5.南船北馬集 

第八編

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南船北馬集 第八編

1.冊数

 1冊

2.サイズ(タテ×ヨコ)

 188×127㎜

3.ページ

 総数:125

 目次:1

 本文:124

(巻頭)

4.刊行年月日

 底本:初版 大正3年2月8日

5.発行所

 国民道徳普及会

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広島県巡講第一回(備後国)日誌

 大正二年三月十四日 晴れ。未明、随行後藤〔菊丸〕氏とともに播州北条町を発し、正午十二時、備後福山に降車し、これより沼隈郡視学毛利川象六氏の案内にて、車行一里半、津之郷村〈現在広島県福山市〉小学校に至りて開会す。郡長小林正敏氏も来会せらる。本郡の開会は総じて七カ所にして、そのうち一カ所を除くの外は、すべて郡青年会の主催にかかり、郡内を六区に分かちたる各区の総会を開催せるものなり。県下の青年会は本郡最も盛んなりという。当夕、有志家青景忠衛氏の宅に宿す。その軒前に鯨背山を望む。ここに郡勢一覧を紹介するに、本郡は二町二十八カ村にして、戸数一万六千六百余、 人口九万二千余あり。 学校三十六校にして、 寺院百二十三力寺、 その約半数は真宗に属す。 物産はいわゆる備後表の本場にして、 畳表だけの産額一ヵ年五十万円以上なりとす。


 十五日    好晴。  春風習々。  芦田川に沿いて下行し、 草戸村明王院の門下を過ぐ。 山内に国宝あり。 銭取橋、 水呑村を経由す。 二者ともに奇名なり。 車行四里、 鞆町〈現在広島県福山市〉に達す。 この間、 鉄道敷設中にして、 本年中に軽便を開通すべしという。 鞆町の名物は保命酒と鍛冶屋なり。 町内三分〔の〕一は鍛冶職に属す。 会場は小学校、 宿所は対山館なり。 校長秋山国太郎氏、 諸事を幹す。 対山館は仙酔島と相対し、 湾内の風景を一握するに足る。 浴後杯をふくめば、 自ら仙酔と化し去らんとす。

  探勝春初入備東、 散懐一夕鞆津風、 対山館上銜杯坐、 疑是身遊畵幅中、

(景勝の春を求めて初めて備後の東の地に入る。 いろいろな感懐のこのタ ベ、 鞆町のみなとの風に散り失せた。 対山館の上に杯を口にして座せば、 疑うらくはこの身が画中に遊ぶかと思われたことであった。)

 当港は神功皇后三韓征伐のとき、 鞆を治め給いし古伝によりてその名を得たるが、 ひとり歴史上の古跡なるのみならず、 風景においても天下名勝の一なり。 厳島は人工の加わりしために日本三景の一に算せらるるも、 単に天然の風景のみをもって比較すれば、 鞆は厳島を凌駕するの価値あるがごとし。

  鞆湾風月絶塵埃、 明媚自凌厳島来、 天欲使人養仙寿、 備山尽処築蓬莱、

(鞆の風月は俗世のちりあくたとへだたり、  すっきりした美しさはおのずと厳島をしのぐ。 天は人に仙人のごときよわいを得させようとして、 備後の山の尽きるところに神仙の住むような地をつくり上げたのであろう。)

 三十六日(日曜)  晴れ。 朝気〔華氏〕五十度、  すこぶる温暖なり。 鞆を発して能登原嶺を上下す。  その嶺の海中に突出せる所に阿伏兎岬あり。 その風光の殊絶なるをもって世に知らる。 嶺をこえて能登原村に入れば、 老松の風骨、 人目を引くものあり。 能登守教経の弓掛松と唱えきたる。 午後、 千年村〈現在広島県沼隈郡沼隈町〉寺院南泉坊において開演す。  主催は村内有志にして、 村長高田斉氏、 郡会議員岡崎武一氏、 校長篠原直衛氏等、 もっぱら尽力せらる。 宿所は村上旅亭なり。 村内、 蘭田多し。

 十七日    夜来春雨蕭々、 暁に至って晴れ。 渓行一里、 山南村〈在広島県沼隈郡沼隈町〉に入る。 会場兼宿坊は備後屈指の名刹たる光照寺にして、 宝物すこぶる多く、 堂宇また広し。 主任者は村長桑田基三郎氏、 校長同八郎氏、および近村の村長、 校長なり。

  鯨背山南鎖碧煙、 近看蘭草満春田、 農家終歳無間隙、 夏務耕転冬織筵、

(鯨背山の南はみどりのもやにとざされ、 近くにはいぐさが見え、 春の畑に満ちみちている。 農家は一年中ひまなく、 夏は耕したり草を除いたりし、 冬はむしろを織るのである。)

 本村中の一部落に横倉と名付くる所あり、 平家の遺族と称す。 今日に至るも一切白色を用いず、 白衣を着せず、古来、 綿を作るを禁ず。 褌も赤色のみを着用すという。 ただし紙と塩だけは用うる由。 その村内に平家の社あり。田中の蛭は人の血を吸収せずという。

 十八日 雨。 車行して千年村に至り、 更に舟行一里にして、 田島〈現在広島県沼隈郡内海町〉に渡る。 周囲四里、戸数八百余の一島なり。 県下は最も島嶼に富む。 周囲七里の島七個、 五里の島五個あり。  これを七里七島、 五里五島と称するも、 田島はその中に入らず。 会場は小学校、 宿所は真言宗寺院奥之坊なり。 門前に老朽せる古松、その形臥竜のごとく、 天然の門をなせる一樹あり。 題して高倉院御手植え、 八幡宮影向松という。

  春雨蕭々一悼風、 朝姻未散望冥濠、 欲留孤錫何辺好、 影向松陰古梵城、

(春雨がのどかにふり、 さっと風が吹き抜ける。 朝もやがまだ残り、  一望するもなおうすぐらい。 孤独な旅の錫杖をとどめようとすれば、  一体どこがよいであろうか  ここは影向松の陰に建つ古い寺院である。)

 本島に隣接せるものに横島五百戸、 百島四百戸あり。 主任者は田島村長大原亮一氏、 校長伊藤順次郎氏、  およびほか二島の村長、 校長なり。

 十九日    晴れ。 風なく波なく海上平滑油のごとし。 舟行一里半にして浦崎に着し、 これより車行一里、 藤江村〈現在広島県福山市〉に至り、 精華高等校にて開会す。 宿所は桑木丈夫氏の宅なり。 屋後に塩田あり。 村内は製塩と織筵をもって産業とす。 主任者は金江村長桑木由巳氏、 柳津村長柳田光蔵氏、 藤江村長神原房次郎氏、 浦崎村長積上強平氏、 精華校長石井荘吉氏、 その他各校長なり。 小林郡長またここに来会せらる。

 二十日    晴れ。 朝気〔華氏〕五十度、 春天朦朧。 藤江より一里にして松永町〈現在広島県福山市〉に至る。 郡役所所在地なり。 会場尋常校は塩田の間にあり、 宿所松鶴楼は停車場の正面なり。 その屋後に田を隔てて八幡社の松陵あり。 町長西川国臣氏、 もっぱら斡旋せらる。 町内の産業は製塩三十二万円、 下駄製造四十万円と称す。 当町の下駄におけるは、 埼玉県忍町の足袋におけるがごとし。 郡内の開会につきては小林郡長および毛利川郡視学の尽力多きにおる。 晩景に及びて暖はなはだしく、 寒暄儀〔華氏〕六十度以上に上る。 はじめて蚊声をきく。

 二十一日 雨。 松永を去りて深安郡福山町〈現在広島県福山市〉に移る。その距離三里あり。まず城楼を望みて一吟す。

  鉄路一貫三備平、 車窓先認福山城、 汽焔横処楼台聳、 疑是春天蜃気生、

(鉄路は貫くこと一本、 備前、 備中、 備後の平坦地を行き、 車窓からはまず福山城がみられる。 汽車の煙がよこざまにたなびくところに楼台がそびえて、 春の日に蜃気楼が生じたのかとあやしく思ったのであった。)

 郡内は四ヵ所の開会にして、 郡斯民会の主催なり。 福山にては東尋常校にて開演す。 校舎設備完成、 大講堂あり。 郡長吉田弘蔵氏の所談によるに、 本郡は生産力県下第一にして、 その額一千八十五万円に達す。  これを人口に平均するに、  一人の生産力百二十五円に当たるという。 物産は米麦を第一とし、  これに次ぐものは織物なり。当夕、 松村旅館に宿す。 福山町長は市来圭一氏なり。

 二十二日    晴れ。 北風寒し。 車行二里、 岩成小学校〔下岩成村〈現在広島県福山市〉〕に至りて開会す。 郡視学高橋伊吉氏に代わり、 郡書記畠山作太郎氏同行して案内せらる。  当夕は収入役坂本林次郎氏の宅に宿す。  たまたま月食皆既に会す。  一天雲なく、 午後八時、 球面全く黒し。 少時ののち明月に復し、 清輝天地に満つ。 ときに狂歌一首を浮かぶ。

 酌むうちに月は皆既になりたれど、 酒は皆既にならぬ間に酔ふ、

 当地に片山病と名付くる一種の風土病あり。 農民が足を田中に入れし後、 その脚あたかも漆にかぶれたるがごとき状態を呈し、 漸々徐々衰弱に傾くという。  その原因は田水に生育せる細虫が皮膚より身中に入る由なり。 最初は字片山の地内に限りしが、 近年はその隣区に伝播するに至るという。

