4.井上円了の仏教観・社会観:金岡秀友

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     井上円了の仏教観・社会観        金 岡 秀 友  

       一

 本巻に収載されている井上円了先生の三種の著作・・『仏教通観』『仏教大意』『大乗哲学』・・おのおのの解説については、菅沼晃教授の解説文が用意せられているので、それはそちらに譲り、筆者は指定された題名の下で、円了先生の仏教観・社会観の概観を行ってみたいと思う。

 しかし、円了先生の仏教学の概観は、言うはやすくして、決して行うにやすきものではない。今次東洋大学一〇〇周年の記念事業の一環として、入手しうる円了先生の著書、論文、講義録の『井上円了関係文献年表』が発刊せられたが、それによっても、著述は三八冊、雑誌論文は百六十余種に及び、これらを「概観」するだけでも極めて難事である。しかし、幸いなことに、右記念事業の一環として、種々な研究部会よりする井上円了研究が続々として刊行され、従来不可能に近かった円了先生の多面的な研究がある程度可能になってきたことは慶賀すべきことであった。ことに、第一部会の諸先生による『井上円了の学理思想』は、本稿にとって直接有益な論考を多く含み、いくた裨益されるところがあった。

 以下、円了先生自身の祖述するところと、以後の学者の関説するところを参照しつつ、主題を追ってみよう。

       二

 さきに円了先生の著述の膨大なことに触れたが、これが第一に挙ぐべき、円了先生の仏教学の特色である。量的に膨大なことが、ただちに質的なことを意味しないが、円了先生の場合は、この二つは一つに結びついている。円了先生の著述は多様多端であって、同一主題の繰り返しがほとんどない。このことが、卒爾な円了研究を不可能にしたことはいうまでもない。

 卒爾な研究が不可能であるとなれば、深刻な研究が出たかというと、必ずしもそうでなかったところに、円了先生の不幸があったといわなければならない。一端の特色をとらえて、それも誤ってとらえて、もって円了を測れりとする議論が横行し、素材の提供する幻惑を一層大ならしめたのであった。

 円了誤解の最たるものは妖怪学であろう。円了先生の妖怪学は、さきの『井上円了の学理思想』(以後『学理』と略称)中、川崎ミチコ氏の「『妖怪百談』に見られる不思議庵主井上円了の啓蒙活動について」で取り上げられ、その本質が、一九世紀末の啓蒙思想に基づくものであったことがよく解明せられている。円了先生の妖怪学は、名のみ高く残り、ためにかえって、井上円了はお化け博士だとか、中野の哲学堂はお化け屋敷だなどと呼ぶものが現れる始末であった。少しばかり、中に立ち入って論ずるものでも、妖怪学の根拠にあるのは、唯識の阿頼耶識思想であるとするぐらいであった。これらの説の当たらざることは、円了先生が、今日、一般に巷において妖怪といわれているものは必ず「真怪にあらずして、偽怪であり」、「偽怪のあえて驚くに足らざるゆえんを説き」、その考えを一般化するために、『読売新聞』に連載し、ついで訂補してまとめた『妖怪百談』『続妖怪百談』としたものであり、言わんとするところは、「偽怪信ずべからず」の実例を挙げ、当時の啓蒙運動の一端であった、とする川崎女史の指摘を挙げれば十分であろう(『学理』三三一頁)。第七四談に挙げる「狸の腹鼓」など、その絶好の一例で、狸の腹鼓として聞いて騒いだ鼓の音が、実は山一つ隔てたところで、村の若者が毎晩練習していた村祭りのためのおはやしだった、というのである。

 円了先生の「妖怪学」が、かくのごとく、極めて健全な、しかし平明で、時に平凡な啓蒙主義に基づくものであったことは、『妖怪学講義』を味読すれば、ただちに会得できるところであって、そこには、唯識の阿頼耶識思想の適用とみるべき要素はもちろん、スペンサー流の進化論の応用とすべき動機も全く見当たらない。

 ここに約言すれば、円了先生の妖怪学は、真摯な啓蒙主義の直接の産物であって、仏教学の直接の産物ではないということである。もちろん、円了先生の仏教学は、当時としては驚くべき平明な、大・小乗諸流に対する的確な判断があり、あわせて、西洋諸哲学者の学説の乖離相反するを見、結局、学人・学説の相違に煩わされぬ純正哲学(形而上学)、「無形の真理」は、仏教のみにあることを、壮年に至るまでの自伝を五分して回顧している(『仏教活論』明治二〇年、『学理』一一九頁、清水乞氏「初期著作にみられる井上円了の東・西哲学の対比」参照)。円了先生の啓蒙主義の母胎は、まさにこの「純正哲学」にこそあったとみるべきであって、決して、スペンサー流の進化論の適用でもなければ、まして、唯識の阿頼耶識思想の誤用でも更にない。

