3.南船北馬集 

第十一編

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南船北馬集 第十一編

1.冊数 1冊

2.サイズ(タテ×ヨコ)188×127㎜

3.ページ

 総数:133

 目次: 1

 本文:132

(巻頭)

4.刊行年月日

 底本:初版 大正4年12月18日

5.発行所

 国民道徳普及会

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岡山県巡講第一回(備前三郡、備中三郡)日誌

 大正四年二月十五日。午後三時、東京発にて岡山県巡講の途に就く。随行は静恵循氏なり。この日、旧暦一月二日に当たる。岡山県は備前、備中、美作の三国にわたり、一市十九郡、人口百二十万を有する大県なり。御津、赤磐、和気、邑久、上道、児島の六郡は備前に属し、浅口、小田、後月、吉備、上房、都窪、川上、阿哲の八郡は備中に属し、真庭、苫田、勝田、英田、久米の五郡は美作に属す。

 二月十六日 晴れ。午前十時半、和気郡三石町〈現在岡山県備前市〉に着す。村名の由来につきて異説あり。一説にその名は光石より転じたるものなる由。古代よりこの地に鏡石ありて、よく人の姿をうつす、故に光石と呼べりという。また、歴史上伝えきたる三個の名石あるによるとの一説と、村内の地名に石の字の付きたる所三カ所あるによるとの一説あり。本村の物産としては石のみなれば、あるいは満石と解するも可ならん。なかんずく陶器、煉瓦の耐火原料を産出するをもってその名高し。また、村内に神功皇后の御休憩遊ばされしと伝うる地ありて、その場所より今に一種の奇石を出だす。これを孕石と呼ぶ。郡役所より視学三村剛氏、ここにきたりて迎えらる。会場は公会堂、発起は町長大谷飛登氏、校長小高真寿太氏、会社長武本善平氏等なり。武本氏はもと京北出身たり。宿所角屋の掲示を見るに、宿泊料並等四十銭、中等五十銭、上等六十銭とある。すこぶる安価なるを知る。

 十七日 晴れ。暁寒強くして〔華氏〕三十八度に下り、瓶水氷を結ぶ。三石より福河まで山道二里半なれど、車行にては播州赤穂郡内を経由するをもって四里半あり。福河村〈現在岡山県和気郡日生町、兵庫県赤穂市〉は福浦と寒河との両大字より成る。寒河をソーゴと読ましむ。産業は一半農業、一半海運業にして、和船により近海の運送に従事するもの多しという。また、本村の特色としては全部ほとんど真宗にして、寺院参詣の多き一事なり。けだし岡山県としては信仏の盛んなること、これに類する町村は他になかるべし。会場は小学校、宿所は西願寺、発起は村長萩原匡則氏、校長橋本悦治氏、住職望月周英氏等にして、萩原村長特に尽力せらる。この日、途上吟一首あり。

  吾愛山陽面海南、四時光景緑於藍、東都二月霜風冷、去到備前春已酣、

(私は山陽の地が海を南に接して、四季を通じての風光は藍よりも緑濃いことを愛している。東京の二月は霜を含んだ風が冷たく吹いているのであるが、備前の地に来てみれば春はすでに盛りなのだ。)

 十八日 晴れ。福河を発し、日生町を経て伊里村〈現在岡山県備前市〉に入る。行程二里余、その間、海を左にし山を右にして行く。群巒水をめぐりて海みな湖のごとし。風光明媚、大いに吟賞するに足る。日生町をヒナセとよむもまた奇なり。この町には一種特殊の方言あり。

アナタをヒナタといい、自身をウラという。一説にヒナタは日向すなわち表の意、ウラは裏の義ならんというも信じ難し。また、たくさんをホテリキという。たくさんタベヨというべきをホテリキクワンセという由。

 伊里村は延長三里、戸数約千、郡内の大村なり。村内には熊沢蕃山先生の遺跡多し。その当時、耕地を整理して、井田法を実施せられし跡あり。その部落を今に井田村と称す。また、先生の退隠せられし蕃山の地あり、これをシゲヤマと呼ぶ。当時の居宅を息游軒と名付けられしが、その旧址に碑石立てり。また、ここに真言宗正楽寺ありて、多く先生の遺物を所蔵すという。住職上品全定氏は哲学館出身なり。この日寸暇なきをもって、いちいち討尋するを得ざるを遺憾とす。所吟一首あり。

  群巒繞海水成湾、来往風光明媚間、客裏欲尋古賢跡、備南一跡入蕃山、

(多くの山波が海水をめぐらせて湾をつくり、風景にいきつもどりつしつつ美しさに心を動かされている。旅の身はむかしの賢人〔熊沢蕃山〕の遺跡をたずねようと願い、備前の南の地にある蕃山〔シゲヤマ〕に入ったのであった。)

 会場小学校は高所に位し、湾角を一瞥するを得て、眺望やや佳なり。開会は伊里役場の主催にして、村長吉原九介氏、医師大饗恭三氏、軍人分会長大西長次郎氏、青年団長松原喜四郎氏等、みな尽力あり。当夕、大饗氏の邸宅に宿す。本村の特色は、一村だけの需用に供するために、村設電灯ある一事なり。

 十九日 雪のち晴れ。暁地一面に微白を敷く。午前、宿所を発し、車行一里半にして閑谷黌に至る。伊里村の北端にあり。余は明治二十四年秋ごろ、西毅一氏黌長たりしときにここにきたり、蕃山先生以来の聖廟、講堂、石垣を一覧せしことあり。今回再びきたりて講話をなす。校長有森新吉氏は大学同窓の旧知なれば、その寓所たる草庵に入りて午餐を喫す。満渓の雪色、銀世界を現出し、吟望すこぶるよし。教頭は伊藤正胤氏なり。東洋大学出身目加亀太郎氏もここに教鞭をとらる。午後、天ようやく晴れ、雪たちまち消尽す。これより車行二十七丁、吉永駅より汽車に駕して和気町〈現在岡山県和気郡和気町〉に着す。これ郡衙所在地にして、郡長石川良道氏等数名の歓迎に接す。会場小学校および旅館水明楼は、川流にそいて眺望ともに佳なり。本町の入口に巌山の屹立せるあり。「節たる南山これ石巌々」の相を有す。その形、富士に似たりとて和気富士と称す。一方の懸崖に「南無妙法蓮華経」の七字を刻せるあり。一字の大きさ二間四方ありという。当地本成寺に哲学館大学出身原田日勇氏住す。発起者は町長岸本亀次郎氏、助役日笠正美氏、校長新置観信氏なり。本町に二月という奇姓ありと聞く。この日、閑谷黌にて詠じたる一首あり、左のごとし。

  乱山堆裏一渓長、尽処甍光是聖堂、二百年前講文跡、依然今日読書場、

(乱れたつ山のかさなるうちにひとすじの水流があり、その奥まったところにいらか輝く聖堂がたっている。これこそ二百年前に学問を教授した跡であるが、依然として今日もなお教学の場なのである。)

 本郡藤野村は和気清麻呂公の出身地なりと聞く。

 二十日 開晴。暁気〔華氏〕三十七度。満地の降霜その白きこと雪のごとし。車行二里半、片上町に入り、更に八丁の葛坂と上下して伊部町に至る。備前焼陶器の本場なり。郡書記木村一氏の宅に少憩して陶器を一覧す。その宅の堂号を黄蕨堂という。陶器数品を恵与せらる。午後、片上町〈現在岡山県備前市〉劇場興進倶楽部にて開演す。主催は両町連合にして、発起は片上町長中村基四郎氏、伊部町長岸本種治氏、片上校長梅延浅一氏等なり。宿所荒木、一名恵比寿屋はハイカラ式の旅館にして、館内使用の草履、その長さ一尺余あるは天下一品ならん。余は主人のもとめに応じ、恵比須にちなみて釣福亭と命名す。かつ一詩を賦してこれに与う。当地には片上八景ありて風光ことによし。

  春遊何処我車停、片上湾頭釣福亭、吟賞風光攀葛坂、焼陶烟漲半山青、

(春の遊びにいったいどこにわが車をとどめようか。ここは片上湾のほとり釣福亭である。風光を吟じめでつつ葛坂にのぼれば、陶器を焼く煙があたりにみなぎり、ようやく山の半ばが青々としているのである。)

 和気郡は備前中にて播州に隣接せる故、人気も赤穂地方に似たる点あり。また、各会場の演説の前後、聴衆一同起立して敬意を表せられ、すこぶる鄭重の風あり。郡内の山間部に八塔寺と名付くる一部落ありて、今は三国村に加わる。その風俗すこぶる素樸なりという。本県の俗謡に左のごときものあるを聞く。

  オッサンドコナラ、ハットウジ(八塔寺)、モンパノ股引ヌックイナ、虱ガワイタラカーイーナ、

 オッサンとは中老の男を呼ぶ俗語なり。

 二月二十一日(日曜) 晴れ。片上を発し行くこと約一里、香登村字大内、津田謹吾氏庭内にある臥竜松を訪う。経年二百余年に過ぎざるも、一幹九岐千枝、しかして幹囲十八尺、枝朶の長さ東西二百五十尺、南北百五十尺、樹高二十五尺あり。その横臥の長さは日本第一と称す。昔時、備前侯より肥料として毎年米三石を賜りしという。ときに即吟一首を得たり。

  大内村頭有老松、満庭蒼影四時濃、鯨身鶴骨三千尺、二百年来古臥竜、

(大内村には年をへた松がある。庭いっぱいに葉影をのばして、四季を通じてみどりは深い。鯨のような幹のふとさと鶴の羽ばたきのごとき枝は三千尺もあろうかと思われ、二百年をこえる古い竜の臥す姿の松である。)

 三村郡視学とここにて相別れ、更に車を駆ること約三里にして邑久村〈現在岡山県邑久郡邑久町〉に入る。本村は邑久郡の中央に位せるをもって郡衙を置かるるも、郡役所所在地としては県下第一の寒村なりという。たまたま郡教育会を開催せらる。会場小学校の門前に脚車すなわち自転車の数、およそ百台以上に及ぶ。本郡は平坦なるも鉄道なし。故に脚車の多きこと県下第一にして、ある村落のごときは一戸一台の平均なりと聞く。物産としては米麦あるのみ。民家にては炉中に湯を沸かすに多くモミガラを焼き、その灰を火鉢に用い、藁は燃料に用いずという。これ本郡の特色とす。開会発起は郡教育会長兼視学塩見東八氏、副会長林甚八氏、邑久高等校長宇治大治郎氏なり。塩見氏は先年、上房郡にて相識となれり。当夕、旅館大黒屋にて郡長斎藤威郎氏等と会食す。昨夜、本郡尻海と名付くる所に神田神社の会陽ありしと聞く。会陽は備前独特の祭事にて、上道郡西大寺における毎年二月十四日の会陽を県下第一とし、これに次ぐものを神田神社の会陽とす。男子は裸体になりて互いに押し合い、神木と名付くるものを争い取るなり。一種異風の祭事というべし。西大寺の会陽と成田の豆マキとは東西対立の勢いあり。

 二十二日 穏晴。早暁、厳霜を見る。京北出身吉田関治氏、笠加村より来訪あり。午前、高等小学校庭前の講壇に登りて、生徒に簡短なる訓誡的談話をなす。本郡は各小学校に講堂代用として、煉瓦にて積み上げたる庭前講壇を設くるもの多きは特色の一ならん。これより車行一里半にして国府村〈現在岡山県邑久郡長船町〉に至り、午後開演す。会場は小学校、宿所は井上寿正氏宅、発起は村長島村甚吉氏、助役高原清八氏、校長大河原生二氏なり。当村に隣れる行幸村に備前長船名刀の家ありて今なお存す。郡教育会より助兼作の短刀を恵与せらる。この地にて聞くところによるに、郡内の田地は一反につき七俵ないし十俵の収穫ありて、小作料は三俵半より五俵、売買相場は四、五百円ぐらいなりという。

 二十三日 風雨。車行四里、駅道平坦なり。会場は牛窓町〈現在岡山県邑久郡牛窓町〉小学校にして、校舎は堅牢の新築なり。その位置丘上にありて眺望すこぶるよし。当町は海湾を帯び、島嶼を擁し、風光明媚をもって聞こゆ。この日大雨なるにもかかわらず、聴衆は五間十五間の会場に立錐をいれざるほどに充溢す。発起者は校長林甚八氏、助役谷源三郎氏等にして、宿所は蔦屋旅館とす。一町の生計は海産業および船職工なり。その職工は和船造営に従事す。また、材木の豪商ありて各国の材木ここに輻湊す。戸数千戸、郡内第一の都会なり。この町の名物の一を唐子踊りとす。その歌は朝鮮より伝えたるものという。

「サアーチヤー、アーハンヱーヱーヱ、ヤンヤハシユンレー、」同二度ニイモーヲ、オーシユンレイヱーヱ、ゴヲモーヲデーヤアーソー、ハアーヲーカンヱー、ヱイソヲーヱーヱー、オントヲロオーロオチイー、アーソオーモ、ヒイーヤ、ハアー、ツンテンーテレヅチツテツテンーツトン、チイーチンーチリツント、ヒイーヤ、テレツツトントン、(その他は略す)

 また、町内には万灯または高祖の姓あり。讃州小豆島へは海上四里、一日間にて往復するを得という。

 二十四日 好晴。昨雨全く晴れ、和日軽風、湾上の風光眼前に映射しきたる。海上に小嶼の円丘をなせるものあり、これをカマボコ島と名付く。その傍らにクソシリ島あるは珍名なり。車行一里にして鹿忍村〈現在岡山県邑久郡牛窓町〉に入る。途上吟一首あり。

  軽車衝雨入牛窓、前後長湾狭似江、一夜烟収春天霽、愛看円嶼両相双、

(軽快な車は雨のなかを走って牛窓町に入った。前後につらなる湾は細く川に似ている。一夜にして霞も消えて春の空がひろがり、円い丘を思わせる島のならぶのをいとおしく眺めたのであった。)

 会場は小学校、発起は村長馬場保太郎氏、助役出射敏氏、校長岡崎勉氏、宿所は志賀旅館なり。本村は維新前には塩田をもってその名高かりしが、今はわずかに一部分を存するのみ。その代わりにカボチャの産地となるという。

 二十五日 快晴。車行二里余、幸島村〈現在岡山県岡山市〉に至る。途中、郡内第一の名刹たる真言宗弘法寺を望みて過ぐ。会場は小学校階上の講堂にして、発起は村長岡崎鉄五郎氏、校長阿部周三氏、宿所は正陽軒なり。本村は前に海湾を抱き、背に松丘を負う。その丘を神社山という。巨巌往々老松の間に屹立す。海峡半里を隔てて児島郡と相対す。

 本郡の特長は人口の過多なる一事なり。面積十一方里の間に五万二千人を有す。すなわち一方里に四千七百人の割合となる。また、聞くところによるに、農家の食事は一日四回または五回を常とす。朝五時朝飯、午前十時昼飯、午後二時お茶ヅ、晩六時夕飯、夜十時夜食を喫す。茶ヅとは茶漬けの略語なり。

 二十六日 風雨。幸島より西大寺を経て赤磐郡潟瀬村〈現在岡山県赤磐郡瀬戸町〉に着す。車行四里、小学校にて開会す。しかして当夕は瀬戸町に移り、郡部第一の旅館たる風月楼に宿泊す。後楼より汽車の走るを座視すべし。この町は昨年まで物理村と称せり。村名としては珍しき名なる上に、これをモドロイとよむは奇さらに奇なり。発起は瀉瀬村長土井和清氏、校長玉谷俊吉氏、瀬戸町長元岡藤七郎氏にして、郡視学石原猛男氏助力せらる。

 二十七日 雨。車行二里余、豊田村〈現在岡山県赤磐郡熊山町〉にて開会す。会場小学校は明治二十年度の建築にして、当時の西洋館なれども、今日にては骨董的古物となる。休憩所は河和平治氏宅、宿所は永瀬初次氏宅、発起は校長平井又次郎氏、訓導森田友吉氏等なり。終日、雲溟々雨蕭々たり。この隣村に当たる石生村をイワナシとよむはやや奇なり。

 二月二十八日(日曜) 旧一月十五日に当たる。午前、北風霰を送りきたり、午後に至りて晴るる。ただし寒気強し。豊田村にケーマロ塚と唱えきたれる墳墓ありて、和気清麻呂公の墓ならんとの伝説あるを聞き、出発の際一覧せしに、和気の二字は読み得るも、その他は腐蝕して見えず。これより霰をおかして山路にかかり、車行二里、一嶺を登降して佐伯本村〈現在岡山県和気郡佐伯町〉に至る。この地方、車馬連続して薪木を運出す。山には松樹多し。会場は小学校、発起は本村長宮内忠祥氏、校長森郁四郎氏、佐伯上村長岡崎虎太郎氏にして、宿所は柴田楼なり。隣村なる佐伯北村には婦人共有田およそ三反ほどあり。毎年春秋二期に、その所得金をもって婦人の大宴会を設くる慣例ありと聞く。けだし全国無類ならん。

 三月一日 開晴。暁寒〔華氏〕二十八度に下り、硯水もまた凍る。希有の沍寒と称す。地上積雪一寸、暁望一面に白し。車行三里、船にて吉井川を渡ること二回、和気郡内を一過して周匝村〈現在岡山県赤磐郡吉井町〉に入る。吉井川は県下三大川の一にして、津山より西大寺まで十五里の間舟行の便あり。川上舟子相連なりて船をひき上ぐる声、波に反響して聞こゆ。

  暁雪如銀四望清、備山縦立作山横、風寒吉井川頭路、船子曳舟呼有声、

(暁の雪はしろがねのごとく輝き、四方はすべて清らかに見え、備前の山々は縦横に立ちふさがる。風は冷たく古井川のほとりの道に吹き、ふなびとの舟を引く呼び声がきこえてくる。)

 本村は作州国界に接続し、川を隔てて英田、勝田、久米三郡の連山と相対す。昔時は津山街道の一都会なりしも、近来交通不便のために寒村に化し、電信を発するにも四里以上の地に至らざるを得ずという。会場小学校講堂は十間六間大にして、新築まさに落成す。発起は、村長早川陽吉氏、助役原巍氏、校長近藤恵佐久氏、宿所は橋本旅館なり。当地にて名物老女として知られたる荒木やす子に面会す。本年八十歳、教育慈善事業に力を尽くし、六十一歳より書を学び、今は能書の評あり。

 二日 朝微雪、午時雨、午後全晴。車行三里、その間登路一里、降路一里の長坂を経て笹岡村〈現在岡山県赤磐郡赤坂町〉に至る。郡長飛田謙蔵氏、瀬戸町よりきたり会せらる。当日の会場は小学校、発起は村長原田重吉氏、校長尾崎加四郎衛氏にして、宿所は周藤千太郎氏宅なり。夜に入り、寒月霜気を帯び渓山皎々たり。

 三日 快晴。霜暁〔華氏〕三十六度。車行一里半、渓間の小流に従って下行し、鳥取上村〈現在岡山県赤磐郡赤坂町〉に入り、清満文太郎氏の宅にて休泊す。会場小学校は田間にありて、四面めぐらすに麦田をもってす。発起は村長小坂峰三氏、校長遠藤長定氏なり。

 四日 温晴。車行約一里、西山村〈現在岡山県赤磐郡山陽町〉に入る。この間は郡内の平坦部にして、平田数里に連なる。村内には煉瓦煙突数柱あり。みな醸酒家なり。郡内の物産は米麦を第一とし、これに次ぐものを酒とす。その多くは摂州灘へ供給すという。なかんずく西山村は造酒最も多しとす。県下第一の造酒地だけに、本村長加藤郁太郎氏は県下第一の酒豪なりとの評あるを聞き、「併得村長兼樽長」(村長と酒樽の長もかねている)の一句を書してこれに贈る。会場は小学校、宿所は造酒家花房卯一郎氏の宅なり。この日、醸造すでに終わりて杜司の送別会あり。本郡の杜司はすべて備中浅口郡よりきたる。花房氏の名酒は「花ノ友」を第一とし、これに次ぐものを「占領」および「松緑」とするを聞き一絶を賦す。

  赤磐渓上車能走、所駐西山家醸酒、講後欲医旬日労、春風一夕酔花友、

(赤磐の谷のほとりに車を走らせ、西山村の醸酒家にとどまる。講演の後にこの十日ほどのつかれをいやしたいと思い、春の風吹く夕べ、銘酒「花ノ友」をふくんで酔ったのであった。)

 発起は加藤村長の外に助役小竹森善吉氏、校長森正長氏等なり。

 五日 晴れ。車行半里余、高陽村〈現在岡山県赤磐郡山陽町〉小学校に移りて開会す。校は田間にあり。発起は村長菅形恵三治氏、校長房延唯次郎氏等なり。午後過暖、四面深く霞気をこめ、山影糢糊、あたかも空中に灰を散ずるがごとく、異様の天色を現ずるを見る。講演後、瀬戸町風月楼に帰着す。これにおいて郡内を一巡周了せり。各所へは郡書記是友英夫氏の案内を受けたり。

 赤磐郡の農家は一年を通じて一日四回ずつ食事をなす。朝六時ごろの食事を茶をのむといい、十時に朝飯、午後二時にオチャヅ(茶漬け)、晩六時ごろヨーメシ(夕飯のこと)を普通とし、ときによりてはそのほか夜食をなすという。また、婚礼のときには大抵三度ぐらい吸い物を出だすが、その一つには必ず餅を入れたるものを出だすを常例とす。しかるに近来新工夫の吸い物流行し、最初の吸い物は箸を添えず、椀の中に「敷島」を入れて配膳し、主人より吸い物をお吸いくだされとの挨拶をなす。客その命により椀の蓋をあぐればタバコがその中にありとの話を聞けり。これ専売特許にあたいする吸い物の新案なり。

 六日 晴れ。朝八時、瀬戸発にて備中浅口郡に向かう。玉島駅より一里半の間、腕車を用い連島町〈現在岡山県倉敷市〉に入る。途中、高梁川の仮橋を渡るに、堤防の大工事いまだおわらず、労働役夫相連なる。また、この日旧一月二十一日に当たり弘法大師の命日なりとて、信男信女列をなして巡拝を行う。午前、小学校庭前にて生徒に対し短時間の談話をなし、午後、講堂にて公会の演説をなす。東部教育会の主催にして、町長友沢清範氏、校長真田正一郎氏の発起にかかる。浅口郡長村山奨吾氏、視学仲原鹿太郎氏、ここに出席せらる。宿所矢亀楼は小旅館なるも、すこぶる茶趣を有す。この地方は昔時綿の産地にして、町内綿打ちを業とするもの多かりしが、今日は綿は輸出品を用うるも、綿打ちは旧によりて多しという。当町の丘上にある篦取神社は郡内名所の一として世に知らる。この日また春靄矇々たり。

 三月七日(日曜) 雨。車行一里にして、郡内第一の都会たる玉島町〈現在岡山県倉敷市、吉備郡真備町〉に移る。会場小学校講堂は十五間と七間の大堂にして、建築の宏壮なるは他県にも多く見ざるところなり。主催は戊申会および中部教育会にして、発起は校長高橋茂一郎氏、訓導浅野辰之進氏とす。しかして宿所は山中旅館なり。当町名物饅頭は大阪虎屋饅頭の元祖と称し、岡山市の吉備団子とともにその名高し。毎日二回、讃州多度津往復の汽船あり。

 八日 晴れ。車行一里半、黒崎村〈現在岡山県倉敷市〉字沙弥浦円福寺、一名本性院に入る。山号を矢崎山という。備海讃山の眺望大いによし。あたかも天造の大園池に対するがごとき観を有す。その堂前に奇松あり。その形雨笠に似たり。よって笠松と号す。また、堂内には観音を安置す。故に所詠、左のごとし。

  麦径行過入寺門、笠松迎我笑将言、四州三備風光美、集得観音堂側軒、

(麦畑の小道を行って寺の門に入れば、雨笠の姿の松がほほえみつつ物言わんといった風情で私を迎えてくれた。ここからの眺めは四国と三備の風光の美を、すべてこの観音堂の軒端に集めたかと思われるほどであった。)

 その寺は天台宗に属す。郡内海岸に接したる所には天台宗最も多く、九分どおりを占むという。また、この沿海地の特色は墓所を尊重するにありて、毎朝必ず墓参をなす。墓前に立つる榊やシキビの木はときどき取りかえるために、葉の枯れたるものを見ず。発起は村長木村利雄氏、校長安倉嘉与治氏、住職竜妙叡氏なり。開会地たる沙弥浦は古代の模範村にして、今より百五十年前、幕府より民俗醇厚なるかどをもって下賜金ありしに、これを永遠に紀念せんとて一池をうがち、恵池と命名しきたれり。郡内鴨方出身の昔儒西山拙斎翁の碑文あり。しかるに今は全く美俗の跡を絶つという。風俗にも桑海の変あるものと見ゆ。実に嘆ずべきなり。宿寺の丘と相連なりて海中に突出せる所を竜王山という。その尽頭に海水浴場ありて、壮大の設備を有す。これを大観閣と名付く。夏時の消暑に最も妙なり。

 九日 好晴。黒崎より寄島町〈現在岡山県浅口郡寄島町〉まで二里半の間、山路いまだ腕車を通ぜず。よって海路をとり、石油発動機に駕して寄島に至る。海上讃州の連山に応接して過ぐる所、画中にありて行くを覚ゆ。会場は小学校、宿所は旧家斎藤環一氏宅、主催は大正会、発起は町長亀岡魯一氏、校長森田孫作氏、郵便局長頃末賢雅氏等とす。その一人に加わるものに金井義海と名付くる僧侶あり。雅号を自ら定めて臭僧と呼ぶ。ナマグサ坊主の雅号は天下一品なり。午前は生徒、午後は公衆に対し両度演説す。この地は本県下の最暖地にして、地上に霜雪を見るは四、五年中に一、二回なりと聞く。三月上旬すでに菜花を見る。また、当地は麦稈サナダの元祖にして、一町の産額一年十万円ないし三十万円と称す。香川県の麦稈もこれより相伝えしものなりという。その他神功皇后征韓凱旋の跡ありて、その奇跡に関する八景あり。よって一吟す。

  客身来寓備陽湾、八勝競奇是別寰、神后当年御舟跡、今為山紫水明関、

(旅の身は備中の南の湾に寄寓す。ここはわが国の八景勝、奇観をきそうがごとき別世界である。神功皇后征韓凱旋のときの寄港の地であり、いまや山紫水明のかなめの地となっている。)

 十日 温晴。車行約一里半、里庄村〈現在岡山県浅口郡里庄町〉に至る。会場および宿所は真言宗不動院なり。これより山間部に入るに従い、真言宗多し。寺門の当面に禿頭山あり、毛浦山と称す。発起は村長安倍正一氏、助役仁科数三郎氏、書記岡本市郎氏なり。本村は全く農村なるも、寄島よりここに至るの間は備中杜氏、代氏の本場なり。代氏(俗に庄屋と称す)とは杜氏の助手をいう。聞くところによれば、この地方の米作一反につき三石ぐらいの収穫ありて、小作料は一石五斗、売価は五百円ないし七百円という。他地方と大同小異なり。また、この村に忍ブ石と大原焼を出だす。大原焼は黒色陶器にしてやや異彩あり。一見黒光石のごとし。しかも耐火力強しという。この隣村に天地金之神の金光教の本山あり。

