4.奮闘哲学

P205

奮闘哲学

     序   言

 本書は余が昨夏哲学堂において、日曜講話と夏期講習との際、講述せるものを根本とし、これに枝葉を添えたるものなるが、その中には余の百姓的学者として、平素唱うるところの持論と、とるところの主義とを腹蔵なく開陳せるものなれば、その語中あるいは滑稽にわたり、あるいは慢言に傾き、あるいは粗雑に過ぎ、あるいは極端に走りて、謹慎を欠き、真摯を失うごとき点なきにあらざれども、その裏面にはおのずから余の終始一貫せる護国愛理の精神の潜在するところあれば、こいねがわくは本書をひもとかるる諸君において、その皮膚を去り、神髄をとりて、一読せられんことを。

 世間一般の著書には必ず古人の金言を提唱し、西書の新句を引拠するを常とすれども、本書は一切その例にならわず、ただ余の自ら作りし格言韻文を特書して、説明の資料となせり。読者諸君はこれを一見して、奇異に感ぜらるべきも、余は平素物に接し事に触るるごとに、その所感を、あるいは格言に作り、あるいは韻文に綴り、後日の記憶に備うることとなす。故にこれ余が天地の活書を読みたるときの心銘にして、これを引用するは、かえって本書の主義に合するものと信ず。諸君請う、その意を諒せよ。

 本書各講の細目に至りては、各人一義、もとより余の説に同意を望むあたわざるも、もし大綱において賛成せらるる諸君は、一葉の郵便葉書に、住所、職業、姓名を記して、左の名宛へ向け、一報を賜るを得ば、一生の本望なにものかこれに過ぎん。そのときは必ず芳名を心友帳に録し、永世の心友として記念する心得なり。あえて翹首してその報のきたるを待つ。

          東京市本郷区駒込富士前町住  井 上 円 了  

  大正六年二月五日これを記す

   第一講 哲 学 観

     一 今日の学者

 むかし孔子が田舎を巡回せられたときに、子供が互いに議論をしているのを見て、車をとどめ、なにを論じているかと尋ねたれば、一人は曰く、太陽は朝は昼よりも近いに相違ない。なぜなれば朝の方が形が大きくして、昼の方が小さい。すべて近き方が大きく見えて、遠き方が小さく見える道理であるといい、他の一人は昼の方が近くして、朝の方が遠い。そのわけは昼は熱く、朝は冷ややかである。すべて火は近ければ熱く、遠ければ冷ややかなるはずだといい、その判決を孔子に頼みたれども、孔子は答えることができなかった。そこで子供が笑って申すには、かかる問題ですら解決を与うることができぬ人を、世間にて聖人などというのは、奇怪千万であるというたとの話が伝わっている。余はまさしくこれと反対の話を聞いたことがある。かつて山陰道の某地を巡回したときに、余と随行と共に人力車に乗り、前後相連なりて走る間に、両人の車夫が互いに話を交えつつあるを聞くに、このごろ学者の演説を聞いたが、学者ほど無益のことを心配しているものはなかろうと思うた。その話に、長き将来には太陽が熱と光とを失い、この世界が真っ暗になり、人間のみならず、すべての生き物がみな死んでしまうときがくるといわれたが、われわれの生きている間にそのようなるときはくるものでないから、決して心配するに及ばぬではないかといえば、他の車夫が学者などはみなそんな無用のことにのみ余計の苦労をしているものだといいて、互いに笑っていたことがある。この話はいくぶんか今日の学者を風刺しているように思う。

 余はかつて自ら学者と称せらるるほどの愚でもなく、文人と呼ばるるほどの俗でもないと申したことがある。今日の学者は実際になんらの用のない無益の空理を争い、空言を弄し、自らこれを得意としているものが多いが、これらみな車夫に嘲笑せらるるの輩である。孔子と子供との問答はもとより作り話であろうけれども、もしこれを事実とすれば、孔子の心中にては必ず困ったものだ、今日は子供までがかかる屁理屈を争うておると嘆息せられたであろう。孔子は実行主義で、知らざるを知らずとせよ、これ知るなりと説いてある。もし孔子の眼より今日を見られたならば、嘆息のあまりほとんど驚死せらるるほどならんと思う。諺に上の好むところは下これに従うというがごとく、学者が屁理屈ばかり説くから、学生みなこれに従うはもちろん、子供までが勧学院のスズメは『蒙求』をさえずる風情にて、屁理屈をもてあそぶようになってきた。実に嘆かわしき次第である。もし世にかかる学者のみ多くなったならば、世界の将来も国家の前途も、今より大いに案じらるることと思う。

 わが国の俚諺に「船頭多くして船山に登る」と唱えきたるが、余は「学者多くして国淵に沈み、先生多くして生徒屋根に上る」と申している。また自家格言を作り、左のごとく起草してみた。

船頭多くして船山に登り、薮医多くして人墓に入る。政客多くして民巷に泣き、学者多くして国淵に沈む。

 

 あるいはまた学者多くして国いよいよ貧しく、教育高くして民いよいよ苦しむと申してもよい。その他余の作った俗謡がある。

学者が肥ゆれば御国がやせる、サーベルが光れば鍬鎌さびる、官吏がヌクけりゃ、民家が寒い、これでは国が立ちゆかぬ。

 あるいはこれを修正して左のごとくに改めた。

サーベルが光れば鍬鎌さびる、学校が太れば田畑がやせる、オフィスがぬくけりゃ農家が寒い、これで御国が立つものか。

 余はこの主義を七五句調の歌に作ってあるから、左に掲げておこう。

明治維新の初めより、日になり月にすすみゆく、わが人文の大勢は、広き世界にたぐいなき、ことこそめでたき限りなれ、かくて学校教育は、津々浦々に行き渡り、知識の光り赫々と、照らさぬ隈のなきほどに、なりたる点はよけれども、ここに一つの欠点は、学者と名乗る人にあり、国民指導の重任を、負うて世間に立ちながら、西洋人の学説を八百屋のごとく並べ立つ、こは学問の骨董屋、その講演の内容は、書物の名前と人の名を、字引のごとく配列し、われより外に物知りは、けだし二人となかるべし、などと吹き立て大威張り、世間多くの人々は、そのうずたかき万丈の、気炎のけむに巻き込まれ、大先生とあがめ上げ、学問界の横綱と、呼ばれて本人大得意、平素その身は万巻の、書斎の中に篭城し、窓を隔てて雨風の、いかに激しくなろうとも、われ関せずの調子にて、米のなる木も糸を吐く、蚕の虫もみな知らず、衣食をかもす汗水も、民のかまどの寒暖も、すこしも御存知なき点は、華族の家にそだちたる、ボッチャンよりもはなはだし、ただお手柄は実際と、天涯万里隔ちたる、理想の空に舞い上り、人に無用の屁理屈を、大声挙げて説き下す、その有様は富士山の、高嶺にひとり腰掛けて、市街の人に説法を、すると同様その声は、いかに高くも聴く人の、耳に達するはずはなし、もしさなければ西洋の、学問店の取り次ぎを、するより外に能事なく、日本の国情民心に、適せぬ説を強売し、功能ばかりを述べ回る、たまたま一家の新説を、創立せりというを聞き、いかなる説かと立ち寄りて、よくよくみれば西洋の、陳腐の説の焼き直し、あるいはかれの学説の、二、三を取りてまぜ合わす、その不手際は木に竹を、つぎたるよりもなお悪し、しかも自分の天職は、天と地人の三才の、真理を究め応用を、教うる位置にありながら、天爵よりも人爵を、神のごとくに崇拝し、俗の俗なるものよりも、なおも俗なること多し、澆季の世とはいいながら、人を導く学問の、灯台かくも暗くては、世の風教をいかにせん、いまやわが国中等の、教育受けしその人は、徒食を好み力食を、いとうように傾きて、学が進めば進むほど、ブラツキものが多くなり、家は日に増し貧乏し、国はもとより疲弊する、その罪だれに帰すべきや、上に立ちたる学者より、手本を示す故ならん、今より後は用もなき、死学屁理屈やめにして、国を益する活学を、興すことこそ急務なれ、もしその弊をうそぶかば、コンナものかと思わるる。

今の学者は貴族で困る、飯はたべても米知らず、

わたくしゃ東京赤門そだち、米のなる木はまだ知らぬ、

知恵を磨けば鍬鎌さびる、これでは国も立ち行かぬ、

学者さんなど屁理屈ばかり、理屈で国が富むものか、

書物読むとて書物に読まれ、文字の間で立往生、

世間知らずの死学じゃこまる、活きたる学問するがよい。

死学する人しんから嫌い、屁理屈いう人なお嫌い、

西洋学問受け売りやめて、早く製造元となれ、

今の学者は怪物なるか、足は幽霊鼻天狗、

天狗ばかりが肩背をならべ、鼻のつきあい日を暮らす、

足はヒョロヒョロ鼻だけ高い、お化け学者の多い世じゃ、

かくと歌いしその人は、貴族にあらず百姓と、自ら名乗る学者なり、身分のほどを知らずして、位の高き学者をば、かれこれ批評する罪は、マッピラ御免失敬と、謝してここに筆留めぬ、これも一座の狂言と、知りて笑いの種とせよ。

 これにおいて余は世間の学者を貴族的と称し、余自身をば百姓的と唱えている。かつて福沢翁は平民的学者をもって任ぜられたが、余はそれよりも一段下りて土百姓的学者である。このことにつき余が自著に左のごとく題しておいた。

むかしある殿様が自らその身に絹布をまとうて、下々の者を見るに、いたって見にくい破れたる木綿着物をきているものが多い。彼らは何故に木綿のみを用うるか、われと同様に絹布を着るように勧めてやれと、従者のものに命ぜられたという話があるが、今日のいわゆる学者はよくこの殿様に似ているように思われる。ただ身体につける着物と心にきせる着物だけの相違である。すなわち右様の学者は自ら深奥の学理を修め、積年の研究によりてようやく習得したる理想的道徳をもって、己の心にきせる着物とするはよけれども、これを直ちに世間一般のもの、なかんずく学問もなく知識もなきものにまで着せようとする風がある。もし他の例に比すればあたかも自ら八百善の料理を味わいて、その己の口に適するを知りたれば、直ちに八兵衛でも吉兵衛でも、権助でもおさんでも、だれもかも、みなこの料理をたべるがよいと勧むると同様である。余はかくのごとき学者を貴族的と申している。もし広く一般の国民をして修身斉家の道、安心立命の法を知らしめんとするならば、学術上にて絞り出し、またはせんじつめたる道理を人知の程度、人心の状態に応じ、その所好に適するように調理しあんばいしなければならぬ。余はもとより浅学にして、自ら学者をもって任ずるは恥ずかしき次第なるも、ただ平素期するところはこの調理あんばいを引き受けんとするものである。これはかの貴族的学者に比すれば、百姓的学者というべきであろう。国家的事業を経営するには、貴族の力よりも農工商に待つところ多きがごとく、学問を普及するにも、貴族的学者よりは百姓的学者に功を帰すること多かるべしとは、余が自画自賛するところである。

 かくして余の見地より眺めれば、世の貴族的学者は高山の高く雲表に卓出せるがごとく、一望の下に人をして仰嘆に堪えざらしむるが、もしその学化の民間に及ぼす点を思いきたらば極めて微薄である。これに反して余のごとき百姓的学者は長江大河のごとく、だれあって仰ぐものなきも、そのよく村落に普及し、民俗に和同し、世道人心を維持する点において貴族的学者以上なりと公言するをはばからぬ。余が数十年間に地方を巡回し、山に臥し川に宿り、山樵野婦に対して諄々として大道を講説するも、自ら百姓的学者をもって任ずる故である。よって左に自作の一詩を掲げて、余の志のあるところを示しておく。

今日の学人貴族多く、自ら百姓に任ずるはただわれひとりのみ、草鞋竹杖なれば席温め難きも、願わくは皇風をして幽谷にあまねからしめんことを。

 

 その言その句あるいは自慢に過ぎ、滑稽に傾く点なきにあらざるも、自ら「自慢罪無し、滑稽毒無し。」(          )を唱うるものなれば、よろしく許容せられんことを読む人聴くものに望む次第である。

     二 学問の時弊

 わが日本帝国は人口の多き割合には土地が狭く、知識の進むに従って徒食するものが多くなり、兵強けれども国貧し。日露戦争の結果によって世界の一等国の仲間入りはできたれども、富国強兵にあらずして貧国強兵の一等国である。明治維新前にありてはわが国を西洋に比するに貧国弱兵の国柄であったのが、幸いに明治年間において兵力だけは強くなりたるも、財力は未だ欧米諸邦と対抗するまでに進まぬ。さればその財力を養うて国の富むようにするは、実に大正年間における国民の責任である。たとえ喧嘩するにも空腹ではできぬ。戦争するにも貧国ではだめだ。余の句に「喧嘩する前に腹をばこしらえよ」とよみたるは、富国を先務とせよとの意である。シナは東洋第一の大国にしてかつ古い国である。これを人身に例うれば肥満せる人の年寄りたるものとみてよい。かかる人は必ず中風に侵されやすいものであるが、シナも今日は中風症にかかり、半身どころでなく、全身不随の有様である。その病人を介抱する位置にある日本国はいかんというに、国の形は細長く、やせたる姿を有している。これを人に例うれば身長だけ高くして、体のやせたるものに比してよい。かかる人は肺患にかかりやすいものなるが、わが国はあるいはすでに肺病の徴候をあらわしていはしまいかと思わる。これに備うる道はなるべく多く滋養分を取りて、体力を養わねばならぬ。この意を寓したる拙作がある。

ふとりたるシナの中気にかんがみよ、やせたるわれの肺はいかにと

西洋の花を取るより団子取れ、ひもじきときは腹が第一

 かかる場合にはまず西洋の富国を学びて、わが国の財源を豊富にするように努め、すなわち種々の滋養を取りて体力を養い、その勢い肺病のばい菌を圧殺するようになり、十分健全の国柄を造り上げた後、中風症のシナを介抱してゆかねばならぬ。しかるに実際はこれに反し、西洋より学問の花のみ取りきたりて、知識道理の一方が進み、人はみな神経質となり、国そのものまでが神経衰弱にかかれるがごとき有様にて、肺患の予防どころでなく、かえってこれにかかるの準備をしているようなものである。それでは到底中風病者の介抱はできぬ。

 西洋の格言には「言うよりも多く知れ」という語があるが、わが国の時弊に対しては「知ルヨリモ多ク行エ」といわなければならぬ。孔子は「言ニ訥ニシテ行ニ敏ナランコトヲ欲ス」といわれしはその当時の時弊を矯正せんためであるが、今日は言にも敏なるを欲すると同時に、行いにも敏ならんを欲するようにしたいと思う。しかるにわが国人は学問を修め教育を受くれば、ますます実行を離れて空想に走り、屁理屈ばかりをもてあそぶようになる。これは実に今日の弊風である。すなわち世人は詭弁に傾き、学生は懐疑に陥りつつあるのがわが国の風潮である。

 この時弊を矯正する任は果たしてだれにあるかというに、もとより一般の学者なかんずく哲学者にあるはずなるに、その学者がやはり屁理屈一点張りでありて、学問を己の玩弄物にし、更にこれを応用して社会国家を裨益する方法を講ぜざる有様である。わが国にて教育の評判の最も高きは長野県なるが、余が先年その地方を巡遊せしときに、某小学校長得意然としてヘルバルト教育学の批評を述べ、余に可否を問われたから、余はこの村の産業はいかん、生産力はいかん、毎年の産額はいかん等と尋ねたれば、校長曰く、これわがあずかり知るところにあらざれば、よろしく役場員につきて尋ねられたしとの答えであった。国民教育をもって自ら任ずる教育家がヘルバルトの哲学を品評するをもって能事終われりと信じおるに至っては、実にあきれはてたる次第である。教育家すでにかくのごとしとすれば、その上に立つ学者なかんずく哲学者に至っては、大抵想像することができる。むかし孔子は「われあに匏瓜ならんや、いずくんぞよく繋りて食われざらんや」といわれたことがある。今日の学者はみな匏瓜のごとくブラリと懸かりたるだけにてなんの用もなさぬ。しかし匏瓜なお用があるが、今日の学者の実用に適せざる程度は失礼ながら米虫か芋虫のようなものであるかと思う。

 そもそもわが国の学者が実用実行に遠離するようになりたる原因は、むかし士農工商の階級ありしときの士尊民卑の遺風を伝うるものにして、その当時は学問はほとんど士族の専有となり、農商を賎業となし、武士は食わねど高楊枝の調子をとりたる風のいまなお存する故である。かくして今日の学者は学問をもって装飾品か骨董物のごとくに心得、これを実際に応用することを知らざる有様である。実語教には「山高きが故に貴からず、樹あるをもって貴しとす」とあるにちなみて、余は「学博きが故に貴からず、用あるをもって貴し」と唱え、自ら格言を作って曰く、

山はその高きをもって貴しとせず、植林の用有るをもって貴しとなす。川はその大なるをもって貴しとせず、潅漑の用有るをもって貴しとなす。学はその深きをもって貴しとせず、利民の用有るをもって貴しとなす。識はその博きをもって貴しとせず、済世の用有るをもって貴しとなす。

 

 

 また酒は飲むべし酒に飲まるべからず、書は読むべし書に読まるべからず、の主義をとり、微力ながら自ら時弊矯正の任に当たりたいと思う。畢竟するに今日の学者があまり学問と実際との間に懸隔をおき、自ら世俗と遠ざかり、書物の中に篭城するために、実用に適せざる人物ができるのである。故に余は格言を作り、

大食胃に満つればすなわちその食消化し難し、多識脳に満つればすなわちその識活用し難し。

 

 あるいはまた多飲は身に害あり、多読は心に害ありと歌い、大食が胃を害するがごとく、多読は脳を害し、神経衰弱症の病的学者ができるようになる。よってこの弊を除く方法として、書を知るよりも書を行うことを人に勧めたい考えである。

 むかしギリシアにありて七賢人の一人たるタレス氏は哲学の元祖と呼ばれている人だが、ある夜道を歩きながら星を眺めつつ天文を考え、ウッカリして堀の中へコロゲ込んだ。そのときに人より足元を用意なさいとの忠告を受けたという話がある。今日の学者はこれと同じく、見ることを知りて歩くことを知らず、眼を書中に注ぎて意を実際にとどめず、タレスの二の舞をなすものが多い。余がお化け学者の多きを嘆ずるのは、かかる目ありて足なき学者が多くなりたるためである。かつて某書林の主人が余の宅にきたり、学者の方々がこの書物を出版すれば、必ず大当たりでもうかるに相違ないと、勧められて出版した書物に当たったことなく、こんな書物が売れるものかといわれたものに、案外当たることがあるという話を聞いたが、これは学者に書物を見る目あって、世間を見る目がないからである。

 ある老人が己の老い去りて耳の遠くなりたるを知らずして、老人が申すには、むかしの鶏は鳴いて時を告げたものだが、このごろは時もつくらず、あくびばかりしていると嘆息した話がある。これと同じく学者が書物ばかり読んでいると、世間の事情に暗くなる。その有様は老人の耳の遠くなったようなものだ。かかる学者が世人のなすところを見て批評するのは、あるいは鶏の鳴くのをみてあくびと思うがごときことが多かろう。余が学者を評せし語に、

富士山上の高声、邑里に達せず、赤門堂裏の大声、俚耳に入らず。

 

という句がある。とかく学者が世人に対して論ずるところは、富士山上で呼ぶがごとく感ぜらる。もとより多数の学者中には全く世間を離れて、読書三昧の人もあって差し支えないけれども、だれもかれもみなその風を学び、幾十万の学生までがことごとく実際を忘れて空論に走る風があるから、余は国家のためにこの学弊を矯正したいと思う。その言自然に極端に走り、学者の悪口ばかりを述べるようなれども、余の本志のあるところを察してその罪を許さんことを望む。しかしてこの弊を除くには、今より後みだりに死書を読み、いたずらに死学を修むる風を改めて、活書を読み、活学を修むるようにしたい。

     三 活書と活学

 古来学者が空理を争い空想に走り、実際を忘れ実用を顧みざるようになるときは、必ずその国の衰亡を招くに至れるの例、決して少なくない。まずシナにて春秋戦国の間、議論理屈があまり盛んになり、孔孟の聖賢の力にても、その弊を矯正することできざりしために、周朝も亡ぶるに至った。ギリシアにては学者が空理を争いたる結果が詭弁に陥りしために、ソクラテスの大賢起こり、人倫の基礎の上に哲学を建設してその風を矯めたれども、更に議論百出の結果、懐疑に陥り、国もようやく衰亡するに至った。故に学問が懐疑に走り、世間が詭弁に陥るの害は今より予防しなければならぬ。

 この予防の任に当たるべきものは主として哲学者なるべきも、その哲学者は屁理屈の張本にして、大声俚耳に入らざるを得意とし、ひとり天下泰平を気取り、世道人心の萎微振るわざるを見て、「われ関せず」(我不関焉)の態度を持ち、芋虫ごろごろ然としてなんの用もなさぬ有様である。その講ずるところの哲学は鉄学にして、しかも鉄よりも固く、世人の知識の歯にてかみこなすことのできぬを得意としている。またその説くところの心理学は針理学にして、重箱の隅を針にてほじくるがごとく、瑣末微細の詮議をもって大手柄としている。また倫理学は鱗理学となり、魚類にうろこあるがごとく、学問の外面ばかり光りて見ゆるが、実用には全く適せぬ有様である。これうろこに光りあるも食用に適せざるにひとしと申してよい。また論理学は鈍理学となっている。「ろ」と「ど」は九州地方にては同音にして、熊本や鹿児島などでは六銭を「どくせん」といい、論語を「どんご」というから、論理学を鈍理学と名付けて差し支えなかろう。これを鈍理学と呼ぶのは外ではない。実際に全く関係せざる事柄を喋々しく論じ立つる有様が、全く事理を解せざる愚鈍者のごとく見ゆるからである。

 かく哲学が鉄学となり、心理学が針理学となり、倫理学が鱗理学となり、論理学が鈍理学となりたるは、わが国の学者の罪にあらずして、西洋より伝来せるものなるに相違ないが、これ西洋哲学の短所にして長所ではない。たとえこれを長所とみるも、わが国と西洋とは大いに事情を異にすることを心得おかねばならぬ。西洋は今日すでに国富み財豊かにして、衣食に汲々せざる境涯に達しているが、わが国は今より活動して富源を開き、財力を養うを要する時代である。故にわが国の学者は西洋の学者よりも一層実用方面に心を注がなければならぬ。これに加うるに西洋にては古来より教学別途の風を伝え、学問の方は世道人心のいかんを顧みずして、研究一方に専注し、宗教の方は世道人心を維持する実際に尽瘁することとなりおるが、わが国はしからず。学問の方面にて実際をも兼ねざるを得ざる状態なれば、その点をも酌量して方針を定めなければならぬと思う。

 むかしシナにて秦の始皇が書を焼き儒を坑にせりと伝えられておるが、この当時の学者が屁理屈ばかりを唱え、実用を顧みざるの弊風あるをみて、これを革新せんとする手段なりしは明らかである。シナに禅宗が起こり、教外別伝不立文字を説きて一喝を与えたるも、その当時の僧侶が経文の字々句々の詮議にのみ意を用いたる反動にして、仏教の時弊矯正の一方法たりしことも明らかである。これにおいて余は哲学の教外別伝を主唱せんことに定めた。その主義を道歌に作りて、「世の人の議論する間に仕事せよ、これ哲学の教外別伝」とよみ、また哲学には向上門と向下門との二道がある。向上門は宇宙の真理に向かって昇進する方面にして、向下門は世間の実際に向かって応用する方面であるが、今日の哲学は向上の一方に傾き、向下を忘れたるがごとき有様なれば、余は向下主義をとり、禅家の向上一路千聖不伝に対し、向下一路百哲不伝と絶叫し、かつ詩を賦して曰く、

今哲徒の争理浅深、空言なんぞ達せん万民の心に、わが家の学説君知るや否や、向下の路頭別音を伝う。

 

と唱えている。もとより哲学としては向上を欠くことはできぬ。よって余の格言に、

向上を知りて向下を知らざる者は逆上なり、向下を知りて向上を知らざる者は下血なり、共に健全の人に非ざるなり。

 

と説き、その権衡を保ち、中庸を得るは最も肝要とするところなるも、時勢の風潮に応じて学問のかじの取り加減あることを忘れてはならぬ。すでに今日の風潮が、向上の一方に偏しておるから、学問の健全を保つには向下の方にもっぱら力を用うべきが当然である。

 今日の学者がもし向下の方面に意を注ぎ、実用の方向に心をとどめ、もって時弊を矯正せんと思わば、余のいわゆる活書を読み、活学を修むることを努めなければならぬ。ギリシアのソクラテスはアデンの市中に住して、野外に出づることなく、毎日午前は市場に行き、午後は公園を訪れて生涯を送られた。ある人が何故に野外に出ぬかと尋ねたれば、これに答えて、野にある草木はわれになんらの知識をも与えぬといわれたそうだ。要するにソクラテスは、市場や公園に集まれる人を見て学問とせられたに相違ない。これすなわち活書を読み活学を修めたる人と申さねばならぬ。実にわが目前に現るる天地万物、わが周囲に交われる社会人類はみな活きたる書物である。筆に染め紙に印したる書物のごときは死物である。故に活学を修めんとするものは、この死書を捨てて活書を読むようにしたい。余はかつて不読主義を唱え、左のごとき一詩を作ったことがある。

天地山河みなわが居なり、なんぞ窓下をもちいて三余を惜しまん、活学を興こし時弊を除かんと欲さば、二十年このかた書を読まず。

 

 また道歌もよんだことがある。余の歌は「うた」にあらずして「ぬた」である。「ぬた」にあらずして「ぶた」である。人は己の子を指して豚児というが、余は己の歌を指して豚歌と申している。その雅号は未知句斎焉知歌堂であるから、腰折れは通りすぎて、お化け歌、幽霊歌と名付けてよい。なんとなれば骨も肉もないからである。すべてその心得にて読んでもらいたい。

天も地も人もわが家の活書なり、死書を読むより活書こそ読め

死書を見て死んだ学問するよりも、天地の活書読むが哲学

 かく余が拙劣なる詩や歌を挿入するは、かえって恥をさらすようなれども、余は平素心に感じたることは必ず格言に作り、また詩歌に綴りて後日の記憶に備うることに定めておく。故にこれは余が活書を読みたる記録であるから特書するのである。

 古人は学ばずして知るものは聖なり、学びてのち知るものは賢なりといい、孔子は聖人なるが故にその師なしと説いているが、孔子のみならず、釈迦もソクラテスも師に就かずして自ら知りたる人である。これらの聖賢は死書を学ばずして天地人の活書を読まれたるに相違ない。しかしてこれを読むには活眼を開かねばならぬ。孔子や釈迦のごときは生来大活眼を有したる人であるが、わが輩のごときは生来すこぶる小さき活眼を有しておるから、活書を読んでも孔子や釈迦のごとき人となることはできぬ。しかし誰人もおのおのその分に応じ、活眼をもって活書を読むようにしたいものである。

 かくして活眼をもって活書を読み活学を修むるようになれば、始めて学問を活用することのできるようになり、したがって時弊を矯正し得るは必然の勢いである。活眼、活識、活書、活学、活用はみな連続せる関係を有し、一を挙ぐれば他は相伴うて起こるから、今日の死眼、死識、死書、死学、死用を医治するは、活の一薬に限ると余は断言しておる。この方針をとりて活学問、活仏教、活教育を唱え、これを教外別伝の哲学と名付けておく。「わが道一もってこれを貫き、日々に活きんのみ」(            )の主義である。国を富まし家を興すの道はこの外にないと信ず。仏教中の天台にては「一色一香中道に非ざるは無し」(          )と説くが、余は「一色一香学問に非ざるは無し」(         )といい、また古人の「渓声はすなわちこれ広き長舌、山色あに清き浄身に非ずや」(                 )の連句に対して、「渓声はすなわちこれ活きる書籍、山色あに真の知識に非ずや」(                )といい、「松は吹く説法度生の声、柳は含む観音微妙の色」(                )に対して、「松は伝う造化読書の声、柳は現す自然修徳の色」(                )というは、みな余が教外別伝の哲学を表示せる語である。その他、余の詩集中に、

雨過ぐれば春花笑い、風きたれば秋葉吟ず、窓を開きてなんぞ読まざる、造化自然の心、だれか説う人生苦なりと、見きたればことごとく楽天、水歌い山おのずから笑う、草木もまた欣然たり、山を出でて人海に入り、最も好みてわが居を定む、世事雲のごとく千変たり、見きたればみな活くる書、万象天地に満ち、読みきたりて一宗を開く、六塵の文字の語は、よくわが心胸を写す。笑うに堪えん凡人の学、孜々として死書を読むを、君に勧む活眼を開き、万巻宇間に舒するを、世をいといてなお俗に交わり、仙を求めて未だ山に入らず。人生悲喜の境、自らわが禅関にあり。禅を学びてだれか壁に面する、悟りを開きてあに空を見ん。人海波を揚ぐるところ、高呼して疾風に叱す。宇宙の由来万象新たなり、だれかいう法無くまた人無しと。もし君真如境に接せんと欲さば、すべからく風花雪月と親しむべし。

 

 

 

 

 

嘆息す今の賢、死書に耽り、知らず古聖の真如を読むを、抜山倒海笑うに堪えん、一気浩然として大虚を呑むを。

苦中楽を含めば暗中も明なり、窮後通ずる有れば枯後も栄う、厭世し悲観するは愚なることまたはなはだし、すべからく活眼を開きて人生を読むべし。

 

 

 これみな余が活書をよみたるときの感想であるから、ここに連載したのである。またその感想を格言に写したのもある。

万巻の書を読むも万人の心を読むにしかず、仰いで向上の天理を見、俯して向下の人文を察す、笑いて山色を見れば山おのずから笑い、泣きて水声を聴けば水もまた泣く、窓を隔てて水を見れば声形に現れ、耳を覆いて鳥を聴けば色響きを生ず、春花秋月夏風冬雪、一物として歓天楽地ならざるは無し、風颯々雨蕭々たる間おのずから歓天の響を聴き、雲漠々烟濛々たる中おのずから楽地の景を見る。天地の雄壮を見んと欲せばよろしく烈風迅雷の中に座すべし、人生の活動を見んと欲せばよろしく肩摩轂撃の間に立つべし。





 以上、詩句格言はすべて余が教外別伝の消息を伝うるものとみてもらいたい。要するに余の哲学は死哲学にあらずして活哲学である。

     四 東洋哲学の真相

 ここに東洋哲学の真相を述ぶるにさきだち、西洋哲学の長所短所を一言してみたい。すべて西洋学の長所は物質実験の方面にありて、その方面の研究は実に至れり尽くせりである。しかしてその結果は諸術の応用となり、百工万器の工夫となり、鬼神迷裏の路を開拓し、造化秘中の機を発明するに至り、余のいわゆる「波上に軌無くも車よく走り、雲間に船有らば人おのずから飛ぶ」(                )の光景を現し、利用厚生の道究め得て妙なりといってよい。この学風が哲学に波及し、精神を解剖し、真理を分析し、物質的研究の方法を哲学の上に応用したるは、西洋哲学の長所なるがごとくにして、その実短所である。あたかも望遠鏡をもって絶対関内をうかがい、顕微鏡をもって精神洞裏を検せんとすると同じく、その功を奏すべきはずはない。

 そもそも物質と精神とは全くその性質を異にし、物質が水ならば精神は火である、物質が色ならば精神は声である、物質が重量ならば精神は温度である。したがってこれを研究する学問もその方法を異にしなければならぬ。温度を計るには寒暖計を用い、重量を知るには衡器によるべきはずなるに、物質の研究方法をもって哲学内に応用するは、衡器をもって寒暖を計らんとするに同じく、実にその愚を笑わざるを得ない。要するに西洋にありて哲学者が、近世物質の諸学が着々功を奏し績を挙ぐるをみて、これをうらやみかつ慕い、ついにかれがとる主義を学び、かれが用うる方法に倣い、もしこれを精神界に応用しきたらば、必ず大いに成功をみんと思い、ついに哲学をして物学に改宗同化せしめたるのが、西洋近代の哲学である。この改宗同化によってただに哲学の品位を下落せしめしのみならず、寸分の功績を挙ぐることできず、近世数百年間の努力は、ほとんど骨折り損のくたびれもうけにて終わるに至った。故に余は西洋哲学の短所はかえってその長所とするところにありと申している。

 更に顧みて東洋哲学を一瞥するに、哲学を精神の基礎の上におき、分析解剖の方法を用いず、総合直観の大道により、単刀直入の門を哲学界に開きたるものである。西洋哲学は牛を割くに鶏刀を用うるがごとき観あるが、東洋哲学は牛を割くに牛刀を用うる風がある。余がかつて西洋哲学は分析的なるをもって、平地を跋渉して実地を踏査するがごとき趣あり。東洋哲学は直観的なるをもって、山頂に登りて大観を放つがごとき趣ありといいたるも、この点を示したのである。あるいはまた自ら格言を作りて、

 東洋哲学の大観は高きに登りて遠きを望むがごとし、西洋哲学の小景は室を出でて庭を歩むがごとし。

 

とも申しておる。もとより西洋哲学は物質実験の結果をもって潤色を施してあるから、一見人をして愛恋の情を起こさしむることあるも、東洋哲学の真摯にして真面目なるは、その価値において到底かれの及ぶところではない。この点につきて格言を作らば、

 西洋哲学は花紅柳緑の態あり、東洋哲学は光風霽月の趣あり。

 

と評してもよい。もし西洋哲学の中より物質的潤色紅粉を洗除し去らば、東洋哲学に比してなんらの斬新なる点を認めぬであろう。

 その他にも東西両哲学の異同を挙ぐれば、西洋哲学は理論の一方に走り、大は絶対を極め、細は微塵に入るほどなるも、世道人心を維持する方面においてはすこぶる迂闊なるものである。これに反して東洋哲学は哲学上の道理を直ちに実際に応用し、世道人心を裨益せんことを努めている。例えばシナ哲学は孔孟学派も老荘学派も帰するところ治国平天下の道を講じ、インド哲学は婆羅門派も仏教派も共に安心立命の法を説き、一は倫理となりて世に行われ、他は宗教となりて世に伝わっている。これまた東洋哲学の特長である。西洋にては最近に至り哲学上より実際的倫理宗教を開立せんと努力しつつあるも、未だその功を奏せざる有様である。これは従来研究の方法を誤りたる結果とみることもできる。

 西洋にて倫理を研究するにその材料を蛮人にとり、動物に徴し、最高文明の人心を動物遇し、蛮人視して道徳を樹立せんとし、これに加うるに信念を蔑如して道理一方によらんとするにあれば、その結果かえって破壊的となり、理性をくだき、良心をこぼつに至る。その故に功を奏することは困難である。これに反して東洋哲学は社会を直観し、理性を内省して、道徳宗教を建設するから、効果をみること容易である。果たしてしからば何故に東洋諸邦が振るるわざるか、何故に東洋文明が盛んならざるか、何故に東洋の倫理宗教が発展せざるかの疑問が起こるであろう。まず第一に人よく道を弘む、道の人を弘むるにあらざることを知らねばならぬ。かく東洋の不振を見るに至れるは、教の罪にあらずして、これを弘むる人の罪である。つまり人民が内外種々の事情より天然に依頼し過ぎて、自ら努力することを忘れ、いかに崇高適好なる哲学あっても、これを二、三千年前のそのままに任せ、時勢に応じて革新することを知らず、水動かざれば必ず腐り、人動かざれば必ず病むの道理にて、哲学をして腐敗せしむるの結果をみるに至った。余が仏教は死仏教となり、儒学は死儒学となりたりと一喝せるも、このわけからである。

 この死学死教を巡らして生気を起こさしむるはすなわち革新にして、余のいわゆる活眼をもって活書を読み、活識をもって活学を開くの方法によらなければならぬ。かくするには近来西洋より輸入せる分析解剖的研究をひとたびわが哲学界より除去して、東洋哲学の本来の面目を開発すると同時に、今日の時勢に適合する方法を案出するを要するはむろんである。その方法としては西洋の諸学を参考する必要も起こるであろう。しかしその間に本末主従を誤らず、東洋固有の思想を本とし主とし、西洋輸入の思想を参考与料とし、和魂漢才にあらずして、和身洋衣あるいは東身西衣の方針をとることは差し支えない。これと同時に空論に走り空想に陥るの弊を避け、あくまで実用実行を重んずる方針をとらなければならぬ。

 この実用実行に重きをおくは、やはり東洋哲学の特色にして、孔子は論語の中に「父母につかえてよくその力を尽くし、君につかえてよくその身を致し、朋友と交わり言ってしかして信あらば、未だ学ばずというといえども、われは必ずこれを学びたりといわん」と説き、または「入ってはすなわち孝、出でてはすなわち弟、謹みてしかして信、ひろく衆を愛して、しかして仁に親しみ、行い余力あればすなわちもって文を学べ」と教えたるがごときは、みな実行に重きをおきたること明らかである。また仏教中には「知目行足清涼地に至る」と説きて、実行を勧め、戒定慧三学の修行を設けてあるが、その慧は理論的にあらずして実行的である。しかるに今日わが国の学風はただ一に西洋に倣い、知目のみにて目的地に至らんとし、理論的知恵のみを用いて、実行的知恵を除外する傾向あるは、この際大いに革新せなければならぬ。

 余は右の次第を豚歌につづりて、左のごとくよみたることがある。

 「書を読みて行うことのできぬ身は、学びし人とだれか許さん」また「百聞は一見にしかず」(       )の語に対して、「百読は一行にしかず」(       )とも説き、更にその意を敷衍して拙作を賦したことがある。

道義の海頭風波を起こし、人心いずれの日か春和を見る、すべからく実学を修めて民福を補うべし、百読はしかず一行の多きに。

 

 これみな余がいわゆる教外別伝の活哲学のとるところの方針である。

     五 余がいわゆる哲学観

 余が教外別伝の哲学を一層明瞭するには、ここに一般の哲学につきて説明する必要がある。古来哲学の解釈が十人十色にして、学者おのおのそのみるところを異にしている。まずここに研究の相手となる物柄につきていわば、宇宙に絶対と相対との別あり、世界に物質と精神の別がある。物は心に対し、心は物に対し、互いに並行対立するものなれば、これを相対という。もしその二者の本を究め、その体一なりとみるときはこれを絶対という。しかして哲学は物心二者相対の点より起こりて、絶対に論到するものである。まず物につきてその本を尋ね、心につきてその源を探り、あるいは物を離れて心なしという唯物論の起こるあり、あるいは心を離れて物なしという唯心論の起こるあり、あるいは物心二者その体一にして二ならずといい、あるいは相対即絶対という一元論も起こってくる。これみな絶対論と申さねばならぬ。要するに哲学は理想上、物心相対より絶対に向上する学である。これを特に理想上と断りおくのは、宗教と区別するためにして、宗教も同じく絶対に向上する道なるも、理想上より論到するにあらずして、実行上より接合する方である。もしこれを仏教の語をもって示さば、知目をもって絶対に向上するを哲学とし、行足をもって絶対に向上するを宗教とすと解釈しても差し支えない。

 哲学は物心相対の境遇より絶対の真際に論到する学とするは、哲学の向上門である。この向上門の外に更に絶対の域より相対界へ論下する一道があるが、これを仮に向下門と名付けておく。すなわち哲学の応用の方面である。もとより宗教にも向下門あれど、哲学とややその趣を異にしている。もし哲学に向上のみありて向下なきときは、ただ学者が己の知欲を満たすまでの学となり、世道人心の上になんら益するところなきに至り、畢竟無用の長物たるを免れぬ。よって哲学には必ず向上向下の二門を併置しておかねばならぬ。すなわち向上門は哲学の理論に属する方面にして、向下門は実際に属する方面である。故にこれを理論門、実際門と称してもよい。

 古来哲学を解してあるいは理想の学、あるいは原理の学、あるいは絶対の学、あるいは統合の学なりと称するは、すべて向上門の方面のみにつきての解釈である。そのうち統合の学という方は諸科学に対して哲学を区別したる解釈にして、近世に起こったる定義とみてよい。むかしはすべての学問を哲学と称し、物理学まで哲学中に加わりていたが、後に物質の学問と精神の学問とが分かるるようになって、精神方面の学問を哲学といい、更に精神方面中に心理学や倫理学などがおのおの独立してようやく精神的科学となるに従い、哲学は科学に対して別に定義を立つるの必要を生じ、各種の科学は宇宙間の一部分の道理を統合する学にして、哲学は諸科学を統合して宇宙全体の真理を考定する学という解釈が起こってきた。余はかつて諸学を政府の組織に比し、物質的科学は地方政府のごとく、哲学は中央政府のごとしとし、その哲学に広狭二種を分かち、広義の哲学中には精神的科学を加え、心理学、倫理学、論理学、美学、および純正哲学を合して哲学とし、狭義の哲学としては純正哲学のみを指すことに定め、純正哲学は中央政府中の内閣のごとく、自余の哲学すなわち精神科学は八省のごとしとして比較せしことがある。しかして宗教は宮内省のごとしとして哲学と区別してみた。これを表示すれば、

  教学 学 理学(物質的科学) 地方政府(府県庁)

       哲学 精神的科学(心理学、論理学等) 諸省

          純正哲学 内閣

     教(宗教) 宮廷

 この図によって科学と哲学の関係が一目暸然であると思う。さらに一言を付加したきは、余が本講において哲学と単称するは、純正哲学を指すという一事である。

 哲学は諸科学の各方面より研究して得たる結果を、統合する位置にあるはむろんなれども、統合するだけが決して哲学の本務でないというのが余の持論である。けだしこれを統合する本意は宇宙の真理を考定するにありて、宇宙全体は絶対なるべきものなれば、絶対を目的とすることになる。あたかも内閣が諸省諸府県の報告を統合するのは、統合そのことが目的にあらずして、国家たる一絶対物を経営する方便となるに同じからんと思う。故に余の説にては科学は相対の学、哲学は絶対の学とし、しかして哲学が科学を統合するは絶対に向上する方便にして、目的にあらずとする意見である。

 かく哲学に定義を下すときは、古来哲学中に物心二元論者もあり、相対常識論者もあるが、これらは哲学にあらざるかと質問する人あらんも、従来の二元論者も常識論者も宇宙絶対の真理いかんに向かって研究したる結果、物心以外にその本体を発見することあたわずして起こりたる論なれば、もとより絶対考定の学と称して差し支えない。すなわち絶対を考定せんとして向上したるものに相違ない。また虚無論や無元論のごとき絶対を否定する論者も、これと同じく絶対に向かって進みたるものである。たとえ絶対を肯定するにしても否定するにしても、共に絶対を探見せんとする結果によるものなれば、これを絶対考定の学と称してなんらの不都合はないと思う。もしまた一歩を進めて考うれば、虚無論者は虚無をもって唯一の真理とし、無二の原理とするに相違ない。果たして唯一無二といえばこれすなわち絶対である。故に余は科学は相対の学、哲学は絶対の学と定義を下してよいと思う。ここについでながら自作の格言を紹介しておく。

人生向上の一気凝りて哲学と成る。人類は理想をはらみ、理想は哲学を産む。高く宇上に出で遠く宙外に遊ぶ者ただ理想あるのみ。

 

 これまた余が活書を読んだときの記録である。

 以上は哲学の向上的方面の解釈であるから、これより向下門の定義を述べんに、そのいわゆる向下は人生を目的とするものである。故に向上門が宇宙絶対の学ならば、向下門は人類社会の学である。向上門が絶対を考定する学ならば、向下門は人生を改善する学である。ひとたび絶対を究明して得たる結果を人生に応用して、社会も国家も個人と共に向上発展せしめんとするは、向下門の期するところである。この点につきては倫理宗教に密接の関係あることになる。

 余思うに向下的哲学にも広狭の二義ありて、広義の方にては倫理も宗教も哲学中に入り、狭義の方にてはその間に区別ができる。まず宗教に対照するに、哲学は知識に基づき、宗教は信仰に基づく点においておのおの相異なるも、その信仰は合理的と超理的との二種がある。これを仏教の語にていえば解信と信仰となる。解信の方は知窮まりて信を生ずる方にして、最初は知識の力により、宇宙絶対を究め尽くして生ずる信仰である。この方は哲学的にして、この主義によりて立てたる宗教は哲学的宗教となり、哲学の向下門の中に納まることになる。しかるに最初より知識を用いず、教権や経典に依拠して信ずるのは普通の宗教にして、哲学以外のものである。倫理もこれと同じく哲学上究明して得たる先天の命令、絶対の喚声を本として、修身斉家を説く方は哲学の向下門に属し、ただ経験や習慣だけによる方の道徳は哲学とすることはできぬ。よって倫理にも宗教にも、哲学的と通俗的との二様あることを心得おかねばならぬ。しかして倫理中の経験派の功利説のごときは、通俗中の高尚なるものとして取り扱いたいと思う。

 つぎに哲学的倫理と哲学的宗教との相違いかんというに、倫理は人間を本領とし、人を人として向上せしめんとし、宗教は宇宙を本領とし、人をして超人すなわち人間以上に向上せしめんとするの別がある。故に倫理は相対的にして、宗教は絶対的である。また動機の上にていえば、倫理は人の良心を本とし、その心底より発する先天の命令に従う方なるが、宗教は良心の上に更に絶対の本体を既定して、ひとりその声を聴くのみならず、その光に触れ、その色に接し、これと融合せんとするの別がある。これを要するに倫理と宗教は哲学の直接の応用にして、共に向下的哲学とみてよい。しかして間接の応用に至りては諸学諸術に関係することになる。

 すでに哲学に向上向下の二門あるを示したれば、更にいずれの方に重きをおくべきかを一言せなければならぬ。この問題の解決は時と所とに応じて軽重を異にすべきものと思う。しかしてわが国の今日の事情にては、もとより向下に重きを置くべきものと断言するをはばからぬ。ことに目下の学弊を矯正するには向下に全力を専注すべきは当然である。しかしあらゆる事情を離れて単に哲学そのものよりいえば、向上がその特性とするところにして、これに重きを置くべきものであろうも、もし更に進んでその向上はなんのためかと問わば、向下せんためなりと答えざるを得ない。すなわち向下せんための向上にして、向上門は方便、向下門は目的となるであろう。また現今にありて向上門は古来の説を反復するまでなれば、哲学の大本としては、余はすでにその理源を究め尽くせりと思う。故に余は近来もっぱら向下の一道に全力を注ぎつつある。