 三月二十三日(日曜)  晴れ。 朝気〔華氏〕三十八度にくだり霜気あり。 車行三里、 下竹田村〈現在広島県深安郡神辺町〉に至る。 会場は東安小学校なり。 本村は組合村にして、 小林寛一氏その村長たり。 宅は八尋村にあり。 当夕、ここに宿す。 本村に特有の菌〔キノコ〕マキナバと名付くるものあり。 春時に限りて産する由。 これを試食するに、その味佳なり。 竹田村は米作最もよろしく、  一反につき四石の収穫を有する地あり。 売買の価一千円、 小作料二石二斗なる由。 また、 本村は造酒をもって名あり。

 二十四日    曇り。 川南村および福山町を迂回し、鉄路によりて大津野村〈現在広島県福山市〉に至る。その直距離二里半ぐらいなるも、 里道に腕車の通ぜざる所あるによる。 途中、 毎戸機織の音を聞く。 川南村の字に丁と書してヨウロウとよみ、 丙と記してエトと呼ぶ所あり、あに珍称ならずや。 会場小学校は大門停車場前の丘上にあり。眺望佳なるべきも、 雨を催しきたり、 雲煙に遮られて遠望するを得ず。

  備海春姻昼未晴、 仰看丘上学堂横、 寒村堪喜人文遍、 汽笛声和読誦声、

(備後の海は春のかすみがかり、 昼なお晴れず、 丘の上を見あげれば校舎が横ざまに建つ。 寒々としたさびしい村にも喜ばしいことに文明があまねくゆきわたり、 汽笛の音と本を読む声とが一緒になって聞こえてくる。)

 当夜は真言宗寺院上之坊に泊す。 村内の副産業は麦稗サナダ織にして、 その一ヵ年の産額二万円なりという。

 備後に入りてまず外来の耳目に触るるものを挙ぐれば、 その第一は休亭なり。 村々落々に一仏堂ありて、 その 内に地蔵尊または観音を安置す。  四方に壁なく戸なく、 あけはなしにして、 ただ床を張りたるのみ。 俗に四ツ堂という。 乞食の宿所によろし。  また、 路畔往々、 地神と刻せる石碑あり。 農作の神にて、 春秋二回これを祭るという。 方言中にて耳に触るるものは、 ハイをフエー またはシェー という一事なり。 語尾にケを付くること、 なにという、かにというを、ナニイウ、 カニイウと、 すべて卜を除くこと、 たくさんをエッ トと呼ぶの類なり。 薩摩薯を琉球いもというも他と異なれり。

 二十五日 晴れ。 大門駅より乗車して帰東す。  二十六日午前、 東京着。 三十日、 東洋大学卒業式に出席し、 三十一日、 京北中学校卒業式に出席し、 午後三時発の下関急行に乗り込んで、 再び備後に向う。 藤沢より大磯に至るの間、 桃花まさに盛んなり。

 四月一 日    晴れ。 午時、 福山着。  芦品郡視学徳満巳之吉氏、 府中町助役稲垣正毅氏とともに車を連ねて車行五里、 府中町〈現在広島県府中市〉に至る。 この辺り犬の先引き大いに行わる。 随行はやはり後藤菊丸氏なり。 途上吟一首あり。

  麦隴漂波四月風、  一条流水自西東、 野梅花尽春光寂、 只望青山入府中、

(麦のうねが波にただようごとく四月の風にゆれ、  一条の流水は西から東に向かう。 野にある梅の花はおわり、  春の光もわびしく、 ただ青い山を眺めながら府中町に入ったのであった。)

 当夕、 劇湯朝日座において開演す。 聴衆、 場に満つ。  すこぶる盛会なり。 旅館平柳に宿せしに、 当日その家の幼児の死亡せるに会す。 この日暖気にわかに加わり、〔華氏〕七十度に上る。

 二日    雨。 また冷気となり、〔華氏〕五十五度に下る。 福山より府中の間には軽便鉄道敷設中なり。 午後、 劇場にて再演す。 郡長黒川林之助氏および発起者の招きに応じ、 小錦楼にて晩餐をともにす。 楼は三層館なり。 開会主催は町村有志にして、 町長藤田庄兵衛氏、 中江、 小倉、 仁科、 田坂、 別所、 堤、 稲垣、 井上、 田中、 浜田の諸氏、  および最寄りの町村長等の発起なり。 その中に宗教家あり、 教育家あり、  みな大いに尽力せらる。 しかして貝原茂次郎氏、 もっぱら奔走の労をとらる。 両日間滞在中、 昼夜ともに揮毫に従事す。 本郡の特産は織物にして、一年の産額百万段、  その価額百二十万円と称す。 深安郡は木綿縞をもって鳴り、 本郡は絣をもって鳴る。

 三日(神武天皇祭)  晴れ。 車行二里半、 坂路を経て有磨村〈現在広島県福山市〉に至り、 小学校にて開演す。 主催は村内有志にして、 発起は村長原兵三郎氏、 校長吉川峯三郎氏、 篤志家猪原幸太郎氏、 助役村上直平氏なり。 村内の産業は絣織にして、 その元祖この村より出でたりという。 当夕は会場をへだつる約一里、 猪原氏の宅に宿す。氏は長く村長に奉職し、 村内の公益事業に尽瘁せられ、 その功績大いに見るべきものあり。 現今退職して造酒の改良に熱中せらる。  その名酒を「薇陽蓬莱」と名付くるを聞き、 余は一詩を賦呈す。

  尋到薇陽塵外蹤、 仙家深在白雲峯、 重杯一夕酌春醸、 吾愛蓬莱酒味濃、

(薇陽の俗世をはなれた地をたずねれば、 仙人の住むような家が奥深い白雲のただよう峰にあった。 杯を重ねてこのタベに春づくりの酒をくむ。 私は蓬莱にあこがれており、 酒の味も濃いものであった。)氏は名酒大瓶を恵与せらる。

四日    快晴。 昼食を終わりて車行一里半、宜山〈現在広島県福山市〉小学校に至りて開演す。村教育会の主催にかかる。 村長は幸田兵之助氏、 校長は高橋泰一氏なり。 校内に方言の掲示あり。

ぼつこう(タイソウ) じやりやんす(デゴザリマス) いッつに(ハヤク)

あんなけ、  こんなけ(アソコ、 ココ)    さばる(ヒッ パル)    、いた―い(ムツカシイ) 

 以下これを略す。 宿所は宮吉郎氏の宅なり。

 五日    晴れ。 車行二里、 服部村〈現在広島県福山市〉小学校に至りて開演す。 村内に灌漑用の大貯水あり、 これを服部の大池という。 車上にて一望するに、 田野に菜花なく、 蓮花草もなく、 ただ青々たる麦色を見るのみ。 本年は稀有の寒気なりとて、 柑橘類みな枯るる。 また、 郡内には御影石を産するをもって、 土橋も板橋もなく、 すべて石橋なり。 本村は養蚕業盛んに行われ、 また薄荷を産出す。 三備薄荷の元祖はこの村に出でたりという。  主催は村長水船峯四郎氏、 助役広本三右衛門氏、 校長今井重太郎氏等の有志なり。 当夕は有志家浜田貫一郎氏の宅に泊す。

 四月六日(日曜)  晴れ。 車行一里半、 戸手村〈現在広島県芦品郡新市町〉に移る。 哲学館出身下江源三郎氏の旧里なり。 氏は長崎県五島中学校において教鞭をとる。 会場小学校の設備は壮大にしてかつ歴史的なり。 郡内における先開学校の称あり。  主催は役場および斯民会にして、 村長倉田市之助氏、 助役豊田虎雄氏等の発起にかかる。宿所栗原元四郎氏は醸酒家なり。  この日、 盈進商業実務学校長藤井曹太郎氏来訪あり。

 七日    晴れ。 朝〔華氏〕六十度、 昼〔華氏〕七十度の寒暖なり。  暖気急に加わる。 車行わずかに半里にして新市町〈現在広島県芦品郡新市町〉に入る。  郡内絣織の中心にして、 名のごとく新開の市場なり。 ときに途上吟一首あり。

  芦田江畔麦田平、 碁布村家勤織耕、 駅路尋春鞭犬去、 不聞鶯語只機声、

(芦田川のあたりは麦の田が平らかにひろがり、 碁石のごとくある家々は絣織につとめている。 村をつなぐ道に春を求めて人力車の先引き犬をはげまして行けば、鶯の声はきかれず、ただ機織の音がするのみである。)

 会場は役場楼上、 主催は青年会、 発起は町長福原甚太郎氏、 織物組合副長奥田和一郎氏、 青年会長佐藤隣三郎氏等なり。 宿所福田屋別荘は旅館として本郡第一の評あり。 館壮に室広し。 当夕、 蚊声の耳に入ること三、 四回、はじめて蛙声を聴く。

 八日 曇りのち雨。 新市より車行一里半、途中、網引村県社吉備津神社を過ぎ、桜山神社を望みて常金丸村〈現在広島県芦品郡新市町〉に入る。 会場は小学校にして、 宿所は西福寺なり。 その寺の門内に老松の傲然として佇立せるあり、 巨蝶松と名付く。 よって一詠す。

  路向金丸渓上通、 駆車尋到梵王宮、 老松護仏恰相似、 巨螺排雲立半空、

(道は常金丸にむかって谷のほとりを行き、 車を走らせて寺院をたずねいたった。 老いた松が仏をまもるがごとくたちふさがり、 あたかも巨大なまき貝が雲をおしのけるように空のなかばに立っているのである。)

 主催は真宗寺院にして、 光秀寺武田海岳氏、 同竜岳氏、 長泉寺内田智敬氏、 光明寺千葉本嶺氏、 西円寺山名昭梁氏、 西福寺山名哲昭氏の発起なり。 ときに山村の春色まさにたけなわにして、 桃桜栄を競う。 当夜、 深更まで筆をふるう。

