2. 妖怪学講義 

理学部門 医学部門

P287


妖怪学講義 理学部門 医学部門


1.サイズ(タテ×ヨコ)


 222×148mm


2.ページ


 総数:521


 理学部門目録:6


 本文:358


 医学部門目録:3


 本文:154


3.刊行年月日


 初版:明治26年11月5日

    ~明治27年10月20日


 再版:明治29年6月14日


 底本:三版 明治30年8月5日


4.句読点


 あり


5.その他


 (1)初版は『哲学館講義録』の「第7学年度妖怪学」として発行された。その第1号・第2号(第1冊)が明治26年11月5日発行され,毎月2回2号ずつ2冊発行されて,明治27年10月20日,第47号・第48号(第24冊)をもって完結した。その各冊に「総論」をはじめとして「理学」「医学」「純正哲学」「心理学」「宗教学」「教育学」「雑」の各部門が各数ページ分ずつ分けて掲載された。

 (2)再版は講義録完結後,各冊の各部を合綴し,それに「緒言」(明治26年8月24日『妖怪学講義緒言』として発行された45ページの小冊子)と「参考書目拾遺」,「正誤」表および付録あるいは付講を加えて,全8巻全6冊の合本とし,全8巻全6冊の合本とし,『妖

学講義』と題して哲学館より刊行されたものである。

 (3)第三版は本文に異同はなく,「再版につきて一言を題す」中にある「諸言に題す」を表題として掲載したものである。

 

6.発行所


 哲学館



P289


第二 理学部門      井上円了講述 田中泰麿筆記



第一講 天変編


       第一節 物理的妖怪

 いわゆる天変の発するゆえんを説明するは、本講の主眼とするところなれども、人をしてその説明を了解しやすからしめんためには、これにさきだつ物理的妖怪につきて概論する必要あり。そもそも物理的妖怪とはなんぞや。すでに妖怪学「総論」においても略説せしごとく、物質そのものの規則によりて生ずることを得る変化これなり。しかして、その変化の平常に異なるところあるより、これを怪という。もしこれに反し、物質によらずして、精神そのものの規則によりて変化をおこすときは、たといその変化が異常にして、怪といわるべき性質を有すとも、そは心理〔的〕妖怪と名付けて、これを区別せざるべからず。妖怪にかくのごとく二種あるは、一つは万有によりて生じ、一つは人心によりて生ずる別あるによる。さはいえ、人心によりて生ずる変化すなわち精神上よりきたる変化も、もとより万有自然の規則に従うものなれば、この点より考うるときは、二種ついに同一に帰して区別あるべきはずなし。しかるに今しばらくこれをわかつは、下にいうがごとき三条の相違ありて、一概に論じ難きがゆえなり。すなわち第一には、物理的妖怪は物質そのものによりておこるものなれば、人の精神の有無に関せず全く独立して存在し、心理的妖怪の心の有無に関するものと、明らかに区別せられざるべからず。第二には、物理的妖怪はすでに精神の有無に関して生滅するものにあらざれば、また人の精神意志の作用によりて左右することを得ず。たとい心中にはこれをなしと思うも、それによりて滅することなく、あるいは心中にてその形を変ぜしめんと思うとも、それによりて変ずることなきをもって、心理的妖怪の、心によりて左右せらるるものと、明らかに区別せられざるべからず。第三には、物理的妖怪はすでに精神に関係なければ、いかなる人もみな同じくこれを見聞し、決して人によりその現象を異にすることなし。これまた心理的妖怪の、人によりてその現象を異にするものと、明らかに区別せられざるべからず。

 また、物理的妖怪には種々ありて、彗星のごときものも、古代にありては一種の妖怪と見なされたりしが、その現象は見る人によりて異なることなければ、もとより物理的妖怪の部に属す。わが国肥後の不知火もまた、見る人によりてその現象を異にすることなく、いかなる人もみな同一の現象を見るものなれば、もちろん物理的妖怪の一種なり。読者よくこれらの例につきて考えきたらば、物理的妖怪は全く人の精神に関係なきことを知るに苦しまざるべし。しかれども、外界の現象がいかなる物質において現るるにかかわらず、いやしくも人がこれを感知する以上は、すでに精神作用の加われるものなれば、物理的妖怪を説明するに当たり、多少精神上の道理を借りることあり。これ実にやむをえざるに出ずるものにして、心理的妖怪においてもまたこれと同様に、単に心理学上の道理のみによりてその説明を尽くすべきにあらず、必ず多少物理学に基づくを要す。これをもって、以下次第に説明せんとするところのいわゆる物理的妖怪は、主として物理学、化学、動物、植物等の諸科学を根拠として解釈を与うべしといえども、また心理学上の道理を加えてその解釈を十分ならしめざるべからず。もしそれ物質そのものの本源、実体、または変化のよりて生ずる原因、原力等のごとき諸問題に至りては、心理学、物理学のともに説明することあたわざるところにして、明らかにこれを知らんと欲せば、純正哲学の道理によらざるを得ず。されば、物理的妖怪の説明をして遺憾なからしめんには、まず純正哲学上より物質そのものの実体を講究するを要す。


       第二節 物質の本源

 およそ理学は、最初より物質そのものを真に存在するものと仮定して、それぞれ各科の理を究むるものなれば、物質の本源、実体等の諸問題に至りては、理学者のかつて知らざるところとす。ただし古来多数の理学者中には、往々これらの点に種々の推測を下して説をなす者なきにあらざれども、もとよりその職とするところにあらざれば、その精確なるものを得んには、必ず哲学者をまたざるべからず。よって今、物質の本源すなわち万有の起源を考うるに、もし有神説によるときは、これを神の創造に帰するをもって、その解釈に苦しむことなしといえども、これもとより学理上より許さるべき説にあらず。純粋の学理に訴えてこの問題を決するは、古来最も困難とせしところにして容易の業にあらず。かの近時理学者間にもてはやさるる星雲説のごときは、多少この困難をおかして、世界の本源を解釈せんと試みたるものなるが、その説くところは、世界の太初は高熱を有せる渾然たる雲気にして、この雲気ようやく運動を起こして回転し、その熱ようやく減じ、その体ようやく重く、したがって求心力を生じ、これと同時に遠心力を生ぜり。遠心力もし求心力に勝つときは、その体分かれて数塊となり、互いに相引き相排して、ついに森然たる天体を形成するに至れり。しかして、その一塊たる地球はさらにその熱を減じ、したがって流動状より固体状に移り、山川水陸の別起こり、禽獣草木の類これに生じ、次第に増殖繁茂して、ついに吾人人類のごとき高等生物を見るに至れり。その理由は、後に各項の下において述ぶべし。

 そもそもこの星雲説は、一八一一年、ハーシェル氏の唱道せる新見なれども、世界の太初は高熱の気体なりしことを想像せしは、実に碩学カント氏その人なり。氏は一七五五年の発行にかかる『天体論』において、早くすでにこの説を世に公にせり。しかりしこうして、宇宙火体論は遠くギリシアにありてその源を発せり。すなわち紀元前五〇〇年代、ヘラクレイトスなるものありて、すでに万有の本源を火気なりとし、その変々化々して限りなく、あたかも流水の止まらざるがごときは、火そのものの実相なりと論定せり。また、紀元前三〇〇年代、ストア学派の祖ゼノン氏は、物質の本源を火に帰し、これより空気を生じ、つぎに水、つぎに地を生じて、今日の諸形を成すと論ぜり。以上の二氏ともに世界の太初を火に帰するのみならず、世界の終極もまた原始の火に帰るとなせり。これらの説、近世再発して、ついに星雲説を開くに至りしや疑いなし。以上の火体論は、はなはだインドの説に類す。『阿毘達磨倶舎論』に世界の大変化を示して、成、住、壊、空の四劫となす。成劫にありて世界ようやくその形を成し、最後に大火災ありて万物ことごとく消滅し、ただ虚空のみ存するに至り、すでにして空中ようやく風の生ずるありて世界またその形を成し、循環して際限なしとなせり。同論巻第十二、分別世品に曰く、「風吹猛焔焼上天宮、乃至梵宮無遺灰儘、(中略)欲界火猛焔上昇為縁、引生色界火焔余災亦爾云云。」(風は猛炎を吹きて上の天宮を焼き、ないし、梵宮も灰儘を残すことなし。(中略)欲界の火の猛炎が上昇して縁となり、色界の火炎を引生す。余の災いもまたしかり、云云)と。また曰く、「空中漸有微細風生、是器世間将成前相云云。」(空中にようやく微細の風の生ずることあり。これ器世間のまさに成ぜんとする前相なり、云云)と。これによりてこれをみるに、火より風を生じて、世界その形を成すことを知るべし。その風とはすなわち運動なり。『倶舎論』巻第一に風界動性とあり。仏説はここに至りて今日の星雲説の大体に合するに至るも、また奇というべし。しかるにシナにありては、天地の原始を論ずるややや異なりといえども、太初の渾沌を説くに至りては一なり。その説に従えば、天地のいまだ剖判せざるや、渾沌たること鶏子のごとし。その清軽なるものは昇りて天となり、その重濁なるものは降りて地となり、ここにはじめて天地わかるるというにあり。わが国に伝われる開闢説もまた、はなはだこれに類す。後に至りて述ぶべし。

 これを要するに、いずれの説にありても、渾沌たる一気より万有を開現すというにとどまり、その元気の本源、由来に至りては、なおいまだ知ることあたわず。しかれば、世界の本源をたずねてその極に至れば、ついに吾人の知識、思想の及ばざるところに達してやむ。これシナにては、易に太極といい、老子に無名といい、仏教にては一心といい、真如といい、如来蔵と説き、西洋にては、ヤソは天帝に帰し、プラトン氏は理想に帰し、スピノザ氏は本質とし、フィヒテ氏は自己とする等の諸説の分かるるゆえんにして、その名、異なりといえども、等しくこれを不可思議に帰するものというべし。これをもって世界の本源は、不可思議の本体よりきたれるものとしてしばらくこれをおき、さてその世界の上に森列せる万有をみるに、その数、実に無量なりといえども、これを合類するときは物心の二元を出でず。しかして二元のなにものたるかは、唯物論、唯心論おのおのその説を異にすといえども、すでにともに天地一元の本体より分かれしものと論定する以上は、物心二者その体一なりといわざるべからず。すでに物心一体なれば、いずれも一貫の理法に従い、一定の規律を守りて、千秋万古さらに変動あるべからざるはずにして、物の規則をもって心理を考え、心理をもって物の上に及ぼし、一理によりて二者を説明することを得べし。

 ゆえに余は、物心の本源、実体のごとき問題に対しては、これを「純正哲学部門」第二講に譲り、ここに明解を下さずといえども、物心の本体一なりとする一元論をとり、その理によりて物理的妖怪を説明せんと欲す。果たしてしからば、妖怪に物理的と心理的とを分かつも、道理に二途あるにあらず、ただ説明の便宜上より仮説せしに過ぎざるのみ。


       第三節 物質の規則

 宇宙万有は一として因果の法則に従わざるものなく、心理といい、物理といい、いずれもみなこの上に立つ。ただ、これを形質ある物質の上において説くと、形質なき心性の上において説くとの区別あるより、物理的説明、心理的説明の別を生ずるなり。しかしてこの因果の法則は、なにびとといえども、いやしくも知力作用をそなうる以上は、容易に了解することを得べきものなれども、人々知識に高低の別あるため、その低度の知識を有する者にありては、原因結果の関係を事物の上に考うるに際し、往々誤謬を生ずることあり。これ、いわゆる迷誤の起こるゆえんにして、妖怪の起こるもまたこの理にほかならざるなり。ゆえに予は、妖怪を解して迷誤の一種となしたり。この点に関しては、すでに妖怪学「総論」において詳述したれども、今、さらに因果の法則を事物の上に応用するに際し、迷誤を生ずるゆえんを掲げんに、大略左の三条を出でず。

  第一 近因を知りて遠因を知らず

  第二 助因を知りて主因を知らず

  第三 一因を知りて他因を知らず

 およそ事物の間に変化の生ずるは、決して一、二の単純なる原因によるにあらず。多くは種々の原因複合して生ずる結果にして、その原因の中には近因あり遠因あり、主因あり助因あり。しかるに知識の程度低き者にありては、あまねくこれらの諸原因を区別し認識するあたわざるより、その一をとりて真因と独断し、ここに迷誤を生ず。またときとしては、事物の変化二、三同時に倶発する場合を見て、ただちにそれらの変化の間に因果の関係あるものと信じ、ために迷誤を生ずることあり。例えば、天変と社会の変動とが同時に倶発するときは、天象と人事との間に因果の関係あるものと誤認し、天は人事に感じて象をあらわし、人事は天を動かして兆しをしめすというに至るがごときこれなり。かくのごとき事実は、日本、シナの古書中しばしば見るところにして、『左伝』『史記』その他の書中よりいちいち列挙せば、数紙のよく尽くすところにあらず。

 今、他書について記憶せる二、三を出ださんに、『漢書』に、哀帝の建平二年に彗星出ず、これ王莽、纂国の兆しなりといえり。また『後漢書』に、安帝の永初二年正月に大白昼見ゆ、これ鄧氏盛んなる兆しなりといえり。また『続後漢書』には彗星の見えしをもって董卓、乱をなす兆しとなし、ある書(『晋陽秋』の書)には、諸葛亮の死せしとき、天これに感じて赤き彗星出でたりと記せり。わが国にては、欽明天皇のとき仏教伝来せしため疫病の流行あり、敏達天皇のときも同じく仏教のために疫病流行し、蒙古入寇のときには大風雷あり、嘉永年間、米船渡来のため彗星出でたりと伝う。西洋にてもこの類の伝説ありしことは、史上に散見するところにして、カエサル大帝、コンスタンチン大帝、およびチャールス五世の死するに際して彗星あらわる。時人もって、天、英雄の死に感ずとなしたり。また、ポンペイウス、カエサル両将の戦い、コンスタンチノープル府の落城、およびノルマン人のイギリス征伐のときのごとき、国家の大事ありしときに彗星出でたり。また、ペルシアのゼルセス王ギリシアを攻めしとき、ペロポネソス戦のとき、カエサルおよびポンペイウスの内乱のとき、エルサレム落城のとき、アッチラの侵入のときなどには、大飢饉もしくは疫病の大流行ありたり。イギリスのオリーバー.クロムウェルの死せし夜、暴風雨ありたり。フランス革命のときもまた、暴風雨起これり。ヤソの生まれしとき、東方に異星出でたりと伝うるがごときは、みな同一類の迷信にして、洋の東西を問わず、天変と人事とのごとき、ただ偶然同時に倶発せし一事情のほか、全く他の関係を有せざる二個の事変を、原因と結果との連鎖あるもののごとく誤認せしは、互いに符節を合するがごとし。またもって、かかる迷誤の起こりやすきを見るに足るべし。また、すでに自ら想定せる説を有する人にありては、往々なにごとにても、ことごとくこれを自家想定の説を確立する材料をなさんと欲し、一事一話の少しにても適合するところあれば、その関係のいかんを問わず、ただちにこれをもって自説の証拠となし、ために誤謬に陥ることあり。

 例えば天円地方の説は、往時広く信ぜられしものなるが、それを証せんため、人の頭の円にして、両足を合せば方形をなす事実により、頭は天にかたどりて円く、足は地にかたどりて方なりというに至るがごときこれなり。また、ある論者は、人の心臓が死後にそのなか空虚なるを見て、心は太虚にひとしきをもって、人は虚心をとうとばざるべからずと論じたりしが、思うに往時にありては、一般に心臓を心の位置と考えられしより、かかる説あるに至りしものにして、心臓と太虚とがただ空虚なる点において一致したる事実より、ただちに二者の性質までが一致せざるべからざるように論定したるものなれば、前例と同じく誤謬たるを免れず。また、かの陰陽五行の配当のごときもこれと同類の迷謬にして、付会一層はなはだしく、実に抱腹絶倒にたえざるものあり。その一例を挙げんに、一日陰陽師、予を訪い、喋々自説の真を弁じ、よって論じて曰く、「米は陰に属し麦は陽に属す。なんとなれば、米の実を結ぶは秋にして、麦の実を結ぶは春なり。しかして春は陽に属し、秋は陰に属すればなり。これをもって、麦はその穂、天に向かい、米はその穂、地に向かう」と。付会ここに至りて極まれりといべし。畢竟、かかる迷誤は、因果の規律、帰納の法則に暗きがために生ずるところにして、これを要するに、宇宙万有は一元より開発し、因果律のごとき一貫の理法に従うものなれば、いかなる変化といえども、決してこの法則に漏るるはずなし。しかれども、人に知愚、利鈍の別あり、事物変化の原因事情に達すべからざるところあるより、因果の法則に従うものを誤認して従わざるものとなし、あるいは真正の原因を見逃して、かえって原因にあらざるものを原因と認むるに至る。これ妖怪の起こるゆえんなり。しからば、妖怪は真に妖怪なるにあらず、畢竟、迷誤にほかならざること明らかなり。しかして迷誤の研究は、なんらの目的もなき好事に似たれど、学者にとりてはすこぶる興味ある事業にして、よってもって人知発達の程度を判知することを得べければ、これを知識測定の尺度といいて可なり。


       第四節 物理的妖怪の分類

 物理的妖怪に種々ありといえども、これを合類するときは、天、地、人の三種に分かつことを得べし。すなわち、日月星辰等の変化はこれを天文に属せしめ、風雨霜雪のごとき気象は、その実、地文に属すべきものなれども、予は便宜上、これらをもあわせて天に属せしむ。しかして地には山川草木、禽獣人類の存するあるをもって、さらにこれを小分し、もっぱら山川、地質によりて生ずるものを地妖とし、草木、禽獣、人類に属する妖怪は、各別にその部を設けて論ぜんとす。このほか万有自然の上に現るる種々の変化につきては、また別に一部を設くべし。ただしこれらの妖怪中、日月星辰、風雨寒暑の類のごときは、たとい古代にありては種々の妄説によりて解釈せられし妖怪なるにもせよ、現今に至りてはもはやだれもこれを妖怪とするものなければ、ここにこれを挙ぐる必要なきがごとし。しかるに今これを掲示するゆえんは他なし、これによってもって知識の程度を知ることを得べければ、学問上有益にして、かつ興味あることと信じたればなり。


       第五節 天象論

 さきに、宇宙は太初の星雲より漸次開発分化せるものなりという星雲説の概略をのべしが、日本およびシナの開闢説は、これと全く同一なるにあらざれども、すこぶる相似たるところあり。今その概要を左に掲示せん。『列子』天瑞編に曰く、「清軽者、上為天、濁重者、下為地。沖和気者、為人。故天地含精、万物化生。」(清軽なるものは上って天となり、濁重なるものは下って地となる。沖和の気なるものは、人となる。ゆえに天地精を含み、万物化生す)と。『淮南子』天文訓に曰く、「天墬未形、馮馮翼翼、洞洞灟灟。故曰太昭。道始于虚霩、虚霩生宇宙、宇宙生気、気有涯垠。清陽者、薄靡而為天、重濁者、凝滞而為地。清妙之合専易、重濁之凝竭難。故天先成而地後定。」(天墬〔地〕のいまだ形あらざるとき、馮馮翼翼、洞洞灟灟たり。ゆえに太昭という。道は虚霩に始まる。虚霩、宇宙を生じ、宇宙、気を生ず。気に涯垠あり。清陽なるものは薄靡して天となり、重濁なるものは凝滞して地となる。清妙の合専するはやすく、重濁の凝竭するは難し。ゆえに天まず成って、地のちに定まる)とあり。『日本書紀』に曰く、「古天地未剖、陰陽不分、渾沌如鶏子、冥涬含牙。及二其清陽者、薄靡而為天、重濁者、淹滞而為地、精妙之合搏易、重濁之凝竭難。故天先成而地後定。然後、神聖生其中焉」(いにしえに天地いまだわかれず、陰陽分かれざりしとき、渾沌れたること鶏子のごとくして、冥涬にして牙を含めり。それ清陽なるものは、薄靡きて天となり、重濁れるものは、淹滞いて地となるに及びて、精妙なるが合えるは搏りやすく、重濁れるが凝りたるは竭り難し。故、天まず成って地のちに定まる。しこうしてのちに、神聖、そのなかに生れます)とあり。また、『元元集』に曰く、「昔者渾沌未分、唯有元気有気便通、所以為一陰一陽也、曁于清陽者上升、重濁者下降、天先成地後定、両儀之称由此而起、于時天地之間生一物、或云如葦牙、或云如浮膏、蓋状貌難言、強字之者也、其中有精、謂之神聖、能祖宗于万物、主掌于両儀、即是所以成三才也、元元入元始、本本任本心、心在於此焉。」(昔は渾沌としていまだ分かれず、ただ元気あり。気あればすなわち通ず。一陰一陽たるゆえんなり。清陽なるものは上昇し、重濁るものは下降におよんで、天まず成り地のちに定まる。両儀の称これによりて起こる。ときに天地の間一物を生ず。あるいはいわく、葦牙のごとしと。あるいはいわく、浮膏のごとしと。けだし状貌いい難し。強いてこれに字するものなり。そのうちに精あり、これを神聖といい、よく万物に祖宗として両儀を主掌す。これ三才をなすゆえんなり。元を元として元始に入り、本を本として本心に任ず。心ここにあり)とあり。

 つぎにインドの開闢談は、バラモンの創造説にして、世界の原始体をブラフマンという。その体、純一無雑にして不生不滅なり。しかしてそのうちに天地万有を開現すべき創造力を包有すといえども、最初はすこしもその作用を外に示さざりき。これをブラフマン眠息のときという。しかるに、この神ひとたび眠息より醒起するに当たり、たちまち変じて男性のブラフマーとなり、もって創造作用を発現す。つぎに生ずる神をヴィシュヌという。ひとたび創造せる形体を保持する神なり。そのつぎをシヴァという。これ破壊神なり。すなわち、無形無象なるブラフマンひとたび動きて作用を現示するときは、ブラフマー神、ヴィシュヌ神、シヴァ神の三体となる。これをインドの三神と称す。そのうちブラフマー神は創造神なれば、天地を創し風雨を製し神人を造出し、その口より僧侶を生じ、その腕より軍人を生じ、その胸より商賈を生じ、その足より奴隷を生ぜり。これよリインドの人民に四種の階級起これり。また一説に、太初一体の神力ありて第一に水を作り、その中に一個の種子を置けり。その種子たちまち卵となりて、その中に神の住するあり。この神つれづれとして卵中に生息すること、およそ一万五千五百五十二億万歳なりという。その年月の終わりに至りて、はじめてこの神その卵を両分して、自らブラフマー神となりて出現せり。しかしてブラフマー神は創造に従事し、その両分せる卵は、一つは天となり、一つは地となり、その中間に空気を作り、国土を作り、海洋を作り、ついで神自らその体を両分して、一つは男となり、一つは女となり、これより人類、動物を生ぜりという(ジェームズ・ミル氏の『印度史』より抄訳)。この説、はなはだ日本、シナの開闢談に近し。

 また、ギリシアの開闢史を案ずるに、紀元前九〇〇年ごろ世にありし、ギリシアの一詩人ヘシオドスの伝うるところによれば、太初は渾然たる無一物の暗黒世界なりしが、その中に坦然たる輿地を現出し、もって無涯の空間を両分して上下の両界を生ぜり。一は天界にして、一は夜界なり。当時、地上なお暗黒にして光明なかりしも、後に空気および天体を現出し、ついで海洋、山岳を生出せるに至れり(ノイセルト氏の『希臘神代史』を参看すべし)。ギリシアにありては、この天地の諸体に各神の名称を与え、個体性の神なるがごとき解釈を付せり。すなわち、地体を名付けてゲー神と呼び、天体を名付けてウーラノス神と呼び、天は男にして地は女なりとし、この二神の結合によりて種々の神を化生し、その神みな代表するところあり。これより、その間に競争、戦闘ありて、ようやく天地万物の進化するに至れりとするなり。その説また、わが国の開闢談に似たるところあり。これを要するに、わが国の開闢談は、インド、ギリシア諸国の説と大同小異なるも、直接にシナ説の影響を受けたるや疑うべからず。なかんずく天地の現象変化の説明に至りては、全くシナの陰陽説に基づくものにして、日月星辰、風雨雷震はみな陰陽二気の関係よりきたるものとし、これを五行あるいは八卦に配して説明せり。これをもって、古来わが国に伝われる天地の解釈は、これを陰陽説に考うるにあらざれば明らかに知ることを得ず。しかして陰陽のことは「純正哲学部門」第二講において詳論すべきをもって、今はただ、陰陽交感によりて万物の生ずるゆえん、ならびに天地間の物、一つとして陰陽に関せざるものなきゆえんを論じたる二、三書を引証するにとどめん。

  大易緝説曰、理気象数之全体、渾然已具而未分者太極也、其全体既具則不能不動、纔動便是陽、動極而静、纔静便是陰、静極復動、一動一静互為其根、ニ気交感化生万物。

  (『大易緝説』に曰く、「理気は象数の全体、渾然としてすでにそなわって、いまだ分かれざるものは太極なり。その全体すでにそなわればすなわち動かざることあたわず。わずかに動けばすなわちこれ陽、動極まりて静、わずかに静なればすなわちこれ陰、静極まれば動に復す。一動一静互いにその根となり、二気交感して万物を化生す」)

  漢上易伝曰、一陰一陽、在天日月之行也、昼夜之経也、寒暑之運也、在人屈伸也、動静也、語黙也。

  (『漢上易伝』に曰く、「一陰一陽、天にありては日月の行なり、昼夜のへだてなり、寒暑の運びなり、人にありては屈伸なり、動静なり、語黙なり」)

  周易叢説曰、乾陽物也、得于乾者皆陽物也、乾道成男是也、坤陰物也、得于坤者皆陰物也、坤道成女是也。

  (『周易叢説』に曰く、「乾は陽物なり、乾に得るものはみな陽物なり。乾の道は男を成すとはこれなり。坤はみな陰物なり、坤に得るものはみな陰物なり。坤の道は女を成すとはこれなり」)

  周濂渓太極図説曰、太極動而生陽、動極而静、静而生陰、静極復動。

  (周濂渓の『太極図説』に曰く、「太極動いて陽を生ず。動極まりて静、静にして陰を生じ、静極まりて動に復す」)

 以上の諸書によりて考うるに、動静互いにその根となり変化してやまず。これによりて万物その形を生じ、天は陽にして動きやすく、地は陰にして静なり。これをもって、太極開発して天地その位を定め、万物その形を成すに至りしなりというにほかならず。しかして天地の形状は、あたかも卵子の中に、黄質と白質との二者相待ちて存するがごとく考えられたり。すなわち、地は包まれて中にあり、天その外を覆うといえり。ゆえに『渾天儀』に、「天形如弾丸、地在天中、天包地外、如鶏卵之繞黄。」(天の形は弾丸のごとく、地は天の中にあり、天は地の外を包みて鶏卵の黄をめぐるがごとし)とあり。ある人曰く、「天何依、曰依乎地、地何附、曰附乎天、曰然則天地何依何附、曰自相依附、天依形地附気、其形也有涯、其気也無涯、有無之相生、形気之相息、終則有始、終始之間、其天地之所存乎。」(天はなににかよる。曰く、地による。地はなににか付す。曰く、天に付す。曰く、しからばすなわち天地はなにによりなにに付す。曰く、自ら相依付し、天は形により地は気に付す。その形やかぎりあり、その気やかぎりなし。有無の相生じ、形気の相息する。終わればすなわち始まるあり。終始の間、それ天地の存するところか)と。邵康節の言にも、「天依於形、地附於天。」(天は形により、地は天に付す)とあり。かくのごとく、その説つまびらかならざるにあらずといえども、その、いわゆる天のなにものたるかに至りては、ただ遠く望みて蒼々たるものに名付くといえるのみにして、今日いうところの空間は、シナ学者のかつて論ぜざりしところなり。『物理論』に、「水土の気のぼりて天となる」といえるは、天のなにものたるかを解せんとしたるものなれど、なお十分なる説明というべからず。しかして、その天に懸かれる日月星辰に関する古来の説明は、これを次節に譲り、今、その天に古来いかなる妖怪が現れしかを考うるに、『決疑弁蒙』および『怪異弁断』の二書には、天開、天裂、天鳴、天変色等の怪を列挙せり。これらのうち、天開と天裂とはほぼ同意にして、空中の雲気にわかに開き、あるいは大光を発し、あるいは声あるをいう。これ、おそらくは流星の音響もしくは電光をもって、これを怪とせしものならん。天鳴もまたこの類にほかならず。また、天の変色は、空中蒸発気の性質、温度、および日光の反射、屈折等の状態にかかわること明らかなれば、もとより怪とするに足らざるなり。


       第六節 日月論ならびに日月中の影および蝕

 日月の生ずるゆえんに関しては、古来奇怪なる妄説あり。『文選』渾天賦に曰く、「盤古何神兮分天地」(盤古なんの神ぞ天地を分かつ)と。しかしてその盤古氏のいかなる神なりやにつきて、諸書の説くところ、すこぶる付会を極めたり。梁の任昉が『述異記』によるに、往昔盤古氏の死するや、その頭は四岳となり、その目は日月となり、脂膏は江海となり、毛髪は草木となり、涙は江海となり、気は風となり、声は雷となり、目瞳は電となり、喜を晴とし、怒を陰とすといえり。インドにもこれに類する古伝ありて、ブラフマー神の目は日月となり、呼吸は風となり、心は万物の生命となり、足は大地となるといい、わが国の神代にもこれと同様の談あり。一書に曰く、「伊弉諾尊、御寓の珍子を生まんと欲し、すなわち左手をもって白銅鏡を持つに化出の神あり、これを大日孁尊という。右の手に白銅鏡を持つにまた化出の神あり、月弓尊という。また、廻首顧眄之間に化神あり、素戔鳴尊という」ことあり。三国の古説、相一致せること、符節を合するがごとし。かくのごとき一致は、これを暗合に帰すべきか、あるいはいずれか一方の説が他方に伝わりしより起こりしものか、今しばらくおきて論ぜざるべし。

 とにかく古代にありては、天地と人類とを区別することあたわず。したがって、天地もまた人類と同じく一大活物なりと想像せしより、種々奇異の説を生ずるに至りしや明らかなり。しかるに陰陽家の説くところは、これに比するにやや道理あるものといわざるべからず。今その説によるに、『説文』に曰く、「日者実也、太陽之精」(日は実なり、太陽はこれ精)と。これより、日をもって陽精の凝れる一団の塊火となすに至る。これ誠に至当の説にして、今日の天文学によるも、太陽は一団の塊火に相違なきなり。また『淮南子』には、月を「太陰之精」(太陰の精)といい、また「水気之精者為月」(水気の精なるものを月となす)とも見え、『春秋元命苞』には「太陰水之精為月」(太陰水の精を月となす)といえり。これ陰陽の配合より起これる想像説にして、すでに日をもって火塊となすときは、月は必ず水体ならざるべからず。しかれども、これ今日の学説と一致することあたわざるところにして、もとより信ずるに足らず。かの水晶球をもってすれば、日よりは火を得、月よりは水を得ることによりて、月の体水なることの証となすも、今日となりては、だれかまたこれを信ずるものあらんや。また、日を金烏あるいは陽烏と称し、月を玉兎と名付くるは、その面に糢糊たる影の存するより想像せしや言をまたず。『〔義楚〕六帖』に曰く、「日中有陽烏三足」(日中に陽烏三足あり)と。李周翰曰く、「玄兎者月也、中有兎象、故以名焉。」(玄兎は月なり。うちに兎のかたちあり、ゆえにもって名付く)と。『五雑俎』ならびに『和漢珍書考』にもまた、このことを論じたり。今その大要を左に引援せん。

  五雑俎(巻一)曰、世間第一誕妄可笑者、莫如日中之烏月中之兎、而古今詩文沿襲相用、若以為実然者、其説蓋出於春秋元命苞淮南鴻烈解及張衡霊憲語耳、然屈原天問已有畢羽之説、而史記亀策伝載孔子言曰、為徳而辱於三足之烏、夫史記所載不見経書、而天問所疑皆児童里俗之談、近於遊戯、至漢以後、遂通用之而不疑矣。

  (『五雑俎』(巻一)に曰く、「世間第一誕妄笑うべきものは、日中の烏、月中の兎にしくはなし。しかして古今の詩文に沿襲相用い、もって実にしかりとなすもののごとし。その説、けだし『春秋元命苞』『淮南鴻烈解』および張衡の『霊憲』の語に出ずるのみ。しかして屈原の「天問」にすでに畢羽の説あり。しかして『史記』「亀策伝」に孔子の言を載せて曰く、『徳をなして三足の烏にはずかしめらる』と。それ『史記』の載するところ経書に見えず。しかして「天問」の疑うところみな児童里俗の談、遊戯に近し。漢以後に至りて、ついに通じてこれを用いて疑わず」)

   『和漢珍書考』に曰く、「『百丈録』七十二葉目を考うるに、月は陰の体にて西に位するとき、東卯の方の影を移す。東方はすなわち卯にて兎を移すという意にて、月中に兎をえがき、日は陽体なれば東に位す。西の酉をうつすという意にて、日中に烏をえがく。また、からすは鳥類の内にても極陰鳥なれば、極陰は陽にかえる心にて烏を陽に書くとぞ。三足は離卦これにて知るべし」

 かくのごときは、いずれも古代愚民の構造せし妄説に過ぎざれば、もとより信を置くに足らず。もし今日の学説に従わば、かの日月の表面に現るる暗影も、一層明らかに、かつ正しく説明せらるべし。すなわち前にも一言せしごとく、今日見るところの世界は、太古の星雲より次第に分化して成れるものにして、吾人の生息せる地球といい、蒼穹に懸かれる日月星辰といい、みな星雲の一部分がようやく分化したるものにほかならず。これをもって、わが地球のごときも最初は非常の高熱を有し、したがってこれを形成せる物質は、すべて蒸気もしくは流動状をなして空中に集積したりしが、次第にその熱を四方に発散するに従い、ようやく固結して今日のごとき状を見るに至りしなり。されば今日にては、地球と太陽との熱度いちじるしき懸隔ありといえども、これその体が一は非常に大きく、一は小さきため、その熱を発散するに遅速一様なることあたわざるによりて生ずるところの結果にして、はじめより両体の間にかくのごとき熱度の差ありしにあらず。それ、物大なるときは、熱を散じて冷却すること、小なる物より遅緩なるは、物理上一般の規則なり。ゆえに、地球よりさらに小なる太陰にありては、最初は高度の熱を有したりといえども、これを発散すること一層速やかなりしため、今日にてはほとんど無熱の一塊となり終われり。かつ熱の発散するや、物体の外部において速やかにして、内部において遅きを常規とす。ゆえに、わが地球のごときも、その外部すなわち表面は現在見るところのごとく冷却して固結したれども、その内部は今なお非常の高熱を有する流動体なることは、火山、温泉、地震等の現象によりて明らかに証せらるべし。しかして太陽は、わが太陽系中にありてその形最も大なるをもって、その熱したがって最も高く、現時にありてはその外面なお活動状をなし、火の燃ゆるがごときありさまなり。

 今、天文学者の測定せしところによるに、その表面の三尺平方より発散する熱は、およそ千六百貫目以上の石炭を、一時に燃焼せしむる火力よりもさかんなりという。されば、太陽の全表面二万二千八四〇億方里より発散するところの熱の総量は、幾億万貫の石炭を燃焼せしむる火力に比すべきか、算数もおそらく及ばざるところならん。これをもって、その太陽を形成せる物質ははなはだしく膨脹し、外面は一種の空気をもって全体を包含し、その中に光明を発する気体あり。この体は、金属より蒸発せる雲気のごとき小分子の集合なり。この小分子より光と熱とを発散し、常に自ら震動するは、あたかも湯の鼎中にありて沸騰するがごとき状をなす。ゆえに、外面ようやくその熱を散じ少しく冷却するときは、内部より高熱の部分噴出してこれに代わり、上下内外、代謝やむときなし。もしその噴出、劇烈なるときは、冷熱の代謝はげしく、ために、あるいは著く光炎を発し、あるいは黒点を現すに至る。これ吾人が太陽の表面に、世間のいわゆる烏影すなわち黒点、斑紋を見るゆえんなり。この黒点はすなわち太陽表面の斑点と名付くるものにして、けだし、表面にありて冷却したる蒸気の、深く内面の凹所に陥入するより生ずるものならん。しかして、かくのごとき斑点は、太陽の全面に散布するにあらずして、必ず中央一帯の部に限り、たちまち現ずるかと思えば、またたちまち滅して隠顕変化、実に窮まりなし。このほかにまた、太陽の表面には米粒状をなせる皺紋のごときもの、各部に多く存するを見る。これまた、おそらくは斑点とその理を同じくし、太陽面に浮動せる蒸気の、高低浅深一様ならざるより生ずる現象ならん。

 さてつぎに、月の表面に明所と暗所とあることは、吾人の肉眼にても見らるるところなるが、これに関しても

古来種々の説あり。今、左にその二、三を挙げん。

  淮南子曰、月中有物、婆々者則山川之影也、其空処者乃海水影也。東坡詩曰、掛空如水鑑、写此山河影。仏説曰、須味山南面有閻浮樹、月過樹影入月中。

  (『淮南子』に曰く、「月中に物あり。婆々たるはすなわち山川の影なり、その空所はすなわち海水の影なり」東坡の詩に曰く、「空にかかって水鑑のごとく、この山河の影をうつす」仏説に曰く、「須弥山の南面に閻浮樹あり、月過ぐれば樹影月中に入る」)

 これらはみな東洋に行われし説なるが、西洋にてもいまだ精巧なる望遠鏡の出でざりし以前にありては、一般に月球中の暗所は海洋なりと信じたりき。しかるに今日に至りては、その明所は山脈にして、その暗所は渓谷および原野なることを知るを得たり。また、望遠鏡に月の表面を望見せば、噴火口のごときものを見ることを得べし。これおそらく、月球が今日のごとくいまだ全く冷却せず、その中心なお高熱を有せしとき、わが現時の地球のごとく、その中心より火気を噴出せし旧坑ならん。しかれども前にもすでに一言せしごとく、月球は現時ほとんど無熱の一塊となり終わりたれば、もとより噴火の現象なおあるべきはずなく、また、かつて存在せしならんと思わるる海洋のごときも、今は全く乾涸して、いたるところ水もなく雲もなく、蒸気も大気も全く消尽せるありさまなれば、人類その他動植物のごとき生活物が、たとい昔時は生息せしことありしとするも、現今はすでにそのあとを絶ちしなるべし。しかして、わが地球のごときも、将来幾百万年の後には全くその熱を失い、月球と同じく、また一つの生物をもとどめざるに至らん。地球、すでにしかり。太陽といえどもまたいずくんぞ、ついにかくのごとき状態に達することなしとせんや。ただ、時に前後あるのみ。これを要するに、月の状態より推さば、地球ならびに太陽の将来も、あらかじめこれをト知することを得べし。

 また、日月の蝕につきても、古来、妄説紛々たり。左にその一、二を示さん。

  漢書孔光伝曰、日者衆陽之宗、人君之表、至尊之象、君徳衰微、陰道盛強侵蔽陽明、則日食応之。晋書天文志曰、月為太陰之精、以之配日女王之象、以之比徳刑罰之義、列之朝廷諸侯大臣之類、故君明則月行依度、臣執権則月行失道。

  (『漢書』「孔光伝」に曰く、「日は衆陽の宗、人君の表、至尊の象、君徳衰微し陰道盛強、陽明を侵蔽すればすなわち日蝕これに応ず」『晋書』「天文志」に曰く、「月を太陰の精となし、これをもって日に配すれば女王の象、これをもって徳に比すれば刑罰の義、これを朝廷に列すれば諸侯大臣の類、ゆえに、君明なればすなわち月行度により、臣権をとればすなわち月行道を失う」)

 西洋にても古代より種々の妄説ありしことは、歴史に徴して明らかなり。すなわち往時、メディア人、リディア人と互いに兵を交え、戦いまさにたけなわなるとき、たまたま日蝕ありて白昼たちまち変じて暗夜となりしかば、二国の兵みな大いに驚き、もって神譴となし、ただちに和を講ぜしがごとき、また、コロンブスが新世界発見のため航海したりしとき、ジャマイカの海浜にて破船の難に遭い、土民に糧食をもとめしかどこれを得ることあたわざりしをもって、彼らを欺かんと欲し百方考案をめぐらせしに、たまたま当夜月蝕あるを利とし、土民に告げて曰く、「神はなんじらのわれを厚遇せざるを憤り、今夜必ず月面をおおわん」と。夜に至りて果たして月面ようやく暗黒となりしかば、土民ら大いに恐れて糧食を供え、もってその罪を謝したりしことのごときは、その最も著しき例証なり。しかれども今日に至りては、なにびとといえどもみな日月の蝕するゆえんの理を知り、その全く人事に関係なきことを知れるをもって、だれかまた、かくのごときことを信ずる者あらんや。また、衆日の並び出でしことは古来しばしばありしことにして、すでに尭のときに十日並び出でしをもって、尭舁に命じこれを射さしめしことあり。

 また『日本私記』にも、文永五年に両日並び出でしことを記したり。西洋にては一六三〇年にある天文学者が、太陽の周囲に数重の暈を生じ、その暈と暈と相重なりたる所に数体の太陽を現ぜしを見たりという。かくのごとく東西ともに早くより、衆日の並び出ずることあるは、世人のあまねく知るところなるが、そのなにによりてかかる現象を現すかに至りては、また古来種々の妄説ありたりといえども、今日の学理によりて考うるときは、全く光線屈折の理にほかならず。すなわち、地上よりのぼるところの蒸気が、空中の冷気にあいて微細なる氷塊となり、太陽よりきたるところの光線を屈折せしめて暈を現し、また、あまたの偽日偽月をその上に並現せしむるなり。なお、後に虹霓論を述ぶるときに説明すべし。


       第七節 彗星、銀河、流星

 およそ星には遊星と恒星との二種ありて、太陽は恒星の一たり、地球は遊星の一たることは、さらに予が弁解するにも及ぼざるところなるが、今わが太陽系中に列する遊星の主要なるものを、その太陽をさること最も近きものより次第に列挙せば、水星、金星、地球、火星、木星、土星、天王星、海王星の八星に過ぎず。しかして古来、世人の最もあやしみしは彗星、銀河および流星なり。今まず彗星につきていわんに、その妄説の一、二はすでに第三節において列挙せしが、『淮南子』にもまたすこぶる奇説を出だせり。すなわち、その説に曰く、「鯨魚死而彗星出」(鯨魚死して彗星出ず)と。これ古代にありては異とするに足らざる説なりといえども、今日また、だれかこれに従う者あらんや。今もし現時の天文学に従わば、明らかに彗星のなんたるかを知るを得べし。それ、彗星は自ら光を発して太陽の周囲を運行する一種の星体にして、その体質いたって希疎軽微にして、位置、方向ともに一定するところなし。しかしてその目に現ずるところについてこれをみるに、その体自ら頭と心と尾との

三部分あるを発見せり。頭部は光輝ある星雲状の塊にして、その中に光輝の最も明らかなる点あるを見る。これを心という。しかしてその心より発するところの光輝の、屈曲して背部に向かって流るるものを尾という。これけだし彗星の中心より発するところの光線が、太陽の光力のためにしりぞけられて、逆流するより生ずるものならん。

 つぎに、銀河につきてもまた、古書中に記載せる説にすこぶる奇なるものあり。『博物志』に曰く、「天河与海通、浮槎木賷一年★(粮の良の丶が一)、至一処、見婦人織丈夫牽牛渚頭飲之、此人問何処、丈夫曰、可謂蜀厳君平問之、君平曰、某年月客星犯牛斗、正是此人到天河時也。」(天河は海と通ず。槎木を浮かべ、一年の糧をたくわえ、一所に至れば、婦人のはたおり、丈夫の牛をひいて渚頭これにみずかうを見る。この人いずこと問う。丈夫曰く、「蜀の厳君平にいいてこれを問うべし」と。君平曰く、某年月、客星牛斗を犯す、まさにこれ、この人天河に至るときなり)『新古今集』に歌あり、曰く、「あまの川通ふ浮木に事とはん紅葉の橋はちるやちらすや」また、『正法念経』に曰く、「帝釈与修羅戦、時帝釈所乗馬吐気、其気連天云、是天河也。」(帝釈、修羅と戦う。ときに帝釈の乗るところの馬、気を吐きその気天に連なる。いわく、これ天河なり)揚泉の『物理論』に曰く、「漢水精也、気発而升、精華浮上、宛転随流、名曰天河。」(漢水の精なり、気発してのぼり、精華上に浮かび、宛転随流す。名付けて天河という)また、西洋にてもギリシアにありては、古来、あるいはこれをもって、地よりのぼるところの気が天に至りて日に焼かるるものとなし、あるいはこれをもって天の両半球が縫合せられし痕跡なりとして、妄説一、二にとどまらざりしが、輓近望遠鏡の製造ますます精巧をきわめし結果として、ついに銀河は無数の恒星より成立せるものなることを知るに至れり。すでに『天経或問』に曰く、「以望遠鏡窺之、天河実是小星之隠而不見者、然微而甚多、攢聚一帯、蓋因天体通明映徹、受諸星之光、幷合為一真白練焉。」(望遠鏡をもってこれをうかがえば、天河は実にこれ小星の隠れて見えざるもの、しかしてかすかにしてはなはだ多し。攢聚一帯、けだし天体通明映徹するによりて諸星の光を受け、併合して一真の白練となる)と。銀河のことは余、別に説明するを要せず。

 つぎに、彗星、銀河と同じく、いにしえより世人の怪異に感ぜしものは、流星ならびに隕星なり。『漢書』五行志によるに、曰く、

  星辰附離于天、猶庶民附離王者也、王者失道、綱紀廢頓、下将叛去、故星叛天而隕、以見其象、春秋記異、星隕最大。

  (星辰の天に付離すること、なお庶民の王者に付離するがごとし。王者道を失えば綱紀廢頓し、下まさにそむき去らんとす。ゆえに、星天にそむいておち、もってその象を見す。春秋の異を記するに星のおつる最も大)

と。しかれども、これまた一種の妄説に過ぎざれば、もとより信ずるに足らず。もし今日の天文説に従わば、太陽系中には無数の細微なる物体ありて、常に太陽の周囲を運行す。ゆえに、もしこの小体、わが地球の大気中を通過するときは、その体、空気のために摩擦せられてたちまち光を発し、あるいは音響を生ずることあり。これを流星となす。しかしてまた、ときとしては流星の一片砕けて地上に隕下することあり、これを隕星という。古書中往々、星おち化して石となれることを記せるは、みなこの隕星にほかならざれば、別に異とするに足らざるなり。


       第八節 地球論

 以上、天文学に属する二、三の妖怪を説明したれば、これより、地球上に起こる妖怪を説明せざるを得ず。よってまず、地球そのものについて一言するを要す。そもそも地球は今日の学説によるに、太初の星雲より次第に分化しきたりて、この今時の形体を結ぶに至り、今時なおその中心に高熱を保持しおることは、前すでに述ぶるところなり。その体の球円にして昼夜自転し、また太陽の周囲を運行して歳時をなす等のことは、小学児童も熟知せるところなれば、余あえて喋々するを要せず。ただ、ここに山河水陸の起こりたるゆえんをたずぬるに、最初地球の全体ことごとく流動状をなしたるに、その熱ようやく減じて固形を結ばんとし、その体自然に収縮するに至る。なんとなれば、気体より液体に変じ、液体より固体に変ずるには、その形次第に縮小するは物理の規則なればなり。しかしてその縮小せんとするや、各分子一所に凝結せんとする性あり。かつ、外面のみ萎縮して内面なお依然として高熱を保つをもって、そのわずかに固形を結びたる表面おのずから割れ目を現じ、凸凹、高低を生ずるに至る。すでにしてその凹所より内面の流体を湧出して、一層その高低をしてはなはだしからしむ。これ地面に山谷の高低を生じたる原因なり。当時、水液のごときはただ蒸気となりて空中に浮かべるのみなりしが、地面のようやくその熱を失うに至りて、くだりて水の形を結び、高所より低所に流れ入り、はじめて河海をなすに至れり。かくして雨露あり、氷雪あり、草木生類もようやく生育し、ようやく繁殖して、今日の万有を現ずるに至れり。果たしてしからば、生物なき所に生物を生じたるや明らかなり。ここにおいて、学問上の一大問題を引き起こせり。すなわち生物起源論これなり。

 今日、進化学者の唱うるところによれば、無生物中より生物を分出せりといわざるべからず。余もその説をとるものなり。たとえこれを空想に出ずるとするも、神が生気を外部より吹き込めりといえる論に比考すれば、なお大いにとるべきところあるを見る。しかれども、余あえて唯物論者の説に雷同するにあらず。唯物論者は無生物より生物を化生せりとなす。しかるに余は、この一大世界は太初より一大活物にして、その内部に無量の精神を包有せるも、最初は潜勢力となりて外部に発顕せざるのみ。ようやく進化してその一部分に生活の現象を啓発し、いよいよ進みて精神世界を人の心中に開顕せるに至れり。これ余が、世界活物論なり。かくしてひとたび開発したる生物は、ようやく分布して地球の全面に繁殖するに至れり。しかして、これが媒介をなすものは、空気すなわち風の流動、および河海すなわち水の流動なり。この二者は一方において繁殖せる生物の種子萌芽を、他方に移植分布するに大いに力を与うるものなり。これと同時に進化学者のいわゆる自然淘汰の起こるありて、ひとり生物の繁殖分布を助くるのみならず、大いに各種類の分化発達を促せり。けだし人類の心中に精神の光明を開顕せるに至れるも、また自然淘汰の結果なり。もしその進化淘汰の説明に至りては、今ここに余地なきをもって、よろしくスペンサー、ダーウィン、ヘッケル等の諸氏の著書を一読すべし。これによりてこれをみるに、吾人の生息せる世界は外面に地獄の現象を示すも、内包に極楽の実相を持ち、ようやく開発啓示して将来幾億万劫の後、必ず無量の快楽、無限の光明をこの世界に見るの日あるも測るべからず。今日唱うるところの黄金世界とはこれ、これをいうか、仏教のいわゆる此土すなわち寂光浄土とは、またけだしこれを義とするならん。しかして、余がいわゆる真怪とはこの内包の世界をいい、仮怪とはその光明を掩蔽する迷心をいうなり。請う、世の有識の士、活眼を開きてこの天地の活書を読め。必ず大いに覚了するところあらん。 西洋近世の学説すでにかくのごとしといえども、古代の妄説を挙示するは講学上大いに興味あることなれば、天地の形状、位置について一言を費やさんとす。そもそもシナの説によるに、天地は互いに相より、鶏卵の黄白両質のごとき関係を有することは、さきにすでにこれを述べたり。もしその形状に至りては、『淮南子』に「天円地方、道在中央。」(天は円に地は方に、道は中央にあり)とあり、『晋書』天文志に「天円如倚蓋、地方如棋局。」(天まどかにして倚蓋のごとく、地方にして棋局のごとし)とあるによりて明らかなりといえども、王充のごときはその『論衡』に「天平与地無異」(天平らかにして、地と異なることなし)と説きて、天もまた平坦なりという。また、天は動き地は静かなるはシナの通論なるも、あえて地動説なきにあらず。『春秋元命苞』に、「天左旋、地右動。」(天は左旋し、地は右動す)とあり。また『河図括地象〔図〕』に、「地常動不止、讐如人在舟中、開牖而坐、舟行而不覚也。」(地は常に動いてとどまらず。たとえば、人の舟中にあるがごとし。牖を開いて座すれば、舟行きてしかも覚らざるなり)とあり。つぎに、西洋にありても天文説は、みな人の空想を描きたるものなれば、あるいはギリシア哲学の元祖タレスは、大地はその形円柱状にして天体の中心にありとし、アナクシメネスは、大地の形円くしてかつ平らなること盤のごとしといい、あるいはピタゴラスは、地は天体の中心の火をめぐりて回転することを唱うる等、諸説一定せざりき。しかしてアリストテレスに至りては、大地をもって球体となせしも、これを世界の中心と定めり。その後、エジプトの天文学士プトレマイオス氏の説、世に行わるるに至りしも、その説やはり大地をもって宇宙の中心となせり。しかるに近世はコペルニクス氏出でて、地球中心説を一変して太陽中心説を唱えり。その功、実に偉なりというべし。これを継ぎてガリレイ氏起こり、ケプラー、ニュートンの諸氏またついで起こり、ついに地球説を完成するに至れり。


       第九節 空気論

 わが地球の周囲には、直接に吾人の目に見えざれども、ある方法によれば明らかにその存在を知らるべき一種の気体ありて、山野、河海、いたるところこの気の磅礴せざることなし。これを大気という。大気はすなわち地球を囲繞せる空気のことにして、この気や常に地球の回転に従い同じ方向に運動するをもって、吾人の身体には少しも抵触を感ぜずといえども、吾人は実にこれを呼吸して生存しおるなり。もしこの気なからんか、人類はもとより、禽獣草木、およそ生あるもの一つもその生育を遂ぐることあたわず。これをもって、古来この気を論ずるもの少なからず。かのインドおよびギリシアにて行われし、地水火風をもって万物の元素なりと論ずる四元説の、いわゆる風はすなわちこの空気にほかならずして、当時はこれを一種の元素と考えしなり。ひとりシナにありては、木火土金水の五行を論じたりといえども、風をこの中に数えざりしをもって、空気を元素とする説なかりき。現今にては百方研究の結果として、空気は化学的元素にあらず、また数元素の化合物にもあらず、実に二、三元素の混合物にほかならざることを知るを得たり。すなわち、空気は窒素、酸素、炭酸の混合より成り、その他に二、三元素の少量と、水分および固形体とを混入せり。その空気中に水分を含めることは、冷水を瓶にみたして温室に置かんに、瓶の外面に水分の凝結する事実、または室外非常に寒冷にして室内の空気温暖なるとき、窓のガラスに水分の凝結する実験に徴して明らかなり。また、固形体の空気中に混入せることは、旭光戸隙より入るとき、無数の塵埃浮遊するを見て知るべし。

 さて、空気は地に近き部分ほど濃厚にして、地に遠ざかるに従い次第に希薄となる。これ全く地球の引力に原由するものにして、ために圧力を生ず。これを気圧と名付く。気圧は温度によりて変化あり。すなわち、空気もし温めらるるときは、自ら膨脹して希薄となり、ようやく昇騰するをもってしたがって気圧を減じ、もし冷やさるるときは、自ら収縮して濃厚となり、ようやく沈降するをもってしたがって気圧を増す。また、水蒸気が空気中に含まるるときは、いわゆる低気圧を生ず。これ、水蒸気は空気より軽きがゆえなり。かくのごとく大気に厚薄の差と、気圧に高低の不同あるをもって、空気は常に流動してやまず。かつ、空気は太陽によりて温められたる地の熱を伝うるものなれば、地の温度の変化はまた空気の変化を生ぜざるべからず。もし海上にありては、水が空気に対して地と同じ作用をなし、その温度の変化は空気の変化の原因となる。しかるに陸地と海水との問には、熱を保つに差異ありて、地は温めやすくまた冷えやすく、水は温め難くしたがって冷え難し。これによりて、昼夜朝夕、水陸の空気の温度に変化ありて、常に一定なることあたわず。その他にも種々の事情ありて、各部分、常に一様の温度を保つことあたわず。その冷なるものはくだり、その温なるものはのぼりて、あたかも水の低きにつき、煙の空にのぼるがごとし。かくのごとき空気の運動を称して、これを風という。


       第一〇節 風、暴風、回風、竜巻

 風は空気の運動にほかならざれども、古代にはこれに種々の妄説を付会したり。「河図曰、風者天地之使。春秋元命苞曰、天地怒而為風。荘子曰、大塊噫気其名為風、作則万竅怒呺。漢董仲舒伝云、陽陰之気、上薄為雨、下薄為霧、風其噫也。」(『河図』に曰く、「風は天地の使い」『春秋元命苞』に曰く、「天地怒りて風となる」『荘子』に曰く、「大塊の噫気はその名を風となす。作〔起〕こればすなわち万竅怒呺す」漢の『董仲舒伝』にいわく、「陽陰の気、上薄して雨となり、下薄して霧となる。風はそのおくびなり」)また、古代にては風の神あることを信じたりしが、シナにおいてはこれを飛廉と名付けり。「呂氏春秋曰、風師曰飛廉。晋書註曰、飛廉風伯也、箕星風師也、其飛廉神鹿身、頭如雀有角而蛇尾豹文。」(『呂氏春秋』に曰く、風師を飛廉という。『晋書』註に曰く、飛廉は風伯なり、箕星は風師なり。しかして飛廉の神は鹿身、頭は雀のごとく角ありて、蛇尾豹文)わが国にてもまた、いにしえより風口神ありと伝えたり。『日本〔書〕紀』に曰く、「二神〔伊弉諾尊与伊弉★(冉の正字)尊、共〕生大八洲国。然後、陽神〔伊弉諾尊〕曰、我所生之国、唯有朝霧而、薫満之哉、乃吹撥之気、化為神、号曰級長戸辺命。〔亦曰級長津彦命。〕是風神也。」(『日本書紀』に曰く、二神、伊弉諾尊と伊弉★(冉の正字)尊と、ともに大八洲国を生みたまう。しこうして後に陽神、伊突諾尊の曰わく、「わが生める国、ただ朝霧のみありて、薫り満てるかな」とのたまいて、すなわち吹きはらう気、神となる。号を級長戸辺命ともうす。また級長津彦命ともうす。これ風神なり)風の勢いはげしきときは、これを暴風という。和語にいわゆる野分これなり。また、回風と名付くるものありて、その別名を旋風あるいは飄風という。もし大風海中におこるときは、これを颶風と称す。

   『怪異弁断』に曰く、およそ大風は六、七月、八、九月の間にあり。これ地中伏熱の奮発なり。また曰く、これ(旋風)は地中の伏火燥熱の気、一所より急に発出してゆくものなり。

   『訓蒙天地弁』に曰く、暴風は燥熱の気、冷雲にかこまれ、たちまち雲をひらき突出して暴風をなす。このとき岳峰の土竅気を激して助成し、いよいよその風を強くす。

 また、回風につきては『隋書』に著しき一例あり。その文、左のごとし。

  文帝仁寿二年、西河有胡人、乗騾在道、忽為回風所飄、幷一車上千余尺、乃墜皆砕焉。

  (文帝仁寿二年、西河に胡人あり。騾〔馬〕に乗りて道にあり、たちまち回風のためにひるがえされ、一車をあわせてのぼること千余尺、すなわちおちてみな砕く)

 その他、これに類したる変動の、古書中に記載せられたるもの枚挙にいとまあらず。したがって、これが説明を試みし者またすくなしとせざれども、要するに古代にありては理学の知識に乏しかりしため、これが原因を天の怒り、あるいは神の罰に帰するに過ぎざりき。しかるに輓近ようやく地文学、気象学等の進歩せし結果として、かくのごとき変動を理学的に説明することを得るに至りしが、今その説の大要をいわば、およそ空気の流動するや、必ず規律ありて、地位、地形により一定の風あるを通例とす。しかるにもし、この規律のほかに突然大気の変動をきたすときは、ここに暴風を生ず。暴風のときには、空気の流動決して一直線に進行せずして、螺旋状の方向をとり、大抵雨雪これに加わり、またときとしては雷電〔これ〕に伴うことあり。夏時にありては太陽の熱はげしきをもって、往々急に海上または陸上の空気に熱を与え、膨脹せしめ、かつこれを上騰せしむるより、ここに低気圧を生じ、したがってその周囲なる高気圧の空気、にわかにここに流入せんとして暴風となる。ゆえに、気圧の差はなはだしきほど風力強きを加う。かつ暴風のとき、高気圧の空気、低気圧の部分に流入するときは、必ずその進行は一直線にあらずして、螺旋状をなすものとす。かくして、ようやく進みて低気圧の中央に入れば旋転運動を起こし、ようやく上騰して大空中に散ずるをもって、低気圧の中心には、つねに極めて静穏なる場所を生ず。しかして、かくのごとき空気の回旋運動急激なるときは、回風、旋風、あるいは颶風となる。これ、回風、颶風等のしばしば暴風に続きてきたるゆえんなり。しかして空気が回旋運動を生ずる現象は、街上において方向を異にせる風が、互いに衝突する場合にしばしば目撃するところにして、その螺旋状を描き、地上の塵埃を空中に巻き上ぐるは、すなわち回風の小なるものといいて可なり。されば世にいわゆる竜巻もまた、畢竟、この理にほかならずして、温度を異にし、かつ方向を異にせる風が、大気の上層において互いに相衝突し、多量の水蒸気をして黒雲と結合せしめ、漸次に沈降して最下層なる静穏の気中に流入せしむるときにおこるなり。この風もし陸上を通過するときは、樹木を抜き、家屋を倒し、土石あるいは河水を巻き上げ、ときとしてはにわかに砂丘を築く等のことあり。また、もし海上を進行するときは海水雲と連続して、大柱をたてたるがごとき観を呈することあり。また、この風のために一地方にて巻き上げられたる魚類が、他の地方にふることありて、古書中、魚をふらししことを記せるもの少なしとせず。「漢書五行志曰、成帝鴻嘉四年秋雨魚于信都、長五寸以下。元史五行志曰、至正二十五年六月戊申、京師大雨、有魚随雨而落、長尺許、人取而食之。」(『漢書』五行志に曰く、「成帝鴻嘉四年秋、魚を信都にふらす。長さ五寸以下」『元史』五行志に曰く、「至正二十五年六月戊申、京師大雨、魚あり雨に従って落つ。長さ尺ばかり。人取りてこれを食らう」)また、『続古事談』には左のごとき事実を載せたり。

   おなじき四年正月下旬に、出雲国秋鹿都の海辺に槌を打つ声聞こえけり。夜明けて見れば、島根郡のさかいより楯縫郡のさかいまで一町余がほど、水を重ねて塔を造り並べ立てたり。おのおの高さ三丈あまり、めぐり七、八尺ぞありける。後にはきえやうせけん、なんのしさいということを知らず。おそろしかりけることなり。

 古来かくのごとき現象をもって、社会上、人事に関係あるものと信じたりしは、左の諸書にいえるところを見て知るべし。

  荀悦漢紀曰、天雨魚、帝道陵夷、臣専政。京房易伝曰、佞人禄、功臣僇、天雨血。

  (荀悦の『漢紀』に曰く、「天、魚をふらす。帝道陵夷して、臣政をもっぱらにす」京房の『易伝』に曰く、「佞人禄し、功臣僇せらるれば、天、血をふらす」)

  観象玩占曰、天不享其徳将易其君則雨肉、又曰天雨膏将敗国有急。

  (『観象玩占』に曰く、「天はその徳をうけず、まさにその君をかえんとすればすなわち肉をふらす」また曰く、「天、あぶらをふらし、まさに敗国急あらんとす」)

 かく天事と人事とを連結せしめ、その間に密接の関係あるがごとく信ずるは、東西を問わず古代愚民の常なれども、ことにシナ人において、その考えの最もはなはだしかりしを見る。これシナにありては理学的の知識久しく発達せざりしため、天変地異のよりてきたるところを明らかにすることあたわざりしによるといえども、けだしまた、古来の政治家もしくは学者がこれを利用して政略上の一手段とし、あるいは勧善懲悪の一方便としたりしにもよることならん。しかるに今日にては、学理上明らかにこれが原因を解説せらるるをもって、いやしくも少しく事理を解するほどの者は、また決してかくのごとき迷誤をなさざるなり。


       第一一節 水気論、露、霜、霧、雨、雪、霰、雹

 空気中に水蒸気を含めることは前にすでに一言せしが、この水蒸気は太陽の光熱のために、海面ならびに地上より蒸発せしものにして、もとよりこれを見ることあたわずといえども、この気もし空中において冷却せらるることあらば、たちまち凝結して露滴の形をなす。ゆえに、温度のこの点を称して露点という。もし、なお一層冷却せらるるときは、氷結して雪あるいは霰となる。ゆえに、温度のこの点を称して氷点という。その他、雲、霧等もまた、みなこの理によりて説明することを得べし。しかるにシナにありては、古来これらの現象を陰陽の理に付会して説明せり。今、左に二、三の書を引いて、その一斑を示さん。

  大戴礼曰、天地積陰、温則為雨、寒則為雪。又曰、陰気勝則凝為霜雪、陽気勝則為雨露。蔡邕月令〔章句〕曰、露者陰液也。荘子曰、騰水上溢故為霧。春秋元命苞曰、陰陽之気、怒而為雨乱而為霧。又曰、陰陽和而為雨。春秋考異曰、霜者陰精。説文曰、霧者百邪之気也、為陰冒陽、本于地而行于天也。曾子曰、陽之専気為雹、陰之専気為霰。

  (『大戴礼』に曰く、「天地の積隠温かなればすなわち雨となり、寒ければすなわち雪となる」また曰く、「陰気勝てばすなわち凝りて霜雪となり、陽気勝てばすなわち雨露となる」蔡邕の『月令章句』に曰く、「露は陰液なり」『荘子』曰く、「騰水上にあふるゆえに霧となる」『春秋元命苞』に曰く、「陰陽の気、怒りて雨となり、乱れて霧となる」また曰く、「陰陽和して雨となる」『春秋考異』に曰く、「霜は陰の精」『説文』に曰く、「霧は百邪の気なり。陰、陽をおかすがために、地に基づきて天に行くなり」『曾子』曰く、「陽の専気なるを雹となす、陰の専気なるを霰となす」)

 かくのごとく、気象の変化をことごとく陰陽の理によりて説明するは、もとより無稽の憶想にして、今日の学理に照らさば蛮民の間に行われし妄信と一般、さらに取るべきところなしといえども、これを古代各国の神代史中に説けるがごとき、風雨雷震みなその神ありとする説に比せば、一歩を進めし説たるや疑いなし。ただしシナにおいても陰陽説のほかに、別に雨師、風伯を説けるものあり。

  神霊経曰、四海上有人、乗白馬朱鬣、白衣玄冠、従十二童子、馳馬如飛、名曰河伯使者、其所至之国、雨水滂沱。列仙伝曰、赤松子者神農時為雨師也。

  (『神霊経』に曰く、「四海の上に人あり。白馬朱鬣に乗じ、白衣玄冠、十二童子を従え、馬を馳すること飛ぶがごとく、名付けて河伯の使者という。その至る所の国、雨水滂沱たり」『列仙伝』に曰く、「赤松子は神農のとき、雨師たり」)

 また、『百物語評判』と題せる書の巻四には、雨師、風伯につきて下のごとき問答を掲げたり。

   一人のいう、「いろいろのことを思いめぐらし候うちに、雨風ほど不思議なることはべらず。雨の宮、風の宮など神意にもあがめ候えば、神ありてそのことをつかさどりたまうにや。また、唐土には雨師、風伯など申すよしを承り候。雨請いなどいたし候て、そのしるしの御座候も心得がたく存じ候まま、くわしくは物語を承りたくはべる」と問いければ、先生答えていう、「地の陰気はのぼりて雲となり、陽気はくだりて雨となれば、もとより陰陽のなすところにして、ほかにつかさどる鬼神もあるべきにあらず。されど雲行き、雨ほどこして万物のめぐみをうくるよりいえば、報恩のためとて唐土にも山川社稷の祭り、国々にはべる。かくあるうえは、わが朝にも雨風の宮あることもちろんの義なり」

 これを要するに、風雨雷震等を神の所為に帰するは、シナに限らず、いずれの国にても一般に行われし説なるが、ひとりシナにおいては、かくのごとき雨師、風伯の妄信ありしにも関せず、一般の学者は陰陽説によりて解釈をなせり。しかしてその説の価値なきことは、これを今日の学説に照らさばおのずから了知せらるべきをもって、ここにその大要を示さんに、地球は夜間に至れば、昼間太陽より受けし熱を空中に散ずるをもって、地上の諸物体ならびに地面に接する空気はために大いに冷却せられ、その温度ついに零点に達するときは、空気中に含まれたる水蒸気、もはや気体の状態を保つことあたわずして水滴となり、草木に付着す。これすなわち露を結ぶ所為なり。もしその温度さらに減じて華氏の三十二度以下に達するときは、水滴ついに氷結して霜となる。しかれども夜間空中に雲あるときは、地球の放熱を妨げ、したがって地上の物体ならびに地面に接する空気をして、はなはだしく冷却せしめざるをもって、霜露を凝結するに至らず。これ霜露の晴天の夜に多くして、曇天の夜に少なきゆえんなり。また、たとい日中といえども、空気の温度露点以下にくだるときは、水蒸気はたちまち凝結して雲霧となる。例えば、温暖の空気が寒冷の空気と衝突するときは、雲をおこすか、しからざれば霧を生ず。されば、雲と霧とはいずれも空中の水蒸気が冷却せられしために生ずるものにして、吾人が冬日呼吸するときに見るところの湯気のごときものにつきてその理を知るべし。なんとなれば、これすなわち呼吸中の水蒸気が冷気に触れし結果にして、これを一種の雲霧というも決して不可なければなり。しかして雲をなせる水の分子が互いに集合してようやく水滴となり、もはや★(翩の正字)々として空中に浮動することあたわざるに至るときは、雨となりて地上に降下す。ゆえに、雨と雲とは別物にあらず、ただ水分子の粗なると細なるとの差あるのみ。また、もし空中の水蒸気一層冷却せられ氷点以下にくだるときは、たちまち結晶して雪となる。しかるに、空中は地面を離るるほど寒冷なるをもって、熱帯地方といえども高山の頂上には千古の雪をいただけり。これ、地上はいかに炎熱なるも、ある高さに達せば空気の温度、常に氷点以下にくだれる証拠にして、この点を地球上の雪線と称す。雪線は赤道直下において最も高く、南北にいくに従いてようやく低く、両極においてはついに終年、平地にこれを見るに至る。しかして霰は雨が地上に降下せんとする途中において、急にはなはだしき冷気にあうによりて生じ、雹は雪の空中において互いに相衝突し、凝集して円塊となれるものなり。これをもって、雹は霰の大なる氷塊なりといいて可ならん。これを要するに、風雨霜露等に関する詳細の説明は、気象学もしくは地文学の範囲に属するをもって、予はこれらの諸学に譲り、今はわずかにその一斑を示せしに過ぎず。しかれども、古代の妄説と比較して、いずれが道理にかなえるかを見んには、これにて十分ならん。

 かくのごとく、今日の学説によりて考うるときは、雨、雪、霜、露等の諸現象、一つとしてあやしむべきにあらずといえども、上にもすでに例証を挙げて示ししがごとく、天文、気象等になにか少しく平時に異なりたる現象おこるときは、ただちに人事上に関係あるものとなし、あるいはこれをもって天が人を戒むる現示なりと信ずるは古代愚民の常なれば、雨雪等につきてもまた種々の妄信ありて、あるいは夏日霜雪の降るがごとき、またはある地方に甘露を降らすがごとき、その他、景雲現れ、瑞気浮かび、霖雨堤をやぶり、大早苗を枯らす等のごときことあらんか。すべてこれを人事に因由するものとなしたりしなり。今、その一例を左に示さん。

  前漢書五行志曰、説曰上嫚下暴、則陰気勝。晋書曰、降雪非時、政在将相、陰気盛。

  (『前漢書』五行志に曰く、「説に曰く、上嫚に、下暴なれば、すなわち陰気勝つ」『晋書』に曰く、「降雪ときにあらざるは、まつりごと将相にありて、陰気さかんなるなり」)

 その甘露、景雲等に関することは、「純正哲学部門」第三講において説明すべきをもって、ここにはこれを略すべし。


      第一二節 雷電、天鼓、天火

 雷電につきても古来種々の妄説あり。まず、その一例を左に示さん。

  荘子曰、陰陽錯行、天地大駭、於是有雷有電。淮南子曰、陰陽相薄、感而為雷、激而為霆也。河図帝紀通曰、雷天地之鼓也。穀梁伝曰、陰陽相薄、感而為雷。

  (『荘子』に曰く、「陰陽錯行し、天地大駭す。ここにおいて雷あり電あり」『淮南子』に曰く、「陰陽相せまり、感じて雷となり、激して霆となる」『河図』帝紀通に曰く、「雷は天地の鼓なり」『穀梁伝』に曰く、「陰陽相せまり、感じて雷となる」)

 また、雷神のことにつきては世間だれも熟知せることなるが、その起源を案ずるに、『五雑俎』に曰く、「論衡所謂、画工図雷公、状如連鼓形而円、一人若力士、謂之雷公、使之左手引連鼓、右手推之。」(『論衡』にいうところ、画工雷公を図し、状連鼓の形のごとくにしてまどかなり。一人は力士のごとくこれを雷公といい、これをして左手に連鼓を引き、右手にこれをうたしむ)しかして、古来雷をもって天の怒りとなし、不仁、不義の者はこれにふれて死すとの説あり。よってもって人を戒めしより、人みなこれをおそるることはなはだしく、孔子も迅雷風烈には必ず変ずといい、かの魏の曹操のごとき豪傑すらはなはだしく雷をおそれ、雷鳴のために、食膳に向かいて匙の置き所を忘れしことありたりという。『秉燭或問珍』と題せる書によるに、左のごとき説明あり。

   霹靂は天地の怒る気なり。雷は正しきことにても怒れば悪気あり。天の怒りと人の悪気と相感じて、雷を引きて打たるることあり。たとえば鐘をうてば、響きそのまま応ずるがごとし。悪をなすものは鐘を打つがごとし。雷これを打たば、その響きの応ずる道理なり。自然にしかる理なり。菅丞相ほどの賢公をも、感応の理をしらざる輩は、雷と成りて崇をなしたまうという。あさましきかな。かの時平ごときの佞臣、讒口を構えて忠貞の菅公を流罪に沈め奉りしその悪逆によりて、天雷の怒気相感じ打たれたるものなり。

 また、雷のおこるゆえんにつきても、シナの天文書には、多く陰陽の理によりて説明を下せり。今、『訓蒙天地弁』に載せたる説の大要を左に示さん。

   雷は陰陽奮激の声とす。春夏は地気上昇し、日も頭上近くきたる。このゆえに、地土を照らす気つよく、暑熱をなす。下土の火気、水土の気をむしたてて、水土の気また陽気をつつみのぼる。太陽に近づくにしたがって、包まれたる陽気相感じ、上昇の気雲中に衝入、水土の気は重雲とともにいよいよ囲んで火を中につつみ、火はまた凝っていきおいさかんに燃え円団となる。しかして陽は性剛に、陰はその質柔なり。ついに陰を破って東に走り西につく。このゆえに、猛勢せまりきしって雲竅を破り、あるいはきぬを裂くごとく、または鼓をならして声をなすに似たり。陰物たる雲水の気はにわかに雨をはっし、時雨をなす。みなともに陰陽和合せずして、上天にすれ合って雷鳴をなし、陽は燃え、陰あるいは雨をなし、ともにその気を散じてたちまちやむ。

 わが国にても、神代史中には雷神のことを説けり。

  日本〔書〕紀曰、伊弉諾尊、抜剣斬軻遇突智、為三段。其一段是為雷神。

  (『日本書紀』に曰く「伊弉諾尊、剣を抜きて軻遇突智をきりて、三段になす。その一段はこれ雷神となる」)

 電光もまた、古来、大抵雷と同じく、陰陽の理よりおこるものと信ぜられたり。今その一例として『博物筌』中の一節を抄出せん。   仲春よりいなびかりす。このころより日のめぐり地へ近くなるゆえ、天の陽気さかんにして、地気をむしたて、陽気を陰気つつみてのぼるなり。日輪の陽にちかづくにしたがって、つつまれたる陽気はっするによりて、陰気相きしりて声を出だすいかずちとなり、その火の発する電となる。秋の彼岸にいたれば、日またしだいにめぐり、遠くなるにより電せざるなり。

 これらの説明、巧はすなわち巧なりといえども、もとより空想のみ。しからばすなわち、今日の学説にては、いかにこれを解釈するか。請う、試みにその大要をいわん。それ、雷電は地球を包繞せる大気中に常に存在せる電気の作用にして、雲もしこの電気を発するときは、あるいは電光となり、あるいは雷鳴を発するなり。されば、電光は雲と地との間に発する電気の破裂にして、空気中に存在せる水気その伝導をなすもののごとし。しかして、電気の破裂がなにゆえ雷鳴のごとき轟々たる音響を発するかを考うるに、大気は不導体なるをもって、電気雲より発して空中を通過せんとするとき、これに抵抗して、ために熱を生じ、したがって著しく膨脹するより起こる。しかしてこの音響は、その実、格別大なるものにあらずといえども、地球上の諸物体あるいは雲および大気がこれを反響せしむるより、轟々として地球をも震動せしむるばかり大きく感ずるなり。また古来、天鼓ならびに天火と称して、俄然空中に光を発し、あるいは音響を発する等のことありと伝うるも、またおそらく一種の雷電に相違なからん。奥州津軽地方にて怪物の太鼓と名付けて、空中に雷にあらず、震にあらざる一種の鼓声を聞くことありという。『蜘蛛の糸巻』と題せる書中には、左のごとき記載あり。

   明くれば天明六丙午、元日も丙午、日蝕皆既。いかなる天災にやならんと、諸人安き心はなかりしに、初春より雷にもあらざる響き天にあり。北に聞くかと思えば南にあり、四方所を移し、昼夜定まらず。ものしる人は天鼓ならんといえり。おもうに明の英宗が、天順七年癸未の年、天鼓の妖あり。ときに賢臣李賢、凶作なりと評したること、明史に見ゆ。果たして同年八月より大樹君御不例、八月二十一日、田沼侍従城を削られ、減地一万石。雁之間詰め、屋敷、三日の間に取り払い、相良城御取り上げ(城受け取り、脇坂)、同時、稲葉越中守職を削られ、減地三千石。九月八日、薨御の普聴あり。

 さて、上にもすでに一言せしごとく、古代はいずれの国にありても、天象と人事との間に必然の関係あるものと迷信せしが、雷電につきても、シナ、日本ともにまた同様の迷信をいだけり。今、古書中より、その最も著しき例証二、三を抄出して読者に示さん。

  史記殷本紀曰、帝武乙無道、為偶人謂之天神、与之博、天神不勝乃僇辱之、為革囊盛血、仰而射之、命曰射天、武乙猟於河渭之間、暴雷武乙震死。太平御覧曰、秦二世元年、天無雲而雷、雷陽也、雲陰也、象君臣也、今不恤人、人臣叛之故然也。

  (『史記』殷本記に曰く、「帝武乙無道、偶人をつくりて、これを天神といってこれと博す。天神勝たざれば、すなわちこれを僇辱す。革囊をつくりて血を盛り、仰いでこれを射、命じて天を射るという。武乙、河渭の間に猟す。暴雷ありて武乙震死す」『太平御覧』に曰く、「秦の二世元年、天雲なくして雷す。雷は陽なり、雲は陰なり。君臣にかたどるなり。今、人をあわれまず。人臣これにそむくゆえにしかるなり」)

 わが国にては、〔藤原〕時平の震死のことは、前すでにこれを掲げたり。その他、悪源太〔源〕義平の霊、雷となりて〔藤原〕経房を殺し、新田義興の霊、雷となりて尭寛を殺せし等のことは、みな人の知るところなり。かくのごとく天地の感応することにつきて、鴻儒朱子はかつて左のごとくいえり。

  性理大全二十七、問人有死於雷霆者、無乃素積不善常歉然於其心、忽然聞震則懼而死乎、朱子曰、非也、雷震之也、然則雷孰使之、曰夫為不善者悪気也、赫然而震者天地之怒気也、相感而相遇故也。

  (『性理大全』二十七に、問う、「人、雷霆に死する者あり、むしろもと不善を積み、常にその心に歉然たり。忽然、震を聞きてすなわちおそれて死するか」朱子曰く、「非なり。雷これを震うなり」しからばすなわち、雷はいずれかこれをせしむ。曰く、「それ不善をなす者は悪気なり、赫然として震うは天地の怒気なり、相感じて相遇うゆえなり」)


      第一三節 虹霓、日暈、蜃気楼

 虹霓につきても古書に伝うるところ種々あり。すなわち左のごとし。

  釈名曰、虹、攻也、純陽攻陰気也。春秋元命苞曰、陰陽交而為虹蜺。春秋運斗枢曰、枢星散為虹霓。文子曰、天二気則為虹。月令章句曰、夫陰陽不和婚姻失序即生此気。

  (『釈名』に曰く、「虹は攻なり、純陽、陰気を攻むるなり」『春秋元命苞』に曰く、「陰陽交わりて虹蜺となる」『春秋運斗枢』に曰く、「枢星散じて虹霓となる」文子曰く、「天の二気すなわち虹となる」『月令章句』に曰く、「それ、陰陽和せざれば婚姻序を失してすなわちこの気を生ず」)

 また、霞の生ずるゆえんを説けるものには、左のごとき奇説あり。

  河図曰、崑崙山有五色水、赤水之気上蒸為霞。

  (『河図』に曰く、「崑崙山に五色の水あり、赤水の気、上蒸して霞となる」)

 俗間にては虹は蝦蟆の吐く気なりといい、あるいは蛇の吐く気なりともとなえ、また、虹が人家に入りきたりて酒を吸うなどのことありともいう。『霏雪録』といえる書には、往昔、陸国賓といえる道士、舟に乗じて江を渡らんとするとき、白虹の水石の間に現るるを見、あやしみてこれに近づきみれば、筍笠のごとき大なる蝦蟆が、口より気を吐けるにてありしとのことを記せり。また『淮南子』『異苑』等にも、虹が酒宴の場所に入りきたりて、酒を吸いしことありと記せり。しかれども、これらの説はもとより妄想にして、今日にてはだれもこれを信ずるものなからん。そもそも虹霓の現象は、なにびともすでに知れるごとく、太陽の対面において降雨あるとき、日光のこれに映ずるによりて現るるものにして、手近くこれを実験せんと欲せば、旭日に向かいて霧を吹きかくれば、その中に虹の形色を見ることを得べし。あにあやしむに足らんや。

 つぎに、日暈のことは前にもすでに述べしごとく、地上より蒸騰せる水蒸気が、空中において寒冷にあい結晶したるとき、これを通過する日光の屈折より現るるものなれば、また決してあやしむに足らざるなり。しかして古来、人の最も奇怪とするものは幻影と名付くるものにして、かの蜃気楼はすなわちその一つなるが、これまたやや虹霓と同じく、日光が大気を通過する途中において屈折するより生ずるところの現象にほかならず。今まず、諸書に散見せる実例を列挙せば左のごとし。

   『閑散余録』(巻上)に曰く、「蜃気の楼台をなすこと、和名をながうといえり。長門の海中にままありと聞けり。わが州の伊勢の海も昔よりその名あり。二、三月のころ、天気暖和にして風波なき日に多くあらわるるなり。これ蛤蜊の気なりといい伝えり。しかれども蜃と蛤蜊と、同じく介類にして別あり。ことに桑名は蛤蜊に名を得たる地なれども、ながうの見ゆることを聞かず。ただ、羽津、楠邑等の海辺に多し。わが友に、楠邑の南川といえる里に山本勘右衛門といえる老翁あり。この人は弱年のときより両度見たり。後に見たるは楼閣の中に種々の飾りありて、はなはだ奇巧なりしと物語りせり。羽津、楠などにも、蛤出ずれども、桑名にくらぶればすくなし。しかれば、蛤の気にてなれるにはあらざるべし。楠の南一里ばかりに郷あり。その名を長太と書きてながうと訓ぜり。蜃気によりて名付けたるなるべし。天地の間には理外のこと多し。虹の日に映じて青紫の色をなすがごとく、海中の春和の気、日に映じて色を現ずるなるべけれども、楼閣の形象をなすはあやしむべし」

   『荘内可成談』に曰く、「虚空を船の馳することあり。晴天、風雨にかかわらず見るもの多し。帆を掛けたるあり、帆なきもあり、人の形ほのかに見ゆるもあり、その船は一様ならず。これは庄内に限りたることにてはなしと見えて、世に出羽、奥州の妖怪といいきたれり。しかれば、両国にのみありて他国にはなきことと見えたり。案ずるに妖怪にはあらず、誠の船なるべし。他国にもあるなるべけれども、まれなるより見る人少なきゆえにかくいうなるべし。陸奥、出羽は大国にて深山、幽谷、大河多く、海は越州に連なり蝦夷に近くして荒し。このゆえに、ときならぬ風雨の変あり。そのために難風にあう船もあまたなり。また、他国にて難風にあいたる船とても、高山、深林にきたるは同じ道理なり。水とともに船を巻き込みてきたれるなるべし、云云」

   『陰陽外伝磐戸開』に曰く、「されば越中国神通川の落ち口、北陸道なり。この川脇に滑川という駅あり。先年遊歴の刻み、おりしも三月なり。この滑川に一泊して亭主に問う状、『この滑川の海より蜃気楼立てりと聞けり、実にしかるや』亭主、『しかり』また問う、『六月の曇天、夏中に一、二度というまれの日にあらざれば立つべからず、この義はいかに』といいければ、亭主いう、『そのとおりなり。お客には講釈はいらず』と一笑して退きけり。されば、この理もやはり地気より出ずるところなり。まず当たり前、地の緩むは夏、しまるは冬なり。しかれども、その夏の緩むうちにまたしまり、緩みあるは陰陽の活用なればなり。ときに夏、地の緩むうちにまた緩めば、風はもちろんあらず。その風のあらざる理は、霧にて地より発すればなり。また、発する霧すなわち水気なり。これは陸地のみにはあらず、海中最も同断にして、とりもなおさず地気の濃きなり。かくのごとく、風なく木の葉も動かぬ曇天、ただ蒙々として蒸し暑く気の詰まりたる日柄、一夏中に一、二度もあるべし。これ蜃気楼の立つ日なり、云云」

 その他、蜃気楼のことは、わが国にては諸方に現ずると見えて、余、伊豆に遊びしときも、その地の漁人らが実視せしことを語れり。また、山陰道漫遊の際も、そのことあるを聞けり。西洋にもこの現象はしばしば見るところにして、『博聞叢談』にもその一例を挙げて示して曰く、

   欧州東海の浜辺において、一日曇天に少しく雨を催し、寒暖計平日より低下しおりしが、突然、天空の一方に大廈高楼、寺院、庭園の一大都会を現出せしかば、その近傍の航海者、漁夫らの驚き非常なりしが、そのときソーメルよりヒルローへ進行せし水夫らは、この現象を見て大いに驚き、われら進路を誤てり、わが船の着すべき地にあらずして、いまだ見聞せざる都府に到着せりとてしきりに狼狽し、船長も一時は驚愕せしが、その景状を熟視するに、全く空気の作用より発せし現象なりしことをさとり、水夫らに説明せしかば、一同はじめて安心したりと。

 今一歩を進めて、かくのごとき現象がいかにして現るるかを考うるに、およそこれらの幻影は、空気の上層と下層とが著しくその温度を異にせるときに見ゆるものにして、特に北極地方においては、その地面ならびに水に接せる空気が、上層のものより著しく冷ややかにしてかつ密なるをもって、地平線下に沈める遠方の物体より映じきたるところの光線、ようやく下方に屈折し、その物体の存在せる場所よりはやや上方にその影を現ずることしばしばあり。これすなわち、いわゆる蜃気楼の現るるゆえんにして、この現象はひとり北極地方にのみ限るにあらず、いずれの所なりといえども、上にいえるがごとき事情あるときは、往々これを見ることあり。また、アフリカの大砂漠のごとき地方にありては、北極地方に反し、下層の空気は砂漠のために非常に熱せられて、著しく希薄となれるをもって、地上の物体より斜めに映射しきたるところの光線は、やや上方に屈折し、上層の空気より反映して一種の浮影を現ずることあるが、これもまた蜃気楼と同一の理に基づくものなれば、決して怪しむに足らざるなり。これらの説明は余輩の専門とするところにあらざれば、左に専門家の説明を摘載してこれを証せん。

   気象学の書によるに曰く、「幻影は冬においてこれを見る、はなはだまれなり。太陽のあつき照射は、常にこれが先導者となるがごとし。しかして実際、極地方においてもしかりとす。かつて極地において艦長スコロス氏は、この現象の、日熱のため海面より起こるところの蒸発より生ずることを実験せり。細説せば、湿気を帯びたる大気の、結氷の面を経過し寒冷となりたるとき半ば凝集するによりて、その密度おのずから不等なるをもって、この現象を生ずるものとせり。博士工ベレット氏は、この現象につき十分なる説明を与えんことをつとめたり。しかれども、この現象は大気の静止したる場合において生ずというをもって足れりとす。複説せば、地面上相連続する気層の、水平なる整列をなすときにおいて起こるものなり。これを例せば、

   ある起因すなわち下面における不等の冷熱などよりして、垂直における温度の減少の比例に変化をきたすとき、光線は多少斜めに経過するをもって、希薄なる表面上には内折の反射を受くべし。ゆえに、光線は相連続する気層を経過するに従いて屈曲する進路を経て、なお密なる気層の側面に向かいて投上もしくは投下せらるるをもって、ついに直接の視線外に物体の現象を生ずるものなり。暖熱なる地方において地上にみる現象は、大空の一部分をえがきたるものなり。これ上部に密なる気層ありて、光線は上方に屈折せらるるがゆえなり。極地方の寒冷なる海面においては下部に密なる気層ありて、光線は下方に屈折せらるるがゆえに、地平線下にある物体の影を投上せしむ」

 また、光線の反射によりて生ずる一大幻影は、オーストリアのブロッケン山の妖怪なり。その山には人の影、空中に現出して忽然一大怪物となり、その人と幻影とは挙動を同じくすという。これ、その山上雲霧のいたって密にして、あたかも鏡面のごとく、その面に人影を反射するによるならん。わが国においても、深山幽谷には必ずこのことあるべし。余、かつて高山に登りて巨大の異人を見、あるいは大達麿、大入道を見たりというものの話を聞けり。これ、ブロッケン山の怪物と同一の原因によるものならん。山形県人黒澤鼎氏の報知に、月山の仏像のことにつき、左の説を示されたり。これ余が今述ぶるものと同一なれば、ここに掲ぐ。

   月山に仏像の現出すると申す所は、俗に御来迎場と唱うる谷間にて、その時間は朝に限りて現る。しかしてその原因は、全く見る人の影なること疑いなし。なんとなれば、一人にて望めば一像を見、十人にて望めば十像を見るなり。けだしその理由は、谷間に濃霧の通過するとき、これに旭光の映ずるありて、人はその間に立つをもって、その霧あたかも鏡面の作用をなして、朦朧たる人影を映出するによる。アメリカ〔の〕ナイヤガラ瀑布にもこの現象あり。また、他の瀑布にても、ときにこれを見ることあり、云云。

 これ、もとよりしかるべき道理なり。月山は実にわが国のブロッケン山というべし。ブロッケン山は夕陽によりて人影を東方に見るといい、月山は旭光によりて人影を西方に見るという。誠に好一対なり。

 また、ここに一事実の怪しむべきものあり。そのことは〔橘〕南谿子の『東遊記』後編巻四に出でたり。

   信州諏訪明神には、世俗に七不思議ありという。その七ふしぎの一つに、上諏訪の塔の影、下諏訪明神の拝殿にうつるという。余もかの地にていろいろたずねみしかど、え見付けずして帰れり。虚説にやと思いおりしが、その後、天明五年乙巳秋、京都東寺の塔の影、大宮の民家にうつると沙汰せしかば、朋友四、五人かたらいて行きてみしに、丹羽又右衛門という百姓の家なり。折しもその日は少し小雨降りて鬱陶しく、ことに夕暮れに及びて、きょうは影はうつるまじきやと思いながら、その家に入りて影見たきよしを頼みしに、このごろ人々大勢見物にきたりたまいていと迷惑なれど、余義なきお頼みなれば見せ申すべしといいて、入り口の戸を閉じ、そのほか家内の雨戸をさし、内を暗くせしに、入り口の戸のくろろの穴の七、八分ばかりなるより、塔の影入りて、さかしまに土間にうつる。その影大抵四、五尺ばかりにして、九輪、宝鐸等まで、歴々としてはなはだ明白なり。また、別に戸板を持ちてその穴に急にむかうれば、塔影短く小にして明白なり。斜めにむかうれば、塔の影大にしておぼろなり。小なるは二尺ばかりにうつれり。その奇なること目を驚かせり。晴雨となく、いつにてもかくのごとくうつれりという。ただし晴天の日、朝日塔を照らして明らかなるときは、この家にうつる影もまた、はなはだ明らかなりとぞ。この家は塔より東の方にあたり、しかるに朝日照らすときに、かえって東の方の家に影入るも奇妙のことなり。唐土にも塔影の穴より入ることはありて、人の奇とすることにや。『輟耕録』『夢渓筆談』などにも論じおけり。この東寺の塔影を見たる後よりぞ、諏訪の塔影のうつるも、虚言なるまじきことをさとれり。

 この塔影のことは余の実視せざることなれば、なんとも断言し難しといえども、前に挙ぐるものとは多分その理由を異にするならん。ただし、もしこのことをして確実ならしめば、光線の作用なることは疑うべからず。これ、多く世間にその例ある、外戸を閉ずれば内の障子に庭の樹木の影が、さかさまに映ずることと同一理ならん。あえて怪しむに足らざるなり。


       第一四節 返響

 光線は妖怪の媒介あるいは原因となること、今述べたるところについて知るべし。しかるに、音響もまた妖怪の原因となることすくなからざるをもって、あえて天象に関係あらざれども、光線に対して返響の怪異について一言せざるべからず。そもそも返響は、古代にありては怪物の声、もしくは鬼神、霊魂の声のごとくに想像せしが、今日はだれもかくのごとき妄想を抱くものなきは明らかなりといえども、古代の想像ならびにこれに対する説明を知るは、講学上興味あることなれば、左に『秉燭或問珍』に掲げたる問答を挙示すべし。

   ある問いに曰く、「谷音はいかなるものにや。人の声を発しぬれば呼ぶに従って響き応ず。わが朝には往古より山彦と名付けて、木の精、谷の神のこたうるところなりといい伝えり。いまだ会意せず、予がためにかたれ」

   答えていう、「谷音はこれ空谷の神なり。神といえども物あって応ずるにあらず。すべて神というは、形なく、色なく、また声なし。しかるに声達するときは響きこれに応ずること、およそ物のこもりたるところより生ずる空音なり。老子の谷神不死といえるは、神人ありて不死長生するというにはあらず、万世声ありてかわらざるをいうなり。『張子正蒙曰、谷神有限、故不能通天下声、聖人之神惟天、故能因万物而知。』(張子『正蒙』に曰く、「谷神限りあり、ゆえに天下の声に通ずることあたわず。聖人の神はただ天、ゆえによく万物によりて知る」)といえり。いうこころは、谷のあいだは声を発すれば速やかに応ずといえども、よく天下の理に通ぜんや。虚にして伝え応ずるのみ。聖人の神は至虚至霊にして、感に従ってたちまちに応ず。万理みなこれを知る聖人の神と空谷の霊神と、なんぞ同じからんや。ただ神化の自然不測なるをもって神というなり。そもそも谷音はあやしきものにあらず、またあやしからざるにもあらず、人の語言のごとく常なり。あやしむときは平生、人の語言もあやしきなり。わが身ながら、いかなる子細にて語言という理はしられず。張子曰く、『声者形気相軋』(声は形気相きしる)なりといえり。しかれば、声は形と気ときしりあいて出ずるものなり。また、両気、両形の声あり。両気の声とは、形はなくして気によって声あることなり。雷声、谷音のごとし。また、両形の声とは、気なくして形のみにて声あることなり。太鼓をうって鳴る音、あるいは岸へ波の打ち掛かりて鳴る類なり。また、形の気をきしりて声をなすと、気の形をきしりて声を出だすと二色あり。たとえば、扇を揺せば鳴り、矢を放てば鳴る類、これみな形の気をきしりて鳴るなり。また、人の声、笙笛の吹くによりて声あるは、これみな気の形をきしるなり。これらの類、物に感ずるの自然にして、言語に述べてその音の形をいい難し。太虚の風は声のみ聞こえて、ついにその形を見ることなし。これ、あやしむべきことなりといえども、人常に聞きなれて怪とせず。世の中に本を捨て末に走る者多し。ただ万事、逐一にその理をきわむるを可なりとす。また、谷音を木の精なりということ、和漢ともにいい伝えり。しかれども、みな妄誕の説にして語るにたらず」

 石州邇摩郡大国村に、岩石に向かいて言語を発するときは、その声岩石に返響して、あたかも応答するがごとく聞こゆる所あり。これを石見不思議の一つに数えり。しかるに、返響は物理学の道理によりて明らかに説明し得るものなれば、あえて不思議とするに足らず。それ、返響は二言の進行する際、一物のその道を遮るありて、これに反射せられて再び耳官に達するものをいう。しかしてその耳に達するや、原音より微小なるを常とすれども、ときによりてはかえって強大なることあり。また、たとえ返響すとも、位置によりて聞こえざることあり。かくのごときは、いちいち物理学の明らかに証明せるものなれば、あえて余が弁解を要せざるなり。その他、音響に関しては二、三の不思議と唱うるものあり。その一例を挙ぐれば、『諸国奇談漫遊記』に「三穂神島音楽の事」と題する一章あり。曰く、