 かく哲学は向上を方便とし、向下を目的とするというときは、向下に基づきて哲学全体の定義を下す必要が起こる。すでに向下は人生に応用する方面なれば、新たに定義を案出して、哲学は人生を円満にする学なりといいたいと思う。古今東西哲学の定義を下せる人多々あるも、おそらくはかくのごとく定めたるものは一人もなかろう。これも余の哲学が教外別伝たるゆえんを領会せられたし。ただし円満の文字は活動の意を示さざれば、余の活哲学の定義として不十分かと思う。よって更に訂正して、「哲学は実際上人生を向上するの学なり」、かく定めておきたい。ここに実際上の三字を加えたるは、理論の向上にあらざることを示すためである。


   第二講 宇 宙 観

     六 余の宇宙観

 これより哲学の向上門につきて、初めに宇宙観、つぎに人生観を述べんとするに、古今の宇宙観には唯物論もあれば唯心論もあり、一元論もあれば二元論もあり、超理論もあれば虚無論もありて、十人十色、千人千説、ほとんど帰着するところを知らぬ有様である。これみな宇宙を一局部より観察したるまでにして、その諸説を統合総括しきたらば、始めて宇宙の真相をうかがうことができるであろう。要するに古今の諸説、おのおの一理一真ありとみてよい。これらの諸説を叙述して、その一長一短を指摘するは、哲学史の受け持ちにして、余のいま論ずるところにあらざれば、これを略しておく。

 余は先年、自家独特の宇宙観を発表して、世間の公評を請うたことがある。すなわち『哲学新案』と題する一書である。その書中には宇宙を表面より見たるところと裏面より見たるところとを分かち、また表面において縦より見ると、横より見るとの二様を掲げておいた。今そのいちいちを述ぶることはできぬけれども、大要を一括して申さば、まず星雲説に基づき、世界の大初は星雲より起こり、次第に分化して万物万象を開現するに至る。これ宇宙の進化である。しかして将来は漸々退化して元の星雲に帰ることがあるであろう。すなわち世界は星雲に起こりて星雲に帰る。余はこれを世界の大化と名付けた。その大化には進化と退化とが循環するから、これを循化ということにしておいた。すでに世界が星界より進化して万象を開現し、更に退化して万象を閉合し、再び星雲に帰する以上は、その星雲が更に再び開現することあるべく、また今日の世界の前には必ず前世界あるべく、一進一退、一開一合を反復し、世界の前にも世界あり、前世界の前にも世界あり。これと同時に世界の後にも世界あり、後世界の後にも世界ありて、無始以来、未来際を尽くして循化窮まりなしとみるのが、表面より縦に世界を観察したる余の見解である。

 この循化無窮の理は物資不滅、勢力恒存、因果相続の三大理法より必然的に起こる結論である。この観察によるときは、幾億劫の後に今日にひとしき世界を開現し、日本帝国の再現、井上円了の再生を見るべきは、因果の理法がわれを欺かざる限り、必定すべき推論である。ただし今日われわれを修めたる原因によりて、多少その状態を異にすることはまた疑うべからざる道理である。故に吾人の死は、真の死にあらずして永眠といわねばならぬ。また今日の因がその果を後の世界に結ぶとすれば、吾人はこの世において国のために人のために有らん限りの力を尽くして、永眠に就くべきである。古語に「人事を尽くして天命を待つ」とあるが、その天命はつぎの世界においてあらわるること明らかなれば、人事を尽くして来世を待つと心得ねばならぬ。

 つぎに横より観察するときは、この世界には物心二者の対立することが分かる。しかしてその物を究尽すれば心に帰し、心を究尽すれば物に帰し、物の極は心となり、心の極は物となる。すなわち両極の合して一となることが、古来の唯物論、唯心論によりて明らかに証明せられている。あるいは唯物論が真理である、あるいは唯心論が真理であるなどというのは、いずれも偏見にして、局外より観察すれば、この二者全く一物の両端、一体の両面に過ぎぬことが分かる。更にその理を相対絶対の上に当てはむるに、相対を究むれば絶対となり、絶対を究むれば相対となる。よって相対絶対も一体両面なることが分かる。ここにおいて、余は相容相含説を唱うるに至った。

 古今の哲学者中に一体両面説を唱うるものは少なくないが、その説明は死物的の考案にして、融通自在なる理を示すことができぬ。したがって表面中に裏面を見、裏面中に表面を現ずる理を説くことができぬ。しかるに物心の関係のごときは心中に物を見、物中に心を現し、一念中に世界を納め、一分子中に精神を含むものにして、つまり二者相含とみなければならぬ。故に余は一体両面にして、しかも二者相含せりと立つるのである。

 この相含の理によりて、古来の学説の矛盾相反する点も会通することができる。そもそも哲学の問題はいずれにあるかというに、矛盾を会通せんとするにありて、多くの学者が苦心焦慮ただならざる有様であるが、もし相含の理を当てはめきたらば、千古の疑団も一時に氷解することができる。よって余は矛盾すなわち真理なりと断言したいと思う。むかし大地は平坦なりと信ぜし時代には、天地を説明するに非常の困難を感じたるも、いま大地は球円と知りて以来、種々の疑問がたちまち解決をみるに至りしごとく、今日は宇宙の問題を平面的直線的に解釈せんとするために、種々の矛盾を起こすのである。すなわち直線的とは物はどこまでも物、心はあくまで心として進行する立論の意味である。しかるときは必ず矛盾を起こすを免れぬ。もし大の極は小となり、小の極は大となり、一の極は多となり、多の極は一となり、同の極は異となり、異の極は同となり、自の極は他となり、他の極は自となり、有の極は無となり、無の極は有となるを知り、たとえ人これを矛盾というも、その実大小、一多、同異、自他、有無、みな相含するを宇宙の真相なりと体達しきたらば、矛盾が矛盾にあらずして真理なることを悟了することができる。よって一般の哲学眼より見て矛盾すと思うところが真理の存するところである。故に余は矛盾すなわち真理なりというをはばからぬ次第である。

 この相含の理はなんによりて証し得るかというに、数千年間の哲学が反復丁寧に証明してあまりありと思う。唯物論が唯心となり、唯心論が唯物となり、一元論が二元となり、二元論が一元となり、相対論が絶対となり、絶対論が相対となり、日月の昇沈し、寒暑の来往して反復窮まりなきがごとくなるは、全く相反する学説がその内部に互いに相含するところあるのである。要するに東西古今の哲学史はこの相含の理を証明せる歴史と申してよい。故に一事一物、万象万化、ことごとく円転自在、融通無碍なる性質を有する次第である。もし強いてこれに名を与うれば、宇宙の真相は円了の二字に納まると申して差し支えない。これすなわち円了哲学のとるところである。しかるにこれを直線的論理、平面的推理をもって解決せんとするために、種々の矛盾衝突をみるに至り、疑団百結、五里霧中に彷徨するようになる。誠に憫笑すべきことである。

 大地は平面なる中に球面を含め、球面なる中に平面を含むことは、何人も考察すればたやすく知了するであろう。また世界に東西南北の方位なきも、その中に方位歴然として存し、また方位ある中に方位なきを知了することもできる。これまた平面中に球面を帯び、球面中に平面を包み、無方位中に方位を現じ、方位中に無方位をみるものにして、二者相含なるを知るべきがごとく、哲学上の宇宙問題はみなこの相含の理をもって解決を下さば、千古の疑団一時に雲消霧散して、哲学界中に青天白日を仰ぐに至るべき道理である。シナ哲学にて陰陽の二元をもって万象万化の生起するゆえんを説明しているが、これまた陽中に陰を含み、陰中に陽を含む相含の理に外ならざるものである。仏教にて色心不二、有空相即を立つるも、この相含の理によること明らかである。しかるに西洋はその理を知らざるがために議論百出、甲唱乙駁、その帰極するところいずれにあるかを知らぬ有様である。これまた東洋哲学の西洋哲学に一歩を進めたる点とみてよい。つまり西洋哲学は分析的推理的細見により、東洋哲学は総合的直観的大観による結果にして、顕微鏡と望遠鏡との相違より起こるのである。家を立つるに建築と雑作とあるがごとく、西洋哲学は雑作に適し、東洋哲学は建築に適し、大綱を案出するは東洋哲学の長ずるところ、細目を造成するは西洋哲学の長ずるところかと思う。

 すでにこの相含の理を知らば、わが一身中に国家を含み、わが国家中に世界を含むことを知るべく、したがって世界の完全を期せんがために、国家の発展に力を尽くし、国家の発展を期せんがために、わが一身の修養に心を用いざるを得ざることも了解するを得るはずである。故にわが一身中に国家あるを忘れず、わが一国中に世界あるを忘れずして奮進努力すべしというのが、余がとるところの活哲学の主義である。

     七 西洋哲学の対照

 更に西洋哲学の宇宙観を対照するに、唯物唯心の争論はいうに及ばず、あるいは独断派と経験派と相争い、あるいは常識派と懐疑派と相論じ、あるいは理想派と意志派と相排し、実に英雄割拠して天下寧日なきの有様なるが、東洋哲学的大観を放ちてこれをうかがえば、すこぶる児戯に近きがごとく感じられる。畢竟するに西洋の哲学者は矛盾の中に真理あるを認めず、相含相容の道理を知らずして、近きにあるものをかえってこれを遠きに求め、己に備われるをかえって外に探るためである。それ故に東洋哲学にて数千年前にすでに築き上げたる哲学の山を、右よりよじ、左より登り、前面、後面、側面よりおのおのその道を異にして進退昇降する有様にて、未だ高嶺の月を見ることを知らざる風情である。むかしのシナ人の詩に、春はいずれにあるかを探らんと欲して、終日山野を跋渉して尋ねたれど、春を見出すことができず、失望して家に帰れば、庭前に梅花ありて、そのなかに春の満ちおるを認めたという話がある。その詩は、

尽日春を尋ぬるも春を見ず 芒鞋踏むことあまねし隴頭の雲 帰りきたりて試みに梅花をとりて嗅げば、春枝頭に在ることすでに十分。

 

という七言絶句である。余はその意をとりて別に一首を賦したことがある。

尽日花を尋ねて西また東、隴頭ところとして寒風せざること無し、帰りきたる炉畔梅香暖かく、春は満てり三間の茅屋中に。

 

 その意は真理の近きにあるを知らずして、遠きに向かって探ることを寓したる詩である。西洋の哲学者がこれと同じく、己の目の前に宇宙の真理の存するを知らず、東奔西走して真理を探っている有様なるは笑わざるを得ない。あにはからんやその風が日本に吹ききたり、わが国の学者まで遠きに向かって真理を尋ねているは大長息の至りである。

 西洋古今の哲学を知るには哲学史を通読するを要するも、余はここにいちいち叙述するいとまなければ、かつて余の作りたる新体の歌があるから、初学者の枝折までに左に転載しておく。

祇苑精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理を示す、かくと歌いし時過ぎて、学びの窓に輝ける、知恵の灯火かかげきて、隈なき宇宙の果てまでも、照らすべき世となりにけり、天地人の三才の、間に立てる我人は、なんの因かは知れねども、不思議の世には生まれきぬ、みそらを仰ぎ地に俯して、心静かにながむれば、ますます疑念は深くなり、身はいつしかに果てもなき、迷いの海にただよえり、真理の岸はいずくぞと、問わんとすれどだれありて、答えをなさんものはなし、この不思議なる観念に、うたれて起こる人心、まず天体の何物を、知らんと思い進み出で、万の学は始まりぬ、その伝来の大略を、これより述べて童蒙の、教えの道に迷えるを、救わんとする老婆心、起こりてここに哲学の、道しるべをぞ物しける。

 宇宙の広き空間に、日よりも更に熱高き、星の雲霧たなびきて、天地の別のなかりける、時は世界の始めなり、星雲自然に回転し、熱は次第に散じ去り、物理の規則はたらきて、円き形を作る間に、更に分かれて数多き、天体次第に現れぬ、かくして後に太陽の、体より出でしわが地球、固結なさんとするほどに、噴火の作用加わりて、山と谷との高低の、自然に成りて海山の、形はここに備わりぬ、地球の熱の冷ゆる間に、蒸気は凝って水となり、その潤いにひたされて、永き月日の過ぐる間に、草木の生気生じけん、これよりようやく動物も、分化しきたり最後には、万の物のかしらなる、人の祖先も出でにけん、これ造化の妙用か、神の所作かは知らねども、天地自体にやどりける、宇宙の霊の発したる、ものとみるこそ至当なれ、幾万年の大昔、わが祖先たる原人の、心にやどせる知恵の種、時の移るに従いて、道理の芽をばきざしたり、この先天の妙用に、後の経験加わりて、思想の林生い茂り、理想の花を開きける、これ哲学の起因なり。

 今より二千六百の、むかしの年にギリシアなる、学びの園にタレスと、いえる偉人の出できたり、天を仰ぎて感じたる、心の底に哲学の、花は蕾を現せり、彼は宇宙の万象の、その源にさかのぼり、水こそ世界の元なれと、定めきたりて哲学の、疑問の端を開きたり、これより後にまちまちの、異説起こりて争いし、末にはエンペドクレスの、地水火風の説となり、ヘラクレイトスの火の説も、出でたる外にピュタゴラス、無形の道理を本として、数の上より説明を、試みたりしその後に、分子の学派起こりきて、デモクリトスといえる人、万のものの変化をば、分子の作用に帰したりき、かくて起これる哲学の、有形無形の争いは、ついに詭弁の学となり、戯論の淵に陥りて、真理の軌道を脱したり、これぞあたかも寒梅の、雪にきそいて開きしも、ついに一夜の木枯に、吹かれて花は散りはてし、春の初めの景色なる、この寒梅に咲きつぎて、春の林の賑わえる、ごとくギリシアの哲学は、詭弁ののちに栄えたり。

 桃かスモモか知らねども、ソクラテスの哲学は、学びの庭に三春の、錦まといて出でにけり、広き世界の中心は、天体ならで人にあり、人の人たる道をすて、天地の元を争うは、首尾転倒の沙汰なりと、タレス以後の哲学の、迷いの霧を払い去り、これと同時に蛇足なる、詭弁の学を打ち破り、知識の花をとりきたり、倫理の月を回らして、人の心の光明を、あまねく世には知らしめぬ、かくて知徳の一体を、説きて知識の門内に、倫理の道を開きたる、師の説いかんと門弟の、中に争論湧き上がり、主苦主楽の極端の、倫理説さえ起こりたり、ここにプラトン出藍の、才と学とを携えて、哲学海の深底を、探りて得たる理想の理、これを根拠と定めてぞ、世界の元と人倫の、目的までを示しける、その門下より抜け出でし、アリストテレスといえる人、これまた非凡の学才と、該博精微の剣を持ち、理想の説に疑いを、起こして事物のそのなかに、原理を立てて一世の、思潮を指導したりけり、その実践の倫理には、中庸説を用いたり、これに続きてストアなる、学派起こりて万有の、規律に基づき厳粛の、倫理を説きし反対に、エピクロスぞ出でにける、これも当時の一勇将、快楽主義をとりきたり、楽を得るこそ人生の、目的なれと教えたり、かくてギリシアの哲学は、各派互いに戦国の、様を示して争いし、結果は懐疑の雲となり、真理の月を覆いては、哲学界は暗黒の、天地とばかりぞなりにける、春の百花も一朝の、雨にあらしに散りはつる、ごとくさびしき景色とも、なりてギリシアは亡びたり。

 さてそのつぎに起こりしは、文に代うるに武をとりて、天下を圧せしローマなり、武威の下には哲学の、草木は霜にあうごとく、しぼみて生気を失えり、このときヤソ教世に出でて、夜の間の月となりてこそ、民の心を照らしけれ、ローマの国の衰えし、ころは宗教全盛の、時代となりて圧制を、極めにしかばその下に、長き暗夜は続きたり、十字軍の失敗に、つぎて起これる文学の、再興ありてなんとなく、迷いの夢もさめかかり、冬の半ばに一陽の、来復あるがごとくにて、人文ようやく地にきざし、西の世界の発見と、共に民心動き出し、いつしか近世文明の、暁告ぐる鶏の、声は諸方に起こりつつ、東天白き世となりぬ、学理を欠けるヤソ教も、時世の熱に促され、哲理によりて解釈を、試みたりし青年の、煩瑣学派の起こりしは、これ哲学の夜明けなり、天文学の新説は、コペルニクスより唱えられ、また宗教の改革は、ルターの手に始められ、世海の水平線上に、堂々乎として哲学の、朝日の昇る世となりて、近世学の祖先なる、英のベーコン、フランスの、デカルトなどもあらわれぬ。

 まずベーコンは中世の、衰えたりし原因を、探りてここに経験を、根拠となせる主義をとり、暗黒時代の妄信を、排して一派の学統を、開くにつぎてデカルトは、すべての疑念の思想より、起こるを説きて独断の、学派を立つるに至りたり、こは哲学の二大源、流れて末は学界の、大河となりてほとりなき、真理の海にぞ注ぎける。経験主義のベーコンの、説を受けたるホッブスは、倫理の上に人生の、利己為本の説を立て、ついに国家の制裁の、世に必要の理に帰せり、これより利己の学説も、一派となりて伝わりぬ、また経験の主義とりて、ロックの心理哲学の、人の心の本来は、白紙に同じの論起こり、感覚学派も出でにける、更に一歩を進めたる、バークリーの観念は、唯心説に帰着せり、これより出でたる一説は、ヒュームによりて唱えられ、物も心も因も果も、真の根底なきものと、虚無の説を定めける。

 これに反して大陸の、方にありてはデカルトの、物心二元の両立を、許せる点を修正し、ついに天地万物の、体を本質一元に、帰したる人はオランダの、スピノザなりと記憶せよ、この一元の説にては、物心万差の現るる、道理の不明を認めつつ、更に工夫を凝らしたる、人はドイツに起こりたり、すなわち元子開発の、説を唱えて世に立てる、ライプニッツなりと知れ、これよりドイツの哲学も、次第に興りて漸々に、理想の方に傾けり、つぎに出でたる豪傑は、その名も高きカントなり、深くヒュームの虚無論に、心をとどめ疑いを、起こして更に理を究め、きたえ上げたる一刀を、振るいきたりて各国の、間にもつれし哲学の、乱麻を断ちて出でにけり。

 カント一代の哲学は、独断学派の偏見と、経験学派の浅識を、打ち払いつつその本を、究めて知識の根底を、開き示せる批判学、その霹靂の一声に、白雨天地を洗い去り、たちまち光風霽月を、仰ぐがごとく哲学の、世界は清くなりにけり、されどもこれの結論は、万の物の本体を、知識の外に放ち去り、真の不思議に帰せしより、ついに異論を呼び起こし、フィヒテ出でてその体を、思想の中に収め込み、唯心論の建築を、仕上げたれどもすぐにまた、シェリング立ちて反対の、矢を放ちたるその説は、物にもあらず心にも、あらざる無限の一体が、開き発して物心の、万境ここに現れぬ、かく一説を立てたれど、たちまち理想の本拠より、大砲向けて反対を、宣告せしはヘーゲルぞ、そもそも宇宙の物心は、相対界のものなれば、その本体を絶対と、名付けて区別を立つれども、相対界を遠離せる、絶対あるべき道理なし、これによりてぞヘーゲルは、論理の奥を打ち開き、相絶二者の合体を、理想の上に立て上げて、ドイツ学派を大成し、一時は日の出の勢いを、輝かしたることありし、カントの説を受け伝え、理想の方に傾ける、学派の外に反対の、方に進める人もあり、直覚学派のヤコービと、感情主義を唱えたる、シュライエルマッハーその他にも、元子の説を修正し、多元をとれるヘルバルト、これらの人はことごとく、いずれも一派の旗頭、当時ドイツの荒野にも、哲理の花はさき乱れ、春の景色もにぎわえり。

 これに反してイギリスは、経験主義の旗下に、ニュートン出でて定めける、物理の規則に従いて、科学の実験進み行き、その影響を哲学の、上に及ぼしきたりたり、ロックの説を受け継ぎて、思想連合の説を立て、心理の学を開きたる、ハートリーも出でにけり、ホッブスの説に驚きて、利他博愛を主義とする、倫理学派も起こりたり、バークリーの唯心は、ヒュームに至り虚無となり、共に懐疑に陥りし、その弊矯めんと企てし、説はスコットランドなる、リード学派の常識論、これの一派の結局は、ハミルトンの不可知論、これに反対唱えしは、ミルの感覚論理なり、経験主義を実践の、倫理の上にあてはめて、功利説を唱えたる、ベンサム一派も起こりたり、また一方にダーウィンは、自然淘汰を発見し、進化論の原則を、定めきたりて一世を、震動するに至りたり、これらの説を結合し、経験進化の哲学を、大成したるその人は、近くこの世をまかりける、スペンサーぞと記憶せよ、ドイツに理想の花咲けば、英に科学の草茂り、理学の庭も哲学の、林も春の緑にて、埋むる世とぞなりにける。この両国の中間に、さしはさまるるフランスは、独断主義の哲学と、オーソドックスの宗教の、反動たちまち現れて、唯物論は躍り出で、ラ・メトリーやカバニスの極端説も起こりしが、これに反するルソーの、自由説の偏見も、政治の上に歓迎を、受けにしこともありたりき、ときにカントの説を酌み、折衷したるクーザンの、説も一派を開きたり、その傍らに従来の、空理を避けて実験の、範囲に一家の哲学を、立てんとせしはコントなり、かくして仏〔フランス〕の中原に、木々の葉栄ゆる春は来ぬ。

 再び頭をめぐらして、ドイツの園をながむれば、一時をなびかすヘーゲルの、説はいつしか分裂し、細かき小道に入りたれど、元子論の大成を、図りしロッツェの説起こり、またてきめんにヘーゲルの、反対とりて大意志の、原理の上に哲学を、構成したる英雄の、ショーペンハウアー出でにけり、この両説を合わせきて、無意識論を立てたるは、ハートマンというその人ぞ、またイギリスの心理説、ドイツの川に流れ入り、ベネケの説も起こりたり、精神物理の学説を、初めて唱えしフェヒナーも、出でたる外にダーウィンの、進化の説を受け継ぎて、一歩を進めしヘッケルと、実験心理を本として、論理倫理の問題を、解きしヴントも現れて、互いに栄を闘わす、その有様は晩春の、花の色よりにぎわえり。

 すでに現時の学界は、経験思想の草も木も、ともに繁りて森々と、青葉若葉の夏景色、かくも哲理の栄ゆるは、世の文明の進みたる、余沢なりしを忘るるな、ああ後進のわが輩は、夏の木陰にたどりきて、あつき浮世の塵をさけ、草のむしろに横たわり、清く涼しき風を受け、日を送るこそ楽しけれ、こは先人の賜物と、知りて休らえるその後は、更に席より立ち上がり、知力の馬にむちうちて、雲を隔ててなお遠き、真理の山の頂に、上る本務のあることを、思うて努め励むべし。

 ここに西洋哲学の、大あらましを述べたれば、これに対して世の人は、疑問を起こすことあらん、何故かかる哲学は、衣食となんの関係も、なき問題を取りきたり、近き心の底に入り、遠き天地の極に出で、無益の議論を闘わす、これぞ無用の長物ぞ、もし人生の目的が、衣食のみにあるならば、げに哲学は無用なり、しかし吾人の天性は、衣食の外にいと高き、目的あるを促して、内に知識の要求は、朝な夕なに相迫る、この要求を満たさんと、人の心に起こりたる、学は哲学なりと知れ、その研究の結論は、行く先暗き人生の、道に迷える人々に、知恵の灯台たよらせて、安心さするに外ならず、もしこの灯台なかりせば、多くの人は目前の、欲に心を奪われて、ついに五欲の底に入り、なにより貴き一生を、堕落の淵にて送るべし、万のものの霊とまで、いわるる心を物欲の、奴隷に帰して人格の、野卑を極むる身とならば、外に錦をまといても、心は乞食の住家なる、ことこそ無限の恨事なれ、また哲学の研究は、倫理の上に現れて、身を立て家を興すには、あらゆる人の守るべき、規律のあるを示さんと、人の心の深底を、探りてここにやどりける、かの良心の光明を、開きて仁義忠孝の、道を吾人に教えたり、かくして多くの人々に、再び得難き人生を、みごとに送りて死後までも、汚名を流さぬようにせり、これらの道を世の人に、教うる学は哲学を、除きて外にあるべしや、故に日常百業に、従うものも行いの、余力にときどき哲学の、庭に遊びて精神を、養いながら事をとり、傍ら己の人格を、高めながら世を渡り、人の人たる大道を、踏みあやまたず進み行き、身に病苦をば招きても、心にやましきところなく、いつ臨終になるとても、笑いを含みていとやすく、眠らんことぞ望ましき。

 この結論は哲学によりて精神修養を勧めたるものなるが、これも哲学の応用とみるべきものである。とかく今日の学生は理屈ばかりに走りて、精神を修養するを忘れている。要するに哲学は理屈の学問とのみ心得、実行の方面を知らぬからである。故に余は哲学の向下門を開きてこれに重きを置き、もって革新を行いたいと思う。

     八 天地の活書

 西洋哲学は日になり月にすすむの勢いにて、細に入り微を開き、その研究は実に至れり尽くせりというべき有様なるも、その根底の原形につきては、数千年前東洋やギリシアにおいて設定せるものの範囲を脱せず。ただ内容の装飾、外面の潤色だけは年を迫うて駸々と進みし状態である。これを家屋に例うれば内部の雑作だけが非常に進みたるまでである。もし古今を通じて一瞥しきたらば、哲学は同じ経路を反復往来しているがごとくに思わる。しかしてその進歩と称する点は、物質的学問より得たる結果を哲学の領内へ輸入したるに過ぎぬ。これを参考材料とするはよろしきも、その材料をもって哲学を組織せんとするは、木に竹をつがんとするにひとしき仕方である。さきに一言せしごとく、哲学と物学と元来根本的にその性質を異にするものなれば、これを接合して成功するはずはない。それ故に物学の方は、その応用の力によりて年々世界を一新するの勢いである。今手近き一例を挙ぐれば、数十年前の種油がランプとなり、ランプがガス灯となり、ガス灯が電灯となりしがごとき進歩をみるも、物学の研究を哲学内に輸入したる結果がいかなる効果を納めたるやは一疑問である。あるいはかえって世道人心の上に悪影響を与えたるやの感がある。

 ここに今日の西洋哲学が道徳倫理の上に及ぼせる影響いかんをみるに、物質や器械を取り扱うと同一の方法を用い、良心を分析し、徳目を解剖し、これに比較衡量を加え、動物や蛮人につきて研究したる結果を当てはめ、もって新倫理を造出せんとせしがごときは、その得るところはただ人心を荒廃せしめ、世道を破壊するの悪結果を招くに至った。

 余はあながちに向上的哲学としては細より細に入り、微より微を究むるを排斥する意にあらざるも、哲学に向下の方面を欠くときは自利的哲学なり。学者が己の知識欲を満たすための道楽研究に陥るから、なるべく世道人心を裨益せんためには、向上の研究は大体を知るをもって足れりとし、もっぱら向下に重きを置いて、時弊を矯正する方に力を注ぎたきものと思う。この目的を達するには書籍の研究としては一巻の哲学史か、一冊の哲学概論を熟読するをもって足ると思う。決して年々歳々、雨後の竹の子のごとくできる哲学の新著を通読するに及ばぬ。ここにおいて余は禅家の不立文字主義を哲学界内に引用し、哲学の教外別伝を唱道するに至ったわけである。要するに読書の方は哲学の骨目大綱を知了するにとどめ、その他は余のいわゆる死書を捨てて活書を取り、天地間の事々物々を目撃し、万物万象の変々化々を観察して活学を修め、活識を養い、その結果を哲学の向下門たる倫理宗教の上に応用し、もって世道人心の改善向上を計らんことを望む次第である。これ余は不肖ながらこの世界に出で、この日本国に生まれたる天の使命なりと自ら信じている。

 今日世間の学生は、哲学の宇宙観を知るには万巻の書籍に目をさらさざるべからずと思い、毎日図書館に篭城して、書物と首っ引きをなす徒が多いが、その結果は必ず書物に酔いて自ら立つことを知らざるに至るに相違ない。余の格言の「多く蓄えれば財に酔い、多く読めば書に酔う」(             )の弊に陥り、活用のできぬ人となる。故に余は最初より不読主義をとなえ、「二十年来書を読まず」(        )を実行している。実際余が書物によりて得たる宇宙観は、古き二、三冊の書物に過ぎぬ。そのなかよりわずかに骨目を得、これを天地間の活学、活書につきて大成したのである。わが家族の者にて数十年の長き月日の間に、余の読書せるを見たものが一人もないので、いかに不読主義を実行しているかが分かる。その実日々夜々、天地の活書を読んでいる。これ余が正法眼蔵である。賦して曰く、

学は必ず真学を修め、書はまさに活書を読むべし、窓間幾千巻なるも、閲し終われば寸功の虚、

不文巻を繙き得、無字書を読みきたる、わが家の正法眼、おのずからこの間舒有り。

 

 

 この主義を今日の青年学生に伝うるを得ば、煩悶病を医治するにも、必ず多大の効験あらんと思う。

 そこで余の自得の宇宙観を一括するに、前に述べたる循化説と相含説との二者である。循化説につきて吾人も吾人の国家も共に再現することを信じ、今世において自身および国家のために善因を修め、善事を尽くしおかば、必ずその結果が来世に実現せらるるを疑わず、あくまで鞠躬尽瘁する決心である。また相含説に基づきて、わが身の中に国家あり、国家の中に世界あるを知り、わがなすところの一事一行が国家および世界の上に実現するものと信じ、己の力の及ぶ限り奮闘励精する決心である。哲学者中には往々哲学眼中国家なしの主義をとるものあるも、余はこの相含の理より哲学中に国家あり、国家中に哲学ありの主義をとり、哲学の力によりて国運の発展を計らんことを期している。

 余かつて東北地方を巡講せしときに、「宇宙に真理無し」(     )の五字を額面に揮毫せんことをもとめしものがあった。余はそのもとめに応じてこの五文字を書し、その傍らに「真理無きのところにこそおのずから真理有り、仰ぐべし信ずべし。」(                 )と付記して与えたことがある。これもやはり相含の理より起こってくる。また実際無真理をよくよく味わいきたらば、必ず真理を感得するものである。水は無味にしてしかも味あり、空気は無色にしてしかも色あると同様にして、色即是空の中におのずから空即是色がある。余の格言に、

色即是空は雨の後の花、空即是色はけむりの裏の山、趣味無きうちにこそ趣味有り、風流ならざるところこそこれ風流。

 

とあるをもあわせて考えてもらいたい。また余の格言集中に、

宇宙には東西無し、しかれども地球の一隅に寓ればすなわち方位は歴然たり、もって無差別中にこそ差別有るの理をみるべし。

 

と録しておいたが、方位ある中に方位なく、方位なき中に方位あるのも、二者相含というべきものである。

 シナ諸家の学説中には陰陽の道理を説かぬものはない。この陰陽が循化説なると同時に相含説であるということは喋々するを要さぬ。春夏は陽なるもその中に陰を含み、秋冬は陰なるもその中に陽を含む。この道理をもって事々物々を説明している。また仏教には「須弥は芥子を納め 芥子は須弥を納む」(           )という語がある。須弥は大の形容、芥子は小の形容にして、大中に小を納め、小中に大を納め、大小互いに相含むの理を寓した比喩である。例えばわが身体は地球の中にあり、地球は太陽系の中にあり、太陽系は宇宙の中にあり、その宇宙は大の極にして、これより以上に進むことができぬけれども、もし強いてそれ以上を求めきたらば、必ずわが心中にありと答えざるを得ない。しかしてその心はわが身体中にあること明らかなれば、宇宙は身体を納め、身体は宇宙を納むということもできる。これすなわち大小相含である。

 むかし某宗の高僧が幼稚のときに、父の膝に抱かれながら、世の中に父ほど尊いものはないと思い、父の上に位するものはなかろうと尋ねたれば、その上に庄屋すなわち村長があると聞き、村長の上に位するものはなかろうと尋ぬれば、その上に地頭すなわち大名があると聞き、大名の上にはと尋ぬれば国王すなわち天子があると聞き、天子の上にはと尋ぬれば、その上に仏があると聞きて、自ら仏になりたいとの念を起こし、僧侶になったという話がある。もし更に進みてその仏の上にはと尋ぬるに至らば、心と答えなければならぬ。更に重ねてその心の上と聞かば、わが身と答えざるを得ない。これも循化相含の理を示すことになる。

 かく説ききたりて最後に循化説と相含説との関係いかんを尋ぬるに、縦中に横を含み、横中に縦を含む道理にて、循化説中に相含説を含み、相含説中に循化説を含むことになる。しかしてその相含がまた循化することになり、循化にして相含、相含にして循化と答えざるを得ぬ。これが宇宙の真理なりというのが、余が天地の活書を読んで得たる哲学である。

 

   第三講 人 生 観

     九 余の人生観

 前講に述べたる循化相含の理をもって人生の目的をも解決することができる。さきごろ山陰地方を巡遊せしに、一青年尋ねきたりて曰く、多年群書を読みて人生の目的を知らんとするも、種々の異説ありて、ますます岐路に迷い、大いに煩悶するよしを聞いたが、これが実に今日の学生の通病にして、あまり死書に心酔する結果である。もし死書を投じて天地の活書を読みきたらば、その煩悶は必ず一掃し得るに相違ない。仰ぎて天行を見、俯して地文を察するに、寒後に暖あり、雨後に晴あり、暗後に明あり、明後に暗ありて、循環窮まりなきをみる。これ余のいわゆる循化である。シナ哲学にては陰陽消長の理をとり、陰窮まりて陽生じ、陽窮まりて陰生ずるゆえんを示してあるのは、この循化相含を証明するものである。よって余の人生観に関する格言は、

  苦にするな、あらしの後に日和あり、人生はあらしばかりと思うなよ、しばしまつ間に日和とぞなる、

雨後晴あり、寒後暖あり、苦後楽あり、禍後福あり、死後生あり、

世事は天候のごとく、雨余必ず晴を見る、禍きたれば君自重し、福めぐれば笑い相迎う。

 

 

等の文句であるが、この語を味わってもいくぶんか煩悶を減ずることができると思う。

 人は天地の間に生まれ宇宙の中に存するが、その心中にまた天地も宇宙も備わりている。いわゆる孟子の「万物はみなわれに備わる。」(         )の道理である。仏教にては一歩を進めて万法唯識、または万法唯一心とも説いている。また西洋哲学にても人心を小宇宙と名付けておく。あるいはまた西洋の社会学にては国家社会を有機体に比較しているから、国家社会は大なる生物にして、生物は小なる国家社会とみてもよい。しかのみならず、世界全体も天則によりて統一せられたる組織体であるから、個人と国家と世界とは互いに関連類同しているものである。更に他の方面より考うるに、この世界になにものが人類を造りしかと問わば、必ず造化自然の力と答えざるを得ない。果たしてしからば造化は親である、人間は子である。諺に親に似ぬ子は鬼子と申して、子は親に似るのを当然としてある。よってわれわれ人類も造化自然と類似しているのが当然である。もし世界をもって親とすれば、万物は兄弟とせなければならぬ。その間に関連類同することのあるのは決して怪しむに足らぬ。要するにわれわれ人類は万物と共に世界の大工場にありて、同じ天則の器械によりて鋳造せられたるものなれば、その間に関連するところあるは必然の道理と申してよい。よって人生の問題もあながち死書によるに及ばず。直ちに天地の活書につきてうかがうべきである。これを余は哲学上の単伝直指の法門、千聖不伝の真門と名付けておく。

 右の道理により吾人が目前の事々物々を観察し、顧みて己に求むれば、わがなすべくわが行うべき方針はおのずから定まるものである。しかるにこれを近きに求めずしてかえって遠きに探るために、ついに五里霧中に彷徨するに至る。見よ鳥は飛び魚は泳ぎ、水は流れ雲は動くではないか。これみな無字の経、不文の教えではないか。これを一括していわば、物みな活動しているではないか。しからば吾人もまた活動すべきが当然である。しかして活動はなんによって起こるかというに、宇宙の内部に潜在せる大勢力の発動である。この勢力によって世界が循化するに至る。しかしてその勢力の至純なるものが吾人の精神内に伝わり、わが生来固有せる先天の良心となりて、われに命令を与うるに至る。故に外に万物の活動を見、内に良心の命令に聴かば、人生の目的おのずから判明し、己の力のあらん限りを尽くして、向上活動すべきものなるを自覚するに至る。

 世界中の万物はみな活動して、しかも自彊やまざるものなれども、彼らは無意識、無自覚の盲動に過ぎぬ。しかるに人類は万物の霊長といわるるだけありて、内に良心のわが挙動を指揮するあれば、その指揮に従って進行せなければならぬ。今日の哲学者は良心を分析して、あるいは経験よりきたるといい、あるいは遺伝より生ずといい、あるいは利己心の分化なりというも、これ桜の花の美なるを見て、これを分析解剖すると同じく、良心を破壊するに過ぎず、桜の花は分析せざるところにおいてその美を存す、良心またしかりである。もしその良心の由来を探らば、多少経験によりて発育の状態を異にするは必然なるべきも、その内部には前世界、前々世界ないし無限の前世界より直伝せるものなるを知り、結局宇宙の真髄すなわち大精神より分化しきたれることを知了するに至るであろう。故に良心の声は宇宙の命令がわが心内に伝わるものと信じて、その命令に従うをもって吾人の天職とせなければならぬ。これまた吾人と宇宙との相含せる一証となして差し支えない。

 世界循化の理より推すに、進化の後に退化あるを否定することはできぬ。しかれども今日以後、幾千万年の後まで進化し得るかは測り知るべきでない。いずれ退化の時のきたるは永遠の将来と考定して、進化の極度に達するまでは、奮進努力せなければならぬ。またたとえ退化するにしても、つぎの世界のあることを知らば、これに向かって善果を開くために、善因の修養に努力せなければならぬ。つまりわが内包の潜勢力がいずれの点まで開発し得らるるかを自身において試験する心得にて、国家社会のために奮闘努力すべきである。

 今日は進化論によりて生物同祖論を伝えられ、動物も人類も兄弟姉妹の関係を有することを教えられた。よって吾人は牛馬鶏豚といえどもこれを愛憐し、これを救済すべきが当然なれども、世界の大進化に向かって人文を発展するには、牛馬自身の力にては不可能である。よって吾人は彼らを引率して、この宇宙の大使命を果たさなければならぬ。しかるときは「一将功成り万骨枯る」とあるがごとく、多大の犠牲を払わざるを得ない。万骨が犠牲となりて始めて国運発展の成功をみるがごとく、牛馬鶏豚が犠牲となりて、吾人をしてその使命を全うせしむるのである。故に吾人が果たしてよくこの使命を全うすれば、彼らは必ず満足すべき道理であるが、もし彼らを犠牲にしながら、なんらの使命を果たさず、遊惰放蕩をもって一生を送るにおいては、実に宇宙の大罪人たるを免れず、天地もいれざる大逆賊に比すべきものである。よって吾人は牛馬を役し鶏豚を食するごとに、この使命あるを忘れずますます奮励し大いに興起して、世界人文のために尽瘁せなければならぬ。

 余の人生観の大体はいま述べし通りであるが、今日の時弊たるあまり多く書を読みあまり深く理屈を探り、かえって迷いに迷いを重ね、疑いに疑いを起こし、あるいは煩悶し、あるいは自棄し、生涯国家社会に対して寸分の功労を尽くさざる輩も、またもとより宇宙の罪人なること明らかなれば、時々刻々内に省みて良心の命令に聴き、修養を怠らざるようにしたい。これにつきて余はかつて哲学正気歌を作ったことがある。左に掲げておこう。

宇宙霊妙の気、浩々として幽明をふさぐ、玄冥にして色あり、寂静にして声あり、日星これによりて現れ、国土これによりて成る、濁せば山川の質となり、清せば草木の生となる、生中神機を帯び、分かちて禽獣の情と成る、情中霊性を含み、凝りて人心の精と成る、天地は元一体、万物もまた同根、動植すでに別無く、人獣あに源を異にせん、親子日に地とともにし、兄弟人猿とともにす。物心相照応し、故に心乾坤をあらわす。天人相感合し、故に天生魂を動かす。宇内万類のいます、人実に最も尊しとなす。その心大いにうかがい難く、その知深く測り難し、方寸の中に住むといえども、六合の極に照及す。あるいは極微の際に入り、あるいは絶対の域に進む。古今上下を貫き、東西南北を包み、明なればすなわち幽界あきらかに、暗なればすなわち白日黒し、その玄妙を究めんと欲し、これ哲学の職となる。哲海航路を開きて、三千星霜移れり、ギリシアは古代に震い、独英は近時に鳴く。経験と独断と、論壇雌雄を競う。唯心と唯物と、学林本支を争う。爛たること春花の乱るるがごとく、欝たること夏雲のしげれるがごとし。真理の岸なお遠く、いずれの日か大疑を決せん。漢に在りては老荘の学、儒とともに天を説き、竺に在りては数勝論、仏とともに玄を談ず。甲論じて乙駁し、疑団なお依然たり、茫々たり哲学の海、去来して路万千。迷雲杳として認め難く、彼岸いずれの辺にか在る、帰来して自己をうかがい、心天性月懸く。清影虚空より入り、霊光空谷を照らす。時に浮雲の遮あり、風払いてたちまちまた復す。塵隙浄土を開き、毛孔天禄を蔵す。死生定めあるを知りて、栄辱なんぞ追うをもちいん。この無字の書をひらき、清夜心を傾けて読まん、理性幽香を放たば、満身おのずから馥郁たり。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 右は多読の癖ある青年の参考までに載せたのである。

     十 悲観と楽観

 古来人生を観ずるに悲観と楽観との二様あるが、東洋は概して悲観、西洋はすべて楽観とだれもいうところなれども、西洋にも多少の悲観あり、東洋にも多少の楽観がある。ただし西洋と対照するときは、東洋の教学共にシナにてもインドにても比較的悲観の方に傾けることは事実に相違ない。なかんずくインドは悲観のはなはだしきものである。仏教もその余習を受けて悲観に傾いている。しかしこれはその国その社会の事情がかくせしめたのである。一体すべての事物に二様の見方ありて、一方より見れば悲観となり、他方より見れば楽観となる。決して二観おのおの確定せるものでない。花の開く方より見れば楽観となり、散る方より見れば悲観となる。古人の辞世の歌に「限りあれば吹かねど花はちるものを、心短き春の山風」とよんであるが、余はこれを作りかえて、「時くれば吹かねど花はさくものを、心楽しき春の山風」とよんだ。また「春眠暁を覚えず」(      )の詩の結句も改めて、「花発くこと知りぬ多少ぞ」(     )と作りかえたこともある。また古人の歌に「奥山に紅葉ふみわけ鳴く鹿の声きくときぞ秋はかなしき」とあるをよみかえて、「奥山に紅葉ふみわけ鳴く鹿の、声きくときぞ秋は楽しき」と改めたことがある。また「人生五十にして功無きを愧じ、花木春過ぎて夏すでに中」(                )という詩も、悲観的に傾いているから、余はこれを改作して、

人生五十にして功を成すべし、あたかも好し春過ぎて夏すでに中、満室の蒼蝿払うも去り難し、進んで北極をたたきて寒風を起こさん。

 

と詠じたこともある。また「満つれば欠くる世の習い」といえば悲観を催しきたるも、これを転倒して「欠くれば満つる世の習い」といえば楽観を促しきたる。また「盛者必衰、会者定離」といえば悲観を免れ難きも、「衰者必盛、離者定会」と唱うれば楽観を生じきたる。また「祇苑精舎の鐘の声は諸行無常の響きあり、沙羅双樹の花の色は、盛者必衰の理をあらわす」と観じされば悲観することになるも、もしこれを余の格言のごとく、

祇苑精舎の鐘の声青年立志の響きあり、沙羅双樹の花の色大器晩成の理をあらわす。

 

と説ききたらば、楽観するようになる。要するに悲観楽観は見る人の心の用い方と、見られたるものの方面のいかんによりて分かるるのである。

 余は自ら向上的活動を人生の目的、吾人の天職と定めているから、厭世悲観するを嫌い、古来の悲観的文章を楽観的に改作することにしている。その一例に「いろは」の改作を試みて、拙著『明治徒然草』に掲記しておいたから、左にその全文を転載しよう。

 「旧いろは」は多少の異説なきにあらざれども、大体においては弘法大師の作として伝えられ、実に空前絶後の傑作にして、涅槃経の四句の偈文を和訳したる長歌なることは、何人も熟知するところなり。しかるにその偈文すでに出世解脱の要旨を示し、「いろは」の歌も厭世の意を帯びたれば、世間に住して奮闘活動するものに適せざることまた明らかなり。故に余は不才にして、大師の名歌を改作するほどの技量なきはもちろんなれども、せめて出世間的を世間的に変じ、厭世的を楽天的に改めんとの志望を起こし、卑俗の語を用いて、左のごとく試作したり。その各行において新と旧とを対照し、かつ偈文をも添うることとなせり。従来の偈文の「諸行無常、是生滅法、生滅滅己、寂滅為楽」は出世間道なれば、これを世間道に改めて、「諸行無常、是生滅法、誰願寂滅、生滅為楽」となし、全く反対の意をとれり。すなわち左のごとし。

いろぞにほへどちりさらん(諸行無常)

 (旧)イロハニホヘドチリヌルヲ(諸行無常)

つねなきうゐのよであるも(是生滅法)

 (旧)ワガヨタレゾツネナラム(是生滅法)

たがおくやまをけふゆめむ(誰願寂滅)

 (旧)ウヰノオクヤマケフコエテ(生滅滅己)

われみじゑひずこえはせぬ(生滅為楽)

 (旧)アサキユメミジヱヒモセズ(寂滅為楽)

(字解) 「ちりさらん」は「散り去らん」の意、「うゐ」は有為転変の義、「たが」は誰なり。

(義解) 第三句第四句は「旧いろは」の「ウヰノオクヤマケフコエテ」に対して、だれが有為の奥山を今日越えんとするの夢をみるか。われはそのようなる夢もみず、またかかることに酔いもせず、故にあえて奥山を越えず、この世をもって満足しているとの意味なり。

 右の「旧いろは」につきても、むかしわが国の事情が悲観の方を歓迎する時代であったから、仏教中の悲観の文句に基づきて作られたことが分かる。しかるに今日は時勢一変した以上は、「いろは」これに伴って一変しなければならぬ。

