3.真理金針〔続々編〕

    〔続々編〕

    仏教は知力情感両全の宗教なるゆえんを論ず

     緒  言

 予さきにヤソ教を排するは実際にあるかの一論を草して、仏教は知力の宗教にして、あわせて情感の宗教なることを略述したれども、未だ十分にその意を尽くさざるをもって、あるいは読者の胸中に迷雲を浮かばしめたるの疑いなきあたわず。故に予は更に一編を起草し、仏教は知力情感両全の宗教にして、ヤソ教は情感一辺の宗教なるゆえんを詳明せんと欲す。読者幸いに一読の労をいとうなかれ。

 それ仏教は大数八万四千の法門ありといえども、これを摂束してあるいは大乗小乗に分かち、あるいは頓教漸教に分かち、あるいは一乗三乗、あるいは顕教密教、あるいは聖道浄土等に分かつことあり。今仏教は知力情感両全の宗教なるゆえんを証するに当たり、これを聖道浄土二門に分かつを便宜なりとす。聖道門は自力難行の教にして、浄土門は他力易行の教なり。例えば神戸より西京に至るに、一は歩行を用い、一は汽車を用いるがごとし。歩行を用いるは自力の難行なり。汽車を用いるは他力の易行なり。かくのごとく仏果に達するの道は自他難易の別あるも、その得るところの結果は一味なり。なお歩行と汽車と道を異にするも、その達する所はひとしくこれ西京なるがごとし。故に一大仏教の法城の中に聖道浄土の二門を設くるも、その目的もとより異なるにあらずして、これを達する方便の異なるのみ。しかしてその方便に多岐を設くるはいかんというに、人の学識、才力、貧富、強弱同一ならざるによる。強壮健全なる者はよく歩行して西京に達すべしといえども、羸弱老衰したる者は汽車の方便によるにあらざれば、花城に入ることあたわず。人の心力もまたしかり。鋭利賢明にしてたやすく事物の理に通達する者あり、また無知愚鈍にして達することあたわざる者あり。その達することあたわざる者はこれをすてて、ひとり達すべき者のみを誘うて仏果に入るるときは、決して仏の大慈大悲というべからず。しかるに達すべき者も達すべからざる者も、おのおのその力に相応したる方便を与えて、ことごとくこれを救助するは仏の悲願なるをもって、一仏教中に聖道浄土の二門を開くに至るなり。これいわゆる応病与薬の方便なり。故に、仏教のシナにあるに当たりては聖道の諸宗ひとり行われたるも、日本にありては浄土一宗の新たに起こるありて、二門並び行わるるに至る。華厳、天台、倶舎、唯識等の諸宗は聖道門なり、浄土宗および真宗は浄土門なり。通常考うるところによるに、聖道門は哲学にして、浄土門は宗教なり。故に仏教は哲学と宗教と相混じたるものなり。ヤソ教はこれに反して純一の宗教なりといえども、これ決してその意を尽くすものにあらず。けだしかくのごとく仏教の性質を分かつは、情感より生ずるものを宗教といい、知力より生ずるものを哲学というのは義解を定むるによる。しかれども予がみるところによるに、宗教は必ずしも情感より生ずるに限るにあらず。古代の宗教は全く人の想像より起こりたるものなれば、これを情感に属してしかるべしといえども、今日の宗教は道理に合格する以上は、知力より生ずる宗教といわざるべからず。その理を知らんと欲せば、人知の発達をみるべし。人の知力は生まれながら発達するに非ず。その未だ発達せざるに当たりては、五感の外に極めて下等の情緒を有するのみ。喜怒驚懼等のごときものこれなり。ようやく生長して下等の知力を発達し、いよいよ生長して始めて上等の知力を発達すべし。小児の生長発達の順序すでにかくのごとくなれば、社会人民の生長発達もまたこの順序による。野蛮人は極めて下等の情緒を有するのみ。ようやく進みて上等の知力を生ずるに至る。すなわち知るべし、古代の人民は野蛮なるをもって下情のみを有し、今日の人民は開明に進みたるをもって上等の知力を有することを。果たしてしからば、昔日の宗教は情感より生ずる宗教なりしも、今日の宗教は知力より生ずる宗教ならざるべからざる理なり。他例を引きてこれを対照するに、古代の道徳学は全く情感より生じたるものなれども、今日に至りては情感の区域を脱して、知力の範囲内に道徳の組織を開くに至れり。もし昔日にありて道徳の義解を下すときは、道徳は全く情感より生ずるものなりというや必然なりといえども、今日に至りてはすでにその義解の不当をみるのみならず、道徳はほとんど純然たる知力に属するものなりと断言することを得るに至る。これによりてこれをみるに、宗教も古代にありては情感の宗教なりと定むることを得るも、今日にありてはその定義すでに不当にして、知力上の宗教の世に起こらざるを得ざるなり。知力上の宗教とはなにをいうや。曰く、哲学上の宗教なり。古代人民の知力未だ発達せざるにあたりては、世に理学哲学の未だ起こらざるをもって、当時哲学上の宗教のもとより世に存すべき理なしといえども、今日哲学の盛んなるにありては、哲理をもって組成せる宗教なくんばあるべからず。もし未だその存せざるにおいては早晩世に起こるありて、従来の情感の宗教に代わりて社会の地位を占領するは、勢いの免るべからざるところなり。

 かくのごとく前定してつらつら今日の世界の宗教を通観するに、ヤソ教は情感の宗教なること論を待たず。回教もまたしかり。ひとり仏教は知力の宗教にして、その聖道門のごときは、まさしく哲理をもって組成したる宗教なり。世人これを評して一種の哲学なりというは、すでにその教の情感の宗教にあらずして、哲学上の宗教なること問わずして知るべし。しかして聖道門の外に浄土門あるは、仏教は知力の宗教の外に情感の宗教を含有するによる。これ予が仏教は知力情感両全の宗教なりというゆえんなり。すなわち知力を和らぐるに情感をもってし、情感を導くに知力をもってし、知力情感互いに相助けて、二者の両全を得せしむるもの、これ仏教なり。これを社会に応用するときは、賢愚、利鈍、貴賎、上下の人をして、ことごとく機根相応の利益を得せしめ、開明を進め野蛮を導くの良法も、けだしまたこれに過ぎたるものなし。もしこれを一人の身に服膺すれば、情感知力の両全を得て、一方に偏して他方を害するの弊なからしむ。しかしてまたこれを修身斉家の上に応用するも、また必ず大なる利益あるべし。これによりてこれをみれば、現今開明社会の宗教に適し、将来道理世界の宗教となるべきもの、仏教をすてて他に求むべからざること疑いをいれず。果たしてしからば、わが国将来の宗教を定むるに仏教を用うるは、その他日の利益けだし計るべからざるものあらん。これ予が平素護法愛国の赤心をもって、仏教を改良して国恩を万一に報ぜんことを期するゆえんなり。予もとより知る、世なにほど開明に進むも、天下に愚民の痕跡を絶つことあたわざるをもって、情感の宗教の全く廃すべからざるを。かつ人、知力のみに走りて全く情感を欠くときは、また大いに弊害あるべきをもって知力の宗教に伴うて、情感の宗教を保持せざるを得ざるはもちろんなり。故にヤソ教も将来に必要なるは、余がすでに許すところなり。しかして余がヤソ教を排して仏教を取るは、ヤソ教は情感一辺の宗教なるをもって、これを用うるときは更にまた知力の宗教を用いざるべからず。仏教はこれに反し、知力情感両全の宗教なるをもって、これを用うるときは更に他の宗教を用うるを要せず。かつそれ仏教中の浄土門はその性質情感の宗教なれども、その実聖道門の哲理に基づきて立ちたるものなれば、空想中に自ら知力を包帯するありて、ヤソ教のごとき情感一辺、空想一方の宗教とはもとより同日の比にあらず。近年に至りては、ヤソ教の学者中道理をもってその空想説を解釈せんことを務むる者ありといえども、わずかに付会するに過ぎずして、十分学理に通合することあたわざるは、その書を一読して知るべし。かつその解釈も今日すでに満点に達したるものにして、この上に一歩も進むことあたわず。もしこの上に一歩を進めたるときは、ヤソ教の範囲を脱して一種の新宗教とならん、あるいは思うに一種の仏教とならん。これ予がつねにヤソ教に十分の学理の解釈を与うるときは、その教転じて仏教となるべしと唱うるゆえんなり。しかれども、今後いかなる解釈を付会するも、ヤソ教をして天帝特造説を排して、これ自然の進化なり、キリストは平常の人にして天帝の子にあらざるのみならず、復活再現等の怪跡あるべき理なし等と断言せしむることを得ざるは、予が信ずるところなり。果たしてしからば、ヤソ教は決して空想情感一辺の宗教たるの面目を改むべからざるなり。もし情感は知力とその性質を異にして、世の進歩と共に発達するを要せざるにおいては、情感の宗教はひとりヤソ教に定めてしかるべしといえども、情感も知力の進歩に従って発達さぜるを得ざるをもって、これを導く宗教も仏教の浄土門を定むるを大いに利ありとす。浄土門は情感中に知力の元素を包有したる宗教なるをもって、情感を導きて次第に高等の地位に進むることを得るは必然なり。けだし高等の情感を発達するには、知力の助けを借らざるべからず。知力その組織中に加わりて、始めて高等の情感を見るべし。古代、知力の未だ進まざるに当たりては、人みな下等の情感を有して、高等の情感を発達したるを見ず。すなわち高等の情感は、知力の発達を待ちて生ずること明らかなり。果たしてしからば、その情感の発達を導く宗教は、情感一辺に偏したるものを用うるより、情感の中に知力を含有するものを用いざるを得ざるの理、また瞭然たり。例えば、人の肺患を治せんとするに、肺のみその人の健康に必要なるのみならず、他の部分例えば胃も同一にその人に必然なり。もし肺を治せんと欲して胃を害するときは、なんの益なし。故に肺を治しながら胃を強くせんと欲せば、肺のみに功ある薬剤を用うるよりは、その薬中に健胃剤を含有する物を用うるを大いに益ありとす。今、世間の人の過半は知力情感共に健全ならざるものなり、なお肺胃共に病弱なるがごとし。故にもしその情感の一方を治するにも、両者を健全にするの薬方を用いざるを得ず。仏教中の浄土門は、すなわち情感を医するうちにおのずから知力を医するの功力あるをもって、これを用うるはヤソ教を用うるに勝ること幾倍なるを知らざるなり。

 前回論ずるごとく、仏教中浄土門をもってヤソ教に較するも、その優劣同日の比にあらず。いわんや浄土門の外に聖道門のあるをや。この二門兼備するをもって、仏教は下等社会に用うるも、上等社会に用うるも、知者学者に用うるも、無知愚民に用うるも共にその利益計るべからざるものあるべし。すなわち聖道門は知力の宗教なり、浄土門は情感の宗教なり、聖道門は哲学の宗教なり、浄土門は想像の宗教なり。聖道門は知者学者に通じ、浄土門は愚夫愚婦に適す。愚夫愚婦に適するうちに、またおのずから知者学者に適するあり。これ他なし、浄土門は想像の宗教中に哲理を含有することあればなり。これ予がつねに仏教を称賛して、古今無二の宗教というゆえんなり。

 かくのごとき宗教の三千年前の上古に起こりたるはいかんというに、またもって当時インドの文明、釈尊の卓見を知るに足る。およそいずれの国にても、古代は野蛮にして近世は開明なるを一般の通則となす。上世は文化盛んにして、近世に衰えたるものまた少なしとせず、シナ、インド、ギリシア、ローマ、エジプト、アラビア等これなり。そのうち思想の学問の最も進みたるはインドとし、インド哲学中その最も完全を得たるものを釈迦の哲学とするなり。実験の諸学は近世に至りて始めて完全を得たりといえども、思想の学問はインドにすでに具備し、西洋今日の哲学といえども決してその右に出づることあたわず。ただ今日の哲学の長ずるところは、理学の実験に考えてその論礎を構成するにあるのみ。しかしてその原理に至りては、三千年前に定むるところのものとすこしも異なることなし。あに驚嘆せざるべけんや。

 そもそも西洋哲学はいかなる所論をもって組成せるや。曰く、唯物、唯心、唯理なり。他語をもってこれをいわば、主観、客観、理想の三論なり、あるいはまた経験と本然と経験本然統合の三論なり、あるいはまた空理と常識と二者の折衷との三論なり、あるいはまた唯物、唯心、二元の三論なり。これを哲学史に考うるに、初めロック氏経験論を唱え、つぎにライプニッツ氏本然論を唱えたるをもって、終わりにカント氏これを統合するに至り、ヒューム等の学派は唯物に偏するの傾向あり。バークリー等の論は唯心に偏するの傾向あるをもって、リード氏この二者を和合して二元論を起こすに至り、フィヒテ氏は主観をとり、シェリングは客観を立つるをもって、ヘーゲル氏は理想論を唱えてまた二者を統合し、ゲルマン学派は空理に偏し、スコットランド学派は常識に偏するをもって、この二者を折衷したる者はフランスのクーザン氏なり。スペンサー氏また、可知的と不可知的の両端の一方に偏するの弊を恐れて両境を立つるなり。近世哲学の全系は、けだしこの範囲の外に出でず。しかして、古来の諸学者の異説おのおの論理の一端に走り、その中正の点を保持せんと欲して未だあたわざるなり。しかるに釈尊は、三千年前の上古にありてすでにその弊を察し、中道の妙理を説きし。中道はすなわち非有非空なり、亦有亦空なり。他語をもってこれをいえば、唯物唯心を合したる中道なり、主観客観を兼ねたる中道なり、空理と常識を折衷したる中道なり、経験と本然を統合したる中道なり、可知的と不可知的と両存したる中道なり。この中道の中にはあらゆる近世の諸論諸説みなすでに包含して漏らさず余さず、実に完全無欠の中道なり。この中道の妙理を開示するに、五時の説教あり。第一時に華厳を説き、第二時に阿含を説き、第三時に方等を説き、第四時に般若を説き、第五時に法華涅槃を説く。法華涅槃はいわゆる中道を説くものなり。阿含は有を説き、般若は空を説く。有は唯物論または実体哲学に比すべし。これを仏教にては小乗とす。空は唯心哲学に比すべし。これを大乗とす。中道は大乗中の大乗なり。故に阿含をもって小乗教に属し、般若、華厳、法華、涅槃をもって大乗に属し、方等をもって大小両乗に通ずるものとするなり。またこれを宗旨に考うるに、倶舎、成実、法相、三論、華厳、天台の諸宗あり。この諸宗は、あるいは直ちに釈尊の経文につきて開きたるものと、釈迦の後に起こりたる諸師の論文につきて開きたるものなり。一を経宗といい、一を論宗という。華厳、天台は経宗なり。倶舎、成実、法相三論は論宗なり。つぎにこれを大小両乗に配するに、倶舎、成実は小乗宗なり。法相、三論、華厳、天台は大乗宗なり。また、これを有空二門に配するに、倶舎、成実は有門なり。法相、三論は空門なり。華厳、天台はいわゆる中道なり。もしこれを大小両乗に分配するときは、小乗中にも有空二門あり、大乗中にも有空二門あり。すなわち倶舎は小乗中の有門とし、成実は小乗中の空門とし、法相は大乗中の有門とし、三論は大乗中の空門とするなり。この有空二門を合したるもの、すなわち華厳、天台の中道なり。故にこれを非有非空の中道ともいい、亦有亦空の中道ともいうなり。

 つぎにこの諸宗を西洋哲学の諸説に配当するに、倶舎は唯物論なり。あるいは余これを名付けて主観的唯物論とするなり。なんとなれば、西洋今日の唯物論とややその性質を異にして、主観的に属したる唯物なるによる。成実は唯物論極まりて唯心論に入らんとする階梯なり。法相は唯心論なり。三論は唯心論極まりて中道に入らんとする階梯なり。これを要するに、小乗の諸宗は主観的唯物論なり、大乗の初門は唯心論なり。しかして客観的唯物論は仏教外の説なり。これに反対して主観的を説きたるものは仏教なり。しかして中道に入りては、世間の客観論も仏教の主観論も、小乗の唯物論も大乗初門の唯心論も、倶舎の有門も成実の空門も、法相の有門も三論の空門も、みな合同して一体となり、世間も出世間も、過去も未来も、地獄も極楽も、神も仏も、鬼も蛇も、またみな平等にして差別を見ず。その無差別の中にまたおのずから差別の存するありて、差別平等を離れず平等差別を離れず。差別平等 不一不二なるをもって中道という。故に、西洋哲学の唯心唯物両論はもちろん、経験論も本然論も、空理論も常識論も、可知的論も不可知的論も、みな中道の一辺を示すに過ぎずして、これを統合すれば唯一の中道あるのみ。この中道の海中にはあらゆる諸論諸説ことごとく会流して、あたかも百川の海に入りて一水となるがごとし。西洋哲学数千百年の進歩、けだしその中道の範囲の外に出づることあたわず。仏教の深遠闊大なること推して知るべし。ああ、だれか釈尊の活眼卓見遠く世表の外に出づるを驚嘆せざるものあらん。あに尊敬せざるを得んや。

