2. 通俗絵入 

妖怪百談

P63--------

通俗絵入妖怪百談

1.サイズ(タテ×ヨコ) 180×113㎜

2.ページ総数:192

 哲学館主井上円了博士著書総目録:8

 序言・目録:10

 本文:153

 付録(鬼門論):19

 哲学館講義録広告:2

3.刊行年月日

 初版:明治31年2月21日

 再版:明治31年5月25日

 底本:三版 明治32年10月30日

(巻頭)

4.句読点あり。総ルビ

5.発行所

 四聖堂(哲学館内)

P65--------

序  言

 この百談は、さきに「偽怪百談」と題して『読売新聞』に数十日間連載せしものを一まとめにし、その上に訂正を加え、往々図画をはさみ、巻末に名家の批評を付し、ここに名を『妖怪百談』と改めて、新たに刊行したるものなり。各談の下に『妖講』何部〔門〕何頁と記入せるは、『妖怪学講義』の頁数を指定せるものなれば、よろしく本書を参考対照すべし。

緒  言

 余、先年、古今の書籍をさぐり、東西の学説に考え、四百余種の妖怪を集めきたりて、これにいちいち説明を与え、両三年前その全部を編纂して、世に公にするに至れり。これを『妖怪学講義』と名づく。そのうちには実怪あり、虚怪あり、偽怪あり、誤怪あり、仮怪あり、真怪あり。人為的妖怪、これを偽怪と名づけ、偶然的妖怪、これを誤怪と名づけ、自然的妖怪、これを仮怪と名づけ、超理的妖怪、これを真怪と名づく。これ横的分類なり。もし縦的分類によらば、「総論」「理学部門」「医学部門」「純正哲学部門」「心理学部門」「宗教学部門」「教育学部門」「雑部門」の八大科となる。しかして今、余が『妖怪百談』一名「偽怪百談」と題して、ここに集録するところは、横的分類に従い、『妖怪学講義』中より偽怪、誤怪の種類に関する例証を抜抄せるものなれば、これを『妖怪百談』と称するより、むしろ「偽怪百談」と名づくるを適当となす。けだし、『妖怪百談』は総名にして、「偽怪百談」は別名なり。しかるに、世の妖怪は十中八九まで偽怪より成るをもって、ここに「偽怪百談」を題して『妖怪百談』と名づけり。今、もし「偽怪百談」を結了するを得ば、他日さらに、『妖怪学講義』中より真怪の種類を抄出して、「真怪百談」を編集すべし。

 世人、あるいは余を目して極端の妖怪排斥家となすも、余はむしろ極端の妖怪主唱者にして、世界万有ことごとく妖怪なりと固執するものなり。ただ、余が世人とその見を異にするは、従来一般に認めて妖怪となすものは、真の妖怪にあらずして偽妖怪なり。しかして真の妖怪は、世人の全く知らざるところにありて存すべしというにあり。

 それ、鏡面の塵を払わずんば、その真相を認むるを得ず、月下の雲を払わずんば、その清光に接するを得ざるがごとく、偽怪の妄を排せずんば、真怪の実をあらわすを得ず。ここにおいて、「真怪百談」にさきだちて、「偽怪百談」を編成するに至れり。ゆえに、「偽怪百談」を読むもの、誤りて余を消極一方の破壊論者となすなかれ。余は、一方において消極的に破壊するも、他方において積極的に建設せんことを期す。人、もしその実を知らんと欲せば、請う、「真怪百談」の出ずるを待て。

妖怪百談

第一談 天狗の奇話 (『妖講』「心理学部門」第三八節参看)

 民間の妖怪談中には、幽霊談、狐狸談、天狗談、最も多し。しかして、三種とも偽怪、誤怪の加わることことに多く、事実の真偽を鑑定することはなはだ難し。今その三者中、まず天狗の怪談につきて述ぶるに、天狗そのものは獣にもあらず、人間にもあらず、鬼神にもあらず、実に一種不測の怪物なり。これに関する怪談は古今の書中に散見せるも、その事実ははなはだ疑うべきもの多し。左に、『雲楽見聞書記』に出だせる天狗の奇話を示さん。(『雲楽見聞書記』は上下二巻より成り、写本にて世に伝わる。著者の号を雲楽と名づくるも、その姓名をつまびらかにせず。一説に、江戸日本橋辺りの差配人なりという。本書は随筆体の実事談を集めたるものにして、文化年中の筆記にかかる)

 寛保の末つかたのことなりしが、江戸橋茅場町に有徳なる商人、手代、年季の者まで十二、三人も召しつかい、なに暗からず暮らせしあり。子供三人まで持ちしが、二人は早世して、当時ひとり息子にて、利発の生まれつき、親たちの寵愛おおかたならず。月よ花よと楽しみありしときに、この息子いったい器用にて諸芸通達し、中にも平生囲碁を好み、ただこれにのみ心をゆだねけるが、あまりに心を労しけるゆえにや、ふとわずらいつき、労痎のごとく引きこもり、人に逢うことさえいといける。よって両親心遣いして、医療さまざまに尽くしけれども、さらに験なし。しかるに親類のうちより、この病体に妙を得し医師を伴いきたり、この薬力にてしあわせにだんだんと平癒して、今は常体のとおり全快せしかば、両親のよろこび、とびたつばかり。連らなりし人々、召使等まで万歳を唱えけり。

 この病体全く碁にこりかたまりてそれよりのことなれば、碁はまずやめにして、気を転ずることよしと、歌、三味線にかえしなり。息子の友達寄り集い申すよう、「われら二、三人申し合い、ゆさんがてら箱根へ湯治に赴く催しなり。貴所にも保養のため、連れはわれわれなれば、同道しかるべし」と勧めけり。なるほど、よろしかるべしと親たちへ達せしところ、行きたくば、ともかくも心任せにとあるゆえに、早速相談きまり、出立の用意とりどりにて、支度調い発足しけり。ほどなくかの地へ着せしところ、連れのうちに病人とてはなし。いずれも保養のことなれば、湯は付けたり、浄瑠璃、三味線のみにて、毎日の楽しみいうばかりなし。連れのうちにて申し出だしけるは、「この土地に地獄という所ありと聞く、見たし」と言うより、しからばとて、おのおの連れ立ち行く。この節、かの息子をも勧めしが、なに思いけん、行くまじとのことなり。よって後へ残りける。地獄めぐりに行きし人々は、帰りてそのはなしなどして興じける。

 それより一両日過ぎて、息子ふと思いけるは、みなみな地獄を見物せしが、なんとかしてその節は行かざりしが、ここへ来て見ざるも残り多ければと思い、友だちにもはなさず、供をも連れず、ただ一人地獄をさして赴きしが、人にも問わず、心拍子に五七町のことなるべしと思い出でしところ、道を取り違え行きしが、問うべき人にも逢わざれば、これまで来たりむなしく帰らんもいかが、行きつかんことはよもあるまじと行くほどに、日は夕陽に及ぶ、空腹にはなる、コハいかにとはるかの岳に上り見渡せば、かすかに五七軒の家居の見ゆるさまなれば、なににもせよあの人家まで行きつくべしと、方角は分かたねども、もしくは三島の辺りにてもあらんと思い、まずその方を心がけ行くほどに、しあわせとその里と見し所もほど近く、二、三町にも見えければ、道を急ぎてようようにかしこに来たり。ここかしこと五七軒を見れども、餅、団子を売る体の家も見えず、いかにすべしと立ちたりしが、とある家に五、六人集まりて碁を打ちておる内へはいり、「御免下され、火を一つ借用」と、空腹にてタバコ機嫌はなけれども、寄りつくしおに言いければ、安きこととて差し出だす。かたじけなしと火をかり、腰打ちかけておれども、いずくにもある習い、碁に打ちかかりし人はもちろん、見物までも碁に見とれ、かの男に挨拶する者も、とがむる者もなし。

 しかるに、われも元来好きの道なれば、その盤面を見るに下手どもにて、心の内に腹を抱えるほどのことにてありしが、じっと押しひかえておりしが、碁を打ち終わりければ、かの者申すよう、「あなた方にはよき御慰みなり」と申しければ、みなみな申すよう、「そのもとはいずくの人にて、なにとてここへは来たられしとぞ」と問う。答えていうよう、「拙者は江戸表の者、箱根へ湯治に来たりしが、地獄を見物せんと出でしが、道に踏み迷い、かくのしあわせなり」と答う。「それは気の毒なり。はや暮れも近ければ湯本までは帰られまじ。あなたも碁好きと見えたり、一ばん打ちたまえ」とあるを、「仰せのとおり好きには候えども、下手にて候」と例の卑下の言葉に、「下手とありても江戸衆のことなれば、さはあるまじ。われらお相手つかまつるべし」と申すに、一人進み出でて打ちかかりしが、まず客なればとて白石を渡し、打ちけるところ二目の勝ちなり。どれどれわれら替わるべしと入りかわり打ちしところ、またこのたびも二目の勝ちとなり。中に気の付く者申すは、「お客は知らぬ道を迷いあるき、さぞ空腹にもあるべし」と、あり合わせの膳を出だす。こなたにも望むところなれば、辞儀に及ばず。所望してまず腹内も丈夫になり、さてみなみな申すよう、「まず、今宵はここに止宿ありて打ちたまえ」とて、新手を入れかえ、七人を相手として打ちしところ、甲乙なしにみな二目の勝ちとなり。この者ども胆を消し、「誠に希代の碁打ちかな。とてもわれらが相手にはならず、先生を招きうたすべし」とて、そのうちより一両人迎いに行く。

 この先生というは、ここより十町ほど脇に住んで、業は医師を立てて、近郷に続く方なき碁打ちと沙汰して、この者ども、みなかれが門弟なり。よって五里十里脇よりも聞き伝え、好きなる人は打ちに来たるとなり。かの者どもの告げによりて、先生は取るものも取りあえず、ここへ入りきたる。その形相、年のころは六十有余とも見えて、白頭の総髪、髭も白く、眼中するどくして、衣類は絹太織、浅黄小紋の単物、縮緬のはおりを着し、朱鞘の大小を横たえきたり、「珍客の御入来とて、招きに応じ参りたり」と、座中へもあいさつあり、客人へも初対面のあいさつ終わりて、「さて、囲碁をいたさるる由、お相手になり申すべし。承りしところ、ことのほか御能達のよし、まず初めてのことなれば、互い先にて参るべし」と、口には言えど、心にはなんのへろへろ碁、ただ一番に打ちつぶしくれんずと思い、盤面に向かい始めしところ、さしたる好味の手も見えねども、ややもすれば危うきことたびたびなり。負けてはすまずと一世の肺肝を砕き打ち上げしところ、先生の方一目の負けとなり。よって、先生も途方に暮れて言葉なし。

 しかれども、碁の家筋というにもあらざれば、ぜひなく客の方へ白石を渡し、自身は黒石を取りて打ちけるが、また一目の負けとなり。それより、だんだん一目ずつ置き上げ打ちけるところ、八目まで置き打ちけるに、とかくして各一目ずつの負けとなり。ぜひなく井目置き、これにてはいかないかな負けることあらじと、一生懸命と日ごろ念ずる神々へ心願こめて打ちけるに、相かわらず一目の負けとなり。先生はじめ有り合う人々興をさまし、口を閉じ互いに顔を見合わせ、なににたとえん方もなく茫然たるありさまなり。かくするうち九つ過ぎにもなりければ、「まず休みたまえ、明日湯本へおくるべし」とて、その夜は止宿いたさせ、翌日になりて右の者ども四、五人にて道を送り行くほどに、とある所にて「あの見ゆる所湯本なれば、この道筋を直に行けば出ずるなり」とよくよく教え、「御縁あらば重ねて」といとまごいして別れけり。

 それより湯本へ帰りしところ、旅宿にては大騒ぎ。大切の預り息子、昨日より出でて帰らざれば、手分けしてたずぬるといえども、地理をも知らぬ他国のこと、いずれを何国とわかつべし。連れの者どもはみな立ちかかりて、かの息子をしかるやらよろこぶやら、泣くやら笑うやら。生死のほども知らず、江戸へ飛脚を立つべしや、なんと言いてよかろうと、とやかくとみな打ち寄りて辛労せしこといくばくぞや。「かようなる迷惑なる目にあいしこと、これまで覚えず」などと口々に言い立てられ、あやまりいりていたりしなり。しかれども、まず別義なく帰られしとよろこび、後は笑いになりて事すみぬ。その後の言い合わせに、帰府してもこの沙汰は一向無言の申し合わせにて、湯治も相応していよいよ堅固にありしなり。

 ときにその翌年に至り、その時節になりければ、右の友達訪いきたり、「去年の入湯相応せしことなれば、今年もまた迎い湯に立ち越えんと思うなり。貴所にはおぼしめしこれなきや」と勧めければ、「それは望むところなり」と親たちへ申しければ、ともかくもとあるゆえに、去年のとおり出足せり。かの地に至り四、五日過ぎ、かのことを思い出だし、まかるべしとだれにも相談せず、ある日立ち出でしが、過ぎつるころは難儀せしことなれば、今度はよく覚悟して食べ物等を用意し、かの道に赴き、なるほどかようなる所もありしと心にうなずき、道の分かりのおぼつかなく思う所は枝折りし、または鼻紙取り出だし引き裂き結い付け、または矢立てをとりて石などへ書き記して行くほどに、去年の出でし刻限より早く出でて、ことに食事はたしかなり。道には見覚え等もあれば、前に三島にてもあるべしと見極めしところの岳へは、昼時分に至りぬ。それより、かの所へ行きしは昼過ぎにて、その辺りの家居をのぞきおれども、碁を打ちておる家も見えず。

 そこかここかと見回るうち、一軒の家居ここらにてあるべしと思う家を見れば、まず取り付きに一間ありて、そのつぎに広き中庭の体にて土間あり。その所の真ん中に一間半四方ほどの茅ぶきの東屋を建て、この内に四、五尺四方、高さ三、四尺ばかりに土をもて築き上げ、その上へ碁盤をおき、盤の上に碁器を二つならべ、軒には七五三飾り、賽銭箱を置き、この家へはいり、「火を借用申したし」と言い入るうちに、六十ばかりの老人一人ありて、ほかに人も見えず。「心安きことなり。腰かけてゆるゆると休まるべし」と、茶など与えければ、言い寄るしおに時候のあいさつして、そのうえ申すよう、「昨今ながら承り申したきことの候。向こうの方にかざり置かれしは碁盤、碁器と見えたり。自余と違い、神前のかざり付けのように見え候は、いかがのことなり」と不審しければ、あるじ答えて、「もっとものおたずねなり。これにこそしさいあり。この辺りに一人の碁打ちありて、名人の名を取り、近在近郷に並ぶ人なし。よってこの人、自賛に慢じて人を侮り、われならではと思う心絶えず。人々憎むほどなれども、だれあって足元へも寄り付くこともかなわねば、この道を好む者は門弟となりて指南をうけ、上見ぬ鷲の所業なりしが、去年今時分にもあらん、ちょうどあなたさまのようなる人、何国よりともなく忽然と来たって、かれと碁の勝負あり。続けて十番まで負けられ、それより後はぐうの音も出ず、その節人々申すよう、『これは全くただごとならず。

先生あまり高慢なるゆえに、かれが鼻をひしがんと、天狗さまの人に化けて来られしものなるべし』との評判にてありし。それよりのち、所の者、ぜひとらねばならぬと思う無尽か、勝たねばならぬ相撲、なにによらず勝負の願いには、この碁盤へ向かい祈るに、勝たずということなし。はてさて、そのはずなり。目前、天狗さまの御手にふれられしことなれば、そのはずのことなり」と、勢いにかかって物語る。ゆえに、「その天狗はわれなり」とも言われず、口を閉じて帰りしとなり。

 これ、ひとり天狗談中に限るにあらず、狐狸、幽霊等の怪談中にも、この種の人怪の加わること必ず多かるべし。

 

第二談 西方塞がり (『妖講』「純正哲学部門」二九二頁引用)

 愚俗は方位の吉凶を信ずれども、英雄、豪傑に至りてはこれを信ぜず。その一例に、徳川家康公関ヶ原の役に、凶方を犯して勝利を得たることあり。すなわち、『草茅危言』に論ずるところ左のごとし。

 関ヶ原大戦に関東御出陣のとき、ある人諌めて、「今年は西方塞がりなれば、方違えをして出でさせたまえ」といいしに、「西、今まさに塞がるゆえ、われゆきてこれを啓くなり」とて、ただちに門出したまい、めでたく御代となりたり、云云。

 ちなみに唐太宗の例を掲げんに、太宗出陣のときに、ある人諌めて、「今日は往亡日とて、はなはだ不吉の日なれば、延引ありたし」といいしに、「われ往きて彼亡ぶる日なれば、心配するに及ばず」とて、すぐに軍を出だされ、果たして勝利を得られたりという(あるいは周武王出陣のときに、このことありともいう)。また、ちなみに武田信玄が軍士の迷信を破りたる故事を引用せん。このことは『武将感状記』に出ず。

 信玄、信濃に発向のとき、鳩一つ庭前の樹上に来たる。衆、見て口々に私語して喜ぶ色あり。信玄そのゆえを問われければ、「鳩その樹上に来たるとき、合戦大勝にあらざることなし。御吉例に候」とこたう。信玄、鉄砲をもってたちまちその鳩を打ち落として、衆の惑いを解きたまう。

 日本にてもシナにても、英雄はみなかくのごとし。世人むしろ英雄を学んで、愚俗を学ぶなかれ。

 

第三談 英雄の方便 (『妖講』「雑部門」第一節参看)

 古来、英雄、豪傑にして間々、時日、方位の吉凶を卜するものあり。これ、英雄自ら信ずるにあらざるも、無知の士卒を奨励するの一方便としてこれを利用するなり。ゆえに、『民生切要録』に、「古人、時日、方角の説あるは、多くは貪を使い、愚を使うの術なり。天時、地利の人和にしかざるは、聖賢の格言なり。しかれども、敵におもむく大将、多くの士卒を進退せしむるに、士卒は理を知らざるゆえに、わずかなることに疑いをなし信をなす。ゆえに、三軍の勇を励まさんために、時日の説を借りることあり。かつまた五行相生、相剋をもって事を定むるに、相生を吉とし、相剋を凶とす。しかれども、元来生剋に吉凶なし、云云」とあり。かくのごときは、余がいわゆる政略的偽怪なり。

 

第四談 疑心暗鬼を生ず (『妖講』「宗教学部門」第一節参看)

 シナの諺に「疑心生暗鬼」(疑心暗鬼を生ず)といい、本朝の諺に「心の鬼が身をせむる」ということあり。『本朝俚諺』に、『〔大〕智度論』によりて解説していう。

 『〔大〕智度論』にいう、「むかし山中に寺あり。そのうらの別房に鬼住んで住僧をなやますゆえ、みな房をすててにげ出でしかば、後には住せんというものなし。かかるところに、よそよりひとりの僧きたりて、この房にすまんという。所の人、『この房には鬼あり』といえば、『なにほどのことかあらん。われ、かれを伏すべし』とて、房に入りて住す。その折ふし、またある僧、この房に鬼ありとききて、『かれをしたがえん』といいて房にゆき、戸をひらきて入らんとす。前に来たりし僧、夜陰のことなれば、すはや、くだんの鬼よとおどろき、戸をおさえていれじとふせぐ。後に来たりし僧は、内に鬼ありてわれをこばむとこころえ、しきりにいらんとあらそうに、ついに戸をおしやぶり、双方こぶしをもってうちあいくみあうに、夜ようやくあけしかば、故旧同学の僧なり。たがいにおどろきはじて、あきれおりたり。人おおくあつまり見て、笑うことかぎりなし」とあり。

 『謙徳公家集』に

  わがために、うときこころのつくからに、かつは心の鬼も見しけり。

 『新六帖』に

  かくれみの、うきなをかくすかたもなし、心に鬼をつくる身なれば。

 世の妖怪は大抵この類にして、心より出ずるものなり。ゆえに、妖怪の巨魁は我人の心にして、妖怪の巣窟もまたこの心なりと知るべし。

 

第五談 山間の呼び声 (『妖講』「総論」第一〇三節参看)

 目には幻視あり、耳には幻聴ありて、幻聴は幻視より生じやすし。例えば、夜、渓声を聴きて風雨かと驚き、遠く砲声を認めて雷鳴かといぶかるは、みな幻聴なり。今、『民生切要録』に出ずる一例を挙ぐれば、

 ある人、山中に呼ぶ声を聞く。その人、声を求めてゆきて渓間のほとりに至る。石間、木葉ふさがりて呼ぶ声のごとし。木葉をとればただ流水潺々たるのみ。また、はじめのごとく石間に置くときは、水すなわち木葉にふれて呼び声のごとし。世間の耳目をまよわして、奇を見、怪に遭うこと、この類なり。学者知らざるべからず。(この話は南秋江『鬼神論』中に出ず)

 世のいわゆる妖怪には、この幻聴より出ずるもの必ず多かるべし。

 

第六談 死体の衄血 (『妖講』「医学部門」六一一頁引用)

 人の最も迷いやすきは生死の門にして、古来の妄説、多くは死の現象の解し難きにつきて起これり。まず死体に関する妄説の一種は、親戚もしくは縁故ある者、死体に触るるときは、必ず死人の上に感動を与えて、鼻孔より出血するを見ると伝うるものこれなり。しかるに医家の説明によれば、死体の出血は、親戚の死体に触れし場合に限らず、なにびとにてもこれに触れ、これを動かすときには往々あることなり。また、ことさらに動かさずとも、ときによりては自然に衄血の流れ出ずることありとす。しかるに、親戚にあらざれば死体に触るる場合極めて少なく、また、死体に接近してその面貌を熟視することなきをもって、死体の上にこのことあるを見ざるのみ。また、すでに死体を棺に納め、その体より衄血を出だすことあるも、親族の者にあらざればその蓋を開かざるをもって、そのことに気付かざるのみ。

 ゆえに、親族にしてたまたま衄血を見ることあれば、これをもって、死人自ら親戚の来たれるを知るとなすがごとき妄説を生じたるものなるべしという。

 

第七談 炉中の菌怪 (『妖講』「理学部門」第三二節参看)

 米飯中に味噌粒あれば、人これを怪とす。夜中婦人の孤行するを見れば、人またこれを怪とす。すべてその常に異なるものあれば、これを妖怪となす。これ、あえて不可なるにあらず。しかるに、ただにこれを妖怪視するのみならず、人多く吉凶禍福の前兆となす。これ、余が解することあたわざるところなり。『閑際筆記』に出だせる菌怪の一話は、参考に便なればここに掲ぐ。

 古語にいわく、「怪を見て怪しまざれば、その怪おのずからやぶる」と。信なるかな言や。魏元忠、猿狗の異、伊川の尊人、官廨の妖のごとき、歴々見るべし。わが国にもその人なきにあらず。むかし、人家に菌、炉中に生ず。闔家これをみて驚惶す。主人曰く、「灰もまたこれ土なれば、土菌を生ずる、なんぞ怪しまんや。もし、これさかしまに生えば、もって怪とするに足らん」と。菌すなわち★(番+羽)倒す。主人笑って曰く、「なんじ、わが言を聞きてはじめて★(番+羽)倒することを知る。なんぞもって人にわざわいするに足らん」と。すなわち、左右をして抜きてこれを去らしむ。後、果たして事なし。

