2. 仏教活論本論  第二編 顕正活論

P187

  仏教活論本論 第二編 顕正活論 

 

 

1. 冊数

   1冊

2. サイズ(タテ×ヨコ)

   185×124mm

3. ページ

   総数:368

   序言: 4

   資料: 10〔諸宗略表他〕

   目録: 11

   本文:343

(巻頭)

4. 刊行年月日

   初版    明治23年9月29日

   底本:3版 明治30年6月25日

5. 句読点

   なし

6. その他

  (1) 段や節の見出し中のカッコについては,目次も含めてすべて省略した。

      序  言

一、余『破邪活論』を編述して以来ここにすでに三年に満たんとす。しかしていまだ『顕正活論』を発刊せざりしは左の事情による。余、哲学館を設立して以来、館用多端にして編述に従事するいとまを得ざりし、その一由なり、一昨年六月、欧米漫遊の途に上り久しく海外にありし、その二由なり、最初定めたる本編の序次を変更し段節を増補するに至りたる、その三由なり。しかるに今ここに夏期休暇の際、暑を山中に避け数週の間を得、その緒論ならびに総論の稿を脱したれば、速やかに印刷に付して世のもとめに応ずるに至れり。読者請う、これを了せよ。

一、余が仏教の研究は師についてその伝を得たるにあらず、宗門に入りてその流れを汲みたるにあらず。独学独修せるものなれば、その論述するところおのずから世間相伝の流義および説明と異なるところあるべし。かつ余は本編中に述ぶるがごとく、仏教の全理を組織して一科の学となすものなれば、世間注釈的学風を追うものとその見解を異にするは必然なり。しかるに余が目的とするところは、仏教を知るものに仏教を知らしめんとするにあらず、仏教を知らざるものに知らしめんとするにあれば、余は従来の注釈的学風にては到底この目的を達し難きを知り、自ら進みて学理的に研究する針路を開くに至れり。しかして本編のごときは殊更に哲学上仏教を論評せるものなれば、ひとり仏教外の人、この書によりて仏理を知るの益を得るのみならず、仏教内の人もこの書によりて哲学を知るの便を得べしと信ず。

一、本編の脱稿はわずかに数週間に成りたるものなれば、論理の精密を欠き考証の疎漏を免れ難きも、他日再校の節、更に修正するところあるべし。

一、余かつて『序論』の緒言に曰く、人のために序を作らず、人に乞うて序を作らしめず、人のために文を飾らず、人に乞うて文を飾らしめずと。本書もまたしかり、ただに文飾序評を人に乞わざるのみならず、他人に乞うて校閲訂正せしめず、独知独了のまま、これを編述しこれを発刊するに至れり。

一、余は真宗の家に生まるるをもって、他宗の者はこの書を評して、真宗に僻する論なりというべく、真宗の人はこれを評して、かえって真宗を貶せりとなすべし。しかれども余がこの著のごときは哲学上仏教を論評せるものなれば、真宗の眼光をもって仏教を観見したるものにあらざること言を待たず。かつ余は諸宗を合同して一体となりたるものをもって完全の仏教とし、各宗各派はみなその一片一部分に過ぎずとなすものなれば、余は各宗の間に優劣を判ぜずといえども、おのおのその長所と短所あることを論ずるものなり。故に他宗の人の余が論を読みて真宗に偏せりとなすは、余が真宗の家に生まれたる縁故と、余が真宗の長所を挙げたる点とを見ていうならん。また真宗の人の余が論を評して真宗を貶せりとなすは、余が真宗の家に生まれながら真宗の短所を挙ぐるを見ていうならん。故にもしその貶せりとなす論と僻せりとなす評とを合してこれを考うるときは、余が論の公平無私なるを知るべし。

一、先般『破邪活論』は四号文字にて印刷したれども、その携帯の不便なるをもって、これを五号文字に縮刷して有志に配布することとなせり。しかるに本書のごときは一層字数増加せるをもって、初めより読者の便を図り、五号文字にて印刷することに定めり。読者幸に、前編とその体裁の異なるを怪しむなかれ。

    明治二三年九月一五日                著 者 誌  


   日本諸宗略表

       現今の一二宗(寺院、住職の数は明治二〇年度の調査による)

一 天台宗 桓武帝延暦二三年、伝教〔最澄〕入唐伝来

    宗派  三派  一、単称 天台宗(山門) 二、寺門派 三、真盛派

    寺院  四、七三〇寺   住職 三、〇六〇人

一 真言宗 桓武帝延暦二三年、弘法〔空海〕入唐伝来

    宗派  二派  一、古義派 二、新義派

    寺院  一二、九四三寺   住職 七、七六九人

一 浄土宗 高倉帝承安四年、源空〔法然〕立宗

    宗派  二派  一、鎮西派(単称 浄土宗) 二、西山派

    寺院  八、三〇六寺   住職 六、六三二人

一 臨済宗(禅宗) 土御門帝建仁年中、栄西帰朝伝来

    宗派  一〇派  一、天竜寺派 二、建仁寺派 三、東福寺派 四、相国寺派 五、南禅寺派 六、妙心寺派 七、大徳寺派 八、建長寺派 九、円覚寺派 一〇、永源寺派

    寺院  六、一〇〇寺   住職 四、六〇五人

一 曹洞宗(禅宗) 後堀河帝の朝、道元入宋伝来

    寺院  一四、二四〇寺   住職 一二、〇七一人

一 黄檗宗(禅宗) 後光明帝の朝、明〔の〕隠元来朝伝来

    寺院  五七一寺   住職 三八四人

一 真 宗 後堀河帝元仁元年、親鸞立宗

    宗派  一〇派  一、本願寺派 二、大谷派 三、仏光寺派 四、高田派 五、木辺派 六、興正寺派 七、出雲路派 八、山元派 九、証誠寺派 一〇、三門徒派

    寺院  一九、一九六寺   住職 一七、一七六人

一 日蓮宗 後深草帝宝治五年、日蓮立宗

    宗派  八派  一、単称 日蓮宗(一致派) 二、妙満寺派 三、興門派 四、八品派 五、本成寺派 六、本隆寺派 七、不受不施派 八、不受不施講門派

    寺院  四、九七五寺   住職 三、九五〇人

一 時 宗 後宇多帝建治二年、一遍立宗

    寺院  五一〇寺   住職 三七七人

一 融通念仏宗 崇徳帝天治元年、良忍立宗

    寺院  三五六寺   住職 二三一人

一 法相宗 シナ伝来総じて四伝あり。第一伝 孝徳帝即位九年、道昭入唐伝来、第二伝 斉明帝即位四年、智通智達入唐伝来、第三伝 文武帝大鳳三年、智鳳智鸞智雄入唐伝来、第四伝 元正帝霊亀三年、玄昉入唐伝来、本宗一時中絶、明治一五年再興。

    寺院  三九寺   住職 一四人

一 華厳宗 聖武帝天平八年唐の道璿、華厳の章疏を将来し、天平一二年、良弁審祥をして華厳経を講ぜしむ、これより弘宗、近世他宗の所轄となり、明治一九年独立す。

    寺院  二五寺   住職 一一人

   以上一二宗三〇余派、総計 寺院七一、九九一寺、住職五六、二八〇人

 

   顕正活論 分科表

  第1表

     顕正活論 緒 論(第2表へ続く)(第一~二七節)

          総 論 第一、哲学総論(第3表へ続く)(第二八~五七節)

              第二、仏教総論(第4表へ続く)(第五八~二〇七節)

          各 論 有宗論

              空宗論

              中宗論

              通宗論

              結 論

  第2表

 緒 論 護国論 前段(端緒)(第一、二節)

         後段 学問と国家の関係 日本学の元素(第三節)

                     日本学の種類(第四節)

            仏教と国家の関係(第五、六節)

     愛理論 前段(端緒)(第七、八節)

         中段 仏教哲理論 仏哲有別論 諸教との関係(第九節)

                        諸学との関係(第一〇節)

                        余    論(第一一~一三節)

                  仏教兼哲論(第一四~一六節)

            仏教発達論 外部の発達(第一七~一九節)

                  内部の発達(第二〇~二六節)

         後段(帰結)(第二七節)

  第3表

     哲学総論 前段(端緒)(第二八節)

          中段 宗教解釈 宗教の種類(第二九~三三節)

                  宗教の元素(第三四~三六節)

             哲学解釈 第一解釈法 諸哲学の分類(第三七~四五節)

                        宗教学の位置(第四六~四八節)

                  第二解釈法 部分学の種類(第四九~五一節)

                        統合学の種類(第五二、五三節)

          後段(帰結)(第五四~五七節)

  第4表

      仏教総論 前段(緒論) 端     緒(第五八、五九節)

                  哲学総論の結果(第六〇~六五節)

                  破邪活論の結論(第六六~七一節)

           中段 理論門(第5表へ続く) (第七二~一三八節)

              応用門(第6表へ続く) (第一三九~一七三節)

              通宗門(第7表へ続く) (第一七四~一九一節)

           後段(結論) 聖道浄土論(第一九二~二〇〇節)

                  世間出世間論(第二〇一~二〇四節)

                  余論(道徳論) (第二〇五、二〇六節)

                  帰     結(第二〇七節)

  第5表

  理論門 前(端緒)(第七二~七九節)

      中 体象実在論 有宗 倶舎宗(第八〇~八八節)

                 成実宗(第八七、八八節)

              空宗 法相宗(第八九~九三節)

                 三論宗(第九四節)

              中宗 天台宗(第九五~九七節)

                 華厳宗(第九八~一〇〇節)

                 真言宗(第一〇一、一〇二節)

              結言(第一〇三~一〇六節)

        体象関係論 関係の状態 有空中宗論(第一〇七~一〇九節)

                    結   言(第一一〇、一一一節)

              関係の起源 存 立 論(第一一二~一一六節)

                    開 発 論(第一一七、一一八節)

                    結   言(第一一九~一二八節)

        体象規則論 仏教外(諸教諸学の因果論)(第一二九~一三二節)

              仏教内(有空中三宗の因果論)(第一三三~一三六節)

              結 言(第一三七節)

      後(帰結)(第一三八節)

  第6表

      応用門 前(端緒)(第一三九、一四〇節)

          中 善悪苦楽論 有 宗(第一四一~一四四節)

                  空 宗(第一四五、一四六節)

                  中 宗(第一四七、一四八節)

            迷悟染浄論 迷悟の義解(第一四九~一五一節)

                  修行の方法(第一五二、一五三節)

            応報業感論 業因説(第一五四~一五七節)

                  輪廻説(第一五八~一六八節)

          後(帰結)(第一六九~一七三節)

  第7表

      通宗門 前(端緒)(第一七四~一七六節)

          中 禅  宗(第一七七、一七八節)

            日 蓮 宗(第一七九~一八一節)

            浄土諸宗(第一八二~一九〇節)

          後(帰結)(第一九一節)


 

     第一段 緒 論

 第一節 余かつて『序論』に人世の二大義務を論じて曰く、真理を愛するは学者の務むるところにして、国家を護するは国民の任ずるところなり、国民にして国家を護せざるものは国家の罪人なり、学者にして真理を愛せざるものは真理の罪人なりと。またこの二者の相離れざるゆえんを述べて曰く、護国愛理は一にして二ならず、真理を愛するの情を離れて別に護国の念あるにあらず、国家を護するの念を離れて別に愛理の情あるにあらず、その向かうところ異なるに従ってその名称同じからざるも、帰するところの本心に至りては一なりと。また余が本心のあるところを示して曰く、余が真理のために喋々するもの、みな護国の精神のあふれて外に流るるもののみと。以上の数語は余が本論を述作する端緒を開くものなれば、ここに更にその理由を説明せざるべからず。そもそも人のこの世にあるや外界に対して発動する本心に二様あり。一は利己自愛心、二は利他汎愛心、これなり。この二者は全く相反し氷炭相いれざるがごとしといえども、その実一体にして決して離れたるものにあらず、この一体不離の関係を示すものすなわち仏教にして、余が愛国論もこの理に基づくものなり。今この本心を護国愛理の二者に配当するときは、真理を愛する情は汎愛心より起こり、国家を護する念は自愛心より起こる。余はこの二心より生ずる主義を名付けて、その一を宇宙主義といい、その二を国家主義といわんとす。すなわちわが汎愛の心、天地の上に及ぼすときは宇宙主義を生じ、自愛の心、国際の間に及ぼすときは国家主義を生ずるなり。もしそれ国家主義の一辺をもって真理を講ずるときはその目的を達し難く、宇宙主義の一辺をもって国家を論ずるときはその独立を期し難し、故にこの二者は偏廃すべからざるものと知るべし。

 第二節 しかるに宇宙と国家との二大主義はその体不離なるも、その目的異なるをもって、人ややもすればその一を取りてその二を捨てんとす。たとえば学理を研究するものは宇宙の真理を目的とするをもって、その弊国家を忘るるに至り、政治に従事するものは国家の独立を目的とするをもって、その弊学理を排するに至る。これ他なし、理論と実際とその方向を異にするによる。しかしてこの二者全く相反するものと思うは、皮相の浅見に過ぎず。もし深くその理を究むるときは、国家の裏面には必ず宇宙あり宇宙の裏面には必ず国家ありて、一方の極端に達すれば必ず他方の存するゆえんを知るべし。今仏教の語をかりてその関係を示すときは、差別は平等を離れず、平等は差別を離れざるものにして、平等の真理中に国家あり、差別の国家の上に真理ありといわざるべからず。余の平常、意に発し口に動き身に現ずるところのもの、みなこの二様表裏の関係を離れざるものにして、今余が本論を述作するの意またこの目的に外ならず。すなわち宇宙主義よりこれをいえば、余は誓って世界万世のために宇宙の真理を発揮せんとし、国家主義よりこれを論ずれば、余はあくまでわが日本帝国のために国家の富強を祈念せんとす。しかして余は信ず、我人が仏教を研究するは、一は真理のため、一は国家のために欠くべからざる一大事なるを。ああ、この瑣々たる一論にして、よくこの二大目的を達することを得ば、余が幸いこれよりはなはだしきはなし。

 第三節 余かつて『序論』中に、仏教を研究するは国家のために必要なるゆえんを述べたれども、なおそのうちに漏らしたる二、三点をここに挙ぐべし。そもそもわが国古来の文明はその初めシナ、インドの地に発し、流れてわが国に入り、わが固有の性質気風これに加わり、三国の元素相和し相合して、一種特有の文明を化成したりしをもって、その今日わが国に存するもの、これをインド、シナに存するものに比するに、大いに異なるところあるをみる。わが国の教学、芸術、風俗習慣、国体民情に至るまで、その隣邦に異なるゆえんのもの、みなこの理による。これわが国の数千年来、東海の表に富峰と共に秀然として聳立したるゆえんにして、また将来永く万国の間に卓然として独立するゆえんなるべし。しかしてその文明の根元を探りまたこれを将来に伝うるは、従来存するところの学問によらざるべからず、その学問とはなんぞや。曰く、もしその元素をもって区別すれば、和学、漢学、仏学なり、もしその種類を挙ぐれば、言語学、歴史学、宗教学なり。古来わが国の学者は大抵、和漢仏の三学を兼修し、和学者は漢仏を兼ね、仏学者は和漢に通じ、その著書も三者を混和せるもの多かりしが、徳川氏の時代に至り儒仏二道を分かちて分業競争の勢いを養成せしをもって、従来混和したる三学は自然に鼎立の形を成し、外面にては三種全く相離れたるがごとき状態を示せりといえども、その内情を尋ぬるに、そのすでに混和したる性質は依然としてそのうちに存せしをみる。しかるに今日は徳川氏の余勢を継ぎ、ひとり外面隔離の現状をみて、永くこれをして分解せしめんとするものありといえども、数千年来混和したる一種の化合物、いずくんぞ一朝にしてその本来の元素に溶離するを得んや。かつ我人はこれを分解するは、かえってわが国体民情の上に大いに利害の関係あることを記せざるべからず。故に余はあくまでこの三学を保護し、永くその和合を維持し、国家の独立にさきだちてこの独立を全うせんことを祈念してやまざるなり。けだし余はこの独立ありて始めて国家の独立を全うすることを得るものと信ずればなり。しかして余がこれを保護するの意は、あえてその旧来の研究法を守り注釈的学風を維持するの意にあらず。旧来の研究法は、学問の皮相を保守するを知りて、精神を発育するを知らず、これいわゆる学問を死物視するものなり。学問決して死物にあらず、機関あり、精神あり。これに供するに新鮮の栄養をもってするときは、勃々として生気を発し、森々として繁茂するものなり。故に余は旧来の学風を一変して、わが従来の諸学に理学哲学の栄養を与え、これをして十分に発育せしめんことを期す。これ余が今日哲学館を設置して、わが国に久伝せる和漢仏を正科とし、欧米各国の理哲諸学を助科とし、他日日本大学を創立するをもって目的とするゆえんなり。

 第四節 つぎに三学の種類についてこれを考うるに、一国の独立を維持するには、その国の言語と歴史と宗教とを保護するより急要なるはなし。言語は広く貴賎、上下、異等の人民にわたり、横にその思想を接合して、一国の人心をして散失せざらしむるに力あるものなり。これを空間上、人民を結合するという。歴史は縦に古今歴代を貫き、その沿革風習を維持して、従来の民情国体をして永続せしむるに力あるものなり。これを時間上、人心を持続するという。しかして宗教は、古今を貫きて変ずることなく、上下にわたりて異なることなく、いずれの世、いずれの人を問わず、一味平等、一定不変の教義をもって貫徹継続するものなり。故に宗教は空間上、時間上、共に人心国体を結合持続するに力あるものなり。故に一国に固有の言語、歴史、宗教なくんばすなわちやまん。いやしくも言語あり、歴史あり、宗教ある以上は、国家のためにこれを講究し、これを養成せざるべけんや。今わが国のごときは千余年の久しき伝来せる一種固有の言語あり、歴史あり、宗教あり。その文学といい、史学といい、宗学といい、共にその美なること一歩も他邦のものに譲らず。あにこれをおいて問わざるの理あらんや、いわんやその存廃は国家の独立に関するをや。ただ今日この三学の欠点は、これを講究する方法よろしきを得ざるにあり。これ余が哲学館を設立して、その講究法を改良せんことを計画するゆえんなり。

 第五節 かくのごとき道理あるをもって、余は心力を尽くして国家のために、わが国従来の和漢仏三学を保護し、文学、史学、宗学を振起せんと欲するものなり。しかるに今日世間の論ずるところをみるに、余輩の解することあたわざるものあり、なんぞや。曰く、世間の論者は西洋学を講究するを知りて、日本従来の諸学を講究するを知らず、日本従来の諸学を講究するを知るも、ひとり和漢両学講究の必要を感じて仏学研修の必要を知らず、文学史学を維持するの急務を知りて、宗教を保存するの急務を感ぜざること、これなり。なんぞ見ることの狭きや、なんぞいるることの小なるや。しかしてその論者は大抵和漢をもって日本固有の学となし、ひとり仏教は外国伝来のものとなすがごとし、これ余輩の最も惑うところなり。もし外国伝来と自国本有とを論ずるときは、現今わが国に存するもの百中の九十九は外国伝来にあらざるはなし、なんぞひとり仏教のみしからんや。百科の技芸、万般の器用みな外国伝来なり。ただそのうちに世人一般に認めて日本固有品となすものはなんぞや。その初め外国より入りきたりしも、これをわが国に伝えて千百年を経過し、わが国の国風民俗と混和して一種特有の発達を現ぜしものをいうにあらずや。果たしてしからば、仏教も純然たる日本固有の宗教というべし。なんとなれば、その教は千数百年間日本に流伝し、日本固有の性質と混和して、一種別伝の宗派を化生したるにあらずや。その事実のごときは今日わが国に存する仏教と、インドおよびシナの仏教と異なるところあるを見て知るべし。かつ仏教はわが皇室国体と密接なる関係を有することは、史上に照らして明らかなる事跡にして、余輩の喋々を待たざるなり。今日存する大寺巨刹の寺格僧位等は、みな先皇の親勅によりて裁制せられたるものにして、古来皇帝皇族の仏門に帰して建立せられたる仏寺、今なお存するものいくたあるを知らず。実にわが国の仏教は先皇の定め給うところにして遺詔の存するところなれば、いやしくも皇統一系の日の下に生育するわが日本臣民たるもの、なんぞこれを外物視して不問におくの理あらんや。もし仏教今日の弊風に至りては、これを弘通するものの罪にして、仏教の罪にあらず。かつその弊風のごときは、進みてこれを改良するをもって、わが国の臣民たるものの先皇に対する義務といわんのみ。

 第六節 しかるに世間の論者中仏教のかくのごとき重大の関係を有するを知らずして、ただに仏教の改良に注意せざるのみならず、かえってこれを排斥せんとするものあり。余この論者に対して一言をただせんと欲するものあり。わが国朝野の人士相会するごとに曰く、日本は美術国なり、わが輩は国家のためにこの固有の美術を策励せざるべからずと。そのいわゆる固有の美術とはなんぞや。もしこれを分析してその本源を尋ぬるときは、一としてシナもしくはインドの伝来にあらざるはなし、その外国輸入なること、わが仏教に異ならず。しかるにこれを日本固有の美術と称するは他なし、たとえその初め外国より入りきたりしも、その後数百年間これをわが国に伝えて、一種特有の発達を呈し、一種の日本風を帯びて、今日その祖先たるシナ、インドに存するものと大いにその性質を異にするによる。仏教またしかり。わが国今日の仏教は日本風を帯びて、シナ、インドに存するものと大いに異なるところあるにあらずや。故に美術をもって日本固有となすときは、仏教も同時に日本固有となさざるべからず。もしこの二者共に日本固有のものとなすときは、朝野の人士が美術を策励するをもって国家の義務となすと同時に、仏教を振起するをもって国家の義務となさざるべからず。しかるに美術にありては、その盛衰を旧来の無学無資の美術家に任ぜずして、朝に野に衆人争うてその改良に力を尽くし、ひとり仏教に至りてはこれを旧来の僧侶に一任して、だれもその改良に注意せざるは、果たして国民たるもののその国固有のものに対する公平の見なるや、これ余輩の大いに怪しむところなり。そもそもわが国従来のものにして国家の利益となるもの、なんぞひとり美術に限らんや、仏教も国体の維持、国家の独立に関係あるにあらずや。かつわが国の従来美術国たりしゆえん、またその美術に一種の特色あるゆえんのものを分析してこれを考うるときは、必ずその原因となるべきもの別に存するや明らかなり。これを万国の美術史に徴するも、美術の本源は多く宗教上より発するをみる。けだし宗教上の高尚優美の思想、流れて美術となりて外観に現ずるによる。わが国あにひとりしからざるの理あらんや。これによりてこれをみるに、わが美術の本源となり精神となるものは仏教中にありて存し、仏教中優美の思想がその光を美術の上に発現したるや疑いなし。これわが国の美術史を研究するもののみな許すところなり。果たしてしからば、わが美術を振起せんと欲するときは、その精神たる仏教を振起せざるべからざるは必然の理なり。しかるにその精神を問わずして、ひとりその表象を発育せんとするも、あに得べけんや。

 第七節 その他、仏教と国家との関係については、種々述ぶべき理由多しといえども、この『顕正活論』の目的はもっぱら仏教の真理を証明するにあれば、余が国家のために仏教を改良せんとする問題はつぎの「護法活論」に譲り、これより余が真理のために仏教を振起せんとする理由を示すべし。そもそも護国と愛理は、余が考うるところによるに、一にして二ならざるをもって、今余が仏教の真理を開発せんとするは、すなわち国家の独立を祈念するものなり。余は護国の情を離れて別に真理を愛するの心を有するものにあらず、この二種の心は余が平常懐抱するところの丹誠の一心なり。この一心、学界に対すれば愛理の精神となり、政界に対すれば護国の元気となるのみ。今仏教の真理を開顕するに、まず余が講究の方法、世間一般に用うるところのものと大いに異同あることを一言せざるべからず。その異同とは左の二項なり。

  第一項 仏教を哲学上より講究すること(仏教哲理論)

  第二項 仏教を活物視して講究すること(仏教発達論)

この二者は余がその意見を世間普通の仏学者と大いに異にするところにして、従来種々の批評を招きたる点なれば、ここにその意見を開陳して、世人の惑いを解くこと決して無用の言にあらずと信ず。

 第八節 第一項 仏教哲理論 今第一項の意を述べんとするに、まず世間の仏者の評するところを分析して、その理の当たらざるゆえんを説明するを要す。世間の仏者中には左の二論をとるものあり。

  甲 仏哲有別論 すなわち仏教は宗教にして哲学にあらず、故に仏教を研究するには仏教一学をもって足れりとするの論。

  乙 仏教兼哲論 すなわち哲学は仏教中の一部分なり、故に仏教を研究すれば哲学を研究するを要せざるの論。

これ哲学と仏教との関係を知らざる論にして、あえて深く責むるに足らずといえども、世の無智の輩、この説に雷同するの恐れあれば一言弁明せざるを得ず。まず第一論すなわち仏哲有別論は、余輩ももとより同説にして、いまだ仏教と哲学と同一にして差別なしと断言したることあらず。その異なる要点を挙ぐれば、仏教は安心立命の法にして、哲学は真理研究の学なり。しかれどももし人ありて、仏教は哲学にあらざるをもって、仏教者は哲学を研究するを要せずというに至りては、余輩同意を表することあたわず。畢竟人のかくのごとき意見をとるは左の二点より起こる。

  イ 仏教の外に宗教あるを知らず

  ロ 仏教の外に諸学あるを知らず

 第九節 まずこの第一点を述ぶるに、古来日本には宗教と称すべきものは仏教のみなれば、他教と真理を争うことを要せず、儒教のごとき一種の道学ありしも、これ現世の教にして未来の法にあらず。故をもって当時の論は仏教中の諸宗諸派の間に本末を争うに過ぎざりし。しかして諸宗諸派は共に釈迦一仏を奉戴して教祖となすをもって、仏教全体の上に理非を争うものなく、だれに向かってこれを論ずるにも、仏教は釈尊自証の法なり、仏陀顕示の教なりというをもって足れりとなせり。故に当時にありて仏教を研究するものは仏学一方を修むるを要せしのみ。しかるに今日にありては、仏教の外にヤソ教あり、回教あり。そのうち仏教の正面に論陣を張り、まさに雌雄を一戦の下に決せんとするものはヤソ教なり。この敵に対して仏教は釈尊自証の真理なり、疑うべからず信ずべしとなにほど喋々するも、全く無効なりとす。ヤソ教者もまた必ずいわん、わが教は上帝啓示の真理なり、疑うべからず信ずべしと。二教かくのごとく相争うときは、いずれが果たして真理なるや非理なるや、けだしこれを決する期なかるべし。もし仏教者は進みて他教と理非を争うを欲せず、退きて自ら信ずるをもって足れりとすというにおいては、あえて哲学を兼修する必要なきがごとしといえども、いやしくも世間に立ちて自ら信じまた人をして信ぜしめ、仏教の真理を開顕しヤソ教と優劣を争わんとするに至りては、必ず哲学を兼修せざるべからず。なんとなれば、哲学は論理の原則、真理の標準を考定するをもって目的とするものなれば、いかなる宗教にてもその真非を判定せんとするときは、哲学の裁判を待たざるべからざればなり。なお物の寸法を判ずるに尺度を要するがごとし。哲学は真理の尺度なり、真非を裁決する法廷なり。たとえ仏教中に真理を測定すべき論理法あるも、これ仏教者ひとり自ら許すところの論理法にして、その敵たるヤソ教の許さざるものなるときは、これを用うるも徒労に属すべし。たとえば外国と物品を交換するに、その物価の標準とするものは両国の共に許すところのものならざるべからざるがごとし。故に仏ヤ両教の間に真非を較せんとするときは、仏ヤ両教の外にありて両教共に許すところの標準を用いざるべからず、すなわち哲学あるのみ。哲学は諸学諸教の上に立ちて公平不偏の真理を判定するをもって、目的とするゆえんは総論に入りて余が論ずるところをみて知るべし。故に余は今日の仏者は哲学を兼修して、仏教の真理を世界に発揚するをもって目的とせざるべからずと断言せんとす。これ哲学兼修の必要なる第一理由なり。

 第一〇節 つぎに第二点に移りてこれを述ぶるに、今日の仏者中にはその敵とするところのものひとりヤソ教にして、そのほかに真非を争うものなしと自信するものあり。これ今日諸学の存することを知らざる論なり。今日の諸学には、物理学あり、化学あり、天文、地質、生物、生理等幾種あるを知らず。この諸学は真理を学界上に立つるに至りてはみな宗教に反対するものなり。否、宗教を排斥するものなり。仏教者曰く、わが教は釈尊自証の説なりと。彼これを駁して曰く、これ虚説なりと。仏教者曰く、霊魂不死なり、極楽あり地獄ありと。彼これを斥して曰く、これ妄談なりと。かくのごとく仏教の所説を排するものあるときは、仏者は黙してやむべきか、また理論上真非を争わざるを得ざるか。もし真非を争わんとするときはなにによりて争うべきや。彼の説はみな実験よりきたるものなり、仏教者これと争うべき実験を有するや。かくのごとき実験の諸学に対して仏教の真理を立てんとするときは、哲学によらずして何学を用うべきや。かの諸学の実験は有形にとどまるも、この哲学の研究は無形に及ぼすをもって、仏教のごとき無形上の真理は、哲学によりて証明せざるべからざること明らかなり。これ余が今日仏者の哲学を兼修するを必要となす第二理由なり。

 第一一節 余がかくのごとく、仏教は真理を諸学と共に争わざるべからずというの一論を立つるについては、世間の論者の問いに答えざるを得ざるものあり。その論者は曰く、仏教者が真理を学問上に争うは無益なり、よろしく愚民を目的として実際上の布教を務むべしと。その論、誠にしかり。余はかつて仏教を振起するは実際にあることを論じ、本論においても殊更に「護法活論」の一編を設くるは、全く実際上の必要なることを示さんと欲してなり。しかれども学理上真理の有無を証明せずして、ひとり実際上の振起を図ること難し。たとえ愚民といえども、多少その奉ずるところの教、真理なりと認定するをもって信ずるなり。もし一方に愚民ありてこれを信ぜんとするも、他方に学者ありてその非理を鳴らすときは、愚民もまた惑うに至るは必然なり。かつ仏教者ひとり真理を論ぜざるをもって目的とするも、その敵たる他教者が真理を説くときは、あにこれに対して黙するを得んや。およそ仏教者がその教を世間に弘布するには二種の競争あることを知らざるべからず。一は実際上の競争、一は理論上の競争なり。かつこの世界は競争場裏なることを忘るるべからず。進みては競争し、退きては競争し、至るところ競争場ならざるはなし。布教の方法をもって実地相争うは実際上の競争なり、教理の優劣を較して真理相争うは理論上の競争なり。この二種の競争に加わり、その二者に勝ちを占むるもの、始めて社会の舞台に独歩することを得るなり。しかるにひとり実際上の競争に加わりて一時勝ちを占むるも、理論上に敗をとるときは、到底社会に勢力を得ることあたわざるは必然の理なり。故に余は、仏教者が社会の競争に加わりて勝ちを占めんとするときは、必ずまず哲学上真理の存否を論明せざるべからずというなり。

 第一二節 かつ仏者は、今日は学界開港の時なることを知らざるべからず。昔日は鎖港の時なり。鎖港の時にありては政府中に外部省を置くを要せず、外交政略、万国公法等を講究するを要せざりしも、開港の今日にありては広く万国の法律事情を講究せざるべからざるがごとく、今日の仏教は諸学の間に交通を開くに至りたれば、仏教者は広く諸学の原理事情を知らざるべからざる時に際せり。これ実に仏教世界、開港の日というべし。この際に当たり諸学の間に立ちて諸学の規則を考定するものは哲学なり。故に哲学を研究するはあたかも開港の今日、万国公法を講究するがごとし。更にさかのぼりて古代学界、鎖港の日を案ずるに、仏教家はひとり仏学を研究するをもって足れりとなせり。しかるに当時の仏学者は傍ら儒典をうかがい、論孟〔論語、孟子〕を読まざるものなかりしはなんぞや。これその国に行わるる一般の学なりしによるや明らかなり。今わが国に行わるる学は幾種あるを知らず。これをことごとく研修するは容易の業にあらずといえども、そのうち最もわが仏教に近きものを兼修するは、昔日の学者が論孟を読むとなんぞ異ならんや。

 第一三節 その他、仏教者はその教の普通の宗教に異なることを記せざるべからず。普通の宗教中には、あるいは顕示教あり、あるいは自然教あり。顕示教とは人間以上のものの天啓顕示によりて起こりたる宗教をいい、自然教とは人間自然の道理力、宗教心の発達に従って起こりたるものをいう。今仏教はこれを顕示教とするも普通の顕示教に異なり、これを自然教とするも普通の自然教に異なるをもって、余はこれを智力的宗教すなわち哲学上の宗教というなり。その哲学上の宗教たるゆえんは、その教中の大半は哲理の研究に属すればなり。その理由は総論に入りて論明すべきをもって、今これを略す。果たしてしからば、仏教と哲学とは親密なる関係を有するをもって、仏教者は必ず哲学を兼修せざるべからざること明らかなり。

 第一四節 つぎに第二論、すなわち仏教兼哲論に対して弁明すべし。その論者は曰く、仏教は世間、出世間を兼ねたる道にして、哲学は世間の学のみ。また曰く、仏教は過去、未来、現在、三世の法にして、哲学は現在一世の学に過ぎず、故に哲学は仏教の一部分なりと。余これに答えて曰く、仏教を世間の外に出づる道といわば、哲学もまた世界の外に出づる学ということを得べし、なんとなれば、その論究するところ宇宙現象の外に及ぼせばなり、また仏教は哲学を兼ぬるといわば、哲学また仏教を兼ぬるということを得べし、なんとなれば、仏教者曰く、仏教は宗教と哲学とを兼ぬるも、哲学は宗教の部分を有せざるをもって、哲学は仏教の一部分なりと。哲学者は必ずこれに答えていわん、哲学は仏教中に存する部分をもって尽きたるにあらず、また仏教の外に数種の宗教あり、上に図を掲げてその関係を示すべし、あたかも甲乙両圏の互いに交接するがごとし、甲は哲学なり、乙は宗教なり、その交接したる丙の部分すなわち仏教なり、果たしてしからば、仏教かえって哲学の一部分にあらずやと。これを要するに、仏教と哲学とは、その種類初めより異なるをもって、二者互いに包容するところあるも、これによりてその範囲の大小を判定すること難し。他語にてこれをいえば、哲学決して仏教の一部分ならず、仏教決して哲学の一部分ならざるなり。しかるにまた一説ありて、哲学は人智以内に限り、仏教は人智以外に及ぼすの別ありという。この説一理あるに似たれども、哲学と仏教の間にかくのごとき分界を立つることまた難し。今その理由を一言するに、まず人智思想の範囲に二種の見解あることを弁明せざるべからず。たとえば、わが眼前の現象世界は人智思想以内にあり、その世界の外に存する実体、無象世界は人智以外にありとするは通常の見解にして、この実体世界も思想知識以内にありとするは哲学上の見解なり。今哲学を評して人智以内となすは、けだしこの通常の見解によるものなるべし。しかるに哲学は、現象世界の実究にとどまらず実体世界に及ぼしてその存在を論究する以上は、決して人智以内に限るというべからず。ただ仏教は人智以外より人智以内に及ぼし、哲学は人智以内より人智以外に及ぼすがごとき方向の異同あるのみ。しかしてもし仏教の真理を学理上証明せんとするときは、人智以内より人智以外に及ぼす哲学の研究法を用いざるべからず。

 第一五節 また論者が仏教は三世の説、哲学は一世の説と唱うる論に対して一言するに、理学はあるいは一世の説と名付くることを得るも、哲学は必ずしも一世の説と限るべきにあらず。たとえば未来世界のごとき、天堂地獄のごとき、霊魂不死のごとき問題は、論理、思想の及ぶ限りは哲学において推究せざるを得ず、過去世といえども、これを推究するはもとより哲学の本分なり。ただ仏教と哲学との別は、要するに左の一点にあり。仏教は釈迦自証の法にて自ら証見せしものを衆人に訓示したるものなり、哲学はおのおの自ら進みて推究せんことを目的とするものなり。故にこの二者において論明するところ大いに異同あるをみるなり。以上述ぶるところをもって仏教兼哲論を評するに、仏教と哲学とは互いに包含するところあるも、哲学の全分ことごとく仏教中に存するにあらず、二者おのずから性質の異なるありて、なにほど仏教を研究するも別に哲学を兼修せざれば、哲学を知ることあたわざるなり。

 第一六節 上来、仏哲有別論および仏教兼哲論に答えてその説明を与えたれば、仏教と哲学との関係の密接なること、ならびに仏者が哲学を兼修するの必要なることは、その理すでに明らかなりと信ず。その理すでに明らかなれば、余が仏教を哲学上より講究するゆえん推して知るべし。それ余は仏教を信ずるものに仏教を信ぜしむるを目的とするにあらず、仏教を知るものに仏教を知らしむるを本意とするにあらず、世間、仏教を知らずして仏教を排するもの多きをもって、これに対して仏教の真理なるゆえん、仏教の信仰すべきゆえんを示さんと欲するなり。もし仏教の真理は釈迦一人に帰してあえてこれを問わず、仏教の解釈は旧来の轍を守りてあえてこれを変ぜざるときは、到底その教をして今日の人に知らしむること難し。もしこれに反し、その教をして人に知らしめ、人をしてその真理なるゆえんを信ぜしめんと欲せば、旧来の解釈を一変して哲学上の解釈を下し、今日の学理に照らして是非を判定せざるべからず。かつもし仏教は不幸にして学理上より講究するの価値なく、ただこれを信ずるは釈尊その体を信ずるより外なきときはまたやむをえざるも、今仏教中に含有する真理の宝珠は、哲学の琢磨にあいてますます光輝を発揚すべき宗教なるに、これを愚俗の塵中に埋めて永くその光をして生ぜざらしむるは、実に玉石混同のうらみなきあたわず、余が平素真理を愛する一念、あにこれを黙視するに忍びんや。これ余が哲学上より仏教を講究してこの編の著あるに至りしゆえんなり。

第一七節 第二項 仏教発達論 以上、第一項哲理論を略述し終わるをもって、これより第二項の発達論を弁明すべし。普通の仏教者は仏教は釈尊のときに最も発達せしものにして、その後漸々退化して今日に至ると信ずるをもって、その学風のごときは釈尊所説の経典を注釈し、もしくはその注釈を注釈するをこととし、字句文章の解釈にとどまり、更に活眼をもって字句の裏面に含むところの仏教の精神いかんを問うことなく、ついにその学をして発育進化せざらしむ、これいわゆる注釈的学問にして発達的学問にあらず。余はこれを仏教を死物視するものとなす。死物は発育の力を有せず、活物は発育の力を有す。今余が仏教をみるは、これを活物とし、これに栄養を与えてますます発達せしめんことを期するなり。故に本書のごときは、この発達の目的をもって編述し、従来人の死物視したるものを転じて活物となし、仏教体中に有機組織を開かんとするものなり。これ本書を総題して『仏教活論』というゆえんなり。

 第一八節 仏教を活物視し、また活物視せざるを得ざるに二理由あり。その一は仏教外に存する理由にして、その二は仏教内に存する理由なり。まず第一理由を述ぶるに、仏教の盛衰進退は社会の事情に従うものにして、これをして生育せしむるも社会なり、これをして老死せしむるも社会なり。なんとなれば、仏教は一個の生物が天地間に生存すると同一理にして、仏教体外に囲繞せる百般の文物は、あたかも生物の身体を囲繞する万象万化に異ならず。生物もしその間にありて生命を保全せんと欲せば、外界の諸象に順応適合せざるを得ず。そのよく適合したるものは生存し、適合せざるものは亡失するは、いわゆる適種生存の理法なり。いやしくも宇内に住息し社会に生存するもの、一としてこの理法に従わざるはなし、仏教あにひとりしからざるの理あらんや。社会百般の文物は仏教体外の諸象なり。その諸象に順応適合することあたわざるときは、仏教その生存を保全することあたわざるや明らかなり。これ古来仏教史上に盛衰の変ありしゆえんにして、社会の変遷と共に仏教の変遷しきたれるはみなこの理に外ならず。すなわち世の文明盛んなりしときに仏教盛んなりしはそのよく外象に順応したるにより、世の文明盛んなりしときに仏教かえって衰えたるは外象に順応することあたわざりしによるなり。