 かくのごとき哲学の妙理を宗教の上に応用しきたりて、安心立命の方法を教えたるもの、これ仏教なり。すなわち聖道門はその理を直接に応用したるものなり。故にこれを哲学上の宗教とす。いわゆる知力上の宗教なり。浄土門は間接にこれを応用して、直接に情感の応用を示すものなり。他語をもってこれをいえば、聖道門は表面に知力の宗教を示し裏面に情感の宗教を含み、浄土門は表面に情感の宗教を示し裏面に知力の宗教を含むものなり。この表裏両面相合して仏教の全体を組成するをもって、聖道門ひとり仏教なるにあらず、浄土門ひとり仏教なるに非ず、聖道浄土二門相合して一仏教となる。しかるに世の仏教を評するもの、この表裏両面の関係あるを知らずして、みだりに仏教を可否するは、ひとり仏者の許さざるところなるのみならず、いやしくも学理を弁ずるもののいれざるところなり。今その評するところをみるに、甲曰く、仏教は人情に反する教法なりと。これ聖道門の表面を見てその裏面を知らざる妄評なり。乙曰く、仏教は愚夫愚婦の教法なりと。これ浄土門の表面を見てその裏面を知らざる妄論なり。そもそも浄土門は表面に愚夫愚婦の法を示すといえども、その裏面に入りてこれをみれば、知者学者の宗教なり。聖道門は表面に人情に反する道を説くがごとしといえども、その裏面に入りてこれをみれば、知力人情両全を教うる宗教なり。これを例うるに、一仏教中に聖道浄土の二門あるは、あたかも一家に前後両門あるがごとし。前門より入りてその極に達すれば後門あるを見、後門より入りてその極に達すれば前門あるを見る。しかして前後その門を異にするも、その家もと同一にして一家に属したる両門なり。故にひとたびその門に入りて仏教の薀奥を極むれば、その得るところの利益同一にして、またなんぞ門の前後を選ばんや。知者学者もよく浄土門に入りて転迷開悟の利益を得べく、愚夫愚婦も聖道門に入りて断障得果の利益を得べく、浄土門を修めてよく知力を発達し、聖道門を修めてよく人情を発達することを得るなり。これ他なし、仏教は聖道浄土二門全くその体を異にするにあらずして、聖道門中に浄土門を開き、浄土門中に聖道門を開きたるによる。しかれども、人の機根、社会の事情、一ならずして、一門を設けてあらゆる衆生をことごとく誘引するは、至りて難しとするところなり。後門より入ることを好まずして前門より入ることを好むものあり、前門より入るは不便利にして後門より入るは便利なるものあり、聖道門の適したるものと浄土門の適せざるものあり、聖道門中に浄土門を見るに難きものあり、浄土門中に聖道門を開くに難きものあり。これをもって仏教は聖道浄土の二門を設けて、賢愚利鈍八万の諸機をことごとく仏果に誘引するに至れり。けだしこの二門の仏教中に存するは、その教の完全無欠の宗教にして、知力情感両全の宗教たるゆえんなり。

 かくのごとき完全無欠の宗教の、今をさること三千余年の上古において、早くすでに世間に起こりたるも、そののち文化の衰えたるに際して、インドにすでにその種を絶し、シナまたわずかにその虚形を存するのみ。ひとり日本に至りては、近古数百年間大いに衰頽を極めたるも、なおその全教の組織を見るべし。これひとり余輩の幸いのみならず、実にわが同胞三千余万の幸いなり。しかるに世人は更にその幸いのなんたるを弁ぜず、かつ仏教の深遠闊大なるゆえんを知らずして、みだりにこれを排斥誹謗する者、日一日より多きを見る。これ予が感憤切歯に堪えざるところにして、いずくんぞよく傍観座視、黙してしかしてやむに忍びんや。顧みて仏教各宗今日の事情を察するに、また大いに慨然に堪えざる者あり。聖道の諸宗は浄土門を軽賎し、浄土の諸宗は聖道門を排斥し、相互いに外教異宗視して聖道浄土、表裏一体の関係を全く知らざる者のごとし。ただに聖道浄土の関係を知らざるのみならず、聖道門中の各宗は互いに自余の宗旨を難駁し、浄土門中の各宗は互いに相誹謗するのみにて、更に共同一致して仏教の一大法城を護持することなし。仏教宗内の事情すでにかくのごとし。あに世人に向かいてその拡張を望むべけんや。これ予が仏教の改良をもって今日の急務となすゆえんなり。

 予かくのごとく論じきたりて、仏教を改良して道理世界の宗教を組成せんというを聞きて、人あるいはいわん、仏教はたとえ完全無欠の教法なりとするも、その実三千年古の旧法なれば、あるいは今日の事情に適せざるところあるべし。故に仏教を改良して今日の宗教と定むるより、むしろ西洋理哲両学の原理に基づきて、新たに一種の宗教を立つべしと。予おもえらく、しからず。第一に、宗教は新たに造出するも決してたやすく世間の信仰を得べきものにあらず。世間の信仰を得ざれば、いかなる善教良法なるも世を益することあたわず。第二に、たとえ仏教は三千年古の旧物なるも、これを今日の学理に考え、これを今日の事情に照してよく適合するところあれば、これを今日の宗教と定めてなんの不可があらんや。第三に、仮に当時仏教を離れて新たに一宗教を組成すると定むるも、その原理いやしくも西洋の理哲両学の規則を応用する以上は、仏教の原理と同一ならざるべからず。なんとなれば、仏教の原理はまさしく西洋の理哲両学の規則を応用したるものなればなり。故にその宗教すなわちこれ仏教なり。第四に、現今新たに日本において西洋の諸学に基づきて一種の宗教を組成するも、これを西洋に伝えて、これ日本新発明の宗教なりというて奉信せしむることあたわざるは必然なり。なんとなれば、その用うるところの原理は西洋学の規則に基づきたるものなればなり。もしこれに反して仏教を改良して西洋に伝え、その大乗の妙理ひとたび西洋学者の耳底に達するに至らば、ひとり学者の賛称を得るのみならず、多少その国人の奉信を得るや、また必せり。第五に、ヤソ教は仮にしばらく開明世界に適したる宗教とするも、その教ひとり世界を圧倒するに至らば、必ず弊害を社会の上に与うるや、勢いの免るべからざるところなり。かつヤソ教ひとり開明世界に適して、他にこれに適したる教法なしと断言すべき理なし。第六に、当時ヤソ教に抗敵して将来世界に立つべき宗教は、仏教の外に求むべからず。第七に、当時ヤソは非常の勢力を西洋社会に得るをもって、その弊風を改良するも、これを競争する新宗教を組成するも、その地にありては到底期すべからず。これに反して、日本未だヤソ教に沈酔したる者なきをもって、その教法を可否し、その真理を淘汰するに最も適したる地にして、これを可否淘汰するの標準は、仏教を待たざるべからず。第八に、ヤソ教は仏教の後に起こるも、西洋の諸学競争中の風波に接したるをもって、すでに十分の発達を得てその満点に達したるものなり。仏教はこれに反し、三千年古の上世に起こり数千百年相伝えて、もって今日に至るも未だ十分の発達を示さず。故にこれを養成して十分の発達を与え、その発達よりきたすところの結果いかんを試むるは、最も今日に要するところなり。第九に、仏教はインド、シナ共にすでに衰頽を窮め、これを改良してその再興を計るの勢力なきは明らかなり。故にもしこれを日本に保護拡張せざれば、将来世間に仏教の真理を見ることを得ざるに至らん。たとえ仏教は真正の道理を含有せざるものとするも、その果たして含有せざるか否やは未だ定むべからざるをもって、その有無の判断は今日の学者または将来の学者を待たざるべからず。もし将来の学者を待たんと欲せば、これを今日に維持せざるべからざるなり。第十に、仏教は昔日はインドの宗教なるも、今日は日本の宗教と称して可なり。なんとなれば、インドはほとんどすでにその種を絶すればなり。いわゆる日本の名産なり。当時日本に産するところのもの、これを西洋に伝えて声価を得べきもの、果たしていくばくあるや。無形の学問はもちろん、有形の物品に至りても、僅々一、二に過ぎざるなり。しかして予がみるところによるに、将来日本の産物中その最も西洋に伝えて声価を得べきものに、ひとり宗教あるのみ、すなわち仏教これなり。

 以上挙ぐるところの数条の外種々の情実によりて、予は断然仏教を改良して開明の宗教となさんことを期するなり。これ一は学者の真理を愛求するの目的に背かず、一は社会の一個人となりて国家に尽くすの義務に応ずる者と信ずるなり。これ、予が平素護法愛国の念慮あふれてここに至るなり。今この一編のごときも、またその余滴のみ。これを読む者請う、余が赤心あるところをみるべし。

 進みて僧侶社会の現況を察するに、その数万をもって計るといえども、専心鋭意、護法愛国の志を立つる者微々として、あたかも暁天の星を数うるがごとし。その他はみな無気無力、無学無識にして、自ら法城を護するにあらずして、法城のために護せらるる者なり。かくのごときの輩、その心中愛国の一片だも有せざるは明らかにして、かえって国家の有害物たるに過ぎず。一志もって護法に立つるなく、一事もって愛国に尽くすなく、朝夕ただ飽食過眠もって歳月を空過するに至りては、ああ、なんの面目ありてよく社会に対し、よく世間に接するや、実に仏家の罪人にして、また社会の罪人なり。予かくのごときの徒に対して、なんの目的ありてこの社会に生存するやと問わんとす。もしこれに答えて、われらはもとより目的ありて生存するに非ずといわば、予更に問いを起こして、目的なき以上はこの社会に生存すべき理なし、なんぞ早く死せざるやといわんとす。生きて社会に害ある以上は、自ら死してその害を除くは、かえって国家に尽くすの義務というべし。ただに国家に尽くすの義務のみならず、また仏祖に報ずるは義務なり。しかれども予思うに、いかなる無気無力の輩といえども、自ら死するをもっていさぎよしとする者なからん。もしいやしくも自ら死するを好まざる以上は、早く護法愛国の実功を立てて、一身の目的を全うすべし。それ護法愛国のことたる、その対するところの義務異なりといえども、その尽くすところの心は一なり。この心もって国に対すれば愛国となり、この心もって法に対すれば護法となる。護法を全うせんと欲すれば愛国を待たざるべからず、愛国を全うせんと欲すれば護法を待たざるべからず、護法愛国互いに相待ちて、予輩始めてその一身の目的を全うすることを得るなり。しかるに、生きて一念の護法に及ぶなく、死して一事の愛国に尽くすなきの徒に至りては、実に憫然に堪えざるなり。予この徒を鼓舞して共に護法愛国の実功を立てんことを期するも、未だ一人の予が声に応ずる者なし、ただますます予が嘆息を加うるのみ。予、生来赤貧多病、常に護法愛国を思うて、ただその志の果たすあたわざらんことを恐る。しかるに昨秋不幸にして難治症にかかり、病床に臥して戸外をうかがわざること、ここにすでに半年を過ぐ。ここに至りてますます宿志の遂げ難きを知り、半夜寒窓に対して自らまた国家の罪人たらんことを憂え、半夜寒窓に対して号泣すること数回に及べり。近頃やや快方に走り、いくぶんの体力を回復するに至り、天の未だ余を捨てざるを知り、心ひそかに喜ぶところあるも、わが生もと朝露の一点を浮生の葉上に結ぶものにして、また何日に忽然として去るを知らず。そもそも貧賎に生まれて貧賎に死するは、余がもとより辞せざるところなるも、この心ありてこれを果たすことあたわざるは、予が死すとも決して瞑することあたわざるところなり。しかりといえども、たとえ自らその志を遂ぐることあたわざるも、願わくはこの志をとどめて、他日再びこれを継ぎて起こる者あれば、また予が心を慰するに足る。仰ぎて仏典を読めば、真理の精気巻面にあふるるを見、俯して仏理を思えば、また真理の暉光心内を照すを覚う。実に前代未聞、世界不二の宗教なり、実に完全無欠、知力情感両全の宗教なり。余輩、あに真理のためにこの教を護持せざるべけんや。余輩、あに国家のためにこの法を改良せざるべけんや。余が赤心これに外ならずして、朝夕衣食するところのものはただこの赤心を養うためのみ。ああ、たとえ日本全州三千余万の人ことごとくヤソ教を奉信するに至るも、余ちかうてこの心を変ぜざるなり。こいねがわくは全国数万の僧侶この編を読みて、大いに憤起するところあらんことを。こいねがわくは三千余万の同胞この編を見て、余が護法愛国の精神の存するところを知られんことを。いささか所感を付記して本論の緒言となす。

   本 論

     第一節 ヤソ教は仏教の一部分なるゆえんを論ず

 予がヤソ教を排するも、ヤソその人をにくむにあらず。予仏教を助くるも、釈迦その人を愛するにあらず。ただ予が愛するところのものは真理にして、予が排するところのものは非真理なり。しかしてヤソ教は非真理をもって真理と誤認し、真理の一部分を見て真理の全体と誤認するをもって、予これを排するなり。しかれどもヤソ教も一宗教にして、人に安心立命の道を開き、勧善懲悪の教を立つるものなれば、ただ一にこれを排すべからず。けだしその目的に至りては予が期するところと同一にして、共に道徳の大本を説き迷悟の至道を教えて、人を至善至楽の地に住せしめんと欲す。これによりてこれをみれば、ヤソ教すなわち予が宗教なり。その教を奉信する者すなわち余が同胞兄弟にして、いずくんぞみだりにこれをにくみ、これを排するの理あらんや。故に予は真理の一点においてなにほどヤソ教者と争うことあるも、社会の交誼に至りては吉凶相弔賀し、死生相送迎し、懇切親密をもって相接し、決して同胞兄弟の交情を破らざらんことを期す。あるいはいったん大事あるに臨んでは、共に協心戮力して国家のために尽くすところなくんばあるべからず。故に予がヤソ教を排するは、ただにヤソその人を排するにあらざるのみならず、ヤソ教の目的を排するにあらず。ヤソ教者の精神を排するにあらずして、ただその目的を達する方便いかんにあるのみ。故に予は、ヤソ教を固信する者に接すれば殊更に友誼を尽くしてこれに交わり、ヤソ教の会堂に入れば殊更に謹慎してその説く処々を聴き、未だかつてこれを魔法視し、未だかつてこれを仇敵視したることなく、かえってこれを同胞兄弟視するのみ。今後といえどもまたちかうて交際上の友誼を全うし、同胞兄弟の名称に背かざらんことを期するなり。余常に『バイブル』経を机右に置き、ときどきこれを習読するに、またかつて拝一拝して巻舒せざるはなし。けだし人の愛重するところのもの、余、あにひとり軽賎するの理あらんや。かつヤソ教は、たとえその説くところ真理にあらざるも、すこしもその経文に罪あるの理なし。これを奉信するの徒も、その自らみるところ小なるをもって、ヤソ教の外に真理なしと誤信するのみにて、これまた十分の罪あることなし。別してその人たるひとしくこれ日本人なれば、ただに宗教上の同胞兄弟なるのみならず、社会上の同胞兄弟なり。余が仏教を助くるも、彼がヤソ教を奉ずるも、みな真理を愛し国家を護するの赤心に至りては、けだし二致なきを信ずるは護法愛国の狂人なり。彼もまたけだし護法愛国の狂人ならん。彼、果たして護法愛国の狂人ならば、これ実に余の赤心の同胞兄弟なり。ただ余が日夜かの徒に対して渇望するところは、終身共に一志を尽くして真理を拡張し、国家を愛護せんことを。ああ、彼は余の真理の朋友にして、国家の同胞なり。余、あにこれを仇敵視するの理あらんや。よろしく互いに相交わるに信をもってし、互いに相尽くすに義をもってすべし。しかるに世間の仏者は、ただにその教を罵詈する者多し。はなはだしきに至りては、無礼無法をその人の上に加うるをもって、仏教に尽くすの本務なりと信ずる者あり。これ実に交誼人情を知らざる者というべし。ああ、かくのごとき徒はひとり仏家の罪人のみならず、また国家の罪人なり。あに慎まざるべけんや。

 請う、活眼を開きてヤソ教の始めて世に起こりしときを見るべし。ヤソ教は余その何人たるを知らずといえども、一時の学者にして、上古の英雄なること史に徴して明らかなり。生まれて三十年間は東西奔走して、親しく四方の人情風俗を観察し、また当時の学問宗教を研究せり。いわゆる因位の修行なり。因位の修行始めて成就して、世人に対して新宗教を公言したるは、実に三十歳のときにして、いわゆる成道なり。そののち説法誘引すること未だ三年に満たずして死罪に処せられ、十字架上に一命を終えたるはいわゆる涅槃なり。数十年来の苦行、一朝の絶命、自らこれをいとわず、かえって好みてその地につきたるは、いわゆるヤソの衆生の罪悪を救助せんと欲する本願なり。その願成就したるをもって、今日の無善造悪の凡愚も、ひとたび天帝に帰依すれば天堂に往生することを得るという。これ実に浄土易行の法なり、これ実に末世の凡愚に相応したる法なり。故にヤソ死してますますその教の世界に流布するの結果をみるに至る。これあに偶然ならんや。仏者よろしくその原因を究索すべし。これ余がヤソを評して一世の英雄なりというゆえんなり。余つねにヤソ、釈迦、マホメットの三祖をもって世界の三大傑と称す。しかして歳月最も短く、説法日なお浅くして、その教の最も興隆するに至りしは、ヤソをもって第一とす。ああ、これを英雄と呼ばずして、またなんとかいわんや。

 ヤソすでに古代の英雄豪傑なれば、これに対して敬礼をなせば、もとより後進の先輩に尽くす義務なり。別してその衆生を化益せんために一死を顧みざるの赤心に至りては、余輩欽慕に堪えざるところなり。余も微力といえども、一死もって護法愛国に尽くさんと欲する者なり。ああ、ヤソは余とその志を同じうする者なり。ああ、ヤソは余が同胞兄弟なり。その年の相へだたる二千年を隔つといえども、その精神の向かうところに至りては、符節を合するがごとし。ああ、ヤソは余が赤心の朋友なり。もしヤソをして余が精神の在るところを知らしめば、また必ずいわん、彼はわが千歳の後の朋友なりと。故に余はあくまでヤソを敬し、ヤソを愛せんとするのみ。決してこれを憎悪し、これを誹謗する者にあらず。世の仏者もし果たしてこれを憎悪し、これを誹謗する者あらば、これ真の宗教者にあらず。これかえって余が仇敵なり。余はかえって、かくのごとき者を憎悪誹謗せんと欲するなり。そもそも今日の仏者は学識なく、精神なく、いわゆる無気無力にして、ヤソの精神の百分の一だも有せず。しかして、みだりにヤソを軽賎しヤソを誹謗するがごときは、実に恐るべきことなり。釈尊もし在りまさば、これをなんとかいわん。これけだし釈尊のいれざるところにして、仏教の罪人なり。仏者もし果たしてヤソを軽賎誹謗せんと欲せば、よろしくヤソに倍蓰したる精神を発揮し、ヤソに譲らざる功績を立つべし。これ余が仏者に対して日夜切望するところなり。

