4.南船北馬集 

第三編

P449-----------

南船北馬集 第三編

1.冊数 1冊

2.サイズ(タテ×ヨコ)188×127㎜

3.ページ

 総数:134

 口絵:1葉

 本文:134

(巻頭)

4.刊行年月日

  底本:初版 明治42年1月25日

5.発行所

 修身教会拡張事務所

P451-----------

熊本県紀行(続)

 明治四十一年三月二十日 晴れ。熊本県阿蘇郡馬見原町を発し、馬車を駆りて渓行すること四里、上益城郡浜町〔村〕〈現在熊本県上益城郡矢部町〉に着す。途中、吉田郡視学と袂を分かつ。阿蘇郡内にて特に遠客の目に触れしは、蘇山の噴煙、猫岳の石骨、商家の竹屋等なり。午後、東雲寺において開会す。堂狭くして聴衆庭を圧す。宿所は旅館なり。町家過半、昨年大火にかかり、仮宅多し。発起者は助役井手荘平、校長高橋直記、野口吾市、区長下田武二郎諸氏および各宗寺院なり。郡書記井手正通氏来会せらる。

 二十一日 晴れ。浜町を出ずる所瀑布あり、千滝と名付く。壮観なり。よろしく仙滝と改むべし。この渓間瀑布多し、四十八滝ありという。午前中、下益城郡東砥用村〈現在熊本県下益城郡砥用町〉に移る。途上の所吟、左のごとし。

  一渓曲折水潺湲、路過懸崕飛瀑間、仰見天辺雲断処、蒼々色是五家山、

(谷は曲折をかさね、水はさらさらと流れて、道はそそり立つがけにかかる滝の間をぬける。仰ぎ見ればせばめられた空の雲の切れ間に、青々とした色を見せているのは五家山である。)

 この辺り一帯渓深く山高く、車行危険多し。ただし往々、風光の仙源に似たるあり。会場は正福寺にして、住職村上聖徒、村長光江静波等諸氏の発起なり。

 二十二日(日曜) 晴れ。西砥用村〈現在熊本県下益城郡砥用町〉に移る。会場は小学校、宿所は善通寺なり。聴衆、内外に充塞す。村長原利三郎氏、住職鷲山覚明氏等の発起なり。五家山はこの村を去ることわずかに二里、山中の者ここに出でて日用品を購入す。小市街あり、原町という。これより登ること三里にして、釈迦院に達す。これを九州の高野山と称す。

 二十三日 晴れ。中山村〈現在熊本県下益城郡中央町〉に移りて開会す。柳眼鴬語、百花栄を競うの好時節となる。会場は高等小学校にして、宿所は有志家三浦卓平氏の宅なり。中山村長成松寿七、年禰村長佃正記、豊野村長村山修三、校長佐野小七郎、寺川大次郎諸氏の発起にかかる。

 二十四日 晴れ。緑川を渡り、上益城郡甲佐町〈現在熊本県上益城郡甲佐町〉に移りて開会す。会場は正宗寺、宿所は渡辺敬生氏の宅なり。同氏は一家相伝の製法をもって鮎魚を貯蔵し、毎年陛下に伝献すといえるを聞きて、「尊皇心不浅、累代為伝献、秘法製香魚、年々登聖膳、」(皇室を尊ぶ心は深く、代をかさねて献上してきた。秘法をもって香魚〔鮎〕を精製保存し、毎年陛下の御膳にのるのである。)の詩を賦して主人に贈る。町長は古住安氏といい、校長は樅木太亀男氏という。

 二十五日 晴れ。御船町〈現在熊本県上益城郡御船町〉に移る。郡衙所在地にして、手島省三氏その郡長たり。郡長の厚意により、各所へ井手郡書記をして案内せしめらる。当町会場は小学校にして、宿所は出村氏の居宅なり。開会は町長増永正純氏、助役本田半二郎氏、校長三池親三氏等の発起にかかる。

 二十六日 晴れ。高木村〈現在熊本県上益城郡御船町〉に移りて開会す。会場および宿所は長安寺にして、主催者は村長中村隆政氏なり。

 二十七日 晴れ。六嘉村〈現在熊本県上益城郡嘉島町〉に転じて開演す。会場は小学校の庭園なり。校舎の構造および位置ともによし。校地の前隣に、足手荒神とて手足の願掛けをなす小祠あり。遠近より祈請するもの、手足の形を模したる板を奉納す。その板積みて山をなすは笑うべし。村内所々に清水湧出するもまた奇なり。開会は村長高田保人氏、助役上杉寿吉氏、校長真佐喜墨太郎氏の発起に出ず。宿所は県会議員藤瀬喜一氏の宅なり。

 二十八日 晴れ。六嘉村を発し、熊本を経て玉名郡六栄村に移る。途上、所吟一首あり。

  城南一路日如烘、処々黄鸝囀好風、桃李色交菜花色、不知身在彩雲中、

(城南の一路に日差しはもえるように熱く、あちらこちらでうぐいすが心地よい風にさえずる。桃やすももの花が菜の花の色に交わり、わが身は美しい雲の中にあるかと思われたのであった。)

 熊本より汽車に駕し、長瀬駅より腕車にて六栄村〈現在熊本県玉名郡長洲町〉に入る。会場は寺院にして、修身教会発会式を挙行す。築地喜作、河野一助、村上秋蔵三氏の発起にかかる。村長は宮原和四郎氏、校長は古川清彦氏なり。当夕、有志家の宅に宿す。

 二十九日(日曜) 晴れ。朝、六栄を発し、熊本〈現在熊本県熊本市〉駅に着す。県官、教育家、宗教家および哲学館大学出身の歓迎者多し。午後、延寿寺において開会す。住職菊池円隆氏の主催なり。当日、熊本行車中の一作あり。

  三月肥南風已暄、鉄車窓外養吟魂、満山樹白春如雪、身入李花深処村、

(三月の肥南は風もすでにあたたかく、列車の窓から景色をみて詩思をやしなう。山は白い花咲く木々にみちて、春はあたかも雪の花のように思われ、身はすももの花咲く奥深い村に入ったのであった。)

 宿所は研屋支店なり。偶然、乗杉嘉寿氏(文学士)と相会す。

 三十日 雷雨。午前、西光寺において講話をなし、午後、県会議事堂において開演す。熊本市教育会および仏教団の発起なり。教育会長は市長辛島格氏、副会長は三浦晟彦氏にして、河田竹生氏、渡辺熊雄氏その理事たり。仏教団の方は矢毛智達氏、篠方典氏等の主唱なり。

 三十一日 晴れ。午前、押川知事および事務官石川啓氏、豊島愿氏を訪問す。午前、偕行社に至りて開演す。愛国婦人会、特志看護婦人会、陸海軍将校婦人会の依頼に応ずるなり。

 四月一日 大雨。午後、飽詫郡大江村〈現在熊本県熊本市〉詫摩高等小学校に至りて開演す。校長は谷川直温氏なり。郡視学元松直忠氏も出席せらる。藤村僧翼氏熊本より帰郷したれば、富田三省氏代わりて随行員となる。

 二日 晴れ。午前、今川覚神氏来訪あり。午後、清水村〈現在熊本県熊本市〉北部高等小学校に至りて開演す。校長は蓑田猛雄氏なり。校地眺望に富む。

 三日 曇り。午後、西里村〈現在熊本県熊本市〉金剛寺に至りて開会す。主催者は菊池適氏なり。本県下巡回事務は哲学館出身たる戸田福蔵、菊池適、平田良知の三氏に委託せるに、戸田氏は山口県師範学校へ転任し、菊池氏は大負傷をなして病床にありしも、なお臥床のまま事務をとられたるは、ここにその労を謝するところなり。

 四日 雨。金剛寺にありて一作を試む。

  肥南四月雨成霖、麦色柳光春已深、山寺無人門巷静、落花枝上鳥空吟、

(肥南の四月、雨はながあめとなり、麦の色、柳葉のかがやきにも春すでに深しの思いがある。山上の寺には人影もなく、門もこみちも静かに、花落ちた枝の上で鳥がむなしくさえずっている。)

 寺は丘陵の上にありて飲用水を得るに苦しむ。地偏、道狭くして車馬を通ぜず、朝雨を冒し、歩行して熊本に帰る。午後、春日町〈現在熊本県熊本市〉小学校において開演す。郡長美濃部盛行氏、町長木村粛氏、その他郡吏、教員等の諸氏、来会あり。校長は村中彦熊氏なり。本郡内開会は多く郡教育会の主催にかかり、各会場へ郡視学または郡書記出席せらる。当夕、研屋本店において哲学館大学同窓会を開く。出席者は富田三省、大関等洋、家郷見章、橘慶導、村上運吉、隈部湛澄、寺崎慈弁、志水三郎、平田良知の九氏にして、平田氏その幹事たり。懐旧談大いに熟して深更に及ぶ。

 五日(日曜) 大雨。研屋支店を発して高橋町〈現在熊本県熊本市〉に移る。本日より坂梨素雄氏、更に富田氏に代わりて随行員となる。午前中は正福寺において開会す。これ当寺住職たる哲学館出身大関等洋氏の主催にして、氏の尽力すくなからず。午後、池上村〈現在熊本県熊本市〉中部高等小学校において開会す。校長は小川満喜氏なり。当夜、正福寺に帰りて宿泊す。当地には有名なる稲荷社あり。

 六日 晴れ。大関氏と同行し、川尻町〈現在熊本県熊本市〉泰養寺に至りて開会す。住職主催者木尾真純氏は哲学館出身にして、大いに尽力あり。同出身者稲田等観氏も助力せらる。当町の酒造家吉村彦太郎氏の宅に霊鷹の飛び入るあり。ときまさに新年元旦なり。主人これを祝して酒名を「瑞鷹」と命ぜり。よって木尾氏の紹介により、「春醸気芬々、瑞鷹飛入屋、主人命酒名、祝得一家福」(元旦、醸造のかおりも高く、瑞兆の鷹が屋内に飛び入った。故に主人は酒に「瑞鷹」の名をつけ、一家の福を祝ったのであった。)の詩を賦してこれに贈る。

 七日 晴れ。午前、大関氏とともに泰養寺を発し、小島町〈現在熊本県熊本市〉専照寺に移る。住職は松本清亮氏なり。開会発起は校長吉海丈等の諸氏とす。当寺は会堂風の建築にして、入口に二階の設備あり。夜中、この席上にて糸竹の声あるを聞き、戯れに「一夕肥陽泊梵宮、管絃声満耳将聾、真中有俗君休怪、二諦相資是祖風」(ある夕べ肥陽の寺院に宿泊した。ところが夜中に管絃の音が耳を聾せんばかりにおこる。真のなかに俗ありというではないか、君よ、あやしむをやめよ。真諦と俗諦の道理たる二諦がたがいにたすけあう、これこそ仏祖の教えなのである。)の一絶を賦して山主に示す。庭前に古藤の竜のごとく横臥するあり。

  小島尋蕭寺、庭前見古藤、臥竜何日起、待汝排雲騰、

(小島町の尋蕭寺には、庭さきに古い藤の木があり、竜が横ざまにねているようにみえる。この臥竜はいつの日に身をおこすのであろうか、なんじが雲をおしのけて天にかけのぼるのを待っていよう。)

 八日 大風雨。腕車および汽車にて下益城郡衙所在地たる松橋町〈現在熊本県下益城郡松橋町〉に移る。会場は明覚寺にして、宿所は医師岡本季九郎氏の宅なり。郡長田中致知氏も出席せらる。町長黒田九力氏、大いに尽力あり。開会発起は松橋町長の外、当尾村長宮原熊平、豊川村長豊田重蔵、豊福村長秋岡秀彦諸氏なり。郡視学藤井敬慎氏は郡内各所開演照会の労をとられたり。会場の住職は真岡若水氏なり。午後、風雨ことにはなはだしかりしも、聴衆満堂の盛会を得たり。

 九日 快晴。更に車を返して飽詫郡奥古閑村〈現在熊本県熊本市〉に移る。歓迎最も盛んなり。

  緑麦隴頭車路通、古閑村外落花風、旭旗動処人成列、喇叭声中入梵宮、

(緑の麦のうねの傍らを車の走る道が通じ、古閑村の外には花びらをのせた風が吹いている。旭日旗をうちふりながら並んで私を出迎えてくれ、喇叭〔ラッパ〕の吹奏するなかを寺院に入ったのであった。)

 会場は真行寺にして、住職藤岡法真氏はその名、宗内に高し。開会は藤岡氏および村長渋谷郡喜、校長佐川彦二、寺院轟雷庵等諸氏の主催にかかる。

 十日 晴れ。下益城郡守富村〈現在熊本県下益城郡富合町、宇土市〉に移り、高等小学校にて開会す。杉合、守富両村合併の発起なり。杉合村長は松本喜作氏、守富村長は紫垣信義氏、高等校長は松沢礼敬氏とす。当夕、藤井卓氏の宅に宿す。哲学館出身者江眠竜氏、ここに来会ありて助力せらる。

 十一日 晴れ。午前、隈庄町〈現在熊本県下益城郡城南町〉に移る。会場は光徳寺にして、町長法学士甲斐群蔵氏、大いに尽力あり。聴衆満堂。豊田村、杉上村等連合の発起にかかる。高等小学校長は吉本又作氏なり。

 十二日(日曜) 雨。飽詫郡藤富村〈現在熊本県熊本市〉に移る。会場は専行寺なり。開会は住職橘慶導氏(哲学館出身)、高等小学校長高野宣吾氏等の発起にかかる。出身者木尾真純氏および家郷見章氏もきたり会す。途上作一首あり。

  細雨斜風気似秋、麦田浪上菜花浮、法輪今日何処転、蹈落花来緑水頭、

(こまかな雨が風に吹かれて斜めにふり、気候は秋に似て、麦の波うつ上に菜の花が浮いてみえる。仏法の輪を今日はいずれにめぐらそうかと、落花をふみしだきつつ緑水のほとりにきたのであった。)

 緑水は川名なり。

 十三日 雨。藤富を発し川尻駅に至れば、汽車煙を吐きて発す。空しく駅前にて三時間を費やし、午後二時乗車、下益城郡小川町〈現在熊本県下益城郡小川町〉に移る。会場は高等小学校にして、聴衆堂にあふれ、千五百名の多きを算す。吉田新町以来の盛会なり。校長は高野忠太郎氏、町役場助役遠山文太氏、河江、海東、小野部田各村長諸氏、本田選氏、東、浜坂、山副等の諸氏の発起にかかり、おのおの尽力せらる。宿所は吉野村村田氏の宅なり。当夕、はじめて蚊声を聞く。

 十四日 晴れ。午前、八代郡吉野村〈現在熊本県八代郡竜北町〉養福寺にて開会す。郡視学古泉貞次氏来会せらる。村長は荒木叢哲氏、校長は堀川義人氏なり。午後、野津村〈現在熊本県八代郡竜北町〉勝専坊にて開会す。生徒の歓迎あり。村長は大槻英与氏、校長は二上敬之氏なり。当日、初めて蝉吟耳に入る。

 十五日 晴れ。午前、和鹿島〔村〕〈現在熊本県八代郡竜北町〉浄立寺にて開会す。村長は伊藤精一氏、校長は永井真俊氏なり。役場員某氏、尽力せらる。午後、鏡町〈現在熊本県八代郡鏡町〉教法寺にて開会す。住職は高陽慶哉氏、校長は緒方八郎氏なり。夜会あり、人群れを成す。

 十六日 晴れ。午前、北部高等小学校にて開会す。校長は緒方八郎氏なり。午後、有佐村〈現在熊本県八代郡鏡町・宮原町〉光沢寺にて開会す。住職は源達源氏なり。しかして村長は吉田修三氏、校長は本島勝明氏なり。当夕、光沢楼上にて一吟す。眺望すこぶる佳なり。

  春郊繞屋夜清泠、麦色入楼灯影青、何処池蛙声断続、朦朧月下対山聴、

(春の郊外は家屋をめぐって夜も清らかに冷え、麦の緑は光沢寺の楼上に映え入り、ともしびまでが青い。どこからか池の蛙の声が断続して、おぼろ月のもとで山をながめつつ聞いたのである。)

 十七日 晴れ。宮原町〈現在熊本県八代郡宮原町〉にて開会す。会場は小学校にして、宿所は村山徳美氏宅なり。町長吉岡直平氏、校長内山直次氏等の発起にかかる。

 十八日 晴れ。郡書記堀虎次氏の案内にて種子山村〈現在熊本県八代郡東陽村〉に至る。途上、立神の懸崖あり。会場は光林寺にして、村長は藤木静次氏、校長は沢田謙太郎氏、石川愛卿氏なり。いたるところ杜鵑花を見る。

  一道晴風払彩霞、渓流尽処有人家、山村却愛春光尽、万緑叢中躑躅花、

(ひとすじの道にうららかな風が吹いて美しい霞を払い、渓流の奥、行きつくところに人家がある。山村ではかえって春の光の終わることをおしむ。すべてが緑のくさむらのなかにつつじの花が咲いている。)

 これより五家村に入る山道あり。

 十九日(日曜) 晴れ。山ようやく深くして、道ようやく険なり。牛背に薪を載せて来往するもの、絡繹としてたえず。会場は河俣村〈現在熊本県八代郡東陽村〉瑞宝寺にして、村長は西浦勝蔵氏、校長は服部末雄氏なり。左右田弥三郎氏の宅に宿す。村民多くは採薪焼炭を業とす。遠く世塵を隔てて、やや武陵桃源の趣あり。医学博士緒方正規氏、村内より出ず。よって一作をとどむ。

  一条樵路似羊腸、牛馬負薪来往忙、勿謂山中無傑物、緒方博士出斯郷、

(ひとすじのきこりの通る道は、羊の腸に似て曲がりくねり、牛や馬が薪を背に往来して絶えることはない。いうなかれ、こうした山中には傑出した人物はいないと。緒方博士はこの里より出たのである。)

 二十日 晴れ。朝、河俣を発し、種子山、宮原を経て竜峰村〈現在熊本県八代市〉に至る。会場は光厳寺なり。開会のとききたるも、聴衆集まらず、薄暮に及びて開演す。村長は村上利英氏にして、校長は水野一二氏なり。当夜、はじめて蚊帳を用う。

 二十一日 晴れ。宮地村〈現在熊本県八代市〉に移る。会場は小学校なり。当地に名高き神社あり、たまたま祭日に会す。遠近より来詣するもの多し。また、懐良親王の墳墓あり。会後、ここに参拝す。

  山隈小径乱難分、尋得南朝皇子墳、樹下停笻懐古久、落花流水送斜曛、

(山のくまの小道はよくわからぬほどに乱れて、ようやく南朝の皇子、征西将軍宮懐良親王の墳墓をたずねることができた。樹の下に杖をとめ、いつまでも懐古の情にひたって時を移し、いつしか散る花、流れる水に夕日のくすんだ光が斜めにさしこんできたのであった。)

 村長は佐伯義方氏にして、校長は秋岡元伸氏なり。当夜、八代町〈現在熊本県八代市〉帯屋旅館に入りて泊す。

 二十二日 雨。午前、官幣社八代宮に参拝し、すぐに代陽女子小学校に入りて開演す。南部教育会の発起なり。会長は高木虎親氏にして、副会長は緒方千尋氏なり。中島仰氏等その幹事たり。みな小学校長なり。午後、劇場蛭子座において開演す。聴衆大雨をつきて来集し、場内寸地を余さざるに至る。ついで、同所において中学校および高等女学校生徒に対して講話をなす。当地は郡衙所在地にして、郡長古城弥次郎氏の配意により、郡内各所開会に郡視学古泉貞次氏、または郡書記堀虎次氏をして同行せしめられたるために、開会上大いに便宜を得たり。また、中学校長村上俊江氏、高等女学校長宮地欣吉氏、町長守屋充次郎氏等みな尽力せられ、夜に入りて有志の茶話会あり。

 二十三日 晴れ。午前、太田郷村〈現在熊本県八代市〉専西寺にて開会す。村長は吉永郡平氏、校長は野間新郎氏、住職は清水昌盛氏なり。午後、松高村〈現在熊本県八代市〉法敬寺にて開演す。住職緒方活竜氏、村長江副政喜氏、助役大木兼紀氏、校長奥田末氏の発起なり。会後、球磨川を渡り、植柳村〈現在熊本県八代市〉に入りて宿泊す。

 二十四日 晴れ。午前、植柳勝明寺において開会す。住職は木下貫心、村長は山田漸氏、校長は緒方千尋氏なり。高田、金剛両村もこれに加わる。午後、球磨川をさかのぼるに、急流瀑をなす所に舟を巻き上ぐる工夫あり。当夕、下松求麻村〈現在熊本県八代郡坂本村〉字今泉法讃寺に入りて宿す。住職は岩坂善海氏という。舟中の風光、吟眸を引くに足る。

  一棹晴風払客襟、岸頭樹鎖昼森々、山花已尽春将謝、猶有残鴬護緑陰、

(一本のさおに晴れやかな風があり、舟中の客の襟をふきぬける。岸辺の樹々はとざすようにたち、昼なおほの暗く奥深くみえる。山の桜はすでに散り果てて、春もいまやゆこうとしているのだが、なおなごりの鴬が緑のこかげをまもるかのようにさえずっている。)

 二十五日 晴れ。午前、開会す。下松求麻村長は中島景澄氏、校長は橋本清氏なり。午後、更に小舟に棹さして上ること里余、中谷崇光寺に移りて開演す。舟中の所見おのずから詩中に入るる。

  半帆風掛棹声閑、望裏送迎山又山、汽笛無端堤上起、鉄車載炭入仙関、

(なかばほどのあげた帆に風を受けて、かいの音ものどかに舟は進む。眺めるうちにつぎつぎとあらわれる山また山を迎え送る。汽笛が思いがけず堤の上に起こった。それは汽車が石炭を積んで、この仙人の住む里への関所を通る音であった。)

 この沿岸一帯鉄路を架設し、いまだ開通せざりしも、炭車のすでに往復するあり。校長は佐々恒喜氏という。旅館巴屋、眺望また佳なり。

 二十六日(日曜) 雨。舟行里許、上松求麻村〈現在熊本県八代郡坂本村〉藤本小学校にて開会す。校長は古沢政雄氏なり。高山徳平氏の宅に少憩して再び小舟を放ち、急湍を直下して荻原渡頭に着し、郡視学古泉氏と襟を分かち、更に馬車に駕して葦北郡日奈久町〈現在熊本県八代市〉に移る。宿所は西宝寺なり。住職は草部義純氏という。町長は久保友次氏、校長は山本実人氏なり。当地は県下第一の温泉場にして、目下浴客楼にあふれ、八畳座敷に十人以上をいるるの勢いなり。当夜、御前湯に浴す。

 二十七日 晴れ。午前、市街を一覧し、社台に上りて遠望を試む。草海薩山を春煙濛々の中に見るところ、大いによし。午後、開会す。崇徳会の主催なり。住職草部氏、幹事園田政太郎氏、助役松村又熊氏等、もっぱら尽力せらる。

  日南従古有霊泉、応永開場五百年、浴詠人連車馬到、絃歌声隔客楼伝、御前噴薬湯能験、天草擁雲山自眠、

  喜我停留纔一夕、六根忽覚化神仙、

(日奈久の南にはいにしえより霊妙な効能ある温泉があり、応永年間に開かれてから五百年になる。ゆあみやながめを楽しむ人が車馬を連ねてやってきて、絃歌の声は旅館のかなたから聞こえてくる。御前湯の噴き出す薬湯は効能もあらたかに、みわたせば天草のあたりには雲がかかって、山は眠るかのようである。うれしいことに私がここにとどまったのは、わずか一夜ではあったが、六根たちまちにして人間界からぬけ出て神仙となったような気がしたのであった。)

 二十八日 晴れ。朝、発起諸氏とともに鳩山に登る。海煙山霧微茫中に天草一帯の山影と相対し、白帆青松の前後に相映ずるところ、おのずから㡧画館中にある心地せり。

  鳩巒高処立清晨、烟水霞山対晩春、麦酒三杯微酔後、恍如㡧畵館中人、

(鳩山の高みには早朝の清らかさが満ち、かすみたつ川と山はともに晩春の風景である。ビールを幾杯か傾けて、わずかな酔いを覚えたあとは、うっとりとしてパノラマ館の中の人となった心地がした。)

 また、入浴中、肥後方言をもってつづりたる一作あり。

  肥南何処試吟哦、数日山行気削多、幸浴霊泉与嘉潔、一丁傾酒一丁歌、

(肥後の南、いずこにか吟詠を試みようか、数日の山行は疲労することが多かった。幸いにしてこの霊妙な温泉につかって、はなはだ快く、ひとたび酒を傾け一首を吟じたのであった。)

 方言にて、気削とは疲労の意、興嘉とは好または快の意、潔とははなはだしきの意、一丁とは一回の意なり。これより赤松太郎の険路を経て、田浦村〈現在熊本県葦北郡田浦町〉に移り、西音寺にて開会す。寺主野浦斉氏不在なり。村長宮坂徳次郎氏、校長藤川一氏、松本凰声、鬼塚已熊等の諸氏、尽力せらる。宿所は倉本旅館なり。

 二十九日 晴れ。更に佐敷太郎を越えて佐敷町〈現在熊本県葦北郡芦北町〉に移る。郡衙所在地なり。会場は専妙寺にして、発起者は住職渋谷智厳氏、郡視学藤川与太郎氏、町長森友彦氏、校長赤沢増喜氏、および各宗教家、教育家なり。なかんずく助役田中直三郎氏、大いに尽力あり。ときたまたま徴兵検査に当たり、役場員多忙を極む。当夕、便船に投ぜんと欲して、車夫を待つもきたらず、ついにここに一泊す。

 三十日 晴れ。早朝、馬車に駕し、津奈木太郎の山路を攀じて、水俣村〈現在熊本県水俣市〉に移る。この太郎と前の二太郎を合わせて三太郎の険と称し、古来その名高きも、今日は車道を開鑿し、大道坦々として更に峻険を覚えず。ことにこの間は苓州薩山と相対し、風光の明媚なるは肥州中まれに見る所なり。しかのみならず躑躅花点々緑草の間に隠見し、蝉声交ゆるに鴬語をもってし、大いに耳目をたのしましむるに足る。

  昔聞太郎険、今見嶺如螺、路転渓千変、峰高隧一過、山連自成浪、車走漫飛梭、看尽風光美、投来水俣阿、

(昔より聞こえた津奈木太郎峠の険は、いま見れば嶺は巻き貝のようである。道は曲がりくねり、谷は千変万化し、峰の高いところをぬける。山々は連なって波浪のごとく、車の走ること左右にむきをかえてまるで機織りの梭〔ひ〕のようである。ことごとく風光の美しさを目に納めながら、水俣の村に入ったのである。)

 水俣会場は源光寺にして、堂宇壮大ならざるも、荘厳清美なり。発起者は役場、学校、寺院にして、村長深水頼資氏、助役広田末熊氏、学務委員吉海度蔵氏、高等校長中山長熊氏、住職寺本証信氏をはじめとし、中村庸造、北里小源太、深水吉澄、春野群太郎、東佐一郎、古川広喜、堀法鱗等の諸氏、みな尽力あり。

 五月一日 晴れ。早朝、馬車を駆り、佐敷町にて午餐を喫し、人吉高等校長勝間田二見氏とともに、長駆して球磨郡に入る。川上懸崖の上に車道あり、蜀の桟道を行くがごとし。途中、人吉有志者数十名、車をつらね数里の外に出でて迎うるに会す。郡視学古閑功氏の案内にて人吉町〈現在熊本県人吉市〉に着す。ときまさに五時なり。この日、行程十五里に達す。宿所は林照寺なり。当寺住職茅場法照氏は哲学館出身者たりしをもって、歓迎準備に大いに尽力あり。堂後に清流を横たえ、林巒に接し、風光閑雅の趣あり。当寺客中の作、左のごとし。

  仙源解客装、林照寺中堂、山色催詩思、水声洗浴腸、聴経春睡穏、敲句夜吟長、窓下友風月、不知農事忙、

(仙人の住むような里に旅装を解いた。ここは林照寺の中堂なのである。山の景色は詩想をかきたて、聞こえてくる水の声は俗塵に汚れたはらわたを洗う心持ちがする。読経の声を聞いて春のねむりもおだやかに、詩句を推敲しつつ夜は更ける。窓辺のもとに風月を友として、農事の多忙であることも知らぬげであったのである。)

 二日 雨。古閑視学および永根晋氏とともに車行して球磨農学校〔上村〈現在熊本県球磨郡上村〉〕に至り、一席の講話をなす。校長は斎藤謙吉氏なり。更に多良木〈現在熊本県球磨郡多良木町〉高等小学校に移りて開演す。校長は市木忠二郎氏なり。白浜旅館に宿す。

 三日(日曜) 雨。再び車をめぐらして多良木村より人吉町に帰る。午後、劇場永楽座にて開演す。球磨郡教育会の主催にかかる。会長菊池淡水氏、在韓中にて不在なり。沼安治氏郡長たり。しかして町長は米良次平氏なり。副会長古閑功氏、理事勝間田二見、萩原万世次、江川曽一郎、山口勝一等の諸氏、みな尽力あり。会後、高等校にて官民有志の懇話会に出席す。また夜中、林照寺にて更に開演す。これ仏教団の主催にして、堤善三郎氏、大熊重雄氏等の発起なり。

 四日 晴れ。午前、徒弟学校の製作品を一見し、午後、林照寺にて開演す。また仏教団の主催なり。夜に入りて永楽座にて開演す。人吉町青年会および実業倶楽部の主催にして、米沢正造、馴松嘉一郎、長船矢熊、淵田万寿造、星野、江島、大河内等の諸氏の発起なり。聴衆一千二百名と目算す。

 五日 晴れ。朝霧をおかして人吉を発す。朝霧と焼酎とは当地の名物なりという。軽艇に駕して球磨川を下る。舟行急速にして、両岸の風光、応接にいとまあらず。なかんずく「槍たおし」の勝、清正公の岩の景、最も妙なり。その天工は筆紙のよく尽くすところにあらず。近来、この間鉄路を架す。風光ために一変せざるを得ず。

  球磨川上別風光、山紫水明無尽蔵、誰毀奇巌開鉄路、炭煙恐是穢仙郷、

(球磨川の両岸は風光も格別にすぐれており、いわゆる山紫水明の美観は尽きはてることがない。だれがいったいこのすぐれた風光の巌などをこわして鉄道を敷設するのであろうか、汽車から吐き出される石炭の煙で、おそらくはこの仙人の住むような里もけがされてゆくのであろう。)

