4.仏教理科

P297

  仏教理科 

 

 

1. 冊数

   1冊

2. サイズ(タテ×ヨコ)

   221×147mm

3. ページ

   総数:276

   目次: 2

   本文:274

(巻頭)

4. 刊行年月日

   底本:初版 明治38年12月15日

5. 句読点

   あり

6. その他

  (1) 哲学館の『仏教専修科講義録』(初学年,明治30年,東洋大学の所蔵本は欠号あり)にも,この講義が掲載されている。

       緒  論

 ここに題して『仏教理科』というはほかにいまだ聞かざる名目にして、余が随意に設くるところなり。その名目の当否はしばらくこれをおき、その名目の下にいかなる事項を論ずるやにつきては一言しおかざるべからず。およそ学問上宇宙間に羅列せる有形の事物を考究するもの、これを理学という。すなわち有形学なり。たとえば物理学、化学、天文学、地質学のごとき、これなり。しかしてこれらの諸学は西洋近世において初めて起こり、東洋古来いまだかつて聞かざるところなりというも、その学のよりて起こりし原因を尋ぬるときは、東西両洋の古代にその源を発せしは言を待たず。すなわち西洋にありてはギリシア人の思想中に胚胎し、東洋にありてはシナ、インド等の古代史中に起因せしは明らかなり。インドは中古以来、文化ようやく衰え去り更に諸学の考うべきものなしといえども、上古にありては学問の思想大いに発達し、百科の哲学、理学等大抵みなこの時に端を開けり。釈尊出世、仏教興隆の前後はインドの文化最も盛んなりしもののごとし。そのうち哲学および宗教に属する部分は今これを論ぜず、ひとり理学に属する部分を述べんとす。余はこれを名付けてインドの理科という。その理科の一斑は婆羅門の書中においてみるべきも、また本邦伝うるところの仏書中においてもみることを得べし。しかして仏書中にみるところの説は、外道諸派の説と多少の異同あるを免れず。これ仏教には仏教特色の説あればなり。今余は仏書中に散見雑出せる理科に関する事項を概括して、その大要を示さんと欲す。故にこれをここに仏教理科という。その説たるや、今日のいわゆる理学のごとき組織系統を有する学科にあらざること言を待たずといえども、比較研究の行わるる今日においては、仏教家が天文、地理等につきていかなる説を伝えきたりしやを知ること大いに必要なりとす。今左にその必要なる理由を述ぶべし。

 いずれの国にありても古代の天文地理等の説は実際の観測によるにあらず、ただ想像をもって憶断するに過ぎず。故にこれを今日の学説に比すれば、妄誕不稽、考うるに足らざるもののごとし。これをもって近来わが国の学生のごときは、だれも古代の天文等に意を注ぐものなしといえども、その空想憶断中より今日の学説を産出しきたれるゆえんを知らば、古代の天文説も地理説も決してこれを不問に付すべからず。なお一国の歴史を研究するに太古蒙昧の時代を捜索するを要するがごとし。それ江河の大なるも、その水源にさかのぼりてこれをみれば、わずかに一杯に足らざる源泉の混々として流出せるによれるを知るべし。喬木大樹もその初めて発生せしときにおいては、小草よりもなお小なるをみるべし。人智思想の発育もまたこれに同じ。今日完備せる百科の理学は、みな古人の空想中に胚胎せざるはなし。故に仏書中に散見せる古代の天文地理に関する諸説は、すなわちインドの古説にして、これを講述するは東洋人の理学思想の発達を研究するに必要なりと信ず。これその理由の一なり。もしまた古今東西の諸学諸説を比較上研究せんと欲せば、インドの古説の仏教中に存するものも、また参考するを要す。近来比較研究の道開け、その結果大いに人種学、歴史学の進歩を助くるに至り、政治、道徳、宗教等の関係発達も、これによりて大いに明らかにすることを得たり。今各国古代の理学思想を比較上研究するときは、同じく学術の進歩を助くるの益あるは言を待たず。あるいはその研究の結果一大新理を発見することあるも計るべからず。故にインドの思想とギリシアの思想とを比較し、シナの学説とインドの学説とを比較してその異同を明らかにし、したがって人種文化の関係を知るには必ずインド古代の天文物理に関する諸説を考定するを要す。これその研究の必要なる第二の理由なり。つぎに第三の理由を考うるに、古代の諸説はいずれも妄誕を極め更に道理に合せざるもののごときも、その裏面には必ずしかるべき道理ありて存するをみる。たとえば太陽の中にからすあり、太陰の中にうさぎありと伝うるがごとき、あるいは地震はなまずによりて起こり、海潮はどじょうによりて起こるというがごときもみなしかるべき道理あり。その道理たるや、因果の理法に基づき論理の原則に従いて推測せるものなれば、今日の学説の道理と異なるにあらず。ただ古代と今日とは、人智発達の程度に高下の差ありて論理の上に粗密の不同あるのみ。故にもしこれを心理学上より研究するときは、古代の人智思想の程度状態を明らかにするを得。したがって社会学の参考となり、すこぶる興味ある研究なり。つぎに第四の理由を考うるに、仏教理科の研究は世界の学問上に必要なるのみならず、仏教の学問上、婆羅門と仏教との関係を知るに欠くべからざる研究なり。仏教は婆羅門の上に更に新機軸を出し、婆羅門のいまだかつて説かざる新教理を唱導せりというも、その教は婆羅門国にありて起こり婆羅門人民に対して説きたるものなれば、その中に仏教以前の諸説の混同せることなしというべからず。すでに梵天、帝釈天のごときは、仏以前インドに存せし古説にしてしかも仏教中に存するをみれば婆羅門の所説のその中に混入せるものあるは疑うべからず。ことに仏書中に存する理科の諸説においては婆羅門中に存するもの必ず多からんと信ず。故に仏書中の理科を研究するは婆羅門と仏教との関係を知るに必要なり。かつまた広く仏教と他教他学との異同を明らかにするに必要なり。つぎに第五の理由を述ぶるに、仏教中に理科に属する諸説あるはなんのためなるや、仏教の目的なるや、また方便なるや、仏教中よりこれを除き去りて可なるや、不可なるや等の問題を弁明するに、必ずその諸説を研究せざるべからず。これを要するに、余が仏書に存する理科の諸説を研究するを必要となす理由は左の五点に帰すべし。

  第一、普通一般の歴史上その国古代の学説を知るにあること

  第二、他の諸国と人種の関係、交通の影響等を知るにあること

  第三、古代人民の智識思想の程度状態を知るにあること

  第四、仏教と仏教外の学問宗教との異同を知るにあること

  第五、仏教内の学説の順序関係を知るにあること

 以上、第一、第二、第三は広く世界の学問に関する論点にして、第四、第五は特に仏教に関する論点なり。従来は仏教を唯一の仏教として研究したりしも、今後は仏教を世界の学問、世界の宗教として研究せざるを得ざればその研究の目的および方法を自ら一変せざるべからず。これにおいてその中に存する天文地理等の諸説を以上の論点より研究するの必要を生ずるなり。

 つぎに研究の方法につきて一言を費やさざるべからず。従来の研究法は独断の最もはなはだしきものにして、経典中にみるところの仏説は一より十に至るまでみな万世不易の真理なりと断定し、仏語に一言半句の虚妄なしと固信し、いやしくも疑念をその上に置くものあらば、ただちにこれを斥して外道となし、あるいは仏敵と称して罪人と同一視せらるるに至れり。今日なおその余習を存すといえども、実験上の諸学はようやく西洋より入りきたり、大いにその惑を解くに至れり。爾来、仏教家中に公然須弥説をもって仏説にあらずと唱うるものあり。大乗は非仏説なりと論ずるものあり。天堂地獄は勧善懲悪の方便に過ぎずと談ずる者あり。今より後は徹頭徹尾、批判的道理をもって仏教を論評し、その結果ついに懐疑に陥り、仏教そのものを破壊するに至らんことを恐る。けだし独断の極は懐疑に帰し、懐疑の極は独断に終わるは論理自然の勢いなれば、将来必ず懐疑的学風の仏教中に行わるるに至るべし。果たしてここに至らば、独断派もまた反動して興り、ついに仏教の研究は独断、懐疑二派の争論に外ならざるに至るべし。余はその徴候の今日すでに仏教界に現ずるを知る。すなわち明治の新空気を呼吸せる学生は自然に懐疑に傾き、維新前の旧社会に生育せし老輩はますます独断に陥り、新旧その主義相いれざる勢いあり。近く須弥論の一例を考うるに新主義の人は大抵みなこれをインドの古説に帰し仏説にあらずといい、旧主義の人はあくまでこれを仏の実験説として地球説と相争わんと欲す。その論の相いれざることかくのごとし。今余は極端の懐疑論者にあらずまた極端の独断家にあらず、自ら両端を接合してその中をとらんと欲するものなれば、余が仏教上の見解はもとより世間一般の見解と相異なるところなかるべからず。その異同のいかんはのちに須弥説を批評する一段に至りてみるべし。それ仏教は宗教なり、その中に哲学あるいは理学に属する部分を有するも、これみな宗教の目的を達する方便階梯に過ぎず、ただこれを他の宗教に比するに哲学の部分を含むこと最も多きをもって哲学的宗教というのみ。故に『倶舎論』にても『唯識論』にても『起信論』にても、その前半は哲学にして後半は宗教なり。これ哲学はその方便にして、宗教はその目的なることを示すものなり。すでに仏教の目的は転迷開悟にありといい、断惑証理、脱苦得楽にありというがごときは、みなその宗教たるを証するに足る。しかして宗教と哲学との別は、前者は応用的実践的にして、後者は理論的学科的なり。あるいは前者は不可知的に関し、後者は可知的に関するの別あり。もし哲学も宗教も共に不可知的に関するものとするも、哲学は可知的より不可知的に及ぼし、宗教は不可知的より可知的に及ぼすの不同あり。故をもって哲学は人の智力思想によりて進みて無限絶対の道理を究明するを要し、宗教は直覚信仰によりて初めより無限絶対の実在を既定するを要す。かつ宗教は応用的なるをもって人心を安定するを目的とす。故に余が宗教に与うる解釈は左のごとし。

  宗教は無限絶対の実在を既定して、これを人間の上に応用し、もってその心を安定するものなり。

 今、仏教は真如涅槃の実在を既定し、これを人間の上に応用しきたりて安心立命の道を講ずるものなれば、まさしく余が宗教の解釈に合するものなり。かくして仏教は、無限不可知的の境遇に到達せんことを目的とするをもって、その説くところ道理以外に及ぼし、往々秘怪にわたる談なきにあらず。あるいは想像を描ききたりて、形容その度を失し、かえって人をして疑惑を生ぜしむることあり。要するに、これみな道理以外なる不可知的不可思議の境遇を、吾人に開示せんと欲するによる。そのことたる、すでに理外の理なれば尋常の道理のよく及ぶところあらず。強いてこれを開示せんと欲せば、自然の勢い秘怪談にわたらざるを得ず。これをもって、いずれの宗教も必ず神話怪談を用い、仏教また往々神秘のことを混説す。これを宗教的秘怪談という。もしこれを哲学および理学上より評するときはたちまち妄誕不稽の言となすも、その実、宗教の宗教たるゆえんにしてあえて怪しむに足らず。ただこれを表面上より解するときは無実の妄言たるを免れずといえども、もしその裏面に入りてこれをみれば、かえって理外の真味を感知するを得べし。故に余は仏教中に秘怪の談あるをみるも、あえて仏教そのものを妄誕として排斥するにあらず。ただこれによりて、その裏面の深意を領得せんことを期するのみ。今仏書中に散見せる理科の説明に至りては、秘怪妄誕に類する談多しといえども、余は決してこれを仏教の短所欠点となさず。かえってこれを世に公にして、仏教の宗教たるゆえんを示さんと欲するなり。

 仏教上には神秘にわたる説あるのみならず、往々事実に背戻する談ありて、到底虚妄の評を免れ難きものあり。その例は須弥説のごときこれなり。その説の地球説に合すべからざるは明らかにして、実験上の事実に相違せることは決して否定すべからず。これをいかように解説してしかるべきや。これ必ず仏教家中に起こる問題ならん。今余が仏教の理科を講述せんと欲する意は、ひとり学問上の参考として、仏教の天文地理説を開示するのみならず、この一大難問を解説せんとするにあり。わが国維新の前後、西洋の天文説ようやく上下に行われ、一時仏教家は力を極めて須弥説を立て地球説を破らんことを努めしも、近年西洋の学説いよいよ明らかなるに従い、仏教家一般に黙してまた須弥を談ずるものなきに至れり。これはなはだ怪しむべし。須弥説は仏説にあらざることを悟りしによるか。あるいは地球説に抗抵する力なきを知るによるか、今余は須弥説と仏教との関係を明示せんと欲す。これ仏教家の一般に聞かんことを望むところならんと信ず。そのつまびらかなるはのちに地理説を論ずるときに譲る。

 仏教の経論疏釈は、実に汗牛充棟にして幾万巻あるを知るべからず。その中に大乗の経論あり、小乗の経論あり、シナ撰述あり、日本撰述ありといえども、理科に関する諸説は大抵みな小乗部の経論中に存せり。たとえば『婆沙論』のごとき『倶舎論』のごとき、あるいは『阿含経』『起世経』『正法念経』のごとき、小乗の経論中にその説の散在せるをみる。故に余が仏教理科として講述するところも、もっぱらこれらの経論によらんとす。仏教は大小両乗大いにその見解を異にし、大乗家は小乗を目して仏教内の外道となし、小乗家は大乗を目して非仏教となすに至るも、学問上仏教の根基となるものは小乗なること決して疑うべからず。小乗の根基の上に別に建設したるもの、これ大乗なり。大乗中にありてその初門なる唯識学は、実に大乗学の根基なり。これを要するに仏教を一科の学問としてみるときは倶舎学、唯識学、実にその根本たり基礎たり。なかんずく倶舎学は大小両乗の基礎たり。かつその書中には百科の学問に関係ある諸説を包有し、これをインドの百科全書とみて不可なきがごとし。すなわち、これを一部の宗教書としてみるべきのみならず、百科の学術書とみて可なり。その中には天文のことも地理のことも人身のことも時間空間のことに至るまで多少論及せざるはなし。故に余が仏教理科の講述はもっぱら小乗の経論なかんずく『倶舎論』によらんと欲するなり。

 左に講述の編目を掲げてその順次を示すべし。

  第 一 講  世界論   第 二 講  時間論   第 三 講  空間論

  第 四 講  開闢論   第 五 講  天文論   第 六 講  地理論

  第 七 講  物質論   第 八 講  極微論   第 九 講  四大論

  第一〇講  有情論   第一一講  人身論   第一二講  生滅論

  第一三講  因果論   第一四講  実有論

   付  講

  第 一 講  地獄論   第 二 講  極楽論

 以上の順序に従って講述する意なるも、その前にインド古代の学術一般につきて一言するを要す。故にここに開講として学術論を述べんと欲す。

 

     学 術 論

 世界中最旧の国を数うれば必ず指をインド、エジプト、その他二、三の国に屈すべし。しかして古代文化の最も早く開けかつ盛んなりしは、けだしインドの右に出づるものなかるべし。ただしインドの歴史明らかならず、したがって文運の盛衰その年代をつまびらかにし難しといえども、釈尊出世にさきだちて百科の学説競い起こり、互いに真理を闘わせしことは疑うべからざる事実なり。『華厳経』あるいは『涅槃経』等に九十五種、九十六種の外道あることを掲げしよりこれをみれば仏出世の当時すでに九十余種の学派ありしこと明らかなり。また『涅槃経』あるいは『維摩経』に六師外道の名称を掲げり。これを外道の根本とし、仏以前すでに世に行われ、おのおの徒衆を有して一学派を開立せしことを示せり。また外道中最も勢力ある数論、勝論のごときも、仏以前の学派なることはいずれの書に考うるも、その事実を徴することを得。また因明の元祖として知らるる足目仙人のごときも、はるかに仏以前にありて世に出でたることまた疑うべからず。これらの諸学派は仏出世の当時、互いに美を争い秀を競い、あたかも艶陽駘蕩、百花爛熳の勢いありしもののごとし。そののち数百年を隔てて馬鳴、竜樹両大士世に出でしより、無著、世親の当時に至る間は、仏教と外道各派と互いに優劣を争い、哲学思想このとき最も発達せしもののごとし。しかりしこうして、その当時の隆盛はひとり哲学宗教に限るにあらず、百科の学術技芸も同時に勃興せしもののごとし。これを仏書中に考うるも、五明の名義につきてその一斑を知ることを得。五明とは五種の学術にして今日のいわゆる文学、工学、医学、哲学等の分類のごとし。今『西域記』によりてその名義を解説すること、左のごとし。

  五明 一に声明という 釈詁、訓字、詮目、流別なり。

     二に工巧明という 伎術、機関、陰陽、暦数なり。

     三に医方明という 禁呪、閑邪、薬石、針艾なり。

     四に因明という 正邪を考定し、真偽を研覈す。

     五に内明という 五乗の因果の妙理を究暢す。

 これを一言にていえば、声明は文字の学、因明は論法の学、医方明は医術の学、工巧明は工芸の学、内明は内教の学なり。なお文学、論学、医学、工学、哲学というがごとし。その名目は『〔菩薩〕地持経』および『瑜伽論』に出づ。また五明論と名付くる一書の存することは、『開元録』『貞元録』等に出づ。その諸録に記するところをみるに、その書は沙門攘那跋陀羅周と名付くる者、長安旧城婆伽寺において闍那耶舎と共に記するところなりとあり。しかるにその書欠けて伝わらざるをもって、その所説をつまびらかにするを得ず。もし『西域記』によらば、インドの風習として七歳ののちようやく五明大論を授くという。故に五明論はインドの普通学にして、インド人のこれを学ぶは、なおシナ人の六芸を修むるがごとし。左に五明のいちいちにつきてその大意を略述すべし。

       第一段 声 明

 声明の梵語は摂拖苾駄(S'abda Vidya)〔sabda-vidya〕にして、摂拖は声を義とし、苾駄は明を義とすという。これを五明論の随一あるいは四明の本体なりとす。すなわち言語、文字、文章の学なり。古来伝うるところの悉曇学はその一部分なり。『蘇漫多声略釈』には、声明はただ天竺に行われいまだ此土に至らず、ひとりその法の詳知すべからざるを恨むとありて、インドよりこれを訳してシナ、日本に伝えざりしを遺憾となす。ただわが国においては一、二の宗派において声明の一部分たる悉曇学の一端を伝うるのみ。悉曇とは成就と訳し、文句文章を成弁するを義とすという。すなわちインドの文字文句に与えたる名称なり。これ文学すなわち声明学の初歩なるがごとし、『悉曇字記』に、悉曇は天竺の文字なりと解するをみて知るべし。その他、インドの文法の一部分たる六合釈、八転声はシナより日本に伝わり、仏教家は大抵その大意を学ぶこととなれり。もしその解釈は別にインド文学の講義に譲る。

       第二段 因 明

 因明の梵語は醯都費陀(Hetu Vidya)〔hetu-vidya〕にして、醯都は因を義とし、費陀は明を義とすという。すなわち因明は事物の原因道理を究明する学にして、西洋のいわゆるロジックなること明らかなり。その法は外道も仏教も共にこれを用いて推論の法則となせり。故に『因明義断』に、因明論は八蔵に権衡となり、四韋に縄墨となり、九十六道の規模、二十八師の軌轍なりと題せり。その開祖を足目と名付く。仏教内にありてその法を伝えたるものは、弥勒、無着、世親なり。その所伝を古因明と称す。そののち陳那ありて大いに因明を完成せり、これを中興と称す。その門弟に商羯羅主と名付くるものありて、またやや改正するところあり。この二師の所伝を新因明と称す。古因明と新因明との別は、古因明は宗、因、喩、合、結の五支を立て、新因明は宗、因、喩の三支を立つるにあり。今左に古因明の一例として、無着の論式を示さん。

  一、声は無常なり。(宗)

  二、所作性なるが故に。(因)

  三、瓶のごとく、空のごとく。(喩)

  四、瓶は所作を有する。瓶はすなわち無常なり。まさに知るべし。声は所作を有する。声もまた無常なり。(合)

  五、この故に知ることを得る、声は無常なりと。(結)

  

  

  

  

 また左に新因明の論式を示さん、

一、声は無常なり。(宗)

二、所作性なるが故に。(因)

三、なお瓶等のごとし。(喩)

(同喩)もしこれ所作なるものはかの無常なりとみる。たとえば瓶等のごとし。

(異喩)もしこれその常なるものは所作なるものにあらずとみる。虚空等のごとし。

  

  

  

    

    

 その三支作法の過失を分かちて、宗に九過、因に一四過、喩に一〇過、合して三三種の過失ありとなす。これ商羯羅主の定むるところなり。その他、因明につきて論ずべきこと多しといえども、すべてこれを因明学の講義に譲る。

       第三段 医方明

 つぎに医方明を考うるに、経文中に『仏医経』『医喩経』等ありて、多少医方に関することを述ぶるも、いまだ医方明のいかんを知るべからず。今『四諦論』によるに、病に身心の二種ありて、その各種にまた内外の二種あることを示せり。しかしてそのいわゆる心病は邪妄によりて起こると解し、妄念迷執より生ずるものなれば、貪、瞋、癡、慢等の煩悩をいう。故にこれ医方明の問題にあらず。もし身病につきて述ぶるところをみるに、『仏医経』には左のごとく示せり。

  人身中にもと四病あり。一は地、二は水、三は火、四は風なり。風増せば気起こり、火増せば熱起こり、水増せば寒起こり、土増せば力盛んなり。もとこの四病より四百四病を起こすなり、云々。

  

  

 仏教にては人身を分析して地、水、火、風の四大より成るという。あたかもシナにて人身を木、火、土、金、水の五行に配するがごとし。故に病気もまた地水火風の四大より起こるとなす。しかして風によりて起こす病に一〇一種あり、火によりて起こす病に一〇一種あり、水も地もこれに同じ。故にこれを合すれば病に四〇四種ありという。けだし世間にて人に四百四病ありと唱うるは、仏説より出でしを知るべし。換言すれば、四百四病の地水火風の四大不調より生ずとなす。すなわち『行事抄』に「四大は互いに六府に反して病となる。」とあるものこれなり。その他、仏教にては前世の業報によりて種々の病を起こすという。すでに『智度論』に「病に二種あり。先世の行業の報い故に種々の病を得、今世の涼熱の風おこる故に種々の病を得る。」と説けり。これ仏教にては因縁業感の説あるによる。あるいはまた『仏医経』に身病の一〇因を掲げ、『止観』には六因を示せるも、みなこれを略す。もし身病を医する方法につきては、『涅槃経』には明医の八術を掲げ、『止観輔行』には八術十医を示し、『小止観』には、『増一阿含』によりて治病の秘法に七二種ありと説き、『僧祇律』には、四百四病中風大の一〇一は油脂を用いて治し、火大の熱病は穌を用いて治し、水病は蜜を用いて治し、雑病は上の三薬をもって治すと記せり。あるいはまた『南海寄帰伝』には「絶食を最となす。」とありて、インドの療方は絶食をもって肝要となすという。あるいはまた『金七十論』に「八分医方の所説はよく身苦を滅す。」とあり。これまさしく『寄帰伝』の八医に同じ。左に『寄帰伝』の一節を引用すべし。

  西方の五明論の中のその医明にいわく、まずまさに声色を察して、しかるのちに八医を行ずべしと。ごとしその妙を解せずして順を求めば、かえって違を成ずべし。八医をいわば、一には所有の諸瘡を論ず。二には首疾を針刺すを論ず。三には身の患を論ず。四には鬼瘴を論ず。五には悪掲陀薬を論ず。六には童子の病を論ず。七には長年の方を論ず。八には足身の力を論ず。瘡というは事としては内外を兼ね、首疾はただ頭にあるに名づく。咽に斉してより已〔以〕下を名づけて身患となす。鬼瘴はいわくこれ邪魅なり。悪掲陀はあまねく諸毒を治す。童子とは始め胎内より年一六に至るまでなり。長年とはすなわち身を延べて久しく存するものなり。足力とはすなわち身体強健なるなり。

  

  

  

  

 その他、二、三の書に医術のことを散見せるも、もとより医方明の一斑をうかがうに足らざるなり。

       第四段 工巧明

 つぎに工巧明を考うるに、『瑜伽論』にはその種類に一二工業あることを示せり。すなわち左のごとし。

  一、営農  二、商估  三、事王   四、書算計度数印   五、占相   六、呪業

  七、営造  八、生成  九、防除  一〇、和合      一一、成熟  一二、音楽

 これを『瑜伽倫記』に解説して、生成工業とは六畜を養いて資生となすが故に、生を教えて礼儀を修成すといい、防邪工業とは織繍等なりといい、和合工業等とはよく闘訟等を和するをいい、成熟工業とは飲食を生熟するをいうとあり。これによりてこれをみるに、工巧明中には農商、書算、仕官、聴訟はもちろん、占法、呪術までを含むを知るべし。もし『三蔵法数』に解説するところ左のごとし。

  (工業明)工はすなわち工業なり。巧はすなわち巧妙なり。おもえらく世間の文詞、讃詠、ないし、城邑を営造すること、農田、商賈、種々なる音楽、卜算、天文、地理にして、一切の工業巧明に、みなことごとく明了、通達するが故に、工巧明という。

  

  

 これを今日の学科に比するに、工学、農学、理学、法学までを含むもののごとし。果たしてしからば、インドは古代にありて早くすでに百科の学術の備われるを知るべし。ただ工業明のごときは、仏教とその性質を異にせるをもって、仏書中にそのことを詳説せるものをみず、わずかにその名目の出づるをみるのみ。

       第五段 内 明

 五明中、前四明はすでに略述し終われり。これ外道も仏教も、共に用うるところなり。第五の内明は内教を義とし、一宗の教理をいう。故に外道には外道の内明あり、仏教には仏教の内明ありて、内明の名称は外道と仏教との二者に通ぜざるべからず。しかるに仏書中内明は、仏教ひとりこれを有するがごとく論ずるものあるは、はなはだ怪しむべし。あるいはまた内明に二種を立てて、外道と仏教との五明を分かつことあり。たとえば『七帖見聞』に引証するところによるに、五明に内の五明と外の五明の二種あり。外の五明は声明、医方明、工巧明、呪術明、符印明の五種にして、内の五明は前四は外と同じく、第五は因明なりといい、あるいは前三は外に同じく、第四は因明、第五は内明なりという。余案ずるに、因明は内外に通ずるをもって外の五明中に加わらざるを得ず。かつ符印明はある書に解して禁呪の類なりとなすをもって、呪術明と同一種ならざるべからず。かつ禁呪の類は工巧明中に加わりおることは、前に述ぶるところを見て知るべし。また内明に至りては、内外共におのおの自ら立つるところのものあるべき理なれば、仏教ひとりこれを有して外道これを有せずというべき理なし。故に余は、仏教と外道との間に内外の五明を分かつゆえんを解するあたわず。

 今ここに外道の内明を考うるに、その根本となるべきものに四毘陀、十八大経ありという。なかんずく四毘陀はインド最古の神典なれば十八大経の根本なり。毘陀はこれを訳して智論あるいは明論という。これに四部あり。その名称ならびに解説、左のごとし。

  阿由毘陀(『リグ・ヴェーダ』) 華に方命といい、また寿ともいう。いわく、養生、繕性の書なり。

  夜殊毘陀(『ヤジュル・ヴェーダ』) いわく、祭祀、祈祷の書なり。

  三摩毘陀(『サーマ・ヴェーダ』) いわく、礼儀、占卜、兵法、軍人の書なり。

  阿達婆毘陀(『アタルヴァ・ヴェーダ』) いわく、異能技、数、禁呪、医方の書なり。

  

  

  

  

 これを『西域記』には寿論、祠論、平論、術論の四種となす。すなわち第一の毘陀は養生の法を説き、第二の毘陀は祭祀の法を説き、第三の毘陀は兵乱を平定する法を説き、第四の毘陀は種々の工巧技術を説くによる。しかれども四部の毘陀が、果たしてその所説にかくのごとき別あるや否やは、はなはだ疑うべし。これけだし、その主要なる点につき分かちたるものならん。つぎに十八大経とは『百論疏』によるに、「四韋陀は外道の十八大経、また十八明処にいう。四皮陀を四となす。また六論ありて四皮陀と合わせて一〇となす。また八論ありて足して一八となす。」とありて、四毘陀、六論、八論これを合して十八大経となす。今左に六論および八論を表示すべし。

  六論 一、式叉論(六十四能法を釈す)

     二、毘迦羅論(もろもろの音声法を釈す)

     三、柯剌波論(もろもろの天仙の上古以来の因縁、名字を釈す)

     四、竪底沙論(天文、地理、算数等の法を釈す)

     五、闡陀論(首盧迦を作る法を釈す、首盧迦は偈の名なり)

     六、尼鹿多論(一切の物名を立て、因縁を釈す)

  八論 一、肩亡婆論(諸法の道理を簡択す)

     二、那邪毘薩多論(諸法の道理を明かす)

     三、伊底呵婆論(伝記、宿世の事を明かす)

     四、僧佉論すなわち数論(二十五諦を解す)

     五、課伽論(摂心の法を明かす。第四と第五の両論は同じく解脱の法を釈す)

     六、陀菟論(兵杖を用いる法を釈す)

     七、揵闥婆論(音楽の法を釈す)

     八、阿輸論(医方を釈す)

 そのいちいちの解釈は仏書中において知るべからず。その他は余が近著『外道哲学』に譲り、これより本論に入りて仏教理科の諸説を述ぶべし。

 

     第一講 世界論

 仏教の天文地理等の諸説を講ずるにさきだちて、世界および時間空間の諸説を述べざるべからず。まず世界の名義を考うるに、その言たる時間空間を合したる名称にして、なお宇宙というがごとし。すなわち『翻訳名義集』(巻三)「『楞厳経』にいう。世をば分遷流となし、界をば分〔方〕位となす。汝今まさに知るべし。東、西、南、北と、東南、西南と、〔東北、西北と、〕上、下とを界となし、過去、未来、現在を世となす。」とありて、その界はすなわち空間にして、その世はすなわち時間なり。けだし宇宙の解釈もこれに同じ。今これを『淮南子』に考うるに、その斉俗編にいわく「往古来今を宇といい、四方上下を宙という。」とあるをみて知るべし。

 つぎに世界の分類を考うるに、あるいは二種に分かち、あるいは三種、あるいは六種、一〇種に分かつ。その二種の分類左表のごとし。

  世界 一、衆生世界(正報あるいは正果)

     二、器世界(依報あるいは依果)

 これなお有機界、無機界というがごとし。あるいは三種世間の分類あり、一に五陰世間、二に衆生世間、三に国土世間これなり。あるいはまた世界を分かちて欲界、色界、無色界の三種となす。その解釈、左のごとし。

  一、欲界の衆生は三事を具す。一は睡眠を有するが故に、一は飲食を有するが故に、三は婬欲を有するが故に、欲界と名づくなり。

  二、色界の天人は、浄妙色を有するが故に、色界と名づく。身相の端厳等これなり。

  三、無色の天人は、形色あることなくして、ただ心のみあるが故に、無色界と名づくなり。

  

  

  

 すなわち欲界は人獣のごとき眠食等の体欲を有するものをいい、色界は人間以上に位せる天人にして、その形色身相の清浄殊勝なるものをいう。無色界は体欲はもちろん形質をも有せざるものをいう。けだし仏教にては人獣界の外に天上界を立て、身体を構成せる物質に精粗の別ありて、人獣の身体は粗悪にして眠食酒色の欲を有するも、進みて天上界に至ればその体質ようやく精微にして体欲したがって相減じ、その極、無欲無色の世界をみるに至るとなす。これやや解し難き説なるがごときも、もし物心二元の間に隔歴せる分界なきものと定め、その質の粗悪なるものは物質となり、精微なるものは精神となると立つるときは、欲、色、無色の三界を分かたざるを得ざるに至るべし。その説明はギリシア哲学のデモクリトス、エピクロス等の説に近きを覚ゆ。この三界はあるいは別に分かちて、五趣もしくは六道となす。六道とは地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界、人界、天界、これなり。しかして修羅界はあるいは餓鬼界に摂し、あるいは畜生界に摂し、あるいは天界に摂するときは五趣、すなわち五界となる。もしこれを細分すれば、地獄に八大地獄の別あり、人界に四洲の別あり。八大地獄は付講の地獄論に譲り、ここに四洲の名称を挙ぐれば、「南は贍部洲(また南は閻浮提とも名づく)、東の勝身洲(また東は弗婆提ともいう)、西は牛貨洲(また西は瞿耶尼ともいう)、北は倶盧洲(また北は鬱檀ともいう)」の四にして、これを須弥の四洲という。そのいちいちはのちに地理を講ずるときに譲る。今六道を欲、色、無色の三界に配するとき

  欲界二〇処 八大地獄

        畜生

        餓鬼

        四洲

        六欲天 一、四王天 二、忉利天 三、夜摩天 四、兜率天 五、楽変化天 六、他化自在天

  色界四禅(四静慮) 初禅三天 梵衆天、梵輔天、大梵天

            二禅三天 少光天、無量光天、極光〔光音〕天

            三禅三天 少浄天、無量浄天、遍浄天

            四禅八天 無雲天、福生天、広果天、無煩天、無熱天、善現天、善見天、色究竟天

  無色界四天 一、空処天

        二、識処天

        三、無所有天

        四、非々想天

は、欲界に二〇処あり、色界に四禅あり、無色界に四天あり。その表右のごとし。

 以上これを三界、六道、二十八天という。しかるに天の数は欲界に六天、色界に十七天、無色界に四天、合して二十七天なるも、色界の天にあるいは十八天を立て、あるいは十六天を立つる異説あるをもって、天の数をかぞえて二十八天あるいは二十六天となす。すなわち色界の大梵天を梵輔天に摂する説によれば二十六天となり、広果天の外に別に無想天を立つる説によれば二十八天となる。しかるにまた天の数をかぞえて三十三天ありという。その名称は諸経に見るところ大いに不同ありといえども、今『正法念経』によるに左のごとし。

   一、善法堂天   二、住峰天    三、山頂天    四、善見城天   五、鉢私地天

   六、住倶吒天   七、雑殿天    八、歓喜園天   九、光明天   一〇、波利樹園天

  一一、険岸天   一二、雑険岸天  一三、摩尼蔵天  一四、旋行地天  一五、密殿天

  一六、鬘影天   一七、柔輭地天  一八、雑荘厳天  一九、如意地天  二〇、微細行天

  二一、歌音楽天  二二、威徳輪天  二三、月行天   二四、娑利天   二五、速行天

  二六、影照天   二七、智慧天   二八、衆分天   二九、住輪天   三〇、上行天

  三一、威徳顔天  三二、威徳輪天  三三、清浄天

 以上これを忉利天という。忉利天とは三十三天の梵語なり。かくのごとく天部に種類を分かちたるは、仏書中に見るところなるも、決して仏教の初めて唱うるものにあらず。仏教以前の説なること問わずして明らかなり。仏以前の諸教は、あるいは帝釈天をもって第一に置き、あるいは梵天をもって最勝となし、その世界に至るをもって究意の目的となせしか。仏教起こるに及び、これらの諸天はいまだ究竟せるものにあらずとなし、六道人天はみなこれを迷界となし、更にその上に悟界あることを示し、人をして迷界の波上を渡りて悟界の彼岸に到達せしむるをもって最上の目的と定めり。これ釈尊の一機軸を出して、新宗教を開元せられたるところなり。故に仏教にては迷界の六道の上に更に悟界の四種を立てて十界となす。これを六凡四聖、あるいは六穢四浄という。その表、左のごとし。

  十界 迷界六(六凡あるいは六穢) 地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天

     悟界四(四聖あるいは四浄) 声聞、縁覚、菩薩、仏

 これによりてこれを観ずるに、仏教はそれ以前の外道諸派の所説をことごとく破斥せしにあらず。そのとるべきものはこれを存して、更にその上に一大新機軸を出したるものなるを知るべし。けだし仏教はこれを外道の所見に比するに、あたかも半空の雲霧を破りて富士峰頭に一輪の真月を見るもののごとし。ああ今より三千年前の古代にあたりて、凡俗の迷信を破り、宗教海上に霊々妙々の理想の新天地を開きたるは、あに驚かざるを得んや。

 世界の分類は三界六道の外に、更に大数を挙げていうときは三千大千世界ありとす。すなわち『倶舎頌』にいわく「四大洲と日月と蘇迷盧と欲天と梵世とおのおの一千ありて、一小千界と名づく。この小千の一〇〇〇倍をいいて、一中千と名づく。この一〇〇〇倍は大千なり。云々。」とありて、須弥四洲日月等の世界その数千に満つるを小千世界とし、この小千世界の一〇〇〇倍を中千世界とし、中千世界の一〇〇〇倍を大千世界とす。これを合して三千大千世界という。故にもし算数をもって表示すれば、三千大千世界の総数は

          1,000×1,000×1,000=1,000,000,000

すなわち一〇億なり。これを総括して娑婆という。すなわち『名義集』(巻三)によるに

  『西域記』にいわく、索訶世界の三千大千国土は一仏の化摂となるなり。旧には娑婆といい、また娑訶という。みな訛りなり。『楞伽』は能忍と翻ずと。

 

とありて、娑婆は梵語、これを訳して能忍となすは、此土の衆生よく諸悪諸毒を忍受するによるという。『律相感通伝』に「娑婆はすなわち大千の総号なり。」とあるものこれなり。あるいは一〇〇億の日月あり、一〇〇億の須弥ありといい、あるいは十方微塵世界といい、あるいは無量世界という。世界すでに無量なれば、三千大千世界をもってことごとくせるにあらず。これただその無量なる一端を示せるのみ。故に仏教の世界説は無量説なり。山河も無量なり、生類も無量なり、日月も無量なり、天地も無量なり、時間も無量、空間も無量なり。その説の広大なること、想像のよく及ぶところにあらず。今日、理学哲学の進歩によりて、我人は始めて世界の無量なることを知り、あわせて仏説の虚妄にあらざることを知れり。ああ、この一小地球の外に世界なしと信じ僅々五、六千年間に世界の開闢を論ずるものと、あに日を同じうして語るべけんや。

 

     第二講 時間論

 前講に世界の世は時間を表し、過去、未来、現在を三世というがごとしといえり。三世の解は『倶舎論』(巻一)に「無常の已滅を過去と名づく。もしいまだすでに生ぜざるを未来と名づく。すでに生じていまだ謝らざるを現在と名づく。」とあるをみて明らかなり。およそインドの時に二種を分かつことは、二、三の書に出でたり。たとえば『智度論』に「天竺に時を説きて名は二種あり。一は迦羅と名づく。一は三摩耶と名づく。」とあり。しかるに『名義集』に刊正記を引きて、迦羅は実時なり、三摩耶は仮時なることを示せり。けだし仏教中説くところの長短不定の時は三摩耶なりという。時の長短につきては最短これを刹那をいい、最長これを劫、すなわち劫波という。すなわち『倶舎論』に「時の極少なるを刹那と名づけ、時の極長なるを名づけて劫となす。」とあり、『西域記』にも「時の極短は刹那というなり。」とありて、刹那は訳して一念といい、時の極少を義とす。今『倶舎論』によるに刹那一二〇を一怛刹那となし、六〇怛刹那を一臘縛となし、三〇臘縛を一牟呼栗多となし、三〇牟呼栗多を一昼夜となすとあれば、これを現今の時分に配合するに、その表左のごとし。

  一牟呼栗多 四八分時  一臘縛 一分三六秒時

  一怛刹那 一・六秒時  一刹那 〇・〇一三三秒時

 すなわちわが一秒時は七五刹那に当たる割合なり。『倶舎恵暉抄』にいう「一度の弾指に六五の刹那あり。」と、あるいは『仁王経』にいう「一念に九〇の刹那、九〇〇の生滅あり。」と、もってその時間の短少なるを知るべし。もし一昼夜の刹那の数をかぞうれば

          30牟呼栗多×30臘縛×60怛刹那×120刹那=6,480,000刹那

六四八万刹那ある割合なり。しかるにこれを『婆沙論』(巻三九の一一)に「いわく、一昼夜は総じて六四億九万九九八〇刹那なりと。」とあるに比すれば少異あり。つぎに時間の最長なる劫波とはこれを訳して分別時節という。『婆沙論』(巻一三五)に「分別、時分故に名づけて劫となす。」とあるのこれなり。その悠久なること年月をもって算すべからず。『智度論』に石山と芥子との譬喩を挙げてその一端を示せり。すなわち曰く「劫の義は、仏、譬喩をもって説きたまわく、四〇里の石山を、長寿の人ありて、一〇〇歳を過ぎて、細軟の衣を持して、ひとたびきたりて払拭し、この大石山をして尽くさしむるも、劫はことさらにいまだ尽きず。四〇里の大城の中に芥子を満たし、概して平らかならしめず。長寿の人あり。一〇〇歳を過ぎ、ひとたびきたりて一の芥子を取るに、芥子尽くれども、劫はことさらに尽きず。」とあるをみて知るべし。実にその悠久なること、想像のよく及ぶところにあらず。これに大中小の三種あり。今『仏祖統紀』および『大蔵法数』の訳義によるに、人寿八万四〇〇〇の歳の時に、一〇〇年を歴過すれば寿一歳を減ず、かくのごとく減じて人寿一〇歳に至ればすなわちやむ、また一〇〇年を過ぐれば一歳を増す、かくのごとく増して八万四〇〇〇歳に至る、この一増一減名付けて一小劫となす、かくのごとく二〇増減名付けて一中劫となす、総じて成、住、壊、空の四中劫名付けて一大劫となすとあり。これ『新婆沙論』の説なりとす。もし『喩伽論』によれば、「この世間は二〇中劫に壊る。二〇中劫おわりて空。二〇中劫に成る。二〇中劫成りおわりて住す。かくのごとく八〇中劫を仮立して一大劫数となす。」とあり。もしこの劫相積みて無数に至れば、これを阿僧祇劫と名付く。阿僧祇劫とはこれを訳して無数劫という。すでに無数なれば、その年月を算定するを要せずといえども、『倶舎論』(巻一二)に阿僧祇の数を示して、『解脱経』に六〇数を説く中に、阿僧企耶はこれその一数なり、いかんが六〇なるや、かの経にいうがごとし、一のみありて余数なきを一となし、一〇の一を一〇とし、一〇の一〇を一〇〇となし、ないし一〇の大跋羅攙を阿僧企耶となすとあり。その表につきてこれを考うるに、その数たるや五二位を有する大数にして、これを数字に表さば、一阿僧企耶は零〔ゼロ〕の数五一の多きに及ぶ、その数更に積みて三に至れば、これを三大阿僧祇劫という。すなわち三無数劫なり。これを要するに、仏教にて時間の長短につきてかくのごとき大数を挙ぐるは、その無限なることを示すに外ならず。果たしてしからば、これを小にするも無限、これを大にするも無限なりといわざるべからず。けだし数千年の古代にありて、早くすでにかかる無限の思想を想出せるは、理想発達の高きに至りしを知るに足る。

 

     第三講 空間論

 仏書中に余いまだ空間の名目をみずといえども、そのいわゆる虚空はすなわち空間なり。まず『倶舎論』によるに、これを解して「虚空はともに無礙をもって性となす。無障によるが故に、色は中において行ず。」とあり、また『正理論』には「虚空は受、色等の有為をいる。」と解し、『婆沙論』(巻七五)にも「有礙なる物をいるに、虚空あることを知る。もし虚空なくば、まさに容処なかるべし。」と、また「もし虚空なかば、まさに一切処みな障礙あるべし。」と説けり。すなわちその意、虚空は無礙無障にして自在に万物を容受するものとなす。これ今日のいわゆる空間なり。あるいは仏書中に空界の語あるをみる。しかして空界とは門、窓、口、鼻等の空隙を義とするがごとく解せり。故に虚空も空界も共に空間に関する文字なるも、その意に広狭、大小の不同あり。『婆沙論』にはその異同につきて「虚空は微細にして、顕説すべきこと難し。空界の相は麁にして、開示すべきことやすし。」と説きて、麁細の不同をもって二者の別を示せり。あるいはまた仏書中に単に空と称することあり。これまた空間の状態を示すものにして、虚空とややその解を同じうす。『倶舎論』等の書中に、世界の変遷につきて成住壊空四劫の説あり。そのいわゆる空は、世間の万物ことごとく壊滅しおわりて、ただ虚空のみある状態を義とす。よろしく『倶舎論』世間品につきてみるべし。あるいはまた真言宗にて立つるところの地水火風空識の六大中の空も、その解釈これに同じ。今『十住心広名目』の解釈によるに、「空とはすなわち諸相尽きて、諸色を容受することの義なり。一切の法に相体あれども、四大を出でず。もし諸相みな尽きれば、すなわちこれ空輪なり。」とあるをみて知るべし。もし『勝宗十句義論』の実句義中に出せる空は、これを解して「ただ声のみありて、これを空となす。」とあり。その釈に曰く「空実の体相は極大にしてあらわしがたし。声ある処をもってすなわち空実を知り、声なき処を空にあらずとなす。これ勝宗の意なり。」とあり。しかるに声のみある処を空となすと解するがごときは、もとより今日の学説のいれざるところなり。けだしインド当時の社会にありては、声は空気によりて伝うることを知らざるか、あるいはそのいわゆる空は、空間をいうにあらずして空気もしくは精気(エーテル)のごときものをいうか。また数論の二十五諦中には五唯より五大を生ずということあり。すなわち『金七十論』に「声はただ空大を生ず。」とある、これなり。『唯識述記』に、これを解して五大とは地、水、火、風、空をいう、別に一物ありこれを名付けて空となす、空無為、空界、色界等にあらずという。今『楞厳千百年眼髄』に、数論勝論の空大を挙示すること左のごとし。

  勝論師は九実句義を説く。いわく、地、水、火、風、空等なり。空とはいわく、ただ声あるを空となす。如に動作ありて動作なく、質礙なく、勢用なく、かれこれの体なく、無触無色にして、見るべきことなく、眼に対することなし。これ常、有、実、これ根、耳根、即空の、六徳によるなり。数論師は説けり、自性は大を生じ、大より我慢を生ずと。有るは説く、我慢は五大、五唯を生ず。別に一物あり。これを名づけて空となす。空無為空界色界等にあらず。有るは説く、慢は五唯を生じ、五唯は五大を生じ、五大は十一根を生ず。もしこの説を約さば、声は空を成し、空は耳を成す。『金七十論』等のごとし。

  

  

  

  

 つぎに虚空の分類を考うるに、仏教の虚空に有為空、無為空の二種あり、その有限無限の二類あり。まず有為空は色の一種にして見るべく、無為空は色にあらざれば見るべからずとす。小乗七十五法中に虚空無為の一種あり。これもとより無為空なり。その解は前に述ぶるがごとし。大乗百法中にも虚空無為あれども、これ真如の仮称にして、その体、無障無礙なること虚空のごときをいう。故に今述ぶるところの虚空に同じからず。また虚空の周遍常恒なることを唱うるものと、不遍不常なることを唱うるものとあり。外道は多く虚空遍常論を唱う。故に『百論』には外道の証明を示して、世人は一切処に虚空ありと信ず、この故に遍なり、過去、未来、現在の一切時に虚空ありと信ず、この故に常なりという。しかるに『涅槃経』に外道の虚空論を駁して、左のごとく示せり。