 余かくのごとく論ずるも、あえて自らヤソ教を信ずるにあらず、またあえてヤソ教は真正の真理なりと許すにあらず。別してヤソ教者のいうがごとく、ヤソは天帝の子にして、ヤソ教の外に真理なしと断定し、ヤソは完全無瑕、衆善円満の神子にして、ヤソ教は世界無二、万古不変の宗教なりと公言するに至りては、余が百万信ぜんと欲するも、信ずることあたわざるところなり。故に余は社会の一人となりて交誼を通ずるにおいては、あくまでヤソを敬礼し、その徒を親愛すといえども、真理上の一点に至りてはあくまでその非真理を排斥し、その妄誕を論破して余蘊なきに至らしめんと欲す。しかれども、またあえてその説くところ、ことごとくこれを排斥するにあらず。その真理として許すべきものはこれを存し、その非真理にして取るべからざるものはこれを破し、公明正大の裁判をヤソ教の上に下さんと欲するのみ。そもそもヤソ教は、古代にありては当時相応の良法なりしは疑いをいれずといえども、これを今日の学理に照して『バイブル』経の解釈を下し、その説くところの一字一句といえども学説に合わざるはなし。世界創造も、ノアの洪水も、ヤソの降誕も、みな実験上信ずべき道理あり。進化説起こるも、ただますますヤソ教の真理を構成し、天帝の実在を証明するに外ならず等と明言するは、これ全くその人の迷夢にして、局外よりこれをみれば実に抱腹に堪えざるなり。昔日、日本に盲人の相撲を設けて人の笑覧に供したることあり。盲人は裸体にて二人相対して壇上に登り、行司の声と共に相立ちて互いに取り組まんとするも、その敵のどの辺にあるかを見ることあたわざるをもって、空しく人なき所に手を延ばして相手を捕らえんとす。四方の見物人は実に抱腹に堪えざりしという。今、ヤソ教者のその教の外に真理なしと前定して、互いに力を尽くしてその真理を構成せんとするは、また盲人の相撲に異ならず、実に傍観者の抱腹を促すのみ。今その解釈をみるに、進化説は事物の成来を論ずるも、その本源を知るの力なし。理化学はすでに存在せる事物についてその変化を研究するのみにて、またその本源を知るの力なし。故に近年の学説は、すこしもヤソ教を論破するものにあらずという。これ実に奇怪の推論法というべし。この意を布衍するは、『バイブル』経中に説くところ、その十中の八、九は理学諸説のすでにその妄誕なることを証示し、ただ一、二点の未だ証明せざるところあるをもって、ヤソ教はすこしも間然することあたわずというがごとし。ああ、これなんらの妄言ぞや。請う、理学諸説に照して『バイブル』経中の文面を見るべし。その実験上の解釈を付することあたわざるもの、果たしていくばくあるや。あるいは直接にその解釈を付することあたわずして、間接に付会するところ多きはなんぞや。あるいはまた、なにほど付会するも到底解釈を与うることあたわざるところあるはなんぞや。今日理哲諸学は、いまだ十全の発達を告げたるものにあらざるをもって、いまだことごとくヤソ教の諸説を論破するの力なきも、その方向常にヤソ教の反対に出でて、一歩進むごとに必ずその非真理を証明するに至るはなんぞや。しかして理学上一種の新説起こるごとに、ヤソ教者は従来の解釈の不適当なることを発見し、全く異なりたるも解釈をその経文の上に付会せざるを得ざるに至るはなんぞや。かつ今日理学上未だ実験せざるところあるも、これをもって天帝の現存を証明したるものとなすの理なく、またなんぞ創造説の論拠とするの理あらんや。

 その他、ヤソ教の天帝の実在を証するにいかなる論拠をもってするかを案ずるに、第一に、万事万物みなその本源ありて起こり、原因なくして結果を見ることなきをもって、天地万物の大原因なくんばあるべからず。その原因すなわちこれ天帝なりといい、第二に、家屋あれば必ずこれを製出するものあり、衣服あれば必ずこれを製出するものあるをもって、天地万物ある以上は、またこれを創造するものなくんばあるべからずといい、第三に、天地万物の順応配合はよくそのよろしきに適し、いちいちみな意志ありて造出するもののごとく見えて、これを自然の進化に帰すべからずといい、第四に、事物の次第に進化して向かうところをみるに、目的ありてこれを造出せしもののごとしという。以上の諸説は、陰証法にして陽証法にあらざること明らかなり。陰証法とは間接に証明する法にして、現に天帝の実在を示すにあらずして、種々の事情によりてその実在を推定するなり。陽証法とは直接に証明する法にして、現に天帝を見てその実在を証するなり。果たしてしからば、天帝の陽証法はだれによりて知るべきやというに、これモーゼまたはヤソによるより外なし。しかるに今日の我人は現に天帝の実在を見るにあらずして、この両氏の遺書によりてその実在を信ずるにとどまるをもって、ヤソ教者の天帝を証するは、すべて陰証法によるものというより外なし。陰証と陽証とはいずれが最も信ずべしというに、陰証の陽証にしかざることは論を待たざるなり。例えば、陰証は壁を隔てて隣室に存するものを、種々の外情に考えて推想するがごとく、陽証は直ちに隣室に入りてその室内に存するものを、現に目撃して何々存すというがごとし。またあるいは陰証は重箱のふたを取らずして、その中に何々の品物ありと推想するがごとく、陽証はそのふたを取りて、目前にその中に存するものを実視して明言するがごとし。故に陽証は信拠すべきも陰証は信拠すべからざるなり。しかるにヤソ教者はあるいはいわん、自らその重箱の中に何々あるを目撃せざるも、人のすでにこれを実視したるものありて、この中に何々ありと告ぐるときは、その言によりて何々ありと論定するも、決してこれを陰証として信拠すべからざるものとみなすべからずと。余をもってこれをみれば、これ陰証中の最もはなはだしきものというより外なし。第一に、モーゼおよびヤソによりて天帝の実在を知るは、この両人は真実を告ぐるものなり。ヤソは真に天帝の子なりと予信するによる。もしその予信なきときは、その言によりて実在を証すべからず。しかれどもその言の真実にしてその人の天帝の子たることは、確固たる証拠あるにあらず。ただその人の言とその人の行とによりて、いささか想定するのみ。かつその人の言はその人自らいうところにして、これもとより証拠となすべからず。しかしてその言の信ずべきを知り、その人の常人にあらざるを知るは、ただその人の行によるより外なし。けだしその行たるや、ヤソ一世間種々の奇跡、不思議ありて、常人のなすべからざることをなし、常人の忍ぶべからざることを忍び、かつその死後再び蘇生して、しばしば門弟の眼に触れたるがごとき不思議あり。これらの奇跡によりて、ヤソは天帝の子にしてその言疑うべからずと想定するに過ぎず。しかれども余をもってこれをみれば、上世の歴史にはかくのごとき奇異の行為を呈するものいくにんあるを知らず。あにヤソの事跡ひとり信拠すべくして、他の事跡は全く信拠すべからずというの理あらんや。ただヤソ教者は、ヤソの事跡の疑うべからざるゆえんを証するに、一人その奇跡を目撃したるにあらずして、衆人これを目撃し『バイブル』一巻これを伝うるにあらずして、種々の旧記にこれを載するあり等というといえども、他国の古史を見るに、英雄の衆人の目前に奇異を呈したることいくばくあるを知らず。またひとり一書にその事跡を載するのみならず、数書にこれを載することいくたあるを知らず。『古事記』に見えたる奇跡の旧事記、『日本書紀』およびその他の古史に見ゆることあり。また史記に見えたる奇跡の『左伝』、『国語』およびその他古書に見ゆることあり。故にもしヤソの事跡実に信拠するに足るとなすときは、いずれの国の古史に載するところの妄証も、みな信拠して可なるべき理なり。これによりてこれをみれば、ヤソ教者のヤソを天帝の子なりと信じ、その言疑うべからざるものとすは、全く無証の盲信というより外なし。いずくんぞこれを陽証法として信拠することを得んや。

 果たして、ヤソおよびモーゼの言の信ずべからざることを知るときは、ヤソ教に天帝を立つるは全く陰証法によるの理はすでに明らかなりと信ず。かつヤソの神子にあらざることを知るときは、ヤソは通常の人子なることまた許さざるべからず。しかれども、予がさきにすでに述ぶるがごとく、その人決して凡庸の人物にあらず。実に古代の英雄豪傑と称賛すべき人なり。しかしてその人なにほど英雄豪傑なるも、その言うところ必ず実行にして、その行うところ必ず奇異なるの理なし。たとえその言うところその実にして、その行うところ奇異なるも、世間の口碑に伝わり、記録に存するもの、ことごとく事実を誤らざるものと信拠するの理なし。しかるに、ヤソ教の『バイブル』経中に説くところをみて、これを陽証の言と固信して、天帝の実在を論定するがごときは、また惑えりといわざるべからざるなり。以上論ずるところによりて、まずヤソ教者の天帝の実在を証するは全く陰証法によるものにして、陽証法によるものにあらざること瞭然たり。果たしてしからば、いかなる論理によりて陰証を立つるかというに、前に挙ぐるところの四条の陰証法これなり。今ここに陰証法の未だ天帝の実在およびその創造を証するの力なきゆえんを述べんに、第一に、ヤソ教者は事物みなその原因ありて生滅するをもって、天地万物にもまたその大原因なくんばあるべからずという。けだしこの論たる、一果あれば必ずその因あり、一因あれば必ずその果あるの規則によるものにして、いわゆる因果の理法によりて天帝の実在を証するものなり。他語をもってこれをいえば、因果の理法を根拠として推論するもののみ。故にこれすなわち因果の理法の真理なりと許すものなり。しかしてこの理法によりて、天地万物の大原因は天帝よりと推定して、天帝自体にはその原因なしと断言するがごときは、この理法によらざるものなり。もし果たしてこの理法によるときは、天帝にもまたその原因なくんばあるべからず。例えば今日の原因は昨日にして、昨日の原因は一昨日なるがごとし。しかして今日の原因の昨日なるを知りて、昨日の原因の一昨日なるを知らざるはヤソ教の天帝論にして、これをいずくんぞ理論の正当を得たるものと称するを得んや。これ実に奇なる論法というべし。因果の理法果たして真ならざるか。もしその真ならざるにおいては、ヤソ教者なにを論拠として天帝の実在を証するや。もしその真なるにおいては、天帝にもまたその原因なくんばあるべからず。もしまたその反対よりこれみるに、因果の理法を真とするときは、この理法に従わざるものは非真理とせざるを得ざる理なり。果たしてこれを非真理とするときは、天帝は非真理の最も大なるものなりといわざるべからず。いずれにしてもヤソ教の天帝論は、未だ推論のその当を得たるものにあらずと知るべし。ヤソ教者もしこれに対して、天帝にその原因ありと論ずるときは、その原因にまたその原因なくんばあるべからず。かくのごとく推究するときは、けだし論理際涯なくして、いずれに至りてとどまるを知らず。いやしくもそのとどまるところに達すれば、その物たる原因なくして自生自存するものと許さざるを得ずという者あらん。余をもってこれをみれば、なんぞ必ずしもそのとどまるところを定むるを要せんや。すでに因果の理法の真なるを知り、この理法によりて天地の原始を証せんと欲せば、原因にその原因あり、結果にその結果ありて、天地万物は無始無終、不増不減、変化循環して、けだし際涯なきものと定めてしかるべし。これは実験に照してその証を見、論理に考えてその真を知るべきものにして、天帝の創造を立つるがごとき空想にあらざるなり。天帝創造は実験に考えて知るべからず、論理に徴して信ずべからず。余はもって天帝の実在を疑うてやむことあたわざるなり。つぎに第二条の陰証法を案ずるに、これただ第一条の意を敷衍したるもののみ。第一条の事物一般の因果の規則をとり、第二条は人為の上にその規則をとるなり。しかれども天地間の事物の変化は、ことごとく人為に出づるものにあらず。家を建て衣を製するは人為に出づるも、雲結んで雨をなし、花落ちて実を結ぶがごときは、天然に出づるものなり。しかるに人為に出づる一部分の規則をみて、天地万物もまた能造者ありて現出すべしと論ずるがごときは、また論理のその当を得ざるものなり。およそ宇宙間の事物は、必ずしも人為を待ちて変化を営むを要せざるはもちろんにして、これを自然力に任ずるも、かえってよく経営造作の結果を見ることを得るは明らかなり。かつ人為をもって経営造作したるもの、宇宙間にいくばくありや。これを自然にして進化したるものに比すれば、億万中の一、二だも満たすことあたわざるや疑いをいれず。しかるにヤソ教者はこの一、二の例を実視して、天地万物もまた、かくのごとく能造者ありて経営造作するものなりと論定するは、決して証明法のそのよろしきを得たるものと称すべからざるなり。

 故に家屋、衣服の人為を待ちてその形を結ぶを見て、宇宙も大職工ありて造出したるものなりと想像するは、一、二の特例を見て全体の通則となすと同一般にして、その論理に合格せざることはすでに略論したるも、なおここに人為の性質を論じて、その造作と天帝の造作とはまた大いに異なるところあるゆえんを証示せんと欲するなり。例えば人の家屋を造営するを見るに、その用いるところの木石は、人の自ら製出するものにあらずして、天然に生ずるところのものなり。これを断続するも、その木石の性に従わざるを得ず。これを建立するも、重力の規則に従わざるを得ず。空中に楼閣を作り、断崖の絶壁に屋舎を構成するがごときは、到底なしあたわざること明らかなり。果たしてしからば、人為に出づると称するも、物なきに物を作るにあらず、意のごとくに事物を経営するにあらず。事物の性質に応じ天然の規則に従って、よくその位置を変更しその事情を適合せしむるに過ぎず。他語をもってこれをいえば、人為は天然に従うものなり。これを帰するに、天然の外に人為なしと断言して可なり。しかるにヤソ教者はこの人為の例をとりて、天地万物を創造するところの天帝なくんばあるべからずと推論するがごときは、実に奇怪の証明法と呼ばざるべからず。人為は物なきに物を作るあたわざるに天帝はよくこれを造り、人為は原因なくして結果を見ることあたわざるに天帝はよくこれを見、人為は万事意のごとく左右することあたわざるに天帝はよくこれを左右し、人為は天然の規則に従わざるを得ざるに天帝はよくこれを変更するの力あり。人為と天帝とはすでにかくのごとく懸隔ありて、ほとんど氷炭相反するの性質を有するに、人為の例を引きて天帝実在の証拠となすも、余ヤソ教のためにとらざるところなり。そもそも宇宙間に森列せる万物にして、その日夜営むところの変化は、果たしてだれの手に成るやというに、これ天然の理法によるものにして、必ずこれを命令指揮するものありて起こるにあらず。果たしてしからば、その理法はいずれより生ずるや、かつその理法はよく万物を形成するの力ありやというに、余これに答えてその力ありといわんとす、いわゆる活理法なり。たとえ活理法なるも、天帝のごとく意に従って自在に万物を増減生滅し、自在に経営左右するにあらずして、ただ内外百般の事情に従って変化をその間に営むもののみ。例えばここに甲某なるものあり、ある日友人の宅を訪れんと欲し、家を出でて行くこと数丁にして、途次雷雨にあい、計らず電気の刺激に会して一命を損ずるがごとし。もしその人家を出でざれば死することなく、たとえ家を出づるも雷雨に際会せざるときは、またあえて一命を損ずることなかるべし。しかるにここに一人の論者ありて、その日家を出でて雷雨に際会したるは、これ決して天然に起こるにあらずして、他にこれを使わせしむる者ありて、ここに至るなりといわば、余のあえてとらざるところなり。これいわゆる天然の理法に従って起こるものにして、別に天帝のごとき者の存するありて、殊更にその者を殺すに非ざること明らかなり。これ余がいわゆる内外の事情に従って起こるところの天然の変化なり。内外の事情とはいかん。曰く、その人の家を出でたるは、その日家を出でざるを得ざる事情ありて起こり、雷雨の急に下りたるも、そのとき下らざるを得ざる事情ありて起こり、決して偶然に生ずるに非ず、また他に天帝ありてなしたるに非ざるなり。故に一歩を進めて、その理法のなんたるを考うるに、理法は万物のよりてもって変化を営む規則にして、諸事諸物一としてこの規則に従わざるなきは、一定不変の法則をいう。例えば、因果の理法のごときこれなり。およそいずれの世にありても、いずれの地にありても、この理法に従わざるものなし。また物質不滅、勢力保存の理法のごときも、一定不変の規則なり。かくのごとく論定するときは、ヤソ教者必ずいわん、万物に一定不変の規則あるは、万物は一体の天帝の創するによるなりと。これ余が解するあたわざるところなり。万物に一定の理法あるは万物の一物体なるによるも、これによりて天帝の創造を証するの理なし。天帝これを創造せざるも、万物その原質同一なるにおいては、もとより同一の規則に従うべき理なり。故に万物に一定の理法あるは、万物その初めより別物なるに非ずして、一物質の次第に進化して分派開発するに至れるなり。果たしてしからば、万物の本源はいかに解釈してしかるべきや。曰く、宇宙間に初めより一定の物と力と並存するありて、その間に生ずるところの変化によりて万物の分化するに至るなり。物には一定の分量ありて、初めより増減生滅あるにあらず。その体すなわち無始無終にして尽期あることなし。しかして力は物に含有して存し、物を離れて別に存するにあらず。物あらば必ずここに力あり、力あらば必ずここに物あり、故に物と力とはしばらくその体同一なりと定めてしかるべし。物すでに無始無終、不生不滅なれば、力また無始無終、不生不滅ならざるを得ず。故に物には物質不滅の規則あり、力には勢力保存の理法あり、また運動永続の規則あるもこの理による。果たしてしからば、物と力との無始無終、不生不滅なることは、実験上の結果なりと断定して可なり。故に余は世界の未だ分かれざるに当たりて、すでに一定の物と一定の力と並存せりというなり。そののち開発して万物万境を現示するに至りしは、物と力との交互作用による。そのすでに開発したるものもまた、閉塞することなきにあらず。その閉塞することあるも、物と力との分量の減滅するにあらず。これまた交互作用の事情による。故にあるいは開発して万境を現じ、あるいは閉塞して無一物の境に達するも、一定の物質と一定の勢力とは常に並行して存し、すこしも生滅増減あることなし。これすなわち理化学の実験より得るところの規則なり。しかして、この物と力との交互作用によりて世界の開闢を見、万物の変化を呈するに至るゆえんは、ここに一、二言のよく尽くすべきにあらざるをもって、余が別に起草するところの世界開闢新論を見るべし。ヤソ教者はこの物質不滅、勢力保存の理法を見て、これ天帝の存するゆえんにして、天帝の無始無終、不生不滅なるゆえんを示すに足るというものあれども、これ全く論理を知らざるものの言なり。物質不滅と勢力保存とは、実験上すでに知るところなり。天帝の実在は実験上知るべからざるところなり。すなわち一は形而上にして、一は形而下なり。この形而下に無始無終、不生不滅の理法ある以上は、形而上にも必ず無始無終、不生不滅の体あるべしというの理あらんや。しかるにヤソ教者は、この物質と勢力とは必ず別にその原因ありてきたり、初めより存するにあらずというものあるべしといえども、これ全く実験外の空想に過ぎざるなり。もし物質にその起源あり、勢力にその原始あるときはこれ決して無始無終、不正不滅というべからず。他語をもってこれをいえば、これ全く勢力保存、物質不滅の規則に背反するものなり。更に言を換えてこれをいえば、これ実験上の結果にあらざるなり。もし実験上得るところの勢力保存、物質不滅の規則を真なりと定むるときは、物質と勢力にその起源を論じていずれより起こり、いずれの時より始まるというを得ず。故に、余は天帝創造説をもって勢力保存、物質不滅の実験説に背反するものなりと断言するなり。しかれども宇宙の原始を考え、万物の起源を論ずるときは、必ず無始無終、不生不滅の一体あることを仮定せざるを得ざるに至るはもちろんの理なり。これをもってヤソ教者は実験外に天帝を仮想し、これを無始無終、不生不滅の体を予定して、天地の原始、万物の本源を論ずといえども、余おもえらく、これただに実験説に合格せざるのみならず全く無益の解釈なりと。請う、試みに左の図について考うべし。