   出雲国島根郡三保は、伯耆と入江を隔てて一郡の出先なり。隠岐国渡海のみなとなり。こはつぎにもいうごとく、三穂姫命、事代主命を祭れる社なり。しかるに、ここより三里ばかり海中に神島といいて岩島あり。この島、人家なし、もっとも竹木もなし、いわおのみなり。これを沖の御前といって、毎年神事のとき、この島まで神輿、船に乗せ奉りて行くなり。風吹き波荒きときは、遥拝にしてすます。この島は神代に事代主命、魚取りたまう所なりとぞ。ほかの魚もあれども鯛ことに多し。さて三穂神、鳴り物を好みたまうといい伝う。この島いつにても音楽のはるかに脇にて聞きつるごとく、わけて太鼓の音きこゆとなり。また、この沖は北海にして、大阪、西国方より北国への海路なり。しかるに、なににても鳴り物を船に積みて、このおきを直ぐに行くことあたわず、みなこのみほの崎へ入津するなり。その鳴り物、この社に納め行くは難なし。さなくば通ることかなわず。この御宮に昔より納めしとて、琴、琵琶、半鐘、鉦、太鼓、笛、どら、みょうはち、なんによらず鳴り物あまたあり。隠岐島へ舟まちするみなとなり。

 この音楽は、波の音もしくは風の音の、人の予期によりて音楽のごとくに感ずるならん。その他、遠州の波の音、石州琴浜の砂の音のごとき、俗にこれを不思議というも、あえて怪異とするに足らざるなり。



第二講 地妖編

       第一五節 地質論

 前講において、天文および気象に関することを略述したれば、これより地質の変異に関することを論ぜんと欲す。しかるに、宇宙の進化より地球の形成せられたるゆえんはすでに一言したれども、地質および地層のいかなるものなるかの点に至りては、いまだかつて論及せしことなかりしをもって、今まず地質学によりてその概略を説かん。それ、地球の全面は水と陸とより成りて、水はその三分の二以上を占むることは、だれもみな知れるところなるが、さて、その陸地の中には所により砂石より成りて、一茎の雑草だに見るべからざる所なきにあらずといえども、大抵は種々の植物繁茂してこれを覆えば、植物は地の外皮あるいは衣服といいて可ならん。しかしてその植物に覆われたる土地の肌ともいうべき部分は、これを土壌と名付く。土壌は草木の根のよりて生長し、またその繁茂するに須要なる栄養を仰ぐところにして、子細にこれを検せば、岩石の砕けたる細片より成れるを見ん。ただし上層にありては、その砕片すこぶる微細にして、下層にありてはやや粗大なるをもって、ともに同一の性質を有する土壌なれども、しばらくこれを上下両層に区別するを可とす。すなわち、その上層なるものは仮にこれを上土と称し、これに対してその下層なるものはこれを下壌と名付くべし。しかして下壌の下層には岩石あり。これすなわち土壌の原質にして、ようやく砕けて下壌となり、さらに砕けて上土となる。上土の中にはまた多量の腐敗せる動植物質ありて、土壌を肥沃ならしめ、これに生育せる植物に栄養を供給す。もしその地層の状態、組織、性質および形成の年代等に至りては、地質学上の問題に属するをもって、ここにこれを詳説せざるべし。ただ地球内部の状態に関しては、後段の説明に関係あるをもって、ここにこれを一言せんと欲す。

 もっとも、このことにつきては前講第八節においてすでにこれを一言したれども、そはただ地球の内部は高熱なる流体なるべしといいしまでにて、あまり簡約に過ぎたれば、さらに今少しくこれを細説せんに、上にもいいしごとく、地心の高熱なることは火山、温泉等によりて推知せらるべしといえども、一層手近くこれを実験せんと欲せば、深井をうがちて地中の温度を検するにしかじ。もしこの方法によりてこれを試験するときは、その深さを増すに従い、すなわち地心に近づくに従い、ようやく温度ののぼるを見ん。例えば炭坑のごときはこの試験をなすに最適当にして、これによりて得たる結果より、温度の増加する割合を推算するときは、もし地下千二百丈の深底に達せば、水はまさに沸騰すべく、さらに下りて九里の深底に達せばその温度、金をも溶解するに足るべき割合なり。されば、地球の中心は非常の高熱なること疑いなく、したがって物質はすべて流体になりおるべき理なれども、この中心の物質が果たして流体なりやいなやは学者間の一疑問にして、一方より考うるときは、地心の諸物質はかえって固体なるべき道理あり。そのゆえいかんとならば、およそ物は地心に近づくに従い重力を増すことは、物理上争うべからざる道理にして、地底十四里の深さに達せば、空気が水の重さを有し、百四十八里以上の深さに達せば、水が水銀の重さを有するに至る割合なりという。しかして固体が流体に変ずるには、著しくその容積を増さざるべからざれば、たとい地心の熱は物体を溶解せしむるに足るほど高度なるにもせよ、また非常の圧力によりて圧迫せらるるをもって、物体は自由に膨脹してその容積を増すことあたわず。ために流体となるべき熱度の中にありながら、なお固体の状を有すと考えざるべからざればなり。果たしてしからば、かくのごとき固体は流体となるべき熱度を有しながら、ただ非常なる圧力のために妨げられて、しばらく固体の状を有するものなれば、なにかの事情によりていったん圧力の少なき所に出ずるときは、たちまち変じて流体となるべきはもちろんなり。そのつまびらかなることは物理学等の学科に譲り、今はただ後段、温泉、火山等の説明に必要なる点のみを略説するに過ぎざれば、あえてその説の可否を論断することをなさざるべし。


       第一六節 地妖論

 古代人、知のいまだ開けざりしときには、天文と人事との間に密接の関係ありしもののごとく想像せしことは、上にすでに述べたりしが、地変と人事との間にも、また同様の関係ありしがごとく考えたりしは、古代いずれの国においても等しく見るところなり。特にその想像のはなはだしかりしはシナにして、今その例を二、三の書に徴せば左のごとし。

  前漢書五行志曰、魯大夫申嬬曰、人之所忌其気炎以取之、妖由人興也、人亡舋焉、妖不自作、人棄常故有妖。

  (『前漢書』五行志に曰く、「魯の大夫申繻曰く、人の忌むところその気炎なれば、もってこれを取る。妖は人によりて興るなり。人、舋ることなければ、妖はおのずからおこらず。人、常をすつるがゆえに妖あり」)

  性理大全治道曰、伊川曰、国家将興必有禎祥、人有喜事気見面目、聖人不貴祥瑞者、蓋因災異而修徳則無損、因祥瑞而自恃則有害也。

  (『性理大全』治道に曰く、「伊川曰く、国家のまさに興らんとする、必ず禎祥あり。人、喜び事あれば気面目にあらわる。聖人は祥瑞を貴ばざるは、けだし災異によりて徳を修むればすなわち損なし、祥瑞によりて自らたのめばすなわち害あり」)

   『怪異弁断』に曰く、「古今書記するところの地怪最も多し。『其中有吉有凶』(そのうち吉あり凶あり)けだし地は万物の母なれば、地気順静なるときは万物安く、地気逆戻なれば万物病む。人は万物の長にして、地気の粋を得たり。人気と地気と常に貫通す。母子、須臾も相離れざるがごとし。このゆえに、乱世暴逆の人気、地に徹して妖変凶物を出現し、治世順和の人気、地に感じて慶祥霊物を生ず。天異は人に遠くゆるやかなりといえども、地変ははなはだ人に親しく迫るものなれば、最も慎むべきものなり」

   『決疑弁蒙』に曰く、「天変は人に遠くして緩やかなり、地妖は人に近くして迫るものなり。ゆえに、天意にかなうときは地妖必ずなし。しかれどもその理をさとるときは、地妖もまた妖となすべからず」

 しかれども、今日の学理によりて考うるときは、地変もまた天変と同じく、みな万有必然の理によりておこるものなれば、もとより人事に直接の関係あるべきはずなし。されば、古来伝承するところの土地に関する種々の妖怪は、大抵物理上より説明せられざるものなし。しかれども、もしその妖怪にして人事に関係あるもののごとく見ゆることあらんか。そはおそらく物理必然のものにあらずして、偶然、地変と人事とが同時に発作したるか、しからざれば世人の妄想、迷誤より、二者の間に関係あるがごとく考えしものならん。しかして妄想、迷誤は物理的説明に属するものにあらずして、心理的説明に属するものなれば、地妖を論ずるにも、ときとしては心理的説明を要することなしというべからざるなり。今、次節においては、地妖の最大なるもの、すなわち火山、地震につきて説明せんと欲す。


      第一七節 火山および温泉

 火山はわが国ところどころに存在すといえども、従来いまだかつてこれを説明せしものあるを聞かず。ただ、『怪異弁断』に左のごとき説あるを見る。

   地上、火起こり燃ゆること、漢土ところどころにこれあり、蜀中に最も多しといえり。西蕃の国にも火井とてこれあり。その井中常に燃ゆるといえり。これみな、その土地の常なれば災異にあらず。日本においては富士、浅間、阿曾温泉、霧島なり。いにしえ盛んに燃えて、今燃えぬものあり、いにしえ燃えずの所、今燃え出ずるもあり。いずれもその地下に硫黄ありて火を生じ、地上に発して燃ゆるものなり。硫黄は土中燥熱の気より生じて、純陽の体なるゆえに全く火と同気なり。このゆえによく火を生ず。この火気上昇して雷となり、あるいは彗星となるといえり。

 しかるに今日の学説にては、火山は一つの管溝が、地心なる岩石をも溶解すべき高熱の点より地球の表面に通じ、その口をいわゆる火山の噴火口に開き、よって地球内部の水蒸気もしくは岩汁を噴出するものにほかならずという。岩汁とは岩石が高熱のために溶解したるものにして、火山の爆発するときには大抵これを噴出するを常とす。さて、火山には死火山と活火山との二種ありて、往時かつて噴火せしことあるも、現時その現象を見ざるに至りしものを死火山といい、現時なお噴火の現象をやすめざるものを活火山という。活火山にまた、絶えず噴火するものと、時を期して噴火するものとの二種ありて、前者を活動火山と名付け、後者を睡眠火山と名付く。しかして火山の爆発するや、多少前兆の知るべきものなきにあらず。すなわち、あるいは鳴動し、あるいは震動し、または海水、井水等に変動を生ずるなどのごときことは、従来火山破裂の前においてしばしば見しところなり。かくのごとき前兆あるにもかかわらず、その破裂の猛烈なるものに至りては、人畜を害すること実に筆紙の及ばざるものあり。西暦七九年にイタリアの火山破裂せしときのごとき、ポンペイの全市街を埋没するに至れり。またもってその勢いの非常なるを知るに足らん。今かつ、かくのごとき猛烈なる現象がなにによりて発するかを考うるに、その主要なる原因は水蒸気にほかならざるべし。くわしくいわば、地中の水が次第に岩石の虧隙に滲入し、地下高熱の所に達し岩石の空洞に集まるときは、地熱のために急に膨張して蒸気となり、道を噴火口にもとめて逸出し、それとともに灰燼あるいは焼け石を噴出するより、この現象を見るに至るなり。

 また、温泉は東西いたるところの国に大抵あらざるところなきものなるが、そのいかにしてかくのごときものが地中より湧出するかの点に至りては、古代の人知及ばざりしものと見え、往々奇異の説あるを聞く。近くわが国のごときは、多くはこれを神仏の力に帰したり。すなわち、豆州熱海の温泉のごとき、また同国修善寺の温泉のごとき、みなこれを神霊なるものと考えしなり。左にその伝うるところの由来を示さん。

   『熱海温泉記』によるに、熱海の温泉は、往昔この海中に、温湯にわかにわき出でたり。これによりて、かの辺りの魚類、たちまちにただれ死して磯にうちあぐること山のごとし。人さらに海中に温湯あることを知らず。ここに万巻上人という沙門あり。たまたまここにきたれるが、海に温泉あるべしとて、海人を入れてたずねさせけるに、果たして温泉ありしかば、薬師の冥慮を仰ぎ、この温泉を里に祈りよせて、諸人のために功徳せんとて、十七日祈りけるに、たちまちに温泉、山下にわき出でたり。里人あやしみ思いけるに、薬師如来、里人の夢に告げて、病あるもの、この温泉に浴すべしと一同に告ぐ。里人一致してすなわち社を草創して、温湯守護神とあがめ奉る。今の湯前権現これなり。

   『修善寺名所記』によるに、当所の温泉出現の来由を土人相伝うところは、往昔、弘法大師求法のため入唐をいたされ、明州において船上より本国の方へむかい、わが求法衆生済度に霊験あらば、諸仏これを結縁の地へ導きたまえと、御所持の独鈷を虚空へ投げられ、しかしてのち御帰朝のうえ、その落所を心眼にみたまい、峨々たる険阻、森々たる樹下の荊棘を踏みわけ、蒙暗たるこの深谷へ入りたまえぱ、にわかに山河震動して、魔風はげしく三衣を吹き裂かんとすれば、降魔の神呪を唱えられしに、たちまち四方晴れわたりて白日かたえを照らし、かの投げ独鈷、岩上にあるを御覧じ、かくのごとき結縁の地には必ず奇特あらんと、その岩を開きたまえば、清香の温泉滾々と湧き上がるを喫し試みたまうに、誠に陰陽調和して、とく心魂を温むるがゆえ、これは全く人益のここに久しく隠るるを、天われに命じて開かしめ、衆人の病疾、罪障の煩垢をも除かするとき、今いたれりと、云云。

 しかれども、今日の学理によりて考うるときは、温泉も火山と同一の理に基づくものにして、決して怪しとするに足らず。すなわち、岩石の熱したる所に、地下水の浸入せしより生ずる現象にほかならず。しかして、もし地下の水、地底なる岩石の空洞に集まり、高熱のために蒸気となり、地面に逸出せんとすれどもその道を得ざる場合には、その力によりて岩石の虧隙より熱湯を地上に噴出することあり。かくのごときときには、熱海温泉のごとく間欠温泉となり、一日数回、大抵時間を定めて噴出するに至るなり。


      第一八節 地震、地陥、山崩れ、自倒、地雷、自鳴

 火山のつぎに説明すべきものは地震なり。俗に地震、雷、火事、親父と称して、地震をもって最も恐るべきものの第一に置けり。しかしてこの原因につきては種々の俗説ありて、その中には実に抱腹にたえざるものあり。俗間に伝うるところによれば、地震ひとたび起これば山を崩し、海をうずめ、民家を倒し、人類、生物を圧殺することその数を知らず。常陸の鹿島明神これを嘆きたまい、要石をもって鯰を刺したまうといえり。『三災録』(下巻)に曰く、「誠に小児の俗説なれども、大地の下に大いなる鯰のいるというも、昔よりいい伝えたる俗言にや。また、建久九年の暦の表紙に、地震の虫とてその形をえがき、日本六十六州の名を記したるものあり。俗説なるべけれども、すでに六、七百年前よりかかることもあれば、鯰の説もいずれの書にか拠あらんか。仏説には竜の所為ともいえり。古代の説は、大ようかくのごときものなるべし」

 この鯰の図は暦および大雑書に往々見るところなるが、その図に題する歌あり。

   ゆるぐともよもやぬけじなかなめいしかしまの神のあらんかきりは

 かくのごとき説は小児の妄想に過ぎざれども、シナにて古来伝えたる陰陽説も、今日は古人の妄想に帰せり。

ただし多少参考となるべき点あれば、諸書に述ぶるところを左に摘載すべし。

   『地震考』にいわく、「『経世衍義孔鼂曰、陽伏于陰下、見迫于陰、而不能升、以至於地動』(『経世衍義』に孔鼂が曰く、陽、陰の下に伏して、陰に迫られてのぼることあたわず。もって地動くに至る)と。かくのごとく陽気地中に伏して出でんとするとき、陰気におさえられて出ずることあたわず、地中に激攻して動揺するなり」

   また同書に、「『天経惑問』にいわく、地はもと気の渣滓あつまって形質をなす。元気、旋転の中に束ぬ。ゆえに、兀然として空に浮かんでおちず。四囲に竅ありて相通ず。あるいは蜂の巣のごとく、あるいは菌弁のごとし。水火の気その中に伏す。けだし、気、噴盈してのびんと欲してのぶることを得ず。人身の筋、転じて脈揺くがごとし。また、雷霆と理を同じくす。北極下の地は大寒、赤道の下は偏熱にして、ともに地震少なし。砂土の地は気疎にしてあつまらず、震少なし。泥土の地は空に気のひそむことなし。ゆえに震少なし。温暖の地、多石の地、下に空穴ありて、熱気吹き入りて冷気のために摂斂せられ極まる。すなわち舒放してその地を激搏す。たとえば大筒、石火、矢などを、高楼巨塔の下に発さば、その震衝を被らざることなきがごとし。しかれども、大地通じて地震することなし。震は各所、各気、各動なりと、ただ一所の地のみなり。その軽重によりていろいろの変あり。地に新山あり、海に新島あるの類少なからず。震後、地下の燥気猛迫して、熱火に変じて出ずれば、すなわち震とどまるなり」

    『怪異弁断』にいわく、「案に大地震、山崩れ、地陥るの類は、後の吉凶を占うにいとまなく、即時の災異なれば、占うに及ばざるところの凶変なり。いにしえの占候にみな、陽その所を失い陰にふさげらるるによって地震す。このゆえに、大臣盛んにして動き変ぜんとするの占兆なりといえり。しかれども『素問』の説に従うときは、地震は風気の所為なり、風は陽気なり。陽気地中に鬱伏してのびんとし、陰気と奮撃して大地動くなり。人身風熱あるときは、一身動揺し、経脈震動するがごとし。風熱ももと寒冷の陰気を身に受けて陽を侮るゆえに、陽気奮撃し、大過して風熱となる。『素問』に、風勝つというはこの理ならん。畢竟、風は陰中の陽気なりと知るべし」

   『秉燭惑問珍』にいわく、「地震は二気(陰陽なり)のあいだのなすところにして、たまたまはげしきことあれば、家を崩し、人をそこなうことあり。これ陰陽の気出でて動くにして、全く物ありてふるわすにあらず。『左伝』に文公九年九月地震すとあり。『正義』に曰く、『陽伏して出ずることあたわず、陰迫りてのぼることあたわず、ここにおいて動く』とあり。孔子曰く、『陽気、陰のためにせばめられてのぼることを得ず、ゆえに地震す』といえり。また『史記』にも、地震は陽伏して出でず、陰迫りてのぼらず、このゆえに地震ありと記せり(周本紀白陽甫の説なり)。これらはみな地震の本説なり。陰陽家などの、いつの地震はなににたたり、幾日の震動は病にたたるなんどいうことは、みな迂怪の説にして用うるにたらず。地震なんぞ変とせんや」

 以上は和漢ともに唱えたる説明なり。これより西洋における古来の地震説を挙げんに、まず紀元前五〇〇年のころにアナクサゴラス出でて、地震は地底に雲気ありて岩石の一室内にこもり、これより電気を生じ、その発雷激動によりて、ついにその岩室を破裂せしむるよりおこるものなりといえり。これすなわち地下にある雷に原因すという説なるが、近世の初年すなわち一六〇〇年代に至り、ドイツ人キルヘルといえる者、さらに、地震は地底にあまたの空所ありて互いに相通じ、その中のあるものは水をみたし、他のものは硝石、硫黄等のごとき発火すべきものより発するところの蒸気をみたせるよりおこるものなりとの説を出だせり。その後一七〇〇年代に至り、イギリスにスタッケレーといえる者、ならびにプリストリーといえる者ありて、ともに地震の原因は電気の作用なりと唱道せり。しかれどもこれらの説は、今日にありてはもはや精確なるものというべからず。今日の学者がいうところに従わば、地震の原因は決して一、二の単純なるものにあらず、すこぶる複雑なるものにして、これを一言にいわば、地球および太陽の熱力ならびに重力の影響にほかならず。すなわち、あるいは地塊の冷却するによりておこることもあるべし。なんとなれば、地塊冷却せば、したがってその積収縮すべく、その積収縮せば、地層、岩石の位置おのずから変ぜざるべからざればなり。また、あるいは蒸気のにわかに地底に生じて、その膨脹するよりおこることもあらん。また、ときとしては地球内部の変動のために地層陥落して、空洞を生ずるに原因することもあるべし。これを要するに、その原因一、二にとどまらずといえども、かくのごとき場合には、水に波を生ずるがごとく、地殻の上に一種の波動を生じて、ために土地を破壊し、家屋、樹木を転倒せしむるものなりという。近年、わが国尾濃地方大震のときに編集せられし『明治震災集録』中には、地震につきての各専門学者の意見を列挙せり。そのうち中川効次郎氏の説明には、古来の地震説を概括して三類となせり。曰く非理学的原因、曰く偽理学的原因、曰く理学的原因これなり。第一、非理学的原因説は、概して無学、無知の社会間に流布する碑伝にかかわり、あるいは地震をもって人間の自ら作為せる罪障の果報なりと信じ、祈請してその罰を免れんことを思い、あるいは悪神の暴行に帰し、あるいは地下に存する動物の所為に付会するものあり。その例に、左のごとく諸国の妄説を掲げり。

   欧州中、特に神学を崇拝するスカンジナビアにおいては、古来伝称して曰く、「世にロキーなる悪魔神あり。かつて実弟ベルドウィンをきり殺せし罪科により、その面上に蛇毒を注下するの刑に処せられ、現に一大岩石上に緊縛せられて偃臥せり。しかるに、その妻神つねに傍らに侍らし、器をもってその毒液を蔽遮し、わずかにその苦楚を免るれども、毒液器に満ち、妻これを棄瀉せんがために他に行けば、すなわち幾滴の毒液ロキーの面上に滴るをもって、苦悶にたえず輾転して、ついに地震をおこす」といい、カムチャツカにおいては、「チュイルと称する神ありて、土民のごとく常に氷雪堆裏に住し、ときに徜徉することあらば、必ず神犬数頭を伴う。しかして神犬は虫虱の苦しめるところとなることありて、随行の際たまたまその妨害を被らば、佇停してその身を掻擦攪動し、もって地震をおこす」という。また蒙古国にては、「地震を認めて蝦蟆の所為なり」とし、インドにては、「地球を負う大象の業作」とし、イスラム教国にては、「世界をになう大牡牛」となし、セレベス島にては、「世界をになう大豚ありて地震をなす」といい、北米にては、「巨亀ありて地震を起こす」と称す、云云。

 その他、わが国の地震虫あるいは地震鯰のことを引きて、これを非理学的となせり。つぎに、第二、偽理学的原因説は、立論ずさんにして妄誕の跡を存するも、その中に地震をもって理学的現象の一つとなすの意を含帯するものなりとし、シナの陰陽説を挙げてその一例に加えり。第三、理学的原因説は、地殻の累層に関し、地質学上および物理学上の考察に基因せるものとし、現今、東西諸博士の唱導せる火山の余響、地層の陥入、地層の転★(扌+戾)等に、その原因を帰するものをもってこれに属せり。つぎに、関谷博士の説明によるに、地震における真の原因はこれを地中に求めざるべからずとし、すなわちその原因を左のごとく分かてり。

  第一、地すべりあるいは断層地震と称し、地皮に大なる裂罅あり、あるいは弱線ありて、ここより地層起伏崩圧し地震となるものにして、本邦の地震はこれが原因たるものはなはだ多し。

  第二、陥没地震と称し、鉱泉等の作用によりて物質を溶解し去り、地下に空所を生じ、上層の土地はその重さにより自然陥没するものをいう。

  第三、火山地震と称し、噴火の際、溶石の作用、蒸気ガスの爆発により、土地を震動せしむるものをいう。

  第四、火山爆裂の現象は地上にあらわれざるも、地中には地熱のために生ずる蒸気の膨脹力により、巌石をつんざき土地に震動を生ずるものにして、これわが国のごとき島国に多く、ことに海中に最も多きもののごとし。

 右は主原因にして、これに対して副原因あり。しかして同博士の説によれば、天気の模様、気圧の変化は、地震を発する一つの副原因となることはあるべきも、これらが地震に対する関係ははなはだ微弱なるものとし、また日月星辰の位置、運行は、地震の副原因たることなきにしもあらざれども、ほとんど地震に関係なきものとなすも可なりといえり。以上挙ぐるところの地震の原因について、地裂、地陥、山崩れ、自倒、地雷、自鳴等の理由を推知すべし。これらの現象につき、『怪異弁断』に述ぶるところを左に摘載して参考となすべし。

  (地裂) 地裂は地震と理同じ。地中鬱伏の陽気、奮発によりて土地、岩石圻裂す。地震はその地広く動揺し、地裂はその一所の地、震裂す。

  (地陥) 地の体はみな土石なり。その間、密実なる所あり、空虚なる所あり。大地の厚さ、地心より地上に至りておよそ二千五百里。そのうち堅実、軟虚、潤燥の差別ありて、軟虚の地中に空穴多き所ありて陥ることあり。地上には砂石多き地にも、根底に砂石これなき地あり。地上に軟土ありて、根底に堅石多き地あり。すべて地中根底に石多くて虚穴多きの地は、地震多く地陥るのこともありといえり。

  (山崩れ) 山崩れも地裂、地陥とその理同じ。土中に坎穴多くして、堅実ならざる所ありて分崩するものなり。あるいは土中鬱伏の陽気、ときに奮発して山崩る。あるいは時節ありて自然に崩るるもあり。平地突出するものは、地中の陽気奮発してのぼるのとき、土をうがちあげて堆阜をなすものなり。田鼠地中を行くときは、土をうがちてうずたかきことあるがごとし。陽気奮発の勢い、はなはだ強きものなり。

  (山移り) 山移るは、遠くうつり行くにはあらず。地裂あるいは地陥ることありて、これによりて転倒して別に堆積をなしたるものなり。その理、地震と同じ。

  (山鳴り) 山鳴りのこと、古今多きことなり。みな地中奮気の所為なり。地中に空穴ありて、奮気吹発するによりて声をなすものあり。また、その地の総体に陽気厚く、鬱伏の気、常にありて、陰気と撃して鳴ることあり。日本諸国のうち、山壑または古塚、時ありて、鳴くこと多くこれあり。紀州の熊野、吉野の大峰、富士山、出羽の羽黒山の類、そのほか四国、中国あるいは九州の内にも山鳴り、または天狗倒しと号するもの多くこれあり。みな地気の所為なり。

 この説明は全くシナの陰陽説にもとづきたるものにして、いまだその理を尽くさずといえども、地震の原因を禽獣動物に帰するものに比すれば、数等の上に位するものなり。これ中川氏の偽理学的説明に属するも、その一半は理学的説明なりと許して可なり。氏も偽理学的説明を評して曰く、「けだし、また理学的の所説を誘発するにあずかりて大いに有力のものというべきか」と。実にしかり。さらにさかのぼりて氏のいわゆる非理学的説明を考うるに、これまた偽理学的説明を誘発するにあずかりて力ありしは明らかなり。そもそも人の、地下に一種の動物棲息し、その力によりて地の震動を起こすと想像せしは、因果の理法を知らざる盲目的愚民の妄想なるがごときも、これ因果の理法によりて想像したるものなることは疑うべからず。実に今日の理学は、この妄説中に胚胎せりといって可なり。

 まず、地の動く以上は地下にその原因あるべしと想像せしは、一種の理学的推理法なり。また、その原因は自ら動き得るものならざるべからずと想定しきたりて、これを動物に帰したるも、その想像の一半はやはり理学的なること明らかなり。けだし、その思想の形において誤りあるにあらずして、その形を充実すべき質において誤りありというも可なからんか。とにかく、今日の理学は非理学的の胎内より発達しきたりしは疑いなし。地下鯰あるいは西洋にいわゆる哲学石(Philosopher's Stone)が今日の理学を産出せりというも、あに過言ならんや。果たしてしからば、古代の妄説を研究するは、すこぶる有益かつ興味あることなり。これ、余が特に東西の妄誕不稽経の説明を引ききたりて、今日の学説に比考するゆえんなり。

 以上、地震の説明を略述してここに至れば、さらに一言せざるを得ざるものあり。それ日本は地震国なり。古来、劇震によりて数万の人民を一瞬の間に鬼籍に入らしめたること、ここに幾回なるを知らず。今後また、いずれの日にさらにこの悲境に接し、吾人の親愛する親子、兄弟および自身も、その犠牲の一人に加わるもまた計り知るべからず。今、『明治震災輯録』の序文に題せる一言をかりてその惨状の一斑を示すに、「およそ人世おそるべきものは、天変、地妖、不時の災害よりはなはだしきはなし。人知の発達駸々乎として進み、ほとんど造化の妙用を奪い去るの今日にありて、水火雷電の災厄のごときは、あらかじめこれを避くるのすべなきにあらず。人その注意に怠らずんばこれを免るるに難からずといえども、ひとり吾人が最もおそれ、最も憂い、最も哀れむところの震災に至りては、これを予知しこれを防避するのすべ、いまだなんらの発明あるを聞かず。一朝、轟然として坤軸震動を発するや、一瞬にして山崩れ地裂け、屋宇は壊倒して微塵となり、人畜の死傷は挙げてかぞうべからず。たちまち号泣の声は四方に湧出し、あるいは泥土噴出し、あるいは堤防を破り、これに次ぐに火災と海嘯とをもってし、惨毒至らざるなく、粒々艱苦によりてたくわえたる金穀家財はことごとく灰燼し、たまたま難を免れ九死のうちに一生を拾い得るも、眼前父母を失い、妻子を圧死せしめ、住むに家なく着るに衣なく、辛うじて露命を救護につなぎ、路頭に彷徨してなすところを知らず。その残酷、だれがこれを悲しまざらんや」と。実に地震は恐るべきものの最たるものなり。予聞く、「日本はおよそ三十年間に一回の大地震あり」と。果たしてしからば、吾人の一生中、一回もしくは二、三回の震災に遭遇せざるべからず。ゆえに、人はいつにても震災あることを忘るるべからず。しかしてまた、いつ地震にあうも、その心を動かさざるの大意力なかるべからず。この大意力は、その心内に不可思議の関門を開きて、絶対無限の風光を感見するものにあらずんば、得て奮起すべからず。これ、実に宗教の目的とするところにして、震災のごときは、かえって世人の宗教心を感発するに大いに力あるものなり。世人もしこの点に一考しきたらば、よろしく真正の宗教を講究することをつとむべし。


       第一九節 水体論

 わが地球は空気にて囲繞せらるるのみならず、また水にても囲繞せらるるなり。しかれども、水は空気のごとく地球の全面を包繞するに至らず。もし地球の表面にして平滑なること珠のごとく、いささかの凹凸だになきものならば、水もおそらく空気のごとくその全面を包繞するに至るべけれど、吾人は現に見るところのごとく、山もあり、谷もありて、高低凹凸一様ならず。されば、水はその凹所をみたして、ここに地球面上に軟部と硬部との区別を生ずるに至れり。その軟部はすなわち水にして、硬部はすなわち陸なり。しかして全地球面上、水と陸との面積を比するに、およそ四分の三と四分の一との割合なれば、軟部は硬部より広きことおよそ三倍なり。さて、地球の表面にかくのごとく凹凸高低を生ずるに至りしゆえんは、すでに第八節にも一言せしがごとく、地球は太初より現在のごとき固体なりしにあらず、一時は高熱なる流動状の一塊に過ぎざりしが、ようやくその熱を散ずるに従いて外面より次第に硬化し、ようやく硬化するに従いてまた次第に縮小し、その際地皮に褶襞を生じて、ついに現在のごとき高低を生ずるに至りしなり。されば、太初の時、すなわち地球がなお高熱をもちし時代においては、水はみな蒸気となりて空中に浮遊し、いまだ今日見るところのごとき液体にてはあらざりしが、地面のようやく冷却するに従い凝結して地上にくだり、流れてその凹所に瀦溜し、ついに海洋をなすに至れり。これをもって、海底は決して平坦なるものにあらず、高低あり、凹凸あり、あるいは山脈の形をなし、あるいは渓谷の状をなすこと、すこしも陸上に異なることなく、その最も深き所は水面より二里余に及べり。この深くしてかつ広き海洋に水を供給するは、陸上より流入せる百川なるが、百川の幾百万年間絶えず流送せし水の量は、実に計量すべからざるほど多きにもかかわらず、海水の量かつて増すことなきは、実に海洋は百川より多量の水を供給せらるると同時に、また日光のために海面より絶えず多量の水を蒸発せしむるによる。かくのごとくして蒸発せしめられし水は、空中に浮動して、雲となり、雨となりて再び地上に降下し、また百川に集まりて海洋に流入し、循環窮むることなし。しかるに古代にありては、地球上の水が絶えずかく循環する理を知らざりしをもって、海水のその量を増さざるを怪しみ、海底に水を漏らす大孔ありと想像せり。『荘子』に曰く、「天下之水、莫大於海、万川帰之、尾閭泄之。」(天下の水、海より大なるはなし、万川これに帰す、尾閭これをもらす)と。しかしてかくのごとき妄説は、広く一般の人に信ぜられしがごとし。また、海水の鹹味を帯ぶることにつきて古来種々の妄説あり。『訓蒙天地弁』には左のごとくいえり。

   地中、水あり火あり。海は水のあつまる所、火気またあつまれり。山陸の火気はつねに上昇し、あるいは金石をねり出だせども、海は大水のあつまる所なれば、火気発昇するに及ばずして、その燥乾の気をもって海水を鹹ならしむ。鹹はもと火気より生ずれば、凍るの理なし。河水はもと淡泊にして軽しといえども、海に入るに及んではその火に化せられ、しおからくして重し。

 これ例の陰陽五行によりて、海水の鹹味にしてかつ氷結せざるゆえんを説明したるものにして、もとより道理ある説というべからず。今、試みに今日の学説によりてこれを考えんに、地球の表面がようやく固結して高低、凹凸を生じ、海水はじめてその形を成しし当時、すでにその中に多少の鹹味を含有せしこと疑いなしといえども、仮に当初は淡泊無味なりしものとして考えんに、なお地球上に水陸の別を生ぜし以来、幾百万年の間には必ず鹹味を帯ぶるに至らざるべからざる道理あり。そのゆえいかにとならば、百川より流送せるところの水は、必ず陸上に存せる諸種の鉱物を融解して、これを海中に送るべきをもってなり。それ百川の水、果たして絶えず諸種の鉱物を海中に流送するものならんには、たといその量は極めて些少なるにもせよ、数百万年の後にはついに海水の味を変ぜしむるに至るや疑いなし。しかして海水を検せば、その中に含有せる鉱物は決して一、二種にとどまらずして多種あるを知らん。かの水中に生育せる魚介が、鉱物質の機関を構成せるは、実にこれらの鉱物中のある物をとりてその材料となししなり。かくのごとく、百川絶えず諸種の鉱物を融解して海中に送るとせば、海水中の塩分は年々著しく増加すべきはずなるに、そのしからざるは、一方において多少これを消費せらるるによる。

 すなわち、一は風浪によりてそのいくぶんを陸上に吹き上げられ、また一は海中に生育せる動植物の需要するところとなりてそのいくぶんを失うなり。しかるに、百川の水はたとえその中に諸種の鉱物を含有するにもせよ、はなはだ淡泊にしてほとんど無味なるに、なにゆえに海水となるときは非常に多量の塩分を含むに至るかというに、これ全く蒸発の結果にして、くわしくいわば、百川の流送するものははなはだ淡泊なるに相違なしといえども、海中にありて日光に照らさるるときは、その水分のみ蒸発して、塩分、鉱物は依然水中にとどまるをもって、幾百万年の間にはようやく濃厚稠密となるによる。もしこの理を試験せんと欲せば、小皿に希薄なる塩水を盛り、これを火上に置くか、もしくは日光にさらして、徐々に蒸発せしめよ。しかるときは、水量のようやく減ずるに従い、鹹味ようやく加わるを覚ゆべし。海水の淡泊なる河水より非常の鹹味を帯ぶるに至りしも、またこれと異なることなきなり。また、海水の中には諸種の鉱物を含有せるほかに空気をも含有せり。この空気は、海中に棲息せる動物が吸入して生活するところのものにして、魚介の類がよく水中において生命を保つゆえんは、実にこれあるによる。その他海水中には、魚介、海獣等の食料となるべき種々の物質をも含有せり。

 つぎに、海水の運動につきて、その起こるゆえんを説明せざるべからず。およそ海水の運動に三種あり。波浪、洋流、潮汐これなり。そのうち、まず波浪を説明せんに、いかに平穏なる日といえども、海上には必ず多少の波浪あり。ゆえに、もし風ありてこれを激するときは、怒濤岸に砕けて、海浜濃霧を生ずるに至る。かくのごとき大小の波浪はなにによりて起こるかというに、その原因は全く大気の動揺にほかならず。ゆえに、大気の動揺と水面の波浪とは相伴うものにして、大気静穏なるときは海面も平穏なれども、大気の動揺いよいよはなはだしきときは波浪もいよいよ激し。ただし、ときとしては大気静穏なるに、海面かえって激浪を見ることなきにあらず。しかれども、これ遠海に大風ありし影響なれば、なお大気動揺の結果たるを害せず。されば、大は海洋の激浪より小は池沼の細漣に至るまで、みな大気の流動に原因せざるはなし。しかして、海岸もしくは船上にありて波浪の起伏する状を見るに、前波後波相追いて一方より他方に走り去るがごとく見ゆ。しかれども、海水が実に一方より他方に流れ去りて、かくのごとき波浪をなすにあらず。水はただ上下に運動するのみ。ゆえに、これを麥浪に比することを得べし。古人もかつて「麦芒激天揺青波」(麦芒天にみなぎりて青波をうごかす)と詠ぜしごとく、風、麦隴を過ぐるときは、麦芒起伏して青波を成すといえども、これただ麦芒の起伏のみ。後隴より前隴に飛び去りしにはあらざるなり。特に海面は大気の動揺に感ずることすこぶる鋭敏にして、もし一地方に暴風おこりたるときは、その余波、暴風の至らざりし所にまで及ぶ。また、暴風すでに経過せし後といえども、その余波は急にやむものにあらず。これをもって、往々大気の動揺と海水の波浪とが相伴わざるがごとく見ゆることあれども、少しく思考をめぐらすときは、容易にそのしかるを知らん。

 つぎに洋流を説明せんに、海洋の水は河水と同じく、常に一定の方向をとりて流走するものにて、大洋中に往々激流の状あるを見る。その原因につきては種々の説ありていまだ一定し難しといえども、多数の学者がその主要なる原因と認むるところのものは、下の三事情にほかならず。すなわち、(一)温度の相違、(二)蒸発の相遠、(三)大気の流動これなり。第一、温度の相違とは、両極地方の海水と赤道地方の海水とは著しくその温度を異にし、両極地方の寒冷なる海水は下層に沈まんとし、赤道地方の温暖なる海水は上層に浮かばんとするより、瓶中の水がようやく熱を加うるに従いて環流を生ずると同一の理によりて、ついに洋流を起こすに至るをいう。第二に蒸発の相違とは、赤道地方と両極地方とは海水の蒸発に多少の相違あるより、赤道地方の海水は濃厚にして塩分多く、したがって重量を増し、両極地方の海水は希薄にして塩分少なく、したがって重量やや軽き相違を生ず。また、降雨多き海上と降雨少なき海上との間にも、海水中に含有せる塩分の分量に相違を生じ、したがって重量も相ひとしきことあたわず。その重きものは下層に沈まんとし、その軽きものは上層に浮かばんとして、ここに洋流を生ずるをいう。第三、大気の流動すなわち風によりて洋流を起こすというは、地球上においては地方により一定の風あるものなるが、かくのごとき風が常に一定の方向に吹くときは、海洋の水もおのずからこれに伴いて同一の方向に流るるに至るべきをいうなり。

 その他、洋流の説明につきて参考すべきは地球の回転なり。これまた洋流に影響すること、けだしすくなからざらん。それ地球は毎日その軸によりて回転するものなるが、赤道地方と両極地方とはその軸をさること遠近の差あるをもって、回転の速度に著しき相違を生じ、その速度最も大なる赤道直下の海水は、地球の東に向かいて回転すると同時に、おのずから西方におし戻さるる傾きありて、ために海水に運動を起こすこと、あたかも赤道地方の空気が、地球の回転のために西方へおし戻さるる傾きあるより、一定の風を生ずると一般なり。されば、地球の回転もまた洋流の一原因たるや明らかなり。

 以上、波浪と洋流とにつきては大略その理を説明したれば、これより潮汐のことを論ぜんとす。しかるに、この説明にはさらに一節を設くべき必要あるをもって、これを次節に譲らん。


       第二〇節 潮汐論

 海水には毎日二回ずつの干満あり。また、一カ月のうちには最高潮のときと最低潮のときとあり。すなわち、太陽と太陰とが地球に対し一直線の位置にきたるときに最高潮を呈し、この二体が直角の位置をもつときに最低潮を見る。かくのごとき現象の説明につきては、古来種々の妄説あり。今その一、二を挙げんに下のごとし。

 『高麗図経』に曰く、「潮汐往来、応期不爽、為天地之信。」(潮汐往来して、期に応じてたがわず、天地の信となる)と。『山海経』によるに、潮汐は「海鰌出入之度」(海鰌出入のたび)となし、仏書中には「神竜之変化」(神竜の変化)と説き、『海嶠志』には「水随月之盈虧」(水、月の盈虧に従う)といい、盧肇『海潮賦』に「日出于海、衝撃而成』。」(日、海に出でて、衝撃して成る)といい、王充『論衡』には、「水者地之血脈、随気進退、率未尽之、大抵天包水、水承地、而一元之気、升降於太虚之中、気升地沉、水溢而為潮、気降地浮、水縮而為汐。」(水は地の血脈なり。気に従って進退す。おおむねいまだこれを尽くさざれば、おおよそ天水を包む。水は地にうけて一元の気、太虚のうちに昇降す。気のぼり地沈み、水あふれて潮となり、気くだり地浮かび、水縮みて汐となる)とあり。その他、『秉燭或問珍』および『訓蒙天地弁』には左のごとき説あり。

   『秉燭或問珍』にいわく、「潮の説、古来紛々として一ならず。案ずるに、潮は天地の呼吸の気息なり。呼吸の気息というは、人の日夜の呼吸のごとし。天地の間の自然の呼吸なり。すべて人の一昼夜の息の数一万三千五百息なり。これ上寿百歳の人のつもりなり。神書に、神の息は一昼夜に六息なりといえり。神は幽妙不測なるによって、その寿限りなし。ゆえに息わずかに六息なり。人も長命なるは息の間遠し。およそ天地の寿数は一元の気にして十二万九千六百年なり。子の会に天ひらけ、亥の会に天地ふさぐるの間なり。ゆえにその息も緩くして、一昼夜に二呼二吸なり。その二呼二吸はこれ気の昇降なり。地は水に浮かび、水は元気と昇降す。元気のぼるときは地沈む。これゆえに海水あふれあがる。また元気くだるときは地、はじめのごとく浮かぶ。このゆえに海水縮まりて潮虚涸なり。さるによりて潮、昼夜に二度満ち、二度干るなり。また大潮、小潮にて遅速のあるは、月の盈虚、循環によりてかわりあり。しかれば天地の呼吸と見たる説これなり。また、一説には余囊公『海潮賦』の序に、潮の消息はみな月につながれり。月卯酉の間に望むときは、潮南北に平らなり。かしこは満ちここは竭き往来絶えず。みな月にかかるなりといえり。また王柏が『造化論』には、潮は陽の精にして、陰のより従うところなり。月は陰の霊たり、潮の付するところなり。朔日、十五日は月の環日に近し。ゆえに月のめぐり早くして、潮の応ずることもすみやかなり。朔望のほかは月も日に遠ざかるゆえに、月のめぐり遅くして、潮もまた応ずること小なりといえり。これらの説おもしろし。また、『蠡海集』に、およそ日、子に臨むときは海水必ず起こる。ただし、上十五日は昼を潮とし夜を汐とす、下十五日は昼を汐とし夜を潮とす。このとき月みな子午の位なりとあり。かくのごとく説まちまちなりといえども、愚案には天地の呼吸といえる説を可なりとす。『山海経』『水経』等に載するがごとき、海鰌の洞より出ずるとき潮干、洞に入るときは潮満つるなどといえるは、異説、怪誕にしていうにたらず。なんぞ大魚の出入りによって天地の潮、異なることあらんや。『五雑俎』には、潮汐の説、誠に窮め詰め難し。しかるに近き浦、浅き岸のみその満干を見る。大海の体は誠に一毫も増減なしと述べたり。これをもってみれば、いよいよ天地の一呼一吸という理に過ぎず。たとえば人の鼻息のごとく、出でたる息いずこへゆきしぞとたずぬれども、その泄所を窮め知ることなし。さるがごとく、潮もいずこよりさして、いずこへ引くということなし。およそ人、生まれて気息あり。されども、ねむれるときは形に神属せず。なにをもってかよく吸わんや。天地の間はただ一気のみ。潮の月に応ずるは陰類なればなり。月望にして蛤みち、月蝕して魚脳減ず。これみなその類に従うなり。さてまた、潮の消息はいつも東よりさすことはその理あり。それ百川の水はみな東に流れ趣くものなり。これその気の至るによりてなり。また、東の方は地僻なるゆえなり。潮はまた、東よりさす。これ、もとに帰るの義なり。そもそも東の方は卯辰の位にして、昇気の盛んなる方なり。辰は竜変の郷なり。このゆえに、潮は東に起こりて西海に注ぐ。これ、もとに帰する理なり」

 かくのごとき説明は、いずれも前に地震の下に掲げしものと同じく、非理学的説明にあらざれば偽理学的説明なり。ゆえに予は、これらの説明を妄説と偽説との二種にわかたんと欲するなり。すなわち、潮汐をもって海鰌の出入りに原因すという説のごとき、またあるいは、これ天地の呼吸なりという説のごときは妄説の中に属し、陰陽の理によりてこれを説明せんとするもののごときは、偽説に属すといいて不可なからん。これらの説すでに妄説たり偽説たる以上は、このほかにさらに真説なくんばあるべからず。すなわち今日の学説これなり。ただし、その妄説あるいは偽説といわるるものも、ともに今日の学説の前駆たりしものにして、因果の道理に基づける説たるや疑いなし。すなわち、人類その他の動物にはみな呼吸作用あるより、これを天地の全体に及ぼして、天地もまた呼吸の作用なかるべからずと想像し、よってもって潮汐の理を説明せんとせしがごとき、また、月は陰にして水もまた陰なれば、互いに相引きて潮汐を生ずと想像せしがごとき、みなこれ因果の理を根拠としたるものにあらざるはなし。されば、これら種々の妄説もしくは偽説は、今日の学説を生み出だしたる母といいて不可なきなり。しかれども、今日のごとくすでに精確なる学理の発見せられたる上は、またなんぞかくのごとき妄説、偽説を固執すべけんや。

 ただ、かの陰陽説に至りてはすこぶる道理あるに似たるをもって、世人のこれを信ずるもの、なおはなはだすくなからずといえども、かの説にては到底、最高潮と最低潮との生ずるゆえんを知るべからざるのみならず、地球の一面に満潮をきたすと同時に、その反対の面においても同じく満潮を生ずるゆえんを知るべからず。かつそれ、地球上陰性の物ただ水のみにあらざるに、他の陰性の物はかつて水のごとく引かれざるはなにゆえなるかは、陰陽説において免るべからざる疑問にして、しかもついに解すべからざる難問なり。しからばこれを偽説というに、なんの不可がこれあらん。もし今日の学説に従わば、潮汐は引力の結果にほかならず。くわしくいわば、太陽ならびに太陰がわが地球に与うるところの引力は、ともにすこぶる強大なるものにして、陸地のごとき硬部は、これがためにその形を変ずるに至らずといえども、流動性を有せる水体にありては、いかでかその影響を受けざらん。しかして海水がその影響を受くるに、太陽よりも太陰において著しきを見るはなんぞや。けだし太陽は太陰よりもその体非常に大にして、したがってその引力もいたって強しといえども、その地球との距離非常に遠きをもって、かえって地球に近き太陰の引力に及ばざるによるならん。今、太陽と太陰とが地球上に及ぼす引力を比するに、前者はわずかに後者の三分の一に過ぎずという。これをもって、海水が太陰の位置に従いて干満の現象を呈するなり。さはいえ、海水は全く太陽の引力に影響せられざるにあらず。ゆえに、太陽と太陰とが地球に対して一直線の位置をとるときは、二体の引力相加わりて著しき高潮をきたし、また、二体が地球に対し直角の位置をもつときは、二体の引力相分かれて最低潮を呈するに至る。しかして地球上の太陰に背ける部分、すなわち引力の影響を受けて満潮をきたせる面に正反対をなせる面にも、海水の隆起して満潮の現象を呈するはなにゆえなるかというに、これまた引力の影響にほかならず。すなわち太陰に対する面は月との距離最も近く、したがって、引力の加わること最も強くして、地球の中心に至らば月をさることやや遠く、したがって、引力の加わること弱しといえども、これを反対の面に比するに、なおやや強し。しかるに、反対面すなわち全く月に背ける部分は月をさること最も遠きをもって、その引力を受くることも最も弱からざるべからざれば、その結果、水面の隆起を見るに至るべし。これ、月に対する面に満潮をきたすと同時に、その反対の面にも満潮をきたすゆえんなり。もしこの理を一層明らかに知らんと要せば、仮に地球の全面をみな水に包まれたるものと想像するにしかず。しかるときは、月に対する面はその引力を受くること最も強きをもって、水面の隆起すべきはいうまでもなし。また、その正反対の水面に引力を受くること、これを地球の中心に比するになお弱きをもって、その面に水の隆起を引き起こすに至るべし。


       第二一節 海嘯

 海嘯すなわち津波はまた海上の一大変象なれば、ここに説明せざるべからず。しかしてその現象は海中の地震に起因するをもって、その理は陸上における地震とさらに異なるところなし。この現象につき、『訓蒙天地弁』には下のごとき説をなせり。曰く、「津波は地震と理、相同じ。陰陽二気、地中に伏するもの山海川陸の差別なし。そのたまたま海底にして大いに摩盪奮激するものは、陸地にして大地震のごとし。これがために海水ふるい沸きて、波をあぐること山のごとく、たちまちにかの水災をなすものなり。地震と理を同じくするゆえに、風雨などあるときは、たとえいささかの波濤はあがるとも、津波の大患はかつてなし。大地震は静かなるに限るごとし。ゆえに、しげしげ地震あるときは、かの波災を恐るることなり」と。されば、もし地震の激動が海底に起こるときは、その震動を海水に伝え、かつそれがために海底の地形に、あるいは破裂を生じ、あるいは凹凸を生ずるがごとき大変化をきたすをもって、海水その影響を受け、ついに恐るべき結果を呈するに至ることあるなり。また、ときとしては陸上におこれる地震の波動が海洋に影響して、ために水面に激浪を生ずることあり。これらの事情はみな海嘯の生ずる原因にして、そのまさに襲来せんとするときには、まず潮水著しく退却し、ついで大波天をつきて至るを常とす。これをもって、海嘯多き地方の人民は、潮水の退却によりてあらかじめ怒濤の襲来を前知し、山上に逃れてその厄を免るることありという。

第二二節 河湖

 前来、海洋の水につきてはその概略を論じたれば、つぎは陸上の水につきて一言せんと欲す。そのうち河水のことにつきては、格別ここに説明すべきほどのものもなければこれを略し、湖水のことにつきて少しく論ぜんに、およそ湖水には塩水なるものと淡水なるものとの二種ありといえども、いずれも陸地の凹所に水の集積するより生ずるものにして、その山間にあるもののごときは、四方の渓谷より流れきたるところの水が窪所に会し、しかも流下するに道なきより、ようやく集積してついに湖をなすに至るなり。あるいは山上に死火山の噴火口あるときは、その中に雨水の集積して湖をなし、あるいは平地に凹所あれば、水またここにあつまりて湖をなす。かくしてひとたび成りし湖水は、もし一方に口を開き流れ出ずるときは河流の源となる。しかして、この類の湖は大抵淡水にして、鹹味を有せざるを常とす。しかるに四方より集まれる水が凹所に瀦溜して、ようやくその積を増すといえども、ついに全く流れ出ずべき道を見出ださざる場合には、水したがって注げば、したがって蒸発してその量を減じ、水準を一定に保つに至るべく、したがってその水ようやく濃厚となり、ついに鹹味を有するに至るべし。これ鹹湖の生ずるゆえんにして、その理は上にいいし海水の鹹味を有するに至りしと同様に説明することを得べし。すなわち、四方より流入せる水中に多少の鉱物、塩類を含みしものが、日光のためにその水分のみを蒸発し、塩分は依然として残留するをもって次第に濃厚となり、数千万年の後には水中に含める塩分の割合非常に増加し、ついにその味を鹹味ならしむるに至るなり。この理を推して考うるときは、かの流下すべき河流を有する湖の、大抵淡水なるゆえんをも知るを得べし。すなわち出口ある湖水にては、水中の塩分は水とともに海洋に流送せらるるをもって、鹹味を有するに至らざるなり。


       第二三節 地史論

 前にもしばしば述べしごとく、地球は太初、星雲より分かれて一塊をなすに至りしものなるが、その当時はなお高熱を有せる気体の一団に過ぎざりしなり。これを星雲世紀という。しかるに、ようやくその熱を放散するに従いて、気体は変じて液体となり、液体は結んで固体となり、空中に浮散せし水蒸気も凝りて水となり、地面に降下して凹所に会し河海となる。ここにおいて、地上はじめて海陸の別あり。しかも、いまだ動植物の発生なかりき。その後しばしば地面上に大変動を起こし、あるいは凹所隆起して山となり、あるいは低所沈降して河海となりし等、地形ときどき変遷せしや疑うべからず。かくして長日月を経過せし後、生物はじめてその形を水陸の間に現すに至りしが、その後といえども土地の変動かつてやすむときなく、「桑滄の変」挙げて数うべからざりしならん。しかしてこの間に発生せし動植物の類は、おのおのその適する所を選びて孳殖し、いわゆる自然淘汰の理法に従いて次第に進化し、もって今日に至りしなり。今、この地球の形成より今日に至るまでの歴史を地史と名付く。その一大地史に種々の時代を分かちて、各時代の地質を論ずるはすなわち、いわゆる地質学の専門とするところなるが、その定むるところによらば、これを四大世紀に大別することを得べし。

 その第一世紀はすなわち地球原始の時代にして、これを原始界という。当時すでに水陸山河の別ありしも、動植物のごとき生物に至りては、いまだ痕跡だも見ることを得ざりき。第二世紀はすなわち動植物のはじめて発生せし時代にして、これを太古界と名付く。この世紀の中にまた種々の小時期あり。その初期には植物は海藻の類にとどまり、動物は無脊動物の類に過ぎざりしが、時期を追いてようやく軟体動物を生じ、有脊動物を生じ、魚類の大いに繁殖せし時代ありたり。これと同様に植物も次第にその類を増し、陸上にも森林を見るに至り、一時は非常に樹木の繁茂せし時代ありたりしが、これ地史上にいわゆる石炭期と名付くる時代にして、今日の石炭地層が形成せしときなり。第三世紀は地質学のいわゆる中世界にして、このときには魚類のほかに、虫類、鳥類等発生し、下等の哺乳動物はすでにこのときに現れ、植物にては松柏の類はじめて発育したり。第四世紀に至りては哺乳動物の多くの種類発生し、その他動植物の高等なるものは、大抵みなこの時期に発生したりという。これを近古界と名付く。しかるに、ここに気候上に一大変動をきたし、従来は極部の地方といえども温暖なる気候にてありしに、ようやく変じて冱寒となり、ついに地球上にいたるところに氷雪を見るに至れり。これ、すなわちいわゆる氷田の世界にして、その当時地球上に棲息せし動物は、その前に生存せるものと異ならざるべからず。かくのごとき気候の変動は、その原因いまだつまびらかならずといえども、暖流のその方向を変じたるは一原因たるや疑いなきもののごとし。しかして人類の地球上に現れしは、この時代を経過せし後なり。

 以上は地史に関する概略なるが、そのつまびらかなることは、もと地質学の研究に属し、かつ予の専門とするところにあらざれば、これを地質専門の学者に譲り、あえてここに贅せず。


       第二四節 生物配布論

 すでに地球上の事情が、生物の繁殖を許すに至りし後といえども、一時にその各部分に草木禽獣の類が発生せしにはあらず。それ、生物の繁殖に最も大切なる関係を有するものは、気候、地形、食物等なるが、これらのものは地球上の部分によりて大いに異なるものなれば、これによりて考うるも、同一の生物が各所すなわち気候、地形、食物等の相同じからざる各地に、同様に生育することあたわざるや明らかなり。されば、生物のはじめて発生せし地は、気候、地形、食物等の諸事情が、生物の発育に最も適したる部分ならざるべからず。しかして、いったんかくのごとき地方に発生せし生物は、次第にその四隣に向かいて繁殖配布せられ、その土地の地形、気候等に応じて多少の変化を受け、ついには全く異種類の生物を生ずるに至りしや疑うべからず。これ、すなわち進化論にていうところの自然淘汰、適種生存の道理に基づくものにして、そのつまびらかなることは次講に述ぶべし。今はただ、その一地方に発生せし生物が、いかにして各地に分布せられしかをいわんに、生物自身にはかくのごとき移地運動を有せずといえども、空気の流動、その他河水、海洋の流動等が媒介となりて、一地方の生物を他の地方へ運搬せしなり。もし生物がかくのごとくして運搬せらるるときは、気候その他の事情が、その発生せし地と同じからざるため、漸々その身体上に変化をきたし、ついに異種類のものとなるべし。人類もまたこれと同じく、最初は最もその生存に適せし地において発生せしに相違なからん。しかるにようやく増殖するに従い、四方に散布し、長年月を経過せし後、ついに現今のごとく、地球上いたるところに生息するに至りしものなれば、黒色人種、白色人種、黄色人種等の種別は、実に気候、地形、食物等の相同じからざるために受けし変化の結果にして、原始の祖先を異にせるにはあらざるなり。ただしその理由いかんは、次講の進化論を述ぶるところにおいて説明すべし。


       第二五節 天変、地妖 結論

 天変、地妖に関する種々の現象は、上来、大抵説明しおわりたれば、この節において、さらに一言もってその論意を結ばんと欲す。それ一切の天変、地妖はもとこれ物理的現象なれば、これを説明するにも単に物理的の道理のみによりて、いまだかつて心理的説明を与えざりき。およそ物理的現象は、一つとして外界万有に固有せる必然の理法、すなわち因果の大法に基づかざるものなし。天変といい地妖といい、またみな物理的現象なる以上は、この大法の外に出でず。これをもって、これが説明もこの大法によるべきこともちろんにして、今日の学術上の説明は、実にかくのごとくして得たるものにほかならざるなり。されば、学術上にては天地の間にいかに奇々怪々なるがごとく見ゆる現象現るるとも、みなこれを道理以内に属せしめ、決して理外の理とみなすことなし。よし今日の学説にてはいまだ十分にその原因事情を説明することあたわざる現象あるにもせよ、吾人はなお、かかる現象もまた因果の理法に基づけるものなりと断定するをはばからず。そのゆえいかんとならば、吾人は従来の経験によりて、すでに因果の理法が万有万化の原理、原則なることを知れり。果たしてしからば、あたかも一と二とを合して三となることを知りしによりて、この規則はいかなる数に当てはむるとも確実なりと推断して、すこしも疑わざると同じく、この既知の事実を未知界にまで推及し、未知の現象もまた既知界のごとく因果の理法に基づくものなりと論断するは、推理上決して不当というべからざればなり。これを要するに、学術の目的はこの大法に従いて未知の現象を説明するにほかならず。予輩が前来諸種の天変、地妖に対して試みたる説明も、ただこの目的を達せんとするに過ぎざりしなり。

 ただしその説明、単に物理的の一方にもっぱらにして、かつて心理的に及ばざりしゆえんは、これらの現象は心理的説明を与うべき限りにあらず、またその必要を見ざりしがためのみ。しかれども、心理的と物理的とは互いに相離るることあたわざるものにして、心理的の現象は必ず物理上に関係を有し、物理的の現象は必ず心理上に影響を及ぼすものなれば、天変、地妖のごとき物理的現象にも、また全く心理の関係なしというべからず。よって今、いささかこれらの現象につき心理上より説明を試みんに、物理的説明にありては、古来天変、地妖に対してなしたる種々の妄説、憶想がいかにして起こりしかはおきて問わざりしが、かくのごときは決して満足すべき説明というべからず。ゆえに、もしこの説明をして満足ならしめんには、さらに進みてこれら妄説、憶想のよりて起こるゆえんを究むるを要し、その妄説、憶想の由来をたずねんには、必ず心理的説明によるを要す。しかして世人は一般に、かくのごとき妄説、憶想は全く道理なきものにして論ずるに足らずとなせども、これただ物理的説明の点のみより見たる論にして、もし心理的説明の上より見れば、そのいわゆる妄説なるものも、決して全く理由なくして起こりたるものにあらずして、必ず必然の道理に基づけるものたるを知るを得ん。けだし、人の宇宙間に生息するや、万象万化の四囲に出没するを見て、いまだそのなにによりて起こりしか、また、そのいかなるものなるかを知るを得ざるときは、常にこれを疑いてやまず、必ず進みてその解釈をもとむるなるべし。ここにおいて、種々の想像を描き、種々の説明を構造するは自然の勢いにして、いわゆる古代の妄説なるものは、実にかくのごとくにして起こりしなり。しかしてこれらの妄説は人知の開発するに従い、次第に進みて真理に近づき、ついに今日の学説に到達したるものなれば、妄説もとより信ずるに足らずといえども、これ実に今日の学説に達せし階梯なるときは、またあながちすつべきにあらず。

 たとえば江河の大なるも、その源泉にさかのぼらば、わずかに渓㵎の涓滴に過ぎず、樹木の鬱たるも、その原始を究めば、わずかに一粒の種実にほかならざるがごとし。滑滴まことに少量なりといえども、これなくんば江河なし。種実まことに小粒なりといえども、これなくんば樹木なし。しからばすなわち、妄説なかりせば、なにによりてか今日の学説あらん。ゆえに予は、古代の妄説を今日の学説の母と称するにはばからざるなり。かく心理的に考察するときは、古代の妄説も今日の学説も、ともに因果必然の大法に基づけるものにして、学理研究の上においては、二者いずれも同様に興味ある問題なることを知るを得べし。いわんや心理上よりして妄説のよりて起こる原因をたずぬるときは、吾人が精神そのものの発達中に、自ら胚胎せる一種の心理作用に基づけるものなるにおいてをや。あに単に虚妄なりというよりして、これを排斥すべけんや。要するに、原因によりて結果をたずね、結果によりて原因をもとむるは知識そのものの性質にして、これを知力作用の原形と名付けて可なり。しかしてこの原形は、古代の愚民にありても今日の吾人にありても全く同一にして、決してその種類を異にすることなく、ただ発達の前後あるのみ。しかれども、もしその原形を充実する知識の材質に至りては、古代と今日との間において大いなる差違なかるべからず。これ妄説と学説とのわかるるゆえんなり。されば、妄説と学説との区別は、知識の原形の上に存するにあらずして、全くその原形を充実する材質の上にありて存す。くわしくいわば、形質相合したるものの上において、二者の別を生ずるものというべし。かつまた、古代の人民にありては、感覚上の観察はなはだ明晰ならざるをもって、往々心内の想像がかえって感覚を支配し、感覚上わずかに一部分を知るときは、ただちに想像をもって他の多部分を補い、ために大いに道理に背戻したる結果に到達することあり。これまた、古代妄説のよりて起こりし一事情として見逃すべからざることとす。また、人事と天変、地妖との関係につきても、古代にありては一般にその間に直接の関係あるものと信じ、仰ぎて天象を観察し、俯して人事の吉凶、禍福をト定する風、大いに行われしはなにびとも疑わざるところにして、これ実に妄説中の妄説なるがごとく見ゆれども、もしその裏面に入りて考察するときは、その中にすでに今日の学説を胚胎せることを知るに難からざるなり。しからば、古代の妄説は花のごとく、今日の学説は実のごとく、妄想の花散じてはじめて真実の実を結びしものと見て不可なからん。

 かく論ずるときは、妄説と学説とは全く同一にして、その間にさらに差別なきがごとく見ゆれども、予は決してこの二者を混同するものにあらず。明らかに発達の前後によりてこれをわかち、学説は発達の結果にして、妄説はこれに達する階梯というに過ぎず。しからばすなわち、今日のごとくすでに高等の学説に達したる以上は、またなんぞ、これに達するまでの階梯たりし妄説に固執する必要あらんや。

 以上は天変、地妖につきて前に試みたりし物理的説明に対し、さらに心理的の方面より考察して、物理的説明において排斥せし、妄説のよりて起こりしゆえんの大要を示したるものなるが、これら二種の説明は、いずれもいわゆる学術的の説明に属す。もしさらにこの上に進むときは、別に理想的説明なるもの存するあり。これ実に心理、物理の道理を推究してやまざるときは、必ず到達せざるべからざる終極の点にして、すなわちすでに心理も物理も、ともに因果の大法にのっとることを知らば、天地六合はただこの一大理法の無始以来、貫通遍在せるところにほかならざるを知らん。しかしてこの大法やもとより無限絶対なれば、これに対峙すべきものもなく、これを制限すべきものもなし。ただ、これ不可思議といいてやまんのみ。また、もし転じて天地万有そのものを推究するときは、一大物質の無始以来、宛然として存在せるを見ん。たとい物心二元の相異なることあるも、この二者いまだはじめより相離れざるときは、物心はついに一元に帰し、万有一体の道理に体達せざるべからず。ゆえに、物理、心理を推究して達するところは一理一体の道理なり。これを名付けて理想という。理想はすなわち予がいわゆる真怪なるものにして、もとこれ理外的なりといえども、さりとてまた、決して万有以外に超然として自立するものにあらず。また、決して万有の内部に潜伏するものにもあらず。実に宇宙万有の内外にわたり、天地諸象、物心二元をその中に概括包有して一体となれるものなり。ゆえに、その物心二者に対する関係も、すでに上にいいしごとく理想、物心、不一不異にして、絶対にありては一理となり、相対にありては二元となり、その体名付くべきなし。強いて名付けば、これを妙といわんか。しかり、この妙の上に、森然たる万有万象を顕現す。しかしてこの万有万象は、物界にありては日輪これを照らし、心界にありては意識これを照らす。もし心光ありといえども日光なからんか、天地暗黒とならん。また、もし日光ありといえども心光なからんか、天地暗黒とならん。しからばすなわち、この二光相待ちて、はじめて天地昭明なることを得べし。

 しかしてこの二光の源は、すなわち理想そのものの光なり。一は物界の進化によりてその形を現し、一は心界の進化によりてその徳をあらわす。ただし日輪は遠く体外にあるをもって、吾人はこれをいかんともすべからざるも、精神は近くわが体内にあるをもって、有意的にその光を明らかにすることを得べし。もしその光を明らかにせんと欲せば、教育、学問の力によらざるべからず。また、もしその光のよりて起こる真際を究めんと欲せば、心底深きところに理想の幽光を開発しきたらざるべからず。これ実に宗教の目的とするところなり。これをもって予は、教育、宗教の二道ならび進みてはじめて天地万有は美妙の光景を現示し、方寸城中に光明赫々たる真日月を開発することを得べしと信じ、また、かのいわゆる天堂、楽園も、この二道の進歩によりてこれをいたすことを得べしと信じて疑わざるなり。しかして予が妖怪研究の目的もまた、この意にほかならず。


      第二六節 須弥山論

 上来論ぜしところは主として天変地妖に関し、和漢に伝われる古来の妄説につきて弁明せしにとどまり、いまだかつてインドの古説に論及せざりしをもって、今ここに天変地妖編の付講として、いささかインドの天地論を講述せんと欲す。そもそも仏教にて天地六合の成れるゆえんを説明するに、主観的と客観的との二様ありて、主観的に世界を論ずるときは、世界万有はみな一心の上に現ずるものにほかならずして、心を離れてさらに一事一物の存するを見ず。実に三界唯一心なり。ゆえに、『起信論』に「一切諸法唯依妄念、而有差別」(一切諸法ただ妄念によりて、しかも差別あり)といえり。しかるを、世人のわが心以外に別に世界ありと思惟するは、畢竟、人の迷いに過ぎずという。また、『唯識論』によれば、「実無外境、唯有内識、似外境生。」(実に外境なし。ただ内識のみありて、外境に似て生ず)と説き、森羅の諸法は「唯識所変」にほかならずとなす。これすなわち仏教中、唯心論の所説なり。しかれども、また客観的にこの世界を観じて、目前の事々物々につき、いちいちそのよりてきたるゆえんを論じ、万有そのものの変化生滅を説くことなきにあらず。しかして、この客観的天地論はもっぱら小乗家の説くところにして、その主観的天地論はもっぱら大乗家の説くところなり。かくのごとく仏教には二種の天地論あれども、今、講ずるところは「理学部門」につきて論ずるものなれば、そのうちの客観論を略述するにとどむべし。すなわち、仏教にてはもとより天地の創造を許さざれば、決して万物を造出せしものありとはいわず、この天地万有はその体、恒有にして、無始以来法爾として存在し自然に成るものなれば、外物ありてこれを造り出だせるにあらずとなす。小乗家に「三世実有法体恒有」の説あるはこれをいうなり。ゆえに、仏教にては常に天地の起源について、これを造といわずして成というなり。しかしてこの恒有なる万物は原因結果の規則に従い、時々刻々変化してやむときなく、あるいは成りあるいは壊る。その変化の順序は上にすでに一言せしごとく、成、住、壊、空の四劫となりて、ために恒有の万物生滅始終の相を現すと説く。かつ、その変化の原因を有形に求めずして無形に立てたるは、仏教に特殊なるところにして、これ実に今日の理学と相同じからざる点なり。すなわち、原因結果の理法を基礎とする点においては、仏教も理学もその致を一にしながら、一はこれを有形上に適用し、一はこれを無形上に適用するところにおいて二者の差別を見る。かくのごとく、仏教にては世界の変化するゆえん、万有の生滅するゆえん、みなこれを無形上の原因力に帰するをもって、『倶舎論』等には有情の業力ということを説けるなり。今その天地論の大要を理解しやすからしめんには、まず仏教にては天地の組織をいかように解するかを略説し、つぎにその変化する次第をいかように説けるかを説明するにしかず。よって、今はじめに天地の組織を考うるに、仏教にてひろく世界を説くときは、これを三千大千世界という。しかして世界の名は、世は時間に名付け、界は空間に名付けて、東西南北、四維上下、これを界となし、過去、未来、現在、古今、これを世となす。ゆえに、世界とはなお宇宙というがごときなり。しかして、これに衆生世界と器世界との別あり。前者はこれを正報と名付け、後者はこれを依報と名付く。また、これを十界もしくは三界にわかつことあり。三界とは欲界、色界、無色界のことにして、その第一は、情欲、色欲、食欲、婬欲の四欲をそなうるをもってこれを欲界と名付け、その第二は、欲界のごとき穢悪の色相を離れ、形質清浄にして身相殊勝なりといえども、なお色質を有す。ゆえに、これを色界と名付く。ただしそのいわゆる色とは、仏教にていうところの色にして、質礙の義なり。さてその第三は、一切の色質を離れてただ心識あるのみ。これを仏教にいわゆる色、受、想、行、識の五蘊につきていわば、その色蘊なくして受、想、行、識の四蘊を有するのみ。ゆえに、これを無色界と名付くるなり。また、その欲界の中に地獄、傍生、鬼、四洲および六欲天の小別あり。そのうちの四洲とは、一を東弗于逮(あるいはいう「東毗提訶洲、旧曰弗婆提、又曰弗于逮。」(東毗提訶洲、旧に弗婆提という、また弗于逮という)訳して勝というといい、二を南閻浮提(「此云勝金」(これを勝金という))といい、三を西瞿耶尼(「此云牛貨」(これを牛貨という))といい、四を北鬱単越(「倶舎云北倶盧洲」(倶舎に北倶盧洲という))という。すなわち東西南北の四洲にして、その中央に須弥山あり。須弥とは訳して妙高という。その周囲に八重の山あり。おのおのの山の間には水ありて八重の海をなし、須弥山を囲繞す。その外にまた一重の山ありて外輪を成せり。これを大鉄囲山と名付け、これらを合して一つの国土をなす。『釈氏要覧』にはこれを左のごとく説明せり。

  長阿含幷起世因本経等云、四洲地心、即須弥山、此山有八山、遠外、有大鉄囲山、周廻囲繞、並一日月昼夜回転照四天下名一国土、積一千国土、名小千世界、積千箇小界、名中千世界、積一千中千世界、名大千界、以三積千、故名三千大千世界。

  (『長阿含』ならびに『起世因本経』等にいわく、「四洲の地心はすなわち須弥山なり。この山に八山ありて外をめぐる。大鉄囲山あり、周回囲繞す。ならびに一の日月昼夜回転して、四天下を照らすを一国土と名づく。一千の国土を積みて小千世界と名づけ、千個の小界を積みて中千世界と名づけ、一千の中千世界を積みて大千界と名づけ、三をもって千を積む。ゆえに三千大世界と名つく」)

 この三千大千の国土は一化仏の統ぶるところにして、これを名付けて索訶世界という。索訶とはすなわち娑婆なり。今、吾人の住する日本、その他シナ、欧米の国々、すなわちわが地球上の国々は、南閻浮洲に属すという。さてまた、天には三十三天ありて、そのうちの六天は欲界に属し、十八天は色界に属し、残余の九天は無色界に属す。その表、左のごとし。


     四天王天

     忉利天

欲界六天 須焰摩天

     兜率陀天

     楽変化天

     他化自在天


      梵衆天

      梵輔天

      大梵天

      少光天

      無量光天

      光音天

      少浄天

      無量浄天

色界十八天 遍浄天

      福生天

      無雲天

      広果天

      無想天

      無煩天

      無熱天

      善見天

      善現天

      色究竟天


      空無辺処天

      識無辺処天

      無処有処

無色界九天 非想非非想

      不廻心鈍

      受陰尽天

      想陰区宇

      想陰尽天


 また、『楞厳経』によるに、須弥山の頂上に四峰あり、峰ごとに八天あり、これを合すれば三十二天なり。別にその中央に帝釈天ありて、総計三十三天とすといえり。これまた一説なり。しかして、日月この須弥山を行道するによりて昼夜をなし、また四時をなすと説けり。これを仏教にいうところの世界組織の大略とす。

 つぎに、世界の形成せしゆえんの概略を説かんに、仏教にては吾人の目前に横たわれる物質世界を器世間と名付くることなるが、この器世間の生ぜし次第は、最初虚空の中に風輪を生ず。その広さ無際にして、厚さ十六億由旬あり。その体いたって堅密にして、金剛をもってこれを打つともさらに損ずることなし。風輪すでに成りおわれば、大雲雨おこりて風輪の上にそそぎ、その水積集してまた輪をなす。その深さ十一億二万由旬なり。ときに猛風おこりて水面を払い、波浪相激してついに凝結し、大地輪を成す。これを金輪という。その厚さ三億二万由旬あり。ここにおいて世界はじめて成る。かの上にいいし九個の大山は、みなこの金輪の上に並列し、妙高山すなわち須弥山その中央に峙立し、余の八山おのおの海を隔ててこれを囲む。その第七山の外に四湖ありて、その外輪をなすものはすなわち鉄囲山なり。仏教に説ける世界形成の大略はかくのごとくなるが、すでに世界に形成せし始めあれば、また破壊する終わりなくんばあるべからず。ゆえに四劫を説けり。すなわち、かくのごとくして世界万物の形成せる間を成劫という。その間およそ二十中劫にして、世界すでに成りおわり、一時不変住止の状態をもつ。この間を住劫と名付く。住劫終わらば壊劫となる。壊劫には種々の災難ありて、ために万物ことごとく破壊せられ、ついに空に帰するに至る。ただしこの壊劫には有情壊と器界壊との二壊ありて、人類、動物の壊滅するを有情壊と名付け、山川草木の壊滅するを器界壊と名付く。そのうち有情壊まずきたりて、器界壊これに次ぐ。しかしてこれを壊滅するものは、大小二種の三災なり。小の三災とは刀兵、疾疫、飢饉にして、大の三災とは火水風なり。今、有情壊の状況はこれを略して器界壊の実況をいわんに、すでに有情壊によりて人類、禽獣みなその跡を絶ち、ただ山河、大地、草木、国土のみ存するに至らば、天久しく雨ふらず、日光ようやく猛威をたくましくし、草木ためにみな枯死すべし。ついで二体、三体ないし七体の日輪並び出でて、猛火烈炎を生じて金石、国土を焼燼し、化して灰とならしめん。このとき水災おこり、風災続きて至り、四方よりきたるところの風相衝突して灰を吹き散らし、ついに一点の塵埃をもとどめず、全く空虚に帰せしむるに至らん。かくのごとき三災反覆続起し、五十六回の火災を経て、ついに器界ことごとく空とならば、これを空劫という。

 『倶舎論』に曰く、「先無間起七火災、其次定応一水災起、此後無間復七火災、度七火災還有一水、如是乃至満七水災、復七火災後風災起如是総有八七火災、一七水災、一風災起。」(まず無間に七の火災を起こす。そのつぎに定めて一の水災起こるべし。こののち無間にまた七の火災あり。七の火災をすぎて、また一の水災あり。かくのごとく、ないし七水災を満じてまた七火災あり。後に風災起こる。かくのごとく、総じて八の七火災、一の七水災、一の風災起こる)とあり。かくて空劫の中にまた風を生じ、器世間再び形成せらるるに至らば、これを成劫とす。成りてまた壊れ、壊れてまた成り、成住壊空、循環してついにやむことなし。しかして、かくのごとき変化の原因に至りては、上にすでに一言せしごとく、これを無形的に説明し業力のいたすところとなす。これ仏教特殊の説なり。さて、仏教にてはかく天地を解釈するをもって、あらゆる天変地異もみなこの説に基づきて解釈せり。今その一例を挙げんに、『阿含経』に地震の原因を説明して曰く、「地在水上、水止於風、風止於空、空中風大有時自起則大水擾大水擾則普地動。」(地は水上にあり、水は風にとどまり、風は空にとどまる。空中の風大いに時ありてみずから起こればすなわち大水みだる。大水みだるればすなわちあまねく地動く)と。その他すべて天地の変化をこの理によりて説明すること、あたかもシナ学者が陰陽説によりて説明するがごとし。しかるにこれらの説明は、これを今日の学説に比較するときは、いずれも古代の妄説もしくは偽説との評を招くは必然なり。けだし、仏教が世人に擯斥せられたる原因の一つは、これらの点にあるならん。しかるにもかかわらず、仏教家中、汲々としてこれを弁護せんとするの者すくなからず。特に近年、須弥説のために非常に心力を労せし人さえありしは、局外の者よりこれを見れば、実に笑わざるをえざるがごとし。しかして、それらの人の論拠とせしところを検するに、一もこれを実験に徴するにあらずして、あるいはこれを憶想に考え、あるいは仏は神通力をもって世界を洞察したまう徳あれば、その説の確実なること、すこしも疑うべからずというに過ぎず。すなわち、佐田介石氏の『仏教創世記』中にいえるところのごときこれなり。その言に曰く、「仏はこれ三明六通をもって、無始以来の四劫の相を掌中に見るがごとく明らかに知見して説きたまう。すこしも疑うべき理あらんや。」と。

 また、『仏国暦象編』の著者は下のごとき言をなせり。「夫太古聖人、仏出世前已垂教、以取五通法、天眼即其一也、天眼也者能徹視遠境、不為山岳壁障所礙。」(それ太古の聖人、仏出世前すでに教えを垂れ、五通を取るの法をもってす。天眼はすなわちその一なり。天眼なるものは、よく遠境を徹視し、山岳壁障のためにさまたげられず)また曰く、「凡印度聖者諸仏弟子、得天眼者不遑論之、支那僧伽得其浅処者不為不多、如玄高使僧印見十方無極世界則甚深境界能及於他、(中略)雖然不知者疑知之者、未見者疑見之者、人情自古爾。」(およそインドの聖者、もろもろの仏弟子、天眼を得る者はこれを論ずるにいとまあらず。シナの僧伽その浅きところを得る者多からずとせず。玄高の僧印をして十方無極世界を見せしむるがごときは、すなわちその深の境界よく他に及ぶ。(中略)。しかりといえども知らざる者はこれを知る者を疑い、いまだ見ざる者はこれを見る者を疑うは、人情いにしえよりしかり)と。また『釈教正謬初破』に曰く、「阿那律以天眼、見三千界如掌菓、長脛得神通、親見閻浮樹、迦葉登須弥頂而唱偈、阿難分舎利切利天、其神変非凡慮所測也、如須弥山、如来菩薩六通羅漢、皆由無漏定、正慧眼所観視也。」(阿那律は天眼をもって三千界を見ること掌果のごとく、長脛は神通を得て親しく閻浮樹を見、加葉は須弥のいただきに登りて偈を唱え、阿難は舎利を忉利天に分かつ。その神変、凡慮の測るところにあらざるなり。須弥山のごときは、如来菩薩六通の羅漢、みな無漏定によりて正慧眼の観破するところなり)また『実験須弥界説』に曰く、「奇なるかな、大聖世尊、天眼明の照らすところ、早く数千歳の下を照鑑したまいて里数を立て、天地の高広を測り、須弥界を妄説として仏教を破却せんことを知らしめすゆえに、立世阿毘曇論の中に日月行品を説きたまいて将来に残したまえり」また、その付録に曰く、「仏天仏地、大哉須弥、聖教所開、人其休疑。」(仏天仏地、大なるかな須弥、聖教のひらくところ、人それ疑うことをやめよ)と。これらの論、よく今日の学者を服せしむるを得べしやいなやは、予が弁をまたずして知らるべし。

 しからばすなわち、仏教の天地説はいかように解釈して可なるか。これ今日の一大疑問なり。しかして予はこの点につき、今日普通の仏教家が考うるところを見て、その意を解するに苦しむものあり。そはすなわち、仏教家の多くが、須弥論こそ仏教最重最要の説にして、この説にしていったん破れんか、仏教の基礎したがって壊るるがごとく思惟することこれなり。たとい須弥説が仏教の正説とするも、上にもすでにいいしごとく、仏教の世界論はただこの説のみにあらずして、このほかにさらに主観的世界論あるにあらずや。かつこの客観的世界論は、もっぱら小乗家の談ずるところにして、大乗家はもっぱら主観論をとれり。しかして大乗と小乗とを比較せば、前者の後者にまさることは自他ともに許すところにあらずや。さすれば須弥説のごときは、仏教にとりてはもとより枝葉の論のみ。その立つと立たざるとは、仏教の生命そのものに関係なきがごとし。たとえば樹木に比するに、たまたま風雪のためにその枝葉を害せらるることあるも、その樹がこれがために枯死するに至らじ。枝葉論の立たざると、仏教そのものの立たざるとは、おのずからその別あることを記せざるべからず。ゆえに予は、ただ今日の普通の仏教家が、もっぱらその意を枝葉に注ぎて、かえって基本を忘るることなからんを望むものなり。さはいえ、予は決して今日の仏教家が、挙げて須弥説の弁護者なりというにあらず。現に同一仏教家の中に、この説に関し保守派と改進派との二流ありて、一方にありては、かくのごとき説はインドの古説なれば、釈尊のはじめて唱導せられしところにあらずして、それ以前よりバラモンにて信ぜしところの旧説なり。

 しかるに、釈尊はただ教義を世俗に理会しやすからしめんため、しばらくこれを借りて説きしまでなりといい、他の一方にありては、上にいいしごとく、仏の神通にて照見せられし説なれば、すこしも疑うべきにあらずといいて、その論いまだ決せざるがごとし。今、もし学術上よりこれら両派のいうところを比較せば、前者はもっぱら道理に基づきたる説明なれば、これを学説の部に属せしめて可なれども、後者は道理以外の秘密を基礎とするものなれば、もとより学術の関するところにあらず。しかれども、予をもってこれを見るに、改進派の見解なりとて、いまだその理を尽くしたりと許し難きものあり。なんとならば、果たして仏教の須弥説がインドの古説なることを証せんには、仏教以前の諸教すなわちバラモン教などの古典において、すでにその説あることを比較考証せざるべからず。しかるに、これをなさざるをもって、その説ついに空想に陥る。さりとて保守派の見解はもとより許し難し。なんとならば、もし須弥説が仏の天眼にて照見せられし上の説ならば、その説をもって今日の学説と争わんとするは、自家撞着のはなはだしきものなればなり。くわしくいわば、今日の学説はもとより天眼によりて観察せし結果にあらずして、凡眼すなわち凡夫の感覚にて観察せしところに過ぎず。しからばすなわち、天眼にて観察せし結果と相同じからざるこそかえって当然なれ。もし強いてこの二者を一致せしめんとせば、世人をしてことごとく天眼を開かしめざるべからず。しかるに、須弥説を弁護する人すでに天眼を有せず、これを聞く者またみな凡夫なり。凡夫が凡夫をして仏の天眼上に観察せられし結果を実験せしめんとするは、自家撞着にあらずしてなんぞや。ゆえに予は、保守的神秘論者に向かいて、今日の学説は凡眼の観察に基づきたるものにして、今日といえどもなお不完不備を免れざるゆえんを説き、よってもって宇宙の大真理は今日に確定すべからざることを証明し、これと同時に、釈尊は大知眼を有せし人なることを十分に証明せられんことを希望せざるを得ず。しかしてこれら二派の説は到底一致せしめ難きがごとしといえども、予、別に一考ありて、よくこれを一致せしめんと欲す。けだしその説たるや、釈尊の解釈いかんの上に考えざるべからず。すなわち、釈尊は仏なりや人なりやを論ぜざるべからず。

 余おもえらく、これを仏とするも可なり、人とするも可なり。仏教に「法報応三身」の説あり。報身の上にては仏にして、応身の上にては人なり。しかるに余はこれを、主観上にては仏にして、客観上にては人なりといわんとす。そのいわゆる客観上とは、五官手足を具し、肉体上の成立を有し、空気、日光、飲食によりて生存するをいう。そのいわゆる精神上とは、真如の大海とただちに融合一致して、知徳の二光赫々円満するをいう。しかして客観上にありては、釈迦といえども吾人のごとき凡夫と同一にして、万有の規則に従わざるを得ざるはもちろん、肉体上の規則に従わざるべからず。その肉体上の規則とは、生あり、死あり、病患あり、老衰あり、空気を呼吸し、飲食を服用せざれば生存することあたわず。また、身体を傷つくれば疼痛を感ずるがごときをいう。たとえ釈尊はその本性仏なりといえども、ひとたびこの世界に生まれたる以上は、吾人とともに肉体上の規則に従わざるべからず。これ余が、客観上にありては人なりというゆえんなり。すでに客観上人なるときは、その覚官も吾人と同一の作用を有するや疑いなし。吾人の目をもって見て赤色なりと認むるものは、釈尊の目よりこれをみるもやはり赤色なるに相違なく、吾人の触覚にて方形なりと感ずるものは、釈尊の触覚にてもやはり方形なるべく、吾人の体覚にて温もしくは冷なりと感ずるものは、釈尊もまた同様なるべし。吾人の眼光は暗夜に事物を照見するあたわず、不透明体を隔てて事物を洞視するあたわず。釈尊もまたこれに同じかるべし。果たしてしからば、釈尊の精神、思想は実に無限絶大、高妙不可思議なるも、ひとたび人間界に生まれて人間的生活をなすにあたりては、吾人と同一なる感覚的境遇にありて、同一なる感覚的現象を見ざるべからず。あたかも大海の無量の水も、杯中に入るれば有量の水となり、性来五色を見得べき眼力も、赤色眼鏡を用うれば事物みな赤色となりて現ずるに異ならず。しかしてこの天地万有は吾人の感覚上に現立せる諸象にして、天文も地質も物理も化学も、みな感覚上に成立せるものなり。地球説も分子説も元素論も、またみな感覚上研究の結果なり。

 ゆえに、もし釈尊は吾人と同一種の感覚を有するものとなすときは、これらの感覚に属する学問や実験は、釈尊必ずこれを既知せりとなすを要せず。かくのごときは、その当時の定むるところに一任し、釈尊の時代にありてはその当時の説に従い、今日にありては今日の説に従って可なり。三千年の太古にありて今日の実験と符合せざる説をなせばとて、あえて怪しむに足らず。これかえって当然のことなり。かくのごとく解しきたりてこそ、仏教はヤソ教のごとき奇怪的宗教にあらずして、常理的宗教なることを知るべけれ。ゆえに、釈尊の須弥説をとられしは、これその当時の天文説なれば、これに従うのみ。かの仏に天眼あり、神通ありというがごときは、予はみな精神上のことにして肉体上のことにあらず、主観的にして客観的にあらずと考うるなり。もししからずして、釈尊は主観、客観ともに仏にして人にあらず、天文、地質一切の実験学は、釈尊すでに三千年の上古にありて熟知せりというときには、種々の難問続々起こりきたりて、とうてい仏教を今日以後の社会にひろむることあたわざるは明らかなり。ことに仏教は大乗に入りてこれをみるに、その客観論は畢竟、大乗に昇進する階梯方便に過ぎざれば、なんぞ、その方便説に汲々するを要せんや。かつそれ、仏教にてはこの感覚境を迷界の仮象にほかならずとなすをもって、他日、悟界に入りて大知眼を開ききたらば、その従来偏信せるものの、全く妄象仮有なるを知るべしとす。しかるに、古来仏教を学ぶもの、経論の文面のみに拘泥してその裏面の真意を解するもの少なく、ために須弥説をもって仏教の眼目神髄とするに至れり。かくのごとき輩に対して、余は左の注意を与えんとす。

  一、須弥説は大天眼をもって立つるところの説なれば、これを今日の天眼を有せざる人に対して争論するは、自家撞着を免れず。

  一、地球説は吾人のごとき凡夫の感覚によりて立つるものにして、仏教は感覚以上の真理を論ずるものなれば、天文説のごときはその当時の説に一任するをもって、かえって適当なりとす。

 この一論につきては、他日さらに詳論する意なれば、今ここには略言せるのみ。


      第二七節 竜宮、仙郷

 前節までにて大略地妖編を講了せしをもって、これより、まさに草木禽獣の上に現るる妖怪を研究すべき順序なれども、前来いまだかつて論ぜざりしものにして、なお地妖の一種に属すべきものあれば、つぎの問題に進む前に一言せんと欲す。そはすなわちいわゆる竜宮および仙郷のことにして、そのうち、まず竜宮のことはしばしば仏書中に見えたり。すなわち『飜訳名義集』によるに、竜に四種をわかてり。その文に曰く、「竜有四種、一守天宮殿、持令不落、二興雲致雨、利益人間、三地竜決江開瀆、四伏蔵竜守転輪王大福人宝蔵也。」(竜に四種あり。一は天の宮殿を守りて持して落とさざらしめ、二は雲をおこし雨をいたして人間を利益す。三は地竜、江を決し瀆を開く。四は伏蔵竜、転輪王大福人の宝蔵を守るものなり)と。また曰く、「竜者神霊之物、孔雀経及大雲等経名列諸竜並竜王、名字不一、皆言其能護持仏法也。」(竜は神霊のもの。『孔雀経』および『大雲』等の経、諸竜ならびに竜王を名列し、名字一ならず。みなそのよく仏法を護持するをいうなり)と。また、竜樹菩薩は樹下にありて生まれ、竜宮に入りて成道せしゆえ竜樹の名ありと伝う。また、『華厳経』は竜樹が竜宮に入りて持ち帰りし経なりとの説あり。また、『法華経』の中には八大竜王を説けり。その他、シナおよびわが国にも、古来竜宮につきて種々の説あり。そのことは『秉燭或問珍』に出だせるをもって、左にその全文を抄出せん。

   竜宮城ということは仏書の説なり。いまだつまびらかにせず。しかれども、儒書の中にはかつて竜宮の沙汰なし。およそ儒教のもとは仁なり。仁は昆虫、走魚までも残すことなし。なんぞ竜宮あらば残すことあらんや。それ魚は水に遊んで水に生ず。なんぞ水中に家をなさんや。昔、張横渠、洛陽の官をやめて帰る。程子、相見ていわく、「久しく礼院にありて得ることありや」こたえて曰く、「多く礼房の検正に奪われて得ることなし。しかれども、数個の諡または竜女の衣冠を定め得たり」程子曰く、「竜女の衣冠はいかようにか定め得たる」曰く、「その品々によりて替わりあり」程子いわく、「われその方の官にあたらば、このこと虚置まし、われこれを弁ぜん。たとえ大河のふさぐことあらん。これ天地の霊にして、宗廟のたすけ、社稷の福なり、また吏士の功なり。なんぞその功を水獣に帰すべからず。なんぞ水獣(竜のことなり)、人の衣冠を着せんや」とそしりたまえば、張子も退きぬ(『二程全書』にあり)。『五雑俎』には、蘇州東海に入ること五、六日、小さき島あり。ひろきこと百里、四面海水はみな濁れるに、ここばかりは水清し。風なきに波高く、水上あかくして日のごとし。舟人あえて近づかず。これ竜王宮なり。人の至らざる所なれども、数千人して木をきり、木をひくの声あり。夜明けて見れば、山の木をきりつくしたり。これ海竜王の室を営むなりといえり。予おもえらく、竜は水をもって家とす、あにまた宮室あらんや。鮫宇貝闕、必ず人の家のごとくにはあるべからず。愚俗の不経なる、実に竜宮ありと思えり。また、『小窓別記』に曰く、「南海の外に鮫人というものあり。形は人にして、水に住むこと魚のごとし。はたおりを績むことをすてず、いずれも服を着る。泣くときは涙珠を出だす」とあり。竜宮というも、これらの物語に似たり。それ、ともにたしかならざる説なり。本朝には地神四代彦火火出見尊、あるとき兄の火闌降命の釣り針を借りて釣りしたまいしが、兄に借りたまいし釣り針を魚に取られたまいぬ。これによりて、剣をくずして釣り針をつくり、兄に返したまいけれども、火闌降命いかりたまいて、もとの釣り針をかえしたまえと、せめはたらる。ゆえに、火火出見尊これを憂いたまいしを、〔しお〕つつのおぢ〔塩土老翁〕という翁の教えにまかせて、海宮に入りて海神をたのみ、かの釣り針をたずねたまうときに、海宮に豊玉姫とてうつくしき姫のおわせしを、めとりて后としたまいしが、かの姫の働きにて、兄より借りたまいし釣り針を求めたまいぬ。すなわち、豊玉姫御子を設けたまう。これすなわち地神五代の彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊なり。これによってわが朝、古昔より竜宮のことを唱えきたれり。しかれども、竜の住まいという竜宮のことにてはあらじ。海宮とは海中にある一つの島をさすならん。すでに火火出見尊の御歌に、飫企都鄧利、軻茂豆句志磨爾、和我謂禰志〔沖つ鳥 鴨づく島に わが率寝し〕とのたまえり。これ、沖津島の中に豊玉姫のおわしますによりて、和我謂禰志と読みたまうこと決せり。謂禰志とは妻ということなり。決定して海府のことにはあらず。たとえば天子の玉顔を竜顔といい、御馬を竜蹄というごとく、海中にある御殿の名を尊んで竜宮と名付くるなるべし。竜は徳を備えたるものにて、よく天地の間に自在するゆえに、中華にても天子を竜にたとえていうこと多し。釈の袋中が『琉球神道』という書に、琉球の王宮に額あり、その額に竜宮城と書きてあるよし記せり。かようのことをあやまりて、海竜の神の住む島というか。『卓氏藻林』には、竜宮は仏寺なりとあり。しかるときは、竜宮というは寺の異名なり。総じて海中は魚の住む所にして、なんぞ人の住するごときの宮殿あらんや。

 つぎに、この竜宮に類したるものに仙郷と名付くるものあり。仙郷のことはシナにて最も盛んに唱うるところにして、竜宮とはなはだ相近し。『神仙伝』「列仙伝』等には種々の例を挙げたるが、今左に一例を出ださん。

  陶潜桃花源記曰、晋太元中、武陵人捕魚縁渓行、忘路之遠近、忽逢桃花林夾岸、数百歩中無雑樹芳華鮮美落英繽紛、漁人甚異之、復前行欲窮其林、林尽水源得一山、山有小□、髣髴若有光、便捨船従ロ入、初極挾纔通人、復行数十歩、豁然開朗、土地平曠、屋舎儼然、有良田美池桑竹之属、阡陌交通、鶏犬相聞、其中往来種作、男女衣着、悉如外人、黄髪垂髫、恰然自楽、見漁人大驚、問所従来、具答之便邀還家、為設酒、殺鶏作食、村中咸来問訊、自云先世避秦乱、率妻子邑人、来此絶境、不復出、遂与外人間隔、問今是何世、乃不知有漢、無論魏晋、此人為具言、聞皆歎惋、余人各復延至其家、皆出酒食、停数日辞去、既出得其船、便拠向路、処々誌之、及郡詣太守説、太守即遣人随往、尋向所誌、遂迷不復得路。