 第一九節 かつ我人はこの順応の規則に二種あることを知らざるべからず。その一は実際上の順応なり、その二は理論上の順応なり。なお競争に実際、理論の二種あるがごとし。競争すでにこの二種あれば、順応にもその二種あるの理はたやすく推知すべし。布教伝道の方法そのよろしきを得て、よく社会の事情に適合するはいわゆる実際上の順応なり、仏理の論究説明よくその時代の学術に適合するはいわゆる理論上の順応なり。実際上の順応を欠くときは仏教衰微せざるを得ざるはもちろんにして、理論上の順応を誤るときも同一の運命に属すべし。たとえば世間の学術は非常に進歩したるに、仏教は依然として旧風を守り更に進歩せざるときは、いわゆる内外順応せざるものなり。古代の宗教のつとに亡びて今日に伝わらざるもの多きは、みなこの順応を誤りたるによらざるはあらず。ヤソ旧教の近世に衰え、新教の今日に盛んなるに至るも、前者は内外の順応を欠き、後者はよく順応したるによるのみ。しかして今日ヤソ教者がその教義を種々に解釈して、今日の学説に適合せしめんことを務むるはなんぞや。ただこの理論上の順応を全うせんとするの意に外ならず。故に仏教も今日の世界に生存し、今日の諸学に競争して将来の隆盛を期せんと欲せば、実際上の順応と共に理論上の順応に注意せざるべからず。しかるに余がみるところによるに、世間の仏者はこの二種の順応あるを知らず。しばしばこれを知るものあるも、ひとり実際上の順応あるを知りて、理論上の順応あるを知らざるもののごとし。故に余はこれに対してこの二種の順応あることを示さんと欲し、この『顕正活論』において理論上の順応を説明し、つぎの「護法活論」において実際上の順応を説明すべし。しかしてその理論上の順応は、仏教の研究を従来の注釈的にとどめずして、今日の学理に照らして発達的に論定するにあり。もし仏教を発達的に研究せんと欲せば、あたかも生物が外界より食物をとりて発育するがごとく、その栄養供給を外界の諸学にとらざるべからず。これ余が今日の仏教者は哲学を兼修せざるべからずというゆえんなり。かくのごとく栄養を外界にとるも、仏教の体質はやはり従来の性質を失わざるべし。なんとなれば、仏教は活物にして死物にあらざればなり、その体すでに活物なれば必ず精神あり。今外界よりとるところの食物は、この精神の力によりて、ひとたび仏教に変質し、仏教の身体となりて発育すべし。あたかも生物は種々異様の食物を外界よりとるも、草木は草木の形質を失わず、鳥獣は鳥獣の遺伝を存し、人類はやはり人類を相続すると同一理なり。

 第二〇節 かくのごとく仏教を活物視し仏教の発達を目的とするときは、仏教内部の事情に反対するというものあらん。故に余はこれよりさきに挙ぐるところの第二理由を述ぶべし。今これを仏教内部に考うるも、従来すでに発達の進路をとりたること明らかなり。まずインドをもって発達の初期とし、シナを第二期とし、日本を第三期とするときは、各期共に著しき発達を現ぜしをみる。釈尊五〇年間の説法は大小両乗を兼説せりと称して、天台家にては説法の順序を五時に分かち、第一時に『華厳経』を説き、第二時に『阿含経』を説き、第三時に『方等経』を説き、第四時に『般若経』を説き、第五時に『法華経』『涅槃経』を説きたりとなす。『阿含経』は小乗なり、華厳、般若、法華、涅槃は大乗なり。方等は大小両乗に通ず。小乗とは仏教中の浅近の部分をいい、大乗とは深遠の部分をいう。なお小教大教というがごとし。故に釈尊はその一代中に大小両乗を兼説せりといえども、本邦伝うるところによるに、その滅後四〇〇年間は小乗ひとり盛んなりしという。そのうち初め一〇〇年間は宗派いまだ分かれず、一味の法を流伝せり。百余年を経て異論初めて起こり、上座、大衆の二部分派し、そののち上座部より一一部を分かち、大衆部より九部を出し、仏滅後四〇〇年の終わりには本末合して二〇種の分派を生ぜり。五〇〇年のとき外教の勢力盛んにして仏教大いに衰微の兆しを現ぜりという。六〇〇年に至り馬鳴始めて大乗を説き、七〇〇年に至り竜樹また大乗を弘め、九〇〇年に至り無著、世親両師世に出でて大乗の諸論を講述せるも、仏滅後一〇〇〇年間は大乗の宗派いまだ起こらず、一一〇〇年に至り護法、清弁両師の争論あり、一七〇〇年に至り戒賢、智光両師の異説ありて始めて大乗に宗派を分かつに至れり。その宗は法相、三論の両宗なり。自余の諸宗はシナに入りて分派せり。シナにありては毘曇、成実、律、三論、涅槃、地論、浄土、禅、摂論、天台、華厳、法相、真言の一三宗起これりという。日本にきたりては三論、法相、華厳、倶舎、成実、律、天台、真言、禅、浄土等、十余宗の起こりしをみる。しかして現今存するものは、法相、華厳、天台、真言、臨済、曹洞、黄檗(以上三宗は禅宗)、浄土、真宗、融通念仏、時宗、日蓮の一二宗なり。その各宗中の分派を算すれば総じて三十余派ありという。かくのごとく最初一味一途の宗教が、漸々世の移るに従い、国の異なるに従い、多岐多端に分かれ十余宗三十余派となりたるは、そもそも発達にあらずしてなんぞや。余はこれを仏教の発達という。かつそれ仏一代所説の教門は大数八万四千ありと称するも、その経典もとよりかくのごとく多からず。経典少なしといえども、後世これを敷衍注釈せるものはなはだ多し。論あり、釈あり、釈の釈あり、これを総計するときはその数幾万巻あるを知らず、これまた仏教の発達にあらずしてなんぞや。

 第二一節 仏教の宗派および注釈にかくのごとき変遷あるはその理由を尋ぬるに、仏教体外に存する社会百般の事情の変遷、これが原因となるや疑いなし。そもそも社会は活物にして次第に発達進化する以上は、その発達の際、世の勢いと国の事情とに従って種々の変化を現ずるや必然なり。その変化の間に生存する仏教のごときは、また世により国に従って種々の変遷なきあたわず。インドにはインドの変遷あり、シナにはシナの変遷あり。本朝にきたりても、源平以前と以後とは社会の大勢一変せしをもって、仏教の事情もまた大いに異なりしをみる。すなわち源平以前は仏教中智力的諸宗ひとり繁盛を極め、源平以後は情感的諸宗大いに競起せり。今その原因を考うるに、当時諸宗の祖師はひとり仏典に明らかなるのみならず、その時の事情に通じ、諸宗の学者はひとり仏学を知るのみならず世間の諸学に達し、今日の時機に応合すべき宗旨は仏教中のこの部分なりといい、今日の諸学に適合すべき解釈は仏教中のかの部分なりといえり。これによりてこれをみれば、古来諸宗の起こる諸派の分かるる解釈説明の異なるは、みなかくのごとく社会の変遷に応合せんとせるに外ならず。しかしてその時機に適する法は漸々繁盛に向かい、適せざるものは漸々衰滅に帰するは、余がいわゆる順応の規則に従うものなり。この規則に従って変遷し、一仏教分かれて二となり、三となり、ないし一〇となり、一〇〇となるがごときもの、これを仏教の発達という。

 第二二節 仏教は釈迦滅後に至りて発達せるのみならず、その在世間の説法中にすでに発達の次第ありしをみる。さきに挙ぐるところの五時の説法についてこれを考うるも、初めに華厳大乗の法を説き、つぎに阿含小乗の法を説き、つぎに大小通説の方等を説き、つぎに般若大乗の法を説き、つぎに法華涅槃を説けり。これ小より大に進み浅より深に入る発達の次第によるものなり。しかるに初時の華厳は、大乗なるは発達の順次に合せざるがごとしといえども、一代の説教を草木の発達にたとうるときは、その種実中に花を成し実を結ぶゆえんのものことごとく初めより存するがごとし。しかしてその発育するやまず芽萌を生じ、つぎに茎幹を生じ、つぎに枝葉を生ずるがごとく、華厳は仏教の種実を説きたるものにして、そのうちに大乗の花を成すゆえんのもの存すといえどもただちに花を生ぜず、まず小乗の芽萌を生じ、つぎに大小両乗に通ずる茎幹を生じ、つぎに般若の枝葉を生じ、終わりに極大乗の花を成し実を結ぶに至る。法華はすなわち大乗の花すでに開き終わりて種実を結ぶがごとく、初時華厳の種実に帰せり。故に『華厳経』をもって根本法輪となし、『法華経』をもって摂末帰本法輪となす。法輪とは釈迦の説法をいう、摂末帰本とは阿含等の浅近の諸法を摂取して実大乗の根本に帰入するをいう。なお草木の種実より出でて種実に帰するがごとし。これ仏一代の説法の発達なり、その滅後の発達もまたこの順序による。仏一代の説法は種実のごとく、そのうちにはもとより大乗の花も実も共に存せりといえども、最初に発生したる部分は小乗の芽萌なり、すなわち滅後四百年間小乗ひとり盛んなりしという、これなり。そのつぎに大乗起こり諸宗の分かれたるは、あたかも茎幹を生じ枝葉を生ずるがごとし。すなわちシナ、日本に伝来してより、大小両乗の諸派諸流、数十百に分かれたるをみて知るべし。

 第二三節 かくのごとく考うるときは、仏教は次第に発達して伝来せしや明らかなり。けだしその発達あるは精神の存するにより、精神の存するは活物なるによる。その体すでに活物なれば今後も永く発達すべし。しかるに普通の仏者は必ずいわん、釈迦仏は正像末の三時を説き、正法五百年、像法一千年、末法万年と。滅後の時代を三世期に分かち、仏教の次第に廃頽する順序を予言せり、今はすなわち末法の時なれば仏教次第に衰滅するは必然なり、かつ仏教は進化を唱うるものにあらずして、退化を唱うるものなれば、釈迦仏在世の時はその最も発達したる時にして、その後次第に退歩して今日に至れるなりと。余これに答えて曰く、古来東洋にては退化を唱え、近世西洋にては進化を唱うるは、東西全くその説を異にするがごとしといえども、まず進化退化の解釈、東西おのおの異なるところあるを知らざるべからず。西洋にて進化と称するは、単純一様の事物が変じて複雑多様に移り、その多様の中に諸部分の秩然として存し、その間に連絡あるものをいい、退化とはこの複雑多様の事物が単純一様に帰するをいう。しかるに東洋にては単純一様より複雑多様に移るを退化とし、複雑多様が単純一様に帰するを進化とす。たとえば太古は単純一様の時代なり、今日は複雑多様の時代なり。これを東洋流に解するときは、社会は上古より次第に退化せりといわざるべからず、西洋風に解するときは進化せりといわざるべからず、これただ進化退化の見解の差なり。余が今仏教の発達と称するは、この西洋流の進化の順序をとるものをいう。仏教は歴史上よりこれをみるに、単純より次第に変じて複雑に移りしは明らかなる事実なり。宗派の分かれしゆえん異説の起こりしゆえん、およびその諸宗諸説の間に、自然に区域の判明なりしと同時に関係の密接なりしがごときは、みな仏教の進化発達といわざるべからず。もし東洋の見解に従わば、これ退化なりというべし。

 第二四節 この進化退化の見解を草木の上に考うるときは、種実の発生して茎幹を成し枝葉を成すは、西洋のいわゆる進化発達なり。その茎幹を成すゆえんも、枝葉を成すゆえんも、ことごとく一個の種実中にありて具備せざるはなきをもって、その種実の純一無雑の時をもって最も完全なるものとなすは、東洋流の解釈なり。今これを仏教の上に考うるに、仏一代所説の種実中に大乗小乗、諸宗諸派の原理ことごとく具備せりとみるときは、仏在世の時代をもって仏教の最も完全したる時となさざるべからず。その後一仏教の千枝万葉を分出したるは、そもそも発達の末にして、種実の純一無雑なるにしかずとなすは、従来一般に用うるところの退化説なり。しかるに余が見解は、純一無雑の仏教の種実が社会百般の文物を食物として、これをその体内に摂取し、これをその種実中に包有する原形に変質し、次第に発育して数十丈の大幹となり、幾千万の枝葉を生じたるは、余がいわゆる発達論なり。これを要するに、余がごとく仏教発達論をとるも、従来の解釈のごとく退化説を守るも、ただそのみるところ異なるのみにて、あえてその説の矛盾するにあらざるなり。

 第二五節 およそ事物には必ず表裏二様の関係ありて、表面に発するところのもの少量なるも、表面に含むところのもの多量なることあり、裏面に包有するもの少量なるも、表面に発現するもの多量なることあり。今余がいわゆる発達論は、裏面に包有する勢力の発して表面に現ずるをいう。故にそのすでに発達したるのちは裏面の潜勢力、多少その量を減ぜしは必然なり。もしその潜勢力の最も多量なる時を挙ぐるときは、正法の時期をもって第一とせざるべからず。仏教に正像末の三時を立つるは、けだしこの裏面の見解なり。もし表面の見解によれば、仏教者は多量の勢力の外部に発現するをもって目的とせざるべからず。これ余が発達論を唱うるゆえんなり。かつそれ仏教者は仏教体中にも表裏二様の説あることを記せざるべからず。その表面の説に従えば、仏教は釈尊顕示の教法にして、我人はこれを崇信するより外なしといわざるべからず。裏面の説に従えば、われすなわち釈迦なり、弥勒なり、仏陀なり、今日の末法を転じて正法の時となすも、われにあらずしてだれぞやの識見を有せざるべからず。今余が発達論はまたこの裏面の説によるものなり。世の仏者も退きて自ら信ずるには釈迦顕示の教法とし、進みて世間に対するときは、余と同じく末法を転じて正法となすの気力を発するを要するなり。

 第二六節 人あり問いて曰く、およそ生物の発達するには必ずその定限ありて、進化してその定限に達すれば退化せざるべからず、故に仏教の発達にも定限あるべしと。余これに答えて曰く、生物の発達にはその定限あるも、社会の発達にはあるいは定限なしというものあれども、余は社会の発達にも定限あることを信ずるものなり。仏教中には成住壊空の説ありて、ひとり社会のみならず世界の寿命に定限あることを示せり。これをもってこれを推すに、仏教の発達にも必ず定限あるべし。しかれどもその定限は人類のごとく五〇年ないし一〇〇年の短歳月にあらず、また二千ないし三千年間をもって定寿とする規則あるにあらず、社会の発達する限りは必ず発達することを得べし。しかしてその盛衰のごときは、仏教自然の天性に存するにあらずして、これを弘伝する人にあり。その人よくこれをして順応発達せしむるときは栄え、しからざるときは衰う。故に仏教者は社会の事情を観察してこれに順応する方法を講じ、諸学の栄養を摂取してこれを発育する進路をとらざるべからず。実に今日は哲学のごとき最良の栄養品眼前に存するをもって、数百年来萎靡して振わざる仏教、その生気を回復する好機に会せりというべし。

 第二七節 上来述ぶるところこれを約言するに、余が本書の著あるは真理を愛し国家を護する本心より出でたるものにして、国家と仏教との関係を論述するは「護法活論」に譲り、真理と仏教との関係は正しく本編、すなわち『顕正活論』の目的とするところなり。さきに『破邪活論』を作りしも、これこの目的を達する階梯に過ぎず。今まさしくその論を説くに当たり、まず余は仏教の見解を普通の仏者と異にするところあれば、その理由を示すを必要なりと信じ、ここに緒論の一段を設くるに至れり。普通の仏者は仏教は釈尊自証の法にして世の諸学と関係なきものとなす、余は仏教は哲学の道理に基づきて組織したる智力的宗教となす、これその異なる第一点なり。つぎに普通の仏者は仏教の退化を信じ、あるいはこれを死物視するも、余はこれを活物視し、これに哲学の栄養を与えて、その内部に含有する勢力をして十分に発達せしめんとす、これその異なる第二点なり。故に余がこの編の目的とするところは、哲学の水を仏田に注ぎ、数百年来学問の旱魃によりてまさに枯れんとせし仏教の苗種を回らして、再び生気を発せしめんとするにあり。『顕正活論』の名称、その実を表すというべし。しかして余がここに一言を付せざるを得ざるものあり。上来余が仏教に哲学の栄養を与うるといえる意は、草を化して木とし、仏教を変じて哲学となすの謂にあらず、仏教は仏教なり。ただその仏教中に存する哲学の部分と宗教の部分とを分界し、その両元素の諸経諸論中に散見混同せるものをおのおのその類に従って彙集し、またこれを概括して一貫の理脈を抽出し各部分の関係をして判明ならしめ、仏教体中に一種の有機組織を構成するをいう、すなわち仏教をして一種の系統を有する学に組織するをいう。その組織法に至りては哲学の規則によらざるべからず、これ余が哲学をもって仏教発達の栄養となすというゆえんなり、これ余が講究法の従来の注釈的学風と大いに異なりというゆえんなり。本編は総論、各論の両部に分かち、総論は哲学総論、仏教総論の二段に分かち、各論は有宗論、空宗論、中宗論、通宗論、結論の数段に分かち、まず総論より論述すべし。その第一段にては仏教は哲学中のいかなる部分に位するやを概論し、第二段にては仏教中にいかなる哲理の存するやを総説せんと欲するなり。

 

     第二段 総 論 第一 哲学総論

 第二八節 この一段は哲学総論と題して哲学の組織を略明せんとす。しかして哲学総論を仏教総論の前に掲ぐるは、余が緒論中に示せしごとく、仏教は哲理に基づきて組織したる宗教なれば、仏教の真味を知るには哲学上より入らざるべからざるをもってなり。余が『破邪活論』第一節に、その教理に至りては確固不動、哲理の大磐石の上に立つものにして、理論の激波百方これに当たるも到底破るところにあらずと説きたるは、この理による。かつ余が仏教をみるはこれを一種の活物とし、哲学発達の規則に従って成長発育したるものとなすをもって、哲学を知らざれば仏教の本意を解すること難し、故に哲学総論を第一段に置くなり。余はかくのごとく仏教を哲理上発達的にみるをもって、釈迦の年代つまびらかならず、大乗は仏説にあらず、日本仏教の原書伝わらず等というがごとき駁論あるも、これに答うるを要せざるなり。余は緒論にも論ぜしごとく、釈迦は仏教の種実を与えたるものにして、その種実、インドにありてはインドの発達を呈し、シナにありてはシナの発達を呈し、日本にきたりては日本固有の性質に従って発達してわが国一種の仏教となりたるものなれば、その今日インド、シナの仏教と異なるところあるは、その日本に入りて発達したるゆえんを示すものなり。あたかも同一種の草木の種実が、地味の異なるに従って異なりたる発達を呈すると同一理なり。しかれども松の子は松にして梅にあらず、梅の子は梅にして竹にあらざるがごとく、仏教はインドに発達しても、シナに発達しても、ひとしくこれ仏教にして、ヤソ教にあらず、回教にあらず。その和、漢、インド、三国の仏教が同一の種実より出でたることは、各国の仏教中に一理脈の貫通して存するをみて知るべし。その理脈の存することは、次段に仏教総論を説くに当たりて論明せんとす。これを要するに、余がいわゆる仏教は今日今時わが国に伝わり、各宗共にこれを認めて仏教となすものをいい、その仏教の起源根本となる祖師を釈迦と名付くるなり。しかして余が仏教を称して真理なりというはその説、哲学の道理に合するによる。

 第二九節 宗教解釈 余はこれより哲学の組織を論じて、そのうちに宗教の地位を定めんとするに当たり、まず世界に存する一切の宗教を合類するときはいかなる名称をこれに与うべきやを論じ、つぎに学界に存する諸種の哲学を分類するときはいかなる地位に宗教を置くべきやを定めざるべからず。かくのごとく合類分類することを仏教にては教相判釈という。各宗祖師が一宗を開立せんとするときには、必ず仏一代教を判釈するを要す。これをもって法相宗には有空中三時教の分類あり、天台宗には五時八教の教判あり、華厳には五教十宗の釈義あり。これ仏の一代教に通達する人にあらざればあたわざるをもって、至難はすなわち至難なりといえども、一仏教中のことのみ。今余が判釈はあらゆる宗教、あらゆる哲学に貫通して立つるところのものなればその艱難知るべきなり、いわんや先輩の承伝なきをや。あたかも人跡なき深山幽谷を跋渉するがごとし。しかるに余いささかみるところあり、一切の宗教に通じ諸科の哲学を貫きて一種の新判釈を試みんとす。まず宗教を分かちて智力的、情感的の二種とし、哲学を分かちて有象、無象の二類とし、有象哲学に理論、応用の両学を分かち、無象哲学にも理論、応用の両学を分かちて、智力的宗教学は無象哲学中の応用学とするなり。その表左のごとし。

  宗教 情感的宗教(もしくは感情的宗教)

     智力的宗教

  哲学 有象哲学 理論学

          応用学

     無象哲学 理論学

          応用学すなわち智力的宗教学

 第三〇節 世間普通の見解によるに、宗教を分かちて自然教と顕示教(天啓教)との二種となす。この二者の解釈は第一三節に述べしごとく、人間自然の性力に従って発達したるものを自然教という。すなわちシナの孔孟〔孔子、孟子〕教のごとき、これなり。聖賢の予言、天神の啓示によりて起こりたるものを顕示教という。ヤソ教、ユダヤ教、回教等これなり。仏教はあるいは自然教といい、あるいは顕示教といいて諸説一定せず。しかして余がこの普通の分類を用いざるは、第一に、この分類法は西洋の学者が東洋の宗教を知らずして、ヤソ教を宗教の標準として設けたるものにして、ひとりヤソ教の特色をあらわすに適するをもってなり、第二に、この分類法によるときは、仏教は普通の宗教となりて、世界万世にその比をみざる哲学上の宗教なるを示すことあたわざるをもってなり。故に余は智力的、情感的の分類法を用う。しかしてヤソ教、回教〔イスラム教〕、ユダヤ教、婆羅門教、シナの儒教(もしこれを宗教とすれば)等はみなこれを情感的宗教とし、ひとり仏教をもって智力的宗教とするなり。

 第三一節 智力的、情感的の名称は心理学上より与うるものにして、人の宗教心を分析して心性作用中智力より生ずるものと、情感より生ずるものとの二種となすより起こる。その智力的宗教心に基づくものを智力的宗教と称し、その情感的宗教心に基づくものを情感的宗教と名付くるなり。今その理を明らかにせんと欲せば、心性作用に三種の分類あることを知らざるべからず。すなわち左表のごとし。

  心性 情感(感情とも)

     智力

     意志(意力とも)

これを単称するときは智情意という。智は識別思量する心力を有し、情は感受苦楽する性質を有し、意は発動決断する作用を有す。しかして余が今、智力的と称するものは、識別思量力によりて道理を究明し、理非を弁別して信ずるところの宗教をいう、これ道理上の宗教なり。また余が情感的と称するは、苦楽の状況に従い識別思量を用いず、空中に想出したるそのままを信ずるところの宗教をいう、すなわち想像上の宗教なり。まず世のいわゆる顕示教は余が情感的宗教に属す。なんとなれば、そのいわゆる顕示は余をもってこれをみるに、想像中に現出せるものなればなり。もし真に天神の啓示とするも、これを信ずる人、道理上の究明を待たず、ただちにその心に感受するときはもとより情感的宗教に属せざるべからず。あるいは宗教心は心性作用中一種別類のものにして、情、智と異なるものなりと唱うる人あれども、余はこれを信ぜず。けだしその高等の想像的宗教心は下等の情感の発達したるものに過ぎざるべし。情感は大別して単情、複情の二種となす。複情は一に情操という高等の情なり。その高等の情中に一種の宗教心あるも、これもとより単情の発達に外ならず。また一説に仏教は智力的宗教、ヤソ教は意志的宗教、孔教は情感的宗教となすものあり。かくのごとくヤソ教を意志に配するも、その智力的宗教にあらざること明らかなり。つぎに世のいわゆる自然教も仏教を除くの外は、余はみなこれを情感的宗教中に入るる。たとえば孔孟教のごとき、これを自然教の一種とするも、その教は人情に基づきたる法なれば情感的なること言を待たず。これを要するに、世界中真正の智力的宗教はひとり仏教あるのみ。

 第三二節 しかれども余がこの判釈は各種の大要についての論なり。もし細点を挙ぐれば、ヤソ教にももとより智力的の部分あるべし。かのユニテリアン宗のごときは、ヤソ教の情感的を変じて智力的になさんとするものなり。また仏教中に顕示に属する部分あり。現今諸宗の信者はみなこれを釈迦および祖師の顕示として信ずるなり。かつ仏教中には現に情感的宗教あり。余これを『序論』中に論じて曰く、仏教は聖道浄土の二門ありて、聖道門は哲学の宗教なり、浄土門は想像の宗教なり、語を換えてこれをいえば、一は智力の宗教なり、一は情感の宗教なりと。しかして仏教にこの二門あるはただ外面にその別を示すのみにて、内部に入りては二者ひとしくこれ智力的宗教なり。故に『序論』中にまたこれを論じて曰く、浄土門は情感中に智力の元素を含有したる宗教にして、情感を導きて次第に高等に進むることを得るは必然なりと。すなわち浄土門は聖道門の哲理を骨髄として情感の皮肉を着けたるものなり。しかるにヤソ教は情感的の想像を骨髄としたる宗教にして、その今日道理上の解釈を用うるがごときは智力の皮肉を着けんとするものなり。これを要するに、情感的、智力的の分類はただ各教の骨髄とするところのものについての区別のみ。その皮相までを論ずるに至りては判然たる分界なしといわざるべからず。

 第三三節 仏教中の情感的宗教とヤソ教との別を示すには、更に情感の性質を論ぜざるべからず。情感には単複二種あるをもって、その宗教にもまた二種あり。一は単情的宗教、一は複情的宗教なり。その単情的宗教とは喜情、怒情、恐怖の情のごとき単純の情感より生ずる宗教にして、野蛮人が恐怖心によりて種々の妄想をえがきたるがごとき、全く智力の元素を包含せざるものをいう。複情的宗教とは智情すなわち智力に関する情、徳情すなわち道徳に関する情、美情すなわち美術に関する情のごとき、高等の諸情複合して生ずる宗教にして、想像の宗教なるも、妄想像にあらずして智力のいくぶんを含有するものなり。もし社会進化の学説よりこれをみれば、複情的宗教は単情より発達したるものとなさざるべからずといえども、この二者自らその別あること明らかなり。今ヤソ教はこの複情的に属するも、余がみるところによるに、単情的より発達したるものなり。なんとなれば、その発達の順序、情感的より智力に向かって進まんとするをもってなり。しかるに仏教はその本体智力的なるも、時勢に応じてそのうちより複情的宗教を現出せしものなれば、その変遷の順序、智力より情感に流れたるものなり。これ両教の異なるゆえんにして、余が一を智力的と名付け、一を情感的というゆえんなり。これを要するに、仏教は智力より出でて現に情感智力の両門を開くも、ヤソ教は情感より出でて現に情感の一門を開くのみ。その智力的宗教を組織せんとするがごときは、今日なお未成なれば、その果たして成功するや否やは将来の問題なり。

 第三四節 以上智力的、情感的宗教の解釈を下し、かつ仏ヤ両教の異なるゆえんを述べたれば、これより哲学の組織を略明せざるべからず。これを略明するにさきだちて一言せざるを得ざるものあり。すなわち智力も情感もその大体の性質を論ずれば大いに異なるところあれども、微細にこれを分析すれば判然たる分界なきこと、これなり。けだしその心体一なればなり。故に情感的宗教を論じ尽くせば智力的となり、智力的宗教を論じ尽くせば情感的となり、論理回転してとどまるところを知らず。これをもって智力的仏教中に情感的宗教を現ずるに至れり。かつ余がヤソ教一変すれば仏教に至らんと唱うるもこの理に外ならず。かくのごとく情智その体一なるをもって、あたかも一物に表裏両面あるがごとく、智に存する部分の裏面にこれに相応する情あり、情に存する部分の表面にこれに相応する智あり。仏教中に智情両宗教の存するをみるは、智の宗教の裏面にこれに相応したる情の宗教ありしによる。故に余は『序論』中にそのことを論じて曰く、ただちにこれをみれば、仏教は智力的宗教なるに似たれども、その間におのずから情感の宗味を胚胎するあり、これすなわち釈迦の表面に智力の宗教を説き裏面に情感の宗教を説くによる、故に知るべし、聖道浄土もひとしく表裏両面の関係を有するものなるをと。しかるにヤソ教は情感の一面を知りて、これに相応する智力の一面を知らざるものなり、あるいはこれを知らんと欲していまだここに達せざるものなり。余は今この智情一体、表裏両面の関係を示すに、情感中に存する宗教の元素はひとしく智力中に存するゆえんを述べんとす。これを述ぶるの必要は、世間一般に宗教の元素は情中にありて智中になしと信ずるによる。

 第三五節 宗教の元素とは宗教を組織するに必須の要素をいう。その第一は崇信する本体の現存、第二はその体の一定不変なること、第三はこれを崇信すべき理由、これなり。もし情感上よりこれをみれば、崇信すべき本体は想像上あらかじめその体は真に存在するものと想定し、またその体は恒久不変、確定不動のものと信受するをもって、ただ一心にこれに帰向することを得といえども、智力はこれに反し疑念を本として研究するものなれば、昔日の真理は今日の真理にあらず、今日の真理は明日の真理にあらず、故をもって智力上一定不変の本体を立つることあたわず。したがっていかなる真理といえども、ただ一心に信ずることあたわざるべし、これ普通の見解なり。しかるに深くその理を考うるときは、智力中に宗教の元素あることを発見すべし。第一に智力の疑念を本とするはそのいまだ究竟の真理に達せざるによる。もし諸理を究め尽くして極点に達しまた疑うべからざるに至れば信ずるより外なし。第二に智力上に一定不変の真理なしというは、これまた不変の真理を発見せざるによる。もし不変の真理を発見するに至れば、古今万世にわたりて変化なしと断定することを得べし。第三に智力上に崇信すべき本体なきはそのいまだ研究の途中にあるによる。もし研究し終わりて不変の一体あるを知るに至れば、これを崇信せざるを得ざるべし。故にもし智力研究の結果の上にこれを考うるときは、そのうちに宗教の元素ありて存すること明らかなり。たとえば眼前の事物の種々変化するをみてその理を疑い、道理によりこれを究明せんとするは智力その研究の途に上る時なり、ようやく進みて万象万化の原理に達し、不生不滅の本体すなわち仏教のいわゆる真如の理体の存するを発見し、これより以上一歩も進むことあたわざるは、智力その結果に到着したる時なり。果たしてここに至れば、その本体は一定不変にして我人の崇信すべきものなりといわんのみ。

 第三六節 この理は余が『宗教新論』中に論明せるところにして、智力上に宗教の元素ありというは、哲学中に宗教ありというに同じ。故に今『宗教新論』中に述ぶるところの宗教と哲学との関係を示すべし。まず世間一般に唱うるところによるに、宗教と哲学との異同は第一に、その一は実用を主とし、その二は応用を主とす。第二に、その一は信をもって本とし、その二は疑をもって本とす。第三に、その一は真理を往古に定め、その二は将来に期するの諸点にあり。しかるにこの宗教特有の性質は哲学中にありて存在するをみる。第一に哲学中には理論と応用との二種あれば、哲学の理論を実地に応用すれば宗教となるべし。第二に信にも情感的の信と智力的の信との二種ありて、一は道理分別なくただ一心に信ずるのみの信なり、一は道理を究め論理を尽くしてのち起こる信なり。今、哲学は疑をもって本とするも、ひとたび疑を起こしてその理を究め尽くせば信ずるより外なし、これ智力的の信なり。古来の哲学者おのおの先輩の説を疑い、すでにこれを排して一種の新見を立つるに至れば、自ら信ずるところあるは疑いをいれず。もし果たして自ら信ずるところなくんば、その人に一定の説あるべき理なし。故に哲学中にも信の元素ありといわざるべからず。第三に宗教は真理を往古に定むるの性質あるをもって、述べて作らざるを主とし、いずれの宗旨にてもその教祖の言は万世不易の金言と立つるも、哲学はしからず、真理を将来に期するをもって、先輩の説はこれを疑い、その目的とするところおのおの自ら一真理を発見せんとするにあり。故にその主とするところ、作りて述べざるにありというべし。しかれども哲学者自ら一理を究めて、その得るところ先輩の説と符合するに至れば、なんぞ必ずしもその説を排せんや。かつ諸哲学者は各個一義を唱え異論百出するも、そのうち自ら一定不変の道理ありてだれも疑いをいれざるものあり。たとえば論理の原則、思想の法規のごとき、これなり。原因あれば必ず結果あり、結果あれば必ず原因ありというがごときは、古人の唱うるところと今人の説くところと、毫末も異同あることなきにあらずや。かくのごときは、古人の説を述べて作らずというも、あに不可ならんや。これを要するに哲学中に宗教の元素あること明らかなり。この元素に基づきて組織するもの、すなわち余がいわゆる智力的宗教なり。しかしてその宗教は哲学研究の結果を実地に応用するものならざるべからず、すなわち哲学の応用なりと知るべし。

 第三七節 哲学解釈 以上哲学中に宗教の存すべき理由を述べたれば、これより哲学の義解および組織を示すべし。哲学は普通の義解によるに原理の学となす。語を換えてこれをいえば、事物の原理原則を究明する学なり。その意をつまびらかにせんと欲せば二様の解釈を用うるを要す。その一は研究すべき事物の上に考うる解釈と、その二は研究する作用の上に考うる解釈、これなり。この解釈について哲学と理学との関係を知ることを得べし。まず第一の解釈法によるときは左のごとく断定すべし。

   理学は有形学

   哲学は無形学

つぎに第二の解釈法によるときは左のごとく論結すべし。

   理学は部分の学

   哲学は全体の学、もしくは統合の学

この二者のうち、まず第一の解釈法を述ぶべし。

 第三八節 第一解釈法 そもそも学問の目的とするところのものは目前の事物なるをもって、学問の種類を知らんと欲せば事物に幾種あるを知らざるべからず。およそ宇宙間に現存する事物はその数幾億万なるを知らずといえども、これを合類すれば物と心との二種に総括することを得べし。すなわち物質心性と称するもの、これなり。物質はわれによりて知らるる体にして、被知なり所観なり。故にこれを客観と称す。心性はわが知るところの自体なるをもって、能知、能観なり。故にこれを主観と称す。あるいは客観の一境はわが身外に存するをもってこれを外界と称し、主観の一域はわが心内に現ずるをもってこれを内界と称す。あるいは物界、心界の名称を用うることあり。もし物心の義解を下すときは、物質とは我人目を開きてその前に現ずる有形の諸象をいい、心性とは我人目を閉じてその内に連なる無形の諸想をいうなり。故にあるいは物心世界を分かちて、有形無形の両界に配することあり。今宇宙全界をみるに、この物界心界の外に一事一物なきをもって、宇宙は物心二種より成るということを得べし。しかるにもし進みてその二者の本源実体を考え、およびその関係を究むるときは、物心の外に神の現存を想定せざるを得ざるに至る。すなわち物と心とは全くその性質を異にし、一は有形にして、一は無形なるをもって、物より心を生ずるべからず、心より物を造るべからず。故にこの二者はいかにして生起せしやを知るに苦しむ。かつこの二者はいかにして相和し相合して作用を呈するやを知るべからず。これにおいて物心を造出し、かつこの二者を接合する一種の物心以外のものを立てざるを得ざるに至る。これを神もしくは天神という。故に宇宙は物、心、神、三者より成立するなり。余はこの三者を仮に事物世界の三元と定む。その図上のごとし。

 第三九節 事物世界にすでに物,心、神の三元あるときは、その各元を目的の体として研究するところの学問なかるべからず。すなわち理学、哲学、神学、これなり。理学は物の学なり、哲学は心の学なり、神学は神の学なり。語を換えてこれをいえば、理学は有形の物質を実験する学にして、哲学は無形の心性を論究する学なり。その物質心性の本源実体たる天神を想定して、その規則を事物の上に応用するものは神学なり。要するに理学および哲学は事物の中に存する道理規則を究明発見するを目的とし、神学は天神の定むるところの命令法律を説明解釈してその実地応用を目的とするをもって、前者は究理発明の学、後者は実地応用の学なるの異同あり。故に神学は学と称するよりむしろ教と称するを適当なりとす。以上、理学、哲学、神学の三者を合して、余はこれを学問世界の三元となす。上にその図を掲ぐるをもって、前図と参見すべし。しかしてこの神学の規則を実践躬行するもの、これ通俗の宗教にして、余がいわゆる情感的宗教なり。

 第四〇節 この定義によるときは、哲学は心性の学というに過ぎず。しかるにその心性自体を論究するにとどまらず、いやしくも心性の関するところ、思想の及ぶところ、みな哲学の研究に属さざるはなし。しかして心性の一方を論究する学は心理学と称して、哲学中の一部分なり。その他、純正哲学、論理学、倫理学、社会学等種々の学科あり。故にこの諸学を総じて哲学と称するときは、事物を合類して有形と無形との二種となさざるべからず。すなわちさきに理哲の義解を下して、一は有形の学、一は無形の学と定めしもの、これなり。しかしてこの無形中に有象無象の二種あることを知らざるべからず、これを知るには事物に現象と実体との別あることを述べざるべからず。たとえば心性も無形なり、天神も形質なきをもって、無形なるも二者の間におのずからその別ありて、天神の本体のごときは無形中の無形にして、心性のごときは無形中の有形なり。すなわち心性はその体、形質なきも、あるいは内に動き、あるいは外に発して、智力となり意志となり情感となりてその象を現ず、故にこれを有象に属す。天神はその本体遠く現象の外にありて、我人が認めて天神の現象となすものは、天神そのものの体にあらずして、物心の諸象なり、故に神体は無象に属す。その事物分析表、左のごとし。

  事物 有形(有形質)

     無形(無形質) 有象(有現象)

             無象(無現象)

これを学問に配するときは、理学は有形の学、哲学は無形の学となるべし。しかして神学は、その研究の体は天神なるをもって無形学に属すべき理なれども、その研究の方法は大いに理哲両学と異なるところあるをもって、この中に加えず。もし神学を学術的に研究するときは哲学の一部分となるべし。

 第四一節 無形中に有象と無象の二種あるをもって、哲学中にもこの二種なかるべからず。すなわち心理学のごときは現象ある心性について研究する学なれば、これを有象に属する学とし、純正哲学は無象の神体のごときものを論究する学なれば、これを無象に属する学とするなり。故に前節挙ぐるところの表、これを学問に配するときは左のごとし。

  学問 理学(有形の学)

     哲学(無形の学) 心理学等(有象の学)

              純正哲学(無象の学)

哲学中には心理学の外に論理学、倫理学、審美学、社会学、教育学、政治学等あれども、これみな有象学に属す。その理由は第四四節の下に述ぶべし。

 第四二節 余は第四〇節に神体は無象にして、心性は有象なりと述べたれども、心性の有象なるは心性の実体にあらざることを知らざるべからず。その内に動き外に発するがごとき智、情、意の三者は心性の現象にして、これを心象と称す。心象の外にその本源実体となるものあり、これを心体と称す。心体は我人の知らざるところなれども、現象あれば必ずその本体なかるべからず。あたかも声音あれば必ずこれを発する本体あるがごとし。故に心体あることを論定す。また物質も理学にて研究するところのものはその現象なり、これを物象と称す。物象とはわが感覚上に現ずる色、声、香、味、触の五種の現象をいう。この諸象相合して物質を組成するも、いまだ物質の実体というべからず。しかるに現象あれば必ず実体なかるべからず、あたかも鏡面に影像あれば必ずその実物あるがごとし。故に物象の外にその体あるべしと論定す、これを物体という。この物体と心体とは共に不可知にして無現象なり。また神体の無現象なることは前に述べしといえども、通常世人の認めて神体となすものは、真の神体にあらずして、物心の諸象を神体の上に被らしめたるものなり。なんとなれば通俗の神、すなわち情感的の神は意志を有し思想を有し、はなはだしきに至りては形質を有するをもってなり。故に天神にも現象と実体との二者あることを知らざるべからず。その一を神象といい、その二を神体という。しかして神体の名称は通俗の神と混同せんことを恐れ、哲学上にては理もしくは理体の名称を用うるなり。故に情感的の神は神象にして、智力的の神は理体なりと知るべし。これにおいて純正哲学の研究の目的とするものは物体、心体、理体の三者となる。故に純正哲学中に三種の哲学を分かつ、その表左のごとし。

  (甲) 無象 物体(物質の実体)

        心体(心性の実体)

        神体すなわち理体(天神の実体)

  (乙) 純正哲学 物体哲学

          心体哲学

          理体哲学

更に宇宙の三元を体象の二者に分かち、諸学に配する表を示すべし。

       事物        学問

  宇宙三元 物 象…………………理学

         体…………………純正哲学

       心 象…………………心理学

         体…………………純正哲学

       神 象…………………神学

         体すなわち理体…純正哲学

 第四三節 この表にても知るごとく、心理学は心象の学にして、心体の学にあらず。この心象の応用について論理、倫理等の諸学分かるるなり。その理を知らんと欲せば、まず理論学と応用学との二種あることを知らざるべからず。理論学とは事物の性質作用を論究して普遍一般の規則を考定する学をいい、応用学もしくは実用学とはその規則を実際に応用して人を命令指揮する学をいう。たとえば理論学は甲事物の性質を研究してその規則はかくのごとし、乙事物の作用を研究してその道理はかくのごとしと考定するにとどまり、すこしも人を命令指揮してこの規則に従うべし、かの道理を守るべしと告ぐることなし。これに反して実用学はこの規則に従うべし、かの道理を守るべしと人を命令するを主とす。故に理論学は真理を発見するを目的とし、応用学は世間を利益するを目的とするの別あり、これ両学の異なるゆえんなり。今これを理学の上に考うるに、物理学、純正化学、天文学等は、外界の諸象万化を実究して、その普遍の規則を考定するにとどまるをもって、いわゆる理論学なり。物理の規則を応用したるものに器械学あり、純正化学の規則を応用したるものに製造学あり、天文学の規則を応用したるものに航海学あり。この諸学は理論学において考定せる規則を、実地に応用して人を命令するをもってみな応用学に属す。つぎにこれを哲学の上に考うるに、心理学は心象の性質作用を論究して、その一般にわたる規則道理を考定するにとどまり、更にこれを実際に適用して可否得失を論ずることなきをもって、理論学に属す。これに反して論理、倫理等の諸学は応用学なり。なんとなれば論理学は思想の法規、推論の方式を設けて諸説諸論の可否得失を論じ、人をしてその一定の規則に従わしめんとす、倫理学は道徳上の行為挙動の規則道理を定めてその利害得失を論じ、人をしてその命令に従わしめんとす。これみな人を命令指揮するものなれば応用学というべし。