  乙     甲

 甲はこの事物の世界なり、乙は事物世界を創造する天帝なり。しかしてこの世界のなんたるを解釈せんと欲すときは、必ず論理上無始無終、不生不滅の一体を仮定せざるを得ざるをもって、ヤソ教者は甲の範囲外に乙を設けて、この体すなわち無始無終、不生不滅なりと憶想するも、余がみるところによるに、必ずしも甲の範囲外に無始無終、不生不滅の体を設くるを要せず。甲の体すなわちこれ無始無終、不生不滅なりと定めてしかるべし。甲は我人のすでに知るところなり、乙は我人の未だ知らざるところなり。かつ甲の不生不滅は我人のすでに実験するところにして、乙の無始無終は我人の未だ実験せざるところなり。しかるに甲の不生不滅を解釈するに、乙の無始無終をもってするは、果たしてなんのために起こるや、余輩解することあたわざるなり。甲をもって不生不滅とするも、乙をもって不生不滅とするも理において同一にして、乙を不生不滅とするは実験説に相反し、甲を不生不滅とするは実験説に相合するの不同あるをもって、もしその解釈を下さんと欲せば、甲の体すなわちこれ不生不滅、無始無終なりと定むるは、論理のもとより許すところなり。しかるにこれに反して、すでに知るところの甲の原因を求めてこれを知るべからざるの乙に帰して、これ造物主なりと論定するは畢竟想像説に過ぎずして、決してこれをもって実験上の結果なりというを得ざるなり。

 これを要するに、宇宙間には本来一定の物質と一定の勢力ありて、常にその間に変化を営むことあるも、一塵一毫も増減生滅あることなし、いわゆる無始無終、不生不滅なり。故にその生ずるも、これをして生ぜしむるものありてしかるにあらず、その滅するも、これをして滅せしむるものありてしかるにあらず。物はその体中に含有せる勢力の発動によりて生滅の変化を呈し、力はその外に現ずる物質の事情に応じて増減の差別を示すのみ。その実、一定の物質と一定の勢力は常に並存して、すこしも変換あることなし。故に世の開くるも、そのとき始めて万物の発生するにあらず、世の滅するも、そのとき全く勢力の滅尽するにあらず。物と力とその交互作用によりて、表面に差別の万境を現示するときは、これを世界の開闢といい、表面に無差別の一境を現示するときは、これを世界の閉塞という。故に世界は、あるいは開きて万差の諸境を示し、あるいは閉じて無物の一境を示し、一開一滅尽期あることなし。その開きて万境を現示するの作用はこれを進化作用といい、その閉じて無一物の境に達する作用はこれを溶化作用という。けだし進化と溶化とは前後接続して交換し、世界の開閉終始をその間に見るなり。この理はひとり余が空想に出づるにあらずして、理学実験の結果より推理するところにして、今日の天文学に考うるも、また大いにこの理を信ずべきところあり。なおその詳細を知らんと欲せば、余が世界開闢新論の脱稿を待ちて見るべし。かくのごとく、物と力との交互作用によりて生ずるところの変化を、天地自然の変化という。その変化の現象は万別なりといえども、その実、一定の物と力との変形に過ぎざるをもって、一定の規則のその間に存するを見る。これを万物の規則または天然の理法というなり。これを要するに、天地万物の変化は物質と勢力と理法の三種に外ならず、物質は勢力のよりてもって変化を示すものなり。勢力は物質のよりてもって変化を生ずるものなり。理法は、その物質は勢力との間にわたるところの変化の規則なり。およそ宇宙に羅列せる億万の物象は有機無機を論ぜず、動物植物を分かたず、天然人造を問わず、ことごとくこの三種によりて変化を営むをもって、余輩、あに家屋衣服の人の手に成るを見て、宇宙もまた製造者ありて創造するものなりと論定するの理あらんや。故に余は、ヤソ教者の人造を見て天帝実在の証となす、決してとらざるところなり。つぎに万物の順応配合はよくそのよろしきに適し、決してこれを自然の進化に帰すべからずというの一論もまた、天帝の実在を証するに足らざるなり。もし果たして、順応配合はすべて天帝に帰するときは、青葉に青色の虫を生じ、雪国に白色の獣を見るは、天帝の意志ありて、よく外情に順応せしむるものなりといわざるべからず。熱帯地方の人のその色黒くして、寒帯地方の人のよく寒気耐うる力あるも、天帝のしからしむるところにして、自然の変化によるにあらずといわざるべからず。またあるいは、鶏はよく飛揚するをもって猫の餌食を免れ、猫はよく木に登るをもって犬のために殺されず、魚はよく水中に沈むをもって鳥のために害せられざるも、天帝の意志ありてなすところにして、自然力のしからしむるものにあらずといわざるべからず。またあるいは、病人にはこれを医するの薬品ありて、不具者には不具相応の職業ありて、たやすく死せざることを得るも、アフリカの砂原中に水草の存するありて旅人の渇を救い、ロシア北部の氷雪の間に獣類の生育するありて土人の衣食を助くるも、鳥の巣を作るを知り獣の穴居するを知るも、みな天帝のなすところに出でて、決して自然進化の結果にあらずといわざるべからず。その他、西洋の犬と日本の犬と交接してその中間に位する一種の犬の生ずるも、盲人の按摩を業とし婦人の裁縫を事とするも、上州人は麦を食し薩州人は薯を食するも、みな自然の勢いこれに至るものにあらずして、天帝の定むるところといわざるべからず。ヤソ教は果たしてかくのごとく論決するや否やは、余輩知らずといえども、もし果たして、あるいはかくのごとく論決するときは、事々物々一として天帝の意に出でざるものなしというより外なし。しかして、事々物々ことごとく天帝の定むるところなるの証拠なきをいかんせん。もしあるいは、これに反して順応適合の最もそのよろしきを得たるものは天帝の定むるところ、その未だ十分の適合を得ざるものは自然の進化より生ずるなりといわんか、余はなはだ恐る。その適合の十分よろしきを得たるものと、十分よろしきを得ざるものと、いずれの点をもって区別すべきや。その区別定まらざるにおいては、これは自然の進化より生じ、かれは天帝の配合より生ずと断定するを得ざるは明らかなり。かつ昔時、理学実験の未だ進まざるに当たりては、事々物々みな天帝の創するところに帰したるも、今日に至りてこれをみれば、かの変化はこの道理によりて起こり、この順応はかの事情によりて起これりということを証明したるもの、いくばくあるを知らず。これをもってこれを推すに、今日の実験上未だ十分なる証明を与うることあたわざるものあるも、将来永くその順応変化の事情を証明することあたわずと断言するの理あらんや。すでにその理なき以上は、その実験の未だ証明することあたわざる点をとりて、これ天帝の媒介によるとなすは道理なき推論というべし。

 もしヤソ教者、余が論ずるところをみて、自然進化の力いかにして順応適合を生ずるかと問わば、余これに解答を授くるをいとうにあらずといえども、ここにその理を詳明するの余地なきをもって、他日進化論を草するのときに譲るべし。ただしここに約言すれば、順応適合はすべて適種生存、自然淘汰の結果なり。例えて、青菜に青色の虫を生ずるは、色をもって自身の生存を全うするものなり。これを同色淘汰という。その色もし赤色また白色にして葉の色と異なるときは、たちまちカラスの目に触れてその餌食となり、その種類したがって減滅すべく、これに反して青色を帯びたる虫は次第に増殖すべく、かつその色もますます青色を帯ぶるに至るべき理なり。熱帯地方の人のその色黒きは日光の影響なり。鶏はよく飛揚し、猫はよく木に登るも、魚はよく水中に沈むも、自然の結果にして、もしこれに反するときは、その種類の生育することあたわず、したがって今日に現存するの理なし。その他、前に挙ぐるところのもの、みなこれに準じて知るべし。これをもってこれを推すに、複雑なる順応変化もまた、みな進化淘汰の結果なりと断言して不可なることなし。しかるにヤソ教者は、簡単なる順応は自然の進化に帰し、複雑なる順応は天帝の媒介に帰するがごときは、余すでにそのなんの意たるを解することあたわず。いわんやこの複雑なる順応の存するをみて、これ天帝の実在およびその創造の証拠となさんとするをや。余が感ここに至りてますますはなはだし。ヤソ教者あるいは顕微鏡をとりて万物の造構およびその変化を見て、その細密、美麗、神奇なるに驚き、これ決して自然進化の結果にあらずというものあれども、その実あえて驚くに足らざるなり。およそ天地間には無数無量の微分子ありて、おのおの変化を営むべき勢力を有し、その諸分子間の関係事情に応じて、種々無量の抱合をなし、種々無量の形状を呈し、これを大にしては日月星辰より、これを小にして顕微鏡的の最小動物に至るまで、一としてその抱合成形にあらざるはなし。その分子の数すでに無量にして、その間に相引き相離るるの勢力また無量なり。故にこれより生ずるところの抱合変化、また無量ならざるべからず。その形状造構の大小粗密も、またしたがって無量ならざるべからず。もしその無量なるに驚かば、人の顔色の千万みな同一ならざるに驚きて、これ自然の成形にあらずといわざるべからず。また碁客が幾回試むるも同一の碁をみることなきを驚きて、これ天帝の意志なりといわざるべからず。故に生物の造構なにほど細密、美麗、神奇なるも、これ自然進化力のなすところにあらずと断言するの理あらんや。いわんやこの点をもって天帝の実在およびその創造の証拠となすをや。もし果たして、造構成形、順応適合はすべて天帝の媒介特造に出づるものと許してこれをみるに、今日、造構のその用なきものあるはなんぞや、適合のそのよろしきを得ざるものあるはなんぞや。余はなはだその意を解するに苦しむ。けだしこれ天帝の深意にして、我人の知るべからざるものならんか、余常にこれに惑う。余が聞くところによるに、男子に乳腺子宮の成形ありと、これなんのために天帝の設くるところなるや。人の眼球は実に神奇細密の造構を有すと称するも、至りて近きものと、至りて遠きものとを明視することあたわず。また過度の熱に触れ、過度の光線に接するときは、眼力その作用を呈することあたわず。たとえ眼界に外物を連視することを得るも、同時に二物を明視することあたわず。なんとなれば、眼球の網膜面上には黄班と称する一点ありて、物象のその点に落つるにあらざれば明視することあたわず。故にこの点を明視点という。また網膜面上に盲点と称する一部分ありて、物象のその点に落つるときは全く見ることを得ざるなり。その造構の不完全にして、その適合のよろしきを得ざること、やや知るべし。ただこれを動物に比較して、一層の完全を加うるものとするのみ。しかるにヤソ教者あるいは盲点は両眼の存するありて、互いに相補欠し、明視点に眼球の運動によりて、外界の諸点に連向せしむべしというものあるべしといえども、殊更に盲点を作り、明視点を一部分に定めて、なんぞ煩わしく両眼の対合眼球の運動等を設けて、その欠点を補わしむるや、天帝なんの意ありて、かくのごとき煩わしきことを好むや。もし初めに盲点を作らず、明視点を一部分に限らざるときは、またなんぞかくのごとき煩わしき造構を設くるを要せんや。しかるに、もしこれを自然進化の規則より考うるときは、たやすくその理を了解すべし。その進化の順序および進化の力よく無量の造構順応を生ずるの理は、余が他日、進化論を草するに至りて証明するところあらんとするなり。第四に事物人類の進化はさきに期するところの目的ありて、これを達せんとするもののごとしという論あり。けだしその目的あるは自然進化によるにあらずして、天帝の経営するところあればなりというの意なり。故にこれをもって天帝の実在を証示せんと欲するものあれども、余がみるところによるに、これまた時々刻々の事情に応じて進化するものにして、殊更に期するところの目的ありて進むものにあらず。今これを人事について考うるに、人の身体の組織造構、およびその外界の事情に適合するの作用、その他、体外に接触せる有機無機の諸類より、人の本来有するところの天性本能および社会の変動、一身の行為に至るまで、みなよくその期するところの目的を達するために、その設けあるもののごとくみゆれども、これをもって天帝の人を造るは、あらかじめその人のなすべき目的を定めて、その方向に進ましむるものなりというの証となすべからず。ヤソ教者曰く、我人の周囲に接するところの空気は最もその生存に適当せるものをもって成り、これを呼吸するも人身に害あることなくして、ただその栄養を助くるのみ。これ天帝の人をしてその生存を全うせしむるために設くるによると論ずれども、進化の道理より生じたること明らかなり。例えば、仮に地球上の空気は人身に害毒あるものと定めてその結果を考うるに、人類のその間に生育すべき理なく、たとえひとたび生育したるものもたちまち滅亡して、その種類の後世に伝わるべき理なし。すでにその種類の後世に存する以上は、空気のよくその生育に適するところあるは必然の理なり。

 更に他の比喩を挙げてこれを証するに、例えば地球の表面はすべて海水をもって成り、寸分の陸地を現ぜざるときは、今日の諸生物中にていかなるもののみ生存すべきや。人類、獣類、虫類は大抵生存すべからざるはもちろんにして、その種類は次第に滅亡して、後世に伝わらざるに至るべし。しかしてわずかに生存すべきものは、魚類、その他、一、二種の鳥類、および雑草なるべし。かくして数千百年の後に至らば、地球上に魚類のみ生存せるを見ておもえらく、天帝は、よく水に遊泳するもののみを造出して生育せしめ、水に溺死するものを生育せざらしむるは、けだし深意ありてなすところにして、自然の進化によりてしかるにあらざるなりと。かくのごとく論定するものあらば、だれかその愚を笑わざるものあらんや。そもそも人類の進化して今日に至るは、千万年の短き歳月にあらず、幾億万歳なるやほとんど算数の及ぶところにあらず。その際、外界の事情に適せざるものなきにあらざるも、その種類は自然の勢い生育を全うすることあたわざるをもって、今日に生存せるものはよくその事情に適したるもののみ。故に我人の今日に生存するは、外情のよくわが生存を助くるあり、わが身体のよく外物に応合するありてしかるなり。これ全く進化の際自然にその方向に進みたるものにして、別に天意ありてあらかじめ定めたるものにあらず。あたかも水の低きにつくがごとし。平地の上に一杯の水を流すに、東西南北の方位を論ずるなく、その最も低下なるところに向かって進むを見る。これまた、天帝のその方向を定むるものというべきか。これを方形の器に入るれば方形をなし、これを円形の器に入るれば円形をなすも、また天帝のなすところにして、水自然の性力の致すところにあらずというて可ならんか。もしこれらは自然の性力にして、天帝の意をもって定むるにあらずといわば、人の進化の際、外情の最も適したる部分に生存するに至るも自然の性力にして、天帝の故意に出づるにあらずといわざるべからず。また、人類の生を欲し楽を好むも、天帝のあらかじめ定めたるにあらずして、進化の勢いこれに至らざるを得ざる事情ありてしかるのみ。もしこれに反して、人死を欲し苦を愛するときは、その種類たちまち滅亡して、今日に生存すべからざるは必然の理なり。いやしくも今日に生存する以上は、生を好み楽を愛し、衣食住のよくその健康に適するところあればなり。しかれども、進化の初めより必ずしも人類および高等動物のごとき、生をむさぼり楽を欲するものあるにあらず。その初期にありては、生を好むものあり、またこれを憎むものあり、楽を欲するものあり、また苦を欲するものあり、外情のよくその健康に適するものあり、適せざるものありと定めてしかるべし。その種類中、いずれが次第に繁殖し、いずれが次第に滅亡するかというに、生を欲し楽を好むものは次第に繁殖し、これに反するものは次第に減滅すべきは理の当然なり。かつその生を欲し楽を好むものも、進化の初期より今日のごとくはなはだしきにあらず。その初め寸分の傾向あるものは、ますますその方向に進むの事情あるをもって、今日に至りてこれをみれば、生物はその自然の勢い、生存繁殖の方向に競進する結果を見るなり。故に今日の人民に、なにほどのその天性本能の力によりて生存を全うし、快楽を長ぜんとするの事情あるも、天帝あらかじめその向かうところを定め、人をしてこれを達せしめんとするによるにあらず。故にひとり空気の人身の上に益あるのみならず、人間至る所食物の存するあり、衣服住居の設けあり。山川の風色、禽獣の公布みな人の目的を達するがごとくみゆるは、すべてこれ進化淘汰の結果なり。人に本性本能の力ありて、知らず知らずその生存安寧を全うするに至るも、天帝のあらかじめこれを定むるによるにあらざること、またすでに明らかなり。社会の進化変動もまたこの理に外ならず。これを要するに、我人の宇宙間に立ちてその生存快楽を保全するは、天帝の故意に出づるもののごとしといえども、その実、進化自然の勢いここに至らざるを得ざる事情ありてしかるものなり。果たしてしからば、人類生物の進化に一定の目的なきこと明らかなり。ただその時々刻々の事情に従って進化するのみにして、事情変更すれば、その進化の方向また変ぜざるべからざるの理なり。故にこの点をもって天帝の実在およびその創造を証せんとするも、全く徒労に属するを知るべし。以上論ずるところ、これを帰するに事物の原因、変化の原力、万物の順応配合等は、ヤソ教者の天帝の実在およびその創造を証明する論点なれども、これ全く陰証法に属するのみならず、この論点よりすこしも天帝の実在を推定することあたわざるは瞭然たり。果たしてしからば、ヤソ教者の造物主を立つるは、全く空想に過ぎずと断言してしかるべし。今、更に一歩を譲りて、前に挙ぐるところの論点は天帝の実在を知るべきものと許すも、これすでに陰証法にして陽証法にあらざれば、未だこれをもって十分確実なるものと定むるを得ず。更にまた数歩を譲りて、天帝の実在は陽証法をもって証明すべしと許すも、未だ『バイブル』経中に説くところの天帝は確実なるものと定むるを得ず。すなわち天地万物はその本源ありて起こり、事物の配合順応は別に媒介者ありて起こるをもって、これを創造配合するもの初めより存せざるべからずと許すも、その天帝なるもの果たして人類のごとき形体を有し、人類のごとき造作を施し、七日間に天地万物を造り、男体の骨を切り取りて女子を作り、罪人を罰するに大洪水をもってし、世人を救助するにヤソを下す等のこと、あるべき理なし。故に天帝の実在および創造の信ずべき明証あるも、ヤソ教に立つるところの天帝の真に存するの明証となすべからざるなり。しかるにヤソ教者中には、あるいは万物に元始およびその造為者あることを証明すれば、ヤソ教に説くところ、ことごとく真理なりと信ずるものあれども、これ大いなる惑いなり。またあるいは、理学者および哲学者の有神論を説くものあるを見て喜ぶも、ただますますその愚を笑わざるべからざるなり。更にまた数十歩を譲りて『バイブル』経中に説くところの天帝は信ずべき明証ありと許すも、未だ『バイブル』全巻の意真実なりと定むるの理なし。その経中にのぶるところの奇々怪々の事跡は、ひとり天帝の創造媒介にとどまらず、句々章々一として奇怪ならざるはなし。いちいちこれを証明するにあらざれば、『バイブル』全巻の説信拠すべしと公言することあたわず。故に余おもえらく、ヤソ教は決して実験上証明することあたわざるのみならず、論理上その所説を解釈すべからざるものなりと。これを要するに『バイブル』経のごときは古代の想像説に出でて、実験論理に照して説きたるものにあらざるや明らかなり。しかるにヤソ教者は、これを今日実験論理に考証してその真実を示さんとするも、到底そのなしあたわざるは必然にして、いやしくも論理を知るもの、だれか余がごとく論決せざるものあらんや。他語をもってこれをいえば、ヤソ教は空想の宗教にして実験の宗教にあらず。これを余がヤソ教を許して仏教の一部分なりというゆえんなり。