 十一日 晴れ。車行一里半、鴨方村〈現在岡山県浅口郡鴨方町〉に移る。午前、実科女学校に至り、生徒に対して講話をなし、午後、長川寺にて更に開演す。発起は村長石井康三郎氏、実科校長内山律太氏等なり。旅館酔月楼は大瓢箪を所蔵す。物産は素麺とす。聞くところによるに、本村は今は海より隔たるも、往昔は海浜なりしために、鴨潟と書きし由。よって他地方にては田に行くことを山に行くというが、この地にては沖に行くというはおもしろし。また、鴨方名物をよみたる歌に「鴨方に過ぎたるものが三ツある拙斎、索我、宮の石橋」といえるあり。拙斎は儒者、索我は画家、石橋は鴨神社の境内にありて、橋下に道を通ずるものをいう。

 十二日 雨。鴨方より小田郡矢掛町へは山路二里の所、峻坂にして腕車を通ぜざれば迂路をとり、汽車にて笠岡に至り、更に軽便に駕して北川駅に降り、これより車行一里半にして矢掛町〈現在岡山県小田郡矢掛町〉に入る。はじめに中学校にて講話をなし、午後、劇場(大正座)にて演説をなす。開会に関し特に尽力せられしは、青年団長守屋松之助氏(町長)、副団長世良長造氏、幹事中西覚一氏、評議員森下一郎氏等にして、中学校長は林文五郎氏とす。その校教員藤原敝一氏は京北出身なり。この地は福山と岡山との中間に位せる要駅なるも、近年鉄道の便を欠きたるために、昔時のごとく盛んならず。名物としては柚餅子と柚煉あり。また、本町は小田川を隔てて松巒と相対し、洛陽嵐峡の趣ありという。よって一絶をとどむ。

  矢懸渓上水潺湲、声払世喧心自閑、松影巒光亦清絶、人呼三備小嵐山、

(矢掛の谷のほとり、水はさらさらと流れ、その音は世のかまびすしさを払いのけて、心はおのずから静かである。松の姿や山のかたちもまたはなはだ清らかで、人々はここを三備の小嵐山と呼んでいる。)

 宿所小西屋の別館はその川に臨み、其巒に面す。

 十三日 晴れまた雨。山上には夜来降雪ありて、暁望微白を認む。渓行一里半、美川村〈現在岡山県小田郡矢掛町〉小学校にて開演す。尽力者は村長三宅敏郎氏、助役岡田武平氏、収入役武井慶治氏とす。学校を離れ約七、八丁の所に長谷川譲氏の宅あり、ここに宿泊す。村内の物産は薪炭なりという。

 三月十四日(日曜) 春寒料峭、暁気〔華氏〕三十五度。宿所より約二十町をさかのぼりたる所に鬼ケ岳の奇勝あり。危巌累々、絶壁千仭、その上部に一窟あり。昔時、その中に鬼住せりと伝う。早朝これを一見して七絶を賦す。

  美川村外望将迷、累々危巌繞石渓、一窟懸天転堪仰、昔言山鬼此幽棲、

(美川村のはずれをながめて目をさまよわす。かさねあう岩石が岩底の水流をめぐらせている。一洞窟あり。はるか上空にあるかと思われる絶壁上にあってしばし仰ぎみる。昔からの言い伝えでは鬼がここにかくれ住んでいたという。)

 この渓流の水底はみな一帯の岩石よりなるもまた奇なり。これより高梁町まで六里の間、腕車を通ずという。更に車を駆り矢掛を経て中川村〈現在岡山県小田郡矢掛町、浅口郡鴨方町〉に入り、南小学校に至りて開演す。宿所は村長渡辺柳一氏の宅なり。発起は村長の外に助役間部隆三郎氏とす。本村は県下有数の養蚕地にして、果樹桃林もまた多し。この背後に一帯の山脈あり、これを阿部山と称す。阿部晴明の住せし地なりと伝う。

 十五日 晴れ。午前、車行一里半、新山村〈現在岡山県笠岡市〉に至りて開演す。青年団長津島喜平二氏、副団長浜田円明氏、顧問谷本覓氏の発起にして、園部三千平氏の宅に休憩す。会場は小学校なり。この辺りの山上には松林のみ。午後、車をめぐらすこと約一里、北川村〈現在岡山県笠岡市〉に移りて開演す。青年団長三浦益太郎氏、副団長宮下儀一氏の発起にかかる。当夕、小田村原田旅館に宿す。小田は矢掛、井原両町間における一小市場なり。

 十六日(旧二月一日) 晴れ。この日、初午に当たれるとて一般に休業す。車行一里強、国道なればその坦なること、といしのごとし。後月郡に入り西江原村〈現在岡山県井原市〉小学校にて開演す。宿所は正雲寺なり。ともに甲山の麓にあり。村長片山鼎三氏、校長長尾協氏の発起にかかる。本村は興譲館の所在地なり。同館は坂谷朗廬翁の開かれし塾にして、先館長坂田丈平氏は哲学館に教鞭をとられしことあり。ときに一作を得。

  小田川上有書堂、七十年来訓義方、興譲余風今尚遍、村々落々俗淳良、

(小田川のほとりに学問所がある。七十年の久しきにわたって正しい人の道を教えてきた。興譲館の遺風は今もなおあまねくいきわたり、ゆえに村々の風俗は淳良なのである。)

 備中は従来、儒者を輩出せるをもって名あり。明治年間になりても山田方谷をはじめとし、坂谷、坂田二氏、川田剛、三島毅等の諸氏あり。

 十七日 晴れ。車行わずかに二十町、小田川を隔てて井原町〈現在岡山県井原市〉あり。会場は小学校講堂、発起は町長原田吉平氏、助役河合覚之助氏、収入役藤井直一氏にして、なかんずく原田氏尽力せらる。また、郡視学黒田久二氏も助力あり。宿所は備小楼なり。当夕、婦人会のために特に一席の講話をなす。内務省地方局長渡辺勝三郎氏は当地小学校の出身なりとて、その写影を応接所にかかぐ。この地方の物産は蒟蒻玉と松茸なりと聞く。本町各店の軒先および戸口が街路に斜向して建てられおるは、たれびとも奇異に感ずるところなるが、鬼門を避くるためなりという。これまた奇門ならずや。

 十八日 晴れ。昨今、春色田頭に満ち、麦色蒼々たり。また、残梅新柳の目をたのしましむるあり。渓行四里弱、共和村〈現在岡山県後月郡芳井町〉小学校に至りて午前開演す。発起は村長佐藤粛郎氏、校長佐藤彦右衛門氏にして、休息所は川虎旅館なり。更に渓路をさかのぼること二里弱、三原村〈現在岡山県後月郡芳井町〉小学校にて午後開演す。この両村の間は山いよいよ峻急にして、渓いよいよ狭隘なり。一条の渓流を鴫川という。岸頭わずかに車道を通ずるありて、渓に俯し山を仰ぎ戦々兢々としてようやく進む。その中間に小耶馬渓と称する名勝あり。奇巌万丈、天を摩せんとする勢いを示す。その対岸に石洞あり、呼びて蛇の穴という。その奇景は吉備郡池田村の濠渓に譲らずとの評あり。ときに一吟す。

  鴫水囲山路似腸、奇巌万丈自成行、誰移耶馬渓頭石、置此備西深処郷、

(鴨川は山道をとり込むようにめぐって、くねくねと羊の腸のようである。そこにはおのずからすぐれた姿の岩石が天を突くように並びたつ。いったいだれが耶馬渓のあたりの岩石を、備中西の地の奥深い里に移したのであろうか。)

 この前後一里の間は巌山相連なり、一として石を骨とし松を髪とせざるものなし。実に備西の勝地というべし。この日たまたま社日に当たり、民家一般に休業して地神を祭る。地神は備前、〔備〕中、〔備〕後三州の名物にして、村落ごとに路傍に地神の二字を刻したる碑石あり。これ田畑の神なりとて、食物を供えて祭る。当日は鍬を使用することを忌む。本村の物産は薪炭にして、駅路荷車相連なる。また、桐材を出だす。その他銅鉱ありて百余人の工夫を使役すという。これより一嶺をこゆれば神石郡または川上郡に入る。嶺頭に市場あり、高山市と名付く。発起は村長鴫宗久氏、校長岡崎熊太郎氏等にして、宿所は吉岡英一氏の宅なり。各室に炬燵の設あり。

 十九日 晴雨不定。山地春寒いまだ去らず、暁望麦田霜のために白し。三原を発して下行里許、雨ようやく降り、芳井村〈現在岡山県後月郡芳井町〉に入りていよいよはなはだし。行程四里半、昼間は小学校講堂にて開演す。村長高橋吉郎次氏、校長井本三郎氏等の発起にかかる。夜に入りて、真宗光栄寺にて婦人会のために演述す。住職は佐藤法水氏なり。本村は県下の大村にして、郡内にては井原に次ぐべき都会とす。宿所白水館は川に枕し、山に面して幽趣あり。夏時の観蛍もっともよしという。

 二十日 開晴。暁窓如霜、寒気〔華氏〕三十六度、瓶水みな凍る。車行三里、県主村〈現在岡山県井原市〉に至る。会場兼宿坊たる金剛福寺(真言宗)は山上にあり。午後開演。郡長野上伯孝氏、井原より来会せらる。夜間、更に婦人会の開催あり。村長佐藤共二氏、助役石本惣次氏、住職釈大空氏等の発起にかかる。

 三月二十一日(日曜) 晴れ。県主より車行一里にして再び小田郡に入り、稲倉村〈現在岡山県井原市〉小学校において開演す。本村長今岡増太郎氏、大江村長川合頼男氏、ほか三村長の発起なり。しかして宿坊は真言宗西光寺なり。本村は備中藺田業の本場なりという。この地方にては小便所の掲示流行すると見えて、昨日の宿寺および本日の宿坊には、

  急ぐとも只一足のことなれば、心静かに真中へせよ、

  急ぐとも一足前に進むべし、たとへ花でも散ればきたない、

とあり。余は哲学堂の小便所へ左のごとく掲示せり。

  急ぐとも壺の外へは一滴も、もらさぬ人は紳士なりけり、

 二十二日(春季皇霊祭) 午前雨、午後晴れ。車行二里半、金浦町〈現在岡山県笠岡市〉に至り、小学校において開演す。発起は町長久我米四郎氏、助役岡原仙次氏、校長惣津三郎氏、および四村長なり。目下、国会議員選挙の日いよいよ切迫したれば、役場も多忙を極むるもののごとし。当町の特色は水田が海面より低きこと約六尺、堤防と水門とにより海水の浸入を防ぐにあり。そのありさまは欧州オランダに類す。休憩所河崎定次郎氏の宅は湾内の眺望すこぶるよし。余は選挙日のせまりたると、東洋大学および京北中学卒業式の近づきたるために、巡講を中止し、今夜金浦町を発し、車行二十五町、笠岡駅にて東行に駕す。本郡役所は笠岡にあり。郡長村松翠之輔氏、視学満谷報一氏にはついに会見するを得ず。

 ここに岡山県巡講第一回を終わりたれば、その間に伝聞せし方言を記せんに、一国特殊の語と三国共通の語との二様あり。その中にて最も名高きはズド、ボッコー、オエンなり。ズドとは意を強むる語、すなわち最もとか、はなはだしとかいう意なり。ボッコーとは大層とか、ヒドクとかいう意なり。このズドボッコーを山口県にてはチウニゴッポーという。そのゴッポーはボッコーに当たり、チウニはズドに当たる。もしその意を今一層強めんとするときは、ズドホンボッコウという。ホンとは真にの意なり。つぎにオエンとはよく果たさぬ、なし遂げぬ、すなわちラチアカヌ、またはダメデアルの義にして、終え果たさぬの意なり。これらの方言をつづりたる歌あれば左に掲ぐ。

岡山言葉でズド、ホン、ボッコウ、オエンゾナ、其時やワッチモ、ジンとイッチマス、とハア、モウ、ペイヤ、ゴロンジャイ、

 ハア、モウ、ペーヤは助語にして、語の間に入るる言葉なり。かつて東京にて岡山県下の備作三州出身の学生会を開くときに、その名称を定むるに当たり、ボッコーの方言は三国共通なれば、この語を用うべしと一決して、会名をボッコウ(勃興)会と定めし奇談あり。また、語尾にバーを付くるは備前の方言として知らる。例えばアレコレというべきをアレバーコレバーというの類なり。これにも方言歌あり。

アレバー、コレバー、モーソコ、ボッコー、ドウシンサリヤ、ウチヤ知ラナーヤ、

 ドウシンサリヤとはドウシナサルの意、ウチヤとは私の意なり。山口県にてはバの代わりにソを付け、アノソコノソという。もし野鄙の方にて示さば、

  アレバー、コレバー、チトバー、ヘーバー、コイテ、クサバー、

とも伝えきたる。故に余は左の歌をつづる。

  岡山言葉をお存じないか、ズドホンボッコウオエンゾバー、

 また、備前にてアノヨウ、コノヨウ、ドノヨウというべきを、アガー、コガー、ドガーといい、父をトトン、母をカカン、おばさんをオバン、おじさんをチャンという由。また、兄をオヤカタともいう。これ弟より兄を指すときに限る由。また、岡山県にて病気を閉口という。例えば今日は病気であるというべきを閉口しているという。また、歯や腹の痛むときに、その状態に応じてウズクとも、ニガルとも、ハシルともいう。また、語尾に付加する言葉が三国おのおの異なるところあり。例えばソーダカラというべきを、

  備前はソーダカラ、美作はソーダゲニ、備中はソーダケー

の別あり。その他備前にて下サレというべきを遣ワサレという。すなわちコウシテクダサレをコウシテ遣ワサレというなり。人の死することをミテルといい、座することをヘタルといい、カブルことをカツグといい、カツグをカタグという。例えば、

  帽子をカブルというべきを帽子をカツグといい、

  荷物をカツグことを荷物をカタグという。

 一輪の荷車をネコといい、藁塚を和気郡にては藁倉というも、他はみなワラグロという。

競売をサヤシ、河童をゴゴ、空中の怪火をチウコ、爆竹をドンド、蓮花草をゴンケ、雹をトチ、酒桶をコガという。

 この酒桶をコガというにつき、岡山にて狂歌の名人と呼ばるる守屋僊庵のよまれたる辞世の歌ありと聞く。

  われ死なば酒屋のコガの下にいけ、もしや雫がモリヤセンアン、

 つぎに、岡山の俗謡として全国に伝われるものは、米のなる木の歌なり。

  わたしや備前の岡山育ち、米のなる木はまだ知らぬ、

 この歌に接続せる歌ありし由を聞く。すなわち、

  米のなる木を知らぬなら見しよが、八畳だゝみの裏御覧じ、

 この第二の歌は後人の付会せるものならん。また、俗謡の「我恋は細谷川の丸木橋云云」の細谷川は岡山県吉備郡内にありという。その他の見聞録は後に譲る。

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天橋、月瀬紀行

 大正四年三月二十二日夜十一時、備中笠岡を発し、二十三日朝七時、京都着。私用ありてここに降車し、東六条河六旅館に投宿す。かつて新聞紙上にて、日本三大勝の一なる丹後天之橋立の松まさに枯死せんとするの報告ありしを聞き、その実況を見んとて橋立行を思い立つ。

 二十四日 寒晴。午前七時、京都を発す。嵐山の下を過ぐるも、春風いまだ桜林に入らず。これより車窓にて保津川の風光を迎送しつつ丹波に入り、綾部駅にて換車、更に丹後に入り、舞鶴駅にて転乗して海舞鶴に着す。ときに十一時なり。連絡船一隻修繕のために休航せるをもって船便なく、ここに三時間半を徒消す。午後二時半に至り、ようやく橋立丸に駕して出航するを得たり。かくして舞鶴湾を出ずるや、北風怒浪を吹き寄せきたり、船体ようやく動揺するも、岸頭の激波漲天の勢いあるを望み、すこぶる壮快を覚ゆ。ときに雲天冥濛、寒気凜烈たり。杯をふくみて寒を防ぎ、一時間ばかりにして興謝海を一過し、天橋湾内に入れば、風静かに波平らかなるを得。四時、宮津港に着す。埠頭より腕車を呼び、車行約十町にして旅館荒木別荘に入る。日いまだ暮れず。よってすぐに車を駆り、走ること二十町、桜山の丘上に登る。これ天然の観望台なり。攀躋二、三丁にして頂上に達す。ここに小亭あり、その傍らに座石あり。観客みなこの石頭に立ち、両股を開き、股間より首をさかさまにして望むを常例とす。天橋の実景、浮き上がるがごとくに眼中に入りきたる。風景をして韓信の代理をつとめしむるは滑稽なり。「韓信の代理を天の橋にさせ」とでも詠じたく感ず。ときに狂歌を浮かべきたる。

  股間より覗けば天地顛倒し、地にある橋も天の橋立、

 これをくだりて文殊堂に至らんとする路傍に、漁船の倉庫たる小茅屋の隣比せるは一奇観なり。文殊堂は普通に切戸の文殊と称す。すなわち一帯の白砂青松が一文字のごとく海中を画すること二十七町四十間の長さに及ぶ。その一端の切断せられて海水の通路を開く所に文殊堂あるによる。寺号は天橋山智恩寺にして、臨済宗妙心寺派に属す。住職文珠浩然氏は哲学館出身なるも、日の暮るるを恐れて訪問せず。山門は二層より成り、境内に鐘楼門、多宝塔、経蔵、和泉式部塔等あり。また、茶店にては思案酒、才覚田楽、智恵餅を売り、堂内にては智恵のお守りを出だす。余が先年ここに遊びしときには筆草の売店ありしが、今はこれを見ず。これより切戸を渡りていわゆる天橋の砂原に入る。その中に橋立神社あり、磯清水あり、皇太子殿下行啓所あり、また茶店ありて名物を販売す。これより再び切戸を渡りて帰路に向かう。文殊堂前には三、四戸の旅館あり。天橋を一望するに最も佳なるは、海を渡り成相山の中腹、傘松より眺むるにありという。余は明治二十四年初夏、宮津より峯山に至る途中、海湾を渡りて対岸の坂上より一望せしことあり。今回は時間なきをもってこれを果たさず。かくして宿所に帰着すれば天すでに暗し。天橋の松樹枯死の説は新聞の誤伝にして、依然として旧のごとし。宮津町の中央より文殊堂までは約一里あり。荒木別館は当処第一の高等旅館にして、天橋の風景を一瞰するの好位置に位す。この地に遊覧するものは必ず別館に投宿を試むべし。これに次ぎては文殊堂前の旅館なり。天橋の所詠二首あり、左のごとし。

  一帯天橋一里長、松青沙白不尋常、釈尊亦似護斯景、永使文殊当海防、

(一本の帯のごとくのびる天橋立は一里ほどの長さであり、松の青さと砂の白さは並の美しさではない。釈尊もまたこの景勝をまもりたまい、ながく文殊に海を防がせたかのようである。)

  丹山囲海々如盤、一字松林劃碧瀾、人若欲窺其活畵、宜開両股倒頭看、

(丹後の山々は海をめぐり、海は水盤のごとく静かである。一の字を描くような松林がみどりの波をくぎる。人はもしこのいきた画をみようとするならば、よろしく両股を開いて頭をさかさまにしてのぞくべきである。)

 当夕、半輪の月光あるも、雲煙の全くはれざるを遺憾とす。

 二十五日 温晴。この日、国会議員選挙日なり。午前八時、宮津より自動車に駕し、由良浜の絶勝を望見しつつ、七里の道程を一時間に一走して舞鶴駅に着す。これより鉄路により、綾部、福山の両駅にて乗り換え、舞鶴線にて大阪に至る。ときに午後三時半なり。今回は帰京の途次、月瀬の観梅を試みんと欲し、腕車にて大阪市を一過し、湊町駅より関西線に乗り込む。奈良を経て笠置駅に降車し、温泉旅館笠置館に入宿す。余は五年前にここに一泊せしことあり。今夜、春月朦々として清流に映ずるも、寒風窓に入りて吟賞するを得ず。ただ、千鳥の声の枕頭に聞こゆるはいささか幽趣あるを覚ゆ。

 二十六日 午前雨、午後晴れ。朝八時、笠置を発して伊賀上野駅に降り、これより腕車を雇い、月瀬往復を約す。賃銭は一円九十銭なり。行程四里余、大体は平坦なれども、伊賀より大和に入るの国界には緩漫なる長坂あり。これを上下して月瀬の梅渓に達す。その入口を尾山という。茶店あり。これより下りて五月河畔に至る。一橋あり、長さ約五十間、これを月瀬橋という。その前後梅林多し。橋を渡りて峻坂を攀ずれば、一目千本台あり。芭蕉翁の「春もやゝ景色ととのふ月と梅」の句塚もここにあり。更に歩を進めて車道に出でて、渓間の清流にそいて行くこと七、八丁、桃香野に至れば梅樹無数、渓曲の間、みな梅花をもってうずむ。最後に不動滝に至りて車をめぐらし、再び月瀬橋を渡り、鴬谷亭にて午餐を喫して帰路に向かう。このとき梅花すでに全盛を過ぎたるも、なお満を持していまだ散ぜず、香樹衣を襲う。余は今より十五、六年前、一度来遊せしことあり。梅林には異状なきも、先年の方かえって観客、茶店の多かりしがごとく感ぜり。その花はもとより天下一なるも、茶店の料理は全く田舎風にして、ここにきたりて飲食するものは、必ず花の美が料理のために減殺せらるるの思いをなす。多くの人は花より団子、花の下より鼻の下の方なれば、今少しく茶店、旅館の改良あるを要す。余も食事をしながら「月ケ瀬の花は団子で価打下げ」との小言を吐く。また、月瀬の名勝を分析するに、花はもとより美なるも、天然の地形の美がこれを助くることまた多しと思い、「月瀬や花が七分で地が三分」となすべきなり。故にたとえ花なきときにても、渓山の趣味、常に吟詠するに足る。新緑のとき、納涼のとき、紅葉のとき、明月のとき、いずれにても佳ならざるなし。所感に拙作一、二を左に掲げん。

  探春三月到梅都、鴬谷橋頭景最殊、香雪埋渓天地白、一目何只千百株、

(春を求めて三月に梅のさとに至った。鴬谷の橋のあたりの景色は最もすぐれている。香り高い雪のごとき梅花は谷を埋め、天地もために白く、一目にも千本百本という株数ではない。)

  渓山明媚隔塵氛、更有梅花欺白雲、月瀬由来名勝価、天然地勢助三分、

(谷も山も人の心を動かす美しさは塵も寄せつけぬ。その上、梅花は白雲かと見まごうばかりである。月瀬の古来名勝の価は、天然の地形が三分ほどは助勢しているといえよう。)

 帰りて上野駅に達すれば四時半ならんとす。汽車にて名古屋に至り、午後八時の東行に乗じ、二十七日朝七時、東京に着す。

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岡山県巡講第二回(備前三郡、備中四郡)日誌

 大正四年三月三十日、東洋大学卒業式に列し、学長大内青巒氏病臥中なれば、代わりて証書を授与し、三十一日、京北中学卒業式に列し、訓辞的演説をなし、同日午後三時の急行にて再び岡山県巡講の途に就く。

 四月一日。午前十一時半、岡山県上道郡西大寺駅に着す。随行は後藤西崖氏なり。同駅は財田村〈現在岡山県岡山市〉にあり。小学校において開演す。郡長法学士岩崎保氏は視学喜多島虎二氏を伴い、ここにきたりて迎えらる。本郡の主催はすべて郡教育会なり。村長は西崎多平次氏とす。当夜、藤田旅館に宿するに、月まさにまどかに、気大いにあたたかにして、暖月照残梅の趣あり。この夜、蚊声を聞く。

 二日 温晴。朝〔華氏〕六十五度。車行一里半、麦田桃圃を一過して平島村〈現在岡山県岡山市〉に入る。この地方は果林ことに多し。桃、梨、葡萄を特産とす。昨今、桃林蕾を含みていまだ開かず。隣村の御休村には明治天皇御駐蹕の跡ありと聞く。会場は小学校、宿所は岸島旅館なり。松本武明氏は村長たり。

 三日(神武天皇祭) 風雨。車行二里、西大寺町〈現在岡山県岡山市〉に移る。午前開会の予定なりしも、雨はげしきために午後となる。会場小学校は高等女学校と連接す。その地位丘山に踞し、校舎内に坂路あり。階をのぼること五十段にして講堂に入る。眺望やや佳なり。この日、聴衆極めて少なし。県下にては多く四月三日をもって三月節句となし、戸々雛人形を飾り、赤飯を食す。その他、菱餅を備え白酒を設くる等、他県の風に異ならず。余は今より五年前、観音院において演説せしことあり。宿所は車屋旅館なり。本町の町長は山崎弥平氏、助役は和田久米三氏、校長は藤田昌孝氏とす。

 四月四日(日曜) 晴れ。車行二里、三蟠村〈現在岡山県岡山市〉に至る。これ新田地なり。旭川の河口と吉井川の河口との間の海面を埋めて新田を開きしに、これに第一番より第十番までの番号を付して地名となせり。しかるにこの地従来、虫に害多かりければ、これを除くには地名に虫の字を付くるをよし〔と〕するとの俗説より、番の字に虫偏を加うるに至りという。これ村名の起源なる由。しかるに今日もなお虫に悩まさる。すなわち当地にては従来、田用水をくみて飲用とするに、その中にジストマの生存するありて、一種の風土病を起こすに至り、備後の片山病とともに世に知らる。しかるに近年衛生を重んじ、水を瀘過して飲用とするようになり、大いにその害を減ぜりという。この新田地は一般に水田豊富にして、しかも水旱のおそれなきも、清水に乏しきと夏時蚊の多きとを欠点とす。会場は操南小学校にして、藤原明氏その校長なり。教員諸氏より伊部焼を恵与せらる。この夕、岩崎郡長、喜多島視学、および郡書記穂崎里衛氏ここに来会せられ、本村長藤原謙太郎氏、沖田村長森鹿太氏等とともに会食す。旅館登竜は田間に介立するも、ややハイカラ式なり。軒前一望麦田水田相連なり、近く児島半島の連山と相対し、いささか旅情を慰するに足る。当日の所吟一首あり。

  両江挟地一洲寛、当面影浮児島巒、雨過麦田青愈好、春風送我到三蟠、

(旭川と吉井川にはさまれた地は広々として、前面には児島半島の山々の姿が浮かぶ。雨の後の麦田はいよいよ青々として実によく、春の風に送られるように三蟠村に至ったのであった。)

 郡内開会はすべて郡役所の斡旋尽力に成る。本郡は県下第一の平坦部とす。

 五日 晴れ。旅館を発し車行一里にして津頭に達す。これより軽舟に駕し、海門十五町を渡りて児島郡甲浦村〈現在岡山県岡山市〉に入る。児島半島には弘法大師八十八カ所あり。本日は旧二月二十一日に当たり、大師の命日なりとて、信男信女の袂を連ねて巡拝するを見る。本村に属する小嶼に高島と名付くる周囲一里の地あり。これ神武天皇御舟をつなぎ給いし所なりと伝う。会場は小学校、発起は村長井上孝氏、校長磯本角次郎氏等なり。しかして主催は本郡各所を通じて自治会なり。当夕、旅店武田方に宿す。児島湾内の魚類としては蟹とベカとを特産とす。蟹は日本海に産するものに比すれば体小にして足細し。ベカは烏賊〔いか〕の最小なる形を有す。よろしくこれを烏賊の孫と名付くべし。

 六日 朝霧のち快晴。甲浦より山路一里にして鉾立村に達するも、車を通ぜざるをもって迂路をとり小串を経由し、海岸にそい鉾立村〈現在岡山県玉野市〉小学校に至りて午前開演す。車路二里あり。発起者は村長岡田常三郎氏なり。この日、途上麦すでに秀で、桃半ばは開く。また、はじめて蛙声を聞き菜花を見る。道平らかにしてよく車を通ずるも、その幅いたって狭く、三、四尺ぐらいの所多し。鉾立の村名は神功皇后三韓征討のとき、御鉾をとどめ給いし伝説あるによるという。校前の旅館瀬尾屋において午餐を喫し、更に車行一里にして山田村〈現在岡山県玉野市〉に至る。村内塩田多く、専売所の出張所あり。会場は劇場戎座、発起は村長東作兵衛氏、校長出射喜太郎氏、宿所は高畠旅館なり。