 第四四節 つぎに心理学と論理倫理等の諸学との関係を述べて、その諸学はみな哲学中の有象学なることを示さざるべからず。心理学は心象の学なれども、心象には情感、智力、意志の三種あり。この各種の性質作用を考定する理論学を心理学とし、この各種の応用を説くものを論理、倫理、審美の三学とす。すなわち心象中意志の応用を説くものは倫論学なり、智力の応用を示すものは論理学なり、情感の応用を論ずるものは審美学なり。故にこの三学は心理学の理論を実地に適合せる応用学なり。その他、教育学の一科あり、これまた心理学の応用なり。すなわち教育学中、智育は智力の応用、徳育は意志の応用、美育は情感の応用を教うるものなり。以上の諸学は主として一個人の上に関する学にして、いまだ一国一社会の上に関する学を説かず。もし社会の上に生ずる現象を論究する学を挙ぐるときは社会学あり。社会学は社会の現象を論究してその規則を考定する学なるをもって、理論学なり。また一国の政治を目的とする政治学あり、これ応用学に属す。しかしてここに一言せざるを得ざるものあり、すなわち社会および国家の現象は有形に似て無形なること、これなり。これを有形とするも、理学の実験を要する事物と大いに異なるところありて、おのずから哲学の論究を待たざるべからず。他語にてこれをいえば、有形と一種異なる無形の現象を有するをもって、これを研究する学を哲学に属するなり。

 第四五節 以上の諸学すなわち心理学、社会学等はみな哲学なるも、これを純正哲学に比するに実体の学にあらずして現象の学なり。しかして純正哲学は実体の学すなわち物体、心体、理体の学なり。故にこの二者を区別するために、現象の諸学の方を実験哲学もしくは形而下哲学と称し、純正哲学を形而上哲学と称するものあれども、余はその一を有象哲学とし、その二を無象哲学とす。しかして無象哲学すなわち純正哲学中には物体哲学、心体哲学、理体哲学の三種あるべし。以上の諸理学と諸哲学を分類して示すこと左のごとし。

  学問 理学 理論学 物理学

            純正化学

            天文学

            その他、地質学、生物学、生理学等

        応用学(もしくは実用学) 器械学

                     製造学

                     航海学等

     哲学 有象哲学 理論学 心理学

                 社会学

             応用学(もしくは実用学) 論理学

                          倫理学

                          審美学

                          教育学

                          政治学等

        無象哲学すなわち純正哲学 物体哲学

                     心体哲学

                     理体哲学

この分類も決して精密なるものにあらず。応用学にしてそのうちに理論学の一半を含むものあり、理論学にして応用を兼ねるものあり、理論学とも応用学とも区分すべからざるものあり。あるいは有象と無象とを弁別することあたわざるものありといえども、余は従来存する諸学を、その主要なる性質に従って、しばらくかくのごとく分類せしのみ。もしその細点を論ずるに至りては、いかなる精密の分類といえども尽くすべからざるなり。

 第四六節 余かくのごとく諸学を分類しきたりて、第一に疑点を起こせしものあり。すなわち理学にも理論と実用との二種あり、有象哲学にも理論と実用との二種ありて、ひとり無象哲学に至りてはただ純正哲学一科あるのみ。しかして純正哲学は理論上、物心理三体の性質規則を考究するものなれば、理論学なること問わずして明らかなり。果たしてしからば無象哲学には理論学ありて応用学なしといわざるべからず。あるいは無象哲学の応用は有象哲学なりというものあるべしといえども、有象哲学中の論理学、倫理学、審美学等、その帰極するところの問題に至りては、純正哲学の定むるところのものを用うるをもって、多少純正哲学の応用と称すべき関係ありといえども、これいまだ直接の応用というべからず。語を換えてこれをいえば、純正哲学において論定せる結果をその無象のまま実地に応用するものにあらずして、ひとたび有象の上に移して応用するものなり。故に余はこれを間接の応用学となす。これに対して直接の応用別に存せざるべからず。第二に余はかくのごとく哲学を分類しきたりて、宗教学はいずれの部に位するやを疑えり。もし宗教学は前に述べしごとく、天神の定められたる規則を説明解釈して、もっぱら人をしてその規則に黙従せしむるを目的とするがごとき神学は、理哲両学の範囲外に置かざるべからずといえども、もしこれを学術上論究するときは一科の学とせざるべからず。これを一科の学とするときは哲学中に加えざるを得ざるは明らかなりといえども、いずれの部位に入るべきやつまびらかならず。すでにして余は仏教を研究して、その教の哲学上の宗教すなわち智力的宗教なることを知り、その中に論究するところのものをみるに、まさしく純正哲学にして、その宗教はまさしく純正哲学直接の応用なることを発見せり。これにおいて純正哲学は理論学にして、その直接の応用は、宗教学すなわち智力的宗教学なることを論定せり。故に前節の哲学分類表、左のごとく変形せざるべからず。

  哲学 有象哲学 理論学すなわち心理学等

          応用学すなわち論理学等

     無象哲学 理論学すなわち純正哲学

          応用学すなわち宗教学(智力的宗教学)

これ余が智力的宗教学の位置を哲学組織中に発見したりというゆえんなり。

 第四七節 もし智力的宗教学は純正哲学の応用とするときは、情感的宗教学はいずれの部分に位すべきや。これを単に経文の解釈にとどまるとするときは神学の部に入るべしといえども、学理に照らして研究するときは一科の哲学となさざるべからず。しかるに余がみるところによるに、情感的宗教学は情感の応用なれば有象哲学中の応用学に属すべし。なんとなれば、情感の神は一個人たる意志を有し思想を有し情感を有するをもって、神体にあらずして神象なればなり。この神象を論究する学は有象哲学に属さざるべからず。かつ宗教は一般に応用を目的とするをもって、その学は応用学に属さざるべからず。これに反して、神体すなわち理体を論究してその理を応用する学は無象哲学に属す。これ余が智力的宗教学を無象哲学の応用とするゆえんなり。左に宗教学の分類を示すべし。

  宗教学 解釈的(いわゆる教)神学すなわち神象の教

      論究的(いわゆる学) 情感的宗教学すなわち神象の学

                 智力的宗教学すなわち神体の学

かくのごとく分類して神体の学を純正哲学の応用となすときは、ヤソ教も仏教と同じく智力的宗教ならざるべからずというものあらん。余これに答えて曰く、ヤソ教の天神の解釈、もし一個体たる神象を離れて普遍平等の理体をとるときは、これを智力的宗教の一種となさざるべからずといえども、ヤソのごとき一定の形質を有してこの世に生まれたるものをもって神の子とし、意志、目的、愛憎の情を有して世界を創造したるものをもって神の父とする以上は、神象の宗教すなわち情感的宗教を免るべからず。しかしてヤソ教中にも個体的の神象を脱して普遍的の神体を立てんとするものあるをみる。かつ哲学者が学理上論究するところの神は、余がいわゆる理体にして、情感的の神象にあらず。故に余はヤソ教も他日一変して智力的宗教となるべしというも、今日のヤソ教は純然たる情感的宗教なり。かつその近来哲学者が神体を論ずるがごときも、ただこれを論究するにとどまりていまだその応用を示さず。語を換えてこれをいえば、いまだ宗教を組織するに至らず。故に余は智力的宗教は世界中ひとり仏教あるのみというなり。

 第四八節 余が仏教をもって世界不二、万国無比の宗教となすゆえんは、ただその教の智力的神体すなわち理体を立つるのみをいうにあらず、三千年古に起こりたる宗教が今日の哲理に符合するのみをいうにあらず。その組織全く純正哲学の応用にして、西洋学者が哲学上宗教を組織せんことを求めていまだ得ざるものを、釈迦は三千年の太古においてすでにこれを組織せりというにあり。純正哲学中には物体哲学、心体哲学、理体哲学の三種あるをもって、その応用の宗教にもこの三種なかるべからず、物宗、心宗、理宗、これなり。しかるに仏教はこの三種をもって組織せり。すなわちそのうちのいわゆる有宗、空宗、中宗、これなり。この有宗と物宗とは同一ならざるの感ありといえども、空宗と中宗とは正しく心宗、理宗なり。故に更に無象哲学の分類表を挙ぐべし。その表中、宗教学とは智力的宗教学をいう、あるいは純正哲学の三種を客観論、主観論、理想論とし、もしくは有宗論、空宗論、中宗論となすも不可なし。

  無象哲学 理論学すなわち純正哲学 物体哲学(客観論)

                   心体哲学(主観論)

                   理体哲学(理想論)

       応用学すなわち宗教学 物宗学すなわち有宗学

                  心宗学すなわち空宗学

                  理宗学すなわち中宗学

この有宗と物宗と同一なるゆえんは仏教総論に入りて述ぶべし。これを要するに、仏教は純正哲学の応用なること明らかなり。これ余が仏教を論じて哲学上の宗教とし、仏教を研究するものは哲学を研究せざるべからずというゆえんなり。

 第四九節 第二解釈法 以上は哲学第一種の義解に基づきて哲学の組織を略明し、仏教はいかなる部分に位するやを示したるものなり。しかるにこれより第二種の義解に移り、哲学は統合の学なるゆえんを説明せんとす。これを統合の学というは諸理学に対して唱うる名称にして、諸理学は部分の学なり。およそ理学と称するものは種々様々の事物について研究を施し、その間に秩然として存する条理を組織して、系統を有する学を構成するをいう。たとえば物理学、化学、生物学、天文学、地質学、生理学等みな理学なり。物理の範囲内に秩序の立ちたる学問起こるときはこれを物理学とし、生物の区域内に成系の学問起こるときはこれを生物学とす。天文、地質等おのおのその部内において学理を組織して一学を成すものなり。しかるにこの諸学は、みな宇内の事物の一部分を実究して一部分の規則を考定するに過ぎず。たとえば生物学は生物の規則を考定するも天文の規則を考定するにあらず、天文学は天文の理法を実究するも地質の理法を実究するにあらず。物理学はその学の専門とする部分あり、化学は化学の目的とする部分あり。化学について物理学を知るあたわず、物理学について化学を定むるあたわず。かくのごとく諸学みな分業専門の方向をとるときは、これを統轄総合する学なかるべからず。しからざるときはただ事物一部分の真理を知るのみにて、宇宙全体の真理を知るべからず。しかるに哲学は宇宙全体をもって目的とし、その間に存する万有万物の真理原則を考究する学問なれば、生物一方の学にあらず、物理一方の学にあらず、化学も天文も地質も生理も、これによりて考定するところの規則はみな哲学の規則なり、これより与うるところの材料はみな哲学の材料なり。哲学はこの諸規則材料を柱礎として万学諸理を完結し、もって宇宙全体の学を組立するものなり。故にこれを統合の学もしくは全体の学という。

 第五〇節 今、統合学の必要および理学哲学の関係を知らんと欲せば、学界の組織を政府の組織に比考すべし。もし学問世界を一国の政府に比するときは、学問中に部分の学、統合の学の別あるは、あたかも政府中に地方政府と中央政府との別あるがごとし。一理学の規則をもって宇宙全体の規則となすべからざるは、あたかも一地方の事情をもって、一国全体の事情となすべからざるがごとし。もし一国全体の事情を知り一国全体の規則を立てんとするときは、地方政府を統合したる中央政府なかるべからず。中央政府の必要なるは地方政府の存するにより、地方政府あれば必ず中央政府あるを要す。これに準じて、理学あれば必ず哲学なかるべからざるゆえんを知るべし。もし人あり問いて曰く、哲学はなにをその研究の材料とするや。余これに答えて曰く、そもそもこの両学の関係はすこぶる密接にして、一を離れて他を全うすべからず。たとえば中央政府は地方政府より報告奏達するところのものをもってその材料とするがごとく、哲学は諸理学において考定したる規則をとりてその研究の材料とす。しかしてまた地方政府は中央政府の布達したる法令をとりてその規則とするがごとく、諸理学は哲学において論定したる規則をとりてその原則とす。今その一例を挙ぐれば、哲学上にて万有万象の実体は不生不滅ならざるべからずと論究するは、物理学において考定したる勢力恒存の理法,化学において考定したる物質不滅の規則を統合せるにより。かつその実体の進化を説くがごときは、生物学にて考定したる動植進化の天則を論拠とするによる。これに反して物理、化学等の実験の法則および推理の方式のごときは、哲学においてこれを考定しその論理学中に演繹、帰納の二種あるは、みな諸理学に必須の規則なり。しかしてその演繹帰納の原理原則に至りては純正哲学の論定するところなり。かつ諸理学の目的とするところの物質そのものの実体いかんを論究するがごときも、またもとより純正哲学の問題なり。故に哲学は理学を待ち、理学は哲学を待ち、二者相助けて始めておのおのその目的を全うすることを得るゆえんを知るべし。あたかも中央政府は地方政府を待ち、地方政府は中央政府を待つと同一般なり。

 第五一節 以上挙ぐるところの哲学すなわち統合の学とは、主として哲学中の純正哲学を意味するものにして、心理学、論理学、社会学等は統合の学に対するときは理学の中に入れざるべからず。なんとなれば、心理学は心性一部分の学、論理学は論理一方の学なればなり。しかして心理論理等を、さきの物理化学等に区別するために、理学中に無形的理学と有形的理学との二種を分かつ。その表左のごとし。

  学界 部分学 有形的理学 物理学

               化学

               生物学

               天文学

               地質学等

         無形的理学 心理学

               論理学

               倫理学

               審美学

               社会学等

     統合学(純正哲学)

 第五二節 しかるに通常一般に理学と称するものは、この有形的理学にして、無形的理学は哲学中に入るるなり。これ無形的理学はその研究の体無形なるをもって、その研究の方法大いに有形的理学に異なるところありて、かえって純正哲学と一致するところあればなり。すなわち無形的理学はその規則を考定するに、直接にその体について実験を施すことあたわざるをもって、有形的理学において考定したる規則を統合してその規則を組成するによる。しかしてまた無形的理学において考定したる規則は有形的理学の原則となるものなり。すなわち心理学のごとき、論理学のごときは、みな有形的理学実験の規則方式を考定するにあらずや。故に無形的理学は純正哲学と同様に諸理学を統合する作用あり。これ無形的理学を哲学中に加うるゆえんにして、これを統合学の一部とせざるべからざるゆえんなり。よって前表左のごとく変形せざるを得ず。

  学界 部分学すなわち有形的理学 物理学

                  化学等

     統合学 無形的理学 心理学

               論理学等

         純正哲学

この表によりて考うるときは、部分学すなわち有形的理学は地方政府にして、統合学すなわち純正哲学および無形的理学は中央政府となり、中央政府中無形的理学は諸省に当たり、純正哲学は内閣に当たるべし。語を転じてこれをいえば、無形的理学は有形的理学を統合し、純正哲学は有形無形、両理学を統合するなり。あたかも中央政府中諸省は地方政府を統合し、内閣は諸省および地方政府を統合するがごとし。

 第五三節 かくのごとく考うるときは、第四五節に示すところの学問の分類表と前表と同一に帰すべし。故にこの表について、有形的理学と無形的理学と共に理論と応用との二種あること明らかなり。また純正哲学にも理論と応用との二種あるべきは自然の理なり。しかして智力的宗教学はいずれの地位にあるかを考うるときは、純正哲学の応用に属すべきは第四六節に論ずるところのものとなんぞ異ならんや。故に宗教学、すなわち余がいわ

  学界

  部分学すなわち有形的理学(単称理学) 理論学 物理学

                         純正化学

                         天文学等

                     応用学 器械学

                         製造学

                         航海学等

  統合学すなわち哲学 無形的理学(有象哲学) 理論学 心理学

                            社会学等

                        応用学 論理学

                            倫理学

                            政治学等

            統合哲学(無象哲学) 理論学すなわち純正哲学 物体哲学

                                   心体哲学

                                   理体哲学

                       応用学すなわち宗教学 物宗学

                                  心宗学

                                  理宗学

ゆる智力的宗教学は、諸有形および無形的理学を統合したる学界中の内閣の応用学なりと知るべし。更にその関係を明らかにせんために、右に学界の全表を掲げて、第一三表〔五三頁〕と第一八表〔六〇頁〕とを配当せるものを示すべし。

 第五四節 余が第三七節に哲学に二種の解釈法あるを述べたるもの、ここに至りてその二者の同一に帰するを知る。すなわち宗教学は純正哲学の応用なるの点に至りては、前後一致したるものというべし。しかしてその応用は直接の応用にして、もし広く間接の応用を挙ぐるときは、あらゆる有形無形の理学みなその応用ならざるはなし。かくのごとく宗教学をもって直接の応用となすは、余が理哲諸学を概括して論定せるところなり。しかしてのち仏教を閲するに及び、仏学は正しくこの純正哲学の応用なることを発見せり。この応用学と仏教との関係を知るには、学と術との別を説かざるべからず。仏教は宗教なり、宗教は学にあらず。理論上宗教の真理を考究し、応用上その規則を論定するものは学なり。これを宗教学もしくは哲学という。しかして宗教学ただちに宗教にあらず。宗教とは宗教学において考定せる規則を、実地に施行して実際上一組織を開くものをいう、すなわち実践躬行の組織なり。故に余はこれを術といわんとす。これを術と名付くるは学にあらずして実行なるによる。もし人ありてその術はいかなる術なるやと問わば、余はこれに答えて、安心立命の術なりといわんとす。仏教の上にてこれをいわば、転迷開悟の術、断障得果の術、もしくは脱苦得楽の術といわんとす。その意この術をその身に履行するときは必ず安心立命、転迷開悟の結果を得べしというにあり。しかして人もしこの目的をただに一身の上に履行するのみならず、衆人の上に実施し同志同感の者、協同して一教会を組立するときは、これいわゆる宗教の組織を開くものなり。その組織を開くがごときは広く宗教の目的を達せんとするの意に外ならず。しかしてこの目的を達するには種々その身に履行すべき規則方法あり。その規則を指示しその方法を論定したるものは宗教学なり、これを応用学という。すなわち人を命令指揮する学なり。これを要するに、宗教は術なり、宗教学は哲学中の応用学なり、その学の原理を究明するものは哲学中の理論学すなわち純正哲学なり。他語にてこれをいえば、純正哲学において考定したる真理に基づきて、その応用の規則を指示したる学は宗教学なり、この宗教学を実地に施行する術は宗教なりというにあり。これによりて仏教は学なるや術なるやを判知すべし。

 第五五節 前節論ずるところによりてこれをみるに、仏教は宗教なること明らかなるも、その学はひとり宗教学にとどまらず、純正哲学と宗教学を兼ねたるものなり、理論学と応用学を合したるものなり。その学中仏教の真理を究明する部分は、理論学なり、純正哲学なり。その修行の規則階級を論述する部分は応用学なり、宗教学なり。たとえば小乗にては人身を分析して、我と称すべき実体なきを論明し、万象を組成せる諸元の体はひとり恒有なりと証示したるは純正哲学なり。大乗にて森羅の諸象は識心を離れて存するにあらずといい、一切諸法は一心の中に具するというがごときは純正哲学なり。この理論上の道理に従い宗教の目的を達するには、修行の規則あり昇進の階級ありて、仏道を修習する方法を指示したるがごときは宗教学なり。故に仏教学は無象哲学中の理論応用二門を兼備せるものなりというべし。これによりてこれをみるときは、仏教は哲学上の宗教にして智力的宗教なること瞭然たり。もしこれを情感的宗教に比するときは、その懸隔同日の論にあらざるなり。

 第五六節 上来論述するところこれを帰結するに、宗教には情感的智力的の二種あり。神象を本体として立つる宗教は情感的なり、神体すなわち理体を本体として立つる宗教は智力的なり。智力的宗教は哲学上の宗教にして、これを論究する学は哲学中の一部分なり。顧みて哲学の組織をみるに、これを無形の学とするも、これを統合の学とするも、哲学中究竟の問題を考定するものは純正哲学にして、その学は広く万般の問題の結帰する最後の大問題を論定するを目的とし、最後の問題は物心理三者の実体を究明するに外ならざれば、純正哲学分かれて物体心体理体の三哲学となるべし。この三哲学の原理を間接に応用するものは有形無形の諸学なれども、直接に応用するものは宗教学なり。すなわち余がいわゆる智力的宗教学なり。顧みて仏教をみるに、その学はすなわちこの純正哲学と宗教学とを兼有せるものなるを知る。たとえば仏学すなわち仏教哲学は理体を証明するを目的とするも、物体心体をあわせて考究し、かつこれによりて組織したる有宗空宗中宗の三部あり。これまさしく純正哲学直接の応用といわざるべからず。しかしてこの応用は西洋今日の学者が組織せんことを求めて、いまだあたわざるものにして、東洋にありては三千年古早くすでにその応用ありしをみる。これ余が仏教を智力的宗教とするのみならず、古今不二、万国無比の宗教とするゆえんなり。しかしてヤソ教のごときは情感的宗教にして、今日これを哲学上にて論究する一科、すなわち宗教学なるものあるも、ただ情感的の性質を維持せんとするにあるをもって、心理学の応用学となすべきも、いまだ純正哲学の応用学となすべからずというにあり。

第五七節 以上総論第一を説き終わり、これより第二を論述するに当たり更に一言を要することあり。普通の仏教者は余がかくのごとく仏教を分解して哲学の組織に比するをみて、これ仏教の名誉を害するものなり、仏教の声価を損ずるものなり、仏教は釈迦新発明の宗教にして哲学の部類に入るべからざるはもちろん、全く哲学の外に立ち世の諸学の上に超然として孤立せざるべからず、これを哲学の上に考えて、仏教の有空中とは哲学の物心理なりと評するときは、仏教の仏教たる特色を失うものなり、仏教あに哲学と比較すべけんやと。余はこの論のいずれの意に出づるやを知るに苦しむ。仏教は真に声価を有するもの、実に特色を有するものなるときは、これを諸学に比較してのち始めてその真価本色を発現すべきなり。もし比較することなくして、仏教は諸学の上に超然たるものとなすも、これ自信自許にとどまるのみ。回教者は必ずいわん、わが教ひとり真正なりと。ヤソ教者は必ずいわん、わが教ひとり完全なりと。もしこの間に真非を判ぜんと欲せば、その自信自許するところのもの果たして真なるやを、諸学の上に考えざるべからず。なんとなれば、諸学において真理とするところも、仏教において真理とするところも、同一にして真理に二致なければなり。もし世界の人ことごとく仏教の信者ならば、あえてその真理を仏教以外の諸学の上に考うるを要せずといえども、世間みな仏教の敵なり、仏教を信ぜざるものは信ずるものより多し、この信ぜざるものに対して仏教の真理を証明せんと欲せば、仏教は真理なりと自信自許するもいずれの功あらんや。必ずその理を広く諸学の上に考定せざるべからず、そのこれを考定するはすなわち仏教の真価本色を現示するものなり。これ余が仏教と哲学とを比較するゆえんなり。これを比較して純正哲学の応用なるを知るに至りて、始めて仏教の特色世間に発現し、世人をして釈迦新発明の妙法なることを覚了せしむべし。しかして余が仏学中にも物体心体理体の三哲学ありというも、その説、欧米学者の論ずるところのものと寸分も相違なしというにあらず。たとえば物体を論ずるにも、欧米には欧米一種の説あり、仏教には仏教一種の説あり。これ二者のその起源および発達を異にするゆえんなり。故に仏教を哲学の上に比考するは、ますます仏教の声価を高くするものにして、これを自許するがごときは、かえってその特色を害するものなり。また普通の仏者、別して浄土門に属する人は、余が宗教を智力的、情感的の二者に分かち、仏教中の聖道門は智力的宗教にして、浄土門は情感的宗教なりというを駁して、これ浄土門を擯斥する論なりという。余が浄土門を情感的となすは、その情感的の形をとるをもってなり。しかして余は浄土門はその本体、智力的宗教にして、その外面に情感的の形象を現示したるものなれば、ヤソ教の情感的とは大いに異同あることを明言せり。これ決して浄土門を擯斥するにあらず、かえって称揚するなり。けだし人の性質一ならず、賢あり愚あり利鈍あり、この千差万別の群生を漏らさず済度せんとするは仏陀の本心なり。故にあるときは智力的宗教の本身をあらわし、あるいは情感的の形象を現ずるも勢いのやむべからざるものなり。なお仏陀が衆生を救助せんために応身を現ずると同一理なり。これをたとうるに仏教中に情感的の部分あるは、あたかも智力的身体に情感の衣類を装うに異ならず、あるいは小児に薬を与うるに砂糖を交ゆるがごとし。衣類は身体の外なるもこれを着するにいずれの不理あらんや、砂糖は薬の外なるもこれを添うるもいずれの害あらんや。かつ仏教は深くその本体を究むるに、智力の表面と情感の裏面と相合して成るものなり。智力的も情感的も、その体一にして二ならずというは、余が哲学上の論にして、あたかも一物体に表裏両面を並存するがごとし。この両面を並存するもの、ひとり完全の宗教というべし。しかるにヤソ教のごときは情感的一面を有するものなり。その今日智力的の形象をとるがごときは情感的の身体に智力の衣類を装うに異ならず。この二教の異同はのちに至りて知るべし。

 

     第三段 総 論 第二 仏教総論

       第一小段 緒 論

 第五八節 前段は哲学総論を述べたれば、これよりまさしく本編の目的とする仏教総論を説くべし。この総論を初中後の三分段に大別し、初分段は仏教総論の緒論とし、中分段は同本論とし、後分段は同結論とするなり。しかしてまた緒論を二分して、前後二項とす。前項には哲学総論の結果と仏教哲学の組織と符合するゆえんを論じ、後項には『破邪活論』の結論と本編の総論と連続するゆえんを弁ずべし。今この緒論を説くに当たり、まず余が仏教とはインドの仏教をいうか、日本の仏教をいうか、仏教総体を指すか、一宗を指すかを一言せざるべからず。余は緒論中に説明せるがごとく、仏教を活物視するをもって、釈迦在世の仏教と日本現今の仏教と外面上異なるところあるべしといえども、その異なるは仏教のシナ、日本を経て発達したるゆえんにして、その精神に至りては前後を貫きて一脈の連続するものあるを知る。余はこれを時間上、一脈の精神ありという。故に今余が論ずるところは、わが国今日の仏教を目的とするものなり。もし人その仏教はインド今日の仏教と異なりといわば、余はこれに答えて、余が論ぜんとする仏教は、インドの地において退化したるものにあらずして、わが国に入りて発達したる、いわゆる日本固有の仏教を目的とするなりといわんとす。つぎに宗旨はいずれをとるかというに、余は今日わが国に現存する諸宗諸派を総括して仏教と称するなり。故にその論、一宗一派を標準とするにあらず。しかしてこの諸宗諸派の間にまた一脈の精神ありて貫通するをみる。余はこれを空間上、一脈の精神ありという。かくのごとく仏教は三千年の星霜を経て数宗派に分かれたるも、時間上空間上、共に一脈の精神ありて互いに経となり緯となり、縦横に交渉するをもって、今日わが国に現存する諸宗派を総摂して一仏教と称することを得るなり。

 第五九節 現今わが国に存する仏教は、学問上よりみると、宗旨上よりみると、多少異なるところあり。宗旨上よりみるときは現今存するもの一二宗あり。法相宗、華厳宗、天台宗、真言宗、臨済宗、曹洞宗、黄檗宗、浄土宗、真宗、融通念仏宗、時宗、日蓮宗なり、これみな大乗宗なり。仏学上より研究するときは大小両乗あり。『八宗綱要』に載するところの宗名を挙ぐれば、小乗宗中に倶舎宗あり、成実宗あり、律宗あり、大乗宗中に法相宗あり、三論宗あり、天台宗あり、華厳宗あり、真言宗あり。この大小八宗は昔時みなわが国に伝わりしも、今時はそのうち存せざるものあり、ただ学問上にて講究するのみ。今余が仏教として論ずるところのものは、大乗小乗を兼ね、この八宗を総称するものなれども、余はこれを有、空、中の三宗に分かち、有宗は小乗を義とし、空宗は権大乗を義とし、中宗は実大乗を義とするなり。大乗中に権、実の別あるは、仮大乗、真大乗というがごとく、一は大乗の初門、一は大乗の極門をいうなり。また権大乗を三乗教と称し、実大乗を一乗教と称することあり、その理由はのちに至りて述ぶべし。しかして有宗論にては主として『倶舎論』の教義を論じ、傍ら『成実論』を説き、空宗論にては主として法相宗を論じ、傍ら三論宗を説き、中宗にては主として天台、華厳両宗を論じ、傍ら真言宗を説くべし。かくのごとく有空中三宗を論じ終われば、更に仏教中の情感的宗教に論及すべし。情感的宗教は浄土宗、真宗、時宗等をいう。仏教にて浄土門と称するもの、これなり。有空中三宗は余がいわゆる智力的宗教にして、仏教にて聖道門と名付くるもの、これなり。その表左のごとし。

  仏教 智力的宗教(聖道門) 有宗(小乗)

                空宗(権大乗)

                中宗(実大乗)

     情感的宗教(浄土門)

この聖道浄土の外に、禅宗日蓮宗あり。この二宗は浄土門よりみるときは共に聖道門なるべしといえども、その性質やや有空中三宗と異なるところあれば、これを浄土門に合し、これに通宗の名称を与うるなり。通宗とは通俗に適する義にとるも、通解しやすき義にとるも不可なし。故に本編は左のごとき宗名を用い、総論各論共にその順序に従って論及すべし。表中の理宗は有空中三宗を通宗に区別するための名目なり。

  仏教 理宗 有宗(倶舎宗ならびに成実宗)

        空宗(法相宗ならびに三論宗)

        中宗(天台宗、華厳宗ならびに真言宗)

     通宗 禅宗 臨済宗

           曹洞宗

           黄檗宗

        日蓮宗

        浄土諸宗 融通念仏宗

             浄土宗

             真宗

             時宗

この表中、三論宗は実大乗に入るべき点あれども、余は権大乗法相宗に付属するなり。また有空二宗中におのおの有空二門を分かつことあり。左表について知るべし。

  理宗 有宗 有門(倶舎宗)

        空門(成実宗)

     空宗 有門(法相宗)

        空門(三論宗)

     中宗(前表のごとし)

 第六〇節 哲学総論の結果 これより前段の結果と本段の旨趣との関係を述ぶるに当たり、まずこの仏教の有空中宗論と、かの哲学の物心理体論と同一なるゆえんを説明せざるべからず。純正哲学の分類は学者の見解に従って種々の名目を立て、あるいは客観主観理想の三論といい、あるいは唯物唯心唯理の三論といい、あるいは一元二元同体の三論といい、あるいは空理常識折衷の三論といい、その名称おのおの異なるも、その義理に至りては大同小異なり。まず物体哲学は客観の物質を目的とするをもって客観論に属し、心体哲学は主観の思想を目的とするをもって主観論に属し、理体哲学も理想論も同一なり。もしその論の極端を挙ぐるときは、物体論は唯物となり、心体論は唯心となり、理体論は唯理となるべし。唯物、唯心は物心二元中の一元のみを立つるをもって一元論といい、物心二元を立つるときは二元論というなり。しかして同体論は二元一元を合同したる論にして,一元にして二元を存し、二元にして一元を離れざる理想の体を立つるものなり。これを二元一元同体論というべし。もし常人の智識に考えて物心二元並存すと唱うるときは、これを常識論という。常識以上、形象而上の哲理をとりて、心の外に物なし、理の外に物心なしと立つるがごときは空理論なり。この空理と常識とを接合してその中を立つるものを折衷論という。かくのごとく諸説おのおのそのみるところに従いて名称を異にするも、余は物心理三体哲学をとりて純正哲学の部類となせり。なんとなれば、物心理は宇宙の三大元なれば、世界に存するあるゆる万象万化、一としてそのうちに入らざるはなく、いずれの点より論を起こすも、必ずこの三大元の本体いかんに至りてとどまればなり。そのうち物体哲学は通常単に実体哲学の語を用うるも、余は心体哲学に対して物体哲学と称せり。あるいはこの三哲学を客観主観理想の三論に配するも、その意義同一なりと知るべし。

 第六一節 これ純正哲学の分類なり。仏教にはもとよりかくのごとき名目なしといえども、そのうちに存する有空中三宗論はまさしくこの三哲学に配当すべきものなれば、余は物体哲学を有宗論とし、心体哲学を空宗論とし、理体哲学を中宗論とす。まず有宗論は小乗の説にして、これを倶舎論の上に考うるに、諸物諸境の原理を論じ、種々の元素相合して万象万化を現ずるゆえんを説くものなり。人身のごときも諸元相合して一時その形を現ずるのみにて、その諸元を解散すれば別に「我」と称すべき人体なし。あたかも木石を集めてこれを構造すれば屋舎の体を現ずるも、木石を解散すれば別に屋舎と称すべきものなきがごとし。これを人我の体は空にして実有にあらずという。しかして人我の体を構成せる諸元の実体に至りては、真に存するものにして空にあらずという。故に余は『序論』中に倶舎は、我人の身体は若干の諸元より成り、その諸元を離れて別に我と称すべきものなしと立つれども、その諸元の実体に至りては真に存せりという。故に倶舎は我境の実体なきを証示すれども、いまだ我境を組成せる諸元の実体なきを証明せず。これを仏教にては我執を空して法執を空せずという。すなわち我執とは我境の実体真にありと固執するをいい、法執とは我境を組成せる諸元の実体真にありと確信するをいうと説けり。この諸元の実体真にありと立つるを法体恒有説と名付く。法体恒有とは万有万象の本体真に存するという意なり。故に余は『破邪活論』において、この説を理学に唱うるところの物質不滅、勢力恒存の理法と一理に帰するものとなせり。これによりてこれをみるに、小乗倶舎論は法体哲学と称せざるを得ず、これを哲学に配すれば、実体哲学なり、物体哲学なり。物体と法体との別は、そのいわゆる法体とは物心二元の体をいい、物体とは一元の体をいうにあり。しかれども、これただ一様の見のみ。およそ物体哲学と称するは、万象哲学もしくは万有哲学を義として、広く万象万有の本体をいうなり。いやしくも宇宙間に存在して「有」と称すべきものはみな物体哲学の部に入らざるべからず。故に物体哲学とは万有実体哲学の義なり。しかるに余がこれを物体と定めたるは心体に対してその名を設けたるのみ。しかしてこの哲学を論究するに当たりては学者おのおのそのみるところを異にして、あるいは客観上よりこれを論じ、あるいは主観上よりこれを論じ、あるいは物心二元上よりこれを論ず。これただ、物体を解釈する見解の異なるのみ。これを総称するときは万有哲学すなわち物体哲学というべし。今倶舎宗の物体すなわち万象の本体を解釈するや、大いに欧米諸学の説と異なるところあるも、これを配当するときはもとより万有哲学の部類なり。もし物体哲学の極論を挙げて比考するときは、倶舎は唯物論といわざるべからず。唯物論と倶舎論とはある点は同一に帰し、ある点は全く相反す。その同点は万象万化は諸元の集散分合より成るというにありて、その異点は諸元中に物心二元を設くるにあり。しかれども古代の唯物論者すなわちギリシア時代の唯物論者中には物心二元を立つるものありて、物には物の元素あり、心にもまた心の元素あり、物心共に元素より成り、元素の集散によりて変化を呈すといえり。また今日の唯物論者中にも柔順なるものと過激なるものありて、その過激なるものも全く有形の物質より心を生ずというにあらず、有形的物質と無形的勢力との二種を分かち、人の肉身は物質より成り、精神は勢力より成るという。これ物力二元論というべし。倶舎の論ずるところはもとよりこの二元論と異なるも、ギリシアの唯物論には似たるところなきにあらず。しかるにその性質をいえば、倶舎は世の唯物論を去りて大乗の唯心論に入らんとするものなれば、もとより世の唯物論と異なるところあるべしといえども、もしこれを万有の本体を論ずる哲学とするときは物体哲学の一部に入らざるべからず。しかれども倶舎ひとり物体哲学なるにあらず。当時仏教外の諸流数十種あり、これを外道と称す。大抵みな物体哲学なり。しかして外道の論中には、あるいは地をもって万物の原理とし、あるいは水をもって万物の原理とし、あるいは火を原理とし、あるいは虚空を原理とするがごときものありて、大抵客観上の立論なり。これに反して倶舎は主観上より論下し、主観的哲学の一部分を組成するに至れり。故に余は倶舎宗を外道諸派に分かたんために、前者を主観的物体哲学、後者を客観的物体哲学といわんとす。そのいわゆる主観的物体哲学とは物心二元の上に万象万有の本体を立つるをいうなり。

 第六二節 つぎに心体哲学とは心性思想の本体を論定して、その上に万有万境の生起現立することを証示する哲学にして、仏教の空宗論、これなり。空宗論とは権大乗法相宗の唯識論を義とす。この論は小乗の法体哲学に反して、我境を構成する諸元の体も実有にあらず、「一切万法はみな識心なり。」(一切万法皆識心)の作用によりて生起し、識心を離れて別に万象万有の実体なく、その実体すべて空なりと立つるをもって空宗の名あり。またこれを『序論』中に法相の唯心論はこれを小乗の諸宗に比するに、我境を空なりとしかつ我境を組成せる諸元の体を空なりとし、いわゆる我法二執を空滅して唯識所変の理を証立するをもって、これを空宗とするなりと論ぜり。しかして識心の体に至りては真に存するものと立てて「森羅万象はただ識の変ずるところなり。」(森羅万象唯識所変)と説き、あるいは「心の外に別法なく、三界はただ識のみなり。」(心外無別法三界唯識)と談ずるをもって唯識宗の名あり、すなわち識体哲学なり。余はこれを純正哲学に配当して心体哲学という。しかしてこの法相の心体哲学は人々各別の唯識を立つるをもって相対的唯心論というべし。これに対して『起信論』の心体哲学あり。これ絶対的唯心論にしてその心体は絶対の理想なれば、これを実大乗の一部分として理体哲学の部に入るべし。

 第六三節 つぎに理体哲学とは物にもあらず、心にもあらず、物心の実体本源となるべきものを立つる哲学をいう。そもそも理体は一に理想と名付く仏教の法性真如、これなり。その体、物にもあらず、心にもあらず、有宗哲学の有にもあらず、空宗哲学の空にもあらず、物心有空の中道の体なり。中道の体とは「有にあらず空にあらず、また有にしてまた空なり。」(非有非空亦有亦空)の真如理想の体をいう。故に余は『序論』中に、そのいわゆる中道とは非有非空、亦有亦空の中道にして唯物唯心を合したる中道なり、主観客観を兼ねたる中道なり等といえり。これによりてこれをみるに、純正哲学の理体哲学と仏教の中道論とは同一なりと知るべし。これ余が中道宗すなわち中宗は理体哲学の応用なりというゆえんなり。

 第六四節 以上、物体心体理体三種の哲学を仏教の上に考うるときは、倶舎の法体哲学、法相の唯識もしくは識体哲学、華天〔華厳、天台〕の中道哲学なり。これを主観客観に配するときは、その法体哲学は客観論なり。もしこれを外道諸流に対するときは主観的客観論なり。唯識は主観論なり、中道は主客両観を兼ねたる理想論なり。これを唯物唯心の上に考うるときは、倶舎は物心両存の唯物論なり、法相は唯心論なり、天台は唯物唯心統合の完理論なり。これを一元二元の上に考うるときは、倶舎は物心二元論なり、法相は唯心一元論なり、天台は一元二元同体論なり。空理常識の上に考うるときは、倶舎は仏教中にありてこれを較すれば常識論なり、仏教外よりこれをみれば一種の空理論なり。唯識は空理論なり、中道は空理論にして折衷論なり。これ仏教哲学と西洋哲学との比較なり。

 第六五節 かくのごとく仏教哲学と純正哲学とを比考するときは二者共に物体心体理体の三哲学、客観主観理想の三論ありといえども、仏教の目的とするところは理想の体すなわち真如にあること言を待たず。その物心両体を説くがごときはこの真如に達する階梯に過ぎず。もし物心両体、主客両観中にありて対比するときは、仏教の本旨は客観よりむしろ主観にあることまた明らかなり。その客観の物体を説くがごときは主観の心体に入るの門戸に外ならず。故に仏教の目的は客観より主観、主観より理想と次第に昇進するにあり。語を換えてこれをいえば、有を変じて空に帰し、空を転じて中に入るにあり。その有すなわち客観論は小乗にして、これを仏教の初門とし、その空すなわち主観論は権大乗にして、これを大乗の初門とし、そのうちすなわち理想論は実大乗にして、これを大乗の極門とするをみて知るべし。その小乗といえども決して通常の客観論にあらず、世間浅近の客観論に対して、客観の実体を示し主観論に進まんとする中間にあるものなり。故に余はこれを主観的客観論といえり。この主客両観のことは、余『破邪活論』結論中にこれを論じて曰く、仏教は主客両観の上に立つるものなれば、客観上の説はただその半面に過ぎずと。また曰く、仏教の本義はかえって主観上に存するをもって、仏教の真理を立つるには主観論によらざるべからずと。