       三

 円了先生の仏教観の中心をなす思想が、「物心不二一如」の「真如」観の上にあったことは、すでに、西義雄博士が明確に指摘しておられる(『学理』七頁)ところである。これは、円了先生が、洋の東西、時の古今を問わず、およそ諸哲学を「純正哲学」として洗い直した結果の結論であるから、肯綮に当たった指摘ということができよう。

 円了先生の思想の一大中心として理解もされ誤解もされてきた「護国愛理」なども、まさに、この「真如」具現の場として、衆生世間たる「国」が考えられただけのことであり、また、その故にこそ、円了先生は、帝国大学の果たさざる社会・学徒の哲学的啓蒙を「哲学堂」において行いえたのであった。だからこそ、円了先生の建学精神は、この真如観であり、護国思想なのであって、ひいては、それが、先述の妖怪学の弘通の努力に通ずるのであった(この間の経緯については、西義雄博士「学祖の建学精神たる真如観と妖怪学」『学理』五・四四頁)。

 「護国愛理」を曲解する者の例は、今日に至るも枚挙にいとまがないほどである。この考えを援助するために、種々慨嘆に絶えぬ「挿話」が引かれるのが例であったが、その一つに、円了先生をもって、加藤弘之氏との同調者であったとすることなどもみられた。

 筆者は円了先生の著述のすべてとはいえぬにせよ、その主要なものは精読し、あわせて加藤弘之博士の『国体新論』にも目を通し、その那辺に両者の一致点をみるや、今に至るも、意を得ぬものである。

 いま両者の閲歴をみるも、円了先生は終生、在野の哲学者、加藤博士は終生、官界・官学界に重きをなした顕官中の顕官であって、両者に共通する要素は一つとしてない。加藤博士も顕官とはいえ、もとは学人であることはたしかである。官途についたはじめは、旧幕府の開成所(のちの東京帝国大学)准教授であったことからも、そのことは知られよう。しかし、ほぼ同じころ、大目付勘定頭に任じられていることからも知られるとおり、学者であると同時に能吏であることの萌芽はすでに、このころから顕著であった。

 しかも、それ以前の加藤博士の学殖は、佐久間象山の下での西洋兵学であり、坪井為春の下での蘭学であったのだ。明治の官途に仕えてからも、加藤博士の立場は、常に官中の官として、伊藤博文・山県有朋等、長州系藩閥主流にもっとも忠実な吏僚であった。「政体律令取調御用掛」に任ぜられてからも、板垣退助・後藤象二郎らがイギリス流民選議会設立を主張したのに対し、終始時機尚早を唱えてこれに反対し、伊藤・山県らのドイツ的立憲君主制に支持・援助を与えている。東大総理、元老院議官、東大総長、貴族院議員、宮中顧問官、学士院会長等、官学界の伊藤・山県ともいうべき、この絢爛たる閲歴は、やはり若年の反民権運動の努力に対する論功といってよい。この経歴と、『人権新説』等にみられる人の不平等説、利己心説、生存競争説等を一読するとき、その生涯が「立身出世」の具現化であることをただちに看得できるにちがいない。筆者は、この加藤博士と、井上円了博士の間に毫末の共通点だにあれば、ぜひ指教にあずかりたいと願うものである。思うに、このことは、一にかかって、円了先生の「護国愛理」の思想を誤解、ないしは曲解して、加藤博士の『国体新論』などとの共同を唱わんとすることの結果であって、両博士共に肯じないところであろうと思われる。

 これをあわせて、もう一点、円了先生と井上哲次郎博士との対比について一言しておきたい。井上哲次郎博士は巽軒と号し、ドイツ仕込みの東洋哲学者である。東大教授ののち学士院会員、貴族院議員等を歴任したところは、加藤弘之博士と似た経歴をもつが、若い時には外山正一、矢田部良吉らと共に『新体詩抄』を刊行し、進んで西洋文化をとり入れるなど、加藤博士とは異なるロマンティシズムの強い傾向のみえる人でもあった。学問的業績は、今日におけるも不滅のものがあり、『日本朱子学派の哲学』『日本陽明学派の哲学』『日本古学派の哲学』は、近世日本儒学研究の三部作として古典的労作であると共に、今日なお依拠すべき権威たるを失っていない新研究である。