 つぎに、ヤソ教者の天帝の実在およびその創造を証するに、さきにすでに述ぶるがごとく、主として因果の理法をいう。すなわち結果あれば必ずその原因あるべきをもって、今日の事物にも必ずこれを創造する天帝なくんばあるべからずという。この証明法は全く因果の規則によるものにして、その規則は仏教の全組織に貫徹せる原理原則なれば、ヤソ教は仏教の原理原則を応用したるものに外ならず。この点よりこれをみるも、ヤソ教は仏教の一部分なるゆえんを知るべし。またつぎに、仏教は唯心説をもって立てたるものにして、ヤソ教は天帝説をもって立てたるものなり。しかるにヤソ教の天帝は、その有無なにによりて知るべしというに、人の思想論理によるというより外なし。しかして人の思想論理は、その体すわなちこれ心にして、心を離れて別に論理思想あるにあらず。故に知るべし、天帝は我人の心より生ずるものなるを。あるいはまたヤソ教者のヤソ教のなんたるを知り、天帝のなんたるを知るは、みな視聴の感覚によること明らかなり。『バイブル』一巻を了解するにも、目これを見て知るは視覚により、耳これを聞きて知るは聴覚により、ヤソの説法を聞くにもその覚、天を見るにもみな感覚によるなり。しかして感覚はすなわち意識作用の関するところにして、感覚の感覚たるを知るものすなわち意識作用なり。故に感覚は心性作用に属すべし。果たしてしからば、ヤソ教は心性作用の一部にて、言を換えてこれをいえば、ヤソ教は情感の宗教にして知力の宗教にあらず。しかりしこうして、余が主唱するところの仏教は、知力情感両全の宗教なり、実験論理に適合したる宗教なり。たとえその教は実験論理の未だ明らかならざる上世に起こるといえども、これを今日の実験に照して相合するところあり、これを今日の論理に考えてまた相同するところありて、決して空想妄誕の宗教にあらざるなり。原理原則たる一因あれば必ずその果あり、一果あれば必ずその因ありというの規則、および有を転じて無となすべからず、無を転じて有となすべからずというの規則は、もちろん理学の実験より得るところの物質不滅、勢力保存の理法は、みな仏教中の原理原則にして、その全体の組織に貫通する神経と称して可なり。故に仏教は陰証陽証両法をもって証明したるものと断言して、決して不可なることなし。実に不当の評にあらざるを知る。いわんやその教の知力情感両全の宗教なるをや。その古代の空想より起こりたるは情感より起こるものとなすべきも、今日の実験論理に適合するところある以上は、これを知力の宗教といわざるべからず。たとえこれを知力の宗教とするも、その中にまたおのずから情感の教味これに胚胎するありて、あえて知力の一辺に偏奇するにあらず。いわゆる知力を和らぐるに情感をもってし、情感を制するに知力をもってするものなり。ヤソ教はこれに反し情感一辺の宗教なるをもって、実験論理の上に考うるときは、一として信拠すべき分に過ぎざるなり。これまた余がヤソ教を許して仏教の一部分なりというゆえんなり。つぎにヤソ教は天地万物の本源を天帝と定め、変化応合の起点を天帝と定むるも、今一歩進んでこれを考うるときは、その天帝にもまたその本源なくんばあるべからず。天帝の本源はなにものなるやと推究するときは、更にまた他の天帝を設けざるべからず。他の天帝はまた、第三の天帝を起源とせざるべからず。第三は第四を起源とし、第四は第五を、第五は第六と、その本源を推究するときは、天地万物の本源は無始無終、不生不滅にして起点あることなく、尽期あることなく、あたかも円環の端なきがごとく、循化周行してやむことなきの理に達すべし。これすなわち仏教の真如不変の妙理にして、その一部分を見て全体を知らざるときは、その妙理は一種の天帝のごとく、人の思想中に現ずるなり。これもとより浅見より生ずるものにして、ヤソ教の天帝に一段の解釈を与うるときは、この理に体達することを得るは必然なり。これ余がヤソ教を許して仏教の一部分となすゆえんなり。仏教の真如とヤソ教の天帝とは、その性質大いに似たるところあるも、また大いに異なるところあり。第一に、真如は大工の家屋を造出するがごとく、自己の意志経画に従って創造するものにあらず。しかるにヤソ教の天帝は大工神にして、自己の思うところに従えて一時に創造するものなり。真如はこれに反して、自体に有するところの力をもって次第に開発進化するものなり。

 第二に、ヤソ教の天帝は個体神にして、一定の部位を有し、一定の性質を有し、一定の意志知力を有するものなり。仏教の真如は普遍の理体にして、一定の部位性質を有するにあらず。その理は天地万物の間に普遍して存し、天地万物を離れて別にその体あるにあらず。故にヤソ教は天地万物の外に天帝ありと説くも、仏教は真如これ万法、万法これ真如と説くなり。けだし人知の進歩は実より虚に入り、有より空に入り、明より幽に入り、個体より普遍に入るものなり。故に心理学にありても人知の発達を論じて、感覚知覚をもってその初級とし、実想をもってその次とし、虚想をもって人知の高等なるものと定むるなり。これによりてこれをみるに、ヤソ教に今日なお個体の天帝を立つるは、その教いまだ発達せざるものというべし。もしこれに哲理の解釈を与うるときは、たちまち変じて普遍の理体とならん。これ余がヤソ教に一段の解釈を与うれば、その教変じて仏教となるべしというゆえんなり。これを例うるに、人工をもって家屋を造営するがごとし。直接にこれを見ればその構造全く人力の致すところにして、自然力によるものにあらざれども、深くこれを見るに、一として自然力にあらざるはなし。第一に、重力の理法木石の性質に従わざれば、その目的を全うすることあたわず。これいわゆる自然力の規則なり。また、大工の手を動かし足を用いるも、器械を左右するも、みなおのおのその規則ありて、自己の思うところに従って自在に使用すべからず。しかしてその心に経画し、その動作に発現するもの、みな自然力のしからしむるところにして、すこしも一己の力をもって経画発現するものにあらず。故に大工の家を建つるを見て、これ全く人造に出づるなりと思うは浅見にして、深くこれを考うれば、その人造また自然力の致すところなるを知るべし。今ヤソ教の真如進化の現象を見て、これ天帝の造作なりと信ずるは、あたかも我人は家屋を見て、これ全く人造なりと信ずるがごとし。深くその性質を考うれば、無始無終、不生不滅の真如理体ありて、その体に有するところの力によりて次第に開発進化するのみにて、別に天帝ありて事物を造出するにあらざること、たやすく了解すべし。これ、余がヤソ教をもって仏教の一部分なりというゆえんなり。以上は、仏教とヤソ教とその立つるところの原理について、ヤソ教は仏教の一部分なることを証したるも、もしその勧善懲悪、安心立命の教理を談ずるに至りては、ヤソ教の偏僻にして仏教の完全なると同日の比にあらざるや、また、たやすく知るべし。それヤソ教は万事万物、万象万化、みなこれを天帝に帰して、天帝は万物の本源なり、天帝は万化の起点なり、天帝は真理の標準なりと称するのみにて、天帝を知るものこれ心にして、天帝を定むるものこれ人なるを知らざるは、実に愚の極というべし。請う、試みにこれを論ぜん、我人いかにして天帝の存するを知るや。曰く、陽証法にてはモーゼおよびヤソの遺書によりて知り、陰証法にては因果の規則によりて知るべしと。因果の規則によりてこれを知るは、これ思想論理によりて知るなり。他語をもってこれをいえば、天帝は心内に想するところの現象に過ぎざるなり。モーゼおよびヤソによりて知るは、これ人によりて知るなり。モーゼおよびヤソは人の形質を有する以上は、これ人なり。たとえヤソは神子にして人にあらずとするも、これに会うてその説を聞き、その書を読みてその意に解するは、みな人の感覚思想によるものにして、その教は全く人によりて知り、人によりて伝うるものなり。人は天帝の創するところと定むるも、これを定むるものはすなわちこれ人なり。ヤソは天帝の子なりと定むるも、人またこれを定むるなり。故に天帝を定むるものこれ人なり。しかして、人のよくこれを定めこれを立つるはなんの力によるというに、感覚思想によるなり。これを帰するに、ヤソ教は唯心説の範囲を出づるあたわずして、その範囲内の一小部分を占有するにとどまる。しかしてヤソ教者この小範囲内に宗教を立つるをもって、その原理ひとり不当なるのみならず、その応順またすべて不当の評を免れず。第一に人の機根の同一を説くをもって、真実一方をもって、衆生を誘引せんとす。しかして甲のヤソ教をみて解するところと、乙のヤソ教を聞きて解するところと、大いに異なるところあるを知らず。はなはだしきに至りては、氷炭相いれざる見解を下すものあり。その教果たしてその実一方なるにおいては、一分一厘もその中点に隔離するときは、天帝の意に反するものといわざるべからず。果たしてしからば、その信者中千人は千人、万人は万人、おのおの多少その見解を異にするは、勢いの免るべからざるところにして、その千万人中、一人よく天帝の真意に適中するものと定むるときは、他の九千九百九十九人はその意を誤解し、畢竟邪教外道の徒たるを免れず。誠に信ずるも至りて危き教というべし。しかしてその千万人中、誰人の信ずるところ最もよく真理に適中するかは、なにによりてこれを定むるや。彼必ずいわん、古来の解釈に基づきて定むるなりと。しかれども古来の解釈は人の定むるところにして、人換わり世移れば、その解釈もまた必ず変更すべし。果たしてしからば、今日天帝の真意を得て、その救助を受くべしと喜ぶものも、後日に至りてこれをみれば、自らすでに天帝の罪人たるを知るもまた計り難し。実に信じ張り合いのなき宗教というべきなり。かつヤソ教の人の賞罰を論ずる善悪にその階級を立てず。悪なればことごとくこれを同罪に処し、善なればことごとくこれに同賞を与うるの不公平あり。しかして善悪はなにによりて定むるかを案ずるに、天帝の意に従うと従わざるとによりて判定するなり。しかれどもその判定を下すものは、今日にありては天帝自身にあらずして、人の自らなすところなり。人の意をもって天帝の意を判ぜんとするその難きは必然なり。なんぞ知らん、ヤソ教者はかえって天帝の意に反し、余輩かえって天帝の意に合するを。これ余がヤソ教を信ぜんと欲して、その果たして天帝の意に合するや否やを恐るるがゆえんなり。これ世のヤソ教を信ずるものの、よろしく注目せざるを得ざるところなり。仏教はこれに反し機根の不同を説き、因果の規則を本とするをもって、ヤソ教のごとき偏僻不公平の賞罰あることなし。人の機根同一ならざるをもって、その教真実と方便を分かち、人をして機根相応の法を修めて、修行相応の果を得せしむ。またその人仏教を聞き仏理を解するに、おのおの同一ならざるも、その見解相当の得果あるべし。故にその賞罰もまた従って公平を保することを得るなり。例えば仏意に一寸隔離したるものと、二寸隔離したるものとは、同一の罰を受くるにあらず。一寸は一寸の賞罰あり、二寸は二寸の賞罰あり、五寸は五寸、一尺は一尺、おのおのその因に応じたる果をきたすなり。決してノアの大洪水のごとき、千万人同一の罰を受くるにあらず。そもそも善因善果、悪因悪果は仏教賞罰の原理にして、衆生の病患に八万四千の種類あれば、これを治する薬方にまた八万四千あり。善因悪因に八万四千の種類あるときは、その果にもまた八万四千の種類あり、地獄にも八万四千の種類あり、天上その他にも八万四千の種類あり。かくのごとく賞罰を定めて、始めて公平の結果を見ることを得べし。すなわち知るべし、仏教は完全公平の宗教にして、ヤソ教は偏僻不公平の宗教なるを。この点よりこれをみるも、ヤソ教は仏教の一部分に過ぎずということを得べし。それ仏教はその目的とするところ転迷開悟、断障得果にして、他語をもってこれをいえば、諸苦を去りて至楽を得るに外ならず。これを達する方法は遺伝順応の規則に従うものなり。遺伝とは、父祖より伝えたる形質性情を、その子孫に伝うる規則をいう。順応とは、一生の間外情教育等によりて変化を遺伝性の上に起こす規則をいう。今、仏教に説くところの人の機根同一ならざるは遺伝性によるものにして、その前世の経験異なるをもって、その得るところの果報もまた異ならざるを得ず。これをもって人々ことごとく同一の法を修めて、同一の果を受くることあたわざるなり。しかれども、その一生の間修するところの因に準じて、あるいは遺伝を変じて、高等に進化することを得べきものとす。これすなわち順応の規則によるものなり。過去の宿業の動かすべからざるを知りて、自らその地位に安んずるは、遺伝性を本とするものなり。今世に善因を修めて未来の善果を待つは、順応性を本とするものなり。これを要するに遺伝順応の二性相待ちて、無善造悪の凡愚の次第に転生して、仏果の地位に達することを得るなり。故に余まさにいわんとす、仏道修行は順応遺伝の規則によりて立つるものなりと。しかしてその次第に進みて仏果に至るは、いわゆる進化なり。次第に降りて悪趣に沈むは、いわゆる溶化なり。我人は過去、未来、現在の三世の間に因果の事情に従って、あるいは進化し、あるいは溶化するものなり。仏教に説くところの六道輪廻はこの理による。しかれども三世懸隔、六道輪廻は仏教中の奥義にあらず。その天台一乗家に談ずるところの円融相即の法門よりこれをみれば、この世すなわち未来、この土すなわち極楽にして、いずくんぞ必ずしも三世六道の差別を立てんや。しかしてその差別を立つるもまた仏教の所説にして、その教中の二元論より起こるなり。二元論とは物心二者の並存を許す説にして、これを人身についていえば、人の身体は肉身と心性の二元相合して成り、その死するときは心性は肉身を離るれども、心性の体滅するにあらずという。その体の肉身の範囲内に縛せられて存する間は、これを現在といい、その前後を過去、未来と称するなり。これ全く精神の不生不滅の理に基づくものなり。しかして仏教にては、その精神と肉体と相合して現在の身体を結成するは、過去の因縁によるという。もしまた唯物一元の説に考えてこれをみるときは、過去はいわゆる父祖数世間のことにして、未来はその子孫後世のこととなして可なるべし。その父祖数世間の経験相伝えて現今の身体を結ぶは、いわゆる過去の因縁によるものなり。しかして現在に修行順応するところの因縁は、子孫に至りてその果を見るは現在の結果なり。かくのごとく仏理を今世の上にとどめて、過未現三世の解釈を与うるときは、その説直ちに今日の進化説に合同すべし。かくのごとく仏教は順応遺伝両性をもって立てたることは、余が一種新発明の説にして、他日更に詳論することあるべし。