 これによりて、草木の怪は怪とするに足らざるのみならず、家の興廃、人の吉凶に関係なきを知るべし。

 

第八談 御札、天より降る (『妖講』「理学部門」第五七節〔参看〕)

 明治維新の初年に、京阪地方より東海道筋へかけて、神様の御札の降りしことありて、一時世間の大評判となり、大いに騒ぎ立ちたることありき。当時、御札の降りきたりたる家にては、神の御下りになりたるものと思い、この上なきめでたきことに考え、毎日その祝いに来たる人々へ、だれかれの別なく、酒を出だして饗応すること流行せり。その御札の原因につきては、その当時はもちろん、今日に至るまで、実に奇怪、不思議に思いておるものあり。余、かつてこれを実視せる人に聞くに、「これみな人為に出でたるものなれば、毫も奇怪とするに足らず。その証跡は、第一に御札は決して士族の邸や、貧民の家に落ちたることなく、富有の家に限りて降れり。これ、富人は御札の降るを祝して、酒食を衆人に施すも、貧民はなしあたわざるによる。すなわち、酒食の饗応を得んと欲して、人の故意になしたるものなり」と。その後、同じく右の実況を目撃せる人に会し、さらにその原因をたずねしに、「これ全く人為なる証拠には、拙者らも二、三人申し合わせ、おもしろ半分に、夜分御札を降らせに出かけたることありし」と答えり。果たしてしからば、人間の狡知よく神を欺くというべし。後世あにおそれざるべけんや。

 

第九談 本来東西なし (『妖講』「純正哲学部門」第四四節参看)

 方位家は方位のことを喋々すれども、方位はもと仮設のものにして、宇宙の体には本来その別なきことは、いずれの天文に考うるも明らかなり。古来、仏教家は左の偈文を唱えり。

迷故三界常、悟故十方空、本来無東西、何処有南北。

(迷うゆえに三界常、悟るゆえに十方空、本来東西なし。いずれの所に南北あらん)

 果たしてしからば、方位説は迷いより生ずといわざるべからず。

 

第一〇談 五行の妄説 (『妖講』「純正哲学部門」第六二頁)

 方位の可否を論ずるは、もとよりすでに愚なり。五行の吉凶を談ずるも、また愚なりといわざるべからず。五行とは木火土金水にして、その名目は『書経』の「洪範」に出ずるも、これを諸事諸物に配合して、吉凶禍福を判定するに至りたるは、漢以後のことなるべし。わが国にありては、今日なお民間にこれを信ずるもの多きは、余輩の解することあたわざるところなり。その、これを年に配し、日に配し、方位に配して吉凶を談ずるがごときは、いかに信ぜんと欲するも、信ずることあたわず。その判断はあたかも七曜の上において、水曜日には水難あるべし、火曜日には火難あるべし、金曜日には金もうけあるべしと断定するに似たり。だれか、あえてこれを信ぜんや。今、ここに五行家が相生、相剋に与えたる説明を述ぶるに、木生火、火生土等は、これを相生といい、水剋火、火剋金等は、これを相剋という。その相生の説明を見るに、火生土の下に、火にて物を焼けば、みな灰となりて土に帰す。これ、火より土を生ずる理なりとあれども、さらにその意を得ず。例えば、ここに枯れ葉ありとするに、これを火に投ずれば灰となり、灰は土となるをもって、火より土を生ずるといわんか。しかるに、枯れ葉は火に投ぜざるも、そのまま土にうずめて、よく土に化するを得べし。かつ、火はたとい枯れ葉を灰にする力ありとするも、ただその変化の媒介をなすのみにして、決して土を生ずる力を有するにあらず。あるいは火は水を温めて、よくこれを蒸気に変ずることを得るも、決してこれを土に変ずるあたわず。あるいはまた、火は金をとかすことを得るも、金はやはり金にして、火のために土となるにあらず。

 果たしてしからば、火土を生ずの理いまだ知るべからず、土金を生ずの解に、土中より金を掘り出だす例を引けり。これ一理あるに似たれども、土をうがてば水をわき出だすをもって、土金を生ずと同時に、土水を生ずともいうことを得べき理なり。あるいは地震にて大地の裂けたるときは、土中より火を噴出するをもって、土金を生ずと同時に、また土火を生ずともいうことを得べき理なり。つぎに、金水を生ずの解に、金を火にてあぶれば、水のその上に浮かぶを見る。これ、金の水を生ずるゆえんなりとす。あるいは砂石をうがてば、水おのずから出ずるをもって、金水を生ずといい、あるいは金をとかせば、水のごとくになるによりて、金水を生ずという等の種々の説明あれども、一つとして理の信ずべきものなし。ある書に、金水を生ずを説明して曰く、「金銀や銅鉄ある所にはみな水あり。諸国の金山を掘るに、水のために妨げられて掘り難きゆえに、金の水を生ずるゆえんを知るべし」とあれども、だれかこれを読みて、一笑せざるものあらんや。その他の相生、相剋の説明、みなかくのごとし。

 かかる不道理の説明をもって、今日の人知に満足を与えんと欲するは、今日の人に穴居巣栖を勧むるとなんぞ異ならんや。これを要するに、五行の吉凶鑑定は、その原理とするところの生剋の説明、すでに不道理を極む。なんぞその応用の確実なるを得んや。

 

第一一談 夜、鬼物あり (『妖講』「総論」第一〇一節参看)

 藤井懶斎、自ら鬼を見たることをその著書中に掲げり。左にこれを転載すべし。

 ある人曰く、「いうことなかれ、鬼なしと。われしばしばこれを見る」と。聞く者、もって怪となす。余が曰く、「必ずみな妄ならず。ただし、その見るところのものが己の心の影象にして、ほかより至るものにあらざることを知らざるのみ。余、幼きとき、郷人の子いいて曰く、『某の地、某の所に夜、鬼物あり』と。余、しばしばそこを過ぐるに、ついに見るところなし。この言を聞くに及んで後これを過ぐれば、すなわち聳然として一物を見るがごとし。十余歳にして後また見ることなし」と。晦翁〔朱熹〕、かつて怪を論じて曰く、「人心平鋪着なればすなわちよし。もし做弄すれば、すなわち鬼怪出ずることあり」と。信なるかな。一書に曰く、「人、鬼をおそるるがゆえに人に鬼あり、猪羊、鬼をおそれざるがゆえに猪羊に鬼なし」と。また併案すべし。

 その末語、誠に妙なり。人に鬼あるは、人自らこれを迎うるによる。二、三歳の無神経の小児に鬼なきは、全くそのゆえなり。しかして懶斎が幼時鬼を見たるは、その心迎えて幻覚を起こせしに相違なし。

 

第一二談 幽霊の幻覚 (『妖講』「心理学部門」第四節参看)

 本年一月発行の仙台『東北新聞』に、「内田医学士と幽霊」と題して左のごとく記せり。

 第二高等学校医学部教授、医学士内田守一氏は、精神病学を専攻して有名の人なり。氏、かつて酒を被りて夜帰る。途中なんとなく戦慄し、後ろを顧みるに物あり。漠焉として人のごとし。俗にいう幽霊なるものか。学士おもえらく、世に幽霊なる具象的のものあるはずなし。いやしくも学理的の頭脳を有するもの、世の妄信者とともに怪を見て可ならんやと。顧眄数回、注視すれどもその物消えず。学士進めば幽霊また進む。家門に至りてたちまち消ゆ。後、学士このことを挙げて諸生に語りて曰く、「予の怪を見しは事実なり。思うに、こは急性幻覚性妄想と名づくる一種の精神病的現象ならん。この精神病的現象は、不意に急性にきたる。予、その精神の異状を自覚せざる瞬間にかかりたるにて、その去るや、また極めて急劇なる瞬間に去る。これをもって、予はわが精神に異状あるを自覚せず、しかも記憶その他の連続せるよりして、その幻視を忘れざるなり」と。

 かく記しおわりて曰く、「思うに教授のこの説は、教授の実験せし現象のほか、多くの不思議、多くの幽霊を退治するに足る、云云」と、記者は評せり。

 

第一三談 日月の変光 (『妖講』「純正哲学部門」第二一節参看)

 『雑笈或問』に、日月星の光変じて国の凶事を示すということを聞けり。いかにとの問いに答えて、『扶桑異志』を引けり。その文、左のごとし。

 大江惟時が弁に、「たとえば、病眼の者灯火を見れば、その光常に変じて見ゆ。正眼の者見れば、常に変わることなし。日月星の光もまたそのごとし。乱起こらんとする国の人見るときは、常に変わりて見ゆべし、治世の人見るときは、常に変わることなし。あに日月星の光に変わりあることあらんや」

 これ、外象の変幻は、これをみる人の感覚、精神の状態いかんに応じて起こるとの意にて、ややおもしろき説なり。

 

第一四談 婚礼および正月の縁起 (『妖講』「教育学部門」三五八頁引用)

 俗にいわゆる縁起をやかましく言い立つるは、婚礼の儀式と正月の祝賀に、ことにはなはだしとす。例えば結納の目録に、昆布を「子生婦」と書し、柳樽を「屋内喜多留」と書し、鯣を「寿留女」、鯛を「多居」、可被下を「下被可」と書くの類これなり。この「下被可」と書くゆえんは、いったん家を出でて他に稼したるものは、再び家にか{、}え{、}る{、}を不吉とするをもって、文面に返{、}り{、}点を付けて読むを嫌うによる。また、婚礼のときに銚子に蝶形を付くるを例とするは、蝶ののどかなる日に遊び戯るるがごとく、夫婦和合して日を送るを祝する意なりという。あるいは一説に、蚕の蝶になりたるときは、子を多く生むゆえ、子孫繁昌を祝うの意なりという。また、婚礼に蛤の吸い物を用うるは、蛤は数百千を集めても、ほかの貝に合わざるものとして、貞女は両夫にまみえずとの意を含むという。

その他、婚礼の贈り物に用うる水引は、結びきりにして返さざるは、ひとたび嫁したるものの帰らざるを祈るの意にして、婚礼の席に客の帰り去るを、御帰りといわずして御開きというも、帰{、}る{、}を避くるの意なりという。

 正月の食品および飾り物もこれに同じ。食品には餅、昆布、煮豆、数の子の類を用う。餅は金持ち、子持ちのモチに通じ、昆布は子を生むと音相類し、豆はマメヤカのマメに通じ、健康の意を寓するなり。また、飾り物には苧、橙、小判、餅等を用う。これ、俗に親代々金持ち「緒や橙金餅」を祝する意なりという。これ、多くは俗人の付会に出ずるも、要するに、儀式の縁起は大抵みな迷信の一種に過ぎず。たとい儀式は迷信より出ずるも、別に利害のなきことなれば、なるべく古来の習慣を守るをよしとす。

 

第一五談 雪は豊年の瑞 (『妖講』「純正哲学部門」一二二頁引用)

 『毛詩伝義』に「豊年の冬必ず積雪あり」といい、本朝の諺に「雪は豊年の瑞」という。朱子の説明によれば、「雪よく豊年をなすにあらず。そのしかるゆえんは、陽気を凝結して地にあり、来歳に至りて発達して万物を生長するをもってなり」というも、これ、陰陽説にもとづくをもって解し難きところあり。もし今日の学説に考うれば、化学上雪多きときは、田地に肥料をとどむるをもって、豊熟をきたすべしとの説明あれども、あえてかく考うるを要せず。およそ冬寒ければ夏暑し、冬多く雪ふれば夏雨少なくして、天候順を得べき理なり。また、冬多く雪ふり寒厳しければ、害虫自然に凍死して、翌年稲類の成長を妨げざるべき理なれば、雪は豊年の瑞と称して可なり。

 

第一六談 時日に吉凶なし (『妖講』「純正哲学部門」一〇九頁引用)

 今日、愚民は一般に干支、五行を時日の上に配当して、吉凶禍福を談ずるも、これ俗間の妄説に過ぎざることは、『梅園叢書』に出だせる諸例につきて明らかなり。

 (前略)「武王以甲子興、紂以甲子亡。」(武王は甲子をもって興り、紂は甲子をもってほろぶ)ということあり。周の武王殷をせめて、甲子の日にあたりて殷の紂王をほろぼしたまえり。同じ甲子なれども、武王のためには吉日にして、紂王のためには悪日なり。港にかかる船の東にゆくは、西風を順風といい、東風を悪風という。また、西にゆく船のためには、東風順にして西風不便なり。もとより風に順逆はなく、われゆくに順逆あり。日に吉凶なし、われに吉凶あり。とかく、あしきことをする日はすべて悪日なり、よきことをする日はすべて吉日なり。吉凶あにほかにもとむべけんや。(中略)明の太祖天下を得たまいてのち、朕と年月日時を同じくして生まれたらんものはいかがあるべしとおぼしめし、あまねくたずねたまいしに、一人をもとめきたれり。見たるところ、やせつかれたる野夫なり。「汝、なにを業とするぞ」と問いたまいければ、蜜十三篭をやしないて世をわたる由こたえけるに、このもの、なにごとをかなすべきとて、放しかえしたまいしとなり。(下略)

 その文あまり長ければ前後を略す。世の迷信家は、すべからく本書につきて全文を通読すべし。

 

第一七談 盗難よけの御札と賽銭箱の鍵 (『妖講』「宗教学部門」第四七節参看)

 ある人の話に、「某神社に盗難よけの御札を出だす所ありていわく、『だれにてもその身にこの札を所持し、もしくはその家に保存すれば、決して盗難にかかる恐れなし』と。しかして、堂内にかけたる賽銭箱に、かたく錠を下ろしてあるを見たり。これ自家撞着にあらずや」と。

 

第一八談 民間の狐狸談、信憑し難し (『妖講』「心理学部門」四四三頁引用)

 民間の狐狸談は、十中八九までは、無根、虚構に出ずるをもって、容易に信憑すべからず。今その一例を挙ぐれば、両三年前のことなるが、ある人突然、余に書を贈りて、栃木県に狐惑の事実ありしを報知せられたり。よって、余はただちにこれをその本人に問い合わせしに、全く無根の談なりき。今、左にその報道の次第を示すべし。

 栃木県下某町、開業医某のもとに、真夜中急使来たりて請いらく、「産者、今まさに産せんとしてすこぶる苦悩せり、急ぎ来たりて一診せられたし」と。某、請いに応じ車を命じて、急使とともにその家に馳せてみれば、家は誠に立派なる大家なり。至りしときはすでに産み落とせし後なりしかば、某は事後の薬など与え、うどんの馳走を受け、かつ謝金をも受け取りて帰宅せり。翌朝、所用ありて紙入れの金を出ださんとして開きみれば、なんぞ図らん、謝金はことごとく木の葉ならんとは。怪しみて前夜の道をたどりてその家に至りみれば、車輪の跡は歴々存すれども、家はあらずして茶園のみ。しかして、その茶園に狐の赤子が死しておりたりという。ここにおいて、某は前夜のうどんを思い出だし、家にかえりて吐剤を服し、もってその吐出物を検するに、まさしくうどんなりしに相違なし。もっとも、その前日とか、その近傍に婚礼ありて、打ち置きしうどんが紛失せしことありし由なれば、けだし、このうどんなるべし。当時、この話遠近に伝わりて、人はみな、某は狐にばかされたりと称せり。

 このことにつき、寄書者は疑問を掲げて曰く、「狐は果たして人を魅するの術を知るや。果たして狐に人を魅するの術ありとせば、いかなる術に候や。心意にいかなる変化を受くれば、かく狐を人と見、茶園を立派なる大家と見受くるに至るものに候や。魅術の心意上に及ぼす変化のぐあいを承りたし」

 余、この報に接して大いにこれを怪しみ、速やかに某町に問い合わせしに、その返書に、御照会の件は全く事実無根につき、御取り消し相成りたし旨申しきたれり。ここにおいて、そのことの全く訛伝、虚構に出でたることを知る。

 今日今時の伝説すら信拠すべからざること、それかくのごとし。いわんや昔時の伝説をや。これによりてこれをみるに、古来の狐狸談は、多くは狐狸そのものの人をたぶらかすにあらずして、人の人をたぶらかすものなるを知るべし。果たしてしからば、人間の魔術は狐狸の魔術に勝ること万々なり。ああ、狐狸の輩、なんぞ人間に加うることを得んや。

 

第一九談 神なお人間に使用せらる (『妖講』「雑部門」第一節参看)

 狐狸いかに狡猾なるも、もとこれ獣類のみ。その人間にしかざるは、あえて怪しむに足らず。しかるに、人間以上に位せる神、なお人間に使用せらるること多し。今その一例を挙ぐるに、ある一種の教会にて神壇を設け、これに向かいて祈祷するときは、神その座にくだりきたることを衆人に示さんと欲し、祈祷のたけなわなるに当たり、神酒をいれたる器物に御幣をはさみ込みたるに、その幣たちまち左右に動揺するを見る。すなわち衆に告げて曰く、「これ今、神のくだりて御幣に憑りたるなり」と。衆みな大いに驚く。すでにして一陣の風北窓より吹き入りて、その器物をたおせしかば、その中より鰌の四、五ひき躍り出ずるを見たり。よって衆はじめて、御幣の動きたるは、神の憑りたるにあらずして、鰌の動きたるにもとづけるを知れりという。これ、人為的に属する一種の妖怪にして、いわゆる利己的偽怪なり。果たしてしからば、神仏の怪談も容易に信ずべからず。

 

第二〇談 投石の怪 (『妖講』「雑部門」五三三頁引用)

 民間の妖怪に、なにものか瓦石を投ずるも、さらにその原因を知るべからざるものあり。余はこれを投石の怪と名づく。『続日本紀』、光仁天皇宝亀七年にその怪ありしことを記せる以上は、古代より起こりし妖怪なるがごとし。その怪、近年ことに多きをおぼゆ。余は毎年二、三の地方にそのことあるを聞き、これを探知するに、その原因は大抵みな人為に出ず。

 左に、『中央新聞』および『奥羽日日新聞』の雑報を転載して示すべし。

 明治二十七年七月発行の『中央新聞』にいわく、「京都上京区元六組北町、織物職薮田喜七郎方にて、去る五日の夜十一時ごろより、毎夜同じ時刻に表裏のきらいなく、にわかに小石の雨を降らし、その所業者をたずぬるも一向見当たらぬにぞ、さては天狗か狐狸の所業か、近所近辺の一問題となりたるより、警察署でもすておき難く、上長者町の警官がわざわざ出張のうえ取り調べたるに、ただ疑わしきは同家の雇い女『おしな』が、その時刻に見えなくなりたるより、もしやと思いてその跡をつけゆくと、果たして『おしな』は、ほど近き竹薮の内に入り、小石を拾いては投げはじめるにぞ。さてこそ正体見届けたりと、ただちに引っ捕らえて取り調ぶるに、元来、この『おしな』は丹波国南桑田郡吉川村、平民菊島市松の妹にて、去る二十五年ごろより右の薮田方に雇われいたるが、ちょうど同家に寄留しおる荒木常太郎に通じおるゆえ、主人喜七郎はこのことをかぎつけて、それとなく小言をいうより、わが身の淫奔は思わず、主人の小言を恨んでいたところ、去る二日のこととか、仕事の不出来より、またまた厳しくしかられた〔る〕を根に持ち、去る五日の夕方、喜七郎が行水しておる折、そっと薮陰から小石を投げしも、喜七郎は『おしな』の所為と気付かず、狐狸のいたずらといいおるに、グッと乗りがきて、それより毎夜そっと脱け出だしては、小石をばらばら投げ付けて、ひそかに鬱憤を晴らせし由、包まず白状に及びたるにぞ。なおその不心得を説諭の上、主人喜七郎へ下げ渡されしとは、女に似合わぬ悪いたずらなり」

 明治二十七年八月発行の『奥羽日日新聞』にいわく、「仙台市内良覚院町の石投げ怪聞につきて、再昨日の夜、某氏が実地探検したりというを聞くに、同夜は暑熱のはなはだしきにもかかわらず、納涼かたがた見物に来たるものおびただしく、ために良覚院の細横町は通りきれぬほどなりし。さて、今や怪石の降りきたるかと待つほどもなく、九時三十分ごろに至り二十二番地の地先にて、突然降下せしとて拾い上げたる石塊を見るに、あたかも数年間土中にうずまりおりたりとおぼしく、十分水気を含蓄せる縦四寸ばかりの楕円石なり。探検者はその拾い上げたる人に目星を付け、それとはなしに始終その人に尾行するに、彼はこれを気付きたる風なり。東西南北と群集の中をかけめぐる様子なれば、なおも尾行するに、三十分ほどをへだてその人の右手に当たり、ドシリという音せしが、彼はまたここにも降りたりと、自ら拾い上げて、さも珍しそうに諸人に示しおれり。探検者はますますこれを怪しみて、何気なく群集に押されたる風を装い、突然彼と衝突せしに、彼が左袂には、確かになにやらん堅きもの二、三個入れおけり。よって探検者は、怪聞の原因を左のごとく説明せりと。

  一、降下せる石塊は、いつも同一の人間に拾い上げらるること。

  一、拾い上げたる人の袂には、石塊の入れあること。

 右によりて見るときは、なにも怪しむべきことはなく、営利のために摩利支天社を設立するを目的とするか、または要なきいたずらにて、諸人をさわがし自ら快とする悪者の所為なるべしとなり」

 この二種の報道によりて、投石の怪は人為なることを知るべし。

 

第二一談 精神作用の影響 (『妖講』「心理学部門」第六節参看)

 余、これを聞く。某、生来毛虫を忌むことはなはだし。夏日、背をあらわして業を営みおりしに、一人あり、背後より黍の穂を取りて、その肩を撫して曰く、「これ毛虫なり」と。某、大いに驚き、声を発して戦慄せり。後その跡を検するに、毛虫に刺されたると同様に、はれ上がるを見る。精神作用の肉体の上に影響するは、この一例にても知るを得べし。

 

第二二談 人相見につきての疑念 (『妖講』「純正哲学部門」第四五節参看)

 ある人、一夕余が宅を訪い、談たまたま人相のことに及ぶ。某曰く、「われ、しばしば人相家を訪い、判断を頼みしことあるも、一としてあたりしことなく、人相は全く信ずるに足らずと思いしに、ある年、東京日本橋区の旅店に滞在したりし際、少々心頭にかかりしことありて困りおりたるに、旅店の者しきりに、『この近傍に名高き人相見あれば、一度試みに鑑定を願われてはいかが』と勧むるゆえ、無益のことと思いながら、折角の厚意に対しその家をたずねみるに、戸内に入るやいなやわが顔を見て、『足下は、かくかくのことに苦心しおらるるに相違なかるべし。今日、定めてそのことにつきて鑑定を頼みに来たられたるように見受けらる。足下の年齢は何歳なるべし。足下には郷里に老母あるべし』などと、その言一として的中せざるなく、その神妙に感服して帰舎せり。そののち再三熟考するに、神力ならばいざ知らず、人力にて決してかくのごとき鑑定のできるはずなし。想像するに、人相見と旅店の者と、互いに気脈を通じて、あらかじめ、かくかくの者が、かくかくの鑑定を頼みに来たるはずなることを伝えおきしものかと疑われ、今もってその疑念やまず」といえり。多くの人相見の中には、かくのごとき策略をなせるもの全くなしというべからず。

