6. 解説―井上円了の漢詩について:  新田幸治

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解  説

解  説

井上円了の漢詩について 新 田 幸 治

 井上円了には五種類の漢詩集がある。そのうちの二種は筆写本である。以下、年代順に列挙すれば次のごとくである。

 一、襲常詩稿、二、屈蠖詩集、三、再航詩集、四、未知句斎集、五、焉知詩堂集。

ここに挙げた一・二が自筆稿本である。

 「襲常詩稿」は縦一八センチメートル、横一四センチメートル、四針の白糸をもって綴じたもので、いわゆる袋綴じの形態である。十七丁、毎丁二〇行、全八五首の漢詩が記述されている。題簽はないが裏表紙には「大岩山、釋圓了」と二行の墨書があり、書の末尾には筆者不詳の「題襲常詩稿後」七五字からなる漢文が墨書されている。そして、「明治五年歳在壬申 井上襲常 齢在十五歳」とある。

 「襲常詩稿」の襲常は円了の幼名であろうか、この詩稿においてのみ見られるところのものであって、当然、円了自筆の履歴書、例えば「屈蠖詩集」の末尾に記される「履歴」にも見当たらない。円了がこの詩稿を作したのは明治五年(一八七二)、一五歳である。元旦から除夜に至る一年間の詩作であるが、さきに八五編と述べたが断篇も含めた数である。

 そもそも円了がこうした漢詩を作る素養はいかなる経緯によるのか。当時の人士のほとんどに漢詩を詠む素養があったことを思えば、さして驚くにはあたらないが、しかし、上述五詩集の総詩数は一、五一〇首余であって、その数の多さは尋常なものではないし驚かざるを得ない。しかも、詩集に『未知句斎集』(いまだ句を知らず)と名付け、『焉知詩堂集』(いずくんぞ詩を知らん)とするなど、いたって遊び心が濃厚であるようではあるが、この二詩集の序言には拙劣のままに発表する旨が記されているから、どこかにてらいの気がないわけでもなさそうに思われる。

 円了における詠詩の素養をたずねると、「屈蠖詩集」の末尾余白に記述される「履歴」には「明治元年ヨリ同二年四月迄同県下片貝村医士石黒忠徳〔悳〕ニ従テ支那学ノ素読ヲ正シ」とあるのは全く初級の段階を教授されたものと思われる。明治元年、二年は円了が九歳か一〇歳のころである。円了は浦村の真宗大谷派慈光寺に生まれて、石黒の下に通ったのである。師の石黒は後年陸軍軍医総監に任じ、日本赤十字社長ともなった人である。「履歴」はこれに続けて「同二年八月ヨリ五年十二月迄同県下長岡旧藩木村鈍翁ニ就テ支那学ノ意義ヲ問フ」とある。一一歳から一四歳のころ、ほぼ三年四カ月であった。藩儒木村鈍翁に円了が師事したのは、父の井上円悟が子弟の教育に熱心で、慈光寺内に私塾を設けて木村を迎えたからであるといわれている。

この塾は「慈黌」あるいは「慈光黌」と呼ばれていたようである。木村鈍叟はもと誠一郎といい、天保二年(一八三一)に長岡藩から優秀な人材を江戸に留学せしめた際、選抜された三人のうちの一人で、江戸では朝川善庵の門に学んだ。帰国後は藩校崇徳館で儒学を講義した(注一)。かつ、木村鈍叟は円了の生家慈光寺の前の道の向こう側に居を構えていたという。後年、『円了茶話』(明治三五年刊)に述べるところによれば、「木村鈍叟翁に就き、経書の講義を聴くことを得たり、余が漢学の素養は是れのみ」とあるが、前掲の「履歴」には新潟学校第一分校(旧長岡洋学校)に明治七年五月に入学し、英学と洋算を修得したとある。ただし、他の履歴において、円了は木村鈍叟に教わった後、明治六年「五月二十九日ヨリ八月上旬マテ高山楽群社ヘ入学栗原氏ヨリ受業」と記述している。このときに学んだ書籍名からみると洋学に関するものであったことがうかがわれる。「襲常詩稿」に記載される詩題に「夏日到高山洋校作」とあるところからも、一般的な呼称として「高山洋校」といい、洋学を主とした授業内容を推測せしめるのである。高山楽群社および栗原氏については未詳であるが、「屈蠖詩集」の末尾に「諸教師」として石黒忠徳〔悳〕を筆頭に一〇名が列挙され、最後に「栗原学、丹波人」とあるのが、その人であろうか。

