、「法の体はつねにあり。」(法体恒有)を立つる故なることは問わずして分かる。しかして倶舎宗はこの有部の宗義に基づきたるものなれば、やはり法体恒有説を唱えておる。故にこれらの小乗宗にては、人身観において無我すなわち我空を説き、世界観において法有を説くから、これを我空法有宗とも名付けておく。なおそのことはのちに一層詳しく述ぶるであろう。

       第一四節 色法の分析

 前節に掲げたる宇宙の分類表中の色法は、さきにすでに五根五境と分かちたるも、これ人身につきての観察に過ぎぬ。もし物質そのものにつきては、小乗の所説は現今の理化学の所見と大体において異なることなく、ギリシア哲学の分子学派と同一の見解を有するものである。すなわち物質を再三再四分析を重ぬるの極は、必ずまた分析すべからざる点に達するに相違ない。この最小至微の物元を極微と名付けておる。その極微は化学のいわゆる元素に当たる。その元素があるいは集まりあるいは散じて、物体に種々の変化生滅を現すに至り、吾人の肉体に生死あるも、禽獣草木に栄枯あるも、山河大地に変動あるも、帰するところはこの諸元の集散の作用に外ならずとなすのが、小乗の物質観である。これを極微所成説と申しておる。

 更にその物質的極微はなにより成来せるかと問うに、これ分析の終極なれば、分析法をもって知ることはできぬ。ただ一切の極微はみな地水火風の四大によりて造出せられたと説くのみである。これを大と名付くるはその作用の大なる故ということだ。更にその義解をみるに、地は堅性を義とし、水は湿性を義とし、火は暖性を義とし、風は動性を義とすとありて、物質の性質を指すのである。これを例すれば物理学の固体、液体、気体というに似たれども違うておる。この堅湿暖動の四性は一切の物質に普遍し、いかなる一小物にてもこの四性を兼備せざるはない。ただ四性中の一性だけが比較的多く加わると少なく加わるとの異同あるのみと説いておる。もしこの四大を除き去らば、物体も極微も全くその形を失うものと考え、いちいちの極微はみな四大によりて造出せられたものと立つる。故にこれを四大所造説と申すのである。

 吾人の肉体を組成せる物質を分析して極微に達し、更に極微を究明して四大所造となし、これを物界説明の終点と断定し、更にそれ以上にさかのぼらざるは、小乗の所見の浅薄にして大乗に及ばざる点なれども、この四大説中に大乗の主観論を暗示せることを忘れてはならぬ。四大は物質にあらずして性質である。しかもその作用大にして一切の物質を造出すと説く。もしこの性質はなにより生じきたるかと推究しきたらば、必ず吾人の感覚に属するものなるを知ること自然の勢いであろう。ただ小乗はこの理を暗示したるのみにて明示せず、しかしてこれを明示したるものは大乗の主観論である。

       第一五節 世界の無数無量

 仰ぎて天を見、伏して地を察するに、日月山川草木等の諸象の羅列するを知るが、これを総括して世界という。その世界が無数無量なるを唱うるのは仏教の所談である。さきにも述べしごとく、小乗は婆羅門教の説を受けて、人界の上に天界あることを説き、その天界は人界と同じく有為転変の世界にして、生滅変遷あることを示し、国土山川はもちろん、日月星辰よりあらゆる梵天梵王に至るまで、みな生滅あるものと定めておる。まず世界の種別より述ぶることにしよう。

 世界を大別して欲界、色界、無色界の三類とし、欲界とは飲食睡眠等の諸欲を有する境涯にして、この地球上における人類動物の世界をいい、色界とは吾人のごとき粗悪なる形体にあらずして、清浄にしてかつ精妙なる形体を有する境涯をいい、無色界とは全く肉体を有せずして精神のみの境涯をいう。この色界、無色界の中に婆羅門教の天界を収め尽くし、総じて三界と説いておるが、その実、無数無量の世界ありとの説である。

 仏教にては普通に大地と日月とを合してこれを一世界と定めておくも、その実これを一小世界と申しておる。この小世界が多数集まりて中世界となり、中世界が多数集まりて大世界となり、これを合して三千大千世界ありとも、また一〇〇億の世界ありとも説き、更に一〇〇億に幾万倍する世界あるを示し、帰するところ無量無数の世界ありとの説である。数千年前の古代にありては、いずれの宗教にても学説にても、このようなる広大無辺の世界観を立てたるものはなかろう。これ実に仏教独特の活眼である。

 ただに世界が無数なるのみならず、その無数の世界中に無数の人獣あり、また無数の人間以上の生類あることを説いておる。従来はかかる広大の説を聞きて、空想妄談とのみ考え、釈迦仏は大法螺を吹いたものであるなどと批評しておったが、近世に至り天文学の進歩によりて、天空に羅列せる無数の星はみな世界にして、その中には地球と同じく生物の住する世界あるに相違ないという説が起こり、仏教の世界説は法螺にあらずして実談であると申すようになりたるは不思議である。この一点だけをあげて比考してみても、仏教とヤソ教との深浅広狭の大差あることが分かる。

       第一六節 世界の生滅変遷

 宇宙間に散在せる無数無量の世界は、みな変遷生滅を免れぬ。これらの世界はある時代においてその形を現成し、ある時代の間これを持続し、ある時代に至りて壊滅す。あたかも人類動物に生滅あると同様であるが、ただ年月に非常なる長短あるのみだ。その非常に長き年月を指して劫という。劫とは詳しくは劫波といい、梵語より出でたる名称であって、地質学上の世紀と同じく、年月をもって算定することのできない長久の時代に与えたる仮名である。

 世界に生滅ありとするときは、ただちに世界のいまだ生ぜざりし前はいかん、またその生ずるに至りし原因いかんの問いありて起こるであろう。この疑問に答弁せんとするには、必ずまず仏教の時間空間説を考えなければならぬ。その説によるに空間は無限無辺にして、時間は無始無終と定めておる。しかしてその無始無終の時間の中に世界が生滅するのであるが、その生滅もまた無数回反覆して際限なしという説である。すなわち世界が生じては滅し、滅してはまた生じ、生滅生滅を循環相続して尽くる時なしというのである。要するに時間に始なしと同時に、世界にも真の開端の起源なしというのが仏教の宇宙観である。

 世界の変遷につきては、これを四段に分かちて成住壊空の四劫とし、この四劫を経て生滅するものと説いておるが、成劫は世界の生じたる時をいい、住劫はその形体を持続する間をいい、壊劫はその破壊する時をいい、空劫は破壊し尽くして空となりたる時をいうのである。これを今日の進化論に対するに、成劫、住劫は進化の時代にして、壊劫、空劫は退化の時代である。故に仏教は進化説にもあらず、退化説にもあらず、進化退化交替説である。すなわち進化の後に退化あり、退化の後に更に進化あり、進化の後に更にまた退化ありて、反覆循環際限なしという説である。その状態を表示すれば第8図表のごとくとなる。

       第一七節 生滅循環の状態

 前表のごとく世界は成住壊空、進化退化を反覆して、その始もなくその終もなしと説く以上は、開端の起源あるべき理なく、したがって世界を創造せる天帝を立つるに及ばぬ。この点はまさしく婆羅門教の造物主宰の梵王を立つる説に反対したるのである。よってこれに準じて仏教とヤソ教との世界観の相違を知ることができる。すなわち仏教は全く無神論である。

 更に論歩を進めて空劫より成劫を生ずる間の状態を述ぶるに、世界が漸々徐々破壊して空となるも、その実は真の空になるわけではない。ただ世界がその形象を失えるまでである。すでに小乗の所説は法体恒有にして、万物万法の本体は常に存して滅するにあらずと説く以上は、世界の生滅するのは、その元素たる法体のあるいは集まりあるいは散ずるに過ぎぬ。よってそのいわゆる空劫は諸元の解散して形象を失える状態に帰したるをいうのでありて、決して法体そのものの空となりたるわけではない。それ故にひとたび空に帰したる世界も、もし解散せる元素が再び集合しきたらば、たちまち成劫となりて世界を現出するに至る道理である。

 更にまた世界の壊劫より空劫に移る間の状態いかんを示せるところをみるに、大火によりて一切の形体を有するものを焼尽し、終わりに全世界ことごとく空となるに至ると説いておる。すなわち世界の終極は熱に化し去ることになるが、その熱中に万法の本体は依然として存するに相違ない。よって熱中に風を起こし、再び世界を現出して成劫となるという。その風とは動性を義とすとありて、運動のことであるから、熱力が運動に変じて世界を再現するとの説である。この説はまさしく今日の物理学、天文学のいわゆる星雲説に符合しておる。ただし星雲説にては星雲の前に世界あることを示さぬけれども、仏教にては世界の前にも世界あり、世界の後にも世界ありて、空劫が成劫となり、成劫が空劫となり、更にその空劫が成劫となりて、循環窮まりなしとの所説なれば、世界の前に無限の世界あり、世界の後にも無限の世界あることになる。故にこれを名付けて世界にも吾人にも無始無終の生滅ありと説いておる。

 

     第四講 小乗哲学門(三)

       第一八節 因果の説明

 前講の世界観を約言すれば、時間は無限にして、空間もまた無限である。この無限なる時間空間の間に存する世界が無数無量なるのみならず、その各世界がことごとくみな無限の生滅を反覆継続して、実に無始無終である。その間に万法の本体たる法体は常住永存し、ただその集散離合によりて世界の生滅をみるのみとの説に帰す。ここに至りて更に一問ありて起こるであろう。すなわちその法体の集散離合する原因いかんの問題である。仏教は無神論であるから、その原因を天帝に帰することはできぬ。その代わりに仏教は因果教と称して、集散離合の変化はみな因果の作用によりて起こると立ててある。つまり天帝が世界を造るにあらずして、因果の理法が世界を造るとの説である。ここにおいて因果のなにものたるを説明しなければならぬ。

 因果の作用は大乗小乗相通じて説き、その理法は実に仏教に貫通せる血脈神髄である。しかしてこれひとり仏教に限るにあらず、西洋の哲学にても理学にても、一般に因果の規則を説き、しかもこれをもって論理の原則、実験の基礎と定めておくが、ただその仏教と異なる点は、今日のいわゆる科学にては主として物理的因果をとり、仏教の方にては主として精神的因果を説くに帰す。語を換えていえば、一方は客観的因果論にして、他方は主観的因果論なるの相違がある。そのわけをこれより次第に説明しようと思う。

 仏教にてはあるいは因縁と説き、あるいは縁起という。因縁の因は親因にして、親しく果を生ずる方をいい、縁は助縁にして、親因を助けて果を生ぜしむる方をいうのである。たとえば草木の種子は因にして、雨露日光は縁というの類いである。この因と縁とによりて果を生起するに至るを縁起という。その因にも縁にも果にも数様の分類あれども、あまり錯雑に過ぎて、解し難き恐れあれば略することにする。かくのごとく小乗にて種々の因果を説くも、いずれも物理的にあらずして精神的である、客観的にあらずして主観的である。これによりて小乗は物心二元論でありながら、その根底に主観論を有することが知れる。

       第一九節 主観的因果

 因果の説明はここにとどめて更に前に戻り、成劫が空劫に変じ、空劫が成劫に移るは、全くこの主観的因果の作用なることを述べなければならぬ。すでに大火の熱力により、世界の形体を破壊し終わりて空となりたるときに、再び空中に風を生じて、熱力が運動に変ずるに至りたるは、有情の業力のしからしむるところと説いておる。有情とは心あり情あるものの総称にして、その業力とは有情の意なり口なりに発したる精神的諸因が、その果を引き起こすに至れる力のことである。この力によりて世界を生起すと立つる説を名付けて業感縁起説という。小乗はすなわち業感縁起説である。すでに小乗において業感縁起を立つる以上は、たとえ心界の外に物界の実在を許すにもせよ、その二元論中に主観的一元論、すなわち唯心論を胚胎しておることは明らかに知られるであろう。

 ひとり空中に風を生ずるのみが有情の業力なるにあらず、世界の成住壊空の変遷より人獣の生老病死に至るまで、みな業力所感、因縁所熟にあらざるはなく、天地万物一切の変化、ことごとく主観的因果の作用より起こるというのが、小乗大乗相通じて仏教の所立である。ただ小乗にては業感縁起を説くも、いまだその因果の作用のいずれより生じきたるかの本源を示さぬ。しかるに大乗にてはその本源を明示するの別がある。畢竟するに仏教は婆羅門教やヤソ教において造物主宰の梵王や天帝を立つる代わりに、因果をもって一切の変化を説明したるものなれば、因果の作用が天地を創造し、因果の理法が万物を主宰することになる。これすなわち仏教が天地万物を創造主宰する原因を、宇宙の外に立てずして、世界の内に立つる万有即神論といわるるわけである。

 かくのごとき偉大なる勢力を有する因果の作用なれば、一般の科学にて説くところの因果とはただに主観的客観的の異同あるのみならず、具体的抽象的の相違あり、活動的静止的の不同あることが分かる。換言すれば仏教の因果は認識上の規範というよりも、むしろ宇宙の精神的大勢力と解してよろしい。それ故に仏書中にはあるいは業力と説き、あるいは因力または因縁力と説いておる。吾人の一生一死、一苦一楽はもちろん、毎日の一挙一動に至るまで、この因力の作用によらざるはない。故に仏教の世界観には因果が実にその中心となることを知らなければならぬ。もし仏教中より因果を除き去らば、あたかもヤソ教中よりゴッドの意志を除き去ると同じく、また仏教にあらざるに至るに相違ない。

       第二〇節 小乗の涅槃界

 上来述べたるところによりて、小乗の人身観は我空に帰し、世界観は法有に帰することを知り、あわせてその哲学上の所立は物心二元論にして、しかも多元の実在を説くをもって、多元的二元論なることを明示し得たりと思う。またかかる結論に達したる証明の過程は、分析的方法なることも分かったであろう。これらの点はたしかに婆羅門教より数等向上したるものなることは明らかである。同教が神話古伝を妄信するに反して、小乗は哲学的論究により、また同教が常識的なるに反して、小乗は分析的方法を用い、また同教が客観的なるに反して、小乗は一半主観論を交え、また同教が実我説を唱うるに反して、小乗は我空説をとりたるがごときは、二教の大いなる相違である。これに加うるに婆羅門教の造物主宰の梵王の代わりに、因果の理法を用いたるがごときは、論理上の大進歩といわねばならぬ。

 しかりしこうしてこの人身観も世界観も、二元論も因果説も、みな現象界相対界の沙汰にして、絶対界の説明にあらず。故に更に小乗における絶対界の観察を述べなければならぬ。仏教の用語にて相対界を万法界または事界といい、絶対界を真如界、涅槃界または理界というから、この術語によりて表示すれば左のごとくとなる。

  第9図表

       宇宙 事界(人界、天界等) 色法(物界)

                     心法(心界)

          理界・・涅槃界

 すなわち小乗の哲学門においては、事界の上に物心二元を立てたる外に真如涅槃の理界あるを説き、更にその宗教門にありては、吾人の目的は万法の事界を脱して、涅槃界に入るにありと説いておる。これまた小乗が婆羅門教の上に高く頭角を抜きたる点にして、同教の諸天界を事界の中に摂入し、更にその外に涅槃界あることを開示し、この涅槃界ひとり不生不滅の境涯なることを証立するに至ったのが小乗の達観である。

 涅槃界は不生不滅の世界なるが故に、さきに述べたる万法の分類に照合すれば無為法中に入ることとなる。今ここに涅槃の状態いかんを考うるに、小乗にて立つるところはただ生滅せざる境涯というまでにして、別に実体あるにあらず、また活動を有するにもあらず。畢竟するに消極的にして積極的にあらず、無意識的にして意識的にあらず、暗黒的にして光明的にあらざる真に空寂虚無の涅槃である。これ小乗がそのみるところなお卑しくかつ浅く、大乗と雲泥の相違あるゆえんにして、古来大乗より仏教内の外道と擯斥せられしも無理ならぬことと思わる。その次第はつぎに述ぶるつもりである。

       第二一節 小乗的涅槃の真相

 小乗の教うるところによれば、吾人がこの有為の世界、すなわち万法の事界を離れて涅槃界に入るときは、灰身滅智あるいは身心都滅と説き、吾人の死すると同時に身はもとより灰となりて滅し、心もまた滅して空々寂々に帰し去り、あたかも灯の滅するがごとく、智慧の灯も意識の光明も共に滅して、無知覚、無精神の暗黒状態に帰し終わると説いておる。故に涅槃界は苦もなく楽もなく、苦楽の感覚の滅無したる境涯であると考えねばならぬ。何故に人はかかる世界に至ることを願うか、むしろ人間界の感覚あり意識ある境涯こそ望ましいではないかと。なんびとも怪しみかつ疑うであろう。その疑いを解くにはインド人の宗教信仰の状態を説かねばならぬ。

 インド人の宗教を信ずる本心を考うるに、人間界は患難苦痛多ければ、一日も早くこの苦界を去りて、不苦の境涯に至りたいとの一念より起こっておる。婆羅門教には天界に昇進することを勧むるも、人界の苦を逃れしめんとするに外ならぬのである。インドの宗教が一体に厭世風を帯びておるのは、その国民が一般に厭世的なるによる。よって仏教において彼らを導くにも、もっぱら人界の諸苦を脱離することを説いたものである。なかんずく小乗はインド人の気風に適合するように釈迦仏が工夫して説かれた方便教であるから、徹頭徹尾厭世である。大乗の真意は楽天教なれども、なお厭世の語気を帯びておるのも、その本はインド人に対して説かれた故であろう。とにかく厭世はインド人の特性とみてよろしい。

 さて仏教において人界の諸苦は帰するところ生滅無常なるによるとなし、涅槃界ひとり生滅なきゆえんを示し、また諸苦を感ずるは吾人に感覚意識の存するによるをみて、涅槃界は不生不滅なるのみならず、感覚意識の滅無なる境涯にして、すこしも苦を感ずることなしと教えたものである。つまり真の楽は苦のなきところに存し、その苦をなくするには生滅なきところに至らねばならぬということから、小乗の涅槃説が起こったものである。もし吾人にいやしくも生ずるということがあらば、必ず死するということが起こる。もし死のなきようにしたいと思わば、生のなき状態に帰せねばならぬ道理である。また苦を感ずるは感覚意識の存する故であるから、その苦をなくするには無意識、無感覚の境涯に入らなければならぬわけである。故に小乗の涅槃は消極的にして無精神的となるに至った。人もし死してかかる涅槃に帰するというときは、唯物論者の死の説明と同一なるように思わるるも、唯物論とは大いなる相違がある。そのわけも一言しておきたいと思う。

       第二二節 輪廻説およびその帰結

 唯物論者はすべての人が死するときに精神意識は絶滅すと説くけれども、小乗にては吾人がひとたび死しても、己の修めたる因に応じて必ず再生するに至ると説き、死しては生まれ、生まれては死し、また死しては生まれ、幾回となく生死を反覆して窮まりなきものという。あたかも前に述べたる世界の生滅を反覆して、循環相続すると同様である。すでに人生は苦なり、生存そのものが苦なりとするときは、生死を反覆継続する間は永く苦境に呻吟するわけに当たる。故にもしその苦を離れんとするには、死後再生せざる道を求めねばならぬ。その生死を反覆することを輪廻といい、吾人が輪廻するのは輪廻すべき悪因を修むるによるというから、かかる悪因を修めずして別に向上の善因を修め、もって吾人の心中に相続する輪廻の縄を断ち切るに至らば、始めて不生不滅の涅槃界に入るを得という説である。

 かかる説き方はインド人のごとき厭世を特性とするものには有力なるべきも、人生を楽観して空寂涅槃を好まぬものに対しては、なんらの功能のないことは明らかである。小乗の所説の日本に行われぬ理由もこれによりておのずから分かる。しかるに大乗に至りてはその涅槃は積極的活動的、光明的歓楽的なるのみならず、事界と理界とを一致せしめ、此土、此身、此生において涅槃常楽の境涯を実現せんことを期するほどであるから、小乗の所立とは氷炭相いれざるの相違がある。その説明はのちに大乗を述ぶるときに譲ることにしよう。

 上述のごとく小乗にては物心二元の外に涅槃の絶対界あることを示せるも、消極暗黒の空寂界なれば、万法界を否定したるまでのものとみなければならぬ。これを図をもって示さば第10図表のごとくとなる。小乗においてかかる暗黒界を立つるに至りたるは、全く客観の方面より絶対を観察したる故である。その説くところが唯物論に似たる点あるもこの観察による。しかして小乗が大乗に比して客観の方に重きを置く風あるは、婆羅門教の影響とみてよろしい。さきにも述べしがごとく、釈迦仏が小乗の説法においては、婆羅門信者の注意を引くために随機開導の方便を用いられたるものなれば、仏教の涅槃を開示するに婆羅門の客観的見解を用いられしは明らかである。もしこれに反し主観の方面より絶対を観察しきたらば、必ずたちどころに大乗の所説に論到するに相違ない。

 これを要するに小乗は婆羅門教と大乗との中間に位し、両者の橋梁となり階段となるものである。すなわち婆羅門が向上すれば小乗となり、小乗が向上すれば大乗となるわけである。故に小乗中には婆羅門の教理を帯ぶると同時に、大乗の教理をも含んでおる。たとえば主観論のごとき唯心論のごときは大乗の特色とするところなるも、小乗の二元論中の各所にその理を胚胎せるをみて、小乗と大乗との親密なる関係が分かる。すでに小乗の教理につきては、その標本たる有部宗に属する倶舎宗に基づきて大要だけを述べ終わった。もとよりその所説はインド古代における原始仏教に比するに多少の相違あるを免れ難きも、これ全く仏教がシナに入りて発達したるゆえんでありて、余はその発達したる仏教につき、しかもわが日本に流伝せる教説につきて述べたるのである。しかしその根底における原理のごときは、決して原始仏教と今日現存せる仏教との間に二途あるわけではない。

 

     第五講 権大乗哲学門(一)

       第二三節 小乗大乗の異同

 婆羅門教と仏教との相違は種々あるうち、前講にも述べたるがごとく、客観論と主観論とをもって区別することができる。しかして小乗は半分客観論、半分主観論にして双方にまたがり、物心二元論に属するも、ひとり大乗は純然たる主観論である。そのうち権大乗は唯心論、実大乗は理想論である。換言すれば権大乗は相対的唯心論、実大乗は絶対的唯心論である。もし仏教の用語をもっていえば、権大乗は唯識論、実大乗は唯心論となる。すなわち、相対的心を識といい、絶対的心を一心といいて、二者を区別しておる。その表は第11図表のとおりである。

  第11図表

    インド宗教 婆羅門教(客観論)

          仏教 小乗(客観兼主観論すなわち物心二元論)

             大乗(主観論) 権大乗(相対的唯心論すなわち唯識論)

                     実大乗(絶対的唯心論すなわち唯心論)

 大体においてはこの図表のごとき相違あるも、すでに仏教の特色は主観論唯心論にあるをもって、小乗中に主観論を胚胎せることは前講において略示せしも、更にここにその内容を証明すれば、第一に小乗にて物質を分析して、色声香味触の五境となせるがごときは、物質をもって主観的作用、すなわち感覚作用に属することを示すものである。第二に物質的極微分子は地水火風の四大より造成せられたりとし、その四大は堅湿暖動の四性に外ならずとするが、もしその四性はなにによりて生ずるかを考えきたらば、必ず吾人の感覚より生ずと論断せざるを得ざるに至るであろう。第三に世界の空劫より成劫に移りて再び形象を現出するは、精神的業力の所感なりと立つるがごときは、純然たる主観論である。その他、吾人の生老病死よりすべての変遷移動を精神的因果の作用に帰するがごときは、主観論の所見なること明らかである。それ故に小乗も大乗のごとく主観論を基礎とすと断言して差し支えない。ただ小乗は内面に主観論を包有し、大乗は内外両面にわたりて主観論を表顕するの相違あるのみである。

       第二四節 権大乗の所立

 大乗中権大乗の哲理を述ぶるにも、宗派の別に従って多少意見を異にするところあれば、あらかじめその標準とする宗旨を定めおかねばならぬ。さきに小乗の標準として倶舎宗をとりたるがごとく、権大乗の標本として法相宗をとるのが古来のきまりである。故に余もそのきまりに従って述ぶることにする。まず法相宗は一名唯識宗と唱えて、万法唯識を立つる宗旨である。天地万象一切の事物ことごとくみな吾人の精神より開現するという意味にて、西洋のいわゆる唯心論である。その教理は釈迦仏の説かれたる経文に基づきて起こりたるに相違なけれども、その経説に更に系統を立てて哲学的に論述したるものの中に、『唯識』と名付くる書物がある。この書は初めインドにて作られ、後にシナに伝わり、その訳書が今日まで残っておる。その中に万法唯識の道理を説明してあるから、実に法相宗の本拠となっておる。余の述ぶるところもこの書によることを断わりおかねばならぬ。

 さて権大乗も小乗のごとく人身観、世界観を分析的に論究したるものにして、あるいは色受等の五蘊に分かち、あるいは有為無為の諸法に分かつ等は小乗と異なることはない。またその有為法に色法心法を分かち、その心法に心王心所(臣属)を分かつ等は二者同一である。ただ小乗が七五種の法体を立てたるに反し、権大乗は有為法に九四法を設け、無為法に六法をおき、都合百法とするところだけは双方違っておる。つまり小乗より二五法だけ多くなっておるわけだ。そのいちいちにつきて説明することは、やや専門の講義にわたるをもってここに省略しておく。

 小乗の人身観にては色受想行識の五蘊、すなわち五種の元素が積集して人身を合成せるものにして、これを解散すればわれというべき我なく、すなわち我空なりと説きたると同じく、権大乗も無我論を立証し、吾人には実我なくして、ただ五蘊の和合して、仮に我を現ずるのみであるという。この点は二者全く同一である。つぎに世界観につきて小乗にては法体恒有と説き、七十余法の本体は実有であると結びたるに反し、権大乗にてはひとり実我なきのみならず、一切の有為の諸法はその体みな空にして、実我および実法なく、ただ仮我仮法あるのみと断定しておる。この点が小乗と権大乗との第一の相違である。その関係は左の表に照らせばよく分かる。

  第12図表

       仏教宇宙観 小乗所立 人身観・・我空説

                  世界観・・法有説

             権大乗所立 人身観・・我空説

                   世界観・・法空説

       第二五節 心王の八種

 権大乗において小乗所立の諸法の本体は空にして、有にあらずというゆえんは、物心二元を心の一元に帰し、外界の諸象は精神の作用によりて現出し、この心を離れて別に外界の実在せるにあらず、すなわち心の外に物なしといえる唯心論をとるためである。これを万法唯識または三界唯識と唱えて、欲界、色界、無色界のごときあらゆる世界は、吾人各自の識心中より開現したるものにして、これを開現する原因は本来吾人の識心中に固有せられておるとの説である。よって有為法中の心法の分析法が小乗と異なりて、小乗にて六識と分かちたるを更に二識を加えて八識としておく。その八識とは眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識と末那識と阿頼耶識との八種である。

 眼耳鼻舌身意の六識は小乗の方にてすでに述べおきたるものと別に違うことはないが、末那識と阿頼那識とは権大乗特有の説であるから、ここに解釈を与えなければならぬ。末那とは梵語のままを伝えたるものにして、思量の義である。故にこれを思量識と申しておるも、第六意識の作用とは同一でない。すなわちこの世界には実我実法なきにもかかわらず、実我あり実法ありと思量するを末那識の作用に帰し、すべて吾人の起こす妄想妄念の本元はこの識の作用より生ずるものとしてある。

 つぎに阿頼耶識はやはり梵語にて、その訳語は蔵識と定めてある。蔵とは包蔵収蔵の義にして、その識中に一切の諸象諸法を開現する種子を包有収蔵しておるというところより蔵識の名を得たる次第だ。故にこの識は心王中の王、諸識中の真の根本識である。権大乗はこの根本識を立つるをもって、「三界はただ識のみにして、識の外に法なし。」(三界唯識、識外無法)と論結し、純然たる唯識論となるに至った。これを要するに有為法の九四種は心王の八識の中におさまり、心王の八識は第八阿頼耶識の中におさまることになる。しかるに小乗にて六識までを説きて、第七識、第八識に論到せざるは、客観的見解をもって物心万境を観察せる故である。換言すれば表面を見て裏面を見ざる故である。これに反して権大乗は物心二元の中、ことに心元の深底に入りて観察し、ついに唯心論を結ぶに至った。これによりて二者の見解上、深浅高下の相違あることが明らかに分かる。

       第二六節 八識の関係

 心王の八識中前六識と第七、第八両識の関係を考うるに、前五識は五種の感覚にして、ただちに外界に接触して起こる作用である。第六意識は感覚に連続して起こるときと単独に起こるときとの二様あるが、すべて想像したり推理したりする思想作用なることは小乗の下に述べたるとおりである。この六識が認知する対境、すなわち外界の物象は六識各自より現出するものなれども、その物象の実体すなわち本質は第八阿頼耶識の自体より開現せる対境対象に外ならざるものである。この識体を離れて本質の実在せるわけではない。換言すれば阿頼耶識ここに存すれば常に必ず吾人の認識すべき対境を開現するに至り、その対境を前六識がおのおのその力に応じて感知し識別して、あるいは色となりあるいは声となり、種々の相状を現ずるに至るのである。たとえば吾人が目を開けばたちまち物象が現前するに、その色や形を認めて必ず物体が心の外に実在すと思うも、その形色の実相たる本質なるものは、全く阿頼耶識中より開現せる対象でありとするのが権大乗唯識論の立て方である。

