6.解説―井上円了の妖怪学とそれ以後:小松和彦

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解  説

解  説 ・・ 井上円了の妖怪学とそれ以後 小 松 和 彦

 1 妖怪を定義する

 「妖怪」という言葉はやっかいな言葉である。まず、その語が指示する対象がはっきりしない。たとえば、鬼と言えば、ほとんどの人は共通した鬼のイメージを想起するだろう。ろくろ首と言えば、首がとても長い人間の姿を思い浮かべるだろう。河童と言えば、頭に皿状のハゲがあり背中に甲羅を背負った童形の動物を思い浮かべるだろう。

 では、「妖怪」という語それ自体から、何を思い浮かべるだろうか。ある人は、水木しげるの漫画に登場する鬼太郎やねずみ男などを思い浮かべるかもしれない。ある人は、宮崎駿のアニメのトトロを想起するかもしれない。別のある人は、金縛り体験を思い浮かべるかもしれない。つまり、鬼や河童などとは異なって、その人自身が典型的な妖怪だと思っている妖怪種目を思い浮かべるわけであって、それは誰でも共通したものではないのである。妖怪という概念はその構成要素を確定できないほど広い範囲に及ぶカテゴリーだからである。

 このような次第であるから、妖怪を定義するのはとてもむずかしい。しかし、ここではとりあえず文字どおりに理解して、「あやしいもの」や「あやしいこと」というふうに理解しておく。つまり、人が「あやしい」と思うものはすべてに「妖怪」というラベルを貼ってかまわないのである。

 たとえば、家の中で、「あやしい」と思われる「音」がすれば、それはそのとき「妖怪」となる。また、家族の一人が「あやしい」と思われるような「顔」や「身振り」をすれば、それがそのとき「妖怪」となる。すなわち、「妖怪」とは人びとの認識体系・了解可能な知識の体系から逸脱したものすべてということになる。もっとも、そのような「妖怪」のほとんどは、すぐに聞き違いだったり思い違いだったり、また了解可能な事柄だったりして、たちまちそれらの現象や事物から「あやしい」という属性が消え失せてしまうことの方が多い。

 このように、「妖怪」とは人びとに「あやしい」という念を起こさせたものすべてを意味するのである。おそらく、妖怪についてこれ以上の適切な表現はないのではなかろうか。

 しかしながら、こうした非常に広い概念規定を与えながらも、妖怪研究者が実際の考察の対象に選び出すもののほとんどは、物語化したあるいは絵画化された妖怪群である。すなわち、伝承文化となったレベルの「妖怪」に関心が注がれ、「怪異」の発生の現場の考察はあまりなされてこなかったようである。

 「妖怪」という語のやっかいな点のもう一つは、「妖怪」と同義と思われているいくつかの語があることであろう。しばしば、「妖怪」と「化け物」とは同じものなのかとか、「お化け」と「幽霊」とはどこが違うのか、というたぐいの質問を受ける。言葉は一種の生き物なので、時代とともに意味も変化する。したがって、これらの違いを厳密には区別しえない点が多い。だが、ここで若干の解説をしておくのも無駄ではないであろう。

 まず、「妖怪」であるが、この語は今では世間に広く浸透しているが、この語は明治以前にはあまり世間の人びとが日常生活のなかで用いることはなかったようである。では、どのようにして「妖怪」という語が登場してきたのだろうか。

 まだはっきりしたことはわからないのだが、明治時代になって、「妖怪現象・存在」に興味を抱きその解明に従事した人たちが、「学術用語」として「妖怪」という語を意識的に用い出したようである。そうした意味での最大の功労者が、以下で述べる妖怪博士との異名をとった哲学者の井上円了であった。学術用語として作られた「妖怪」が、研究者の枠を越えて次第に世間にも広まっていったわけである。いまではもはや「妖怪」は学術用語というよりも民俗語彙となっているといっても過言ではないのだが、なおすんなりと頭に入ってこないと感じるのは、それが学術用語から出発したからであるように思われる。

 

 2 井上円了の妖怪学

 ところで、学術用語としての「妖怪」の確立と浸透に多大な貢献をなした井上円了は、みずからの研究を「妖怪学」と名づけて、徹底的に妖怪を究明しようとした。かれは「妖怪」を定義し、それに含まれる「妖怪現象・事物」を体系的に考察しようとした最初の研究者であった。早くも明治一九(一八八六)年、井上円了が二八歳のとき、不思議研究会を組織し、翌年には不思議庵井上円了の名で『妖怪玄談」(哲学書院)を刊行している。この著書の冒頭で、妖怪を次のように定義している。