 新潟学校第一分校においてはもっぱら英学を中心として修得につとめ、明治九年七月廃止されて一一月には長岡学校に改編され、円了は一二月から翌年六月まで「支那学授業ニ雇ハレ在勤仕候」という職分を得ている。授業生と称されて、教場の助手という立場であったようである。「履歴」には「漢学ヲ田中春回師ニ謀ル」と記述されているのを見ても、指導を受けつつも授業生の肩書きをもって雇員の身であったことがわかる。新潟学校第一分校に入学したのは一六歳であったから、一七、八歳のころである。いわば、最も多感な時代の幕開けといった年代であった。

 これら履歴に示される読書録と称すべきものに、英書をはじめとして経書類の外に詩の分野にわたるものには、文選、三体詩、唐詩選、古文真宝前・後集等の書名が見られ、史記、漢書の史書などが記されている。

 さて、「襲常詩稿」の内容について以下にいささか触れたい。すでにこの稿本については、長谷川潤治氏に「『襲常詩稿』初探―井上円了齢在十五歳―」(「井上円了研究」七、一九九七年二月、東洋大学井上円了記念学術センター刊)という詳細な論考がある。

 壬申元旦(明治五年)にはじまり七四首目が「除夜」の詩題をもち、さらにもう一首「除夜」の詩が残されている。詩型は七言絶句が圧倒的に多く七〇首を数え、五言絶句五首、五言律詩三首、七言律詩五首などから成るが、詩型を成さぬものが二首ある。壬申元旦の詩は一五首ある。その六に、

鐘鼓相催入曙光、一声黄鳥報新陽、可歓万国昇平日、酒満芳樽客満堂、

などと詠むのは、生家慈光寺に集まった檀家衆の様子を写すものであろうか。四季を追って、全体的に事に遇えば詩を賦すといった様子が見られる。豊かな情感といえよう。父円悟が設けた慈光黌、慈黌、あるいは慈光庠と称される私塾の名は、この詩稿において五首を数える。「春日送友人」の詩には「友人名登岸、郷名幷柳」とあり、現北魚沼郡広神村並柳であろうとみられ、当時としては意外に遠くからの入塾者であった。

遥出柳郷到浦郷、春中共学慈光庠、堪驚今日分襟去、空送信濃江水傍、

 このような友人との別れはまだある。「送友人帰故郷」の詩詞には「友人名曰学、郷曰桂、去家遊于浦邨、経一両年倦帰焉」とある。詩中には「浦邨庠」とある。郷名の桂は現長岡市桂町であろうか。また、同名の詩に「友人名曰明曜、郷曰片貝、北遊於浦村庠、与我為親友矣」とある。片貝は現小千谷市片貝町とみられ、これらの子弟が遊学するほど慈光黌はよく知られた塾であったということであろう。

双鴈双飛集江浦、飛来飛去自翶翔、冬来一鴈向南去、一鴈失群哀叫長、

 親友明曜との別情が文字を重ねてうたいあげられているというほかはない。円了の感情をもてあました様子が目に浮かぶようである。さらに、「慈黌雑吟」詩が二首ある。一首には題詞があり、「十二月学校終業之日、作此詩以贈慶次郎公、徳太郎両教師」とある。

群児共学慈光黌、二十有余五六名、日日慶公与徳子、使能頑魯趣文明、

 他の一首は七律であるが、内容はこの詩とほとんど同じである。ただし、具体的に午前は「支那語」を誦し、午後は「英米詞」を伝習したことが詠みこまれている。この詩では二五、六名の塾生のいたことがわかる。両教師については未詳のままである。