 唯識論によるに阿頼耶識の体内には有為の諸法、すなわち物心万象を開現すべき種子を包蔵しておる。故にその識を蔵識と名付けておく。この種子が機に応じ折に触れて、諸象諸法を生起するに至る。すなわちその体内に色法(物質)の種子も心法の種子も持続してありて、色法の種子より色法を開現し、心法の種子より心法を生起し、各自の種子より各自の果相を現起するに至ると説く。これを頼耶縁起説と名付けておる。すなわち阿頼耶識の包蔵せる万法の種子が、因に応じ縁に従って生起するの意味である。婆羅門教にて世界は梵王によりて造出せられたりという説に反対し、仏教にては他より造出せられたる世界にあらずして、世界自体より生起開現したるものなりと説くにつきて、小乗は業感縁起説をとり、権大乗は頼耶縁起説をとりたるわけである。しかして頼耶縁起は業感縁起より更に向上して業感の起こる根本に達したるものとみてよろしい。

 つぎに末那識は前六識と第八識の間に位し、吾人が我体なきに実我ありと思い、法体なきに実法ありと考うるより、種々の迷執を起こすに至るまでを説明せんと欲して設けたる識体である。この点は仏教が哲学としてよりも、むしろ宗教として最も必要なる条件であると思う。元来宇宙の真相には実我実法なきに、吾人は何故にかかる邪執を起こすかというに対し、これを末那識の作用とする。すなわち末那識が阿頼耶識の作用を見て妄分別を起こし、邪思量をなすによると説いておる。そのわけはなおつぎに述ぶるつもりである。

       第二七節 相分見分、種子現行の解釈

 権大乗の唯識論を述べて八識の関係を明らかにするには、仏教特有の用語の二、三を解説しなければならぬ。まず相分、見分という名目は八識の作用を説明するに常に用いられておるが、相分とは吾人の心に対する外界の相状を指す語にして、いわゆる対境または対象の意である。この対象は心の外に別立するにあらずして、心より現起するものなることは、鏡の上に影像を現ずると同様である。心をもって鏡面に比し、影像をもって相分に比して考うればそのわけが分かる。よって相分は心を離れて存するにあらざれども、吾人の心が働くときに、必ず認知する作用と、認知せらるる対象とが分かれてくる。その対象の方を相分と申すのである。しかしてこれを認知する作用の方を見分という。見とは見照の義と解して、認識覚知するの意である。たとえば鏡の影像を相分とすれば、鏡面にその影像を浮かべる能力があるごとく、心が対象を現ずるにはこれを見照する能力があるに相違ない。その能力の方を見分というのである。すなわち見分と相分とは主客自他の相違あるがごときも、八識各自の体より見相二分を生ずと説ききたりて、二者共に心の作用なりとするのが唯識論の所立である。

 この見分相分は八識各自に有する作用なれども、もし第八阿頼耶識につきていうときは、前六識は阿頼耶識の相分を縁じ、第七末那識は阿頼耶識の見分を縁ずと説いておる。かかる場合の縁ずるという語は認識するの義を含む。換言すれば眼識耳識等によりて認むるところの外境は、阿頼耶識より現ずる対境、すなわち相分である。その相分を眼識が認むるときは形色となり、耳識が感ずるときは音響となるのである。また末那識は阿頼耶識の認識作用すなわち見分を認めて実我実法ありとの妄執を起こすのであると説ききたりて、結帰するところ八識の起こる本は阿頼耶識であるということになる。

 つぎに種子と現行という名目につきても一言しておきたいと思う。前にも述べしがごとく有為の諸法、すなわち物心万象の生起するは、阿頼耶識中に各種の種子を固有するによる。あたかも倉庫の内に諸穀の種子を収蔵し置くと同じく、その種子が生起すべき縁にあえば、各種の種子より各種の果を生じて世界を現ずること、あたかも水土の縁によりて麦の種子より麦を生じ、豆の種子より豆を生ずるがごとしという。その果を現ずる方を現行と名付けておく。しかして一切の種子は阿頼耶識の体内にありて、本来自存せるものなれども、そのいまだ現行せざるに当たりては潜伏して存しておる。これを本有種子という。本有とは本来固有の義である。しかるに本有種子がひとたび他識の上に現行すれば、その現行の果が更に新種子となりて、これを阿頼耶識の体内に移植するという。かく移植することを熏習と名付け、その新種子を新熏種子と名付けておる。この関係は倉庫より取り出したる五穀の種子が成熟し、その果が更に新種子となりて倉庫中に収め込めらるると同一である。そのことを種子より現行を生じ、現行より種子を熏ずと説いておる。

       第二八節 内外両界の関係

 眼耳鼻舌身の五識はみな外界に対して起こるも、第六識は外界に対して起こることと、内界のみにて起こることとがある。前者を外門転といい、後者を内門転という。たとえば外物を対観して、思慮を起こすときのごときは外門転なれども、外物に接触せずして、心内に起想するときのごときは内門転である。故に第六意識は内外両作用を兼有しておる。これに反して前五識はことごとく外門転にして、第七末那識は全く内門転である。すなわち末那識は心内のみにて起こす作用である。しかるに吾人が外界に対して我法二執を起こすことあるは、第七識にあらずして第六識の外門転なるも、そのよって起こる本源は第七識の内門転としなければならぬ。しかしてこれらを総括して八識の根基とすべきものは、もとより阿頼耶識なることは前にしばしば述べたるところである。

 前五識はときどきその作用の中止することがある。たとえば睡眠中の場合のごときは五官が休んでおるのである。しかるに第六意識は睡眠中もなお働いておる。すなわち夢の場合をみればそのわけが分かる。もし熟睡して夢なき場合には意識も休止してしまうけれども、第七末那識と第八阿頼耶識とは決して休止せず、間断なく相続しておる。たとえ吾人が死したるときに前六識は全く休止しても、この二識は変現しつつ相続するという。言い換うれば寤むるときも寐ぬるときも、生まるるときも死するときも、この二識は相互に寄り合うて変現相続すると説いておる。

 かくして外界の対象は八種の識心の作用によりて変現するが、その識心は吾人各自の有するところにして、甲の心面には甲の世界を現じ、乙の心面には乙の世界を現じ、一〇人には一〇人の世界、一〇〇人には一〇〇人の世界を開現するのであるから、権大乗の唯心論は人々おのおのの唯心ということになる。しかるに各人が同一の世界を見、山でも川でも草木でも同一の相状すなわち相分を現前するはいかにというに、各人の唯心中に共通せる点と共通せざる点との二とおりがある故という。これを共変、不共変と名付けておく。共変とは各人の間に共同せる種子を有し、各人一致して変現する場合にして、不共変とはしからざるをいうのである。吾人のごとき人間の仲間にては共変多くして、大抵一致して世界を認めておるも、そのうちまた各自にいくぶんの一致せざる点がある。もし禽獣魚虫に至らば、彼らの世界と認めておるところは人間と大層相違せることは明らかである。その理を推して考うるときは、外界は全くわが心より生じ、有為の諸法はみな各自の識心によりて変現することが分かるとは、権大乗にて主唱するところである。

 

     第六講 権大乗哲学門(二)

       第二九節 感覚的唯心論

 小乗より一歩を進めて権大乗に入れば、物心二元論が唯心一元論となるに至りしことは前講に述べたるところなるが、更にこれを小乗の五識五根五境の分析表に対照して、一層その関係を明らかにしたいと思う。まず第13図表をもって物心両界を示すものとするに、これを小乗にては第14図表のごとく分類しておる。

 その他、意識の対境を法境と名付けて、七十五法中の色法を除き、その他は大抵この中に摂することになりおるも、今は略して五境のみを挙ぐることにした。もしこれを権大乗に移して表示すれば、第15図表のごとくとなる。

 この両図の相違は小乗よりも権大乗が心の深底を開きて、その本源を明示せりということに帰する。しかして外界は色声香味触の五境に外ならぬことは双方一致するところである。すでに外界は五境より成るとするときは、一切の物質みな心の所現なること問わずして知ることができる。たとえば色境はなにによりて生ずるか、眼識によりて生ず。声境はなにによりて生ずるか、耳識によりて生ず。香味触もまたしかりである。しかしてこの五境を除き去らば、物質は全く消滅してしまう。故に物質そのものは感覚によりて生ずるに相違ない。その感覚はすなわち精神作用なりとすれば、物すなわち心にして、心を離れて外界の存せざること明らかである。よって権大乗は小乗の裏面に含有せる分析的唯心論を表面に開示したるものなることが知れる。すなわちその唯心論は感覚的である。換言すれば感覚の方面より分析的に証立せる唯心論である。

 しかるにここに更に一問ありて起こるであろう。物質の表現たる色声香味触は感覚に属するに相違なきも、吾人の感覚をしてこの五境を生ぜしむる本質は、必ず心の外に存在せねばならぬ。あたかも鏡面に影像ある以上は、その実体が必ず鏡面の外に存すると同一の理である。この疑問に対しては小乗の心理の分析にては説明ができぬけれども、権大乗は前講所述のごとく第八阿頼耶識を立てて、物質の本質はこの識より現立する対境、すなわち相分として説明しておる。本来外界を開現すべき種子がその識の胎内に潜在し、その種子が縁に応じて開現するときに、その相分が対境の本質となり、その本質を眼識が感ずれば色境となり、耳識が認むれば声境となりて、万象万境を実現するに至るとの説である。この説は感覚的唯心論に一歩を進めたる点であろうと思う。

       第三〇節 相対的唯心論および因果説

 外界を感覚に帰して唯心論を証立するときは、人々おのおのの唯心論となる。すなわち、われはわれの感覚の上に世界を現じ、彼は彼の感覚の上に世界を現じ、十人十色の世界ができるわけだ。これと同じく阿頼耶識の種子の開発をもって説明するも、その識は各自が固有せるものなれば、甲乙丙丁みなおのおの別の世界を現見することになる。かくのごとく立論するを個人的唯心論、もしくは相対的唯心論と申し、唯心論中の程度の低きものである。その意は個人的相対差別の心の上にて世界を説きて、いまだ世界万法、物心諸象を唯一無限たる大心海の上に建設せる絶対的唯心論に達しない。これ権大乗が実大乗に数歩を譲るものとみなければならぬ。

 かくして婆羅門教の造物主宰説の代わりに、いわゆる頼耶縁起を説きて、一切万法は阿頼耶識の種子より開現すとなし、梵王が世を造出するにあらずして、吾人の心が世界を現出するのであると結論するに至った。しかしてその種子の開現するに要するところの事情は因果の作用なることむろんである。けだし因果の理法だけは小乗大乗を一貫する大理脈であって、その哲学門にても宗教門にても、この理法に基づきて説明せざるものは一つもない。まずその分類をみるに、小乗は因に六種、果に五種を設けたるに対し、大乗は因に一〇種、果に五種を分かち、また縁に四種を分かち、因縁和合して果を生ずるゆえんを示しておるも、いちいちその名目を解説することは略しておく。これらの因果は申すまでもなくみな精神的因果、主観的因果である。

 頼耶縁起説にては阿頼耶識は体にして、因果は用である。この体と用とによりて世界を造出し、万物を開現するとの見方である。しかしてその因果のよりて起こる本源を探るに、つまり無始である。前講所述のごとく阿頼耶識中の種子が因となりて、七識の現行の果を生じ、七識の現行が更に因となりて、阿頼耶識の方に種子を熏殖す。これすなわち果である。その果がまた因となりて現行す。いわゆる種子より現行を生じ、現行より種子を熏じ、因と果と交代相続して際涯なき有様である。ただし種子に本有、新熏の二種を分かち、本有、種子は無始以来阿頼耶識中に固有せるものと定めてあれども、その種子が現行して新熏種子を生ずるに至りしはいずれの時に始まりしか、これまた無始であろう。果たしてしかりとすれば因果の開端を見出すことができぬ。けだし因果の作用は無始以来、阿頼耶識の中に相続して伝わり、吾人をして幾回となく生死を反覆せしむるに至るという説に帰することになる。

       第三一節 無為法の真如

 上来は有為法のみの説明でありて、いまだ無為法に論じ及ばぬから、これより更に進んで阿頼耶識の本体を究めねばならぬ。すでに世界は各人の阿頼耶識中より開現するというときは、なんびとも必ずその識体はいずれより生じきたるかとの問いを起こすに相違ない。しかるに仏教諸宗、なかんずく大乗は真如涅槃をもって宇宙の本体と立ててあるから、阿頼耶識の本体とするところは真如なることむろんである。この真如の名目は権大乗世界観の無為法中に掲げてあるが、無為法の一種は真如にして、他の五種は真如の状態を分説したるに過ぎぬこととなる。そのわけは真如の体なるや幽玄絶妙にして、到底言語思慮の及ぶところでない。よってその真相を表示するに、種々の方面より説かねばならぬ。故に五種の名目はつまり一真如の形容に外ならぬと申しておる(その名目は略す)。

 真如は不生不滅、常住実在の体なれば、一切万法の本礎にして、阿頼耶識のよって立つところの根基である。故に阿頼耶識の相対なるに反して絶対である。しかるに権大乗にては真如は常住実在せるのみにて、自ら世界を開現するにあらずという。これを真如は凝然として諸法を作らずと申しておる。凝然は動かざる意であろう。故に権大乗の真如は静定的真如にして、活動的真如でない。しかして世界を開現するものは真如の体上に依止せる阿頼耶識の作用に帰しておく。よって権大乗は頼耶縁起を説いて、真如縁起を談ぜずといわれておる。もし一歩を進めて真如自体が動きて、ただちに世界を開発する真如縁起を談ずるに至らば実大乗となる。

 権大乗にてはこの真如と万法とを対照して、妄有、仮有、真有と説くことがある。吾人は目前の世界を見て真に実在せりと思い、実我実法ありと信ずるも、これ全く妄見迷執より起こりたるものなれば、これを指して妄有といい、その本体もその作用も共に虚無なりと定む。そのことを遍計所執と名付けておくが、その意は妄情迷見をもってあまねく諸法を計度分別し、我執法執を起こすに至るをいうのである。しかし自他の因縁によりて外界万法を生起せし点よりみるときは、これを仮有と名付け、たとえ実我実法なきも、仮我仮法は存することになる。しかしてすべて因縁によって生起するものは、たとえ間断なく相続するも生死無常である。生々滅々、反覆流転窮まりなきものであるから、真有とはいわれぬ。この方を依他起と名付けておく。すなわち他の因縁によりて生起するの意味である。しかしてひとり真有なるものは、本来常住不変の真如のみであるという。これを円成実と呼ぶ。そのわけは、真如の本性の円満成就真実なるを示したる語と申しておる。再言すれば遍計所執性は妄有、依他起性は仮有、円成実性は真有であるとするのが、権大乗の所立である。これを遍依円三性と名付けておる。

       第三二節 妄仮真有の関係

 古来真如と万法との実在に関する妄有、仮有、真有をたとうるに、蛇と縄と麻との三者をもって説明しておる。ここに人あり、暗夜に道を歩し、その傍らに一条の縄あるを見て、蛇の横たわれるものと思う場合ありと仮定するに、これは妄執によりて実我実法ありと信ずると同じく、妄有といわなければならぬ。しかるによく思惟してみれば、全く無ではない。その蛇と認めたるものは縄であったことを知る。これ因縁によりて仮我仮法を生起せると同じく仮有である。これを仮有とするは縄そのものは本来縄にあらざるも、麻を結びて仮にその形を現じたること事実なるによる。しかしてその体、真に麻なりと知れば、麻そのものこそ真有である。この関係を説くに種々の名目あれども、煩雑を避けんために除いておく。

 更に真如と八識との上に当てはめて妄仮真の三者を開説するに、外界の諸法は識心を離れて実在せるにあらざるに、吾人は心外に世界ありと思うは妄有である。しかし真如の本体に依止したる阿頼耶識中より随縁生起せること事実なれば、有為の諸法はたとえその実体なきも、仮有なること明らかである。しかしてこの諸法(阿頼耶識も含む)は生滅流転せるものなれば真有といい難い、ただ真如のみ不生不滅なれば、真有なりというのである。

 この理を推して考うるときはここに中道の理を生ずることになる。中道とは有にあらず空にあらざる義にして、有と空との中をとるをいう。ただ今述べたるごとく実我実法は空にして有にあらず、されどまた全く無なるにあらず。もし仮我仮法ありとするときは空ともいい難い。心外に実体あるにあらざる点は非有なれども、因縁によりて生起する方にては非空である。かくのごとく非有にして非空なる、これを中道というのである。故に妄仮真の三有を対望するときは、非有非空中道の理に達するに至る。もし活眼をもって観察しきたらば、一物一法の中にみなことごとく非有非空の中道の理を具することを知るに至ると説いておる。この中道の理は実に大乗独得の妙理である。

 

     第七講 権大乗哲学門(三)

       第三三節 小乗の有空と大乗の中道

 小乗の原理は法体恒有にして、物心二元の本体の実有を説くも空を説かず。これ有に偏するものである。たとえ人身観において無我の空を説くも、その有空の間に中道の存するを知らぬ。ただ我空を説いただけが、婆羅門教より一歩を進めたるところである。しかるに大乗に入りては、一方に空を説きつつ他方に有を説き、心外の諸法に対しては有にあらずといいながら、心内の諸法につきては空にあらずといい、その実、非有非空の中道なりと論定せるは、その教理が小乗より高く秀出したるわけである。大乗にては権大乗、実大乗共にこの中を説くから、これもまた大小両乗の相違の一つとみてよろしい。

 大乗は真如の実在を認め、これを宇宙の本体と定め、その体と万法との関係につきて中道を立つるに至りしが、小乗にても涅槃と説き、涅槃はすなわち真如なれば、大乗と大差なきようにみゆるも、その実、大いに相違しておる。第一に小乗の涅槃は世界の生滅に対して、その反対の事情、すなわち不生不滅の状態を指したるまでにして、世界と涅槃とは全く関係を絶したる状態である。したがって涅槃をもって宇宙の本体というわけにはゆかぬ。かくのごとき涅槃を本として非有非空の中道を説けるはずもなく、また説いてもない。これがたしかに小乗のみるところの浅薄なる点なれば、大乗の擯斥を受くるも当然である。

 右のごとく小乗にては非有非空の中道を立てぬから、その説くところ厭世に傾き、悲観に流れ、人をして社会に対して勇進活動する元気を消失せしむるの恐れがある。これは小乗の大欠点たるに相違ない。西洋にては仏教を目してただちに厭世教とみなすのは、全く小乗のみを知りて、大乗を知らぬから起こるのである。しからば何故に中道を説かざるときは厭世となるかというに、大乗の中道にては吾人の現存せるこの世界(生滅界)と真如涅槃の不生滅界とを一致せしめ、この世界は空にして同時に有である、妄有のごとくにしてしかも仮有である、実有であると説き、この世界にある間はあくまで勇進活動すべきことを教うるも、小乗はその中道の説明なきために、有中に空あるを知らず、妄中に真あるを知らず、この世を苦界とみて、これを厭離する一方を説くために、人をして厭世悲観に陥らしむるは免れ難き勢いである。故に今日の活動社会に対しては、大乗の中道的世界観によらなければならぬ。

       第三四節 中道の妙理

 小乗は我空法有を説き、大乗は我空法空を説くことはさきに述明せしところなるが、ただ我法二空とのみ聞くときは、大乗は空の一法に偏する教のごとくに考うるも、中道の妙理を立つるに至りては、その空と説きたるは表面よりみたるまでにして、その裏面に有の存するのである。空中におのずから有を含んでおるのであるということが分かってくる。すでに大乗にては一物一法中にもみな中道の理を具すると説ききたる以上は、一滴の水の中にも一片の雲の中にも、非有非空の中道の理を具するわけである。故に経論中には一色一香として中道ならざるはなしとの語が繰り返されておる。しかしかかる中道の妙理は権大乗中に存するも、いまだ明瞭ならず、完全せざる点がある。よってその理を詳知するには必ず実大乗の説明を待たなければならぬ。

 小乗は我空法有説なりと述べしは、小乗諸宗中、倶舎宗の所談であるが、その諸宗中最も進みたる教理を有する成実宗にては、我空法空を説いておる。これは古来一分大乗と名付けてありて、小乗と大乗との中間にあるものとみるから、小乗の標本とは定め難い。かく進みたる成実宗にても中道の妙理は説いてない。したがってその空が空に偏したる空にして、空中に不空あるを認めておらない。故にその説くところは厭世に傾くを免れぬ。この点は成実のいまだ小乗の範囲を脱しないゆえんである。よって中道を立ててこの世界と真如界とを接合し、世間と出世間とを一致せしめ、厭世を変じて楽天に向かわしめたるは、実に大乗の特色にしてかつその長所である。

 権大乗、実大乗共に中道を立つるも、前者の後者に及ばざるわけは、権大乗は有為の諸法は阿頼耶識より生起することを説いて、その本体たる真如よりただちに開発することを説かぬ。したがって真如と万法とがなんとなく互いに隔たり互いに離れ、融通しておらぬ。この関係を事理隔歴と申しておる。かくのごとき事理隔歴して融通せざる間に立つるものなれば、権大乗の中道は真の中道と言い難い。つまり有空の関係を説くにも、融通自在のきかぬ中道となるから、中道の妙旨を極めたるものでないということになる。換言すれば実大乗に至っては万法すなわち真如、真如すなわち万法と説きて、その間に中道を立つるも、権大乗はいまだここに達しておらない。これ権大乗の実大乗に及ばぬところである。その詳しきことはのちに実大乗を講ずるときに述ぶるであろう。

       第三五節 三論宗と法相宗との関係

 以上述べきたりし権大乗は法相宗の教理を述べたのであるから、法相の哲学である。しかしこの宗が権大乗の標本となっておる故、その説をただちに権大乗と申してよろしいが、今一つここに三論宗という宗旨がある。その宗の立て方は実大乗に入れてみることもできるし、また権大乗として取り扱うこともできる。たとえこれを権大乗とするも、法相宗の所立とは大分違うておるところがある。よってここにその大意を述べておこうと思う。まず三論の由来を考うるに、むかしシナより日本に伝えきたりしも、今日は宗旨としては現存しておらぬ。ただ学問上にて兼修するまでである。その宗名を三論というのは、釈迦仏所説の経文をインドにて別に解説したる論書がたくさんあるが、その中にて『中論』『百論』『十二門論』の三部の論を本として建てたる宗旨なる故である。

 この宗の内容を述ぶる前に法相宗との関係を説きたいと思う。法相宗は頼耶縁起を立てて、心外の諸法を空なりと払い去りたるも、心そのものは空にあらざることに帰した。換言すれば三界唯識、識外無法と説きたるも、識心によりて万法を開現することだけは有としなければならぬことになった。もとより小乗の法有説に対して、一切有為の諸法は空なりと定めたるも、これは心外にありと思う妄執に対しての言に過ぎぬ。決して心まで空なりとするのでない。しかるに三論宗にては一切皆空を主眼として、法相宗に反対し、心外の諸法がひとり空なるのみならず、心内の諸法も各自の心そのものも空にして有にあらず。いやしくも有なりと執着する見をことごとく払い去ることを要旨としたる説き方である。この点において三論宗は法相宗よりも一歩その見識が進んでおると称せられておる。

 小乗は婆羅門教に対すれば我空を説くによりて空教であるも、法有を立つるために仏教中にては有宗といわれておる。これに対して権大乗法相宗は法空を説くから空宗となるも、三論宗よりみればその空はなお有にして、真の空でないことになる。しかして真の空を説くものはひとり三論宗である。前節に権大乗にて立つるところの中道は真の中道にあらざることを述べしが、三論宗よりみるときは、あらゆる有の見を払い尽くし、空の極まりたるのちに始めて真の中道の妙理を知るべきものとして、法相宗のごときはいまだ有の見を払い尽くせるものにあらざれば、真の中道に達し難しとし、あくまで有と執する思想を払い尽くし、その窮極する点に至りてとどまるのが三論宗の所見である。

       第三六節 三論宗の内容

 前述の次第なれば実大乗の地位にありて、有空と中道とを宗旨の上に配当するに、小乗は仏教中の有宗、権大乗は空宗、実大乗は中道宗ということになる。この配合の意は真の中道を説くものは権大乗にあらずして、実大

  第16図表

       仏教 小乗・・有宗

          権大乗・空宗

          実大乗・中道宗

乗のみとする見方である。もし権大乗中に三論宗を入るるときは、法相宗を空宗中の有門とし、三論宗を空宗中の空門として取り扱うことになる。すなわち左のとおりである。

  第17図表

       仏教 有宗・・・・小乗

          空宗 有門・法相宗

             空門・三論宗

          中道宗・・・実大乗

 これによって三論宗は空宗中の空門にして、空の最上至極せる宗旨となってくる。

 三論宗の教義は破邪顕正の二門をもって建て上げたるものにして、二者中もっぱら破邪を主とする立て方である。第一に仏教外の諸教の邪見を排し、第二に仏教内の諸宗を排し、小乗でも大乗でもいやしくも多少の有を執する見あらばみなこれを破し、ただに有見を破するのみならず、空を執するものあらば、またこれを破し、有でも空でもすべて心に執着するところの見はことごとくこれを排除し、破斥するをもって破邪の本意とするから、破邪すなわち顕正にして、破邪の外に別に顕正なしと説いておる。かく破邪一方をとるの旨趣はいかにというに、一切の邪見を破し尽くしたるところに真如の実相は求めずしておのずから顕現するとみる故である。

 右のごとき立て方であるから、有と説き空と説くもこれを破し、有にあらず空にあらずと論ずるもまたこれを破し、非有にあらず非空にあらずというも同じくまたこれを破し、非々有にあらず非々空にあらずとするも同断でありて、結局非に非を重ねて百非に至るも、なおこれを破し尽くすことになる。よって三論の宗意は不の一字におさまるといわれておる。その不とは否定をあらわす語にして、一切の諸見を否定することを指すのである。詳しくかぞえきたらば千万無量の不となるべきも、これを摂束して、不生、不滅、不断、不常、不一、不異、不去、不来の八不としてあるが、その意は生あり滅あり、ないし去あり来ありと執する諸見を破斥することを掲げて、他を略するのである。つまりこれらの論旨は三論宗の一見識あるところにして、宇宙の本体たる真如の理は相対を超絶せる絶対なれば、言語思慮をもって説くことも考うることもできず、真に言亡慮絶、不可思議の妙境なることを示さんとするためである。とにかく他の宗旨は本来不可思議なる真如を言語をもって示し、思慮をもってあらわさんとするに対し、真如の絶対たる真相を知らしむる点において、一機軸を出だしたる説である。

 かくのごとく説ききたるときには、必ず仏教の教理を建設する柱ともいうべき因果の理法も破し尽くすことになるであろうとの問いが起こってくる。その問いに対しては真俗二諦を立てて説明しておる。ここに真諦とは真如の方面を本として説く見方でありて、俗諦とは万法の方面に寄りて見る方である。しかして真諦の所説にては一切を破し尽くし空じ終わるから、因もなく果もなきことになる。元来因果は相対性のものなれば、絶対の真境に達すれば空となるべきである。しかるに俗諦の方にきたれば、その一切皆空の真如の上に万法の歴然として存することを説き、因果の理法も厳然として行わるることになる。故に三論宗の説明に真諦俗諦の両方面あることを忘れてはならぬ。

       第三七節 三論宗と実大乗との関係

 三論宗は空の一偏を説くために、これを権大乗に入れて空宗中の空門とするも、その宗にて立つるところの中道は法相宗の中道より向上して、実大乗と異ならざるようになっておる。そのいわゆる真俗二諦の説明はこの中道を証明せるものとみてよろしい。真諦の方にて真如の真相を説き、俗諦の方にて万法の現立を説くに、俗諦は真諦を離れざるが故に、真如の上に万差の諸法を現じ、俗諦は真諦を離れざるが故に、万法の中に真如をみると説き、万法の有はすなわち真如の空にして、真如の空はすなわち万法の有であり、二者相離れざるものと説く。その状態を色即是空、空即是色と申しておる。これすなわち中道である。その中道は実大乗の中道に一致することになる。

 さきに法相宗の中道は万法の事界と真如の理界と隔歴せる上に立てたる中道なれば、真の中道とはいい難いと述べておいたが、三論宗の中道は事理二界不離の上に立てたる中道なれば、すこしも実大乗と異なるところはない。故にその点にては純然たる実大乗である。しかるに破邪門においてあまり他見を破するに過ぎ、空に偏する傾向あるために、天台宗などの方にてはこれを権大乗に入るるのである。要するに三論宗は権大乗中に実大乗の端を開き、権実両乗の間に架したる橋梁のごときものであろう。

 世界の開現につきて小乗は業感縁起説をとり、権大乗法相宗は頼耶縁起説をとりたるが、三論宗は真如縁起説を立てておる。真如縁起説とは真如の体が動きてただちに万法の世界を開現するという説である。この真如縁起は実大乗の独占するところなるが、三論においてすでにこれを説き、外界万象は吾人各自の識心中より縁起せるにあらずして、真如の自体の上に万法森然として現立すると論じておる。この点もまた三論宗が純然たる実大乗と称して不可なきゆえんである。以上すでに三論の大意を述べ終わりたれば、これよりまさしく実大乗の講述に移らねばならぬ。