 九日    晴れ。 府中を経由して大正村〈現在広島県府中市、神石郡三和町〉に至る。 車路五里あり。村名は大正の年号によりて定めたる新名なり。 山ようやく迫り、 谷ようやく狭く、 人家は懸崖の上下に点在し、 麦田は山頂にかかる。 ときに桃桜全く開き、 李花半ば白く、 柳眼すでにのぶ。  主催は斯民会にして、 宿所は小川旅店なり。 村内には製紙をなすものあり。 郡内巡回は郡書記田頭玉治氏ほか二氏、  こもごも案内せらる。

十日    晴れ。 朝気寒くして冬のごとし。車行兼歩行二里にして、神石郡高蓋村〈現在広島県神石郡三和町〉に至る。この郡に入れば田に二毛作なし。 山には雪を見ざるも梅花いまだ散ぜず、 桜花開くこと二、 三分なり。 毎戸各室なお炬燵を設く。 即時、 破格をうそぶく。

  巨撻して桜を見るや山の春、

 郡内の物産は薪炭、 牧牛、 タバコ等とす。 その牛は食牛にあらずして労牛なり。 農家はすでに苗代に取り掛かる。 会場は小学校、 主催は五ヵ村役場、 発起は助役伊達肇氏、 校長高橋吾一氏等、 宿所は高橋旅店なり。

十一日 晴れ。 車行四里余、 地高低あり、 路角石多し。 途中、 天狗橋あり。  その由来を聞くに、 昔時はここ地険に路せまくして、行人数回崖下に落下せしことあり、これを天狗につき落とされたりと伝えりとぞ。福永村〈現在広島県神石郡神石町〉に至りて開会す。 朝気〔華氏〕四十五度なりしが、 午後〔華氏〕六十三度に上る。 村内にタバコ専売所あり。 郡内の三都と称して油木を東京に比し、 福永を大阪に比し、 小畑を京都に比するも、 三都ともに村にして、  一の町名を有するものなし。 会場は小学校、 主催は四ヵ村連合、 発起は校長藤本浜衛氏、 助役福万徳三郎氏、 同妹尾宇宙氏等なり。  当夕、 清水旅館に宿す。

 十二日 晴れ。 朝霧あり。 山行四里、 渓流に沿い群山の間を縫い、 更に入谷坂三十丁を上りて、 嶺頭に達すれば市街あり。  これ油木村〈現在広島県神石郡油木町〉にして、 郡衛所在地なり。 途上所見、 左のごとし。

  雪嶂松巒到処堆、 出渓去又入渓来、 山村春色堪吟賞、 青麦田間挟白梅、

(雪の峰、 松の山といたるところうずたかく、 谷を出でてはまた谷に入って行く。 山村の春景色は吟詠し鑑賞するに足り、 青々とした麦田の間には白梅がはさまって見られたのであった。)

 郡内、 山多けれども高嶺雄岳あるにあらず、 むしろ低山群立すというべし。 しかして渓谷狭隘なるは但馬地方よりもはなはだし。  その間、 稲田麦圃あり。 山上には松樹雑木多く、 良材に乏し。 入谷坂上はるかに雪嶺を望むは備雲二州の国界なり。 油木の開会はタバコ専売所にして室内広闊なるも、 午後一時すでに聴衆群集、  立錐の地なし。三里先より山坂をこえてきたれりという。 開会は全く西洋時間なり。 演説中、 雨にわかに至る。  主催は村長池田勲介氏にして、 校長原熊太郎氏、 徳田利作氏等これを助く。 当夕は郡長小泉金八氏等と会食す。  郡視学吉田房一氏、 法泉寺川上順故氏は郡内各所に案内の労をとらる。 油木は地位高きために冬期寒気強く、 積雪二尺余に及ぶという。 昨今、 桜花いまだ開かず。

 四月十三日(日曜)  晴れ。 夜来の春雨はれて開晴となりたるも、 風位北に転じて気候とみに寒し。 車行三里、豊松村〈現在広島県神石郡豊松村〉に至るの間、 風邪におかさる。 途中、 本郡第一の牧場たる仙養山下を通過す。 豊松は県下の東極にして岡山県備中に隣接す。 更に途上吟一首あり。

  備北原頭路不夷、 群巒起伏曲渓随、 仙源自有春光異、 梅未落時桜已披、

(備後の北の野原は道も平らかならず、 山々は起伏し、 曲がりくねる谷がそれに沿ってある。 仙人の住むようなところは、  おのずから春の光にも他と異なるものがあり、 梅花の散らぬうちに桜の花がすでにひらいているのだ。)

 会場は小学校、 主催は両村連合、 発起は村長小坂正夫氏、 郵便局長井上弥作氏、 校長井上源槌氏等なり。 当日、井上局長の宅に休泊す。 夜中、 余興の催しあり。 神石郡は地僻、 人朴にして篤実の風あり。 路上相会する人みな帽を脱して過ぐ。 しかして交通不便なるために勇進活動の気に乏しという。

 十四日 曇り。 油木を経て新坂〔村〕〈現在広島県神石郡油木町、比婆郡東城町〉に至る。行程四里、山高く渓深く、往々巌石の路上にかかるありて、 渓山おのずから飛騨式の形勢を有す。 渓流に自動船あるは一奇観なり。 渡船に船頭なく、 ただ船の両端に縄を付け、  これを両岸に繋ぎおく。 もし人ありて渡らんと欲するには、 その船の対岸にあるときは、 縄を引きて船を引き寄せ、 更に他方の縄を引けば自ら対岸に達すべし。  これ飛騨の籠渡しと好一対なり。  この辺りの民家は年中地炉の中にて薪を焼くも、 煙出しの設備よろしからず。 ために室は煤煙に染められ、柱壁ことごとく黒色を呈す。  眼にも大いに傷害を与うるならん。 新坂村は県下の模範村だけあって、 村民淳朴、時間正確なり。 会場は森崎嘉一郎氏宅、 主催は本村長岡和藤二氏、 小野村長谷本栄真氏等にして、 岡村長は地方の名望家なる由。 宿所は手入館なり。 当地は油木よりも気候温暖にして、 桜花すでに満開なり。 郡内は各戸各室に炬燵を設くるのみならず、 炬燵の上に厚き角板を載せ、 その上にて食事をなす。  これ越後式なり。 この日、 午後より雨天となる。

 十五日    晴れ。 午前、 東城川をさかのぼりて比婆郡東城町〈現在広島県比婆郡東城町〉に至る。 行程二里、 駅道平坦なるも、 岸上断巌屹立、 あるいは危岩の頭上にかかるあり、 あるいは隧をうがちて道を通ずるあり。 行く行く対岸を仰げば、 奇形の巨巌群列、  おのおの石骨を半空に露出し、 その間に春草の葉を吐きて自然に毛髪をなすあり。 里人これを備後の耶馬渓と呼ぶ。 実に山陽中の奇勝なり。 ただ、 備山深所にありて都人に知られざるを遺憾とす。 途上吟一首あり。

  四月備山風未和、 春花不笑鳥空歌、 渓頭一路探仙跡、 暁破寒煙入比婆、

(四月、 備後の山に吹く風はまだなごまず、 春の花も咲かずに鳥のみがむなしくさえずる。  谷のほとりの一本の道に仙人のすまいのあとをたずね、 暁にものさびしいばかりのもやを破るようにして比婆郡に入ったのであった。)

 この渓間山花に乏しく、 桜桃の艶々たるを認めず、 しかして鵑花いまだ開かず。  また、 行人を見ることもまれなれば、 春山寂寥たるを免れず。 しかれどもその天然の風光に至っては、 ほとんど耶馬を凌駕せんとする趣あり。ことに東城町をへだつる二里半なる帝釈のごときは、 その天工の妙なること観客をして驚嘆に堪えざらしむという。 いわゆる雄橋、 雌橋はその魁たるものなり。 余はここに杖をひくの余暇なく、 ただ写影を対照して一絶を賦す。

  奇巌灰水幾層々、 看到鬼橋身戦競、 想昔女媧補天日、 築斯帝釈梵王陵、

(めずらしい形の岩が流水をはさんで幾重にも層をなし、 鬼のかけたかと思われる橋をみて、 身のおそれつつしむ感じがした。 思うにむかし女蝸氏が天を補いおさめ、 この帝釈に仏教の守護神たる梵天王の陵を築いたのであろう。)

 その山内の仏堂は真言宗に属し、 運を開き福を迎えんとするもの遠近よりきたりて祈願をなすという。 夏時蚊声を聞かず、 最も避暑によろし。 東城町は郡内第一の市場にして、 備中阿哲郡に隣接し、 両郡交商の中心となる。会場は偕楽座、 主催は町内有志、 宿所は松浦旅館、 発起かつ尽力者は町長山田恭坪氏、 有志家砂田新太郎氏、 梶山宰二氏、 大村貞次氏なり。 郡役所より書記松園譲氏、 ここにきたりて迎えらる。

 十六日    晴れ。 山行四里、 渓にそいてようやく上る。 この日や天朗らかに気清く、 柳葉眼を開き鶯声唇を鼓し、菜黄麦緑の間、 交うるに桃桜をもってし、 春光駘蕩、実に年中の好時節なり。 行程四里、 小奴可村〈現在広島県比婆郡東城町〉に至る。 山間の小駅なるも四面に平田あり、 かつ備中および伯耆と境を接す。 民家の生産は耕作と牧畜なり。 日中の寒温〔華氏〕六十七度にのぼる。 会場は小学校、 主催は斯民会および教育会、 発起は村長渡辺襄一氏、校長加藤誉一氏、  および他村長なり。  この山間には冬時、 丈余の積雪を見るという。