 さきに古来東洋と西洋と大いに事情を異にすといいしは、西洋は国と国とが数千年間互いに競争奮闘を継続しきたれるに反し、東洋は国と国との間が天然の城壁をもって隔てられ、国際の関係はほとんど皆無の有様であった。よって外寇に備うる必要なく、ただ内訌の起こらぬように予防せなければならぬ。その防御には人の欲心欲望を鎮圧する方法を用うるのが最上の手段である。しかして人をしてここに至らしむるには、人生を厭忌悲観せしむるを要することとなる。ここにおいて東洋の教学のみならず、諸術諸芸までがみな消極的、沈静的方針をとるに至った。しかし今日にありては時世一変して、国家の事情の大いに異なるようになりたれば、東洋の教学も悲観的、退守的方針を一転して、楽観的、進取的方針をとるべきはむろんである。

 元来、人生の苦楽は相対的、比較的のものなることも心得おかねばならぬ。貧乏は苦痛である、しかし、幸いに無病健全なるを思いきたらば、楽観することができる。病気は苦痛である。しかし死することに比すればいくぶんの快楽を感ずることができる。また一災難にかかりて悲観するも、それ以上の災難に比較すれば楽観することができる。ここに火災にかかりて全焼したるものあらんに、見舞いにきたるものが家族のものはみな無事であったと聞きて、それは不幸中の幸いであるという。そのときは何人も必ず悲観中に楽観を浮かぶるに相違ない。また苦楽は習慣によりて転換することも知らなければならぬ。いかなる人も苦に慣るれば苦がかえって楽となる。また楽に慣るれば楽がかえって苦となる。始めて大臣になりたるときには非常の愉快を感ずるも、永く大臣になっていると、大臣は苦にしてかえって民間にいる方が楽と思うに相違ない。始めて牢獄に入るものは非常の苦痛を感ずるも、長く継続するときはその苦中におのずから楽を生ずるに至るということだ。つまり苦楽も循化し、また相含せるものである。

 ある哲学者は、苦楽共に一定せるものにあらずして、極端は苦となり、中庸は楽となると論じているが、これも一理ありといわねばならぬ。人の飲食も不足なる場合は苦を感じ、またその度に過ぎても苦を感ず。ただ中庸を得たるところに快楽を感ずるがごとく、すべて過と不及との両極端は苦となるものである。また人には希望というものがありて、いかなる苦境に沈めるものも、将来の幸福を予期すれば楽境となる。すなわち余の道歌に、「明日ありと思う心があればこそ、今日の一日も楽しかりけれ」とよみたるはこの理を述べたのである。これに反して絶望は苦痛となる。人の死に臨みて苦痛を感ずるは、病苦の外に絶望より起こる苦痛である。もし更に再生することを予期するを得ば、その苦が楽と変じてくる。宗教信者の臨終の楽しく見ゆるのはこの道理からである。

 これを要するにわが心の用い方によりて、苦楽相分かるると申してよい。かつて余が作りし格言に、

心軸順転すればすなわち楽天となる、逆転すればすなわち厭世となる。

 

と説きしも、その理を示せるものである。また前述の「苦は極まりて楽となり、楽は極まりて苦となる」は余の循化の理を証明し、苦中に楽を生じ、楽中に苦をみるは、相含の理を開示せることも領得せられたいと思う。

    十一 生死観および運命観

 人生観を説くには、必ずこれに付帯して生死観、運命観をも説かなければならぬ。まず生死について何人も第一に知らんと欲し、聞かんと欲する問題は、霊魂の滅不滅である。余が地方巡講の際も各所においてこの説明を請求せらるるも、到底一時間や二時間の短い間にて説き尽くせるものでなければ、大抵その演説を断っている。余のこれに関する著書は『霊魂不滅論』『破唯物論』『哲学新案』等である。もしこれを一言にていえば、余は不滅説を唱えている。まず宇宙の表面よりみるに、物質不滅、勢力恒存、因果相続の三大理法に照らさば、むろん霊魂も不滅と断定しなければならぬ。また余の循化論によれば、後の世界に吾人の再生することありとの説なれば、霊魂不滅なるこというを待たぬ。もしまた相含論に基づかば、滅中に不滅あることになるが、更に大きくみるときは霊魂中に宇宙を含むことになるから、これまた不滅論である。その詳細の論点はここに略し、他の著書に譲ることとしたい。ただし、左に余の霊魂に関して作りたる格言類を挙ぐれば、

天鑒眠るがごとくして瞑せず、人魂死せるがごとくして滅せず、人の霊や火もこれを焼くあたわず、水もこれを腐するあたわず、故に不滅なり、天地霊あり、人心あり、心と霊と通ずるところ天人合す、霊魂不滅中滅あり、滅中不滅あり、故に曰く不滅と。無始劫しきたり、ことごとく未来の際、因果歴然たり、霊魂なんぞ滅せん。一心浩々として乾坤あまねく、出入す生々死々の門、粉骨砕身なんぞあえていとわん、冥々としておのずからこの霊存あり。生死常無くまた常有り、宿因業報これ天綱、心仏を地にうえ人事を尽くす、寿は乾坤を貫き万劫長し。

 

 

 

 

 右はみな余が活書の記録にして、霊魂不滅の意を寓したるものである。

 人間の一生一死は人知をもって測るべからず。人力をもって動かすべからざれば、これを運命といい、人の最も迷うところである。孔子は「死生命有り」(    )といい、西賢の言に「運命に対して争うも益なし」といい、またシナにては「人盛んなれば天に勝つ」といい、西洋にては「善行は悪運に勝つ」というけれど、吾人の意のごとくならずして、吾人をして迷いを起こさしむるものは、生老病死の運命である。たとえ天道は淫にわざわいし、善にさいわいすと教うるも、悪人にして長寿多幸なるもの多く、善人にして不幸短命なるもの少なからず。故に古賢もなお天道は是か非かの嘆声を発している。世間に迷信多く、したがって卜筮、家相、方位等を信ずるものの多きは、みなこの運命に迷うより起るのである。よって運命の起こるゆえんを明示するは、人生観において最も急要の解決であると思う。

 余の循化論にては、今世界の前に前世界あり、前世界の前に前々世界ありて、その間に因果の大理法の連続せるあれば、今日の吾人の境遇は、前世界および前々世界において因果必然の規則によりて予定せられたるものとし、仏教のいわゆる宿縁業報によるものと立てておく。世間の学者は、ここに一人ありて途中落雷にあたりて即死せるもののあるを見て、彼は運が悪かったという。もしその運はなんと問わば、我知らず、偶然であると答うるに相違ない。偶然とは因果なしの意なるも、この世界に原因なくして起こるもののあるべきはずはない。これつまり、その原因を知ることあたわざるより一時の遁辞に過ぎぬ。しかるにもし余の循化説によりて前世界あるを知り、一切の運命は偶然にあらずして、前世界の宿因がその果を招きたるものとすれば、かかる遁辞を用いるに及ばぬ。余が仏教の因果説と題したる詩があるから左に掲ぐ。

夭寿は本より期し難く、栄枯は知るところに非ず。仁人に災いしきりに至り、逆賊に福常にしたがい、善悪にもし報なければ、神明必ず私有り、仏経因果を説く、この理またなんぞ疑わん。

 

 

仏教の因果説と余の循化説とは大同小異にして、前世界の宿因をもって運命を説明する点は二者一致している。

 いま述ぶるがごとく運命はすべて前世の宿因にして、この世界には一として因果の理法によらざるものなしというときは、人の意志作用もみな必然にして、因果の理法に従うものとなる。しかるときは意志の自由は全くなきことになるとの疑問が起こるに相違ない。この点は、余は相含説をもって説明している。すでに宇宙の真理は相含である以上は、必然のうちにおのずから自由あり。自由のうちにおのずから必然ありて、意志は必然なると同時に自由である。物質は因果の規則によりて支配せられ、一変一動としてその規則によらざるはなく、絶対的に必然というも、もし分子元素に至らば、必ずその中心に他を引くとか、あるいは他を拒むとかいう作用を備えている。これすなわち物質の自由動作というべきものであろう。物質の必然中ですらも、自由動作ある以上は、吾人の精神の中心に自由意志あるべきはむろんのことである。

 哲学上唯物論でも唯心論でもいずれの論でも、宇宙に一大勢力の存することを許容せなければならぬごとく、余の循化論も相含説もこの勢力をもって宇宙の原動力とする立て方である。その大勢力を相対の境遇より観察するときは、表裏両面に分かれ、表面上にては物質界の進化退化を反復することになり、裏面にては大精神となりて、物質はもちろん、時間空間までもそのうちに納まることとなる。故にたとえ表面に物質上の進化退化あるにしても、吾人の精神の中心にはこの大精神の原力を含有しているに相違ない。もしその原力の方よりいえば意志は自由となり、表面に継続せる進化退化の循化の方よりいえば意志は必然となる。故に意志は必然にしてしかも自由、自由にしてしかも必然、すなわち必然中に自由あり、自由中に必然ありというのが、余が唱うるところの哲学の本旨である。

 すでに生死の運命の起こるゆえんを知らば、これにつきて迷信を起こし、苦悶をなすがごときは、愚の極である。もし死を恐るるならば、余の格言の「眠是一時死、死是永世眠」あるいはまた「日々是臨終、夜々是永眠」と思い、生死を度外におくことを修養するがよい。近頃静座法が盛んに行わるるが、すべて身体を健全にするだけの目的で、生死を脱却するの修養でないのはすこぶる遺憾に思う。よって今より後は生死の迷いを離るるところの静座法を実行してもらいたい、また近頃凝念法を教うる学校ありと聞くも、凝念法よりも散念法を勧めてもらいたいと思う。今日の青年は凝念に過ぎて病的に陥るから、むしろ散念法によりて、一切の念慮を放散するようにせなければならぬ。余の唱道せし失念術のごときはすなわちその一法である。

 また人生観につきて人生は夢なりという人がある。「万事人間夢一場」とか、「人生蝶夢一場の中」などという語があるが、これも大なる謬見にして、もし人生が夢ならば、人生を夢というのもやはり夢となるわけである。よって余は人生非夢説を唱え、「浮世は夢に非ず、事々みな真なり」(          )とも、「人生は夢のごとくにして夢にあらず」(        )とも唱えている。要するに人生は真実にして夢にあらずと知了し、運命は前世の宿縁にして動かすべからずと覚悟し、わが霊魂は不滅、わが事業もまた不滅と信念して、国家社会のために死生を度外において、活動尽瘁するこそ、人生の本分、吾人の天職、宇宙の使命なりと立つるのが余の教外別伝の哲学、すなわち活哲学の主唱するところである。

     十二 仏教の人生観

 世人みな仏教を目して厭世教となすから、仏教は果たして人生を悲観したる教えなるか否かを一言しておきたい。外面よりこれをみれば、仏教は全部厭世、悲観のごとくなれども、内容に入りてうかがわば、世間の人生を悲観するものをして楽観せしめたいという教えであることが分かる。釈迦仏が家を出でて、山に入られたのは悲観の境涯であるも、菩提樹下において正覚の悟りを開かれたるは楽観の境涯である。また最初説かれたる小乗教は厭世を免れぬけれども、大乗教に至りては此土寂光とまで説ききたりて、純然たる楽天教である。またその哲学において一方より現実の世界を夢幻虚妄とみるも、他方より一実中道の理を開きて、万法は有にして空にあらざるゆえんを示してある。しかるにその教えがインド、シナ等に行わるるにあたりて、社会の事情のために厭世の方面にのみ重きを置くようになり、今日にてもわが日本の仏教家が依然としてその厭世を継続するは、全く釈迦の本意に背くものと思う。余がさきに活仏教の一書を著ししは、仏教は厭世主義にあらずして、活動主義、奮闘主義なることを世間に紹介せんためであった。つまり今日の僧侶が仏教を生かすことを知らずして、死物取り扱いをしていると思い、むかし日蓮上人が励声疾呼して「念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊」といわれたるに対し、余は、

 真宗識無く、禅宗銭無く、浄土情無く、法華骨無し、これ今日の四箇の格言なり。

 

と叫び、また更に笑経一巻を作って風刺したこともある。

かくのごとくわれ聞く。一時仏大正の山巓に住む。大愚僧等七万人とともにす。そのとき仏告ぐ。汝らこの東洋最高の舞台に在り。なんぞ活眼を開かざらん。なんぞ活動をなさざらん。葬式法要のごときは、これ死事のみ。いたずらに仏を拝し災いを除き、空しく経を誦し福を祈らんと欲するがごとし。これ児戯のみ。もしそれ身に禅を行いて心に邪を思わば、口に名を称するも意に悪をおもう、これ魔道のみ。汝らこの類最も多し。真に嘆くべし。方今皇日天に輝き、国威地に震う。文明の月円く、知識の花鮮かなり。しかして煩悩の雲仏天をとざし、無明の草法城に埋まる。汝らこれをみざるか。盲もまたはなはだしき。ただ蠢々として動くこと蛆のごとく、唖々としてなくことカラスのごとし。なんの芸かこれ有らん。偈に説きて曰く、

念仏は物知らず、禅は頓馬、真言は盆鎗、律は間抜、天台は阿房、日蓮は馬鹿。

汝ら早く貪瞋の衣を脱げ、愚痴の垢を除け、忍辱の足を運べ、精進の手をふるえ、真如の胸を開け、菩提の眼を放て、仏光をして国光と共に世界に遍照せしめよ。大愚僧ら仏の所説を聞き、礼を作して去れ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 いよいよ仏教の活動主義を明らかにするには、仏教各宗の教理を一通り知る必要あれば、余が「仏教道しるべ」と題して、ある雑誌に掲げたるものあれば、左に録しておく。

 今よりむかし三千の、年を隔ててインドなる、迦毘羅衞城の王宮に、生まれ給いし大聖の、釈迦牟尼仏の金口より、流れ出でたる八万の、法門いかんを案ずるに、ヒマラヤ山の高きより、インドの海の広きより、なおも広大無辺なり、かかるはてなき法海を、舟にさおさし渡らんと、思うにつきて第一に、要するものは海図なり、これにつぎては羅針盤、この大切の用具をば、作りてここに世の人に、与えんものと志し、口に浮かべるそのままを、写してつづる小冊子、これを携え行くときは、仏の海の深浅も、法の舟路の方角も、一目に分かり知らるべし、これに題して仏教の、道しるべとぞ名付けける。

 教えは元は一なれど、時と国との異なるに、応じて宗派の別起こる、あたかも水が方円の、器によりて形まで、異なるごとく宗教も、国の容器異なれば、形も共に変わるなり、故にインドとシナ、日本、宗旨の相違あるうちに、まずわが国に伝われる、各宗各派の説につき、その骨となり、幹となる、大法門の筋道を、述ぶる初めは小乗と、大乗教の区別なり、この両乗のおのおのに、理論門と実際の、二つの方面備わりぬ、故に近頃仏教は、哲学上に築きたる、宗教なりと定めらる。

 人の家には玄関も、座敷も寝間もあるごとく、仏の教えの住家には、多くの部分ありと知れ、まず小乗の部門より、説き始めんに釈尊が、教えの奥の座敷なる、大乗教に入れんとて、門の扉を開きたる、その玄関は小乗教、小乗教の哲学は、わが目に見ゆる万物の、千差万別数多き、千変万化限りなき、原因いかんを考えて、物も心もその体は、共に元素が集まりて、形をなせる結果とす、もしも元素が散ずれば、形も共に滅すべし、その散ずるも滅するも、すべて因果の力なり、故に世界は無常にて、新陳代謝相続き、永く住するものはなし、ただ人のみに死に生きの、存するなりと思うなよ、日でも月でも天地でも、みな生滅を免れず、これは世界の規則なり。

 かかる道理を実際に、あてはめきたり世の人に、生死無常の理を示し、もしその境を逃れんと、思わば早く生滅の、迷いの因を断ち切りて、不生不滅の境に入れ、その境界を涅槃とぞ、名付けて人を導きぬ、さて小乗の目的の、涅槃は暗き世界にて、心も滅し身も滅し、苦痛もなければ楽もなく、真の死門に入りたると、毫も異なるところなし、これ仏教の玄関に、入りたるときの景色なり。

 更に襖を押し開き、至高至大の大乗の、座敷に入りて眺むれば、光り輝く電灯も、話を伝うる電話機も、共に備わりなにごとも、自由自在の活動の、できるがごとき仕掛けにて、神変不思議の別世界、理想の極致妙境は、ここに至りて開かれぬ、釈迦出世の本懐を、打ち明かししは大乗の、教えなることむろんなり、これに反して小乗は、外道の人を引き入るる、方便門に外ならず。

 これより更に大乗の、座敷の相を語らんに、権と実との二つあり、権大乗は表にて、実大乗は奥座敷、まずそのうちの表なる、座敷の内をうかがうに、小乗門の元素には、物と心の二種ありき、哲学上の二元論、その物体を分析し、元素の本を推し究め、ついに視触の感覚に、帰して世界の人々の、心のうちに納めたり、これは唯心一元論、権実共に大乗の、特殊の点はここにあり。

 つぎに心を八つに分け、五感の外に三識の、種類を設け、第八を阿頼耶識とぞ名付けける、ここに訳して蔵という、その心内に一切の、事々物々が納められ、一つも漏らすところなし、これを万法唯識と、名付けて心を本とせり、更に心の本体を、究め尽くしてそのもとに、万古動かぬ磐石の、土台のあるを説き示す、これを真如と名付けたり、かの蔵識と真如とは、その体もとより一なれど、事々物々が真如より、直ちに生じきたれりと、説くを許さずあくまでも、隔歴せりという説は、権大乗の哲理門。

 更に一歩を進むれば、実大乗の奥に入る、その教門の哲学は、権大乗の唯識を、理想の高きところより、見おろしきたり万法を、真如の体に引き入れぬ、これを三界一心の、所見と立つるその外に、真如すなわち万法と、唱えて世界万物の、そのまま真如なりと説く、権実共に唯心論、心の外に物ありと、唱うる点は一なれど、権大乗の我人の、ひとりひとりの心より、事々物々を開現し、甲には甲の世界あり、乙には乙の世界あり、十人十色人ごとに、異なるものと定むるを、実大乗は一切の、差別の見を打ち破り、唯一心の大海に、我彼までを納め込み、有象無象の万法は、真如のうちにありとなす、この極端の平等を、唱うるうちにおのずから、差別のあるを打ち捨てず、真如は水のごとくにて、事々物々はその水に、生ずる波のごとくなり、水を離れて波はなく、波を離れて水はなし、かくして真如万法の、不一不二の関係を、立てたる説を中道と、名付けて実の大乗の、極致なりと定めけり。

 つぎに権実両乗の、実際上の方面は、小乗流の暗黒の、涅槃の奥を打ち開き、かの晴天に白日の、懸かれるごとく赫々の、光りを放ち活動の、無礙自在なる妙境に、宗旨の本を築きたり、ただ権大の方にては、かかる涅槃の境界に、達するものと達し得ぬ、差別を立てて禽獣は、いうに及ばず人にても、必定きめて成仏の、できざるものもありと説く、これその宗の哲学が、真如の外に万法を、生ずる識を別置して、差別を立つる故である、しかるに実の大乗は、人のみならず動物も、草木国土みなながら、涅槃の岸に登り得て、同じ仏となると立つ、こは釈迦仏の一代の、最上至極深妙の、法門なりと知了せよ、これを仰げば仰ぐほど、いよいよ高き教えなり。

 この大乗の至極なる、教えによりて築きたる、宗旨は華厳天台と、真言宗の三大宗、その三宗の説くところ、大同小異ありと知れ、天台宗は一心の、うちに世界を融合し、真如の体と万法と、同体不離を唱うれど、一事一物一塵の、うちに一切万法の、融通無礙を開示せぬ、しかるに華厳はこの無礙を、立つるにおいて異なれり、また真言の説にては、事々物々を本となし、真如の方を末となし、即事而真と説ききたり、わが現身のそのままが、仏の位に昇るべく、この身すなわち仏なりと、唱うる点は特殊なり。

 以上に述べし大乗の、極致を更に実際に、あてはめきたり今日の、時機相応の宗旨をば、開きしものは禅浄土、真日蓮の諸宗なり、まず小乗の玄関の、つぎに権実大乗の、表座敷と奥座敷、いちいち入りて見究めし、後に退き思うには、かく階段を登らずも、また戸障子を開けずとも、下駄や草履のそのままで、庭を回ればたちまちに、堂の奥まで見知らるる、道の存するごとくにて、修行を積まず頓速に、仏地に至る道あるを、発見せしは禅浄土、真宗等の立場なり。

 さて大乗の極致たる、華厳の高き法門は、ヒマラヤ山のごとくにて、天台宗の広大は、インドの海のごとくなり、いかなる人も仰ぎ見て、賛嘆せぬはなけれども、もしその宗の実際の、修行いかんを眺むれば、永き年月重ねつつ、いと数多き階段を、登り尽くすの困難は、千辛万苦ただならず、むかしの人はいざ知らず、今は多忙の世となりて、かかる修行は迂遠なり、時に適せず機に合わず、これに代うるの近道は、種々あるうちの第一は、禅家に立つる修行とす、その基づける根本は、実大乗の一心の、範囲の外に出でざるも、一心すなわち真如なり、真如すなわち仏なり、心仏人の三体は、同一なりとの説をとり、人が仏になる道も、己が心を顧みて、迷いの雲を打ち開き、心の空に澄み渡る、真如の月を眺むれば、悟りの境に至るべし、これに達する方法は、座禅の外になしと知り、直指人心見性の、説を唱えて禅宗の、一家をなすに至りけり。

 しかるに浄土一門は、同じ修行の近道を、説くとはいえど禅宗と、その趣を異にせり、実大乗の法門は、幽玄微妙なりといえ、われらのごとき凡夫には、華厳の山はよじ難く、台家の海はこえ難し、ここに別途の法門は、釈迦所説の経中に、いと明らかに示しけり、無始よりこのかたこの世まで、多くの仏あるうちに、万の仏の最上は、阿弥陀仏なりこの仏は、十劫久遠の昔より、一切の人を助けんと、大誓願を起こしてぞ、難行苦行を積み重ね、その願すでに成就して、大悲の光り満ち渡る、もし一心にこの仏に、帰依しきたらばわが方に、毫も修行を積まずして、罪悪抱けるそのままが、悲光のうちにおさめられ、仏の悟りを開くべし、これを他力の教えとし、時機相応の法となす。

 同じ他力の宗なれど、ひとり異彩を放てるは、真宗一家の教えなり、浄土宗より流れ出で、念仏為本を唱うるも、口に唱うる念仏は、仏になるの因ならず、かかる罪業深重の、われらを助けたまわるは、ただただあなた一仏と、心に信じ喜びて、御任せ申し奉り、これより後は朝夕に、御恩報謝の心にて、口に念仏唱うべし、唱うる声の力にて、仏になると思うのは、やはり自力の嫌いあり、すべて雑行雑善を、すててひたすら一仏を、信じてあれと説ききたり、真の他力を立てにけり、これ真宗の宗意にて、浄土宗との相違なり。

 浄土門の反対に、立ちて一派を開きたる、ものは日蓮宗旨なり、天台宗の基づける、法華の経の本門を、究め尽くして妙法の、極意を握り極楽を、現世の上に在りと説き、他力によるを卑怯とし、自力でこの身の成仏を、求めきたれと一喝し、その広大の徳益は、法華のうちに在りとして、南無阿弥陀仏の代わりには、南無妙法の題目を、唱うべしとぞ教えける、われらが拝む本尊も、わが身に修むる戒律も、妙法蓮華の外になし、これは自力の易行なり。

 世界に多き宗教の、うちにてひとり卓然と、理論の峰はいと高く、これより出づる応用は、流れて河となり江となり、広き国土に生いしげる、衆生の草を潤して、功徳利益の際なきは、仏の道の外になし、その応用の上にては、更に二つの門を建つ、出世間門世間門、人が仏になる道を、教うる方は出世間、人の人たる大道を、指示する方は世間なり、世間門をうかがわば、仁義の道も忠孝も、みな備わりて欠目なし、勅語のうちの忠孝の、いとも尊き大道は、世間門にて説き尽くす、故に決して国体と、衝突するの恐れなし、これまた仏の妙趣なり。

 そもそも釈迦の説相は、かつて応病与薬とし、衆生の病一ならず、これに与うる法薬も、数々ありて八万の、枝に分かると説きたれど、その根本に至りては、真如の外になかるべし、宇宙世界の本体も、人の心の源も、すべてこれより出づるなり、仏も衆生もその本は、やはり真如のうちにあり、かかる真如の大海は、本来清く透明の、性と質とを備うれど、いつかその水固まりて、氷を結び透明を、失いここに万法の、事々物々の境界を、産みだすもととなると知れ、たとえ氷を結びても、海の底には透明の、水は同じくあるごとく、万法界のその本に、真如の水は依然たり、もしも氷をとかし得て、透明無垢の浄水を、表に開きあらわさば、これを仏と申すなり、真如と仏の関係は、このたとえにて知らるべし。

 真如の水の氷りしは、なんの力と尋ぬるに、因果の律に外ならず、真如は宇宙の体にして、因果は真如の手足なり、その手と足の力にて、万の物を造り出す、氷るも因果溶くるのも、同じく因果の力のみ、よって因果に善悪の、二種あるものと説ききたる、悪因ここに働けば、迷いの氷を作り出し、善因ここに重なれば、氷もとけて水となる、転迷開悟成仏の、道は因果の外になし、これ小乗大乗を、一貫したる教理なり。

 仏の教えは善悪の、因果を本とするときは、己自身の力にて、修行を重ね徳を積み、ついに仏果の頂きに、登ることこそ至当なれ、しかるに他力の法門は、わが方にては善因を、積むに及ばずただ仏に、任せておけばたちまちに、仏となると説く故に、因果の律に矛盾すと、疑う人はあるけれど、その実同じ因果の理、ただし浄土の一門は、因果を仏の方に付け、わが修むべき善因は、仏の方に備わりて、これを信ずるそのときに、流れきたりてわが方に、満ちあふるるに至るべし、自ら井戸の水を汲む、自力の外に水道の、他力の仕掛けあるごとく、仏の大悲の心には、無量無限の善因が、集まりおればただわれは、これより伝うる鉄管の、ネジを開けば速やかに、その善因がわが方に、流れ込むべき道理なり、これを名付けて信心の、窓を開けと教えけり、故に他力の一道も、やはり因果によると知れ。

 かかる高妙甚深の、教えの庭もいと長く、続ける冬の霜枯れに、会いてさびしくなりにけり、しかるに今や人文の、春はきたりて草も木も、生い茂りける世となりぬ、このときひとり厳冬の、景色をとどめ変わらざる、ものは仏の教えのみ、あたかも明治大正の、ランプもあれば電灯も、ある世の中に仏教の、家のみ暗き行灯を、点じておくに異ならず、早く三界一心の、真如の月をめぐらして、衆生の草を照らさしめ、これと同時に大慈悲の、仏の水を汲みきたり、枯れたる庭にそそぎかけ、涅槃の花を開かせて、人の心に柳緑と、花紅の春を見るように、力を尽くせ寺々よ、精を励ませ僧徒衆、かくして国の文明と、富を助くるようにせよ、谷に潜みしウグイスも、たかきにうつり友を呼び、穴にこもりし蛇までも、春を迎えて出て遊ぶ、何故ひとり仏門に、住める人らは人文の、春に当たりて活動を、なさんとするの勇なきや、早く長夜の眠りより、起きて世間に進み出で、国のためまた法のため、驚天動地の活躍を、なすこそ真に皇恩に、報ゆる道と仏恩に、報ずる道というべけれ。

 なお仏教の人生観は楽観にして、しかも活動主義をとるべきものの詳細なる説明は、拙著『活仏教』につきて一読を願いたい。

 

   第四講 国 家 観

     十三 哲学と国家

 世の学者は往々世界あるを知りて、国家あるを知らぬものがあるが、哲学者中にことにこの傾向がありがちである。もとより哲学の向上門に対しては、哲学眼中国家なしの勢いをもって進行せねばならぬけれども、向下門にありては社会国家を目的とするが当然である。しかるに世間普通の哲学者は向上門一方に力を用い、向下門を疎外しているから、忠君愛国などを軽んずるように傾くのである。よって余が向下門に重きを置くべしというのは、この時弊を矯正せんために外ならぬ。

 余が向上門において循化論、相含説を唱え、その理を向下門に応用して国家社会のために奮闘努力せねばならぬとの説は、前の宇宙観、人生観にて論ぜしをみて知ることができる。すなわち循化論の方にては、今日吾人が国家のために尽瘁すれば、その結果が後の世界に現れ、その原因に相当せる国家を再現する理なれば、ただこの現在の世界において国運を発展せしむるのみならず、未来永遠にその発展を継続すべき理である。また相含説よりみれば、吾人のうちに国家を含み、国家のうちに世界を含むものにして、吾人の発展は国家の発展となり、国家の発展は世界の発展となる。故に世界の発展を期せんと思わば、まず吾人が国家のため鞠躬尽瘁せなければならぬ。かくして哲学は人生を向上する学となる。しかしてその動機は宇宙の大勢力、大精神が余が心中に胚胎して存し、その先天の命令が吾人を内より刺激して、勇往邁進せしむるに至る。しかしてその大精神を古来天の誠といい、あるいは神明といい、その精神の吾人の心中にある方を良心とも道心とも、または人の誠ともいうのである。

 この大精神を仏教にては真如と名付け、その精神の人にあるを仏心とも仏性ともいう。すなわち涅槃経の「一切衆生 悉有仏性」というはこの心である。しかるに古来仏教を死物視したるために、真如そのものまでを死物視し、むかしの歌に「真如とはいかなるものと人問わば、墨絵にかきし松風の音」とよみ、実に真如は空々寂々にして、影をとらえんとするがごときものとみている。もとより真如は静的方面と動的方面との二面あるが、従来は時勢の影響にて静的方面のみを説いたものである。しかし今日は時勢一変して活動的世界となりたれば、真如の動的方面を開示せなければならぬ。よって余が真如を詠じたる詩に、

真如は死物に非ず、その体に精神有り、喜べばすなわち山川も笑い、激すれば天地もいかりをなす。

 

と述べ、更に三十一文字をもってその意を現し、

真如とはいかなるものと人問わば、天地にみつる日本魂

真如とはいかなるものと人問わば、宇宙を載せて走る蒸気車

とよんだことがある。すなわち真如は宇宙の活動的大精神である。その精神が吾人の心底に胚胎しているから、その内発の刺激によりて吾人は外部に向かい、驚天動地の大活動をなさなければならぬ。しかして物に本末あり、事に終始ありて、近きより遠きに及ぼし、低きより高きに及ぼすの順序をとるべきはずなれば、まず第一着におのおの己の国家に向かいて、尽瘁せなければならぬ。よってこれを余は天の使命という。すなわち宇宙の命令であると思う。

 すでに天の使命、宇宙の命令によりて、官にあると野にあるとを問わず、国家のために大いに活動し、いわゆる「たおれて後やむ」(斃而後已)の覚悟をもって粉骨砕身し、これによって世界の人文を進め、人類の幸福を全うせしむるのが、余のいわゆる人生を向上するゆえんにして、哲学の目的も吾人の天職も、帰するところこの一事にありと信ず。よって余は哲学は人生を向上にする学なりとの新定義を設けたのである。しかるに世間にては哲学者などは書斎に閉じこもりて、書物と首っ引きをすべきものである、僧侶は死人のきたるを待ちてこれに引導を与うれば足れりという。これ実に吾人の天職を無視したる妄見といわねばならぬ。もっとも今日の僧侶には葬式法事のみを務め、信徒教導の実を挙げざるものが多い。かつて余の悪口をよみたる句がある。

  葬式と法事除けば寺はゼロ

七万の寺院十万の僧、みないう末世法灯を伝うと、もし葬式仏事を除き去れば、八家九宗なんの能か有らん。

 

 この風はむろん大いに革新せなければならぬ。また聖人というものは世事に関せず、退きて道徳を講ずるだけのものと思うものが多い。これも大いなる間違いである。もっとも昔の聖人にはそのようの風ありしも、これは時勢のしからしむるところである。蛇が冬は蟄居して、春になると外へ出掛けてくる。ウグイスは冬は幽谷に潜み、春になれば喬木に移るというがごとく、昔日は冬の時代であるから、聖人あっても蟄居していたが、今日は春の時代なれば、聖人は世間に立ちて活動せなければならぬ。余が地方のある旅館に宿りしときに、襖に、

日本に聖人有り、その名は楠公という、誤って干戈の世に生まれ、剣をさげて英雄となる。

 

との五言絶句を張り付けてあるを見たが、これは人は治世でなければ聖人になれぬと思うている考えである。すなわち聖人は国家のために活動するものでないということになる。そのような聖人は聖人にあらずして、静人というべきものだ。余はこれに対して楠公は幸いに乱世に生まれて忠臣となったが、これすなわち立派の聖人と思い、その詩を添削して左のごとく改めた。

日本に聖無きに非ず、楠公はその一人、幸いにして交戦の世に生まれ、剣をさげて忠臣と作る。

 

 どうしても今日は学者も僧侶も、聖人も賢人も、国家社会のために活動奮闘せなければならぬ。余の活仏教の主義は前にも一言せしごとく、活動一点張りである。その詩に曰く、

丹心を捧げて国恩に報ぜんと欲し、一声唱起す革新論、願わくは仏界の悲観草を除き、皇道の門前に楽園を開かん。

だれかわが曹をして革新を唱えしむ、先天命有りて自ら諄々たり、死僧もし生気を回するを得れば、彼もまた同じく聖代の民とならん。

革新はこれ不平の声に非ず、意気は天をつき天もまた驚く、極力魔を払いたおれてやむ、法恩は重しとなし一身は軽し。

仏界は知らず文運のさかんなるを、頑雲四鎖し昼冥濛、経を誦する僧蛙の雨を呼ぶに似て、法を聴く人馬の風に触るるがごとし、厭世の草埋む生死の路、悲観の涙満つ涅槃の城、常に報国を懐き心に黙し難く、たちて革新を唱え奉公をなす。

 

 

 

 

 

 念仏につきても悲観的念仏を排して、活動的念仏、奮闘的念仏を唱え、自らその意をよみたる道歌がある。

念仏を唱えて国に尽くすこそ、南無阿弥陀仏の本意なりけれ

念仏を唱えて奮闘努力せよ、仏恩報謝はこの外になし

国のため己をすてて働くは、念仏行者の本分と知れ

 禅宗につきても同様に活動的禅を唱えている。

達磨さん九年面壁するよりも、手足を使ってウンと働け

 これ余が達磨に題したる賛である。あるいは「九年面壁是古禅、一生奮闘是新禅」とも、また「勇進活動是真禅」とも唱えて、活動主義を勧めている。

 昔法然上人の作られたる「一枚起請文」という文章がある。わずかに一枚の中に浄土宗の宗意を述べ尽くされしとて、世に名高い文章であるが、余はこれに倣うて哲学の一枚起請文を作ったから、左に掲げておく。

 和漢西洋のもろもろの学者たちの沙汰し申さるる哲学の学にもあらず、また学問により諸家の書を読み尽くして唱うる哲学にもあらず、ただ忠君愛国のために奮闘尽瘁すれば、疑いなく人生の本務を尽くし得ると心得て活動する外には、別の子細候わず。ただし宇宙観、人生観などと申すことの候は、みな決定して奮闘尽瘁すれば、人生の本務を尽くし得るうちにこもり候なり。この外におくふかきことを存せば、かえって哲学の本旨にはずれ、人生の目的にもたがうべし。哲学を行わん人はたとえ古今の哲学をことごとく学ばずとも、一文不知の愚鈍の身になり、田夫野人の無知のともがらに交わり、学者の振舞いをせずして、ただひたすらに活動すべし。

 これ余が百姓的学者の位置にありて、哲学の教外別伝の本色を示したる起請文である。

     十四 哲学と忠孝

 哲学者はややもすれば忠孝は陳腐の説なり、古老の言なりなどというように傾くも、余は忠孝をもって宇宙の真理の国民性の上に発現せるものと信じている。もとよりわが国の忠孝は西洋にはもちろん、世界中いずれの国にもない一種無類の道徳である。しかしその源を探ればいわゆる天の誠、すなわち宇宙の大精神より分化しきたれるものにして、そのなかには天地神明も宿りていると申してよい。諺に水は方円の器は従うというが、道徳もまた方円の器に従うものである。なんとなれば、道徳の本は天の誠にして、その誠はただ一つなるべきも、これが社会国家の容器の異なるに従って、種々異なりたる形を実現するに至る。そもそも日本帝国と外国とは人情風俗、政治国体を異にせるは、器物に方円の相異あると同様である。その異なれる容器の中に一つの誠の水が入りきたれば、おのずから方円の形を異にし、日本の容器の中に入れば忠孝の形をとりて実現するわけである。ゆえに日本国民としてはこの忠孝二道を天の誠、宇宙の精神の実現とみて、大いに発揮せなければならぬ。

 余が先年九州地方巡講の際、ある学校において忠孝為本説を講述したれば、聴衆の中より質問を起こし、道徳の本は誠にして忠孝にあらずと思うがいかんと尋ねたものがあった。これ道徳の体を知りて形を知らざる浅見である。体の方では一誠とか至誠とか申すべきだが、形の方では仁義とか忠孝とかいうものになってくる。しかしてわが国体の一種特殊なる点よりみれば、その誠が忠孝となりて発現されているから、われわれ日本国民たるものはこの忠孝を国民道徳の大本と心得て、大いにその修養を努めなければならぬ。これまた余が教外別伝の哲学の本旨である。

 わが国にて二宮尊徳先生といえば、実業界の聖人どころではない、神様として崇拝せられているが、その報徳訓のうちに孝道はあれども、忠道が説いてない。余はこれを遺憾におもい、その訓に擬して大正農業訓を作っておいた。

明治暦を改め大正元を開き、皇日国光あまねく乾坤を照す、今後の経営は実力をひろむるに在り、実力を拡充するは富源を養うに在り、富源を養成するは産業を興すに在り、産業を興起するは田園を開くに在り、田園を開鑿するは勤労を持するに在り、勤労を持続するは子孫を教うるに在り、子孫を教養するは国家を保つに在り、国家を保全するは至尊をいただくに在り、日々夜々皇徳を仰ぐべし、年々歳々国恩を忘るることなかれ。

 

 

 

 右の農業訓は韻字までを用い、忠君の大義をもって結んだ。これは円了報徳訓と思って、一読してもらいたい。

 また従来の千字文は今日に適せず、日本に不必要の文字多ければ、これを左の通り改作して、明治千字文と題した。

天地玄黄、宇宙荒洪。広濶にして測られず、悠久にして量る無し。星辰羅列し、日月光を交う。冬寒く夏暑く、春暖かく秋涼し。七曜干支、昼夜陰陽。東西南北、四隅八方。国あつまりて界を成し、人群がりて郷をなす。眷族兄弟、男子は郎と称す。夫婦姉妹、女児は嬢と呼ぶ。内に父母をいただき、上に帝王を仰ぐ。業に分かれて職に就く、士農工商。殖産ようやく興り、たちまち市場を開く。山間はよろしく駕すべく、波頭はわたるべし。鶏豚魚貝、犬馬牛羊。耕織牧畜、糸麻蚕桑。衣を製し食を造り、貨穀倉に満つ。民衆堵に安んじ、封土隆昌。生まれて暗愚ならば、禽獣とひとし。幼齢校に在り、早に起く毎晨。鋭意奮励、時はこれ金銀。精読熟習、奢を避け貧をしのぐ。長ずるに及んでますます勉め、研磨して神を凝らす。

 

 

 

 

 

蛍雪自彊、苦しきを忍び辛きに耐う。達せんと欲してまず窮し、屈して後に初めて伸ぶ。ことに徳器を修め、貪を制しいかりを抑う。己に克ちて礼に復し、性情ともに淳し。恭敬友信、君に忠に親に孝。学力秀逸。操行絶倫。茅屋より出で。宮廷紳を引く。代数幾何、細に微塵に入る。理化博物、深く真因を究む。実験鬼を驚かし、応用新を競う。千里も瞬息、万邦は比隣。欧亜米濠、大陸はただ六のみ。英独仏伊、中原に鹿をおう。甲乙戦を挑み、丙丁睦を媾う。刀剣銃槍、骨をくだき肉を割く。摶攫呑噬、互いに口腹を肥やす。優勝劣敗、雄飛び雌伏す。争乱鎮静し、もっぱら撫育に務む。皇祖極を建て、一系連綿たり。幕府柄をとり、厳しく外船を禁ず。鎖港攘夷、ほとんど三百年。明治の啓運、頑眼を照破す。

 

 

 

 

 

陛下は至聖にして、才を抽きとり賢を挙ぐ。つとに憲法を定め、しばしば詔宣を賜う。すでに文教を敷き、また兵権を張る。将卒の武勇、節を持することいよいよ堅し。清露の両役、弾雨砲煙。奉を抜き旅を屠り、むかうところ靡然たり。台湾を占領し、朝鮮を併合す。威は辺境に振い、功は史編に垂る。古道未だ滅びず、孔孟程朱あり。遺経なお存し、仁を説き儒を講ず。釈氏は旧により、檀徒を固結す。台言褝浄、同旨異途。ヤソもまた加わり、寺堂衢にそびゆ。詩歌芸術、音楽画図。風にうそぶき雲に吟じ、巒に杖つき湖にさおさす。欝を散じ憂を解き、氣を養いてもって娯しむ。海棠柘榴、桃李桜梅。梧桐楊柳、松竹柏槐。牡丹芍薬、蘭菊芝苔。芙蓉薔薇、随所に栽培す。杉桧槻樫、知るみな良材なるを。亀は霊沼に遊び、鶴は蓬莱にすむ。竜騰り虎奔る、麒麟鳳凰。

 

 

 

 

 

狐狸兎猿、獅象豺狼。鷲鷹雀鴉、鷺鵞鴛鴦。蜂蝉蚊蝿、蝴蝶螳蜋。鯉鯛鮭鰹。鱗潜り羽翔る。黍稷稗粟、菽麦稲粱。芋薯瓜茄、蕪葱菜薑。柑橘柿梨、塩酢氷湯。味噌醤油、豆腐砂糖。あるいは炙りもしくは煮、胃腸に調摂す。血液循環し、健康を保全す。禍福は命を待ち、疾病は医を招く。浮世はのがれ難く、栄枯盛衰あり。少壮老いやすく、隙駒の馳せるがごとし。紅顔黒髪、夢裏に変移す。身死し魂去り、棺底に尸を納む。終わりを慎しみ遠きを追い、おのおの葬儀を営む。義を思い恩に報じ、祭祀して碑を立つ。正盆の二期、都鄙歓迎す。元旦は最も賑い、餅を喫い羹を啜る。ことごとく賀辞をのべ、ひとしく昇平を頌う。婚姻はあまねく祝い、肴は堆く樽は盈つ、芳筵華燭。舞う影謡う声。通宵快飲し、巨盃飽傾す。

 

 

 

 

 

任は勅奏判、爵は公侯伯。貌は醜美好、色は青赤白。覚は視聴触、災は火震疫。歩畝段町、升斗寸尺、碁哥留多、相撲演劇。手品軽技、玉突寄席。算盤印章、記録簿籍。隷楷草書、和唐洋紙、硯池筆を染め、窻に対して几に倚る。懐を述べ事を叙し、客に接して拝跪す。問答談論、泣笑悲喜。頚額頬顋、鼻舌唇歯。胸肩腰脚、股肱拳指。毛は皮膚に根ざし、知は脳髄に宿る。利鈍貴賎、賓主僕婢。膳椀箸皿、鏡炉枕屏。陶磁膠漆、鍋釜盥瓶。笠鞋帽靴、郵函電鈴。監獄税署、郡衙県庁。警察消防、政令典刑。樵伐漁釣、鉱を採り鋳鎔す。挿花刺繍、紡績裁縫。

 

 

 

 

 

薪を拾いて晩に炊き、臼を掃いて暁につき、億兆心をあわせて、盲唖聾を救う。盗殺姦を懲らし、童蒙を訓戒す。鰥寡を愛憐し、媼翁を扶翼す。淬礪して誠を輸す。尽瘁鞠躬。積善の家、必ず慶祥有り。邪悪にして罪を犯せば、だれかよく殃を免れん。過を見ては速やかに改め、施しを受けては忘るることなかれ。座作進退は、綱常を践履す。その他の名目、議院会社。茶店酒舗、田園林野。汽車鉄路、石炭煉瓦。助語というものは、焉哉乎なり。

 

 

 

 この千字文はやはり旧千字文に倣い、隔句韻をふみ、同字を一字も用いぬようにした。

 また旧來本朝三字経というものがあるも、明治大正の文明を知らしむることあたわざれば、余は左のごとく改作して大正三字経と題した。

わが日本は、大東に在り。地は膏腴にして、気は和融す。人は勇敢にして、よく忠を尽くし、俗は醇厚にして、よく公に奉じ、皇室有りて、万古隆し。天壌とともに、永く窮まり無し。昔神武、皇基を開く。数千載、星霜移る。四方海にして、敵のうかがう無し。徳川の末、覇政衰え、開港を唱え、攘夷を論じ、民心動き、国まさに危うからんとす。勤王の士、死生に決し、内訌治まり、昇平に復す。明治帝、民情を察し、五カ条の文、神明に誓う。陋習を破り、府県を立て、学校を起こし、知見を開き、鉄路を敷き、郵電を置き、憲法を発し、議院を設く。前の清役、後の露戦。武威震い、国光あまねし。帝の勲業は、まことに絶倫たり。徳は聖に比び、知は神のごとし。俊才を挙げ、窮民をあわれむ。普天の下、率土の浜。だれか仰がざらん、その至仁。寿未だ久しからずして、にわかに崩殂せり。

 

 

 

 

 

百姓哀しみ、身を屠るがごとし。今上帝、大謨を継ぐ。賢良の臣、下に相たすく。暦号を改め、大正となす。五千万、本同姓たり。その心を一にして、君命を奉ず。外患を防ぎ、内政を助く。わが国運は、必ずまさに盛んにして、万邦をして、崇敬を致さしむべし。さきに先帝、詔勅を下し、軍人を諭すに、護国をもってす。忠礼武は、これ三徳。信質を加えて、五則となす。その精神は、一に誠に在り。義はこれ重く、死はすなわち軽し。これを守る者は、真の干城、もって軍を張り、もって兵を錬る。教育においては、別にいえる有り。皇祖宗、道の根を養い、忠孝をもって、徳の源となす。その徳の中、倫常存す。およそ百の行は、これを元となす。平常に在りては、知術をみがき、公益を広め、法律に遵い、もし国家、危急の日には、義勇をもって、皇室を護り、なんじ臣民、みな相い率い、その徳をして、朕と一ならしむ。