 かくて「除夜」詩が末尾近くにおかれているが、一年を通じた詩作はこれで終わるはずのところ、この後には再び「除夜」なる題名の詩があることはさきに触れた。この後の部分には「癸酉之春遊浦村南原」「同年之秋採蕈詩」「夏日到高山洋学校作」といった明治六年を示す詩題が三首並んでいる。「明治五年歳在壬申、井上襲常齢在十五歳」とあるものに余白があり、癸酉の年の作も書き入れたということであろうか。ここに注目しておきたい詩として二首目の採蕈の詩がある。きのこ採りはいずこの地でも秋になると山遊びの楽しみであった。題辞に「擬山陽詩賦之」とあるのは、僧月性とすべきところの記憶違いであって、むしろ、ほほえみをさそう体のものである。

男児荷食出村関、篭若不満晩不還、採蕈豈唯深沢地、両人到処有秋山、

 しかも欄外には「満字盈之誤也」ときわめて真面目に記入し、詩後には「皆我与幾平子共遊深沢山、故称両人」とまで書き添えているのである。円了の精神風景における軽妙さを示すものかも知れない。後年の全国巡講中に記録される詩作にもあらわれる風気の芽が存在しているように思われる。巡講日誌である『南船北馬集』における詩作の風姿については後述したい。

 「襲常詩稿」末尾に記述される「題襲常詩稿後」の一文については署名がない。

生学問之要非詩、然詩以暢達、学之才大也、由是観之、詩又不得不学焉、襲常幼能賦詩、其句句繁爛、其律典正然、実賦情外之情、今其見幼年之稿、勢所趣直追盛唐、余感服之余、巻末附一言云爾、

 円了はこの詩稿を石黒忠悳か、木村鈍叟か、田中春回か、師とたのむ人に披見を請うたものとみられるが、「今其見幼年之稿」などという字句をみれば、あるいはもっと後年のことであるかも知れない。慈黌時代の師である木村鈍叟よりも田中春回であるように思われるが、断ずべき資はない。ただし、この一文冒頭の一語は、後年の『未知句斎集』の序言に「自ら詩文は死学なり遊芸なり、決して学習すべきものにあらずと信じ、凡そ三十余年の間、殆んど韻文を弄せしことなし、云々」と述べていることと一脈あい通じ、固くこれを守ろうとした姿勢がうかがわれる。しかしながら、実際には詩文は捨て難く、遊芸としては許されるものとの思いを含めて、円了は明治一〇年の上洛より、事に遇い、風物に触れては詩情をかきたてられ、明治一五年に至るまで約二六〇首を「屈蠖詩集」として書き残したのである。ともあれ、「襲常詩稿」は円了の春夏秋冬における情感を写した貴重な詩集である。

(注一) ここは『東洋大学百年史』通史編Ⅰによっているが、笠井助治著『近世藩校に於ける学統学派の研究』上(四二六頁)長岡藩、崇徳館の記述に、木村誠一郎の名が見え、山田到処(愛之助)および高野松陰(虎太)とともに天保二年に藩命で江戸に遊学したとある。木村竹軒(誠一郎)と記載されて木村鈍叟とは称していないが、時期的にも同一の人である可能性がはなはだ高い。

 「屈蠖詩集」は自筆稿本である。およその体裁は縦八センチメートル、横一五・七センチメートルの横本、表紙は薄黄色、いわゆる袋綴じ、四針眼、青色の四周双闌、半面一三本の罫線があり、版心には丸印をもつ。天頭一センチメートル、地脚〇・三センチメートルであり、約六〇丁からなる。詩が記述されているのは四三丁まで、余白をおいて四五丁には「在京同里社員」二六名、四六丁には「東京大学交際会社員」九六名、四九丁には「興話会社員」二八名と在地名、余白二丁の後に「新潟第一分校兼長岡中学校同窓諸名姓名」七五名、五五丁には「諸教師」として石黒忠徳〔悳〕を筆頭に一〇氏の名がある。五六丁には「履歴書―自明治元年至四年末―」とあって、読書名が漢文文献一八、英書二〇、完全に読了していない文献一〇、数学の加減乗除にはじまる尋常算、代数学、幾何学、三角術などの諸項目が連記されている。最後には「明治九年十二月二十五日」の日付けと、五絶らしい「涼声云々」にはじまる判読し難い文字が書き連ねられている。