  (陶潜の『桃花源記』に曰く、晋の太元中、武陵の人魚を捕らえて、渓によりて行く。道の遠近を忘れ、たちまち桃花林の岸をはさむに逢う。数百歩中雑樹なく、芳華鮮美、落英繽紛たり。漁人はなはだこれをあやしみ、また前行してその林を窮めんと欲す。林、水源を尽くして一山を得たり。山に小口あり、髣髴として光あるがごとし。すなわち船を捨て口より入る。はじめは極めて狭くしてわずかに人を通ず。また行くこと数十歩、豁然開朗、土地平曠、屋舎儼然、良田美池、桑竹の属あり。阡陌交通し、鶏犬相聞こえ、そのうちに往来し種作す。男女の衣着ことごとく外人のごとく、黄髪垂髫、恰然として自ら楽しむ。漁人を見て大いに驚き、従来するところを問う。つぶさにこれに答うれば、すなわちむかえて家にかえり、ために酒を設け鶏を殺して食を作り、村中ことごとくきたりて問訊し、自らいわく、「先世秦の乱を避けて、妻子、邑人を率いてこの絶境にきたりてまた出でず、ついに外人と間隔す」問う、「今これはなんの世ぞ」すなわち、漢あることを知らず。魏晋に論なし。この人ためにつぶさにいう。聞いてみな嘆惋す。余人おのおの、またひいてその家に至り、みな酒食を出だし、とどまること数日にして辞し去る。すでに出でてその船を得、すなわちさきの道により、ところどころにこれをしるし、郡に及び太守にいたりて説く。太守すなわち人を遣わして従ってゆき、さきのしるす所をたずぬるも、ついに迷いてまた道を得ず)

  続斉諧記、漢明帝、永平中、郯県有劉晨阮肇、入天台山採薬、迷失道路、★(粮の良の丶が一)尽、望山頭有桃、共取食之、如覚少健、下山得㵎水飲之、並澡洗、望見蔓菁菜葉、従山復出、次有一杯派出、中有胡麻飯屑、ニ人相謂曰、去人不遠、因過水行一里、又度一山、出大渓、見二女、顔容絶妙、世未有、便喚劉阮姓名、如有旧、喜問朗等来何晩、因邀過家、庁館服飾精華、東西各有床、帳帷設七宝瓔珞、非世所有、左右直悉青衣端正、都無男子、須臾下胡麻飯山羊脯、甚美、又設甘酒、有数十客、将三五桃至云、来慶女婿、各出楽器、歌詞作楽、日向暮、仙女各還去、劉阮就所邀女家止宿、行夫婦之道、留十五日、求還、女曰、来此皆是宿福所招、得与仙女交接、流俗何所楽、遂住半年、天気和適、常如ニ三月、百鳥哀鳴、悲思求帰甚切、女曰、罪根未滅、使君等如此、更喚諸仙女、共作歌吹、送劉阮、従此山東洞ロ去、不遠至大道、随其言、果得還家郷、並無相識、郷里怪異、乃験得七代子孫、伝聞上祖入山不出、不知何在、既無親属、栖泊無所、却欲還女家、尋山路不獲、至大康八年、失ニ人所在。

  (『続斉諧記』に、漢の明帝永平中、郯県に劉晨、阮肇なるものあり。天台山に入りて薬を採り、迷いて道路を失って糧尽く。山頭を望むに桃あり、ともに取ってこれを食う。少健なるを覚ゆるがごとし。山を下って㵎水を得てこれを飲み、ならびに澡洗し、蔓菁菜葉を望見し、山よりまた出ずるの次いで、一杯の流出するあり。中に胡麻飯の屑あり。二人相いいて曰く、「人を去ること遠からず」よって水を過ぎて行くこと一里、また一山を渡り大渓を出でて二女を見る。顔容絶妙、世にいまだあらず。すなわち劉阮が姓名をよんで旧あるがごとく、喜び問う、「郎らきたる、なんぞおそき」と。よってむかえて家に過ごす。庁館、服飾精華なり。東西各床あり。帳帷、七宝の瓔珞を設け、世のあるところにあらず。左右ことごとく青衣端正、すべて男子なし。須臾にして胡麻の飯、山羊の脯を下すはなはだ美なり。また、甘酒を設く数十客あり。三五の桃を持ち至りていわく、「きたりて女婿を慶す」と。おのおの楽器を出だし歌調楽をなす。日暮れに向かう。仙女おのおのかえり去る。劉阮むかうところの女の家について止宿す。夫婦の道を行い、とどまること十五日、かえらんことを求む。女の曰く、「ここにきたるみな、これ宿福の招くところ、仙女と交接することを得。流俗なんの楽しむところぞ」ついに住すること半年。天気和適、常に二、三月のごとく、百鳥哀鳴し、悲思帰るを求むることはなはだ切なり。女の曰く、「罪根いまだ滅せず、君らをしてかくのごとくならしむ。さらにもろもろの仙女をよんでともに歌吹をなし、劉阮を送りてこの山東の洞口より去れ、遠からずして大道に至らん」と。その言に従って果たして家郷にかえることを得たるも、ならびに相識なし。郷里怪異す。すなわち験して七代の子孫を得たり。伝え聞く、上祖山に入りて出でず。いずれにあるかを知らず。すでに親族なし、栖泊するに所なし。かえって女の家にかえらんと欲して山路をたずぬるもえず。大康八年に至り、二人の所在を失う)

 わが朝にても、浦島太郎が竜宮に遊びしとの伝説あることなるが、そのいわゆる竜宮は一種の仙郷なり。その伝説の大要、左のごとし。

  皇朝事苑(巻之四)曰、二十二年七月、丹波国余射郡菅川人、水江浦島子乗舟而釣、得大亀、化為女、閑色無双、感以為婦、相引入海、到蓬萊山、銀台金闕、錦帳繍屛、仙楽綺饌、居之三年、春暖鳥鳴霞瀁花開、然動帰歟之心、婦曰列仙之陬、一去難再、縦帰故郷定非往日、浦島子不可、婦与一筥曰、慎莫開此、若不開者得再相逢、浦島既帰、林園零落、不見親旧、問之曰、昔聞浦島子仙化而去、既数百年、帳然大怪、開匣視之、忽変衰老、無幾而死、蓋其間三百四十七年也。(後紀淳和天長二年載此事)

  (『皇朝事苑』(巻の四)曰く、二十二年七月、丹波の国余射郡菅川の人、水江浦島子舟に乗って釣りす。大亀を得たり。化して女となり閑色無双なり。感じてもって婦となし、相引いて海に入る。蓬萊山に至れば、銀台金闕錦帳繍屛、仙楽綺饌これにいる三年、春暖かに鳥なき、霞は漾い花は開く。しかれども、帰らんかの心動く。婦の曰く、「列仙の陬、ひとたび去れば再びし難し。たとい故郷に帰るも定めて往日にあらず」と。浦島子きかず。婦一つの筥を与えて曰く、「これを開くことなかれ、もし開かざれば再び相逢うことを得ん」と。浦島すでに帰れば林園零落して親旧を見ず。これを問うに曰く、「むかし聞く、浦島仙化して去る、すでに数百年」悵然として大いに怪しみ匣を開けてこれをみれば、たちまち衰老に変じ、いくばくもなくして死す。けだし、その間三百四十七年なり(後紀淳和天長二年このことを載す))

 以上に掲げし諸例のごときいわゆる竜宮、仙郷のことは、今日にありてはなにびとも古代の妄説としてこれを顧みず。いかにも物理的の説明にては、これを妄説として排斥するよりほかなけれども、もし心理的説明の点より考うるときは、たとい妄説とするも、かくのごとき妄説が、なにゆえに古代人民の心中に起こりしかを、心理上より考究せざるべからず。よって今その原因を考うるに、古代の人民が、山もしくは海の悠遠深邃にして知るべからざることよりして、奇怪なりとの観念を生じたるや疑いなし。これおそらくは妄説の一原因ならん。そのゆえいかんというに、およそ物には全触的、半触的、不可触的の三種ありて、手にて握らるる瓦石のごときはその物の全面を同時に触知せらるるものなればこれを全触的といい、草木山海のごときは、一部分もしくは一面のみ同時に触知せらるるも、同時にその全面を触覚することあたわざるをもってこれを半触的といい、日月星辰のごときは、全くわが手足にて接触するあたわず、遠く触覚の外に存するをもってこれを不可触的という。その全触的の物につきては、なにびともこれを奇怪に思う者なしといえども、半触的の物につきては、人みな多少奇怪に思惟し、不可触的に至りては、大いに奇怪に感ずるを常とす。ただし不可触的の物の中にても、日月のごときはなお可見的なれば、その、これを奇怪に感ずることいまだはなはだしきに至らずといえども、その不可見的の物に至りては、その感、最もはなはだしきを加うるや明らかなり。しかして海面は闊大なり。その津涯知るべからず。深山もまたしかり。その幽邃にして容易に至るべからざる所は眼界の外にあり。この二者ともに不可触にしてしかも不可見なれば、人自らこれらの所に一種不可見、不可触の別天地あるがごとく思惟するに至るは、もとより怪しむに足らず。これ高山、大海が人に奇怪の観念を発さしめしゆえんなり。

 加うるに海上にありては、ときとして異様の人漂泊することあり。山間にありても、ときに異様の人の幽谷より出できたることなしというべからず。また、ときに山に入りて道を失い、海に出でて風に吹かれ、再びかえりきたらざる者あり。これらの事実を照合するときは、ますます山海幽遠なる所には、一種不思議の別天地あるがごとく信ずるに至るべし。かつ、人はいかなる愚民もみな想像と願欲とをそなえ、常に生を好みて死をにくみ、苦を避けて楽につかんことを望むといえども、実際上この希望を満足せしむることあたわざるより、想像をもってその欠を補わんとする傾きあり。これをもって、かくのごとく一種の別天地あるを信ずるに至れば、たちまち想像のこれに加わるありて、わが願欲をみたすべき衆多幸福の状態はかかる所にあるものとなし、自然に国土を構成するに至るべし。これ、かの竜宮あるいは仙郷が現世の楽園なるがごとく思惟せられ、あるいは不死長寿の境なるがごとく考えらるるゆえんなり。果たしてしからば、これらの境はもとより妄想に出でたるには相違なきも、かかる妄想が古代にありてゆえなくして起こりしにはあらず、必ず起こらざるを得ざる事情ありて存せしこと明らかなり。しかして、その事情は客観的にあらずして主観的なれば、物理的説明にてはこれを究むるに及ばずといえども、心理的説明にてはこれを不問に付すべからず。要するにかくのごとくして、いったんかかる想像を構成せし上は、あるいはこれを詩文に写し、あるいはこれを図画にあらわし、広く世に伝うるより、世人一般一様にかくのごとき想像を構成し、ついに一つの固定思想を形成し、それがためにまた種々の妄想、妄覚を誘起して、ときにはその幻境をさえ見るに至らん。しかれども、これただ心理的の説明のみ。

 もし転じて物理的に竜宮、仙郷を説明せば、竜宮は海上の孤島もしくは海上数百里を隔てたる海外の国土なるべく、仙郷は山谷幽邃の所に他郷と交通を絶ちて群居せる一種の人境なるか、しからざれば数帯の山脈を隔てたる別国なるべし。それ、古代にありては交通いまだ開けざりしをもって、海洋もしくは山脈のほかに人民の群居せる国土ありといえども、これを知るに由なかりしや疑いなし。これをもって、たまたま風浪のため、あるいは道を失いしため、かくのごとき国土に至ることあらば、すなわち、これを別世界となし、竜宮または仙郷の名をこれに命ずるは、古代にありてはかえって当然のことにして、決して怪しむに足らず。かつ、はじめてかくのごとき異郷に至らば、その風光、気象より見聞するところの事々物々に至るまで、すべて己の平素住みなれし所のものに相同じからざるべければ、これを人間以外の別乾坤と思惟するに至らんは、愚民にありて免れ難きところなるべく、特に山間の住民は自然に長寿を得べき理なれば、古来仙郷を称して不死国と名付けしも、また全くゆえなきにあらざるがごとし。果たしてしからば、いわゆる竜宮、仙郷は、これを物理的に考うるも十分に説明せらるるものというべし。これを要するに、竜宮、仙郷の説明には、物理的と心理的との二様あることを忘るるべからず。かの竜樹菩薩が竜宮に入りて大乗教を得たりとの伝説のごときも、もし神秘的すなわち理外的に解するときは、事実かくのごとしと信じて不可なしといえども、これすこぶる非学術的なり。されば、いやしくもこれを学術的に解釈せんには、心理的と物理的との二法によらざるべからず。すなわちこれを心理的に解せば、吾人の観念および想像がかくのごとき境遇を構成せしものというよりほかなく、また、これを物理的に解せば、そのいわゆる竜宮は海外の孤島のことにして、当時インドにありては大乗教ほろびたりといえども、なお海外の孤島にはこれを存せしならん。しかして、竜樹かかる孤島に渡りてこれを得、本国に携え帰りて、わが竜宮よりこれを伝えたりと唱えしより、かかる伝説起こりしなるべし。ただし、竜樹のかくのごとき孤島を竜宮と呼びしは、おそらく当時の通称に従いしものならんというよりほかなかるべし。これ、もとより想像説に過ぎずといえども、学術的に考うるときは、このほかにさらに説明する道なきがごとし。

 以上の解釈ももとより想像、憶説に過ぐといえども、古代一般に唱えたる事柄は、決してそのまま信拠すべからざること多ければ、今これを証せんために、古代妄信せし種々の異国の状態を挙げん。まず古代には、一般に長寿不死国なりと信ぜり。『三才図会』にいう、「不死国在穿胸国東、其人黒色長寿不死、居園丘上、有不死樹、食之乃寿、有赤泉飲之不老。」(不死国は穿胸国の東にあり。その人、黒色長寿にして不死なり。園丘の上にいる。不死樹あり、これを食せばすなわち寿。赤泉あり、これを飲めば老いず)とあり。また、長脚国、長臂国、長人国、小人国、女人国等あることを唱えり。『三才図会』にいう、「長脚国在赤水東、其国人与長臂国近、其人常負長臂人、入海捕魚。」(長脚国は赤水の東にあり。その国の人長臂国と近し。その人、常に長臂人を負い、海に入り魚を捕る)また同書にいう、「長臂国在憔僥国東、其国人在海之東、人垂手至地。」(長臂国は憔僥国の東にあり、その国の人海の東にあり。人、手を垂れれば地に至る)また同書にいう、「女人国在東南海上。(中略)昔有舶舟、飄落其国、群女攜以帰、無不死者、有一知者、夜盗船得去、遂伝其事、女人遇南風、裸形感風而生。」(女人国、東南の海上にあり。(中略)むかし舶舟あり、その国に飄落す。群女携えてもって帰るに死せざる者なし。一知者あり、夜船を盗みて去るを得たり。ついにそのことを伝う。女人南風に遇えば裸形、風に感じて生む)またいう、「東方有小人国、名曰竫、長九寸、海鶴遇而呑之、故出則群行。」(東方に小人国あり。名付けて竫という。長九寸、海鶴あえばこれをのむ。ゆえに出ずるときはすなわち群行す)またいう、「丁霊国在海内、人従膝下生毛、馬蹄善走、自鞭其脚、一日可行三百里。」(丁霊国は海内にあり。人、膝下より毛を生ず。馬の蹄にしてよく走る。自らその脚に鞭うって一日に三百里を行くべし)あるいは人面魚身の国ありといい、あるいは獣首人身の国ありといい、あるいは一目一臂の国あり、あるいは三首三身の国ありというの類、枚挙にいとまあらず。これらも今日実在せりとなすべきか、これ、だれも古代の妄想として疑わざるところなり。しからば、古代にありて竜宮、仙郷ありと信ぜしも、今日必ずしもかくのごとき国土存するにあらず。たとえかくのごとき国土が仏教の書中に出ずるも、これ仏教が初めて世人に告げたるものにあらずして、その当時、世間一般に信ぜしものなること明らかなり。ただ吾人は今日にありて、なにゆえに古代の人民が、かくのごとき想像を起こせしやを考定するをもって足れりとなすのみ。



第三講 草木編


       第二八節 生物起源論

 天地の現象、変化につきては、前講においてその大略を論じたれば、これよりは、地球上に存在せる有機物、すなわち動物、植物の上に現ずる妖怪を説明せんとす。しかして、上来論ぜしところは、主として天文学、気象学、地質学、地理学等の諸学に関したるものなりしが、これより論ぜんとするところは地球上の諸生物なれば、生物学すなわち動物、植物の諸学に基づかざるべからず。この説明終わらば、つぎには進みて、無機物の上に現るる変態、異状につき、物理学ならびに化学の道理より説明を試むべし。今、生物の変態、異状を論ずるにさきだち、ここに生物進化の理につきて一言する必要あり。ただし天地の進化に関しては、前の二講においてすでにその大略を示したれば、さらにこれを論ずる必要なし。しかれども、生物全体の進化に至りてはいまだかつて論及せしことなければ、この節においてその大略を説かんと欲するなり。

 よってその進化を考うるに、まず生物の起源を論ぜざるべからず。それ生物の起源に関しては、古代は一般に神もしくは天に創造せられ、あるいは賦与せられて生活現象を有するに至れりと信ぜしが、輓近、実験学の大いに進みし結果として、地球上の生物は無機物より進化発生せしものなることを論ずる学者あるに至れり。ただし今日の進化論者中にも、生物と無生物とは本来全く別物にして、その二者の間に画然たる区別ありと信じ、その生物中にありて種々の族類を生ぜしゆえんのみは、進化論によりて説明し得れども、その生物の無生物より進化せしという点に至りては、容易に信ずべからずとなすもの多し。これけだし、無機物より生物の出でしことを論ぜんには、もはや実験の手段によりてこれを証明することあたわず、自然、想像説に流るる恐れあるがためならん。ただ少数の進化論者は、すでに無機より有機の分化せりとの論をとりて、百方これを証明せんとす。しかれども、この説は今日の進化論者がはじめて唱え出だししにあらずして、その前にすでに唯物論者ありて、無機物と有機物との同一なることを論じたり。しかれども、当時いまだ進化の理を知らざりしをもって、その論ついに空想に陥りたり。ゆえに、今日もし唯物論を主張せんと欲する者は、これに進化論を適用し、特に輓近の実験学によりて証明を与えざるべからず。

 今、その論者のいうところによるに、わが地球上には太初一つの生物をも見ることあたわず、ただ無機物のみ存在せし時代ありしが、その後ようやく草木、動物のごとき生物生ずるに至りしものなることは、地質学の進歩により、地層上に残留せる痕跡をもって証明することを得べし。特に地球の太初は、高熱の気体よりようやく冷却するに従い、液体状となり、固体状となりしものたることはすこしも疑うべからざる以上は、その気体、流体にてありしときに、もとより生物の存在せしはずなきはいうまでもなきことならずや。果たしてしからば、生物はいかにして発生せしか。外より入りきたりて繁殖せしものなりや、はた無生物の自体が内部より次第に開発、進化して生物となりしものなりや。内外二者のうち、いずれかの憶説をとりてこれを説明するよりほか、他の道あることあたわず。されば、古代にありては一般にそのうちの外来説をとりて、かつて内発説を説く者なかりしが、これを今日より考うるときは、外来説はいまだ十分なる説明というべからず。そのゆえは、もし生物が外よりきたりしものならば、さらにその元はなにものなりやと問わざるべからず。しかしてこれを神もしくは天に帰せんか、さらに進みて、その神といい天というものはなにものなりやと問わざるを得ず。かくのごとく次第次第に問題を進むるときは、結局知るべからざるもの(例えばX)より生活現象を生じたりというに帰して、最初の問題は依然としてなお解せられざるをもってなり。これに反して、生物はすべて無機物より発達進化せしものとするときは、たとい直接の証拠を提出することあたわざるにもせよ、間接の証明は容易になすことを得べし。これをもって、近代の進化論者中には、この内発説によりて生物の起源を説明せんとする唯物主義の論者を見るに至れり。今、その内発説によりて生物がなにゆえ無機物より発達せしものなるかを考うるに、まず有機物と無機物とを比較して、その間にいかなる異同あるかを知るを最も必要なることとす。

 よって今、物質、勢力、理法の三点より有機物と無機物との異同を比較せんに、第一に、物質に関しては、無機も有機もみな同一の体質より成りて、その間にさらに相違あることなし。ゆえに、化学上の元素につきて検するも、有機元素と無機元素との区別あるにあらず、ともに同一の元素より成れるなり。また、その変化を考うるに、有機物と無機物との間に相異なれる関係あるにあらず、いずれも同一の原因によりては同一の結果を生ずるを見る。例えば無機物には固体、液体、気体の三状態ありて、固体を熱するときは変じて液体となり、さらに液体を熱するときは気体に化することは、みな人の知れるところなるが、この変化の順序は有機物の間にも行わるるものにして、無機物の場合におけると同一なり。これ、有機物を組成せる物質と無機物を組成せる物質とが相異なることなき証拠にあらずや。ただし、もし外形のみにつきて比較せば、有機物と無機物とは無論相同じからずといえども、そは決して実質相異なれるにあらずして、ただ分子および元素の順序、排置が相同じからざるためのみ。されば、その物質の点よりいうときは、二者同一と断定して不可なきなり。しかれども、もしその元素の種類ならびに分量に至りては、二者の間に区別なきことあたわず。例えば一個の無機物はわずかに一、二種の元素より成るといえども、一個の有機物に至りては常にあまたの元素より成り、したがってその化合変化のごときも大いに相異ならざるを得ず。例えば有機物にありては水素、酸素、炭素、窒素の四大元素が主成分となり、特に炭素の分量著しく多きがごときは、有機物の構造変化をして著しく無機物に異ならしむるゆえんなり。かくいわば、有機物と無機物との間には明らかなる区画あるがごとしといえども、そはただ高等なる有機物と無機物との間のことにして、もし最下等なる有機物に至りてはその外形かえって無機物に類し、ときとしてはこれを識別するに苦しむことさえあるくらいなり。例えばアミーバのごときは実に生物なりといえども、一見したるのみにては容易に無機物と区別することあたわざるなり。

 第二に、勢力につきて二者を比較せんに、有機物と無機物との別は要するにこの一点にほかならず。語を換えてこれをいわば、物質そのものは二者同一なれども、その作用に至りて彼此大いに異なるところあるなり。今、その一例をいわば、有機物には同化力を有すれども、無機物にはこの力を有せず。同化力とは、自体と相同じからざる物を外界より摂収して、これを自体と同様のものに変化せしむる力にして、かの動植物が外界より種々の食物をとりて生長するは、全くこの力あるによる。しかして瓦石のごときは、決してかかる作用を呈することなし。これ、二者の相同じからざる点の一なり。また、有機物は発育する力を有し、無機物はこれを有せず。ゆえに、無機物がその形を増大するには、外より同種類のものきたりて付加するよりほかに道なく、決して内部より発育生長することなし。これに反して、有機物は内部より発育するによりてその体を増大し、決して外部より付加する物あるによりてその体を増大するにあらず。これまた、二者の相異なる点の一なり。また、無機物はこれを幾個に分割するも、その各片はみな同一の性質を持つことを得。例えば土、石、水等のごとき物はいかにこれを分割するも、その各片は依然として土たり、石たり、水たることを得るを見て知るべし。しかるに有機物にありては、かくのごとくなることあたわずして、もしこれを分割せんか、その各部分はたちまちその作用を失い、また元の有機物たることを得ず。これまた、二者の相たがうる点の一なり。

 その他、有機物は運動を有すれども、無機物はこれを有せざる相違あり。ただしここに運動というは、水の流走し、空気の流動するがごときをいうにあらずして、自ら有するところの内包の力によりて運動するをいう。すなわち、無機物の運動するはその原因全く外力にありて、決して自らこれを発するにあらざれども、有機物の運動はその原因内にあるをもって、外力をまたずよく自らこれを生ずるなり。かつ、同一有機物中においても、動物と植物との間にはその運動に相同じからざる点ありて、概していわば、動物はいわゆる移地運動を有すれども、植物はこれを有せず。しかり、植物には移地運動なしといえども、なお各分子の間に運動あれば、無機物のごとく全く自発的運動なきものと明らかに区別せざるべからず。かくのごとく比較しきたらば、有機物と無機物とは、この点すなわち勢力の点においては全く相異なるがごとしといえども、もしそれ今日の学理によりてその本元を究むるときは、またついに同一に帰せざるべからず。そのゆえいかんとならば、生活物の一般に有する運動というも、もとこれ活力の作用にほかならずして、活力は物質一般に有するところの勢力なればなり。果たしてしからば、有機も無機もともに同一勢力を有しながら、その作用の彼此相同じからざるはなんぞや。これ全く、その体の構造機能が著しく相異なれるに原由するものなり。くわしくいわば、有機物において特に活力発生のさかんなるは、その成分中に炭素および水分を含有すること最も多く、かつその構造機能一層複雑にして、諸般の事情が無機物に比して一層活力発生に便なるによるなり。されば、有機物が有するところのいわゆる生力は、もと無機物が通して有するところのいわゆる活力と同一なりというに、なんの不可かあらん。

 さて第三に、理法の点より二者を比較せんに、無機物の間に行わるる規則はまた有機物の間にも行われて、二者ともに同一の規則に支配せらるるを見る。ただし、古代においては有機物と無機物とを全く別物となせしゆえ、その間に存する理法も、したがってまた全く相異なるものと信じ、ために有機物を論ずる学と、無機物を論ずる学とを全く無関係なるものと考えしかども、輓近に至りては知識の進歩によりて、二者の間に存する理法の全く同一なることを発見せしため、生物を研究するにもまた無機物の規則を適用するに至れり。例せば、かの心理学のごとき、近ごろ物理学もしくは数学の規則によりてこれを論明するに至りしを見て、その一端を知るべし。されば、これらの道理より推究するときは、結局はついに万有一体、諸法一理をもって、宇宙の真理となさざるべからざるに至らん。果たしてしからば、有機物といい無機物といい、ともに同一の物より分化派生せしものと結論せざるべからず。予、かつてこの点につきて一説をなしたることあり。その説によるに曰く、無機物より有機物を派生したりというは、いまだ適当の説明というべからず。なんとなれば、これ実に無機に偏したる論なればなり。それ、有機物と無機物とはもとより相対立したるものにして、一方は有機となり一方は無機となりしものなれば、有機なければ無機もとよりあるべきはずなく、無機なければ有機またもとよりあるべきはずなし。かつ、すでに有機と無機とを区別して二者対立するものとなすときは、有機の中に無機を含み、無機の中に有機を含むべき理なし。しかるに有機は無機より生じたりといわば、かつてその中に含有せざりし物を出だしたりというに異ならずして、つまり無より有を生じたりというに帰す。いずくんぞこれを合法の論理というを得ん。

 ゆえに予は、太初の物は有機にあらざると同時にまた無機にもあらず、したがって有機とも無機とも名付くべからざる未判状態の物にして、この物より一方には有機物を発生し、他の一方には無機物を発生せしこと、あたかも猿類と人類とが、一つの普通祖先より分化せしに異ならずといわんと欲す。しかるに、ある論者が無機より有機を発生せりというは、あたかも人類は猿より発生せしものというに異ならず。あにかかる理あらんや。猿はいかに進化すればとて、その中より決して人類を分化することなし。人類と猿とは実に他の一種の祖先、すなわち人類にもあらず、また猿類にもあらざる一種中間の生物より分化しきたりしことが、進化学上疑うべからざる事実なる上は、有機と無機とが他の一種の物、すなわち、有機、無機未判の物より分化発生しきたりというに、なんの不可かあらん。いな、かくいわずんば、生物の起源を論ずるに条理通暢せざるなり。近時、かの唯物論者の説が一般学者の間に承認せらるることを得ずして、反対論のなお勢力を有するゆえんは、全く唯物論者の説くところ、単に無機より有機を発生せりというに過ぎずして、かつて有機、無機未判の物より分化せしことをいわざるによらずんばあらず。予はまたおもえらく、かの唯物論者は、世界の太初に当たりては、ただ無機物のみ存在して、かつて有機物を見ざりきと論ずれど、しかいうときはヤソ教家のいえるがごとく、もし世界の太初には無機物のほか存在せざりしならば、いかにしてその中より活動もしくは運動を有する禽獣、草木の類を生ぜしかの疑問を解することあたわざるなり。思うに、太初は無機物のみ存在せりといえるは唯物論者の謬見にして、すでにその後、有機物がその中より発生せし以上は、必ず太初に存在せし物質の内部に、有機力を含有しおりしものと考えざるべからず。いわんや、上にもすでに一言せしごとく、生力といい活力といい、その本源はともに同一にして物質固有の勢力にほかならざるときは、太初の物質といえどもまた、この勢力と結合して存在せしや疑うべからざるにおいてをや。

 しからばすなわち、この勢力なるものは、これを物力となすも、はたこれを生力となすも、決して差し支えあることなし。これをもってこの理を推拡するときは、太初の世界はこれを死物なりと想像せらるると同時にまた、これを活物なりと想像することを得べし。なんとならば、単にその外面に現れたる状態のみにつきていわば、太初の世界はもとより死物に相違なきも、もしその内部に包含せる勢力の点より考うれば、世界の太初すでに活物なりというを得べければなり。しかるに、ヤソ教のごとき造物主を立つる論者は、世界を本来死物と憶定すれども、そは大いなる謬見にして、すでに述べしところによりて考うれば、世界の太初はこれを死物というを得ると同時にまた、これを活物というを得ざるべからず。しかり、世界の太初すでにこれを活物なりというを得ば、その中より生活物を発生せしは至当のことにして、もとより怪しむべきにあらず。

 これを要するに、この世界万有は表面に死物的現象を示すといえども、内部には活動的勢力を包有するものなれば、その死物と見ゆるは外観のみにして、内面より見れば一大活物なりといわざるべからず。すでに世界の内部にこの勢力あり。これをもって、よく草木、禽獣および人類を分化発生す。ゆえに予は、草木が有せるところの発育力も、動物が有せるところの感覚力も、また人類に固有せる思想力も、みな世界の内部に本来包有せし、この活動力の発現したるにほかならずといわんと欲するなり。果たしてしからば、この世界は一大活物にして、その中に包含せる勢力のために自発自開し、また自存自立して、よく万有万象を開現するものなりというに、なんの不可かあらん。

 古代、風をもって天地の呼吸なりと解せしはもとより蛮民の妄想にほかならざれども、その天地をもって一大活物とみなすに至りては、今日なお当時の見解を改むることを得ず。しからばすなわち、人知は進むがごとくにして、ついにまたそのもとに復するがごとし。ただし、古代の見解は妄想のみ、道理を知りてこれを得しにはあらず。今日の見解はこれに反し、道理を知りてはじめてこれを得たるものなれば、一は盲目的想像に過ぎずして、一は道理的想像なり。ゆえに、世界を一大活物と見る点においては彼此相一致するも、これを混同一視すべからざるはもちろんなり。しかるに、唯物論者は進化論によりて万有の分化を説明せんとしながら、世界をもって死物となすをもって、有機物の発生せし本源を十分に解釈することあたわず。特に人類に固有なる意識、思想の本源に至りては、最もその説明に苦しまざるを得ず。唯物論の困難なること、それかくのごとし。もしこれに反して、この世界を本来一大活物と観せば、これらの困難は容易に除去せらるるにあらずや。

 近世、ライプニッツ氏原子論を唱えて、万有を開発せし無数の分子はみな活物なりと論じたれど、なおいまだこの世界そのものが、すでに一大活物なることを論ずるに至らざりき。その後、シェリング、ヘーゲル等相継ぎてこの説を修正し、やや世界をもって一大活物となす説に近き説明を与えたりしも、ともにいまだ今日の進化論に通ぜざりしをもって、その論なお尽くさざるところなきことあたわず。ゆえにもし、この宇宙活物論を今日の進化論に適合せしめて論ずるときは、古来未発の一大真理を学界に発揚するを得んか。これ実に予が宇宙論にして、予はもとより進化論をとるものなり。また、有機、無機はその本源において別なきことを信ずるものなり。しかして予の説の唯物論に異なるところは、この世界を一大活物となすとしからざるとにあり。ゆえに予は、まさに断言すべし。吾人の有する意識、思想はすなわち世界内包の勢力にして、吾人の霊魂はすなわち世界内包の霊魂なり。吾人の意識より発するところの光明は、すなわち世界内包の光明なり。しからばすなわち、世界の進化とは、この世界内包の光明がようやく外界に向かいて開現することにほかならずと。


       第二九節 生物進化論

 以上は有機物全体が進化開発せし原因を説明したるものなるが、これより進みて有機物中に種々の物を分化せしゆえんを考えんに、まず有機物を大別するときは、動物、植物の二類となすことを得べし。もしこれに人類を加えば、まさに三類となる。この三類は形態および作用において著しく相異なるところありて、その間におのずから高下の差別を見る。すなわち植物のごときは最下等に属して、わずかに生育繁殖する力を有するに過ぎざれども、動物に至りてはやや高等の地を占め、外物の刺激を感受し、かつこれに応答する力を有す。しかれども、なおいまだ高等の精神作用を現さず。高等の精神作用は人類においてはじめて見るところにして、これ実に人類が有機物中に最高位を占め、万物の霊長と称せらるるゆえんなり。かくのごとく、各類互いにその性質ならびに作用を異にするをもって、従来はそれぞれその祖先を異にするものとなせしが、輓近に至り学術の進歩により、これらの差異はみな進化の結果にして、基本はみな同一の祖先より分化せしものなることを知るを得たり。今、試みにこれらの諸類を比較し見よ。動物と植物との間には、判然たる区画をなすこと難きにあらず。また、人類と動物との間においても、前者の最下等なるものと後者の中の最高等なるものとは、ほとんど識別すべからざるほど肖似したるにあらずや。また、人類も動物もその発達の初期においては、これを区別すること難きにあらずや。また、人類のなおいまだ幼稚なるときに有する精神作用は、動物にありてもこれを有するにあらずや。その他、種々の点より比較して、ますますこれら諸類の間に明らかなる分界なきことを明瞭にするを得ん。果たしてしからば、これらのものがもと同一の祖先より分化せりというも、決して怪しむべきにあらず。もしその詳細なる点に至りては、今日の進化論者がすでに種々の実験もしくは観察によりて、残すところなくこれを証明せるあり。なんぞまた、予が煩わしく喋々するを要せん。しかして、かくのごとく生物が進化して種々の類を生ぜし原因につきては、近年ダーウィン氏出でて、これを自然淘汰の理に帰したり。今その説の大要を述ぶるにさきだち、ここに生物学の発達につきて一言を試みざるべからず。

 そもそも生物学が一科の学となりしは、すこぶる近年のことなれども、その起源は遠くすでにギリシアの学説に胚胎せり。すなわち、ギリシア先哲中にその名赫々たるアリストテレス氏は、理学の元祖と仰がるる人なるが、生物学の起源もまた氏の学説に出でたりといいて不可なきもののごとし。氏はすでに今をさること、およそ二千余年前にありて動物の歴史を編述し、その中に動物の分類をなしたることあり。これ実に動物学の世に出でし嚆矢にして、その後久しくこれを拡充しこれを修補する者なく、ただわずかにこれを継述するに過ぎざりしが、近世に至りてリンネおよびキュヴィエ等の学者相つぎて輩出し、さらに生物を分類し、かつこれに説明を与えたり。しかれども、リンネは生物の各種類をみな別々の祖先より出でたりと信じ、キュヴィエはやや一歩を進めて、動植物の本源は一、二の祖先より出でたりと想像し、解剖によりて生物内部の組織を研究するに至りしかども、なお生物進化の理を説くに至らざりき。

 これを要するに、この二氏はともに一七〇〇年代の人なれば、いずれも生物の本源を神の創造に帰したり。されば、当時にありては進化説の出ずるはずなきはいうまでもなきことなるが、その後ドイツにゲーテ出でて、はじめて進化の理を示せり。されど氏はもとより詩人なれば、実験上よりこれを証明せしにはあらずして、ただ想像上にその一端を示ししのみ。これを実験上より証明せんと試みしは、イギリスにありてはエラスマス・ダーウィンを鼻祖とし、フランスにありてはラマルクを元祖とす。ラマルクは、地球上の動植物は古代より相継続して発達しきたりしものにして、もと無機体より進化せしゆえんを論じ、また、その外界の事情によりて種々の変化するゆえん、およびその変化を子孫に遺伝するゆえんをも論じ、あわせて生物の機関はこれを使用せば発達し、これを使用せざれば退化するゆえんまでも説きたり。しかれども、進化の理法を考定して進化説を大成せし功は、チャールス・ダーウィン氏その人に帰せざるべからず。氏はイギリス進化論の鼻祖エラスマス・ダーウィンの孫にして、その説の主要なる点は、自然淘汰、生存競争の理法をもって生物の進化を説明するにあり。この自然淘汰説は、もと人為淘汰によりて考え出だしし説にして、人為淘汰とは、人為によりて禽獣、草木を養成し、これを淘汰してその種類に変化を発せしむるものにして、例えば植木屋の草木を培養し、鳥屋の鳥を飼養するに、その種類の最良なるものをえらびてこれに培いこれに餌し、あるいはこれを交わらしめぬ。あるいはこれをつぎて、次第次第に高等の種類を発育せしむるがごときをいう。しかして、ダーウィンはこの人為淘汰を見て、はじめて天地自然にも、また動植物を淘汰する力あることを発明せしなり。

 さて、その自然淘汰ということを説明せんに、砂漠に住する動物はその色砂漠のごとく、氷雪の間に棲息せる動物はその色氷雪に似たるを見ば、なにびとも、そのなにゆえにかくのごとくなるかを疑うならん。しかしてこれを説明せんと欲せば、必ず自然淘汰の説によらざるべからず。すなわち動物がその棲息せる四囲の物とその色を同じくするときは、よく敵の搏噬を免れ、その生存を全うすることを得れども、もししからざるときは、たちまち敵の食餌となりて生命を失うに至らん。かくのごとくして、自然に四囲の環象とその色を同じくするもののみ生存して、その色を異にするものは跡を絶ち、ついにこれらの動物がみな、かくのごとき色をもつに至りしなりというよりほかに説明の道なけん。これ、すなわち自然淘汰説の概略なり。さればこの説にては、上に列挙せしごとき諸動物がその環象と同一の色をもつは、自然淘汰の作用によりて永き年月の間に、ようやくその体質の上に受けし変化の結果にして、元始より固有せる色にあらずとなすなり。今、さらにこれを詳説せんに、自然淘汰には三種の必要なる事情あり。これを(一)競争、(二)遺伝、(三)順応となす。以下、順次にこれを説明せん。

 (一)競争―そもそも生物がその生存を遂げんには、必ずその生存のために他の生物と競争せざるべからず。これを生存競争という。しかして生物の生存には、自己一身の生存と、各種族全体の生存との二種あり。また競争にも、同種族の間における競争と、また万有自然に対する競争との二様あり。そのうち、まず同種族間の競争よりいわんに、およそ生物の生存に最も必要なるものを食物とす。しかして食物には限りありて、生物の増殖には限りなき傾きあるをもって、種族の口数ようやく増加するに従い、これを得るに困難を感ずるに至らざるを得ず。されば、最初は競争するに及ばずして十分に食物を得しに、後には次第に競争するにあらざれば飢渇を救うことあたわざることとなり、ついに同種族間に相争うことのやむをえざるに至るべし。かつ、地球上いずれの地においても、生物の食物となる物の量は、次第に増殖する生物の数と平均することあたわず。かつてマルサス氏は人口の増殖を数学により算定して、その割合の食物の分量と平均することあたわざるゆえんを示ししが、そはただ人類のみのことなれども、生物全体においてもまた同一の説をなすことを得べし。すなわち生物の増殖する数は、その取りてもって食物とすべき物の分量より非常に多き割合なり。今ここに一年生の草ありとせんか。その草、春生じて秋枯るるまでの間に二個の種子を結び、翌年二個の草となりて発育するものと仮定するも、なお二十年の後には実に一百万株の多きに至るべし。また、象のごときは動物中にありてその子を産すること最も少なく、通例生まれてのち三十歳にしてはじめて子を産み、九十歳に至るまでの間に、わずかに六子を産するに過ぎざる動物なれども、七百五十年の後には、最初雌雄一双の象より、一千九百万の子孫を繁殖する割合なりという。人類もその生殖に妨げなき以上は、二十五年の後には最初の総数の二倍に達し、百年の後には男子の総数十六倍に達する割合なり。特に魚数においてはその増殖すこぶる速やかにして、鯉のごときは一年間に少なくとも二十万の子を産出すという。果たして生物がかくのごとき割合に増加せば、なにほど食物が増加すればとて、到底これらの口数と比例を保つことあたわざるや疑うべからず。したがって自然の勢い、同種族間に生存の競争を見るに至らざるをえざること明らかなり。

 これを再言せば、ここに十口の動物を養うに足るべき食物を産する土地ありとせんに、ここに十口以下の動物棲息せば、競争を用いずして食に飽くことを得べしといえども、もし二十口ないし三十口の動物棲息せんには、やむをえず競争するに至るべし。こはもっぱら動物につきていえることなるが、草木とてもその理また動物に異なることあるべからず。とにかく、地球上の生物がその種類のなんたるにかかわらず、すべて次第にその数を増加し、子孫を繁殖する傾きを有する以上は、生存に必須なる食物のために競争せざるべからざるに至るは、自然の勢いというべし。しかして、あらゆる生物がおのおのその子孫を繁殖せしめ、同種族の数を増加せしむる傾向を有するも、またこれ自然淘汰の結果にして、もしここにその子孫を増殖せしむる傾向少なき生物ありとせんか。かかる生物の種族は永くこの地球上に生存することあたわずして、数万年の後にはついに全くその裔を絶つに至るべく、これに反してその子孫を増殖せしむる傾向多きもののみ、よく永くその種族を継続するを得て、ついに今日にてはこの傾向を有すること多きもののみ残りしなり。すでに、かくのごとく生物相互に競争することのやむをえざることとなりし上は、そのうちのいずれかが勝ち、いずれかが敗るるにあらずばやまじ。ここにおいて、優勝劣敗ということあり。優勝劣敗とは、同種族中にていわば、そのうちの優にしてかつ強なるものは、よく食物を得て生存し、劣にしてかつ弱なるものは、容易に食物を得ることあたわずしてついに滅亡するに至るをいう。されば、競争の結果は優にして強なるもののみを残して、ようやくその種族を進化せしむるをもって、進化は競争によりて生ずるものと知るべし。ただし上にいいしところは、ただ食物につきて同種族間に起こる競争のみなるが、このほかにまた住所の競争あり。それ、生物は地球上のいずれの土地にも同様に棲息することあたわず、必ず各種族の棲息に適する土地と適せざる土地とあれば、その適する所をえらびて棲息せざるべからず。これ、ある種族は山にすみ、ある種族は海にすみ、あるいは深林渓谷、あるいは空気等、その種族により棲息する場所を異にするゆえんなり。いやしくも棲息するにその適する土地を得ざらんか、その子孫いずくんそよく継続するを得ん。しかるに、各種族の生存に適する地には一定の限りありて、また、その限りある土地の中にも、最も生存しやすき土地と生存に困難なる場所とありて、前者を得るものはよく栄え、後者を得るものは衰えざるを得ず。しかして前者の土地は一層狭隘なるをもって、無限に繁殖する生物がこれを占領せんには、勢い同族相争わざるべからず。すでに相争うことあらば、その結果は優勝劣敗に帰し、優者まずこれを占め、劣者はその生存に困難なる土地もしくは全く生存に適せざる土地に駆逐せられ、ついにその裔を絶つに至らん。その他、吾人人類のごときは飲食と住所とのほかに、さらに衣服を要するものなれば、これらの競争に加えて、また衣服のためにも同族相争わざるべからず。

 これを要するに、衣食住は生存に欠くべからざる三大要素にして、その量に限りあるに、これによりて生存せんとする生物は無限に増殖せんとする傾きを有するをもって、同種族中に生存競争の起こるは到底免るるべからざる自然の勢いというべし。それしかり。地球上の生物はみなかくのごとき同族競争の渦中におりながら、他の一方においては、さらに天地自然と競争せざるべからず。天地自然とは寒暑の気候、高低の地位のごときものにして、酷熱、厳寒、または暴風、洪水、その他種々の天変地異によりて生物の生命を失うもの、年々算数すべからざるほどおびただしきは事実なるが、畢竟、これみな天地自然との競争の結果ならざるべからず。また、吾人人類の疾病のごときもこの競争の一種にして、寒気のために疾を得るは、すなわち気候と競争して敗を取れるなり。食物の自身に適せざるか、もしくは土地のその身に適せざるより疾を発し死を招くがごときは、すなわち天地自然と競争して、これに敵することあたわざりし結果なり。およそ生物は万有万象の間にありて絶えずこれと競争し、わずかにその生命を保つものなれば、体質強壮にしてよく四囲の変化に適し、また、よくこれにかつもののみ生存を得て、これに適することあたわざるものはたちまち滅亡せざるべからず。これ、生物は大抵あまたの子孫を生産するにもかかわらず、その大半ははやく滅亡して、わずかに少数が生存を遂ぐるゆえんなり。これを適種生存という。適種生存とは、生物のよく四囲の変化に適するものは生存し、しかることあたわざるものは滅亡するをいう。

 (二)順応―生物を囲繞せる四囲の環象は、絶えず変化してやまざるをもって、この間によくその生命を全うせんには、勢い環象の変化に従いてその身体を変化せしむるを要す。もし、よく環象に応じてその身に変化せしむることを得ざらんか、たちまち滅亡を招くべし。これをもって、生物の身体は外部の事情に伴いてよく変化するに至る。これを順応という。されば順応とは、つまびらかにいわば環象の変化に適応する義にして、つまり身体上に現るる変化のことなり。例えばここに一種の生物ありとせんに、その子孫繁殖するに従いて四方に離散するに至るべく、すでに四方に離散せば、四囲の事情おのおの一様なることあたわざるべきをもって、ようやくその身体に変化を生じ、数世の後には同一祖先より出でたるものの中に、全く別種類の生物を見るに至るべきがごとし。しからばすなわち、現今地球上に生存せる生物の種類は、実に幾百千万なるかを知るべからざるほど多数なりといえども、太古よりかく多種にわかれきたりしにはあらずして、いわゆる進化、順応の結果なること争うべからず。しかれども、そのなにゆえに変化を生ずるかにつきては、ここに一疑問なきことあたわず。あるいは人あり、問うていわん、「同一地方に同一種類の生物生存するときは、四囲の環象も同一なるべければ、甲乙各その身体上の変化を異にすべき理なきにあらずや」と。この問い一理あるに似たれども、少しく思考をめぐらさば、容易にそのしからざるを知るを得ん。それ、同一地方に棲息せる同種の生物にありても、甲乙各生物に対する四囲の環象は、全く同一なること万々あるべき理なし。例えば気候、寒暖のごとき、たとい同一地方にありても、朝夕により、春秋により、大差あるにあらずや。すでにかかる差異ある以上は、その冱寒のときに生まれしものと、酷暑の候に生まれしものとの間には、順応、変化異なるべきはずなり。また、夜間に生まれしものと、昼間に生まれしものとの間にも、四囲の事情すでに同じからざれば、決して同様に順応すべきはずなし。かつ、その変化はただに形体上にとどまるものにあらず、精神、性質の上にも及ぶものにして、かの赤道直下に住する人類がその色黒きがごときは、形体上の変化に過ぎざれども、寒帯地方の人民が一般に忍耐力に富むがごときは、性質上に受けたる変化といわざるべからず。さればこそ、暖地の人と寒地の人とはその性質を異にし、海浜に住む者と山間に住む者との気風相同じからざるなれ。 これを要するに、吾人人類のごときは現今地球上に十億以上も栖住すれど、その祖先はおそらく一地方に起こりしものならん。しかるに、今日にては種々なる人種の区別ありて、各種著しくその形体、容色を異にせり。かつその性質、気風に至りても、人種の異なるに従い、住所の異なるに従いて著しき差異あり。しかしてこれらの差異は、これを順応、変化の結果とするにあらざるよりはほかに説明の道なきなり。人類の順応すでにかくのごとし。他の諸生物においてもまたこれと同様なれば、人類に準じて知るべし。

 (三)遺伝―生物が子孫を繁殖する間において、祖先の形状、性質はその子に伝わり、その子の性質、形状はまたその孫に伝わるは明らかなる事実にして、これを遺伝という。されば、禽獣草木がすべてその祖先の形状を保ち、その祖先の性質を失わざるは、遺伝の法則の行わるる証拠なり。さて、この遺伝には形体上の遺伝と精神上の遺伝とあることなるが、そは人類、禽獣等のその祖先と形状を同じくするのみならず、性質もまた大いにその父祖のものに似たるを見て知るべし。また遺伝には、数代の間、引き続きて遺伝するものと、わずかに一、二代の間に得しところの性質を遺伝するものとの区別あり。例えば、人類の子孫は相変わらず人類にして、猿の子孫はやはり猴なるがごときは、その種族に固有せる性質を遺伝せるものにして、子々孫々に至るまで引き続きてやむことなければその前者に属し、特殊の疾病を父母より受くるがごときは、特殊の事情によりて父母の身体上に発せしもの、すなわち一時の特性をその子に伝うるものなればその後者に属す。

 以上略説せしところにより、進化、淘汰は競争、順応、遺伝の三事情によりて起こるものなること疑うべからず。かつその結果は、単純のものようやく複雑となり、下等の状態よりようやく高等の状態に進むものなることもまた明らかなるべし。よってさらに自然淘汰の種類につきて一言せんに、まずその一種に同色淘汰といえるものあり。同色淘汰とは、生物が自然の淘汰により、ついにその住所および外囲のものと同一の色を有するに至るをいう。このことにつきては、上にもすでに一言したれども、重ねてこれをいわんに、砂漠地方に住める狐、鼠または獅子の類は、大抵その毛色、砂漠の色に異ならず。また、寒帯氷雪の間に住せる獣類は、その色みな白くして氷雪のごとし。また、緑葉の間にある虫類は、その体緑色を帯び、暗所もしくは夜間に出ずる動物は暗黒色にして、容易に認められず。あるいは清澄なる湖水の中にすめる動物には、透明なること水晶のごときもの多く、また、ある動物は時期によりてその色を変ず。例えばある一種の兎のごときは、冬期には白きこと雪のごとくなれども、夏期には赤土と同じき毛色に変じて、環象とその色を同じくす。わが国にても、北地の雪多き地方にすめる兎は、みなかくのごとく、その毛色の変化を有す。また、水中の動物中には腹背その色を異にし、上よりこれを見るに、その背青きをもって水とわかち難く、下より望むに、その腹白きをもって水中より天を望みし色に異ならざるものあり。また、ある動物は四囲の色に応じて、たちまち紅色となり、たちまち緑色となり、時々刻々自由にその色を変ずることを得という。これを要するに、かくのごとき諸動物が種々の色を有し、またはその色を変ずるは、みなこれその身を保護するゆえんにして、もしその色環象と同じからざるときは、敵の襲撃を免るること難く、これに反して環象と分かつべからざるがごとき色を有するときは、他の動物の食物となるを免れ、もってその生を遂ぐることを得るなり。されば、これらの色もまた進化、淘汰の際、順応変化せし結果にして、元始より固有せしにあらざるや疑うべからず。

 この同色淘汰のほかに、さらに雌雄その色彩、形状を異にして、もって互いに淘汰することあり。それ、動物が雌雄おのおのその色彩、形状を異にせるは最も明らかなる事実にして、なかんずく鳥および蝶類にありては、その差異ことに著しきを見る。すなわち鳥および蝶の雄は、その形、雌よりやや大にして、その色も一層美しく、かつ大抵種々の装飾および護身器を有するをもって、一見して雌と区別することを得べし。しかしてその護身器を有するは、配偶を求むるために雄と雄と相争うより生じたる結果にして、また、その種々の装飾を有しかつ美麗なる容色を有するに至りしは、全く雌の好みてかかる雄にのみ近づき、よってその子孫を繁殖せしに帰せざるべからず。その他、動物の雄は大抵さわやかなる音声を有せるが、これまた雌雄淘汰の結果にして、雌の好みて美声を有する雄に近づき、よってその子孫を繁殖せし結果なり。近く鶏につきて検するに、雄は護身用としてけづめを有し、装飾として冠をそなえ、その音声もその体格もみな雌にまさるはなにびとも知れるところなるが、これすなわち、いわゆる雌雄淘汰の結果にして、同種族間の競争よりきたりしものにほかならず。

 これを要するに、今日に見るところの数百万種の生物は、元始のときより、かく多種類に分かれきたりしにあらずして、根元の祖先は一種なりしに相違なけれども、上に詳説せしごとき諸種の事情によりて、次第に分化派生せしものなれば、とりもなおさず万有必然の理法に基づけるものにして、決して神があらかじめ計画せしにはあらざるなりとするが、現今一般に承認せられし学説の大要なり。ただし生物中にも、人類の進化に至りては、生物一般の進化と、ややその性質を異にするところなきにあらざれば、下に別に異人編において、これを詳論すべし。


       第三〇節 生物論

 予がこれより論ぜんとするところは生物学の研究に属する問題なれば、まず生物学の大要を一言するを要す。それ生物学とはいかなる学なりやというに、一言にていわば、生活を有するものによりて生ずる現象を講究する学なり。しかるに生物には草木あり、禽獣あり、また人類あり。その間にあらわるる現象にも、もっぱら物質の上に関するものあり、または主として精神作用に帰するものありて、決して単一にあらざれば、したがって吾人がこれを研究するにも、便宜上数科に分かつことを得べし。すなわち、もっぱら生物の精神上にあらわるる現象を研究するを心理学といい、人類の起源、発達を論ずるものを人類学といい、その人類が相結びて組織する社会の現象を研究するものを社会学といい、人類身体の構造、機能を講ずるものを生理学というがごとき、おのおのその科を異にすといえども、もし生物学の名を広義に解する点より見れば、みなこれ生物学中の分科として不可なきなり。しかれども、今日のいわゆる生物学とはかくのごとき広義のものにあらずして、心理学、人類学、社会学、生理学等の諸学と相対し、もっぱら動植物の上に生ずる種々の現象を研究する部分の名なり。さはいえ、生物学はこれらの諸学と相関係することすこぶる密接なれば、これら諸学とこの学との間に、画然たる限界を画することあたわざるやもちろんなり。しかしてこの生物学に対して、別に無生活物の上にあらわるる現象を考究する学科あり。すなわち天文学、地質学、気象学のごときこれなり。もし唯物的進化論によりて、世界の太初よりようやく開発したる形跡につきて考うるときは、その生物学にて研究するところの物すなわち生活物と、無生物学にて研究するところの物すなわち無生活物との間には、明らかなる分界あるべからざるがごとしといえども、今日にありては、この両者を区別することはさほど困難にあらず。ただ、その生物中にありて動物と植物とを区別することに至りては、すこぶる困難なきことあたわず。人もし動物中の最も発達したるものと、植物中の最も発達したるものとを取りて相較するときは、だれかこれが区別を誤らん。しかれども、もしその種類の一部分を取りて比較せば、ついに二者を区別することあたわざるに至らん。されば、これらの二者にいかほど適恰せる定義を下すといえども、今日の知識にては到底判然たる分界を画することあたわざるべし。

 ゆえに今しばらく、この二者を総括して単にこれを生物と称し、さてその性質いかんと考えんに、およそ生物はその種のなんたるを問わず、みな多少の構造組織をそなえ、内外その状態を異にする性質ありて、よく内外の諸事情に応じて変化し、新陳代謝絶ゆるときなく、もってその生活作用を継続するものなり。しかして、もっぱらその形式、状態を研究する部分を形態学と称し、形態学によりてその構造組織を考究し、またその発達に伴いて変化する順序を定め、その性質に応じてこれを分類するなり。形態学によりて生物の組織を考うるに、輓近顕微鏡の助けによりて、すこぶるこれを明らかにすることを得たり。すなわちその結果を概言せんに、生物は一として細胞より成らざるはなし。細胞は実に生物を組成せる個々の原器にして、この原器相集まりて一個の生物あるなり。しかしてこの細胞が種々にその形を変じ、もしくは分かれて種々の部分となり、もって生物の生育を現す。すでにしからば、その構造および発達において異同あるべきは必然のことにして、これ、これを分類してあるいはこれを科とし、あるいはこれを属とし、類となし種となすゆえんなり。ただし、生物の分類には人為と天然との二法ありて、ただ二、三の著しく相異なれるところを標準とするものを人為分類法とし、全体の相類似する点あるいは相異なれる点を標準とするものを自然分類法とす。また、生物の研究には形態学のほかに、その地球上に分布せるありさまを研究する部分あり。これを分布学と称す。それ、生物は陸上にのみ棲息せるにあらず、あるいは淡水中に住するものあり、あるいは鹹水中に生育するものあり、また空気中に生育するものあり。しかしてその住する位置の高低、寒熱によりて、その種類ならびに形態変化一様なることあたわざるがごときは、みな分布学にて研究するところとす。かつ、生物は単に一定の形態を有せるにとどまらず、みなその内部に構造、機能をそなえて活動発育する作用を有せり。されば、これら形態、分布の二学のほかに、さらにこの生活作用を研究する部分なかるべからず。これを生物生理学という。生理学は、主として生物の栄養あるいは生殖等の諸作用を論じてその理を示すものなり。けだし運動器、感覚器もしくは神経、筋肉等のごときは、生物通有のものにあらず。あるいはこれをそなうるものもあれば、またかつてこれを有せざるものもありといえども、栄養、生殖の作用に至りては、いやしくも生物たる以上は、必ずこれを有せざるはなし。しかしてその作用は、生物の種類によりて一様なることあたわず。これ、生物の研究に生理学の一部を要するゆえんなり。

 また別に、生物の起こりし原因を探究する部分あり。これを探原学という。探原学の問題、すなわち生物の起源に関しては、古代と今日との間にその説、天淵の差あるを見る。すなわち、古代にありては大抵偶生説を信じたり。偶生説とは、原因なくして偶然に発生せしものとする説にて、今日より見ればもとより無稽の妄想なること明らかなれども、昔時にありては実にしか信ぜしなり。現時においてこそ、生物の発生には必ず元種ありとして、決して偶生を許さざれども、往時にありては、あるいは馬の尾が蜂に化し、麦稈が鰻に化するがごときは、事実いなむべからざるものと信ぜしや疑うべからず。これ、けだし生活なき物質が腐敗すれば、生物のこれに発生することあるより想像せし説なるべし。しかれども、今日にては生物の学大いに進みし結果として、いかなる生物もみな、種実あるいは卵子より発生するものなることを知るを得たり。そのたまたま元種なくして偶然発生せしがごとく見ゆるは、その卵子もしくは種実のはなはだ微細にして、これを目撃することあたわざるがゆえのみ。されば、吾人を包擁せる空気のごときも、肉眼には純潔にして一点の塵埃だにまじらざるがごとく見ゆれども、顕微鏡の力によらば、この中に無数の微小なる卵子ありて、空気とともに浮動せるを見んことすこぶる容易なり。顕微鏡にて見るを得べき卵子、すでにかく無数なりといえども、このほかに現今の精巧なる機械にても、なお見ることあたわざる無数の卵子あるや疑いなし。しからばすなわち、物、腐敗して虫これに生ずるがごときは、もとより怪しむに足らず。すなわち、かくのごとき微細なる卵子が生育するに適当なる事情に会して、肉眼に見らるる生物となりしにほかならざるなり。しかるを古来偶生と信ぜしは、全く顕微鏡のごとき精巧なる機械なかりしによるのみ。もし、その生物起源の問題、すなわち太初いかにして生物この地球上に発生せしかの問題に至りては、進化論者のつとに証明せしところにして、その大要はすでに前に述べたり。しかるにある論者は、生物はことごとく高熱にあえばたちまち死する事実と、ある高熱なる物質中にもなお一種の産物ある事実とを見て、かかる高熱の所に生物の卵子が糜爛せずに存在せらるるはずなければ、これ畢竟、偶生にほかならずという者あれども、こは生物の性質種々にして、その生活に耐うる温度の各種一様ならざるを知らざるより起これる謬見なり。ある生物は百度以下にてすでにその生活を失うといえども、また、ある生物は二百度の温度に会してなお死せざるは、実験上疑いなきこととす。かつ物体を熱するに当たり、外気の流通を防がんため、いかに精密なる装置の中においてするも、全く外気の流入を途絶すること難かるべし。もし多少の空気この中に流入することありとせば、いったんその物体を熱して該装置中の生物を残らず熱殺するも、一時の後ようやくその熱を失えば、他の卵子空気とともにその装置中に入りきたりて、再びその物体の発生を見ることあるべき理ならずや。

 これを要するに、従来はかえって生物を偶然に発生せしものとして疑いなかりしかども、現今にては偶生説をとらば疑問いよいよおこりて、ついに解すべからざるに至らん。


       第三一節 植物論

 生物を二大別して動物、植物となすことは上にすでに一言せしところなるが、そのうちもっぱら植物の現象を考究するものを植物学と称す。しかしてその研究すべき問題一、二にとどまらざるをもって、この学の中にもまた形態学、生理学、分類学等の小区別あり。その分類学にては無数の植物を比較し、相互異同の点よりこれを分かちて科となし属となし、または類となし種となす。これを一言に説き尽くすこと容易ならざれども、通常植物を分類するには、全植物界を二大別するをもって足れりとす。すなわち顕花植物、隠花植物これなり。また、個々の植物体をその形態の相同じからざる点より分かつときは、これを胚、根、茎、枝、葉、花、果実等の部分となすことを得べし。植物形態学はこれら各部分のいちいちにつきてその形態、組織を論じ、植物構造学はその構造を論じ、植物生理学はその機能を論ず。これらのうち、その形態、構造等の諸点はこれをその学に譲り、今ここに植物の機能作用につきて一言せんに、およそ世人はひとり幽霊、鬼神等の妖怪なるを知りて、植物のかえって奇々妙々なる作用を現すに気付かず。思うに、世人は小妖怪を見る目を有すといえども、かつて大妖怪を見る目を有せざるによるか。今植物を検するに、これもとより有機体の一種なれば、その生活作用はほとんど吾人に異ならず。すなわち植物はその根より滋養物を吸収して、これをその体中に同化し、よってもって発育生長せり。また、根はいかなるものもみだりに吸収するにあらず、必ずその体を養うに適当なるもののみを選びて吸収するものなれば、植物は明らかに栄養物を選択する作用を有せり。しかれども、植物の生活に必要なる炭素のみは、これを根より吸収することあたわざるをもって、葉よりこれを吸収するなり。すなわち大気中に存在せる炭酸をその葉より吸入し、日光の力にかりてこれを炭素と酸素とに分解し、そのうちの酸素は再び大気中に散出せしめ、炭素は根より吸収せし物質と化合せしめて、もってその体質を形成す。ゆえに、植物体を構成せる炭素は、全くかくのごとくして空気中の炭酸ガスより得たるものにほかならずして、植物の発育するは、外界より得しものを自体に変化せしによる。

 しかしてその炭酸ガスを吸収してこれを分解し、再び酸素を大気中に放散せしむる作用は、実に大気を純潔にして動物の生活に適せしむる効あり。しかるに、動物はこれに反して酸素を吸入し炭酸〔ガス〕を吐き、もって植物の生育を助け、動物と植物と互いに相助けてその発育を遂ぐるは、すこぶる奇といわざるべからず。しからばすなわち、これを妖怪というになんの不可かあらん。かつ、植物中には動物を捕らえて食物となすこと、かの肉食動物に異ならざるものあり。例えば、捕蠅草のごときは蠅を捕らえて食物とし、また、もうせんごけのごときもまたよく小虫を捕らうる作用ありて、もし蚊、虻のごとき小虫飛びきたりてその葉に触るれば、ただちに捕らえてこれを食らう。これまた植物中の妖怪にあらずや。また、植物の花においては、さらに一層奇怪なる作用あり。それ花には雄蕊、雌蕊および子房等の部分あることはだれも知れるところなるが、これら機関の間には、互いに交接受精して果実を結ぶ作用行わるるなり。吾人は常にこれを見るをもって決して怪しまざれども、その実、奇怪なることにあらずや。ただし、植物は動物のごとく自由に運動することあたわざるをもって、受精作用を遂ぐるに、これが媒介をなす物なかるべからず。すなわち、その媒介物の主要なるものは水、風、ならびに虫なり。例えば、蜂が蜜をもとめて花より花に飛び回る間に、甲花の花粉を乙花に運び、乙花の花粉を丙花に運び、もってその受精を助くるがごとし。あにまた奇ならずや。従来は平素見なれざる奇草異木をのみ妖怪と称し、これによりて人事の吉凶、禍福をトしたれども、今日にありてはかくのごとき奇異なる草木は、すこしも怪しむに足らざるものとなりて、吾人の平素見なれたる植物中に、かえって種々の奇怪なる作用あるを発見したり。これ、予が世人のいわゆる妖怪は真の妖怪にあらずと断言するゆえんにして、もし活眼を開かば、一草一木みな妖怪ならざるはなきを見ん。


       第三二節 植物的妖怪

 今日の植物学より見れば、植物に自然の規律に背反する妖怪のあるべきはずなく、あるいはやや妖怪に類する現象を呈することなきにあらざれども、そはみな普通の道理にて説明せらるるものなり。しかるを、古代にありてはこれらの道理に通ぜざりしため、奇異の草木はみなこれを妖怪となし、したがって種々の怪談を付会するに至りしや疑うべからず。これ今日に至るも、所在なお植物的妖怪の存在するゆえんなり。この種の妖怪中には、草木そのものの上にはすこしも奇怪とすべき点なきに、ただ古来の伝説によりて、ついに一種の妖怪となれるものあり。例えば太宰府の飛梅、堺〔の〕妙国寺の蘇鉄、羽後国湯沢の小町芍薬のごとき、みなこの類なり。中にも飛梅は最も名あるものにして、世人の伝うるところにては、往昔、菅原道真公梅を好み、多くこれを庭前に植えて愛せられしが、一朝、藤原時平がために讒せられて罪を得、太宰府に謫せられし後、かつて菅公が愛せられし紅梅、京都より空中を飛びて太宰府にきたり、よって菅公を慰めしよりこの名ありという。また、下野国蘆野と名付くる地には、遊行柳と名付くる一株の柳あり。この柳につきては、往昔その柳の精霊が遊行上人に逢いたりとの伝説ありて、これを遊行柳と名付くるも、全くこの説に基づけるものなり。その他、袈裟掛、珠数掛、銭掛等の名を得たる松杉の類、いちいち枚挙すべからず。また、あるいは手植えの梅、もしくは手植えの桜などとなうるもの、いくたあるを知らず。これらは里人が古人の徳を追慕し、記念のために保存せるものなれば、もとより妖怪的のものにあらざるや明らかなり。しかるにこの種の草木中には、単に記念のためにすぎざるものと、これに種々の怪談を付会し、ことさらに妖怪的にいい伝えしものとの二種ありて、後者は一種の植物的妖怪に属せざるべからず。これを要するに、以上に掲げし諸例は、いずれもみな草木そのものが妖怪的なるにあらずして、これに付会せられたる伝説の奇怪なるより起こりし一種の植物的妖怪なり。

 さらに、これに反して、草木そのものの形質上に種々奇怪の形象を現ずるものあり。あるいは草木そのものの形質にはすこしも奇怪なることなしといえども、古来これに付会せし伝説が原因となりて、実地に経験するとき、種々の妖怪現象をその草木の上に見るに至るものあり。今これらの二つを総括して、これを物理的妖怪および心理的妖怪の二種に分かち、いささかこれが説明を試みんと欲す。そのうち、まず物理的妖怪より論ぜんに、このうちには、(一)地質に関するものあり。京都下加茂神社内にある★(柊の旧字)のごとき、その一例なり。古人の伝うるところによるに、その神は★(柊の旧字)を愛したまうゆえ、人もしこれに祈願するところありて、その願望成就せしときには、★(柊の旧字)樹を献じてその恩を謝すべし。また、もしその祈願のかなうかかなわざるかは、★(柊の旧字)にあらざるほかの樹をその社内に植えて、あらかじめこれをト知することを得べし。すなわちその植えし樹が★(柊の旧字)に変ぜしならば、これ祈願成就の兆しなりという。いかにも、かの社内には多くの★(柊の旧字)樹蓊鬱として林をなし、中には★(柊の旧字)樹にあらざる樹が★(柊の旧字)樹に変質せしがごとく見ゆるものありて、この社に詣ずる者はみなその奇に驚かざるはなし。

 『不思議弁妄』と題せる書には、これを説明して曰く、「地質の堅柔と気候の変遷とにより、地中より種々の元素気を蒸発す。この蒸発する元素気のいかんによりて、よく生長する植物と、よく生長せざる植物との区別あり。かの加茂神社の境内は、ひとり★(柊の旧字)樹にのみ適する元素気を地中より蒸発するをもって、多くこの樹を見るに至りしものなれば、もとより奇とするに足らず。この類のことは、羽前国米沢にもその例あり。すなわち、同地には古来柚樹の生長することなく、他の地方よりこれを移し植うるも、三年の後には必ず枳樹と変ず。これまた、加茂の★(柊の旧字)樹と同一理なりといえり」余はこの説明を信ずるにあらずといえども、地質の異同によりて、その地に生ずる草木に変化を生ぜしむることは疑うべからざる道理なれば、加茂の★(柊の旧字)もまたその理によれるものなるがごとし。もしその地質を分解して明らかにその理由を示すは、地質学者ならびに植物学者の任にして、予があえて当たるところにあらざるなり。また、これに類する一例は、羽後国雄勝郡湯沢町近傍に小町村と名付くる村あり。この地は小野小町が出生せし地なりとて、今なお小町の宮あり。その後裔なりと伝うる家は代々農家にして、いにしえより男子の生まれしことなければ、その女子に婿を迎えて相続せしむるを例とすという。その辺りの田の畔に九十九株のし芍薬あり。小町が植えしものなりという。これを小町芍薬とよびなせり。この芍薬は他の地に移し植うるも決して生育せざる由なるが、なにゆえにこの芍薬に限りて他の地に生育せざるかは、これまた地質の適せざるに帰するよりほかなかるべし。また、かの越後の七不思議と称するものの中には種々の奇怪あることなるが、特に真宗祖師の旧跡には草木に関する奇怪多し。繋ぎ榧はすなわちその一つなり。予も先年これを拝せしことありしが、その土地の人のいうところによるに、その近辺の山野にある榧の実には、みな天然に糸をもってつなぎしがごとき跡あれば、これ畢竟、この辺りの地質に固有せるものならんと。この説おそらくは真に近からん。ただ、これを祖師の遺跡として保存するは、召伯〔召公〕の甘棠におけるがごとく、その余徳を追慕するに外ならざるべし。

 つぎに物理的妖怪に属する他の一つは、(二)気候の変化によりて生ぜし草木の妖怪なり。それ、高山には往々平地に見ざる一種の奇草異木を見ることあり。これ山上は通例、平地よりも寒冷なるがゆえなるべし。しかして熱帯地方には寒帯地方にかつて見ざる植物生育し、寒帯地方には熱帯地方にかつて見ざる植物の生長せるも、みな気候の差異によるものなること疑うべきにあらず。されば、寒帯の植物を熱帯地方に移し、あるいは熱帯の植物を寒帯地方に移すに、たちまち枯れて生長せざるは、全く気候のためにして、もしかくのごとく著しく気候を異にせる所に移植せし植物が、たまたまよく生育することあらんには、必ずその質ようやく変じて、ついに全く別種の植物となるに至らん。これらのことはだれも疑わざるべければ、いちいちその実例を列挙するに及ばざるべしといえども、その手近きもの一、二をいわんに、越後国魚沼郡に苗場山という山あり。その頂上には天然の田ありて、自然に一種の稲を生ず。その状は実に人工に出でしもののごとしといえども、古来だれもこれを耕芸せし者ありしにあらず。しかしてその稲も平地にあるものと同じからずして、もとより別種のものなりという。これけだし、気候の平地と相同じからざるより、かくのごとき別種のものここに生育するに至りしならん。また、秋田県の田代山という山の頂上にも、天然稲の生長せるものありという。

 また、ややこれらのものに異なれども、(三)土地の気象より受けし草木の変化を、古来妖怪なりとして世に伝うるものあり。そは遠州七不思議の一つなる片葉の葭にして、この葭は一方にのみその葉を生ずるよりこの名あるに至りしものなるが、こはその土地風強く、かつその風、始終一定の方向より吹くに原因せしものなること疑うべからず。越後にも中蒲原郡新津地方にこれと同種の葭あり。その理、同一なり。

 またここに、(四)気候、地質等に関係なく、したがって草木の形質にはなんらの異状なきも、非常に古くより生長したるため神木とあがめられ、一種の妖怪となれるものあり。堺の蘇鉄のごときはその一例にして、その高さ一丈三尺、周囲およそ二丈ありという。かく無比の大茎なれば、人のこれを神霊視するに至りしも、全くゆえなきにあらず。また、近江唐崎の松のごときも、従来日本第一と称せらるるものにして、天下なにびとかこれを知らざるものあらん。しかれども、その樹に奇怪とすべき点あるにあらず。ただその非常に巨大にして他にその類を見ざるより、見る者これをもって奇となし、したがってついにこれを神聖なるもののごとくに思惟するに至りしなり。

 また、(五)土地の全く異なりたる場所には、全く異なりたる草木の生ずるは当然のことなれども、深山幽谷に入りて平常見ざる植物に触るるときは、これを妖怪のごとくに考うるなり。例えば『山海経』に曰く、「南山経之首、曰䧿山、其首曰招揺之山、臨于西海之上、多桂、多金玉、有草焉、其状如韮、而青華、其名祝余、食之不飢、有木焉、其状如穀而黒理、其華四照、其名曰迷穀、佩之不迷。」(南山経の首を䧿山という。その首を招揺の山といい、西海の上に臨む。桂多く、金玉多し。草あり。その状は韮のごとくにして、青華あり。その名は祝余。これを食らえば飢えず。木あり。その状は穀のごとくにして黒理、その華四照す。その名を迷穀という。これを佩ぶれば迷わず)とあり。これ深山幽谷は気候、地質等を異にするをもって、かくのごとき奇草異木あるもあえて怪異とするに足らざるも、昔時はこれを妖怪視するのみならず、「不飢不迷」(飢えず迷わず)というがごとき付会をなすに至りしなり。

 また、(六)世には人工によりて、一茎に二種の相異なりたる枝葉、あるいは花を付くる草木を造成することあり。これもまた妖怪と称せらるるものにして、播州高砂の相生松のごときその一例なり。この松はその幹一つにして、中ほどより雄松と雌松との二枝に分かれ、あたかも夫婦相対するがごとき状ありしより、この名を得たりという。そのなにゆえに、この松に限り一根にして雌雄二枝に分かれしかということにつきては、『不思議弁妄』の著者は左のごとくいえり。

   思うに、在昔好事者あり。植物合接の理を知り、雌松と雄松の嫩苗を取り、互いにその一片をさき、抱き合わせてかたくこれを縛り植えしもの、久しきをわたりてついに枯れず、ようやく成長して相生の姿をなせり。すなわち人工相生の松というべくして、決して自然の相生の松にあらず。

 『諸国里人談』にも、これに類する一例あり。そはすなわち枝分桃と称する樹にして、その記事、左のごとし。

   安芸国新庄村と佐東村の界に大木の桃一樹あり。南は新庄、北は佐東なり。この桃、佐東の方へさしたる枝の桃は苦く、新庄の方へさしたる枝は甘美なり。土人のいう、むかし弘法大師、佐東にて桃を請いたまうに、この桃ははなはだ苦し、人のくらうにはあらずといえり。新庄にて請いたまえば、甘美なりとてまいらせけるとなり。ゆえに、一木に甘苦の味わいありとぞ。

 また、『本朝奇跡談』に曰く、伊勢国鈴鹿郡高宮村に檜椿という名木あり。椿の木より檜の葉出ずるなり。すべてこの村の椿に檜の葉交じり出ずるなり。これを土地の者は弘法大師がかくなせしがごとく伝うれども、だれかこれを信ぜんや。余は植物学者にあらざるをもって、これらの奇怪を十分に説明することあたわずといえども、いずれも人工の接木にて生ぜしむることを得べきものなれば、深く怪しむに足らざるがごとし。

 また、(七)従来は奇草異木の偶然発生するを見て、これを妖怪となしたり。すなわち、あるいは嘉禾を田に生じ、あるいは霊芝を庭前に生じ、また、ときならずして狂花の開く等のことあるときは、すなわちこれをもって人世禍福、吉凶の前兆となしたりしなり。しかれども、これらの異常は主として気候の変化よりきたるところの結果にして、もとより妖怪というべきものにあらず。したがって人事の吉凶、禍福の上には、なんらの関係をも有する理なし。

 これを要するに、以上の諸例はいずれも予がいわゆる物理的妖怪に属するものにして、世人はこれを妖怪と称すといえども、少しく思考をめぐらすときは、一として地質学、植物学等の道理によりて説明せられざるものなく、したがってこれを妖怪とするいわれなきゆえんを知らん。

 つぎに、妖怪的植物の心理的なるものを述べんに、こは上の物理的妖怪に異なり、草本そのものは決して妖怪にあらざれども、吾人の精神作用によりて一種の妖怪となれるものをいう。例えば古来、某所某の樹には霊ありとの伝説あるときは、わが精神よりこれを迎えて、真に霊あるがごとく感ずるものこれなり。もっともその中にも種々ありて、まず第一には、偶然ある妖怪現象がその草木の近傍に現れしを見て、これが原因をその草木に帰し、もってこれを妖怪となすに至りしものあり。例えば、古来、霊ありとの伝説ある古木の辺りにたまたま怪火の飛ぶを見て、ただちにこれをその木の霊に帰するがごときこれなり。かくのごとき場合にありては、怪火と古木との間には元来なんらの関係もなきに、吾人の妄想よりかく想像したるものなれば、これを偶然性の妖怪と称して可なり。今その実例を挙げんに、予が郷里に一本の老杉あり。これをさること一里ばかりの隣村に、また一本の古き槻あり。いずれも古木なれば、古来これを霊木と称す。しかるに、毎年秋霖の候に至れば、ときどきこの両村の間に燐火の飛ぶを見るより、里人は一般にこの二樹をもって夫婦の関係あるものとなし、その霊の互いに交通するより、怪火を現ずるに至るものと信ず。しかれども、これ実に迷謬にして、いわゆる偶然性の妖怪なることは、さらに詳説するに及ばず。

 第二に、人の精神より迎えて直接に妖怪現象を生ずるものあり。その実例は、往時、武州川越町より熊谷に至る途中にありし「首交縊り松」のごときこれなり。「首縊り松」とは、人のたびたびこの松にて首を縊りし者ありしより名付けしものという。この松今は存せざれども、これに類似したることは予輩の往々聞くところなり。しかして世人のいうところに従えば、かつてこの樹にて首を縊りし者の霊魂、他の人を招くゆえ、かくのごとく相つぎてこの樹に縊死するもの多きなりという。これ、もとより俗説なれば信ずるに足らず。しからば、なにゆえにこの樹に限りてかく首を縊る者多きかというに、こはすなわち予がいうところの心理的妖怪の一つにして、木そのものが人を招くにあらず、人の心が自ら迎えてその樹に首を縊るに至るなり。その理は、東京にて身投げは浅草吾妻橋に限り、縊死は上野摺鉢山に限るがごとくなれると同一にして、いったん世人の心中にてその樹にて縊死せし者あることを記憶するときは、憂鬱苦慮にたえ難き者、その樹の下を通過せんとするに、たちまち以前の記憶心中に再現し、縊死せんとする動機しきりに動いて、自らこれを制することあたわず、その人自身もあたかもその樹に招かるるがごとく感じて、ついに縊死をなすに至るなり。

 第三に、『諸国里人談』に前の諸例とやや異なる妖怪的植物を記載せり。その記事に曰く、「三河国宝飯郡小松原観音寺の本尊は、馬頭観音にて行基菩薩の作なり。毎年二月初午にこの山に入りて、参詣の人隈笹を得て帰るなり。馬のわずらえるとき御影を廏に呈し、この笹を飼うにたちまち癒ゆること奇なり」と。この場合にありて、その笹を食らうものは馬なれば、信仰によりてその病癒ゆるものというべからざれども、笹は実にかくのごとき奇効ありとも思われざれば、その理由はおそらく馬の病の自然に癒ゆると、笹を食らうこととが偶然相合したるによるならん。しかるに、さきに掲げし小町芍薬は、その花を折りて家に持ち帰らば、たちまち祟を受けて劇熱にかかるという。こは全く精神作用の結果ならん。

 また、岩代国南会津郡檜枝村の山中に朽ちたる古木あり。狐憑き病に悩まさるる者あるとき、その一片を取りきたりて患者に示すに、たちまち平癒すという。これもまた、けだしその木に特効あるにあらずして、全く精神の作用によるものならん。

 第四に、下総国八幡村に「八幡知らず」と称する藪あり。この藪は実に有名なるものにして、人ひとたびその中に入るときは、再び出ずることあたわずという。伝説によるに、かつて某侯その奇怪を信ぜず、自らこれを試みんと欲してその中に入りしに、ようやく歩を進むれば細流あり。その水、清澄にして底を見るべく、潺々として音あり。たちまち官女のごとき者出できたり、侯に告げて曰く、「決してこの川を渡り内に入るべからず」と告げ終わりて立ち去れり。侯これをあやしみ、ひそかに竹林の中をうかがいしに、その川の対岸に一つの宮殿ありて、人骨その前に山をなすを見、大いにおどろき、よっておもえらく、これ必ず、往古よりこの藪に入りて魔王のために虐殺せられし者の骨ならんと。ついに川を渡らずしてかえりしことありきという。この伝説は全く一種の怪談に過ぎざれば、もとより信ずるに足らずといえども、すでにいにしえよりかくのごとき伝説ある以上は、人みなこれを記憶せざるはなし。これをもって、この藪に入るものは、自己の精神をもってこれを迎え、自ら妖怪を構成するにほかならざるべし。この藪は今日なおその跡を存すといえども、一方は東京より千葉に通ずる往来に沿い、他の三方は田ならびに人家に接し、その竹林はわずかに方一町に足らざる所なり。されば、かかる狭隘なる場所にて道を失うがごときことは万々あるべきはずなきに、再び出ずるもの少なきは(もしひとたび入らば再び出ずることあたわずというを事実として)、精神の作用というよりほかに説明の道なけん。しかるに『不思議弁妄』の著者はこれを説明して、この竹林中には有毒のガス鬱積するより人命を失うものならんといえり。この説のごとくなるときは、これ物理的妖怪にして心理的妖怪にあらずといわざるべからざれども、予は全く精神作用と信ずるをもって、ここにこれを列挙せしなり。ただし、かかる怪談の起こりしには必ずしかるべき原因あるべしといえども、その原因が虚構に出でしものか、あるいは事実に基づきしものかは、これを今日に知ることあたわず。ただ、近年かかる怪談を信ずる者少なきをもって、この竹林中に入るものあまたありといえども、かつて異状なしという。これによりてこれをみれば、往時この中に入りて道を失いし者ありしは、全く精神作用なりしこといよいよ明らかなり。

 以上述べしところによりて考うれば、世にいわゆる植物的妖怪にも、他の種々の妖怪と同じく、物理的のものと心理的のものとの二種ありて、いずれも従来学術のいまだ開けざりしためにかく妖怪となされしものなれば、今日のごとくすでにその学理の明らかに知られし上は、もはや妖怪というべからざること明らかなり。されば、この種の妖怪の、また予がいわゆる仮怪にして真怪にてはあらざりしなり。それ、地球上に生育せるいくたの生物は、一つとして気候、地位、その他、種々の環象に応じて変化を受けざるものなければ、その環象に特殊の変化ある場合には、そこに生育せる生物もまた必ずある変化を受くべきこともちろんにして、決して怪とするに足らず。古代未開の時代にありてこそ、生物と環象との関係不明なりしため、植物の異常なるものを見て、ただちにこれを妖怪としたるなれ。今日に至りてはこれらの関係もすでに明らかに知られ、かつ植物の変化は主としてその環象の変化に原因することをも知りたれば、植物界中また一つの妖怪あるべき理なし。他語にていわば、吾人の性質として、平常かつて見聞せしことなき奇異の現象に接するときは、これを妖怪不思議と感ずるを免れず。加うるに、学理いまだ開けざりしため、これが原因を一種の霊力または神力に帰せしより、種々の妖怪的植物あるに至りしものなれば、これもとより古代愚民の妄想として可なり。



第四講 鳥獣編


       第三三節 変式的動物学

 およそ一切の学問にみな正式と変式との二種あるべきことは、すでに総論において述べしところなるが、今、生物学にもこの二種の区別ありて、普通一般の生物を正式的生物学とし、特に生物中の妖怪、異常を論ずる一種の学を変式的生物学とするなり。すでに生物学にかくのごとき二種の別ある以上は、植物学ならびに動物学にもまた、正式と変式との二種なかるべからざることもちろんなり。されば、前講に論述せし草木編は、すなわち変式的植物学の道理によれるものなり。従来、正式的植物学を講ずる者あまたありといえども、いまだ変式的植物学を講ずる者あるをきかず。これをもって、いまだ一科の学をなすに至らざれども、道理上より推さば必ずこの種の学あるべきはずなり。今、予がこの節において論ぜんとするところの鳥獣編も、いわゆる変式的動物学に属するものなるが、世にいまだこの種の学を専攻せし者あらざれば、今日のところにては予が私見をもってこれを推論するよりほかなきなり。さらに広く考うるに、学問に正式と変式との区別あることは、ただに有機物を論ずる学のみならず、無機物を論ずる学にもまた同様にして、天文学、地質学、物理学、化学等、一つとしてしからざるはなく、すなわち前第一講に論ぜし天象の変態、異常は、変式的天文学ならびに変式的気象学の問題にして、それにつぎて論ぜし地質の変態、異常は、変式的地質学もしくは変式的地理学の問題なり。これに準じて推考するときは、草木、動物の上にも変式的学科の存せざるべからざること、いよいよ明らかなるべし。かく学問に二種の区別をなすといえども、その道理に至りてはもとより一にして二あるにあらざることは、すでに総論において説明せしところなり。されば、正式と変式との別はただ外見上にとどまることにして、その中に含める原理に差異あるにあらず。単に学科上より講究する場合には、正式的学科のほかに、別に変式的学科を設くるに及ばざるべし。しかれども、世間すでに尋常一様のものと変態、異常のものとを区別し、その一つを非妖怪とし、他の一つを妖怪とするをもって普通のこととなす以上は、同一の学科中に正式と変式とを分かちて、おのおの別にこれを講究するが、学理の応用上において最も適当なる方法と考えらるるなり。しかのみならず、この二者は等しく同一の学理を応用するものには相違なきも、その応用の仕方におのずから相同じからざるものなくんばあるべからず。これ予が、特に妖怪学の一科を設けんとするゆえんなり。しかして天変地妖および草木の妖怪に関しては、前来すでに説明し終わりたれば、これより鳥獣動物の妖怪を講究せんに、そもそも今日世人が鳥獣動物の上に妖怪ありとするは、鳥獣動物そのものがただちに妖怪なるにあらずして、人心の蒙昧無知なるに伴いて起こるものにほかならず。されば、古代にありては妖怪と信ぜられしものも、近代に至りてはじめて妖怪にあらざりしことを発見せしもの、枚挙すべからざるほど多きにあらずや。ここにおいて、鳥獣動物の妖怪もいわゆる仮怪にして真怪にあらず、すなわち人の迷誤にほかならざることを知るべし。しかれども、古代の遺風遺習は容易に除くべからざれば、今日のごとき開明の世にも、なお全くこの種の妖怪の跡を絶つに至らざるなり。かつ鳥獣草木の妖怪は人心の無知迷誤に原因するものなる以上は、たとえ今日のごとき開明の世界にも、なお多数の無知にして迷誤の間に彷徨する者あるを免れざれば、この種の妖怪の依然として今日に存するも、別に怪しとするに足らざるなり。

第三四節 妖怪的動物

 さてこれより、古来妖怪なりと称しきたりし鳥獣動物の実例二、三を左に示さん。

  山海経曰、有獣焉、其状如狐、而九尾、其音如嬰児、能食人、食者不蠱。

  (『山海経』に曰く、「獣あり、その状は狐のごとくにして九尾、その音は嬰児のごとく、よく人を食らう。食らう者は蠱せられず」)

  又曰、有鳥焉、其状如梟、人面四目而有耳、其名曰顒、其鳴自号也、見則天下大旱。

  (また曰く、「鳥あり、その状は梟のごとく、人面四目にして耳あり。その名を顒という。その鳴くや自らさけぶなり。あらわるればすなわち天下に大旱あり」)

 『和漢三才図会』中に記せる怪物二、三を挙げんに左のごとし。

  本綱狒狒出西南夷、状如人、被髪迅走食人、黒身有毛人面、長唇反踵、見人則笑、其笑則上唇掩目、其大者長丈余。

  (本綱〔『本草綱目』〕に狒狒は西南夷に出ず。状、人のごとく、髪を被り迅走にして人を食らう。黒き身、毛ありて人面、長唇、反踵、人を見ればすなわち笑う。その笑うときはすなわち上唇目をおおう。その大なるものは長丈余)

  述異記云、南康有神、曰山都、形如人、長二丈余、黒色赤目黄髪、深山樹中作巣、状如鳥卵、高三尺余、内甚光★(采の旧字)、体質軽虚、以鳥毛為褥、二枚相連、上雄下雌、能変化隠形罕覩。

  (『述異記』にいう、「南康に神あり、山都という。形、人のごとく、長二丈余。黒色、赤目、黄髪。深山樹の中に巣を作す。状、鳥の卵のごとく、高さ三尺余、内はなはだ光★(采の旧字)、体質軽虚、鳥毛をもって褥となし、二枚相連なる。上は雄、下は雌。よく変化して形を隠し、みることまれなり」)

  木客、本綱載幽明録云、生南方山中、頭面語言不全異人、但手脚爪如鉤利、居絶岩間、死亦殯★(歹+蒦)、能与人交易、而不見其形也。

  (木客は、本綱〔『本草綱目』〕に『幽明録』を載せていう、「南方の山中に生ず。頭面語言、全く人に異ならず。ただし手脚の爪、鉤のごとく利し。絶岩の間に居し、死するもまた殯葬す。よく人と交易して、その形を見せず」)

  神異経云、西方深山有人、長丈余、袒身捕蝦蟹、就人火炙食之、名曰山𤢖、其名自呼、人犯之則発寒熱、蓋鬼魅耳。

  (『神異結』にいう、西方の深山に人あり。長丈余、袒身にして蝦蟹を捕らえて、人につきて火に炙りこれを食らう。名を山𤢖という。その名自ら呼ぶ。人これを犯せばすなわち寒熱を発す。けだし鬼魅のみ」)

  三才図会云、剛山多神魃、亦魑魅之類、其状人面獣身、手一足一、所居処無雨。

  (『三才図会』に曰く、「剛山に神魃多し。また魑魅の類なり。その状、人面にして獣身、手一つ足一つ、おる所に雨なし」)

 また、『妖怪門滕光伝』には左のごとき怪物を記せり。

   川猿は童子に化して狐のごとく言語を通じ、人を犯し化しておることあり。さりながり、いずれとにかく魚の香あり。また、彼が急所は股と目ばかりなり。ここをあたるときは大いに弱る。たとえ力量勝りたる人にても、組むときはところどころ肉をかきさかるるなり。よって、まずは組むことなかれ。さて全体は至極臆病なるものなり。されども、いたって性あるものなり。たすけられたる人をばよく覚えておるものなり。

 また、『荘内可成談』の中には、「獺の妖」と題して左のごとき記事あり。

   天明年中、鶴岡の内、上肴町の下七日町の橋脇に髪結いを業とする者ありしに、その妻死して七日という夜より夜ごとにきたりぬ。祈禱などせしかど験なし。このことを聞きて、ある人の語りしは、明和年中、大山海道中島成徳院死して夜ごとにきたるゆえ、修験の家なり、さまざまと加持祈禱せしかども験なし。往古、本住寺の申されしは、はらむる獺、死人の沐浴の湯を飲めば、必ずその怪異はべるものなり。砂か灰かをまきて足跡を見れば、その後きたらざるものと語られし。川所なり定めて湯を川へ流せしものならん。足跡を見るべしと教えはべるに、灰を家内にまきおくに、その夜もきたり。翌朝見るに、おびただしき獺の足跡ありて、その後はきたらず。このたびも川端なり。定めて獺ならんと語りし。これをもって案ずるに、江戸本所御旗本何某死して夜ごとにきたる。妻は美女なりしとかや。一年余もきたりて後、妻一子をもうけしといえり。そのころ奇怪のことと沙汰せしに、よくよくたずぬれば密夫の所為にてありしという。世間妖怪というもこの類多し。人、死してまたきたるの理あらんや。魂魄きたるとも人間のごとくならじ。狐狸などの所為か、多くは人の所為なるべし。

 また、『怪談録』には左のごとき記事あり。

  鱉霊という者、荊国の人なり。死してその屍流れて江水に浮かび、また人となりて蜀の国へ行く。蜀の王望帝にまみゆ。只人にあらざれば、望帝、位を鱉霊に譲り、ぬかずきて王となし、望帝のがれて行く。死後に化して鳥となる。その名杜宇とし、また杜鵑〔ほととぎす〕と号す。杜鵑子を生むとき、諸鳥みなその子をやしなう。これは昔、蜀の王の魂なりとて敬いあわれむゆえなり。あるいは杜鵑、己が卵を諸鳥の巣の内へ入れてやしなわしむともいえり。『蜀王本記』という文に見えたり。倭歌に「鶯のかいこの中に杜鵑」とよめるもこのことにや。

 また、同書に「魚服」と題して左の記事あり。

   唐の乾元二年、薛偉という人、病に伏して七日、たちまちたえて死するがごとし。しきりに呼べども答えず。心胸少し温かなれば、これを葬るに忍びず。人みな取り回してこれを守るに、二十日過ぎて起きあがる。その守る人に向かいて、「われ目を回すこと幾千日ぞ」「二十日になりぬ」と答う。また問う、「おのおのこの間、鯉魚を殺すや、すなわちわれなり」という。諸人驚きてその子細を問う。薛偉答えけるは、「われ病気のとき熱気はなはだしくてたえ難し。涼しからんことを求め杖をついて行く。すでに出でて快きこと、籠中より鳥の出でたるがごとし。ようやく山に入る。草伏して水辺に至る。水の清きを愛して、衣を脱して水に入りておよぎ遊ぶ。そばに一つの魚あり。相ともに水をおよぐ。しばらくありて、魚の頸ありて人の形なるもの、鯨に乗りて出できたる。相従う魚多し。河伯の使者なりといいて、われと同じく遊び戯る。このときわが身を見れば、ひれ、うろこを生じてすでに魚のごとし。諸方の名所の江湖、あまねく行かずという所なし。

   われを名付けて東潭の赤鯉と号す。にわかに飢えて物を食わんことを思う。ときに趙幹が鉤の餌香ばしかりければ、これを食わんとす。しかれども、われは人なり。かりそめに魚となりたり。鉤を飲むべからずと思いて捨てて行く。また、しきりに飢えたり。われは官人なり。たとえ鉤をのむとき、趙幹なんぞわれを殺さんやと思いて餌を食む。趙幹われを引き上ぐ。われ、しきりに声を上ぐれども趙幹聞くことなく、縄をもってわがえらをつなぎて、岸上の蘆の間に掛けたり。このとき張弼きたりて申さく、『裴少府大魚を求む。蘆間に大魚あるを見て携え行く。門に入れば人の囲碁するを見て、呼べどもこたうる者なし。ただ長大の魚きたる』ということを聞く。それより階にのぼれば、鄒滂、雷済、二人はばくちを打ちて遊ぶ。裴察は桃を食う。みな大魚到来すと喜ぶ。やがて厨へつかわし鱠せよという。ときに王士良、包丁を持ちきたりて、われをまな板の上に置く。われ、また叫びて曰く、『王士良はわが包丁人なり。なにゆえにわれを殺すや』といえども、士良あえてきかず。わが頭を切り落とすとき、われ、すなわちよみがえる」という。諸人これをききて、大いに驚き嘆息せずということなし。趙幹が釣りたるも、張弼がきたりて魚を取りたるも、裴少府が求めたるも、鄒滂、雷済がばくちしたるも、裴察が桃を食いたるも、王士良が包丁せるも、みな同日にありしことなり。これによりて、時の人聞く者みなこれを怪しむ。これより鄒滂、雷済、裴察三人、身を終えるまで鱠を食わず。薛偉、病、平癒して後、仕えて筮陽の丞となる。『説海』に見えたり。人、化して魚となりたるを魚服というなり。