  またつぎに善男子よ、もろもろの外道は、それ虚空とはすなわちこれ光明なり、といえり。もしこれ光明ならば、すなわちこれ色法ならん。虚空もししかくこれ色法ならば、すなわちこれ無常ならん。これ無常なるが故に、三世所摂なり。いかんぞ外道は三世にあらずと説くや。もし三世所摂ならば、すなわち虚空にあらざらん。また説いて、虚空これ常というべけんや。善男子よ、また人ありて、虚空とはすなわちこれ住処なりといえり。もし住処あらば、すなわちこれ色法ならん。しかして一切処はみなそれ無常にして、三世所摂なり。虚空もまた常ならば、三世の摂にあらざらんや。もし処を説かば、虚空なきを知る。また説いて、虚空とはすなわちこれ次第なり、というあり。もしこれ次第ならば、すなわちこれ数法ならん。もしこれ可数ならば、すなわち三世所摂なり。もし三世摂ならば、いかんぞ常といわん。

  

  

  

  

 これ外道の虚空はあるいは光明、あるいは住処あるいは次第と説くがごときは、みな有為法あるいは有限性にして常住にあらざることを示すものなり。なんとなれば、そのいわゆる虚空は有為法に属する相対性の虚空にして、仏教のいわゆる無為虚空にあらざるによる。また外道中に口力論師と名付くる者ありて、虚空をもって万物の真因となす。これを虚空計外道と名付く。その説にいわく、最初に虚空ありてこれより風を生じ、風より火を生じ、水より暖を生じ、暖より水を生じ、水すなわち凍凌して地を作し、地より薬草を生じ、薬草より五穀生命を生ずと立つるがごときは仏教のいわゆる有為空なり。しかしてその外道の虚空計は仏教小乗中の所説にやや近し。たとえば『倶舎論』に「空中にしばらく微細の風生ずることあり。これ器世間のまさに成ぜんとする前相なり、云々。」とあるがごときは、虚空より風を生じ、風より万物を生ずと解するに同じ。また左に『楞厳眼髄』によりて、有為無為二種の虚空の別を挙示すべし。

  虚空に二あり。一は有為なり。色像を除去して、まさに虚空となす。これ六大の中の空大の所摂なり。二は無為にして、本来常に空なり。有為なる虚空は、かれこれに通ぜず、眼の所行となす。無為なる虚空は、体これ法入無礙にして周遍するを、意の所行となすなり、云々。

  

  

 つぎに虚空の有限無限を考うるに、有限の空間はこれを測るに由旬の語を用う。由旬とは新訳に踰繕那といい、訳して限量という。あるいは踰繕那、または由延というはみな梵語の訛略なり。今これを『倶舎論』に考うるに、その第一二巻にいわく、

  竪に四肘を積みて弓となす。尋という。竪に五〇〇弓を積みて一倶盧舎となす。乃至〔中略〕、八倶盧舎を説きて一踰繕那となす。

  

 また『西域記』に「踰繕那とは、いにしえより聖王の一日の軍行のことなり。旧伝には四〇里なり。インドの国俗にはすなわち三〇里なるも、聖教に載せるところはただ一六里のみなり。」とあり、また『大蔵一覧集』によるに、四肘を一弓となし、五弓を一杖となし、二〇杖を一息と名付け、八〇息を一倶盧舎と名付け、八倶盧舎を一由旬となすとあり。しかしてそのいわゆる一肘は『華厳音義』に一尺五寸とし、『頌疏』に一尺八寸とし『宝疏』に二尺とす。もし倶盧舎は『恵暉抄』によるに「三六〇歩を里となす。一倶盧舎を成す。一倶盧舎は二里なり。」とあり。故に一由旬は『倶舎論』の積法によるに、

          4肘×500弓×8倶盧舎=16,000肘=1踰繕那

すなわち一万六〇〇〇肘にして、一肘を二尺と定むれば一由旬は三万二〇〇〇尺(16,000×2=32,000)に当たり、日本の一里は一万二九六〇尺なれば一由旬は、二里半以上に当たる。しかるに一倶盧舎を二里として算するときは一由旬は一六里に当たるも、これシナ里数にして日本里数にあらず。日本里数をもって算するときは三里弱となる。なおわが国の駅舎の距離のごとし。故に『名義集』には『業疏』〔『四分律羯磨疏』〕を引きて「輪王の巡狩一停の舎なり。なおこの方の館駅のごとし。」とあり。しかるに『仏国暦象編』には四〇里零一八六歩奇をもって一由旬の量となすも、これ『西域記』に挙ぐるところの旧伝の里数なり。これを日本の里数に変ずれば六里半余となる。もし『名義集』に『大論』〔『大智度論』〕を引きて、由旬に三別あり、大は八〇里、中は六〇里、下は四〇里とあるをみれば、由旬には大いに長短の不同あるもののごとし。これけだし山間と平地とは、その里程を異にし、各地定むるところ一準ならざるによるならん。なおわが国は三六町をもって一里と定むるも、あるいは五〇町一里を用い、あるいは六町一里を伝うるの別あるがごとし。しかりしこうして、普通に用うるところは、一由旬はシナ里法の一六里、日本里法の三里弱に当たるべし。この里法によりて算するに、須弥の高八万四〇〇〇由旬、その深また八万四〇〇〇由旬、合計一六万八〇〇〇由旬はシナ里法の二六八万八〇〇〇里にして、日本里法の四四万八〇〇〇里に当たるべし。その他は後に天文地理を講ずるときに譲る。

 以上は有限の空間につきて述ぶるのみ。もし無限の空間につきては、『起信論』に「虚空は無辺の故に世界は無辺なり。世界は無辺の故に衆生は無辺なり。」とあるをみて知るべし。『遊心安楽道』に「虚空は無辺なるが故に衆生は数量なし。三世は際なきが故に生死は始終なし。」とあるも、また『起信論』の意なり。これを要するに、仏教は虚空をもって無辺無際となす。虚空すでに無辺無際にして、時間また無始無終なれば、仏教の宇宙論の無限無量の説なること言を待たずして知るべし。かくのごとく仏書中に多く無辺、無量、無数等の語をみるは、インド人の想像に富める一斑を示すものなれども、仏教は我人の言語も思想もよく及ばざる広大無辺の不可思議を開示せんと欲するものなれば、自然の勢い時間空間の無限を唱うるに至る。けだし仏教のいわゆる不可思議の本体を知了する法に主観客観の二道あり。客観上にありては、時間空間の二者よくその不可思議の一端を指示するを得といえども、いまだ不可思議そのものの真相を観見するあたわず。故に更に主観上にありて心源最も深きところに理想の幽窟を開ききたらざるべからず。これ仏教中大乗諸宗のもっぱら任ずるところなり。





 

     第四講 開闢論

 前三講の世界論、時間論、空間論は仏教理科の緒論に過ぎず。故に余はわずかに名義の解説および分類の方法を述べたるのみ。これよりまさしく仏教理科を講ずるに当たり、まず世界開闢論より始めんと欲す。そもそも人のこの世に生まるるや仰ぎて天象を観、俯して地理を察すれば、必ず一大疑団の心頭に浮かびきたるをみる。これにおいてとどまらんと欲するもとどまるあたわず、安んぜんと欲するも安んずるあたわず、疑懼の念、内に動きて自ら禁ずるあたわず。日月はなにものにしてなんのために天界に懸かるや、山川はなにものにしてなんのために眼前に現ずるや。雲霧のたちまち散じてまた集まるがごとき、草木のたちまち生じてまた枯るるがごとき、春の花における秋の虫における、風の颯々たる雪の皚々たる、みなそれなんのためにしかるやを解するあたわず。いやしくも生を人間に受け、眼を外界に放つものは疑団百出、五里霧中に彷徨せざるはなし。もしそれ暴風起こりて樹木をたおし、洪水みなぎりて屋舎を漂わし、あるいは迅雷劇震の人命を損ずるがごときにおいては、疑念一変して恐怖を生じ、一日も安心することあたわざるに至る。いわんや、人間界の老少不定なる朝に生まれて夕に死し、身を電光朝露の間に寓し、昨日は少年、今は白頭、ひとたび去りてまたかえるべからざる悲境にあるをや。人だれか長生を欲せざる者あらんや、人だれか健康を祈らざる者あらんや。しかして病患相続き災害連なりにいたり、老少おのおの先を争いて死路に向かうはなんぞや。これみな人世の意のごとくならざるによる。果たしてしからば、世に一日も安心の法なくして可ならんや。古来いずれの国にありても多少の宗教、多少の学術の、当時の人心中にその端を開くに至りたるは、内外自然の必要ありてしかるなり。故に宗教学術の世に起こりしは偶然にあらざるを知るべし。けだし我人はこの天地の間人類の上に横たわれる一大疑雲を払い去りもって自ら安んぜんと欲し、進みて日月はなにものなるや、山河はなにものなるや、生死はなにものなるやの大問題を解釈することを試みるに至れり。これ実に学術宗教の起源なり。しかして学術と宗教とその道を異にするに至りたるは、前者は我人の智力思想に基づき、後者は感情想像に基づくの異同あるによる。もしこの二者の間に前後を判ずれば、宗教前に起こりて学術後に起こるべき順序なり。なんとなれば、心理の発達上感情は智力の前に開発するを常則となせばなり。換言すれば、宇宙万象の問題を解釈するに、これを道理に考うる前に想像に訴うるを一般の規則とせるによる。これをもって、いずれの国の歴史を検するも宗教は学術の前に世に起こりしをみる。すなわち上代にありて学術と宗教といまだその別を示さざる時には、ただ宗教あるをみるのみ。たとえその中に学術の元子を胚胎せるも宗教の形をとりて世に現ぜり。その後人智の発達に伴って学術の萌芽を外に発するに及び、ようやく宗教とその道を分かつに至れり。余をもってこれをみるに、心理発達上感情前に起こり智力後に発すというも、初期の感情は智情未判の時にして二者共にその中に存するがごとく、初期の宗教は教学未分の時にして二者その中にありて混ずるなり。当時の学術は幼稚の思想に基づけるをもって、多く想像憶断に出づるは自然の勢いなり。故に古代の学術は宗教中より開発すというは不当の言たるを免れず、よろしく教学未分の中より分化すというべし。これ世界各国の教学起源の状態なり。今これをインドの教学なかんずく仏教発達の上に考うるも、もとより同一の関係あることは明らかなり。

 かくして上古の人民はひとたび抱きたる疑団を氷釈せんことを欲し、自ら進みて宇宙の問題を解明せんとするも、いかんせん、その智力いまだ万象変化の原理を究明することあたわざれば、多く想像をもって百方憶説を立て、雨には雨の神あり、風には風の神あり、日神あり、月神あり、山神あり、河神ありと信じ、ついに多神を崇拝するに至れり。これインド上古の実況にして、当時多神教のその国に行われしゆえんなり。毘陀神典のごときも、多く多神の話を掲ぐるはその当時の事情を知るに足る。これひとりインド古代宗教の事情なるのみならず学術の状態なり。その後人智の進歩に伴って多神ようやく変じて一神となり、梵天をもって世界の造物主となすに至れり。故にインドの歴史は最初は多神時代にして、つぎに一神時代となれり。その後仏教起こるに及び一神教に抗して無神論を唱え、大いに無神主義を興せり。これに対して婆羅門の有神論もようやく一変して汎神論となるに至れり。これを要するに、インド古代の学術宗教は有神無神の争論に外ならず。故にインドの学派は有神論、無神論の二類に分かつことを得るなり。この二類は世界開闢論の参考上必要なるをもって、これよりその関係につきて一言せんと欲す。

 およそ人の世界万有を解明するに、一事一物必ずしかるべき原因ありて起こらざるはなく、結果あれば必ずその原因あるは実に宇宙の常則たり。日月風雨、山河草木等みなその原因ありて存し、天災地変、人事の吉凶禍福のごときも、またみなしかるべき原因より生じ、決して偶然に生起せざるなり。これにおいて天地万有におのおのその原因となるべきものを仮定し、これに与うるに神の名をもってし、雨には雨の神あり、風には風の神あり等と称するに至れり。これ多神教のインドに起こりしゆえんなり。故にそのいわゆる神は人智にて解すべからざる不可思議の原因に与えたる名目なるを知るべし。その多神一変して一神となりしも、多神一神の両説は共に世界有始論にして、天地万物は必ずこれを造成あるいは産出せる原始体ありと想定せるものなり。これ実に結果をみて原因を尋ね、ついに第一原因を仮定し、時間上天地に開端の起源ありと想像するによる。婆羅門諸派の有神論はみなこの見解に基づく。仏教はこれに反して世界無始論を唱え、天地万物は決して造物者の創造せるところにあらず、その体に有するところの規則によりて、無始の始より無終の終に至るまで変遷生滅してやまざるのみ。しかして、その規則とは因果の理法をいう。これ外より神の賦与せるものにあらずして、自体固有の規則なりとなす。故に仏教を称して因果教となす。換言すれば、婆羅門教は世界の開闢を梵天に帰し、仏教は因果に帰するの別あり。ひとり婆羅門教のみならず、ユダヤ教も、ヤソ教も、回教もみな有神教にして、世界有始論なり。有始論は一般に想像しやすくかつ了解しやすければ、世界古今の宗教は、大抵みな有神論によりて宇宙の問題を解釈せり。しかるにひとり仏教および近世の学術は、無神論によりて世界の起源を説明せり。これ仏教の他教の上に凌駕せるゆえんなり。世界有始論と無始論との優劣可否は、余が先年『破邪活論』において反復論明せるところなれば、今また贅言せずといえども、有始論は空想に過ぎずして、無始論は事実に合することは、いやしくも学術の一端をうかがう者のみな知るところなり。そもそもインドにありては、仏教ひとたび無神論を唱えて婆羅門教を排斥せし以来、婆羅門教もようやく一変して汎神論を唱うるに至れり。故に、今日存するところの婆羅門哲学をみるに、一神教に汎神論を兼ぬるもののごとし。仏教は無神教と称するも、また多少汎神教の意を含む。故に両教の哲理ようやく近似せるに至れり。これまた思想発達の順序にして、ひとり婆羅門教のみならず、ヤソ教も回教も将来一変し再変しきたらば、結局仏教と相合するに至るべし。

 以上述ぶるところこれを約するに、世界開闢論は人の生を天地間にうけ、万有の現象変化を見て一大疑団を抱きしより起こり、自ら進みてこれを解明して、もってその心を安んぜんと欲する意志、実にその起源なり。かくして日月山河、草木人獣の原因を究め、ついに開闢の初めに達して説明を試むるに至れり。これ各国に開闢談の存するゆえんなり。しかしてその説明に、有始論、無始論の異見あり。すなわちインドにありては、婆羅門は有始論にして、仏教は無始論なり。前者は有神教にして、後者は因果教なりというにあり。ああ今より三千年前の古代にありて、早くすでに無始因果論をもって世界の開闢を証明したるがごときは、実にその思想発達の程度の高きに驚かざるべからず。これを表示すること左のごとし。

  世界開闢論 有始論・・有神論・・造物論・・婆羅門教

        無始論・・無神論・・因果論・・仏教

 故に今仏教の世界開闢論を講ずるには、婆羅門教およびこれに付属せる外道諸派の開闢論を略述するを肝要となす。

       第一段 外道開闢論 第一 梵天自在天

 インドの学派は今日伝うるところの分類によるに、尼耶也学派、吠世史迦学派、僧佉学派、瑜伽学派、弥曼差学派、吠檀多学派の六種となす。この六大学派はみな婆羅門の分派もしくは変体にして、あるいは有神を保護せるものあり、あるいは無神を唱道するものありて、その説一定せずといえども、外道諸派中にみるところの毘陀論師、自在天論師のごときはみな有神論の首領たるものなり。まず毘陀論師の説を考うるに、最初に那羅延天(生本あるいは人種神と訳す)の臍中に大蓮華を生じ、蓮華より梵天祖公を生ず。かの梵天は一切の命無命物を作り、梵天の口中より婆羅門を生じ、両臂中より刹利を生じ、両髀中より毘舎を生じ、両脚跟より首陀を生ず。一切大地これ福徳を修め、戒場に一切華草を生じ、もって供養をなし、化して山野禽獣人中猪羊驢馬等と作る、戒場中において殺害して梵天を供養すれば、かの処に生まるることを得、これを名付けて涅槃となすと。これ提婆の『外道小乗涅槃論』に出づる説なり。その説中、刹利は王種をいい、毘舎は商賈をいい、首陀は農夫をいう。これに婆羅門種を加えてインドの四姓となす。なおわが国の四民の別の一層はなはだしきもののごとし。この四姓はみな梵天の体より分身せるものと立つるも、婆羅門種ひとり梵天の口中より生じたるをもって、これを最尊最勝種となす。すなわち『摩登伽経』に「世に四姓あり。みな梵より生ず。婆羅門は梵の口より生じ、刹利は肩より生じ、毘舎は臍より生じ、首陀は足より生ず。婆羅門をもっとも尊貴となす。」とある、これなり。また『智度論』に韋紐天の造物論を掲ぐ。韋紐天はあるいは遍勝、遍浄、遍聞等と訳す。その文に曰く、

  劫尽き焼くるときは、一切みな空なり。衆生の福徳の因縁力ゆえに、十方より風至り、相対し、相触れてよく大水を持す。水上に一〇〇〇頭の人、二〇〇〇手足なるあり。名づけて韋紐となす。この人の臍の中より、千葉の金色の妙法なる蓮華を出すに、その光の大いに明らかなること、万日のともに照らすがごとし。華の中に人ありて結跏趺坐す。この人また無量の光明あり。名づけて梵天王という。この梵天王の心より八子を生じ、八子は天地、人民を生ず、云々。

  

  

  

 これ『中論疏』に「劫初の時は、一切みな空なり。大水ありて、十方にあつまる、云々。」とあるに同じ。また『分別功徳論』に、梵天だれか作る、あるいはいう梵天に父あり、あるいはいう自ら造るなりと。父ありというは、父はすなわち蓮華なり、あるいはいう蓮華はいずれより出づるや、憂陀延臍中より出づ、憂陀延なにより出づる、曰く散蹉王より出づ云々とあり、また『外道小乗涅槃論』の摩陀羅論師の説も造物論にして、那羅延論師の説を取るものなり。その言に、われ一切物を造り、われ一切衆生中において最勝なり、われ一切世間有命無命の物を生ず、われはこれ一切山中の大須弥山王、われはこれ一切水中の大海、われはこれ一切薬中の穀、われはこれ一切仙人中迦毘羅牟尼なり、もし人至心に水草華果をもってわれを供養せば、われはかの人を失わず、かの人はわれを失わず云々と説けり。また摩醯首羅論師の説には、果はこれ那羅延の作るところ、梵天これ因なり、摩醯首羅一体三分いわゆる梵天、那羅延、摩醯首羅なり、地はこれ依処にして地主はこれ摩醯首羅天なり、三界中においてあらゆる一切命、非命物みな摩醯首羅天の生ずるところなり。摩醯首羅の身は虚空をその頭となし、地をその身となし、水をその尿となし、山をその糞となし、一切衆生はこれその腹中の虫なり、風はこれその命、火はこれその暖、罪福はこれその業なりという。『百論疏』に「六道、衆生、天地の物はみなこれ自在天の身なり。乃至〔中略〕、自在天の身はすべて八分を有するなり。虚空を頭となし、日月を眼となし、大地はこれ身にして、河海を尿となし、山丘を糞となし、風を命となし、一切の火を熱気となす。一切の衆生はこれ身内の虫なり。」とあるは、この摩醯首羅論師の説をいうなり。摩醯首羅は梵語にして、ここに訳して自在天という。『十二門論』に自在天変化して万法を造作し、万法もし滅すれば自在天に還帰すとあるをみれば、万物は自在天より生じてまた自在天に帰するを知るべし。その他『外道小乗涅槃論』に安荼論師の一説を掲ぐ。これまた有神論の所属たるべし。その説に曰く、もと日月星辰、虚空および地なく、ただ大水のみあり、時に大安荼生ず、雞子のごとく周帀金色なり、時に熟して破れて二段となり、一段上にありて天となり、一段下にありて地となる、かの二中間に梵天を生ず、一切衆生の祖公と名付く、一切有命無命物を作るという。これを本際計あるいは本生計と名付く。その他、これに類属せる婆羅門諸派の説、幾種あるを知らずといえども、みな那羅延あるいは自在天を立つるものなり。

 これを要するに、以上諸論師の説、多少の異同あるも、天地間の万物、有生無生共に梵天の造るところとなすに至りては一なり。しかしてその説中に梵天万物を造るにあらずして、その体、化して万物となるがごとく解するものあり。この説によれば、天地間の万物はみな梵天にして、我人もまた梵天の一部分なり。これ汎神論の意に合すべし。その説のヤソ教の有神論と異なるところあるは、弁明を待たざるなり。

       第二段 外道開闢論 第二 数論勝論

 天地間の万物をもって梵天の所造となせる有神外道の説は、一変して数論勝論の無神論となれり。数論勝論は有神一元論にあらずして物心二元論なり。まず数論の開闢論を考うるに、自性開発論なり。自性とは数論家の立つるところの第一義諦にして、これをあるいは勝因、勝性、あるいは冥性、冥諦と名付く。けだし数論外道の神通力は八万劫内のことを知ることを得るも、それ以上に至りては冥然として知るべからず。故にこれを冥諦となすという。すなわち『大乗義章』に「僧佉経に説くがごとし。迦毘羅仙は世俗の禅を得、宿命通を発して、よく宿命を知れり。過去八万劫の事を見るも、これを過ぎて以前はまたよく見ることあたわざるなり。すなわちこの念をなせり。八万劫のほかにまさに法なかるべからず。まさに冥性あり。冥性微細なる五情を知らず、かの冥性より初めて覚心生ぜり。」とあり。これ婆羅門の有神論に対して、天地万物は有智有覚の梵天より作られたるにあらずして、不覚無智の冥諦より生ずとなすものなり。しかしてその体、無智不覚にしてかつ不可知的なるも、よく自動自発の作用を有し、もって物心万有を開発せりとなす。今その開発の順序を『金七十論』に考うるに、自性より大を生じ、大より我慢を生じ、我慢より五唯を生じ、五唯より十六見を生ずという。十六見とは地、水、火、風、空の五大と、眼、耳、鼻、舌、皮の五知根と、舌、手、足、男女根、大遺根の五作根と、心平等根とをいう。五唯とはあるいは五唯量と称し、色、声、香、味、触の五境をいう。我慢とはすなわち我執なり。大とはあるいは覚と名付け、あるいは智と称す。けだし数論の自性開発の順序に異説あるも、通常用うるところによるに左のごとき次第をなす。

  自性↓大↓我慢↓ 五唯↓五大

           五知根

           五作根

           心平等根

 この自性を除き、他の二十三諦はこれを変易と名付く。なんとなれば、自性の開発より次第に変遷して生じたるものなり。その他、神我と名付くる一諦あり。神我とはあるいはこれを知者と名付け、思あるいは知をもって体となす。すなわち覚知思量の本源にして精神の本体なり。これを合して数論の二十五諦という、更にこれを表示すべし。

  数論二十五諦 自性(第一諦)

         変易二十三諦 大、我慢、

                五大、五唯、

                五知根、五作根、

                心平等根

         神我(第二十五諦)

 このうち自性と神我との二者は、根本にして他より生じたるものにあらずとなす。故に余は、これを二元論と名付く。しかして自性と神我との別は、自性は開発の力を有するも覚知の性を有せず、神我は覚知の性を有するも開発の力を有せず。前者は足ありて目なきがごとく、後者は目ありて足なきがごとく、共に不具者なり。これを『金七十論』に、跛者と盲者と相合して旅行するにたとえたるははなはだ妙なり。その譬喩の意は、往昔商估ありて某国に行かんとせしに、盗のために破られおのおの四方に分散して走る。しかるにその中に一人の生盲とおよび一人の生跛あり。衆人これを棄てて去るも、盲人みだりに走り跛者座して見るのみ。そのとき跛者問うて曰く、汝なにびとぞ。答えて曰く、われはこれ生盲にして道を知らざるが故にみだりに走ると。つぎに盲者問うて曰く、汝またなにびとぞ。答えて曰く、われは生跛にしてよく道を見るも走り行くことあたわず、故に汝今われを肩上に置くべし、われよく路を導かん、請う汝われを負うて行けと。これにおいて二人互いに和合してついに所在に至るという。けだし自性の体には薩埵、剌闍、答摩の三徳を具す。これを訳して勇、塵、闇となす。これ自性の性質にして、その体に開発の作用を有するは、全くこの三徳を具するによるという。そのつまびらかなるは『金七十論』に譲る。しかるに神我には、この三徳を具せざるをもって開発の作用を有せず、ただ自性の三徳を受用して物心万境をみるのみ。故に万有の本体は自性なり。これややショーペンハウアーの意志のごとく、また『起信論』の根本無明に似たり。かくのごとく自性の開発をもって万境の開現を説きたるもの、実に数論の開闢論なり。

 つぎに勝論の開闢論を考うるに、これ数論のごとく物心二元論なるも、開発論を唱うるにあらず、その実、多元和合論なり。換言すれば、物心の多元相合して万象万化を現ずといえる説なり。まず勝論の立つるところの原理は、六句義あるいは十句義なり。六句義は実、徳、業、有、同異、和合の六諦にして、十句義はこれを敷衍したるものに過ぎず。ただ十句義中には無説句義と名付くる一諦あり。これ六句義中に欠くるところなり。しかして六句義中の実、徳、業の三者は、なお『起信論』の体、相、用の三大というがごとく、実は体実と解し、徳は功能と解し、業は作用に解す。他の三句義は実、徳、業三者の関係を述ぶるに過ぎず。今ここに実句義を述ぶるに世界万有の体実となるものに地、水、火、風、空、時、方、我、意の九種ありて、地、水、火、風は物質にして、我、意の二者は精神なり。この諸元に具するところの性質と作用とはおのおの異なるものなれば、その同異、和合の関係より万象万化を生ずるなり。しかしてその世界論は極微分子の説明なり。もしそのつまびらかなるを知らんと欲せばよろしく『十句義論』につきて講究すべし。左に『唯識二十論述記』に掲ぐる勝論所立の世界成壊論の一節を引証すべし。

  実の中に九あり。いわく、地、水、火、風、空、時、方、我、意なり。その地水火風はこれ極微性なり。もし劫懐の時なれども、これらは散ぜず、処々に散在して、体は生滅することなし。説いて常住となす。衆多の法あれども、これ一にあらず。後の成劫時に、両々極微合して一の子微を生ず。子微の量は父母に等し。体はただこれ一なるも、他より生ずるが故に性はこれ無常なり。かくのごとく散の極微はみな両々合して一の子微を生ず。子微は本とあわせ合して三微を有す。かくのごとく、また余の三微と合して一の子微を生ず。第七にしてその量は六本微の量に等し。かくのごとく、七微はまた余と合して一の子微を生ず。第一五の子微にしてその量は本生父母の一四微の量に等し。かくのごとく、展転して三世界を成すなり。

  

  

  

  

 また『十句義論釈』によるに、「一切の有命、無命、有質、碍物はみな地等の四微より成る。頭、目、身体等および山、河、大地、草木、飲食、衣服、宮宅、車乗、瓶盆等のもとは、ともにこれ極微の合成となすなり。」とありて、宇宙間に実在せる有生無生、衣服宮宅に至るまで、みな極微の合成にあらざるはなしとなす。その合成の次第は、両々の極微相合して第三の極微を生ず、いわゆる子微なり。これをその父母の極微に合すれば三微を得るなり。他の両々の極微また同じく相合して子微を生じ、これを父母の極微に加うれば三微となる。この三微のかの三微とまた相合して子微を生じ、総じて七微となる。かくのごとく重々相合して一切万物を生ずるに至るとなすは、実に勝論の開闢論なり。すなわち『名義集』に「極微を積みて、もって器世間と成ると計するなり。」とあるもの、これなり。けだしその説たるや、インドの分子論にしてギリシアのデモクリトス、エピクロス等の分子論に似たるところあり。インドの分子学派は勝論外道、順世外道の二派なり。ただこの二者の別は、勝論は物質の外に精神あることを許し、順世は物質の外に精神を立てざるにあり。換言すれば、前者は物心二元論にして、後者は唯物一元論なり。もし西洋にて伝うるところによるに、勝論は有神学派にして梵天を立つるもののごとく解するも、仏書の上にこれを考うるに勝論は無神論なるに似たり。もし世界は極微より成るを知るも極微となにによりて成るかを問わば、極微は極微より生ずと答うるより外なし。故に勝論は最初に極微の実在を仮定して更にその上に問題を進めざるをもって、『十句義論』中にいまだ有神論に関する説あるをみず。故に余はこれを無神論の一種となし、数論に合してその開闢論の大意を述べたるなり。

 これを要するに、数論は自性開発説をもって世界の開闢を論じ、勝論は極微合成説をもって万有の存立を論じ、共に無神的開闢論なり。仏教も無神的開闢論にして、小乗家の立つるところはやや、勝論の説に近きところあるも、大乗の唯心縁起説に至りては、理想開発の妙理によりて世界の成立を論じたるものなれば、外道の所談と大いに深浅の度を異にす。これを一言をもって評すれば、数論の開闢論は暗黒的開闢論なり。なんとなれば、自性の暗黒界中より万有を開発すと立つればなり。勝論の開闢論は烏合的開闢論なり。なんとなれば、異種異類の極微分子集積して世界を成立すと立つればなり。これに反して、毘陀論師、摩醯首羅論師等の有神的開闢談の蓮華開発、あるいは鶏卵化成論は、古代の神話に過ぎざればもとより論ずるに足らず。その那羅延天の臍中より蓮華を生じ、蓮華より梵天を生ずというがごときに至りては、帰天斎正一も三舎を避くる手品師流の開闢談と評して可なり。もしこれに比すれば、暗黒的烏合的のごときは、はるかに数等を加うるものというべし。しかれどもなおこれを、玄のまた玄中に不可思議の妙門を開ききたりて真如の月下に開闢を談ずるものに比すれば、その等差天壌もただならざるなり。

       第三段 仏教開闢論 第一 小乗客観的開闢論

 仏教の開闢論は小乗と大乗との二者に分かれ、小乗は客観的開闢論にして、大乗は主観的開闢論なり。しかして余が今講ずるところは仏教理科なれば、大乗の開闢論は仏教心理学の講義に譲り、もっぱら小乗の開闢論を述べんと欲す。しかるに小乗の客観的開闢論にまた客観主観の両面ありて、その一は三輪説、その二は業感説なり。しかして余が今述ぶるところはすなわち三輪説なり。この三輪説を講ずるにさきだちて、その説は果たして仏教特有の説なるや、あるいは仏以前のインドの古説なるやの問題を解説せざるべからず。余おもえらく、少なくもその説の一部分は仏以前の古説ならん。なんとなれば、その第一理由はもしこの説にして全く外道諸派の説と異なるにおいては、必ず一大争論をこの点の上に発せざるを得ず。しかるに外道より痛くこれを難詰したることなく、仏教より深くこれを弁護したることなきは、両者の説の似同せるによらざるべからず。また第二の理由は婆羅門の天文書の今日に伝わらざるをもって両者の異同を知り難しといえども、婆羅門書中にみるところの事実の往々仏書中に存するを見、ことに天文地理に関する説の多く仏書中に存するよりこれを推すに、小乗の客観的開闢論は婆羅門中に行われたりし説なるを知るべし。かくいうも、余は決してその全分を婆羅門の説なりというにあらず。婆羅門学派もすでに九十余種ありし以上は、その説おのおの多少の不同あるべきも、その過半はみな梵天創造説をとるものなり。しかるに仏教は無神論を立てて婆羅門の有神論を排斥せるものなれば、梵天創造に関する談はもとよりことごとく除かざるべからず。すなわち仏教にて世界開闢の原因を業力所感に帰したるがごときは、婆羅門の梵天論に代うるに主観論をもってしたるものなり。かつその客観論も婆羅門もしくは世間の説を多少改変して仏教中に用いたるがごときも、自然の道理上しからざるを得ず。故に仏書中にみるところの客観的開闢論の一半は、婆羅門あるいは世間の説中に存し、一半は仏教の特色とするところなりと信ず。証明はのちに須弥説を論ずる中に譲る。もしかくのごとく論ずるときは、古来仏教信者が仏語に一言の虚妄なしと立つる格言に反するがごとく難責するものあらんも、余は決してその格言に反せざるものと信ず。その理由もあわせて須弥説を論ずるときに譲る。

 小乗の三輪開闢論とはなんぞや。曰く風輪、水輪、金輪ありて、次第に世界を開立するに至れるをいう。この説を述ぶるに当たり、成住壊空の四劫説を講ぜざるべからず。さきに一言せるがごとく、仏教は時間を無始無終と立てて、無始の始めより無終の終わりに至るまで、変遷生滅してやまざるものはこの世界の常態なりとす。その変遷の階段に成住壊空の四劫あり。これなお今日の学術において進化退化を説くに同じ。成住の二劫は世界の進化期にして、壊空の二劫は世界の退化期なり。これを宇宙間の事々物々の上に考うれば、生、住、異、滅の四相あるがごとし。生住は進化期にして異滅は退化期なり。一切の事物の上にこの四相あるがごとく、世界全体の上には成住壊空の四期あり。世界のその形を結成する間はこれを成劫と名付け、すでに結成せるものを持続する間はこれを住劫と名付け、ようやく変壊する間を壊劫と名付け、変壊し終わりて空となるを空劫と名付く。空中また成劫を開き、もって再び世界を結成す。これ退化極まりてまた進化を開くなり。かくのごとく成住壊空は循環して際涯なしと立つるもの、これ仏教の世界変遷論なり。古来東洋には多く退化説行われ、近世西洋にはもっぱら進化論行わるるが、仏教はむしろその二者の折衷論にして進退両化循環論を立つるものなり。余はこれを名付けて循化論という。この循化論はこれを退化あるいは進化一辺をとるものに比すれば、大いに事実に合するものなるを知る。まず四劫説を述べたれば、これより三論説に及ぶべし。

 風輪、水輪、金輪の三輪に空輪、地輪を加うれば五輪となる。あるいは地、水、火、風、空の五大を五輪となす説あるも、通常明かすところは三輪説なり。風輪は今日のいわゆる空気にして、水輪は液体、金輪は固体なり。今『倶舎論』によるに、

  まず最下において虚空に依止して、風輪生ずることあり。その量、広さは無数なり。厚きこと一六億踰繕那なり。かくのごとく風輪はその体、堅密なり。たとい一の大諾健那ありて、金剛輪をもって威を奮うて、はるかに撃つに、金剛は砕くることあれども、風輪は損ずることなし。

  

  

 これ世界開闢の第一期なり。最初空劫の時にありてはただ虚空あるのみ。これに依止して一大気体の輪を成すなり、これを風輪という。その広は無数にしてその厚は一六億踰繕那なり。すなわち一六〇万由旬なり。もし一由旬を日本里程の二里半とすれば四〇〇万里に当たる。その風輪たるや、実に堅牢無比にして、大諾健那のごとき大力あるもの金剛をもって打撃すといえども、金剛の方かえって砕けて風輪はすこしも損ずることなしとは、風輪の堅牢をたとえたるのみ。大諾健那とは露形神と称し、神中の多力あるものなり。かくのごときは空想のはなはだしきものに似たりといえども、その実、決して空想にあらず、今日の実験に照らすもなおかくのごとく論定せざるべからず。空気はその質至って薄弱にして金剛をもって比すべきにあらずといえども、もし空気を圧迫せんと欲するときはいかに堅牢の金剛といえどもよくこれを破壊するは事実なり。たとえば水蒸気のごときもその力よく汽車を飛ばし、あるいは汽鑵を破裂せしむるにあらずや。果たしてしからば、風輪は金剛よりも堅しと解するもあえて怪しむに足らず。すでに風輪の生ずるあれば、その上に大雲雨を起こしてこれにそそぎ、そのしたたること車軸のごとし。その水積みて輪となる。これを水輪と名付く。この水輪のいまだ凝結せざるにおいては、その深さ一一億二万由旬ありという。これわが日本里程の二八万里に近し。しかしてこの水輪の傍らに流散せざるゆえんは、風のこれを持するによるとなす。もしこれを今日の学説に考うれば、空気の力その水を擁して散ぜざらしむというべし。すでにしてまた別の風の起こるありて、この水を搏撃し、その表面ようやく凝結して固体を生ずるに至る。これを金輪と名付く。なお熟乳の上面、一時ののち凝りて膜を結ぶがごとし。このとき水輪の厚減じて八億由旬となり、それ変じて金輪となりたるもの三億二万由旬なりという。しかして水輪、金輪の広さはその数量同一にして、直径おのおの一二億三千四百半、周囲おのおの三六億一万余なりという。これを一由旬が二里半に当たるとして算するときは、九〇二万里余となる。かくのごとき数量はみなその広大なる一斑を示すに外ならざるべし。この金輪の上に九山八海ありて、須弥山その中央におり鉄輪囲山その外辺をめぐると説くがごときは、みな須弥説を論ずるときに譲る。しかしてこの九山八海は更に金輪の上に雲雨を起こし、また別に風を生じて、これをして凝集して山と成り洲と成らしめたるによる。これ成劫にありて器世間すなわち山海大地等の結成せる次第なり。これより生物ようやく相生じ、その身体も寿量もおのおの増減ありて変化してやまず。かくして成住二劫を過ぎて壊劫に達すれば、種々の災害ありて起こるという。その災害に小の三災と大の三災あり。小の三災とは刀兵、疾疫、飢饉なり。大の三災とは火災、水災、風災なり。刀兵の災はただ七日間のみ、疾疫は七月七日間、飢饉は七年七月七日間継続すという。つぎに大の三災の次第を述ぶれば、最初に七個の太陽現出して七個の火災あり、これに続きて一個の水災あり、そののちにまた七個の火災ありて、つぎに一個の水災あり。かくのごとく七火災と一水災と前後相続きて七回に及ぶ。そのときまた七個の火災ありて最後に風災の起こるあり。その次第は左に『倶舎論』の文を引用して示すべし。

  説くところの三災いかんが次第するや。要す。まず無間に七の火災を起こす。そのつぎに定めてまさに一の水災起こるべし。こののちに無間にまた七の火災あり。七の火災を度して、かえって一の水災あり。かくのごとく、ないし七の水災を満して、また七の火災あり。のちに風災起こる。かくのごとく総じて八の七の火災、一の七の水災、一の風災起こることあり。

  

  

 すなわちこれを総計するに五十六火災、七水災、一風災、都合六十四災ありて、有情世間、器世間共に壊滅して一物をとどめざるに至る。これを空劫となす。これ世界退化の極なり。この空中に更に風を起こし、再び世界を成立す。すなわち『倶舎論』に「空中にようやく微細の風生ずるあり。これ器世間のまさに成ぜんとする前相なり。風ようやく増盛して、前に説くところのごとく、風輪、水金輪等を成立す。」とあるをみて知るべし。これ退化極まりて再び進化を開くものなり。かくのごとく成住壊空互いに循環して際涯あることなく、無始の始より無終の終に至るまで天地万有、一開一合、一進一退ほとんど尽期あることなしと立つるは、実に仏教の世界開闢論なり。果たしてしからば、今日の世界は無始以来の世界にして、今日の我人は無始以来の我人なることを知るべし。この世界の後に世界ある以上は、この世界の前にも世界なかるべからず。この世界の前に世界あらば、今日我人の現見する日月山川、草木人獣のごとき、万物万類のその時すでに存せざるべからず。我人もまたその世界にありて棲息したりしに相違なかるべし。その時果たして今日のごとき人間界に生まれしや、あるいはその世界の魚介にして水中に住せしや、あるいはその世界の獣類にして山野に遊びしや、あるいは馬骨なりしや、蛆虫なりしや、あるいは王公なりしや、乞丐なりしや。あるいは猫か、あるいは杓子か、そのなにものたりしを知るべからず。もしまた前世界の前に更に世界あり、その前にもまた世界あり。かくのごとくして一世界の前に無限無数の世界ありて、生類人物その各世界の中に生存せるゆえんを知らば、今日の我人は無始以来、あるいは魚虫となり、あるいは禽獣となり、異種異類の形を結びたりしはやや想像することを得べし。これを前に考えてそのしかるゆえんを知らば、これを後に考えてこの世界の後にも無数の世界ありて、我人は際限なく生滅流転するゆえんを知ること容易なり。故に今われ忽然として不帰の客となるも、これ一時の仮眠に過ぎず、他日一夢さめきたらば涅槃界裏の仙籍に入るか、しからざればなお依然として迷界に身を寓するをみるべし。ああ我人は無始劫来の厄介物にして、永く生死界の食客となり流転界の居候となり、いずれの日に独立自由の身となるを知るべからず。しかりしこうして我人の生死たるや必ずしも一楽なきにあらず。けだしその生は一時の労動にして、その死は一夕の眠息なり。この世界に今日を送りつぎの世界に明日を迎え、一労一息、一眠一覚、横に無涯の空間に出没し、竪に無量の時間に浮沈し、三界を極め六道を尽くし、貧苦の雨に浴し病患の風に梳り、その間またおのずから無限の山河を眺め無限の風月を楽しむは、あに旅中の一興ならずや。伊勢参り大和巡りの旅行などとは、もとより同日の沙汰にあらざるなり。人もし世界も時間も空間も万物も我人も、みなことごとく無限不滅なることを知らば、病なんぞ恐るるに足らんや、死なんぞ驚くに足らんや。いやしくも生を人間界にうくるものは、かくのごとき識見を有せざるべからず。仏教を学び仏書を講ずるも、その要ただこの心地に体達するに外ならず。今その一端たる世界開闢論すら、なおよく生死路頭の迷人をして一夕の安心を営ましむるに足る。余浅学といえども仏教理科を講述するの際、往々その裏面に貫通せる安心の要路を指導せんと欲す。

 以上、三輪開闢説を述べたれば、世間必ずこれに対して、その説は古代の妄説にして今日の学説にあらずと疑うものあらん。故にここに、その疑問に対して一言弁明するところなかるべからず。余は三輪説の一半はインド伝来の古説にして、一半は仏教創設の新説なりと信ずるものなれば、あえて仏教家のためにこれを弁護する必要なしといえども、これを今日の学説に比考してまた大いにとるべきところあれば、ここに黙過するを得ざるなり。余が想像するところによるに、三輪の次第および三災の順序等のごときは、インドに伝来せる古説にして、仏教はこの古説に基づき、成住壊空の終わりてまた始まり、尽きてまた起こり、循環して際涯なきゆえんを証明したるものならん。しかれども、その果たしてしかるや否やはいまだ判然せざれば、ここにしばらく三輪も三災もみな仏説とみるもあえて不可なることなし。今日の学説の報ずるところによるに、宇宙の太初は高熱の気体より漸次にその形を結び、気体は一変して液体となり、液体は一変して固体となり、ついに山河大地を現ずるに至るという。これを星雲説と名付く。古代にありてギリシアの碩学ヘラクレイトスひとたび宇宙火体論を唱えたりしも、いまだその原因事情を明示するに至らざりしが、近世哲学の中興とも呼ばるるドイツの大家カント氏、今より百余年前にありて早くすでに宇宙ガス体論を唱え、その後ハーシェル氏に至りて星雲説を唱え、爾来学界一般にその説をとるに至れり。今三輪開闢説もその順序ややこれに同じ。最初に現成せる風輪は気体を義とするものなれば、高熱のガス体あるいは星雲体に比すべし。そのつぎに水輪の液体を生じ、そのつぎに金輪の固体を生ずというも、みな星雲説の定むるところに同じ。ただ星雲説はかくのごとく次第に変成せる原因を物理の作用に帰し、最初の気体ようやくその熱を失いて液体となり、更にその熱を失いて固体となり、すべて物の熱発散すれば必ずその度を減じ、減ずれば必ずその体収縮するの理によりて説明するも、仏教はしからず、すべてその原因を有情の業力に帰し、水輪、金輪形成の理は、みなこれを精神作用によりて説明し、決して物理に照らして証明するにあらず。これ世間その説を評して妄誕となすゆえんなり。しかれども、もし主観の方面より世界の開闢を論じ、かつその説明は学術的にあらずして宗教的なり、研究的にあらずして開導的なることを知らば、必ずしもその妄誕にあらざるを了解するを得ん。けだし文章に譬喩形容の多きは仏書の特色にして、これ一はインド文学の常態なりといえども、また仏教が不可思議の妙理を開示するに必要なるによるは、多言を待たずして知るべし。故に仏書中の奇怪談は、ひとり開闢論須弥説の上のみに存するにあらざるなり。もし一歩を譲り、仏出世の当時は物理の学いまだ開けざりしをもって、すべて想像によりて構成せりとなすも、余はすこしもこれをもって仏教の価値を減ぜざるものと信ず。もしその空に架設せる想像の今日の学説に一致するところあるをみるにおいては、一層驚嘆せざるべからず。しかしてかの三輪の広狭深浅を測定したるがごときは、広大の一斑を形容せるに過ぎざるなり。また世界の最後において火災、水災、風災の続きて起こり、ついに天地万境の壊滅に及ぶと論定したるがごときは、空想のはなはだしきものに似たりといえども、今日の学説においても、地球も太陽も一切の太陽系みな破壊して太初の星雲未開の状態に帰することを予定するに比すれば、またその要点において大差なきを知るべし。ただこの極に達する順序において両説の相いれざるところあるのみ。しかれどもその大小の三災のごときも、世界壊滅の原因および事情の譬喩形容となすにおいては、たやすく両説の撞着を会通するを得べし。余をもってこれをみるに、仏教は主観の方面より世界の成立を説明し、その変遷の循環際涯なきゆえんを開示し、もってその裏面に不生不滅の真如の存することを論定せるものなり。故にその客観上の世界談は、ただその参考あるいは方便に過ぎず。なおその理由はのちに天文地理を講ずるときに詳述すべし。

       第四段 仏教開闢論 第二 小乗主観的開闢論

 世界開闢の順序は風輪まず成り、つぎに水輪、つぎに金輪と次第に成立しきたるとなすは客観上の見解のみ。もし風、水、金はなにものより生じ、いずれの所よりきたれるやに至りては、これ更に説明を要する点なり。その原因を梵天に帰するときは婆羅門の有神論となり、もしこれをゴッドに帰するときはユダヤ教およびヤソ教の有神論となるべし。かつかくのごときはみな客観上の説明に過ぎず。あるいはまたその原因を暗黒の自性に帰し、もしくは烏合の極微に帰するもまた客観上の解釈なり。ひとり仏教はこれに与うるに主観上の説明をもってせり。主観上の説明とはなんぞや。因果必然の規則を精神上に説ききたりて業因業感説を立つるをいう。たとえば『倶舎論』中に有情業増上力とあるものこれなり。世界の成るも壊るるもみなこの業力の所感となす。左にその文を摘載すべし。