 この詩集に収載される詩は、明治一〇年(円了一九歳)には五四首、明治一一年(円了、東京大学予備門入学の年)には二一首、明治一二年には四七首、明治一三年には三六首、明治一四年(東京大学文学部哲学科入学、円了二三歳)には八六首、明治一五年には五首、明治一六年には一七首(ただし、「磯浜晩望」の七絶には×印が文字上を覆っている)、全二六六首である。

 さて、円了はこの詩集に題するのに「屈蠖詩集」と名付けたゆえんはどこにあったのであろうか。これにかかわる記述には、なお及ばずにいるが、いずれはなんらかの関連記事に遇うものと期待している。したがって、現在は一応の理解を求めることにしたい。屈蠖とは蠖屈、尺蠖に同じく、身を屈している尺取り虫の謂であり、これより身を屈して人に従うことを意味している。さらにこれより「易」繋辞下の「尺蠖之屈、以求信也。竜蛇之蟄、以存身也」の意を踏まえたものであろうか。尺取り虫の屈むは、つぎに伸びようとするからであり、しばらくは志を得ずして忍耐するも、それは他日を期して隠忍するのである。竜蛇についても同様の意がこめられている。円了の読書歴のなかに「周易正文」とも見えるから、こうした採りようの可能性は否定できない。こうした名称を用いることで円了が心中にあるものは、雄飛せんとする者の志の叫びを託したようにも理解される。当時、円了は前途に希望を抱いたに相違なく、隠忍するなにかがあったとは思えないから、一般少年が抱くような気負いをかくす表現であった可能性もある。いずれにしても「屈蠖詩集」には「自明治十年上京」と添え書きがしてあるのである。雄飛の思いを深く蔵して出発したに相違ない。

 この年は、東本願寺の京都教師教校英学科に入学するため、夏に京都にのぼった。大谷派本山より末寺出身者で英学を修めた者を召集し、至急上洛せよとの命を伝えられたのである。「屈蠖詩集」の最初に書き留められた「留別友人二首」では、それほどの深い惜別の思いがこめられているようには思えない。しかし、「留一律謝中野先生」では、

幾回承慈訓、一旦失良師、今夕辞黌発、明朝向洛之、恐無相謁日、或有寄来詞、厚徳何以報、後年卒業時、

と詠じ、ついで「離筵賦一絶贈中野先生 先生姓中野名悌四郎 新発田人也」とある詩は題名とはそぐわない。師中野悌四郎には長岡校で英書を教わったと「履歴」にある。もう一首「長岡校」なる題の詩があるが、学校の誇りを述べるような壮気に満ちたものである。あとの詩は京都への旅を詠ずるに始まるが、旅愁や風物に触発された詩が多い。しかし、そのなかでも目をひく詩がある。例えば「送友人従軍行二首」や「征薩」などは、明治一〇年の西南の役を示すもので、「離別同窓下、云々」「同朋投筆硯、云々」に始まる詩句をみれば、円了の身辺にも世情の慌ただしさが漂っていたことを物語るものであろう。「征薩」では、

薩海風涛勢太雄、余波遠及筑肥豊、王師今向西州発、不日奏聞鎮定功、

と詠む。円了の友人とは慈光黌や長岡校などを中心とした人々であったと思われる。この後に上洛の詩が記録されているが、実際に故郷浦村を出発したのは七月八日であり、「早行」詩の下にこの日付がある。

 この詩の前には「言志」五律がある。

伯楽未相逢、騄騏復恃誰、不知勢力強、難尽才能美、空食小槽中、将終常馬裡、何時得其人、一走数千里、

 明らかに韓愈の「雑説」をもって下敷きにした詩であるというよりも要約したものというべきかも知れないが、むしろ、一九歳の円了の心の焦りのような感覚をくみ取るべきであろう。

 風物を詠じつつ京都に着いたのは七月二〇日、ほぼ一二日間の旅であったが、円了は一〇首ほどを記録している。洛中の所感は多岐にわたるが、旅愁の意を含む詩が多いように思われる。また、「教校秋暁」の五言長詩の一節には「詩文是我歓」の一句がみられる。上述のごとく遊芸なりと後年に述べるに至るが、青年の情はなお詩文にひかれている。もっとも、後年に円了が全国巡講の旅中に求められて揮毫した文章に「詩書伴我閑中地」ともあるから、遊芸の語にこだわる必要はないかも知れない。ときには「牛食戯作」のごとき軽妙な作品もある。