 午後三時、八代町に着す。会場は光徳寺にして、住職名和隆雄、大井義矩、角居一布、藤井維岳、土生、北等諸氏の発起なり。当寺は易行院講師所住の寺にて、壁上に三宝鳥に題する講師自作の七絶三首を掛く。余、拙工をもってその和韻を試む。日南は講師の雅号なり。

朝遊海角夕山巓、北馬南船年又年、流転如斯君勿怪、吾生猶未脱塵縁、

(あしたには海辺に遊歴し、夕べには山の頂きに歩を進めて、北には馬にのり南には船にのって年を重ねた。流転の生活がこのように続けられたことを奇怪なこととは思わないで欲しい、かくのごとくしてもわが生はなお俗塵の縁から脱け出せないのだから。)

肥陽一夜坐初更、新月朧々杜宇声、况復隣楼吹玉笛、何人不起故園情、

(肥後の一夜、日暮れのなかに座っていると、東の空に出た月がおぼろにかすんで、どこかでほととぎすの声がしている。ましてや隣の家から笛の音が聞こえて、その音色はいかなる人にも故郷への思いを起こさせるのである。)

勿謂鎮西人傑少、日南真是僧門表、旧廬猶見墨光新、壁上曾題三宝鳥、

(鎮西の地にすぐれた人物が少ないなどといってはならぬ。日南師は真に仏門の儀表である。古いいおり、壁上にはまだ墨の輝きも新しく、以前から三宝鳥〔仏、法、僧〕に題する軸のかけられているのがみられる。)

 六日 晴れ。八代より汽車に駕す。乗客充溢し、車窓より出入するものあり。その雑沓いうべからず。熊本市招魂祭を拝観せんと欲してなり。松橋駅より馬車に転乗して宇土郡松合村〈現在熊本県宇土郡不知火町〉に移る。会場は光暁寺にして、住職直江秀円氏は哲学館出身なり。開会は同氏および村長西山雄平氏、校長渡辺未喜氏等の発起にかかる。この地、海水温浴場あり。郡役所書記小山虎松氏、哲学館出身橘慶導氏の来訪あるに会す。

 七日 晴れ。午前、松合より艇を海上に浮かべ、三角町字際崎船亭の内にて午餐を命じ、天草郡姫戸村〈現在熊本県天草郡姫戸町〉発起者にしてかつ哲学館出身たる山田鉄五郎氏(本姓寺中)とともに、汽船に駕して同所に向かう。その船の湾内に入るや、五個の和船おのおの国旗を掲げ、船首に太鼓を鳴らし、数十人の壮丁これを競漕してわが一行を迎う。環形をえがきて、湾内を三回周行して着岸す。これ貴賓珍客を歓迎する天草の古例なりという。岸頭、人集まりて山を築く。宿所は郵便局にして、会場は小学校なり。この日、遠近四、五里の間より老弱男女、子来雲集し、その数二千人以上に及ぶ。校前一丁余、露店軒をつらね、菓子店あり、飲食店あり、小間物店あり、田間に一大市廛を見る。場内、人あふれて庭前をうずむるに至る。演説中、床落つること四、五回に及ぶ。無類の大歓迎、空前の大盛会なり。紀行中特筆大書せざるをえず、詩をもってその一斑を写す。

船入草陽姫戸湾、歓迎艇圧碧波間、鼓声旗影春如湧、恰似軍人奏凱還、

(私の乗った船が天草の姫戸湾に入ると、歓迎の和船が青い波間を圧するように漕ぎ出てきた。太鼓の音、かかげられた国旗の姿など、春をいっそうわき立たせるように、あたかも軍人の凱旋の楽をかなでるようであった。)

歩来演説会場前、売菓鬻茶露店連、聴衆三千争出入、縁傾床落屋将顛、

(演説会場の前まで歩をすすめてきたところ、菓子売り、茶を売る露店が連なっている。聴衆三千人が争うように会場に出入りし、えんがわは傾き、床は抜け落ちて、建物もたおれんばかりであった。)

仙源人散夕陽開、松影櫓声入座来、不独風光明且美、民情村俗亦蓬莱、

(仙人の住むような所で人々は夕日のなかに別れてゆき、松のこかげと櫓の音がこの座にしのび入る。ただ風光の清らかで美しいのみではなく、住む人の情も村の風俗もまた神仙が住むという蓬莱島のようである。)

 開会は村役場の主催にして、村長寺中嘉多次氏、郵便局長山田鉄太郎氏、助役本田栄寿氏、校長北野彦一氏、同森田良平氏、有志家寺中多代次氏等、みな大いに尽力せらる。夜に入りて座談会あり。

 八日 晴れ。午後、山田鉄太郎氏とともに乗船し、牛深町〈現在熊本県牛深市〉に至る。日すでに暮るる。波上の巒影帆光、青白相映じて風光絶佳なり。

  輪声転々汽煙長、一帯連山迎送忙、船入牛深天已暮、淡雲繊月夜蒼々、

(船の外輪がめぐり、吐き出す煙がたなびき、かなたのひとつづきの山々は船の送迎にいそがしい。船が牛深町に入るころは日もすでに暮れて、あわい雲に細い月がうかび、夜は青くうすぐらい。)

 当夕、秀月庵内に宿す。住職は平野諦玄氏なり。

 九日 晴れ。午後、小学校にて開会す。町長中村元彦氏、校長米加田惟昭氏、山本才太、緒方竜平、岩崎安天郎等の諸氏、みな尽力あり。ときまさに麦刈り最中なり。牛深港は一名水字湾という。その形袋のごとく、良港たり。ただし市街狭くして車馬を通じ難く、飲用水に乏しきを欠点とす。当夜十一時に汽船に入りて泊し、翌朝四時、出帆す。

 十日 雨。午前七時、大門に着岸し、これより車行して本渡町〈現在熊本県本渡市〉に至る。その地全島の中央にして、郡役所あり。午後、開会す。会場は円覚寺なり。住職を硴久教尊氏という。発起者は郡視学辻村寛尭氏、中学校長藤本友世氏、町長木山重吉氏、寺院永田鱗趾氏、海唯定氏、有馬黙庵氏、小学校長内田直次氏、後藤小太郎氏、赤城安熊氏等なり。旅館を菊屋と名付く。当夕、円覚寺にて開催せる宗祖降誕会に出演す。

 十一日 晴れ。町山口港内数十町の間、腕車にて波上を渡りて乗船し、午後二時、富岡〈現在熊本県天草郡苓北町〉港に着す。港を巴湾という。地を臥竜岡という。ともに雅名なり。会場および宿所たる鎮道寺は湾内を一瞰すべく、自然に巴港の風色を専有す。住職を和気鎮雄氏という。老院和気良活氏は風月を楽しみ、詩文をたしなむ。日夜、和韻応答をなす。

巴字湾頭寺、海山是帯襟、巒光映波浄、帆影入雲深、望裏催詩思、酔余養道心、宿縁今漸熟、喜我此来尋、

(巴字湾のほとりの寺は、海や山がめぐるようにとり囲む。山のかげは海波にうつってきよらかに、帆かげははるか雲ぎわに入るかのようである。遠くのぞみ見るうちに詩情がわきおこり、酔っては菩提心を養う。前世からの因縁はいまやようやくねんごろとなり、私のおとずれを喜んでくれている。)

探勝何辺好、遠来泊梵宮、巴字湾頭月、臥竜山下風、心遊俗塵外、身住畵図中、酔後吟情動、敲句憶襄翁、

(景勝をたずねるにはいったいいずれがよいのか、遠く来て寺院に宿泊した。巴字湾の上にかかる月と臥竜山のもとに吹く風に、心を世俗の塵の外におき、身を絵画のような美景のなかにおく。酔ったのちにはいよいよ吟詠の心がおこり、句を推敲しつつ頼襄〔山陽〕翁を思い起こしたのであった。)

巴字湾頭寄客身、吟窓転与上人親、老余猶養青年気、常在苓洲深処振、

(巴字湾のほとりに旅客の身をとどめ、吟詠をかきたてる窓べにお上人と親しくしている。お上人は老いてなお青年の気概を養うかのように、いつも苓北の地の奥深いところにふるまうのである。)

水明山紫自成隣、四時騒客不招臻、喜吾今日何多幸、蓬莱山上謁仙人、

(山紫水明の美観がおのずから並ぶも、四季を通じて詩人がここに至り集まるわけではない。喜ぶべきは私にとって今日は実に幸い多く、神仙が住むという蓬莱山のような地で仙人にお目にかかれたことなのだ。)

満目青山雨後清、臥竜山上養吟情、吾生不許停留久、復向黄塵堆裏行、

(見わたすかぎりの青々とした山は雨にぬれてすがすがしく、臥竜山にゆっくりと吟詠の心を養った。私の生活は久しく一所にとどまるわけにはいかず、ふたたび黄塵のふりつもるなかを行くのである。)

 以上はみな老師の恵詩に次韻せるものなり。当日の開会は青年会の主催にして、和気氏および町長松本久太郎氏、大いに尽力あり。助役吉尾省三氏、校長倉本岩人氏、僧侶瑞穂香雲氏、有志尾上晋氏、溝上嘉三太氏も助力せらる。

 十二日 晴れ。午後、乗船、五時、上村〈現在熊本県天草郡大矢野町〉に着す。会場は西念寺にして、住職天津慈峰氏は哲学館出身たり。夜に入りて開会す。聴衆、堂にあふる。天津氏および村長吉田宗徳氏、吏員渡辺福蔵氏等尽力せらる。

 十三日 晴れ。堂側に忠魂祠堂あり、その前にて撮影す。これより車に駕し、更に和船に投じ、宇土郡三角町〈現在熊本県宇土郡三角町〉に移る。ときすでに十二時なり。午後、小学校において開会す。校長藤垣儀一郎氏、数年前より修身教会を設立し、同氏の熱心にて今なお継続し、年一年より隆盛を加うという。郡長宗村敬四郎氏、郡視学浅井虎喜氏、郡書記小山虎松氏、町長下田一己氏、みな助力せらる。当港は風光に富む。なかんずく小学校の眺望ことによし。宿所は冬野屋旅館にして、明月山頭に懸かる。即吟一首を得たり。

  東去西来漂泊身、肥州尽処養天真、草洋今夜風波穏、三角山頭月一輪、

(遠く東を去ってこの西の地にまできた漂泊の身は、肥後国の尽き果てるようなところで、かざらぬままの自然の心をつちかう。天草の海に今夜吹く風も波もおだやかに、三角の山上に明月がまるい姿をみせている。)

 十四日 晴れ。国会議員選挙のために、今明両日休会することに定む。しかるに天草郡今津村〈現在熊本県天草郡松島町〉より臨時の招聘ありたれば、再び同地に航して開会す。この日より、隈部湛澄氏が坂梨素雄氏に代わりて随行することとなる。会場は小学校にして、宿所は久具政記氏の宅なり。しかして主催者は村長林田慶寿氏および校長井芹直次氏なり。その地は弥勒山の麓にあり、山勢巌骨を露出し、異様の状をなす。当夕、山田鉄太郎氏、送別の意をもって来訪せらる。

  弥勒峰根来洗浴、風光疑是楚歟蜀、酔余対月思何窮、杜宇一声山水緑、

(弥勒山のふもとに俗塵を流す。この地の景観は楚の地か、あるいは蜀の地かと思わせる。酔った後に月に向かえば思いは果てしなくめぐり、ほととぎすのひと声ひびく地は山も水もみどり一色なのである。)

 十五日 晴れ。まさしく議員選挙日に当たるをもって休会し、午時、今津を出発す。生徒の送迎あり。和船にて際崎に回航す。天津慈峰氏、埠頭にありて余のきたるを待つ。停車場前の茶亭に憩うこと数時にして、郡視学浅井氏とともに汽車に投じ、宇土町〈現在熊本県宇土市〉に入る。宿所は西念寺なり。壁上、幽霊の図を掛くるを見て一詠す。

  肥州一路鉄道通、出没麦烟桑霧中、今日来投西念寺、幽霊影下臥清風、

(肥後国に一筋の鉄道が通じ、麦や桑のけぶるような中を出没して走る。今日はこの地に来て西念寺に身をとどめ、壁上にかけられた幽霊の図の下に、清らかな風をむかえてねたのであった。)

 十六日 晴れ。午後開会。宇土町教育懇話会の主催なり。会長川野廉氏、校長古閑五八郎氏、同立山謙太氏の尽力一方ならず。町長田辺称美氏、助役田中質氏、浅井郡視学、西念寺主、および橘真梁氏等も助力せらる。夜に入りて茶話会あり。いずれも盛会なり。

 十七日 雨。朝、宇土を発し、熊本を経て菊池郡陣内村〈現在熊本県菊池郡大津町〉に移る。熊本県より五里、人車にて四時間を要す。菊池郡視学、田代喜作氏および高等校長高橋小太郎氏も同行せらる。会場は光行寺なり。保々正見氏住職たり。開会は合志東部教育会の主催にかかる。高等学校長高橋氏、尋常校長江藤虎熊氏等、大いに尽力あり。当夕、大津町〈現在熊本県菊池郡大津町〉麻生田屋に宿す。

 十八日 晴れ。光尊寺にて開会す。主催は教育会なり。田代視学、高橋校長、および町長石原真一氏、尋常校長坂本経安氏、ほか教育家諸氏の尽力すくなからず。目下養蚕最も多忙の時期にもかかわらず、多数の来聴者あり。再び阿蘇の噴煙を対観す。

  熏風一路向仙寰、黄麦青桑野色斑、到処田家農事急、客中喜我得身閑、

(五月のかおる風のなかを、一路俗界を離れたような地にむかった。黄色を帯びた麦と青々とした桑とがまじわって野はまだらに染めあげられている。いたるところの農家は養蚕にいまや最も忙しく、ひきかえて旅中のわが身ののどかであることを喜んでいるのである。)

 十九日 晴れ。合志村〈現在熊本県菊池郡合志町〉竹迫厳照寺にて開会す。西部教育会の主催にかかる。村長は井本源次郎氏にして、住職は山隈覚音氏なり。村内、国旗を掲げて歓迎せらる。また、緑門の設あり。校長は阪田彦七氏なり。

 二十日 晴れ。泗水村〈現在熊本県菊池郡泗水町〉に移りて開会す。午前は教育家に対して講話をなし、午後は公衆に対して開演をなす。会場は高等小学校にして、宿所は校長江藤祐蔵氏の寓所なり。斎藤長八氏は村長たり。江藤氏の尽力すくなからず。各校長みな助力あり。当所は県下第一の蚕業地と称す。

 二十一日 晴れ。西合志村〈現在熊本県菊池郡西合志町〉字野々島浄蓮寺に移りて開会す。住職は三牧唯章氏にして、村長は児玉栄氏なり。郡内の名望家合志義塾長工藤左一氏、同教頭平田一十氏、ともに尽力せらる。

 二十二日 晴れ。田島村〈現在熊本県菊池郡泗水町〉光徳寺にて開会す。村長は泉田辰蔵氏なり。堂前に合志川あり、流蛍きたりて堂に入る。余の得意の俗調にて「不知火の光りの玉のくだけてそ合志の川の蛍火となる」とうそぶく。主催は西部教育会なり。

 二十三日 晴れ。加茂川村〈現在熊本県菊池郡七城町〉勝明寺に移りて開会す。住職本山知英氏は哲学館出身たり。村長は栃原数真氏にして、校長は斎藤安次郎氏なり。出身者志水三郎氏もこの村に住す。当夕、一詩を案出す。

  菊池川上宿僧堂、独酌沈吟弄夏光、深夜四隣人定後、疎蛍点々照荒凉、

(菊池川のほとりに建つ寺院に宿泊し、ひとり酒をくみ、思いにふけりつつ夏の光を楽しむ。夜もふけてあたりの人々も寝しずまり、まばらにとぶ蛍が点々とさびしげにてらしている。)

 また、「加茂川の月と蛍の光りをば学の窓の灯火とせよ」の言文一致をよみて本山氏の長子に与う。

 二十四日(日曜) 晴れ。隈府町〈現在熊本県菊池市〉に移り、午前は広現寺(住職秋吉黙容氏)、午後は西照寺(住職高千穂桃源氏)にて開会す。発起者は郡長坂本到氏、視学田代氏、町長城敬寛氏、高等校長米田政徳氏、女子校長竹中彦次郎氏、助役山下忠雄氏、尋常校長志水三郎氏、教員荒木勝次氏等なり。閉会後、菊池神社に詣す。社は丘上にありて風光明媚なり。前後、桜樹多し。

桑麦田間曳杖行、社頭風物動吾情、半千年古勤王跡、今講農蚕不講兵、

(桑と麦と田のなかを杖をついて行けば、菊池神社の風物はわが心をゆりうごかす。五百年もいにしえの勤王の跡に、今や農業養蚕が説かれて、いくさが説かれることはないのだ。)

家門累代唱勤王、探得遺蹤登社岡、満目美田桑麦色、英霊千載有余光、

(菊池家は代々勤王を唱えてきた家柄であり、その残された跡をたずねて神社のたつ丘に登った。みわたすかぎり美しい田と桑と麦の色にみち、すぐれたいにしえの人の霊魂が千年の後にも、恵みをもたらしているのであろう。)

 社陵を下りて正観寺の茶話会に出席す。境内に菊池累代墳墓あり。老儒渋江晩香氏の贈詩に答えんと欲して、その韻を歩す。

  看来雲態又山容、隈府風光好洗胸、欲皷吟情和玉韵、詞壇愧我未成宗、

(雲の姿や山の形を見つつ来れば、隈府の風光は胸のうちを洗い流すのによい。吟詠の情をふるって立派な詩をかなでようとするも、韻文の世界で私はまだまだ主だつ者となっていないことがはずかしい。)

 当夕は広現寺に宿す。

 二十五日 晴れ。鹿本郡来民町〈現在熊本県鹿本郡鹿本町〉に移る。午前、午後、ともに大光寺において開会す。午前は仏教青年会の主催、午後は教育会の主催なり。青年会長は野口七郎氏にして、町長は岩佐正武氏、高等校長は堀井勇三氏、尋常校長は続清人氏なり。おのおの尽力せらる。宿坊大光寺住職内田護城氏は哲学館出身なるも不在なり。当所は団扇の店多し。銀杏の怪樹ありて一見す。

 二十六日 晴れ。午前、鹿本中学校に至り、生徒に対して演説す。校長は水上浩然氏なり。午後、三玉村〈現在熊本県山鹿市〉万行寺に移りて開演す。住職大道憲隆氏の発起にかかる。村長淵上貞記氏、校長吉村卯一氏、桑原源右衛門氏、役場員立山仙一郎氏も助力せらる。菊地適氏、西里村よりきたり会す。

 二十七日 晴れ。山鹿町〈現在熊本県鹿本郡山鹿市〉光専寺において開会す。住職は佐々木親友氏、主催は教育会にして、郡長藤岡当彦氏、課長原純一郎氏、郡視学菊川熊太郎氏、郡書記島田万蔵氏、高等校長湯瀬吉蔵氏、尋常校長隈部安次郎氏、有志島北哲恵氏等、おのおの尽力あり。最初は教育家のみに対して講話をなし、後には公衆に対して開演す。福田大三郎氏その町長たり。宿所は東館なり。地は温泉場にして、広闊の浴場を設く。その名、日奈久とともに高し。

 二十八日 晴れ。菊川郡視学とともに広見村〈現在熊本県鹿本郡鹿北町〉に移る。会場は高等小学校にして、開会は教育会の主催にかかる。高等校長淵上英雄氏、尋常校長河野通雄氏等をはじめとして、太田黒益太氏、内村英蔵氏、丸山藤市氏等の諸教育家、みな尽力あり。宿所は井上道雄氏の宅なり。この地筑後の国界に近く、山水おのずから幽邃閑雅の趣あり。

  鹿陽何処是仙寰、岩野川頭境自閑、夏木蒼々風亦緑、坐看肥筑二州山、

(鹿本の地はいずこも仙人の住むような所で、岩野川のあたりはおのずからのびやかにしずかである。夏の木立ちも青々として風もまた緑をはこび、ここに座して肥後、筑前二国の山を見ることができるのである。)

 二十九日 晴れ。広見村を発し、山鹿町を経て千田村〈現在熊本県鹿本郡鹿央町〉字広、明蓮寺に移る。住職隈部日円氏の主催なり。村長隈部康氏、校長野村留作氏、有志木村太平氏も助力せらる。会主より、紀念として門前に樟樹一株を植えんことをもとめらる。よって狂歌一首をよむ。

  ふとく(不徳)なるわしが庭木を植えたなら、人はクスクスいひて笑はん、

 三十日 晴れ。広より山本村〈現在熊本県鹿本郡植木町〉光勝寺に移りて開会す。教育会の主催にかかる。高等校長三好慶次郎氏、尋常校長北野熊氏、矢住軍記氏、緒方武夫氏、佐藤万八氏、江口尚氏等、みな尽力あり。会後、植木町上崎久八氏の宅に至りて宿す。この近傍はすべて明治十年西南〔の〕役の古戦場にして、車上一過おのずから今昔の感を起こさしむ。

  古戦場頭一夢長、匆々三十二星霜、如今遺跡尋何処、麦熟晴郊満眼黄、

(西南役の古戦場では夢のごとき思いも果てしなく、なんとあわただしく三十二年の歳月を経たことよ。いま、その遺跡をいったいどこにたずねようか、見わたすかぎり麦は熟し、晴れやかな郊外の地はすべて黄色なのである。)

 三十一日(日曜) 晴れ。植木町〈現在熊本県鹿本郡植木町〉金蓮寺にて開会す。住職蓮田慈善氏、町長矢野中蔵氏、田原村長内田真照氏等、有志の発起なり。郡内開会中は郡役所の好意により、特に郡書記島田万蔵氏をして各所に伴行せしめられたり。

 六月一日。朝、植木町上崎氏の宅を辞し、汽車にて高瀬町に降車して玉名郡伊倉町〈現在熊本県玉名市〉に移る。会場は来光寺にして、住職は相良大携氏なり。開会は教育会の発起にかかる。会長明石史一氏、副会長大久保喜熊氏、町長吉富幸次郎氏、有志松尾常人氏、土本才平氏等、大いに奔走の労をとらる。なかんずく相良、松尾両氏の尽力一方ならず。目下麦刈り中にて農繁の時期にもかかわらず、盛会を見るを得たり。郡長十時参吉郎氏も特に来会せらる。松尾氏の贈詩に次韻せるもの左のごとし。

不厭肥南行路危、愛看水好又山奇、望中探句嘆才鈍、随処揮毫喜日遅、風月清新人養気、民情淳朴徳成基、客身来宿伊倉夕、此地仙源誰復疑、

(肥後の旅路のあやうさをものともせず、この地の水の美しさや山の秀麗さをいとおしみ見る。眺めるうちに景観にかなう詩句を求めては才能の乏しさを嘆じつつ、いたるところで感興のままに筆をふるい、日中の長さを喜ぶ。清風明月のもたらすすがすがしさに人々は英気を養い、民情は淳朴でもとより道徳がその基盤となっている。旅客の身として伊倉町に夕べの宿をとる。この地の仙人が住むような地たること疑う余地はない。)

羨君念仏送天年、不願功名不学仙、別有詩書風月楽、経為屋壁筆為椽、

(君の仏を念じて天与の年を送り、功名を願わず、かといって俗世を離れる仙人の道を学ぼうともしない生活がうらやましい。君には別に詩を賦し書を読み風月をめでる楽しみがあり、まるで経文で屋壁をつくり、筆をもってたるきとしているようである。)

 この日、八淵蟠竜氏の還暦の祝宴あるを聞き、祝電を発し、かつ小詩を賦す。すなわち「竜臥深淵底、老来気益新、挙杯時献寿、六十一年春」(竜は深い淵の底によこたわっていこい、老いて気概はますます新たにおこるという。それは八淵氏のごとくである。氏のために杯をあげて長寿を祝福しよう。まさに六十一歳の春をことほぐ。)の五絶なり。

 二日 晴れ。江田村〈現在熊本県玉名郡菊水町〉白石西福寺に移りて開会す。住職は受楽院円氏なり。しかして主催は教育会なり。村長益永喜一郎氏、高等校長村上昌弘氏、尋常校長村上猛氏等の教育家および受楽院氏の尽力あり。郡視学佐々木乙氏も来会せらる。宿寺の軒前遠く小岱山に対し、近く菊池川に臨み、山光水色雨奇晴好の趣あり。晩景ことに佳なり。

  野径探幽入寺門、風光迎我笑将言、江村暮色蒼々裏、印出山頭月一痕、

(野の小道に俗気のない静かさを求めて行き、寺院の門を入れば、風光の美が私を迎えてほほえみ、ものいわんとするがごときである。江田村の日暮れの色は青々として、印出山の上に月がかかっている。)

 三日 晴れ。途中、菊池適氏と相別れ、午前、玉名中学校〔弥富村〈現在熊本県玉名市〉〕に至り、生徒のために講話をなす。校長は甲野吉蔵氏なり。午後、高瀬町〈現在熊本県玉名市〉延久寺にて開会す。住職は永野悦導氏なり。しかして発起は教育会にして、十時郡長、佐々木郡視学をはじめとし、高等校長阪富初太郎、警察署長藤山武雄氏、町助役三原安蔵氏、尋常校長内田綱吉氏等、みな大いに斡旋の労をとらる。演説後、懇話会ありて、市原屋に宿泊す。ときまさに陰暦端午に当たる。昨年は豊後西叡山下にありてこの辰を迎えり。今夕、あに一作なかるべけんや。

  一路薫風端午天、翩々旗影舞軒前、未醒西叡山根夢、忽作菊池川上眠、

(一路に風かおる陰暦端午の日、客亭の軒の前にはへんぽんとして旗がひるがえる。昨年の端午の日、豊後西叡山のもとでむすんだ夢のまだ覚めないうちに、たちまち今日は菊池川のほとりで眠るのである。)

 客亭は菊池川に向きて開き、橋上、自転車往復頻繁、ほとんど目送にいとまあらず。

  一帯清流橋影長、脚車如織送迎忙、客楼偶購鮮魚得、独酌閑吟弄夕陽、

(帯のごとく流れる清らかな水に橋の影が長く落ち、橋上には自転車が機織りの梭〔ひ〕のように忙しく往来している。旅館ではたまたま鮮魚を買うことができたので、これを肴にひとり酒をくみ、のどかに吟じ、夕日を鑑賞したのであった。)

 脚車とは自転車をいう。熊本市より平田良知氏、送別のために来訪せらる。

 四日 晴れ。高瀬町を発し、高道村〈現在熊本県玉名郡岱明町〉安養寺に至りて開会す。随行隈部湛澄氏の所住にして、同氏の主催にかかる。巍然たる大堂高く田圃の中に聳立す。県下屈指の大坊なり。途上、学校生徒の歓迎あり。久保佐三、梅脇皐皡、西寺法幢、松本卓爾、西山弥一郎の諸氏、みな奔走の労をとり、高道村長新道久米次氏、大野村長浦野鶴亀氏、校長柴尾虎喜氏等も大いに助力せらる。聴衆満堂、すこぶる盛会なり。

 五日 晴れ。長洲町〈現在熊本県玉名郡長洲町〉西光寺に移りて開会す。住職は西住大現氏なり。しかして主催は教育会なり。町長山口鶴熊氏、支会長水本乙蔵氏、副会長吉村一知氏、女子部長日高武六氏および各教育家、みな大いに尽力あり。佐々木視学も助力せらる。宿所は神職松田五郎氏の宅なり。いたるところ、ときまさに麦収の最中に属す。

 六日 晴れ。午前十一時、長洲にて乗車し、筑後矢部川駅に降車し、これより行くこと三里半、南関町〈現在熊本県玉名郡玉名郡南関町〉に着す。時針二時を報ず。会場および宿所は正勝寺にして、主催は教育会なり。町長平井弥太郎氏、高等校長平橋麟象氏、尋常校長坂井栄太郎氏、実業補習校長中川文次郎氏等、みな大いに尽力せらる。宿寺前住職は哲学館出身者中の先輩なりしが、不幸にして今すでに隔世の人となり、相見ることを得ざるは遺憾に堪えざるところなり。その所感を述ぶ。

  筑野肥山一路賒、駆車遥到故人家、故人已逝門庭寂、黙坐空看遺愛花、

(筑後の野と肥後の山をつなぐ道は遠く、車を走らせてはるかに昔なじみの人の家に至る。その知人はすでに逝去して、主をうしなった寺門も庭もさびしく、もの言わず座してむなしく遺愛の花をみたのであった。)

 郡書記石井雄蔵氏ここに来会せらる。

 七日(日曜) 晴れ。朝、南関を発し、車行して山路崎嶇の間をわたり、緑村〈現在熊本県玉名郡三加和町〉に入る。途中、在郷軍人団の歓迎あり。正念寺にて開会す。住職武田哲道氏の主催なり。その郷は四面めぐらすに丘山をもってす。桃花流水別天地の趣あり。隈都日円氏ここにきたりて送別せらる。

 八日 晴れ。緑村より南関を経、高瀬駅にて乗車す。行程七里、これより上熊本駅に至りて降車し、白水館にて午餐を喫し、粟津大寂氏および山川正氏とともに車を連ね走ること三里、上益城郡木山町〈現在熊本県上益城郡益城町〉に至る。途中、小学生徒の歓迎最も盛んなり。その数、約千人と算す。会場は高等小学校にして、聴衆充溢す。上益城郡視学松岡彪氏も来会せらる。町長佐伯鉄夫氏、高等校長山川氏および粟津氏の尽力ただならざるを知る。近村各学校長、みな大いに奔走の労をとれり。宿所は矢野安氏の宅なり。ときに粟津氏の詩韻を歩して同氏に贈れる一絶あり。

  城北君曾結草廬、撚髯日夜楽詩書、随時又挈吟嚢去、納尽江山無所余、

(城北に君は以前より草ぶきのいおりを結び、ひげをひねりながら昼も夜も詩を賦し書を読むを楽しんでいる。時のままに吟詠のふくろをひっさげて行き、江山の美をことごとく納めて余すところがないのである。)