 

     第八講 実大乗哲学門(一)

       第三八節 小乗、権大乗、実大乗の比較

 ここに実大乗を講ずるに当たり、小乗、権大乗、実大乗を対照する必要がある。まず小乗は甲図のごとく事界を物界心界とに分かちて両立せしめ、物心両界が隔歴しておる立て方なるが、権大乗は乙図のごとくその物界を心界の中に収め、唯心論を立てたるも、その唯心は事界の唯心にして、吾人各自の心中より万法を開現するという説である。これは個人的唯心論、または相対的唯心論と申さねばならぬ。その所立にては事界は心界の中に帰したるも、やはり理界と事界とが隔歴しておる。これに反して実大乗にきたりては丙図のごとく事界と理界とが合体して、真如そのものの中に万法を現じ、真如すなわち万法となるの立て方である。これすなわち絶対的唯心論、または絶対的理想論といわねばならぬ。もし一元二元をもって対照すれば、小乗は物心二元論、権大乗は物心一元にして、事理二元論を兼ね、実大乗は事理一元論なるの相違がある。

 また有空中をもって比較すれば、小乗は有宗、権大乗は空宗、実大乗は中道宗であり、縁起の方にては小乗は業感縁起、権大乗は頼耶縁起、実大乗は真如縁起なること前述のとおりである。これらの相違はみな一段一段の論理の向上発展を示しておる。古来シナおよび日本において小乗を外道とし、権大乗を方便とし、実大乗のみを真実の仏教としたりしことは無理ならぬ判釈であると思う。

 小乗を擯斥して外道とするのは、ある点が婆羅門に似ておるというのに過ぎぬ。しかるに大乗の教理は小乗の地盤の上に建設せられたること明らかにして、小乗なければ大乗は立たぬと申してもよろしい。小乗が人身および世界を分析して、無我の理を証明したるのが土台となりて、権大乗の唯心観が起こり、権大乗を土台として、実大乗の真如観が現れたのである。外部よりみればその間に黒白雲泥の相違あるようなれども、内部よりうかがわば一大理脈の貫通しておることが明瞭に分かる。故にあながち小乗なりとて排斥するわけにはゆかぬ。かく一教中に大小権実を別置せるに至れるは、古来釈迦仏が随機方便して、浅より深に入り、卑より高に進められたる説法の段階であると伝えておる。あたかも人を教育するに、その智能開発の度に応じて、小学、中学、大学と漸進せしむることと同様である。故に大学にあるものは小学を無用視することのできぬごとく、実大乗の大学より小乗の小学を排斥するのは穏当でないと思う。

       第三九節 相対的唯心論と絶対的唯心論との異同

 つぎに権大乗の相対的唯心論が絶対論に変じたる理由につきても一言しなければならぬ。権大乗は吾人の感覚作用を究めて、外界の色声香味触の五境は全く八識中前五識の所現なるを知り、更に進んで有為の諸法は吾人各自の八識中より生起することを認めて、唯心論を唱えたるも、もし今一歩を進めて考えきたらば、彼我自他の別は全く思想より起こり、また心界の外に物界なしと論定することも、やはり心そのものより生ずることが自然に分かる。これにおいて宇宙はただ一心のみとなり、わが心もかれの心もみな一心中に収まることとなりて、ついに絶対の一心に達するに至る。これを実大乗にては三界唯一心と説ききたり。その一心とはこれに対比するものなき故に絶対である。これに至りて相対的唯心論が絶対的唯心論に一変しきたることが知れる。

 権大乗にては事界と理界とを両立せしめ、真如は万法の本体なりと立つるも、その真如自体より世界を開発することを説かぬ。しかるに実大乗にきたりては絶対的唯心観により、一切の差別みな一心中に帰してしまうから、真如と万法とを分かち、事界と理界とを分かつことすらも、一心中に収まるわけになる。しかるときは事理を通じてただ一心のみありと申さねばならぬ。語を換えていわば一心の外に真如も万法も、生滅も不生滅も、有も無も、非有も非空もない道理である。さればこれを一心ということもできぬようになるが、便宜上仮に名付けて真如と呼ぶことになっておる。よって真如はすなわち絶対の一心の仮名である。この中に吾人のいわゆる物も心もみなおさまり、万法ことごとく備わることとなる。しかるときは事界と理界とが一致合体して、事理一元論となるわけだ。

 事理一元にして万法は真如の自体を離れざるものとすれば、事界における物心万境の差別も、生滅転変の変化も、もとよりみな真如自体の作用としなければならぬ。これにおいて権大乗の頼耶縁起は一変して実大乗の真如縁起となり、真如自体より万象万化を生ずるゆえんの理に体達し、したがって真如即万法、万法即真如と唱えて真如のそのままが万法となり、万法のそのままが真如となることを説き、吾人の住するこの世界がそのまま真如の世界なることを結論するに至った。この点に達して始めて真の中道の妙理を味わうることができる。これすなわち実大乗が権大乗の上に位するわけである。

       第四〇節 天台宗の五時八教

 実大乗においては宗派多岐に分かれ、各派の所説に多少の異同あれども、古来倶舎宗をもって小乗の標本とし、法相宗をもって権大乗の標本とするがごとく、天台宗をもって実大乗の標本としてある。よってここにまず天台の教理を述べなければならぬ。天台宗は釈迦仏所説の『法華経』に基づきて起こりたる宗旨である。その宗にてはこの『法華経』は仏出世の真実の本懐を明かしたる経文であるといい、これを説明するために釈迦仏一代の説法を五段に分類し、『法華経』をその最後に置いてある。この分類法を五時の説法と申しておる。

 五時の説法とは第一時は『華厳経』にして、これは釈迦仏が成道するや間もなく説かれたる実大乗なれども、その説あまり高尚深大にして、当時のインド人には了解することができなかった。そこで仏はいまだ大乗を説く時節到来せぬと考え、聴者の機を引き心を迎うるには、婆羅門教に類似したる説より始めなければならぬと思いて、『阿含経』を説き出された。これは第二時に当たり、しかもその経は全く小乗である。かくして長い年月の間、小乗のみを説かれたる後に、第三時の『方等経』を説き、第四時の『般若経』を説かれた。この方等と般若とは大乗であり、その中に実大乗も含んでおるけれども、『法華経』の方よりみればむしろ権大乗に属することになる。しかして最後に至り実大乗の奥義を開示せる『法華経』を説かれた。これが第五時に当たる。続きて『涅槃経』を説かれたが、これも第五時中に入れてある。この『法華経』の所説は第一時の『華厳経』と一致するところありて、共に三界一心、真如縁起、有空中道の理を説いたものだ。それ故に華厳を根本法輪とし、法華を摂末帰本法輪と名付けておる。法輪とは仏の説法を車を転ずるにたとえたものである。摂末帰本とは小乗、権大乗と順次に説ききたりしをとりまとめて、法華の実大乗を開説するに至り、最初の華厳の実大乗に帰着合体することになったという意味である。これを総じて五時の説法と申しておる。

 この五時の外に八教という名目がある。そのいちいちを述ぶることは繁雑にわたるの恐れあればこれを略するも、そのかなめは法華以前の釈迦仏一代の諸説諸教を分類して、かくのごとき順序次第を立てたるものに外ならぬ。その中に円教という名目があるが、その字義は円融無礙円満完備の教というのであって、法華を八教中に入るるときはこの円教に当たることになる。しかれども天台の真意にては法華を八教の外に置き、八教を摂束して一となりたるものすなわち法華である。よってたとえこれを円教と名付くるにもせよ、他の円教とはおのずから異なりて、八教即一の円教であると説いておる。換言すれば他の円教は円教ならざるものと対比しての円教であるが、法華の円教は諸教を網羅し融合したる円教であるといい、前者は相対的円教、後者は絶対的円教と二者を区別しておる。つまり天台にては法華を華厳の上に置かんと欲して、かくのごとく円教に区別を立てたる次第である。

       第四一節 真如と万法との関係

 これより天台の世界観、宇宙観につきて述べたいと思う。さきに実大乗は真如縁起を立つるといいたるが、天台はもとより真如縁起である。すなわち真如を水に比し、万法を波に比し、真如を離れて万法あるにあらざることは、水を離れて波あらざるがごとく、万法を離れて真如なきことは、波を離れて水なきがごとしといい、真如即万法、万法即真如を水即波、波即水のごとしと説いておる。それ故に真如の水が動きて万法の波を起こし、この世界のそのままが真如の世界をあらわすことになる。

 しからば万法と真如とはその性質において区別ないかというに、真如は平等無差別にして絶対である。故に彼我自他の別、生滅浮沈の変などは絶無である。これに反して万法は差別不平等にして、相対性のものなれば、断えず千差万別の変化が行われておる。よって真如と万法とは同体にして異体である、一つにして二である。あたかも水の方よりいえば平等無差別にして、波の方よりいえば大小高低等の差別あると同様だ。この関係を不一不異、または不離不即と申しておる。即とは付着の義である。

 これに至りて大問題が起こってくる。何故に平等無差別の真如の上に差別の万法を生ずるに至ったか。真如自体が本来無差別ならば、万法の差別の生ずる道理がない。もし途中より起こりきたるとすれば、真如の外にこれを起こすところの原因があるべきはずだ。この疑問は実大乗における古来の大問題でありて、これに対する華厳宗の説き方と天台宗の説き方とが違っておる。そのうち華厳のことはのちに譲り、天台の説き方だけを述ぶれば、天台は真如縁起というよりもむしろ本具という方でありて、具の一字の中にその宗意がおさまるとまでいわれておる。具とは具備の義にして、帰するところ真如自体に本来万法の差別を開現すべき理を具備しておるということになる。すでに真如は絶対なる以上は、真如の外にその原因のあるべき道理はない。これを水の場合に考うるに、水は風のために波を起こし、その風は水の外よりきたるものであるが、真如の場合にては万法の波を起こす原因が真如の外よりくるとするときは、真如が絶対性を失って、相対となるの不都合を起こすことになる。よってあくまで真如の体内にあるとしなければならぬ。これにおいて天台では本具説を唱うるのである。

       第四二節 真如と一念との関係

 この本具説に基づきて一念三千という法門がある。一念とは瑣々たるわが心の発動であり、三千とは大数を示したるものにて、世界の諸法を総括したる数目である。これを一言にて説明すれば、吾人の瑣々たる一念の心より、あらゆる世界の諸法を生起することを意味しておる。すなわち真如の自体に万法を開現する理を具備しておるから、吾人の一念の心が動かざればそれまでであるけれども、いやしくも動かばたちどころにあらゆる千万の諸法が一時にその相を現起するという意味である。これを要するに真如と万法とは不離不即にして、万法の体すなわち真如なれば、吾人の心もとより真如である。この心を離れて別に真如があるのではない。故にこの心の動くのは真如の海面に波を起こすのである。その途端に万法の波が吾人の目前に現立するに至るという。

 天台にてはこの一念の心に理具と事造との二様の作用を兼有すると説いておる。理具とはその心に諸法を開現すべき理を具備しておることにて、事造とはその諸法が心より造成せられ、歴然として顕現することをいうのだ。一念の心の当体が真如なれば、その心にこの二つの道理を有しておるは当然である。これにおいて迷悟の別が起こってくる。真如と万法とはその体を同じうするを事理不二という。されば理具と事造とは、やはり不二である。しかるにこの不二の理を知らずして、物我差別の妄見を起こすを迷いとし、その理を知りて妄見を起こさざるを悟りとすることになる。その迷いを有するものを凡夫という。すなわち吾人のことだ。その悟りに体達したるものを仏とするから、吾人と仏との別が起こってくる。元来仏も凡夫も一念三千の理を具しておることは同様なれども、その知見の相違より二者の別を生ずることになる。

 実大乗の真如縁起説によれば、仏教は万有即神教と申してよろしい。真如と万法と一念との関係につきて事理不二の道理を考えきたらば、一物一法みな真如である、一色一香もみな真如である。故に十方世界ことごとく浄土なり極楽なりと説き、われも人も一切の凡夫みな仏なりと説いておる。ただ吾人の知見最劣にしてその理を開悟することのできぬために、凡夫となりおるのである。よってなんびとを問わずひとたび真智を起こしてこの理を達観し、物心万差の迷見妄執を脱却するに至れば、みな仏となるに相違ない。かかる道理は吾人の一念の心に本来存するものにて、迷うもわが心、悟るもわが心、仏を出すも鬼を出すもみなわが心中にその作用をそなえておるものとするのが天台のみならず、すべて実大乗の立て方である。

       第四三節 一心三観の説明

 前述の道理を一層明らかにするには、一心三観ということを説明せねばならぬ。三観とは三諦の妙理を観察照見することにして、三諦とは空諦、仮諦、中諦の三種の原理のことである。たとえば一念の心に三千の諸法を具すると同時に、事理不二なれば、これは仏、これは凡夫、これは鬼とそれぞれ差別を付けて、本来別物なりと定むることはできぬ。もしその差別を固執する場合には、これを空なりとして払い去らねばならぬ。その理を空諦という。しかるにその空の中に諸法の理を具するをもって、縁に従い時に応じて差別の相をあらわし、あるいは仏界となり、あるいは凡夫の世界となる方の道理を仮諦という。この点はさきに権大乗の下に説きたる有空中三諦の説明とよく似ておる。つぎに中とは空にして空にあらず、仮にして仮にあらざるを義とし、一切万法を空とするも、縁に従って差別の相をあらわすものなれば、仮といわねばならぬ。またこれを仮とするもその実性なきものなれば、空としなければならぬ。されば空にして仮、仮にして空、空と仮とはその体一にして相離れざるを中というのである。これは空、かれは仮と相分かつときは相対となれども、空仮同体不離とみれば絶対となる。故に中諦は絶対の性徳をあらわすと説いておる。

 この空仮中三諦を古来鏡にたとえて説明しておく。たとえば鏡面に一物の障うるものなきを空とし、その無一物の鏡面に影像の現ずるを仮とし、その空も仮も鏡の自然に具する徳なるを中とすと説いておる。これもとより一部分の比喩に過ぎざるも、あたかもその比喩のごとく空も仮も両ながら中諦に帰してしまう。もしその中諦よりみれば、空仮中三諦の互いに融合して一諦となることが知れる。これを円融無礙の三諦と名付く。しかしてその三諦の理はひとり心法に限るにあらず、事々物々に存する妙理なりと説いておる。

 この三諦の妙理を観照する方を三観という。三観は智慧にして、三諦はその対象たる理のことだ。故に三諦三観とはその名異なれども、その体は一つである。これを吾人の一心に具するものと観了する方を一心三観と申す。故にもし吾人が三観の智慧をもって、三諦の妙理を徹照するに至らば、一切の国土はみな浄土となりて現じ、一切の物類はみな仏となりて現ずべしと説いておる。この一念三千、一心三観は天台の教理の第一の要義であるから、ここにその略解を述べた次第である。

 

     第九講 実大乗哲学門(二)

       第四四節 『起信論』の大意

 実大乗の哲理は天台宗と華厳宗とを対照して研習するにあらざれば、明らかに了解し難いから、ここに華厳宗の大意を述べたいと思う。しかしてその宗の教理を講ずるには、『起信論』の大意より始めなければならぬ。『起信論』は実大乗の真如縁起を明らかにしたる論文にして、別に一宗ありて伝えしにはあらざれども、古来大乗を学ぶものは必ずこの論より始め、更に進んで華厳を攻究し、あるいは転じて天台を修習することになっておる。故にその論は実大乗の関門である。

 『起信論』は釈迦仏所説の経文にあらざるも、その滅後数百年を経て出世せる馬鳴と名付くる高僧の述作せられし論文にして、実大乗の真如縁起を約説したるものである。まずその説き方は一心に二門を分かちて、宇宙の真相を開示せるものといわねばならぬ。しかしてその一心は絶対の心にして、真如の本性、宇宙の実体なれば、非物非心である。すなわち吾人の彼我相対の心ではない。この非物非心の一心を生滅門、不生滅門の二種に分かち、生滅門は万法界、不生滅門は真如界として説いておる。もしその意を略述すれば、真如そのものに本来不変と随縁との両義を兼帯し、その不変の方面が不生滅門となり、その随縁の方面が生滅門となったわけである。随縁とは真如の水面が因縁によりて万法の波を生起し、生滅変化を生ずるをいう。この二門は絶対の一心より分出せるものと定めてあるから、その説はもとより真如縁起である。

 真如の水が動いて万法の波を起こしたる原因はいかにというに、無明の風によりて起こると説いておる。無明とは一切の煩悩妄念の本をいうのだ。真如は本来清浄にして無明妄念を有せざる絶対の一心である。この一心中に無明の生じきたりしゆえんを示したるところに、忽然念起の語が出ておる。すなわちその意は本来無明の存せざる真如自体より、忽然としてその念を生起したりという。古来この忽然の字義につきて疑問を起こし、今日いまだその意義を明らかにするに至らぬ。もしこれを天台の所説に考うれば、わが一心の本体に本来無明を具有せることとなるが、『起信論』の方にては本具説にあらずして随縁説であるから、本来具有せるにあらずして、途中より因縁によりて生起したるものとなる。もし途中生起とすれば、無より有を生ずるがごとき論難を呼び起こす。この点が古来『起信論』の一難関として伝えられておるところである。

 更に生滅門中に覚と不覚とを分かち、その覚に本覚、始覚を分けておく。これはいわゆる真如開発の順序を示したるものである。覚とは本来自性清浄なる一心の本体が、一切の妄念を離れた状態をいう。その本来清浄の方を指して本覚といい、ひとたび妄念を生じたりしも、再びその念を脱離して、本覚と同様なる状態に還帰するに至れるを始覚と申すのである。しかして無明妄念によりて生滅の相を現ずる方を不覚と名付けておる。左にその開発の順序を表示しておく。

  第19図表

       一心(真如) 生滅門 覚 本覚

                    始覚

                  不覚

              不生滅門

       第四五節 華厳宗の教理

 『起信論』の真如より万法を開発する縁起説を追求して更に向上すれば、華厳宗の所説となる。華厳宗は釈迦仏所説の『華厳経』によりて開ききたれる宗旨である。その宗の教理と天台宗の教理とは古来、互いに優劣を争い高下を競い、したがって相排し相貶する傾向があった。双方共に実大乗なれば、互いに釈迦仏所説中の真実の教なることを許すも、天台の方にては華厳を相対的円教とし、自宗を絶対的円教として区別を立て、華厳の方にては天台を普通の円教とし、自宗を別格の円教として差別を付けておく。これを要するに両宗ともそのみるところを異にし、真如と万法との関係を論ずるに、縦に観察すると横に観察するとの相違があるように思わる。

 天台宗の五時八教を立つるに対し、華厳宗は五教十宗を立てて、釈迦仏一代所説の小乗大乗の諸教を判別し、その結局自宗をもって最上無比と定めておる。そのいちいちの名目はここに略しておく。この華厳は仏成道最初の説法にして、日出でてまず高山を照らすと説ききたり、太陽が東天に昇るときには、初めに高山の頂きのみを照らし、谷間や平地はいまだその光に接せざるがごとく、華厳の法門は高尚にして、知識の程度の高きもののみその化益を受け、一般の民族はいまだその光を仰ぐに至らざるほどに高大の説法であると申しておる。

 その宗の自ら甚深最妙の法なりとする点を考うるに、真如縁起を立つるにつきて、天台にては真如即万法、万法即真如と説いて、事理両界の同体不離なるゆえんを知るも、いまだ事々物々、塵々法々の互いに融通無礙なることを示さぬ。また『起信論』にて一心に二門を開きて真如より万法を縁起することを説くも、その縁起の縦横自在、重重無尽なることを示さぬ。この点は華厳の起信および天台の上に一歩を進めたるところであると称し、自宗をもって最上乗の法門となすわけである。これを証明するに四法界十玄等の原理を設けておく。

       第四六節 無尽縁起の状態

 四法界とは事法界、理法界、事理無礙法界、事事無礙法界の四類である。法界とは事理二界を総称したる名目にして、ここにその二界の相互の関係を示すためにこの語を用いておる。第一の事法界とは吾人の眼前にみるところの事々物々がみな差別ありて、山は川にあらず、木は草にあらず、おのおのその形質を異にする世界の状態をいうのである。これを水波の譬喩につきていえば、万波のおのおのその形を異にすると同じく、世界を表面より観察したるときの見方である。第二の理法界とは事々物々その現象を異にするも、その体は同一にして差別なく、あたかも万波の同じくこれ水なるがごとく、万法の自体は真如の理体に外ならざることをいうのである。第三の事理無礙法界とは、事々物々の万法は真如の理体より開顕せるを知り、水の当体すなわち波、波の当体すなわち水なるがごとく、事界と理界との融通不離なる関係をいうのである。第四の事事無礙法界とは万法みな真如よりあらわれきたるを知り、一事一物と真如と融通自在なるを知れば、事々物々、法々塵々が互いに融通自在なるべき道理なるをいうのである。

 この四種法界観の中には釈迦仏所説の諸教を摂尽し得ると説き、小乗教は物心諸法の差別を説くものなれば、事法界に属し、権大乗法相宗が百法の事相を立つる方面にては、やはり事法界に属し、三論宗の諸法皆空を説くがごときは、理法界に属し、天台宗の万法真如の不離不即を説く方は、事理無礙法界に属し、華厳ひとり事事無礙法界に属すといい、華厳の法門の最勝なることを示したるものである。

 この事事無礙の関係を明らかにするために、十玄縁起と名付くる法門を説いておる。すなわち真如自体が縁に従って万法を開現するに、その諸法が互いに縁起して尽くることなく、円融無礙なる状態を十カ条に分かちて観察したるものである。前の四法界は華厳宗の事理両界に対する観察にして、この十玄はその第四の事事無礙法界に対する観察である。これを玄と名付けしはその法門の幽玄深妙なるを指したるに相違ない。ここには遺憾ながらそのいちいちの条目を掲げて細説するの余地なければ、ただその要点につきて一言するだけにとどめねばならぬ。すなわち一塵一法の中に諸塵諸法を包有することは、あたかも一滴の水に百川の味を含有するがごとく、また諸法互いに相摂入することは、あたかも一室中に千灯を点ずるに、その光の互いに渉入してすこしも遮塞せざるがごとく、また一法と他法と互いに相映じて無尽なることは、あたかも両鏡相対するときに、その影の重重無尽なるがごとく、事事相容相入、相照相映して、無礙自在、重重無尽なることを説明せるに外ならぬ。これを重重無尽縁起と名付けておる。

       第四七節 真言宗の教理

 実大乗の真如縁起を説くに、三論、天台、起信、華厳、おのおの異なるところありて、三論は真如の上に諸法のみな空なるを説き、天台は真如の内に諸法の本来具存するを説き、起信にありては真如の体動きて忽然として万法を現起するを説き、華厳にては万法互いに縁起して無尽なるを説くの相違がある。しかしてこれらの諸説はいずれも万法の有にも偏せず、真如の空にも偏せず、有空の中道を立つるものなれども、事と理とを比較するときは、真如を本とし万法を末とすることに帰着す。しかるにひとり真言宗は全くその反対の見解をとり、事を本とし理を末とし、万法を主とし真如を伴とするの説を立てておる。その宗にてもっぱら唱うるところの語に即事而真という句がある。その意はこの世界の事物がただちに真如の作用を開現することを寓したるものにして、帰するところは万法を本拠とし、事相の上に真如の作用を談ずるのが真言の立て方である。これもとより実大乗なれども、他の諸宗の正反対を説いておる。畢竟かくのごとく宇宙の解説の種々なるは、全く論理思想の発達を示すものである。

 実大乗の哲理を完成するには、真言宗の大意を述べなければならぬ。真言とは真実の言説という義でありて、そのしかるゆえんは釈迦仏一代の所説を顕教と密教とに分かち、顕教とは真言以外の諸宗を指したる名目である。すべて天台でも華厳でも仏が人を相手として説法したるものなれば、自ら心内に証見したるありのままを説くにあらず、必ず多少の斟酌があるに相違ない。これに対して真言は仏の内証のありのままを説きたるものにして、外にあらわさざる真実秘密の法であるというところより真言ともいい密教とも申すのである。

 仏教にては仏の身に法身、報身、応身の三身を立つることになっておるが、普通に解するところによるに、法身とは真如の理体にして、一切に遍在する絶対の身をいうのである。報身とは仏が自ら修めたる善因に報酬したる身を有する意味である。応身とは仏が衆生を済度するために、世界の各境遇に相応したる身をもって出現するの意にして、釈迦仏が人の形をあらわして、人間界に出現したるがごとき場合をいうのである。この三身の体もと一なりと立つるを三身即一と申しておる。今真言の所見によるに顕教は応身の釈迦仏の説にして、密教は法身の説である。しかしてその法身は大日如来であるという。もし三身即一の理よりいえば、釈迦も大日も同体なれども、その身相においては大いに相違しておる。ことに真言の大日法身は他宗の法身とは異にして、無形無色の真如にあらず、有形有色の具体的法身である。

       第四八節 六大および両部の説明

 すべて真言にては天台の反対をとり、有形の事相を本とし、無形の理体を末とするをもって、吾人が仏になるには無形の心によらずして、父母所生の肉身のままにて成仏するのであると説いておる。しかして宇宙間の万法は六大より成るとし、その六大は地、水、火、風の四大に空と識とを加えたるものをいう。そのうち地水火風空を色法とし、識を心法とす。故にそのいわゆる空は全く物質性を絶無せる空にあらず、諸色諸相を具足したる空にして、ただ地水火風のごとき一定の色相を偏有せざるものをいう。故にこれを色法に入れてある。この色心二元が宇宙を構成せると同時に、その体すなわち大日如来の法身であるといい、国土も山川もことごとくみな大日法身であると説く。その点はやや天台などの所説に似たるも、大日法身をもって有形有色となすがごときは、全く他宗と異なるところの解釈である。

 この大日の性徳を開示するにつきて、金剛界、胎蔵界の二部を立てておく。金剛界とは金剛のごとく堅固なる意味にして、大日如来の智慧をたとえたるものである。胎蔵界とは母の胎内にその子の身体を含蔵するがごとく、大日法身の中に一切諸法を摂持するの意である。あるいは金剛界を智法身とし胎蔵界を理法身とし、あるいは金剛界を智慧とし胎蔵界を慈悲として、二者を区別すれども、その実、理智不二、悲智一体なれば、金胎両部相離れたるものではない。しかしてこの両部の徳を具するものは大日如来にして、わが身すなわち大日法身なれば、一切衆生にこの徳を具することとなる。これ真言宗一家特有の説である。

 また胎蔵界をもって色法とし、金剛界をもって心法とし、更にこれを六大に配当して、地水火風空の五大は胎蔵界、識大の一は金剛界としてある。しかして五大の外に識大なく、識大の外に五大なく、帰するところ金胎一致、色心不二、理智一体であるということになる。この六大を本として諸法の縁起を説くのが、真言のいわゆる真如縁起である。これを六大縁起と申す。かくして大日も六大所造、国土も六大所造、衆生も六大所造なれば、みなこれ同一法身なることを説いておる。

 

     第一〇講 実大乗哲学門(三)

       第四九節 大小乗各宗の比較

 仏教において小乗より権大乗、権大乗より実大乗と次第に移りきたり、真如と万法との関係を証明せるところは、まさしく論理の発達を示し、自然に古今の哲学史をみるがごとき有様である。最後に真言にきたりて、その所立が最初の小乗と一致するに至った。これはいわゆる論理の循環して、そのもとに返りたるものであろう。すなわち小乗は物心二元論にして、真言の地水火風空識の六大は、やはり物心二元論である。ただ二者の相違は小乗は事々物々互いに隔歴せるものとみたるに反し、真言は事々物々の融合渉入を説けるの点にあり、その関係は図をもって示してみたいと思う。

 さきに表示せしごとく、圏をもって宇宙に比し、これを事界(万法界)と理界(真如界)とに二分し、更に事界差別の相状を表示するに、網線を用うることとすれば、小乗は第20図表のごとくとなる。その真如界の全く黒きは、既説のごとく暗黒的涅槃を立つるを示したのである。つぎに権大乗法相宗にては真如は光明的となり、万法はわが心の所現となり、万法の差別は心界の中に存することとなるは第21図表のごとくである。つぎに三論宗にてはすべて万法差別の所見を除去して、真如のみに帰する故に、第22図表のごとくなるであろう。つぎに天台宗は真如すなわち万法といい、万法のそのままが真如なることを説くをもって、第23図表のごとく真如の海面に万法の波形を存するものとなり、華厳もこの図に同じかるべきも、ただその縁起の説き方が天台と相違しておるのみである。つぎに真言は天台の正反対にして、六大を本として真如を説くものなれば、第24図表のごとくなるであろう。

 もし以上の諸宗を一元、二元をもって対照すれば、小乗は現象的多元論すなわち物心二元論、権大乗法相宗は本体的二元論すなわち事界理界対立論または相対的唯心論、三論宗は無象的一元論すなわち皆空的一元論、天台宗および華厳宗は本体的一元論すなわち絶対的唯心論、真言宗は絶対的多元論すなわち絶対的現象論と名付くべきである。その理由は前図に照らして知ることができる。ただ天台と華厳との相違は、前者は存立的一元論、後者は開発的一元論なる点に帰する。あるいはまた仏教の語をもって示さば、二者同じく真如縁起を説くものなれども、天台の方は性具的一元論、華厳の方は性起的一元論の異同があると申してもよろしい。その性具と性起との説明は次節に譲る。