 十七日 晴れ。 天気清朗昨日のごとし。 山行三里半、 途中、 砂鉄を採出せる跡あり。 本郡の山地はすべて砂鉄を含有せるをもって、  数十年前までは採鉄事業盛んなりしが、 近年洋鉄に圧せられて、 ほとんどみな廃業するに至れりという。 のぼること約一里、 くだること約三里にして西城町〈現在広島県比婆郡西城町〉に達す。 町はまさしく雲伯二州へ出ずる駅道に当たる。 道路すこぶるよし。 この間の山脈は東城、 西城両川の分水嶺にして、 東方の水は流れて備中に入り南海に注ぎ、 西方の水は流れて石州に入り北海に注ぐ。 はるかに北天を望めば峰頂なお雪をいただくものあり。 これ備伯二州の分界嶺なり。 西城町の会場は劇場、 主催は郡斯民会および教育会、 発起かつ尽力者は町長渋谷与三郎氏、 局長秋山九郎氏、 校長磯田真氏、 銀行員小田寛一氏、 医師渡辺登二氏、 有志者山城利作氏、  および近郷村長なり。 宿所洗心館は渓流に枕し、 水声夢に入りきたる。

  夜もすがら水の響にゆられつ 夢地を渡る山里の宿、

 当地は多く紙の原料たる三叉を産出す。 郡内は昨今苗代の最中なり。  この日、 郡長荒木喬氏来会せらる。 当地にては揮毫所望者すこぶる多し。

 十八日 晴れ。 西城町より四里、 渓流にそい曲折蛇のごとく平坦といしのごとき道を一走して、 郡衛所在地たる庄原町〈現在広島県庄原市〉に着す。 ときに春色渓頭に満ち、 桃花歴乱李花香の趣あり。 これに加うるに躑躅花の点々媚を呈するありて、 その間に鶯語囀々たり。

  一路傍渓窮又通、 坦如砥面曲如弓、 満山春色看難尽、  躑躅花交桃李中、

(ひとすじの道は谷にそって行き止まりかと思えばまた通じ、 道の平らなるときは砥石のごとく、 曲がるときは弓のようである。 山はすべて春の景色に満ちてとうてい見つくすことはできぬ。 ときにつつじが桃やすもものなかにまじって咲いているのである。)

 会場は東雲座、 主催は前日のごとし。 その主なる発起者は郡役所員をはじめとし、 町長板倉純之氏、 助役森信静氏、 校長幸巴氏、 ほか隣村校長なり。 旅館右近屋は奥行最も深く、 入来の客は勝手場台所を検閲しつつ奥座敷に入るは、 他所に多く見ざる設備なり。 ただし備後にはこの風の旅館多し。  当夜は荒木郡長の好意にて特に晩餐を設けらる。  名物鯉の糸作りは最も賞味するところなり。  この料理法は島根県において盛んに行わる。

 十九日 晴れ。 午前、 実業学校に至りて講演をなす。 校長は野田環氏なり。 生徒三百人中、 約三分〔の〕二は女生徒なるは一特色とすべし。  当日は市日にして、 近在の農夫街上に集まり店頭に群がる。 毎月三回、 九ノ日を市日とすという。 午後、 山内東村を過ぎて、 二里余離れたる山内西村〈現在広島県庄原市〉に至る。 東村には頼杏坪翁の遺跡あり。 翁の徳望は郡内に高く、 その牧民の治績は二宮尊徳翁に譲らずとの評なり。 西村の会場は妙延寺にして、  主催は連日のごとし。 しかして発起者は村長河面忠次郎氏等なり。 その地は庄原と三次との中間にあり。当夕、 車をめぐらして庄原に帰宿す。  この辺りは郡内第一の平原部なりとす。

 四月二十日(日曜)  雨。 今日より郡視学中村正氏が松岡書記に代わりて案内せらるることとなる。 大雨を冒して磐野嶺を昇降す。 登路一里余あり。 婦人、 腕車の先引きをなす。  この日、 行程五里、 車行四時間にして比和村〈現在広島県比婆郡比和町〉に達す。 長さ八里、 幅六里の大村なるも、 戸数千に満たず。 ただし学校は五ヵ所にあり。会場は円光寺、 発起者は村長荒木広将氏、 校長平山純一氏、  および宗教家等にして、 宿所は毛利旅館なり。 戸々室々みな矩撻を設く。 よって一吟す。

  千渓万曲路何迂、  遥到孤村俗自殊、 寒去暑来難脱慣、 山家無室不囲炉、

(千を数える谷に万を数えるほどの曲折、 道はいったいどれほど曲がりくねるのか。 はるかにぽつんとあるような村に着いたが、 風俗はおのずと他と異なっている。 寒さが去り、 夏が来ても生活様式は季節によってかえることなく、 山中の家では部屋ごとにこたつがもうけられているのである。)

 二十一日 晴れ。  この日また嶺をこえて上高野山村〈現在広島県比婆郡高野町〉字新市に至る。 車行三里半なり。その嶺上に王居峠神社あり、 小社なり。 これ後醍醐天皇行在所の遺跡なりと伝えり。 新市は海抜一千八百尺の高地にあり。 出雲の国境を離るることわずかに一里半なり。 山上より遠望すれば、 宍道湖および北海を眼界に浮かぶるを得という。 家屋は北国式の板葉ぶき多し。 冬時積雪の多きためなり。 農家すでに田打ちにかかり、 農繁期に入る。 田植えはすこぶる早くして、 五月中旬より始むという。 田の植え方は一坪二百株より三百株を常とす。かく密接に植え付くるは、 夏時温度の低くして稲苗の繁殖力の微弱なるためなり。 毎戸五、 六月ごろまで矩撻を用い、 蚊帳と矩撻と交代をなすという。「山里や蚊帳と矩撻と入替る」といいて笑えり。 会場は小学校、 発起者は村長白尾信次郎氏、 僧侶西本大恵氏等なり。 宿所田村旅館にて当村名物の蕎麦を喫す。

 二十二日    雨。 新市を発して金尾峠を登る。 絶頂まで二里あり。  雪ようやく消尽して泥いまだ乾かず。  これに加うるに風雨やまず。 石高く泥深く、 山路すこぶる険悪なり。  二人びきにて車を進むるも、 顚覆せんとすること数次に及ぶ。  口北村〈現在広島県比婆郡口和町〉まで行程四里の間を四時間を費やして達せり。 山上には全く樹木なく、 ただ雑草あるのみ。  その一部には牧場ありという。 村に入れば李花満開、 いたるところ白し。  この辺りの農民はすべて吉野袴を用う。 これを雪袴と名付く。 会場は小学校にして、 今より二十六年前に建築せし旧式校舎なり。 発起は村長原正衛氏とす。 しかして郡内各所の主催名義は主として郡斯民会なり。 当夕、 造酒家松島浅之助氏の客室に宿す。 深夜雷鳴ありて雨はなはだしく至る。 気候温暖に過ぎたるによる。

 二十三日    晴れ。 渓に沿いて下行すること三里、 双三郡君田村〈現在広島県双三郡君田村〉に移りて開会す。  この日、 南風強く暖気にわかに加わる。 郡書記有田晨吉氏ここにきたりて迎えらる。 村は渓間に深く入り込み、 長さ八里にまたがる。 多く薪炭を運出す。 本郡は真宗ことに盛んにして、 本村は全く真宗なる由。 紀念橋を渡り、 善照寺にて御詔勅を敷衍せるに、 演説の前後一人の拍手するものなく、 ときどき念仏の声を聞くのみ。

  駆車峡路入双三、 聴衆満堂僧俗参、 起上講壇無拍手、 称名声裏結清談、

(車を駆って峡谷の道を行き双三郡に入る。 講演では聴衆が本堂いっぱいに集まり、 僧と一般の人とがまじってきいている。 ただし、 演壇にのぽっても拍手はなく、 ときどき念仏を唱える声のするなかで講演は終わったのであった。)

 主催は村内有志にして、 村長渋川隆氏等なり。 旅店谷本方に泊す。

 二十四日    晴れ。 君田より二里半を下り、 県下山間部第一の都会たる三次町〈現在広島県三次市〉に至りて開演す。 会場照林坊は備後唯一の大坊にして、 本堂、 書院ともに広く、 堂々たる一本山の構えあり。 その檀家、 従前は一千五百戸ありと称せり。 比婆山中にては桜いまだ全く開かざる所ありしに、 本郡に入れば桃李すでに落尽して、 八重桜および梨花まさに盛んなり。 また、 麦のすでに穂を吐きたるあり。 もって気候の相違を見るべし。  この日、 暑気午後〔華氏〕七十度にのぼる。 聴衆満堂、 千二百人と目算す。 郡長水上七郎氏(法学士)も出席せらる。主催は斯民会にして、  その発起は郡書記今井利一氏、 郡視学福城鹿夫氏、 町長桑原精之進氏、 助役山田藤太郎氏等なりとす。 当町は三川三方より流下して相合し、 郷川となりて石州に注ぐ。 その合流の点は巴形をなせるより、巴城または巴津と名付く。 水利最もよく、 一悼し石州郷津に達すべし。

三次街頭瓦屋連、 巴津堤上客楼懸、 長流数帯悠然去、 合作山陰第一川、

(三次町の街には瓦屋根が連なり、 巴津の堤の上に旅館がたつ。 長い川は数本をあつめてゆったりと流れ、山陰第一の川となるのである。

 右は旅館香川別亭楼上の即吟なり。 もし当所の名物を挙ぐれば、 香魚、 霧海、 積雪なりとす。

  夏は香魚、 秋は霧海、 冬は雪、  これぞ三次のみよしなりける、

 霧海とは四面白霧地を埋め、 茫々海のごとくなるをいう。 いわゆる「蒼波路遠雲千里、 白霧山深鳥一声」(青々としげる道は遠く、 雲は千里のかなたまでひろがり、 白霧にうずもれる山の奥深いところに鳥のひと声がした。)の郷を現す。  この三名物に加うるに鎌の一名物あり。 風景もまた大いによし。 近年中に広島より鉄道を敷設する計画ありと聞く。 夏時の漫遊者は一遊して可なり。