 また、九十九歳の老翁の手痕に対し、もとめに応じ「紙上手痕新、墨光自有神、嗚呼是何怪、九十九年人」(紙上の手痕も新たに、墨の輝きにもおのずから霊妙なおもむきがある。ああ、このことをいったいどうして怪しむことがあろう。なにしろ九十九歳の人の手痕なのである。)の四句を題す。

 九日 晴れ。山川校長とともに木山町を発し、途上、横井小楠の墓碑を望見して、熊本市に向かう。去月十八日以来連晴雨なく、ために塵埃空に舞い、黄煙のごとき中に熊本県と一別を告ぐるに至る。この日午前十時、上熊本発にて福岡県に入る。

 前述のごとく熊本県下は約百日間を費やし、いたるところ歓迎に接し優待を受けたるは、厚く熊本人士に向かいて感謝せざるを得ず。県庁および郡役所の周到なる配意と町村役場のすくなからざる尽力とは、これまた大いに敬謝するところなり。本県は一種の方言と一種の気風を有する地なり。その気風のごときは一長一短ありて、その長所は真面目にして生意気の風なく、沈勇にして浮薄ならざるにあり。その短所は自ら信ずるところに固執して、人と融和し難きにあり。しかして同主義の間においては最も深厚なる友情を有す。また、寡言にしてしかもよく理屈を言い張るがごときも、その特性の一ならんか。もし一言にしてこれを評すれば、熊本人は商人風にあらずしてむしろ士族風なり、士族風にあらずしてむしろ漢学者風なりというを得べし。教育の内容いかんは知り難きも、外形においては見るべきもの比較的少なし。宗教は真宗の多きにかかわらず、勢力すこぶる微弱なり。方言に関して余のつづりたる三十一文字あり。

  いさぎいー、そーにやー、おつけなりました、いたまぐりして、飲めや赤酒、

 右は余が聞き込みたる方言を排列せるまでにて、意味の貫通せるにあらず。気候のごときは朝と昼との寒暖に高下の差ありて、一日中に激変あるがごとくに感ぜり。朝時冷気をはだに感ずるときに、「ミガンガヨイ」というも一方言なり。他はこれを略す。

     熊本県開会一覧表(三月十二日より六月八日まで八十九日間)

   市郡    町村     会場    演説   聴衆     主催

  熊本市          議事堂    二席  七百人    市教育会および仏教団体

  同            寺院     一席  六百人    同

  同            寺院     二席  七百人    寺院

  同            偕行社    二席  五百人    愛国婦人会、将校婦人会等

  飽託郡   春日町    小学校    二席  百五十人   郡教育会

  同     高橋町    寺院     二席  八百人    寺院

  同     川尻町    寺院     二席  七百人    寺院および青年会

  同     小島町    寺院     二席  四百人    町内有志

  同     大江村    小学校    二席  百人     郡教育会

  同     清水村    小学校    二席  百人     同

  同     池上村    小学校    二席  百五十人   同

  同     西里村    寺院     二席  百人     寺院

  同     奥古閑村   寺院     二席  七百人    村内有志

  同     藤富村    寺院     二席  九百人    郡教育会および寺院有志

  宇土郡   宇土町    寺院     二席  一千人    教育懇話会

  同     三角町    小学校    二席  五百人    町村有志

  同     松合村    寺院     二席  九百人    村内有志

  玉名郡   高瀬町    寺院     二席  六百人    郡教育会

  同     伊倉町    寺院     二席  七百人    同

  同     長洲町    寺院     二席  五百人    同

  同     南関町    寺院     二席  六百人    同

  同     弥富村    中学校    一席  四百人    中学校

  同     江田村    寺院     二席  五百人    郡教育会

  同     高道村    寺院     二席  九百人    寺院および有志

  同     六栄村    寺院     二席  一千人    修身教会

  同     緑村     寺院     二席  四百人    寺院

  鹿本郡   山鹿町    寺院     三席  八百人    郡教育会

  同     来民町    寺院     二席  五百人    同

  同     同      寺院     一席  三百人    青年会

  同     同      中学校    一席  四百人    中学校

  同     植木町    寺院     二席  六百人    町内有志

  同     広見村    小学校    二席  五百人    郡教育会

  同     山本村    寺院     二席  五百人    郡教育会

  同     三玉村    寺院     二席  四百人    寺院および有志

  同     千田村    寺院     二席  五百人    寺院および有志

  菊池郡   隈府町    寺院     一席  四百人    郡教育会

  同     同      寺院     二席  七百人    同

  同     大津町    寺院     二席  六百人    同

  同     陣内村    寺院     二席  四百人    同

  同     合志村    寺院     二席  六百人    村内有志

  同     泗水村    小学校    一席  百人     郡教育会

  同     同      小学校    二席  六百人    同

  同     西合志村   寺院     二席  八百人    村内有志

  同     田島村    寺院     二席  四百人    青年会および有志

  同     加茂川村   寺院     二席  三百人    村内有志

  阿蘇郡   宮地町    寺院     二席  七百人    町内有志

  同     同      農業学校   一席  百五十人   農業学校

  同     馬見原町   小学校    二席  一千人    町内有志

  同     内牧町    寺院     二席  七百人    村内有志

  同     坂梨村    寺院     二席  七百人    村内有志

  同     山田村    寺院     二席  二百五十人  村内有志

  同     北小国村   寺院     二席  五百人    四恩会

  同     同      寺院     一席  二百人    婦人会

  同     南小国村   小学校    二席  三百人    四恩会

  同     白水村    小学校    二席  一千五百人  村内有志

  上益城郡  御船町    小学校    二席  三百人    町内有志

  同     甲佐町    寺院     二席  七百人    小学校同窓会

  同     木山町    小学校    二席  八百人    町村教育会

  同     浜町村    寺院     二席  六百人    村内有志

  同     六嘉村    小学校    二席  八百人    村内有志

  同     高木村    寺院     二席  四百人    村内有志

  下益城郡  松橋町    寺院     二席  五百人    町村有志

  同     小川町    小学校    二席  一千五百人  町村有志

  同     隈庄町    寺院     二席  一千二百人  町村有志

  同     守富村    小学校    二席  三百人    各村有志

  同     中山村    小学校    二席  一千人    各村有志

  同     東砥用村   寺院     二席  六百人    村内有志

  同     西砥用村   小学校    二席  一千五百人  村内有志

  八代郡   八代町    女子小学校  二席  百五十人   南部教育会

  同     同      劇場     二席  一千人    町内有志

  同     同      劇場     二席  八百人    中学校および高等女学校

  同     同      寺院     二席  一千人    寺院

  同     鏡町     寺院     二席  七百五十人  町内有志

  同     宮原町    小学校    二席  四百人    町内有志

  同     吉野村    寺院     二席  二百五十人  村内有志

  同     野津村    寺院     二席  五百人    村内有志

  同     同      小学校    二席  百人     北部教育会

  同     和鹿島村   寺院     二席  三百人    村内有志

  同     有佐村    寺院     二席  三百五十人  村内有志

  同     種子山村   寺院     二席  七百人    各村有志

  同     河俣村    寺院     二席  六百人    村内有志

  同     竜峰村    寺院     二席  三百人    村内有志

  同     宮地村    小学校    二席  四百人    村内有志

  同     太田郷村   寺院     二席  二百人    村内有志

  同     松高村    寺院     二席  三百五十人  村内有志

  同     植柳村    寺院     二席  三百人    各村有志

  同     下松求麻村  寺院     二席  三百人    村内有志

  同     同      寺院     二席  三百五十人  村内有志

  同     上松求麻村  小学校    二席  二百人    村内有志

  葦北郡   日奈久町   寺院     二席  五百人    崇徳会

  同     佐敷町    寺院     二席  三百人    町内有志

  同     田浦村    寺院     二席  七百人    村内有志

  同     水俣村    寺院     二席  五百人    村内有志

  球磨郡   人吉町    劇場     二席  一千人    郡教育会

  同     同      寺院     三席  六百人    仏教団

  同     同      劇場     二席  一千二百人  青年会および実業倶楽部

  同     上村     農業学校   一席  二百人    農業学校

  同     多良木村   小学校    二席  五百人    郡教育会

  天草郡   本渡町    寺院     二席  五百人    町内有志

  同     同      寺院     一席  三百人    寺院

  同     富岡町    寺院     二席  三百五十人  町内有志

  同     牛深町    小学校    二席  三百人    町内有志

  同     姫戸村    小学校    二席  二千人    村内有志

  同     上村     寺院     二席  九百人    村内有志

  同     今津村    小学校    二席  六百人    村内有志

   以上合計 一市、十二郡、八十七町村、百六カ所、二百二席、五万九千九百五十人

P489-----------

福岡市紀行

 明治四十一年六月九日 晴れ。朝、熊本県上益城郡木山町を去り、上熊本駅より乗車。途中、哲学館出身者吉田文太郎氏、斎田耕陽氏に出会す。午時、博多駅〔福岡市〈現在福岡県福岡市〉〕に着するや、福岡県事務官湯地幸平氏をはじめとし、各学校長、各新聞主筆、哲学館出身等の諸氏数十名の歓迎あり。宿所は栄屋旅館なり。午後三時、高等女学校にて開演す。教育会の主催にかかる。

 十日 晴れ。午前、師範学校において講演をなす。校長は浜口庄吉氏なり。ついで、筑紫高等女学校に出演す。知人水月哲英氏これに長たり。午後、女子師範学校に移り、午餐の待遇に接し、校内一覧の後、講話をなす。校長奥田教佶氏は同郷の旧知なり。午後三時、高等女学校にて開演すること前日のごとし。演説後、茶話会あり。寺原知事、および湯地事務官の外、市長佐藤平太郎氏、有志家中村祐興氏等数十名の出席を見る。当夕、博多万行寺にて臨時開催せる仏教青年会に出演す。小室直幸氏その幹事たり。

 十一日 晴れ。朝、寺原知事の宅を訪問し、ただちに商業学校に至りて講演をなす。校長は太田徳次郎氏なり。つぎに、農学校に移りて演述す。校長は沢誠太郎氏なり。喫飯後、庭園内を一覧し、これより車行二里、中学修猷館に出演す。校長は旧友西村謙三氏なり。演説後、貝原益軒翁の墳墓に詣す。

  金竜寺畔古賢眠、碑石苔封二百年、今日墓前人不絶、可知遺徳有天伝、

(金竜寺のかたわらにいにしえの賢者がねむる。その碑石は苔むして二百年をへた。今日に至るも墓前に人の絶えることはなく、貝原益軒翁が残した学徳は天より伝えられたものと知るべきである。)

 更に散策を進めて福岡西公園の丘上に登る。湾内の風光点々指示すべく、煙雨を隔てて碧波白帆を見るところ、趣味一段深きを覚ゆ。

  覇台高処試登攀、湾外有洲々外湾、帆影波光煙雨裏、風光却在渺茫間、

(西公園の覇台の高みに登ってみれば、湾の外に島々があり、島の外に湾があるといった様子である。白い帆の姿やきらめく波がけぶるような雨のなかに見え、すぐれた景色というものはむしろこのような広く果てしないなかにあるのであろう。)

 再び歩向を転じて、東公園松林中を逍遥し、元寇紀念碑および紀念館を拝観し、一方亭に入りて旧哲学館出身者と晩餐をともにす。会するもの斎田耕陽、菊池敏彦、古田虎次郎、竜淵猷山、渡辺豪、随行隈部湛澄諸氏なり。席上、興に乗じて駄作を試み、快談深更に及び、おのおの歓を尽くして散ず。

 十二日 晴れ。午前、高等女学校生徒のために出演す。校長は中垣安太郎氏なり。演説後、ただちに帰京の途に上る。多数の送行者あり。福岡市開会に関しては、前記の諸氏の外に新聞社長浜地禎造氏、および福本誠氏、市学務主任宇佐元緒氏、高等小学校長島田寅次郎氏、懸視学中村能道氏等の好意をかたじけのうす。

 十三日 晴れ。夜十時、帰宅。静養のために十六日より二十二日まで、日光および会津山中に客遊を試む。会津は東山温泉新滝旅館に滞在す。二十二日夕、帰京。ただちに二十四日朝八時、新橋発にて佐賀行の途に上る。二十五日、九州線に移るや、黒木大将と列車を同じくす。博多駅を通過するとき中村祐興氏、斎田耕陽氏、大雨をおかして車中に来訪あり。中村氏は春秋八十に達し、なお矍鑠たり。故に左の詩を賦してこれに贈る。

  鶴髪童顔気未摧、言容両圧少年来、対翁欲謝歓迎厚、為我仙笻曳幾回、

(白髪と童顔をもって、いまだ気力もおとらえず、言葉も様子もともに年少の者たちを圧する勢いである。この翁に対して手厚い歓迎を受けたことや、私のために仙人がつくようなみごとな杖をついて何度もでて下さったことなどを感謝したいのである。)

 また、斎田氏が余の談片を新聞紙上に紹介せられたるを一見して、一絶を浮かぶ。

  曾握教鞭東海道、今在筑陽耕紙田、吾舌雖痿君筆健、能令談片吐雲煙、

(かつては教鞭を東海道の地にとり、今は筑前の地で新聞に執筆している、私の談話は君の健筆を生気のないものにしてしまったとはいえ、よくも私の談片に雲煙を吐くような力を与えたものだ。)

 以下は佐賀県紀行に譲る。

P492-----------

佐賀県紀行

 明治四十一年六月二十五日 雨。午後七時、佐賀〈現在佐賀県佐賀県佐賀市〉へ着す。市長石丸勝一氏の外、熊谷広済、蜂須賀学純、西村万次郎、住友縫之助(県視学)等諸氏の歓迎あり。旅館は栄徳屋なり。

 二十六日 雨。午前、佐賀中学校にて講話をなす。校長鈴木券太郎氏はもと哲学館講師にして旧知たり。つぎに、成美女学校に移りて談話をなす。校長は江頭幾三郎氏なり。午後、願正寺において開会す。佐賀県第一の巨刹と称す。熊谷広済氏これに住す。

 二十七日 雨。午前、高等女学校にて演述す。校長は横尾義勇氏なり。県庁に出頭して事務官豊島愿氏に面会す。午後、龍谷中学校にて講話をなす。校長は熊谷氏なり。哲学館出身者寺崎慈弁氏、この校にありて教鞭をとらる。ついで、劇場喜楽舎にて開演す。聴衆満場、千人と目算す。当夕、清漣亭において旧哲学館同窓会を開く。会するもの関玄透氏、鷲崎覚音氏、梅田等氏、寺崎慈弁氏、久岡重胤氏および随行隈部湛澄氏なり。鈴木中学校長、熊谷龍谷校長も客員として出席せらる。席上所感一首あり。

  同窓一夕会清漣、隣室何人来弄絃、俗曲難傾君子耳、閑談微笑味幽玄、

(この夕べに同窓会を清漣亭に開いた。ところが隣の部屋に入った客が三絃をかきならしたのであった。きこえてくる俗曲はわれわれ君子の耳にはなじみがたく、閑談と微笑のうちにこそ深いおもむきがあるのである。)

 二十八日(日曜) 雨。午後、武徳会館において開演す。夜に入りて、願正寺にて茶話会あり。教育家、宗教家、一般有志者、約五十名相会す。

 二十九日 雨。午前、師範学校にて講演をなす。校長は川島庄一郎氏なり。つぎに、商業学校にて談話をなす。午後、佐賀郡春日村〈現在佐賀県佐賀郡大和町〉高等小学校に移りて開会す。教育会の主催なり。

 三十日 雨。午前は商船工業学校分校、および佐賀婦人会(会長は鍋島侯爵夫人)、午後は商船本校にて講話をなす。本校は佐賀郡中川副村〈現在佐賀県佐賀郡川副町〉にあり。校長は門脇観次郎氏なり。引き続きて川副高等小学校にて開演す。車行して佐賀に帰る。途中、大雨盆を傾けて至る。佐賀市開会に関しては、国光事務官、石丸市長等二十余名発起人となり、蜂須賀学純、西村万次郎両氏中枢に当たりて、諸事斡旋の労をとられたるは、ここに謝するところなり。西村氏は二十年来の旧知にして、ともに帝都を辞して伊勢大神宮に参拝せしことあり。ここに一絶を賦して今昔の感を述ぶ。

  昔年共背帝都春、同駕舟車詣大神、今日相逢君未老、愧吾已化白頭人、

(昔のことながら、一緒に帝都の春にそむくように旅立ち、舟にも車にも同乗して伊勢大神宮に参詣したものであった。今日、君に会ったところ、君はまだまだ若く、私がすでに白髪の人となっていることがはずかしい。)

 七月一日 晴れ。早朝、杉本大善氏とともに佐賀栄徳屋を出発し、武雄駅に降車するや、鹿島地方より光山覚城氏、西河超行氏等数名の有志、ここに歓迎せらる。これより石油車に駕して藤津郡八本木村に至る。途上の所見、詩中に入るる。

  梅霖欲霽暁猶昏、風払宿雲初見暾、一路秧田青十里、煙車吹笛入仙源、

(梅雨のけぶるような雨がはれあがりそうではあるが夜明けはなおくらく、風がようやくおおっていた雲を吹き払って、はじめてみわたすことができた。道を行けば田植えの終わった田が青々として十里のかなたまで続くかと思われ、煙を吐く車は汽笛をならしつつ仙人の住むような地に入ったのであった。)

 八本木より更に腕車に移り、海湾に沿って行くこと四里にして多良村〈現在佐賀県藤津郡太良町〉に入る。会場は哲学館出身者杉本大善氏の説教場なり。四隣の水音琴のごとく、蛙声鼓のごとし。

  多良山下宿茅楼、夜気清凉夏似秋、一夢醒来灯影暗、水琴蛙皷破閑愁、

(多良山のふもと、かやぶきのたかどのに宿れば、夜気は清らかに涼しく、夏よりも秋を思わせる。ひとたび夢よりさめてみれば灯影もくらく、水の音は琴のごとく、蛙の声は鼓のごとくひびいて、ひそやかなものおもいを破るのであった。)

 杉本氏、生来酒をたしなむ。しかしてその風骨、羅漢に似たるところあり。故に「酒をのむ君の姿をながむれば仏に近き羅漢なりけり」の歌を書して贈る。夜に入りて、村内鐘鼓の声競い起こる。これ、村民の田植えのおわりたるを祝するためなりという。これを方語にして浮立〔ふりゅう〕と名付く。浮き上がりて騒ぎ立つるの意ならん。

 二日 晴れ。多良より八本木村〈現在佐賀県鹿島市〉に移り、泰智寺にて開会す。住職光山覚城氏は鹿島仏教各宗同盟会の主動者にして、今回の開会にも大いに尽力あり。郡長栗本義秉氏も来会せらる。当地には県下第一の稲荷社あり、これを祐徳稲荷と称す。遠近より参詣するもの四時絶ゆることなし。永田佐次郎氏宮司たり。村長は岡富太郎氏なり。当夕、南鹿島村丸屋に宿泊す。

 三日 晴れ。鍋島子爵の寵招を得、同邸にて午餐を賜る。午後、能古見村〈現在佐賀県鹿島市〉西宗寺にて講演をなす。住職は織田省巳氏、村長は永野武幹氏なり。

 四日 晴れ。暑気、日を追いて加わる。午前、鹿島中学校〔南鹿島村〈現在佐賀県鹿島市〉〕にて講演をなす。校長秋田実氏の依頼に応ずるなり。校舎は旧城址赤門内にあり。ついで、鹿島婦人会のために談話をなす。会場は社務所なり。午後、北鹿島村〈現在佐賀県鹿島市〉願行寺にて開会す。住職は田中大純氏なり。演説後、茶話会あり。三日間の公会は、すべて各宗連合より成れる仏教同盟会の発起にかかる。その幹事たる光山、西河、田中等の諸氏、みな大いに尽力あり。よって一詩を賦呈す。

  戦余逆浪未全平、世海暗雲何日晴、独有諸師能護法、鹿陽今日仏灯明、

(日露戦後の余波がなおさかまいていまだ平静にはいたらず、世をおおう暗い雲はいったいいつになったら晴れるのであろうか。ただ各宗の法師のみがよく仏法をまもり、鹿島の地ではみ仏の灯が明るくともされているのである。)

 五日 雨。鹿島より杵島郡武雄町〈現在佐賀県武雄市〉に移りて開会す。会場は小学校にして、主催は教育会なり。郡長酒井茂馬氏、郡視学円田俊造氏の発意にかかる。当夕、旅館東京屋に宿し、温泉に入浴す。晩来、雨ますますはなはだし。雨景、詩中に入るる。

  白竜山下浴楼重、欄外風光晩更濃、雨圧湯煙騰不得、流為雲屏鎖前峰、

(白竜山のふもとに温泉旅館の高殿が並び、手すりより見られる風景は日暮れてますますよい。雨は湯煙をおさえているかのごとく、たなびいて雲の塀となり、前方の峰をかくしている。)

 武雄町長は金丸要人氏にして、校長は下平忠蔵氏なり。

 六日 雨。北方村〈現在佐賀県杵島郡北方町〉に移りて開会す。会場は永源寺にして、住職は杉岡清通氏なり。当地は郡内第一の炭坑地にして、工夫各地より輻湊し、すこぶる盛況を呈するを見る。発起者は議員藤崎熊雄氏、校長後川理一氏、医師田中貫氏、有志家宮原清六氏等にして、なかんずく藤崎氏大いに尽力せらる。夜に入りて、青年会のために一席の談話をなす。旅館は西田屋という。新たに岩下に客室を営む。余、これに命名して岩陰亭となす。旧哲学館出身者谷川理尚氏(旧名規矩丸)、武雄より同行してここに至る。

 七日 雨。白石郷福治村〈現在佐賀県杵島郡白石町〉に移りて開会す。会場は超光寺にして、発起は各村連合なり。住職藤永信暁氏、村長田中松太郎氏、福治校長多久島嘉八氏、六角校長大坪庄吉氏、正隆寺住職今泉鳳宣氏等、みな尽力あり。この地方は米産地としてその名県内に高し。一反の地面に三石ないし三石五斗の収穫ありという。また、道路泥濘に富む。歩するもの大抵みなはだしなり。

 八日 雨。杵島郡より西松浦郡に移る。両三日間同行せる円田視学と途中相別れ、午後一時、伊万里町に降車し、西松浦郡視学原田千之氏および黒川村長吉田芳吉氏と同船し、海上二里、一棹して黒川〔村〕〈現在佐賀県伊万里市〉に入る。会場は立雲寺にして、旅館は嘉登屋なり。この間の泥路の悪きは白石郷の上に出ず。都人士の到底歩しあたわはざる所なり。

  衝雨何辺到、一帆入黒川、岸頭泥没脚、村路険於船、

(雨のなかいずこに至るのか、帆をかけた船は黒川村に到着した。岸のあたりの泥はくるぶしの上まで埋まり、この村の道は船よりも危険な思いがしたことであった。)

 会場の楼上にて湾内の郡嶼を一瞰するを得。当地にて奥村円心氏と会せしは奇遇なり。

 九日 雨。幸いに汽船を得てこれに駕し、伊万里より更に腕車に移り、陸行四里にして大川村〈現在佐賀県伊万里市〉に至る。原田視学も同行せらる。会場は賢勝寺にして、多田得味氏これに住す。村外に山あり、これを眉山というを聞き、一詠を試む。

  梅霖欲霽未全晴、望裏雲烟散復生、今日法輪何処転、眉山脚下梵王城、

(梅雨ははれそうでいながら、まだきれいに晴れるまでには至らぬ。遠く望めば雲ともやが散ってはまた湧き出ている。今日、仏法を説く法輪をいったいいずこにめぐらして行こうか、そこは眉山のふもとにある寺院なのである。)

 村長麻生文太郎氏、校長大久保藤太氏等、村内有志の発起なり。

 十日 晴れ。車をめぐらして伊万里駅外、大坪村〈現在佐賀県伊万里市〉教法寺に入り、ここに開会す。寺院は位置、構造ともに佳なり。千葉康之氏これに住す。発起は各村連合なり。郡長太田祥助氏も来会せらる。村長は前田虎之助氏なり。医師峰源次郎氏、詩を賦して歓迎ありたれば、その韻を歩してこれに答謝す。

  積年討尽学海深、渉猟東西与古今、老後雖消閑日月、猶持済世活人心、

(年月をかけて学問の深奥を究めつくし、さらに東西・古今の書をあわせて読み、老いての後はのんびりと月日をすごすとはいえ、それでもなお世をすくい人を救う心をたもちつづけているのである。)

 円通寺、格岸寺、および平岡伊兵衛氏来訪あり。

 十一日 晴れ。曲川村〈現在佐賀県西松浦郡西有田町・有田町〉浄源寺にて開会す。清風軒に満ちて、消暑によろし。住職は原田量海氏なり。村長西山万蔵氏、校長石丸鷹之助氏、学務委員島田卯吉氏等の発起にかかる。

 十二日(日曜) 雨。大山村〈現在佐賀県西松浦郡西有田町〉竜泉寺にて開会す。発起者は金原文太郎氏、浦野孫市氏等、村内の有志なり。

 十三日 晴れ。朝、西松浦郡を去り、有田、久保田両駅を経て東松浦郡鬼塚村〈現在佐賀県唐津市〉に入る。心月寺にて少憩の上、小学校に至りて開会す。連日の霖雨のために濁水あふれて駅路に上がる。開会は村内の発起にして、村長神戸由政氏、前校長樋口敬太郎氏、学務委員寺沢融禅氏および各区長、みな大いに尽力あり。当夕、旅館に宿す。

 十四日 晴れまた雨。午前、唐津有志総代長井英山氏、佐藤林賀氏の案内にて、同〔唐津〕町〈現在佐賀県唐津市〉金波楼に移る。清風さっとして簾を巻ききたる。しかのみならず、風光明媚なること鎮西第一と称す。ここにきたるもの一吟なかるべからず。

  舞鶴城辺避暑台、軒窓偏向北溟開、披襟坐処凉如水、風自黒竜江上来、

(舞鶴城の近くに避暑のうてながあり、軒も窓もなべて北の海に向かっている。襟元を開いて座せば涼しさは冷水のごとく、風はかの黒竜江より吹いてくるのである。)

 唐津城の雅名は舞鶴城なり。午後、高等女学校に至り、生徒に対して一席の談話をなし、更に公衆に対して演説をなす。校長は丸山置治氏なり。町長矢田進氏、各宗協同会員奥村蓋円氏、長井英山氏、佐藤林賀氏等尽力あり。演説後、浄泰寺に移り、堂前にて撮影の後、茶話会を開く。学生援護会の主催にかかる。浄泰寺は薄浄光氏の兼住せる寺にして、援護会は谷口哲介氏の主唱せる会なれば、ともに哲学館出身なり。郡長柳田泉氏は病臥中にて出席ならず、郡視学江口円次郎氏代わりて歓迎せらる。

 十五日 雨また晴れ。霓林を一過して浜崎村〈現在佐賀県東松浦郡浜玉町〉西福寺に移る。住職は薄浄光氏にして、当地の名望を収む。開会は四カ村連合の発起にかかる。演説後、霓林熊沢旅館に宿し、館主の依頼に応じて松涛館と命名す。先年ここに客居し、霓林に浴詠せること一週日なりしが、三年を経て再遊したれば、懐旧の情を述ぶ。

  霓林深処宿孤楼、風物使吾思昔遊、此水此山此松月、三年不見若千秋、

(虹の松原の奥深い所にぽつんと建つ旅館に泊まる。風物のすべてはかつてここに来遊したことを思い起こさせる。この水も、この山も、この松と月も、三年見なかっただけで、千年も長い年月見なかったような思いがしたものである。)

 これ実に避暑の最良地にして、須磨、舞子の遠く及ぶところにあらず。

 十六日 雨。石油車に投じて霓林を一過し、唐津停車場に着するや、汽車すでに発せり。やむをえず送行の諸氏数名とともに茶亭に休憩し、ビールを傾けて次の発車を待つ。午後、相知〈現在佐賀県東松浦郡相知町〉駅に着す。炭坑所在地なり。坑長石川直記氏は旧同窓なるも、一別以来相見ざること二十余年の久しきに及ぶ。会場は妙音寺にして、住職は向禅竜氏なり。石川坑長をはじめとし、分署長堤義雄氏、相知村長峯焠氏、助役徳田万里氏、校長桑原乙蔵氏、同樋口敬太郎氏等尽力あり。晩食後、石川氏とともに懐旧談をなし、一詩を賦して氏に贈る。

  曾在東都共読書、鎮西再会酌茅廬、話来三十年前事、疑是夢歟又現歟、

(かつて東京においてともに勉学にはげんだ仲であり、鎮西の地で再会してこの茅屋に酒をくみかわしている。話はおのずと三十年前の事どもであるのだが、この楽しみはいったい夢なのかあるいは現実なのかうたがわしくさえなるのであった。)

 十七日 晴れ。梅霖初めてはるる。この日、東松浦郡を去りて小城郡に入り、多久村〈現在佐賀県多久市〉にて開会す。会場は専称寺なり。各学校連合の発起にかかる。多久村長は鳥越剛樸氏にして、校長は江口唱氏なり。郡視学三上新氏来会せらる。演説後、孔子廟に拝詣す。規模儼然、古色蒼然、人をして崇敬の念を深からしむ。

  大道今来何処求、儒林蕭颯幾春秋、豈図多久村南路、聖廟儼然古色稠、

(儒学のいわゆる大道を今やいったいどこに求めようか、儒者の世界のさびしくおとろえて何年を経たことであろう。ところがなんと多久村の南の道には、孔子廟が厳然と古色濃いままに建っているのである。)

 当夕、旅館に宿す。この地は故草場船山翁の郷里にして、今なお漢学の勢力ありという。

 十八日 晴れ。小城町〈現在佐賀県小城郡小城町〉に移りて開会す。校長円城寺源次郎氏、同五郎川一郎氏等、教育家の主催にかかる。会場は中学校講堂にして、宿所は緑屋旅館なり。演説後、公園に散策を試む。県下第一の公園と称す。桜樹多し。

 十九日(日曜) 晴れ。牛津町〈現在佐賀県小城郡牛津町〉正満寺に移り、昼夜二回開会す。当地は本県商業の中心との評あり。住職桑戸廓然氏および医師副島武熊氏の多大なる尽力により、盛会を得たり。町長久本泰三郎氏、校長古川栄氏および中野玄透氏、東大心氏、玉浦翠厳氏、清水文也氏、白木勝三郎氏等もまた、大いに助力せらる。すなわち開会の主動者は教育家および一般有志諸氏なり。