 第六六節 『破邪活論』の結論 これより論歩を転じて『破邪活論』の結論に移り、その論と本編の相関するゆえんを示さんとす。まず『破邪活論』は、本編の目的とする仏教の真理を開顕する端緒に過ぎざることを知らざるべからず。故に余は『破邪活論』第一節に、今破邪を先として顕正を後にするは、非真理の妖雲を払うにあらざれば、真理の明月を哲学界内に現ずることあたわざるによるのみ。故に余が目的とするところただ仏教の真理を開顕するにあるを知るべしと題せり。しかして結論に至り、破邪を転じて顕正となす順序を示せり。その順序は客観論を一変して主観論となすにあり。およそ宇宙を物心両界、主客両観に分かち、その原理を論究するに二様あり。すなわち客観の表面より論究すると、主観の裏面より論究するの二法、これなり。ヤソ教の宇宙論も天神説もみな客観上の見に過ぎず、その理は『破邪活論』中にすでに証明せり。今その結論を約言すれば、客観上より宇宙を論究するときは、二種の解釈によらざるべからず。その一は時間上の解釈、その二は空間上の解釈、これなり。時間上の解釈によりて世界の太初にさかのぼりその起源を考うるときは、開端ありという説と開端なしという説と両様あるをみる。その一を有始有終論といい、その二を無始無終論という。もし有始有終論に従うときは天神を想定せざるを得ずといえども、無始無終論に従うときは天神の創造を立つるを要せず。しかして理学の原理たる物質不滅、勢力恒存の規則について推究するときは、世界は断じて無始無終といわざるを得ず、これ時間上の解釈なり。つぎに空間上の解釈は物質を分析して、分子となし、小分子となし、微分子となして、その体を究明せんとするにあり。この解釈法によるも、物質分子元素の体に至りては不生不滅にして、ただその集散離合の上に物質形象上の変化をみるのみ。決してその間に天神創造の証跡を知ることあたわず。これを要するに、時間上の客観論をとるも、空間上の客観論をとるも、共に物質の不生不滅にして世界の無始無終なることの真理なるを知るのみ。物質も世界も共に不生不滅、無始無終なるに、なお天神これを創造すというは論理の許さざるところなり。しかるに仏教の初門なる小乗の客観論は、この不生不滅、無始無終の大理法を考定して「法の体はつねにあり。」(法体恒有)と説き、万象万化はすべて諸元の作用に外ならざるゆえんを証し、あわせて造物主なきゆえんを示したるものなり。これ仏教の客観論とヤソ教の客観論と大いに異なるところなり。

 第六七節 しかるに客観論の欠点は、世界万物は不生不滅とするも、無始無終とするも、その実体に至りては知るべからずというにあり。時間上にても世界そのものの実体知るべからず、空間上にても物質そのものの実体知るべからず。かくのごとく知るべからざるものある以上は、いまだ解釈を尽くしたりといい難し。しかれども客観上の解釈ここに至りて極まるをもって、これより一歩を進めんと欲せば、これに相対せる主観上の解釈を用いざるべからず。これ表面の解釈究まりて裏面に入るものなり。この裏面の解釈はヤソ教のいまだ知らざるところにして、ひとり仏教中にありて存するなり。もし主観論に入りてこれをみれば、心性の本体は理想に外ならざるを知り、客観上知るべからざる万有の実体もまた理想なるを知るべし。これ主観究まりて理想をみるものなり。しかしてそのいわゆる理想の体はヤソ教の天神に似たりといえども、その性質大いに異なるところあるは今更に弁明するを要せず。ヤソ教の天神は客観的天神なり、客観的性質を帯ぶるものなり。余はさきにこの神を評して神象にして神体にあらずといえり。語を換えてこれをいえば、ヤソ教の天神は情感鏡中に客観的形象を現ずる天神なり。故に主観上これを分析すれば、その神象は全く心象の一部分に帰すべし。これ他なし、ヤソ教は客観一面をもって立てたる宗教なればなり。故に余『破邪活論』中にこれを評して曰く、ヤソ教は全く客観上の一説なるのみ、故にその真偽を論ずるは仏教中の初門なる客観上の所説に考うるをもって足れりとすと。また曰く、ヤソ教は仏教中の客観界の一小部分に成立するものにして、仏教大海の一隅に浮現するものに過ぎずと。

 第六八節 そもそも主観論は仏教の要旨にしてまたその長所なり。その客観論の小乗も主観的にこれを組織し、その理想論の実大乗も主観的にこれを構成す。すなわち主観論は一方には客観のその実なきを証し、一方には理想のその体あるを示したるものなり。他語にてこれをいえば、仏教の性質は無神教なることを知るも主観論にあり、その目的は真如の理体にあることを知るも主観論にあり。この主観論は小乗中にその一部分を示すといえども、大乗に入らざれば全分を知るあたわず、法相の唯識哲学はまさしくその理を開示せるものなり。その宗にては万物万境の開発を説くに八種の識心を設け、その第八に位する識心を阿頼耶識と称す、これを訳して蔵識という。これを蔵識と名付くるは、この心体中に万物万境の元子を含蔵し、その元子の体開発して万物万境を現示するによる。もしこの論より一歩を進むるときは『起信論』の唯心哲学となり、天台宗の真如哲学となる。起信には一心二門といい、天台には一念三千というも、みな唯心哲学なり。しかれどもその唯心は真如絶対の唯心にして、余がいわゆる唯心にあらず、これを唯理という。しかして天台の唯理はその実、唯理にあらずして、有空を具したる中道、物心を兼ねたる理想なり。この絶対的識心、理想よりみるときは、ヤソ教の天神のごときはもちろん、あらゆる客観上の諸境はみな思想海面の一波形に過ぎず。故に『破邪活論』にこれを述べて曰く、天神も物界もこれを帰するに心界の一現象にして、世界万境唯一の意識、唯一の思想あるのみ、これ仏教に「三界にただ一心あり。」(三界唯一心)の説あるゆえんなりと。

 第六九節 かくのごとく仏教には物心理三種の哲学あるも、その目的、客観を去りて主観に入り、主観を経て理想に達するにあれば、その方向、客観より理想に進むものなり。故にその教中客観を論ずるも、主観を論ずるも、共に理想の存在を示さんとするの意に外ならず。すなわちその客観論にては万物万象の実体は不生不滅なるゆえんを示し、その主観論にては物心の裏面に不生不滅の真如の理体あるゆえんを示し、その理想論にてはこの真如と現象との関係を論じて、万物万有の不生不滅なるは、真如これが実体となるによるゆえんを示せり。しかるに余が『破邪活論』はこの客観一方の論なれば、千万差別の諸象の実体は不生不滅、無始無終なるゆえんを証示したるも、いまだその裏面に存する真如の体の不生不滅、無始無終なるゆえんを論明せず。ただその結論に主観的解釈の一端を開きたるは、客観究まりて主観に入るものなり。しかして主観上もっぱら理想の存在、および理想と現象との関係を証明するは、本編すなわち『顕正活論』の目的とするところなり。これ余が『破邪活論』をもって本編の緒論なりというゆえんなり。

 第七〇節 『破邪活論』を一読するものは必ずいわん、これ無神論にあらずして無心論なり唯物論なり、仏教にあらず宗教にあらずと。これ余が論の一半を知りて全分を知らず、表面を見て裏面を見ざる論なり。『破邪活論』はヤソ教の天神創造説の妄なるゆえんを証示するを目的とし、これを証示するには全く客観一方の論をもって足れりとするものなれば、余はこれに対して唯物論理を用いたり。唯物論は宗教の原理に反対するに似たるも、その実かえって理想の存在を示すものなり。すなわち唯物論にありては神もなく心もなく、禽獣草木、日月山川の別なく、その体みな同一の物質なるゆえんを示すも、その物質の実体に至りては無始無終、不生不滅なりというにとどまりて、そのなんたる毫末も知るべからず、これを知るは主観論に限る。故に唯物論は主観論の関門なり。もし主観論に入りて、客観上知るべからざる万物の実体は理想の体なるを知り、理想論に入りて真如の体面に万差の諸象の現立するを知るときは、人獣木石の差別歴然として存し、物心二元の併立して相混ぜざるゆえんを知るべし。ただ余が排するところは、理想の体を離れて別に千万の物象真に存せりというがごとき妄論にして、余が立つるところは理想の上に物心の諸境あり、平等の上に万象の差別ありというがごとき中道なり。その理を証示するは本編の目的とするところなり。

 第七一節 以上二項の論、これを要するに仏教には物体哲学、心体哲学、理体哲学の三哲学あるも、その目的、物体論より進みて理体に達せんとするにあり。しかるに『破邪活論』は客観上の物体論のみを示したるも、これ仏教哲学の一分に過ぎざれば、これより主観論ならびに理想論を述ぶべしというにあり。主観論も仏教の一部分なれども、その論は理想論を開くものなれば、これを仏教中の主眼とす。しかれども仏教の究竟の目的は理想論にあれば、主観論のつぎに理想論を説くべし。この三論を仏教の宗論に配すれば、客観論は有宗論、主観論は空宗論、理想論は中宗論なり。故に本編中の各論は、有宗論を初めとし、そのつぎに空宗論、そのつぎに中宗論に論及すべし。しかして総論はその目的、有空中三宗の間に一貫の理脈あることを証明するにあれば、この三論の次第を用いざるなり。

       第二小段 理論門

 第七二節 これより第二分段の論題に移り、これを理論応用の二門に分かち、まず理論門を掲げて仏教中に貫通する理脈を述ぶべし。これこの仏教総論の主眼とするところなり。古来仏家は仏教に八万四千の法門ありて、諸宗諸派前後、相尋ねて分かれ、各宗互いに他派を擯斥してやまずといえども、いやしくも一仏金口の所説なれば一味にして二致あるべき理なしといい、あるいは仏自ら金杖を折るがごとく多段に分かるといえども、段々みな真金なりと説かれたれば同一質の仏教なり。しかるに一仏所説の経に大乗小乗、一乗三乗、顕教密教、聖道浄土等の別あるは、その教、応病与薬の法にして、衆生の病性一ならざれば薬方また異ならざるべからざるによる。故に法に八万四千の門あるは衆生の病に八万四千種あるをもってなり。もし仏の方よりこれをみれば、もとより一味の仏教なり等と論ずれども、その諸宗派を合一し八万四千を貫通して、一理脈の存するゆえんを明示せざりしは、従来仏教家の欠点といわざるべからず。これ畢竟仏教を学術的に研究せざりしによる。

 第七三節 仏教を一貫せる道理を一言にて開示するときは真如の理体、これなり。真如とは法性といい、一如といい、法界といい、理性といい、種々の異名あれども共に一切諸法、万象万類の実体本源を義とす。その理を指して涅槃といい、これを証する智を名付けて菩提という。故にこの二者の体は共に真如なり。しかしてその智に根本智、後得智の二種を分かち、真如の理を照見する方を根本智といい、すでにこれを照見し顧みて差別の衆生界を照らすに至れば、これを後得智という。後得智は衆生を化育する大悲なり仁なり。もしこの智と仁とを合してその作用を考うるときは、真如体中に一種の勢力の存するを知る。すなわちその智によく断行の力あり、その仁によく実施の力あるは、その体中に勢力すなわち意力の存するによらざるはなし。また涅槃の体に智、断、恩、三徳を具することを説く。その断徳は意力に比すべく、その恩徳は仁情に比すべし。故に真如の体には無上の智と無上の仁、すなわち情と無上の力、すなわち意との三種の性質を具備す。この三徳兼備の体、不生不滅にして無始無終なれば、時間としてその存せざるはなく、空間としてそのあらざるはなし。実に一色一香も、一塵一毛も、その体みな真如なりという。その真如の体面に現立するものこれを事相という、現象の義なり、あるいは万法という、万象万有の義なり。この現象界は生滅変遷、栄枯盛衰あるをもってその実況とす。故にこれを生滅界もしくは生死界という。これに対して真如界を不生滅界という。その他、仏教中には有為法、無為法の名目あり。有為法とは変遷生滅あるものを義とし、無為法とは変遷生滅なきものを義とす。故に真如は無為法なり、山川、草木、人獣は有為法なり。あるいはその変遷なき事情を常住といい、変遷ある事情を無常という。みな仏書中に用うるところの名目なり。

 第七四節 もしこの真如と現象との関係を知らんと欲せば、あらかじめ平等と差別との関係を知るを要す。平等とは無差別なり絶対なり、差別とは不平等なり相対なり。絶対は相対と相反し、平等は差別と相反すといえども、平等は差別を離れず、絶対は相対を離れず、絶対の中に相対あり、平等の上に差別ありて、二者一体の関係を示すもの、これ仏教なり。『序論』中に重ねて弁明せるがごとし。今それ真如は無差別にして相対するものなきをもってこれを絶対平等の体とし、現象は彼我、自他の別あるをもって相対差別の境とす。この二者の関係を一にして二ならず、二にして一ならずという。他語にてこれをいえば、差別と平等とは一体なると同時に異体なり、異体なると同時に一体なり。これを仏教にては不離不即の関係という。この関係を『序論』には紙の比喩を挙げて示せり。たとえばここに一枚の紙あり、表裏両面を有す。紙体は表裏を離れず、表裏のそのまま紙体なるは不二不離なり。紙体と表裏とはおのずからその別あるは不一不即なり。また『序論』中に氷と水との比喩をかりて弁明せり。そのつまびらかなるは同論を参見すべし。この不一不二の関係は真如理体の上に存するのみならず、万事万境の上に存するなり。たとえば万民同等同権論は平等論なり、異等異権論は差別論なり。男女同権は平等なり、異権は差別なり。もし異権一方を主唱するときは差別の偏見となり、同権一方を主唱するときは平等の偏見となり、同権の中に異権あり、異権の中に同権あり。差別は平等を離れず、平等は差別を離れずと立つるは仏教の定論なり。また国家主義と宇宙主義とは全く相反するがごとしといえども、国家の裏面に宇宙あり、宇宙の表面に国家あり、差別平等、表裏両面の関係ありと立つるも仏教の推理なり。これ余が巻初に護国愛理は一にして二ならずといいたるゆえんなり。仏教の諸宗にて説くところのもの往々矛盾する論理あるをみるは、みなこの二様同一の関係より生ずるものなり。一仏教中に小乗あり大乗あり、一乗あり三乗あり、聖道門あり浄土門あるがごときも、またみなこの関係より起こるものなり。

 第七五節 つぎに仏教にて最要の論点は因果の規則なり。因果とは原因結果の略称にして、原因あれば必ず結果あり、結果あれば必ず原因あり。無より有を生ずべからず、有を転じて無となすべからざる宇宙の大理法をいう、あるいはこれを因縁と称す。因は親因にして、縁は助因なり疎因なり。たとえば草木の種実は因なり、雨露日光は縁なり。この因と縁と相合して草木生育の結果をみるがごとし。この因縁果の理法は仏教にては真如固有の規則にして、万象万化普遍の理法なりという。そのつまびらかなるはのちに至りて知るべし。

 第七六節 仏教はただに真如の実在を明示するのみならず、これに体達するをもって目的とするものなり。これ理論と応用の分かるるゆえんにして、一仏教中に哲学と宗教の兼備するゆえんなり。理論門にては真如の実在および真如と現象との関係作用等を論定し、応用門にては真如に体達する方法を指示するなり。その一は哲学にして、その二は仏教となる。この点も諸宗諸派の一致するところにして、古来宗派多岐に分かれたりといえども、一として真如を目的とせざるはなし。その目的一なるも、真如と現象との関係を論ずるに諸宗おのおのその説を異にするをもって、これに達する方法多端なり。その方法多端なるも、その規則に至りては因果の一理法に外ならず。この理法の真如の固有にして万化に普遍なるを証明するは理論門に属すといえども、その理法に基づきて真如に体達する方法を証示するは応用門なり。かくのごとく真如に体達するをもって応用の目的とするが故に、応用門に入りては迷悟染浄、無明煩悩、声聞縁覚、菩薩仏陀等の名称起こる。真如の月を覆うものを指して無明といい、煩悩という。その煩悩を有するものを迷いといい、煩悩の雲を掃うて真如の月を見るものを悟りという。染浄もこれに準じて知るべし。この真如の体に向かいて進むものに声聞ないし仏陀の名称あり。仏陀は最上の果を得たるものをいい、菩薩は仏果を求むるために修行するものをいう。菩薩のつぎに位するものにして、その修行の異なるに応じて声聞、縁覚の名称あり。その説明はのちの応用門に譲る。

 第七七節 理宗すなわち有空中三宗の外に通宗あるも、その理論はみな理宗の説くところに基づくをもって、別に通宗の理論門を設くるを要せず。しかしてその応用に至りては理宗の応用と異なるところあれば、のちに通宗を概論するに当たりて述明すべし。しかして通宗と理宗との別は、その前者は実際を本とし、後者は理論を本とするにあり。別して仏教中の智力的諸宗と情感的諸宗との間にはこの異同あり。故をもって智力的諸宗は理論に長ずるも実際に適せず、情感的諸宗は実際に適するも理論に乏しき感なきあたわず。これ諸宗おのずからその長所と短所あるゆえんにして、けだしその短所あるは各宗みな仏教の一部分なるによる。故にその諸宗を合して始めて完全の仏教をみるべし。これをもって余は仏教諸宗の上に優劣を判ずることを欲せざると同時に、各宗共にその長所と短所あることを論ずるなり。もしその長短を折衷してこれを較するときは、諸宗おのおの優劣なしといわざるべからず。これを要するに、仏教中の通宗、別して情感的諸宗は実際に長じて理論に乏しきも、その理論は全く有空中三宗の理論に基づくものなれば、通宗のごときは理宗の応用というも不可なることなし。これ余が仏教中に一貫の理脈ありというゆえんにして、余がこれより述ぶるところの理論門は、まさしく通宗に貫徹して存する理脈を説示するものなりと知るべし。

 第七八節 これによりてこれをみるに、仏教の理論門にては真如の実在を証明し、応用門にてはその体に帰向する方法を指示するは、諸宗諸派の異論なきところなり。もしその真如の性質およびその体と現象との関係を論じ、もしくはこれに達する方法修行を説くに至りては、諸宗のみるところおのおの異なれば、したがいて小乗大乗の別あり、一乗三乗の別ありて、古来数十百種の流派を分かつに至りしなり。今この総論は仏教中の理宗すなわち有空中三宗を目的とし、これを理論、応用の二門に分かちて、そのうちに貫通する大理脈を証示せんとす。この理論、応用の二門を説き終われば、更に通論の一門を挙げてその組織に論及すべし。

 第七九節 これより理論門の論理を述ぶるに、諸宗諸論の間に貫通する理脈はこれを合すれば一大脈となり、これを開けば三脈となる。一大脈とは真如をいい、三脈とは左項のごとし。

  第一脈 現象の外に実体あること(これを体象実在論という)

  第二脈 現象と実体との相関すること(これを体象関係論という)

  第三脈 体象の作用に規則あること(これを体象規則論という)

この三脈は実に仏教中の大眼目、大血管、大神髄ともいうべきものなり。なかんずく第一脈をもって主眼中の主眼とす。その一脈を考定するに当たり、第二脈、第三脈の分かるるに至るなり。余この三理脈の関係を示すに、左の比喩を用うべし。たとえば一人ありて、天界より地球上に降りある一国に着せりと想定するに、第一にその国の人民および政府の存在、ならびにその二者の性質を知らざるべからず、第二に政府と人民とは同一なるや別物なるや、政府は人民に対していかなる権利を有し、人民は政府に対していかなる義務を有するや二者の関係いかんを知らざるべからず、第三にこの人民と政府との間にいかなる規則ありて互いにこれを履行するや。すなわち一国の法律いかんを知らざるべからざるがごとく、そのいわゆる一国は仏教全体に比し、その人民は現象に比し、その政府は真如に比するときは、第一に体象実在論を説き、第二に体象関係論を説き、第三に体象規則論を説く次第を推知すべし。

 第八〇節 第一脈 体象実在論 この一脈は複線にしてこれを区分すれば、そのうちに二種の単脈ありて存するをみる。その一は現象より実体に入るもの、これを入理門と名付く。その二は実体より現象に出づるもの、これを出理門と名付く。あたかも神経組織に求心性神経と遠心性神経の二種ありて、その一は外より内に入り、その二は内より外に出づるとの別あるがごとし。しかしてまたその第一単脈も甲乙二線に分かれ、甲線は物象より心象に入り、乙線は心象より理想に入るなり。その第二単脈もまた二線に分かれ、甲線は理体より現象に出で、乙線は現象中にとどまるなり。この両単脈の中間に位する一脈あり、すなわち理体中にとどまるもの、これなり。この中間の一脈を合すれば三単脈となる。これを宗旨に配当して示すこと左のごとし。

  第一単脈すなわち入理門

   甲線 物象より心象に入る(小乗倶舎および成実宗)

   乙線 心象より理体に入る(権大乗法相および三論宗)

  第二単脈すなわち中間門

    理体中にとどまる(実大乗天台宗)

  第三単脈すなわち出理門

   甲線 理体より現象に出づ(実大乗華厳宗)

   乙線 現象中にとどまる(実大乗真言宗)

このうち第二単脈は一線なれども、もしこれに『起信論』の一線を加うるときは甲乙二線となるべし。『起信論』はその書あるもその宗なし。しかれども仏教哲学を講ずるに当たりて欠くべからざる一論なれば、のちに至りてその論意を示すべし。

 第八一節 この線路は仏教論理の発達を示したるものにして、決して余が空中に想出したるものにあらず。けだし人の思想作用は大抵同一にして、その進歩は近より遠に進み、浅より深に進み、有形より無形に入り、有象より無象に入り、無象を究め尽くせば翻りて有形に向かうものなり。その順序あたかも客観界の田舎を去りて主観の都府に進み、主観の都府を過ぎて理想の王城に入り、再び客観の田舎に帰向するがごとし。これを論理の循環という。仏教はまさしくこの論理進歩の規則に従って説示せるものなり。しかしてその説明の方法は世間一般の理学哲学に異なるがごとき感あるは、釈迦仏陀自らすでにその全理を証見し、これを未証の人に知らしむるために、仮に論理進歩の階梯を用いたるによる。これを仏教にて仏の方便と名付く。これ世間の学術書と異なるゆえんなり。世間の学術書も先輩の実験せる道理を説示するものなれども、その既験の真理を信ずること、仏教のごとくはなはだしからず。これをもって仏教は徹頭徹尾演繹的に論明し、そのうち帰納風の論理なきにあらざるも演繹常にその主となる。もし今日の人、仏教を読みてその演繹論法をいとうものあらば、その人自ら帰納的に研究すべし。これ仏教の決して禁ぜざるところなり。

 第八二節 これより入理門第一線すなわち有宗倶舎の理論を案ずるに、その論、主観的客観論にして物心二元を立てて客観の諸境を論定するものなり。これに宇宙論と人身論との二種あり。宇宙論にては一切の諸象諸体を合括して五位七十五法となす。すなわち五類七五種なり。その名目左のごとし。

  第一類 色法 一一種

  第二類 心法すなわち心王 一種

  第三類 心所法 四六種

  第四類 心不相応法 一四種

  第五類 無為法 三種

    合計 五類七五種

つぎに人身論にては人身を分析して色受想行識の五蘊となす。これを物心二元に分かつときは、色は物質なり、受想行識は心性なり。この二元を色心二法という。蘊とは集合の義にして、この諸元集合して仮に彼我の別を成立するをいう。色とはすべて形質延長を有するものに与うる名目にして、物質を義とす。受とは外界の現象を心内に感受して苦楽もしくは非苦非楽の状況を生ずるをいう。すなわち感情これなり。想とは取像を義とし、外物の形象を心中に執取するをいう。すなわち知覚というがごとし。行とは造作遷流を義として、因縁によりて生滅変遷するものに与うる名称なれども、色受想識の四蘊を除き、その他一切生滅ある諸作用を義とするなり。識とは識心中の主作用すなわち心王に与うる名目なり。これを七十五法に配当するときは、色蘊は色法一一種に当たり、受蘊ならびに想蘊は心所法四六種中の二種なり。行蘊は色法と心王と無為法と受想二法を除きその他の心所法に当たり、識蘊は心王に当たるなり。ひとり無為法は集合の義を有せざるをもって五蘊中に摂せず。

 第八三節 まず宇宙論を考うるに、五蘊の分析は人身を分かちて物心二元となすのみなれども、七十五法の分類は万有を分かちて物心二元となすのみならず有為無為の二法となす。七五種中三無為を除き、余りの七二種はみな有為法なり。為とは為作造作を義とし、因縁事情によりて生滅するものを有為法といい、本来自存して生滅なきものを無為という。その有為法の生滅変遷の次第を説きて生住異滅の四相となす。生相とはいまだ生起せざるものの現在に生起するをいい、住相とはすでに生起せるものの暫時住止するをいい、異相とはすでに住止せるものの変異するをいい、滅相とはすでに変異せるものの壊滅するをいう。生住の二段は進化なり、異滅の二段は退化なり。これを世界の大化の上に考うるときは成住壊空の四劫という。その四劫の循環するゆえんは『破邪活論』第四一節を参見すべし。かくのごとく変々化々、生滅遷流してやまざる状態を名付けて無常という。無常に二種あり、その一は一期の無常にして人生一代中にあるものをいい、その二は刹那の無常にして一瞬一息の間あるものをいう。この有為法を物心二元に分かつときは、色法一一種は物元に属し、その他は心元に属す。この色法の起こるゆえんを論じて四大所造といい、極微所成という。四大とは地水火風の四種なり。この四種は元素を義とするにあらず物の性質を四種に分かちたるものなり。地は堅性を義とし、水は湿性を義とし、火は暖性を義とし、風は動性を義とす。この四性広く万物にわたりて存し、その作用大なるが故に大の名称あり。もし物質自体を分析するときはその体、極微より成るという。極微は化学的元素というがごとし。心法の説明は各論に譲るべし。この色心二法共に諸元より成立するものにして、その諸元の集散離合によりて生滅の変化を呈するなり。故にその諸元の体に至りては生滅なしといわざるべからず。これ倶舎に法体恒有の説あるゆえんなり。

 第八四節 以上は七十五法中、有為法の説明なり。もし無為法を挙ぐれば択滅無為、非択滅無為、虚空無為、これを合して三無為と称す。そのうち択滅とは択力所得滅の略称にして、慧力によりて生滅遷流の関係を脱して得るところの涅槃、これなり。涅槃とは梵語にして訳して寂滅または滅度という。その意、生死浮沈の事情を滅絶して寂静安住の地に体達するを義とす。その体、本来生滅なきものにして、余がいわゆる理想の体なり。その他の二無為は今これを略す。この宇宙論によりて、我人は宇宙間に存する日月星辰、山川草木、鳥獣人類の諸象、みな生滅遷流して無常なるゆえんを知り、ひとり涅槃のごとき無為法は本来常住なるゆえんを知るなり。

 第八五節 つぎに人身論を考うるに、人身は五蘊の諸元より成り、我人の常に固執し確信し尊崇し愛惜してやまざる一種の人我の体もこの諸元の和合に外ならず。故にこれを解散すればそのいわゆる我体なしという、これ人身の分析なり。かくのごとく人身の体を論定するもの、これを無我説という。およそ仏教にて我と称するは常一主宰を義とす。すなわち我人の体中にわが身を命令主宰する一種の霊体ありと執着するをいう。この妄見に対して無我の真理を証示するもの、これ小乗なり。しかして倶舎は五蘊の体、真に存せりと説くをもって、これを評して我執を空していまだ法執を空せずという。『序論』中に略述せるがごとし『倶舎論』には五蘊の外に十二処十八界の分科あれども、その説明は各論に譲る。

 第八六節 仏教中に仏教の真偽を判審する三種の標準あり、これを三法印という。三法印とは第一に諸行無常印、第二に諸法無我印、第三に涅槃寂静印、これなり。まず諸行無常とはさきに宇宙論において述べたるがごとく、諸有為法の遷流無常なるをいい、つぎに諸法無我とは人身論において述べたるがごとく、五蘊の諸元の外に別に我と称すべき実体なきをいい、涅槃寂静とは第八四節に述ぶるところの択滅無為にして、この無我無常の真理を悟りて得るところの果なり。故にこれを悟道の極処とす。けだし世人は一般に無常なるものを常住と信じ、無我なるものを実我ありと執するをもって、仏陀これに対して無常無我の真理を説き、涅槃寂静の地に対向すべき道を教えりとなすは小乗倶舎宗の大綱なり。もし更にその涅槃の性質を尋ぬるときは、その宗にては灰身滅智と称し、身心都滅して大虚のごとく虚無空寂なるものなりという。これ小乗一般の説にして、大乗の涅槃とは大いに異なるところあり。小乗の涅槃は死物のごとく、大乗の涅槃は活物のごとし。その一は消極的にして、その二は積極的なり。けだし小乗の涅槃は涅槃の影像にしてその本体にあらざるべし。しかるに小乗はこの死物消極涅槃をもって究竟の目的とするは、その大乗の仏教と深浅の差あるゆえんなり。現今インドの南部に存する仏教は小乗宗なれば、この死物涅槃を主唱するものなり、西洋学者の伝うるところもまたこの死涅槃なり。故に欧米の学者は一般に仏教を評して虚無の教となす。あに仏教のためにその冤を訴えざるべけんや。

 第八七節 小乗はさきに有空中三宗のうち有宗に属せしも、その有宗中にまた有空二門ありて、倶舎宗を有門とし、成実宗を空門とするなり。倶舎宗を有門とするはすでに無我の理を証すれども、なお法体恒有と説きて五蘊の法体は過去、未来、現在の三世にわたりて実有なりと唱うるによる。故にこの宗をあるいは我空法有宗と名付く。しかるに成実宗は実我の体なきのみならず、五蘊の体も空にして実なしと唱え、いわゆる我法二空を談ずるものなり。これその空門たるゆえんなり。もしその空を大乗の空に比すれば、なお深浅優劣の差あり、『三論玄義』に大乗の空と小乗の空に四種の別あることを説けり。今その一種を挙ぐれば、小乗は法体を分析して空なりといい、大乗は分析するを待たずその本性すなわち空寂なりという。これを析空体空の別と名付く。また成実宗と大乗とは、迷執を断滅する力およびこれによりて得るところの果大いに異なるところあり。これその小乗たるを免れざるゆえんなり。しかれどもその空門は小乗中の極門にして、大乗に入るの階梯なること明らかなり。

 第八八節 以上小乗有宗の理論を約言するに、その論は客観論にして、時間は無始無終なり、空間は無涯無限なり、その両間に現立する万象万有は、これを分析するに若干の諸元より成り、その諸元の集散離合によりて千変万化を現ずるという。もしこれを論理発達の上に考うるときは、その論、通俗の客観論より一歩を進めたるものなり。通俗の客観論者は物心二元あることを信ずるも、物心諸象を分析して二元となすにあらず、物心そのままの二元なり。しかるに小乗は物心諸象を分析して二元あるを知る。これ論理の進歩といわざるべからず。またこの客観論は理学の研究法にはなはだ近きものあり。今その似同せる点をあぐれば、倶舎は有形有象の体を研究の目的とするその一なり、経験的帰納風の傾向あるその二なり、分析的元素論を立つるその三なり、その宗にて涅槃を説くも身心都滅の虚無論なるその四なり。この第四点は理学に類似するというより、むしろ唯物論に合同するというべし。すでに第一論点として万象を分析して諸元の体あるを知れば、第二の論点はこの体なにものなるや、実に有とすべきや空とすべきやを決するにあり。倶舎のこれを有とするは成実に及ばざるところにして、成実はこれを空とするも析空にして体空ならざるは大乗に及ばざるところなり。しかれどもその二者共に論理発達の順序なること瞭然たり。もし物心二元論を一転して唯心一元論となし、客観論を一変して主観論となすときは、小乗を去りて大乗に入るものなり。しかして大乗の初門なる法相の唯心論は相対的唯心論、差別的主観論にして小乗より一歩を進めたるものに過ぎざれば、小乗はこれに達する階梯なること疑いをいれず。故に余は倶舎、成実宗をもって入理門の初級とし物象を去りて心象に入るものとす。すなわち客観論を去りて主観論に入るものなり。これ論理進んで理想の本体に達する途次にあるによる。しかるに小乗の客観論中に涅槃を説くはすでに理想の一端に達したるがごとき感ありといえども、その涅槃とは客観上物心変化の関係を断滅したる状態をいうものにして、いまだ涅槃の実物を見るにあらず。たとえば迷雲を払い去りて大虚のごとく、空寂になりたる有様を指して涅槃といい、いまだその空寂なる大虚中に真如の月あるを見ざるものなり。もしすでにその月を見るとするも、水中の月影を認めて実物なりと信ずるに異ならず。故に余は、小乗はその論理の進歩理想に達する途次にあるものなりという。

 第八九節 つぎに第二単脈に移り、有宗すなわち権大乗法相宗の論意を述ぶるに、その宗にては人身論を立てず宇宙論を説きて、一切諸法を分類し五位百法となせり。その略表左のごとし。

  第一類 色法 一一種

  第二類 心王 八種

  第三類 心所法 五一種

  第四類 心不相応法 二二種

  第五類 無為法 六種

このうち心王の八種とは第一に眼識、第二に耳識、第三に鼻識、第四に舌識、第五に身識、第六に意識、第七に末那識、第八に阿頼耶識、これなり。この第八阿頼耶すなわち蔵識は一切物心諸象を生起変現する根本なれば、根本識といいあるいは本識と名付く。人の生死の域に迷うも、涅槃の理を悟るも、みなこの識によらざるはなしという。この識中に包蔵せる物心諸象の元子を種子と名付く。その種子に二種あり、一を本有種子と称し、二を新薫種子と称す。本有種子とは第八識中に本来自存するものをいい、新薫種子とは本有種子が開発して物心諸象を現起するときに、その現行より新たに第八識中に薫蔵するものをいう。これを種子より現行を生じ、現行より種子を薫ずという。これを要するに、法相にては一切有為の諸法は第八識心体中より開現すというにあり。しかるに小乗にては識体の外に物心諸象ありと信ずるをもって有宗の名称ありといえども、この宗に至れば「万法はただ識のみあり、心の外に別法なし。」(万法唯識、心外無別法)と説きて、識外に物心諸象あることを許さず。故にこれを空宗となす。

 第九〇節 法相宗にて唯心論を立つるに、心性の外界に対する作用を四種に分かちて四分の名称あり。四分とは第一に相分、第二に見分、第三に自証分、第四に証自証分、これなり。まず相分とは外界に対するときその現象の心面に浮かぶをいう。すなわち心鏡面の影像なり。つぎに見分とは心力をもってその影像を見照了別する作用なり。つぎに自証分とはその見分を証知認定する作用なり。つぎに証自証分とは更にその自証分を証認する作用なり。この諸作用によりて我人が外界の諸象を認識することを得るなり。しかしてその諸象の自体も識心中より現出せしものなれば「万法はただ識の変ずるところなり。」(万法唯識所変)ならざるはなし。しかれどもその唯識は人々おのおのの唯識にして、甲の識心の上に現ずるものと、乙の識心の上に現ずるものと多少異同なきあたわず。そのうち衆人の共同して有するものと人々各別なるものあり。この理を示すに共変不共変の説あり。共変とは衆人共同の種子より現起して衆人共同して受用するものをいい、不共変とは各人別々の種子より現起して各人別々に受用するものをいう。このうちまた共中の共、共中の不共、不共中の共、不共中の不共を分かつも、今これを略す。かくのごとく人々の唯識各別なるをもってその所変また各別なりと立つるは法相の唯心論なり。これその相対的唯心論にして絶対的唯心論にあらざるゆえんなり。

 第九一節 更に進みて唯識の本体いかんを尋ぬるときは始めて真如の理体あることを知る。真如は百法中無為に六種を分かつその一種なり。この六無為とは虚空、択滅、非択滅、不動、想受滅、真如の六種を合称するものなれども、この六種の実体を究むれば真如無為の一体に帰すべし。この真如の理体が根拠となり基礎となり、その体面に一切物心有為の諸法現立するをもって、五位百法もその本体を究むればみな一体の真如に外ならず、諸法の種子を包蔵する第八阿頼耶識もその体、真如なり。故に真如は第八識の実性、万法の本体なりと知るべし。しかるに法相宗にては真如の体あることを論ずれども、真如よりただちに万法を開現すると説かず、真如を実体としてその上に成立する第八識中より万象を開現すると立つるをもって、真如の本体あるを知りていまだその作用を知らざるものといわざるべからず。

 第九二節 かくのごとく法相宗はいまだ真如の作用を知らずといえども、その宗にては有空中の三時教を立てて自宗を中道宗となす。これ自ら大乗最上の教と信ずるによる。その中とは非有非空の中道にして唯識中道の真理をいう。この真理を遍依円三性の上に配当して説示するなり。遍依円三性とは遍計所執、依他起性、円成実性なり。遍計所執とは我空法空をみて実我実法ありと固執する妄見をいい、依他起性とは一切物心の諸象はその実体あるにあらざるも種々の事情によりて仮に和合して現起するをいい、円成実性とは真如の理体にしてその体、円満成就真実なるをもってその称あり。これを有無をもって判別すれば、遍計は空にして、依他と円成とは有なりとす。遍計を空とするはその体全く空なるによる。これを妄有という。依他を有とするは実体あるにあらざるも、仮にその体を現ずるをもって仮有とするによる。円成を有とするは真有なるによる。この三性に対して三無性の説あり。三無性とは相無性、生無性、勝義無性をいう。まず相無性とは遍計所執に対してその体象のすべて無なるを義とし、つぎに生無性とは依他起性に対してその現象は仮有なれどもその本性なきを義とし、つぎに勝義無性とは円成実性に対してその体妄執を遠離して空寂なるを義とす。かくのごとく法相宗は真如を説き中道を立つれども、その中道は有空の外にあり、その真如は物心の外にありと信じ、いまだ差別の見を脱せず。これその実大乗に及ばざるところなり。

 第九三節 法相宗の差別の見を脱せざることは、その教中に三乗五姓を分別して、本来その姓を異にせりとなすをみて知るべし。三乗とは声聞、縁覚、菩薩なり。五姓とは決定姓声聞、決定姓縁覚、決定姓菩薩、不定種姓、無姓有情なり。決定姓声聞と決定姓縁覚とは空寂涅槃に入ることを得るも、身心都滅して成仏の果を得ることあたわず、無姓有情は本来涅槃に入るべき種子を有せざれば決定して成仏することあたわず、菩薩と不定種姓とは共に成仏することを得るなり。かくのごとく仏果を得るに成否の別あるは、第八識中に本来包有するところの種子異なるによるという。故をもって法相宗を三乗教と称す。三乗教とは声聞、縁覚、菩薩の三乗の種姓、本来各別なりと唱うるをいう。これに反して、実大乗はただに声聞、縁覚のみならず山川草木に至るまで「ことごとくみな成仏す。」(悉皆成仏)と説くをもって一乗教の名あり。これ法相宗はいまだ全く現象差別の境遇を脱せざるゆえんなり。他語にてこれをいえば、すでに客観的現象界の区域を離るるも、なお主観境裏に差別の見を存するをもって、いまだ平等絶対の理を知らざるものというべし。しかしてその論理は心象より進みて理体に入る途次にあるもののごとし。故に余はこれを入理門第二線となす。

 第九四節 法相宗は余がいわゆる空宗なれども、空宗中に有空二門を分かつときは有門に属す。これに対して三論宗は空門に属す。三論宗の所論はすでに心象を去りて理体に入りたるものなれども、その論、消極的にしていまだ積極的にあらず。他語にてこれをいえば、すでに現象を離れて理想の境に達するも、いまだ理想体内に入らざるものなり。この宗の大意は破邪顕正の二途に出でず。その破邪とは外道の実我、小乗の実有、その他種々の邪見妄執を破摧し大小両乗の諸宗の所論といえども、いやしくもその心に確執するところあればみなこれを破遣し、言亡慮絶にして一も意識上に認得するものなきに至りてとどむ。これを有所得の見を破して無所得の理をあらわすという。語を換えてこれをいえば、一切有無の思想を去り尽くしたるところ、すなわち中道真如の妙理なりとす。故にこの宗にては破邪を離れて別に顕正あるにあらず、破邪のそのまま顕正なりと立つるなり。すなわちその論、全く消極的なり。この理を証見するには八不の観法あり。八不とは不生、不滅、不一、不異、不去,不来、不断、不常をいう。その説明は各論に譲るべし。これを要するに、三論の空門は客観的現象のみならず主観的現象すなわち心象に至るまで、ことごとくこれを払い尽くし全く現象界を脱離したる論なり。しかしてその論、消極的なるをもっていまだ積極的に理想の本体を証示せず。これその空門なるゆえんなり。故にもしこれを法相に比するときは、二宗共に理想に達するを目的とするも、法相は心象を去りて無心象に入らんとし、三論は無心象を去りて理想界に入らんとするものというべしといえども、もしこれを天台に比すればすでに理想の門扉を開くも、いまだその堂内に入らざるものといわざるべからず。