 七日 雨。早起午前六時半発、車行二里、山坂を昇降し、児島湾頭に出でて、八浜駅に至る。これより鉄路に駕して由賀駅に降車し、更に行くこと十二、三町にして、灘崎村〈現在岡山県児島郡灘崎町〉小学校に至り、ここに開演す。本村は備前織の産地にして、機業盛んなり。開会は村長長船善造氏、校長柳井久治郎氏の発起にかかる。旅館にて喫飯し、更に車を走らすこと一里半、荘内村〈現在岡山県玉野市、倉敷市〉小学校にて午後の開会あり。村長大野正夫氏の発起なり。晩に至りて天晴るるも風寒し。宿所は校をへだつる半里、油屋旅亭なり。

 八日 寒晴。車行二里半、麦圃松巒の間を一過して日比町〈現在岡山県玉野市〉に入る。山上には矮松の巨石を抱くあるはやや奇観なり。会場常光寺は台上にありて眺望絶佳、讃州の連山と相対す。ただ、書院にてこの景に接見するを得ざるを遺憾とす。これより宇野港(備讃両州連絡船往復港)まで一里を隔つ。町内にも港湾ありて船舶多く出入す。本町の所轄に属する大槌島は讃備の国界にして、その山頂に界標ありと聞く。この地また塩田多く、製塩の煙村外に連なる。発起は高尾浩(町長)、加納虎八、立石章、宮原品吉の四氏なり。当夕、村上旅館に泊す。

 九日 快晴。車行四里、海浜岸頭にそいて車道あり。風光明媚、これに加うるに山頂には巨石累々兀々として並立するは実に奇観なり。このとき山桜すでに発し尽くし、躑躅花また開き始め、春色十分なり。途上吟一首あり。

  曲々湾頭春路幽、塩田断処好凝眸、白帆碧浪海如畵、一帯連山是讃州、

(まがりくねる海べのあたり、春の道はもの静かに、塩田の終わるところは目をこらして眺めるによい。白い帆がみどりの海にうかぶさまは画のごとく、はるかに連なる山々は讃岐である。)

 会場は味野町〈現在岡山県倉敷市〉実科女学校にして、発起は助役中島公治氏、校長山本末四郎氏等なり。本町は郡役所所在地にして商船学校あり。また、県下における塩田の本場なり。ことに当所には県下第一の素封家野崎武吉郎氏の宅あるをもってその名高し。主人は本年六十八歳、矍鑠たる老翁にして、かつ温厚の君子なり。ことに謙譲の徳に富み、無位無官の余輩のごときも自ら門外に出でて送迎せらる。実に「温々恭人是徳之基」(おだやかでつつしみ深い人は、まさに仁徳の基本)というべき人なり。学校の前隣に野崎武左衛門翁頌徳碑の屹然として聳立するあり、これ同家の先代なり。また、来賓を接待するために別置せる邸宅あり、その名を迨霞堂という。堂内には百畳敷きの大座敷あり、庭前には青松白鶴あり、余ここに宿す。当夕、郡長水上浩基氏、署長杉原靖三氏、視学垣見秀男氏、商船教員荒川海音氏(哲学館大学出身)等とともに晩餐の饗応を受く。余の野崎翁に贈れる七絶、左のごとし。

  仙居最好迨霞堂、白鶴青松影入觴、対酒祝来主人寿、優游六十八春光、

(俗世をはなれた高尚の人の住まいとして迨霞堂はもっともよい。白鶴と青い松の姿がさかずきに浮かぶようである。酒杯をあげて主人の長寿を祝う。ゆったりと思いのままにすごす六十八歳の春なのである。)

 当町の持宝院住職(真言宗)豊岡昇範氏は哲学館出身なり。また、これより山間に入ること五十町にして、郡内第一の名刹、由賀山蓮台寺住職佐伯増行氏も同出身たり。由賀山はすこぶる幽邃の地なる由なれども、登山のいとまを得ず。味野より一里にして下津港あり、鉄路これに通ず。その港は海上三里を隔てて讃州丸亀と相対す。この間汽船の便あり。

 十日 温晴。午前、車行半里、琴浦村〈現在岡山県倉敷市〉役場楼上に一席の談話をなす。報徳会員前畠平三郎氏、松香真次郎氏の依頼に応ずるなり。本村は工業地にして織物を特産とす。故にいたるところ機声を聞く。これより味野へ帰り、軽便鉄道に駕して郷内村〈現在岡山県倉敷市、児島郡灘崎町〉に至る。その距離二里あり。午後、公会堂において開演す。村長谷田経太郎氏、校長猪原豊吉氏の発起にかかる。しかして宿所は旅館松竹亭なり。当所に一等寺と名付くる真言宗寺院あり。財産の多き点においては諸寺中、郡内第一と称す。これ名実相応の一等寺というべし。住職梶川義明氏は東洋大学出身なり。

 四月十一日(日曜) 雨。この日、昭憲皇太后一周年祭につき、各学校において遥拝式あり。国民の諒闇ここに終わる。車行約一里、藤戸村〈現在岡山県倉敷市〉藤戸寺に至りて開演す。軍人会長坂川美太郎氏、村長星島昂一氏の発起にかかる。再び車を駆ること約二里、興除村〈現在岡山県岡山市、倉敷市〉小学校に至りて開演す。村名は韓非子の興利除害の語より出でたりという。本村は海を埋めて田となせる新開地にして、平田広闊なり。ただし飲用水悪しきために、三蟠とともにジストマの病源地として知らる。また、夏時には蚊軍襲来すと聞く。主催は村内軍人会、青年団、教育研究会にして、発起は村長日笠翫文氏、軍医森谷柳太郎氏、校長山崎次郎氏等とす。岡山連隊区司令官中佐山下五三郎氏もここに出席せらる。日すでに暮れて車行約一里、妹尾町西田旅館に入宿す。この夜、暖はなはだしくして雷を醸す。寒暖計〔華氏〕六十八度に上る。児島郡の離島に六口と名付くる小嶼ありて、その対岸に大岩石の口を開きたる形をなせるあり。その岩を名付けて、六口取りてのもうか岩というはおもしろし。その郡内の地名に利生とかきてオドウとよまするもまた奇なり。

 十二日 朝雷雨のち晴れ。都窪郡妹尾町〈現在岡山県岡山市、都窪郡早島町〉開会。発起者は青年団長正保千代蔵氏にして、高木熊太郎氏、山崎元治氏、犬飼正夫氏〔ほか〕十三名これを助く。会場は劇場春辺座なり。当町は従来、妹尾千軒みな法華と唱え、全部日蓮宗を奉ず。町内に盛隆寺と名付くる巨刹あり、大抵その檀家なり。また、井水不良にして飲用とならず、市外に共同井一カ所あり、町家ことごとくこれをくみて飲用とするも本町の特色なり。故に妹尾千軒井戸一つと称すべし。町民は工漁の二種より成り、工は花莚を織るを業とす。この隣村に藤田組の開墾地あり。児島湾を埋めて数百町歩の新田を開き、すこぶる大農的経営なりと聞く。当夕の宿所は前夜に同じ。深更、蛙声枕頭にやかまし。また、蚊声を聞く。

 十三日 快晴。朝起西田旅館の楼上より望むに、はるかに南方に当たり一岳の横座するを見る。これ児島半島の最高峰たる常山なり。その形富士に似たりとて児島富士の称あり。車行十余町にして福田村〈現在岡山県岡山市〉に移り、小学校にて開演す。青年団長難波幾太郎氏、軍人会長田中馬吉氏の主催なり。本村の特産は畳表なれば、村内藺田多し。村民は一般に田用水を濾過して飲用とす。宿所は有志家木村斉氏の宅なり。

 十四日 晴れ。庭瀬を経て清音村〈現在岡山県都窪郡清音村〉字軽部に至る。行程約四里、ときまさに柳緑花紅の候にして、三備の地は梅桜ともに乏しきも、桃花ひとえに多く、往々山腹田間にその紅燃るがごときを望見す。途上吟一首を得たり。

  風過麦隴緑波飜、水満藺田蛙皷喧、更望林巒紅断続、備陽春色在桃園、

(風は麦のうねに吹き、みどりが波うつようにひるがえる。水はいぐさの田に満ちて蛙の声がかまびすしい。さらに林や山を望み見れば紅色が断続して、備中の南の春は桃の園にこそあるようだ。)

 また、途中山手村を過ぐるときに、国分寺の五重塔を望見す。これ県下一品の高塔なりという。その寺は三隅村地内にあり。清音村会場は小学校、主催は村青年団および軽部支部にして、発起かつ尽力者は支部長江口銀一氏、副長江口誠一氏の両名なり。しかして村長板野正太郎氏、校長守安郁二氏、ほか四氏これを助く。その地は高梁川の東岸にありて、水声の清く響くをとりて清音の村名を定めたりと聞く。これより一里にして吉備鉄道総社駅に達すべし。当夕の宿所は江口誠一氏の宅なり。

 十五日 晴れ。朝、宿所を出でて歩すること五、六丁にして、山腰にある題目石を参拝す。これを大観様と名付く。すなわち大覚僧正の刻されし題目あり。これに来詣するもの四時たえず。石壇を攀じ登り、その柱石を撫したる手をもって自身の病患部を撫す。あたかも賓頭盧〔びんずる〕のごとし。かくするときは万病みなよく治すと信ず。衆人摩擦の結果、その石角すでに摩滅せるを見る。すなわち点滴石をうがつの類なり。これより車行約二里半にして官幣中社吉備神社を参拝す。その社宇は鯉山の麓にあり。鯉山とは山の形自然に鯉魚に似たるによりて、その名を得たりという。本社の特色は回廊の長さ三百間に及ぶの一事なり。また、釜鳴りの神事は世にあまねく知らる。もし家族に病人あるものは、ここにきたりて祈祷を請う。そのときに神釜にて湯を沸かすに、鳴ることと鳴らざることあり。これによりてその癒否を判知す。この釜に給事するものは月経を有せざる婦人に限るという。社頭吟一首あり。

  社殿巍然踞鯉山、長廊三百有余間、入門先聴釜鳴響、賽客如雲忙往還、

(吉備神社の社殿は高くそびえて鯉山により、回廊は三百余間の長さを有する。門を入ればまず釜鳴りの音のひびくをきく。参詣の人々は雲のごとく忙しく往来しているのである。)

 社門を出でて更に行くこと三十丁にして、吉備郡庭瀬町〈現在岡山県岡山市〉に至る。会場は田中智学氏の創立せる国柱会の公会堂なり。主催は立憲正民会にして、発起は高塚源一氏ほか六名とす。町長は高畠多七郎氏なり。この日、旧暦三月節句の前日に当たり、町家多忙なりとて聴衆極めて少なし。本町は畳表の集産地なり。また、犬養毅氏の出身地なりと聞きて一吟す。

  三備由来富偉人、皆傾誠意行経綸、蕃山方谷誰其次、犬養木堂憲政神、

(三備の地は古来より偉人が多く、みな誠意を尽くし世を治めるに力をいたした。熊沢蕃山、山田方谷に次ぐ人はだれであろうか。犬養木堂〔毅〕は憲政の神である。)

 宿所は相生館なり。窓前の藺田は一望の価あり。

 十六日 晴れ。車行一里半、岡山市外はすでに麦田の穂をぬきんじつつあるを見る。会場は御津郡石井村〈現在岡山県岡山市〉なる私立関西中学講堂なり。長さ十二間、幅八間の大堂にして、千人をいるるもなお余地ありという。校長は山内佐太郎氏なり。郡長は小野楨一郎氏出席せらる。また、郡視学吉塚浜太郎氏、郡書記井上利郎氏、同禾旭夫氏、諸事を斡旋せらる。本郡の開催は郡役所の発起にかかる。演説後、車行十余町にして岡山市旅館中原屋に入宿す。

 十七日 午前晴れのち曇り、午後雨。早朝、岡山駅を発し、中国鉄道により金川村〈現在岡山県御津郡御津町〉に至る。岡山市より五里あり。旭川沿岸の桃花、車窓に映じきたる。私立金川中学講堂にて開演す。会後、哲学館大学出身花房日秀氏の案内にて不受不施派本山妙覚寺に登詣するに、管長釈日解師に面会し前管長の遺愛品二種を恵与せらる。外道の我が輩にして、不受不施本山よりかかる施与を受けたるは、一層感謝するところなり。ときに登山の一作あり。

  岡山市外法華栄、松籟亦成題目声、路入金川聞妙覚、先登不受不施城、

(岡山市の郊外は法華信仰がさかんであり、松に吹く風の音も題目を唱える声となるほどである。道は金川村に入って妙覚寺をたずね、まずこの不受不施の寺にのぼりもうでたのであった。)

 本村には従来紙業行わる。隣村の地名に紙工と名付くる所あり。これも昔時製紙せるより起こりし名ならんという。主催は金川村ほか四カ〔村〕にして、宿所は大谷村なり。しかして村長は寺田弥太氏なり。

 四月十八日(日曜) 晴れ。金川より約二里、建部村〈現在岡山県御津郡建部町〉小学校にて開演す。振興会長行森田民氏、村長森寺久勝氏の発起なり。この日、地方巡業東京相撲の一行入りきたる。演説後、金川大崎屋に帰宿す。往復ともに汽車便を用う。このとき林頭やや新緑を浮かべ、八重桜と桃花とはなお残紅をとどめ、晩春の風光また吟賞するに堪えたり。

 十九日 雨。金川より宇甘川の渓流にそいて上行す。渓路屈曲多きも坂路なし。山には山桜、鵑花、山吹の相交わるあり、川には河鹿の声たゆることなきは、すこぶる幽趣あり。

  蹈破宇甘川上雲、雨来随処水声聞、山村自有風光富、緑葉紅花春十分、

(宇甘川上流の雲をふみ破るように行けば、雨がふって随所に水の音が聞かれる。山村にはおのずから風光に富むものがあり、緑の葉と紅の花とが春たけなわの思いをいだかせる。)

 会場は長田〈現在岡山県御津郡加茂川町〉小学校、主催は七カ村連合、宿所は有志家土井敬一氏の宅なり。この宅に明治二十一年ごろ霊猫ありて、よく鳴き声をあげ、自在に人の問いに答え、あたかも人語を解せしもののごとしとの怪事を聞く。その状は先年流行せしコックリに同じ。ただその異なるは、コックリは足をあげて答うるに、かの猫は鳴き声を発して答うるにあるのみ。本村は山連なり渓深くして、なんとなく深山幽谷の趣あり。村長は片山新一氏なり。

 二十日 晴れ。早朝、長田村を発して吉備郡岩田村に向かう。山路直行五里ばかりの所、車道を迂回し、加茂村より嶺をこえて大井村に入り、これより岩田村〈現在岡山県岡山市〉に至る。行程約八里あり。しかして会場小学校に至るには更に徒歩十丁を要す。前後山また山の山郷なり。聞くところによるに、本村青年団は内務省および文部省より表彰せられたりという。休憩所は役場、発起は村長長尾俊憲氏、校長千原伊惣太氏なり。この夕、車をめぐらすこと二里、足守町寿館に投宿す。

 二十一日 微雨蕭々。寿館の軒前には桃林ありて、一目千本というべきも花期すでに過ぎて、ついに一、二分の紅をとどむるのみ。午前、大井村〈現在岡山県岡山市〉小学校において開演す。村内有志と青年連合会との主催なり。村有志は村長秋山喜平氏ほか三氏の発起に出ず。聴衆、堂にあふる。郡長妹尾経時氏は五年前、高橋町にてはじめて相識り、今日再会を得たり。当夕、足守に帰宿す。足守と大井とはわずかに一橋を隔つるのみ。隣村阿曾村には二、三年前、御船とよ子と名付くる透視眼ありしが、今なお存命なりという。

 二十二日 晴れ。車行一里半、生石村〈現在岡山県岡山市〉荘内小学校に至りて午前開演す。聴衆満場。主催は青年団にて、郡役所より首席書記妹尾範一郎氏出席あり。午後、高松なる県立農学校において講話をなす。校長は秦靖彰氏なり。高松には稲荷社あり。遠近より参客群来し、年中の平均一日五、六百人に当たるという。吉備線稲荷駅より本社まで三十町の間に便鉄あり。三時ごろ警鐘をもって近火を報ず。農家二、三戸焼失したる由。宿所は高松常盤旅館なり。館内の掲示を見るに、旅宿料一等一円二十銭、二等一円、三等八十銭とあり。村落の旅館としては不廉なるを覚ゆ。生石村長は渡辺綱太氏なり。

 二十三日 晴れ。車行一里半にして総社町に至る。郡衙所在地なり。これより更に進むこと二里余にして箭田村〈現在岡山県吉備郡真備町〉に入る。途中、高梁川の仮橋を一過す。目下堤防の大工事中なり。その橋を渡りたる所に川辺村あり。これ国道における旧駅なり。会場は小学校にして、箭田村青年団長秋山亦蔵氏、および他村団長佐々井篁氏、赤木隆一郎氏、今在孝市氏等七名の発起にかかる。本村内には吉備真備公の遺跡ありという。しかして宿所は有志家佐藤年太郎氏の新邸宅なり。箭田より矢掛町までなお三里を隔つる由。この日、所詠一首あり。

  梁川一道備原寛、車上弄晴回首看、桃李花零春已老、残鴬猶有護林巒、

(高梁川の一道を行けば真備の原は広々として、車上に晴天を楽しみつつ左右を眺める。桃やすももの花は散って、春もすでにくれ、名残のうぐいすがなお林や丘をまもるかのようにさえずっているのである。)

 二十四日 晴れ。車行二里余、嶺頭を上下して久代村〈現在岡山県総社市〉に入り、小学校にて午前開演す。主催は青年団なり。午後、二十五町を一走して山田村魚屋旅館に入宿す。室内に三島中洲翁の扁額あり。「曾遊処」と題せり。翁が山田方谷門下にありしとき、再三この旅亭に宿せりという。

 四月二十五日(日曜) 快晴。朝気冷ややかにして〔華氏〕五十度に下る。一嶺をこえ一江を渡り、車上躑躅花と鴬語とに応接しつつ日美村〈現在岡山県総社市〉小学校に至りて午前開演す。行程二里、校長は岡本国瓶氏、助役は田辺富次郎氏なり。本村の大字に美袋と名付くる地名あり。これをミナギとよむ。高梁と湛井との中間にありて、両方へおのおの三里を隔つ。故に旅客と荷物との運送を業とするもの多し。毎日この村を通過する荷馬車百台に下らず。また、この村の腕車の数七十台ありと聞く。当夕は美袋旅館野田屋に泊す。郡内各所へは郡書記の案内あり。

 二十六日 晴れ。宿所を発し、高梁川の岸頭を上行すること約三里にして、川上郡落合村〈現在岡山県高梁市〉に至る。高梁川と成羽川上の流合する所なれば落合という。途上、鵑花と鴬歌とに相揖すること昨日のごとし。会場は役場楼上にして、発起は村長植田勇吉氏、助役西豊太郎氏とす。当夕、谷本旅店に宿す。この夜、村内に露店芝居あり。本村の古跡としては山中鹿之助の墳墓あり。また、花山院の御陵ありと聞く。郡内は山深くして気寒く、各所に炬燵を見る。

 二十七日 晴れ。車行約一里半、成羽橋を渡りて成羽町〈現在岡山県川上郡成羽町〉に入る。郡役所所在地なり。郡長岡野桂太氏に面会す。会場は小学校、発起は町長橋本武一氏、校長井上利喜次氏等なり。宿所野山屋旅館は調理よしとの評あり。晩来雨を催し、夜に入りて風を交え豪雨となる。郡内の物産は薪炭、蒟蒻、銅なりという。

 二十八日 曇りのち晴れ。郡書記渡辺語四郎氏の案内にて手荘村〈現在岡山県川上郡川上町〉に向かう。車行二里半、渓流みなみなぎり、水声怒号す。民家の麦田とともに峻嶺の頂にあるを仰ぎ望む、真に山郷の趣あり。会場〔は〕小学校にして、南部教育支会の主催とす。会長は井上静太郎氏、村長は赤松佳衛氏なり。当夕、旅館福西屋に宿す。この日一吟あり。

  夜来狂雨暁来収、麦色添青山更幽、唯有渓泉随処呌、看雲聴水入仙楼、

(昨夜からの狂ったような雨も暁とともに収まり、麦の色は青さを加え、山々はさらに奥深いおもむきとなった。ただ、谷の水はいたるところで流れの音をたて、雲をみたり水音をきいたりしながら俗世を離れたような旅舎に入ったのであった。)

 二十九日 快晴。車行約三里、渓を出でてまた渓に入る。成羽川の北岸に断巌絶壁、千仭万丈の奇勝あり、その地名を志藤用瀬という。シナの赤壁も三舎を避くる趣を有す。ときに山田菜花すでに老い、麦穂まさにぬきんぜんとす。また、林葉の青を吐くあり、蓮華草の紅を装うありて、深山なお春先の洋々たるを認む。会場は小学校〔富家村〈現在岡山県川上郡備中町〉〕、発起は助役小西森太郎氏、校長赤木某氏等、宿所は筒井旅館なり。本村字長谷より高山村を経て後月郡三原村に達すべく、その郡界の市場まで二里ある由。この地方は薪炭を産出するにつき、その価を問えば、炭小売り一俵十二貫目にして、代金一円ないし一円二十銭なりという。

 三十日 晴れ。車行渓間をさかのぼること約三里半、板本に至る。これより徒歩に移り、登攀二十丁にして吹屋町〈現在岡山県川上郡成羽町〉に達す。これ備後神石郡油木村と同じく山嶺の市場なり。地位高ければ気候もまたこれに伴い、昨今なお桃桜の満開期たり。ここに至る途上にては山急に地狭くして、民家の桟道的に建てられおるを見る。大和吉野郡内に入りたるがごとき観あり。午後、町長長尾佐助氏、校長早川顕二氏、青年団長難波静氏等の発起により、小学校にて開会す。宿所は古村旅館なり。当所は三菱所有の銅山所在地にして、千人の工夫ここに労働すという。この日、山神の祭日なりとて市中ややにぎわう。聞くところによれば、この地もと鉱石より染物の原料をとり、これを京阪地方へ輸出せし所なりという。

 川上郡は山また山、渓また渓より成り、その平地に乏しきは県下第一とす。したがって人家点々として遠近上下に散在す。故に一村平均小学校三、四校を有すという。また、郡内にては飲酒が大いに流行すと見えて、一升以下をのむ人を神酒〔おみき〕党といい、一升以上をのむ人を酒のみと称すとの話を聞く。

 五月一日 温晴。吹屋を去りて阿哲郡に入る。山麓より十町ばかりの所に郡界あり。ここに万歳と名付くる村を過ぎ、更に新砥村字蚊家を経て、長坂にかかる。登降を合すれば三里あり。馬の先引きにて越え野馳村〈現在岡山県阿哲郡哲西町〉に入る。その行程六里、山桜のいまだ散ぜざるに、鵑花の山吹花と互いに色を競うあり。また、樹頭みな緑葉の眼を点ずるを見る。これに加うるに鴬語と河鹿の声と相交わるありて、趣味津々たり。この地方は一般に苗代に着手し、すでに種子を下せしもの多し。しかるに各戸なお炬燵を備う。余の先年神石郡にて「炬燵して桜を見るや山の春」とうそぶきたるを想出す。会場は小学校、発起は村長横山頼太郎氏、助役沖田槌太郎氏、校長難波柾苧氏等なり。当夕、旅店沖田屋に宿す。郡視学岡崎勉氏ここにきたりて迎えらる。氏は本年二月、邑久郡にて相知れり。野馳より備後東城町へは一里半にして、しかも平坦なりという。

 五月二日(日曜) 曇り。気冷ややかにして日中なお〔華氏〕五十八、九度より上らず。渓行約四里にして神代村〈現在岡山県阿哲郡神郷町〉に至り、小学校にて開会あり。村長安達熊次郎氏、助役小豆沢隆雄氏等の発起にかかる。校長は益田寛氏なり。本村は人口五百未満なるも、面積の広きことは郡内第一にして、人家が六里の間に散在すという。旅店大坂屋の表示を見るに、宿泊料上等五十銭、中等四十五銭、下等三十五銭とあり。昼食は一人八銭以上なる由。いかに物価の廉なるかを知るに足る。

 三日 晴れ。渓上約三里を経て、本郡の首府新見町〈現在岡山県新見市〉に向かう。清流にそいて車道あり。岸上両山相せまり、巨巌空にそびえ、小耶馬渓の趣あり。これに加うるに緑葉紅花の間に鴬語囀々、水声淙々たるは、吟情をして勃然たらしむ。従来この坂路を苦坂と名付け、跋渉に苦しみたる道なりしも、今は車道を開通せしために自然に甘坂となれり。よって一吟す。

  備山深処春天穏、一峡風光開楽苑、万丈巌頭車路通、昔時苦坂今甘坂、

(備中の奥深いところで春の日ものどかに、谷あいの風光は楽しい苑を展開している。万丈の巨大な岩石のほとりに車道が通じ、昔の往来に苦しんだ坂は今や甘い坂となったのである。)

 別に本郷より新見に出ずる道にも一坂あり、これを苦の坂という。苦坂が甘坂となると同じく、苦の坂は楽の坂となりたるならん。これみな文明の余沢なり。新見町は五年前に一泊せしことありて、そのときの知人町長田原藤一郎氏、助役林利貞氏、校長本田栄三郎氏、郡会議員宮武栄二郎氏等が主催となり、劇場常盤座に開会せらる。ただし夜会なり。しかして宿所は大坂屋なり。会場、旅館ともに昔遊のときに同じ。郡長河合春吉氏に面会す。本町は丘上に時報をなす鐘楼あり、また気象台あり。岡山市まで二十里半を隔つ。

 四日 穏晴。新見を出でて渓行二里半にして、熊谷村〈現在岡山県新見市〉に入る。会場兼宿所は臨済宗永源寺派真福寺なり。聞くところによるに、本郡東北部内は永源寺派の勢力地にして、十六、七カ寺の寺院ありという。熊谷山に弘法大師八十八カ所の設ありて、真福寺はその最後の番号に当たる。この日まさしく巡拝日にして、数百の男女堂の内外に雲集し、大般若の転読あり。その式終わりてのち開会。村長田中廉三氏、校長沖中峯四郎氏、住職井上雪峰氏等の発起にかかる。当地は新見と刑部との県道の中央に当たる。故に刑部までへも二里半あり。

 五日 快晴。熊谷を早発し、新見に少憩し、美穀村渡船場まで車行し、これより駕篭に移り、一嶺を上下して豊永村〈現在岡山県新見市、上房郡北房町〉字佐伏に着す。ときに午後二時なり。新見より四里、熊谷より六里半の行程となる。この日、一天雲なく、四望明媚、暖またにわかに加わり、初夏に入りたる心地をなす。山田の菜花なお残黄をとどむるも、麦頭すでに新穂を抜く。豊永村は郡内第一の山地にして、山岳群起屏立し、山と山との間は物ホシ竿を渡すことを得との評あるほどなり。しかるに山腹山背に耕地を起こし、麦田山を囲繞し、糧食余りありという。ただし森林の鬱葱たるものなし。主催は郡教育会にして、長谷川隆氏副会長たり。会場は小学校にして、校長は山上清市氏なり。本村の資産家にして造酒を業とするもの荻野林蔵氏は信仏最もあつく、仏像を刻して路傍に建て、心経を誦して百万に及ぶ。余にその紀念の語をもとめらる。よって左の銘を賦して授く。