 二十日 晴れ。神埼郡蓮池村〈現在佐賀県佐賀市、神埼郡千代田町〉宗眼寺にて開会す。住職は正覚慈観氏なり。公会の後、更に小学校同窓会のために演説をなす。村長坂井梅春氏、および校長挽地熊次郎氏、卜部秀明氏等の発起にかかる。当夕、郡視学古川卯之吉氏とともに公園内与衆館に投宿す。蓮池花まさに盛んにして、清風荷香を送りきたる。

  一路梅霖已霽時、駆車十里到蓮池、満園風度荷香動、始識村名不我欺、

(ひとすじの道に梅雨もはれあがり、車を駆って十里ほど行き、蓮池に至った。公園すべてにゆきわたる風があり、それにつれて蓮の花の香りが動き、ここに蓮池村という村名が事実と合致して期待をうらぎらないものであることを改めて認識したのであった。)

 名実相応の村というべし。

 二十一日 晴れ。本日、土用に入る。暑気ことにはなはだし。城田村〈現在佐賀県神埼郡千代田町〉高等小学校にて開会す。村長成富要七氏、校長御厨勝一氏等の発起なり。当夜、神埼町富豪大石太郎氏宅に至りて宿す。邸宅は一水の両岸にまたがり、二橋を架してこれと連接す。水心に納涼亭を設く。すこぶる消暑によろし。これに亭名を付して、一水二橋亭となす。

  一水二橋亭与亭、軒々対処夏清泠、世間苦熱人難耐、来入此居風満庭、

(一水二橋亭と亭とは、それぞれの軒端のむかい合うところ、夏の清涼を得るによい。世間の人々が暑さに苦しんで耐えがたい思いをしているとき、このすまいに入れば涼風は庭に満ちみちているのである。)

 二十二日 晴れ。郡書記綾部由太郎氏とともに炎暑をおかして渓行三里、脊振村〈現在佐賀県神埼郡脊振村〉に至りて開会す。途上、渓水往々かかりて飛瀑をなし、水車転々声絶えず。佐賀電灯の水源もここにとる。目下、工事中なり。

  渓頭一路水声喧、送到脊振山下村、深谷怪看工事急、川源変作電灯源、

(谷のほとりにあるひとすじの道には水の音がかまびすしく響き、瀬音に送られるように脊振山のふもとの村に至った。この深い谷ではなんと工事が性急にすすめられて、川の源は電灯の源に変わろうとしているのだ。)

 会場は小学校にして、休憩所は鉱泉場なり。新築ようやく成り、本日はじめて入泉を試む。校長宮崎良輝、助役一番ケ瀬瑳八両氏、主動者となる。当夕、夜に入りて神埼町に帰宿す。当町は素麺の産地なり。

 二十三日 晴れ。神埼町〈現在佐賀県神埼郡神埼町〉真光寺にて、午前、午後ともに開演す。午前の聴衆は講習会員なり。当地開会は郡役所の指導と教育会の主催と宗教家の賛助とにより、郡長郡山軍助氏、視学古川氏、書記綾部氏、校長野田魁氏の斡旋にかかる。浄光寺住職後藤智水氏の尽力またすくなからず。午時は浄光寺において喫飯かつ休憩す。室ひろく風満ちて、暑を消するによろし。

 二十四日 晴れ。午前午後開演、前日のごとし。これよりさき、旧哲学館講師東慈海氏の逝焉を聞き、弔詩を賦してこれに贈る。

  慈師留錫後、西筑仰明星、一夜暗雲度、仏天復晦冥、

(慈海師がこの地にとどまられてから、西筑の人々は明星を仰ぐがごとくであったが、師の遷逝は一夜にして暗雲たれこめ、仏の道もまたくらくしてしまったようである。)

 二十五日 晴れ。神埼郡を去りて三養基郡に移る。田代駅に降車し、郡視学早川辰次氏とともに、車行一里半にして基山村〈現在佐賀県三養基郡基山町〉因通寺に至る。四隣樹深く風清くして、数日間の炎襟を洗うを得たり。堂前の別亭を洗心閣という。調竜叡氏これに住す。

  行尽田蹊入寺門、松杉繞屋午陰繁、北窓一枕清風足、更有泉声浸夢魂、

(田と谷を行きつくしたところにある因通寺の門を入れば、松と杉が寺院をかこんで木陰を作っている。北向きの窓べに枕を寄せて身をよこたえれば、清らかな風がゆきわたり、そのうえ泉の音が夢のなかにまで入りこむのであった。)

 午後開演。村長酒井忠氏、校長久保山重遠氏等の主催なり。

 二十六日 晴れ。田代町〈現在佐賀県鳥栖市〉高等小学校にて開演す。田代、基里両村の発起にして、村長原精一郎氏、森広次氏、校長長谷部真里氏、門司庸夫氏等の主催なり。町内、売薬製造者多し。

 二十七日 雷雨。鳥栖町〈現在佐賀県鳥栖市〉に移る。郡役所所在地なり。会場は轟妙覚寺にして、町長橋本頼造氏、校長古賀立太郎氏、助役光安定一氏、学務委員長谷部老俊氏等尽力せらる。妙覚寺は菅公の遺跡なりと伝え、堂側に一花五子の古梅あり。当夕、福岡より斎田耕陽氏来訪あるに対し、一詩を賦してこれに示す。

  客庭駐得故人車、共宿菅公梅畔家、読了詩篇問遺跡、一胎五子断腸花、

(宿泊せる家の庭に昔なじみの人の車がとどめられ、その人とともに菅公ゆかりの梅のかたわらにある家に泊まった。詩を読んでから菅公の遺跡をたずねて、一花五子のはらわたを断つ思いの花〔古梅〕を見たのであった。)

 壁上に「去年今夜坐清凉」(去年の今夜、清涼に座す。)の詩編を掲ぐ。故にこれを詩中に入るる。また、大内青巒氏作「風花雪月為維新、宇宙茫々不見人、八万四千煩悩外、更無一物与吾親」(自然の風物、風花雪月もあらたに、天地四方茫々として人を見ず、八万四千の煩悩の外に、さらに一物とわれと親しむものなし。)の詩をかけるを見て、これに次韻す。

  宇宙由来万象新、誰言無法又無人、若君欲接真如境、須与風花雪月親、

(宇宙ではもとよりあらゆる現象も新しく、だれがいったい法もなく人もないというのであろうか。もしもあなたが真実の境地を知ろうとするならば、当然、風花雪月の自然と親しむべきである。)

 二十八日 晴れ。麓村〈現在佐賀県鳥栖市〉精高等小学校にて開会す。麓、旭両村の発起にして、村長日吉源三郎氏、藤田礼作氏、校長中島良助氏、宇野正元氏等の主催にかかる。宿所は善竜寺なり。

 二十九日 晴れ。中原村〈現在佐賀県三養基郡中原町〉長善寺にて開会す。住職水智是忠氏、村長中原熊一氏、校長阿部清一氏等の主催とす。

 三十日 晴れ。北茂安村〈現在佐賀県三養基郡北茂安町〉伝称寺にて開会す。住職護山大乗氏、村長藤永市祐氏、校長岡村織三郎氏等の主催にかかる。

 三十一日 晴れ。炎熱、日一日よりひどし。三川村〈現在佐賀県三養基郡三根町〉光円寺にて開会す。南茂安、三川、上峰、三村合同の発起にして、三川村長山田佐吉氏、高等校長三ケ島成一氏、尋常赤司寛作氏等、各村長および校長の主催にかかる。当夕、郡長福地由廉氏来訪ありたれば、ともに晩酌を試む。

 八月一日 晴れ。朝、三川村を発し、久留米駅にて乗車、帰京の途に上り、随行隈部湛澄氏と手を分かつ。郡視学早川辰次氏は余を送りて鳥栖駅に至りて別れを告ぐ。翌二日夜十時、無事にて帰着す。

 佐賀県巡回は六月二十五日より七月三十一日まで三十七日間にして、一市、八郡、六町、二十七村、五十二カ所において開会し、八十八席の演説を重ね、二万四百七十五人の聴衆を得。梅霖日を連ね、炎熱ついで至るにもかかわらず、いたるところ盛会を見たるは、全く郡役所、町村役場をはじめとし、教育家、宗教家および一般有志者の尽力の結果にして、ここに深くその厚意を謝するところなり。学校教育に関しては、尋常高等併置の多きを見て、町村民の教育に注意せる一端を知るべし。宗教につきては寺院の比較的美かつ大なるを見て、盛況のいかんを判ずべし。しかして一般の気風のごときは熊本県に似たるところあれども、その質素の風習のごときは、人をして熊本、鹿児島以上に出ずるかを疑わしむるところなきにあらず。その異様の風俗としては、はだしの多き一事なり。日本全国中、はだしの最も多きは沖縄県にして、これに次ぐものは佐賀県、そのつぎは鹿児島県と次第するを得べし。これを要するに、佐賀県は旧慣を重んずる風ありて、すべて保存的の傾向あり。方言にいたりては熊本に似たるところあるも、熊本よりは解しやすし。ただし兄を呼びて「おばーさん」というがごときは、他府県において、いまだかつて聞かざるところなり。

  ハイをナイ、兄をバーサン、アグラをば、イタマグリとは、佐賀の方言

 帰京の後、詩を賦して謝状に代う。

  欲観風教入西肥、聞説人心逐日非、頼有諸兄能遇我、痩肩復荷重恩帰、

(風俗と教化のようすをみようとして西肥に入った。講説を聞いた人々の心は、日を追うように自ら責めて改良に向かうであろう。諸兄が私をよく待遇して下さったので、私はこのやせた肩に重い恩をになって帰ったのである。)

     佐賀県開会一覧表

   市郡    町村     会場       席数   聴衆     主催

  佐賀市          寺院        一席  八百名    市内有志

  同            劇場        一席  一千名    市内有志

  同            武徳会場      一席  五百名    市内有志

  同            女学校       一席  六百名    成美女学校

  同            女学校       二席  四百名    高等女学校

  同            中学校       一席  三百五十名  龍谷中学校

  同            師範学校      一席  三百名    師範学校

  同            中学校       一席  八百名    佐賀中学校

  同            商業学校      一席  二百名    商業学校

  同            商船工業学校本校  一席  二百名    商船工業学校

  同            商船工業学校分校  一席  二百五十名  商船工業学校

  同            武徳会場      一席  百五十名   婦人会

  同            寺院        一席  五十名    茶話会

  佐賀郡   春日村    小学校       二席  二百名    教育会

  同     中川副村   小学校       二席  二百名    教育会

  藤津郡   多良村    教会所       二席  六百名    村内有志

  同     八本木村   寺院        二席  五百名    仏教団

  同     能古見村   寺院        二席  七百名    同

  同     北鹿島村   寺院        二席  五百名    同

  同     南鹿島村   中学校       一席  四百名    中学校

  同     同      社務所       一席  百五十名   婦人会

  杵島郡   武雄町    小学校       二席  三百名    教育会

  同     北方村    寺院        二席  四百名    村内有志

  同     同      旅館        一席  百名     青年会

  同     福治村    寺院        二席  五百名    各村有志

  西松浦郡  黒川村    寺院        二席  三百名    村内有志

  同     大川村    寺院        二席  六百名    村内有志

  同     大坪村    寺院        二席  七百名    三村合同

  同     曲川村    寺院        二席  七百名    村内有志

  同     大山村    寺院        二席  二百名    村内有志

  東松浦郡  唐津町    女学校       二席  四百名    町内有志

  同     同      女学校       一席  二百五十名  高等女学校

  同     同      寺院        一席  二十五名   学生援護会

  同     浜崎村    寺院        二席  三百名    四カ村合同

  同     鬼塚村    小学校       二席  二百名    村内有志

  同     相知村    寺院        二席  四百名    村内有志

  小城郡   小城村    中学校       二席  四百名    教育家

  同     牛津町    寺院        二席  五百名    教育家

  同     多久村    寺院        二席  三百名    村内有志

  神埼郡   神埼町    寺院        四席  四百名    教育会

  同     同      寺院        二席  百五十名   同講習会

  同     蓮池村    寺院        二席  五百名    村内有志

  同     同      寺院        一席  二百名    青年会

  同     城田村    小学校       二席  四百名    二村合同

  同     脊振村    小学校       二席  五百名    村内有志

  三養基郡  鳥栖町    寺院        二席  四百名    町内有志

  同     基山村    寺院        二席  四百名    村内有志

  同     田代村    小学校       二席  三百名    二村合同

  同     麓村     小学校       二席  五百名    二村合同

  同     中原村    寺院        二席  四百名    村内有志

  同     北茂安村   寺院        二席  五百名    村内有志

  同     三川村    寺院        二席  四百名    三村合同

   合計 一市、八郡、六町、二十七村、五十二カ所、八十八席、二万四百七十五人

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筑後国紀行

 明治四十一年八月十二日夜、新橋発車。十三日午前十時、京都着。哲学館大学出身松本雪城氏とともに伏見町〈現在京都府京都市伏見区〉に至り、大谷派別院にて開会す。聴衆百人、なお盛会と称す。安田英之助氏、四方卯三郎氏等とともに橋畔の旅亭にて晩餐を喫し、ただちに西向の汽車に投じ、翌十四日、糸崎駅浜吉支店に休憩し、十五日午前十一時、福岡市に着、博多妙行寺(菊池敏彦氏所住)に入る。午後、西公園愛勝館において、哲学館および東洋大学同窓大会に出席す。遠近より来会するもの約五十人なり。

荒浪平治郎、薄浄光、杉本大善、谷川理尚、大友良照、大塚恵暢、山本祖学、江藤昇道、堺三司、渋谷智淵、菅原義麿、大関等洋、直江秀円、隈部湛澄、山田鉄太郎、平田良知、本山知英、井上義正、十時護城、渡辺豪、武井義信、竜淵猷山、園井清雄、堤右一郎、鶴田寧彦、中野景雄、増田円智、古田虎次郎、甘城普該、斎田耕陽、菊池敏彦、光応照久、道永甚助、泉含章、橘慶導、上野直一、吉田文太郎、木尾真純(以下これを略す)。

 旧東洋大学講師石川成章氏も出席せらる。席上、筑前琵琶の余興あり。即吟一首、左のごとし。

  同窓五十名、相会覇台城、懐旧三杯酒、琵琶声裏傾、

(同窓生が五十名、覇台の旅館にあいつどう。学生時代を懐かしみつつ数杯の酒をくみ、琵琶の音のひびくなかで傾けたのであった。)

 菊池、竜淵、斎田、古田、渡辺の五氏、幹事の労をとらる。

 十六日(日曜) 晴れ。午前、博多を去りて三池郡に向かう。途中、郡視学小籏陳氏の出迎えに会し、同乗して大牟田町〈現在福岡県大牟田市〉三井来賓接待所に入る。随行は横尾照之氏なり。接待所は丘上にありて、眺望すこぶる佳なるのみならず、室内の設備よく完備し、電機扇の清風を醸しきたるありて、知らず識らず旅客をして労を慰し鬱を散じ暑を忘れしむ。炭坑長山田直矢氏は帝国大学出身にして、余と同窓の旧交あり。故に意外の歓待を受く。午後、小学校にて開演す。教育会の主催なり。郡長東喜之助氏、代議士野田卯太郎氏、大牟田助役岩井芳三郎氏、小学校長富松喬氏等と相会す。

 十七日 晴れ。小籏視学とともに三池町〈現在福岡県大牟田市〉に移り、安照寺にて開会す。同寺住職林田集および尾崎寛量氏等の発起なり。町長は東原俊雄氏とす。

 十八日 晴れ。午前、今山宝興寺にて開会を約せしも、事故ありて果たすを得ざるは遺憾とす。発起者は竹下秀雄氏、高石斉彦氏等なり。午後、駛馬村皆覚寺の開会も赤痢流行のために見合わせとなりたるは、住職今村大善氏の熱心に対して深く遺憾とす。当夕、大牟田町接待所に帰宿す。大牟田町は炭坑と港湾の開鑿のために盛況を呈し、その戸数は市をしのぐの勢いなり。

  家比軒如櫛、船連檣似林、富源開鑿後、尺土価千金、

(家は軒をつらねて櫛のごとく、港の船舶は帆柱をつらねて林のようである。ここは富の源というべき炭坑が掘鑿されて、一尺の土といえども千金の価があるのだ。)

 十九日 晴れ。午前、二川村〈現在福岡県三池郡高田町〉小学校にて、青年会のために講話をなす。村長は大屋徳蔵氏、校長は野田竹次郎氏なり。午後、江浦村〈現在福岡県三池郡高田町〉光万寺にて開演す。住職は木下徳集氏、村長は吉永政太郎氏にして、主催は江浦、岩田、開、飯江、四カ村連合なり。聴衆一千余名、大堂立錐の地なきの盛会を得たり。このごろは連日の炎晴にて、暑気やくがごとし。詩をもってその実況を示す。

  壇上何人講大乗、此時暑気甚於蒸、堂々説去絞心血、背腹流汗知幾升、

(演壇の上ではだれが解脱への説法をなすのであろうか、それは私なのだが、この時期の暑気は蒸されるよりもひどいのである。堂々として説いて心血をしぼり、背にも腹にも流れる汗は幾升であったろうか。)

 二十日 晴れ。三池郡より山門郡に移る。午前、瀬高町〈現在福岡県山門郡瀬高町〉正覚寺にて開会す。聴衆満堂、千をもって算す。主催は教育会および和同会にして、大いに歓待を受く。郡視学今村貞次郎氏および高等小学校長高野種臣氏の尽力少なからず。町長は太田豊蔵氏なり。哲学館大学出身者十時護城氏、武藤蔓人氏、ともに来会す。宿寺の姓は島添にして、壁上幽霊の図を掛く。よって一作を試む。

  瀬高村外鉄車停、一路稲繁田色青、日暮客庭人散後、孤灯影下友幽霊、

(瀬高村のはずれに汽車がとまり、ひとすじの道に稲田が青々とひろがる。日も暮れて客堂の人々が去った後は、ぼつんとともる火影のもとに、私は壁上にかけられた軸に描かれる幽霊を友として向かい合っているのである。)

 二十一日 晴れ。午前、富原村〈現在福岡県山門郡山川町〉山川小学校に至りて開会す。教育家および宗教家の発起なり。その地、肥後国境に接す。当日、瀬高町に帰宿し、旧藩主立花伯私設の農園を参観す。

 二十二日 晴れ。午前、柳河町〈現在福岡県柳川市〉に移り、西方寺において開会す。郡内屈指の大堂も、聴衆をもって充溢するに至る。主催は郡教育会なり。郡長坂本久寿氏は帰省中なれば出会せず。郡視学今村氏、元代議士由布惟義氏、柳河町長古賀卓氏、城内村長安東多紀氏、高等校長緒方文四郎氏、尋常校長福山栄三郎氏等、みな尽力せらる。真宗大谷派寺院の来訪あり。宿所は大和屋旅館なり。ときに柳河の名物鰻魚を食して一詩を賦す。

  車到柳河城外郷、茅楼時解旅中装、勿言名物無滋味、一皿鰻魚四壁香、

(汽車は柳河町はずれの村に至り、かやぶきの宿に旅装を解いたのであった。名物には深い味わうべきものはないなどとはいわないでほしい。この一皿の鰻は四方の壁にまでその香りをうつしているのだ。)

 二十三日(日曜) 晴れ。三池郡を辞して三瀦郡に入る。会場は大川町〈現在福岡県大川市〉劇場にして、郡教育会および仏教青年会の主催なり。宿坊覚了寺住職調円陵氏は、久留米教務所を管す。町長は木下則憲氏なり。郡内は山岳なく丘陵なく満目水田にして、しかも複産業に富む。ただ、飲用水の不良を欠点とす。郡長松崎次郎氏と相会す。哲学館出身者増田円智氏(旧姓木下氏にして、現今久間田村行満寺に住す)、蒲池霊集氏(田口村西教寺に住す)、おのおの連日来訪あり。

 二十四日 雨。木室村〈現在福岡県大川市〉妙光寺にて開会す。住職は百垣法周氏にして、宿所は堺宇三郎氏の宅なり。教育会および仏教同盟会の発起にかかる。

 二十五日 晴れ。木佐木村〈現在福岡県三★(氵+猪)郡大木町〉小学校にて開会す。宿所は宝福寺にして、主催は教育会および仏教和同会なり。宿寺住職竜護仰山氏が酒をたしなむというを聞きて一詠す。

  竜護山辺寺、竹風晩自凉、主僧愛般若、与我酌禅房、

(竜護〔仰〕山氏が住職の宝福寺は、竹に吹く風が日くれておのずから涼しい。氏はことのほか般若湯をこのみ、私とともに寺院の一室に酌んだのであった。)

 これよりさき某氏の嘱に応じ、禅意の詩を賦す。

  禅意吾難解、曾聞色即空、熟眠無念処、大悟在其中、

(禅のもつ意味は私にとっても難解であるが、かつて色即空と聞いたことがある。熟睡、無念のうちにこそ、大いなる悟りは存するのである。)

 昼夜ともに蚊軍来襲す。

 二十六日 晴れ。午前、城島町〈現在福岡県三★(氵+猪)郡城島町〉高等校にて開会す。休憩所は宇都宮正氏の宅なり。主催は実業団体とす。当町は造酒をもってその名高し。来訪者より贈られし酒瓶積みて山をなす。宇都宮氏の名酒を「一鶴」というを聞きて、詩たちまち成る。

  筑後川南路、酒家来此尋、主人有多福、一鶴攫千金、

(筑後川の南の道に、酒家が来てたずねたならば、主人には多福があり、「一鶴」は千金をさらうと答えよう。)

 午後、大善寺村〈現在福岡県久留米市〉小学校にて開会す。宿所は朝日寺なり。教育家および仏教家両団体の主催にかかる。都内各所開会に関して特に尽力せられたりしは、松崎郡長をはじめとし、庶務課長中島次郎氏、視学平位豊太郎氏、郡書記赤司百雄氏、郡吏溝田秀夫氏、小学校長塩川団氏、江頭尚令氏、山浦真氏、大城義鏡氏、新田浄沃氏、山田元味氏、中島教隆氏、岩永志道氏等なり。なかんずく中島氏は始終案内の労をとられたるは深謝せざるを得ず。溝田郡吏は従軍中負傷し、今なお眼底に砲丸を蔵すというを聞き、左の詩を賦して慰安す。

  百戦功成国始安、皇威今日圧三韓、謝吾義勇奉公厚、眼底猶留砲一丸、

(多くの戦いに勝ちをおさめて国ははじめて安泰となり、すめらみくにの威光はこんにち三韓の地をしずめている。正義と勇気をもって公に奉仕すること厚いと感謝する。この人の目の奥にはなお砲の破片があるのだ。)

 木佐木村長は水落操氏、大善寺村長は恒屋一誠氏なり。

 二十七日 晴れ。三瀦郡より八女郡に移り、午前、午後ともに水田村〈現在福岡県筑後市〉にて開会す。主催は西部学会および古島青年会なり。会場常念寺、住職山口徳禅氏は哲学館出身たり。古島銀行頭取吉田文太郎氏は哲学館出身の縁故をもって尽力せらる。これに贈るに左の一詩をもってす。

  曾在吾黌討学原、帰郷日夜養和魂、欲興経国済民道、銀行店頭講富源、

(かつてわが大学において学問をおさめ、帰郷してからは日夜わが国独自の精神を養成している。国家の経営と民を救う道をおこさんとして、銀行の店先で富の追求をおもんばかっているのである。)

 村長は下川周平氏なり。哲学館大学出身甘城普該氏、上広川村より来訪あり。

 二十八日 晴れ。午前、岡山村〈現在福岡県八女市、筑後市〉小学校にて開会す。村長樋口正作氏の発起なり。鶴田喜一郎氏の宅に少憩して、午後、福島町〈現在福岡県八女市〉議事堂に移る。盛会を得たり。開会は教育家、宗教家の主催にして、町長立花鎮毓氏、校長川口深造氏、正福寺調体全氏等、みな尽力あり。しかして郡内開会に関しては郡長田中慶介氏、郡視学山路忠夫氏、郡書記真鍋博愛氏等、大いに尽力せられたるは深謝するところなり。宿所は牛島大吉氏の宅とす。

 二十九日 晴れ。午前、辺春村〈現在福岡県八女郡立花町〉に至り、円福寺にて開演す。聴衆、内外に満つ。村長大石琢磨氏の主唱にかかる。氏は村治上その名高し。校長は小島竜石氏なり。途中、一作を得たり。

  秋風渓上路、傍水入辺春、肥筑山連処、白雲自作隣、

(秋風の吹く谷ぞいの道、水にそって辺春村に入る。肥後と筑後に連なる山々には、白雲がおのずと隣り合うようにかかっている。)

 午後、光友村〈現在福岡県八女郡立花町〉専勝寺に転じて開会す。聴衆、千三百人と称す。住職月足円融氏、村長立花鎮靖氏、校長安部清見氏等尽力あり。

 三十日(日曜) 晴れ。黒木町〈現在福岡県八女郡黒木町〉に移りて、専勝寺にて開会す。宿所は町長隈本勝三郎氏の宅なり。この地、矢部川に浜し、鮎魚の産あり。故にこれを詩中に入るる。

  筑南一路走軽車、遥到武陵渓上廬、満室清風満樽酒、虫声冷処酌香魚、

(筑後の南の一路を軽々と車を走らせて、はるばると理想郷武陵の谷川のごときほとりにたつ廬に至った。室内には清風が満ち、樽には酒が満ちて、虫の声の涼やかに聞こえるなかで香魚を肴に酒を酌んだのである。)

 ときに秋涼草根に入りて、虫声庭に満つ。主催は町役場および小学校なり。小学校長堤右一郎氏は哲学館出身たり。高等校長は宮園万造氏なり。

 三十一日 晴れ。午後、雷雨あり。開会は木屋村〈現在福岡県八女郡黒木町〉光善寺なり。住職を木屋久麿氏という。先年、老儒石門翁これに住す。今なお遺愛の幽霊図あり。余、これに題するに七絶をもってす。

  石径尽頭蕭寺孤、昔年曾此住鴻儒、其人雖去猶留跡、一幅幽霊遺愛図、

(石の多い小道の尽きるあたりに、さっぱりした感じの寺がぼつんとたつ。むかしこの寺院には碩学の儒者が住んでいた。その人が去ったとはいえ、なお跡をとどめており、一幅の幽霊の図は遺愛の品である。)

 この地、山青く水白く、武陵渓上の趣あり。村長仁田原団九郎氏、校長一ノ瀬氏をはじめとし、役場員、教育家、宗教家の尽力少なからず。

 九月一日 晴れ。山行四里、横山村〈現在福岡県八女郡上陽町・広川町〉西光寺に至りて開会す。道険にして腕車の通じ難き所は、三人にて車をになって登る。歓迎者多し。前後の諸山、蒟蒻を培養す。これ村内の名産たり。渓川を星野川という。

  星野川頭路幾彎、白雲堆裏水声閑、仙源今日務生産、蒟蒻草埋前後山、

(星野川のほとりの道はいくたびかまがり、白雲のかさなるうちに水の声がのどかに聞こえてくる。この仙人の住むような地も、こんにちは生産物に力を入れ、こんにゃくの葉がいずれの山も埋めるように植えられている。)

 宿寺住職森田真月氏、村長井上金吾氏、校長古賀誠一氏等、みな尽力あり。村内、井上を姓とするもの多し。

 二日 晴れ。中広川村〈現在福岡県八女郡広川町〉西念寺に転じて開会す。三村合同の発起にして、役場、学校、寺院の主唱なり。宿寺住職は蒲池意海氏にして、村長は中島寿吉氏なり。甘城香樹氏来訪あり。本村は八女郡内巡回の最後なるをもって、田中郡長も特に好意をもって来会せらる。聞くところによるに、本郡は県下において最も各種の物産に富むという。

 三日 晴れ。八女郡久留米市〈現在福岡県久留米市〉に移る。山路郡視学、送りてここに至る。会場は高等女学校にして、宿所は塩屋旅館なり。主催は教育会および真宗寺院とす。真宗大谷派教務所書記高木氏、管事に代わりて来訪あり。

 四日 晴れ。開会は前日に同じ。日暮、市長吉田惟清氏、助役恵利千次郎氏、中学校長金沢来造氏、宗教家崇谷、稲葉諸氏等と会食す。

 五日 晴れ。三井郡御井〈現在福岡県久留米市〉高等校にて開演す。郡教育会の発起なり。当夕、御井町永福寺に宿す。住職を阿現英氏という。その前住大解氏は哲学館出身なり。席上、一首を浮かぶ。

  寺立高良山麓林、満庭樹影夕陽深、蝉吟漸歇虫吟起、天楽声中養道心、

(寺は高良山麓の林のなかにたち、庭には樹々が満ちて、夕日が深々とさしこんでいる。蝉の声がようやくおわって、いまや虫の声がおこり、この天然の音楽のなかで正しい道徳の心を養うのである。)

 高良山は郡内名所の一なり。校長は細江新之助氏という。このころ、斎田耕陽氏出産を報じて曰く、長男を耕助と名付け、次男を陽助と名付く、将来父名をけがさざらんことを祈ると。即時、詩を賦してこれに答う。

  二子命名其意深、長名耕助次名陽、此児他日業成後、須使父名千載芳、

(二人の子に名付けるに、その意味には深いものがある。父の名である耕陽よりとって、長男を耕助、次男を陽助と名付けた。この子たちが将来大事業を成し遂げたときは、当然、父の名を千年の後までも伝えることになるのだ。)

 六日(日曜) 晴れ。善導寺村〈現在福岡県久留米市〉善導寺にて開会す。寺は浄土宗鎮西本山にして、堂宇の大なるは九州に冠たり。広安真随僧正これに住す。宿所は久保山庫太氏の宅なり。郡長左正武氏、郡視学天野開作氏も来会せらる。当夕、旧八月十一日にして、明月輝を流す。

  秋風何処宿、善導寺前家、初夜鐘声動、明月送光華、

(秋風のなか、いずこを宿とせんか、すなわち善導寺の前の家なのである。日没後に鐘の音が響き、明月はその輝きを地に送っている。)