 「洋の東西を論ぜず、世の古今を問わず、宇宙物心の諸象中、普通の道理をもって解釈すべからざるものあり。これを妖怪といい、あるいは不思議と称す」。興味深いことに、この定義は、現在の妖怪研究者がおこなう定義とほとんど同じである。

 もっとも、井上の関心は、こうした「普通の道理をもって解釈すべからざるもの」を「普通の道理に基づきて解釈を下す」ことにあった。たとえば、上述の『妖怪玄談』は「コックリさん」を合理的に解釈しようとしたものである。かれはそれを次のように説明する。「……これを試むる人は大抵みな、あらかじめコックリの回転するを知り、またその回転の、人の問いに応答するを知るをもって、その思想、知らず識らず発現して、手の上に動作を起こし、ただにその回転の結果を見るのみならず、その回転のよく人の問いに答えて、事実を告ぐるを見るに至るなり。」要するに、コックリが回転すること、問いに反応することをあらかじめ知っている心性が、無意識のうちにコックリを動かし反応させているのだ、というわけである。

 つまり、かれの妖怪学は、妖怪現象の多くを合理的に解釈し、可能な限り妖怪を撲滅していくことであった。

 井上円了はさらに妖怪研究会を発足させ、古今東西の書物を渉猟し、妖怪現象・存在に関する記事を抜き出す一方、全国各地を講演などをしながら巡り歩いて資料を集め、明治二六―二七年にかけて、大著『妖怪学講義』を刊行するに至った。かれの妖怪学の基本的な姿勢は、妖怪を「仮怪」と「真怪」に区別し、前者を合理的に解釈することで否定していくことにあった。当時の人びとは「あやしい現象・存在」を超自然的なものの仕業とみなしているが、それらを合理的に解釈してみせることで撲滅しようとしたわけである。これに対して、どうしても説明しきれない「不思議」があり、これをかれは「真怪」と名づけた。生命それ自体が不思議だといった現象・存在のことである。つまり、合理的精神に支えられて、かれは仮怪的妖怪を「迷信」とみなして撲滅しようと躍起になったのである。井上円了は妖怪(=仮怪)を、日本人が近代人となるために、つまり近代日本を立ち上げるために障害になるものとして見ていたのである。

 では、井上円了の妖怪撲滅の方法はどのようなものだったのだろうか。上述のコックリさんの場合と同様、かれはひたすら妖怪現象を自然現象・人為現象あるいは心理現象として説明しようとする。たとえば、いまや妖怪物語の代表作のひとつに数え上げられる『稲亭物怪録』(稲生物怪録)を長々と紹介したあと、「目には怪物を見、耳には怪声を聞き、手足が思うように動かせず、失神したり気絶したり、前後不覚になるがごときは、みな幻覚、妄想がもとになっているものと考えられる」と「普通の道理による説明」を施す。たったそれだけである。亡くなった人やそこに居なかった人が写っていたという「幽霊の写真」(現在の表現でいう心霊写真)の場合は、「一度写したるガラスをよくみがかずして再び写したるときは、先影の朦朧としてその形をとどむることあり」(『続妖怪百談』)と説明する。事例に対して、解釈はあまりに簡単であるが、井上円了にとっては解釈は単純であっても、その撲滅の対象となる事例の紹介はじつに詳しい。かれにとってはその点こそが重要であったのかもしれない。

 このように、井上は科学合理主義に従って、妖怪現象とみなされた現象を次々に撲滅する仕事に情熱を傾けた。その過程で、妖怪現象を自然現象として説明する場合と心理現象として説明する場合があることから、かれは「妖怪」を二分して「物怪」と「心怪」と、さらに妖怪現象の特徴とその合理的説明の仕方に応じて、妖怪研究つまり妖怪現象の科学的説明の部門を、「理学部門」「医学部門」「純正哲学部門」「心理学部門」「宗教学部門」「教育学部門」「雑部門」に細分した。ここで言われている「理学」や「医学」という語は、今日の使用法とはかなり異なっている。自然現象を妖怪視している事例を「理学」、精神的な病気を妖怪視している事例を「医学」といった具合に表現して、妖怪現象を分類しようとしているにすぎない。