 この点、井上哲次郎博士は、加藤弘之博士とは、全く相異なる純学人の趣を有する人であることは認めるべきで、人呼んで「大井上」と嘆賞するのも決して溢美の呼称ではない。

 「大井上」はそれでよい。しかし、今日の読者、井上円了先生を呼ぶに「小井上」をもってした過去のあることをご存知であろうか。明治の思想史を論ずるに当たって、片方を大をもってし、他方を小をもってすることが、いかに非礼であるかは、今さら論ずるまでもないであろう。

 しかも、なんとしても分からないことは、その、大・小の規準であろう。著書の量であろうか。これならば、明らかに円了先生が大である。その質、影響力であろうか。専門のちがう両博士の著書の質的評価、影響力・存続力を云々することは難事であるが、まず公平に言って甲乙ないというところであろうか。両者共に影響力を残す過去の書物というべく、本来の意味で古典となっている。この点からの「大・小」は到底立てられるところではない。とすれば、両博士の社会的な影響力であろうか。井上哲次郎博士が官途で果たした力量と、井上円了先生が在野で果たした役割は、根本的に性質の異なるものであり、一堂の下での比較は不可能である。いうなれば、哲次郎博士は、明治日本の上層部、官途に大なる影響をふるったのであり、円了博士は、同じく中下層、民間に努力を捧げたのであった。

 このように眺めるとき、両者のちがいは、ただ、官・民の相異にあるとしかいいようがない。官・民の差は大・小なのであろうか。

 今や歴史的にのみしか語られぬ両博士に対して、月旦に類することは厳に慎しむべきことであろうが、史上すでに、大・小井上の呼称が定着した感があるので、ここに円了博士の冤をそそぐことを使命と思い、もう一言だけ付け加えておきたい。

 というのは、哲次郎博士には、官僚独特の倨傲と小心が同居していたと思わせる逸話が残されている。

 博士は請われて、乃木希典大将が院長を務める学習院に出講したことがあった。博士の講義は談論風発、ときに逸脱・脱線し、生徒の抱腹絶倒を買うこともあったという。それはそれでよい。博士の人格の大きさを示すものといえるものでもあるのだから。

 ところが、その席に、乃木院長がたまたま巡回して臨場するや、博士は一瞬にして冗談をやめ、「第何章何々」に戻られるのであった。

 この間の豹変は、当時の学生たりし貴紳の記憶に残り、のちのち博士を語る話柄となったという。

 月旦の常として誇張もあろうし、悪意もあろうが、円了博士にこの種の「逸話」のないことも事実である。また、哲次郎博士は、井上という姓と短絡した呼び名として「イノテツ」という呼び名が一般化していたが、博士のためにはお気の毒であるが、名誉のこととはいいにくい。少なくも、「大」井上、「小」井上というがごとき、非礼極まる略称が、いかに根拠のないことであるかを知るよすがとはなろうと思って一言した。

       四

 最後に、円了先生の仏教観の基調について触れておきたい。

 円了先生の膨大な著述のほとんどは、多かれ少なかれ仏教を基調としていないものはない。この中から、いまなにを取り上げ、円了先生の仏教観を眺めるのが最適であるかは、決定に苦しむところであるが、ここでは円了先生の『大乗哲学』を取り上げることとした。

 それは、一つには、本巻に『大乗哲学』が取り上げられていること。一つには、円了先生の仏教観を俯瞰する上で、パースペクティヴ広く深刻で、もっとも目的にかなっていること。さらに一つつけ加えれば、明治の仏教界を震動させた「大乗非仏説」論争に、円了先生も独自の立場から一つの論評を加えておられるのであり、この点、明治仏教史上の円了先生の位置を知るに、もっとも適したものの一つに間違いないと思われるからである。

 本書は、すでに大鹿実秋教授によって取り上げられ『学理』の中に「井上円了の『大乗哲学』・・富永仲基『出定後語』再考・・」と題し、題名の示すとおり、富永仲基の加上の説にみられる、仏説、非仏説の論を参照しつつ詳細にわたる好論文が発表せられている。筆者は、この論文に屋上屋を架す愚を試みるものでもなく、単なる要約を施さんとするものでもない。筆者は、この一書をもって、円了先生の仏教観の基調とみなすが故に、本書をもって、円了先生の仏教観の中心に位相を与え、生涯の仏教観の出発点たるゆえんを見定めんとするものである。したがって、大鹿教授が半分の努力を充てられた、富永仲基には、ことさらに関説することは避けるつもりである。