怪看今日多乗飯、知得晩餐牛肉烹、聞柝四時臨食室、皿盤処々緑葱清、

 あるいは「偶得」という作には、

貴賎尊卑豈異倫、万民同等得権均、勿言今昔多英傑、彼亦為人吾亦人、

とある。いったいなにに触発されたものか、この詩の前後にこうした感懐を抱かしめるような作は見当たらない。

 かくて明治一一年となるが、京都の春に客愁を抱きつつ、白梅をめでたり、鴨川のほとりを散策する所感がつづられている。しかし、そのなかでも目をひく詩題がある。「咏友人滝君之愛妓」の一首で、円了が女性の風姿を詠ずるのは、ほとんどこの一首に尽きるのではあるまいか。詩句もまた繊細さを含んでいる。

 「三月二十二日得東京留学之命、四月一日与同盟諸兄開離筵於某楼、同二日発西京、八日到東京」との添え書きをもつ「留別」の詩がある。墨水の春を詠じ、花をめでる詩が続く。また、他方には「余与江村氏同居、氏愛酒而余愛茶、共異其物同其楽、故賦贈焉」の添え書きのある詩「酒茶楽」には、

君求飲酒我煎茶、有酒有茶興始嘉、人世若無酒茶楽、終年何処極栄華、

という。江村氏については未詳。こうした楽しみを楽しむ風趣を詩に託したと思われる。

 明治一二年の記録される詩は四七首、そのほとんどは旅中の作である。江ノ島、戸塚、鎌倉、金沢八景を始めとして、遠く宇都宮、日光、奥州路へと踏み入り、会津街道に入って若松古城に戊辰の思いをはせ、新潟日和山から佐渡を望み、故郷の浦村にも立ち寄っているがごときである。「再上東京 八月廿三日発家九月一日着京」の詩では、

難止家郷事父兄、再求師友上東京、世人不識丈夫志、向我慇懃戒遠行、

とある。三句ではある種の客気が感じられるが、帰京してからの感懐は風物を写すのに忙しい。一二月には「熱海行」なども記録されて、この風物を詩中にどう組み入れるかに苦心しているようである。後年、円了は自ら温泉をことのほか好んだと述べているから、すでにここにその片鱗をうかがうことができよう。

 明治一三年の冒頭の詩は「熱海元旦」である。記録によれば一月五日まで滞在していた。ついで「銚子行雑咏十六首」がある。利根川など、もっぱら風物を咏むに忙しい。ついで鎌倉、片瀬の風物を咏む。

 明治一四年、浦賀で新年を迎えた。送別の詩が続く。「送宮井詞兄帰故郷」の後半の二句「勿謂餞筵無別酒、百杯情在一篇間」などには創意が見られるように思うが、いかがなものであろうか。相変わらず旅中の作が多い。「箱根漫遊集」の題辞の後には七首、「山居雑咏」には一五首、ともに箱根を中心とする風物を材としている。他は感興に任せて詩を詠む風情が続く。しかし、ときには円了の心をのぞかせる詩がある。「戯作」は、

二十余年未脱迷、一身奔走客東西、吾猶無室又何恨、天下美人皆我妻、

と。客気とほほえましさを覚えさせる詩ではある。まさに戯作である。「病牀異郷」なる、

孤客多年天一涯、病牀閑臥日何長、愁来始覚帰心切、雨夕風晨夢故郷、

の一首は旅に病む心細さが表出されて素直である。その他は山峡の風物に触発される詩情のままに詠じている。それは詩を作るためにあるかと思うほど、豊かな感情であるといえる。この年の作をもう一首あげよう。「家信」である。

孤客自初辞故園、両親思我幾朝昏、一封家信猶書誡、固守勤倹四字言、

 親にとっては子はいつまでも子である。やはり戒めの語が書かれていた。さりげなく親子の情愛が示されているようである。その一方で「偶得」の詩では、他郷に勉学に励む己と家郷の老親が一人前になることを夢みているとの思いを示すものもある。