 要するに、かれの「妖怪学」は、妖怪現象=「普通の道理にあらざる説明」を、「自然現象」「人為現象」「心理現象」のいずれかに言い換えることが目的とされていた。つまり、妖怪学者とは、科学合理主義者であり妖怪撲滅運動家のことであって、いわば近代版ゴーストバスターであった。

 このような研究はけっして誤ったものではない。枯れ尾花を幽霊と思って脅え続けることはけっして喜ばしいことではないし、狐が人に乗り移ったために病気になったという信仰が続くことも好ましいことではない。そうした「迷信」(否定された信仰)から解放されることで、どんなにかわたしたちは幸せになったことだろう。井上円了らの精力的な活動によって、たくさんの庶民が妖怪から解放されたのである。現在もなお妖怪現象=仮怪が発生しており、妖怪現象・存在がまったくなくなったわけではない。それでも、多くの人びとが妖怪に対して距離をとって臨むことができるのは、こうした妖怪撲滅のための学問としての妖怪学の活躍があったからである。その意味で、井上円了の仕事は高く評価されなければならないのである。

 

 3 井上円了以後の妖怪研究・・歴史学と民俗学

 井上円了の精力的な活動によって、妖怪撲滅運動が一定の効果を上げ、またそれにともなって「妖怪」という語が世間で流通しだしたとき、井上の妖怪学に欠落していた側面から妖怪を研究しようとするものが現れてきた。井上円了の妖怪学は、いってみれば、人びとの心から妖怪を追放し、それを「古代の愚民」の文化として過去の世界に捨て去ることであった。

 ところが、新たに登場した妖怪研究は、井上円了の研究を通じて、日本人がいかに多くの妖怪を信じてきたのかに驚くとともに、井上が過去の世界に捨て去った「妖怪」をまた拾い出してきて、その「妖怪」を素材にした日本人の歴史を描き出そうという試みであった。大正一二(一九二三)年に刊行された江馬務『日本妖怪変化史』(中公文庫)は、そうした視点から著されたものであった。江馬務は、井上円了などとははっきりと一線を画する研究姿勢をとる。かれはその冒頭で次のように言う。「読者はこういわれるかも知れない。・・今も昔も理は一つである。妖怪変化などというものは世にあるはずがない、なるほど、あるいは主観的には存在するかもしれないが、客観的には存在しないから、今日、自動車だの飛行機だの動いている世に、こんな世迷い言は聞くにあたらぬ、と。一応は、ごもっともである。しかしながら、そうした議論で楯つく読者と、わたしとの見地は、根本的に異なっていることをまず自覚していただきたい。この本は、妖怪変化を実在するものと仮定して、人間との交渉が古来どうであったのか、換言すれば、われわれの祖先は妖怪変化をいかに見たのか、いかに解したのか、いかようにこれに対したのかということを当面の問題として論ずるのである。」

 ここでは、井上円了の妖怪学が必要性を感じなかった妖怪学の「歴史学部門」の構想がはっきり述べられている。すなわち、撲滅の対象であった「妖怪」が、歴史的考察物として新たな光を浴びることになったのだ。江馬務の妖怪の歴史の研究は、その意味で画期的な研究であった。合理主義の観点から妖怪が否定され、それが「古代の愚民」の文化として糾弾されようとも、自然現象その他を妖怪現象とみなす人びとがいたならば、その妖怪文化を研究するのはそれなりに意義がある、という主張をしているからである。すなわち、井上の言葉を借りて言えば「普通の道理をもって解釈すべからざるもの」の歴史学=「妖怪の歴史学」が構想されていたわけである。

 もっとも、江馬の「妖怪」観は井上とはかなり異なっている。というのは、井上が現実世界における「妖怪現象・存在」の解明に焦点を当て、そのすべてを対象としていたのに対して、江馬の場合は、「妖怪表象」つまり現実の妖怪現象・存在を基盤として生み出された表象文化の方に視点が合わされていたのである。

 その結果、江馬の妖怪分類は、表象された妖怪の分類という性格を持っていた。すなわち、まず、妖怪の正体とされるものを、妖怪の言説や絵画を念頭に置いて、人、動物、植物、器物、自然物、の五つに区別し、それをさらに細かく分類するということがなされている。興味深いのは、江馬は、歴史的変遷をたどりつつも、妖怪変化をさまざまな角度から考察を試みていることであろう。たとえば、出現理由を、愛情によるもの、怨恨によるもの、その他の用事があることによるもの、なんの用事があってできたのかわからないものに分類したり、妖怪の能力や性別、弱点などに注意を払っている。