 七日 晴れ。浮羽郡田主丸町〈現在福岡県浮羽郡田主丸町〉に移りて開会す。町長鹿毛久次郎氏の主催にかかる。会場は公会堂広運館にして、宿所は来光寺なり。住職本田元誓氏は書画をよくし、自画に一作を題せんことをもとむ。すなわち「芸通詩与畵、学究仏兼儒、為我君揮筆、即時写此図、」(住職の芸は詩と画にひいで、学問は仏教に儒を兼ねて究めている。私のために筆をふるって、即座にこの図を書き上げたのである。)の四句を賦してこれに贈る。

 八日 晴れ。開会、前日のごとし。鹿毛町長、自家醸造の豊花酒を贈らる。よって詩をもって答礼とす。

  錦屏山下路、来宿梵王城、偶得豊花酒、三更対月傾、

(錦屏山のふもとの道をたどって、この寺院に泊まる。たまたま豊花酒を贈られ、三更〔真夜中十二時前後〕に月にむかって杯を傾けたのであった。)

 錦屏山は数里に連なれる一帯の山脈にして、その形屏風のごとし。故にその名あり。浮羽郡は西方に錦屏山、東方に筑後川を襟帯せる中間の平地なり。

 九日 晴れ。吉井町〈現在福岡県浮羽郡吉井町〉に至りて開会す。郡教育会の主催にかかる。会場は和鳴館にして、宿所は日田屋なり。楼上、眺望に富む。

 十日 晴れ。吉井町に滞在し、午前は仏教同盟会の主催、午後は吉井倶楽部の発起にて開会す。当夕、まさしく中秋三五の明月に会す。清風楼に満ち、夜気洗うがごとし。観月の作、数首たちどころに成る。

身似虚舟任去留、西陲今夜会中秋、風清月白何辺好、偏在錦屏山下楼、

(この身はから舟にも似て流れるままにまかせ、この西の果て、今夜は中秋の明月にあう。風は清く、月は白く、いったいどこが好ましいのか、それはひとえにこの錦屏山下の客楼にあるのである。)

不管此身浮又沈、朝昏只喜仏恩深、秋風今夜一輪月、照到迷雲堆裏心、

(この身は浮いたり沈んだりといったありさまであるにもかかわらず、朝晩にはただただ仏恩の深きを喜ぶばかりである。秋風のなか今夜は満月であり、迷いの雲にうもれる心を照らしてくれるのである。)

客裏又逢三五秋、望中想起去年遊、今宵筑後川南夢、飛到北溟将尽頭、

(旅のうちにまた中秋十五夜をむかえた。満月を見て去年の旅を思い起こしている。今宵は筑後川の南に夢を結ぶが、昨秋は北の尽き果てる地であったと思いは飛び行くのである。)

 昨秋は宗谷海峡にて観月の会を開く。故にこれを詩中に入るる。また、俗歌をうそぶく。

  今宵なる月や仏の影ならん、天上天下唯我独尊、

 当地開会は郡長佐藤寿三郎氏、郡視学村田謙次郎氏、貴族院議員鳥越貞敏氏、有志家橋詰又三郎氏、鳥越密三郎氏、原皎氏、松田庸三氏、坂口峻氏、郡書記国武菊太郎氏、井上茂太氏等の尽力に帰す。

 十一日 晴れ。山風、塵埃を巻ききたる。椿子村〈現在福岡県浮羽郡浮羽町・吉井町〉光教寺にて開会す。顕信会の主催なり。古賀克己氏これが会長にして、高木円意氏副会長たり。聴衆、堂にあふる。古賀氏『大賢伝』一冊を携えきたりて、一詩をもとめらる。

  客窓偶得大賢伝、読去惜師不永年、今日英魂可瞑目、一篇金玉照山川、

(旅の宿でたまたま『大賢伝』を手にし、読みすすめるうちに師の長命でなかったことを惜しむ。こんにちすぐれた魂も休息すべきである。この一編の金玉のごとき書が山川を照らしているのだから。)

 当夕、吉井町に帰り、郡長らとともに会食す。筑後の一市六郡の巡回は、ここに終わりを告ぐ。

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筑前国紀行 付 豊前(二市、一郡)

 〔明治四十一年九月〕十二日 晴れ。筑後川を渡りて朝倉郡に入る。菊池適氏、横尾氏に代わりて随行す。会場は宮野村〈現在福岡県朝倉郡朝倉町〉字比良松、舒翠館にして、宿所は今村万蔵氏の宅なり。開会は三村合同の発起に出ず。その村長は大内十三郎氏、古賀来七氏、朝部衆介氏等なり。ときに稲花、晴風に舞う。

  筑後川東一路長、晴風今日入朝倉、満田秋色時将熟、車過稲花香裏郷、

(筑後川の東にひとすじの道がつづいていて、うららかな風の吹く今日、朝倉郡に入った。田には秋の気配が満ちて、まさに成熟のときである。車は稲の花のかおりたつ里をとおったのであった。)

 十三日(日曜) 晴れ。三奈木村〈現在福岡県甘木市〉ほか三村合同の開会に出演す。会場は品照寺にして、宿所は田中伊助氏の宅なり。村長福沢渉氏、在郷軍人団長大隈清彦氏等尽力あり。なかんずく軍人団諸氏、大いに奔走せらる。所在、櫨樹多し。

 十四日 晴れ。甘木町〈現在福岡県甘木市〉公会堂希声館にて開演す。町役場の主催なり。各村に公会堂の設けあるは他郡に見ざるところなり。郡長高瀬重太氏不在なりという。郡視学大森達氏、郡書記荻本熊吉氏、交代して各町村案内の労をとらる。町長辻勇夫氏、助役矢野徳次郎氏、収入役郷原理三郎氏、教法寺住職清原正盈氏等、みな尽力あり。中学校長は秋吉音吉氏なり。

 十五日 晴れ。会場は大三輪村〈現在福岡県朝倉郡三輪町〉祝勝館にして、聴衆は戸外に座す。村長早瀬常雄氏、郡農会員多田正実氏等の主催にかかる。

 十六日 雨。夜須村〈現在福岡県朝倉郡夜須町〉安野高等学校にて開演す。宿所は水車業平山九平氏の宅なり。

  筑路何辺慰旅情、秋風颯々客心驚、雨宵偶宿水車下、転々声喧於滴声、

(筑後路のたびはいったいどこに旅情をなぐさめるべきものがあろうか。秋風の吹く音にも旅人の心は驚かされる。雨のふる今宵は水車のまわるところに宿を定めたが、めぐる水車の音は雨の軒よりしたたりおちる音よりもかまびすしい。)

 主催は村役場にして、村長岡部音介氏、校長小西松次郎氏、収入役長沼福太郎氏等尽力あり。哲学館出身北島良信氏、栗田村より来訪す。

 十七日 晴れ。夜雨、天を洗って、暁色清新を覚ゆ。朝倉郡を去りて渡色筑紫郡に入る。途上、口占一首あり。

  夜来雨過暁光鮮、駅路遥々山又川、西望平田濶如海、長空一碧是雲仙、

(昨夜からの雨に洗われて、すべてがあかつきの光にあざやかに思われ、村をつなぐ道をはるばると山また山を経て渡色筑紫郡に入った。西のかたを望めば平田が海のごとくひろびろと広がり、空のかなたにみえるみどりこそは雲仙なのである。)

 二日市町より鉄路に駕して住吉村〈現在福岡県福岡市博田区〉に移る。会場は尋常校にして、宿所は城戸一夫氏の宅なり。高等校長狩野滋三郎氏、尋常校長西島善吉氏等の発起に出ず。

 十八日 晴れ。田間の小径をわたりて曰佐村〈現在福岡県福岡市博田区・南区〉正法寺に至り開会す。役場、学校、寺院の主催なり。村長は藤宗規氏といい、高等校長は橋本元吉氏という。途上の所見、左のごとし。

  城南一路趁晴風、望断水長山遠中、櫨葉已伝秋信到、林間点々見微紅、

(街の南を走る道にのどかな風が吹き、望めばはるかに水の流れと山波が遠くさえぎる。やまはぜの葉はすでに色づいて秋のおとずれを伝え、林の間には点々とかすかな紅がみられる。)

 十九日 雨。席田村〈現在福岡県福岡市博多区・東区、糟屋郡志免町〉に移り、大円寺を宿所とし、小学校を会場とす。村長光安国松氏、校長柳瀬昌之助氏等尽力あり。かつ約するに、修身教会設置をもってせらる。当夕、柳瀬氏の筑前琵琶を聞き、詩を賦してその労を謝す。

  一曲琵琶傾耳聞、声々写出史家文、育英余力究其妙、芸界何人能敵君、

(一曲の筑前琵琶の音に耳を傾ければ、ねいろのなかに歴史物語がえがき出される。弾奏者柳瀬氏は教育に力を尽くし、その余暇に琵琶の玄妙さをきわめたのである。いったい芸能の世界でもなにびとが君に匹敵し得ようか。)

 二十日(日曜) 晴れ。会場は千代村〈現在福岡県福岡市博田区・東区〉小学校にして、主催は教育部会なり。会長石橋養之輔氏、村長野田一造氏等、斡旋の労をとらる。その地、博多公園に連接し、その松影は宿所音羽旅館の軒下に入る。当夕、斎田氏および葦津耕次郎氏とここに会食す。

 二十一日 雨。午前、博多公園を辞して二日市町に降車し、さらに行くこと一里ばかりにして太宰府〈現在福岡県太宰府市〉に着す。宿所は松籟館(松屋こと)なり。午後、菅公社に参拝し、庭園を巡覧し、文書館に至りて講話をなす。菅公は哲学堂中、六賢台上に奉安すべき六賢の一なれば、社前の所感また深し。詩をもってその意を述ぶ。

  欲訪菅公遺愛梅、人従遠近八方来、拝神多是祈冥福、養否和魂与漢才、

(菅原道真公の遺愛の梅を訪ねようと来てみれば、人々は遠近をとわず四方八方から参拝に来ている。神霊を拝しおがんで冥福を祈るのであって、果たして日本固有の精神と中国の学術を養い学ぼうと祈っているのかいなか。)

  菅廟門前寄客身、雨窓唯与社灯親、滴声誘起梅花夢、結得一千年古春、

(菅公廟の門前に旅の身で立ち寄れば、雨うつ窓べに社灯のみが近くにまたたく。雨のしずくの音は故事にいう梅花の夢をいざない、千年のむかしの春にひたる思いをさせたことであった。)

  菅聖社頭月破雲、清輝照処絶塵氛、満庭梅樹千年影、写出経忠緯孝文、

(菅聖人をまつる社のあたりに、月が雲を破るように出て、その清らかな光のさす所は塵の気配もない。庭のすべてに梅樹千年の姿がみられ、文書館には忠義をたて糸とし、孝行をよこ糸とする文章が書き出されている。)

 当地開会は教育部会の主催にして、町長杉氏敏氏、高等校長矢野八百蔵氏、および近郷の町村長、小学校長等の発起にかかる。当夕、郡長堀善之丞氏、郡書記古川勝隆氏、郡視学梶山謙吾氏等みな来会せられ、晩餐をともにす。また、梶山郡視学は県内各会場へ同行せられたるは大いに謝するところなり。古川郡書記の庭内に霊梅あるを聞き、詩を賦してこれに贈る。

  菅公祠畔屋、千載有余福、枯樹再開花、古香猶馥郁、

(菅公をまつる社殿に近い家屋に、千年を経てもなお子孫に及ぶ幸福がある。枯れた樹は再び花ひらき、古代の香りもそのままにたちこめるのであった。)

 また、墨客拝山翁この地に幽棲せるを聞き、詩をもってこれに寄す。

天拝山根解客装、吾縁未熟接眉光、家隣菅聖謫居跡、名圧西州翰墨場、心似梅花清且淡、身如樟樹老逾香、欲迎左手先生寿、松籟楼頭漫挙觴、

(ふり仰ぐべき巨人、吉嗣拝山翁の幽棲する天拝山のふもとに旅装をとく。いまだに縁がなくてお目にかかれずにいる。翁の家は菅公が罪を得て配流の生活を送った跡と隣りあわせにあり、翁の名声はこの西方の地の詩文、書画の世界を圧倒している。そのこころは梅花の清らかで、なお淡白さにも似て、その身はくすの木の年を経ていよいよ香り高くなるがごときである。)

 二十二日 晴れ。筑紫郡より早良郡に移る。会場は原村〈現在福岡県福岡市早良区〉有田高等小学校にして、宿所は坂口宗三郎氏の宅なり。主催は組合学校にして、郡教育会長(郡長)河島澄之助氏、副会長柴田文城氏、幹事広田波雄氏、および郡視学谷甚蔵氏、郡書記谷審氏等、みな来会せらる。高等校長は桃崎勇雄氏にして、原村長は谷礒太郎氏なり。

 二十三日 晴れ。入部村〈現在福岡県福岡市早良区〉に移り、午後開会す。会場は西教寺、休憩所は広橋貢氏の宅なり。主催は高等校長中原槌雄氏、村長笠広次郎氏等とす。会後、馬上にまたがり、脇山村〈現在福岡県福岡市早良区〉万徳寺に至りて夜会を開く。住職高田栖岸氏、中原校長等の発意に出ず。村長は脇山秀実氏という。宿所は馬奈木文次郎氏の宅なり。その地、脊振山下に接す。途上の所見、左のごとし。

  馬上秋風送夕陽、稲光禾色半田黄、暮煙横処鐘声動、聴到脊振山下郷、

(馬の背に秋風を受けながら夕日をながめれば、稲のほさきがきらきらと光り、田の半ばは黄色に染まっている。夕暮れのもやが横ざまにただようあたりで鐘の音がおこり、脊振山のふもとの村になりひびいて行くのであった。)

 二十四日 曇り、午後雨。姪浜町〈現在福岡県福岡市西区〉開会。会場は小学校にして、宿所は白毫寺なり。校長は福田丑之助氏にして、住職は豊島端氏なり。当夕は郡長、郡視学、柴田文雄氏等と会食す。

 二十五日 晴れ。青松白砂の間を縫って糸島郡に入り、前原町〈現在福岡県前原市〉にて開会す。会場は天理教会堂にして、宿所は米屋旅館なり。郡教育会の発起にかかる。教育会長(郡長)原田種澄氏は病中なれば、副会長小島尚吾氏これに代わる。郡視学神崎佶氏は哲学館出身者なり。

 二十六日 晴れ。午後、前原町法林寺にて開会す。町内有志の主催なり。住職笠雲渓氏は不在、町長亀岡博愛氏、会主の労をとらる。会後、ただちに車を駆りて長糸村〈現在福岡県前原市〉に向かう。途上、可也山の晩望ことに佳なり。

  万頃秋田暮色分、早中晩稲自成紋、長糸一路斜陽近、懸在可耶山上雲、

(はるかに秋の田が広がり、夕暮れのけしきがなかばす。早、中、晩稲はそれぞれの色あいが模様をえがく。長い糸のようなひとすじの道が西にかたむいた日の方向にのび、可耶山の上には雲がかかっているといった夕暮れの景色なのである。)

 村中に入るとき、日すでに暗し。宿所は村内の有志井上重助氏の宅なり。

 二十七日(日曜) 晴れ。午後、小学校にて開会す。長糸倶楽部の主催にかかる。村長は庄崎弥太郎氏にして、校長は下沢三五郎氏なり。この地、竹木を産出す。黄昏、前原町に帰りて宿す。

 二十八日 晴れ。早朝、神埼郡視学とともに前原を発し、車行五里、博多駅にて鉄路に駕し、糟屋郡香椎村〈現在福岡県福岡市東区〉に至りて開会す。会場は小学校にして、主催は教育研究会なり。午後、驪雨盆を傾けて襲来す。郡長新納久氏、郡書記松尾厚志氏、箱崎高等校長山路重徳氏等来会せらる。演説前、箱崎尋常校長坂口源太氏とともに香椎宮に参拝す。社林中に堂宇鬱立し、結構清麗、朱壁緑葉と相映ず。堂前に老杉一株あり、これを綾杉と名付く。

  欲拝神功皇后祠、秋風一路入香椎、二千年古蒼々色、惟有綾杉百尺枝、

(神功皇后をまつる香椎宮に参拝しようとして、秋風の吹くなかを一路香椎村に入ったのであった。二千年の歴史とともに古色蒼々として、綾杉と名づける老杉の百尺をこえる枝ぶりがあるのみである。)

 祠後に仲哀天皇の古社あり、また、当時征韓本営の古跡あり。

 二十九日 雨。開会は宇美村〈現在福岡県糟屋郡宇美町〉にして、村内興風会の主催とす。会場は高等小学校にして、宿所は会長小林作五郎氏の宅なり。宅ひろくして景またよし。造酒を業とす。その酒名、「一声」「百花」「千桜」「万代」の四種あるを聞き、余、更に「十方」の一種を加えんことを勧め、「酒光照十方、猶如太陽」の語に添うるに、左の一詩をもってす。

  宇美社前訪酒家、主人尽瘁実堪誇、一声万代千桜外、更醸十方添百花、

(宇美八幡宮の前にある酒造りの家を訪ねると、主人〔小林氏〕は心を尽くし努力を重ねて誇るに足る酒を造り出している。その酒の名は「一声」「万代」「千桜」のほかに、酒の輝きはあらゆる方角を照らし、太陽のようであるという意をこめて、「十方」を醸造し、これを「百花」に添えたのであった。)

 主人、大いに喜ぶ。校長は佐竹与氏にして、村長は小林唯次郎氏なり。

 三十日 晴れ。朝、宇美八幡宮に参詣す。社側の大樟周囲八間余、実に人を驚かす。鉄車に駕して志賀〔島〕村〈現在福岡県福岡市東区〉字西戸崎に移る。松涛館に少憩して海水湯に一浴し、大谷派本願寺説教所にて開演す。所長は野村斉氏なり。当夕、有志家庵原岩吉氏の宅に宿す。発起は以上両氏の外に、村長石川九郎氏、鉄道会社員小河原福太郎氏等なり。松涛館上の所見一首、左のごとし。

  西戸湾頭景、海山総不凡、風青松十里、波白布千帆、袖浦秋涛穏、鶴城夕照銜、坐看斯活画、何羨馬渓巌、

(西戸湾のあたりの景色は、海も山もすべてなみなみならぬ。風は青々とした松林の十里がほどは吹きぬけ、波間に浮かぶ白い帆の数は千をかぞえるほど多い。袖浦の秋の波はおだやかに、鶴城は夕映えをふくんでかがやく。座してこのいきている画をみては、どうしてあの耶馬渓の奇巌をうらやむことがあろうか。)

 十月一日 晴れ。午前、西戸崎を発して宗像郡に入る。会場および宿所は下西郷村〈現在福岡県宗像郡福間町〉大善寺なり。住職裏辻賢定氏、村長永浜揆一氏、高等校長今村正介氏、有志家井原保郎氏等の発起にかかる。

 二日 晴れ。宮地岳神社を経て東郷村〈現在福岡県宗像市〉に入る。会場は高等校にして、宿所は安部十平氏の宅なり。郡役所の主催にかかる。校前に両基の戦役紀念碑対立す。よって詩をもってその所見を述ぶ。

  稲田行尽入東郷、両柱忠魂碑有光、十月西州蝉未老、声々自似告豊穣、

(稲田を行きつくして東郷村に入った。学校の前に建つふた柱の忠魂碑にはおのずと輝きがある。十月の西の地ではまだ蝉も元気であるらしく、その声は豊穣を告げているかのようである。)

 校長は深田澄之輔氏にして、村長は花田実氏なり。

 三日 晴れ。午後、河東村〈現在福岡県宗像市〉万福寺の戦死者追弔会に出演す。各宗寺院の主催なり。会場住職を今任卍童氏という。当夕、東郷村に帰宿す。郡内巡回に関しては、郡長岡村雪三郎氏、郡視学守山五百足氏、郡書記友枝豊次郎氏、同磯野善作氏、百々熊雄氏等、諸事を斡旋せられ、なかんずく郡長の各会場へ出会せられたるは深謝するところなり。

 四日(日曜) 晴れ。東郷村を発し車行四里、山坂を上下して鞍手郡若宮村〈現在福岡県鞍手郡若宮町〉字福丸に至る。郡長石塚昇氏は郡視学河島淵明氏とともに先着して歓迎せらる。会場は福丸高等小学校にして、宿所は梅彦旅館なり。会後、更に茶話会を開き、修身教会発会の決議あり。若宮村長勝木鶴次郎氏、高等校長原田義蔵氏、他村長吉柳、萩本、野飼、有吉、牧、小田諸氏、他校長有吉、宗、石川、大音、安永、勝木諸氏等、みな尽力せられ、郡会議長毛利蘭吉氏も助力せらる。本郡は炭坑の焼点なるも、若宮郷は農田あるのみという。

 五日 晴れ。植木町〈現在福岡県直方市〉にて開会。会場は小学校にして、宿所は真如寺なり。主催は各町村の連合にかかる。演説後、茶話会ありて、発会を議決せること前日に同じ。町長米沢信夫氏、助役吉村励氏、木屋瀬町長松尾茂雄氏、他村長上田、栗田、添田諸氏、校長安川伝蔵氏等、みな尽力あり。植木町より直方町の一帯の地は炭坑の中心にして、瓦柱、煙を吐きて林立す。

  鞍手山間鉄路長、炭車如織去来忙、又看瓦柱如林立、烟気横空是直方、

(鞍手の山あいに鉄道が長く延び、石炭の車が織るように忙しく往来している。また、煉瓦作りの煙突が林のごとく立ち、吐き出される煙は空に横ざまにひろがっている。これが直方町なのである。)

 六日 雨。開会は直方町〈現在福岡県直方市〉高等小学校なり。主催は役場および学校にして、町長津田練太郎氏、高等校長有吉邦造氏、尋常校長八尋政衛氏、助役寺尾虎輔氏、収入役香月吉松氏、帆足氏、塩川氏、藤野氏、津田氏、加藤氏の各村長、みな大いに尽力あり。演説後、石塚郡長の発言にて発会を議定せること前に同じ。宿所は清徳旅館なり。郡内各所の開会に関し郡長、郡視学の尽力一方ならず、ことに郡長は香川県巡回以来の旧識にして、両県において厚意をかたじけのうせるはまた奇縁というべし。ここに一詩を賦して謝意を述ぶ。

  曾在讃陽始見君、筑山相遇又論文、慨然為我揮心剣、進得修身教会軍、

(かつて讃岐の地においてはじめて君に会い、いまここ筑豊の地で顔を合わせて、また文化について談論した。世情をうれいなげいて私のために心の剣をふるい、修身教会の軍を進めたのである。)

 当日、小倉市より杉山、秋重両氏の来訪あり。

 七日 晴れ。直方町より嘉穂郡飯塚町〈現在福岡県飯塚市〉に移る。会場は嘉穂館にして、主催は郡教育会なり。会長すなわち郡長谷保馬氏の紹介によりて開会す。副会長は中学校長芹沢政衛氏、幹事は郡視学村山咸一郎氏、高等校長上杉竜馬氏、尋常校長井上団平氏等なり。閉会後、綿惣旅館においてともに会食す。

 八日 晴れ。午前、嘉穂中学校にて講話をなし、ただちに村山郡視学と同行して頴田村〈現在福岡県嘉穂郡頴田町〉に至る。会場は明法寺にして、主催は役場、学校、寺院なり。村長小出太右衛門氏、校長白水金生氏、住職渡辺憲海氏、助役白土氏、収入役許斐氏等、みな尽力あり。宿所は富豪許斐寛氏の宅にして、室広くしてかつ美なり。その業は造酒にして、名酒を「白川」という。よって左の詩を録して主人に贈る。

  郊行入頴田、禾熟漲黄烟、醸酒家深処、秋風酔白川、

(郊外の道を行き頴田村に入った。いまや稲は熟してすべてが黄色にけぶるかのようである。造り酒屋の奥深いところで、秋風のなか名酒「白川」に酔ったのであった。)

 九日 晴れ。稲築村〈現在福岡県嘉穂郡稲築町〉浄念寺にて開会す。役場および学校の主催にして、村長福沢富亥氏、高等校長狩野敏生氏、助役中並由太郎氏、尋常校長金丸玄霊氏等、いずれも多大の尽力あり。宿所は実業家野見山米吉氏の宅なり。その庭は山に面し樹にとざされて、閑雅愛すべし。

 十日 晴れ。開会は穂波村〈現在福岡県嘉穂郡穂波町〉高等小学校なり。主催は役場および学校にして、村長福沢重俊氏、助役青柳甚兵衛氏、収入役青柳市兵衛氏、高等校長鉄次郎氏、尋常校長青柳勝太郎氏等、みな尽力あり。この辺りすべて炭坑地なり。しかして水田また多し。嘉穂、頴田、稲築、穂波の名を見ても、米産地たるを知る。

 十一日(日曜) 晴れ。開会は上穂波村〈現在福岡県嘉穂郡筑穂町・桂川町〉長尾高等小学校なり。役場および学校の主催にかかる。村長林辰雄氏、高等校長有吉滝蔵氏、尋常校長上野長之助氏、綾辺半五郎、金子善太郎、瓜生玄洞等の諸氏、みな尽力あり。昨今両日ともに旅店に入宿す。

 十二日 晴れ。野径行くこと二里にして、大隈町〈現在福岡県嘉穂郡嘉穂町〉に至る。会場は高等小学校にして、主催は村役場および学校なり。町長田生正次氏、高等校長前田正好氏、尋常校長香椎駿太郎氏、助役平島千賀吉氏、碓井村長福田梅之助氏、同校長爪生信之氏等、みな大いに尽力せらる。宿所は旅館なり。当地に天然石のその形鴛鴦の雌雄に似たるもの二個を蔵せしものありて、これを東宮殿下に献上せしというを聞き、「天有深意、現此妙工、石亦多幸、進入殿中」(天ははかり知れない深い意味をもって、このたぐいまれなみごとな造形にあらわした。石にとっても幸い多く、ついに殿中の御物となったのである。)の語を録してこれに贈る。

 十三日 晴れ。大隈町を去り、丘山を上下すること二、三回にして千手村〈現在福岡県嘉穂郡嘉穂町〉に入る。

  林巒起伏路高低、蕎白禾黄望欲迷、風起漸知千手近、隔渓時聴一声鶏、

(林や丘の起伏にしたがって道もまた高くなったり低くなったりし、蕎麦の白さと稲の黄色とが目をまよわす。風が吹き起こって、ようやく千手村に近づいたことがわかる。谷をへだてて、ときに鶏のひとこえがきこえるのだった。)

 会場は小学校、宿所は有志家大屋辰雄氏の宅、主催は求道会なり。聴衆、堂にあふる。村長大屋久氏、校長岩本豊氏、助役坂田運夫氏、大屋唯雄、篠崎喜久太郎、野田喜久平、井手、鳴瀬、松岡、城等の諸氏、みなひとしく尽力あり。演説後、座談会を開く。この地炭坑なく、寂寞の状況ありといえども、水のきよきと、風の清きと、人情の淳朴なるは、郡内に冠たりという。

 十四日 雨。午前、千手村を発し、大隈町を経て宮野村〈現在福岡県嘉穂郡嘉穂町〉に入る。山間の農村なり、会場は旧校舎、宿所は実岡半三郎氏宅、主催は宮野村長、梅根健次郎氏、同校長磯五郎氏、足白村長入江準吉氏、同校長網田新太郎氏等とす。

 十五日 雨。村山郡視学とともに宮野村を発し、大隈駅より乗車す。嘉穂郡内巡回は八カ所にまたがり、八日間を費やしたるが、村山郡視学または郡書記石坂久吉氏および加野謙三氏、互いに交代して案内の労をとられしは大いに謝せざるを得ず。午後一時半、鞍手郡新入村〈現在福岡県直方市〉に着す。会場は真照寺にして、修身教会の発会式を挙ぐ。聴衆、大雨をおかして雲集す。村長森田万太郎氏、助役岩崎重紀氏、校長東郷俊城氏、会場住職喜多村哲雄氏、および白土玉匱氏、青柳郁次郎氏、同修一氏、田代秀吉氏、田中席太郎氏、許斐、栗原等の諸氏、みな大いに尽力せられ、石塚郡長、川島郡視学も当日出会して斡旋せられたるは、ともに深謝するところなり。

 十六日 晴れ。川を渡りて遠賀郡に入り、香月村〈現在福岡県北九州市八幡西区〉にて開会す。会場は小学校、宿所は養生寺、主催は学校、寺院の合同なり。村長田代謙三郎氏、高等校長山崎義表氏、尋常校長梅谷密儀氏、その他各宗寺院、みな尽力あり。郡視学佐藤義夫氏も出会せらる。

 十七日 晴れ。会場は長津〈現在福岡県中間市、北九州市八幡西区〉高等小学校、宿所は恩光寺、主催は長津、水巻両村合併なり。長津村長高野梅吉氏、高等校長村田義広氏、尋常校長中村磯吉氏、水巻村長爪生善美氏、宿寺住職佐竹演暢氏等の諸氏、みな尽力あり。佐竹氏の次男大雄氏は哲学館大学出身なり。香月および長津地方は炭坑地にして、これより採出せる石炭を運送する小舟、その数幾千なるを知らず、去来上下織るがごとき実況は一大奇観を呈す。

  筑東一路望悠々、水貫秋田万頃流、日々去来算難尽、風帆雨棹幾千舟、

(筑前の東、ひとすじの道を望めばはるかに遠く、遠賀川は秋の田の広々としたなかを貫いて流れる。日々に往来する小舟の数はかぞえきれるものではないが、その景観は風をはらんだ帆、雨に棹さすさまなど幾千の舟なのである。)

 十八日(日曜) 晴れ。舟にて遠賀川を渡り、島門村〈現在福岡県遠賀郡遠賀町〉に移る。会場および宿所は行満寺、主催は島門、浅水、底井野、三村合併なり。島門村長松本恒士氏、校長中野敬己氏、浅水村長古野矢八郎氏、校長高儀夫氏、底井野村長岡部英種氏、校長河村五郎氏等、みな尽力あり。宿寺住職は内藤嶺外氏という。

 十九日 晴れ。当日、陸軍輸送のために午前、乗車を謝絶せられ、午後、折尾〔村〕〈現在福岡県北九州市八幡西区、遠賀郡水巻町〉に移る。はじめに中学校生徒に対して談話をなし、つぎに一般聴衆に対して講演をなす。会場はともに東筑中学校なり。郡長広辻信次郎氏、紹介の労をとらる。中学校長は吉田豊氏なり。折尾村長小田清八氏、助役末松由承氏、校長佐藤茂氏、同石川元太郎氏、住職松山松巌氏、安武大憲氏、安部誠氏等、みな尽力せらる。宿所三好徳松氏は炭坑主にして、意を公共事業に注ぎ、すこぶる名望あり。居宅清くしてかつ美なり。折尾は鉄路の交叉せる地にして、汽声、輪響、昼夜たえず、人をして欧米の客遊を想見せしむ。