 第九五節 つぎに余がいわゆる中宗の理想論を述ぶるに、まず『起信論』の説を一言せざるべからず。これまさしく法相より一歩を進め、相対的唯心を変じて絶対的となしたるものなり。その論によるに、一心に二種の門を分かち、その一を心真如門といい、その二を心生滅門という。真如門とは平等絶対、不生不滅の理想にして、その体、言説を離れ心念を離れ、なんともかとも名状すべからざるものなりとす。しかるにその不生不滅の体、もし妄念によりて生滅の諸象を現ずるときは心生滅門となる。この生滅と不生滅と相和し相合して、一にあらず二にあらざるを名付けて阿黎耶識という。その識に覚と不覚との二義あり。もしその識体の本源を尋ぬれば実に平等絶対の覚体なり。これを本覚と名付く。しかるに不覚あるをもって始覚の名あり。始覚とは不生不滅の体、ひとたび生滅を現じて再び不生滅の本覚に帰するをいう。およそ真如の理体に随縁と不変の二義あり。平等の理体、因縁事情に応じて差別の諸法を現示すると立つるは随縁真如の義なり。一切諸法はその体真如にして常住不変なりと説くは不変真如の義なり。今起信の心生滅門はこの随縁真如を義とし、心不生滅門はこの不変真如を義とするものと知るべし。故に起信の説はこれを法相に比するに、全く現象を去りて理体に入り、かつ理体の実在を示すのみならず、その作用を論じて真如より万法の開発するゆえんを示せり。しかるにもしこれを天台に比するときは、なお差別の見を脱せずといわざるべからず。なんとなれば、起信は理体の上に前後の差別を立て、生滅と不生滅との二門を開き、覚と不覚との二義を分かち、次第開発の序次を説くをもってなり。もしその差別の見を去りて、ひとり平等の論を立つるものは天台なり。故に起信より一歩を進むれば天台に入るべし。

 第九六節 天台宗は法相、三論を経て、その論理まさしく理想の中央に達したるものなり。これをたとうるに、小乗の諸宗は遠く理想の藩籬を望みいまだその邸内に入らず、法相はすでに邸内に入るもいまだ戸内に入らず、三論は戸内に入らんと欲して戸を開きたるもいまだ室内に入らず、天台はまさしくその室内に入りたるがごとし。そもそも天台はさきに列したる有空二宗を合して非有非空、亦有亦空の中道を立つるものなれば、これを実大乗となす。またさきに述べたる三乗五姓各別の差別論を去りて一乗の極理を示したるものなれば、これを一乗教となす。かつこの宗にては仏一代の諸教を判釈して五時八教に摂約し、仏教の極意は天台の中道に外ならざるゆえんを証明せり。まず五時とは華厳、阿含、方等、般若、法華涅槃にして、第二二節中に挙ぐるところをみるべし。八教とは化法の四教と化儀の四教を合称したる名目なり。その表左のごとし。

  化法四教 蔵 教

       通 教

       別 教

       円 教

  化儀四教 頓 教

       漸 教

       秘密教

       不定教

蔵教とは小乗教をいい、通教とは大乗の初門をいい、別教とは蔵通二教と異にして、また第四の円教にも異なるをもってその称あり。しかしてその教は真如の理を説くも、現象と理体との間に差別を立つるものなり。起信のごときはこの部類に属すべし。第四の円教は体象互いに通入して二者一体なりと立つるものをいう。以上、化法の四教なり。つぎに化儀の四教中頓教とは、これを化法の四教の上に考うるときは円教に別教を兼ねたるものにして、これを五時の上に考うるときは第一時華厳の時なり。漸教とは浅より深に入る漸次の教を義として五時中阿含、方等、般若と次第するものをいう。秘密教とは仏一会の説法中において聴衆の機に応じて、あるいは頓教を説き、あるいは漸教を説くも、彼此互いに相知らずしてその益を得るをいう。不定教とは頓説のうちにおいて漸の益を得、漸説のうちにおいて頓の益を得せしむるをいう。しかるに天台の中道はこのうち円教に属する説と、八教のうちに摂せざる説との二様あり。これを八教のうちに摂せざるも、八教の外に別に天台の円教あるにあらず。八教を開通して得るところの一種完全の円教、すなわちこれなりという。

 第九七節 また天台にありては空仮中三諦の理を論じて円融相即の義を明かせり。円融相即の義とは理想と現象と融通摂入して同体不二なるをいう。今その理を考うるに、理想の鏡面に一事一物なきこれを空といい、無一物の鏡面に諸象縁に従い変に応じて森然として現見するこれを仮といい、この空と仮と同体不二なるを中という。これを合して三諦の理という。この三は三にして一なり、一にして三なり。一、三互いに相いれ互いに相離れざるを円融相即の義門という。また一念三千理具事造の説あり。一念とはわが介爾の一心にして、この一心動くときは十界三千の諸法一時に具するを一念三千という。この三千に理具、事造の二種あり。一念の心に本来三千の諸法ありといえども、平等にしてすこしもその差別をみざるを理具といい、その上に差別の諸象歴然として存するを事造という。この理具と事造と一にして二ならざるゆえんを説きて、理具即事造、事造即理具という。これを要するに、天台にては理想の体上に中道を立てて、その中道の中には有も空も、客観も主観も、みな摂入して一体互具なりというにあり。これを事理不二の法門と名付く。すなわち体象不二、これなり。これによりてこれをみるに、天台はまさしく理想の中に入りて徹頭徹尾、理想論をもって貫きたるものなり。その現象を論ずるがごときもみな理想平等の見に基づかざるはなし。故に余は天台を評して理想中にとどまるものとなせり。

 第九八節 つぎに華厳宗も天台のごとく一乗中道の法にして、まさしく理体の中に入りたるものなり。その宗にては五教十宗を立てて仏教を分類せり。まず五教とは小乗教、大乗始教、大乗終教、頓教、円教、これなり。そのうち大乗始教とは大乗初門の教を義とし、終教とは終極の教を義とし、頓教とは頓速悟入の教を義とし、円教とは円満完備の教を義とするなり。つぎに十宗とは我法倶有宗、法有我無宗、法無去来宗、現通仮実宗、俗妄真実宗、諸法倶名宗、一切皆空宗、真徳不空宗、相想倶絶宗、円明具徳宗、これなり。このうち華厳宗は五教中の円教、十宗中の円明具徳宗に属して、その宗は諸教諸宗中、最上甚深の法なることを示せり。

 第九九節 古来華厳と天台とは、共に中道宗なるをもって互いに優劣深浅を争ってやまず。けだし二者おのおのその長所あり。今その両宗の別を挙ぐれば、主として理体の作用および体象の関係を論ずるに異同あり。まず天台にては理体の上に性具を説き、華厳にて性起を談ず。今この別を知らんとするには、まず縁起の理を知らざるべからず。縁起とは因縁によりて生起するを義とし、真如の理想より諸法の生起するゆえんを説くをいう。法相は阿頼耶識の体より諸法の生起するゆえんを論ず。これを頼耶縁起と称す。あるいは相対的唯心縁起と名付くべし。起信は真如の体より諸法の生起するゆえんを説く。これを真如縁起と称す。あるいは絶対的唯心縁起と名付くべし。今華厳も縁起論を用うるものなり。その縁起は起信の縁起より一層高等の縁起なり。これを法界縁起といい、また無尽縁起と名付く。無尽縁起とは諸象縁起の理無量無辺なるをいう。これ縁起の最上なり。しかして縁起の名称はなお現象の性質を帯びて理想の性質を有せず。故に縁起の外に性起を説く。縁起と性起とは因と果との別あり。因位にありては縁起にして、果位に至れば性起といわざるべからず。この無尽縁起を明かすに十玄六相の義門あり。すなわち一に同時具足相応門、二に一多相容不同門、三に諸法相即自在門、四に因陀羅微細境界門、五に微細相容安立門、六に秘密隠顕倶成門、七に諸蔵純雑具徳門、八に十世隔法異成門、九に唯心廻転善成門、一〇に託事顕法生解門、これを十玄といい、一に総相、二に別相、三に同相、四に異相、五に成相、六に壊相、これを六相という。その説明は各論に譲る。しかるに天台にては本来、理体の上に諸法を具せりと説くをもって、性起といわずして性具という。この縁起および性具のことはのちに体象関係論に入りて述ぶべし。

 第一〇〇節 かつそれ天台にては事理融即を説き、現象と本体とは互いに融通することを論ずるも、いまだ現象中の一物と他物との互いに融通することを説かず。その融通を説くは華厳に限る。これを事事無礙論という。これ論理の勢い次第に進みてここに至るなり。もし果たして理想と現象と同体不離なるときは、その一を挙ぐれば、他は従って具せざるを得ず。また諸象その体みな真如なるときは、甲象の中にも真如を包有し、乙象の中にも真如を包有せざるを得ず。果たしてしからば、甲象と乙象と互いに包有摂入せざるべからざるは必然の理なり。あたかも甲は丙に同じく乙も丙に同じきときは、甲乙二者互いに相同一なるがごとし。この理を立つるに四法界という名称あり。すなわち第一に事法界、第二に理法界、第三に理事無礙法界、第四に事事無礙法界、これなり。まず事法界とは現象差別の上について甲と乙と各分界あるをいう。つぎに理法界とは諸象その体、同一理性なるをいう。つぎに事理無礙法界とは体象融通して差別なきをいう。つぎに事事無礙法界とは現象と現象と融通して障礙するところなきをいう。この事事無礙法界を説くものはひとり華厳なりとす。人の論理の発達またこの次第に従うものなり。これによりてこれをみるに、華厳はその論理の進歩すでに理想中に達し、更に進めて理想の外に出で、その論理をもって現象の上に適用するものなり。故に余はこの宗を評して理想より現象に出づるものとなす。

 第一〇一節 つぎに真言は華天両宗のごとく、実大乗にして融通無礙の理を論ずるものなり。この宗にては二教十住心を立てて諸宗諸教を判釈し、真言をもって秘密真実の宗旨とするなり。二教とは顕教、密教なり。大乗小乗、一乗三乗等の諸教は衆生の気質に応じて顕説したる方便教なればこれを顕教といい、ひとり真言は衆生の機類に関せず秘奥隠密の道理を証示したる真実教なれば、これを密教という。十住心とは異生羝羊心、愚童持斎心、嬰童無畏心、唯蘊無我心、抜業因種心、他縁大乗心、覚心不生心、一道無為心、極無自性心、秘密荘厳心をいう。このうち秘密荘厳心は真言の住心なり。この宗にて立つるところの理想の体は大日如来の法身なり。この法身に金胎両部を分かち、これを真如に具する理智の二種に配して、金剛界とは智法身にして、胎蔵界とは理法身なりという。この理智の二性を具備したるものを大日如来とす。故に理智その体一にして、この大日の体は本来一切衆生の身心中に存せりという。またこの金胎両部はこれを物心二者に配して心法を開きて五智と説き、色法すなわち物象を開きて五大となすなり。五智とは法界体性智、大円鏡智、平等性智、妙観察智、成所作智にして、これ金剛界なり。五大とは地、水、火、風、空にして、これ胎蔵界なり。この五智を合して識とし、これに五大を加えて六大とす、すなわち色心二法なり。しかして地水火風空、五大の外に識大なく、識大の外に五大なく、金胎一致、物心不二、理智同体と立つるは真言宗の理論なり。

 第一〇二節 およそ真言宗の華天両宗に異なるは、その宗にて真如の理体を説かざるにあらざるも、華天のごとく理を本として、事すなわち現象を末とするにあらずして、事を本として理を末とするにあり。すなわち六大をもって本とするにあり。この六大には造化の作用ありて、有生無生、万象万類、みなこの所造ならざるはなし。故にこの宗にては大日も衆生も国土山川もみな六大所造なれば、我人も大日もその体同一なりという。これ論理進歩、自然の勢いなり。まず天台において事理融通の理を知り、つぎに華厳において事事無礙の理を知り、一切有形有象の事物みな真如と同体にして、一物中に多物を包含し一事中に諸事を摂蔵する以上は、事物すなわち本体なりということを得べし。語を換えてこれをいえば、理体の外に現象なしという。以上は現象の外に理体なしということを得べし。一事一物中に理想の体を包容する以上は、事物を離れて理想なしということを得べし。果たしてしからば、物心の現象を本として真如の理体を末とするも、論理において不可なることなし。これ真言にて現象的六大をもって本体とするゆえんなり。故に余は真言を評して、理想より出でて現象中にとどまるものという。これを論理の極点となす。

 第一〇三節 以上論ずるところこれを概括するに、仏教にては物心諸象の外に理想真如の本体あることを説き、これに向かって進入するをもって全教の目的とするものなれば、論理の進歩もまたこの方向をとれり。ただこの本体を証見するに有空中諸宗自らその解釈を異にし、大小両乗自らその進路を異にする点なきにあらず。しかしてその異なるは論理進歩の順序に前後始終あるによる。もとより真理において二致あるにあらず。これをたとうるに、ここに上図のごとき正円なる一場の円埒ありと想するに、円埒そのものについて考うるときは、前後始終の別なく平等一様なりといえども、もしこの中に一歩を進めんとするときは必ず起点を定めざるべからず。すでに起点をその上に定むれば前後始終の関係、忽然として生ず、これすなわち平等の上に差別、忽然として生ずるなり。しかしてひとたび起点を定め、あるいは右に向かって進み、あるいは左に向かって進むときは、その向かうところは前にして、その過ぎたるところは後なり。すでにこれを一周してその起点に帰するに至れば、ただこれ一場の円埒なるを知り、円埒そのものに前後始終の差別なく、これをして差別を生ぜしめたるものは、われなることを知るべし。他語にてこれをいえば、円埒の自体は平等無差別にして、差別はわが方にあることを知るべし。これと同時に、円埒には差別を生ずべき理を具することを知らざるべからず。もし果たして差別を生ずべき理を具せざるときは,われこの中に入るもその上に差別を生ずべき理なし。この比喩は論理の関係を明かし、あわせて理想の性質を示すものなり。

 第一〇四節 まず真理すなわち理想の体は平等無差別にして、始終なく前後なく、あたかも円埒そのもののごとし。もし論理をもってこれを追究せんとするときは、あたかも円埒中に起点を定めたるがごとく、論理の一歩たちどころに前後始終の差別を生ず。故に論理を理想の上に進むるは、まさしく我人がその歩を円埒の上に進むると同一なるを知るべし。これ実に理想自然の性なり。今仏教は理想の一円をもってその体とし、これに進向するをもってその目的とするものなれども、その理を人に示さざれば、だれありてか、よくこれを知りこれを信ぜんや。これをもって仏は人智の性質に従い、論歩をその上に進めて大乗小乗、一乗三乗等の諸教を併説せり。これもとより一理体を目的とするをもって、前後優劣の次第あるべき理なしといえども、論歩自然の勢い前後優劣の差別を生じ、小乗は劣なり大乗は優なり、三乗は前なり一乗は後なる次第あるをみる。しかれども、もし更にこれを論究してその極点に達すれば、起点に復し論理一周してその本に帰るべし。これを論理の循環という。一循環ありて始めて完全の真理あることを知るべし。すでに完全の真理に体達すれば前後優劣の別なきを知り、いずれの点もいずれの教義も、みな真正の仏教なることを了すべし。

 第一〇五節 この論理循環の理を、上来説ききたれる仏教諸宗の上に考うるときは、まず小乗をもって起点とせざるべからず。小乗を発して権大乗に進み、権大乗を去りて実大乗に入る。その順次は左の図について表示すべし。すなわちここに甲乙丙丁の一環ありと仮定し、その周辺を二分して甲丙乙の半環は現象の一辺を示し、甲丁乙の半環は理想の一辺を示す。しかして論理は乙丙の間すなわち戊より起こり甲丁乙と次第に循行するものと定むべし。まず小乗は世の客観論者、すなわちこの現象世界は恒久不変にして、彼我自他の別は永く存するものと妄信する論者に対して、諸元の法体ひとり恒有なるも、その集合より生ずるものは恒久ならずと説く。これ倶舎の客観論にして、世間の客観論より一歩を進めたるものなり。その進むとは理想の体に向かいて昇るをいう。故に余はこれを主観的客観論と名付け、入理門第一線となせり。すなわち図中の戊より巳に向かうもの、これなり。つぎに権大乗法相にては小乗の法体も空にしてその実なく、万法ことごとく唯識の所変に外ならざることを説きて開発論を立つるも、その開発は有為法中の第八識を根本として真如よりただちに生起するを説かず。かつ人々各別の唯識を立つるものなれば、これいまだ全く現象界を脱せざるものなり。故にこれを空宗中の有門とす。その空門すなわち三論宗にては心象を排して真如論を説くも、その論、消極的を本とするをもっていまだ理想の性質を明らかにするに至らず。故にこの有空二門は現象より理想に向かいて進み、いまだ理想の中央に入らざるものとす。すなわち図中の巳より庚に向かうもの、これなり。つぎに天台の中宗はすでに理想に達してその性質を説き、再び歩を転じて現象と真如との同体不離の関係を証示するも、理想界を本拠とするをもって、これ全く理想中にあるものなり。すなわち図中の庚より辛に至るもの、これなり。つぎに華厳は体象同一なることを説くは天台に異ならずといえども、更に一歩を進めて事々物々の間に融通無礙を説くをもって、理想より現象に出づるものなり。すなわち図中の辛より戊に向かうもの、これなり。つぎに真言は相即不離の関係を説くこと、華天中道宗に異なることなしといえども、客観的事物を本拠として理想論を立つるものなれば、これ図中の戊より巳に至るものとなすべし。これに至りて真言と小乗と同一点に帰したるをみる、すなわち真言の六大は色心二法にして、小乗の五蘊も物心二元なれば、二者共に二元論なり、あにこれを同一といわざるを得んや。ただその異なるは真言は物心融通の二元、小乗は物心隔歴の二元なるにあり。これ論理循環一周して、その本に復したるものなり。右に前図を宗旨に配して、倶舎より真言に至る順次を示すべし。

 第一〇六節 かくのごとく論理一周してその起点に達してこれをみれば、諸宗共に仏教の一辺を説くものなるを知るべし、なんぞその間に優劣深浅の次第あらんや。小乗も一辺なり大乗も一辺なり、有も空も中もみなその一辺にして、この諸辺を合したるものすなわち一大仏教なり。もしこの意を開きていうときは、その優劣なきはなんぞひとり仏教中の諸宗に限らん。外道諸宗のごとき、回教のごとき、ヤソ教のごとき、客観の一辺をとる宗教も、みな仏教中の一部分なりといわざるべからず。かくのごとく諸宗諸教みな優劣なしとするは平等上の見なり。しかるにその平等の表面には必ず差別の見ありて、一方に優劣なきと同時に一方に優劣ありとするは仏教の哲理なり。その哲理とは差別の中におのずから平等あり、平等の中におのずから差別ありて、この二者一体不離の関係を示すをいう。たとえば諸宗諸法みな同一の目的を有し同一の教理中にあるも、前後対比してみるときは遠近の別あり深浅の差あり、優あり劣あり、これまた勢いのやむべからざるものなり。あたかも一円埒を循行するに前後始終の別、したがって生ずるがごとし。かつ小乗と真言とは同一の二元論なるも、その二者また大いに異なるところありて、ひとたび理想の水を汲みたるものと、いまだ理想の味を感ぜざるものとはもとより同日の比にあらず。もし理想の本体と体象の関係を較するときは、大乗の説と小乗の論と大いに優劣の差あり。これ平等の表面に差別の存するゆえんにあらずや。

 第一〇七節 第二脈 体象関係論 以上現象と実体との二者現存するゆえん、ならびに論理の一方より起こりて循環するゆえんを論じたれば、これより第二脈の論題たる体象の関係を述ぶべし。この関係論を左の二項に分かち、次第に論及せんとす。

  第一項 体象関係の状態

  第二項 体象関係の起源

まずこの体象関係の状態を述ぶるに、これに諸説あり。その第一説には体と象とは互いに隔離して同一にあらずといい、第二説には体と象とは互いに融通して同一なりという。その一を体象不同論、その二を体象同一論と名付く。その体象不同論中に物心一体と物心異体との両説ありて、体象同一論はもとより物心一体論なり。そのうち体象融通論のみを立つるものと象象融通論を立つるものの別あり。もしこれを宗旨に配するときは体象不同論は小乗および権大乗なり、同一論は華天の中宗および三論、真言両宗なり。もし物心一体異体をもって分かつときは、異体は小乗、一体は大乗とすることを得べし。また同一論中、象象融通は華厳にして、体象融通は天台なり。その表左のごとし。

  体象関係 体象不同論 物心異体論(小 乗)

             物心一体論(法相宗)

       体象同一論 体象融通論(天台宗)

             象象融通論(華厳宗)

 第一〇八節 まず小乗倶舎は世界の万象万類を七十五法に分かち、有為無為の諸法体は常に実有なりと説きて、その諸法中色心二元を分かつも、その体別物なり。また無為法中択滅無為の一種ありて涅槃の実有を説くも、その体をもって諸法の実体となすにあらず、すなわち倶舎は現象と理想と心象と物象と共に本来差別あるものと立つるなり。つぎに権大乗法相は百法を設けて一切諸類を合括し、そのうち有為の諸法は唯識所変と立てて、第八阿頼耶識をもって諸法の種子を包蔵すると説き、識心を離れて物心諸象の存せざるゆえんを証明せり。かつその無為法中には真如無為の一種ありて、その体、阿頼耶識の本体なりと説き、一切有為および無為の諸法はこれを帰するに、真如理想の体上に現立するものと立つるをもって、これを倶舎に比するに大いにその事情を異にせり。故に余はこの二宗の異同を示して、倶舎は物心異体論、法相は物心一体論と名付く。かつ倶舎は真如をもって諸法の体とせざるも、法相はこれを諸法の体と立つるをもって理想為体論というべし。

 第一〇九節 法相は物心一体論にして理想為体論なれども、真如の体よりただちに諸法の生起するゆえんを説かず。故にその格言に曰く「真如は凝然として諸法を作さず。」(真如凝然不作諸法)と。すなわち真如は諸法の本体となるのみにて、諸法を生起する作用を有せざるものとなす。これをもってその論ずるところ、体象隔歴していまだ同一の関係を有せず。もし進みて天台の中道に入れば、真如はただに諸現象の本体なるのみならず、現象と同体不離の関係を有して、万象のそのままこれ真如、真如のそのままこれ万象なりと立つるなり。これを真如即万法、万法即真如という。あるいはこれを水波に比して、水即波、波即水と称して、真如の水を離れて万法の波なく、万法の波を離れて真如の水なく、二者その体一なりという。三論宗もこの同体不離の関係を説きて、色即是空、空即是色という。色は現象にして空は真如なり。華厳に至りては、天台と同じく体象の同体不離にして互いに融通包蔵するゆえんを説き、更に進みて現象と現象との間に融通包蔵を説き、一塵一毛の中に万法を包含して融通自在なりという。さきにいわゆる事事無礙法界、これなり。つぎに真言も、大日法身と衆生と同体不離の関係を説くをもって体象同一論なり。ただ真言は地水火風空識の六元をもって諸法の本体とし、大日法身もこの六元より成るという。故にその論は物心二元論なり、なお倶舎のごとし。しかして倶舎と真言とは大いにその趣を異にし、倶舎の二元はその体同一ならず、真言の二元はその体同一なり。他語にてこれをいえば、倶舎の二元はいまだ理想に体達せざる事物隔歴の二元なり、真言の二元はすでに理想に達して事物の上に立つるところの同体不離の二元なり。故に真言にては、この二元を六大に配して識大は心なり、地水火風空の五大は物なり、五大の外に識大なく、識大の外に五大なしという。さきに金胎両部の一体を説きたるものとその理同じ。

 第一一〇節 かくのごとくの体象の関係は、諸宗説くところおのおの異なるは大いに人の惑うところにして、一仏教中にして、なんぞかくのごとくその説を異にするやと疑うものあり。余はその諸説みな一仏教の説なることを示さんために、左に樹木の図を掲ぐ。この樹木は仏教の真如の体を根本とし種実とし、次第に発育して千万の枝葉を分出せるものと定むるなり。その理は次図ならびに図解を対照して知るべし。図中戊線は地平線とし、それ以上を幹とし、それ以下を根とす。しかしてこの樹木は雪の埋もるところなり。甲線をもって雪の平面となす。もし人あり、その木の雪のために埋められたるを知らずしてこれを外観するときは、イロハニホヘ等、数本の樹木ありと信ずべし。もし雪ようやく溶解して乙線に至れば、ただわずかに四本の樹木あるを知るべし。今仏教はこれと同一理にして、世間仏教を知らざるもの、および外道諸流のごときは甲線にありて樹木を評し、イロハニホ等、無数の我あり無量の物ありというならん。もし小乗の眼光をもってその雪を照らしこれを融解して乙線に至れば、さきに無数の我、無量の物ありと信じたるもの、その根本は有為無為、心元物元の諸法あるのみなることを知るべし。もし更に権大乗の智力をもってその雪を払い丙線に達すれば、有為の諸法その体一なるを知り、ただ真如と識心との二種しばらく隔歴して並立するをみるのみ。更に実大乗の理想の水をその上に注ぎて雪を溶解し丁線に至れば、識心も真如も五姓各別の種子も、みな理想の一体に外ならざるを知るべし。すでにその体同一樹なることを知れば、仰ぎて枝葉をみるに、万法の枝も真如の幹も同一なるを知るべく、また万法の枝と枝との同一にして、一枝一葉の中に、その樹木たるべき真理ことごとく含蔵するゆえんを知るべし。もし更に雪を除き地をうがち、その下に数様の根あるを見て、その一様なる真如の幹は数様の根より生じたるを知りしものは真言の二元論なり。しかしてその二元の倶舎に異なるは、倶舎はいまだ二元の体の一なるをみざるに、真言はすでに二元の体の一なるを知りて、その一なるものかえって二元より生じたるを知るによる。かつこの比喩につき真言のいわゆる顕密二教の判釈を了すべし。真言は自宗を指して密教というは、あたかも地下に隠れたる部分のごとし、他宗を指して顕教というは、あたかも地上にあらわれたる部分のごとし。これを要するに、一仏教中決して二説あるべき理なし。しかして数様の説あるは、真理そのものに数様あるにあらずして、これを知らんとする我人の方にて、賢愚利鈍、千差万別なればその一味の真理も、我人に対して数様に分かれざるを得ず。しかして釈迦仏陀のその教を説くや、自ら真理の全分を知るも、衆生の機類を誘引せんがために数様に分説し、浅より深に入り近より遠に進めり。なお高きに昇るに卑よりするがごとし。

 第一一一節 この関係につき仏教の論理法を述べざるべからず。論理法に平等差別二様の関係あることは第七四節にすでに述べたるも、これ仏教の秘蔵を開く宝鑰なれば更にここに一言すべし。今真如は理体なり絶対なり平等なり、万法は現象なり相対なり差別なり。この真如と万法と別物なりと信ずるは差別の見なり、この万法と真如と一体なりと知るは平等の理なり。また物象と心象と別体なりと信ずるは差別の見なり、色心二法一体なりと知るは平等の理なり。外道諸流はただ差別を知りて全く平等を知らず、仏教中小乗はなお差別の見を有しいまだ平等の理に達せず、権大乗に至りては平等の理をみるといえどもなお差別の一分を存す、全く平等の理に体達したるものは実大乗なり。しかるに平等の一辺を知りて差別を知らざるものもまた仏教にあらず。差別を離れて平等なく、平等の外に差別なく、平等差別、同体不離の関係を知るをもって、仏教の理を体するものとなす。しかしてまたこの二者同体にしてその別なしと信ずるも仏教にあらず。差別の裏には平等あり、平等の表には差別あり、この二者差別ありて平等なり、平等にして差別あり、一にして二なり、二にして一なり、この理を不一不二、もしくは不離不即の関係という。あたかも一物に表裏両面あるがごとく、表裏その体別なるにあらずして一体なり、一体なるもまたおのずから表裏の差別を失わず。今真如と万象との関係も、不一不二なり、不離不即なり、同体にして異体なり、差別にして平等なり。しかして仏教は世人の差別の一方に偏するをみて、これを引きて平等に入らしめんとするの意に出でたるものなれば、小乗より権大乗を経て次第に平等の一方に向かって進めり。故にただちにこれをみれば平等ひとり真理なるの感ありといえども、進みて中道に入れば仏教は平等一方の空論にあらざることを知るべし。これ中道諸宗に真如と万法との併存説あるゆえんなり。しかして外道の差別論を排して真理にあらずといい、小乗の差別論を評して浅近の説なりとなすは、差別の一辺を知りて平等の理あるを知らざるによるのみ。

 第一一二節 以上、体象関係の状態を論じ終わるをもって、これより第二項に移り、その関係の起源を述ぶべし。第一項の状態論にては、理体と現象とはあるいは同一なりといい、あるいは不同なりといいたるも、いまだその関係の生起するゆえんを示さず。これここに起源論を述ぶるゆえんなり。そもそも理体の性質は平等なり不変なり不滅なり、現象の性質は差別あり転変あり生滅あり。この二者は水火相反する性質を有するもの、いかにして同一というを得るや。またこれを不同とするもその体本来不同なるや、開発して不同を生じたるや、もし本来不同とするときは、何故に本来不同なるやを知らざるべからず。もし開発して不同を生じたるとするときは、いかなる理によりて平等の一体より差別の諸象を生じたるや。その原因理由を論ずるもの、これをここに体象関係の起源という。この点は仏教中の大難目にして、古来いまだ明らかにその理を通釈したるものあらず。

 第一一三節 この関係の起源を説くこと仏教中諸宗各別なりといえども、要するに二様の見あり。その一は存立上にて関係を論ずること、その二は開発上にて起源を立つること、これなり。またその両論中におのおの二様の見ありて、都合四種の異論を生ずるなり。すなわち左のごとし。

  第一 存立論

   (甲) 法体恒有説(倶舎宗)

   (乙) 理性本具説(天台宗)

  第二 開発論

   (甲) 頼耶縁起説(法相宗)

   (乙) 唯心縁起説(華厳宗)

 第一一四節 この二論の関係は時間上と空間上の別なり。時間上というも、時間そのものをいうにあらず、時間の性質を有したる思想をいうなり。空間上というも、空間そのものをいうにあらず、空間の性質を有する思想をいうなり。故に余は時間空間の代わりに、続起的併立的の語を用うべし。たとえばここに草木のごとき一物あり。この一物はそのいまだ発育せざるときには一粒の種実のみ、茎幹もなく枝葉もなし。その発育せるのちに至れば幹あり枝あり花ありて、前後大いに異なりとみるは時間上すなわち続起的の見なり。すなわちその発育は漸々順次を追うて幹を生じ枝を生じ、連続して生起するをもってこれを続起的と称するなり。もしそれ草木のすでに発育せるものには、幹も枝も葉も常に現存並立するを見て、種実の始めて新芽を生ずるときにも、そのいまだ生ぜざるときにも、共にそのうちに枝幹花葉を成すゆえんのもの併立して存し、すこしもその発育ののちに異なることなしというときは、これ空間上すなわち併立的と称すべし。すなわち発育の前後に関せず、現時の状態を見てつねに並存するものと立つるによる。今体象関係の起源を論ずるには、必ずこの二様の見なかるべからず。仏教はまさしくこの二様をもって立論したるものなり。

 第一一五節 この二様中、空間上すなわち併立的の見をとるは、仏教にては倶舎と天台の二宗にして、時間上すなわち続起的の見を立つるは、法相と華厳の二宗なり。しかしてこの続起的の見を余は開発論と称す。これを仏教の語によれば縁起説といわざるべからず。これに対して、併立的の方は余は存立論という。仏教にては恒有説もしくは本具説というべし。その存立論中倶舎は現象上より論じ、天台は理想上にて論ずるの別あり。故にその一を法体恒有説と称し、その二を理性本有説という。つぎに開発論も、法相は相対の上にて論じ、華厳は絶対の上にて論ずるの別あり。故にその一を頼耶縁起と称し、その二を唯心縁起というなり。この二様の見の一方ひとり真にして他方全く非なりとするは、仏教の本意を知らざるものにして、その本意は両様の見を合してその中をとるにあること明らかなり。これまた余がしばしば述ぶるところの二様一体の論則なり。

 第一一六節 まず存立論について、小乗倶舎の法体恒有説を挙ぐるに、倶舎は一切有為無為、七五種の法におのおのその実体ありと立て、その体は本来存立せるものにして、開端の起源なく前後を貫きて恒存するものなりとす。すなわち空間上に存立するものは、時間上に恒有なりというにあり。つぎに天台は事理の不一不二を説きて、実体と現象と真如と万法と本来相具して離れざるものなりという。そのいわゆる一念三千の格言によるに、わが介爾の一心にあらゆる三千の諸法本来具存せりとなす。故をもって本宗にては性悪の説あり。性悪とは起信等の縁起論は真如の本体縁起によりて妄念を生ずと説きて、時間の前後に真妄の別を立つるも、天台にては一念の心に具する妄想の当体すなわち真如なりと説きて、真妄具存を立つるをいう。これ余が理性本具説と名付くるゆえんなり。

 第一一七節 しかるに法相宗にては時間上前後続起の見をもって、諸法万象の歴然として現存するは必ずその初め開発したる本源あるべし。その本源にさかのぼりついに第八阿頼耶識に達し、そのうちに諸法の種子を含蔵するを見、この種子開発して諸法を現起せりという。これ法相の開発説なり縁起説なり。しかしてその元種は本来阿頼耶識のうちにありて存すという、すなわち本有の種子というもの、これなり。これを頼耶縁起と称す、これ相対的縁起なり。なんとなれば、相対心の上に縁起を論ずればなり。その縁起一歩進みて、絶対真如の体より万法の開発するゆえんを説くときは、これを真如縁起といい、あるいは唯心縁起という。その唯心は法相の唯心に比するときは絶対的唯心なり。この絶対的唯心縁起を説くものは起信および華厳の二宗なり。故に初めに起信の縁起を説き、つぎに華厳に論及すべし。

 第一一八節 まず起信の縁起は一切の諸法諸象はその起源を尋ぬるに、真如の体よりただちに開発せるものなりとなす。今その説によるに、真如絶対の一心より三細六麁等と次第に開発して、万象森然たる世界を現起するという。これ絶対的縁起なりといえども、その開発に前後の次第ありて、一より二を生じ二より三を生ずるがごとき階級あるは、畢竟相対の理をもって絶対の縁起を説くを免れず。他語にてこれをいえば、差別の見をもって真如の開発を説くものなり。この点は天台より評して別教と名付けて、円教の中に入れざるゆえんなり。かくのごとき前後次第の縁起を一相縁起という。これに対して華厳の縁起は無尽縁起と名付く、一切諸法円融無礙自在の縁起なり。あるいはこれを法界縁起という。その縁起は事々物々、融通無礙の道理の上に開発を説き、一事一物中に衆多の事物を含有して開発するをもって、前後次第の差別を立つるを要せず、その縁起するところ実に無量無辺なり。故にこれを無尽縁起、あるいは一多無尽縁起という。これ相対の理をもって絶対を説くにあらず、絶対の理をもって相対の上に及ぼすものなり。語を換えてこれをいえば、平等の見をもって現象の開発を説くものなり。

 第一一九節 これに至りてこれをみるに、倶舎と天台とは現在に存立する体象の状態を見て本具恒存のものとなし、法相と華厳とは縁起開発によりて生起したるものとなすの別あり。しかして天台のごときは真如縁起を説かざるにあらざるも、十界互具 一念三千を唱えて本来体象共に併存するものと立つるをもって、法相、華厳のみるところと同じからず。また倶舎と天台との異同は、前者は色心二法の上に恒存を説き、後者は事理二種の上に本具を説くの別あるによる。語を換えてこれをいえば、倶舎は現象上の物心二元の恒存せるを説き、天台は無象上の体象二種の本具せるを説くの別あり。しかしてその論理は二宗同一なり。倶舎の物心の上に用うるところの論理を体象の上に用うるときは、天台の論理となる。故にこの二者は表裏の関係を有するものというべし。つぎに法相と華厳との異同は、一は有為法の上に縁起を論じ、一は無為真如の上に縁起を説くの別あり。他語にてこれをいえば、一は現象上相対心の開発なり、一は理想上絶対心の開発なり。故にこの二者もその用うるところの論理一にして、ただ表裏の関係を異にするのみ。もし更に華厳と起信との異同を述ぶれば、一は相対差別の見をもって絶対の上に開発を説き、一は絶対平等の理をもって相対の上に開発を立つるの別あり。故に法相の上にあるものは起信の縁起、法相の裏にあるものは華厳の縁起というも不可なることなし。語を換えてこれをいえば、法相差別的縁起の理を、相対の外にある絶対的真如の上に用うれば起信となり、差別の裏にある平等の事物の上に用うれば華厳となるなり。

 第一二〇節 この倶舎、天台の存立説も法相、華厳の開発説もおのおの一方の見にして、この両見相合して始めて仏教の全理を知るべし。その存立説は空間的、併存的にしてあたかも横に一物をみるがごとく、その開発説は時間的、続起的にしてあたかも縦に一物をみるがごとし。この縦横の二見、互いに緯となり経となりて仏教宇宙論の全体を組成するなり。ここに上の一図をとりて仮に仏教宇宙論の全体と定め、これを甲乙線に従って縦に見るは開発論にして、丙丁線に従って横に見るは存立論なり。この縦線に従うときは宇宙上部に理想あり下部に現象ありて、理想の体開発して現象を生ずるの感想あり。もし横線に従うときは前後の別なく、一線の至る所必ず一方には理想あり一方には現象ありて、体象つねに相具し相離れざるものなるを見るべし。これもとよりその見る所異なるをもって、その説同じからざるも、その実一体の上に存する二様の道理なれば、決して真理の体に二致あるにあらざるなり。

 第一二一節 この二様の理の一体に帰するゆえんは、さきに第一一四節に述べたるところの草木の比喩について知るべし。およそ草木の発育したるものには茎幹の外に枝あり葉あり花あり、しかしてその起源を尋ぬれば一粒の種実より開発したるものなり。故に発育の前後相望みて考うるときは、前時には枝葉なくして、後時には枝葉ありといわざるべからず。しかるに、そのいまだ枝葉を生ぜざる種実中すでに枝をなし葉をなすゆえんのもの存するをもって、いやしくも種実中に生気動くときは千枝万葉たちどころに具備すということを得べく、またその枝葉は種実中より開現したるものなれば、枝葉の当体すなわち種実なりということを得べし。これを要するに、発育の前後に枝葉の有無を論ずるは外部の見なり、発育の前後に関せずつねに枝葉あるとみるは内部の見なり。この内外両見相合して始めて草木の草木たるゆえんを知るべし。体象起源論もまたしかり。その開発論において現象を有せざる理体開発して万有万象を生起し、前時に万象なくして後時に万象を生ぜりとみる起信等の説は外部の見なり、その万象なき時にすでに万象具存すとみる天台の説は内部の見なり。この二見を内外に分かちて考うるときは、二者同一理に帰するを知るべし。

 第一二二節 論じてここに至れば二大疑問を解釈せざるを得ず。すなわち第一問は開発の前にはただ真如あるのみにして万象なし、しかるにその無象の真如開発して万象を現出するはいかなる理によるや。第二問は万象果たして真如体中に恒存せるものなれば、何故にひとり真如をもって本体とし、これに帰向するをもって目的とするや。その第一は開発論についての疑問なり、その第二は存立論についての疑問なり。語を換えてこれをいえば、その一は起信の疑問にして、その二は天台の疑問なり。しかしてこの両問は古来の大難問にして、仏教者自ら疑ってやまざる点なり。しかるに余をもってこれをみるに、世人のこの点を解釈することあたわざるは、仏教は開発一方の説、もしくは存立一方の論なりと固執するによる。もし仏教はこの二様の論理より成るとみるときは、たやすくこの点を解釈することを得べし。今その意を述ぶるに、世人の疑いは、起信の開発論はあくまで起信一方の説をもって貫かんと欲し、天台の存立論は天台一方の説をもって立てんと欲するより起こる。しかして天台も起信も、おのおの仏教宇宙の半面を示すものなるを知らず。故にもし起信の開発論をもって解すべからざるところあればこの点を天台の上に考え、天台の存立論中に疑いをいるるべき点あればこれを起信の上に考え、二者対比参照してその理を究むれば、始めて疑団を氷釈することを得べし。