  有情の業の増上力をもって、まず最下において虚空に依止して、風輪生ずることあり。(『倶舎論』巻一一の一左)

  もろもろの有情の業の増上力は、大雲雨を起こして、風輪の上に注ぐ。(同論同巻の一左)

  有情の業力、別の風、起こすことを感じて、この水を搏撃して、上へ結して金と成る。(同上)

  有情の業の増上力をもって、また大雲雨起きて、金輪の上に雨ふる。(同巻の二左)

  一切の有情の業の増上力は、空中にようやく微細の風生ずることあり。(巻一二の四左)

  

  

  

  

 かくのごとく、世界成壊の原因はみなこれを有情の業力に帰す。この点はやや了解し難きがごとしといえども、仏教は唯心論にして、主観の方面より外界万有を解説せるゆえんを知らば、たやすく疑いをとくことを得べし。その論は今ここに述べ尽くし難しといえども、いささか一言を付し、なお解せざるところはこれより講ずるところの理科諸論の下、および仏教心理学諸論の下において漸次に詳述するを待ちて知るべし。

 哲学上、物のみありて心なしと論ずるものを唯物論といい、心の外に物なしと論ずるものを唯心論という。もし唯物論者に対して心はいかにして生ずるやと問わば、彼必ず答えていわん、物によりて生ずと。またもし唯心論者に対して物はいかにして生ずるやと問わば、必ずこれに答えて、心によりて生ずといわんのみ。仏教はそのいわゆる唯心論なれば、物の生滅存否はみな心のしからしむるところにして、世界の成壊開合もまた心力の作用に帰するなり。果たしてしからば、心にいかなる性法ありてこの作用を現ずるや。論じてここに至れば、古来の唯心学派中一定の説なし。たとえばバークリー氏のごときはその原因を神に帰し、フィヒテ氏のごときはこれを絶対の我体に帰せり。今仏教はこれを業因の所感とす。業因とは我人有情の前世において、ひとたびその身、口、意の上に発したる行為は決して滅無に帰することなく、必ず直接および間接に、その結果を招ききたすところの一大規律をいう。この規律に従って、我人有情が現世において一個の人類となりて此土に来生するのみならず、人類およびあまたの有情が久しきを経て、自らなせる業因相積み相助けて世界の大化を引き起こすに至るという。なお唯物学者が世界の変遷の原因を物理の作用に帰するに同じ。それ因果の理法は物心内外にわたりて存する宇宙の常則定道なり。しかるに、古来多くこれを物理の上に考えて心理の上に問わず。これをもって、世人みな唯物的因果のみ存するを知る。ひとり仏教にありては、因果の理法の精神上に存することを知り、これを唯心論の上に応用して世界万有の変々化々するゆえんに至るまで、唯心因果の理をもって説明せるは実に仏教の特色なり。物質は不滅なり、精神また不滅なり。その間に存する因果の理法も、またまた不滅なり。眼前の世界は物質世界にして、世界の変化は物質の規則に基づくとみるは、外面一様の観察のみ。もし物質を分析してようやく分子、小分子、微分子、元素に至り、更に元素の元素を究むるに至らば、有形の範囲を脱して無形に入るより外なし。また世界の太初にさかのぼり星雲の前を究むるに至らば、これまた無形に入るべし。あるいはまた物質あれば必ず勢力あり、物質の分合集散するはこの勢力の作用にあらざるはなきを知り、更に勢力のなんたるを究むるにおいては、有形世界の裏面には無形的勢力の一大海ありて存するを知るに至るべし。これによりてこれをみるに、この世界は本来無形的精神の大海にして、その海面に水の相撃を相激して白浪を躍らすもの、これこの物質界なり。しかして白浪の間に一点の碧水をもらすもの、これ人類の精神なり。かくのごとく想定して仏教の世界論を観察しきたらば、唯心因果の道理の空しからざるゆえんを知るに足らん。

 以上の開闢論は仏教中小乗の説のみ。小乗は表面に客観上の解釈を下し、裏面に主観上の説明を付し、もって大乗唯心に入るの門路を開けり。もし権大乗法相宗の開闢談は八種の識心を立て、第八識と前七識との相互の関係によりて説明せるも、これ全く心理学上の論題なれば、仏教心理学の講義に譲る。また実大乗の真如の一水動きて万法の波を現し、世界の万象と真如の理体とは不一不異、不離不即の関係ありというがごときは、妙はすなわち妙なりといえども、仏教理科に関係なければこれまた略せざるを得ず。前者は頼耶縁起といい、後者は真如縁起という。この二種の縁起論は仏教独占自得の妙理にして、外道諸流のいまだその味を感ぜざるところなり。小乗の開闢説のごときは、これに比するにわずかにその玄関をうかがうに過ぎず。しかして、大乗の奥座敷は実に千畳万畳もただならざるなり。

 

     第五講 天文論

 天文論の下には日月星辰を論じ、地理論の下には山海邦国の外に風雨、雷電、虹霓を述ぶべきはずなるも、天文論に気象論をあわせ、日月星辰のみならず、風雨雷電のことを述べんと欲す。これ西洋の学術的分類に違うも、わが国古来の分類は気象をもって天文に属するを常とすればなり。故に本講は天体論、暦法論、気象論の三段に分かちて逐次講述すべし。

       第一段 天体論

 まず仏書につきて日月星宿の体質を考うるに、日輪はその下面、頗胝迦宝、火珠の所成にして、よく熱しよく照らすとなす、月輪はその下面、頗胝迦宝、水珠の所成にして、よく冷やしよく照らすとなす。頗胝迦とはここに訳して水精、水玉、白珠という。かくのごとく、ただ日月の下面のみを説くは、その上面は諸天の所居なるによる。すなわち日輪の上面は日天子の宮殿あり、月輪の上面は月天子の宮殿ありという。つぎに諸星宿は諸宝の所成にしてその形円なり。その上にもまた宮殿ありという。『須弥界実験暦書』(巻一)によるに「『安楽集』巻下にいう。須弥四域にいわく、天地初めて開けし時、いまだ日月星辰あらず。たとい天人来下するあれども、ただ頂の光を用いて照用す。そのとき人民多く苦悩を生ず。ここにおいて阿弥陀仏は二菩薩を遣わす。一をば宝応声と名づけ、二をば宝吉祥と名づく。すなわち伏犠、女媧これなり。この二菩薩共に相籌議して、第七の梵天の上に向かいて、その七宝を取りて此界に来至して、日月星辰二十八宿を造り、もって天下を照らして、その四時春秋冬夏を定む。」とあり。また『法華嘉祥』の疏にある経を引きて、観世音を宝意と名付く、日天子と作る、大勢至を宝吉祥と名付く、月天子と作る、虚空蔵を宝光と名付く、星天子と作るとあり。古来仏教家中往々、日輪は観音にして、月輪は勢至なりと伝うるものあれども、その談たるや婆羅門の神話に近きものにして、容易に信ずべからず。余おもえらく、これ比喩に過ぎず。すなわち観音および勢至の徳を日月に配したるものならん。かくのごときは、ひとり仏書のみならず、古代の書中には多くみるところなり。日輪、月輪には日天子、月天子の宮殿ありというがごときも、一種の譬喩体にして、日月の功徳を称賛するのあまりこれを天子に配し、更にこれを形容して諸宝合成の宮殿ありといいたるのみならん。日輪は火珠所成、月輪は水珠所成となすがごときは、これを今日の学説に比するもあえて奇怪の説たるにあらず。今日の学説によるに、太陽は高熱の火球にして、太陰は熱を失える冷体なりとなすにあらずや。つぎに日月の大小につきて説くところによれば、日の直径は五一由旬、月は五〇由旬、星の最小なるものは一倶盧舎なりという。その周囲はこれに三倍してみるべし、もし日の直径をわが里法にて一由旬を二里半として算すれば一二七里に過ぎず、これを西洋の説に比すればその大小同日の論にあらず。左にその比較を示す。

  日輪 直径 一二七里(仏教) 四〇万里(西洋)

     周囲 三八一里(仏教) 一二〇万里(西洋)

 すなわちその二者の差は三〇〇〇倍なり。仏教にては大地の直径は日輪の二万三〇〇〇倍にして、西洋にては太陽の直径は地球の一〇七倍なりとす。その他、天地の距離につきてもまた大いに不同あり。今『日月行品』によるに、閻浮提の中心より正午日の中する時の距離わずかに四万由旬、すなわちわが一〇万里にして、西洋の所説は九二〇〇万哩すなわちわが四三〇〇万里なれば、その差四〇〇倍以上なり。

 これによりてこれをみるに、仏書中の説は肉眼をもって推測せるものに外ならざるべし。日と月との直径の差わずかに一由旬なるがごとき、また星はその直径きわめて小なるがごときは、みな我人の肉眼上の憶測に過ぎざるべし。しかるにこれを仏教の説となすときは、大いに仏教の価値を減ずる恐れありというものあれども、余は決してそのしからざるを知る。第一にその説たるやインド一般の古説なるや、また仏教一家の新説なるや、いまだ知るべからず。もしこれを仏教一家の新説とするも、その数量のごときはただその大小遠近の比較を指示して常人の知識に訴うるまでにとどまり、決して実際上観測の結果を報告せるにあらず。すでに仏教は宗教にして、学術にあらず、天文学にもあらず、物理学にもあらざれば、その大小遠近の等差のごときはあえて問うところにあらず。もしこれをたとうれば、その説たるや仏教の自ら領するところの宅地にあらずして、むしろ隣家の所有地なり。ただ仏教の本邸に入るには、暫時の間その地を通過するを要するのみ。故に喋々その説を弁護するがごときは、全く徒労に属す。しかれども余が講ずるところは、その説の婆羅門なると、仏教なるとを問わず、古説を比較する一材料に備うるものなれば、左に『仏祖通載』に出せる日、月、星の三説を転載すべし。

  日輪は、火珠の成るところなり。径は五一由旬、周囲は一五三由旬、厚は六由旬零一八分なり。上に金縁あり。その上にまた金、銀、琉璃、玻瓈、珂等あり。秀でて四角を成し、日天子等の所居の宮殿なり。風によりて運行し、一昼一夜に四大洲をめぐりたり。北に向かいしときに、日はすなわち長く、南行のときに短く、南北の間に行きしときに、昼夜は停まりたり。遊処の光によりて、すなわち寒暑ありて、冬夏の際をなす。北行の六月と南行の六月に行きて中道に至るを日月廻星輪といい、歴徧をこれ一歳といえり。

  月輪は、水珠の成るところなり。径は五〇由旬、周囲は一五〇由旬、厚は六由旬零一八分なり。その上にまた金、銀、琉璃、玻瓈、珂等あり。秀でて四角を成し、月天子等の所居の宮殿これなり。かの日月相去り遠近し、自影は増減せり。一分を増すことによりて、すなわち上半の一五分を生ずるを、ことごとく円満といい、一分を減ずることによりて、すなわち下半の自影を生じ、かの一五分を覆いたるを、ことごとく不円満といえり。増減によるが故に名づけて宿空といい、一昼夜によるに名づけて宿地といえり。かくのごとく、三〇を名づけて一月というなり。

  もろもろの星宿は、空居天宮の諸宝の成すところなり。その形はみな円なるも、小は一牛吼、中は三牛吼、大は六牛吼、周囲は三倍にして、四王衆に係かりたり。

  

  

  

  

  

  

 よろしく前に述べたるものを参看すべし。

 すでに日月星の三体を述べ終わりたれば、その体の空中に懸かりて運行するはなんの理によるや、

  日月行品にいわく、衆生の業の増上縁をもっての故に風輪あり。つねに吹きて廻転し風吹きたるをもっての故に、日月等の宮廻転してやまず。

  『倶舎論』にいわく、日月衆星なにによりて住すか。風によりて住す。いわく、もろもろの有情の業の増上力共に風を引きて、起こりて妙高山をめぐれり。空中に旋環して、日等を運持して、停★(墜の旧字)せざらしむ。

  

  

  

 すなわち日月等は、虚空中に風によりて住止しかつ運行す、しかしてこれをしてしからしむるは業報の力となす。もし『起世経』によらば、かの日天の勝大宮殿は五種の風ありて吹き転じて行く、何等をか五となす、一を名付けて持となし、二を名付けて住となし、三を随順転と名付け、四を波羅訶迦と名付け、五を将行と名付くとあり。また月天子の最勝宮殿も同じく持、住、順、摂、行の五種の風に摂持せられて行くとなす。もしこれを今日の学説に考うれば、日月の運行は求心力、遠心力の関係より生ずとなす。この両説の相いれざること、一方を立つれば他方を排せざるべからず。けだし今日の学説は客観一方の説明にして、仏教上の解釈は主観客観両方の説明なり。たとえば、風によるというは客観説にして、業力に帰するは主観説なり。余案ずるに、客観的説明はインドの古説にして、主観的説明は仏教の別説なり。しかして前者は人なおこれを許すも、後者は人の大いに怪しむところなり。しかれども、ひとたび仏教の唯心所造説を明らかにすれば、たやすくその意を了するを得べし。また西洋の遠心力、求心力の説のごときは、事理明確すこしも疑いをいれざるがごとくにみゆるも、もしこの両力のよりて生ずる原因を討尋するときは、結局物質に固有せる勢力に帰するより外なし。もし更に物質中いかなる造構機能ありてこの妙用を生ずるやと問わば、これに答うるにわれこれを知らず、よろしく造化に向かいて問うべしとの言をもってせんのみ。もしまた更に造化そのものはなんぞやと問わば、結局不可知的なりというより外なし。果たしてしからば、遠心力、求心力のごときもその体、不可知的なり。なんとなれば、不可知的の物質および不可知的の勢力より生じたるものなればなり。故に遠心力、求心力のみならず、太陽そのものも月輪そのものもみな不可知的なり。もしこれより更に一歩を進むれば、主観的説明をよび起こすに至るべし。たとえば物質そのものに太陽を引く力も離す力もありというときは、その体、実に宇宙間の一大怪物にして神も及ばざる妙用ありといわざるべからず。これあに一大活物にしてかつ一大霊体ならずや。かくのごとく想定しきたらば、物質そのものはすなわち真如の活体にして、我人その妙用を示すゆえんを知るべし。ああ我人は忽然としてこの不可思議なる天地の間にその形を結び、日夜いながら霊妙なる物質の妙技を演ずるを見て、これを楽しむはこれまた不可思議の霊妙の一生ならずや。近世西洋の学説、その実験の研究においては実に至れり尽くせりといえども、大抵外面皮相の見解を用い、浅薄味わうるに足らざるもの多し。仏教はこれに反し、宇宙を活物視し、天地を活動視し、一切有情の業感をもって日月の運行を説明するに至りては、実にその味深くしてその旨遠しというべし。つぎに日蝕月蝕につきては、『涅槃経』および『正法念経』等にその原因を修羅の手障に帰せり。すなわち左のごとし。

  『涅槃経』にいわく、羅㬋なる阿修羅の王の手をもって月をさえぎりたるを、世間の人はみな月食というも、修羅は実にむしばむことあたわざるなり。修羅はその明をさえぎる故に、これ月の団円は虧損あることなし。ただ手をもってさえぎる故に現ぜざらしむるなり。

  『正法念経』にいわく、修羅、帝釈と闘いせしとき、日月の光は修羅の眼を射りたるが故に、修羅は手をもって日月をさえぎりたるを、世人は知らずして、おもえらく日月蝕となすなり。

  

  

  

 これ必ずインドの神話の仏教中に混入したるものならん。なんとなれば、帝釈談は仏以前の古説にして仏教自製の説にあらざればなり。また『楞厳経』に「一洲悪縁を感ずれば、すなわち日月および星の悪相をみる。」とあり、『華厳経』に「一国の人悪縁を感ずれば、すなわちかの当土の衆生はもろもろの一切不祥をみる。」とありて、日月の変のごときは衆生悪縁の所感となす。これまた主観的説明なり。すでに仏教は天地万有の変動をもって有情の業感に帰する以上は、一切の変災みな悪縁所感となすは自然の勢いにして、あえて怪しむに足らず。しかれども余は別に一考あり。天地の変動は物理にて知り得る限りは、客観上の説明によらざるべからず。もし物理にて知るべからざる点に達すれば、主観的説明を用いざるべからず。しかるに古来仏教家が経論中にみるところの説は、その譬喩なるか方便なるかを問わず、唯一に不変の金言となし、一より十に至るまで物理の説明を排して因縁説をとらんとしたるは、偏見の評を免れ難し。

 月の盈虧は『倶舎論』に釈するところによるに、月宮殿行きて日輪に近くをもって、月は日輪の光に侵照せられ、余辺影を発して自ら月輪を覆う、そのとき月の円満ならざるを見ることありとなす。また一説を引きて「日月輪の行度の不同によりて、円欠あるを現ず。」という。また晴夜円月の面に薄黒の文あるにつきて仏書中多説あり。その一は『瑜伽論』に出づる大海の魚鼈の影、月輪に現ずるなりとの説、その二は『雑心論』に出づる須弥山南に大閻浮樹あり高四〇〇〇里、影月中に現ずとの説あり。更に一説を挙ぐれば『瑜伽倫記』に本性経を引きていわく、「昔、三獣共に仁義を行ぜしとき、天帝釈は真偽を試さんと欲せり。兎は薪を拾いて火を焼き、身を殺して帝に供えり。帝は至誠を憐れみ、骸を月輪に安ぜり。」と。その因縁は『西域記』につまびらかなり。因明入正理論に世間相違を解して「懐兎は月にあらずしてあるが故に。」とあるもその一例なり。わが国俗間に、月中にウサギありと伝うるも、この仏書中の説に基づきしならん。これらの説は、みなインドの俗説なるべし。

 つぎに銀河のことまた仏書中に見ゆ。これ天に五河あり、そのおのおのに一〇〇〇の小河ありて付属すという。その文左のごとし。

  『僧伽吒経』(巻二)にいわく、一切勇はまた五河を有す。虚空中にありて、一河はおのおの一〇〇〇の小河を有し、もって眷属となす。一切勇菩提薩埵は仏にもうしていわく、世尊よ、なんらこれ五河は一〇〇〇の眷属を有するや。仏一切勇菩提薩埵に告げたまわく、第一河は須陀羅と名づけ、一〇〇〇の眷属を有す。第二河は名づけて羶佉といい、一〇〇〇の眷属を有す。第三河は婆呵帝と名づけ、一〇〇〇の眷属を有す。第四河は質多斯那と名づけ、一〇〇〇の眷属を有す。第五河は名づけて佉蓋といい、一〇〇〇の眷属を有す。一切勇はこれ五大河にして、一〇〇〇の眷属を有するを名づく。一切勇はこれ五大河にして、閻浮提を利益す。ときには雨をふらせて、華菓を増長し、閻浮提に清浄水をふらせて、苗稼を増長す。

  

  

  

  

 すなわちこの天河より清浄の雨水を降しもって草木を潤長せしむという。

 虚空の蒼々たる天色のことにつきては、これを須弥山の色に帰す。虚空は無礙無障にして平等無差別なれば、声色も味香もなかるべし。故に『楞厳経』に「起は世界となり、静は虚空と成る。虚空を同となし、世界を異となす。」とあり。これをある書に釈して「一〇〇億の須弥界はその相、差々別々といえども、虚空はこれ一なり。」とあり。しかるに須弥山の体、四宝より成り、その光四方に射映して虚空の色を現ず。北面は金にしてその色黄なり、東面は銀にしてその色白し、南面は吠瑠璃にしてその色青し、北面は頗胝迦宝にしてその色赤し、我人の居住せる方位は須弥山南の閻浮提洲なれば、その虚空に碧色を見る。しかるに夜の明けんとするときに東天に白を見るは、東面の銀色の日光に反射して現ずるなり。日の没するときに西天に紅色を呈するは、西面の赤色の反射なりという。そのこと諸経論中にみるも、今左に『倶舎論』の一節だけを掲ぐべし。

  妙高山は四宝を体となす。いわく、つぎのごとく四面、北、東、南、西は、金と銀と吠瑠璃と頗胝迦との宝なり。宝の威徳にしたがって、色は空にあらわる。故に贍部洲の空は吠瑠璃の色に似たり。

  

 かくのごときは今日の学説中に加え難しといえども、古説の比較上参考の一助となすの便あり。

       第二段 暦法論

 シナの暦法は唐以後のインドの暦法を資りて始めて周備せること、往々史上にみえたり。今『仏国暦象編』の考証によるに、「唐の高宗のとき、司天なおいまだ定朔の法に詳しからざる時に、暦は天と合せず、気序は多く違いたり。晦朔の月見は薄蝕ごとに失す。時にインドに歩暦をよみすることを聞きて、ついに遠くその人を求めて、もって暦官となす。それ史に見えしはすくなからざるなり。」と記せり。また同書にシナにて訳出せる天文部類の書の多き例証を挙げていわく。

  『仏祖通載』の九にいわく、後周の宇文泰と宇文護とは、ならびに仏法を崇重せり。西域の三蔵一四人とともに、経、論、天文等を宣訳すること、およそ百余巻なり。また『続高僧伝』の一にいわく、周の建武帝の天和中、達摩流支は勅を奉じて、婆羅門の天文二〇巻を訳せり。また按隋経の籍志に、婆羅門の天文経一巻、婆羅門の竭伽仙人の天文説三〇巻、婆羅門の天経一巻、解天命星宿要訣一巻、摩登伽経星図一巻、婆羅門の算法一巻、婆羅門の算経三巻を載せり。これみな六朝の間に、インドの天文、暦、数の書のシナに入りたるものなり。また唐芸文志に、都利聿斯経二巻、陣輔聿斯四門経一巻を載せり。唐以前に見られしはすでにかくのごとく、その他は史に載せざるところなり。唐の貞元の中に伝えらるごとく、西インドの婆羅門金倶咤は九曜暦法等を著すも、理はまさに若干なるべし。けだしインドおよび胡諸国より入りしところの弘法の沙門と婆羅門は、あにただ什、佰にして、その伝えるところもまたもって概すべからざるや。

  

  

  

  

  

 また同書に「インドに星象というなり。もっとも精にして、かつ博なり。しかりといえども、これ出世の急にあらざるが故に、弘法の諸師は務めて伝訳せざるなり。これもって此土にきたらざることはなはだ多し。」と記せり。仏書中にはもっぱら暦法を説きたるものあるをみずといえども、『大集日蔵経』『月蔵経』『摩登伽経』『孔雀経』『宿曜経』等、往々暦数のことを掲ぐ。けだし梵暦の種類一ならず、そのシナに伝うるものも数種あるべし。『暦象編』の報ずるところによれば、インドの彊域渺邈なれば暦また一ならずかつときどき改易ありといい、また梵暦多しといえども大概四種を出でず、一は太陽暦、二は太陰暦、三は陰陽合暦、四は恒星暦なりといえり。かつ同書に経論の暦法にしてその立法の同じからざるもの一二ありと説けり。これによりてこれをみるに、暦法の仏書中に散見せることあるは必ずしも釈迦仏の初めて唱えたるものにあらず。これインド一般に伝うる説なること明らかなり。しかるに仏教家が喋々インドの暦法までを弁護するは、ひいきの引きたおしにあらざるや。これあにありがた迷惑の次第ならずや。

 インドの歳時につきては、あるいは六時となし、あるいは四時となし、あるいは三時となす異説あり。『西域記』には一歳を分かちて六時となせり。

  漸熱・・自正月十六日至三月十五日

  盛熱・・自三月十六日至五月十五日

  雨時・・自五月十六日至七月十五日

  茂時・・自七月十六日至九月十五日

  漸寒・・自九月十六日至十一月十五日

  盛寒・・自十一月十六日至十二月十五日

 また経論中には多く熱時(自正月十六日至五月十五日)、雨時(自五月十六日至九月十五日)、寒時(自九月十六日至正月十五日)の三時となし、あるいは春夏秋冬の四時となす説あり。しかして『倶舎要解』に三時期の異説を掲げたる中、その二、三を列挙すれば左のごとし。

  唐三蔵および光宝二師 熱際(十一月十六日至三月十五日)

             雨際(三月十六日至七月十五日)

             寒際(七月十六日至十一月十五日)

  光記所引有説     熱際(十二月十六日至四月十五日)

             雨際(四月十六日至八月十五日)

             寒際(八月十六日至十二月十五日)

  西域記出有説     熱際(八月十六日至十二月十五日)

             雨際(十二月十六日至四月十五日)

             寒際(四月十六日至八月十五日)

  演義抄および瑜伽倫記 熱際(二月十六日至六月十五日)

             雨際(六月十六日至十月十五日)

             寒際(十月十六日至二月十五日)

 かくのごとく時日に異説多きは、インドは地方により暦日を異にし、かつこれをシナに訳するに両者の暦日一準ならざる等の事情によるべし。昼夜の長短につきては『演義抄』および『瑜伽倫記』の記するところによるに、雨際第二月後半第九日(八月九日)より夜ようやく増し、寒際第四月後半第九日(二月九日)より昼ようやく増すという。また『光記』によるに、冬至以後日北に向かい昼増し夜減ず、夏至以後日南に向かい夜増し昼減ずるの説あり。その他はすべからく『倶舎要解』(巻五)につきてみるべし。

 つぎに五行干支につきては、余いまだインドにその説あるを聞かず。五行の代わりに地、水、火、風、空の五大をもって天地万物の大元となし、これを諸物に配当して論ずることあるのみ。また十二支に鼠、牛、虎等の十二獣を配当せることはインドの説に基づきしならん。すなわち『大集経』(巻二四浄目品)に十二獣遊行のことを説き、『十二因縁祥瑞経』に、鼠牛虎兎竜蛇馬羊猿鶏犬猪を説きて、これを小乗教所立の十二因縁に配合して示せり。これその証なり。

 七曜および二十八宿のことまた仏書中に出づ。すなわち『宿曜経』に曰く、「香山仙人問うていわく、天道二十七宿にひろきあり、せまきあり、云々。」と。またその頌に曰く、

  六宿はいまだいたらざれば前合と名づく。十二宿は月と左右にして合す。九宿は犢の母にしたがいて行くがごとし。奎宿の直よりまさに知るべし。

  

 その説明は『宿曜経』に譲りてこれを略す。しかしてその名称は奎、婁、胃、昴、畢、觜、参、井、鬼、柳、星、張、翼、軫、角、亢、弖〔氐〕、房、心、尾、箕、斗、女、虚、危、室、辟〔壁〕にしてその数二七なり。故に『宿曜経』の割注に「唐には二十八宿を用いるも、西国には牛宿を除く。」とありて、インドは二十七宿をとるもののごとし。しかるに『日蔵経』(巻八)には「小星宿は二八あり。いわゆる昴より胃に至るもろもろの宿これなり。」とあるをみる。また十二宮神のことも『宿曜経』に出づ。『日蔵経』『摩登伽経』『孔雀経』等にもそのことを出せり。十二宮神の名称左のごとし。

  双魚宮  白羊宮  金牛宮  男女宮  巨蟹宮  師子宮

  双女宮  天秤宮  天蝎宮  弓 宮  磨蝎宮  宝瓶宮

 その他、七曜のことも『宿曜経』に出づ。すなわち「七曜は、日、月、火、水、木、金、土なり。その精は上、天神にかがやき、下、人に直す。善悪をつかさどりて、しかも吉凶をつかさどるゆえんなり。」とあり。また同経に七曜占と題して、太陽直日、太陰直日、熒惑直日、辰星直日、歳星直日、太白星直日、鎮星直日を示せり。かくのごときは、あえて詳説するを要せざればこれを略す。

第三段 気象論

 さきに予告せしがごとく、天文論に合して風雨雷電等の気象を述ぶべし。まず雲霧につきて考うるに、『阿含経』(巻二〇)に「雲に四種あり。いかなるを四となすや。一は白色、二は黒色、三は赤色、四は紅色なり。それ白色は地大にひとえに多く、それ黒色は水大にひとえに多く、それ赤色は風大にひとえに多し。」とあり。そのこと『起世経』にも出づという。つぎに風雨につきては、さきに持、養、受、転、調の五種の風ありて日月を運持すといえる説あることを述べたり。『起世経』には大に開花、清浄、除穢の三種の和風あることを説き、『僧佉吒経』には四の風王ありと記せり(以上『義楚六帖』巻一七)。その他、経論中に風の説明あるをみず。雨の解釈に至りては『分別功徳経』に「雨に三あり。一は天雨、二は竜雨、三は修羅雨なり。」とありて、第一の天雨は天に池ありてこれより降るものとし、第二の竜雨は竜力をもって海水を昇騰せしむるなり、第三の修羅雨は阿修羅、悪心をもって毒雨を降すをいう。あるいはまた『大婆沙論』(巻七一)によるに、海竜王のごときは久しく大海に処して威勢を増長し、上虚空に昇り大雲を興ししきあまねく空界を覆い、掣電晃輝大雷音を震いあまねく世間に告げていわく、雨を降してひとしく一切を潤さんと欲するなりとあり。故にインドにありては大雨は海竜の降すところとなせり。つぎに電雷を考うるに、『阿含経』に雷に四種あることを説く。すなわち曰く「東方の電をば身光と名づけ、南方の電をば難毀と名づけ、西方の電をば流焔と名づけ、北方の電をば定明と名づく。なんの縁をもっての故に、虚空の雲中にこの電光ありや。身光は難毀と相触れ、あるとき身光は流焔と相触れ、あるとき難毀は定明と相触れ、あるとき流焔は定明と相触れる。この縁をもっての故に、虚空の雲中に電光起こることあり。」(『須弥界実験暦書』巻四)とあり。この説によれば、四方の雲中に含むところの電気相触れて電光を発する意なり。『起世経』にも「四方互いに撃つが故に、光明を出す。云々。」(『義楚六帖』巻一七)とあり、あるいはまた『阿含経』に「虚空の雲中に、地大は風大と相触れ、あるとき水大は火大と相触れ、あるとき水大は風大と相触れる。この因縁をもっての故に、虚空の雲中に、雷の声起こることあり。」(『三界義』)とあり。もしこの説によれば雷鳴に三種なかるべからず。一は地大、風大と相触れて発するもの、二は水大、火大と相触れて発するもの、三は水大、風大と相触れて発するものなり。また同経に「竜子は小なるも、よく風と雷と霹靂とを作す。」とあるをみれば、風雨雷電はみな竜神の所為に帰するを知るべし。これを要するに、仏書中にみるところの風雨雷電の説明は、客観主観の両面あり。主観の方面にては、その原因を業感に帰し、客観の方面にては四大に帰する説と、竜神に帰する説との二様あり。しかしてその四大説は、古代における物理上の説明にして、その胎内より今日の物理化学等の新説を産出せりというも過言にあらず。これに反して竜神説は、古代の拝物的想像より描き出したるものなること、また疑うべからず。かくのごとき説の仏書中に混入せるは、玉石混淆の憾なきにあらざるも、一椀の食よくその味をなすは、ひとり飯と汁との力にあらず、大根ありニンジンありタクワンあり梅干しあるによる。また一家の富よくその美を示すはひとり主人の力にあらず、下女下男、車夫馬丁、三助権助のその中に加わりて相助くるによる。これと同じく仏書中に理学的の説もあり、非理学的の説もあり、道理的もあり、非道理的もありて、かえって仏教研究に一段の趣味を与うるものなり。

 その他の気象につきては別に論ずるところなし。ただし『西域記』(巻三)に、ある国に阿波羅竜王あり。その国の春夏常に凍りて五色の雲を起こし、五色の雲を下すことを記し、『譬喩経』に、悪竜あり、雨を行じて田人獣等を傷めり、雹を下して仏を傷めんと欲せんことを記し、『倶舎論』に、人多く悪を造り天竜忿怒して甘雨を降さず、ために大旱をきたせることを記するがごとき例は往々みるところなるも、これ決して仏教自家の説にあらずして、インドの俗説のその中に混入したるや疑いなし。けだし竜の怪談はひとりインドのみならず、エジプト、バビロン、ギリシア等の古代の神話中に出で、多く悪の代表者としてこれを説き、害悪の原因をその力に帰せり。今仏書中に見るところのものも、これを他の神話中に存するものに比すれば、大同少異にして気象上の変災を竜の忿怒に帰し、雲雨も雷電も水旱もみな竜の下すところとなすがごときは、仏教外の神話と一致せるもののごとし。要するに、竜王竜神の説はインドの神話俗談にして、善悪の業感業報説は仏教の所談なり。

 以上、気象の説明は今日の学説と齟齬するはもちろん、一見たちまちその妄誕なるを知るべし。これをいかように解説して可なるや、これ仏教家の自ら疑うところならん。従前の仏教家は仏書中にみるところの天体気象等に関して、独断の極自ら妄断を下して満足せる風あり。たとえば近世無外子なるもの『仏国暦象編』を著し、もって西洋の地球説を排して、仏教の天文説を立てんことを努めたり。その志は感服するに余りあるも、その論ずるところをみるに、曰く「今や遠夷邪説は東方に盛行せり。その説かるるをつまびらかにす。日月および五星をもってすなわち地球となし、しかも地球をもってかえりて星となせり。なんぞその怪僻荒蕩そこに至らんや。いわるるごとく、すなわち天もまた地なり、地もまた天なり。月と五星とはただ土塊のみなり。なんすれぞ、至聖は時をもって祭祀をし、しかもわが邦は特に両曜を尊びて神と称するか。」と。その立論、大抵みなかくのごとき断案をもってす。今日の仏教家は決してかくのごとき断案をもって満足せず。必ず学理ならびに実験に照らして証明せんことを望むべし。あるいはまた従来の仏教家は世間知らずの風ありて、おのおの唯我独尊然として自教自宗をもって最上至極の法と信じ、すこしも他教他宗をうかがうことをなさず。その自尊自許のはなはだしき、実に笑うにたえざるものあり。しからざれば、攘夷鎖国の主義をとり諸事秘密を旨とし、門外漢をして殊更に入り難く解し難からしむ、これをもってかえって大いに仏教の真価を減ずるに至れり。これあたかも老母がその孫を過愛するの極、ついにその立身を妨ぐるがごとし。諺に「かわいい子に旅させよ」といえるがごとく、真に仏教を愛するならば、必ず自ら広く他教他学の比較をとり、また広く局外の評論をいれ、いわゆる自由討究の門を開きて、もってその教理を発達宣揚することを思わざるべからず。今仏教の天文説のごときは一見妄誕の評を免れ難しといえども、なんぞ知らん、そのうちに万古未発の真理を胚胎せるを。だれか栗の毛球を見て、その中に甘薯に勝れる美味を包有せることを想するものあらんや、これその毛球を破りて、ひとたび味わいたるのち始めて知るべきのみ。故に余は信ず、これより自由討究の門を開きて四方の評論比較をいれ、しかしてのち始めて仏教の真相を認むべしと。かの気象論のごときこれを一読一過するもの、必ずその妄誕不稽に驚かざるはなく、従来の仏教家がこれに与えし弁護を読過するに及び、一層その付会に驚かざるはなし。今日まで独尊的の学者あるいは鎖国的の学者ありて、前後妄誕の上塗(うわぬり)をなせること幾回なるを知らず。ついに仏教の真相いずれにあるを知ることを得ざらしむるに至れり。けだし近来仏学研究の衰えたるは、従来の学者多少与りて罪なしというべからず。余これを遺憾とし、仏教の天文説に対して年来懐抱せる意見を、次講の須弥説にあわせて弁明せんと欲す。

 

     第六講 地理論

 西洋天文は古代にありては地球中心説をとり、近世にありては太陽中心説をとる。前者はアリストテレス氏の説にして、後者はコペルニクス氏の説なりという。今仏教の天文は須弥中心説にして、日月も星辰もみなこれに付属せるものとなす。しかしてその説は、仏教以前の説なるや、以後の説なるやは、余がこれより証明せんと欲するところなり。すでに天文論を講じてここに地理論に及ぶも、いまだその両論の主領たる須弥説を講ぜず。故に本講においてはもっぱら須弥説を論明すべし。その次第左のごとし。

  第一段 九山八海説

  第二段 四洲説

  第三段 諸天説

  第四段 地象説

  第五段 須弥説評論

 まず九山八海説を述ぶべし。

       第一段 九山八海説

 さきにすでに述ぶるがごとく、アリストテレス氏の天体論は地球を世界の中心となし、コペルニクス氏の天体論は太陽を世界の中心とし、仏教は須弥山を中心とするの異同あり。故に須弥説は仏教の天文地理の根本なり。須弥あるいは須弥楼とは旧訳家の用うるところにして、新訳家は蘇迷盧という。これを訳して妙高と名付く。その山は天地の中央にありて金輪の上に立ち、日月はその周囲を巡行し、諸天もその上下に住止し、その体、四宝より成り、四面おのおの一色を有し、その形は方形にして、下小に上大なり。その周辺に八山あり。これに須弥を合して九山となす。その第九の山を鉄囲山という。九山の間におのおの海あり。故に八海となる。その第八海中に四洲あり。すなわち第八山と第九山との間なり。故に『倶舎論』(巻一一)に曰く。

  金輪の上において九の大山あり。妙高山王は中に処して住せり。余の八は周帀して妙高山をめぐれり。八山の中において、前の七を内と名づく。第七の山の外に大洲等あり。この外にまた鉄輪囲山あり。周帀して輪のごとく、一世界を囲めり。

  妙高を初となし、輪囲を最後とす。中間に八海あり。前の七を内と名づく、乃至〔中略〕、第八を外と名づく。

  

  

  

 須弥山の高は水を出づること八万由旬にして、水に入ることまた八万由旬なり。その他は次第にその半を減じて、最後の鉄囲山に至れば水を出づることわずかに三一二由旬半なりという。須弥山のつぎを持双山といい、そのつぎを持軸山という。今左に『凡聖界地章』によりて八山の名称および状態を挙示すべし。

  第一の山は、梵に健駄羅山という。これ持双山という。頂に双跡あるが故なり。等しく七金山と名づくるは、みな純金の所成なればなり。水に入る量等はならびにみな八万踰繕那なり。もろもろの宝樹多くして、この山の水を出ることおよび山頂の厚さの量とは、みな四万踰繕那なり。持双山の内海は深さ広さ、ならびにみな八万踰繕那なり。八功徳水その中に盈満し、拘物頭華、鉢頭摩華、優鉢羅華、芬陀利華ありて水上に遍覆せり。

  第二の山は、梵に伊沙駄山という。これ持軸という。峰は車輪のごとく、水より出ること二万踰繕那にして、厚さの量もまたしかり。持軸山の内海は広さ四万踰繕那なり、八功徳水、四色の蓮華、前のごとし。

  第三の山は、梵に竭地洛迦山という。これ宝樹の名なり。この方の檐木に似たり。山上にこの宝樹多くして、樹より名となす。水より出ること一万踰繕那にして、厚さの量もまたしかり。この山の内海は広さ二万踰繕那なり、八功徳水、四色の蓮華、前のごとし。

  第四の山は、梵に蘇達黎舎那という。これ善見という。見る者、善ととなうるが故なり。水より出ること五〇〇〇踰繕那にして、厚さの量もまたしかり。善見山の内海は広さ一万踰繕那なり、八功徳水、四色の蓮華、前のごとし。

  第五の山は、梵に頞湿縛羯拏という。これ馬耳という。山の形、馬の耳に似たるが故なり。水より出ること二五〇〇踰繕那にして、厚さの重もまたしかり。馬耳山の内海は広さ五〇〇〇踰繕那なり、八功徳水、四色の蓮華、前のごとし。

  第六の山は、梵に毘那怛迦山という。これ象鼻山という。山の形、象に似たるが故なり。水より出ること一二五〇踰繕那にして、厚さの量もまたしかり。象鼻山の内海は、広さ二五〇〇踰繕那にして、八功徳水、四色の蓮華、前のごとし。

  第七の山は、梵に尼民達羅山という。これはこの魚の名なり。山の形、魚の觜に似たるが故なり。水より出ること六二五踰繕那にして、厚さの量もまたしかり。この山の内海は、広さ一二五〇踰繕那にして、八功徳水、四色の蓮華、前のごとし。

  第八の山は、梵に斫迦羅山という。これ鉄囲といい、純鉄の所成なり。水に入ること上のごとく、水より出ること三百十二半踰繕那にして、その水は鹹苦なり。中における大洲に四あり、中洲に八あり、小洲は無数なり。人、傍生、餓鬼、捺落迦等、その中に雑居す。その業力にしたがいて、住するところおのおの異なり。

  

  

  

  

  

  

  

  

  

  

  

  

  

  

 かくのごとく須弥山は四宝より成り、持双山等の七山は純金より成り、鉄囲山は純鉄より成るといい、中間の七海は八功徳水をもって満たし、青、黄、赤、白の四色の蓮華その上を覆い、ひとり最後の海は鹹水をもって満たすと説くに至りては、妄誕もまたはなはだし。これ桃太郎や舌切雀やカチカチ山の昔ばなしとなんぞえらばんと難ずる者あらん。余おもえらく、その妄誕は須弥説の妄誕にして、仏教の妄誕にあらず。たとえこれを仏教の妄誕とするも、これあたかも人面に紅粉を装いたるがごとく、世界の真相にあらずして形容に過ぎざるべし。もしそれかく一大世界を不可思議の真境となし、その実相は想像の心窓によりてうかがうにあらざれば知るべからずとするときは、九山八海の金峰宝水も想像界中の光景にして、一望自ら千金の価値なきにあらず。ただこれを道理の鏡に照らしてみるときは、壁を隔てて隣家の門庭をうかがうがごとき感あるのみ。けだし宇宙の本来は不可思議の真相にして、須弥山は不可思議の表象なり。その形その色またみな不可思議の彩色なることを知らざるべからず。かく一大活眼をもって達観しきたらば、須弥説の妄中に真を含み、八海談の醜裏に美を開くをみるべし。もしこれを斥して、釈迦の寝語(ねごと)とせんか。我人はその寝言の凡人の夢より発すべからざるを知るのみ。

       第二段 四洲説

 九山八海説よりわずかに一歩を進むれば、四洲説に達すべし。よりてこれより四洲のことを述ぶべし。須弥山の東方に当たりて、第八山と第九山との間に一世界あり。今『西域記』および『翻訳名義集』によるに、その名を毘提訶という。旧訳には弗婆提、または弗于逮という。ここに訳して勝という。南洲に勝るが故なり。また一説に翻して初となす。いうは日の初めて出づる所なればなり。その地形半月のごとく、身長八肘にしてその寿二五〇歳なりという。すなわち『仏祖統紀』(巻三一)に『長阿含』を引きて曰く。

  須弥山の東に天下あり、弗于逮と名づく。その土は東狭く、西広し。形は半月のごとく、縦広九〇〇〇由旬、人面はこれにかたどる。大樹王ありて伽藍浮と名づく。まわりは七由旬、高さは一〇〇由旬、枝葉よもにしくこと五〇由旬なり。人寿二〇〇歳(『楼炭経』にいう、三〇〇歳)、飯食は魚肉、穀帛珠璣をもってあい市易す。嫁娶の礼あり。

  

  

  

 また『仏祖通載』(巻二)に記するところによるに、東洲を勝身という、その状半月のごとく妙高山に対す、周囲六三五〇由旬なり、その洲の二辺に二中洲あり、北を提訶と名付く、ここに身という、南を毘提訶と名付く、ここに勝身という、その意、余洲に超越するが故なり、あるいは曰く、洲人の相貌端厳にしてその身勝るるが故に勝身と名付くと。『順正理論』によるに、その二中洲にはみな人ありて住すという。その他、数書にみるところ大抵相同じければこれを略す。

 つぎに南洲は剡浮、贍部、あるいは閻浮提という。ここに勝金という。あるいは翻して穢樹となす。けだし閻浮は南洲にある樹名にして、その樹下に河あり、その底に金砂あり、これを閻浮檀金と名付く。その樹名より閻浮洲の名ありという。その地、北は広く南は狭し、その形、車のごとし。その身長三肘半、その寿一〇〇歳、あるいはいう定限なしと。すなわち『長阿含』に曰く、

  須弥山の南に天下あり、閻浮提と名づく。その土は南は狭く、北は広し。縦広七〇〇〇由旬にして、人面はこの地形にかたどる。大樹ありて、閻浮と名づく。まわりは七由旬、高さは一〇〇由旬、枝葉よもにしくこと五〇由旬なり。人寿は一〇〇歳、中夭の者多し。

  

  

 その洲の周囲は六三〇〇由旬半にして、東西に二個の中洲あり、東中洲は遮摩羅と名付く。ここに猫牛という。その西中洲は婆羅摩羅(筏羅遮羅)と名付く。ここに勝猫牛という。みな人ありて住すという。この南閻浮洲はまさしく我人の居住せる邦土なり。

 つぎに西洲を瞿耶尼、瞿陀尼、あるいは劬伽尼という。ここに牛貨といい、また取与と翻す。その地、牛多ければ牛をもって貨となすによるという。あるいは一説に、太初のとき高樹の下に一宝牛ありて貨易をなすによるが故なりという。その地形は円にして欠くることなく、周囲七五〇〇由旬なり。その地に住する人民はその身長一六肘なりという。更に『長阿含』を引用すること左のごとし。

  須弥山の西に天下あり、倶邪尼と名づく。その土の形は満月のごとく、人面はこれにかたどる。縦広八〇〇〇由旬なり。樹王ありて、斤提と名づく。まわりは七由旬、高さは一〇〇由旬、枝葉に布散すること五〇由旬なり。人寿は三〇〇歳、牛馬珠玉をもってともにあい市易す。

  

  

 また『阿毘曇論』によるに、かの土にては肉を食し生を殺し、人死すればその屍を焼き、あるいは土に埋め嫁娶すること南洲に同じという。また『起世論』によるに、斤提樹下に一石牛あり、高一由旬、よりて牛貨の洲名ありという。この洲にも舎拠および怛里拏と名付くる二中洲ありて、みな人の住するありという。

 つぎに北洲を鬱怛越あるいは鬱単越と名付く。あるいは『新婆沙論』には倶廬洲(あるいは鳩婁)と名付く。これを訳してここに勝処、あるいは勝生、あるいは最勝、あるいは高上という。けだし四洲中においてこの地の人民および風土、最も勝るるが故にその名あり。その地形方座のごとく、四方の量相同じ、身長は三二肘、寿命は満一〇〇〇歳なり。すなわち『長阿含』に説くところ左のごとし。

  須弥山の北に天下あり、鬱単越と名づく。その土は正方なり。人面はこれにかたどり、縦広一万由旬なり。大樹王ありて菴婆羅と名づく、まわりは七由旬、高さは一〇〇由旬、枝葉布散すること五〇由旬なり。諸山浴池、華果豊茂し、衆鳥和鳴す。四面に阿耨達池あり、四大河を出だす。溝阬荊棘蚊虻毒虫あることなく、自然の粇米は衆味具足す。

  

  

  