 二十五日    晴れ。 暁天一面に白く、霧海の名物を実験す。その霧ようやく薄くして山影を浮かべたるところは、海上の孤島を望むがごとき趣あり。 行程三里、 渓流にそいてさかのぼる。 島根県に通ずる県道なれば平滑なり。これに加うるに満山の新緑鵑花と相映じ、 山紫水明の間をわたりて布野村〈現在広島県双三郡布野村〉に入る。 会場は福泉坊、  主催は助役大野平八郎氏、 局長長岡塊三氏等村内有志、 宿所は池神旅館なり。  ここより雲州飯石郡国境まで約三里、 赤名町まで五里と称す。  この日ことに暑く、 寒温儀〔華氏〕七十六度に上り、 演説中発汗をなす。

 二十六日    雨。 鞋行一里、 その間小嶺を上下し、 更に車行一里にして作木村〈現在広島県双三郡作木村〉に入る。本村は県下第一の大村にして、 長さ八里、 幅四里にわたれる地積を有し、 戸数約千二百戸あり。 もと十四ヵ村を合併せるものなりという。 会場は東光坊、 主催は僧侶坂原三好氏、 村吏金広長作氏等なり。 当夕、 郵便局長菅司吉氏の楼上に宿するに、 顔前に峻峰と対し、 脚下に長江を帯ぶ。  その峰は石州の山、 その江は郷川なり。  しかしてまた、 左方に当たりて芸州の山と相接す。 座して三州の山を対観するは旅中の一興なり。

 四月二十七日(日曜)  雨。  郷川に沿いて車行一里半、 対岸の人家は石州邑智郡と芸州高田郡とに属す。 更に鞋をうがちて渓に入り、 坂をのぼること約一里にして作木村字大山に着す。 山上の高原にある小村落なり。 会場および宿所たる浄円寺の堂前には巨松あり。 昼夜両度開演す。 村長岩崎静雄氏、 僧侶足利顕俊氏等の発起にかかる。二十八日    開晴。 大山を発して行くこと三里、 道路小石ありて平滑ならず。 三次町を経由し、 巴橋を一過して 原村〈現在広島県三次市〉に至る。 民家集まりて市街をなす。 三次町を隔つるわずかに一橋あるのみ。 会場兼宿坊は覚善寺にして、 山門の新築すでに成り、 書院また新たなり。  この日、 行路吟一首あり。

  三次川頭駅路横、 満山新緑雨余清、 渓風猶冷杜鵑黙、 躑躅花辺只聴鶯、

(三次の川のほとりに道がよこざまに、山に満ちる新緑は雨の後ですがすがしい。谷を吹く風はなお冷たく、ほととぎすも鳴かず、  つつじの花のあたりにただ鶯の声がするのみである。)

 この郡内に入りて往々二毛作あるを見るも、 麦の生育佳ならず。  また、 麦田の外に麻圃ありて相交わる。 午後開会す。 水上郡長も出席せらる。 主催は宿寺住職常光得然氏にして、 有志家岡田芳吉氏等とともに尽力あり。

 二十九日    晴れ。 午前、原村を去りて行くこと十余町、八次村〈現在広島県三次市〉なる三次中学校に立ち寄りて一席の講話をなす。 校長は泉英七氏なり。 これより更に行くこと約二里、 田幸村〈現在広島県三次市〉立泉寺に至りて開演す。 途中、 蝉声を聞く。  また、 蓮花草の田頭を飾るを見る。

 三十日 雨。 田幸より二里、 坂をこえ渓をさかのぼり、 川西村〈現在広島県三次市、双三郡三和町〉善立寺に至りて昼夜ともに開会す。 主催は同寺住職藤永長丸氏、  および有志市場謙一氏なり。 庭園の林池に対して一詠す。

  春光満山寺、  紅緑染閑庭、 深院無人語、 池蛙和諷経、

(春の光は山中の寺に満ち、 紅の花と緑がのどかな庭をいろどる。  おく深い僧院には人の話し声もなく、 池の蛙の声が読経にあわせている。)

 五月一日    雨。 早朝、大雨をおかして車行三里、三良坂村〈現在広島県双三郡三良坂町〉出雲教会場にて開会す。聴衆、 新築社殿にあふる。 村長渡辺熊太郎氏、 校長世良茂氏の主催なり。 これより更に車行二里、 吉舎村〈現在広島県双三郡吉舎町〉に移る。 雨ようやくはれて風に変ず。 会場および宿所は明覚寺なり。 主催は村斯民会および仏教崇徳会にして、 住職不二川哲応氏、 村長福永鉄之助氏、 助役井上弥市氏、 銀行取締石田九郎二氏等の発起にかかる。 当村には年々五月の大市あり、 今日より開市す。 物産は造酒を第一とす。 名義は村なれども町形を有し、 商業地なり。

 二日    晴れ。 吉舎村に滞在して開演す。 ただし午前は私立中学校日彰館において講話をなす。 校長は宮沢順定氏なり。  四山の新緑、 煙を染めて一望蒼然たり。 よって一吟す。

  泥靴今日脱何辺、 吉舎村頭馬洗川、 宿雨晴来山色改、 春青日彰館前烟、

(この泥にまみれた靴を、 今日はいったいどこに脱いで泊まろうか、  ここは吉舎村を流れる馬洗川のほとりである。 前日からふりつづく雨があがって、 山の色も新鮮なものとなり、  若々しい日彰館の前にもやがたちこめた。)

 街路を横断して流るる水を馬洗川と名付く。 また、 村外に小富士あり。 その形富士山に似たるをもって備後富士ともいう。 後鳥羽上皇隠岐御遷幸の当時、 ここに駐蹕し給いしとの所伝あり。 郡内各所はことごとく有馬郡書記案内の労をとられたり。

三日 晴れ。 吉舎を発し鍋割峠を上下して甲奴郡に移る。 行程三里、 車上腸花および藤花を吟賞しつつ甲奴村〈現在広島県甲奴郡甲奴町〉に入り、 小学校にて開会す。校舎は古式の建築にしてすこぶる異風なり。しかれども二十四年前には県下の模範校舎なりしという。 村長兼県会議員渡辺就三氏の発起なり。 新築旅館府中屋に宿す。 郡役所より視学松葉宇三郎氏出張せらる。

 五月四日(日曜)  晴れ。 朝気〔華氏〕四十八度にして寒冷を覚ゆ。 霧ありて渓山一面に白し。 九時に至りてようやくはるる。

  豚々備山縦又横、 甲奴客裏夏将生、 暁窓驚見渓皆白、 霧散依然復紫明、

(脈々と続く備後の山は縦横に連なり、 甲奴村を旅ゆく人にいまや夏になろうとしている。 暁の窓べに谷がすべて白くなっているのに驚く。 白霧が散ってみれば、 いぜんとして山紫水明の地なのである。)

 本郡は県下の最小郡なるのみならず、 全国中最小郡の第三位におるという。 地勢は神石郡と同じく山また山、渓また渓、 群巒列立するも、 比較的渓間広くして耕田多し。 故に物産は主として米麦なり。 甲奴村より渓流に沿い、 下行迂回して田総村〈現在広島県甲奴郡総領町〉に至る。 その里程四里ありとす。 村家の庭内、 牡丹および桐花の満開を見る。 会場竜興寺の門前に一奇堂あり。  一脚の柱のみにて建てたる小堂なり。 村長山名政登氏の発起にて開会す。 宿所は宇野旅館なり。 郡書記高田林太郎氏ここにありて迎えらる。

 五日    晴れ。 県道五里、 渓山を上下して上下町〈現在広島県甲奴郡上下町〉に至る。 その町小なるも財産家多きをもって県下に聞こゆ。 物産は薪炭、 木材、 戸障子なり。 会場は専教寺、 宿所は影山旅館なり。 しかして郡内各所の主催は郡斯民会なり。 会長は郡長後藤居三郎氏にして、 今日出席せらる。  この日、 途上作一絶あり。

  路多凹凸犬扶車、 曳到翁山媼水涯、 春過田家農事急、 麦皆吐穂稲抽芽、

(道はでこぼこで犬が人力車を引いてたすけ、  ひかれて翁山と媼水のみぎわに至る。 春すぎて農家の仕事はいよいよ忙しく、 麦はみな穂を出し、 稲はその芽をのばしている。)

 街路尽くる所に孤峰の蔚然たるあり、 その名を翁山という。 山容すこぶる佳なり。 また、 街後に一川あり、  上下川という。 余はこの川を翁山に対して仮に媼水と名付く。

 六日    晴れ。 世羅郡より郡書記荒木新造氏の出でて迎えらるるあれば、氏とともに車行して同郡東村〈現在広島県世羅郡甲山町〉に至る。 行程四里、途中、 広定村字小童を通過す。 これをヒチと訓ず。 郡長古玉寿太郎氏ここにきたりて歓迎せらる。 会場は小学校、 休憩所は村長井上幸七郎の宅なり。 郡内の主催はすべて郡斯民会にして、 本村の発起は井上村長および助役大原信太郎氏等なりとす。 演説後ただちに腕車を飛ばし、 下行二里、 本郡の首府たる甲山町田村旅館に入りて泊す。 日まさに暮るる。

 七日    快晴。 甲山町の戸数は上下町に譲られざるも、 市街中点々茅屋あり。 街後に屹立せる崇山を甲山と名付く。 山の方はカブトヤマといい、 町の方はコウザンと呼ぶ。 地勢は神石、 甲奴に比するに、 やや広闊にして稲田多し。 物産は米麦を主とす。 山上はみな松林なり。 旅館の後庭に緑葉紅花相映ずるを見て一詠す。

  備北何辺散客懐、 甲山脚下甲山街、 満庭夏色濃於雨、 新緑残紅滴石階、

(備後の北、 いったいどこに旅人のおもいを発散できようか。 甲山のふもとに甲山町がひろがる。 旅館の庭いっぱいの夏の景色は雨に濃さを増し、 新緑と散り残りのあかい花が石のきざはしにしたたりおちている。)