 江馬の研究が著されたのとほぼ同じ時期に、井上円了の妖怪撲滅学としての妖怪学の隆盛を苦々しく思う一方、江馬務の妖怪変化の歴史学に拍手を送ったのが、近代日本が立ち上がってくる過程で排除・放棄され撲滅されていった「日本文化」を「民俗」として括り出そうとしていた柳田国男であった。

 柳田は、昭和一一(一九三六)年に発表した『妖怪談義』において、「無いにも有るにもそんな事は実はもう問題で無い。我々はオバケはどうでも居るものと思った人が、昔は大いに有り、今でも少しはある理由が、判らないで困って居るだけである」と述べるように、井上円了のような科学的合理主義に基づく妖怪否定論者とは異なる、妖怪の存在を信じていた人びとの思考構造=心性にそった「妖怪の宇宙論」とでもいうべき研究の必要性を説いた。もっとも、柳田国男は、民俗学の一環としての妖怪学の必要性を説きはしたものの、残念ながら、その細部にわたる研究をついにおこなうことはなかった。しかし、『妖怪談義』は、排除・撲滅されつつあった妖怪を民俗のなかに回収し、研究することの意義を説き、そのための理論的な切り口をおおざっぱではあるにせよ示した点で画期的であったといえよう。

 柳田は妖怪研究において次の三点を強調した。第一に、全国各地の妖怪種目(種類)の採集をする、第二に、妖怪は場所に出るのに対して、幽霊は人を目指して出ると言った区別がある、第三に、妖怪は神の零落したものである。実際、民俗学的妖怪研究は長くこの指針にそってなされてきたのであった。

 もう少しかれの妖怪観を見てみよう。柳田はまず妖怪を日本人の畏怖心、恐怖の感情に根ざしたものであると言う。その感情が一定の形をとったものが妖怪なのだというわけである。人の身体の奥底にある畏怖・恐怖が妖怪を生み出すというこの視点は、きわめて重要な指摘であり、おそらく今日でも十分に通用する考え方であろう。その一方では、そうした恐怖感情の形象である妖怪を、人びとが信仰していた神々の零落したものとも理解した。水の神の零落した姿が河童という妖怪であり、山の神の零落した姿が山男や山姥といった妖怪であると考えたのである。すなわち、信仰の零落したもの、つまり「俗信」の典型例として「妖怪」が想起されているのである。崩れた神観念と恐怖感情が融合することで妖怪が生じるのだというわけである。さらに、こうした図式、つまり信仰から俗信へ、神から妖怪へという図式を、一方の極に古代の信仰によって支配されたはずの時代を想定し、その対極に近代の科学的合理主義の時代を置き、前者から後者への変遷・移行の過程のなかにも見出そうとした。近代化のなかで放棄され衰退していく民俗、その重要な構成要素である民間信仰のなかでも周辺的位置づけを与えられた「俗信」が、まず科学的合理主義者の槍玉に真っ先に上がっていた。柳田の目には、井上円了の行動は妖怪退治をする豪傑の姿とオーバーラップしていたのかもしれない。もはや退治されるのは明らかである。いやもうほとんど退治されてしまっていた。しかし、柳田はその妖怪の屍を前にして、いったい昔の人はかれらをいかなる理由で必要としていたのだろうかと問いかけたのであった。そして、柳田は、かれの民俗学の賛同者たちに、全国各地でなお伝えられている「妖怪」伝承の採集・記録を呼びかけた。

 

 4 妖怪の民俗学の成果と低迷

 柳田国男の民俗学的妖怪研究に刺激され、昭和一三年に出された柳田国男の『妖怪名彙』に従いながら各地から民俗レベルの妖怪種目が報告されるようになり、それがある程度全国に行きわたったとき、『全国妖怪辞典』のたぐいも作成されるようになった。

 しかしながら、妖怪それ自体の民俗学的研究は、河童や狐などの憑きものなどを除けばほとんど進展しなかった。いや、もっとはっきり言えば、民俗学的妖怪研究は、妖怪自体を目的としたものではなく、別の研究目的に利用すべき素材として扱われた。そのため、妖怪自体の研究に関心をあまり注がなかったのであった。すなわち、妖怪が神信仰の変化零落した姿であるという前提に立って、妖怪以前つまり前代の神であった時代の信仰を復元しようとしたのである。いいかえれば、妖怪以前=前代の神信仰の復元研究が民俗学的妖怪研究であり、「妖怪の社会学」や「妖怪の意味論」といった方角での研究ではなかったわけである。