 明治一五年。ここにはわずか五首を記録するのみである。円了二四歳、月一回、カント、ヘーゲル、コント等について研究会が開催されて、そちらの方に関心が寄せられていたためであろうか。詩意もまた風物を主とするものである。

 明治一六年。一七首を記載するが、ここでも風物を詠ずるものが主となっている。ただし、目をひく一首がある。「起程作」である。

研磨陳書已十年、十年徒学古人賢、始知死物無何益、去見山河活史編、

 詩題にある起程は旅立つ意を込めたものであろう。詩の意によれば営々と古賢人に学んだが、しょせんは死物と喝破するあたりは、老子の孔子会見に述べたとされる言葉「其人与骨皆已朽矣、独其言在耳」を髣髴とさせるものであるが、あるいは詩文を遊芸とする意とどこかで連なるものがあるかも知れない語句ではある。最後の句は現実への直視を思わせ、後年の円了のありようとも重なり合うように思われる。

 「屈蠖詩集」が稿本として存在するのみで、さきの「襲常詩稿」とともに未刊であるだけに、いささか詩の例を挙げて紹介せざるを得なかった。もちろん、これによってその全容が語られたわけではないので、いずれ公刊の際には、よく読書子によってご検討されんことを請う。円了の青春の息吹、精神の軌跡が、これによっていささかなりとも窺知していただければ幸いである。

 つぎに挙げなければならないのは「再航詩集」である。明治三六年九月一四日の発行である。円了は明治二〇年に東洋大学の前身たる哲学館を創立し、翌年九月には欧米視察に出発し、帰国は次年の六月であった。以来、大学発展のために東奔西走、その間に全国巡回も開始された。そして、明治三五年一一月に、欧米などの教育事情視察の途についた。帰国は翌年七月二七日である。この間にいわゆる哲学館事件が発生する。したがって、この詩集におさめられる作品は、出航に始まって翌年七月一一日の日時をもつ詩で終わっている。

 「再航詩集」はわずか一六頁から成る。収録される詩は七絶が八三首、七律三首、五絶五首、五律二首、七言長詩二首の計九五首である。その「緒言」には、「余生来詩文の才に乏しく十三四歳の時に始めて詩を作るを学びしも」進歩が遅く、爾来やめて詩を作ることもなかったが、昨年欧米再航の行路の所感を筆して後日の記憶を助けんと、数十年廃絶していた詩を思い起こし、所感のままに四句八句につづったものである。しかし、句調、平仄も合わず、野暮、でたらめの句々は「登山舟欲覆」のたぐい、詩人はこれを読んで抱腹絶倒するならん。しかし、ただ補忘記に代えたのみであるから他人の笑いも気にしない。詩人の訂正修飾を加えんとも思ったが、すべて他人の衣服で身を飾るようで、大丈夫の恥ずべきことと考えてそのまま印刷したのであるという。ときに円了四四歳である。明治一六年の「屈蠖詩集」の末尾の作からは、約二〇年の歳月を経ている。

 この詩集の冒頭に載せられる詩は「留別」の一首である。

力学多年在帝都、始知碌々読書愚、欲扶後進開文運、再上航西万里途、

 この欧米視察は教育事情を主とするが、この詩によれば、読書に代表される空理論よりも実学的傾向を求める風がある。また、哲学館事件の報に接した円了は、つぎのごとく詠ずる。

講堂一夜為風頽、再築功成復化灰、遺恨禍源猶未尽、天災漸去又人災、

 明治二二年九月に新築中の校舎が台風のため倒壊したことと、二九年一二月の類焼に遭遇し、さらにいま哲学館の中等教員無試験検定の取り消しを指して、風災、火災、人災と称したのである。他はまさに「緒言」に述べるごとく行路の所感をつづったというべきであろう。備忘録に等しいといいながらも風景描写にはそれなりに表現に思いをこらして、円了自身こうした工夫を楽しんでいたのであろう。