 その地に諸香樹あり、その果熟するとき自然に裂けて、種々の身衣、器具、飲食を出だす。故にその土の人民は更に労動力食するを要せず、かつ衆病あることなしという。その地方二〇〇〇由旬なれば、周囲八〇〇〇由旬なり。その両辺にまた二個中洲あり。その一を鳩婁と名付け、その二を高羅娑と名付く。『仏祖通載』に記するところによるに、かの洲の人のあらゆる受用はみな如意樹より出づ、人の没せんとするや、その樹不美の音を出し報じて曰く、まさに七日にして死すべしと。故に『三界義』にいわく、北洲は果報殊勝なり、ただ種々快楽のことありて更に苦あることなしと。これ実にこの世界の極楽なり、楽園なり。『仏祖統紀』に、黄帝夢に華胥氏の国に遊ぶとあるは、この洲をいうとなす。

 以上は須弥四大洲の要略なり。更にその異同を左の略図をもって示すべし。

    地形      縦広                     周囲

  東洲 半月………東辺三五〇由旬、三辺各二〇〇〇由旬………………六三五〇由旬

  南洲 車廂………三辺同量各二〇〇〇由旬、南辺三〇〇由旬半………六三〇〇由旬半

  西洲 満月………直径二五〇〇由旬………………………………………七五〇〇由旬

  北洲 方座………四辺同量各二〇〇〇由旬………………………………八〇〇〇由旬

 これ地形の大小のみ。もし他の異点を比較すれば左のごとし。

    身長(仮に一肘を一尺八寸とす)       寿量               樹王

  東洲 八 肘(一丈四尺四寸)……………………二五〇歳あるいはいう三〇〇歳………伽藍浮樹

  南洲 三肘半(五尺四寸)あるいはいう四肘……人寿定まらず増減あり…………………閻浮樹

  西洲 一六肘(二丈八尺八寸)……………………五〇〇歳あるいはいう二〇〇歳………斤提樹

  北洲 三二肘(五丈七尺六寸)……………………定一〇〇〇歳……………………………菴婆羅樹

 『仏祖統紀』に『新婆沙論』を引きて、四の大洲と八の中洲と五〇〇の小洲とあり。小洲中にはあるいは人の住するあり、あるいは非人の住するあり、あるいは空なるものあることを記せり。四洲の各義につきては前すでに一言せるも、更に『三界義』の一節を引証すべし。

  問う、なんの故に瞻部洲と名づくるや。答う、この洲に樹あり、瞻部樹と名づく。この樹によるが故に瞻部洲と名づく。東洲の人、その身、勝れたるが故に勝身と名づく。西洲の人、牛をもって交易するが故に牛貨洲と名づく。北洲は衣食自然なり。生処、勝れるが故に勝生洲と名づく。

  

  

 以上、四洲論は実に奇々怪々の談にして、今日の小学児童といえども、なお疑いて信ぜざるべし。これあたかも古来海外に大人国あり、女人国あり、長脚島あり、長臂島あり等と伝うるものに等しく、小説的想像談に過ぎず。しかるにその説の仏書中に存するはいかなる理によるや。もし排仏家よりこれをみればただちに釈迦の妄言として毀斥するも、信仏家よりこれをみれば千古の確説とせざるべからず。余案ずるに、たとえその説仏書中に存するも、必ずしも仏自得の新説なりとするの理なし。よりてまず左の二問を判定するを要す。

  四洲説は仏説なるや、仏以前の説なるや。

  四洲説は仏説とするも、譬喩あるいは方便に属する仮説なるや、真説なるや。

 しかしてこの問題は須弥説に接続せるものにして、なお手足の身体に接続せるがごとし。故に余はのちに須弥説を評論するに至りてあわせて四洲説を評論せんと欲す。もしこれを今日の学説の上に考うれば、全くインド古代の神話もしくは俗説にして、当時にありては人智いまだ開けざりしをもって、インド一円を見て全世界と信じ、その東にシナあるを知らず、その西にエジプトあるを知らざりしによると考定するより外なし。けだしインドの地勢たるや、南方海中に張出し、北面一帯山脈を負い、その形北に広く南に狭きは今日も昔日も同一なるべし。故に古代のインド人は一般に北方の高山を須弥山と想定し、インド一円を閻浮洲と憶断せしならん。その証拠は左の諸点につきて知るべし。

  第一に閻浮洲をもって須弥の南にありとなすこと

  第二に閻浮洲の地形はインドの地形にひとしきこと

  第三に閻浮洲の縦広もインドの面積にひとしきこと

 その他、閻浮洲の国数を挙げたるときは、一六大国、五〇〇中国、一万小国と称するもこれインド一国中の国数にして、決して今日のいわゆる五大洲をいうにあらず。果たしてしからば、南閻浮提はインドの異名に過ぎざるべし。しかれども、今日の仏教家中この説をいるるもの幾人かある。余おもえらく、僧侶の過半はこの説に反対を唱うるならんといえども、小学および中学教育普及の結果、四面みなその説に賛同するは自然の勢いなり。余は別に一説あるもこれを須弥説の結論に譲り、ただここに一言せんと欲するは、四洲説のいかんはすこしも仏教そのものに関係なかるべし。これあたかも仏教の身体に服せる衣類のごとし。これを除き去るも去らざるも、その身体を毀損することあるべからず。もし今日の地球説の勢い当たるべからずして、須弥説も四洲説も孤城落日の観を呈し、咄喊一声の下にたちまち降旗を立つるに至るも、決して仏教そのものの降伏にあらず。かえって仏教の真相を天下に発揚するの便を得るのみ。けだし四洲説は客観上の見にして、仏教は主観上の論なり。客観の外衣を脱却して初めて主観の真相を認むべし。仏教を学ぶものは必ず主伴本末、権実真仮の別を誤らざらんを要するなり。もしこれを誤るにおいては、帽を足にうがち履を頭に戴くとなんぞ異ならんや。そもそも仏教の世界論は因縁業感説にして、須弥のその形を結ぶも、四洲のその相を異にするも、あるいは南洲に生まれ、あるいは北洲に生まるるの別あるも、みな前世の業感のしからしむるところとなす。すでに『華厳経』に「三千大千世界は無量の因縁をもって、すなわち大地を成ず。水輪、風輪、空輪により、空にして所依なし。衆生業感にて世界安住たり。」といい、また『三界義』に一問を掲げて曰く、なんの業を造る者北洲に生まるるか。その答に『長阿含』を引きて、先世に十善を修め沙門を供養し塔を造りて供養する者は、この福業によりてこの洲に生まるることを得とあるがごときは、実に仏教の真面目なり。この道理を示さんと欲して、古来相伝の四洲説をかるるに至れるなり。故に仏教の四洲説はその意、四洲を立つるにあらずして、その裏面にわだかまれる因縁説を示さんとするにあり。もしこれに反し、四洲説は仏説にして決して疑うべからずとせんか。小学児童もこれに対して種々の疑問を提出しきたりて曰く、南洲も北洲もみな一帯の海水の上に住止するものなれば、今日航海の盛んなる必ず須弥四洲を一周して、人面の鍋蓋のごときもの碁盤のごときもの釜鉾(かまぼこ)のごときものと相会すべきも、いまだかくのごとき人種あるを発見せざるはその妄説なるを証するに足ると。この児童の疑問に対して、さすがに倶舎八年唯識三年の老僧達も必ず一言の答えをなすあたわずして、その心ひそかに後世おそるべしと思わんのみ。

 四洲の説はあえて詳述するを要せずといえども、南閻浮洲は我人居住の世界なれば、今少しく論ぜざるべからず。南洲の北に三重の黒山あり、黒山の北に大雪山あり、雪山は今日のいわゆる喜麻拉也〔ヒマラヤ〕山なり。雪山の化に香酔山あり、雪山の北、香山の南に無熱池あり、これを阿那達池(阿耨達池)という。縦広五〇由旬にして八功徳水その中に充満す。その池より四大河を流出す。四大河とは、一は殑伽河にして池の東より出でて東海に入る。二は信度河にして池の南より出でて南海に入る。三は縛葛河にして池の西より出でて西海に入る。四は私多河にして池の北より出でて北海に入る。その池中に大竜王あり。これを無熱と名付く。池名は全くその名より出づ。香山の北二〇由旬を経て大岩あり。これを難陀岩と名付く。その岩の北辺に婆羅樹王あり。これを善住と名付く。その東辺二〇由旬を経て緩流池ありという。また無熱池の傍らに贍部樹あり。その果実味美にして、その量甕のごとし。熟するときは水におちて贍部の音を出だす。竜、化して魚となりてこの果を呑噉す。残るもの流れに遇いて贍部金となるという。かくのごとき説は今日の小学児童すらなお首肯するを欲せず、いわんや中等以上の大人をや。もしこれを仏教の真相実説となし、布教伝道の際必ずこの説を担(かつ)ぎ出すに至らば、その結果たちまち寺院の門前草を生じ、堂宇雨を漏らし、僧侶飢を訴うるもだれも顧みるものなきに至らん。ただおしむらくは、仏教の甚深最勝の妙理も四洲説と共に空しく世の廃泄物となるの不幸をみんことを。いやしくも護法に志あるもの、あに活眼をもって達観せざるを得んや。

       第三段 諸天説

 須弥説に連帯して諸天説あり。まず須弥山頂に帝釈天の居ありという。帝釈天は忉利天すなわち三十三天の主なり。『智度論』によるに、昔時婆羅門その姓憍尸迦なる者、知多三二人と共に福徳を修め、命終ののちみな須弥山頂に生じ、憍尸迦天主となり、他の三二人は輔臣となるという。また『浄名疏』によるに、昔時迦葉仏の滅後に一女人あり、発心して塔を修む、その報天主となる、三二人ありて助修す、その報輔臣となる、君臣これを合して三三天なりという。山頂の城を善見という。純金より成る。その周囲一万由旬、飾るに雑宝をもってす。その四面に一万六〇〇〇の宝柱宝椽等あり。五〇〇の天子みな堅鎧を服してその四門を守護す。城中の中央に殊勝殿あり。これすなわち帝釈の住所なり。その殿の高四由旬その周囲一〇〇〇由旬にして、その間に五〇〇の門あり、中に皮禅延と名付くる楼閣あり。その四辺に一〇一所の宝楼あり。一万七〇〇〇の房あり。いちいちの房に七天女あり。いちいちの天女に七彩女あり。これみな帝釈の正妃なり。また池中の蓮華の上に童男童女ありて、種々の音楽を奏じて歌舞歓娯すという。あるいはまた城内に衢巷ありて天子天女往来貿易し、天州天県天村ありて周帀徧布すといい、あるいは城外の四面に四苑あり。その中に如意池ありて八功徳水をもって満たすという。城外の西南に当たりて善法堂あり。三十三天ときに集まりて弁論す。また東北に円生樹あり。その華開くの日はその香五〇由旬ないし一〇〇由旬の遠きに及ぶ。また帝釈の座にのぼるや、左右に十六天王ありて侍座すという。また須弥山半ばに四天王の居あり。すなわち持国天王、増長天王、広目天王、多聞天王これを帝釈の四天王と称す。おのおの帝釈の四門によりて座し、世間の善悪をもって帝釈に奏聞すといい、また四天王に二十八部の鬼神あり。嫁娶して欲を行うこと人間のごとしという。その他、帝釈に関する神話は枚挙するにいとまあらず。かくのごとき神話は仏教自家の所談なるや、仏以前の伝説を継述せるものなるやは、たやすく判知するを得べし。およそ仏書中にみるところの諸天は、みな婆羅門の神話中に存するものにして、仏教はその諸天の上に更に理想幽玄の不可思議世界あることを示さんと欲し、これに達する階梯として、諸天の神話を引用せるものなり。もし今日の我人が釈尊の法はインドの地にありて梵天帝釈の神話を信ずる婆羅門教徒を相手として説かれたるものなるを知らば、仏以前の神話のその中に存するもあえて怪しむに足らず。もしこれを一種の神話としてみるときは、須弥の結構、諸天の厳飾のごときは、実に想像上の美観を呈し、これを理想的美術と称するも、あに不可ならんや。けだしインド人の想像力に富めるは、この一例をみても知ることを得べし。これもとより道理の眼を閉じ単に想像の窓よりうかがわざるべからず。その想像たるや妄のまた妄を極めたるもののごときも、本来この天地は不可思議の天地にして、その間に現ずる日月も山河もみな不可思議の現象なれば、古代のインド人知らず識らずの間にその美妙の光景を感知し、想像の筆によりてその一端をえがき示したるもの、これ帝釈談なり。故にその裏面を達観しきたらば、不可思議の妙味を感得するにおいて、あえて難しとせざるなり。

 帝釈神話中おもしろき一話は、『正法念経』に出づる帝釈と阿修羅との戦いなり。阿修羅、天と戦わんと欲するとき、まず悪竜をして悪風雨を行わしめ、もって南洲人の百穀をやぶらんと欲す。これにおいて順法の善竜、善人を護せんと欲してきたりて教誡するも、悪竜聴かずついに相闘諍し、雷火を発して交戦す。そのとき人間の善力強きときは善竜勝を得て悪竜敗退す。修羅また官軍をしてきたりて戦わしむ、そのとき人間の行悪多きときは修羅衆勝を得て竜軍敗走す。これにおいて空行夜叉身を踊らし空を飛び天兵の出陣を請う。夜叉光あり迅飛すること流るるがごとし、世人これを流星といい、口中煙を出だす世人これを箒星という。天兵また勝つ。すでにして小修羅王大軍を出してきたり。四天王また大兵を率いてきたり互いに相戦う。修羅の軍ついに振わず、大阿修羅王忿怒してたつ大地ために揺動す。難陀竜王尾をもって大海を打ち雨を降す。ときに帝釈地の動き雲のみだるるを見、修羅の境を侵すを知り、三十二天に勅してこれに備え、ついに大いに戦う。ときに日天子前にありて大光明を放ちて修羅の目を射る。修羅王目盲して天衆を見ず。すなわち手をもって日をふさぐ。人間これを見て日蝕となす。これにおいて二陣相合す。その勢いきわめて雄猛なり。世間の大戦これに過ぐることなしという。その談あまり長ければこれを略す。だれかこれを読むもの、そのみだりに驚かざるあらんや。これ仏以前の古代の神話なること言を待たずといえども、その妄中に真を含み、泥中に白蓮を隠すことなきにあらず。これを事実として考うれば、天保は更なり文久の価値もなしといえども、これを譬喩として考うればまた大いに味わうべきところあり。故に婆羅門の神話なればとて、あえて二束三文にみなすべからず。しかしてその意に客観的と主観的との二様の解釈あり。もし客観の釈意によれば、宇宙自然の一大勢力が常に活動開発して変々化々ほとんど端倪すべからず。あるいは雷雨となり、あるいは地震となり、あるいは暴風となり、あるいは洪水となりてその勢い当たるべからず。あるいは彗星の怪あり、あるいは日蝕の異ありてその変はかるべからず。けだしその状態を無意識的に形容しきたりて、帝釈と修羅との戦闘を想出するに至るなり。もし主観の釈意によれば、人間社会の実景を小説的に構造しきたりて、善悪の衝突を譬喩体に叙述せるものなり。けだし我人の社会は上下貴賎を問わず、目の黒碧、色の黄白を問わず、朝夕善心と悪心との戦闘の間に一生を送るものなり。その間に悪人の負傷するあり、善人の討死するあり、悪人必ずしも敗るるにあらず、善人必ずしも勝つにあらず。もし道徳の灯明台に光を点じて照らしきたらば、これを修羅の争闘に比するより外なかるべし。宗教界には釈迦、ヤソのごとき豪傑肩をそびやかして出で、道徳界には孔子、索拉〔ソクラテス〕のごとき英雄臂を奮いて起こり、共に道徳革新の大旗を立つるも、これに応ずるもの寥々として晨星を数うるより、なお乏しきを覚ゆ。悪人飛びて天に躍り善人潜みて淵にあるは古今の常態なり。いやしくも是非曲直を識別せるもの、あに喟然として嘆じ、憤然として慨せざるを得んや。けだし社会の戦争は兵器軍艦のみをもって器械上相闘うにあらず、一方に有形の戦争あれば他方に無形の戦争あり。今善悪の衝突はそのいわゆる無形の戦争なり。善心と悪心と昼夜間断なく相きしるの状態は、あたかも帝釈と修羅との交戦をもって比すべし。故に余おもえらく、仏書中の帝釈談は人間社会の実況を形容したるものなりと。

 今須弥山の図につきてこれをみるに、山頂の中央に帝釈天宮ありてその四方に八天あり。これを合すれば三十二天にしてこれに帝釈天を加うれば三十三天となる。すなわち忉利天と名付くるものこれなり。その下に四天王天あり。その下に放逸天、そのつぎに持鬘天、そのつぎに堅手天あり。そのつぎに八山八海四洲あり。また須弥山の上方に夜摩天、兜率天、楽変化天、他化自在天あり。これに四天王と忉利天を加えて欲界の六天となす。その上に色界四禅あり。その上に無色界四天あり。その名称のごときは第一講に掲げし三界の表に譲る。もし『智度論』によらば帝釈は四天王、忉利天の主にして、摩王は欲界の主なり。しかして大梵天は欲色無色の三界の主なりという。その他、天部の諸談はいちいち挙示するにいとまあらず、かつその説仏教より出づるものにあらざれば、余はこれを詳述するを欲せず。もし南贍部洲の下方に至りては、八大地獄ありと伝うるも、のちに別に地獄論を述ぶる意なれば、これまた略すべし。





       第四段 地象論

 ここに地象論と題するは、地上の山河、水陸、潮汐、地震等の現象に関する仏教の説明を掲ぐる意なり。まず山河の形成を考うるに、『顕宗論』に「大風、鼓撃して山地を成ず。」とあり。これ大風水を撃ちて山地を凝成せるをいう。また海水の鹹味あるゆえんにつきては『起世経』に三因ありとなす。一には雨諸天山を洗いて流れて海に入るがためなり、二には大身の衆生海中に住して屎尿をなすがためなり、三には諸仙呪して鹹苦ならしむるがためなりという。また『雑事律』に、翳羅竜王、仏を見て身を現じ仏に問いて曰く、いずれの時にか苦を免れん、仏いわく人寿八万歳の時を待ちてまさにこの苦を離るることを得と、竜王これを聞きて大いに哭し、諸眼より涙下りて一四河をなすという、百川海中に注ぎてその水のあふれざるは、古来大いに怪しむところにして、あるいは海底に水門ありてこれを漏らすといえる説あり。しかるに仏教にありては、『華厳経』によるに、海底に四種の大宝あり、その性、極熱にしてよく万川の流れを飲縮すとなす。換言すれば、四種の宝玉の光熱よく海水を照炙すとなす。以上の説明は、いずれも奇々怪々にして今日の学説の許さざるはもちろん、五尺の童子も首肯するを欲せずといえども、その中に古代の神話を混ずるあり、当時の俗説をまじゆるあり。あるいは譬喩に属するあり、あるいは方便に出づるありて、果たして仏教の真意なるや否やは、みな人の疑うところなり。海水のあふれざるがごときは、これを海底の宝玉に帰するは、今日の無智不学の輩といえども、なおその非なるを知るも、もしこれを一種の譬喩として考うるときは、深く怪しむに足らざるなり。今その四宝の名称を案ずるに、その一は日蔵と名付け、その二は離潤と名付け、その三は火炎と名付け、その四は尽無余と名付く。これ果たして宝玉の意か、あるいは日や風や火や空気の譬喩なるかいまだ知るべからず。とにかくかくのごときは仏教の本領にあらざれば、その体、火にても水にても宝玉にてもあえて関するところにあらざるなり。潮汐の説に至りては経論中いまだその明文をみず。故に『須弥界実験説』には、経文を引証せずしてみだりに推測をもって断定して曰く、日宮は火珠所成にしてその体、火なり、よく物をさらすをもって性となす、故に日出づれば近水を引き遠水を押す、月宮は水珠所成にしてその体、水なり、よく物を湿すをもって性となす、故に月出づれば近水を押して遠水を引くことを記せり。地動説に至りては経論中種々の説明あり。『増一阿含経』によるに、地動に八種あり、一には水、二には火、三には風、四には菩薩天を下る時、五には生仏の時、六には成仏の時、七には入滅の時、八には天福の時、諸人王等のごとき感じて動くという。また『般若論』によるに、地動に四因あり、一には大竜、二には金翅鳥、三には天王、四には聖人の入滅の時にその地震動すという。また『智度論』には、火神動、竜神動、金翅鳥動、天帝動の四種ありという。しかして『立世阿毘曇論』地動品に説くところによるに、この地界は水界の上に住し、この水界は風界の上に住し、この風界は空界の上に住す、故に大風吹きて水界を動かせば水界動く時すなわち地界を動かずとあり。もし『倶舎論』等の天地成来説によれば、もとよりかくのごとく解説せざるべからず。これ果たして仏説なるや仏以前の古説なるや知るべからずといえども、神話にあらずして一種の物理説なること明らかなり。故に今日泰西学家の説にはなはだ相近きところあり。これをわが国の俗説たる地下に大ナマズありて動くによるとなすものに比すれば、雲泥もただならざる相違あり。これを要するに、仏書中に出づる地動説は、その原因を地層に帰すると感応に帰するとの両様あり。地層論は客観上の説明にして、感応論は主観上の説明なり。しかしてこの感応を解するにまた二様あり。すなわちこれを善悪の業感となす説と、社会の譬喩となす説これなり。社会の譬喩とは、たとえば仏入滅の時に当たりて人心の震動せる状態を形容して天地の震動するがごとしといいたるの類をいうなり。

       第五段 須弥説評論

 上来、須弥四洲の仏説を述明してここに至れば、これに対する余が評論意見を開陳せざるを得ず。すでに仏教上の天文地理説の博覧会を一覧し終わりたれば、これより品評を下す時となれり。しかしてその品評にさきだちて須弥説は仏書中いずれの経論に出づるやを示すを要す。今、福田行誡師の『須弥山略説』中に掲ぐるところによるに、須弥説は、

  大方広仏華厳経 巻 八 仏昇須弥山頂品

  金光明最勝王経 巻 六 四天王護国品

  妙法蓮華経 巻 一 序品第二十五普門品

  維摩詰経 巻 六 不思議品

  大乗大方等日蔵経 巻 九 昇須弥山頂品

  大宝積経 巻七三 菩薩見実会 第十六の十三  同六界差別品 第二五の一

            同四転輪王品 第二六の一  同品二十六の二

  起世因本経 巻 一 閻浮提洲品第一  同巻九 四天王品

  同巻七 三十三天品 第八の二至巻八終  同巻九住劫品 第十至同品第十一

  長阿含経 巻一八 第四分世記 第十一閻浮提洲品第一以下

  正法念経 巻二二 観天品第六の一至巻三十六  同巻二〇、二一 畜生品中、阿須羅闘戦説

  仏説阿毘曇論 一〇巻 二十有五品地動品至大三災品

  瑜伽師地論 巻 二 本地分中意地第二の二

  阿毘達磨大毘婆娑論 巻一百三十三大種蘊 第五中縁納息 第二の三

                 同百七十二定蘊 第七中摂納息 第三の七

  阿毘達磨倶舎論 巻一一 分別品世間品 第三の四

  顕揚聖教論 巻 一 摂事品 第一の一

  大智度論 第九初品中現普身

 以上の数書に出づとなす。その他、シナ撰述にして須弥四洲のことを出だせるもの『仏祖統紀』(巻三一ないし三三)、『仏祖通載』(巻二)、『法苑珠林』(巻四)、『翻訳名義集』(巻三)、『法界安立図』(全部)、『凡聖界地章』(全部)等またすこぶる多し。もし本邦撰述にしてもっぱら須弥説を弁論しかつシナおよび西洋の天文説と対照したるものに至りても、これまた枚挙にいとまあらず。今左に余が参考せし書目を列記すべし。

  仏国暦象論 五巻           無外子 円通撰

  実験須弥界説 三巻          同人 撰

  梵暦策進 一巻            同人

  須弥山儀銘幷序和解 二巻       同人

  仏国暦象弁妄 一巻          小島涛山好謙撰

  須弥山図解 一巻           高井伴寛思明撰

  印度蔵志 大千世界品 五巻      平田篤胤撰

  非天経或問 一巻           僧谿文雄撰

  須弥山一目鏡(一名天眼氷釈) 一巻

  須弥界実験暦書 五巻         員谿隠士霊遊撰

  護法新論 第一編および第二編 各三巻  勝国道人撰

  須弥山略説 一巻           福田行誡撰

  仏教創世論 一巻           佐田介石撰

 このうちあるいは須弥説を論駁せるあり、あるいは弁護せるあり。余は別に見るところありて、そのいずれにも賛同を表することあたわず。今ここに余が意見を開陳するに当たり、まず須弥説は道理に反するか反せざるかを論じ、つぎに須弥説は仏説なるか非仏説なるかを論ぜざるべからず。更にその論点を細分すれば左の数項となる。

  第一項 須弥説は理外の理とすべきか、また道理に背戻せるものとすべきか。

  第二項 須弥説は仏説なりや、また非仏説なりや。

  第三項 須弥説を仏説とすれば、その道理に背戻せるをいかに会釈すべきや。

  第四項 須弥説を非仏説とすれば、仏のこれを説きたるはなんの意に出づるや。

  第五項 須弥説を非道理とするときは、仏語に虚妄なしとの格言をいかんせんや。

  第六項 須弥説を非事実とするときは、仏に天眼ありとの経説をいかんせんや。

 これいずれも難問中の難関にして、孟嘗君の鶏鳴狗盗の才略といえども、容易に通過すべからず。しかれども、もし哲学の旅行券を携帯すれば、その門を通過するになんの難きかこれあらん。余案ずるに、須弥説は仏教中の天保銭なり。これを額面どおりの定価をもって、世に通用せしめんとするときは、だれ一人として許容するものなかるべし。しかれども、もしこれを古物として好奇者に売らんとするときは、かえって額面以上の価値を占むることを得べし。故に天保銭は天保の遺物なればとて、決してこれを二束三文視すべからざるがごとく、須弥説は今日の廃物なりとて決してこれを紙屑視すべからず。他日必ずその説の大いに世間より愛賞せらるる時あるべし。

 第一項 須弥説の第一問題たる理外論を考うるに、古来の仏者は一般にこれを理外の理に帰したるは疑いなし。なんとなれば、須弥は仏の天眼をもって見たるものにして、凡眼の知るところにあらずとなせばなり。すなわち我人凡夫の方よりいえば、その体たるもとより理外の理にして、その有無を論定せんとするがごときは、あたかも盲人の色を論じ聾者の声を評するとなんぞ異ならんや。もしこの説のごとく、唯一に理外の理と定め公然理外看板を掲ぐるにおいては、世間よりいかなる非難攻撃のその一点に輻湊するも、これに対して答弁するの必要なし。なんとなれば、世間の評論はみな凡智凡眼より出づるものなれば、理外の理を知るべき理なければなり。かつ理外論をかつぎ出すにおいては、ひとり須弥説のみならず、一大仏教ことごとく理外ならざるはなく、八万四千の法門はみな理外の法門なり。極楽も理外なれば地獄も理外なり、仏も理外なれば人間も理外なり。犬も理外なればタヌキも理外なり、月も理外なれば鼈も理外なり。理外と不思議とは異名同義にして、不思議の一名これを妙という。天台にありては妙法を説き、禅宗にありては妙心を談ず。老子の学は玄のまた玄を究むるにありて、仏教の理は妙のまた妙を示すにあり。けだし妙の体は真如不可思議の実相にして、宇宙万有は真如不可思議の表象なれば、三千大千世界は一として妙のまた妙ならざるはなし。故に仏教の上よりこれをみれば、一大世界ことごとくこれ理外の理なり、なんぞ須弥に限らんや。もし理外の理たるは実に言亡慮絶にして、人智の遠く及ぶところにあらずとするときは、仏者はことごとく維摩の黙不二をならい、四方の問難に対して無言を守るをもって仏の真意を得たりというべし。果たしてしからば、あるいは破邪あるいは顕正と称して演説に説教に力を尽くすがごときは、愚のはなはだしきものにして、畢竟するに仏意を解せざるものの挙動となさざるべからず。だれかこれに同意を表するものあらんや。もしこれに反し、須弥説は理外の理にあらずとするか、あるいはたとえこれを理外とするも、我人の知識と経験とをもってその一斑をうかがい得るものとするときは、学術上の事実に相違するの一大難問ありて起こるべし。けだしその説たるや、女媧氏の補天よりはむしろ桃太郎、舌切雀の昔ばなしに比すべきものにして、理外談一変して虚妄談となるものなり。今この問題を判定するにさきだちて、須弥説は仏教なるか非仏説なるかを裁決せざるべからず。

 第二項 古来仏者は一般に須弥説をもって仏説なりとし、門外漢は多くこれを仏説にあらずとなす。しかして余、これを仏説とするも非仏説とするも、仏教そのものを立つるにはあえて関するところにあらずとなす。もし仏教内外の事実につきて考定するときは、須弥説は仏以前の古説にして、仏はただただ説法誘俗の一要具として引用せるに過ぎずと断言せざるを得ず。しかしてその論拠は左の五条に基づく。

  第一条 古来非仏説の論者あること

  第二条 経論中にその証あること

  第三条 須弥説の付属物は多く毘陀の神話中に存すること

  第四条 須弥説の世界論は今日の事実に適合せざること

  第五条 西洋印行の書中にその証あること

 まず古来の論証を列挙するに、富永仲基の『出定後語』に左のごとく示せり。

  須弥楼山の説は、みな古来梵志の伝うるところなり。迦文、特によりてもってその道を説くは、その実、渾天の説を是となせるなり。しかるに後世の学者、いたずらにこれを張りて、もって他を排するは、仏意を失せり。なんとなればすなわち、迦文の意はもとここにあらず。民を救うの急なる、なんのいとまあってその忽微を議せん。これいわゆる方便なり。

  

  

 また曰く、須弥世界はこれ梵志初説とあり。これみな須弥説は仏以前の婆羅門の古説となすものなり。また不染居士の『護法資治論』(巻二)に論ずるところ左のごとし。

  『長阿含』を按ずるに、もし天文書、占相、天の時を誦し、あるいは地動、日月、星蝕を説くは、みな外道婆羅門の習学するところにして、しかも仏はかくのごときことなし。ただ三昧を教え、つとめて心を清浄無穢ならしめ、柔軟にして調伏し、不動地に住す。一心に無漏智を証することを修習し、すでに生死の解脱を得るのみに尽く。これ仏法の分にして、沙門を教うるの道なり。

  彼は仏なり、祖なり。みな大智不出世の人なり。あに世界の義にくらかりしや。星暦、推歩の術のごときはことごとく外学に譲りて、ただ一大事、因縁、出世の法を説くのみ。故に経にいう、世俗に論ずるところの天文、地理、占相、医方、兵術、産業等、仏にはかくのごときことなし。たまたまにして説くところは、またこれ助行の方便のみ。

  

  

  

  

 また『仏国暦象弁妄』序に左のごとく録せり。

  余、かつてこれを聞かん。須弥楼山は外道の旧説にして、迦文はこれによりてもって心地を論ずるに、また方便説のみ。故に三界唯心というなり。

  

 また平田篤胤の『印度蔵志』(巻四)に左のごとく記せり。

  さて此山(須弥山)の荘厳また高さ広さなどは仏祖が妄誕なれと。是山世界の中央に在て其下根は大地に連き、其頂上は諸尊大神妙天の居止する処という説なれば、元より梵志に伝はる違陀論の古説を其侭に取用たるなり。然れは蘇迷盧といふ名も元より古説なること著明なり。

 以上はみな須弥説は婆羅門の古説にして、仏教はその説を方便として仮用せるに過ぎずとの意なり。

 つぎに経論中にその証の有無を考うるに、『智度論』(巻一〇〇)に曰く、

  外書に説くところには、須弥は純一の金色なるも、仏の説くところには、四宝の成ずるところとなる。

  

  

 この一例によりて外道の書中に須弥説の存することは疑うべからず。ただその異なるは外道は金色なりといい、仏説は四宝なりというの別あるのみ。故にその別のごときは、須弥説の毛端爪頭に過ぎず。余案ずるに、須弥説はインド一般に唱うるところなるも、細末の点に至りては諸説一ならず、各家その見を異にせるがごとし。

 また『印度蔵志』(巻四)には、『金七十論』を引きて須弥北洲の説は四毘陀中に出でたることを示せり。すなわち左のごとし。

  偖かく妄説せる本を何と考ふるに、金七十論に「天上、北鬱単越のごとし。証量と比量の知るところにあらず。聖語を信ずるが故に、すなわち知ることを得べし。聖言と名づくとは、梵天所説の四違陀のごとし。」と有り。然れは大地の中央なる処を蘇迷廬と称し、其高頂を忉利天上と云こと、其北方に倶盧てふ国ありと云ことは、元より四違陀論中に在て、其は彼天降れる梵天の婆羅門に伝へたる古語なること著明なり。

 かつ仏教家の古来伝うるところによるも、なおよく須弥説は婆羅門の旧説なることを判知するを得べし。たとえばその言に曰く、インドの諸外道、仏智を疑うといえどもあえて須弥を疑わずと。しかしてその理由は外道も多少神通を有して、須弥の一端を望見し得たるによるとなす。すなわち『釈教正謬初破』に、「須弥山のごときは、如来、菩薩、六通の羅漢みな無漏定によりて正慧の眼の観視するところなり。定を得たる外道、婆羅門仙、またおのおの髣髴としてこれを視、これを説くが故に、インドの諸外道、仏智を疑うといえどもあえて須弥を疑わず。しかるに漏、無漏の見において差異なきことあたわず。」とあり。もし果たして、外道諸派が仏教の須弥説を駁せざるにおいては、その説の外道中に存することを証して余りありというべし。

 つぎに須弥説に付属せるものを考うるに、須弥山頂の帝釈天およびその上下の諸天説のごときは、みな毘陀神典中にみるところの古説なり。これを西洋印行の書に徴するを待たず。仏書中につきても諸天説は婆羅門の神話なることを知り得べし。今『出定後語』(巻上初)に論ずるところ左のごとし。

  いま、まず、教起の前後を考うるに、けだし外道に始まる。その言を立つる者、およそ九十六種、みな天を宗とす。曰く、これを因に修すれば、すなわち上、天に生ずと。これのみ。衛世師外道、仏の前にあること八〇〇年、これ最も久遠。その最も後に出づる、阿羅羅、鬱陀羅なり。けだし二十八天、非々想をもって極となす。これ鬱陀の宗とするところ、無所有をへてここに生まるとなせるなり。これもと阿羅の無所有をもって極となせるに上す。しかして無所有はすなわちもと識処に上す。識処はすなわちもと空処に上す。空処はすなわちもと色界に上す。空処、色界、欲界、六天、みなあい加上してもって説をなせり。その実はすなわち漠然、なんぞその信否を知らん。故に外道の所説、非々想をもって極となす。釈迦文これに上せんと欲するも、また生天をもってこれに勝ちがたし。ここにおいて、上、七仏を宗として、生死の相を離れ、これに加うるに大神変不可思議力をもって、示すにその絶えてなしがたきをもってす。すなわち外道服して竺民帰す。これ釈迦文の道のなれるなり。

  

  

  

  

  

 また『赤倮倮』付録にいわく、

  竺土の俗は心学を尚治す。いわゆる外道は仏に先んずること数百年にして、すでによく教えを立てて法を弘め、人民を化導す。けだし、その学は禅定を修するにあり、すなわち心一境に住して、人をして散ぜざらしめ、その功の成るを託して、これ生天という。その成果の勝劣につきて、層々して諸天を説く。いわゆる色、無色、四禅、四空処これなり。釈迦の出興なり。その初めはまた外道より遊び、のちに別に機軸を出して一家言を立つ。生天をもって未解脱となし、出三界をもって究竟となす。四諦を演じ、もって観境を示し、四果を列し、もって階差を明かす。これいわゆる声聞乗なり。

  

  

  

  

 また『釈教正謬』には「仏教はその国中のあがめるところの虚仮の神をもって中国を欺誑せり。かの称するところの天竜八部、阿修羅、緊那羅、みなその国の空によりて結撰するの名色にして、もろもろの天人、いたずらに名号あるも、すこしも実際なし。いずくんぞよく世間にあらわれ、人をして見、またこれを信じせしめん。」と説けり。これを要するに帝釈を始めとし、その他の諸天はみな仏以前の古説にして、外道諸派の一般に崇信するところなりき。しかしてその諸天の居処に生ずるをもって究竟の目的となせるに対して、仏教は更にその上に声聞乗あり仏界あることを説ききたりて、外道諸派を凌駕するに至れり。けだし外道と仏教とは、児童相集まりて身長を比較し最長者よく勝を得るがごとく、甲外道は帝釈天をもって最上となせしに、乙外道はその上に更に天あることを説き、丙外道はまたその上に別に天あることを示し、最後に仏教起こりてこれらの諸天を斥して、すべて迷界の部類となし、更にその上に悟界あることを説きたるなり。たとえば、ここに甲者ありて自ら筑波山に登りしことを誇りて人に語るに、乙者ありてわれは筑波山より一層高き日光山に登れりといいて大いに誇れり。しかるに丙者ありて筑波山もとより卑し日光山なお高からず、余は日本第一の富士山に登れりといいたれば、甲乙両者共にたちまち黙してまた一言を発せざるがごとし。すなわち仏教は、外道の諸天説の上に更に別世界あることを説き、天上界より数層高き処の仏界の頂に達するをもって我人の目的とし、ついによく外道諸派を凌駕するに至りたるはけだし実事ならん。これをもって仏書中に帝釈天、三十三天、色界無色界等の説あるは、もと外道婆羅門の説を仮用せしことは決して疑うべからず。かつさきに述べたるがごとく、帝釈と修羅との戦いのごときは、仏以前の神話を仏教中に混説せるものなることすでに明らかなり。『倶舎要解』(巻五)に「修羅は日月を捉うの説は梵土の所伝なり、仏、世にいわれるところをとりて、ここに法義をたとえん。」とあるは、実に卓見というべし。果たしてしからば、須弥説に付属せる諸天説はみな仏以前の古説なること明らかなれば、須弥そのものもまた古説なること推して知るべし。これをたとうるに、須弥山は一家屋のごとく、諸天およびその殿舎は建具什器のごとし。もしその建具にして仏以前の古説なることを知らば、家屋そのものも仏以前の建築物なることを考定するを得るがごとし。けだし仏書中にみるところの種々の教説は、古来の仏者みなこれを仏のはじめて説くところとなせるも、その中にはいくたの婆羅門の古説を混入せること、今日、比較宗教学の進歩によりて明瞭となるに至れり。その一例は六道輪廻の説なり。古来この一説は仏教特殊の説にして、釈尊自発の法となせども、今日の比較研究によれば、婆羅門中にこれと同じき説あることを知れり。故に『釈教正謬』には「天竺の諸教、六道輪廻の説を用いざる者あることなく、仏教の六道を論ずるは他教と同じ。如来の出世せざる前に、その国早くこの説を信じて大変更なし。かの国、今に至りてその書あるも、仏のつくるはこの説となすにはあらず。」と論ぜり。その他、西洋印行の書に徴するに六道も輪廻もみな婆羅門中に行われし古説なること明らかなり。しかのみならず輪廻説は西暦紀元前五〇〇年にありてギリシアの碩学ピタゴラス氏のもっぱら唱えしところなれば、その説のひとりインドのみに存せるにあらざるを知るべし。輪廻説なおしかり、いわんやその他をや。もし須弥説をもって輪廻説に比すれば、輪廻説の主人に随伴せる僮僕提灯持ちに過ぎず、主人すでに外来なれば提灯持ちの外来なるはもとより当然にして、あえて怪しむに足らざるなり。

 須弥説はこれを今日の経験に徴するに、古代のインド人の想像に出でたることを知るべし。さきにすでに一言せるがごとく、南閻浮洲はインドの地形と同じければ、インド人はその国をもって全世界と信じ、その北方に高山を帯ぶるをもって、須弥山すなわち妙高山の存することを想像したるならん。平田の『印度蔵志』に「さて仏説に閻浮提と云へるは印度の事と聞ゆるに就きて猶案へば阿含の仏説に印度の国号を云へること見えず、是にて益々閻浮とは印度限の号に仏祖の設たる号なること著明なり」との説すらみえたり。シナにありては太古には、シナの外に国なしと信じ、日本にありては世界諸島はみなこの国より産出せるがごとくに想像せり。果たしてしからば、インドにありてはその国をもって全世界と信じ、その地形を見て世界の地位を定めたるに相違なかるべし。これによりてこれをみるに、須弥四洲説を今日の実験説の上に考うるに、妄誕不稽にして事実に反せる非道理的小説談に過ぎざるも、もしこれをインド古代の人民が経験に乏しく知識に暗きより、インドすなわち全世界なりとの妄見より描き出したる想像なりとしてこれをみれば、あえて怪しむに足らざるなり。果たしてしからば、須弥説たるや決して仏教特殊の説にあらずして、仏出世以前より民間に伝われる古代の想像談なるを知るべし。

 以上はみな須弥説は非仏説なりとの方面より論定したるものなり。もしその証を確立せんと欲せば、西洋にて伝うるところの評論著作を参考せざるべからず。故に余は、これより西洋印行の書につきて須弥説の有無を捜索せんと欲す。西洋書中には、余いまだ婆羅門の天文説、宇宙論を詳述せるものあるを見ず、また仏教の須弥説を評論せるものあるを聞かず。故に須弥説の由来を明らかにすること難し。今余が披見せる二、三の書に考うるにモニュール・ウィリアム氏の『仏教論』中には、仏教にては須弥山をもって世界の理想的中心と立つることを記し、その上下に世界および六道あることを示せるも、その説の起源を述べず。また同氏の『印度哲学』中にインドの小説神話を掲げたる中に、往々須弥山の名称を見るも、同じくその由来を示さず、ドーソン氏の『印度神話字典』中に、須弥山は大地の中心に立つところの小説的山岳にして、その上に帝釈天の所居および諸天の市街および殿舎あることを記し、またその山は、あるいは金山、あるいは玉峰、あるいは蓮体山あるいは神仙山と名付くることを記せり。しかしてガーレットの『印度古典字林』にやや長き説明を掲げり。今その大要を約するに、須弥とはけだし古代にありて喜麻拉也山の北方に当たれる韃靼の高地に与えたる名称ならん。しかしてその地の付近よりアーリアン人種起こり、ようやく南進してインドを占領したるのち、なおその人種の古伝中にその名を存するに至りしならん。富蘭那(purana)と名付くるインドの古代文学書中には、七山の中心に位せる金山なりと記せり。その高は八万四〇〇〇由旬にして、その地下に入ること一万六〇〇〇由旬なり、その山頂の直径は三万二〇〇〇由旬にして、その山下の直径は一万六〇〇〇由旬なり。故にその山の形体は蓮台のごとし、あるいは円錐体を倒置せるに似たりという。しかるにその形につきては、あるいは円形となし、あるいは方形となし、あるいは一〇〇角を有すといい、あるいは一〇〇〇角を有すといい、あるいは八角なりといいて衆説一ならず。またその色につきては、東方は白色、南方は黄色、西方は黒色、北方は赤色なりという。あるいは一説に東方は紅宝石の色を現じ、南方は蓮華の色を現じ、西方は黄金の色を現じ、南方は珊瑚の色を現ずという。須弥山の名称は西洋刊行の書中に往々見るところなるも、その起源由来を詳説せるもの、余がいまだ見ざるところなり。しかれども、その説の婆羅門書中に存し、インドの古伝中に存することは、以上引用せる一、二の例に照らしても明らかなり。故に須弥説は仏説にあらざること、けだし疑うべからざるもののごとし。更に一例を示さば、ダット氏の『印度古代文明史』中にインドの古代地理を論じたる一節あり。その中に婆羅門神話中に出でたる地理説を掲げ、七大海七大陸ありて、第一陸をジャンブ・ドヴィーパ(Jambu duipa)〔Jambu dvipa〕と名付く。その周囲に第一海あり。第一海の周囲に第二陸あり、第二陸の周囲に第二海あり、その状態は仏教の九山八海説に異なることなし。しかして第一海は塩海、第二海は乳海、第三海は牛酪海、第四海は凝乳海、第五海は酒海、第六海は糖海、第七海は甘海なりという。これ仏教にて、第八海を鹹水海とし、その他を香水海とすると大同少異なり。ガーレットの字書にジャンブ・ドヴィーパは七大陸七大海の中土にして、その中央に須弥楼と名付くる金山ありという。これらの考証によるに、仏教中の須弥説は婆羅門書中に出づるものと多少の差異あるにもかかわらず、仏教外より入りきたりたる古説なることはたやすく推測し得らるるなり。

 以上は須弥説を非仏説として仏教の内外より考定したるものなり。これを要するに、須弥説を仏説とする証拠は経文中に散見すというにとどまり、これを非仏説とする証拠は仏教内外の書籍に徴して明らかなれば、その判決は非仏説の方に下さざるを得ず。しかれども今日の仏教家は、たとえこれを仏説となして地球説と相争う力なしといえども、これを非仏説とする方には同意を表するもの必ず少なからん。もし仏者中にこれを非仏説となす論者あらば、必ずその人を目して外道となし、これを斥して悪魔となさんのみ。故に青年の僧侶中には、その心に非仏説なるを信ずるも、これを公言するをはばかり黙々に付し去らんとす。今、須弥論主唱者の口実とする点は、福田行誡師の須弥略説に掲ぐる数条中に尽くせるをもって、その各条をここに転載して参照せんと欲す。

  第一条には、経論の証を示す。

  第二条には、実見の人を示す。

  第三条には、広狭の量を示す。

  第四条には、天界を説く者は必ず須弥を説かざるを得ざるを示す。

  第五条には、須弥界を説かざれば因果を欠損する理あることを示す。

  第六条には、仏の須弥を説くは譬喩のためにこれを設くるにあらざることを示す。

  第七条には、仏の須弥を説くは外道婆羅門の説に摸擬してこれを設くるにあらざることを示す。

  第八条には、仏の須弥を説くは測量推歩のためにこれに設くるにあらざることを示す。

  第九条には、仏の須弥を説くは特にこれをして因果および四念処の観境となさしむることを示す。

 そのうち第二条のごときは、天眼神通によりて須弥山を実見せる例証の経論中に出づるものを挙ぐるのみ。第四条のごときは、経文中欲界六天を説く以上はその居住の場所を明らかにせざるべからず、故に須弥を説くの必要ありというのみ。第五条においては、仏教は善悪因果を説く以上は、その果報たる須弥天宮を説かざるべからず。なお魚を説けば水を略すべからず、鳥を説けば林を省くべからざるがごとし。第六条においては、須弥を譬喩とするときは、経中にこれを説くことあまり反復冗長に過ぐとなす。第六条の下には、須弥の説、婆羅門説に出づるというものは、かの婆羅門中の説にしてよく仏を知るものの説にあらずとなす。しかしてその論拠は、『大智度論』に外教は須弥を指して純金色というとあるは、けだし彼はるかに七金山を見て誤りて須弥山とするものか。須弥もと四宝所成なり、かつ南面は瑠璃色なるものをや、仏、彼に摸索してこれを説くとせば、なお純金色といわざるを得ずというにあり。第九条に至りては、仏の須弥を説くは推歩測量のためにあらず、たまたま推歩測量の説あるがごときは、必ずやその可聞の人ありて、余韻遺響これをおおうことあたわざるに出づるがごとしとあるは、余輩とややその意を同じうす。第九条の意は『正法念経』観天品を引きて、およそ一天を説くごとに必ずその天の因業を説きて、かくのごとく因ありてかくのごとく果あるを観察せしむ。故にいう天報の厳飾福徳を説くは、因果実あることを観ぜしむるなりというにあり。この第九条と第八条は一理なきにあらざるも、その他は独断憶定のはなはだしきものといわざるべからず。なんとなれば、その論法たるや自分免許の論法にして、局外者のいれざるものなればなり。昔日の人はいざ知らず、今日の人はたとえ小学修業の児童といえども、その説を聞きて一笑し去るは必然なり。もしかくのごとき論法をもって、人を満足せしめ得るにおいては、仏者なんぞ汲々として学理を研究するを要せんや。内地雑居の準備も外教防御の政略も、なんの必要ありてこれを講ずるや。仏者は実に安心屋気楽亭の主人なるべし。しかりといえども、方今の勢い、もしかくのごとき論法をもって自ら足れりとするにおいては、仏教は愚民の迷夢中に埋没して、中等以上の社会より擯斥せらるるに至るはまた必然なり。余がここに須弥説講究を主唱するゆえんの偶然にあらざるを知るべし。しかりしこうして、余が須弥説に対する意見は、いかにその説の非仏説たる論証明確なるにもせよ、その問題を両面より考究してその立つと立たざるとは、仏教そのものの上に得失損益なきことを弁明せんとするにあり。その両面とは、