 第一二三節 今その第一問に解答するに当たりまず起信の意を述ぶべし。その論によるに、最初に真如の理体ありて、そのうちより忽然として生滅の諸象を現出するに至れり。しかしてその象は本無今有と称して、本来なくして現在に存するものとなす。そのいまだ生滅の諸象を現ぜざるに当たりて、存するところの真如の理体を本覚と称し、すでにこれを現じて再び不生不滅の理体に帰するに至ればこれを始覚という。その生滅なきものより生滅を生じたる方は生死の流転門と名付け、始覚によりて本覚に帰する方を涅槃の還滅門と名付く。これによりてこれをみるに、本来なきもの現在存するは無より有を生ずるがごとく、現在存するもの本来の無に帰するは有を転じて無となすがごとく、二点共に因果の規則に背き論理の許さざるところなりというは、世人一般の難問なり。余をもってこれをみるに、これ起信一方の説のみ。その説あたかも草木を見て千枝万葉は本無にして今有なり。なんとなれば、その本来の種実を見るに一枝片葉を有せざるにあらずや。その枝葉なき一粒の種実が忽然として枝葉を開現したるは、これ真如の体より生滅の諸象を現じたるに比すべし。しかしてその枝葉繁茂したる結果、また種実を成熟して本来無枝無葉の種実に帰す。これ始覚の時に本覚に帰するに比すべし。世の論者はこの樹木の変遷を見て、これ無より有を生じ、有変じて無となるものなれば、因果の規則に反するものなりというか。これもとより一様の見なり。もし他方よりこれをみるときは、本来の種実中に枝をなし葉をなすゆえんのもの秩然として存し、発育の前後によりてすこしも有無の別あることなしといわざるべからず。その第一は外部の見にして、その第二は内部の見なれば、この二者を対照してよく起信の意を会得すべし。

 第一二四節 つぎに第二問に移り、本来理体と現象と共に具存する以上は二者対等のものならざるべからず。決してその間に本来真仮の別を立つるの理あらんや。しかるに、現象を滅無して理体に帰入するをもって仏教の目的とするはなんぞや。もし本来体象並立するものなれば、あに象を滅して体のみを存すべけんや。かつ象を去りて体のみに帰するをもって目的とするときは、また有を転じて無となすの難を免れずというものあるべし。余はこれに答えていわんとす、天台にては体象本具を説くも、その象を真如の外に立てず、また事理相即、十界互具の規則を設けて、生滅の諸象そのままこれ不生滅の真如なり、あたかも万波の当体水なるがごとし、故に真如体中に現象あるも現象の当体真如なれば、現象を変じて真如となすことを得べしという。しかしてその理は起信の理と対考して論ぜざるべからず。もし真如自体の性質を尋ぬるときは、全く生滅の変化なきものなり。しかしてその体上に生滅の変化を生ずるは、真如そのものにあらずして我人の見なり。故に真如の体上に生滅の諸象を現ずるも、真如は依然として生滅なきものなり。しかれども真如はその不生滅の体上に、われをして生滅の見を起こさしむるの理を具すること明らかなり。たとえその理を具するも、真如その体中に生滅と不生滅の二元を並存するにあらず。これをたとうるに、さきに第一〇三節に示すところの円埒を見るべし。円埒そのものには本来起点なし、起点なきをもって前後始終の差別なし。これ真如自体に生滅の諸象を有せざるに比すべし。しかるにいったん人あり、その埒中に一歩を進めんとするときは必ず起点を生ぜざるを得ず、ひとたび起点を生ずれば、即時に前後始終の差別を生ずるなり。これ真如の上に差別の諸境を現ずるに比すべし。かくのごとく前後始終の関係を生ずるも、円埒その体の変更したるにあらず、ただ円埒そのものには、人のその中に入るに当たり前後始終を生ずべき理を具するのみ。これ真如体上に生滅を現ずるも、真如その体は依然として真如なるに比すべし。故に前後始終の差別のそのまま無差別の円埒なり、平等の真如なり。真如の体を離れて別に存する差別にあらず。故に天台にては差別の当体すなわち真如なりと知るをもって真理に体達すと立つるなり。

 第一二五節 更に他の比喩を挙げてこれを証せん。たとえば宇宙の天体そのものには、東西南北の差別あることなし。しかるにもし天体中の一部分、たとえば地球上に一位を占むるときは東西南北、八方上下の差別たちどころに存立す。本来無差別の天界中に差別を生ずるは、はなはだ解し難きに似たれども、宇宙そのものは依然として差別なし。故にひとたび地球上に一位を占むるも、もし去りて空中に浮かべば東西南北の別、本来存せざるを知るべし。また地球上にありてこれを考うるも、目を閉じて宇宙全体を思えば、地球上の差別の本来空なるを知るべし。ただわが眼力遠きを見ることあたわざるをもって、目前数里の間に東西の差別歴然として存するを見るのみ。もし眼力のみならず思想の力に乏しきものは、東西の差別目前に存するのみならず、宇宙全体の上にも存するものと固執し、たとえ人ありてその差別なきゆえんを説くも決して信ぜざるなり。もし思想に長じたるものは目を閉じて思考するを要せず、目前の事物を見ながら本来東西の差別なきことを知り、その差別の当体無差別なることを知るべし。今無差別の真如の上に差別を生ずるもこれと同一理なり。我人いやしくも真如界中に一の部位を占有すると同時に、差別の諸象森然として目前に存するを見る。しかるに深くその理を考うるときは、本来無差別にして真如は常に平等なるを知り、あわせて差別の当体無差別なるを知るべし。しかるに愚鈍の者は、眼前の差別を見て真に差別の存するものと信じ、これに対して無差別の理を説くも決して会得せざるなり。もし賢明のものあるときは、差別を見ながら無差別の理を知るべし。

 第一二六節 以上の論これを要するに、一方より見れば万象は本無今有にして、他方より見れば本来具存の別あるも、この二者を合して深くその理を考うるときは、二見共に真なるを知るべし。これを本無今有とするは開発上にていうなり。なお草木の発育のごとし。これを本来具存とするは存立上にていうなり。すなわちその体無差別なるも、その差別を生ずるゆえんの理を具するによる。あたかも前後なき円埒中に前後を生ずべき理を存し、東西なき天体中に東西を生ずる理を具すると同一般なり。故にこの二者を合論するときは、真如は常に本体にしてその上に現象を生ずるも、真如自体の上に変化して現象となるにあらずして、真如は常に依然たる真如なり。その現象のごときは我人の見によりて生じたるものにして、無を有とし仮を真とする妄見に外ならず。故に我人ひとたびその見を破れば、真如の依然として真如なるを見るべし。故に仏教にて生滅の諸象を断尽して本覚に帰するというも、決して因果の理法に背くにあらず。一方に本来無なりといい、一方に有なりというも、共に論理の規則に合するものなり。これ仏教にて真如を本体とし、かつこれに体達するをもって目的とするゆえんなり。

 第一二七節 論じてここに至れば更に一難ありて起こる、すなわち我人の妄見を起こすゆえんの理いかんということ、これなり。真如を離れて現象なきときは我人の体すなわち真如なり、我人の妄見を起こすは真如自ら妄見を起こすにあらずや。曰く、これ真如と我人との関係をつまびらかにせざるより起こる。およそ仏教の論理に二様あることは前来重ねて述ぶるところなり。この世界みな真如にして一塵一香、微花小草に至るまでことごとく真如なりとするは平等上の見なり、真如の外に我人ありと知るは差別上の見なり。この二見相合して仏教の真理を生ず。故に我人の妄見を起こすは差別上の見なり、我人の体ことごとく真如なるは平等上の見なり。平等は絶対なればもとより真妄の別あるべき理なし。しかるに実際上、真理妄見の別あるは相対差別の上に限る。もし差別の一方よりこれをみれば、我人と真如と差別あるのみならず、我人の中にも智者あり学者あり愚人あり、妄見を有するものあり、真智を有するものありて、万人は万人各別なり。今我人に妄見ありというは、この差別上の見のみ。もし平等上よりこれをみれば、我人の体すなわち真如にして真妄の差別なきなり。今挙ぐるところの問難は、この平等差別の両見を混同したる論なり。しかるに仏教の本義は、この両見を合してその中を立つるものにして、またこの二者の不一不二の関係あることを示すものなり。平等を離れて差別なく差別を離れて平等なしというは不二なり、平等に即して差別あり差別に即して平等ありと説くは不一なり。このことは『序論』中に略述せるも、そのつまびらかなるは各論に入りて知るべし。

 第一二八節 また一難ありて曰く、我人は真如の外にあるものなり、しかるに我人進みて真如に合体することを得るというはいかなる理によるや。曰く、これまた差別と平等との関係、および部分と全体との関係を混同せるものなり。我人は真如の外にあると同時に真如の内にあることを知らざるべからず、我人は真如の一部分なると同時に真如の全体なることを知らざるべからず。表面よりこれをみるに我人は真如の外にあるも、裏面よりこれをみるときは真如の内にあり。故にこれを外にしては我人は真如ならざるも、これを内にしては真如に体達することを得べし。また一方よりこれをみれば我人は真如の一部分にして、他方よりこれをみれば真如の全体なり。故に我人が真如のごとく無礙自在なることあたわざるは、その一部分なるによる。しかして我人が時ありて真智を発し、時ありて忘見を破り、進みて真如と合体することを得る自在力を有するは、我人の体すなわち真如の全体なればなり。この部分、全体二様の関係を全うして、我人は真如の一部分にして同時に全体なり、全体にして同時に一部分なりと知了するは、仏教の本義なり。そのつまびらかなるは『序論』および各論を参見すべし。

 第一二九節 第三脈 体象規則論 以上体象の関係を論じて、その二者の相関する状態およびその起源を説き終わるをもって、これより第三脈に移り、この関係を生ずる規則、すなわち体象の作用はいかなる規則に従うやの問題を説明せんとす。この問題を説明せざれば、体象の起源開発の理を明らかにするあたわず、またその関係の生ずるゆえんを知るあたわず。故にこの点は仏教上緊要の論題なり。そもそもその規則とはなにをいうや。曰く、原因結果の理法、これなり。およそ仏教上にて外道所定の因果を分類して四種となす。その一は邪因邪果、その二は無因有果、その三は有因無果、その四は無因無果なり。たとえば外道諸流中には、真の因にあらざるものを因とし、真の果にあらざるものを果とするは、いわゆる邪因邪果なり。あるいは因なくして果のみありといい、あるいは果なくして因のみありといい、あるいは因も果も共になしというがごとき説を唱うるものあり。仏教はこれに対して正因正果を立つるものなり。

 第一三〇節 因果論は仏教のみならず、ヤソ教にても、回教にても、理学にても、哲学にても、この規則を用いざるはなし。これ諸学、諸教、諸論の原理原則にして、古来いまだこの規則上に疑いを起こしたるものあるを聞かず。否、これを疑う人あるも、その人自らこの規則を用いて疑うなり。故に因果の規則は確固不動、恒久不変の大法といわざるべからず。しかして仏教はひとりこの大法を柱礎として宗教の一家を構造し、その修身悟道もまたみなこれを根拠となせり。故にこの法ありて仏教あり、この法廃すれば仏教たちどころに滅すべしといわざるべからず。かくのごとく仏教は徹頭徹尾、因果の経緯によりて組成せるものなれば、世間あるいは称して因果教または因縁教という。この因縁教の用うるところの因果は、他の諸教諸学に自ら異なるところあれば、左にその要点を開示すべし。

 第一三一節 まず仏教と諸教との因果論の異なることは、仏教の一端をうかがうものはみな知るところなり。今その論とヤソ教との異同を挙ぐれば、ヤソ教は因果の本源を天神に帰し、これを定むるものは天神にして、またこれを動かすものは天神なり。故に天神はこの理法を左右する力を有すという。仏教はしからず、因果は真如理体固有の規則にして、真如の存する限りは必ず存し、神にても仏にても決してこの理法を変更することあたわずという。仏ヤ両教の平常説くところのもの互いに相異なるはみなこの一点より起こる。たとえばヤソ教の因果は、開端の時あり。さかのぼりてその時に達すればただ天神あるのみ。故に天神をもって第一因となし、別にこの因の因たるものなしと断言せり。これを有始因果論という。しかるに仏教は、この世界は不生不滅の真如界なれば因果の理法に開端の起点なし、いわゆる無始因果なり。その他、仏ヤ両教の因果論の異なるはみなこの理に準じて知るべし。

 第一三二節 つぎに仏教と諸学との因果論の異同を挙ぐれば、諸学すなわち理学および哲学は、この理法を有形的物質の上に用うるも無形的心性の上に用いず、無形的心性の上に用うるも無象的理想の上に用いず、無象的理想の上に用うるも無象的理想自体固有の規則として有形無形一切の諸事諸物の上に応用せざるは、その仏教と異なるところなり。また諸学はこの規則を実験以内に用うるも実験以外に用いず、実験以外に用うるも人智以外に用いず、人智以外に用うるもその方向、人智以内より進みて人智以外に及ぼすものにして、人智以外より降りて人智以内に及ぼすものにあらず。これその仏教と異なるところなり。仏教にてはこの規則は理想固有の原則とし、諸事諸物、万象万化に普遍なる大法とし、この法則に基づきて有形無形、有象無象、一切万有万類の上に解釈を下し、可見世界のみならず不可見世界に及ぼし、三世因果、六道輪廻等みなこの規則によりて立つるに至れり。故に因果理法の解釈範囲の異同は、仏教と今日の諸学と同一視すべからず。

 第一三三節 しかるにこの因果を論ずるには、仏教中にありても諸宗の説一定せず。今これを有空中三宗に分かちて論述すべし。まず有宗すなわち小乗倶舎の説によるに因に六種、果に五果を分かつ。その表つぎのごとし。

  六 因 能作因

      倶有因

      同類因

      相応因

      遍行因

      異熟因

  五 果 異熟果

      等流果

      離繋果

      士用果

      増上果

この六因を四縁に配当することあり。四縁の分類は大乗にてもこれを用う。

  四 縁 因    縁  倶 有 因

      等無間縁    同 類 因

      所縁縁     相 応 因

      増上縁     遍 行 因

              異 熟 因

              能 作 因  六 因

この時は縁は疎因、因は親因の別あるにあらず。もしその別を立つれば増上縁は疎因、因縁は親因なり。この因果の分類法は、因果の作用に同時に起こるものと異時に起こるものあり、また互いに因となり果となるものあり、また多因合して一果を結ぶことあり。また主因とならずして助縁となるものあるをもって、かくのごとく種類を分かつに至りしなり。その説明は各論に譲る。

 第一三四節 つぎに空宗すなわち大乗法相の分類法を挙ぐるに、その表左のごとし。

  十 因 第 一 随 説 因

      第 二 観 待 因

      第 三 索 引 因

      第 四 生 起 因

      第 五 摂 受 因

      第 六 引 発 因

      第 七 定 異 因

      第 八 同 事 因

      第 九 相 違 因

      第一〇 不相違因

その他、因縁に四種を分かち、果に五種を設くること、倶舎に異ならず。要するに、法相の原因の説明は小乗に比するに一層精密なりというべし。

 第一三五節 小乗にては原因の分類法あれども、その原因の原因を説かず。しかるに法相にては原因の原因、すなわち万象万法はいずれより起こるかを説明して、その根本は第八阿頼耶識なりとす。そのうちに万法の種子を含蔵しこれを開発するの力は、阿頼耶識自体中に本来存するをもって、その種子因縁事情に応じて七転識現行の果を生ずるなり。七転識とは第八識に対して前七識をいう。しかして七転識の現行するには、第八識中にその種子を摂持するによるといえども、またその現行より第八識に向かって種子を薫殖するなり。すなわち種子より現行を生ずると同時に、現行より種子を薫ずるなり。これを三法展転因果同時という。三法とは現行を生ずる種子と、生じたる現行と、薫ぜられたる種子との三種なり。また七転識の現行より薫ずる種子に二種あり。その一を名言種子といい、その二を業種子という。名言種子は親因縁となる種子にして、業種子は疎縁すなわち増上縁となる種子なり。故に法相の因果論は第八識を根本とすといえども、第八と前七識と互いに因となり果となりて、いわゆる種子現行因果同時を立つるものなり。

 第一三六節 つぎに中宗すなわち大乗の因果論を説明すべし。因果の分類は小乗に始まるも、小乗は因果の起こるゆえんを説明せず、権大乗はこれを説明するも、いまだその本体いずれにあるやを知るべからず、これを知るには実大乗に入らざるべからず。実大乗に入りてこれをみれば、その因果の規則は真如理体に本来具するところの理法なるを知るべし。けだし真如は死物にあらずして活物なり。この活物ひとたび活動すれば、その体内に含むところの勢力発して外界の諸象を現じ、その諸象の中に千変万化を生ずるも、またその諸象を転じて真如の理体に帰するも、その作用一としてこの因果の規則に従わざるはなし。これ他なし、その規則は真如理体に固有なる特性なればなり。語を換えてこれをいえば、真如の活動作用の規則なり。しかしてこの因果は相対的に属するものにして、因は果に対して因なり、果は因に対して果なり、二者相対して始めて因あり果あり。他語にてこれをいえば、真如の活動作用の上に前後左右の差別を生じ、その間に待望対比して因果の名称を立つるなり。これをもって、因に一定の因なく果に一定の果なく、甲に対して因となるものは乙に対して果となり、乙に対して因となるものは丙に対して果となる。これ他なし、その規則の本源は真如絶対中より発するも、その作用は差別相対上に存するをもってなり。故に小乗および権大乗のごとき差別相対的の教理を説くに当たりては、最も必要なるものにして、その分類法もしたがいて精密なれども、実大乗に至りては絶対的真如論なれば別に分類法を設けず。しかれども因果の規則は中道諸宗のみな用うるところのものにして、真如の水の動きて万法の波となるも、万法の波の収まりて真如の水に帰するも、真如門より生滅を生ずるにも、始覚によりて本覚に帰するにも、みなこの理法によりて説明せざるはなく、我人のごとき群生が鬼となるも魔となるも、神となるも仏となるも、またみなこの理法による。さきにいわゆる縁起論は、全くこの規則に基づきて起こるものなり。仏教の悟道成仏もこの理法を離れてあることなし。しかれども、もし論じて絶対の絶対に達すれば、因果をもって論ずべからず。これ他なし、因果の理法は相対的にして絶対の外にありて存するものにあらざればなり。しかして絶対中にありては、至るところこの法の存せざるはなし。これ他なし、その理法は絶対固有の特性なるによる。

 第一三七節 以上有空中三種の因果論を略述したれば、これより更に広くその理法を論究せざるべからず。なんとなれば、その法は仏教中の主眼にして、その宗教をなす骨目なればなり、その智力的宗教といわるる要点なればなり、かつこの論は仏教の理論門より進みて応用門を開く管鑰なり。仏教はこの規則をもって天地万物、有形無形、有象無象の変化作用を説明し、これを宗教道徳の原理とし善因善果、悪因悪果を唱え、我人の生死運命より山川草木の形を成すゆえんに至るまで、みなこの規則によりて説明せざるはなし。かつ仏教に三世説、六道論あるは全くこの規則より推定したるものなり。すなわち時間に過去、未来、現在の三世あり、空間に地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天の六道あり。これに声聞、縁覚、菩薩、仏の四種を加えて十界と称す。この六道十界のことは応用門に至りて知るべし。もし空間上に存する国土を合算すれば、ただに六道十界のみならず、実に十方微塵世界なり、無数無量の世界なり。そもそも仏教は、時間をもって無限とし空間をもって無涯とし、無限の時間、無涯の空間中に存する物質は、形象上の変化あるもその体不生不滅とす。その不生不滅の体、無限無涯の間にありて因果の理法に従い、出没消長の変化を呈し永く際涯なしと立つるは仏教の客観論なり。故に時間に三世を立て、空間に微塵世界あることを説かざるを得ざるなり。その三世のごときも必ずしも一生の前後をいうにあらず、一刻一時一日中に三世あり。今日よりこれをみれば明日は未来なり、今時よりこれをいえば前時は過去なり。その間に因果の理法存する以上は、過去の因は現在の果を生じ現在の因は未来の果を招き、因あれば必ず果あり果あれば必ず因あるべし。しかるにもし現在のみありて過去なきときは、これ果ありて因なきものといわざるべからず。また現在のみありて未来なしとするときは、因ありて果なき反則となるべし。故に仏教に三世説あるは、因果の理法より推定したるものなりというなり。また因果の規則真なる以上は、因異なれば果また異ならざるを得ず。しかして我人の修むるところの因は人々各別なれば、その果また人々各別ならざるべからず。これ空間上に無数の国土を現ずるゆえんなり。なお応用門に入りてその理を述ぶべし。

 第一三八節 上来三理脈に分かちて論述せるところ、これを要するに、第一脈には、世人は客観界あるを知りて心界あるを知らず、現象あるを知りて理体あるを知らざるをもって、仏教はこれに対して心界理体の実在を証示したるゆえんを説き、第二脈にはすでに体象の実在を知るときは必ずその間に関係なかるべからず、またその関係の起こる原因なかるべからざるをもって関係の状態ならびにその起源を論ぜり。第三脈には、すでに体象の関係を知るときは、その体の活動しその象の発現するに一定の規則なかるべからざるをもって、余は因果の理法の存するゆえんを示せり。これ余が仏教一貫の理脈を三脈に分かちたるゆえんなり。しかるにこの三脈は仏教中の純正哲学に関する部分にして、すなわちこれを理論門に属する部分とす。この理論を実地に応用する規則を明示するもの、これを宗教学という。その規則を実施するときは宗教となる。もしそれ仏教は理論のみありて応用なきときは、これ哲学なるのみ、宗教にあらず。余はこれよりその応用門すなわち宗教学に関する部分を説くべし。

       第三小段 応用門

 第一三九節 仏教の応用門は、その理論門において論述せる哲学を応用して宗教を組織する規則を説示するものなれば、その性質自然に理論門と同じく三脈に分かれざるを得ず。まず理論門第一脈において理想の実在を証明せるをもって、応用にありてはこれに帰向するをもって目的とするゆえんを説示せざるべからず。また理論門第二脈において体象の関係を論ぜしをもって、応用門にてはこれに体達する方法を説かざるを得ず。また理論門第三脈において体象の規則を述べたるをもって、応用門にてはこの規則に従って修行の階位および結果の事情を説かざるを得ず。故に応用門も前論のごとく三部に分かるるなり。しかして前論の三脈、なかんずく因果論は応用門の主眼なりと知るべし。

 第一四〇節 今応用門を説くに当たりて説明すべき論点は善悪苦楽の問題なり、迷悟染浄の問題なり、応報業感の問題なり。もしこれを理論門の三脈の上に考うるときは、第一脈の実在論より起こる問題あり。

  第一問 我人は何故に理想の本体を目的とせざるを得ざるや。

つぎに第二脈の関係論を応用するに当たり起こるところの問題あり。

  第二問 我人は何故に真如を証見することあたわざるや。

つぎに第三脈の因果論を応用するに当たり起こるところの問題あり。

  第三問 我人は何故に修行を積まざるを得ざるや。

この第一問より善悪苦楽論を生じ、第二問より迷悟染浄論を生じ、第三問より応報業感論を生ずるなり。故に応用門も理論門のごとく三部に分かちて論ぜざるを得ず。

 第一四一節 第一問 善悪苦楽論 まず善悪苦楽論を述ぶるに、苦楽とは理論門の道理を情感の上に応用するときに生ずる名称なり。およそ苦楽は情感特有の性質なれば、その名称は情感の上に生じたるものなるや疑いなし。これ余は仏教は智力的宗教なれども、その応用部に至りてはいくぶんの情感を交ゆるものなりというゆえんなり。善悪とは理論門の規則を実施するに当たり行為に関する名称なれば、これ心性作用中の意力に属する部分なり。故に余は仏教は智力をもって神経とし、これに意力の骨を与え、情感の肉を付して、三性兼備の宗教なりといわんとす。これを要するに、仏教は左の三門に分かれ、その各門に応じて心性作用およびその名称を異にす。

  理論門   純正哲学   智   真妄(真非)

  応用門   宗教学    情   苦楽

  実施門   宗教(術)   意   善悪

これを合して仏教とす。そのうち実施門は応用を実施するに外ならざれば、その門に関する論題はみなこの応用門において述ぶべし。まずこれより苦楽善悪のことを説明せんとす。

 第一四二節 苦楽善悪の別を知るにはまずその標準を知らざるべからず。その標準は理論門にて述ぶるところの理想の体に外ならず。およそ仏教にては理想真如をもって本体とし、これに帰向するをもって目的とするは、諸宗一としてしからざるはなし。苦楽善悪の名称はみなこの体を標準として起こる。現象界は変化の世界なり生滅の世界なり、真如界は常住不変、不生不滅の世界なり。生滅はわが情感の一般に認めて苦となすものなり、不生滅は一般に目して楽となすものなり。その一は禍害なり、その二は幸福なり。これにおいて現象界を生死の苦界とし、真如界を涅槃の楽界とす。その道理は有宗にて説くところをみて知るべし。

 第一四三節 真如は万有万想の本体なることは理論門において論明せりといえども、これを情感上に応用して無上の楽界となすことはいまだ説明せざるをもって、まず小乗倶舎の所説を述ぶべし。その説によるにこの世は常に無常の世界なり、時々刻々に生滅浮沈あり年々歳々に栄枯盛衰あり、いやしくもこの現象界に存立するもの一事一物として変遷転流せざるはなし。昨日紅顔の美少年は転じて今日白頭の老翁となり、昨夜池塘春草の夢は変じて今朝梧葉の秋声となり、山河は一変して桑田となり桑田は再変して海洋となり、上王侯より下庶人に至るまで免るべからざるは生死の規則なり。飛鳥走獣より木葉草根に至るまで逃れ難きは栄枯の現象なり。山岳河海より日月星辰に至るまで、必ず経過せざるを得ざるは転変の事情なり。かくのごとき無常の天地間にありて無常の身体を有し無常の物類に接し、我人の平常貴重し愛惜してやまざる妻子も財宝も衣食も、一朝病患に触れ一夕冥路に上がるに当たりては一としてたのむに足らず、だれかこの事情を観察して楽界と称するや。一日楽を得れば数日の苦を生ず、実に現象界は苦界なり。我人の楽と感ずるものも真の楽にあらず。しかるに涅槃界は、これに反して常住不滅の世界なれば実に安楽の世界なり。ああ世間この楽界あるを知らずして、迷裏に出没し苦中に呻吟するもの多し。仏陀仁心の深き、あにこれを黙視するに忍びんや。これにおいて釈尊生死の苦界を渡りて涅槃の楽岸に達する法を説けり。これ仏教にて理想界に帰向するをもって目的とするゆえんなり。

 第一四四節 まず小乗有宗にて涅槃を究竟の目的とするは、倶舎の名称について知ることを得べし。その宗名は梵語にて阿毘達磨、倶舎の略称なり。これを訳して対法蔵という。この対法とは無漏の智慧をもって四諦の理を対観し、涅槃の果に対向するをいう。無漏とは煩悩なきの意にして妄念なきを義とす。四諦とは苦集滅道なり。そのうち苦集は有漏の因果、滅道は無漏の因果なり。苦とは生死の苦果、集とはこの果を招集する因をいう。滅とは滅無の義にして、無漏の智力をもって苦集の因果を滅無して得るところの果なり。道とは滅諦の果を得る原因すなわち修行をいう。諦とは審実不虚の義なり。これを要するに、小乗の人はこの四諦の理を観修して涅槃に対向するを目的とするものなり。しかしてその涅槃の解釈およびこれに達する方法に至りては、小乗と大乗と大いに異なるところあり。

 第一四五節 つぎに権大乗すなわち空宗の上に考うるに、法相宗にては現象界を苦界となすこと、および涅槃界を楽界となすこと、すこしも小乗に異なることなし。故にその宗にても、生死海を渡りて涅槃の岸に達するをもって目的とするなり。まずその宗に立つるところの三性中道説によるに、心外の諸境は真にありと執する妄情を遍計所執性といい、その諸象は虚無なるも因縁によりて生起する諸法は空にあらずして仮有なり、これを依他起性といい、真如の体性、これを円成実性といい、総称して遍依円三性という(第九二節を参見すべし)。この三性の上に立つるところの中道に二義あり。その一は三性対望の中道、その二は一法中道なり。三性対望の中道とは遍依円三性中、遍計は空なり依円は有なりと、前後対望して中道を立つるをいう。一法中道とは物心諸法中、一法一法の上に遍依円三性の理を具することを説きて中道を立つるをいう。この唯識中道の理を証して真如界に体達するに、法相一家にて用うるところの観行あり。これを五重唯識という。その一は遣虚存実識、その二は捨濫留純識、その三は摂末帰本識、その四は隠劣顕勝識、その五は遣相証性識、これなり。この観行の要は、一切万物みなことごとく唯識所変にして、心外に別法なしと観じて仏果を得るにあり。五重唯識の説明は各論に譲るべし。

 第一四六節 法相宗にて唯識中道の理を証して得るところの仏果の体は真如にして、これに智と理との二種を分かつ。すなわち第七三節に述ぶるがごとし。その智はこれを菩提といい、その理はこれを涅槃という。菩提に四種あり。曰く、大円鏡智、平等性智、妙観察智、成所作智なり、この四智は有漏の八識を転じて得るところの智なり。すなわち大円鏡智は有漏の第八識を転じて無漏となす時に得る智なり、平等性智は有漏の第七識を転じて得る智なり、妙観察智は有漏の第六識を転じて得るもの、成所作智は有漏の前五識を転じて得るものなり。また涅槃に四種あり。曰く、本来自性清浄涅槃、有余涅槃、無余涅槃、無住処涅槃なり。本来自性清浄涅槃とは一切有為法の自性に本来具有するところの真如の理体あるをいう。これを在纒の真如とも如来蔵とも名付く。有余涅槃とは生死の妄縁を断滅してなお身体を存し余命を保つ間をいい、無余涅槃とは余命すでに尽きて心身共に涅槃に入るをいう。無住処涅槃とは生死に住せず涅槃に住せずいわゆる一定の住処なきをいう。このうち小乗は灰身滅智いわゆる死物涅槃を立つるものなれば、有余無余の二種の涅槃を説くのみ。しかるに大乗はこの四種の涅槃を説く。これその活物涅槃なるゆえんなり。

 第一四七節 つぎに中宗も現象界の苦界なるを説くこと、および涅槃界に達するをもって目的とすることは、有空両宗に異なることなしといえども、そのこれに達する方法を論ずるに当たりては大いに異同あり。さきに第八六節において仏教中に諸行無常、諸法無我、涅槃寂静の三法印あることを説きたるも、これ小乗の上にて立つるところの標準なり。もし大乗の上にてこれを定むれば、実相の一印をもって体とせざるべからず。実相とは諸法の実体すなわち真如というがごとし。およそ大乗の説は、諸法の実体は唯一真如となすものなり。しかしてその上に諸象諸法、歴然として現立し体象二者、不一不二となすは実大乗の論なり。故に実大乗にありては一切衆生にことごとく仏性ありと説き、その仏性を開現するをもって仏果を得たるものとなす。その仏果の体は前節に挙ぐるところの涅槃、これなり。その涅槃に法身、般若、解脱の三徳ありという。解脱とは自在を義とし、般若とは智慧を義とし、法身とは不生滅の体性すなわち真如を義とするなり。この三徳は我人が本来有するところのものなれども、煩悩の妄塵の中に存するをもって、修行を積集せざればその徳を開顕するあたわずという。そのこれを開顕する方法に至りては華厳と天台と少異あれども、今これを略す。これを要するに、中道の諸宗もこの苦界を去りて涅槃の楽岸に達するをもって目的とするものなり。

 第一四八節 以上有空中三宗の諸説を概括するに、この世界は生死の苦界にして真如界は楽界なれば、これに向かって帰向し発願するは、一切衆生の目的とするところとなすなり。つぎに善悪の義解を考うるに、『倶舎論』に安穏業を善となし不安穏業を悪となすとあり。これ楽を生じ苦を滅する行為は善にして、その反対は悪なりという意なり。しかしてその苦と楽とはわが目前の世界中に存するは疑いをいれずといえども、現象界の苦楽は相対的苦楽なり、これに反して真如界の安楽は絶対的安楽なり。故にこの絶対的安楽を生ずべき行為は善中の善なり、その反対は悪中の悪なり。なお善悪に種類あることは、のちに応報業感論に入りて説くべし。

 第一四九節 第二問 迷悟染浄論 つぎに迷悟染浄論を述ぶるに、さきに理論門において現象界の実体なきゆえん、真如界の実在せるゆえんを説けり。しかるに世間普通の人はその実なきものを実体ありと信じ、その真理ならざるものを真なりと執するなり。また前論に説くがごとく、世人はこの世界は生死無常の苦界なるにこれを楽界と固執し、真如界は不生不滅の楽界なるにこれに向かって発願することを知らず。かくのごときものを妄想執着という。すなわち迷いなり。これに反対するものは悟りなり。語を換えてこれをいえば、生死に浮沈するは迷いにして、真如に到達するは悟りなり。この迷いを去りて悟りを得せしむるをもって仏教の本旨とす。故に仏教は転迷開悟の法なりという。この迷悟を論ずるには迷悟の体と迷悟の境とを述べざるべからず。まずその体をいえば、迷いとは煩悩所知の二障なり、悟りとは菩提涅槃の二果なり。またその境遇をいえば六穢四浄の十界あり、あるいはこれを六凡四聖という。六穢とは地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天にして、これ迷いの境遇なり。さきに六道というもの、これなり。四浄とは、声聞、縁覚、菩薩、仏にして、これ悟りの境遇なり。染浄の名称もこの迷悟の別について知るべし。

 第一五〇節 まず迷悟の体を論ずるに、迷いの体なる煩悩所知二障は我法二執を根本として起こる迷いなり。我法二執とは前に述べたるがごとく、わが身体中に我と称すべき実体ありと執するを我執といい、わが身体を組織する五蘊の体を真にありと執するを法執という。この二執中我執を根本として起こるものを煩悩障といい、法執を根本として起こるものを所知障という。この二障を有宗の『倶舎論』には染汚無知、不染汚無知と名付け、染汚無知は煩悩障に当たり、不染汚無知は所知障に当たる。また天台にては見思、塵沙、無明の三種を分かつ。見思は煩悩障なり、塵沙、無明は所知障なり。その説明は各論に譲る。また仏教中に有漏無漏の名称あり。その漏とは煩悩の異名なり。あるいは煩悩の一名を惑という。つぎに悟りの果なる菩提涅槃とは真如の理体に具するところの性質を、その作用の異なるに従って二様に分かちたるものなり。菩提とはその体智にして、涅槃とはその体理なり、前に説くがごとし。しかして涅槃とは智によりて証せらるべき体にして、菩提とはこれを証する智なり。故にその一を所証の理とし、その二を能証の智と定むるなり。もしこれを迷の二障に配するときは、煩悩障を去りて証するところのものは涅槃にして、所知障を捨てて得るところのものは菩提なりという。これ仏教の目的を論じて、あるいは断障得果、断惑証理と唱うるゆえんなり。

 第一五一節 つぎに迷悟の境遇を述ぶるに、六穢すなわち六道とは地獄、餓鬼ないし人、天なれども、このうち修羅を餓鬼、畜生、天の三道に分属するときは五趣となる。またこれを三界九地に分かつことあり。三界とは欲界、色界、無色界なり。欲界は形色の体あり香味の欲あり。人獣のごときもの、これなり。このうちには地獄、餓鬼等の五趣あり。天中の六天すなわち六欲天はこのうちに摂す。この五種を合して一地となす。色界は香味の欲なきもなお形色の体を存す。そのうちに四地十八天を摂す。無色界は形色なく国土なくただ識体のみを存す。そのうちにまた四地を分かつ、これを合するに欲界一地、色界四地、無色界四地、総じて三界九地なり。つぎに四浄すなわち四聖中声聞、縁覚、菩薩、これを三乗と称す。声聞とは仏の説法の声を聞きて四諦の理を観じ阿羅漢の果を得るものをいい、縁覚とは十二因縁を観修して辟支仏の果を得るものをいう。菩薩とは六度の行を修して仏果を得るものをいう。仏すなわち仏陀とは覚者と訳し、真理を覚知し真如に体達するものをいう。四諦とは苦集滅道の四諦なり。十二因縁とは無明、行、識、名色、六処、触、受、愛、取、有、生、老死なり。六度とは布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧なり。その解釈は各論に入りて知るべし。この三乗を前節の惑障に配するときは声聞、縁覚の二乗の人はただ煩悩障を断ずるのみ。ひとり菩薩は煩悩、所知、二障を断ずという。その断ずるところの惑体異なるをもって、得るところの結果また異ならざるを得ず。故に声縁二乗のごとき、小乗の人は阿羅漢をもって極果とし、大乗の菩薩は仏果をもって最上とす。その涅槃の大小両乗異なるゆえんもこれに準じて知るべし。

 第一五二節 以上、迷悟染浄の義解を述べたれば、これより我人が涅槃界に到達するには、その階梯をとらざるべからざるゆえんを弁ずべし。もし人あり、何故にわれわれはその階梯をとらざるべからずと問わば、これに答えていわん、我人は迷界の中にあるものなり。迷界を脱して悟境に入るにはその間の階梯を踏まざるべからず。なお高きに昇るに卑しきよりし、遠きに行くに近きよりするがごとし。人また必ず問わん、さきに理論門の体象関係論において、現象と理想とは同体不離の関係を有することを知れり、かつ天台の真如即万法、万法即真如の理を推すときは、煩悩即菩提、生死即涅槃なり、迷いすなわち悟りにして、我人本来仏なり、なんぞ迷界を転じて悟界となすに階梯を要せんやと。この問いのごときは、余がしばしば述ぶるところの差別平等の関係を解せざるによる。体象一体不二とするは平等の辺よりいうなり。もしこれを差別の辺よりいえば、体象おのずから差別あり。故にその関係を不一不二という。迷悟もこれと同一理にして、一にして一ならず、二にして二ならず。差別の表面よりこれをみれば迷悟二にして一ならず、平等の裏面よりこれをみれば一にして二ならず。故に差別の表面よりみるときは、迷いを転じて悟りとなすにはその階梯をとらざるべからず。これをもって中宗天台にては円融門と修行門とを分かち、円融門すなわち平等的理論の方にては煩悩即菩提、生死即涅槃という。なお波の当体すなわち水なるがごとし。修行門すなわち差別的応用の方にありては、煩悩の障りを断ぜざれば涅槃の理を証すること難しという。なお動波を鎮定せざれば静水とならざるがごとし。中宗華厳にても円融行布の二門を設けて、理論的円融門にては一即多、多即一にして、一事一物中に諸法を摂蔵するをもって修行の階梯を要せず。なお一の数は十を成すゆえんなれば、そのうちに十を摂するがごとし。しかるに実際的行布門にありては種々の行位階級を立つるなり。なお一を積まざれば十とならざるがごとし。これ修行を要するゆえんなり。

 第一五三節 かくのごとく修行の階級を要するをもって、有空中三宗、一として修行を説かざるはなし。まず有宗中の有門すなわち倶舎宗にては、声聞は三生六十劫の久しきを経て修行するを要し、縁覚は四生百劫の久しきを経て修行を積集するを要す。菩薩は三無数劫の久しきを経て修行するを要す。有宗中の空門すなわち成実宗にては賢聖の階位に二七を分かちて修行の序次を明らかにせり。つぎに空宗中の有門法相宗にては菩薩の位を十住、十行、十回向、十地、仏果の四十一位に分かつ。空宗中の空門すなわち三論宗にては、菩薩の位に五十二位を分かつ。また中宗の天台にては三諦および十乗の観法あり。かつ六即の階位ありて仏道を修行するものは、この観法を修しこの階位を経るを要す。三諦の観法とは空仮中三諦の理、一心中にありと観ずるいわゆる一心三観をいう。十乗の観法とは一に観不思議境、二に起慈悲心、三に巧安止観ないし一〇に無法愛あり。六即とは理即仏、名字即仏、観行即仏、相似即仏、分身即仏、究竟即仏、これなり。その説明は各論に譲る。つぎに中宗華厳にてもその行布門には五十二位の階級を設け、かつ見聞位、解行位、証人位、これを三生という。この三生の位を経て成仏することを説く。また真言にては三密加持の修行あり。三密とは身密、語密、意密をいう。仏の三密と衆生の三密と加入摂持するを加持というなり。

 第一五四節 第三問 応報業感論 つぎに応報業感論を述ぶべし。さきに理論門中に原因結果の規則を説明したるが、その規則に従ってわれわれの修すべき所為、およびこれによりてきたすところの結果を示すは応用門なり。故に今掲ぐるところの修行階級のごとき、これを因果論に考えて始めてその理を知るべし。しかるに今述べんと欲するところは、さきに示せる善悪の行為を因果の上に加えて制定する善因善果、悪因悪果の規則、これなり。この規則は開きて左の三条となる。

  第一条 善因あれば必ず善果あり、悪因あれば必ず悪果あり。

  第二条 善因の数量異なればその果もまた異なり、悪因の数量異なればその果もまた異なり。

  第三条 善因の種類異なればその果もまた異なり、悪因の種類異なればその果もまた異なり。

この三条は左の三則より生ずるものなり。

  第一則 因あれば必ず果あり

  第二則 因の量多ければ果の量もまた多し

  第三則 因の類い異なれば果の類いまた異なり

およそ人の修むるところの善行にも種類ありて、上等の善と下等の善あり、また多量の善と少量の善あり。もし因果の理法真なる以上は、多量の善を修めたるものと、少量の善を修めたるもの同一の果を得べき理なく、上等の善を修めたるものと、下等の善を修めたるものとその果同一なるべき理なし。故に仏教にては善果にも悪果にも種々の階級等類を設け、地獄にも種々の地獄あり、極楽にも種々の極楽ありというなり。