 

第二三談 鬼門の方角違い (『妖講』「純正哲学部門」第五七節参看)

 民間にて迷信せる鬼門の妄説なることは、数書に見るところなるが、『本朝俚諺』に左のごとく記せり。

神異経云、東北有鬼星石室三百戸、共一門〔石牓〕題曰鬼門。広異記云、東海度朔山有大桃樹、蟠屈三千里、其東北曰鬼門。事文類聚云、交趾有鬼門関、其南多瘴癘、去者罕得生還。〔佩文〕韻府云、諺曰若度鬼門関、十去九不還。

(『神異経』にいう、「東北に鬼星の石室三百戸あり。ともに一門石牓に題して、鬼門という」と。『広異記』にいう、「東海の度朔山に大なる桃樹あり。蟠屈すること三千里、その東北を鬼門という」と。『事文類聚』にいう、「交趾に鬼門関あり。その南は瘴癘多く、去る者が生還するを得るはまれなり」と。『佩文韻府』にいう、「諺にいわく、『もし鬼門関をわたらば、十去って九はかえらず』と」)

 これらの説をきき、あやまりて日本のこととし、東北のすみを鬼門と覚えたる人おおし。鬼門関とは交趾にある所の名なり。交趾は今の安南国なり。この鬼門というところ、はなはだしき湿地にて、ゆくものかならず病いだして、十に九つは死したるとかや。このゆえに、鬼門にゆくことをはなはだ嫌えり。日本にて忌み思うは、俗にいう方角違いなるべし。

 これ、鬼門を日本にて談ずるは、方角違いなりとの説なり。

 

第二四談 読経の功徳 (『妖講』「純正哲学部門」三二頁引用)

 余が郷里の某、戊辰の際、ひとたび家を出でて軍隊に加わり、数年の間、書信を伝えずして諸方に奔走せしかば、家族はみな戦死せしならんと思い、その家を出立せし日を忌日と定め、毎年これを弔祭しおりしが、はやすでに七年の歳月を経るに至りしゆえ、一夕、故旧、親戚相集まり、僧を迎えて七年忌の法事を営めり。これにさきだちて、某は久しく関東に流浪せしも、一度故郷の父兄に逢わんと思い、まさしくこの日の晩方、読経の最中にその家に帰着せり。当夕集まれる人々は、みな法事、読経の功徳なりとて大いに喜べり。しかれども、これ偶然の出来事のみ。某の家に帰らんと欲して関東を去りたるは、法事にさきだつこと七日前なり。すでに帰路に上りたる以上は、その日に家に帰着すべきは、法事の有無に関せざること明らかなり。あに、これを読経の功徳というを得んや。

 

第二五談 妖、人によりて興る (『妖講』「総論」六六頁引用)

 『〔春秋〕左〔氏〕伝』に「妖由人興」(妖、人によりて興る)とありて、すべての妖怪は大抵みな人の呼び起こすところなり。すでにその起こるは人による以上は、その滅ぼすもまた人による理なり。ゆえに、『聖学自在』『駿台雑話』等に「妖由人興」の説を掲げ、『学山録』には「妖由人絶」(妖、人によりて絶ゆ)の説を出だせり。人よく妖怪をつくり、またよくこれを滅すとすれば、世の中に人ほどおそるべく、驚くべく、感ずべきものはあらじ。

 これ、全く人に心と名づくる一大怪物が宿りおるゆえなり。『華厳経』に「心は巧みなる画師のごとし」とありて、鬼も蛇も神も仏も、みな心よりえがきあらわさざるはなし。あに不思議ならずや。これをもって、古来の聖賢は、もっぱら知をみがき心を正しくすることを教ゆ。『百物語評判』と題する書中に、この意を述べて曰く、

 こちらの一心さえただしければ、わざわいにあうべからず。あるいは、武勇のさぶらいは、その武勇ゆえ心動かず、博学の学者は、その博学ゆえ内あきらかなり。戒律の出家は、その戒律によって邪魔きたらず。その道おなじからねども、みな内にまもりあれば、妖怪のものも害をなすことあたわざるべし。

 ゆえに世の迷信家は、まずその心を治むることをつとむべし。

 

第二六談 精神と病勢との関係 (『妖講』「医学部門」第七節参看)

 一人あり、風邪にかかり、某医師の診察を請う。医師曰く、「これ肺患なり」と。患者大いに驚き、その翌日より病勢にわかに加わり、日一日より衰弱はなはだし。もし、この勢いをもって進まば、ついに危篤を免れず。よって、試みに医師を代えて診察を請いたるに、医師曰く、「これ肺病にあらず、胃病にあらず、脳病にもあらず、心臓病にもあらず、無病なり。自らその無病たるを知らずして重病と思えるのみ」と。患者また大いに驚き、その日より医師の命に従い、服薬を廃せしに、果たして翌日より病勢とみに減じ、大いに快方に進み、数日を出でずして全快せりという。諺に「薬人を殺さず、医師人を殺す」と。病にかかるものは医師を選ばざるべからず。

 

第二七談 火渡りの効験 (『妖講』「雑部門」第一七節参看)

 一日、ある村に紛失物あり。村内の者の窃取せるに相違なきも、その人を知るを得ず。よって山伏に祈祷を請い、もってその人を発見せんことを求む。山伏、一策を案じていわく、「われ、火渡りの法を行い、村内のものをしてことごとくこれを渡らしむべし」と。かつ告げていわく、「無罪の者は火を渡りても、足を焼害することなく、有罪の者は必ず焼傷を免れず」と。けだし山伏の意は、かく予告して火渡りを行わば、窃取の罪を犯せるものは、自ら恐れてあえて渡らず、必ず最後に残るべし、ここにおいてその人を発見すべしと思えり。しかるに、火渡りを挙行するに当たり、窃盗犯の当人はさらに恐るる色なく、人にさきだちて第一番に火を渡りおわれり。よって、ついにその人を発見するを得ざりしという。山伏の秘術は、気の弱きものに効験ありて、強きものに効験なしと、友人某氏の話。

 

第二八談 利己的偽怪 (『妖講』「雑部門」五二四頁引用)

 世に、利己のために作為せる妖怪はなはだ多し。今、『荘内可成談』の一節を引きてその例を示すべし。

 妖怪の家に出ずるというも、十に八九は虚言談なり。先年、近きあたりの寺にもこのことありし。よくよくたずぬれば、実は住持の妾を置き、日暮れよりは人の来たらざらんために、妖怪出ずるといいしとなり。また、白昼に妖怪出でしという家あり。これもその家の乳母、幼子を炉にてやけどしていいわけなく、妖怪出でしゆえ驚きて、かく怪我しはべると、病に臥したる年寄りの主人を欺きしとぞ。また、朝に妖怪出ずるといいし家あり。これは、その家の主人幼稚ゆえ、奴僕が塩、味噌、薪炭等を盗み取るに、下女、婢ども妨げになりしゆえ、早く起きざらんため、かくのごとくいいしとぞ。さあるときは、家のあるじたる婦人などは、ことさら気付くべきことなり。妖怪というは、狐狸の類よりは、人の所為こそ多きなるべし。

 これによりて、世間の妖怪の信じ難きを知るべし。

 

第二九談 稲荷下ろしの拘引 (『妖講』「雑部門」第一節参看)

 昨年〔明治二十九年〕六月発行の『神戸又新日報』に、「稲荷下ろしの拘引」と題して、神に託して金円を詐取したりし話を掲げり。すなわち左のごとし。

 石州者の田中太七というは、俗にいう稲荷下ろしにて、女房「おきぬ」とともに、本年の四月ごろより神戸へ来たり。湊村の内、石井村の島田平四郎が稲荷の信者なるを聞き込み、夫婦して同家へ出かけ、「私には諏訪稲荷が乗り移りおれば、私がいうとおりを守るときは、いかなる望みといえどもかなわざることなし。それが嘘と思うなら、この白紙に金を包みて稲荷に捧げ、一月ないし二月と一心に祈祷せしうえ開いて見れば、五円の金は必ず十円となり、百円のものはきっと二百円になりおること、さらに疑いあるべからず」と、まことしやかに述べ立てて、ついに平四郎を欺き、四十円の紙幣をくだんの白紙に包み、神前に供えさせ、それより太七夫婦は毎日同家に通いて、しきりに祈祷をなしおるうち、いつの間にか中なる四十円を抜き取りて、古新聞紙とすりかえ、知らぬ顔でおりしも、夫婦の金づかい近来メッキリ荒くなりしところから、その筋の目に止まり、一昨日、古港通りの木賃宿に酒を飲んでいる夫婦を拘引して取り調べると、平四郎方の四十円はもとより、このほか同じ手段すなわち稲荷をダシに使って、明石郡新保村の西田順蔵より十五円、津名郡江崎清七より二十円、明石郡前田村(姓不詳)梅吉より二十三円八十銭をせしめ込み、その他、各地の数十カ所において欺き取りしものを集むれば、数千円の金高に上りおりしという。

 この事実の真偽は余輩のあずかり知るところにあらざれども、世間にはこの種の悪奸すくなからざるべきをもって、深く注意せざるべからず。

 

第三〇談 陰陽師身の上知らず (『妖講』「純正哲学部門」第一節参看)

 諺に「陰陽師身の上知らず」という。余、卜筮、方位、人相、家相等を家業となせるものを見るに、百人に九十九人までは貧困なるもののごとし。したがって、種々の災害のその身に及ぶこと、他人に異なるなし。これ、過去の宿業といわば、余あえて論ぜず。もし、世の吉凶禍福はその術によりて左右し得らるるものとなさば、余、一言なきあたわず。諺に「論より証拠」ということあり。陰陽師、もしその術を世にひろめんと欲せば、まず、その家運を起こして一身の幸福を円満ならしめ、しかして後に人に説くべし。しかるときは、人をしてその術を信ぜざらしめんと欲するも、天下みなこれに帰して、自然に世間に行わるるに至らん。なんぞ、その術を己の身に実施せざるや。

 

第三一談 眉毛に唾を塗ること (『妖講』「心理学部門」第二九節参看)

 世人、狐にあうときに眉毛に唾を塗れば、惑わさるることなしという。だれもそのなんの意たるを知らず。余、かつて『雑笈或問』と題する随筆を読みしとき、その説明を見たり。すなわち左のごとし。

 『禁祠要略』巻二百九十七の五十三枚目に、「清和天皇御八歳のとき、南苑へ御出遊ありしに、狐、御前を走りける。このとき御後見なる忠仁公、『とく魔を伏せたまえ』と申し上げるを、天皇眉を伏せよと間違えたまいて、両の御手をもって両の眉を撫下し、御目をふさぎたまいける。これより、世人狐狸にあうときは、目をふさぐこととなりぬ」とあり。眉毛へ唾を塗ることは、後俗のなし始めしことならん。この忠仁公の辞は、悪魔を降伏したまえということを、魔を伏せたまえとのたまいしなり。

 この説によれば、魔を伏せと、眉を伏せとの誤聞より起こるとなす。その果たしてしかるやいなやはしばらくこれをおき、すべて世間の禁厭は大抵みな、かくのごとき意味なきことより起こる。もし、その原因を明らかにせば、抱腹にたえざること定めて多からん。

 

第三二談 獺の妖 (『妖講』「理学部門」四四二頁引用)

 『荘内可成談』に「獺の妖」と題して、左のごとく記せり。

 天明年中、鶴岡の内、上肴町の下七日町の橋脇に、髪結いを業とする者ありて、その妻死して七日という夜より、夜ごとに来たりぬ。祈祷などせしかど験なし。このことを聞きて、ある人の語りしは、「明和年中、大山海道、中島成徳院死して夜ごとに来たるゆえ、修験の家なり、さまざまと加持祈祷せしかども験なし。往古、本住持の申されしは、はらめる獺、死人の沐浴の湯を飲めば、必ずその怪異はべるものなり。砂か灰かをまいて足跡を見れば、その後来たらざるものと語られし。川所なり定めて、湯を川へ流せしものならん。足跡を見るべしと教えはべるに、灰を家内にまきおくに、その夜も来たり。翌朝見るに、おびただしく獺の足跡ありて、その後は来たらず。このたびも川端なり、定めて獺なん」と語りし。これをもって案ずるに、江戸本所、御旗本何某、死して夜ごとに来たる。その妻は美女なりしとかや。一年あまりも来たりて後、妻は一子をもうけしといえり。そのころ奇怪のことと沙汰せしに、よくよくたずぬれば、密夫の所為にてありしという。世間、妖怪というもこの類多し。人死して、また来たるの理あらんや。魂魄来たるとも人間のごとくならじ。狐狸などの所為か、多くは人の所為なるべし。

 世に妖怪多きは、けだし、その源を究めざるによる。もしこれを究めば、必ずかくのごとき例多からん。

 

第三三談 白狐、蚕児を盗む (『妖講』「心理学部門」第三九節参看)

 近来、狐狸の怪談中に、白狐、蚕児を盗むの怪あり。地方により、あるいは白狐といい、あるいはオサキといい、あるいは管狐というも、その実一なり。信州は多く白狐と称し、上州は一般にオサキと呼ぶ。これを白狐と称するは、その形狐に似て、その色白きにより、これをオサキと呼ぶは、その尾裂けて数尾を分出するによる。近年、この異獣蚕児を窃取するとの説、もっぱら上信二州の間に行われ、種々付会の説ようやくこれに加わる。これはなはだ疑うべし。第一に、かくのごとき獣の果たして存するやいなやはいまだ明らかならず、いわんやその作用をや。ただし、蚕児の往々その形を失うことあるより、かかる想像を呼び起こすに至れるのみ。余、これを上信二州の人に聞く。ある家にて一夜ゆえなくして蚕児を失えることあり。その翌日、室内を隅から隅までせんさくするに、鼠の驚き出でて逃れ走るを見たり。ある家にて、同様蚕児を失えることありて、警官出張のうえ検閲せるに、その失える場所に鼠糞の残れるを発見せり。よってこれ多く鼠の所為なりといえり。

 ちなみに、数年前発行の『国会』新聞「雑報」を抜抄して参考に備う。

 目にみるべからずして、この害を被るもの世に多しと聞くはオサキ狐なり。果たして幻妙不可思議の通力を有する動物中に、オサキ狐なるものありやいなやは、われ得て知らずといえども、狡黠鼠のごとき、狐のごとき、まれに見るところの動物なしとはいうべからず。前橋市の北岩神村にては、近年養蚕の時期に際し、一夜のうちに蚕児の夜な夜な減少すること前に異ならざるより、ある家にては断じて養蚕を廃するに至れり。その害を被るは、岩神の一部落通してしかるにはあらずして、ただ松本長吉方、二、三軒に過ぎず。しかして、松本方にては、本年も相変わらずその害にかかるより、ある人の勧めにまかせ、武州コブガ原より天狗を請ぜんとて、先方に至りてこれを祈りしに、その効ありてや、同夜の内に一匹の小動物、屋外にかみ殺されいたるを発見せり。その大きさは通常の鼠より小さく、鼻は豕のごとく、目をたてにしてさながら土竜のごとく、軟毛全身に密生して、尾頭二つに裂けたる奇獣にて、顕微鏡にてこれを検すれば、毛尖に一種の異彩を放てり、云云。オサキ狐とは果たしてかかるものかいなやを知らねど、天狗がこれをかみ殺せしと信ずるなどは笑うにたえたり。

 この奇獣は余、某地において見しことあれども、蚕の失せる原因をこれに帰するは信ずべからず。むしろ、その原因を鼠もしくは人為に帰する方やや信ずべし。

 

第三四談 髪切虫の怪 (『妖講』「医学部門」六九一頁引用)

 古来髪切虫と称して、不意に人の髪の毛を截断するものあり。その事実は『宋書』『捜神記』等の書に見ゆるをもって、わが国のみならずシナにもありしに相違なし。わが国の事実は、『嬉遊笑覧』『善庵随筆』『諸国里人談』等の数書に出ず。近年にありて、往々、この怪にかかりし人あるを聞く。俗説によれば、あるいは老狐の所為なりと、あるいは一種の虫なりというも、みな妄説にして考うるに足らず。先年、佐々木政次郎氏はこれを一種の疾病と鑑定せられたり。その証跡および理由は、あまり長ければここに掲げず。よろしく『〔東京〕医学会雑誌』につきて一読すべし。かくして、すでに髪切りは一種の病的なるを知れば、理学の道理によりて説明するを得べく、したがってまた、妖怪とするに足らざるや明らかなり。

 

第三五談 死体の強直 (『妖講』「医学部門」六一二頁引用)

 民間にて人死すれば、おのおの自ら奉ずるところの寺院に行きて、土砂をもらいうけきたり、これを死体の上に載せ置くを例とす。けだし、土砂を載せざれば、死体の筋節強硬となりて、自由に屈伸せしむることを得ずして、入棺の際、差し支えを生ずるがゆえなり。これを死体の強直と名づく。しかして、この土砂は名僧、知識の多く集まりて土砂講なるものを行い、これによりて作りしものなりという。また一説に、土砂の代わりにモロコシ箒にて打つも、同じ効験ありという。また宗旨によりては、あるいは珠数を用い、あるいは袈裟を用うる等、その法あえて一定せるにあらず。すでにその法の一定せざる点より考うるときは、土砂の力によりて死体の軟化するにあらざること明らかなり。もし生理学の説明によれば、死体強直の原因は、筋肉中含むところのミオシン(筋素)の凝固せるによるとなす。ゆえに、一定の時間を経れば土砂をまたず、自然に軟化するものなりという。よろしく生理書につきて見るべし。

 

第三六談 幽霊の誤覚 (『妖講』「宗教学部門」一三頁引用)

 余、かつて司馬江漢が『春波楼筆記』を読みしに、その中に幽霊の怪談を掲げたる一節あれば、左にこれを録す。

 今より四十年以前のことなり。六郷の川上に毬子の渡りあり。すなわち、マリコ村なり。ここより二十町余行きて、郷地という所の染物屋の亭主は、かねて予に画を学びし弟子なり。九月の末、われをともないて郷地に至る。翌日は雨降りて四、五日も滞留す。そのとき五、六町かたわらに、江戸より来たりおりける者とて、手習いの師匠あり。主人と二人連れして、かの師匠の方へ行きける。夜に入りて帰る。その道に盥山洗足寺という寺あり。これはいにしえ、神祖源君公ここを御通行のとき、老婆の衣類をせんたくしけるを御覧じ、その寺号をお付けなされしとぞ、珍しき名の寺なり。その日の暮れ方、この寺に葬礼ありという。そのことも知らず、夜半ごろ染屋主人と二人通りかかりしに、その寺の門前とおぼしき所に、白き衣服を着けたるものの、腰より下は地よりも離れ、あなたこなたと動くものあり。世にいうところの幽霊なり。われも若年にて、このようなるもの今まで見たることなし。はなはだおそろしく思いけるが、その近辺に酒屋あり、寝入りたるを戸をたたき起こしければ、酒屋六尺棒を手に持ち、「イザござれ、世に化け物のあらんや」といいて、さきに立ちて行く。あとよりオズオズして付きてゆき見れば、葬礼のとき紙にて造りたるのぼりの、木の枝に掛かりたるなり。葬礼のとき、のぼりの木に引き掛けたるを、そのままにして置きける。昼もこの寺の前は樹木茂り、薄ぐらき所なり。ことさら夜分ゆえ、はなはだあやしく見えしもことわりなり。

 これ、余がいわゆる誤怪の一種にして、その実、妖怪にあらざるものを認めて妖怪となすものなり。

 

第三七談 余の実験せし妖怪 (『妖講』「雑部門」五八二頁引用)

 光線と音響とは、最も多く妖怪の媒介をなすものなり。余が実験中にもその例あり。余、先年ある家に止宿せしに、夜半ごろ、戸外にあたりて柝声のかすかに聞こゆるあり。人みな狐狸の所為なりとなす。その声、夜ごとに聞こゆるにあらず、雨夜に限りて聞こゆるなり。余、これを試みんと欲し、一夕その声の方向を記憶して、翌朝これをたずねしに、まさしく簷下の雨滴の落つる所に筆立てのごとき竹の筒ありて、簷滴その中に落つるに、その声あたかも柝をうつがごとし。よってこれを取り除きたれば、その夜よりまた柝声を聞かざりき。また、余の一夕ある寺院に泊せしに、深夜、眠り突然としてさめたり。

ときに四隣寂寥として、小音、微響の耳朶に触るるなし。ただ、人の足音のようやく聞こゆるあり。その音、本堂の板の間を下駄にてそろそろと歩くものに似たり。余、ややこれを怪しみしも、必ず他に原因あるべしと想像し、ついに再び夢境に入れり。翌朝、目のさむるを待ち、本堂に至りてこれをみるに、柱にかかりたる大時計のカタカタと鳴る音あり。これ、まさしく余が前夕の妖怪なりしことを発見せり。また両三年前、余の宅にて夜十一時過ぎ、庭前に白色の怪物の横臥せるを見たるものあり。一家の者みな起きてこれを検するに、その夜極めて暗黒にして咫尺を弁ぜざる中に、朦朧たる色の庭の一隅に横たわるを見る。よって燭を携えきたりてこれを照らせば、さらに色も物もともに見えず。ここにおいて、余は光線の作用ならんと信じ、その原因をたずねしに、七、八間離れたる所のランプの光が、戸隙を通過して地上に落ちたるものなるを発見せり。

 もし、他の一例を挙ぐれば、余が駒込蓬莱町の寓居は、寺の墓地と墓地との間を通過して出入りせざるを得ず。一夕、下婢出でて食品を買い、家に帰らんと欲して墓畔を通過せるに、墓間、白衣を着たる幽霊現出せるを見たりとて、驚き走りて倒れんとするばかりにて帰り、告ぐるにそのゆえをもってす。余、これを聞き不審にたえず、老僕を命じて実地を検せしむるに、その日埋葬せる死人ありて、墓前に白き提灯をつり、これにろうそくを点ぜしものなることを発覚せり。音響、光線の、妖怪現出の媒介となること、かくのごとし。

 

第三八談 哲学館の火災 (『妖講』「純正哲学部門」第五七節参看)

 昨年十二月、余が「鬼門退治」と題したる一編の論文を、二、三の新聞に掲載せしことあり。その文中に、「わが家は鬼門に向かいて再三増築せしものなれば、これを鬼門三度破りの家と名づく、云云」の一段あり。世人この段を読みて数日を出でざるに、たちまち哲学館の焼失に会せり。よって遠近、説をなしていわく、「哲学館の焼失はまさしく鬼門の祟なれば、鬼門は決して犯すべからず」と。かえって鬼門迷信家に迷信の兵糧を与うることとなれり。しかるに、当日の実状は全くこれに反せる次第なれば、一言もって世人の誤解を弁明せざるを得ず。まず、当夕火を発したるは郁文館にして哲学館にあらず。哲学館は郁文館に隣近せるをもって、類焼の不幸に会したるのみ。かつ、いわゆる鬼門三度破りの家は、依然として火災を免れ、鬼門に触れざる哲学館校舎および寄宿舎は、むなしく烏有に帰せり。この事実によりて考うれば、哲学館の焼失と鬼門とは全く関係なきこと明らかなり。

 