 まず、この書は、円了先生が、仏教、ことに大乗仏教に対しもっていた信仰・期待の表明の書であるということである。

 大鹿教授は、その論文の冒頭、まず『大乗哲学』の題名に触れ、つぎのように言われている(四五頁)。

  著者自らこの『大乗哲学』なる書名について殊に述べるところはないが、大乗仏教が宗教であって単なる哲学でないかぎりは、「大乗」と「哲学」との二語の複合語である「大乗哲学」は、「大乗の哲学」と依主釈(dependent determinative)に読まるべきではなくて、「大乗仏教即哲学」と持業釈(descriptive determinative)で読まるべきことは断るまでもなかろう。すなわち学祖の『大乗哲学』は大乗仏教の哲理を述べられたものである。

とされ、さらに哲理という語についてもつぎのように定義される(同前)。

  哲理のこの語は行業に対する語であって、学と行、あるいは知と行との合一が宗教であるといわれるときの学、知の教理を指すものであって行の実践に対する語であることは、また断るまでもないであろう。

 以上によって明らかなように、本書は、円了先生が大乗仏教に対し腹蔵していた信仰や期待が極めて大なるものであり、それは小乗に対してはもちろん、欧米いくたの「哲学」に対しても、勝れりとはいえ、劣るものでないことに対する烈々たる気迫を示すものであるとみてとることができよう。

 本書は、緒論と結論・付講を除けば五講よりなるが、大乗仏説・非仏説論に関説するのは、第一講大乗名義考と第二講大乗仏説論の二編である。

 紙幅に余裕がないので、結論をさきに示せば、円了先生は、大乗仏説といい、非仏説というは立場の相違であるとみてとられた。歴史的立場からすれば、大乗は明らかに仏滅後数百年の創唱であるが、教理的立場からすれば、大乗は小乗の正意を採り、あるいは正し、もって真の「仏説」を闡揚したことは明らかである、とみなすべきであろう。

 その点に、大鹿教授は、富永仲基の批判的立場と円了先生の仏教観に相通ずるものをみてとられたのであろう。筆者は、この考えに賛意を表すると共に、進んで、円了先生が論ずるところ、村上専精博士の立論に、極めて近いものがあることを認めないわけにはいかないのである。

 水野弘元博士は、村上専精博士の大乗非仏説について触れ(『経典、その成立と展開』昭和五五年、佼成出版社、四三・四四頁)、大乗が仏説にあらざる理由を三つあげ、要約しておられる。第一には、大乗の経典や論書の中に出てくる釈尊は、歴史上の釈尊ではなく、法性身として人格を超絶した存在であること。第二に、対告主もみな文殊・普賢等、実在の人物ではなく、理想概念を人物化したものであること。第三に、その説法の会座も神話的場所であり、将来の場所も竜宮界とか、南インドの鉄塔とか架空の場所であること、以上の三点がその理由である。

 しかし、水野博士は炯眼にも、村上博士の大乗非仏説論は、右の歴史的立場にとどまるものでなく、教理的立場からすれば、大乗もまた堂々たる仏説であったという点を的確にとらえて、つぎのように言っておられる(同前)。

  しかし博士は右のような歴史的立場のほかに、より一層重要なものとして教理的立場をとられました。博士によれば、大乗非仏説といっても、それはかならずしも大乗非仏教とか大乗非仏意とかいうことではない。大乗仏説ということも、これを歴史的立場からと教理的立場からとの両方から論ぜられるのであって、大乗を非仏説といっているのは、歴史的立場からだけのものであり、教理的立場からすれば、大乗は仏説としなければならないと力説されています。

 この立場こそ、実に円了先生の仏教観、大小乗仏教観に対同するものであり、歴史的に大小乗の発展、教理・信仰上に一貫する法印の考え方である。本書の冒頭「緒論」にいうところをみよ。

  この(小乗大乗仏教に・・筆者注)一貫の理脈を探求し、その系統、その系統、その発達を論明するは、実に仏教哲学の問題なり。今余はここに題して『大乗哲学』と称するは、もっぱら大乗の理脈、系統、発達を究明するにあれども、その緒論として大乗と小乗との関係異同を論述せんと欲す。

 井上円了先生は明治の知識をもって大小乗に通ずる阿毘達磨を展開せられたのであった。