 また、『怪談全書』(巻一)に、『異苑』を引きて亀の妖怪を記せり。

   呉王孫権が時に、永康という所の人、山に入りて一つの大亀を見て捕らえ、しばりて持ちて帰る。亀にわかに人のものいうごとくにて、「あしきときに出合いて人のために捕らえらる」という。諸人聞きてこれを怪しむ。これを呉王に上がらんとて船にのせて行くとき、越里という所に止まる。船を大なる桑の木の本につなぐ。その夜、桑の精、声ありて、亀の名を元緒と呼びて、「なんじ、なにゆえにかくのごとくなるや」と問う。亀答えて、「われ捕らえられ、つながれてまさに烹殺されんとす。しかれども、なにほどの山の薪をきりてにるも、われを殺すことあたわじ」という。桑の曰く、「孫権が臣下に諸葛恪という人あり、博学にして物をよく知る、必ずわれをくるしむることなかれ」という。亀聞きて、「多言してもしもるれば、なんじが身に災いをよばん」という。すでにして閑におとなし、都に至りて孫権に進み上る。孫権、これを大なる鼎に入れて煮さしむ。多くの薪を焼きてにれども亀もとのごとし。諸葛恪を呼びてこれを問う。諸葛恪、「これは年久しき桑の木を薪として煮殺すべし」という。ときに亀を上ぐる者、さきに亀と桑と問答することを言上す。孫権、すなわちかの桑をきりよせ亀をにるとき、やがてただれて煮殺さる。これによりて、亀を煮るには桑の薪を用い、また、亀を名付けて元緒というなり。

 また、『大和怪異記』(巻四)に、蜂と蜘〔蛛〕との復讐のことを出だせり。

   相州小田原の蓮池に舟を入れて、盆前に葉花を切するとて、舟に乗りおりける者ども、ふなばたに手うちかけ、しばらくいこいけるに、蜂一つきたりて花をすいけるが、蜘〔蛛〕のためにかかりけるを、葉の下より蜘〔蛛〕出でて網にてまきけるに、蜂もしばしば網をやぶりかねしが、とかくしてようようにげさりける。その後この蜘〔蛛〕、蓮花の半ばひらきたるにのぼり、網をもってまきよせ、花の上をとじあわせその中にかくる。いかにかくはするぞと心をつけ見けるところに、しばらくありて蜂一つきたると思えば、あとより百ばかりどっときたりて、蜘〔蛛〕のかくれいたる花のあたりをたずぬると見えけるが、蜘〔蛛〕のかくれたる花に取り付き、みるうちに花をあみのごとくにさしやぶり、ぱっと立ちて去りぬ。人々、舟をよせてこの花の中を見るに、かくれたる蜘〔蛛〕ずたずたになりて死しけり。前に網にかかりたる蜂出でて、網にてまかれし意趣を思い、友をもよおし、あだをむくいけると見えたり。

 また、『古事談』(巻一)に、猿の法華経を聴聞したることを出だせり。

   むかし越後国にて乙寺という寺に、法華経持者の住僧、朝夕誦しけるに、二の猿きたりて経を聞けり。二、

三日を経て僧、試みに猿に向かいていうよう、「なんじ、なんのゆえに常にきたるぞ。もし経を書き奉らんと思うか」といえば、この猿、掌を合わせて僧を順礼しけり。あわれに不思議に思うほどに、五、六日を経て数百の猿あつまりて、楮の木を負いてきたりて僧の前にならべ置きたり。このとき僧これを取りて料紙に漉きて、やがて経を書き奉る。その間この猿さまざまの菓をもちて、日々にきたりて僧にあたえけり。かくて第五巻に至るとき、この猿見えず。あやしく思いて山をめぐりて求むるに、ある山のおくに、かたわらに山のいもをおきて、かしらを穴の中に入れて、さかさまにしてこの猿死してあり。やまのいもをふかくほり入りて、穴におちいりて、えあがらずして死したるなめり。僧、あわれにかなしきことかぎりなし。その猿のしかばね埋みて、念仏申して回向して帰りぬ。その後、経をば書き終わらずして、寺の仏前の柱をえりて、その中に奉納して去りぬ。その後四十余をえて、紀躬尊朝臣、当国の守になりてくだりたりけるに、まず、かの寺にもうでて住僧をたずねて問うよう、「もし、この寺に書きおわらざる経やおわします」とたずぬるあれば、その昔の持経の僧いまだいきいて、八旬の齢にて出でてこの経の根源を語る。国司、大いに歓喜して曰く、「われ、その願いを果たさんがために、今当国の守に任じて下りきたり。昔の猿はわれなり。経の力によりて人身を得たるなり」とて、すなわちさらに三千部を書き奉り、かの寺に今にありと。さらにうきたることにあらず。

 以上の掲げし諸例の中には、小説的構造に出ずるものと、実事的観察によるものと二様あり。そのうち実事的に属するものに、動物の形態の奇怪なるものと、その作用の奇怪なるものとの二種あれども、いずれも動物に関する妖怪ならざるはなし。


       第三五節 動物怪の種類

 今、試みに動物全体の妖怪につきて、その小説的を除き実事的に属するものの性質を列挙せば、およそ四種あり。すなわち左のごとし。

  第一、体形の欠損不具にして、尋常の種類と異なるところあるより、妖怪とせらるるもの。

  第二、その身体非常に大なるか、またはその寿命非常に長久にして、尋常の種類と全く相異なるところあるより、妖怪とせらるるもの。

  第三、その形態、体質が種々に変化して、ついに全く外貌を一変するがごとき奇異の現象を現すより、妖怪とせらるるもの。

  第四、その挙動作用すこぶる奇々怪々にして、しかもその理由を知るべからざるより、妖怪とせらるるもの。

 この四種中、第一、第二、第三の三種は生物全体に関することにして、ひとり動物にのみ固有なるにあらず。しかして生物の形態上に種々の変化変形の起こるゆえんは、すでに上の草木編中において説明せしごとく、主として外界の事情によるものなり。それ生物はみな内外両界に種々の事情によりて発育するものなれば、常にその影響を受けざるべからざること明らかなり。特に外界の事情、すなわち気候、地質、その他種々の環象に影響せらるるは最も著名なる事実にして、その生存をまっとうするには、常にこれらの環象の変化に順応せざるべからざれば、その環象の異なるに従い、生物そのものもおのずから相異なるべきはずなり。ゆえに、たとい同一種類に属するものといえども、決して同一様に変化することなく、加うるに内界の事情、各生物においてまた相同じきことあたわず。内界の事情とは、先天的に有する原因すなわちいわゆる遺伝性のことにして、各生物がその父母より遺伝する性分はおのおの相同じきことあたわざれば、これまた同類の生物中にても、甲乙決して同一の変化を現さざる原因の一つなり。しかしてこれらのことは、動物、植物二界に通して行わるることなれば、これを研究するはすなわち変式的生物学の職とするところとす。しかれども、第四のものは全く動物のみに限ることにして、植物には感覚、知覚ならびに運動を有せず、いわゆる神経作用に属するものなければ、かくのごとき奇怪の作用を呈することあたわずといえども、動物の高等なるものに至りては、すこぶる発達せる神経組織を有するをもって、よくかくのごとき奇怪を現すことを得。これ古来、狐狸の怪談世に伝わるゆえんなり。

 しかして、予がここに論ぜんとするものは、主としてこの第四の項、すなわち動物に種々奇怪なる作用あるゆえんを説明するにあれど、それにさきだち、第一、第二、第三の、生物全体に関する妖怪につきて簡単に説明を与えおかんと欲す。それ生物すなわち動物、植物においては、その変化、異常、人間に比して一層著しきものなり。このことはこれらの妖怪を研究するに当たりて、まず第一に心得おかざるべからざることにして、人類にありては、たとい人種を異にし居所を異にすとも、幼児より人為を加えて種々にこれを養育するものなれば、いくたの児童ひとしくみな同一の目的に向かいて同一の方向に進み、したがって大抵同一様の発達を遂ぐることを得るなり。別言せば、人類には精神作用著しく発達して、一切のこと、みな己のあらかじめ定めたる目的に従い、意志をもってこれに達せしむる能力あるがゆえに、その子を養育するにも、甲乙互いに著しき差異なからしむるを得るなり。しかるに草木、動物にありては、さらに意志の指導によりて事をなすということなく、なにごともみな全く外界の事情に一任して、いかなる外界の変化にもさらに抵抗することあたわず。また、あらかじめこれを迎うることあたわざるをもって、ただ外界自然の事情につれて、自らその身体の上に順応変化を起こすよりほかあらず。これをもって、各生物は同一種類の中にありても著しくその変化を異にし、あるいは甲十分に発達せるに、乙は極めて不十分の発達をなし、あるいは一はその身体非常に大なるに、他の一はその身体非常に小なるがごとき差を見るに至る。かつ草木、動物は、人類のごとく自ら未発の災害を予想してこれを防ぐ法を知らず、あるいはまたその発育の際に、いかなる障害あるもこれを避くることを知らざるをもって、自らその体形の不具欠損も、人類に比し一層はなはだしきものあるを見る。

 また、その寿命の点においても、人類にてはあるいは短命夭折なきにあらずといえども、大抵、相平均して三十ないし五十歳を定命とす。しかるに動物、植物にては、たとい同類中にても著しく長短を異にするを見る。これ人類は危難災害を予想してこれを防ぐことを知り、疾病を治せるの医薬医術を用うるを知るも、草木、動物には、かつてかかる能力を有せざるによる。加うるに、生物は一般に他の生物もしくは人類の食物となるものなれば、早くその爪牙にかかるものと、幸いにこの難を免るるものとの間には、もとより生存に著しき長短の差あるべきはずなり。また、人は多少、天災地変によりて受くる危害を避くることを得るに、動植物には、かつてかかる力なければ、自然淘汰の影響を受くること特に著しくして、弱者は早くたおれ、強者はながく栄ゆるに任せざるべからず。これまた年寿の長短、人類のごとく平均せざる原因の一なり。しかして同一生物中にありても、動物と植物とを比較するときは、その平均を得ざること、動物においてよりも草木において、一層はなはだしきを見るべし。そは、動物には多少神経作用を有し、感覚、知覚ならびに活動の作用あるも、草木には絶えてこれらの作用なく、全く外界の事情に一任するよりほかなきがゆえなり。かくのごとく考うるときは、各生物の身体ならびに寿命には、もとより非常の等差あるべきはずなれども、人知なお幼稚なりしときには、いまだこの道理を知ることあたわざりしをもって、ときに身体非常に大きく、寿命非常に長久なる生物を見るときは、たちまち妖怪の観念を発し、草木に霊あり鳥獣に霊ありなどと称するに至るなり。ことにその寿命、身体ともに異常なるものに対しては、種々の奇怪をこれに付会し、人知にて知るべからざる変化現象の原因をこれに帰し、もってこれを説明せんとするより、生物に関する種々妖怪談生ずるに至るなり。

 さて、動物には精神作用ありてよく人を誑惑し、また霊魂ありてよく人に憑付すという説は、古来世人の一般に信ずるところなれば、この点につきては十分なる説明を与えざるべからず。しかれども、この問題は心理学部門中に特に一講を設けて論ずべきはずなれば、詳細なる説明はそこに譲り、ここにはただ動物の高等なるものが多少異常の作用をなすゆえんを、生物学の道理に基づきて説明するにとどめんと欲す。およそ動物は神経物質あるいは神経組織をそなえ、活動、感覚等の諸作用を有するをもって、ある一種の感覚においては人類も遠く及ばざるものあることは、世人のすでに知るところなり。かつ輓近進化論の進歩により、人類も動物もその祖先は同一にして、吾人と犬馬、狐狸とは互いに同胞兄弟たることが明らかになりし上は、動物の精神作用も多少人類のものに似、また互いに一致するところあるべきは、もとより疑うべきにあらず。果たしてしからば、動物そのものの力にて、多少奇怪に見ゆる作用を現すことを得べきはもちろんなり。されど、動物の霊が神と交通すとい

い、あるいはよく人に憑付して人心を支配することを得というに至りては、ただちに首肯することあたわず。今しばらく妖怪的動物の主要なるものを掲げて、最後に今日の動物学に照らしてこれが批評を試みんとす。すなわちその動物は、狐、狸、猫、犬、天狗の類これなり。


      第三六節 狐狸論

 動物中、狐狸は一種の奇獣なること、和漢ともに唱うるところなり。今、『和漢三才図会』によるに、

  本綱、狐北方最多、今江南亦有之、江東無之、形似小黄狗、而鼻尖尾太、日伏于穴、夜出竊食、声如嬰児、気極臊烈、其性疑、疑則不可以合類、故狐字従孤、常疑審聴、故捕者多用罝、蓋妖獣鬼所乗也。

  (本綱〔『本草綱目』〕に狐は北方に最も多し。今、江南にもまたこれあり、江東にはこれなし。形小さく、黄なる狗に似て、鼻とがり尾太く、日は穴に伏し、夜は出でて食をぬすむ。声、嬰児のごとく、気、極めて臊烈、その性疑う。疑うときはすなわちもって合類すべからず。ゆえに狐の字は孤に従う。常に疑いてつまびらかに聴く。ゆえに捕らえるには多くわなを用う。けだし、妖獣にて鬼の乗ずるところなり)

  本朝狐諸国有之、唯四風無乏耳、凡狐多寿、経百歳者多、而皆称人間之俗名如大和源九郎近江小左衛門、是也相伝、狐者倉稲魂之神使也、天下狐悉参仕洛之稲荷社矣、人建稲荷祠而祭狐其所祭者位異于他狐、凡狐患則声如児啼、喜則声如壼敲、性畏犬、若犬逐之窘迫則必屁、其気悪臭而犬亦不能近之、将為妖、必載髑髏、拝北斗、則化為人、惑人報仇、亦能謝恩、好小豆飯油熬物。

  (本朝は狐諸国にこれあり、ただ四国にはこれなきのみ。およそ狐は多寿、数百歳を経るもの多くして、みな人間の俗名を称う(大和の源九郎、近江の小左衛門のごときはこれなり)。相伝う、狐は倉稲魂の神使なり。天下の狐はことごとく洛の稲荷の社に参仕す。人、稲荷の祠を建てて狐を祭る。その祭らるるものは、位他の狐に異なる。およそ狐患うるときはすなわち声、小児のなくがごとく、喜ぶときはすなわち声、壼をたたくがごとし。性、犬をおそる。もし犬これを追って窘迫なれば、すなわちかならず屁る。その気悪臭くして、犬もまたこれに近づくことあたわず。まさに妖をなす。必ず髑髏を載せ北斗を拝し、すなわち化けて人となる。人を惑わし仇を報い、またよく恩を謝す。小豆飯、油あげの物を好む)

  狸有数種、而淡黒色背文如八字者、名八文字狸、皆脚短而走不速、登樹甚速、其穴夏則奥卑下、冬則奥高上、老狸能変化妖怪与狐同、常竄土穴、出盗食果穀及鶏鴨、与猫同属、故名之野猫、或鼓腹自楽、謂之狸腹鼓、或入山家、坐炉辺、向火乗暖、則陰囊垂延広大於身也。

  (狸に数種ありて淡黒色。背の文、八の字のごとくなるものを八文字狸と名付く。みな脚短くして走ること速やかならざれども、樹に登りてはなはだ速し。その穴、夏はすなわち奥ひくく下がり、冬はすなわち奥高く上がる。老狸はよく変化して妖怪す、狐と同じ。常に土穴に竄れて、出でて果穀および鶏鴨を盗み食らう。猫と属を同じくす。ゆえにこれを野猫と名付く。あるいは腹を鼓にして自ら楽しむ。これを狸の腹鼓という。あるいは山家に入り、炉辺に座し火に向かう。暖に乗ずれば、すなわち陰囊垂延すること身より広大なり)

 また、『庶物類纂』によるに、

  入閩通志、狐妖獣也、善媚、性多疑、易曰、小狐汔済濡其尾、里語亦曰、狐欲渡河、無如尾何、以其身小尾大也、腋下毛白故称狐白。汀州府誌

  (『入閩通志』に、「狐は妖獣なり、よく媚び、性疑い多し」『易』に曰く、「小狐汔済その尾をうるおす」と。『里語』にまた曰く、「狐、河を渡らんと欲するも、尾をいかんともすることなし。その身の小にして尾の大なるをもってなり。腋の下の毛白きがゆえに狐白と称す」(汀州府誌))

  狐似狸而黄、鼻尖尾大、能媚人為妖。

  (狐は狸に似て黄、鼻とがり尾大、よく人に媚びて妖をなす)

  泉州府志、狐似狗而小、尾如長箒、小前大後、其為物、霊善変化妖媱以惑人、性善疑、喉下之皮其毛純白、集以為裘、軽柔難得。

  (『泉州府志』に、「狐は狗に似て小、尾は長箒のごとく、小前大後、そのものたる霊よく変化し、妖媱もって人を惑わす。性よく疑う。喉下の皮その毛純白、集めてもって裘をつくる。軽柔得難し」)

  江陰県志、狐似狸而黄、尾大、性好疑。

  (『江陰県志』に、「狐は狸に似てしかして黄、尾は大、性疑いを好む」)

  農政全書、袪狐狸法妖狸能変形、惟千百年枯木能照之、可尋得、年久枯木撃之其形自見。

  (『農政全書』に、「狐狸をのぞくの法は、妖狸はよく形を変ず。ただ千百年の枯木よくこれを照らせば、たずね得べし。年久の枯木これをうてば、その形おのずからあらわる」)

  獣経、狐悪其類鬼所乗也、一名玄丘校尉、千年変淫婦。

  (『獣経』に、「狐その類をにくむは鬼の乗ずるところなり。一名、玄丘校尉、千年なれば淫婦に変ず」)

 また、本朝の書に散見せるもの、『霊獣雑記』につまびらかなり。

  扶桑略記第廿三裡書廿八右云、延喜二年七月十二日乙卯亥刻弁官庁結政所正庁狐鳴怪也、又廿八左云、同五年三月十一日庚午、弁官結政所、狐死為穢否、猶予停政、不可為穢之由被下宣旨、又卅左云、同九年六月十日甲辰大雨、右大臣以下参陳官申云、中陰中門内狐死、明日神事如何、外記令勘申先例為穢否、年年記皆為穢之由申、大臣奏之、不可為穢者是六畜之外而、不載式故也、又卅右云、九月廿四日版位上狐遺矢、又廿六日戊午未刻狐昇結政所庁上。

  (『扶桑略記』第二十三(裏書二十八右)にいわく、「延喜二年七月十二日乙卯亥の刻、弁官庁結政所正庁に狐鳴く怪なり」また(二十八丁左)にいわく、「同五年三月十一日庚午、弁官結政所、狐死して穢をなすやいなや、猶予して政をとどむるも、穢となすべからざるのよし宣旨を下さる」また(三十左)にいわく、「同九年六月十日甲辰大雨、右大臣以下参陳官申していわく、中陰中門内に狐死す。明日神事いかん、外記に先例穢となすやいなやを勘申せしむ。年々の記みな穢となすよし申す。大臣これを奏す。穢となすべからざるは、これ六畜の外にして式に載せざるゆえなり」また(三十右)にいわく、「九月二十四日版位上に狐遺矢す。また、二十六日戊午未の刻、狐、結政所庁上にのぼる」)

 また、『北窓瑣談』(巻二)にいわく、「淇園先生有斐斎剳記に野狐最鈍、其次気狐、其次空狐、其次天狐。気狐以上皆已無其形。而空狐其霊変更信於気狐。至天狐則神化不可測。人有為物所役頃刻行千里外者、乃皆空狐之所為、大抵離地七丈五尺彼乃得摂之行。如天狐乃不復為人害。此説善幻者話云。」(淇園先生『有斐斎剳記』に、「野狐最も鈍、そのつぎは気狐、そのつぎは空狐、そのつぎは天狐。気狐以上はみなすでにその形なくして、空狐はその霊変さらに気狐より信なり。天狐に至りてはすなわち神化して測るべからず。人物の役するところとなりて頃刻に千里の外に行くものあり。すなわち、みな空狐のなすところ大抵地を離るること七丈五尺、彼すなわちこれを摂して行くことを得。天狐のごときは、すなわちまた人の害をなさず」この説、幻をよくする者の話にいえるなり)また、『消閑雑記』にいわく、「狐はあやしきけものなり。常に人にばけてたぶらかし、また人の皮肉の内に入りてなやまし、あらぬ妙をなすこと多し。『抱朴子曰、狐寿八百歳也、三百歳後変化為人形、夜撃尾出火、戴髑髏拝北斗、不落則変化人。』(『抱朴子』に曰く、「狐は寿八百歳なり。三百歳後、変化して人の形をなし、夜は尾をうちて火を出だし、髑髏をいただいて北斗を拝し、落ちざればすなわち人に変化す」)これほど修行なり、功つみたるものなれども、いったんやき鼠のかぐわしきを見て、たちまちにわなにかかり命をうしなう」とあり。また、『善庵随筆』に出ずるところ左記のごとし。

  西北域記に、狐之族七、蒙古産者二、毛黄而長曰草狐、短而★(黃+舌)曰夜沙狐、沙狐膁曰天馬皮、頷曰烏雲豹、其曰金雲豹者西産也、俄羅斯産者五、俄黒而毫白曰元狐、其次身䵎音湍黄黒毫也而膁黒曰猧刀、又其次身★(黃+炎)音㶣黄色也而膁青曰火狐、此外又有白狐灰狐、土人曰、是★(亻+訔+欠)音宜、狐声也★(亻+訔+欠)者、年老作妖、作冠枯顱、衣檞葉、幻人形、為害甚大、又曰、老而妖者、名★(犭+比)狐、亦名霊狐、似猫而黒、〔北地多有之、〕蓋別一種云。

  (『西北域記』に、狐の族七、蒙古産のものに二、毛、黄にして長きを草狐といい、短くして★(黃+舌)なるを夜沙狐という。沙狐の膁を天馬皮といい、頷を烏雲豹といい、その金雲豹は西の産なり。オロシャの産は五、俄黒にして少し白きを元狐という。そのつぎは身䵎にして(音は湍。黄、黒は少しなり)膁、黒なるを猧刀という。またそのつぎは身★(黃+炎)(音は㶣、黄色なり)にして膁、青なるを火狐という。このほかまた白狐、灰狐あり。土人曰く、これの★(亻+訔+欠)々(音は宜、狐声なり)は年老いて妖をなす。枯顱を冠とし、檞葉を衣とし、人の形を幻にし、害をなすことはなはだ大なり。また曰く、老いて妖なるものを★(犭+比)狐と名付け、また霊狐と名付く。猫に似て黒し。〔北地に多くこれあり〕けだし別の一種という)

   『夜譚随録』にいわく、「狐之類不一、有草狐沙狐玄狐白狐灰狐雲狐之別。」(狐の類一ならず。草狐、沙狐、玄狐、白狐、灰狐、雲狐の別あり)あるいは曰く、この「★(亻+訔+欠)★(亻+訔+欠)者年老則妖作云云、或曰老而妖者名★(犭+比)狐、又名霊狐、似猫而黒、北地多有之、蓋別一種云如是我聞亦云、凡狐皆可以修」(徴々は年老いてすなわち妖をなす、云云。あるいは曰く、老いて妖するものを狐と名付け、また霊狐と名付く。猫に似て黒く、北地に多くこれあり。けだし別の一種という(かくのごとくわれ聞く、またいわく、およそ狐はみなもって道を修すべし。しかして最も霊なるものを★(犭+比)狐という))とありて、狐の類多しといえども、草狐は毛黄にして長く、常の野狐にして、沙狐以下は物色をもって名を異にするのみ。ただ★(犭+比)狐は別の一種にて、こちらにいう管狐のようなれど、「似猫而黒」(猫に似て黒し)とあれば、またおのずから一種なり。管狐は大きさ鼬鼠ほどありて、目たてに付く。その他はすべて野狐に同じ。ただし、毛扶疎として蒙戎たらざるなり。管狐を駆役するの術、竹筒の管(かまどに用いるところの火吹き竹に比すれば少し短く、前後に節なく、吹きぬきのたけづつをいう)を持して呪文を誦すれば、狐たちまち管中にありて問うところのことをいちいち告げ知らす。これはもと修験の道士、勤行精修の後に金峰山よりして授かるところという。ゆえに管狐の名あり。

この狐、駿遠三の北辺、山寄りの地に多し。関東にては上毛、下毛最も多し。上毛の尾崎村に至りては、一村この狐をやしなわざる家なし。よってまた尾崎狐ともいう。『狼★(𧾷+さむらいかんむり+おおい+正)録』には武州大崎という。いずれか是なる。

 以上示せるがごとく、狐にも数種ありといえども、気狐、天狐のごときは決して信ずべからず。★(犭+比)狐、管狐もまた信じ難し。しかれども、狐は獣類中、一種の狡知を有する動物なることは事実なるがごとし。すでに狡知を有する以上は、その力よく人を誑惑し、かつ人に憑付するに至らざるも、年齢を積みて老狐と称せらるるに至らば、その狡知もまた一層発達すべき理なり。したがって、人も多少その心を動かさるることなしというべからず。ゆえに余は、狐狸に関する妖怪を左のごとく分かたんとす。

  一、客観的すなわち物理的妖怪

  二、主観的すなわち心理的妖怪

 このうち物理的妖怪は狐狸そのものの身心上に有する怪異にして、その理を開示するはすなわち物理的説明なり。心理的妖怪は他人の心の上に生ぜしむる変動にして、その理を論明するは心理的説明なり。しかして心理的説明はもっぱら狐惑、狐憑きを論ずるものなれば、これを「心理学部門」憑付編に譲り、ここに全くこれを略し、ただ物理的説明のみを挙ぐるに、これにまた身体上に関することと精神上に関することとの二様あり。身体上に関する挙動につきては、世間に伝うるものの中にはなはだ怪しむべきこと多しといえども、またやや信ずべきことあり。例えば狐が石を投げ、あるいは柝をうち、あるいは火を吐き、あるいは戸をたたく等のごときこれなり。その火を発するやいなやははなはだ疑わしければ、後に怪火編を講ずるに当たりて論明せんとす。しかして、その石を投ぐるがごときはなんの目的なりやを知るべからずといえども、実際これを目撃したりといえる人の話に、足をもって石をけとばすなりといえり。また、柝をうつは、石を口に挟みて他の石をうつなりといえり。その他、狸の腹鼓と称して、狸がその腹をうつときは鼓をうつがごとき声ありというも、その声をききたる人の話に、やはり石をうつがごとき声なりといえり。また、狐が深夜人の戸をたたくことありて、その音あたかも尾をもってこれを打つがごとしという。以上のごとき挙動は、そのなんの目的に出ずるを知るべからずといえども、狐狸自らこれをなすや、やや信ずべし。ことに老狐、古狸に至りては、一層巧みにこれをなし得るは疑いなし。これ、狐怪、狸怪の起こる一原因とみなして可なり。つぎに、精神上に関しては、狐は狡猾の獣類たることは東西ともに唱うるところにして、あたかも一種の諺をなせり。今、左に西洋の動物学者が狐の猾知について記載せるものを、ローマニス氏『動物知力論』中より訳出して示すべし。

   狐の知力は一つの諺となりしほどなり。されども余はこのことに関しては、いまだ多くの新観察を聞きしことなければ、すでに世に公になりし書中より、もっとも正確なる二、三の観察を援証せんとす。まずセント・ジョン氏の著『高地の野猟』中に記せし例を述ぶべし。曰く、

     予のロッスシァイアに住せしほどのころなりき。一の牡鹿ありて、近隣の農民の畑地を害することはなはだしと聞き、これを猟せんがため、七月の一朝未明に出発したり。かくて予は栽培地に潜伏しおりしに、あたかも曙光のときに及び、大狐のおもむろにこの地の一隅を通過するを見出だしたり。よってつらつらその状をみてありしに、狐は芝牆をめぐらせる畑内を注視し、その中に餌食を求めおりし数匹の野兎を捕らえんと欲するもののごとし。されども、一躍してある野兎を捕らえん機会なきことを知り、すなわち暫時思慮せしが、たちまちその謀計を定めしもののごとし。やがて狐は兎の出入りすと見ゆる芝牆の数裂孔を検して、そのうち最も往来の頻繁なりと見ゆる一孔を定め、宛然猫の家鼠をうかがうにおけるがごとき態をもって、その軀をこれに密接したり。彼はかくまで狡猾なりといえども、なおその捕獲に熱心せるあまり、予が装銃をもって二十ヤード以内にありて、その一挙一動を観察しおるがごとき、危地に陥りしことを得知らざりき。されど予は、彼のかく巧知なるを見て驚きしこと少なからず。彼もし予を知りてのがれんとせば、ただちに射殺すべきよう旋条砲を準備しおれり。かくのごとくなす間に、予は狐の全謀計を察することを得たり。今や彼は極めて静粛に地上に小穴をうがち、その土砂をば己の埋伏所と野兎のいる畑地との間に堆積して、軀をおおうべき障屛となさんとせり。されども、その間ときどきこれを中止して耳を傾け、また、もっとも注意して畑中を望みたり。すでにしてこの業をおえるや、飛躍にもっとも便なる要地にその軀を据え、ときどき野兎を偵察するときのほかは、寸毫もその体を動かすことなかりき。さて野兎らは太陽の昇るころ、相次いで畑を出でて近傍の藪中に帰らんとし、すでに三匹までは彼の埋伏所の通路によらずして去りしが、そのうちの一兎は狐より二十ヤードの距離以内にきたりたれども、狐はなおいよいよ密にその身を屈伏するのみにて、すこしも動くことなかりき。しかるに、今や二兎のただちにここに向かうに至りても、またあえてこれを仰ぎみることなかりしが、その鋭敏なる両耳の無意運動をなすを見れば、まさしく野兎のすでに接近しきたれるを知りしこと明らかなり。かくて二兎のともに同一の裂孔より出ずるに及び、狐は躍然電光のごとく突飛してただちにその一を捕殺し、まさにその獲物を携え去らんとせしとき、轟然一発の響きとともに、予の弾丸一閃してその背骨を貫き、これを射殺したりき。

 また、これまで諸書に記する無数の例によりてみるときは、狐はその身はわなにとらえられずして、これに付せし香餌をたのしむに、もっとも多知巧恵なることを知るべし。これらの事例ははなはだ多数にして、みないずれも同一の知性を有することを明示するがゆえに、吾人は決してかくまで一轍に出ずる証左を疑うことあたわざるなり。予は今二、三の特例を挙げ、もって吾人の現に論究しつつある知力の種類はいかなるものなるかを示さんとす。しかしてこれらの例によりてみるに、狐のなすところは、同一の境遇にて家鼠などの表する知性と相等しきことを知るべし。すべてこれらの場合においてその表する知性は、まさにこれをすこぶる優等の種類に属するものとみなさざるを得ず。いかんとなれば、元来わななるものは、天然界にて遭遇せらるべきものにあらざるがゆえに、その遺伝的経験は、わなより生ずるところの危難を避くべき特殊の本能を成さんがため、あずかりて力あらんとは思惟することあたわざればなり。これをもって、これらの危難を避けんがために驚くべき工夫をめぐらすことは、これ、ただすこぶる高等の知恵、考究を伴える、観察の力に帰するよりほかなきなり。

 今、カウチ氏の『本能の解明』なる論中より左の文を引証すべし。

   狐および猫等の動物は、いまだ装置せざるわなを置き、香餌をもって誘うときは、ただちにこれを貧食し、毫もこの機械をおそるる状なし。これ、そのいかなる害をもなさざるべきことを知悉せるによらざるべからず。しかるに、もし装置せるわなを据え、香餌をもって誘うときは、前の大胆なりしとは全然相違して、ほとんど信じ難きまで慎密に戒心するを見るなり。予、かつて冬時の一夕、銃猟の隠し所に埋伏して、狐の所為を観察することを得たり。すなわち数日以前よりわな用の香餌をもって、遠方より狐を誘引せしに、彼はその一つを食することに、狐尾をふりつつ愉快気に座しおりしが、かくて漸次にわなに近接するに及び、いよいよ猶予して容易に香餌を食せず、わな場の周囲を顧望俳徊することしばしばなり。ついにそのわなに達するや、彼はまず蹲踞して数分時の間、香餌を注視し、それよりわなの周辺を巡ること三、四回の後、一の前肢を伸べてこれを攫せんとせしも、なおこれに触れず。再び躊躇して暫時の間、凝然これを睇視するのみなりしが、ついに狐は自暴せしもののごとく、突然進みてこれをつかみ、その頭部を扼せられたりと。

 『ネイチャー』雑誌第二十一巻に、クレホール氏の記するところに曰く、

   数年前のことなりき。予のミシガン州に猟せしとき、毎夜一の狐ありて、鹿の臓腑を投棄せし所にきたり、これを食するを常とせしかば、予は熟練の猟師とともにこれを捕獲せんと欲し、わなを設けたり。しかるに予らがあらゆる手段をもってすれども、つねに目的を達することあたわず。特に奇異なるは、毎朝わなのはねかえりおりて、これに付せし餌食を失うことにあり。よって猟師はおもえらく、これ狐がわなの下方を掘りて、その前肢を顎部(機械の)の下に置き、もって安全に餌盤を押し落とすによれるならんと。されど予は、機械の構造より見るときは、実にその言のごとくおもわるれども、なおいまだその説明に伏することあたわざりき。しかるに本年に至り、同州の他地方における老練の弶師は、この言の正当なることを証し、かつ告げて曰く、「予は、狐らが数度わなをはねかえらしめて餌食をぬすみし後、この機械を転置するだけの簡便法をもって数匹を捕らうることを得たり。そはかくのごとくなすときは、下部をうがちて餌盤に触るれば、ただちに顎部をしてその前肢を扼せしむるに至ればなり」と。

 なおまた、このわなのことについて、ローマネス氏がその友人レー氏の報告するところなりとて記するものを見るに、北極部における狐の推理力を表示する著明の例証なれば、左にこれを摘載すべし。

   ドクトル.レー氏は北極部の狐を獲んと欲して、各種のわなを設けこれを試みしが、狐らは前々の経験よりしてこれらのわなを知悉せるがゆえ、常に目的を達せざりき。よって氏は、この地方における狐らのいまだ知得せざる一種のわなを案出したり。この機械は、装銃を香餌に的中すべきように成れる台上に据え置き、一の長線をもって香餌とひきがねとを連結す。ゆえに、狐の香餌を取るときはたちまち銃を発火しめて、自殺せしむるように仕掛けしものなり。かくのごとき装置をもって、銃砲は香餌をさること三十ヤードの所に置き、香餌とひきがねとを連ぬる糸線は、ほとんど全く積雪中におおわるるものとす。さて、かかる方法をもって、ようやく第一の狐を射殺することを得たりといえども、第二の狐はついにとることあたわざりき。いかんとなれば、狐らはその軀を害せずして餌を偸取せんがために、爾後、左のごとき工夫を用いたればなり。すなわちその一の工夫とは、ひきがねに近き所にて、雪上に露出せし糸線をかみ切るにあり。また他の工夫は、発火線に直角をなせる方向を取りて積雪を貫穿し、もって香餌の所に達するにあり。ゆえにこの場合には、たとい銃砲は発火すとも、ただ一、二の小散弾を鼻上に受くるのみにて、遁走することを得るなり。今これらの工夫についてみるに、実に驚くべき高等の知性を表するものにして、これまさしく推理力と称せざるべからず。予は注意して当時の事情をつまびらかにレー氏にたずねしに、氏は予に告げて曰く、「北極世界にてはいまだかつて、わなに糸線を付せしものなし。ゆえに、同地の狐の心中においては、わなと糸線との間に特別の連想、毫も存すべきはずなし。かつ第一の狐の射殺せられし後は、積雪上の痕跡によりて判ずるときは、第二の狐は目前に芳烈なる香餌の誘惑物存するにもかかわらず、これをおいて、まず銃砲につき夥多の学術的観察を施し、もって糸線を切断するに至りしこと明白なり。最後に、火線に直角をなして積雪上を貫穿せしことについては、レー氏はこれをもって実に緊要非凡の事情なりとみなし、それより数回の試験を行い、もってこの貫穿の方向は決して偶然に出でしものにあらず、実に思想の作用に帰すべきものなることを、十分に証認するを得たりといえり」と。

 かくのごとく、西洋においても狐の猾知を有することは一般に信ずるところなれども、わが国のごとく、狐に神通魔力を有することを唱えざるなり。ゆえに、狐狸の精神の発達は、これを他の獣類に比していくぶんの慧敏なるところあるも、いまだ霊獣と称するに足らず。しかるにコンウェー氏の『鬼神論』(巻一)に、日本の狐類および他邦の霊獣につきて論じたる一編あり。その論、また大いに参考すべきところあれば、訳出して左に掲ぐ。

   狡滑性の化身たる狐が、日本人の原始の信仰において崇拝せられたるは、なお蛇がこれを崇拝する諸国民の間におけるがごときものあり。ついには、これがために苦しめらるるのはなはだしきに至れり。日本古代の妖魔の図においては、大概、その人のごとき、狼のごとき、あるいはその他の状をなせる形態中に、狐のある形跡を発見することを得べし。狐は常に日本の三怪の精神たるものなり。ペルシアのデサーチルの名付けしがごとく、狐は慧敏の国老にして、実際日本における担罪羊(ユダヤにおいて人民の罪を羊に擬して放逐するものをいう)なり。もし狐がある家の近傍にきたりしことあれば、その後に起こりし禍害をもってその所為となすに至る。この場合には、被害者およびその親戚は、狐のすめりといわるるある老樹の所にゆきて、その怒りをなだめんとするは、あたかも他の地方において、蛇に向かいてなすところに同じ。日本にては狐は必ずしも有害なるものとなさずといえども、一般にはしかりとす。これをもって、いかなることあるもこれを殺害することなし。かくのごとき迷信によりて難を免るるより、狐はますます繁殖して、その妖魔的性質を持続するに足るべき夥多の材料を供するに至れり。また、狐において尊敬せらるる狡猾の性と、他国において尊敬せらるる蛇の同性との間に、相符合するところあることは、フィッツ・クンリッフ・オーエン氏によりて確証せられたり。すなわち氏は予に告げて、「日本人が日光の仏閣中に自由に匍匐せる有害の蛇をも殺さざることを見たり」といえり。右の日光は日本において最聖なる場所の一つにして、一時は八千の寺僧ここにあつまりたりという。さて、日本にてもっとも数多きは赤狐にして、その夜中、人家の辺りにおいて人声に類する叫び声を発する事実は、容易に右の迷信を長ずることを得べきものなり。されども、これにとどまらず、『鬼神論』の上よりみるときは、粗野の人族が単純の強力よりは、むしろさらに幽妙なる自然の一勢力をとりて、特に尊敬または畏怖する軽信の傾向を解明すべきもの多し。エマーソン曰く、「狐は強からざるがゆえに、かくのごとくに狡猾なり」と。日本の妖魔においては、これと日本人の狐に帰せし異常の相との連絡を示すものは、ただその三目たるの点のみにして、その他に兎唇の状はなはだ著しく現る。この小動物すなわち野兎は、夥多の鬼神談と連合せるものなるが、これけだしその微弱なるよりして、生存の主勢力たる怯懦、小心および敏速のごとき性を生じたるがためならん。野兎に関する迷信は、アフリカにおいても見ることを得べし。また、この動物はカルマクスの至尊大聖たる釈迦牟尼(仏陀)なり。伝えいう、「釈迦は地上において己が身を餓人に食わしめしかば、この慈悲ある行為により、挙げられて月球を支配す。ゆえに、これを月内に仰ぐことを得るものなり」と。右の伝説はけだし、シァシニ(月)なる梵語に起源するものならん。すなわちこの語は「兎の形あり」の字義を有するものにして、兎をシァシァという。ギリシアのパウザニアスなる人は、月女神がある追放人らに向かいて、兎の桃金嬢の叢林中に隠れしものを見たる所に、その市街を建設すべし、と教えしことを記せり。

   つぎに、日本の妖魔的土獣中にて、他の狡猾なる動物は鼬鼠これなり。この妖魔の名を鎌鼬という。これまたユダヤの担罪羊と同位置を占むるもののごとし。日本よりの報告によるに、ある人の思わず下駄より脚を脱して地上につまずき、もってその面部を切傷せしとき、あるいは人あり、夜中、屋内にいるべきを外出して、満面の流血淋漓として家に帰るがごときことあれば、これらの傷をもって、見るべからざる悪意の鼬鼠、およびその持する鋭鎌の所為なりとなすという。アメリカの土人中における神話にも、鼬鼠の形をなせる姉妹の妖魔あり。

   猫はロシアにては、その他の多くの諸邦におけるよりもやや勝れる声誉を受く。モスクワ府の近傍における百姓は、犬の入りし教会堂中にとどまることを欲せずといえども、もし猫の会堂内にきたりしときは、これをもって吉兆となすことを予に確言せり。また、同府近辺の一老婦人は予に告げて曰く、「かつて妖魔の極楽内に入らんとせしとき、魔は鼠の形をなしてこれを謀れり。このとき犬と猫とはその門を守りしが、犬はこの妖鼠の通行を許ししも、猫はただちに突きてこれを攫し、もって人類の幸福を害せんとする奸曲の謀計を破れり」といえり。

   犬は久しく人間に信ある伴侶にして、かつその主の風に染みしことの至大なるよりみれば、これしかるべきことなれども、なおすこぶる妖魔視せられたる歴史を有するものなり。セミチック族の談話によれば、「犬」なる言辞がフイフイ教徒の間において、「不信」なる言辞と同義異名たるに至りし順路を示すべきもの多し。

   しかしてカトミルなる一の犬は、アラビア人の伝説において、三百九年の間、七人の懶睡者の洞窟を正直にまもりしより、極楽に入ることを許されたりしが、これあたかもギリシア、エフェザスの懶睡者がキリスト教国よりうつりしがごとくに、インドよりフイフイ教国中に移りしものならざるべからず。インドの『マハーバーラタ』の美妙なる詩中に記するところを見るに、ユドヒストヒラはようやくにして天門に達せしとき、己が信ある愛犬もともに入ることを許されずば、ひとりこの天国内に入ることを嫌えり。ときに帝これに語りて曰く、「予が天国には犬に与うべき座席一つもあらず、犬は地上における予が供物をぬすみ去れるものなればなり」と。また曰く、「もし、ある犬にしてただ犠牲を傍観するのみならんか、人はこれを目して不浄にかつ虚無となすべし」と。このとき、ここに顕出したる他の犬(実は閻魔の仮装せるもの)ありて、己が朋友の信あることを賞賛し、もってこの難題を氷釈したりと。これをもってみれば、犬がアーリア人の祖先間に貶黜せられたりしゆえんは、これと死の神たる閻魔との連絡あるにより、および宇宙を上下顕幽の二界に区分する、かの二元論の発達に影響せられしことほぼ明らかなり。またこれと同時に、犬の往々暴狼に類する性癖およびその他の野性を示すことは、その妖魔たる性質のもととなりしものなり。実に犬は危険にして、また壊敗しやすき守衛なりとす。

 以上の諸例のごときは、もとより国民の迷信より出でたるものにして、獣類そのものに実にかかる魔力を有するにあらず。ゆえに、世の文明の進むに従い、その迷信もようやく衰うるに至る。これをもって、西洋にても古代は一般にわが国のごとく、獣類に魔力を有することを信じたりしも、今日はまた昔日のごとくはなはだしからず。これによりてこれをみれば、わが国も今より数十年の後には、まただれも狐怪、狸怪を説かざるに至るべし。しかして狐惑、狐憑きのことは、吾人の精神作用によりて説明し得る問題なれば、よろしく心理学部門につきて見るべし。


       第三七節 狐狸の筆跡

 わが国にては、狐狸に神通魔力を有することを唱うるのみならず、また書画をよくすることを唱えり。『霊獣雑記』(巻中)に、『三養雑記』を引きていう、「予かつて狐狸のかきしといえる書画をこれかれ見たりしに、おおかた狐は書、狸は画なるもおかし。さて、老狐幸庵が書を書きたる記事は『藍田文集』に見え、蛻庵が「般若心経」はすでに墨帖にありて予も蔵弆せり。狸のえがける「寒山拾得」の図を、荻生〔徂徠〕氏の見せられしことあり。白雲子という狸のえがける蘆鴈の図、写山楼(文晁)の蔵にあり。これらの書画は縮写して『耽奇漫録』中に載せたればここに出ださず」と。また、『兎園小説』に、古狸の筆跡と題して左のことを記せり。

   世に奇事、怪談をいいもて伝うること、多くは狐狸のみ。貒、狢、猫の属ありといえどもこれに及ばず。思うに、狐の人を魅すことはなはだ害あり。狸の怪はしからず。かくて古狸のたまたま書画をよくすること、世人のあまねくしるところにして、すでに白雲子の蘆雁の図は写山楼の蔵にあり。良恕のかける寒山の画は蘐園主人示されき。その縮本、今載せて『耽奇漫録』中に収めたり。これまさしく老狸のえがけるものにして、諸君とともに目撃するところなり。しかるに、その書をかけることを予かつて聞けるは、武州多摩郡国分寺村、名主儀兵衛という者の家に、狸のかきたりし筆跡あり。三社の託宣にて、篆字、真字、行字をまじえ、文章もたがえるところありて、いかにも狸などの書たらんと見ゆるものなるよし。これは狸の僧のかたちに化けてこの家に止宿し、京都紫雪大徳寺の勧化僧にて無言の行者と称し、用事はすべて書をもて通じたり。辺鄙のことゆえ、ありがたき聖のようにおもいて、馳走してとどめたりという。その後、武蔵の内にて犬に見とがめられてくい殺され、狸の形をあらわししとのことなりとぞ。そのころ、このことを人々にも語りしに、友人鹿山の同日の談ありとていえらく、「予、往年鎌倉に遊びしとき、川崎の駅に止宿し、問屋某の家に蔵するところの狸の書というものを見たり。『不騫不崩南山之寿』と書けり。その書体、八分にもあらず真行にもあらず、奇怪いうべからず、いかにも狸の書というべし。問屋の話に、鎌倉の辺りの僧のよしにて、そのあたりを勧化せしこと五、六年の間なり。果ては鶴見、生麦の辺りにて犬に食われしよし。このことはさのみ久しきことにあらず、予が遊びし十年も前のことなりという。この二条、その年月をつまびらかにせずといえども、今その墨跡の現にその家に存したれば疑うべからず」

     ちなみにいう、「五雑俎曰、狐陰類也、得陽乃成、故雖牡狐、必托之女、以惑男子也」(『五雑俎』に曰く、「狐は陰類にして、陽を得てすなわち成る。ゆえに牡狐といえども、必ずこれを女に託して、もって男子を惑わすなり」)といえり。わが国にもむかしより、とかくに狐は婦人に化けたるためし多かり。しかるに狸はいかなる因縁かありけん、茂林寺の守鶴をはじめとして、いつもいつも法師の姿になれるもおかしからずや。

   また、いとちかき年に一奇事あり。ある人の筆記に、文化四年丁卯、ある人のもとにて狸のかける書というものを見たり。

 また同書に、老狸の書画★(譚の正字)余として題して左のごとく記せり。

   下総香取の大貫村藤堂家の陣屋隷なる某甲の家にすめりしというふる狸の一くだりは、予もはやく聞きたることあり。当時その狸のありさまを見きという人のかたりしは、くだんの狸はかの家の天井の上におり。その書を請わまくほりするものは、みずからその家に赴きてしかじかとこいねがえば、あるじそのこころを得て、紙筆に火を鑽りかけ、墨を筆にふくませて席上におくときは、しばらくしてその紙筆おのずからにひらめき飛びて天井の上に至り、またしばらくしてのぼりて見れば必ず文字あり。あるいは鶴亀、あるいは松竹、一、二字ずつを大書して、田ぬき百八歳としるししが、その翌年に至りては百九歳とかきてけり。これによりて、前年の百八歳はそらごとならずと人みな思いけるとなん。されば、狸は天井より折ふしはおりたちて、あるじにちかづくこと常なり。また、同藩の人はさらなり。近きわたりの里人の日ごろ親しみてきたるものどもは、そのかたちを見るもありけり。あるとき、あるじ戯れにかの狸にうちむかいて、「なんじ、すでに神通あり、この月の何日にはわが家に客をつどえん、その日に至らばなにごとにまれ、おもしろからんわざをして見せよかし」といいにけり。かくてその日になりしかば、あるじまろうどらに告げていわく、「それがし、さきに戯れに狸に云云といいしことあり、されば、きょうのもてなしぐさにはただこれのみと思えども、かれよくせんや、今さらに心もとなくこそ」という。人々これをうち聞きて、そはめずらしきことになん、とくせよかしとののしりて、杯をめぐらしながら賓主かたらいくらすほどに、その日も申のころになりぬ。かかりしほどに敷座の庭たちまち広き堤になりて、その院のほとりにはくさぐさの商人あり。あるいはよしず張りなる店をしつらい、あるいはむしろのうえなどに物あまたならべたる。そを買わんとてあちこちよりきたる人あり、かえるもあり。売り物のさわなる中に、ゆでだこをいくらともなくのきにかけわたししさえ、いとあざやかに見えてけり。人々おどろき怪しみて、なおつらつらとながむるに、こはこのときの近きわたりにて六斎にたつ市にぞありける。珍しげなきことながら、陣屋の家中の庭もせのかの市にしも見えたるを、人みな興じてののしるほどに、漸々にきえうせしとぞ。これよりして、狸のことおちこちに聞こえしかば、その書を求むるものはさらなり。病難、利欲、なにくれとなく祈れば応験ありけるにや。縁を求めて詣ずるもののおびただしくなりしかば、ついに江戸にもそのよし聞こえて、官府の御沙汰に及びけん。有司みそかにかの地に赴き、おさおさあなぐりただししかども、もとより世にいう山師などのたくみ設けしことにはあらぬに、かつ大諸侯の陣屋なる番士の家にてのことなれば、さしてとがむるよしなかりけん。いたずらにかえりまいりきというものありしが、虚実はしらず。これよりして、かの家にては紹介なきものを許さず、まいて狸にあわすることはいよいよせずと聞こえたり。これらのよしを伝聞せしは文化二、三年のころなりしに、こののちはいかにしけん。七十五日と世にいうごとく、噂もきかずなりにけり。

 また、『嬉遊笑覧』(巻八)にも同様のことを記して曰く、「狐狸のばけたる古跡、人の知りたるは泉州堺の少林寺、釣狐寺、上野国館林茂林寺などなり。これは茶釜も筆跡も今にあれど、伯蔵主はただ狂言に伝うるのみにて、その故事おぼつかなし。狐狸の書画をかけること多く聞こゆ。其角が『茶摘集』、伊勢国にて狐の人につきていい出でたる『仁あれば春もわかやぐ木の目哉』。この狐つき、日ごろの田夫にてぞありける。狐いにて後は無事なりしとなり。その筆跡まさしく狐にてはべれば、歌にあやしくたえなるためしにもと書き付けはべる。元禄元年七月のことにやとあり、云云」また、狐は書にて狸は画をかける多しという。

 以上二、三の書につきて示ししごとく、古来往々狐狸の手跡と称して伝うるものあれども、それらはいずれもみな人の手になりしものなることは、その手跡を一見せばさらに疑うべくもあらず。もっともその書風、字体が人の手跡と同一なるのみならず、古来狐狸の書と称しきたりしものは、多くは狐狸が自ら書きしにはあらずして、人に憑付して書かしめしものなれば、もとより人の手になりしものなることはいうまでもなし。しかるにこれを狐狸の書といい伝えしは、憑付せし狐狸の力にて書かれしものと信ぜられしによる。しかして世人がこれを狐狸の力に帰するに至りし理由は、下女または無教育者のごとき元来文字を学びしことなき者が、一朝、狐狸に憑付せられしために、これを書するに至りしことにほかならず。しかれどもこの事実あるを見て、ただちにその原因を狐狸に帰するは、すこぶる妄断たるを免れず。なんとなれば、かくのごとき元来文字を知らざる者が、急に文字を書くに至りし例は、他の精神病患者中にも往々見るところにして、ときとしては催眠術によりても、またよく無教育者に文字を書かしむることを得ればなり。かく狐憑き患者にあらざる場合にも、またかくのごとき同一の事実ある上は、その原因を単に狐狸に帰すべきにあらず。案ずるに、かくのごとき事実は、吾人の精神と筋肉との関係によりて起こるものならん。それ人はいかほど無教育なる者といえども、かつて文字を見しことなき者は一人もあらざるべし。すでにかつて文字を見しことありし以上は、その記憶は必ず脳中に残留するや疑うべからず。果たしてしからば、ある事情のため思想上に変動を起こし、精神その一点に集まるときは、ついにその作用を筋肉の上に及ぼし、文字を書くに至ることあるべきはずなり。とにかく、狐狸そのものの力に限りて、かくのごとき無教育者が文字を書くに至りしにあらざることは明らかなり。また、狐狸の書と称せらるるものの中には、人の手によりて書かれしにあらずして、なにびとも知らざる間に書かれたるものあり。これらの書は、その原因明らかに知れざるをもって、世人はこれを狐狸の作用に帰すれども、こはすこぶるおぼつかなき推測なり。すでに一昨年、東京駿河台にて起こりしものは、その後ついに下女の手になりしものなること発覚せしにあらずや。すでにかかる例ある以上は、他のいまだ原因の知れざるこの類の書も、大抵また人の手になりしものなることを推測するに足るべし。


      第三八節 狸の腹鼓

 狐と狸とは互いに連帯するものにて、すでに世間にてはこれを合して狐狸と称しきたりしほどなれば、予もまた前に述べし狐論の中に、狸怪のことをもあわせ説きたり。かつ四国のごときは古来狐のすまざりしより、さらに狐憑き、狐惑ということなく、これらの怪事をすべて狸の所為に帰したるほどなれば、狐論のほかに狸につきて論ずるほどの必要なし。ただ、古狸につきて一大怪談を『怪談登志男』と題する書中に掲げしを、左に抜記すべし。

   中華の諺に、良医は福毉にしかず、明医は時毉におよばずといえり。時医とはそのときにとりて世に挙用せられ、百発百中の効もあるようにもてはやさるる流行医者なり。福医ともこれをいう。今はむかし、江戸に陸野見道とかやいいし福医ありしが、あるとき番町辺りの沢氏とかやいえる人のもとより、使者をもって、内室の病気もってのほかなり、お見回り頼み奉るよし。心得候とて疾く宿を出でて、ついでながらの見回り四、五軒もつとめしに、おもわず日も晩景におよびけるが、沢氏の宅にたずね行き、玄関へ仕懸斯といい入りければ、取り次ぎ下座むしろに飛び下がり、主人、今は公用につき他行いたし候が、お出で候わばこの段を申し、しばらくお通りくださり、お待ちくださるべきよし申しおきてまかり出でて候。おっつけ帰宅いたすべき間、まずお通りくださるべしと座敷へ案内して入りぬ。

   見道はじめて見回りするに、亭主るすにて残念なれども、病用にきたり待ちかねて帰るも卒爾ならんと、座敷に至りてその住居を見などして待ちいたるに、タバコ盆を持ちて出茶など運びける小僧、その年のほどようやく十二、三なるが、立ちい振る舞い小ざかしく、まなざし凡者ならず。その方の名はなんとか申すなど、手など取りて愛しけるに、はずかしげに赤面して次の間にはしり、ふりかえりたる姿、顔の大きさ三尺ばかり、二つの眼一つになりて額にあり、鼻ちいさく口大きにして、見道をうちながめて消えうせたり。見道も人にかわりし剛気ものにて、怪しくはおもいながら立ち去りもせず、なおもあやしきことやあると心を付くる折ふし、主の何某帰りきたりしとて座敷へ立ち出で、一礼事終わり内室の容体など物語りし、さぞ待ち久しくおわしけん、無礼の至り御免あるべし、しからば貴殿の顔色なんとやらん心得がたく相見え候は、いかが候やらんとたずねられ、見道しばらく隠密せんと思いしが、以後とても人々の心得にもなるならんと、小声になりて先刻かようかようの怪しみありしと語りければ、主うちはらい、「さてさてかの法師めが出で候や、例のかんばせ御覧じたるか。いつもいつもまかり出でて、しらぬ人をおびやかし候が、きょうはいかなるふるまいをかなしつる、もしかようにはなかりしか」という。そのかお見るうちに大きさ三尺ばかり、口は耳の根までさけ、眼ただ一つ額に光り、はじめ見し小僧に十倍して、さしも肝ふとき見道も魂も身にそわず、覚えて玄関へはしり出でて、ねむりおりたるともの者を呼び起こせしに、みなみな帰りたると見えて草履取りただ天おりたるが、なにごとかおわしつる騒々しく見させたまうというを、いらえもせではしり行きしに、提灯はなし、くらさはくらし、いかがせんというを、草履取り、「いやくるしからず、提灯はここに候」という言葉の下より、道、はなはだあかるくなりて、這う虫のすがたも見ゆべく、四方粲然たり。こはふしぎやと下部が姿を見れば、面は長きこと三尺あまり、まなこは日月のごとくかがやき、口より火炎を吹き出だしければ、見道今はたまりかね、はっといいて倒れしが、その後はなんともさとらずと後に語りし。かくて見道が宿にては、供の者はみなかえして、初めての所にかく長座したまうこそ心得ね、いざさらば迎えに行かんと、提灯とぼしつれて、昼行きし所へ至り、屋敷のさまを見るに、大きに様子かわりて、門もふけたりといえども柱かたぶき倒れ、軒端は荒れて月さし入りたる。くまくまには蜘〔蛛〕の家居の糸引きはえたるあずまやの、まやのあまりにあきれ果て、近所の町屋に立ち寄り、「あれなる屋敷はいかにや荒れたる住居ぞ」ととえば、「あの化物やしき知らざるは、きのうきょう田舎よりきたりし人々にや。年ふりたる荒地にて、東隣の石沢氏より預りながら、人の通路も絶えて、狐狸のみ住居しはべる、お〔そ〕ろしき所なり」というに肝もつぶれ、昼供してきたりしときは、いみじと見えし屋敷なりしに、さては妖怪の所為なりける。さるにても主人はいかがしたまいけんと、千駄谷大番町の辺り、かなたこなたたずねさまよい、ようやく鮫が橋に至りて、物さびしき藪屋に、見道はうつぶしに倒れおりしを見付け出だして、大勢にて取り巻き介抱して宿へつれ帰りけれど、一日二日は茫然としてものも得いわでいたりし。一月あまり悩みて、ようやく元のごとくになりけるとぞ。これを聞く人、おそれてその辺りを通る人もなかりし。後に聞けば古狸のわざなるよし。それ以後、古狸を駈け出だせしか、今はその跡もなく、人も住居し、いつともさだかに知る人さえなく、繁昌の地となりにける。

 かくのごとき怪談は、多くは人為的偽怪に属す。しからざれば、心理的幻覚、妄覚のしからしむるところなるべきも、針小の事実相伝わりて棒大となりしは疑いなし。しかして、余がここに述べんとするものは、俗にいわゆる狸の腹鼓の怪事にして、その怪事を経験したる者あるはよく聞くところなるが、紀州平松行応氏の報告に、余、二、三回これを経験せしが、多くは清風明月の夜に起こる。余、一夜山間の友人の宅に宿す。深更鼓声を聞く。友人曰く、「これ狸鼓なり」と。よってこれを実視せんと欲し、立って戸隙よりこれをうかがうに、その音たちまちやむ。座に帰ればまた、はじめのごとく聞こゆるなり。もし談声高ければその音また高く、低ければその音また低しという。これ果たして狸鼓なるや、はなはだ疑わし。必ず他に原因あるべきを信ず。

 『荘内可成談』に曰く、「安永末のころ、初秋の末より季秋のころまで、狢の腹鼓打つとて奇怪のことにいい触れぬ。二、三日、四、五日あいにして、天気快晴の夜は、丑の半刻ごろより打ちはじめて、その音はとんとんと絶えず、遠くなり近くなり、寅の半刻までにて打ちやみぬ。聞きし人もあまたなり。予、季秋の初め磯釣りに思い立ちて、夜深に起きて刻限をはかれば、丑三つ過ぎにもやと思いながら、支度して門へ出でぬれば、その音聞こえ、立ち止まりおれば東南の方にて、かねてはなしを聞きしにたがわず。すは、かの狢の腹鼓ござんなれ、よくよく聞かばやと、釣り具など取り置き、音を失わざるように静かに歩み行くに、行くほど遠ざかり、御小姓町芝田氏のさき、加藤氏の辻にて暫々休らい考うれば思い出でぬ。三日町銅屋にて鋳踏む音にてありける。予も狢にたばかられけるやとおかしく、立ち戻りて釣りの調度取り持ち、新潟口より出で行くに、大山海道町端までかの音せり。それよりは釣り人も多く、うたなどうたいどよめくゆえ、音も聞こえざりし。丑の半ばより打ちはじむるは、ふいごを吹きはじめしなるべし。寅の半ばに至れば、世間起き出でて、それぞれの業あるゆえ、物音にまぎれて聞こえざるなるべし。その音、遠くなり近くなるは、その日の風合によりしなるべし。快晴の夜ばかり

聞こえしは、風雨などすれば、それにまぎれて聞こえぬなるべし。いかなる人の聞きはじめて、かくいい触らし

けるにや。一犬虚をほゆれば万犬実を伝うなるべし」とあり。この一例は、世の惑いを解くの一助となるべし。


       第三九節 猫怪、犬怪

 世には狐狸の怪談あるのみならず、猫犬にもまたそれと同様の怪談あり。すなわち、猫の老いたるものはこれを猫又と称し、種々の怪事をなすものなることは、古来の怪談中に多く聞くところなり。獣類といえども、その老いたるものに至りては、多少奇怪なる作用を現ずることなきにあらざるべし。されど、世に伝うるがごとき霊怪なる作用をなすものにあらず。もっとも、今日に伝われる怪談は大抵小説的の作説なることは、たれびとも疑わざるべけれど、そのかくのごとき怪談の起こりしには、多少の道理なくんばあるべからず。そはすなわち些少の事実あれば、種々の想像をこれに付会せしにほかならじ。ことに人は往々精神作用によりて、あるいは妄想、妄見を起こし、あるいは幻覚、妄覚を生じて、実際なきものも現にあるもののごとく感ずることあれば、怪談の起こりしには、これらの精神作用も加わりて、原因の一部をなししならん。今、左に猫怪の一例を示さん。

   『百物語評判』(巻三)にいう、「かたえの人のいわく、『『徒然草』にねこまたというものあるよししるされたり。そのほかここにいたりて、かれにもばけたり、ここにもおそろしきことありしなど風説のおおし。猫の化くることの候やらん不審』といいければ、先生いえらく、『いにしえはねこまたといえり。ねこといえるは下を略し、こまといえるは上を略したるなるべし。ねこまたとはその経あがりたる名なり。陰獣にして虎とせり。そのゆえに手飼いのとらなど〔と〕もいえり。唐土にても猫のばけてその主人を殺せしこと多くしるせり』」

   『大和怪異記』(巻三)にいう、「越後の国、ある侍の家にふしぎのことあり。夜になれば手鞠の大きさなる火、たたみより上三寸ほどに通りひらめきしを追いかくれば、それに従って飛びまわり、ある日、隣家にある榎木にこの火あまたたびのぼり上がる。このこと国中に沙汰しければ、老若、薄暮よりこぞり集まりてこれを見る。また、あるときは婢女どもの寝いたるをおびやかし、中にも常とかやいう女の糸よる車、人もひかざるにめぐり、寝いたるも西枕をば東にし、南を北になす。この女おそろしきことに思い、巫〔禰宜〕、祝、山伏、僧などにいのらせ札をおけども、しるしなし。この家あるじはもとより物に動ぜざる気象なりしかば、かかる怪異を物のかずともせず、しらぬ顔にて打ち過ぐすに、ゆく先にてこのことをとわれ、かえって快からず思い、いかにもして正体を見あらわさんと心にかけて思いけるに、ある日庭に出でて屋の上を見れば、幾年ふるともしれざる猫のすさまじきが、くだんの下女がもてる赤き手ぬぐいをかぶり、尾とあとあしにて立ち、目かげをさして四方を見おりたり。あるじ幸いとよろこび、半弓に矢をつがえてはなちけるに、あやまたず猫にあたり、二まろび三まろびして起き上がり、この矢を寸々にかみ折りて、死ぬ。引きおろして見れば、尾二またありて、頭より尾まで五尺ばかりありける。その後火も見えず、不思議もなかりしとかや。その主の名も聞きしかどわすれはべり」

 これらはもとより小説的作説に相違なきも、また全く無根となすべからず。しかしてその原因の中には、多少精神作用の加われるや疑いなし。また、猫が死体に触るるときは、必ずその死体の上に変動を起こすという。その原因は電気の作用なりという説あり。このことにつきては、予はいまだかつてこれを実験せしことなければ、今ここにその説明の当否を断言することあたわずといえども、この説はやや信ずべきもののごとし。また、犬につきても種々奇怪なる伝説あり。しかれども、これもまた猫の怪談と等しく、大抵小説的の構造説に過ぎざれば、もとよりことごとく事実としてとるべきにあらず。かの犬がたたりをなすといい、または人に憑付することありというがごときは、精神作用によりてきたすことなれば、その説明は心理学部門においてするを至当とす。ゆえに、犬憑きあるいは犬神のことは「心理学部門」憑付編に譲りて、ここにはただ犬怪につき、『怪談全書』に載せたる一例を挙ぐるにとどめん。

   桂陽大守韋叔堅、年若きときいまだ官位にのぼらず。家に犬あり、人のごとく立ちて行く。家人見て凶事なり殺さんという。叔堅、「この犬めずらし、人の偽をすること凶事にあらず」という。その後、叔堅冠をぬぎて榻の上にかく。犬これをいただきて走る。人みな驚き殺さんという。叔堅聞きて、「犬あやまりて冠にふれあたる、なんのとががあらん」という。またあるとき、犬かまどの前にて火をたく偽をす。人いよいよあやしむ。叔堅、「わが家の人いま田に出でて耕作す、犬その人のひまなきを見、火をたくなり」といいて毎度怪しまず。かかるところに犬ほどなく自死す。ついにたたりなし。叔堅、果たして高位にのぼる。『風俗通』という文に見えたり。古人のことばに、「怪を見て怪しまざればその怪おのずからやむ」といえり。げに、さもあるべし。

 かくのごときは、あえて小説的構造説にあらずして実事ならん。これを実事とするも、またあえて怪とするに足らざるなり。


       第四〇節 天狗

 天狗の談はわが国いたるところ一般に伝唱するところにして、その体、獣にもあらず人間にもあらず、さりとてまた神にもあらず、実に一種不測の怪物なり。この怪物は高山あるいは峻嶺にすめるものにして、そのなにものなるかということにつきては、古書中にも種々に説けり。今その二、三を抜抄して左に掲げん。

   『中古叢書』(巻十二)にいう、「松下西峰云、嘗読朝鮮鄭道伝謝魑魅文、序云、会津多大山茂林、僻近於海、曠無人居、嵐蒸瘴泄易陰以雨、其山海陰虚之気、草木土石之精、薫染融化而為魑魅罔両、非人鬼非幽非明、亦一物也、我国所称天狗者殆庶幾于是一矣、与彼所謂山𤢖木客似而非也、深山窮谷往往有之、其形不可見、或長人如僧、高鼻勾爪、或羽化雲騰、或変異形悩人、東海一漚集載化松蕈欲悩明恵上人之類是也強字之曰天狗、蓋象悪星也、台記作天公、明月記作天。」(松下西峰いわく、「かつて朝鮮の鄭道伝の魑魅に謝するの文を読む。序に曰く、会津に大山茂林多く、海に僻近して曠として人居なく、嵐蒸瘴泄陰しやすくもって雨ふる。その山海陰虚の気、草木土石の精、薫染融化して魑魅罔両となる。人鬼にあらず、幽にあらず、明にあらず、また一物なり。わが国称するところの天狗はほとんどこれにちかし。かのいわゆる山𤢖、木客と似て非なり。深山窮谷往々これあり。その形見るべからず。あるいは長人僧のごとく、高鼻勾爪、あるいは羽化雲騰し、あるいは異形を変じて人を悩ます(『東海一漚集』に、松蕈に化して明恵上人を悩まさんと欲することを載するの類これなり)。強いてこれをあざなして天狗という。けだし悪星にかたどるなり。『台記』に天公に作り、『明月記』に天に作る」)

   『年山紀聞』(巻六)にいう、「森尚謙云、世伝有天狗者、主災禍、是非天狗星之類、地蔵経云、天竜夜叉、天狗土后、依此排次、是一種鬼神也、易曰、鬼神害盈而福謙、若夫誇満盈者、鬼神悪之加災禍、彼天狗之災必有理而然矣。」(森尚謙曰く、「世に伝う、天狗なるものあり、災禍をつかさどる。これ天狗星の類にあらず」『地蔵経』にいわく、「天竜、夜叉、天狗、土后、この排次による。これ一種の鬼神なり」『易』に曰く、「鬼神は盈てるに害して謙なるにさいわいす」もしそれ、満盈に誇るものは鬼神これをにくみ、災禍を加う。かの天狗の災いは必ず理ありて、しかり)

   『桂林漫録』にいう、「世に天狗というものの説、古書には見えず。『旧事紀』にいう(この書の偽書なることは古人すでに説あり。されども七、八百年以前のものなるべしと、〔賀茂〕真淵翁はいえり)、『服狭雄尊猛気満胸腹、余化吐物成天狗神、姫神而威強、鼻長耳長牙長獣』(服狭雄尊の猛気胸腹に満ち、余り吐物と化して天狗神と成る。姫神にして威強く、鼻長く耳長く牙長きの獣なり)とあり。

   これより後の書には、『続古事談』『砂石集』『太平記』などに見えたり。唐土の書に載せたるうち、わが国の俗談に似たることを左に記す。馮夢竜『古今談概』に曰く、『有術者、哭云、吾児為天狗所殺矣、忽空中有血数点墜下、頃之頭足零星而墜、唐李綽尚書故実曰、章仇兼綬鎮蜀日仏寺設大会、百戯在庭、有十歳童児舞竿抄、忽有物、状如鵰鶚掠之而去、群衆大駭、因而罷楽、後数日其父母見在高塔之上、梯而取之、則神如痴久之方語云、是如壁画飛天夜叉者、将入塔中、日飼果実、旬日方精神如初、広西通志云、四十二巻池明近山地、牧童十余人聚而戯、或歌或舞、忽見山半一人、約長二丈、面潤三尺余、長倍之、披髪鳥喙、背有二翼、伏観群童為楽、嬉然而笑。』(術者あり、哭して曰く、わが子天狗のために殺さる。たちまち空中血数点墜下するあり。しばらくにして頭足零星して墜つ。唐の李綽『尚書故実』に曰く、「章仇兼綬鎮蜀日、仏寺に大会を設く。百戯庭にあり、十歳の童児竿抄を舞うあり、たちまち物あり、状鵰鶚のごとくこれをかすめて去る。群衆大いにおどろく。よって楽をやむ。のち数日、その父母高塔の上にあるを見て、梯してこれを取ればすなわち神痴のごとく、これを久しくしてまさに語りて曰く、『これ壁にえがける飛天夜叉のごときもの、ひきいて塔中に入る。日に果実を飼い旬日まさに精神はじめのごとし』」と。『広西通志』に曰く(四十二巻)、「池明らかにして山に近きの地、牧童十余人あつまりてしかして戯る。あるいは歌い、あるいは舞う。たちまち山の半ばに一人を見る。約長二丈、面のひろさ三尺余、長さこれに倍す。披髪鳥喙、背に二翼あり。伏して群童の楽しみをなすをみて、嬉然として笑う」)天狗の一名を胎詹というにや。「元伊世珍、郷嬛記曰、君子国有鳳凰嶺、出天狗、一名胎詹。」(元の伊世珍が『郷嬛記』に曰く、「君子国は鳳凰嶺にあり、天狗出ず、一名胎詹」)とあり。唐山にも、かのものなきにあらざりけり。徠翁〔荻生徂徠〕の天狗説は高論にして俗に近からず、諦忍比丘が『天狗名義攷』は俗にして見るにたえず」

   『善庵随筆』にいう、「こちらに天狗といえるもの、西土の天狗と同名異物なり、混称すべからず。世に天狗の所為というを見るに、変幻自在、不可思議なることのみにして、なにものと名状し難く、魑魅魍魎に比すれば巧みなること多くして、その入を蠱惑愚弄する模様、大いに狐に髣髴たり。よって思うに、『太平広記』そのほか歴代の小説類に多く狐妖のことを載す。狐にも天狐、白狐、玄狐とて、おのおの年数をもって差別あり。天狐はその最も古き狐にて、精神のみ存在して形はなし。ゆえに、物に託して種々の奇幻をなし、一瞬千里、風のごとく往来す。こちらの天狗も、あるいは僧、あるいは山伏など種々に形を幻じ、奇変の巧をもって人を蠱惑する。一に天狐に同じ。もしや天狗は天狐にてはなきや。世に天狗といい伝うる小田原の道了権現、云云」(以下これを略して後に出だす。ただし道了の縁起は左に)

   永平寺六代通幻寂霊大和尚の弟子了庵恵明、大和尚に随従せし務従に道了という大力僧あり。平生の

行跡に不思議のことども多く、了庵和尚かねてその凡人ならざるを察知し、事に託して試みたまうことなどありしが、ついに生きながら小天狗になれりといい伝う。『小田原記』巻二にいう。永禄三年八月、足柄の城御普請、御巡見のために氏康御馬を出ださる。お帰りに関本の最乗寺へ御参詣あり。当寺の開山了庵和尚この地に山居ありしを、大森寄栖庵常に信じ、この寺を建立しける。されば関東、奥州までこの和尚の法孫として、諸寺ことごとく当寺の住持をつとめ、一年替わりに輪番なりと。今案ずるに、了庵和尚最乗寺を開基せしよりして、その後、大慈院、報恩院をおいおいに開基して、今は三山となり、また三山とも輪番持ちなり。最乗寺は二十五力寺にて一年ずつ一寺輪番す。むかし道了の真影は小天狗の狐にまたがる図なりしを、美濃竜泰寺某和尚輪番のころ、かく道徳いみじく霊験いちじるしくおわしまし、魔形を具するはしかるべからずとて、明覚道了和尚と和尚号を追贈し、真影を改め、今の銅印を用うることになりしとぞ。今ここに辛丑をさること六十余年前のことなりと聞く。

   『和漢珍書考』にいう、「或問、『日本に古来より天狗というものありていろいろの怪異をなす。その形さだかならず。異説まちまちなり。震旦などには、そのさたを聞かずいかん』答えて曰く。『世俗日本にばかりあるように思えり。古今儒釈の学者もその正説をしらず。いろいろの妄説をあらわす。今、予ここにつまびらかに釈すべし。『百鬼大弁録』八十二の七十二丁目に、閩越の間に障りをなすものありて、この怪物にひとたびあたるものは、たちまち衢にころぶという。その形はたまたま髣髴と見し者いう。丈高く打ち乱して、衣 は羅衣をまといたるさまにて、両の脇長き羽翼ありて、鼻高く、たちまち雲中に化去せりと見えたり。この説をもって考うるに、日本の俗文字を天狗と書き、日本にばかりあるように思えり。本字は顚衢なり。ことに閩越の間にてのことなり。わが朝の実録に天狗見えず。古来より愚夫愚婦の虚説なるを、いまは学解の者も異を述ぶ。右の『大弁録』に書きしごとく、長高く髪をみだし、鼻長く両の翼にて羅衣をまといしごとしというを日本にて取り用い、天狗というもののかたちほとんど人のごとく、長高く鼻長翼にして水衣を着せ、深山幽谷に佳むものにて、世の満喬の者に障害をなすといい伝う。ああ、世の学者これにまよい紛々の説をなす。あるいは天狗星というもの天にありという。天狗星なんと満喬の者を選んで障りをなすや。笑うべし。この天狗、顚衢の文字の誤りは重ねてつまびらかに文に書き、印本にしたまうはずなり』」

   『消閑雑記』にいう、「天狗のこと、杜子美が天狗賦に、『上揚雲㫋兮、下列猛獣ご(上雲峭にのぼり、下猛獣に列す)されども、これは魔道の天狗にてはなきかとそ思う。そのゆえは、この賦の中に、『天狗嶙峋兮、気触神秀、色似狻猊、小如猿狖。』(天狗嶙峋たり。気神秀に触れ、色狻猊に似せ、小猿狖のごとし)とあり、ただ畜類のうちにあるべし。『史記』天官書の中に、「天狗状如大奔星、有声其下止地類狗、所堕及炎火。」(天狗は大奔星のごとく声あり。その下りて地にとどまりて狗に類す。おつるところ炎火に及ぶ)」とあり。

 以上は天狗の由来、性質の、諸書に散見せしものを抄出したるのみ。しかして、その作用の奇々怪々なることは、心理学部門において説明すべきをもって、今これを略す。


       第四一節 雷獣、雷鳥

 その他、奇獣と称するものいちいち挙ぐるにいとまあらず。雷獣、雷鳥もその一なり。雷獣のことは、『雷震記』と題する書中につまびらかなり。今その一節を抜抄するに、明和乙酉七月二十二日、相州大山に落ちたるは、その形猫よりは大きく、かたちほぼ鼬に似て、色、鼬より黒し。爪五本ありてはなはだたくましく、先年岩村に落ちたる雷獣は大体今年のに似たりといえども、胴短く色灰白色なり。唐の書にも往々見えたれども、いずれもたがい多し。唐の狄仁傑が、形、人に似て誠に人語を話せしといえり。また、李肇が『国史補』に曰く、「雷州に 雷獣多し。その形人に似て、人これを取りて食う」といえり。『捜神記』には、「雷の形、獼猴に似て色赤」といえり。わが国にも土佐の国には、春夏のころ山中にて雷獣を打ち取り食う。その味、星鮫のごとくはなはだ美なりといえり。また、信濃深山にもこのものをとりて食う。房州二山という所には、正、二月ごろ村尾いい合いて、雷猟とて山中をかり出だし取るといえり。しからざればその年、夏秋雷多しといい伝うとあり。また、『鋸屑譚』に雷鳥のことを出だせり。

   越の白山、雷鳥と称するものあり。人まれに見るといえり。「其形如雌雉而較少文★(采の旧字)耳」(その形雌雉のごとくにして、やや文★(采の旧字)少なきのみ)後鳥羽帝御製、

    しら山の松の木陰に隠ろひて寛にすめる雷の鳥かな

   「或以為爾雅所謂鶆者不是、五雑俎曰、雷之形人常有見之者、大約似雌鶏肉翅其響乃雨奮樸作声也、此稍為近矣、夏小正云、雉、震呴、余居近山、震時必聞雉声、人謂之合音、物類之感可見矣、又云、雷不必聞、惟雉為必聞之、余冬序録、野雉知雷起処。」(あるいはもって『爾雅』のいわゆる鶆なるものとなす。是ならず。『五雑俎』に曰く、「雷の形、人、常にこれを見る者あり。大約雌鶏に似たり。肉翅その響きはすなわち雨。奮樸して声をなすなり」これやや近しとなす。『夏小正』にいわく、「雉震呴す。余が居山に近し。震うときは必ず雉声を聞く。人これを合音という。物類の感ずる見るべし」またいわく、「雷は必ずしも聞こえず、ただ雉は必ずこれを聞くとなす」『余冬序録』に、「野雉は雷の起こるところを知る」)この語によれば、白山の鳥、『五雑俎』説また雉の類なり。安房国二山と名付くる所あり。毎年正月、そのあたりの俗、群集して雷狩りをなす。多く獲てころせば、その夏心、雷鳴まれにしてあれどもすくなし。もし獲物 多からざれば、雷もまた多しといえり。その形鼬鼴のごとしという。これまた一奇事というべし。「是豈雷神之所好之獣乎、鳥獣之有異類。」(これ、あに雷神の好むところの獣か、鳥獣の異類あり)挙げてかぞうべからず。この鳥獣をただちに雷とするはまた愚なりというべし。「伯耆風土記云、震動之時、鶏雉悚懼、則鳴踰嶺谷、即踏踊也、蜥蜴之雨雹、虬竜之降雨、雖奪化工之妙、而還真是此化工之妙、何疑之有。」(『伯 耆風土記』にいえらく。震動のとき、鶏雉悚懼すれば、すなわち鳴きて嶺谷をこゆればすなわち踏踊するなり。蜥蜴の雹をふらす、虬竜の雨をふらす。化工の妙を奪うといえども、しかもかえって真にこれはこれ化工の妙、なんの疑いかこれあらん)

 昔時はかかる雷獣、雷鳥をただちに雷と思いしなり。しかれども今日にありては、もはやだれもかくのごとき説を信ぜざるべければ、さらにここに弁明するに及ばざるべし。このほかにも鳥獣に関する妖怪なおあまたありて、小虫もしくは下等動物の類に至るまで、折に触れ時によりて妖怪現象を現すことあり。例えば、無数の小虫、群をなして空中に飛び、あるいはかくのごとき小虫相集まりて光を発するがごときこれなり。この類の例はこれらのほかにもなおあまたあれど、いちいち枚挙にいとまあらず。


       第四二節 鳥獣論 帰結

 以上述べしところによりて、妖怪的動物と妖怪的植物とを比較するに、植物にありては主としてその外貌の上において妖怪現象を呈するも、動物にありては精神上に妖怪現象を呈するを見る。これ全く動物は感覚を有し、かつその高等なるものに至りては、多少精神作用を有するがゆえなり。されば、動物的妖怪は身体上ならびに精神上の両面より論ずるを要す。すなわちまず身体上にては、音形異様にして平素見なれざる形態を見るときは、これを妖怪とすること一般の考えなるが、この妖怪には吉と凶との二種ありて、麒麟あるいは鳳凰のごときもの の出ずるは、これ聖人世にあるときに限りて吉瑞、吉祥なりとなし、また不祥、不吉の鳥獣出ずるときは、必ず凶事これに継ぎて至るとなすなり。しかれども、かかる形態の奇異にして平素見なれざる鳥獣が出できたりしとて、別に怪とするに足らず。また、もとよりそが吉凶の前兆といわるべき理あることなし。それ形態上の奇形異様は、ひとり鳥獣にのみあるに限らず、下植物にも上人類にも、往々、奇形不具を見る、なんの怪しむことかこれあらん。ことに鳥獣草木の類にありては、その生存全く天地自然の状態に一任するよりほかなく、人類のごとく自己の意志にてこれを左右することあるべからざれば、形態の大小、寿命の長短等が、同種類中といえども非常に懸隔するは、もとよりそのはずなり。果たしてしからば、同種類中にも夭折するもの多きと同時に、また一方には非常の長寿を保つものなくばあるべからず。されば、ある鳥獣草木がいかに長寿を保ちしとて、もとより世間人事の吉凶、禍福に関係あるべきはずもなく、したがってそを前知して、これが兆しを示す道理もなきなり。

 つぎに精神上にては、世人常に禽獣中にも人類に等しき精神作用を有するものありとなし、あるいはときに、人類のものよりは一層霊妙なる精神作用を有するものありと信じ、狐狸の類が人を誑惑する力あるをもってその証となすといえども、これまたいわれなきことといわざるべからず。なんとなれば、狐狸が人を誑惑するは実に狐狸そのものの力にあらずして、むしろ人の精神作用によるものなること疑うべからざるをもってなり。しかれども、それらのことは心理学部門の問題なれば、ここにはこれを詳論せざるべし。さて、ある特殊の精神作用に至りては、禽獣と人類との間に著しき差違なきのみならず、ときとしては禽獣かえって人類にまさることあり。すなわち、その精神作用の霊妙なること人を誑惑するまでに至らずといえども、あるいは聴官、あるいは嗅官、もしくは触覚のごときは、往々人類のにまさること珍しからず。かつまた特殊の知力、情操、想像、推理等においても、決して人に劣らざるものなきにあらず。これをもって、世人ややもすれば動物の上に妖怪の談を付会すれども、これらのことは今日の進化論によらば、十分に説き明かさるる道理あるものにして、決して怪とするに足らず。それ動物も人類もその祖先はみな同一にして、本来別種のものにあらず。ただその相異なるは、相同じからざる方向に進みし点のみ。されば、人類が有せる知情意の元種は、動物界中にも多少存すべきこと当然なり。かつ五官の発達のごときは、主としてその生活の境遇に基づくものなれば、鳥獣中に人間の五官にまさるものを有するものあればとて、なんぞ怪しむことを要せん。西洋の動物書には、動物にも感覚、知覚、想像、推理のごとき知力作用あることを証明し、また、喜怒の情あるいは道徳の情の一端さえそなえおることを証明せるもの少なしとせず。わが国の書中にもまた、この類の例証を出だせるものあまたあり。近くは近日、磯部氏がものせられし『霊獣奇談』と題せる書にも、この類の実例をあまねく収集せられたり。その中には、禽獣に忠義の情あることを知るに足るべき例、孝行の道あることを知るに足るべき例、および報恩謝徳の行いありし事実等あり。今その二、三を左に抄出せん。

   (忠義)崇峻天皇の二年に、物部守屋、河内国にて蘇我馬子と戦い、敗軍しついに討たれぬ。守屋の旧臣に捕鳥部万といえるあり。忠義無双のものにして、主人討たれたるゆえ、おのれも敵と血戦してついに自殺しけり。しかるに、この捕鳥部万が年来養いおきたる白犬あり。前に万が戦いをなしおるときも昼夜そばを離れず付き従い、また万が討ち死にしたる後もなお死骸のそばに臥して離れず、しかばねをめぐりしきりに吠え出だして、いかにもかなしむありさま、見るもの涙を落とさぬはなし。その後、万が首をくわえ、そばなる古塚の上にいたり地を掘りて収め、その前に倒れ臥して塚を守りおりたり。人、食物を与うれども少しも食わず、ついに飢えてその所に死したりけり。河内の国守このありさまを見て深く感じ、朝廷に奏せしかば、朝廷大いに感じたまいて、万が死骸を葬りて、白犬をもそこに同じく葬るべしと仰せ下され、万の遺族にその死骸を賜りければ、万が遺族有真香村に死骸を葬り、白犬をもともにそばに葬り、墓を並べ作りたり。この白犬の墓は万の墓の北にあり。

   (孝行)三河国のある山中の農家に、年ごろかいおける親子の猿あり。その子猿孝心すこぶる深く、食物あれば必ずまず親猿に譲りて食わしむ。かつ農家にかわれて常に家人の仕業を見習うゆえ、家人の耕作に忙わしくして留守なるときは、自ら釜中に湯を沸かし、親猿に浴びさせけることもありたり。そののち親猿老いの病にて難儀しければ、家人憐れみて種々の薬など与えける。子猿はなおさらに憂いに沈みて、常に親猿のそばにおりはべりて、人の看護する状のごとくなしたるに、親猿病いよいよ重なりてついに死したり。家人も深くこれ憐れみ、ために棺をそなえて葬事を弁じける。子猿は悲痛やる方なく、哀れみ叫びてやまず。二、三日の間は毎日墓を回り鳴き叫びてありしが、深く悲痛にたえざりけん。その後ほどもなく断腸の声を放ちて、ついに自ら首もて岩角に触れ打ち砕きて死せりという。

   (報恩)いつのころにや、大阪片辺りに貧しく暮らせる浪人あり。今は家財も売り食いにして、いかんともすべき手だてもなくなりぬ。この家の隣は米蔵なり。その蔵の壁に鼠、穴をあけて出入りし、この家の台所水口などへ出でけるを、夫婦のもの愛し、菓子あるいは果実等の食すべきものを遣わしければ、後は家内のものには馴れて手元までもきたりき。だんだん家貧しくなりて、今は米を買うべき価にさしつかえるばかりなり。しかるにこの鼠、穴より米一升ほどずつ出だしけるを、毎日拾いてはしらげ食して飢えをしのぎぬ。これ全く鼠どもこの飢渇を助くることよとて、鼠の出ずるを見ては人にいうごとく、今は貧乏にてあたうべき物とてもなきに、恩をしりて毎日毎日米を出だしてくるるゆえ、飢えをもしのぐなりと夫婦にて礼をいい、またひそかに嘆じていいける。毎日鼠よりもらう米もその主あり、それをよきことにして受くるも本意にあらざれども、切り取り強盗にはまさらんといいてその日その日を送りけるが、この士河内の国に親類ありて、そっちより引き取るはずにきまりける。その日鼠に向かいて、これまでなんじらが陰によりて露命をつなぎしなり、明日はかなたより人足きたるべければ、米三升ほどもいるべし。なにとぞ餞別にそれだけの米を出だしてくれよとしみじみ頼みければ、翌朝いつものごとく三升ほどの米出でてありければ、深く礼をいいてこれをとり、人足を賄い、ついに河内へ移りけるとなん。

 これらの事実も、昔時、人類と禽獣とは本来別種のものと想像せし時代にありてこそ、奇怪にてもありたるなれ。今日の進化論によりて考うれば人獣同祖なれば、禽獣中に往々かくのごとき行為あるももとより当然のことにして、深く怪しむべきにあらず。しかるに、わが国にては種々の説を付会して、ますますその奇怪の度を高め、ついに狐惑、狸惑等の説あるに至りしなり。また、俗間には鳥よく獣に化し、獣よく人に化し、人もまたよく鳥獣に変ずることを得と信じ、したがって人にしてよく禽獣の語を解し、禽獣にしてまたよく人語を解し、あるいは狐狸よく婦人女子の形を現すと信ずるものあり。これらはいずれも予がいわゆる偽怪にして、その原因、実に人為に属す。もししからざれば、これ偶然的妖怪にして、偶然の出来事を妖怪のごとく誤信せしものなり。また、ときとしては心理上の幻覚、妄覚、専制、予期等によりて、妖怪現象を目前に見ることなきにあらず。もしその精神上に関する作用の詳論を知らんと欲せば、「心理学部門」憑付編を見よ。



第五講 異人編


       第四三節 人類の進化

 前に第二八節および第二九節において進化論の大要を説明しおきしが、人類がいかにしてこの地球上に発生せしか、またいかにして今日のありさまにまで発達せしかのごとき諸問題も、また進化の理によりて証明することを得べし。その進化の原因は、前にもすでに一言せしがごとく、競争、遺伝ならびに順応の三事情にして、なかんずく競争をその主因となす。すなわち競争によりて優勝劣敗、適種生存をきたし、ために自然淘汰の作用によりて、優者はますます優となり、劣者はますます劣となり、ついに今日のごとく禽獣と人類との間に著しき区別を見るに至りしなり。されば、動物といい、人類といい、今日にては非常に懸隔せるも、その祖先に至りてはみな同一にして、その証跡の見るべきもの、今なお歴々として争うべからず。輓近進化説大いに世に行わるるに至りたれば、今さら汲々としてこれを証明するに及ばずといえども、今かつ簡単に二、三の著しき証跡を示さんに、まず形態上にありては、動物と人類とその大小、形状同じからざるも、その内部の構造はさほど著しく相異なるものにあらず。特に高等動物と人類との間には、内部の構造ほとんど差違なし。すなわち脳髄、心臓、肺臓、腸胃、五官、神経等のごとき、人類に存せる構造は、動物の高等なるものにも等しく存せり。また、精神作用の上においても、いちいち諸種の心作用を分析して比較するに、高等動物もまた人類のごとく知情意の各種をそなえおるを見る。ただその人類とやや異なるは、これらの諸作用の発達に高下ある点のみ。また、もし外見上より人類と高等動物とを比較するに、人類は直立して歩行することを得るも、牛馬のごときはしかることあたわざるを見る。これ二者の著しく相異なる点とす。しかれども、こは決して二者の本来別種なるゆえんを証するものにあらず。かつまた精神の作用を外見上より比較すれば、動物は言語を有せず、人類はこれを有してよく他人の思想を了解する差違あるを見れども、これまた二者の本来別種なることを示すものにあらず。すでに動物中にても犬または猫のごときは、そのなき声に自然の区別ありて、喜怒によりその発音を異にするは、なにびともよく知れる事実ならずや。果たしてしからば、動物に全く言語なきにあらず、その発達、人類に比して不十分なるのみ。

 また、人類進化の証跡は、人間一人の赤子よりようやく生長発育する間の状態につきて見ることを得べし。すなわちその発育の初期にありては、最下等の動物と全く同一の状態にあり。しかるに、ようやく発育するに従って次第に高等動物の状態を現すといえども、一、二歳の嬰児にありてはなお言語もなく、直立して歩行することもなし。これを高等の動物に比するに、なんの異なるところかあらん。しかのみならず精神の状態も、幼時にありてはただわずかに感覚もしくは情緒を有するに過ぎずして、いまだ高等の知力作用を現さざれば、禽獣の状態となんぞえらばん。しかして進化説にては、人類発育の初期にかかる状態を経過するをもって、吾人人類が太古より発達しきたりし間に経過せし状態を短歳月間に繰り返すものとし、これをもって進化の理を証明するもととなす。さて、かくのごとくしてようやく発育し、ある一定の年齢に達すれば、はじめて動物以上の諸作用を現すに至る。これ人類が動物より一歩進みて発達せしゆえんにして、その最も著しきは意識光明の作用内に赫々たる点これなり。ただし、動物といえどもその高等なるものにありては、多少意識の作用を有すれども、その光明、人類のもののごとく赫々たることなし。これ実に人が動物にまさるゆえんにして、また万物の霊と称せらるるゆえんなり。かく意識の光明、人類と動物との間に著しき相異あるも、そは決してそれらの祖先が本来別種なりしゆえんにあらず。もっともこの意識の開発につきては哲学者間に一大議論のあることにして、経験進化学派にありては、意識はもと動物が有するところの無意識的反射作用、あるいは下等なる感覚、知覚等の作用より発達せし結果にほかならずと論じ、先天学派にありては、これをもって人類が生来具有せる天賦の資性となし、決して経験よりきたるものにあらずと主張していまだ決せず。今、予は先天説を進化の道理に総合し、動物も人類もその裏面には等しく意識の光明を具有せるも、動物はいまだこれを外に開顕するに至らず、人類はわずかにその一部を開発せり。もしさらに一歩を進めてその全部を開発するに至らば、人間一変して神仏とならんといわんとす。かく論ずるときは、ひとり人類および動物のみがこの内包の光明を具有するにとどまらず、草木、国土、山川、瓦石もまた、みなこれを具有せりといわざるべからず。

 これを要するに、宇宙は一大活物にして、その裏面には意識理想の光明を包有す。ゆえに予は宗教学部門において、霊魂の不滅、神仏の実在をこの理によりて証明せり。今、本講は理学部門に関することのみを述べんとするものなれば、そのつまびらかなることはここに省きて論ぜざるべし。ただここにありては、人類と動物とはその祖先同一なるも、進化淘汰の理によりて、今日のごとく別類のものとなりしゆえんを一言するをもって足れりとなすべし。

第四四節 社会の進化

 およそ人類の進化には個人の進化と社会の進化との二種ありて、個人の進化はすでにこれを略説せしが、それと同一の理によりてここに社会進化の起こるを見る。されば、社会進化の主要なる原因もやはり競争にして、今その状を一言せんに、この天地間に生まれきたる人類は、年々その員数を増加する傾向ありて、それらのますます増殖せんとする人口の生存を支うるに必要なる食物には、その量に一定の限りありて、到底人口の増殖と同一の比例に増加することなし。これをもって、人口ようやく増加して一部分に群居するに至らば、必ず食物すなわち生存のために相互に競争せざるべからず。すでに相互に競争することあるときは、その結果は自然に優勝劣敗の状を現すのみならず、また互いに団結する傾向を生ずるに至るべし。これ全く人々孤立して互いに競争するよりは、数人もしくは数十百人団合し協力して他の団体と競争する方、各自にとりて便利にしてかつ益あるを知るによる。ここにおいて、団体と団体との競争を見るに至れり。それ社会とは、それを組織する人々の間に協力分業の制行われ、これによりて相合したる団体の名なり。しかして協力分業の制は団体の組織成ると同時に起こり、次第に発達整理するものなるが、その制のよく行わるるほどその団体は強く、しからざるものはその団体もおのずから弱からざるをえざるをもって、すでに団体あれば、その中には自然に協力の行わるると同時に、分業の制発達するに至るなり。これすなわち社会の発達するゆえんにして、今これが原因を食物のための競争に帰せしは、しばらくその主要なるもののみにつきて論ぜしにほかならず。されば、このほかにもなお内外諸種の原因事情ありて、社会の発達を助くることと知るべし。また、社会次第に発達するときは、これと同時に宗教、倫理、道徳、政治の上にも次第に発達進化の作用を及ぼし、ためについに完全なる一大国家を成立するに至る。ただし社会の進化を論ずるにも、また経験学派と先天学派との間に一大議論あり。しかれども予は、人類の進化を論ぜしときのごとく、この両説を一致せしめんとするものなり