 第一五五節 余『破邪活論』第一五五節ないし第一五七節に、ヤソ教の天神賞罰説の不公平にして道理に合せざるゆえんを痛論したるが、今仏教の善悪応報論をみるに大いにこれに異なるあり。その論、実に公平なりといわざるべからず。およそヤソ教にては人の善心善行に無量の種類あるも、その結果は天堂に生ずる一途あるのみ。これにおいて少量の善を修めたるものと、多量の善を修めたるものと同一の果を得る不公平の賞罰たるを免れず。仏教はこれに反し、自ら修むるところの善悪の分量に応じてその果あり。人の行為千差万別なればその果また各別なりと立つるをもって道理に合するものとなさざるべからず。かつその果は因果の理法に従っておのおの自ら招くところのものにして、擅制天神の随意に任ずるものにあらざれば、善悪業感というべし、賞罰というべからず。これ仏教は徹頭徹尾、因果の理法をもって組成せるによる。

 第一五六節 善因および悪因に数種あるうち、その主なるものを挙ぐれば、善悪おのおの、身口意の三類に分かち、十種の善悪を設く。すなわち第一類の行為上に現ずる善悪に三種あり、第二類の言語上に発する善悪に四種あり、第三類の心意内に動く善悪に三種あり。これを合して身三、口四、意三の十善十悪という。まず身三の悪は殺生、偸盗、邪婬の三悪なり、これに反対する行為は善なり。口四の悪は妄語、綺語、悪口、両舌、これなり。意三の悪は貪欲、瞋恚、邪見〔愚癡〕なり、これに反するものは善なり。以上は善悪の業という。この業に応じて善悪の果を招くを応報業感という。

 第一五七節 そもそも仏教にてはさきに説くがごとく、人世の幸不幸はもちろん、およそ人のこの世界に生まれこの形体を成し、あるいは貴顕の門に養われ、あるいは貧賎の途に長じ、賢愚利鈍の別ある等、みな過去の業因の招くところとなす。その業因に引業、満業の二種あり。引業とは人類なれば人類一般に関する普遍性の結果を引くべき業因なり。たとえば貧富、貴賎、賢愚の別なく衆人共同して有する性質、すなわち人類の人類たるべき性質を引き起こす業因を引業という。満業とは人類おのおのに属する特殊性の結果を生ずる業因なり。たとえば同一人類にして、あるいは貧賎となり、あるいは富貴となり、あるいは賢となり愚となり、あるいは美となり醜となるがごとき、異様万差の結果を招き起こす業因を満業という。あるいは引業を総報業といい、満業を別報業というもその義同一なり。この引業満業によりてきたすところの結果は必ず同時期なるあたわず。その業感の時期に四種あり。曰く、一に順現受業、これ現在世に業因を作りて現在世にその果を感ずるをいう、二に順生受業、これ現在世に業因を作りて次世にその果を感ずるをいう、三に順後受業、これ現在世に業因を作りて次世を超え第三世以上に至りてその果を感ずるをいう、四に順不定受業、これ果を感ずる時期の現在世に限るにあらず次世なるや三世なるや定まりなきものをいう。かくのごとく果を感ずる時期に不同あるは、善悪共にその業因多種複雑にして、あるいはその力強大なるものあり弱小なるものあり、あるいは他の業因のこれに加わりてその力を増減することある等、種々の事情によりて一定せざるによる。これをもって仏教にては三世因果説を立つるも、必ずしも過去世の業因を今世に感ずるというにあらず、あるいは数世前に作りたる業報を今世に応感し、あるいは今日の果を明日に感ずることもありというなり。

 第一五八節 以上、善悪業因および応報の解釈を示したれば、これより六道輪廻説を述ぶべし。六道輪廻とは地獄、餓鬼ないし人、天の間に迷うて生死流転するをいう。この説は世間一般に認めて妄説となすといえども、これその意を知らざるものなり。そもそも六道輪廻は全く因果の理法に基づきたるものにして、その理法存する以上はその説存せざるべからず。なんとなれば、原因に善悪無量の種類あれば、結果にまた無量の種類あるべきは前すでに論明せるところなり。故に地獄にも無数の地獄あり、極楽にも無数の極楽あり、これを六凡四聖とするはただその大要を挙ぐるのみ。もしこれを細分すれば凡聖共に無数なり。善因を修むる者は進みて善果を得べしといえども、その善量の多寡に応じて得るところの果に階級等差を生じ、あるいは第一級の果を得るものあり、あるいは第二級、第三級ないし十級、百級の果を得るものあるべし。果たしてしからば、今世に一段の善を修めたるものは次世に一階昇進し、次世に更に一段の善を修むれば第三世には更に一階昇進し、漸々善を修め徳を積みて最極果すなわち涅槃の楽界に到達すべし、これ昇進門なり。もしこれに反して、毎世悪因を植ゆれば次第に下等に転生せざるを得ず、これ降退門なり。語を換えてこれをいえば、その一は進化、その二は退化なり。この進退両化は今日今時の社会に存する通則にして、一日労をとれば一層の財を得、二日苦を重ぬれば更に一層の富を得、漸々昇進して富豪となり貴顕となり、これに反するものは漸々降退して、賎民となり乞丐となると同一理なり。

 第一五九節 今日西洋学にて唱うるところの進化退化の説はその源、生物学より起これり、これを進化論という。仏教もまたこの進化論に基づくものなり。そのいわゆる六道説も進化論中の遺伝説を応用したるものに外ならず、その成仏説も進化の規則によるものなり。余かくのごとく論定するときは、人必ずいわん、これ牽強付会の説なりと。余はこれに対してその付会説にあらざる理由を述べざるべからず。余もとより知る、生物進化論は近世始めて起こりし説にして、三千年古の仏教中に存すべき理なきは明らかなるを。かつたとえその説に符合するも、両説の大いにその趣を異にするところあるは疑いをいれず。しかれども仏教の原理は理学の原理と同一点より起こりしものなれば、その事物の説明に至りては同一理の符合するものなしというべからず。まずその原理の同一なる点を挙ぐれば、仏教中の客観論によらざるべからず。客観論とは小乗有宗の説をいう。その論の基づくところは、時間は無限なり、空間は無涯なり、その無限無涯の間に存する万物は不生不滅なり。その万物の変々化々するは、これを組成せる諸元の分散集合するによるのみ。もしその諸元の体を検すれば、不生不滅なることを知るべし。物質の体、不生不滅なるをもって、その諸象の森然として羅列するわが眼前の世界は、時間上終始なく空間上際涯なしというべし。この無始無涯の世界の小部分に小変化あり、大部分に大変化あり。あるいは生じあるいは滅し、あるいは成りあるいは壊れ、変々化々、一刻一秒時間も休止することなしとするは仏教なり。その変化の事情を四段に分かち、これに生住異滅四相の名目を立つることは、第八三節に説くがごとし。そのうち生住二相は進化なり、異滅二相は退化なり。また世界全体の上に成住壊空の四劫あることを説けり、これまた進化退化なり。故に仏教にては、世界中の事々物々に生滅の変化あるを説くのみならず、世界全体の上に生滅の変化ありと立つるなり。しかしてその変化は現象上の変化にとどまり、その実体に至りてはすこしも増減生滅なし。故をもって世界のごときもひとたび進化して滅亡するに至るも、また開発して新世界を組織し、進化は変じて退化となり、退化は転じて進化となり、一体の世界にして、あるいは開きて天地万象を現立し、あるいは合して混沌の状態に帰し、一開一合、循環して際涯なきもの、これを世界大化の通則とす。この世界大化説に至りては、今日天文学者の唱うるところの星雲説と符合するところなきにあらざれども、いまだ仏教のごとく断言してその順序を説示したるものあらず。これ仏教は理学とその性質を異にするによる。しかして物質不滅論、諸元集散説に至りては理学の原理と同一に帰すること明らかなり。

 第一六〇節 更に仏教の客観論を究めてその変化の規則を尋ぬるに、因果の理法を原理とすることたやすく知るべし。かくのごとき時々刻々、変々化々する事物の間に、常に変化せざるものは因果の理法にして、一変一化としてこの理法によらざるはなし。諸元の集合して一物を仮成するも、分散して諸元に還帰するも、生住二相を経て進化するも、異滅二相を経て退化するも、みな因果の作用にあらざるはなし。因なくして果あることなく、果あれば必ず因あり、有を転じて無となすべからず、無を転じて有となすべからずというは仏教の通則なり。さきに述ぶるところの理論門因果論を参見すべし。その他、客観論中に世界の大化を明言したるも、この規則によりて論定せるものなり。さきに挙ぐるところの六道輪廻説も、この規則に基づくものなり。

 第一六一節 仏教はこの物質不滅論と因果理法論を原理として組織せるものなれば、その説中に理学と符合するところのものあるべきは当然なり。これ余が仏教に進化説あり遺伝説ありというゆえんなり。しかれども仏教の性質と理学の性質と異なるゆえんを知らざれば、その両説の符合するゆえんを知るべからず。まず理学は有形的学術なれば事物の性質変化を論究するに、有形的物質を本拠としかつこれを標準とす。すなわち事物の外面を本とし内面を末とするものなり。仏教は無形的宗教なれば、物質の内部に包有する無形的勢力を本拠とし、かつこれを標準とするものなり。すなわち事物の内面を本とし外面を末とするものなり。しかして今日理学の説にても、物質にはその体固有の勢力ありて、物質と勢力とは互いに離れざるものとなす。仏教はこの勢力を本とするものなり。しかしてその勢力を解すること、理学と仏教ともとより同じからず。理学はその勢力をもって有形的物質に属するものとし、仏教はその勢力をもって無形的理想に属するものとするの別あり。また理学の説に基づきて唯物論を唱うるものは、生活力も感覚力も思想力も、みな物質固有の勢力の変態に外ならずといい、仏教はその中道宗の唱うるところによるに、物力も生力も感覚も思想も、みな理想真如の変態なりといわざるべからず。これを要するに、理学は有形的物質を本とし、仏教は無形的勢力を本とするの別あり。したがいてこの二者はその原理を同じくするも、その説明の異なるゆえんを知るべし。

 第一六二節 かつそれ理学は物質の不生不滅なるをみて、物質は本来不滅なるものとし、更にその不滅なる原因を探らず。しかるに仏教は物質の不滅なるは、その裏面に不滅なるもの別に存するによるとなす。すなわち真如これなり。この無形的不生不滅の真如が、万有の内部に存するをもって、その外面に現ずる物質の体も不滅なることを得べしという。かくして真如、これが本体となる以上は、その物質をして変化せしむる勢力も真如の体より生ぜざるべからず。故に仏教にては物質の形を成し象を結ぶゆえんのものも、みな無形的勢力のしからしむるところとなす。すなわち物質が分化して、人を成し禽獣を成し草木を成し山を成し川を成すも、みな勢力の作用によらざるはなしという。これによりて理学と仏教とはその原理を一にするも、その途を異にするゆえんを知るべし。かくのごとく論定して、これより仏教の遺伝説と理学の遺伝説のその原理一なるも、その説明の異なるゆえんを述ぶべし。

 第一六三節 仏教にては大乗小乗および大乗中権大乗と実大乗とは、おのおの大いにその見解を異にするも、無形的勢力をもって本拠とするは諸宗みな一致するところなり。その勢力の本源は真如の理体なれば、その勢力は真如の力なり。しかしてその勢力に、生滅の習慣を有するものと、習慣を有せざるものの二種あることを知らざるべからず。『起信論』の説くところによるに、真如に生滅門と不生滅門の二種ありて相分かるる。すなわち生滅ある勢力と生滅なき勢力との二者あるなり。この二者その体一なるも、真如の海面に動波を生じ、あるいは昇りあるいは沈み、あるいは現れあるいは隠るるもの、これを生滅ある勢力という。その勢力ひとたび動揺して生滅の波を生じたるときはようやく波動の習慣を起こし、再三波動すればその勢いますます習慣性を養成し、小波動相重なりて大波動を生じ、ついにその本源の静水に帰することあたわざるに至る。かくのごとき勢力を、生滅の習慣を有する勢力と名付くべし。あたかも理学にて運動の習慣性を説くと同一理なり。今我人の有する勢力はこの習慣を有する勢力なり。故に我人の本体は不生滅の真如なれども、ただこの習慣を有するをもって真如と異なるのみ。故にわれもし真如の故郷に還帰せんと欲せば、まずこの習慣性を脱せざるべからず。この習慣性の存する間はこれを生死の迷いといい、これを脱する時は涅槃の悟りという。しかしてその習慣性の体は煩悩、もしくは無明、これなり。この理を推して仏教の遺伝説を知るべし。

 第一六四節 理学の遺伝説は有形的物質上に存するものとし、仏教の遺伝説は無形的勢力上に存するものとするの異同あり。かつその勢力を解するに、理学は物質に属するものとし、仏教は真如に属するものとするの別あり。故に理学に説くところの物質上の理を、無形の上に考うるときは仏教の遺伝説となるべし。仏教の遺伝とはなんぞや。曰く、生滅の習慣を有する勢力の世々その性を保続するをいう。けだしこの勢力は幾億万世の久しき歳月を経てその習慣性を養成したるものなれば、今日我人の人類の形を結び一個の生活物となりてこの世に生ずるも、今日今時に始まるにあらず、幾億万世間の習慣力の結果に外ならず。故にひとたび人間に生まれたるものはいったん死するも、その習慣性の存する間は更にこの世に再生することあるべし。もしその理を詳論すれば、我人に存する勢力はわが生命の損ずると同時に、わが身体を去りて再び生類の形体を結集すべき理なきがごとしといえども、勢力に習慣すなわち遺伝性の存する間は、たとえひとたびわが体を離るるも、またその勢力は従来の遺伝性に従って他の形を結び他の生類となりて、この世に現ぜざるを得ず。しかしてその習慣性は前世もしくは前々世、幾億万年の間に、われわれが経験実行せるものの積集したる結果にして、われ今死するときは、その従来の習慣とわが一世間の経験と相合して更に新習慣性を形成し、その性を遺伝して次世の新形体を結ぶに至るべし。これを過去の宿縁という。あるいは業因、あるいは業力等の名称あれども、その意一なり。業力とは余が今述ぶるところの習慣力なり。故に習慣力はなにによりて生ぜしやと問うときは、過去すなわち前世前時の経験によると答うべし。

 第一六五節 この仏教の遺伝説を知るときは、同時に生死輪廻説を知るべし。仏教にては三千大千世界と説き、あるいは十方微塵世界と説きて、天地六合の間幾千万の世界あるを知らず、その世界に幾億万の生類あるを知らず。その生類、過去の遺伝によりて一世界に生まれ、その一世間の経験と前世の遺伝と相合して、未来われがいずれの世界に生まれ、なにものとなるやを前定するなり。これをもって、同一人類にてもその一生間の行為異なる以上は、その次世には必ず人類となりて生ずるにあらず、あるいは獣類となり、あるいは魚虫となるやも知るべからず。たとえ次世に同一人類に生まるるも、その地位同一なるあたわず、あるいは今世賎民なりしもの進みて貴顕の門に生まるるあり、今世貴族なりしもの降りて乞丐の家に生まるるあり、再三降り降りて禽獣界に入るものあり、再三昇り昇りて天上界に生まるるものありという。その事情を六道輪廻と名付くるなり。実に一生一死、浮沈昇降その極まるところを知らず。これ生死流転の状態なり、六道輪廻の実況なり。

 第一六六節 かつ仏教にて仏果に達する道を説くもまたこの理に基づく。およそ我人がこの生死浮沈の世界を去りて不生不滅、常住恒存の涅槃界に到達するには、まず六道輪廻の習慣性すなわち惑障を脱離せざるべからず。これを脱離するにはしかるべき方法をとらざるべからず。その方法とは他にあらず、生死をいとうて涅槃を願うの心を生じ、その心を口に発し身に行い、種々の戒法、観行を修習するをいう。この善良なる習慣の力によりて生滅の習慣性を転じて不生滅の本性に帰することを得べし。しかるに涅槃の願うべきを知らずして、ただこの生死界をもって満足し、かえってこの世界を願うに至らば、これますます生滅の習慣性を養成するのみ。いずくんぞよくこれを脱離せんや。これ仏教の生死をいとうて遁世脱俗の風あるゆえんなり。これ世間、仏教を評して厭世教と唱うるゆえんなり。しかしてその厭世一方の宗教にあらざる理由はのちに至りて説明すべし。

 第一六七節 およそ仏教中に涅槃に達する方法種々あるも、要するに戒、定、慧の三種なり。これを三学という。学とは仏道に入るものの修習すべき行法なるを義とす。これ生死の苦界を解脱して涅槃の妙楽を証見する要法なり。語を換えてこれをいえば、真如界に生ずべき善良の習慣性を養成する法なり。今その大意を述ぶべし。まず戒とは戒律と熟し、身口意に発動する悪業を制止し善業をして生起せしむるをいう。定とは禅定と熟し、散乱せる心を静止し鎮定して寂静ならしむるをいう。慧とは智慧にして、邪見妄執を破して真智正見を開くをいう。この三学をたとえて、戒は賊をとらうるがごとく、定は賊を縛するがごとく、慧は賊を殺すがごとしと説きて、仏道を修行するものは、まず戒を持ちて身口意の悪を制止し、つぎに定に入りて心を静謐にし、つぎに慧を起こして煩悩を断ずべしという。その戒には五戒、八戒、十戒、二百五十戒、五百戒等、その種類はなはだ多し。あるいは小乗に三千の威儀あり、大乗に八万の威儀ありともいう。つぎに禅定にも種々あり、慧にも種々あり、今これを略す。

 第一六八節 以上の論これを約言するに、仏教にも遺伝説あり習慣説あり、勢力論、進化論ありといえども、その理学と異なるは、理学は有形的物質を本とし、仏教は無形的理想を本とするの別あり。他語にてこれをいえば、理学の進化論は客観的進化論にして、仏教は主観的進化論なり。かくのごとく表裏相反するゆえんは、その目的および範囲初めより異なるによるのみ。しかしてその原理に至りては一なり。理学の原理を実験以外形象以上に応用するときは、必ず仏教のごとき説あるをみるべく、仏教の説を物質の範囲内にとどむるときは、必ず理学の進化論を生ずべし。故にもし理学を標準として仏教をみるときは、物質の外に別に勢力の存する理は解し難きに似たれども、これそのみるところ異なるより起こる。たとえばわが目を物質界内にとどめて、これを見るときは理学の説のごとく、禽獣なり草木なり人類なり、みなその父母より分身生殖するものなり。またその父母の身体ひとたび死すれば、その精神は物質その作用を止むると共に滅すべし、別にその勢力の再び結びて生物となる理あらんや。これ物質表面上の見解のみ。しかるに仏教は前にも述ぶるごとく、物質の裏面に入りて無形的主観的の見解を立つるものなれば、理学者の禽獣なり父母なり子孫なりと認むるところのものは、みなわが感覚境裏の現象に外ならず、物質そのものも感覚境裏の現象なり。しかして感覚は無形的勢力の一種なり。感覚上、甲の認めて是とするところ、乙これを認めて非とすることあるは勢力の習慣性、本来異なるによるのみ。実にこの世界は勢力の千態万状に変形したるものというべし。故に理学者の見で、物質となすものも世界なりと認むるものも、みなこの習慣性を有する勢力の現象なり。しかしてその間に万物万類の別あるがごときは、その勢力中に千態万状の波様を起こし、その各波固有の習慣性を有するをもって、甲の勢力と乙の勢力とその種類を異にするによるのみ。もし勢力内に入りてこれをみるときは、物質ひとたび死するも勢力あにこれと同時に死せんや。勢力死せざればその習慣性また必ず持続することあるべし。その勢力とは権大乗にては主観すなわち心性の力なりといえども、実大乗にては真如理想の力にして、その力のひとたび動きて生滅の習慣性を有したるものなり。故に仏教はまさしく理学の裏面を説くものなることを知らざるべからず。かくのごとく理学と仏教とはその原理一なるも、前者はその理を表面の物質界内にとどめ、後者はその原理を裏面の思想上に用うるをもって、仏教の説を物質界内にありて考うるときは、道理に合せざるの感なきにあらずといえども、その裏面に入りてこれをみればまたしかるべき道理あるを了すべし。

 第一六九節 かくのごとく論じきたるときは、ここに一大疑問ありて起こる。すなわち仏教は一般に真如の理体を我人の帰向すべき本体とし、その理体より分派せる生滅の習慣を有するものを迷界の諸象とす。しかしてこの習慣を脱せざる間は、我人は六道の間に流転して涅槃の楽境に入ることあたわず、これを脱せんと欲せばこの世界を厭離せざるべからずという。その説すなわちこの世界をもって迷界とし苦界とするものなり、これ実に厭世のはなはだしきものなり、かくのごとき厭世教はたとえ真理なりとするも、今日の社会に実行すること難しと。この点は世人一般に信ずるところのものにして、余も最初は世人とその見を同じうせり。しかるに近頃仏教を研究するに当たり、始めて厭世は仏教の一半にして全分にあらず、表面の見にして裏面の意にあらざることを発見せり。左にその理由を略陳すべし。

 第一七〇節 仏教の厭世教あらざるゆえんを知らんと欲せば、まずその教に二門あることを知らざるべからず。その一は入理門にして、物象界より進みて理想界に入る部分なり。その二は出理門にして降りて理想界より物象界に出づる部分なり。さきに理論門第一脈中に述ぶるがごとし。その入理門にありては仏教は実に厭世主義なれども、その出理門に入れば全く厭世主義にあらざることを知るべし。しかして仏教はその初門に厭世主義を唱えたるは、世人一般の通弊として、愛世の一方に偏し自利の一念に僻する傾向ありしをもって、これを矯正せんとするに出でたるや疑いなし。故に入理門の初門、小乗は最も厭世のはなはだしきものなり、大乗にありても法相は厭世主義なり。進みて中宗に入りてその理論を考うるに、天台を始めとして華厳、真言、みなすでに厭世と愛世の中道を立つるをみる。しかるに実際上これをみるに、なお厭世主義を守ること小乗に異ならず。これ畢竟するに社会の事情のしからしむるところなり。すなわち仏教はシナ、日本に弘伝し、競争なき社会に流布し、したがってその当時の事情、人をして競争心を減ぜしむるを必要となせしによる。かつ世人の弊、常に愛世の一方に傾き、ために一身の安穏を害し国家の治平を破るがごとき事情ありしによる。その点を証明するは、余が「護法活論」の本旨とするところなり。

 第一七一節 今更にその理を仏教中の理論の上に考うるに、小乗および権大乗にありては、現象界は真如界の外にありて、体象同一ならざるものと信ずるをもって、真如界に達するには全く現象界を厭離せざるを得ざるものと思えり。しかるに実大乗に入りては迷悟染浄の別なく、真如も現象も生死界も不滅界も、一体にして離れざるものとす。故に天台にては煩悩即菩提、生死即涅槃といい、この世を離れて極楽なく、わが身を離れて仏なしという。華厳、真言、みなしかり。たとえば真言のごときは即心成仏と説かずして即身成仏と説き、娑婆即密厳華蔵世界と説くをみれば、この身のそのまま仏なり、この世界のそのまま真如界なること瞭然たり。これみな事理体象、同体不離、融通無礙なる格言に基づく。この格言によるときは、迷いの当体すなわち真如なれば、なんぞ必ずしもこの世を厭離するを要せんや。故に中宗の理論に入りてこれをみれば、厭世教にあらざること明らかなり。しかしてその初門に厭世を説きたるは、全く仏の方便なるや疑いなし。それ仏は大医王にして、衆生の病に応じて適宜の良薬を与うるものなれば、仏はその在世の時の人々が、愛世の念深くして欲情一方に偏するの弊ありしをみて、その病を医するには厭世薬にしかずと思い、まず小乗の厭世教を説けり。この小乗の法は南部派と称し、当時インド、セイロン島に伝わるもの、これなり。この法はインドより西洋に入りしをもって、欧米人の今日仏教として評論するところのものはみなこの小乗法なり。故に仏教を目して厭世教となす。しかるに実大乗に入りてこれをみれば、その厭世教にあらざることたやすく知るべし。しかして西洋人のこの大乗あるを知らざるは、実に仏教のために慨せざるを得ず。

 第一七二節 しかるに実大乗の諸宗は理論と応用とその門を異にし、理論門にありては厭世主義ならずして、応用門にありては厭世の修行を用い、その日夜観修するところのものはみな厭世ならざるはなし。その宗にて肉食妻帯を禁ずるはその一例なり。これ理論と応用と一致せざるの感ありといえども、その実、自然の勢いここに至るなり。けだし応用のごときは世間の風潮変遷に従って起こるものなれば、その流布の際、社会の事情いかんを考えざるべからず。これをもって社会に非厭世主義の必要なる事情あるときは、必ずこれに適応せる宗派の起こりしをみる。すなわちわが国にて真宗、日蓮宗のごとき、余がいわゆる通宗の起こりしは、非厭世主義の必要なるに当たりて、その主義の理論を仏教中より摘出し、これを実地に応用したるによるや疑いなし。故に日蓮宗はただちに即身是仏、此土即寂光浄土と説きて、この迷界を離れて悟界なきことを示し、真宗にては真俗二諦を分かち、世法仏教両立論を唱え肉食妻帯を許すに至れり。これを要するに、仏教は厭世教なりというは、ただその表面もしくは初門の一部分に過ぎず、裏面に入りてこれをみれば、厭世一方の宗教にあらざること明らかなり。しかるに理論上厭世にあらざる中道の諸宗も、実際上厭世を守りしをもって、真宗および日蓮宗はその欠点を補いて起こりしものならん。もし仏教は徹頭徹尾、厭世主義の宗教なるときは、そのうちに厭世ならざる主義の存する理なく、その教中より厭世ならざる宗旨の起こる理あらんや。もしそれ中道宗の本義よりこれをいえば、仏教は厭世一方の宗教にあらざると同時に、非厭世一方の宗教にあらざることを知らざるべからず。他語にてこれをいえば、仏教は表面に厭世を現じ、裏面に非厭世を含み、その時の勢と情とに従いて、あるいは厭世の一方を示し、あるいは非厭世の一面を開き、あるいは二者を両存して、その要は二者の権衡を得せしむるにありと知るべし。

 第一七三節 以上論ずるところのものは、仏教中智力的宗教に属する部分にして、これより情感的宗教およびこれに禅宗、日蓮宗を加えて、余がいわゆる通宗を説かざるべからず。しかるに情感的宗教、もしくは通宗はこの厭世論と必要の関係を有するものなり。すなわち古来の仏教は、厭世に偏する弊ありて時勢に迂濶なる風ありしをもって、仏教中に時機相応の便路を開くに至りしものなり。故に情感的宗教にありては、聖道門すなわち智力的の諸宗は時機に適せず、浄土門すなわち情感的諸宗は時機相応の法なりといえり。これ他なし、智力的諸宗は厭世に偏したるをいうなり。故に浄土宗および真宗の祖師は、大乗教中厭世にあらざる一道あるを発見し、これを開示して一宗を建立するに至れり、これ時勢を洞視せる活眼にあらずしてなんぞや。その一道とは曰く、中道の諸宗は、理論上わが身を離れて仏なくこの世を離れて極楽なしと説きて、その実行に至りてはひとりこの世を解脱遠離する方法を修習せり。しかるに浄土諸宗は厭世の修行ははなはだ難し、仏在世の時に適するも末代今日の人に適せずと断定し、顧みて中宗の理論門の主義を実用し、迷いすなわち悟りなれば、この迷いのそのままこれを捨てず成仏すべき法あるべしという。語を換えてこれをいえば、生滅の習慣性を有する勢力を捨つるを要せず、その勢力のそのまま、これに乗じて仏土に至るにしかずと説くがごとき一種の別法を開示するに至れり。故にこの厭世論は通宗別して情感門を開く管鑰なれば、ここにそのことを一言するなり。

       第四小段 通宗門

 第一七四節 上来智力的諸宗を理論門、応用門の二種に分かち、すでに論述し終わるをもって、これより情感的諸宗の総論を説示すべし。しかるに情感的とも智力的とも名称し難き一、二の宗旨あり。すなわち禅宗、日蓮宗のごときこれなり。故に余はこれを総じて通宗という。以下は通宗の総論なり。この通宗の起こりしは前節に述ぶるがごとく、大乗の諸宗は理論上にて体象一体、事理融通を唱うるも、その修行に至りては種々の階級を設け、年月を要するがごとき迂遠の事情ありて、これを実地に応用すること難し。すなわちその法は時機不相応の法なれば、社会変遷の勢い自然に大乗の理論中より一種の別法を発見し、時機相応、通俗修しやすき宗門の世に出でたるもの、これを通宗というなり。

 第一七五節 今通宗を三種に分かち、第一種を禅宗とし、第二種を日蓮宗とし、第三種を浄土宗および真宗とす。その外、現今日本に流伝せる融通念仏宗、時宗あり。この二宗は第三種の中に入る。この三種の性質を互いに対待してこれを考うるに、浄土宗および真宗は情感的宗教もしくは実際的宗教なり、禅宗、日蓮宗は智力的宗教もしくは理論的宗教なり。故にその一を情宗もしくは実宗といい、その二を理宗と名付けんとす。その理宗すなわち智力的宗教は前に述べたる有宗空宗中宗の智力的とは同一にあらず。有空中三宗は智力的表面の宗教なり、この禅、日蓮二宗は智力的裏面の宗教なり。この表裏二面の宗教はその理論もとより同一なれば、理論上にては表裏の別なきも、その応用に至りて表裏の別あり。有空中三宗は表面の応用をとり、禅日蓮は裏面の応用をとるの異同あり。表面の応用は仏果に達する本道なれどもその里程遠く、裏面の応用は仏果に達する間道なれどもその里程近きがごとく、実地、応用上に遠道、近道の別あり。故に禅日両宗を理宗というも、有空中三宗とは大いにその性質を異にすることを知るべし。これこの二宗に通宗の名称を与うるゆえんなり。もしこの二宗を互いに相較するときは、また大いにその性質を異にするところありて、決してこれを同一視すべからず。その性質の要点を挙げて比較をとるときは、禅宗は意力の宗教、日蓮宗は智力の宗教といわざるべからず。これにおいて通宗分かれて三種となる。意宗すなわち禅宗、智宗すなわち日蓮宗、情宗すなわち浄土宗および真宗なり。しかしてかくのごとく心性作用の三元を通宗中の諸宗に配当せるは、精密にその性質を表示するにあらず、ただ比較上仮にかくのごとき名称を設けたるのみ。たとえば日蓮宗を智宗とし、浄土宗を情宗とするも、この二者その性質のはなはだ近きものあり。浄土宗は称名を勧め、日蓮宗は唱題を勧む。その一は南無阿弥陀仏を称し、その二は南無妙法蓮華経を唱うるも、その差異いくばくぞや。かつこの二宗は共に信をもって本となすが故に信宗と称すべし。禅宗はこれに反し、悟りをもって本となすをもって悟宗と称すべし。すなわち三宗の配当左のごとし。

  通宗 禅宗(臨済、曹洞、黄檗)  意宗  理宗  悟宗

     日蓮宗           智宗  理宗  信宗

     浄土宗ならびに真宗     情宗  実宗  信宗

     付 融通念仏宗ならびに時宗

 第一七六節 この通宗中の諸宗はその性質おのおの異なるも、その宗の本源を尋ぬれば、さきに挙ぐるところの大乗の諸宗の教理に基づきて起こりしことは論を待たず。故にその理脈を推究するときは、さきに理論門中に述べたるものをもって貫通することも、多言を費さずして知るべし。まずその諸宗は生滅界の外に不生滅界の真に存することを信じ、かつこれに達するをもって目的とすること同一なり。またこの世とその世界との関係を論じて、我人のその界に進入すべきゆえんを示すこと同一なり。また因果の理法によりて道徳宗教に関する規則を立つること同一なり。故にこの通宗は理論門の体象実在、体象関係、体象規則の三論を理脈とすること明らかなり。ただその応用に至りては有空中の応用門と異なるところありて、仏果に達する遠道、近道の別ありと知るべし。

 第一七七節 第一種 禅宗 初めに禅宗の大意を述ぶるに、この宗は以心伝心、教外別伝と称して、他宗のごとく言語教典を用いず。言教は月を示す指のごとしといいて、真理の妙味は言語をもってあらわすべからず、ただちに心をもって心に伝うるより外なしと説き、直指人心、見性成仏と立てて、心体の本性を発見するをもって成仏得道となすなり。故に一言をもってこれを示せば、見性悟道の法なり。むかし仏、霊山にありて正法眼蔵涅槃の妙心を迦葉に付嘱せしことあり、これより次第に相承して一宗をなすに至れり。その悟道のごときは本来無一物と立てて、あらゆる有物有象の見を遣破して心中本具の自性を開現するにありて、いわゆる一念不生即仏の意に基づくものなり。故にこれをさきに挙ぐるところの大乗諸宗の上に考うるときは、空門すなわち三論宗の唱うるところに近し、これ大乗中に説くところの空理を応用しきたるものなり。故にその宗もとより大乗宗なるも、さきに挙ぐるところの大乗宗は、平等的理論と差別的応用を異にし、この宗はただちに平等的理論を応用するの別あり。すなわち禅宗は修行の階級も言説の方便もみなこれ迂遠なりとして、ただちにその目的とする心体の上に悟道を説きたるものなり。故にこれを前に挙ぐる有空中三宗に比するに、成仏の近道なりといわざるべからず。かつこの宗は心外無一物の理を実地に応用しきたるをもって、心性内包の勢力を外発するにはなはだ力あり。これ余がその宗を意宗と名付くるゆえんなり。

 第一七八節 禅宗は見性宗もしくは仏心宗と称すべきものなれば、主観的意力を養成するに力あるも、これと同時に客観界の事情に離るる傾向なきにあらず。この傾向に至りては、さきに挙ぐるところの有空中三宗と異なることなし。かつこの宗は見性成仏の近道なれども、その宗にて用うるところのいわゆる坐禅観法に至りてはまた平易の行にあらず、かつ愚俗一般にこの法を修すること難し。故にその宗は成仏の近道なるも難道なりといわざるべからず。これ浄土諸宗の世に起こらざるを得ざるゆえんなり。浄土および日蓮宗は愚俗一般に修しやすき成仏の法を説きたるものなれば、その法たる近道にしてかつ易道なり。ことにその宗は心外の客観境裏に成仏の道を求むるものなれば、客観的事情に合せざるの恐れなし。

 第一七九節 第二種 日蓮宗 禅宗のつぎに浄土諸宗を述ぶべき順序なれども、この論は智力的情感的の二宗教に分かちたれば、まず通宗中の智力的に属する宗派を説かざるべからず。そもそも日蓮宗は客観境裏に立つるところの宗教なれども、その性質は智力的宗教なること疑いをいれず。しかしてその宗のさきの有空中三宗に異なるは、応用の方法に至りて、大乗の平等的理論をただちに実際に適用しきたりて一宗を開立するにあり。その禅宗と異なるは、禅宗はこれを主観上に応用して見性成仏を説き、この宗はこれを客観上に応用して、愚俗一般に修しやすき方法を設け唱題成仏を勧むるにあり。しかしてその宗は大乗中天台より分立せるものなれば、その理論はほとんど天台と異なることなし。ただその説明および応用に至りては、大いに異なるところあり。天台にては本迹二門を分かちて法華一乗の法を開顕するに、このうち迹門を主として説き、日蓮は本門を主として説くの相違あり。また天台は理論上、体象事理同体を説きて、実際上に至りては、氷と水はその体一なるも氷を解せざれば水の用をなさずといいて、修行の階級を説く。今、日蓮宗は事理一体の理をただちに客観上に応用しきたりて、即身是仏、娑婆即寂光浄土と説きて、成仏の近道を開けり。かつその道を妙法蓮華経の五字に約して、唱題成仏の易法を設けり。これ余はこの宗をもって近道にして易道なりというゆえんなり。

 第一八〇節 およそこの宗の説くところによるに、天台のごとき観法の修行は今日の事情に適せず、今日の宗教は信心をもって本とせざるべからず。また『法華経』の理論は我身本来仏、娑婆即寂光土なれば、この世界のそのままが真如の実相にして、わが身のそのままが仏の法身なり。しかるにこの理に迷うをもって凡夫となり、この理を悟るをもって仏となるのみ。今法華の経題のごときはこの理を包容して漏らすところなきをもって、その題目を修習すれば、その功徳無量無辺ならざるべからずという。かつ経題を唱うるは極めて容易にして、いかなる愚俗も修習すべきをもって今日の時機に相応せりとなす。しかしてこの宗は天台の理論をただちに客観上に移しきたりて即身成仏を説くをもって、余はこれを智力的理論を客観上に応用するものなりという。その他、この宗にては妙法蓮華経の五字に三大秘法といえる要義を立つるなり。三大秘法とは、一に本門の本尊、二に本門の題目、三に本門の戒壇、これなり。その秘法の体は妙法蓮華経の五字に外ならず。その本門の本尊とはこの五字を本尊と立つるをいい、本門の題目とはこの五字を修行するをいい、本門の戒壇とはこの五字を受持するをいう。語を換えてこれをいえば、その本尊は意に念ずるをいい、その題目は口に唱うるをいい、その戒壇は身に持つをいう。

 第一八一節 この宗にて人をしていたずらに『法華経』の題目を唱えしむるは道理なきに似たれども、その題目は今述ぶるがごとくただ口唱のみを義とするにあらず、その経意を身口意の三者の上に履修するにあり。もし口唱の一事についてその理由を知らんと欲せば、覚と不覚とを知らざるべからず。『法華経』の意味を覚了してこれをその心に観修するも、その意味を覚知せずしてその口に修習するも、もし法華一乗の法が果たして我人の上にわが迷いを解きわが悟りを開かしむる力あるときは、あに覚と不覚とによりてその別あらんや。薬は人の病を治する力あるをもって、その薬の功能を知りてこれを服するも、不覚無知の小児これを服するも、その功をなすに至りて同一なるがごとしという。もし更にその意を明らかにせんと欲せば、浄土諸宗の称名念仏を知らざるべからず。浄土諸宗は南無阿弥陀仏と仏名を称念して成仏せんとす。しかしてその仏は情感的の性質を帯ぶるをもって、『法華経』の本門に説くがごとき真如平等の法身仏にあらず。かつ仏教中その肝要の経典を尋ぬれば、『法華経』にしくものなし。その経に説くところの理論的の仏は三大秘法中本門の本尊と立つるもの、これなり。この本尊は修行の始もなく果報の終もなく、成仏以来甚大久遠寿命無量阿僧祇劫常住不滅の仏体にしていわゆる真如の理体なり。しかしてわが身すなわち法性真如なれば、我人本来これ仏と念ずるより外なし。故に情感差別の仏を念ぜずして法華本門の本尊を唱うるに至る。これ全くこの宗の祖師は、念仏宗ののちに出でて念仏宗に反対して一宗を開きたるによる。しかして日蓮宗も念仏宗も共にその理論は天台に基づくも、念仏宗は情感的仏体をとり、日蓮宗は智力的仏身をとるの別あり。これ余が日蓮宗をもって智宗と名付くるゆえんなり。

 第一八二節 第三種 浄土諸宗 つぎに浄土念仏諸宗の大要を略述すべし。この諸宗は、日本にありてはみな天台より、分立もしくは反動して起こりしものにして、天台の法門は高尚に過ぎて愚俗に適せず、またその観法も時機に合せざれば、時機に合し愚俗に適する、近くしてかつやすき成仏の一道を開きたるものなり。さきに挙ぐるところの有空中三宗はその論、実に高尚微妙なりといえども、これを修行してその果を得るにはいくたの歳月を費しいくたの艱苦を要せり。今この念仏宗はだれにても修しやすく行じやすし。故にこの法を易行道と名付け、その他の諸宗を難行道と名付く。しかしてこれを浄土門と称するは浄土往生の法を教ゆるによる。しかるに余はこれを情感的宗教となす。これに対して有空中三宗および禅宗、日蓮宗はこれを総じて智力的宗教となす。これを仏教にては聖道門と称す。聖道門とは聖賢のごとき智力に富みたるもののみに適する法なるによる。また浄土の法を他力教と名付け、聖道の法を自力教と名付くることあり。自力教とは自身の力によりて発心修行して仏果を得るものをいい、他力教とは自身の力によらずして他の力によりて成仏するものをいう。この浄土諸宗を一名念仏宗というは仏を念ずるによる。

 第一八三節 およそ浄土とはいわゆる極楽にして仏の住する世界をいう。仏にも種々の仏あるをもって、浄土にも種々の浄土あり。すなわち十方に仏あり、十方に浄土あり。しかるに今浄土諸宗の浄土はこのうち西方の浄土、すなわち阿弥陀仏の世界をいうなり。故にその念ずるところの仏は阿弥陀仏なり、南無阿弥陀仏と称するもの、これなり。この仏と浄土との解釈に至りては、天台より論じきたらざるを得ず。古来天台にてはその法を教観二門に分かち、観法を修して生死の迷路を脱離するはその宗の通規なれども、その法の修し難きをもって、阿弥陀仏を念じその浄土に往生せんことを願うもの多し。しかるに台家〔天台〕にてはその浄土を念ずるに観仏、持名の二途を立てて、観仏とは浄土も阿弥陀も一心なり、一心を離れて仏なく、一心の上に仏を観ずるをいい、持名とは南無阿弥陀仏と唱うることにして、これに事持理持の二種あり。事持とは一念に心を弥陀の名号によせて南無阿弥陀仏と唱うるなり、理持とは仏名を唱うるわが心も本来三諦の理なり、念ずるところの仏も唱うるところの名もみな本来三諦の理なりと知りて、南無阿弥陀仏を唱えながらその理を思い、理を思いながらその名を唱うるをいう。これにおいて浄土と仏とに二様の解あることを知るべし。その一すなわち観仏は、一心中に真如の理を観ずる法なればその体全く真如なり。その二すなわち持名は弥陀の名を唱うる法なれども、理持の方は真如の理を念じ、事持の方は全く西方浄土の阿弥陀仏を念ずるなり。