勤倹自持、奉公志篤、信仏又深、精神忍辱、読修心経、百万相続、已竣其功、欲金石録、刻成観音、頂礼仏足、積善余慶、家運如旭、子々孫々、光沢永浴、

(勤倹をみずから課し、公に奉仕する志はあつい。仏を信ずることもまた深く、その精神はよく辱をも耐え忍ぶ。般若心経を読んで身に修め、百万べんも誦し続けた。すでにその功徳をなしとげて、これを金石に刻まんとする。観音を刻み、仏足に身を投ず。善行を積んで子孫に慶事が及び、家運は旭日のごとくかがやきのぼる。子々孫々まで、その光沢に永く浴せん。)

 当夕は棟森旅店に宿す。

 六日 快晴。徒歩穿鞋、山路を跋渉すること二里、布施小学に一休し、これより腕車に移り、小坂部川にそい、更に二里を走りて刑部村〈現在岡山県阿哲郡大佐町〉に入る。この日正午、寒暖〔華氏〕七十五度に上り、やや薄暑を感ず。しかるに民家なお炬燵を用う。刑部村は小市街の形をなす。その地半里四方の平地を有するをもって、郡内第一の平坦部と称す。本村より四十曲山麓まで四里、伯州米子まで十五里ありという。故に魚類は多く北海よりきたる。会場は教育会堂、主催は教育会支部、発起は校長渡辺常三郎氏、船越平四郎氏等にして、宿所は吉岡旅館なり。この夜、備中第一の高岳と称せらるる大佐山上に山火事ありて、旅館の楼上より一望するに、あたかも京都東山大文字を望むがごとく、すこぶる壮観を覚ゆ。本村は山田方谷翁の遺跡あるをもって世に知らる。近年紀念碑を建設せり。その碑は方形の石柱にして、その前面に勝海舟翁の筆にかかる「方谷山田先生遺蹟碑」の九字を刻し、両側面に三島中洲翁の撰にかかる碑文を刻せり。その周囲に小公園を設く。余の所感一首あり。

  先生学徳世皆知、経国育英功績滋、阿哲山深渓尽処、一過誰不仰其碑、

(先生の学徳は世のすべての人の知るところ、国の経営と英才を育てた功績はいよいよ大きい。阿哲の山深く谷の尽きるところに、ひとたび通るときはだれしもその碑を仰ぎみるであろう。)

 当所の名産はヒラメと名付くる淡水魚なり。他地方のヤマメこれに当たる。

 阿哲郡を巡了してその特色を挙ぐるに、岡山県下における北海道と称し、最大不便の地とみなさるるも、小学校には大抵階上講堂の設備あり。従来材木に富みたりし故ならん。労働賃銀は山間不便の地だけに安く、食事自弁にて大工は一日六十銭、普通の人夫は四十銭なりと聞く。物産は牧牛と薪炭なり。なかんずく牧牛は大いに適するもののごとし。山林はすでに伐り尽くして用材となるもの乏しきを覚ゆ。風呂は他郡にては大抵長州風呂に改めしも、本郡は依然として旧来の五右衛門風呂を用う。方言としては、イケナイまたはムチャというべきをジナクソという。心地の悪いをウズナイといい、欠席のことを延引という。また、備中一般の方言としては、ツマズキテたおるるをヒョコルといい、座するをヘタルといい、ナド(すなわち等)というべきをヤコーという。つぎに阿哲郡内の異風としては田植えのときなり。なにびとにてもその知りたると知らざるとを問わず、通りかかりたる人を呼びとめ、田中に引き入れ、必ず田植えの手伝いをなさしむるを慣例とする由。また、婚礼のときには、その家の前に夜中墓場の石塔を持ち込む風俗あり。その意は、ひとたび入婚したる上は再びかえりきたるなかれとの意を寓するなりという。

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岡山県巡講第三回(美作四郡、備中一部)日誌

 大正四年五月七日 快晴。朝、阿哲郡小坂部旅館を発し、行くこと二十丁にして、美作国真庭郡に入る。これより渓流に沿いて車道あり、水とともに下降す。車行易々たり。真庭郡に入りてより随所植林ありて、山色蒼々たるを見る。また、往々茶園あるを認む。刑部より勝山町〈現在岡山県真庭郡勝山町〉まで行程五里半あり。午後、勝山小学校にて開演す。郡視学戸島末太郎氏、郡書記甲斐勇馬氏、町長二司好武氏、助役久保郡平氏等の発起なり。郡長村上長造氏も出席せらる。ついで、大雲寺に至り仏教講話をなす。住職禿興隆氏の発起にかかる。宿所は岡野屋旅館なり。一名、潺声楼と呼ぶ。神橋の橋畔にあり。流水の響きと河鹿の声とは日夜たえず、大いに幽趣に富む。眺望またよし。一吟なきあたわず。

  備北作南行幾程、今宵来宿勝山城、楼頭誰不催詩思、流水声和河鹿声、

(備中の北より南に向かうことどれほどであろうか。今宵は勝山の町に宿泊す。旅館階上に身をおけば、だれもが詩情をかきたてられる。そこでは流水の音と河鹿の声とがまじりあって聞こえてくるのである。)

 当町の名産は高田硯なり。夏時には香魚の名物あり。これより四十曲峠を越えて伯州米子に至るべし。その途中に美甘村あり、これをミカモとよむ。

 八日 快晴。朝、実科女学校に至りて一席の講話をなし、郡書記三浦充氏の案内にて旭川の上流にさかのぼる。車行三里、仲間村字真賀に温泉あり。これより更に行くこと二里半にして、湯原村〈現在岡山県真庭郡湯原町〉湯本温泉に至り、小学校にて開演し、油屋旅館にて宿泊す。発起は村長牧野徳造氏、校長膝付十一郎氏、同広見繁二氏なり。温泉旅館四、五戸あるも、油屋を第一とす。内湯あり。その別館は川にのぞみ山に面し、幽邃閑雅、仙源に遊ぶの思いをなす。これに次ぐものを福島屋とす。当所は河鹿の名所なりとて、その声昼夜間断なく、かえって煩喧を覚ゆ。地勢山高くして急、渓深くして狭し。わずかに一条の流水と駅路とを通ずるのみ。本村の地名に三世七原〔みせしちはら〕と名付くる所あり。詩をもって温泉の功能を述ぶ。

  渓行数里泝清川、尋到山陽第一泉、欲向都人伝効験、積年痼疾即時痊、

(谷を行くこと数里、清らかな流れをさかのぼり、山陽第一の温泉にたずねいたる。みやこの人々にその功能あらたかなるを伝えようと思う。積年の頑固な病もたちまちにいやすのだと。)

 五月九日(日曜) 晴れ。朝気〔華氏〕五十四度、やや寒冷を覚ゆ。湯本を発し、渓流にそいて上行し、一嶺を上下して八束村〈現在岡山県真庭郡八束村〉字福田の旅店板倉屋に入る。行程約三里半、その嶺を深谷峠、また長谷峠という。その長きこと一里あり。嶺頭伯州大仙山の雪をいただけるを対観す。しかして嶺下には幅一里、長さ四里の曠原あり。その間に八束、川上の両村をいるる。物産は牧畜とタバコにして、また軍馬の牧場あり。水田あれども収穫多からず、一反歩平均四俵ないし六俵を常とす。しかしてその一俵は三斗五升なる由。なにぶんにも山深く気寒く、山桜なお花をとどめ、渓林いまだ葉を吐かず。冬時は積雪五、六尺に及び、夏時は蚊帳を用いざるも可なりという。しかれども挿秧は比較的早く、昨今苗代すでに青を浮かぶ。また、水田に水をたくわえて、田かきに着手す。福田より伯州国界まで一里半、倉吉まで五里、岡山市をへだつること二十七里あり。会場小学校は宿所より十余町を隔つ。発起は八束村長立田棟造氏、校長梶岡仲平氏、川上村長徳山朝太郎氏、校長亀井六郎兵衛氏等なり。午後、少雨一過す。夜に入りて蛙声耳を破る。名物山椒魚(方語ハンザキという)の調理をすすめらる。その椀の大なるに驚く。また、名物として大宮おどりあり。一種の盆踊りなりというも、一見するを得ず。この日所吟、左のごとし。

  蹈破作山深処煙、寒村五月不知年、望中猶認三冬色、白雪懸天是大仙、

(美作の山深いところ、たちのぼる煙をふみ破るように行けば、さびしい村の五月は季節どおりではない。一望するうちになお冬の三カ月の様子があるように思われた。白雪の天空にかかるのは大仙山である。)

 十日 曇り、午後雨。早晨、福田を発す。小学児童の赤ケットを携うるを見る。これ雨具に代用するものなり。もし雨きたらば児童みな達磨に化す。湯本を過ぎて真賀に一休す。その温泉に試浴するに、浴室は高所にあり。しかして温泉の岩石の間より湧出する点は、伊豆修善寺新井のアヤメ湯に同じ。その色透明、その質清澄、その温度高からず。旅館真泉楼は五層楼より成る。その第五階の楼上より浴室に出入すべし。入浴料一等一回三銭、二等一銭、三等五厘と表示す。これより勝山町を経て久世町〈現在岡山県真庭郡久世町〉に至る。この両町の間は一里半、その道の直きこと矢のごとく、平らかなることといしのごとし。田頭往々、蓮花草の紅氈を敷くがごときを見る。この日、行程約十里。久世会場は遷喬小学校の講堂なり。同校は建築、用材ともに壮麗をもって名あり。発起は町長福井要助氏、校長繁森貞一郎氏等なり。宿所漆屋は中川橋の橋畔に立ち、旭川の岸頭に庭園を設けたるはすこぶる趣味あり。

 十一日 曇り。車行一里半にして落合町に至り、更に行くこと一里にして木山村〈現在岡山県真庭郡落合町〉に入る。その山上にある木山神社は作州第一と称せられ、急坂十五町、登躋容易ならざるも、遠近より参拝するもの四時絶ゆることなしという。会場は小学校、発起は青年団長奥山善範氏、正覚寺住職垪豊氏、宿所は玉屋旅館なり。本村に奇姓あり、垪をハガとよみ、宮★(推+木)をミヤツグとよむ由。

 十二日 晴れのち雨、また晴れ。車行二里、落合より橋を渡り、古見善福寺〔川東村〈現在岡山県真庭郡落合町〉〕に至りて開演し、かつ宿泊す。村上郡長も来会せらる。団長は清水堯三氏、村長は小松鉄一郎氏、校長は太田英三氏とす。日暮、雷鳴を聞く。本村は長さ三里にわたる細長き村なり。

 十三日 晴れ。ただし午後雷鳴あり。この日、真庭郡を去りて久米郡に入る。戸島郡視学は郡界まで送行せらる。真庭郡はすべて山地なるも、川上、阿哲両郡より多くの平坦部を有するがごとし。しかして面積の広きことは県下第一なり。他郡にては農家四食を常とするも、本郡の山間にては一日六回食事をなすという。朝五時茶漬け、午前九時朝飯、午後一時半ごろお昼、四時昼茶漬け、七時夕飯、九時夜食、都合六回なり。ただし夏時に限る。

 この日、川東より車行三里、久米郡大井西村〈現在岡山県久米郡久米町〉の丘上に孤立せる喬松小学校にて午前開演す。時間の掛け値なく、予定どおり正十時に開会せるは、実に他の模範とするに足る。村長は河本芳太郎氏、校長は瓜生宇四郎氏なり。村内字坪井河原旅館にて喫飯す。坪井は久世と津山間の小駅にして、やや市街の形をなす。これより車行約二里、苫田郡院庄村〈現在岡山県津山市〉双松小学校にて再び開演す。校長は片尾繁蔵氏なり。村長服部謙吉氏、青年団長落合修一氏、二宮村長小原謙吉氏等の発起にかかる。しかして宿所は前村長江川義知氏の宅なり。この夜、蚊声を聞く。当所より津山町までは二里弱なり。

 十四日 晴れ。朝、後醍醐天皇および児島高徳を祭れる作楽神社に参拝す。田間の松林中にあり。桜樹数株あれども、みな稚少なり。社畔に銅標あり。有栖川宮殿下筆、後醍醐天皇の御製を鋳刻す。また、社林外に児島高徳の石碑あり。その文に曰く、

  元弘之乱 後醍醐帝狩隠州翠華次此地之日児島備後三郎高徳密来宿営削桜而書云天莫空勾践時非無范蠡事詳口碑不贅此矣云云

(元弘の乱、後醍醐天皇は隠岐に移され、天子の旗がこの地にとどまれた日、児島備後三郎高徳はひそかに行在所に来て、桜の樹を削ってこれに心中を書していう。「天は春秋時代の越王勾践〔こうせん〕を見放すことなく、時に范蠡〔はんれい〕のごとき忠臣があらわれよう」と。この事柄は言い伝えに詳細であり、ここにくだくだしくはせず、うんぬん。)

 余、所感一首を浮かぶ。

  社頭懐古立松陰、十字題詩何処尋、今日不妨桜樹朽、墨痕刻在万人心、

(作楽神社のほとりで、いにしえをおもって松の陰に立つ。十字の題詩をどこにたずねようか。こんにち、児島高徳が削って書した桜の樹の朽ち果てるもそのままに、墨痕のみが人々の心に刻まれてあるのだ。)

 また、かつて備後三郎を詠じたる一首あれば、あわせてここに記す。

  元弘之末暗皇天、備後三郎独慨然、心血凝成両行字、照来五百五十年、

(元弘の乱の結末は天をも暗くし、備後三郎のみひとり慨嘆す。心血をこらして二行からなる文字を作って示し、以来五百五十年を照らす。)

 これより車行三里余にして久田村〈現在岡山県苫田郡奥津町〉に至る。川にそい巒を越えてようやく渓山の間に入る。麦色すでに黄を帯び、林壑上の新緑まさに滴らんとするときなり。会場小学校の鉄門および石垣は儼然たる神社のごとく、行人の目を引くに足る。郡書記ここに同行せらる。発起は村長奥松蔵氏、校長日笠平吉氏、青年団長岡田嘉名一氏なり。当夕、常盤木旅館に宿す。本村は養蚕地にして、昨今すでに蚕期に入る。

 十五日 晴れ。渓行一里半にして泉村〈現在岡山県苫田郡奥津町〉に達す。山いよいよ高く渓ようやく深し。会場は小学校、主催は村長坂手雄登氏、青年団長坂手敦二郎氏、軍人会長馬場茂義氏、宿所は泉屋旅館なり。その所在地を女原〔おなばら〕という。また、村内に至孝農と名付くる地名あり。伝説によるに、むかしは四口と書きし由なるが、当時喧嘩、訴訟たゆることなかりければ、地頭より、四口なるが故に口多過ぎて訴訟を起こすならん、すべからく村名を改むべしとて、至孝農の名称を賜りしという。

 五月十六日(日曜) 曇り。今暁はじめて杜鵑の声を聞く。女原を発し渓間をさかのぼること一里半にして、羽出村〈現在岡山県苫田郡奥津町〉に入る。この間に津山電灯の水力発電所あり。四面を回望するに、なんとなく深山幽谷の趣を感ず。羽出の中央より伯州国境まで二里、倉吉まで八里、牛馬の先引きを用うれば腕車を通ずるを得という。本村にては近ごろラジウム温泉を発見せしとの風説あり。隣村奥津には旧来より温泉ありて、錦泉楼と名付くる好旅館ありと聞く。会場は小学校、発起は村長武本岩太郎氏、校長永礼剛一氏なり。しかして宿所は鶴屋旅館なり。

 十七日 午前雨、午後晴れ。羽出を発し車行十里、院庄および津山を経て高野村〈現在岡山県津山市〉に至る。会場小学校は津山をへだつる二里の地点にあり。小丘の上に位して眺望大いによし。「麦田桑圃緑無涯」(麦畑と桑畑の緑がかぎりなくつづく)の間に蓮花草(方言ゴンゲ)の紅をみなぎらすところ、もっとも妙趣あり。主催は村青年団および軍人分会にして、村長岸本種次郎氏、青年団長保田九一郎氏、および軍人分会長神田精一氏の発起にかかる。三氏ともに多大の尽力ありて、哲学堂維持法に関し、県下第一等の好成績を得たるは深く感謝するところなり。郡長久山知政氏、視学出道直氏は津山より来訪せられ、五年ぶりにて面会せり。演説後、会場より約二十五町隔たりたる所に田舎不似合の高等旅館あり。これを中川楼という。ここに投宿す。楼上の観月もっとも佳なりと聞き、雅号を選定して清輝楼と命名し、かつ一絶を賦す。このとき無月なり。

  江山一望作東寛、麦圃桑田緑渺漫、無月清輝楼上夕、蛙声誘夢客眠安、

(川と山を一望すれば東方に広がり、麦畑と桑畑の緑がはるかにつづく。みるべき月のない清輝楼上の夕べ、蛙の声が夢をさそい、旅客の眠りも安らかであった。)

 深更に至るまで揮毫に忙殺せらる。

 十八日 晴れ。車行三里半にして勝田郡勝間田町〈現在岡山県勝田郡勝央町〉に着す。午前は農林学校に至りて一席の講話をなす。校長は小谷武治氏なり。午後、郡教育会の依頼に応じ、小学校講堂にて開演す。郡長石川正夫氏、視学秋守渉氏、理事阪手綾夫氏、町長額田治郎氏、校長末国唯一氏等の発起にして、みな尽力せらる。郡長等と宿所大黒屋において晩餐をともにす。当町は津山へ三里、倉敷(英田郡)へ一里半の地点に位す。これより里許にして湯郷温泉場あり。その名は県下に高きも、一浴するのいとまを得ず。郡内の地名にて読み難きものは、百々をドードーとよみ、勝加茂をショウカモとよむの類なり。

 十九日 雨のち晴れ。勝間田より津山を経て久米郡倭文東村〈現在岡山県久米郡久米町〉字桑上に至る。車行六里、休泊所甲本旅店に入る。ときに雷雨きたりて雹(方言トチ)を飛ばす。午後、小学校にて開演。村長水島董氏、校長川合謙介氏等の発起なり。郡視学内田輝太郎氏来会せらる。本村には陸軍少将石川潔太氏ありて、もっぱら国民道徳普及の方法を講ぜらる。

 二十日 晴れ、ただし風あり。車行一里半にして亀甲駅に至り、これより鉄路に駕して福渡村〈現在岡山県御津郡建部町〉豊屋旅館に入る。宿所は駅前正面にあるも、会場小学校は約半里を隔つ。主催は振興会、発起は村長金島友治氏、校長赤木雄一氏等なり。本村は津山へ七里、岡山へ七里、その中間に当たれる要駅にして、ことに勝山より岡山へ流るる旭川の要津なれば、鉄道開通前の方かえって繁栄せしという。今日にても旅館のごときは郡内第一とす。夏時には鮎漁のために岡山より来遊の客ある由。

 二十一日 晴れ。(旧四月八日、釈尊降誕日)。鉄路により誕生寺駅に降車す。稲岡南村長志部仙太郎氏の案内にて、法然上人誕生の古寺に参詣す。駅を離るること五、六丁の地にあり。門前に第一番札所、円光大師〔法然〕二十五霊場と標刻せるを見る。しかして門内には円光大師お手植えの銀杏樹と伝うるものあり。古色蒼然たり。当寺は熊谷蓮生房の開基にして、本堂に大師四十三歳ご自作の木像を安置す。また、ご両親の木像および墓所あり。その他には幡の天より降りたる椋の木、片目の魚の生ずる片目川の奇跡あり。入堂のうえ宝物を拝観す。ときに所感一首を得たり。

  入門銀杏樹蒼々、更歩清陰登仏堂、堪喜大師誕生跡、影前長跪拝余光、

(寺門を入れば円光大師お手植えと伝えられる銀杏の樹が青々としげり、さらに清らかな木陰を歩んで仏堂にのぼる。喜ぶべし大師誕生の遺趾、御影前にながくひざまずいて余りの恩沢をおがんだのであった。)

 御会式はむかし三月二十三日なりしも、今は四月十九日、二十日、二十一日となれりという。これより腕車を馳せ、養魚場を一過し、一里強にして加美村〈現在岡山県久米郡中央町・久米南町〉小学校に着す。途中、山頂に水田を開墾せるを望見す。これ本郡の特色なり。午後開演。発起兼尽力者は村長池上鎮平氏にして、郡書記石川四郎氏、校長安藤幾太郎氏、助役渡辺武平太氏、収入役池上宇平治氏等、大いに助力あり。小学校より十五町を隔てて亀甲駅あり。その正面の亀之舎旅館に宿し、郡長法学士矢野恕氏、内田視学とともに晩餐をなす。加美村は郡役所所在地なるも、町名を公称せず。故に本郡は県下唯一の無町郡として知らる。ただ、本村の名物は亀甲石なり。路傍の田間に長さ八間、幅五間ぐらいの天然石の横たわれるあり。その形亀甲に似たりとて、亀甲の地名を得たりという。ときに警察署長のもとめに応じて一詩を賦す。

  作山名勝在何辺、唯見桑園与麦田、加美村頭認奇石、形成亀甲是天然、

(美作の山中の名勝はいったいどこにあろうか。ただ桑畑と麦畑を見るのみである。加美村のあたりに珍しい石があり、形は亀甲をなして、これは天然なのである。)

 本郡は山多けれども高からず、平地に乏しきも耕地に富むというべし。もし特色を挙ぐれば、読み難き地名多き一事なり。倭文をシトリとよみ、垪和をハガとよみ、八神をウネカミとよむの類なり。倭文の村名は淡路国にあれども、淡州にてはシトオリとよむ。

 二十二日 曇りのち雨。午前、汽車にて亀甲を発し、岡山を経て総社駅に降り、更に腕車にて行くこと半里、都窪郡三須村〈現在岡山県総社市〉に入る。会場は小学校、宿所は金竜寺、発起は校長福武恵三郎氏、助役守谷義男氏等なり。この夜、初めて蚊帳を用う。本村は全くの農村にして、一戸の旅亭も酒店もなしという。

 五月二十三日(日曜) 雨、午後晴れ。鉄路により岡山を経由して倉敷町〈現在岡山県倉敷市〉に移る。三須よりここに至る、直行すれば三里あり。本日は郡教育会の主催にして、郡長武南新一郎氏、視学大守勇氏、観樹寺住職村上密禅氏、女子小学校長毛利料助氏、教育会書記高橋唯治氏等の発起にかかる。しかして会場は女子小学校講堂なり。当夕は郡長および他の諸氏とともに旅館東雲楼にて会食す。当町に商業学校あり。板谷節太郎氏これに校長たり。その教員坂田又平氏は京北中学出身なり。岡山県巡講は今日をもって終わりを告げたれば、夜分十二時の急行にて帰京の途に上る。

 二十四日 晴れ。朝六時、京都に降車し、八時の特急に転乗して東行す。車窓より一望するに、満田の麦色黄を帯び、農事の急を告ぐるを認む。当夜九時、帰着す。

 今回の岡山県巡講は、岡山市と上房、英田二郡とを除くの外は各郡を漏れなく巡了したり。上房、英田は五年前巡回せしことあり。県下の方言につきてはすでに述べたるも、ここに作州特殊の方言だけを挙示せん。

  ウチニヤー、ビクニンゴガ、ガイケデ、オキヤセンモン、ヂヤケニ、ヨーニ、コマツツラナウ、

 女子のことをビクニンゴといい、病気のことをガイケという。

  ワドモハ、ボード、キモセナツタガ、マメニヤアツタカヤ(問)、

  アリガトウ、内ニヤ、マメテヤウ、(答)、

 ボードとは久しきの意味なり。人を指すときにワレといい、ムツカシイというべきをウズマイという。また、子の生まれたるときに、女子なればビクニあるいはビクニンコが生まれたといい、男子なれば坊主あるいは坊主子が生まれたという由。また、女の子というべきを女房子という。これらは作州に限る方言なり。

 つぎに、岡山県一般に関して見聞に触れたる点を列挙するに、小学校の設備は概して佳良なり。学校にて時を報ずるに鐘を用いずして太鼓を用うるもの多きは、あるいは日蓮宗の盛んなる影響よりきたるか。迷信は多き方なり。ツキものは狐を主なるものとす。火ダマのごとき怪火をチウコという。けだし宙狐か中狐の意ならん。狐が宙間空中を飛ぶより、火を生ずるごとくに迷信す。また、ある地方にては怪火の高くかかるを天狐といい、低きを中狐という由にも聞けり。また、県下には幣付〔へいつき〕というものと、カンバラというものが大いに行わる。幣付とは中座のことにて、神前に座し、手に幣を握り、傍らより祈請せる間に、その人に神の乗りうつりきたると称するものをいう。カンバラは自ら神に祈りて宣告を得るものにて、他県のいわゆる神巫〔みこ〕なり。カンバラとは神禳〔かんはらう〕の義ならんと思うも、一説には備中国の地名より出でたりという。これらの言を信ずるもの多し。岡山市中にはアズキアライの怪あり。深更にアズキを洗うがごとき音を聞くという。これ川流の響きなるべし。味噌は白味噌を用うるを常とす。故に備前よりはじめて東京にきたるものは、東京にて赤味噌ばかり用うるを奇怪に感ずという。韮を常用することも岡山県の特色なり。腕車の台の両側に鉄棒の★(筓の正字)のごとくになりてつきいだせること、腕車の幌のヒサシ低くして、前方を望み難きこと、荷車の柄の付け方が他県と異なりて、柄の両端に横木を縦に付けてあること、村落に地神と刻せる石碑の多きこと、路傍に四ツ堂と称して、空堂の多きこと(この堂は備中に多し)等もその特色なり。その中には備後と一致せる点多し。風呂は大抵長州風呂を用う。朝寒を防ぐために酒をのむを霜消しというは長州に同じ。人に別るるときにご用心なさいという。神社仏閣に詣するに米を散ずるは山陰道の風にひとし。これ古代の遺習なり。その米をオンバラ米と称し袋に入れおき、神仏へ参るときにこれを持ち行きて散ずという。

 他県にては「朝酒は妻を質に入れてのめ」という所多きが、岡山県にては「朝酒は三割金を借りて飲め」という。東京にてはお月様イクツ十三七ツというが、岡山県にては十三九ツという。雷のときに桑原と呼ぶは全国同一なるが、地震のときに伊予にてはカーカーカーと呼ぶに、備前にてはトートートートーと呼ぶ。海を隔てて相対する両国にて、トトとカカと父母の相違あるは、あに奇ならずや。つぎに妖怪につきては、古来岡山県の三大不思議として伝えらるるものあり。その第一は備中の釜鳴り、第二は備前の田植え、第三は美作の夜桜、この三者ともに一の宮にありという。釜鳴りは、さきに吉備津神社の下においてすでに述べたり。田植えとは神様が一夜のうちに田植えをなさるとのことなり。夜桜とは一夜のうちに桜花が開くをいう。みな神力の不思議に帰したりしが、昔日の不思議は今日の不思議ならざるに至れり。

 つぎに岡山県の宗教方面につきて一言するに、神道あり仏教ありヤソありて、わが国の宗教を網羅せるありさまなり。神道にては黒住教と金光教とが本県の所産にして、ともに勢力あり。昔年は黒住全盛を占めしが、今はその勢力を金光に奪われ、形勢変ぜりという。仏教は勢力上にては真言を第一とし、日蓮これに次ぎ、天台またそのつぎなりとす。日蓮に至りてはその最も固結せる不受不施の根本地なり。実に不受不施と金光とは岡山県の名物として全国に知らる。また、弘法大師の信仰に至りてはことに著しきものあり。各所に新四国八十八カ所を設け、老弱男女三三五々、群れをなし列をなして巡拝するありさまも、本県における一名物に算入せざるを得ず。その他ヤソ信者も各所に散在せるを見る。これを要するに岡山県人はすこぶる宗教に熱心なるもののごときも、仏教だけにつきて傍観するに、ただ旧慣を伝うるまでにて、真正の信仰あるにあらず。もし信仰ありとすれば、いたずらに寿福を祈るの迷信に外ならざるもののごとし。故に今より後は、仏教も迷信を離れたる真正の信仰を開発するを要すべし。以上、岡山県巡講百日間、見聞に触れたる点を記述せるのみ。