 民俗学でいかに信仰零落説が横行していたかをよく物語っているのが、井之口章次の「妖怪と信仰」(『日本の俗信』)であろう。かれは、当時の民俗学の状況をふまえて慎重に「理解しにくい提案かもしれぬが」と前置きした上で、「妖怪現象というものは、おそらくどの国の民族にも、また時代を超越して存在するものであろうから、信仰と平行して、ある場合には、信仰よりも古くからあったものと認められる」と、当時としては大胆な発言を行っているのは注目すべきであろう。だが、これに続けて、「ところがその一方、現在知られている妖怪の一つ一つについて、その由来を細かく検討してみると、そのほとんど全部といっていいほどのものが、神信仰・霊魂信仰の変化零落した姿なのである」と述べ、柳田国男の零落説の支持を表明してしまうのであった。すなわち、鬼や天狗はその発生(創造)のときから、人間に敵対する邪悪な超自然的存在であったかもしれない、という可能性を放棄してしまっているのであった。ここに柳田国男的な妖怪研究の限界が物語られているのであった。

 民俗学は全国各地の妖怪資料を精力的に採集したという点で高い評価を与えねばならない。しかしながら、そうした妖怪資料の考察においては、その分析の枠組みは、つねに前代の神信仰が衰退して今は妖怪になった、というものであった。そうしたマンネリ化した民俗学的妖怪分析方法による論文が大半を占める柳田国男以降の民俗学的妖怪研究のなかで、妖怪もしくはそれに類する素材を扱った重要な研究が著された。その一つが石塚尊俊の『日本の憑きもの』(未来社)であり、もう一つは谷川健一の『魔の系譜』(紀伊国屋書店)である。前者は人に乗り移るという動物霊をめぐる信仰を可能な限り総括的に扱った研究で、妖怪研究におけるもっとも充実した各論を構成していたのである。後者は文学者・評論家から民俗学者へと次第に変貌していった谷川健一の転換点に位置する代表作であり、「日本歴史の裏側に、もう一つの奇怪至極な流れがある。それは死者の魔が支配する歴史だ」との仮定のもとに、日本の歴史と怨霊系の妖怪や妖異との恐るべき関係を解き明かした。すなわち、ここで谷川が明らかにしたのは、柳田がいうような前代の神信仰の零落したものといった枠組みではとうてい理解しえない、生きている人間の行動を根底から規制している強力な悪霊たちの凄じい活動ぶりであった。歴史における敗者や弱者が、死を契機に、怨霊となって勝者や強者を攻撃する。合理的に解釈された歴史とは別に、そう信じた人びとの言説と行動の集積としての歴史もあったのであって、この歴史を浮かび上がらせることもまた、日本の歴史の研究なのであるというわけである。こうした憑きものや怨霊のたぐいの事例群は、その事例に触れれば触れるほどに、民俗学で定説となっていた神信仰の零落説に対する疑念を増大させていったのであった。もっとも、谷川健一の、鉱山文化と鬼や目一つの妖怪との関係を扱った『青銅の神の足跡』という作品は、目一つの妖怪を鍛冶神としての目一つの神の零落とみなすことで論が展開されている。

 石塚尊俊や谷川健一の研究は、「妖怪」自体の研究とはいえないものである。それは妖怪化する以前の「神」の段階の「妖怪」を復元する作業であった。すなわち、柳田が構想した妖怪研究、いいかえれば、前代の神信仰を復元するために妖怪を素材にするという研究であった。「憑きもの」や「怨霊」は妖怪以前の「妖怪」、妖怪の前形態なのである。

 しかし、こうした、妖怪を前代の神信仰の残存、神の抜け殻としてしかみなさない妖怪研究では、すでに述べた妖怪の意味論や妖怪の機能論といった研究がどうしても欠落してしまいがちであった。たとえば、河童や天狗の存在を信じている人びとにとって、河童や天狗はいかなる意味をもっているのか、といった疑問に答えられないのである。

 