 要するに以上述べし社会進化の理は、今日にありて世人のみなすでに知れるところにして、畢寛、贅弁に過ぎざるがごとしといえども、最初に生物の進化を論じたりしをもって、次第を追ってここに論及せしのみ。


       第四五節 人類上の妖怪

 これより、まさしく人類上の妖怪を論ぜん。予は前に妖怪を分かちて人為的妖怪すなわち偽怪、自然的妖怪すなわち仮怪、および超理的妖怪すなわち真怪の三種となしたりしが、まずそのうちの偽怪につきてさらにこれを細分せば、これに個人的妖怪と社会的妖怪との二種あるべし。個人的妖怪とは、人類が好奇心をもって種々の妖怪を作為し、または利欲心をもって種々の偽怪を構造する類をいい、社会的妖怪とは、種々の政略術数によりて人を驚かし、かつその心を動かさしむるがごときものをいう。しかして、この二つはいずれも「理学部門」において論ずべきものにあらず。つぎに第二の仮怪においても、また形態上の妖怪と精神上の妖怪との二種あり。形態上の妖怪とは、例えば不具奇形の類にして、その説明は「医学部門」に属す。その他、異人、仙人、山男、山女の類もまた、みな形態上の妖怪に属す。精神上の妖怪とは、白痴、神童の類にして、こは「教育学部門」の問題なり。その他、魔法、魔婦、神女、あるいは種々の幻術妖法を行うもののごときものも精神上の仮怪に属すれども、その説明は「心理学部門」ならびに「宗教学部門」にてなすべきものなれば、本講において説明すべきものは、上の諸種のうち、異人、仙人等のごとき形態上の仮怪なり。


       第四六節 山男、山女、山姥、雪女、鬼女

 今ここに種々の奇怪なる人類につきて、古書中に散見せるもの二、三を挙げんに、まず『周遊奇談』巻の三には左のごとき記事あり。

   豊前国中津領の山賤など、奥山より木をきり出だすときに、馬牛通いがたき所はこの山男というものに頼み、山の口まで出だせるにはなはだ便なりとぞ。予、回歴の節、炭焼くる山にてただ一度見たり。こは後にいうべし。まず右中津領の山男は、おおかた長六尺、また高きは六尺四、五寸もあるべし。太りありて力量いたって強きものなり。それに左のごとく材木を負わせ出だすに、一向、人と言語をなさず。ただ、こちらのいうことは聞き分くるとみえたり。この木を山口のなんという所までいだしくれよ、そのちんにこのにぎり飯を一つ遣わすべしと約束す。また、もしこの木二本持たば二つやらんといえば、そのそばによりてこの木を持ち見る。二本持てるとおもえば、二本一所のようにそばへよせるなり。足いたっておそし。総身人に同じく毛多し。もっとも裸なり。下帯とてもなし。男女しるしはあれど、股のあたりはことに毛深く、ただ眼色と大小にて女男をわかつなり。はなはだ正直なるものにて、約をたがうれば大いにいかり、大木たりともみじんになして、この人を忘れず。もし重ねて逢うことあれば、無二無三に飛び付きて半死半生になすことなり。ほかにもあらず、にぎり飯二つというを一つ遣わしなどしたる折からなり。この様子、ありさま、蝦夷人にひとしからんか。山内にて往来の所限りあると見えたり。その所よりすこしも里へいでず。岩角あるいは谷川、いかようの所にてもゆたりゆたりと歩む。川深ければ牛のごとく、つむりの見えぬ川も、底を平地のごとくあゆみ行くなり。牛歩のごとし。男はおおかた肥えて色青黒し。また、山女はその形、男とは大いに異なり、木の葉また木の皮ていのものを割きてむしろのごとく編みつづり、それを身にまとうなり。色青白し。男よりは丈もすこしひくし。痩せたるかたなり。これはなかなかちょっとは人の目にかかれどそばへよらず。いかようの場所に住しおるやしるものなし。たまたま猟人など、深山の窟などにねむりおるを見ることありとぞ。国によりては住む国と住まぬ国、山にもよるや有無しれがたし。仙人などとはようす異なるものなり(仙人また人の山林にこもりて松葉など食し、また木食の類あまた、住居所もあり。こは別に箇条をなし後に云云)。平生、食類はなにをなすとおもうに、おおく木の実また鳥獣を、それぞれの取り物をこしらえ生物を食す。あるいはその皮を着もし敷きもすると見えたり。鳥毛もしかなりつなぎ、もっともふじかつらをさき、糸のごとくしてなすことなり。ゆえに歯は男女ともにいたって白し(犬また人も菰かむりなど冷物を食とするもの、みな歯なし)。しかし、はなはだけがれたる匂いあるよしなり。

 また、『西遊記』巻の三には山女、山童のことを記せり。すなわち左のごとし。

   日向国飫肥領の山中にて、近き年、兎道弓にてあやしきものを取りたり。総身女の形にして色ことのほか

に白く、黒き髪長くして赤裸なり。人に似て人にあらず。猟人もこれを見て大いに驚き、人にたずねけるに、

山の神なりというにぞ。後のたたりもおそろしく、取りすてもせずそのままにして捨ておきぬ。見る人もな

くて腐り果てけるが、なんのたたりもなかりしとなり。また人のいいけるは、これは山女というものにて、

深山にはままあるものといえり。総じてかの辺りにては、兎道弓というものを作りて獣を取ることなり。け

ものの通う所をウジという。この道を考え知りてそこへ弓をしかけおき、糸を踏めば弓発して貫く機関なり。

狼、猪などもみな、この弓にて取り得るとぞ。誠に辺国には種々の怪しきものもありけり。

   九州のごく西南の深山に、俗に山わうというものあり。薩州にても聞きしに、かの国の山の寺という所にも山わろ多しとぞ。その形大なる猿のごとくにして、常に人のごとく立ちて歩き行く。毛の色はなはだ黒し。この寺などには毎度きたりて食物を盗みくらう。しかれども塩気あるものをはなはだ嫌えり。杣人など山深く入りて木の大なるを切り出だすときに、峰を越え谷をわたらざれば出でしがたくて出でしなやめるときには、この山わろに握り飯をあたえて頼めば、いかなる大木といえども軽々と引きかたげて、よく谷峰をこし杣人のたすけとなる。人と同じく大木を運ぶときに必ずうしろの方に立てて、人より先に立ち行くことを嫌う。めしをあたえてこれをつかえば日々きたり手伝う。先使い終わりて後に飯をあたう。はじめに少しにても飯をあたうれば、飯を食し終わりて逃げ去る。常には人の害をなすことなし。もしこちらよりこれを打ち、あるいは殺さんと思えば不思議に崇をなし、発狂し、あるいは大病に染み、あるいはその家にわかに火もえ出ずなど種々の災害起こりて、祈祷、医薬も及ぶことなし。このゆえに、人みな大いにおそれうやまいて手ざすことなし。このもの、ただ九州の辺境にのみありて、他国にあることを聞かず。

 『羅山文集』にも山男のこと見えたり。曰く、「駿州阿部山中有物、号曰山男、非人井獣、形似巨木断、有四肢、以為手足、木皮有両穴以為両眼、甲折処以為鼻口、左肢懸曲木与藤以為弓絃、右肢懸細枝以為矢、一旦猟師相逢射之倒之、大怪牽之触岩流血、又牽之甚重不動、驚走帰家、与衆共往尋之不見、唯見血漉岩石耳。」(駿州阿部の山中に物あり。号して山男という。人にあらず、獣にあらず。形、巨木のたたれたるに似たり。四肢ありもって手足となす。木の皮に両穴あり、もって両眼となす。甲折のところもって鼻口となし、左肢は曲木と藤とにかけてもって弓弦をなし、右肢は細枝をかけてもって矢をなす。いったん猟師相逢いてこれを射てこれを倒し、大いに怪しんでこれをひく。岩に触れて流血す。また、これをひくにはなはだ重くして動かず。驚き去りて家に帰り、衆とともにゆきてこれをたずぬるに見えず。ただ、血の岩石にそそぐを見るのみ)とあり。

 また、『百物語評判』には山姥、雪女のことを記せり。すなわち左のごとし。

   問いていわく、「世に山姥というものありて人をとるよし。または人の女房にばけたる物語などもはべらうが、実の女にて候や不審さよ」といいけるに、先生評していわく、「山姥というは深山幽谷の鬼魅の精たるべし」

   某いえらく、「このごろ、おおく俳諧の発句に雪女と申すこと見え申し候がいかが。このもの、あるべき物に候や」と問いければ、先生の曰く、「雪女ということ、やまと、もろこしのふるき書にも見えず。また俳諧などにするにもかようのことは、たしかに見えたるようにはいたさぬが、その法にてはべる。しかしながら、物おおくつもれば必ずその中に生類を生じはべるなり。水ふかければ魚を生じ、林茂れば鳥を生ずるがごとし。されば、越路の雪などにはこの物出でんもはかりがたし。これを雪女といえるは、雪も陰の類、女も陰の類なればなるべし」

 雪女のことは『和漢怪談評林』にも出でたり。左のごとし。

   かたえの人すすみ出でて、「これは御物語とも存ぜず、唐にさまざまあやしみあること、『捜神記』『太平広記』なんどにも多く記し伝う。あやしみなしとのみ片いちにのたまえぞ、近く雪女と申すもの、われただちに見はべらう、あらそいたまいぞ。前年、北国に諸用はべりて神無月の末おもむきはべりしに、ことのほか山路雪もふかく、暮れにかかりて宿までは今二里ばかりもやと思うところ、雪さえはらはらふり出でて、行く先次第にくらくなりて、ようやくふもとへ下りはべらう。田のあぜ道を行くところに、むかいのいなかぶ雪にうずみ一面に白く、ひととおり雪もあかりたるに、はや日も入りて足もとおぼろなれば道をいそぐところに、向かいの畑中に一むれの雪からからとこけて、まっ白なる女の立ちおりたり。おそろしくて一足を出だし、ようやく人里に出でて、宿とりはべらってこの物語をなしぬれば、宿のあるじ申しはべるは、『それこそ雪女にて候。ここもとにては雪も余国よりふかく、間々出でてはべらう。さるころもわが裏の藪に出でたるを旅人見おどろかされて、別に人に甲斐はなしはべらわず、春にもなりて雪消え候えば、いつとなく失せ候』と申す。見し人も多く候得ば偽りとも申されまじ」

 同書にまた天女のことを記したれば、これを左に抄出せん。

   天帝なしとのたまえども、晋の代の詰汾という人、田に出ずれば虚空より女の乗りたる車おり、車の内にいうばかりなき美女、詰汾にむかいていうよう、「みずからは天女なり、天帝の命によりてその方と夫婦のかたらいなさんためにきたれり。一夜しめやかに契りてあくれば天上へ帰るべし、また明年のこの月今日、ここにてまみえはべらん」と約束してわかれぬ。詰汾、明くる年のその日かしこに行きければ、けいやくのごとく天女天下り、男子を一人いだきて詰汾にさずけ、「これはこの君とわれとの中にもうけたる子なり、こののち帝になるべし」といいおわりて天上へさりぬ。この子、北魏の祖神元皇帝これなりという。

 また、鬼女のことにつきては『諸国里人談』に出でたる一節は、「宗教学部門」第二〇節に掲げたれば、これを参見すべし。

 以上の諸怪物につき新井白石の説あり。その『鬼神論』に述ぶるところの一節を抜抄するに、「山姥というは、嶺南の山姑に似て(『海録雑事』に見えたり)、山姫というは、日南、南丹等の地の野女、野婆に似たり(野女は『博物志』、野婆は『斉東野語』に見えたり)。河太郎というものは、宋の徐積が盧川の河のほとりにて、とり得たる小児(江隣幾が『雑志』に)、『白沢図』にいわゆる封の類にて、波小僧というものは、南海の海人、かたち僧のごとくにして、すこぶる小さきなりというに似たり(『草木子』に)。猫またというも、金華の人の家に飼う猫、三年の後はよく人をまどわすというの類にて(『五雑俎』に)、犬神というものは、『尸子』の地狼、『夏鼎志』の賈(二書ともに地中の犬なりという)、『白沢図』にいわゆる『木の精を彭侯という、かたち黒き狗のごとし』などというの類とは見えず。これ犬をころして祭りて、妖術をおこなうこと、日南、蛮方の蠱毒のことに似たり」と。また、平田篤胤の『古今妖魅考』にいう、「山人の説を伝え聞きたるに、魑魅といい、天狗と世にいうもののもとは、鷲、鳶、狐はさらにもいわず、ほかの鳥獣も、数百千歳を経ては、鳥は両翼より手を生じ、もとよりの両足に肉を生じて立ち、獣は前足に翼を生じ、異形ながら、やや人に似たる形となりて豎行し、ともに飛行するが中に、翼なくて飛行するもありと聞こえたり」とあり。また、同書に『抱朴子』を引きて曰く、「物之老者多知、率皆深蔵遠処、故人少有見之耳、千歳之鳥万歳之禽、皆人面而鳥身也。」(物の老いたるもの知多し。おおむねみな深くかくれ遠くおる。ゆえに、人わずかにこれを見ることあるのみ。千歳の鳥万歳の禽、みな人面にして鳥身なり)とあり。獣類も長寿を得れば人に化して怪をなすことは、はなはだ疑わしといえども、老狸、古狸の普通の狐狸に異なる作用を現し得るは、余もすでにこれを述べたり。

 以上の例によりて、これらの怪物のなにものたるかを考うるに、かくのごとき怪物の談あるに至りしには、種々の原因あることならん。今その主要なるものを列挙せんに、第一、深山幽谷の間には獣類、猿類の平素見なれざるもの多からん。しかるに、人もしかくのごとき異常の物に会するときは、ただちにこれを一種の怪物として世に伝うるより、かくのごとき怪物の談あるに至ることなしというべからず。第二、樵夫などの深山に入りて、深く山間にのがれ隠れし異族の人種を見るときは、その形色の一般の人に同じからざるよりこれを怪物として、山男または山女等の名を与うることもあらん。昔時、わが国には蝦夷人種住居したりという。その後、吾人の祖先なる大和民族のために追われて次第に東北地方へ退隠し、中には、あるいは深山幽谷の間にその身を隠ししものもありしこと疑うべからず。かくのごときものが、数代の後、平地にては該人種の形跡だに見ることあたわざるときに至りて、たまたま樵夫、猟人等に見出だされんか、かれらは必ず一種の怪物と思惟せらるるならん。今日、書籍の上に見ゆる異人類の一部は、あるいはかくのごときものにほかならざるべし。また、わが四国、九州地方には南洋インド諸島より漂泊して、深く山間に潜み、果実を食いて生活せし人種なしというべからず。もし人、偶然かかる異人種を発見することあらんには、また必ず怪物と見なすべし。上に掲げし山男、山女の実例は、大抵四国、九州地方のことなるより考うれば、これらの怪物はおそらくはこの漂泊人種ならんか。また、シナのごとく大陸中にある国にては、深山を隔てて異人種の住居せる他国と相接するも、古代は一般に交通不便なりしため、彼此の人民かつて相交わることなかりしをもって、山路にふみ迷うか、あるいは他の事情によりて他の人種に接するときは、ただちにこれを怪物となせしに相違なし。およそいずれの国にても、古代いまだ交通の開けざりしとき、はじめて他の人種を見るときは、これを鬼とし神とせしは一般のことなれば、山男といい山女といい鬼女という、大抵この類の出来事よりきたりしものならん。第三、たとい同一の人種中にても、身体偉大なるか、もしくは白髪長寿の人なるときは、なんとなく異常に感ずるものなれば、もし深山にてかかる人に会するときは、おそらく仙人に会いたりなどと伝うるならん。これまた異人の怪談ある原因の一ならん。

 このことにつきては、おもしろき一話あり。そのつまびらかなることは、明治十八年五月発行の『東京日々新聞』に天狗の怪談として記されたり。そをいかんというに、同年のこととかや、千葉県下総国五井村の海浜に、貝を拾わんとて出でてきたりし一人の壮漢あり。これすなわち同村の柏木某と称する柔術家にして、薄暮に至るまで貝を拾いて楽しみおりしが、夕刻に至り近村の青年四、五名相伴いてきたり。これも同じく貝を拾わんと衣をかかげて水中に入り、かしこここと探りもとむるうち、いかにしたりけん、柏木氏過ちてある青年の足をふめり。よって柏木氏はそのそこつを謝せしに、青年らその柏木氏なることを知らざりしにや、大いに怒りていかほど謝するも聞き入れず。かれこれするうち青年ら相ともに柏木氏にうちてかかりければ、柏木氏も今は是非に及ばずとて、日ごろ熟練の柔術にてみごとに数人の者どもなげつけたるに、青年どもははじめの大言にも似ず、一目散に逃げ失せたり。その後その辺りにては、過ぎし日、五井村の海浜にて数名の青年を苦しめしは、筑波山の天狗なりと風聞せりとぞ。これ予がいわゆる誤怪にして、かく尋常の人すら、ときとしては天狗、仙人のごとく誤認せらるることある上は、身軀長大、白髪白髥のごとき異常の観ある人に、しかも深山幽谷のごとき人の住まざる所にて出会うことあらんには、そのこれを怪物と誤認するも、決して怪しむべきことにあらず。第四、あるいはまた、幻覚、妄覚によりて怪物を見ることもあるべし。それ深山幽谷はなんとなくものすさまじきものにして、なにびとにてもかかる所にては、ややもすれば幻覚を起こさんとする傾きあるに、かつて山中にて怪物に会いし談を聞き、そを記憶しおるときは、精神作用のために容易に幻覚、妄覚を生ずることあるべし。前に掲げし雪女のごときは、おそらくこの妄覚の作用ならんと思わるるなり。すなわち、雪中晩景に郊外を歩行するときは、往々雪の草木もしくは他の物体を覆いて、その状あたかも人のごときを見ることあるは、だれも実験して知れることならんが、もしこの際、精神作用の加わるることあらば、ついにこれを怪物と誤認するに至るべし。これを要するに、上に掲げしごとき種々の異人が古書中に伝えられしは、上に列挙せし諸種の原因よりきたりしものならん。


       第四七節 仙人、天人

 人類、怪の最大たるものを仙人および天人とす。「釈名云、老而不死曰僊、僊入山故其字傍作僊省、又作山。書言故事云、神仙化去曰尸解、足不眚、皮不皺、目光不毀、不失其形骨者皆尸解也。広博物志云、昇天之僊凡有九品、一日九天真王二曰三天真王三日太上真人四曰飛天真人五曰霊仙六曰真人七曰霊人八曰飛仙九日僊人。(『釈名』にいわく、「老いて死せざるを僊という。僊は山に入るがゆえに、その字の傍らに、遷の省けるに作る、また山に作る」『書言故事』にいわく、「神仙の化し去るを尸解という。足眚せず、皮皺せず、目光毀せず、その形骨を失わざるはみな尸解なり」『広博物志』にいえらく、「昇天の僊におよそ九品あり。一を九天真王といい、二を三天真王といい、三を太上真人といい、四を飛天真人といい、五を霊仙といい、六を真人といい、七を霊人といい、八を飛仙といい、九を遷人という」)シナに仙人の多きことは、『列仙伝』『神仙伝』等を見て容易に知るべし。今ここにその例を挙ぐるを要せず。わが国にてもまた古来仙人の談あり。すなわち『本朝語園』(巻九)に、陽勝仙人および久米仙人のことを載せり。すなわち左のごとし。

   陽勝、姓は紀氏能州の人なり。母、日をのむと夢みてはらむことあり。元慶三年、叡山に登りて空日を師とす。ときに年十一。性、聡明にしてひとたびききて忘れず。止観を学び法華を修す。心、慈愍にして、裸者に逢いては衣をぬぎて与え、飢人を見ては己が食を譲る。のち和州に居して、夏は金峰山に入り、冬は牟田寺に下る。仙方を習うに、はじめは穀を避けて菜疏を食い、つぎに菜を去りて果を食う。ようやく飲食をやめてあるいは曰く、「粟一粒を食う」と。延喜元年の秋、永く世境を謝す。着るところの袈裟を松の枝にかけ書して曰く、「堂原寺の延命に与う」と。命これを見て悲泣し、山谷をたずね求むれども蹤跡なし。陽勝が父、病して嘆じていわく、「われに多子あり、愛するところはただ陽勝のみ、伝えきく、彼は仙を得たりと。もし仙通あらばわが心をしらん。願わくば、ひとたび父にまみえよ」と。勝、このことをきき、飛んで舎上に至り、法華を誦す。父のいわく、「だれぞや、経の声、陽勝に似たり」と。家人出でて見るにその形を見ず、ただその音のみを聞く。勝、父に申していわく、「われ父の宅を離れ永く人寰を去る、しかれども孝思たがわず。ゆえにきたりて経を誦す」また曰く、「毎月十八日、香を焼き華を散ぜよ、われ香煙をたずねてきたり、誦経説法して恩を報いんのみ」と。語り終わりて経の音絶す。そののち金峰山において東大寺の故旧に逢う。語りて曰く、「余この山にとどまること五十余歳、行年八十余。われ仙法を修して身自在を得、天に上り地に入りて飛行無礙なり。妙法華の力によりて心自在なることを得、世間を化し有情を利す」と。

   久米仙人は大和国上の郡の人なり。はじめ山に入り、神仙を学びて松葉を食い薜茘を服す。一日飛んで古里を過ぐ。たまたま女の足をもって衣を踏みあらうを見るに、その脛はなはだ白し。たちまちに染心を生じ、即時に地に落ちてようやく煙火を喫し、人間に交わる。

 さてその説明につきては、『秉燭或問珍』に左のごとき説あれば、ここに転載す。

   ある問いに曰く、「仙人という者は千秋万歳の齢をたもち、霞を食い気をのみ、雲に乗り風にかけるといい伝えり。これいかなる境界ぞや。また、その流れなりとて、火をのみ水にいりなんとする魔法師という者あり。これらはいかようなる術をして自由自在の行跡をなすぞや」答えていう、「仙人というは、あることにしてまたなきものなり。風にのり雲をかけるといえども、だれありてついに見たることなし。亀に乗り鶴に駕し鯉に乗るなどということは、みな神仙家の書にのせたることにして、正史、実録にあることなし。これみな葛洪、劉向が輩のいい出だしたる辞なり。『六経』の中に仙という字かつてなし。『列仙伝』にはじめて出でたり。かの輩、黄帝、老子を祖とす。その身を修し形を養うには至聖公を祖とすといえども、だれとがむる人なし。千歳の寿を得るの、万年の命を保つのと、いろいろに寿命の天より命あることを知らずして私する輩、黄帝を祖とすることいわれなし。(中略)かの仙道を聞くに、葛洪、三つの品をあげたり。上仙はこの身をもって虚空に昇る、これを天仙という。また、中仙は名山霊地に住む、これを地仙という。下の仙人は形をぬけて気のみ天に昇る、これを尸解という」といえり。

 また、『訓蒙天地弁』に左のごとき説明あり。

   仙は字書に「老不死曰仙矣。」(老いて死せざるを仙という)これは百万年も死せざるというにあらず、全く寿齢を保って凡人より久しからしむるのいわれならん。仙もし死せずんば、彭祖、鉄拐、今もって無事にあるべし。(中略)仏書に天竺、梵語、茂泥という、翻して仙とす。またいわく、「不依正覚修三摩地、別修妄念、在想固形、游山林人不及処。」(正覚によって三摩地を修せず。別に妄念を修し、思い形を固くするにあり。山林に遊び人の及ばざる所)これもまた末代不死というにもあらず。しかれば、往古、仙人ありて、なんぞ今一人もあらざるや。『孔叢子』陳士義に曰く、「魏王曰、吾聞道士登華山不死、意亦願之、対曰、古無是道、非所願也、王曰、吾聞信之、対曰、未審君之所聞、親聞之於不死者耶、聞之於伝聞者耶、君聞之於伝聞者妄也、若聞之於不死者今安在、在者君学之勿疑、不在者、君勿学勿疑。」(魏王曰く、「われ聞く、道士華山に登りて死せず、意もまたこれを願う」こたえて曰く、「いにしえこの道なし、願うところにあらざるなり」王曰く、「われ聞きてこれを信ずる」こたえて曰く、「いまだ君の聞くところをつまびらかにせず、親しくこれを不死者に聞くか、これを伝聞者に聞くか。君これを伝聞者に聞かば妄なり。もしこれを不死者に聞かば、今いずくにかある。あらば君これを学んで疑うことなかれ、あらずんば学ぶことなかれ、疑うことなかれ」)これは魏の安釐王、神仙をうらやみて学まく欲して問うところなり。こたうるところは孔仲尼より八代、孔謙あざなは子順なり。(中略)宋朝は治教休明、群賢英俊乏しからざるすら、仙の道に疑惑する人あって、河南の程夫子に問いたる趣、『近思録』弁異端にいわく、「問神僊之説有諸、曰若説白日飛昇之類、則無、若言居山林間、保形錬気、以延年益寿、則有之、譬如一炉火、置之風中則易過、置之密室則難過、有此理也、又問、揚子言、聖人不師僊、厥術異也、聖人能為二此等事一否、日此是天地間一賊、若非レ緒二造化之機ハ安能延レ年、使二聖人肯為ハ周孔為レ之。(中略)」(問う、「神僊の説にこれありや」と。曰く、「白日飛昇すと説くがごとき類は、すなわちなし。山林の間におり、形を保んじ気を練り、もって年を延ばし寿をますというがごときは、すなわちこれあり。たとえば一炉の火のごとき、これを風の中に置けばすなわち過ぎやすく、これを密室におけばすなわち過ぎ難し。この理あり」と。また問う、「揚子いう、聖人の僊を師とせざるは、その術、異なればなり」と。「聖人はよくこれらのことをなすやいなや」と。曰く、「これはこれ天地間の一賊なり。もし造化の機をぬすむにあらずんば、いずくんぞよく年を延ばさん。聖人をしてあえてなさしめば、周、孔これをなさん」と。(中略))これによってみれば、気を練りて寿を保つを仙とはいうべし。その道に従いまなばば、仙また今も至るべく、なんぞ風に乗じ天に飛行し、海を走り波に佇立の怪をいわん。

 そもそも仙人の談はもとシナにて起こりしものにして、シナも秦漢以後に盛んにとなうるに至りしもののごとし。『五雑俎』に曰く、「古今奉仏之主、莫甚於梁武帝唐懿宗、奉道之主莫甚於唐武宗宋徽宗、求仙之主、莫甚於秦始皇漢武帝。」(古今、仏に奉ずるの主は梁の武帝、唐の懿宗よりはなはだしきはなし。道を奉ずるの主は唐の武宗、宋の徽宗よりはなはだしきはなし。仙を求むるの主は秦の始皇、漢の武帝よりはなはだしきはなし)と。かの秦の始皇が不死の薬を求め、徐福をして日本にきたらしめしことは、古来世に伝われる談にして、また、かの漢の武帝が汲々として不死の薬を求めしことも、世人のみなよく知れるところなるが、これによりて考うれば、当時その説盛んに行われしものと見ゆ。しかして種々の怪談、妄説をこれに付会するものありて、小説的構造説、続々世に出ずるに至りしならん。わが国に古来仙人の談あるは、シナの説を伝えたるに相違なし。それはともあれ、かくのごとき仙人談の起こりしには、なにか原因なくんばあるべからず。今これを考うるに、シナにありては従来、世の乱を避け俗塵をいといて深く山間に潜みしものありたり。これを隠者という。思うに仙人、長老不死の観念は、多分この隠者より起こりしものにして、その間に種々の付会説の加わるありて、ついに今日の仙人談あるに至りしものならん。わが国にても古来、山間に入りて洞穴に住し、果実を食として一生を送りしものありしなり。今日にても愛媛県の山中には、深山人跡なき所の大樹の空洞に住し果実を食とし、決してその形を人に見せしめざる者ありという。猟人、樵夫等、ときにはるかにその影を望むことなきにあらざれども、これに近づかんとすればたちまち遠くのがれ去りてその跡を隠すをもって、その容貌などを明らかにすることあたわざれども、はるかに望みしところにては、よほどの老人なりという。また、奥羽地方のある山中にも世をのがれ山に隠れ、断食戒行を事とし、さらに里人に交わらず、明治今日の維新を夢にも知らざるものありという。されば、もし山中に入りて、ふとかかる人に会せば、必ず奇怪に感ずべきはもちろん、したがって長老不死、仙人のごとき想像を起こすなるべし。かくして仙人の談、世に伝わりしにはあらざるか。わが国にていうところの天狗もまた、これに類する事情より起こりし談のごとし。そはむしろ心理学部門の問題なれば、そのところに詳述すべし。

 つぎに一言すべきは天人のことなるが、こはもと仏書中に見えたることにして、すなわち『因果経』に曰く、「天人身浄不受塵垢、有大光明、心常歎悦無不適意之事、猶為欲火所煎、福尽之時、五衰相現、一者頭上華萎、二者眼瞬、三者身上光滅、四者腋下汗出、五者自然離於本座、又云、諸天子本修少善、得受天楽、果報将尽、生大苦悩、堕三悪道。」(天人は身きよくして塵垢を受けず、大光明あり。心常に歓悦して意に適わざるのことなし。なお欲火のために煎られて福尽くるのとき、五衰の相あらわる。一は頭上のはなしぼむ、二は目またたく、三は身の上の光滅す、四は腋下より汗出ず、五は自然に本座を離る。またいう、諸天子もと少善を修し、天の楽を受け得ると。果報まさに尽きんとす。大苦悩を生じ、三悪道におつ)とあり。その説明につきては『和漢三才図会』には左のごとくいえり。

   天人天女雖載仏経、所在不足穿鑿也、公事根源云、天武天皇御吉野宮弾琴、自前峰天女降臨、以羽衣袖五度翻而歌天平八年而後天皇即位、於内裡教舞姫行之、称五節舞是也、恐是為登極之表瑞、山ヌスマレヲ神化現而歌舞矣、人以為天女矣、又天女降遊于地、竊霜羽衣於人、不得還昇之事、和漢同為口談、蓋好事者之浮説也。

   (天人天女は仏経に載すといえども、所在をせんさくするに足らざるなり。『公事根源』にいう、「天武天皇吉野宮に御して琴を弾ず。前峰より天女降臨し、羽衣の袖をもって、五たびひるがえして歌う(天平八年)。

   しかしてのち天皇位につき、内裏において舞姫をしてこれを行わしむ。五節の舞と称するものこれなり」おそらくはこれ、登極の表瑞となして、山神化現して歌舞せしなり。人もって天女となすならん。また天女降りて地に遊び、羽衣を人にぬすまれ、かえり昇るをえざるのこと、和漢同じく口談となす。けだし好事の者の浮説なり)

 わが国にては諸方に天人の天降りし旧趾あり。前節に掲げし天女もまた、これと類を同じくす。また、『竹取物語』の「かぐや姫」のごときも、天女のこの土に降誕せしものなるが、かかる天人天女の説は全く想像説にして、そのかくのごとき想像あるに至りしは、全く仏教中に、人界の上に天界あり、その天界にもまた種々の世界ありと説き、その天界に住める生類につきて、想像上に種々の形をえがき出だししに基づくものならん。加うるに、後世の小説家が種々の想像をこれに付会し、ついに奇々怪々なる一種の人類怪とならしめしものならん。これを要するに、いわゆる妖怪的人類は全く実在せるものにあらず、しかるに古来そを存在せりと伝えしは、他にかくのごとき伝説を起こさしむる事情ありしによるというにあり。



第六講 怪火編


       第四八節 無機的妖怪

 上来講述せしところは、天変地異をはじめとし、有機的妖怪すなわち動植〔物〕、人類の上に生ずる妖怪現象の説明にして、地上に存する無機物の上に現るる妖怪現象につきては、いまだ一言も説明せしことなかりき。ただし、前に天地の怪異を論ぜしところは、とりもなおさず無機物上の妖怪なれども、そは天文、物理、地質、地理等の諸学の研究に属す。今ここに論ぜんとするところの無機物上の妖怪は、もっぱら物理学、化学によりて論ずるものとす。しかしてこの種の妖怪現象中、最も多く現れ、かつ最も重要なるは怪火なり。これに次ぐものを怪石とす。ゆえに、ここにまず怪火、怪石の二編を挙げて、他の無機物をこれに付属せしめて説明せんとす。しかして無機物が種々の現象を呈すること、および無機物変じて有機物となり、有機物変じて無機物となり、あるいは草木変じて動物となり、あるいは人類変じて木石となり、または男変じて女となり、女変じて男となる等の種々奇怪なることは、これを集めて変事編となし、もって本部門を結ばんとす。今まず怪火を説明せんに、これ一種の妖怪にして、これに種々の類あり。従来世人の伝うるところによるに、鬼火あり、狐火あり、竜灯あり、天灯あり、火車、火柱、蓑虫、その他空中に飛行する火塊に、その形状に従い種々の名ありて、あるいはこれを亡霊となし、あるいはこれを魔物となし、みなこれを奇怪なるものとせり。しかるに今日の物理学、化学の上より考うるときは、これらの現象にはそれぞれしかるべき理由あるものにして、すこしも妖怪とするに足らず。今まずその種類を掲げ、つぎにこれに対する古代の説明と今日の説明とを掲げん。


       第四九節 怪火の種類

 まず、左に『和漢三才図会』に出ずる火の説明を掲ぐべし。

   本草綱目云、火者五行之一、有気而無質、造化両間生殺万物、蓋五行皆一、惟火有ニ、二者陰火陽火也、

其綱凡三、三者天火地火人火也、其目凡十有二、所謂十二者天之火四、地之火五、人之火三也。

   (『本草綱目』にいう、「火は五行の一つ、気ありて質なし。造化の両間、万物を生殺す。けだし五行はみな一つ、ただ火には二つあり。二つとは陰火と陽火なり。その綱すべて三つ。三つとは天火、地火、人火なり。その目すべて十有二。いわゆる十二とは天火四つ、地火五つ、人火三つなり」)

   又同書云、田野燐火、人及牛馬兵死者血入土、年久所化、皆精霊之極也、其色青状如炬、或聚或散、来逼奪人精気、但以馬鐙相戛作声、即滅、故張華云、金葉一振、遊光歛色。

   (また同書にいう、「田野の燐火は、人および牛馬の兵死する者の血、土に入り年久しくして化するところ、みな精霊の極なり。その色青く、状炬のごとし。あるいは集まりあるいは散じ、きたりせまりて人の精気を奪う。ただし馬の鐙をもって相戛って声をなせば滅す。ゆえに張華がいう、『金葉ひとたび振るって遊光は色をおさむ』と」)

   按蛍火常也、狐火亦不希、鼬鵁鶄蜘蛛皆有出火、凡霡霂闇夜無人声則燐出矣、皆青色而無焰芒也。比叡山西麓、毎夏月闇夜燐火多飛於南北、人以為愛執之火、疑此鵁鶄之火矣、七条朱雀道元火、河州平岡媼火等、古今有人ロ相伝、是亦鳥也、然未知何鳥也。

   (案ずるに、蛍火は常なり、狐火もまたまれならず。鼬、鵁鶄、蜘蛛、みな火を出だすことあり。およそ霡霂ふり闇夜人声なきときは、すなわち燐出ず。みな青色にして炎芒なきなり。比叡山の西麓、毎夏月くらき夜、燐火多く南北に飛ぶ。人もって愛執の火となす。疑うらくはこれ鵁鶄の火ならん。七条朱雀の道元の火、河州平岡の媼火等、古今人口にあり。相伝う、これまた鳥なりと。しかれども、いまだなんの鳥なるを知らざるなり)

 また、『諸国里人談』に火弁と題する一節あり。

   陽火は金を戛の火、石を撃の火、木を鑽の火、これ地の陽火なり。太陽心火、星精飛火は天の陽火、君火は人の陽火なり。○水中火、石油火は地の陰火、竜火、雷火は天の陰火、相火、下火は人の陰火なり。陰火六つ、陽火六つ、天地人の火十二なり。また、狐、鼬、ごいさぎ、蛍、蛛〔蛛〕等の火は、火に似て火にあらず、連俳にて似せものの火というなり。色青く炎なし。寒火、陽炎、鬼燐、金銀の精気の火は陰火にて物をもやす。また、石灰、桐油、麦糠、馬糞、鳥糞より出ずる火は陽火にてものをやくなり。雷火は天の陰火なれども物をやく。これ陰中の陽火なり。浅間、阿蘇、雲仙、焼山の火は砂石を焼く。これまた陰中の陽火なり。


       第五〇節 燐火、陰火、鬼火、狐火、怪火

 まず燐火のことにつき、シナの書を参考するに左のごとし。

   王充論衡云、人之兵死也、世言其血為燐、血者生時之生気也、人夜行見燐、不象人形、渾沌積聚、若火

光之状、燐死人之血也、其形不類生人之血也。

   (王充の『論衡』にいう、「人の兵死するや、世にいう、『その血、燐となる』と。血は生時の生気なり。人の夜行して燐を見る。人の形をかたどらず、渾沌積集して火光の状のごとし。燐は死人の血なり。その形、生人の血に類せざるなり」)

   続捜神記曰、永嘉五年、張栄為高平戌邏主時、遭曹嶷賊寇乱、人皆塢塁自保固、見山中火起、飛埃絶爛十余丈、樹顚大焱響動山谷、久聞人馬鎧甲声、謂嶷賊、土人皆惇惶恐、並厳出将欲撃之、引騎到山下、無有人、但見砕火来灑人袍鎧、馬毛鬟皆焼、於是、軍人走還、明日往視山中無焼火処、唯見髑髏白頭布散在山中。

   (『続捜神記』に曰く、「永嘉五年、張栄、高平の戌邏主となりしとき、曹嶷の賊の寇乱に遭う。人みな塁をきずき自ら保固す。山中火の起こるを見る。飛埃絶爛十余丈、樹転じ大焱山谷を響動す。久しく人馬鎧甲の声を聞く。いえらく、嶷賊なりと。土人みな惶恐、併厳して将を出だしてこれを撃たんと欲す。騎を引きて山下に至るに人あることなし。かつ、砕火のきたりて人の袍鎧にそそぐを見るのみ。馬の毛鬟みな焼く。ここにおいて軍人走りかえる。明日ゆきて山中をみれば火をたく所なし。ただ髑髏白頭の布散して山中にあるを見るのみ」)

   博物志云、闘戦死亡之処、其人馬血、積年化為燐、燐著地及草木如露、略不可見、行人或有触者、著人体便有光、払拭便分散無数、愈甚、有細咤声如炒豆、唯静処良久乃滅、後其人忽忽如失魂、経日乃差、今人梳頭脱着衣時、有随梳解結、有光者亦有咤声。

   (『博物志』にいわく、「闘戦死亡の所、その人馬の血、年を積み化して燐となる。燐、地および草木に着すれば露のごとくほぼ見るべからず。行人、あるいは触るる者あり。人体に着すればすなわち光あり。払拭すればすなわち分散して無数いよいよはなはだし。細咤の声あり、豆をいるがごとし。ただ静処することやや久しければすなわち滅す。後その人、忽々として魂を失うがごとく、日を経てすなわち差ゆ。今人、頭をくしけずり着衣を脱するとき、くしけずるに従って結を解くものあり。光あるものまた咤声あり」)   荘子曰、馬血為燐、人血為野火。

   (『荘子』に曰く、「馬血、燐となり、人血、野火となる」)

   准南子曰、老槐生火、久血為燐、人弗怪也。

   (『淮南子』に曰く、「老槐、火を生じ、久血、燐となる。人、怪しまざるなり」)

   輟耕録云、元至正乙未正月二十三日、入時平江在城、忽聞東方軍声漸近、驚視之、但見黒雲一簇中、彷彿皆類人馬、前後火光若灯燭、由西方而没。

   (『輟耕録』にいわく、「元の至正乙未正月二十三日、時平江に入りて城にあり。たちまち聞く、東方の軍声ようやく近づく。驚きてこれをみれば、ただ黒雲一簇中、彷彿としてみな人馬に類するを見る。前後の火光灯燭のごとく、西方よりして没す」)

   山堂肆考云、広西蒼梧志、火山在城南臨大江、延袤五十里、蓋呉郡之案山也、毎夜火光有野焼状、或云、水中有珠、故光燭于上、或云南越王陀、埋剣山阿故然。

   (『山堂肆考』にいわく、「『広西蒼梧志』に、火山は城南にあり。大江に臨み、延袤五十里、けだし呉郡の案山なり。毎夜火光野焼けの状あり。あるいはいわく、水中珠あり、ゆえに光上をてらす。あるいはいわく、南越王陀、剣を山河にうずむゆえにしかり」)

   益智編云、★(冫+臣+己+灬)寧初呉仲庶知成都、一日文明庁前大槐、枝葉出煙、色青白如焚香、至暮乃止、而木如故、楊損之云、陰符経云、火生於木、禍発必剋、疑有将士作乱而不成者、月余果有告戌卒謀乱者皆獲。

   (『益智編』にいわく、「★(冫+臣+己+灬)寧のはじめ、呉仲庶成都に知たり。一日文明庁前の大槐、枝葉煙を出だし、色青白香をたくがごとく、暮れに至りてすなわちやむ。しかして木もとのごとし。楊損之いわく、『陰符経』にいわく、『火、木に生ずれば、禍い必ず剋つに発す。疑うらくは、将士の乱をおこしてならざる者あらん』と。月余にして戌卒の謀乱を告ぐる者あり、みなとらえらる」)

   大明一統志云、高台山在灌県西南七十里、上有晋時所立上清宮、夜間有灯火飛行、或謂草木之精所為云。

   (『大明一統志』にいわく、「高台山は灌県の西南七十里にあり。上に晋時立つるところの上清宮あり。夜間灯火ありて飛行す。あるいはいう、草木の精のなすところという」)

   滋養県志云、鼓楼下一黒石起、更後便出一火、如核桃火、人従東来則火向西去、人従西去則火向東走、迫近則聞其蹈地有声、帰入石内不見。

   (『滋養県志』にいわく、「鼓楼の下、一黒石たつ。更後、すなわち一火を出だして核桃火のごとし。人、東よりきたればすなわち火は西に向かいて去り、人、西に従って去ればすなわち火は東に向かいて走る。迫近すればすなわちその地を踏みて声あるを聞き、帰りて石内に入れば見えず」)

   臨州県志云、順治十六年臨汝四郷、毎夜有火光、照徹郊野、光燄中遥見人影、皆驚為大盗、遂設台瞭望、鳴金終夜、至次年暮春光焰始滅。

   (『臨州県志』にいわく、「順治十六年、臨汝の四郷、毎夜火光ありて郊野を照徹す。光炎中、はるかに人影を見る。みな驚きて大盗となし、ついに台を設けて瞭望し、かねを鳴らすこと終夜。次年の暮春に至りて火炎はじめて滅す」)

 かくのごときの例、いちいち挙示するにいとまあらず。わが国においてもその例、諸書に散見するところすこぶる多く、かつ諸方より報道せるものまた極めて多きも、今これを略し、ただちに古来の説明を左に掲載すべし。

   物理小識云、格致艸載西言、火在地上麗物則明、春夏之夜多野火、人称為鬼燐、而従深山大谷見者、曰仏灯聖灯云、夫野血化為燐、腐艸化為蛍、是以気質、滲漉土上為風雨日露所滋-照、其質雖化其気尚在、故或為蛍、或為燐、春夏間地気上升、火随地出、然得風日疏散、使其上帰晶宇、下帰地中、則不作光怪、惟久雨乍晴、上下皆有冷気、致火不能散去、横鷲地上、偶遇膏膩之気、則燃而成光、或牛馬人畜血濃之処、膏膩稍重、光遂転火、一等鬼火燄幽、数点連珠、人逐之則退、人去又復、依人者理亦膩気所致、体質軽微、人行衣衫動処皆有微風、逐之則風噓故退、反則風吸故復依人、一等在墳墓上出入、又或在荒壇冷廟、逓相伝走、蓋墳墓有尸気之膏膩、壇廟有灯燭牲血之膏膩也、至干地火焼禾、更当触類、此必久雨乍晴、当夏而冷乃有之、田面既有湿気、又有陰冷気在空中、当夏火気不能疎越、逼入禾苗、如腐艸延焼、農家急放田水、令乾乃可免、蓋水乾則下面冷気減、火気疎越、不至焼禾葉理也、故軍中刀鎗上火起、其理亦与野血同、又曰、塔放光者地中具、火以上騰為本性、而壅閼和-合于土上、故蒸為温気、発育万物、風雷雲雨、霜雪虹電、無一而非是者、上騰之性毎依直物而起、偶此塔有蘊臓凝滞之気、相触則付麗発光、与野燐同理、試観乎雷亦火也、毎依牆杆棟楹、有披撃出声而上者、可触類也、王虚舟物理書曰、峨眉五台仏灯、偶飛近人、手搏之皆樹葉、非其証乎、仏充満干法界、謂之仏灯、固宜人身有光、特不概見、其異者亦有壩上竜文五彩之類、彼菩薩仏像頭上、毎作一圜光、非無故也、石首魚仙人杖、白茅桃膠、皆夜或放光。

   (『物理小識』にいわく、「『格致艸』に西言を載せて、火、地上にありて物につけばすなわち明らかなり。春夏の夜、野火多し。人、称して鬼燐となす。しかして、深山大谷よりあらわるるものを仏灯、聖灯というという。それ野血化して燐となり、腐草化して蛍となる。これ気質をもって土上に滲漉し、風雨日露の滋照するところとなり、その質化すといえどもその気なおあり。ゆえに、あるいは蛍となり、あるいは燐となり、春夏の間、地気上昇し、火地に従って出でて、しかして風日を得て疏散し、その上は晶宇に帰し、下は地中に帰せしむればすなわち光怪をおこさず。これ久雨たちまち晴れ、上下みな冷気あれば、火散じ去ることあたわざることをいたす。地上に横鶩し、たまたま膏膩の気にあえば、すなわち燃えて光を成す。あるいは牛馬人畜血濺のところ、膏膩やや重ければ光ついに火に転ず。一等は鬼火炎かすかに数点珠をつらね、人これを追えばすなわち退き、人去ればまた復す。人によるものは理また膩気のいたすところ、体質軽微、人行きて衣衫動くところみな微風あり。これを追えば、すなわち風虚なるがゆえに退く。かえればすなわち風吸うがゆえにまた人による。一等は墳墓上にありて出入りし、またあるいは荒壇冷廟にあり。ついに相伝走す。けだし墳墓には尸気の膏膩あり、壇廟には灯燭牲血の膏膩あり。地火禾を焼くにいたり、さらに類に触るべし。これ、かならず久雨たちまち晴れ、夏に当たりて冷ややかなることすなわちこれあり。田面すでに湿気あり、また陰冷の気空中にあるあり。夏に当たりて火気疎越することあたわず、せまりて禾苗に入る。腐草のごとく延焼す。農家は急に田水を放ちて乾かしむればすなわち免るべし。けだし水乾けばすなわち下面の冷気減じ、火気疎越して禾葉を焼くに至らざるの理なり。ゆえに軍中刀鎗上に火起これば、その理また野血と同じ。また曰く、塔光を放つは地中に具するなり。火は上騰をもって本性となして雍閲して土上に和合す。ゆえに蒸して湿気となり万物を発育し、風雷、雲雨、霜雪、虹電、一つとしてこれにあらざるものなし。上騰の性、物に依直して起こる。たまたまこの塔に蘊膩凝滞の気あり。相触るればすなわち付麗して光を発すること野燐と理を同じくす。試みに雷をみんか、また火なり。つねに牆杆棟楹によりて、披撃声を出だして上るものあれば、類に触るべきなり。王虚舟『物理書』に曰く、『峨眉五台の仏灯、たまたま飛んで人に近づく。手ずからこれをうてばみな樹葉、その証にあらざるか。仏は法界に充満す、法界は宇宙なり、これを仏灯という。もとより人身に光あるべし。特に概見せず。その異なるものまた壩上の竜文五彩の類あり。かの菩薩仏像の頭上、つねに一圜光を作る、ゆえなきにあらざるなり。石首魚仙人の杖、白茅、桃膠、みな夜あるいは光を放つ』」)

 わが国、民間にては、火の色青くまどかにして、空中に浮遊するときは、これを称して人魂という。かつて『珍奇物語』に問答を掲げて、その理を説明して曰く、

   ある人の問いに、「冤鬼、妖怪の説は全く虚説なること初めてその理を得たり。しかれども、人魂は必ずなきものというべからず。余まさにこれを見たり。ある小雨降りの夜、墓所の近辺を通りしとき、新葬の元より青き火球現れ出でて空中に浮遊し、ようやくわが方へきたりしゆえ、われになんの遺恨ありやとわれ大いに怒り、飛びかかりて打ち落とさんと、急ぎ走りければ急ににげ去り、われとどまれば彼またとどまり、われ行けば彼行きて、わが動静をうかがう状ゆえ、われいよいよ怒り、杖を打ち振りて追いかけ行きたれば、たちまちきえてその跡なし。しばらくありてはるかに空中に現れ、風に従って飛び行きたり。これはいかん」○答えて曰く、「決して怪しむに足らず。蛍火、朽ち木、生の海魚、火球の類の光るは、みなボスポル〔燐〕という気の、水素という気と結び合い、燐化水素となり、自然の理合にて温のために光を放つものなり。それと同じ種類のうちにても、蛍火はだれも愛せざるものなし、また、これを恐れし人あるを聞かず。柊などの朽ち腐れたるものに、最も多く光を出だすものあり。また、生の海魚、ことに海老などを暗所に持ち行きなば、白き光を放つものなり。狐火あるいは人魂と唱うる火もみな同じくポスポルの光なれども、湿多き地、ことに墓所、刑所等には最も多く現れ、いかにもものすごく見え、ことにこの気はいたって軽きものゆえ、人これを追えばその動きより空気を動かし、火もこれがために動き、人またにげれば火また空気に従って人を追うに似たり。ゆえに、究理を知らざる愚昧の人々は恐ろしきもののように思い、あるいは幽霊遊び出でたるなどと唱え、婦人、小児などかかる火に行きあえば、震え恐れ気絶するに至る。これみな、その原因を考えざるゆえなり。元来このポスポルというは、天地の間にそなわりたる六十八種の元素の一つにて、草木なども多少この気をふくみ、生物には最も多し。ゆえに、死してのち骨肉くさり土にかえるときこの気も離れ、水素というまた六十八種の物の一つと合い、前にいえる燐化水素となり、酸素という気に触れて光

を発するものなり。かく生物に多き気なるがゆえに、墓所、刑所には自然多く出ずれども、もとポスポルの

光にて、蛍火、朽ち木の光に同じく、なんぞ怪しむに足らん。

   また、炭水気より火を出だすことあり。この炭水気とは六十八種の元素のうち、炭素という炭の本質の気

と、水素という気の集合したるものにて、これも酸素という燃ゆるこの気は自然、石炭油の多き土地、あるいは古井、または禽獣草木のくさりたるものより生ずるなり。越後の国にてむかし、井戸を掘らんとて地中を深く突きたれば、その穴より火を吹き出だし、人々大いに驚き樋竹をここに当つれば、またその竹の先に至りて火を発す。ゆえに、これを家のうちに引きて毎夜灯火の代わりとなし、またこれに枝筒を付けてところどころに導き、夜職などの灯火となす。夜明くればその火をふきけし、また夕刻に至りつけ、木の火をよすれば速やかに燃え、いかにも不思議なりとて越後七不思議の一つなりといえども、決して不思議にあらず。越後は石炭油の多く出ずる土地なれば、炭水気を多く生ずるゆえなり。○石炭坑にはこの炭水気を生ずること多きゆえ、ときにより石炭掘りの灯火より燃え移りて大火となり、人足多く焼け死ぬことあり。ゆえに、西洋にて石炭坑へ裸火を入るることなし。○また、池あるいは井戸などにて人の死したるのち、夜々、火の燃ゆることあり。人これを亡魂の出ずるなどといって恐るるなれども、その実は人の体の腐敗たる所より、炭水気かあるいは前にいう燐化水素を発し、空中の酸素と合って燃ゆるものなり。また、古池、深山などには風雨の夜、折々火のもゆることあり。なにも知らざる愚民らはこれを狐火などといい、また妖怪の仕業などと思うなれども、実は幾年となく禽獣草木などの積み腐れたる所より炭水気の発するものなり。また、雨降りのときは心の暖かなるものゆえ、炭水気の蒸しのぼること多し。このとき風強ければ酸素も多きゆえ、火の燃ゆることもはなはだし。雨風の夜に多く火の燃え出ずるはこの理なり。およそ世に冤鬼、妖怪と称するもみなこれらの類なれども、図らずも見なれざる物に出遇えば、ただ驚きて鬼となし妖となし、その原因をさぐるものなきによる。かえって今日見なれたる物の内に、不思議のこと多しといえども、人あえてこれを怪しむ者なし。よく究理の学に通ぜば、これらの細事はもちろん、天地の間、千万の事物一つも明亮ならざることなし」

 また『窮理』なぞと題する書に、鬼火の説明を与えて曰く、

   俗間に鬼火というは燐というものにて、腐尸、霉葉の日輪の熱にむされて、化して気となるものなり。その色は青く惨く、一顆散じて千百顆となるものあり。また、こえありて松風のごときものあり。日間もありといえども、人、見るあたわざるなり。昔、西洋にて燐の出ずる所へ物をさしはさみてしるしとなし、翌日ゆきて見れば気泡の湧き出ずるあり。微細にしてちりのごとし。薄暮に至りようやく光気あり。いよいよ黒くいよいよ明るく、これをとらうればとみに人をはなれ、人ゆけばまたゆき、人とどまればまたとどまりて近づくあたわず。ついに力を極めて追いゆけばたちまちきえて、もとのところを顧みれば依然としてのこれり。はじめて人の気のせまるゆえをさとり、息をこめ慢歩して紙をその中に入るれば、もえずしてあぶらじみ、膠涎にひたすもののごとし。嗅げば腐気あり。また、試みに硝★(石+蕉)の薬引きに入るれば、熱にふれて焚化すと。燐の内に鬼の面や鬼の声あるわけは、たえてなきことなり。

 また、『天変地異』にも陰火の説明を示して曰く(その説明、『珍奇物語』とほとんど同一にして、やや重複するところあれども、そのままこれを掲ぐ)

   光あれば熱く、熱ければ光あるは一般の法なれども、熱くして光なく、光ありて熱からざるものあり。湯のごときはなにほど熱くとも光なく、蛍火、朽ち木、生の海魚、海水、不知火、陰火などの類は、光あれども熱からず。この種の火はみなポスポルというもの水素と調合し、燐化水素となり、自然の理合をもって光を放つものなり。同じ種類の中にても蛍火は、王公貴人より婦人、小児に至るまでだれも愛弄せざるはなし。ことに宇治川の蛍狩りは京洛間の諸人、見物のため市をなすほどなりと聞こえしが、かつてこれを恐れし人あるを聞かず。また、朽ち木より光を放つことあり。柊などの朽ち腐れたるものに最も多く、怪しげなるものに見ゆれども、もと朽ち木なれば児童の輩、暗きところに持ち行き、朋友に奇しきを誇るの具とするのみ。また、生の海魚、ことに海老などを暗きところに持ち行きなば、白き光を放つべし。また夜中、海水をまぜ動らば水に光あるを見るべし。これ全く水の光にあらず、極めて細かなる魚ありて、水の動くに従い鰭鬣を振るい揺動するより起こるものなり。肥後、肥前の海に不知火あり。周防洋に平家の怨霊火と唱うる火あるは、ふたつながらかかる小さき魚の莫大に群集し、波の浮沈を追い、あるいは現れあるいはきえ、あるいは集まりあるいは離れて奇怪の状をなしぬれど、みなポスポルの光にて蛍火も同様のものなれば、見物の諸人、酒をくんでこれを楽しむも幽趣を得たるものというべし。狐火、人魂などと唱うる陰火の類も、また同じくポスポルの火なれども、沼あるいは墓所などの間に現れ、いかにもものすごく見ゆるゆえ、人々こわきもののように取りざたし、あるいは怨霊の火などと唱え、婦人、小児はかかる火に行きあうとき、震え恐れ、はなはだしきは気絶するものありと。実に気の毒なることなり。ある人、夜深く沼を渡りものすごく思いし折柄、たちまち青き火の近く輝くを見たるに、ようやくわが方へ寄りきたれば、にくき妖怪の所業なりやとひとりつぶやき行くほどに、これを捕らえんと思い立ち、急に歩を進めければ、追うものありてのがるるがごとく、急ににげ去り、われとどまれば彼とどまり、われ行けば彼行きて、わが動静をうかがう様子あり。いよいよ怒り、力を極め追いかけ行きしに、たちまちきえて跡を失えり。しばらくありて、はるかに葦茅を隔て鮮やかに現れしゆえ、このたびは息をのみ身を潜め、間近く寄りて急にこれを襲わんと決意し、しずかに進み寄りしに、火、現然として少しも動く様子なし。ますます沈黙し火の傍らに歩み寄り、急に手をあげて打ち落とし見れば、一片の燐化水素にて、なにも怪しげなるものなし。畢竟、前ににげ隠れしは自己の動きより空気を動かし、火もこれがため動きしものなるに、後のたびは静かに近寄りしゆえ、空気を動かさず、火もこれがためにその居所を動かさず。これを物にたとえば、池水の面に浮かぶものあるを、にわかに水に飛び入りこれを捕らえんとせば、その物必ず水に促かれて先の方へゆき、われ帰ればまた水につれわが方へきたるべし。しかるを、静かに水を押し分け、これをつかまばたやすかるべし。空気の動くもこれと異なることなし。元来ポスポルとは天地の間にそなわりたる六十八色の物の一つにて、生物に多く、草木なども多少この気を含まざるは少なし。人もこの気あればこそ生命を保ち得るものなるが、死して骨肉腐り、土にかえるときこの気離れ、水素というまた六十八色の物の一つと合い、前にいえる燐化水素とはなるなり。かかる理より墓所などは自然この気も多く、ついに怨霊の火などと唱えきたりしも種なき話にはあらざれど、もとポスポルの光なれば、蛍火、朽ち木と異ならず。なんぞおそるることあるべけん。

 ここにまた、横山氏の『気象学』に電光の説明あり。すなわち左のごとし。

   球丸電光はまれに起こるところの現象にして、その状あたかも火塊のごとく最も強烈なるものとす。かかる電光は電気機械をもって発生せしむることあたわざるがゆえに、いまだ十分に説明することを得ず。その光球は全径、数英寸ないし二、三英尺に達し、その動くやはなはだ遅く、数秒時あるいは数分時間現存す。この現象に関する記事は数例あり。一八四一年ミラノ府においての球光は、人これを追跡し得たるごとく静かに市街を通過し、教会の十字架に衝突して消失するに至るまで、三分時間これを見ることを得たり。また、パリ府においてエスペルト女は、一団の球光あたかも月輪のごとき状態をなして、大空より降下するを見しが、その際、絶大の爆声を放ちて破裂し、十一、二個の折続電光を四方に発散せり。その一個は隣の壁を打ち、砲丸のうがちたるがごとき穴をとどめたりという。

   わが国において、ときに空中に発輝する火塊を見ることあるは、この球光の現象にほかならざるがごとしといえども、いまだ十分の観測を経ざるをもって、これを確信することを得ず。

 以上の説明によりて、いかなる怪火出ずるも、あえて怪火とするに足らずといえども、世人はこれに種々の妄想を付会し、怪はますます怪となるに至る。今、左に新潟県樋口常太郎氏の報道を挙ぐるに、

   明治二十二年八月二十二日午後十一時ごろ、友人蕪木太一郎とともに市中を散歩せしに、およそ二十五間ばかりへだたりたる所の家の上(地上およそ三間ばかりの所)に、直径七、八寸の提灯のごとき火を見たり。怪しみて少時注視せしに、ようやく西に向かいて進むがごとく見ゆ。よって小丘に登りなお注視してありしが、怪火はようやく西北に進行し、行くに従いようやく微小となり、三十分時の後ついに一小星かと疑わるるまで小さくなり、一里ばかりへだたりたる所の山の辺りに至りしころ、その火を見失いたり。予が父もまたかくのごとき怪火を見しことありし由なるが、それははるかの西より東に向かいてきたりしものなれば、漸々近づくに従って大きくなり、当十日町大字原村にある十二山といえる山に上りしとぞ。ただし、その火は地上およそ三、四尺の高さにかかりし由。

 これすこしも怪しむに足らざる現象なれども、諸書に伝うるものには妄誕を付会するもの多し。まず二、三の書に考うるに、

    『諸国里人談』にいう、「摂津国高槻庄二階堂村に火あり。三月のころより六、七月までいずる。大きさ一尺ばかり、家の棟あるいは諸木の枝梢にとどまる。近く見れば眼、耳、鼻、口のかたちありて、さながら人の面のごとし。あだをなすことあらねば、人民さしておそれず。むかしここに日光坊という山伏あり。修法、他にこえたり。村長が妻、病に臥す。日光坊に加持をさせけるが、閨に入りて十七日祈るに、すなわち病いえたり。後に、山伏と女、密通なりというによって山伏を殺してけり。病平癒の恩も謝せず、そのうえ殺害す。この恨み、妄火となりてかの家の棟に〔毎〕夜飛びきたりて、長をとり殺しけるなり。日光坊の火というを二恨坊の火というなり」

   『本朝奇跡談』にいう、「伊勢国に悪路神の火といいて、雨夜にはことに多し。提灯のごとく往来をなす。この火に行きあうときは流行病をうけてわずらうよし。よって、この火に行きあうときはすみやかに地に伏す。かの火その上を通路するによって、この病難をのがるるといえり」

   『周遊奇談』にいう、「近江国堅田村、中昔より化の火と呼びてあやしき火あり。こは曇りたる夜は四季ともにあらわれいずるなり。まず、みずうみの岸より少しき火出ずれば、だんだんと山の手の方へ行きてその火広がり、おおかた三尺ばかり、また大小もありて、ときにより小さきときは一尺ばかりもあり、火勢強からず。もっとも月夜には出でず、小雨の夜とくもり夜ばかりなり。地をはなるること四、五尺にして、人の面あらわれ、両人裸にて、左右の手を組み、角力など取る形なり。腹より上は見ゆれども下はなし。ある人この火をためし見んと、田の畔に隠れてその火のきたるをまつところに、夜半のころ例のごとく、うみ際より出でて山の手に至り、しのびおるかたへきたる。この男、元来大力、田舎角力の関取なれば、ヤアと声かけかの火に飛びかかれば、大兵ゆえ五、六間あなたの田の中にしたたかに投げられたり。しかし稲のできたるこうなれば、下柔かくして少しもけがなし。昔よりたびたび、かくのごとく強気なる人々ためし見るに、みなそのごとくなり。これを聞く人、いよいよおそれてよりつくものなし。実に奇なる火なり。

   ただし、これに似たることどもは諸国にあまたあれども、そのうちに京師の西の河原、宗玄火というあり。この火は雨夜、曇り夜はことにいずるなり。この火のいろ青く光り、夜中にいたれば松の木などの枝にとまり、また人の足もとへきたり、ある〔い〕はそれをうたんなどするときは、なかなかうつことあたわず、とらんとすれど、走りゆきて追いつくことあたわず、終わりは水中に入りて消ゆるがごとくうせるなり。また、下山城の木津といえる舟渡しあるこなたに、在所にはかわらあり。この墓の藪の内より、山伏のもうねんなりとて、これも青き火出ずる。狛の堤、長き所をゆききして人にはけがなし。地を去ること五、六尺ばかりの中を飛行す。ここには俗にいう狐火というもの、いつも二つ三つずつあれば、右の山伏の火とたたかうなど、見る人さまざまいえれど、さにはあらず。狐火は別なり。みな雨夜と曇りがちなり。いずくにあるを見てもしかなり」

 以上は、みな妄想、幻視によりて生じたる妖怪なり。またここに、民間にて大いに喋々する狐火のことにつきてこれを考うるに、また『秉燭或問珍』に狐火について問答を掲げて説明せり。

   ある問いに曰く、「世に狐火とて夜中、狐の火を燃すことあり。また、雨降り、闇夜などに墓所おのずから燃ゆることあり。これいかなる理ぞや」こたえて曰く、「狐火と墓所の焼くる火はみな陰火というものなり。陰火はみな光のみあって、かつて物を焼くことなし。また、陽火は常の火なり。物につけばそのまま焼くるなり。陰火は物につくことなく、結句、水を得て盛んなり(樟脳の火物をやかず、水中に光を増す、これ陰火なり)。ゆえに、雨降りまたは夜中に光をあらわす。これ陰火の時を待ちて燃ゆる理なり(夜は陰、雨も陰なり)。しかれば、狐火と古塚の燃ゆるはともに陰火なれども、少しの差別あり。狐火はわざと燃やさんと思う心ありて燃え、古塚はなんの心もなく自然に燃ゆるなり。『酉陽雑俎』に、狐、尾をうちて火を出だすとあり。または千年になる枯木をもてばおのずから燃ゆること、かつてあやしきことにあらず。『博物志』『本草綱目』等に載るごとく、人血または牛馬の血、地に落ちてあるとき、湿気などにあえば必ず火出ずるとあり。これ燐火というものなり。ゆえに、剣戟などにかかりて死したる者の塚は、ときとして燃ゆることあり」また問う、「血を出だして死したる者の塚にも、燃ゆるもあり燃えざるもあるはいかん」こたえて曰く、「その墓所の地、陰湿なる所なれば、その人の膏膩に和して燃ゆる理なり。乾ける地なれば燃ゆることなし。ゆえに、平生燃ゆる古塚をも、湿気のなき乾ける地へ所を替うれば燃ゆることなし。全く死人の精霊のなす業にはあらず。理を究めざる人、さようの塚を見ては、焦熱の苦しみをあらわすなどという。かつてその義にあらず」また問う、「海上に竜灯という火あり。陸にあがることなく、折々海上に見ゆることあり。これいかなるものぞや」こたえて曰く、「竜灯水上を行くこと、予が邑などにては常にして、見ぬ者もなきように多し。   これ水中の陰火なり。あるいは年経て陰火を得たる魚などの游ぐにてあるべし(狐の尾に陰火を燃すと同理)。しかれども、かの竜灯高くあがり山などに登ることあり。これ自然の陰火なり。陰火なるによって陸にあがることなく、水気を得て盛んなり。わけて雨降りに出ずるものなり。水中火ありという心にて、なんの業ということもなく、自然に燃ゆるものなり。木玄虚が『海賦』に陰火潜然といえるはこれなり。また、『嶺南異物志』の中にも海の火のことをつまびらかに載す。あやしきことにあらず」

 また、『諸国里人談』に左の事実を記せり。

   摂津国川辺郡東多田村の鰻畷に燐あり。この火、人のかたちあらわし、あるときは牛をひきて火を携え行くなり。これをしらぬ人、その火を請いてタバコをのみて相語るに、尋常のごとし。かつて害をなさず。おおくは雨夜に出ずるなり。所の人は狸火なりという。

 しかるにまた、『訓蒙天地弁』に問答を掲げて、狐火の説明をなせり。

   問いていう、「曠野の地、夜陰に火を点じ、大小数あって、たちまち一つとなり往来し、すこぶる怪異たり。あるいは狐、馬骨を含んでこの妖火をなすという。この理はいかん」答えていう、「諸書に述ぶるところ、いまだ狐、枯骨をくわえ火を見するの説を見ずといえども、狐狸の性、元来怪異をなすものなれば、かの妖火を見するの理たえてなしというべからず。野血化して燐となるあり。狐火といえるもの多くはこれなるべし。気の土上ににじみしたたるをもって、風日雨露のために照り乾かされ、湿らされしてその質化すれども、その気はなお存して、あるいは腐草蛍となり、野血のあるところ燐を生ず。幽類、明類と化変するまでなれば、その火、物を焼くことなし。つねに春夏の間は地気上昇し、火また気にしたがって出でて、しかれども風日のためにあらけ散じて、上は天に帰し下は地に帰して、怪化の火をなす。牛馬の死せるを捨つる所などは膏膩の気深し。野犬あるいはその肉を食し、ここかしこに持ちきたり、諸所にその気を染めしむるものは、地またその気をとどむ。人畜の鮮血などそそぐことある地は、ことにその膏気ふかくとどむ。古戦場などは、なかんずく血膩はなはだふかし。かくのごとく地に散ぜずして、ある雨後の湿りに感ずるときは野火を生じ、人に前後してあるいはすすみ退き、怪異をあらわす。古墳、荒墓などに霖雨晴れたる夜陰に、炎燃ゆることなどあるも理相同じ」

 その他、余が説を述ぶべきはずなれどもこれを結論に譲り、火柱および蓑虫のことを述ぶべし。

 

       第五一節 火柱、蓑虫

 俗に火柱がたつときには必ず火災あり、その柱の倒れたる方向に火災ありという。かくのごときはもとより妄説にして考うるに足らずといえども、なにか火の立ち上ることあるは事実なり。左に、『訓蒙天地弁』ならびに『荘内可成談』に出ずる説を挙示せん。

   『訓蒙天地弁』にいう、「問いていう、『火柱というものあり、中天の妖火なりや、また彗孛の類にもあらじ。そのたつる方に火災のおそれあること、これなにものぞ』答えていう、『火柱は鼬の吹く気なりとてその説にいう、鼬は火物なり。かれつどいあいて数百匹その気を吐くとき、呼吸の息気立ちのぼりて夜陰の空に火をあらわす。毎夜かくすることあり。田野に蛙つどいて争うことあるがごとし。これまた一奇事なり。鼬は火陽の物なるがゆえに、その群れあう方に火柱をあらわし下火災の応あり』と。しかれども奇怪なり。書に所見なし。畢竟、夏月の妖火、中天の怪星と理同じかるべし」

    『荘内可成談』にいう、「火災あらんとする家には必ず火柱というもの立つといえり。よくよく聞くに、その辺り火災ありしのち物騒にて、人気も穏やかならぬゆえ、自然いろいろのことをいい触れて、その弱みへ狐狸などの妖もあるなれど、実は虚説なるものなり。ひととせ代官町芳賀氏焼亡のとき、火柱立ちぬといい触れぬ。そのいい出だせし者をたずぬれば、かの家の乳母なり。彼を捕らえて糾問すれば虚言にて、実はかの放火の賊なり。放火せんと謀りしゆえ、前に火柱立ちしといい触れたることにてありける。かの者はその罪にて火刑に行われぬ。おおかたはかかることなるものなり。また、実に火柱を見る者ありとも、これも心得難し。以前春のころ、京田大山組下川村に小鳥刺しに行きし人あり。暁方の時刻を取り違えて夜深けに出でしゆえ、かの村にてようやく起きたる家あるに、立ち入りてしばらく休みぬ。東の白みぬるころ、藁積める乳うの上より火の光りして赤くのぼること一丈ばかり。世にいえる火柱というものにこそと、静かに立ち寄りてよくよくうかがい見るに、鼬の乳うの上に立ちて、空へ向かいたる口よりかかる火光の出でしとぞ。また、ある人夜会の戻りに塀の際につききたるに、雨強く降りていと暗きに、物の塀の上を走る音してやみぬ。一町ばかり行くと思えば、わが肩の辺りより赤き気、向こうへ糸筋のごとく四、五尺も出でぬ。不思議に覚えて振りめぐり見るに、小さき鼬の肩より飛び落ちて逃げ去りぬ。そのほか門上にかぶきり子の立ちて、火を吹きしというも鼬なりしとぞ。かかることは往古よりのはなしにあまたあることなれば、火柱というものも鼬の所為なるべし。

 その説明も結論に譲り、ここに蓑虫あるいは蓑火のことを示さん。先年、越後国木村義七氏の報ずるところによるに、

   俗に狐狸の所為なりと伝うる妖怪の一種に、みのぼしと称するものあり。これは己の全身に火の燃ゆるを見るものにして、そのときもし驚きて狼狽すれば、火勢ますます熾烈となる。しかれども、決して熱を感ぜず、また、それがために焦爛することなく、己自らこれを見て傍人には少しも見えず。衆人相伴うとき、その中の一人この奇態にかかることあり、また、衆人同時にみなこの奇態にかかることあり。俗にこれをみのぼしにつかれたるなりという。今、予が親しくみのぼしにつかれし当人より聞き得たる実例二、三を左に記さん。

   今を去ること十二、三年前、わが小須戸町に住せる舟人某、一人の客を小舟に乗せ、午前一時ごろ新潟(小須戸より新潟まで水路五里)に向かいて漕ぎ出だせしが、字五町原といえる所にきたりしころ、たちまち己の全身に火の燃ゆるを見たり。しかれども、某はかつてみのぼしのことを聞き知りしをもってあえて周章せず、かつ、かかるときには火を点ずればたちまち消失するものなることを知りしゆえ、おもむろに客に請いマッチを点ぜしめしに、果たして消失せり。しかして客は、かつて舟人の全身に火の燃ゆるを見ざりき。

   また、一夜新潟の近傍にて、舟中の人あげてみのぼしにつかれしことありしが、乗客中かつてかかることあるを知らざる者は、大いに狼狽したるため、火勢ますます猛烈にして、一時は自ら見るに恐ろしきほどなりしが、天ようやく明くるころに至り、ことごとく消滅して平気に復せり。

   また、当国北蒲原郡千唐仁村の者、三人相伴いて中蒲原郡新津より帰らんとす。しかるに同郡飯柳村にきたりしころ、日すでに没したりしが、同村稲荷の社頭において少時休憩したる後、三、四町も歩みしと思うころ、三人同時にみのぼしにつかれたり。しかれども、みなかつてこのことを知りしゆえ少しも驚かず、おもむろに一人をしてマッチをすりて火を点ぜしめんとせしに、いかなるゆえにや火出でず。とかくするうち、路傍の小川の中に三人とも墜落せり。ときに川中一滴の水もなく、ことに小川のことなれば、岸に上がること容易なるべきはずなるに、いかがしたりけん、身体意のごとくならず、岸に上がらんと欲して得ざるとき、一人ようやく火を点じたりしため、いずれもはじめて平気に復せり。

    また、中蒲原郡大秋村の猟師某は、かつて数次みのぼしにつかれしことありし由にて、その語りしところによりて、この怪事の要点を列挙せば左のごとし。

    この怪事は秋期に最も多し。

    身体を安静に持つときは自然に消滅す。

    狼狽すれば火勢ますます熾烈となる。

    火を点ずればたちまち消失す。

    みのぼしのために焦爛の害を受くることなし。また、これがためかつて熱を感ずることなし。

    この奇態は己のみこれを見るを得て、他人はこれを見ることあたわず。

 このことにつき『怪談実録』(巻四)に詳述せるあり。

    「しらぬ火の筑紫」と歌によめるは、景行天皇、葦北という所より御船を出だされ、火の国につきたまう。ここにして日くれ、夜くらくしてつかん所を知らず。はるかに火の光を見たまいて、天皇、挟抄者に詔してのたまわく、「ただちに火の所をさせ」と。よって火をさして行くに、やがて岸につきぬ。天皇、「火の光る所はなにとかいう村ぞ」と問いたまう。「これは八代県豊村なり」と申す。また、「その火はたれびとの火ぞ」とたずねたまう。主なければ、これは人火ならぬことを知りましつ。ゆえに、その国を名付けつ火国というよし、『日本紀』に見えたり。火国とは今の肥前、肥後をいう。かの所には今の世までも火の光ありといえり。そのほか、諸国に火の出ずる所あまたありと聞けり。越後の国にしれるもののあるがいいしは、かの国には霊火といいならわして、火の出ずる所ここかしこにあり。雨夜にあらざれば出でず。その火、もゆるかたちにて、地より三、四尺あるいは五、六尺ばかり上をしずかにとびゆく。道行く人、この火にあえばゆくさきへもえゆき、はなはだ近く手に取りつべく、また高く飛びて山を越えゆき、また樹上などにてもゆることもあり、また城下やしきの中に出ずる所もあり。児女などは見なれざればおそるれども、夜行するものはたびたび見ることゆえ、あやしみおそるることもなし。その人の物がたりに、予が朋友のもとへ、山を隔てたる村より折々きたる者あり。あるとき帰りに、道より日ぐれて小雨ふりけるに、かの火にあえり。世人、梟の夜飛ぶとき、つばさ光りて火のごとく見ゆるといえば、もし梟にてやあらん、捕らえて見ばやと思いて、われ行く先にまぢかく飛び行くを、はしりかかりて右の手にてつかみけるに、火はきえて見えず。手のうち物のありともおぼえず、少しもあつきこともなかりければ、不審におもい手をにぎりしままにて行きしが、道に知れる寺のありしに、和尚はものしりなるべし、このことを問わんとおもい立ちよりて、しかじかのよしいいければ、和尚立ち出でて、なんじ霊火をとらえしとはあやしきことなり。おもうゆえあればしばらくまてとて、かんぶくろを取り出だし、この中へ手を入れよとてかの男が手を入れさせ、ふくろの口をしかとしめ、手をひらかせければ、ふくろの中に火をともしたるようにてはなはだ明らかなり。この火気のもれぬように口をしめて、しずかに手をぬき出ださせければ、ますます明らかなり。和尚もこの火はいかなるゆえ

ということをしらず。希有のことなれば、これをばわれに得させよとてとどめ置き、かの者はわが屋に帰りぬ。予おもうに、この火あつからず、物にもえつくこともなければ、真の火にあらざること知るべし。

   古戦場には火もゆるということを聞けり。これ燐火なり。『博物志』に、「闘戦死亡之処、其人馬血、積年化為燐。」(闘戦死亡の所、その人馬の血、年を積みて化して燐となる)といえり。越後には謙信のときの戦場ところどころにあるべければ、この霊火というは燐なるべし。燐も真の火にはあらず、火のごとくに見ゆるなるべし。また、蓑虫というものあり。虫にはあらず。雨夜に道行く人につく。はじめには蛍のごとく光あり。後には傘より落つるしずく、雨衣にかかりたる雨も、ことごとく火のごとくに明らかなれども、他人の目には見えず、つかれたる人の目にのみ見ゆ。家の内へ入ればみなきゆるといえり。予が知れる人も、つかれしことありとて語りき。雨衣につくこと、虫などのようなれば、みのむしとはいいならわせしなるべし。案ずるにこれも燐と同じかるべし。

   『博物志』燐の下に、「燐著地及草木、如露不可見、行人触之著体有光、払拭即分散無数、云云。」(燐は地および草木につけば露のごとく見るべからず。行人これに触れて体につけば光あり。払拭すればすなわち分散して無数、云云)文長ければ略せり。これみの虫に全く同じ。ただし『博物志』には下文に、声あり豆をいるがごとし、後その人忽々として魂を失うがごとしなどということあり。みの虫にはこれらのことあることを聞かず。また、同国にかまいたちということあり。これは目にみゆる形もなく、往来のものこれにあえば、なんのおぼえもなく、かみそりにて切りしように傷つくなり。痛みもつよからず、血も多く出でず。おおかたは膝より下、脛のあたりを切る。五、六寸ばかりも切るなり。そのきず深からず、皮肉の間を切るなり。およそ帯刀の人には触るることなし。農夫、下部のたぐいのみなり。鉄気をおそるるにやという者あり。愚案するに、衣服の上よりきれぬなるべし。帯刀するものは衣服長く、あるいは袴をも着るゆえきられざるが、下部のたぐいはすそ短に、脛をあらわしてあるくゆえに切らるるにや。一説につむじかぜなりといえり。風にてきずつくべきようはあらざれども、もしくは風の中に物ありてなすことにや。このこと、なんの書にも見えず。博識の人に問うべし。近松門左衛門が越後のことをかきしに、風の名をさえかまいたちといえり。風ということをよく知りてかけるか、方言を伝え聞きてかきしか、いぶかし。かまいたちといいならわせしは、鎌にて切りしようにて、また越後にては、いたち怪をなすことあるゆえに名付けしか。他国にもありや、いまだきき及ばず。

 また、江州琵琶湖にも蓑火の話あり。『不思議弁妄』にはこのことにつき、左のごとき説明をなせり。

   近江の琵琶湖に不思議の火ありとは古老聞きたることにして、吾人はいまだ実際にこれを見ざるなり。さても五月ごろ、霖雨朦々、咫尺も弁ずるあたわざる暗夜に当たり、湖水を往来する舟夫の蓑に、ほとんど蛍火のごとく点々たる光を放ち、これをおもむろに脱ぎ置けば自然とその光を消失すべきも、もし狼狽してその火を払えば、また微塵に砕けてさらに億万の火となり、再びいかんともすべからざるに至る。もっともこの火は一種のガス体なれば、いまだ物を焼くの力なし。すなわち、いわゆる琵琶の蓑火なるものこれなり。しかし世の伝うるところを聞けば曰く、「この蓑火は往古より湖水にて溺死せし人の怨霊火なり」と。しかれども、世にいわゆる怨霊火なるものありや。吾人は断じてそのあらざるを知るなり。しからば、いかにしてこの蓑火なるもの生ずるか。

   つらつら聞きたるままこの蓑火なるものを考うるに、全く地気の作用にほかならず。すなわち地中の熱気、空中に蒸昇せんと欲するに、連日の雨天にて蒸暑の気候に覆われ、地上に少しずつ発すに、可燃性のガス体と相触れ、ついにこの光を生ずるのみ。例えば、なお燐素の空中にて燃ゆるがごとし。しかるに、もし気候の都合より、風あるときにはその気を吹き払うべけれども、近江の国たる四方みな山にして一体風少なし。しかのみならず、空気温静、少しも風なきときあり。このときに当たり、勇壮血気に乗ずる舟夫らの奮励して進む勢いに、空中の可燃性さらに熱を増し、ついに微塵の火となることあり。ここにおいてか、ついにいわゆる蓑火を製出すべし。

   右のごとく、蓑火の起こる原因を考うれば、第一、地気の強弱、第二、小雨の降り方、第三、船のこぎ方、この三調子のよろしきを得て、しかる後にあらわるるものなり。しかれども、この三調ことごとくそのよろしきを得るは、誠にまれなるものなりとす。ゆえに、五月の間といえども、毎夜蓑火のあらわるるにもあらざるなり。しかりしこうして、そのおもむろに蓑を脱ぎ置かば、なにゆえに消滅するやと問うに、蓑の人身にあるに当たりては、その体熱により決して消ゆることなし。しかれども、もしその蓑を脱ぎて他所に置けば、ついに冷えて自ら消滅すべき理なり。また、もしあわてて火を払えば数万に砕けて蓑に付くは、すなわち蓑に人の暖気を含むをもってなり。このゆえに、いったん蓑に付き発火すれば、これを脱がざればいよいよますます広がりて、その火の消ゆることなし。さてこのことは、ひとり琵琶湖のみにして、他にその例なきは、全く地理によるにあらずしてなんぞや。しかるに蓑を認めて幽霊火となすは、真に野蛮時代の遺説のみ。

   なお、一等を進めて講究すべきは、墓地あるいは田沢において暗青色の炎をあげ、たちまち燃え、たちまち消えて、人々をして狐火あるいは鬼火と称導せしむるの火これなり。元来、この鬼火なるものと蓑火と、同じく原因あって燃ゆるなり。ただ、その原因に至っては蓑火と同じからざるものあり。いわゆる狐火なるものは狐の食物により、腹中より燐素を噴出し、空気と化合して発火するものなり。いわゆる鬼火なるものは、かつて埋没せる人体の地中に腐敗して、その燐素を次第に地上に蒸発し、風静かに雨細かく、かの五、六月のころ気候のために蒸されて、ついに暗青色の炎をあぐるものなり。これらのことはなお論弁すべきこと多しといえども、専門なる理学科に譲り、ここにはそのこと一斑を挙げたり。

 つぎに竜灯、聖灯、仏灯のことにつき、左にその実例を挙示すべし。

 

       第五二節 竜灯、聖灯、仏灯

 竜灯は和漢ともに唱うるところにして、その例、実に枚挙にいとまあらず。今、左に和漢の諸書について四、五例を摘示せん。

  津逮秘書云、西湖四聖観前、毎至昏後有一灯、浮水上、其色青紅、自施食亭南、至西陵橋、復回、風雨中光愈盛、月明則稍淡、雷電之時則与雷争光閃爍、余一之所居在積慶巓、毎夕観之、無少差、凡看二十余年矣。

   (『津逮秘書』にいわく、「西湖四聖観の前、つねに昏後に至り一灯ありて水上に浮かぶ。その色青紅、施食亭の南より西陵橋に至りてまたかえる。風雨中には光いよいよ盛んに、月明にはすなわちやや淡し。雷電のときはすなわち雷と光を争って閃爍す。余一のおる所は積慶山のいただきにあり。毎夕これをみるに少差なし。およそみること二十余年」)

  月令広義云、五岳遊盧山文殊台、毎夜有火光、自空来、一化為百、如乱蛍、落台前、是為仏灯。

  (『月令広義』にいわく、「五岳盧山の文殊台に遊ぶ。毎夜火光ありて空よりきたる。一化して百となり、舐蛍のごとく台前に落つ。これを仏灯となす」)

  大明一統志云、蓬州有山灯現、凡五処、初不過三四点、漸至数十点、鬲下相応、離合不常、在蓬山者尤為霊異、土人呼為聖灯。

  (『大明一統志』にいわく、「蓬州に山灯ありて現ず。およそ五所、はじめは三、四点に過ぎず。ようやく数十点に至り、隔下相応じ離合常ならず。蓬山にあるものをもっとも霊異となす。土人呼んで聖灯となす」)

  湧幢小品云、姚江有神灯、毎歳春月初、昏無風雨遠望、火光数点起自大黄山東岳廟前、已而跨江南北散漫、数十百点多至万億、燦然若繁星、明滅聚散参差不定、漸移而西、至夜分隠隠向白山没、俗伝、三月既望為岳神誕辰、此其下降之徴然、読書竜山上者言、不持春季為然、凡遇天気鬱蒸往往有之、第卑処不見、如登山絶頂、見江南遍屋皆赤。

  (『湧幢小品』にいわく、「姚江に神灯あり。毎歳春月の初め、昏に風雨なく遠望すれば、火光数点、大黄山東岳廟の前より起こり、すでにして江をまたがり南北に散漫す。数十百点、多きは万億に至り、燦然として繁星のごとく、明滅集散、参差定まらず。ようやく移りて西し、夜分に至り隠々として白山に向かいて没す。俗に伝う、『三月既望、岳神の誕辰なり』と。これ、その下これをくだること徴然。書を献山の上に読むものいわく、『特に春季をしかりとするにあらず。およそ天気鬱蒸するに遇えば往々にこれあり。第ひくき所は見えず。山の絶頂に登るがごときは、江南を見れば遍屋みな赤し』」)

  上元県志云、晋元帝渡江、随帝有王離妻李氏者、洛陽人、将洛陽旧火南渡、自言受道於祖母王氏、伝此火、井有遺書二十七巻、火色甚赤異於余火、四方病者将此火煮薬及炎、諸病皆愈転相妖息、官司禁不能止、及李氏卒、火亦経時而滅、人号其所居為聖火巷、在今県東南三里、禅衆寺直南出御街、斉武帝末年謡言云、赤火南流喪南国、帝憂之、歳果有沙門縦北来、齎此火至、火色赤于常火而微、云可治疾、貴賤争取之、先斎戒以火炙桃板七炷而疾愈、呉興丘国賓窃還郷邑、邑人楊道慶虚疾二十年、形容骨立、依法炙板七炷即痊、是月武帝崩。

  (『上元県志』にいわく、「晋の元帝江を渡る。帝に従うものに王離の妻李氏なるものあり。洛陽の人、洛陽の旧火を持ちて南渡す。自らいわく、『道を祖母王氏に受けてこの火を伝う』と。ならびに遺書二十七巻あり。火色はなはだ赤く余火に異なり、四方の病者この火を持ちて薬を煮および炙すれば、諸病みな癒え転相妖息し、官司禁ずれどもやむることあたわず。李氏卒するに及び、火もまた時を経て滅す。人その所居を号して聖火巷となす。今、県の東南三里にあり。禅衆寺の直南御街に出ず。斉の武帝の末年『謡言』にいわく、『赤火、南に流れて南国をうしなう』と。帝これを憂う。歳果たして沙門あり北よりきたり、この火をもたらして至る。火色、常火より赤くしかして微なり。いわく、『やまいを治すべし』と。貴賤争ってこれを取る。まず斎戒し、火をもって桃板七炷をあぶりてやまい癒ゆ。呉の興丘国賓ぬすんで郷邑にかえる。邑人楊道慶虚疾二十年、形容骨立す。法によりて板七炷を炙すればすなわちいゆ。この月、武帝崩ず」)

  天中記云、竜火得水而熾、人火得水而滅。

  (『天中記』にいわく、「竜火は水を得てさかんに、人火は水を得て滅す」)

   『北越雪譜』(第二編)にいう、「わが国頸城郡米山の麓に医王山米山寺は和同年中の創草なり。山のいただきに薬師堂あり。山中女人を禁ず。この米山の腰を米山嶺とて、越後北海の駅路なり。この辺り古跡多し。余、先年その古跡をたずねんとて下越後にあそびしとき、新道村の長、飯塚知義の話に、ひととせ夏のころ、あまごいのために村の者どもを従え米山へのぼりしに、薬師へ参詣の人山ごもりするために、御鉢という所に小屋二つあり。その小屋へ一宿ししに、この日は六月十二日にて、この御鉢という所へ竜灯のあがる夜なり。おもいもうけずして竜灯をみることよとて、人々しずまりおりしに、酉の刻とおもうころ、いずくともなくきたりあつまりしに、大なるは手まりのごとく、小なるは鶏卵のごとし。大小ともにこの御鉢というあたりをさらずして飛行すること、あるいはゆるやか、あるいははしる、そのさま心ありて遊ぶがごとし。その光は蛍火の色に似たり。つよくも光り、よわくもひかるあり。舞いめぐりてしばらくもとどまるはなく、あまたありてかぞえがたし。はじめより小屋の入り口を閉じ、人々ひそまりてのぞきいたれば、ここに人ありともおもわざるようにて、大小の竜灯二つ三つ、小屋のまえ七、八間さきにすすみきたりしを、かれがひかりにすかしみれば、かたち鳥のように見えて、光はのどの下より放つようなり。なお近くよらば、かたちもたしかにみとどけんとおもいしに、ちかくはよらずしてゆるやかに飛びめぐれり。この夜は山中に一宿の心得なれば、用心のために筒をも持たせしに、手だれの上手、しかも若ものなりしが、光を的にうたんとするを、老人ありてやれまてとおしとどめ、『あなもったいなし、この竜灯は竜神より薬師如来へささげたまうなり、罰あたりめ』と叱りたる声に、竜灯はおどろきたるようにて、はるか遠く飛びさりしと知義語られき」

   『東遊記』後編にいう、「越中新川郡に眼目山といえる寺あり。眼目山と書きてサッカ山と読む。そのわけは知らず。宗旨は禅にして、道元禅師の弟子、大徹禅師の開基なり。この大徹禅師この山を開かれしとき、山神、竜神助力していろいろの奇特ありしよし。今に至り毎年七月十三日の夜は、眼目山の庭の松の梢に灯火のぼる。一つは立山の絶頂より飛びきたり、一つは海中より飛びきたり、みな松の梢にとどまる。これを山灯、竜灯といいて、このあたりの人は例年見ることなり。世に竜灯とて海中より火の出ずるは多けれども、この寺のごとく山灯、竜灯一度にきたりて、松の梢にとどまるは希有のことなりという。越前の敦賀常宮の庭にも、竜灯の松とて例年正月元日の夜かかることあるを、そのあたりの人はみな見ることなり」

   『諸国里人談』にいう、「丹後国与謝郡天橋立に、毎月十六日夜半のころ、丑寅の沖より竜灯現じ、文殊堂の方にうかみよる。堂の前に一樹の松あり。これを竜灯の松という。また、正、五、九月の十六日の夜に空より一灯くだる。これを天灯というなり。また一火あり。これを伊勢の御灯という」

   同書にいう、「土佐国幡多郡蹉跎岬(高知より西三十里)蹉跎明神に天灯、竜灯あり。天にひとつの火見ゆれば、同時に海中より竜灯現ずるなり。当所に七不思議あり」「周防国野上庄熊野権現に、毎年十二月晦日丑の刻に竜灯現ず。また、西の方五里がほどに竜が口という山より、矢を射るごとく飛びきたる神火あり。里人これを拝して越年す」「相模国鎌倉光明寺の沖に、毎年十夜の内、一両度竜灯現ず。はるかの海上、雲にうつりて見ゆるなり」

 福島県馬目徳太郎氏の報に、世の妖怪と称するもののうちには、ことに怪火を多しとす。わが磐城国磐前郡に一霊山あり。赤井岳といい、あるいは水晶山という。東南太平洋に臨み、山巓に薬師如来の堂あり。大同二年の開基にかかるという。信徒のこれに賽する者、日夜絶えず。みな相伝えて曰く、「毎夜竜灯この山に登る」と。予もまたかつてこれを実験せり。よって左にその状を記さんに、毎夜十二時ごろと思うころに至れば、海中にたちまち一怪火を現ず。その色白くして、光輝炯々大星を欺く。水面上数丈の所にかかり、たちまち滅してまたたちまち現れ、あるいはあつまりて一つとなり、あるいは散じて数十となり、その形あたかも灯火のごとし。これ竜灯の称あるゆえんなり。この怪火ようやく陸に近づき、夏井川に沿いて山麓に達し、さらに渓㵎をさかのぼりて薬師堂の前なる林中に往来し、ときとしては堂内に入ることありという。土俗これをもって水晶の気なりという者あり、あるいは燐火ならんという者あり。いずれもいまだ、にわかに信ずべからず、かつ後日の研究を待つべ

しといえり。

 以上の諸例によるに、陸上に現ずるものと、海上に現ずるものと二種あり。海上の怪火中、その名もっとも高きものは肥後の不知火なり。よって左に不知火のことを述ぶべし。


       第五三節 海火、不知火

 海火につき二、三の書中に出ずるものを転載すべし。

   『一宵話』にいう、「ある年の六月二十九日、知多の浦より帰る船、海中にて火の玉のむらがるに行きあいたり。その火の中に、鬼か人かおびただしく見えたりという。この火の中にあらわれしものを、平家の亡魂ならんと評すれども、なんのゆかりもなきにかかる所へきたるべき由なし。おもうに、肥後のしらぬ火はこの大なるものならん。このしらぬ火を『景行紀』に五月の下にしるされたれど、月のあやまりとおもわる。今は年々六月の末より八月までに出ずるなり。そのうち七月二十九日、八月朔日、この両日を極最中とす。これ海中の塩気、夏中の炎天にごがれ、また晦日の暗夜にあらわるること、ここもかしこもおなじことなり。海水ももとは淡水なるが、天日の陽気に焦げて鹹水とはなれるなり。されば、鹹水にて火を消さんとてうちそそげば、かえって火勢をますものなり。その甘酸苦辛の四味は草木に出ずれど、鹹水は海水よりなるにてしらる。『海水以杖撃之、火星勃然。』(海水、杖をもってこれをうてば火星勃然)たりと臣化編にのせ、陰火ひそかに燃ゆと、『文選』の「海賦」にもいい、元微之が『海夜火燐燐』(海、夜にして火燐々)と作れるなど、みな海水の火のごとく光るなり。知多の船の火中に物の見えしというは、おのが影のうつれるをも変化ぞとおもわんこと、心と目とにあれば、平家の亡魂とも、源氏の幽霊とも定めがたかるべし。一説に、しらぬ火はくらげの光るなりという。夏秋の間に出ずるによれば前説をよしとし、また、出ずる所に大抵定まりのあるを見れば後説をよしとす。これは少し長きことなれば、のちにいうべし。山中に火気のたつ、これまたおおかた暑気のころなり。俗にいう火の国は蟾蜍の化し飛ぶにて、孑々の羽翼を生じて蚊となるも同じことなり。また、青鷺、山鳥、雉、夜中に飛べば、みな光る。山鳥は尾の星十三あるが、ことに光るよし、山中の人いえり。光の高からぬは、雉の字を塀の高さ一丈のことに用うるにてもしらる。蜀山の宝鶏の祠の神は、山より山へ渡るとき、その光長くつづき云云と声するよしなり。雉、山鳥の大なるものなるべし。総じてこの山海の火はみな陰火にして、昼みゆることなし。ただし、唐太の火神は昼あらわれて、いとおそろしきことなり、と昔よりいい伝う」