 以上論ずるところこれを結んで、ヤソ教は仏教の一部分なるゆえんを示すに、左の諸点を得たり。

(第一) 仏教は知力情感両全の宗教なり、ヤソ教は情感一辺の宗教なり。

(第二) 仏教は因果の原理をもって組織せる宗教なり、ヤソ教は因果の原理より派生するところの天帝をもって構成せる宗教なり。

(第三) 仏教は心性思想を本として立つる宗教なり、ヤソ教は心性思想の作用より想出するところの天帝を本として立つる宗教なり。

(第四) 仏教は無始無終、無生無滅の真如の体を万物万化の本源として論ずる宗教なり、ヤソ教は真如の一端なる天帝の創造を万物万化の本源として論ずる宗教なり。

(第五) 仏教は普遍の理体を説き、ヤソ教は個体の天帝を設くる宗教なり。

 この五条は、ヤソ教は仏教の一部分なるゆえんを証するに足る。もしその理を疑うものあらば、請う、試みに天帝に理学哲学の解釈を与うべし。これを解釈してその結果を見るときは、天帝はすでにヤソ教の天帝にあらずして、仏教の真如となるべし。これをもって第四条と第五条の確実なるをしるべし。

 つぎに天帝を空するも、因果の理依然として存し、因果の理を空すれば、天帝またしたがって存することあたわず。かつ天帝なきもわが心滅するにあらず、わが心なくんば天帝存すべき理なきをもって、第二第三両条の真なるをしるべし。しかして第一条は余が本論全編の問題にして、次下節を追うて詳明するところあるべし。その他、ヤソ教の偏僻不公平にして、仏教の公明正大、無偏無党なることは、左の諸点についてしるべし。

(第一) ヤソ教は真実一法を説き、仏教は真実方便を兼記す。

(第二) ヤソ教は人の機根同一なりと定め、仏教は不同一なりと定む。

(第三) ヤソ教は賞罰に無数の階級を立てず、仏教は無数の階級を分かつ。

(第四) ヤソ教は三世因果を説かずすべて天帝の故意に帰し、仏教は三世因果を立ててすべて因果応報に帰す。

(第五) ヤソ教は転生漸化を説かずして即得往生を説き、仏教はこれを併説す。

 第五条もまた傍らヤソ教は仏教の一部分なるを証するに足る。その他、ヤソ教の真実ならざるゆえんは、左の諸点においてみるべし。

(第一) ヤソ教は陰証ありて陽証なし。

(第二) ヤソ教は理学実験の結果に合格せず。

(第三) ヤソ教は論理の原則に応合せず。

(第四) ヤソ教は進化の規則に背反す。

(第五) ヤソ教は心理の学説に背反す。

 この五条は余が後に更に弁明することあるべし。しかしてこの五条もまた、多少ヤソ教は仏教の一部分に過ぎざるゆえんを示すに足る。これ余が断固としてヤソ教は仏教の一部分なりと確言するゆえんなり。

     第二節 仏教全体の組織を論ず

 余、前節においてヤソ教は仏教中の一部分なるゆえんを論じたれば、今ここに仏教の組織の広大無辺にして、古来の諸説諸論ことごとくそのうちに帰入するゆえんを述ぶるを必要なりとす。そもそも仏教はその範囲の広大なる、ヤソ教ひとりその一部分を占有するのみならず、儒教も道教も婆羅門教も回回教も、みなその一隅を占有するに過ぎず、西洋古今の哲学の全組織もことごとくそのうちに具備せり。あに広大なりと呼ばざるをえんや。

 今その組織を考うるに、浄土聖道の二門より成ることは、余が緒言中にすでに論ずるところなり。すなわち聖道門は知力の宗教、浄土門は情感の宗教にして、仏教は知力情感両全の宗教なり。故にヤソ教および儒教のごとき情感の宗教はその一部分なることすでに明らかなり。もしこれを西洋哲学に比較して、哲学上の古来の所説ことごとくその教理中に具備するゆえんを示さんと欲せば、ここに聖道門すなわち知力の宗教の組織を略述せざるべからず。これを略述するにあれざれば、仏教の広大なるゆえんを示すあたわず。故に余はこれより浄土門の組織はしばらくこれをおき、ひとり聖道諸宗の組織関係を論ずべし。これただ仏教の広大を示すのみならず、その組織中に果たして知力の宗教の存するゆえんを証し、あわせてヤソ教のいよいよその一部分なることを明らかにすることを得、世の仏教を目して情感一辺の宗教となすもの、よろしくこの一編を読みてその惑いを解くべし。

 余さきに緒言中すでに、仏教は唯物、唯心、唯理より成り、倶舎は唯物なり、唯識は唯心なり、華厳、天台は唯理なることを論じたるが、今またこれを唯物宗、唯心宗、唯理宗の三種に分かち、逐次論及すべし。まず仏教の大綱をいえば、倶舎宗、成実宗、法相宗、三論宗、華厳宗、天台宗等の諸宗より成る。これを大別して大小二乗となす。倶舎および成実宗は小乗なり。法相、三論、華厳、天台の諸宗は大乗なり。小乗は仏教中の浅近なる宗旨にして、大乗は高尚なる宗旨なり。これをまた有空二門に分かちて、倶舎は小乗中の有門とし、成実は小乗中の空門とし、法相は大乗中の有門、三論は大乗中の空門とし、華厳、天台は非有非空の中道とするなり。しかして、余が主として論ぜんと欲するものは、倶舎、法相、天台の三宗なり。これを唯物、唯心、唯理の三部に分かつ。すなわち倶舎をもって唯物とし、法相をもって唯心とし、華厳、天台をもって唯理とするなり。あるいはまた有空中の三宗に配当して論じても可なり。すなわち倶舎は有宗、法相は空宗、天台は中宗なり。法相は大乗中の有門なれども、これを小乗に比すれば空門となる。故ににここにこれを空宗とす。その有とは、万物の実体真にありと信ずるものをいう。故にその説唯物論に属すべし。空とは万物の体もと空にして、ただ一心あるのみと唱うるものをいう。故にその説唯心論に属すべし。中とは万物の体真にあるにあらず、また全く無きにあらずと立てて、唯物唯心の中庸をとるものをいう。故にこれを非有非空の中道とす。しかしてここにこれを唯理というは、その説物体を主として論ずるにあらず、心体を主として論ずるにあらず、非物非心の理体を主として論ずるによる。その理体これをここに真如という。しかもその理は、全く物心を離れて別に存するにあらず。物心すなわち真如の理体なり。故にこれを唯理というも、もとより理の一辺に偏するものを義とするにあらず。いわゆる中道の理なり。すなわち非有非空の理にして、あわせて亦有亦空の理なり。他語をもってこれをいえば、非物非心の理にして、あわせて亦物亦心の理なり。故にあるいはこの理を名付けて、完理または中理と称すべし。今、物心理三宗の性質を考うるに、第一に、唯物宗すなわち倶舎宗の大要を略言せざるべからず。倶舎宗は仏教中の初門にして、その意、世俗一般に我境の実在を信じ、彼我差別の見を離れず、ために迷を起こして心を苦しむるをもって、その迷苦を去らんと欲して、唯物の理を説くものなり。故にその宗に説くところ、我境は空にしてその体なしという。すなわち五蘊四大と称する諸元、種々集散分合して仮に我境を結ぶのみ。故にこれを分散すれば、また我境なしという。しかれども、その諸元の実体は真に有りと立つるなり。すなわち、倶舎に三世実有 法体恒有というものこれなり。しかしてその諸元を分析して分かつべからざるに至れば、これを極微と名付く。極微とはいわゆる化学的の元素なり。この元素相集まりて物質を形成す。倶舎の極微所成というものこれなり。故にこれ散ずれば、また元素に帰すべし。元素の体はつねに存すれども、これより形成せる万物は、その変化定まりなし。この理によりて我境の実体なきを証す。故に余は倶舎をもって唯物論とするなり。あるいはまた、これを哲学中の実体論と称してしかるべし。実体論は万物の実体真にありと説くをもって、倶舎の法体恒有の説とやや同一なるがごとし。しかれども詳細の点に至りては、多少の異同あるを免れざるなり。別して倶舎の唯物論と西洋の唯物論とは、大いに性質を異にするところあり。西洋の唯物論は物資の外に心性なしと唱うれども、倶舎は物心二元を立てて、物質の外に心性を説く。いわゆる五蘊は色受想行識の五種にして、色は物質なり、受想行識は心性なり。この物と心と相合して、仮に人を形成すという。これによりてこれをみれば、倶舎は哲学中の二元論なり。しかして余がここにこれを唯物論に属せしめたるは、その説諸元相合して人をなし、極微相集まりて物をなし、これを分析すればただ一定の諸元あるのみと唱うるをもって、唯物論とその原理を同じうするによる。ただその元素中に心性の一元を加うるをもって、西洋の唯物論に異なるのみ。これを要するに、倶舎は我人の身体は若干の諸元より成り、その諸元を離れて別に我と称すべきものなしと立つれども、その諸元の実体に至りては実に存せりという。故に倶舎は我境の実体なきを証示すれども、未だ我境を組成せる諸元の実体なきを説明せず。これを仏教にては、我執を空して未だ法執を空せずという。この我法二執を空するは大乗に限る。しかして倶舎の法執を空するの力なきは、その教の小塗にして、仏教中の浅近なる法門なるによるなり。

 小乗中倶舎のつぎに成実宗と称するものありて、倶舎は小乗の有門、成実は小乗の空門なることは、さきにすでに示したるところなるが、成実を空門とするは、その説ただに我境を空するのみならず、諸元の体もまた空なりというによる。故に成実は小乗極まりて大乗に入らんとするの階梯なり。小乗極まりて大乗の初門に入るは、唯物論変じて唯心論となるものなり。小乗倶舎にありては、諸元の実体真に有りと立つれども、一歩を進めてその体のいかんを考うれば、真に存するや否やも知るべからず。ただにその存否のいかんを知るべからざるのみならず、元素の実体のいかんもまた知るべからず。これを西洋の哲学に考えてその理を示すに、唯物論者は物質の外に世界なく、物質は若干の元素よりなるというも、その元素はいかなるものにして、いかにして生ずるかの問題に至りては、決して物理上の解釈を与うることあたわず。けだし物理の解釈ここに至りて極まる。しかして顧みて心界のいかんを思えば、我境は実に心なり。諸物の体は実に有なりと想するもの全く心性の作用にして、元素の実体知るべからず。その存否定むべからずというも、また思想の作用に外ならず。すなわち知るべし、この世界は心性思想の範囲中にありて存するを。他語をもってこれをいえば、森羅の諸象はことごとくその体の鏡面に浮かぶところの影像にして、その出没変化あるは思想海中の波動に過ぎず。故に唯物より一歩を進むれば唯心に帰すべし。唯心上物界の諸象は心界の変化より生ずと立つるもの、これを仏教中法相宗の所談とす。すなわち三界唯一心 心外無別法と説き、森羅万象 唯識所変と談ずるもの、これなり。法相宗は一に唯識宗という。唯識は唯心なり。その立つるところをみるに、万物万境の開発するゆえんを証するに、八種の心性を設くるなり。その第八種の心性と阿頼耶識と称す。これを訳して蔵識という。その心体中に万物万境の元子を含蔵し、その体開発して万物万境を現ずという。これを頼耶縁起と称す。阿頼耶の体心を立つるによる。その心体は絶対心にして、カント氏およびフィヒテ氏の絶対主観と同一なり。その体中に存するところの元子開発して、世界万境を現示するをもってこれを帰すれば、唯一の絶対心あるのみ。故に法相宗は唯心論なり。

 法相の唯心論はこれを小乗に比するに、我境を空し、かつ我境に組成せる諸元を空し、いわゆる我法二執を空して、万法唯一心の理を証立するをもって、これを空宗とするなり。しかれども、さきにすでに示すごとく、大乗の空宗中にも有空二門ありて、法相は有門三論は空門とす。法相を有門とするは、その説心外の諸境は虚妄なりと立つれども、心内に現ずるところの諸象は、有にして空にあらずと定むるによる。この諸象を空して一切皆空の真理をあらわすもの、これを三論宗とす。故にこれを大乗空門と称す。かくのごとく内外の諸象諸境を空して、その極点に達するは一理体の殖然として存するを見る。これ空門の極まりて中道に入るものなり。

 中道は大乗の奥義にして有空両門の極まりたるところなり。華厳天台両宗の唱うるところのものこれなり。その説これを法相の頼耶縁起に対して真如縁起と称す。すなわち物心二元を真如の一理に帰して、この理の外に物もなく、また心もなしと立つるによる。これ余が中道宗と名付けて、唯物唯心を合したる唯理論と称するゆえんなり。しかしてこれを中道と称するは、さきにしばしば述ぶるごとく、小乗の倶舎は有に偏し、大乗の初門は空に偏するの僻あり。大乗中また法相は有に偏し、三論は空に偏するの僻あるをもって、その有空の両端を接合して中庸をとるによる。またこれを真如の理体の上に考うるに、物質の外に我境なしと立つる唯物論は物の一方に偏し、心性の外に万境なしと定むる唯心論は心の一方に偏し、共に中正の論にあらず。けだし物と心とは互いに相対待して存するをもって、物心は相対の名なり。なお左右というがごとし。左なければ右またなく、右なければ左またなき理なり。故に物のみありて心なしというも、心のみありて物なしというも、共に一僻論たるを免れず。さきに倶舎の唯物論進んで大乗の唯心論となりたれども、三界唯一心と立つるは、能観の心の外に所観の境なしと立つるがごとし。他語をもってこれをいえば、主観ありて客観なしというがごとし。主観は客観に対して並存するものにして、客観なくして主観ひとり存すべき理なし。故に物心の本体を定むるには、非物非心の理体を立つるより外なし。その理体これを真如という。真如は物にして物にあらず、心にして心にあらず、いわゆる非物非心なり。非物非心にして、またよく是物是心なり。これを非有非空 亦有亦空の中道という。故に余はここに唯理論の名を用うるも、その説あえて理の一辺に偏するにあらず。理と物心と相合して不一不二なるをいうなり。これ余が、あるいはこれを名付けて、中理論または完理論と称するゆえんなり。

 今ここに真如中道の妙理を解するに当たり、まず天台のいわゆる一心三観 一念三千の法門を略弁せざるべからず。しかして一心三観の理を解するには、まず空、仮、中、三諦の関係を知らざるべからず。我人目前に見るところの万物その実体を究索するに、一としてつねに存し、永く住するものなきをもって、その体すべて空なりとす。これを空諦という。しかしてその目前に見るところの万物の象は、現に存するものにして空にあらず、これを仮という。すなわち万物はその体空実なるも、因縁相応して仮に目前に結ぶところの諸象は、有にして空にあらずという。かくのごとく空にして有、有にして空なるをここに中というなり。これを合して空仮中の三諦とするなり。この三諦の理一心の中にありと観ずるを、一心三観の法門という。その一心の中に本来三千の諸象を具して、彼我の万境を現示するは、そのいわゆる一心三千の妙理なり。その一心の開きて三千となり、一理の発して万境を生ずるゆえんは、以下逐次論及せんとす。

 古来哲学上の研究によるに、物心の二元初めよりその体別なるにあらず。太初物心未開のとき、すでに非物非心の原体存するありて、その体よく物心二元を開発するゆえんは、たやすく了すべしといえども、その原体いかにして二元を生じ、その二元いかにか原体と関するかの二大疑問に至りては、今日未だ十全の解釈を与えしものあるを見ず。ひとり仏教中にその解釈の完全なるものを得たり。今その理由を示さんと欲せば、まず体象力の関係を論ぜざるべからず。物心は象なり、真如は体なり、物心の真如より開発するは力なり。象と力とは我人の直ちに接するところなれども、体は我人の知らざるところなり。しかしてよくその体あるを知るは、その象の現ずるにより、その象の現ずるはその力の発するにより、その力の発するはその体の存するによる。故に我人直ちにその体の存するを知らざるも、その象とその力との生ずるゆえんを推すときは、またその体あるを知るべし。言を換えてこれをいえば、体の力の原因に名付け、象は力の結果に名付くるをもって、すでにその果あればその因なくんばあるべからず、すでにその象あればその体なくんばあるべからざるの理なり。けだし真如は自体有するところの力をもって、自存、自立、自然にして進化し、自然にして淘汰して物心両境を開き、万象万化を生ずるなり。これをもって天台にては、真如の理体に本来三千の諸法を具するゆえんを論じ、また起信論には一心より二門を開き、二門より万境を生ずるゆえんを設けり。これを要するに、万境の生ずるはこれを生ずべき力ありて、初めより存せざるべからず。しかして宇宙間に真如の外に一理界なきをもって、その力は真如界中にありて存せざるべからず。故に真如はその未だ物心を開発せざるに当たりて、すでにこれを開発すべき力をその体中に有するものと断言するも、理のもとより許すところなり。