 

     岡山県備作三州開会一覧

   郡        町村    会場    席数   聴衆     主催

  和気郡(備前)  和気町   小学校    二席  四百人    町村連合

  同        三石町   公会堂    二席  三百人    役場および学校

  同        片上町   劇場     二席  四百人    二町連合

  同        福河村   小学校    二席  七百人    村内有志

  同        伊里村   小学校    二席  八百人    村役場

  同        同     閑谷黌    一席  二百五十人  校内有志

  邑久郡      牛窓町   小学校    二席  九百人    町内有志

  同        邑久村   小学校    二席  三百人    郡教育会

  同        同     同      一席  五百人    校長

  同        国府村   小学校    二席  六百人    村内有志

  同        鹿忍村   小学校    二席  七百人    村内有志

  同        幸島村   小学校    二席  七百人    村長、校長

  赤磐郡      潟瀬村   小学校    二席  四百五十人  町村連合

  同        豊田村   小学校    二席  三百五十人  四カ村連合

  同        佐伯本村  小学校    二席  二百人    二カ村連合

  同        周匝村   小学校    二席  五百人    村内有志

  同        笹岡村   小学校    二席  四百人    村内有志

  同        鳥取上村  小学校    二席  三百五十人  村教育会

  同        西山村   小学校    二席  三百五十人  村内有志

  同        高陽村   小学校    二席  三百人    村役場

  上道郡      西大寺町  小学校    二席  百人     郡教育会

  同        財田村   小学校    二席  二百人    同前

  同        平島村   小学校    二席  二百人    同前

  同        三蟠村   小学校    二席  四百人    同前

  児島郡      味野町   女学校    二席  二百五十人  西部自治会

  同        日比町   寺院     二席  五百人    東部自治会

  同        甲浦村   小学校    二席  四百人    同前

  同        鉾立村   小学校    二席  四百人    同前

  同        山田村   劇場     二席  六百人    同前

  同        荘内村   小学校    二席  三百五十人  同前

  同        灘崎村   小学校    二席  三百五十人  村長

  同        琴浦村   役場     一席  二百人    報徳会

  同        郷内村   公会堂    二席  二百五十人  西部自治会

  同        藤戸村   寺院     二席  二百人    役場および軍人会

  同        興除村   小学校    二席  五百五十人  軍人会、青年団等

  御津郡      石井村   関西中学校  二席  三百人    数カ村連合

  同        金川村   金川中学校  二席  四百五十人  数カ村連合

  同        建部村   小学校    二席  四百人    振興会

  同        長田村   小学校    二席  三百人    七カ村連合

  浅口郡(備中)  玉島町   小学校    二席  三百五十人  戊申会、教育会

  同        連島町   小学校    二席  四百人    東部教育会

  同        同     同      一席  五百人    校長

  同        寄島町   小学校    二席  五百五十人  大正会

  同        同     同      一席  八百人    校長

  同        黒崎村   寺院     二席  四百五十人  村内有志

  同        里庄村   寺院     二席  四百五十人  村長

  同        鴨方村   寺院     二席  六百人    村役場

  同        同     女学校    一席  二百五十人  校長

  小田郡      矢掛町   劇場     二席  五百五十人  青年会

  同        同     中学校    一席  五百人    校友会

  同        金浦町   小学校    二席  四百五十人  町村連合

  同        美川村   小学校    二席  五百人    村役場

  同        中川村   小学校    二席  二百人    村役場

  同        新山村   小学校    二席  三百五十人  青年団

  同        北川村   小学校    二席  四百人    青年会

  同        稲倉村   小学校    二席  二百五十人  五カ村連合

  後月郡      井原町   小学校    二席  二百五十人  青年団、軍人会

  同        同     同      一席  四百五十人  婦人会

  同        西江原村  小学校    二席  三百人    役場および学校

  同        共和村   小学校    一席  四百人    村長

  同        三原村   小学校    二席  三百五十人  村役場

  同        芳井村   小学校    二席  五百五十人  役場、学校

  同        同     寺院     一席  百人     仏教婦人会

  同        県主村   寺院     二席  三百五十人  青年団、正風会

  同        同     同      一席  二百人    婦人会

  都窪郡      倉敷町   小学校    二席  三百五十人  郡教育会

  同        妹尾町   劇場     二席  五百人    青年団

  同        福田村   小学校    二席  三百人    青年団

  同        清音村   小学校    二席  四百人    青年団

  同        三須村   小学校    二席  四百五十人  村内有志

  吉備郡      庭瀬町   会堂     二席  五十人    立憲正民会

  同        岩田村   小学校    二席  三百五十人  青年団

  同        大井村   小学校    二席  千百人    村内有志、青年団

  同        生石村   小学校    二席  七百五十人  村青年団

  同        同     農業学校   一席  三百五十人  学友会

  同        箭田村   小学校    二席  千人     青年団

  同        久代村   小学校    二席  八百人    青年団

  同        日美村   小学校    二席  七百人    青年団

  川上郡      成羽町   小学校    二席  四百人    町内有志

  同        吹屋町   小学校    二席  四百五十人  青年団

  同        落合村   役場     二席  二百人    三村連合

  同        手荘村   小学校    二席  四百五十人  南部教育会

  同        富家村   小学校    二席  二百五十人  村内有志

  阿哲郡      新見町   劇場     二席  四百五十人  町内有志

  同        神代村   小学校    二席  三百五十人  村内有志

  同        野馳村   小学校    二席  二百五十人  村内有志

  同        熊谷村   寺院     二席  五百五十人  村内有志

  同        豊永村   小学校    二席  四百人    郡教育会

  同        刑部村   公会堂    二席  三百五十人  村教育会

  真庭郡(美作)  勝山町   小学校    二席  三百五十人  地方有志

  同        同     寺院     一席  百人     寺院

  同        同     女学校    一席  百五十人   実科女学校

  同        久世町   小学校    二席  四百五十人  町内有志

  同        湯原村   小学校    二席  二百五十人  教育支会

  同        八束村   小学校    二席  三百人    二カ村教育会

  同        木山村   小学校    二席  五百人    青年団

  同        川東村   寺院     二席  二百五十人  村青年団

  苫田郡      院庄村   小学校    二席  四百五十人  村長、校長

  同        久田村   小学校    二席  二百人    村青年団

  同        泉村    小学校    二席  二百人    役場および各団体

  同        羽出村   小学校    二席  二百人    教育会

  同        高野村   小学校    二席  五百五十人  青年団、軍人会

  勝田郡      勝間田町  小学校    二席  四百人    郡教育会

  同        同     農林学校   一席  百五十人   校友会

  久米郡      加美村   小学校    二席  四百五十人  村内有志

  同        大井西村  小学校    二席  三百人    村教育会

  同        倭文東村  小学校    二席  三百五十人  村内有志

  同        福渡村   小学校    二席  四百人    振興会

   合計 十七郡、九十五町村(二十二町、七十三村)、百八カ所、二百一席、聴衆四万三千五百五十人

    演題類別

     詔勅および修身に関するもの……………八十九席

     妖怪および迷信に関するもの……………六十二席

     哲学および宗教に関するもの………………十七席

     教育に関するもの……………………………十四席

     実業に関するもの……………………………十二席

     雑題(旅行談等)に関するもの………………七席

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相州三浦半島回遊記

 二月中旬以来約百日間、岡山県を巡了したれば、その所労をいやせんと欲し、相州三浦半島の回遊を試む。以下はその紀行なり。

 大正四年五月二十七日 晴れ。午前、東京を発して横須賀に着す。この日、日本海開戦の紀念日とて、鎮守府内には種々の催しあり。市中また大いににぎわう。これより車行一里半にして三浦郡大津勝男館に入宿す。先年は大津館と称せり。余は今よりおよそ二十年前、この館に滞在せしことあり。その当時、大津全盛時代にして、海水浴は大津に限るとの公評なりしが、今日は東京辺りにてまた一人の大津を談ずるものなきに至り、したがって旅館も衰微の色あり。たとえ海水浴の期節にあらずといえども、館内に二百人もいるるべき客室を有しながら、わずかに二、三人の客あるのみ。故に夜間は寂として風涛の外に耳朶に触るるものなし。しかしその寂寥たるは、かえって余のごとき静養を欲する客に適す。階下には青波の白砂を洗うあり。軒前は海を隔てて房総の連山と相対す。軍艦、汽船の絶えず煙を吐きてこの間を来往するところ、あたかも活画の観あり。また、眼前に猿島の蔚然たるは大いに趣を添う。朝煙暮霞、一望すこぶる快活を覚ゆ。大津はもと一村なりしも、今は浦賀町に編入せらる。

 二十八日 晴れ。風強く波起こる。終日横臥。晩に及んで雨きたる。

 二十九日 晴れ。腕車を命じて浦賀に至る。行程一里余。今より三十五年前、徒歩行脚してここに遊びしことあり。依然として一帯の湾水、市中に横たわれるを見る。愛宕山上に公園あり。登覧するに港湾内外の風光双眸の中に入り、当面は房山と相対し、風光明媚、人呼びて絶勝の地と称す。その南隣に旧浦賀奉行の屋敷跡ありという。一望なんとなく嘉永年間の当時を想見し、史を読みて事を記するもの、たれか懐古の情を動かさざるあらん。横須賀駅よりここに至る道程三里弱、自動車の毎日数回往復するあり。

  浦賀湾頭望暮天、追懐往事転茫然、衝波米艦来相泊、汽笛一声破万眠、

(浦賀湾のほとりで暮れなずむ天をのぞみ、かつてのことどもを想像し、しばしはるかなおもいをいだく。米国の艦隊が来航してここに停泊した衝撃は、汽笛一声とともに日本の眠りを破ったのであった。)

 浦賀の旅館としては徳田屋、鈴木屋、長友館等あれども、いずれも眺望を有せず。帰路、迂回して海岸にそい、トンネルを両過して走水村に至る。ここに走水神社あり。日本武尊および橘媛命を祭祀す。その社側の一段高き所に橘媛命紀念碑あり。巨石に所詠の古歌、「佐泥佐斯云云」の古歌を刻す。伝うるところによるに、橘媛命はこの走水海上にて御身を投じ、風波を鎮め、夫君をして難船を免れしめしという。日暮、大津に帰宿す。この地いまだ蚊帳を用いず。

 五月三十日(日曜) 曇り。終日閑座して静養す。この地をへだつる約一里の衣笠村に、三浦義明の墓所および木像ありて、先年訪尋せしことあり。また、大津には真宗蓮如上人旧跡と表示せる寺あり。その寺号を信誠寺という。その庭内には上人、銀杏樹の杖を地中にはさみしに、生育して今は大木となり、その枝の節々に乳の形をなせるもの垂れおれり。遠近の婦人、乳の少なきもの、ここにきたりて祈願すれば、必ず効験ありという。その傍らに海軍射的場あり。

  大津浜上首堪回、前後峰巒悉砲台、今日猶知海防急、望中軍艦吐煙来、

(大津の浜辺にこうべをめぐらせば、前後の山々の峰はことごとく砲台である。今日なお海の守りの重要であることを悟り、はるかに望むうちに軍艦が煙を吐きつつやって来たのであった。)

 三十一日 晴れ。大津を発し車行二里半、久里浜の砂頭に至る。これ嘉永六年六月九日、米国使節ペリー氏と会見の地なり。近年建設せる紀念碑の聳立するありて、瞻仰するに堪えたり。その碑の高さ一丈八尺、幅八尺、厚さ一尺三寸、目方四千貫、これに台石を加うるときは、その総高五丈二尺に及ぶという。碑面の文字は故伊藤〔博文〕公爵の筆にして、「北米合衆国水師提督伯理上陸紀念碑」と刻す。ときに所感の漢詩と狂歌を浮かぶ。

  当年米艦破風涛、久里浜頭万籟号、今日文明天下穏、沙場唯仰一碑高、

(あの当時、米国艦は風や波を打ち破って来航し、久里浜の沖合いで汽笛をとどろかした。こんにち、文明ひらけて世の中も平穏に、この砂地にただペリー上陸を記念する高い碑を仰ぐのみである。)

  亜米利加が出したる舌でペルリーと、甜られて目を醒ます我国、

 紀念碑は県道より十余町離れたる地にあり。その碑畔に海浜館と名付くる小旅館あり。これより更に車行三里にして、三崎町に達す。道路四間幅にしてしかも平坦なるも、地勢多少の高低あり。三崎に達する前一里余は山上の曠原を一過す。その四面は麦畑と薯畑のみなるが、目下麦すでに熟して刈り入れに着手す。三崎の旅館は岬陽館を第一とし、そのつぎは三崎館および初声館なり。別に温泉旅館一戸あり。しかるにこの日は車夫に導かれて三崎館に入る。その設備は書生の止宿に適す。午後、海路をとらず、陸路を迂回して小網代なる帝大実験所を訪う。その距離一里あり。たまたま旧友岩川友一郎氏の女子高師生数十名を引率してここにきたれるに会し、互いに久闊を述ぶ。その地は海に面し湾を控え、風景、気候ともによし。洋館数棟あり。

 六月一日 曇りのち雨。三崎館の衣食住ともに中等以下なれば、これを辞して岬陽館に移る。諸事上等の設備を有す。ときに客全くなく、すこぶる静閑なり。軒下は岩石、席のごとく千畳敷きの広さを有す。その間に高低凹凸ありて、潮きたれば一面の海となり、去ればところどころに小盆池を現ず。この日、町内に祭礼ありてにぎわう。

 二日 雨のち晴れ。旅館をへだつる二丁ばかりの所に海水浴場あり。その地を二町谷という。三崎の名所としては頼朝の三御所と称する古蹟あり。桜の御所、桃の御所、椿の御所これなり。今はただその名を存するのみ。神社の境内に古銀杏あり。これを頼朝公の植えし木なりと伝う。本町は一衣帯水を隔てて城ケ島と相対す。周回一里余、昔時、里見義弘の陣所を設けし所なりという。その島の形日本の全島を縮写せるに似たりとて、孫日本の称あり。その丘上に篝屋の跡ある由。むかし灯明台を置かざりしときにたいまつを燃やし、その燃料、長夜百二十束、短夜八十束の定めなりしという。また、本町には三浦累代居城の跡ありというも、ともに探るの余暇を得ず。客中吟、左のごとし。

  三浦岬頭将尽辺、一条峡路狭如川、客楼日落山難認、城島灯光破紫煙、

(三浦岬の先端の尽きるあたり、ひとすじのせまい海峡は川のようである。旅館の階上にいて日しずみ、山も見わけがたく、城ヶ島の灯火のみが日暮れのもやを破って光るのである。)

 三日 快晴。午前八時、岬陽館を発し、馬車を駆りて帰京の途に就く。初声、長井、西浦諸村を経て、葉山村に入る。途中、岬頭湾曲多く、風光絶佳なり。初声村字和田には和田義盛の屋敷跡ありという。西浦の奇勝立石も、葉山の旅館長者園も、ともに旧時に変わりたるなし。余は十年ぶりにて本海岸を通過す。三崎より逗子駅まで六里余の所、三時間にて達せり。三浦郡内には古来、七木、七井、七石ありと伝う。七木とは森戸千貫松、三崎見桃寺桃、同大椿寺椿、城ケ島棍柏、衣笠籏立松、平作大楠山楠、三崎御所桜をいい、七井とは古井(浦賀町にあり)、筑井、飛井、長井、大井、戸亀井(衣笠村にあり)、石井(田平作にあり)をいい、七石とは秋谷立石、網代金鳴石、曲輪子産石、曹源寺目拭石、小坪鍋島石、吉井飛石、三戸三石をいう。そのうち今存するものと存せざるものある由。十一時半、逗子発直行にて帰京す。静養中物したる軍人勅諭三十韻あり。すでに『大正徒然草』に載せて発行したればここに略す。

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秋田県北部巡講日誌

 大正四年六月二十日(日曜)、東洋大学にて開催せる加藤博士八十高齢の祝賀会に列席し、その翌二十一日、晴れ、正午、上野発に乗り込み、福島、仙台を経由して秋田県行の途に就く。随行は森山玄昶氏なり。

 二十二日 晴れ。朝五時半、青森駅着。ここにとどまること約四時間、秋田行き汽車を待ち、九時半、発車す。車窓より岩木山のなお残雪を襟帯して、雲表に半身を露出するを望むはやや壮快なり。津軽平野は挿秧九分どおりを終了す。弘前駅にて大館浄応寺住職誉田政丸氏、および医師神林正路氏の出でて迎えらるるに会す。神林氏は余と同郷かつ親縁の関係あり。午十二時、秋田県北秋田郡大館町〈現在秋田県大館市〉に入る。多数の歓迎者あり。余、ここに至りて昔遊を屈指するに、まさしく二十五年目なるを知る。郡長小林定修氏および郡視学佐々木高治氏は鷹巣町より来訪せらる。当夜、曹洞宗玉林寺にて開演す。宿所は花岡旅館なり。これに対立せるものに斎藤旅館ありと聞く。

 二十三日 晴れ。この日、暑気強くして日中華氏八十四度に上る。毎朝、旅館の前通りに青物市場を開く。しかして一定の市日は毎月三回、すなわち七の日とす。各市街地に一定の日をもって開市する慣例は、本県において今なお存せり。市日は衣服、食物、家具、什器等を、街上の両側に露店を設けて販売す。毎回すこぶる雑沓を極む。午前の会場は高等女学校および中学校なり。午後また玉林寺にて開演す。夜に入りて更に茶話会の催しあり。当地開会の尽力者は誉田氏、神林氏の外に、町長沼田信一氏、館資次氏(京北出身)、桑田健竜氏、中田直哉、栗盛鉄蔵氏等十五名なり。中学校長は名和長正氏なるも、不在なり。首席教諭堤達也氏(哲学館出身)代わりて斡旋せらる。しかして女子小学校長は日下部常吉氏なり。この日、県視学菊池永治氏来訪せらる。大館町は鉄道四通の中枢に当たり、ことに鉱山区城の中心に位せるをもって年を追いて発展し、かつ大いに活気を帯びたるがごとき観あり。その町の工業製品は曲げ物なりという。また、大館名物としてその名の遠く聞こゆるは闘犬なり。純日本種の最大なる犬の存するはこの地に限る。土佐もまた闘犬の名所なれば、両地の犬を東京において闘わしめたることある由。体躯の大にして力量の多きは土佐種は大館種に及ばず、ただし機敏なる点は前者は後者に勝るという。要するに全国中、闘犬盛んなるはこの両地方をもって第一とす。

 二十四日 晴れ。大館より鉄路により、一時間余にして鹿角郡小坂町〈現在秋田県鹿角郡小坂町〉に至る。里程五里あり。その途中、有名なる長木官林を一過す。着後まず鉱山内を一覧するに、藤田組の経営にして、県下第一の鉱業所なり。鉱山長木村陽二氏不在のために、深野半蔵氏、志賀克巳氏、米山彦郎氏(病院長)等に面会す。ときに倶楽部にて洋食の午餐を与えらる。近年、鉱毒問題囂々たるも、この深山幽谷のかく繁栄をきたし、遠近の村落もその余沢に浴することすくなからざるを見て、所感一首を賦す。

  鹿角山中多鉱区、富源流出自成都、黄煙有毒君休説、十里寒村余沢濡、

(鹿角の山中は鉱区が多く、富の源より流れ出しておのずから都のようなにぎわいをみせている。あがる黄色い煙には毒があるといわれるが、そのことについてはいうまい。十里四方のわびしげな村はその恩恵をこうむっているのだから。)

 夜に入りて、劇場康楽座にて開会す。すこぶる盛会なり。町長小笠原勇太郎氏、郵便局長小泉七六氏、および鉱山事務員、学校職員等の発起にかかる。宿所は小坂ホテルなり。

 二十五日 晴れ。馬背にまたがり鉱煙を破りて山行五里、勝地をもってその名の高き十和田湖に向かう。およそ四里の間は人家なく田畑なく、ただ草木の茂生せるあるのみ。渓間にはなお残雪を踏む所あり。最初数里の間は次第に登り、湖を一瞰するに及びて急に一里をくだる。その降路を鉛山と名付く。昔時は鉛を産出せりという。湖畔に旅館招仙閣ありしも数月前に焼失せり。篤志家和井内貞行氏は石油発動船南祖丸をもってここに余を迎えらる。これより乗船して湖上を巡覧す。周囲十二里の内、三分の二は青森県に属す。湖底千二、三百尺ありと称し、水色深碧にして透明なり。湖中には二帯の半島の延出せるあり。その巌あるいは赤くあるいは黒くして、奇石怪岩の屏をなし壁をなし、また松樹の千態万容をなせるあり。これに加うるに岸頭に鵑花の散在せるありさまは、万縁叢中紅千点の趣あり。船遊約一時間、午餐も船中にて設けられ、十和田神社の傍らに上陸して参拝す。この地は南祖房の遺跡なれば、その余徳を慕って社前に鉄鞋を捧呈せしものを懸く。祠宇は極めて小なるも、夏時は参拝の客毎日たえずと聞く。その社の背面に当たり、銭占の淵あり。来観者は多く銭を水中に投じて運命を卜するという。この社は青森県の所轄なり。その地名を休屋という。門前に旅館十和田館あり。余の所吟は左の二首なり。

  十湾波上一舟軽、松態岩容忙送迎、僻在奥山深処境、斯湖独占瑞西名、

(十和田湖の波の上を舟は軽やかに進み、岸辺の松と岩がさまざまな姿でいそがしくわれわれを送り迎えてくれる。人里はなれたこの奥深い地に、この湖のみが日本のスイスの名をほしいままにしているのである。)

  赤壁蒼巒自作屏、環湖無処不丹青、観来造化神工妙、知是古仙遺愛庭、

(赤い色の岩と青い山々がおのずと屏のごとくたち、湖をとりまき、すべて赤と青をもっていろどる絵画のようである。みるほどに造化の神のたくみさ、絶妙さに感嘆し、これこそ古代の仙人が遺愛の庭園であろうと思ったのであった。)

 十湾は十和田湖の雅名なり。再び油船に駕して秋田県側和井内氏の邸前に着し、養魚場を一覧す。従前は湖中に一尾の魚族住せざりしが、同氏数十年来の苦心失敗の結果、鱒を放ちてはじめて成功せりと聞く。よって政府より表彰せられたる由。その宅の眺望は実に対画の観ありて、日本のスイスの高評は決して過称にあらざるを知る。図らずも和井内氏の優待を受け新鱒をすすめらる。更に徒歩十町、十湾館に至りて宿す。宿料上等八十銭にして、しかも湖魚膳に満つ。実に安価なりというべし。当地方は蕗の葉の広さ二尺ないし三尺なるものあり。また、イタドリ、方言サシトリ草の高き六尺以上なるものあり。野草の方言シウデと名付くるものを漬けて菜漬けの代わりとなす。その味すこぶるよし。

 二十六日 雨。この日より十和田神社の祭典ありと聞く。朝八時、十和田より草鞋をうがち、坂路を登ること十八町、更に歩を進むること一里余、止滝に至り小坂銅山水力発電所を一見して少憩す。飛瀑のみるべきものあり。ときに雨はなはだし。これより馬車に駕す。三里の間、道路佳ならず、馬疲れ人困す。午後一時半、大湯村〈現在秋田県鹿角市〉に着す。この日、行程五里。同所は温泉場にして内湯を有する旅館二戸あり。一は千葉といい、一は亀屋という。当夕は亀屋の方に宿す。余はその泉場に命名して凰遊湯という。大湯と音相近きに取る。本村内には草木村と名付くる地名あり。この地方は挿秧いまだ終わらず、農家昼間多忙なりとて夜会を開く。ときに天全くはれ、明月林端にかかり、鳴蛙田頭にやかまし。青年会長諏訪富多氏、校長谷地東一郎氏等の発起なり。

 六月二十七日(日曜) 晴れ。車行一里、二十五丁にして毛馬内町〈現在秋田県鹿角市〉に移り、哲学館大学出身山本修太郎氏の宅に休憩す。庭園清雅なれば、堂号を選して清和堂と名付く。午後、小学校にて開演す。青年会幹事樋口定三氏、黒沢小二郎氏、婦人会幹事井上のぶ子、校長阿部良太郎氏等の発起にかかる。演説後、ただちに二人びきにて走ること二里半、四方秧田蒼々たり。日いまだ没せざるうちに郡内の首府たる花輪町〈現在秋田県鹿角市〉に入る。旧時は南部藩の陣屋ありし所なり。秋田市まで四十里、盛岡市まで十八里ありという。この町より一里半を隔てて湯瀬温泉あり。また、五里余を離れて熊沢温泉あり。小坂駅より四里半、岩手県界まで二里余ありと聞く。一両年中に大館とこの町との間に鉄路を敷設すべし。当夜は梅天洗うがごとく、一点の雲影をとどめず、一輪の明鏡青空にかかる。あたかも中秋の明月に対するの思いをなす。会場は丘上なる小学校にして、夜会なるも聴衆、場に満つ。発起は青年会長大里周蔵氏(医師)、幹事川村直哉氏、関村幸次郎氏、吉田慶太郎氏、各宗寺院なり。しかして宿所は大里氏宅なり。郡長河野隆性氏も出席せらる。

 本郡は秋田県に属すも陸中国なり。その特産は銅鉱にして、これに次ぐものを織物紫染めとす。市街は北越のごとく店前に庇の出ずるありて、その下を往来するを得。これを越後にてガンギと称するが、この地方にてはコミセという。屋上は板ぶきにして石をのせたるもの多し。また、郡内は鉱山の多きにもかかわらず、労働賃銀比較的低く、車夫一里十銭、雇夫一日四十銭、大工八十銭なる由。鉱物の運搬あまり頻繁なるため道路凹凸多く、車行容易ならず。方言の一として狐憑きをモスケヅキという。モスケは狐の異名なるもののごとし。また、巫女をイタコという。イチコの訛音ならん。

 二十八日 晴れ。この日、花輪町の市日なれば、早朝より露店街路の両側に連なり、人馬来往せわし。毎月三回八の日を定期とす。午前、車行一里、二人びきにて三菱会社の経営にかかる尾去沢〈現在秋田県鹿角市〉鉱山に至り、倶楽部に休泊す。秋田県に入りて以来、気候いまだ夏に入らざる感ありしが、この日はじめて炎暑を覚え、扇風機を用う。倶楽部は山に踞してしかも山に対す。当面に煙突のあたかも大蛇のごとく山腹を枕とし、黄煙を吐きつつ長臥するありさまを望むは、すこぶる壮観なり。午後、婦人会の依頼に応じて座談をなし、夜中は一般聴衆のために山頂の劇場において講演をなす。当日の発起かつ尽力者は鉱山長島村金次郎氏、医局主任浦井財治氏、庶務主任岡本友三郎氏、用度主任入江達吉氏なり。