   『輶軒小録』にいう、「肥後の海中に竜灯というものあり。大海の内、夜中に火燃え出ずること、人々いい伝うることなり。肥後の人に邂逅のついでにたずねしに、今にありとはいえども、たしかに目撃することなければ、つまびらかなることを知らず。『癸辛雑識』に、『西湖の四聖観の前に、毎夜一灯ありて水に浮かぶ、水灯という』と。昔、景行帝西国巡行のときより、海中にしらぬ火あるによりて、その国を火の国と名付く。今の肥前、肥後となる。歌の詞に『しらぬひの筑紫』というもこれより起こる。くわしくは旧史にあらわるれば、つぶさに挙ぐるに及ばず。これも唐にもあることなり。『文選』木玄虚が「海賦」に、『陽氷不冶、陰火潜然。』(陽氷冶えず陰火潜み然ゆ)とあり。李善が注に、『其陽則有不冶之氷、其陰則有潜然之火也、説文曰、冶銷也。』(その陽すなわち不冶の氷あり。その陰にすなわち潜然の火あり。『説文』に曰く、「冶は錆なり」)と。大抵天地の間、陰陽の二気、集散交錯して、大海積水の中にも火ありて燃え出ず。大洋の中にも温泉ありて湧き出ず。その燃ゆるゆえんのわけ、誠に得て究め知るべからず。熊野新宮の温泉は大河の中心より湧き出ず。竹のつつにて引き上げ、連筒にて陸へよせ、人々湯浴すといえり。東北津軽、蝦夷の海は冬になれば氷となる。その中をうがちあくれば、らっこというもの飛び出ずるを、追いまわし取るというなり。湯氷不冶というはこのようなることにや」

   『諸国里人談』にいう、「隠岐国の海中に夜火海上に現ず。これ焼火権現の神霊なり。この神は風波をしずめたまうなり。いずれの国にても難風にあいたる船、夜中方角をわかたざるに、この神に立願し神号を唱うれば、海上に神火現じて難をのがるることうたがいなし。後鳥羽院、この島へ左遷たまえるとき、風たちて波あらく、御船危うかりければ、

   我こそは新島守よおきの海のあらき浪風心してふけ

  この御製納受ましましけるにや、風波静まり、夜に入りて神火出現す。

   潟ならはもしほやくやとおもふべし何をたくひの煙なるらん

  御船、三保浦につきぬ。〔中略〕

  ○『一曰、此乃天照皇太神之垂跡同一、而於今海舶多免漂災者、因神火光、最不可疑。』(一曰く、これすなわち天照皇太神の垂跡同一にして、今において海舶多く漂災を免るるもの、神火の光による最も疑うべからず)」

 竜灯、海火とややその類を同じくするものに不知火あり。筑紫の不知火といえば古来より有名なるものにして、だれも知らざるものなし。今、『西遊記』に出でたる一例を左に抄出せん。

   筑紫の海に出ずるしらぬ火は、例年七月晦日の夜なり。むかしより世に名高きことにて、今も九州の地にては諸国よりこの夜は集まりきたりて見ることなり。(中略)予はかかる奇異のことのみ探らんためばかりに下れることなれば、盆後早く長崎を立ち出でて、雲仙岳にのぼり、それより島原に出でて、城下より舟に乗り、天草に渡り、天草の惣象といえる山の峰にて、しらぬ火を見物せり。   まず、島原にて、「しらぬ火見るはいずれの地よろしきや」とたずねとうに、「肥後国宇土、八代、松ばせ〔橋〕の辺りの浦々よし。また、ことによく見ゆるは天草の島なり」というにぞ。さらば天草に渡るべしと、便船たずぬるに、辺土ゆえに便船もなければ、ちいさき猟船をかりて渡る。(中略)案内の人指さして、「右なるは鼠島なり、左は大島なり、それは三つの島、これは幾島」とかずかずおしゆ。げに海上三里ばかりにいとちいさく島々見ゆ。「しらぬ火はいずれに出ずるや」と問うに、「島々見ゆるあたり」という。はじめのほどは人里も遠くいと物すごき島山なりしが、おいおいに知らぬ火見物の人々出できたりて数十人に及ぶ。みなこの近国より二日路、三日路をきたりて見物する人々なり。(中略)今年は例より残暑も強けれど、かかる海辺の高山に、ことに空は心よく晴れたり。小夜風おもむろに吹きていと涼しければ、夜の更くるもしらず。はや夜半にもなりしかど、知らぬ火のさたなし。今年はじめて見る人は、「今宵はいかなることぞ、知らぬ火は出でざるや」「ただしはそらごとなりや」など口々にいう。予もあやしみおりたりしが、八つ近きころに、はるか向こうに波を離れて赤き色の火一つ見ゆ。しばらくしてその火、左右にわかれ三つになるように見えしが、それよりおいおいに出ずるほどに、海上わたり四、五里ばかりが間に百千の数をしらず。明らかなるあり、かすかなるあり、きゆるあり、燃ゆるあり、高きあり、低きあり、誠にはなはだみごとにして目をおどろかせり。その火の色みな赤くして、灯燈の火を遠くのぞむがごとし。たとえば、大阪の天神祭りをおびただしく集めて見るに異ならず。げに諸国よりきたり見るもいたずらならず。所の人に問うに、年によりて多きことも少なきことも定まらずとぞ。今年はすぐれて多く出でたるも、予が幸いというべし。広き海中に出ずることなれば、天草に限らず、肥後地よりも、いずれの浦にてもみなよく見ゆるなり。しかれどもいかなるわけにや、高山にのぼるほど多くみごとに見ゆるとて、この山なども群集せるなり。この夜はこのあたりの者、海中に竜神の灯明を出だしたまうなりとて、おそれみて渡海の船を禁ず。猟船といえども、この一夜は乗ることなし。過ぎし年、肥後の士ひそかに小舟に乗りて、かの火の出ずる所にいたり見るに、ただその火前後に遠くありて、わが船近くは一つも見えざりしとぞ。予も今宵まのあたり見しかど、いかなる火ということをしるべからず。むかしの人の、知らぬ火と名付けおきしも、もっとものことと覚えし。

   唐土には姚江の神灯など、これに似たることもありとぞ。さて、夜明くるまでかくのごとくにして、旭出ずれば火の光漸々に薄くなりゆきて、星とともに消滅す。むかし、火の前の国、火の後の国と名付けられしもゆえあることなり。

 その説明は『不思議弁妄』に左のごとく示せり。

   不知火は、一種金閃を放つ小虫相集まりここに奇観をなすとは、近来諸学士の一般に承認せらるるところなり。しかれども、また前章すでに述べたるがごとく温泉と等しき道理にして、地中より温気の蒸発するより生ずるものなしとせず。しかして地質により、あるいは発せざる所あり。ゆえに、わが国にても温泉の噴出する所多しといえども、ことごとく発して火となるものにあらず。これすでに地質を修めたる者の了知せらるるところにして、あるいはまた、海中においてこの地熱を噴出する所あり。すなわち、かの肥前、肥後のごときはまさにその線に当たれり。

   けだし今の肥前、肥後の地方は古昔よりして温泉多き所にして、はじめはこれを火の国といえり。その後、数十百年を経て、穀物よくみのり、菜のごとき最も繁茂し、したがって国名は一字をもって称号することとなりたるをもって、今の肥前、肥後に区別せり。

   そもそも地質のごときは地味によりて同じきを得ず。肥前、肥後のごときは地味の豊饒なるにより、他地方にては硫黄あるいは他の鉱物となるべき地気も蒸発して、一種のガス体となり燃ゆることあり。いわゆる筑紫の不知火なるもの、いくばくかこの関係なしとせず。なにをもってこれを不知火というや。けだし六、七月のころ気候の蒸し暑きとき、風起こらず海面ほとんど熨すがごときの夜、肥前、肥後の海上を一瞥すれば、閃爍波を照らし、忽然一火分かれて両火となり、両火分かれて三、四点となり、先後現出数里の外に連亙し、明らかにして燃えんと欲するもの、かすかにして滅せんと欲するもの、高きものは翔けるがごとく、低きものは走るがごとく、あるいはならび、あるいは合い、あるいは離れ、真に一大美観なり。すなわち、その火のある所に行けば、また消えてみるべからず。ゆえに、だれあってその火の起こる所と性質を知る者なし。これをもってこれを不知火と名付けたりと。しかるに今や学術開け、地熱上よりするも、小虫上よりするも、火のある所を知りたれば、今よりして不知火を改めて明了火とすべきなり。

 また昨年〔明治二十六年〕、第五高等中学の教授中川久知氏は、赴任以来、宇土、八代等の沖合にあらわるる不知火の原因を探究せんと欲しおりたるよしなれども、いまだよき折を得ずしてむなしく打ち過ぐしたる折柄、客月二十六日より同二十九日に至る四日間、博物標品採取のため天草郡に赴きたる際、不知火に似たるすなわち夜光虫なるものを御所浦村において、同十八、九日のころ牛深において拾得せしが、いずれも原語ノクチルーカなるもののみならず、ことごとく交接したるものなりしかば、爾来ますますこれを探究して、この沿海に出没する不知火は、果たしてノクチルーカなるか、はた他に原因あるかを確かめんとの志を強めたり。よって同教授は本科一年生村川堅固、岩野直英の両氏を従え、賀来、石田の両教授とともに、去る七日当地を出発して松橋に向かえり。九日の払暁、松橋を発して正午阿村に着したるは佐久間、桜井、大幸の三教授にして、中川校長、矢津助教授、山崎教員の諸氏は同夜着船せり。しかして中川校長の一行は築島に上陸して、海中の模様を観察するの任に当たれり。また、合図として紅白火を発し、終始船の進退すべき方向を示して、不知火の所在を知りやすからしめたり。この大築島をもって中心とし、これより不知火の所在に向かって進行するときは、ことに白火を噴出してその出没したる所の海潮を掬して、これを瓶中にたくわえたり。さて、中川氏らの乗り組みたる船は、小築島の北端をもって停泊の位置となしたるが、その探究の海面は八代沖合にして、この周辺は不知火の現出すべき好地なりとの見込みにて、おもにこの沖合の探究をなせり。しかるにその日の二時ないし三時の間は、いまだ潮水の干ざるゆえに、もし不知火が夜光虫とすれば、小築島に向かって流れきたるべきはずなるに、ほとんど不知火を見ざりしははなはだ不審の至りたり。しかるに帰途、松橋にて聞けば、平年は三島より西に見ゆるものが今回は大島の北方に見え、かつ昨年に倍して出でたりといえば、あるいはこの不知火は夜光虫にあらざるかも知るべからず。しかして、この夜光虫の発する燐光は青赤一つならずといえども、やや電灯の光色を帯びたるものを良しとす。また、実際ありとすれば、光力が遠きに見えて近きに見えぬ理由なく、あるいはこの期節は漁船の出没多きのときなれば、その灯火を見誤りて不知火というにはあらざるか。とにかく、這回の探究にては夜光虫とは断定し難し。いずれ他日、折を得て今一応の探究を遂げざれば、いまだたやすくなんとも明言し難しと語れりと、当時の新聞に見えたり。

 ゆえに、その原因いまだ知るべからずといえども、物理的妖怪たるは疑うべからず。


       第五四節 怪火の説明

 以上掲げたる種々の妖火は、その原因また種々あるべきも、第四九節に引証せる二、三書の説明につきてその大要を知るべし。しかして余は、怪火の原因はひとり物理的によるにあらずして、心理的および偶然的に出ずるものあるべしと信ず。過日、怪火の一問題を掲げて答案を徴集したるに、数十種の説明を得たり。しかしてその要旨は大同小異なれども、そのうち二、三の大いに参考すべきものありしをもって、左にこれを転載すべし。

   (一) 常陸国小林丑之助氏の説明にいう、「狐火と称するものは、世俗多くは野狐の所為となしたるなり。これわが国古来、狐の性、鋭敏かつ狡猾なるをもって、大抵の疑物はみな狐の所為となす。ゆえに、暗夜ゆえなく青火の燃ゆるもまた狐の所為となし、ここに狐火の称あるに至りしならん。予思うに、近来の学説によるも、狐火と称する陰火種々あるなり。すなわち、日中太陽の熱を受けしもの、夜に至りて放散して光を発する金剛石(夜光石)などのごときあり。あるいは動物の骨中には燐素という自ら燃焼する元素を含有し、その骨体の腐敗して自然に燃ゆるあり。あるいは動物の燐液を分泌して青光を放つ蛍虫などのごときあり。あるいは燐酸の奇妙なる化合をなし、水素と化合して水化燐素となる。すなわち微雨の夜、田中の燐酸の水素と化合して水化燐素となり、自ら輪をなして空中にのぼり燃ゆるあり。世俗の、狐の提灯と称するはこれならん。また世俗に、狐の馬骨を含みて気を吐けば火を放つを実見せしものありというといえども、動物に害ある骨中に含める燐素の作用とは信ずるあたわず。よって予は、前述の種々の陰火を狐火と信じ、決して狐の所為となすあたわざるなり」

   (二) 伯耆国田村亀太郎氏の説明にいう、「狐火を実見せりというもの、世に少なからずといえども、これ実に狐火にあらざるべし。もしそれ、実際狐が火をともすことありとせんか、隠岐あるいは四国などのごとく狐の皆無なる土地において、夜中怪火を見ることあるは、これ果たしていかんそや。余、かつて四国に寓してこれを猟師に聞くに、この地方においては狸よく怪火をともすとなす。されば、火を点ずるものは狐なるか狸なるか。狐なりとすれば狸にあらざるなり、狸なりとすれば狐にあらざるなり。もし、狐狸ともに火を点じ得るものとすれば、なにゆえに、島国にあらざる他の狸の存在せる国々において狸火のことをいわざるや。かつその実見せりというものにつきて、その火の色はいかにと問うに、彼らの答え必ずしも相同じからず。あるいは少しく赤色を帯びたりといい、あるいは青色を帯びたりといい、あるいは白色なりという。もし狐狸よく火を点じ得るとすれば、必ずや熱の添わざる火ならざるべからず。けだし熱の添うあれば、獣毛はただちに燃焼すべければなり。ゆえに、その火は熱の添わざる同一種類の火にして、しかしてその火色もまた同一なるべきはずなり。ゆえに、余は左の断定を下せり。

   ○狐狸はその性、決して火をともし得るものにあらず。世人の狐火あるいは狸火と称するものは、左の各項によるものなり。

   一、夜中は火を見てその遠近を弁ずることはなはだ難し。同一の火といえども見ようにより、あるいは遠くあるいは近く見ること往々あることなり。これ夜中、通常の火といえどもその怪なる性質を有するに至る一因なり。

   一、夜中、不意の急用ありて人の提灯を点じて歩行するとき(一人あるいは数人)においては、道路の曲直あるいは灯を携うる手の左右などの事情により、遠方より望見するものをして明滅点々、集合離散、駛速遅緩、実に奇々怪々の思いあらしむるものなり。これ通常の火の怪火と認めらるるの第二因なり。

   一、夜中、燃焼性ガスの発散するによりて怪火と見違える者もあらん。これ怪火の第三因なり。しかしてこの因の起こるは、けだし年中一定の時期あるならん。

   一、夜中、動物すなわちみみず、蛍等のごとき発光性虫類の往々怪火と認めらるることあり。これその第四因なり。

   一、夜中、田野の間に点々たる村落、不意にかまどをたき、あるいは火をともしつ、家のたまたま窓戸を開閉し出入りするの際、望見者をして怪火の念を起こさしむることあり。また、あるいは夜中喫煙しつつ歩行するときなど、その他これに類する事情よりして、尋常の火をもよく怪火と認めしむることあり。これその第五因なり。

   一、狐はよく火をともし得るものなりとの観念を有する者が、夜中、視覚の幻妄よりして怪火を認むることあり。例えば、富士山を実見しその形状につきての観念を有するものは、たやすく目前に富士山を思い出だし得るがごとく、あるいは瞬間太陽を睨視すれば、頭を転ずるもなおこれを現見し得るがごとく、あるいは数分間灯火を凝視し、しかるのち灯火を滅して虚心に目前の空間を望見すれば、たやすく怪光を認め得るがごとく、いったん狐火を信じ、狐火につきての観念を有するものは、すなわちその観念中心となりて予期専注の作用により、心中の狐火を幻視、妄覚すること往々あるべきことなり。これ怪火の第六因なり。

   一、偶然に起こる視覚の幻光、例えば人、白日瞼を開閉数番したる後、無意に目前の空間を望見するときは、あたかも透明無色なる血球のごときもの、一粒ずつ管中を連過するがごとき状を認むるは、だれにてもあることなり。あたかもかくのごとく、偶然眼前の空間に当たりて、あるいは近くあるいは遠く幻光をみることあり。これを察するに、眼球は発光体なれば(閉目するかあるいは暗黒中において指頭にて皮膚上より眼球を触振すれば、その反対の側において必ず光輝を認むるは容易に実験せらるることなり。また、猫眼のごときは夜中発光するものなり。ゆえに、人眼もまた発光体なりというなり)、ある事情によりてその幻光を認むるによるならん。これその怪光の第七因なり」

 右述ぶるところは、すなわち狐火の原因なり。ゆえに、人もし狐火、怪光を実見することあらば、よろしく微細精密なる討究をなし、精確なる観察を遂ぐることあらば、狐火の正体をあらわすこと、けだし難からざるべし。今、この討究法を略述せん。

   (三) 磐城国青山正氏の説明にいう、「狐火とは曇天の日没後、山野の別なく、人為と思料せられざる時と所とに発見する一団の光炎なり。その光彩はおおむね青白色なれども、往々、光輝微弱なる火黄色のものあり。その都会の地にあらずして、常に見得られざる現象なるをもって、これが説明を試むるものもまた、古来愚夫愚婦の類に過ぎず。すなわち、曰く、(一)狐の呼息なり、曰く、(二)狐の枯骨を含みてはける気なり、曰く、(三)彼が魔力のいたすところなり、曰く、(四)彼が具有せる宝珠の光なり、曰く、(五)その尾端より分泌せる光輝なりと。その原因を狐に帰するは可なりといえども、そのいかなる理ありてこれを現すやに至りては、いまだこれを述べし者なし。要するに、その説大別して二様となるべし。その一は主観上の観念より起こる、すなわち第三、第四これに属し、これ彼を霊怪視せる迷信より出でしものなれば、ここに必ずしも論ぜず。その他は客観上の観察にかかる。その第一、第二は狐の吐気および枯骨にあれども、彼が気息より光炎を発するものとせば、いずれの夜いずれの所におけるも、彼のある所は常に同一の現象を起こさざるを得ず。そのしからざるは信じ得られざるの妄説なり。さりながら骨の主成分は燐酸カルシウムなれば、燐の特色青炎を散ぜざる理由なきがごとくなれども、これに呼気すなわち炭酸ガスを与うればとて燐を遊離せざるは明白の事実なり。その尾端より分泌せる云云に至りては、物理上より立論せるもののごときも、こは泰西人の不可思議現象を説明するに、みだりに磁気に帰すると同様にして、電気をだしに使いしものなるべし。以上説明するごとく、その古伝説の性質として、ともに詳しき調査を遂げ、正しき論理によって組み立てられたるものにあらざるはもちろんなり、云云」

 また、狐火は骨と気と相合するより生ずといえることにつき、相模国宮井清左衛門氏より左の報知あり。

   当国三浦郡は安房と相対し、東京湾に入るの口唇なり。当郡の南端三崎町の沖に城ケ島と称する一島あり。この島、元来狐子棲息せざりしが、ある年鮭魚を積みし船、航海の途次、過って同島に触れ破船せり。荷主はいかなる都合か日を経れどもそのままに放置し、ついに多くの鮭魚を砂浜の間に累々として腐乱せしめたり。その臭気の遠近に及ぶや、はるかに山間に棲息せし野狐は香餌失うべからずとし、一群隊をなして同島にわたれり。これ同島に移住せし狐の祖先なりという。すでに鮭魚尽きて、また食うべきなし。勢い里閭に出でて食を求めざるを得ず。ここにおいてか、猫犬のごとく狃るるにはあらざれども、人のそばを通行するも、あえて恐れて遁逃せざるに至れり。さて狐火はいかにして出ずるや、またなんの必要あるかとは同島人もはじめは疑うところなりしも、ついに狃るるに至りては、歩行の間しばしば実見するに及び、かの狐火は里俗のいうがごとく人をたぶらかすの戯れにあらずして、彼自身において最も必要なることを発見せり。必要とはなんぞや。すなわち食を得るがためなり。彼、火炎をあげて虫類を集め、集まるを待って哺食するなり。ゆえに、狐火を見るを得るの間は虫類を集むるときにして、火の消ゆる間は食虫のときなり。これ必要なるゆえんなり。しかして火炎を出だすはいかにして出だすや、また、出ずる理由いかん等の疑問、したがって起こるなり。火炎をあぐるの装置は狐が一個の古骨を含み、この古骨に己が息気を吹き掛くれば、その気、火炎となりて見ゆるなり。今、古骨に触るる狐の息気が、いかなる化学的の作用によりて火炎と見ゆるやは知らざれども、多分呼吸の際、息気の古骨中の燐と化合し、水酸化燐を組成するによりて起こるなるべし。果たしてしからば、狐火は己が食を求むる方便として使用するものたることは、あえて疑いを入れざるなり。

 また、天塩国田中雄道氏は以下のごとき説明をなせり。「狐が夜中人骨を含んで奔行するときは、たちまち青色の燃火を生ずと。これすなわち骨中に含有する燐素と、狐の口中より吐出する炭酸と相合して発するものなり。およそ動物骨中にはことごとく燐素を含有し、しかして狐が行く行く呼吸するごとに口中より炭酸を吐出して、二者相合するに原因せりといえり」

 およそ火を発するものに、有機物よりするものと、無機物よりするものとの二種あり。有機物中にも腐草、朽ち木より発するものと、魚鳥、小虫より発するものあり。今、シナの書中にも左の事実を記せり。

  嶺表録異云、黄蠟魚即江湖之横魚、頭嘴長、鱗皆金色、臠為炙雖美而毒、或煎★(火+專)煙乾、夜即有光如籠燭、北人有寓南海者、市此魚食之、棄其頭于糞匡中、夜後忽有光明、近視之益恐懼、以燭照之、但魚頭耳、去燭復明、以為不祥、各啓食奩、窺其余臠、亦如蛍光透明、遍詢土人、乃此魚之常也、憂疑頓釈。異魚図賛云、含光之魚臨海郡育、南人臠炙雖美而毒、煎★(火+專)已乾、耀夜如燭。

  (『嶺表録異』にいう、「黄蠟魚はすなわち江湖の横魚。頭嘴長く、鱗はみな金色。臠は炙をなせば美なりといえどもしかも毒。あるいは煎★(火+專)して乾けば、夜はすなわち光ありてろうそくのごとし。北人南海に寓する者あり。この魚を買ってこれをくらう。その頭を糞匡中にすつ。夜後たちまち光明あり。近づいてこれをみればますます恐懼す。燭をもってこれを照らすに、ただ魚頭のみ。燭をすつればまたまた明らかなり。もって不祥となす。各食奩をひらきてその余臠をうかがえば、また蛍光のごとく透明なり。あまねく土人にとえば、すなわちこの魚の常なりと。憂疑とみにとく」『異魚図賛』にいう、「光を含むの魚海に臨むの郡に育す。南人の臠炙美なりといえどもしかも毒す。煎★(火+專)しすでに乾けば、夜をてらして燭のごとし」)

 また、霊魂火は小虫なりとの説を、『和漢三才図会』に述べて曰く、「按霊魂火頭団匾、其尾如杓子様、而長、色青白帯微赤、徐飛行去地高三四丈、遠近不定、堕而破失光、如煮燗麩餅、其堕処小黒虫多有之、形似小金亀子及鼓虫、未知何一也、偶有自身知魂出去者、曰物出於耳中而不日其人死、或過旬余亦有矣、凡死者皆非魂出也、畿内繁花地、一歳中病死人不知幾万人也、然人魂火飛者、十箇年中唯見一両度耳。」(案ずるに、霊魂火は頭団匾、その尾は杓子ようのごとくにして長く、色は青白にして微赤を帯び、しずかに飛行して地を去ること高さ三、四丈、遠近定まらず。おちて破れ、光を失う。煮燗れたる麩餅のごとし。そのおつるところに、小さき黒虫多くこれあり。形、小さきこがねむしおよびまいまいむしに似たり。いまだなにものかを知らざるなり。たまたま、自身魂出で去るを知る者あり。曰く、『物、耳の中より出ずる』と。しかるに日ならずしてその人死し、あるいは旬余過ぐるものまたあり。すべて死する者みな魂出ずるにあらざるなり。畿内繁花の地、一歳のうちに病死する人、幾万人かを知らざるなり。しかるに人魂の火飛ぶもの、十力年のうちただ一両度を見るのみ)

 あるいはまた、『諸国里人談』に、鵁鶄が火球となりて人目に触るることある一例を挙げて曰く、「河内国平岡に、〔雨夜に〕一尺ばかりの火の玉、近郷に飛行す。相伝う、昔一人の姥あり。平岡社の神灯の油を夜ごとに盗む。死してのち燐火となると、云云。さいつごろ、姥火に逢う者あり。かの火飛びきたりて面前に落つる。ふして倒れてひそかに見れば、鶏のごとくの鳥なり。くちばしをたたく音あり。たちまちに去る。遠く見ればまどかなる火なり。これまったく鵁鶄なりという」

 また、長野県岡田寅之助氏は、山鳥の尾の火球となりて現ぜし実験を報道して曰く、「余、一夜深更に家に帰らんと欲して、途上かつて聞ける火球の出ずる所を経過せり。しかるに一方より紫紅半ばする玉光出でて、西千曲川を渡りて過ぐる声あり。予、足の地につくやいなやを知らず。帰家して数時人事を弁ぜず。久しく人の称する火玉あることを信ぜり。しかるに近年に至り、またこれを目撃せり。よって、つとめて心を沈めこれが探究に従事せしに、あにはからんや山鳥の尾の燐火にありしを発見せんとは、ここに至りて呆然たり」

 以上の諸説によりてこれをみるに、種々の怪火は三種の原因ありて生ずること明らかなり。すなわち、一に物理的原因、二に心理的原因、三に偶然的原因これなり。その物理的原因にはまた有機的、無機的の二種ありて、あるいは電気あるいは燐素によりて発するは無機〔的〕に属し、あるいは小虫あるいは魚鳥の火を発するは有機的なり。これに対して心理的原因は、人の精神作用によりて幻覚、妄覚を起こして怪火を見るがごときこれなり。その他、怪火にあらざるものを、偶然誤り認めて怪火となすことあり。例えば竜灯のごとき、高山に登りて遠方を望むときは、あたかも諸方より灯光の山に向かいてのぼるがごとく見ゆるものなりという。されども、余かつてこれを実見したる人に聞くに、これ、決して真に竜灯ののぼるにあらずして、ただ村落の点火を望み見るもののみ。しかしてその動くがごとく感ずるは、己が心に予期するによるのみにして、実に動くにはあらずという。果たしてしからば、竜灯の怪のごとき、村落の点火をもって竜灯と見しは偶然的に属し、予期によりて不動なるものを動揺すと見しは心理的なりとす。また、安芸の宮島に竜灯の現るることは一般に唱うるところなるが、これを目撃せし人の談によれば、宮島に献ぜし無数の灯火の海面に映じて現出するものなりという。余はいまだこれを実見せざるをもってただちに断言し難しといえども、もしこの人の言のごとくなりとせんか、これ偶然的怪火に属すというべし。その詳細の説明は、前に掲げたる諸説について予知すべし。



第七講 異物編


       第五五節 怪石

 さきにすでに述べたるがごとく、妖怪には有機的と無機的と二種ありて、前講の怪火のごときはそのいわゆる無機的の一種なり。しかして、無機的妖怪中の妖の最大なるものは怪火なり。これに次ぐものは怪石なり。よってここに怪石の種類を掲げんに、例えば鸚鵡石、殺生石、要石のごとき、梅花石、木の葉石、魚化石のごときは、みな人の知れる怪石なり。まず鹿島の要石はだれも知るところなるが、その形は円くして柱のごとく、直径一尺五寸ばかり、頂に少しくくぼみあり。地を出ずること二尺余なれども、その根の深さ幾丈なるかを知らず。しかして、ややもすれば動くことあり。これ俗説によれば、地震鯨の頭上にこれをいただくによるという。つぎに那須野の殺生石も有名なるものにして、毒気あり、これに触るるものはみな死を免れずという。けだし砒石の類ならん。また、伊勢の山田より西南五里を隔てて鸚鵡石あり。その面平らにして屏の形をなす。人、もし傍らにて楽器を弾ずれば、その音、石に響きて反響し、かえって原音よりも鮮明に聞こゆという。その他、種々の奇石怪石のことは、『諸国里人談』と題する書の奇石の部門に出でたれば、よろしくこれを参見すべし。

 これらの奇石は古代にありて妖怪視したれども、今日はこれを怪しむものなければ、別に余が説明を要せざるべし。また、さきに述べたる梅花石、木の葉石、魚化石のごときもみな化石にして、すこしも怪しむべきことなきは、三尺の童子もよく知れるところなり。しかるに古代は、その理を解せざりしをもって種々付会の説を加え、これをしていよいよ怪ならしむるに至れり。例えば、『怪異弁断』には、石の言語を発せし例を挙げて示せり。すなわち「左伝昭公八年春、石言於晋魏楡云云。又晋書曰、愍帝建興五年、石言于平陽云云。」(『左伝』昭公八年の春、石、晋の魏楡にものいう、云云。また『晋書』曰く、「愍帝建興五年、石、平陽にものいう、云云」)しかして、同書はこれが説明を与えしも、みな妄説にして取るに足らざるなし。


       第五六節 異物

 無機的妖怪中には、怪石のほかに種々の異物あり。この異物には、自然に成れるものと人工によりて成りしものの二様あり。例えば猿沢の池のごとき、池水変じて朱色を呈することありて土人の怪とするところなるが、これもとより自然に出ず。また、建長寺の鏡には、観音の像に彷彿たる影を見ると伝うることなるが、これ鋳造の方法によりて生ずるものなれば、いわゆる人工に属するなり。まず猿沢の池のことについては、大和国増田鎌蔵氏の報道によるに、氏は現に猿沢の池畔を通過して、水色の朱に変じたるを見たりという。かつ氏の書中に曰く、「古記を案ずるに、康正二年猿沢の池、血となると記載あり。また、維新の前年十一、十二月のころ、その色赤変せしこと三十余日間なりき。されどもその他の平年は、冬期に至れば寒潭凝って藍を洗うがごとく、かつ年中いまだかつて萍藻の生ぜしことなし」という。しからば、池水の数十年を隔てて変色するはいかなる理なるか。増田氏の説には、「この池ある鉱脈と通じて、鉱気を帯びたる水の、ときに湧出するにあるものならん」と。予案ずるに、これあるいは一種の小虫の生育するがためにはあらざるか、しからざれば鉱気の湧出なるべし。しかれども、いまだその水を分析して試験せしものなければ、にわかにその原因を断言することあたわずといえども、要するにその物理的原因たるや明らかなり。また、出羽の西村山郡に大沼と名付くる沼池あり。中に無数の小島ありて浮遊するをもってこれを浮き島という。また、越後にも同じく浮き島の池あり。これらはなにによりて水上に浮かぶものなるか、余輩いまだかつてこれを実視せしことなければ、その理由を述ぶることあたわずといえども、これまた物理的妖怪なるは断言して可なり。

 また、石州の海岸に琴ヶ浜と称する所あり。海岸の砂石を踏むときは琴声を発するよりこの名あり。余、先年この地を経過して経験せしことありしが、これは全く無数の砂石の相碾りて発する響きなりき。つぎに、鏡の怪影のごときは、これまた物理上より説明せらるべきものなり。すなわち鏡の裏面に、ある像を鋳出するときは、表面を照らすに当たりて裏面の像現れて同一の形影を示すものにして、もし裏面に観音を鋳るときは表面にその影を浮かべ、鬼形を鋳ればその影を現し、文字を置けばまたこれを表面に示すなり。古代はその理を知らざりしをもって、大いにこれを奇怪とせしも、物理の実験上、すこしも怪しむに足らざるを知れり。すなわち表面を研磨するに当たり、裏面に像を鋳たる部とこれなき部とは、その質に疎密の別を生ずるによるなり。したがって光線反射の度を異にし、もって彷彿たる陰影を表面に見るものなり。その他、無機的妖怪はその種類実におびただしといえども、物理、化学、地質、鉱物等の諸学開けし今日にありては、みなこれを妖怪視して特に説明するを要せざるなり。


       第五七節 天降異物

 古来また、天よりくだせし異物につきて諸書に多くの事実を掲げたり。今、左に二、三の例を挙示せんに、まず雷神の天より雷斧をくだせしことにつき、『夢渓筆談』(巻二十)に左のごとき一例を掲ぐ。

   世人有得雷斧雷楔者、云雷神所墜、多于震雷之下得之、而未嘗得見、元豊中予居随州、夏月大雷震一木折、其下乃得一楔、信如所伝、凡雷斧多以銅鉄為之、楔乃石耳、似斧而無孔、世伝雷州多雷有、雷祠在焉、其間多雷斧雷楔。

   (世人、雷斧、雷楔を得る者あり。いう、「雷神のおとすところ、多く震雷の下にこれを得る」と。しかもいまだかつて見ることを得ず。元豊中、予随州に居す。夏月、大雷震い一木折る。その下にすなわち一楔を得たり。信に伝うるところのごとし。およそ雷斧は多く銅鉄をもってこれをつくる。楔はすなわち石のみ。斧に似て孔なし。世に伝う、雷州多く雷あり、雷祠あり、その間、雷斧、雷楔多し)この雷斧をもって雷神のくだすところとなすがごときは、もとより妄談にして取るに足らず。また、天より豆をふらせしことにつき、『筆のすさび』と題する書に左の例を掲げたり。

   文化乙亥の夏、長崎筑の前後の辺りに豆をふらせしよし。丹波には竹に実ること多かりしとぞ。備後にもこれありし。思うに寛政の前二年、備後深津郡に麦、まめ、蕎麦などふりしことあり。それを拾いたる人、余に見せしに、真のものによく似たりしが、その翌年は大いに餓えしなり。『日本書紀』などにもこのことあり。その後かならず凶年なり。唐土の史類にも記するもの多し。天地の気、常に変わりて、異気、異物を胎孕するならん。

 かくのごとき例は今日も往々聞くところなれども、その果たして天よりくだりしものなりやいなやは、つまびらかならず。これ、あるいは他地方にて培植せしものの、暴風の媒介により突然墜下することなしとはいい難しといえども、その果たしてしかるかもいまだ知るべからず。けだし、かかる妖怪は自然に現ぜずして、人為により生ずることは他例において予がしばしば実験せるところなれば、あらかじめまずその自然なるか、あるいは人為に出ずるかを判定せんことを要するなり。『茅窓漫録』には、これをもって月桂すなわち天竺桂の果実のおちしものなりという説を載せたれども、妄誕取るに足らず。同書には天降異物につきて種々の例をあつめて示したれば、これを左に転載すべし。

   天より異物を降らすこと、和漢ともいにしえより数度あり、奇とするにたらず。わが国にては「天武帝七年冬十月甲申朔、有物如綿、零於難波、長五六尺、広七八寸、則随風以飄于松林及葦原、時人曰甘露也。」(天武帝七年冬十月甲申の朔に、物ありて綿のごとくにして難波にふれり。長さ五、六尺ばかり、広さ七、八寸ばかり、すなわち風に従いてもって松林と葦原とに飄る。ときの人の曰く、「甘露なり」という)『日本紀』、○案ずるに、甘露の降ること『類聚国史』祥瑞部にあまた見えたれど、「此朝如綿」(この朝、綿のごとし)といい、長さ五、六尺、広さ七、八寸というは異物なり。

   「聖武帝天平+四年正月二+三日己巳、陸奥国言、部下黒川郡以北+一郡、雨赤雪、平地二寸続日本紀仁明帝承和五年七月十八日癸酉、有物如粉従天散零、逢雨不銷、或降或止、同九月二十九日甲申、従七月至今月、河内、参河、遠江、駿河、伊豆、甲斐、武蔵、上総、美濃、飛驒、信濃、越前、加賀、越中、播磨、紀伊等十六国、一一相続言、有物如灰、従天而雨、累日不止、但雖似怪異、無有損害続日本後記文徳帝斉衡三年八月八日戊寅、安房国言、天雨黒灰、従風而来、委地三四許分文徳実録陽成帝元慶八年六月二+六日、秋田城雷雨晦冥、雨石鏃二十三枚、七月二日飽波郡海浜、雨石似鏃、其鉾皆向南、陰陽寮占云、彼国之憂応在兵賊、先是、国忌、御斎会、布施依式、充用官家功徳分封物。」(聖武帝天平十四年正月二十三日己巳、陸奥国言さく、「部下の黒川郡より北の十一郡に赤雪ふれり。平地二寸」(『続日本紀』)。仁明帝承和五年七月十八日癸酉、物あり粉のごとし。天より散りふりて雨にあいて消えず、あるいは降り、あるいはやむ。同九月二十九日甲申、七月より今月に至る。河内、参河、遠江、駿河、伊豆、甲斐、武蔵、上総、美濃、飛驒、信濃、越前、加賀、越中、播磨、紀伊等十六国いちいち相つづいていう、「物あり灰のごとく、天よりふる、累日やまず。ただし、怪異に似たりといえども、損害あることなし」(『続日本後紀』)。文徳帝斉衡三年八月八日戊寅、安房国まおす、「天、黒灰をふらす。風に従ってきたる。地につもること三、四ばかり分」(『文徳実録』)。陽成帝元慶八年六月二十六日、秋田城雷雨晦冥、石鏃二十三枚をふらす。七月二日、飽波郡の海浜、石をふらす。鏃に似たり。その鉾みな南に向かう。陰陽寮占していう、「かの国の憂いまさに兵賊にあるべし」と。これよりさき国忌、御斎会布施式によりて、官家の功徳分封の物を充用す)(『三代実録』)。○案ずるに、「雨石鏃」(石鏃をふらす)といい「雨石似鏃」(石をふらす、鏃に似たり)というは、天より降りたるにはあらず。これは雷斧石というものにて、雷雨ののち山中に間々多く生ずるものなり。『本草〔綱目〕』に載する霹靂碪はすなわちこれなり。『月令広義』に雷公石といい、『玄中記』に石★(石+朁)ともいう。俗に狐の斧または天狗の斧ともいう。越後山中、そのほか奥州津軽、美濃金生山などにもっとも多し。雷雨ののち多く出ずるなり。

 国の正史に載せたるは、大抵右のごとくにして、また、宝亀七年、仁和元年に石を降らすこと『東鑑』に載せたり。また、円融帝天延元年に、大和国に水精を降らす。後堀河帝寛喜二年十月十六日、奥州に石を降らす。後深草帝建長元年三月十六日、常陸国に菱を降らす。亀山帝文永三年二月二日、泥を降らす。後花園帝文安元年三月四日、豆を降らす。『中原康富記』に、「是日洛中之男女、皆申云、自虚空大豆小豆降。」(この日洛中の男女、みな申していう、「虚空より大豆、小豆降る」)と云云。「雨降時分交下、其体如大豆之形、但慥非大豆歟、下女等拾取持来之間、見之所詮如米之実歟、何様表豊年嘉瑞者哉、珍重日本昔不知時代、大麦自空中降下、又飯降事在之由、見類聚国史云云、漢家例、周室王屋之上、有火化鳥、此鳥牟麦銜来。」(雨降る時分に交じり下る、その体大豆の形のごとし。ただしたしかに大豆にあらざるか。下女ら拾い取り持ちきたるの間これを見れば、しょせん米の実のごとくか。何様、豊年の嘉瑞を表すものならん。珍重に、日本むかし時代を知らず、大麦空中より降り下る。また、飯降ることこれある由、『類聚国史』に見ゆ云云。漢家の例は、周室王屋の上に火化鳥あり。この鳥、牟麦をふくみきたる)と云云。「后稷之時、五穀之種自空降下」(后稷のときも、五穀の種、空より降り下る)と云云。「慥可引勘之、近江国飯降山云云。名所在之、飯降之故歟、見類聚国史、本朝大麦降事、清外史之所令語給也、聖武天皇天平十三年六月戊寅、日夜京中条条飯降之由、見水鏡。」(たしかに引きてこれをかんがうべし。近江国飯降山云云の名所これあり。飯降るのゆえか。『類聚国史』に見ゆ。本朝大麦降ること、『清外史』の語らせたまはしむるところなり。聖武天皇天平十三年六月戊寅、日夜京中条々飯降るの由、『水鏡』に見ゆ)という。

 後土御門帝、文明九年七月、北陸道に紅雪を降らすこと一寸余。同廷徳元年三月二十日、北陸道に泥雨を降らす。後陽成帝、慶長元年、天下一統、土を降らす。この年、閏七月十二日地震、月をこえてやまず。諸国に毛を降らすこと、長さ四、五寸。明正帝、寛永八年十月、諸国に灰を降らす。後光明帝、慶安三年六月四日、毛を降らすこと、長さ四、五寸。霊元帝寛文十年三月二十九日、大豆のごとき物を降らす。東山帝元禄五年七月、伊賀国島原村に五穀を降らす。同十三年三月、伯耆国に麦、赤小豆を降らす。宝永二年にも大豆のごとき物を降らす。中御門帝正徳二年十一月、東国一統に白砂を降らす。俗に舎利降りたるというは誤りなり。

 同享保十九年十二月五日、大豆のごとき物を降らす。桃園帝宝暦六年四月朔日夜、長崎に黄豆を降らす。後桜町帝明和元年五月初旬、京、大阪に灰を降らす。同六年九月七日、八日、九日、三力日の間、京、大津に白き毛を降らす。同八年にも豆のごとき物を降らす。この類挙げて数えがたし。

 漢土にては、「大禹之世、天雨金三日」(大禹の世、天金をふらすこと三日)と『通鑑』に見え、『漢書』に、元帝永光二年八月に天より草をふらすといい、『博物志』に、孝元の竟寧元年に南陽県に穀をふらすことを載せたり。また、漢の恵帝、晋の恵帝のとき、ともに天より血をふらすこと、『通鑑』に見えたり。また『漢書』に、哀帝の建平年中に、山陽の湖陵に血をふらすこと三日といい、平帝の元始三年正月に草をふらすことを載せたり。『唐書』に、武后の垂拱三年七月に広州に金をふらすこと見え、『五行志』に、「垂拱四年三月、雨桂子於台洲、旬余乃止。」(垂拱四年三月、桂子を台州にふらす、旬余にしてすなわちやむ)といい、徳宗の貞元四年、陳留という所に樹木をふらすことを載せたり。〔季〕時珍の『〔本草〕綱目』に、「宋仁宗天聖乙卯八月十五夜、杭州霊隠寺桂子降、其繁如雨、其大如豆、其円如珠。」(宋の仁宗天聖乙卯の八月十五日夜、杭州の霊隠寺に桂の子降る。その繁きこと雨のごとく、その大きさ豆のごとく、そのまるきこと珠のごとし)といい、仁宗の慶暦元年に京師に薬をふらすこと、神宗の元豊三年六月に、饒州に「雨木子数畝、状類山芋子、味辛而香」(木子をふらすこと数畝、状むかごに類す。味辛くしてこうばし)と載せたり。『元史』に、天より米をふらすこと見え、『群芳譜』に、「弘治乙卯六月、黟歛雨豆、隆慶六年四月、陳西寧衛天降黒豆、徧地人食之気閉。」(弘治乙卯の六月、黟歛豆をふらす。隆慶六年四月、陳西寧衛、天より黒豆を降らす。徧地の人これを食えば気閉ず)という。この類もまた挙げて数えがたし。されば、和漢とも天より異物を降らすこと、いにしえより数度あり。謝肇淛が『文海披沙』または『物理小識』に、異物の降ること多く載せたり。「時珍曰、泛観群書、有雨塵沙土石、雨金銀鉛銕、雨草木花実、雨毛血魚肉之類、甚衆。」(時珍曰く、ひろく群書をみるに、塵砂土石をふらし、金銀鉛鉄をふらし、草木花実をふらし、毛血魚肉をふらすの類あり。はなはだおおし)すべてみな奇とするにたらず。そのうちに「雨豆如雨」(豆をふらす雨のごとし)といい、「降黒豆」(黒豆をふらす)などいうは、多くみな月桂の実なり。月桂、一名天竺桂ともいう、『本草〔綱目〕』に載せたり。

 なお、月桂のことについて同書〔『茅窓漫録』〕に論ぜしところ左のごとし。

   月桂と名付くるは時珍の説に、「呉剛伐月桂之説、起于隋唐小説。月桂落子之説、起武后之時。」(呉剛、月桂をきるの説は、隋唐の小説に起こり、月桂子を落とすの説は武后のときに起こる)といえり。そのもとは『酉陽雑俎』に、「月中有桂、高五百丈、下有一人、常斧斫之、樹創随合、乃仙人呉剛也。」(月中に桂あり、高さ五百丈、下に一人ありて、常に斧にてこれをきる。樹のきずつけばしたがって合す。すなわち仙人呉剛なり)という。小説により、この実の天より降り下るに牽強して、ついに月桂の名を作り出だせり。武后のとき駱賓王が詩に、「桂子月中落」(桂子月中より落つ)と作れり。それより以後、月桂の故事となりて、白楽天も、「偃蹇月中桂、結根依青天、天風繞月起、吹子下人間。」(偃蹇たり月中の桂、根を結びて青天による。天風月をめぐりて起こし、子を吹きて人間に下す)と作れり。ゆえに、後人その説を敷演して種々月桂の説を設く。『霏雪録』に、「宋天聖中秋月甚朗、降霊実於霊隠、状若珠璣、璀燦奪目、有異人識之、因曰、此月中桂子也。」(宋の天聖中秋の月はなはだ朗らかなり、霊実を霊隠にくだす。状珠璣のごとし、璀燦として目を奪う。異人ありてこれをしり、ちなみに曰く、「これは月中の桂子なり」)と。また、後宋の慈雲式公が『月桂詩』序に、「天聖丁卯八月十五夜、月有濃華、雲無繊迹、天降霊実云云、識者曰、此月中桂子、好事者播種林下、一種即活。」(天聖丁卯八月十五日夜、月に濃華あり、雲に繊迹なし、天霊実を降らす、と云云。識者曰く、「これ月中の桂子なり、好事の者種を林下にまき、ひとたび種うればすなわちいかす」)といい、また仏氏の説には、『禅林備覧』に、「天竺山八月十五日夜、常有桂子落。」(天竺山に八月十五日の夜、常に桂子の落つるあり)といえり。楊升庵のごとき卓識の人も『丹鉛総録』に、「杭州霊隠寺、月中墜桂子、事渉怪異、余按本草図経云、江東諸処多于衢路間、拾得桂子、破之辛香、古老相伝、是月中下也。」(杭州の霊隠寺月中より桂子を落とす、こと怪異にわたる。余、『本草図経』を案ずるにいわく、「江東の諸所、多く衢路の間において桂子を拾得す。これを破れば辛香あり。古老相伝う、これ月中より下るなり」)と載せたり。最初、隋唐の小説よりこと起こりて、その寓言なるをしらず。月桂の名、数千載に伝うる故事となれり。

 これ、大いに古人の妄想を解くに足れり。


       第五八節 舎利

 またここに一種の奇なるは、世間に伝うる舎利これなり。『法苑珠林』を案ずるに、「舎利者西域梵語、此云骨身、恐濫凡夫死人之骨、故存梵本之名、舎利有其三種、一是骨舎利、其色白也、二是髪舎利、其色黒也、三是肉舎利、其色赤也、菩薩羅漢等亦有三種、若是仏舎利、椎打不砕、若是弟子舎利、椎撃便破矣。」(舎利は西域の梵語、ここに骨身という。凡夫、死人の骨をみだらんことを恐る。ゆえに梵本の名を存す。舎利にその三種あり。一にはこれ骨舎利、その色白なり。二にはこれ髪舎利、その色黒なり。三にはこれ肉舎身、その色赤なり。菩薩、羅漢等また三種あり。もしこれ仏舎利は椎をもて打つも砕けず、もしこれ弟子の舎利は椎撃すれば、すなわち破る)と。その説明につき、過日来答案を募りしに、山口県天野六郎氏の説明すこぶるつまびらかなれば、左に掲載すべし。

   舎利の説明 いわゆる舎利は、ひとり人類にのみこれを有するにあらず、魚類、貝類またこれあり。しかしてその色沢、形質に至りては各種類に応じて同じからず。人類が有せる舎利は、その体、透明円美にして鼈甲色を帯び、その大きさはおよそ一定せり。しかれども、その数に至りては人によりて同じからず。あるいは一個有するものもあれば、また数個有するものもあり。しかして、その存在する所は、概して頭蓋骨および胸骨に固着せりという。これによりてこれをみるに、いずれの説によるもその筋肉部にあらずして、骨部に発生、存在するものたるや明らかなり。これ、舎利説明上にもっとも必要の点なりとす。宗教家の説によれば、むかし釈尊は満身舎利をもってうずめたり。ゆえに舎利は、仏知あるものにあらざれば有することあたわず。換言すれば、仏教信仰の結果によりて、舎利そのものの生ずるを見ると。予思うに、しからず。これ必ず生理自然の道理によりて生ずるものにして、決して信仰の結果のごとき、心理的作用によりて生ずるものにあらず。今、論者の説に従い、信仰の結果より舎利そのものの生ずるものなりとすれば、そのよろしく骨部の上に生ぜずして、まさに筋肉の上に生ずべきはずなり。なんとなれば、骨そのものたる、もとより多少の有機組織は有するも、その大部分に至りてはすべて無機質をもって成れるがゆえに、本来筋肉のごとく鋭敏なる感覚力あるにあらず、全く無感覚の塊体というも可なり。しかれば、その神経に関係連絡を有すること、もとより筋肉のごとく密接なるにあらず。したがって心理上いかなる変動あるも、その影響、波動の及ぶところ実に至微なりというべし。いな、むしろこれなしというも不可なし。それ骨、筋肉が各精神上に関係影響を有するの差違、すでにかくのごとし。吾人が心理作用は全く筋肉の上に存して、しかも骨部上に及ぶなきや明らかなり。舎利、果たして信仰の結果、仏知の有無によらんか。まさに心理作用の及ぶ所に生ずべくして、作用を感ぜざる所に生ずべきの理なし。しかるに、その全く心理上に関係なき死物一般の骨部に生ずるを見れば、その精神上に関係なきや実に明瞭にして、生理自然の道理によって発生するものたるや必せり。しからずんば、なんぞよくかの無心極まる下等動物において、舎利を生ずるの理あらんや。これ、わが輩がその心理にあらずして、生理にありとするゆえんなり。

   舎利すでに心理に関係なしとすれば、生理上、果たしていかなる作用によって生ずるものなるか。予、もとより深くその原因、事情を挙示するあたわずといえども、またあえて説明し難きにあらず。すなわち骨そのものを構造せる一部の元素が、ある事情によりて骨外に漏出し、体内種々の原因、事情によりて、ついに変化して固体を結び、円形をなして、不燃不変の性を帯ぶるに至りたるものというのほかあらず。これをとうれば、なお生立せる松樹の体内より樹脂を漏出し、外界の変化によりて自然に頑然たる凝固体を形づくる〔こ〕と一般にして、ただその性質、元素の異あるのみ。ゆえに舎利たる、決して外来的の無機物というべからず、またあえて内発的の有機物ともいうべからず。実に骨体一部の元素が、ある事情によりて不変不燃に凝結、変化したるものなれば、もとより有機組織は有せずといえども、また生理自然の道理によって発生したるものなり。しかるを、これを信仰の結果となし、いたずらに心理作用に帰するごときは、畢竟、誤謬の説たるを免れず。これを要するに、舎利たる生理の自然に生ずるものなれば、予はただ人間、魚貝の類にとどまらず、有脊動物なかんずく禽獣には、必ずこれあることを信じて疑わざるものなり。

 また、三浦直浮氏の説に、舎利の、名僧知識に多きゆえんは、衆人の貴重ひとかたならざるより、探索精密至らざるなきの結果にして、凡常の人にても多少これなきはあらず。ただただ、なにびともこれを探し求めざるをもって舎利を見ざるのみといえり。『梅園叢書』には、「仏舎利の弁」と題して論じて曰く、「仏子の舎利あることを称揚して儒者にほこる。古来種々の弁あり。おもうに、これは気血の凝れるもの、焼くによってなるものなり。儒者は火葬をいむ。その有無はしるべからず。このものありとも、なにかせん」と。古来、仏者は舎利の有無をもってその徳の高下を証すれども、今日にありては、これすこぶる疑わしきことにして、もしその説を真ならしめんと欲せば、さらにその理を証明することなかるべからず。単に舎利の有無をもってその徳を判ずるがごときは、今日の学者の決して首肯せざるところなり。ゆえに、たとい舎利は宗教信仰のあつき人に存すとなすも、その説明は必ず生理学の道理をまたざるべからず。もしそれ真正の不思議を唱えんとせば、なんぞかくのごとき瑣々たる一小物に拘々たるを要せん。また、舎利は分身して数年の後にはその数を増加すとは、一般に唱うるところなるが、余いまだこれを実験せざれば、いかなる説明をも与え難しといえども、その真偽につきては疑いなきことあたわざるなり。


第八講 変事編

       第五九節 変化

 『初学便蒙集』に変化を解して曰く、「形を改めずしてかわるを変といい、形を離れてかわるを化というなり」と。しかして、その例を示すこと左のごとし。

   楠松樹は石となり(案ずるに、塩水、塩風などにあたって年を経てなる海辺の樹なり)、雀は蛤となり(『月令』に、爵、大水に入りて蛤となる)、田鼠は鶉となり(『月令』)、蝙蝠となり、鼠は鳩となり、雉は大水に入りて化してはまぐりとなり、蝦蟆は鶉となり、鷹は鳩となり、鳩は春分後、化して黄褐侯となり(声、小児の竿を吹くがごとし)、黄褐侯は秋分後、化して斑鳩となり、腐草は蛍となり、秋葉は巣を作りて赤とんぼとなり、みみずはむかでとなり、蚕は蝶となり、蕪菁は菘となり(南人、蕪菁の種を取りて植うるに初年相類す。二、三年に菘となる)薯蕷はうなぎとなり、やまどりは洞貝となり、どんぐりは山姥となる。(○これらの品類見る人疑うべからず。愚が過論にはあらず。内典の中に見ゆるところ、典に載るところなるをもってここに述べたり。養いて体をうつす、変化きわまりなし。あやしむべからず、磁石は鉄を引き琥珀は塵を吸うこと、妙いうべからず。今、神仙は変化多きによりて、これをここにあらわす)

 また、平田〔篤胤〕氏の『鬼神新論』に変化のことを掲げり。よろしく本書について見るべし。その他、仏書中に善因善果、悪因悪果の理を証明せんため、人変じて獣となり、男変じて女となりしがごとき例あり。また、俗間にても動植〔物〕、人類の互いに変化することを唱うるもの少なからず。しかれども、今日、生物学の理ようやく明らかに、顕微鏡の研究いよいよ進みて、無機の変じて有機となり、植物の変じて動物となるがごとき変化なきことを証明するに至りし上は、これもとより論ずるに足らず。古人は食物腐敗して虫を生ずれば、これ食物の変化して動物となりしものなりと解せしも、その実は食物の動物となりしにあらず、動物の卵が植物によりて生育し、その形を現すに至りしこと明らかなり。

 これを要するに、生活なきところに偶然生活を生ずるの理なきことは、今日学術の進歩によりて証明せられ、また疑うべきにあらず。しかるに、古来かかる偶然の変化を事実として伝えきたれるは、もし人の故意をもって作為せる偽怪なるか、しからざれば人知の進まざりしより、偶然、誤り認めて伝説するに至りしものにほかならず。かつ、仏教家はかくのごとき偶然の変化をもって因果の規則を証明する事実となせしも、これかえって因果の規則に反するものとす。いかんとなれば、もしその規則に従わば、生活なきものより突然有生物に変ずべき理なければなり。しかるになおこれをさとらず、かかる旧論法に固執せんか、たまたま自ら敗を取るものというべし。仏教者たるもの、よろしく猛省すべし。


       第六〇節 カマイタチ

 物理的妖怪の一種にカマイタチなるものあり。これにつき『百物語評判』に左のごとく示せり。

   一人のいわく、「某、召しつかい候者の中に越後者ありしが、高股によほどなる疵あとみえ候ゆえ、いかなることにか逃げ疵おいたると、おぼつかなくおもいて様子をたずねけるに、かの者申すよう、『生国または秋田、信濃などにも多く御座候、かまいたちと申すものにきられ候疵なり』と申す。あやしみ思いてくわしくたずねしに、『たとえば所の者、旅の者にかぎらず、おちこちを経めぐりし折から、にわかにたかもも、こぶらなどに、かまもてきれるようにしたたかなる疵でき、口ひらけども血ながれず、そのままきえ入り、臥せけるとき、そのことになれたる薬師を求めて薬つけぬれば、ほどなくいえはべる。命にささわりなし。それがしも新潟より高田へまいり候とき、このかまいたちにあい申したる疵にてそうろう。さして珍かなるにも候わず。されども都がたの人、または名字ある侍には、この災いなく候』と語りしが、誠にはべるやらん」と問いければ、先生評していわく、「およそ天地のいきおい、南は陽にてあたたかなれば物を長じ、北は陰にてさむければ物をそぐ。これ常の理なり。さればその越後、信濃は北国の果てなれば、粛殺の気あつまり、風はげしく気冷じきをかりて、山谷の鬼魅などのなすわざなるべし。されども都方の人または名字ある侍に、この疵おうたる者なきは、邪気の正気にかたざる理なるべし」と評せられき。

 また、『荘内可成談』に記するところ左のごとし。

   かまいたちというものあり。その形あるにあらず。人の五体に風の触るると覚えて、刺刀にて切りたるごとくに小疵を得、血おびただしく出ずる。その十に五六は塵土などある湿地にて、前の辻風の少しなるものに触るれば疵を得るなり。このものも鉄気を忌むとて、帯刀せし者にわざわいせず。これも陸奥、出羽にばかりあるものといえり。『御伽反故』という双紙に、鎌いたち提馬風を乗せて関八州にあり。これにあたれば股のあたり立てざまに裂け、刺刀にて切りたるごとく口開け、しかも痛みはなはだしくもなし。また、血は少しも出でず。女蕤草をもみて付くれば一夜のうちに癒えると書きたり。予が見たるは血出ずることおびただし。また、関八州と書きしも、奥羽にあるゆえ、かく記せしも知るべからず。他国にもあるものなるべけれども、かまいたちという名なきゆえ、なにゆえの怪我とも知らず、不思議といいてやみぬゆえ、なしというなるべし。

 その説明につきては、今日一般に説くところによれば、空気の変動によりて空気中に真空を生じ、もし人体の一部その場所に触るるときは、外部の気圧を失うより、人体内部の気の外部に逬発せんとして、わが皮肉を破裂せしむるものなりという。

 この問題につき答案を徴集したるに、いずれも大抵同一の意味をもって解釈せしものなれども、左に天野、佐々木両氏の文を掲げて一例を示すべし。

   カマイタチの怪象を現ずるものは、果たしてなんらの怪物か。今、仮にこれを外界に無形的の妖物あって吾人が身体に付着し、もって吾人が血液を吸収するものなりとせんか、触覚上、多少の感覚および苦痛を感ぜざるを得ず。もしまた内界の事情によりて生ずるものなりとせんか、体覚上、また必ず多少の感覚を受けざるを得ず。しかるに、毫もこれらのことなきをもって見れば、決して外界に物あって生ずるにあらず、またあえて内界の事情によりて起こるにもあらず。その原因の真空の間に存するあって、自然に流血を見るに至るや明らかなり。換言すれば、吾人の身体ともっとも密接なる関係を有する環象の変化、すなわち空気の変動より生起するものなるや必せり。

   試みに鳥を捕らえて排気鐘内に入れ、空気を排出すれば鐘内漸次真空に赴くに従い、鳥の体内に含蓄せる空気は自然に外界に向かいて散出すると同時に、血液の噴出するを見る。よって再び空気を竄入せしめば出血たちどころにおさまりて、鳥体なんの痕跡をとどめざるなり。いわゆるカマイタチも、けだしこの理にほかならず。すなわち、吾人が大気中に生ずる真空の箇所に身体を触るるがため、体内の空気その空所をうずめんとして気孔より血液を排出せしむるより、一点の疵跡なく細微の感なくして逬血の観を呈するに至れるなり。しかれば、この覆載間に滂薄弥漫せる氛囲気中、いかにして真空を生ずるに至るか、これを研究するは本問題を解するにもっとも須要の点なりとす。

   大河の流るるや、水勢に緩急の二派あれば、洋々たる水面上、多くの圏渦を現ずるを見る。これ他なし、緩急の二流相衝突すれば、緩慢もとより急劇に敵するあたわず、急流、また全く緩流を圧するを得ず。これをもって、その勢い、ついに緩流に向かいて斜線の進行をなし、ようやく上方に曲がらんとして、たちまち緩流に抗排せられ、一転して輪形となり、ために遠心力を生じ、混々沌々の間、ついに水面に虚孔を出だすに至るなり。今それ気圧に変動を起こし、一方の空気、他方の空気と相衝突することあらんか、なお河流の衝突と一般、その結果、ここに一大気渦をつくらざるを得ず。しかして、この気渦の旋転してようやく地面に近づくに従い、山岳および樹木の障害するところとなり、その体、分裂して多くの小圏渦を出だすに至る。その圏渦の中心はすなわち真空にして、いわゆるカマイタチは全くここにあり。ゆえに、カマイタチの生ずるや、気圧の変動頻数なるのとき、すなわち秋分にもっとも多からざるを得ず。世人これを知らずして無形妖物のなすところとなし、あえて戸外を歩行し得ざるに至りては、愚もまた極まれりというべし。(山口県、天野六郎氏)

   空気には上圧、下圧、側圧の三圧あり。固体はもと引力のためにその体を凝固せしむるは論をまたざれども、またこれが凝固には空気の三圧力も関するなり。ことに人体のごとき柔軟なるものは、最もこの三圧力をまつこと著しかるべし。しかるに、ある一部分のみの圧力を突然除去してその所を真空にせば、空気はその欠所を塡ぜんとして非常の圧力をたくましくすべし。このときにおいても、木石のごとき堅硬のものならば、たやすくこの圧力のために異変を呈せざるべきも、人体などは柔軟のものなれば、あたかも口をもって身体の一部分を強く吸い取りしごとくなりて、その部分は破裂するに至るべし。

   ゆえに、人は突然転倒するか、また高所よりくだる際に、切木の枯れ根または刃物に接せば、ただちに身体破裂するなり。しかれども、切木の枯れ根、刃物等は実際身体に刺したるにあらず、ただ皮膚と緊密に摩して空気の圧力を排除したるに過ぎず。もし一毫の空気、この外物と身体の間に介在せんか、すなわち破裂するに至らず。これ、圧力は欠を塡ずるの余地なければなり。しかるに、カマイタチと実際外物の身体に入りしものと、いずれにおいて区別するかといわば、通常の毀傷は鮮血ただちにほとばしるも、カマイタチは即時血の出でざるによって区別す。かく即時出血せざる理由は、身体の一部分に真空を生ぜば、外気のただちにはせきたること猛速にして、血管の切断口を密塞し、一時の流動を妨止するによる。しかるに世俗、これをあるいは神の崇となし、あるいは怨霊の報いとなすは、無稽もまたはなはだしというべし。(秋田県、佐々木甚之助氏)

 以上の答案によりてその原因を知るがごとく、カマイタチは心理的妖怪にあらずして物理的妖怪なりとす。


       第六一節 釜鳴り

 釜鳴りの怪はシナにもこれありしと見え、『楚辞』ト居編に曰く、「瓦釜雷鳴」(瓦釜雷鳴す)と。また、本朝にては『日本紀』にいわく、「天智帝十年有八鼎鳴、或一鼎鳴、或二或三倶鳴、或八倶鳴。」(天智帝十年、八つの鼎鳴る。あるいは一つの鼎鳴る、あるいは二つ、あるいは三つともに鳴る、あるいは八つながらともに鳴る)とあり。しかして古来、この釜鳴りをもって吉凶を判定すべきものとなせり。『怪異弁断』に曰く、「釜の鳴ることは多きことなり。倭俗荒神の所為と号して、吉あり凶ありといえり。その占決は陰陽家の知るところなり」と。

 『本朝語園』に記して曰く、

   備中国吉備津宮に釜あり。参詣の人、事を試みんと欲するとき、釜の前に粢を盛りそなえ、神官祝詞を白して後、柴を釜の下に焼やす。すなわち、釜の鳴ること牛の吠ゆるがごとし。その試むること凶なれば鳴ることなし、吉なるときは鳴ることかくのごとし。 また、『拾芥抄』には釜鳴りの吉凶を表示すること左のごとし。

  子の日、愁事     丑の日、喪事      寅の日、官事凶     卯の日、家の喪事

  辰の日、家ほろぶ   巳の日、中吉きたる   午の日、鬼神きたる   未の日、口舌事

  申の日、同上     酉の日、同上      戌の日、大凶      亥の日、小吉

 また、『吾園随筆』(巻下)にも「釜鳴り」と題して左のごとく記せり。

  予客江都日、廚婢瀹菜、釜鳴声甚怪、廚婢驚報、予視之、予意蒸騰之気、鬱積于釜蓋之下、将漏遇菜葉揚起者、相激成声、無足少怪者然恐二人或惑嘱婢令不言、而止後偶閲諸書、検釜鳴事、有以為吉者、有以為凶者、可見吉凶皆不足憑也、因録其説于此、揮塵後録曰、李釜字元量、其母懐娠、誕瀰之日晨起、庖下釜鳴甚可畏、声絶免身育男、其父即名之曰釜、既長負才名、建中靖国竜飛、遂魁天下、葉盛水東記略曰、程公信、白公圭、偕赴春官時、入旅肆中其家忽鍋鳴、二公以為不祥、遂出避之、鍋声随其車数里、而止後二公相継為大司馬、是其吉者也、宋李濤免相帰第時、中書廚釜鳴者数四、焦氏易林、有非沸釜鳴、不可安居之語、是其凶者也、本邦古昔、数有ト釜鳴、事見于正史、云云。

  (予、江都に客たるの日、厨婢菜をひたす。釜鳴りて声はなはだ怪し。厨碑驚き報ず。予、これをみる。予思う。蒸騰の気、釜蓋の下に鬱積し、まさに漏れんとして菜葉に遇って揚起するもの、相激して声をなす。少しも怪しむに足るものなし。しかも、人のあるいは惑わんことを恐れて婢に嘱していわざらしむ。しかしてやんで後、たまたま諸書を閲し、釜鳴りのことを検するに、もって吉となすものあり、もって凶となすものあり。見るべし。吉凶みな憑るに足らざるなり。よってその説をここに録す。『揮塵後録』に曰く、「李釜、字は元量、その母懐娠す。誕弥の日、晨起すれば、庖下釜鳴りはなはだおそるべし。声絶えて身を免じ男をはぐくます。その父、すなわちこれを名付けて釜という。すでに長じて才名を負う。建中、靖国、竜飛、ついに天下にさきがけたり」葉盛『水東説略』に曰く、「程公信、白公圭、ともに春官に赴くとき、旅肆中に入ればその家たちまち鍋鳴る。二公もって不祥となし、ついに出でてこれを避く。鍋の声、その車に従うこと数里にしてやむ。のち二公相継ぎて大司馬となる。これその吉なるものなり。宋の李濤、相を免じて第に帰るとき、書厨にあたり釜鳴りすること数四。『焦氏易林』に沸かすにあらずして釜鳴りすれば安居すべからずの語あり。これその凶なるものなり」本邦古昔、数釜鳴りをトすることあり。こと正史に見ゆ、云云)

 かくのごときは、もとより物理的妖怪に属するものにして、その妖怪視するに足らざること説明をまたずして知るべし。『古今医統』に曰く、「釜不炊爨、而自鳴者為異、若然炊爨而有声、此火激其水、水気蔽於甑、激発之有声、此理之常也、何足異哉。」(釜炊爨せずしておのずから鳴れば異となす。しかも炊爨して声あるがごときは、これ火その水を激し、水気甑をおおい、これを激発して声あり。これ理の常なり。なんぞ異とするに足らんや)と。余はいまだこれを実験せしことなければ、詳細の説明を与え難しといえども、今日の人は決してこれを妖怪視せざるは明らかなり。いわんやこれによりて吉凶を判定するがごとき、だれかその愚を笑わざらんや。

       第六二節 七不思議

 世に七不思議と称するものに、遠州の七不思議、越後の七不思議の二様あり。遠州の七不思議とは、(一)ザザンザの松、(二)片葉のよし、(三)無間の鐘、(四)四夜鳴き石、(五)桜ケ池、(六)波の音、(七)三度栗これなり。ザザンザの松は浜松にあり。片葉のよしは袋井駅と掛川との間、字七ツ森にあり。無間の鐘は無間山にあり。夜鳴き石は中山にあり。桜ケ池は相良の近傍にあり。三度栗は三沢村にあり。つぎに、越後の七不思議は左表のごとし。

  一、南蒲原郡三条町在如法寺村、燃風火  二、頸城郡能生名立、四海波  三、同郡妙高山赤坊主、八滝

  四、蒲原郡新津村柄目木、草生水     五、同郡村松在河内、墓坊塔  六、同郡栃尾塩谷、塩水

  七、〔頸城郡〕柿崎在米山腰、焼石

 また、越後の七不思議は種々にかぞうるものありて、一説には、(一)海鳴り、(二)塔鳴り、(三)蓑虫、(四)兎の毛色、(五)矢の根石、(六)カマイタチ、(七)妙法寺の火井戸となすものあり。その他、親鸞上人の旧跡について七不思議を立つるもあり。すなわち、(一)蒲原郡田上村の繋ぎ榧、(二)小島の八房梅、珠数掛け桜、(三)保田の三度栗、(四)鳥屋野の倒竹、(五)山田の焼鮒、(六)平島の川越名号、(七)新潟浄光寺の倒竹これなり。以上の七不思議は、古代においてこそ不思議なれ、今日にありては一つも不思議とするに足らず。みな物理的道理によりて説明せらるるものなり。しかしてその道理は、三尺の童子もなお知るところなれば、余は、ただその名称のみをここに掲記することとなせり。


        第六三節 結論

 物理的妖怪は以上講述せしところの外に、わが国諸方に伝うるところ幾種なるかを知らず。その書に載せられ、また口碑に伝われるもの、いたるところとしてこれを見聞せざるはなし。しかれども、これらはいまだ理学の開けざる当時にありて、妖怪不思議となしたるもののみ。今日より見るときは、一つとして不思議となすに足らざるなり。しかりしこうして、今日の理学ももとよりその進歩の高点に達したるにあらざれば、物理的妖怪にして、あるいはいまだ明らかならざるものなしとせず。ゆえに、余は変式的理学を起こして、もっぱら物理に属する妖怪を説明せんことを望むものなり。されど余は、もと理学を専門とせしものにあらざれば、その道理に暗くしていちいちこれが説明を下すことあたわず。ゆえに、変式的理学の研究は専門の士に譲りて、ただただ余はその研究の端緒を開かんと欲し、物理的妖怪中の一部分を掲げてこれに多少の説明を与えたるのみ。今、以上述べたる妖怪の種類を概括するに左表のごとし。

          天文的

          地理的

      無機的

          物理的

          化学的

物理的妖怪

          植物的

      有機的 動物的

          人類的


 これらの妖怪はみな実に物理的なれども、世間、無知迷信者の多きより、これに幻覚、妄覚を加えて心理的妖怪を混入するもの少なからず。されどもこの心理的の部分は「心理学部門」に譲りて、ここに論ぜざるなり。




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『妖怪学講義』第二 付録

       七不思議考(某雑誌掲載の分)

 世に越後の七不思議といえばだれも知らぬものはなけれども、その名称は越後に限るにあらず、遠州にも信州にも七不思議あり。けだし景に八勝を分かち、不思議に七奇を設くるは、一種の慣例となすも可なり。その他、古来七の数を用うるもの、七賢、七情、七曜、七国、七代、七計、七宝、七堂、七草、七大寺等の類、枚挙にいとまあらず。西洋においても七賢七曜のごとき、東洋の説と暗合せしは奇というべし。西洋にて七日をもって一週となすことはユダヤ教より起こりしというも、余はインドかえってその本源なるべしと想像するなり。また本邦において古来、日月火水木金土の七曜を唱えしは、その源『宿曜経』(下巻)に出でたれば、その説インドより起こりしこと明らかなり。また、七数の起源につきては『理斎随筆』に論ずるところ左のごとし(巻六ノニ右)。

   『兵術文稿』に曰く、「陰陽五行合いてすなわち七となる。それ二五の妙用、『生万物、故称太古、曰天神七代、又分土地於七道、是上古所以以用七数也。』(万物を生ず。ゆえに太古と称す。天神七代という。また土地七道を分かつ。これ上古もって七数を用うるゆえんなり)」と。これ、古来七の数を用うる本拠かくのごとし。本朝武家、あに知らざるべけんやといえること見えたり。童児のもて遊べる「謡訓蒙図会」に、頼朝七騎落ちに、それ七つの数は易の復の卦にて七日来復すとあり。天運自然にして陽道順にかえる卦なり。このゆえに、薬を服するも、温湯に浴するも、七日をもって限りとし、ひとまわりという。来復の義によるところあり。義家、頼朝七騎落ち、みな素意を復す。また、武に七を用うること、軍に七政あり、武に七徳あり。戦国の七雄、武経の七書、武蔵七党、弓幹の七材、柳ケ瀬の七本槍等を用うる吉例なりとぞ」

 しかるに余は、七の数を用うる慣例はインドより起こりしものならんと想像すれども、こは別論題なればこれを略す。

 さて、本邦にて七不思議の本家本元たる越後七奇は種々に唱えきたりて、決してその名称一定せず。今、一説によるに、

  (一)燃風火(南蒲原郡三条町在如法寺村) (二)四海波(頸城郡能生名立) (三)八滝(頸城郡妙高山赤坊主)

  (四)草生水(蒲原郡新津村柄目木) (五)墓坊塔(蒲原郡村松在河内) (六)塩水(蒲原郡栃尾塩谷)

  (七)焼石(頸城郡柿崎米山腰)

 また一説に、

  (一)海鳴り (二)塔鳴り (三)蓑虫 (四)兎毛変色 (五)矢の根石 (六)かまいたち (七)火井戸

 『北越雪譜』には七不思議の名称を見ずといえども、『北越奇談』(巻二)に「七奇弁」と題して七不思議のことを論ぜり。その冒頭に曰く、

   越後に、いにしえより七不思議といえることあり。今なお諸方の遊客、好事の人、この国にたずねきたりてその奇を探らんとす。しかりといえども、その説紛々としてさらに実事を知らず。近世諸家の紀行に載るところ、おのおのその名目に別異ありて、論説するところもまたおなじからず。これ必ず風遊の客、民間あるいは駅亭につきて問訊するによりて、かくのごとく誤りきたりたりとおぼゆ、云云。

 また、『北越七奇考』には、

  我北越之産物也、絶奇者極多矣、而有七奇之目、審考其説、頗有異同、蓋人各採其所喜、以充其数耳云云。

  (わが北越の産物なり。絶奇は極めて多し。しかして七奇の目あり。つまびらかにその説を考うるに、すこぶる異同あり。けだし、人おのおのその喜ぶところを採り、もってその数をあてるのみ、云云)

 今、『北越奇談』に載するところの七奇は古今の二種を分かてり。いにしえの七奇、左のごとし。

  (一)燃ゆる土(米山の陽西北の浜潟町のほとり、三島郡竹森等、そのほか所々にあり) (二)燃ゆる水(頸城郡およそ六カ所、蒲原郡草生津村、同新津村、同柄目木村、黒川館村等にあり) (三)白兎 (四)海鳴り (五)胴鳴り(黒姫岳、蘇門山、淡ケ岳等にあり)  (六)無縫塔(蒲原郡河内〔谷〕陽谷寺にあり) (七)火井(三条町南一里入方寺村にあり)

 しかるに俗説の七奇を集め考うれば、このほかに十有七奇ありとて左の種類を挙示せり。

  (一)神楽岳の神楽 (二)箭の根石 (三)鎌鼬 (四)四蓋波 (五)冬雷 (六)三度栗 (七)沖の題目

  (八)沸壼 (九)塩井 (十)逆竹 (十一)即身仏 (十二)七ツ法師、八ツ滝 (十三)八房梅 (十四)風穴

  (十五)蓑虫 (十六)土用清水 (十七)白螺

 以上、古説、俗説を合わせ二十四奇のうちより、今の七奇を選びて左のごとく定めり。

  (一)石鏃 (二)鎌鼬 (三)火井 (四)燃ゆる土 (五)燃ゆる水 (六)胴鳴り (七)無縫塔

 これ『北越奇談』に出だせる古今二種の七奇なり。しかるに『北越七奇考』には、その所生の種類に応じて土地所生の七奇、風気所生の七奇の二類となせり。すなわち左のごとし。


         (一)燃ゆる土 (二)燃ゆる水 (三)沸井 (四)火井

  土地所生七奇

         (五)塩井 (六)風穴 (七)土用泉


         (一)蓑虫 (二)鎌鼬 (三)神楽岳神楽 (四)未時瀑布

  風気所生七奇

         (五)申時僧影 (六)胴鳴り (七)冬雷


 以上は普通一般の七不思議なり。このほかに親鸞上人の七不思議あり。その種類の一、二は前に出だせしも、左に七種を列挙すべし。

  (一)田上、繋ぎ榧 (二)小島、八房梅、珠数掛け桜 (三)保田、三度栗 (四)鳥屋野、倒竹

  (五)山田、焼鮒 (六)平島、川越名号 (七)新潟浄光寺、倒竹

 これにも異説あれどもこれを略す。

 越後七不思議に次ぎて名高きものは遠州の七不思議なり。その種類左のごとし。

  (一)ザザンザの松 (二)片葉のよし (三)無間の鐘 (四)夜鳴き石 (五)桜ケ池 (六)波の音 (七)三度栗

 つぎに、信州諏訪の七不思議のことは、『怪談故事』(巻四)、『新著聞集』(巻六)等に出ずるが、その『怪談故事』によりてその名目を列挙すれば、

  (一)社壇の雨 (二)根入杉 (三)七頭の鹿 (四)氷の橋 (五)衣崎富士 (六)湯口神止 (七)板穴の宮影 

 右は諏訪神社の七不思議なり。また、『本朝故事因縁集』(巻二)に土州足摺の七不思議を出だせり。

  (一)天灯、竜灯 (二)潮石 (三)丑時の竜馬 (四)午時雨 (五)石動石 (六)金石 (七)不増不減の水

 その他にも諸国に七不思議の名目あるべしといえども、余は二、三の書に見、二、三の人に聞くところを集めて以上のごとく示せり。もしその由来、縁起のごときは、前に引きたる本書につきて見るべし。もしまたその説明、弁解に至りては、他日別に論述せざるを得ず。




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第三 医学部門      井上円了講述 田中泰麿筆記



第一講 人体編

 予がこの部門において講述せんと欲するところのものは、医術および医学に関する事項なり。しかれども、予は元来医のなんたるかをつまびらかにせざるをもって、決して現今著しく進歩したる医学上の道理をいちいち説明せんことを望むにあらず。また、かかる目的をもってこの部門の講義を企つるにあらず。ただ、通俗にいわゆる妖怪の中には医術に関係を有するものはなはだ多く、ために医学の進歩を妨ぐることあるをもって、局外より治療に関する愚民の迷誤を排斥し、その心内に知識の電灯を点ぜんとするの微意のみ。

 およそ人生に最も貴ぶところのものは生命にしくはなし。これをもって人の迷誤は、死生の門に迷うより大なるはなし。しかして人の最も必要と認むるところのものは、またこの生命を支うるに直接の関係を有するものとす。衣食住のごときすなわちこれなり。人だれか衣食住を必要とせざる者あらん。しかれども吾人の肉体は、これらのものより一層直接に生命に関係するをもって、もしその肉体に苦痛すなわち病患あらば、これを除かんことを求むる情、最も切なり。これ医術の最も必要なるゆえんにして、またその最も早く世に起こりしゆえんなり。今その起源をたずねんに、インドにありては、古代より五明といえるものあり、そのうちの一つを医方明とす。医方明とはすなわち医学のことなれば、その学の古代すでに備われるを知るべし。シナにありても、またすこぶる古代よりその方を伝え、神農をもってその鼻祖と称せり。すなわち、神農が百草をなめて医薬を製せしことは、かの国の史冊に徴して明らかなり。

 また、皇甫謐が『帝王世紀』に曰く、「黄帝岐伯をして、医薬をつかさどらしめたまいて衆疾をいやさしむ」『説文』に曰く、「巫彭はじめて医をなす」『呂氏春秋』にもまた曰く、「巫彭医をなす」と。これらはみな、その起源の古きを証するものというべし。また、医家の五経と称するものは、『素問』『霊枢』『難経』『金匱要略』『甲乙経』なり。これを見ても医学の早く開けたるを知るべし。わが国にても、神代にすでに医療の術ありしこと史に見えたり。すなわち『日本紀』(神代上)に、「大己貴命、与少彦名命、戮力一心、経営天下、復為顕見蒼生及畜産、則定其療病之方。」(大己貴命と少彦名命と、力をあわせ心を一つにして天下を経営る。また顕見蒼生および畜産のためは、その病を療むる方を定む)とあり。こはこれ日本に起こりし療病の方なるが、その後シナの方を伝えしこと、また古史に見えたり。すなわち、『古事記』(上巻允恭)に、「此時、新良国主、貢進御調八十一艘、爾御調之大使、名云金波鎮漢紀武、此人深知薬方、故、治差帝皇之御病。」(このとき新良国主、御調八十一艘を貢進りき。ここに御調の大使、名は金波鎮漢紀武という。この人深く薬方を知れり、ゆえに帝皇の御病を治め差やしき)とあるものこれなり。

 西洋にても、医術の開けしことはすこぶる古くして、その最も古きはエジプトの医術なり。エジプトにては、古代より僧侶が治療をつかさどりしという。ギリシアにありては、神代にアスクレピオスといえる神ありしが、この神はアポロン神の子にして、神代の神医なりと伝う。しかれども、神代のことは漠として信じ難きをもって、しばらくこれをおくとするも、紀元前五二九年のころに、すでにピタゴラスが疾病および医方を説明せんと試みしことありたり。その後、紀元前四二二年のころに至りヒポクラテス世に出でて、もっぱら医術を講ぜり。これすなわち西洋にて医家の元祖と称せらるる人にして、これに次ぎて出でしはガレノスなり。ガレノスはもとギリシア人にて、紀元後一三一年ごろに生まれ、ギリシアおよびエジプトにおいて修業し、後にローマに移り、医術をもって大いに信用せられたりという。そのほかにも紀元後九八〇年ごろに、アラビア人にてアビセンナーといいし人、医書を著ししことありきといえば、その由来するところの遠きこと知るべし。しかして古代にありてはいずれの国においても、医道と宗教とが相混同したりしをもって、医術は大抵宗教家の手に帰し、したがって治療の方も、祈禱、禁厭、御札のごときものに依頼するよりほかあらざりき。これ畢竟するに、人知なおいまだ開けず、疾病の原因明らかならざりしより、みだりにこれを悪魔、鬼神の所為に帰し、あるいはこれを供養し、あるいはこれに祈禱すれば、その厄を免るることを得と信ぜしによる。これをもって、インドおよびエジプト等の僧侶はみな医術を兼ねたり。ギリシアにても古代の医術は、僧侶の手にありしものにして、かのヒポクラテスは、実にその法を僧侶に受けて世に伝えりという。

 このほかに西洋には、また占星術といえる一種の術ありて、いにしえより広く世に行われたり。占星術とは、天界に羅列せる星の位置によりて、人の運命、未来の吉凶をト知する方なれば、疾病、災難も、またこの方によりて鑑定することを得べし。元来この術の起源は東洋に出でたりということなるが、エジプトにおいてはすこぶる古代より行われ、その後ローマに入りて一時盛んに流行し、術者四方より集まりきたりしをもって、ローマ政府はこれを厳禁したりといえども、ついに全くその跡を絶つことあたわざりき。これを要するに、洋の東西を問わず、古代人知のいまだ開けざるに際しては、疾病の原因全く妖魔、鬼神にありと信じ、これをはらわんには祈禱、供養、もしくは占星術のごときものをおきて他に術なしと考えたりしをもって、今日のいわゆる医学の当時に起こることあたわざりしは、もとより怪しむに足らず。解剖術の後代に至るまで開けざりしも、また職としてこの迷信の妨害ありしによらざることなきを得んや。またシナにては、疾病の原因を鬼神に帰すること多からざりし代わりに、これを陰陽五行に配して論ずるに至り、五行の説大いに進み、疾病の起因、治療の方法、みな五行の理を出でずとなし、よって種々の付会をなしたり。西洋にもまた、これに類したる説なかりしにあらず。ギリシアの四元説のごとき、すなわちこれなり。この説はエンペドクレスの唱えしところにして、地水火風を四元となす。これを人身に当てはめば、血液、粘液、黄胆液、黒胆液の四となり、諸種の疾病一つとしてこれらのものより起こらざるはなしという。しかして近世の医学において、人の資性を分かちて、多血質、神経質、リンパ質、胆液質の四種となすは、けだしこの説に基づけるなり。

 また西洋には、今日の化学の起源なる錬金術といえるものあり。この術ははじめエジプトに起こり、後ローマに伝わりしものにして、人もしこれを用うるときは、生命を無限に延長することを得という。シナにもこの術とすこぶる相類したるものあり。いわゆる仙術これなり。予はこれらの方術に関しては、別に一項を設けて論ずるところあらんと欲するをもって、今ここにはこれを略説するにとどむ。本節の主旨を約言せば、医術、医道はいずれの国にありても最も早く起こりたりといえども、人知のいまだ進まざるに当たりてや、迷信、妄想そのうちに混じ、今日のいわゆる医学は後代に至るまで開けざりき。現にシナのごとき、灸針論、気脈論はつとに大いに進みたりといえども、解剖、生理等の研究進まざりしため、今日いうところの医学はかつて起こらざりしにあらずや。しかして予が今、医学につきて講ぜんと欲するところは、かくのごとき迷信、妄想を論破するにあり。


       第二節 病理論

 医家にありては、人身の機能あるいは構造の、局部もしくは全部がその常規を失い、違和を生ずるときは、これを疾病と称し、これに反するものを健康と称す。すなわち健康とは、体中の形器および組織にすこしも変化なく、衆官能、平常に異ならざる状態をいう。されば、疾病は健康の変態、異常といいて不可なし。しかして医家の論ずるところは有形的身体の上にとどまるも、さらに一考すれば、人は心身の二元より成り、しかもこの二つは少時も相離るるべからず。互いに相連結し、互いに相作用するものなれば、身体上の健康、疾病に伴いて、精神上にもまた健康、疾病なくんばあるべからず。これをもって人間全体上より考うるときは、疾病に二種を分かつを要す。すなわち心病と身病とこれなり。医家にありても、精神病と名付くるものありて、精神そのものの変態、異常を論ずといえども、なおこれ有形上の講究に属し、神経の構造、組織の上よりわずかにその病を論ずるに過ぎざるをもって、これを身病の方に属せしめざるべからず。およそ今日の医家が目的とするところは、ただこの身病を診断、治療するにありて、予がこの部門において論ぜんと欲するところのものとは、もとより広狭の別あり。すなわち、予はただに有形の身病のみにとどまらず、広く無形の心病にも論及せんと欲すれば、その見るところ、おのずから医家の見に異なることあるを免れず。そのいわゆる心病を治療すとは、精神を安定して生死、禍福の迷路に心を動かさざらしむるをいう。しかりしこうして、身病をいやするにも内外両方ありて、医家は外部に限り、宗教家は内部よりこれに及ぼすなり。

 そもそもいにしえより愚民の間に行わるる種々の療法すなわち祈禱、禁厭等のごときは、もとより不合理なるには相違なけれども、さりとてあながちに排斥すべきものにもあらざるなり。なんとなれば、もし予がいわゆる物理的説明の点より考うるときは、かくのごとき療法は全く道理に合せざるがごとく見ゆれど、いわゆる心理的説明の点より考うるときは、必ず多少道理あるものと許さざるべからざればなり。いわんやかくのごとき療法のうちには、知らず識らず、物理的の道理に従えるものあるにおいてをや。例えば、毎朝早起きして旭日を拝し、あるいは神社仏閣へ百度参りをなして、もって疾病の平癒を祈るがごとき、いずれも多少衛生健全法の道理にかなえるにあらずや。これを医家の説くところに比するに、わずかに無識的と有識的との別あるに過ぎず。しかるに従来医家にありては、ややもすればかかる信仰的療法は、一切疾病に効なきものとして、一概にこれを排斥せんとする者なきにあらず。しかれども、そはむしろ有形に偏したる論というべし。さはいえ、予はかの信仰家がいかなる疾病も医師の診察、投薬を要せず、単に信仰のみによりて治療せらるるがごとく信ずるをもって、至当のことと考うる者にあらず。その迷誤なること、いまさらいうまでもなし。これを要するに、医家はやや有形に偏せんとし、信仰家はみだりに無形に偏して、二者ともにいまだその中を得ざるをもって、予は局外より公平に、疾病に有形、無形の二種あり、したがってその起こるにも二種の原因あり、またこれを治するにも二種の方あることを論じ、有形の身辺より治するものは、あくまで医術により、無形の心辺より治するものは、もっぱら宗教によらざるべからざる旨を説明せんと欲す。

 まず妄信家の迷誤を挙ぐるに、無知の輩にありては、身辺の諸病までも神仏の力によりてはらわるるものとなし、はなはだしきは、コレラ病その他の伝染病にさえもっぱら祈禱、禁厭を事として、衛生予防の方を怠るに至る。これに反して多少学識ある者にありては、人間生活中に起こる諸病は、すべて医術の一方によりて治療せらるるものとなし、かつて宗教を顧みざるなり。この二者の考うるところ、もとより賢愚相同じからずといえども、その迷誤たるにおいては彼此選ぶところなし。その愚民の迷誤につきてはいうも詮なし。ただ中等以上の人士が、宗教の一種の医方なることを知らずして、ついにかかる迷誤に陥れるは、すこぶる解し難きこととなす。思うに彼らは、愚民の信仰する外形を見て、宗教の真相、実にこれに過ぎずと速断せしより、ここに至りしものならん。しかれども、外形は必ずしも真相の表章ならず。もし、かの学識ある人士にして、いったん宗教の本分とするところは人心に安楽を与え、その心をして妄動せざらしめ、その意をして満足せしむるにあることを知らば、これによりて心病の治療を求めて可なり。なんぞこれを無用視することをなさんや。

 以上は、予が疾病に身心の二種あり、したがってこれを治する療法にも、医家の法と宗教家の教えとの二道あることを唱道するゆえんの大略なるが、医家の療法は、主として生理学等のごとき有形学によるをもって、これを生理的治療法と名付くべし。宗教家の療法は、もっぱら信仰その他の精神作用によるをもって、これを心理的治療法と名付くべし。古来、仏教は応病与薬の法なりと唱うるは、身病を治療する謂にあらずして、実に心病を治する義なり。釈迦仏はすなわち大医王なり。しかしてこれら二種の治療法の区別は、後段さらに治療法を論ずるところに至りて詳説すべし。


       第三節 病原論

 およそ疾病の発するや、必ずその原因なくんばあるべからず。しかしてその原因は種々無量なりといえども、これを一言に約せば、内外順応の適合せざるよりきたるというよりほかなし。すなわち、わが身体内部の事情と外部の変化とが、互いに順応調和することあたわざる場合に疾病あるなり。例えば、わが身体を外部なる寒熱気候の変化に適合せしむることあたわざるとき、病苦を覚ゆるがごとし。しかれどもかくいいしのみにては、いまだ疾病の原因を明らかにすることあたわざれば、さらにその原因を詳説せんに、まず吾人には、天賦自然の性質として、人力にて左右すべからざるものあることを知るを要す。すなわち、その第一は寿命の定限なり。それ人にはおのおの一定の寿命ありて、なにほど衛生、健康に注意すとも、到底五百年、千年の寿を保つことあたわず。また、いかなる名医、霊薬ありとも、百年の寿を千年に延ばさしむること難し。たとい百年の寿を千年に延ばすこと難きにあらずとするも、到底、生あれば必ず死ありといえる原則を変更すべからざるなり。往昔、人知のいまだ開けざるに当たりてや、この理を知らざりしより、いたずらに不死の薬を求めしことありしが、今日に至りてはだれかまた、かくのごとき愚を学ぶ者あらんや。それしかり。死はついに免るべからずして、寿命に必ず定限ある以上は、これに従いて老少盛衰の変化あるも、また自然の勢いにして、いかなる霊薬ありといえども、壮年のときと老年のときとを同一の状態に保つことあたわざるなり。

 さて、その第二は天稟の資性これなり。それ人には資性上、大小の差、強弱の別ありて、生来虚弱質の者は、いかに栄養に注意するも、これを生来強壮なる人のごとくに変化せしむべからず。また、元来短身なる者は、いかに人工を加うるも、これを元来長大なる人と同一の軀幹に伸長せしむべからず。人身にかくのごとき区別あるは、なお人心に賢愚、利鈍の差異あるがごとし。しかして医家の論ずるところは、以上のごとき人力にて動かすべからざるものをいうにあらずして、人為の及ぶところにとどまる。今、人為の範囲内にありてこれを考うるに、およそ人の疾病に種々ありといえども、その原因を概括せば内外の二因に出でざるべし。もしさらにこれを細別するときは、外因のうちに自然と人為との二類あり。自然の方には、また一般に関するものと一個人に関するものとの別ありて、気候もしくは地形等の影響によりて疾病を発するがごときは、一般に関する自然の原因なり。すなわち、寒暖の変化のために身体に病苦を感じ、あるいは高燥の地と卑湿の地と疾病の異なる等、みな人の熟知せるところなれば、いちいち枚挙するを要せず。また、もし衣服、飲食、住居のごとき、大いに個人の健康に関するもののいかんによりて疾病をきたすときは、これを一個人に関する自然の原因という。つぎに、人為の原因に至りては、また決して一、二にあらず。あるいは戦争の有無、職業の異同のごとき、あるいは政治、教育、衛生等の注意、不注意のごとき、すべて社会または一個人の意志によりて疾病を醸すものはみなこれなり。かつ貧富の境遇、朋友の交際のごときも、また大いに個人の健康に影響を与うるものなれば、これらももとより人為の原因に属せしめざるべからず。

 その他、個人の平素の習慣、注意のいかんも、疾病の原因たるに相違なけれども、要するにみなこれ外部の原因たり。これに対する内部の原因すなわちいわゆる内因のうちには、身体よりするものと精神よりするものとの二種ありて、かの生来ある疾病を伝受せる遺伝性のごとき、あるいは生来体質柔弱にして疾病にかかりやすき虚弱質のごとき、あるいは生来の多血質、神経質等のごときは、いずれも疾病のよりて起こるところにして、これ身辺の内因なり。また、少しくこれらに異なりて、過度の勉強、苦心、恐怖、忿怒、沈鬱、あるいは他郷にありて切に故山をおもい、あるいは父母妻子の死にあいて悲哀するがごとき、ついに疾病を発するに至るがごときは、すべてこれを心辺の内因とすべし。かくのごとく疾病の原因には種々ありて、かつそのうちには主因と助因との区別もあれども、概していわば内外二因にほかならず。これを他語にていわば、およそ疾病は、外界より身体上に影響を及ぼして発するものと、精神そのものより身体上に影響を及ぼして発するものとの二種を出でざるなり。これ予がさきに肉体上の疾病に二種を分かち、これを治療する方法にもまた、生理的の療法と心理的の療法との二法なかるべからずと論ぜしゆえんにして、その論の帰旨は左の数言にとどまる。

 曰く、疾病には身心の二種ありて、医家はもっぱら前者を治し、宗教家は主として後者を治す。しかして身病の原因に、外界より心に影響して発するものと、精神より身体に影響して発するものとの二種あるにもかかわらず、医家は単にその前者に基づきて治療を施すにとどまり、かつて内界そのものより治療することをなさず。ただし、ある場合には精神の治療をなすことありといえども、なおこれ身体の上よりするものなれば、いわゆる心理的療法にあらず。果たしてしからば、精神上より身体に影響して発する疾病は、到底心部より治すべからざるか。その治すべからざるは、もっぱら身辺一方の医術のみによればなり。もし人、まずその心を治めて、しかして後その結果を身体上に求めば、なんぞ治せざることあらん。しかるに、こはこれ宗教の目的とするところにして、医術の目的とするところにあらざるなり。