 5 妖怪の現代と妖怪学の現在

 井上円了の活躍した時代は、まだ現実の世界で妖怪が跋扈していた時代であった。そのために、かれは日本人が近代人となるためには妖怪を退治する必要を切実なものとして感じたのであった。そして大正時代も終わりになると、科学合理主義の浸透によって妖怪が消滅していった。それはもはや「遅れた地域」に、「遅れた人びと」の心のなかに、辛うじて残存する程度になった。そんな時代になって、井上円了の妖怪学に欠落していた妖怪研究、井上円了風の用語を用いれば、妖怪の歴史学=「妖怪学・歴史学部門」や妖怪の民俗学=「妖怪学・伝承資料記録部門」が誕生したが、このいずれも、時代の進歩とともに人間世界から退場せざるをえない妖怪の歴史を記録として残そうというものであった。

 しかし、妖怪が衰退・減少してゆけば、そうした妖怪学の諸分野も活力を失ってゆくのは当然の帰結である。したがって、妖怪学のなかで唯一残るとすれば、妖怪の歴史学だけだったはずである。

 ところが、意外なことが起こったのである。高度成長期以降、人びとの間で次第に妖怪に対する関心が高まってきたのである。現代人の心の中に、妖怪が再び住み着き、徐々に成長し始めたといっていいかもしれない。現実の世界でも、「学校の怪談」や「病院の怪談」あるいは「オフィスの怪談」などがまことしやかに語られていた。「口裂け女」のように爆発的な活動を展開する例もみられた。井上円了が生きていたならば、前近代の妖怪の亡霊が現れたといって、真っ先にそうしたところに出かけ、その妖怪現象を科学合理主義的方法で説明して撲滅をはかるのではなかろうか。

 興味深いのは、現実の世界での噂話だけではなく、フィクションの世界でも新旧さまざまな妖怪画や妖怪物語が人気を集めだしたことである。さらに、それに基づいた妖怪グッズのたぐいも商品としてもてはやされるようになった。まさに妖怪ブームが訪れてきたのである。現代文化のなかに多様な側面をもった妖怪文化が形成されたのであった。

 このような状況が訪れることは、これまでの妖怪研究者たちには予想できなかったことであった。新たな問題が妖怪からつきつけられたわけである。すなわち、妖怪は現実の世界から追放したとしても、人間の想像力はなお妖怪を創造し続けるのだ、実在するとか、しないとかのレベルでは捕らえきれない、もっと人間の心の問題と深くかかわっているのかもしれない、といった問題である。

 そうした疑問に答えるためには、現代人にとっての妖怪とはいかなる意味をもっているのか。すなわち、現代日本における妖怪の社会学とか妖怪の意味論を構築しなければならないのである。たしかに、このような視点からの妖怪研究は、宮田登『妖怪の民俗学』(岩波書店)や常光徹『学校の怪談』(ミネルヴァ書房)、拙著『妖怪学新考』(小学館)など、まったくないというわけではないが、まだほんの少しである。

 それでは、こうした状況のなかで、明治時代に、妖怪撲滅運動の理論書・実践書として書かれた井上円了の膨大な著作群は、いかなる意味を持ちうるのだろうか。おそらく、最大の価値は井上円了の著書のなかには、書物や新聞を博捜してあるいは実地調査によって得た膨大な妖怪資料がふんだんに盛り込まれていることであろう。井上円了の著作がなければ(かれの意には反するかもしれないが)、 当時の妖怪資料はきわめて貧弱なものになっていたにちがいない。それは妖怪の意味論を考えるための貴重な資料となるはずである。もちろん、現代もなお続いている妖怪撲滅運動の先駆的な理論書としての再評価も忘れるわけにはいかないが、今日の「妖怪学」はやみくもに妖怪撲滅を叫ぶのではなく、「妖怪」とは何かを人間という存在の根本にまで立ち戻って考えようとする学問として再構築されるべきなのである。つまり、現代では、妖怪撲滅学としてだけでなく、人間学としての妖怪学、現代文化論としての妖怪学、とくに物質的に豊かさを享受しながらも心の豊かさを得られないで苦しんでいる人びとに、なにがしか役立つ妖怪学が要請されているのである。そのためにも、今風の表現を用いれば、井上円了や江馬務、柳田国男などのこれまでの妖怪学を脱構築しなければならない。

 井上円了の名とその仕事は、妖怪学の創始者としてだけではなく、その仕事を乗り越え、新たな視点から妖怪学を更新するなかで想起・利用されるべきではなかろうか。少なくともわたしはそう考える。

(国際日本文化研究センター教授)