第三九談 鬼門の妄説 (『妖講』「純正哲学部門」第五七節参看)

 鬼門の妄説は、余ひとりこれを唱うるにあらず。山片子蘭〔蟠桃〕の『無鬼論弁』〔『夢之代』「無鬼上第一〇」〕の中に、左のごとく論ぜり。

 『史記』「黄帝本紀」にいわく、「万国和、而鬼神山川封禅、与為多焉。」(万国和ぐ。しこうして、鬼神山川の封禅は与して多なりとなす)と。これ、鬼神をいうのはじめなり。同「顓頊本紀」に曰く、「依鬼神以制義。」(鬼神によりてもって義を制す)と。これみな山川の神をいうなり。同「注」にいう、「海外経引云、東海中有山焉、名曰度索、上有大桃樹、屈蟠三千里、東北有門、名曰鬼門、万鬼所聚也、天帝使神人守之、一名鬱塁、主閲領万鬼、若害人之鬼、以葦索縛之、射以桃弧、投虎食也。」(『海外経』を引いていう、「東海中に山あり。名づけて度索という。上に大桃樹あり、屈蟠すること三千里。東北に門あり、名づけて鬼門という、万鬼の集まるところなり。天帝、神人をして、これを守らしむ。一名は鬱塁、万鬼を閲領するを主る。人を害するの鬼のごときは葦索をもってこれを縛り、射るは桃弧をもってす。虎の食に投ずるなり)と。これは仏家にいう悪鬼に似たり。

桓武帝のとき、最澄なる僧、この鬼門の説をとりて、「王城の鬼門を守る」とののしりて叡山を開く。この鬼門は桃樹の東北なり。これをわが国の王城に用うべきにあらざるなり。

 その余、『山海経』『列仙伝』『三才図会』『訓蒙図彙』のごときは、みな仙、仏、道家の述ぶるところにして、怪談、妄説、冊にあぶる。聖賢の書と同日に語るべからず。日本中世よりいい出だすところの鬼というもの、〔みな〕この悪鬼をさすものなり。

 これによりて、鬼門の妄説たるを了すべし。

 

第四〇談 祥瑞は信ずるに足らず (『妖講』「純正哲学部門」一二二頁引用)

 和漢の書には往々、天象、気運等の人事の吉凶に関係あることを説き、種々の祥瑞あることを説明せり。その吉兆として、あるいは紫雲の見ゆるあり、あるいは甘露の降るあり、あるいは奇草の生じ、異獣の出ずるありと唱うるも、これあえて吉とするに足らず、またあえて凶とするに足らず、ただこれを天地の異象と見るべきのみ。今日の人は、かくのごとき祥瑞を信ずるものなしといえども、古代にありては、その異象のよって起こる原因を知らざりしをもって、上下一般にこれを信ぜり。余、かつて『三余清事』と題する書を読み、その中に甘露の妄説を駁したる一節あるを見たり。その文に曰く、

 近事、京師また盛んに相伝う、甘露降ると。一樵夫あり、予に告げて曰く、「これすなわち猥妄なり。春夏の交、葉上の虫糞、夜中露のために濡らさるれば、微液黏滞して軟餳に似たるあり。これをねぶればやや甘し。一軽薄少年あり、これに戯れてもって甘露となせば、すなわち一口百に伝え、百口千に伝え、ついに川騰海沸に至るのみ」と。樵人告げ語ることかくのごとし。予おもえらく、古来、震旦、君臣指してもって甘露醴泉、朱草紫芝、白麟赤雁、神雀鳳凰となすとは、みなまさにこれに類すべし。

 これ実に卓見なり。また同書に、祥瑞の信ずるに足らざることを弁じて曰く、「ある人、余に問うあり、曰く、『歴代祥瑞みな信ずべきか』と。余これに答えて曰く、『かの、多く妖妄にして誣に近し。ことごとく信ずべからざるなり』と。また曰く、『儒に真あり俗あり。真儒は祥瑞を説かず、また災異を説かず、孔子これなり』」と。これまた活眼というべし。人、もしその心天に一点の雲影をとどめず、ひとり理想の真月ありて、その清輝を放つときは、天地みな祥光瑞色を呈すべし。なんぞ、一、二の物象につきて吉凶を論ずるを要せんや。

 

第四一談 夜中、大怪物を捕らう (『妖講』「雑部門」五八二頁引用)

 余、先年ある学校に止宿せるとき、同舎の友人某が夜十二時過ぎ、出でて厠に行かんと欲せしに、廊下のそばに大怪物の無言にて立ちおるを見たり。その夜暗黒にして、その状態をつまびらかにするあたわず。怪しみてこれに向かい「なにもの」とたずぬれども、さらに答えなし。しかれども、またあえて去るの気色なし。よって奮然勇力を鼓し、両手を出だしてこれを捕らえ見れば、その物は鬼にもあらず、魔にもあらず、怪物にもあらず、盗賊にもあらずして、炭俵の二個相重なりて、廊下の一隅にありしものなるを知り、図らず自ら吹き出だしたりという。

 

第四二談 回向院の幽霊 (『妖講』「宗教学部門」第一三節参看)

 去るころの『読売新聞』に、「回向院の幽霊」と題して、誤怪の一種を載せたり。すなわち左のごとし。

 近来、回向院卵塔場辺りへ、白衣をまといたる年若き女の亡霊姿を現出することありとて、近傍の居住者、尾に鰭つけて風説するにぞ、夜更けには同院境内を通行するもの一人もなかりしが、境内居住者掛け茶屋の主人某なるもの、一両日前の夜、二つ目辺りよりの帰途、いまだようやく九時半ごろなりければ、かの幽霊の出ずる時刻にはよほど早し。表門へ迂回するも面倒なれば近道をとらんと、松坂町一丁目横丁裏門を入り、今しも本堂そばを横切らんとしたるとき、鼠小僧墓所石構えの裏手にあたり、女の泣く声聞こえけるに不審を起こし、恐る恐る星の光にすかしてうかがい見れば、このごろの人の噂に違わぬ幽霊なりしかば、さては十万八千の焼死人中、今に成仏せぬやからありと見えたりなど考えつつ、身を縮めてその場を逃げ去り、観音堂際なる同業者某方へ駈け込みて、ありし次第を告げ、幽霊なれば別に子細もなきことながら、万一自殺者などにもあらんには、明日の厄介面倒なり、いかがはせんとためらうところへ、同院台所男、足音高く通りかかるを呼び止め、今みてきたれることを語りたるに、寺男はなにげなくうなずきつつ提灯携え、本堂南方鼠小僧の墓所辺りを見回り、ほどなく某方に立ち戻り、「みなさん、御安心なさい。幽霊は幽霊なるが、生きた、しかも年若の男女二人にて、連れの女が酒に酔い過ぎて歩行もできぬ始末に、男が介抱しておったのだ。二人とも、ツイ近所で見掛ける顔です」と告げ、大笑いにてすみたりと。

 いかに恐ろしき幽霊も、正体が分かれば大笑いとなる。

 

第四三談 臆病は妖怪の種因 (『妖講』「総論」第七七節参看)

 臆病の人は、目にいろいろの妖怪を見るものなり。目に見るも、その体あるにあらず。これを幻視あるいは妄覚という。蛇を恐るるものは縄を踏みて驚き、狐を恐るるものは石を見て驚く。歌に「幽霊の正体見たり枯尾花」とあり、諺に「落武者は芒の穂におずる」とあり、俗に己の足音にだまさるるをいう。みな臆病より生ずるなり。昔、晋の謝玄が軍立てして、賊の大勢を討ち敗りてこれを追うに、賊の兵のがれ去れり。その後、八公山の草木の動くを見て、謝玄が軍兵進みきたると思い恐れしことあり。日本にては、平家の軍勢は水鳥の羽音に驚きて敗北せしという。その他、臆病より呼び起こす幻覚はいくたあるを知らず。ゆえに、臆病は妖怪の種因と知るべし。

 

第四四談 コックリ(狐狗狸)の名義 (『妖講』「心理学部門」五五五頁引用)

 先年、都鄙の別なく、コックリと名づくる一種の妖術の大いに流行せしことあり。その法は細竹三本を束ね、その上に飯櫃の蓋を載せ、これに軽く三、四人の手を掛け置くに、暫時にしてその蓋動き出だし、竹脚をあげておどるがごとき状あり。これをコックリと名づく。これ、狐もしくは狸、もしくは天狗の来たりてこれに憑るものとなす。けだし、コックリは狐狗狸と国音相近きをもって、その原因を狐、狗、狸に帰するのみ。しかるにコックリの名義は、その動くやコックリコックリと傾くをもって得たるものにして、あるいは一名「御傾き」と名づくるも、その意一なり。これ、アメリカ人の帆走船に乗じて、豆州下田港にきたりしものの伝授せるところなりという。すなわち、その術たるやアメリカ伝来にして、西洋のいわゆるテーブル・ターニングなれば,もとより狐狸、天狗の所為にあらざること明らかなり。

 

第四五談 御伺いの石 (『妖講』「心理学部門」付講六四〇頁引用)

 感覚によりて物の軽重を判知するは、はなはだ難しとす。これを重きものと思えば重く感じ、軽きものと思えば軽く感じ、精神の予期のいかんによりて、大いに感ずるところを異にす。今その適例を挙ぐれば、豆州修善寺に源頼家の墓あり。石塔なり。その上石は一般に人の吉凶を卜するに用う。当所の温泉記にいわく、「近代、土人および入浴人も、御石塔の上石を手ずから持ち上げて、軽く上がると重く上がるとを試みて、諸事の吉凶を卜することあり。これを御伺いという」と。余、行きてこれを見るに、その重さおよそ二、三貫目ぐらいありと覚ゆ。ここに入浴するものは、まずその石に向かい、いずれの温泉最も己に適するかを問い、その軽重によりてこれが判断を下し、その最も適すと感ずるものに浴すという。この種のことは、山梨県にも栃木県にも秋田県にもこれありと見えて、余、その報道を得たり。しかるに、かくのごときはみな我人の精神作用より起こるものにして、あえて怪しむに足らざるなり。

 

第四六談 八幡知らず (『妖講』「理学部門」四三五頁引用)

 下総国八幡村に「八幡知らず」と称する薮あり。この薮は名高きものにして、人ひとたびその中に入るときは、再び出ずることあたわずという。伝説によるに、かつて某侯その奇怪を信ぜず、自らこれを試みんと欲してその中に入りしに、ようやく歩を進むれば、細流あり。その水、清澄にして底を見るべく、潺々として音あり。たちまち官女のごとき者出できたり、侯に告げて曰く、「決してこの川を渡り内に入るべからず」と告げ終わりて立ち去れり。侯、これをあやしみ、ひそかに竹林の中をうかがいしに、その川の対岸に一つの宮殿ありて、人骨その前に山をなすを見、大いにおどろき、よっておもえらく、これ必ず往古よりこの薮に入りて、魔王のために虐殺せられし者の骨ならんと。ついに川を渡らずしてかえりしことありきという。この伝説は全く一種の怪談に過ぎざれば、もとより信ずるに足らずといえども、すでにいにしえよりかくのごとき伝説ある以上は、人みなこれを記憶せざるはなし。これをもって、この薮に入るものは、自己の精神をもってこれを迎え、自ら妖怪を構成するにほかならざるべし。この薮は今日なおその跡を存すといえども、一方は東京より千葉に通ずる往来に沿い、他の三方は田ならびに人家に接し、その薮はわずかに方一町に足らざる所なり。

されば、かかる狹隘なる場所にて道を失うがごときことは、万々あるべきはずなきに、再び出ずるもの少なきは、精神の作用というよりほかに説明の道なけん。しかるに『不思議弁妄』の著者はこれを説明して、この薮の中には有毒のガス鬱積するより、人命を失うものならんといえり。また、『陰陽外伝磐戸開』と題する書中にも、その穴より礜石の毒気を吐くとの説明なり。以上あわせて参考すべし。

 

第四七談 老樹の怒鳴 (『妖講』「心理学部門」第四節参看)

 大樹の老い去りたるものには、往々怒鳴をなすことあれば、世間大いにこれを奇怪とす。しかれども、これ多くは樹そのものの怒鳴にあらずして、その体内に住する禽獣動物の発声なること明らかなり。今、その一例を挙ぐれば、明治二十八年、尾州丹羽郡青木村字天摩なる神社の境内に、古杉の大樹あり。その樹、毎夜怒鳴し、数日を経てやまず。ついに世間の大評判となり、あるいは樹に魂ありて叫ぶなり、あるいは神に霊ありて呼ぶなり等といいふらし、毎夜遠近より人集まり来たりて山を成す。かくして、ついに警察の探知するところとなり、その樹の体内に空洞ありて、その口を外部に開く所あれば、ここより種々の方法をもって洞内を探り、ついにその内部に梟の巣を作りて住みおるを発見し、数日間の怒鳴は全く樹魂にあらず、神霊にあらずして、梟なることを知れりという。

 ちなみに仙台『東北新聞』の報ずるところを掲ぐるに、さる〔明治〕二十六年五月ごろ、福島県石川郡石川町字下泉、鎮守の古槻木にて呷り声せしことあり。人々怪しみしが、ある人朽ち穴の所に黏を塗りおきしに、やがてみみずく二羽捕らわれしという。

 

第四八談 日本中、犬神最も多き場所 (『妖講』「総論」一〇一頁引用)

 四国および中国筋には、犬神と名づくる一種の妖怪あり。なお、他所の狐憑きのごとし。古来、四国には狐おらずという。ゆえに、その地には狐憑きの名なし。その代わりに犬神あり。これ、四国名物の一つに加えて可なり。けだし、他州に犬神の名を伝うるは、四国より伝播したるもののごとし。余、かつて犬神は日本中、四国最も多しと聞き、つぎに四国中、阿波最も多しと聞き、先年阿波に遊び、犬神を見んことを求む。人ありて告げて曰く、「犬神を見んと欲せば、当国三好郡池田町に至りて求むべし。池田は当国中、犬神の最も多き場所なり」と。よって余おもえらく、日本中犬神の最も多きは四国にして、四国中最も多きは阿波、阿波中最も多きは池田なれば、池田は日本中、最多の犬神地なること明らかなり。余、この町に至らずして、なんぞ東京に帰るを得んやと。よって道を池田に取りて土佐に入ることに決し、その地に至りてこれをたずぬるに、近年、小学教育普及のために、当所唯一の名物たる犬神も年々相減じて、今、容易に見るべからずと聞けり。これによりてこれをみるに、小学教育と犬神もしくは狐憑きとは、全く反比例をなし、二者両立することあたわざるを知るべし。果たしてしからば、教育の効力もまた偉なるかな。

 

第四九談 老僕自ら狐惑を招く (『妖講』「心理学部門」第三四節参看)

 余が郷里に、人家を離れて一帯の森林あり。古来その中に老狐住すと伝う。その傍らを通過せるもの往々誑惑せられて、家に帰らざることありという。一日、ある老僕その村に使いして、帰路この森林の傍らを通過せるに、日いまだ暮れざるに忽然として四面暗黒となり、目前咫尺を弁ぜず、一歩も進むことあたわず。よって自ら思えらく、これ全く老狐の所為なり。しかず、老狐に謝してそのゆるしを得んにはと、すなわち地に座して三拝九拝するも、依然として暗夜のごとし。老僕当惑して、なさんところを知らず。すでにして、一人その道に来たり会するあり。はるかに一老体の地に座して頓首再拝するを見て、大いに怪しみ、近づきてこれを検するに、頭巾前に垂れて両眼を隠すを見る。よってその頭巾を取り去れば、老僕驚きて不審にたえざるの状あり。これにその次第をたずぬれば、答うるに、老狐のために誑惑せられしと信じたるゆえんをもってす。しかしてその実、老狐の所為にあらずして、自らこれをおそるるのあまり、頭巾の前に垂れて両眼をおおうに至れるを知らざるに出ず。ここにおいて、両人大いに笑って相別れたりという。世に狐惑談多きも、そのうちにはかくのごときの類、けだしすくなからざるべし。

 

第五〇談 易占を懸念して自殺を図る (『妖講』「純正哲学部門」第二七節参看)

 新聞には迷信の適例はときどき見るところなれども、いちいち転載するにいとまあらず。今左に、『東京朝日新聞』に出でたる、易占のために自殺をはかりし事項を本文のまま掲載すべし。

 婦女は気の小さきが常なれど、かくまで小気にても困ったもの。横浜市花咲町五丁目六十七番地、画工江口源太郎の女房「おきた」というは、十七、八年前、神奈川町字青木町の実家から源三郎のもとへ嫁入りなし、十七歳を頭に三人の子供をあげ、何不自由なく暮らしおる者なるが、至極気の小さきたちにて、つまらぬことをも気にかけ、深く心配するのが常なるところ、近ごろ現住居の地を地主へ引き渡すことになり、他へ移転せねばならぬので、諸所引っ越し先をたずねおるうち、つい裏手の方に空き家ができたを幸い、ひとまずそこへ仮越しをしようと、夫婦相談を取りきめ、ある親族へその話をすると、「引っ越すもよいが、方角というはよほど大切なものゆえ、よくその向きの人に判断してもらうがよかろう」と言われ、

なるほどそうだと、「おきた」は早速ある売卜者のもとへ赴き、方角の吉凶を判断してもらいしに、売卜先生小首を傾け、それは途方もない次第だ、全体、今住んでおる所でさへ鬼門と暗剣殺をおかしておるゆえ、始終よくないことのみあるのだが、今度引っ越して行く先は、一層悪い方角だから、以後、年中病人の絶えるおりはないだろうと、しかつめらしく判断したので、「おきた」は身震いしながら立ち帰り、「ああ、どうしたらよいだろう」と、例の神経を痛め、しきりに気を悩めしより、少し気が変になりしかば、家一同注意を加え、懇ろに介抱を尽くしおり。一昨夜のごときも、本夫源三郎が「おきた」のそばへ臥し、夜もすがら看護をなしおりしうち、翌朝の五時ごろに至り、看護づかれにてわれ知らずトロトロとまどろみ、ほどなく目を覚まして見しに、「おきた」の姿が見えぬよりびっくりし、早速つぎの方なる二畳の座敷へ行って見ると、「おきた」は鼠防棚のうちより出刃庖刀を取り出だし、すでに咽喉へ突き立ておるのでいよいよびっくりし、取りあえず家内一同を起こし、なお警察署へ急訴せしゆえ、ほどなく警官、医師等が出張し、うつぶしおる「おきた」を引き起こし、傷所に検せしところ、突き立つる際手元狂いしため、ただわずかに微傷を負いしのみなれど、なにゆえか、さらに口を利かぬので不審を立て、口中を開かせて検視すると、口の利かれざるも道理、舌先およそ七、八分ほどをたてにきり、出血をみなのみこみいたるものと知れしかば、手厚く治療に及び、そのまま本夫源三郎へ引き渡したるが、まず生命には別条なからんとのこと。

 これ、迷信の害ある一例となすに足る。

 

第五一談 天変は人事に関係なし (『妖講』「純正哲学部門」一一七頁引用)

 古来、天に日月星辰の変異あれば、必ず社会国家の上に治乱興亡の変動あるものと信じ、天変と人事とは密接の関係あるがごとくに考えしも、今日にありて、いやしくも知識のいくぶんを有するものは、全くその非なるを知る。『随意録』と題する書中に左のごとく論ぜり。

 古今の人、日月星辰の変あれば、すなわち占ってもって人事に関すとなすは、みな惑いなり。すでに日月星辰の変異を見るとき、いまだ必ずしも地上災乱の起こるあらず。地上災乱を起こすのとき、いまだ必ずしも日月星辰の変異を見るにあらず。しかして、その変異と災乱と相会するは偶然のみ、必ず相応ずるにあらず。

 また同書に、民間にて伝うるところの水旱予知法の信じ難き一例を示して曰く、

 関東の気運、三冬雪ふらざれば明年必ず大水ありと、往々その験あり。しかして、去歳癸丑三冬雪ふらず、歳晩に至りてはなはだ暖かなり。人みないう、「来年必ず大水あり」と。しかして今ここに、甲寅春来雨少なく、夏より秋に至り旱す。秋来風雨、時をもってし、五穀豊熟、さらに三冬雪ふらざるの験を見ず。これまた気運の変なるか。

 この論、いまだその理を尽くさずといえども、民間の俗説を説破するの参考となすに足る。

 

第五二談 偶合はあえて奇怪とするに足らず (『妖講』「純正哲学部門」三二頁引用)

 世に偶合の例すこぶる多し。例えば、先年〔明治二十四年〕の大津不敬事件は津の字づくめなれども、別に津の字に意味あるにあらず。これ、自然の偶合のみ。その事件の起こりし場所は大津にして、津崎某氏の店前なり。凶徒の名は津田三蔵にして、その本籍は伊勢の津なり。なんぞ津の字の多きや。また、今一例は、近年の変難は、多く十一の数にちなみあることなり。かの大津不敬事件は五月十一日に起こり、大久保〔利通〕内務卿の遭難は明治十一年、大隈〔重信〕伯の難は十一月十一日、森〔有礼〕文部大臣の変は二月十一日なれば、いずれも十一の数に関係あるも、その数に決して変難の意あるにあらざること明らかなり。しかれども世の愚民は、かくのごとく凶事の引き続く場合には、必ず種々の縁起を付会するを常とす。

 

第五三談 恐情と酔眼より生じたる誤怪 (『妖講』「宗教学部門」一六頁引用)

 『六橋紀聞』と題する書中に、誤怪に関するおもしろき一話を掲げたれば、左にこれを抄録す。

 喜七なるものあり。日田(豊後)の人なり。その主命をもって肥前田代に使いす。これよりさき喜七筮者に逢い、今年の吉凶を筮せしむ。筮者曰く、「四方に利あらず」と。ここに至りて往西のことあり。喜七大いにおそる。母は神にいのり、妻は仏を祭り、涕泣嘆息す。訣飲をもって永別をなす。すでにして家を出でて、数里にして関村に至る。たまたま劇場あり、入りてこれをみる。すでに出ずれば、日暮れて四顧蒼然たり。すなわち酒店を過ぎ、数杯を傾けて陶々として行く。関より志波に至るの間、山高く谷深く、樹木鬱然たり。俗、伝えて魔の住する所となす。ときに月色朦々として、曲逕分かち難し。ここにおいて筮者の言を思い、魔所の名をおそれ、独行悄々として心定まらず。

すなわち奮然として自ら思うに、身はこれ男子にして、かつ一刀を帯ぶ。妖怪ありといえども、なんのおそれかこれあらん。臂をはらってもって進む。たちまちにして陰風颯然たるを覚ゆ。物あり樹間に見ゆ。近づきてこれをみれば一婦人なり。もって魔となし、刀を抜きてこれをうつに、誤りて石に当たる。自ら驚きて地にたおる。人、己の名を呼ぶを聞く。目を開きてこれを望むに、一僧の端厳美麗にして、その頭畔に立つを見る。身、金光を発す、皎として明月のごとし。おもえらく、これ仏菩薩なりと。頭をたたきて命を求む。僧曰く、「よいかな喜七、汝の命は風前の灯より危うし。われもし須叟にして来たらずんば、汝ほとんど鬼吻に罹らん」と。懐を探りて一丸を出だし、これを服せしむ。香気馥郁として、精神とみにさわやかなり。僧曰く、「なんぞ、その創をみざるや」と。これをみれば右手創を被り、鮮血淋漓たり。僧これをして刀を収めて血をぬぐい、これに命じて前行せしむ。喜七慄々として行く。僧、珠を捻じて誦呪し、後よりこれに従う。数里にしてはじめて大路に出ず、云云(以上取意)。