       第五〇節 存立的および開発的宇宙論

 真如は宇宙の実体、万法の本源なるが、これを一心と名付くるは、主観の方面より宇宙を観察したる結果である。その次第を考うるに、初めに万法はわが心より変現したるを知り、更に進んで物心彼我の諸境は全く一心の所現なるを知り、これにおいて「三界は一心にして、心の外に法なし。」(三界一心心外無法)なるの理を達観するに至り、その一心の中に天地も国土も人獣もことごとく現立するを証見し、わが心もかれの心もみなその一心の所現に外ならざれば、これこそ真に宇宙の本体なりとし、その性質その作用共に絶大玄妙にして、到底言語名字をもって表示し難いけれども、仮にあざなして真如と呼ぶことになったのである。

 この真如を観察するに、時間的に縦よりすると、空間的に横よりするとの二様がある。縦観は万法の次第に開発しきたれる前後を対照して観察する方にして、たとえば草木の種子より茎幹を生じ、茎幹より枝葉を現ずと考定するがごとき観察法をいうのである。余は仮にこれを開発的と名付けておく。横観は開発の前後を対照するを待たず、現状そのものにつきてただちに内情を考察する方にして、たとえば草木の現状を見て、ただちにその組織その成分のなんたるを審定するがごとき方法である。この方を便宜上存立的と名付けておく。かく考定して小乗大乗をみるに、小乗、三論、天台の三宗は存立的宇宙観にして、法相、起信、華厳の三宗は開発的宇宙観である。しかして真言は天台、華厳の所見を小乗の所説に当てはめたるものなれば、二者に関連せるものとみてよろしい。

 第25

 図表 宇宙観 存立的 小乗・・三論・・天台

        開発的 法相・・起信・・華厳

 この二観のうち、天台と華厳が双方の最上に達したるものである。しかして天台の語にては存立的の方を実相論と申しておる。かく存立と開発とを分かつも、もとより外面上比較的の分類にして、もしその内容に入れば、各宗共にこの両様の観察を有するわけである。たとえば小乗のごとき、世界を分析して法体恒有を説く点は存立論なれども、業感縁起を説く点は開発的見解とみなさなければならぬ。

 華厳にて開発説を述ぶるに、因縁によりて諸法の生起するを縁起と名付けておくが、あるいは法界縁起、あるいは無尽縁起ということは前すでに述べたるところである。しかるに縁起の外に性起という名目がある。性起とは真如の自性より因縁を待たず、ただちに現起するの意である。その別は縁起は万法の現象の方につきていい、性起は真如の本体の方につきていうに帰するも、二者その実同一にして、ただ開発の状態を両方面よりみたるまでに過ぎぬ。つぎに性具は真如の自性に万法を具有するの意なることはさきにすでに述べたるところである。これを要するに性具と性起とは因と果との相違にして、性具の方は因心本具説といい、性起の方は果海融通説と名付けておる。

 因心本具とは第四二節に述べたるがごとく、わが一念の心にあらゆる世界の諸法を具することにして、これを草木にたとうれば、一個の種子中に千枝万葉を開現すべき理を具するというに同じき立て方である。これに反して華厳の性起は仏果の方より万法を観察し、事々物々無礙自在の境界を現起しおる見方であるから、種子、枝葉の別なく、種子中に枝葉を完備し、枝葉中に種子を現立すとみると同様である。これを果海融通と説く。果海とは仏果の性徳を指したる語である。

       第五一節 差別論と平等論

 すべて仏教大乗の宇宙観はあるいは有空中の三宗に分かち、あるいは空仮中の三諦に分かつが、他語にて示すときは差別論と平等論と中道論との三種に配合し得ると思う。有宗または仮諦は差別論にして、空宗および空諦は平等論である。しかしてこの二論を統合したるものを中道論と申しておる。今その名目を解するに、差別論とは事々物々の差別ある方を本とする所見にして、平等論とは真如のごとき本来無差別なる方の所見である。もし差別に偏せず、平等に偏せず、二者の中をとるものあらば、これを中道論ということになる。

 大体よりいえば小乗は差別論、権大乗は平等論にして、実大乗は中道論であるが、その中道の説き方におのずから平等の中に差別を寄せてみる方と、差別の中に平等を含めてみる方との二とおりがありて、天台は前者に当たり、真言は後者に当たる。しかして華厳は前者の方にして、しかも後者に移る階段たるものであろう。

 この三種の見を近く一物をとりてたとうるに、ここに一枚の紙ありと定め、表裏両面を差別して、表面は裏面にあらず、裏面は表面にあらずというは差別論にして、表裏その別あるにあらず、同じくこれ一枚の紙なりとするは平等論である。しかして紙の体たるや表裏無差別なるも、これと同時に表裏の差別あり、差別平等同体不離とみるは中道論である。実大乗はその宗の異なるに従って多少みるところを異にするも、平等差別の中道をとる点に至っては全く同一である。この理を推せば実大乗の厭世教にあらざることがよく分かる。

 婆羅門教は厭世教である。小乗も同じく厭世教である。しかるに大乗なかんずく実大乗に至っては世間と出世間との関係を示して、世間に偏せず、出世間に偏せず、二者の中道をとる立て方である。世間は彼我差別の境涯にして、出世間は差別を去りて平等に入る方であるが、実大乗の中道の本義よりいえば、全く世間を離れたる出世間をとるは、平等あるを知りて差別を忘れたるものとなる。もし中道の説により世間すなわち出世間にして、世間の中に出世間あるの理を達観しきたらば、小乗のごとき厭世に流るる恐れなきは明らかである。しかるに大乗を信じてなお厭世に傾くものあらば、これ中道の理を知らざる偏見に陥るものといわねばならぬ。

       第五二節 真如と因果との関係

 大乗教が平等的真如を本として、差別的万法を否定し、これを妄有なり迷見なりというを聞きて、ただちに厭世教のごとくに感ずる人多けれども、その妄有迷見とするのは、生滅あるものをみだりに生滅なきものと信じ、無常なるものを誤りて常住と思うものに対して説くまでである。しかして常住不生滅の本体ありて、その体面に差別的方法の現存することは決して否定しておらぬ。これを仮有と申しておるが、何故に仮有といって真有といわざるかは、第三一節に述べしがごとく、森羅万象は現象にして実体でない故である。しかれどもすでに万象万法が因縁によりて生起したることは事実であるから、これを真有とせざるも実有と説いておる。仮有はすなわち実有である。すでに実有である以上は、わが目前の世界の虚妄ならざることは明らかである。たとえ権大乗においては実我実法なきを説くも、心外有法を否定するまでにて心内にありてはもとより仮有であり、実有であることを許す。また権大乗も一方に空を説きながら、他方に中道を説くから、決して厭世教ということはできぬ。しかるに古来大乗諸宗の説くところがなんとなく厭世の風を帯ぶるものは、第三節に弁明せるがごとく、インド以来の社会の風潮より受けたる余波に外ならぬ。

 世界万法を仮有となすは、これみな因縁生起の法たるによるとしてあるが、このいわゆる因縁はいずれより生じたるものなるかは一大疑問である。小乗は因縁因果を説くも、その本源を示さず、権大乗も吾人の識心内に因果の無始以来相続することを説くも、真如と因果との関係を明示してない。実大乗においては一般に真如縁起を立つるから、真如が因縁によりて万法を生起するとの説であるが、しかるときは森羅の万象は因果の作用によりて開現したることになる。その因果なるものは真如の外に存すということはできぬ。なんとなれば真如は絶対にして、これに相対するもののあるはずはない。もし真如の外に因果を生起するものなしとすれば、真如の中に存すべき道理である。しかるに真如の自体は平等無差別であるから、因果の理法をその体内より生起するとは解し難いとの疑問が出てくるであろう。よってここにその疑問に対する実大乗の意見を述べねばならぬ。

 真如が動かざるときには真に絶対無差別の状態なるも、ひとたび動くときは因果の作用によりて諸法諸象を開現することは事実である。すでにこれを事実とするときは因果の理法は真如自体に固有するものといわねばならぬ。故に天台にてはこれを本具というておる。換言すれば真如の内部に一切万法を開現すべき因を具有しておることになる。故に因果は真如に固有せる理法なること明らかである。しかるに華厳においては本具と説かざれども、万法生起の方面にありて因果の本源を考えきたらば、帰極するところ真如の内より生ずというより外に説明する道なきは明らかである。『起信論』の真如の大海が無明の風によりて万法の波を起こすとの説のごときも、帰するところそのいわゆる風は真如の内より生起せる因果の作用となるに相違ない。要するに真如と因果とは相離るべからざるものである。

       第五三節 仏教と因果との関係

 婆羅門教は造物主宰の梵王を立つるに反対して、仏教はこれを否定し、世界の本源、宇宙の実体は主観的方面より考察しきたり、ついに真如に帰したりしが、その真如が世界を開現するには、必ず因果の作用によらねばならぬ。真如は体にして、因果は用である。真如は身体にして、因果は手足である。故に仏教にてはこの世界万物は梵王の所造でなく、真如自体より開現したるものとし、その開現の作用は全く因果の理法に帰することになる。すなわち真如が因果の作用によりて世界を造出し、かつ主宰するということになる。しかしてその真如は宇宙の外に実在せるにあらず、万法すなわち真如なれば、この目前の世界すなわち真如である。この点は仏教がひとり婆羅門教と異なるのみならず、ヤソ教と異なるゆえんである。

 仏教は真如をもって体とし、因果をもって用として、世界万物を哲学的に説明せるものなることは前述の道理にて明瞭である。よって仏教の哲学門は大体において万法と真如との関係を究明せるものなれども、その関係は必ず因果の理法をもって説明したるものなれば、万法と真如と因果とは実に仏教の三大要素と申してよろしい。これを宇宙の体、相、用と名付けても差し支えない。すなわち真如は体、万法は相、因果は用である。

  真如(体)・・因果(用)・・万法(相)

 仏教の哲学門はまず万法を分析的に観察するに始まり、万法の変化生滅する根底に不変不化、不生不滅の本体あるを知り、その本体の絶対なるものを真如とし、この真如がいかにして万法を開現せしか、生滅変化ある万法がいかにして不生滅、不変化の真如より生起せしかは、因果の理法をもって説明したるものにして、真如、因果、万法の三種が仏教の三大元たることは疑いない。これを家屋にたとうれば、万法は屋壁のごとく、真如は土台のごとく、因果は柱のごとき関係を有することが分かる。これを再説すれば真如の自体に因果の作用を有し、因果の作用によりて万法の世界を開現するに至ったのであるから、世界は梵王や天帝によりて造出せられたるにあらずして、宇宙自体に固有せる因果によりて造出せられたりということに帰着す。故に古来仏教を指して因果教と呼びきたった次第である。

 小乗大乗その説くところおのおの異なりといえども、いずれの宗も因果を説かざるはない。実に因果は仏教諸宗を一貫する理脈である。ひとり哲学門においてしかるのみでなく、宗教門は全くこの理法に基づきて組織せられておる。ただしその因果が精神的にして物理的にあらず、主観的にして客観的にあらざるは、仏教哲学の主観的唯心的なるによるのである。たとえ真如は非物非心の絶対というも、主観的絶対たるを免れぬ。真如すでに主観的なれば、因果また主観的なるは当然である。故に仏教哲学は概して主観論にして、実大乗は主観的絶対論なりと断言せねばならぬ。

 

     第一一講 大小乗宗教門(一)

       第五四節 哲学門と宗教門との関係

 仏教は哲学門において考定したる結論を実際に応用して、宗教門を開くに至ったが、哲学門は智慧の眼によりて真理の自体、真如の実在を認知するにとどまり、宗教門は更に実行の足によりて、吾人が真如に体達し冥合し同化する方法を指示するものである。かくのごとく哲学と宗教とが互いに関連しておるは、仏教の特色といわねばならぬ。西洋にありては哲学と宗教とは全く別途にして、その間に直接の関係はない。哲学の方にては単に宇宙の真理を考定するだけにて、その結果を宗教に応用することなく、宗教の方にては神告や天啓を本として起こりたるものにして、哲学の道理を土台として組み立てたものでない。ヤソ教と仏教との相違は帰するところこの点に基づくと思う。

 かくして哲学門の結果が宗教門を開くに至ったとすれば、哲学門の結論を再言する必要がある。まず第一に涅槃、真如の実在を説かねばならぬ。小乗大乗おのおの真如の状態を説明すること同じからざるも、真如の実在だけは確実なるものと定めておる。これが宗教門の目的物となり、吾人の目的地となるのである。吾人は生滅変化の世界に出没昇沈しておるものなるが、真如、涅槃の境遇は不生滅、不変化でありて、吾人も将来この境遇に昇進転入するを究竟の目的としておる。しかして生滅の世界を海に比し、不生滅の世界を岸に比し、涅槃を彼岸と名付け、生滅の海を渡りて彼岸に至る道を教うるのが宗教門である。

 第二に因果の理法を信じなければならぬ。吾人が生滅界を脱して涅槃界に入るに、全く因果の階梯を経由するを要するは、あたかも高き堂上に昇るには階段を要するがごとくである。すなわち真如の堂上に入るには因果の階段を踏みつつ昇進せねばならぬ。その階段を昇進するにつきて種々の規定がある。これを観行、戒法等と名付けておるが、すなわち修行の課程である。その課程を総括していうときは戒と定と慧との三種に帰するも、その説明はのちに譲る。これらの修行の課程は小乗大乗おのおの異なりて、あるいは簡単なるもあり、あるいは煩雑なるもあり、あるいは修めやすきもあり、あるいは行い難きもあるが、いずれも因果の理法に基づきて設けたるものなるは疑いない。

 仏教の因果は精神的主観的たることはさきにしばしば述べたりしが、宗教門にてはこれを道徳的に分類して、善因善果悪因悪果と説き、ひとたび善因を修むれば、必ずこれに相応する善果を招き、ひとたび悪因を養えば、必ずこれに適当する悪果をきたすものと立てておる。これを因果応報と名付けておく。吾人が福を得、または禍にあうことあらば、ヤソ教のごとき有神教にてはその原因を神の賞罰に帰するも、仏教にてはこれを因果応報に帰し、自ら修得せる善因、もしくは悪因によりて招ききたすものにして、いわゆる自業自得であるとする。故に仏教にては神が人を賞罰するにあらずして、因果が人を賞罰することになる。

第五五節 善悪の定義および因果の種類

 因果に善悪を分かつ以上は、善悪の定義および標準はいかにとの問いが起こるであろう。これに関する仏教の説明は、行為の結果につきて定むるものと、原因につきて解するものとの二様になっておる。結果につきては安穏業を生ずる方を善とし、不安穏業を生ずる方を悪としておる。安穏業とは幸福快楽の果を招く方をいうのである。また原因につきては正理に従うと違うとによりて判別することになっておる。その理とはつまり真如の理を指すものなれば、真如に向かって進む方は善となり、これに背きて下がる方は悪となるのである。

 また因果につきて正邪を分かつことがある。たとえば婆羅門教にて世界万物は梵王の所造にして、吾人の苦楽禍福は梵王の意より起こるとなすがごときは、これを邪因邪果といい、これに反して仏教所説の因果は天地自然の道理にて、自ら善業をなせば必ず善果を招き、悪因を修むれば必ず悪果を感じ、応報実に歴然たるものにして、たとえ神にても仏にても、随意にこの規則を動かすことあたわずと立ててある。これを正因正果と名付けておる。しかしてそのいわゆる善果とは楽果を感じ、悪果とは苦果を感ずるものをいう。故にもし最上の善を修むれば最上の楽果を得るに至る。これすなわち極楽である。もし極重の悪因を修むれば極重の苦果を結ぶに至る。これすなわち地獄である。これをもって、極楽に生まるるも地獄に陥るも、他の干渉を受けず、全くその当人の自ら招き致すところとするのを正因正果というのである。

 また因果の種類に世間、出世間を分けておく。まず世間の因果とはこの世界この娑婆にありて善悪の諸因を修め、これに相応する果を招ききたすことをいうのである。吾人の毎日または一生間はもちろんすべて生前死後といえども、生滅転変の万法界に出没流転する方の因果は、みな世間因果の中に摂まる。つぎに出世間の因果とは生滅界を脱して不生滅界すなわち涅槃界に入る方の因果である。万法界は差別相対の世界なれば、その因果もみな相対的なるも、涅槃界は真如絶対の世界なれば、その因果は絶対的である。もしこの絶対の楽果よりみれば、相対の楽果はなお苦果たるを免れぬとして、相対の善果より進んで絶対の善因を修め、絶対の楽果を得るを大小両乗における究竟の目的としてある。

       第五六節 仏および衆生の解釈

 哲学門において万法を観察して真如あるを証見し、更に真如より万法を生起する理を考定するは、全く因果の理法によること明らかである。実に因果の理は万法と真如との関係を明示しておる。ここに一圏を描き、仮にその外囲を万法とし、その中心を真如とするときは、その中心と外囲とを連結するものは因果の理法である。すでに真理が因果の作用によりて万法を開現したりとするときは、万法界にある吾人はまたこの因果の作用によりて真如に体達し得べきは、実に必然の道理である。この点がまさしく哲学門の結論より宗教門を開く論理の管鑰なりと思う。

 もし吾人が万法界より出世間的善果を修めて真如の本境に体達するに至れば、これを仏または如来という。如来は仏の異名に過ぎぬ。仏と真如とはその体を一にすれども、その状態を異にしておる。真如自体は万法の本体、因果の真源なれば、決して修行によりて真如となりたるものではないが、仏は因果の規定によりて真如に合体したるものである。故に仏を解して覚者という。覚者とは真如の理を観照覚了して、これに体達したるものとの意味である。すでに第四七節に述べしがごとく、仏に法身、報身、応身の三体を立つるが、法身は真如の体を指すこととなり、報身は因果の修行を積みたる方を指すこととなる。つまり仏を裏面よりみるときは、真如と同体なれば法身仏となり、表面よりみるときは、報身仏となる道理である。故に吾人が万法の境遇より進んで仏果に至る方は報身仏となるわけだ。しかし報身の仏果に至りてみれば、わが身は真如と同体となり、報身も法身も無差別となるから、三身即一というのである。

 かかる次第なれば哲学門にては真如を目的として説かねばならぬけれども、宗教門にては仏を目的として説く方がかえって都合がよいと思う。また万法は実大乗の所見によるに、その体みな真如なれば、山も川も草も木もみな仏となり得る理なれども、実際上にては生あり情あり心あるものにあらざれば成仏すること難いから、仏になる相手を挙ぐるときは、いつも衆生といっておる。衆生とは一切の生あり心あるものの総称である。あるいはこれを有情という。ヤソ教にては人類のみ天帝の救済を受くるように説けども、仏教にては人類のみならず、一切の生あり情あるものはみな成仏することができると立ててある。よって哲学門の万法と真如との関係は、宗教門にては衆生と仏との関係となる。しかして衆生が進んで仏となる階段は因果の理法なることは哲学門と同一である。故に便宜上前図を上図のごとく変じて、仏を中心とし、衆生を外囲として説明したいと思う。

       第五七節 慈智迷悟の別

 仏は覚者であるが、その覚に自覚、覚他の二種ありて、自覚は自ら真如の理を開悟する方なれば智慧の力により、覚他は他をして開悟せしむる方なれば慈悲の徳によるのである。しかして仏は自覚、覚他を兼備し、智慧も慈悲も共に円満したる体である。その仏に次ぐものを菩薩という。菩薩とは覚有情と解し、衆生中の覚者にして、一歩を進むれば仏地に至るものをいうのである。菩薩に対して吾人のごとき拙劣なるものを凡夫と申すが、その凡夫が修行によりて進んで菩薩となり、また仏となることができる。

 仏菩薩の境涯を悟界といい、凡夫の境涯を迷界というが、迷悟の別は無明煩悩の有無によりて分かるるのである。無明と煩悩とは第一〇節に述べしがごとく、この世界には一定の我とすべき体なきを誤り、実我ありと固執して罪悪を造るに至る方につきていう。すべて成仏の障礙となる迷執をいうのである。その迷執を払い尽くすに至ればただちに悟となる。古来仏教の目的を示して転迷開悟というは、人をして迷界を脱して悟界に至らしむるの意であることは言を待たぬ。また迷界は苦界にして、悟界は楽界である。故に仏教は脱苦得楽の法なりとも申しておる。

 仏教が哲学的宗教、智的宗教なることは仏を解して覚者とし、その覚は智慧の作用なりとするをみても分かる。また吾人が迷を起こす原因を無明とし、智慧の明らかならざるに帰し、迷悟のよって分かるるは智慧の明暗より起こるものとする等をみても知ることができる。すなわち吾人が智慧によりて真如の実在を認め、智慧によりて迷因を断滅し、智慧によりて仏果に昇進するを説き、すべて智慧を本としてある。かくのごとく仏果を証見する智慧を菩提という(第六節参看)。仏書中に菩提心を起こすと説いてあるはこのことである。故にその智慧は世間普通の智力にあらずして、出世間的真智である。もし吾人が仏果に達して再び衆生界に向かうときに、その智慧が慈悲となる。すなわち慈悲は智慧の光の反射である。よってこの二者をもって仏の二徳と定めてあるも、その実一徳である。

 仏教は智的宗教であるから、むろん主観的宗教である。なかんずく大乗は徹頭徹尾主観的なれば、『華厳経』に「心と仏と衆生、この三差別なし。」          と説いておる。その意は衆生が仏に達するにも、仏が衆生に通ずるにも、いずれも心によらざるはなく、吾人が迷うも悟るも、一心の作用にあらざるはなく、仏はこの心によりて悟りて仏となり、衆生はこの心によりて迷って衆生となり、心の方より観ずれば仏も衆生も同一なることを示したる語句である。しかしてこの心、仏および衆生はその体、一真如に外ならぬことは論を待たぬ。

       第五八節 修行の規程

 衆生が仏になるには、因果の規則によりて善因を積まねばならぬが、これを積むにつきて種々の規律がある、課程がある。婆羅門教にありては、天界に生まるるには苦行を積まねばならぬと教えて、肉体の上に自ら体刑を行い、あるいは五体を焼きつけ、あるいは傷つけ、あるいは飢寒の苦を忍ばねばならぬように説く宗派がある。仏教よりこれを苦行外道と名付けておく。これに対して仏教は四肢百体を苦しむるに及ばず、安身して成仏し得ることを教えておる。これいわゆる楽行教である。しかし身心を放逸ならしめざるために、多少言行を抑制する道徳的規律を設けておく。

 まずその規律としては五戒十善の名目がある。五戒とは殺生戒、偸盗戒、邪婬戒、飲酒戒、妄語戒でありて、そのいちいちの意味は説明を要せずして分かる。十善とは左表のごとくこの五戒を身、口、意の三業に分けて細説したるものである。

  第28図表

        十善 身業 三 不殺生

                不偸盗

                不邪婬

           口業 四 不妄語

                不綺語

                不悪口

                不両舌

           意業 三 不貪欲

                不瞋恚

                不愚痴

 そのうち、口業の四種だけを弁別するに、不妄語は心に違いたる語を発せざること、不綺語は戯れに類する語を発せざること、不悪口は誹謗罵詈せざること、不両舌は二様の語を放ちて、人をして離間せしむるに至らざることである。その他は説明を要せずして知ることができる。

 右の五戒十善は世間的道徳なるが、更に進んで成仏せんとするにつきては六度の修行というものがある。その第一は布施の修行にして、慈善を行うことである。第二は持戒の行にして、前の五戒十善のごとき行を修むることである。第三は忍辱すなわち忍耐、第四は精進すなわち勉強のこと、第五は禅定すなわち心を静定すること、第六は智慧すなわち真智を開発することである。また仏道の修行を総じていうときに戒定慧三学の名目を用いておる。戒とは五戒等の戒律にして、宗教的法律と称してよろしい。これは身心の行動を外部より抑制する方法である。定は禅定にして、内部より乱心を鎮静する方法である。慧は智慧の略にして、智慧をみがきて煩悩の迷闇を照破する方法である。この三者を学と称するは修習の義である。

 その他、修行に関する種々の名目あれども、ここに略することにしておく。なにほど多くの名目ありても、この戒定慧三学の中に入らざるものはない。その三学は身心を抑制する規程なれども、婆羅門の苦行とは天地の相違がある。そのうち戒律の方は小乗にてもっぱらこれを用い、大乗においては戒律を説けども、小乗のごとく煩わしきものではない。畢竟小乗は外部の制裁すなわち行儀作法に重きを置く方なれば、むしろ戒行教と名付けてよろしい。これに反して大乗は心を主眼とし、内部に重きを置く方なれば、小乗に区別するために、余は観行教と名付けたいと思う。観行とは心を静め、智を明らかにして、宇宙の真理を観照徹底することだ。その比較表は第29図表のとおりである。しかして、小乗にも観行あれども、今は大乗と比較してその重きを置く方をとりて、かく分類したるまでである。

  第29図表

       インド宗教 苦行教(婆羅門教)

             楽行教(仏教) 戒行教(小乗)

                     観行教(大乗)

 

     第一二講 大小乗宗教門(二)

       第五九節 小乗の観行

 小乗は婆羅門教の実我説に対して無我観を起こし、我執の迷を除かんとすることは、哲学門においてすでに述明せるところであるが、その点がただちに小乗の宗教門の起点となっておる。そもそも吾人をして生滅界に浮沈せしめ、生死の苦を継続せしむるものは実我の迷執であるから、まずその迷の根本を絶滅しなければならぬ。いよいよこれを絶滅し終われば、生死の苦界を脱して涅槃の彼岸に至るを得ると説いておる。しかしてその涅槃は灰身滅智の無意識的、死物的涅槃なることは、第二一節に所述のとおりである。

 この彼岸に至るには因果の規則に基づき種々の戒行、観法を履修せねばならぬ。なかんずく四諦の理を観照するを必要としておる。四諦とは苦集滅道の四諦にして、有為の諸法はいずれもみな生滅無常の苦を免れぬ。故にその諸法を指して苦諦といい、この苦果を招き集むる因の方を集諦といい、無為寂滅の涅槃の方を滅諦といい、生滅界を脱して涅槃に入るべき道程を道諦というのである。他語にていえば集因によりて苦果をきたし、道因によりて滅果を得るの関係を四種に分かちたるものである。もしこれを迷悟に配当すれば左表のごとくとなる。

 この四諦を観修するものを声聞と名付けておるが、声聞とは諸仏の声教を聞きて修証するというの義にして,迷界を脱して悟界に入る階級の初位にあるものの名である。四諦の外に十二因縁の理を観照する規則がある。そのいちいちの名義はここに略し、その要は無明煩悩より種々の行業を醸し、次第に縁起して生死輪廻の境涯を現

  第30図表

       四諦 迷界因果 迷因・・集

               迷果・・苦

          悟界因果 悟因・・道

               悟果・・滅

ずる状態を一二段に分かちて示したるものである。これ善悪因果の理を具体的にしたるものにして、前に述べたる業感縁起の次第を明示せるものに外ならぬ。この理を実究して世相の無常無我なることを達観するのがその観法である。これを観修するものを縁覚と名付けておる。縁覚とは十二因縁を観じて、不生滅の理に体達するの義である。これを悟界の第二級としておく。そのつぎは六度の行を修めて仏になるものにして、これを菩薩といい、悟界の第三級すなわち上級に位するものとしてある。つまり迷界に出没する凡夫が悟界に向かう方において、その人の機根と修法とに応じ、声聞、縁覚、菩薩の三階段を設けたるものである。しかして菩薩の上を仏といい、これを悟界の最上におく。

  第31図表

       仏道修行階級 迷門(凡夫)

              悟門 声聞・・四諦

                 縁覚・・十二因縁

                 菩薩・・六度

                 仏(究竟地)

 これを要するに小乗にてはこの世界は生老病死の境遇にして、転変無常なるが故に苦界なりとし、ひとたび死してまた生じ、苦に継ぐに苦をもってし、永く生死の間に流転輪廻して、苦を脱することあたわざるを見、その苦因を究め尽くし、生死を遠離する道を求むるために、声聞的人物は四諦を観修し、縁覚的人物は十二因縁を観修するのである。その外、小乗にては五戒十善はもちろん、種々の戒律、行法ありてこれを実修することを説いておるも、あまり煩わしければ略しておく。

 仏教は因果教でありて、因異なれば果もまた異なるものと定めてあるから、種々の観法、種々の戒行、種々の戒定慧三学を設け、これを実修したる程度に応じて、その人の得果がみな違うことになっておる。故に四諦を観修する声聞と、十二因縁を観修する縁覚とは、その成果の点において相違があることになる。あたかも同じ小学校にても、尋常科を卒業したものと、高等科を卒業したものと、その資格が違うと同じようなものだ。仏教の立て方は、ヤソ教のごとく天帝の意志によりて賞罰するのでなく、因果の道理によりて資格が定まるのであるから、この相違の起こるはもとより当然のことである。

       第六〇節 小乗の仏果

 大乗より小乗をみれば、四諦にせよ十二因縁にせよ、諸法無我の理を観ずるのみにて、いまだ諸法の体もまた空なることを観ぜぬ。他語にていえば我空法有観にして、我法二空観でない。これつまりその観修するところの程度の低きものなれば、いまだ真の仏果の地に至ることはできぬと申しておる。また小乗は自利の修行にして、利他の修行でない。四諦、十二因縁共に世の無常を悟りて、自ら利するというにとどまる。しかるに仏は自利利他円満せる果体なれば、小乗の自利のみの因行によりて、成仏のできる道理はない。それ故に小乗は阿羅漢果を得て、仏果を得ずという。阿羅漢果とは小乗の修行によりて達したる果位を指したる名目である。これ因異なれば果もまた異なるの道理より起こっておる。