 

 

 

 

 

この聖語、仁まさに溢れんとす。戊申の詔は、人文を説く。列国の間、戦雲を排し、福利を共にし、文勲を建つ。綱目有り、八条分。信と義と、倹と勤と。国民を挙げて、常に実践す。戦役の後、日なお浅し。庶政のごときは、必ず改善し、国運に至っては、また発展す。この遺訓、すべからく服膺すべし。兵強しといえども、産に恒無く、農工商、未だ振興せずんば、欧米と、いずくんぞよく競わんや。大正の業は、すべてここに在り。億兆の民、よろしく奮起し、至誠を捧じ、聖旨を守り、人事を尽くし、その美を済ますべし。皇徳高きこと、太陽のごとし。国恩深きこと、海洋のごとし。これに報ぜんと欲すれば、すべからく自らつよくし、百業をして、必ず更に張らしむべし。任はいよいよ重く、途はなお長し。これを読む者、こいねがわくは忘るることなかれ。

 

 

 

 

 

 これもおのおの句韻をふみ、明治天皇の三大御詔勅を提唱して、国民をして忘れざらしめんことに意を用いた。

 その他、余の忠君愛国につきてよみたる道歌数首あるから、左に録しておく。もとより未知句斎焉知歌堂主人の拙作なれば、歌にもヌタにもなるまいけれども、ただ余の忠君愛国の微衷が心中にあふれたるものとみて読んでもらいたい。

国のためつねに奮闘努力せよ、雨がふろうと風がふこうと

酒をのむ間も国の行末を、まずトックリと考えて呑め

文明の御代にあいたる御礼には、有らん限りの力尽くせよ

三度食う飯も陛下のお恵みと、思うて国に尽くせ国民

たべるにも寝るにも御礼を申すべし、ああ有り難や国の御恩と

忠孝の道は鳥にも知られけり、スズメは忠々カラスは孝々

忠孝のよろいをつけて戦わば、露にも仏にもドイツにも勝つ

 また別に余が衣食住につきて、父母の恩、国王の恩をよみたる句がある。

(衣) 有り難や四時の着物も母の恩

(食) 有り難や三度の食も父の恩

(住) 有り難や一夜の宿も君の恩

 以上述べたるところによりて、余がいかに哲学の向下門に心を注ぎつつあるかを察してもらいたい。これは余の数十年間とるところの方針にして、ほとんど己の使命のごとくに思うているところである。かつて『仏教活論』を著せし当時、護国愛理を唱え、学者は一方に真理を愛し、他方に国家を護せざるべからずと説いたことがある。そのことがいまではもはや三十年前の昔となった。つまり向上門にありては愛理を目的とし、向下門にありては護国を本意とすべしとの意なりしが、爾来数十年の経験を積むに従い、わが国の事情が向上門よりも、向下門に力を至すべきを感じ、護国のうちにおのずから愛理のあるを発見するに至った。これがすなわち活哲学の主旨である。

     十五 国民道徳訓

 余の哲学の護国愛理の活動主義を普及せんために、拙劣ながら事物に触れて、感動するごとに、その所感を詩に作りて世間の批評を求めている。従来の詩人の作りたる詩は、風景を主とし、人倫道徳に関するものはほとんど皆無の有様である。その点では、詩人をば太平の遺物といわなければならぬ。ゆえに余は微力ながら、その詩風を改良せんと思い、明治天皇の御詔勅に基づき、国民道徳訓を数十首作りおきたれば、左に掲げておく。

 

   国民道徳訓三十韻第一編

    軍人勅諭によりて首ごとに冠するに聖言をもってす

 

尽瘁は営利にあらず、鞠躬はただ奉公あるのみ、先憂して後楽を期し、国と窮通を共にせん。(一東韻)

忠実常に業に従わば、なにをか論ぜん士と農とを、功成らば家必ず富み、死後に遺封あり。(二冬韻)

節操は崇嶺のごとく、知謀は大江にひとし、風を望みて人自ら服し、戦わずして敵は先に降る。(三江韻)

正気は天地に満ち、幽玄にして知るべからざるも、時に感じてにわかに啓発すれば、国家の危うきも安定せん。(四支韻)

礼楽は仁義を兼ぬ、これを守りて百非を防がば、心はひろく身もまたゆたか、冥福またなんぞ祈らん。(五微韻)

 

 

 

 

 

儀容は神粛を要し、心室は清虗を貴ぶ、君子はそのひとりを慎む、天網は疎にして疎ならず。(六魚韻)

賢をとうとび師長を敬し、自ら謙にして頑愚を守る、もし他人の悪をみれば、兢々として三たびわれを省ん。(七虞韻)

武は元よりわれの長ずるところなるも、術これを欧西に学びて、国本今や養うことなし、他年ほぞをかむことあらん。(八斉韻)

勇往天外に遊び、鵬程壮懐に寄す、青山はいずくにも在り、老後は好みて骸を埋めん。(九佳韻)

重荷は身に耐え難く、長途は志をくだきやすし、心田に堅忍の種あらば、少壮にして栽培すべし。(十灰韻)

 

 

 

 

 

信は公徳の本たり、修養すれば俗醇となる、知はこれ終生の鏡、琢磨して日新を競わん。(十一真韻)

義士堂々として進めば、威風万軍を圧す、商工もまたかくのごとし、成敗は人に頼りて分かたん。(十二文韻)

旨酒は妖色を兼ぬ、何人ぞ魂を動かされざらんや、荒淫はさきに自らをいましめん、邪悪ここに源を開くを。(十三元韻)

質樸慣るれば性となる、孜々として素餐に戒しむ、勤倹の徳を養成すれば、凶歳にも飢寒より免れん。(十四寒韻)

素志修養を欲す、忙中幸いに間を得たり、書をひもときて窓下に閲すれば、古道はわが顔を照す。(十五刪韻)

 

 

 

 

 

五大州広濶にして、万邦ひとしく肩を比す、なかんずくわが皇国、頭角ひとり嶄然たり。(十六先韻)

条理人事を貫けば、眼前の因果昭らかなり、福報を祈るをまたず、ただよく自ら相招くのみ。(十七蕭韻)

一片の丹心あり、難に当たりては身命もなげうつ、虚栄は願うところにあらざれども、書架はこれわが巣なり。(十八肴韻)

誠忠国事に勤めて、身老ゆるもあに労を辞さんや、職に殉ずるも他意無し、恐るるはわが恩寵をむさぼることを。(十九豪韻)

天祐は嘉運をひらき、政寛やかにして百苛除かる、文明の余沢あり、昭代謳歌すべし。(二十歌韻)

 

 

 

 

 

地球はただ土塊のみ、人あつまりてここに家を成せり、もし一心の大に比ぶれば、蒼穹もまた小蝸。(二十一麻韻)

公侯なんぞひとり貴からんや、国を富ましむるには農商を待つのみ、億兆みな同等、至尊はただ一皇のみ。

(二十二陽韻)

道に神儒仏ありて、今もなお三教明らかなり、いかんぞ澆季の世にありて、実を去り虚栄につかんや。(二十三庚韻)

人死して魂なんぞ滅びんや、精霊はねむりてまたさむ、生時禅定に入らば、心月は幽冥を照らさん。(二十四青韻)

倫理は仁主たり、良心はこれ準縄、愛情はすべからく衆に及ぼすべし、四海ことごとく同朋なればなり。(二十五蒸韻)

 

 

 

 

 

常に憂国の志を懐き、利民の籌をめぐらさんと欲す、いたずらに児孫の計を作すは、もとよりわれの求むるところにあらず。(二十六尤韻)

経典今なお在り、常に座右の箴となす、明窓にひもときてしばらく読まば、心地自ら清森たり。(二十七侵韻)

倦みやすきはこれ人の性、辛酸あによく堪えんや、まさに知るべし神ひとたび至らば、苦中に甘を感得するを。(二十八覃韻)

行い敏にして言も敏、われ両者を兼ぬるをこいねがう、諂諛と讒謗とは、平素より口によろしくとざすべし。(二十九塩韻)

忠孝の道を守成するは、皇祖の訓はなはだおごそかにして、聖語に仁まさにあふれんとす、こいねがわくは一徳のあまねからんことを。(三十咸韻)

 

 

 

 

 

 

   国民道徳訓三十韻第二編

    教育勅語によりて首ごとに冠するに聖言をもってす

 

孝はこれ倫常の本、これを移さばすなわち忠となる、この二道を養成せば、皇運永く窮まり無し。(一東韻)

友愛はよろしく深厚なるべし、身を持するにはすべからく恭を守るべし、終生誠もて一貫すれば、徳望は必ず相従わん。(二冬韻)

和気洋々のうち、春風自ら腔を満たす、笑声湧くがごときところ、暖月は心窓を照らす。(三江韻)

信去りて人立ち難く、詐きたりて事ついに危うし、万全は唯一の道、誠実はこれ常規。(四支韻)

恭譲は人守り難く、道心は日を追いて微なり、いかんぞ修徳の士、寥として暁星のまれなるに似たり。(五微韻)

 

 

 

 

 

倹徳わが分に安んじて、優遊として陋居に楽しむ、身に省てやましきところなし、なんぞ問わん毀と誉とを。

(六魯韻)

博識は人みな貴ぶも、かえって弱行の徒多し、しかず実学を修むるに、徳を積めば真儒とならん。(七虞韻)

愛情すべからく衆に及ぶべくんば、仁徳は天とひとし、桃李無言の下、人きたりて自ら蹊をなす。(八斉韻)

学山の高きこと測られず、文海の濶きことはてしなし、余力もてよく修習すれば、なんぞ井底の蛙とならん。

(九佳韻)

業に難と易とあるも、ただ要は才をたのまざるのみ、孜々として倦怠無くんば、好運は人のために開かれん。

(十灰韻)

 

 

 

 

 

知眼は星月を欺き、武威は鬼神をも驚かすも、みな聖沢にあらざるはなく、余滴は微臣にすら及べり。 (十一真韻)

よく忍べば人常に勝つ、成功は克勤に在り、論ぜず文と武とを、奮闘して殊勲を致せ。(十二文韻)

徳樹枝葉多く、孝忠は道根となる、精華相発するところ、光被す万邦の村。(十三元韻)

器大なればその成ることおそし、身を約せば心はかえって寛、徐行してよろしく戒慎すべし、前路は望漫々たり。(十四寒韻)

公徳は文野を分かつ、これ無くんばすなわちこれ蛮、憐れむべし君子国、今や小人の寰と化せり。(十五刪韻)

 

 

 

 

 

人を益するの情自ら厚からば、国に報ゆるの志もっとも堅し、奮いて進み身命を忘れ、死生はただ天に任すのみ。(十六先韻)

世海の波穏かなり難く、人舟は動揺しやすし、わが心を常に卓出し、高歩して雲宵を渡らん。(十七蕭韻)

本に務めてよく己を持す、なんぞ世上のあざけりにかかわらんや、茶を喫して得失をみれば、ふたつながらこれ碗中の泡。(十八肴韻)

国歩はいずれのときか進み、人心は濁醪に似たり、ひとりさめて自己をうかがうに、性月は一輪高し。(十九豪韻)

憲法は苛政を除き、由来民の福なること多し、喜びてわれ草莽に潜めども、同じくこれ恩波に浴す。(二十歌韻)

 

 

 

 

 

国体は三千載、皇家は一系にしてはるかなり、なにによりてこの美を成す、忠孝は樹頭の花。(二十一麻韻)

法令はすべからく厳守すべし、徳風はまさに発揚すべし、一心よく淬礪すれば、国運は心ず隆昌せん。(二十二陽韻)

義は千岳の重きがごとく、死は一毛の軽きに似たり、国歩艱難の日には、身を忘れて至誠を竭さん。 (二十三庚韻)

勇風は北塞をおおい、仁雨は南溟に澍す、わが皇徳を仰視すれば、炳焉として日星のごとし。(二十四青韻)

皇宗の訓を奉戴し、拳々として服膺せんと欲す、人心暗夜のごときなるも、句々これ明灯。(二十五蒸韻)

 

 

 

 

 

公私の徳なんぞ異ならん、百行はもとより同流、尋ねて道源の地に至らば、ただみるは忠孝の舟のみ。(二十六尤韻)

老をたすけて孤独を憐み、人に施すに赤心をもってす、まさに知るべし慈海の水、一滴これ千金。(二十七侵韻)

翼成りていずこにか向かわんとす、鵬志は図南せんと欲するも、国を富ましむるには先務あり、耕田と養蚕と。(二十八覃韻)

皇沢春雨のごとく、洋々として四海うるおう、国威夏日にひとしく、六合その炎を仰ぐ。(二十九塩韻)

運悪しくもなんぞすべからく嘆くべし、志堅くんばよく岩をも透す、ただ憂う天下の士、情義の袗より薄きを。(三十咸韻)

 

 

 

 

 

 

   国民道徳訓三十韻第三編

    戊甲詔書によりて首ごとに冠するに聖言をもってす

 

上和して下睦み、億兆精忠を竭し、皇室は千秋に秀でて、神州は万古に隆し。(一東韻)

下は河海の大に臨み、上は月星の重きを仰ぐ、静座して天地をみれば、豁然として欝胸を開く。(二冬韻)

一系三千載、巍々として万邦に冠たり、祖宗深く徳をたて、忠孝ふたつながら無双。(三江韻)

心は明鏡の照すがごとく、万象その姿を納る、発すればすなわち忠孝となり、凝りては国体の基となる。(四支韻)

忠君の気時に発し、幸にして見る武威の輝くを、もし更に生産に勤むれば、兵さかんにして国もまた肥えん。

(五微韻)


 

 

 

 

実業は財政をたすけ、年々国債除かる、今よりしてますます勤倹ならば、輸出にも常余あらん。(六魚韻)

皇祖の訓を服膺し、国体の下に相たすく、読みて無窮の句に至らば、天を拝して万歳さけぶ。(七虚韻)

業進みて蹉跌しやすく、学成りて心かえって迷う、一誠よく自ら守らば、なにものぞ排擠を得ん。(八斉韻)

勤労して奮闘を期し、勇進して百難排す、他日成功の後、陶然として老涯を送らん。(九佳韻)

倹素と勤勉と、相持して福は自ら開く、笑うらくは他の迷信の客、仏に祈りて災より除かれんと欲す。(十灰韻)

 

 

 

 

 

家を治むるに勤倹をもってす、世に処するには仁にしかじ、先聖に遺訓あり、身を節して人を愛せと。 (十一真韻)

産業は荒怠せしむるなかれ、行余にはよろしく文を学ぶべし、乾々としてかつて倦まざれ、富国はすなわち忠君なり。(十二文韻)

ただ精ただ一のところ、自ら道心存するあり、平素修養をもっぱらにして、誠をつくして国恩に報いん。 (十三元韻)

信はこれ成功の柱、これによらば安んぜざるなし、人生は逆境多けれども、なんぞ立身の難きを恐れん。 (十四寒韻)

このとき明治改まり、大正これ関を開く、前路はなお遼遠なるがごとし、知るを要す国歩艱きことを。 (十五刪韻)

 

 

 

 

 

義勇を常操となし、体躯に健全を期す、身心よく活動して、志気は山川を圧す。(十六先韻)

醇々の民自ら楽しみ、聖明なる朝を奉戴して、人文の沢に浴せんと欲するも、ただ憂いあり国未だゆたかならざるを。(十七蕭韻)

厚薄の情免れ難し、すべからく管鮑の交わりを修むべし、尊卑なんぞ別あらんや、四海はもとより同胞ならば。(十八肴韻)

成敗は尋常のこと、難に当たりては気豪を貴ぶ、虚心に世海をみて、鋭意風涛を渡る。(十九豪韻)

俗中常に雅を見、怒のうちに自ら和を含む、人格すべからくかくのごとなるべし、家門に福必ず多からん。

(二十歌韻)

 

 

 

 

 

去就はただ意に任す、虚栄あに誇るに足らんや、冥々として陰徳を植えれば、心苑は精華を発す。(二十一麻韻)

華美は目をたのしますといえども、しかず倹徳のかんばしきに、布衣蔬食のうち、真の性は清香を放つ。

(二十二陽韻)

ひくきに就くは水の性たり、上に向かわんとするはこれ人情、常に青雲の志を養い、遠く鵬翼をのべ行かん。(二十三庚韻)

実成りて花自ら散り、人老いて気凋零す、われ願わくは白頭の後、心春草青のごとくならんことを。 (二十四青韻)

荒居せしては自ら足るを知り、積善しては家の興るを見る、用を節してひろく衆に施す、これ真の大乗たり。(二十五蒸韻)

 

 

 

 

 

怠るときは病を生じやすく、勤むるところは憂を忘るるに足る、なにごとかもっとも多幸なる、忙と不休とに在り。(二十六尤韻)

相愛し相憐むところ、人々道心を発す、積年修養の後、ようやく見る徳の林と成れるを。(二十七侵韻)

人を誡むるにはまず自らを慎み、欲を制するには貪より始むれば、心地清く月のごとし、天に対して慚づるところなし。(二十八覃韻)

自彊して世務を開き、内省して清廉を守らば、人海の風波悪しくとも、身は安く心もまたしずかなり。(三十七塩韻)

やまず常に業に従い、功名は共に凡を絶し、位高けれども身いよいよつつしめば、世上だれかあらんそしるもの。(三十咸韻)

 

 

 

 

 

 以上は五言絶句のみなるが、別に七言絶句にて賦したるものもある。

 

    軍人勅諭六条絶句

 一、忠節

わが軍忠節なればだれかよく争わん、むかうところ山河草木傾く、報国の義千岳の重きがごとく、殉難の身一毛の軽きに似たり。

 二、礼儀

人文漸進すれば道心衰え、風紀厳ならざれば国危からんと欲す、位に尊卑あり年に長幼あり、その間すべからく守るべし礼は儀を兼ぬ。

 三、武勇

皇国の男児勇たぐい無し、護持す千載精華の美、民間の一語味わいもっとも深し、花はこれ春桜人は武士。

 四、信義

信は冠履たり義はつえたり、跋渉す世途波また峰、たとえ風雲わが眼を遮るあるも、身安らかに心やすく自ら従容たり。

 五、質素

靡然たる豪奢世に風を成し、よろしく徳教を敷きて群蒙をひらくべし、身に質素を持たば家まず富み、兵もまたよく強く国もまた隆し。

 六、一誠

志士いずれの時か死生を決せん、軍人の勅諭五条明らかなり、身軽く義重くあにただ戦うのみならんや、百業の成功一誠に在り。

 

 

 

 

 

 

 

   教育勅語十二条絶句

 一、孝于父母

人生まれて天地人をはぐくむはだれぞ、教養すべて帰す父母の慈に、和漢ことにすといえども道に二無し、みないう孝は徳の基と。

 二、友于兄弟

骨肉分かつといえども気は本同じ、弟兄すべからく互いに和融に努むべし、一家の真楽君知るや否や、これ友情親愛の中に在リ。

 三、夫婦相和

異体同心互いにたすけよる、福来たり災い去りてまたなにをか祈る。一行経語千金の価、夫婦和すとき家おのずから肥ゆ。

 四、朋友相信

友朋相信ずればその心かなう、香気蘭のごとく利きこと金を断つ、管鮑貧しきとき交わりかえって厚し、今人この道すてて尋ねる無し。

 五、恭倹持己

恭をもって行いを持し倹もて身を持す。すなわちこれ堂々たる君子人、嘆息す世間浮薄の士、留連して荒れ怠るも自ら紳と称す。

 六、博愛及衆

人と相背きまた相憎む、わが食わが衣いずれのところより徴す、博愛の至情すべからく衆に及ぶべし、普天の下もと同朋。

 

 

 

 

 

 

 七、修学習業

日につき月にすすみ文運新たなり、幼童稚女書と親しむ、学業を修成し人事を尽くし、背かず真大正民となる。

 八、知能徳器

学を講ずるはただ要は性情を養うのみ、書を読みすべからくねがうべし功名をたつるを、徳器を研修すれば身円満に、知能を啓発すれば心闡明なり。

 九、公益世務

知徳を完成するにはなんの功ある。経国済民この中に存す、人もし一誠もて世務を開かば、親に対して孝をなし君に対して忠ならん。

 十、国憲国法

物に準縄あり人に規あり、国家に法無くばあによく支えんや、六千余万至安の道、遵守しあまねくよく帝基を護らん。

 十一、義勇奉公

四海の万邦版図を交え、権を争い利を追うて互いに奔駆す、他年の大事もし相起こらば、義勇公に奉じ帝謨をたすけん。

 十二、扶翼皇運

連綿たる一系幾千秋、卓立し高くしのぐ欧米の州に、億兆の臣民よく淬礪し、皇威まさに太陽とひとしかるべし。

 

 

 

 

 

 

 

   戊申詔書八条絶句

 一、上下一心

日東の人士気みな雄、兵すでに強しといえども財未だ豊かならず、上下心を一にしよく淬礪す、なんぞ憂えん国運の興隆せざるを。

 二、忠実服業

先皇の遺詔意もっとも深し、句々真に処世の箴となる。百業の成功別事無く、ただ要は忠実その心を尽くすのみ。

 三、勤倹治産

国の本はだれによりてかよく養成する、六千余万これ蒼生、熱誠産を興し食常に足り、勤倹身に持し家おのずから栄ゆ。

 四、惟信惟義

友邦今日乱れまさに亡びんとす、願わくは皇基をして万載に康からしむ、信義は常に富強の礎たり、論ぜず文武農商にくみするを。

 

 

 

 

 五、醇厚成俗

いかんともし難し人心世と移るを、憂えに堪えん道義年を追うて衰うを、もし醇厚民俗を成するに非ざれば、いずくんぞ護らん邦家不朽の基を。

 六、去華就実

倹素は持し難く奢は伝えやすし、先皇の遺誡拳々なるべし、華を去り実に就き堅く相守る、富国興家は両全を得。

 七、荒怠相誡

天道は淫に禍しただ仁をのみたすく、古来君子その身を慎しむ、怠れば貧困を招きすさめば病を招く、百鬼なんぞ侵さん篤行の人を。

 八、自彊不息

日動き水流れしばしもとどまる無し、暑寒来往す幾春秋、有情の人もまたまさにかくのごとくなるべし、昼夜自彊してとこしえに休まず。

 

 

 

 

 かくしてわが主義を歌によみ詩に賦して、広く世人に知らしむるは、明治大正の御代に生まれて、広大の御恩を受けたる御礼の心得とも思うている。

   第五講 社 会 観

     十六 余の社会観

 吾人は近く国家のために尽くすと同時に、広く社会のために尽くさねばならぬ。世界ありて人類あり、人類ありて社会あり、社会ありて国家ありとすれば、国家をさかんにするには社会を盛んにせなければならぬ。また社会を盛んにするには国家をさかんにせなければならぬ。つまり社会と国家とは相待ち相よるものである。戊申詔書の人文を進捗する方は社会のためであり、国運を発展する方は国家のためである。しかして社会の人文が進めば、国家はその恵沢を受くることができ、国運を発展すれば人文の福利も増進することができる。かくして余の哲学の目的たる人生を向上せしむるに至るわけである。

 吾人は国家の一民たると同時に社会の一人である。国家より恩恵を受くと同時に社会よりも恩恵を受けている。わが食もわが衣も、ただいまにては世界万国より供給されていることは何人もよく知るところである。すでに国家より恩恵を受けている以上は、これに対して報謝しなければならぬというならば、社会より恩恵を受けている以上は、これに対してまた報謝しなければならぬ。これを仏教にては衆生の恩に報ずという。すでに国家の道徳として忠孝を本とするならば、社会の道徳としては仁義を本とすべきである。この仁義はすなわち公徳となる。仏教にて世間道の道徳を忠孝仁義というはこの二種を合した名目である。これを真宗にては王法仁義という。外には王法をもって本とし、仁義をもってさきとすと説いているのは、やはり国家的と社会的との両方を合したのである。

 この社会的道徳につきてわが国に公徳がないということは一般に許している。何故に西洋に公徳が進みてわが国に欠けているかというに、これには種々の原因がある。西洋人中には東洋の教えは私徳のみを説きて、公徳を教えぬなどと申すものあれども、これ東洋の教えを知らぬからである。まずわが国において儒教にてはなんぞ必ず利をいわん、また仁義あるのみと説き、仁は人の安宅なり、義は人の正路なりと教えている。また仏教にては仁義を説く外に大慈悲を説いている。この大慈悲は一切衆生を一子のごとくに愛憐する最上の公徳である。かかる教えがありながら公徳の進まざるは、つまりその教えが実際に普及せざるためである。仏教は葬祭の道具となり、儒教は詩文の末技に陥り、ただ虚礼のみこれ務むるようになりたるのが、その原因の一であろう。その外にわが国は家族制の組織にて家を重んじ子孫を思うの情が強く、社会のために尽くすよりも一家のために尽くす方に重きを置く故である。これに反して西洋は個人組織の社会なれば、子孫のためよりも社会公共のために尽くす念が発達している。よっていまより後は大いにわが国民の公徳心を修養せんことを務めなければならぬ。余のこれに関する拙作一首あれば左に録す。 

人生夢のごとくにしてまた夢に非ず、わが食わが衣だれか貢ぐぞ。児孫のために美田を買わんよりは、むしろ私産をのこして公衆に分かたん。

 

 吾人は社会に立ちて一事業をなさんとするには、公徳心を養う外に奮闘力を養うことが必要である。すでに前詩において、吾人は大いに活動すべき使命を有していることを述べたが、社会における活動は奮闘である。奮進健闘である。余がかつて青年を戒めたる詩に、 

青年すべからく健闘すべし。国運未だ全くさかんならず、天下寧日無くば、人生これ戦場。

 

と説き、人生の戦場に立って終身奮闘せなければならぬ。真宗にて蓮如上人の「白骨の文」と称する名高い文章があるが、極端に人生を悲観したるものなれば、余はこれを改作して「青年奮闘文」と題して、

それ人間の盛んなる相をつらつら観ずるに、おおよそ楽しきものはこの世の始中終、極楽のごとくなる一期なり。さればいまだ地獄の苦しみを受けたりということをきかず。一生送りやすし。いまの世においてだれか悲観の淵に沈むべきや、わがやさき人やさき。苦をいとわず労をいとわず、互いに競うて働く人は必ず福禄を招くといえり。されば朝には貧困ありて夕には紳士となれる身なり。すでに成功の春きたりぬれば、すなわち艱難の氷とけて観楽の花を開きぬれば、霜枯れもたちまち変じて桃李のよそおいをなしぬるときは、六親眷属集まりて天に舞い地に躍るも、更にその喜びを尽くすべからず。たとえ寿命窮まりてこの世を去るに及びても、功名は千歳の後にまで残るべし。うれしというもなかなかおろかなり。さればたれの人もはやく成功の一大事を心にかけて、己の力のあらん限りを尽くし奮闘すべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。

 つまり人生は楽観して奮闘すべき舞台である。決して万事を悲観して光陰を徒消すべきものでない。諺に「運は寝て待て」というは、大いなる心得違いである。「運は練って待て」、またウント働いて待たなければならぬ。これにつきても余のよみたる句がある。

生きている間にウント働きて、死んでユックリ休め世の人

運々と空しく運を待つよりも、ウント勇みてウント働け

朝寝するなら死んで後、仕事するなら若いとき

 よって余は人生七十なお青年と唱え、生涯青年の心得で活動せざるべからずとの主義である。また十六丁主義および三十二丁主義を唱えている。十六丁主義とは口も八丁、手も八丁、合わせてみれば十六丁である。もしこれに目も八丁、足も八丁を加うれば三十二丁となる。けだし吾人は人生は夢にあらずと心得、社会はわが活動の舞台、奮闘の戦場と承知し、極力活動奮闘するをもって人生の本務、吾人の天職としなければならぬ。

 かかる大々的奮闘は大正年間の青年において殊更その必要がある。いまやわが国が世界に向かって大いに発展

すべき時代となりたれば、青年たるものは「大海魚の躍るに従い、長空鳥の飛ぶに任す。」(            )の勢いにて、天外万里の外に雄飛活躍しなければならぬ。決して郷里に潜んでグズグズしているときではない。余の青年に贈りたる詩に、

成功必ず要む郷関を去るを、立志すべからく期すべし死すとも還らずと、男子いずれの辺にか白骨を埋めん、天涯万里異邦の山。

 

と述べた。かの人口に膾炙せる詩中に、「男児志を立てて郷関を出づ」(        )という一首がある。これと同一の意味であるけれども、余はその詩の「人間到る所青山有り」(       )というのが気に入らぬ。なんとなれば世界中には青山のなき場所がたくさんある。第一に大洋の上には青山がない。またアラビアやエジプトや北チリなどには砂原赤土ばかりで、青山は皆無であるから、今日以後はわが墳墓は青山に限らず、海底でも砂頭でも構わぬというようにしたい。よって余は左のごとく改作した。

男児志を立てて郷関を出づ、功もし成らずんば死すとも還らじ、海底原頭みなわが墓、骨を埋むるなんぞ必ずしも青山に限らん。

 

 このくらいの気慨をもって社会に立たなければ、大正の青年ということはできぬ。余は今すでに白髪の老翁となりたるも、心はなお青年のつもりにて自ら口に奮闘活動主義を唱うるのみならず、実際において自彊不息である。いわゆる十六丁主義、三十二丁主義を実行している。その自ら実行している有様を語に作り詩に賦して人に示し、ことに青年に与えて奮闘を勧めている次第である。その語も詩も拙劣なるは、文才に乏しきによることにて致し方なきも、余の精神を表白せるものなれば、左に録しておく。これ余の活学活書の符号とみてもらいたい。自ら思うに、たとえ拙劣でも格言や韻文につづった方が人に感動を与え、注意を起こさしむるに効力があるようだから引用するので、決して拙作自慢の広告ではない。

笑うに堪えたり世間白頭を嘆くを。わが生老後も未だかつて休まず、堂々たる意気だれかよく圧せん、一喝まさに呑まんとする五大州。

東に去り西に来る知りぬ幾年ぞ、壮心一片老いてますます堅し。微力なるもいささか皇運をたすけんと欲す、はるかに上る南洋万里の船。

老来百家の書を抛擲す、意気揚々として鵬もしかず。樺海台山なお狭きを覚ゆ、垂天の翼遠洋に向かいてのばす。

五大州中みなわが居、終生北馬また南車、老来ようやく腐儒の病を脱し、死書を読まず活書を読まん。

物類多しといえどもなんぞ驚くに足らん、宙間だれかあえて人と争わん、心光徹照す三千界、豪気併呑す万里の城。

江山を跋渉し気おのずからたかし、馬ははしり船は走り老ゆるも労を忘る。講ぜし余ひとたび酌むを常楽となす、問わず清醇と濁醪なるとを。

姓は井上となし名は円了、暖を追いて去来す身は鳥に似たり、巣は紅塵万丈の中に在るも、心は常に青雲の表に超出す。

 

 

 

 

 

 

 

 以上はみな、余の物に感じ事に触れて己の志を述べたる野吟である。青年に活動を奨励すると共に、従来詩人の詩は人心を沈静せしむるのみで、興奮することのできぬに対して、いくぶんかその欠点を補わんとする微意を含んでいる。ほかに格言も二、三則摘載しておこう。

日夕尽瘁すれば、老ゆるもまさに倦まざるべし。いたずらに光陰を消し、亀鶴の寿を得るは、なんぞ蜉蝣に異ならん。

身は老い気は衰えてしかも死せざる者は必ずしも長寿ならず、活動の年月最も長き者は真の長寿たり。

人生なるものは奮闘活躍の舞台なり、もし長く休み安らかにいこわんと欲する者は、すべからく死後の永眠の時を待つべし。

 

 

 

 これみな余の志を読みたるものと承知せられたし。

     十七 奮闘の原動力

 吾人が社会に対する天職は、極力活動奮闘するにありとするにつきて、その原動力を修養する方法を講じなければならぬ。まずその動力の本源は宇宙の大勢力、大精神の発動に外ならざれども、そのうちには前世界より遺伝しきたるものであれば、吾人みなその発動の度を異にし、いかに修養を与えても同一なる活動を見ることはできぬ。しかし己の力ででき得る限り、あらゆる修養を積みて、宇宙の精神の原力を自身の上に実現せなければならぬ。しかしてその修養すべきは知力にあらずして、意志である。

 今日世人が一般に薄志弱行になりたるは、知識の修養のみを務め、意志の修養を欠きしためである。知は心の目にして、意は足であるから、意志の修養を欠きては、決して実行活動のできるはずはない。余が時弊を詠じたる歌に、

  知恵の目は開けど意志の足立たず、いざりの多き世とぞなりける

と述べ、また詩にも作りて諷刺した。

識見高しといえども実行空し、靡然として天下その風に化す。成功の常道君知るや否や。知中に在らず意中に在り。

 

 全国至る所みなかかる有様であるから、余が不読主義を唱え、活哲学を勧むるのは偶然でないと考えてもらいたい。意志は石と国音相通ずるから、その堅きこと石のごとくなるが当然なるに、今日の青年は意志極めて柔軟薄弱となり、その柔らかなること綿のごとく、その薄きこと紗のごとき有様である。それでは到底社会に対して人生の本文を尽くすことができぬ。

 すべて人の立身成功は知識の方よりも意志の方にあると思う。先年余は南半球を一周し、オーストラリア、南アフリカ、南アメリカ等におけるわが同胞の成功者を見るに、学力ありても意志の薄弱なるものはみな失敗し、学なきも意の強きものが成功している。故に海外成功の要素は健身と強意とにありと論じたことがある。海外のみならず、内地においてもまたしかりである。故に今日の青年はもっぱら意志の修養に心を用いなければならぬ。古代の聖人賢人、学者高僧といわるる人は決して知識一辺の人ではない。みな意志のすこぶる強固の人であった。まず余が哲学堂に奉崇せる孔子も釈迦も、ソクラテスもカントも、非常なる意志の強固なるもので、孔子が桓魋に殺されんとせしときに、「天徳をわれに生ず、桓魋それわれをいかんせん」といいて、泰然として動かざるがごとき、釈迦が深夜王宮を出で決然として山中に入りたるがごとき、意志のいかに強固なるかを見ることができる。またソクラテスのごときは意志の修養に心を用いたる人で、あるとき道を歩きて大いに渇し、路傍に井戸あるを認め、つるべを引き上げて水をくみ、これを飲まんとしてはその水をすて、更にくみ上げてはすて、渇しておりながらこれを飲まぬ。傍らに見ている人が何故に水を飲まざるかと尋ねたれば、ソクラテス答えて曰く、「われは吾がどこまで渇を堪え得るか、己の忍耐力を試験しつつあるのだ」と答えた話がある。これすなわち意力の修養と申すものだ。カントもドイツの東北端なる小都府に、深雪堅氷を忍んで、八十年の生涯を送りしのみならず、厳粛なる規律を守りて一身を処せられしは、意志の堅固なるにあらざれば、到底断行しあたわざるところである。

 つぎにこの意志の修養法を考うるに、なにかしかるべき方法によりて信念を修養するが第一である。とかく今日の教育は道理の修養のみにて、信念の修養を欠いている。この信念は宗教の受け持ちにして、西洋各国においていまなお学校教育に宗教を加味するは、信念を修養せしめんためである。しかるにわが国では学校に宗教を加味せざるのみならず、ほとんど人生は道理を明らかにするをもって足れりとし、かえって信念を破壊する方に傾いてきた。その上に教育方面よりは宗教を無用視する有様であった。故に教育を受けたるものには信念は全くなく、宗教まで道理理屈をもって解決すべきものとなすに至った。ある僧侶が余に語りて、この頃の青年は寺にきたり、仏前に礼拝もせず、住職に面会を請い、霊魂や未来のことをいちいち理屈をもって説明せよと問責せらるるには、実に閉口であるといわれたことがある。余はこれに答えて、学校は知識の修養場、寺院は信念の修養場で、各受け持ちが違う。寺院を尋ねて理屈を聞きたいと思うは、酒屋へ入りて餅を注文すると同じことである。よって自今は寺院の門前の「葷酒山門に入るを許さず」の禁牌石はすでに無用に属すれば、これを「理屈山門に入るを許さず」に改めたがよいと申したことがある。

 禅宗の座禅も浄土宗の念仏も日蓮宗の題目も、帰するところみな意志の修養である。また真言の修法も小乗の戒律も、ことごとく意志の修養に外ならぬ。また学校にありては校則や規律を設けてこれを遵守せしむるも、やはり意志の修養である。その外各自が己の一身を規制する規律を設けて、毎日これを実行するも、意志修養の一方法である。余はすでに十年以上実行していることがある。最初は六不の箴と題して、左の六カ条を書斎に掲げて実行した。

食は問わず、寝は言わず、朝に煙せず、夜に酌まず、昏に読まず、昼に眠らず。

 

 後には左の道歌を作り、今日までこれを実行している。

(我所好) わが好きは豆腐味噌汁香のもの、とはいえなんでも人の食うもの

(我所不好) わが好かぬものは間食ばかりなり、お荼の外には間飲もせぬ

(我飯) わが飯は朝は大もり晩は中、昼は小盛りで毎度一碗(一日飯量凡一合)

(我酒) 朝はいや昼は少々晩たっぷり、とはいうものの上戸ではなし

(我話) 四方山の話は飯の時ときめ、食し終わらばすぐ仕事する

(我煙) 喫煙は午の刻より夜とこに、就くときまでを限りぞとする(半日限)

 右の数カ条のごときは、だれにもできやすきようなれども、十年以上継続して実行するは、大いに意志の強固を要するものにして、やはりその修養となる。

 平素意志を修養しておけば、自彊やまざるの忍耐力が進んでくる。忍耐力がありさえすれば、いかなる事業も相応に成功するはずである。すなわち「精神一到なにごとか成らざらん」とか、「念力岩を透す」とかの格言はこの忍耐力を指したのである。けだしわが国にて古来、日本魂を桜に例えて教えているが、これは忍耐力を養成するには不適当と思う。なんとなれば桜は美はすなわち美なりといえども、百花のうちでもっとも短命の方で、その花期はわずかに四、五日間に過ぎぬ。これに反して花の寿命の長きものは梅であって、少なくとも一カ月以上保っている。ことに梅が雪を破り寒さをしのぎ、百花にさきだちて開くところは、実に忍耐の精神に富んでいる。その花を一見しても、忍耐の相が浮かんでいることが分かる。故に今後の日本魂は桜をやめて梅にしたいと思う。余は知情意を花に配すれば、梅は意に当たり、桜は情に当たり、菊は知に当たるように考えらるる。実に梅は意力のつよきところを発揮している。ただしその欠点は貧相の一事である。どうしても梅の花には富貴の相がない。しかしてこの富貴の相は牡丹の専有である。よって余は日本人の気風を養うには、牡丹と梅とを用い、「梅花を骨となし牡丹を肉となす」の主義を唱えている。要するに今より後は種々の方面より、意志を修養することがわが国の急務と思う。

     十八 社会の学校

 すでに活動の原力たる意志の修養を述べたれば、これより余の教外別伝宗の教育法を説かねばならない。教外別伝宗は死書をすてて活書を読み、死学を廃して活学を修むる方なれば、この教育を授くる学校は世間普通の学校と大いに違う。近来は一般に社会教育の必要を唱うるも、その教育と余の教育とはこれまた違うている。そもそも学校教育の外に家庭教育と社会教育との二あることは、何人もよく知るところであるが、余はこれに自然教育の一を加えて、人生の四大教育と名付けておく。しかして学校、家庭、社会の三教育は人の授くるところなれば、自然教育に対して人為教育といわねばならぬ。これを表示すれば左の通りになる。

  教育 人為教育 家庭教育

          学校教育

          社会教育

     自然教育

 この自然教育とは天地自然が吾人を教育するの意である。

 すでに教育に四種ある以上は、これを授くる学校にも教師にも四種あるわけで、家庭教育は家庭そのものが学校にして、父母両親が正教員、他の家族は助教員である。つぎに社会教育は社会そのものが学校にして、社会の人々はみな教員である。つぎに自然教育は天地そのものが学校にして、天地間の万物がみな教員である。しかしてこのごろ世間で唱うる社会教育は通俗教育のことにして、学校卒業以上のものを集めてときに講話をなすものなるが、余の教外別伝の社会教育は他人の指導を用いず、自ら社会の実況を観察して得るところの教育であるから、人為というよりもむしろ自然である。よって余は前表を左のごとく改めたいと思う。

  教育 人為教育 家庭教育

          学校教育

     自然教育 社会教育

          天地教育

 余の活哲学においてはこの自然教育をもって活教育と名付けておく。しからば人為教育は死教育かというに、人間はもとより最初から自然教育を受けることはできぬ。必ず人為教育を経て自然に移らざるを得ないから、死教育ということはできぬ。活教育の予備教育と申してよい。しかし人為教育だけを受けて、終身活教育あるを知らざる場合においては、その予備教育がついに死教育となってしまう。

 この活教育の書籍はさきにいいし無字の書、不文の経にして、社会の各人と天地間の万物である。これを活書と名付け、よくこれを読むを活学と名付く。世間の学校には小学、中学、大学があり、小学中に尋常科、高等科あるがごとく、この活教育にも小学、中学、大学があり、また小学中にも尋常科、高等科がある。その尋常科にありては社会の活書を読ましむる方にして、すなわち個人および群衆を観察して自ら研究する方である。つぎに高等科は天地の活書を読ましむる方にして、すなわち天地間の万象万化につきて研究する方である。つぎに中学は社会と天地とを合して読習する方にして、あるいは対照し、あるいは総合して研究する方である。つぎに大学は社会天地の表面にあらず、裏面に入りて研究する方である。これに対して小学、中学は表面の研究に過ぎぬ。更に左にこれを表示しておく。

  活教育 小学 尋常科 社会の活書を読習す

         高等科 天地の活書を読習す

      中学 社会天地対合研究

      大学 社会天地裏面研究

これにて余の活哲学の教育組織が一目暸然となった。

 古来東洋西洋を論ぜず、世間に立ちてよく業を起こし功を成し、身を立て名をあげしものは、みなこの活教育を受けたるものである。しかして死書死学だけを修めたるものは、平々凡々にして一生を送ってしまう。世間の学者はいずれも人の成功せしものを見て、彼は無教育である、彼は学問は皆無であるに、どうしてあのように成功したであろうと評している。その学者自身が活教育のあることを全く知らざるから、かかる奇怪なる評を下すのであって、実にその愚を笑わざるを得ない。また今日の教育を受けたるものが、その学び得たる知識をさほど活用せぬのは、もとより活教育を知らぬからである。願わくは死書を読みて屁理屈ばかりいう人に、この活教育を修めてもらいたい。時弊を矯正するも、この活教育を普及するに外ならぬと思う。

 活教育によりて社会天地を観察するには、普通の凡眼では読めるものではない。必ず活眼を開かなければならぬ。しかしてこれによりて得たる知識は活知識となりて、よく活用し、よく活動することを得るに至る。しかしてここに至るには、その活眼を修養する必要がある。これは予備教育たる家庭教育、学校教育を待たざるをえない。ただし家庭および学校において、特別にその方に注意を与えるようにせざれば功がない。また当人も幼少のときより、平素自らその方に意を用うる必要がある。これと同時にただ社会天地を観察するだけにとどめては、活教育も死教育に陥るから、平素活動に注意をおかなければならぬ。これに加うるに活教育の観察は西洋流の分析的ではいけぬ。必ず東洋流の直覚大観を用うる必要があることを忘れてはならぬ。また外観の外に内観のあることも忘れぬようにしてもらいたい。もし外観ばかりによるときは活動が盲動になり、暴挙に陥るの恐れがある。ゆえに平素心内を観察して良心の命令を聴き、道念の指揮に従うこと最も肝要である。この内観の修養は教育ばかりではいけぬ。必ず宗教によりて信念の方面より修養を受けなければならぬ。

 古来禅宗の悟道は経論によらず、文字を用いず、天地の活書を看破して大悟徹底する法であるから、余の主義に一致している。ただし禅宗には一定の問題が設けられ、これにつきて研究する方と、その課程をふまぬ方と二通りがある。課程をふむ方は学科的にして、直ちに活書を読むのでない。これをふまぬ方は余の活哲学に合するようなれども、とかくこれまでの禅宗の修行が主観的に傾き、天地の活書を読みつつ遁世になり、大悟徹底がかえって厭世的境涯に陥る傾向がある。この点は余の活学と大いに趣を異にしている。しかし禅宗にかかる傾向の存するは古代の遺風にして、今日は必ずその方針を一変し、活発発地に活動するようになるであろう。要するに余の教外別伝の哲学は天地社会の活書を読みて、大いに奮進活動する意である。もしその活動なきにおいては、未だ活書を読まざる人とみなさねばならぬ。

 

   第六講 実 業 観

     十九 実業道徳

 わが国は前にも一言せしごとく、一等国の仲間入りはできたれど、富国強兵の一等国にあらずして、貧国強兵の一等国である。今よりこれを進めて富国強兵の一等国とするには、いかなる道をとり、いかなる方法を用うべきかは、最も急要なる問題である。まずその国を富ます直接の道は農工商の実業に相違なかろう。かつその実業を盛んにする方法は、金銭よりも財産よりも実業道徳である。しかしてその道徳は戊申詔書に御示し下されたる「上下心ヲ一ニシ」より「自彊息マザルベシ」までの八カ条の外にない。今これを公徳私徳の二種に分かたば「上下心ヲ一ニシ」と「惟レ信惟レ義」と「醇厚俗ヲ成シ」とは公徳である。「勤倹産ヲ治メ」と、「華ヲ去リ実ニ就ク」と、「荒怠相誡メ」とは私徳と申してよい。しかして「忠実業ニ服シ」と「自彊息マズ」とは、公徳にも私徳にも通ずるように思わる。これらの八カ条をいちいちここに説明せずとも、その大体は一読すれば直ちに分かることなれども、これを実行するはすこぶる困難である。もしその実行を望まば、知目の修養よりも行足の修養が肝要である。すなわち知力よりも意志の修養が大事である。けだし余が世間の死学を排して、活学を唱うるゆえんもこの意に外ならぬ。