 以上は『六橋紀聞』に記せる前半なり。もし後半の意を約して述ぶれば、喜七は樹間に見るところの婦人は魔物となし、後に己を呼び起こせる僧は仏の来現せるものと信じ、人に逢うごとにその不思議を語れりという。しかるに、同書の末段に記するところによれば、関村に医師元遂なる者あり。白晳美秀にして円頂なり。かつて人に語りて曰く、「夜、路上によぎるに、一人の地に臥するを見る。近づきてこれをみるに、酒臭、人に薫ず。刀を持して倒る。右手朱殷、刀傷を被るものに似たり。たまたま丸薬をもたらす。これに一丸を与え、これを大路に送りて帰る」と。また、その村に夫婦相鬩ぐあり。婦、独行して父の家に帰る。途中、賊にあってくるしめらるという。この前後の文を照合すれば、喜七の見るところの婦人は、魔物にあらず、逢うところの僧は、仏の現霊にあらざること明らかなり。しかして、同書の結文に至りていわく、

 これによりてこれをみるに、さきに逢うところの者は、みな酔眼糢糊のいたすところにして、これを霊異に託するのみ。世の霊験を説くもの、みなかくのごとし。

 これを要するに、喜七の霊異は、恐情と酔眼との二者によりて自ら呼び起こすものなりしは疑いなし。

 

第五四談 地蔵尊の変位 (『妖講』「雑部門」五二六頁引用)

 世の妖怪は、あるいは利欲のため、あるいは政略のために人の作為せるもの多し。しかるに、ときによりては、政略にもあらず、利欲にもあらず、ただ一種の好奇心より生ずるものあり。今、その一例を示さば、ある村落の路傍に石造りの大地蔵ありて、数人の力をあわすにあらざれば動かすべからず。あるときこの地蔵尊、一夜のうちにその向きを変じ、道路を背にして立てり。翌朝、村民らこれを見て不思議に思い、相集まりて故位に復せしに、その夜またその向きを変じたり。かくのごときこと数回に及びしかば、村民らははじめは不思議に思い、なにか地蔵尊の意に適せざることありてしかるなりと考えしも、ようやく疑いを起こして吟味せしに、全く村内に膂力人に絶したるものありて、一種の好奇心より、毎朝、人のいまだ起きざる間になしたることを知るを得たりという。これ、好奇的偽怪の一例なり。

 

第五五談 不動金縛り (『妖講』「雑部門」第一八節参看)

 古来、わが国には不動の金縛りと称して、人をして随意に動くことを得ざらしむる術あり。この秘術は神仏の力に帰して、人為にあらずとなせしも、これ、今日のいわゆる催眠術にして、別に多年の修業を積まざるも、その方法だけ一とおり心得ておれば、だれにもできることなり。余、再三、催眠術を施せるものが不動金縛りを行いしを見たり。もし、これを催眠術とすれば、心理学上説明するを得べく、したがって奇怪とするに足らざるなり。

 

第五六談 二十六夜 (『妖講』「理学部門」第六節参看)

 俗に六夜待ちと称して、旧暦七月二十六日夜、月出ずるに三体同時に上がるという。これを三尊の来迎と称す。余、いまだ一回も実視したることあらず。友人某の話を聞くに、「二十六夜ごろは月の形弓のごとく、その両端上へ向かい、あたかも角の立ちたる状あり。その初めて海面に現るるや、角の両端まず見え、両体並び立つがごとし。かくして、すでに上がる瞬間に、両体たちまち合して一つとなる。すなわち最初の両体と、つぎの一体とを合して、三体同時に上がると伝うるなり」と。これ、もっともの説なり。

第五七談 わが国のブロッケン山 (『妖講』「理学部門」三三九頁引用)

 深山幽谷には、往々光線の反射によりて、空中に一大幻影を生ずることあり。その一例はドイツのブロッケン山の妖怪なり。その山には人の影空中に現出して、忽然一大怪物となり、その人と幻影とは挙動進止を同じくするという。これ、その山上の雲霧いたって密にして、あたかも鏡面のごとく、その面に人影を反射するによるとなす。わが国にも、深山幽谷には必ずこのことあるべし。余、かつて高山に登りし人より、巨大の異人を見、あるいは大達磨、大入道を見たりとの話を聞けり。これ、ブロッケンの怪物と同一の原因によるものならん。山形県人黒沢鼎氏の報知に、月山の仏像のことにつきて、左の説を示されたり。

 月山に仏像の現出すると申す所は、俗に御来迎場ととなうる谷間にて、その時間は朝に限りて現る。しかしてその原因は、全く見る人の影なること疑いなし。なんとなれば、一人にて望めば一像を見、十人にて望めば十像を見るなり。けだしその理由は、谷間に濃霧の通過するとき、これに旭光の映ずるありて、人はその間に立つをもって、その霧あたかも鏡面の作用をなし、朦朧たる人影を映出するによる。アメリカのナイアガラ瀑布にもこの現象あり。また他の瀑布にても、ときにこれを見ることあり、云云。

 これ、必ずしかるべき道理なり。月山は実にわが国のブロッケン山なるが、ブロッケン山は夕陽によりて人影を東方に見、月山は旭光によりて人影を西方に見る。誠に好一対なり。

 

第五八談 欠伸の説明 (『妖講』「総論」第七一節参看)

 ある人、余に問いて曰く、「俗に欠伸は移ると申して、座中の一人欠伸すれば、必ずこれに応じて数人欠伸するは実に不思議なり。あえてその説明を請う」と。余、これに答うるに、精神に反射作用と連合作用あることをもってするも、毫も解する色なし。よって余は、解しやすき例を挙げて示すにしかずと思い、さらに一問を起こして曰く、「足下は欠伸の移るを知りて、笑いの移るを知らざるか。座中一人笑いを発すれば、満座これに応じて一時に笑うはなんぞや。欠伸にして不思議ならば、笑いは一層大不思議にあらずや」と。彼、すなわち手を撫して曰く、「なるほど、わかった」と。また問いを発せず。

 

第五九談 死体に毛髪長生すること (『妖講』「医学部門」六一〇頁引用)

 人の死体につきては、古来俗間に伝うるところの妄説すこぶる多し。その一例に、爪甲、毛髪は死後といえどもよく生長すという。その説の妄なることは、三宅秀氏の著書に左のごとく弁ぜり。

 愚俗の説に、死後においても毛髪、爪甲長生し、あるいは棺内にありてその体勢を変え、あるいは壙中にありて発声することありといい、もってその生活力のなお存せるを埋葬せりとなすは、はなはだ妄説なり。けだし死後、表皮萎銷脱落すれば毛髪長生せるがごとき観をなし、また強直によりてその体勢を変じ、また胃中のガス口内より逬出し、あたかも発声するがごときものあるをもって、この訛言あるなり。

 今日、愚民の間には、かくのごとき死体の迷信を固執するものなお多きは、嘆ずべきの至りなり。

 

第六〇談 神仏の霊験 (『妖講』「宗教学部門」二八一頁引用)

 神仏の霊験はすべて精神作用より起こるというも、また多少物理上の原因なきにあらず。例えば、婦人のごときは平常運動せざるをもって、種々の病症を醸すに至るも、もし朝夕運動の習慣を養わば、必ずその病も平癒すべき理なり。けだし、婦人が病気をいやせんと欲し、毎日神社仏閣へ参詣して、大いに効験を見るがごときは、これを精神作用に帰せざるも、物理の規則に照らして説明するを得べし。例えば、神社仏閣には百度参りと称し、その門より堂内まで百回往返して祈願する法あり。仮にここに胃病の婦人ありと定むるに、一週間あるいは一カ月間、毎日百度参りを行わば、その病も必ず平癒せざるを得ざる理なり。眼病をうれうるものが薬師へ参詣し、清浄の霊水をもってその目をひたさば、これまた多少の効験あるべきは当然なり。毎朝早く起きて神仏に向かい、あるいは礼拝し、あるいは供養し、あるいは高声にて読経するがごときは、知らず識らず養生長寿の術に合す。なかんずく、高声読経は肺を強くするの効ありて、身体の健康に利あるは決して疑うべからず。果たしてしからば、神仏祈念は物理上に考うるも、実際の益あること、すでにかくのごとし。

 

第六一談 地獄の画 (『妖講』「宗教学部門」一〇〇頁引用)

 古来、世間に伝うる地獄の画あり。これ、画工や小説家の工夫、方便によりて種々に付会せるにもかかわらず、愚民はこれを見て地獄の実景と信ぜり。ゆえに、『出定笑語附録』には左のごとく批評を下せり。

 地獄の図というものに、罪人を釜いりにしたるなど種々の仕置きが見えるが、これは漢画史を見るに、呉道子がかきはじめたる趣だが、いかにもそう思われることは、鬼がみな虎の皮の褌をしめておる。されば、川柳に「地獄には虎がしたたか有ると見へ」といってあるごとく、みんな虎の皮だ。しかるに、その罪人はみな日本人にちがいない。これにつきて、また川柳に「唐人を入込にせぬ地獄の画」ともいってあるが、鬼ばかりは唐から雇いにでもするものか、ちとおかしな取り合わせでござる。いずれに〔して〕も釈迦はもとより、天竺人の一向に見たことのないはずの図じゃ。

 地獄の説、最初よりかくのごとく奇怪なるにあらず。後の人付会を重ねて、ついに妄誕を極むるに至れり。

 

第六二談 人為誤りて神異と認めらる (『妖講』「宗教学部門」一九頁引用)

 余、一日、依田〔学海〕翁の『★(譚の正字)海』を披見せしに、その中に人為的偽怪の一例を載せたるあり。曰く、

 田中丘隅(武州八王子の人)、かつて岳母の病を訪う。鱨魚一つを買い、携えて山路を過ぐ。★(罾の正字)にて雉を羅するを見る。喜びて曰く、「魚肉は鳥肉にしかず。余、しばらくこれに代えん」と。すなわち魚を★(罾の正字)に置き、雉を取りて去る。猟夫、後に至る。驚きて曰く、「★(罾の正字)中魚あり、大いに奇なり」と。その徒に与え、謀りて曰く、「神ありて、これに憑るにあらざるを得んや」と。巫を召してこれを問う。巫、ことさらにそのことを張大にす。愚民これを信ず。魚を瓶に飼い、貨を集めて祠を建つ。すでにして風雷大いにおこる。里人、震駭す。巫、ますますおびやかすに神異をもってす。曰く、「享祀をさかんにせざれば、まさにもって大いにその民を害せんとす」と。民ますます恐れ、巫に請うてこれをまつらしむ。すでに期あり。丘隅これを聞きて村民にいいて曰く、「僕に術あり。よく神瞋を鎮す。ただわれのなすところ、これ見よ」と。すなわち、夜ゆきて祠を毀ちて魚を取る。その材を折りて薪となし、あぶってこれを食す。村民大いに驚き、みな丘隅をとがむ。よってそのゆえを告げ、かつ笑って曰く、「世に神と称するもの、多くはこの類なり。神、あに信ずるに足らんや」と。

 その事実の有無に至りては、余の知るところにあらずといえども、世間のいわゆる不思議中には、かくのごとき人為的妖怪の加わることなしというべからず。凡百の妖怪中より真怪を発見するは、あに難中の難事にあらずや。

 

第六三談 山伏の偽怪 (『妖講』「雑部門」第一節参看)

 『閑際筆記』に、天狗礫の怪を載す。その文に曰く、

 近世、東武〔の〕士人の家に夜々飛礫あり。月をこえてやまず。家人数輩、ひそかに舎外にありて終宵これをうかがう。一物黟然として門を過ぐるに、礫すなわち飛ぶことしきりなり。数輩前後ひとしく起こり、そのものをとらえ得、灯をあげてみれば、すなわち人なり。相識るところの山伏が、その家にもって怪あるがために、己をして、呪祷せしめんと欲してしかり。

 飛礫の原因は、ついに狐狸にあらず天狗にあらず、人怪なるを知る。

 

第六四談 盲筮の的中 (『妖講』「純正哲学部門」一六七頁引用)

 余、卜筮を知らず、しかして、よく的中するを得。先年、病を熱海の温泉に養いたるとき、楼主いわく、「わが家、近日出産あるべし。請う、筮をとりて男子か女子かを判定せられんことを」と。余、すなわち碁石を握りて、その数偶ならば女、奇ならば男として卜せしに、偶数を得たり。よって判じて曰く、「女子なり」と。その後四、五日を経て出産あり。果たして女子なり。

 また両三年前、相州大磯町松林館(今の長生館)に滞在したる際、館主、余に対して、しきりに近来来客の少なきを憂う。一日、余まさに大磯を辞して東京に帰らんとし、戯れに楊子をつかみて筮竹に擬し、本日来客の有無を卜定せしに、十名以上あるべきを知るを得たり。よって余は、館主に告げて曰く、「今日、十余名の来客あらんとす。客室必ず満たん。ゆえに余、早く去りて新客にこの室を譲らん」と。ときに館主は余が言を信ぜずして戯言なりとせしが、余が去りたる当夕、果たして十一名の来客ありたるという。ここにおいて、館主大いに驚き、余に謝状を送れり。余、もとより卜筮家にあらず、また、これを信ずるものにあらず。ゆえに、その卜するや一定の方式によるにあらず。ただ自己流によりてみだりに行いしも、なおよくかくのごとき符合を得る以上は、卜筮の的中はあえて驚くに足らざるなり。

 

第六五談 暦書の妄誕 (『妖講』「純正哲学部門」二九一頁引用)

 『草茅危言』に、民間にて用いきたれる暦書に、上中下の三段を分かち、八将神をはじめ、日の吉凶、方位の開塞等を出だせるは無稽の妄誕なりとて、これを痛論していわく、

 (前略) 八将軍などいつの時より書き出だせることにや、暦法にかつてあずかるものなし。多分、道士の方の名目にてもあらんか、ひたすら無稽の妄誕なり。世に中段と称する建、除の名は、暦法に古く見えたることなれども、これまたはなはだ曲説にて、そのほか下段と称する吉日凶日、みないうに足らざることどもとす。また方角の開塞をいうこと、大いに世間の害をなす妄誕なり。さなきだに天下愚昧の民、惑いやすくしてさとしがたきに、暦書にしかと書きあらわし示すゆえ、ますます惑いの深くして、一向にさとされぬことになりゆきけり。嘆ずるに余りあることなり。先王の四誅の一つに、「鬼神、時日をかりてもって衆を疑わすは殺す」とあり。今の暦書の八将〔軍〕、金神は鬼神をかり、中段、下段は時日をかり、みなもって衆人を疑惑せしむるのとがなれば、まさしく先王の誅を犯したるものなり。実に深く制禁を加え、大いに暦書を改めたきものなり。まず巻首の八将軍のところを残らず削りすてて、「期年三百六十日、一切是吉、昼夜百刻十二時未嘗有凶。」(期年三百六十日、一切これ吉、昼夜百刻十二時、いまだかつて凶あらず)と大書し、つまびらかにかな付けをし、そのかたわらに、「天下の人、その家の親、先祖の年に、一度の忌日を凶日として吉事を行うべからず」など、ことわりがきあるべし。あとは毎月の干支、大小、二十四気、土用、日月食など、年分入用のことのみにして、余事をさらりと削りたらば、浄潔の暦書なるべし、云云。

 これ、実に卓見なり。今日なお、民間にて古暦のごとく時日の吉凶を記入せるものは、かえって大いに用いらるると聞く。あに驚き入りたる次第ならずや。

 

第六六談 政略的偽怪 (『妖講』「雑部門」五二四頁引用)

 世のいわゆる英雄豪傑は愚民を篭絡し、人心を収攬せんために、ことさらに奇怪なる現象を作為せるものなり。古来、その実例すくなしとせず。今、その一を挙ぐれば、往時、豊太閤秀吉まさに朝鮮を征討せんとし、厳島に至り、百文銭を神前に投じ、もってその勝敗を占いしと伝うるがごときこれなり。そのとき、秀吉自ら祝して曰く、「われにして彼に勝ち得るならば、面するもの多きにおれ」と、すなわち百文銭を投ず。その銭みな面せり。よって衆大いに喜ぶ。これ、あに奇といわざるべけんや。しかるにその実、あらかじめ両銭を糊合して投ぜしなりという。果たしてしからば、あえて驚くに足らず。もし、この類の怪事にして、政略上作為せるものなるを知らざるにおいては、永く不思議となりて世に存するに至らん。

 

第六七談 鬼髪束針の怪 (『妖講』「雑部門」五二七頁引用)

 わが国の史談中に、往時平忠盛、白川上皇に従い、雨夜祇園の社前を過ぎんとして、鬼髪束針のごとき怪物を見し一話あることは、みな人の知るところなり。これ、真の怪物にあらずして、一僧の麦藁を束ねて笠に代え、火を携えて行くところを誤り認めて妖怪と見しものなれば、偶然的妖怪の好適例というべし。

 

第六八談 下谷の怪談 (『妖講』「理学部門」第四九節参看)

 先年の『都新聞』に、下谷三怪談の一つとして、偽怪の一例を掲げり。

 下谷下車坂町三十番地の日蓮宗蓮華寺の裏手なる墓所へ、火の玉が出ずるといい出だしたるより、同寺の住職松田宏盤師がその正体を見届けんとて、一昨夜下僕を従え、午前二時ごろ墓場へ行き見しに、無縁塚よりボンヤリ光の現れしに、さてはと題目唱えながらよくよく見れば、ランプらしきように見ゆるにぞ、近寄れば、果たしてランプに紙を覆いありしと。なにものの悪戯にや。

 かくのごときは、人の悪戯に出でたるに相違なかるべし。世に悪戯より起こりたる妖怪定めて多かるべしと考うるをもって、ここにその一例を示せり。

 

第六九談 妖怪の組み打ち (『妖講』「宗教学部門」一四頁引用)

 東江楼主人の『珍奇物語』の中に、妖怪の信ずるに足らざるおもしろき一話あれば、ここに転載せん。

 往古より日本にても、西洋にても、冤鬼あるいは妖怪の説ありて、人も往々これを見しなどというものも最も多けれども、これはみな、誑惑癖をなすの妄念より出ずるか、あるいは夢か、あるいは戯造か、さもなければ、暗夜に墓地〔など〕を経過るとき、恐怖のあまり一像を思い出だすかによるものにて、決して真の怪しきものあるべき理なし。ここに一つの奇談あり。某地の野外に土橋ありけるが、この辺りは人家もなく最もすさまじき所ゆえ、往古よりこれを幽霊橋と唱え、雨夜には幽霊の出でしこと、往々ありしなどいい伝え、雨夜にはだれあってここを過る者もなかりしが、ある人よんどころなき用事ありて、雨夜にこの橋を渡り、ものすさまじく思いし折から、たちまち向こうより、頭長く体には毛のごとき白衣を着たる奇怪物現れ出でて、急にわが方へ襲いきたるの様子ゆえ、もはやのがれんとするもかなうまじ、むなしく彼に食わるるより、むしろ力の及ぶ限り防ぐべし、にくき妖怪の所業なりやとひとりささやき、諸手を抜き、不意に躍りかかりて、むずと組み付きければ、妖怪は驚きたる様子にて〔大いに〕さけび、互いに押し合いけるが、妖怪はあやまちて足を踏み外し河中に落ちたり。

ゆえに、人は疾く走りて家に帰り、大いに誇りていう、「われ今、かの幽霊橋にて妖怪に出あい、すでに食われんとせしが、われ、わが力に任せて河中に投げ込みたり」 いまだ話も終わらざるうちに、外より一人びっしょりぬれて入りきたり、色青ざめ声震えていうに、「〔いま〕余、かの幽霊橋を通りかかりければ、妖怪不意に飛びかかりしゆえ、余も大いに驚きたれども、なんぞ恐るるに足らんと、暫時〔は〕組み合いしが、なかなか敵し難く、ついに河中に投げ込まれ、危うき命を助かりたり」と物語りす。ここにおいて、初めてその妖怪にあらず、かえってわが朋友なることを知れり。もし、両人ここに〔て〕あわずんば、互いに鬼となし怪となして、人また人にこれを伝えん。

 これ、偶然的誤怪の一種なるが、暗黒と恐怖とは最も誤怪を生じやすき事情なり。もし、真に妖怪の実在せるならば、なんぞ青天白日、虚心平気のときに起こらざるや。ゆえに余は、恐怖と暗黒とは妖怪を産出する母なりといわんとす。

 

第七〇談 幽霊は見るべからず (『妖講』「心理学部門」三二一頁、「宗教学部門」二四頁参看)

 世人、往々幽霊を見たりという。幽霊果たして見るべきか、見るべからざるか。幽霊にして人目に触るるものあらば、これ真の幽霊にあらずして偽幽霊なるべし。かつて神原精二氏の言に、「幽霊は見るべからざるをもって幽霊と名づく。もし幽霊にして見るべきものならば、よろしく顕霊というべし。しかるに、世人幽霊を見たりというは、論理の撞着を免れず」と。この一言、世人の幽霊談の非なるを看破するに足る。

 

第七一談 雷、臍を取るということ (『妖講』「理学部門」第一二節参看)

 民間にて、夏日、小児の裸体になりて遊びいるに際し、雷の鳴り出だすを聞けば、たちまち驚きて衣類をきて臍を隠すを例とす。けだし、雷は人の臍を取るものとなすによる。しかして、そのなんの意たるを知るものなし。しかるに、菅茶山の『筆のすさび』にこれを弁じて曰く、

 雷の臍をとるといいて小児などをいましむるは、雷震のときは、俯伏するものは死せず、仰仆する者はかならず死するによってなり。失火の煙たちこめて息をつぎがたきときは、土を舐れというも同じおしえなり。

 これ一説なり。けだし、自然の経験によりて得たるものならん。その他、迅雷のときには、あるいは炉に煙を起こし、あるいは軒に鎌を立てて、あるいは蚊帳をつり、あるいは線香を点ずる等、みな自然の経験より得たるものなれば、あえて怪しむに足らざるなり。

 

第七二談 為朝、竜宮にいたる説 (『妖講』「理学部門」第二七節参看)

 古来、竜宮の説、数書に見えたり。昔時は、海中に実に竜宮城ありと信ぜしも、今日よりみれば、古人が海上の孤島を誤り認めたるものなるべし。人、もし風波のために流されてここに至るもの、異人の住せるを見て相伝えて竜宮となすのみ。かくのごとき事実は、古代の出来事としてはあえて怪しむに足らず。『〔広益〕俗説弁』に、鎮西八郎為朝〔源為朝〕の竜宮にいたるといえる話は、琉球に至るの誤聞なることを弁明せり。その文、左のごとし。

 今、案ずるに、『南浦文集』にいう、「為朝公鎮西将軍となるの日、(中略)遠く海に航し島峙を征伐す。このときに至りてや、舟潮流に従って一島を海中に求む。ゆえをもって、はじめて流求と名づく、云云」『琉球記』にいう、「琉球、竜宮、音相同じ。王宮の榜に竜宮城と書す、云云」これらの説をもって見れば、為朝、竜宮城にゆくとは、琉球国にいたること疑いなし。