 二十日 晴れ。開会は芦屋町〈現在福岡県遠賀郡芦屋町〉なり。休憩所を響洋館楼上に設く。玄海の風光窓に入りきたる。会場は劇場にして、宿所は旅館なり。町長藤井正倫氏、助役村津郁氏、校長高橋格氏等尽力せらる。この地は遠賀川の港口にして、昔時繁栄せしも、今は寂寥の地となる。

 二十一日 雨。更に折尾を経て若松町〈現在福岡県北九州市若松区〉に移る。港内連檣林立、千をもって算す。その勢い泰西の良港をしのがんとす。

  若港繁華圧五洲、望中迎送幾千舟、泰西都邑試相問、有此連檣林立不、

(若松港の繁華であることは世界の港を圧するものがある。一望すれば幾千という舟が往来している。西欧諸国の都市や村の港に試みにきくがよい、このように帆柱が林のごとく立ちならぶところがあるか否かを。)

 当夕、開会。会場は劇場旭座なり。聴衆二千に満ち、場内立錐の地なきの盛況を呈す。宿所は野口清氏の宅にして、氏は信仏家なり。町長蒲瀬滝千氏、高等校長野田実氏、女児校長森重実氏、男児校長木村民槌氏、有志家小田岩城氏等、みな奔走の労をとらる。

 二十二日 晴れ。舟行して八幡町〈現在福岡県北九州市八幡西区・八幡東区〉に移る。会場は劇場栄屋、宿所は川勝旅館、主催は八幡、黒崎両町なり。製鉄所長代理片山謹一郎氏、八幡町長池田常三郎氏、高等校長大八木鹿吉氏、尋常校長長野讃太郎氏、黒崎校長大木長太郎氏、安川民之弼氏および各寺院、主として尽力せらる。八幡町は製鉄所設置以来にわかに繁盛をきたし、人口すでに市制を敷くに足るという。

  煙突吐煙響似雷、街頭陰鬱昼難開、夜深猶聴汽声起、時破客窓残夢来、

(煙突から煙が吐き出されるときには雷にも似た響きがあり、街中もどこかうっとうしく、日中でもはればれとした感じがない。夜もふけてなお汽笛のごとき音が起こり、ときには旅館の窓を破るかのように客の見残した夢に入ってくるのである。)

 二十三日 晴れ。腕車を駆りて小倉市〈現在福岡県北九州市小倉北区・小倉南区・八幡東区〉に移り、梅屋旅館に入る。館主は旧面識あり。午後、高等小学校にて開会す。主催は小倉教育支会なり。会長は杉山貞氏、副会長は土方兵次郎氏、幹事長は酒井仙太郎氏にして、幹事は高等校長井手伊親氏、ほか数名なりとす。しかして杉山氏諸事を管す。

 二十四日 晴れ。昼間は永照寺、夜間は徳蓮寺にて開会、いずれも盛会を得たり。主催は市役所なり。市長末弘直方氏は出京中、書記松股幸太郎氏、秋重秀雄氏等、代わりて斡旋せらる。徳蓮寺住職伊〔藤〕林元氏、古法寺住職長岡了譲氏(哲学館出身)は、本年春期より巡回に関して交渉の労をとられたり、永照寺住職は村上璋真氏という。

 二十五日(日曜) 晴れ。企救郡足立〈現在福岡県北九州市小倉北区〉高等小学校にて開会す。郡長戸田宣徳氏、郡視学小泉於菟彦氏も出会せらる。村長は片村佐一郎氏、校長は岡野義方氏なり。当夕、小倉梅屋に帰宿す。

 二十六日 雨。開会は企救村〈現在福岡県北九州市小倉北区・小倉南区〉字城野専妙寺にして、主催は寺院、学校なり。住職は村上一行氏といい、校長は泊辰三郎氏という。当夕、専妙寺に宿す。本村に師団の兵舎あり。斎田耕陽氏、書を寄せて門司にて送別せんことを望まる。よって「数行秋信寄相思、友愛情如春草滋、吾蔵酒瓶未開口、待君来挙別杯時、」(数行の秋のたよりはお互いの思いを伝え、友愛の情は春草のごとくいよいよます。私にはまだ口を開けていない酒がある。君がやってきて別れの杯を挙げるのを待っているのだ。)の詩を賦してこれに答う。

 二十七日 晴れ。渓谷の間をさかのぼること二里、東谷村〈現在福岡県北九州市小倉南区〉に入る。学童の歓迎あり。会場は第一尋常校にして、当夕、小泉郡〔視〕学とともに校内宿直室に宿せるは、また旅中の一興なり。主催は教育部会にして、会長は山村幾太郎氏、村長は篠田曾吉氏、校長は岩崎富五郎氏とす。途上の所見、左のごとし。

  東渓一路趁新晴、紅櫨青松随処迎、又見山田秋已熟、刈禾人曳馬牛行、

(東谷村へのひとすじの道はあらたに晴れるにむかい、あかく色づいたはぜと青々とした松がいたるところで私を歓迎してくれる。また、山や田は秋もすでにたけなわであり、稲を刈り取る人が馬や牛をひいて行くのが見える。)

 二十八日 晴れ。汽車および腕車にて曾根村〈現在福岡県北九州市小倉南区〉に移る。横尾照之氏もここにきたりて迎えらる。会場は小学校、宿所は三郎丸松之助氏宅、主催は教育部会なり。会長潮田佐太郎氏、村長友石類次郎氏、校長大野一郎氏、岡虎保氏、松井茂太郎氏、柏田章逸氏、みな奔走せらる。夜中、鼠きたりて扇子を噛むあり、夢その物音に驚く。

  物音驚客夢、灯暗夜沈々、磨燧探窓底、鼠軍破扇心、

(物音が客の夢を驚かす。いまやともしびも暗く、夜はひっそりとふけるときである。火うちをもって窓のあたりに物音を探せば、ねずみ軍が扇子を食い破ったのであった。)

 二十九日 雨。開会は松ケ江村〈現在福岡県北九州市門司区〉教育部会にて、会場は光円寺なり。昼夜二回開演す。教育会長山口亨一氏、村長広石松彦氏、校長古賀新太郎氏、岸本喜久馬氏等、みな大いに尽力あり。会場住職は伊藤定慧氏なり。宿所は有志家広石紋太郎氏の宅にして、室内清美にして風光また佳なり。屋後に新楼を築く。茂松と相接す。故に楼名を選びて隣松閣といい、かつ一詩を題す。

  隣松閣伴一株松、愛見翠陰冬夏濃、最好清風明月夜、白紗窓上躍蒼竜、

(隣松閣は一株の松をかたわらにして、みどりの陰は冬も夏も色濃いものであることをいとおしむ。もっとも好ましいのは清らかな風の吹く明月の夜に、白いうすぎぬのかかる窓べに松影が蒼竜のようにおどりあがるときである。)

 三十日 晴れ。朝、松ケ江村字恒見を発し、曾根を経て柳ケ浦村〈現在福岡県北九州市門司区〉字大里に至る。開会は教育部会の主催にして、会場は高等小学校なり。建築は粗造なるも、眺望大いによし。校長高田秀親氏および哲学館出身古田虎次郎氏、主として周旋せらる。宿所は旅館なり。

 三十一日 晴れ。門司を経て馬上、東郷村〈現在福岡県北九州市門司区〉に移る。いわゆる桜嶺なるものにかかる。嶺上門司峡を一瞰するところ、実に画中の趣あり。会場および宿所は東郷村字柄杓田光照寺にして、教育部会の主催にかかる。村長は湯畑斐之介氏、校長は富本桂雄氏、住職は真田慶信氏という。郡役所より福田源二氏来会せらる。

 十一月一日(日曜) 晴れ。東郷を辞して嶺頭に至れば、門司市〈現在福岡県北九州市門司区〉発起人多数の歓迎あり。宿所は停車場前松延館なり。午後、高等小学校にて開会す。市教育会の主催にかかる。高等女学校長大西武氏その会長たり。大岡彦枝氏ほか数名その評議員たり。当夕、旅館において哲学館出身者の送別をかたじけのうす。会するもの斎田耕陽、渋谷智淵、横尾照之、菊池敏彦等七名の出身者、および杉山、大西、小泉、秋重諸氏、その他教育家、宗教家の諸氏等、二十余名の多きに及ぶ。古田虎次郎氏および上野直一氏、幹事の任に当たる。ここに厚く諸氏の来会を謝す。また、企救郡内巡回中、杉山氏の熱心にて各所に来聴せられたると、小泉視学の各村に同行せられたるも同じく深謝するところなり。横尾氏が耶馬渓の黒柿を持参し、これを贈られたるに対し、「字をかきて耻をかきたる紀念とて柿の土産をもらいけるかな」と書して答謝とす。

 二日 晴れ。午前、女学校において談話をなし、午後、本派本願寺説教場に移り、昼夜二回開演す。主催は白道会にして、本日その発会式を挙ぐ。根津宗範氏、西山覚流氏、富安正登氏等の尽力にかかる。

 三日(天長節) 雨。旗影、歌声の間に門司を辞して帰東の途に上る。

門司関頭上旅程、佳辰復在客中迎、長山雨浸旭旗影、芸海波伝君代声、異域人猶祈聖寿、同胞誰不祝昇平、車窓纔得一瓶酒、遥拝東方幾度傾、

(門司の関門より帰京の途についたが、天長節のよき日をまた旅中に迎えた。長州の山々の雨にぬれるなかに旭日旗がうちふられ、安芸の海の波は君が代の声を伝えるようにうちかえす。外国の人でさえ天皇の長寿を祈る。ましてやわれら同胞、たれかますますの太平を祈らずにおられようか。汽車の窓からようやく一瓶の酒を手に入れた。そこではるかに東京を拝しつつ幾杯か傾けたのであった。)

 この日、下の関駅より閑院宮殿下の御乗車あらせられたるために、各駅に小学校生徒雨をおかして奉迎せるを見る。翌四日午後、東京に安着す。

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福岡県統計

 福岡県は本年春夏秋三期にわたりて巡回し、最も多くの日子をその県内に費やせり。その総計は百二日の間に四市、十九郡、二十七町、六十四カ村、百二十三カ所において開会したることとなる。左に開会一覧表を挙示すべし。(ただし春期巡回の豊前三郡は第二編に出でたればこれを略す。)

  〔市郡         会場    座席   聴衆     主催〕

  福岡市        師範学校   一席  四百五十名  師範学校

  同          女子師範   一席  四百名    済美会

  同          中学校    一席  六百名    修猷館

  同          高等女学校  二席  七百名    市教育会

  同          商業学校   一席  四百五十名  商業学校

  同          農業学校   一席  二百名    農学校

  同          高等女学校  一席  四百名    高等小学校

  同          女学校    一席  二百五十名  筑紫女学館

  同          寺院     一席  百二十五名  仏教青年会

  久留米市       高等女学校  四席  四百五十名  教育会および寺院

  小倉市        小学校    二席  五百名    教育支会

  同          寺院     三席  一千五百名  市役所

  門司市        小学校    二席  五百名    教育会

  同          高等女学校  一席  二百名    高等女学校

  同          説教所    三席  二百五十名  白道会

  三池郡  大牟田町  小学校    二席  三百名    教育支会

  同    三池町   寺院     二席  八百名    寺院組合

  同    江浦村   寺院     二席  一千名    四カ村有志

  同    二川村   小学校    二席  五百名    青年会

  山門郡  柳河町   寺院     二席  一千百名   教育支会

  同    瀬高町   寺院     二席  一千名    町内有志

  同    富原村   小学校    二席  五百名    村内有志

  三瀦郡  大川町   劇場     二席  八百名    教育支会および仏教青年会

  同    城島町   小学校    二席  四百名    町内有志

  同    木室村   寺院     二席  七百名    教育支会および仏教会

  同    木佐木村  小学校    二席  九百名    同上

  同    大善寺村  小学校    二席  五百名    同上

  八女郡  福島町   議事堂    二席  一千百名   町内有志

  同    黒木町   寺院     二席  六百五十名  町内有志

  同    水田村   寺院     一席  二百五十名  青年会

  同    同     寺院     二席  五百五十名  西部学会

  同    岡山村   小学校    二席  八百名    村内有志

  同    光友村   寺院     二席  一千三百名  村内有志

  同    辺春村   寺院     二席  一千名    村内有志

  同    木屋村   寺院     二席  一千名    村内有志

  同    横山村   寺院     二席  一千名    村内有志

  同    中広川村  寺院     二席  一千二百名  三村有志

  三井郡  御井町   小学校    二席  五百名    教育支会

  同    善導寺村  寺院     二席  一千三百名  教育支会

  浮羽郡  吉井町   会館     二席  五百名    教育支会

  同    同     同      二席  二百名    仏教同盟会

  同    同     会館     二席  三百名    吉井倶楽部

  同    田主丸町  会館     五席  二百名    町内有志

  同    椿子村   寺院     二席  一千三百名  顕信会

  朝倉郡  甘木町   会館     二席  八百名    町役場

  同    宮野村   会館     二席  八百名    三村有志

  同    三奈木村  寺院     二席  七百名    四村有志

  同    大三輪村  会館     二席  六百名    村内有志

  同    夜須村   小学校    二席  三百名    村内有志

  筑紫郡  太宰府町  文書館    二席  六百名    町内有志

  同    住吉村   小学校    二席  五百名    各小学校

  同    曰佐村   寺院     二席  四百名    教育部会

  同    席田村   小学校    二席  六百名    村内有志

  同    千代村   小学校    二席  六百名    教育部会

  早良郡  姪浜町   小学校    二席  四百名    町内有志

  同    原村    小学校    二席  五百名    組合小学校

  同    入部村   寺院     二席  六百名    村内有志

  同    脇山村   寺院     二席  五百名    村内有志

  糸島郡  前原町   会堂     二席  五百名    教育部会

  同    同     寺院     二席  三百名    町内有志

  同    長糸村   小学校    二席  五百名    長糸倶楽部

  糟屋郡  香椎村   小学校    二席  三百名    教育研究会

  同    宇美村   小学校    二席  四百名    興風会

  同    志賀島村  説教所    二席  三百名    説教所

  宗像郡  東郷村   小学校    二席  四百名    郡役所

  同    下西郷村  寺院     二席  三百名    村内有志

  同    河東村   寺院     二席  三百名    各宗寺院

  鞍手郡  直方町   小学校    二席  六百名    町内有志

  同    植木町   小学校    二席  五百名    各村有志

  同    若宮村   小学校    二席  五百名    各村有志

  同    新入村   寺院     二席  四百名    村内有志

  嘉穂郡  飯塚町   会館     二席  四百名    教育支会

  同    同     中学校    二席  四百五十名  中学校

  同    大隈町   中学校    二席  四百名    町内有志

  同    穎田村   小学校    二席  五百名    村内有志

  同    稲築村   寺院     二席  五百名    村内有志

  同    穂波村   小学校    二席  二百五十名  村内有志

  同    上穂波村  小学校    二席  四百名    村内有志

  同    千手村   小学校    二席  一千名    求道会

  同    宮野村   小学校    二席  四百名    二村有志

  遠賀郡  若松町   劇場     二席  二千名    町内有志

  同    芦屋町   劇場     二席  一千名    町内有志

  同    八幡町   劇場     二席  一千名    両町有志

  同    折尾村   中学校    一席  八百名    村内有志

  同    同     中学校    一席  六百名    中学校

  同    香月村   小学校    二席  七百名    村内有志

  同    長津村   小学校    二席  六百五十名  両村有志

  同    島門村   寺院     二席  六百名    三村有志

  企救郡  企救村   寺院     二席  五百名    教育部会

  同    東谷村   小学校    二席  四百名    教育部会

  同    足立村   小学校    二席  五百名    小学校

  同    曾根村   小学校    二席  六百名    教育部会

  同    松ケ江村  寺院     二席  五百名    教育部会

  同    柳ケ浦村  小学校    二席  二百五十名  教育部会

  同    東郷村   寺院     二席  四百名    教育部会

   以上合計 四市、十六郡、七十四町村、九十五カ所、百八十五席、五万六千六百二十五人

   豊前三郡 二十町村、二十八カ所、五十二席、一万四千九百人(第二編参照)

    総計 四市、十九郡、九十四町村、百二十三カ所、二百三十七席、七万一千五百二十五人

 かく一県下において多数の開会を得たるは、他県においていまだかつて見ざるところなり。また、各所において多大の優待歓迎を受けたるも、福岡県をもって第一となす。その友情の厚きは深く感謝するところなり。県庁、市郡役所、町村役場より懇篤なる配意をかたじけのうしたるも、同じく深謝するところなり。また、斎田耕陽氏は通信の中心に立ち、各所の交渉照会の労をとられたるも、大いに謝せざるを得ず、左に拙作一首を呈してその意を表す。

汲得祖宗遺訓泉、潅来豊築幾心田、菲才只恐語多失、訥弁豈期人満筵、天拝山根尋古道、金竜寺畔訪先賢、諸兄厚遇須深謝、耐否重恩荷痩肩、

(祖宗の残されたおしえを泉としてくみあげ、豊前、筑前のいくたの人々の心を田としてそそぎ入れたのであった。ただ、私の才能では言葉が当を得ていないことを恐れるばかりで、このような口べたでは人で会場が満みあふれるなどは期待できぬ。天拝山のふもとに古道をたずね、金竜寺のかたわらに賢者をおとずれたものである。諸兄の厚い待遇には深く感謝しなければならないが、その重い恩情を痩せた肩にになって果たして耐えられるのか否かが心配なのである。)

 福岡県は産業上よりみるに、炭坑地と実業地の二大部に分かつことを得べし。炭坑地は炭坑の方に心を引かれ力を奪われて、ために実業の熱誠を減ずるに至るは自然の勢いなれども、もし炭坑地がその石炭を利用して実業を振起するに至らば、将来の発展は必ず驚くべきものあらん。学校教育は全国の模範として知られおるくらいなれば、別に批評を加うる点なし。ただし社会の風俗のごときは、今より漸々教育の範囲を広めて矯正するを要す。宗教に至りては佐賀県人のごとく熱心ならざるも、熊本県人のごとく冷淡なるにあらず。そのうち筑前は宗教の勢力比較的微弱にして、筑後と豊前は隆盛なるがごとし。一般の気風においては、鹿児島県人、佐賀県人が軍人に適するだけそれだけ、福岡県人は実業に適するに似たり。また、長崎県人、大分県人が商業に適するとすれば、福岡県人は工業に適するがごとし。九州は概して保存的の傾向あるも、福岡県は進取の風あり。なかんずく炭坑地の活気を帯びたるは北海道に似たるところあり。また、その県人が他県に比して学術の思想に富み文芸の才に長ずるは、暗々裏に菅公の感化の今日に及ぼせる結果ならん。右は福岡県の統計を示し、あわせて所感の一を述べたるのみ。

P549-----------

四十一年度統計

 明治四十一年中開会の統計はさきに表示せしがごとく、

  大分県=四郡、十九町村、二十二カ所、四十三席、一万六千九百人

  熊本県=一市、十二郡、八十七町村、百六カ所、二百二席、五万九千九百五十人

  佐賀県=一市、八郡、三十三町村、五十二カ所、八十八席、二万四百七十五人

  福岡県=四市、十九郡、九十四町村、百二十三カ所、二百三十七席、七万一千五百二十五人

  播州明石町=三カ所、五席、一千五十人

  京都府伏見町=一カ所、一席、百人

 これを総計するに、開会の場所六市二百三十五町村三百七カ所、演説の席数五百七十六席、聴衆十七万人となる。これ一カ年間の巡回の成蹟にして、余が事業の進行とするところなり。また、地方巡回の外に東京近在に新設せる哲学堂の工事も、大いにその歩を進め、本年中に六賢台、三学堂ともに外部はことごとく竣功するに至れり。

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哲学堂の由来

 哲学堂は今より五年前、すなわち明治三十七年、哲学館の大学公称を文部省より許可せられたる紀念として一棟を建設したるに始まり、同三十九年一月、余が同大学を他人に一任し、これを己の退隠所と定めたるに起因すといえども、哲学堂中に奉崇せる四聖の由来につきては、遠く明治十八年に画工渡辺文三郎氏をして四聖の像をえがかしめ、中村敬宇先生に画賛を請い、学友四、五輩を招きて哲学祭を挙行せしに始まる。その画賛は左のごとし。

    四聖像賛 文学博士  中 村 正 直   

孔釈之教拯溺救焚、若微二聖人禽奚分、欧洲之哲尤推瑣韓、知大宗師固道徳根、弱肉強食今尚不已、卓美之世何時可待、炳燭余光嗟我老矣、継往開来望在俊士、

(孔子と釈迦の教えは人々を溺れたり焚かれたりする境地より救う。もしこの二聖人がおられなかったならば、人類と鳥類のごとき動物とどのように区別しようか。ヨーロッパの哲学者でもっとも推戴に価するのはソクラテスとカントである。あおがれる師匠はもとより道徳の根本を知っている。しかし、弱肉強食のありようは今もなおやむことなく、すぐれた美しい世はいったいいつまで待つべきなのであろう。かがやくともしびのあまりの光にわが老いたるをなげき、過去を引き継ぎ未来を開く望みは才知すぐれた人にあるのである。)

 その後、毎年十月二十七日をもって四聖の影前に哲学祭を行いきたれり。明治二十五年度の祭日にその起因を記したる拙文あれば左に掲ぐ。

 古来わが民間の習俗として医師は神農を祭り、学童は菅公を祭り、大工職人にいたるまで、あるいは聖徳太子を祭り、あるいは恵比須大黒を祭り、もってその余徳の今日に及ぶものを報謝せんと欲するなり。なかんずく宗教家にありては、各宗各派みなその祖師開山を祭りて報恩謝徳の意を表す。先年わが大学において加藤総長の故ありてひとたび職を辞せられたるに際し、学士学生相はかりて謝恩会なるものを設け、もってその恩に報謝したることありき。これ死後の霊を祭るものにあらずして生時の人を待するものなれば、以上挙げたるところのものと、もとより異なるところあるも、報恩の意にいたりては一なり。あるいは人より進物を贈られ、あるいは人の饗応を受け、あるいは人の引き立てにあずかりなどするときは、これに向かいて挨拶を述べ謝意を呈するがごときも、一として報恩の意に出でざるはなし。この生時の人に尽くすところの心をもってこれを死後の霊に及ぼすときは、そのいわゆる祭りなるもの起こる。今、余輩は哲学を専修するものなり。ただいま東西の哲学者中、その世に著名なるもののみを挙ぐるも百をもって数えざるを得ず、その学説、その著書、今日に存するもの幾万巻あるを知らず。余輩、不幸にして数百世の後に生まれ、幾千里の外に住して、その人に謁見することを得ずといえども、その著書につきてこれを講究するときは、あたかもその門下にありて教訓を受くると更に異なるを覚えず。余輩、これによりて知識を進め道理を明らかにし、無知世界の暗夜に立ちて恐れず、不徳社会の霧海を渡りて迷わず、その心、常に歓天楽地の中に安住するを得たり。果たしてしからば、余輩の先聖古賢の恩義をかたじけのうするや、実に深くしてかつ大なりというべし。これ、わが世間普通の習俗に考うるも報謝の意なかるべからざるゆえんにして、哲学祭の設ある誠にここに起因す。しかりしこうして、先聖古賢の多き、いちいちこれを祭るべからず。もし一人を祭りて他を祭らざるときは不公平の祭祀たるを免れず、不公平はすなわち不道理なり。道理を講究する哲学者にして不道理の祭祀をなす、あにその忍ぶところならんや。これにおいて余自ら古今東西一種無類の祭祀法を工夫し、東西両洋の哲学者中より四大家を選抜し、これを数百の哲学者を代表する者と定め、明治十八年十月二十七日、初めてその祭典を試みたり。その四大家を選定したるは決して私意に出ずるにあらず。当時哲学を大別して東洋哲学、西洋哲学の二類となし、東洋哲学をシナ哲学、インド哲学の二種となし、西洋哲学を古代哲学、近世哲学の二種となす。しかして、この四種の哲学はその発達の形式、あたかもさかさまにかけたる扇面様の外見を示し、扇柄の枢要〔かなめ〕に当たるものはシナにありて孔子、インドにありて釈尊、古代にありてソクラテス氏、近世にありてカント氏なり。この四氏はみな哲学の中興にして、その以前の哲学を統合しきたりて一大完全の組織を開き、もって後世の哲学の基礎を置きたる者なり。その以前の哲学は短かつ小にして、以後の哲学は長かつ大なり。その形、左のごとし。

 甲は以前を表し、乙は四氏を表し、丙は以後を表す。これ、余がその図式、扇面をさかさまにかけたる形なりというゆえんなり。詩人必ず歌いていわん、「扇面倒懸哲学天」(扇面をさかさまにかけた形で示される哲学の歴史)と。まずシナにありては、孔子以前に哲学の諸説ありたれば孔子はこれを集めて大成し、そののち諸学派相分かれ、その辺幅、宋朝に至りていよいよ大なるに至れり。インドにありては、釈尊以前すでに諸派の哲学ありて互いに相争いたるをもって、釈尊また集めてこれを大成し新哲学を構成せしが、そののち異論内外に競起し、その末流いよいよ進みていよいよ大なるに至れり。古代哲学はソクラテス氏をもって中興とし、その前後をもって世期を分かてり。故にソクラテス氏は扇面の枢要〔かなめ〕の地に位し、その前よりその後のほう哲学の諸説大いに発達し、その面積数倍を加うるに至れり。近世哲学もまた前後二世紀に分かれ、カント氏をもって中興とす。カント氏が前世紀の諸説を総合概括して後世紀哲学の源を開きしより以来、諸学諸説の多岐多端に分かれたること前世紀の比にあらず。故に以上の四氏は扇面的哲学の枢要〔かなめ〕の点に当たれる人なり。余がこの四氏を選抜して古今東西の哲学者を代表せしめたるは、誠に道理に適合せりというべし。唯一の難点は紀年および祭日を定むるにあり。しかるに余また一案を工夫し、四氏の年寿を合算してこれを日に配し、もって祭日を定め、また四氏の年歴を平分して、もって祭日の紀年を定めたり。その表、左のごとし。

誕    生  入   滅  寿  明治十八年をへだつること

釈尊  紀元前一〇二七年  同 九四九年  七十八年  二千八百三十四年

孔子  紀元前 五五一年  同 四七九年  七十二年  二千三百六十四年

ソクラテス氏  紀元前 四六九年  同 三九九年  七十年  二千二百八十四年

カント氏  紀元後一七二四年  同一八〇四年  八十年  八十二年

寿数合計三百年、これを日に配して三百日となし、これを一年の上に追算するときは十月二十七日に当たる。

年歴合計七千五百六十四年、これを四等分すれば一千八百九十一年なり。すなわち明治十八年は一八九一年に当たる。

 右は明治十八年の算定なれば、本年すなわち二十五年は一千八百九十八年に当たる。昨年十月二十七日夜、哲学館寄宿舎において舎生一同相会し、一八九七年度の哲学祭を挙行せり。そのとき朗読したる祭文、左のごとし。

 後学円了等謹みて四聖の尊像を講堂に掲げ、『大学』『中庸』『論語』『易経』『法華経』『浄土三部経』『ソクラテス伝記』『純理批判哲学』各一部をその前に供し、仰ぎて尊容を拝し俯して遺教を思い、もって先聖釈迦、孔子、ソクラテス、カントの四大家を祭る。釈迦はインド哲学を代表し、孔子はシナ哲学を代表し、ソクラテスはギリシア哲学を代表し、カントは近世哲学を代表す。故に四聖その人を祭るの意は、哲学そのものを祭るにあるを知るべし。それ哲学は一種の別世界にして、その中に天地あり日月あり、風雨あり山海あり。釈迦の智はそのいわゆる日月なり、孔子の徳はそのいわゆる雨露なり、ソクラテスの識はそのいわゆる山岳なり、カントの学はそのいわゆる海洋なり。その智はわれを照らし、その徳はわれを潤し、その識はわれを護し、その学はわれを擁し、わが父となりわが母となり、君主となり師友となり、日夜われを愛育撫養せり。これをもって不肖円了等、幸いに哲学界の一人となるを得たり。我が輩、あに報謝せざるべけんや。四聖の順序は釈迦を第一に位しカントを最後に置くは、しばらく年代の前後に従うのみ。今ここに祭日を定めて祭典を挙ぐるは、その意四聖の余徳を追慕し師父の厚恩を感謝するにあるも、また他に期するところなきにあらず。我が輩すでに先聖の撫育によりて学界の一成童となるを得たれば、これよりわが先聖に対する義務として、更に後進の子弟を啓導してこの哲学界裏に誘入し、これをして別天地の風雲山海の間に逍遥浴詠せしめざるべからず。これ、不肖円了等が先年哲学祭を設けてその学の将来ますます振起発達せんことを祈るの微志にして、すなわち四聖その人を祭るは哲学そのものを祭るゆえんなり。

 明治二十六、七年ごろ、更に橋本雅邦翁をして四聖の像をえがかしめ、副島伯に「孔釈瑣韓」の四字額の揮毫を請い、また明治三十五年、清人康有為氏に更に画讃をもとむ。その讃詞、左のごとし。

東西南北、地互為中、時各有宜、春夏秋冬、軌道之行雖異、本源之証則同、先後聖之揆一、千万里之心通、会諸哲心肝于一堂、鎔大地精英于一篭、藐茲丈室、与天穹窿、羹牆如見、夢寐相逢、諸星方寸、億劫且暮、待来者之折衷、

(東西南北のいかなる所もそれぞれ中核の地ともなり、四季はそれぞれまことにほどよく春夏秋冬とめぐる。万物の運行する姿は異なっていても、本源にある真実は同じである。いにしえも後世の聖人もおしはかり行う道はひとつであり、千万里も遠くはなれた心も通じ合う。もろもろの哲学者の真心を一堂に会合せしめ、地上の特にすぐれたものをこの内につつみ込み融合している。美しくしげる一丈の小室、高くゆみなりに曲がる天とともに、仰ぎみて慕うことまみゆるがごとく、夢のなかでもあいめぐり会うがごとし。もろもろの事象は方寸のうちにあり、無限の時はまさに暮れなずもうとする。未来におけるほどよく調整された、中を得た世界を待ちたい。)