 ここに実業振興策として私徳と公徳との二者につきて一言せんに、哲学上にては四海一家、天涯比隣どころでなく、天地一元、万物一体を唱えている。また宇宙開発論よりいえば、人類や生物のみならず、天地そのものが一大活物である。人類にひとり精神があるのみならず、宇宙そのものにも大精神があるに相違ない。また吾人にのみ良心があるのみならず、宇宙そのものにも大良心があることになる。これやはり余のとるところの説である。むかしの人はすべての物を大切にし、人工や労力の加わらざるものでも、これを無益に費やさぬのみならず、大切に思って大事にし、なにごとにももったいないと申すが、もったいないとはすべての事物を尊重する意である。この考えが今日は衰え、労力の加わり価格を有するものだけを尊重するを知るけれど、なんらの労力も価格もなきものを大切にすることを知らぬ。けだし今日の教育にては世界を死物視しているから、このもったいないという思想を修養せしむることができぬ。ただ宗教ばかりがこの考えを与えることができる、かくして無機物、無生物までを大切にすることを知らば、生物を大切にせなければならぬは無論である。すでに生物の尊重すべきを知らば、人類は互いに相愛し相重んずべきことは一層深く感ずるようになる。この心得をもって社会のために公徳を重んずべきものと思う。もとより公徳の守るべきは種々の方面より説明することができるも、宇宙活物論より説ききたると一層その趣を高むることになる。

 この公徳に国家的公徳と世界的公徳との二通りがある。例えば「上下心ヲ一ニシ」は国家的公徳である。「惟レ信惟レ義」は世界的公徳である。この二者は互いに相待つべきものにして、国家の団結を固うするには上下一心の公徳を要し、国運の発展を計るには「惟レ信惟レ義」の公徳を要すると同時に、二者ともに相助くるはむろんである。故に実業振興にはこの二者を柱礎としなければならぬ。しかして日本の実業家をしてこれを実行せしむるには、精神内部の修養を与うるの必要がある。すなわち内観法によりて良心の修養はもちろん、更に良心の深底を開きて宇宙の大精神に接触する道を授けなければならぬ。もしこれを行わしむるには、必ず宗教につきて修養を積ましむるを要する次第である。つまりわが国の実業家の大欠点は宗教の信念を欠くの一事に帰着する。禅宗に座禅堂があるがごとく、実業家に対しても修養堂を設けて、少なくとも一年ないし三年の信念修養をさせたいと思う。

 つぎに私徳につきては勤倹が第一の要件である。その勤倹にもまた私徳的と公徳的が含まれている。世間普通の勤倹は私徳的で、ただ一身一家を富ますだけの勤倹である。かかる勤倹はシナ人的勤倹と名付けたい。これに反して国家のため、社会のための勤倹は公徳的と申すものだ。願わくはわが国の勤倹はこの公徳的にしたいと思う。さなければ決して国運の発展はできぬ。また私徳的勤倹としてもただ金銭をもうけてこれを貯え、一文も出さぬようにするが勤倹の本意ではない。余の道歌に、

  倹約のさじ加減こそ大事なれ、盛り過ぐしたら吝嗇となる

とよみたることがあるが、さじ加減を違えないようにしてもらいたい。また倹約に種々あることは余のしばしば唱うるところなるが、その第一は時間の倹約である。「タイム イズ マネー」なれば、時間を無益に費やさぬようにしなければならぬ。第二は場所の倹約である。居室でも土地でも無用の空所を置かぬようにしなければならぬ。第三は労力の倹約である。同じ労力を費やすにも骨折り少なくして効果多いようにしなければならぬ。第四は精神の倹約である。書を読むにも無益の書を読み、不必用の部分を読みて、精神を濫費せぬようにしなければならぬ。第五は娯楽の倹約である。人は労働ばかりで日を送ることはできぬ。必ず時によりては娯楽も身心を慰むるに必要なれども、そのうちに益あるものもあり、害あるものもあるから、よくよく選択しなければならぬ。第六は休息の倹約である。人は夜昼休息なしに労働を継続することはできぬ。よってときどき休息をとるを要するも、休息とは必ずしも身心を安静にするに限らず、事業を転換すれば精神を新鮮にするようになるから、休息そのものを利用するようにしなければならぬ。そのほか言語の倹約もあれば、耳目の倹約もあるが、そのいちいちを実行することはでき難けれども、なるべく注意するようにしたい。

 倹約の主旨よりいえば、人に閑散の時を有せしむるは、害ありて益なきものである。古語に「小人閑居して不善をなす」というが、小人のみならず、大人も閑居すれば、不善をなすものである。余の格言に、

人生忙しきにしくはなし閑居してかえって悪を生ず、人身動くにしくはなし静座してかえって病を招く。心多忙なればすなわち悪を思うの余地無く、身多事なればすなわち悪を行うの余いとま無し。紳士閑居して邪悪を思い、商工閑居して詐欺を行い、官吏閑居して賄賂をたしなみ、学者閑居して名利をむさぼり、僧侶閑居して煩悩起こる。

 

 

と作っておきたるは、閑居の害を防ぐためである。また衛生、健康の道も閑散ならずして、多忙なるに外ならぬ。諺に病は口より入るというが、口のみならず閑暇より入るものである。これにつきても余の作りたる道歌がある。

  精出して働く身こそ無事なれ、病鬼のやどるすきまなければ

 わが国にて隠居と申して、年齢五十を過ぐれば、大抵隠居して閑散の日月を送る風がある。この風はぜひとも改めなければならぬ。余は必ずしも隠居を排するにあらず。閑散無事をいとうのである。よって隠居するもなにか相当の仕事をすればよい。諺に隠居暇なしのごとく、事業を取り替えて働くのを、隠居ということにしたい。余も隠居の一人でありて、ただ今は東洋大学の隠居の身になっている。先年、哲学館退隠のときに、

独力もて経営す二十の春、喜びてみる校運いくたびか新たなるを。自今退隠してなにごとをかなさん、朝に泉流をくみ夕に薪を拾わん。

 

 この詩を作り友人に贈りたれば、友人の返書にまだ隠居するには早いではないか、それほどの年齢でもなく、老衰もせないようだがと申してきた。つまり余の退隠は世間普通の隠居と思うたらしい。余は哲学館を創立せしより二十年に達し、学校の基礎も一通りでき上がったから、今後は他の方面にて国家のために力を尽くしたいと思い、己は十歳の時より二十年間教育を受け、更に学校を建てて、二十年間人を教育したから、余が社会国家より教育によりて受けた恩義は、年月の上では返納したと申してよい。もとより余が学校を設立せしは、己の一身一家や子孫のためではない。全く公共のためである以上は、今後、何人が後継者となりて経営してもよいわけと思いいたりしに、たまたまその頃神経衰弱にかかれるを好機とし、己の所有せる財産を挙げて学校へ寄付し、これを財団法人に組織して退隠し、その後は日本全国各県各郡はもちろん、村村落落を巡遊して、教育勅語の御聖旨を普及開達せんことに取り掛かった。余の「朝に泉流をくみ夕に薪を拾わん」(         )というのは、悠々閑々として風月を楽しむの意にあらずして、自ら百姓的学者となりて、田舎行脚につき、更に大いに活動する意である。ここに隠居の話につきて、余の退隠の事情を知らざる人に一言しておく。

     二十 忠実自彊

 すべての実業の振興発展には勤倹の私徳と信義の公徳とを要する外に、その私徳も公徳も共に忠実と自彊との精神を欠きては成立するものでない。まず忠実につきて一言せんに、わが国民は君国に忠実なる点は世界第一といわるるけれど、職業に不忠実である。これに反して西洋人、なかんずく米国人のごときは、その国柄として忠君ということは全くないが、その代わりに職業に忠実なるものだ。この点はたしかに西洋に実業が盛んになりて、日本に振るわざるゆえんである。余はかつて格言を作りて、

金銭に忠なる者はシナ人なり。職業に忠なる者はアメリカ人なり。君国に忠なる者は日本人なり。

 

と述べたことがあるが、シナ人は真に金銭に忠実を尽くすものというてよい。彼らは生命よりも金銭を大切に思うている。その一例にはシンガポール辺より香港に来る汽船は、多くシナの労働者の帰国するものを乗せている。もし航海中に難船したる場合には、他国人は大抵救済することができるが、シナ人はほとんど一人も助けることができぬそうだ。なぜというに彼らはシンガボールにて二、三年も労働すれば、必ず数千金を貯えて持ち帰るに、その金を銀貨や金貨にしてみずから携帯している。いよいよ難船と聞くと、その貨幣を腰のまわりへしっかり結び付けて沈むから、救助船を出しても救うことができないそうだ。これは生命よりも金銭を大切にすると申さねばならぬ。そこで余は忠金、忠職、忠君をもって、シナ、アメリカ、日本の特色を表示し得らるると思う。

 シナ人の忠金は極端であるが、彼らが割合に職業に勉励するのは、この忠金のためである。これに反して日本人は忠金でもなく、忠職でもなく、忠君一点張りということになっている。しかしわが忠君の意を広めたならば、まさか忠金とはなるまいけれども、たしかに忠職を含みていることと思う。なんとなればわが国は他の国と国体を異にし、忠君すなわち愛国、愛国すなわち忠君となっている。故に忠君のためには国家の発展に尽瘁しなければならぬ。しかして国家を発展せしむるには、国民おのおのその職業に忠実を尽くさなければならぬ。もしわが国民が職業に忠実を欠くならば、君に不忠なるものと申してよい。よって今より後は国民一般に職業のなんたるを問わず、忠実をもって服業するようにしなければならぬ。

 わが国の道徳は忠孝為本というが、その実、忠道為本である。余はかつて拙著『勅語玄義』のうちにそのわけを説明しておいた。教育勅語の克忠、克孝は忠孝両道対立の御詔なれども、「以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スベシ」の一章に至りて、われら臣民が親に孝行するのは、忠道を尽くすためなることが明らかに分かる。すなわち孝は忠の小なるもの、忠は孝の大なるものとなる。このことはわが歴史上、国体のよって起こるゆえんより考えきたらば、たやすく了解することができる。しかしてその忠道は天の誠がわが心に発し、宇宙の大精神がわが小精神に発したるものにして、さきに水は方円の器にしたがうと述べしごとく、宇宙の精神が日本の国体の容物に入り、忠道の至誠となりて国民の心中より発現したものである。さればその忠道は、戦時にありては武勇となりて発揮し、平時にありては忠実となりて、すべての職業の上に発揮しなければならぬ。故に余は忠実服業は、すなわちわが国民の忠道なりと申すのである。

 つぎに自彊不息は公徳と私徳とを問わず、文と武とを論ぜず、すべての事業に共通せる要素である。これをいい換えれば忍耐となる。そもそも忍の字は心が刃をいただきたる形なれば、余は心が武装しているのでありとし、戦時には身に武装をつけ、平時には心に武装をつけなければならぬ。しかしてその平時の武装は忍耐の刀である。これを心に着け、百難を排して勇進活動すべきものと思う。故に余は左の格言を作ったことがある。

 忍耐の刀は艱難の路を排し、倹約の薬は貧苦の病を除く。

 

 また忠実と忍耐につきて作った格言もある。

立身の要道は忍耐に在り、成功の秘訣は忠実に在り、公徳は本これ富強の礎、忍耐はおのずから繁栄の柱となる。 

 

 またこの忍耐を俗に辛抱ともいうから、左の句をよみたることもある。

辛抱の棒で怠惰の鬼を打て

人生の荷物をかつぐ天秤は、ただ辛抱の一棒と知れ

 忍耐につきての自家格言は、その他にも数則あるから、活書の標目の代わりに左に掲げておこう。

忍耐の舟にさおさして立身の海を渡る、成功の馬にむちうちて成功の山に登る。忍に内外有り、内忍はもって心を制し、外忍はもって事を裁く。わが心は刀のごとし、その利なること百難を断つ。わが腕は鉄のごとく、その堅きこと万難に耐う。勉強と忍耐とはよく寸陰を変じて尺金となる、また赤土を練りて黄金と化す。百戦百勝は一の忍耐にしかず、万言万当は一の誠実にしかず。倹の薬は貧病を医し、忍の刀は惰魔を断つ。わかき時もし荒怠せば、老後の悔いかん。意馬ひとたびむちうちて去り、身をおどらし敵中に入る。刀を代えて忍耐をふるい、奮闘して成功をみる。向上の路いずれのところぞ。雲深くして関を見ず、おもむろに行きてつとめてやまず、認め得たり成功の山。

 

 

 

 

 以上は余が機に応じ時に臨みて、忍耐すなわち自彊不息を奨励したる語である。

 宇宙の精神が人心のうちに入りて一の誠となり、その至誠の一気が忠孝の形をとりて国民道徳となることは、前述の通りなるが、この一気が横に動きては忠実服業ともなり、上下一心ともなり、縦に発しては自彊不足となるわけである。故に戊申詔書八条中、初めの箇条と終わりの箇条とが最も肝要と思う。これによって忠孝が完成し、国体が確立するに至る。しかるに昔時はその忠道が戦時に限りて発現し、平時には潜伏せる状態なりしをもって、その結果が貧国強兵を実現せるに至った。故に今後は平時に発現するようにしたい。ここにおいて御詔書の八カ条の修養をなすを要し、なかんずく自彊不息の精神を養わなければならぬ。すべて実行は吾人の意力の発動により、吾人の意力は宇宙の大勢力より生じきたるものなれども、その意力の足に良心の眼が伴わざれば、妄動の恐れがある。ここにおいて良心の修養を要することになる。その良心はもとより宇宙の勢力あるべきも、その勢力に純なるものと、不純なるものとがありて、良心はすなわちその純なるものである。さきにいいし宇宙の精神、すなわち天の誠とはその純なる方をいい、人の誠とはその純なるものの人に伝われるものをいうたのである。かく解釈するときは、今日の分析的学者は、すぐに憶想とか独断とか評するに相違なかろうけれども、余の説は死書を読みて得た知識ではなく、東洋的の宇宙の大観より看破して得たるものである。かの孟子の浩然の気とか、正気の歌の天地正大の気とか、あるいは正気ありとかいうのも、みなこの大観より感得せる真理である。わが国の実業家も天地の活書を読み、宇宙の大観を放ち、これを自心に会得し、心底深きところより発する命令に聴き、性天高きところより漏れる光気に導かれて、国家社会のために活動ありたきものである。

     二十一 実業道徳訓

 実業道徳の大体はすでに一通り述べたが、その他にも余が実業家に対して訓戒を与えたる文字文章が多々ある。前にも断りしがごとく、余は天地社会の活書を読みて感得したる事柄は、大となく小となくこれを格言に作り韻文に賦して、世の風教に資せんと欲し、机上山を成すほどなれば、そのうち実業に関する部分を抜粋して左に掲げておく。これすなわち活書の枝折り、または手引草と心得てもらいたい。まず実業を発展するには厭世悲観の空気を一掃しなければならぬと思うて、「厭世の着物をぬぎて楽天を、装う時節と今はなりけり」ともよみ、「わが生は夢幻に非ず、事々ことごとくみな真」(           )とも、「人生無常なるもしかも常有り、多苦なるもしかも多楽。」(             )とも、「生に勝つもまた死に敗るるなり、だれか勝をにくみて敗を好む有らんや。」(                )とも、あるいはまた、

舟を進め久しきに耐えればすなわち逆風も順風となる。世を渡り久しきに耐えればすなわち逆境も順境となる。人生暗しといえども照らすに知をもってすれば明らかなり、世路は危しといえども守るに徳をもってすれば安し。禍にあえばすなわち禍にたえるを要す。禍の後には必ず福有り。苦を受くればすなわち苦にたえるを要す、苦の後には必ず楽あり。天人に課すに税をもってす、これを天税という。すなわち疾病災難これなり、人税なお避け難し、いわんや天税においてをや、月虧くれば満ちる時を期す、花落つれば開く時を待つ、世路に窮達あり、悲観するは竟にこれだれぞ、死生もとより命あり、富貴あに天によらんや、鋭意して人事を尽くし、たれか貧苦の淵に沈まん、人生夭寿の嘆き、天道ぜひの疑い、その語みな笑うに堪ゆ、古人なんぞはなはだ痴なる。青年今日いたずらに煩悶す、自説く人生願うところに非ず、もし忍の刀をとりて世間に立たば、必ずまさにことごとく前途のくるしみを断つべし。

 

 

 

 

 

等の語句詩文をつづり、更に大いに奮闘努力すべきを知らしめんと欲し、東照宮の遺訓を改作したことがある。

 人の一生は重荷を負うて、遠き路を行くがごとし、倦怠すべからず、百難の道に横たわるあらば、排除して進むべし、心に成功を期して奮闘せよ、たとえ失敗するも、落胆するなかれ、最後の勝利は堅忍不撓の人に帰すべし、憤怒は立身の基、小憤を捨てて大怒をとれ、災害はかえって刺激剤となる。国のため世のためには、己の力のあらん限りを尽くせ、たおるるまで活動するこそ吾人の本分なれ、善事にあたりては師に譲るな、過ぎたるは及ばざるに勝れり。

 東照宮の遺訓は、天下無事の徳川時代にありては最も適当とせる教訓なるも、そのみるところあまり消極に過ぎて、今日のごとき積極時代には不向きである。よって僭越ながら改作を試みた次第である。

 この奮闘活動の精神は、大正年間の青年には最も肝要なることと思い、別に青年訓を作りてみた。すなわち左のごとくである。

明治の偉業実に空前、大正の隆治もまたはて無し。東洋の友邦半ばすでにたおれ、わずかに見る独立の礎まさにくつがえらんとす、弱肉強食今なおさかん。列強相争う利と権とを、極東ひとりわが皇国有り、文興り武張り廟略のぶるも、ただうらむらくは財源漸く枯渇す。いかんぞ国体未だ健全ならず、今後願うらくは生産力を養い、自らつとめてやまず福田を開かんことを、借問すこの任だれの負うところぞ。知りぬこれ大正の新青年、日夜幸に文明のめぐみを浴び、その恩に報いんと欲すればすべからくこれに務むべし。

 

 

 

 青年のみならず、僧侶も大いに活動しなければならぬ。世間にては僧侶などは世事に関係するものでない。ただ葬祭の一事を守れば足るもののごとくに唱うる人あれども、これ旧仏教の誤解にして、仏教を死物視したるものである。しかるに余の活仏教にては、経文中の「一切世間皆是仏法」(華厳経)、また「経書記論伎芸文章皆是仏法」(涅槃経)また「俗間経書治世語言資生産業等皆順正法」(法華経)等の聖語に基づき、国運を発展するにも、実業を振興するにも、僧侶自ら率先して社会に活動せざるべからず。念仏を称しながら奮闘せよ、題目を唱えながら勇進せよとの主義をとるものなれば、更に僧侶訓を作りて、一喝を与えたこともある。

明治に警鐘動き、豁然として天地新たなり。星移ること四十五、更に迎う大正の春。人文天下にあまねく、皇沢四浜に潤す、百業面目を改め、庶政経綸を拡ぐ。文武欧米をしのぎ、技芸鬼神を驚かす。ひとり怪しむ仏門の裏、なおとどむ旧時の塵。本山頑陋を持し、末寺は因循を守る。僧正あるいは徳にもとり、比丘は違倫多し。白昼いたずらに高臥し、覚えず仏日にしずむを。潜鴬は遷喬を知り、屈蠖は伸びるを求めんと欲す。剃髪十万の徒、あにみなこれ木偶人ならんや、緇素の衣は異なるといえども、同じくこれ皇国民。なんぞ六度の訓忘れん、忍びて千苦をなめず、なんぞ煩悩の巷に迷い、進みて荊榛をひらかず、なんぞ無明の酒に酔い、恍惚として貪瞋にふけるや、願わくはつとに前非を悔い、自ら誓いて仏因を修めんことを。情を弘誓の船にたくし、心を涅槃のわたしにたつ。義を思うも利を思わず、法のためなるも身のためにせず。四海一家のごとし。天涯これ比隣、五大州なおひろし、すべからく大法輪を転ずべし。

 

 

 

 

 

 

 また実業を起こし、国家を盛んにするには、女子もまた大いに奮起活動しなければならぬ。すでにわが国にては明治の維新と共に、女権ようやく伸長し、面目全く一変せる有様なれば、女子たるもの皇恩国恩の深大なるに感激し、奮然として勉励せざるべからずと思い、女子訓も作ったことがある。

人間もと同種、男女あに権を異にせんや。権同じきも質自ら異なる、一は柔にして他はすなわち堅。男はすべからく鉄石のごとくなるべく、女はよろしく柳の綿のごとくなるべし。内を治むるに女の手を待ち、外に対するに男の肩を要す。夫は唱え婦はしたがう。だれかいわんその説かたよると。父は厳しく母はやさし、わが国古来の伝なり。良妻は賢母を兼ぬ。教育はこれさきとなす、かくのごとく男女は別なり、その生あに偶然ならんや。儒家必ず相説く、これを定めるは本は天に在りと。仏門もまた語有り、畢竟宿因縁。おのおのその特性に従う、よろしく天職をして全うせしむべし。男女同権の説、ここにおいて始めてまどかなるを得。今また人文進み、都鄙に学堂連なる。問わず男と女と、相携えて文淵に遊ぶ。朝に自由の気を吸い、夕に知識の泉をくむ。恵沢だれか浴びざらん、女子はそれこれに勉めよ。

 

 

 

 

 

 また農業家に対しては、数首の道歌をよみて与えておく。

官々となる金石の声よりも、民々と呼ぶ蝉ぞこいしき

むかしより月日に休みなかりけり、自彊不息と励め世の人

福運をわが家に招く心あらば、ウントコドッコイウント働け

貧乏は稼ぐ足には追いつかぬ、いそぎてあるけ福の宿まで

貧乏の鞭に打たれて稼ぎ出す、人は牛馬となんぞえらばん

雨に織り晴れに耕し休む間に、読みて心を養えや人

 この読むというのは死書に限らず、天地の活書をも含まれているのである。また二宮尊徳翁の天津日の名高き歌に擬して、作ったものがある。

金銀はおのが田畑の底にあり、鍬を使って掘り出して見よ。(あるいはまた「黄金は野山の底にみちみてり、腕を使って掘り出して見よ」とも、「労働はいやしきものと思うなよ、富貴の神の使いなりけり」(労働は神聖の意))

 また商工に対しても、正直と勤勉とを守るように注意を与えて、

正直の外に手段はなかりけり、いかに工夫をこらしてみても

身には日に三食をとり心には、ただ正食の一食を取れ

勉強の足を運べば成功の、峰に達する時やきたらん

塵土も積もりつもりて年ふれば、富士の山とて人に仰がる

商売は仏の業と心得て、自利と他利との行いを積め

信用の陰徳つめば何人も、陽報ありて御店繁盛

 あるいはまた「正直の門に福の神がすむ」とも、「正直の枝に黄金の花がさく」とも、「福を釣る竿は誠の節一つ」(       )、あるいはまた「窮鬼は勤倹の門をうかがわず。」(        )とも、「労せずしてくらうはこれ食を盗む者なり。」(          )とも、「職業は栗の実のごとく外は苦きも、内は甘し。」(           )とも、「国を護るには金と剣とを要し、家を富ますには勤と倹とを要す。」(                )とも、種々の訓言あれども、いちいち掲げ尽くすことはできぬ。

 わが国にては中等以上のものに非常に囲碁にふける人がある。囲碁は娯楽の一にして、娯楽中ではやや高尚のものに相違なけれど、身体強壮にして活動し得る人が、囲碁のために貴重の光陰を空費徒消するは、大いに警戒を加えなければならぬ。もし老朽して執務に耐えず、休養せる間は、閑日月を送るに囲碁もまた可なりといえども、多事多忙の身でありながら、用務を欠きてこれにふけり、はなはだしきは徹夜して勝負を争うなどは、言語道断である。かつて余は政府にて囲碁税を徴収すべしと論ぜしこともあった。たとえその税によりて得るところ少なきも、囲碁はぜいたくの遊戯であるから、なるべくもてあそばざるように注意を与うるだけにても、その益ありと思うた。余の句に「暇あらば碁を打つよりも昼寝せよ」とよみしものもある。また格言を作りて、

碁の音は沈々として、国を亡ぼすの響きあり、鍬の音は戛々として家を興すの響きあり、

とも述べたこともある。ひとり碁のみならず、遊戯も害なくして益あるものを選ぶようにしたい。

 わが国の国運を発展するには、農工商の実業が海外に向かって振興するようにしなければならぬ。これを振興する方法としては、上来述べたるごとく、実業家が公徳を守り、私徳を進め、忠実自彊の精神を養い、協同一致して国家のために活動尽瘁するにあるは明らかなるも、なおその外に政府の方よりも海外にて成功したるものを優待する道を設けなければならぬと思う。すべて水は低きにつき、煙は高きに向かうがごとく、人は優待せらるる位置に集まるは、人情の自然である。たとえ国家のために尽くすは国民の本分なりといっても、優待なき方面に集まるものでない。例えば武人が自ら進んで国家のために身命を惜しまぬというのも、これを優待する道が設けられているからである。よってもし将来の国民をして、実業上海外に発展せしめんと思わば、今より成功者に対する優待法の設定あらんことを望む次第である。

 むかしは国を治むるには文武二道によらねばならぬと申したが、今後はこれに実業の一道をも加えたいと思う。この実業を一言にてあらわす文字なきに苦しみ、仮に財と名付け、今より後は文武財三道をもって、国家の鼎足としたいものである。文は官吏、学者、教育家、宗教家等を含み、武は軍人、財は実業家とし、この三道を併行して国家の大荷物を運ばなければならぬ。もし富国強兵に配合したならば、強兵は武の任にして、富国は財の任と申してよい。しかして文はこの二道の間に立ちて、双方を一致連絡せしむる任になるであろう。余はかつて国家を盛んにするには、内にありては勤倹の二道を要し、外に対しては金剣の二者を要すと信じ、金剣大黒を描かしめたことがある。すなわち大黒が右手に剣を握り、左手に小判を載せたる図である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 大黒は大国に音相通じ、勤倹は金剣と相通ずるはおもしろいではないか。このいわゆる剣は武道にして、金は財道である。しかしてこの両手をよく運転活動せしむるものは文道である。しかるにわが国は昔時、士農工商の別ありて、士を貴び、農工商を卑しめきたりし遺風がいまなお存して、実業方面が発達せぬのである。故に今より後はこの三道を並行鼎立せしめて、富国の実を挙げなければならぬ。

 余はいつも人に向かって武人の忠魂碑のみならず、実業家の忠魂碑を立ててもらいたいとの注文を申している。世間にては忠魂は軍人に限るように思うは大なる誤りである。実業家が国家のためと思うて、海外に飛び出したるに、不幸にして病死したとすれば、これもまた忠魂と名付くべきわけである。故にかかる人へも忠魂碑を立つるがよろしい。どうしてもわが国では実業家の忠魂碑が至る所に立つようにならなければ、決して国運は発展せ

ずと信じている。

 これを要するに上来、実業観として述べたる主旨は、余が教外別伝の哲学すなわち活哲学により、外には活眼を開き活書を読み、内には良心の声に聞き、良知の光に導かれて、世界の実業舞台に活動せよというの一事に帰するのである。昔は「国を出るときゃ涙で出たが、いまは国の風もいや」と歌うたが、今より後は「国を出るときゃ勇んで出たが、今は果たして世界の大王」と歌うようになりたいものである。

 

   第七講 風 俗 観

     二十二 風俗の改良

 余の活哲学は向下門に重きを置き、哲学は人生を向上にする学という以上は、風俗改良をもって自ら任ずべきが当然である。しかしてその要は有害を除きて有益をとり、死的を廃して活的を興し、道徳的活動世界を実現して、宇宙の精神に包有せる真善美の光景を社会国家の上に開現するに外ならぬ。まずその改良すべき項目を列挙すれば、

  一、習慣の改良  二、動作の改良  三、習礼の改良  四、座談の改良  五、俗謡の改良

  六、娯楽の改良  七、遊技の改良  八、美術の改良  九、交際の改良  十、儀式の改良、

等である。第一に習慣の改良につきて一言せんに、人はある意味において習慣的動物と名付けてもよい。吾人の一挙一動、善にも悪にも、多くは幼時よりの習慣によって起こる。自作の格言にいわく、

汽笛夢を破るも、慣るればすなわち驚かず。電光目をくらますも、慣るればすなわち妨げず。習慣の力大いなるかな。渓辺に住む者は、潺湲の声もかえって睡眠を助く。舟中に住む者は、揺動の状もかえって食欲を進む。これまた習慣の力なり。

 

 

 右は習慣の一例を挙げたものだ。その他余が自ら実験せるところにつきて申さば、人は旅行するときには安眠ができぬというも、余は年中旅行ばかりしているから、かえって自宅にいるときよりも旅にいる方が安眠ができる。また人は飲酒は禁じやすく、喫煙は禁じ難しという。これ喫煙の方が習慣の力強き故である。しかるに余はその習慣を破りて、半日ずつ喫煙することにきめた。午前半日は全く喫煙せず、午後半日だけ喫煙することにきめたが、今ではそれが習慣となり、午前はすこしも喫煙したいと思わぬ。もし喫煙したい感じが起こったときに、時計を見れば必ず昼が過ぎている。人は演説するに時計を見ないと長短が分からぬと申すが、余は演説は一席五十分間と限っている。その習慣がついているから、時計を見ずとも時間が分かる。また演説中には湯も水も飲まぬことにきめているから、その間に少しも水を飲みたい感じを起こさぬ。これみな習慣である。

 かくのごとく吾人は習慣によって支配せられているから、平素この習慣を改良するように努めなければならぬ。自ら省みて悪習慣と思うたら、これを良習慣に変ずるように意を用い、良習慣と思うたら、なるべくその習慣を進むるように心を注がねばならぬ。これがすなわち精神の修養というものである。窃盗をなすものは初めより窃盗したいと望むにはあらざれども、一時のでき心よりこの位の小さきことならば、盗んでもよかろうと考えて、盗んだのがたびたび重なりて習慣となり、ついには己の本心がとがめぬのみならず、窃盗せなくてはいられぬようになる。また虚言を吐くものも、初めは正直であっても、折りに触れて一言二言の虚言が重なり、正直がかえって阿呆らしくなり、虚偽がかえっておもしろく感じ、だんだん増長して種々の詐欺を働き、人がうまくだまさるるときは、自ら大いに愉快を感ずるようになるものだ。故に習慣には大いに注意しなければならぬ。なかんずく酒色にふける習慣は大いに慎むべきである。遊惰、放蕩、堕落などは、みな悪習慣を養成せるより起こる。諺に「朱に交われば赤くなる」というがごとく、悪友悪社会に交わると自然に悪習慣を受けてくるから、古人は友を選んで交われとの教訓もあるのだ。余の唱うるところの活動も全く習慣より起こる。故に青年たるものはことさら習慣に注意してもらいたい。余は人に活動を勧むるくらいであるから、自身は寸時といえども徒然としていることがない。人は雑談をしたり議論したりして、時間を徒消するが、余にはそれができぬ。よって自ら「世の人の議論する間に仕事せよ」の主義を唱えている。しかして雑談は食事のときに限ることにしている。これも多年の習慣より慣成したのである。

 つぎに動作の改良につきて一言せんに、人の座作進退に見苦しいことと見苦しからざることとがある。これは習慣によりて起こるに限らぬ。あるいは注意のいかんによりて改良することのできるものだ。わが国の下等の児童にはなを垂らす癖がある。また都会の人には他人が道路へつまずきて倒るるものを見て、嘲笑して過ぐる風がある。また人の前で鼻くそをほじり、手あかを丸める癖を有するものがある。そのほかいちいち人の悪癖を挙ぐることはできぬが、この点につきては余のごときも知らず知らず粗暴の挙動をなすことが多い。故に相互に注意したいものと思う。しかしあまり挙動に注意し過ぎて、戦々兢々、薄氷を踏むがごとく、深淵に臨むがごとくなっては、かえって活動のできぬようになるから、程度を計ることが肝要である。

 つぎに習慣の改良はむろん、時勢に伴って必要なる条件である。諺に「所変われば品変わる」というが、場所のみでなく、「時代が変われば風儀も変わる」という諺も作ってもらいたい。また「郷に入っては郷に従え」という諺があるが、これと同じ意味にてイギリスにては「ローマに行かばローマの風に従え」という諺がある。されば「時代に入りて時代に従う」という諺もあるべきものと思う。すでに社会は常に活動してやまざるべきものである。その点は山に似ずして海に類している。あるいは人海と呼び、あるいは風潮、あるいは波瀾というはみな社会の活動している形容であるとすれば、時代に応じて万事の上に改変を行うべきは自然の勢いといわねばならぬ。ここにおいて礼儀も作法も挨拶も、郷に入りて郷に従うがごとく、時代に入りて時代に従うべきわけである。あるいは礼儀作法などはなるべく古風を存する方が国民の固有性、すなわち愛国心を維持するに必要なる点なきにあらざるも、時代の風潮に従って、ある度までは改新を行わざれば、社会の進歩、国運の発展を妨害するようになる。故に余は礼儀作法の改良の必要を唱えている。これみな哲学者の任務と思う。

 礼儀作法の改良につきてその標準とするところは、社会の活動、国家の発展に妨害になる点を改めて、これを助成するように仕向けるに外ならぬ。古来わが国は天下泰平、安閑無事が続き、社会が死水のごとく沈静したる時代であった。故に万事みなこれに伴って静止的にできている。したがって礼式作法のごときも極めて悠長不活発の風を存し、今日の奮闘的社会に適せざることが多い。今ここにいちいち実例を挙げて論ずる余地がないから、一、二点を掲ぐるだけにとどめておこう。まず人に相会するときの低首の挨拶のごときは、なるべく簡単にしてもらいたい。また座するには洋服はむろん、和服でもアグラ勝手次第にしなければならぬ。ついでにアグラの方言を記せんに、佐賀県にて「イタマクリ」といい、熊本県にて「イタグラミ」といい、また下等にては「ナワナフ」ともいう。江州の一地方では「イタビラ」といい、伊勢の山間部にては「ロク」という。また美濃尾張地方にて「ジャウラカク」または「ジャウラクム」ともいい、北越方面にては「アグシカク」というがごとく、方言種々あるも、アグラが通名である。また多くは御安座になさい、御楽になさいというところよりみれば、アグラの方が安楽の座り方で、自然的であることが分かる。日本人と西洋人とを比較するに、西洋人の方が一般に背が高い。その高いのは足が長いのである。これに反して日本人は足が短い。その足の短くなる原因は、わが国の従来の座法が足の発育を妨げしためならんと思わる。余は日本人に痔疾の多いのも、足を曲げて座するために、下部の血の循環を悪くする故ならんかと思う。また客を招きて席を定むるに、わが国では互いに遠慮して、着席に長い時間を要する。その風は田舎になるほどはなはだしい。これは西洋のごとく主人の命に従うようにしたい。その他習礼に関して改良すべき点多々あるべしと思うが、要するに従来の悠長に過ぎ、煩雑に走るのを、今日の活動社会に適するように改良を加うると同時に、あまり簡略に過ぎて、無礼に流れぬように注意しなければならない。

     二十三 座談と俗謡

 余は近年引き続き十年以上、地方村落の巡講に日を送り、そのついでに方言、俗謡、風俗等をも取り調べているが、今日は小学教育の普及によりて、地方特殊の方言がおいおい減じ、旅人の言語が互いに通ぜぬようなことはなくなった。むかしはこれにつきてずいぶん奇談がある。例えば越後の一地方にては舌を「ベロ」といい、下等の者には「シタ」といっても通ぜぬところがある。その地方へ他県より入りて開業せし医者が、一婦人の病気を診察して、「シタ」をお見せなさいといいたれば、その婦人が立って、尻をまくって見せたということを聞いている。またある人が鹿児島の客舎に宿して、手ぬぐいを買いたいと思い、下女に代金を与えたれば、タイを買ってきたという。その地方にてはタイを「テイノイオ」と呼ぶから、手ぬぐいとタイと誤ったのである。また秋田県にて頭痛のことを「ナヅケイタイ」という。あるとき、その県人が東京の牛肉屋に入り、頭痛がするから、女中に向かい、「今日はナヅケイタイ」といいたれば、菜漬を持ってきたという話もある。今日でも余が巡講中、方言につきてときどき奇怪に感ずる場合がある。例えば熊本県では人に会するとき、「オツケナリマシタロー」という。その意は御疲れなされたであろうとの慰労の語である。また岡山県では巡講の節、郡長や町村長の代理に訪問するものが、このごろ郡長あるいは町長は閉口していますから、代わりて御機嫌伺いに出ましたとの言葉をときどき聞くが、この語が他府県の人に通ぜぬ、岡山県にては病気のことを閉口という。風邪にかかりても閉口したという。また山形県、秋田県地方にては、人に対する敬語に「オマエ」という語を用う。他府県では下に向かうときに限るが、羽前羽後では同等または同等以上に用うることになっている。もっとも文字の上からは「オマエ」は御前と書く故、敬語に相違なけれども、他府県よりここに遊ぶものは不快に感ず。また秋田県では財産家の主人を指して、旦那といわずに親方というも奇怪である。伊勢にて商品をたずね、もし商店にその品のなきときには、「ツライコトデゴザリマス」という。東京の「オアイニクサマ」の意である。丹後にて子供などの死んだ場合に、他人が尋ねてきて、「アホゲナコトナサッタ」と申すそうだ。人を弔問するに「アホゲ」とは、その語がすでに「アホゲ」な言葉である。

 以上の方言談は余談に過ぎぬ。まれには方言の相違によりて、座談中人に不愉快を感じさせ、悪感情を抱かしむることあるも、格別ここに論ずるまでもない。ただ座談の改良として注意すべき点は、わが国の風に用事ありて人を訪問しながら、用事を言わず、初めに余談ばかりを長々と談じ、無駄に時間を費やし、相手の人に迷惑を掛けることが多い。もし用事ありての訪問ならば、最初に用事を話すがよい。しかして余談は追って閑散のときを期するようにしたい。今日は多事の世の中にして、一刻寸時を争いて活動すべき時代なるに、むかしの悠長を気取り、人の活動を妨ぐるような長談義は致さぬように注意しなければならぬ。また座談中に相手の感情を害し、あるいは隣客の妨害をなすことのなきようにしたい。西洋人は交際上の座談にもすこぶる巧妙を得ているが、日本人は最も不得意である。余のごときは不得意中の不得意である。よっておいおい交際術の一として修養したいものと思う。また日本人は無用の大声を発し、隣人隣客の妨害を顧みざる風がある。あるいは旅館、あるいは料理店などにはときどきあることで、余のごときは地方巡講中、隣室のそうぞうしきために、終夜眠りにつくことのできない場合にたびたび出合っている。アメリカにて日本人の嫌わるる一条はこの点であるということだ。これは公徳の欠けているということになるから、自今大いに注意しなければならぬ。

 またわが国の風として座談中にわいせつの語を用い、わいせつの談を交ゆることあるが、この悪風は最も緊急動議として改良を要する点である。かかる座談は聞く人をしてわいせつの情を起こさしめ、わいせつの行いを促さしめ、社会の風教上、その害の波及するところ大なるべければ、大いに警戒を加えざるを得ない。西洋人はむろん、シナ人などもあまり卑わいの語を用いざる風あるは敬服すべきである。またわが国にて紳士が下女下婢に向かって、卑わいの談をするを得意とする風あるが、実に紳士の品位を損なうこと大なるものなれば、紳士自身において反省するようにしなければならぬ。

 つぎに俗謡につきてはやはり同様の改良を要すと思う。俗謡中にはあるいは天真爛漫のものあり、あるいは時弊を風刺するものあり、あるいは雄壮快活を感ぜしむるものあり、あるいは意味深長なるものあり、あるいは趣味津々たるものあり、あるいは道徳の意を含めるものあれども、そのうちにすこぶる卑わいなるものありて、風教を害すること少なからざれば、これが改良を実行しなければならぬ。またいずれの俗謡もむかしの悠長時代にできたものなれば、人に奮闘の勇気を起こさしむるに不適当なるものが多い。ややもすれば悲観的に走り隠居風に流れんとする傾向もある。これも改良を要する点である。まず余が地方にて聞き込みて、おもしろく感じたる俗謡を紹介しておこう。

 隠岐の国に「ドッサリ」と名付くる俗謡がある。越後の追分のごとく、その島の俗謡の名称であるが、ドッサリの意味は何人に尋ねても、はっきり説明するものがない。その歌の文句には種々あるうち、最も普通に歌う文句は、

  大仙やまから隠岐の国見れば、島が四島に満願寺

 これは伯州の大仙山上より隠岐の国を見たときの実景をよみたるものにして、毒にもならず、薬にもならぬようなれども、その実景のありのままを写したところに妙味がある。隠岐の国は島前島後の二つに分かれている。これを大仙より望むときは四島になって見ゆるそうだ。そのうちにて一番高くそびえている峰は、島後の満願寺山である。よってそれを加えて結んだところがおもしろい。越後の追分は陰気であるが、隠岐の「ドッサリ」はすこぶる陽気なるのも一興である。また、伯州の宇野という村は全く漁村にして、漁業を本業としている。そこの帆立貝の漁が名高いものである。俗謡に、

  宇野の沖から貝がらが招く、かかよママたけ出にゃならん

とある。これは天真爛漫を現している。「ママ」とは方言にして飯のことである。また、佐渡の石臼歌に左の文句がある。

  粉するさえコガイ、殿の夏山ドガイだろう

「コガイ」は方言にてツライの意、「ドガイダロウ」はいかほどであろうとの意である。つまり夏の暑き日に、夫は山へ行って働き、妻は内にいて石臼を引き、粉をこしらえている。そのときの有様をよみたる歌で、家の内にいて石臼を引くさえも、このように暑くて苦しいが、夫が山へ行って働いているのは、どんなにつらいだろうと、妻の同情をいいあらわした歌なれば、道徳的俗謡としてみたならば、すこぶる興味深き歌である。

 江州の栗田郡巡講の際、その地方の俗謡を聞きたるに、

  早くこの田の草取りしまうて、扇使うて親もとへ

 これは天真爛漫をあらわした歌である。また、

  わしはこの田の草取りするが、この米食うやら食わんやら

  膳所の御城に積んだる米、あれは百姓の涙ごめ

 むかし江州は地頭の取り立てが非常に強く、田一反につき上納米三俵がきまりであったそうだ。その意味がこの歌の中にこもりている。また、

  わしの兄弟は七人ござる、京都大阪伏見と奈良と、伊勢の山田と松坂と

 余はこの歌を聞きて、今より後は五大州に日本人が行き渡り、左のごとく歌うようにしたいと思う。

わしの兄弟七人ござる、ドイツ、イギリス、ロシアのほかに、ハワイ、アメリカ、シナ、インド

 備前岡山の俗謡として世に名高きは、

  わたしゃ備前の岡山そだち、米のなる木はまだ知らぬ

の歌であるが、岡山は米産地にして市街はことごとく米田である。しかるに米のなる木を知らぬというのは、全く反対の意味で、米の名所の岡山にいながら、米の木を知らぬというて、幼少のときより牢屋の中で育てられたものの作った歌と聞いている。むかしの大名や士族は大抵このようなものである。今日の帝大卒業の学者も、ややこれに近きものなれば、余は「わたしゃ東京赤門そだち、米のなる木はまだしらぬ」とよんだ次第である。また、山形県米沢の俗謡に、

  吾妻山から納豆鉢ぶんまいた、米沢一面糸だらけ

というを聞いている。納豆は山形県の名物である。しかるに米沢はむかしから養蚕製糸が盛んなれば、その糸に引っ掛けた歌というもおもしろい。群馬県草津温泉にて浴客が入浴するときに湯をさまさんために、おのおの板をとりて、かきまわすときの歌がある。

  腰は柳につえをつき、ひしゃく手に持ち時間の湯、かよう御客のしがみ顔、それもむかしの、罪かいな

 この歌に因果応報の理を述べてあるはおもしろい。信州諏訪は日本第一の製糸場であるが、工女の糸引き歌を聞くに、

  米は南京おさいはアラメ、どうで糸目がでるものか

というがある。実際食物が悪いと、手に脂気がなくなり、したがって糸に光沢が出ぬそうだ。さればこの歌にも真理が含まれている。

 余が先年伊豆七島に渡りしとき、かの地の俗謡も調べてみた。大島は飲用水に乏しき所にて、大抵雨水を用いている。そこで俗謡に、

  わたしゃ大島雨水そだち、胸にボーフラ絶えはせぬ

とあるはおもしろい。また、

  わたしゃ大島荒浜そだち、色の黒いは親ゆずり

とあるは、一層おもしろい。八丈島にて子供の歌を聞くに、

  めでたいものは芋のたね、茎ながく、葉も広く、子供あまたに

というは、家繁盛を祝するおもしろい歌と思う。その他は略しておくが、以上列挙した俗歌は興味あって、しかも品格のよきものだが、そのほかには卑わいを極めていうに忍びざる歌が多い。余の改良の旨意はなるべく卑わいを除き、陰気を避け、道徳的にして、しかも進取的、活動的にするようにしなければならぬという意である。

     二十四 娯楽、遊興、美術

 世の風俗を改良して、社会を発展し、人生を向上せしめんとするには、必ず娯楽、遊芸、遊興等をも改良せざるべからざることになる。まず娯楽の改良としては、囲碁の有害なる一事を述べなければならぬ。しかしそのことは前講においてすでに一言しておいた。余はかつて囲碁廃止論を唱えたこともあり、また囲碁革新案を試みたこともあるが、なにぶん一人の力では実行をみることは難い。古来の娯楽遊興には運命に一任するもの、例えばむかしの道中双六のごときものと、修練を要するものとあり。その修練を要するもののうちに、身体の運動に関するものと、精神の思慮を要するものとある。玉つきのごときは身体の方に属し、碁のごときは精神の方に属す。そこで碁の長所にしてしかも短所なるは、娯楽としてはあまり精神を労し過ぎ、身体の運動を欠き、衛生上に適せざる点である。また碁は主客両人だけの娯楽にとどまり、多くの人と共に楽しむことができぬ。この点は従来の歌カルタが、はるかに勝っている。まずカルタは社交的にして、男女共に相交わるを得、思想を労すること少なくして、多少身体の運動も加わりている。

 また近来は西洋の娯楽がわが国に入りきたり、野球のごとき大いに身体の運動を進むるものあれども、あまり運動に過ぐるのもまたよろしくない。すなわち過ぎたるはなお及ばざるがごとしである。すべて西洋の方は活動的にして、わが国の方は沈静的なるの別あるが、その活動にもおのずから程度がある。あまり身体の活動に過ぎて、疲労を重ね、苦痛を感ずるようになっては娯楽の本旨にももとることになる。要するに西洋と日本とを折衷したならば、適当のものを得らるるであろうも、その折衷がなかなか容易でない。しかし奮闘活動主義より概していえば、たとえ日本の事情に適せざるところあるも、遊戯娯楽は西洋の方が進んでいると申さねばならぬ。