 午時、 甲山より車行二里、 西太田村〈現在広島県世羅郡世羅町〉に至り、 午後、 照光寺にて開演す。 助役児玉舜生氏等の主催なり。 本村に二五と名付くる姓あるは珍し。 当夕、 田淵客舎に宿す。 郡内の旅宿料は一等一円、  二等八十銭ないし八等二十五銭との掲示あり。 もって物価の一斑を知るべし。

 八日    晴れ。 車行二里、 青松巒と緑麦田との間をわたりて神田村〈現在広島県賀茂郡大和町〉に至る。 麦穂に交ゆるに蓮花草の地に敷くあるは、 目をたのしましむるに足る。 会場は小学校、 発起は村長末盛直人氏、 助役曾利周作氏、 校長伊藤勘太郎氏なり。 当夕、 有田政一氏の宅に泊す。 古玉郡長も同宿せらる。

 九日    晴れ。 山路を横ぎり松林をうがち、 車行三 里、 吉川村〈現在広島県世羅郡世羅西町、 賀茂郡豊栄町、 双三郡三和町〉に至る。 行路石多くして滑らかならず。 ただし蝉吟蛙語の客情を慰むるあり。 会場は善仁寺、 宿所は小国村藪花旅店、 発起は村長長寿彦氏なり。 黄昏より雨降り、 麦色蛙声一段の趣を添う。

 十日    晴れ。  この日、 北風強く寒にわかに加わり、朝気〔華氏〕五十度に下る。車行二里、 上山村〈現在広島県双三郡三和町、賀茂郡豊栄町、世羅郡世羅西町〉に移王る。 会場、 宿所ともに光永寺なり。 本村長寺野直一郎氏、 津名村長佐々木寿太郎氏の発起にかかる。 門前にて一望するに、 地形はすり鉢形の一郷なり。 渓水は北流してその末は郷川に合す。 昨日来の客中作一首あり。

  一路無人渓色濃、 満田緑麦満山松、 林間有響近相見、 汲水僧都転々春、

(ひとすじの道には人影もなく、 谷の色は深く濃い。 田には緑の麦が満ち、 山は松がおおっている。 林の間に響く音があり、 近づいてみれば、 そこには水をくみ上げる水車がまわる臼つく姿があった。)

 備後にては雲州のごとく独木水車を僧都と呼ぶ。

 五月十一日(日曜)  晴れ。 夜来風やみて霧を醸し、 暁望濛々、  四面海のごとし。 行程三里半、 平坦なり。 津久志村〈現在広島県世羅郡世羅町・世羅西町〉法泉坊に至って、 開演かつ宿泊す。 村長平野桃次郎氏の発起にかかる。

 十二日 晴れ。 津久志より直通せる車道なきをもって、迂回して車行三里、大見村〈現在広島県世羅郡世羅町、双三郡吉舎町〉に着し、茶店に少憩ののち小学校に至りて開演す。演説のまさに終わらんとするや、雨ようやくきたる。古玉郡長、 荒木郡書記と県道三里の間、 車を連ねて競走し、 一時間にして甲山町〈現在広島県世羅郡甲山町〉に着す。ほとんど自転車の速力なり。 田村旅館に入るとき日すでに暗く、 雨蕭々たり。  この日また一吟す。

  林禽無語世羅山、 車過蟬声松影間、 蛙鼓起時天欲雨、 耕田人荷笠蓑還、

(林に鳥の声もなく世羅の山をゆく。 車は蝉の声ふりかかる松の樹の間をぬけて走る。  蛙の声がにわかに起こるときは天も雨を降らさんとするときであり、 田を耕す人は笠やみのを身につけてかえるのであった。)

 十三日 雨のち晴れ。 午前、 斯民会表彰授与式に参席す。 偶然、 県庁より出張せられたる永井貫一氏(元哲学館出身)と相会す。 甲山町の寺院に、 県下に最も名高き孝子姫女の墓ありと聞く。 午後、 郡立実科女学校に至りて修身談をなす。 校長は羽田良氏なり。 校舎改築すでに成る。  つぎに、 小学校に移りて斯民会の講演をなす。 講堂広きも聴衆、 堂内にあふれて堂外に及ぼす。 会長は古玉郡長なり。 荒木書記は郡内各所へ同行して斡旋せられたり。 郡視学小林慶一郎氏、 町長梶谷史郎氏、 校長本庄貫一氏等も、 みな甲山開会に助力あり。

 十四日    快晴。 甲山町は徴兵検査の準備中なり。 犬の先引きにて御調郡に入り、 市村より嶺に登るときは馬の先引きを用う。 正午十二時、 尾道市〈現在広島県尾道市〉古谷旅館に着す。 気候とみに夏に入りたる心地をなす。 行程八里にして坂路あるも、 駅道平滑なり。  四月一日以来潮風に沐したることなきに、 今日海気に接してことに爽快を覚え、  かつ新鮮の生魚を得て大いに晩酌と親しむ。

  六旬穿破備山雲、 今日初看海色分、 楼上把杯先一賞、 鮮魚満膳放清芬、

(六十日、 備後の山の雲をふみやぶるように行き、 今日、 はじめて海の色のあざやかさを見た。 旅館階上に杯を手にまず賞味すれば、 鮮魚は膳の上いっぱいにならび、 いいかおりをはなっているのである。)

 夜に入り、 天寧寺にて開演す。 寺は曹洞宗の大刹なり。 市教育会および各宗協会の主催にして、 市長西村益三氏、 助役小林徳太郎氏、 市書記野本直一郎氏、 教育会長渋谷栄吉氏、 協会理事長高橋月仙氏(会場住職)等の発起にかかる。 尾道市は前日まで物産共進会ありしために、 なんとなくにぎわいおれり。 当地富豪かつ名望家橋本吉兵衛氏は哲学館館賓にして、 今回も開会に関して助力せられたり。

 前すでに備後におけるわが耳目に触るるものを掲げしも、 更にその特色たる点を挙ぐれば、 備後一般に荷車の柄の構造異なれり。 両轅木の先端に横木なくして、 ただその柄を両わきにはさみて引くなり。 神石郡などにては、道に知らざる旅人に遇っても挨拶して過ぐ。 また、 各郡にて人の家を去るときに「御用心ナサイ」といい、 相会するときに「御難儀デゴザリマショウ」という。  つぎに、 迷信に関して最も名高きものは外道なり。  これあたかも雲州の人狐のごとく、 外道の住する家柄ありて、 その家七十五匹の外道住し、 これと結婚するときはその外道が移住をなすとて、 結婚を避くるなり。 しかして外道なるものは一種の妖怪的獣類と信ず。 また、  トウビョウと名付くるものあり。 因州にてはトウビョウを狐の一種となせども、 備後にては蛇の一種となす。  これまた人に憑付して悩ますものと信ず。 備後の山間部にては迷信すこぶる強く、 今より数十年前までは出雲大社教管長の回村せらるるときは、 その宿所の浴水をもらい受けて帰るもの多く、 この水にて眼を洗えば眼病にかかることなしと信ぜしものありと聞く。  また、 児童の学齢に達して入学を促されたるときは、 まず陰陽師にはかり、 もし今年は不吉なりと判断せらるれば、 入学を翌年に延ばせしものありと聞く。 人情朴直だけありて迷信も比較的深き方なり。 道路は山地なるにもかかわらず、 よく開けて車を通ずるに便なり。 小学校の校舎は建築の完美せるものいたってすくなし。 ある郡のごときは、 学校よりも寺院の方に重きを置くがごとく見受けたり。 各郷みな渓山の間にありて天然の境遇褊小なるために、 人気淳良なると同時に保守に過ぐる点なきにあらざるも、  幸いに政争の弊、民心を攪乱せるを聞かず。 将来これを善導するに至らば、 必ず良国民となるべし。

 五月十五日    晴れ。 午前、 尾道発車。 午後二時、 播磨国揖保郡龍野駅に着し、 哲学館出身金森従憲氏の先導にて、 車行二里、 龍野町〈現在兵庫県龍野市〉円光寺に至りて開演す。 余のこの寺にて講演を開きしは三回目なり。 夜に入りてまた開会す。 主催は修徳会にして、 今回はその発会式なりという。  郡長安達儀一郎氏は郡視学山本貞蔵氏を従えて出席せらる。  しかして主動者は多田厳清氏、 松山托瑞氏、 窪田謙譲氏、  および金森氏なり。 松山氏も哲学館出身たり。 当夕は梅玉旅館に宿す。  四隣清閑なり。

 十六日    晴れ。 午前、 郡立実科女学校にて講話をなす。 校長は近藤安太郎氏なり。 姫路より陸軍歩兵中佐下江孝氏来訪あり。  これより電鉄にて網干駅に至り、 山陽線に転乗して神戸に向かう。  龍野の方言につきて県下に伝うるところを聞くに、「龍野ナマリハ猫サヘナマル、ニャヲ/\ノ\ニャヲ/\ /\ というはおもしろし。 また、龍野近在の寺院の姓に睪采とかきてハナツとよませ、  尺一とかきてサかクニとよませるは奇なり。 睪采は釋の字を分解せるはいうを待たず、 尺一は寺の字が十一寸とかくより起これる由。 かくして午後四時半、 神戸〈現在兵庫県神戸市〉三之宮駅に着し、 岡田、 潮田両氏の案内にて、 高等商業学生集会所に至り、 ここに宿泊す。 湾内の風光、望中に入る。 図らずもスペイン語兼修の学生の接待を受く。

 十七日    晴れ。 午後零時半、 高等商業に至りて講話をなす。  翌日競漕大会あるにもかかわらず、 多数の学生出席あり。 更に三時より、 神戸高等小学校に至り、 市教育会の依頼に応じて開演す。 高等商業校長水島鉄也氏その会長たり。  これより割烹店に移りて哲学館関西同窓会に出席す。 市教育会幹部の人も来会せらる。