       第四節 人体の奇形、変態

 予は、すでに人体に疾病と健康との事情あるをのべたれば、これより進みて医学部門に関する種々の妖怪を集め、これが説明を試みんと欲す。それ世人の妖怪とし不思議として、今日まで正当の説明を得ざりしため、種々奇怪の説を付会したる事項すこぶる夥多なりといえども、これを彙類するときは、三段に分かちて論ずることを得べし。すなわちその第一段には、人体そのものの上に現るる種々の奇形、異状を論じ、その第二段には、奇異なる種々の疾病を論じ、その第三段に至りて、奇異なる種々の治療法、すなわち今日医家の用いざる療法を論ぜんと欲す。かく説明を三段に分かつといえども、予の目的とするところは、これらのうちにつきて物理的説明に属するものと心理的説明に属するものとを区別し、もって医術上の療法と宗教上の療法との区域を明らかにせんと欲するにあるなり。 今まずその一段につきて論ぜんに、現に見るところのごとき吾人身体の形態は、幾千万年のいにしえより父祖累世これを遺伝し、これを発達してきたしたる結果にほかならざれば、わずかにその一部なる左右の手といい、五本の指といい、その形の生じたるは、一つとして内外無数の原因の積集したる結果ならざるはなし。かく考うるときは、今日の吾人の身体は、すでに世界の太初より伝来せる不可思議なるものにあらずや。しかるに世人は、尋常の人体においては少しもこれをあやしまず、たまたま奇形不具の者あるときは、これを妖とし、これを怪とし、もって一種の不可思議となす。すでにこれを不可思議となすより、種々の妄想を加え、ついに、あるいはこれをもって神命、冥罰となすに至れり。すなわちおもえらく、かくのごとき奇形不具者の生ぜしは、神仏がその者の前生になしし罪、もしくはその親の悪をにくみてこれを罰し、よって世人を懲せんとするものなりと。ここにおいて、これを治するには、神仏の前において懺悔、謝罪するよりほかに術なきものと信じ、医術によりて治療せらるるものをも単に祈禱、禁厭によりて治せんことを求むるに至る。例えば今、仮に六指の子生まれたりとせんか、これを治せんには医術によりて切断するよりほかに術なきに、妄信者はややもすれば、医術によらず、単に神仏の力を頼みて、いたずらに祈禱、禁厭を事となす。これ、予がこれを目して迷誤となすゆえんなり。もし今日の学理によりて考えきたらば、奇形不具を生ずるにも正当の原因なくんばあるべからず。医家にありては、その常態を具有せざるものを称して人体の異常となし、これを健康に害あるものと害なきものとに分かち、前者はこれを疾病と称すといえども、後者はこれを疾病と称せざるなり。例えば隻目のごとき、その官能に疼痛もしくは障害を起こさざる以上は、ただこれ人体の異常にして疾病にあらず。

 しかして異常には、また先天性のものと後天性のものとの二種あり。今、医家に用うる解釈によるに、その先天性に属する異常は、官能の障害をなすとなさざるとを問わず、すべてこれを奇形と称し、その後天性に属する異常は、これを廃疾と称す。奇形にまた三類あり。その一を過剰という。すなわち、全身もしくは半身の重複なるものにして、例えば双首あるいは四脚等の類これなり。その二を不足という。すなわち身体の一部に欠損あるものにして、欠唇あるいは一指不足等の類これに属す。その三を変位という。すなわち内臓の位置に変動あるものにして、左胸にあるべき心臓が右胸にあり、右腹にあるべき肝臓が左腹にあるもののごときこれなり。しかして、これら種々の奇形の原因をいちいち説明せんことはすこぶる困難なれども、その一部は父祖の遺伝よりきたり、その他の多くは、母胎に宿りし前後の状況に関係するものなること争うべからず。要するに、かくのごとき種々の奇形が、偶然に生じたりとはいうべからざれば、必ず相当の原因あるに相違なし。しかもその原因の隠微にして、常人に知れ難きより、古来種々の妄説世に行われたり。もしその説を知らんと欲せば、左に『大和怪異記』に引証せる事実の一、二を挙示すべし。

   勢州日永村の六左衛門というもの、狐を捕らえしかど、明日は親の忌日なり助けんというを、庄三郎という者、われに得させよとて、耳と口とを打ちさきて殺せり。その後、妻、女産をせしに、女子の耳さけ、口ゆがみたるをうめり。寛文十二年のことなり。また、尾州熱田辺山崎の者、雁をかごに入れ置きしに、夫、他行のあとにてかごよりぬけたるを、妻女、雁を捕らえ、羽をことごとくむしり、足をもぎころせしに、この女ほどなく産したりしとき、肩骨はありながら、手のなき男をうみしとなり。

   相州本目の浦に、大工八兵衛というものが甥にあく人ありて、もてあつかいしをからめ海にしずむ。延宝七年夏のころなり。翌年のおなじころ、八兵衛が妻、子をうみしをとりあげ見れば、ひたいに角生い、上下の歯くいちがい、その形は甥に似たり。やがて大工、道具箱を上に置きおし殺すに、しばしはむくむくともちあげしとかや。

   讃岐国小島に、あるものの園の熟柿を、なにもののしわざにや、一夜の間にさんざんにくいちらしけるを、にくきことなり、またきたりなば射殺さんと待ちうける。案のごとく夜ふけて柿をむしる音しけるを、のがすまじと矢さしはげ、うかがい見れば、大なる猿はらをおしえ鳴きけるを、なんじょうたすけんとて射殺すに、はらみ猿にてありし。その後、子をもうけしに、面は猿にて胴は人なり。

 また、『因果物語』に左の事実を掲げり。

   河内国茨田郡に小兵衛という者あり。母いかにも正直者なり。婦はあくまで心おそろしき者にて、ときどき鬼面を掛けて母をおびやかす。母このことを聞きて、思いのほかのことなりとて婦を教訓しいう、「必ずなにごともわれに報ゆるものなり。かえってその方のため悪しかるべし」という。母ほどなくわずらいつきて正念に往生す。その後、婦、子を産みければ、牙八寸ほど生えたる女子なり。夫にかくしけれども、ついにあらわれたり。正保二年のことなり。那江作衛門語るなり。

 かくのごとき例証によりて、奇形、変態を説明せんとしたりしは、わが国古来の俗説なりしも、今日はだれもこのようなる説明を与うるものなし。しかして医家の説明によれば、先天性の奇形は、多く母胎の位置、状態のいかんによちて生ずとなす。


       第五節 生死論

 前節においては、人体の奇形、変態につき、もっぱらその先天性によりて生ずるものを論じたりしをもって、これよりは、その後天性、種々の原因によりて生ずる諸病、諸疾を説明すべき順序なれども、そは第二講の疾病論に属することなれば、ここにこれを略し、本節においては、人の生死につきて一言の説明を与えんと欲す。それ生死の区別の明らかに知らるるは、人知やや進みし後のことにして、知力の蒙昧なるときにおいては、生も死も同一状態のものと信じたりしに相違なきことは、古代ならびに現時の蛮民が、死人を待つに生ける人を待つと同一なる方法を用うるを見ても知らるべし。かかる愚民にありては、すでに生と死との別を知らざるをもって、したがって、活物と死物との区別をも明らかになすことあたわず。ただわずかに運動の有無によりてこれを判断し、運動するものはすべてこれを活物とし、運動せざるものはすべてこれを死物となしたりしが、さればかくのごとき蛮族に、もし汽車または時計のごとき自動する機械を見せしめんには、おそらくこれを活物なりというならん。しかれども知力やや開発して、単に運動の有無をもって活物と死物との区別をなすことの不十分なるを悟り、等しく運動するにも有意的運動と無意的運動との別あるを知るに至るときは、その有意的運動の有無によりて活物と死物との区別をなすならん。

 しかして有意的運動とは、自己の意をもってとどまらんと欲するときにとどまられ、動かんと欲するときに動かるるということにして、時計のごときあるいは汽車のごとき、たといよく動くといえども、もとより動かん欲して動くにあらず。いわゆる無意的の運動なれば、もはやこれを活物と混同するがごときことなかるべし。されば知力のこの階級に進みし者が、禽獣、人類等の生死を知らんと欲するときには、これを追い、またはこれをうちて、その有意的運動をもってこれに応ずるかいなかを試むるならん。ここにおいて、活物は運動するに必ずある目的を有し、それに向かいてその運動を応合せしむることを得といえども、死物はしかることあたわずとなすなり。すでにかくのごとく死生の区別を明らかにするに至りても、なお活物と死物との間に同様の作用あるものと想像し、ひとり人類に霊あるのみならず、禽獣にもまた霊あり、草木にも山川にもみな霊ありと信ずるより、ついに禽獣、草木、山川を神としてこれを祭るに至る。かつ人の死につきても、最初はこれを睡眠と区別することあたわず、したがって、一定の時間を経過せば醒覚、復活するものと信じたりしゆえ、人知ようやく進みて死と眠りとの区別を明らかになすに至りし後にても、なお死せし人を待遇するに、生ける人を待遇すると同一の方法を用う。すなわち、死人にも耳目口鼻四肢等の感覚あり、喜怒哀楽等の情緒ありと信じて、その寒からんことを察して火をもってこれを温め、その飢えんことを恐れて飲食を供し、その暗からんことをおもんぱかりて、これに灯を供したりしが、今日に至りても、これらのことはなお儀式として残存せり。これをもって、スペンサーもその著『社会進化論』のはじめにおいて、宗教の進化を論じ、一切の儀式はみなかかる妄想より起これりと述べたり。

 これを要するに、知力のはなはだ幼稚なる時代にありては、肉体のほかに心の存在せることを知らざりしゆえ、生あるものと生なきものとを同一に見なして、これを区別することあたわざりしが、知識ようやく進みて後、はじめて人は身心二元より成れるものなることを知るを得たり。しかれども、なお生時の心と死時の心とが全くその状態を異にせることを解せざりしがため、死せる人を遇するに、生ける人を遇すると同一の方法を用いしなり。もしその生時の心と死時の心とがいかに状態を異にするかの問題は、「宗教学部門」の研究に属するをもって、これをここに論ずることをなさず。ただ、医学および生理学においていかに死を解するかが、実に予のこの部門において考究せんと欲するところの主眼なり。今、生理学の説によるに、死とは生活体の諸生理作用が全く遏止して、外部の変化に応合することあたわざる状態にほかならず。かのスペンサーが生活を解して内外の応合となし、これに反するものを死となししもこの意なり。しかして医学上には、死は必ず有機組織の上に多少の障害、変動あるによりてきたるものとなすことなるが、その原因には種々ありて、いちいちこれを列挙するにいとまあらず。しかれども、死の最も多くは心臓、肺臓、脳髄が多少の障害を受くるに起因するものなれば、これらの器官を死門と名付くることあり。されば、死をその原因に従いて心死、肺死、脳死等と名付く。かつ死にはその状態に従いて、卒死と徐死との二種あることなるが、卒死とは、身体中にて最重要なる器官、すなわち心臓、肺臓、脳髄の部分に障害を受くるより急卒に生活作用を遏止するものをいい、徐死とは、老衰もしくは慢性諸病によりて次第に衰弱し、ついに生活作用を遏止するに至るものをいう。

 また、死には安眠の死あり、苦悩の死あり。しかも死の多くは必ず多少の苦痛を免るることあたわず。しかして身体の諸器官が死に際して作用を遏止する順序をいわば、嗅味の両覚まずやみ、次ぎて筋覚ようやくその力を失い、従いて触覚次第に鈍くなり、口舌の運動意のごとくならざるに至れば、身体の下部冷ゆるを覚え、視覚つぎにやみ、聴覚最後に作用を失い、一呼気を吐くとともに心臓の跳動全くやみてついに死す。これすなわち永久の死にして、これを真死と名付く。これに対してまた、一時の死あり。一時の死は外見死したるがごとしといえども、その実全く死したるにはあらざるをもって、身体の内部には必ず微少の心動あり、口鼻にはかすかなる呼吸あり。ゆえに、これを真死に対して仮死と名付く。また、死には全体の死と分子の死との別あり。全体の死とは有機体系全体の生活作用を遏止するものにして、普通にいわゆる死なり。これを全死と名付く。分子の死とは有機体系を組織せる分子細胞の死にして、これを分死と名付く。しかして分死は有機体系中に時々刻々行わるるものにして、これかえって生活を保つに欠くべからざることとなす。なんとなれば、およそ生活体は、その全体を組織せる各分子の細胞の、絶えず新陳代謝するによりて発達するものなればなり。しかるに普通の宗教にては、死は神の定むるところにして、人に生を与うるも、またこれを奪うもみな神意に出ずとなすをもって、死の原因も人間身体そのものの内にあるにあらず、実に身体以外にありといわざるべからず。しかれども学術上より考うるときは、到底かくのごとき説に従うことあたわずして、死の原因はもとよりこれを身体そのものの内に帰せざるべからず。

 今、もし身体の内に死の原因ありとして考えんに、その原因には種々ありといえども、これを概括するときは、普通の原因と特殊の原因との二種を出でざるなり。それ生あらば必ず死あり、始めあらば必ず終わりあるは有機体一般の規律にして、太古以来いまだかつてこの規律に漏れしものあるを見ず。されば吾人人類のごときも、もしその各個人につきて計算するときは、寿夭長短、必ずしも一定の限界なきがごとしといえども、人類全体につきて通計するときは、大略五十年ないし百年をもって限界となすことを得べし。たといいかほど無病、健全にその身を保つといえども、百年以上の寿を得ることはすこぶる困難にして、もし二百年以上に至りては到底望むべからざることとなす。これ、なにびとにても免るることあたわざるところなるをもって、これを普通の原因となすなり。さてまた、人の一生涯に遭遇するところの変化、事情、およびその自らなすところの注意、挙動のごときは、人々一様なることあたわず。かつその先天性遺伝のごときも人によりて異なり、あるいは生来健全なる者あり、あるいは生来虚弱なる者あることなるが、かくのごとき人によりて、おのおの特殊なる先天性ならびに後天性の衆事情は、いずれも寿命の長短に関係し、卒死、徐死の別を生ずる原因とならざるはなきをもって、これを特殊の原因となすなり。これによりてこれをみれば、死は到底吾人の免るることあたわざるところのものなるに、あるいは千歳の長寿を祈り、あるいは不死の薬を求めしがごときは、実に迷誤の大なるものといわざるべからず。また、人はひとたび死せば、その肉体は腐乱して土に帰し、到底これを万世不朽に保存することあたわざるものなるに、愚民のややもすればこの形体にて天界に生まれ、この現体にて極楽に往生せんと願うがごときも、また迷誤の大なるものといわざるべからず。思うに、世人が死体を火葬にすることをいとうは、全くかくのごとき妄信に由来することならん。果たしてしからば、火葬の行わるるは、人間思想のよほど進歩せし徴証となして可ならん。


       第六節 死体につきての妄説

 人の舌につきては古来俗間に伝うるところの妄説種々あれば、予はこれを左に列挙せんと欲す。

 第一、爪甲、毛髪は死後といえどもよく生長すという。これもとより迷誤にして、実際かくのごときことあるべきはずなし。三宅博士の『病理総論』にもこのことを弁ぜられたる一節あれば、これを左に抄出せん。

   愚俗の説に、死後においても毛髪、爪甲長生し、あるいは棺内にありてその体勢を変え、あるいは壙中にありて発声することありといい、もってその生活力のなお存せるを埋葬せしとなすは、はなはだ妄説なり。けだし死後、表皮萎消、脱落すれば、毛髪長生せるがごとき観をなし、また強直によりてその体勢を変じ、また胃中のガスロ内より逬出し、あたかも発声するがごときものあるをもって、この訛言あるなり。

 第二、死人の鼻孔より衄血を出だすことは往々見聞するところなるが、俗間にては親戚もしくは縁故ある者きたりて死体に触るるときは、死人これに感じてその鼻孔より衄血を出だすという。今、地方より報道せられたる実例を挙ぐれば左のごとし。

   埼玉県ト沢胖三郎氏の報ずるところによるに、明治十九年四月、友人真島福太郎氏、郷を出でて漫遊の途に上り、一日客舎にありて午睡す。たちまち家兄のきたりて名を呼ぶこと二回なるを聞き、驚き覚むれば恍として跡なし。よってひそかにこれをあやしみしが、翌日に至り家信あり、報じて曰く、「過日来病床にありし家兄ついに逝く」と。よって匆々行李を収め家に帰りてそのしかばねを検せしに、たちまち死屍の鼻孔より血の流るるを見たりという。

   また、東京木戸秀輔氏の報知によるに、余、先年腸チフスにかかり舎弟の看護によりて平癒せしも、その病舎弟に移り、数日を経てついに死去せり。その死せしときには余は出でて他郷にありしも、その死を聞きて家に帰り、棺のふたを取り放ちてこれを見しに、死体の左の鼻孔より五分ばかり下まで血が流れ出でたりき。

 しかるに医家の説明にては、かくのごときことは親族の死体に触れし場合に限らず、なにびとにてもこれに触れ、これを動かすときは往々あることなり。またことさらに動か〔さ〕ずとも、ときによりては自然に衄血の流れ出ずることありとす。しかるに親戚にあらざれば死体に触るること極めて少なく、また死体に接近してその面貌を熟視することなきをもって、死体にこのことあるを見ざるなり。また、すでに死体を棺に納めその体より衄血を出だすことあるも、親族の者にあらざればそのふたを開かざるをもって、そのことに気付かざるのみ。ゆえに、親戚にしてたまたま衄血を見ることあらば、これをもって死人の感じたる徴となすがごとき妄説を生じたるものならんという。

 第三、死体強直のことにつきてもまた妄説ありて、地方より報道せられたる実例あれば、左にその一つを掲げん。

   野村弥槌氏の報ずるところによるに、下野国にて人死すれば、各自奉ずるところの寺院に行きて、「土砂」なるものをもらいうけきたりて、これを死体の上に載せ置くを例とす。けだし土砂を載せざれば、死体の筋節強硬となりて自由に屈伸せしむることを得ずして、入棺の際困却することあるゆえなり。しかしてこの土砂は名僧知識の多く集まりて土砂講なるものを行い、これによりて作りしものなりという。また一説に、もし土砂を用いざるときは、モロコシぼうきにて打つときは同じ效験ありという。

 この土砂は各地方にて用うるものなれども、また宗旨によりては珠数を用い、あるいは袈裟を用うる等、決して一定せざるなり。すでにその法、一方に限らざるより考うるも、土砂の力にあらざること明らかなり。これ全く他に原因あることにして、生理学の考究を待たざるべからず。生理学に、人の筋節の強硬となりたる状態を強直と名付く。しかしてその原因は、筋中含むところのミオシンの凝固するによるとなす。ゆえに、一定の時間を経れば自然に軟化するものなり。決して土砂を用うるを要せずという。永松東海氏の『生理学』の一節を抜記して左に掲ぐべし。

   動物死後、若干時を経れば、筋の興奮性、漸々減却し、強直してその関節自在に運転せしむべからざるに至る。これを死後強直という。死後強直を発するの時間は、諸動物にありて一様ならず。最も急に発するものは鳥類なり。これに次ぐものは乳養動物、最も遅くこれを発するものは水陸動物なり。死前久しく動作せし筋は、安息せしものに比すれば強直を発する、速やかなりとす。一個の動物にありても、全体の諸筋同時に強直を発するものにあらず。例えば、人にありて最も急に強直を発する筋は心の左室、つぎに胃腸、膀胱、一時後に発するものは心の右室、一時半後に発するものは食道、一時四分の三後に発するものは紅彩、なお後に発するものは軀幹の諸筋、なかんずく頭部の筋最もはじめに発し、つぎに頸部、つぎに胸部に発し、漸次に四肢に及ぼす。初生の動物にありては、筋の強直ことに心筋の強直はなはだ遅しとす。死後強直を発するときは、その容積減少し、かつそのとき温を発生す。およそ筋の死後強直を発するは、温度に関係して遅速あり。すなわち冷所にあるものより温室内にあるものは、死後強直を発する急速なりとす。また、高度の温度にあえばただちに強直を発起す。蒸留水、鉱酸、アンモニア、カリ塩、重金属塩類、クロロホルム、アルコール等は筋の上面に塗布するも、また筋に分布する血管中に注入するも、ともに強直を催進す。筋を急に交互に凍冷氷解せしむるもまたしかり。生活動物の脈管を結紮して、一部の血行を遮絶するときは、その部の筋ようやく強直す。しかれども、そのいまだ極度に至らざるにさきだって再びこれに血液を通ずれば、またさらに回復するものなり。けだし強直の原因は、当今の説によれば、筋中含むところのミオシンの凝固によるものなりと。ゆえに、人工にて酸素に富める血液を注入すれば、久しく強直を発せしめざることを得べし。ひとたび死後強直したる筋の再び軟解するは、人にありてはおよそ二日より六日後にして、凝固せる蛋白質漸々分解して、筋質次第に腐敗に赴くのしるしなり。けだし軟解の順序は強直の遅速に準ずるものなり。ただし筋の腐敗するときは、アンモニアを生じ、その性アルカリ性となり、兼ねて炭酸〔ガス〕、窒素〔ガス〕、硫化水素ガス等を発生す。

 これによりてこれをみるに、強直の生ずるもまたその軟解するも、ともに筋肉そのものの性質として自然に起こるものなれば、あえて怪しむに足らざるなり。

 第四、家猫が死体に触れ、あるいはこれに近づくときは、必ず死体に変状を見るということは、俗間一般に唱うるところなるが、かかることがもし真にあるものならば、そは多分、猫が有する電気の作用ならんという。猫に電気のあることは、暗室において猫の背を毛に逆らいて摩するときは、電気の発するを見ても知らるべきをもって、その電気が死体に伝わらば、あるいは多少の変動なしというべからず。

 第五、死体を不朽に保存せんとするは、古来いずれの国にも行われしことにして、人ひとたび死せば、もとより感覚もなく、また精神もなき純然たる死物なれば、その肉体は腐乱して土に化するよりほかなきものなるを、人情これを保存せんと欲するより、前節にもいいしごとく火葬をいとうがごとき風習をなし、あるいはこれを埋葬するにもその墓所を堅牢にし、もしくは種々の方法を用いて、百方その死体を腐乱せしめざらんとするに至る。すなわちわが国にては、貴人の死骸はその棺に朱を詰めて保存するを通例となす。また、その死体を不朽に保つ方法にて最も著しきはエジプトのミイラなり。ミイラとは、けだしシナにて訳せし語ならん。『輟耕録』に曰く、「俗曰蜜人、番言木乃伊。」(俗に蜜人という、番にミイラという)とあり。

 ミイラはエジプトにてはおよそ三千年以前より行われしものにして、最初よりミイラになしたる死体の数はおよそ四億四千万に及ぶという。しかしてその方法は明らかにこれを知ることあたわずといえども、今日より推想するところによるに、三種の方法ありて、貧富によりその一つを選びしものなりという。その方〔法〕はこれを要するに、一種の薫物あるいは薬品を脳髄ならびに臓腑の間などにみたし、よってもってその腐乱を防ぐにほかならず。その最下等なるものに至りては、まず死体を一種の薬水にて洗い、つぎにこれを七十日間塩漬けになすという。エジプト人がかく高金を費やして死体を保存するは、もと宗教上の妄信よりきたりしものにして、エジプト人は、人間はひとたび死したる後、三千年もしくは一万年を経過せば、いったん肉体を去りたる精神が再びこれと合することありと信じたりしをもって、そのときまでこの肉体を不朽に保存せざるべからずとなし、ついにこの方法を発見するに至りしなり。しかして、彼らが人をミイラにするために費やしし金銭は実に驚くべき多額にして、これを今日より推算するに、上等の者に一人につき少なくもおよそ四千円を要し、中等にてもおよそ一千五百円を要せりという。これによりてもまた、宗教上の妄信がはなはだしかりしを知るべし。

 わが国にては、いまだかつて死体をミイラにせしことありしを聞かざれども、宗教を信ずることあつき者は、死後にもその体、決して腐乱することなしと伝う。もっとも、医家においても脂肪変性と称するものあり、全身がことごとく脂肪に変じ、ために死後不朽に肉体を保つことありという。しかれども、今日なお不朽に保存せられたる宗教篤信者の肉体は、決して脂肪変性にあらず。俗間にては一般にこれを宗教の信仰力によるものとなし、あるいは米麦魚鳥の類をたち、もっぱら果実を食せし結果なりという。とにかく、なにか自然の道理によりて肉体の腐乱せざることあるものにや。現に不朽の死体あるを見る。その一例を挙ぐれば、『北越雪譜』に弘智法印の遺骸につき左のことを掲げり。

   弘智法印は児玉氏下総国山桑村の人なり。高野〔山〕にありて密教を学び、のち生国に帰り大浦の蓮花寺に住し、行脚して越後にきたり、三島郡野積村(里言のぞみ)海雲山西生寺の東、岩坂という所に錫をとどめて草庵をむすびしに、貞治二年癸卯十月二日この庵に寂せり。辞世とて口碑につたうる歌に、「岩坂の主を誰ぞと人問はば墨絵に書し松風の音」。遺言なりとて死骸をうずめず。今、天保九をさること四百七十七年にいたりて枯骸生けるがごとし。これを越後二十四奇の一つに数う。

 この枯骸は余、先年実視したることあり。そののち奥羽漫遊の途次、酒田港にて木食上人の遺骸を実視せり。その縁起に曰く、

   当寺先住観海院忠海上人は、湯殿山注連寺において出家得度したまいてより、一生木食行者となり、湯殿山仙人沢に山ごもりし、寒暑のいとうもなく身は単衣にして御宝前へ日参怠らず。朝には谷の荒水を結んで習悪煩悩の垢をそそぎ、夕には高山の嵐に向かい六根懺悔の文を唱え、骸は深山の雪霜にさらし、難行苦行もただ諸人の危難を救わんことを発願し、すでに行法終わりて後、宝暦五乙亥二月二十一日、命終の暁に至りて異香室中に薫じ、胎蔵界大日如来光明かくやくとして行者を照らしたまうという。

  以上の遺骸は、枯骨同様に枯槁乾燥したるがごとくに見ゆ。これエジプトのごとく人工的にあらざるも、食物の種類および死体の保存のいかんによりて、自然に死後不朽を得るものならん。もしその原因を明らかにせんと欲せば、その死体について施せる専門学者の解剖試験をまたざるべからず。しかるに、その体たるや活仏のごとくに崇拝せられしものにして、吾人がこれに触るることすら許されざるほどなれば、到底解剖などを行うべからざるは明らかなり。ゆえに、その原因を明示することあたわざるも、余はただ物理的説明の範囲のものなりと想像するのみ。

 第六、今ひとつ、死体について一般に迷信するものあり。そのことたるや、子供の死するときにその死体に墨にて黒点、斑紋もしくは文字を書するときは、その後に生まれたる赤子の体にこれと同じき痕跡の存するを見るという。これにつき実験したるものより、そのことを通知しきたりしものあれども、これはなはだ疑うべきものなり。世の迷信者はこれをもって人の再生を証すれども、これ大いなる誤りなり。もし千万人中一、二人の上に限りこのことあるも、かくのごときは偶合とみなして可なり。もし偶合にあらざることを証せんと欲せば、死したるものにことごとく黒点を付してこれを試むべし。この一事は「宗教学部門」第三講〔六道〕再生〔の説〕のもとにおいて論ずべきをもって、ここにこれを略す。



第二講 疾病編

       第七節 疾病論

 およそ天地万有は物心二元より成立せるものにして、物を離れて心のみその作用を呈することあたわず、心を離れて物ひとりその成立を示すことあたわず。この二元はいわゆる物のほかに心なく、心のほかに物なしというべき関係を有するものなれば、これを不一不二というべし。しかしてこの二者の中間に立ちて、直接にその媒介をなすものは、吾人の身体にして、身体そのものはもとより物質より組織せられながら、しかもその上に現ずるところの作用は、すなわち心なり。しからば、いわゆる疾病はこの物心相関の媒介たる肉体上に発するものなれば、すべて疾病には物と心とが同一の力をもって相加わりおることはもとより疑いなく、いかなる疾病にも多少精神の加わらざるものあるべきはずなし。しかるに医家の病理は生理学、解剖学等の道理に基づき、単に肉体上の兆候診断を主とするものにして、有形の一辺より見るに過ぎざれば、必ずこれに対して無形の精神上より論ずるものなかるべからず。しかして肉体上より疾病を論ずるに生理学、解剖学等を基礎となすごとく、精神上より疾病を論ずるには心理学これが基礎となる。かくすでに、疾病に肉体に関するものと精神に関するものとの二種ある以上は、これを治する方法にもまた、これに応ずる二種あるべきこともちろんなり。その身辺の治療は、すなわち今日医家のなすところにして、心辺の治療はまさに宗教家の任とすべきところなり。ゆえに疾病と療法とを表示せば、まさに左のごとくなるべし。


   身的すなわち生理学的

疾病

   心的すなわち心理学的


   身的すなわち医法

療法

   心的すなわち宗教


 このことはすでに第一講第二節において一言せしところなるが、先年、催眠術治療法につきて予が世間に示したる一文あり。左にこれを掲ぐべし。

   馬島東白氏、一日余を訪いて曰く、「われは西洋伝来の催眠術を利用して治療上に施し、これを数十人に試むるにみな好結果を得たり」と。かつ曰く、「本術はいかなる重症難患といえども、薬石を用いず診断を要せずして、たやすく全治することを得る奇法なり」と。余、その語によりて、催眠術を治療法に用いて効験あるべき理由を考うるに、そもそも人は身心の両部より成り、その動作一つとしてこの両部の結合作用にあらざるはなし。諸病諸患もまた、この二者の関係より起こる。身部より起こる病は必ずその影響を心部の上に及ぼし、心部より生ずる病は必ずその結果を身部の上に及ぼすは、みな人の知るところなり。例えば、暴食過飲して腸胃の上に病患を起こし、過度労役して四肢の上に傷害をきたすがごときは、いわゆる身部より生ずる病なり。しかしてその心に病苦を感じ不快を生ずるは、いわゆる身部の影響が心部の上に及ぼすものなり。これに反して憂苦鬱悶して疾病を生ずるがごときは、いわゆる心部より生ずる病なり。しかして生体器官の上に損害を見るに至るは、いわゆる心部の結果を身部の上にきたすものなり。ゆえに、病患は身部より生ずるものと心部より生ずるものの二種あり。かつ心身二者は全く相離れざるをもって、一方の病は必ず他方の病となるを免れず。語を換えてこれを言えば、諸病諸患はみな身心の両部に関するものなり。果たしてしからば、人の病を療するにも、身部より治するものと心部より治するものの二法なかるべからず。しかるに古来、医家の療法はひとり身部よりの療法にして、いまだ世に心部よりの療法あるを聞かざるは、かえって怪しむべきことなり。近ごろ馬島氏の経験にかかる療法は、全くその心部よりの療法なること疑いをいれず。すでにその法、薬石診断を要せずして、よく医家の治すべからざる病を治することを得るといえる以上は、その身部よりの療法にあらざること明らかなり。しかしてその療法は、病人と相対して数十分間黙座するのみにて即時に効験を見るは、またその医家の療法と異なるゆえんなり。

 今、さらに医家療法の目的を案ずるに、その法、すでに損害したる部分を、あたかも物品器具の損害を修繕するがごとく、新たに外より補増してもとに復せしむるにあらず、ただ身体発達の自然の勢いに任ずるのみ。すなわち、人の身体はその自然の勢い、もとに復せんとするの性ありて、いったん損所をその一部分に生ずるも、これをその性に任じて、他よりその発達に妨害を加えざれば、自然の勢いそのもとに復するは必然なり。今、医家の療法は全くこの妨害を防ぎ、そのもとに復する自然の性を養成するにほかならず。かの薬石のごときも、ただその妨害を防ぎ、その養成を促すの効力あるのみ。果たしてしからば、人の身体には損所その一部分に生ずるときは、自然の勢いそのもとに復するの性ありて、医家の薬石診断は、ただその性を養成するの方法を施すにほかならざるなり。しかるにその性の妨害をなし、あるいはその性の養成を促すもの種々ありといえども、その最も主なるものは精神作用なり。さきにすでに述ぶるごとく、いかなる軽症少患といえども、身部の病は必ずその影響を心部の上に及ぼすをもって、精神作用の多少その病に加わるを免れず。世にいわゆる神経を起こすものこれなり。重症長病に至りては、精神作用のその上に加わること最も多きを見る。かくして精神作用のこれに加わるに従い、ますますそのもとに復する自然の性を妨害して、ついに不治の病に陥らしむるは必然の勢いなり。しかして医家の療法は、全く精神作用よりきたるところの妨害を除くの法にあらざるをもって、重症難患に至りては治することあたわざるもの多し。しかして、よくその不治の病を治するは、心部よりの療法を用うるよりほかなし。心部よりの療法は、精神作用の妨害を除き、かつその作用によりて、かえってそのもとに復する自然の性を養成するにあり。これ、心部よりの療法に催眠術を利用すべき理由なり。

 かくのごとく疾病に身心の二種あることを知りし上は、さらに進みて、これらのおのおのに内外両科の区別あることを知らざるべからず。それ身辺を目的とせる、いわゆる医術に内科外科の別あることは、なにびともみなすでに知れるところなれども、精神を目的とするものにこの二科あることは、いまだだれも唱えざるところなれば、ここに少しくこれを説明せん。

 その心辺の内科とは心そのものの疾病を義とし、宗教上にてはこれを迷いといい、あるいは惑いといい、また障りという。これらの名、相同じからずといえども、みな、すなわち心そのものの疾病なり。しかるに、この病が肉体上に影響して、身辺の病をおこすに至るときは、これを心辺の外科と称して可なり。ただし心辺の外科は、医家のいわゆる疾病と同じからず。なんとならば、肉体そのものの上に発する病に、精神の関する部分を心辺の外科とすればなり。ゆえに、これを治せんには、必ず心的治療法によらざるべからず。これを要するに、心辺の内外両科はともに宗教に属し、これを宗教的医法と称すべし。昔日いまだ今日のいわゆる医術が開けざりし時代には、心的療法盛んに行われたりしが、今日に至りては、いわゆる医術の進歩とともにその法大いに衰えたりといえども、いやしくも多少その功ある以上は、これを講究する必要あり。ただし疾病のおこるにも、またこれを治するにも、おのずから身心の区別ある以上は、これを講究しこれを応用するにも、明らかに二者を区別するを要す。しかるに古代にありては、その区別を知らざりしため二者を混同し、外部より治すべき病までを心的療法に訴えて癒やさんとし、ためについに不治に至らしめしもの、決して少なしとせず。また今日とても、無形上の疾病にして心的療法によるときは、あるいは治せらるべきものを、もっぱら有形の一辺に偏する医家の療法に依頼して、それがためについに重症難患に陥らしむることなしというべからず。要するに、この二者の分界を明らかにして、その所属を分かつは、余は実に現今の急務なりと信ず。


       第八節 妄信論

 古代、人知のいまだ進歩せざりし時代にありては、その知識にて解せられざる異常の現象は、大抵、鬼神、妖魔のごとき一種の怪力をそなえしものの所為に帰せざるはなかりき。天変地妖はもとより、草木禽獣の類に至るまで、いやしくも異状、変態を見るときは、その原因を秘密、不可思議のところにもとめしこそ、怪談、妄説の世に行われしゆえんなれ。されば、吾人人類の身体に関してもまたその奇形、変態に会するときは、これが解釈を道理以外にもとめしは古代の常というべし。すでに前講にも述べしがごとく、人体の奇形を神の崇または神罰とせしはその一例なるが、その他の種々の疾病につきても、またこれに類したる妄説すくなしとせず。ただし疾病にも種々ありて、その現象がはなはだしく激烈ならず、かつ容易に平癒するものなるときは、人のこれを怪しむことなきをもって妄説の起こるべきはずなけれども、もしその病勢非常に激烈にして、百方治術を尽くすといえどもなお意のごとく平癒せざるものに会するときは、往々これが原因を神の崇あるいは冥罰に帰するか、しからざれば悪魔、鬼神のごときものありて、人を苦しましむるによるとなすに至るべし。現に伝染病につきては、古来一般に疫神と称する一種の神ありて、疫病を人に与うと信じたり。また、諸種の疾病中につきて一種奇怪なる現象を呈し、知識に乏しき者にはいかにも奇怪に見ゆるものは精神病なるが、この病因に関しては、いずれの国にありても、大抵これを宇宙間に存する一種の魔力に帰せざるはなし。もっともその説明は国と時とによりて一様なることあたわずといえども、いずれも大同小異にして、これを今日の学説より見れば、ひとしく妄想といわざるべからず。

 例えば、狐狸、悪魔等の人に憑付するによるといい、あるいは崇もしくは呪咀と称して、一方の人の執念が他人の身体上に感動するよりおこる、というがごときこれなり。その他、今日に行わるる諸種の宗教にも種々の説明ありて、ヤソ教のごとき神を立つる教えにては、これが原因を神に帰し、儒教にては天といい、仏教にては前世の業因というなり。これを要するに、精神病と伝染病とは諸種の疾病中、一種異常の性質を有するをもって人のこれを怪しむこと深く、加うるに、その病原、容易に知るべからざるを強いて説明せんと欲するより、ついに付会の妄説をなすに至りしものにして、中にも狐狸、悪魔の類にその原因を帰するがごときは、少しく思慮ある者の決して信ぜざるところなれば、今ここにことさらに、その妄たるゆえんを論ずるまでもなきことなれば、神または前世の業因に病原を帰する説につきては、一言ここに弁じおかざるべからざるものあり。

 けだし一般の宗教家は、かくのごとき疾病の原因を神もしくは天罰に帰することは、神の賞罰の公明なることを示し、または神の存在せることを証するゆえんなりと考うるならん。しかれども、これすこぶる浅見というべし。もし強いてかかる説を主張せば、おそらくかえって神の不明不正を暴露し、またその存在の不確かなるを示して、たまたまその信仰の基礎を失わしむるに至らん。なんとならば、精神病または伝染病にかかる者は決して悪人に限るにあらず、善人、信者もまたときとしてその厄を免るることあたわざれば、善悪と疾病とが常に必ずしも一致せざればなり。ゆえに、もし善人、信者のかくのごとき疾病にかかるときは、神は公明ならざるか、しからざれば人間の善悪を洞察する明なきか、あるいは神は世に存在せざるものとならざるべからざれば、予はかかる説明を固執するは、宗教家のために取らざるところなり。また、かのある仏教家が疾病のごときものまでも宿因業報なりというがごときは、業感論の妄用といいて可ならん。なんとならば、かかる説明は普通の道理に照らして考うるも、もとより許すべからざること明らかなるのみならず、あるいはかえって業感論を害するものなればなり。それ疾病の原因は、これを前世にもとむるに及ばず、その直接の原因はみな現世にあるものなれば、現世の境遇、事情にて十分これを説明することを得べし。換言せば、疾病は一つとして物理的、心理的に説明せられざるものなきなり。しかるに、この学理的説明を排して、みだりに前世の業因によりて説明せんとせば、学術の進歩を阻隔するのみならず、その結果は、これを神に帰しあるいはこれを魔に帰するとさらに選ぶところなく、仏教の業感説も、ヤソ教の神罰説も、愚民の妖魔説も、名こそ異なれ、ついにこれを区別することあたわざるに至らん。これ、業感論を主張して、かえって業感論を害するものにあらずや。かくいえばとて、予は一概に業感論を取るに足らずとなすにあらず。ただ、みだりにこれを疾病にまで応用することが業感論の真意にあらず、かつその説の価値を減ずるものとなすに過ぎざるなり。

 これを要するに、今日の医家はただ物理上の道理あるを知りて、他を顧みることをなさず、これに反して現今のある仏教家は物理上の道理を忘れて、みだりに業感を説く。この二者はみな予の取らざるところにして、予は実に物理上の道理のほかに、さらに心理上の道理あることを信ずるものなり。また、これら物理上の道理と心理上の道理との上に、別に形而上絶対の道理あることを信ずるものなり。この形而上の道理は宗教の基礎にして、業感論もこれより出ず。しかしてこの道理は物心二者の道理よりさらに広大にして、物理も心理もみなこの中に含まれざるはなし。しかれども、もとより物理、心理に違背するものにあらざれば、物と心との上に現るる現象は、この大道理にもとらざると同時に、また物理と心理とに依遵せざるべからず。畢竟、物心二者の道理とこの形而上絶対の道理とは、二にしてしかも離れず、いわゆる不一不異の関係を有し、すでにこの大道理の上に物心二者の成立ありて、各固有の規則に従うものなるときは、物心二者の上に現るる諸現象は、もとより物理と心理とによりて説明すべきなり。疾病の説明のごときは、すなわちこの部に属するものにして、形而上の大道理にまで及ぼすべきにあらず。もしさらに進みて、物心二者の根元を究めんとするときに至りて、はじめてこの大道理に訴うる必要あり。しかれども、これこの部門において論ずべき問題にあらざれば、よろしく「宗教学部門」につきて見るべし。


       第九節 伝染病、疫病、痘疹、瘧

 あまたの疾病中、古来、人の最も奇怪とし、その原因を一種の魔力に帰したるは、伝染病ならびに精神病なることは前節においてすでに述べしところなるが、今まず伝染病のおこるゆえんを説明せんに、この種に属する疾病一、二にとどまらずといえども、その原因はいずれも特種の伝染病毒、あるいは瘴気が人身の血液中に入りて、その毒を全身に及ぼすにほかならず。これいわゆる全身病と称するものなり。中にはその病毒の、身体中のある一部分のみを侵すものなきにあらず。しかして、すべて伝染病の病毒は、あるいは地中より発生することあり、またときとしては他の人類もしくは獣類より伝うることありて一概に論じ難きも、要するに近代の学説にては、これをバクテリアの作用なりという。しかり、バクテリアは伝染病の主要なる原因には相違なけれども、これただ外来の原因に過ぎざれば、バクテリアのみにては必ずしも疾病をおこすにあらず。人によりてその病毒に感染する者と全く感染せざる者との差あり。また同じく感染する者の中にも、容易に感染するとしからざるとの区別あるより見れば、このほかにさらに他の一原因なくんばあるべからず。すなわち、人身中に固有なる自然の性質が、人によりて病毒に抵抗する力を異にすることこれなり。されば、伝染病の原因には内外の二種ありて、その近因は外部よりきたるところの病毒、すなわちバクテリアにありとするも、遠因はすでに身体の内部に存せること明らかなり。この遠因を医家にて素因といい、近因を誘因という。これらのことに関する学説は近来著しく進歩したれども、なお多数の人は種々の妄説を信ずるがごとし。今、『〔日本〕社会字彙』中より伝染病に関する記事の一節を抄出して左に示さん。

   伝染病に種々あり、古来疫癘を最とす。疫癘、また天行疫ともいう。古昔、天行疫あるときは、神を祭り、あるいは疫鬼を送るなど、民間の習俗なり。「文武天皇慶雲三年、是年天下諸国疫疾、百姓多死、始作土牛大灘、○続紀考証云、拠公事根源、大寒日立土牛童子像、権輿于此、陰陽式云、土牛童子等像、大寒之日前、夜半時立於諸門、立春之日前、夜半時乃撤、太政官式云、凡十二月晦日儺者、中務預点親王及大臣已下次侍従已上、分配諸門、丞録舎人大舎人等亦同。」(文武天皇慶雲三年、この年、天下の諸国に疫疾ありて、百姓多く死ぬ。はじめて土牛を作りて大儺す。『続紀考証』にいわく、「『公事根源』によれば、大寒の日、土牛童子の像を立つることここに権輿す」『陰陽式』にいわく、「土牛童子等の像、大寒の日の前、夜半のとき諸門に立ち、立春の日の前、夜半のときすなわち撤す」『大政官式』にいわく、「およそ十二月晦日の儺は、中務あらかじめ親王および大臣以下次侍従以上を点じ、諸門に分配し、丞、録、舎人、大舎人等また同じ」)また「同四年春正月乙亥、因諸国疫、遣使大祓。」(同四年春正月乙亥、諸国疫するによりて使いを遣わして大祓す)○このほかにかかることは極めて多かるべし。『梅園日記』にいう、「『日次紀事云、凡疫癘、春初多流行、若然則民間大人小児、毎鳴鉦鼓、而追疫鬼、或以緑樹条作小船、捨郊外而帰、或以生芻幷生草、造偶人、捨野外而帰、是亦駆疫之一術、而唐土造紙船之類乎云云。』(『日次紀事』にいわく、「およそ疫癘は春の初め多く流行す。もししかるときはすなわち民間大人、小児、つねに鉦鼓を鳴らして疫鬼を追い、あるいは緑樹のえだをもって小船を作り、郊外に捨てて帰り、あるいは生芻ならびに生草をもって偶人をつくり、野外に捨てて帰る。これまた疫を駆るの一術、しかして唐土に紙船をつくるの類か、云云」)〔中略〕また『塩尻』にいう、『甲午(案ずるに正徳四年)四、五月のころ、肥前長崎の港、疫疾大いに流行し、六、七月、難波京師に及び、染疫の家々、苦しみ愁う。泉南もっともはなはだしく、堺の商家、死亡数千人なりし。京にては組を定め、人形を作り、夜に入り数十人、金鼓にて疫を送る。かまびすし、前代未聞の姿なりし』」

 この疫神のことは諸書に散見するところなるが、今、左に一、二例を引証せん。

   『東海談』に「享保十八年七月上旬より、東都大いに疫癘はやり、上下貴賤みなこの気にあたりて病す。十三日、十四日のころは、大路の往来もたえだえなり。これは医書に、いわゆる天行時疫というものか。邑里ともに藁にて疫神の形を作り、かね太鼓をならして、これを南海へ流しぬ。官もゆるしてとがめず。これ戯れなりといえども、また三代の遺風なりと思わる」

   「万病回春邪崇条、鬼脈乃邪崇為之也、不用服薬、但宜符呪治之、或従俗送鬼神亦可」(『万病回春』邪崇の条に、鬼脈すなわち邪崇がこれをなす。服薬を用いず、よろしく符呪もてこれを治すべし。あるいは俗に従って鬼神を送るもまた可なり)

   『茅窓漫録』に、「疫疾を神とあがめ祭ることは、和漢ともにあり。この国はいにしえよりことにはなはだしく、『続日本紀』に、『光仁帝宝亀四年、秋七月癸未、祭疫神於〔天下〕諸国、同六年〔八月〕癸未、祭疫神於五畿内、同八年二月庚戌、遣使、祭疫神於五畿内、同九年三月、又於畿内諸界祭疫神。』(光仁帝宝亀四年、秋七月癸未、疫神を〔天下の〕諸国に祭らしむ。同六年癸未、疫神を五畿内に祭らしむ。同八年二月庚戌、使いを遣わして疫神を五畿内に祭らしむ。同九年三月、また畿内の諸界において疫神を祭らしむ)これより以来、引き続きて祭れり。紫野今宮神社は、みな人の知るところにて、『朝野群載』に、『正暦五年六月、安置疫神祠船岡山、寛治中祭刀禰請和歌於藤原長能、其辞云。』(正暦五年六月、疫神の祠を船岡山に安置す。寛治中祭刀禰、和歌を藤原長能に請う。その辞にいう)

    今よりは荒振心ましますな花の都に社さだめつ

    白妙の豊幣をとり持ちていはひぞ初る紫の野に

  二首、『後拾遺〔和歌〕集』に見ゆ。漢土にては『湧幢小品』(巻十九)、『符堅死于新平仏寺、見夢寺主磨詞曰、改為吾宮則已、不則尽殺居者、果死、疫相継、因共改寺為廟、遂無復疾疫、正月二日民競祀以大牢、号曰符家神。』(符堅、新平仏寺に死す。夢に寺王摩訶にあらわれて曰く、「改めてわが宮となさばすなわちやまん。しからざれば、ことごとくいる者を殺さん」と。果たして死す。疫相継ぐ。よってともに寺を改めて廟をなすに、ついにまた疾疫なし。正月二日、民競いてまつるに大牢をもってす。号して符家神という)これなり。『諸神記』に、今宮神社は『長保三年五月九日、被遷座疫神紫野、京師衆庶行御霊会、被遷此所、依霊夢之告也。』(長保三年五月九日、疫神を紫野に遷座せらる。京師の衆庶、御霊会を行い、ここにうつさる。霊夢の告げによるなり)(『世諺問答』も長保三年五月九日とあり)されば今の紫野にうつすは、符堅疫神とおなじく夢の告げなり。また、愛宕郡祇園の社も『備後風土記』と『簠簋内伝』との寓言により、『蘇民将来』(民を蘇し来を将す)とする祝文なることをしらず。『中臣祓抄』に、『貞観十八年、疫神の崇を六月七日、十四日、神泉苑に送り、舐園会となる』といい、今にてはもっぱら牛頭天皇と称して、今宮も一体の神とせり。牛頭天皇と称するは、いずれのころより始まりしや。応仁、延久の宣命には、祇園天神とあるよし、松岡氏いえり。(『如是院年代記』に、『正暦五年建祇園大神堂』(正暦五年、祇園大神堂建つ)とあり)」

   『百物語評判』に、「ある人問いていう、『痘の神、疾病の神と申すものこそ、まざまざあるものにそうろうや。また、ただ病気のうえのみなるをかく申しならわせるや』と問いければ、先生答えていわく、『痘の神、疫病の神ともにあるべし。痘瘡はいにしえはなし、戦国のころよりおこりたるよし、医書にみえたり。もと人の胎内にやどりしときは、母のふる血をのみてこの身命を長ず。そのとどこおりし悪血の毒、のちのちの時の気にいざなわれて発して庖瘡となれり。さればその根ざしは胎毒なれども、そのいざなうものは時の気なり。そのあつまれるところ、すなわち鬼神あり。これ痘の神なりけらし。それにより世俗にしたがいて送りやりたるも、軽くなることわりなきにあらず。また、疫病の神といえるは、もろこしの書には、上古の悪王子のたましい、この神になれりとかやいい伝うれども、その霊の今の世までさながら生きとおして、わが日の本にわたれることもあるまじ。おもうに疫病のはやるときは、多くは飢饉の後なれば、その道路にうえ死にせるやからの、生あるときだに一飯もわけらるべき方なければ、まして死後にまつらるべき、したしみもなき亡魂どものあつまりて人におそうがゆえに、その執に乗じていう空言、おおくは衣食のことのみなり。また、兵乱の後にも行わるるは、その戦場にて果てし魂魄の疫鬼となれるなるべし』」

 今ここに述ぶるがごとく、痘も伝染病の一種にして、昔時は大いにこれを恐れたるものなり。今その病の由来をたずぬるに、『漢事始』、『和事始』に左のごとく示せり。

   痘は東漢の建武年中に南陽虜をうちしとき、ついにその毒に染みて中国に流布す。ゆえに虜瘡という(『痘疹心印』)。また『本草綱目』には、唐高祖永徽四年に、この瘡、西域より中国にうつりきたるといえり。〔『漢事始』〕

   むかしわが国に痘瘡なし。聖武帝天平年中に築紫人、新羅国に漂流し、痘毒に染みて帰る。これより日本に流布せり(『古事談」)。

   日本にいにしえこの病なし。この時に至りて異国よりうつりきたれり。この御代には、はなはだ仏法を尊信したまいけること、前代、後世にもありがたきほどのことなりしに、その功徳はなく、天皇の御末もあとなく絶えたまい、あまつさえあやしき病を神国の人に伝えて、万世諸人の憂いとなりはべる。あさましきことならずや。また、今の世、痘疹をやめるもの、その父母、親族、必ずその人のために、痘疹の神とて壇を設けて祭ることあり。このこと、わが国にのみ限らざるにや。朝鮮人南秋江が著せる『鬼神論』に、瘡疹のやまいに五種あり。ひとたび病みては身を終わるまでふたたびわずらわず。人おもえらく、瘡疹の鬼のいたすところにして、その鬼、聡明無欲なるゆえに、ふたたび病の憂いなしと。誠に鬼ありや。曰く、これ、すなわち鬼にあらず。人の初めて生ずるとき、必ず悪汁を飲む。風気外に触るるに及びて、悪毒内より応じて、この病をいたす。その悪汁五臓に蓄うるゆえに、その病に発することもまた五種なり。その悪汁を飲むこと再びせず。ゆえにその病のきたることもまた、ふたたびせず。なんぞ鬼禍あらんや。それ薬餌の備え、病をいやすの術のごとき、医家につまびらかなり。今の人、指して鬼神の病として、調薬の方をせず、いながら死するに至らしむ。これを不慈不孝に比するにはなはだしとあり。誠に確論なり。今、神道者のいえるは、神国にもとこれなき病なるを、聖徳帝の御時に、新羅より染みきたりて日本に流行す。住吉大神は三韓降伏の神なるゆえ、わきてこの病にかぎりて住吉大神を祭りてこれを祈るという(これを痘神というとかや)。理あるに似たりといえども、誣たる説ならん。〔『和事始』〕

 かくのごとく痘も鬼のなすところと信じ、これをいやするに医薬を用いざるものあり。今日は天然痘の代わりに牛痘を用うるをもって、また昔日のごとく恐るるものなきも、民間の愚夫愚婦中には、なお牛痘をもって不吉不祥として、これを嫌悪するものありという。西洋にありても、初めて牛痘を用いしころは、牛に化することを唱えて、これを嫌悪したりき。けだし痘瘡のはじめて西洋に入りしは、西暦九〇〇年ごろにして、サラセン人の伝うるところなりという。しかして牛痘はエドワード・ジェンナー氏の発見せしところにして、一八〇二年より世間一般にこの法を用うることになれり。さて、痘瘡のなにによりて起こるかの問題は医学の研究に属し、予輩の専門外のことなり。今、医家の説によれば、その病は特殊の痘毒に触れて感発するものとす。しかしてその毒は、痘庖中の液汁および病者の身体より発する蒸発気中に存するや疑いなし。けだし、その体一種のバクテリアなるべしという。ゆえに痘瘡にかかる患者あるときは、その衣服に接し、その居室に入り、その空気に触れざることを要す。もしこれに接触すればたちまち皮膚よりその毒を感受し、あるいは呼吸によりて肺より侵入すべし。また、衣類に付着して遠隔せる地にその毒を伝え、もって世間に蔓延するに至る。『北越雪譜』に、越後国秋山郷に古来痘瘡にかかりたるもの少なきことを記せり。曰く、

   文政十一年九月八日のことなりき。その日は秋山に近き見玉村の不動院に一宿り、つぎの日、桃源をたずぬる心地して秋山にたずね入りぬ。さて入口に清水川原というあり。ここにいたらんとする道の傍らに、丸木の柱を建て、注連を引きわたし、中央に高札あり。いかなることぞと立ちよりみれば、小童のかきたるようの「いろは」文字にて、「ほふそふあるむらかたのものはこれよりいれず」としるせり。案内曰く、「秋山の人は疱瘡をおそるること死をおそるるがごとし。いかんとなれば、もしほうそうするものあれば、わが子といえども家におらせず、山に仮小屋を作りて入れおき、食物をはこびやしなうのみ。すこし銭あるものは、里より山伏をたのみて祈らすもあり。されば、九人にして十人は死するなり。このゆえに秋山の人、他所へゆきてほうそうありとしれば、なにごとの用をも捨てて逃げかえるなり。されば、この地にては庖瘡する者はなはだまれなり。十年に一人あるかなしかなり」と語れり。

 古来、その病の起こるゆえんを知らざるをもって、僻地の人のこれを恐るるも道理なり。また、痳疹もこれとその理一にして、特殊の病独より生ずるものとす。しかしてその毒は病者の呼吸気、皮膚の蒸発気等によりて電線すという。痘瘡、痳疹ともに、一回これにかかりたるものは再感することなし。諸種の伝染病中、近年わが国にて最も猖獗を極めしはコレラ病なり。その病症は古代のいわゆる時疫と同一種ならん。安政五年わが国に流行せしときは、これを「コロリ」と称せり。当時俗間には、この病にかかるものコロリコロリとたちどころに死するをもって、この名ありと唱えり。そのころ世人いまだ衛生の理を知らず、予防の法に暗きをもって、全国にてこの病の犠牲となりたるもの数十万人に及べり。その惨状、震災、火災よりはなはだしといわざるべからず。そもそもコレラ病のはじめて地球上に発生せし場所は、前インド地方にして、それより四方に伝播し、そのはじめてヨーロッパに入りしは一八三〇年なり。その年ロシアに流行し、その翌年ドイツに蔓延せり。爾来、各国交通の頻繁なるにつれて、今日にてはほとんど地球上、この病毒の存せざる地なきまでにはびこれり。しかしてその蔓延の媒介をなすものは、主として飲食物にあるがごとし。ただし、これらのことは予輩の専門とするところにあらざるをもって、ここにこれを詳論することをなさざれども、今日の医学上にては、実験上その説すでに一定し、これが予防法もその定まりあれば、またあえて疫神を祭り、これを駆るがごとき愚をなさんや。

 その他、伝染病に腸チフスあり、赤痢あり、ジフテリアあり。今日医家の説に、伝染病を挙げて六大種となす。コレラ、腸チフス、赤痢、ジフテリア、発疹チフス、痘瘡これなり。腸チフスは昔時のいわゆる傷寒にして、コレラ病のごとく急激なるやまいにあらずといえども、毎年流行のあとを絶たずして、大抵、年中流行し、各地方これを発せざる所なし。本邦にて毎年この病にかかるもの、数万人に下らずという。また、赤痢も近年大いに流行し、その害、決してコレラ病に譲らずという。また、大人に少なく幼少の者に多きは、痘瘡のほかにジフテリアあり。これ通俗のいわゆる馬脾風なり。しかるに、シナにて小児の病中最も恐れたるものは、いわゆる驚風にして、その原因を病鬼に帰せり。左に、『新斉諧』に出でたる一節を転載すべし。

   老嫗為妖。

   乾隆二十年、京師人家生児、輙患驚風、不周歳便亡、児病時有一黒物、如鵂鶹、盤旋灯下飛、愈病則小児喘声愈急、待児気絶、黒物乃去、未幾某家児又驚風、有侍衛鄂某者、素勇、聞之怒、挟弓矢相待、見黒物至射之中弦而飛、有呼痛声、血涔涔灑地、追之、踰両重墻、至李大司馬家之竈下、乃滅、鄂挟矢立竈下、李府驚争来問訊、鄂与李素有戚道、其故大司馬命往竈下、覓之、見旁屋内、一人老嫗、挿箭於腰、血猶淋漉、形若獼猴、乃大司馬、官雲南時、帯帰苗女、最篤老、自云不記年歳疑其為妖、拷問之云、有呪語、念之便能身化異鳥、専待二更後、出食小児、丁所傷者不下数百矣、李公大怒、綑縛、置薪活焚之、嗣後長安小児、病驚風者竟断。

   (老嫗妖をなす。

   乾隆二十年、京師の人家子を生めば、すなわち驚風をわずらい、周歳ならずしてすなわち亡す。子の病むとき一黒物あり。みみずくのごときもの灯下に盤旋して飛び、いよいよ病めば、すなわち小児の喘声いよいよ急に、子の気絶するを待ちて黒物すなわち去る。いまだいくばくならざるに、某家の子また驚風す。侍衛鄂某なる者あり。もと勇なり。これを聞きて怒り、弓矢を挟みて相待ち、黒物の至るを見てこれを射るに、弦にあたりて飛び、呼痛の声あり。血涔々として地にそそぎ、これを追えば、両重の墻をこえて李大司馬家の竈下に至りて、すなわち滅す。鄂矢を挟んで竈下に立てば、李府驚き争いきたりて問訊す。鄂李ともと戚道あり。そのゆえに、大司馬命じて竈下にゆきてこれをもとむる。旁屋内を見るに、一人の老嫗、箭を腰にはさみて血なお淋漉、かたち獼猴のごとし。すなわち大司馬、雲南に官たるとき、苗女を帯びて帰る。最も篤老、自ら年歳を記せずという。その妖をなすかを疑い、これを拷問するにいわく、「呪語あり、これを念ずれば、すなわちよく身、異鳥に化し、もっぱら二更の後を待ち、出でて小児を食らう。所傷にあたる者数百を下らず」李公大いに怒り、綑縛してたきぎを置きて、これを活焚す。嗣後、長安の小児、驚風を病む者ついに断つ)

 しかして、馬脾風すなわちジフテリアは、医家の説くところによれば、やはり特殊の伝染病毒よりこれを感発し、咽喉に特殊の炎症を発するものなり。しかしてその毒は、咽喉に生ずるところの義膜中に存するバクテリアなりという。この毒を運輸するものは涕汁、痰、唾等の分泌物なりといえども、また空気より感染することあるをもって、患者に接触せざるものも、この病を発することなきにあらずという。その他、伝染病中、一種奇怪なる現象を呈するものは、間欠熱すなわち瘧疾これなり。その病、多く泥沼ある地方に発するをもって、一名泥沼熱という。しかしてその発するは、マラリアと称する一種の病毒によりて感染するものとす。その毒は汚水を蓄える泥沼中より発生して、空気中に蒸騰すという。また、泥沼にあらざるも湿地に多く生ずるものとす。しかしてその毒の本体はやはり一種のバクテリアなりという。左に、『〔秉燭〕或問珍』(地)に出でたる一問答を転載す。

   或る問いに曰く、「怪痾ことごとくその理をしらず。中にも人常にかかるところの瘧疾なり。潮のさし引きするごとく信をうしなわず。戦慄譫語して、餓鬼食を得んためにわずらうなどという。食を与えあるいは祈り呪すれば、たちまち癒ゆることあり。いかなる理かはべる」

   こたえて曰く、「瘧疾のことは医書の中に諸論もっとも多し。それ瘧は四季ともにありといえども、まずは夏暑にやぶられて秋発すると『内経』にあり。寒熱のめぐり不節にしてわずらうことあり。また、風寒に感じて発するもあり。狐狸の付詫して瘧するもあり。その人、虚懦なるときは、邪気、虚に乗じて人をなやますなり。身心堅固なれば、いずれの隙よりか邪気の入ることあらん。そもそも唐土にて昔、顓頊と申す帝の御子、江水に入りて瘧鬼となれりと『漢官儀』に書きたれども、異国の妖日本まできたるべきにもあらず。祈り、まじないにて瘧の落つるというは、その気の信によるなり。たとえなにごとにても、その心ひとえに敬するときは、おのずからその心中に神あり。この神あるときは、妖病邪気のしりぞくこと必然の理なり。その信ずる心すなわち敬なるがゆえなり。しかれば、常に敬をもっぱらとせば、おのずから異病にあうことまれなるべし。これらの道理をわきまえず、敬もなくしてみだりに祈ることあさまし。杜子美〔杜甫〕が詩に、『子童髑髏血摸糊』(子童の髑髏血模糊)という。この詩を誦すれば、瘧おのずから癒ゆるといえり。いかんとなれば、この詩奇妙によく字を用いたるをもってなり。本朝にても、古歌の名句など唱えていゆることあり。これみな右にいうごとく、心の敬するによって癒ゆるなり。瘧鬼、この詩歌、名句を聞きて、感じて立ち去るというにはあらず。名句の道理を合点する瘧鬼ならば賢鬼というものなり。賢鬼ならば、あに屑々として嘔吐泄瀉の汚らわしき間に食を求めんや。瘧鬼に心あるにあらず、病者に心あるなり。朝鮮の南秋江が『鬼神論』に、『瘧病は世の人、炎帝の子この鬼になれり』とす。これ、すなわち鬼にあらず。寒熱ととのわずして五内感傷するときはこの病あり。往来の方士ども、これをおどし、これを追って免るることを得る者あり。高力士、杜子美以来みなしかり。ひとり鬼あるにあらず。鬼神の誠は天地にあって漾々として充満し、水の地中にあるがごとく、たとえば鬼神、人をわざわいし病をなさしめば、いずれの所にか避けんや。鬼神は二気の良能にして、もし鬼神なきときは四季の差別もなく、万物生ずることを得ず、天地の間に充満せり。しかれば、これをおどすの追うのということもなし。みな心の信をもって病を癒やすなり。心は一身の主宰、心平らにしてそむかざるときは、はじめよりこのやまいなし。ただ、人は外物の累をもって心を弊やしてこのやまいをいたす。深く方士の術を信じて心舒、気暢ときは病おのずから癒ゆること、また理の一端なりといえり。総じて百病は気より生ずるといえども、わけて瘧症はその心の定まらず、真気の正しからざるにあるなり。『続博物志』に曰く、『瘧鬼は小にして巨人を病ましむることあたわず。ゆえに壮士、瘧を病まず』とあり。晋の国の人は、君子は瘧をうれえずとて、瘧をふるうことを恥とす。また蜀の国にては、瘧のことを奴婢瘧という。下部の病という義なり。また符呪にて瘧を落とすこと、右にいうごとく病人の心を一に帰するはかりごとなり。予、幼時みだりに符呪して瘧を落とすこと多かりき。予、心なしといえども病人はこれを大いに信じ、病癒ゆるなり。『風俗通義』に、鮑魚を信じて神となしたることあり。しかし同じく癒やさば、かくあやしきことをしていやすは、しかるべからず。明の虞搏が『医学正伝』に、いにしえより妖の崇をうれえとす。ひとり老狐のしわざのみにもあらず、人家の猫といえどもよく妖ることあり。大抵その妖さるる者、みな性、淫にして、気、血虚する者なり。ゆえに邪虚に乗じて入るものなり。いまだ正人、君子そのほか充実の人は、その惑いを被らずといえり。もし巫覡の邪術をもって治せば、神いよいよ安からず、決して癒ゆべからず。この病にあう者、謹まざるべけんや」

 この説はもとより学理にもとづけるものにあらざるも、その中に余がいわゆ心理療法の一端を示せるところあり。かつ和漢ともにこれについて有する妄説を示せるは、大いに予輩の参考となる。この病を治する方法に至りては、わが国民間に行わるるもの、実に奇々怪々を極めたるもの多し。その方法は、物理的説明によるときには、もとより妄説として排せざるべからざるも、心理的説明によるときは全く一理なきにあらず。これ、余がいわゆる心理療法の一つなり。さて、この療法につきては、わが国民間に用うるところ実に奇々怪々、その意を解することあたわざるもの多し。今日はキニーネのごとき特効薬あるも、なおこれを用いずして、旧来の奇法によらざるべからざるものとなす。これ他なし、瘧は瘡鬼なるものありて、外よりわが体にのりうつるがごとく考え、普通の病気と異なるものと信ずるによる。ゆえに地方にては、この病にかかるときはトッツカレタという。またこれをツキヤマイと称して、餓鬼が人についたという。すなわち瘧鬼が人に憑付したる意なり。また、その治するをオチタという。その療法の普通に用うるものは、早起橋下を過ぐ、あるいは神社の鳥居の下を過ぐるをよしとす。しかれども、その法これにて尽きたるにあらず。左に地方より得たる報道について、その最も奇怪なる分を掲げて示すべし。これ無用の贅言なるがごときも、愚民妄信の一斑を知るに、大いに参考となるや疑うべからず。

   (イ) 瘧疾にかかれるものは、まず早朝未明に家を出でて、新草履をうがちて氏神に参詣し、境内にその草履を捨て置き帰るなり。もし他人その社に詣し、その草履の新しきを喜びはき帰れば瘧疾その人に移りて、前に病めるものは快復するという。ただし社に詣する際、人に逢わざるをよしとす。(鳥取市)

   (ロ) 瘧疾にかかりたるときは、なにびとも気付かざる間に他人の墓所へ行き、三体の石碑に一本ずつ、線香に火を点じたるものを立て置くときは、病癒ゆと聞く。(前橋市)

   (ハ) 患者自ら早朝、人に見られざるように、藁草履一足を持ち、これを三つ辻に捨て、回顧せずして帰るときは、ただちにこの病平癒す。(美濃国加茂郡)

   (二) 正月元旦の神仏前に供せし串柿の一片を食用して、全治せしといえり。(備前国邑久郡)

   (ホ) 瘧を病む人は、橋下を過ぎて反顧せず過ぎ去れば治すという。ただしその後、第一に橋上を過ぐる人その病を患うという。(佐賀県西松浦郡)

   (へ) 民間に医を用いず瘧病を治するの法は種々あり。病人の面を水鏡にうつし、桃の木の弓を作り、蓬の矢をもって水中に射込むか、あるいは無縁の墓掃除をなし、水を手向け花を捧ぐれば治すという。(能登国鳳至郡)

   (ト) 笠をかぶり水中に入り、身を潜めてくぐりぬけ、笠の頭を離れたるや、後をも見ずして帰家すべし。ただし、人のおらず見ざるを要す。また、茶菓、食饌をいずれの墓に関せず墓所に供えて、後をも見ずして帰る。ただし早朝、人の起きざる前に往復すべし。また、丼に水を満たしてこれを庭前に置き、月影を映ぜしめ、これを飲み尽くせば落つ。(肥前北高来郡)

   (チ) 暗夜、竹藪に生ずる桑樹を求め、果たして桑樹たるを見定め、その幹をなわにて結束し、告げて曰く、「わが病癒ゆればこのなわを解くべし、もし治せざれば解かず」といい捨てて去ること。(栃木県下都賀郡)

   (リ) 杉切れにて小さき舟を造り、握り飯と赤幟を乗せ、川に流すこと。(高知県幡多郡)

   (ヌ) 病者に着物をさかさまに着せ、しかして一人は菅笠をもって、団扇にてあおぐがごとくなしつつ追い行くなり。すなわち病者の転倒するまで、どこまでも追い行くなり。(信濃国東筑摩郡)

   (ル) わが地方にて瘧の療法まじないは、たにしを紙につつみて神棚の上に置き、これにいいて曰く、「もし瘧を全治せしめば、なんじの故郷に帰らしめん」と。かくして全治することあらば速やかに田に放つ。(茨城県北相馬郡)

   (ヲ) 大木に鎌を打ち立て、「なんじ余の瘧を落とさば鎌を去るべし、治さざれば切り倒すべし」という。あるいは章魚一匹を患者一人にて全食し、他に少片も与えざるも治すという。(大阪府讃良郡)

   (ワ) かい犬の蠅を三つ取り、患者の知らざるように、食物に混じ飲ませしに治功あり。また、蠅の得難きときは、犬という字を三字榊の葉に書し、神符のごとく封じいただかせしに大いに治功ありし。(地名失念)

   (カ) 人の見ざるよう石を橋上に置き去り、これを下に落としたるもの瘧にかかる。あるいは、未明に古着を着け、橋下に至りてこれを脱し置くもよしとす。また、早起して顔を壁にあて、鼻の跡をつけ、これに灸を二、三回施すも可なり。(長野県上伊那郡)

   (ヨ) 茗荷に針を刺す、あるいは伝道寺貝(動物)に灸をなす。(越中下新川郡)

   (タ) 左の歌を白紙に黒書し、任意に折り、患者の知覚せざるよう蓐下に挿入し(ただし午後八時ごろ)、翌朝また患者の知らざるようこれを取り出だし、川中に投じこれを流すときは、一回にて治することを得。「十五夜の月に日ませばかけもなし雲の起りを払ふ秋風」(香川県)

   (レ) 病床の下に梭を蔵し置くあり、あるいは甲州身延山の供えを服して治せしあり。一つの人形を作り、これを瀑布等に捨て置くなど。(三重県員弁郡)

   (ソ) 患者において葱を手一束に切り、両端を除き、握るところの葱を味噌汁に入れ、煎じて食するもよし。(島根県浜田町)

  (ツ) 河内国河内郡大戸村大字芝に瘧地蔵と称するあり。これに参詣し、もったいなくもこの地蔵尊を縄にて縛し、「治すれば解かん、治せざれば解かじ」という。(大阪府西成郡)

  (ネ) ふるい〔震い〕日の朝、病者の頭へすり鉢をかぶらせ、灸をその底へすえるべし。また、ふるい日の朝、病者を直立させ、舌にて柱をなめさせ、そのあとへ灸をすえるべし。また、ふるい日の朝、珠算にてなににても割り切れる数を実に置き、割り切れたる玉へ灸をすえるべし。また、ふるい日の朝、サンバイシ(東京にてサンダワラという)をかぶり、人の通行せざるうちに道の三方にゆき、ひっくりかえるべし。また、ふるい日の朝、『浄土三部経』を風呂敷に包みて背に負うもよし。(新潟県蒲原郡)

  (ナ) 一二三四五六七八九の数を、和算にて二をもって除し、その除商を三にて二回乗ずるときは五五五五五五五五〇・五となる、その零の部へ灸を施すべし。(越前国吉田郡)

 その他、各地方にて用うる療法は、いちいち挙ぐるにいとまあらず。しかしてこれらの方法にて治し得るは、決して理学的説明の限りにあらず。これ、予がいわゆる心理的療法なり。その理由は次講において述ぶべし。また、これを治する方法に、病者を驚愕せしむるあり。すなわち病者の通行する際、突然大声を発してこれを驚かすか、あるいは冷水を頭上より注ぎ掛くるがごときこれなり。肥前国馬場寛吉氏の報に、

   わが地方(諫早町)に天祐寺小路とて、人家なく四方深山にして、ただ天祐寺と名付くる禅刹に至る通路あるのみ。深夜、瘧疾にかかるものをしてこれを通行せしめ、あらかじめ人を路傍に伏せて、そのきたるを待ちて、不意にこれを劫喝すれば治すべしという。

 また、群馬県三井亀久松氏の報に、

   瘧疾者を驚かす方法なりとて、箱の内にアオダイショウ(蛇)の類を入れ、病者に知れざるようひそかにその枕元に置き、その蛇、不意にはい出でて病者を驚かすときは治するという。

 また、東京寄留の阿久戸万吉氏の報に、

   上野国山田郡毛里田村辺りにては、寒気起こりて震い始めたるとき、これに頭上より水を掛くるか、しからざれば不意に水中に押し落とし、もって病者を驚かすときは治すべしという。

 これ全く心性の変動によりて治するものなれば、心理療法なること弁明を要せず。その他、御札、マジナイによりて治する法、幾種あるを知らず。『永代大雑書三世相』に曰く、

   梨をあつく切りて一枚をもち、南方の気を一口吸い、梨に向かいて呪して曰く、

    「南方有池、池中有水、水中有魚、三頭九尾、不食人間五穀、唯食瘧鬼。」

    (南方に池あり、地中に水あり、水中に魚あり、三頭九尾、人間の五穀を食らわず、ただ瘧鬼を食らう)

   右の呪を三べんとなえ、梨の上にふきかけ、また「勑殺鬼」、この三字を梨の上にかき、瘧の日のいまだ起こらざる前に、これを食わしむべし。すなわち瘧、治するなり。

   また一法には、魁★(鬼+文)★(鬼+雚)䰢魓★(鬼+甫)魒の七字を橘の葉七枚に、朱にて一葉ごとに一字をかき、これをあぶり乾かし、細末にして早朝の井花水にて、北に向かいて服すべし。大いに験あり。

 また『広益秘事大全』に、瘧の呪術と題して曰く、

   瘧は呪術のもっとも験あるものなり。疑うべからず。その一方にかくのごとく紙にかきつけ、早天に井の水をくみ上げ、「アビラウンケンソハカ」と三遍唱え、その水をのむべし。

 これもとより心理療法なり。しかして愚俗一般に瘧疾は瘧鬼のなすところなれば、呪法、禁厭によりて治し得べしと信ずるなり。以上、すでに伝染病の妖怪にあらざること略明したれば、これより、世人の最も奇病となすところの精神病につきて説明を与えざるべからず。しかるに、卒中のごとき急死するものあるときは、世間またこれを怪しみ、他人の崇もしくは冥罰となすものあれば、余これにつき一言を費やさざるを得ず。


       第一〇節 卒中、失神

 さきに第五節に生死論を述べ、死に卒死、徐死の二種あることを示したるが、徐死は人の格別怪しまざるところなれども、卒死に至りては大いにこれを異とし、身体機関上に毀損するところありて生ずるにあらず、必ず他に鬼神のごときものありて、いたすところなりと信ずるを常とす。これもとより皮相上の浅見のみ。深くこれを検するに、いずれもみな必然の原因ありて生ずるを知るべし。そもそも卒死の起こるは、人身中もっとも貴重なる器官、すなわち脳、心、肺の官能、その作用を卒然、遏止することあるによる。しかして、世間にいわゆる卒中は、おもに脳溢血によりて生ずるものをいう。脳溢血は脳中の血管破裂して溢血するものにして、人もしこの症にかかるときは、卒然、昏昧してさらに人事を弁ぜざるに至る。ゆえにこれを名付けて卒中という。あるいは貧血によりて卒倒するも卒中と称すべしといえども、通常、脳溢血を呼んで卒中となす。この溢血は脳中の充血、鬱血によるというも、なかんずく細血管に細小なる動脈瘤を生じ、ために破壊するを原因とす。これ、その多く老者に起こるゆえんなり。しかしてこれが誘因となるものは、精神の感動、過労、飲酒、喫飯、頭部の撞撃等なり。この道は予の専門とせざるところなれば、その理由を明示することあたわずといえども、有機身体中に必然の原因ありて起こることは、決して疑うべからず。

 また、一時の昏睡、気絶、失神を起こし、暫時の後もとに復することあり。これ予が前にいわゆる仮死なり。けだし仮死の起こるは癲癇、ヒステリー、難産、チフス、コレラ等の諸病、および重傷、大出血、雷震、頭脳の撞撃、溺没、凍寒、飢餓、あるいは諸種の中毒等による。これいずれも必然の原因ありて起こる以上は、決してこれを鬼神、崇等に帰すべからず。さらに、これらの諸症は精神病論の中において講述すべし。

第一一節 精神病総論

 以上述べしごとく、古来は精神病をもって神仏の霊力、あるいは崇、もしくは狐狸の魔力に原因するものとなしたりしが、今日に至りては医学の進歩により、学理上よりその原因を説明することを得。今、その学説上の説明を略陳せんに、精神病には種々ありて、通俗にいわゆる精神病と医学上にいわゆる精神病とは、その範囲に広狭の差あれば、まずその範囲を限定せざるべからず。しかしてその範囲を定めんには、精神病の名に厳密なる定義を下す必要あり。しかるにこの定義に関しては、諸家の説まちまちにしていまだ一定せず。あるいはこれを広義に解するものあり、あるいはこれを狭義に解するものあり。また、有形上より解釈を下す者、無形上より解釈を下す者、おのおのその説を異にせり。かつ、精神病の患者と精神の健全なる者との間には、判然たる限界あるにあらず、思うに甲を精神病患者とし、乙を精神病患者にあらずと見定むるは、自然にかくのごとき区別あるがゆえにあらず、全く人為上に仮定するに過ぎずして、これを換言せば、両者の別は客観上に存するにあらずして、主観上の仮定のみ。さらに約言せば、これらの別は必然に存せるにあらずして、便宜上よりこれをわかつに過ぎず。ただし、もし精神のすこぶる健全なる者と、はなはだしき精神病患者とを比較するときは、なにびとといえども、その間に大なる差違あるを知るに難からざるはもちろんなり。されど、もしあまたの精神病者としからざる者とを集めて比較するときは、あたかも一直線の連続したるがごとく、その間に著しき階級間隙を見ることあたわざるべし。これをもって、精神病を精密に義解してその範囲を画することは、ほとんどなしあたわざることにして、わずかにその要点につきてこれが定義を下すをもって満足せざるべからず。今、諸家の定義二、三を挙げんに左のごとし。

   (第一) ホッフバウエル氏の説によれば、個人にしてもしその悟性(理会力)の作用に変動をきたししとき、またその知力をわが身に利用し、あるいは適当の方法をもってその思望を他に知らしむる力なきときは、該人はすなわち狂癲なりと。

   (第二) ドクトル・バックニル氏曰く、「狂癲とは、疾病によりて、概念あるいは判断の謬作用、意力の欠損、あるいは情緒および本能の制し難き激興を、別々にあるいは同伴して生じたるところの心状をいう」と。

   (第三) ドクトル・ギスレーン氏曰く、「狂癲とは、発熱を免れたる一つの慢性病にして、その観念および動作は、抗拒し難き勢力の控制を受くるものなり。該個人に特有なる感情、知覚、思考および動作におい

 て、その性格および慣習において、生起したるところの一変動なり。その周辺における人々の感情、思

  想および動作と相違せるところある情態なり。該人をしてその身を保存するに適するように、また天神

  あるいは社会に対する責任の心をもって、動作することあたわざらしむるところの情款なり」と。

   (第四) ドクトル・バックニルおよびチューク二氏は、狂癲に関するその共著中において、マイモン氏の言をひきて曰く、「心意の健全とは、意志自由にして、障害なくその統御を行うことを得る状態をいう。これと相異なれるところの状態は、いかなるものにてもみな心意の病症なり。もし意志とはなんぞやと問うものあらば、マーク氏の釈義に従いて、意志とはその健全なるときには、これに服従するところの身心の諸作用を生起せしめ、これを指導、制止し、あるいは変改するところの心力なりと答うることを得べし」と。

   (第五) ギルマン氏は狂癲の研究に有名なる人なるが、これについて最良なる定義は、狂癲とは意志の自由を損傷せられたるところの脳髄病症なり、となすにありといえり。

   (第六) トーマス・ケー・クルース氏は、上に列挙せし諸定義よりははるかに適正なる定義をなせり。曰く、「狂癲とは、脳髄病症の心意に発現したる表象なり」と。

   (第七) ハムモンド氏曰く、「右のクルース氏の定義を少しく改変するときは、通常、狂癲なる語中に包含せざるところの、脳髄病症の表象を除却することを得べし。すなわち予は、これに『意識の消失を伴生せず』なる語句を添加せんと欲す。かくのごとくなるときは、『狂癲とは、脳髄病症の心意に発現したる表象にして、意識の消失を伴生せざるものなり』となるなり」

 以上の諸説を比較するに、定義におのずから二種の別あるを見る。すなわち、その一つは医家の与うるところの定義にして、他の一つは心理学者の与うるところの定義なり。それ医家は生理学、解剖学等に基づきて有形上より解釈するものなれば、これを定義して脳髄組織の病態なり、とするはもとより当然のことなり。また、かの心理学者は心理学を基礎とし、精神作用すなわち知力もしくは意力の作用上より解釈するものなれば、その知力の事物の是非を弁ずることあたわざる者、またその意力の情を制裁することあたわざる者、あるいは社会の風俗、習慣に適合することあたわざる者、あるいは法律、道徳の責務を知らざる者を精神病者となすは、また当然のことなり。かく医家は有形上より解釈し、精神病をもって脳髄組織の病態となすといえども、脳髄内部の状態は吾人の耳目に達することあたわざるものなれば、この病を判定するには必ず精神作用の上に考えざるべからず。これ、この病症の、他の手足、五官、心臓、肺、脳等の諸病とその性質を異にせるゆえんなり。しかして、精神作用の上よりこの病症を判知せんには、まずこれが標準となるものを定めざるべからず。

 ゆえに今、心理学上より精神作用の異常を判知せんと欲せば、一方においてはこれを客観的に考え、また他の一方においてはこれを主観的に判断するを要す。まずその客観的にありては世間をもって標準となし、その社会の風俗、習慣は、法律の制裁に反する行為あるときはこれを精神病者となし、つぎにその主観的にありては、知情意の三作用につきてこれを判定するなり。すなわち知力の点においては、生来その力(知力)に欠くるところあるか、あるいは誤謬をなしながらこれを自治することあたわざるものを精神病者となし、また意力の点においては、その力微弱なるか、あるいは全く欠乏して、自己の精神を制裁、規定することあたわざるときは、これを精神病者となし、また感情の点においては、その発動が平均を保つことあたわずして容易に極端に走るときは、これを精神病者というなり。しかれどもかくのごときは、いまだ精密なる精神病の判定法というべからず。そのゆえは、上にいいし主観的知情意の三者がその作用の適度を失い、また平均を失し、あるいは薄弱もしくは欠乏することのごときは、尋常一般の人においてもときどきあることなればなり。例えば、憤怒したるとき、あるいは悲哀に沈みしとき、または憂苦にたえざるとき、壮快を極めしときのごときは、知情意の各作用が権衡を失うことは、なにびともすでに知れるところならん。その他また、驚愕せしとき、失敗せしときのごときも、一時発狂の状態を現すを常とす。また、酒に酔いあるいは熱病にかかりしときのごときも、その一時の状態は決して精神病者と異ならざるなり。果たしてしからば、精神病者と尋常健全なる者とを明らかに区別せんはすこぶる困難なることにして、ある点より見れば、いかなる人も多少発狂人たるを免るることあたわず。

 これを要するに、常人と精神病者との別は、ただ度の強弱と時の長短とに過ぎざるがごとし。すなわち精神病者にありては、精神作用の常態を失すること、その度強く、その時間も長し。これに反して常人にありては、その度弱く、その時間もすこぶる短きなり。これをもって、常人がある特殊の事情によりて精神錯乱の状を呈することあるも、そはただ一時のことにして、暫時の後そのもとに復するを常とす。しかるに精神病者にありては、いったん精神の権衡を失いし上は、数日、数年または生涯その常に復することなし。かくのごとく精神病者をもって精神作用の権衡を失したるものとするときは、天稟の才能あるいは資性の一方に偏したる者も、同じく精神作用の権衡を失したるがごとき観なきにあらざれば、いかにかしてこれらの者と精神病者とを区別せざるべからず。それ、一方に偏したる天才を有する者は実に一種の狂人のごとく、尋常一般の人より見れば、あるいは精神作用の権衡を欠けるがごとく見ゆるなるべし。また、特に専門の技芸に熟達したる人は、常人の目には愚人にあらざれば狂人のごとく見ゆるを常とす。しかれども、世人はよくこれらの人を精神病者と区別して、決してこれを混同せざるはなにがゆえぞや。

 思うに、かくのごとき人にありては、たといその精神一方に偏したることあるも、知力、意志等の諸作用がその順序、規律を乱すがごときことあるにあらず。その道理を判断しその自身を制裁する力のごときは、尋常普通の人とすこしも異なることなく、少しも欠けしところあらざるによるなるべし。また、かの英雄豪傑と称せられ、あるいは暴君虐主といわるる者のごときは、国を奪い人を殺し、残虐暴戻至らざるところなく、あえて常人のなすに忍びざることをなして、すこしも哀憫の情を発することなし。されば、これらの人にありては精神作用に欠くるところあるがごとく見ゆれども、尋常一般の人が有せる知情意の諸作用においては少しも欠損なければ、またこれを精神病者と同一視すべきにあらず。思うに、いわゆる天才もしくは英雄のごときは、天賦の才力、常人よりは多量にして、かつこれを一方に集合せしむるの力強きのみにして、決して精神そのものの錯乱したるにあらざれば、明らかに精神病者と区別せざるべからず。かつまた、精神病者としからざるものとを区別せんには、その目的、行為の利害得失につきて考うるを要す。ゆえに、ある人のいだける目的ならびにその行為がともに世を利し、または自己を利するものならんには、その人をして精神病者ということもとより不当なり。しかれども、もしその目的ならびに行為がともに世を利することなきのみならず、かえってこれを害し、また自己の利益にもならざるときは、吾人はこれを天才もしくは英雄と称することあたわざるなり。

 わが国にては古来、一癖ある人を称して狂人となす習慣ありて、過度に酒をたしなむ者を酒狂と呼び、はなはだしく碁にふけるものを碁狂といい、詩にふけるものを詩狂ということなるが、これらは狂の名ありといえども真の狂人にあらざれば、もとより精神病者と同一視すべからざるは、予の弁をまたざるなり。

 そもそも精神病のおこるには、肉体上に原因するものと、精神上に原因するものとの区別あり。例えば、ある一事に苦心して憂悶のあまり、ついに精神病者となるがごときは、精神内部の原因よりおこれるものといわざるべからず。これに反して、身体の衰弱、負傷、もしくは病毒よりこの病をおこすがごときは、肉体上の原因よりおこれるものなり。ただし、その原因、精神の内部にあるものといえども、すでに精神病者となれる上は、脳髄組織の上にも必ず多少の変化あるは疑うべからず。しかも今日の医家が論ずるところは、あまり有形に偏するをもって、いまだその理を尽くさざるところなきにあらず。予はすでに、人身上に発する一切の諸病はみな有形、無形、身心内外の関係よりおこるものなれば、これを治するにも心ず内外の二法なかるべからざることを論じたりしが、精神病に至りては特にこの説の適切にして、単に肉体有形上のみよりしてこれを説明することの不適当なるはいうまでもなきことなり。予は元来医学上のことにつきては少しもこれを知らざるをもって、ここにこれを詳論することを得ざれども、多年いささか心理学を研究したれば、試みに心理上より精神病の起こるゆえんを説明して、もって医家の説明を補わんと欲す。

 よって今、左に精神病に連帯して起こるところの精神作用の変態、異常を挙示せんに、この病症にかかりし者は往々幻覚または妄覚を起こすことあり。幻覚とは外界に多少の原因ありて、これを他物のごとく誤認するをいう。例えば、道に縄の落ちたるを見てこれを蛇なりと感じ、または海辺において波濤の音を暴風雨と誤り聞くがごときは、みな幻覚なり。しかるに、外界にはさらにその原因なきに、種々の妄象を感見するときは妄覚という。例えば、壁に向かいて対し、ある一点を凝視するときに、壁面に人影を認め、または四隣寂莫としてなにびともおらざるに、人の己を呼ぶを聞くがごときは、みなこの妄覚なり。これらの二者はいずれも感覚すなわち外感上の幻妄なるが、このほかにまた内想上すなわち想像あるいは思想の上に現るる幻妄あり。その想像作用に属する幻妄を、妄想もしくは迷見という。しかしてこれにまた二類の別あり。その一つは、幻覚、妄覚にて感見せるものを真に実在せるものと信じて、これを虚妄と知ることあたわざるものにして、他の一つは、実際上、到底あられざることを想像してさらに怪しまざるものなり。例えば、太平洋に橋を架し、富士山より昇天せんと考うるがごときものこれなり。さてつぎに、思想上の幻妄はこれを妄理もしくは謬論と名付くることなるが、ここにもまた言語上に関するものと、観念上に属するものとの二種ありて、さらに連絡なき言語を使用し、自らその誤りあるに気付かず、他人これを聞くといえども、毫もその意を解することあたわざるがごときはその前者に属し、またさらに論理上に連絡なき議論をなし、その推理、論定するところの論理の則に合せずといえども、自身はこれを道理あることと信ずるがごときはその後者に属す。

 以上のごとき変態、異常は、精神病者が必ず有するところのものなれども、また決して精神病者のみがこれを有するに限らず、普通一般の人といえども、かくのごとき精神の状態を有することあり。ただ、その精神病者に異なる点は、前にすでにいいしごとく、度の強弱と時の長短とにあるなり。


       第一二節 精神病の分類

 精神病において、その定義のいまだ一定せざるがごとく、その分類もまた、いまだ一定せしものあるを見ず。すなわち、その基礎とする学科の種類に応じて種々の分類あり。その第一は解剖学に基づける分類にして、これを解剖的分類という。すなわち、脳髄の障害を受けたる部分および場所によりて分類する方法なるが、この方法にては到底、精神病の諸種類を明細に指示することあたわず。なんとならば、吾人現今の知識にては、なにほど精密に研究すとも、到底、脳髄内部の障害を受けたる位置を明らかに知ること難ければなり。さて、その第二は生理学の道理に基づくものにして、これを生理的分類という。すなわち、脳髄の機能作用の関係事情に従いて分類する方法なるが、これもまた今日の研究にては十分にその目的を達することあたわず。なんとならば、吾人現今の知識にては、いまだ脳髄中各部の機能作用を明知することあたわざればなり。その第三は病因学に基づくものにして、これを原因的分類と名付く。すなわち、精神諸病をその原因の異同に応じて分類する方法なり。その第四は心理学の原理に基づくものにして、これを心理的分類と名付く。すなわち、精神病を知情意の三種に分かち、感情的精神病、知力的精神病、意志的精神病等となすがごとし。またはこれを感覚的、知力的、情緒的、意志的の四種となすも可なり。その第五はこれを病理的分類という。これすなわち病理学に基づき、脳髄の病状、病質のいかんによりて分かつ方法なり。その第六はこれを徴候的分類という。これすなわち精神病の徴候によりてこれを分類する方法にして、例えば、これを鬱性狂と噪性狂とに分かつがごときこれなり。今、左にクラフト・エピンク氏の分類を挙示すべし。


   第一類

    (第一) 初期可治症

     (甲) 鬱憂狂(Melancholia)

      (イ) 昏迷性鬱憂狂(Melancholia Attonita)

      (ロ) 陰性鬱憂狂(Melancholia Passiva)

     (乙) 躁狂(Mania)

      (イ) 発揚狂(Manical Exaltation)

      (ロ) 躁暴狂(Acute Mania)

    (第二) 第二期不可治症

     (甲) 偏執狂(Chronic Mania)

     (乙) 続発痴狂(Terminal Dementia)

      (イ) 躁性痴狂(Dementia with Excitement)

      (ロ) 鬱性痴狂(Dementia with Depression)

   第二類

     (甲) 理性狂(Constitutional affective Insanity)

     (乙) 道徳狂(Moral Insanity)

     (丙) 原発性躁狂(Primary Mania)

     (丁) 身体より起こる諸病(Insanity from Constitutional Neurosis)

      (イ) 癲癇(Epileptic Insanity)

      (ロ) ヒステリー狂(Hysterical Insanity)

      (ハ) ヒポコンデリー狂(Hypochondrical Insanity)

      (ニ) 定時狂(Periodical Insanity)

   第三類

     (甲) 麻痺狂(Dementia Paralytica)

     (乙) 脳梅毒(Cerebral Syphilis)

     (丙) 慢性中酒狂(Chronic Alcoholism)

     (丁) 老耄狂(Senile DEmentia)

     (戊) 急性譫妄(Acute Delirium)

 また、江口〔襄〕氏の『精神病学』の分類表は左のごとし。

   第一類 欠損の症(Defectzustände)

     (一) 痴果(Idiotismus)

     (二) クレチニスムス(Cretinismus)

   第二類 変質の症(Degenerationszustände)

     (一) 意志狂(Impulsives Irresein)

     (二) 道徳狂(Moralisches Irresein)

     (三) 癲癇狂(Epileptisches Irresein)

     (四) ヒステリー狂(Hysterisches Irresein)

     (五) ヒポコンデリー狂(Hipochonderisches Irresein)

     (六) 定時狂(Periodisches Irresein)

     (七) 回帰狂(Circuläres Irresein)

   第三類 抑鬱の症(Depressionszustände)

     (一) 鬱憂狂(Melancholia)

     (二) 昏迷性鬱憂狂(Melancholia cum Stupore)

     (三) 自殺狂(Selbstmord)

     (四) 他殺狂(Mord)

     (五) 興奮性鬱憂狂(Melancholia Agitata)

   第四類 興奮の症(Exaltationszustände)

     (一)躁狂(Tobsucht)

     (二)妄想狂(Wahnsinn)

   第五類 儒弱の症(Schwächezustände)

     (一)錯迷狂(Verrücktheit)

     (二)失神(Blödsinn)

     (三)進行性麻痺(Progressive Paralyse)

 かくのごとく精神病の分類法に種々あり。したがって、学者おのおのその説を異にし、容易にそのいずれが適当なるかを定め難しといえども、予はしばらく一己の私見をもってこれを内外に大別し、肉体上より起こるものと、精神上より起こるものとの二つとなさんと欲す。ただし、この二者はいずれもすでに精神病の名あるくらいなれば、精神作用の変状をきたす点においては互いに異なるところなしといえども、そはすなわち結果にして、もしその原因を探らば、肉体上よりきたるものと、精神上よりきたるものとの二種なくんばあるべからず。すでに前にもしばしばいいしごとく、身心の間には密接の関係ありて、肉体上に発したる疾病は精神上に影響し、精神上に発したる疾病は肉体上に影響し、互いに相離るるべからざる以上は、精神病の原因にもまたこの二様ありと考えて可なり。しかして、精神病をかくのごとく分類するは、ハンモンド氏の法に多少予の私見を加えたるものにして、ここに少しくこれを説明せんに、諸種の精神病中、アルコールの毒によりて精神の錯乱をきたし、あるいは婦人出産の際にしばしば見るところの精神の変状等のごときは、すなわち肉体上よりきたるところの精神病にして、この中にまた種々の類あり。

 その第一を癲癇狂とす。それ、癲癇はなにびとも知れるごとくその発作すこぶる急にして、数秒ないし数分時間全く意識、知覚を失い、全身に痙攣をおこす病なるが、その原因は父母より遺伝したる一種の疾病か、もしくは自身に有せる諸種の毒なり。しかれども、これらはともに素因と名付くべきものにして、このほかにこれが誘因をなすものあり。その主なるものは精神の激動、すなわち恐怖、驚愕、憤怒および脳髄の状態等これなり。この癲癇病者の中にはときどき暴行をなす者あり。その病状は発作の時間極めて短く、かつ暫時ののち本心に復するときは、自らなにごとをなしたりしかを記憶せざるを常とす。かくのごとく癲癇病に伴いて暴行をなすものを癲癇狂というなり。これ畢竟、肉体上の疾病が精神上に影響して意志の痙肇を起こし、自ら己の挙動を制止することあたわざるより発するものなるべし。もっとも、その軽症なるものは、はなはだしき暴行をなすに至らずといえども、その重症なるものにおいては、往々、自殺、他殺等のごとき暴行を企つるをもって、その行為はなはだ危険なり。今その実例二、三を挙げんに、ある所に製靴師あり。年三十五にして平素すこぶる勉強、謹慎の名ありしが、一日早朝に起き出でて業に就きしに、たちまち言語錯乱の状を呈し、小刀をとりてその妻を殺さんとせり。その顔色は朱をそそぎ、容貌全く発狂者に異ならざりき。暫時の後、精神やや旧に復したれども、脈拍はなお急促にして、唇舌乾き、満身に発汗し、ようやく眠りを催し、熟睡すること数時、覚めし後は全く平常の状態に復して再び異状なく、かつその発作の際なにをなししかをすこしも記憶せざりしという。