 つぎに物心二元のいかにか真如の理体と相関するかを尋ぬるに、天台にてはこの二者を同体不離と立つるなり。これを同体というも二者同一なるに非ず。一にして一に非ず、二にして二に非ず、いわゆる不一不二なり。今その理を知らんと欲せば、まず相対と絶対との関係を知らざるべからず。物心二者は互いに相対して存するをもって相対門に属し、真如の理体は純一不二なるをもって絶対門に属す。かくのごとく定むるときは、まずこの絶対門は、相対門の内にあるか外にあるかの疑問を判定せざるべからず。もしこれを外にありとするときは、我人の心よく絶対門のいかんを知るべき理なし。なんとなれば我人は相対門中にありて、その心に想するところのものはただ相対のみなればなり。故に絶対果たして相対の外にあるときは、その体我人の知識の範囲外にあるなり。知識の範囲外にあるもの、我人いずくんぞよくこれを知り、かつこれを論ぜんや。しかるに我人すでにその有無を知り、かつこれを論ずる以上は、その絶対の体、我人の知識内になくんばあるべからず。すなわち絶対は相対を離れて別に存するに非ざるゆえんを知るべし。易のいわゆる太極は絶対なり、両儀四象は相対なり。この相対の体は太極に非ずというときは、太極は万物の外にありて存せざるべからず。もし太極すなわち万物にして、万物すなわち太極なりというときは、絶対相対の同体不離なるゆえんを示すものなり。しかれどもシナ学者の太極説は、この同体不離の関係を知らざる者のごとし。つぎに西洋にありては、シェリング氏の哲学は相対の外に絶対を立つるをもって、ヘーゲル氏これを駁して相絶両対不離なるゆえんを証せり。今、仏教に立つるところのものはこの両対不離説にして、ヘーゲル氏の立つるところにすこしも異なることなし。すなわち仏教にては、相対の万物その体真如の一理に外ならざるゆえんを論じて、万法是真如といい、真如の一理物心を離れて存せざるゆえんを論じて、真如是万法といい、あるいはまた、真如と万物と同体不離なるゆえんを論じて、万法是真如 真如是万法、色即是空 空即是色という。色はすなわち物にして、空はすなわち理なり。なお物則是理、理則是物というがごとし。この関係を示すに、水波のたとえをもってす。水は絶対の真如に比し、波は相対の万物に比し、万物の形象一ならざるは、波の形象万殊なるに比し、真如の理体の平等普遍なるは、水の体の差別なきに比して、真如是万法 万法是真如、色即是空 空即是色の関係を例えて水則波、波則水といい、万物と真如の相離れざるゆえんを示して、水を離れて波なく、波を離れて水なしという。しかして仏教中の万法とは、百般の事物を義とするなり。かくのごとく論ずるを真如縁起という。今、更にこの真如と万法との同体不離の関係を明らかにせんと欲せば、平等と差別との関係を説かざるべからず。差別は平等ならざるに名付け、平等は無差別に名付く。今、真如理体は常住普遍にして、絶対不二なるをもってこれを平等とし、物心の諸境は、彼我差別の諸象を有するをもってこれを差別とす。故に物心二元は差別なり。非物非心の一元は平等なり。直ちにこれをみれば、平等は差別にあらず、差別は平等にあらざるをもって、二者全く相反するもののごとしといえども、深くこれを考うれば、差別平等の同一なるゆえんを知るべし。例えば平等は差別にあらず、差別は平等にあらざるをもって、平等も差別も共に差別あり。かくのごとく論ずるときは、平等すなわち差別となる。平等も差別なり、差別も平等なれば、二者同一にしてその間差別なし。かくのごとく論ずるときは、差別すなわち平等となる。これ理を推して絶対相対の関係を知るもまた容易なり。絶対は相対にあらず、相対は絶対にあらずといえども、相対は絶対に相対して存し、絶対は相対に相対して存するよりこれをみれば、絶対すなわち相対なり。絶対も相対にして相対も絶対なれば、二者同一にしてこれに相対するものなし。かくのごとくみるときは、相対すなわち絶対となる。これをもって万法是真如 真如是万法、色即是空 空即是色の関係を知るべし。これによりてこれをみれば、物心の万境と真如の一理とは同体不離にして、その間差別を見ることなし。しかるにその差別を有するはいかにというに、これまた比喩をもってたやすく証示することを得べし。これを例うるに、物心二元は一枚の紙に表裏の二面あるがごとし。表面よりこれを見てこれを物といい、裏面よりこれを見てこれを心という。すなわち心は物にあらず、物は心にあらざるは、なお表面は裏面にあらず、裏面は表面にあらざるがごとく、物は心に対して存し、心は物に対して存するは、なお表面は裏面に対して存し、裏面は表面に対して存するがごとし。表裏はすなわち相対なり、しかれども表裏その体全く異なるにあらず。一枚の紙すなわちその体なり、紙の体を離れて表なく、また裏なし。故に紙の体よりこれをいえば、その体すなわち絶対なり。しかれども、表裏を離れて別に紙の体なきをもって、絶対は相対を離れて別に存するにあらず。相対の表裏すなわち絶対の紙体なり。かくのごとく、一枚の紙体にして表裏の差別を有し、表裏の体すなわち紙なるをもって、一真如の体にして物心の差別を有し、物心の体すなわち真如なるゆえんを知るべし。かつ表裏と紙体とは、またおのずから異なるところあるをもって、真如と物心の同一ならざるゆえんを知るべし。これを要するに、真如と物心の関係は、同すなわち異、異すなわち同、一にして二、二にして一なり。これを仏教にては円融相即の法門という。天台家に談ずるところのものこれなり。

 再びさきに挙ぐるところの空仮中三諦の理を考うるに、心鏡の表面に一点の妄塵なき、これを空といい、その面に諸象歴然として現見する、これを仮といい、鏡体これを中という。この三者すなわち一、一すなわち三なるを三諦円融の妙理という。この理をもって煩悩即菩提 生死即涅槃の理を知るべし。涅槃は真如の理体、菩提はこれを証する知恵にして、共に平等の絶対なり。煩悩および生死には、これに反して差別の相対なり。また、これによりて理具即事造、事造即理具の理を了すべし。理具とは、真如の理体に本来差別の事物を具してその象を見ざるをいい、事造とは、その差別事物開発して歴然としてその象を外に現ずるをいう。この三者互いに相融通して、おのおのその他を具備するを、ここに理具即事造、事造即理具というなり。かくして、すでに物心の同体なるゆえん、万境と真如の同体なるゆえん、およびその同体にして差別を有するゆえんを証せしをもって、これより物心の一部分と真如の全体といかにか相関するかを究めんとす。直ちにこれをみれば、物心二者相合して真如とその体を同じうするをもって、物は真如の一半にして、心また他の一半なりといわざるべからず。果たしてしからば、一半の心にしてよく真如の全体を想出するは、はなはだ解し難きに似たれども、これまた、あえて怪しむに足らず。心は真如の一部分にして、同時に全体をその中に含有せざるを得ざるなり。これを例うるに、一枚の紙の一半を示すところの表裏の各面のごとし。表面よりこれを見るも、裏面よりこれを見るも、ひとしく紙の全分を現ずべし。物心またしかり、物の一半よりこれを見るも、心の一半よりこれを見るにひとしく、真如の全分をその上に現ずるなり。

 およそ真如界に現ずるところのものは、物心の一半ひとりよく真如の全体を含有するのみならず、事々物々みな真如の一部分にして、またよくその全体を包容すべし。これを例うるに、我人の眼球は宇宙の一部分にして、またよく宇宙の全体をその内に浮かぶるにあらずや。宇宙の全体眼中に入るにあらざれば、我人宇宙間の諸象を見るあたわず。我人の心、真如の全体を包容するにあらざれば、我人宇宙の全体を知るべき理なし。これをもって宇宙間に存するところの事々物々、みなそのうちに真如の全体を含有するゆえんを知るべし。故に仏教には芥子納須弥、須弥納芥子の語あり。華厳宗に談ずるところの事々無礎の法門、またこの理に基づく。一塵一毛もその心真如より現ずるをもって、そのうちに真如の理を具し、かつその全体と直接の関係を有するものとす。これによりて宇宙間の事物互いに相融通して、更にその間に隔歴するところなきを知るに足る。その他、仏教中に十界互具の義ありて、十界中各他の九界を具し、凡夫も転じて仏界に至り、仏も地獄に堕することありというゆえん、またしるべし。

 かくのごとく論ずるときは、事々物々一として真如ならざるはなく、微花小草もみな真如の理を具し、一滴の水も一点の雲もみな真如の理を具す。故に涅槃経に諸動物ことごとく本来真如の理性を具するゆえんを述べて、一切衆生 悉有仏性と説けり。仏性はすなわち真如の理体なり、ただに動植物この仏性を具するのみならず、金石土木みなこれを具するゆえんを述べて、円覚経に衆生国土 同一法性といえり。これをもって天台にては、草木国土 悉皆成仏の法を談ず。これを一乗の法という。しかるに法相宗にありて、三乗おのおのと別立てて諸生物にその種類を分かち、おのおのその類に従って得るところの果に不同ありと説くといえども、天台一乗の法門に至りては、ただに禽獣草木のみ成仏するにあらず。国土山川みなことごとく成仏すべしと立つるなり。

 更にこれを実際に考うるに、人類は成仏するとあるも、未だ禽獣草木の成仏せしを聞かず、いわんや国土山川においてをや。また人類中にも賢愚利鈍ひとしく仏性を具するをもって、みなことごとく成仏すべき理なれども、成仏するものとせざるものとの別あるはいかにというに、これ成仏の原因を修むると修めざると、成仏の事情を得ると得ざるとによる。例えば氷は水と同体なれども、これを溶解せざれば水とならざるがごとし。氷堅きものはこれを溶解する難く、氷薄きものはやすし。動植土石のごときは氷の最も堅きものなり。故に成仏する最も難し。人類はその最も溶解しやすきものなれども、そのうちまた厚薄の不同ありて、成仏に難易の別を生ずるなり。故に人ことごとく仏性を具するも、その厚薄難易の度に従ってこれを開発する原因を修めざれば、煩悩の氷を溶解するあたわず。煩悩の氷溶解せざれば、成仏の果を得るあたわず。煩悩とけ仏性を纒縛する惑障をいう。これをもって仏は修行の階級を立てて、成仏の道を教うるなり。

 かくのごとく我人仏性を具するをもって、みなことごとく成仏の果を得べき理なれども、成仏の道を修めざればその果を得るあたわずと教うるもの、これ因縁の理なり。因は原因にして縁は事情なり。因縁相合して生ずるもの、これを果という。果は結果なり。もし本来仏性を具せずして成仏の果あるものとなすときは、これ因なきに果あるものなり。もし本来仏性を具するもの、成仏の道を修めずして、その果を得るものとなすときは、これ縁なきに果を得るものなり。これを例うるに、氷体もし水ならざれば、これを溶解するも水となるべき理なく、またこれを溶解すべき事情を得るにあらざれば、水とならざるがごとし。すでに成仏の果あるは仏性を有するにより、仏性を有するものことごとく成仏せざるは、その道を修めざるによる。これみな因果の理にして、一因あれば必ずその果あり、一果あれば必ずその因あり。これを因果の規則という。故に仏教の成仏を談ずるは、全くこの規則に基づくものと知るべし。しかして縁すなわち事情は、因を助けて果を生ぜしむるものなるをもって、果に対してこれをみれば縁もまた一原因なり。故にもし因を分かちて内因外因となすときは、内因はそのいわゆる因にして、外因はそのいわゆる縁なり。かくのごとく解してもまた不可なることなし。

 この因果の規則は理学の原理にして、今日唱うるところの物質不滅の規則、勢力保存の理法を応合するものなり。けだし物質は千態万状の変化を営むも、その元素に至りては一定の数量ありて、すこしも増減生滅あることなし。また勢力は事情の異なるに従い、種々その作用を異にするも、その定量に至りてはすこしも増減生滅あることなしという。この理を推してこれを考うるに、一因あれば必ずその果なくんばあるべからず、一果あれば必ずその因なくんばあるべからず。一物の生ずる必ずそのよりて生ずる原因なり、一事の起こる必ずそのよりて起こる事情あるは、理のもとよりしかるところなり。もしこれに反し、因なきに果を生じ、事情なきに事物の起こるあらば、物なきに物を生じ、力なきに力を生ずることあるべし。これ全く物質不滅、勢力保存の理法に反するものなり。しかして仏教の因果の規則に基づきて成仏の理を談ずるは、今日の学説に符合せるものというべし。

 今、更にその因果の理法はいずれより生ずるかを尋ぬるに、その理法はすなわち真如自体の規則といわざるべからず。なんとなれば、我人の意識内に現ずるところの諸境諸界、一として真如界に非ざるはなく、また我人の至るところ、必ず因果の理法ありて存するをみればなり。故にこの理法は真如自体の性質にして、真如の理の存するところ必ずこの理法ありて存するなり。しかるに我人の経験上、因果の理法の外に別に一理の存するがごとくみゆるは、その理の真に存するにあらずして、我人の知識の範囲小なるによる。けだし事物の因果、我人の知識内にあるときは、これを必然に起こるものといい、その外にあるときは偶然に起こるものという。すなわち必然とは因ありて果あるものに名付け、偶然とは因なくして果あるものに名付くといえども、我人経験上因なくして果あるものをみるは、われその果を知りて未だその因を知らざるのみ。故に我人の知識の範囲いよいよ大なるに至れば、偶然は次第に減じて必然に帰せざるを得ず。すでに今日にありても、昔日に偶然と信ぜしもの必然となりしは、いくたあるを知らず。これを推して将来を卜するに、世界の事物はことごとく必然の一理に帰するときあるべし。これを要するに、真如界にはそれ自体に有するところの因果必然の理法ありて、その間に生存するもの、みなこの理法に従わざるべからざるものの理なり。故に仏教にて因果の理法は、仏陀の作為にも非ず、人天の造作にもあらずと説きて、仏もその因を修めざれば、自ら要するところの果を生ずるあたわずと立つるなり。

 この因果の理法を立つるときは、過去、未来、現在の三世を説かざるを得ず。三世とは人の一生の前後のみをいうにあらず、すべて時の前後をいうなり。今日にありては、昨日を過去とし、明日を未来とす。昼にありては、朝を過去とし、晩を未来とす。これをもってこれを推すに、一分一秒時間にも早くすでにこの三世の差別ありて存するをしるべし。しかして今日今時に修むるところの因は、その果を未来に生じ、今日今時に生ずるところの果は、その因を過去に修むるによるというもの、これを三世因果の規則とす。故にすでに因果あれば、時の前後なくんばあるべからず。因は前の時にあり、果は後の時にあり、これ仏教にて三世を説きて教を立つるゆえんなり。しかしてこの三世の間に事物の変化遷流するは、因果の応報によるというより外なし。例えば今日今時に雷鳴することあるは、その前の時すなわち過去にすでにこれを催すべき事情ありしにより、また今日今時に降雨を催すべき事情あるときは、必ずその果を未来の時に生ずべし。これを推して人事を思い、人心を考うるときは、生前死後の因果応報を説くことを得、これをもって仏教には六道輪廻を談ずるなり。

 かくのごとく仏教に三世を説き六道を談ずるは、前に述ぶるところの物質不滅、勢力保存の原理を応用したるものに外ならず。もしこれを真如一元の理体についていえば、その体不生不滅なるをもって、その体より生ずるところの物心の変化は時の前後にわたりて、すこしも増減生滅あるべき理なし。もしこれを物心二元の現象についていえば、物も心も共に不増不減なるをもって、たとえ目前の出没生死あるも、その実、時の前後にわたりて、決して増減生滅あるべき理なし。すでにその体その象共に、時の前後にわたりて増減生滅なき以上は、その間に現見する変化は、因果の応報によるというより外なし。すなわちその因よろしきものは良果を生じ、その因よろしからざるものは悪果を生ずべし。この理によりて仏教にては、善因善果、悪因悪果の応報を談じ、現世の吉凶、来世の禍福を教うるなり。かつまた今日の因は、その善悪の果報を未来に生ずべきを知る以上は、現世の禍福はその原因過去にありて存せざるを得ずというも、理のもとよりしかるところなり。故に仏教の三世因果、六道輪廻は、決して空想より出づるものにあらざるなり。

 以上論ずるところによるに、仏教は真如の理体を教本とし、因果の理法を規則とし、これを宗教の上に応用して、安心立命の道を教うるものなり。これ余がしばしば、仏教は哲学の論理に基づき、理学の実験によるものなりというゆえんなり。しかれども、上来は主として仏教中哲学上に属する部分のみを論ぜしをもって、これよりその理をいかにか宗教の上に応用せしかを論ずるを必要なりとす。

 仏教にてはその目的、転迷開悟とも断障得果ともいうて、その要安心の二字に外ならず。他語をもってこれをいえば、脱苦得楽なり。けだし迷は苦なり悟は楽なり、迷を転じて悟を開くは、苦を去りて楽につくなり。これをもって仏教の目的は、禍害を去りて幸福を求むるにあるゆえんを知るべし。

 今、仏教中各宗に教うるところの安心立命、脱苦得楽の法はいかにというに、まず倶舎にありては、人の迷を生じて心を苦しむるは、彼我差別の見を有するによる。しかるに我境のなんたるを究むれば、もとより実体あるにあらず。しかしてその体実に有りと思うは迷にして、その迷を離るるもの、これ悟なり。故に人たるもの、その迷を去りて、彼我の間にその心を苦しめざらんことを要すと勧むるなり。つぎに法相宗にありては、心の外に物ありと思うは迷にして、三界唯一心と観ずるは悟なり。およそ人のその心に苦を生ずるは、心の外に物ありと迷うによる。故にその迷を去れば、ただ楽あるのみと教うるなり。つぎに天台宗にありては、空仮中三諦の理わが一心中にありと観じて中道の妙理を体し、自他の妄境に空するなり。その他、諸宗に談ずるところおのおの異なりといえども、その要に至りては一味にして二致あることなし。今これに、そのいちいちを挙ぐるにいとまなきをもって略するのみ。

 果たしてしからば、仏教の目的も幸福に外ならざるなり。しかれどもその幸福は未来の幸福にして、今世の幸福にあらずというものあれども、仏教は現未二世の幸福を勧むるものなり。但し、浄土一門のごときはひとり未来の幸福を勧むれども、その意未来の幸福を求むれば、この世の幸福おのずから生ずべしと教うるをもって、全く現世の幸福を顧みざるものにあらず。またあるいは仏教の幸福は心性の快楽に外ならずして、肉身の快楽を勧むるものにあらずというものあれども、これ仏教は宗教にして有形の学術にあらざれば、またやむをえざるなり。故に肉身の快楽を増進するの方法は、これを生ずる器械製造等の諸学に譲り、ひとり心性の幸福を増進するをもってその目的とす。しかれども心性の幸福は、おのずからその影響を肉身の上に及ぼす。心身共に安楽の地位に住することを得べきものをもって、心性の幸福を勧むるものは、肉身の幸福もまたおのずから助くるに至るべし。しかしてここに人の仏教に対して難詰するは、その心性の幸福を勧むるの方法は、肉身の幸福を害する方法を用うるというの一点にあり。これ、余が後に至りて更に論ずるところあるべし。

 更に問いを発して、仏教のいわゆる幸福は一人の幸福をいうか、また衆人の幸福をいうか、余これに答えて、もとより衆人の幸福なりといわんとす。しかれども仏教中小乗のごときは、自利のみありて利他なきをもって、これ一人の幸福を主とするものといわざるを得ざるも、かくのごときは仏教中の浅近なるものにして、いまだ完全の宗教と称し難し。そのいわゆる大乗は、自利利他兼行を目的とするをもって、衆人の幸福を勧むるものなり。これ泰西諸学家の今日唱うるところの、最大幸福説と同一に帰するものなり。

 これを要するに、仏教の目的はその帰するところ、現未両世、心身内外、自他衆人の幸福快楽を兼全ならしむるにあるに、その時とその人とに応じて必ずしも両全を勧むるにあらず。人の肉身の幸福の一方にはしりて、心性の幸福を求むることをしらざるときは、これに教うるにひとり心性の幸福の求むべきゆえんをもってし、現世目前の幸福の一途に迷うて、未来永遠の幸福の存するをしらざるときは、これに勧むるにひとり永道の幸福をもってし、その人愚鈍にして自利利他兼行するの力なきときは、これに授くるに一人の幸福を全うする道をもってす。これみな、やむをえざるに出でたるものにして、その本意に至りてこれをみれば、現未心身、自他兼全の幸福を目的とすること明らかにしるべし、またなんぞ疑わんや。