 かくして明治三十六年に至り、哲学堂を建設して四聖を奉崇せんことに定め、工学士大沢三之助氏、同古宇田実氏、および山尾新三郎氏に設計を依頼し、地を東京府下豊多摩郡江古田和田山に卜し、三十七年四月に至りようやく落成し、八日をもって開堂式を挙行したり。そのときの拙作を左に記す。

  維時明治甲辰春、哲学堂成結構新、室小雖無容膝地、高風好養我精神、

(これ時は明治三十七年甲辰の春、哲学堂の建築はここに新たに完成した。家室は小さくて膝を入れるほどの地もないとはいえ、高く吹く風はわが精神を養生するによい。)

  目白行過一路長、椎名村外野方郷、老杉如踞喬松立、両樹迎君入我堂、

(所は目白を経て西に向かう一路は長く、椎名村をはずれて野方郷にある。老いた杉がうずくまるようにあり、高くそびえる松が立ち、この二本の樹がまず君を迎えてわが堂に案内するのである。)

 また、哲学堂の記は左のごとし。

 哲学堂は釈迦、孔子、ソクラテス、カントの四聖を奉崇する所なり。それ堂宇は三間四面にして四方正面の建築なり。堂の中央に柱脚四箇の天井よりかかるありて、自然に天蓋の形をなせるは、これ宇宙の形象なり。その中心よりガラス体の球灯を垂れ、その四柱より方形の香炉を釣るあり。すなわち球灯の透明にして円体なるは心体を表し、香炉の不透明にして方形なるは物体を表するの意なり。しかして四柱は宇宙の四極をかたどる。四柱の内部は銀色ガラスを張り、その中心に金色円形のガラスをかけたるは、天地開闢の当時、混沌たること鶏子のごとしといえるにかたどる。しかして金色ガラスより球灯の垂れるは、宇宙の本体より心体を開発せるの意を寓するなり。天蓋の四方に扁額を掛け、その額面に「釈聖」「孔聖」「瑣聖」「韓聖」と題し、もって古今東西の哲学者を代表す。

 聞くところによるに、この地もと和田義盛の城址たり。故に古来和田山の称あり。維新前には一時、某侯の山荘となりしことあり。爾来物かわり星移りて、さきに茶園となり、のちに麦田となり、今は哲学堂の庭園となる。本堂は乾坤巽艮の隅位に向かいて開き、渓谷に臨み丘陵に対し、遠近の風光すこぶる佳なり。その西南面には、はるかに富士の雪峰の卓然として樹頭に秀出するを望む。その東南面には渓谷あり。これを斜断せる小流あり。その名を玉渓と呼ぶ。玉川上水の分流なり。これに駕したる小橋あり。その通称は四村橋なるも、更に雅名を下して玉橋となす。これ玉川橋の略なり。この渓谷を隔てて玉橋より右方にわたり一帯の高原と相対す。これを鼓ケ原(鼓岡)と称す。むかし和田の居城ありしときに、この原頭にて鼓を鳴らして練兵をなしたりという。堂の東北面に竹林あり。竹林の右方に杉樹の並列せるあり。これ社林なり。その中に老杉の鬱然たるあり。神木をもって称せらる。その社を御霊社と名付く。神功皇后を祭る所なり。堂の西北面には茅屋数戸ありて散在す。その左方に当たり、田圃の間に校舎の伏在せるを望む。これ江古田尋常小学なり。その右方の背面に当たり、茂樹の鬱葱たるあり。これを氷川の社林とす。これより東南面の玉橋に至るの間はすべて江古田と称す。故に玉川の渓流に沿いたる一帯の水田を仮に古田と名付く。江古田および鼓岡を隔てて新井村あり。村内の薬師は衆人の帰依する所なり。その鐘声は朝夕、林をうがちて聞こゆ。堂の四方数間を離れて一帯の松林あり。その中に孤松の佇立するあり。これを俗に和田山の天狗松と呼ぶ。往時、人ありてこの松をきらんとせしに、天狗のために妨げられて果たすことを得ざりきという。よろしく魔松と名付くべし。この魔松と御霊社の老杉とは、東西数十町を隔ててなお見ることを得。これ実に哲学堂の目標なり。本堂所在地は東京府下豊多摩郡野方村大字江古田小字和田山なり。東京よりきたるに二道あり。一は目白停車場より西向して椎名町に入り、町の尽くる所より左折し、葛ケ谷を経て野方村字江古田に達するなり。その距離二十四、五丁にして人車の便あり。一は中野停車場より新井薬師を経て和田山に至る。その距離十七、八丁なり。これまた人車を通ずべし。哲学堂に八景あり、左のごとし。

  (一)富士暮雪(富士の夕暮れに映える雪)  (二)御霊帰鴉(御霊社のあたりに帰りを急ぐ鴉)  (三)玉橋秋月(玉橋よりみる秋の月)  (四)氷川夕照(氷川社の夕映え)  (五)薬師晩鐘(薬師寺の晩鐘)  (六)古田落雁(古田に落ちるように舞いくる雁)  (七)鼓岡晴嵐(鼓岡の晴れた日にのぼる山気)  (八)魔松夜雨(魔性を得た松にふる夜の雨)

 明治三十九年一月、余が神経衰弱のために哲学館大学を文学博士前田慧雲氏に引き渡し、京北中学校を湯本武比古氏に委託し、そののち財団法人の申請をなし、これと同時に哲学館大学を東洋大学と改称し、爾来数年前に発表せる修身教会の旨趣を拡張せんと欲し、転地療養の心得にて向こう十年間を期し、日本全国周遊の途に上ることとなせり。これにおいて修身教会事務所を設け、事務所より左のごとく広告せり。

井上博士は二十年間独力経営せる哲学館大学を退隠し、文学博士前田慧雲氏をしてその後継者たらしめ、また、十年間独力経営せる京北中学校および三年前創設せる京北幼稚園を退隠し、湯本武比古氏をしてその後継者たらしめ、これと同時に財産十三万五千九百余円を寄付して財団法人を組織せられたり。

稟  告

今般私立哲学館大学を私立東洋大学と改称し、同大学に充用せる現在の資産全部金十万五千二百四十四円八十銭五厘を寄付してこれを財団法人組織とし、左の者を役員に指名し

     理事(学長)  前 田 慧 雲    理事(主事)  安 藤   弘

     監事(一名)  湯 本 武比古

商議員十七名 石川 照勤  伊藤長次郎  滝川  浩  田中 治六  武  信之

中島 徳蔵  村上 専精  内田 周平  山脇 貞夫  八木 光貫

松本文三郎  斎藤 唯信  境野  哲  桜井 義肇  森田徳太郎

および前記理事二名

  本月四日文部大臣の許可を得たり。よって同学に関係ある諸君に稟告す。

     明治三十九年七月六日 設 立 者  井 上 円 了   

       稟  告

今般私立京北中学校と私立京北幼稚園とを合し、中学校に充用せる資産全部および幼稚園に充用せる資産全部を合し、総計金三万六百九十円八十一銭二厘を寄付して京北財団法人を組織し、七名の理事を指名し

     理事(校長) 湯 本 武比古  理事(教頭) 杉 谷 佐五郎

     理事(幹事) 田 中 治 六  三 石 賎 夫  三 島 定之助  神 崎 一 作

  本月十日文部大臣の許可を得たり。この段、同校関係者に稟告す。

     明治四十年五月二十日 設 立 者  井 上 円 了   

右のごとく目下閑散の位置に立たれたれば、もっぱら地方を周遊して修身教会の旨趣を演述せらるることとなる。この段、広く全国の有志諸君に拝告す。

東京市本郷区駒込富士前町五十三番地  修身教会拡張事務所   

   (修身教会の旨趣は『南船北馬集』第一編の序文に出ず)

 右のごとく、一方に修身教会の旨趣を拡張すると同時に、他方においては哲学堂の拡張に着手せり。すでにこれを余の退隠所と定めたるも、ただ自己一人の精神修養場となすのみならず、将来永く多数の人々の修養場となさんと思い、更に増築の計画を起こすに至れり。また、本堂に参拝するもの、この中に日本の聖賢をも奉崇すべしとの勧告もあれば、四聖堂の外に更に六賢台、三学亭を増設して、東洋三国の六賢およびわが国の三学を奉崇することとなす。しかしてその目的は宗教的崇拝の意にあらずして、教育的、倫理的、哲学的精神修養の本意なり。換言すれば、その聖賢は人物、人格、性徳、言行ともに我が輩の模範となり手本となるべき人なれば、ときどきこれに接近して各自の修養をなさんとするにあり。これに加うるに、その土地は高燥にして清閑、かつ多少の眺望もあれば、外囲の事情もまた精神修養の一助となるべし。故に余が存命中いささか微力を尽くし、その結果、余が死後において精神修養的私設公園として永く保存せられ、世道の万一を裨補するを得れば本望のいたりなり。

 哲学堂の内容は左の表をもって示すべし。

  哲学堂 四聖堂(世界的) 東 洋 シ ナ……孔聖

インド……釈尊

西 洋 古 代……瑣賢 近 世……韓哲

六賢台(東洋的) 日 本 上 古……聖徳太子 中 古……菅公

シ ナ 周 代……荘子 宋 代……朱子

インド 釈 教……竜樹大士 外 教……迦毘羅仙

三学亭(日本的) 神 道……平田篤胤大人 儒 道……林羅山先生 仏 道……釈凝然大徳

 この四聖の中に何故にヤソを加えざるかと詰問する人あれども、元来その堂が宗教堂にあらずして哲学堂なることを知らば、ただちに疑問を氷釈するを得べし。ヤソは宗教界中の大聖人なるも、哲学壇上の一家を成せるものにあらず。故になにびとの哲学史をひらくも、ヤソをもって哲学の大家として記述せるものを見ず。これに反して釈迦のごときは、宗教家にしてかつ哲学者なることは、東西ともに許すところなり。

 哲学堂内に奉崇する聖賢の伝記は、多少の教育あるもののみなよく熟知せるところなるも、多数の人々に紹介せんために、その伝記の大略を叙述すること左のごとし。

第一、釈  尊

 四聖の順次は年代の前後によりて定めることとし、まず釈尊より始むるに、釈迦牟尼仏世尊は、今より二千九百年前、インド迦毘羅城の王宮に降生せりとの説なれども、その年代は異説ありて一定し難い。ただし今日の考証にては西洋紀元前五百年前後なりとのことじゃ。その種族はインド四姓中の刹帝利種である。ようやく長ずるに及び、厭世出家の志を起こし、自ら生老病死のなにものたるを究めんと欲し、年十九のとき、深夜、宮人の熟睡せるをうかがい、馬にまたがりて城を出でて、六年あるいは十二年の間、山中に入りて苦行を修し、年三十のとき、尼連禅河の畔にきたり、菩提樹の下に座し、まさしく成道したまいたと伝えてある。これより歩を進めて恒河を渡り、鹿野苑に至り、小乗教を説かれたるをはじめとし、五十年の間各所に法輪を転じ、大小権実の諸法を演述せられたりとて、これを天台にては五時八教の次第を立てて取り扱います。仏年八十にして拘尸那城に至り、沙羅双樹の間にありて涅槃に入らんとし、大音声を出だし、あまねく大衆に告げらく。一切衆生もし疑義あらば最後の問いをなせといわれたれば、諸大弟子等おのおの供具を持して仏に詣し供養しけるに、みな黙して受けられず。また、涅槃に入らざらんことを勧請せるものあるも、許したまわず。中夜寂然として声なきに当たり、諸弟子のために略して法要を説かれたるものが、今日伝わるところの『遺教経』である。すでにこれを説きおわりて、頭北面西右脇にて入滅せられました。その弟子幾千人の中にて、舎利弗、目犍連、阿難、迦葉等は上足というべき高弟にして、なかんずきて迦葉が付法伝灯せりと伝えらる。仏滅後、大衆各所に集まりて、仏所説の法を結集せしにより、経律論の三蔵が今日に伝来することができた。釈尊の性行、学識ともに、いかばかり非凡にして偉大なりしかは、ここに喋々する必要はなかろうと思う。

第二、孔  聖

 孔夫子はその名を丘といい、字を仲尼といい、魯の昌平郷の陬邑に生まれ、他の児とともに遊戯をなすときにも、常に礼容を修め、長ずるに及び季氏の史となり、あるいは司職の吏となりたることがある。その後、魯国を去り斉宋衛の諸国の間に往返奔走したりしも用いられず、再び魯に帰るも、魯また厚遇せず。これより退きて詩書礼楽をおさめたれば、弟子遠近よりきたり集まりたりという。その後また弟子をひきいて諸国を歴遊しけるに、あるときは孔子の状貌陽虎に似たりとて、匡人のためにとらえられたれば、弟子大いにおそれしも、孔子は「天のいまだ斯文を喪せざるや、匡人それ予をいかんせん」といいて、泰然として驚かず。また、あるとき宋の司馬桓魋なるもの孔子を殺さんとせしに、孔子は「天徳を予に生ず、桓魋それ予をいかんせん」といいて自若たりしがごときは、その人物の偉大なることを知ることができる。晩年に及び易を好み、韋編三絶すという。弟子を教うるに詩書礼楽をもってせられしが、その徒三千人、身六芸に通ずるもの七十二人ありとは、実に盛んなりと申さねばならぬ。顔淵が「これを抑げばいよいよ高く、これを鑚ればいよいよ堅し」といいたるも、孟子が「生民ありて以来、いまだかくのごとき人あらず」といいたるも、孔子の人物人格のいかんを想するに足る。夫子自ら終身天下を周遊してついに用いられざるを見て、「天を怨みず人をとがめず、下学して上達す、われを知るものはそれ天か」といい、最後に『春秋』を作りて、「後世、丘を知るものは『春秋』をもってせん、丘を罪するものもまた『春秋』をもってせん」といわれたるがごとき、その志のいかんを知ることができる。魯哀公十六年四月巳丑の日をもって、この偉大なる聖人が永眠に就かれました。その寿七十三であります。

第三、瑣  賢

 大賢ソクラテス氏は紀元前四百六十九年、ギリシアのアテナイに生まれ、家貧にして父は彫刻を業とし、母は産婆たりしも、幼時すでに普通の教育を受け、天資豪邁にしてしかも沈毅の人であった。壮年のとき戦陣に入り、その忍勇、人を感嘆せしめたということじゃ。その妻短気にして激怒しやすき性なるも、よくこれを忍んで服せしめたりという。中年以後に至り、はじめて人を教育せんことを志し、毎日、市場、工場、公園のごとき多数衆人の集まる所に至り、老弱貧富をわかたず、諄々として訓誨し、すこしも倦むことなかったと申す。その外貌は醜なるも、その内心は美にして、ひとたび相会してその話を聞くもの、敬服感嘆せざるものなかりしと伝えられておる。当時ギリシアにあっては詭弁学流行し、無益の言論を弄する弊ありしが、瑣賢〔ソクラテス〕はつとめてこれを排斥し、極力世の風教習俗を矯正せんとしたれば、世人の憤怒に触れ、讒せられて死罪の宣告を受くるに至った。かかる無実の罪に陥りしも、自ら弁護することを用いず、従容自若として毒杯を仰ぎて長逝せられたるは、実にその胸量のいかばかり豁大なりしかを知ることができる。その学説は知識をもととし、智すなわち徳なることを唱え、知りて悪をなすは、知らずして悪をなすに勝るとまで申しておる。その一代の言行は実に万世の模範とするに足る人物である。後世、西洋にありて教育倫理の学を講ずるに、瑣賢をもって元祖とせざるものはない。また、その門下より続々秀才碩学を輩出せしめたるも、その感化の功に帰せねばならぬ。門弟中出藍の名を得たるものは、プラトン氏である。瑣賢の寿は七十歳であって、後世よりギリシアの聖人と呼ばれております。

第四、韓  哲

 近世無二の碩学大家たるカント氏は西暦一七二四年、プロイセン国のケーニヒスベルク府に生まれたる人である。その家はもとスコットランド国より転住しきたり、その父は馬具を作るを業としたりしも、よく韓哲を教育してその業をおえしめた。その母は謹直の人なりしが、韓哲はその遺風を受け、厳粛正確の風ありて、一日中の動作進退みな規律を立ててこれに従い、その時間を確守するがごときは、寺院の時鐘よりも正確なりとの評判であった。その大学にあるや、数学、物理、地理、論理、倫理、哲学等を教授し、頽齢に及ぶまで教授の椅子を占めておられた。その一代の傑作たる『純理批判』は一七八一年の発行にして、ひとたび世に公せらるるや、当時の哲学界を震動するほどの勢いを有し、その人を景慕して、遠近の学者きたりて刺を通ずるものすくなからざりしという。氏は生涯故郷を出でず、妻をめとらず、実に隠君子の風であった。生来虚弱の質なりしも、摂生そのよろしきを得て、八十歳の高齢を保ち、一八〇四年をもって永眠に就かれました。その最後のときまで著作に従事し、脳力の永続せしは驚くべきほどである。その死したるときのごときは、全身骨と皮のみになり、あたかも乾燥せるもののごとくであったと伝えてある。その著書は『純理批判』の外に『実践批判』『断定批判』等、いちいち挙ぐるにいとまなければ、これを略しておきます。その人格、性行ともに、学者の模標として一点の間然するところなしといってよろしい。また、近世の哲学はフランス国のデカルト氏に始まりて、カント氏これを大成せりと申しても差し支えない。

第五、聖徳太子

 つぎに、六賢は近きより遠きに及ぼす順序を用い、まず日本より始むれば、聖徳太子は用明天皇の第一子にてあらせられ、生まれながら言語をよくし、稟性聡明の御方にてまします。年ようやく長ずるに及び、書を読むことを好み、なかんずく仏書を愛読し、蘇我の馬子とともに仏教を奉信せられました。このとき守屋なるものありて仏をしりぞけんと欲し、ために闘ってついに敗死せし後は、仏教大いに興り、数十年を出でずして寺院四十六カ所、僧尼一千二百八十余人を見るに至った。推古天皇位につかせらるるに及び、太子をして政を摂せしめ、万機を委任せられしかば、太子はじめて冠位十二階を作り、憲法十七カ条を定められました。すなわち「和を貴び忤なきを宗とすべし、篤く三宝を敬すべし、詔をうくれば必ず慎むべし、群卿百寮礼をもってもととすべし、餐を絶ち欲をすて明らかに訴訟を弁ずべし、悪を懲らし善を勧むべし、人おのおの任あり掌よろしく濫にせざるべし、群卿百寮早に朝しおそく退くべし、信はこれ義のもと、毎事信あるべし、忿を絶ち瞋を棄てて人の違を怒らざるべし、功過を明瞭し賞罰必ず当たるべし、国司国造は百姓に賦歛することなかるべし、諸の官に任ずるものは同じく職掌を知るべし、群臣百寮嫉妬なかるべし、私に背きて公に問うべし、民を使うに時をもってすべし、事に独断すべからず」の十七条であるが、いずれも万世の金言であります。その著作としては法華、勝鬘、維摩三経の『義疏』ありて、今日に伝わる。これを太子の三疏といいます。太子病むに当たり、勅問ありて遺言を尋ねられしに、仏法を興隆し伽藍を造修して、皇統を万世に保護祈請せんことを願われたりとの事じゃ。年四十九にして播磨の斑鳩の宮に薨ぜられ、磯長の陵に葬られたれば、天下の百姓は父母を失いるがごとく、一人として哀惜せざるものなく、哭泣の声いたるところに聞こえたりと申してある。太子は廏戸にて出産し給いし由来より廏戸皇子といい、または豊聡耳、上宮など数名あれども、世間普通には聖徳太子として知られております。聖徳とは叡明仁恕なるの称にして、実に名実相応の御方と申してよろしい。

第六、菅  公

 菅原道真公は参議是善の第三子にして、幼より英才群を抜き、十一歳のとき、詩を作りて人を驚かしめたることがある。貞観年中、文章生にあげられ、得業生となり、対策及第して累進し、兵部、民部少輔を経て式部少輔にうつり、文章博士を兼ぬることとなり、これより更に累進せられしも省略しておきます。しかして昌泰二年に至り、藤原時平左大臣となり、公は右大臣となりしが、公の名望内外に高く、天皇の寵任ことに厚きために、時平等の讒するところとなり、貶せられて太宰府に左遷せられました。公、常に梅を愛す。発するに臨み「東風吹かば香おこせよ梅の花あるじなしとて春なわすれそ」と詠みたる歌は、なにびともよく知るところである。太宰府にうつりし後は、門を閉じて出でず、文墨をもって悶を遣る。「離家三四月、落涙百千行、万事皆如夢、時々仰彼蒼」(家を離れて早くも三、四カ月、その間に落とす涙のすじは百か千か数えきれぬ。あらゆることはすべて夢のごとく、ときにはあの蒼天を仰ぐのである。)の詩、および「去年今夜侍清凉、秋思詩篇独断膓、恩賜御衣猶在此、捧持毎日拝余光」(去年の今夜は清涼殿にはべっていたものであったが、秋思の詩に私ひとり断腸の思いがする。天子よりいただいた御衣は今も私の前にあり、捧げては毎日その恩寵をおがむのである。)の作のごときは、みな人口に膾炙するものである。延喜三年二月、ついに五十九歳の寿をもって配所に薨去せられました。公は詩文をよくせしかば、その遺集、今に伝わる。また、かつて諸儒と勅を奉じ、『三代実録』五十巻を修し、また詔を奉じて旧史を分類し、その名を『類聚国史』というもの、およそ二百巻あります。かの遺誡中の「凡神国一世無窮玄妙者、不可敢而窺知、雖学漢土三代周孔之聖経、革命之国風、深可加思慮也」(およそ神国一世無窮玄妙なるものは、あえてうかがい知るべきではない。中国の夏殷周、周公、孔子の聖経に学ぶとはいえ、その革命の国ぶりは深く思慮を加えるべきである。)の一章のごとき、または「凡国学所要、雖欲論渉古今究天人、其自非和魂漢才、不能闞其閫奥矣」(およそわが国の学問において肝要なことは、論議が古今の歴史にわたり、天人の際を考究せんと欲すといえども、わが国固有の精神をもって中国の学問を活用するのでなければ、その深奥をうかがうことはできない。)の一章のごときは、実に千古の卓見にして、その学識、徳行ともに深く敬服するところである。後世、郡国いたるところに社を建て像をえがきてこれを祭り、菅聖と呼び、天満天神と称するも、当然のことであります。

第七、荘  子

 荘子はその名を周といい、字は子休と称し、梁国または宋国の蒙県に生まれ、梁の恵王、斉の宣王とその時を同じくすとあれば、孟子と同時代なることは明らかである。その著書十余万言は大抵寓言にして、その要老子に基づき、もって孔子の説を毀斥するを主としたるものである。楚の威王その賢を聞き、使を遣わしてこれを迎え、大いに任用せんとしたれども、荘子笑いて申すには、「千金は重利、卿相は尊位なれども、かの祭祀に用うる犠牛と同じく、平日養うに良食をもってし、衣するに文繍をもってするも、引いて太廟に入れらるるに当たりては、自ら孤豚とならんと欲するもいかんともすることあたわず。われはむしろ汚濁の地にありて、悠々自得するを快とす」といいて辞退し、終身官に仕えず、その志の高きこと推して知るべしである。その著書は「逍遥遊」「斉物論」「養生主」「人間世」「徳充符」「大宗師」「応帝王」の諸編を有するが、「逍遥遊編」が全編の眼目である。その文章は高妙にして深味を有し、鬼を出でて神に入るの趣ありとの古来の評じゃ。たとえ老子の学なにほど深妙を得たりとも、荘子を待つにあらざれば後世に流伝することはでき難い。古来荘子を読むもの、ただその文の神妙を称するのみにて、その説の高妙なるをいわぬ。これ全く儒家の眼をもって見る故である。もし今日哲学上より観察しきたらば、その思想の深奥なるは、文章以上にあることがわかる。その説、虚静恬澹寂寞無為を主とし、死生を一にし是非をひとしくするにありというも、その中におのずから宇宙の深秘をうかがい、絶対の風光に接するの趣があります。かかる説を発表せる荘子その人のいかんは、想像するに余りありといってよろしい。

第八、朱  子

 宋の朱子、名は熹、字は元晦、自ら称して仲晦、晦庵または晦翁と号した。生まれてわずかに五歳のときに小学校に入り、はじめて『孝経』を誦して、すでにその大義を了解し、八字をその上に題し、「若不如此便不成人」(もし『孝経』に述べられるような人でないとすれば、そのような人は人とはいえぬ。)と書したるほどに天稟の神才を有しておった。また、群児とともに遊嬉するに、砂をもって八卦の象をえがき、これを熟観して楽しんだということじゃ。学業は劉勉之と申す人より受けたりしが、朱子の非凡なるを見て己の女をもってこれにめあわせた。高宗帝の紹興年中に登第し、爾来職を州県に奉ぜしことありて、その名、日一日より高く、当時の士大夫たるもの程氏の学を名付けて道学と申しおりしが、朱子これをうけて修学いよいよ篤く、学者大抵みな晦菴先生と呼びて、朱子を師宗し、四方その人を仰ぐこと泰山北斗のごとくであった。光宗帝のときに侍講より申し上げたる言に、「もし徳に進み業を修めんと欲せば、天下第一の人をたずねてこれを用うべし」といいしが、その第一の人とは朱子を指したるのである。後に寧宗帝位につかせらるるに及び、慶元年中、朱子召に応じて朝廷に至れども、その反対党より偽学をもって目せられ、わずかに官にあること四十六日にして、職をやめられ、退きて諸生と学を講じて休まず。慶元六年病にかかり、いよいよ危篤なるに至り、正座衣冠を整え、枕に就きてなお紙筆をもとめんとする状ありしも、筆を握りて運することあたわず、恬然として逝きたりとのことじゃ。ときに偽学の党禁厳なりといえども、会葬せるもの数千人の多きに及びたりとは、その徳望のいかに大なりしかを判知することができる。寿七十一歳、諡して文といい、後に孔廟に従祠せられしとは、死後の余栄もまた大なりといわねばならぬ。

第九、竜樹大士

 釈尊滅後、小乗ひとり行われたりしが、その教中に異見を起こし、二十部または五百部に分立するに至り、小乗ようやく衰え、四百年を過ぎて仏教まさに五インドに地を払わんとするありさまなりしが、前に馬鳴、後に竜樹出でて大乗を唱え、仏教再び興起するに至れりと伝えてある。竜樹大士は南天竺婆羅門種の末孫にして、仏滅後七百年のころ、世に出でたりと申す。天性聡悟にして、幼時、人の四韋陀を誦するを聞きて四万偈を作る。年弱冠にして天文、地理、およびその当時諸学術、一として通暁せざるはなく、諸国に独歩するほどの勢いであったとのことじゃ。一時は朋友とともにはかりて学術の薀奥を究めたる上は、情欲をほしいままにせんと欲し、無道の行いをなしたるも、後に悟るところありて道心を起こし、仏教に入り経律論三蔵を修了し、更に余典をもとめたりしが、たまたま大竜菩薩の指導によりて、ともに竜宮に至り、大乗経典を探り得て、その深義を究め、南天竺に帰りて盛んに外道を排して大乗を弘めたりという。後に法を提婆に付し、間室に入りて出でざりければ、弟子戸を破りてこれをみるに、三昧に入り、蝉脱して天竺の諸国を去るを見たりと伝えてある。その所造の論部、「大悲方便論五千偈」「大荘厳論五千偈」「大無畏論十万偈」「優波提舎論十万偈」ありと申すが、今日蔵経中に入りてわが国に現存するものの中に『大智度論』『中論』『十二門論』『十住毘婆娑論』等ありて、なにびともその所説の大乗の教理をうかがうことができる。世呼びて八宗の祖師とし、仏教の中興とし、第二の釈迦として崇信するも、もとよりそのところなりといってよろしい。

第十、迦毘羅仙

 インドにありて婆羅門教の余流をくみたる哲学が六大学派に分かれておるが、そのうち最も名高きものは「サーンキヤ」すなわち数論の学派である。この派の開祖を迦毘羅仙人と申します。迦毘羅の名は黄赤色の義にして、その鬢髪、面色ともに黄赤色なるが故に、かく名付けられた。その年代は、あるいは成劫の初に出ずとも、あるいは空より生ずともありて、つまびらかに知ることはできぬ。しかし釈尊より以前に世にありしことは明らかである。この仙人は自然に法と智と離欲と自在との四徳を有し、あまねく世間を観察せるに、人の闇黒なる中に沈没するを見て、可憐の情を起こし、阿修利なるものを得て、これがために二十五諦の法を説かれ、阿修利これを受けて更にその法を般尸訶に伝えたということじゃ。般尸訶の授かりしときには六万偈ありしも、そののち更に相伝えて自在黒に至り、かくのごとき大偈は人の受持し難きを知り、これを略して七十偈としたる由。すなわち今日存するところの「金七十論」がその偈文である。これに金の字を冠したるは、国王より金を賜りし紀念として用いたりと伝えられておる。その二十五諦とは自性、大、我慢、五大、五唯、五知根、五作根、心平等根、神我のことでありて、これが数論哲学の骨目であります。そのうち自性と神我との二者は、本来自存せるものにして、中間の二十三諦は自性と神我と相より、しかも自性の開発より次第に変遷して生じたるものとの説じゃ。しかして自性には発動の力ありて、神我はこれを有せず、自性は無知にして、神我は知者である。前者は作者にして盲者、後者は受者にして跛者、すなわち自性と神我と相合するは、盲者と跛者と相合するがごとしと説き、これによりて迷悟の生起するゆえんを示したるのが数論の説である。たとえその説の開祖たる迦毘羅仙の伝記は明らかならざるも、その人の学識、性行のいかに深大なるかは多少推想することができる。