 また、米国ボストン府に住せしある若者は、かつてしばしば癲癇にかかりし者なりしが、ある夜その母とともに晩餐を喫しいたりしに、中途にして突然食卓を離れ、恐ろしき容貌にて二階なる寝室にかけのぼり、かみそりをとりて自ら己の喉を傷つけたりしが、暫時の後、あたかも醒覚したるがごとき状態にて、晩餐のとき食卓につきしまでのことは記憶すれども、その後いかなることをなししか少しも知らずと語れりという。かくのごとき例証は医書中にはたくさんあることなるが、その発作の急促にして極めて危険なること、ならびに一時ののち回復すれば、さらに病中の所為を記憶せざることは癲癇狂の特性とす。ただし、その発作の急促にして回復ののち全く病中の所為を忘失するは、通例の癲癇においてもまた見るところなれども、ただ暴行をなす点は、実に癲癇狂を通例の癲癇より区別する要点なり。また、かかる患者にありては、精神の錯乱よりときどき種々の幻象、妄象を見ることありて、その暴行は大抵これらの妄象もしくは幻象に駆られてなすものなれば、ときとしては患者自らその発作を予知して、これを他人に予告することあり。これを要するに、癲癇狂はもとより精神の錯乱に相違なければ、純然たる精神上の病者として不可なきがごときも、その失心、暴行に至らしむる直接原因ともいうべき癲癇そのものは、疑いもなき肉体上の疾病なれば、この類の狂者を肉体上より発する精神病の一種に属せしむるなり。

 つぎに、肉体上より発する精神病の第二の種類を、婦人出産の際に見るところの精神上の変動とす。およそ婦人懐妊するときは、その精神大いに平常に異なる状を呈するを常とす。かくのごときは、たといいまだ精神病と名付くべからざるも、また決して精神の常態にあらず、特に情および嗜好において著しく異状を呈すること多し。すなわち、平素嗜好せしものを、懐妊してより非常に厭悪するがごとき実例は少なしとせず。現にある婦人は懐妊してより非常に水を恐れ、決してこれを飲用せざるのみか、これを使用することさえいとい、水を見ればたちまち非常に恐怖するがごとき状を呈せしという。また、ある婦人は懐妊後大いに鼠を恐れ、一室に独座することあたわず、寝床の周囲には鼠を防ぐために障屛を設くるにあらざれば、安眠することあたわざりしという。かかる場合における精神の状態は、通例鬱憂性なるを多しとすれども、ときとしては興奮性のものなきにあらず。しかして懐妊のためにきたす精神の変態は、懐妊のはじめにおいて最もはなはだしく、時日を経るに従いてようやく減退し、六、七カ月の後にはほとんど常態に復するものなり。しかるに分娩のときに至りて、また急に精神上に変状を呈す。この変状は出産後およそ二、三時間にして発し、およそ一カ月間くらいはその状の継続するものとす。

 その変態には種々ありといえども、多くの場合には自身の産みし子をにくむに至る。そもそも母はその子を愛するこそ、人情の常なれ。しかるに、この自然の天性にもとりてその子を愛せざるのみか、これをにくみ嫌うに至りては、精神の錯乱にあらずしてなんぞや。そのはなはだしきに至りては、自らその子を殺し、または他人の熟睡せるをうかがい自らその子の喉を絞め、「早く死ね、このにくき餓鬼め」と口説きし者さえありしという。また、ときとしてははなはだしき鬱憂に沈みて、自殺を企つることもありという。また、ときとしては精神錯乱のためにその言語に連絡なく、その談話のなんの意義なるかを解すべからざるがごとき状態を現すことあり。かつ、その産室を離れ赤子を乳養するに至りて、もしその婦人の体質虚弱なるときは、乳を赤子に与うるため一層疲労をきたし、それによりて精神の錯乱をきたすことあり。あるいは赤子やや成長して乳養を廃するに当たり、従来の習慣すなわち乳を与うる習慣を変ずるによりて、精神上にいくぶんか変動をきたすことあり。要するに、以上に列挙せしがごとく、懐妊のためにきたるところの精神上の変態は、分娩の前後によりておのずから差違あり。また、出産の後においても、出産の当時と乳養のときとに多少の相違ありといえども、みな肉体上より及ぼせる精神の錯乱なることは疑うべきにあらず。

 また、アルコールの毒によりて起こす精神の異状、およびマラリア瘴気のために起こす精神錯乱等のごときも、また肉体上より影響する精神病の一種にして、酒に酔うときはその挙動ならびにその精神状態に異状を現すは、なにびともみな知れるところなるが、その大酔の状態は言語に規律なくして意義通ぜず、その動作粗暴にわたりて、すこしも狂人に異なるところなし。ただし、かかる状態は酔いのさむるに従いて消滅するをもって、世人はこれを狂人と見なさざれども、もし絶えず酒を用いて全身常に酒に浸せるがごときまで過用するときは、ついには身体、精神ともにその常態を失い、平日といえどもなお多少の異状を継続するに至るべし。また、マラリア熱あるいはその他の熱病を患うる者は、その影響精神に及び、種々の幻象、妄象を現じ、あたかも夢中にあるがごとき状を呈することも、人のみな知れるところなれば、ここに詳説するを要せず。また、北部イタリアおよびフランス南部地方に流行するペラグラ(Pellagra)と称する一種の疾病は、精神の錯乱を誘起するものにして、この病のために精神の錯乱したる者は大抵鬱憂性にして、往々自殺を企つることあり。かつ、この病にかかるときは皮膚にはなはだしき熱を感ずるより、全身火中にありてやかるるがごとき妄象を起こし、水中に投じて自殺せんとするもの少なからず。また、この病のために全身麻痺して意識の障害をきたす者もありという。

 このほかに舞踏病と名付くる一種の疾病あり。この病もまた精神錯乱を誘起するものにして、その病状は手足の筋肉に痙攣をきたし、意力によりてその運動を制止することあたわず、始終あたかも舞踏するがごとき状態を現すを常とす。しかしてこの病は、七歳より十六、七歳に至るまでの女子に発すること最も多し。その原因は、あるいは遺伝によることあり、あるいは他の種々の病毒に出ずることありて、いったんこの病にかかるときは、ために精神上に錯乱をきたし、知力、意力ともにその節を失い、ときに記憶の異状を呈し、したがって情の錯乱を起こす。また、あるいは種々の妄覚を起こし、朋友、親戚、悪魔等の妄象を見ることあり。その他、中風症あるいは麻痺症等も、精神の昏迷、失神を誘起することあり。その麻痺症につきては種々の類あれども、そは医家の研究に属すべきものにして、予輩の関するところにあらざれば、ここにいちいちこれを詳論せず。ただ、ここに肉体上よりきたる精神病の一種として示さんとするところのものは、その麻痺症により精神錯乱を起こししものにして、これを麻痺狂という。ゆえに麻痺狂とは、全身麻痺の徴候を有し、加うるに精神の錯乱せし患者なり。さらに別言せば、麻痺に失神を兼ねたるものこれなり。この類の精神病は医家の説によるに、政治家のごとき過度に脳髄を使用する者、あるいは過度の労役に従事する者に発すること多く、ときとしては頭部の傷害あるいは幼時の脳病等がこの病の原因となることあり。しかして、その徴候は主として記憶力の減少にあり。かの繁劇なる政治家等が平素些細のことを忘失し、書柬を置きし所、金銭を納め置きし所などを忘るるがごときは、すなわちこの症のやや軽きものなり。かかる状態久しく継続するときは、病勢次第に増進して、ついには精神そのものの破壊を見るに至るべし。しかのみならず、この疾病は言語上、歩行上にも障害をきたし、従来能弁なりし者も、ために吶弁になり、足部の筋力著しく衰弱して正しく歩行することあたわず、ややもすれば蹉跌するに至る。また、ある患者にありては癲癇のごとき発作をなし、精神にわかに麻痺して失神し、あるいは記憶力ほとんど全く衰滅して自他の弁別を忘れ、他人の物を盗み取りて、自らその物の他人の所有なるを知らざるに至ることありという。

 また、別に身体上には疾病の徴候なきも、老衰するときは精神上に変状を起こし、麻痺よりきたる精神錯乱とすこぶる相似たる徴候を現すことあり。これ、いわゆる老耋病と名付くるものなるべし。また、別に狂犬病と名付くる一種の疾病あり。この病は狂犬の毒より感受する一種の伝染病なればこの名あるなり。しかれども、その毒ひとり犬にのみ存するに限らず、ときとしては猫、狐等にもこの毒を発し、それより人に伝わることありて、その患者は水を見るときは大いに恐怖するをもって恐水病とも名付く。かつ、この病にかかれる者においては、精神上にも変態を呈するをもって、また肉体上よりきたる精神病の一種に加えざるべからず。以上列挙せしものの外になおこの類に属すべき精神病あまたあるべけれど、そは医家の研究に譲りて今はこれを略す。かつ、これら肉体上の疾病がなにゆえ精神上に変態をきたすかの問題も、元来医家のもっぱら研究すべきものにして、解剖、生理、病理等の諸学によりて説明すべきことなれば、またここに論ずることをなさず。

 今、予がこれらの精神病に関して論じたるは、その原因全く肉体上に存すれども、その結果は知情意に変状を起こさしむるに至るによる。しかして、心理上より知情意の上に変態を起こす事情を説明することは、予が上に精神病を二種に大別せしうち、精神上より起こるものに属する問題なり。


       第一三節 知力狂

 それ心理学上に関する精神病に種々ありといえども、これを大別せば知力狂、意志狂、感情狂の三種となすことを得べし。そのうちまず知力狂を説明せんに、この狂は知力作用の錯乱によりて発するものにして、知力作用の中には感覚もあり知覚もあり、その他再想、構想、概念、断定、推理等の種類ありて、第一に感覚、知覚の幻妄すなわち幻覚、妄覚を論ずるが順序なれども、このことは別に「心理学部門」中、心象編において詳論すべければここにはこれを略し、ただちに想像、推理等の錯乱せる状態につきて論ずべし。しかるに知力作用は吾人の心中において、常に他の情意二作用と連結しておこり、決して相離るるものにあらざれば、知力の錯乱は必ず情意の錯乱に伴い、情意の錯乱はまた必ず知力の錯乱に伴い、決して心の三作用中、いずれかの一つのみが錯乱して、他に影響を及ぼさざるがごときことあることなし。されば今、心理学上の精神病を知情意の三種に大別せしも、これら三作用中のいずれかの、主として錯乱せる状態をとりて分類の基礎とせしのみ。

 さて知力の錯乱にも種々あることなるが、仮にその極端をとりて小別するときは、躁性狂、鬱性狂の二種となすことを得べし。そのうちまず躁性知力狂の状態をいわんに、その特殊の徴候は不意に発作することにして、発作せし上は種々の点において常人に異なる状態を呈す。なかんずく大抵の患者に普通にしてかつ最も著しきは、自己の完全多能なることを信じ、他人に対して誇ることこれなり。しかれども、その発作の初期にありては、容易に狂人たることを弁ずべからず、ただ、ややその言の誇張にして傲慢の体に見ゆるのみ。かかる場合には、専門の医師にあらずば、なんぞよくこれを診断することを得ん。常人の目には、その言語といい思想といい、別段連絡を欠けることなきがごとく見ゆるれど、専門家の注意によらば、その思想のなんとなく静止せずして、しきりに移り行く傾きを有し、皮膚乾燥して眼光鋭く、言語やや急促なる等の諸点が、常人に異なることを見出だすに難からざるなり。これ、ただその初期の徴候なるが、ようやく重きを加うるときは幻覚、妄覚をなし、あたかも夢中にあるがごとき状態を示すに至る。今その実例を挙げんに、某所にある職工あり。やや精神病の気味ありて、最初の間はなんとなく自己の技能を自負する風に見え、その言語といい挙動といい、わが技は天下独歩にして、一人のよく肩を比するものなしと思惟せるもののごとし。そののち病勢ようやく加わるに及びては、われはよくかつて生存せし有名なる職工と交通し、よってもってその術の奥義を伝えられたりといいふらし、その容貌は常に大満足の体にて、喜色面にあふれ意気揚々たりき。しかれども、かつて他人を傷害することなく、また、はなはだしく狂院に閉居せしめらるることを嫌いたりという。もっともこの種の患者にありては、発病の最初より幻覚、妄覚を見るものと、しからざるものとの二種ありて、この職工のごときはむしろ後種に属するものというべし。

 さらに他の実例を挙げんに、某所に一女子あり。十八歳のとき軽き精神病にかかり、数週間引き続きて精神激昂の兆候を示し、なんとなくさわぎたつるがごとき状ありしも、いまだ発狂の兆候というべきほどのものにあらざりしが、このときよりすでに幻覚、妄覚をなしたりしと見え、その母に語りて曰く、「神使きたりて、近日バージンマリア(ヤソの母)、なんじを訪問せらるるならん。よって、今より相当の準備をなして待つべしと告げたり」と。これより日々その準備に忙わしく、諸方の高僧、僧正等のもとへはそれぞれ案内状を発し、近日バージンマリアがわらわを訪問せらるるときには、必ず出席せられたき旨をいいおくれり。しかれども、その時をばあらかじめ知ることを得ず。すなわち、天使もマリアはいつきたるか知れざれば、常に用意を怠るべからずといえりとて、常に衣服を脱することなく、寝床にありてもすべての装飾をその身より離さず、かつ最も美麗なる服をそのそばに置き、マリアきたらばただちにこれを着するに不自由なきようにして待ちいたりしが、その後間もなく回復せりという。これすなわち、最初より妄覚、幻覚ありし例なり。

 また、某所のある患者は、己がスウェーデンのチャールスニ世なることを自信したり。しかれども、妄覚、幻象を見るがごときことは絶えてなかりき。また、フランスのある婦人は年三十六歳にしてこの病にかかり、自ら他人に告げて曰く、「わが父はルイ・ナポレオンにして、わが母はクイーン・ヴィクトリアの娘なるアントワネットなり」と。しかしてかの婦人は常に自らおもえらく、「ニューヨークに至らば数千万金を得ることあらん。しかして、かの地の商賈はみなわれに種々の贈り物をなし、太陽および太陰はわれのそばにくだりきたりて同伴し、かつわが威徳を敬するため、一種特別の光を放ちてわれを照らすならん」と。また、某所のある患者は自ら帝王なりと想像し、実に抱腹にたえざる装飾をなして人に示し、さらに異とせざりき。また、ある所には己の皮膚の色、極めてくろきをかえって最も白しと想像し、自ら北極の王なりと称せし患者ありたり。また、宗教信者にして発狂したる者の中には、われは神なりキリストなり、著名なる聖者なり預言者なり、あるいは神より特に遣わされたる宣教師にして、神意を人間に伝うる者なり等と信ずる者少なからず。この種の患者、もし婦人なるときは、われはバージンマリアなり、あるいはキリストの妻にして、第二の神子を産まんためにこの世に出でし者なり、と想像するを通例とす。これらはいずれも妄想の作用にして、心理上より見るときは想像作用の変態に過ぎず。ゆえに、かくのごとき患者は、これを妄想狂と名付く。

 妄想狂は知力作用中の再想、現想の上に障害を受けしものなれば、知力狂に属することもとよりいうまでもなく、また躁性狂の一種なり。それ、躁性狂は概して想像作用いたって過敏にして、一観念より他観念に移り行くことすこぶるはやく、あるいはたちまち新想像をなすかと思えば、またたちまち旧想像に復し、暫時の間に想像の変更すこぶる頻繁なるものなるが、妄想狂はすべてこれらの症候を有せり。かつ妄想狂の患者にありては、ただにその想像が一観念より他観念に移ること急促なるのみならず、あるいは人力にて到底なすべからざることをもよく自らなさるることと信じ、言語、挙動すべて自負傲慢の状を示し、あたかも傍若無人の風に見え、他人を軽蔑することはなはだしく、ついに、太平洋に鉄橋を架し、不二〔富士〕山頂より上天する等のことを、実際になさるるものと想像するに至る。すでにこれらのことをなさるるものと自信せる上は、他人に向かいてこれを説き示し、もしこれに反対するものあるときは、百方弁明してあくまでこれを信ぜしめんとするなり。かくのごとき患者にして、種々の幻覚、妄覚を生ずるときは、あるいはわれは神に会せりとか、または亡者に会せりとか公言して、少しも自らあやしまざるべし。また、この種の患者は自尊自負の風あるをもって、大金を他人に与え、あるいは己の所持せる物品を他人に与えて、さらに惜しまざるを通例とす。されば、この類の病症は精神の興奮によりて発するものにして、抑鬱狂の反対なれば興奮性の狂といわざるべからず。これ、この狂が躁性狂の一種に属するゆえんなり。これをもって、躁性狂と抑鬱狂との間には互いに連絡ありて、抑鬱の反動より躁性狂を誘起すること最も多し。

 ただしこの中には、単にその言語、挙動傲慢にして少時も静止することあたわず、諸方を飛び回り、器物を破壊してさらにかえりみず、かえってこれを快とするにとどまるものと、なお進みて人力の及ばざることをもよくなさるるように信じ、その他種々の大妄想をいだくものとの二種あり。その前者は、すなわち普通の躁性狂にして、その後者は、すなわち躁性の一層その度を高めたる妄想狂なり。かくこれを二種に分かつといえども、二者の間に明らかなる分界あるにあらず、ただ軽重、前後の別のみ。しかして、妄想狂は想像作用の障害を受けたるものというといえども、単に想像作用のみならず、同時にまた意志および推理の作用にも障害を受けおるなり。なんとなれば、いかに精神過敏にして想像の遷移急促なるも、意志の力強くしてよくこれを制するを得ば、決してはなはだしく不都合なる妄想をえがくに至らざるべきに、事実に合せざる想像起こるとも、さらにこれを制することあたわず、全くその自然に放任し、また道理上不都合なることを想像して、さらに不合理なるに気付かざればなり。

 このほかにまた、妄想狂に連絡するものにして、道理狂あるいは理性狂と称するものあり。これは、主として判断および推理の作用が障害せられしよりおこるものにして、知力狂中主要なるものというべし。前の妄想狂においても多少推理、断定に障害を受け、判然たる誤謬をかつて誤謬と気付かざることあれば、この点はすこぶるこの理性狂に類すといえども、理性狂は妄想像をおこすことなく、単に断定、推理の点、すなわちいわゆる論理の点においてのみ誤謬を生ずるものなれば、明らかに妄想狂と区別することを得べし。今その実例二、三を挙げんに、某患者は鉛をもって、水面に浮かぶものにしてコルクよりも一層軽きものと信じ、それよりこれをもっ浮きぶくろを造らば、水中に浮かぶに従来のものよりは一層便利ならんとの推測をなし、常に自らこれを実験せんと欲せしが、一日汽船に乗じて航海中、突然水中に飛び込みついに一命を失えり。けだし患者の意は、自家の考案を実験せんとしてここに至りしものならん。そのことは出帆の際、患者が妻子のもとへ送りし書柬の意によりて推知することを得べし。すなわち、その書の意に曰く、「わが考案にかかる浮きぶくろにして幸いに成功せば、その専売権を他人に売却して十万余金を得ること難からじ。しかるときは従来の負債はすべて弁償し、家内富裕に生活することを得ん、云云」と。これ、すなわち断定、推理の錯乱より生じたる狂態なり。また、ある狂人は、ある方法によらばよく男女の性を変じ、男を女となし、女を男となすことを得べしと信じ、自身もその方にて女となれりと思惟して、婦人の服を着し婦人の挙動をして自ら異とせざりき。これに反して、ある婦人は自ら男子なりと信じ、常に男装をなしたりという。また、ある婦人は男女の別を、もって子を産むと産まざるとの点にありと信じ、いやしくも子を産まざるものは、たといその形は女子なりともその実男子なり、われもまたかつて子を産みしことなければ、男子たることもちろんなりと考えたり。また、ある狂人は己の手がガラスよりできたるものと信じ、常にもし過ちて他物に触れなば破壊するならんと恐れたり。また、ある狂人は己の歯は真珠より成れるものと信じ、他人の盗み去らんことを恐れ、口を開くことを慎めり。その他、これに類する例、枚挙にいとまあらず。

 ただし、これらの精神病者といえども、全く論理作用を欠くるにあらず、必ず多少その作用を有せり。ただその常人に異なるは、推理の標準を異にせるまでなり。これをもって、常人より見てもって狂人の推理を誤謬なりとすると同じく、狂人はかえって常人の推理を誤謬なりと思惟するに相違なし。これを要するに、常人にありては脳中の各観念互いに公平平等の連合をなし、これによりて推理するも、狂人にありては精神錯乱のため、ある一種もしくは一部の観念のみはげしく働きて脳中に不平均を生じ、したがって自己の中心、その本位を失うに至る。ゆえに、前に掲げし数例のごとき不合理なる推測をなして、しかも自ら悟らざるなり。

 つぎに鬱性知力狂を述べんに、これはまさしく躁性知力狂に反し、その心気の抑鬱を帯び、しかも知力作用の異常錯乱をきたしたるものに与うる名にして、その原因は多く沈鬱、悲哀等の事情より発するものとす。もしその状態をいわば、心中常に妄想、迷見を生じて精神ために異常を起こし、一般に進取の気象を欠きて常に退守の風を呈す。しかれども、ときとしては精神非常に激昂し暴行をなすこともあり。とにかく、この種の患者にありてはなにごとも不安に思い、常に周囲の人を疑いて、その己を害せんことを恐れ、あるいはその己の財産を奪わんことを恐れ、朋友、親戚に対してすらその信義なきをうらみ、社会人情の浮薄なるを憤り、それがため種々の妄想を起こし、他人の相対して語るを見るときは、それをもってただちに己を害せんことを謀るものとなし、はなはだしきは自家の奴婢までも己を害せんとするものと考え、あるいは魔法を行いて己を苦しめんとする者ありと考うるに至る。これをもって、かかる患者は絶えず憂苦に沈み、あるいは終日無言にて一室に黙座し、あるいは苦悶にたえざるがごとき状をなすことあり。患者当時の心中を察するに、ひたすら憂苦を除かんとすれども、さらにまた他の憂苦を呼び起こし、妄想に妄想を重ねて不快、不安にたえざるものならん。

 先年、長塩某氏この種の症にかかられしことあり。同氏のいわれしところによるに、空中に常に声ありとていわゆる妄聴を発し、これがために種々の妄想を起こし、心中常に憂悶にたえざるがごとき状あり。しかして自らおもえらく、「これ隣家の者、予を害せんとして魔法を修するによるものにして、予は実にこれがために日々苦めらるるなり」と。かくのごとく、鬱性症にも往々幻覚、妄覚を生ずるものあり。また、ある患者は世間に己を害せんとするものありて毒薬の製造に汲々たりと想像し、その臭気現にわが鼻に感ずといえり。また、ある患者は鬱憂のため夜中安眠することあたわず、あるとき恐ろしき妄象を見、父の室に至りて救助を請いしことありたりという。また、ある婦人は鬱憂症にかかり、一日まさに食事をなさんとしてまずコーヒーを飲みかけしが、いかにしたりけん、急にこれを吐き出だし、この中には毒薬ありとて決して再びこれを飲まず。その後は常に味覚、聴覚ならびに視覚の上に毒薬の幻覚、妄覚を生じ、人ありていかほどさることなきゆえんを弁明すとも、すこしもこれをきき入れざりき。かくのごとく、鬱性狂患者は往々種々の妄覚を起こすことあれども、特に幻聴、妄聴を起こす者最も多しとなす。すなわちある患者は、僧侶らが相会して己を地獄に落とさんと、しきりに神に祈願する声を聞くといえり。また患者によりては、自己は大悪無道にしてかつて国家の大禁を犯せり、ゆえに早晩刑に処せられざるべからずと信ずる者あり。また、あるいは己を罰するため鬼きたりて、まさに己を地獄に伴わんとすと考え、あるいは自らその病源を考えて狐狸の憑付なりと信じ、あるいは電気の作用、すなわちいわゆる動物電気の作用なりと信じ、人に向かいてこれを哀訴し、またはしきりに涕泣してやまざる者あり。

 さてまた、鬱性狂は通例苦痛を有するものなれども、ときとしては不苦不楽にして、さらに情の発動なく、ただ知力の上に抑鬱の兆候を現ずるに過ぎざるものもあり。また、鬱性患者の中には、みだりに物を厭忌する風ある者あり。例えば食物を厭忌し、いかなる食物の中にもみな毒ありとて、決してこれを用いず、自ら餓死を待つがごときこれなり。あるいはまた、はなはだしく言語を発する.」とを嫌い、無言に黙座してあたかも啞のごとき者あり。かくのごとき患者にありては、ぜひとも言語を用いざるべからざる場合には筆をもって紙に書し、もってわずかに用を弁ずるを常とす。こは患者が、四面に見るべからざる敵ありて己の隙をうかがう、しかしてその敵は目をもって物を見る力を有せざるも、その耳の力は非常に鋭敏にして、すこぶる微細なる音響といえども、よくこれを聴取すと信ずるをもってなり。これをもって、そのはなはだしき者に至りては、筆にて紙上に文字を書くことすらいとえり。そのゆえは、筆にて文字を書するには、いかほど静かに筆を運ぶとも必ず多少の音響を発すべし、しかるときは外敵その音響によりてその意を知ると信ずればなり。

 しかして、鬱性狂のはなはだしき者は、ついに自殺することあり。また、鬱性変じて躁性となり、その後再び鬱性に復するがごとき患者もありという。そもそも鬱性狂は躁性狂の反対にして、抑鬱ということは、吾人常人の間にも常に存することとす。しかれども、そはただ一時の発現のみ、またその度もさほど著しからず。もし一層その度を高め、かつその時間久しきにわたりて一種の痼疾となるときは、鬱性狂となるなり。しかして、鬱性知力狂というものは、主として知力作用の上に異常を呈するものにして、大抵推理、判断に誤謬をなし、論理の過失に陥り、しかも自らこれを論理に合すと信ずるをもって、他人いかほどその誤謬なることを弁明すとも決して服することなく、したがって種々の妄想、迷見をひき起こし、しかもこれを合理の見解と信ずるなり。これ実に知力狂と名付けらるるゆえんなるが、そのはなはだしきに至りては、往々自殺または他殺を企つることあれども、その挙動は大抵不意になすところのものにして、他人があらかじめこれを推知するに由なければ、事終わりて後、人みなその不意に驚くを通例とす。ただし、その自殺するとせざるとは、一つは遺伝によりて起こるといえども、また自然の感伝によりて生ずることあり。ゆえに、患者もし鬱憂に沈み悲哀にたえざるときに当たり、他人の自殺せしことを聞くがごときことあるときは、たちまちこれに誘われて、突然、自身もこれにならうに至る。あるいはまた、なんの意もなく街上を行き、たまたま吾妻橋もしくは摺鉢山の辺りに至れば、たちまち心中に自殺せんとする動機を発し、ただちに水に溺れまたは首を縊りて死することあり。これらはいずれも外部の些少の誘引によりて自殺するものなるが、あるいはまた種々の妄想のため、すなわち例えば、他人の己を害せんとすることを想像するため自殺を企て、あるいは自身は罪人にて、到底世に生存せらるべき望みなしと妄想するより自殺を企て、あるいは死して早く天堂に至り成仏せんとの願望よりこれをなし、あるいはこの世を不幸に感じ、いつまで生存するも到底快楽を望むべからずと信じてこれをなす者あり。

 かつ、この種の患者はただに自殺を企つることあるのみならず、また他殺をはかることもあり。その他殺をなす者の中には、自己の妄想、迷見より、心中に人を殺せと命ずるものあるがごとくに感じて、これを行う者あり。また、妻子眷族の艱難辛苦する状を見、早くこれを免れしめんとしてこれを殺すものあり。あるいは己の死せんことを欲して他人を殺し、それにより刑を受けんことを望みて行う者もあり。これを要するに、自殺、他殺いずれもみな、一種の妄想、迷見により生ずるものなること疑うべからず。別言せば、いずれも知力の迷誤、錯乱によりて生ずるものというべし。およそ知力狂はその鬱性なると躁性なるとを問わず、みな論理、思想の錯乱せるより生ずるものなるに相違なきも、情緒、意志のこれに加わらざるものほとんどまれなり。されば、知力のみに狂態を有するものとてはほとんどあらざるなり。かつ論理、思想に錯乱ありというも、毎事必ずしもしかるにはあらず。ある事件には誤謬、錯乱あるも、他のある事件には正当の推理力を有することあり。ゆえに、この種の患者中には言語、応答一つとして常人に異なることなきも、ただある一点の思想に連絡せる錯乱ありて、談たまたまこの点に至るときは、たちまち論理の誤謬を犯し、しかもそを誤謬と悟らざるものあり。かくのごとき患者にありては、これを狂人なりと判定することすこぶる難きものとす。

 このほか、なお種々の知力狂の実例あれども、その研究は精神病学専門家に属することにして、余輩浅学のあえて論ずべきところにあらず。かつ精神病に関する書籍にして、ヨーロッパにて印行せしものはずいぶんたくさんあれど、わが国にて印行せるものははなはだ少なく、ただわずかに江口〔襄〕氏の『精神病学』その他一、二あるのみ。ゆえに予は、江口氏の書とその他二、三の洋書とを参考して、ここに一、二の説明を与えたれども、もと予はその道に明らかなるものにあらざれば、その病態につきていちいちこれを評論することあたわず。期するところは、ただ心理学上、なにゆえにかかる知力の狂態を現すかを研究せんとするに過ぎず。けだし論理には、吾人常人が一般に用うるところのものと、狂人が各自に用うるところのものとの区別あるがごとし。されば、狂人の論ずるところ必ずしも非論理なるにあらず、ただ吾人の論理に合せざるのみ。しかいわば、吾人のみ正とし狂人のを不正とするは、全く前者は多数人の用うる論理にして、後者は少数人の用うるところなるがゆえによるかというに、決してしからず。そもそも論理、思想の発動する器官は脳髄にして、その脳髄の活動、平均して生ずるところの論理は実にまた公正にして、よく権衡を得たるものといわざるべからず。されば、脳髄の一部分活動すとも、他の部分に不平均あらんには、それより生ずるところの論理は、したがって不権衡、不平均のものなること明らかなり。しかるに今日のところにては、脳髄中にいかなる変動ありて、それがために精神上に狂態を呈するかはなお不明なるをもって、ただ想像上にこれを考うるに過ぎず。すなわち、精神健全なるときは通常の論理を生ずることを得れども、もしなにかの事情により、精神一部分に固着し、あるいはある一点に集まりて思想の権衡を失わしめ、または一部分の連合によりて諸観念より生ずるところの中心を変ずるに至るときは、その想像、推理等みな平常に異なる状を呈すべし。これ狂態の起こるゆえんなるか。

 もし、これを社会の組織に比していわんか。その平常無事の日にありては、社会よく権衡を得て中心点にその政府を見るも、一朝大変乱のおこることあらんには、中心の政府はたちまち転覆して、国の一隅に新政府組織せられ、新法令を制定するに至らん。しかれども、かくのごとき偏在の新中心は一社会全体の中心にあらざれば、その命令も決して一社会全体に及ぶことなし。ただ大変乱、大革命のために一時おこりしものなれば、これやや精神狂態の状に似たり。


       第一四節 感情狂

 知情意の各作用は互いに密着の関係を有し、決してその間に明らかなる限界を画することあたわざれども、しばらく前節において、おもに推理、判断等の作用に錯乱ありて、ために情意も多少変態を呈するに至りし諸例を挙げたれば、この節においては、これに対して、主として情緒の狂態より精神全体に変動を生ぜしものを述べんとす。およそ情は常人にありてもすこぶる制し難きものにして、いったん情火の炎々として燃え上がるや、知力、意志の水もよくこれを鎮むることを得ず。しかるを、いわんや狂人においてをや。狂人の情緒いったん錯乱して常態を失うに当たりては、知力も意志もこれに抗することあたわず、ひとり一、二の情緒のみその力をたくましくするにより、道理も道徳もさらに成立せざるなり。ゆえに、かくのごとき患者にありては、必ずしも推理、断定に錯乱あるに限らず。たといそれらの作用に異常なきも、情緒の力非常に強くして、容易にこれに抗し、これを制することあたわざるなり。かつ情の性、元来変化しやすきものなれば、この種の患者は大抵軽躁にして変じやすき風あり。しかれども、すでに狂態とする以上は、その情緒のもっぱら力をたくましくすること、ただ一時にてやむにあらず。その変態をながく継続せんとする傾きありて、通例、種々の情緒中の一種または二種の情のみが、もっぱら精神全体を支配し、それがため、他の諸作用はその力を現すことあたわざるに至るものとす。 さてこの種の患者中、最も多く見るところのものは高慢、虚飾を喜ぶ風これなり。こは人に元来有せる我情と名付くる一種の情が、ひとりその力をたくましくせしによる。平常人にありても往々、傲慢不遜にして虚飾を喜ぶ者あれども、その度はなはだしく強きに至らず。もしその度非常に強くなるときは、これを狂人として可なり。その例一、二を列挙せんに、ある患者は己の祖先につきて大いにほこり、わが祖先は帝王にして、われはすなわちその系統なりと思惟し、ひとり自らしか信ずるのみならず、公然他人に語りてもって自負せり(その実、帝王の系統にあらざりし者なり)。また、あるドイツの婦人は、その夫の功によりて爵位を得たりしに、その後は高慢の風をなし、無位無爵の者とともに食卓を同じくして会食することを恥辱とし、ついには無位無爵者とともに同一の家に住むことを恥辱となすに至りしことありたり。こは我情狂あるいは自負狂とてもいうべきものなるが、ここにまた情緒狂の一種に極めて吝嗇なるものあり。その例をいわんに、ある患者は家に千万円ばかりの財産を有し、実に希有の財産家なりしにもかかわらず、その性極めて吝嗇にして、三度の食事すらこれを惜しみ、ほとんど餓死せんとするに至りしことあり。されば、かつて僕婢を雇うことをなさず、かくのごとき者に俸給を与うるは無用の浪費なりと信じ、厘毛の小金といえども、ただ費やさざらんことをこれつとめ、自分の靴を磨かすことすらなさざりきという。その意、けだしこれを磨かしめば多少その質をすりへらし、したがって早く損する憂いありと信ぜしもののごとし。この人、一日馬に蹴られて足に大傷を受けしが、医薬の料を惜しみてかつて医師に治療を請うことなく、ついに足のまさに腐敗せんとするまでに至りしことあり。その平素用いしところの食物は、実に犬馬の食物にも及ばざるほどの粗食なりきという。世に吝嗇家多しといえども、かくのごとくはなはだしきに至りては、実に吝嗇狂のはなはだしきものといわざるべからず。

 また、情狂の他の一種に愛憐、慈悲に偏するものあり。こは吝嗇狂の反対にして、慈悲救助の行為は道徳上実に称揚すべきことなれども、それがために己の分をも量らず、妻子、春族の餓死に至るをもかえりみずして、ただ他人を救助することをのみ、これ事とするに至りては、国家危急の日は格別なれども、平時にありては決して徳義のよろしきを得たるものというべからず。しかれども、かくのごとき人は容易に得べからざるものなれば、慈善を奨励するためには、むしろかかる極端に至るように勧誘するもまた可ならんか。また、ある患者は嫉妬に偏するあり。こは嫉妬狂と名付けて可ならん。以上に述べし諸種の狂者は、いずれも情狂中のあしきものなるが、ここにまた、さほどあしきものにあらざる一種の情緒狂あり。すなわち、みだりに泣き、またはみだりに笑う者これなり。酒客には笑い上戸と泣き上戸とあること、だれも知れるところなるが、狂人にもまたこれと同様にこの二種あり。かのギリシアの七賢人中には、いまだ狂人というまでにはあらざるも、ややこれに近き性を有せし人ありたり。すなわち、ヘラクレイトスは人を見るごとに必ず涕泣せり。ゆえに、世人はこれを泣儒と呼べりという。また、デモクリトスはこれに反し、人を見るごとに必ず笑えり。ゆえに、世人はこれを笑儒と呼べりという。たといそれらの人は有名なる学者なるにもせよ、かくのごとき癖を有する以上は、狂人に近きものといわざるべからず。その他にもなお憤怒狂あり、あるいは恐怖狂あり。これらの患者が有せるところの癖は、みな吾人常人にありても多少有せざることなし。ただ狂人にありては、その度の中庸を失し、かつその性質久しく継続するを異となすのみ。以上の諸狂中には、道徳上に害あるものもまた害なきものもあれども、いまだこれを名付けて道徳狂とするに至らず。

 しかるに、ここに同じく情緒狂に属するもの中に道徳狂と名付くべきものあり。この種の狂者は知力狂の方にもなきにあらざれども、そは主として推理、判断等の錯乱、もしくは生来善悪を弁別する力を欠きたるより起こるものにして、情緒に基づける道徳狂の、情の錯乱より起こりて不正不義の行為をなすに至るものとはおのずから別なり。今、情緒上の道徳狂を論ぜんに、その一種を博奕狂という。それ常人の博奕を好むは、一挙して大金を攫取せんとの大欲心に基づくものなれども、博奕狂の患者にありては、単に博奕そのものをもって無上の快楽となし、利欲のことは全く顧みざるところにして、その情いったん発動するときは、いかほど自家の損耗あることの予知せらるる場合といえども、到底これを制止することあたわざるものをいう。世には往々相応の知識ありて、物の道理に暗からざる人にして非常に博奕を好み、自らその不正なることを知りながら、その情を禁制することあたわざる者あり。かくのごときは、もはや情の常態を失えるものにして、これを博奕狂として可なり。また、情緒的道徳狂の他の一種に窃盗狂と称するものあり。世間窃盗をなすもの多しといえども、いずれも他人の財産物品を盗みて、もって自家を利せんとするものならざるはなし。これらははじめより利害得失を計量してなすものなれば、いまだ、にわかにこれを目して狂人となすべからず。しかるに窃盗狂の患者は、決して他人の物を盗み、それによりて自家を利せんと図るものにあらず。ゆえに、自己の家には相応の財産を有する者にても、なお他人の物を盗むをもって無上の快楽とし、いかにするもその情を制することあたわざるなり。西洋の都会にては、往々相応の財産を有し、身、貴女の地位にある者にして、他人の物品を窃取し、自らその情を制することあたわず、ただこれをもって無上の快事となす者ありという。現にある貴女のごときは、毎度他人の物品を窃取し、しかもそを自ら使用するにあらず、盗みたる物品はことごとく闇室中の一函の中にいれおけりとぞ。かくのごときは利欲に基づくにあらず、窃盗そのことがこの上もなき愉快とせらるるものといわざるべからず。

 また、情緒的道徳狂の一種に、好みて殺害を行うものあり。自殺狂、他殺狂のごときすなわちこれなり。この二者は知力狂の中にもあれど、また情緒の上にもあるなり。ある一婦人はこの種の症にかかり、その子を殺さんと欲する情、発動して、いかほどこれを制せんとするも得ざりしが、一夜深更に及びてこの情、急に激発し、それがため静止して眠りに就くことあたわず、ついに突然蹶起して寝室を出でて、小児の眠れる一室に至りてその子を殺せりという。これ実に一時の情緒の激発によるものにして、他殺狂の一例というべし。自殺狂もまたかくのごとき情緒の激発に基づくものにして、今はその例を略す。これらのほかに別に放火狂というものあり。これまた情緒的道徳狂の一種にして、世には放火をなす者多しといえども、そはみな必ず目的ありてなすものなり。すなわち、あるいは己のうらみを報ずるためにか、あるいはこれによりて他人の物品を盗まんと欲してなすものにして、決してむやみになすものにあらず。しかるに放火狂の患者にありては、別にこれという目的あるにあらず。放火そのものをもって無上の快楽となし、いったんその動機心中に動くときは、いかにするも自らこれを禁ずることあたわず、自家に寸毫の利益だになき場合にも、みだりにこれをなして、衆人の驚きあわてて狼狽奔走するを見て、もって自ら愉快となすなり。あにこれを情の常態を得たるものというを得んや。また、かの色狂と称するものも情緒的道徳狂の一種なるが、この種の患者にありては色欲あるいは色情のひとりその力をたくましくして、到底これを制することあたわざるより、種々の不正の淫事をなすに至るものにして、婦人女子を見れば、そのなにびとたるを問わずただちにこれをとらえ、あえて強姦、暴婬を行わんとするを常とす。

 以上掲げし諸狂のごときは、いわゆる凶悪暴行性にして、道徳上の大罪人たるこというまでもなきことなれど、すでに狂者なる上は、またいかんともすべからざるなり。もしそれ是非曲直を弁別する力を有し、良心の作用欠くるところあるにあらざるにもかかわらず、世人の目を逃れ法律の網をくぐりて、ただ私利私欲のためにかくのごとき行為をなすものに至りては、天地もいれざる大悪といわざるべからず。狂者にありては、これと同一に論ずべからざるものあり。なんとなれば、もとより定まれる目的を有せるにあらず、また利害を弁別する力も欠け、ただ一時の発情のためにこれを行うに至るものにして、いったんこれを犯せし後にもかつて悔悟することもなく、また良心の己を責むることもなく、自ら実に当然のこととなすものなればなり。されば、その行為は不正不徳のはなはだしきものなりといえども、法律上これを罰することあたわず、道徳上これをとがむることあたわず。ただかくのごとき者は、人間性を失いたる禽獣性のものとなすよりほかなきなり。ただしこれらの狂者中には、生来是非善悪を弁別する力を欠きたるものと、またその力あるもいたって微弱にして、いったん悪情激発するときは、到底これに抗し、これを制することあたわざるものとの二種あり。しかして、その全く良心弁別の力を欠けるものを称して白痴という。しかれども、その果たして真の白痴なりやいなやを識別することは容易の業にあらず。また、知力的道徳〔狂〕と情緒的道徳狂との間に明らかなる区別をなすことも、またすこぶる困難のことなり。なんとなれば、大抵の狂人は、この二者すなわち知情の二作用ともに多少錯乱して、その常態を失するものなればなり。

 情緒狂の一種に鬱憂狂あり。これに単性と複性との二類ありて、単に情緒のみに変動ありて他の作用の加わらざるものを単性といい、ただに情緒に変動あるのみならず、他の作用にも変動ありて種々の妄覚、妄想を発し、あるいは論理の誤謬をなすものを複性という。単性鬱憂狂は、常人にありてしばしば見るところの鬱憂が、ようやくその度を高むるによりて生ずるものにして、その原因は人に鬱憂、苦痛を与うるものより生じ、すでにその原因消失し去るもなおその鬱憂を精神の上に残し、ながくその状態を持続するに至る。すでにこの状態を現ずるときは、他人がいかほど親切を尽くすとも、患者はなおこれをもって不親切となし、社会一般の人は極めて薄情にして、かつ残忍なるものと観じ、社会または自己の眷族より離れて孤所独居せんことを欲し、なにごともみな不快に感じ、したがって苦痛を与うる原因とならざるはなく、現在はもとより未来死後までもすべて苦痛の世界にして、百鬼われを苦しめんため、わが死を待つもののごとく思惟す。されば、この種の患者は現世の苦を逃れんがためには死するよりほかなきも、死後にもまたさらに一層大なる苦痛あらんと想像するをもって、いまだにわかに死すべからず、実に進退これきわまる状態にあるものというべし。かつまたこの種の患者は、たとい生きて憂苦に沈まんよりは、むしろ死するにしかざることを知るとも、自殺するだけの勇気を有せず、これけだし知力も意力も大いにその力を減じ、心理上の各作用、平均、権衡を失せるによるものならん。また、この症にかかるものは大抵安眠することあたわず、したがって種々の恐ろしき夢を見るを常とす。つぎに、複性鬱憂狂は情緒の錯乱のみならず、知力にも錯誤をきたし、種々の妄覚、妄想これに伴うありて、あるいは目前に魔物が現れきたり、己を誘いて地獄に引き入れんとするがごとく感じ、あるいはまた空中に一種の声ありて、自殺もしくは他殺を行わしめんと命令するがごとく感ずるを常とす。しかして、かくのごとき妄覚は、最初の間はただ夜中にのみこれを見るに過ぎざれども、病勢ようやく進むに従い、白昼もなおこれを見るに至る。

 また、鬱憂狂に連絡したるものにヒポコンデリー狂といえる症あり。これ、すなわち一種の鬱憂狂にして、この症に特有なる兆候は、自己の身心上の健康に関して常に一種の恐怖をいだき、ために憂苦を生ずるにあり。およそ人、疾病にかかるときはその平癒の期し難からんことを恐れ、憂悶のあまり精神常に抑鬱に沈み、不快に感ずるを常とすれども、常人にありてはその度いまだ狂態と名付くべきほどに達せず。もし、かかる状態一層その度を高むるときは、すなわちヒポコンデリー狂となるなり。この種の患者もまた種々の妄覚、妄想を生じ、特にその常に心頭にかけおる事件につきて妄覚をおこし、感覚すこぶる過敏にして些少の刺激をも過大に感じ、例えば身体の一部にわずかに痛みあるも、これを非常に大なる痛みなりと感ずるがごとし。その妄想をいだける患者にありては、あるいは腹中に大なる孔のあきたるを感じ、あるいは狐狸のごとき動物、自己の腹中にすめるがごとく考え、あるいは自己の身体の一部分はすでに全く死したるものとなし、あるいは己の胸膈中には常に火ありて燃ゆと想像せることあり。これ全く、有機感覚すなわち体覚の上に幻妄を生ぜしによる。しかして、この症はその発作緩漫にして、最初はわずかにその身体の健康を失したることを感ずるに過ぎざるが、これよりようやく進みては夜中安眠することあたわず、したがって種々の苦夢を見る。その食道に変状ありて消化作用異常を呈し、諸内臓もまたその作用の調節を失うに至りては、ついに一種の狂態を呈す。これを要するに、この症は身体の健康、疾病を過度に苦慮するより生ずるものなり。また、この症とその類を同じくせる一種の狂態にヒステリーといえるものあり。ヒポコンデリーは男子に多く、ヒステリーは女子に多きをもって、従来は一つは男子のやまい、一つは女子のやまいと考えしものもありたれど、全くさる区別あるにあらず。これらの二症、いずれも男子にも女子にもある疾病なり。ヒステリーは知覚過敏にして刺激を誤認するより生ずるものにして、女子にありては子宮病などよりこの症を起こすこと多し。例えば子宮の慢性カタルを誤認して自ら懐妊となし、医師がいかほどその誤認なることを証明すとも、固く自ら信じて動かざるがごときをいう。また、ときにはヒポコンデリーのごとく種々の妄覚を起こし、あるいは腹中に魔物、妖怪が住息せりとなす者あり。狐憑き病、犬神病等は、多くはこの種の疾病にほかならず。今、左に江口〔襄〕氏の『精神病学』中より一節を抄出してこれを証せん。

    (前略)あるいは腸の蠕動器を誤認して腹中に蝮蛇を蔵すといい、あるいは心動を誤認して心窩あるいは胸腔に狐狸占居すといい、その錯知は患者の習俗開化および教育の度に従い千種万様にして、ほとんど枚挙すべからず。日本の狐憑き病、および犬神病はすなわちその一症なり。本症患者、己が仮定したる狐と対話するときは、自ら少しく音調を異にするはことに奇怪なり。

 狐憑き病、犬神病の婦人に多きは、全くヒステリー病等より生ずるがゆえならん。しかして、これらの患者が自己の身体中の一部分に奇異の感覚を有し、狐狸、犬神等がその所に占居せるように感ずるは、全く精神過敏となりて体覚上の些少の刺激を過大に感じ、よって有機性感覚の上に幻妄を生ずるによる。果たしてしからば、この点は妖怪学にて研究を要するところなり。その他また宗教信者などの中には、現に目に天使を見、耳に天楽を聴くがごとき種々の妄覚を有するものあり。しかれども、その詳細なることはその学専門の書に譲りて、ここにはこれを論ぜざるべし。

 以上述べしヒポコンデリー狂およびヒステリー狂は、ともに肉体上より発するものなれども、なお鬱憂狂とややその性質を同じくするをもって、情緒狂の一種としてここにこれを論ぜしなり。


       第一五節 意志狂

 ある説によれば、精神病は知および情の上においてこそあるべけれ、決して意の上にあるべきものにあらず。なんとなれば、意は知および情に基づきて作用を呈するものにして、別に意志のみの狂態を現すことなければなりといえり。しかれども実際上につきてこれを考うるに、知および情に関係せずして意志のみ狂態を現す場合、かつてなきにあらず。これ予がこの節において、特に意志狂を論ぜんと欲するゆえんなり。今、意志狂の性質をいわんに、知の上に一定の思想あるにあらず、また情の上に一定の苦楽あるにあらず、ただ意志のみ突然発動して狂態を現ずるなり。ゆえにこの種の患者は外見上、知にも情にもさらに異状の見るべきものなく、しかも意志の衝動によりて突然暴行をなし、自らこれを制せんとするもあたわざるを常とす。かくのごとき実例は吾人のしばしば実験するところにして、すなわち、ある患者は騎馬にてある所へ行きし際、途上にて同じく騎馬にてきたれる人に会い、たちまち馬より飛び下り他の馬にまたがれる人を引き下ろし、鞭にてこれをむちうてりという。また、ある患者は炊事をなさんとして杯に火をもり、これを屋上におき、ために、まさに火災に及ばんとせしことあり。また、ある患者は園林中を遊歩してありしが、突然二童を殺ししことあり。これを要するに、かくのごとき暴行、悪事は、別に一定の思想ありて行いしにあらず、また妄想、迷見によりて行いしにもあらず、また自らこれを無上の快楽として行いしにもあらず。ただ、一時の意志の衝動より自らこれを制することあたわず、盲目無識的にこれを行わざるを得ざるによりてなしたるものなれば、一時の後は、自らそのなんのために、かくのごときことをなししかを知らず。しからばすなわち、これを知力狂とするはもとより不可なり。さればとて情緒狂にもあらざれば、意志狂とするよりほかなきなり。

 この症の発作はすこぶる急激にして、明らかになんの原因によりて起こるかをつまびらかにすることあたわずといえども、思うに、その当時精神上に急に異状をきたし、なにか不明の原因ありて己を刺激し暴行を命令するがごとくに感じ、その命令に抗することあたわずして、ついに暴行をなすに至るものならん。その他の諸狂がなすところの暴行に同じからざるは、知力、思想の状態に錯乱あるにあらず、したがって妄覚、妄想を有せざるにあり。しかして意志狂患者のなすところの暴行は、殺害、放火、窃盗等を通例とす。また、上にいいしものに反対せる一種の意志狂あり。そはすなわち、意志麻痺するかまた微弱なるため、その力を全うすることあたわざるものをいう。例えば、一事をなさんとして数時間これを考えしかもなお決せず、あるいは数日を経てなおこれを実行することあたわざるがごとき、意力の作用を呈せざるもののごときこれなり。かくのごときは常人にありても往々見るところなれども、常人のはわずかになにごとにも猶予逡巡して、これを行うにものうきぐらいにとどまり、いまだ狂態というに至らず。もしさらにその度を高むるときは、この種の意志狂となるなり。


       第一六節 複性狂

 以上においては、心理学上、知情意の分類に従い、精神病を知力狂、情緒狂、意志狂の三種に分かちて説明せしが、これらの三種は必ずしもその一種のみ単独に発するに限らず、多くの場合には相伴いて連起し、極めて複雑なるものなり。しばらくこれを三種とせしは、その性質の主要なるものにつきて分かちしなり。しかるにここにまた、これらの三種が複雑に錯合して、これを一種特別の狂と見るよりほかには従属せしむべきところなきものあり。これをここに複性狂と称す。されば、複性狂は知情意の三作用複合しておこりたる狂態にして、その実例すくなからずといえども、いちいちこれを列挙して説明することは、専門家の研究に譲りてここに贅せず。かつその異常の状態も、上に述べし三種の狂態よりほぼ推測せらるべければ、ここにさらに詳述せざるべし。ただこの節においては定時狂、回帰狂の二種につきて一言し、もって複性狂を結ばんと欲す。

 まず定時狂とは、前に掲げし躁性狂および鬱性狂が、ときどきその時を定めて発作する症にして、その発作の継続する時間は、あるいは数週にわたり、あるいは数月にわたることあり。その時間の長短一定ならずといえども、いったんこの症の発作するときは突然種々の暴行をなし、あるいは物を破壊し、あるいは人を殺害するを常とす。ときとしては発作せんとするにさきだちて、患者自ら感覚上にその発作を予知することあり。しかして、その発作しおらざるときは決して暴行をなすことなしといえども、精神作用、なんとなく常人に異なるところありて、一見、その精神病者たるを知るに足る。これ定時狂の症候なり。つぎに回帰狂とは、躁性狂と鬱性狂とが前後更代して発作するものの名にして、前時に鬱性狂を発作し、そのつぎに躁性狂を発し、さらにまた鬱性狂に変ずるがごときこれなり。この症にありては、鬱性の時期、躁性の時期より長きを通例とす。しかして、その発作の緩急強弱、時期により一定ならずという。その他、精神病につきて弁明すべき点すこぶる多しといえども、前にもしばしばいいしごとく、予はもとより医学を修めし者にあらず、その道の道理に暗き者なれば、これらの点につきての詳細なる弁明は、むしろこれを専門の士に譲るを可とす。

 予がここに論ぜんと欲するところは、ただ吾人の心界にいかなる変更あるときに、かくのごとき狂態を呈するに至るかという点これなり。今日の精神病専門家はこの理を説明するに、大抵生理学に基づくといえども、精神界の現象は生理上、実験の及ばざるところなるをもって、その理を知らんには必ず心理学によらざるべからず。かつまた心理学上にても、いちいちこれを実験に徴することは到底望むべからざることなれば、ある点においては想像、推理によるよりほかなきなり。ゆえに予は、ここに一種の想像を提出してこれを説明せんと欲す。ただしその説明の大略は、すでに総論ならびに心理学部門において論ぜしところなれども、今さらにその要点を摘記せんに、吾人の精神界は種々の観念相団合して成れること、あたかも衆多の人民相集まりて国家をなすがごとし。かくしてこれら諸観念の比較相対によりて、自然その間に一つの中心点、すなわち自己あるいはわれの本位を生ず。その状あたかも一国中に中央政府の起こるがごとし。もし精神全界の各観念活動して、その中心点一定不動なるときは、精神作用は平時の状態なるも、もしその精神界にある変動を生じ、したがって、中心移動してある一隅に新中心を生じ、ある一部の観念のみ非常に明瞭になりて、精神力をその点に凝集せしむること、一時にとどまらずして久しくその状態を継続するときは、ついに狂態となるなり。その状あたかも国家大革命の際、新政府の組織せられしに似たり。しかして、精神界にある変動をきたす原因には内外種々ありて、決して単純のものにあらず。されば、いちいちの変動につきその原因を明示することは、容易のことにあらずと知るべし。さてまた、かくのごとくいったん精神の権衡を失したる者といえども、再びそのもとに復し、自己の中心その本位に復するに至るときは、その作用決して常人と異なることなきものなり。その理は「総論」ならびに「心理学部門」を参考して知るべし。


       第一七節 精神病予防法

 精神病理は、今日にありてもなお十分に知ることあたわずといえども、心理学上の想像によりて多少これを証明するを得べし。その説明の大要は、すでに前節に述べたりしが、たとい十分ならずといえども、すでに多少その病理を証明することを得し上は、その治療法もおのずからこれを知ることを得べし。その治療法の詳細は、次講の療法編において述ぶべきはずなれば、ここにはただ精神病予防法の参考として、極めてその概略をいうにとどめん。よって今これを考うるに、予は疾病の治療法には、必ず内外諸種の法あるべしと信ず。すなわち、外部の治療はもっぱら生理、解剖等の学理に基づき医学的に施すものにして、内部の治療法は心理学ならびに哲学等の道理に基づき、内部すなわち精神の上よりするものとす。しかして、精神病は精神作用がその権衡を失しかつその中心を失いて、主としてある一部、あるいは一隅において、作用をたくましくするよりおこるものなれば、これを治療せんには、その中心の位置を元位に復せしめ、精神全体の権衡を得しむるにしかず。かつその病源は、内外の諸事情が精神に影響を及ぼししによるものなれば、これを常人の状態に復せしむるにも、また内外より精神上に一大変動を生ぜしめざるべからず。されば、医学上においてはすでに薬物を用いてこれを治療する法あれども、そはただ形体上よりするものにて、精神上のことにあらざれば、いまだ治療法の十全なるものというべからず。必ずこれに加う〔る〕に精神上よりする治療法、すなわち心理的療法なくばあるべからず。

 その心理的療法にありては、まず第一に、最初発狂せしむるに至りし原因、事情を探り、患者をして全くそれと関係を絶たしむることに注意せざるべからず。例えば、患者が従事せしある職業が発狂の原因となりしものならば、その職業と全く関係を絶たしむるがごときこれなり。第二には、患者の注意を、発狂の原因と全く関係なき他の事物の上に導くを可とす。ただし、そのことさらに注意せしめんとする事物は、大いに患者に興味を与うるものにして、それによりて患者は自ら発狂の原因、事情をうち忘るるに至るようのものたるを要す。第三には患者をして可及的その精神を静止せしむるように注意すべし。例えば静閑なる場所に幽居せしめ、激動せる精神を静止せしめ、よってその作用を旧に復せしむるがごときはその一法なるべし。第四に、患者の思想を精密ならしむるように導くことを怠るべからず。例えば、数学のごとき学を修めしめ、または種々の統計表を製せしむるがごときはその一法ならん。かくするときは思想おのずから精密になり、したがって多少精神作用を復旧せしむることを得べし。第五には、患者の思想を爽快ならしむるようにすべし。しかするには、気候よろしくを得、山水風光明媚の地にその精神を養わしむるにしかず。およそ疾病は精神病に限らず、いかなる症にも転地をもって治療の一助となすことを得べし。そのゆえ、他なし、一つはその疾病を発せし原因と関係を絶つにより、また一つにはその精神を爽快ならしむるによる。第六には、患者の思想をかなり広大ならしむるようにすべし。それ精神病は、多く小心にして常に小事に区々たる人に発するものなれば、なるべくその心を大ならしめ、つとめて小事に拘泥せざるように導かば、いくぶんか治療の功を助けん。かの禅学のごときは、この種の方法として大功あること疑いなし。なんとなれば、禅学はその心を放大ならしむる助けとなればなり。

 以上列挙せし諸点は、必ずしもすべての精神病者に一様に適するものにあらず。その病の性質とその人の資性ならびにその病原によりて、その中より相当のものを選ぶべし。要はただ、精神の一隅に偏して中心を失いしを、旧に復せしむるにあるなり。されば、下等社会にては、奇異の方法をもって精神病を治することあり。現に狐憑き病の治療法として伝えらるるものにも種々の奇方あることなるが、それらの奇方がしばしば奇功を奏するゆえんは、到底今日の医学上にて説明せらるるものにあらず、必ず心理学上の説明をまたざるべからず。心理的療法にありては、医学的療法のごとく薬物に依頼するものにあらずして、もっぱら信仰に依頼するものなれば、必ずしもその方法のいかんを論ずるに及ばず。ただ患者をして深くその方法を信ぜしむることを得ば、必ず治療の功を奏すべき理なり。しかるに、もし患者がその方法を特に己の病を治するためのものと知りて、そのことにのみ注意するときは、ついに治療の功なかるべし。なんとなれば、かくのごとき場合には、すでに己の病者たることを知りて、暫時もこれを忘るることなく、それがためかえってその疾病を助くる傾きあればなり。およそ疾病の治療には、まず自らその病を忘れしむるを要す。しかれども、自らその病を忘れんとするは容易にでき難きことなるをもって、外より自然にこれを忘れしむるようにせざるべからず。ゆえに信仰深き人は一事を信ずると同時に自己の病を忘れ、よって大いに治療の功を助くるなり。かの信仰の強弱により治療の功を奏するに遅速ある理も、またこれによりて知ることを得べし。今、左に図を掲げてその治療法の一斑を示さん。

 図は精神界を想像上にえがきしものにして、精神の中心、もし甲点にあるときは、全面よく平均を得て、その作用も常時の状態なれども、なにかの事情のため、もしその中心乙点に移るときは、精神作用、一隅に偏して病時の状態を現す。しかして中心を乙点より甲点に復せしめんには、必ずしも甲点に注意をひくを要せず。甲にも乙にも関係なき丙点に向かいて患者の注意をひくも、またその功を奏することを得べし。そのゆえは、元来、精神病は精神の一隅に思想の固着せしものなれば、これに変動を与えて、よく中心の位置を転ぜしむる機会を与えば、必ず自然にその元位に復すべければなり。しかるに、図において患者の注意を丙点にひかんには、これと同時に乙点を忘れしむるを要す。もしかくのごとくなさしむることあたわずして、丙点に注意せしむると同時に、なお乙点にも注意せしむるときは、決してその功を奏するものにあらず。これ、心理的療法に最も必要なるものを信仰となすゆえんなり。それ、信仰は精神を一点に会注せしむる作用されば、患者をして丙点に注意し同時に乙点を忘れしめんには、まずその丙点に確信をおかしめざるべからず。しかるに人は、大抵懐疑に傾きやすきものにして、容易にある事物を信仰する性質に乏し。特に久しく病床にある者をしてその病を忘れしむることは、すこぶる困難のこととす。加うるに、すでに精神病者となりし上は、大抵利害得失を弁ずる力を失い、そのはなはだしきに至りては、往々さらに他人の言を用いず、自己の欲するところ、これを行わんとするものなれば、この種の患者に上述の方法を施すこと最も困難とす。されば、精神病に関する精神的療法は、これを治療法として用いんよりは、むしろ予防法として用うるを可とす。くわしくいわば、いまだ疾病とならざる前、多少その兆候を見る場合に応用せば、その功著しかるべし。世にはいまだ精神病と名付くるほどのものにあらずして、多少その傾向を有するもの多し。かかる人は、もしその自然に任じ予防法を施さざるときは、あるいはついに純然たる精神病者となることあらん。かくのごとき者には予防法として心理的療法を施さば、よくその傾向を制するを得ん。これ、予がここにこの法を講じて精神病予防法となすゆえんなり。かつ予は数々この法を実験したり。すなわち、精神病の傾向ある者の、毎年余をたずねて、精神病の予防法を聞かんと欲するものすこぶる多きことなるが、予はつねにこの法にもとづきて試みしに、大抵その功を見たり。


       第一八節 髪切り病

 わが国古来、髪きりの怪談あり。これ実に奇怪なる現象なるが、今日の医家はこれを一種の疾病なりと診断せり。今、この事実を古書中にもとむるに、シナにもすでにかかる説ありし由にて、決してわが国にのみありしことにあらず。そは『宋書』『捜神記』等にその記事あるを見て知るべし。今『嬉遊笑覧』(巻八)によるに、左のごとく記せり。

   髪きり。『捜神記』(十八)に「老狐髡人髻」(老狐、人のもとどりをきる)とあり。「宋書竟陵王誕伝、中夜閑座、有赤光照室、見者莫不怪、慢左右侍直云云、睡既覚已失髻、如此者数十人。」(宋書『竟陵王誕伝』に、中夜間座するに赤光ありて室を照らす。見る者あやしまざるはなし。左右の侍直を慢す、云云。ねむりすでに覚むればすでにもとどりを失う。かくのごとくする者数十人)『秋坪新語』に、「甲午夏、忽伝有怪翦人辮髪、婦女割其衣底襟、一時驚喧、官捕無獲、久慙懈而妖亦絶。」(甲午の夏、たちまち伝う。怪ありて人の辮髪をきり、婦女はその衣底の襟をさき、一時驚喧す。官、捕獲なし。これを久しく慙懈し、妖もまた絶ゆ)『宝倉』に寛永十四年のころかとよ、髪切り虫といえる〔妖孼ありといいふらし、だれこそ一定きられたりといえる〕人はあらねど、かしこの後達、ここの腰もと下女までもおそれあえり、云云」

 また、『東京医学会雑誌』第四巻に掲げたる佐々木医学博士の報告中には、左のごとき事実あり。

   『宝倉』に、「寛永十四年のころかとよ、髪切り虫といえる妖孼ありといいふらし、だれこそ一定きられたりといえる人はあらねど、かしこの後達(女房ということか)、ここの腰もと下女までも恐れあり云云。そのこと日を重ね月をわたりていいやまざりつるに、いずくともなく呪いごとに、『異国より悪魔の風の吹きくるに、そこふきもとせ伊勢の神風』といえる歌を写しきたりて、門戸に張り、かんざしにまとえり。しかれどもなおいいやまざりけるに、またいずくともなく、髪切り虫はかみそりのは、はさみの手足、煎瓦(「ホウロク」のこと)の下にかくれりといいふらせり。かくてぞ、このもの打ち破りすてよといえるほどこそあれ、町々家々門前になげうち、道路にはふらかして、行きかう人もすこぶる足をそばだつに及べり、云云」

   『諸国咄』に、「明和八年、江戸中髪きりはやる。そのきられたるあと粘りていと臭きよしいえり。修験者ども多く吟味ありて獄に入る。そのうちに髪きりざたやみたり、云云」

 また、『諸国里人談』に左の一節あり。

   元禄のはじめ、夜中に往来の人の髪を切ることあり。男女ともに結いたるままにて元結い際より切りて、結いたる形にて土に落ちてありける。切られたる人、かつて覚えなく、いつきられたるというをしらず。このこと、国々にありけるうちに、伊勢の松阪に多し。江戸にても切られたる人あり。予がしれるは、紺屋町金物屋の下女、夜、物買いに行けるが、髪を切られたることいささかしらず宿に帰る。人々髪のなきよしをいうに、おどろき気をうしないたり。その道を求むるに、人のいうにたがわず、結いたるままにて落ちてありける。その時分のことなり。

 近世にても慶応年間に一時大いに流行せりといい、またごく近年にもその例往々ありし由にて、佐々木博士の報告によるに、現に四年前にもそのことありきという。同博士はこれを一種の疾病と鑑定せられたることなるが、その証跡および理由はあまり長ければここに掲げず。よろしく『東京医学会雑誌』につきて一読すべし。また、本年一月発行の『中央新聞』に「髪切りの怪異」と題して、富山市に髪切りの事実ありしことを掲げり。果たしてしからば、髪切りは全く病的にして、すなわち物理的に説明せらるるものなれば、今日にてはもはや怪とするに足らず。しかるを古来、これを一種の妖怪とせしは、全くかかる道理を知らず、したがって種々の妄想を付会せしによる。


       第一九節 恙虫

 恙虫とは、越後の水辺に生ずる一種の毒虫に与えたる名称なれども、その文字の意を考うれば、恙虫は噬虫にして、よく人心を食するものといえり。すなわち『風俗通』に曰く、「噬虫能食人心、古者草居多被此毒。」(噬虫よく人心を食らう。いにしえは草居し多くこの毒を被る)とありて、古来、あるいは虫となし、あるいは獣となしたり。わが北越地方に生ずる恙虫は、もとよりこれと同種のものというべからざれども、従来やはり一種の毒虫と考えられたり。しかして、その虫の生ずるは信濃川および阿賀川筋の一地方にして、夏時に限りて発生す。もしその毒に触るるときはたちまち発熱して種々の症候を現し、ついに生命を失うに至る者、割合に多数なり。その病因は今なお不明に属し、あるいはマラリア性の一種なりといい、あるいは一種のチフスなりといい、またあるいは毒虫の人身に触るるによるという者ありて、その説いまだ一定せざることなるが、北里〔柴三郎〕医学博士が昨年、該地方に出張せられて探究せられし結果の報告によれば、毒虫の人身をさすにほかならざるもののごとし。その直接の証拠ともいうべきは、身体のある部分すなわち腋下、あるいは首の周囲または腹部、虫にさされし跡と思わるる部分を認むることこれなり。その部分を検するに、水脈腺は必ずはれ上がりて、あたかも毒虫ここより病毒を体中に注射せしもののごとしという。これ、その地方の人が一般に病因を恙虫に帰するゆえんにして、北里博士もまたその説を承認せられしゆえんなり。

 同博士はその参考の一助として、さらに越後地方には島虫というもののあることを述べられたり。島虫は肉眼にて見ることを得るものにして、赤色なるものと白色なるものとありて、人もしその虫にさされしときその部分を検せば、肉眼にてもなお小虫の存するを見らるという。この虫の毒にても発熱すといえども、恙虫のごとくはなはだしからず。かつ、その小虫を駆除するときは、熱もおのずから散ずるなり。これより比較推考するときは、恙虫もその形状はいまだ発見せられずといえども、一種微細の小虫にして、島虫のごとく人の身体のある部分をさしよりて病毒を送るものなること、ほとんど疑うべからずという。その病症の性質につきては予のもとより知るところにあらざれば、そはしばらく医家の判断に任じ、従来これを妖怪的に考えしは、全く妄想にほかならざることを説明するをもって満足せんとす。

 これを要するに、恙虫の病因は今日なお十分明らかに知ることを得ずといえども、なお予は、これを物理的に説明せらるべきものと信ずるなり。ただし、その病につきて詳細のことを知らんと欲せば、北里博士の報告につきて見るべし。



第三講 療法編

       第二〇節 仙術

 すべて病気を治療するに内外二種の方法ありて、身体上より治療するものと、精神上より治療するとの二様あることは、余が前に論ぜしところなれば、これよりその例証を示さんとす。しかして、ここにまず仙術について一言せざるべからず。そもそも仙術とは長寿不死の術にして、シナ人の古代より想像したるところなり。この術に達せし人、すなわちいわゆる仙人のことは、すでに理学部門異人編において述べたれば、今ここに長寿不死の方法について考うるに、古人は実に不死長生なることを得べしと信じたれども、今日は三尺の童子もかかる妄想をいだけるものなからん。しかれども、寿命は人によりて長短ひとしからざる上は、人をして比較上長寿を得しむる方法なしとせず。もとよりこれをして、五百年あるいは千年に達せしむるがごときは到底行われざれども、九十年ないし百年のよわいを保たしむるは、あに難しとせんや。今、古来長寿法として伝うる方法を挙げんに、仙術中に食せずして飢えざる法あり。左に、『世事百談』に載するところを示さん。

   串柿を糊のごとくにして蕎麦粉を等分にまじえ、大梅ほどの大きさに丸くし、朝出ずるとき二、三を用いなば一日の食事になれり。もし蕎麦粉なきときは、もち米の粉にてもよろし。また、三色あわせても用うべしと『安斎漫筆』にあり。また、芝麻〔ごま〕一升、もち米一升をともに粉にして、なつめ一升を煮て、それへ二味をこねまじえ、団子として一丸食すれば、一日飢えに及ばずと『白河燕談』にあり。なおこれらの法あり。予かつて聞けるは、白米一斗を蒸籠に入れ百度蒸し干しおき、一握りずつ毎日、水にて三十日のめば、死ぬまで一切の食物くいたがらず(『寿世保元』)。黒大豆をよくむして、一日食物を食わず、翌日かの黒大豆を食し、ほかの食物をくうことなく、渇くときは水を飲むべし。かくのごとく一年ほどすれば、後には一切の食物をくうことなくて仙人となる(『博物志』)。黒大豆五合、胡麻三合、水に一夜浸し蒸すこと三度、さてよく干して、二色とも手にて皮を取り舂きくだき、拳の大きさほどにつくね、甑の中に入れて戌の時より子の時まで蒸して、あくる日、寅の時に取り出だし、日に干し付けて食うべし。拳ほどなるを一つ食えば七日飢えず、二つ食えば四十九日飢えず、三つ食えば三百日飢えず、四つ食えば二千四百日飢えずして顔色衰えず、手足の働き少しも常にかわることなし(『王氏農書」)。この三法は、唐土にて飢饉のときに多く人をすくいたる名法なりといえり。ちなみにいう。人の通わぬ谷底または井の中などへあやまちて落ち入りたるか、あるいは海上にても一切の食物なき所にて命をつなぎ、しかも身体、気力だもおとろえざる法、『寿世保元』に、口に唾をいっぱいためてはのみこみ、またためては飲みこみ、かくのごとくすること一日一夜に三百六十度飲みこめば、何十日へても飢えずといえり。これにつきて話あり。正徳のころのこととかや、奈良宗哲という人、武蔵に住みし折から常に心やすく交わる僧の祈禱ありて、七日断食して礼拝行道す。同行の僧一人あり。かの僧、右の唾を飲みこむ法を教ゆ。かの僧、信じて相勤む。同行の僧はあざけり笑いてこれを用いず。行法六日に至りて、同行の僧は手足痛みことのほかに苦しむ。また、唾を飲みこみし僧は常に変わることなく、行法滞りなし満願成就したりとぞ。思うに、この唾を飲みこむ法は効験さもあるべくおぼゆ。唾は身液なれば、吐かずして飲まば、身体の潤いをまさんことわりあり。常の養生にも心得あるべし。すでに「遠唾高枕寿を損す」と『医心方』に見えたり。

 また、今より十余年前、大阪に河野久と名付くる人あり。毎日三回、吸気法を行いて食事に代え、数日間断食するもさらに飢うることなく、もって自ら仙術を得たりと唱えしことあり。されどもこれまた、一種の練り薬のごときものをときどき食して常食を廃したるもののみ。その他、昨年ごろ、伊豆国に鈴木範衛と名付くるものあり。同じく断食して生存し得べき一種の仙術を発見したりと称せしが、みな目的を達することあたわざりき。かくのごときは、なお人をして不死ならしむる法と等しく、一つの妄想に過ぎざるなり。されども長寿法に至りては、決してかくのごときものにあらず。もし、よく今日の衛生法に注意せば、その目的を達するを得べし。しかしてこの衛生法は単に衣食住の上にとどまらず、また精神上の衛生をも要することを知らざるべからず。これにつき、『雲萍雑志』に左のごとく談話あり。

   夢窓国師の書かれたるものに、人は長生せんとおもわば、噓をいうべからず。噓は心をつかいて、少しのことにも心気を労せり。人は心気だに労せざれば、命長きことうたがうべからずとあり。鉄枵仙人の賛に、仙人は不養生せず腹立てず、物ほしがらずそれでなが生

  とあり。

 また、『貝原養生訓』(巻一)に曰く、「養生の術は、まずわが身をそこなうものを去るべし。身をそこなうものは、内欲と外邪となり。内欲とは飲食の欲、好色の欲、睡の欲、言語をほしいままにするの欲と、喜、怒、憂、思、悲、恐、驚の七情の欲をいう。外邪とは天の四気なり。風、寒、暑、湿をいう。内欲をこらえて少なくし、外邪をおそれてふせぐ。これをもって元気をそこなわず、病なくして天年をながくたもつべし」と。予も過日来、妖怪研究会の問題として、地方の長寿者の衛生を報道せられんことを求めしに、すでに諸国より数十通の報道を得たり。

 また、近日の『読売新聞』には、徳島県の長寿者の履歴、言行を挙示せり。これらの記するところによりてみるに、長寿法は必ずしも衣食住の衛生にとどまるにあらず、また精神、思想の状態あずかりて大いに力あること明らかなり。しかるに、今日の衛生家が衣食住の上にのみ注意して、衛生の道を喋々するは愚といわざるべからず。今、余が統計考定したるところによるに、およそ長寿法には体外に関するものと、体内に関するものとの二種なかるべからず。体外に属するは土地、気候、空気、住居のごときこれなり。つぎに、体内に属するものに、また身体上と精神上との別あり。その身体上にありては、第一に遺伝に注意せざるべからず。父母あるいは祖父母の長寿なる子孫は長寿を得やすく、短命なる人の子孫は難し。第二は生来の体質にして、人には生来虚弱なると強健なるとの別あり。その虚弱なる人は、いかに衛生に注意すとも長寿を得んことはなはだ難し。これらの二つは天賦にして人力もて動かし難きものなるが、これに加えて運動、摂生等の体育に注意せざるべからず。以上、体外ならびに体内中、身体上に関する事情は今日の衛生家のもっぱら唱うるところなれども、このほかに別に精神上の衛生あり。これ、余がもっぱら講究せんと欲するところなり。この精神上にもまた生来と経験との二種あれども、生来と経験とを問わず、性質正直、素朴にして過度に心を労せず、災難不幸にあうともよくこれをあきらめ得る人、もしくは信仰心にあつき敬虔なる人、あるいは謹直慎重の風あるは、みな長寿に適するものなり。しかして、その性質の天賦生来に出ずるときに長寿の得やすきは論なく、また教育、宗教の訓練感化によりて与うるところの性格も、その力はなはだ大なり。これらの例証は予の得たる報道中に明らかなれども、今いちいちこれを掲ぐることあたわざれば、ここにその結果の一斑を述べたるのみ。

 これを要するに、余は病気にも治療にも衛生にも心身、内外の二種ありて、今日の医家の唱うるところはただ身体に属する部分にして、精神に関する部分は右講に付せらるるを免れざることを信ず。これ、余がここに心理学の道理に基づきて、精神上の衛生、治療を講究せんと欲するゆえんなり。


       第二一節 錬金術

 シナにありては古代、仙人不死の薬を求めんとして盛んにこれを捜索せしことありしが、西洋にも古代、錬金術と名付くるものあり。これ今日の化学の起こりし本源にして、すなわち化学の錬金術におけるは、なお天文学の占星術におけるがごとしという。そもそも錬金なるものは、その目的、下等の金属を一変して金および銀に化せんとするものなれども、また、これによりて人の生命を無限に延長せんことをも求めたり。その方法は、はじめエジプトより起こり、ギリシア人およびローマ人は同国よりこれを伝えたるものなり。その後、斯術は一時大いにローマ帝国に行われ、ディオクレティアヌス帝の朝には、斯術と魔術とを混同して大いに世に流行し弊害百出したるをもって、エジプトより輸入せしこの術に関する書類を、ことごとく焼却せんことを命じたることあり。その後アラビアにおいてもこの術一時大いに流行し、あるいは金銀を製出し、あるいは種々の薬品を製出せんことを工夫せり。けだし中世の欧州諸邦に入りたるは、全くアラビア人のスペインを経て諸邦に伝えしものなり。しかして当時、欧州にて行われし煩瑣学と斯術とを混同し、その学者はみな熱心に錬金の方法を講じたり。また、中世の欧州社会においては哲学石なるものを求めたり。この石はまた、下等の金属を化して黄金たらしむる力ありと信ぜられしなり。これらのことはみな西洋人の妄想より行われしものにして、シナの仙人不死の談となんぞ異ならん。しかるに、今日はなにびともかかる妄説を信ずるものなければ、またあえて説明を要せざるべし。


       第二二節 妙薬

 わが国にてはひとり長寿のことを求めしのみならず、また無病となるべき妙薬あることを唱えたり。その中には自然の経験より得たるものと、妄想、迷信によりて考え出だしたるものとの二種あり。しかして自然の経験に属するものは、自然的道理を有すれども、古来いまだその理を知らずして、ただ盲目的にその効験を唱えしものなり。また、この経験に属するものに食い合わせと称するものあり。今、古来唱うるもののうち二、三の例を挙ぐれば、うどんに西瓜、鯉に胡椒または小豆、枇杷に蟹、等を合食するときは大毒なりという。これ、経験上より得たるものに相違なしといえども、もとより盲目的経験なれば、他の事情、原因より起こりしことを知らずして、これらの事物間に原因、結果の関係あるもののごとく信ぜしもの少なからざらん。ゆえに、ことごとくこれを信ずべからずといえども、その性質は物理的説明に属するや疑うべからず。『牛馬問』にいう。「河豚は食い合わせの毒はなはだ多し。また薬物と敵す。この魚を食う人は、一日のうち薬を服すべからず、みだりに他物を食すべからず。」と。これ、人の一般に唱うるところなるが、その理の物理的なること明らかなり。その他、古来妙薬、妙術に関する種々の書あり。また、近ごろも奇術、奇法と題して種々の方法を掲ぐるものあり。その中にはもとより妄想、妄説に属するもの多しといえども、また一、二の盲目的経験によるもありて、物理的道理に暗合せしものなきにあらず。『万宝鄙事記』(巻三)に曰く、

  夏月蚊にくわれてはれたるに、なたまめの青葉をもみてぬるべし。(俗説)

  蓼をほしてむしろの下にしけば、蚤、虱、臭虫、生ぜず。(『行厨集』)

  鼠を去るの方、蓮の茎にて鼠の穴をふさげば、鼠おのずから去る。(『相感志』)

 かくのごとき類はいちいち信ずべからずといえども、その中には物理的道理を胚胎せるものなきにあらず。しかるに全分物理的道理に合せずして、しかもよく治療上に効験あるものあり。これ、すなわちマジナイ療法なり。


       第二三節 マジナイ療法

 いわゆるマジナイ療法中にも種々の類ありといえども、要するにみな信仰作用によりてその効験を表すものにして、すなわち信仰療法なり。例えば、神仏に捧げし御水によりて万病を治すといい、あるいは歌を唱えて治療の効あるがごとき、決して物理的説明の限りにあらず、みな信仰によりて効験を奉ずるものなり。かかる例は俗間に行わるると書冊上に散見するもの、実に枚挙にいとまあらず。よって、左に一、二の書に掲げあるものを記して一斑を示さんとす。

   『嬉遊笑覧』(巻八)にいう、「かぜひかぬまじないに鍾馗の画像を用いること、今も田舎にあるとなん。(中略)漢土にはその像を戸に押して邪を避くとかや。ここにもこれを用いて不正の邪気を追うなり。今も尾張熱田の民家に、みなこの画像を戸に押す。一説に、こは素盞嗚尊なりといえるは、後のさかしらなるべし。鍾馗の図、雪舟が絵に多くみゆれば、そのころよりもっぱら用いしこととしらる」

   『愛宕宮笥』(下巻)はいう、

    「湯火傷のまじない歌のこと。

       もえ出る焼野が原の火なりとも

         水にはかたじ篠の葉の露

   右の歌をとなえ、ささの葉にて水のなかをかきまわし、右歌の三べんとなえて後、またささ葉にて右のうたをとなえとなえ、やけどの所へくだんの水をそそぐべし。ひいらぎ即時にやむなり」

 その他、余が所持せる『秘事大全』『秘事百撰』『秘事思案袋』『伝法智恵の海』『神変仙術錦囊』『笑戯自知録』等に、実に数百種の奇法、秘術あれども、以上掲げしものと同一類なり。これみな物理的道理によりて説明すべからずして、心理的説明をまたざるべからず。また、余が各地方より得たる報道中に種々のマジナイ療法あれども、これまた同一類なればここに掲げず。これを要するに、奇々怪々の療法よくその功験を奏するは、みな精神、信仰作用の影響なりと知るべし。余、かつて船に酔わざる療法について論じたることあり。およそ世間にて用うる法に種々あるうち、左の仕方あり。

   船の中に賦の字を書き、武の点を人の額にうつべし。少しも酔わざること奇妙なり。

   船に片足のりかけたるとき、「なかきよのとおのねむりのみなめさめなみのりふねの音のよきかな」と三べんよみてのるべし。 この二法、ただ人の信仰一方によりて、その精神をやすむるの目的にほかならざるなり。果たしてしからば、今日まですでに船に酔うは人の精神作用なることを知り、精神上よりその療法を講究しきたれるもののごときも、その実、偶然にかくのごとき療法を応用するに至りしのみ。しかして、これを応用する人々は、真にこれをもって薬石の功験に帰するか、しからざれば神仏の力に帰し、いまだ真に精神作用の関係あることを明知せざるなり。かつ以上の諸法は、むかし人知の程度低き時代に適せしも、人文大いに開けたる今日には、極めて不適当の療法といわざるべからず。果たしてしからば、今日には今日の学理に適合せる、精神上の治療法必ずあるべし。これ、余が新法発明に工夫を用いたるゆえんにして、そのすでに発明したる方法は左に掲ぐべし。

 その法は、わが精神をして不動の地位に置かしむるにあり。しかして身体は船中にあるをもって、船とともに動揺せざるを得ざれば、なるべく身と心とを別所に置くことをつとめ、身は動揺の地位にあるも、心は不動の地位にあるものと観念せざるべからず。よって、まず思想上に一大宇宙の大球円の体ありと想定し、日月星辰、地球山川みなその体中の一隅に現見するものに過ぎずと信拠し、わが心はその中心なる不動点にありて、諸星の回転、諸物の動揺を局外より歴観するものと観念すべし。例えば左上図について、甲を宇宙全体とし、乙をその中心としてこれを論ずるに、船に乗り込みたるときは、ただちに平臥閉目して身体は海面船上にあるも、精神は★(扁+羽)々飄々として宇宙の中心なる乙点に位置を占め、地球の回転、動揺を傍観座視するものと思い、そのことを専心一意に観念すべし。しかるときは、その心を動かさざらしむることを得、かつ船に酔わざることを得べし。

 この法は船に乗り込むとき、にわかに実行するもその功少なかるべきをもって、船に弱き人は平常、哲学的観念法としてこれを実習すべし。しかるときは、その功験あるや、古来俗間に行わるる法に比するに天壌ただならざるなり。かつこの法は学術の道理にもとづきて工夫せるものなれば、民間の不道理的のものに勝ることまた千万なり。これを仮名して哲学的まじないというべし。

 この法は全く精神上より実行するものにして、決して医学的のものにあらず。もし船に酔うがごときは、人身の有機組織上に多少関係あるものとするときは、これを治する法は医術、薬方によらざるべからず。もし有機身体のほかに、精神のこれに関係して起こるものとするときは、以上挙ぐるところの哲学的観念法によらざるべからず。しかして今、余はひとり精神上の治法を論ずるものと知るべし。

 これ、予がいわゆる信仰療法なるものにして、生理的療法にあらずして心理的療法なりとす。


       第二四節 信仰療法

 信仰療法のことにつきては、余がかつて論ぜしものあれば、左に掲げてその一端を示すべし。その療法は心部よりの療法なれば、これを心理療法と唱えて医家の療法に区別す。よろしく第二講第七節を参照すべし。

   この心部よりの療法は、医家の療法と大いに異なるところあるをもって、医家の療法中に加え難し。よって、さらに名称を下して医家の療法を生理療法といい、この心部よりの療法を心理療法というを適当なりとす。なんとなれば、一つは生理学の規則に基づきて、身部の一方より人の病患をいやするものなり、一つは心理学の規則に基づきて、心部の一方より人の病患を治するものなるによる。けだし、人は身心の両部より成り、その身部の構造、機能を論究するの学、これを生理学といい、心部の性質、作用を論究するの学、これを心理学という。さきにいわゆる精神作用とは、全くこの心理学に属するものなり。しかして生理学は広く禽獣動物にも関する学なれども、心理学は主として人類に関する学なり。今、さらにこの二者の別を考うるに、普通の見解にては、物心その体全く異にして、その二者接合して人身生体を生じ、その二者離散するに至れば死体となるという。その図あたかも上のごとし。

   甲図は物心相離れたる図にして、人の死したるときの状況なり。乙図は物心接合したる図にして、人の生時の状況なり。その図中、物、生、心の三あるは、物は外界の諸物をいい、生は生体の構造機能をいい、心は精神作用の本位をいう。しかして、人はこの生と心の二者より成る。さきにいわゆる身心二者これなり。しかして、この物を研究するの学、これを物理学といい、この生を研究するの学、これを生理学といい、この心を研究するの学、これを心理学という。これ普通の見解なり。もし学術上、物の外に心なしといえる唯物的の論に考うるときは、人の心は神経の変化作用より生ずるものにして、その体すなわち物質なりという。かくのごとく解するときは、第一図は第二図のごとく変ぜざるを得ず。

   この図中、内は有機身体中の内部の構造をいい、外は身体外の諸物、諸象の森列せる外界をいう。人の死時にありては、甲図のごとく内部の構造が外界の事情に応合せざるときにして、生時にありては、乙図のごとく内部の構造と外界の事情と互いに応接感動して、一現象作用をその間に生ずるときなり。ゆえに、心はこの内外二者の接合の上に生ずるなり。しかして、内外二者ともにその体、物質より成るをもって、これを唯物的の論と称す。しかしてその図中、内を論ずる学、これを生理学といい、外を論ずる学、これを物理学といい、その中間の心を論ずる学、これを心理学という。

 以上示すごとく、唯物的の理論に考うるも通俗的の見解によるも、生理、心理の両学あること明らかにして、人はこの生理、心理の二者に関すること、また瞭然たり。しかして医家の療法は、ひとりこの生理学に基づきて、人の身部の上に療法を施すものにして、催眠術の治療法のごときは、心理学に基づきて精神の上にその治療を施すものなり。これ、一つを生理療法といい、↓つを心理療法と称するの適当なるゆえんなり(第七節参見)。

 かくして余は、催眠術治療法に与うるに心理療法の名称をもってし、その法の魔法にあらず妖術にあらず、また医家の療法と異なるゆえんを略弁せり。しかしてさらに顧みて、心理療法に属するものを見るに、催眠術のほか、あまたの種類あるを見る。およそ心理療法は、人の精神作用によるものにして、すなわち人の信仰をもととするものなり。例えば、人をしてその病の必ず平癒するを信ぜしむれば、精神作用の妨害を除きて、そのもとに復する自然の性を養成するをもって、治し難き病も治することを得べし。しかるに、この信仰によりてやまいを治する法は、古来その例に乏しからず。かの神仏を念じ祈禱を行って治療を施すもの、みなこの類なり。さきのいわゆる御札、マジナイの功験あるは、またみな同一理なり。かつ古代、医学のいまだ発達せざるに当たりては、世間の療法はただこの信仰作用によりしこと明らかなり。今日は生理学、病理学等ありて、信仰を離れて治療を施すに至りたれども、なお名家の療法は信仰によりて治するを免れず。すでに信仰の、療法に欠くべからざること明らかなれば、その理を研究することまた必要なり。しかして、その理は心理学の今日すでに考究するところにして、この学について考うるときは、信仰の果たして治療に実益あるゆえんも明らかに知ることを得べし。ただ、古代の信仰療法は極めて野蛮の風を帯び、かつその道理を研究すべき学なきをもって、今日にその医法を伝うるは、あるいは現時の事情に適せざることあるべしといえども、もし心理学の規則に基づき、信仰の性質を明らかにして、今日の事情に適する方法を用うるに至らば、これを医家の療法に対比して一科の療法を組織することを得べし。しかして心理療法の中には自療法、他療法、その他種々の諸類あるべし。これに生理療法を加うるときは、左のごとき表を得るなり。


        内科

   生理療法

        外科

療法

                自信法

            第一法

                他信法

        自療法

                自観法

   心理療法     第二法

                他観法

        他療法


 この表中、自療法とは自身の力にて療するものをいい、他療法とは他人の手を経て療するものをいう。今、催眠術治療法はそのいわゆる他療法の一つなり。自療法には第一法、第二法の二種ありて、第一法中の自信法とは、自ら自身の病気の上に信仰を置き、この病は必ず平癒すべしと自ら信ずるものをいう。すなわち病気を心頭にかけざるもの、薬石を用いずしてたやすく平癒するの類これなり。つぎに他信法とは、他体の上に信仰を置きて、自身の病はその力によりて必ず平癒すべしと信ずるものをいう。例えば神仏を信ずるがごときこれなり。あるいは医師の上に信仰を置き、医薬の上に信仰を置くときは平癒しやすきも、けだしまたこの類なり。つぎに第二法中、自観法とは、自ら自身の心を観念して、病死の懸念するに足らざるを究め明らかにして、精神の妨害を絶つをいう。すなわち禅家の療法これなり。つぎに他観法とは、他の事物を観察して病念、鬱患を解散するの良法にして、例えば旅行もしくは遊歩して、山河の風景を観察して病念を散ずるの類これなり。今日世間に伝うるところの療法中、生理学の理をもって解すべからざるものは、大抵この心理療法ならざるはなし。さきに挙ぐるがごとき、人の歯を抜きて病因を絶ち、人の体中より小虫を抜き出だして諸病を治するがごときは、催眠術治療法と同一に他療法の一種なり。その他、今後新たに発明すべき心理療法もまた必ず多かるべし。果たしてしからば、今後心理療法を研究して、その諸法中の最も便益なる療法を発見するの必要なることを知らざるべからず。ゆえに心理学を研究するものは、催眠術治療法のほかに、さらに他の良法を発見することをつとめざるべからず。かくして心理療法をして生理療法に対立して一科の療法を組織するに至らしめば、その世間を益する、また必ず大なるべし。あに心理療法は催眠術治療法のほかになしと断言するを得んや。

 以上の説明は余が催眠術治療法に対して説明したるものなるも、神仏もしくはマジナイにおける種々の信仰療法は、みなこれに属するなり。

 信仰療法の例については種々あるうち、『晏子』夢卜編に見るところの一例、よくその理を説明するに足る。曰く、「齊の景公、病にかかり、一夕二日と闘って勝たざるを夢む。翌朝、晏子の朝するに及びその夢をかたりて、『寡人死するの兆しならんか』とたずねしに、晏子こたえて曰く、『これ占夢者に問うべし』と。すなわち自ら出でて占夢者を召し、これに公の夢を告げ、かつ曰く、『公の病むところは陰なり、日は陽なり、一陰二陽に勝たざるは公の病、癒えんとするの前兆ならん。これをもってこたうべし』という。占夢者入りて公にこたうるに、晏子の告ぐるがごとくいえり。公の病、果たして大いに癒ゆ。公、よって厚く占夢者に賜んと欲せしに、占夢者曰く、『これ臣の力にあらずして晏子臣に教うるなり』公、晏子を召じてこれに賜んとす。晏子曰く、『占夢者これを占するの言をもってこたうゆえに益あり。臣をしてこれをいわしむも公、信ぜざるなり。ゆえにこれ占夢者の力なり。臣功なし』」という。また、カーペンター氏の『心理書』に出だせる一例も同じくその理を示せり。

   ポルト・ローヤル派の女院の一女学生あり。涙管瘡の重症にかかり、治療その効を奏せず。ついに医師は鼻骨の腐臭をたたんには烙法を施すよりほかなしとなし、手術の日限をも定むるに至れり。しかるに、期にさきだつこと二日のとき、たまたま祭壇の前を過ぎしに、他の諸尼は女〔学〕生に勧むるに、神霊の宝物をその目に触れ、かの恐るべき手術の苦難を免れんことを請わんことをもってせり。すなわちその言に従い、十分の信任をもって誠実にこれを行いしに、この信仰は数時間にしてたちまち霊験を現し、いくぶんか快方におもむき、暫時にして医師の手を借らず、全癒したりという。

   ドクトル・チューク氏曰く、「一外科医、余に報じていいけるは数年前のことなりき。その女の両手におよそ十二個ばかりのいぼを生じたるがゆえに、父は苛性剤およびその他の諸薬を用いたれどもその効なく、ほとんど十八カ月を経たり。しかるに一日、ある紳士訪いきたりてかの女に面し、握手の際その手の醜体を見て、その数いくばくなるやを問い、かつ曰く、『なんじこれを数えよ、しからば来日曜日以後はまた、いぼに苦しむことなからん』と言いつつ、一紙片を取りて鄭重に女児の計数をいちいち傍らより書記ししが、果たして期に至り、いぼことごとく消失して、また生ずることなかりき」と。

 カーペンター氏の記するところによれば、西紀一六二五年ブレッダ市の囲まれし際、衛兵の間に難症の壊血病流行して、これにたおるるものはなはだ多く、実に非常の惨状を呈し、この市もまさに略奪せられんとす。このときオルレアン皇子はまず書を贈りて、速やかに神効ある霊薬を患者に給与すべきことを告げられ、これよりカミルレ、アルセンおよび樟脳の煎汁三小罎を各医師の手に渡し、清水一ガロンにその三、四滴を加うるも、よく治効を奏すべきことを特に公表せしめ、しかして将校すらもこの秘密をかかわり知らしめざりき。しかるに、兵士らが皇子の薬効を信じたる結果はもっとも喫驚すべきものにして、この恐るべき病毒の蔓延を防ぎしのみならず、すでに該病にかかり、中には全くたたざりしものといえども、速やかに本復するに至れりという。しかして他方よりみるときは、心気の委頓沮喪することは、実に壊血病を生ずべきもっとも有力の一原因なりとす。

 上来、「医学部門」を三段に分かちて論述したるも、これ、余が専門外の学科にして、その理を明示することあたわざるも、またやむをえざるなり。ただ余が望むところは、心理学の道理を応用して心理療法を発達せしめんとするにあり。かつ余は、もっぱら医学上に妖怪的医学の一門を開くことを主唱するものなれば、ここにいささかその意を述べたるのみ。