  一方にありてはこれを仏説として会釈すること

  他方にありてはこれを非仏説として説明すること

をいう。これこの一大疑難を論定するにおいて、万全必勝の解釈法なりと信ず。

 第三項 まずここに須弥説を仏説と仮定して、その道理に背戻せる点を会釈せんと欲す。今、須弥の世界構造を理学の実験の上に考うるに、その道理に反するは論を待たざるところなれば、これを評して古代の妄談となすより外なし。しかるに釈迦の大智眼を有しながら、これを事実らしく説きたるはなんぞや。釈迦自らその妄談たるを知らざるか。しからざれば、真理を誣いて世人を欺きたるの罪人たるを免れずと。これ世間一般に仏教に向かいて立難するところなり。この疑難に答うるには、仏教外より釈迦を我人と同等なる人類として説明すると、仏教内より釈迦を我人以上に位せる仏陀として説明するとの二様ありて、その見るところ全く相異ならざるべからず。仏教外の説明によれば、釈迦の大聖たるゆえんは孔子、ソクラテスの大聖人たるに同じく、天文地理の学説に精通せるによるにあらず、ただ道徳界および宗教界において、我人凡庸の輩のなしあたわざることを自らその身に断行して、よく万世の亀鑑となりしによると解釈するをもって、その説くところの天文が今日の実験に合せざることあるも、あえて責むるに足らず。水は水素、酸素の二元素より成るということは、数百年以前にありては我人のこれを知らざるがごとく、釈迦も孔子もこれを知らざるべし。蒸気力を応用して舟車を走らすがごときは、数百年前にありては、我人も釈迦も同じくこれを知るべき理なし。釈迦にして、もし物理上ならびに器械上の知識において千万歳の後を徹照する力あるならば、その一生の間において、あるいは火薬を製し、あるいは汽車を作り、あるいは電信、電灯、電話を発見して五インドに応用し、今より三千年古にありて今日のロンドン、パリのごとき繁華を五インド至る所の都邑において見るに至らざるべからず。この勢いに乗じて説法誘導するにおいては、インドはもちろん、全世界たちどころに仏門に帰入するに至るべき理なり。また釈迦にして、果たして無限の空間を洞視する六神通を有するならば、当時すでに東方にシナ国ありて尭舜、禹湯、文武のごとき大聖人の世に出でたることも知らざるべからず。西方にエジプト、ギリシア等の諸邦ありて、美術上あるいは文学上において世界文明の中心となりしこともまた知らざるべからず。故に釈迦をもって客観界における大聖人となすときは、ひとり須弥説において不都合至極のみならず、万般の点において不審千万といわざるべからず。しかるに釈迦は、客観界の大智者にあらずして、主観界の大聖人なり。客観界に対しては家屋を建つるの才は大工に及ばず、農産を殖するの道は農夫にしかず、腕力をもって相較すれば、野見宿禰、ゴライヤスに敗を取り、器械の発明をもって相比すれば、ワット、スティーブンソンに三舎を避けざるべからず。しかるに、もしこれに反し主観界に対してこれをみるに、生民ありて以来いまだかつてかくのごとき大豪傑あるを知らず。在昔大聖釈尊、ひとたび涅槃の故山に帰入せしより、すでにすでに三千年の星霜を送らんとするも、今日なお全地球上に五億以上の信者ありて、その遺教を奉じて朝夕礼拝供養してやまざるの一例に照らしても、その人物の非凡なるを知るに足る。そもそも我人の住息せる社会は、人文日進、学理月新、燦然として文華爛熳の勢いあるも、もしその内部の道徳を顧るに、茫乎として津涯をみず、冥然として咫尺を弁ぜざる、草創蒙昧の暗黒世界たるを免れず。この際に立ち秀然としてひとりそびえ、皎然として自ら潔く、情念の妄雲を払いて良心の明月を開き、その余光遠く数千歳の今日に及ぼし、我人よくその光明界中に座臥して、多苦多患の一生中、幸いに一場の安心を占むることを得るは、その余徳にあらずしてなんぞや。いやしくも、その遺教の存し法灯の絶えざる間は、釈尊なお依然として五天竺は論なく、世界万国に向かいて説法教化してやまずと称して可なり。これ万世の俊傑にあらずしてなんぞや。これによりてこれをみるに、釈迦仏は客観界に対しては我人のごとき凡常の人物なるも、主観界に対しては空前絶後の英傑というべし。これ局外者一般の許すところなるのみならず、仏者中にもかくのごとき見を有するものなきにあらず。しかれども、多数の仏者は釈尊は仏陀なり大覚者なり大聖人なる以上は、主観上の道理にも客観上の道理にも共に通暁して、天文地理、山河草木、鳥獣魚鼈の学理に至るまで一として知らざるはなく、一人にして物理学者、化学者、天文学者、地理学者を兼ねたる人ならざるべからずと信ず。かくのごとく崇信せる仏者に対しては、他の方面より説明するを要す。しかしてその説明にまた二様あり。

  第一 須弥説は今日の実験の結果たる地球説に反するにあらずして、かえって合すること。

  第二 須弥説は仏の主唱する説にあらずして、かえって排斥するものなれば、事実道理に合するも合せざるも、あえて関するところにあらざること。

 第一に須弥説と地球説とは、一見たちまち全く反せるがごとく考うるも、その実互いに類同する点ありて、やや兄弟の関係を有す。けだしその二者の皮肉多少異なるも、骨格においては同組織を有するなり。故にこれを同一と称するを得ざるも、似同せる点ありと称して可なり。換言すれば、兄弟の互いに相似て相同じからざるがごとき関係あり。まず須弥の成立を考うるに、『倶舎論』には、まず最下において虚空に依止して風輪の生ずるありと説きて、風輪の上に水輪を生じ、水輪の上に金輪を生じて水陸の別を見るという。しかしてそのいわゆる風輪は、今日の空気に当たるをもって、須弥の体は空気の上に浮かび、空気は虚空すなわち空間の中に浮かび、飄然として宇宙の間に懸かるものなり。すなわち『阿含経』に「地は水上にあり。水は風にとどまり、風は空にとどまる。」とあるを見て知るべし。これ今日の地球が空気によりて囲繞せられつつ空間に浮動するに似たり。須弥の形は外道中に異説あることは前に述ぶるがごとし。しかして仏書中には方形となすといえども、その外辺となりたる鉄囲山は、輪のごとく円形を成すをもって周囲の円形たるは明らかなり。また九山の高低は、その中央なる須弥山最も高く、そのつぎの山はその半高を有し、そのつぎの山はまたその半にして、半々ずつ次第に減じて第九山すなわち鉄囲山に至る。かつ各山の水を出づる量は、水に入る量と相同じという。この比例によりてその形を考うるに、やや円体を成すもののごとし。ただ円体の外面に九山八海のごとき凸凹を見るのみ。なお地球の面に山海の凸凹を見るがごとし。かくのごとく、両者の形体相似たりといえども、四洲説と天動説とは両者の全く異なるところなり。しかれども余おもえらく、この二説も地球説と一致するを得べし。まず四洲説によるに、古来今日の地球上の五大洲を南閻浮洲となし、五大洲の外に別に東洲、北洲、西洲ありと立つるをもって、その説、地球説に適合することあたわざるのみ。もし須弥山は輿地の最北に位する最高点なりと解するときは、北極の当点すなわち須弥山頂なりと定めてしかるべし。須弥山は必ずしも喜麻拉也〔ヒマラヤ〕山、崑崙山、烏拉山のごとき山岳なりと解するに及ばず。大地の中枢となり中軸となるもの、これ須弥山なれば、北極の当点をもって須弥山頂となすも、なんの不可かこれあらん。地球儀につきてこれを検するに、北極うえにあり南極したにあれば、北極は地球の最高点にあらずや。故にこの点をもって須弥山となすは当然のことなり。かくのごとく解するときは、須弥四洲は今日の五大洲に当たるべし。南洲はインド地方に当たり、東洲はシナ、日本に当たり、北洲はアメリカ洲に当たり、西洲はヨーロッパ洲およびアフリカ洲に当たるべし。ただ須弥の結構、諸天の居処、四洲の状態等に関する諸説は到底地球説に合同すること難しといえども、かくのごときは須弥の形容に過ぎざれば要点にあらず。故に余は両説の骨格相似たるところあるも、皮肉はおのおの異なりという。つぎに天動説は須弥論者の唱うるところにして、須弥の周辺に日月の行道を説き、地動説は地球論者の唱うるところにして、地体日夜回転してやまずという。これまた氷炭の相違ありといえども、もしこの天地も日月も共に無限無涯の空間に飄然として浮かぶものとなすときは、太陽止まりて地球動くとなすも、地球止まりて太陽動くとなすも、ただわずかに比較上の相違のみ。もし太陽を不動体となさば地球は動体となるべく、地球を不動体となさば太陽は動体となるべし。無限無涯の空間上よりこれをみれば、もとより動も不動もあるべからず。それこれあるは地球と太陽との相対比較によるのみ。たとえば船に乗りて両岸を望めば、船の動くを見ずしてただ両岸の動くを見、地球にありて日月を見れば、地の動くを感ぜずしてただ日月の動くを感ず。しかるに両岸を不動体となし、太陽を不動体となすをもって、船の動くを認め地球の動くと定むるなり。しかれども太陽といえども必ずしも不動体なるにあらず、太陽系そのものも天体そのものも多少の回転運動あること明らかなれば、もし無限無涯の空間よりこれを見れば、船果たして動くか、両岸果たして動かざるか、地球果たして動くか、太陽果たして動かざるか、いまだ知るべからず。その動と不動はただ比較上の沙汰に過ぎざるを知るのみ。果たしてしからば、地動説と天動説とは比較上の差等に外ならず。故に地球説と須弥説とは、その相へだたることはなはだ遠からずと称して可なり。論じてここに至れば、我人は三界の迷人たるを知るべし。本来動止なく去就なき無限の宇宙間に飄然として浮かびたるものはこの地球にして、その上に忽然としてきたりたるものは我人の一生なれば、動止なき所に動止し、去就なき所に去就し、去るもわれその果たして去るを知らず、とどまるもわれその果たしてとどまるを知らず、生まるるもその果たして生まるるを知らず、死するもその果たして死するを知らず。これを三界の狂人と呼ばんか、六道の迷人と称せんか、迷か狂か、われまたそのしかるゆえんを知らざるなり。

 第二に、仏教は哲学上客観論を排して主観論を開き、唯物論を斥して唯心論を立つるものにして、宗教上迷界を去りて悟界に入り、生死界を脱して涅槃界に至るものなれば、須弥説のごときは仏教のもとより初めより排付する説ならざるべからず。たとえ善悪因果の道理に基づき、六道生死の流転を立つるに当たり、須弥天界の果報を説くの必要あるも、これ仏教のいわゆる方便に外ならず。すでに仏以前の九十五種外道はその説一ならずといえども、須弥天界に生ずるをもって、究竟の目的とせざるはなし。この時に当たり、仏出世して外道の迷信を撹破せんと欲し、天界以上に仏果の世界あることを示せるも、天界果報説を固信せる婆羅門教徒に対しては、その説を破斥するよりむしろこれを仏果に昇進する階梯となすは、その道に誘入する方便なるを知り、ついにこれを用うるに至れり。故にその意、須弥天界を立つるにあらずして、かえってこれを排するにあるは明らかなり。もし大乗の唯心的眼光をもって照見しきたらば、須弥天界のごときは理想界の半空に横たわる迷雲妄霧に外ならず。これを一掃するにあらずんば、いずくんぞよくただちに真如の霊光に接するを得んや。故に須弥天界を破斥するこそ仏教の真面目なれ。ただこれを仏教中に混説せるは、天界の果報の外に望むべき世界あるを知らざる井蛙管見の婆羅門教徒に対する善巧方便にして、なお薬に砂糖を添うるの類のみ。諺に「牛に引かれて善光寺参り」とあるがごとく、須弥天界の最幸至楽の状態を述ぶるは、随機導入の方便なること問わずして明らかなり。果たしてしからば、その説の立つと立たざるとは、仏教の関するところにあらざるなり。もし仏教の経論は一部の理学書ならば、決してそのことを恕すべからずといえども、一種の宗教書たるにおいては、嗜酒家を誘うに酒をもってし、好餅家を引くに餅をもってすると同一般なれば、あえてとがむるに足らず。今仮に須弥説は妄談にして地球説は実説なりとするも、婆羅門教徒に対して天界果報を説くに、今日の地球説、天文学等をもってするも、またなんの益あらんや。これによりて仏書中に須弥説の散見せるゆえんをみるべし。

 第四項 もし須弥説は仏説にあらずとするときは、仏のこれを説かれたる意を解すべからずと難ずるものあれども、これ仏の本意とその当時の状態とを知らざる愚見のみ。仏自ら非仏説を説かれたる本意は、前項の第二段の下に述ぶるところにつきて見るべし。たとえば仏もしアフリカ洲に生まれてアフリカ人に説法するときは、その国の古伝旧説を引用すべし。仏もしアメリカ洲に生まれてアメリカ人に説法するときは、その人民の熟知せる俚諺俗話を参説すべし。仏もし日本に生まれて日本人に説法するときは、諾冉〔イザナギ、イザナミ〕二尊、天照皇大神の太古史説を引用参説すべし。今釈迦仏はインドに生まれて梵天帝釈を尊奉する婆羅門教徒に対し、九十五種、〔九十〕六種の外道に向かいて説法誘導するものなれば、その教徒の一般に信ずる須弥説をかりきたりて説法の用具となすは、もとより当然のことにしてすこしも怪しむに足らず。また経論中に見るところのものにして仏説にあらざるものは、決して須弥説に限るにあらず、婆羅門および外道の説にして仏書中に散見せるものほとんど枚挙するにいとまあらず。梵天の説、帝釈の説、諸天の説、その他、六道の説、輪廻の説に至るまで、みな婆羅門書中に存する以上は非仏説といわざるべからず。非仏説にして仏書中に存すればとて、なんの不可かこれあらん。あたかも非日本産にして日本に需用せらるるも、あえて怪しむに足らざるがごとし。たとえば金巾のごとき、羅紗のごとき、鉄砲のごとき、軍艦のごときは、外国産なればとてこれを日本に需用するも、なんの不可かこれあらん。須弥説の仏書中に存するも、これに準じて知るべし。

 第五項 仏語に一言の虚妄なしとは仏者の格言にして、いやしくも仏教を信ずる者は、必ずこの格言を信ぜざるべからず。しかるに須弥説を非道理とするときは、ただちに仏語に虚妄なしとの格言に撞着するに至るはなんぞやと難ずるものあるべし。余これに答えていわんとす、仏語に虚妄なしとの意は、仏一代の経典その巻帙、実に汗牛充棟の多きにかかわらず、一字一句、一言一語は文面上真実にして虚妄にあらずと解すると。仏所説の経は大乗小乗、一乗三乗等は文意上真実にして虚妄にあらずと解するとの二様あるべし。しかして余は文面上の解をとらずして文意上の解をとらんとす。換言すれば、文章の表面にあらわるるものをとらずして、裏面に含むものをとらんとす。もし文面上の解によるときは、帝釈と修羅との闘戦のごとき、閻浮樹影月中に入ると唱うるがごとき、修羅手を出して日面をおおうて日蝕を生ずというがごとき神話も、みな真実にして虚妄にあらずとせざるべからず。今日もし日蝕の原因をかくのごとく解するものあらば、人これをなんとか評せん。愚と呼ばんか、狂と呼ばんか、けだし三尺の児童もなおその不可なるを知らん。もしこれに反し文意上の解をとるときは、仏教の本意にさかのぼり、仏一代五〇年間の説法は転迷開悟、脱苦得楽に外ならず。その法門、あるいは大乗小乗に分かれ、あるいは一乗三乗に分かれ、あるいは顕教密教、あるいは聖道浄土に分かれ、大数八万四千の小径あるも、その要ただ、生死の迷を転捨して涅槃の悟を証得するにあるのみ。その意を開闡したるものは実に仏一代の説法にして、今日伝わるところの経律論三蔵これなり。その行路かくのごとく多端なるも、その得果に至りては一味にして二致あることなし。仏すでに応病与薬の法を説かれたる以上は、小乗の小径をとるも大乗の大道をとるも、脱苦得楽のいかんに至りてはもとより一ならざるべからず。あたかも百川海に入りて一味となるがごとし。小乗の経文を信じてその所説のごとく修行すれば、必ず所説のごとき果を得、大乗の経文を信じてその所説のごとくに実行すれば、必ず所説のごとき果を得べし。これすなわち仏語に虚妄なきゆえんなり。語を換えてこれを言えば、仏の説くところに従いてその道を修むれば、必ず仏の説くがごとく成仏得道するにおいて、仏のわれを欺かざるを知る。これを仏語に虚妄なしというなり。これ文意上の解にして、余はこの意によらざれば、仏語無妄の格言を会通することあたわずと信ずるなり。

 第六項 またここに須弥説は道理に反し事実に違うとするときは、仏に天眼通ありとの経説をいかように解釈するやと難ずるものあり。すでに仏に天眼通ある以上は、その眼力よく天地の内外を洞視徹照し得る理なり。なんぞ須弥の有無、地球の真偽を知るべからざる理あらんや。故に仏の神通力を信ずる以上は、須弥説を事実として信ぜざるべからず。もし須弥説を事実にあらずとするときは、仏に神通力なしと想せざるべからず。しかるに余おもえらく、神通に客観的と主観的との二様あるべし。今、仏の神通は二者中のいずれに属するやは判じ難しといえども、仮に客観的神通とするときは、天地万物の真相必ず釈迦その人の眼中に現見せらるべき理なり。余これを解するに、また二様ありと信ず。すなわちその一は釈尊の身も心も共に仏なりと解し、その一は釈尊の心は仏にして身は人なりと解するものこれなり。もし身心二者共に仏なりとなすときは、その生まるるや母胎に宿り、その死するや八〇を限るの理なし。すでにヤソは生まるるにその父なく、死するにその体をとどめざる等の奇跡あるにあらずや。これヤソは妖怪物にしてヤソ教は妖怪教たるゆえんなるも、その教徒にありてはかえってこの奇跡をもって、ヤソは人にあらずして神なることを考証せんとす。しかるに釈尊の一生においては、天上天下唯我独尊のごとき小奇跡なきにあらざるも、ヤソのごとき大奇跡、否大妖怪なし。故にその一生の運命は天地の常則に準じ、人類の定律に従い、きたるべきときにきたり、死すべきときに死せり。これその心は仏なるも、その身は人なりといわざるべからざるゆえんなり。もしこれに反し、その身も生来すでに仏にして、その目よく千里の外を照らし、その耳よく万里の外に通ずとなすときは、これを実際に考うるに釈尊の目は猫に千百倍してよく夜闇を照らし、釈尊の鼻は犬に千百倍してよく足跡を弁じ得る道理なるのみならず、電信を待たずして千万里外の音信を瞬息の間に知り、風船をからずして雲霧域外に自在に飛行し得る道理ならざるべからず。釈尊その心地は仏果を極めたるものなるも、ひとたび生を人界にうけ仮に人間の形体を結びたる以上は、その五官の作用、手足の挙動は必ず人間一般と同等ならざるべからず。本来一斗の水も一升桝に入るれば、その量一升を超過すべからず。眼光よく四面を照見し得るの力あるも、小管をもって天地をうかがわば、天地の最小部分を見るより外なきがごとく、釈尊の心地は実に広大無辺なるも、これを人間の身器に入るれば人間相当の感覚挙動を示すより外なし。しかして同一の人類間にありて甲乙その人の賢愚利鈍異なれば、その感覚挙動また必ず大いに異なることあるがごとく、釈尊の感覚挙動はこれを我人の凡庸に比すれば、その勝劣もとより同日の論にあらずといえども、到底人間仲間の最上最勝なるにとどまりて、やはり人間は人間なり。故に水を渡るには船筏によらざるべからず、生を保つには飲食を待たざるべからず。生老の変あり、病死の異あり。これ釈尊の心は仏にして、身は人なるゆえんなり。換言すれば、主観的にありては仏にして、客観的にありては人なるゆえんなり。けだし主観的の釈尊は、無礙自在の力をもって宇宙万有を照見するも、客観的の釈尊は、我人と同じく天地万類の規則に服従せざるを得ず。故に仏の神通天眼等は客観につきていうにあらず、主観につきていうなりと知るべし。かくのごとく解しきたれば、仏の天眼と須弥との疑問を会通し去るにおいて、あえてむずかしからずと信ず。しかれども、世間の仏者は仏の神通天眼はひとり主観上の謂にあらず、客観上においてもとよりしかるところなり。換言すれば、釈尊は身心共に仏にして、身心共に神通自在を有するなり。故にその天眼をもってひとたび宇宙を達観しきたらば、天地の真相いかでか知れざるの理あらんや。今須弥説はまさしくその天眼によりて発見したるものなれば、その真偽はあえて問うを待たず。もしこれを疑うものあらば、これ仏を信ぜざる悪魔外道の類なり、しからざれば、いまだ深く仏教を研究せざるの罪に座すべしと。けだしこの説たるや独断憶定のはなはだしきものにして、学問界の鎖港攘夷党に近きも、また仏その人を崇信するの厚きにおいては実に感賞せざるを得ず。故に余はあえてその説を偏屈論として擯斥するを欲せず、かえって余はその説に従うも、今日の学術社会に対して須弥説を立つるにおいて、別に衝突することなきを信ずるなり。すなわち余は左の論法をもってその意を表示すべし。

  釈迦仏は天眼を有す        我人は天眼を有せず

  天眼を有する者は須弥を見る    天眼を有せざる者は須弥を見るあたわず

  今日の我人は須弥を見るあたわず(これ我人は天眼を有せざるによる)

 これに反して地球説は凡眼所成なり。今日の我人は凡眼のみを有するをもって地球を見ることを得るも、天眼を有せざるをもって須弥を見ることあたわずと論定するも、あにあえて不可ならんや。ただ論理上これをみれば、須弥は天眼によりて見らるるや否やは独断憶説の最もはなはだしきものにして、別にそのしかるゆえんを証明せざる以上は、仮定空想の妄見に帰するより外なしといわんのみ。しかれども唯心論たる仏教にありては、三界万有は唯識所変と立つるをもって、人々個々の識心の事情に従いて、その現見する外界万有の相状一ならず。甲の眼界に現ずる天地と乙の眼界に現ずる天地とは、両人共に人類なるにかかわらず、必ず多少の差異なかるべからず。これを人間以下に考うれば、鳥獣魚虫その種類幾千万あるを知らずといえども、各自見るところの外界そのものはみな相異ならざるべからず。鳥の見て天地なりと知るところと、魚の見て天地なりと知るところと、その相異なるはもとより当然のことなるべし。これを推して人間と仏とを較するに、凡眼所見の天地と天眼所見の天地とは、また大いに異なるべき理なり。あたかも明者は雪を見て白かつ冷なりといい、盲者は雪に触れてただ冷のみというがごとし。雪そのものを感ずるにも、明者と盲者とはすでにかくのごとき異なるがごとく、天地そのものを感ずるに凡眼所見と天眼所見とは、必ず大いに異ならざるべからず。もし須弥は天眼所見、地球は凡眼所見と定むる以上は、今日の学者輩がなにほど相集まりて須弥説を難詰することあるも、お気の毒ながら君らは凡眼連中なれば、天眼所見の須弥説を知るべき理なし。なお盲人は雪の冷を知りて白を知らざるがごとし。かかる人達に須弥を知らしめんとするは、盲人に雪の白を示さんとするがごとく、あにむずかしいの至りにあらずや。君らにおいても須弥を見せよとのご請求は、あまり無理のご談判にあらずやといいて答うるをもって足れりとす。もし難者更に問いを起こして、天眼所見といわるる貴公はすでに須弥を見たりしやと詰まりきたらば、さすがに須弥天狗の円通菩薩も介石上人も、これには閉口して、さよう答うるところの拙僧等もやはり凡眼仲間にして、いまだ一回も四宝所成の美かつ大なる須弥を見たることなしといいて答え、須弥の一論ついに盲者と盲者との問答となりて終わらんとす。

 上来論じ去り評しきたるところの須弥説の一裁判、その勢い自然に非仏説論者の勝訟に帰するがごときも、余が意は、これを仏説とするも非仏説とするも、合理説とするも不合理説とするも、仏教そのものの利害得失に関せずというにあり。余はあながちに非仏説論をどこまでも主張するの意にあらず、それ果たして仏説なるか否かは、今より数年を出でずして比較宗教学者の研究によりて青天白日となるに至らん。余もその研究の結果を待たんとす。故に更に余が本意を約言すれば、須弥説の立つと立たざるとは、仏教そのものの利害を離れたる別問題なりとなすにあり。

 

     第七講 物質論

 上来すでに時間を説き空間を説き天地を説きければ、これより乾坤六合の間に現存せる万物を説かざるべからず。仏教にてこれを色法と名付く。およそ仏教の分類に蘊処界と名付くるものあり。あるいは一名陰入界という。これを三科の法と称す。蘊とは積集の義にして、旧釈には陰の字を用い、のち改めて衆となし、唐に至り更に改めて蘊となす。その梵語を塞健陀という。これに五種あり、色、受、想、行、識の五蘊と称するものこれなり。処とは生門の義なりと解し、一名これを入という。その梵語は鉢羅吠奢なり、これに六根六境の一二種あり。界とは種族の義にして、その梵語を駄都という、これを六根六境六識の一八種に分かつ。倶舎の頌文に「聚と生門と種族とは、これ蘊、処、界の義なり。」とあるものこれなり。その解釈は『倶舎論』に譲る。しかして余がここに述べんと欲するものは、五蘊の第一たる色蘊すなわち色法なり。今その名義を考うるに、

  『智度論』にいう、形の質礙法の故に、色というなり。

  『瑜伽論』にいう、変礙の故に、名づけて色となす。

  『倶舎頌疏』にいう、変壊すべきが故に、名づけて色蘊となす。

  『倶舎光記』にいう、変ずべく、壊すべきが故に、名づけて色となす。

  『翻訳名義集』にいう、質礙なるを色という。

      

      

      

      

 これを要するに変礙、質礙をもって色の義となす。変礙とはあるいは解して、変は細の無常をあらわし、壊は麁の無常をあらわすといい、あるいは変は有情数の無常をあらわし、壊は非常数の無常をあらわすといい、あるいは変すなわち壊なりといい、あるいは変壊は他のために悩壊せらるる義なりという。すなわち『倶舎論』に「変壊はすなわちこれ悩壊すべきの義なり。」と解せり。よろしく倶舎につきて見るべし。質礙とは手は手を礙〔さゆ〕え、石は石を礙え、あるいは手石互いに相礙うるがごとく、触礙するところあるものをいう。故に色法とは西洋のいわゆる物質(matter)にして、延長性(extension)を有するものに与うる総名なり。およそ西洋のいわゆる物質は礙性(impenetrability)延性(extension)分性(divisibility)惰性(inertia)重性(weight)の諸性を有するものをいう。これすなわち質礙の義なり。また仏書中には色に可見有対色、不可見有対色、不可見無対色の三種ありという。可見有対色とは我人の眼力にて見ることを得、かつ触覚上障礙あるものをいう。たとえば水土木石のごときこれなり。不可見有対色とは眼力にて見ることを得ざるも、その体、極微より成りて障礙あるものをいう。たとえば勝義根のごときこれなり(勝義根の解釈は、余が講ずるところの『仏教心理学』第四講第二段の下を見るべし)。不可見無対色とは眼力にて見るべからざるのみならず、その体、極微所成にあらざれば障礙することなきものをいう。たとえば無表色のごときこれなり(無表色の解釈は『〔仏数〕心理学講義』第三講外界論の下につきて見るべし)。しかして無表色、勝義根は、今日の西洋家の唱えざるところにして仏教特殊の説なり。もしこれを西洋所説の例を用うれば、空気のごときは不可見有対色とし、エーテルのごときは不可見無対色として可ならんか。以上述ぶるところは、物質の客観的解釈、客観的分類にして主観的にあらず。もし主観的解釈、主観的分類を挙ぐれば五根五境の説あり。これ心理学に属する問題なれば、その説明はこれを『〔仏数〕心理学講義』に譲ることとなす。また物質の分析に客観的と主観的あり。客観的分析とは一切の物質すなわち色法を地、水、火、風の四大所造となし、極微所成となすもの、これなり。そのうち四大所造説は物理学に属する問題にして、極微所成説は化学に属する問題なりと称して可ならんか。とにかく四大所造と極微所成の両説は、今日の理学的説明にして、物理化学の元素説といいて可なり。けだしこの説一変して、今日のいわゆる物理学や化学を産出するに至りしは疑うべからざるもののごとし。余おもえらく、蒸気船なき時代に蒸気船を発明すると、鉄なき時代に鉄を発明すると、その功労と利益はいずれが多きや、人必ず鉄の発明に重きを置くは問わずして明らかなり。しかるに蒸気船を発明したる者の名は、広く世界に知られて永く世間の称賛を得、鉄を発明したる者の功はだれも記憶するものなく、またその恩を感ずる人さえもあらざりき。これその発明のあまり古きに過ぐると、その名の埋もれて伝わらざるとによるというも、その実、世を益することのあまり莫大にして、朝夕これを忘るる程に常にその恩海に浴するによらざることなしというべからず。あたかも、人みな日光や空気の恩恵を忘れてこれを感ぜざるがごとし。これと同じく引力の発明者たるニュートンのごとき、進化の発明者たるダーウィンのごときは、小学児童もなおよくその名誉とその功労を称賛してやまざるが、理学の元素説を発明したる四大説や極微説は、その学界に与うる功益はいかに洪大なるにもせよ、だれもこれを問わざるはなんぞや。これその説の今日すでに陳腐となりて学界より廃泄せられたるによるか。余おもえらくしからず、今日の学説はその陳腐視せらるる旧説より産出化成したる以上は、決してこれを廃泄物視すべからず。引力説や進化説は子のごとく孫のごとく、四大説や極微説は父のごとく母のごとし。世間一般に子の恩を知りて母の恩を忘るるは、あに怪しむべきの至りならずや。これを評して薄情といわんか、不孝といわんか。もし今日の学説を分析して、その体質成分を検すれば、必ずその中に四大説の体形や極微説の実質を含有するや疑いなし。果たしてしからば、世人が四大説、極微説の功力を知らざるは、石器に代うるに鉄器をもってしたる功労を忘れ、人生必須の雨露日光の恩恵を知らざるに比すべきか。かくいうときは、人必ず疑団を抱きて曰く、西洋今日の理学説はギリシア時代の物理説の再興せるものなれば、ギリシアの分子論のごときこそ引力説、進化論の母というべけれ、すこしもインドの学説に恩恵を帰する理なし、たとえば自国の君主に恩恵を受けたるの故をもって、他国の君主に報謝するいわれなきと同一般なりと。これその一を知りてその二を知らざる妄見のみ。近世の学説はその源をギリシアに発せしは言うまでもなきことにして、ギリシアの学説はその源を東洋に発せしはこれまた疑うべからざる事実なり。そもそもギリシアの諸学はタレスその人より始まりしをもって一般にこれをギリシアの学祖と称せり。しかしてその人はアジアにおけるギリシアの殖民地より起こり、その学はアジア諸州を遊歴して得たるものなることは、同氏の伝記につきて明らかなり。その後ピタゴラス氏の学も、プラトン氏の学も、みなその素を東方にとりたることは、歴史の証明するところなり。要するに、アジアはギリシアにさきだちて開け、その文化西漸して西洋に入りたるや、けだし疑うべからず。しかしてアジアの学源は、インドおよびバビロン地方に発したるやまた疑いなし。なかんずくインドは、アジア諸邦中文華先開の国たるや、東西の歴史に徴して明らかなり。果たしてしからば、ギリシアの学説は遠くその源をインドに発せしは、争うべからざる事実なるがごとし。その証明は歴史の比較を待たざるも、学説そのものを分析して知ることを得べし。インドとギリシアとは海山万里を隔つにもかかわらず、両者の学説の相似たるや実に驚くべきものあり。タレス氏の説、ピタゴラス氏の説、ヘラクレイトス氏の説、エンペドクレス氏の説、デモクリトス氏の説を始めとし、プラトン氏、アリストテレス氏の説に至るまで、その相似たるや、人をしてインドの諸説を剽竊せるやを疑わしむるほどなり。もし両者の年代を較すれば、インドの学説のギリシアにさきだちて世に起こりしは明瞭なる事実なり。しかしてその両国の間に間接に通商交通ありしことは、タレス以前においてすでに見るところなれば、思想学説の伝播は避くべからざる勢いなり。これらの事実証明を照合しきたらば、インド人はギリシア人に対して専売特許権侵害もしくは版権侵害の訴を起こしても、インドの勝訴に帰するは百発百中と称して可なり。故に余は、西洋今日の学説は遠くその源をインドの古説に発せりと断定せんとす。これをたとうるに、一脈の渓流がその源を深山の大湖に発し、渓谷を通過してついに山腹の空洞に入り、再び出でて平野にそそぐがごとく、その水路ひとたび隠れて再びあらわるるをもって、前後の両水その源を異にせるがごときもその実一なり。今日の学説とインドの学説とその流源一なるも、インドより流れてギリシアに入る間、ひとたび歴史上人目に触れざる暗路を通過して再び世間にあらわれしをもって、人誤りてその前後の流源の異なるものと想するに至れるのみ。しかるにまた、更にここに一難を提出するものあるべし。曰く、人の思想は東西相隔ててその間に毫末も交通交換の道なきも、これを自然の発達に任じて両者の一致する結果をみることあるべし、たとえば家を建て衣を製し器を作るがごとき、絶えて交通なき人種の間に同轍を見るの類はなはだ多し、学説の発達もまたこれに同じ、故にインドの学説とギリシアの学説と一致するところあるがごときも、交通の結果にあらずして自然の結果なりと。これ一理なきにあらざるも、自然の結果として二者の偶合をみるには必ず定限あり。もしその定限に超過せる一致は、他に原因あることを知らざるべからず。シナ古代の学説とインド古代の学説と、その間多少似たるところあるも、インドとギリシアとの間のごとくはなはだしからず。故に前者の一致は自然の結果に帰して可なるも、後者の一致は自然の結果の定限を超過しおるものなり。だれかこれをみて自然の結果として満足するものあらんや。いわんやその事実は、他の方面より種々証明すべきものあるをや。故に余は断言して、ギリシアの学説はインド文化の淵源より発したる余流なりとなす。

 かく論じきたるときは、仏者はたちまち速断を下して、仏教は世界学術の淵源なり理学の本家なり哲学の本元なり、西洋はその出店小売りに過ぎずといいて、得意然たるものあらんを恐る。もしかくのごとく誇張するものあらば、必ずその鼻を七屈八折するものありて出でん。故に余は更に一言するを要す。インドの四大説、極微説は世界の理学の卵巣細胞なるも、あえて仏教のはじめて唱うる新説にあらず。これを仏説とするは、仏経中にその説を見るというに過ぎず。仏書中にその説の存する故をもって、ただちに仏所説の新発明となすの理あらんや。もし仮に、これを仏教の創設せるところにして、仏の天眼神通の結果なりとなさんか。しかるときは、たちまち今日の人に対して仏天眼の不完全なることを証明し、あわせて仏の神通はニュートン、ダーウィンの神通に及ばざること遠きを知らしむるに至らんのみ。なんとなれば、四大説、極微説は今日の学説を産出せる母なりというに過ぎずして、もし両説中いずれが精確にして完全なるやを問わば、十人は十人ながら古説の今説にしかざることは、弓矢の銃砲にしかず、肉眼の望遠鏡にしかざると同一般なりといいて答えんのみ。かかる不完全の説は仏の天眼によりて得たりとなさば、これ取りも直さず仏の天眼をして今日の人智の標準以下に陥らしむるものなり。いやしくも仏の遺教を奉ずる徒たる以上は、その心あにここに至らしむるに忍びんや。それ大聖釈迦牟尼仏は菩提樹下端坐のその時より、眼光を理想の中天に放ちて三界唯心の妙理を達観し、客観差別の迷見を打破し、その識見の高きその心眼の明らかなること、あたかも富峰の高くそびえて、その秀色永く人をして仰嘆せしむるがごとく、明月の遠く照らしてその霊光人をして感賞にたえざらしむるがごとし。我人の敬服し崇拝するところは全くここにあり。余は決して釈尊を理学者として戴くものにあらず、理学界の聖人として奉ずるものにあらず、理想世界における古今無二の大覚者大聖人として崇信するものなり。ああ三千年古菩提樹下においてひとたび点じたる仏心の灯光は、風颯々、雨蕭々の中相伝えて今日に至り、我人の心地を照らして霧海の南針となるにあらずや。故に人もし半夜良心の澄みわたるに際し、理想の望遠鏡によりて宇宙の真相を静思諦観するにおいては、真如月下一点の雲影をとどめざる風光の一斑をうかがうことを得べし。これによりてこれをみるに、他日一夢大覚の時あるや、けだし疑うべからず。これ仏教の仏教たるゆえんにして、釈尊の釈尊たるゆえんなり。もしその四大説、極微説のごときは、生死渡頭の迷人を誘導する仮説の方便に過ぎざれば、インド古伝の理学説をそのまま引用して説法の用具とせるのみ。あにその説の仏書中に存するの故をもって、釈迦を理学界の一個のニュートンとして貶するの理あらんや。余、世にかくのごとき人あらんことを恐れ、一言もって仏教のために弁護の労をとるに至れり。もし人あり四大説、極微説は果たして仏以前の古説なるやを問わば、その説、勝論外道および順世外道の唱うるところにして、前者はこの説によりて物心二元論を唱え、後者はこの説によりて唯物一元論を唱え、共に仏出世の前後にありておのおの一家を成せしは明らかなり。なかんずく勝論外道はその年代つまびらかならずといえども、仏書中に見るところの事実につきて推究するに、仏以前すでに外道の一派をなせしもののごとし(『外道哲学』勝論外道の下を見るべし)。かの九十六種外道中には、四大外道も極微外道もありしに相違なかるべし。ことに地、水、火、風の四大説に至りては、なおシナの陰陽説、五行説のごとく、インド最古の物理説なることは余が弁を待たずして明らかなり。しかるに仏教は、この物理説を利用して万有恒存説を証明し、更に進みて真如不滅説を開示したるものなれば、その説の仏教の目的を達する階梯として仮用せるものなることは、多言を費やさずして知るべし。かくのごとく論定して、これより極微論四大論を詳述せん。





 

     第八講 極微論

 仏書中に見るところの極微とは、色法すなわち物質を分析して最小の極に至り、再び分析することあたわざるものをいう。故にこれ西洋のいわゆる微分子あるいは元素に当たるべし。今左に仏書中に見るところの義解を示すべし。

  『倶舎論』(巻一二)にいう、もろもろの色を分析して一極微に至る。故に、一極微は色の極少となす。

  『倶舎頌疏』(巻一二)にいう、極微はこれ色の極少なり。

  『倶舎麟記』にいう、正理にいう、極とはいわく、色中を析して究竟に至る。微とはいわく、ただこの恵眼の見るところなり。故に極微というは、極微の義をあらわすなり。

  『唯識論』にいう、もろもろの瑜伽師、仮想の恵をもって、麁色の相において、漸次に除析して、不可析に至るを仮に極微と説く。

  『唯識述記』にいう、麁色の相においてとは、すなわちこれ析するところの色の相なり。半々にこれを破して漸次にしかも析して、麁を除き細に至って不可析に至るを、仮に極微と説く。

  『法苑義林章』(巻五本)にいう、体用を有する中に最極小とは、いわゆる阿拏、これを説きて極微と名づく。

      

      

      

      

      

      

 以上の解釈によりて極微のなんたるを知るべし。もしその梵名は「『対法鈔』(巻二)にいう、梵に波羅摩阿拏というは、これ極微の言いなり。」しかして小乗と大乗とは極微を解するの意同じからず。まず『唯識論』の文を引用すべし。

  『唯識論』(巻一)にいう、しかも識の変ずる時に、量の大小にしたがって、とみに一相を現ず。別に衆多の極微を変作し、合して一物と成るにはあらず。麁色に執して実体ありとする者のために、仏、極微を説いて、それをして除析せしめたまえり。もろもろの色に、実に極微ありというにはあらず。乃至〔中略〕。この極微は、なお方分ありといえども、しかも析すべからず。もし更にこれを析せば、すなわち空に似て現ぜん、名づけて色となさざるべし。故に極微は、これ色の辺際なりと説けり。これによりてまさに知るべし、もろもろの有対の色は、みな識の変現せるものなり、極微にはあらず。

      

      

      

 つぎに『義林章』の文左のごとし。

  『義林章』(巻五本)にいう、肉、天眼を除いて所余の眼は一切極微を用いて所行の境となす。かの天眼はただ聚色中の表、上下、前後の両辺のもしくは明、もしくは暗をとりて必ず極微の処所をとることあたわざるをもってなり。極微の体は思をもって分析して建立するによるが故に、天眼すらなおあたわず、いわんや肉眼をや。

      

      

 しかして『倶舎麟記』に大小両乗の別を示すこと左のごとし。

  もし大乗に准ずれば実なく、ただこれ覚恵を分折するをもって極微となす。これはこれ識心の変化するところにして小を積して成ずるものにはあらず。もし小乗中に実なる極微ありてもって大色を成ずと説かば、その大色を折して不可折に至るを一極微と名づく。

      

      

 もし『倶舎頌釈疏鈔』(巻一二)に解するところによるに、極微とは一切の色法中に極微ほどの極少なるものこれなし、二乗菩薩の眼見をもっても見えざるところなり、いわんや凡夫をや、ただこれは智恵をもって分別する故に二乗菩薩の智恵をもって分別してこれを知るなり。(中略)総じて大乗の心は一切諸法その体なしといえども、ただ覚恵をもって分別して体ありというなり。さて小乗の心は極微の体ありと定むるなり。されば三世実有法体恒有といいて、三世は実にあり、法体という物は極微に極まり実にありと立つるなり。かくのごとくいうときは、大小乗の心の不同はいかんというに、小乗には実有の体と立て大乗には法体なしとまでこそあれ、覚恵の所をば互いに廃すべからず云々とあり。これを要するに、小乗は法体恒有と立てて実体論を唱うるをもって極微の体は実有とし、大乗は唯識所変と立てて唯心論を唱うるをもってその体なしとす。故に『唯識述記』には極微は実あるものにあらず、これ識変をあらわすといい、あるいは極微は実あるものにあらざる義をあらわす、すなわちこれは実法実我はこれ一、これ常と執するもののための故に、仏極微を説きてそれをして執を除かしむという。これを約言するに、小乗は実有となし、大乗は仮有となすなり。しかりしこうして、小乗中に異見あり、外道また異説を唱う。さきに述ぶるがごとく、外道中勝論および順世計は極微論にして共にこれを実有となす。なお小乗有部宗のごとし。左に『外道小乗涅槃論』の一節を引用せん。

  問うていわく、なんらの外道、一切法の自相、同相を見て涅槃と名づくと説くや。答えていわく、第七の外道、毘世師論師かくのごとくの説をなす、いわく、地、水、火、風、虚、空、微塵物、功徳、業、勝等の一〇種の法は常なるが故に、和合してしかも一切世間の知、無知物を生ず。二微塵より次第に一切の法を生ず。かの者なければ和合するものなく、和合するものなければすなわちこれ離散す。離散するものはすなわちこれ涅槃なりと。この故に毘世師論師は、微塵これ常にしてよく一切の物を生ず、これ涅槃の因なりと説く。

      

      

      

 この毘世師論師とはすなわち勝論の祖なり。しかして小乗有部と外道とはその意大いに異なり。なんとなれば、外道はこれ常と立つればなりという。今『唯識図解』(巻二)に出せる図解を転載すべし。

  一、順世と衛世 極微は本あり。これ常法にして所生の子なり。微は因量と等しく、よりて名づけて麁となす。これ無常法にして、子微聚集して量徳と合し、大量と成る、云々。

  一、薩婆多(小乗有部宗) 微とはなんの色にしたがうとならば、すなわちかの処におさむる。七極微は微を成じ、ないし展転して小を積して大を成ず。みなこれ実有なり、云々。

  一、経部(小乗の一宗) 極微の体、これ実有なり。積して大物を成ず。大物これ仮なり。実は仮にしたがって十処におさめらる、云々。

  一、大乗 極微は法処に摂めらる。しかるにこれ仮法なり。その色処等の形量大なるは体の実有なり。大を折して小極微を成ずるが故に、仮にこれによりて識変ず。ただ形量のもしくは大、もしくは小なるにしたがって、小よりもって大を成ずるにはあらざるなり、云々。

      

      

      

      

 あるいは極微を麁細に分かちて実仮を示す。麁とは小を積みて大と成りたるものにつきていい、細とは大を析して小となしたるものにつきていう。その麁は見るべく、その細は見るべからず。左に『倶舎要解』(巻六)の図表を掲げて大小両乗の別を示さん。