 つぎは大正六年六月に出版された『未知句斎集 第一編』がある。およそ一一〇頁からなる詩集であるが、その「序言」には、「自ら詩文は死学なり遊芸なり」と、学習すべきものにあらずと信じて、三十余年ほどは韻文を弄することもなかったが、明治三五年の再航の際に、航海中の無聊を慰めるため、詩作を試みることに決めて、平仄を並べてみたのである。以来、全国周遊の際、名所旧跡をたずね、光風霽月に接するごとに、スケッチ代わりに拙工をもって所感をつづったのである。それがいまや千数百首に及ぶ。言文一致を主として、内地の風景に関する七言絶句五五五首を収録編成した。平素より未知句焉知詩(いまだ句を知らず、いずくんぞ詩を知らんや)と唱えていることによって詩集に題したという。また、この詩集は明治三八年七月より大正四年一二月までの雑詠であり、さらに曾遊の地で一作もない場所について回想して新たに四、五首を補充したとある。以上がおよそ「序言」の概略であるが、その補充四五首も国別に収録したために、どの詩であるのか判別し難く、何年の作であるかも、巡講日誌である『南船北馬集』によらなければ不明である。しかも、多分にすべてが収載されていないおそれがある。なお、詳細な比較調査が必要であろう。円了の全国巡講は国民道徳の普及、国民意識の改良等を目的として、明治三九年の哲学館大学退隠後に始まる講演の旅である。「退隠詩」には(本選集第一二巻一八九頁)、

独力経営二十春、喜見校運幾回新、自今退隠成何事、朝汲泉流夕拾薪、

とある。四句目は広瀬淡窓の「桂林荘雑詠示諸生」の詩をふまえていることは瞭然であるが、実際に円了が退隠の地に定めた哲学堂(現哲学堂公園)周辺は、当時、このようなたたずまいの場所ではあった。また、『南船北馬集』緒言(明治四一年一二月)には(同書一九二頁)、

朝遊海角夕山巓、北馬南船年又年、漂泊如斯君勿怪、吾生猶未脱塵縁、

と詠ずる。円了の感懐を知るべきであろう。自ら官学に対して田学と称し、民衆とともにあろうとする至情が、このような吟詠となって吐露されているのである。仏門の外にあって仏教の頽勢を挽回しようとすることとも相通ずるものがある。

 大正七年二月、『焉知詩堂集 第一編』が出版された。この詩集に収載される範囲を「序言」にはつぎのごとく述べている。「内地所吟は七言絶句だけに限りしも、海外の方は、北海道を除くの外、五絶五律、七律長詩までも合載することに定む、本集所載の詩篇総して五百二十一首となる」。なお、この詩集においても、円了は当時の所感を追想して二、三首を賦して加えたという。全一一〇頁の書である。約七〇首が北海道、伊豆諸島および小笠原島などの風物を詠じ、他は海外の風物を詠じたものである。まさに備忘の役割を担う詩といえよう。しかし、なかには世情を写して、

三入英京見物情、逐年貧富失衡平、文明今日多余弊、到処集徒雷起声、

 これは「英京所感」と題し、集徒雷起はストライキのことである。余弊を観察していることも見逃せない。

 井上円了における漢詩は、備忘のために風物を詠じ、詩句を考える遊芸とのみでは律しきれないものがある。適度の感懐を述べるにふさわしい手段でもあったように思われる。『南船北馬集』において、興に乗じては数首を得るが、大概は風物に触発された詩であることが多いにもかかわらず、ときどきはその詩情を離れた感懐がもらされる。大正二年一月の詩に(本選集第一三巻四一八頁)、

姓為井上名円了、随候去来身似鳥、巣在紅塵万丈中、心常超出青雲表、

とか、

講道終年免素飧、布衣何敢伺権門、破窓薄褥吾生足、坐臥不知官俸温、

などと書きつづるのは、単に詩情をかきたてられたというようなことではあるまい。前の詩におけるかように作詩しなければやまれぬ心情がこの詩を生み出したように思われるし、後の詩では、ときには俗世の評にその心情をこの文学形式を借りてこそ発露し得たのではなかったかと同情の念すら起こるのは不遜というものであろうか。

 しかし、円了の詩はおおむね風物を詠ずる表現にこだわり続けていたように思われる。したがって、同一の表現が随所に使用せられている。詩才の一つには表現の巧妙さというものが要求されるとすれば、円了の詩には人を驚かす絶妙さには欠けているかも知れない。備忘なのだからといえばそれまでであるが、ときどきは軽妙な遊びの詩が作られる。明治四〇年の箱根での作に(同書一〇七頁)、