 二十九日 雨。鉱山倶楽部を発して土呂車に駕し、渓間を下行すること一里半、その時間わずかに二十分余にして県道に達す。これより馬車に移り、更に行くこと一里にして北秋田郡十二所町〈現在秋田県大館市〉に入る。道路滑らかならず、車行やや苦しむ。鹿角郡視学鹿子畑秀重氏は小坂以来、あるいは鞋行しあるいは車走して各所案内の労をとられ、ここに至りて告別することとなる。ときに北秋田郡視学佐々木氏の、余が行を迎えらるるあり。会場は小学校、発起は町長佐谷玉造氏、校長高橋勝之助氏なり。この地は郡内における養蚕地なれば、多忙のために聴衆多からず。その中に加われる生徒は大抵みな股引を着用せるを認む。休泊所は会場よりも半里を隔つる大滝温泉場なり。目下、鉄道はここを終点とす。旅館藤島屋は内湯を有す。その後方の楼上は山に対し江に臨み、一望蒼然たり。江はすなわち米代川なり。

  数帯青山一帯川、晩煙篭処望蒼然、浴余楼上銜杯坐、蛙皷水琴和管絃、

(つらなる青い山々と帯のごとく流れる米代川、夕暮れのかすみのとどまるところは一望すればただ青々としている。温泉に一浴ののちに二階に座して杯をあげれば、蛙の声と水の音とが、折から上る管弦に和して流れるのである。)

 このとき隣楼より絃歌の声を伝えきたる。故にこれを詩中に入るる。楼上に題する「握山蹈水」の四字をもってす。

 三十日 晴れ。朝七時発汽車にて扇田町〈現在秋田県北秋田郡比内町〉に入る。その距離一里半、停車場外には伐材堆積して丘山をなす。その材木は奥見内山より伐出せるものなりという。人あり説明して曰く、森林のあまり深く茂りて、なにほど伐採するも奥が見えぬという意味から奥見内の地名を得たりと。これ好談片なり。昼間は小学校、夜間は寿仙寺にて開演す。校長は成田源助氏、住職は小西孝禅氏なり。宿所徳永寺は庭園水田と相連なり、清風座に入り、鳴蛙夜を徹す。また、鴬声の囀々たるあり。余のここにきたるや二十五年目にして、宿所も先遊のときに同じ。住職は小林恵眼氏なり。当町開会の主催は仏教会、教育会、青年会、婦人会にして、町長高橋伝八氏、助役中村忍氏、前記の三氏および藤庭祐貫氏、小林諦道氏、明石文治氏等の発起尽力にかかる。

 七月一日 晴雨不定。朝七時発に乗り込み、大館奥羽線に換車して矢立村〈現在秋田県大館市〉字白沢に着す。扇田より大館まで一里半、大館より矢立まで二里あり。駅前の旅店に休憩し、小学校にて開演す。校前に清泉沸出せる所あり。これに標示して御巡幸御膳水と記せり。先遊の際は釈迦内村日景弁吉氏の宅にて午餐を喫し、これより大雨をつきて矢立峠を一過せしことを想出す。ときに嶺頭の樹木直立矢のごとし。故にその名を得たりと聞けり。主催は村長若松久幹氏、校長佐藤勝斉氏なり。演説後、汽車にて大館を経て鷹巣町〈現在秋田県北秋田郡鷹巣町〉に至る。大館をへだつること五里、郡衙所在地なり。宿所勝永館は当地第一の旅館なりとて命名を託せられ、鷹揚館と選定す。当夕、小林郡長、県立農学校長大平為一氏等と晩餐を交ゆ。

 二日 晴れ。午前、公会堂にて開演す。建築壮大、先年御慶事の紀念館なる由。午後、農林学〔校〕にて演述す。庭内に小動物園の設備あり。演説後、曹洞宗浄運寺を訪問す。同寺には七座村大字麻生上の山より採出せる石器時代の古器物数十種を秘蔵し、来訪者のもとめに応じて縦覧せしむ。開会主催は教育部会にして、佐々木郡視学および鷹巣小学校長桜田恒久氏、ほか八校長の発起なり。

 三日 晴れ。車行に交わるに鞋歩をもってし、いわゆる大野台の広野を横断す。平岡数里の間、野草敷くがごとく、江州饗庭原野に同じ。四面の連山は過半雲煙にとざさる。本郡の高山田代山は糢糊の裏に隠見しつつあり。この山は信越両国間に聳立せる苗場山と同じく、山頂に稲田の形をなせる所ありという。途上、はるかにカッコウ鳥のカッコウカッコウと鳴くを聞く。行程三里にして上大野村〈現在秋田県北秋田郡合川町〉に入る。

  羽陰一路草原平、望裏梅天曇又晴、雲鎖遠山茫不見、蹈青只聴郭公声、

(羽後の一路に草原が平らかに開け、望みみれば梅雨どきの空は曇るかと思えばまた晴れる。雲は遠くの山々をとじこめて茫々として見えず、青々とした野をふんで、ただ郭公の声が聞こえるのみ。)

 この日、正午〔華氏〕七十一度、涼風颯として秋のごとし。会場は小学校、宿所は四海山太平寺なり。その名の四海太平と続けるはおもしろし。昨今、養蚕最忙期なり。演説後、茶話会あり。発起は村長工藤東十郎氏、校長工藤寛氏、住職亀谷禅隆氏等とす。今夕、北秋田郡特有の珍たるタンポを食す。その製法は米飯をつぶして串にさし、その形チクワのごとくにして薄く焼き、その串を抜き、これを鶏肉をもって煮出だしたる汁の中にひたし、箸にてちぎり食するなり。

 七月四日(日曜) 晴れ。車行一里余、途中、天理教の会堂あり。県下にては同教の信者各所にありという。阿仁川の長橋を渡ればすなわち米内沢町〈現在秋田県北秋田郡森吉町〉なり。この日、村長宅に葬儀ありたるために開会を午前とす。会場竜淵寺書院は高所にありて風光明媚、眺望絶佳、清流の曲々たる、秧田の蒼々たるや、旅鬱を散ずるに足る。住職奥山亮宗氏は哲学館出身なり。宿所木村旅館は橋畔に孤立し、三層楼より成り、眺望また佳なり。竜淵寺即吟一首あり。

  阿仁渓上有禅宮、水色山光入座中、他日願期明月夜、再来此寺酌清風、

(阿仁の渓谷のほとりに禅寺が建つ。水の色、山のかがやきが座する所に入りくるようである。いつの日か願わくば明月の夜ときめて、ふたたびこの寺を訪れて清らかな風のなかで酒をくみたいものだ。)

 発起者は奥山氏および助役斎藤正男氏と高橋文一氏にして、ともに尽力あり。

 五日 微雨のち晴れ。車行二里半にして前田村〈現在秋田県北秋田郡森吉町〉に至る。休憩所は役場、会場は小学校なり。生徒は男女ともに股引を着するも、みな下駄または鞋を着し、佐賀県、鹿児島県のごとき跣足者あるを見ず。発起は村長庄司兵吉氏、校長木村又助氏、青年団長庄司赫蔵氏なり。本村中大字森吉は人家わずかに百六十戸に過ぎざるも、長さ六里の間に散在し、部落二十六カ村に分かれ、学校(分教場とも)五校を有す。すなわち三十二戸につき一校を有する割合なり。宿所庄司兵蔵氏は県下における素封家の一人にして、すこぶる旧家なる由。累代慈善篤行をもって聞こゆ。小作料は旧時のままを守り、田一反につき三斗を納めしむ。この地方の収穫は一反平均一石八斗ぐらいにして、小作料八斗を納むるを常例とす。地主と小作は四分六分の割合なるを常とするに、庄司家だけは別格なり。田地売買価格は一反百五十円ないし二百円なりという。しかして炭一俵十貫目につき四十銭ないし八十銭なる由。宿所の庭内は旧家だけありて老樹鬱立、苔石蒼然、古雅幽致に富む。なかんずく一桂樹の根高くかかりて、自然の天橋を成せるは最も奇なり。主人われに恵与するに、シナ製如意のすこぶる雅致あるものをもってせらる。よって一絶を賦して答謝の意を表す。

  子々孫々与徳親、一家積善潤村民、主人割愛珍如意、堪喜余慶及我身、

(子孫代々仁徳にしたしみ、一家の善行を積むことで村民を豊かにしている。その主人は珍しい如意を恵与された。喜ぶべきことにその余慶は私の身にも及んだのである。)

 六日 晴れ。舟行約二里半、舟子一棹して急流にさかのぼる。その舟、形は細くして長く、あたかもサンマ魚に似たり。両崖の林巒夏木森々、緑陰蒼々、清風おもむろにきたり水波起こらざるの趣あり。行程約二里半の間、三時間にして阿仁合町〈現在秋田県北秋田郡阿仁町〉に着す。歓迎者多し。同町は銀山、水無の両街より成る。しかして古川鉱山事務所および宿坊善勝寺は銀山街にあり。当鉱山は開坑以来三百年を経過し、やや老朽に傾ける評あり。宿寺は一昨年祝融の災にかかりしも、数カ月間に再建せりという。住職は今井了氏なり。当夕は宿所において開会す。この日、舟中吟一首あり、

  一棹扁舟泝曲流、両崖新緑染吟眸、左応右接催眠去、時有湍声来破幽、

(一そうの小舟にさおさして曲がりくねる流れをさかのぼる。両崖の新たな緑は吟詠の目を染めるかと思われた。右に左にとめまぐるしく風物を眺めるうちに眠気も消え、ときには水流の音に静けさが破られるのであった。)

 七日 晴れ。午前および夜分、小学校にて開演す。校舎、なかんずく講堂の壮大かつ堅牢なるは、県下に比類なしという。午後、鉱山事務所内に至り工夫に対して講話をなすは、所長木部一枝氏の依頼に応ずるなり。山気清涼、終日鵑声を聞く。実に夏を知らざるの仙郷なり。この地の名物は氷片栗麺なりとす。晩餐は町長宮越惣兵衛氏の好意によりその宅にて設けらる。発起兼尽力者は今井、宮越両氏をはじめとし、助役安保為治氏、校長佐々木兵一氏、仏教会員珠井了従氏、柴田寛柔氏等なりとす。

 八日 晴れ。早朝六時半、阿仁合発船。水清く気冷ややかなり。川上ときどき河鹿の声を聞き、漁鱒の人を見る。米内沢までは灘急に舟はやし。同所以下は舟行ようやく遅緩となる。七座社前に達するとき、すでに一時に近し。村長および校長のわが一行を迎えらるるに会し、上陸して本社に参拝し、更に砂上に草筵を敷き、少憩する間に酒殽を整えらる。杯を含み頭をあげ、北秋奇勝の一たる七座山の断崖壁立、蒼樹櫛比せる風光を吟賞し、昼間に赤壁の雅遊をなせるがごとき思いをなす。山名は七峰並座せるより起こりしなり。その七座ともに石骨露出せる風光は、米代川の第一勝たるの名に背かず。

  船過阿仁川上灘、社前温酒挙杯看、七峰連袂如屏立、石骨為頭聳樹端、

(船は阿仁川の急流を行き、七座社の前で温めた酒をついで杯をかたむける。七座山の峰はたもとを連ねるごとくたち、石の骨組みが頭をつき出すように樹々の端よりそびえているのである。)

 これより一曲して山後に出ずれば山本郡二ツ井町〈現在秋田県山本郡二ツ井町〉に達す。七座山の前面の奇抜なるに反して後面はすこぶる平凡なるも、その平凡なる所に青草茂生して奈良三笠山を望むがごとき趣あり。

 北秋田郡は土地広闊にして面積百六十方里あり。県下第一の大郡にして、香川県全体の面積よりもなお広しとす。しかして人口はわずかに十二万人なれば、香川県の八十万人に比するに人家のいかに稀薄なるかを知るに足る。故に郡内を一過するに、北海道の内地を跋渉せるがごとき観あり。

 郡民は一般に淳樸なるも、旧慣を固守する風あるがごとし。全国の統計によるに、濁酒密造は秋田県を第一とするうち、北秋田郡内に最も多しという。これ農家が濁酒を常用せし習慣の脱し難きによるべきも、山林深叢ありて密造しやすきによるべし。そのはなはだしきに至りては、便所の中に密造するものありとの風説を聞く。その説の真偽いかんは知らざれども、密造者の多き点は事実なる由。よって演説中に国法の重んずべきゆえんを説きて警戒を与えたり。郡内は土地広きだけ開会町村もしたがって多かりしが、佐々木郡視学は各所へ同行して諸事につき周到なる斡旋の労をとられたりしが、山本郡に入るに及んで告別するに至れり。

 二ツ井町会場は曹洞宗清徳寺にして、主催は町長豊沢富蔵氏、校長代理吉成助雄氏なり。演説後、更に茶話会を開き、学術的講話をなす。当町は阿仁合へ十里、鷹巣へ四里、能代へ六里の地点にあり。成田旅館に掲示せる宿泊料を見るに、上等七十銭、中等五十五銭、下等四十銭と記せり。聞くところによるに、北秋田郡内の猫には蚤の付くことなく、山本郡内の猫には蚤が付くという。これ一奇ならずや。この両郡内には農家の屋敷内に夏時に限り仮小屋を建つ。床の高さ四、五尺ぐらいにして、屋根は藁をもってふき、一見南洋土人の家屋に似たり。これをヤグラと名付く。

 九日 午前雨、午後晴れ。奥羽線に駕し、機織駅より転乗して能代港町〈現在秋田県能代市〉に至り、小学校にて開演す。雨中体操場、長さ十二間、幅七間の大館が聴衆のために充溢す。発起者は郡視学小松周蔵氏、西光寺住職和田竜造氏、浄明寺住職藤井静巌氏等なり。旅館村井は当地一等旅館にして、その主婦は独力奮闘三十五年に及ぶと聞く。能代名物は翁飴と春慶塗りと梨子なり。また、材木会社の工場あり。これより北方五里を隔てて椿銀鉱ある由。この夕、郡長戸崎順治氏と会食す。

 十日 晴れ。車行、松林秧田の間を一過す。目下田草取りの最中にして、婦女子の草取り歌を歌うを聞く。また、旅中の一興なり。途中、国道より右折し、八郎湖畔にそいて浜口村〈現在秋田県山本郡八竜町〉に入る。この地方の畑には麦いたってまれにして、豆およびジャガタラ〔いも〕多し。麦はいまだ刈り取らず。所吟一首あり。

  跋渉渓山入羽郷、曠原平野望蒼茫、誰知此裏多奇勝、東有十湾西八郎、

(谷や山をふみこえて羽後の里に入れば、はるかに平原が広がり、一望すれば青々とかすんでいる。いったいだれがこの地には景勝が多いと知っていようか。東に十和田湖があり、西には八郎潟の絶景が広がるのである。)

 会場は小学校、発起は村長三浦隆蔵氏、校長佐藤史郎氏なり。当村よりは北海道へ出稼ぎ人多しという。

 七月十一日(日曜) 晴れ。車にて八郎湖畔をそいて行くこと三里、鹿渡村〈現在秋田県山本郡琴丘町〉に入る。遠く鳥海〔山〕の残雪をいただくを望み、近く稲田晴湖の蒼茫たるを見て一詠す。

  路傍八郎湖上通、水長山遠望無窮、回頭鳥海峰何処、懸在雲天明滅中、

(八郎湖のかたわらに通ずる道を行けば、水は広々と山波は遠く、望めばさえぎるものとてない。ふりむけば鳥海山の峰はどこにあるのであろうか。雲と空の明暗のなかにそびえているのである。)

 八郎湖は長さ七里、幅四里、周回二十里、最深の所一丈五、六尺、水底に藻草多し。鹿渡会場は小学校、発起は村長小玉時太郎氏、校長大泉清貴氏、しかして宿所は駅前なる宮田旅店なり。郡内は小松郡視学が各所へ案内せらる。

 十二日 晴れ。午前八時、鹿渡を発し、汽車にて南秋田郡に入り、五城目駅に降りる。この間三里あり。車窓にて一望するに、湖を隔てて男鹿半島の連山、暁煙を帯び横臥する状は壮観なり。漁舟の点々相浮かび、木葉を散ずるがごときも画的なり。その間に先帝御巡行の際御駐輦の三倉鼻と名付くる勝地あり。五城目駅より車を連ぬること十余台、行くこと約三十里にして内川村〈現在秋田県南秋田郡五城目町〉に入る。小学校庭にて児童のために一言し、更に校内において公衆に対して演説をなす。発起者は大休庵住職阿部徹雄氏、村長松橋慶吉氏、校長橋本富治氏、有志家石井政五郎氏等なり。当夕、村長沢田石宇吉氏の宅に宿す。その庭園小なるもやや古色を帯び、泉声静かなること雨のごとし。主人のもとめに応じ、堂号および園名を選定して晴耕軒雨読庭となす。かつ添うるに一詠をもってす。

  一軒茅屋対林泉、霽月光風繞四辺、堪羨主人清福足、晴耕雨読楽堯年、

(一軒のかやぶきの家が林と泉に対してたち、雨あがりの晴れたうららかな風があたりをつつむ。うらやましいことに主人の清らかな福はたりて、晴れては耕し、雨には読書して、ゆたかな年を楽しむのである。)

 秋田県に入りて以来、今夕はじめて蚊帳を用う。これによりて気候のいかに冷気なるかを知るべし。当日、五城目町を一過せしにたまたま市日にして、山間数里の村落より農民の雲集せるを見る。

 十三日 雨。車をめぐらすこと一里半余にして五城目町〈現在秋田県南秋田郡五城目町〉に入る。会場小学校は旧式の建築なるもやや闊大にして、幅三間半の廊下を有す。主催は青年会および仏教会にして、発起兼尽力者は青年会長渡辺全之助氏、副会長北島卯一郎氏、助役椎名儀一郎氏、理事鈴木升礩氏ほか四名、仏教会長八木下智全氏なり。宿所永楽館は当所第一の高等旅館にして、その用材の美なるは他地方の旅館に多く見ざるものとす。郡役所より視学佐藤多助氏出会せらる。

 聞くところによるに、五城目には特殊の方言ありて、語尾にソウダというべきをソウダストンといい、ストンを付ける癖あり。よって俗謡に曰く、

  ほれてつまらぬ五城目ストン、末にストンとなげらるゝ、

 五城目より山間に入ること一里の所に馬場目村あり。その盆踊りの俗歌に「寺の前のツヽジさくもさかぬも我心」という文句ある由。また、その村より更に山間に入り、阿仁に通ずる山道に笹森峠あり。ここに一村落あるが、冬時雪深くして出入すること難し。その間に死人あるときは、死体を雪中に埋めおく由。これ土葬にあらずして雪葬なり。かくして春時雪の消するを待ち、寺僧を聘して葬式を行うという。

 十四日 雨。車行一里、富津内村〈現在秋田県南秋田郡五城目町〉太田鼎重氏の寺にて休憩し、小学校にて午前開演す。途中に生徒の出迎えあり。発起者は太田氏の外に小沢珍牛氏、伊藤聡融氏、村長伊藤五兵衛氏、熊谷、布川両校長なり。なかんずく小沢氏尽力あり。午後、更に車を走らすこと約一里半、馬川村〈現在秋田県南秋田郡五城目町〉小学校に至りて開演す。自性院住職築地竜明氏の発起にて、村長館岡助太郎氏、校長鎌田善雄氏等助力せらる。当夕、五城目町永楽館に帰宿す。目下、電灯架設工事中なり。

 十五日 晴れ。車行約一里、一日市村〈現在秋田県南秋田郡八郎潟町〉清源寺に至りて開会かつ宿泊す。住職志田義天氏は哲学館出身にして余と同県の関係あれば、独力にて奔走かつ尽力せらる。しかして役僧須藤大道氏助力あり。当寺は明治天皇鳳輦をとめたまいし旧跡にして、庭内に菖蒲と蓮との茂生せるを見、一絶を賦して住職に贈る。

  八郎湖畔古禅堂、菖圃蓮池繞後房、憶昔先皇駐竜駕、石堦猶有御痕香、

(八郎湖畔に古い禅寺清源寺があり、菖蒲と蓮の池が僧房をめぐる。おもうに、むかし、明治帝がここにとどまられたことがある。石のきざはしには、いまもなお残りの香がただようように思われた。)

 志田氏は般若〔湯〕をたしなみ、よく飲みよく談じ、意気揚然、古禅僧の遺風あり。余は酒を愛すといえども、その意気に至りては遠く及ばず。ときに余は、自己の飲酒主義につきて俗謡を作る。

  酒は飲むべし、遠慮はするな、但し正気を失ふな、

 十六日 晴れ。汽車にて土崎港町〈現在秋田県秋田市〉に至る。歓迎者多し。当地は郡衙所在地にして、郡内第一の都会なり。近年、製油工場ここに設置せらる。秋田市まで約二里の間、鉄道馬車の便あり。宿所は西船寺にして、多田義観氏その住職たり。余が先遊の際にもこの寺に止宿せり。午後、同寺において老年会のために講話をなす。その会なるや、町内六十歳以上の者相結びて会を組成し、毎月一回集合して懐旧談をなすという。会長は多田氏の老父多田諦観氏なり。当夕は隣寺休宝寺において更に開会す。聴衆、堂に満つ。真宗九行会の主催にかかる。この日、郡長曲木光弼氏来訪あり。

 十七日 晴れ。午後、男子小学校にて開演す。主催は郡教育会にして、会長近江谷栄次氏、副会長水原豊吉氏、女子小学校長中山文太郎氏等の発起にかかる。しかして九行会の方は多田義観氏、清沢竜哲氏等の発起にして、なかんずく多田氏最も尽力せらる。余の氏とはじめて相識れるは明治二十四年二月、高知県巡遊のときなり。その年の夏期、秋田県にきたりて再会し、今回また相遇いて互いに健在無恙を祝するを得たり。町内は目下、祭礼の準備中なり。

 七月十八日(日曜) 晴れ。土崎駅より汽車にて脇本に至り、これより馬車にて走ること一里半、船川港町〈現在秋田県男鹿市〉に入る。この間、鉄路いまだ全通するに至らず、土崎と船川との間は陸路八里、海路七里ありと称す。会場は小学校、主催は青年会、休泊所は資産家沢木別荘楽水亭、発起者は林光禎氏(町長)、沢木晨吉氏、同再吉氏(会長)、籾山八百吉氏、村上一応氏等なり。楽水亭は丘上にありて前に寒風山と相対し、下には船川湾を一瞰し、遠く海波を隔てて由利郡一帯の連山を望見するところ、実に対画の観あり。ときに一首を浮かぶ。

  避暑宜登楽水台、一湾晴景眼前開、披襟対坐皆忘夏、凉自寒風山頂来、

(暑さを避けるには丘の上の楽水亭に行くのがよい。船川湾の晴れやかな景色が目の前に開ける。えりをくつろげて、ゆったりとこの風景に対すれば、夏であることさえ忘れよう。涼しさは寒風山のいただきから吹いてくるのである。)

 寒風山の名称は、男鹿半島中に漢武帝を祭りし所あれば、漢武の音転して寒風となりしとの説あれども、実際その山より吹き下ろす風は名のごとく寒風なり。この山と真山、本山とを合して男鹿三山と称す。船川より海岸に沿いて外浦に出ずるときは、東北第一の奇勝と呼ばるる竜嵓、鬼窟を探検するを得るも、時間に余裕なきをもって果たさず。ただし絵葉書、案内記等につきて試吟せるものあり。

  雄鹿風光奇更奇、天工神妙尽于玆、勧君欲接其真景、須読三郎頼氏詩、

(男鹿の風景はすぐれた上にすぐれて、天工の神わざがここに尽くされていると思われた。君がこの真の景観に接しようと願うならば、頼三樹三郎氏の詩を読むべしとすすめたい。)

  奇嵓為列岸頭欹、自有威風圧北陲、松嶋女装雖可愛、不如男鹿現雄姿、

(めずらしい変わった岩が列をなし、岸べにそばだつ。おのずから威風があり、この北の地のあたりを圧している。松島のやさしげな姿は愛すべきであるが、男鹿のたけだけしい姿にはおよばないようである。)

 古人の吟詠中、最もよくその真景を写し得たるものは頼三樹三郎氏の七律なりとの評なり。その詩に曰く、

  鴨村山下借仙橈、峭壁奇青出海潮、崖樹陰冥老麋睡、洋風空濶大涛驕、窟開鮫殿黒無底、石巻竜身天有橋、男子一捜雄鹿嶋、松洲始覚属妖嬈、

(加茂村の山のふもとで、かいの力を借りて、そびえたつ断崖の青々とした海の潮にこぎ出れば、崖の樹の深いかげに年老いた鹿がねむり、広々とした海から吹く風が大波をあげる。鬼窟が口をあけ、鮫殿は黒々として底さえ知られず、あたかも岩石は竜身をまきつけてのび上がり、天に橋のかかるようである。男子がひとたび男鹿島を見るならば、松島が初めてたおやかな女性的な風光に属するものであることがわかる。)

 この地は目下築港中なれば、落成とともににわかに発展するに至るべし。倶楽部も大仕掛けにて建築中なり。余に命名を嘱せられ、大観閣と選定す。実に山海万象を大観すべき位置にあり。夜に入りて家庭講話をなす。

 十九日 晴れ。馬車および汽車にて秋田市〈現在秋田県秋田市〉に移る。会場は県公会堂にして、その壮麗なるは東北第一と称す。主催は郡教育会なり。聴衆、充溢す。知事坂本三郎氏を訪問せるも不在なり。当夕、秋田公園松風亭において開催せる、哲学館出身者および教育家諸氏の懇親会に出席す。席上面会せる諸氏は左の十名なり。

中学校長児玉実徳氏、女子師範学校長菊池俊諦氏、高等女学校長藤原正氏、工業徒弟校長東山多三郎氏、図書館長岡忠精氏、本誓寺住職笹原貫軒氏、妙覚寺真崎霊聖氏、一乗院加藤義恵氏、新聞者笹木祖淳氏、県属増田秀言氏。

 更に県官の招待をかたじけのうし、倶楽部別荘に移りて内務部長米田甚太郎氏、警務部長豊田勝蔵氏、教兵課長久米成夫氏、教育課神谷勇三氏と晩餐をともにし、歓を尽くして宿寺本誓寺に帰る。住職笹原氏は哲学館出身にして、先年東北諸県巡講当時の随行者たり。真崎、笹木両氏も哲学館出身、藤原、増田両氏は京北出身なり。当夕、倶楽部において名物秋田オンド一節を聞く。

  秋田名物八森鰰、男鹿では男鹿ブリコ、能代春慶、桧山納豆、大館曲ワツパ、

 ハタハタは秋田県に限りて産する魚なる由。ブリコはハタハタの子なり。その形アジに似て二、三倍大なり。色は褐色にして、頭蓋骨中に剣形をなせる骨あり。よって鰰と名付くという。余の秋田市にきたるやここに三回、先年は石橋旅館に宿せしを記憶す。

 二十日 晴れ。午前、女子師範において開演す。弘道会秋田支部の主催にして、児玉、菊池、笹原、東山等諸氏の発起にかかる。これより汽車にて大久保駅に降り、更に行くこと半里、飯田川公園に登りて休憩す。八郎湖、男鹿山を一望する好観覧台なり。即吟一首あり。

  湖如鏡面照我顔、男鹿三山指顧間、晴景固佳雨還好、八郎第一是斯関、

(湖は鏡のように私の顔に照りはえ、男鹿の三山はきわめて近くに見える。晴れた景色はもとよりよいが、雨の風情はなおよい。八郎潟の第一の観望の所であろう。)

 会場はその台下なる小学校〔飯田川村〈現在秋田県南秋田郡飯田川町〉〕にして、東伝寺住職佐藤哲道氏、村長間杉作太郎氏、校長菊池総四郎氏の主催にかかる。演説後、更にまた大久保村〈現在秋田県南秋田郡昭和町〉円福寺に至りて開演す。住職半田黙堂氏、校長高岡祐四郎氏等の発起なり。円福寺は先帝御駐輦の跡にして、今なお玉座の室を保存せり。再び車をめぐらして東伝寺に少憩するに、日まさに暮れんとす。湖山の眺望なきも、天然の小渓山を庭園とし、松樹おのずから装をなし、一種独特の風致を有す。これより行くこと半里余にして、醤油および酒醸造家小玉友吉氏の宅に宿す。その名酒に「太平山」と「八竜」との二種あり。「八竜」は八郎湖の雅名なりという。