 その意、小乗有部は麁細共に実とし、小乗経部は細は実にして麁は仮とし、小乗一説部は麁細共に仮とし、大乗唯識は麁は実にして細は仮なりとす。これを要するに、小乗は仏教中の客観論なれば物質性極微を説き、大乗は主観論なれば識変性極微を説くの異同あり。更に『唯識述記』に考うるに、極微は心の相変じて虚空に似て現じ色相を作して現ぜず、所析の物はすなわち極微にあらず、極微は細なるが故に析すべからず、心等のごときにあらずといい、あるいは微の相は空と相隣るをもっての故に、諸経論みな極微はこれ色の辺際なりと説く。辺際とはこれ窮尽の義なり。これを過ぎて更に析すればすなわち非色となるという。故に極微の一名を隣虚塵という。かくのごとく解するときは、極微は物質にあらずといわざるべからず。しかれども、小乗の客観論によれば極微もとより物質ならざるべからず。すでにこれを物質とすれば、変礙をもって性とせざるべからず。しかるに『婆沙論』(巻七五)に、極微いちいち変礙なしといえども、多く積集すればすなわち変礙ありといい、『倶舎論』(巻一)に、一極微おのおの処にして住することなし、衆微聚集して変礙の義成るという。しかるにここになお一疑難あり。極微は西洋のいわゆる分子もしくは元素に当たり、物質の最小至微また析すべからざるものなりといえども、これを積集して物質を生ずる以上は、極微そのものすでに物質性ならざるべからず。たとえば延長をもって物質の通性とするに、極微そのものにも延長を具せざるべからず。なんとなれば、延長なきものがなにほど積集するも、延長あるものを生ずべき理なければなり。あたかもなにほど零を集むるも、これによりて決して数を生ぜざるに同じ。換言すれば、有は有より生ずべきも、無より生ずべき理なきに同じ。これをもって、極微そのものにも延長性あり変礙性ありといわざるべからず。かくのごとく論定するときは、更に一難ありて起こる。すなわちいやしくも延長を有すれば分析し得べからざる理なし。もしこれを分析し得るとなさば、極微とはいうべからず。すでに極微を解して最小不可析となす以上は、もとより延長なきものたらざるべからず。故に極微を延長性を有するものとなすも不可なり、有せざるものとするも不可なり、いずれをとりて可なるや、論理の岐路に迷わざるべからず。西洋にありても、この点は学者の大いに惑うところにして、あるいは最小分子は数学上いわゆる点(ポイント)と同一なりといい、あるいは物理のいわゆる力の中心なりというがごとき説あるも、みなこの難関を通過し得たるにあらず。論じてここにきたれば、小乗の客観論一変して大乗の主観論を呼び起こすに至るべし。なんとなれば、極微そのものに至りては見るべからず触るべからず、その体、全く我人の感覚の外に住して、ただわが思想の力これに達するのみ。換言すれば、眼力所感にあらずして智力所現なり。すでにこれを智力所現とすれば、その体もとより実有にあらずして仮有なり。客観的存在にあらずして主観的現象なるを知るべし。故に『大乗唯識論』にありては、これ一題をもって唯心門を開くの管鑰となせるはあに妙ならずや。余をもってこれをみるに、一大仏教は客観差別の妄見を開導して、主観平等の理想に悟入せしむるに外ならず。釈尊ならびに竜樹、世親のごときは、インドの古伝民間の俗説は客観の妄見たるにもかかわらず、しかもこれを利用して理想の妙境に誘入せしむ。故に仏書中に見るところの、三界論も六道論も須弥説も四洲説も極微も四大も、みな仏以前の婆羅門書中に見るところにして、必ずしも仏の始めて唱道せるにあらざるも、婆羅門迷信の徒をして仏教の大海に帰入せしむるには、この諸説を船筏に代用して運載するの便なるにしかざれば、経論中往々散説するに至れり。これいわゆる随機開導の一方便とすべきか。とにかく仏書中の四大説や極微説は、真如の帝都に昇入する駅路の旅亭に比すべきものなり。某氏の詩にいわく「門に入りて問うを休めよ南禅寺。一帯、青松の道、迷わず。」とあるがごとく、仏教の門に入りては、一路ただちに真如の帝都に向かいて進むより外なければ、極微、四大説のごときはみな一帯の青松に比すべきのみ。

 つぎに極微の形状を考うるに、『倶舎恵暉抄』にいわく「有部に准ずるに、独住の極微なく、小なるも七あり。四面、上下の六方、および心とを七となすなり。いちいちの極微はおのおの四大の造りなり。一の四大には二八微ありて、能造、所造を計して一三七九極微の同聚あり。」とありて、各極微の四方上下に中心を加えて七位となり、七個相合して一微を成すという。これより以上みな七個ずつ増積するなり。故に『倶舎遁麟記』に「これらの諸位、みな七の所成なるは、六方および中に対向するをもっての故に、七をもちうるなり。」とあり。しかして七個増積の次第、左のごとし。

     7極微=1微

     7微=1金塵(7×7=49極微)

     7金塵=1水塵(49×7=343極微)

     7水塵=1兎毛塵(343×7=2401極微)

     7兎毛塵=1羊毛塵(2401×7=16807極微)

     7羊毛塵=1隙遊塵(16807×7=117649極微)

      〔羊毛塵と隙遊塵との間に牛毛塵あり。〕

 その隙遊塵はその量、戸隙間に見るところの遊塵に比すべきをもってその名あり。これを『倶舎論』(巻一二)に左のごとく記せり。

  極微を初となし指節を後となして、まさに知るべし、後々はみな七倍にして増すことを。いわく、七極微を一の微の量となし、微を積みて七に至るを一の金塵となし、七の金塵を積みて水塵の量となし、水塵を積みて七に至るを一の兎毛塵となし、七の兎毛塵を一の羊毛塵の量となし、羊毛塵七を積みて一の牛毛塵となし、七の牛毛塵を積みて一の隙遊塵の量となし、隙塵の七を蟣となし、七の蟣を一の虱となし、七の虱を★(麥+廣)麥となし、七の麥を指節となし、三節を一指となす、云々。

      

      

      

 かくして二四指を肘となし、四肘を弓となす。以下はよろしく前述の空間論の下を見るべし。しかるに『婆沙論』には金塵を銅塵といい、旧『倶舎』にはこれを鉄塵というがごとき少異あるも、これ訳字の一定せざるによる。その他『婆沙』(巻一三六)の一説に「七微が一水塵を成じ、七水塵が一銅塵を成じ、七銅塵が一兎毫塵を成ず。」とあれどもいちいちその異同を指摘するを要せず。

 以上は仏書中に見るところの分子成物論にして、その説は外道中の分子学派あるいは唯物学派より起こりしは論を待たず。換言すれば、勝論外道および順世外道より起これり。勝論の分子学派なることは前すでに一言せり。順世に至りてはいまだその主義を解説せざるをもって、左に『華厳玄談』の一節を転載せん。

  路伽耶、これ順世外道というなり。一切色心等の法、みな四大の極微を用いて因となす。しかるに四大の中の最精霊者のよく縁慮あるを、すなわち心法となす。色のごとくみなこれ大なりといえども、灯の光を発するに余はすなわちしからず、故に四大中に能縁慮あるは、それ必ず失なきが故なり。

      

      

 故にこれ純然たる唯物論なり、断見外道なり。勝論は四大極微の外に心意を立つるをもって物心二元論なるも、順世は心意を立てざれば唯物一元論なり。故に『唯識述記』には「この勝論は更に余物あるを許すも、順世はしからず。」とあり、『唯識泉抄』には「勝論は四大極微の外に徳、業等の余句を立て、順世は四大ばかりなり。」とあり。今順世外道のごとき極微論者の極微成物論の要点は、最初父母の二極微あり、和合して子微を生じ、子微より孫微を生じ、次第に相生じて世界万物をなすという。今『唯識二十論述記』によるに、極微両々合して一子微を生じ、本にあわせ合して三微あり、かくのごとくまた余の三微と合して一子微を生む、かくのごとく七微また余と合して一子微を生む、かくのごとく展転して三千界を成すという。また『十句義論釈』に勝論所計を論じていわく、

  両々の極微、一の子微を生ず。三々合して第七の子を生じ、七々合して第一〇の五の子を生ず。かくのごとく展転して三千界を成ず。一切の有命、無命、質礙ある物、みな地等の四微より成る。頭、目、身体等、および山河、大地、草木、飲食、衣服、宮宅、車乗、瓶盆等の資具、これ極微の合成となすなり。

これによりて極微論の要領を知るべし。

 つぎに西洋の分子論を考うるに、その説は紀元前四〇〇年代ギリシアにおけるレウキッポス氏、デモクリトス氏の説に起こる。その意に曰く、およそ宇宙間には空虚の場所と充実せる場所との二ある中、充実せる場所は最小至微にして分析すべからざる分子の占領する所なり。ただその分子の体はなはだ微細なるが故に、目見るべからず手触るべからざるも、他の充実せざる場所、すなわち空所の存するによりその間に揺動するを得るのみ。かくして各分子互いに集散離合して、もって種々の現象変化を示すという。デモクリトス氏の想像するところによれば、各分子の性質はみなことごとく同一にして、わずかに方円の形と大小の量異なるをもって万物一様ならざるなり。すでに形量に多様あるが故に、大なるものは重くして速く落ち、小なるものはおもむろに下るの等差を生ず。これをもってひとたび空間に揺動すれば、各分子互いに衝突し、その結果あるいは集合しあるいは離散するに至る。しかして物質に軽重の差あるは、分子そのものの軽重にあらずして、分子間に空所を有することの多きと少なきとによるとなす。また同氏は物質のみ分子所成となすにあらず、心意もまた分子所成となす。心意を組成せる分子は火の分子と同一にして、きわめて精微にして円状なりとす。故にその論はまさしく順世外道の唯物論に類す。氏のつぎにギリシアの分子論者は、エピクロス氏の論をもって第二に置く。氏の論はデモクリトス氏を継述せるも、また多少の異同なきにあらず。まずその異なる点は、分子自体の運動衝突は大小軽重の差のみによるにあらずして、その体の墜下するに当たり、直下せずして傾斜するものとなす。これ分子自体に意志のごとき一種の性質ありてしかるなりと説く。その後ローマの詩人エクレシウス氏も分子論者としてその名あり。近世の初年に当たりては、フランスにガッサンディ氏ありて分子論を唱う。これ近世唯物論の始祖なり。氏の説はもっぱらエピクロスを祖述したるものにして、分子の回旋運動は分子中に存する勢力によりて起こり、分子はあたかも活動物のごとき作用を有すとなせり。その説ニュートンに至りて始めて大成せり。今インドの分子論は、これをニュートン以後の分子論に比すれば、不明不完の評を免れ難しといえども、ギリシアおよび中古の分子論に比すれば、インドの方その上に凌駕すというもあえて過当にあらずと信ず。ことにその間新旧を較すれば、インドの分子論はギリシアにさきだちて起こりしは証明を待たざるなり。これによりてこれをみるに、インド人はひとり唯心観に長ずるのみならず、唯物観にも多少発達せる思想を有するを知る。しかして唯心観も唯物観も、共にインド人の想像力に長ぜるより起こりたるものなれば、西洋近世のごとく実験に照らして証明することなし。故にその唯物論は主観的範囲を脱することあたわず、かつその最も長ずるところは唯心観にして唯物観にあらざれば、唯物論はついに唯心論の腹中に葬らるるに至れり。これに反して西洋は唯物論と両派相抗して雌雄を争うは、東西両大関の力を較するがごとき観ありといえども、自然に唯物論に偏傾する勢いありて、唯心論つねに苦戦の状あり。故に今後は東洋より援兵を護送し、大勢一挙して唯物論の本城を抜き、唯心論をして将来永く哲学の舞台に独歩せしむることを望まざるべからず。

 西洋近世の学説によれば分子(パーティクル)の小なるものを小分子(モレキュール)といい、小分子の更に細なるものを微分子(アトム)という。微分子とは化学上のいわゆる元素なり。しかして分子の形状大小に至りては、これを知るに由なし。ただ想像上一滴水をもって地球の大に比すれば、小分子は弾丸の量に比すべしと伝うるのみ。もし微分子の量に至りては到底想像の及ぶところにあらず。しかしてこれをありとするは、眼力にあらずして心力なることは、仏教の所説に異なることなし。ギリシアのいわゆる分子は小分子に当たるべく、仏教のいわゆる極微はあるいは小分子のごとく、あるいは微分子のごとく解せり。すでに『倶舎論』にも、一極微は各処にして住することなしと説きて、単独に住存するにあらず、必ず七個合集して実存すとなし、かつその体は最小不可析となすがごときは、化学的元素の意を含むものに似たり。しかれども、その集合して物を成すゆえんを説明するに至りては、到底今日の物理化学の所談と同日に語るべからず。要するに分子論の詳細確実を較するにおいては、インド諸派なかんずく仏教は、西洋所説に数歩を譲らざるを得ざるは十目十手の知るところなり。しかれどもこれ決して仏教の欠点にあらず、かつ恥辱にあらず。農夫は家を建つることを知らず、大工は衣を製することを知らざるも、決して農夫の恥にあらず、大工の恥にあらざると同一般なり。仏教は唯心論をもって長所とし、理想論をもって目的とし、その光明よく唯物の暗黒を照破し、その風力よく唯物の塵埃を掃尽するものなれば、唯物的分子論のごときはその本領にあらざるのみならず、その寄生物に外ならざるなり。わが国、近来西洋学の流行に伴い唯物論ようやく虚勢を張り、壮年社会を風靡せんとする傾向あり。その結果、人倫道徳の破壊をきたさんことを恐る。けだし「満室の蒼蝿、払うに去り難く、起きて禅榻を尋ねて清風に臥す。」はこの時にあるか。余四面を観察するに、唯物論の崇拝者たる蒼蝿の輩は実に払い去るべからざる有様なれば、余はむしろ唯心的禅榻を尋ねて理想的清風の下に一休をとらんと欲す。

 

     第九講 四大論

 仏書中に見るところの物理的説明は、極微論の外に四大論あり。四大論は仏書中に存するのみならず、外道の書中にあることは余が弁を待たず。西洋にてもギリシアの学説中に存するはみな人の知るところなり。まずここに仏教の四大所造説を述ぶべし。『倶舎論』の頌にいわく、

  大種はいわく、四界なり、すなわち地、水、火、風なり。よく持等の業を成じ、堅、湿、煖、動を性とす

      

 何故に地、水、火、風の四種を大と名付くるや、『倶舎論』に解するところ左のごとし。

  大 (一) 一切の余の色の所依性なり

    (二) 体の寛広なり

    (三) 地等の増盛なる聚の中における形相の大なり

    (四) あるいは種々大事の用を起こす

 かくのごとく四義を挙ぐるも、要するに地水火風の四種は一切万物に遍在し体用共に大なるによる。あるいはこれを四界と称す。もしその性質作用につきては『倶舎論』に「地界は能持、水界は能摂、火界は能熟、風界は能長なり。」と説き、また地界堅性、水界湿性、火界暖性、風界動性と解せり。これを体、相、用に配合して表示すること左のごとし。

  体 地……水……火……風

  相 堅……湿……暖……動

  用 持……摂……熱……長

 この四大は一切万物に遍在するはもちろん、いちいちの極微みなこの四種を具せざるはなし。故に一切の極微はみな四大所造となす。左に『倶舎恵暉鈔』の証明を示さん。

  四大によるが故に、まさに色身等あり。水のおさむることあるが故に散ぜず。火あるが故にあたため、風によりて出入息あり、地によるが故に堅実なり。故に一極微の色、すなわち四大を具して相離れざることを知る。

      

      

 もし『婆沙論』(巻一四一)に証明するところによれば、もし水界なくんば金銀等の物消すべからざるべし、火界なくんば石等相撃つも火の生ずることなかるべし、風界なくんば動揺せざるべし、地界なくんば水極寒の位に至りて氷を成さざるべし等の諸例を挙げて、おのおの物みなこの四性を具することを説明せり。これを要するに、四大に仮、実の二種ありて、仮の四大とは我人が平常見聞するところの地水火風にして、実の四大とは万有に遍在してその能造となるものをいう。故に目前の火にも水にも、みなこの実の四大を具するも、ただその具するところの分量の多寡によりて水火木石等の別ありとす。この説はもとより今日の学説に合するにあらず。しかれどもすでに四大のごときは、地水火風そのものをいうにあらずして、万物に普遍する性質なりと解するときは、これを今日の学説の上に考うれば、固体、液体、気体の分類に等しかるべし。故に余は左のごとく配合せんとす。

  四大 地……堅……固体

     水……湿……液体

     火……暖

     風……動 …気体 流体

 しかるに理学のいわゆる固、液、気の三体は物質の状態につきていうのみ。仏教のいわゆる四大は物質の状態をいうにあらずして、物質能造の原形をいう。かつ理学の三体は各元素の上に立つるものにあらざるも、仏教の四大は各極微みなこれを具すとなす。これ両説の大いに異なるところなり。諺にいわゆる「所変われば品変わる」というがごとく、西洋と東洋と二者の学説の往々一致することあるも、もしその細点を較すれば、月とスッポンとの別なきにあらず、西洋にもナスあり、日本にもナスありというも、西洋ナスは赤色を帯び、日本ナスは黒色を帯ぶるの別あり。西洋にもイロハあり、日本にもイロハありというも、西洋は二六文字、日本は四七文字の別あるがごとし。もしこの四大を人身の上に考うれば、『倶舎恵暉鈔』に「四大によるが故に、まさに色身等あり。水のおさむることあるが故に散ぜず。水あるが故にあたため、風によりて出入息あり、地によるが故に堅実なり。」とあるも、更に『三蔵法数』(巻一九)に出づる解釈を挙示せん。

  一、地大 地は堅礙をもって性となす。いわく、眼、耳、鼻、舌、身、意等を名づけて地大となす。もし水にからざれば、すなわち和合せず。経にいわく、髪毛、爪、歯、皮肉、筋骨等、みな地に帰するはこれなり。

  二、水大 水は潤湿をもって性となす。いわく、唾涕、津液等を名づけて水大となす。もし地にからざれば、すなわち流散す。経にいわく、唾、涕、膿、血、津液、涎沫、痰、涙、精気、大小便利、みな水に帰するはこれなり。

  三、火大 火は燥熱をもって性となす。いわく、身中の煖気を名づけて火大となす。もし風にからざれば、すなわち増長せず。経にいわく、煖気の火に帰するはこれなり。

  四、風大 風は動転をもって性となす。いわく、出入息、および身の動転するを名づけて風大となす。この身の動作はみな風によりて転ず。経にいわく、動転の風に帰するはこれなり(動転の風に帰するとは、およそ身の動転すること、みな風に属することなり)。

      

      

      

      

      

      

 これわが身体の各部に四大を配合したるものなれども、その実、各部みな四大を具備し、目も耳も鼻も口も手も足も、みな四大所造なりとなす。この四大説はギリシアにおいても主唱せしものあることは、前にすでに言うがごとし。しかしてその説は、仏教のごとく極微元素に至るまでみなその所造に帰するにあらず、ただ地水火風そのものをもって物元となすのみ。故に仏教の四大説は、その思想の発達はるかにギリシアの四元説の上にありと称して可なり。

 古来シナにも仏教の四大説に類似せる一種の物理説あり。これを五行説となす。五行と四大との配合は左のごとし。

 すなわち木は四大中になくして五行中にあり、風は四大中にありて五行中になし。これまた「所変われば品変わる」の類なれども、すべて事物は異中に同を含み、同中に異を帯ぶるものにして、四大説と五行説とは同異相半ばすといいて可なり。二者いずれも古代の物理説にして、今日の学説をその胎内に包蔵せるに至りては一なり。しかるに仏教は物質の上にこれを説き、五行は物質のみならず精神の上にこれを説くの別あり。けだしインドは宇宙万有を分類して物心二類となし、物には物の分類を設け、心には心の分類を設くるも、シナはしからず、その万有分類は陰陽二元説にして物心二元説にあらず、その陰陽を更に分類して五行とし、この五種は物にも心にも共に通ずるものとす。故に五行家は人の精神を考定して、あるいは水の性あるいは火の性等と称するなり。かくのごときは、古代における一種の学説としてややおもしろき思想なれども、五行中に木を加えたるに至りては、比較上異様の感なきにあらず。木は生物の一種にして、もしこれを五行中に加うれば、これと同時に鳥獣も人類も共に加えざるべからず。かつ心の一種もその中に加えざるを得ず。五行中に風を加えざるも、精密なる分類と称し難し。果たしてしからば、五行の分類もむしろ四大説に数歩を譲ると評して不可なきなり。

 かく論じきたらば、仏教家は必ず仏教は天上天下唯我独尊の教なれば、その客観論中の四大説も唯我独尊の学説なりと、唯我独尊然として誇称するならん。しかれどもこれ決して仏教自家の新説にあらず、また今日の学説に比して精かつ明なるものにあらざることは、前に弁明せるところを見て知るべし。

 すでに四大説は仏教自家の新説にあらずというときは、まずそのしかるゆえんを一言せざるべからず。インドの外道中に地論師あり、水論師あり、火論師あり、風論師あることは、余が自著『外道哲学』に列挙せり。この四論師の説を集めて四大為元の説を唱えたるものは、前講に掲げし勝論師および順世外道なり。かつ数論外道も四大開発の順序を示せり。すなわち『金七十論』に自性より大を生じ、大より我慢を生じ、我慢より五唯等を生じ、五唯より五大を生ずることを出せり。五大とは地、水、火、風、空なり。もし『十句義論』によらば、十句義の第一なる実句義に九種ある中、第一、第二、第三、第四はまさしく四大なり。しかしてその四大の解は地は色、味、香、触を有するものに名付け、水は色、味、触および液潤あるものに名付け、火は色触あるものに名付け、風はただ触のみあるものに名付くと解せり。しかして数論勝論も、仏出世の当時大いに世間に行われ、釈尊入山学道の際も、数論派の隠士につきて問答せり。故に四大説は仏以前すでに行われしは疑うべからず。果たしてしからば、その説をいかに自慢するも決して仏教を称賛するにあらず、仏以前の外道説を崇仰するものなり。余案ずるに、この四大説は客観的無神論者のもっぱら唱うるところにして、仏教はわずかにこれを仮用せるに過ぎず。これをたとうるに、仏教は四大説、極微論の地盤をうがち去りて真如理想の清水を汲みきたるものなれば、客観上の諸説は、すべて仏教中外道部類の学説というべし。

 

     第一〇講 有情論

 上来、物質に関する説明を掲げしが、これより一歩を進め、動物人類に関する諸説を述べざるべからず。換言すれば、死物論を通過して生物論に到着せり。これをここに有情論と名付く。およそ宇宙間の万有を分類するに、近来多く有機物、無機物の二種に分かつを常とす。これ西洋の分類法なり。有機物は生物にして動物植物を合称する名目なれども、仏教にては世界を分かちて器世間、有情世間の二類とす、あるいは非情有情の二種となす。非情とは国土草木を総称し、有情とは動物人類を総称す。故にその分類は西洋の分類と少異ありと知るべし。余すでに極微論、四大論を弁明し終わりてここに至れば、草木論を述べざるべからざる順序なるも、仏書中草木に関する学説を示せるものあるを見ず。故に草木論を略して有情論に移り、まず動物人類全体に関する諸説を述べんと欲す。これ実に今日の進化論の順序にして、あわせて仏教の順序なりと称して可なり。なんとなれば、仏教は客観差別の妄境を破りて主観平等の真源を究むるものなれば、死物より生物に移り、植物より動物に転じ、獣類より人類に進むの駅路をとらざるを得ず。故に上来論ぜしところも今述ぶるところも、みな真如門に直達する駅路の電柱に比すべきものなり。まず第一に有情の名義を釈し、第二に有情の状態を述べんとす。仏書中往々、有情および衆生の名目につきてその異同を示せるところあれば、あわせて衆生の解釈を掲ぐべし。

  『唯識述記』(巻一末)にいう、有情というは、いわく、もろもろの賢聖の実のごとし。ただこの法のみありて、更に余りなきことを了知するが故に、法性ありて、更に余物なきことをあらわす。情とはこれ性の義、あるいはまたかれにおいて愛着あるが故に愛という。この情の義はよく愛を生ずるが故に、名づけて有情となす。『倶舎宝疏』(巻一)にいう、衆生とはすなわち有情の異名なり。梵にて薩埵と名づくるは、ここに有情と名づけるなり。梵にて社伽と名づくるは、ここに衆生と名づくるなり。すなわち有情と体は一にして、名は異なる、云々。

  『玄応音義』(巻二三)にいう。有情は梵に薩埵という。薩はここに有といい、埵はここに情という。故に有情という。衆生というは梵本に案ずるに僕呼膳那、ここに衆生という。云々。

  『翻訳名義集』(巻二)にいう。僕呼膳那、あるいは薩多婆、あるいは禅豆、あるいは禅兜、これを衆生という。摩訶衍というは、いわく、意および意識の一切の衆染が合集し、しかも生じるが故に衆生と名づく、云々。

      

      

      

      

      

      

 要するに、有情とは生ありかつ情あるものに与うる名目なり。もし有情の体性につきていえば、寿と暖と識とを有するものを有情となす。寿は寿命、暖は体温にして、識は情あるものをいう。『倶舎頌文』に「命根の体はすなわち寿にして、よく煖とおよび識とを持す。」とありて寿は命根の体とす、寿と命とは体用の差あり。故に『大日経疏杲宝抄』に「寿命とは、寿は体、命は用なり。一聚の依身は寿により、依持は命によりて相続するなり。」とあり。また『止観輔行』に「一期を寿といい、連持を命という。」とあるを見るべし。また『倶舎頌文』に「寿と煖とおよび識との三法が身を捨するの時、所捨の身は僵仆す。木の思覚なきがごとし。」とあり。寿、暖、識の三法和合して存するときは、この生ありこの命あるもこの三者身を離るるときは死して覚を失うとなす。すなわち『唯識論』(巻三)に「契経に説く、寿と煖と識との三は更互に依持して、相続して住することを得る。」とあり。しかしてその生命はなにによりて持するかというに、『倶舎論』(巻五)に「この寿はまさに業のよく持するところなるべし。業の引くところにしたがって、相続して転ずるが故に。」とありて、善悪の業力の招くところとなす。これをもって寿に長あり短あり、生まれてただちに死するあり、老い去りてなお死せざるあり。これ果たしてだれの定むるところなるや、これを人々自ら招くところとなすか。たとえば、夏期コレラ病流行に際して、暴飲、過食、衛生を怠りたるため自らその病を招きて死するがごとき、冬期風邪にかかりたるにもかかわらず、寒風を侵して戸外に奔走し、もって傷寒を引き起こして死するがごときは、これ自ら招くところというて可なり。あるいはまた生来虚弱性にして幼年の時に病死し、また生来病質を遺伝しもってその病にたおるるがごときは、天然の道理の致すところとなして可なり。故にかくのごときは、あえて人の怪しまざるところなりといえども、これを実際に徴するに、夭折する者必ずしも虚弱性あるいは遺伝病ある者に限るにあらず。病死する者必ずしも衛生を怠り自ら招く者に限るにあらず。けだし生を欲し死をにくむは、人の常性なり。疾病を避け健康を祈るも、また人の通情なり。しかして生を欲する者かえって短折し、健康を祈る者かえって病死し、共に天寿を保つことあたわざるはなんぞや。これ識者すらなお迷うところ、いわんや無知の愚人をや。一生一死は天地の常則にして、盛者必衰は社会の定道なるは、みな人の知るところなるも、夭寿禍福の一様ならざるはなにによりてしかるや。だれびとも惑いなきあたわず、平等の海面に千差万別の波形を現ずるは、必ずしかるべき原因なかるべからざるがごとく、平等の人海に吉凶禍福の波紋を見るは、また必ずしかるべき道理なかるべからず。すでにしかるべき道理ありて、これを知ることあたわざるときは人必ず迷う、ひとたび迷いてなお知ることあたわざるときは更に重ねて迷う、迷のまた迷、重々複々、八幡不知の林叢中に入りて帰路を発見することあたわざるがごとき状あり。余、民間の迷信家を見るに、流行病を防ぐために門戸に鎮西八郎為朝宿と特筆大書して掲ぐるあり。これ迷の看板にあらずしてなんぞや。ある村落に某教社の迷信家あり。一村の大火に際し御幣をとりて屋上に登り、すでに隣家に延焼して四面火炎をめぐらす中に立ちて一心祈願して曰く、神力の保護によりて必ず焼失を免るべしと。ついにその家はもちろん、当人自身も空しく一片の煙となりて焼尽するに至れり。かくのごときは迷信の標本というべし。これを要するに、いずれの迷信も、みな生死禍福の道理に暗きより起こらざるはなし。今仏教は因果応報の説を唱うるは、全く愚俗の迷信を覚破するに外ならず。生死夭寿の道理に至りては、到底客観的学理をもって説明すべからず、必ず主観的道理を待たざるべからず。故に仏教の業感説にあらざれば、決してこの理を開達することあたわざるべし。たちまちこれを見れば、人の生老病死はみな善悪の業感となすは、はなはだ付会の説たるがごときも、深くこれを究むれば実に千古の卓見にして、世俗の暗黒を照破する電灯たるを知るべし。余これよりようやくその理を開明しきたりて、世人の迷夢を覚破し去らんと欲す。

 つぎに有情の状態を考うるに、盛衰栄枯、消長窮達、実に千変万化にしてその極まるところを知らず。その一生の変遷は、仏教これを生、住、異、滅の四段に分かつ。これひとり有情の状態なるのみならず、一切諸法の通相となす。その説明はのちに生滅論を講ずるときに譲る。けだし仏教開立の本旨は、全く有情界の生滅変遷の常なく生老病死の定まらざるの状態を観察して起こりしは明らかなり。これによりてこれをみるに、我人の一生は実に無始劫来、生住異滅の波間に漂うて、今日に至るものなるを知るべし。あたかも大海の上に一葉の浮かび動きて、いずれの岸に達するを知るべからざるがごとし。ああ我人が涅槃の岸に至るの日、果たしていずれにあるや、千劫万劫、路悠々、未来際を尽くしても、なお達すべからざらんことを恐るるのみ。

 

     第一一講 人身論

 上来、有情を講述してその巨魁にして主領たる人類に達したれば、ここに人身論を弁明せんと欲す。しかして人身論は五蘊論にして、仏教は人身を分析して色、受、想、行、識となすがごときは、余が『仏教心理〔学〕』において講述せるところなればこれを略す。ただここにひとり人身に限るにあらず、有情一般の身体に関する諸説を弁明すべし。まず有情の出産につきて考うるに、『倶舎論』(巻八)には、生類に卵生、胎生、湿生、化生の四種あることを説き、かつ釈して曰く、

  いかんが卵生なる。いわく、有情の類の生ずること卵殻よりす、これを卵生と名づく。鵝、孔雀、鸚鵡、雁等のごとし。いかんが胎生なる。いわく、有情の類の生ずること胎蔵よりす、これを胎生と名づく。象、馬、牛、猪、羊、驢等のごとし。いかんが湿生なる。いわく、有情の類の生ずること湿気よりす、これを湿生と名づく。虫、飛蛾、蚊、蚰、蜒等のごとし。いかんが化生なる。いわく、有情の類の生ずるに所託なきもの、これを化生と名づく。那落迦、天、中有等のごとし。根を具すること欠けるなくして、支分頓に生じ、無にしてたちまちあるが故に、名づけて化となす。

      

      

      

 そのうち化生をもって最勝となす。これを五趣の上に考うれば、地獄はただ化生あるのみ。餓鬼は胎生、化生の二あり、畜生は卵、胎、湿、化の四生あり、人またこの四生あり、天はただ化生あるのみという。よろしく『倶舎論』(巻八)を参考すべし。また人の生まるる順次につきて、胎内の五位、胎外の五位あることを説く。胎内の第一位は羯刺藍という。これを訳して凝滑亦和合という。これ入胎初七日間のことなり。第二位は頞部曇という。これを訳して胞という。これ第二七〔にしち〕日なり。第三位を閉尸という。ここに血肉という。これ第三七〔さんしち〕日なり。第四位を健南という。ここに堅肉という。これ第四七〔ししち〕日なり。第五位を鉢羅奢佉という。ここに支節という。これ三四個の七日(すなわち三四週)なり。これを合すれば三八個の七日(三八週)にして、その日数二六六日すなわち九カ月なり。つぎに出胎後の第一位は一歳より六歳に至る、これを嬰孩と称す。第二位は七歳より一五歳に至る、これを童子と称す。第三位は一六歳より三〇歳に至る、これを少年と称す。第四位は三一歳より四〇歳に至る、これを盛年と称す。第五位は四一歳以後にして、これを老年と称す。つぎに生死につきて『唯識論』(巻八)に分段、変易の二種あることを出せり。これを『三蔵法数』に解釈していわく。

  一、分段生死 分はすなわち分限、段はすなわち形段なり。いわく、六道の衆生はその業力にしたがって、感ずるところの果報、身にはすなわち長あり、短あり。命にはすなわち寿あり、夭ありて、みな生死を流転するが故に分段生死と名づく。

  二、変易生死 因移り、果易するを名づけて変易となす。いわく、声聞、縁覚、菩薩は三界内の分段生死を離れるといえども、方便等の土に変易して生死することあり。初位に因となり後位に果となる、また後位に因となり後々位に果となるがごとし。その因移り、果易するをもっての故に変易生死と名づく。

      

      

      

      

 すなわち分段生死は我人のごとき迷人が普通に有する生死にして、かれに死してここに生まれ、長寿あり短命あるの類をいい、変易生死は分段生死を離れたる声聞、縁覚、菩薩のごとき悟人が、戒、定、慧の方便道を修むるに当たり、初位後位の間に因果の変易あるをいう。かくのごときは、仏教特殊の説にして六道輪廻、三世因果を立つるにあらざれば解すべからず。しかして輪廻因果説は、世人一般に仏教の妄想虚構に出づるものとなすも、これみな唯物的眼鏡をもって唯心的天地をうかがいて、ただちに妄評を下せるものなれば、あたかも盲人が手の触覚をもって外物の色相を評定するに異ならず。近来加藤弘之博士が、欧米学者中の唯物的進化論の眼鏡をもって仏教をうかがい、その因果説は空想妄断に外ならざるものと自認し、これを雑誌の一問題としてその答弁を仏者にもとめられしことあり。仏者中二、三の青年輩にして、同博士に対しその答弁を試みしものありといえども、碩学高徳の名あるものにして、これに答えたるは釈雲照律師なり。加藤博士は麹町区上二番町に本営を構え、雲照律師は小石川目白台に砲台を築き、その二者の距離およそ半里前後にして、その間に互いに筆陣を張り、舌戦を交えんとする勢いあり。博士は懐疑派にして、律師は独断派なり。博士は唯物論者にして、律師は唯心論者なり。博士は理論家にして、律師は実行家なり。博士は実験主義にして、律師は信仰主義なり。故にその戦いはすなわち火と水との戦いなり、墨と朱との戦いなり、酒と餅との戦いなり、月とスッポンとの戦いなれば、人みな刮目してその開戦を待ちおりたるは、両国回向院の大相撲の比にあらざりしも、いまだ宣戦に至らず。わずかに一、二の小闘ありしのみにて、自然に休戦の状となれり。あに遺憾の次第ならずや。しかりしこうして、余が傍観するところによるに、この両将は明治世界の教学舞台において、ほとんど無二の碩学高徳の大家にして、共に余輩の敬服する博士なり。律師なりといえども、その論戦に至らば不敬の評言たるにもかかわらず、あたかも盲人と唖者との戦いか、手なしと足なしとの戦いのごとく、一方は唯物の足あるも唯心の目なく、一方は信仰の瞳あるも実究の脚なきものの取り組みなれば、到底はかばかしき一大決戦を見ることあたわざるべしと、初めより予想せしところなり。要するに、両将おのおのその所見を接合すれば、必ずやや完全なる因果説を見るに至らんか。これを例するに『金七十論』に出せる跛盲の譬のごとし。跛盲の譬とは、むかし商侶あり。旅行中盗賊のために敗られおのおの分散して走る。一人の生盲と一人の生跛あり。衆人のために棄てらる。盲者はみだりに走り、跛者は座して見る。跛者問いていわく、汝はこれなにびとぞ。答えていわく、われはこれ生盲にして道を知らず、故にみだりに走る、汝またなにびとぞ。跛者答えていわく、われこれ生跛にして、ただよく道を見て走り行くことあたわず、故に汝今まさにわれを肩上に安んずべし、われよく道を導かん、汝われを負いて行け。かくのごとく二人共に和合するをもって所在に至ると。博士と律師との争論は、ややこれに類するところなきやの疑いあり。余のちに一案を立てて、この難関を会通し去らんと欲す。

 仏書中に五趣、四有と名付くる語あり。五趣とは前に述ぶるがごとく、地獄、餓鬼、畜生、人、天の五道にして、四有とは死有、中有、生有、本有なり。また七有と称することあり。七有とは地獄有、畜生有、餓鬼有、天有、人有、業有、中有なり。すべて有とは因果不亡の謂にして、身、口、意に作すところの善悪のよく六趣生死の果を招くによりて因果相続するをいう。しかして中有とは『倶舎論』(巻八)に「二趣の中なるが故に、名づけて中有となす。」とありて、ひとたび死して再び生ずる中間に善悪因果の相続してほろびざるをいう。これを『三蔵法数』(巻三〇)に解釈していわく、「中有はまた中陰と名づく。いわく、もろもろの衆生は、この身の死後も識はいまだ胎に託さず。現在作るところの善悪の業因は、必ず当来に善悪諸趣の果をとる。因果ほろびざるが故に中有と名づく。」とあり。小乗諸部中にありても、有部宗はこの中有を立つれども、他部中には立てざるものあり。その他、『倶舎論』等には諸天六道の寿量、身量の異同を示して、四王天の初生は人の五歳のごとく、忉利天の初生は人の六歳のごとく、夜摩天の初生は人の七歳のごとしと説き、また梵衆天の身量は半由旬、梵輔天は一由旬、大梵天は一由旬半、ないし色究竟天は一万六〇〇〇由旬なりと説き、また等活地獄の寿量は四王天の五〇〇歳を一昼夜となして、年月を算しその寿五〇〇歳なりといい、黒縄地獄は忉利天の一〇〇〇歳を一昼夜となして、その寿一〇〇〇歳なりといい、ないし無間地獄の一中劫二〇増減なりというの類はいちいち列挙するにいとまあらず。畢竟するに、仏書中にかくのごとく身量および寿量の異同を出せるは、妄誕虚想のはなはだしきものに似たりといえども、善悪因果を立つる宗教なれば、もとよりやむをえざるなり。すでに人々、六道の間において修むるところの善悪の業因同じからざれば、六道の間において得るところの果また異ならざるべからず。しかして身量および寿量は、みなその果によりて定まるものなれば、その不同あるは因果の規則の確実なることを証明するものなり。その他、因果の一問題はのちに因果論を講ずるときに弁明すべし。

 

     第一二講 生滅論

 来る者は必ず去り、会うものは必ず離るるは人生の常態にして、一生一死、一盛一衰、新陳代謝、交互循環して際限なきは、ひとり人類のみならず生物一般の常則なり、万有自然の常道なり。これ実に宇宙の大法というべし。花は風を待たずして自ら落ち、葉は霜を待たずして自ら枯れ、雲は自然にして動き、水は自然にして流る。これ万有の定律にあらずしてなんぞや。桑田変じて海底となり、海底変じて市街となるがごときは、僅々数百年の歴史につきてなお見ることを得べし、いわんや千劫万劫時間の無限なるをや。将来幾億万劫の後には、人類社会はもちろん、禽獣草木に至るまで、全く絶滅して一根一葉の痕跡だもとどめざるに至ることあるべし。我人の棲息せるこの地球も、我人を生育するこの太陽も、みな一定の寿命ありて、もしその終期に達すれば、天地共に壊滅して混沌たる状態に帰すべし。これひとり仏教にて唱うるのみならず、西洋近世の学者のみな唱うるところなり。しかるに余は、仏書につきてその変遷の一斑を示さんと欲す。まず有情の状態を考うるに、一生間の変遷に生、住、異、滅の四相ありとす。すなわち『倶舎頌文』にいわく、「相とはいわく、もろもろの有為の生、住、異、滅の性なり。」と。これを『倶舎論』(巻五)に解していわく。

  よく起こすを生と名づけ、よく安んずるを住と名づけ、よく衰えしむるを異と名づけ、よく壊せしむるを滅と名づく。

      

 この四相を有するものを有為法とし、有せざるものを無為法とす。故に『倶舎論』に「法にしてもしこれあらば、まさにこれ有為なるべく、これと相違すればこれ無為法なり。」とあり。たとえば人の生まれて発育する間は生相にして、すでに発育してその状態を持続する間は住相なり、ようやく老いきたれば、これを異相と名付け、老い窮まりて死すれば、これを滅相と名付く。もしこれを世界の上に考うれば、成、住、壊、空の四劫説とその順序を同じうす。もしこれを進化退化の上に考うれば、生住は進化にして、異滅は退化なり。一切万物みなこの四相を経過して循環相続し、異滅し終わればまた生住し、生住し終わればまた異滅し、あたかも春夏秋冬の循環極まりなきがごとし。かくして時々刻々変遷しながら、その相を継続して極まりなきは、変遷中に不変ありといわざるべからず。たとえば一杯の水、あるいは蒸騰して雲となり雨となり、あるいは凝結して氷となり雪となり、時々刻々変化して休まざるも、表象外形の変化にとどまり、その実体に至りては始終前後を貫きて更に生滅することなきがごとし。この理を究尽すれば、必ず不生不滅の本体ありてその裏面に存するを知るに至るべし。大乗の真如説は、みな小乗変遷論の胎内に胞衣をかぶりて潜在したるは決して疑うべからず。しかして小乗の法体恒有説は、まさしくその一端を顕露せるものなり。『倶舎論』には生住異滅を四種の本相として、これに生々住々、異々滅々の四随相ありとなす。あるいはその本相を大相と名付け、随相を小相と名付く。今『倶舎論』の釈意によれば、一切諸法を生住異滅せしむるは四本相あるにより、本相そのものを生住異滅せしむるは四随相あるによるとなす。小乗中有部宗はこの四相におのおの実体ありと立つるも、経部宗は仮立にして実体なしと立つるなり。およそ天地六合の間を諦観するに、たちまちにして生まれきたり、たちまちにして老い去り、あるいは浮かび出で、あるいは沈み入りて、過現未三世の間に新陳代謝、前生後滅し、三界六道の間に流転輪廻、循環窮まりなきはあたかも水車の回転するがごとし。三世に一期と一刹那の二様あり。生滅にも同じくこの二様あり。一期の三世とは、人間一生の前後につきて立つるものにして、生前を過去といい、生時を現在といい、死後を未来という。刹那の三世とは、一秒時間よりなお短き刹那の時間中に、過去、現在、未来の三世あり。しかしてその三世の間に生住異滅の四相ありて、前念と後念と生滅相続してやまず。これひとり有情の真相なるのみならず、万有の常態なり。草木にも生死あり、山川にも生死あり、日月にも生死あり、天地にも生死あり。かく生死を常態となせる世界に生存しながら、生死を免れんとするは地球上に住止しながら自ら地球の回転を止めんとすると同じく、あにその愚を笑わざるを得んや。我人はむしろ生死の大化に従いて、六道の波間に浮沈するをもって満足せざるべからず。すでにそのしかるゆえんを知らば、我人なんぞ死を恐るるの理あらんや。もしその生死の裏面に入りてこれをみれば、その生は真の生にあらず、その死は真の死にあらざるを知るべし。かくしてすでに生の前にも生あり、死の後にも死あるを知らば、生死もとより無限なるを知るべし。生死すでに無限ならば、転変の真相中に不変の理を含むことを知るを得、旧『華厳経』に「無量無数劫、生死の海に流転す。」とあり、『首楞厳』に、生じては死し、死しては生じ、生々死々旋火輪のごとくいまだ休息あらずとあり。『仏説四不可説経』に、生じて従うところを知らず、死して帰するところを知らずとあり、『秘蔵宝鑰』に「生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く、死に死に死に死んで死の終わりにくらし。」とあり。これみな生死の無限なることを示すものなり。もし生死無限中より不生不滅の真理を指摘するは、本論の要点なれば左にこれを証明すべし。

 世に霊魂滅亡論者と不滅論者との二派あり。両派の論ずるところ、すこぶる俗談にして共に考うるに足らずといえども、世間愚人の多きややもすればその俗談に賛同せんとする勢いあれば、一言もってこれを斥せざるべからず。まず霊魂滅亡論者は曰く、人死すれば霊魂は身と共に滅して生存することなしと。しかしてその考証とするところは古人ひとたび死して再び帰りきたるものなく、また死後いまだ音信を伝えたるものなしというに外ならず。その比喩とするところは、人の死は煙の消するがごとく、灯の滅するがごとく、すべて空無に帰すとなす。これ実に非論理的の最も大なるものなり。これを俗談とするも、なおその非を恕すべからず。その第一命題の霊魂は、身と共に滅すというはすでに非論理的なり。なんとなれば身は物質より成り、物質は不滅なれば、身また不滅ならざるべからず。身にして不滅ならば、いずくんぞ身と共に滅すというを得んや。もし果たして霊魂は身をもって比するを得ば、その体、身と共に不滅なりといわざるべからず。つぎに人の死後通信なき点をもって霊魂滅亡の証となすは、これ大いに理なきものなり。死後の世界と現在の世界とは、その差、地球と星界との比にあらず、動物界と植物界との比にあらず。有形と無形との別あり、可見と不可見との別あり、有覚と無覚との別あり。植物なにほど工夫を巡らすも、その意志を動物に通ずることあたわず、地球の人いかに技術に長ずるも、その郵信を星界に伝うることあたわず、耳はよく聴くも、その音を目に感ぜしむることあたわず、目はよく見るも、その色を鼻に知らしむることあたわず。故にひとたび死後の冥界に入りたるもの、その事情をこの世界に生存せる人に伝うることあたわざる、もとより当然のことなるべし。たとえ冥界に住する者よりその事情を我人に通ずることを得るも、我人の心これを感ずる力なきにおいては、その通信を知ることあたわざるはまた当然なり。たとえば、日光をして鏡面を照らさしむれば、たちまち反射をなすも、瓦石を照らして決して反射せざるがごとし。これ鏡面に反射の力ありて、瓦石にその力なきゆえんなり。我人の心は、本来瓦石のごとく反射の力を有せざるものなれば、死後の精霊より音信を伝うることあるも、我人の方にて感知することあたわざるのみと解するも、全く一理なきにあらず。これを要するに、死後なんらの通信なきは霊魂の存せざるゆえんなりとは、百姓論法のはなはだしきものなり。すなわちその論法は、我人が死後の世界に移るはあたかも京参りが西洋見物に出掛けたるがごとき考えに基づく。旅行先にてもし果たして健康無事ならば必ず安否を報じきたるべし、もしなんらの通信なきにおいては旅中病死したるに相違なし、と断定するがごとき同一の論法によるものなり。古代はいざ知らず、今日かくのごとき百姓論法をかつぎ出すも、だれありて首肯するものあらんや。今余はこれを論式に作りてその非を示さん。

  すべて世間に現存生活するものは必ずその安否の通信を友人に報知す(第一提案)

  しかるに人の死後更に通信あることなし             (第二提案)

  故に人の死後霊魂の現存するなし                (断  案)