一路回頭憶旧年、轎夫歌過白雲巓、箱根八里馬猶越、欲渉難能大井川、

などは全くの遊びである。また、明治四三年二月に千葉勝浦の作に(同書一二八頁)、

暁天帯雨暗雲烟、狂浪怒号一路伝、行到断崖風益激、阿仙転処我車顛、

とあり、「名にしおふ阿仙の険も今よりは、円了転と人やいふらん」の句まで付している。往時、おせんなる婦人が旋風によって海中に吹き落とされて死んでから「おせんころがし」の名があるという。作詩とともに狂歌を作る楽しみを得たというべきであろう。これに近い詩をもう一首。大正六年一〇月、群馬県太田市での作(本書二二八頁)。

上毛気質見天真、赤岳傲然刀水瞋、風力女権世無比、応知地勢造其人、

 俚諺を材にしていることは確かで、風土の条件がかようの人をつくり上げたとする理解を示している。このような詩作はまだ多くある。

 しかし、なんといっても風物を詠ずるものが数の上で圧倒しているが、詠懐の詩を挙げたい。大正四年八月、秋田県南部での作一首(本選集第一四巻三四六頁)。

暁対林泉談笑移、窓前木仏看逾奇、獣身僧服君休怪、我亦人間一老狸、

 これは老狸僧衣の木像が如意を持っているのを見て、「けだし僧侶の真情を寓せしものならん」と考えた末の作であるという。皮肉な作といえようか。また、大正五年一二月除夜の作(本書九二頁)。

南船北馬送生涯、歳在丙丁将換街、吾志未成身已老、一杯年酒寄残懐、

 この詩における後半二句は、極めて深刻な思いをわれわれに伝える。折に触れての感懐は、風物を詠じている場合と違って重いのである。

 感懐とはことなって、沈鬱な詩がある。大正三年一一月、茨城県助川での作(本選集第一四巻一九七頁)。

助川駅外望荒皐、五百尺余烟突高、鉱気漲天樹多死、殺風景使泣吟曹、

 当時、助川の風景は有名なものであったらしいが、日立村が鉱山としてわが国一、二を誇る発展を遂げるに伴い、五一〇尺の煙突が建設され、世界第一と称される陰に、煙毒が遠近の樹を枯死せしめていることに、詩人の目で対しているのである。現今のわれわれの目からみればもっと憤りがあってしかるべしとも思われるが、これが時代の感覚というものかも知れない。これに類する詩がまだある。大正四年六月、秋田県北部の巡講日誌(同書三一六頁)につぎのごとくある。

鹿角山中多鉱区、富源流出自成都、黄煙有毒君休説、十里寒村金沢濡、

 ここの記事には「近年、鉱毒問題囂々たるも、この深山幽谷のかく繁栄をきたし、遠近の村落もその余沢に浴することすくなからざるを見て、所感一首を賦す」(同前)とある。その恩恵の方に重点がおかれているのは、富むことの必要性が優先しているのであろう。鉱毒問題を知らぬわけではない。こうした豊かさを求める詩はほかにもある。大正五年一二月、丹波での作(本書八一頁)。

丹山深処有農村、戸々終年蚕事繁、名物亦難免時変、栗林今日化桑園、

 名産の丹波栗も養蚕に切り替えられて、栗木は鉄道の枕木に伐採されて桑木が植えられるに至ったという。豊かさを生む動向をやむなしとみているようである。これに類する詩をもう一首あげておきたい。大正七年八月、青森県巡講での作(本書三三九頁)。

路与渓流共作彎、黄煙騰処是銅山、仙源今日化都会、車馬朝昏忙往還、

 産業発展の上では、このような変化は容認せざるを得ないのであろう。円了の詩はこうした事象を全くの記録として詠じている。

 詩作の大体は以上によって知られるごとく、遊芸と記録の域を出ていない。これは円了の詩情のありようが、風物に向いていて、叙情への関心度の厚薄によるのであろう。「襲常詩稿」や「屈蠖詩集」のもつ叙情性は後年の詩においては希薄になり、『未知句斎集』序言に見られるごとく、風光霽月、名所旧跡の所感をつづることに徹しようとしていると思われる。