 小乗にては利他の修行なしとするも、全くなきにはあらず、すでに小乗中にも菩薩は六度を行じて仏果に至ることを説いておる。また六度の中に布施の行が加わりておるが、これは利他である。しかるに大乗にては菩薩に小乗の菩薩と大乗の菩薩との二種を分かち、その間に大いなる相違あることを説いておる。たとえ小乗の菩薩の修行中に利他の一行ありとするも、大乗の利他と同日の比でなく、また小乗の菩薩は諸行無常、諸法無我を証見するも、万法唯心、有空中道の妙理に達観せざるものなれば、その識見狭小にして真の仏果に至るべからずと申しておる。故に小乗の菩薩が証得したる涅槃は灰身滅智、空々寂々、あたかも灯の滅して暗夜となりたるがごとき暗黒的涅槃であって、大乗の涅槃とは昼夜の相違があることを忘れてはならぬ。

 小乗は哲学門において婆羅門教より大いに見識を進めたるものなれども、大乗よりはなお下位にあると同じく、宗教門においても婆羅門教よりは一段高くして、大乗よりはなお低きものである。かつ小乗はこの世の苦をいとうて脱離せんというにとどまり、この世に向かって活動することがない。たとえば生滅界を脱して涅槃界に入れば、諸識みな滅して空寂に帰してしまい、ひとたび涅槃に入りたるものが、再びこの世に来生して、利他のために活動することはできぬ。これに加うるにこの世は全然苦界と観了するのみにて、この苦界のそのままを楽土とすることを説かぬ。この点は小乗の厭世教たるを免れぬところにして、大乗と雲泥の相違あるわけである。しかし大乗の哲学門は小乗においてその基礎を築きたるがごとく、大乗の宗教門も小乗においてその土台を組み立てたるものであるから、全くこれを仏教外の教とすることはできぬ。さきにも述べしがごとく、小乗を小学教育に比し、権大乗を中学、実大乗を大学に比して考うべきものであろうと思う。

       第六一節 権大乗の二執二障

 権大乗法相宗にては小乗の上に一歩を進め、我空および法空の理を観じて実我実法ありと執着するいわゆる我執法執を払い去り、真の涅槃に入ることを知り、また唯識中道の理を観じて真の仏となることを説いておる。小乗にては諸行無常、諸法無我の理を達観するも、いまだ中道実相の理を開達するに至らず、ただこの中道実相観は大乗に限ると定めてある。しかして中道実相とはいうまでもなく、一切諸法の中に真如中道の理を有するを指す語である。今、権大乗にても一物一法中に中道の妙理を達観し得ると立つるをもって、小乗と大いにその趣を異にしておる。

 法相宗においてはこの我法二執に対して、煩悩障、所知障の二障あることを説いておる。煩悩障とは煩悩の迷雲が吾人の心を遮りて、真如涅槃の理を認むることあたわざらしむるをいう。障とはすなわち障礙の義である。つぎに所知とはわれが知らんとするところの諸法の対境を指す語である。故に所知障とは吾人がその境に迷い、諸法の実有を固執し、菩提の智を遮りて生ぜしめざるの意である。これを我法二執に配合すれば、煩悩障は我執を本として、あるいは貪欲を起こし、あるいは瞋恚を起こすの類いにして、色受想行識の五蘊の作用に迷うて起こりたるものである。所知障は法執を本として、所知の境涯に迷うものなれば、五蘊の法体に迷うて起こるものである。念のために左に図表を掲げて示そうと思う。

  第32

  図表

     執障 我執・・煩悩障(迷五蘊用)

        法執・・所知障(迷五蘊体)

 この二障は第八阿頼耶識にはなきものにして、他の七識にはこれを起こす作用ありという。なかんずく我法二執のよって起こる根本は第七末那識と定めてある。

 吾人はこの二執二障を有するによりて、生滅界に流転輪廻し、永く真如涅槃の理を覚知することあたわず。したがって常楽至安の境に進入することあたわずとなし、いかなる修法によりてこの二執を脱し、二障を除き得るかを教うるのが法相宗の宗教門である。二障につきては麁細強弱の不同ありと申して、煩悩障の方は麁にして強く、所知障の方は細にして弱く、したがってこれを退治するに難易の別ありて、前者は除きやすく、後者は断じ難しと説いておる。かくのごとく難易の相違あるが故に、小乗の人は煩悩障を断尽するも、所知障を除去するに至らず、よくこの二障を断滅し得るものは大乗の人に限る。あたかもわが国の小学にあるものは内国の語を知ることを得るも、外国の語を解することができぬ。しかしてよく内外両国の語を解し得るものは、中学以上の人に限るというがごとき類別である。

       第六二節 権大乗の仏果涅槃

 これらの諸執諸障を断尽して、真如の理を証見し、仏果の地に昇進するには、いかなる観行を実修せねばならぬかというに、そのかなめは哲学門において説きたる「森羅万象はただ識の変ずるところなり。」(森羅万象唯識所変)の理を悟得するに外ならぬ。この観行に関して種々の階梯を設け、漸々に観修して二執二障を断滅するに至る次第である。ここに転識得智という語があるが、その意は有為の八識を転捨して、菩提の真智を開得する義である。かくして得たる結果はすなわち成仏なること言を待たぬ。

 法相宗にては涅槃に四種を分かちて、小乗大乗の別を示しておる。第一は本来自性清浄涅槃と称し、真如の自体の本来清浄にして、煩悩雑念のために汚されざるの義である。一切の衆生はみなその心底にこの本性を具有しておるも、妄念の雲におおわれてその光を示さぬ。かかる涅槃は小乗にて説かざるところにして、大乗特有の説明である。第二は有余涅槃といい、煩悩障を断尽して、その心は生死の苦界を離れたるも、五蘊所成の身を余して、身体のなお存する間を指す語である。第三は無余涅槃といい、煩悩を断滅したる上に、苦を感ずべき身体も滅して、更に余すところなきの意である。この第二と第三との涅槃は小乗にも通ずるが、ただ小乗は灰身滅智の状態にして、大乗は智光円照の涅槃なるの別がある。第四は無住処涅槃と唱え、ひとたび真如の理を証見して成仏したる上は、生滅界にも住せず、涅槃界にも住せず、涅槃に入りながら、あるいは出でて衆生を利益せんために、この世界に往来することがある。大乗の仏は広大なる智慧と慈悲との二徳を兼備しておるから、大智の故に生死に住せず、大悲の故に涅槃に住せず、自利利他の二行を円満することを無住処涅槃というのである。これは小乗にて唱えざるところにして、大乗に限る所説と申しておる。この涅槃の説明によりて小乗と大乗との真如および仏果の状態のいかに異なるかをたやすく知ることができる。

 終わりに権大乗の宗教門の実大乗に異なる点を挙ぐれば、法相宗にて五性各別と立つる一事である。五性とは衆生中に成仏のできるものとできざるものとの別あるを五とおりに分けたのである。その第一は小乗の声聞性の人にして、四諦の理を観修し、これに相当する果を得るものを指す。この人は仏になることのできざる性である。第二は小乗の縁覚性の人にして、十二因縁を観修し、これに相当する果を得るものをいう。これまた仏になることのできざる性である。以上の二者は自利のみの修行に過ぎぬ。第三は自利利他の修行を積みて仏になるべき菩薩の性を有するものをいう。この三種の衆生はおのおのその生来において異なりたる性を有するものとし、その性に相応する果を得るものと立つる説にして、この三性各別を唱うる宗、すなわち法相宗を三乗教と名付けておく。三乗とは申すまでもなく、声聞、縁覚、菩薩の三とおりの乗物が人によりて異なるをいうのである。第四は不定性にして、前三性中、声聞性の人が縁覚または菩薩に漸進し、あるいは縁覚性の人が菩薩に昇進することを得る性を有し、その結果の必定し難きをいう。第五は無性有情にして、全く小乗の涅槃にも大乗の涅槃にも証入することを得ず、本来仏縁なきものをいうのである。これを五性各別、三乗各別の法と名付け、権大乗に限る所説としてある。もし実大乗に至らば一切皆成仏を唱え、成仏、不成仏の別を立てぬ。これを権大乗の三乗教の名称に対して一乗教という。すなわち一切衆生みな同じく仏果に至るの一つの乗物あるのみという意味である。

 

     第一三講 大小乗宗教門(三)

       第六三節 三論宗の成仏説

 権大乗の有門たる法相宗の外に、空門たる三論宗あれば、その宗教門につきても一言せねばならぬ。三論宗は一切の衆生本来これ涅槃なれば、いずれのところにか迷悟あらん。すでに迷もなく悟もなければ、仏、衆生の別もなしとし、あらゆる差別を排除したる立て方なれば、成仏、不成仏を論ずるを要せぬ主義である。かく談ずるのをもって真諦門の沙汰とする。もし俗諦門にきたらば、仮に迷悟、成仏不成仏の差別をみるも、これもとより仮有にして、真有ではない。いやしくも吾人の心に有と執する点あれば、ことごとくこれを払い去り、すこしも差別の見をとどめざるに至らねばならぬ。しかるときに真如の月が湛然としてわが心水に浮かび、本来これ仏の真相をあらわすものとするのが、三論宗の宗意である。このことをその宗にては有所得の妄見を破遣して、無所得の正観を開現すと申しておる。

 法相宗は衆生に成仏性と不成仏性があると説き、五性各別、三乗各別の立て方であるから、実大乗にてはこれを三乗教と名付けて、真実の大乗にあらずとするも、三論宗は一切衆生みな成仏することを説く故、その点にては純然たる実大乗である。すべて実大乗は一切皆成仏を唱え、ひとり生あり情あるもののみならず、国土山川までも成仏するを得と説くほどなれば、自ら一乗教と称し、だれもかもひとしくその教の船に乗りて、成仏の彼岸に達するを得るという。三論宗も宗教門にありては、一乗教であるから、実大乗とみて差し支えない。

 法相宗にて五性各別を唱うるは、その哲学門の立て方が真如よりただちに世界を開現することを説かざる故である。しかして天地万物は第八阿頼耶識の体内に包蔵せる各種の種子の開発によるとするから、種子の異なるに従って開発する果に不同を起こすわけになる。これを世間の実際に考うるに、現に成仏のできるものとできざるものがあり、また全く宗教心を有せざるがごときものもあるのは、その人の有する種子にすでにその相違があるものとして、五性各別論を唱うるに至ったのである。しかるに実大乗にては真如縁起を唱え、真如自体より万法の生起するを説き、万法すなわち真如なるは、波すなわち水なるがごとしと述ぶるをもって、一切衆生みなこれ真如にして、ことごとく成仏する道理あることになる。「国土山川、ことごとくみな成仏す。」(国土山川悉皆成仏)を唱うるもこの理によるのである。故に権大乗、実大乗の宗教門の相違は哲学門の相違より起こっておる。

 このいわゆる三乗教と一乗教とは古来互いに優劣を争い、三乗教の方は一乗方便、三乗真実と唱え、一乗教の方は三乗方便、一乗真実と唱え、自尊排他してやまざる有様である。もし局外よりこれをみれば両教おのおの長ずるところがあることになる。三乗教は実際に重きを置いてみるから、悉皆成仏は信じ難い。ことに草木国土まで成仏などとは思いもよらぬことである。しかるに一乗教は理論に重きを置くから、一切皆成仏を説かねばならぬようになる。ただそのみるところの異なるより所説の不同が起こるのである。

       第六四節 仏と衆生との異同

 一乗教の中心となり、一切皆成仏の本家ともいうべきものは天台宗の宗教門である。その哲学門にては真如即万法、万法即真如と説きたる理を宗教門に当てはめきたりて、煩悩即菩提、生死即涅槃と説き、一切の衆生は煩悩に束縛せられながら、そのまま菩提の悟りの身である。また生死の世界に出没漂流しながら、そのまま涅槃の仏の境涯であると唱えておる。それ故にわれすなわち仏なり、此土すなわち極楽なり。わが身を離れて仏なく、此土を離れて極楽なしとも申しておる。絶対的一元論の実大乗の哲理よりみれば、かく論定するに至るべきは当然である。

 煩悩すなわち菩提、われすなわち仏というならば、吾人は修行するに及ばず、戒法も観行も無用であるという説を起こすものが出てくるであろう。これに対する天台の答弁は氷と水との比喩を用うることになっておる。真如は水のごとく、われら衆生は氷のごとくである。たとえわれらの本性は真如の水に相違なきも、無明煩悩のために凝結して迷いの氷となっておるから同一とはいわれぬ。果たしてしかりとせば、この氷を溶解するにあらざれば、仏となることはできぬ。故に仏と衆生とは別物であると説いておる。すなわち氷と水とは異体なれども、これと同時に氷は水の用をなさず、水は氷の形を有せざれば異体であると同様だ。この比喩により仏は煩悩の氷の解けて、真如の水に同化したる場合をいうことが分かる。

 右様の道理によりて衆生と仏との懸隔あることを説く。しかしてその関係は不一不二とする。もし理論上その体につきていえば、仏と衆生とは不二である。もし実際上その用よりいえば二者不一である。これにおいて天台にては理論門と修行門とを分かち、修行門の方にては衆生と仏、凡夫と菩薩とは同一ならざれば、吾人は必ず種々の観法を重ね、修行を積まねば、決して仏にならぬと教えておる。しかしてその一家独特の修行は哲学門に説きたる一念三千、一心三観の理を観修するに外ならぬ。この修法に従って諸迷を払い、真智を開けば、たちまち成仏することになる。

       第六五節 天台宗の観行

 天台は空仮中の三諦三観を原理として、哲学門および宗教門を組み立ててあるから、無明煩悩の方を三とおりに分かち、これを三惑と名付けておく。惑とは煩悩の異名である。すなわち空観をもって断ずべき惑と、仮観をもって断ずべき惑と、中観をもって断ずべき惑との三種に分け、これをいちいち三観を実修して断尽するのが天台の宗教門である。かくしてこの三観により三智を開き、三徳をあらわすと唱えきたるも、その三智三徳みな三観に相応じて定めたる名目に過ぎぬ。その実は真如自体に固有せる絶対の智徳である。故にいちいちその名目を挙ぐることは略しておく。

 万法ことごとく真如なるが故に、一切衆生ことごとく仏性を有せりとは、これまた一乗家の説くところである。仏性とは真如の本性をいう。その本性あるが故に、一切衆生ことごとく成仏することができる。しかるにこれを開顕するに修行を要するは、たとえば珠玉に光沢の性を有すれども、琢磨を待ちて初めて光を発するがごとく、本有の仏性も琢磨せざれば仏の光明を放たぬ。故に観行を修習せよと教えておる。もしこの理を推演するときは、生あり情あるもののみ仏性あるにあらず、瓦石も山川もみな仏性を有することになり、衆生のみ成仏するにあらず、無生の物質も成仏することになるわけだ。これを天台にては草木国土悉皆成仏、または国土山川悉皆成仏と説いておる。これが一乗教の最上至極の妙趣であろうと思う。

 華厳宗にては仏性と法性とを分かち、その二者共に真如の理性を指したる語なれども、情を有するものにある方を仏性と名付け、情を有せざるものにある方を法性と名付けて、二者を区別するきまりなるが、天台にてはその別を立てず、無情無生のものにみな仏性ありと定めて、悉皆成仏を唱え、有情、無情の差別をみるは凡夫の迷見に過ぎずとし、物心不二、事理一体の所見をもってすれば、水土瓦石も修行によりて成仏すべきはむろんであるという。もしいかにして山河大地が観行を修し得るかと追尋するに、吾人ひとたび観行を修習すれば、その功徳は十方の世界に融通し、一人の修行が万界の修行を助くることとなり、その結局山河大地をしてことごとく成仏せしむるに至るべしと申しておる。故にこれを一乗の極致と称するのである。

       第六六節 華厳の宗意

 つぎに実大乗中、華厳宗の宗教門を考うるに、すでに哲学門にて述べしがごとく、仏も衆生もただこれ一心に帰す。しかしてその一心は本来自性清浄の果海なれば、森羅の万象ことごとくそのうちに具足し顕現すといい、一切衆生成仏せることを説いておる。しかるに吾人はその理を知らずして迷うが故に、観行を修習せしめて、この妙境に体達せしむることを教えるのである。その観法に理無礙観、事理無礙観、事事無礙観等を設けておく。その解釈は第四六節の四法界につきて知ることができる。

 哲学門の十玄の法門によるに、一中に多を摂し、多中に一をいれ、永劫を縮めて刹那(最短時)に入るべく、刹那を伸べて永劫を兼ねしむべしとし、一界を挙ぐれば万界共に挙がり、一行を修すれば万行たちまちに成るの理を本として、一方において修行の階段を設け、長き年月を積まねばならぬがごとく説き、他方においては一念の短時に万行を具足して、成仏の利益あることを示しておる。故に一行すなわち一切行、一位すなわち一切位とも説き、また一念すなわち無量劫、無量劫すなわち一念とも説いておる。これみな事事無礙融通自在の理より転用しきたりたる説明である。

 またこの事事無礙の理に基づきて、いちいちの微塵中に十方の世界あり、いちいちの毛孔中に無数の仏土あり、一仏の毛孔をうかがえば、一切衆生ことごとくその中にあるを見ることを説き、あるいはいちいちの蓮華中に幾億万の仏身を現じ、いちいちの毛端に一切の世界の光明を放つことも説いておる。かくのごときは妄誕を極めたる言に似たれども、事々物々融通無礙の理より推演しきたれる結論にして、つまり理想の玄妙なる極致を開示したるものである。

 華厳宗においてかかる玄妙の法を談ずるは、その所依の本経たる『華厳経』が釈迦仏成道して最初に説かれたる法門なる故である。その当時の仏の心内には一切万象ことごとく映現し、一切の法門、一切の教理、一切の功徳の円満しおりたるに相違ない。そのありのままを説かれたるものが『華厳経』にして、すなわち仏果最上の境遇より洞視したる所説である。その他の宗旨は仏が衆生の相手に応じて加減取捨したる説である。この理によりて華厳をもって最高の法門と定めておる。しかしてこれより更に一転して出でたるものは真言の宗旨である。

       第六七節 真言宗の行法

 つぎに実大乗中の真言宗の所説は、物心差別の事相を本とし、真如平等の理性を末として立てたる法なれば、父母所生の身が速やかに大覚の仏果をあらわすことを説いて、肉身成仏を唱えておる。その理は哲学門にて述べしがごとく、この身は地水火風空識の六大より成り、この六大すなわち大日如来の法身なれば、われすなわち大日如来なるも、妄情雑念の雲に覆われて、本有の大日法身を顕現せざる状態におる。故にもし修行を積集すれば、たちまち即身成仏を見ることができると説くのが、真言の宗教門である。

 その修行いかんを尋ぬるに、三密加持の行と名付くるものがある。三密とは身密、語密、意密の三行である。身密とは真言一家の定むるところに従って手指を結ぶをいう。このことを手に印契を結ぶと名付く。語密とは口に一定の語を唱うることをいい、意密とは心をして一定の禅定に住せしむることをいうのである。これを密と名付くるは、その行法、甚深微細なる故なりという。しかしてこの三密は大日如来の自ら実行せらるるところにして、われら衆生をして大日の行うがごとく行わしめ、大日の唱うるがごとく唱えしめ、大日の観ずるがごとく観ぜしめて、即身成仏の仏果を得せしめ、この肉身の当体をして大日法身を開顕せしむるに至るべしという。つぎに加持とは加は加入、持は摂持と熟して、如来の三密と衆生の三密と互いに加入摂持して融合する意味である。

 真言の教義は実大乗中において一種の特色を帯び、天台、華厳共に心を本として、衆生の心すなわち仏なれば、この心を離れて仏あるにあらず、この心がそのまま仏になることを説くも、真言に至りては六大を本とし、六大所成の肉身の当体につきて成仏を談ずるの相違がある。しかし成仏、不成仏を分かたず、一切の衆生悉皆成仏を説く点は天台、華厳に異ならぬ。ただその説き方が有形の表面からみると、無形の裏面からみるとの相違に過ぎぬ。前にも述べしがごとく、論理自然の発達が漸々相進んでここに至りたることは疑いない。

       第六八節 理論宗の帰結

 仏教中の諸宗をその性質に従って理論宗、実際宗に大別し、更に理論宗を哲学門、宗教門に分かち、この二門を小乗、権大乗、実大乗の三段に区分してその大要を述べきたった。しかして宗教門の原理は全く哲学門において論定したるものに基づいておる。たとえば小乗の哲学門の涅槃はいまだ真如の真相を開示するに至らざるをもって、その宗教門の成仏は真の成仏にあらずといい、権大乗の哲学門の事理隔歴、種子各別の理に基づき、宗教門においても五性各別にして、成仏、不成仏の差別ありと説き、実大乗の万法は一真如に外ならざる理をとり、一切皆成仏を立つるがごときをみて、二門の関係を知ることができる。左に宗教門の異同だけを表示しておこう。

  第33図表

       宗教門 小 乗・・未到仏果

           権大乗・・衆生中有成仏性不成仏性

           実大乗・・一切皆成仏

 このとおり小乗、大乗の所説に深浅高下あるをもって、古来互いに優劣を争いしも、これと同時に衆生の根機に応じて、いずれも得益あることを許しておる。要するに仏教は応病与薬の法と称しきたり、衆生の病気一様ならざる以上は、これに投ずる法薬も種々あるのが当然である。もしその病に相応すれば、小乗のごとき卑近の法も脱苦得楽の益ありとし、互いに他を排すると同時に互いに相いるることにできておる。

 理論宗は理論に重きを置くも、その理論は全く宗教に応用せんために講究せるものなれば、哲学門の立論がことごとく宗教門の資料となり、一方の結論がただちに他方の柱礎となっておる。まず小乗の分析論にて、五蘊の外に人我の体なしというに基づきて、実我ありと執するを迷いの根本とし、この迷いを断滅するを宗教の目的とし、また権大乗の唯識観にて、心外に諸法の実在せざるを示したるに基づき、実法ありと思うを妄見とし、その見を除去するを宗教の要旨とし、また実大乗の中道観にて、万法と真如との関係を明かし、その結果に基づきて一切皆成仏を唱うるがごときは、みな哲学門の結論をただちに宗教門に応用したるものである。この唯識観、中道観などと名付くる方を仏教にて観門と申しておる。その観門はもとより哲学門の結論なれども、普通に観門を実行の方に入れ、宗教門の修行に属することになっておる。しかれども余は大抵これを哲学門に入れて述明しきたった。

 かくのごとく一仏教が種々なる宗派に分かれ、法門を異にする中においても、縦横に一貫せるものは因果の理法である。宗教門にて小乗、権大乗、実大乗、おのおのその所説に不同あるも、一として善因善果悪因悪果を根底とせざるものはない。一切の諸仏もみなこの規則に基づき、善因を積集して得たる結果に外ならぬ。たとえ仏は無礙自在の境涯なるも、因果の規則を変更することはできぬとしてある。したがってまた吾人が仏と同様の善因を積めば、同様の仏となることができる。よって真如は絶対唯一の体なれども、仏はいくたあるを知らぬほどにたくさんある。この点も仏教がヤソ教と大いに異なるわけである。

 真如は十方万界、一切万法に周遍し、至らざる所なく、存せざる地なきものなれば、もとより一定の人格を有するものにあらざるも、仏は法身を除くの外は、報身、応身共に一定の人格、または一個の存立を有するものである。これにおいて一仏あるいは諸仏を崇拝することが起こってきた。すなわち仏は吾人にさきだちて真如と合体し、真如の性徳をその身に開顕したる先輩なれば、仏教を信ずるものは、自然にこれを崇拝するようになる。ただに崇拝するのみならず、その力によりて成仏せんことを願うに至る。これ因果の規則に背くようなれども、やはり因果の道理によりて救済を請うに至るのである。その理由はつぎの実際宗を講ずるときに述べようと思う。

 

     第一四講 実際宗(一)

       第六九節 理論宗と実際宗との異同

 理論宗が理論に重きを置くに反して、もっぱら実際に重きを置く方を指して、余は仮に実際宗と名付けた。その宗名を列挙すれば禅宗、浄土宗、真宗、日蓮宗である。禅宗には臨済宗、曹洞宗、黄檗宗が分かれておる。また浄土宗と真宗とはこれを合して浄土門または浄土教と唱えておる。これらの諸宗は理論を有せざるにあらざるも、その論礎は理論宗、なかんずく実大乗諸宗のすでに論定せるところにして、ただその応用を異にするにとどまる。もとより理論宗も宗教門に至りては実際を説きたるものなれども、その応用の方法が時勢に適せず、かつ実行に困難なる点あるために、時代の要求に促されて、禅宗、浄土宗等の起こるに至ったのである。

 理論宗の講ずるところをみるに実大乗の哲学門が真如即万法、万法即真如なれば、これを宗教門に応用して、煩悩即菩提、生死即涅槃と説き、一切衆生みなこれ仏と唱えながら、その修行に至りては種々の階段を設け、雑多の規則を定め、容易に仏と成ることのできない傾きがありて、とにかく理論と実際と一致せざる風がある。ことに理論宗は世を避け俗を離れて修行せねばならぬように説き、万善万行を積まねばならぬように教うるも、かくのごときは到底一般の人々が実行し難いことである。これにおいて時勢に相応し、かつなんびともたやすく行い得る法を仏教の大海中より探り出したるものが実際宗である。

 理論宗と実際宗とその趣を異にするも、実際宗はことごとく実大乗の中に加わり、その原理はもとより同一である。すなわち三界唯一心、または一切皆成仏、または煩悩即菩提等の天台、華厳の諸宗にて定むる原理に基づきて宗意を立てたるものである。しかしてその修行の方法に至りては、極めて簡単平易にして、なんびとにても実行し得らるるように組み立ててある。天台、華厳等の諸宗はその特有の観法を修習するをもって足れりとせず、更に種々の戒律、行法をも実修せねばならぬようになっておる。しかるに実際宗にてはかかる繁雑なる戒行や、至難なる観法を実修せずして、成仏のできる道を開いた。換言すれば理論宗は成仏の遠路をとり、実際宗は近道を選びたるものである。

 もし仏教の本旨よりいえば、転迷開悟、脱苦得楽が目的である。しかしてその迷悟といい、苦楽といい、肉体上に存するにあらず、精神上に起こるものである。すなわち迷うも心、悟るも心である。迷うが故に苦しみ、悟るが故に楽しむも心である。ことに実大乗の極致は「三界はただ一心のみにして、心の外に別法なし。」(三界唯一心、心外無別法)である。しからばいたずらに難修の行法を設けて、身心の制裁を加うるよりも、ただちに真源にさかのぼり、心状を観じ、横道小路によらずして、頓速に安心し得る道を求むるにしかず。これに加うるに衆生本来仏、煩悩即菩提と説く以上は、即時に成仏できるのが当然である。なにを苦しんで迂濶なる修行を要するかというのが、実際宗の起こったわけであるから、仏教の一大革新というべきものである。故に理論宗は旧教にして、実際宗は新教と申してよろしい。すでに旧教を説き終わりたれば、これより新教を述べようと思う。

       第七〇節 禅宗の所立

 理論宗は講述の便宜上これを哲学門、宗教門に分かちたるも、実際宗はこの二門を設くる必要はない。なんとなれば実際宗の哲学門は理論宗においてすでに論定せるものに外ならぬ。まず禅宗の大要を述ぶるに、その名称は禅定宗の義にして、禅定を修めて悟道する意味である。あるいは仏心宗とも呼ぶことがあるが、その意は言教によらず、ただちに釈迦仏より心をもって心に伝えきたれる宗旨の義である。しかしてその由来は釈迦仏が成道以後四九年、小乗、大乗を説き終わりて、あるとき霊鷲山という所において一語をも発せず、ただ華を拈りてその座におる多くの人々に示されしに、一人のよくその意を解するものがなかった。ひとり迦葉ありて微笑したということだ。そのとき仏曰く、われに正法眼蔵、涅槃妙心あれば、これを汝に付嘱すといわれた。その正法眼蔵、涅槃妙心とは、つまり心のことだ。すなわち心をもって伝えられたのである。これを以心伝心の法という。これより次第に相承して達磨に至り、その法インドよりシナに入り更に数世ののち相伝えて日本に入りたるものである。

 もし禅宗の人に向かって、その宗意を問わば、必ず不立文字、教外別伝といい、また「じきに人の心を指し、見性を成仏となす。」(直指人心見性成仏)というて答うるであろう。他の宗はみな経論によって立てたるものなれば、おのおの所依の本経があるも、禅宗ばかりは以心伝心の法なれば、経論所伝の宗ではない。経論は月を指す指のごとしといい、経論の指を見んよりも、むしろただちに心の月を見よとの主義である。すべてだれにでもその心中には必ず真如の本性が潜在しておるに相違ない。しかしてこの本性を開現し得たるものがすなわち仏である。よって心の外に仏を求むるに及ばぬ。もし成仏せんと思わば、己の心の内に求めよとの立て方であるから、そのことを直指人心見性成仏と申したのである。