 その第一提案の誤謬は弁明を待たずして知るべし。もし類例として引用せる煙消灯滅の比喩に至りては、自家撞着のはなはだしきものなり。たとえば、煙は消すといえるは煙の真に消するの謂にあらず、空中に散じ去りて人目に触れざるをいうのみ。人目の方よりいえば、煙に生滅の変化あるも、煙自体よりいえば決して生滅なし。すなわちいわゆる不増不滅なり。故に霊魂は煙のごとく消すと論ずるがごときは、たまたまその不滅を証するのみ。煙すでに不滅なれば、霊魂また不滅なるべき理なり。もし人の死後更に精神の作用あるを認めず、これその真に滅するゆえんなりといわんか。その論法はあたかも煙ひとたび散ずれば、またその現存を認めず、これその真に滅せるによると論断を下すに同じ。だれかこれを評して百姓的論法といわざるものあらんや。鳥飛びてはるかに空中に入ればついに見るべからず、だれかこれを評して鳥滅せりとなすか。船遠く走りて波間に入ればついに見るべからず、だれかこれを称して船滅せりとなすか。人の死後ついに精神の活動を見ざる一事実を推演してこれを滅せりと速断するは、鳥および船の滅亡を論断するに異ならず。もし三世因果説によれば、我人に前世ありと立つるも、われ更にこれを現在の心に記憶せず。これをもってこれを推すに、死後別に世界ありて今世の果報をその世界において受くるとするも、その世界のわれは今日のわれを記憶せざること明らかなり。果たしてしからば、今日のわれと死後のわれとは、その関係全く他人他物にひとしく、死後のわれにいかなる厳刑厳罰の下るにもせよ、今日のわれには痛くもかゆくもなきことなり。故にもし霊魂の不滅は、真にかくのごとく意識記憶のその間に連続することなくんば、その結果、霊魂滅亡論と同一に帰すべしと論ずるものあり。余これに対して更に質問せんと欲す。もし我心において善にても悪にても記憶せざる以上は、いかなることをなすも、すこしも自ら関するところにあらずといいて自ら満足することを得るやいかん。およそ我人の記憶はその力限りありて、五年十年の間にはいかなる強記者といえどもその記憶の大半を失うに至るべし、いわんや七、八十歳の老翁に至りてはその記憶に存するものはなはだ乏しきをや。果たしてしからば、善も一時、悪も一時にして、一時の後には善悪共に失念するに至る以上は、なんぞ朝夕汲々として悪を遠ざけ善に親しまんと欲して苦心焦慮するは、大いに愚なることを知るに至らんのみ。しかしてその結果は、道徳たちまちその光を隠し天地ようやく暗黒に入るより外なし。余をもってこれをみるに、死後のわれは今日のわれを記憶せざるをもって、死後のわれのためにその善因を今日に植ゆるは愚の至りなりといえる論者にして、自ら死後の子孫のために、心を労し身を役し永く余善を死後に伝えんことを努むるがごときは、愚の一層はなはだしきものなりと信ず、いわんや死後の名のために日夜孜々汲々するものをや。これあたかも、縁もゆかりもなき他人のために自ら努むるとなんぞ異ならんや。すでに世人が死後に世界なしと唱えながら、そのなすところ行うところ、みなかくのごとく死後のためならざるなきは、あに怪しむべきの限りならずや。世人みないう、前世のことわれこれをその心に問うも知るあたわず、これ前世の存せざるゆえんなり、もし真に前世ありて我人はその世界よりここに来生せしならば、必ず前世の記憶を今日に有すべき理なりと。余これに答えていわん、なにごともわが心に問いて知らざることあらばこれ存せざるなりといわば、われは決して母の胎内に宿りしものにあらず。なんとなれば、これをわが心に問うも知らざればなり。またわれは決して母の乳を飲みしことなし、わが心に記憶せざればなりと論定して不可なき道理なり。これあに人の許すところならんや。およそ我人の記憶にはその限りありて、なにごともことごとく記憶し得るにあらず。長じてのち幼年の時代を回想するに、十中八、九は記憶せざるを常とす。生まれて四、五歳以後のことは多少記憶しおることあるも、生まれて一、二歳ころのことは、なにびとといえども記憶しおるものにあらず。これ人の心は、灯のごとくその照らす区域に限りあるによる。灯台は一里を照らす力を有するものと、三里以上を照らす光力を有するものと、その別あるがごとく、人の心も一〇年間を照らす意識を有するものと、一〇〇年間を照らす力を有するものの別あり。たとえ三里以上を照らす灯台にても、その距離の間にある細大の事物はシラミやカに至るまでことごとく照らすにあらざるがごとく、一〇年ないし一〇〇年の間を照らす心力にても細大ことごとく照らすにあらず。長じて幼時を顧みれば、わずかにその当時の著明なることのみを記憶するも、些少のことに至りてはだれも記憶しおるものなし。ことにその力に定限あるをもって、母の胎内にありし時を記憶しおることあたわず、いわんや前世のことをや。あたかも三里以内を照らす灯台をもって、一〇里以外を見ることあたわざるに同じ。しかるにもしこれに四、五倍せる灯台を用いきたらば、一〇里以外もなお見ることを得べし。故に人の心も今より研磨の功を積み、もってその光力を進むるにおいては、生前死後三世の間を洞視することあたわざるの理なし。これ仏教に修行門を設くるゆえんにして、人その一生の間、戒定慧三学によりてその心を研ききたらば、他日必ず仏眼を開くことあるべし。もしその光明をもって世界を照らさば、時間として知れざるなく、空間として見えざるなく、いわゆる竪に三世、横に十方を極めて、その光明の至らざるところなきに至らん。これを仏と名付く。ただ我人この仏地に昇進するに五年十年あるいは一生二生にてこれに達すること難きをもって、生々死々、永く六道の間に出没して漸々昇進せざるを得ずとなす。けだしその説たるや、空想妄見に近きがごときも、因果不滅の理、真なる以上は必ずかくのごとく論定せざるを得ず。そもそも霊魂有無論は古来の一大疑問にして、東西の学者相争いもって今日に至るも、いまだ決せず。霊魂果たして有か無か、そのいまだ決せざるに、霊魂の実在を説くはいかんと難ずるものあるべし。仏教は霊魂実有説とみるも可なり、霊魂非有説とみるも可なり。仏教は無我を宗とするものにして、無我とは我人の体中に我と名付くる一物体なしとの謂なり。我とは常一主宰を義とすと解して、わが体中にわが挙動行為を指揮主宰する一定の霊体あるをいう。かのヤソ教の精霊のごとし。これを無なりと解する以上は、霊魂非有説といわざるべからず。しかるに人身を分析して色、受、想、行、識の五蘊より成り、受想行識は心法にしてこれ心王、心所の二者なり。この二者を実有と立つる以上は霊魂実有説と称せざるを得ず。ことに大乗は唯心説にして、外界の色法までも唯心の作用に帰し、森羅万象唯識所変あるいは三界唯一心、心外無別法と立つる以上はもとより霊魂実有説なり。ただ霊魂の義釈、仏教とヤソ教と異なり、小乗と大乗と異なるのみ。故に仏教の霊魂論は唯心論より論及せざるを得ざれば、余はその論決を『仏教心理学講義』に譲る。ただここに通俗の霊魂論のきわめて非論理的なる一端を示すべし。世の霊魂実有を主張する者は、人死して魂死したる証拠には幽霊となりてあらわれきたる、古来幽霊談すこぶる多し。これ霊魂実有説によらずんば解明すべからず。何某は死後毎夜その家にあらわれたり、何某は数回幽霊を実視せり等の証拠を集めて、幽霊の弁護をなすといえども、これ決して霊魂実有の証となすに足らず。かえってその反対を証するのみ。なんとなれば幽霊にあらざるを見て幽霊となすをや。そもそも幽霊とはなんぞや、人の死後の精神なり、霊魂なり。精神は無形無質にして見るべからず触るべからざるものなり。故に幽霊は不可見的不可触的ならざるべからず。しかるに世人幽霊を見たりというは、これを可見的となすものなり。また世人幽霊に重量あることを説く。これ可触的となすものなり。すでにこれを名付けて幽霊というは不可見なるによる。もし可見的なれば顕霊といわざるべからず。しかるに不可見的幽霊を見たりというは、論理の撞着もまたはなはだしといわざるべからず。かくのごとき非論理的事実をもって霊魂実有を証せんとするは、妄もまたはなはだしといわざるべからず。すでに実有論者がかくのごとく証明を与うるをもって、これに反対するものは、死後果たして霊魂実在するならば必ず通信あるべき理なるに、絶えてこれなきはその存せざる証拠なりと説きて、霊魂は煙のごとく消し灯のごとく滅すという。畢竟するに通俗の霊魂談は、甲乙両者共に非論理的の論理をもって非論理的に証明せるものなれば、学術上三文の価値なきものと知るべし。今日はなお人これを許すも、将来中等教育の普及するに当たりては、かくのごとき三文の価値なきものをもって人の満足を買わんとするは、あに難からずや。

 

     第一三講 因果論

 前講に天地万有、有生無生の変遷生滅を説いてここに至れば、その生滅変遷の中に一定不変の理法ありて存するをみる。すなわち因果の規則これなり。仏教はすでに因果教もしくは因縁教と呼ばるるだけありて、徹頭徹尾、因果の理法をもって貫せざるなく、有形上物理的の因果は言うをまたず、もっぱら無形上倫理的因果を論じ、三世六道の間に善因善果、悪因悪果の規則あることを唱う。故に余は本講を左の二段に分かちて弁明せんとす。

  第一段 三世因果論

  第二段 六道輪廻論

 これ実に、仏教が宗教を組織する骨目となるものなり。まず三世因果のことを述ぶべし。

       第一段 三世因果論

 ひとり仏教のみならず、いずれの宗教も多少因果を説かざるはなし。故にインドにありても、外道諸派みな因果に基づきて宗教を立つること、仏教に異ならず。しかるに外道所立の因果はこれを仏教に比するに、正因正果にあらざれば、仏教これを合類して四種となす。

  一、邪因邪果  二、無因有果  三、有因無果  四、無因無果

 たとえば外道諸派中にその因にあらざるものを因とし、その果にあらざるものを果とするは、いわゆる邪因邪果なり。あるいは因なくして果のみありといい、あるいは果なくして因のみありといい、あるいは因も果も共になしというがごとき説を唱うるものあり、これみな正因正果にあらず。これに反して仏教は正因正果を立つるものなり。その原則は已作不失、未作不得と説き、すでに実行したる原因は善悪共に必ずその果を感じ、いまだ原因を作らざるものは決してその果を招くことなしという。しかしてその仏教の因果に世間因果、出世間因果の二種ありて、そのうち世間因果とは迷界の因果にして、六道輪廻の因果をいい、世間因果とは悟界の因果にして、成仏得道の因果をいう。

 仏教の因果と他教の因果と正邪の別あるにもかかわらず、一切の宗教は因果の理法によるにあらざれば組織すること難し。また宗教のみならず一切の学術は、因果の規則に基づくにあらざれば講究することあたわず。ただ学術上唱うるところの因果と、他教上立つるところの因果と、その部類を異にするのみ。まず仏教の因果とヤソ教の因果とを較するに、ヤソ教は因果の本源を天神に帰し、これを定むるものも天神にして、これを動かすものもまた天神なり。故に天神はこの理法の外に立ちて、この規則を左右する力を有すとなす。仏教は大いにしからず。因果は天地万有に固有せる規則なるのみならず、宇宙の本体たる真如固有の規則にして、真如動かざればすなわちやまん。いやしくも動かば、必ずこの規則の行わるるを見る。故に真如の存する間は因果の理、必ず存し、神にても仏にても、決してこの規則を変更することあたわずとなす。故に仏教にありては、仏に三種の不能あることを説く、すなわち『景徳伝灯録』(巻四)にいわく、「仏はよく一切の相を空じて万法の智を成せども、すなわち定業を滅することあたわず。仏、よく群有の性を知りて億劫のことを窮むれども、無縁を化導することあたわず。仏はよく無量の有情を度すれども、衆生界を尽くすことあたわず。これを三不能というなり。」と。これ仏といえども、因果の理法を自在に左右することあたわざるをいう。故に我人が進みて仏界に至るも降りて下界に沈むも、みな因果の理によらざるはなし。ひとり浄土門において他力成仏を説くは、因果の理に背くがごときも、その実やはり因果の応用なり。三乗家にありては五姓各別にして無姓有情ありと説き、一切衆生中に本来仏になることあたわざるものありというも、一乗家にありて「国土山川、ことごとくみな成仏す。」と説き、山も川も水も土もみなよく成仏すというも、その説、氷炭相いれざるにもかかわらず、同じくこれ因果の規則によるものなり。ただ因果に相対的と絶対的との両面ありて、三乗家のごときは相対的因果をとり、一乗家のごときは絶対的因果を立つるの異同あるのみ。また世界の太初にさかのぼり有始無始を論ずるに、ヤソ教は有始因果論を唱え、さかのぼりて世界開端の時に達すれば、ただ天神あるのみという。すなわち天神をもって世界の第一原因と立て、更にこの因の因たるものなしという。しかるに仏教は無始因果論を唱え、この世界は表に生滅の相を示すといえども、裏に真如そのものを体とするをもって、世界に開端の起源なしという。いわゆる無始因果なり。要するにヤソ教は有神論を唱え、仏教は無神論を唱うるは、有始因果を立つると、無始因果を立つるとによりて分かるるなり。つぎに仏教の因果論と学術の因果論との異同を較するに、理学および哲学はこの理法を有形的物質の上に用うるも、無形的心性の上に用いず、無形的心性の上に用うるも、無象的理想の上に用いず、無象的理想の上に用うるも、無象的理想自体固有の規則として有形無形、過現未三世一切の事々物々の上に説くにあらず。これその仏教と異なるところなり。また諸学はこの規則を実験以内に用うるも実験以外に用いず、実験以外に用うるも人智以外に用いず、人智以外に用うるもその方向人智以内より進みて人智以外に及ぼすものにして、人智以外より降りて人智以内に及ぼすものにあらず。これその仏教と異なるところなり。けだし仏教にてはこの規則は真如の自体に固有せる宇宙の原則とし、事々物々万象万化に普遍せる世界の大法とし、可見世界はもちろん、不可見世界までもこの規則を応用し、三世因果、六道輪廻を立つるに至れり。実にその論たるや広大無辺にして、縦に三世を貫き横に十方にわたり、時間空間と共に際涯なきものなり。かかる縦横無尽の因果の経緯の中に、一点の微光を漏らすものは我人の一生なり。その短きこと電光もただならずといえども、その生ずるも因果のしからしむるところ、その滅するもまた因果のしからしむるところなり。ひとり我人のみならず、一切万物みな因果の波上に浮かべる水泡のごとく、たちまちにして生じ、たちまちにして滅せるも、みな因果のしからしむるところにして、決して因果そのものの生滅するにあらず。これを小にしていえば、日夜我人のあるいは笑いあるいは泣きあるいは怒りあるいは喜び、クシャミ、セキバライに至るまで、みな因果の発顕にあらざるはなしと同時に、これを大にしていえば、天地の笑いて春山秋水の美を呈するも、怒りて烈風暴雨の観を示すも、みな因果の活動にあらざるはなし。ああ天象の晴雨も我人の喜怒もみな因果のしからしむるところなるか。因果は実に広大無辺の理法にあらずや、驚くべし、畏るべし。かかる広大無辺の理法に対してかつて加藤博士の評論ありたるも、博士は物質的因果あるを知るのみにて精神的因果、もしくは絶対的因果あるを知らず。故にその評論は仏教家の眼中よりこれをみるに、井中の天を見て頭上の天を評するがごとき感なきあたわず。ことに六道輪廻に至りては、眼を絶対的因果の上に着するにあらざれば、決して了解すべからず。加藤博士の高識卓見のなおよくこれを解することあたわざるは、全く相対的因果の一部分を固執せらるによる。しかれども今日の学説に基づきて六道輪廻説を立つるはすこぶる難関にして、方今わが国に数万の仏教家あるも、世間の学者に対してよくこれを会通するもの、余いまだその人のあるを聞かず。従来仏教家のとるところの考証は、一として今日の人に満足を与うることあたわず。古来用うるところの考証は多くは妖怪談より成り、女子変じて男子となり、男子変じて犬となりたるがごとき例を引きてこの大原則を証明せんとす。あたかも朽ちたる縄をもって、大盤石を引かんとするがごとし。そもそも輪廻説はひとり仏教中に存するのみならず、婆羅門教およびギリシア哲学中にも存する説なれども、すでに仏教中に加わりてその宗教組織の骨目となる以上は、これを十分に講究し明瞭に考証するは仏者の責任たること言うを待たず。しかるにだれもそのことに力を用いざるは、余輩はなはだその意を解するに苦しむ。余浅学といえども、いささかこの一大問題を証明する端緒を開かんと欲す。まず初めに仏教中小乗大乗の因果論を述べ、つぎにこれに及ぼさんとす。

 小乗因果論 小乗はもっぱら業感縁起説を唱え、天地万有の生滅変遷を見て、みな有情の業感のしからしむるところとなす。故に因果説および輪廻説の本家本元は、小乗中にありて存すといいて可なり。今『小乗倶舎論』によりて因果の分類を考うるに、因に六種、果に五種、縁に四種を分かてり。その表左のごとし。

  六因 能作因

     倶有因

     同類因

     相応因

     遍行因

     異熟因

  五果 異熟果

     等流果

     離繋果

     士用果

     増上果

  四縁 因縁

     等無間縁

     所縁縁

     増上縁

 この解釈は、別に『倶舎論』専門の講義あればこれに譲ることとなし、ただここに『三蔵法数』によりて略解を示さば六因の解、左のごとし。

  一 心王と心所と共に相応するが故に、親友知識の和合してことを成するがごとし。故に相応因と名付く。

  二 心と心所と更に相たすけ助く、兄弟の同生にして互いに相成済するがごとし。故に倶有因と名付く。

  三 過去の善法と現在の善法と因となり、現在の善法と未来の善法と因となる。故に同類因と名付く。悪も無記法(不善不悪)もまたかくのごとし。

  四 苦集二諦の下の惑が二諦に遍する故に遍行因と名付く(苦諦の下の惑とは身見、辺見、見取、戒取、邪見、貪、瞋、痴、慢、疑の十煩悩をいい、集諦の下の惑とは身見、辺見、戒取の三種を除き他の七種をいう)。

  五 善悪の因を行じ善悪の報を得ること異世にして熟する故に異熟因と名付く。

  六 眼と色と縁となりてよく眼識を生じ、ないし意と法と縁となりて意識等を生ず、みな能作因と名付く。

 つぎに『三蔵法数』に示せる四縁の解、左のごとし。

  一 六根を因となし六塵六境を縁となす。眼根、色塵(色境)に対する時、識すなわちしたがって生ずるがごとし。余根またしかり。これを因縁と名付く。

  二 心心所法、次第無間に相続して起こるを次第と名付く。

  三 心心所法、縁に託して生ず、還りてこれ自心の縁慮するところなるによりて、名付けて縁縁となす。

  四 六根よく境を照らし識を発するに増上力あり。諸法生ずるとき障礙を生ぜざるをもって増上縁と名付く。

 つぎに五果の解、左のごとし。

  一 諸衆生現世に不善業を作すときは来世に悪趣の果を招く。もし有漏の善業を作すときは来世に善趣の果を招く。その異世成熟をもってこれを異熟果と名付く。

  二 諸衆生不善を修するによるが故に、楽て不善に住するときは不善の業転また多く、もし善法を修する故に、楽を善法に住するときは善法増長す。果は業に従いて転ず。業と果と同じく業果相似するをこれを等流果と名付く。

  三 諸衆生八正道を修するによりて煩悩を遠離し果報を受けず。これを離繋果と名付く。離繋とは繋縛を遠離するなり。

  四 世間の諸法において一種に随依して士夫の用を起こす。農、商、賈、書、算、計、数等のことを営むがごときこれによる。故に農者は稼によりて成熟し、商者は貨によりて利を獲、これを士用果と名付く。士用とは士夫の所用なり。

  五 根身増上の勝力あるを増上果と名付く。眼識のごときは見性ありといえども、もし眼識の境を縁するときは照用の力なし。これ故に根識和合して一切の事果を成す。耳、鼻、舌、身、意、諸根識もまた和合して照境するによりて諸事を成す。これ故に諸根おのおの増上の勝力あり。これを増上果と名付く。

 以上の釈義にてはやや解し難きところあれば、更に『倶舎論』によりて義解を示すこと左のごとし。

  (一) 能作因 一切の有為はただ、自体を除きたる一切法をもって、能作因となす。

  (二) 倶有因 おのおのその自性を除き、もろもろの有為法は更互に果となり、あるいは同一の果を倶有因と名づく。

  (三) 同類因 自地自部にして前生の諸法は、種子法のごとく後のために相似するを同類因となす。

  (四) 相応因 心、心所の法、展転するも相応じて同じく一境をとるを相応因と名づく。

  (五) 遍行因 自地にして前生のもろもろの遍行法は、後の染法のために遍行因となる。

  (六) 異熟因 一切の不善と有漏の染法は、自らの異熱のために異熟因となる。

 

  (一) 異熟果 異熟因は異熟果を得たるも、果は因に似ざるが故に異熟となす。いわく、成熟は受用に堪うるが故に、果はすなわち果にして、熟するを異熟果と名づく。

  (二) 等流果 同類と遍行との因は等流果を得るも、果は因に似たるが故に説きて名づけて等となし、因より生ずるが故にまた説きて流となす。果、すなわち等流なるを等流果と名づく。

  (三) 離繋果 択滅無為を離繋果と名づく。これ道によりて得るも、道の所生にはあらず。果、すなわち離繋なるを離繋果と名づく。

  (四) 士用果 相応と倶有との因は士用果を得る。この勢力によりてかれ生ずることを得るが故に、これを士用と名づけ、かれを名づけて果となす。

  (五) 増上果 能作因は増上果を得る。この増上力はかれ生ずることを得るが故に、眼等の根の眼識等における、および田夫等の稼穡等におけることがごとく、前の増上によりて後の法の生ずるを待つ、その増上の果を増上果と名づく。

  

  

  

  

  

  

  

  

  

  

  

 以上は六因五果の解釈なり。もし四縁の解は左のごとし。

  能作を除いて余の五因を因縁と名づく。過去、現在の心、心所法は阿羅漢の最後心等を除いて、等無間縁と名づく。一切法を所縁縁と名づけ、能作因の性を増上縁と名づく。

  

  

 この四縁は大乗小乗共に用うるところの因縁なり。もし六因と五果の配合は『倶舎論図記』(巻一)に表示せるところによるに左のごとし。

 その他の説明は『倶舎論』専門の講義に譲る。

 つぎに小乗中『成実論』の分類を考うるに、四縁三因の名目あり。四縁とは因縁、次第縁、縁縁、増上縁の四種にして、前掲の四縁とその名少異ありといえども、その実同一なり。三因とは生因、習因、依因にして、この三は四縁中の因縁に属するなり。これを『成実論』(巻二)に解していわく。

  因縁とは生因と習因と依因となり。生因とはもし法にして生ずる時、よくために因となるものにして、業を報の因となすがごときもの、習因とは貪欲を習すれば貪欲が増長するがごときもの、依因とは心と心数法とが色香等によるがごときもの、これを因縁と名づく。次第縁とは前の心法の滅するをもっての故に、後の心の次第して生ずることを得るがごときもの、縁縁とは縁より生ずる法のごときものにして、色のよく眼識を生ずるがごとく、増上縁とはいわく法の生ずる時の諸余の縁なり。

  

  

  

 四縁三因の配合は左のごとし。

  四縁 因縁・・・・・・・ 生因

               習因

               依因 三因

     次第縁(等無間縁)

     縁縁(所縁縁)

     増上縁

 しかるに『読経記』にこの三因と六因との配合を示すこと左のごとし。

 権大乗因果論 つぎに権大乗法相宗の分類を考うるに、十因五果を立つるなり。十因とは随説因、観待因、牽引因、生起因、摂受因、引発因、定異因、同事因、相違因、不相違因をいう。五果とは『倶舎論』の五果に同じ。左にまた『三蔵法数』によりて十因の略解を示すべし。

  一 欲界、色界、無色界において一切惑業繋縛の法および不繋縛の法、見聞覚知するところにしたがって諸言説を起こす。これを随説因と名付く。

  二 諸有情三界有繋縛の楽および出世間不繋縛の楽を求めんと欲し、かの諸縁においてあるいは求得をなし、あるいは受用をなす。彼を観じてここに対す。これを観待因と名付く。待はすなわち待対の義なり。

  三 浄不浄業の熏習によりて、三界善悪の諸行、可愛不可愛趣中において、可愛不可愛の自体を牽引す。これを牽引因と名付く。

  四 三界可愛不可愛、一切惑業繋縛の法おのおの自種より生ず。愛すなわちよく潤う。この所潤によりてまず牽引せられ可愛不可愛の自体ついに生起するを得。これを生起因と名付く。

  五 三界惑業繋縛の法、および不繋縛の法、ことごとく真実の見によりて摂受せらる。これを摂受因と名付く。

  六 欲界繋縛の善法よく欲界繋縛の諸勝善法を引く。またよく色界無色界の繋縛および不繋縛の善法より、ないし無色界の繋縛善法を引き、よく無色界の諸勝善法および不繋縛善法を引く等、これを引発因と名付く。

  七 三界繋縛の諸法、および不繋縛法、自性の功能差別あるが故に、これを定異因と名付く。

  八 自性の功能和合によりて、しかも三界繋縛の法、および不繋縛の法を生じ、また成弁和合を得、これを同事因と名付く。

  九 三界繋縛の法、および不繋縛の法、まさに生を得んとするとき、もし障礙現前すればすなわち生を得ず。これを相違因と名付く。

  一〇 三界繋縛の法、および不繋縛の法、まさに生を得んとするとき、もし障礙なくんば現前すなわち生ずることを得、これを不相違因と名付く。

 その他、十因の釈義は別に唯識専門の講義あればこれに譲ることとなす。つぎに四縁は前に掲ぐるものに異ならずといえども、更に細分すること左のごとし。

 あるいはまた十因を二因に摂することあり。すなわち『唯識論』に「かくのごとく、十因は二因の所摂なり、一には能生、二には方便」とあるこれなり。その所摂につきて一、二の異説あるも、『唯識図解』(巻七)に示せる表、左のごとし。

  四縁 因 縁 種子因縁

         現行因縁

     等無間縁

     所縁縁 親所縁縁

         疎所縁縁

     増上縁

 以上、小乗および権大乗の因果に関する分類を示せり。つぎに実大乗の因果論を述ぶべき順序なるも、その前に小乗、権大乗を合して一言を要することあり。すなわち業報、業感の説明これなり。たとえば業報につきて、同一の種類はおのおの同一の感果を現ずると、不同一の感果を現ずるとの二様あり。前者を引業と名付け、後者を満業と名付く。引業とは人間に生まるるに貴賎上下の別なく、各人普通一様の性質を受くるをいい、満業とはその一様の性質中に富貴貧賎、賢愚利純の差等を生ずるをいう。すなわち引業は総報業にして、満業は別報業なり。前者は平等業にして、後者は差別業なり。甲は正業にして、乙は助業なり。更にその例を挙ぐれば、人類中には貧富貴賎の別あるのみならず、強剛なるものあり、温良なるものあり、喋々として弁を好むものあり、黙々として言すくなきものあり、笑うに巧みなるものあり、泣くに長ずるものあり、酒をこのむものあり、餅を喜ぶものありて、一〇人集まれば必ず一〇種の嗜好あり、性質あり、風体ありといえども、その中に一〇人相通じて一様平等なる点あり。この点あるによりて一〇人みなひとしく人類なるを知る。これを引業と名付く。しかるに同じくこれ人類なるも、その中に紳士あり、乞丐あり、人車に乗るものあれば引くものあり、先引(さきひき)あれば後押(あとおし)あり、釣を垂るる閑人あれば、これを見物する気楽屋あり、権助あり三助あり、太郎兵衛あり次郎兵衛ありて、各人みな一ならざるは満業の力なりとす。また業果を感ずるに、遅速前後の不同あれば、受報の次第に四種を分かつ。すなわち順現受業、順生受業、順後受業、順不定受業これなり。順現受業とは現世に業を造りて現世に果を受くるものをいい、順生受業とは現世に業を造りて次世に果を受くるものをいい、順後受業とは現世に業を造りて次世を超えて第三世に果を受くるものをいい、順不定受業とは受報の時期の定まらざるものをいう。前三者は定業にして、第四者は不定業なり。『倶舎論』(巻一五)に一、順現法受、二、順次生受、三、順後次受の三種を掲ぐるはみな定業なり。これに不定業を加うれば四種となる。『法苑珠林』(巻八五)に『優婆塞戒経』を引きて、衆生の造業に現報、生報、後報、無報の四種あることを掲げしも、その意一なり。『成実論』(巻八)に現、生、後の三報を解していわく、「この身が業を造りてすなわちこの身にて受くるを現報と名づけ、この世にて業を造りつぎの来世にて受くるをこれを生報と名づけ、この世に業を造りつぎの世を過ぎて受くるをこれを後報と名づく。」とあり。これを要するに、仏教は因果の規則を経とし緯として組織せる宗教なれば、因果に関係する分類はすこぶる詳細にして、いまだ他教諸学中に見ざるところなり。なかんずく小乗は因果の分類およびその応用を論ずること、ややつまびらかなるも、いまだそのよりて起こる本源を明らかにするあたわず。しかるに大乗法相宗にては、その本源を明らかに示せるをもって、因果の説明を尽くすというて可なり。今その端を述ぶるに、因に正因と助縁、すなわち親因縁と増上縁との二種を分かてり。もしこれを種子に配すれば名言種子と業種子なり。この二種の因縁和合して総報、別報の二報を感得し、もって吾人の身体世界の生起するゆえんを示す。たとえば、法相宗にて唱うるところの第八阿頼耶識中に包蔵せる諸法の親因となるものを名言種子と名付く。この種子を感動して未来の結果を生ぜしむる助縁すなわち増上縁となるものを業種子と名付く。かくして生起せる現行は更に種子を熏じ、その所熏の種子は更にまた現行を生じ、その現行またまた種子を熏じ、互いに因となり果となり展転して際限なし。これを展転相生互為因果とも、三法展転因果同時ともいう。そのいわゆる三法とは能生種子と所生現行と能熏種子とをいう。これ仏教因果論の名所勝地ともいうべき場合にして、つえをとめて遊覧すべき妙境なれども、これを『唯識論』の講義、もしくは余が『仏教心理学講義』に譲ることとなす。これによりてこれをみるに、権大乗の因果論は小乗の上に更に一歩を進め因果の根元を究明せるものなりと知るべし。

 実大乗因果論 つぎに実大乗一乗家の因果論を考うるに、およそ因果の分類は小乗に始まるも、小乗はただその作用を講ずるのみにして、いまだその起源を示さず。権大乗はその起源を示すも、いまだその本体を明らかにせず。しかしてこれを明らかにするは実大乗に限る。もし実大乗の山巓に登りてこれをみれば、因果の規則は真如の理体に本来具するところの理法なるを知るべし。けだし真如は世界万有の本体にして、宇宙の本源なり。その体ひとたび活動して世界を現し、更に開発して万物を生ず。その活動開発するや、千態万状の諸物を現し、千変万化の諸象を示すは一として因果の規則によらざるはなし。これ他なし、その規則は真如自体に固有せる理法なればなり。換言すれば真如活動の規則なればなり。実大乗の諸宗にありて、あるいは唯心縁起、あるいは真如縁起、あるいは法界縁起を談ずるも、みな因果作用によりてしからざるはなし。しかりしこうして、因果に相対的と絶対的の二種あることは前すでに一言せり。今実大乗の因果は相対的なるがごときも、これ表面の観のみ。もし裏面に入りてこれをみれば、絶対的因果なること明らかなり。まず表面よりいえば、因は果に対し、果は因に対し、二者相待つものなれば、相対的なること言を待たず。他語にてこれを示さば、真如の作用上に前後左右の差別を生じ、これに因果の名を与うるなり。更に換言すれば、因果の本源は真如絶対中より発するも、その作用は万有相対の上に現ずるなり。故に小乗および権大乗のごとき、もっぱら差別相対の教理を説くものにありては、その分類法もしたがって精密なれども、実大乗に至りては絶対的真如論なれば、因も果も融通自在なるものとす。これをもって天台の『十不二門』には因果不二の一門あり。『指要抄』(巻下)にこれを解して曰く、「因果ことなりなし、始終の理は一なり。」と。また曰く「大乗の因果はみなこれ実相、三千みな実相の相にして宛然たり。」とあり。これ天台は平等絶対の上に因果を論ずるによる。また『華厳』の十重無礙の一に因果無礙の一段あり。その因果は因円果満の因果にして、相対的因果をいうにあらず。また真言にて因縁不生を説くも差別的因果にあらざること明らかなり。故に因果の理法はもとより相対的差別的のものなれども、実大乗にて立つるところの因果は絶対的平等的のものなり。しかりしこうして、実大乗にては、内部に平等絶対を立つれども、外面には差別相対を説き、その目的二者の中道を得んとするにあるをもって、絶対的因果を説きながら相対的因果を唱うるなり。たとえば天台宗にても、華厳宗にても、実際上の修行門に下りて説くときは、小乗および権大乗にて唱うるところの相対的因果の規則を、そのまま用いきたりて成仏得道の階段を立つるなり。しかのみならず、真如そのものの活動を説くにも、相対的因果の理によらざるはなし。たとえば実大乗にありては真如縁起を説くに、真如の水の動きて万法の波となるも、万法の波のおさまりて真如の水に帰するも、真如門より生滅門を生ずるにも、始覚によりて本覚に帰するにも、みなこの因果の理によらざるはなく、吾人のごとき人類が鬼となるも、魔となるも、蛇となるも、猫となるも、神となるも、仏となるも、またみなこの規則による。およそ人界は一大海洋のごとし、貴賎貧富、賢愚利純の一ならざる、あるいはたおるるものあり、起きるものあり、あるいは進むものあり、退くものあり、高く飛ぶものあり、遠く走るものあり、押すものあり、引くものありて、奇変玅動、実に端倪すべからざるは、千浪万波の種々の紋を湧かして一斉ならざるがごとし。これと同じく天地万有はみな真如をもって体とするも、その時々刻々現ずるところの変化は、真如海上に醸すところの波紋に異ならず。ああ、われも人もみなその波紋の一痕たるに過ぎず。無明の風ひとたび真如海面を吹ききたれば、たちまち六道生死の波形を現ずるも、半夜風波の穏やかなるに至れば、我人の波痕たちまち消滅し去りて、無限の海上ただ真如の一水を見るに至るべし。一水動きて万波となり、万波おさまりて一水となるは、みな因果のしからしむるところにあらざるはなし。その理法の広大なること、あに驚嘆せざるを得んや。故に余まさに言わんとす、因果は我人の進みて仏果の頂上に達する広大無辺のはしごなりと。二階に登り樹木に上がるすらなおはしごを要す、いわんや仏果の頂上に登るをや。その山至って高くしてかつ険なり、広大無辺のはしごによるにあらずんば、いずくんぞよくその頂上に達するを得んや。けだしそのはしごは、阿房宮や万里の長城を千万倍するよりなお長きを要するは言を待たず。流石(さすが)の始皇帝も、このはしごには千驚万愕するに相違なかるべし。もし人そのはしごはだれの造るところにして、だれの有するところなるかを問わば、余はこれに答えて真如といえる一大豪家に祖先以来伝えきたりしものなりといわん。ああ、われも人もこのはしごに登りて仏果の頂を窮めんとするも、あたかも激流にさかのぼりて小舟に棹さすがごとく、わずかに一段進めば一段降り、二段進めば二段降り、千劫万劫を経といえども、目的地に昇進することあたわず、ついに六道生死の路頭に永世の迷子となりて、漫々たる無明の長夜を送るに至るべし。以上、小乗、権大乗、実大乗の因果論を比較的に講述してここに至れば、六道輪廻論を説明せざるべからず。

       第二段 六道輪廻論

 六道輪廻論とは地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天の六道の間に我人の展転生死するをいう。この六道は一名六凡と称し、これを迷界に属す。その上に声聞、縁覚、菩薩、仏の四聖あり。これを悟界となす。けだし仏教の目的は転迷開悟にありというは、この迷界を去りて悟界に入る道を講ずるをいう。換言すれば、六道輪廻の迷を転捨して仏果菩提の悟を開顕するをいう。今日、仏教が世界に立ちて世の学術と共に勇進競走せんと欲するときは、第一の衝突問題は須弥説にして、第二の衝突問題は輪廻説なり。そのうち須弥説はすでに弁明し終われり。故にこれより輪廻説の大難関を会通せざるべからず。これを会通する前に、善悪因果論と迷悟染浄論とを略述するを要す。

 善悪因果論 因果は宇宙万有の通則なることは諸学のことごとく許すところなるも、多くはこれを物理上に解釈し、物質的因果を説くのみにて、これを倫理上に応用して善悪因果を論ずるにあらず。しかるに仏教はもっぱら善悪因果を論ず。これに加うるに過去、未来、現在の三世を通じて因果の存することを説く。これ到底世論のいるるところにあらず。まず善悪の名義を考うるに、諸論に見るところ左のごとし。

  『倶舎論』(巻一五)にいう、安穏の業を説きて名づけて善となし不安穏の業を名づけて不善となす。

  同論(同巻)にいう、欲界の善業を説きて名づけて福となし、もろもろの不善業を説きて非福となす。

  『婆沙論』(巻五一)にいう、問う、なにが故に善、不善、無記と名づくるや。答う、法にして巧便に持せられるか、よく愛果を招くか、性安穏なるが故に善となす。乃至〔中略〕、性安穏ならざるが故に不善となす。

  『唯識論』(巻五)にいう、よくこの世と他の世とに順益をなすが故に、名づけて善となす。乃至〔中略〕、よくこの世と他の世とに違損をなすが故に不善と名づく。

  

  

  

  

 以上の定義によれば、善と悪との標準は安楽幸福、もしくは利益の有無をもって立つるがごとくなれども、西洋の功利学者のいわゆる実利主義とは同一ならざることは、余が弁を待たず。すなわち仏教の幸福利益は肉体上あるいは社会上につきていうにあらず。精神上あるいは三世の上につきていうなり。換言すれば、仏教が目的とする涅槃の楽界に向かいて進むのも、善悪のいかんを知るには多少涅槃につきて一言するを要す。涅槃と真如とは、その体一にして真如の理体これを涅槃といい、これを証得する智恵これを菩提という。真如も涅槃もその体、物質にあらざれば、有形にあらずして、無形なること明らかなり。また真如は我人の精神の本源にして、わが心とその体一なれば、真如に固有せる規則は我人の精神上に有せざるべからず。すでに真如とわが心と同一にして、真如は世界の本体なるを知らば、これと同時に三界一心説も起こらざるべからず。今因果の規則は実に天地万有の通則にして、一切の事物に貫通して存する以上は、これを真如の体に固有せるものとなさざるべからず。すでに真如固有の規則なれば、精神上の通則なることは言を待たず。これをもって仏教の因果は物質的因果をいうにあらずして、精神的因果をいうなり。物質的因果とは諺に「まかぬ種は生ぜず」というがごとく、五穀の種子を地に植えれば、必ず生育してその果を結ぶの類い、これなり。精神的因果とは仏教のいわゆる善悪因果にして、精神上に善因を植えれば善果を得、悪因を植えれば悪果を得るをいう。今日の西洋学者は多く目を物質物理の上に注ぐをもって、精神的因果を信ぜずといえども、東西両洋の宗教は一般に精神的因果によりて勧善懲悪を説く。ひとり仏教は三世の因果を立てて善悪の応報を説くは、精神的因果なること一目瞭然たり。もしその真偽を判定せんと欲せば、真如涅槃の状態につきて一言するを要す。

 むかしむかしのそのむかし、世界の初めて開けて渾沌たること溟涬のごとき当時にさかのぼり、有形の物質はなににより生ぜしやを考うるに、宇宙の一大勢力の発顕活動より生ずとするより外なし。この大勢力は形質を示さざれば、もとより無形なること明らかなり。これを仏教上より観察するときは、その体を名付けて真如というなり。故に真如は物質の本源、世界の本体なりと知るべし。しかしてその真如より世界万物を開発し、その万物は時々刻々、変遷生滅してやむことなし。これ真如自体に有するところの活動の勢力にあらずしてなんぞや。かつその変遷生滅は一定の規律に従い、決してその律を乱ることなし。これすなわち因果の規則なり。故に因果の規則は真如自体に有する一大理法にして、真如活動すれば必ずこれに従いて変遷生滅を現ずるを知る。しかるにその規則はひとり物質上に存するのみならず、精神上にも存せざるべからず。なんとなれば、真如開発して一方には物質世界を現じ、他方には精神世界を現ずればなり。ことに仏教上にありては、物質そのものは精神の変現より生ずとなす。かつ真如と精神とはその体一にして、ただ真如は絶対性にして精神は相対性の別あるのみ。これをたとうるに、最初は一大静水が自ら風波を起こし、互いに激動して一面に白き泡を浮かべ、本来の碧色を見ざるに至りたるも、一時ののち、かれにこれに往々水泡の間に碧水の一部を見るに至りたるがごとし。すなわち最初の一大静水とは、絶対的真如をいい、一面の白泡は物質をいい、往々碧水を漏らせるは相対的精神の開発をいう。あるいはまた青空に白雲を見るがごとく解しても可なり。すなわち本来の青空に忽然として白雲四方に起こり、一天これがために遮蔽せらるるは、真如開発して物質界を現ずるに比すべし。かくして一時ののち往々雲破りて青空を漏らすは、精神の物質中に開現するに比すべし。故に精神は真如の本色にして、その体同一なり。物質はその開発の途中にありて、仮に浮現せるも別にその体あるにあらず。要するに真如の変現に過ぎず。もし精神と物質との関係を考うるに、物質は精神の変現なるを知る。これにおいて真如と精神とは同一なるのみならず、物質は精神を離れて別に存せざるゆえんを了得するに至る。これ仏教において精神的因果を唱うるゆえんなり。故にもし仏教の因果を疑うものあらば、必ずまずその唯心論を論破せざるべからず。唯心論にして成立するを得ば、精神的因果はもとよりこれを許さざるべからず。

 仏教は唯心論にして、精神的因果を立つるを知らば、ここに精神的因果より善因善果、悪因悪果につきて更に一言せざるべからず。すでに世界の開発して万物を現ずるも、我人のひとたび生まれてこの身を現ずるも、雨の降り風の吹くも、花の舞い葉の飛ぶも、草木の枯れ禽獣の死するも、みな精神的因果のしからしむるところなりと知らば、その因果に求心的と遠心的の二種の作用あることを知らざるべからず。求心的とは真如涅槃の本源中心に向かって進むをいい、遠心的とはその中心に背きて遠ざかるをいう。かくして求心的因果を善因善果とし、遠心的因果を悪因悪果とす。この規則更に開きて左の三条となる。

  第一条 善因あれば必ず善果あり、悪因あれば必ず悪果あり。              (性質)

  第二条 善因の数量異なればその果もまた異なり、悪因の数量異なればその果もまた異なり。(分量)

  第三条 善因の種類異なればその果もまた異なり、悪因の種類異なればその果もまた異なり。(種類)

 この三条は左の三則より生ずるなり。

  第一則 因あれば心ず果あり

  第二則 因の量多ければ果の量もまた多し

  第三則 因の類異なれば果の類もまた異なり

 およそ人の修むるところの善行にも種々ありて、上等の善と下等の善とあり、また多量の善と少量の善とあり。もし因果の理法、真なる以上は、多量の善を修めたるものと少量の善を修めたるものと、同一の果を得べき理なく、上等の善を修めたるものと、下等の善を修めたるものと、またその果同一なるべき理なし。故に仏教にては善果にも悪果にも種々の階級等類を設け、地獄にも無量の地獄あり、極楽にも無量の極楽ありという。これを要するに、仏教の善悪因果論は、世界万物は精神の変現より生ずといえる唯心論と真如涅槃に帰向するを善とし、これに背離するを悪とする迷悟論との二者を合して起これるものなるを知るべし。故にここに迷悟染浄論につきて一言せざるべからず。

 迷悟染浄論 そもそも仏教には哲学門と宗教門との二門ありて、哲学門にては理論上、真如と万法との関係を論じ、宗教門にては実際上、仏陀と衆生との関係を論ず。衆生とは迷いてこの世界にあるものをいい、仏陀とは悟りてかの世界(涅槃界)に至るものをいう。これ迷悟のよりて分かるるところなり。それ迷悟とはこれを境遇の上に考うれば、六凡四聖の十界あり。これを体性の上に考うれば、煩悩、所知の二障と菩提、涅槃の二果あり。煩悩、所知は迷の体にして、菩提、涅槃は悟の体なり。この迷悟と善悪苦楽とは同一の関係を有し、迷の果は苦にして、悟の果は楽なり。迷に関する行為は悪にして、悟に関する行為は善なり。故に苦楽も善悪も迷悟によりて分かるるを知るべし。これみな仏教中の哲学門に属する部分なり。もしこれを哲学門の上に考うれば、真如は不生滅界にして、万法は生滅界なり。生滅界は迷界にして、かつ苦界なり。不生滅界は悟界にして、かつ楽界なり。衆生はこの生滅界に浮沈するものにして、仏陀はかの不生滅界に体達したるものなり。左に迷悟の配合を示すべし。

  衆生・・凡・・迷・・染・・悪・・苦・・生滅


  仏陀・・聖・・悟・・浄・・善・・楽・・不生滅

 また衆生の迷相につき惑、業、苦の三障あることを説く。惑はすなわち煩悩にして、心思の上に生ずるものをいい、業は善悪の業にして行為の上に発するものをいう。この二者は原因にして、これより招ききたすところの結果はすなわち苦なり。しかして惑すなわち煩悩あるものを染とし、これを脱離せるものを浄とす。今この三障は心理学のいわゆる智情意三者に配合し得べきをもって、左に略表を作りてその関係を示すべし。

  三障 惑・・心思・・智・・染浄・・正因

     業・・行為・・意・・善悪・・助因

     苦・・感情・・情・・苦楽・・結果

 更に煩悩、惑障の起源を考うるに、我人衆生が智見の浅劣蒙昧なるより、真如の理体の存することを知らざるより起こる。換言すれば、吾人の知識感覚の不完全不明瞭なるによるとなす。これ哲学門の所談なり。もし宗教門によれば、この迷見よく善悪の行為を生じ、ついに罪悪流転の原因となるに至るという。