 二十一日 晴れ。車行一里にして大久保駅に至る。この地方は石油噴出地にして、山腹に秀出せるヤグラを望むを得。これより汽車にて秋田市に帰る。同市およびその付近は台湾蝶多く発生し、停車場内の天井のごときはその蝶のために一面に黄色を点ず。形は普通の蝶なれども、黄粉身に満ち、もしその粉人の皮膚に触るるときは、たちまち腫れ上がりて痛癢を起こす。これ秋田県特有の蝶なり。先年台湾占領の年、非常に繁殖せしより、台湾蝶の名を得たりという。故にかの地より輸入せるにはあらず。午前、監獄に至りて講話をなす。典獄は佐野佳夫氏なり。午後、浄土宗当福寺にて開演す。

 二十二日 晴れ。秋田本誓寺を去りて鉄路により、再び男鹿半島に向かう。車窓より望むに麦刈り最中なり。七月末の麦刈りは北海道に似たり。船越駅に降車し、更に馬車に移り、行くこと一里にして払戸村〈現在秋田県南秋田郡若美町〉字渡部に至る。会場は小学校、宿所は渡部景基氏の宅なり。同氏の二代前、渡部斧松氏は八郎湖畔を埋め、寒風山中に貯水池を設け、新田を開墾せしこと四百町歩の多きに及び、近郷今日に至るもその余恵に浴すという。よって余はその屋に題して有隣軒と書す。余徳四隣に及ぶの義なり。同家の庭園は抱くに池水をもってし、めぐらすに林木をもってし、すこぶる幽邃高雅の趣を有す。また、その軒下に先人の作にかかりし、大蛙が蛇をのみたる石質の水器あり。学校には一種新意匠の貯金箱あり。発起は校長石井忠修氏、青年会長加藤豊吉氏、宗教家地森玄悦氏等なり。男鹿半島にはマンダラ節と名付くる俗謡ありというも、ついに聞くことを得ず。ここに至り秋田県北部四郡と秋田市との日誌を結び、南部五郡は段落を改むることとなす。

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秋田県南部巡講日誌

 大正四年七月二十三日 雨。早朝五時半、南秋田郡払戸を発し、秋田市に降車し、これより自動車に駕し、由利郡本荘町〈現在秋田県本荘市〉まで約十一里の間を二時間未満にして着す。途中、左に砂丘、右に滄溟に応接しつつ走る。車上の一吟、左のごとし。

  自動截風如隼翔、左山右海送迎忙、飛洲鳥岳茫難見、烟未消中入本荘、

(自動車は風をきってあたかもはやぶさのとぶがごとく行く。左に山、右に海の次々に変わる景色を見るにいそがしい。飛島も鳥海山も茫々として見定めがたく、もやのまだ消えぬうちに本荘町に入ったのであった。)

 旅館小松屋に入りて後、豪雨襲来す。午後、婦人会の依頼に応じ、女子小学にて講話をなす。

 二十四日 晴れ。暑気にわかに加わり、日中〔華氏〕八十五度にのぼる。午後、公会堂にて開演す。面積七十坪の大堂ほとんど立錐の余地なし。堂内に氷塊を積み、香水を散ずる等、用意すこぶる周到なり。当地にては特に井上博士招聘会を設けられ、望外の優待歓迎を受く。晩餐には幹部の諸氏と杯膳をともにす。その席に列せられたる諸氏の姓名、左記のごとし。

助役伊藤茂治、小学校長金沢長吉、医師小川祐次郎、女子校長松戸久治、教員清野芳治郎、同武田安平、天然寺白幡静美、蔵堅寺伊藤天海、泉流寺武藤儀道。

   (以上、次第不順)

 その他発起人として永泉寺本郷義道、願永寺小関公忍、正願寺神保貫赫の三氏あれども列席なし。これら諸氏の多大の尽力によりて盛会を得たるのみならず、哲学堂維持金も望外の多額を拝受し、希有の好成績を得たるは殊更深く感謝するところなり。食後、合作合書の余興あり。当地名物は桑酒なり。その味は備後鞆津の保命酒に類す。俗謡に、

  本荘名物ヤケヤマワラビ、焼けばやくほど太くなる、

とあれば、ワラビもまた名物の一なるべし。

 七月二十五日(日曜) 晴れ。郡書記榊嘉福氏の先導にて本荘を去る。車行四里の間は砂浜松丘を出没して平沢町に達し、これより横道に入り、更に行くこと一里にして院内村〈現在秋田県由利郡仁賀保町〉曹洞宗陽山寺に着す。山門の仁王尊は迷信のために泥土をもってけがさる。開会は村長佐々木興治氏、収入役関平治氏、校長戸賀瀬力氏等の発起なり。京北出身佐藤大八氏も助力あり。宿寺、後軒の庭園多少の雅致を有す。この日はじめてひぐらしの蝉声を聞く。当日、途上吟一首あり。

  松林断続路高低、出到沙浜海色迷、借問満洲何処在、 遙於鶻影没頭西、

(松の林が断続し、道もたま高下す。砂浜に至れば海の色はどんよりとしている。問う、満州はいったいどこにあるのであろうかと。ときに、はやぶさがはるか西のかたに消え去ったのであった。)

 二十六日 雨のち晴れ。今朝、佐々木村長は西南戦争の際、抜刀隊に加わりて肥薩の間に転戦せりというを聞き、一詩を賦して贈る。

  報国丹心老未休、進為村吏亦風流、追懐四十年前事、一剣飄然入薩州、

(国恩にむくいんとする真心は老いてもやむことなく、進んで村長となり、また風流びとでもある。四十年も前のことを思い起こせば、一剣をいだいて身軽に薩摩の地に入ったのである。)

 これより再び平沢を経て金浦町〈現在秋田県由利郡金浦町〉に至る。車行二里半なり。この辺り一帯の海岸は防風林数里に連なり、一方には蒼海の際涯なきを望み、他方には鳥海〔山〕の雲表に巍立するを仰ぎ、すこぶる壮快を覚ゆ。また、沿道の民家の防風牆を屋前に作り、屋上に石を置くがごときは越後西頚城の海岸にひとし。ただしその石は小石を用い、屋上一面に敷くは北越と異なるところなり。昼間は小学校、夜間は浄蓮寺において開演す。助役桐田多仲氏、教員本田久之助氏、僧侶白瀬知行氏等の発起にかかる。南極探検隊長、陸軍中尉白瀬矗氏は浄蓮寺の出身なり。余は先年濠州シドニーにおいて相識となりしが、この地において図らず〔も〕再会せり。当町には真言宗信徒多しと聞く。宿所は若松旅館なり。

 二十七日 晴れ。車行一里半、象潟町〈現在秋田県由利郡象潟町〉に至る。海水浴のために各中学生ここに集まる。会場および宿所は古刹大寺をもって名ある蚶満寺なり。伽籃は蔚然たる古松老樹の間にあり。門前には小公園の設備あり。境内に種々の遺跡を有す。宝物もまた少なからず。この地もと八十八潟九十九島ありと称し、松島以上の勝地なりしも、百余年前の震災により、海底昇起して水全くかれ、今日はことごとく稲田となれり。ただ、稲田の間に小巒の起伏せるを見て、いささか昔時の余影をとどむるのみ。蚶満寺の壁上に百年前の真景を掛くるあり。よって二首を賦す。

  桑溟事変及名湖、象潟風光今已無、尋跡来遊蚶満寺、壁頭懸見旧時図、

(うなばらは変化して名湖に及び、いまや、象潟の風景はすでにない。その跡をたずねて蚶満寺に至れば、壁に旧時の姿をえがいた図が掛けられているのを見たのである。)

  由利浜頭勝景多、客車先向象湖過、昔年百潟千洲跡、今作秧田万頃波、

(由利浜のあたりはすぐれた景色が多い。客車はまず象潟湖をすぎる。むかしの百の潟、千の島の跡は、いまや稲田が広々とひろがり波うっているのである。)

 この町において海軍少佐藤井雅氏、本荘中学校長安河内健次氏、横手中学校長林端氏、郡視学木内喜七氏に面会す。菊池県視学もここに出張せらる。婦人会と公会と両度出演す。宿寺住職植木石英氏、町会議員須田織之助氏、小学校長川上勝三郎氏の発起にかかる。当夕は須田氏の宅にて晩餐を設けらる。象潟より秋田市まで十八里、山形県界の有耶無耶の関まで三里、酒田港まで十里半あり。また、日本海の一孤島たる飛島へ九里ありという。海浜にて望むに、全島平岡にして山嶺なし。その島の風土につきては種々珍談あり。かつてこの島に渡りたるものが、八十以上の老婆に向かい、なにか生涯の所望なきやと問いたれば、なにも望みなし、ただ死ぬまでにただ一度馬を見たいと思うのみと答えたる由。実際、馬も犬もおらざるとのことなり。また、その島にて親達が子供を叱るときに酒田へ追いやるぞという由。諺にいわゆる住めば都なるものか。全島米田なく、漁業を本業とす。なかんずく烏賊が特産なり。真言宗の寺院が一カ寺あり。毎月三回、各戸を巡りて托鉢をなすきまりなるに、そのつど米の代わりに鯣三枚ずつを与うると聞く。所轄は山形県に属す。

 二十八日 炎晴。車行三里強、平沢町〈現在秋田県由利郡仁賀保町〉小学校に至りて開演す。校長佐藤憲輔氏、有志三浦友助氏等の発起なり。当町は内務省より表彰せられたる模範村なりと聞く。夜に入りて明月天にかかる。旧十七夕なり。

 二十九日 炎晴。日中〔華氏〕八十五度。車行五里、砂丘を越えて稲田の間を過ぐ。婦人、除草するに面部をおおい、両眼だけを出だす。由利郡は丘山多けれども米田に富み、県下にて米質最もよしとの評なり。この日、雲全く晴れ、鳥海山の倒蓮の形を露出して蒼空にかかかるところ、すこぶる壮観なり。会場は東滝沢村〈現在秋田県由利郡由利町〉前郷曹洞宗慶祥寺にして、村長多田善治郎氏、校長河西常治氏の主催にかかる。当夕、有志家尾留川安彦氏の宅に宿す。氏は高等師範出身なりという。

 三十日(明治天皇祭) 炎晴。車行三里余、鳥海山麓ともいうべき矢島町〈現在秋田県由利郡矢島町〉に移る。渓風清涼、岳色近く顔に映ず。車上吟一首あり。

  矢島渓頭車路通、満身凉気訝秋風、羽山雲尽夏光好、一朶倒蓮懸碧空、

(矢島町の谷のほとりに車道が通じ、満身に涼気をあびて秋風が吹くかとおもわれた。羽後の山と雲の尽きるあたりに夏の光が輝き、一本の蓮をさかさまにして青空にかけたように見えるのは鳥海山である。)

 途中、鮎および鱒を漁するものを見る。昔時は川中に毒を流し、魚類を毒殺する方法を用いたる由なれども、近年はこれを廃するに至れりという。その毒漁法を聞くに、今日台湾蕃界にて用うる仕方に異ならず。小学生徒一同および有志者多数、町外に出でて歓迎せらる。会場および宿所は旧藩主の菩提寺たる竜潭寺にして、その住職土屋密禅氏は哲学館大学出身なり。昼夜ともに開会す。発起および尽力者は土屋氏および町長土田正作氏、校長近藤政之助氏、広祐寺住職伊藤広施氏等なりとす。宿寺は幽邃閑雅にして消暑に適す。庭前の蝉声月色、すでに夏の深きを知らしむ。壁上に幽霊の図を掲ぐ。よって一吟す。

  山深金嶺山、寺古竜潭寺、壁上掛幽霊、欲防魔物至、

(山は深い金嶺山、寺は古い竜潭寺。壁には幽霊の図がかけられ、よって魔物の来たるを防ごうとするのである。)

 金嶺は同寺の山号なり。矢島は本荘より六里半を隔つ。前郷はまさしくその中間に当たる。

 三十一日 炎晴。車行約五里、石沢村〈現在秋田県本荘市〉に至る。朝気〔華氏〕七十度、日中〔華氏〕八十五度、人みな酷暑と称す。本村は純然たる農村なり。昨今連日炎晴、農家はかえって豊作の兆しなりとて大いに喜色あり。会場は曹洞宗大蔵寺、宿所は須田宇兵衛氏宅、発起は村長小松仁五郎氏、郵便局長小松亀次郎氏、校長猪股徳円氏、訓導伊藤雄之助氏にして、なかんずく猪股校長大いに奔走あり。晩食は猪股謙二郎氏宅にて備えらる。邸宅ともに広し。

 八月一日(日曜) 炎晴。暁風すでに秋味を帯ぶ。この日一天雲なく、午下の炎熱やくがごとし。行程七里の間、本荘を経、海岸にそい、碧海渺々の中に白帆点々たる風光は、壮観にしてかつ美的なり。午前中に亀田町〈現在秋田県由利郡岩城町〉に着す。午後二時、暑気〔華氏〕九十度に進む。入県以来はじめての高熱なり。昼間は小学校において公衆のため、夜間は長照寺において婦人会のために演説す。この日、午後より夜分へかけ天全く晴れ、四面片雲を見ず。発起者は僧侶松山祥瑞、山崎法随、小川全栄、児玉了遵、斉藤円随の四氏、および助役岡部謹之助氏なり。郡長深谷泰蔵氏来訪せらる。榊郡書記は各所へ伴行してここに至る。亀田はもと岩城家の城下なりしも、近年交通不便のために衰微の色あり。ただし当地の特産としてゼンマイ織を製出す。野生のゼンマイの綿をとりて織りたるものにして、珍産の一なり。宿所は早川旅館にして、その室内に宿泊料一等一円、二等七十銭、三等五十銭、下宿料一カ月八円より十二円までと掲示せるを見る。

 二日 炎晴。車行一里、松ケ崎旅店にて少憩す。その家の天井に正月の鏡餅を、団扇形に作りたる藁細工の中にいれてつるせるあり。聞くところによるに、旧六月一日には歯がためと称してその餅を食し、団扇形の藁具を門側の木にかけおくを慣例とすという。これ魔よけ、病気よけの効ありと信ずるもののごとし。暫時にして自動車に便乗し、松ケ崎より河辺郡新屋町〈現在秋田県秋田市〉まで六里の間を五十分間にて達するを得たり。昼間、小学校、夜間、忠専寺において両度開会す。主催は青年会にして、小野熊吉氏、川口憲治郎氏、仙葉善之助氏の発起なり。この日、郡役所より郡視学戸沢久治氏来会せられ、秋田市より笹原、東山両氏来訪あり。当地は秋田市をへだつる一里余にして、海水浴場たり。海岸には一帯の砂丘あり。今より百年前、栗田如茂翁、幼名仁助、通称定之助氏、十八年間自彊不息の精神をもって防風防砂林を培植したりしに、その功空しからず、村民今日に至るまで余恵を受け、風砂のために苦しめらるることなし。人みなその徳を敬慕して、栗田神社を建ててこれを祭る。余はもとめに応じてその社名を書す。これ社前に奉納するものなりという。

 三日 炎晴。車行二里半、秋田市を迂回して仁井田村〈現在秋田県秋田市〉に至る。純然たる農村なり。毎朝、秋田市青物市場へ野菜を送り出だすをもって生計を立つるもの多し。村長館岡政千代氏、校長奈良淳吉氏の発起にて、小学校において開会し、館岡村長の宅に宿泊す。仁井田には昔時、武士舞いと名付くる舞踏あり。名のごとく刀剣を抜きて舞うものなりと聞く。

 四日 炎晴、ただし東風強し。車行約半里、四ツ小屋村〈現在秋田県秋田市〉長加藤繁蔵氏宅に休泊す。その宅は新築まさに成り、清風軒に満ち、すこぶる清涼なるも、昨今両日の暑気は〔華氏〕九十度を超過せり。加藤氏は札幌農学校出身にして、内には読書室を置き、外には農園を設けらるるを見。新館に命名を与えて耕読軒となす。会場小学校楼上は太平山と相対し、耕地整理を眼下に見る。郡長安達将総氏、特に来会せらる。聞くところによるに、この辺りの労働賃銀は一日三十五銭ないし四十銭なりという。

 五日 炎晴。早朝五時、すでに〔華氏〕八十度なり。車行一里半、岩見川を渡船し、川添村〈現在秋田県河辺郡雄和町〉小学校に至りて開演す。青年会の主催にして、村長伊藤多雅司氏、校長柳沢周之助氏等の発起なり。演説後、更に車を命じて行くこと一里、御物川を渡船して川添の一部落たる水沢伊藤忠治氏の宅に至り、ここに一泊す。その庭園、山に踞して幽雅なり。この日午後、雨まさにきたらんとすること数次にしてついに降らず、農民望霓の思いをなす。

 六日 炎晴。朝眠いまださめざるに、鴬声枕頭に入りきたる。宿所より戸米川村〈現在秋田県河辺郡雄和町〉字女米木まで一里余の所、高低多く、車行すこぶる難渋なり。玉竜寺にて開会。村長石井弟助氏、校長荒木房治氏の発起にかかる。宿所は加藤久吉氏の宅なり。その新築座敷は軒下に御物川を帯び、眺望すこぶる佳なり。よって臨江閣と命名す。この夕、降雨あり。県下は二十日間炎天相続き、田畑ともに枯死せんとするの際なれば、一滴千金のあたいありと称す。

 七日 穏晴、ただし蒸熱の気味あり。小舟に駕し、下行一里にして種平村〈現在秋田県河辺郡雄和町〉に入る。御物川は県下第一の巨川なるも、水面低くして潅漑の用をなさず。ただし堤防を築くを要せざるの便あり。会場は種沢学校、宿所は伊藤忠彦の宅、発起は村長遠藤仲之助氏、校長駒木根隆広氏等なり。この日、宿所において仙北唐松神社よりきたれる獅子舞を見る。本郡巡回中、毎日御物川を渡り、太平山を望みて巡講せし間に、一詩を案出せり。

  沃田如海望蒼茫、稲色蝉声夏已央、連日太平山下路、渡江踰壑説倫常、

(肥沃な田園は海のごとくひろがり、望めば青々としてかすんでいる。稲の輝きと蝉の声は、夏もすでになかばであることをしめす。連日、太平山のふもとの道を行き、川をわたり、谷をこえて、人として常にふみ行うべき道を説いてまわったのであった。)

 八月八日(日曜) 炎晴。馬背にまたがり、曠原を横断して和田駅に至る。原上耕地なく、潅木矮草茂生するのみ。ひとり太平山の当面に巍立せるあり。これより汽車三十分にして境駅に着す。唐松神社はこの地にあり。遠近より参拝するもの毎日たうることなしという。これより腕車にて行くこと約二十丁にして船岡村〈現在秋田県仙北郡協和町〉に入り、小学校にて白瀬南極探検隊長と前後して演説す。村長遠田順治氏、校長高橋金助氏の発起なり。川添以来、視学に代わりて案内せられたる根本磐蔵氏は、東洋大学に在学せしことありという。

 九日 炎晴。腕車にて境駅にかえり、これより鉱山用土呂車に駕して走ること二里半、荒川鉱山市街に入る。三菱会社の所有にかかる。荒川村〈現在秋田県仙北郡協和町〉は仙北郡なり。倶楽部において休泊す。当夕、大盛小学校にて夜会を開く。六間十二間の大講堂あり。鉱山長納村章吉氏の発起なれども、上京にて不在、副社長石原久児氏、庶務掛長白仁伊之吉氏、代わりて斡旋せらる。村長は細谷高光氏、校長は石井荘治氏なり。

 十日 曇り。再び土呂にて境駅に至り、汽車にて走ること三十分、神宮寺町〈現在秋田県仙北郡神岡町、大曲市〉に移る。車窓にて昨春の秋田県大震災の中心に当たれる場所を望見す。会場は昼間、小学校、夜間、宿坊宝蔵寺なり。同寺は曹洞宗中由緒ある寺にして、境内喬杉多く、最も消夏によろし。また、当所には県社八幡神社あり。発起は住職嵩慈春氏、町村長斎藤新三郎氏、校長伊藤俊蔵氏、顕彰婦人会長理事富樫つる子等なり。しかして宿泊中、清浄なる精進料理と扇風器をもって待遇せられたり。本町は明治戊辰の際、佐竹藩と奥羽連合軍と御物川を挟みて激戦せし古戦場なり。

 十一日 熱晴。一、二回驟雨きたる。神宮寺より大曲町〈現在秋田県大曲市〉に移る。その距離一里半、県下第一の仙北平野の中央にきたり、今昔を対照して所感を述ぶ。

  再遊仙北望山河、風過稲田飜緑波、沃野依然人独改、旧知今日白頭多、

(ふたたび仙北平野をおとずれて山河を一望すれば、風は稲田を吹きすぎて緑の波をひるがえしている。この肥沃の野は昔のままであるが、人にのみ変化がおこり、旧知の人々も今日では多く白髪となった。)

 宿所および会場は安養寺にして、住職板先教瑞氏の主催なり。庭内の白蓮と軒前の太平山とは当寺の特有とす。その山は秋田太平にあらずして仙北太平なり。山容両ながら相似て、ただ大小の差あり。このとき稲田すでに穂を抜く。郡長吉田禳氏不在、郡視学長沢浩気氏病臥中なりと聞く。郡書記石崎順治氏来訪あり。氏は京北出身なり。

 十二日 曇り、ときどき降雨あり。車行五里、平田の間を一過して角館町〈現在秋田県仙北郡角館町〉に至る。郡内第二の都会なり。会場は小学校、発起は町長椎名政彬氏、校長佐藤駒吉氏、書記吉成助孝氏、同宮崎虎蔵氏等とす。夜に入り、更に寺院において仏教会のために演説をなす。宿所は石川旅館にして、久米理事官と同宿す。その前日は当地にて二歳駒の共進会ありしと聞く。角館名物は獅子舞とオバコ節なり。その舞は獅子面を蒙り、太鼓を腹に付け、これを打ちつつ舞う。すこぶる勇壮なりという。昔時、尚武の気を養うために工夫したるものとの説あり。オバコ節の文句は左のごとし。

 (一)ヲバコなぼになる、此年暮せば、十と七つ、

 (二)ヲバコ何処へ行く、後の小沢コに、ホナコ折ルに、

 (三)ヲバコこのじゆ見もやせず、風でも引いたかと案じられる、

 (四)ヲバコ心持、池の端の蓮の葉の溜り水、チコシ(少々)さはるヂドコロ★★(原文では、くの字点表記)転んで側に寄る、

 オバコとは次女の意なり。次女をオバという。コを加うるは秋田県の方言にて、名詞の下にすべてコを添ゆる故なり。ホナコは野生の菜類をいう。全く純然たる方言にて作りし俗謡なり。

 角館より山間に入ること五里、十和田湖に次ぐべき田沢湖あり。腕車にて往復するを得。水底の深きことは日本第一にして、世界中にても第二に位すという。水色深碧洞明なる点も日本第一なり。余、ここに討尋するのいとまなく、絵葉書を見、案内記を読みて一詩を賦す。

  槎湖幾仭深難究、随処媚山明水富、不啻波光碧瑠璃、五奇四勝兼三秀、

(槎湖〔田沢湖〕はどれほどの深さであるのかきわめ難いほどである。いたるところに美しい山と美しい水が豊かにある。ただに水波の青い玉の輝きのみならず、五奇、四勝、三秀の風光があるのだ。)

 その周囲の風光をかぞうれば、五奇、四勝、三秀ありと聞く。槎湖とはその雅名なり。

 十三日 晴れ。角館より車をめぐらし、大曲に入らず、澗道より耕地整理の稲田井然たる中を一過して高梨村〈現在秋田県仙北郡仙北町、大曲市〉に入る。村田過半、穂をぬきんず。本村には県下第一の素封家池田文太郎氏の邸宅あり。田間に一大区域を設け、華族然たる門庭を有す。目下改築工事中にて、数十人の職工これに従う。すこぶる大設計なり。主人は温厚篤実にして、大いに名望あり。その宅にて午餐の饗応を受く。午後、小学校新築講堂にて開演す。その構造の壮麗なるは中学校以上なり。当夕は分家池田礼治氏の宅に宿す。県視学桑原茂治氏、医学士西山員光氏もここに同宿せらる。同家の新築は意象を凝らし、完美を尽くせしものとす。また、庭園の小丘を控え、清泉を帯び、木石配置のよろしきを得たるがごときは美にして俗ならず、実に県下第一の邸宅なり。

 十四日 炎晴。朝来、宿所の窓下に古狸仏の木像を置かる。老狸僧衣を着し、如意を持し、人に向かいて説法せんとする形なり。数百年前の彫刻なるも、なにびとの作なるか明らかならず。けだし僧侶の真情を寓せしものならん。余、これを熟視して一詩を案出す。

  暁対林泉談笑移、窓前木仏看逾奇、獣身僧服君休怪、我亦人間一老狸、

(暁のもとで林や泉にむかって談笑しつつ時を移す。窓の前には木仏があり、見てはいよいよめずらしき思いをなす。それは狸の身に僧衣をまとっている。しかし、君よあやしむをやめよ、われもまた人間世界の一老狸なのだから。)

 高梨開会の尽力者は助役藤肥良治氏と池田家番頭高橋珍平氏なり。池田家より哲学堂へ多額の維持金を恵与せられたるは感謝の至りに堪えず。これより車を走らせて行くこと一里半、六郷町〈現在秋田県仙北郡六郷町〉に入る。宿所および会場は浄光寺なり。住職枝川専岳氏および宮野城氏等の発起にかかる。当夕、にわかに秋冷を催し、終夜蛩声を聴く。いかに秋田県は名が秋なればとて、秋風のきたること、なんぞ早きやを思わしむ。

 八月十五日(日曜) 晴れ。六郷の名物は清水と寺院なりという。町内数カ所に清泉流出す。これを仁手古清水と名付く。その水清くして冷ややかなり。これを明治天皇御巡幸の際奉薦せりとて御膳水と標示せり。早朝、ここに行きて一喫す。つぎに、寺院の多きこと全町一千戸の所に三十五カ寺ありという。一カ寺平均三十戸未満の檀家を有する割合に当たる。そのうち七分どおりは真宗なり。午後、郡教育会のために小学校において開演す。この校は明治十六年に建築せし木造の西洋館なり。当時、学校建築法を知らず、県庁を模範として作りしに、かえってその学校が他校の模範建築となりし由。今日の開会発起者は学事会長坂本理一郎氏なり。

 十六日 晴れ。最初、金沢町開会の予定なりしも、故障ありて平鹿郡角間川町〈現在秋田県大曲市、平鹿郡大雄村〉に至る。道程約二里、車上一望、稲田出穂やや整い、沃野千里の観あり。小学校にて開会せるに、隣村に東京大相撲の興行ありとて、聴衆稀少なり。もし孔子をして言わしむれば、われいまだ演説を好むこと相撲を好むがごときものを見ずと嘆息せられん。発起は町長落合正蔵氏、校長須田勇助氏、学務委員平野虎吉氏なり。当夕、大山旅店に宿す。本町はもと御物川の要津にして、物産集散地なりしが、鉄道開通以来、打撃を受けたりという。

 十七日 炎晴。早朝、郡長三神正健氏の来訪あり。更に六郷を経て仙北郡金沢町〈現在秋田県横手市、仙北郡仙南村〉に至る。六郷より金沢まで国道二里の間は喬杉道側に並列し、互いに枝葉を交えて日光を漏らさず。故に夏時の旅行によろし。主催は格知青年団、発起は伊藤直温氏、会場は光蓮寺、宿所は倶楽部なり。