 医者中には絶対的に飲酒有害を説く人と、また飲酒は程度によって有効を唱うる人とがある。余はその程度説を賛成する方で、先年鹿児島県の某地に一泊せしとき、村内の有志の一人が、酒の害を戒めたる文字を額面にしたためんことを求められたるにつき、「酒是魔」と書して与えた。後に他の一人きたりて、われは酒造を業とするものなれば、酒の有効の意味を記さんことを請われたるに応じ、「酒是薬」と書いて与えた。そのときそばにおるものが、前の文句と後の文句とは全く矛盾せるにあらずやと尋ねたれば、余これに答えて、決して矛盾しておらぬ。そのわけをしたためて差し上げようと申し、「酒その度を過ぐればすなわち百毒の長となり、その度に適すればすなわち百薬の長となる。」、(                        )と書して与えたことがある。これと同じく娯楽遊興の利害なども、程度によることは明らかである。またこの程度の外に、人によって利害の異なることも心得おかねばならぬ。酒を飲みて適する人と適せざる人がある。すなわち適する人がこれを用うれば利ありて、適せぬ人がこれを用うれば害があるに相違ない。これと同じく娯楽のそのものに利害があるというよりも、その人の生来の嗜好に応じて選択する方がよい。大弓を好むものは、だれもかれも娯楽は大弓に限るというて勧め、謡曲をたしなむものは、娯楽は謡曲に超えたるものなしという風がある。これは仏のいわゆる応病与薬の法を知らざるものである。またたとえ己の嗜好に適するものにても、その度を過ごさざるように心を用うることが最も肝要である。

 余はなにごとにも特殊の嗜好を有せず、したがって世のいわゆる娯楽遊興の種類に格別の趣味を有しておらぬ。一体申さば無芸の方である。諺に「無芸大食」というが、余は大食坊にもあらず、一日の食量一合以内、いつも飯は一椀を限りとするものなれば、無芸少食坊である。ただ余の娯楽散鬱は、戸外または野外の散歩にきめている。天気の晴朗にして、かつ平穏なる日において、緩々徐々として歩行する間に、右顧左視して事々物々を観察するときは、身体の衛生健康にも適し、また自然に活書を読むの便を得らるるから、一挙両得の益がある。これはすなわち教外別伝的の娯楽である、活哲学的の遊興であると自ら信じている。これに加うるに、この方法はだれにもたやすくでき得る事柄にして、しかもなんらの計費を要せざる遊戯である。一室にこもりて碁将棋を弄するに比すれば、その勝ること万々と申してよい。あるいはドライブなどといって、馬車や自動車で野外を奔馳するは不経済にしてしかもその益少なし。また遊戯中には修練を要するものありて、したがって適するもの、適せざるものの別を生ずるも、この方法にはその別なし。よって人もし運動遊戯の娯楽法を尋ねらるれば、この教外別伝の緩歩法を授けたいと思う。

 その他娯楽遊興として茶の湯、生け花などもあるも、あまり静止的にして活動の趣味なければ、余の賛成せざるところである。しかし酒を飲み、芸者を揚げて騒ぎ立つるに比すれば、趣味すこぶる高尚にして、優美なるものなれば、大いに賛成してよい。芝居に至りては勧善懲悪というも、ときによりては悪事を教うる場合なきにあらざれば、その種類と仕組みとを選ばねばなるまい。またわが国の芝居が朝から晩までかかり、終日にわたるは、多事多忙の今日の事情に適せぬから、西洋のように、夜分だけにし、三時間ぐらいに限ってもらいたい。相撲は日本の特色にして、国技と呼ばれており、また日本の遊興中では、最も快活のものなれば、活動の精神を養うに適すれども、これも終日を費やすことは改良したいものである。その実、余はいずれにも嗜好は持っておらぬ。

 美術に至りては人生に必要なることはいうまでもなく、人の苦を散じ、悶を解き、情を和らげ、趣味を高むる等、多々利益ありて、世道人心を裨益すること少なからざれども、従来わが国の美術は概して沈静的にして、人の精神を眠らしむる風がある。この点は西洋の快活の風を加味しなければならぬ。音楽でも琴のごときは、聴くものをして眠りを催さしむ。琴も茶の湯も老い去りたる隠居に適するも、青年の活動者に適さぬ。さりとて三味線はあまり騒がしくして俗である。あたかも浄土の念仏は沈みすぎてよろしからず、日蓮の題目は浮かびすぎてよろしからざるに同じ。これらもその二者の中庸を得るように改良したいものである。かくいうも美術遊興などは沈静的の方がかえって適することもある。例えば平日社会の戦場にありて、活動奮闘するものが、一週一回の休日には、心を閑地に遊ばしむるの必要はある。これかえって活動の潜勢力を養うゆえんかと思う。宗教にも世間教と世外教とがありて、世間教よりも世外教の方がかえって宗教の目的を達するに適することがある。例えば毎日俗事にばかりあくせくしている者が、まれには浮世を離れたる話を聞き、心を別天地に遊ばしむるは、たしかに効能がある。市街のにぎやかなる場所にある寺よりも、人家を離れ、山間にある寺が精神の修養に適することもある。しかしこれも程度の問題にして、その度を過ごせば、人心の活気を殺すようになる。あたかも麻酔薬は効力あるも、度を過ごせば大害があると同様だ。またたとえ沈静的をよしとするも、そのうちに多少活動的元素を含ましむることが肝要と思う。

     二十五 交際と儀式

 わが国民が交際術に拙なることは前すでに一言せしが、この点はまさか交際術学校を立てて教育することはできぬ。なるべく家庭時代より注意を与えなければならぬ。しかして余のここに交際の改良を唱うるは、わが国にては交際上に無益の経費と、無益の時間と、無益の手数を用うることの多き一事である。例えば人を訪問するたびごとに贈り物を要し、これに対してまた答礼を要し、また人の来訪あるごとに茶菓を出だし、食時にあらざるに食物を出だすの習慣は、むかしに適して今日に適せず。人の死したるときには香典を持参するなどは、一種の生命保険にして、平素他家の葬式に香典を贈るのは、保険金を会社へ預け込むようなものだ。しかして自家に死亡者のある場合に、一時に他家から香典が集まってくるのは、保険金を受け取るようなものだ。かかる香典の贈答は古代に必要あるも、今日は確実なる保険会社がある以上は、もはやその必要はない。平素の贈答なども、むかしは来賓がありても急に饗応もできぬから、持参せられたものを差し上ぐるという必要もあり、またむかしは親類朋友を訪問するに、二里三里も徒歩して行くから、そのたびに食物を差し出す必要もあった。しかし今日はこれらの必要が全くなくなった。されば贈答や食物は廃するが当然である。

 近年、贈答廃止会なども起こったことがあるが、あたかも茶代廃止会と同様にその効を奏さぬ。これは社会の風俗習慣には積年の惰力が存するからである。これに加うるに、わが国の社会は合理的にあらずして情実的であり、正当の要求以外に人の歓心を得ようというふうがある。旅店の茶代のごときもその一例でありて、贈答廃止などは容易に行われまい。しかれども今より徐々と改良する方針を取らなければならぬ。

 交際の改良につきて特に必要を感ずるは、時間を正確にする一事である。いかなる人も時間は正確にしたいといいつつ、なかなか行われぬ。静岡にては静岡時間といい、名古屋にては名古屋時間といい、京都は京都時間、大阪は大阪時間といい、これを合すれば日本時間というが、その時間は約束せし時間より一時間も二時間もおくるることを意味している。 これに反して時間の正確なる方を西洋時間という。 時間に日本と西洋との別あるは、奇怪千万である。とにかく社会に活動する上において、時間の不正確は大妨害となることなれば、第一に改良しなければならぬ。また交際上において人を訪問する時間を一定する必要がある。人の寝ているときや、食事しているときや、仕事しているときなどの訪問は、実に尋ねられた方で迷惑を感ずるものである。故に一般に訪問時間を定めて、至急を要する外は、その時間に限りて自宅訪問をするように改良しなければならぬ。わが国にては不在をいつわる場合が多い。取り次ぎの者に、今日は来客に対して主人不在といって断れと命じているなどは、訪問時間の不規律なるより起こることである。また普通の訪問はおよそ話の時間を限るようにしたい。さしたる用もないのに、一時間も二時間も長談義されては、その日の仕事をする邪魔になる。その他、交際上改良したい事柄がたくさんあるけれども、ここに略しておく。

 人生の儀式として最も大切なるものは、冠婚葬祭の四大礼である。この四大礼も時と共に変じ、世と共に進まなければならぬ。ことにわが国のごとき数千年間鎖国的であり、退守的でありし国柄が、一変して開港となり、通商となり、万事、進取的活動的方針をとることになりたる以上は、すべての儀式もこの方針と相伴うように改良しなければならぬ。例えば神社の祭礼のごときは、尊厳神粛を保ちて挙行すべきはずなるに、豪飲暴食、夜を徹し、一日の祭礼が二日も三日も、五里霧中にあらずして、酔裏夢中にて経過する有様のごときは、野蛮の祭典というべきものである。神社すらかくのごとしとすれば、他は推して知ることができる。必ず大革新を実行しなければならぬ。

 社会の大礼は古来、冠婚葬祭というも、今日にては冠礼はなくなり、その代わりに出産のときの祝いをするから、産婚婚葬と称する方が適切である。この点が西洋と日本と相違し、西洋は産婚葬祭の四大礼を伝えている。これは日本と西洋との国風の異なれるより起こる。西洋は人の生を重んじ、死を軽んずる風なるが、日本は死を重んじ、死後の葬祭を丁重にすることになっている。つまり、その風はわが祖先崇拝の国風より起こるのである。これに反して西洋は個人主義にして、祖先を追崇する遺風なければ、人は生時一代を重んずべきものとし、互いに誕辰を祝し、更に最も丁重にするものは婚礼となっている。葬式のごときは極めて簡略にして、婚礼の比ではない。しかして祭事に至りては全くなしといってよい。民間にて父母が死すれば、ざっと葬式をするのみにて、年忌法事はもちろん位牌も全くなき有様である。年中の大祭日はヤソの誕生日と昇天日であるが、誕生日の方がにぎやかにして、昇天日の方はさほどでないのをみても、生を重んじ死を軽んずる国風が分かる。つぎに西洋では冠礼は存している。すなわち男女共に十四、五歳になれば、寺院において宗教上の儀式を行い、その後は子供の服を脱して成人の服になる。余が西洋の家庭にありて聞くところによれば、家族中食堂にて食事するに、朝と昼は子供も卓を同じうし、晩食は子供だけは一時間早く食事し、父母両親と卓を同じうすることができぬきまりである。しかるに冠礼がすんだ後は、一人前になった資格で、晩食も父母と同席ができることになる。右の通りにて西洋は産冠婚葬をもって四大礼と定めてある。しかるにわが国にては冠の代わりに祭が加わり、産婚葬祭の四大礼を伝えている。

 わが国としては祖先を重んずる国風にして、しかもこれは東洋の美風であるから、祭事を大切にせざるを得ぬも、なるべくこれを神粛に行うようにしたいものである。家庭においてもわが国は西洋に異なりて、各戸の内に神棚仏壇を置き、そのうちに祖先の位牌を安置するもまた美風である。かかる遺風はなるべく保存しておきたい。しかしこれと同時に、生時に重きを置くこともまた必要である。まず今より後は従来よりも一層産礼を重んじ、婚礼を厳にするようにしたい。なかんずく改良を要するは婚礼である。わが国にては上下を通じて婚礼を重んずる風あるも、一般に儀式そのものに重きを置かずして、飲食に重きを置くは、実に悪習である。もし婚礼より飲食を除き去らば、ゼロ同様となる。三々九度の杯が婚礼の重要なる礼なれども、これを秘密に行い、客人はその席に列するを得ず、ただ酒席に列して、二の膳、三の膳とか、なんの膳とかいい、酒は海のごとく肴は山のごときのうちで、三ツ組はおろか、五ツ組、七ツ組、ある地方にては十二組の杯を回すということである。その台杯のごときは、一升以上を入るるに足るそうだが、これをいちいち乾杯せなければならぬ。かくして夜を徹し、二日も三日も酔い倒れするをもって、結婚の大礼とするに至っては、その野暮なるに驚かざるを得ない。そこで結婚には身分不相応の大金を費やし、そのために負債を起こし、数年間債鬼に苦しめらるるのみならず、御客に招かれたるものも、分相応の祝儀を行い、その上に牛飲馬食のために数日間活動ができぬようになり、経済上、衛生上、風教上、害ありて益なしといわねばならぬ。これに反して、西洋は儀式を重んじ、飲食を軽んじ、教会堂に親戚友人を招き集め、整々粛々のうちで、堂々と式を行うことになっている。これこそ文明の結婚式というべきものである。余はこれにつきて改良案があるから、別に述ぶることにしよう。

     二十六 婚礼の改良案

 わが国の社会の大礼中、葬式にも改良したき点なきにあらざれども、最も緊急問題として改良を要するものは婚礼である。余が数十年来懐抱せる結婚改良案をここに掲げて他を略することにする。その一案たる仏式結婚案は、昨夏哲学堂の講習会に発表し、その講録は『中外日報』によりて世間に紹介せられている。今その大要を申さば、従来わが国では仏は死人相手、寺は縁起の悪いものと思い、東京などでは死人のことを仏と名付けておくほどである。正月三日間は縁起を祝う日であるが、街上にて僧侶にあうを不吉とし、宅に帰りて塩をまき、おはらいをすることまで起こる。しかし仏や僧侶がそのように縁起の悪いはずはない。ただ従前、寺で葬式をする習慣より起こったに過ぎぬ。ここにおいて寺を縁起のよいものにするには、結婚式を行うが第一である。仏は決して死人の看護者ではない、仏教は決して死後に限る教えではない。しからば何故に葬式ばかりを仏前にて行い、婚礼を挙げぬかというに、従来の神仏分業の風習より起こったに過ぎぬ。すなわち神は吉事をつかさどり、仏は凶事をつかさどるということにして、寺院は葬式専門家と見なさるるに至ったのである。もしこの遺風を改良して、婚礼を寺院にて行うようにならば、寺院が縁起のよいものになるのみならず、保存維持につきても、多大の便益を得ることは余の喋々を待たぬ。

 寺院にて結婚式を行うには、前もって親戚知人へ通知を発し、何月何日、何々寺において結婚式挙行するにつき、何時(午後一時がよろしからん)までに、該寺へ御臨席を請うことを知らしめ、当日は本堂を式場とし、本堂の一隅および庫裏を来賓の休憩所に当て、庫裏の一室を新婦およびその家族の控え室に定め、他の一室は新郎の控え席に定めおくこととし、住職が導師の名義にて儀式の執行長となり、媒酌人が助成者となるものとし、左にその式場の順席を列挙しておく。式場着席の報は鐘をもって通ずるようにし、およそ来賓の集まれる模様を見、(午後一時の案内ならば、正一時半より式を始むるようにしたい)鐘を打つをもって式を開始する。

一、鐘報。(第一鐘にて来賓着席、第二鐘にて親戚着席、第三鐘にて将婚者着席すること、将婚者は媒酌人これを啓道すること、第四鐘にて導師仏前に着席すること。)

二、仏壇開扉、一同合掌礼拝。(仏壇は前もって扉を覆いおくこと、もし扉なきときは、幕を垂れおき、このときに導師によりてこれを開き、一同をして敬礼をなさしむること、仏式なれば合掌礼拝を用う。)

三、読経。(仏教中夫婦の道を説かれたる経文は六方礼経であるから、これを読誦してはいかんと思う。ただし宗派によりてその宗伝来の経文を用いてもよろしからん。)

四、導師対仏前報告。(読経を終わりて後、導師は仏前に向かい、某氏と某嬢と本日この席において結婚の式を挙げ、誠心正意をもって夫婦相和し相たすけ、家を興し国を盛んにし、もって忠孝二道を全うし、もって皇恩に報謝し奉らんことを両人に代わりて誓う。願わくは永く仏の大悲をもって加護せられんことをの旨趣を文章につづりて朗読すること。)

五、導師対婚者訓辞。(導師は右の朗読を終わり、顧みて新郎新婦の婚者に対し、ただいま仏前にて誓い奉りし旨趣を終身実践すべきことを訓示すること。)

六、婚者もしくは媒酌者が婚者に代わりて答辞。(その答辞は簡単に謹みて守りますの一言にてよろし。)

七、婚者相互念珠交換。(ヤソ教にては神前に指輪を贈る式を行うも、仏教にては仏に誓い夫婦の契りを結ぶために、念珠を交換するようにしたい。前もって新郎新婦各念珠を購入して、当日式場に持参し両人よりひとたびこれを導師に渡し、導師はあらかじめ備えたる三個の盆の上にこれを載せて、仏前の机の上に置き、そのとき導師自ら焼香礼拝してその盆をとり、新郎より受け取りたる念珠を新婦に渡し、新婦より受け取りたる念珠を新郎に渡すこと。)

八、婚者その念珠を用いて互いに焼香礼拝。(導師より念珠を受け取りたるときに、まず新郎仏前に進みて焼香礼拝し、つぎに新婦仏前に進みて焼香礼拝すること。)

九、親戚その念珠を用いて互いに焼香礼拝。(新郎の親戚は新郎より念珠を受け取り、順次相伝えて焼香礼拝し、終わりてその念珠を新郎へ返すこと。つぎに新婦の親戚は新婦より念珠を受け取り、順次相伝えて焼香礼拝し、終わりて新婦へ返すこと。)

十、一同合掌礼拝の内に閉扉。

十一、閉扉の後、媒酌人の挨拶、つぎに主人の挨拶、つぎに来賓の祝詞。

十二、来賓祝詞終わりたるときに、式場の閉会を報じ、かつ別席にて酒肴を呈することを告ぐること。(このとき、まず導師が新郎新婦を率いて退席、続いて親戚、つぎに来賓退席すること。)

 祝宴は晴天にて気候温暖のときならば、庭前にて開く方がよい。ごちそうは折り詰めにて配付するように致したい。しからざれば堂内に設け、やはり折り詰めを用うるようにすれば、実に軽便にてすむことになる。その席へは媒酌人の案内にて新郎新婦挨拶に一巡すること。宴会の時間もおよそ限りをつけること等もまた必要である。もし式場を午後一時半に開くとすれば、正式は二時半か三時までに終わるはずである。これより宴会に取り掛かれば、五時に開散ができるから、およそ五時ごろになったならば、主賓の人より万歳を唱えてもらい、一同これを唱和するをもって開散の合図とし、随意に散ずることにしたい。しかるときは、いかに短日でも提灯も明かりもいらぬから非常に便利である。

 この方法によれば儀式そのものに重きを置くこととなり、泥酔濫酔の恐れなく、神粛丁重に結婚式を挙ぐることができ、時弊を矯正するにおいて大いに効果あらんと思う。これと同時に縁起のわるい寺院が、にわかに縁起のよいものに変わり、仏教は死後の教えにあらずして、生前の教えとなるを得、たちまち面目を一新することができる。また寺院の修繕、住職の生計にも大なる利益を受けることができる。故に仏教家はもっぱらこれを奨励してもらいたい。左に参考までに式場着席の略図を掲げておく。

 

 

 

 

 ■■■図入り

 

 

 

 

 

 

 

 

 つぎに余の教育上にて挙行する結婚案がある。これも数十年前より工夫しているところなるが、このごろ教育式結婚案と題して、『婦女界』雑誌の新年号に載せた。その大要をここに掲げておこう。仏式結婚は仏教信者に実行せしむることを得るも、門外漢には行われぬ。しかるに教育式の方は一般国民に実行させることができる。その順序を項目に列して説明しよう。

一、結婚の式場は男の方の教育を受けたる小学校に定むること、もし他に寄留せる場合には寄留地の学校と定むること。

二、結婚式を挙げんとする家にては、前もって今般某男と某女との縁談相整い候につき何月何日、某小学校において午後正一時より結婚式挙行候間、同所へ御光来下されたきよしの案内状を親類、朋友、近隣および関係者へ発送すること。(式場が小学校なれば、必ず日曜日または休日、もし万やむをえざる場合には、土曜日をあてはむること。)

三、学校の方にては、校内に式場、控席、祝宴場を設けおくこと。(控席には来賓控所、新郎一族の控所と、新婦一族の控所とを別置すること。)

四、当日は校長が式長となり、教員中一、二名を式場係とすること。(式場係は校長の指名に定むること。)

五、結婚式挙行の日には、来賓必ず正一時に式場に来会すること。来賓着校して二十分前後は控席にて休憩すること。

六、式場は正一時半に開き、鐘をもってその時刻を報ずること。

七、式場の正面には御真影を安置し奉り、その前に幕を垂れおくこと。

八、第一鐘において来賓一同着席し、第二鐘において新郎新婦両家の親類着席し、第三鐘において新郎新婦両人着席すること。

九、式場着席の位置は左図のごとくに定めおくこと。

 

 

 

 

■■■図入り

 

 

 

 

十、式場の席定まるや、式場係より、これより式を行うことを告げ、一同をして起立せしむること。

十一、このとき御真影前の幕を開除すること、これと共に一同最敬礼を行うこと。

十二、このとき音楽をもって国歌を奏すること。(その間一同黙誦)

十三、奏楽終わるや否や、式長たる校長まず進んで式壇に上り、教育勅語を捧読すること。

十四、捧読終わりて式長すなわち校長はあらかじめ作りおきたる結婚誓詞を朗読すること、しかしてその文の大意は左の意味に基づきて起草すること。

 このたび某と某と結婚の約成り、この神聖なる式場において、その式を挙げらるるについては、両人に望むに願わくは謹みて御勅語の御聖旨を服膺し、永く「夫婦相和シ」の御聖訓を遵守し、「進ンデ公益ヲ広メ、世務ヲ開キ、常ニ国憲ヲ重ンジ、国法ニ従イ一旦緩急アレバ、義勇公ニ奉ジ、以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スルコト」をあくまで実践躬行し、上陛下に対し奉りては、忠良の臣民となり、下父祖に対しては、孝順の子道を全うし、内に家道を振興し、外に国運を発展せんことを誓われんことを云々。

十五、式長の朗読終わるや、媒酌人は新郎新婦に代わりて左の意味の文を朗読すること。

 われら両人は一度夫婦の契りを結びたる上は、終生互いに相和し相助け、謹みて御勅語の聖旨を奉体し、常に協心戮力して皇恩と国恩の万一に報答せんことを誓い奉る云々。

十六、この朗読に引き続き、新郎新婦は式壇の前に進み、三々九度の杯を交ゆること。(そのとき式長これを指導し、媒酌人これを助成すること。)

十七、つぎに両家の親戚総代として、おのおの一名壇前に進み、新郎新婦の両側に立ち、おのおの杯を交ゆること。

十八、右終わりて一同最敬礼を行い、御真影の幕を閉鎖すること。(除幕のときより閉幕のときまでは一同起立を続くること。)

十九、幕の閉づるを待ちて一同復席すること。

二十、つぎに新郎の父兄、もしくは媒酌人父兄に代わり、来賓に向かって挨拶の辞を述ぶること。

二十一、来賓中の総代一名、もしくは数名祝詞を朗読し、または演述すること。

二十二、つぎに媒酌人(もしくは式場係)立ちて来賓の祝詞を謝し、あわせて式の終わるを告ぐると共に、別席において酒肴を献呈するを報ずること。

二十三、つぎに一同起立し、校長の発声にて万歳を唱うること。

二十四、これより奏楽中、式長が新郎新婦を伴いてまず退席し、続きて一同退席すること。

二十五、つぎに来賓は祝宴席に入りて着席すること。(そのときには折り詰めと徳利とを各位へ配付すること。)

二十六、祝宴始まりたるときに、新郎新婦は媒酌人に導かれて祝宴席に入り、来賓者の間を一巡して、一同に挨拶の礼を行うこと。

二十七、式場係は時間と祝宴の進行とを見はからい、万歳を唱えんことを促すこと。

二十八、この万歳の声と共に一同解散すること。

 この方法によれば五時までに結了し、半日にて相済むことになるから、経済上非常の利益がある。かくして節約したる費用のいくぶんは、学校の基本金のうちへ寄付するようにし、また来賓より祝儀として贈らるるものは、あらかじめこれを断り、品物の代わりにすべて金円を受納することにし、これを合計して学校必需の書籍、器械、器具のごときものを購入し、これを某氏結婚記念品として学校へ献納するように致したい。その他にもなお実行したきは、その当日祝宴のときに新郎新婦および来賓一同の写真をとりて学校に掛けしむるようにし、また学校にはあらかじめ結婚記念帳を備え置き、新郎新婦が式場を退席したるときに校長室に至り、これを姓名を自署するようにしたいと思う。

 以上の結婚改良案は、風俗改良の第一着手として実行したい所望である。もとよりその箇条は人々の考えにより、地方の事情により、多少取捨改変を要することあるべきも、まず余は原案を提出したるものと承知ありたし。世間の学者はかかることを論ずるは、俗人のすることにして、学者の関すべきことにあらずとし、超然主義をとりておるが、これは全く向上門あるを知りて、向下門あるを知らざる偏学者にして、余はこれを貴族的学者と名付けておく。もし余の百姓的学者の位置よりみれば、これがすなわち哲学の応用というもので、学者なかんずく哲学者の本務にして、かつ天職なりと深く信じて疑わぬところである。

 その他余が数十年前より盆、正月、五節句の改正を唱えておれども、未だ実行せられておらぬ。そのうち正月案だけを申さば、わが国が大陰暦を廃し、太陽暦を用いて以来、五十年の久しきに及ぶも、民間ではいまもって旧暦正月を用うる所が多い。全国のおよそ三分の二は旧暦と申してよい。何故旧暦正月を固守するかというに、これはただ旧習の脱し難いというばかりでなく、民間の事情が許さぬ点がある。そこで余は、暦は太陽暦を用い、ただ正月の元日の祝いは二月十一日すなわち紀元節に行うようにせよという案を提出した。西洋にて一月一日は平日同様であって、年中の大祝日は十二月二十五日すなわちヤソ降誕日と定めてあるが、わが国風として年中の大祝日は紀元節とするはずなれば、この日を正月元日のごとく、大いに祝するようにしたい。かかることは哲学者の研究すべき問題と思えども、なにぶん貴族的学者ばかりのわが国なれば、余輩の説などは冷笑のうちに葬られ、一人の賛否を唱うるものなく、そのまま立ち消えとなってしまう。余は決して世間の学者をして自説に賛同せしめようの意ではない。ただかかる風俗、習慣、儀式に関することは、これを矯正し、これを改良する方案を立つるをもって哲学者の任務たるを自覚してもらいたい。決して死書を読み死学を修めるばかりが学者の仕事ではないというのが、余の活哲学主義である。

 

   第八講 迷 信 観

     二十七 迷信の実例

 余は三十余年前よりわが国の妖怪迷信につきて研究しているが、世間および世間の学者は物好きか道楽と思い、学者らしくないように考える人が多い。しかし余の本意はわが国民をして文明の光輝を仰ぎ、恵沢に浴せしめんとする考えである。そもそも迷信と文明とは全く反対せる性質を有し、迷信が盛んになれば、文明は進むことができぬ。余の自家格言に、

 文明と迷信とは両立し難し、また、迷信路をさえぎればすなわち文明は進むことを得ず。

 

と述べておくのは、この意を示したものである。たとえ世間の学者が狂と呼ぼうが、馬鹿と呼ぼうが、かまうに及ばず、ただ自信を実行して、哲学の教外別伝の活学を実現し、国家社会に対する吾人の天職を全うする微衷に外ならぬ。

 わが国の迷信いかんを観察するに、かくまで教育が行きわたり、文明が開け、知識が進んだというものの、もし民間の迷信を一瞥しきたらば、実に驚くべく嘆すべく、悲しむべきである。すべて東洋は迷信多く、インドでもシナでもほとんど迷信のうちにうずまれるほどなるも、インド人は亡国の国民であり、シナ人は未だ文明の恩沢に浴せざる国民なれば、迷信の多いも当然であるが、わが日本は東洋第一の文明国にして、西洋に対しても一歩も譲らざるほどなるに、その迷信に至っては決してシナ、インドを笑うことはできぬ。あるいはかえってシナ人、インド人より笑わるるような有様である。今、左に余が目撃したる地方の迷信を列挙するに左のごとしである。

(一)明治二十三、四年ごろ東京にインフルエンザの流行したことがあった。その当時になにものが言い始めたか、これにオソメ風の名が付いていた。そのときに東京市街を見るに、家の入口に「久松はおらぬ」と張り札をさげてあった。これは滑稽的迷信と申してよい。

(二)その後、東京にはしかが流行したことがあった。そのときは鎮西八郎為朝宿と張り出せる家を数カ所で見たことがある。為朝とはしかとはいかなる関係があるかは知らざれども、かく張り出しおけばはしかを免れ得ると思うは、実にあさましき次第である。

(三)本年春期に東海道筋のある山村を巡講せしとき、戸口の所へ「子供るす」と書いて張り出したるを見、そのわけを聞きたれば、その当時はしかが村内に入りたるために、これを防ぐまじないであるとのことであった。戸前に子供不在と張り出しおけば、はしかの神も天然痘の神も入りきたらぬなどと信ずるは言語道断である。

(四)本年夏期、余が東北地方を巡講せしときに、ある山間の寒村に腸チフスが入り込み、これにかかりて死するものが多いために、村民大いに恐れ、村内の巫女のもとに行きて、これを防ぐ道を尋ねたれば、巫女の申すには、本年は八百屋お七の年忌に当たっているから、お七の幽霊が田舎回りをして、人に取り付き、かく悩ませるのである。よってこれを防ぐ道は、家の戸口に「吉さんはおらぬ」と張り出しおけば免れることができると教えられ、各所にその紙を張り出してあったそうだ。迷信もここに至りて極まれりといわねばならぬ。

(五)播州の人丸神社にては、昔より火よけの御札と安産の御札を出すので、これに参詣するものは、火災を防がんことと安産を得んことを祈願することを聞いている。人丸は歌聖と称せられ、歌の名人なれば歌が上手にできるようにと願掛けするが当然なるに、何故に全く方角違いの火よけや安産を祈るかと尋ねるに、人丸を仮名文字にて書かばヒトマルとなる、ヒトマルは火止まるである。またヒトウマルとも通ずるから、安産にも効能があるということより起こったそうだ。果たしてしからば、これも一場の滑稽に過ぎぬ。

(六)ある人が痔に悩まされ、いろいろの治療を施したるも、はかばかしく医治せぬ。よって最後にまじないをする人を尋ねて聞きたれば、まじない師曰く、痔をなおすくらい心やすいことはない。わずかに二、三銭を費やせばよいとて、その方法を授けた。いかなる方法かというに、飴を二、三銭買って、これを竹の筒に入れ、毎日振っておればなおるということだ。そのわけを聞けば、雨降りて地固まるという意味だそうだ。まじないの内幕はたいていこのようなものであろうと思う。

(七)わが民間にては、今日もなお方位の吉凶を信ずるものが多いが、なかんずく鬼門は非常に恐れられている。しかるにこの鬼門はシナの漢時代に起こった伝説にして、シナの中国より東北の方角に当たりて、鬼の住んでいる島がある。この方角を犯さばその鬼がたたりをなすということより起こったのである。このことをだんだん調べてみるに、その鬼ケ島とは日本のことらしい。シナの中央たる揚子江沿岸より方角をとれば、日本が正しく鬼門に当たっている。この日本を漢時代には鬼の住んでいる所と思うていたということだ。昔のみならず今日でもシナ人は日本人を鬼といっている。西洋人も鬼と異名しておくが、西洋人の方は洋鬼と呼び、日本人を東鬼とか、東洋鬼と呼ぶそうだ。さればむかし日本を鬼の住んでいる島と思うたは怪しむに足らぬ。しかしその説を日本人が信じて恐れるとは奇怪千万である。

(八)日柄につきてもわが民間にては吉凶あるものと信ずる人が多い。相当に教育ある人(婦人に多い)でも、毎日外出するに日の吉凶を探りて出掛けるほどの有様である。この日柄のうちで六曜ということがある。その六曜中の友引の日に葬式を出だすことを一般に避けている。なんとなれば友を引きて六人引き続き死ぬということだ。もし果たして友を引くなら、絶命したる日が友引に当たったら、それこそ恐れても、迷信ながらいくぶんの道理あるも、葬式は死そのものでない。しかるにこれを忌むは笑うべきものである。もしいよいよ友引の日に葬式を行わざるを得ざる場合には、小さき人形六個を棺の中にいれて葬ることになっている。つまりその人形が身代わりしてくれるという意味だ。人形でごまかされるくらいならば、初めから恐るるにも及ぶまいと思う。

(九)キツネの迷信は、わが民間にてはなかなか盛んなものである。狐の穴と称する所に赤飯や油揚げをそなえておき、翌朝行き見るに、一つもないのを見て、稲荷様が御納め下されたから、わが願成就するに違いないと、喜んでいるものは少なくない。なんぞ知らん、一夜のうちに犬や乞食がその供物を食い尽くせるを。これにつき思い付きたる話がある。余が佐渡へ巡講せしとき聞いたが、佐渡にては狐の代わりにムジナを神様のごとくに崇拝している。相川町より十四、五丁登りたる山の頂上に、一つの岩窟がある。これはムジナの親方が住んでいると称せられ、毎日信者が赤飯や餅をその岩口へ供えて、祈願をするそうだ。あるとき青年が二、三人連れにて、日暮この山へ登り岩窟の所に至れば、暖かみあるつきたての餅が供えてある。青年らは空腹のとき故、これを食い尽くし、なおその上にムジナが果たして人を賞罰する力の有無をためさんと思い、岩窟の中へおのおの小便を仕込み、もしムジナに神力あるならば、まずわれらに罰を与えよといって帰ったという話がある。小便を仕込むはあまり乱暴ではあるが、あるいはキツネの迷信を看破する参考になるかも知れぬ。

(十)屁と火事は元から出るという諺がある。多数相会するときに放屁して臭気強きときには、本人自らだれが放屁したかくさいではないかというそうだ。そこでかくいうた人の元から出るとの諺が起こってきた。これと同様に世間の迷信家は、火柱が立つときには必ず火事があると信じている。この迷信を利用して、まず人の家に放火せんと欲するものは、昨夜火柱が立ったということを触れまわりて、その夜放火するそうだ。これも元から出るというべきである。しかるに世間の迷信家は火柱が立って起こった火災ならば、天火または神火にして、神様が冥罰を与えしごとくに信じ、少しも放火の詮議を致さぬ。このように迷信が深いと、これを利用して悪事を働くものが起こるから、大いに警戒しなければならぬ。

 以上は迷信中の一例を挙げたるものなるが、この一例につきて考えても、わが国民一般の知識の程度なお低きをみることができる。余は微力ながら妖怪の原理を究め、迷信の痴雲を排し、貴賎上下の別なく、共に同じく文明の恵沢に浴せしめんとの微衷より、自ら進んで迷信研究の任に当たったので、決して物好きや道楽の自利的研究ではない。

     二十八 迷信の説明

 余の迷信に対する説明としては、『妖怪学講義録』、『妖怪叢書』、『妖怪百談』、「迷信論」、『迷信と宗教』等、数書を世に公にしてあるから、ここに詳述するに及ばぬ。ただ余の活哲学の道徳的活動主義よりみれば、迷信は大いに妨害ありといわねばならぬ。むかしの天下泰平、海内無事、枕を高うして安眠をむさぼる時代には、迷信もさほど妨害にもなるまい。その当時の遺風が今日に残っているものにして、すでに世界一変し、天下多事、日夜奮闘すべき時節において家を建つるに方位を見、移転をするに日柄を占い、旅立ちするにも訪問するにも、方位日柄を考えて決定するなどは、毎日労働するにえぼし、したたれ、かみしもをつけているよりも、なお不都合といわなければならぬ。例えば戦争の場合はどうであろうか。進撃するに方位や日柄を占い、敵が襲うてきても、方位や日柄に考え、もし不吉とあれば進撃もせず抵抗もせざることとして、果たして勝利を得べきものなるや。何人も戦争には方位日柄の占いは無用なるを知るであろう。もししからば平常無事の日といえども、やはりわれわれは戦争を継続しているのである。余の唱うるがごとく、「天下に寧日無く、人生はこれ戦場。」というよりみれば、兵器軍艦こそ用いないが、日々夜々万般の諸業において人と競争し、社会と競争し、万国と競争するは、すなわち戦争である。これを平和の戦争という。普通の戦争において方位日柄の迷信の有害を知らば、平和の戦争においてもその有害を自覚しなければならぬ。よって今より後は一切の迷信を超脱して、奮進活闘するにあらざれば、国運を発展することができぬ。

 迷信の起こるは知識に暗きよりと、運命に迷うよりと二通りあるが、帰するところ心の迷いである。その意を含めて余は格言に左のごとく述べている。

疑心は暗鬼を生じ、痴人は妖魔を見る。また、迷う前に千妄有り、悟りし後はただ一真。迷えばすなわち自家もまた鬼窟、悟ればすなわち至るところみな浄土。

 

 方位日柄につきては別に格言がある。

三百六十日、日々みな吉日、四方上下の隅、方々みな吉方。

 

 吉とすれば三百六十日みな吉、凶とすれば東西南北みな凶となる道理にして、本来必定せる吉日も凶方もあるべきはずはない。

地球はこれ浮塊、飄々として日に向かってひるがえる。本来定位無し、いずれのところか鬼門有らんや。


 これは鬼門についての余の警句である。つまり知識に暗いために、方位日柄にまで迷いを起こすに至るのである。

 幽霊につきての迷信もまたすこぶる多い。むかしは「幽霊の正体見たり枯尾花」と伝えているが、余は「幽霊の正体見ればわが心」とよみ、また幽霊を詠じたる詩が二首ある。

夜気凄々として鬼火青く、朦朧たる一物はこれ幽霊、心に骨肉無きになんぞ影をとどめん、妄念縁をなしてこの形を結ぶ。

顔容蒼白にして影はかすかにとおし。妄念縁をなしてこの相を現す。ただ心のみ造理するを悟了すれば、幽霊堆積するもまたなんぞ傷つかん。

 

 

 幽霊にはなにか一物を見て幽霊と誤認するものと、全く一物もなきに幽霊を見ることとある。余は『妖怪学講義録』にはこの二者を区別して、前者は幻覚より起こる幽霊とし、後者は妄覚より起こる幽霊としておいた。要するにいずれも心の迷いより起こるのである。

 つぎに運命につきては、世人の大いに迷うところである。何人も無病息災、無事安穏を望まぬものはないけれども、思うように行かず、千災百禍がときどき襲うてくる。いかに知識が進んでも、いかに文明が開けても、いかに国運が発展しても、いかに物理の応用、器械の発明、医術の研究が進歩しても、いかに家富み、位高く、身貴くなりても、病気災難、吉凶禍福の運命を自由に動かすことができぬ。ここにおいてあるいは神仏の力を借りんとし、あるいは卜筮の判断を請わんとし、あるいは人相、家相、九星、方位等によらんとするに至る。更に一歩進んでは消極的に病災を免れんとするのみならず、積極的に一攫千金の福利を得んとするの迷信を起こすに至る。実に神も仏も人間の欲張りにはてこずっておらるるであろう。これにつきて余のよみたる道歌が数首ある。

福は内鬼は外へと祈るなよ、祈る心がすでに鬼なり

福は内鬼は外へと祈る間に、福はにげだし鬼は舞い込む

鬼は内福は外へと祈るこそ、神の心にかなう道なれ

徳は内悪は外へと祈るこそ、わが節分の豆まきと知れ

福運はいずれにありと人問わば、ウント働く家と答えよ

神仏をあがむる人のこうべこそ、福寿の神のすみかなりけれ

 また詩を賦して迷信の実況を示したものもある。

迷海にすべて人おぼる、その言決して虚ならず。災を恐れ御幣を担ぎ、福を祈り魔よけを作す。日よきとき店を開き、方あしき所は居を転ず。商家客無きに苦しめば、売卜ひとりよくもおく。滔々たり天下の工、欲をにないて生涯を渡る。いたずらに願う福は海のごとくならんと、みだりに祈るいのちは亀に似んことを。金を積むも徳を積むこと無し。悪をなすも施しをなさず。神仏みなさじを投げ、頑迷はだれか医するを得んや。

 

 


 このように世間多くの人が、あまり自利心が強いために迷信を起こし、神仏を己の欲を満たす道具にすることになる。

 シナ人などの宗教信仰は全く欲張りの迷信のみである。世界中おそらくはシナ人ほど祝福するものなかろう。商人の崇拝するのは、普通関帝と観音であるが、これを崇拝するの意は全く、福を得たいという一念であり、また財神というものと、福神というものも処々に祭ってある。また商家の入り口に赤き紙を張り付けておく。その文字がいずれも欲張りの語ばかりである。あるいは「富客常に臨み、百福は門にみつ。貨は輪転するがごとく、

五福は門に満つ。」(                     )とか、また連句にて「銀甕山を排して入り、金船海を駕して来る。金枝時に葉ひらき、銀樹日に花開く。財を招き宝を進め、金をつみ玉を積む。」(                                      )というがごとき文字を戸々に見る。その欲張りの状態はわが国の商人の遠く及ばざるところである。しかしシナ人のつぎには、日本人の欲張りの迷信を数えきたらざるを得ない。

 運命はもとより人力のよく左右すべきものにあらざるも、運命のある程度までは人力をもって動かすべきものなることを知らねばならぬ。古語に「人よく道を弘む、道の人を弘むにあらず」(           )とあるに対して余は、「人能く運を開く、運の人を開くに非ず。」(           )と唱え、運は寝て待てにあらずして、人力を尽くして待ての主義である。「人事を尽くして天命を待つ。」(        )とはこの意に外ならぬ。しかるに世間では運々と呼びて、手を懐にして待ち構えているものが多いが、これは病人がウンウンとうなっていると同様のウンにして、なんの効能もない。よって人たるものはあくまで奮闘して運を開くように努力するがよい。もし、どうしても意のごとくならざる場合には、前世界の宿縁と心得、更に後世界の好運を迎うるの準備をするようにせよ。すべて病気災難は天から人生にかけらるる税であるから、これを全く逃れようとするのは無理の注文である。余は「人税もなおのがれ難し、いわんや天税においてをや。」(             )と申している。その意をよみたる道歌が一首ある。

  災難は天税なりとあきらめて、払うて通れ世の中の人

 しかし前にも述べしがごとく、人生は晴雨のごときものにして、狂風暴雨の後には、必ず快晴好日を見るがごとく、災難の後には必ず慶福のきたるものなれば、決して悲観するに及ばぬ。余のかつて賦したる詩に、

気運循環しいくたびか新たなり、暑さ過ぎ寒さ尽きまた春にかえる、百災しきりに至るも君嘆くをやめよ。天道元来人を殺さず。


とあるも、その意を述べたのである。

 余の相含説よりいえば、禍中に福あり、福中に禍ありて、禍福相含むこと、あたかもシナ哲学の陰中に陽あり、陽中に陰あると同じ道理にして、災禍のありしときは、やがて福運のきたる前知らせと心得て安心しておれば、なんぞ卜筮だの、方位だの、九星だの、神仏だのといって、うろつきまわるには及ばぬ。もしあまりうろつくと、かえって災に災を重ね、禍に禍を招くようになるものだ。これと同時に幸運にあうたときには決してその運に乗ぜず、かえって自ら慎み戒むるように心掛けねばならぬ。余の家は幸いに格別の災害はなくて、今日に至った。その歌に、

  才もなく財もなけれど債もなし、また幸いに災もなかりき

とサイ尽くしの狂歌ができている。余は決して災のなきをもって自ら甘んじ、自ら安んぜず、あたかも災のあると同様に自警自戒をしている。ここにおいて人生の海を渡るには道徳を橋とし、舟としなければならぬことが分かる。故に余の格言集にも、

仁義は礎たり、忠孝は柱たり。家相はこれより吉なるはなし。身は勤倹を守り、心は誠実を守る、人相はこれより善きはなし。


と説いておいた。もし道徳をもって一身を守らば必ず、

  わがやどは万の福のすみかなり、鬼は恐れて近づきもせず

という境涯になることができる。要するに禍福の迷信に対しても、これを除くの法は活書を読み、活学を修めて、道徳的大活動をなすに外ならぬ。

     二十九 迷信と宗教

 余は昨年迷信と宗教と題する一書を著して、この二者の関係を詳論せしことがある。ここにはわずかにその端緒を述べておこうと思う。今日わが国の宗教の法輪が軌道にはずれて、迷信の畑の中へ陥りているのは、実に慨嘆に堪えぬ次第である。余が「迷信草に埋む生死の路、悲観涙満つ涅槃の宮。」(               )と詠じたのも、わが仏教の現状を見て嘆息したる声である。仏教には現世宗と未来宗との二通りがあるが、現世宗の方は迷信に傾き、未来宗の方は悲観に沈める有様なるは実にこまったものだ。これみな軌道をはずれていると思う。まず現世宗の方では、人生の吉凶禍福は仏の力を頼めば、己の望む通りになるように説き、病気にかかれるものもきたれ、災難をいとうものもきたれ、長寿を欲するものもきたれ、安産を望むものも豊作を祈るものも、商売繁盛を願うものも、景気回復を求むるものも、みなきたれという有様で、仏に祈願すれば、なんでも成就せぬものはないと広告している。神道の方もまたしかりと申してよい。これは迷信の大なるものだ。つぎに未来宗の方では、病気災難を免れんために、仏を信ぜよと説かぬ点はよけれども、この世は百事意のごとくならず、苦のみありて楽なきものとあきらめよ。その日その日をよい加減に送りさえすれば足れり、かれこれ人と競争するに及ばず、奮闘するにも及ばす、ただ未来地獄へ落ちて、永世の苦を受けぬようにしなければならぬ。それには仏を信じて極楽へ連れてもらうようにするがよい。仏は大慈大悲の力をもって一切の煩悩悪業を引き受けて下さるから、心配するには及ばぬ。すでに悪人正機とあるからは、罪を造っても苦にするに及ばぬ。ただ一心に仏を頼めば、決定して極楽参りができるというふうに吹聴している。これも未来宗の本意ではなかろう。