 それ仏教は世間の浅見無智の徒が平等絶対の真如あるを知らずして、みだりに実我実法ありと迷執するをもって、これに対して我法二空の真理を開示し、もって涅槃の岸に到達するを目的とす。我法二空とは我人の心身を分解すれば、別に我と称すべき固定せる一物なしと知るを我空という。すなわち無我の真理に体達するをいう。もし我人の身心のみならず、天地万有の体すべて空なりと観ずるを法空という。すでに我人も空なれば天地も空なり。いわゆる一切皆空と立つるは仏教の真理なり。かくのごとき道理を今日の世人に聞かするときは、ビックリ仰天して驚くばかりなり。しかして必ずいわん、なにほど仏教は螺吹(ほらふき)の隊長とはいいながら、ほらを吹くにもほどのありそうなものなり。天も地も空なり、日も月も空なり、我も人も空なり、猫も杓子も空なりとは、実に驚き入りたる次第なり。ほらを吹くに税が掛からぬからとはいえ、あまりほらの仕掛けが大き過ぎるではないかといいて、大笑いするに相違なかるべし。かつて老子の言わるるごとく、世人が見て大笑いするくらいでなければ真理にはあらず。むかしコペルニクスが地球は太陽の付属物なることを唱えたるときも、コロンブスが西の方に世界ありと論じたるときも、ダーウィンが人類は動物より進化せりといいたるときも、世人みなこれを聞きて一驚を喫し、はなはだしきは狂者の言となして、大いに笑いたるに相違なかるべし。東西古今その轍一なり。この古今無二の大ぼらの中に大真理の胚胎するあれば、よろしく精神を凝らして沈思熟考すべし。

 すでに我法二空の真理に対し、これに迷うものを凡夫とし、これを悟るものを仏陀とす。故に迷にも二種を分かち、悟にも二種を分かつ。無我の理を知らずして我ありと執するを我執といい、法空の理を知らずして実法ありと執するを法執という。我執より起こる惑障を煩悩障と名付け、法執より起こるものを所知障と名付く。前者はこれを解して我人の身体を組織せる色受想行識の五蘊の用に迷うものとし、後者はこれを解して五蘊の体に迷うものとす。煩悩障を断滅すれば大涅槃を証得し、所知障を転捨すれば大菩提を開顕す。もしこの二障の因と果とを対照すること左のごとし。

  五蘊 用・・我・・我執・・煩悩障・・我空・・理・・涅槃

     体・・法・・法執・・所知障・・法空・・智・・菩提

 この二障におのおの分別起、倶生起の二種を分かつ。分別起とは必ず邪師、邪教、邪思惟の三縁によりて分別思量して起こるものをいう。故にこれ有意的煩悩なり。倶生起とは三縁の方便をからず任運自然に生ずるものをいう。故にこれ無意的煩悩なり。また煩悩障に見惑、思惑の二種あり。思惑は一名修惑といい、これを合して見思惑、もしくは見修惑という。かつこれを解して見惑とは苦、集、滅、道の四諦の理に迷いて、推度分別して起こるものをいい、思惑とは四諦のことに迷いて、貪愛染着して起こるものをいうとなす。これみな心内に生ずるものなり。この心内の惑障の行為の上に発するときは、善、悪、無記の三性の別を生ず。その善に有漏、無漏の別あり。その悪には有漏あるのみ。その無記には有覆、無覆の別あり。その性、不善不悪にして、その体、煩悩なるを有覆無記とし、その体、煩悩にあらざるを無覆無記とす。またその業類に三種あり。すなわち身業、口業、意業これなり。またその結果にも三種あり。すなわち苦、楽、捨これなり。捨は不苦不楽の状態をいう。その他、迷悟染浄に関することはこれを略す。

 以上、善悪因果論、迷悟染浄論を略述し終わりたれば、これよりまさしく六道輪廻論を説明すべし。これを説明するに要するものは、仏教と理学とその所見を異にするにあり。世間の批評家は、理学の所見をもって仏教を評して唯一に妄誕不稽となす。これ盲者が絵画を評し、瞽者が音楽を評するの類に近し。そもそも仏教の輪廻説は、全く因果の理法を根基としてその上に建設したるものなれば、善悪因果あるいは唯心因果の理、真なる以上は、その説また真ならざるべからず。しかしてそのいわゆる因果と諸学のいわゆる因果との間に異同あるゆえんを示すには、まず仏教と理学との原理の異同につきて一言するを要す。仏教にてはさきに略明せるがごとく、時間は無限なり、空間は無涯なり。その無限無涯の間に存する万有は、不生不滅なり。その万有の変々化々するは、これを組織せる諸元の分散集合によるとなす。これ小乗の客観論なり。故にわが眼前に横たわれる森羅の諸象は、時間上終始なく空間上際涯なしというべし。この無始無涯の世界の小部分に小変化あり、大部分に大変化あり。その変化の事情は生住異滅の四相、あるいは成住壊空の四劫を分かつことは前すでに挙示せり。しかしてその変化は現象上の変化にとどまり、その実体に至りてはすこしも増減生滅あることなし。故に現時の世界のごときも、ひとたび退化して滅亡するも、再び開発して新世界を現じ、進化は変じて退化となり、退化は転じて進化となり、一体の世界にして、あるいは開きて万象を現立し、あるいは合して渾沌に帰着し、一開一合、一進一退、交互循環して際涯なきもの、これを仏教にて立つるところの世界大化の通則となす。この世界大化説に至りては、今日天文学者の唱うるところの星雲説と符合するところなきにあらざれども、いまだ仏教のごとく断言してその順序を既定したるものあらず。これ仏教は理学とその性質を異にするによる。しかして万有不滅論、諸元集散説に至りては、理学の原理と同一に帰す。かくして諸元の集合して一物を仮成するも、分散して諸元に還帰するも、生住二相を経て進化するも、異滅二相を経て退化するも、みな因果の作用にあらざるはなし。因あれば必ず果あり、果あれば必ず因あり。有を転じて無となすべからず、無を転じて有となすべからずとは、実に仏教の通則にして、また理学の通理なり。しかれども、仏教の性質と理学の性質と相異なるゆえんを知らざれば、その両説の相合するゆえんを明らかにすべからず。まず理学は有形学なれば、事物の性質変化を論究するに、有形上の物質を起点とし、経験上の事実を標準とす。すなわち事物の外面を本とし、内面を末とするものなり。仏教はこれに反して物質の内部に包有せる無形上の勢力もしくは理性を本拠とし、かつこれを標準とするものなり。すなわち事物の内面を本とし、外面を末とするものなり。しかりしこうして、今日理学の説にても物質にはその体固有の勢力ありて、物質と勢力とは互いに相離れざるものとす。仏教はむしろその勢力を本として立つるものなり。しかして勢力の解釈は理学と仏教と同じからず。理学はその勢力をもって有形的物質に属するものとし、仏教はその勢力をもって無形的理想に属するものとするの別あり。また理学の説に基づきて唯物論を唱うるものは、生活力も、感覚力も、思想力も、みな物質固有の勢力の変態に外ならずといい、仏教は実大乗家の立つるところによれば、物質も勢力も感覚も思想も、みな真如理体の変態なりといわざるべからず。換言すれば、理学は有形的物質を本とし、仏教は無形的勢力、もしくは理想を本とするの別あり。したがってこの二者はその原理を同じうするも、その説明を異にするゆえんを知るべし。かつそれ理学は物質の不生不滅なるを見て、物質そのものをただちに不滅なるものとし、更にその不滅なる原因を論ぜず。しかるに仏教は、物質の不滅なるはその裏面に不滅なるもの別に存するによるとなす。すなわち真如これなり。この無形にしてかつ不生不滅なる真如が、天地万有の本体なる以上は、物質をして変化せしむる勢力も、真如の自体より生ぜざるべからず。故に物質の勢力は真如固有の活動力と解して可なり。しかりしこうして、その勢力に生滅の習慣を有するものと有せざるものの二種あることを知らざるべからず。『起信論』の生滅門と不生滅門とは、すなわち生滅ある勢力と、生滅なき勢力との二者なりと知るべし。この二者その体一なるも、真如の海面に波動を生じて浮沈昇降するもの、これ生滅ある勢力なり。その勢力ひとたび動揺して生滅の波を生じたるときは、ようやく波動の習慣を起こし、再三波動すればその勢いますます習慣性を養成し、小波動相重なりて大波動を生じ、ついにその本源の静水に帰することあたわざるに至る。かくのごとき勢力を生滅の習慣を有する勢力と名付くべし。あたかも理学にて運動の習慣性を説くに似たり。今我人の有する勢力はこの習慣を有する勢力なり。故に我人の本体は不生滅の真如なれども、ただこの習慣を有するをもって真如と同じからざるのみ。果たしてしからば、我人もし真如の故郷に帰りて古月を見んと欲せば、必ずまずこの習慣性を脱せざるべからず。この習慣性の存する間はこれを生死の迷といい、これを脱するときは涅槃の悟という。しかしてその習慣性の根元は煩悩もしくは無明にして、その勢いを養成するものは善悪の業なり。故にこれを仏教にては業因業感説という。これを要するに、我人は真如の胎内より生まれ出でて、誤りて生死の習慣性を作り、ついに三界流転の浪人となり、六道生死の迷い子となり、山に三年、川に三年、南船北馬、定居なきがごとく、永く天地の厄介物となり、アバレものとなり、世界の道楽ものとなり、放蕩ものとなり、故山の花に背き月を見ざること、ここに幾万劫なるを知らず。余聞く、酒呑道楽は酒不可飲と名付くる売薬ありてこれをひとたび服用すればたちまち酒嫌いになるというも、我人いまだこの生死の道楽を止める良薬あるを聞かず。また世の諺に「乞食三年続けばやめられぬ」というがごとく、生死の道楽も三年続けば止め難し。しかるに千年万年はなお愚か、千劫万劫といえる無限の年月の間、生死路頭の迷い人となり、三界六道の街衢を徘徊して今日に至るをや。願わくば早く無始時来の習慣性を脱却して、真如故山の風月を詠賞せんことを。

 生死の習慣性は一種の遺伝性となり、生前死後、三世六道の間に相伝えて永く流転輪廻するに至る。それ天地は広し、六合は大なり。その間に幾億万の日月あるを知らず、幾億万の世界あるを知らず。そのいちいちの世界に住する生類また幾億万あるを知らず。その生類みな過去世の習慣遺伝によりて一世界に生じ、その一世間の経験と前世の遺伝と相合して、未来我人がいずれの世界に生まれ、なにものとなりて存するやを前定するなり。これをもって同一人類にても、その一生間の行為業因異なる以上は、その次世には必ず人類となりて生ずるにあらず。あるいは降り降りて禽獣界に入るものもあるべく、あるいは昇り昇りて天上界に生まるるものもあるべし。あるいは蝶として飛び、あるいはトビとなりて舞い、あるいは魚となりて躍り、あるいは虫となりて吟ずることあるべし。これを六道輪廻の状態となす。しかれどもその生まるる世界は一、二の世界に限るにあらず。宇宙間に存する無限の世界にして、無限の年月間のことなれば、ここに死してかれに生ずること、あに決してなしと断言するを得んや。しかるに世の六道輪廻を信ずる徒は、この一小地球の一小部分において、五年十年の短歳月の間にここに死してかれに生ずるものと信じ、某氏の長子の死したるときにその足に墨を印して葬りたれば、そのつぎに生まれたる子の足に墨斑あるを見たり。これ再生の証拠なりといい、あるいはだれがしは死してただちに犬となりて生まれ、だれがしは猫となりて生まれ、甲は石に化し乙は蛇となる等と妄誕を極めたる妖怪談を引きて、六道生死の証明をなさんと欲す。実に驚き入りたる次第なり。請う無限の目を開きて世界を達観せよ。地球のごときは大海の一粟、九牛の一毛にも足らざる一小塊のみ。余かつてこれを昔ばなしに聞く、北海に魚ありその名を鯤という。ひとたび水中に動けばよく一〇里を走る。一日北海より南洋に向かい、海洋の尽くるところを極めんと欲し、日夜南進して、一躍よく数十里をはしる力をもって旬月を重ぬるも、いまだ津涯を見ず。時に鵬と名付くる鳥ありて、一飛よく一〇〇里を走る。鯤に問いて曰く、汝なんのために走ると。鯤告ぐるにその目的をもってす。鵬大いに感憤するところありて、おもえらく、一躍わずかに一〇里をはしる鯤すらなお南洋を極めんとする大望を抱けり、われは一飛よく一〇〇里を走る力を有して、あに碌々たるを得んや、今より羽翼を張りて南進を始めんと。これより日夜飛行更に休止することなく、旬月を重ぬるも更に津涯を見ず。すでにして疲労はなはだし、また飛ぶべからず、一休せんと欲するも憩うべき岩石もなく、樹木もなく、茫々一碧、更に目をさえぎるものなし。かくして翌日に至れば、海上はるかに樹木の双立せるを見る。鵬大いに喜び早くここに至りて一休せんと欲し、きたりて枝頭に止まればあにはからんや、その樹にわかに動き出し、かつ水中より声を出して曰く、汝なんぞわがひげに止まるや、われは海中の大海老なり、その名を海王という、汝が止まりし所はわがひげなりと。鵬大いに驚きてその罪を謝し、かつ海洋の到底極め尽くすべからざるを語る。これにおいて海王は大いに感激するところありて、おもえらく、鵬は一飛わずかに一〇〇里を走るに過ぎざるもなお海洋を窮むるの大志あり、われは一躍たちまち一〇〇〇里を走る力を有しながら、あに徒然たるを得んや、今より一大奮発を起こして南洋の極端を探らんと。これより海王日夜南行してやまず、旬月を越ゆるに至れば疲労はなはだしく相感じ、休むべき山もなければ川もなし、遠くこれを望むに煙水、天と相合して相連なる所に、岩石の波上に突出せるものあるを見る。請う、ここに至りて一休せんと。海王大いに喜びてこれに向かい、その上に憩う。すでにしてその岩石にわかに動揺し、かつ言を発していわく、なにものかわが頭上に憩うや、われは南洋の大亀にして、その名を海帝と呼ぶ、汝これを知らざるかと。海王大いに驚きかつ海洋の究め尽くすべからざるを悟る。これにおいて海帝大いに志を立てて曰く、一躍わずかに一〇〇〇里を走る海王なお海洋を窮めんとする志あり、われは一躍よく万里を行く力あり、なんぞ空しく光陰を徒費するを得んやと。これより海帝、日夜南進を始め、旬月に旬月を重ぬるもついに津涯を見ず。よりて海洋の津涯は到底窮め尽くすべからざることを悟り、またその望みを起こさずと。これ小児に授くる昔ばなしに過ぎざるも、海洋の無限を示すに便なれば、ここにこれを掲ぐ。わが地球の海洋はかくのごとく広大ならざるも、天地の広き宇宙の大なる空間の限りなき実にこれに幾倍せるや、ほとんど想像の及ぶ所にあらず。しかるに今日、世人一般に地球の一部分を見て全体を見ず、宇宙の一端を知りて全体を知らずして、なおよく三界流転、六道輪廻の妄を論ずるものあり。あに大いに笑いて深く嘆ぜざるべけんや。

 これを要するに、およそ我人が生死浮沈の変遷界を去りて不生不滅の涅槃界に至るには、まず六道輪廻の習慣およびその原因たる無明惑障を断尽せざるべからず。これを断尽するには、必ずしかるべき方法をとらざるべからず。その方法とは他にあらず、生死をいとうて涅槃を願うの心を生じ、その心を意に発し、口に浮かべ、身に行い、種々の修法観行を実習するをいう。かつそれ仏教と理学を較するに、二者その原理一なるも、前者はその理を表面の物質上にとどめ、後者はその理を裏面の理想上に用うるの異同あり。換言すれば、二者共に因果の理法を根拠とするも、甲は唯物的因果論にして、乙は唯心的因果論なるの別あり。故に唯物論の方面よりこれをみれば、仏教の因果論は空想妄断のはなはだしきもののごとしといえども、今日唯心論の妄断にあらざる以上は、その因果論も決して妄断なりとして排斥すべからず。もし仏教の因果論を攻撃せんと欲せば、まず唯心論の本営を衝かざるべからず。余案ずるに、仏教と理学上の諸説とは大抵その理を同じうし、ただ表裏その面を異にするのみ。たとえば、進化論、遺伝論、順応論、勢力論、習慣論、不滅論等は、理学ひとりこれを唱うるのみならず、仏教またこれを唱う。ただ仏教はこれを理想もしくは精神の方面において説くの別あるのみ。故にもし今日の学理に照らして仏説を講究するに至らば、まさに枯れんとする苗種に甘雨をそそぐがごとく、勃然として大いに興るは必然の勢いなり。しかるに今日の僧侶は旧慣に安んじて、更にその盛衰を顧みざるは、遺憾あにすくなしとせんや。諺にいわゆる「宝の持ちぐされ」とは、これをいうか。

 

     第一四講 実有論

 上来、世界万有の変遷生滅するゆえんを述べてここに至れば、生滅の裏面に不生滅の理の潜伏せるゆえんを示さざるべからず。しかして生滅の表面と不生滅の裏面とを接合するものは、余おもえらく、因果の理法なりと。この理法は表面の変遷生滅の諸象を貫きて存し、決して自体の生滅することなし。これその根拠を不生滅の理体の中に有するによる。故に因果論は実有論の所在を示す灯台なりと解してしかるべし。そもそも実有論は小乗に始まりてようやく大乗に入り、ついに真如一実論となるに至る。まず小乗の実有論を考うるに、水冷ややかなれば凝りて氷となり、水熱すれば騰りて蒸気となる。この三者その形大いに異なるも、その体もとより一にして、決して生滅増減あることなし。火をろうそくに点ずれば一時ののち焼尽して、その形を失うもその体滅せるにあらず、風、雲、霧を払えば、たちまち散失してその形を見ざるも、これまたその体、滅するにあらず。これと同じく天地万有、変々化々するもただその形の上に生滅あるのみにて、その体上には更に増減あることなし。けだし万物の変化は極微元素の集散分合より生ずるも、極微元素の体は過去、未来、現世の三世にわたりて不生不滅なり。これを『倶舎論』にては三世実有法体恒有という。法体恒有とは倶舎所立の七十五法の体は常住恒存せりとの説をいう。換言すれば、一切有為無為の諸法は総じて七十五種あり。その体みな実有なりというこれなり。その論もと『婆沙論』に基づく。すなわち同論(巻二一)にいわく、

  我は、一はまた多を成じ、多はまた一を成ずと説く。これ作用によりて、実体によらざればなり。我は、諸因は作用をもって果となし、実体をもって果となすにはあらずと説く。また、諸果は作用をもって因となすと説く。乃至〔中略〕、諸法の実体はつねに転変なし。

  

  

 また同論(巻三九)に「自体に改変なく、功能転変す。」とあり。『倶舎論』(巻二)には「体、三世において改変なし。」とあり。その他、三世実有法体恒有の説は『倶舎論』巻二〇に出づ。しかしてそのいわゆる三世に類、相、位、待の四種の不同ありとす。今『倶舎頌疏』によりてこれを解するに、類の不同によりて三世異ありというは尊者法救の説なり。いわく、未来より現在に至る時、未来の類を捨てて現在の類を得、もし現在より流れて過去に至れば、現在の類を捨てて過去の類を得、類同じからざるも体異あるにあらず、金器を破りて余物を作る時、形殊ありといえども、金色異なきがごとし、相の不同によりて三世異ありというは尊者妙音の説なり。いわく、法過去にありてまさしく過去と相合す、しかして名付けて現未の相を離るるとなさず、過去の相あらわるるをもって但過去と名付くるなり、現在はまさしく現在の相と合す、しかして名付けて過未の相を離るるとなさず、未来はまさしく未来の相と合す、しかして名付けて過現の相を離るるとなさず、あらわるるに従いて名を得るは過去の説に準ず、位の不同によりて三世の異ありとは尊者世友の説なり。いわく、未作用の位を名付けて未来となし、正作用の位を名付けて現在となし、作用謝する位を名付けて過去となす、位位中に至りて異異の説を作す、一籌をめぐらして一位に置けば一位と名付け、一〇〇位に置けば一〇〇と名付け、一〇〇〇位に置けば一〇〇〇と名付く。歴位別あり、籌体異なきがごとし、待の不同によりて三世ありというは尊者覚天の説なり。待はいわく観待にして、前は後にみて名付けて過去となし、後は前にみて名付けて未来となし、前後を観待して名付けて現在となす。一女人を女と名付け、母と名付く。母にみて女と名付け、女にみて母と名付くるがごとし。そのうち第三の位の不同によりて三世を立つる説を最も良しとす。以上は小乗有部の説なり。もし経部によらば、現在有体、過未無体と説きて、過去、未来の法は実体なしという。しかるに有部にては過去、未来の法はなきように見ゆれども、その縁を欠くためにあらわれざるのみにして、その実体は有なりとなす。たちまちここに一問難ありて曰く、無為法は生滅なきものなれば恒有と称するを得れども、有為の諸法は変遷生滅するものなれば恒有というべからずと。これに答うるに古来、体滅、用滅の争論ありて、有宗の本義は、体用倶滅ならざるべからず。もし体用倶滅とすれば、法体恒有とはいい難きがごとしといえども、そのいわゆる体滅は諸法の自体の滅無するをいうにあらずして、現在世にある法体を過去世に送り込むを滅というのみ。左に『倶舎七十五法大意』に出せる説明を示さん。

  三世実有法体恒有と云へば、法体は常住なるものかと云ふに、有部も小乗なれば色心の法を常住なりとは云はず。そのゆえんは法の自体は改易なけれども、作用は生滅する故に常住にあらずと云うなり。然るに法体と作用とは一つなる物ならば、作用が生滅せば自体も生滅すべし、自体が改まることなくんば作用も生滅すべからず。もし体と用とは各別に離れたる物ならば、作用は生滅すれども自体は常住ならんと云う難あり。そこは有部の意は体用は非一非異にて縁の力に動かされぬと動〔か〕されるとの違いを云へば非一なり。されども一法の上の体用にて各別なる物にあらざれば非異なり。非異の故に作用が生滅すれば体も常住とは云はれず、非一の故に用は生滅すれども体は改ることなし。譬へば伏見焼の猿の子を抱きたる人形の子と親との形は別なれども、同じ一塊の土なる故に子猿の方を破れば親猿にきづはつかねども親猿の方もきづものになるが如し。これ有部の体用は一法にして而も用は生滅、体は恒有と立つる道理なり。その旨意得し難し善く思惟すべし。

 かくのごとく小乗有部の説は万法の体と用とを分かちて、用は生滅あり、体は恒有なりと立つるなり。しかるに外道の邪執に対しては無我の真理を唱う。すなわち法体は実有にして我体は都無となすをいう。これを法有我無説と名付く。

 以上は小乗の実有説にして、その説たるや理学の原則たる物質不滅、勢力恒存の説に近し。しかりしこうして、天地万有の変化は有情の業力によりて起こると説くに至りては、理学のいまだ唱えざるところにして、小乗の客観論中に主観論を含むによる。要するに、小乗は大乗に入る関門なれば、その説中に大乗唯心論の一端を示すことは疑うべからず。故に小乗教中に大乗の微光を漏らすというべし。もしその法体実有論のごときは大乗真如論の前駆にして、これより後に真如生滅論のあらわれきたることを予告するもののごとし。客観相対の方面にありて唱うるところの法体恒有説が、主観絶対の方面にありては真如不滅論となることは余が弁解を待たずして明らかなり。もし更に大乗に入りてその蘊奥を究むれば、万法の本体ひとり不滅なるのみならず、万法のそのまま不滅なるを知る。古来の諺にも「花はさきさき常住、紅葉はちりちり常住」というがごとく、世界は変化しながら不変不化、人間は生滅しながら不生不滅なり。我人もしこの不滅の理に体達すれば、我人は天地万物と共に無始の始より無終の終まで、常住恒存、不老不死なることを知るべし。換言すれば、本来これ仏なることを知るべし。煙は散ずれども決して消せず、雲は消すれども決して滅せず。久遠劫来一点の雲も一片の煙もいまだかつて消滅したることなし。果たしてしからば、人間なんぞひとり生滅するの理あらんや。これを見て生滅ありと思うは表面皮相の浅見のみ。もしその裏面に入りて達観すれば、我人は久遠劫の昔より尽未来際の終に至るまで、依然たる不老不死の我人なるを知るべし。この一大真理を発見したる者は、実に三千年前のその昔、中天竺摩訶陀国に降誕せる大聖釈迦牟尼仏なり。その卓見は宇宙を徹照し古今を洞視せるにあらずしてなんぞや。しかるに顧みて世上を一観すれば、貧富貴賎、老弱男女の輩、五〇年ないし一〇〇年の短歳月の間に、生を貪り寿を争い、一病一患に際会するごとに、迷に迷を重ね、苦に苦を加え、憂悶その身に余り、ほとんど狂するがごとく自ら帰宿するところを知らず。これを生死路頭の迷人という。世間なんぞ迷人の多きや。願わくばこの種の病客に大小両乗の良薬を与え、不生不死の智眼を開かしめ、豁然大悟の心地に到達せしめんことを。これ釈尊出世の本懐にして、一大仏教の目的なり。余、仏教理科を講じてその結論に達し、法体恒有、真如不滅を説くに及び、図らずも仏一代五〇年間の本意を漏らすに至れり。

 今、仏教理科講義を結了するに当たり、一言もってその大要を摘示せんと欲す。それインドは地球上文化最も早く開けかつ盛んなりし国なり。なかんずく釈尊出世の当時は、九十五種の学派競い起こりて、互いに理を争い真を闘わし、あたかも盛春の候に当たりて百花その美を競うがごとき勢いなりき。しかりしこうして、九十五種の学派はみな婆羅門哲学の分派変体にして、その派ウパニシャッドより起こる。もしその主要なるものを挙ぐれば、ニヤーヤ学派、サーンキヤ学派、ヴァイシェーシカ学派、ヨーガ学派、ミーマーンサー学派、ヴェーダーンタ学派の六大派なり。この諸派はあるいは仏教の前に起こり、あるいはその後に盛んなりしものあるべしといえども、仏出世の当時すでにかくのごとき異主義の世に行われおりしは疑いなし。ことに数論すなわちサーンキヤ学派のごときは仏教にさきだちて大いに世間に勢力を有し、釈尊自らその学説を聞きて大いに覚悟するところあり。ついに独立して新宗教を唱道するに至りしは、その伝記につきて知ることを得。しかるに以上の六大派もしくは九十五種の学派は、仏教のいわゆる外道にして、異説百端一概すべからずといえども、要するに哲学のいわゆる客観の範囲を出でず、ひとり数論勝論のごときは物心二元を立つるに至りたるも、なお客観の見を脱せず。これに対して仏教は、主観唯心の真理を開示し、三界唯一心、真如即万法の妙理を唱道するに至れり。しかるに仏教中に小乗有部のごとき客観論あるは、大乗の主観論に達する階梯に過ぎず。もし小乗の客観論を外道の客観論に比すれば、多少唯心の風を帯ぶるをみるは、仏教と外道との相異なるゆえんなり。換言すれば、小乗中一半は外道の客観論にして、一半は大乗の唯心論なりと判定するも、あえてその当を失せずと考うるなり。これによりてこれをみるに、『仏教理科』と題して余が講述するところは、多く小乗の客観論なれば、仏教中の外道に属する部分と称して不可なることなし。これを一家にたとうるに、親子、兄弟、夫婦の外に、下女あり下男あり小使いありて一家を成すがごとし。もしこれを分析すれば、親子、兄弟、夫婦は真の家族にして、下女、下男、小使は外来の雇人なり。前者は小乗中の主観論に比し、後者は小乗中の客観論に比すべし。もし小乗中の客観論をみてその仏教と認むるは、あたかも下女下男をみて真の家族と思うがごとし。畢竟するに一家中に外来の僕婢を加うるは、一家を維持するに助手を要するによるがごとく、仏教の一家を立つるにも外来の客観論の助手を要するなり。余はただ仏教を読む者が主人と家来とを混同し、奥様と下女とを誤認せざらんことを望む。須弥説のごときは、久しく仏教の家に奉公せるオサンドンくらいにみて可なり。もし世にオサンドンを奥様か御主人のごとく尊崇する者あらば、これを狂人と呼ばずしてなんぞや。仏教を研究する者はすべからく主従本末の軽重を知らざるべからず。

 以上は仏教理科の大略なり。よろしく『勝宗十句義論』講義、『倶舎論』講義、『唯識論』講義等を参看すべし。これよりその付講として、極楽論、地獄論を弁明せんと欲す。

 

     付  講

       極 楽 論

 『仏教理科』の付講として、極楽論、地獄論を講述する約なれば、ここにまず極楽論を述べんと欲す。およそ仏教にて極楽仏土を立つるに、この娑婆世界すなわち目前の世界をただちに仏土となす説あり。娑婆即寂光と唱うる、これなり。また極楽も地獄もみなわが心の中にありとなす説あり。かの己心の浄土、己心の弥陀を唱うるがごとき、これなり。またこの世界を離れわが心を離れて別に極楽浄土ありと唱うる説あり。これに十方に仏土ありと立つるものと、西方に極楽ありと説くものとの二様あり。故に極楽の所在を論ずるに、総じて左の四様ありと知るべし。

  第一はこの世界すなわち極楽なり

  第二はこの心の中に極楽あり

  第三は十方に極楽あり

  第四は西方に極楽あり

 しかるに天台にては四種の仏土を立つるなり。四種仏土とは

  一に同居土  二に有余土  三に果報土  四に常寂光土

 まず同居土とは凡聖同居土、あるいは染浄同居土と称し、凡夫と聖者と共に居住するをいう。換言すれば、六道の迷人と声聞、縁覚、菩薩の聖者と共に居住するをいう。つぎに有余土とは一名方便と称して、真道にあらざるも見思の惑を断じて生ずるところの仏土なり。すでに見思の惑を断ずるも、なお無明の惑を断ぜざるものの生ずる土なるをもって有余土と名付く。有余とは煩悩に余りあるをいう。つぎに果報土とはまた実報土と名付く。真実の法を修して感得するところの勝報なり。つぎに寂光土とは理性土にして、妙覚究竟の果仏所居の土なりとす。これを『浄名疏』に考うるに、円教願行の因を修めて、因極まり果満ちて妙覚を成ずるもの此土に居住すべしという。しかして余がここにもっぱら論ぜんと欲するものは、この四種仏土にあらずして西方極楽説なり。これ浄土門にてもっぱら唱うるところの仏土にして、此土を去ること西方十万億土の外にありとなす。これ人の大いに怪しむところにして、浄土門を信ずる者の少なきもかかる説を唱うるによる。ことに同じく仏説なるも、一乗家にありては此土すなわち極楽と説き、浄土門にありては西方の仏土を説くがごとき相違あるも、また大いに人の怪しむところなり。近来西洋より地球説、天文説等舶来し、地球図によりて考うるに、日本より西方を指して進むときは、シナ、インドを経てアフリカ、ヨーロッパに達し、更に西方を指して航ずるときは、アメリカを経て日本に着すべし。その間に決して極楽世界あるを見ず。もし地球外に出でて考うるも、天体の上にはもとより一定の方位なければ、いずれをもって西方と立つるや。たとえ一定の西方ありとするも十万億土の外に極楽世界のあるべき道理なし。故に今日の人はわずかに小学校を卒業すれば、決して西方浄土説を信ぜず。これをもって浄土門の僧侶達も愚夫愚婦の一文不知の連中に対して、西方に浄土あることを説くことを得るも、小学卒業の十二、三歳の童子に向かいて説法することあたわず。果たしてしからば、浄土門は愚夫愚婦の玩弄物となりて終わるより外なし。これ余がここに論ぜんと欲するところなり。

 まず第一に一仏教中に此土即浄土と従此西方極楽との異説あるはいかんということを考うるに、これもとより怪しむに足らず。元来仏教は真如開発論にして、一切万法その体これ真如なれば、甲も乙もわれもかれも猫も杓子も、みな真如ならざるはなし。換言すれば、この世界すなわちこれ真如なれば、これをただちに極楽というも、浄土と呼ぶも、寂光土と名付くるも、不生不滅世界あるいは涅槃界と称するも、すこしも不可なることなし。これ平等上の観察なり。もし差別の方面よりこれをみれば、万法と真如とは全く別物にして、此土と極楽とは別界となるべし。これをたとうるに、氷と水とはその体同一なる点より見れば、氷はすなわち水なりということを得るも、その相異なる点より見れば、氷の外に水ありといわざるべからざるがごとし。故に此土すなわち極楽なりというも真にして、此土を離れて極楽ありというも真なり。これ決して論理の撞着にあらず。あたかもわれも人なり、舜も人なれば、われすなわち舜なりというと同時に、われは舜にあらずして舜はわれの外にありということを得ると同一なり。つぎに極楽はわが心の中にありと立つる説と、わが心の外にありと立つる説との異同を考うるに、これまた論理矛盾の過失あるにあらず、元来仏教は唯心論にして、真如の体を名付けて一心となすものなれば、万法即真如は万法即一心なり。万法すなわち一心なれば、地獄も極楽もみな唯心所現なること問わずして明らかなり。かくして万法即真如と唱うるも、自他彼我の別全くなきにあらず、一心の大海中に差別の波相歴然として現立す。もしこの差別の方面よりこれをみれば、わが心の外に極楽ありといわざるべからず。これを要するに、我人のいわゆる心に絶対相対の両様ありて、三界唯一心、万法即真如のごときは絶対の心につきて説き、自他彼我の心は相対の心につきて説くの別あるも、その実この二者一なり。故にわが心の中に極楽ありというも真にして、わが心の外に極楽ありというも真なりと知るべし。

 つぎに十方に仏土ありという説と、西方に極楽ありという説とを較するに、これまた同一理に基づく。およそわが心の中に極楽ありとするは主観的見解にして、わが心の外に極楽ありとするは客観的見解なり。もし客観的見解によれば、目前の差別の境遇を離れて極楽の実有を唱えざるを得ざれば、西方説より十方説の方、道理あるがごとし。なんとなれば、宇宙そのものに元来東西の別なき以上は、極楽の方位を西方に定むべき理なければなり。もし西方に極楽ありというを得ば、これと同時に東方にも南方にも北方にも極楽ありということを得べき理なり。換言すれば十方に極楽あるべき理なり。しからばなにをもって、浄土門にてもっぱら西方浄土説を唱うるや。これ特殊の浄土を立つるによる。もし諸仏普通の浄土を説くにおいては、浄土門にて十方説を唱うるも、阿弥陀仏と名付くる特殊の仏の居住せる浄土を説くに至りては、一定の方位を指定せざるを得ず。換言すれば、特殊の浄土を示さんために特殊の方位を用うるなり。果たしてしからば、更に一問ありて何故に東西南北、八方上下の中にて特に西方と指定せるやといわん。余これに答うるに、三種の解釈あり。その一は神秘的釈義、その二は方便的釈義、その三は順世的釈義なり。まず神秘的釈義によれば、西方浄土門は凡智の知る限りにあらずして、仏智の所見なれば、今日のわれわれの考えにては西方に浄土あるべき理なしとするも、他日仏眼の開けたる暁には、そのしかるゆえんを知るに至らんと説き、畢竟神秘不測にして可否すべからずとなすなり。かくのごときは宗教として講ずるには差し支えなきも、哲学として講ずるには不適当の論なり。つぎに方便的釈義によれば、宇宙間に東西南北の別あるは我人の迷見より生じ、本来方位なきものなり。その方位なき所に方位を立てて西方と定むるは、凡夫の迷情を一定するの意に外ならず。すなわち凡夫をして特殊の仏の住せる特殊の浄土を祈念せしむるために、方便上特殊の方位を用いたるまでなり。故にその浄土は必ずしも西方に限りてあるにあらずという。つぎに順世的とは、世間通俗の釈義にして、学問上の沙汰にあらざるをいう。けだしインドの風俗あるいは伝説上、一般に西方を重んじ、西方数万里外に最楽至安の妙境あるがごとくに唱えきたりしならん。これらの俗説に順じて西方十万億土を隔てて極楽世界ありと定めたるものなりという。この順世的釈義は局外者の評見に過ぎず。しかして仏教そのものの方にては、第一と第二との両釈義を用いざるべからず。すなわち仏教を宗教として解するときは、神秘的釈義を用い、哲学として釈するときは方便的釈義を用いざるべからず。すでに仏教は宗教と哲学との両方面より成るをもって、この二種の釈義を併存して可なり。

 つぎに十万億仏土を過ぎて浄土ありと、殊更に里程までを指示するはいかんというに、これもとよりその遠きを示す形容に外ならず。しかしてその遠近は我人の迷情の厚薄によるものにして、その迷い深ければ深きほど極楽は遠くなる道理なり。もし迷いを離れて悟りを開くに至らば目前に極楽を現ずべし。なんぞ十万億の外を問わんや。果たしてしからば、極楽のここをへだたること遠きは、凡夫の迷情につきて立つるによると知るべし。

 つぎに極楽荘厳につきて一言せざるべからず。『阿弥陀経』によるに、極楽国土には七重の欄楯あり、七重の羅網あり、七重の行樹ありといい、また極楽国土には七宝の池あり、八功徳水その中に充満せり、池底にはもっぱら金沙をもって地にしけり、四辺に階道あり、金銀、瑠璃玻瓈をもって合成せり。ないし池中に蓮華あり、大きさ車輪のごとしといい、またかの国土には常に天楽を作す、黄金を地となし、昼夜六時に曼陀羅華をふらすといい、またかの国には常に種々奇妙雑色の鳥あり、ないしこの衆鳥昼夜六時に和雅音を出すという。これ極楽の実況なり。世人これを聞きてただちに妄誕不稽、信ずるに足らずとなす。もし神秘的釈義によらば、この形容をもって真に極楽の光景となすべきも、方便的釈義によらば、これただ極楽の一斑を形容したる文字に過ぎず。その意、凡夫をして最勝至楽の国土なるを了解せしむるにあるのみ。すでに極楽は我人の五感以上の世界なること明らかなれば、その光景はわが五感以内の事物によりて形容すべからずといえども、五感以上の感覚を有せざる我人のごとき凡夫にありては、五感以内の形容をかりてその一斑を示すより外なし。故にこれらの形容は仮設的方便にして、その要、我人をして極楽とは最楽至安の世界なることを示すにあるのみ。あたかも盲人に向かいて色を告ぐるも同じく、直接にその真情を示すべからざれば、万やむをえず仮設的方便によるとなす。これいわゆる方便的釈義なり。その他の極楽に関する論は、地獄論の終わりに至りて述ぶべし。

       地 獄 論

 地獄とは『倶舎頌疏』によるに、梵に那落迦という、ここに苦具という、義翻して地獄となす、地の下に獄あるをもっての故に、正翻にあらず、正理論に那落を人と名付け、迦をば名付けて悪となす、人多く悪を造りてその中に顛墜す、これによるが故に那落迦趣と名付く、あるいは人に近く故に那落迦と名付く、重罪を造る人速やかに彼に堕するが故なり、あるいはまた迦とはこれ楽の異名なり、那とは無をいう、落はこれ与の義なり、楽相を与うることなきを那落迦と名付く、あるいはまた落迦はこれ救済の義、那は不可と名付く救済すべからざるとを那落迦と名付く、あるいはまた落迦はこれ愛楽の義なり、愛楽すべからざるを那落迦と名付くとあり。もって地獄の釈義を知るべし。つぎにその種類を考うるに、地獄に八種ありとなす。

  一、等活   二、黒縄   三、衆合   四、叫喚   五、大叫喚

  六、焦熱   七、大焦熱  八、無間

 今『住生要集』によるに、等活地獄とはこの閻浮提の下一〇〇〇由旬にありて縦広一万由旬、このうち罪人互いに常に害心を抱く。もしたまたま相見れば猟者の鹿に遇うがごとし、おのおの鉄杖鉄棒をとりて頭より足に至るあまねくみな身を打ち体破れ砕く、あるいはきわめて利刀をもって分々に肉を割くこと厨者の魚肉を屠ふるがごとし。涼風きたり吹きいたりていきること故のごとし。欻然(たちまち)としてまたたちて、前のごとく苦を受く。あるいはいう空中に声ありていわく、この諸有情還りて等活すべし等と説けり。

 つぎに黒縄地獄は等活の下にありて縦広前に同じ。獄卒罪人をとりて熱鉄地に臥す。熱鉄縄をもって縦横に身に拼(すみう)ち、熱鉄の斧をもって縄にしたがって切り割く、あるいは鋸をもって解け、あるいは刀をもって屠ふり、百千段となし処々に散在し、また熱鉄縄を懸けて交横すること無数なり。罪人を駆ってその中に入れしむ。悪風あらく吹きてその身に交え絡(まと)う。肉を熱き骨を焦して苦毒極まりなし。また左右に大鉄山あり。山の上におのおの鉄の幢を建て幢の頭に鉄の縄を張れり。縄の下に多く熱鑊(かなえ)あり。罪人を駆って鉄山に負いて縄の上より行かしめ、はるかに鉄鑊に落として摧き煮ること極まりなしという。

 つぎに衆合地獄は黒縄の下にあり、縦広前に同じ。多く鉄山あり、両山相対す。牛頭馬頭等、諸獄卒手に黒杖をとり駆って山間に入らしむ。このとき両山迫りきたり合わせ押すに、身体摧け砕けて血流れて地に満つ。あるいは鉄山あり。空より落ちて罪人を打つ。あるいは石上に置きて巌をもってこれを押す。あるいは鉄の臼に入りて鉄の杵をもってうつ。極悪の獄鬼ならびに熱鉄の獅子、虎狼等の諸獣烏鷲等の鳥、競いきたりて食噉すという。

 つぎに叫喚地獄は衆合の下にあり。縦広前に同じ。獄卒の頭、黄なること金のごとし。眼中火出で赭色衣を着す。手足長大、疾走風のごとし。口に悪声を出して罪人を射る。罪人惶怖して頭を叩きて哀れを求む。願わくば慈愍を垂れ少しく放捨せられよ。この言ありといえども弥瞋怒を増すという。

 つぎに大叫喚地獄は叫喚の下にあり。縦広前に同じ。苦相また同じ。

 つぎに焦熱地獄は大叫喚の下にあり。縦広前に同じ。獄卒、罪人を投じて熱鉄地上に臥す。あるいは仰ぎ、あるいはふせて、頭より足に至る大熱鉄棒をもってあるいは打ち、あるいは築き、肉摶のごとくならしむ。あるいは極熱大鉄熬上に置き猛炎これをあぶり、左右にこれを転じ、表裏より焼薄す。あるいは大鉄串をもって下よりこれを貫きて頭に徹して出し、反復してこれをあぶりて、かの有情の諸根毛孔および口中をして、ことごとくみな炎を起こさしむ。あるいは熱鑊に入れ、あるいは鉄楼に置く。鉄火猛盛にして骨髄に徹すという。

 つぎに大焦熱地獄は焦熱の下にあり。縦広前に同じ。苦相また同じ。

 つぎに阿鼻地獄は大焦熱の下、欲界最底の処にあり。罪人、彼に向かうときまず中有の位にて啼哭して偈を説いていわく。

  一切はただ火炎なり 空に遍して中間なし 四方および四維 地界にも空処なし

  一切の地界の処に 悪人みな遍満せり われ、今帰するところなく 孤独にして同伴なし

  悪処の闇の中にありて 大火炎聚に入る われ、今虚空の中において 日月を見ざるなり

      

      

      

 閻羅人瞋怒の心をもって答えて曰く、あるいは増劫あるいは減劫に大火汝が身を焼く、痴人すでに悪を作りて今なにを用いてか悔ることを生ぜん、云々とあり。

 以上は八地獄の苦相なり。かかる地獄の実在を証明するに、極楽論の下に示せるがごとく、神秘的と方便的と順世的との三様の釈義あり。そのうち神秘的と順世的とは今論ずるに及ばず。ひとり方便的釈義によれば、地獄の状態をいちいち目に見るがごとく示せるは、必ずその実しかるにあらず。ただ我人をして苦界の想像を呼び起こさしむる方便に過ぎず。しかれどもまたあえて虚妄的方便にあらずして道理的方便なり。世に『地獄実有論』と題する書ありて、その中にもっぱら地獄の実有を証明せるも、これ比喩的証明なれば一も信ずるに足らず。しかるに地獄極楽の実有は道理上証明するを得べし。その基づくところの原理は因果応報にあり。もし精神的因果の理法、真なる以上は善因善果、悪因悪果の規則また真ならざるべからず。善悪因果の理法、真なる以上は地獄極楽の実在もまた真ならざるべからず。なんとなれば我人の心識、前念後念相続してしかも永続するものなり。その永続するや因果の理法に従いて、あるいは昇りあるいは降り六道生死の間に輪転すという。その六道も三界もみなわが因縁業感によりて現ずるものにして、世界の変化も万象の起滅もみな有情の業力によりて呼び起こすとなすは、実に仏教唯心論の根拠たり。かくして我人の一生間、身口意の上に現じたる善悪の業因は、必ず苦楽の感果をきたすゆえんを知らば、善因には楽果あり、悪因には悪果あり。換言すれば、善因を修めたるものは楽処に生まれ、悪因を修めたるものは悪道に陥らざるべからざるは論を待たざるなり。これによりてこれをみるに、極楽地獄は真如界上に本来実在せるものにあらざるも、我人の迷悟善悪によりて招ききたすは明らかなり。ただ地獄には虎の皮の褌を着けたる鬼あり、劔の山あり、火の川あり等と説ききたれるは、みな苦界の苦相を形容せるものに外ならず。たとえ地獄に鬼あるも虎皮の褌を帯ぶる理なし。故に平田篤胤翁は川柳を設けて「地獄には虎がしただか有ると見へ」といえり。閻魔王の装束もシナ風なるははなはだ怪しむべし。もし果たして劔や釜があるならば、鍛冶屋、鋳物師もあるべき道理にして、鉱山も金掘りもあるべき道理なり。故に地獄の図などはみな苦相の形容のみ。もし道理上これを考うるに、我人死後の世界は現在の世界とは全く状態を異にせざるべからず。その世界の苦相はこの世界の苦相をもってたとうべきにあらず。すでにこの一世界にありても、熱帯地方の人は太陽をもって恐るべきものとし、寒帯地方の人は愛すべきものとなす。犬は冬を喜び、猫は夏を喜ぶ、蟻は砂糖を見て極楽と思い、蛭は塩をもって地獄と思うの相違あるにあらずや、いわんやこの世界も全く異なれる別世界をや。しかるにまたこの世界の苦相をもってかの世界を形容するは、やむをえざる道理あることを知らざるべからず。かの世界はすでに別世界なる以上は、その苦相を我人に示さんとするも、この世界における苦相を用うるにあらざれば決して示すべからず。故に我人は、これらの形容によりてその世界の苦界なることを知了することをもって足れりとす。極楽の形容もまたしかり。故にもし我人、他日仏眼を開ききたらば、真如月下における天地の光景は全く別世界を成し、暗雲晴れわたりて始めて山河の真相を認むるがごとく、このとき始めて地獄極楽の真相を感見すべし。左に月に関する四、五の句を引きて本講の結文となす。

  君みるや天上の一輪の月 無限の清光大千を照らす   (一)

  落木千山、天遠くして大なり 澄江の一道、月分明たり (二)

  風、碧落に吹きて浮雲尽きぬ 月青山に上りて玉一団なり(三)

  雲開けば月色、家々に白し 春過ぎなば山花、処々に紅 (四)

  朝雲暮雨、渾として虚語なり 一夜、猿なく、月明りの中(五)

  千江水あり、千江の月 万里雲なく、万里の天     (六)

  水中本来月影なきも 浄水、縁となりて本月を見る   (七)