(教育会)水島鉄也、 増戸鶴吉、 芥川梅次郎、 阿江宏、 新井博次

(同窓会)伊賀駒吉郎、 高安博道、 岡田桂岳、 後藤菊丸、 岡田英定、 松本雪城、 松井亀蔵、 寺崎慈弁、 湯崎弘雄、 釈泰詮、 間人一郎、 島田竜造、 潮田玄丞

余を合して十九名なり。 当夕十時半の急行にて帰東の途に就く。 京都停車中、 新町徳兵衛、 原田秀泰、 田中了恵三氏、 車中にきたりて訪問せらる。 翌十八日午後二時、 帰宅す。


備後国開会一覧

 市郡    町村    会場    席数   聴衆   主催

尾道市        寺院    二席      七百五十人 市教育会および各宗協会

沼隈郡   松永町   小学校   二席     三百五十人   郡青年会

     靭町    劇場     二席     六百人   同前

     津之郷村    小学校   二席     六百五十人 同前

     山南村   寺院     二席     九百人   同前

     田島村   小学校   二席     七百五十人  同前

     藤江村   小学校   二席    八百五十人   同前

     千年村   寺院      二席    四百五十人  村内有志

深安郡   福山町   小学校   二席   四百五十人  郡斯民会

    下岩成村   小学校   二席   四百五十人   同前   

    下竹田村    小学校   二席   三百人    同前

 同     大津野村   小学校    二席   四百人   同前    

芦品郡  府中町     劇場     二席    一千二百人  町村有志

    新市町     町役場   二席   百五十人   町青年会

    有磨村     小学校   二席   三百五十人  村内有志

    宜山村     小学校   二席   三百五十人  村教育会

    服部村     小学校   二席    四百人    村内有志

    戸手村     小学校   二席   二百五十人   役場および斯民会

    常金丸村    寺    院   二席   四百人    真宗寺院

    大正村     村役場   二席         百人     斯民会

神石郡         油木村     タバコ専売所        二席        一千百人    村長

    高蓋村    小学校    二席        六百人     五ヵ村役場

    福永村    小学校     二席        四百五十人    四ヵ村連合

   豊松村    小学校    二席        三百五十人   ニヵ村連合

   新坂村     民家      二席   四百五十人   二ヵ村連合

比婆郡 庄原町   劇場      二席   一千人  郡斯民会および教育会

   同      実業学校    一席   三百人   校友会

   東城町     劇場      二席   五百人   町内有志

   西城町     劇場     二席   八百人   郡斯民会および教育会

  小奴可村    小学校    二席   三百五十人  同前

  山内西村     寺院      二席    五百人   同前

  比和村     寺院      二席    三百人     同前

  上高野山村   小学校    二席   五百人   同前

  口北村     小学校    二席   四百五十人 郡斯民会

双三郡 三次町    寺院      二席   一千二百人  郡斯民会

  八次村    中学校     一席   三百五十人  校友会

  原村      寺院       二席   八百人    寺院

  君田村    寺院      二席  四百五十人  村内有志

  布野村    寺院      二席  四百五十人  村内有志

  作木村    寺院       二席   七百人   村内有志

  同字大山    寺院       二席   五百人   斯民会

  田幸村    寺院       二席   六百五十人  住職および村長

  川西村    寺院       二席   六百五十人    住職

  三良坂村   教会       一席   七百人    村長および校長

  吉舎村   寺院       四席   九百人   斯民会および崇徳会

   同    日彰館      一席    三百人     同館

甲奴郡 上下町   寺院       二席    六百五十人   郡斯民会

  甲奴村   小学校      二席      五百人    同前

  田総村   寺院       二席    ニ百人      同前

世羅郡 甲山町 小学校      二席    一千百五十人  郡斯民会

  同    実科女学校     一席     百人      校長

  東村    小学校       二席    五百人     郡斯民会

  西大田村  寺院       二席   二百五十人     同前

  神田村  小学校      二席           六百人       同前

  吉川村  寺院       二席          四百五十人    同前

  上山村  寺院       二席          七百人      同前

  津久志村  寺院       二席          四百五十人    同前

  大見村  小学校       二席          五百人    同前

 

以上合計 一市、 八郡、 五十三町村 (十一町、四十二村)、五十八ヵ所、 百十五席、 聴衆三万一千四百五十人、  日数五十六日間(東京往復および滞京の日を除く)

演題類別

一、 詔勅および修身に関するもの      四十五席

二、 妖怪〔および〕迷信に関するもの   三十席

三、 哲学および宗教に関するもの      十五席

四、 教育に関するもの           十二席

五、 実業に関するもの           五席

六、 雑題(旅行談等)に属するもの    八席

(備後中御調郡だけは、  つぎの広島県巡講日誌の中に入る。)

その他、 帰行途上の分は

播州揖保郡   龍野町  寺院   二席   七百人  修養会

       同   実科女学校 一席   三百人   同校

神戸市          高等商業学校 一席  四百人   校友会

同            小学校    二席  五百人  市教育会

合計 一市、一町、  四ヵ所、 六席、  一千九百人

詔勅修身談   三席

妖怪迷信談   一席

教育談    一席

雑題      一席


加能越漫遊紀行


 大正二年五月二十日、 飄然として加、 能、 越、 漫遊の途に就く。  一は春来数日にわたりて身心ともに疲労せしにつき、  これが休養をなさんためなり、  一は妻の旧里が加州金沢にして祖先の墳墓も同所にあれば、 その墓参をなさんためなり。 駅路駿州に入れば麦田過半黄色を帯ぶ。 当夜、 遠州浜松花屋旅館に一泊す。 浜松の名物は冬は風、 夏は蚊なりとて、 五月一日より毎夜蚊帳を用うという。

 二十一日    晴れ。 浜松を発し米原に一休す。 旅館としては停車場前に井筒屋本店あり。 更に乗車し、 午後四時半、 越前敦賀に着す。 駅より車行八丁にして旅館具足屋に投宿す。 先年福井県各郡を周遊巡講せしより十一年を経たれば、  土地の情況も多少の変動ありしを見る。 晩食前、 緩歩して官幣中社金崎神社に登詣し、 社背の崖頭に立ちて晩望を放つに、  一湾の風光眼下に落ちきたる。 よって一吟す。

  絶壁崖頭社宇尖、  一湾碧水映珠簾、 望中汽笛俄然起、 巨舶留煙向浦塩、

(絶壁のきり立ったがけのあたりに神社のひさしがするどくかかり、 湾すべての深みどりの海は珠のれんのごとくきらきらと輝いている。  一望のうちに汽笛の音がにわかに吹きおこり、 巨大な船舶が煙を残して浦塩〔ウラジオストク〕に向かうのであった。)

 市外に松原公園あれども、 日すでに暮るるをもって行くことを果たさず。

 二十二日    開晴。 敦賀より鉄路に駕し、 緑葉森々紅花点々の間を一走して、 越前のいわゆる嶺南より嶺北に入る。 米田すでに挿秧に着手せり。 秧の長さわずかに二、 三寸なり。

  緑溟葉紅花雲半扁、 出山一望濶如溟、 堪驚南越挿秧早、 麦未黄時田已青、

(緑葉がしげり、 あかい花の咲く地は雲が半ばをとざし、 鉄路の山中より出て一望すれば、  からりとひらけて大海のようである。 そこでまことに驚いたのは越前での田植えは早く、 麦の穂がまだ黄色みをおびない時期に、 田はすでに青々としていることなのである。)

 加州大聖寺駅に降車す。 当駅より吉崎御坊まで一里半、 山代温泉まで一里二十丁、 山中温泉まで二里二十五丁あり。 山中へは本年三月以来電鉄開通せるにつき、 電車に駕して吉野屋第一別館に入宿す。  当地は旅館にいわゆる内湯を置かず、 浴客はみな共同浴場に至らざるを得ず。  これに上、 中、 下、 三等あり。  上等を白鷺湯という。入浴料一回金十銭を要す。 中等を葦の湯と名付く。  一回五銭とす。 しかして三等は一銭なり。

 二十三日 晴れ。 午前、 歩を散じて黒谷および蟋蟀橋に至る。  一帯の渓流の懸崖断巌の間を走るあり、 樹色橋影の碧潭に映ずるありて、 実に幽邃閑雅の勝地たり。  一浴するもの必ず、 まず歩をここに進めざるはなし。 当地の物産は陶器と漆器にして、 町内にこれを製造する家多し。  客中の作二首あり。

  電路飛車入翠微、 霊泉湧処客楼囲、 山家今日勤工事、 浴詠人携陶漆帰、

(電車の路を飛ぶような速さで山の緑濃いもやのなかに入る。 霊妙な温泉の湧くところには旅館がとり囲んで建つ。 山中の家々ではこんにち物産製造の仕事にいそしみ、 湿泉を浴びる吟遊の人は陶器と漆器をさげて帰ったのであった。)

  黒谷両崖山作屏、 浴余歩到尽頭停、 楼懸蟋蟀橋頭路、 影落碧潭人亦青、

(黒谷の両側の崖は塀のごとくたちふさぎ、 温泉を浴びたのちの散歩は断崖に至ってはじめてとどまる。 旅館は蟋蟀橋のほとりにかかって建てられ、  ひかりが深いみどりのふちにさし込んで、  みる人もまた青みをおびるのである。)

 黒谷より登ること三丁、 新開の公圏あり。 午後、 更に散策して白山社に登詣す。 石階百八十六段あり。 市街を脚下にみる。

 二十四日    晴れ。 午前、  温泉を辞し、 大聖寺、 小松等を経て金沢に着す。 車中、 南米チリ国にて相識れる千田平助氏に相会せしは奇遇なり。 金沢の旅舎は殿町山本屋に定む。  この日、 車中にて白山の夏なお雪をいただけるを望み    一首を賦す。