 神社仏閣中には祈祷専門のところが多い。その祈祷のうちには国法に反していることもある。例えば親が長男の徴兵適齢なるに当たり、神社仏閣に至り、徴兵を逃がるるように祈祷を願うものがある。二、三十年前に比すれば、今日よほど少なくなっているけれども、まだいくらかあるらしい。そのときにこれを引き受けて祈祷をする神官、僧侶があると聞いている。その真偽は知らざれども、かかる場合にはよくその当人を諭して断るようにしてもらいたい。また不合理の祈祷はなかなかたくさんあるようだ。例えばある祈祷専門の寺で聞いたことがある。勧業銀行の債券のくじにあたると、一回に千円取ることができるために、そのくじのあたるように祈祷を頼みに来るものがあるそうだ。かかる場合にもよく説諭して断るべきに、あるいはこれを引き受けて祈祷するものもあるらしい。ここに至りては宗教の軌道をはずれるどころでなく、神仏を欺くのはなはだしきものといわねばならぬ。

 宗教において祈祷を行うことは、あながち排すべきではない。また病気のときに祈祷によりて全治すべからざるも、病人に慰安を与うる点には、全く効力なしとはいえぬ。けれども人間の本務を尽くさずして、いたずらに祈願することは、神仏に奉事するものより、よく諭してもらいたい。すなわち人事を尽くして天命を待つの道理にて、人事を尽くして神護を待ち、善事を尽くして仏助を迎うるということになるべきが当然である。また神仏に祈願するには誠心誠意をもって願い、己を忘れ、われを離れて祈らなければならぬ。神仏は天の誠である、宇宙の誠心である。誠は誠と相応し、誠心は誠心と相通ずるものなれば、わが至誠の一心の上に感応すべきはずである。よってむかしの歌にも、「心だに誠の道にかないなば、祈らずとても神やまもらん」とよんであって、余はこれを反面よりよみかえしたことがある。

  心だに誠の道にかなわずば、祈ったとても神はまもらず

  祈りてもしるしなきこそしるしなれ、いのる心に誠なければ

 ここにおいて宗教の信仰と迷信との区別を示す必要が起こる。

 信仰は合理的信仰と超理的信仰と背理的信仰との三種に分かれている。そのうち背理的信仰を迷信といい、合理と超理とを正信というべきである。もし仏教の語によれば、合理的の方は解信に当たり、超理的の方は仰信に当たる。哲学上宇宙の道理を究め、論理に合することを認めて信ずるのは合理的信仰にして、いかに究めても、人知の及ばざる理外の理なるを認めて信ずるのは、超理的信仰である。すなわち前者は哲学にして、後者は宗教である。しかして道理にもとりたることを道理あるもののごとく、誤りて信ずるを迷信と名付くることになる。しかるに宗教は道理によらず、始めより理外と認めて信ずるから、人知の未だ開けざるとき、また知識の程度低きものには、迷信を混同するを免れぬ。よって宗教につきてかれは迷信である、これは正信であるとの鑑定を与うるは、哲学の受け持ちである。哲学上宇宙の道理を究めたる結果、可知的と不可知的との別を知ることができる。その不可知的を根拠として、人に信仰上ここに体達することを教うる方が宗教である。そこで哲学と宗教との別は、哲学は道理によりて不可知的であることを知了する方にして、宗教は道理によらず、単に信仰によるの別あるのみならず、哲学は道理上不可知的の本体、すなわち絶対を認識するにとどまり、宗教は実行上その絶対に一致融合することを教うるの異同がある。しかしてこのいわゆる哲学は向上門を指していうのである。この理によりて考うるに、宗教は哲学と相伴わざるを得ざることが分かる。哲学は知識の眼、宗教は実行の足であり、哲学の知目と宗教の行足と相待ちて、目的地に至り得るわけである。しかるにヤソ教は単純の宗教にして、仏教は哲学と宗教とを合したるものなれば、余は『仏教活論』において、仏教のヤソ教に勝りたることを主唱したのである。

 宗教の祈祷につきても、正信的と迷信的との二通りがある。もし一心誠意、自己を離れて祈祷するは正信的というべきも、自己に執着してただ福利を得たいという利欲心をもってするのは迷信的である。病気の場合の祈祷にもこの二通りが分かれている。数年前、明治天皇御不例に渡らせられたるときに、ひとたび御危篤の報伝わるや、国民は一心を込め、神社仏閣において御回復を願い奉るの祈請を行った。これはもとより正信的の祈祷である。己に一点の私情なく、自利を離れたる至誠の心より起こりしものなれば、公明正大の祈請である。また父母の病気に神仏へ祈願するのも、その仕方によりては正信的と申してよい。例えば人事を尽くさず、誠意を呈せずして、ただ自利心をもって親の全快を祈るは、迷信的といわねばならぬ。もし人事を尽くし、人力の及ばざるを感じ、至誠の一心を傾けて親のために祈請するは正信的である。さてかく一心を込めて正信的に祈祷すれば、果たして効験あるかというに、いかに一心を込めても、病気の必ず回復するわけではない。しかし君を思い、親を慕う情のあふれてここに至るものなれば、大いに敬服すべき行為といわねばならぬ。また一心に精神を込むれば、そのことが君にも親にも知らるるに至らば、いかなる危篤の場合でも、その人の精神を強くし、その意志を進めてあるいは病気に打ち勝つことあり、また大いに慰安を与えて病勢を減ずることありて、その結果平癒を招くに至ることあるものだ。あるいは、またたとえ病気は動かすべからざるも、その尽くしたる誠は宇宙の精神に通じて、現世界に効果を見ざるも、これが潜勢力となりて、つぎの世界において発顕すべきものなれば、全く効果なしと断言すべきものではない。要するに効果の有無は問うに及ばず、人力窮まりて天に訴うるものと心得て、祈請するがよい。あまり神仏に向かって注文がましく祈請するは、自利の嫌いありておもしろくない。

 つぎに自身の病気に当たり、百方手を尽くして快癒を見ざる場合に、神仏に祈請していかんとの問いが起こるであろうが、自己の病気全快一点張りにて祈るのは、迷信的なること言を待たぬ。しかしそのときにも至誠を捧げ、平素の非を悔い、善心に復し、小我を没却して大我に同化するだけの精神を起こすに至らば、正信的というべきである。しかしなるべくそのときには己の病を忘れ、たとえわれは死すとも一点の遺恨なし、ただ国家社会のために冥護を垂れんことを祈るようにしたい。そこで神官、僧侶たるものは、人の病気災難の祈祷を取り次ぐはよけれども、正信と迷信の別あるを説き、私情を離れ、前非を悔い、至誠を捧げ、良心を開くにあらざれば、神仏の冥護にあずかることのできぬわけをよく諭し、これを実行することを誓わせて、のち祈祷を行うようにしてもらいたい。ただわれは祈祷商売であるから、金さえもらえば他のことは一切関せずのやり方は、迷信中の悪人罪人といわなければならぬ。

 仏教各宗中、真宗ばかりは祈祷を行わぬ宗旨である。人間一生の病気災難は前世の宿縁のしからしむるところとあきらめて、祈祷するに及ばずということに立ててある。しかし余は真宗も、ある場合においては祈祷を行うべしとの論を唱えている。例えば明治天皇御危篤の場合のごとき、他宗みな盛んに御祈祷を行うているに、真宗ひとりこれを行わぬのは、かえって真宗の本意に背くと思う。なんとなれば真宗にては俗諦門、真諦門を分かち、俗諦門にては世間普通の道を守れとの教えなれば、世間一般に御回復を祈り奉るときには、やはり一緒になりて祈るがよい。もしそのことが迷信的自利的でなく、正信的他利的であるならば、進んで祈祷を行うべきである。かくいわば、必ず祖師の御言葉中に見えておらぬと答うるであろうが、余はこれを宗祖を死物視するものと思う。もし宗祖が今日に再現せられなば、必ず祈祷を勧めらるるに相違ないと信じている。宗祖の口に発せられたる末をとらんより、心に潜める本を握るのが活眼活識というものだ。今の仏教家は死書だけを読み、死学ばかりを修めているから、仏教が活気を失える死仏教となるのである。よって今より後は宗祖の本意をくみ、もし今日に再誕せられなば、必ず説き方をかえらるるに相違ないと推知して、今日の時勢に適するように説くのが、活仏教、活真宗というものである。むかしシナの李丹という人が、釈迦がシナに生まれたならば、教えを設くること周公孔子のごとくせらるるに相違なく、周公孔子がインドに生まれられたならば、教えを設くること釈迦のごとくせられたに相違ないと説かれたるは、実に活眼である。この言大いに余の活哲学の本意と合するがことなれば、左に転載して余の格言に代用するもよかろう。

釈迦中国に生まるれば、教えを設くること周孔のごとくならん。周孔西方に生まるれば、教えを設くること釈迦のごとくならん。


 この道理に照らして宗祖もし今日出でてきたらば、必ずその言を異にせらるることを知るのが活学というものだ。つぎに真諦門の上にては祈祷は本意にあらざるも、仏に向かって御報告申し上ぐるつもりならば、他力の宗意に背きはせぬ。もしこの方より注文しては自力の嫌いあるも、御報告を申し上げて、御任せ申す心得の祈祷ならば、決して差し支えない。故に余は真宗祈祷論を唱えている。

 

   第九講 教 育 観

     三十 死教育と活教育

 仏教に死仏教、活仏教あるがごとく、哲学に死哲学、活哲学あるがごとく、教育にも死教育、活教育の二通りがある。例えば学校教育のごとき文字をもって書かれたる書物ばかりを教え、これを活用することを知らしめざるは死教育である。しかしてよく事々物々、実際の上に照合活用する教育は活教育である。また文字や理屈ばかりを教うるのは死教育にして、実行を教うるのは活教育である。今日幾万と数えらるる教育者中に、活教育を授くるものは、寥々として暁星のごとくであろう。誠になげかわしき次第である。

 古人の格言を引くにも、今日の事情に適さぬものをそのまま取りきたり、得意然として講ずるがごときも、死教育と申さねばならぬ。古人の格言中には千古の金言もなきにあらざれども、多少改変せざれば今日に適当せざるのが多い。余が古人の格言を用いずして、自家格言のみを引用するはこのわけからである。また余は古人の作りしもののうち、今日に適さぬと知れば、遠慮なしに改作することに定めている。これがかえって古人の本意であろうと思う。これまで改作したものがたくさんあるが、前に掲げし千字文、三字経もその一例である。その外ここに実語教、童子教の改作も掲げておきたい。明治維新前の未だ小学校のあらざりし時代、すなわち寺子屋教育の時代には、実語教、童子教が唯一の修身読本であった。今日にてもまれには家庭においてこれを教うるものあれども、時代がまったく違うてきたから、死書死学となっている。故に余は今日の事情に適するように改作を試みた。実語教は弘法大師の作、童子教は安然和尚の作として伝えられている。もし大師と和尚とが余の改作を聞かれたならば、大いにわが意を得たりとして喜ばるるに相違なかろう。

 

    明治実語教

山高きがゆえに貴からず、樹あるをもって貴しとなす。人肥ゆるがゆえに貴からず、徳あるをもって貴しとなす。福はこれ人の求むるところ、禍はこれ人のきらうところ。徳あらば福おのずからきたり、徳なければ禍いたちまち起こる。富もまた人の願うところ、徳なければ富生ぜず。貧もまた人のにくむところ、徳あらば貧近づかず。請う見よ積善の家を、福神常にこれを守る。積不善の家は、窮鬼常にこれをうかがう。不徳にして身栄えるは、浮雲の天を覆うがごとく、一時にしてたちまち散ず。有徳なれどもあきらかならざるは、日食の光を失うごとく、一時にして復明す。徳の類はなはだ多しといえども、正直をもって本となす。正直は誠より生ず、誠は天の道なり。人に霊あらざる無く、霊あらば必ず誠あり。生まれながらにして良心あり、良心なければ人に非ず。誠はその中に住む。これをして徳性を発せしむれば、悪をなして禍を免るるも、良心内にこれを責む。善をなしてかえって災いに遭うも、良心は慰安をなす。

 

 

 

 

 

一時の僥倖を望むよりは、むしろ心常に楽しむを期せよ。人心あるいは暗あり、良心ときに光を放つ。暗夜の灯台のごとく、霧海の磁針に似たり。人生の海を渡るもの、この心に照して進み、正直を守りて行かば、必ずや目的地に達せん。ときにあるいは失敗する有るも、一時の後に必ず成る。百の銅鉄ありといえども、一の黄金にしかず。百の計術ありといえども、一の正直にしかず。正直の左右には、勤倹ありてこれにしたがう。勤ならず倹ならざるものは、不正直より起こり、富貴利達するものは、勤倹の招致するところ。身を守るに勤倹をもってすれば、なんぞ身の立たざるあらん。家を治むるに勤倹をもってすれば、なんぞ家の興らざるあらん。勤倹は忍耐を要す。忍耐はその本となる。正を守りて動ぜず。艱苦を排して進む。百たび折するも撓ざるものは、まことにこれ忍耐たり。忍なく耐えるなきものは、人の身の骨なきごとく、骨なければ足立たざるなり。

 

 

 

 

 

ここに成功の山に登り、また出でて世に処するには、必ず信と義を守れ。信なきものは人疑う。義なきものはうとんじらる。百計ここに頓挫し、ついに窮谷に陥る。故に農工商の三つは、信義をもって根となす。およそ業に信義なきは、根なきの樹のごとく、朝時にその栄えるを見るも、夕に至りてたちまち枯落す。人は人と相会い、心は心と相投ず。ひとたび結びて社会を成し、更に結びて国家をなす。力をあわせてもって相助け、労を分かちてもって相営む。人文ようやく開発し、日につきまた月にすすみ、四海万邦の民、ひとしくその慶福をうく。われひとたび愛すれば、他人もまたわれを愛す。われひとたび他人を敬すれば、他人もまたわれを敬す。恭敬をもって人に接し、親愛もって他人に及ぼす。立身出世の道は、ここに至りてすべて備わる。これを合わせて仁義という。仁義の外に徳なし。義は徳の幹、仁は徳の花、幹なきの木には花なし。

 

 

 

 

 

花なきの枝には実なし。人その実を得んと欲すれば、必ず仁義の道を守り、これを守ればすなわち身立つ。身立たばすなわち家興る。家興らばすなわち国栄ゆ。国栄えればすなわち福多し。人にして家屋なければ、必ず風雨の災いを受く。民にして国家なければ、塗炭の苦を免れ難し。国民その心を一にして、身を立てまた家を興し、もって国運を発展さすれば、すなわちよくことおわる。これを小にすればすなわち孝となり、これを大にすればすなわち忠となる。忠孝の大道は、これを外にしてなにものをか求めん。そもそもこの道をなすや、心の誠に発す、一誠もって親に対せば、すなわち孝の道をなし、一誠もって君に向かえば、すなわち忠の道となる。もしこれを実現せんと欲すれば、身を立つるをもって先となす。家を興すをもって本となす。国体の精華は、これによってその美をなす。人文の開発は、これによってその功を奏す。道になんぞ二致あらん。

 

 

 

 

 

わが天皇は至仁にして、一朝大詔を下せば、上下ことごとく心を一にして、忠実もって業に服し、勤倹をもって産を治め、信義もってことに当たる。華を去りて実を就ければ、自ら強くしていこわず、国運は人文と、同時に必ず発展す。退いて徳器をなし、進んで世務を開く。博愛もって衆に及ぼし、義勇もって公に奉ずれば、すなわち忠孝ふたつながら全し。しかして皇運とこしなえに隆んなり。いやしくも臣民たるものは、常に拳々服膺して、一刻片時といえども、あえて遺忘するべからず。

 

 

 

 

   明治童子教

宇宙六合の間、万類の備わらざるなし、天にありては日月星、地にありては山海州、太初はただ星雲、熱高くして未だ形をなさず、気体は虚空に浮かび、運動その中に起こる。回転して自ら球となり、球分かちて数塊となる。推引してその位を保つ。天体ここにおいて現れ、太陽は地球を産む、地球は太蔭を産む。日月はこれ親子にして、あたかも一家族のごとし。地熱ようやく冷却し、球面に高低を生ず。蒸気結ばれ水となり、山海はじめて相分かつ。生物は自然に生じ、積年ようやく進化し、草木は野に茂り、魚貝は水に長ず。虫に蟻蜂蛇あり、鳥に雀鴉鶴あり、竜は吟じて雲起こり、虎は嘯して風生ず。禽獣もともと祖を同じくし、人猿は兄弟たり。その類は衆多といえども、人は実に最長たり。四肢と五官と、彼我ほぼ相似たり。知性と良心と、かれ遠くわれに及ばず。

 

 

 

 

 

その知は鏡より明らかなり、これを磨けばたちまち光を発す。微塵の間にも透入し、天地の外に照及す。万学これによって起こり、百術これによって進む。理化は実験を究め、応用して工夫を凝らす。翼なくして飛行し、線無くして通信す。万邦一瞬に息し、天涯まことに比隣、その巧は造化を欺き、その妙は鬼神を驚かす。人生まれて母胎を離れ、呱々として泣くのみ。知なくまた識なければ、なんぞ禽獣と異ならん。玉はみがかざれば光なし、人学ばざればすなわち暗し。故に学齢には校に入り、学を修めてかつ業を習う。荒怠ふたつながら相誡む。自ら強くしていこわざれば、国運必ず発展し、人文ますます進長す。大詔の聖意は、けだしまたここに存す。いやしくも臣民たるものは、知らざるべからず。幼時は心蒙昧、菽麦としてなお弁じ難し。いわんや正邪においてをや。その渾沌なる心海は、おのずから良心に胚胎す。これ諸徳の根なり。善を善とし悪を悪とす。

 

 

 

 

 

良心のみひとりこれを知る。善に就き悪を去り、良心内にこれを促す。忠孝友和信じ、仁義と礼知と、みなこの根より生ず。しかれどもその根のごときは、養わざればすなわち枯死す。草木の根と同じ。実を結ぶには栽培するを要す。人もまた教養を要す。養わばすなわち良心明らかなり。校にありて知をみがくものは、必ず修徳を忘るるなかれ、己にかちて校規にしたがい、師を敬いまた友を愛す。親に対しよく孝をつくし、君に向かいよく忠をつくす。人に接してはよく礼を守り、言はすなわち忠信を主とし、行いはすなわち篤敬を貴ぶ。勤倹もって自ら持し、仁慈もって他に及ぶ。徳器ここに成就し、すなわち人格はじめて成る。人格なりて後、知能ようやく全きを得、知徳ここに兼ね備う。すなわち人は禽獣と、判然としておのずから相分かつ。いうべしその長ずるを、幸いなるかな吾人。人性をうけて生まれ、教養によりて立つ。文明の恵沢に浴し、国家の隆治に会う。古人必ずわれをうらやむ。

 

 

 

 

 

天災はさきに知るべく、病患は予防すべく、痘神去り跡を絶ち、疫鬼は伏して降るを請う。山をうがちて鉄路を通し、座中雲のはてに走る。海をわたるに汽船を用い、夢のうちに天外に至る。写真は面容を写し、万里相会うを得たり。蓄音は語声をため、百世相聴くを得たり。暗夜に電灯をともせば、日を懸けて照すがごとく、異郷と電話にて交わり、対面して話すがごとし。利用厚生の道、ここに至りてすべて備わる。東洋諸邦の中、われひとりこの福を占む。これだれの賜うところならんか。明治維新の初め、わが天皇は至仁、親しく臨んで万機を裁す。海外に知識を求め、文運にわかに勃興す。国勢ようやく隆昌し、兵備もまた大いに振るう。さきに日清の役あり、後に日露の戦あり、連戦大捷をかさね、光威四海を圧す。隆運は欧米をしのぎ、昭代まことに空前。赫たりこの聖徳。皇祖の威霊とともに、日月星より明るく、吾人はその余沢を浴く。皇恩なんぞ忘るるを得ん。日夜ただ思惟するのみ、いかにしてその恩に報いん。こいねがうに億兆心を一にして、淬礪よく誠を輸し、世界の大勢に伴い、進みては皇猷を輔佐し、いったん緩急あらば、義勇をつくして公に奉り、もって皇運を扶翼し、子々孫々をして、永くその慶福をうけしめよ。

 

 

 

 

 

 

 

 右二編は家庭の教草夜学会の読本に用いてもらいたい。

 また西洋の格言をそのままに日本に引用するときは、これまた東西彼我の間、事情を異にするところありて、適せざる場合も少なくない。やはり取捨加減を用いなければならぬ。一体、わが国の教育学者が西洋にてできた書物をそのまま訳し、西洋にて行われている教育をそのまま伝えて、わが教育の完全を計るのは死学的やり方にして、余はその結果が死教育とならんことを恐れている。そもそも教育はその国の民情人心、風俗習慣を実際に調査してのち案出するが当然である。しかるにわが国今日の教育家として世間よりあがめらるる人は、西洋の学に通じ、西洋の書に明らかなるも、わが国の民間の実情には全く盲目同様である。またその人は民間の事情など蔑視している風がある。これはやはり貴族的教育家と呼ばなければならぬ。それ故に今日のわが国の教育中には西洋人の洋服の古着を買って、そのまま着せておくような観があるに相違ない。さぞ見にくかろうと思わる。そこで余は微力ながらわが国の教育宗教の前途を定めんとの微衷より、地方巡講中努めて民情人心を視察している。これすなわち余の活書である。教育者中のこの活書を読む人のないのには、ひとり自ら嘆息している。

 余の改作せしもののうちに実業報徳訓があるが、その文は前すでに掲げておいた。そのほか二宮翁の報徳訓中に教育のことが出ておらぬから、その欠を補うために、教育報徳訓をも作ったことがある。

教育の淵源は教育勅語にあり。忠孝の根元は祖宗の遺訓にあり。国体の精華は億兆一心にあり。道徳の振興は教育の普及にあり。教育の完備は国家の経済にあり。国本の養生は国民の知徳にあり、知徳の開発は学校教育にあり、学校の発展は教師の努力にあり、教育の実効は訓育感化にあり、感化教育は教師の人格にあり。人格の完成は自己の修養にあり。教育にあたるものは修養を怠るべからず。

 

 

 

 二宮翁の報徳主義は大いに歓迎せられているが、その至誠を説き、勤労を勧め、すべて理論的ならずして実行的なるは敬服の至りである。翁はたしかに活書を読み、活学を修められた人に相違ない。その当時四面みな死学者ばかりのうちに立ち、卓然として活学を唱道せられたるは、近世の聖人と尊崇してよろしきも、いかんせん、その勤倹説が消極的にして積極的にあらず、個人的にして国家的にあらざれば、そのままこれを今日に当てはむるは、やはり翁の活学を殺して死学とすることになる。ゆえに翁の意をくみてその形を取らず、今日の時勢に相応するように改作を加えなければならぬ。孔孟の教えのごときも、数千年間、死儒輩出して、これを死学死教に陥らしめたるは残念の至りである。これまた活書に照らして復活の道を講じたきものである。

     三十一 人為教育と自然教育

 さきにすでに教育に人為と自然との二種あることを示し、人為教育は死書を読む方にして、自然教育は活書を読む方なることをも説きしが、その人為教育中にも死書のみを読むと、活書をあわせて読むとの二通りあり。また自然教育中にも活書を知らずして終わるものが多い。つまり教うる人もしくは学ぶ人の注意いかんによりて、死活を異にするのである。今ここに述べたいと思うのは吾人を囲繞せる事々物々、一切万象が知らず知らずの間に教育しているという事項である。まず吾人の住宅庭園が吾人を教育している。華族の広々したる邸宅のうちに育ちしものと、裏だな長屋の窮屈の所に育ちたるものとは、自然に気風が違うのを見て分かる。また山間と海浜と人の気風が大いに変っている。これ毎日目に触るるところの山や水が人を教育するからである。気候の暑い寒い、雨風の多い少ないなども、やはり人を教育している。例えば四国を一周するに土佐と讃岐とは人気が正反対である。その相違は地勢と一致している。土佐の山は険峻にして岩石が多く、海は太平洋に面して激浪を受けている。これに反して讃岐の山は円滑にして、しかも土地に平坦部多く、海は内海に面して湖水のごとくである。この全く異なる自然の地形が人を感化すなわち教育する故、自然に人気の相違を養成するに至る。また山陰道において同県下にありながら石州と雲州とは人気が反対している。石州人は岩石の露出せる山の間に育ちきたれるために、気風も頑健であるが、雲州人は宍道湖を中央に抱き、平坦部のみに接しているから、気風も円滑である。余はこれを評して石州人は石のごとく、雲州人は雲のごとしというたことがある。また東北地方と西南地方の気風の相違は地形のみならず、気候も大いに関係していると思う。

 日本内地にても地勢気候が人を教育するの実例多々あるが、もし海外万国を対照しきたらば、一層自然教育の効果の偉大なるを証明することができる。日本人とシナ人とは国民性全く相反している。その原因は第一に地勢の相異なれるに基づく。すなわち日本の山は険しく、川は急なるに反し、シナは山も川も緩慢である。両国民の性質もまたよくこれに類している。よって余は左のごとき格言を作っておいた。

シナはその山勢緩にして、その水勢も慢。故にその人の風采と言動ともみな緩慢。日本はその山勢峻にして、その水勢も急。故にその人もまた峻急なり。

 

 この緩慢と峻急との文字をもって、両国の相違のすべてを表示することができる。更に西洋を見渡すに、米国人の美術思想に乏しく、イタリア人、スイス人のその思想に富めるがごときも、天地自然の感化なること明らかである。わが内地においても、関西と東北とは美術の点において全く相異なれる原因は、その土地を一過すればたやすく知ることができる。これみな自然教育と申すものである。その実例はいちいち枚挙にいとまあらざれば略しておく。

 余はかつて名称教育と題して、人の名そのものがその人を教育している理由を述べたことがある。これも自然教育の一種に加えてよい。その説は今より二十六年前、帝国教育会において演述せしことがある。今幸いにそのときの速記の原稿が手に入ったから、左に掲げておく。

 名称教育というはなんであるか。名称というは物の名ということで、名称教育というは名の教育ということである。名の教育というはなんであるかというと、物があればそれには必ず名がある。ここに一つの建物があるとこれに学校という名がある。またその学校内には教師という名がある。生徒という名がある。いろいろの名がある。その名が人を教育してくれるということを申すのである。そうすると、どういうわけで名が人を教育する働きを有するか、必ずお尋ねになるだろうと思う。例えばここに一つの名があると、名についてその字に含んでいる意味がある。木村という名字の人があるとその字についての意味がある、大石という名があるとその字に含んでいる意味がある。その意味がわが心を導いて教育してくれる力を持っている。そのことは教育家たるものは研究しておかなければならぬ。だれも名が教育してくれるというのは、思いもよらぬことであるというが、決してそうでない。今日私がその二、三の例をあげて、名が人を教育する力を有することを証拠だてようと思う。まず名すなわち名称というものは普通名称と固有名称と二通りに分かれて、これはどなたも御承知のことである。あるいは細かく分かつと、普通名称と固有名称と集合名称ということに分かれている。人を呼びてなんのだれというのは固有名称である。なんとなればその人に固有して外に当てはめることができぬ。学校とか教員とかいうごとき名はだれにも当てはめられる普通名称である。あるいは人民が大勢集まった団体を指す名は集合名称というものである。かく名称には二通り三通りに区別がある。そのうちでまず固有名称について申し上げようかと思う。固有名称が人を教育するの力があることを知れば、同時に普通名称にその力のあることを知り得る。さてわれわれが外界に接してわが身体の周りを取り巻いている外物があると、これがわれわれを教育してくれる。その教育を受くる有様について一言致したい。およそ人の教育というものは、学校に行って書物を習うばかりが教育ではない。家にいる間でも、郊外に散歩する間でも、雨がふる、風が吹く、いろいろの事情に接してわれわれがうける教育がある。例えば「朱に交われば赤くなる」とか、また「芝蘭の室に入れば衣服まで芳しくなる」とかいうのは、交わっている悪い人や善い人がわれわれを教育してくれるのである。それだから学校に出て教育をうけるのは教育の一つの部分で、まだその他にいくらも教育がある。わが外囲を取り巻いている一切のものが、われわれを教育するに相違ない。その教育というものは、どういう有様でわれわれを教育するかというと、つまりわれわれが平生自分にはなれず絶えず一つのことに接していると、その風が自然わが心を動かし、わが感覚を起こさして、わが思想がそれと同じように導かれるものである。例えば山川の風景を見、高山大沢の間に住んでいると、自分の心も高山大沢につれて寛大になってくる。また狭い家に住んでおれば狭くなる。これらは山川が自分の心を教育する証拠である。故にわれわれの常に接して離れざるものが、われわれを教育する力を持っていることになる。それだから昔から孟母三遷の教えがある。子供を教えるには住居を選ばなければならぬのは、住居は教育する力を有するからである。われわれの平常接している万般の事物は、みなわれわれを教育するものである。まずこうきめてみると、それならばわが身体に常に離れぬもので一番近く接していて、寝ても起きても眠っても覚めても、始終わが身に伴うているものはなんであるか、われわれの名であろう。名というものはその人が生まれてより死ぬまで、時々刻々離れぬものであるから、自分の名くらい自分に結びついたものはない。すなわち自分を代表しているものである。それだけに結びついて離れぬものであるならば、きっとわれを教育するに違いない。今これを実際の例に当てはめて考えてみると、世間に名が人を教育する例がたくさんある。しかしこの名称教育というものは、これが一個の教育であるということを説いた人はまだないけれども、実際上はそのことを応用している。例えば子供が一人生まれると、なんという名を付けたらよいか、だれも悪い名を付けることは嫌う。あるいは文字を選んでよき意味の字を用うるなど、いろいろの選び方をしてよい名を付けてやる。これすなわち名称教育というものが実際上にあるということを暗々に知っているからである。それからまた、世間でもあの人は名の通りの人だということはだれもいうことで、例えば牛という名を付けた牛太郎とか、牛造とかいう人があると、あの人は名の通り牛のように黙っている人だといい、虎吉とか熊蔵とかいう名をつけた人があると、あの人は名の通り大層勇猛だという。その他諸君の知っている例をあげていえば、福沢諭吉という人がある。姓も名もその人物とよく合うている。あのくらい幸福な人はない。その姓を見ると福沢という文字である。また同氏は人を説諭することに巧みである。諭吉といって諭すが上手と書いてある。あるいは中村正直という人がある。これは実に名のごとく正直な人で、敬宇といってもつつしみ深い人である。かくのごとき例をあぐればまだたくさんあるが、諸君も御存知の通り矢野文雄という人は文筆が上手である。加藤弘之という人は学問も度量もひろい人である。また小幡篤次郎という人は篤実の人で人物を表している。それはすなわち名称教育である。自分の名が正直であれば、その正直という字に感化をうけて、自分もその名の通りになる。それで私がこの間、名称教育の例を調べようと思って、私の学校で人を二百人ばかり教育している。今日ではいろいろの学科を教えているけれども、その校名を哲学館という。名の方でいえば哲学だけ教育するようだが、この哲学とはごく広い意味で、中に文学、史学、教育学をも教えている。その生徒を調べてみると、一つ奇怪なことがある。生徒の中に哲の字の付いた人が多い。かつ寄宿舎に五十人ばかり入っているが、このうちに別して多い。この間調べてみたときに、舎生四十五、六人あるうちに哲の字の付いたのは三人ある。すなわち十五人に一人の割合である。その割合は少ないようだが、世間には哲という字はあまりない。しかるに哲学館の寄宿舎に、十五人について一人の哲の名があるというのは不思議である。例えば日本の人口は大数三千八、九百万あるとすれば、十五人に一人ずつの哲の名の割合にて算用すれば、二百五十万人以上、哲の字の人があるはずである。しかるに決してそんなにない。しからば哲学館にばかり哲の字が多くして、なぜ外の場所にないかといえば、それはたやすく分かった話である。哲学館に入るためにその名を用いたのではない。生まれて以来自分に結びついている名が、その人を導くのであろうと思う。すなわち自分は哲という名だから哲学をやってみようという考えが出たので、自分の名に導かれて自分が哲学の方へ傾いてきたのである。これをいいかえてみれば、哲という名がその人を教育したのである。しからば名が人を教育するということは確かな事実と思う。つぎに人の名前の教育上に関係ある外の例をあげれば、人はだれでも自分の名に一番注意をおくもので、自分の考えは自分の名に一番集まっているものである。その証拠はこの場所に百人の者が一同に熟睡していると仮定するに、私が大きな声を出して、例えば渡辺さんとよんだときに、一番早く目を覚す者は渡辺さんである。いかに渡辺という人が寝坊であっても、一番さきに起きるに相違ない。それは何故かといえば、自分の名は一番自分の注意を集めたものであるからである。それくらい注意をおくならば、必ずわが思想を導いてわれを教育することのできるは当然である。右のごとく、すでに世間に名によりて教育をうけたものもいくらもあり、また世間の人が、子供が生まれるとまず名を選び、なるべくよい名をつけるというがごときは、みな名称教育法を実行しているのである。また古来わが国の習慣で、師匠の名を拝領するということはたくさんある。これも名称教育からいえば最も適切なことである。それから師匠でなくても、あるいは昔の人の名をとって、自分の名の一部分を形づくるということが多くある。これらも名称教育上からいえば、ずいぶん大切なことである。また己の崇拝している人より子供の名を付けてもらうこともあるが、やはり名称教育のためとみてよい。しかし世間の人を尋ねてみると、名と実とは合わぬものがある。名は正直であっても正直でない人がある。これは名称が人を教育せざる証拠であると、こういう論をたてる人があるかも知らんが、今私が名称教育を述べて、名称は人を教育する力があるといっても、人を教育するは名称ばかりで外にないという意味ではない。名称教育は教育の一部分だというのである。われわれを教育するものは、百も二百もたくさん外にあるのであるから、世間の人の名と実と一致しない者がたくさんあるがごときは、名称教育は教育中の一部分であって、その外の教育の名称教育を妨ぐるものがたくさん相集まって教育するからである。しかし名称は教育の一部分である以上は、教育家がこの名称を利用して教育を助けたいということに注意せなければならぬ。昔は人がいつでも自由に名をかえられたけれども、今日では決してそうはいかぬ。一度名を定めた以上は、理由なくして変えることはできぬ。故に父母たるものは、その子の生まれたときにこれに適当な名を与えて、名によりてその人を教育することに注意しなければならぬ。他の教育は生まれて成長の後に与えられるが、名は生まれてすぐ与えるものであるから、時間の上でいえば、まずこれが第一着の教育である。

 以上は固有名称上に教育の力あることを論じたのだが、これより普通名称にうつり、あるいは集合名称にうつり、衆人の団体もしくは衆人の共有すべき事物の体に与うる名称が、人を教育することを述べてみよう。例えば日本という名称につき、その名が日本人民を教育しているということは、諸君が少しく考えたならば分かるであろう。すなわち日本に一種の大和魂というものがあるというのは、私が考えるに、日本という名が助けているであろうと思う。日本という字はたいへん人に勢力を与える語である。もしこれに反して日の下といったならば、勢力を減ずるものである。例えばわれは日の本の民なりと呼べば、勇気勃然として起こるに相違ない。これすなわち日本国という名前に心が引き立てられ、したがって感化さるる故である。その日本も大日本と大の字を加えていうときは、一層元気を引き起こすものである。これに反して小日本というと、力を落とすであろう。故に大日本の名称は国家教育に非常に効があるとしなければならぬ。それから軍艦を設けるにも、兵隊を組み立つるにもよい名を選ばなければならぬ。また実際上よい名をつけてある。例えば扶桑艦といい、比叡艦といい、富士艦といい、みな高山の名をもって大きな強い考えをわれわれに与えるものである。その名が比叡艦なれば、比叡艦に乗り込んでいる水兵は、その名のために引き立てられて勇気を発するものである。また金剛艦というのは、金剛のごとく堅いということをもって人を教育している。もしこれに反して軍艦にわるい名をつけて、例えば煎餅艦もしくは豆腐艦のごとき名称を用いたならば、その乗り込みの水兵の勇気を減ずるに違いない。さてまた学校を建つるにも、学校の名がその生徒の道徳を導き、知識を進むる一つの方便である。例えば道徳学校という名をつければ、その生徒はいくらか道徳という名に薫化されてくるに違いない。しかしそれは名称教育ばかりについていったことだが、かく名称は教育の一部分である以上は、教育を完全するには、この法もすててはならぬ。かつ諸君が実際に当たってお考えになったならば、こういうところにも名称教育の実例があるということをたくさん発見なさるであろうと思う。そこで私が人はなるべくよい名を選びてつけなければならぬというのである。故に諸君が今まですでにつけ誤られたのは仕方がないが、もし今日名称教育の必要を感ぜられたならば、これから後、女なり男なりが生まれたときには、よき名を選んで、将来その子がよい方へ向くようにしようということに御注意ありたいと思って、御参考までに申し述べた次第である。

 これらの例によるに、遠くは日月星辰より、近くは己の一身までがみなわが教師にして、天地そのものが大なる学校すなわち教育場たることが分かる。この理を知らざるものは、吾人の周囲に活きたる書物が羅列してありながら、これを読むことを知らず、空しく死書をよむだけにて生涯を送る。世にかかるものの多きは嘆かわしき次第である。故に人の父兄たるものは、家庭にいるときより天地万象、事々物々、人々個々、みな活書なることを知らしめ、よくこれを読みて活学を修め、しかしてよく社会国家のために活動して、人生を向上せしむべきことを教え込まなければならぬ。

     三十二 教育と宗教

 教育と宗教とは最も親密なる関係を有していることは、いろいろの方面より証拠だてることができる。余はこれまで輿論に反対し、衆人にさきだちて唱道した事柄が三カ条ある。今これを自ら吹聴するは先見の明あることを自慢するように当たり、謙徳を欠くがごときも、愚者千慮一得の一例と思い、左に掲げておく。

一は、西洋崇拝主義の盛んなるに当たりて、東洋主義、日本主義を唱道したること。

二は、教育全能主義の行わるるに当たりて、教育宗教の二者相たすけ相待つべき主義を唱道し、あわせて学校以外の教育を振起すべき必要を主唱したること。

三は、多読主義のうちに立ちて、不読主義を唱道すること。

 明治二十一年前は西洋崇拝の最もはなはだしき時代にして、儒教も仏教も社会から排斥せられ、道徳を西洋に学び、宗教も西洋に倣うべしとの主義が輿論となるに至った。その結果、忠孝の大道も腐儒の寝言のごとくに度外視せられ、儒教に至りては全く愚夫愚婦の玩弄物をもって取り扱われ、日本固有の美術まで排斥せらるる有様であった。このとき余は微力ながら有志と共にはかりて政教社を起こし、雑誌『日本人』を発行して日本主義を鼓吹し、あわせて『仏教活論』を著し、東洋の宗教は理想の高妙なる点において、はるかに西洋の宗教を凌駕することを唱えた。また明治二十三年、教育勅語を下し賜りて以来、忠孝主義がにわかに勃興し、国学、漢学も共に復活を見るに至りしも、余はその前より東洋学の必要を唱え、明治二十年に創立せし哲学館の目的は、わが国に数千年間伝われる神儒仏三道の学、すなわち国学、漢学、仏学を専門とする東洋大学を設置するにありと発表し、その準備として普通科を開設し、またその当時宗教は野蛮の遺物にして、今日の文明世界には無用の長物と見なされ、一も二もみな学校教育によりて知識を開発すれば足れりとて、学校全能主義の盛んなるうちにおいて、教育宗教の親密なる関係を有する説を唱え、哲学館中に教育、宗教の二部を並置したことがある。その後新聞上にて政府の宗教監督の機関は、内務省よりも文部省中に置くべき持論を発表せしこともあった。また明治二十三年より哲学館拡張のために全国を一周することに取り掛かり、各所において東洋学再興の急務を述べ、あわせて学校以外の家庭教育と社会教育をして、学校教育と併行せしめざるべからざるゆえんを唱道した。しかるに今日に至りては、余が三十年前に唱え出せし主論がすでに実行せられたりしを見て、心ひそかに喜びかつ楽しみている次第である。ただし第三カ条の不読主義は今より二十四、五年前より唱えておるけれども、今もって行われぬのみならず、ますます多読の一方に傾くをみて不快不満に堪えず、ここに教外別伝の活哲学を発表するに至った。

 教育、宗教の別につきては、余は左のごとく述べている。

 人事を尽くして天命を待つは教育なり、天命を明らかにして人事を守るは宗教なり。

 

 すなわち教育は人事に重きを置いて説き、宗教は天命に重きを置いて説くの相違あるも、その実いずれも人生を向上することになる。宗教が天命に重きを置くは人事を離れたようなれども、その目的は人間をして人間以上に向上せしめんためである。前にもしばしば述べしがごとく、教育は人心中に良心の存することを説くも、それ以上に及ぼさぬ。しかるに宗教は吾人の有する良心の上に、宇宙の大精神すなわち世界の大良心の存することを説き、吾人の良心の本源を明らかに示す点は、たしかに宇宙との相違である。また教育は人間を本領としているが、宗教は宇宙を本領とし、しかも絶対の本体を基礎としている。また教育は学術より得たる知識道理によるも、宗教は人知以上の絶対を本とするをもって、知識を離れ信念によるの別がある。かくその性質全く異なれるところあれども、宗教は人間そのものの不完全を自覚し、これを完全ならしめんと欲し、絶対の域に進向せしめんとするものなれば、人生を向上せしむる点においては、教育とすこしも異なるところはない。

 教育において、人力の及ばざる生老病死のごとき運命は、これを天命に帰し善事を尽くしてみても、不幸災難にあう場合には、天命とあきらめよと教うるも、天命そのものはなんぞやと問わば、不可解のものと見なしてしまう。しかるに吾人はさっぱり分からぬ真暗の天命では満足せぬから、宗教にてはまずその天命のよって起こる源を明らかにし、吉凶禍福の定まれるゆえんを教うるに至る。かくして宗教は教育の不足を補うことができる。故に世間の迷信を減ずるようにするにも、教育と宗教との両方面より説き諭すようにしなければならぬ。また人格を作るにも教育より知識の修養を得、宗教より信念の修養を得て、始めて完成することになる。その他種々論ずべきことあれどもこれを略し、要するところは教育と宗教とは互いに親密に交わりて、互いに相助くべきものというに外ならぬ。

 宗教はその立つるところ大抵世界的にして、平等主義をとり、宗教眼中国家なし、忠孝なしというを常規とするが、教育なかんずく国民教育は国家主義をとるものである。またわが国の教育勅語の忠孝のごときは純国家的の教えである。この点は宗教の方にていかに調和を計るべきやは、教育方面よりときどき尋問せらるる問題なれば、ここに一言しておきたい。わが国の神道のごときは皇室教である、国民教であるが、仏教やヤソ教は世界教である。故に先年はたびたびヤソ教と教育との衝突も起こったことがある。今日でもややもすれば衝突を起こすかも知れぬ。しかし仏教においてはかかるおそれのないわけは、同じ世界教にても、仏教は表裏二面の立て方になっているからである。表裏二面とは表に世間道を置き、裏に出世間道を置く仕組みをいう。この二道のうちいずれに重きを置くかと問わば、その宗教の本旨よりいえば、出世間道に重きを置くと申さねばならぬ。しかし仏教は世間、出世間の中道を唱え、世間を離れて出世間なく、出世間を離れて世間なしとの主義をとる点よりみるときは、その間に軽重なしといわねばならぬ。しかして出世間道にては真如または仏を目的とし、世間道にては国家または皇室を主体とすることになっている。すなわちその教えが日本にあれば教育勅語に基づき、忠孝を本とせよと教え、あるいは君に奉ずるに忠をもってし、親に奉ずるに孝をもってせよと説き、あるいは王法為本を唱えている。故に余は国民教育の忠孝主義は仏教の世間道の教えとし、仏教と教育とは決して衝突すべきものにあらずと断言している。

 仏教の世間道は忠孝為本と一致すべきも、出世間道と教育勅語との関係いかんにつきては、更に疑問を抱かるる人がある。これに対して一言しておかんに、忠孝主義は世間道にて立てさえすれば足ることである。しかし出世間道は全く勅語と関係なしというわけではない。勅語の中には忠孝のみならず、五倫も五常もことごとく掲げて御示し下されてある。この外に人間の守るべき道なしといってよい。しかしながらその箇条は種々の徳目であるから、道徳の種子と名付くべきものである。その種子をわれわれの心のうちに入るるのは、畑へまきつけるようなものだ。これを穀物に例うるに麦や豆の種子をまこうとするに、地面はどんなになっていても構わず、まきさえすれば生い茂るかというに、そうではない。雑草が生い茂りたり、地盤が市街の道路のごとく小石まじりで固まっている所へ種子をまいても、決して工合よく生い茂るものでない。これと同じく勅語中に御示し下されたる道徳の種子を、心の畑の中へまきつけようとするに、われわれの心の地面は妄念の雑草が生い茂り、または欲心の石がまじりて固まっている。かかる心地へ道徳の種子をまいてみても無効である。必ずまきつける前に心の雑草を刈り取り、地盤をやわらげて、後にまきつけなければならぬ。これがすなわち精神の修養というものである。今日わが国民が教育勅語を拝読しても実行のできぬのは、心の地盤をやわらげる修養がないからである。この修養は教育でも与えるに相違ないけれども、心底の最も深きところより修養を与うるものは宗教にして、仏教のいわゆる出世間道である。

 教育にては良心を磨きて光をあらわすべきを教うるも、なにぶん人間本位なれば、良心の根源に立ち入ることを説かぬ。つまり上辺ばかりの修養に過ぎぬ。しかるに仏教の出世間道にては、良心の本源にさかのぼり、宇宙の大精神ともいうべき真如と、わが心との冥合一致すべきゆえんを教う。なにぶん人間の心中にある良心は小さくしてその力弱く、その光も薄い。これに加うるに心中に横たわれる煩悩の雑念はその力強くして、これを退治することすこぶる困難である。ここにおいて心底深きところより、良心の本体たる真如の大精神を引き入れて修養すれば、始めて根本的に修養ができ、煩悩の雑念にもたやすく打ち勝つことができると教えてある。他の例を引きて例うれば、水なき荒地に水田を作らんと欲し、その地面に小井戸を掘りてこれに注ぐは、教育の修養に比すべきものにして、地面の底を掘り抜き、噴泉を開きて注ぐは、宗教の修養に比すべきものである。よってその修養の功力において大なる相違があると申してよい。この点において仏教の出世間道と教育勅語との関係を知ることができる。