 十八日 炎晴。金沢は後三年役の古戦場にして、雁行の乱るるを見て伏兵あるを知りたるもこの地なり。源義家将軍が武衡、家衡と戦い、ついに大勝利を得たりとて、石清水八幡の分霊をここに祭れる八幡社あり。早朝登拝するに急坂約十町、全身汗を絞る。山上の眺望すこぶるよし。つぎに、鎌倉権五郎景政が義家将軍に従い、大いに武功ありて、その斃せる敵屍を埋めたりし塚あり。これを功名塚という。この周囲に小公園あれば、これを一覧しつつ所感一首を賦す。

  古城邱畔独彷徨、物換星移感自長、八百年前横槊跡、今為吟月嘯風場、

(古城の丘のあたりにひとりさまよい行けば、物も歳月も移りかわった感懐はひとしおである。八百年前の柵の跡は、いまや月に吟じ風にうそぶく場となったのである。)

 金沢を去り車行二里、平鹿郡横手町に入り、更に二里にして浅舞町に至り、更にまた二里にして沼館町〈現在秋田県平鹿郡雄物川町〉に着す。合計六里。会場は小学校、宿所は高田旅館にして、町長塩田団平氏、助役小西八右ヱ門氏、宗教家高橋義端氏、校長石井慎三氏、みな尽力あり。高橋氏には二十五年を隔てて再会し、今昔を比較して一絶を浮かぶ。

  沼館今宵憶昔遊、貢川依旧自悠々、客窓相会堪長歎、君作禿頭吾白頭、

(沼館の今宵は昔の遊歴を思い起こし、貢川はもとのままに悠々と流れているのをみる。客室の窓べにめぐり会って長嘆息したものである。君は禿頭となり、われは白頭となっているのだ。)

 本日より郡視学田代赴夫氏、各所を案内せらる。沼館近傍の御物川筋には水中に住する一種の毒虫、方言ケダニ(恙虫)に悩まされて死するもの毎年たえずという。

 十九日 晴れ。車をめぐらして浅舞町〈現在秋田県平鹿郡平鹿町〉に移る。会場は小学校、発起は町長真田亀治氏、校長佐々木忠氏、宿寺玄福寺住職照井優花丸氏等なり。学校の玄関と表門との間に完備を尽くせる奉安室あり。その美観はただに本県において比類なきのみならず、他府県においても余のいまだ見ざるところなり。表門もまた石柱のみるべきものあり。また、当地にては故伊勢多右ヱ門氏の開かれたる公園と建てられたる天皇陛下遙拝所もその名県下に高し。宿所の後軒は稲田に面し、隴頭の清風稲花を吹きてその香を送りきたる。また、夜に入りて蛩声喞々、秋気満庭の趣あり。

 二十日 曇りかつ雨。車行約一里、植田村〈現在秋田県平鹿郡十文字町・平鹿町〉に入る。ここに小公園ありて清泉湧出す。その園側に立てる近伊左衛門氏の別荘に休憩し、小学校にて開演す。校長柴田熊蔵氏、村長高橋栄太郎氏の発起なり。演説後、車行一里半、十文字駅にて鉄車に移り、日すでにくれんとするとき横手町〈現在秋田県横手市〉に着す。歓迎者多し。停車場より平源旅館まで十町の間、驟雨覆盆のごとし。先遊の際は小坂館に宿せしとか記憶す。現今は平源が第一として数えらる。館後には旭川の清流を帯び、ときどき河鹿の声、水声とともに耳朶に触るる。

 二十一日 曇りかつ雨。朝気冷ややかにして秋味津々たり。昨今の寒温、毎晨〔華氏〕七十度ぐらいなり。午後、男子小学校にて開演す。町長小松重直氏、助役石川為吉氏、校長福原惣三氏、国分伊賀雄氏、実科女学校長長沼田平治氏等の発起にかかる。しかして開会交渉に尽力せられしは芳泉寺住職和賀寛盛氏なり。横手より岩手県黒沢尻に通ずる道を平和街道という。この間に鉄道敷設の計画あり。また、横手と本荘との間にも軽便敷設の計画ありと聞く。しかれば横手町が鉄道の中心点となるは遠きはあらざるべし。夜に入りて風雨はげしく至る。

 八月二十二日(日曜) 雨のち晴れ。夜来の豪雨いまだ晴れず、雷鳴二、三回。入県以来初めて雷声をきく。旅館を発して町の市場を一過するに、いわゆる盆市にして、街路雑沓を極む。ときに雨ようやく晴るる。車行一里にして栄村〈現在秋田県横手市〉に入る。この地方の部落名に婦気および鬼嵐という所あり。やや珍名なり。本村の特産は納豆にして、収入高一カ年四千円と計算せらる。会場は小学校、宿所は先徳寺、発起は住職新田孝全氏、村長阿部由蔵氏、校長相沢忠四郎氏、正伝寺高橋一乗氏等なり。宿寺は田圃の間に孤立し、冬期ことに寒しという。本堂内に地炉の設備あり。福島県庭坂小学校の各教室に地炉を置くと好一対なり。

 二十三日 晴れ、ただし午後少雨きたる。栄村には有名の老梅あり、通称大屋梅という。朝食後、歩してこれをたずぬ。一農家の邸内にあり。元来幹囲二丈、樹齢一千年と称し、旧藩時代、佐竹侯より養梅料を賜りしことありという。しかるに今は老朽を極め、垂死の状あり。これより腕車にて横手駅に帰り、更に鉄路にて十文字駅におり、再び腕車にて行くこと四里、雄勝郡稲庭町〈現在秋田県雄勝郡稲川町〉に入る。この日、旧七月十三日に当たり、各戸墓参のために開会するを得ず。よって午後休養す。宿所は多々野旅店なり。当地はうどんの産地なりと聞き、早速これを試食す。その味すこぶるよし。雑貨店に松ヤニを笹の葉に包み、一見飴のごときものあり。この山間部にてはろうそくに代用するという。太古の遺風なお存するはおもしろし。夜に入り街路灯を点じ火を焼き、往来忙し。墓参の後、各親戚を訪問して仏参をする習慣なりと聞く。ときに月ようやく明らかなり。

  雨洗炎氛夜気清、一痕凉月照初更、軒灯庭火人来往、守旧精霊戸々迎、

(雨が炎暑を洗い流し、夜の気配はいよいよすがすがしく、一片のすずやかな月が初更の夜を照らしている。軒端に灯をともし、庭に火をもやして、人々の往来も多く、昔の習慣のままに精霊を家々に迎え入れているのである。)

 はるかに鼓声をきくも盆踊りを見ず。旅中はからずも雄勝山中の盆会に接するを得たり。稲庭より更に渓間に入れば温泉あり。また、岩手県一関に通ずる駅路あり。

 二十四日 晴れ。午後、小学校に開演す。発起は町長佐藤有秀氏にして、役場員一同助力あり。佐藤氏は記念として天然木の筆筒を余に贈らる。午後五時、車をめぐらすこと約一里、三梨村〈現在秋田県雄勝郡稲川町〉に至り、加藤儀一郎氏の新築楼上に宿し、主人のもとめに応じて致祥堂と命名す。この夜、天晴れ月明らかに、深更に至り一天片雲なく、清輝白昼を欺く。街上鼓笛の声あり。本村は養蚕地なり。隣村にては漆器を製する所ありと聞く。

 二十五日 晴れ。(旧七月十五日)。会場は桂薗寺、発起は村長井上勇治氏、および村内有志なり。演説後ただちに車を馳せ、平鹿郡増田町〈現在秋田県平鹿郡増田町〉に至り旅館林屋に入泊す。会場は満福寺にて、開演は夜間なり。しかして発起は町長林松之輔氏、校長関俊臣氏等なり。関氏は哲学館に在学せしことある由。街上には盆踊りありて大いににぎわし。この地方にて聞くに、盆は一般に旧暦を用い、十三日夕には墓参の後、親戚の精霊棚を巡拝し、十四日は寺院より各戸を巡りて読経す。墓参は十三日夕なるも、墓掃除は七日になすを慣例とし、墓前にはミソハギとユリとカヤの三種とを立つること、供物はスダレの上に蓮葉を敷きたる上に載せること等、他地方と大同小異あるのみ。増田町は鉄道線路に当たらざるも、山間部の咽喉を扼するをもって、郡内にては横手に次ぐ商業地なり。

 二十六日 曇り、ときどき驟雨きたる。午前、増田を発し行くこと二十町余にして十文字駅に至り、鉄路によりて雄勝郡役所所在地たる湯沢町〈現在秋田県湯沢市〉に着す。会場は小学校、発起は学事会長佐川森之助氏、町長舟田準之助氏、教育義会長高久多吉氏、女子学校長盆子定三郎氏等なり。宿所柳沢旅館は三層楼なれば、市街を一瞰するを得て眺望に適す。当夕、郡長植田稔一氏および発起諸氏と晩餐をともにす。郡視学小室宗修氏は病気にて入院中なれば、郡書記島田民之助氏代わりて案内せられしが、今日郡衙を退き、小野小町の誕生地として知らるる小野村役場助役に転任せらるると聞き、狂歌をよみて贈る。すなわち「今日よりは役所の宿を立ち去りて小野の小町の花をながめん」の一首なり。雄勝郡内は県下第一の養蚕地にして、桑は立木にそだてたるものを取る。これを秋田式という。風俗は山形県に似たる点すくなからず。しかして湯沢町は秋田県の灘と呼ばるるだけありて、本場を圧倒するほどの名酒を産出す。その名酒中の最たるものを「両関」と称する由。したがって豪酒家も少なからず。一回に三升以上を傾くる酒傑ありという。秋田県としては東は花輪町、西は湯沢町が酒造地にして、また豪酒家の多き点も東西の両大関と称せらるるやに聞き及ぶ。

 二十七日 曇りのち雨。車行二里半、西馬音内町〈現在秋田県雄勝郡羽後町〉に至る。稲田、実すでになりて過半その頭を垂る。人みな豊作疑いなしという。鳥海山は今日なお残雪の斑文を見る。海抜約八千尺、東北第一の雄岳なるも、九月まで雪痕をとどむるは富士山以上なり。会場は宝泉寺、休憩所は黒沢旅館、発起は町長柴田養助氏、校長高谷勝三郎氏等とす。この町内は佐藤信淵翁の出産地にして、宝泉寺境内にその墳墓あり。ときに余、所感を賦す。

  当代群儒皆講空、独修実学有斯翁、一生辛苦都兼鄙、留得済民経国功、

(当時の多くの儒者はみな空論を講義していたが、ひとり実学を修めた人に佐藤信淵翁がいる。一生辛苦して都と鄙を兼ねる学説をたて、民をすくい国家を経営する功績を世にとどめたのである。)

 午後、驟雨数回襲来す。夜に入りて西馬音内町を発し、九時半ごろ湯沢駅前柳沢支店に入りて休憩す。植田郡長、佐川校長来訪あり。深夜二時四十分発にて乗車せんとするに際し、鹿角郡視学鹿子畑氏きたりてわが行を送られ、かつ雄勝地方にて一般に用うる股引代用のモッペを贈らる。その厚意は深く謝するところなり。氏の郷里は湯沢にして、昨今帰省中なる由。郡役所よりも書記一名、深夜をおかして送行せら〔れ〕たるを謝す。

 二十八日 晴れ。夢さめて車窓よりうかがえば、汽車すでに山形市に着す。羽前地方、稲田すでに実を結ぶ。秋田県の蠅の少なきに反し、山形県の蠅は車中まで襲いきたる。正午、福島県郡山町にて随行森山氏と相別る。氏は岩越線を経て出雲に向かう。午後七時、上野駅に安着す。ここに秋田県を巡了したれば、耳朶に触れ眼窓に映じたる諸点を一括して叙述し、これを秋田旅行土産となさんとす。

 余は秋田県へは二十五年目に再遊したるが、前後を較するに多少異なるところあるを覚ゆ。先年は結髪するものを見たりしも、今回は全く見ず。先年は応答にみなナーナーのみを用いしも、今回はハイと答うるもの比較的多くなり、先年は米飯の味佳ならざりしも、今回は米質改良の結果、他県の米と大差なきに至れり。ただし結婚せし婦人のみな歯を染めたることと、苗代の田に田植えをせざるなどは先年同様なり。まずここに秋田県の方言中、他県人に解し難きもの〔を〕あげんに、

氷柱をスガマ、藁塚をニオ(北越地方に同じ)、サヤ豌豆を二度豆(北海道またしかり。越後にては三度豆という。一年中にその豆の成熟する度数によりて名付けたるなり。)または両作豆ともいう。イタドリをサシドリ、沢庵漬けを大根のガッコウ。

 すべて漬け物の香々をガッコウといい、北海道産の塩鮭をボタという。田舎ものの語に、飯の菜には大根のガッコウとボタさえあれば足れりという由。

牛をベコ、馬の牡をガンジョウ、牝をハダ、ジャガタライモをアンプラ、オタマジャクシをギャラゴまたはギャルモイ、ヒキガエルをモッキまたはビッキ(赤児のこともモッキまたはビッキという)、タヌシをツプ、ウラジロをダバ、クサビをクスガイ、牛鍋や鳥鍋を貝ヤキ、強盗をガンドウ、額をナズケ。

 額をナズケというにつきて奇談あり。頭痛のことをナズケイタイという。直訳すれば額痛の義なり。秋田県人初めて東京にきたり、ある飲食店に入り、頭痛を催し、今日はナズケイタイといいたれば、給仕のものが菜漬け食べたいと解し、菜漬けを持ちきたれりという。雪中用具につきては三平〔さんぺい〕、四〔しん〕平、五〔ごん〕平と唱うるものあり。その形おのおの異なれり。

  スペ(藁クツの一種)、ヘラ(雪をカク具)、もし板に柄を付けたるものはヘツトリという。

ネコ(背にあてて物を負う具)、ミジカ(半天)、デダチまたはモッペ(股引の一種)、コダシ(農家の田畑に行くとき携帯する入れもの)、ドウ(鰌をとる竹器)、カッコベ(ドウの大なるもの)。

 財産家の主人すなわち旦那を親方という。人に向かいてアナタというべきをオマエという。オマエは敬語に用う。また、語尾にネーシを添うるあり。ソウダというべきをソウダネーシという。越後のノンシに同じ。名詞の下にコを添え、ドビンコ、茶碗コ等と呼ぶ点は、さきにもすでに述べたり。暑いをヌクイというは秋田県に限るにあらず。酒をのみて一カ所にとどらず二カ所も三カ所も席を換えてのみ回るものを他国にて梯子酒というが、秋田県にては獅子回しといい、後引き上戸をネッコキリという。酌婦のことをダブまたはダンブという。要するに発音に濁音を用うること多く、しかも鼻音にかかる故に、他県人に解し得る語にして解し難き場合多しとす。その他種々聞き込みたる方言ありしも、いちいち記憶せざればこれを略す。

 つぎに風俗、人情に関して一言するに、人は一般に淳朴にして、柔順なる美性を有し、長上を尊び礼儀を重んずる美風あり。演説中、聴衆の静粛なること、マジメなること、行儀正しきこと等も、その美風の一なり。演説時間も比較的精確にして、広告の開会時刻より三十分ないし一時間以内に開くことを得。膳に備うる杯は必ず台を付くるは鹿児島の風に似たり。民家に男子の来賓あるとき、その給仕に女子を用いずして男子を用うるは琉球に似たり。沢庵漬けを薄く切りて水に浸して客に出だすは越後に似たり。男も女も夜中寝に就くに、冬夏を論ぜず、たとえ極寒のときといえども裸体になりて布団の中に入るは越後に似たり。婦人が自宅内にて半身衣を用うるもまた越後に同じ。夜具につきて、敷き布団を厚くして掛け布団を少なくするは西南地方の反対なり。西南中、土佐のごとき下等の民家にては、敷き布団を用いず、中等以上の住宅にても煎餅のごとく薄き蒲団を用う。これに反して下敷きを厚くして、上へ掛けるものを薄くするは西洋式なり。秋田県の民家の造り方はほとんど一定し、本屋の前方一隅より鉤形をつき出だせる一棟ありて、棟形がマガリカネの形を現ずるを常とす。その前に出でたる方を角間屋という。

これ越後の反対にして、越後にては後方へツキ出だして造るを常とす。これをチュウモンという。角間屋の下方は厩屋となり、上方は居室となりおれり。すべて民家の構造は北をふさぎて防寒を主とせるが故に、風の流通悪くして、避暑に適せず。よって夏時は温度高からざるも苦熱を感ずるなり。また、普通の民家にては座敷の隣室に納戸を置くも他県に異なるところとす。便所は上下を通じて住家の外に別置せるもの多し。いわゆる座敷便所、客用便所を有せざるを普通とす。また、便所に洗手の設備なきものあり。糞紙の代わりに藁クズ、木の葉、藻草等を用うるものまた多し。

他県よりここに遊ぶものの最も不便を感ずるは座敷に便所なき一事なり。夜中便所に行かんとするときは、暗を破り雨をつきて屋外に出でざるを得ず。しかるときは数頭の犬群れをなして襲来し、ほえかかりて、まさにかみつかんとするに至る場合あり。故に中等以上の民家にては必ず座敷に便所を置き、洗手所を設けられんことを望む。世間一般の評にては秋田県に美人多しという。しかれども他県よりはじめてここに遊ぶものは、美人の多きよりもまず男女ともに体躯の大なるもの多きを認む。車夫、馬丁、耕男、桑婦にして体格の見るべきもの多し。また、初めてここにきたるもの、馬尿の臭気が鼻をつくを感ず。その故は戸ごとに馬を飼い、その排泄物にて堆肥を作るによる。農家が一般に堆肥を用うるは秋田県の特有なり。かく牛馬の多きにかかわらず蠅の少なきはまた奇なり。県下巡遊中、蠅につきてウルサク感じたることなし。また、この蠅を払うに用うる特有の一器あり。木を細く薄く削り、これを束ねてハタキのごときものを作り、ホッス同様に蠅を払うに用うるなり。これを方言にてボンブリという。

 秋田県の天候につきては、雲を見ざる日なき一事と、風向きは東風か西風かに限るの一事は特有なり。朝時快晴にても、午後に雲の出ずるありて、終日一点の雲影を見ざる場合は、余の客居中一回もなし。風の寒暖は、東風は寒く、西風は暖かなるを規則とす。また、雷鳴の少なきもその特有なり。余の巡講約七十日間において、わずかに一回小雷をききしのみ。

 世間みな言う、秋田県人は大食なりと。体格の大なる点よりかく想定しやすきも、実際は必ずしかるにあらざるべし。他県の農民は毎日四回、五回あるいは六回ぐらい食するも、秋田県は大抵三回を常とす。しかしてその飯は米のみを用い、麦稗の雑食をなさず。故に米穀だけの消費高は他国よりも多し。野菜としては野生の秋田蕗、世界に冠たるものなれども、その大なるものは食用となさず。途中雨に遇いたるとき笠に代用するぐらいにすぎず。ただ、山中にミツと名付くる野生草あり。これを菜の代わりに用う。その味淡くしてよし。また、きのこに飴色にして滑らかなるものあり。その味またよし。これをナメラッコという。各市街に必ず市日を定め、街の両側に露店を張り、衣食はもちろん、家財道具ことごとくを発売す。そのときに購入せざれば他に買い入るることあたわず。これ古代の遺風なるべきが、東北諸県において今なおこれを見る。また、秋田県内にて泥炭を産出す。煙多く臭強し。その名をネッコという。さきに後引き上戸をネッコキリといいたるは、これより起これる方言なり。青森県にてはこれをサルキという。地名には内の字の付きたるもの多し。これアイヌ語にして、沢の義なりという。路傍の石碑に庚申塚と刻せるもの多し。

 つぎに教育、宗教につきては、学校校舎の完備せるもの少なく、裁縫室、作法室を別置せるものいたってまれなり。神社仏閣の壮大なるものなし。賽客の雲集せるものまたなし。仏教は過半曹洞宗にして、その寺数三百以上あり。これに次ぐものは真宗にして、百五十カ寺あり。各郡を通じて言えば宗教家中に活動するもの乏しく、仏教のみならず、各宗教みな不振のありさまなり。しかるに迷信は比較的少なきがごとし。ただし魂につきての迷信はすこぶる多し。他県にては幽霊の迷信あるも、タマシイの迷信なし。しかるに秋田県にては、人のいまだ死せざるうちにその魂が遠方にいる親戚知人の前に形を現じ、あるいはその人に怪音を感ぜしむという。なかんずく重病の場合にこのこと多し。これをタマシイがきたったと唱うるなり。上下を通じてこれを信ずるもの多く、ただに形と声とのみならず、タマシイの臭気を感ぜりと信ずるものさえあり。神社仏閣のお札は入口の大戸に張り付けおくを常とす。雷鳴のときに桑原というは他地方に同じ。地震のときに万歳万歳と呼ぶという。なんの意なるや解し難し。

 前に述べしがごとく、秋田県人には美風美性を有する点種々あるも、土地ひろくして生活しやすく、これに加うるに鉱山、油田、林野のごとき天賦の財源いたるところに堆積し、衣食を得るの道充満せるために、泰然おのずから安んじ、したがって勇進活動、励精奮闘の気象において欠くるところなからんかの疑いなきあたわず。もし気候と地勢とをもって論ずれば、日本における秋田県はあたかも欧州におけるドイツのごとし。その激烈なる寒気によりて忍耐を錬成し、自彊不息の精神を発揮し、もって百業に尽瘁するに至らば、日本国中に小ドイツを実現すること必然の勢いなるべし。これひとり秋田県のために望むのみならず、日本帝国のために祈るところなり。

 

     秋田県開会一覧

   市郡    町村     会場     席数   聴衆     主催

  秋田市          県公会堂    一席  一千人    県教育会

  同            女子師範学校  一席  二百人    弘道会支部

  同            寺院      一席  三百人    同前

  同            監獄      一席  三百人    典獄

  鹿角郡   花輪町    小学校     二席  一千百人   青年会等

  同     小坂町    劇場      二席  一千二百人  町教育会

  同     毛馬内町   小学校     二席  五百五十人  青年会、婦人会

  同     大湯村    小学校     二席  六百人    青年会

  同     尾去沢村   劇場      二席  九百人    鉱山倶楽部

  同     同      倶楽部     一席  五十人    婦人会

  北秋田郡  鷹巣町    公会堂     一席  五百人    郡教育部会

  同     同      農林学校    一席  三百人    同校

  同     大館町    寺院      一席  七百人    北秋仏教会

  同     同      高等女学校   一席  七百人    同校

  同     同      中学校     一席  六百人    同校

  同     同      寺院      一席  三十人    茶話会

  同     十二所町   小学校     二席  三百人    役場および学校

  同     扇田町    小学校     一席  七百人    教育会、青年会

  同     同      寺院      一席  六百人    仏教会、婦人会

  同     米内沢町   寺院      二席  四百人    役場、学校、寺院等

  同     阿仁合町   寺院      二席  六百人    仏教会等

  同     同      小学校     一席  八百人    役場、学校

  同     同      鉱山工場    一席  二百人    鉱山事務所

  同     同      小学校     一席  四百人    青年会

  同     矢立村    小学校     一席  二百五十人  村長、校長

  同     上大野村   小学校     二席  二百五十人  村有志

  同     同      寺院      一席  三十五人   茶話会

  同     前田村    小学校     二席  三百五十人  青年団

  山本郡   能代港町   小学校     二席  千二百人   寺院および有志

  同     二ツ井町   寺院      一席  二百五十人  役場、学校

  同     同      寺院      一席  七十五人   茶話会

  同     浜口村    小学校     二席  四百五十人  学事会等

  同     鹿渡村    小学校     二席  七百人    学事会等

  南秋田郡  土崎港町   寺院      二席  四百人    真宗九行会

  同     同      小学校     二席  五百人    郡教育会

  同     同      寺院      一席  五十人    老人会

  同     五城目町   小学校     二席  九百人    青年会、仏教会

  同     船川港町   小学校     二席  五百五十人  青年会

  同     同      宿所      一席  二十人    家庭会

  同     内川村    小学校     二席  三百人    村内有志

  同     同      同前      一席  三百人    小学校生徒

  同     富津内村   小学校     二席  二百人    僧俗有志

  同     馬川村    小学校     二席  二百五十人  村内有志

  同     一日市村   寺院      二席  三百人    住職

  同     飯田川村   小学校     二席  四百人    寺院、役場、学校

  同     大久保村   寺院      一席  二百人    住職

  同     払戸村    小学校     二席  四百五十人  青年会等

  由利郡   本荘町    議事堂     二席  千二百人   招聘会

  同     同      小学校     二席  四百人    婦人会

  同     金浦町    小学校     二席  六百人    町役場

  同     同      寺院      一席  二百人    婦人会

  同     象潟町    寺院      一席  八百人    郡教育会および町有志

  同     同      同前      一席  四百人    婦人会

  同     平沢町    小学校     二席  二百人    校長および有志

  同     矢島町    寺院      二席  五百人    役場、学校

  同     同      同前      一席  四百人    寺院

  同     亀田町    小学校     二席  二百人    役場、学校、寺院

  同     同      寺院      一席  二百五十人  婦人会

  同     院内村    寺院      二席  四百人    村長、校長

  同     東滝沢村   寺院      二席  四百人    村長、校長

  同     石沢村    寺院      二席  五百人    村長、校長等

  河辺郡   新屋町    小学校     二席  四百人    青年会

  同     同      寺院      一席  三百人    仏教有志

  同     仁井田村   小学校     二席  三百人    村長、校長

  同     四ツ小屋村  小学校     二席  二百五十人  村長、校長

  同     川添村    小学校     二席  四百五十人  青年会

  同     戸米川村   寺院      二席  三百五十人  村長、校長

  同     種平村    小学校     二席  二百人    村内有志

  同     船岡村    小学校     一席  百五十人   村内有志

  仙北郡   大曲町    寺院      二席  二百五十人  住職

  同     神宮寺町   寺院      二席  三百人    住職、町長、校長

  同     同      同前      一席  二百人    婦人会

  同     角館町    小学校     二席  五百五十人  町長、校長

  同     同      寺院      一席  四百人    仏教会

  同     六郷町    小学校     二席  四百五十人  学事会

  同     同      寺院      二席  三百人    寺院有志

  同     金沢町    寺院      二席  三百人    青年団

  同     荒川村    小学校     二席  五百人    鉱山倶楽部

  同     高梨村    小学校     二席  五百人    正進会

  平鹿郡   横手町    小学校     二席  三百五十人  町長、校長

  同     角間川村   小学校     二席  百五十人   交詢会

  同     沼館町    小学校     二席  四百人    役場および寺院

  同     浅舞町    小学校     二席  三百人    校長、住職、町長

  同     増田町    寺院      二席  五百人    町長

  同     植田村    小学校     二席  二百五十人  役場、学校

  同     栄村     小学校     二席  四百人    村内有志

  雄勝郡   湯沢町    小学校     二席  四百人    学事会

  同     稲庭町    小学校     二席  百五十人   町長

  同     西馬音内町  寺院      二席  三百人    役場

  同     三梨村    寺院      二席  二百人    村内有志

   合計 一市、九郡、六十二町村(三十四町、二十八村)、九十カ所、百四十七席、聴衆三万七千六百十人、巡講日数六十七日間

    演題類別

     詔勅修身     七十一席

     妖怪迷信     二十八席

     哲学宗教     二十三席

     教育        十二席

     実業         五席

     雑題         八席

(注意)この第十一編は郵税と紙数との都合により九月末までにとどめ、十月以後の紀行および年末報告は来年発行の第十二編に譲ることとなす。