 かく不立文字宗の起こりしは、理論宗のみだりに経論の文句に拘泥し、一字一句の解釈を争うを本分とし、かつ多く読み、多く知り、多く記憶するを得意とし、経論の精神を忘れ、仏教の本旨に遠ざかるの弊ありし反動なること明らかである。しかし不立文字とはいえ、全く経論を用いぬというわけではない。文字に拘泥せず、経論に偏依せぬというのである。故に特に一経一論をもって所依とせず、一切の経論をもって所依とするを妨げぬ。すなわち指によって月を得るもまた一方便であるから、必ずしも指を無用視するに及ばぬ。しかるにすでに月を得れば指を忘れてよろしい。これを要するに人おのおのその機に応じて一切の経論を所依とするを妨げざるも、これただ方便にして、その目的とするところ他にあるを忘れざらしめんために、不立文字と申したのだ。これがその当時にありて禅宗の一見識を立てたところである。

       第七一節 坐禅の要義

 禅すなわち禅定は静慮とも訳し、心を静めて散乱せしめざる意であるが、理論宗にては小乗、大乗を通じて禅定を説いておる。すでに戒定慧三学と唱うる中の定は禅定である。また六度の行中にも禅定の一行を加えてある。しかのみならず婆羅門教中にも禅定がある。これを仏教にては外道禅と名付けておく。しかし禅宗のいわゆる禅は他の諸禅と相違しておる。たとえば人界の苦境を去りて、天上界に至らんと欲して禅を修むるのは外道禅である。善悪因果を信じ、我空の理を悟り、生死の苦を離れ、空々寂々、灰身滅智の涅槃に入らんために禅を行うものは小乗禅である。我法二空の真理を悟りて修習するものは大乗禅である。もしわが心、本来清浄にして、迷いなく煩悩なく、この心すなわち仏なるの理を悟りて修習するものは、最上乗禅と名付けておるが、禅宗はこの最上乗禅に当たるのである。故にその中には三学も六度も一切の万行を摂尽すと説いておる。これが向上の一路千聖伝えずと称して、達磨門下特有の禅と申すのである。

 すでにその宗は禅定を主とするものなれば、坐禅をもって要門とすること明らかである。今ここに坐禅に関する規則を述ぶるに、これに調身法と調心法の二とおりがある。しかして調身法は静室を選び、飲食を節し、手足五体の姿勢より呼吸の長短等に至るまで、みな一定の行法あれども、ここにいちいち説明することはできぬ。つぎに調心法をみるに、不思量底を思量す。不思量底の思量いかんというに、非思量なりと説いておる。これは禅家特別の用語にして、普通に解し難しといえども、要するに一切の心思識量を超過し、悪を思わず善を考えず、迷悟生死の念を脱却し、安住不動の地に体達し、一切の言論思慮を絶したる境涯に至るをいうのである。故にもし煩悩妄念を尽くさんと欲せば、必ず善悪の念慮を休止せしめ、心に思うところなく、身にこととするところなく、一切放捨すべしとなすは、禅門調心の秘訣であると申しておる。

       第七二節 悟道の状況

 つぎに坐禅によりて悟道に達する心内の状況いかんを考うるに、坐禅の功積むときは平生の智、情、意の作用起こらず、一時に心動おのずから消失して、気息もまたまさに絶せんとするに至る。これ大道の現前する時であるという。この時に当たりて身心を放捨し、一も求むるところなく、いかなる見の現ずるも、殊更に意を用いて取捨するをなさず、ただ放身捨命するを要すと説く。しかるときは必ず時節到来して悟道の消息を感ずるに至る。よってこの状態を示して、ひとたび心を殺してまた活かすがごとしと申しておる。禅宗の成仏は自己の心門を打開して、真如の実相に接触するにあれば、師につきて教えを受くるに及ばざるようなれども、その悟道の成否を試むるために、ときどき師の前に参じて尋問するの必要がある。これを参禅と名付く。かくしてすでに悟道せる後も、なお休止の心を生ぜず、ますます明師に参禅せよと教えておる。

 つぎに悟後の状態につきて、無階段中に階段を設け、無方便中に方便を示し、曹洞宗にては五位の階段を説き、臨済宗にては四賓主等の名目を設けておくが、その意義は到底言語をもって説明することはできぬ。結局坐禅、参禅を重ねて、悟道の上に自知自得しなければならぬ。また曹洞宗にては悟後の状態を指して、身心脱落というが、その意も説明し難いけれども、仮にその一端を述ぶれば、自を忘れ他を忘れ、自他の身心をして脱落せしめ、一切法界に物なく心なく、衆生なく仏なきに至り、しかもその所も山あり川あり、衆生あり仏あるの妙趣を現じ、無礙自在の境涯に至るをいうのであろう。

 その外、禅宗には悟道の機関を設置してある。機関とは悟道の行路における関門をいうのだ。その宗たるや本来無一物を唱うるから、関門などのあるべき理なきも、路なき所に路あり、門なき所に門ありとの主義なれば、仮に関門を設けて、進行の道程を審判することになっておる。これを一般に公案と申す。すなわち禅家歴代の祖師の残せる言句である。これみな悟道の消息を伝えたるものにして、その条目総じては一千七百則ありということだ。臨済宗にてはこの公案に順序を付けて、一則ずつ理会せしむる規則を立ててあるも、曹洞宗はかかる規則に拘泥せぬ主義である。

 以上、禅宗の大要を述べ終わりたるが、その宗の仏教中において一種特色を有しておることは、おのずから分かる。しかし実大乗の天台、華厳の三界唯一心、万法即真如の説と、三論宗の諸法皆空の理とを実際に応用しきたらば、必ず禅宗の宗義を生ずるに至るであろう。すでに吾人の心底に真如の実在を知らば、外に向かって成仏を求むるに及ばず、心内に向かって自省し、妄念の雲のことごとく散じ去るに至らば、性天に真如の月を仰ぎ見るを得る道理である。これを禅宗にて本来の面目、または本地の風光を現すと説いておる。果たしてここに至れば心は不生不滅の楽地に安住するから、いわゆる成仏である。昔、釈迦仏の三〇歳の成道はこれを実現したるものなれば、禅門の悟道は仏自ら実験せるところにして、いやしくも心あるものはまたみなかくのごとく実験すべしと教うるのが、禅宗のとるところの教旨である。

 

     第一五講 実際宗(二)

       第七三節 浄土宗および阿弥陀仏の名義

 実際宗の第二は浄土宗および真宗である。この二宗を合して浄土門または浄土教という。ここに浄土門の名義を解するには、浄土、穢土の別を説かねばならぬ。仏教は上来たびたび述べたるがごとく主観的宗教にして、心をもって本とし、心の状態に応じて世界を現出するという立て方である。すなわち三界唯識万法一心である。よってわが心けがるれば世界またけがれ、わが心きよければ国土みなきよしと説く。これにおいて衆生の煩悩のけがれを有する心の前には穢土が現れ、仏の清浄無垢の心の前には浄土が現れて、浄土、穢土の別が起こることになる。故に仏の浄心より眺むれば、穢土も浄土となり、衆生の穢心より望めば、浄土も穢土となるわけだ。一乗家において此土すなわち極楽、娑婆すなわち浄土と説くのは、このわけによるのである。

 右の道理によりて浄土とは仏の所住の世界をいう。仏にも種々の仏あれば、浄土にも種々の浄土がある。その諸仏の中の最勝なるものを阿弥陀仏と名付けておる。阿弥陀仏とは寿命と光明との無量なる意味にして、この光明は智慧の光明と慈悲の光明とを兼ね、慈智の二光共に無量なるのが阿弥陀仏である。その心徳すでに諸仏に勝れたるをもって、その浄土も浄土中の最勝の浄土であるわけだ。今、浄土門の浄土はこの阿弥陀仏の浄土を意味しておる。すなわち浄土の宗名は阿弥陀仏を信じて、その仏の浄土に至らんことを望む宗門という義より起こってきた。真宗の名は詳しくいえば浄土真宗にして、略して真宗と称することとなったが、浄土門中の真実の宗という意味である。

 この浄土門に対して他の諸宗すなわち小乗、権大乗、天台、華厳等をば、いずれもみな聖道門と名付けて区別しておく。聖道とは聖者の道を義とし、聖者とは凡夫に対する語にして、すべて機根の劣りたるものを凡夫といい、勝れたるものを聖者という。他の諸宗は戒定慧三学を修習することを勧むるも、かくのごときは機根の勝れたる聖者にあらざれば実行し難い。到底下劣の凡夫のなしあたわざるところである。これに反して阿弥陀仏の浄土に至る方はわれの力を用うるに及ばず、仏の力にて救済せらるる教なれば、文字も知らず、智識もなきものにてもたやすく成仏することができる。そのわけにて聖道門の方を自力とし難行道とし、浄土門の方を他力とし易行道としておく。自力とは衆生の方の力にて成仏する義であり、他力とは阿弥陀仏の力にて成仏する義である。

       第七四節 阿弥陀仏の修行および名号

 この阿弥陀仏の実在は釈迦仏所説の『大無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』の三部の経文によりて知られておる。これを浄土三経と名付けておく。その仏は最も永き年月の間、思慮を凝らし修行を積み、一切の衆生を救助せんという大願を起こし、その願ついに成就して、諸仏に勝れたる阿弥陀仏となられたりと説いておる。その年月につきては五劫の間思惟し、永劫の間修行せられたという。その思惟も修行も一切衆生を助けんとする志望に外ならぬのである。すでにその志望が成就したる以上は、われらのごとき凡夫がひとたびその仏に帰依しきたらば、すこしもわが自力を用いずして、仏の力にて成仏ができるわけだ。実にこれほどの易行はない。よって聖道諸宗の難行を陸路を徒歩するに比し、浄土教の易行を海路を舟行するにたとえてある。その舟を大願の舟と名付け、阿弥陀仏の衆生済度の大願によりてでき上がりたる教えの意味である。

 その教えは南無阿弥陀仏の六字に帰することになっておる。南無とは梵語にして訳して、帰命という。帰命にも異義あれども、普通に解するときは帰は帰順、帰依、帰向の義、命は阿弥陀仏の一切衆生を助けるという命令の義とみてよろしい。すなわち阿弥陀仏に帰依し、その命に従い任せる意味である。つまり浄土門の宗意はこの六字の中に存し、六字の外に出でぬのである。この六字を名号といい、これを唱うるを称名念仏と名付け、われらのごとき凡夫が称名念仏によりて阿弥陀仏の浄土に往生し、その仏同様の仏になることを得と教うるのが浄土門の立て方である。

 しかるにその称名念仏を唱うる上につきて、浄土宗、真宗の意見が違うておる。また浄土宗中にも二派ありてその所見を異にするも、今はその主なる方につきて述ぶるつもりである。まず浄土宗にては口に南無阿弥陀仏と唱うるをもって浄土往生の業とみてあるも、真宗にては称名報恩と解して、口にて唱うる称名をもって往生の因とするは、なお自力の嫌いありとてこれをとらぬ。ただ阿弥陀仏の衆生済度の大恩に報謝する念仏と定めてある。しかしてわれらが阿弥陀仏に対するには、内心にその大願を信ずるをもって足れりとしておる。

       第七五節 阿弥陀仏実在の証明

 阿弥陀仏の実在は経文中にみえておるも、その仏は釈迦仏のごとくこの地球上に一生を送りたるものでない。故に経説を信じ得るものはよけれども、これを信ぜざるものには一つの空想に過ぎぬこととなる。よって局外より必ず経説を離れてその実在を証明することを得るやという問題が起こってくるであろう。これに対しては仏教中理論宗の道理をもって証明することができる。仏教は因果教にして、善因善果悪因悪果の規則をもって組み立てたる教えである。故に吾人がひとたび善因を修むれば、早かれ遅かれ必ず一度はその果を招ききたすに相違ない。また吾人の一生は今生をもって終わるにあらず、ひとたび死すればたとえ心身共に離散しても、わが一生間に修めたる因は決して滅しないから、その因が種子となりて更に他の一生を呼び起こすわけである。よって吾人がこの生涯において善因を積めば、つぎの一生には一段進んだる境涯を有して、再生するに至る。かくして漸々昇進するときは、その極、成仏の彼岸に到達すべき道理である。

 さきに第一〇節において述明せしがごとく、仏教にては宇宙は無限にして、世界は無数である。衆生また無数である。この衆生が無始以来、永き年代の間にその修因に応じ無数回、出没生死せるものと定めてある。その中に悪因を継続して、世に沈淪したるものもあろうが、また善因によりて世々昇進したるものもあるべきはずだ。これにおいて無始以来成仏したるものもほとんどその数を知らぬほど多いに相違ない。その仏がまた自ら修めたる因に不同あるを免れぬから、その果にも不同あるべき理である。果たしてしかりとせば諸仏の中においても仏々みな差別があることとなる。すでに諸仏に差別ありとすればその最上に位するものを阿弥陀仏と名付けたることになる。故に阿弥陀仏の実在は因果の理より証明し得らるるわけである。

 諸仏に差別ありというときは必ず疑いを起こすものがあるであろう。すべて仏とは真如に合体したるものなれば、平等なるべきはずである。何故にその差別を生ずるか、この疑問に対して仏教はなにを説明するにも、平等、差別の両方面より観察してあるから、仏にもこの両面ありて、平等の方面にては仏々平等にして差別なしといい、差別の方面にてはその因に差別あるために果にも不同があることになる。また仏と真如との関係を説くにも両面ありて、その裏面は諸仏みな真如と同体である。その表面にてはおのおの因縁に酬報せる実在を有するをもって不同である。前者を法身仏とし、後者を報身仏とすることもさきにすでに述べておいた。

       第七六節 浄土門と因果との関係

 更に一疑問ありて起こるに相違ない。仏教は因果教である。よって己の修めたる因によりてその果を得ると説いておる。これ自力でありて、その自力が仏教としては当然の立て方である。しかるに浄土門にてはわが方にて諸善を積むに及ばず、諸行を修むることをなさず、ただ阿弥陀仏の他力によりて成仏ができると説くのは、因なくして果を得るということになる。これ因果の理に背くものである。この疑問は常に起こる問題にして、これに対する答弁も種々あるが、その要をいえばわれら衆生の自ら修むべき善因を、阿弥陀仏が無量永劫の長き間の修行によりて己の身に積重せられてあるから、われらは自力にてその因を積まずとも、仏となることができる。あたかも親が自ら働いて財産を造り上げたる後は、その子は働かずしてその財産を賦与せられ、親同様の財産家になるというのと同じことだ。よって決して因果の理に戻っておるわけでないとは、従来普通に用うる説明である。

 さきに申し述べたることがあるが、哲学門にて真如と万法とを連結するものは因果であり、宗教門にて仏と衆

  真如・・因果・・万法(哲学門)

  仏・・・因果・・衆生(宗教門)

生とを連結するものもまた因果である。しかしてこの因果を衆生の方に付けると自力となり、仏の方に付けると他力となる。衆生が自ら善因を修めて仏になると教うるのは、聖道自力宗の立て方でありて、その善因は仏の方にでき上がりておるから、自ら修むるに及ばぬと説くのは、浄土他力宗の立て方である。よっていずれも因果の理に背きたるわけではない。ただ因果の付けどころによりてその相違が起こるまでである。

 ついでにこの真如、因果、万法と仏との関係につきて一言したいことがある。仏には法身、報身、応身の三体あることは前に述べておいたが、その法身は真如に応合し、その報身は因果に応合し、その応身は万法に応合し

  第34

  図表

     事理仏身対合表 真如 因果 万法

             法身 報身 応身

ておる。すなわち法身仏というときは真如と同体であり、報身仏というときは阿弥陀仏のごとく因果の規則によりてその実在を現ずることになり、応身仏というときは釈迦仏のごとく万法の世界に応現したる仏ということになる。しかして阿弥陀仏は法身、報身の二面を有するも、五劫永劫の修行によりてでき上がりたる仏体はもとより報身仏の方である。また浄土にも真如に寄せて説くときと、因果に寄せて説くときとの二様ありて、因果に寄せたる場合には報土と申す。すなわち仏の修めたる因に報いてできたる浄土の義にして、浄土門のいわゆる阿弥陀仏の浄土とはその報土をいうことになる。この報身、報土は差別的成立にして、諸仏の間におのおの不同あるものと知らねばならぬ。

       第七七節 浄土門の要義

 浄土門にて信者の守るべき要義に三とおりを分けておる。一に安心、二に起行、三に作業である。まず安心とは信心のことにて、凡夫の妄心を定めて、浄土往生の心地に安住せしむるの義である。これを一口にいえばもっぱら阿弥陀仏の本願を信じ、深く他力に帰して、心を動かさざるの心得である。つぎに起行、作業はこの安心を助くる行為に外ならぬ。起行とはその安心を起こし立つるの行業の義にして、阿弥陀仏を礼拝したり、讃歎したり、供養したり、念仏を唱え経文を読んだりする等の諸行をいうのである。作業とは身口意の三業を作すの義にして、安心、起行を成就するために修する法規である。すなわち安心起業の心得を一生を期し、間断なく念々相続するようにする修行のことである。

 この安心、起行、作業は浄土門の一般に用うるところなるも、真宗にては安心を本とし、起行作業を末とし、浄土往生の正因は安心にありとし、起行作業は仏恩に報謝する経営に過ぎずとする立て方である。また浄土宗にては称名念仏の一行をもって浄土往生の正因と定むれども、その業を妨げぬ限りは、傍ら余行を修むるを許すも、真宗にては一切余行を兼修するを許さぬ。ただし念仏行者の心得として、人道を守り、王法にしたがうべきことを教う。この方を俗諦門と名付け、浄土往生の方を真諦門と名付け、二者を区別して取り扱っておる。また浄土宗も真宗も共に浄土三部経を所依とするも、浄土宗は三経中『観無量寿経』に重きを置き、真宗は『大無量寿経』に重きを置くの別がある。以上は浄土宗と真宗との相違の要点を述べたるまでである。

 浄土宗中にも西山派と名付くる別派がありて、普通にいうところの浄土宗(これを昔時は鎭西派といい、今は単に浄土宗と称す)と多少意見を異にするところがある。たとえば単称浄土宗の方にては、心に助け給えと思うて、口に南無阿弥陀仏を唱うることを勧むるが、西山派にては離三業の念仏を説き、衆生往生の行業はすべて仏の方にありとし、行者の口に唱うる念仏にあらずとし、衆生の身口意の三業を離れたる念仏なりと申しておる。これと同時に通三業の念仏を説きて、衆生がひとたび名号を信じたる上は、その身口意に修する諸業はみな阿弥陀仏の行となり、口に唱うる念仏もみなその仏の行となると説いておる。これらの論点を詳説するは専門にわたるをもって略しておく。

       第七八節 融通念仏宗および時宗

 浄土宗および真宗の外に念仏をもって立宗せるものに融通念仏宗と時宗との二宗あれば、その大意をもあわせて述べたいと思う。まず融通念仏宗は天台宗より分出したるものにして、浄土宗とはその起源を異にしておるけれども、阿弥陀仏を信じ、念仏を唱うるだけは同一である。ただこの宗は釈迦仏の経文によりて開きたるにあらずして、その開祖自身が天啓によりただちに阿弥陀仏に会うて授かりたる法門にして、阿弥陀直授の宗旨と申しておる。しかしてこれを融通念仏と名付けたるは、われが唱うる念仏の功徳は衆人に融通し、衆人の唱うるところの念仏の功徳はわれに融通するという意から起こったのである。これ全く天台、華厳の事理融通、事事無礙の説を念仏に当てはめたるものに相違ない。

 つぎに時宗は浄土宗より別立せるものにして、大体は浄土宗の所説に同じきも、また異なるところがある。その所依の経文は浄土三経なれども、『阿弥陀経』に重きを置き、またその宗祖が熊野神社にて感得したる神勅を立宗の綱要とする点において相違しておる。また念仏を唱うる心得につきて一宗独得の点がある。すなわち一切の執着を離れ、分別を去り、われ自ら念仏して往生せんと思うは、すでに自力の我執を尽くさざるものなればこれを排し、自力と他力との優劣を較し、自ら他力によりて往生せんと思うもなお不可なりとし、すべて有無の念、自他の別を捨てて、ただ念仏するをその宗の安心の要致としておる。かくして身も心も放下して、一向に称名することを勧め、一切万法はみな六字の名号の体内に摂在すると説いておるから、絶対的離分別の念仏と申してよろしい。しかしてその宗を時宗と名付けたるは異説多けれども、時機に相応したる宗というのがその一義である。

 浄土宗は日本にさきだちてシナにすでに開けおりたりし宗なれば、シナ相伝と称してもよろしいが、真宗や融通念仏宗や時宗は日本にて新機軸を出したる念仏宗である。これらの念仏宗が一時非常に世間より歓迎せられしは、それ以前の法相、華厳、天台、真言等の戒法、観行の至難なりし反動に出でたるは明らかである。また易行としては浄土門の念仏ほど平易なるものはない。ただあまり平易に過ぎて、多少識見を有するものには物足らぬ心地する傾向がある。よって念仏宗の反動として禅宗、日蓮宗が起こるに至った。禅宗の大意は前に述べ終わりたれば、これより日蓮宗の概要を説く順序である。

 

     第一六講 実際宗(三)

       第七九節 日蓮宗の所立

 日蓮宗の宗名はこれを開立せし祖師の名をとりたることは言うまでもない。その実、日蓮法華宗を略したる宗名である。この宗は天台宗と同じく、『法華経』を所依の本経と定めてあるから法華宗なるも、天台と区別せんために日蓮法華宗と呼びきたった。しかしてその宗義は天台と表裏相反するところがある。たとえば天台にては真如の理性と万法の事相との二者中、理を体とし事を用とし、理の方に重きを置き、事の方を軽んずる立て方なるも、日蓮宗にては事を体とし理を用として、事相に重きを置く立て方である。その所説はあたかも真言宗の事本理末の意を天台に当てはめたるもののように思わる。

 この宗にて『法華経』を本経とするわけは、釈迦仏成道以来四十余年の間は方便を説きて真実をあらわさず、『法華経』を説くに至りて、始めて出世の本懐を明かしたるものとするからである。しかして法華以前の方便教は蓮の華のごとく、『法華経』の教えは実のごとく、華開き終わりて実をあらわすと申しておる。これを開権顕実という。権とは方便の義である。これらの説き方は全く天台と異なるところはないが、『法華経』の上に本門、迹門ということがある。この二門の取り扱い方に至りては大いに相違しておる。

 『法華経』はその編目二八に分かれておる。これを法華の二十八品と申す。そのうち前十四品を迹門とし、後十四品を本門としておく。迹門とは垂迹の義である。釈迦仏がインドに降誕して身迹を垂れ、三〇歳にして始めて成仏したる方を迹門の仏といい、前十四品はこの迹門の仏としての所説と定む。つぎに本門とは後の十四品において釈迦仏の本地はこの世に出でて始めて成仏せるにあらず、久遠劫来の仏なることを明らかにせしによるのだ。この本迹二門のうち、天台宗は迹門を表とし、本門を裏とするも、日蓮宗は本門を表とするの相違がある。また同じ日蓮宗の中にても、本迹二門につきて古来異説を生じ、宗派にも一致派、勝劣派の二派を分かつに至った。一致派は本門迹門それ致一なりという主義を唱え、勝劣派は本門を勝とし迹門を劣とする主義をとっておる。しかし近来は派名を改めて、一致、勝劣の名称を用いぬことになった。

       第八〇節 三大秘法の解釈

 日蓮宗の主要なる法門は三大秘法に外ならぬ。その理、幽遠深秘にして、容易にうかがい知るべからざる故に秘法という。すなわち本門の本尊、本門の題目、本門の戒壇のことである。まず本門の本尊とは無始常住の釈迦仏をいい、『法華経』の寿量品と名付くる一編の中に、久遠の大昔より実在せる本仏なることを説かれたるに基づく。しかしてその久遠の本仏とは十方法界をもって法身とし、十方法界をもって報身とし、十方法界をもって応身とし、十方法界をもって住所とし、無始無終、常住不滅の仏である。これを久遠実成の釈迦仏と名付くるという。しかして十方法界とは事界も理界もあらゆる世界を総称したる名である。これを図に表すときは、中央に妙法蓮華経の五字を写し、周囲にした地獄界よりうえ仏界までの形相を描き、これを本仏の体を表示せるものとしてある。この本仏がすなわち釈迦仏の本体である。ひとり釈迦仏の本体たるのみならず、一切の衆生もみなこれと同じく、十方法界を体とし、わが身を離れて一物なく、わが心を離れて一法なく、われすなわち十方法界の主なりと信念するを本尊に対する要義と説いておる。

 つぎに本門の題目とは南無妙法蓮華経の七字を指す。これ『法華経』の題号なる故に題目といい、これに帰依する故に南無の二字を加えてある。けだし日蓮宗にては『法華経』全部の要旨はこの題目中に含まれ、森羅万象の本体、三諦円融の妙理、無始本有の実相もその題号中に摂せられておる。しかしてその体は一心に外ならぬ。この一心すなわち妙にして、不可思議中の不可思議である。故にその中には六度の行も一切の万行もみな包含せられておると説ききたり、口に南無妙法蓮華経と唱うるは、妙法の心をもって心の妙法に帰依するのであると申しておる。

 終わりに本門の戒壇とは法華本門の真実の戒を受くる場所という意味である。すべて小乗でも権大乗でも実大乗でも、みな戒を持つことを要し、これを持つの意は非を防ぎ悪をとどむるためである。よって日蓮宗にても本門の戒を持たしむることになっておる。しかしてその戒体は妙法蓮華経の五字に外ならぬ。この五字に帰依し、これを受持するをもって本門の戒とし、これを受持する当処がすなわち寂光土(浄土の異名)なれば、これを戒壇というのである。要するに妙法蓮華経は一切諸仏の万行万善の功徳を集めたるものなれば、その題目中に万戒の功徳がみな納められておる。実に妙戒である。故に行者ひとたびこの妙戒を受持すれば、現身たちどころに仏果の位に登り、住所たちまちに寂光の浄土となるに相違ないとの立て方である。

       第八一節 唱題の説明

 前述の三大秘法を一言にて約すれば、身はこれ本仏なり(本尊)、心はこれ妙法なり(題目)、住処はこれ浄土なり(戒壇)と念じて、心の法界に安住することに外ならぬという。これを身口意に配すれば、本尊は意に念じ、題目は口に唱え、戒壇は身に持つことになる。しかしてこの三業はみな妙法蓮華経の五字を体としておる。これを戒定慧に配すれば本門の本尊に帰依し、心を一境にとどめて妙法を観ずるは定に当たり、妙法の題目を唱えて、仏の妙智をあらわすは慧に当たり、戒壇は戒に当たることは言を待たぬ。この三大秘法を実修して、即身成仏の現果を得るがこの宗の目的とするところである。

 この秘法が実に日蓮宗の主眼神髄にして、天台宗と共に『法華経』によりながら、成仏の法を説くに至りては氷炭相いれざるの相違をきたせしも、全くこの点にある。もしその宗の哲学門においては天台宗と異なることなきも、宗教門において全く大差をみるに至りたるのは、天台の修行の煩雑に過ぎ、一般の人々の修習し難き有様をみて、大革新を実行するに出でたるに相違ない。また他方にては浄土門の勃興して、一時を風靡せるに至れるを見、これに反動して出でたることも疑いない。すなわちその反動として念仏易行を転じて、題目易行を立つるに至ったのである。すでに七字の題目を唱うるのみにて成仏すというは、易行の点において念仏とすこしも異なることはない。しかしてその結果は二生、三生を期するに及ばず、賢愚利鈍の別なく、みなことごとく一生にして即身成仏の大果報を得ると説いておる。

 この唱題成仏につきて疑難のあるのは、妙法蓮華経とは単に経文の題号に過ぎぬ。題号は符号である、抽象的である、空虚のものである。しかるにこれを口に唱えて成仏するというがごときは、全く道理の沙汰ではないと疑問を起こすものが多い。しかるに日蓮宗にては五字の題号を解釈して、妙は不可思議の異名とし、法は小乗、権大乗、実大乗の具備せるものを指すとし、蓮華は比喩にて、その法の円満微妙清浄なるをたとえたるものとしてある。よって妙法蓮華経の五字は法華八巻に題する外面の符号にあらずして、内容の意義をあらわしておるのであるから、抽象的にあらずして具体的であるという。またこれを唱うるも、口のみにていたずらに唱うるのではない。その行者は必ずまず信仰を『法華経』の上に置き、深くその心に功徳利益の広大なることを信念しなければならぬ。すなわち題目につきて三大秘法を付説せるをみて、唱題の無意味ならざるを知ることができる。あたかも家屋と呼べばその中に柱礎棟梁を包括し、人と呼べばその中に五臓六腑を収容してあると同じく、妙法蓮華経と呼べば、その中に法華二十八品の妙旨を包容せるものとみたる証明である。また無意味に題目を唱えて、なおその功徳あることに対しては、赤児の乳の味を解せざるも、これを飲用すれば自然に身を養うことを得、病者が薬の理を解せざるも、服薬すれば自然に効験あることにたとえて説明しておる。

       第八二節 実際宗と天台宗との対照

 以上述べきたりたる実際宗は、禅宗、浄土二宗(浄土宗および真宗)、日蓮宗にして、その説くところは雲泥水火の相違あるがごときも、共に実大乗の極意より転化しきたりしは明らかである。禅宗は三論、天台両宗の哲理より派生せることは、その宗にて心をもって本とし、心面の諸念を払い去るを務めとする点をみて分かる。つぎに浄土二宗の説き方は華厳、天台のわれすなわち仏、此土すなわち浄土というに反し、わが身を凡夫とし、此土を穢土とし、仏はわが身の外にあり、浄土は此土の外にありと説ききたりて、正反対のようなれども、その実、反対にあらずして、ただ表裏の相違に過ぎぬ。そのわけを一言しなければ、門外の人に分かりにくいと思う。