 平等差別は仏教の秘訣にして、この理をしるにあらざれば、仏教決して解すべからず。およそ事物その差別なきこれを平等といい、平等ならざるこれを差別という。故に平等と差別とは全く相反するものなり。かくのごとくみるときは、これを相対とす。もし差別は平等に相対し、平等は差別に相対し、二者共に相対にして無差別なりとみるときは、共に平等となる。もしまた平等は差別にあらず、差別は平等にあらず、二者共に差別ありとみるときは、共に差別となる。共に差別となるときは、平等も差別なり、差別も差別にして、二者おのおの平等となる。故に平等すなわち差別、差別すなわち平等ということを得、これ余がさきにすでに指言せしところなり。これをもって平等の上よりこれをみれば、平等も差別も共に同一となり、差別の上よりこれをみれば、平等と差別とはもとより異同ありて存するを知るべし。これを例うるに、氷と水は同一なりとみるは、平等の上より論ずるなり。論ずる氷と水は同一に非ずとみるは、差別の上より論ずるなり。この理を推して方便と真実との関係を知るべし。方便は真実にあらず、真実は方便にあらずとみるは、差別上の論なり。方便すなわち真実にして、真実すなわち方便なりとみるは、平等上の論なり。生活は幸福にあらずというは差別なり。生活すなわち幸福なりというは平等なり。故に平等上これを論ずれば、阿含も方等も般若も共に真実にして、みな中道の一理に帰せしむるに外ならず。差別の上よりこれをみれば、阿含は阿含なり、方等は方等なり。かくのごとき平等差別、同体不離を立つるもの、これを有機性組織と称し、平等差別、各殊不同を説くもの、これを無機性組織と称す。仏教は全くこの有機性組織より成るものなり。なお後に至りて、更にその関係を述ぶることあるべし。

 これによりてこれをみれば、釈尊の目的とする真実は華厳天台の中道の理にありて、唯物、唯心、有空両門は、これを達する方便に過ぎず。しかれども、その方便は真実に対しての方便にして、真実を離れての方便にあらざれば、有空両門もまた真実なり。その他、釈尊の初めに唯物唯心を説きて、最後に中理を説きたるは、思想発達の順序によるものなり。

 およそ人の思想は外界の経験より生ずるものにして、人の知識もまた外物を知るに始まる。未だ外界のなんたるを知らざる野蛮人および小児輩は、もとより内界のいかんを知らざるなり。例えば天地の諸象、物質の形色を知覚することあたわざる者は、無形の心性思想の存するを知ることなし。まず外界の存するを知りて後、始めて内界の存するを知るべし。心は形質なきをもって、知力に乏しき者はこれを知ることはなはだ難く、物質は形色を有するをもってこれを知ることはなはだ易し。これ人知の外界より始まるゆえんなり。すでに内外両界を知りたる後は、あくまで物心の懸隔を信じ、内外両界の全くその性質を異にして、氷炭相いれざるものと固執するに至る。これにおいて彼我差別の見を生じ、彼我全くその関係を異にして、永く相合せざるものと固着するに至るは、勢いのしからしむるところなり。これより一歩進んで考うるときは、彼我の差別の永く存せざるを知り、我体は物心二元の相合して結ぶところの影像に過ぎざるを知るべし。しかれども、なお物心二元の実体は永く存するものと固執するの視を脱し難し。もし更に進んでこれを考うるときは、その二者の差別も、一心の海面に生ずるところの波動に過ぎずして、これまた、その実を窮むれば、空無なるゆえんをしるべし。更に重ねて一歩を進めこれを考うるときは、彼我物心差別の諸象は決して虚無なるに非ず。その実体必ずしも存するに非ざるも、その目前に現ずるところのものは、必ず存するものなるゆえんをしるべし。これいわゆる中道の理にして、物心二者、有空二門の相合して一に帰するところなり。けだし思想の進歩ここに至りてとどまる、またこれより進むべからず。もしこれより一歩を進むれば、再び唯物は有門の説に復するより外なし。なおその思想発達の規則は後に至りて論ずべし。

 これによりてこれをみれば、釈尊のまず有空を説きて後に中を説きたるは、思想発達の順序によるものなり。かつ当時の勢いこの順序によらざるを得ざる事情あるに出でたるも、また明らかなり。さきにすでに示すごとく、当時の人わが視の一方に僻するをもってその中道を保持せんと欲すれば、これに反対したる説をとらざるべからず。すでにその反対をとりて、人のその一方に僻するをみれば、また他の一方をとらざるべからず。かくのごとく、その僻するところを去りて僻せざるところをとるもの、すなわちこれ中道の権衡を保持するものなり。故に有説も空説も、唯物も唯心も、みな中道の権衡を保持するために説きたるものなれば、また、みなこれを真実の中道を直指してしかるべき理なり。明らかにその理をしらんと欲せば、次節を見るべし。

 以上論ずるところ、これを要するに、仏教は唯物に始まりて中理すなわち中道の理に終わる。これを仏教中哲学の組織とす。その哲理に応用して安心立命の道を立つるをもって、仏教は哲学上の宗教なることを問わずして明らかなり。すなわち知力の宗教なり。しかるに、ここに一言を加えざるを得ざるは、釈尊は何故に一仏教中に唯物、唯心、中理の三論を並説するや、いずれの説をもって真実としてしかるべきやの点を解釈するにあり。そのうちの一説のみ真実ならば、他の説は虚偽なるべし。釈迦は何故に虚偽の説を設くるや。もしまた、その三説共に釈迦の真実とするところならば、釈迦は実に一定の説なき者といわざるべからず。余この疑問に答えて、釈尊の意、中理を真実とするにあり、他の唯物唯心は方便なりといわんとす。これを釈尊一代五十年間の説教について案ずるに、第一時に華厳を説き、第二時に阿含を説き、第三時に方等を説き、第四時に般若を説き、第五時に法華涅槃を説く。これを五時の説教という。すなわちその説教、華厳に始まりて法華涅槃に終わる。そのうち華厳と法華は中道の理をときたるものなるをもって、これを大乗極致の経とす。阿含は小乗経にして有宗の理をとくいわゆる唯物論なり。般若は大乗経にして空宗の理をとくいわゆる唯心論なり。方等は大小両乗に通じて有空を兼説す、いわゆる唯物より進んで唯心に入るの論なり。今、釈尊の第一に華厳を説きたるは、その意、中理を示すにあれども、当時世間一般に彼の差別の見を固執して、直ちに中理をとくもその耳に入らず、聞くものみな唖聾のごとく更に解することあたわず。釈尊ここにおいて聞く者の機を計り、小乗浅近の教理を説いて単に我見の空すべきゆえんを示す、これ第二時の阿含経これなり。すでに阿含をとき終わりて、人の彼我の見を去りたるを見て、更に大乗の空理を示さんと欲し、第三時に方等をとくに至り、方等をとき終わりていよいよ大乗の空理を明らかにし、小乗の浅近にして真理を尽くすに至らざるを示す。これ第四時に般若をとくゆえんなり。しかしてすでに有門を説き、また空門をときたるをもって、始めて真実中道の理を明かすに至る。これを第五時の説教とす。故に法華も華厳も、その説くところ小異ありといえども、共に中理を説きたるは疑いをいれず。これによりてこれをみれば、釈尊の本意、中道の極理を明示するにあること、たやすく知るべし。故に法華にきたりて開方便門 示真実相と説きて、法華の真実にして阿含、般若等の方便なることを示す。しかしてこれを方便とするも、その説虚偽なりというに非ず、真実に達する階梯なり。すでに目的あれば必ずこれを達すべき階梯なくんばあるべからず。その階梯によりて目的を達するに至れば、方便すなわち真実となるべし。これを例うるに、世人に対して例えば富を作るをもって真実の目的とせんか。商家は商法によりて富を得たるときは、商法すなわち真実なり。農家は農業によりて富を得たるときは、農業すなわち真実なり。いずくんぞ農商の間に、一は真実にして一は虚偽なりというの理あらんや。その期するところの目的に達すれば、諸方便ことごとく真実となる。孔子は人に仁の義を説くに種々の説をもってし、決して一定の義を用いざりしは、いわゆる方便なり。しかれども、その説一として虚偽なるにあらず。その言によりてよく仁の意を体すれば、種々の方便すなわち一味の真実となる。かつそれ真実は方便に対しての真実なり、方便は真実に対しての方便なれば、真実を離れての方便にあらず、方便を離れての真実にあらず、方便すなわち真実にして、真実すなわち方便なり。これを例うるに、人のこの世に生活するは、その目的幸福を得んとするにありとするときは、幸福は真実にして生活は方便なり。しかれども、生活を離れて別に存する幸福にあらざれば、生活すなわち幸福となるべし。快楽は真実なり、金銭は方便なるも、金銭を離れて別に快楽の目的を達することあたわざるときは、金銭すなわち快楽となる。しかれども、またあえて方便と真実とその別なきに非ず。金銭は金銭にして、快楽は快楽なり。生活は生活にして、幸福は幸福なり。法華は法華なり、般若は般若なり、阿含は阿含なり、方等は方等なり。この関係を知らんと欲せば、平等と差別の理を究めざるべからず。

 この理を推して、釈尊の出世間の道を説きたるゆえんを知るべし。けだし釈尊は世人の世間の一方に僻するを見て出世間の道を説き、人をして世間を離れて修行を求むることを教う。しかして有空をとき終わりて中道に至れば、世間も出世間も一体となり、煩悩を離れて涅槃なく、凡夫を離れて仏なく、世法を離れて仏法なく、世間を離れて出世間なきの世を示すに至る。これに至りてこれをみれば、釈尊の本意は全く出世間の一道にあるにあらざること、すでに明らかなり。すなわち釈尊は表面に出世間を説き、裏面に世間を説くものなり。けだしその説くところの表裏の次第あるは、時と人との事情によるのみ。もし果たしてその意、出世間の一道にあるにおいて、あに煩わしく中道の理を説くことをせんや。

 更に進んでこれを考うるときは、仏教中に浄土一門の教を設くるゆえんも、同一理をもって解することを得べし。以上述ぶるところは知力上の宗教にして、知者学者の教なり、これを聖道門という。これに反して情感に属する宗教あり、これを浄土門という。聖道浄土の別は、一は自ら理を究め、一は他に信をおくの異同あるによる。他に信をおくは、愚夫愚婦も至りてやすしとするところなれば、これを愚俗に適する法門とす。すでに愚俗に適する以上は、知者学者ももとよりこれをよくすべしといえども、知力をもって道理を究めんとする目途に対しては、全く反対に出づるものなり。故にこれを情感の宗教とす。直ちにこれをみれば、仏教は知力の宗教なるに似たれども、またその間に情感の宗味を胚胎するあり。これすなわち釈尊の表面に知力の宗教を説き、裏面に情感の宗教を説くものなり。故に知るべし、聖道浄土もまた表裏両面の関係を有するものなるを。かつこれによりて、釈尊の本意は聖道浄土の権衡を保ち、知力情感両全を期するにあること、また知るべし。他語をもってこれをいえば、知情両宗教の中道を立つるものにして、これまたいわゆる中道なり。

 これに至りてこれをみれば、仏教中諸宗諸派の分かるるゆえんは、仏すでにその説を多岐に分かつにより、仏これを多岐に分かつは、諸機諸類をしてことごとく一仏乗海に入らしめんとするにありて、その意すなわち中道を保全するにあること明らかに知るべし。およそ人は、おのおの固有の病癖あり。これをしてことごとくその癖を去りて中道に至らしむるには、千種万様の薬法を用いざるを得ず。人の病一ならざれば、これに与うるところの薬また同じからず。薬同じからざるも、その病苦を去りて安楽の果を得るに至りて一なり。故に知るべし、仏教は大数八万四千の法門あるも、その要ただ中道を保全して、一味の安楽に住せしむるに外ならざるを。

 上来論ずるところこれを約するに、仏教は聖道浄土の二門に分かれ、聖道門は有空中の三宗に分かる。有は唯物なり、空は唯心なり、中は唯理なり。この物心理の三論は哲理をもって立てたるものにして、思想発達の規則によりて生ずるものなり。この哲理を応用して宗教を立つるもの、いわゆる仏教中の聖道門なり。故にこれを知力上の宗教とす。しかしてその物心理の三段を分かちて、初めに有を説き、次第に進んで中に至るゆえんはただに思想発達の規則によるのみならず、時と人の事情によりてしかるなり。かつ釈尊の本意、中道を立つるにあるによる。すなわち中道は仏教の真実なり。これに対すれば、有空は方便に過ぎず。これを方便とするも、真実を離れての方便にあらず。その時と人とによりて方便かえって真実となる。その世間、出世間の両道を説くも、聖道浄土二門を分かつも、みなただ真実の中道を保全するに外ならず。故に仏教はことごとく真実一道の教にして、一切の衆生ことごとく同味同感の楽地に住せしめんとする広大の宗教なり。これをヤソ教の小宗教に比すれば、その懸隔天壌の比をもって論ずべからざるなり。

 今ここに、わが横浜より直ちにアメリカ、サンフランシスコを指して航行する一船ありと仮想するに、サンフランシスコはわが正東に当たるをもって、船の方向もまた正東の中道をとらざるべからず。しかるにもしその船風波のために中道をとることあたわずして北方に向かって走り、サンフランシスコを東南の斜方位に指すに至れば、そのときなお正東に向かって進行してしかるべきか。曰く、東南の斜め方位に向かって進まざるを得ざるなり。もしまた、その方位を誤りて南方に向かって走り、サンフランシスコを東北隅に見るに至れば、そのときなお東南の斜方位に向かって進行してしかるべきか。中はまた正東に向かって走りてしかるべきか。曰く、否、このとき東北隅に向かって走らざるを得ざるなり。しかしてその東南隅に向かって走るも、東北隅に向かって走るも、その実正東の中道を保たんとするにあり。ただその船の中道の方向を失するをもって、その進路時に従って変ずるのみ。今、人は海中に浮かぶ船のごとし。この人を教導して中道の地位を保たしめんと欲せば、社会の風潮に従ってその教を変ぜざるを得ず。もしその人唯物の方位にあるときは、これをして唯心の方位をとらしめざるべからず。しからざれば、物心の中道の保たしむることあたわず。もしその人有宗の方位にあるときは、これをして空宗の方位をとらしめざるべからず。しからざれば、中道を保たしむるあたわず。かくしてようやく唯物唯心の中道に達し、空有両宗の中理に合するに至れば、これにおいて始めて中道の理を教ゆべし。すでに中道の理に達してこれをみれば、さきのいわゆる唯物唯心も有空両宗も、みな中道に外ならざるを知るべし。なおサンフランシスコに達してこれをみれば、さきの東南に向かって進みたるも、東北に向かって進みたるも、みな正東の中道を保つにありたることを知るがごとし。しかるに人あり、その東南に向かって進むを見て、彼はサンフランシスコの方位を知らざる者なりといい、その東地に向けて進むを見て、彼は正東の中道を知らざる者なりというて評するものあらば、ただこれをその人の愚といわんのみ。果たしてしからば、釈迦のあるいは阿含を説き、あるいは般若を説き、あるいは終わりに至りて始めて中道の理を明かしたるは、時機に応じて中理の権衡を保持するの意に出でたること明らかなり。これいわゆる事情のやむをえざるものなり。いずくんぞこれを評して虚偽の方便なりということを得んや。

 およそ人の教法を設くるは、必ず世人の正道を失して邪道に走るの時弊あるによる。この弊を矯正せんと欲して、孔子は倫常の道を説き、釈尊は中道の理を教うるに至る。故にたとえその意、真実の一理を勧めんとするも、すでに世人の正道の外にあるをいかんせんや。あたかも汽船の正東に行かんと欲して、誤りてその路を失して東北隅に走りたるがごとし。この弊を救うの術は、しばらく正東の中道を説かずして、東南隅の理論を勧めざるべからず。かつそれ当時の人、学理に暗うして、直接に中道の理を解することあたわざるをもって、もしこれをしてその理を解せしめんと欲せば、浅より深に漸及するも、秩序階梯をもってせざるべからず。例えばここに一童子あり、これを教育して経済学者とならしめんと欲せしは、直ちに経済書につきてこれを教えてしかるべきや。曰く、否、これに教うるに秩序階梯をもってせざるべからず。まずこれに数学を教え、まずこれに歴史を教えざるべからず。しかるに人あり、これを見て、彼の目的は経済学を教うるにあり、なんぞ数学や歴史を教うることをするや、これ全く虚偽の方便というべし。余をしてこれを教えしむれば、たとえその童子数学を知らず、年代を知らざるも、直ちに経済書につきて教うべしというものあらば、あに笑わざるを得んや。もしこの人の説のごとくせんには、大工たらんと欲すれば、乳養のときよりすでに造作を教え、農夫たらんと欲すれば、胎内を出づるときより早くすでに耕耘を教えざるを得ず、これ、あに人のよくするところならんや。これにおいて階梯方便を用ゆるを要す。すでにその方便によりてその目的を達するに至れば、さきの方便すなわち真実なることを知るべし。これ釈尊の漸次にその道を説きて、法華に至りしゆえんなり。法華を真実とするも、方便すなわち真実なるをもって、阿含も般若も方等もみな真実なり。世人常に物心の中間に立ち、有空の中点を守るときは、直ちに法華中道の真実を説きてしかるべしといえども、世の変遷、社会の風潮、常に人をしてその中道の地位にあらしむるあたわずして、あるいは有宗の一方に僻し、あるいは空宗の一方に僻す。そのすでに僻するに当たりては、真実の中道も直ちにこれに与えて真実となることあたわず。世人有に僻するに当たりては、空を教うるものかえって真実となり、世人空に僻するに当たりては、有を説くものかえって真実となる。かつ世界の広き人類のおおき、あるいは有に僻するものあり、あるいは空に僻するものあり。故に阿含も、方等も、般若も、その人とその時に応じて、みな真実の中道となる。故に、余曰く、方便も真実となり、真実も方便となると。