 第一八四節 今浄土諸宗の念仏は事持の念仏にして、真如の理体を念ずるにあらず、一個の仏身を有する仏体を念ずるなり。しかして融通念仏宗のごときは事持の念仏にはあらずして、天台華厳の理を念仏の上に適用し、一人の唱うる念仏は衆人の中に融入し、衆人の唱うる念仏は一人の中に通徹するという。これその宗に融通念仏宗の名称あるゆえんなり。しかしてその原理は華厳天台の融通無礙の理より生ずるものなり。その理を称名念仏の上に応用して融通念仏の主義を起こせり。またその宗の浄土は融通無礙の浄土にして、その仏も融通無礙の仏なれば、いわゆる唯心の浄土、唯心の弥陀を立つるものなり。故にその念仏は理持の念仏なりと知るべし。

 第一八五節 融通念仏宗一変して、浄土宗および真宗起これり。浄土宗は一個定まりたる仏身を有する仏を念じ、一処定まりたる方位ある浄土を願うなり。これ融通念仏宗の宗意と大いに異なれり。この浄土の宗義はインドおよびシナにおいて起源せりといえども、日本にその宗の起こりかつ大いに勢力を占むるに至れるは、社会変遷の勢いに従い時機に投じたるによるや明らかなり。その宗は浄土および弥陀の解釈に表裏二様あるうち、平等絶対の理体を立つるも、その理、無形無象にして高尚に過ぎ通俗に適せざるの恐れあるをもって、その理、体の表面に現ずる差別的仏体をとりて立宗せるものなり。かくのごとき仏身および仏土に二様あるは、はなはだ解し難きに似たれども、仏教は平等差別二様をもって立てたる哲理なるを知れば、その理もしたがいて了解することを得べし。ひとり仏身仏土のみならず、我人のごとき禽獣草木のごとき、みなこの二様の関係を有す。差別の一面よりこれをみれば、われとかれと、此土と仏土とみな差別ありて一ならず。もし平等の一面よりこれをみれば、われも真如の理体、仏も真如の理体、二者同一の真如なり。しかしてこの差別平等の二様は、あたかも一物に表裏両面あるがごとく、相離れざる理想自然の性質とするは仏教なり。故に仏身にも仏土にも両面の見解ありて、その二者共に真なり。平等の一面よりみれば仏も浄土も真如なり、差別の一面よりみれば仏は一個の仏にして浄土は一個の浄土なり。その関係は結論に至りて詳明せんとす。

 第一八六節 しかるに浄土宗および真宗は差別一面の仏身仏土をとり、その仏土は西方十万億土を隔てたる仏土にして、その仏は十劫の昔成仏したる仏身なり。これ彼我差別の一面にありて最上の智、最上の徳、最上の力を有し、円満完備、十全無欠の体なり。他語にてこれをいえば、真如理体に有するところの三徳すなわち大智、大仁、大勇を兼有したる性質を差別境裏に現見するものをいう。しかしてその仏を我人が念ずるには、これを究理推論して後念するにあらず、ただ一心に信ずるのみなり。また我人が自身の力を用いて願行するにあらず、ただ仏の力に帰依するのみなり。またその法を人に勧むるにも、すこしも人の智力を敲くにあらず、情感を動かすにあり。これ余がこの諸宗を情感的宗教、もしくは情宗と名付くるゆえんなり。またその教は真如体中に具備せる三徳中情感の一徳を探り、これを阿弥陀の仏身の上に考え群生を愛憐する情、すなわち慈悲の光を集めきたりて仁慈汎愛門を開くものなり。これまた情感の称あるゆえんなり。

 第一八七節 しかしてその宗の情感ならざるは、その仏も浄土も裏面に入りてこれをみれば、平等の理体にして真如と同一体なりというにありて、理論門の道理に基づきて組織したるものなり。またその宗の教理は因果の規則によりて組織せるをもって、仏は随意に世界を造作し因果を左右するものにあらずと立つるがごときは、みなその情感的にあらざるゆえんなり。故に余はこの宗をもって、裏面に智力的を具して表面に情感的を示すものなりという。これ余がこの教をもってヤソ教に異なりとなすゆえんなり。

 第一八八節 しかれどもその教、情感的の表面を示すをもって、これを信ずるものは、その自ら有するところの情感の上に考えざるべからず。これを情感の上に考うるときは、たやすくその教の真味を知るべし。西方十万億土に浄土ありというも、一定の方位を定めて人の情感を満足せしむるためのみ。もし智力上にて考うるときは、その浄土の方位をこの世の上に定むるを得んや。またその浄土の事情を描き出して、わが五官を楽しましめ、わが心思を喜ばしむる形容を用うといえども、これもとよりわが情感の上に現出せる形容にして、もし智力よりこれをみれば、わが精神ひとたびこの身体を離るればこれと同時に五官の感覚を失い、その精神いずれの世界に生ずるもその後の快楽は、全くわが此土に受くるところのものに異なることを知らざるべからず。果たしてしからば、此土に蓮華ありといえども、浄土にこれとその形容を同じうする蓮華あるにあらず、此土に金銀あるも浄土にこれとその性質を同じうする金銀あるにあらず、その蓮華も金銀もみなわれこの世の感覚上に存するものにして、われひとたびこの感覚を失えばこれと同時に金銀、蓮華、そのものの形容を失わざるべからず。故に浄土に真に金池玉蓮ありとするも、その金玉はわれこの世に見るところのものと全く異なることを知らざるべからず。しからばかくのごとき形容はなんのために経中に説くや。曰く、これ浄土の快楽を形容する仮名に過ぎず。他語にてこれをいえば、情感上の形容のみ。故にその教を信ずるものは、まずこれを情感の上に考えて信ぜざるべからず。

 第一八九節 浄土宗の教義に至りては、称名念仏して西方の浄土に往生するにありて極めて簡易の法なり。しかして弥陀と我人との関係を論ずるに至りては多少異説なきにあらず。浄土宗中にても鎮西、西山、両派の伝うるところ少異あり。真宗に至りてはまたその説を異にし、時宗にも異説あり。もし真宗より他の浄土諸宗を評するときは、いまだ他力教の純粋ならざるものとなす。その意、弥陀の他力に依頼すると同時に、自ら修するところの善行および念仏に依頼するをいうなり。これに反して真宗はすこしも自力を交えず、もっぱら他力に任ずるをもって他力教の純粋無雑なるものという。そのつまびらかなるは各論に譲り、今これを略す。ただここに論ずべきは左の一問なり。すなわち智力的諸宗は自力成仏を説きて、自らその因を修めてその果を得るものと立つるは、当然の理なりといえども、浄土諸宗は他力往生を説きて自らその因を修むるにあらずして、他の力すなわち阿弥陀仏の力によりてその浄土に生まるべしというは、因果の規則に反するにあらずや。余この疑問に対して一言せざるべからず。たとえば一船ありて海上の風波に際会し沈没せるときに、船客中自ら泳ぎて海岸に達し一命を全うするものあり。これあたかも自力にてその果を得たるものなり。また船客中その傍らに汽船のきたりて救助するを見てその船に乗じ、知らず識らず海岸に達し九死中に一生を得たるものあり。これ自力にあらずして他力なり。この二法あるうち、自力にて一命を免れたるものは因果の規則に合し、他力にて助かりしものはその規則に合せざるとするか、二者共に因果の規則によるにあらずや。今弥陀は差別の見をもってこれをみるときは、真如とその徳を同じうする無量の智と仁と力とを有するものなり、もしこれを信ぜざればすなわちやまん。いやしくもその体ありと信ずるときは、その力によりて成仏の果を得るは決して怪しむに足らず。またこれを理論上に考うるに、弥陀とわれとは別体なりと知るは差別の見のみ。もし平等の見によるときは、弥陀もわれもその体みな真如にして互いに融通無礙なるものなれば、弥陀の力わが体中に融通して自力を用いざるも、われその果を得べき理なり。しかるにわれもし弥陀を信ぜざるときは、融通すべき弥陀の慈水をわが心田に堤防を築きてその融通の道を断絶するがごとし、もしわが心ひとたびこれに向かいて信念するときは、あたかもその堤防を開きて弥陀の慈水を迎うるがごとく、ただちにわが体に融通することを得べし。これこの宗に信心を肝要とするゆえんなり。更に一例を挙げてその理を例えん。日光は融通自在なるものなり、いかなる間隙といえども必ずこれに融入する力を有するものなり。しかるに暗室ありてその戸を開かざれば日光の融通なきがごとく、信心はすなわちその戸を開くものなりと知るべし。

 第一九〇節 今浄土宗、真宗、時宗は大同小異なれば、これを合論してその異点を論明せずといえども、真宗に至りては一種その性質を異にするところあれば、ここに一言すべし。その点とは仏教をして社会の事情に適合せしむること、これなり。聖道智力的の諸宗は遁世脱俗の風ありて厭世主義たるを免れず、しかるに大乗の理論を推究するときはなんぞ必ず厭世主義をとるを要せんや。この世すなわち真如界なれば、この世にありてこの世の法律を守りこの世の風俗を保ち、この世と共に移り共に進みて仏道を修行するは、かえって仏教の本意に合せり。しかるにいまだその主義を実際に応用したるものあらず、ひとり真宗に至りてその主義を応用して真俗二諦の宗規を立てり。真諦は出世間門にしてこの世を去りて仏界に至らんことを目的とし、俗諦は世間道にして人世社会の義務公道を守るをいう。この二諦を全うするをもって真宗の信者となす。故に真宗に限り捨家棄欲の相を標せず、出家発心の形を本とせずと説きて、肉食を許し禁妻を解き、一方に仏法を勧むると同時に一方に王法を勧め、治国安民をもって目的とせり。これ厭世教の一変して非厭世教となりしゆえんなり。日蓮宗祖もその自著『立正安国論』に、国は法によりてさかえ法は人によりて貴し、国亡び人滅すれば仏をだれか崇むべし法をだれか信ずべし、まず国家を祈りて仏法を立つべし。また同論に、国に衰微なく土に破壊なくんば身はこれ安全、心はこれ禅定ならんとの言あるをみるに、その宗また愛国護法の二致なきことを示せるものなり。しかしてその実行に至りて、いまだ真宗のごとく肉食妻帯を許さざりしは、その社会応用の真宗に及ばざるところなり。故に仏教を厭世教というは、シナおよびインドの仏教を評していうのみ。これいまだ日本の仏教を知らざるものなり。

 第一九一節 以上の論これを要するに、禅宗のごときは実大乗の教理を直接に応用して成仏の近道を開き、かつその法意力を養成するに力あるをもって、乱世および乱後の英雄豪傑の意匠に適しその不平を消遣するに功あるも、愚俗一般の宗教とするに至りてはやや高尚に過ぐるの感なきあたわず。しかるに浄土諸宗は差別的教理を説き、他力的易行を開きしをもって愚俗一般に通ずる宗教となれり。故に日本の仏教は、浄土宗および真宗を経て大いに発達せりといわざるべからず。しかるにまたその教の欠点はもっぱら未来の幸福を祈りて現世の利益を疎んずるがごとき傾向あり、かつその法は西方の差別的仏身を念信するをもって、大乗の理論をしてその用をなさざらしむるの感想ある、これなり。この二点を補うて一宗を開きたるもの日蓮宗なり。日蓮宗はもっぱら現世の利益を説き、南無阿弥陀仏に代うるに法蓮経の題目をもってし、その本尊とするところのものは『法華経』の本門に基づきしものなれば真如法界の体なり。かくのごとく、浄土門に反して一種の理論的易行道を組織したるも、実際上愚俗のこれを信ずるものは、その理を情感的に構造し、南無妙法蓮華経を唱うるの意は、南無阿弥陀仏を唱うるに異なることなきに至る。これにおいて智力的の宗教、一変して情感的の宗教となる、けだし勢いのやむべからざるところなり。またその現世利益を説くがごときも愚俗の間にその弊なきにあらず。これ諸宗共に今日の時機に応じて改良を要するゆえんなり。

       第五小段 結 論

 第一九二節 上来通宗の大意を説き終わるをもって、これより仏教中の二大問題を説明して、仏教総論の結論となさんとす。その問題とは左のごとし。

  第一問題 一仏教中に智力情感両門あるはいかん(聖道浄土論)

  第二問題 仏教の教理は果たして世間に応合するを得るか(世間出世間論)

この二題は上来種々散説せるも、更にこれを合説してその理由を示すべし。このうち第一題は通宗、別して浄土諸宗に関する要問なり、第二題は理宗すなわち有空中三宗に関する要問なり。故にこの二題をもって総論を結ばんとす。

 第一九三節 第一問 聖道浄土論 まず第一問を弁明するに当たり、一仏教中に智力情感二門あることを知らんと欲せば、真如と仏陀と我人との三者の関係を知らざるべからず、この関係を知らんと欲せば、その三者を平等差別二門に分かたざるべからず。今我人と仏陀とは差別の部内に属し、真如は平等の部内に属す。しかして仏陀は差別界中の最上等に位するものなり。語を換えてこれをいえば、本来我人のごときもの、世々行を積み徳を重ね最高位に昇進したるものなり。しかして我人と仏陀とに差別あるは表面の見なれば、その裏面に入りてこれをみれば、共にその体法性真如にして、仏陀と我人と差別あることなし。これをたとうるに、一国中に臣民と君主と人類との三者あるがごとし。臣民と君主とは差別上の名称なり、平等上にありては二者共に人類なり。差別上よりこれをみれば、君主は最上等に位するものなり。もし君主は臣民中より他年の功労を積みて昇進せるものとするときは、まさしく我人と仏陀との関係を示すべし。君主と臣民とは同一に人類なるも、またその異点ありて、君主は臣民たるの義務なく、臣民はこれを有するの差別あり。あたかも仏陀と我人とは迷悟の差別あるに比すべし。もし人ありて一難を起こして曰く、この差別界にありては、人類は最高等に位するものにあらずや、あに我人の上に位する仏陀あらんや。余これに答えて曰く、あるいはしからん。しかしてその論のごときは、狭くこの地球を限りて人類より高等なる生物なしと想定するのみ。しかるに仏教には、時間をもって無始無終とし、空間をもって無涯無限とす。その無始の時間を三段に分かちて、過去、未来、現在の三世とし、その無涯の空間を十段に分かちて十方と称し、十方微塵世界という。すなわち無数無量の世界なり。天界に列する諸星みな一世界とするときは、これまた微塵世界なり。その世界にいかなる人類以上のものありて存するや知るべからず、ただわが感覚によりて知ることあたわざるのみ。これを要するに、一理体の表面には我人と仏陀との差別ありて、その裏面には我人も仏陀も平等無差別なりと知るべし。

 第一九四節 この三体の関係は仏の三身についても知ることを得べし。仏の三身とは仏陀に三体の身を有することにして、三体とは法、報、応の三身なり。この三身の関係は仏教中の要訣なれば一言の弁明なきを得ず。まず法身とは平等絶対の体にして真如の理、これなり。これ仏の本身にして、ひとり仏のみならず、また我人の本性なり。その本性一なるも発願修行の異なるをもって、その得るところの結果また異なり。今仏陀の発願修行は実に無量無辺にして、我人の想像の及ぶところにあらざれば、その得るところの果報の身体も、また必ず我人と大いに異なるところあり。その体これを報身という。報身とは仏陀の願行に報酬したる果身なり。その体実に万徳円満、衆美具足の身象を現じて、もとより我人の身体と同日の比にあらず。もし仏陀が我人を救助せんがために、殊更に肉身を現じてこの世界に降誕するときは、その体を応身という。すなわち我人の有するがごとき肉身なり。たとえば釈迦のごとし。釈迦はこの三身を具足し、インドに降誕して肉身を現じたるは応身なり。もしその本体を尋ぬれば、法報二身を兼備してこの世に生まれたるものなり。この三身その体一なりとなすは、仏教の定説なり。今この三身を平等差別に配するときは、法身は平等に属し、報応二身は差別に属し、報身は差別中の最上なり。故に真如と仏陀と我人との三体の関係は仏陀一身中に存するを知るべし。

 第一九五節 かくのごとく我人も仏陀もその本体は真如の理に外ならざれば、我人の有するところの性質は仏陀も真如も共にこれを有す。ただその間に完不完、高下、優劣の差別あるのみ。たとえば我人は情感智力、意志の三種を有し、情感もって事物を愛憐するを知り、智力もって理非を識別するを知り、意志もって思慮を断行するを知る。これを智仁勇の三徳と名付く。智は智力なり、仁は情感なり、勇は意志なり。今真如の本体にもこの三徳あり。通常真如の性質作用を二様に分かち、その一を菩提とし、その二を涅槃とす。菩提は真如の智なり、涅槃は真如の理なり、さきに再三述ぶるがごとし。これを真言宗にては金胎両部に分かち、金剛界は智にして胎蔵界は理なりとす。またこれを悲智の二種に配して、金剛界は智慧にして胎蔵界は慈悲なりという。これを要するに、真如の理体には智と理との二種を具備し、その智発して理を証し流れて悲を生ず。故にこれを応用するときは智慧と慈悲との二門となる。第七三節に説くがごとし。しかしてこの二者を実行するは真如自体に有するところの勢力すなわち勇の作用なり。これをもって真如には智仁勇の三徳、すなわち智情意三種の作用を具備することを知るべし。この三徳と我人の有するところの智情意とはその種類異なるにあらず、ただその性質分量に等差あるのみ。故にこの一点についても我人は真如の一分子なることを知るに足る。つぎにこの三徳を仏陀の上に考うるに、またその体に無上の智と無上の情と無上の意とを有することを知るべし。そもそも仏陀は覚者を義とし、これに自覚覚他の両義を具するをもって自利利他兼行の仏となる。自覚とは自ら智慧を発して真如の理を覚知するを義として、これ自利なり。すでにこれを覚知して、更に他の群生をして覚知せしむるは覚他にして、これ利他なり。仏に自利利他の両行ありとはこれをいうなり。しかしてその自利自覚の体とするものは智慧にして、智慧によらざれば真如の理を覚することあたわず。すでに覚してまた人をして覚せしむるは慈悲なり。これにおいて仏陀の体に智と悲の二種あることを知るべし。もしこの智と悲とを実行するは、仏陀の第三徳すなわち勇の力なり。その因位の発心修行のごときは、無上の意力を有するにあらざればあたわざること必然なり。故に智情意の三種は仏陀その体に存する三徳なりと知るべし。

 第一九六節 果たしてしからば、真如にも仏陀にも、無上の智と無上の情と無上の意と三種の作用あること明らかなり。そのうちもっぱら智と情とをもって体とす。すなわち智慧と慈悲なり。これを真如体中に兼備せる二門とす。この二門開きて、その一は智力的宗教となり、その二は情感的宗教となる。これ仏教に智力情感両様の宗教あるゆえんなり。故にその両様あるは真如自体固有の性質なりと知るべし。しかしてここに一言を要する点は、情感的と智力的との別はただ大要についての分類なりというにあり。もしこれを細論すれば、智力的諸宗と称する有空中三宗のごときもいくぶんの情感的元素を有し、情感的諸宗と名付くる浄土宗、真宗等もいくぶんの智力的元素を有するのみならず、智力的諸宗の原理に基づきて組織したるものなり。

 第一九七節 仏教中に智力、情感、両元素あるも、二者中いずれが仏教の眼目なりやというときは、智力といわざるべからず。その理由は真如および仏陀の性質について知ることを得べし。真如に悲智二門ありというも、智その主なるものにして、慈悲は智より生ずる光なり。また仏陀は自覚覚他の二義あるも、自覚を先とし覚他を後とす。語を換えてこれをいえば、智慧その主となりて、慈悲は智慧によりて生じたるものなり。すなわち智慧の光発して慈悲となり、真如の水流れて仁愛となるものなり。故に智仁勇三徳のうち智を本とし、仁と勇とは智より生じたるものと知るべし。しかしてこれと同時に、その智体の上に智仁勇三徳は常に具備して離れざるものなることを知らざるべからず。なんとなれば、この三徳は真如の理体ひとたび活動してその作用を呈するには欠くべからざるものなればなり。故に余はこれを人の身体に例えて、智は神髄のごとく、仁すなわち情は皮肉のごとく、意は筋骨のごとしといわんとす。故に仏教は智力的をもって神髄となすものなりと知るべし。これをもって情感的諸宗と称するものも、その神髄は智力的元素より成立するをみるなり。

 第一九八節 かくのごとく論定してこれよりまさしく浄土諸宗の教義に論及すべし。浄土門に立つるところの仏は阿弥陀仏と称し、これを諸仏中最上の仏となす。故にその性質も諸仏中にありて最上の智慧と慈悲を有するものなり。その理はこの仏名の中にありて存す。阿弥陀は梵語にてこれを無量寿もしくは無量光と訳す。その光とは智慧の光をいい、その寿とは長久無限なるをいう。すなわち無量寿は時間の前後にわたりて存せざるはなきを義とし、無量光は空間の内外を貫きて照らさざるはなきを義とするなり。語を換えてこれをいえば、時間空間を窮めて際涯なき徳を有する仏体を意味する名称にして、諸仏その数衆多なりといえども、ひとり阿弥陀仏をもって最上無比の仏陀とするなり。この仏陀の有するところの最上無比の智と悲とを応用して一宗を開きたるもの、これを浄土宗という。真宗はその一派より起これり。しかして我人はその慈悲に帰依して西方の仏土に往生せんことを願うは、いわゆるその他力教なるゆえんなり。

 第一九九節 しかるに智力的諸宗の人は、仏果を得んと欲せば自ら修行するを要するも、ひとり浄土諸宗にありては、他力すなわち弥陀の力に帰依するをもって足れりとするはいかんというの疑問必ず起こるべし。その理由はさきにすでに述べたるをもって、またここに贅せず。ただ左に一種の比喩を設けて、通宗の修行と有空中三宗の修行と遠道近道の別あるゆえんを示し、もってこの一題を結ばんとす。智力的諸宗は有空中の順序を経て次第に進みて真理を推究し、現象界の外に理想界あることを発見し、我人はこの理想界に達するをもって目的とせざるべからざるゆえんを説きて、これに達する修行はやはり従来のごとく、有空中三宗の順序を経ざるべからざるものと信じ、極めて迂遠の階梯を用う。しかるに真如の理は、かくのごとく現象界を去ること遠きにあらず、現象界の裏面にただちに存する理想界にして、現象界極めれば理想界に入り、理想界極まればまた現象界に帰すべし。その理由はさきに理論門において論理の進歩、有空中を経て真言に至り、倶舎の物心二元論に帰したるをみて知るべし。今その関係を地球について例えんとす。仮に地球の東半球をもって現象界とし、西半球をもって理想界とし、仏教の論究は現象界中の一部すなわち日本国より始まるものと定むべし。その有宗論は日本より西方に進航してシナ、インドに達したるがごとし。そのときいまだ理想の本体あるを発見せず。大乗の有宗論はインドを去りて更に西方に進航し欧州に達したるがごとし。そのときは現象界中の極端にして、真如理想の西半球に連なる大西洋に接触し理想の一部分を発見せり。しかしていまだ真如の全分を知らず。しかるに中道宗に至りては大西洋を渡りてアメリカに達し、天台はまさしく理想界の中心なるアメリカ合衆国に入るがごとし、華厳は合衆国を通過して東半球にまたがる太平洋に出でたるがごとし。しかして真言は太平洋を通過して東半球現象界の南洋諸島に着するがごとし。そのときすでに最初の現象界に復帰せり。理想の体はかくのごとく球円なるものなれば、ただちに一方を指して進むときは、その起点に復するは当然の理なり。かつその体すでに球円なれば、理想界に達する道は表裏両様、遠近二途あるべし。しかるに有空中三宗はその表面なる遠道をとれり。あたかも理想界のアメリカに達するにシナ、インドを経、欧州を経、大西洋を渡りて進航するがごとし。これ本道なりというも、極めて迂回なり。もしこれに反してその裏面なる近道をとるときはたやすく理想界に達すべし。すなわちアメリカに達するに、日本より東方に進み太平洋を渡り直航して着することを得るがごとし。これ実に近道なり。理想界に達するにも、この表裏遠近二道あることを知らざるべからず。上にその図を挙げて明示すべし。仮に上図を一地球と定め、甲点を北極とし、丙丁乙を東半球とし、乙戊丙を西半球としてこれを考うるに、イ点は日本なり、ロ点はインドなり、ハ点は欧州、ニは大西洋、ホホはアメリカ、ヘヘは太平洋ならびに南洋諸島となるべし。しかるにもしこれを仏教宇宙論に比し、東半球を現象界とし西半球を理想界とし、現象界中のイ点を発して西に進み、ロハニを経て理想界に達するものと定むるときは、イ点よりヘヘを経て理想界に達する一道別に存するを知るべし。すなわち仏教に遠近表裏二道あるゆえんなり。しかるに有空中三宗はその遠道をとり、通宗はその近道をとるに至りしなり。その近道中、禅、日蓮、浄土の三宗を較するときは、あたかも日本よりアメリカに渡るに三種の方法あるがごとし。その一は自らかじをとりて船を進むる、これなり。その二は自ら帆を掲げて風に乗ずる、これなり。その三は汽船に駕して蒸気力に一任する、これなり。禅宗は近道なるも、自らかじをとりて船を進むるがごとく難行道なり。日蓮宗は易行道なるも、自ら帆を掲げて風に乗ずるがごとく自力の修行たるを免れず。浄土宗および真宗は易行にしてかつ全く他力によるものなれば、汽船に駕して蒸気力に一任するがごとし。これもとより比喩にして、諸宗の性質の異なる点の一小部分を示すに過ぎず。

 第二〇〇節 この区別について諸宗の性質を比較するときは左のごとし。

  有宗    遠道   難道  自力

  空宗    遠道   難道  自力

  中宗    遠道   難道  自力

  禅宗    近道   難道  自力

  日蓮宗   近道   易道  自力

  浄土諸宗  近道   易道  他力

これ応用門の比較なり。理論門について較するときは左のごとく分かたざるべからず。

  有宗    智力的  智宗  客観論

  空宗    智力的  智宗  主観論

  中宗    智力的  智宗  理想論

  禅宗    智力的  意宗  主観論

  日蓮宗   智力的  智宗  客観論

  浄土諸宗  情感的  情宗  客観論

日蓮宗を客観論としたるは天台に区別せんがためのみ。その論、天台の理想論より出でたるものなれども、法華の本門の理を客観上に適用して一宗を開きたるをもって、しばらく客観論となす。しかれどもこの比較は、各宗中の異なる点をあげてその一部分について名称を下したるのみ。もしその同点を挙ぐれば、各宗ことごとく一致するところあり。これ諸宗みな一仏教なればなり。かつ余がかくのごとく比較するも、決して各宗の間に褒貶上下するの意に出でたるにあらず。もしその優劣を較するときは各宗みなその長ずるところあり。たとえば人の智力を進むるには有空中三宗にしくものなく、人の意力を強くするには禅宗にしくものなく、人の情感を和らぐるには浄土諸宗にしくものなきがごとく、各宗の長ずるところは他宗の及ばざるところなり。故に余は各宗の間に優劣を判ずることを欲せざるなり。

 第二〇一節 第二問 世間出世間論 つぎに第二問に移り、仏教と世間との関係を論明せんとす。この点は第一七〇節ならびに第一七一節に略述せるをもって、この二節を参見すべし。それ仏教は真如の理体に帰向するをもって目的とし、厭世脱俗の風あるもこれただその理論の初門にありて存するのみ。その初門とはさきに理論門中に挙ぐるところの入理門一方の見なり、もし出理門の哲理に考うるときはなんぞ必ずしも厭世主義ならんや。今その理由を述ぶべし。入理門にありては現象界と理想界と互いに隔離して全く別界なるをもって、理想界に達するにはまず現象界を脱離せざるべからず、我人の愛するところの妻子も財宝も、みなこれを棄捨してひとり出世間に立ちて修行せざるべからず。これいわゆる厭世教なり。しかるに中間門および出理門に至りては、現象界と理想界と同一体にして、現象を離れて理想なくおのおの現象中に理想の全分を含有するを知り、ついに理想を末とし現象を本とするに至る。果たしてしからば、今日この世界を脱離して別に目的とする理想界あらんや。故をもって仏教中小乗および権大乗の諸宗は厭世主義を唱うといえども、実大乗すなわち中宗に至りてはその哲理よりこれをみるに非厭世教ならざるべからず。しかるにその応用に至りては厭世主義をとりたるをもって、その裏面に含むところの非厭世主義開きて別に一宗をなすに至れり。すなわち真宗これなり。浄土宗も非厭世主義を開発するに大いに力ありしといえども、いまだ真宗のごとく実際上にその挙あるをみず。しかしてこの真宗の非厭世論すなわち俗諦門は、真宗祖師の随意に作意せしにあらず、実大乗の哲理に基づきしものなり。

 第二〇二節 もし仏教全体よりこれを評するときは、厭世主義も仏教なり、非厭世主義も仏教なりといわざるべからず。ただ現象と実体との関係を、同一なりとすると不同一なりとするの見解を異にするより起こる。この二様の見解共に道理あり。たとえばここに一枚の紙あり。その表裏は現象なり、その紙体は実体なり。表裏と紙体は同一なりとするは一様の見にして、これを差別ありとするも一様の見なり。またこれを草木にたとうるに、種実中には枝葉の差別なしとするも一様の見なり、種実中には枝葉をなすゆえんの理つねに存せりとするも一様の見なり。その一は内部よりこれを見、その一は外部よりこれを見るをもって、かくのごとき異同を生ずといえども、その実一理なり。故にこれを同一とするも仏教なり、これを不同とするも仏教なり。これすなわち仏教中の差別平等、不一不二の関係なり。この不一の一辺を応用するときは厭世教となり、この不二の一辺を応用するときは非厭世教となる。これをもって余はこの二主義共に仏教なりというなり。仏教に智力情感の両門あるもこの理に照らして知るべし。

 第二〇三節 もし仏教の本義を尋ぬるときは、この二主義を合してその中をとるにあること明らかなり。語を換えてこれをいえば、中道を保持するにあり。その中道を保持するには、社会と仏教との関係、および一個人と仏教との関係を知らざるべからず。仏教は宗教なるも、仏教ひとり立ちて宗教となるあたわず、必ずやこれを信ずる人を得、これを弘むべき社会に入りて宗教となるものなり。もし社会の中に入らんとするときは、社会の事情に応合すること必要なり。その応合とはなんぞや。曰く、仏教自体中には厭世主義も非厭世主義も二者兼備するをもって、当時の社会、厭世の一方に傾くの弊あるときは、非厭世主義を開きてその弊を正さざるべからず。当時の社会、愛世の一方に傾くの弊あるときは、厭世主義を開きてその弊を除かざるべからず。あるいはまた社会の事情、厭世の必要を感ずるときは厭世主義を用い、非厭世の必要を知るときは非厭世主義を用うべし。しかしてこれみな中道の権衡を保持するに外ならず。故に余は仏教諸宗みな中道宗なりといわんとす。まず小乗有宗のごときは世間愛世の弊風あるを見て厭世主義をとる。この主義と世間の弊風と相合するときは中道となる。情感的真宗のごときは世間の仏教、厭世の一方に傾くを見、社会の必要、非厭世にあるを見て非厭世主義を開く、この主義と当時の事情とを合するときは中道となる。古来宗派の分かるるはみなその時の必要ありて起こり、その世にいれらるるも、またその事情に応合せるによらざるはなし。これをもってこれを推すに、有宗も中道宗なり、空宗も中道宗なり、中宗も中道宗なり、禅宗も日蓮宗も浄土諸宗もみな中道宗なり。その中道宗なるとならざるとは、時機に適すると適せざるとにあり。故に華天諸宗のごときも時勢に適せざれば中道宗にあらず。この点は今日の仏教者の注意せざるを得ざるところにして、今日の仏教と社会の事情とを対照し、従来の各宗は果たして社会の現状に応合するや否やを観察するを要す。また今日の中道宗は果たしていずれの宗旨なるや、あるいは従来の諸宗の外に、別に今日に適する別宗を組織すべき元素仏教中にあるやを考えざるべからず。仏教はあたかも球体のごとく、諸理諸法そのうちに完備し社会変遷の事情に従って、左に転ずるも右に転ずるも、四方八方上下に転ずるも自在なり。しかしてその時の事情に従って、これを左右に転じその事情に適合する面を現ぜしむるは、仏教そのものにあらずして、これを弘布する人にあり。しかして社会の事情を観察するはその人の活眼にあり。ああ、今日だれかこの活眼を有してよくこの仏教をしてこの変遷に応合せしむるや。余が今より刮目して待つところなり。

 第二〇四節 右は仏教と社会との関係を述べたるのみ。もし仏教と一個人との関係を論ずるときは、社会に適せざる宗旨も一個人に適することあり。たとえば厭世主義のごとき、社会一般に適せざるも一個人中にはこれに適するものあり。故に社会に必要なき宗旨にして一個人に必要なることあり。社会の事情に対して中道宗となることあたわざるものにして、一個人に対して中道宗となることあり。けだし社会の事情の時々に変遷するがごとく、一個人の性質はおのおの異なればなり。たとえば有宗もある人に対しては中道宗なり、中宗もある人に対しては中道宗ならず、これをもって社会に必要なき宗旨も一個人に必要なしというべからず。しかれども社会の事情は多数の思想より成るをもって、社会に適せざるときは多数の間に勢力を占むることあたわず。故に余は一個人との関係と社会との関係に対しては、社会の応合をもって緊要となすなり。

 第二〇五節 世間と仏教との関係、大略かくのごとし。なおそのつまびらかなるは「護法活論」に入りて述ぶべし。ただここに世間の道徳に対する仏教の論旨を略言すべし。仏教の道徳論は一言もってこれを示せば、因果の規則を階梯とし、真如に達するをもって目的とするものなり。他語にてこれをいえば、因果の規則を経緯として、真如の体性を織り出さんとするものなり。この目的を達する方法は、諸宗説くところ大同小異なりといえども、要するに内外二法あり。その一は心内を顧みてその本性を観見せんとする法なり、たとえば禅宗の観念のごとし。その二は心外を望みて仏陀を信念するの法なり、たとえば浄土宗の念仏のごとし。すなわちその一は主観的道徳論なり、その二は客観的道徳論なり。人もしわが心の本体これ真如なるを知り、心鏡の上にその本性を観見し、わが行をしてその徳と合体するように努むるはいわゆる主観的道徳なり。しかるにもし人ありて心内に真如の本性を観見するの難きを知らば、客観界にありて万徳円満の覚者すなわち仏陀あり、我人はこの体に帰依しその徳を標準としてわが行を正すはいわゆる客観的道徳なり。道徳の模範標準とするところ前後異なりといえども、その実一なり。ただ主観的は平等界の理体を模範とし、客観的は差別界の仏陀を標準とするの別あるのみ。しかして仏陀も真如もその徳を同じうせる円満完備の体にして、その二者同一の関係を有することは前すでに論述せり。ただし平等の理体は無形に過ぎて愚俗の模範となし難し。しかるに差別の仏陀は一個体たる性質を有するをもって、愚俗の知見に適するのみ。その仏陀はさきに述ぶるがごとく、差別界中にありて最上の智と最上の情と最上の意とを有する衆善万徳円満完備せる体にして、我人はその智といい、情といい、意といい、極めて不完不全なり。今我人はこの地球の一部分を見るも、我より完全なる人あるを知る。もしこれを万国に尋ねこれを千古に考うるときはいくたの聖賢君子あるを知らず、いわんや無限の時間、無涯の空間中にありて三世十方の諸国土あるをや。そのうちにはわれより完全の道徳を有するもの、けだしその数を知らず。仏陀はその夥多の聖賢中最も完全の道徳を有するものなり。我人目にその体を見ずといえども、その完全なるゆえんのものは諸経中に説くところによりて知るべし、またわが想像に照らしてもわれより完全なる覚者あることを知るべし。その経論と想像とによりて構成せる万徳円満衆善完備の体は、わが道徳の模範とするに至りては実に余りありというべし。そもそもわが心の本体は真如の月なり。ただ妄念の浮雲これを覆うをもって、われその月を見ることあたわず。しかれども一朝妄雲の散じて月光を漏らすに至れば、その漏るるところの光輝はわがいわゆる良心なり。その良心より起こるところの想像は実に美にして善なり。あに妄念の想像と同一視すべからず。この美かつ善なる想像によりて描き現じたる仏陀の体は、実にわが将来達すべき目的なり。我人は仏陀その体を見ることあたわざるも、わが想像と推理とによりて万徳円満衆善完備の体を想出することを得べし。この体を名付けて仏陀となすも、あにあえて不可ならんや。これ真にわが道徳の模範となすべし。世人ややもすれば仏教を評して偶像教となすといえども、余いまだ仏教の偶像教なるゆえんを知らず。その仏寺に安置する仏像のごときは美術上仏徳の相貌を現示して、人をしてその心に道徳の模範を想出せしむるの媒介となすに過ぎず。故に我人もしこの像に対して、その徳を想出しこれを模範としてわが道徳を修正するに至らば、なんぞ必ずしも偶像を排斥するを要せんや。しかして我人は一生間においてこの完全の体に体達すること難しといえども、一歩進みてその体に近づけば一歩の果あり、一〇歩進みてその体に近づけば一〇歩の果あり。われあに徒労の恐れあらんや。その理は仏教の因果の原則に照らして知るべし。故に我人この規則に従って道徳を修むるときは、この世の善人となり社会の徳者となること必然なり。

 第二〇六節 論じてここに至れば、仏教もヤソ教も同一なるに似たりといえども、その実、大いに異なるところあり。仏教の仏陀とヤソの天神とは決して同一にあらず。仏教の仏陀はその本地を尋ぬれば、我人と同類同性のものなり。その我人と異なるは因果の規則に従い、善因を積みて最上の善果を得たるにあり。すなわち仏陀はこの差別界の最上等に達し、真如とその徳を合体するものなり。また我人もその因を積めば将来真如に体達することを得べきは、わが本性真如なるによる。ただその真如が、わが体にありては妄念のために覆われてその光を発することを得ざるのみ。その理のヤソ教と異なるところあるは、余が言を待たざるなり。これをたとうるに、ヤソ教の天神は古代野蛮圧制国の帝王のごとく、生殺与奪の権は一人にてこれを有す。仏教の仏陀は文明今日の立憲国のごとく、仏陀も我人も共に宇宙の大法たる因果の規則を守らざるべからざるものとなす。畢竟かくのごとき差異の両教の間に存するは、仏教は徹頭徹尾、哲理によりて組織したるものなるによる。その情感的諸宗のごときは、哲理の神髄と情感の皮肉とを合して組織したるものなり。

 第二〇七節 上来数節を重ねて論明したる仏教総論は、仏教中の諸宗諸派の別ありて、おのおのその説を異にするも、これを貫徹する一脈の哲理あることを示すものなり。その一理脈存するをもって、諸宗諸派の別あるもひとしくこれ仏教なることを判定すべし。しかしてその総論は緒論、本論、結論の三部に分かれ、その本論また理論門、応用門、通宗門の三論に分かれたるも、全論の要旨は理論門にありて存す。その理論は諸宗諸派の根拠とするところにして、ただこの理を実際に応用するに当たりて時と人との異なるをもって、宗派の分かるるに至りしなり。故に理論門の体象実在論、体象関係論、体象規則論は、余がいわゆる一脈の理論なり。かつこの理論門は純正哲学に属する部分にして、そのうち有空中三宗の論あるは、物体哲学、心体哲学、理体哲学の三種、もしくは客観論、主観論、理想論の三種なることは前すでにこれを論述せり。しかしてその応用に至りては宗教学の部門に属す。これ仏教をもって純正哲学の応用とし、そのうちに純正哲学に属する部分と、宗教学に属する部分との二種ありというゆえんなり。これ余が仏教をもって哲学上の宗教、智力的の宗教なりとなすゆえんなり。欧米諸学者の普通に講ずるところの宗教学とは、大いにその趣を異にするを知るべし。かくのごとき宗教、インドにすでに跡を絶ち、シナにまさに光を隠さんとするに、ひとり日本にその生気勃々たるをみるは、あに仏者一人の幸にしてやまんや、実にわが国不期の幸というべし。これ余がこの教を研究しこの教を拡張するは、ひとり真理のためのみならず、国家のために尽くさざるを得ざるものというゆえんなり。これ余が護国愛理の二大義務は、この仏教の向背の上において存せりというゆえんなり。すでに総論を説き終わりしをもって、これより各論を論述すべし。その分段は左のごとし。

  有宗論(小乗倶舎宗ならびに成実宗)

  空宗論(権大乗法相宗ならびに三論宗)

  中宗論(実大乗天台宗、華厳宗ならびに真言宗)

  通宗論(禅宗、日蓮宗、浄土諸宗)

  結論

この順次を追いて各宗の大綱を論明すべし。