   第十講 宗 教 観

     三十三 哲学と宗教

 余は最初に哲学と宗教との別につきて大略説明しておいた通り、哲学に向上門と向下門とがありて、向上門は理論の方面、向下門は実際の方面である。すなわち向上門においては物心相対の地盤より進みて絶対の真際に向かい、向下門においてはかくして究めたる道理を、吾人人類の方に応用するのである。しかるに世間の哲学は向上の一方だけに偏向して、向下あるを知らぬ。これを余は死哲学と名付けた。しかして今日わが国の急務は向上よりも向下にありとし、向上の方は一通り古今の哲学者の説をみて、己のとるところを定むれば足ることである。その上に根ほり葉ほり瑣末のこと立ち入り、細かに詮議してみても、大体においては古人の説を反覆するまでに過ぎぬ。むかし平田篤胤が漢学者連の字句の詮議ばかりしているを見て、「魯の国の詮議する間に腰かがみ」といわれたるが、今の哲学者は「絶対の詮議する間に腰かがみ」ならばまだよいが、「屁理屈の詮議する間に穴に入る」有様なるには、あきれざるを得ない。むかしは文字の詮議に生涯を送り、いまは理屈の詮議に一生を費やす。これ五十歩百歩の相違にして、共に泰平の遊民たるを免れぬ。畢竟するに多読の余弊である、読書の中毒である。余が哲学の教外別伝を唱うるも、偶然にあらざるを知ってもらいたい。

 物質の学問がいかに分析解剖の方法により、新発明、新工夫に成功して世間を益するに至りたればとて、物質と全く性質を異にせる精神界において分析解剖を行うも、決して効果の挙がるべきはずなく、かえって道徳や宗教を破壊して、世道人心を撹乱するに過ぎぬ。また植物や動物において試験して得たる成績を直ちに人類の上に当てはめ、万物の霊長たる人間の倫理を考定せんとするがごときに至りては、本気の沙汰にあらず。ほとんどキの字を冠せざるを得ざるくらいである。ここにおいていよいよますます人間を堕落せしむるに至った。これに反して東洋の学風は向上よりも向下に重きを置き、分析よりも総合をとり、推理よりも直観により、微細なる詮議よりも自然の大観を用い、単刀直入にして宇宙の真理を一握しきたり、直ちにこれを人生の実際に当てはむるものである。宇宙の真理は直覚的大観を待ちて知るべきゆえんは、われわれが始めて面会したるときに、この人は善人か悪人か、利口か馬鹿かを直覚することができるが、たびたび相会し相交わりて、その人をいちいち分析し推理するようになると、かえって分からなくなるものである。また初めて面会したときには親子兄弟、実によく似ていると思うが、長く交際すると、少しも似ておらぬように感ずるものだ。画を見ても真偽の鑑定は一目したる直覚のときによく分かり、微細なる点までを分析するようになると、かえって分からなくなるということだ。これと同じく、宇宙の真理も分析推理より直覚大観の方がかえって分かるものである。これ東洋哲学の西洋哲学に勝る長所とみなければならぬ。しかるに今日のわが国の哲学者は、己の長所を捨てて西洋の短所をとり、その結果は宇宙の真理を握ることもできず、道徳を破壊し、人生を堕落せしめんとする傾向がある。よって余は時弊を矯正せんとの微衷より、世界の学者、天下の学生に対抗して、活学活書の旗を懸くるに至った。

 さて余の活哲学は向下に重きを置くから、その定義は理論を向上せしむるにあらずして、実際上人生を向上せしむるの学とし、実行上人生を進めて絶対に近づかしめんとする目的である。この点において宗教と相合するに至る。余はかつてより哲学の直接の応用は、道徳と宗教、なかんずく宗教なりとの説を唱えきたった。ただし普通の宗教と哲学の宗教とはその性質を異にしている。普通の宗教は初めより道理を用いず、信仰一方であるが、哲学の宗教は道理を究め尽くしてのち信念を起こす方である。このことも前にすでに一言しておいた。もしその例を挙ぐればヤソ教は信念一方によるものなるが、仏教は道理と信仰とを併置し、道理上より信仰を組み立つるものなれば、余は仏教を呼んで哲学的宗教と名付けておいた。

 宗教は哲学的なると非哲学的なるとを問わず、信仰信念を主とする点は哲学と違うと申してよい。哲学は学問である。学問は知識道理によるものである。たとえ哲学は知窮まりて信を生ずるにせよ、知力の及ぶところまではあくまで道理を究めなければならぬ。ここに至りて哲学と宗教とが分かるようになる。しかれどもかかる区別を立てて説明するのはやはり哲学である。故に哲学と宗教とは互いに密着して、相離るべからざる関係を有していることが分かる。よって余は宗教をもって哲学応用の極点、向下門の至極であるとする。

 つぎに倫理はいかんというに、これまた哲学の向下門に属するも、その範囲が相対的にして、しかも人間本位であり、かつ知識性のものなれば、宗教よりも浅くして卑しく、宗教に入るの初門というべきものである。宗教が大乗ならば、倫理は小乗である。倫理の方にてもいくぶんか、宇宙の大精神より伝えきたれる先天の声を良心中に聴くことを得るも、未だその光、その形に接触することはできぬ。この倫理より一歩を進むれば始めて宗教の門内をうかがうことができる。また教育は前講に述べしがごとく、知識的にして信念的にあらざれば、信念の修養をなすことあたわず、倫理と教育と相伴うてかえって真の道徳を破壊するに至った。余がこれにつきて賦したる長編がある。

幕雲ようやく消え政天新たなり、皇日照遍す率土のみぎわ。千載古木生気をめぐらし、知識花開く明治の春、村々落々校舎を設け、就学には問わず富と貧とを。喜び見る山中に暦なきところを、児童日夜書と親しむ。学嶺は巍々として欧米をしのぐ。知眼烱々として乾坤を照らす。いかんして人情ますます浮薄なるを、義に背き徳にもとり利これはしる。畢竟教育は知育に傾き、由来忘却す徳源を開くを、徳を進ますには必ず信念を修むべし。信を修むるには宗教の門に入るを要す。一朝学鋒法城をうたば、信門を破壊し徳行をやぶる。滔々として天下長嘆に堪う。眼有るも足なきは常病たり。請う見よ東西古今の中を、信骨徳肉すなわちこれ聖。知徳兼ねたる全人を造らんと欲すれば、すべからく宗教により信性を養うべし。

 

 

 

 

 

 これまた教育倫理の欠点は宗教をもって補わざるべからざるゆえんである。

 シナの文字は象形文字にして、形を見てその意味を判ずることができるが、余が百姓的解釈を漢字の上に与うれば、哲学の哲の字は折の字と口の字とを合したる文字である。これを読み下さば口を折るという意味になる。すなわち世間の哲学者が口に向上的理屈ばかり説いて、向下的実行を顧みないから、その口を折って向下せしむる意味とみてもよい。宗教の宗の字はウ冠の下に、示の字を加えてある。そのウ冠は宇宙を意味し、その下の示は開示の義にして、宇宙の真理を直ちに人間に開示して実行せしむるの義とみてよい。つまり哲学は向下門において宗教と一致する意味を、文字の上からもあらわすことができる。余の格言に、

世間原野のごとく、哲学は山岳のごとし。宗教は河水のごとく、源を哲学の山岳に発し、流れて世間の原野を潅すは宗教なり。

 

と説くのも、宗教は哲学の応用なることを示したるものである。

 今日の哲学者が理屈の向上のみに走るために活動することなく、沈静に陥るから、余は死哲学の名を与えたのであるが、もし向下に向かって実際を主とするに至らば、自然の勢い、活動せざるを得ざるに至る。また世間の哲学が外界に対して向上一方に傾くから、その弊は己の心内を顧みず、良心の修養を怠るようになっている。もし哲学が向下の方面に向かい、宗教と合体するようになれば、活動すると同時に、良心の修養を心底に求むるに至り、ただに外界の方へ知眼を放ちて、絶対の外景を認むるのみならず、信仰の足によりて、心底最深の点に進入し、絶対の内景に接触して、真善美の光を仰ぐに至るべきわけである。要するに人生の目的、吾人の天職は道徳的に活動するに外ならざれば、哲学と宗教とが合体せざるにおいては、決してその目的を達し、その天職を果たすことあたわざるは明らかである。

     三十四 宗教の活動

 今述べしがごとく宗教は道徳的にして、活動的のものである。もし宗教に道徳を欠いたならば、砂糖に甘味なく、醤油に塩気なきと同様にして、効能なきものとなり、宗教に活動を除いたならば、生物に生気なきがごとく、死物となる。しかしてその道徳は心底深きところより発し、宇宙の本体たる絶対関内より漏れきたるものであり、その活動は外に対しては天地の活動より誘発せられ、内に対しては絶対の窓たる良心のうちに、宇宙内包の大勢力が噴出しきたるものである。故に宗教は必ず活動的ならざるを得ない。しかるに東洋の宗教、なかんずく仏教が厭世悲観に傾ける風あるは、さきに説明せしがごとく、その国の事情とその時の風潮とに促されて、知らず知らず死物的状態を現ずるに至ったのである。

 仏教の厭世的の風を帯ぶるは、釈迦在世のときに起こりたるものなれども、そのときは厭世大好物のインド人を引き付けんとする応病与薬の方便であった。それ故に裏面には大々的活動の精神を含めてあったが、釈迦死後、門弟らの活眼なきために、表面の厭世を見て仏説の真面目と心得、かつその後の社会の事情が厭世を歓迎する有様であったから、ますます厭世風を帯ぶるに至り、シナに伝わりてもその風を継続するようになったのである。しかるに今日は、仏教の裏面に潜在せる大々的活動の精神を発揮すべき時節到来せしも、いかんせん一般の仏教家は頑眠未ださめず、死書のみを読みて活書あるを知らず、死学ばかりに心を注ぎて活学あるを顧みず、死仏教のうちに生涯を送るは、ひとり仏教のためのみならず、国家社会のために遺憾限りなき次第である。

 大乗仏教の本意よりいえば、有に偏せず、空に偏せず、二者の中道を得るにあること明らかなれども、従来の仏教は空に偏する方のみを取りきたっている。例えば般若心経のごとき、真宗を除くの外は各宗にて最良無二の経文として伝えおるも、これ空の一偏を説きたるものなれば。今日に適せぬこと明らかである。もし中道の理よりみれば、空に対して有の一偏を説きたる般若心経もあるべきはずだ。この考えに基づきて余の自作せる般若心経がある。これを大正般若心経と名付けておく。

観自在菩薩、深く般若波羅蜜多を行ぜしとき、五蘊のみな有なるを照見し、一切の苦厄を度す。舎利子よ、色は空に同じからず、空は色に同じからず。色はすなわちこれ色、空はすなわちこれ空。受想行識もまたかくのごとし。舎利子よ、この諸法に相あり、生あれば滅するあり、垢あらば浄あり。増あらば減あり。この故に空外に色あり、受想行識あり。眼耳鼻舌身意あり、色声香味触法あり、限界ないし無意識界あり、無明あり、また無明尽あり。ないしは老死あり。また老死尽あり、苦集滅道あり。知ありまた得あり、有所得をもっての故に、菩提薩埵は般若波羅蜜多によるが故に、心に苦楽あり。苦楽あるが故に、究竟の楽あり。遠く一切顛倒夢想を離れ、涅槃を究竟す。三世諸仏は般若波羅蜜多によりての故に、阿耨多羅三藐三菩提を得たり。故に知る般若波羅蜜多はこれ大神呪、大明呪、これ無上呪、これ無等等呪なり。よく一切の苦を除き、まことに虚ならず。故に般若波羅蜜多呪を説かば、すなわち呪を記して曰く、「羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶」と。

 

 

 

 

 

 

 

 これは余の戯作に過ぎざれども、仏教を読むものをして般若皆空の裏面には、般若皆有のあることを知らしめんためである。しかしてその要は有空の中道にして、時代と相手とに従って、あるいは空の一面を示し、あるいは有の一面を示すにある。これすなわち仏教のいわゆる法輪を転ずるというもので、かくのごとく転ずるを活転と名付けてよい。しかるに今日の僧侶はこれを死転している。元来僧という文字の意は、和合衆を義とすと聞いているが、漢字にてはかつての人という文字である。かつてとは過ぎ去った意味で、昔を指す。されば僧とは昔は人であったが、いまは人でないという義になる。これを更に説き替えれば、昔は人らしく働いたが、今は人らしくないという義にもなり、昔は生きて人となっておったが、今は死んで働かぬようになってしまったという義にもなる。これと同時に仏は弗〔ドル〕の人である。弗は金のことなれば、いわゆる地獄の沙汰も金次第であって、仏の道も金次第、仏に金さえ差し上ぐれば、諸願成就の意にもなる。今日の僧も仏もそういう意味になっては、誠に困ったことである。

 余がかく悪口を述ぶるの意は、平田篤胤の悪口とは違い、護国愛理の一念より、なんとかして仏教を活かし、その光をして日本全国を照被するのみならず、世界万国を輝かしめたき衷心より出であるものなれば、仏教僧侶たる方々の叱責なきことを望む。もしまた叱責ありても、余はこれをもって己が人間に生まれたる天の使命と心得ているから、あえていとわぬところである。齢すでに還暦に近づき、頭の過半は白雪をいただき、早晩鬼籍の方へ戸籍替えをする身となれば、かれこれ差し控えていることはできぬ。遠慮なく心底にあることを吐露して、使命を全うせざるを得ざれば、かく苦言を仏門に呈するに至るのである。余は幸いに明治、大正の隆治に会い、国恩の有り難きことを衷心に感ずるも、これに報答する道なく、ただ今日の哲学と仏教とを活動せしめて、国恩皇恩の万一に報答し奉らんとする外に、なんらの念もなく望みもない。左に余の素志を述べたる拙作を掲げておく。

皇恩と祖恩とに報いんと欲し、多年野に臥して和魂を養う。法苗今日まさに枯死せんとす。たちて活泉をくみ仏園をそそぐ。

微衷いささか皇恩に報いんと欲し、北馬南船して席温まらず。無位無官わが事たれり、終生なんぞあえて権門を伺わんや。

日につき月にすすみ文運新たに、聖恩の余沢微臣に及ぶ。生まれて昭代にあうわが栄大にして、なんぞ願わん勲章を老身に飾るを。

北馬南船老涯を送る。今年また背く墨堤の花、山に死し海にたおれるもなんぞすべからくいとわん。天地元来これわが家。

 西欧今日戦雲くらし、東洋に波及して国論を動かす。だれかわが身をして物外に遊ばしむ。悠々道を講ずるもまた皇恩。

 

 

 

 

 

 わが国の仏教は各国共に海外と交通せざる鎖国時代に発達しきたり、ことに徳川三百年間の悠長時代に隆盛を極めたるものなるが、今や海外交通、万国競争の別天地になりては、大いに面目を一新すべきが当然である。これを例うるに、昔の鎖国時代は国の四辺に屏風を立て回したるようなものだ。そのときは海外より寒い風が吹き込んでこぬから、単衣を着ながら昼寝をしていることができた。しかるに今は鎖国の屏風がすっかり取りはずされて、四方より寒い風も、強い風もしきりに吹きくるようになりたれば、世間はみな綿衣をまとうて働いているのに、仏教家ばかり単衣を着、日向して遊んでいるわけにはゆくまい。仏教の法衣を着替えて活動奮闘せねばならぬ。その法衣とはなんぞやというに、仏教は前に一言せしがごとく世間道、出世間道の二道が備わっている。そのうちむかしは海外より寒い風が吹きこらぬから、世間道の綿衣を脱ぎて、出世間道の単衣のみを着ていたが、今は寒い風が吹きくるから、出世間道の単衣の上へ更に世間道の綿衣を着なければならぬという意味である。

 余が作りたる一口話のうちに、現今の日本の仏教は大乗教でありながら、その僧侶に羅漢の多いには驚いた。いかなる羅漢かといえば波多羅漢(働ラカン)という羅漢であるとの戯談がある。すでに今日は表に世間道を振り立てて、大いに社会に活動すべきであるに、その働きのできぬのは、いくぶんかは積年の惰力の未だ除かざる点もあれども、資力財源の枯渇せるに起因している。故にその罪をひとり僧侶に帰することはできぬ。人はみな言う、ヤソ教家はよく社会のために活動すと。もしわが国にあるヤソ教会への一銭一厘も、海外諸国より供給しきたらずとせばいかん、必ずヤソ教家の活動は全滅するであろう。すなわちかの活動は財源豊富の力である。もしその財源を仏教家に与えたならば、かれ以上の活動ができるであろう。また局外の人は今日百般の事業が着々改良を受けて発展しているのに、仏教ひとり依然として旧態を存するは、僧侶の意気地なきを知るべしなどと論ずるものあれども、これまた妄評である。今日わが国に政府の命令、監督、保護なくして、果たして単独に改良発展のできたものはいずれにある。もし政府が教育を人民に一任して一切手を下さざるにおいては、今日なおむかしの寺子屋教育を存するであろう。また政府が医術も人民に一任して一切監督せざるにおいては、今日なお草根木皮が勢力を占むるであろう。農業でも工業でもすべて政府の掛け声によりて、着々改良の実を挙ぐるに至ったのである。しかるにひとり宗教に至りては、明治維新当時より政府は全く放任し、否、一時はこれを排除せんとする勢いまでを示し、国民もこれを度外視し、あるいは邪魔物、厄介物として今日に至ったのである。故に改良発達のできざるはむろんにして、自滅すべきがかえって当然なるべきに、今日依然として旧態を存するだけが、僧侶の力として大いに賞賛すべきことと思う。

 右の事情なれば、仏教家が十分なる活動のできぬは、万やむをえざることとしなければならぬ。今にわかに内地において財源を開く道もなく、外国より供給を受くる見込みもなく、また維新以前のごとき保護を政府より受くることもできず、本山も末寺も多くは伽藍維持に困難して、他を顧みるにいとまなき有様なれば、いかにその心にて活動を望んでみても、手足が思うように動かぬから致し方がない。しかし余はここに一言しておきたい。日本の仏教はヤソ教と全く事情を異にし、かれは順境にありて、順風に帆を掛けて走るがごとく、われは逆境にありて、逆風にさかのぼるがごとく、その難易同日の比にあらざるも、その百難千苦の中に立ち堅忍不抜、自彊不息の精神を発揮し、奮進活闘するは、実に人生の真味を感じ得るところにして、困苦のうちにおのずから無限の快楽を含むものなれば、仏教家たるもの事情の許す限り、百難万艱を排して大いに国家社会のために活動尽瘁せられたきものである。

     三十五 仏教の改良

 仏教の改良に関しての余の意見は、先年すでに『活仏教』のうちに掲げて世に公にしたれば、今更ここに繰り返すには及ばぬ。ただしその書中に漏らせし点もあれば、拾遺のつもりで、余の活学活書主義をその上に加えて論じたい。それにはまず仏教研究の方法の改良より始めなければならぬ。今日の仏教僧侶くらい、修学に多大の重任を負わされているものはなかろう。むかしの僧侶はその一宗の学問だけにて足り、たまたま普通学として四書五経が読めさえすればたくさんであった。しかるに今日は仏教の研究も一宗一派にとどまらず、ひろく諸宗を兼学しなければならぬ。また世間が一般に知識の程度が進んできたから、少なくともこれに劣らぬだけの諸学を兼修せねばならぬ。まず一カ寺の住職となるには、世間の中学を修め、その上に仏教中の宗学余乗を修めねばならぬ。故に僧侶の修学は普通人の二倍の能力を費やすことになる。しかもその仏書の研究に至りては、文章といい文字といい、解し難く読み難く、すこぶる困難なる上に、教授法に至っては旧式の詰め込み主義で、死学中の死学を授けられ、その結果、能力は全く活気を失い、卒業後活動のできぬ人物となってしまう。世間の学風が死書死学に傾きているが、仏教はそれ以上の死書死学に陥りている。

 わが国において始めて仏教を達意的に研究する必要を唱え、かつこれを実行したのは失礼ながら拙者であると思う。さきに東京大学在学中よりこの主義をとり、その後自ら達意的の著述をなし、更に哲学館設立に及び、仏教の講師に書籍によらずして、達意的の講義を授くるように依頼をしたのである。創立以来十年を経て、仏教専門科開設の準備として仏教専修科を併置したが、これは純専門の方なれば、旧来の仏書につきて講義を授くることになった。しかしそのときでも、なるべく達意をもって授くるように講師の注意を願うておいた。かく達意主義をとっているけれども、なにぶん仏経の原本がある以上は、達意ばかりでも本文が全く読めなければ不都合というわけで、各宗の大学では本文につきて講義している。しかしこれはぜひとも大革新を実行しなければならぬと思う。

 この死学革新の方法としては、各宗共に漢文の経典はことごとくこれを和訳することより始むるがよい。西洋にてヤソ教の経典すなわち『バイブル』は最初はヘブライ語であったのを、ギリシア語、ラテン語に訳し、更に西洋各国語に訳してある。しかして今日はユダヤ人の外はヘブライ語の『バイブル』を読むものなく、ラテン語の『バイブル』は旧教に限りてこれを用う。新教に至りては全く近世語、すなわち各国の普通語に訳したるものを用いている。これに仏教を比較すればかのヘブライ語はサンスクリット語に当たり、ラテン語は漢文に当たり、近世語は日本現在の普通文に当たるわけである。ただいまにてはサンスクリットの原本は和漢共に用いざるも、漢文の経典は各宗ことごとく用いている。これだけは全廃したいものである。むかしシナにインドより仏教の伝来せしときは盛んに訳経が行われ、すでに訳し終われば、サンスクリット語の原本は焼き尽くしたということだ。これは実にその当時の活眼であって、原本を残しておけば、いたずらにこれを学ぶものができてくる。もし焼き捨ててしまえば、かかる死学をするものはなかろう。わが国にても各宗合議の上、委員を設けて仏書の和訳に着手し、すでに訳し終わらば、原本を没収するようにしてもらいたい。もし焼き捨てることができぬならば、本山の宝蔵に秘蔵しておくことにしたい。しかして仏学を研究するものは、各宗の中学大学を通じて和訳だけを用うることにしたいものである。もし天性の道楽で漢文経典を研究するものは、一宗に二、三人くらいありても差し支えなく、かつそのくらいでたくさんである。また各宗祖師の著書にも漢文のものが多いが、これもすべて和訳するがよい。しかしてその和訳にも解し難き文字は解しやすき字に改め、文章も文意を傷つけぬ限り、解しやすき文に改むるようにしてもらいたい。かくするときは僧侶の修学に非常の便益を与うるはもちろん、門外の人にまで仏書をたやすく読み得るの便を与うることができる。

 この方法によりて僧侶修学の負担を軽くし、そのあましたる時間は社会の活動に当てはむるようにしたい。また従来用いきたれる大部の書、例えば天台の三大部のごときは、その要所だけを存して、他はこれを省くようにしたい。また従来の研究には祖師の相承を重んじ、例えば真宗のごときは七祖相承と称して、宗祖の一言一句、これを七人の祖師の遺書に引き合わせ、この語は第何祖のなんの語に当たると、いちいち考証することになっている。これは実に愚の至りでありて、昔、悠長時代の死学の余弊を伝えたものである。よって今日は真宗ならば浄土三部経と宗祖の本典とを対照するをもって足るわけで、シナの祖師などには構うに及ばぬ。また余乗として兼学する倶舎唯識などは、その要をつまんで書いたものを読むだけにとどむるがよい。

 仏教信徒に一種の迷信があって、葬式法事の場合に読経の長い方が効能があるように思い、浄土宗や真宗にては法事ごとに浄土三部経を通読せしめ、天台宗、日蓮宗などでは法華八巻を通読せしむることになっている。この風も改めてもらいたい。読経の長きよりは儀式を丁重にする方がよい。浄土宗、真宗ならば儀式のときには三部経の代わりに阿弥陀経か讃仏偈にて足り、天台、日蓮ならば八巻の代わりに普門品か寿量品にて足ることと思う。かくして時間と能力とを節約して余したる分は、これを社会の活動に当てはむるようにしなければならぬ。これがすなわち仏教方面の活学というものである。

 仏教家が社会に活動するには、他力でなく自力を主とせねばならぬ。しかるに真宗のごときは他力宗である。これを浄土宗に比するに、浄土宗の方は一分自力を許すから、真宗にてこれを半他力宗と名付け、自宗の方を純他力と申している。しかれども余のみるところにては、真宗もまた半他力宗であると思う。そのわけは真宗にては世間道、出世間道という代わりに、俗諦門、真諦門の名称を用いている。この二門は双輪両翼と申して、相離るべからざるものと立て、俗諦門の方にては玉法為本、仁義為先を説き、真諦門の方にては念仏為本を説くの定め方である。しかして純他力というのは、真諦門の方にして、俗諦門は全く自力であり、また自力でなければならぬ。しかるときは真宗の二諦中一門は自力、他門は他力、すなわち半他力となるわけである。また真宗の念仏は報謝の念仏と申して、御礼のことばである。かかる浅ましきわれらのごとき悪人が、仏の大慈大悲の御光によりて、一切の悪業煩悩が消滅した以上は、その御恩に対して御礼を申しあげねばならぬ。その心が口に発して南無阿弥陀仏となる。よって余の道歌に、

  苦も楽も仏に任せ奉り、ただ有り難や南無阿弥陀仏

と述べておいた通り、報謝のことばに過ぎぬ、もし口に御礼を申し上ぐるならば、行為において報謝の意を表さねばならない。しかしてその行為としては、われらが国家社会のために人力の有らん限りを尽くすことになる。ここにおいて真宗の俗諦門の自力は、仏になるための営みにあらずして、仏に対して御礼の営みとなるように思う。

 つぎに仏教各宗が社会に活動するには、これに相応する資力財源を要するであろう。いかに禅宗は無一物宗でありても、一文なしでは活動ができぬ。もし政府の保護も外国の提給もなしとし、本山の助力も得難しとすれば、自活自営によりて財源を作る道を講究しなければならぬ。ここにおいて寺院の副業の必要が起こってくる。まず教育方面に対しては、学校教員を兼務するがよい。そのほか寺院のうちに簡易幼稚園を置いて幼児を監督すること、日曜教会を設けて少年を教誨すること、夜学校を開きて青年を教育すること等が、僧侶に適当の副業である。また実業方面にても果樹、盆栽、養蚕、製茶等、寺院の体面を汚さざる限り、これを副業に加うるはやむをえぬことと思う。その他地方の状況により、相当の兼業のあるべきはずなれば、各自において考究しなければならぬ。なにぶん今日までの宗教家が死書を読むことのみをつとめ、活書を読むことを知らざるために、寺院維持法も立たぬようになったのである。

 仏教家中の青年にして、身体強健なるものは、今後海外へ向かって活動するがよい。今日では地球上至る所に日本人が入り込みおるから、宗教家もこれに伴い、自活しながら布教するようにしなければならぬ。西洋の主なる国では、世界中へ宣教師を派遣し、その国その地の民情、風俗等を視察せしむることになっているが、わが国ではその道がまだ開けておらぬ。よってただいまでは自活する決心で各方面へ渡航するがよい。どうしても将来日本人が世界中の各方面に発展しなければ、国運の発展ができぬから、宗教家たるものが、まず先鞭を着くるようにしたいものと思う。かく考えきたらば、仏教家の引き受くべき仕事はたくさんあるに相違ない。なにぶんこれまでの僧侶が死書を読み、死学を修るだけを得意としているから活動ができぬのである。今より後は活書をよみ、活学を修むるように心を用いてもらいたい。

     三十六 哲学的宗教

 前に述べしがごとく、宗教に信仰一方より立つるものと、道理より進んで信仰に入りて立つるものと二通りありて、前者は単純の宗教、後者は哲学的宗教というべきものである。余は『真理金針』および『仏教活論』においてヤソ教は単純の宗教にして、仏教は哲学的宗教なるの別あることを示し、これと同時に将来の宗教はヤソ教よりも仏教の方が適することを説き、ただ仏教のヤソ教に及ばざるの点は実行上葬祭のみを本務として、公共事業、慈善事業等に尽くさざるにありと論じておいた。今日においても、余はやはり世界の人文の進歩に伴い得べき宗教はヤソ教にあらずして仏教なりと信じている。しかしわが国の現状をみるに、仏教も信ぜず、ヤソ教も信ぜざるものが多い。そのうちにはなにか信じたいと思いながら、ヤソ教は浅薄にて物足らぬように思い、仏教は従来愚夫愚婦の教えと見なされし故、これを信ずるもきまりが悪いというような考えを持っている人もある。そこで余はかかる人には新宗教を作りて、授くる必要があると思う。

 ヤソ教は極めて窮屈であるに反し、仏教は非常に寛大のところがある。その点ではヤソ教は火のごとく、仏教は水のごとしといってもよい。仏教がシナに入れば、儒教を敵とせずしてよくこれをいれ、日本に伝わりては、神道を敵とせずしてよくこれと和したるは、その寛大なる実例である。故に今新たに哲学の道理に基づきて、新宗教を設置しても、仏教は必ずこれを認容して、その教えの一部と見なすに相違ない。ただ現在わが国に弘まりている各宗各派は、格別に祖師開山をもっているから、その立つるところもしたがって狭く、少し説き方が違うても、すぐに外道とか、異安心とかいって排斥するが、仏教全体より見、もしくは釈迦の眼中より見るときは、いやしくも真理を認めて立てたるものはみな仏教とすることができる。またヤソ教といえども真理の一部を有しているとみれば、仏教の一派と認めて差し支えない。

 余は仏教革新を唱うるも、その意は別に宗派を開くにあらずして、従来の各宗各派を促し、その宗意に基づきて社会に活動せよという趣旨である。故に哲学上新宗教の考案を述べたればとて、余が別に一宗を開立するつもりなどと誤解せられぬことを望む。ただ余は世間に信仰を求めて帰するところを知らず、中途に迷うておるものが多いのに対し、もし哲学の上より宗教を説いたならば、かくのごとき宗教ができるであろうというだけを参考までに掲ぐる次第である。しかしてその宗教はやはり仏教にして、ただ外部の着物を着替えたまでであると思う。

 仏教にては前にも掲げた通り、「一切世間皆 是仏法也」とも、「所有経書記論伎芸文章皆是仏法」とも説き、また「一切世間外道経書皆是仏説」とも説いてあるから、いかなる説も真理を含有せりとみる以上は、みな仏法として取り扱うても差し支えないはずである。孔子は述べて作らずといい、尭舜を祖述し、文武を憲章にすといわれしも、釈迦は自ら宇宙の真理に体達して、その光景を開示せられたるものなれば、余のいわゆる活眼によりて宇宙の活書を看破せられたる人である。故に何人にてもその活眼をもってこの活書を看破するを得ば、みなこれ仏であり、その光景を開示すればみなこれ仏説であるわけだ。余はここに自ら案出せる哲学的宗教を述ぶるに当たりて、かつて作りたる哲学和讃を掲げたいと思う。この和讃の終わりに宗教の一端を述べて結んである。

第 一 首 人類ありし始めより、   知恵の林におもむろに、

      栄えてここに哲学の、   花の開くる世となりぬ。

第 二 首 広き世界に哲学の、    起こりし源を尋ぬるに、

      月日は定かならざれど、  四千年余も前ならん。

第 三 首 四千余年のそのむかし、  東西洋の区別なく、

      人の心の泉より      哲理の水は湧きだせり。

第 四 首 太古時代の原人が、    天を仰ぎて不可思議の、

      感にうたれしそのときは、 哲学界の曙光なり。

第 五 首 人と獣とを区別する、   道にいろいろあるなれど、

      哲学思想の有るなしを、  その一点に数うべし。

第 六 首 広大無辺の哲学は、    大は宇宙の極度より、

      小は微塵の末までも、   論じ尽くして漏らすなし。

第 七 首 宇宙の間に羅列せる、   万のものはことごとく、

      真理の筆で書かれたる、  哲学上の活書なり。

第 八 首 人は小なる宇宙にて、   宇宙は大なる人なれば、

      心によりてこの二者を、  結び得らると知れよかし。

第 九 首 人の心に備われる、    理想の窓よりうかがわば、

      絶対無限の光景も、    はるかに認め得らるべし。

第 十 首 真理を究むる哲学の、   眼の前に草も木も、

      美妙の色を浮かべつつ、  心の窓に入りきたる。

第 十一 首 物欲深き世の人の、    暗き心も哲学の、

      真理の光に照らされて、  人格高き人となる。

 

 

第 十二 首 例えによりて哲学の、   効能書きを掲げんに、

      霧海における羅針盤、   暗夜を照らす常夜灯

第 十三 首 もしも哲学なかりせば、  多くの人は迷信の、

      雲に迷うて生涯を、    暗夜のうちに終わるべし。

第 十四 首 近く世界に人文の、    開くる御代となりたるは、

      人の心に哲学の、     久しくきざしし故ならん。

第 十五 首 仰げば高き孔孟の、    教えも唯我独尊の、

      釈迦の教えも哲学の、   庭に咲きたる花と知れ。

第 十六 首 釈尊、孔子、ソクラテス、 カントの四大聖人は、

      哲学界に主なれば、    哲学堂に祭りけり。

第 十七 首 哲学好む人々は、     この大聖の後を継ぎ、

      迷いの雲を押し開き、   真理の月を探り出せ。

第 十八 首 論理の舟にさおさして、  物心の上にさかのぼり、

      理想の馬にむちうちて、  絶対の峰に登るべし。

第 十九 首 いとも尊き絶対の、    体より放つ光をば、

      三つの景色に分かちては、 真善美とぞ名付けける。

第 二十 首 哲学を海にくらぶれば、  百科の学は川ならん、

      流れて末はその海の、   潮となりて一味なる。

第二十一首 百科の学の進歩にて、   事々物々の隅までも、

      究めしのちは哲学の、   無限の淵に流れ入る。

第二十二首 哲学を日に例うれば、   諸学は月のごとくなり、

      二つの光かがやきて、   人間界を照らすなり。

第二十三首 諸学の月のかがやきて、  浮世の闇を照らすのは、

      哲学界の太陽の、     光の反射に外ならず。

第二十四首 ただ一体の太陽の、    周囲に惑星あるごとく、

      哲学界の天地にも、    学派の星は輝けり。

第二十五首 古往今来哲学の、     学派起こりて争いぬ、

      その旗色をながむれば、  群雄割拠の景色あり。

第二十六首 哲学界の歴史とは、    唯物唯心の争いと、

      一元多元の戦いの、    跡をとどむる古戦場。

第二十七首 一元論の火の前に、    長き世を経てかたまりし、

      唯物唯心の争いの、    氷もとけて水となる。

 

 

第二十八首 物と心の関係は、     離れて離れぬ絶妙の、

      不一不二とぞ定むるは、  一元論の極致なる。

第二十九首 この一元の本体は、    不可思議中の不思議なり、

      心ことばも及ばねば、   絶対無限と名付けたり。

第 三十 首 宇宙の森羅万象は、    その絶対の波にして、

      時方二系の際なきは、   その発したる光輝なり。

第三十一首 かかる無限の月影は、   知識の水にうつらねど、

      ただ信念の窓にのみ、   入りてさやけく見えにける。

第三十二首 知識をすてて信念の、   窓よりながむるそのときは、

      哲学界より宗教の、    門に入りたる時と知れ。

第三十三首 知識の力窮まりて、    信を起こせる宗教は、

      哲学上に築きたる、    万古不動のものたらん。

第三十四首 人の心の奥底に、     知恵のみならず信念の、

      眼も口も備わりて、    無限を感ずる力あり。

第三十五首 知恵の眼に映じたる、   無形無色の絶対が、

      信の前には人格の、    姿をとりてあらわれん。

第三十六首 知識の波の静まれる、   ときに発する先天の、

      声のみならず色までも、  近く接して美妙なり。

第三十七首 かかる美妙の光景に、   接して彼我の見滅し、

      大悟のときは宗教の、   真趣得たりと知らるべし。

第三十八首 人のいわゆる哲学と、   われのいわゆる宗教は、

      一つの体に両面の、    関係あるに異ならず。

第三十九首 宇宙の体にやどりたる、  無限の霊を究むるは、

      知識によれる哲学の、   任務なることむろんなり。

第 四十 首 もしその霊の本体に、   われを融合せしむるは、

      哲学外に宗教の、     受け持ちなりと記憶せよ。

第四十一首 万の物のかしらたる、   われらを生みし世界には、

      心も霊も備わりて、    生きたる体に相違なし。

第四十二首 世界の霊が信念の、    窓にうつりて絶妙の、

      姿を示すそのものを、   神や仏と名付けたり。

第四十三首 哲学好む人にして、    仏を信じかぬるなら、

      南無阿弥陀仏の代わりには、南無絶対と唱うべし。

 

第四十四首 南無絶対と呼ぶうちに、  心の高きところより、

      いとも妙なる先天の、   声と光を発すべし。

第四十五首 南無絶対と南無阿弥と、  唱うる声は異なれど、

      悟り上げたる境界は、   同じ高嶺の月を見る。

第四十六首 かかる信念持つ人は、   普通の宗と異なれば、

      哲学流の宗教を、     信ずる人と名付くべし。

第四十七首 信じて仰げば絶対の、   体より放つ真善美、

      その光明に照らされて、  人の心は神となる。

第四十八首 神と仏の実在を、     信の眼によらずして、

      知恵に照らして探らんと、 思う人こそ愚かなれ。

第四十九首 人文進める今の世に、   知恵のみありて信のなき、

      不具の人のできたるは、  哀れむべきの至りなり。

第 五十 首 かかる道理を明示して、  人のまことの信仰を、

      与うるものは哲学の、   賜物なりと感謝せよ。

 この和讃によりて余の哲学的宗教の大体をうかがうことができるであろう。

 哲学の向上的方面は、帰するところ宇宙の本体たる絶対に至りてとどまる。この絶対を向下門に開ききたらば、直ちに宗教となって現れてくる。ただしこれを宗教とするには、その絶対が大活物となり、真善美の光を放ちて、吾人の精神界に現前するようになるを要す。これは到底知識の眼では見ることができぬ。必ず信仰の眼にてうかがわねばならぬ。すなわち知識の眼にて探り得たる絶対の本体が、信仰の眼の前に慈知の光明を放ちて現見するのである。余はその体を名付けて絶対無限と名付けておく。横に十方を窮めて対比すべきものなきを絶対といい、竪に三界を尽くして限界なきを無限という。この絶対無限の体が信仰の眼に現前するときは絶対無限尊と名付けねばならぬ。この絶対無限尊が実に哲学的宗教の本尊である。

 ヤソ教にては神に向かって呼びかける一定の語ができておらぬが、仏教にては南無阿弥陀仏、南無観世音菩薩、南無大師遍照金剛、南無妙法蓮華経、南無釈迦牟尼仏というように、唱え上ぐる語が定まっている。この一定の語を唱え上ぐるは信仰心を呼び起こし、雑念を払い去るに大いに功力あることなれば、哲学的宗教においても一定の唱え方をきめておきたい。その語は南無絶対無限尊にてよい。もし一心を込めてこれを反復数回唱えきたらば、自然に絶対の本源より宇宙の大精神が、吾人の心門のうちに流れ込むに相違ない。その他哲学的宗教の詳細に至りては、ここに説き尽くし難ければ、後日別に一書を著すことにしよう。

     三十七 結  論

 以上説き去り述べきたりし教外別伝の活哲学は、千聖不伝、西哲未知の哲学にして、活眼を開き活識を得るにあらざれば、到底会得することはできぬ。よって今日の青年学生は一通りの死書の詮議を致したならば細かい点は捨ておいて、早速活書を読むことに取り掛かり、活用活動するが肝要である。今日の時勢はその活用活動を促し、わが国の気運はまさしくその方に向かっているから、青年学生の大いに奮起すべきときなるも、彼らはとかく多読をむさぼり、理屈を喜び、目あるを知りて足あるを知らず、耳あるを認めて手あるを認めず、時弊病にかかりている。この勢いをもって進んだならば、国家の将来もいかならんとの杞憂を抱き、余はここに老婆心を起こして、平素懐抱せる活学主義を発表したのである。ことに哲学に従事するものは風俗の改良、人心の矯正、世道の振起をもって自ら任ずべきに、なんぞ図らん超然として高く座し、文字や理屈の詮議にばかり心血を絞り、細はますます細に入り、微はますます微を究むるをもって、唯一の能事となす風あるも、余の憤慨するところである。もとより多数の学者中には、極めて少数のものは死学三昧で生涯を送りてよけれども、十人は十人ながらみな死書のうちに篭城するに至りては、これまた国家のために大いに憂うべきことと思い、かかる時弊を一掃せんとするのが、余の活哲学の目的である。

 余輩がかかる主義を唱うると、世間の学者は余を目して彼は無学であり、浅学でありて、学問の道理が分かっておらぬものと、一口に排斥せらるるであろうが、余は学問には向上向下の二道ありて、この二者相待つべきものと思う。決して向上一方を標準として学者を評定すべきものではない。ことに死書をたくさん読みたるものをのみ学者というはずはない。哲学においてもまたしかり、向上門と向下門がある。向上門において高尚の哲理ばかり講ずるものが哲学者にあらずして、民間に立ちて世道人心を指導するものも、また哲学者である。しかして今日の形勢は、かえってその向下門に力を尽くす方を渇望していると思う。余が今日は貴族的学者ばかり多くなって困るというのは、この向上あるを知りて向下あるを知らざるものを指していうたのである。

 向下門にありて力を尽くそうとするには、一通り向上門において研究を積まざるを得ないことは明らかなるも、向上門においては大体を領得すれば足れりと思う。およそ古今の哲学者の諸説につきて、その眼目とするところ、その骨髄とするところを一握すれば、その他の臓腑や皮肉は捨て去る方がよい。むかし北条早雲は人をして兵書を講ぜしめ、英雄の心を収攬するにありとの一言を聞きて足れりとし、また書を講ぜしめなかったとかいうことだが、哲学においてもまたしかりで、ひとたび要点を握りきたれば、再び書を読むには及ばず。その後は死書を廃して活書を読み、世間に活用することを心掛くべきである。項羽は書はもって姓名を記すに足るというたが、哲学は人生を知るをもって足れりとす。その人生を知るは必ずしも死書を読むに及ばず、活書だけにても知ることができる。しかるにあまり多く死書を読みて、理屈の詮議ばかりすると、ネギの皮をむくように、最後にはなんにも握ることができなくなってしまう。今日の学生が煩悶病にかかるのはこのわけである。

 人生の目的につきての問題のごときは、あらゆる学説をことごとく究め尽くし、あらゆる書物をことごとく読み尽くすにあらざれば知るべからずとせば、すべての人が生涯かかりて知ることのできぬことになる。しかるにこれを知るには必ずしも多くの書を読むに及ばず、最近の学説を究むるにも及ばず、古今の学説の大要だけはあるいは参考するもよけれども、己の本心より自発自覚せるものをとるがよい。この自発自覚は天地や社会の活書につきて啓発することができるものである。むしろ死書は参考ぐらいにするがよい。

 余は従来、古今東西の哲学者の諸論もその大要だけ一通り研究し、その帰するところ人生の目的は活動に外ならぬと自得し、哲学の目的も人生を向上するに外ならぬと知るし、爾来活動主義をとりて、今日に至るものである。活動はこれ天の理なり、勇進はこれ天の意なり、奮闘はこれ天の命なり。

 

 これが余の主義である。すなわち吾人の天職はこの活動によりて、人生を向上せしむるにありと自信している。しかしてその向上は一身より始めて一国に及ぼし、一国より世界に及ぼすをもって順序を得たるものとし、何人も国家のために尽瘁せよと唱えている。その理由はさきにしばしば述べたるところなれば、更に繰り返すに及ばぬ。

 余は前にも漢字を分析して説明したが、ここに活動の文字につきても余の百姓的説明を下したい。活の字は水偏に舌の字を書いてある。水の舌といえば波であろう。その舌の音は波の響きである。波は日夜活動してやむときなきがごとく、人間も活動しなければならぬ。また動の字は重と力との二字よりなる。その意は重きものを力をもって動かす義で、人間の奮闘の意を含んでいると思う。この活動奮闘によりて、人生を向上せしむるには、道徳を根底としなければならぬ。ずいぶん世間に乱奮闘、暴活動がある。故に人生の目的は道徳的活動、すなわち良心の指導の下に活動するものであることも、前にしばしば述べておいた。

 余は先年『仏教活論』を起草せし当時、吾人の目的は護国愛理に外ならずと公言した。そのわけは学者としては真理を愛し、国民としては国家を護すべきものとの意見であった。今日にありても同主義であるが、今述べたるところにあてはむれば、哲学の向上門の目的は愛理にして、向下門の目的は護国ということになる。もしこれを今日の時弊と国家の気運とに照らして軽重を定むるに、向下に重きを置くと同時に、護国に重きを置くことになる。ただし余は世間に対して護国愛理は余の生涯を一貫せることを記憶ありたいと思う。

 終わりに際して、余が戯れに作りたる「あほだら経」を掲げておこう。余はあほだら経の文句も句調も知らぬから、調子には合うまいけれども、その調子に合わざるところがかえって一笑を助くるかと思い、左に録して余興の代わりにする。

 教外別伝 哲学あほだら経

帰命頂礼、やれやれみなさん聞いてもくんない、おいらが仲間の哲学衆は、若いときから欲気を起こし、百万長者になりたいものと、集めた集めた書物の財産、山ほど高く積み立てて、己はつねにそのうちに埋まり込みて大得意、読むとも読むとも朝から晩まで、文句の詮議に汗血を絞り、理屈の工夫に骨まで削り、書物のうちよりよくもよくも取り入れたるはよけれども、有象無象一切の、知識は己の胃袋の、倉にばかりと納め込み、腹は便々大鼓のごとく、なおも積み込みあくこと知らず、頭を下れば、ヘドをもはきそう、人に会うても挨拶御免、柱にもたれてウンウンうなる、それほど腹がふくれても、己の知識は一文も、人に施す術知らず、ただグズグズと日を送る、その有様は芋虫の、ゴロゴロ転げているごとく、子供らまでがこれを見て、ヒョウタン、ボックリコと笑っている。これはすなわち学問の、大欲張りというものだ、かかる学者が世に増えては、実に国家の行く末も、案じらるる次第だよ、今や多くの青年の、徳義の飢渇の迫るをば、なんとか救うてやりたいと、思えど彼はその気なし、困ったものだとわが仰ぐ、教外別伝の哲学如来、ひとりでなげきてござるわい、これは明治大正の、アホダラ経と知りたまえ。

 右はもとより一場の笑い草に過ぎざるも、かかる滑稽のうちにも、余の主義が含まれていることを笑いながら知了せられたいと思う。

 余がいかに大喝絶叫しても、滔々たる天下みな死学死書を歓迎する今日なれば、一人の学者も一人の学生も、この教外別伝の活学活書に賛成するものないかも計り難い。もし一人もなしとすれば、天下の学者全国の学生をわが敵として、生涯奮闘する覚悟である。これが余が天の使命と自信するところにして、この使命のために奮闘してたおるるは真に畢生の本望とするところである。