 とにかく、竜宮は海外異人の住める孤島のことなるべし。

 

第七三談 筑波山の天狗 (『妖講』「理学部門」五〇三頁引用)

 余は最初に天狗の怪談を掲げしが、世に、山間にありて老人に会し、夜中巨人を見るときは、たちまちこれを仙人と誤認せるの例はなはだ多し。先年、箱根にて猟師が駒ヶ岳へ登らんと欲して、途中山賊の潜みおるを見て、ただちに天狗なりと誤解し、帰りてこれを人に伝えたりしことあり。これに類したる一話が、先年『東京日日新聞』上に見えしことあり。そはいかんというに、

 明治十八年ごろのことなりしが、千葉県下某村の海浜に、貝を拾わんとて出できたりし一人の壮漢あり。これ、すなわち同村の柏木某と称する柔術家にして、薄暮に至るまで貝を拾いて楽しみおりしが、夕刻に至り近村の青年四、五名相伴いて来たり。これも同じく貝を拾わんと衣をかかげて水中に入り、かしこここと探りもとむるうち、いかにしたりけん、柏木氏過ちてある青年の足を踏めり。よって柏木氏はその粗忽を謝せしに、青年ら、その柏木氏なるを知らざりしにや、大いに怒りて、いかほど謝するも聞き入れず。かれこれするうち、青年ら相ともに柏木氏にうってかかりければ、柏木氏も今はぜひに及ばずとて、日ごろ熟練の柔術にて、みごとに数人の者どもをなげつけたるに、青年どもはじめの大言にも似ず、一目散に逃げ失せたり。その後その辺りにては、某村の海浜にて数名の青年を苦しめしは、筑波山の天狗なりと風聞せりとぞ。

 これ、余がいわゆる誤怪なり。かく尋常の人すら、ときとしては天狗のごとく誤認せらるることある上は、身体長大、白髪白髯ありて、すこぶる異様の観ある人にして、しかも深山幽谷のごとき無人の境にて出会うことあらんには、その人を天狗の怪と誤認するも、あえて怪しむに足らず。

 

第七四談 狸の腹鼓 (『妖講』「理学部門」四七五頁引用)

 世に狸の腹鼓の怪ありと伝う。余、いまだ実験せざれば、その真偽を判定し難しといえども、深更になれば遠方の物音手近く聞こえ、誤りて狸の腹鼓と認むることなしというべからず。その一例には、ある書(『荘内可成談』)に、「狸の腹鼓」と題して左のごとく記せり。

 安永末のころ、初秋の末より季秋のころまで、狸の腹鼓打つとて、奇怪のことにいい触れぬ。二、三日、四、五日あいにして、天気快晴の夜は、丑の半刻ごろより打ちはじめて、その音はとんとんと絶えず、遠くなり近くなり、寅の半刻までにて打ちやみぬ。聞きし人もあまたなり。予、季秋の初め磯釣りに思い立ちて、夜ふけに起きて刻限をはかれば、丑三つ過ぎにもやと思いながら、支度して門へ出でぬれば、その音聞こえ、立ち止まりおれば、東南の方にて、かねてはなしを聞きしにたがわず。すは、かの狸の腹鼓ござんなれ、よくよく聞かばやと、釣り具など取り置き、音を失わざるように静かに歩み行くに、行くほど遠ざかり、御小姓町芝田氏のさき、加藤氏の辻にてしばらく休らい考うれば思い出だしぬ。三日町銅屋にて鋳踏む音にてありける。予も狸にたばかられけるやとおかしく、立ち戻りて釣りの調度取り持ち、新潟口より出でて行くに、大山海道町端までかの音せり。それよりは釣り人も多く、うたなどうたいどよめくゆえ、音も聞こえざりし。丑の半ばより打ちはじむるは、ふいごを吹きはじめしなるべし。寅の半ばに至れば、世間起き出でて、それぞれの業あるゆえ、物音に紛れて聞こえざるなるべし。その音、遠くなり近くなるは、その日の風合によりしなるべし。快晴の夜ばかり聞こえしは、風雨などすれば、それに紛れて聞こえぬなるべし。いかなる人の聞きはじめて、かくいい触らしけるにや、「一犬虚をほゆれば万犬実を伝う」なるべし。

 これに例して腹鼓の怪を知るべし。

 

第七五談 怪火の原因 (『妖講』「理学部門」五一五頁引用)

 世に怪火の種類すこぶる多し。燐火、陰火、鬼火、狐火、竜灯、火車、火柱、簑虫等、みな怪火なり。しかして、これを発する原因また一ならず。まず古書に考うるに、『荘子』には、「馬血、燐となり、人血、野火となる」とあり。『淮南子』には、「老槐、火を生じ、久血、燐となる」とあり。王充『論衡』には、「人の兵死するや、世言う、その血、燐となる」と。『博物志』にも、「闘戦死亡の所、その人馬の血、年を積んで化して燐となる」とあり。また『和漢三才図会』にいわく、「蛍火は常なり、狐火またまれならず、鼬、鵁★(鶄の正字)、蜘蛛、みな火を出だすあり」と。またいわく、「比叡山の西麓、夏日、闇夜ごとに燐火多く南北に飛ぶ。人もって愛執の火となす。恐らくはこれ鵁★(鶄の正字)の火なり」と。これ、古代の説明なり。近世は西洋理学の力によりて、大いにその原因をつまびらかにするを得たり。明治の初年に『天変地異』と題する一書世に行われしが、その中にも怪火の説明を出だせり。すなわち左のごとし。

 光あれば熱く、熱ければ光あるは一般の法なれども、熱くして光なく、光ありて熱からざるものあり。湯のごときはなにほど熱くとも光なく、蛍火、朽ち木、生の海魚、海水、不知火、陰火などの類は、光あれども熱からず。この種の火はみな、ポスポルというもの水素と調合し、燐化水素となり、自然の理合をもって光を放つものなり。同じ種類の中にても、蛍火は王公貴人より婦人、小児に至るまで、だれも愛弄せざるはなし。ことに宇治川の蛍狩りは、京洛間の諸人、見物のため市をなすほどなりと聞こえしが、かつてこれを恐れし人あるを聞かず。また、朽ち木より光を放つことあり。

柊などの朽ち腐れたるものに最も多く、怪しげなるものに見ゆれども、もと朽ち木なれば、児童の輩、暗所に持ち行き、朋友に奇を誇るの具とするのみ。また、生の海魚ことに海老などを暗所に持ち行きなば、白き光を放つべし。また、夜中海水をゆすらば、水に光あるを見るべし。これ全く水の光にあらず、極めて細小なる魚ありて、水の動くに従い、ひれをふるい揺動するより起こるものなり。肥後、肥前の海に不知火あり、周防洋に平家の怨霊火と唱うる火あるは、両ながらかかる小さき魚の莫大に群集し、波の浮沈を追い、あるいは現れあるいはきえ、あるいは集まりあるいは離れて、奇怪の状をなしぬれど、みなポスポルの光にて、蛍火も同様のものなれば、見物の諸人、酒をくんでこれを楽しむも、幽趣を得たるものというべし。狐火、人魂などと唱うる陰火の類も、また同じくポスポルの火なれども、沼あるいは墓所などの間に現れ、いかにもものすごく見ゆるゆえ、人々おそろしきもののように取りざたし、あるいは怨霊の火などと唱え、婦人、小児はかかる火に行きあうとき震い恐れ、はなはだしきは気絶するものありと、実に気の毒なることなり。

ある人、夜深く沼を渡り、ものすごく思いし折から、たちまち青き火の近く輝くを見たるに、ようやくわが方へ寄りきたれば、にくき妖怪の所業なりやとひとりつぶやき行くほどに、これを捕らえんと思い立ち、急に歩みを進めければ、追うものありてのがるるがごとく、急ににげ去り、われ止まれば彼止まり、われ行けば彼行きて、わが動静をうかがう様子あり。いよいよ怒り、力を極め追いかけ行きしに、たちまちきえて跡を失えり。しばらくありて、はるかに葦茅を隔てて鮮やかに現れしゆえ、こんどは息をのみ身を潜め、間近く寄りて急にこれを襲わんと決意し、しずかに進み寄りしに、火、現然として少しも動く様子なし。ますます沈黙し火の傍らに歩み寄り、急に手をあげて打ち落とし見れば、一片の燐化水素にて、なにも怪しげなるものなし。畢竟、前ににげ隠れしは、自己の動きより空気を動かし、火もこれがためにその居所を動かすなり。

これを物に例えば、池水の面に浮かぶものあるを、にわかに水に飛び入りこれを捕らえんとせば、その物必ず水にせかれてさきの方へゆき、われ帰れば、また水につれわが方へ来たるべし。しかるに静かに水を押し分け、これをつかまばたやすかるべし。空気の動くもこれと異なることなし。元来、ポスポルとは天地の間にそなわりたる六十八色の物の一つにて、生物に多く、草木なども多少この気を含まざるは少なし。人もこの気あればこそ生命を保ち得るものなるが、死して骨肉腐り土に返るとき、この気離れ、水素という、また六十八色の物の一つと合い、前にいえる燐化水素とはなるなり。かかる理より、墓所などは自然この気も多く、ついに怨霊の火などと唱えきたりしも、種なき話にはあらざれど、もとポスポルの光なれば、蛍火、朽ち木と異ならず。なんぞ、おそるることあるべけん。

 この説明によるも、怪火の怪しむに足らざるを知るべし。

 

第七六談 火柱の話 (『妖講』「理学部門」五三一頁引用)

 俗に、火柱のたつときは必ず火災あり、その柱のたおれたる方位において起こるという。真偽定め難しといえども、なにか火の立ち上りて消ゆることあるは事実なるがごとし。けだし、燐火の一種なるべし。しかるに、余かつてこれを聞く。某町にて火柱立つとの評判ありて、間もなく火災あり。ついてその評判のよって起こりし本源を糾問せるに、その辺りに放火の賊ありて放火せんと欲して、あらかじめ火柱立つといい触らしたることを知れりという。よって火柱の評判も怪しきものなり。

 

第七七談 雨ごい (『妖講』「理学部門」第二五節参看)

 七、八月の候、連日炎晴旱魃をきたすときは、農家、隊を結びて高山に登り、雨ごいをなす。しかるときは山神の力によりて、天たちまち雲を起こし雨を降らすという。これを今日の学説に考うるに、山神の力をからざるも、多人数にて高山を跋渉すれば、自然に気象の上に変化を起こし、雨を降らすに至るという。

 

第七八談 呪文の効験 (『妖講』「宗教学部門」第四九節参看)

 世間に呪文を唱えて病気を治するものあり。人のこれを信ずる点より考うれば、多少の効験あるもののごとし。しかれども、その効験は呪文そのものの力にあらずして、信仰の力なりとは余が持論なり。かつて、ある地方においてその旨趣を演説したりしとき、人あり、余に一例を授けて曰く、「己の近寺の住持にて、呪文を唱えて小児の虫歯を治するものあり。ある日その寺に大法会ありて、隣村の老婆も参詣せしに、住僧、小児の歯痛を訴うるものを呼びて、その頬に手を触れ、一心に『アビラウンケンソワカ』を三度繰り返して唱うれば、小児たちまち歯痛を忘れ、その妙ほとんど神のごとし。老婆これを見て大いに感服し、家に帰り自らその法を試みんと思いおりしが、たまたま隣家の小児、歯痛をうれうるを聞き、早速その子を呼びて呪文を唱えんとせしに、『アビラウンケンソワカ』を誤り伝えて『アブラオケソワカ』(油桶ソワカ)と記憶せるにもかかわらず、三度繰り返せしに、たちまち治するを得たり。このことを聞きて、一村中、老となく少となく、歯痛をうれうるものあれば、みなきたりて老婆の治療を求む。老婆はその都度『油桶ソワカ』を唱えてこれを治せり。もし、虫歯の癒ゆるは全く呪文の力ならば、『油桶ソワカ』を唱えて治すべき理なし。しかるに、『油桶ソワカ』にても、『味噌桶ソワカ』にても、『酒徳利ソワカ』にても、唱うる文言に関係せずして、ただ一心にこれを唱え、人をして癒ゆるに相違なきことを信ぜしむれば、必ずその効験ありとす。これ、信仰作用の適例なり」と。

 これに準じて、愚俗間に行わるる種々の禁厭療法の効験あるゆえんを知るべし。

 

第七九談 人凶なり、宅凶なるにあらず (『妖講』「雑部門」五八〇頁引用)

 民間に往々凶宅と称して、その家に亡者あるいは怨霊の祟あれば、これに住するものは必ず病みわずらうと唱うる家あり。これに住するに、果たして病人出ずるという。しかれども、これ全く人の精神よりよび起こすものにして、亡霊のなすところにあらず。その一例に、『先哲叢談』の一節を転載して示さん。

 藤井懶斎(名〔は〕臧、筑後人)かつて官舎におる。人ひそかに告げて曰く、「この家祟多し、子おるなかれ。人のこれに住する、災厄に遭わざる者なし。予また、子の他日患いにかかるを見るに忍びず」と。懶斎もって意となさず。これにおること二十年、ついにつつがなし。すなわち曰く、「白居易の凶宅の詩ありいう、『寄語家与国、人凶非宅凶』(語を寄す、家と国とに、人凶なり、宅凶なるにあらず)と。信なるかな。

 これによりてこれをみるに、凶事も吉事も多く人より生じて、妖も怪もみな人心より起こるを知るべし。

 

第八〇談 鬼門の吉凶 (『妖講』「純正哲学部門」二八三頁引用)

 鬼門の吉凶に関し、『百物語評判』に左のごとく論ぜり。

 鬼門ということは、東方朔が『神異経』に、「東方度朔の山に大なる桃の木あり。その下に神あり。その名を神荼鬱塁といいて、もろもろの悪鬼の人に害をなすものをつかさどりたまえり。ゆえに、その山の方を鬼門という」と見えたり。かくはいえども、これまさしき聖賢の書に出ずるにもあらず、そのうえ、その書にも鬼門をいむということ見えはべらず。もとより、わが朝のならわしに丑寅の方をもっぱらいむこと、いずれの御時よりはじまれりともさだかならず。(中略)たとい鬼門へむきても善事をなさばよかるべく、辰巳へ向かいても悪事をなさばあしかるべし。なお鬼門にかぎらず、軍家にもてはやしはべる日取り、時取りのよしあしもかくのごとし。悪日たりとも善をなせば、行くさきめでたく、善日たりとも悪をなさば、後にわざわいあるべし。また、その家々にて用いきたれる吉例の日もあることに候。

むかし、周の武王と申す聖人、天下のために殷の紂王と申す悪人を討ちたまうに、その首途の日、往亡日なりければ、群臣いさめけるよう、「きょうは往亡日とて、ゆきてほろぶる日なれば、暦家に深くいみ候。さ候えば御〔出〕陣無用」のよし申し上げるを、太公望きかずしていわく、「往亡ならば、これゆきてほろぼす心にて、いちだん〔と〕めでたき日なり」とて、ついにその日陣立ちして、もっとも紂王を討ちほろぼし、周の世八百年治まりけり。このゆえに、武王は往亡日をもてさかえ、紂王は往亡日をもてほろびたり。

 これ、迷信家の一読すべき文章なり。

 

第八一談 迷信のために数百金を失う (『妖講』「純正哲学部門」第六四節参看)

 東京の某区内に住せる商業家にして、すこぶる迷信の強きものあり。ある年、近傍に古土蔵の売り物あれば、これをわずかに数百金にて買い入れ、取り崩して見れば、木材といい石材といい、いずれも今日にては得難きほどの品なれば、主人大いに喜び、早速己の邸内に建てんと欲して、まずその吉凶を家相家にたずねしに、相者曰く、「この土蔵は三年過ぎてのち建つるにあらざれば、必ず家主の身に災害を招くことあるべし。よって、今より三年間そのままに捨て置くべし」と。主人これを聞きてにわかにおそれ出だし、しばらく建築を見合わせることに決せり。かくして、せっかく持ち運びたる木材も、久しく雨ざらしとなりて庭前にありしが、三年の後これを検し見るに、大抵みな朽ちて木材の用をなすものなかりき。ここにおいて、土蔵建築の一事は廃止せざるを得ざるに至れりという。これ、迷信のために数百金を失いたる一例なり。

 

第八二談 筮者の遁辞 (『妖講』「純正哲学部門」一六八頁引用)

 余、かつてこれを聞く。ある一人の妄信家ありて、卜筮の大家に就き、自己の生命を予知せられんことを請う。筮者すなわち判断して曰く、「今より幾年の後、某月某日に必ず死すべし」と。妄信家固くこれを信じて、某年某月までことごとく財産を消費し、ついに当日に至りては一銭の余財なく、ただ自らその身を棺中におさめて絶命を待てり。しかるにその日ついに死せず、翌日に至るもなお依然として存命せり。ときに飲食を欲するも、余資のもってこれを購求するなく、ほとんど飢渇に迫らんとせり。ここにおいて、はじめて自ら卜筮家に欺かれたるを知り、にわかにその家に至り、「なにゆえにわれを欺きしや」と詰問せしに、筮者曰く、「余、決して欺きたることなし。足下は某月某日に死すべきことは、天運によりて定められたるものなり。しかるに、某日に死せざりしは、けだし他に原因あるべし。足下は人を救助したりしことなきや」と。妄信者曰く、「すでに死の定まれるを知りしをもって、財産を残すの必要なきを悟り、これをことごとく人に施与して貧民を救助せり」と。筮者すなわち曰く、「これにてその理を解せり。足下は人を救助せし余徳をもって、天は特に、そのひとたび必定せる寿命を延長したるなり」と。この一話はもとより作為せる虚談に相違なきも、卜筮家の説明中に、これにひとしきもの必ずなしというべからず。

 

第八三談 射利的偽怪 (『妖講』「雑部門」五二五頁引用)

 世の山師連が、無知の愚民を篭絡して金銭をむさぼり取らんと欲し、神仏に託して種々の不思議を偽造することあり。その一例に、ある村にて一人の詐欺師あり。ひそかに渓間の湿地に深き穴をうがち、その底に豆俵数個を積み重ね、その上に石地蔵を置き、これを土にてうずめ、豆の水を吸収して膨脹するに従い、石地蔵は自然に土中より現れ出ずるように装置し、もって世間に言い触らして曰く、「某の渓間より石地蔵生まれ出でて、だんだん高く上がり、あたかも生活あるもののごとし」と。ここにおいて、人みな生き仏現出せりと信じ、四方より参詣するもの、山のごとく雲のごとし。その後日ならずして、たちまち詐欺手段に出でしを発覚したりという。これ、いずれの地方の出来事なるやは余の知らざるところなるも、幼少のとき、ある老人より聞き込みたる話なり。

 

第八四談 衣類の切断 (『妖講』「雑部門」第五節参看)

 本年六月ごろ、東京市内京橋采女町の怪談と称して、一時世間の評判となりし一怪事あり。こは活版業木村某の居宅にて起こりし妖怪にして、箪笥、葛篭等に納め置きし衣類が、いつの間にか怪しの穴あきて着ることのできぬようになりおり、また、柱に掛けて置きたる衣類が、ゆえなくして中央より切断してあり、実に不思議にたえぬとて、主人自ら来たりて余に相談せられたることあり。余、怪事の顛末を聞くに、その家に奉公せる下女の身の上に疑わしき点あるを認め、一案を授けて曰く、「速やかに下女を親戚に託してその家を遠ざけ、しかしてのち怪事の有無を試むべし」と。主人諾して去り、余が告ぐるとおりを実行せしかば、その翌日より怪事全くやみたりという。

 その他にも、余が先年来これに類したる試験を行いたる二、三の例あるも、これを略す。俗間にては、かくのごとき怪事あれば、ただちに狐狸の所為となすも、多くは人為にして、婦人、児童もしくは愚鈍者の所為に出ずること多し。

 

第八五談 誤怪の一話 (『妖講』「総論」一一〇頁引用)

 余、幼時、誤怪の一話を人より聞きしことあり。これ、偶然に起これる妖怪の一例となすに便なれば、ここに掲ぐ。

 維新以前のこととかや、ある城内に毎朝鶏鳴にさきだちて、「トウテンカ」と叫ぶ声あり。おもうに鳥の声なり。その語、解すべからずといえども、「トウテンカ」はけだし、東天下あるいは当天下ならん。果たしてしからば、妖鳥ありて天下に大変動あることを告ぐるものとなせり。しかるに、一人ありてその原因を探知せんと欲し、その声のきたる方をたずねて行けば、城内にはあらずして城外なることを発見せり。さらに城外に出でてこれをたずぬるに、市に鍛冶屋ありて毎朝三時ごろ起き鍛工に従事し、「トウテンカ」とはすなわちその声なることを知れり。

 これ、その原因を発見したる人ありしによりて、世間もその誤怪たることを了するに至れり。もしその人なかりせば、永く無実の怪談を後世に伝うるならん。

 

第八六談 犬、鴉の前知 (『妖講』「純正哲学部門」一二三頁引用)

 古来民間にて、鴉の鳴き声、犬の鳴き声等によりて、吉凶を前知し得るものと信じ、人のまさに死なんとするときには、必ず鴉や犬は、あらかじめこれを知りて鳴きさわぐことを伝う。これを実際にたずぬるに、多少事実なきにあらざるがごとし。案ずるに、これ必ず道理の存するところならん。余が考うるところによるに、鴉あるいは犬がただちに人の死を予知する力なきも、天気の晴雨そのものがこれが媒介をするによる。語を換えていわば、鴉も犬も天気によりて鳴き、長く病床に臥したる人も天気によりて絶命に及ぶなり。すなわち通例、重症の患者が息を引き取るときは、天気濛々として暗く、精神鬱々として晴れざるときに多し。かかる陰鬱せる天気のときは、健康無病の人にても気分おのずから快からず、いわんや病者をや。犬の声のもの憂く、鴉の声のすさまじげに聞こゆるも、またかかる天気の日にありとす。しからば、犬、鴉の鳴くは人間の死に直接の関係あるにあらずして、人の死すべき気候、天気に関係を有するなるべし。

 

第八七談 七不思議 (『妖講』「理学部門」四三〇頁引用)

 遠州に七不思議あり、越後にも七不思議あり。これ、多くは気象、地味より生ずる変化にほかならず。ゆえに、今日にありてはあえて怪とするに足らず。その一例に、遠州七不思議の一つなる片葉の葭のごとき、一方にのみ葉を生じて他方になきより不思議の一つに加えしも、その地方は風力強く、かつ始終一定の方位より吹くに起因せることは疑うべからず。越後にも中蒲原郡新津地方に同種の葭あり。その理もとより同一なり。その他の七不思議も、大抵これに準じて知るべし。

 

第八八談 カマイタチの怪 (『妖講』「理学部門」五七六頁引用)

 民間にて伝うるところのカマイタチの怪は、北国筋に往々聞くところなるが、他の地方にてはまれなるもののごとし。左に、『百物語評判』と題する書によりて、その実況を示さん。