第十一、平田篤胤大人

 平田篤胤大人は和学者の泰斗にして、幼名を正吉、通称は大角と呼び、安永五年、出羽国秋田の城下に生まれたる人であります。その父は佐竹家の藩士である。大人、八歳のときより漢学を学び、後に医術を修め、二十歳に及んで奮然として志を起こし、書をとどめて郷国を去り、わずかに一両の小金を所持して旅程に上り、苦難をおかしてようやく江戸に達したるも、藩にもたよらず、朋友をもたのまず、独立独行、ただ良師を得てこれに従わんと欲し、糊口のために艱難辛苦をなむるも更にこれを意とせず、流浪すること四、五年の長きに及びたりとのことじゃ。幸いにして寛政十二年、備中国板倉家の藩士平田藤兵衛の嗣となるを得て、居を江戸に定むることになった。享和元年はじめて本居宣長翁の著書を見て、大いに発見するところあり。爾来もっぱら古道を振興せんことに力を尽くし、文化元年、家号を命じて真菅乃屋と称し、門戸を開きて徒弟を教授することを始め、これよりのち毎年書を著して古道を弘め、更に家号を伊吹乃屋と改め、その名いよいよ遠近に弘まり、その著書献上の命を拝するに至り、これにおいて、秋田藩においても禄百石を給与せらるることになりました。大人は文政十四年秋田に帰り、間もなく病にかかり、ついに同年九月十一日をもって黄泉の客となりたるが、その寿六十八歳であつた。その一代の事業は古学を興すにありて、その著書百余部に達し、門人一千余人の多きに及び、神道これによりて勃興したるは、非凡の偉人といわなければならぬ。弘化二年、諡を賜りて神霊能真柱大人ということになりました。

(この三学の選定はあらかじめ著述の最も多き人をとることの標準を設けて神、儒、仏三道の学者を考索せるに、神道にては本居大人よりも平田大人の方、著作の種類の多きを認めたれば、後者を当選することにしました。しかるに前者を推す人も多々あるように見受けたれば、数十名の学者諸氏に意見を徴したるに、原案のままを賛成せる人の方多数を得たるにより、平田大人に決定することになりました。これは後日の参考までに申しおく。)

第十二、林羅山先生

 林信勝、すなわち羅山先生は徳川幕府の儒官なるが、その祖先は加賀の人にして、後に紀州に移り、その父は京都に住したりとのことじゃ。生まれて非凡の才あり。八歳のときに人の『太平記』を読むを聞きて、たちまちこれを諳記せりとて、人みな呼びて神童と申したという。年十四にして建仁寺に入り書を読まんとするも、ときなお戦乱の世にして書籍を得ること難ければ、百方捜索し、たまたま一書を得れば読書夜を徹するに至り、かくしてようやく長ずるに及び、ますます広く百家の説をさぐり、およそ字の冊をなすもの、一としてうかがわざるものなきほどであったとのことじゃ。しかしてその最も尊崇するところは六経にありて、その本旨を得たるものは程朱の学なりとなし、ついに門を開きて宋儒の説を講ずるに至った。このときに当たり、洛北に隠栖せる藤原惺窩を慕って、その弟子となり、ますます経義に通暁したれば、徳川家康その名を聞きてこれを召し、慶長十一年命じて博士となし、顧問の位置に置かれた。その後、薙髪して道春と称し、民部卿法印に叙せられ、大いに信任を得、朝議律令までを起草したりという。徳川四世に歴仕し、明暦三年正月二十三日をもって没去せられました。その寿七十五歳、信勝はその名、羅山はその号にして、諡を文敏と申します。羅山先生は博覧強記、ことに文才に長じ、暫時も筆を休めず、その著作すこぶる多し。今その主要なるものを挙ぐれば、『東鑑綱要』『群書治要補』『儒門思問録』『倭漢法制』『本朝編年録』『貞観政要抄』『渾天義考』『性理字義諺解』『経籍和字考』『四書集註抄』『道統小伝』『神道秘伝』『神社考』等にして、一代の編述およそ一百七十余種あり。そのうち『羅山文集』のごときは一百五十巻の多きに及ぶ。実に近世の碩学にして、かつ大著述家と申さねばならず、その没後、林氏の学相伝えて今日に及び、徳川三百年間を風靡し、儒学これによりて大いに勃興したれば、先生は真に儒門の中興であります。

第十三、釈凝然大徳

 釈凝然大徳は今より約六百年前、すなわち仁治元年に伊予国高橋郡内の藤原氏の家に生まれられたる御方にて、その号は示観と申します。天性聡明にして、仏縁浅からず、幼少のときより仏教を聞くことを喜び、人よりひとたび口授されしことは、よく諳記して忘れたることなかりしと申すことじゃ。年わずかに十五歳にして、奈良東大寺戒壇院に投じ、円照門下に入りて剃髪受戒し、これより宗性といえる人につきて華厳の学を修め、そののち三論法相の諸学をも兼修し、更に京都に遊びて禅学の理をうかがい、かたわら孔老百家の道に通じ、博学多識、諸宗の教理一として暁通せざることなきほどなるも、自ら華厳を本領としておられた。初めて講義を大仏殿において開かれしとき、南都七大寺の諸師争いきたりてその席に列せられ、そののち開講あるごとに、聴衆雲のごとく集まりたりとのことじゃ。後宇多上皇南都に巡幸遊ばせられたるとき、大徳は戒師となりて菩薩戒を授け奉り、そののち御召しによりて五教章を講じ、国師号を賜りたりとその伝記中に見えておる。元亨元年九月五日をもって戒壇院に入滅し、鷲尾山に葬る。その齢八十二歳、僧臘六十三年とのことじゃ。その学八家九宗、和漢の諸学に通達し、自ら華厳を本宗とするも、偏見僻説を有せず、その著作中、大部のものには『華厳探玄記洞幽鈔』百二十巻、『五教章通路記』五十二巻をはじめとし、いちいち列挙するにいとまあらず。その最も世間に流布せるものには『八宗綱要』『三国仏法伝通縁起』等ありて、一代の撰述総じて百六十余部一千百余巻ありとは、実に驚くべき著述家ではありませぬか。その筆を下ろすや、すこしも草稿をしたためず、批点を加えず、千万言たちどころに成り、雄編大冊日ならずして完結すという。実に希世の英才にして、しかもまた博雅の大徳の人でありました。

以上の結言

 以上各家の伝記は、従来通俗に伝われるままを記載したるものである。その要は各家の人物の一端を知らしむるにとどまる。もし年代の前後をもって列すれば、第一迦毘羅仙、第二釈尊、第三孔夫子、第四瑣賢、第五荘子、第六竜樹大士、第七聖徳太子、第八菅公、第九朱子、第十釈凝然大徳、第十一林羅山先生、第十二韓哲、第十三平田篤胤大人の次第になるかと思う。これを教育勅語に対照するに、勅語は修身道徳の規則なり、おおもとなり、原型なりでありて、以上の聖賢は実例なり、現実なり、体質である。すなわち抽象と具体との相違であるから、二者相待ちて修身の実行を見ることができる道理である。また、将来その所在地を私設公園とするにおいては、浅草や上野や日比谷の公園のごときは肉体修養の公園にして、哲学堂は精神修養の公園として区別することができる。人には身心二者ありて、双方を修養する義務ありと定むる以上は、この二種の公園のともに必要なることは明らかである。すなわち在京中の青年、学生が日曜や休日に哲学堂を訪って精神に修養を与うるの益あるのみならず、地方より東京見物に上りたる人々が上野や浅草の公園に遊びて肉体の修養をなす外に、哲学堂へ参拝すれば、知らず識らずの間に精神の修養を営むことができる。また、東京にかかる一大道場の開設あるときには、地方人士をして肉体の外に精神にも修養を与うるの必要を感ぜしむることができる。また、修身教会は勅語の聖旨を日本国民に開達普及するにありて、哲学堂は人物人格を修養するにあれば、教会と本堂との両者の相待つところあるは明らかである。

 以上、哲学堂の由来沿革を略述せり。本年中までに六賢台、三学亭の外部の建築は竣功したるも、内部の装飾と山門の建築とは、来年度の事業となす。ついで、庭園の経営は五年間を期して成功の予定なり。しかして最初より全部の建築は山尾新三郎氏の設計年にかかれり。

     哲学堂雑吟数首

和田山上一堂横、此是吾宗哲学城、霊樹東西防悪鬼、社林前後護神明、徳如富岳乾坤聳、境似玉川冬夏清、堪仰三千年古月、余光今日照群生、(霊樹とは老杉と喬松とを指す。社林とは氷川社と御霊社とを指す。哲学堂八景を参看すべし。)

(和田山の上に哲学堂がたつ、これこそわがおおもとなる哲学の城である。不思議な力をもつ老いた杉と天狗松とが東西にたって悪鬼の進入を防ぎ、氷川社と御霊社が前後に存在して神明をまもる。徳は富士山のごとく天地にそびえ、その境地は玉川に似て四季を通じて清らかである。三千年来のいにしえの月を仰げば、その光は今日もなお衆生を照らしているのである。)

御霊社畔玉橋辺、哲学堂深昼粛然、野径草封人絶跡、松林風過葉鳴絃、遠山近水軒前笑、古聖今賢壁上眠、尽日閑居無別事、逍遥物外味幽玄、

(御霊社のほとり玉橋のあたり、哲学堂は奥深く昼なおしずかに、野の小道は草がふさいで人の通る気配もなく、松林に吹きぬける風が葉をうちならす。遠い山と近くを流れる川に軒の前にたたずんで思わず笑いを含めば、いにしえの聖人や現今の賢人の画像は壁上に眠るがごとく、一日中のんびりとして格別のこともなく、諸物にわずらわされることなく、心を楽しませてのんびりと深遠な哲理を味わうのである。)

梅雨霽時辞帝京、讃山肥海養吟情、寒霞渓上夏将去、天草洋中秋已生、韓北霜繁風有色、遼東氷鎖水無声、帰来哲学堂前望、冬景如春岳雪明、(三十九年、長崎県および満韓を周遊して帰りたるとき、これを賦す。)

(梅雨のはれまに東京に別れを告げ、讃岐の山々や肥後の海に詩情を養う。寒霞渓のほとりではあたかも夏も終わろうとし、天草洋では中秋の気配が色濃くなっていた。韓国の北では厳しい霜に吹く風にも色づく思いがあり、遼東の地では氷にとざされて水の流れさえも音がなかった。ようやく帰りきたって哲学堂前より遠望すれば、冬の景色は春を思わせて、山にかかる雪にも明るさが見えたのであった。)

邱上孤堂立、四隣一望青、地偏無俗客、昼静有神霊、風過松伝楽、雨来蛙誦経、聖賢人已遠、今日徳猶馨、

(丘の上にぽつりと哲学堂がたち、あたりは青々とした緑が望まれるのみ。この地が俗世間から離れている故に世俗の人の訪れもなく、昼もなお閑静で神のみたまが存するようである。風が吹き抜けるときに松は音楽をかなで、雨が降るときには蛙がお経をよむかと思われる。聖人賢人と称された人々はすでに遠く過去とはなったが、今日においても遺徳はなお香り高く残っている。)

目白村西路、尽辺有小邱、聖堂如仏閣、書庫似城楼、夜雨敲詩句、秋晴試野遊、閑居多楽事、名利復何求、

(目白村の西の道、その道の尽きたあたりに小さな丘がある。四聖堂は寺院のごとく、書庫は城の楼閣に似ている。夜の雨に詩句を推敲し、秋晴れのもとでは野を遊行してみる。しずかなすまいには楽しみごとが多く、名誉や利益などいったいなんで求める必要があろうか。)

天狗松高鶴欲栖、閑居唯与老農交、穫稲時過秋寂々、只見大根青一郊、(和田山地方は大根の産地にして、秋期には満野大根のために青し。)

(天狗松は高々とそびえて鶴がすみかとしようとしており、のどかなすまいにはただ年老いた農人との交わりがあるだけ。稲の刈り入れが終われば秋はいよいよものさびしく、ただ大根の青さがこの郊外の地を占めているのみである。)

消暑三旬客異郷、帰来先到古賢堂、光風霽月依然在、畢竟是吾無尽蔵、

(暑さをしのぐこと三旬、他の地に旅をしていたが、帰って真っ先にたずねたのは古賢の堂である。晴れた日のうららかな風と雨あがりの晴れわたった月はかわることなくある。つまるところ、これこそが私が尽き果てることのない蔵とするゆえんなのである。)

有声無影転蕭然、漸覚松頭驟雨懸、天狗未来雲已散、和田山上月如弦、(天狗松を詠む)

(なにものか音はすれども姿は見えず、いよいよさわがしくせわしない。そこでようやく松のこずえににわか雨がふりかかっていることを知った。天狗がまだ来ないうちに雲もすでに散り去って、和田山の上にはゆみはり月がかかっている。)

堂前迎月独徘徊、秋入草根虫語哀、此地勿言市街遠、林風時送電声来、(夜中、電車の声の近くきたるあり。故にこれを詩中に入るる。)

(哲学堂の前で月の出を迎えてひとりさまよえば、秋は深く草の根にまでおよんで虫の声も哀れである。この地は市街を遠くはなれたところなどとはいわないでほしい。林に吹く風がときには電車の走る音を送ってくるのだから。)

野外風光未見冬、何知雪色到遥峰、夕陽影裏秋如畵、天壁高懸白玉蓉、(これ、哲学堂八景中の富士暮雪を詠じたるなり。)

(野外のおもむきにはまだ冬のきざしも見えないのに、なんと雪がはるかな峰をいろどっているのが知られる。夕日のひかりのなかに秋は画のごとく、天空に高く白雪の富士がかかっているのである。)

明治春光四十遷、今朝堪喜遇尭年、和田山掛蓮峰幅、天狗松弾哲学絃、孔釈影前心月朗、瑣韓壇上物華鮮、貧生亦欲饌先聖、嚢底奈何無一銭、(明治四十年元旦作)

(明治の春は四十年めぐりきたり、今朝このゆたかな年を迎えるを喜ぶ。和田山の地に富士をえがいた軸をかけ、天狗松は風ふいて哲学の絃をかなでる。孔子、釈迦像の前にさとりをひらいてきよらかに、ソクラテス、カント像の壇上には物象はいよいよあざやかに、貧しい書生はともあれ古代の聖人に供え物をねがったが、財布のなかにはなんと一銭もないのである。)

一条鉄路電車馳、中野駅東尋薬師、寺畔野蹊行数歩、隔田邱上認松枝、林間看取甍光明、此是吾宗哲学城、四聖堂前蓮岳聳、六賢台下玉江清、氷川夕照御霊鴉、水満秋田雁影斜、半日閑遊洗塵苦、更経目白晩還家、(中野駅より哲学堂に至る道順を賦したるなり。)

(ひとすじの鉄路に電車がはしり、中野駅の東に新井薬師をたずね、寺院のかたわらの野のこみちをゆくこと数歩すれば、田と丘をへだてて高く松の枝が見え、林の間にいらかのかがやきがみられる。これこそわがおおもとである哲学の城である。四聖堂の前には富士がそびえ、六賢台の下を流れる玉川の水は清らかである。氷川社の夕映えに御霊社にねぐらする鴉は照らされ、水は秋の田に満ちて雁が斜めによこぎる。半日のゆったりした遊歩は俗世の悩みを洗い流し、さらに目白を経て日暮れにはわが家にかえったのであった。)

 その他四聖の賛あり。すなわち左のごとし。

     釈聖賛

  釈尊懐大志、決意出王居、開眼尼連岸、転輪鹿苑墟、有空中道鏡、大小両乗車、滅後三千歳、護持猶未除、

(釈尊は大志をいだき、意を決して王宮を出た。尼連禅河の岸べに悟りを開き、鹿野園に行って説法す。有と空との中道の教えを、小乗と大乗のふたつながらを車輪とす。釈尊がなくなられて三千年なるも、教えはまもられ続けられて尽きることはない。)

     孔聖賛

  孔子生周末、人心漸晦冥、詩書尋古道、仁義立常経、四百州帰徳、三千徒満庭、学灯長不滅、万古作明星、

(孔子は周の末に生をうけ、人心ようやく暗く混乱す。故に詩経、書経などの古典によって古代の人の道をたずね、仁義の徳目によって人の常にのっとるべき道を確立した。中国全土は道徳に帰依し、人々の教えを願う者は庭に満ちた。かかげられた学問のともしびは長く不滅であり、いにしえより明星のごとく輝いている。)

     瑣聖賛

  西賢推瑣氏、学海別開源、詭弁皆緘口、彜倫始固根、対妻能忍怒、臨刑好呑寃、高徳堪欽仰、卓然百世存、

(西方の賢者はソクラテスを推薦する。学問の世界に別に源を開き、詭弁を弄する者達はみな口をとざし、人として守るべき道はここに固く根を下ろした。妻に対してはよく怒りをおさえ、刑に臨んでは冤罪をのみ下す。その高い知徳は喜び仰ぐべきものであり、百世にすぐれた存在としてあるべきである。)

     韓聖賛

  近欧多哲士、韓氏実空前、看破懐疑妄、証明独断偏、論壇開認識、理海見先天、身老心猶壮、研磨八十年、

(欧州の近世には哲学者は多いが、カントは実に空前の人である。懐疑の迷妄をみやぶり、独断のかたよりを証明した。論壇において認識論を展開し、学理の世界に先天をしめした。身は老ゆるも心はなお壮年のごとく、深い研究は八十年の生涯に及んだ。)

     四聖合讃

孔釈瑣韓世所推、靡然遺教遍華夷、述而不作承三代、唯我独尊凌六師、千古卓論驚詭弁、一篇批判払懐疑、西賢東聖皆同轍、真道何辺有両岐、

(孔子、釈迦、ソクラテス、カントは世の人々のよくほめたっとぶところであり、なびくがごとくその残された教えは中国および外国にもあまねくゆきわたっている。祖述して作らず、夏殷周三代をうけ、ただわが独尊は異説を唱えた六派をしのぐ。永遠なるすぐれた論議は詭弁学派をおどろかせ、一編の『批判』は懐疑派をうち払った。西の賢者も東の聖人も軌を一にして、真の道はどこにふたつの道があろうか、つまるところひとつなのである。)

 明治四十年元旦作三首は、第二編四十年度統計の下に出だせり。

  明治四十一年十二月、これを記しおわる。

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明治三十八年前開会地名一覧

 明治三十九年以来の巡回日誌は『南船北馬集』に掲ぐることとなせり。しかるに余は明治二十三年より哲学館拡張のために全国を周遊したれば、ここに同年より三十八年まで十六年間における各府県開会の市町村名を記すべし。

     ○明治二十三年十一月三日より同十二月十五日までの間

静岡県=静岡市、焼津村、掛川町、浜松町

愛知県=豊橋町、岡崎町、北大浜村、西尾町、蒲郡村、豊川村、名古屋市、津島町、熱田町、大野村、半田町

岐阜県=岐阜市

滋賀県=長浜町、彦根町、大津市、常楽寺村〔=安土村〕、五個荘村、愛知川村

三重県=一身田村、津市、松阪町、山田町、四日市町、桑名町

   ○明治二十四年一月三十一日より四月一日までの間

静岡県=清水町、藤枝町、平田村(遠州)

滋賀県=八幡町、五個荘村、愛知川村

和歌山県=高野山、和歌山市

徳島県=徳島市、川島町、脇町、池田町、撫養町、市村(淡州)、洲本町、志筑町

高知県=高知市、国府村、安芸町、田野村、山田町、須崎町

愛媛県=松山市、道後村、宇和島町、今治町

香川県=丸亀市、高松市、長尾村

   ○明治二十四年五月十一日より六月十九日までの間

丹波国=亀岡町、福知山町

丹後国=舞鶴町、宮津町、峰山町

但馬国=出石町、豊岡町

鳥取県=鳥取市、長瀬村、倉吉町、米子町

島根県=松江市、今市町、平田町、杵築町、波根西村、大田村、大森村、大国村、宅野村、天河内村、温泉津村、郷田村、浜田町、益田町、津和野町

   ○明治二十四年七月十七日より九月六日までの間

山形県=米沢市、山形市、寒河江村、天童町、楯岡町、新庄町、鶴岡町、酒田町、松嶺町

秋田県=湯沢町、十文字村、横手町、浅舞村、沼館村、六郷町、大曲町、秋田市、土崎〔港〕町、五十目村、能代〔港〕町、鷹巣村、大館町、扇田村、釈迦内村

青森県=弘前市、黒石町、板屋野木村、鰺ケ沢町、木造町、五所川原町、青森町、野辺地町、八戸町

岩手県=盛岡市、花巻町

   ○明治二十五年一月二十一日より三月六日までの間

播磨国=龍野町

岡山県=〔伊里村〕閑谷

広島県=尾道町、広島市、呉町

山口県=下関市、豊浦町、豊東村、吉田村、王喜村、生田村、船木村、厚東村、西岐波村、萩町、秋吉村、大田村、山口町、宮市町、三田尻町、徳山町、花岡村、下松町、室積村、岩国町

   ○明治二十五年四月五日より九日までの間

群馬県=安中町、松井田町、里見村、高崎町、八幡村

   ○明治二十五年四月二十日より六月二日までの間

新潟県=新井町、高田町、直江津町、上杉村、安塚村、坂井村、代石村、梶村、新潟市、沼垂町、葛塚村、新発田町、亀田町、新津町、田上村、加茂町、白根町、三条町、見附町、浦村、片貝村、千手町村、六日町、塩沢村、小出町、小千谷町、長岡町、大面村、寺泊町、野中才村、新町村(刈羽郡)、加納村、野田村、柏崎町

   ○明治二十五年七月十九日より九月四日までの間

福島県=福島町

北海道=函館区、江差町、寿都町、歌棄村、磯谷村、岩内町、余市町、古平町、美国町、小樽区、札幌区、増毛町、手宮町、熊碓村、岩見沢町、室蘭町、森村

宮城県=一迫村

   ○明治二十五年十二月二十一日より同二十六年二月八日までの間

山口県=下関市、深川村、黄波戸村〔=日置村〕、菱海村、向津具村字川尻、川棚村

豊前国=小倉市、中津町、椎田村

豊後国=豆田町、隈町

熊本県=熊本市

長崎県=長崎市

佐賀県=佐賀市

福岡県=福岡市、若松町、久留米市、吉井町

   ○明治二十九年三月二十四日より五月十日までの間

長野県=小諸町、望月村、茂田井村、山部村、東内村、神川村、上田町、別所村、塩尻村、屋代町、松代町、長野市、井上村、須坂町、小布施村、中野町、平穏村、飯山町、常盤村、柳原村、三水村、鳥居村、牟礼村、朝陽村、牧郷村、稲荷山町、杭瀬下村、上山田村、岩村田町、臼田町、小海村、穂積村、青沼村、海瀬村、田口村、野沢町

   ○明治三十一年秋期

宮城県=白石町、大河原町、角田町、亘理町、岩沼町、古川町、涌谷町、若柳町、築館町、一迫村、石巻町、岩出山町

茨城県=笠間町、岩間村、西那珂村

   ○明治三十二年七月中十日間

長野県=長野市、高岡村、須坂町、古牧村、笹井村、松代町、別所村、野沢町、上田町

   ○明治三十二年七月二十日より九月二日まで四十五日間

新潟県=村上町、新発田町、熊堂村、新潟市、新津町、袋津村、庄瀬村、水原町、笹岡村、白根町、茅野山村、酒屋村、沼垂町、曾川村、巻町、吉田村、燕町、麓村、福井村、粟生津村、村松町、三条町、塚野目村、中之島村、今町、加茂町、見附町、長岡町、上北谷村、十日町村、寺泊町、与板町、出雲崎町、村田村、脇野町村、本与板村、関原村、王番田村、浦村、片貝村、深沢村、塚野山村、小千谷町、柏崎町、石地町

   ○明治三十二年十一月七日より十二月九日まで三十二日間

伊豆国=戸田村、仁科村、松崎村、岩科村、南上村、三浜村、竹麻村、南中村、中川村、下田町、稲梓村、上河津村、下河津村、三坂村、稲取村、稲生沢村、伊東村、中大見村、上狩野村、修善寺村、田中村、下狩野村、江間村、三島町、韮山村

   ○明治三十二年中、月日不詳の分

埼玉県=小川町、玉川村

千葉県=庁南町、茂原町

栃木県=真岡町、山前村、鹿沼町

下総国=水海道町、谷井田村

   ○明治三十三年春期

新潟県(頚城郡)=頚城村、高田町、糸魚川町、大和川村、里五十公野村、黒川村、上黒川村、新井町、田伏村、旭村、上杉村、斐太村、直江津町、安塚村、中郷村、上吉川村、木浦村、豊葦村、浦田村、松之山村、南能生村、根知谷村、姫川原村、津有村、保倉村、潟町村、犀潟村、北平村、原通村、東早川村、中郷村、奴奈川村、松平村、名立町、柿崎村、板倉村、中能生村、田海村、関川村

   ○明治三十三年七月十八日より九月二日までの間

能登国=七尾町、大呑村、徳田村、越路村、滝尾村、鳥屋村、田鶴浜村、熊木村、中島村、島崎村、東保村、中居村、兜村、鵜川村、諸橋村、三波村、宇出津町、小木村、飯田町、町野村、南志見村、輪島町、河原田村、三井村、大屋村、浦上村、櫛比村、七浦村、黒島村、阿岸村、仁岸村、西増穂村、富来村、釶打村、東土田村、高浜町、余喜村、羽咋町、若部村、志雄村、末森村、北大海村、河合谷村

   ○明治三十三年秋期

長野県(南信)=松本町、豊科村、東穂高村、温村、高家村、島立村、笹賀村、大町、池田町〔村〕、梓村、明盛村、中川手村

   ○明治三十三年十一月十七日より十二月三十一日までの間

和歌山県=宮崎村、保田村、宮原村、湯浅町、広村、湯川村、御坊町、印南町、南部町、南富田村、田辺町、川添村、日置村、周参見村、田並村、潮岬村、古座村、富二橋村、高池村、田原村、下里村、那智村、新宮町、本宮村

〔三重県=〕尾呂志村、木本町、五郷村

奈良県=下北山村(吉野郡)

   ○明治三十四年二月十八日より三月二十日までの間

志摩国=鳥羽町、的矢村、鵜方村、波切村、甲賀村、立神村、和具村、浜島村

伊勢国=宿田曾村、五ケ所村、穂原村、南海村、鵜倉村、吉津村、島津村、柏崎村、滝原村、相可村、〔宇治〕山田町

紀伊国=二郷村、尾鷲町、相賀村、桂城村、赤羽村

   ○明治三十四年夏期六十九日間

富山県=魚津町、泊町、三日市町、入善町、椚山村、舟見町、大家庄村、若栗村、浦山村、生地町、新屋村、横山村、野中村、東水橋町、宮川村、上市町、東谷村、滑川町、舟橋村、柿沢村、音杉村、高野村、富山市、針原村、東岩瀬町、大庄村、大広田村、船峅村、熊野村(上新川郡)、大久保村、八尾町、寒江村、熊野村(婦負郡)、伏木町、新湊町、下村、小杉町、黒河村、二口村、高岡市、氷見町、布勢村、阿尾村、出町、城端町、井波町、五鹿屋村、般若村、油田村、福野町、太田村、柳瀬村、南般若村、中田町、下麻生村〔=中田町〕、石動町、西野尻村、福光町、戸出町、北蟹谷村

   ○明治三十五年二月十八日より三月二十七日まで三十八日間

播磨国=明石町、魚住村、加古川町、阿弥陀村、高砂町、伊保村、姫路市、余部村、菅野村、御着村〔=御国野村〕、広村、置塩村、赤穂町、高田村、有年村、上郡村、鞍居村、船坂村、龍野町、御津村、新宮村、大津村、網干町、斑鳩村、三日月村、佐用村、安師村、神戸村、船津村、粟賀村、屋形村〔=川辺村〕、田原村、香呂村、甘地村、北条町

   ○明治三十五年春期

石川県、加賀国=金沢市、松任町、山口村、倶利伽羅村、鶴来町、寺井村、沖杉村、二塚村、旭村、美川町、笠岡村、小松町、金石町、黒崎村、草深村、山代村、柏野村、宮内村、東英村、千針村、浅井村、大聖寺町、木津村、七塚村、出城村、中条村、津幡町、高松村、種谷村、大浦村〔=河崎村〕、山中村、串村、金川村、動橋村、金野村

   ○明治三十五年五月

摂津国=三田町

播磨国=中吉川村、社村、津万村、黒田庄村、中村、松井庄村

丹波国=久下村、柏原町、佐治村、成松村、黒井村、福知山町、綾部町、篠山町、石生村

埼玉県=浦和町、岩槻町、忍町、羽生町、本庄町、大宮町(秩父郡)

   ○明治三十五年夏期

福井県=小浜町、大野町、敦賀町、勝山町、武生町、福井市、織田村、高浜村、耳村、上池田水海、越廼村蒲生、糸生村、金津町、下味見村、上味見村、鷹巣村、麻生津村、西田中村〔=朝日村〕、三国町、四ケ浦村、国見村、鯖江町、粟田部村、国高村、八村、今富村、河和田村、三方村、本郷村、上池田村東俣、丸岡町、吉崎村、蘆原村、棗村、瓜生村、越廼村大味、大安寺村、上池田村市、鶉村、西藤島村

   ○明治三十七年一月十五日より同三十一日まで十七日間

山梨県=甲府市、韮崎町、増穂村、鏡中条村、英村、七里村、勝沼町、市川大門町、西島村、鰍沢町、日下部村、広里村、谷村町、瑞穂村、大原村字猿橋

   ○明治三十七年七、八月中

群馬県=桐生町

茨城県=結城町、北条町

   ○明治三十八年七月二十四日より九月四日まで四十三日間

静岡県=可睡斎〔=久努西村〕、袋井町、森町、川崎町、見附町

山口県=下関市

佐賀県=唐津町、有田町、伊万里町

長崎県=佐世保市

茨城県=境町、古河町

   ○年月不詳の分

群馬県=前橋市、渋川町、伊香保町、沼田町、白郷井村、館林町、伊勢崎町

栃木県=足利町

茨城県=水戸市、谷田部町、下妻町、下館町、取手町、生板村

千葉県=千葉町、成田町

神奈川県=横浜市、横須賀市、大磯町、藤沢町、鎌倉町、戸塚町

山梨県=上野原町

東京府=八王寺町、立川村、淀橋町、中野町、板橋町、巣鴨町、中新井村、舟堀村、渋谷町

   ○追加、明治三十年夏期(七月二十三日より八月七日まで)

佐渡国=相川町、河原田町、両津町

    謹  告

 各地巡回中、厚意をかたじけのうせる有志諸氏の姓名をことごとく記憶せざれば、本書中に漏れたる分も定めて多かるべし。疎漏の罪を請う、これをゆるせよ。 井 上 円 了