 天台のごとく一乗家にてはわれも仏も同体と説きながら、実際の修行につきては仏は水のごとく、凡夫は氷のごとく、二者おのずからその別ありとして、凡夫の有する煩悩の氷を解かすためには、修行を要することを説いておる。よって浄土門にてはその実際を見て、畢竟凡夫と仏との異なるゆえんなりとし、氷は水にあらず、凡夫は仏にあらずと唱うるに至った。わが所住の世界が浄土にあらずというのも同一の道理である。かく差別の方面を本として説きながら、凡夫がひとたび阿弥陀仏に帰依するときは、仏の無量無辺なる光明の力によりて、煩悩の氷たちどころに解け、たちまち仏となることができる。これは一乗家のいわゆる煩悩即菩提なる故であると申しておる。ここに至りて天台宗と一致することが分かる。これを言い換えてみれば、天台の差別的実際を表に示して、平等的理論を裏に含めたる立て方である。故に表裏前後の相違に過ぎぬ。ただ阿弥陀仏を立つる点が違うようなれども、その説も天台中に含まれておる道理である。わが国にては浄土開宗以前すでに天台宗にて念仏を伝えておった。かつまた仏に法身、報身、応身の三体あることは大乗諸宗共に説くところにして、浄土門はその中の報身をとりて、阿弥陀仏を本尊とするに至った。それ故に浄土門も実大乗理論宗の分派とみてよろしい。

 つぎに日蓮宗は天台宗に真言を加えてできたることは、その三大秘法をみても分かる。しかして天台との相違は前にもいいしごとく、天台の理体事用説を変じて、事体理用説にしたる点にある。たとえば天台にては理の一念三千を説くに反して、日蓮にては事の一念三千を説き、前者は理の妙法を説くに反し、後者は事の妙法を説いておる。これまた表裏本末の相違に外ならぬ。

       第八三節 実際宗中の各宗の比較

 もし禅、浄土、日蓮の諸宗を対照するときは、いずれも実大乗の哲学門によって開立し、一切皆成仏を説き、頓速に成仏する易法をとり、かつ近道を開きたる等は同一である。そのうちおのおの方向を異にせる点を智、情、意の心理作用に配当してみるときは、

  禅宗は意宗なり、   浄土二宗は情宗なり、   日蓮宗は智宗なり、

この相違あるように思わる。まず禅宗を意宗に配したるは、その宗が不立文字、教外別伝にして、経論の研究を目的とするにあらず、智識思想を練磨せしむるにもあらず、むしろ智識思想を放擲して、無念無想の境涯に悟入することを教うる点よりみるも、その智宗にあらざること明らかである。また宗教的情操により、他仏を信仰して成仏するにもあらざれば、情宗といい難い。しかして坐禅によりて意力を養い、妄念を静定して、心を不動の地位に安住せしむるものなれば、意宗と名付くる方が適当である。

 つぎに浄土二宗は智慧をみがくにもあらず、意力を練るにもあらず、智や意の力によりて成仏せんとするはみな自力の沙汰としてこれを遠ざけ、ただ一心に阿弥陀仏を信念して、その力に依憑せんとする教えなれば、信仰を主眼としたる宗旨である。しかしてかかる信仰は心理作用中の情に属するものなれば、情宗といわねばならぬ。これに反して、日蓮宗は天台の智識道理によりて究め尽くせる哲学門の理想そのままを本として立てたる宗旨なれば、智宗と申してよろしい。ただしこれは実際宗中の比較をことごとく心理作用にあてはめたまでである。

 あるいはまたこの諸宗を有空中三宗に配合するときは、禅宗は空宗、浄土は有宗、日蓮は中宗に当たると申しても差し支えなかろう。もとよりいずれも実大乗なれば中道宗に相違なきも、その中に比較的有空中の特性を帯ぶる点あるように思わる。まず禅宗の「本来物なく、もと煩悩もなし。」          を主義とするところは空宗に当たり、浄土の凡夫と仏との別あることを説く点は有宗に当たり、日蓮の娑婆即寂光を唱うるは中宗に当たる気味がある。しかしこの比較は表面上における観察の一端にとどまり、成仏の結果に至りては、いずれも煩悩即菩提の妙境を現ずるものなれば、一様に中道宗といわねばならぬ。

 

     第一七講 世間道(一)

       第八四節 世間道の六趣

 仏教の理論宗、実際宗の大要を講じ終わりたれば、世間道を述ぶる順序になってきた。初めに仏教は世間道、出世間道の二門あることを表示し、もっぱら出世間道の方面だけを述べたから、これより世間道に移らねばならぬ。もし出世間道の一方をみるときは、仏教は一家を治め一国を興すになんらの功力なきものにして、畢竟無用の長物であるように思わる。よってここに世間道を説いて、そのしからざるゆえんを示す考えである。

 仏教は前にしばしば述べたるがごとく因果教にして、徹頭徹尾因果の理法をもって一貫してある。その哲学門も宗教門も、世間門も道徳門も、因果の理法を基礎とせざるはない。その因果に世間因果、出世間因果の二種を分かってあることも、さきにすでに述べたるところである。この世間的因果はまさしく世間門の道徳となっておる。すなわち仁義の道、忠孝の教え等はみな世間的因果に属することとなる。そのいわゆる世間につきて多少の説明を要することがある。

 仏教の世間とは広き意味にて用いられ、人間社会ばかりをいうのではない。つまり事相差別のあるゆる世界のことを指すのである。しかして出世間はこの差別界を脱して、平等無差別なる真如界、涅槃界に至る方である。その差別界を迷界とし、平等界を悟界とする。更にその差別の迷界を分かちて六界に区分し、これを六道または六趣と名付けておる。すなわち地獄道、畜生道、餓鬼道、修羅道、人道、天道〔多くは地獄、餓鬼、畜生……の順である〕の六趣である。第一に地獄とは苦界の極にして、重悪を犯したるものがその果としてここに堕落することになっておる。第二に畜生とは動物禽獣の境涯を指すのでありて、愚痴より招ききたす果である。第三に餓鬼とは名のとおりの境涯にして、貪欲の者がその果としてこの生を受くるという。第四に修羅とは阿修羅の略にして、非天と訳し、天の怨敵である。その性、争闘を好み、心憍慢なる境涯にして、天界に類似するも、天にあらざる故に非天と名付くと申しておる。この六趣を設くるゆえんは他にあらず、仏教において世界は無数なりといい、その無数の境遇はみなわれら各自の修むる因に応じて招ききたすものとし、その因多様なればその果また多様なる道理である。しかるにその多様なる境遇を大別して六趣としておく。これを趣と名付くるは、趣とはおもむき至るの義にして、われらが自ら修むる業因に応じて、死後におもむき至るところなる故である。

  第35図表

       法界 迷界 一、地獄界 二、畜生界

             三、餓鬼界 四、修羅界

             五、人 界 六、天 界

          悟界 一、声聞界 二、縁覚界

             三、菩薩界 四、仏 界

 この六趣道はみな迷界の所属であるが、これに声聞界、縁覚界、菩薩界、仏界を加えて十界と定めてある。十界中の後の四界は悟界である。これを合して法界という。故に法界は迷悟両界を総括したる名称となる。

 さきに(第八〇節)十方法界といいたるはこの十界を総称したることになる。しかして世間的因果はこの迷界に流転する規律をいい、出世間的因果は悟界に昇進する規律をいうのである。

       第八五節 世間の因果

 仏教にてはすでに一言せしごとく、生死流転を説き、吾人が人間の一生を終わりたるときに、五蘊積集の身心はひとたび解散しても、その善因善果悪因悪果の理法を永続し、その生涯になしたる身口意三業の因により、更にこれに相応する境涯を呼び起こして再生するに至り、再三再四、六道の間に生死を反覆して窮極するところを知らざる有様である。これを六道輪廻と名付けておく。これみな世間的因果のしからしむるところである。もしその間に出世間的因果を修むれば、迷界より悟界に進入することを得といっておる。

 吾人が今日人間となりて生まれきたりたるは、生前においてこれに相当する因を修めしによる。もし現生において人間以上の因を修むれば、死後昇進して天界すなわち天道に生まるるに至り、人間以下の因を修むれば、死後降沈して餓鬼道、畜生道、もしくは地獄に生まるるに至るという。これを三世因果と名付けておる。三世とは生前(過去)、生時(現在)、死後(未来)のことである。この三世を生前死後にわたりて説くのみならず、現生の間にも、時々刻々の間にも、三世因果ありと説いておる。たとえば昨年昨日は過去であり、今年今日は現在であり、明年明日は未来である。この間にも善因善果悪因悪果の応報があるという説だ。よって六道の別は必ずしも他生においてはかり存するに限らず、現世においてもその別ありという。たとえば人間界に生涯憂苦ばかりで日を送るものがある。これは現世における地獄界と申さねばならぬ。また人間界に飲みたい食べたいの念ばかりにて世を渡るものがある。これは畜生道または餓鬼道と申すものだ。故に六道にも二様ありと説いておる。

 かくして現世貧困の地にありて、地獄同様の苦を受くるものが、一心に勉強忍耐して、後年に至り成功し、安楽の境遇を迎うるに至るは、善因によりて昇進したる方である。これに反して富貴の家に生まれて安逸にふけり、老後は窮境に陥るものがある。これは悪因によりて降沈したるものである。もっとも因果の規則は無始以来永き年月の間継続しきたり、これにそのときどきの善悪の業因が相加わり、その果の即時に現るるものと、数世を隔てて現るるものとの数様がある。これを仏教にては順現受業、順生受業、順後受業、順不定受業の四種に分けておく。すなわち現生に業を造りて現生に果を受くるものを順現受業といい、現生に業を造りて次生に果を受くるものを順生受業といい、現生に業を造りて次生を超えてその果を受くるものを順後受業といい、受果の時期の定まりなきものを順不定受業と名付けておる。かくのごとく因果応報の時期はまちまちなれども、ひとたび吾人の身口意に修めたる善悪の業因の必ずその果を招ききたすことあるは、日月よりも明確である。たとえ日は冷ややかになり、月は熱くなることありとも、因果応報の規則は決して変更することはないと明言しておる。これ仏教が因果教と呼ばるるゆえんである。

       第八六節 世間の道徳と小乗

 以上の説明は世間因果を説くに必要なる条件なれば、ひととおり述明したる次第である。これより世間道の道徳を考うるに、迷界の六道の内にありて、世間のいわゆる道徳を聞き、よくこれを了解し、かつ実修し得るものは人界と天界との二道のみである。畜生界のごときは多く無意識的動作、機械的動作なれば、道徳の範囲内にいれ難い。しかして天界中には人間以上の衆生ありとの説なれども、吾人の直接に知らざる場所なれば、ただここに人間界につきてのみ述べようと思う。

 人間界の道徳としては種々あるも、対個人的としては忠孝が主となり、対社会的としては仁義が主となること明らかなれば、まず仁義忠孝につきて述べなければならぬ。これらの道徳を修むるの必要は、小乗大乗、理論宗実際宗共に認むるところなれども、その宗の立て方によりて解釈の仕方が違うておる。第一に小乗にてはその哲学門および宗教門において述べしごとく、この世界をもって苦界とし、吾人の目的はこれを去りて涅槃界に至るにありとし、その目的を達するに出世間的因果の規則に従って、戒定慧三学を兼修し、四諦、十二因縁等の観行を実修せねばならぬ。もししからざるときは、ひとたび死してもまた生まれ、再び死しても更にまた生まれ、永く六道の苦界の間に出没昇沈せざるを得ない。しかして出世間因果を修めて涅槃に入れば、身心共に滅して、生ずることもなく、死することもないから、これを目的として平素、生死流転の業因を断滅せんことを努むるのが小乗である。

 しからば仁義忠孝のごとき世間的道徳は修習するに及ばぬかと尋ねるに、世間的道徳は苦界を脱して涅槃に入るには直接の功用なきも、人界または天界に生まるる業因となるものなれば、吾人はこれを修習して人界か天界に生まれんことを望み、地獄界、畜生界に堕落しないようにしなければならぬ。人界や天界は悟界に比するに苦界なるも、地獄界などに比すれば楽界であり、かつ人、天界は迷界の最上なれば、一転して悟界に進入することもできやすきけれども、下界に降沈しては昇進の機会を得ることが難い。かかる道理から世間因果を説き、世間道徳を勧めておる。その他、出世間因果に対しても、世間因果の必要なる事情がある。これを教育に比するに普通学を修了せざるものは専門の学を進修することのできぬように、世間因果、世間道徳を修了せざれば、真智を起こして煩悩を断滅することあたわず、したがって悟界に昇入することができぬ。よって小乗大乗ともに理論宗にては五戒、十善を実修せねばならぬことになっておる。この五戒、十善はもとより世間道徳であるから、小乗にても出世間因果の準備として、世間因果の善業を修習するを必要と定めておる。

       第八七節 大乗と世間道徳

 つぎに権大乗(法相宗)における人倫道徳に関する説明をみるに、大体は小乗に同じく、悟界に入る準備として五戒、十善等を修むる必要を認めておる。ことに権大乗は小乗より一歩を進めて観法の理が高妙であるから、一層世間道徳によりて心地に修養を与えなければならぬ。その他、法相宗一家の特見として、衆生の機類に五性を分かつうち、全く悟界に生まるるの種子なき無性有情があると立てておる。この有情は地獄ないし人、天界の六道の間に出没昇沈するにとどまり、未来際を尽くしても涅槃界に至ることはできぬ。かかるものは永く六道中の人界、天界の間に継続することを求め、なるべく下界に沈みて大苦を受けぬようにしなければならぬ。その目的に対しては世間道徳を修習する必要ありと説いておる。

 つぎに実大乗の人倫道徳の取り扱い方をみるに、天台、華厳共に迷悟一体、事理融合を説くものなれば、出世間と世間とは相離れたるものにあらずとし、一方においては世間因果と出世間因果とを別置すると同時に、他方においてはこれを融合し、一切の世間的道徳はみな成仏の因縁となることを許す。これがすなわち一乗の妙理の存するところである。真言宗においても一切万法はみな大日法身とし、鳥語水声も真言の説法とするほどなれば、仁義忠孝も秘密の行法となることはむろんである。

       第八八節 実際宗と世間道徳

 つぎに実際宗の方面をみるに、禅宗は直指人心見性成仏を宗意とし、一切の身心上の行法を無用視する立て方なれども、所依の本経なきが故に、一切の経論を所依とするを妨げず、所崇の本尊なきが故に、一切の諸仏を崇拝するを妨げぬ宗風である。また教外別伝のうち、自ら教内を棄てず、不立文字のうちおのずから文字を存すとの主義である。故に禅は諸宗の別伝なると同時に、諸宗はまた禅の別伝なりとまで申しておるから、一切の世間道徳はみなこれをとりて捨てざることもちろんである。かつまた禅宗にて悟道に向かっては勇進力行を勧め、悟道の後は正念の相続を貴び、威儀行相のおのずから備わるを期し、いよいよ大悟徹底の上は更に自身において求むるところなく、ただ衆生を助け救うをもって楽とするのみと説き、自然に一切の善行を奨励しておる。

 つぎに浄土門の世間道につきては、浄土宗と真宗と大いに相違しておる。まず浄土宗にて念仏の一行をとりて、他の諸善万行に選びたる点は真宗に異ならざれども、全く諸善万行をもって往生の業因にあらずとして拒否するわけではなく、諸善を修めつつ阿弥陀仏に帰依すれば、阿弥陀仏の慈光の中に摂取せられて、浄土往生ができることになる。忠孝仁義もその業因となるものとしておく。また浄土宗の別派なる西山派にては、念仏以外の諸善万行は往生の業因にあらずとして拒否すれども、もし吾人がひとたび阿弥陀仏の他力に帰したる後は、諸善万行はみな念仏の体中に具備せるものとなり、忠孝仁義は念仏体中の功徳と転じきたると説いて、やはり世間道徳を往生の業因中に入るることになっておる。

 しかるに真宗にては出世間道を真諦門と名付け、世間道を俗諦門と名付けて、二門を対立せしめ、真諦門の方にては諸善万行はすべて往生の業因にあらずとして排除し、ただ一心に阿弥陀仏の衆生済度の本願を信じて、一点の疑いを起こさざるを宗意安心の要旨と定めておる。しかして俗諦門の方にては他宗のごとく種々の戒律を説かず、ただ王法仁義を本として、世間一般の道徳を遵守することを勧めておる。すなわち世間、出世間別途の立て方である。しからば小乗のごとく世間にありて人道を守るは、死後再び人界に生まるるの業因とするのであるかというに、しからず、俗諦門の王法仁義は決して未来の応報を目的としてその身に守るのではない。ただ念仏行者としては当然守るべきものとして説くのである。もしそれ念仏行者が阿弥陀仏を信じて、その慈光の中に摂取せらるるに至らば、仏の徳が自然に行者の心中に流れきたりて、その身は知らず識らず世間道徳を守るようになるわけだ。さればわれらの方にて殊更に王法仁義を履行せんと心掛くるは、ただかかる仏恩に報謝する経営に外ならぬこととなる。故に真宗にては出世間の業因として世間道を行うにあらずとの立て方である。これと同時に真俗二諦は相待ちて離るべからざること車の両輪、鳥の両翼のごとしと説いておる。

 つぎに日蓮宗にてはその宗祖の所著に『立正安国論』と題する一書ありて、国亡びなば仏法を崇信することができぬ、故にまず国家を祈りて仏法を立つべきことを説き、愛国の急務を唱え治国平天下を目的とし、此土においてただちに寂光浄土を開現するを期する宗意なれば、人道を貴ぶはむろんなれども、実際の修行としては諸善万行ことごとく題目中に備わりおるから、唱題の外に修むべき行法なき理である。ただしその宗に摂受門、折伏門の二門を立て、摂受門は諸説諸教を摂取容受する方、折伏門は諸説諸教を折破降伏する方と解釈しておる。この摂受門の方にありては、もとより諸善万行を許容することになると思う。

 

     第一八講 世間道(二)

       第八九節 世間道の軽重および五戒十善

 上来、小乗大乗、理論宗実際宗の各宗につきて、忠孝仁義のごとき世間道徳の立て方を大略述べ終わった。これを要するに世間道と出世間道と対照するときは、出世間道に重きを置き、世間道はこれに付随して説く風あるは、仏教が宗教にして、人間為本の倫理とその本領を異にする故である。よって出世間を目的とし、世間を階梯とし、一切の道徳善行はみなこの目的を達する方便に過ぎぬことになる。ただこれを向上的方便とせずして、二者を並行せしむるものはひとり真宗なるも、その真宗がやはり真諦門に重きを置くことは明らかである。しかし仏教は表裏二面の所立にして、表面に出世間を貴び、世間を軽んずると同時に、裏面に世間、出世間の同様に大切なるを説き、忠孝仁義にも重きを置くことになっておる。ことに実大乗にて煩悩即菩提、娑婆即寂光の道理より、世間即出世間にして、世間道のそのままが出世間なることを説くから、ヤソ教などの一面所説の教えよりも、大いに忠孝仁義を説くに調法である。これは仏教の長所とみてよろしい。

 仏教が倫理に重きを置き、善を勧め悪を戒むるの最も切なることは、涅槃経の中に出ておる四句の偈文をみて分かる。

もろもろの悪をなすことなかれ、もろもろの善を奉行せよ、自らその意を浄くす、これ諸仏の教えなり。

 

 この文意によれば、あらゆる悪を禁じ、あらゆる善を行わしむるのが仏教であるということになる。その諸善は第五八節に表示せる五戒、十善を本とするも、これを細別すれば種々の戒法となる。小乗のごときは二百五十戒、または五百戒を設けてありて繁雑に過ぐるほどである。その中にて五戒、十善は大小両乗に通じて世間因果の心得なるが、今五戒につきていえば、古来これを左のごとく仁、義、礼、智、信に配当しておく。

 儒教にて説くところの仁、義、礼、智、信を、反対の方面より消極的に戒めたるだけが儒仏の相違である。つぎに十善の表はすでに五八節に示せし故に略することとし、その反対は十悪である。すなわち殺生、偸盗、邪婬、

  第36図表

       五戒 殺生戒・・仁に当たる

          偸盗戒・・義に当たる(あるいはこれを智に配す)

          邪婬戒・・礼に当たる(あるいはこれを義に配す)

          飲酒戒・・智に当たる(あるいはこれを礼に配す)

          妄語戒・・信に当たる

妄語、綺語、悪口、両舌、貪欲、瞋恚、愚痴の十カ条である。その前の三は身業、中の四は口業、後の三は意業に属し、意業の三を貪、瞋、痴の煩悩と呼び、これを六道輪廻の迷いの根本としておる。しかしてその結果は苦である。

       第九〇節 四恩の解釈

 更に大乗にて特に世間道徳として講ずる徳目は、種々の経文を引証して数様に立つれども、最も広く用いられておるのは、『心地観経』と名付くる経文の四恩の説である。その名目は左に掲げておく。

  第37図表

       四恩 一、父母の恩

          二、国王の恩 (世間道)

          三、衆生の恩

          四、三宝の恩(出世間道)

 前の三は世間道にして、その恩に報ずるをもって世間の道徳としておる。父母の恩に対しては孝を行い、国王の恩に対しては忠を致し、衆生の恩に対しては仁を施すのが、すなわち報恩の世間道である。そのつぎの三宝とは仏と法と僧との三者にして、共に出世間の道を教ゆる体となる。故にその恩に報ずるを出世間の道徳としてある。仏教にては仏を医者にたとえ、法を薬にたとえ、僧を看病するものにたとえ、この三者によりて煩悩のごとき心病を医し、成仏の楽果を得るに至るから、三つの宝と名付け、その恩に報ずるために仏を信じ法を愛し僧を敬する。これを出世間の道徳と定めておく。

 この世間道の父母、国王、衆生の三大恩のことは諸経の中に散見しておるが、その中にて最も父母に重きを置いて説いておる。恐らくは父母の恩を説くこと仏教ほど詳しく述べたるものはなかろうと思う。また国王に関してもこれを国民の父母としてその恩を説いておる。衆生の恩を述ぶるにも、六道に生死浮沈する間は一切衆生は互いにわが父母となりたるものであると説明しておる。故に父母を本としたる説とみてもよかろう。しかしてこの三者につきて父母は家族の本、国王は国家の本、衆生は社会の本なれば、家族的道徳、国家的道徳、社会的道徳の分類を立つることができる。かくして夫婦兄弟に対する道徳は孝道の中に摂し、愛国は忠道の中に収まり、仁義の二者は衆生の恩に報ずる方に入るわけだ。故にこれを合すれば忠孝仁義となるのである。ただ『大無量寿経』によりて忠孝といわずして王法の語をとり、王法為本の道徳を立てたるものは真宗のみである。これをその宗にては一宗独占の道徳と申しておる。

 今述べたるごとくすべての道徳を報恩と定めたるは仏教の特色である。普通に知恩と報恩との二つに分ける。初めに恩を知り、つぎに恩に報ずる順序にて、知恩は智の作用、報恩は意の作用である。一は知、一は行である。一切の道徳は知恩、報恩の外に出でぬように各所に説いておる。何故にかく報恩を本とするかというにつきて、余の所見にては仏教そのものの教理が慈悲を本とするからであろうと思う。しかしてその慈悲は智慧に基づきたるものにして、智慧の力によりて煩悩を断尽し、その結果が慈悲の光となりて衆生界を照らすことになる。仏の徳も智慧と慈悲との外にない。故に慈智円満なる体を仏と解釈しておる。また真如涅槃の徳を三種に分かちて、智徳、断徳、恩徳(智、勇、仁に当たる)としてある。このいわゆる慈悲または恩徳に対する方に道徳を立つるから、報恩の行為となるのである。

       第九一節 世間道徳と成仏との関係

 世間道徳の名目の諸経に散見せる分はこれを略し、ここに吾人が生来道徳心を有し、善を善とし悪を悪とし、悪を避けて善につかんとする天性すなわち良心を有するを、仏教においていかに解するかにつきて一言してみたいと思う。わが心に悪念を起こすは貪、瞋、痴の煩悩より起こり、その貪、瞋、痴は我執より生じ、我執は本来われの我とすべき一物なきに実に我ありと思う一念より発することは、理論宗の下にて述べたるとおりである。しかるにその煩悩妄念の中より道徳心を自発するはいかんというに、これを三世因果の道理によりて前生の善因が発したるものとするのは、小乗、大乗に通じて説くところである。しかれどもその前生に善因を自発するに至りしはいかんと推究するときは、到底小乗の因果のみにて説明のできぬことになる。これにおいて大乗より説明を与えねばならぬ。

 大乗にては万法の本体は真如にして、真如の体面に万法を開現したる説なれども、権大乗の頼耶縁起にては第八識中の種子より開現したりとして、その種子の根源を明らかに示さざるをもって、更に進んで実大乗の説明を要すことになる。しかして実大乗にては真如縁起を立て、真如自体より万法を開現せることを示しておる。したがって一切衆生はたとえ煩悩妄念の雲に覆われておっても、その心底に真如の本性を有しておることを示し、『涅槃経』に「一切衆生はことごとく仏性あり。」(一切衆生悉有仏性)と説いておる。しかるときは吾人の本来有する仏性が、善因に遭遇して微光を漏らすのが良心の光となるわけだ。しかしてその仏性の開現の程度によりて、世間的善人と出世間的果人とが分かるるのである。もし全分開現しきたらば仏果の地位に達するに相違ない。この理によりて実大乗にては世間的道徳をも成仏の業因とするのである。

 しかるに浄土門においては真如本来の性徳を阿弥陀仏の体に具備するものと定めてあるから、吾人が自力にて仏性を開現するに及ばず、ただ心をこの仏の慈光に向けて開放すれば、たちまちにその光がわが心内に照入してくる。しかるときは知らず識らず仏の道徳に浸されて、世間の道徳を履践するようになる。よってわが方にてなす一言一行はすべて仏恩に報謝の心得にて営むべしというのは、真宗にて特に唱うるところである。かくのごとく実大乗の原理よりみるときは、世間道も出世間道もその源は一に帰することが分かる。

       第九二節 悪心の起源

 更に良心の反対なる悪心の起源につきても一言しなければならぬ。吾人の有する悪心を仏教にては煩悩といい、その煩悩の起源をば我執、法執とし、その二執の起源をば権大乗にて第七末那識の作用に帰するも、その識の起源に至りては、やはり実大乗の原理に考えてみなければならぬ。実大乗にては真如に付随せる無明の妄見が煩悩の迷いを生ずるに至るとしてある。これを根本無明と名付け、菩提の智を障うる故に無明といい、諸迷諸悪の根本なるが故に根本無明と申すのである。

 実大乗は真如一元論なれば、真如の外に無明の存するはずはない。よって天台にては真如の自性に本来無明の理を具するものと説いておる。しかるときは真如に悪を具することになる。これを性悪説と名付けておく。性悪とは吾人の生来の心に悪ありというのみにあらず、真如の自性に悪を具有しておるとの説である。すでに真如自性に悪ありとする以上は、仏にも悪を具することになる。故に天台は仏にも悪性ありと申しておる。しかるに華厳にてはこの説を許さず、真如も仏も絶対的清浄純善なるものとして説いておる。もし本来清浄純善なるものならば、いかにして悪が起こりきたるかの疑問がたちまち生じてくる。これに対して華厳にては一切の衆生は本来成仏しておるものなれば、迷いもなく悪もなきものであるも、われらの方にて誤りて悪ありとみるに過ぎぬというように論じておる。

 しかるにその謬見の起こるには、必ずこれを起こす源がなくてはならぬ。この理を推すときは、どうしても天台の性悪説を立てざるを得ざるようになる。もっとも天台にて性悪というのは、世間普通にいうところの悪ではない。普通のいわゆる悪はこれを修悪と名付けて、性悪と区別しておく。すなわち修悪は実行上の悪にして、性悪は善悪彼我の差別を起こすゆえんの理を具しておることをいうのである。かかる性悪は真如にも仏にもあるけれども、仏はこれを実行に現さぬ故に、性悪を有するも修悪を有せずと説いておる。これに反して衆生は悪を実行するから、修悪を有することになる。これ仏と衆生との相違である。かくのごとく仏に修悪なしとすれば、悪なしということと同じ意味とみてよろしい。

 余はこの点を天台と華厳と対照して考うるに、そもそも悪の起こる本源は自他彼我の差別の見に外ならぬが、その差別は本来なきものなることは華厳の所説のとおりである。あたかも宇宙間には本来東西南北の差別なきと同様であろう。しかるに吾人の境遇に差別の実在をみるは、本来東西の差別なき宇宙間において、いやしくも地球の一部位に心を寄せてみるときには、東西の差別歴然として現ずると同様である。けだし天台にて性悪を唱うるゆえんは、差別なきところに差別を生ずる理を具するということに帰すると思わる。なおその理を煎じ詰むるに、わが心を万法の一部位に寄せてみるときは差別を現じ、真如の方に合してみるときは差別のなきことになる。すなわち吾人が地球の一部位に住するものとみるときに東西の差別を生じ、もしわが心に宇宙そのものを考えきたらば、その差別をみざるに至ると同様である。しかしてその差別の見が妄念悪心を生起する根元となる。余が知りたる範囲において華厳、天台の両説を総合するにこの点に帰着するように思う。これが実大乗の悪の原因につきての説明である。