 それがし召しつかい候者の中に越後者ありしが、高股によほどなる疵あとみえ候ゆえ、いかなることにか逃げ疵おいたると、おぼつかなくおもいて様子をたずねけるに、かの者申すよう、「生国または秋田、信濃などにも多く御座候、かまいたちと申すものにきられ候疵なり」と申す。あやしみ思いてくわしくたずねしに、「たとわば所の者、旅の者にかぎらず、遠近を経めぐりし折から、にわかにたかもも、こぶらなどに、かまもてきれるようにしたたかなる疵でき、口ひらけども血ながれず、そのままきえいり、臥しけるとき、そのことになれたる薬師を求めて薬つけぬれば、ほどなくいえはべる。命にささわりなし。それがしも新潟より高田へまいり候とき、このかまいたちにあい申したる疵にて候」

 その説明については、今日一般に唱うるところによれば、空気の変動によりて空気中に真空を生じ、もし人体の一部その場所に触るるときは、外部の気圧を失うより、人体内部の気の外部に逬発せんとして、わが皮肉を破裂せしむるものなりという。

 

第八九談 幻々居士の霊符 (『妖講』「宗教学部門」第四七節参看)

 東京府下に幻々居士と名づくる一奇人あり。業務の余暇、幻術を行うをもって楽しみとなす。余、かつてその寓居を訪う。居士曰く、「われ最初幻術に志せしは、世間多く神にいのりて病を治するものあれども、これ必ずしも神力に限るにあらず、人工をもって同一の効験を試みんと欲し、友人の胃病に悩めるものあれば、まずこれを招きて試験を行えり。その方法は、己の名刺を麗々しく白紙に包み、その表に霊符と書し、これを座敷の床の上に安置し、その前に香を薫じ、例の病者をしてこれに向かい、一心に合掌祈念せしむ。この方法によりて、ついにその病を治するを得たり。これより、人の精神を利用して幻術を施行するを得べしと考え、多年研究の結果、一種の幻術を発見せりという。居士の名刺、よく人の病を治するの力ありとは、あに不思議ならずや。これ、精神作用にあらずしてなんぞや。

 

第九〇談 武士、瓢箪をきる (『妖講』「宗教学部門」一五頁引用)

 『珍奇物語』に誤怪の一例を出だせり。その記事、左のごとし。

 ある臆病なる武士あり。夜中ものすごき道を帰りければ、傍らの籬の上より、首の長き、頭の巨なる妖怪、人に向かいて動揺する状なり。かの武士、大いにおどろき、ただちに長刀を引き抜き、躍りかかって切り付けたれば、巨頭は真っ二つにきれて地に落ちたり。ゆえに、はしりて家に帰り、大いに誇りていう、「今、われ某地において妖怪をきりしが、手に応えてたおれたり」と。翌日、朋友を伴いその地に至り見れば、瓢箪の二つにきれて地に落ち、半分はなお籬の上に掛かりいたり。これを見て、かの武士は大いにはじ、初めて妖怪にあらざることを知りたりと。これも、もし翌日ゆきて見ざれば、鬼となし怪となすこと疑いなし。

 世にこの種の妖怪ことに多きは、余が弁をまたず。

 

第九一談 呪術は今日の催眠術 (『妖講』「雑部門」第一九節参看)

 古来、魔法、呪術と名づくるものあり。人みな奇怪となせしが、今日これをみるに一種の催眠術なれば、あえて怪しむに足らず。『資治通鑑綱目』に、「貞観中、僧あり西域より来たる。呪術をよくして、よく人をしてたちどころに死せしむ。後にこれを呪して、また蘇せしむ。太宗、すなわち飛騎中の壮者を選んでこれを試むるに、みなその言のごとし。よってもって傅奕に問う。奕曰く、『これ邪術なり。臣聞く、邪は正をおかさず。請う、臣を呪せしめよ。必ず行うことあたわず』と。太宗、僧に命じて奕を呪せしむるに、さらに感ずるところなかりしこと」を記せり。すべて魔法にても幻術にても、自らその心に迎うることなくんば、感ぜざるものなり。今日の催眠術もまたしかり。これを要するに、古代の呪術は今日の催眠術なりと知るべし。

 

第九二談 人相術の批評 (『妖講』「純正哲学部門」二五五頁引用)

 世に人相術ありて、人の顔面手足を鑑定して、吉凶禍福を予知す。けだし、人の精神と肉体とは密接の関係あるをもって、人相によりてその人の性質を鑑定することは、決してでき難きことにあらざるべし。しかれども、今日の人相家が信ずるごとく、人相のいかんによりて、その人その家の運不運を予知するの理あるべからず。人の賢愚利鈍は人相によりて察知し得べく、したがってその人の功業の成敗は多少予想し得べきも、運不運は人力の関せざるところなれば、これを予知するは聖人といえども難しとするところなり、いわんや人相家においてをや。人相家は古来、生理学も解剖学も開けざりしときに定めたる規則により、ここにかかる斑点あるは剣難の相なり、あるいは火難、あるいは盗難の相なりとして判断するは、多少知識を有するものの信ぜざるところなり。すでに古代にありても、聖人、賢人と呼ばるる人は、かくのごとき判断の道理なきを知りて、これを排斥したり。けだし、人相の法はシナより伝来せるものなるが、その本国にありて、孔子のごとき大聖人は、「怪力乱神を語らず」といいてこれを遠ざけ、荀子のごとき賢人は、ことさらに「非相篇」〔『荀子』巻第三〕を著してこれを駁せり。その言に曰く、

 人の形状、顔色を相してその吉凶、妖祥を知る、世俗これを称す。いにしえの人はあることなきなり、学者いわざるなり。ゆえに、形を相するは心を論ずるにしかず、心を論ずるは術を選ぶにしかず。形は心に勝たず、心は術に勝たず、術正しければ心これにしたがう。形相悪ししといえども、心術よければ君子たるに害なし、形相よしといえども、心術悪しければ小人たるに害なし。

 長短、大小、善悪、形相は吉凶にあらざるなり。

 実に卓見というべし。余はわが国民に対して、シナ愚民の迷信を崇拝せずして、孔子、荀子のごとき聖賢の金言を遵守せられんことを望む。

 

第九三談 月の大小 (『妖講』「総論」二五一頁引用)

 人は目にて見たるものは確実なるように考うれども、目には変覚、幻覚、妄覚等ありて、実物を誤り認むることすくなからず。その最も分かりやすき例は、同じ日月を見ながら、昇るときは大きく見え、中するときは小さく見ゆ。また、月の大小は人々見るところ異なり、『筆のすさび』に「月を見る説」と題する一章あり。曰く、

 友人橋本吉兵衛、名は祥、来たり語る、「人の月見るに、人によりて大小あり。おのれは径二、三寸のまろき物を見しが、人によりて径六、七尺にも見ゆるあり。六寸ばかりに見ゆるは尋常の人の目なり、云云」

 他の物におけるも、これに準じて知るべし。

 

第九四談 精神作用の影響 (『妖講』「医学部門」第二四節参看)

 精神によりて病気を起こすことあり、また治することあり。世にその例はなはだ多し。その一例に、八幡太郎〔源〕義家「鳴弦」の故事あり。左に、『〔広益〕俗説弁』に記するところを転載すべし。

 俗説にいう、「寛治年中に堀川院御悩のとき、八幡太郎義家、勅をこうぶり、甲胄を着し弓矢をたずさえ、南庭に立ちはだかり、殿上をにらんで高声に、『清和帝に四代の孫、多田〔源〕満仲に三代の後胤、伊予守〔源〕頼義が嫡男、前陸奥守源義家、大内を守護し奉る。いかなる悪魔、鬼神なりともいかで望みをなすべき、速やかに退け』と名乗りかけて、弓の弦を三度ならしければ、殿上も階下も身の毛よだちて、御悩たちまちいえさせたまう」

 これ、精神によりて病気の癒えたる適例なり。

 

第九五談 夢は多く感覚より起こる (『妖講』「心理学部門」三五六頁引用)

 古代は夢をもって不思議の一種となせしも、今日は心理学の研究によりて、毫も不思議とするに足らざるを知るに至る。およそ夢の起こるに種々の原因あるうち、感覚より起こる例を挙ぐれば、一夕、余が傍らに熟眠せる友人の唇に一滴の水を点ぜしに、当人は一酔ののち眠りに就き、すこぶる酒渇を感じたるありさまにて、その点じたる水を喜びて口中にて味わいたるもののごとく見えたり。暫時にして目をさませしゆえ、「君は夢を見しやいなや」を問えり。当人答えて曰く、「夢にイタリアに遊び、暑気のはなはだしきを感じ、ブドウ酒一杯を傾け、実に甘露のごとき味を呈せり」と。また、和歌山県人久保某氏の書翰中に、余に報道して曰く、「一夕、夢中にて己の傍らにある者、棒をふりまわす。余、その棒の己が身体にあたらんことを恐れしに、やや久しくして、果たして己の頭にあたれり。よって驚きさむれば、たまたま己の傍らに臥したる者が手を伸ばして、誤りて己の頭に触れたるなり」と。その他、足を衾外にあらわして冷を感じたる場合には、氷上をわたるがごとき夢を結び、両脚を重ねて眠りしときには、高所を渡るがごとく夢み、その脚を落とすや、高所より飛降せるを覚ゆるの類、枚挙にいとまあらず。

 

第九六談 惑病同源論 (『妖講』「医学部門」第二四節参看)

 原坦山翁、かつて仏仙会を東京の寓所に設け、喋々、惑病同源論を唱えて曰く、「我人の煩悩と疾病とはその源同じきをもって、ひとたび煩悩を断滅したらば、再び百病にかかることなし。ゆえに、己坦山は四十年来一病空し」と。その後、東京にコレラ病の大いに流行するに会し、賢なるも愚なるも、俗物も上人も、続々その病の襲うところとなり、一時の勢いは仏仙会員を襲い、さらに進みて坦山翁自身をも襲わんとす。よって、ある人翁に、「コレラ病はいかん」と問いたれば、翁曰く、「惑病もとより同源なり。ただし、コレラ病はこの限りにあらず」と。

 

第九七談 仏教は吉日良辰を選ばず (『妖講』「純正哲学部門」三〇五頁引用)

 仏教中には往々、吉日良辰の選ぶに足らざることを説けり。今、その例を示さば、

 『涅槃経』にいわく、「如来法中、吉日良辰を選択することあるなし」と。

 『般舟経』にいわく、「優婆夷、この三昧を聞きて学ばんと欲すれば、自ら仏に帰命し、法に帰命し、比丘僧に帰命し、余道につかうるを得ず、天を拝するを得ず、鬼神をまつるを得ず、吉良日をみるを得ず」と。

 『大集経』に曰く、「正見を得ば、歳時日月、吉凶を選ばず」と。

 孔子は「怪力乱神を語らず」という。釈迦も孔子もその致一なり。

 

第九八談 卜筮は聖人の制作にあらず (『妖講』「純正哲学部門」一二八頁引用)

 古来の学者、多く卜筮を信ぜず。そのはなはだしきは、これを排して好事者の付会せるものとなす。近年、井上毅氏も排易者の一人にして、その「易論」に左のごとく論ぜり。

 卜筮は太古の俗なり、聖人の制作にあらず。邈古蒙昧神人分かたず、その民茫々失うことあるがごとし。やや才知あるもの、神異の説を創作して曰く、「人生吉凶の定まらざる、悔吝のひとしからざる、冥々のうち、これを主宰するものあり。至誠これを求むれば、もって前知すべし」と。卜筮のはじめとなす。好事者したがってその辞を修めて、これを聖人に託す。ここにおいてか、易の書あり。ゆえに、儒者の易あるは、なお仏の天堂地獄の説あるがごとく、上知の取るところにあらず。

 余も排筮者の一人なるが、諺に「あたるも八卦あたらぬも八卦」とは、よくその意を尽くすというべし。

 

第九九談 蒲生翁の妖怪 (『妖講』「雑部門」第一節参看)

 当世、老儒の聞こえある蒲生〔褧亭〕翁は、余に一文章を贈りて、妖怪のことを論ぜられたり。その妖怪は余が妖怪と別種類のものなれども、もし、これを妖怪に入るれば、偽怪の一種となるべし。ゆえに、ここにその全文を掲ぐ。

聞井上君円了、始学於浮屠氏、博学多識、有幕乎吾儒、建学館、育学生、好文章、君生平持論曰、世無妖怪、此孔子不語怪之意、志行皆已与吾儒符、如君所謂墨名而儒行者、余窃観乎今世極多妖怪、君偶未之察而已、請試挙其二三、今夫堂堂法官、而暮夜貪賄賂、一旦事露而已呻吟于獄中者、是不官中妖怪乎、端坐皋皮、口講聖経、而曲学阿世、以叨禄位、如安昌侯張禹者、是不儒中妖怪乎、衲衣念珠、口説慈悲、而欲火炎炎、紛争不已者、是不僧中妖怪乎、大車肥馬、巧言啽娿、咫尺于貴権門、而不顧乎貧賎病家、不知其職為仁術者、是不医中妖怪乎、方日清交兵之時、巨商奉命、輸軍食、多供薄酒敗肉不可食、以自利、恬然不慙者、是不商中妖怪乎、若夫藍面蓬髪映燐火、見其形貎于垂柳蕭疎之下者、則余亦未之見也、君曰無妖怪、豈此類之謂邪、余既嘉君之学於浮屠氏而終帰吾儒、迨其請学館雑誌題言書此以贈。

(聞くならく、井上君円了。はじめは浮屠氏を学び、博学多識、わが儒を慕うあり。学館〔哲学館〕を建て、学生を育て、文章を好む。君、生平の持論に曰く、「世に妖怪なし。これ、孔子怪を語らざるの意なり」と。志行みなすでにわが儒と符す。君のごときはいわゆる墨名にして儒行なる者なり。余、ひそかに今世をみるに、極めて妖怪多し。君、たまたまいまだこれを察せざるのみ。請う、試みにその二、三を挙げん。今それ堂々たる法官にして、暮夜賄賂をむさぼり、いったんこと露われて、獄中に呻吟する者、これ官中の妖怪にあらずや。端座皋皮、口には聖経を講じて、曲学阿世、もって禄位をむさぼる安昌侯、張禹のごとき者、これ儒中の妖怪にあらずや。衲衣念珠、口には慈悲を説きて、欲火炎々、紛争してやまざる者、これ僧中の妖怪にあらずや。大車肥馬、巧言啽娿、貴権門に咫尺し、貧賎病家を顧みず、その職の仁術たるを知らざる者、これ医中の妖怪にあらずや。日清交兵の時にあたりて、巨商命を奉じて軍食を輸すに、多く薄酒、敗肉の食うべからざるを供し、もって自ら利して、恬然として慙じざる者、これ商中の妖怪にあらずや。もしそれ、藍面にして蓬髪の燐火に映じ、その形貌を垂柳蕭疎の下に見わる者は、すなわち余もまたいまだこれを見ざるなり。君曰く、「妖怪なし」と。あにこの類の謂か。余すでに君の浮屠氏に学び、ついにわが儒に帰するを嘉し、その学館雑誌の題言を請めらるるにおよんで、これを書してもって贈る)

 もし、この種の妖怪をかぞえきたらば、人間社会ことごとく妖怪となるべし。

 

第一〇〇談 天地万有悉皆妖怪 (『妖講』「総論」第一一九節参看)

 蒲生翁は、人間社会ことごとく妖怪なりとなす。余は、ひとり人間社会のみならず、天地万物ことごとく妖怪なりとなす。これ、人の容易に首肯せざるところなれば、余はおもしろき一話を挙げてこれをたとえん。

 ある富める人あり。その里に貧しき人ありて、往々富を得べき道を問う。富人告げて曰く、「われ、よく盗をなして富めり。およそわがなすところ、物をぬすみ、取りてわが有とせずということなし。これによって、家巨万をかさねたり」と。貧人喜びて家にかえり、みだりに人家の垣をこえ、室をうがちて財宝を奪いとる。その家、この人をとらえて官に送る。すなわち、貧人を放逐して家財を没取せらる。貧人、さきに富人のわれを欺きたるを恨みて、ゆきてかたる。富人のいう、「ああ汝、盗の術を知らず、罪にあう、うべなり。それ、天には時あり、地には利あり。われ、天の時と地の利を盗んで、五穀を生じ、桑麻を植えてその利を得たり。水にしては魚鼈を盗み、山にしては禽獣をぬすみて、この生を利す。それ、五穀、魚鼈、禽獣は天地の有なり。われ、これを盗みて罪なし。金銀珠玉は人の宝とする物なり。汝、これをぬすみて科を得たり」と。貧人、茫然としてかえる。道にして龐眉の丈人にあいてこのことを語る。丈人のいう、「およそ人のなすところ、いずれが盗にあらざるや。汝が一身もまた盗めり、天地陰陽の和を盗みて形となす、五常百行の理をそなえて性となす。なんぞ天地の有を盗むときは罪なしといわんや。暖かに衣、飽くまで食い、孝弟仁義の道を行わざるときは、天道たちまちその身に禍をくだして、その責を免るることなし。なんぞ、人の宝をむさぼるをのみ盗といわん」と。貧人、怳然として自失す。

 これ、人みな盗なりとの説なり。その説、決して一理なきにあらず。一方よりこれを見れば盗と非盗との別あり、他方よりみれば悉皆これ盗なるがごとく、天地万有も一方より見れば妖怪と非妖怪との別あり、他方よりみれば一切みな妖怪なり。しかして一切みな妖怪の説は、余は「真怪百談」に入りて証明せんと欲す。

 

結  言

 『妖怪百談』、ここに終わりを告ぐ。しかるに、なおいまだ偽怪の種類を尽くすに至らず。他日、『妖怪学講義』中より、さらに偽怪の残類を拾集して『続妖怪百談』を編成し、しかしてのち真怪に及ばんとす。余がかつて『妖怪学講義』中に集めたる妖怪の種類は四百余種ありて、その各種に偽怪の加わるあれば、偽怪四百談を重ぬるにあらざれば、その種類を尽くすべからず。しかるにその中には、おもしろきもあり、おもしろからざるもあり、益あるもあり、益なきもあれば、なるべくおもしろくしてしかも益あるものを選び、さらに『妖怪百談』続編を纂輯して、世人の批評を請わんとす。読者、これを了せよ。

 

『妖怪百談』 評語

加 藤 弘 之  

 カント曰く、「吾人は、自ら奇怪をつくりて自らこれに驚く」と。井上博士が偽怪と称するもの、すなわちこれなり。吾人、奇怪に真偽の二種あるを知らず。ゆえに、真怪に驚かずしてかえって偽怪に驚く、あに愚ならずや。井上博士これを慨嘆し、真怪の実に驚くべくして、偽怪のあえて驚くに足らざるゆえんを説き、もって吾人の迷信を掃除せんと欲す。これ、『偽怪百談』の著なかるべからざるゆえんなり。その、吾人知識の開発を裨益する、決して浅きにあらざるを信ず。

 

内 藤 耻 叟  

 わが国、妖怪の説あるや古し。そのもと、『古事記』『日本書紀』に始まれり。これ、実にそのことあるにはあらず、ただこれを伝うる者の昏昧なるによりて起これり。それ、高天原の天上にある、夜見国の地底にある、その他百般の怪事、みな古人敬上の念厚きより、この巨多の妄談をなすものにして、一として、妄想、冥信のいたすところにあらざるはなし。しかるに、史をつくる者、これを弁析することを知らず、またしたがって、これを神異にす。姦にあらざるは、あるいは愚なるなり。なお、かの邪教の一神を妄想し出だしきたりて、人を誣惑するに異ならず。古今東西、なんぞその妖怪談の人に入ることの深きや。果たして、もってこれを解くべからざるか。曰く、しからず。いやしくも人をして、その耳目の見聞するところを信じて、その耳目の及ばざるところは、ことごとくこれ天地の間になきものとするときは、世、決して妖怪の談あることなし。

これ、実は天地の間、もと絶えて怪事なきをもってなり。ただ、その見聞の及ばざるところ、特に怪事ありとす。これ、その怪の千生百出して、際涯なきゆえんなり。それ、わが国はもと怪事なし。天御中主神以降、天神地祇、みなこれ上におわすの人なり。ゆえにカミという。ただその人の功徳あり、神聖なるがゆえに、わが民これを崇敬してやまず、ついにこれを誣いるに、神怪奇幻をもってするに至るのみ。もとより、かの儒者のいわゆる昊天上帝、仏者のいわゆる如来菩薩の類、烏有者と同じからず。しかるに、今世の学者、また惑って古史を信じ、わが祖宗を汚辱して、かの神仏に同じとす。これ、その妖怪談の大いに起こるゆえんなり。

 わが畏友井上君、頃者『偽怪百談』の著あり、世に妖怪なきの理を弁ず。鑿々として依拠あり、明白精密、議論もっとも確実なりとす。余、深くその弁説の最も世人に益あるを信ず。すなわち数言を陳じて、もってその巻後に付くという。

 

依 田 百 川  

奇怪妖妄之談無世不有焉。而不独田夫野老蒙昧之人信之。雖博学宏聞之士。時或遭事物之変。愕然謂。吾親見之。斥為怪誕非也。遂筆之書。著之論。以伝後世。其惑人也深矣。不知其事物之変者。非理化作用。認幻影於外。則精神昏迷。現想像於内耳。非実有其事物也。井上円了先生。博聞強識。広通内外之書。嘗好研究物怪変異数年。謂世信妖怪為有之。皆非也。因著偽怪百談。拠実直書。縷分糸析。瞭如指掌。其言鑿鑿有証。非如宋儒説空理縦弁駁也。余嘗読韓文公原鬼。窃疑高明俊偉如公猶且信鬼。何也。蓋風気未開。人懼禍福。妖怪之談易入其耳。是賢哲之所以信鬼也。使公読此書必憬然而悟惜夫。余性迂僻吉凶禍福妖怪之説。尽斥為妄誕。一日見洋人所演催眠術頗疑之。挙以問君。君為詳説其術。蓋其人精神昏迷。現想像於内者也。乃知妖怪之果不可信矣。及読此書。益悟其然。乃題一言。警世妄信妖怪者。

(奇怪妖妄の談、世にあらざるなし。ひとり田夫、野老、蒙昧の人のみこれを信ずるにあらず。博学宏聞の士といえども、ときに事物の変に遭うあり。愕然としていう、「われ親しくこれを見たり。斥けて怪誕となすは非なり」と。ついにこれを書に筆し、これを論に著し、もって後世に伝う。その人を惑わすや深し。その事物の変を知らざる者、理にあらず化して用と作し、幻影を外に認む。すなわち精神昏迷し、想像を内に現ずるのみ。実にその事物あるにあらざるなり。井上円了先生、博聞強識、広く内外の書に通じ、かつて好んで物怪変異を研究すること数年なり。いえらく、「世の妖怪を信じてこれありとなすは、みな非なり」と。よりて『偽怪百談』を著し、実によりて直書す。縷分糸析、瞭として掌を指すがごとし。その言、鑿々として証あり。宋儒の空理を説き、弁駁をほしいままにするがごときにあらざるなり。余、かつて韓文公〔韓愈〕の『原鬼』を読む。ひそかに高明俊偉の公のごときも、なおかつ鬼を信ずるかと疑う。