 

     第一九講 結 論

       第九三節 諸宗の異同比較

 上来、講を追って述べきたりしところ、これを総括していわば、仏教は婆羅門教に対抗して起こりたるものにして、その相違の要点は同教が客観論なるに反して主観論をとり、有神論なるに反して無神論をとり、有我論なるに反して無我論をとりたるところにある。しかして梵王の造物主宰を否定して、全く真如を体とし、因果を用としたる説をとり、因果が世界を造り、因果が万法を支配する説を立てたるものが、仏教である。もし宗教の実行に関しては、婆羅門教の苦行に対して楽行を立つるに至った。かくのごとく二教は全然その性質を異にするも、小乗教中には婆羅門説を加味してあるところが多い。たとえば天界を説くがごとき、輪廻を立つるがごときは、その説を受け継ぎたるものである。

 仏教中にて小乗と大乗とはまた大いに所見を異にし、小乗は主観論中の客観論、物心二元論、我空法有説、厭世教なるに対し、大乗は主観論中の主観論、唯心一元論、我法二空説、楽天教なるの相違がある。つぎに大乗中に権大乗は相対的唯心論、事理二元論、種子開発説、静的真如説、五性各別説にして、実大乗は絶対的唯心論、事理一元論、真如開発説、動的真如説、悉皆成仏説でありて、これまた大いに相違しておる。つぎに理論宗と実際宗とを較するに、双方の理論においてはその本源を同じうするをもって互いに一致するところあるも、応用に至りて前者が成仏の遠路、修行の難道をとりたるに反し、後者は成仏の近路、修行の易道をとりたるの相違がある。終わりに世間道の上にて対比するに、忠孝仁義等の人道をもって世間因果の範囲内に限るものとする説と、これを出世間因果すなわち成仏の業因とする説と、大体において二とおりに分かれておる。前者は小乗、権大乗のとるところ、後者は実大乗のとるところである。

       第九四節 仏教分類総表

 右述べたる諸宗の異同を、前に示したる諸表に総合して表示すれば、左のとおりである。

  第38図表

       インド宗教 婆羅門教 理論・・有神論兼有我説

                  実際・・苦行道

             仏教 出世間道 理論宗(第39図表に続く)

                     実際宗(第40図表に続く)

                世 間 道 世間出世間異途説

                     世間出世間一途説

  第39図表

      理論宗 哲学門 小乗(有宗)すなわち我空法有宗

              大乗(我法二空宗) 権大乗(空宗) 有門(法相宗)

                                空門(三論宗)

                        実大乗(中道宗) 天台宗

                                 華厳宗

                                 真言宗

          宗教門 小乗

              大乗 権大乗

                 実大乗

  第40図表

       実際宗 禅宗(見性宗)・・意宗

           浄土宗および真宗(念仏宗)・・情宗

           日蓮宗(題目宗)・・智宗

 これを要するに世間道の原理は出世間道に基づき、実際宗の原理は理論宗に基づき、宗教門の原理は哲学門に基づき、哲学門の原理は万法と因果と真如との関係を論明せるに外ならぬ。すなわち真如を中心とし、万法を外囲とし、真如と万法とを連結するものを因果律とし、この三者の関係を考察して宇宙観をなしたるものである。もし体相用をもって論ずれば、真如は体(本体)、万法は相(現象)、因果は用(作用)となる。畢竟するにこの三大要素をもって組織したるものが仏教である。しかしてその論の深浅、その見の高下の別あるために、小乗、大乗、権、実の名目を異にするに至ったものに過ぎぬ。もし理論の発達の方面よりみれば、婆羅門教より小乗を産出し、小乗より権大乗、権大乗より実大乗を分化したりと申しても差し支えなかろう。

       第九五節 大乗非仏説論

 日本仏教を講述してここに至れば、大乗仏説非仏説に関して一言を添うる必要ありと思う。わが国の仏教は現今において宗派をなせるものことごとく大乗教にして、小乗宗は昔時伝わりしも、一も今日に存するものはない。しかるに近来、大乗非仏説論盛んに行われ、日本仏教は釈迦仏所説にあらずと唱うるものが多くなってきた。この非仏説論はシナにても日本にても古来より唱うるところにして、あるいは小乗より大乗を排して仏説にあらずといい、あるいは儒教より仏教を斥して後人の偽作といいたりしも、その論更に勢力を有せざりしが、近年新たに西洋より非仏説論を輸入しきたるに及んで、甲唱え乙和するの勢いを示すこととなった。

 西洋に大乗非仏説論の行わるるは、その仏教がセイロン島またはビルマ国より伝わりし故である。しかしてこれらの方面の仏教はすべて南部派と称し、小乗教でありて、盛んに大乗非仏説を唱えておる。しかしてその非仏説論の根底は大乗教が釈迦仏入滅後、数百年を経て初めてインドに起こり、仏入滅の当時には小乗教の経文の編集ありしも、大乗の編集がなかった等の歴史上の事実によりて唱えるのである。

 大乗家は仏入滅後ただちに小乗の編集と共に大乗の編集ありしことを伝うれども、その事実が小説的にして信拠し難い。もし果たして大乗が仏説ならば、仏入滅後小乗と共にインドに行われそうなものなるに、五〇〇年間は小乗ひとり弘まりて、大乗全く伝わらなかった。しかしてその間、大乗経は海底の竜宮に隠れてあったというがごときも小説的である。少しく今日の学理を知るものは、到底かくのごとき小説を事実として信ずることはできぬ。これにおいて大乗非仏説論の歓迎せらるるに至った。これに対する大乗仏説論者の弁解いかんは大いに興味ある説明であろうと思う。

 従来の日本の仏教家はあまり歴史の方に重きを置かぬ風がある。これはつまり大乗宗であるからだ。大乗宗は理を本とし、理想の講究に重きを置き、釈迦仏その人を崇拝するよりも、むしろその所説中の真理を崇信する方である。これに反して小乗は理論よりも事実を貴ぶ風がある。またヤソ教のごとき純天啓教にては、教祖の歴史的事実の考証を必要とするも、仏教なかんずく大乗教のごとき道理教にては、その所説の教理が真か否かを論明するを主とし、史伝の事実のごときはただ参考するに過ぎぬくらいであるから、古来ほとんど歴史的研究を放任してあった。しかし近年に至り非仏説の声がようやく高くなりたれば、これに答弁する必要を感じ、いくぶんかその説に対して弁証したるものがある。

       第九六節 大乗家の答弁(一)

 近来これに対する大乗家の答弁をみるに、種々の証明を用いておる。その第一は哲学的見解である。これは大乗の道理為本の見地より、その説がなんびとの口より発し、その経がだれの手になりしかなどは問うに及ばぬ。ただ吾人の崇信するのはその所説中に含まれておる真理である。たとえ大乗が非仏説とみても、その説の真理の価値においてなんらの影響はない。真理は依然として真理である。またこれを非仏説とみる方も果たして確証があるわけでなく、やはり憶測に過ぎぬのでありて、帰するところ水掛論となるであろう。またすでに大乗教が今日に現存せる以上は、これを説き出せし人があるに相違ない。その人は釈迦仏にあらずとせば、だれであるか。仏滅後六〇〇年を経て馬鳴という人が初めて大乗を唱えたという点より考うれば、馬鳴が大乗の初祖となるであろう。もしまた七〇〇年を過ぎて竜樹が唱えたとすれば、竜樹が開祖であろう。釈迦仏を外にして今日いまだなんびとが大乗を創説せしかの定説がないとすれば、非仏説論も空想に過ぎぬわけだ。道理為本の目よりみるときは、釈迦仏の名はこの大乗の真理を説き始めた人のことと定めておけば足るのである。馬鳴が説いたとすれば、馬鳴を釈迦仏と定めて差し支えない。竜樹が説いたとすれば、竜樹を釈迦仏と名付けてよろしい。よって仏説非仏説の争いは無用の議論であるとするのが一説である。

 つぎに発達進化の方面より弁解するものもある。すべていずれの教にてもいかなる説にても、世を重ねて次第に発達進化してきたりたるものにして、仏教もやはり発達進化してきたったものである。あたかも草木の種子根幹より枝葉花実を開発するようなものだ。種子根幹が梅ならば、これより開発したる枝葉も花実も共に梅となり、桜とも柳ともならぬに相違ない。これと同じく釈迦仏は仏教の種子根幹でありて、小乗はその枝葉のごとく、大乗はその花実のごときものだ。釈迦仏の在世中には小乗のみを説かれたとしても、あえてなんらの差し支えはない。しばらくその説に任せておけばよい。その初時開発の枝葉から、仏滅後数百年の間に次第に大乗の花実を開現したことは疑いない事実である。そのわけは大乗中の原理は小乗中に含まれており、小乗の外面にあらわれぬまでにて、裏面に潜在せしことは両乗を比較対照すればただちに分かってくる。たとえば万法と真如との関係のごとき、因果の理法のごとき、いずれも小乗大乗に貫通せる理脈にして、小乗を開発すれば、必ず大乗を現出せざるを得ざる道理が歴然として存しておる。決して梅の種子根幹より桜の枝葉花実を開現せるがごときものにあらざるは明らかである。よって小乗大乗共に仏説なるも、仏在世の当時には大乗は潜在的仏説にして、滅後ようやく小乗の胎内より自発的に開現せるに至ったものであるというが、また一説となっておる。

       第九七節 大乗家の答弁(二)

 以上二説のうち、第二説を証明するに、仏滅後小乗の分派を参考せねばならぬ。小乗は仏在世の間はもちろん、滅後も全く分派するに至らず、二〇〇年を過ぎて上座部、大衆部の二部に分かれた。その大衆部の説は一分大乗にして、純小乗ではない。これよりようやく分岐するに従って、大乗の説がようやく小乗中に加わりて開発したりしことは事実である。これにおいて小乗中に大乗とみても差し支えなき宗派をみるに至った。またその分派せざる当時にても、小乗経中に大乗の教理の一端がところどころに散見しておる。これらの事情を総合するに、小乗と大乗とは一系統の仏説なることが分かり、決して特に釈迦仏の外に大乗の祖師がありて別説したるものでないことが明らかである。

 また一説によるに、小乗は事界を本として説きたるものなれども、大乗は心界を本としたる立て方であるから、大乗の教旨は経文に載せて伝うべきものでない、なんびともその心に実修すべきものである、いわゆる心をもって心に伝うべきものである、よって仏滅後の経文にはみえざれども、心々相承して数百年の後に伝わり、当時の事情に促されてついに経文となりて世に現ずるようになったのであるというは、禅宗流の一家の説である。その中には竜樹が竜宮より実大乗の『華厳経』を取り出したという説を解して、竜宮とは心のことで、心門を打開して大乗の妙理を開現したというように解する説もある。

 また一説に大乗は仏教の極意であるから、秘密に伝うべきものとし、殊更に経文に書き載せることを避け、ただ方便教たる小乗のみを編集して世に示し、大乗は師より弟子に口伝をもって秘授したるものである。しかしてなるべく他人には言外せぬようにしたから、世間に知られなかったのである。あたかも一家の貴重品のごとく、秘蔵して伝えたという説である。しかるに二〇〇年を過ぎて大衆部の方でその秘蔵の一部分を漏らしたるために、保守的教徒の反抗を招くに至った。しかるに四〇〇年、五〇〇年を経て外道大いに興り、到底小乗の説のみにてはこれと論争することあたわざるに至りたれば、やむをえず世間に大乗を公開することになったという。

       第九八節 大乗家の答弁(三)

 その外なお一説とすべきは仏在世の当時小乗を説き終わりて、大乗まで説かれたれども、その教えを解するもの少なく、インド中部の人には適合せざりしに相違ない。よって仏滅後その教えは編集に上らず、かつインドに行われなかったのであろう。しかしインド以外の島の中か山の間にその説が経文となって残っておった。それを六〇〇年の後に取り出してインドに弘めるようになり、またそのころになりてはインドの哲学思想が大いに勃興してきたから、一般に小乗よりも大乗を歓迎するようになったであろう。大乗経の出所につきては、竜宮より持ち出したという説と、ヒマラヤ山中に発見したという説とあるが、竜宮とは海中の島に相違ない。つまりインド以外の地方より持ちきたったことを申したのだ。これも一説である。

 以上余がこれまで見聞したりし大乗仏説に関する諸論の要点だけを掲げたのである。とにかく日本仏教が大乗教たる以上は、かかる説明も必要と存じ、結論中に加うることにした。なんびとがみても仏教の真価は大乗に存することが分かる。これただにその理論の高妙なる点においてのみならず、その宗教としての立て方が決して小乗のごとき厭世的のものでない。よって大乗こそは文明日新の今日の時勢に適する教えであろうと思う。しかるにその大乗がいまだ西洋に紹介せられざるために、西洋にては仏教を目して一般に厭世教となすは遺憾の次第である。幸いに仏教の真面目たる大乗教が、シナに衰え去りて日本にのみ存するから、余はこれを西洋へはもちろん、広く海外諸国へ紹介したいものと思っておる。

 

     第二〇講 余 論

       第九九節 仏教伝来の年代および律宗の所立

 すでに日本仏教の大要を講述し終わりたるも、現今わが国に存する各宗祖の立宗開教に関し、その伝来および年時につき、極めて簡単に表示しておこうと思う。これ本講の余談付録である。釈迦仏が西暦紀元前九四九年に入滅せられてより、小乗もっぱらインドに行われ、二〇〇年を経て上座部、大衆部の二流を分かつに至り、六〇〇年を経て馬鳴出で、七〇〇年を経て竜樹現れ、この二高僧によりて始めて大乗を顕揚するに至った。しかして仏教のインドより相伝えてシナに入りしは、仏滅後一〇一六年にして、西暦紀元六七年に当たる。更にシナより朝鮮を経て日本に伝えしは、西暦五五二年に当たる。これより二百余年の間は三論宗、成実宗、法相宗、倶舎宗、律宗、華厳宗、漸次に弘通せしが、西暦七〇〇年の末(わが桓武の朝)より天台宗、真言宗、大いに興隆するに至った。下りて西暦一一〇〇年、一二〇〇年代の間に当たり、浄土宗、禅宗、真宗、日蓮宗等相続きて起こり、大いに仏教の面目を一新せし故、この時こそはわが国宗教の革命時代と申してよろしい。すなわち従来の理論宗に反抗して、実際宗の勃興したる時代である。これより後は革命前の旧宗と革命後の新宗と並び行われて、明治の今日に至った次第である。

 律宗のことは前にいまだ述べざりし故に、ここに一言しておかねばならぬ。律とは一身の行為を抑制する規律戒法の意味なれば、律宗とは仏教所定の戒法をもって立宗したるものをいう。すなわち前にしばしば述べたるがごとく、宗教門の修法は戒定慧三学であるが、そのうち特に戒にもって宗を開きたるものが律宗である。しかしてその宗の主義とするところは、定慧二学は戒をもって本とし、戒行清浄なれば定、慧おのずから立つとの説である。およそ戒律の種類には五百戒ありと称するも、これを大別して止持戒、作持戒の二種とし、止持戒は止悪門にして、諸悪莫作を本とする消極的制裁をいい、作持戒は修善門にして、衆善奉行を本とする積極的道徳をいう。また戒律には小乗戒、大乗戒の別あれども、従来律宗の所立は主として小乗戒を受持するにあれば、小乗宗に入るべきはずである。しかるにその宗において小乗戒を会通して、大乗に合せしめたるをもって、これを通大乗と称し、小乗にしてしかも大乗に通ずと唱えておる。この宗を前に講述せざりしは、昔時は独立して一宗をなせしも、今日は他に合宗せられておる故である。しかしてその由来はもとよりシナより伝えたるものに相違ない。

 ついでに経律論三蔵のことも一言しておきたいと思う。仏教の諸説諸義を網羅したる典籍をその類に従って経蔵、律蔵、論蔵の三種に大別しておる。経蔵とは釈迦仏が衆生を教化したる説法を集めたるものをいい、律蔵とは身心を規制する戒律を集めたるものをいい、論蔵とは哲学的に論明したる教義を集めたるものをいう。これを戒定慧三学に配当して、経蔵は定学を明かし、律蔵は戒学を明かし、論蔵は慧学を明かしたるものとの説明もある。またこれを宗旨に配当すれば、天台宗、華厳宗などはもっぱら経蔵に基づきたるものなれば、経宗と称すべく、倶舎宗、成実宗、三論宗は主として論蔵に基づきたるものなれば、論宗と称してよろしい。これに対して律宗は全く律蔵に基づきたるものなれば、自らその名のごとく呼びきたるのである。

       第一〇〇節 法相、華厳、天台諸宗の年代

 各宗中、日本に最初に開けたるものより数え上ぐれば、第一は法相宗である。この宗は最初インドに起こり、後にシナに入りて盛んになり、更にシナより日本に伝えたるものである。その宗を初めて伝えきたりしはわが朝、白雉四年(西暦六五三年)、道昭といえる僧シナに入り、帰りてこれを弘めたるを始めとしてある。そののち数回新たにシナより伝えきたりしも、そのいちいちを述ぶる必要はない。もしその宗義に至りては、権大乗の諸講の下にひととおり述べおきたれば、繰り返すに及ばぬ。ただしその宗のよるところの経典は数部あるうち釈迦仏所説の『解深密経』を本経とし、これを助くるに主として『瑜伽論』『唯識論』の二書をもってし、諸経諸論によりて組み立てたる宗旨である。

 つぎに華厳宗はインドにて竜樹が竜宮より持ちきたれりと伝えられし『華厳経』に基づきて起こりたる宗旨なれども、インドにてその宗の開けしにはあらず、シナにて立宗せるものが日本に入りきたりたるのである。すなわちわが朝の天平八年(西暦七三六年)道璿と申す僧がシナから来朝せしとき伝えきたれるに始まりしも、実際の開祖は良弁僧正としておる。その宗意も今ここに再述するに及ばぬ。

 つぎは天台宗の史伝であるが、その宗は『法華経』に基づきて起こりしも、華厳宗のごとくインドにて開宗せしにあらずして、シナにて成立したる宗である。すなわちその開祖はシナ天台山の智者大師〔智顗〕であるから、天台の宗名が起こってきた。しかしてこれを日本に伝えし人は世に名高き伝教大師〔最澄〕である。伝教はシナに入り、天台を学びて帰り、延暦七年(西暦七八八年)に比叡山を開きてこの宗を弘めたりとのことである。その後この宗に分派を生じ、初めに寺門派を出し、つぎに真盛派を出した。

 寺門派は智証大師〔円珍〕を開基とし、天元四年(西暦九八一年)より自然一派を別立するに至った。その当時より寺門派に対しその本宗の方を山門派と唱えきたった。この両派の宗義につきては大同小異にして、その異なる要点は寺門派は天台の宗意に真言密教を加え、顕密両教を兼ねたる点である。つぎに真盛派はその派名と同じき真盛といえる人によりて開かれ、文明一五年(西暦一四八三年)に立宗せしとの説である。その宗意に至りては一種の別伝を開きたるものといわねばならぬ。すなわち天台より出でて、浄土門の念仏をとり、これに天台所定の戒律を加え、念仏と戒律との二者をもって組み立てたる宗旨である。しかしてその念仏につきての解釈も浄土宗と異なりて、念仏の力によりて浄土に往生すると思うは、すでに念仏と往生とが別物になるからよろしからず、かかる計度分別を用いず、ただ南無阿弥陀仏と唱うるところがすなわち往生であると無意識的念仏をとるところ、すこぶる簡単である。かくして口に念仏を唱え、身に戒律を守るをもって一宗の要義と定めておる。

       第一〇一節 真言、融通念仏、浄土諸宗の年代

 そのつぎにきたるものは真言宗である。この宗は弘法大師〔空海〕がシナより帰朝し、弘仁七年(西暦八一六年)高野山を創開せられしより始まっておる。その宗義は理論宗の下に述べたればここに略し、ただ古義、新義の分派につきて一言しようと思う。保延六年(西暦一一四〇年)覚鑁と名付くる人(興教大師)が高野山を退きて根来に移りしより、次第に一派を分立するの勢いに至った。従来この派を新義と名付け、高野山の派を古義と名付けて区別しておる。しかして現今は新義に更に智山、豊山の二派を分立せしむることになり、古義中にも小分派の並立するようになった。この古義、新義の宗意上の相違はその教主たる大日如来の説法につきて起こりたる異見に過ぎぬ。古義にては大日如来が自証の本地にありて説法せりと談ずるも、新義にてはこれを許さずして、自証の極位には化他の作用なしという。その詳細なる説明のごときは専門にわたるをもって略しておく。

 その次は融通念仏宗である。良忍といえる人が永久五年(西暦一一一七年)ただちに心眼をもって阿弥陀仏に面謁し、その天啓に基づき開立せられたる宗である。その宗は念仏を本とするも、前にも述べたるとおり浄土門の念仏と異なり、一人の念仏が万人に融通するという主義にて、天台、華厳の融通無礙の理を本とするものなれば、浄土三部経よりもむしろ『華厳経』『法華経』を所依の正経としておる。かく所依の経文を設くるも、立宗の由来が阿弥陀仏直授の念仏を本とするものなれば、釈迦仏所説の経説はこれを助成するものに過ぎざることとなる。

 つぎに起こりしは浄土門の諸宗である。その源は承安四年(西暦一一七四年)法然(円光大師)の浄土宗を開立せるに始まっておる。その宗義は釈迦仏所説の経文と馬鳴、竜樹等の諸師の論文とに基づきて起こりたるも、インドにはいまだかかる宗派はなかったのである。ただしシナには浄土宗の名をもって開宗せられておった。しかし法然はシナに入りて伝えられたのではなく、インド、シナの諸師の論説によりて開設せられたものである。その門下に念仏の解釈に関して異義が起こり、鎮西、西山両派を分立するに至った。鎮西派は今日これを単に浄土宗と唱え、開祖法然より第二祖弁長、第三祖良忠と相伝えたる法脈でありて、西山派は法然の弟子証空より相伝えたる流義である。その二派の異同は前すでに述べたるところなるが、鎮西の口称の念仏に対するときは、西山は口称をとらずして、意業の念仏をとる方である。

       第一〇二節 禅宗の年代

 つぎは禅宗の年代を述ぶる順序になっておる。この宗は釈迦仏の拈華より起こりしことは前すでに述べたるところなるが、爾来祖々相伝え、達磨に至りてシナに入りしというも、実際一定の宗門の開立するに至りしはシナに始まり、達磨が開山なるに相違ない。故にシナ宗である。しかしてこれを日本に伝えたる人は栄西と道元である。もっともその前に日本へ伝えたることありしも、伝灯を失うに至った。しかるに栄西はシナに入りて学び、そのときシナの禅宗に臨済、曹洞等、数宗あるうち臨済門下の宗風を唱え、帰りてその宗を起こした。年代は建仁三年(西暦一二〇三年)である。この臨済宗は後に数派を分出し、現今派名を有するものに、建仁寺派、建長寺派、東福寺派、円覚寺派、南禅寺派、大徳寺派、妙心寺派、天竜寺派、永源寺派、相国寺派の諸派がある。その中にて最も多くの末寺を有して勢力あるものは妙心寺派である。しかしてその諸派の宗義においては、全く一轍にして寸毫の相違はない。

 道元(承陽大師)はシナに入りて曹洞門下の正伝を受け、帰りてその宗を起こすに至った。しかしてその紀元は天福元年(西暦一二三三年)である。四代目瑩山のときに宗風大いに振るってきた。道元は越前に永平寺を建て、瑩山は能州に総持寺を興し、その所轄する寺院おのおの異なるに至りし故に、越山、能山をもって区別することになっておる。もし臨済宗と曹洞宗との異同につきては、前すでに述べたるものだけにて足れりと思う。

 つぎに黄檗宗は比較的最近の禅宗にして、万治二年(西暦一六五九年)の開立である。その開祖は隠元にして、シナより渡来したる人だ。その縁故をもって最初の間は代々シナ僧がきたりて相続することになっておった。しかしその宗義においては全く臨済宗と同一である。その開祖はシナにて臨済門下の人であった。故に初めは臨済宗に属しておりしが、後に別宗を公称するに至った。ただ日用行事の法はすべてシナ(明)風を用うる点において臨済宗と異なるのみである。すなわちこの宗ひとり日本諸宗中、純然たるシナ宗であると申してよろしい。

       第一〇三節 真宗、日蓮宗、時宗の年代

 また法然の門下より出でて別に一宗を開立したるものは、真宗開祖親鸞(見真大師)である。元仁元年(西暦一二二四年)に親鸞は『教行信証文類』と名付くる書を著して、そのとるところの宗意を明らかにせしをもって、開宗の起源としてある。この宗は肉食妻帯を許し現世の祈福除災に関する迷信を禁じたるは一大達見であった。なかんずく僧侶に妻帯を許すというは、シナおよび日本に先例のなきことである。すでに妻帯宗であるから宗祖の法脈も血統によりて伝うることとなった。すなわち本願寺の伝灯である。その一二代目のときに東西両寺に分かれ、爾来相伝えて現今にては本願寺派、大谷派の二派となる。本願寺第八代蓮如(慧灯大師)は大いに宗運を振興せしとて、これを中興の祖と立ててある。

 真宗には本願寺両派の外に数派がある。すなわち仏光寺派、専修寺派(通称高田派)、錦織寺派(木辺派)、興正寺派、毫摂寺派(出雲路派)、証誠寺派(山元派)、誠照寺派(鯖江派)、専照寺派(三門徒派)であるが、かく分派多きも、宗義に異同ありて分かれたるのでなく、ただ徒衆を統轄する便宜上より起こりたるものに過ぎぬ。

 つぎに述ぶべきは日蓮宗の由来である。この宗が日蓮によりて開かれたりしは言うに及ばぬ。開宗の年代は建長五年(西暦一二五三年)に当たる。その宗は天台宗と所依の本経を同じうするも、全く新機軸を出したるものにして、真宗のごとく日本新開の宗旨である。後来多くの分派を生じ、その宗派の中心に立つものを昔時は一致派と唱えしが、現今は単に日蓮宗と称し、この単称日蓮宗の外に妙満寺派(現称顕本法華宗)、興門派(日蓮正宗)、八品派(本門法華宗)、本成寺派(法華宗)、本隆寺派(本妙法華宗)、不受不施派、および不受不施講門派がある。これらの諸派は宗義上にて一致、勝劣の二主義に分かるることはさきに述明せしところである。

 以上諸宗の最後に時宗を掲げねばならぬ。その宗祖は通称一遍と申す人である。一遍は建治元年(西暦一二七五年)熊野神社に祈念し、神勅を得て開宗するに至った。その宗は念仏宗なるも、浄土宗および真宗と異なるところあることは前すでに述べておいた。日本の諸宗は大抵みな経典または論釈によりて開立したるに、融通念仏宗と時宗だけは仏または神の天啓託宣によりて開きたるものである。この点は右両宗の特色と申してよろしい。

       第一〇四節 現時諸宗末寺統計表

 以上、日本諸宗の伝来を一言し終わりたれば、ここにその寺院および僧侶の一覧表を挙げて、大尾とするつもりである。

   宗 名    寺数(寺)      僧数(人)

  法 相 宗      四三        一五

  華 厳 宗      三二        一二

  天 台 宗    四六三二      二七九〇

  真 言 宗   一二五四七      七九九九

  融通念仏宗     三六一       二一六

  浄 土 宗    八三七二      六一三一

  臨 済 宗    六一二四      四六一二

  曹 洞 宗   一四二二〇      九七三四

  黄 檗 宗     五三四       三四六

  真   宗   一九五二二     一五一三〇

  日 蓮 宗    五〇三八      三九四二

  時   宗     五〇二       三四一

 以上、合計一二宗の寺院数七一九二七カ寺、僧侶数五一二六八人となる。

 この統計によりて、もし一カ寺に所属する檀家の戸数、平均一〇〇戸と仮定すれば、全国中七二〇万戸は仏教を奉ずる割合となり、一戸平均五人と仮定すれば全国民中約三六〇〇万人は仏教に属する割合となる。左にこの割合に基づきて試みに想像的仮定表を作り、現時の各宗信徒の概算を示そうと思う。

  法 相 宗   信徒 二万一五〇〇人

  華 厳 宗   同  一万六〇〇〇人

  天 台 宗   同  二三一万六〇〇〇人

  真 言 宗   同  六二七万二五〇〇人

  融通念仏宗   同  一八万五〇〇人

  浄 土 宗   同  四一八万六〇〇〇人

  臨 済 宗   同  三〇六万二〇〇〇人

  曹 洞 宗   同  七一一万人

  黄 檗 宗   同  二六万七〇〇〇人

  真   宗   同  九七六万一〇〇〇人

  日 蓮 宗   同  二五一万九〇〇〇人

  時   宗   同  二五万一〇〇〇人

 これを総計すれば日本仏教一二宗の信徒の数、三五九六万三五〇〇人となる。この算定はもとより事実として信ずべきものにあらざるも、これによりて多少各宗の勢力の一端をうかがい知ることを得べしと思い、想像的仮定表を掲げたる次第である。しかし従来各宗共に一カ寺の檀家平均一〇〇戸と定めてあるから、全くの空想ではなかろうと思う。