なんぞや。けだし、風気未開にして、人は禍福を懼れ、妖怪の談はその耳に入りやすし。これ賢哲の鬼を信ずるゆえんなり。公をしてこの書を読ましめば、必ず憬然として悟らん、惜しいかな。余の性、吉凶、禍福、妖怪の説に迂僻にして、ことごとく斥けて妄誕となす。一日、洋人が演ずるところの催眠術を見て、すこぶるこれを疑う。挙げてもって君に問えば、君はためにその術を詳説す。けだし、その人の精神昏迷し、想像を内に現ずる者なり。すなわち、妖怪の果たして、信ずべからざるを知る。この書を読むに及んで、ますますそのしかるを悟る。すなわち一言を題して、世の妄りに妖怪を信ずる者を警しむ)

 

関 根 正 直  

 妖怪変化の物語をかき集めしもの、和漢その類に乏しからず。しかれども、一つもその妄を弁じたるはなく、かえって蛇に足を添え、いよいよ狐の疑いを結ばしむるくさわい〔種〕とぞなりにし。これら多くは仏家、道家のわざなるこそうたてけれ。さすが儒家といわるる人の、怪しきを語らざるはさることながら、進みてその妄を断じ妖を破らんとせしはまれなるに、井上博士の懇ろなる志をもって、年ごろ、人の惑いをとき、世のわざわいを除かんとつとめらるる功徳のほど、あに浅からめや。

 またおもうに、近古経学にくわしき儒者の修身斉家の旨を和解し、仮名文にかきあらわして人をさとししが多かりき。その書は一見卑俗なるがごとくなれど、世を益せしこというべくもあらず。しかるに、その後の儒者たち、もっぱら文辞の雕琢にふけるあり、経義に異説を立つるもあり、あるいは折衷といい考証と唱え、学はすなわち高尚に進みためれど、まま新奇に誇り博覧を衒う風となりて、ついに昔日の通俗的教訓書はあとをたつに至りにき。井上博士がこの著は、かの教訓書の類には異なれども、事を凡近にとりてひろく衆人を教化する趣、またやや似たるところあり。なまじいに幽玄の道、高妙の理を説きて意気雲表に昇らんよりは、卑近の言によりて、あまねく人知を開かんとせらるるこそ、世に益あるわざなりけれ、と感じ思いけるままをかき添えたるは、

関 根 正 直  

 

『妖怪百談』 付録

鬼 門 論

 大政一新以来ここに三十年、その間、社会百般の事物みなその面目を改め、これを昔日の日本に比するに、ほとんど別世界の観を呈し、その勢い東洋の上に雄飛するのみならず、泰西二、三の諸国を凌駕せんと欲す。その進歩の速やかなること驚くべし。しかりしこうして、ひとり依然として旧色を存し、なお徳川末路の積弊をとどめ、さらに改新の緒に就かざるものは宗教界の実情なり。換言すれば、宗教の腐敗と国民の迷信なり。この二者、その面目を一変するにあらずんば、いずくんぞ世界に対して自ら文明国と誇称するを得んや。これ、余がつねにわが国明治の大業、一半すでに成りて、一半いまだ成らず、第一の維新すでにきたりて、第二の維新いまだきたらずと唱うるゆえんなり。その今日の文明は、諺にいわゆる「頭隠して尻隠さざる」がごとき観なきあたわず。今や条約改正も大半その局を結び、内地雑居もようやくその期に迫らんとするに当たり、宗教の腐敗かくのごとく、国民の迷信かのごときにおいては、いずくんぞよく外人の帰化を迎えんや。これ、国家の一大汚辱にあらずしてなんぞや。人あり、余に語りて曰く、「宗教の雪隠と迷信の下水と、この二者の大掃除をなすにあらずんば、到底、内地雑居の新年を迎うることあたわず」と。宗教をもって一家の雪隠に比するはやや酷に過ぐるがごときも、その内部の醜態、今日のごとくはなはだしきにおいては、雪隠の不潔と同日に論ぜらるるも、けだしこれに答うる辞なかるべし。

余は不幸にして明治の維新に後れて長じ、その際、一事の国家に尽くすことなかりしは、今日に至るもなお遺憾とするところなり。しかるに、幸いにして宗教の革新にさきだちて出でて、大業の前半すでに成りて、後半いまだ成らざるときに会したるは、自らその革新の一部分に加わり、いささか微力を国家のためにいたさんと欲す。これ、余が積年の素志にして、数年前より多少心思をそのことに注ぎ、他日時機の熟するを待ちてひろく社会に訴え、ともに力をあわせ、よく維新の後半を大成し、もって内地雑居の暁を迎うる目的なりしが、その時節、今すでに到来せるを覚ゆ。ここにおいて、愚考の一端を開陳して、識者の高評を仰がんと欲す。

 そもそも、余がいわゆる宗教の革新とは、宗教道徳上の腐敗と国民信仰上の迷妄を一新するをいう。昨今、宗教腐敗の一条はようやく社会の問題となり、革新の声四方に起こり、まさに一大変動を見んとする勢いなり。しかしてその問題は、真宗大谷派二、三の改革論者より起こりしも、その影響するところ決して一宗一派にとどまらず、これよりようやく他宗他派に及ぼし、ついに日本宗教全体の一大革新を見るに至るべきは、識者をまたずして知るべし。これ、機運のしからしむるところなりというも、その実、人知進歩の結果にあらざるはなし。ゆえにその革新は、社会のため国家のため、賀すべく祝すべき一大快事なり。いやしくも社会の改良、道徳の拡張に志ある者は、あにこれを歓迎せざるを得んや。それ、宗教は勧善懲悪の道にして、宗教家は道徳の標準、模範なり。今日の宗教家中、果たして国民道徳の模範となり得べきもの幾人かある。けだし、晨星を数うるよりなお寥々たるを覚ゆ。飲酒、喫煙のごときはあえてとがむるに及ばず、蓄妻、噉肉もなおゆるすべし。尋常一般の俗人すら、なお恥じてなさざる醜行を犯せるものいくたあるを知らず。しかるに、世間これを見て怪しまざるはなんぞや。従来、因襲の久しき不道徳とは僧侶の代名詞のごとくに考え、彼は僧侶なれば、かくのごとき不道徳の行為あるは当然なりとみなすによる。

しかれども、国民一般の識見進みたる暁には、決してこれを黙々に看過する理なし。なんとなれば、僧侶の不品行と国民の知識とはあたかも反比例をなし、決して並進両立すべからざるものなればなり。ゆえに、宗教革新の起こるは勢いの免るべからざるところにして、その一日も早くきたるは、国民知識の進歩を徴するものなり。今や全国の新聞に雑誌に、大谷派の改革を促してやまざるは、国民すでに宗教革新の急要を感じ、かつ仏教諸宗中、積弊腐敗の最もはなはだしきは大谷派本山なるを知り、その改革をもって日本宗教革新の第一着手と信ずるによる。輿論すでにかくのごとく大勢すでに定まる、一宗一派の改革なんの難きかこれあらん。さらに進みて各宗各派の革新を実行し、他日、内地雑居の暁には、宗教室内に一点の塵影を見ざるに至らしめんこと、これ余輩の熱望するところなり。

 宗教の腐敗の一新せざるべからざるは、天下みなこれを知る。ひとり国民の迷信を一掃せざるべからざるは、輿論のいまだ認めざるところなり。ゆえに余は、これよりもっぱら迷信を論ぜん。広く社会の状態を観察するに、あるいは日の吉凶を卜し、あるいは身の禍福を占い、人相、家相、方位、鬼門、五行、干支、九星、淘宮、墨色、夢判じ等、種々の迷信に属する諸術、近来ようやく流行し、これを明治の初年に比するに、今日は大いにその勢力を加えたるを覚ゆ。これ、実に怪しまざるを得ざる一大現象、いな一大幻象なり。無知不学の愚民にして、かくのごとき迷信を守るはなおゆるすべし、堂々たる貴顕紳士にして社会の上流に位するもの、なおこの迷信に安んずるは解すべからざる一大怪事なり。上流者ひとたびこれを信ずれば、下流の者争ってこれを信ずるは自然の勢いなり。上下みなこの迷信の五里霧中に彷徨す、いずくんぞこれを文明国の民と称するを得んや。知識の程度、なおかくのごとし、いずくんぞよく内地雑居を迎えんや。ゆえに、この迷信を一掃するは、実に内地雑居の準備にして、維新の鴻業を大成するゆえんなり。余、積年ここに意あり。さきに『妖怪学講義』を編述してその理由を詳説細論せるも、その書二千五百頁余の大部なれば、これを通読するものはなはだ少なし。ゆえに、ここにその一端を開陳して、迷信の果たして迷信たるやいなやを略示せんと欲す。

 今まず迷信の利害を一言せんに、民間多数のものは時日、方位、人相、家相等の吉凶を迷信するをもって、結婚、祝賀、旅行、転居、造作等に大いなる妨害をなす。例えば、病人ありて医師を聘するも、まずこれを方位家に問うてその可否を決し、すでに聘したる医師の診察を受けながら、方位の不吉なるを聞くときは、たちまちこれを廃して他の医師を聘す。児童を学校に送るにも、まずその方位をただし、自ら官署に奉職するにも、まずその方位を卜す。あるいはひとたび迎えたる妻と相離れ、ひとたび建てたる家をたちまち毀つがごとき例は、ほとんど枚挙にいとまあらず。今より社会ようやく多事、外人とともに活劇を演ずるに当たり、かくのごとき迷信をもって、いずくんぞ競争場裏に勝ちを制することを得んや。その利害の影響するところ、決して少々にあらず。ゆえに、迷信は社会の進歩上、一大障害物たること明らかなり。これを除き去るにあらずんば、国家将来の隆盛は到底望むべからざるなり。

 それ、迷信の種類はなはだ多し。余が『妖怪学講義』中に掲ぐるもの、およそ四百余種の多きに及べり。ゆえに、いちいちその種類を挙示すべからず。ただ、ここに鬼門の一論を掲げてこれを説破し、その他は『妖怪学講義』に譲る。これをここに鬼門退治という。まず鬼門の由来を考うるに、シナの俗説より起こりたること明らかなり。これを古書中にたずねたるに、『神異経』中に鬼門のことあり、また『黄帝宅経』の中に鬼門のことあり、また『海外経』にも鬼門の説あり。今、『海外経』によるに、「東海の中に山あり、その名を度索という。その上に大いなる桃樹ありて、蟠屈すること三千里なり。その東北に門あり、これを鬼門と名づく。万鬼の集まる所なり。天帝、神人をしてこれを守らしむ」とあり。これ、シナ古代の神話あるいは俗間の妄説にほかならず。しかれども、その説相伝えて日本に入り、上下一般にその方位を忌み、かつ恐るることとなり、その方に向かって移転しあるいは家作することをいとい、なかんずく便所、塵塚の類をその方に置くことを固く禁ずるに至れり。古来伝うるところによるに、比叡山は皇城の鬼門にあたるをもって、ここに精舎を建てて鬼門の防ぎとなし、東都も上野に寛永寺を置きて鬼門の固めとなせりという。

あるいは、シナにては日本を指して鬼門関と称し、日本にては奥州白河関を指して鬼門関と称すという。しかりしこうして、かくのごとき風習の起因につきて種々の説明あり。陰陽家の説くところによれば、この方角は陰悪の気の集まる所なれば、極めて凶方なりという。また一説に、北方は万物極まりてまた生ずる方なれば、天地の苦しむ方角なるゆえ、これを避くるという。あるいは古来鬼門を忌み嫌うは、日の出ずる方なるゆえ、これを尊びて避くるなりという。あるいは日本古代の風として、みだりに家造りするときは山林を荒すゆえに、方角を忌みて伐木せざらしめたるなりという。

 以上の諸説は一つも信ずるに足らず。これ、シナ古代の『神異経』あるいは『黄帝宅経』に出ずる神話にもとづき、迷信、妄想のこれを助くるありて次第に伝播して、民間一般の風習を成すに至れるなり。約言すれば、古代の神話と愚民の迷信と相合して、この風習を成すに至れるなり。

 これより、鬼門の迷信を退治せんには、まず、その説の信ずるに足らざるゆえんを弁明すべし。

 第一に、鬼門の起源はシナ古代の神話に過ぎず。しかして、その神話たるや、毫も信ずべき道理あるを見ず。『海外経』の「東海中に山あり」とはいずれの山をいうか。「山上の桃樹はいたって大にして三千里にまたがる」とあれども、だれかこれを信ずるものあらんや。「その東北に門ありて万鬼ここに集まる」というも、その妄誕なること言をまたず。あたかも桃太郎の鬼退治の昔話と同一般なり。いかなる鬼門迷信家といえども、必ずこの妄誕を信ずることあたわざるべし。かつ、その説たるや、東海の一孤島のことのみ。なんぞこれを、わが日本において談ずる理あらんや。

 第二に、その説はシナ愚民の信ずるところにして、迷信、妄想によりて発達せるものなれば、わが国民にしてこれを奉信するがごときは、シナの愚民を崇拝するものと評して可なり。孔子のごとき孟子のごときはシナ古代の人物なるも、今日にありては実に世界の聖賢にして、万国みなこれを尊崇す。ゆえに、わが国においてその教えを奉信するも、決してシナ崇拝というべからず。今、鬼門の妄説のごときは、もとより孔孟聖賢の書中に見ざるところにして、かえってシナの聖賢の排斥せるところなり。しかるにわが国民にして、聖賢の排斥して愚民の奉信するところの妄説を固守するにおいては、これを愚の極みといわずしてなんぞや。ことに一昨年以来、わが上下こぞってシナ人を敵視し、かつこれを軽賎せるにもかかわらず、その愚民の迷信を神仏の啓示のごとく崇拝するは、余輩その意を解することあたわず。これ、あに国民の一大恥辱にあらずや。

 鬼門の妄説は、その根源すでにかくのごとし。ゆえに、わが国にありても、古来、学者、知者をもって目せらるるものは、決してこれを信ぜざるのみならず、いたく排斥せり。ただ、愚民の間にこれを信ずるものありて今日に存するのみ。しかるに今日にありては、わが国は自ら称して文明国といい、自ら誇りて文明の民という。しかして、なお古代の愚民と同じく鬼門の妄説を信ずるにおいては、文明の実いずれのところにあるかを怪しまざるを得ず。けだし、有名無実の文明なるか、虚名詐称の文明なるか、余輩の大いに惑うところなり。しかれども、文明なにほど進むも、世に愚民の跡を絶つことあたわざれば、今日、下流の人民にして鬼門を信ずるはなおゆるすべしといえども、中等以上の公民あるいは上流の紳士貴人にして、往々これを信ずるものありという。これ、余輩の大いにその非を鳴らさんと欲するところなり。およそ貴人紳士とは、錦衣玉食するもののみをいうにあらず、その識見よく世の迷信を破り、その言行よく人の模範となるものならざるべからず。しかるに、なお鬼門を信ずるにおいては、愚民となんぞ選ばん。貴人紳士の実、いずれによりて存するや。古代、人知のいまだ開けざりしときにありては、あえて責むるに及ばざれども、文明のすでに進みたる今日にありて、上流社会なおこの迷信の霧中に彷徨するは、これまた国家の体面を汚すものといわざるを得ず。

 さらにこれを近代の学説に考うるに、東北隅の方位の不吉なる理、決してあるべからず。地球上には東西南北の別あるも、これもとより仮定のみ。もし出でて地球外に立たば、いずれが東西にして、いずれが南北なるや。もしまた地球上に住するも、その位置の異なるに従い、方位もまた異なり、赤道直下にあるときと、北極付近にあるときと、南極付近にあるときとは、もとより鬼門そのものの方位、大いに異ならざるを得ず。もし、まさしく北極あるいは南極の中点に立つときは、いずれを指して東北隅と定むるを得るや。果たしてしからば、東西南北の方位は仮定のものたること明らかなり。しかるに、仮定の方位に対して吉凶を論ずるがごときは、迷信のはなはだしきものといわざるべからず。ことに地球は昼夜回転してとどまらざるものなれば、東西南北の方位も、これとともに時々刻々その方向を転ぜざるべからず。前刻の東北隅と後刻の東北隅とは、その指すところ全く異なるべき理なり。しかるに、いわんやこれに対して方位の吉凶を論ずるをや。これを迷信といわずしてなんぞや。畢竟するに、かくのごとき妄説は古代の地平説にもとづき、本来方位の確定せるものと信ずるより起これり。ゆえに、その説は今日、地球説を信ずるもののもとより取らざるところなり。

 もし仮に一歩を譲り、方位は一定して動かざるものとし、東北隅はいずれの位置にありても変ぜざるものと許すも、東北隅の方位に限りて不吉なるの理あるべからず。もし、東北隅にして凶方ならば、西北隅もまた凶方なるべし。また、その凶方をおかせば必ず災害ありとする説に至りては、一層信じ難し。その方位に鬼神もしくは悪魔の住することを信ずるよりほかに、その理を解する道なし。これをわが国の上に考うるに、その東北隅は北海道にして、北海道の東北隅は千島なり。千島の東北隅はベーリング海峡を経てついに北極に達すべし。北海道にも千島にも千島以外にも、別に鬼神、悪魔の住する所あるを見ず。なんぞこれを恐るるの理あらんや。鬼門説の迷信なること、いよいよ明らかなり。

 鬼門の吉凶は、シナ、日本のみに限るの理なし。東洋にありて東北隅凶方ならば、西洋にありても東北隅は凶方ならざるべからず。しかるに、西洋にはその伝説なきのみならず、古来その方位をおかして災害を招きたる実例あるを聞かず。もし、西洋にはその害なくして、ひとりシナ、日本にその害ありとするときは、鬼門の人に災禍を下すこと、実に偏頗なりといわざるべからず、かつ、そのしかるゆえんの道理ありて存せざるべからず。鬼門家は、よくこれを説明し得るやいかん。余、察するに、鬼門家は必ずこれに答えていわん、「西洋にも東洋にも同じく鬼門の凶方あれども、西洋人はその凶方たるを知らざるをもって、実際これをおかして禍災のその身に及ぶことありながら、自ら知らざるなり」と。果たしてしからば、余はこれに一言をたださんと欲す。西洋人は鬼門の凶方たるを知らざるをもって、これを避くることをなさず、わが国人はその凶方たるを知るをもって、これを避くる法を講ず。しかしてその結果は、統計上西洋人に禍害多くして日本人に少なきかいかん。余、いまだ比較上西洋人に禍害の多きを見ず。

しかるに、西洋は一般に家も富み国も隆んなること、わが国の比にあらざる以上は、鬼門方位を恐るる国民は貧弱にして、これを恐れざる国民は富強なりと論定して可なり。もしまた、これをわが国民の間に考うるに、鬼門方位を恐るるものと恐れざるものとの別あるも、余いまだ、これを恐るる家に禍害のきたること少なく、恐れざる家に禍害の起こること多き事実あるを見ず。実際上、かえってこれを恐るる家に禍害のきたること多きがごとし。古来、一代にしてよく家を興し富をいたせるものは、大抵みなかくのごとき迷信に心を傾けざるものにして、家をほろぼし産をやぶり、もしくは貧困に苦しむものは、多くこの迷信を有するものなり。これによりてこれをみるに、わが国民もし泰西諸邦と富強を争わんと欲せば、まずこの迷信を去らざるべからず。しからずんば、到底貧弱の国たるを免れざるべし。

 余おもえらく、わが国人にして鬼門説を信ぜんか。これすなわち、己が国をもって大凶国と信ずるとなんぞ異ならん。なんとなれば、鬼門に向かい突出する国は、日本よりはなはだしきはなければなり。しかして、鬼門に突出したる家に凶害多しとすれば、鬼門に突出したる国もまた凶害多しと想定してしかるべし。しかるに、わが国は建国以来一統連綿として、天長地久一種無類のめでたき神国にあらずや。この一例によりても、鬼門説の妄なるを証するに余りありというべし。余は年来、鬼門方位の妄説なるゆえんを己の身に試みんと欲し、ことさらに悪方凶位を選びてこれを移転し、あるいは家作するも、いまだなんらの凶変の己の身に起こりたるを覚えず。今、その一例を挙ぐるに、余が住家は八年前に新築せしところなるが、ことさらに鬼門の方位に向かって作れり。ゆえに、自らこれを称して鬼門破りの家という。その後、さらに鬼門に向かって書斎を増築して自らこれにおり、その後また、さらに鬼門に向かって土蔵を増築して書類をここにおさむ。よって前後三回鬼門を破れり。よろしくこれを鬼門三度破りの家と名づくべし。爾来、すでに三年以上経過せるも、いまだなんらの凶災の己の身上に下るを見ず。鬼門、もし果たして人に禍害を与うる力あるならば、余のごときは、五、六年前に早く冥土の客とならざるべからず。しかるに今なお依然たるは、鬼門説の信ずるに足らざる明証なり。ひとり家作のみならず、余は旅行、転居等、今日までことさらに凶日凶方を選びてこれに就きしも、いまだなんらの凶害の一身上に及びしを検せず。これみな、鬼門方位説の迷信たるゆえんを証するに足る。

 鬼門説の迷信たることすでに明らかなり。迷信は文明の敵なり。文明進めば迷信退かざるを得ず、迷信増長すれば文明減縮せざるべからず。これによりてこれをみるに、わが国に鬼門方位説の今日なお行わるるは、その野蛮なるを示すものにして、日本男児の深く恥じざるを得ざるところなり。ゆえに、この迷信を退治するはすなわち国家文明の経営にして、内地雑居の準備なり。これ、あたかも新年を迎うるに、座敷はもちろん、雪隠、下水の掃除までを要するがごとし。しかして、迷信の起こるゆえんと、これを退治する方法とにつきて、さらに一言を費やすべし。

 およそ人の迷信を起こすは、知識の明らかならざると思想の定まらざるとにより、これに加うるに利己心の強きによらざるはなし。知識明らかならざれば、吉凶禍福の起こる理を弁ずるあたわず、思想定まらざれば、吉凶禍福のためにその心をうごかさるるを免れず。しかして、利己心のこれに加わるありて、凶を避け福を得んとする欲情禁ずるあたわず。

 かくして、ひとたび迷いふたたび迷い、再三再四ついに迷海中に沈溺して、これを脱するゆえんを知らざるに至る。もし、これを療せんと欲せば、一には、百科の学術によりて知識を進め、二には、真正の宗教によりて信仰を高め、三には、高等の道徳によりて利己心を制するを要するなり。しかれども、これすこぶる難事にして、一朝一夕のなし得るところにあらず。ここにおいて、余は直接に迷信を医する方法を考出せり。すなわち、世人の最も多く迷うところの事柄につきて、いちいちその理由を説明解釈し、これを一読するものをして再び迷わざらしめんと欲し、先年来『妖怪学講義』を編述せるに至れり。かつ余は、己の田に水を引くようなれども、普通教育上に妖怪学の一科を設けて、これを小学教育に応用するにしかずと考うるなり。すでに老い去りたるものは、積年の間、迷いに迷いを重ねたるものなれば、到底一朝一夕にその迷信をいやし難しといえども、もし小学児童に妖怪学の一端を授け、さらに中学においてその全科を授くるに至らば、国民の迷信を払い去りて、文明の民たるに恥じざる人物をつくることを得べし。余が『妖怪学講義』の本意もまた、その準備の便を与うるにほかならざるなり。