  鉄路遥々幾駅亭、 看過加水越山青、 回頭残雪懸天際、 白岳巍然鎮北溟、

(鉄路を利してはるばるといくつかの駅舎を経てきた。  その間に加賀の水の青さや越前の山の青さを見てきた。 頭をふりむければ残雪が天の果てに浮いて見える。 そこには白山が高大な姿でこの北海の地をしずめているのである。)

 北国に入りて以来、 田頭を飾れる蓮花草はその色濃紅にして、 大いに人目を引く。  また、 加州にては耕地整理数里にわたり、 田畦の井然たるを見るも一興なり。  いたるところ挿秧を始む。 午後、 日本の三大園の一たる兼六公園を遊覧して、  二首を浮かぶ。

  再入北都探旧荘、 依然兼六好風光、 緑陰一踞惜春尽、 喇叭声中送夕陽、

(再び金沢に入ってふるい家並みを訪ねた。  当然のことながら兼六園の風光はまことによい。 緑の陰を求めて腰をかけ、 しばらく春のゆくを惜しむうちに、 夕刻を告げる喇叭〔ラッパ〕の響くなかで夕日を見送ったのであった。)

  封建時過夢一痕、 城頭誰不動吟魂、 当年百万石何在、 今日纔留兼六園、

(封建時代もすぎたいまから見れば夢のなかの一事のごとくであり、 したがって金沢城のほとりに立てば、なんびとも詩魂を動かされずにはおられぬ。そのむかし加賀百万石と称された繁栄はどこにあるであろうか、今日はわずかに兼六園としてその姿をとどめるばかりである。)

 これより鷹匠町棟岳寺を訪うて墓参をなす。 妻の実家の曾祖父に当たれる吉田長叔およびその家族の墳墓あり。 帰路、 尾山神社を参拝して宿舎に帰る。

 五月二十五日(日曜)  晴れ。 金沢を去りて能州に向かう。 砂丘あり、 桃林あり、 沼湖あり、 これを経過して七尾町に入る。 農家みな挿秧に着手せり。

  沙原一過水田長、 五月能州已挿秧、 鉄路尽辺聞汽笛、 煙舟載客向和倉、

(砂原をひとたびすぎれば水田がはるかに続き、 五月の能登はすでに田植えもおわっている。 線路の尽きるあたりから汽笛が聞こえてきた。 煙を吐き出しつつ船は客をのせて和倉に向かうのである。)

 七尾より和倉までは二里、 汽船の便あれども車行してここに至る。 宿所は和歌崎旅館なり。 当地にては第一と称す。  これに次ぐものに小泉、 宇田、 旭屋等あり。  みな内湯を有す。 内湯の客舎十六戸ありという。 毎戸内湯を備うると風光の明媚なるとは、 中山温泉の和倉に及ばざるところなり。 旅館の設備もまたよし。 けだし北国第一と称して可ならん。 しかしてその泉質は温度沸騰点以上にして、 多量の塩分を含むは豆州熱海の温泉以上なり。

 二十六日    晴れ。 午後、 歩を移して東宮殿下記念館を拝観し、 また、 公園予定地の山上に登りて眺望す。  七尾湾の内外を眼界に浮かぶるを得。  ここに西国三十三番の観音を模擬せるものあり。  当地滞在中の即吟三首あり。

  浴得塩泉病骨霑摺、 連楼仙客坐層楼、 汽声煙影舟来去、 湾内風光一段添、

(塩分を含む温泉を浴びて病の身をうるおし、 連なる旅館階上の俗世を離れた遊客として楼上に座す。 汽笛の音と煙の影をのこして舟は往来し、 湾内の風景にいっそうの趣を添えている。)

  穏波清影対斜陽、 鳳岳珠山姻裏長、 浴後呼杯未傾尽、 吟眸早已酔風光、

(おだやかな波のすがすがしい様子が傾いた日差しにうかび、 姿の美しい珠のような山岳はかすみのうちに長々と横たわる。 温泉に入った後に酒杯をたのみ、 いまだ杯を傾けおわらぬうちに、 詩心の眼は早くも風光に酔うたのである。)

  来宿和倉第一楼、 屏山枕海好凝眸、 温泉併得風光美、 遮莫家郷憶遠遊、

(和倉第一の宿に泊まり、 山を屏風とし海を枕とするような美観に目をこらす。  この温泉はそのよさのみならず風光の美も兼ねる。  それはどうあろうともふるさとでは遠く旅に出ている者を思っているであろう。)

 また、 狂歌一首をうそぶく。

  和倉なる和歌崎楼にやどりても、 和歌    つだに出ぬぞおかしき、

 二十七日    雨。 滞在。 午後ようやく晴るる。 海浜を歩して夏時の海水浴場を一見す。 当夜、 旧友勧業銀行総裁志村源太郎氏の入浴するあり。 襖を隔て、 隣室にありながら互いに相知らざりしは奇なり。 東京に帰りて後、   はじめてそのことを知る。

 二十八日    晴れ。 朝、 出発。 旅館の好意により大臣馬車に駕して七尾駅に至る。 これより鉄路により津幡にきたり、 換車して越中に入る。 磯波郡内はいまだ挿秧に着手せざるも、 富山以東は挿秧すでにおわる。  この日、 雲煙に遮られて遠山を望むを得ず。 途中作一首あり。

  倶利加羅隧一過、 望迷中越幾山河、 雲生雪嶺茫難認、 風起秧田漲緑波、

(倶利加羅トンネルをすぎ、 越中の幾山河に目をただよわす。 雲生ずる雪の嶺はぼんやりとしてとらえがたく、 風吹き起こる稲田には緑の色を映した水がみなぎっている。)

 越中より直江津まで鉄道全通して以来、 はじめて親不知を一過することなれば、 その工事を一見せんことを期せしも、 車中仮眠し、 糸魚川駅に至りて、 ようやく醒む。 昔時の親不知が今日我不知となりしは笑うに堪えたり。これも文明の恵沢として喜ばざるを得ず。 ただし一吟あり。

  激浪洗崖山勢危、 出浜入隧鉄車馳、 文明余沢真堪喜、 今日不知親不知、

(激浪が崖を洗いせり出した山の形もあやうく見えるが、 そんななかを汽車は、 浜辺を出てトンネルに入って駆けぬける。 文明の恵みというものはまことに喜ぶべきもので、 こんにちはあの親不知、 子不知〔おやしらず、 こしらず〕の難所さえ知らずに過ぎるのである。)

 今夕、 直江津町いか権本店に宿す。

 二十九日    晴れ。 午前九時、 発車。 越後地および信州地はいまだ挿秧期に入らず。 善光寺を一過して一詠す。

  満車多是杖鞋徒、  老弱相携入仏都、 街路尽頭大堂聳、 望門誰不唱南無、

(汽車はあふれるほどの客を乗せて行くが、 多くは杖にわらじばきの人々で、 老若がたすけ合いながら善光寺のある仏都に入る。 街路の尽きるあたりに大きなお堂がそびえ、 門を望み見るときにはだれもが南無と唱えずにはおられぬ。)

 川中島を過ぎてまた一吟す。

  車入川中島上郷、 農家五月養蚕忙、 桑田如海青千頃、 誰想斯間有戦場、

(汽車が川中島のあたりの村に入れば、 農家の五月は養蚕に忙しいのである。 桑畑は海のごとく青々と広がり、  このあたりが古戦場であったとはだれも思わないであろう。)

 碓氷嶺にきたれば、 従来の汽車このごろ電車に変ず。 隧道に入るも炭煙に苦しめらるることなし。 夜八時半、上野に着す。 余の加、 能、 越、 漫遊は三回目なり。



塩原紀行 

 余、 数十年来の持病あり。 毎年、 寒暑相移るの際に発す。 しかしてこれを治するには、 医薬よりも温泉入浴最も効あり。 故に年々二、 三回、 各所の温泉に滞浴するを例とす。  このごろまた発病の気味あるにより、  幸いに数日の少間を得たれば、  にわかに野州塩原温泉行を思い立ちてその途に上る。 余の塩原に入浴するは、  ここに四回目なり。

大正二年六月十五日 雨のち晴れ。 午前九時、  上野を発し、 午後二時、 西那須停車場に着す。 車窓より田野を望むに麦みな熟し、 半ばはすでに刈り終わり、 稲田は八、 九分どおり挿秧をなせり。 西那須より関谷村まで三里の間、 近ごろ軽便鉄道を敷設し、 機動車の往復あり。  この間はいわゆる那須野の原と称し、 長さ七里、 幅三里の間曠原草野なりしが、 近年は米田あり桑圃ありて空地を余さず。 したがって民家も各所に点在せるを見る。 余の初めてこの草原を一過せしは明治十二年にして、 当時開墾いまだその緒に就かず。 草露をはらって無人の境を渡りしが、 今日の沃野を見るに及び、 なんとなく今昔の感を催起するに至る。 関谷より塩原の中央まで三里あり。 駅路は箒川と名付くる渓流に沿いて山間に入るも、 平滑にして車馬自在なり。 かつ連絡馬車の設備あり。 この日、車中の所見一首を賦す。

  武州野続奥州郊、 黄麦緑秧田色交、 雨歇梅天烟漸散、 遠山猶被白雲包、

(武蔵の野が奥州の野に続くところ、 熟した麦の黄色と稲田の緑色とがいりまじる。 雨あがりのつゆどきの空にかすみもようやく消えたが、 遠い山にはなお白い雲が頂をつつむようにおおっている。)塩原温泉場はおよそ四、 五里の間に十箇所あり。

  大網 福渡 塩釜 塩湯 畑下 門前 須巻 古町 新湯 湯本

 これを塩原十湯と称す。 全村の戸数三百五十戸、 人口二千余を有すという。 当日は大網を経て福渡に至り、 桝屋旅館に投宿す。 桝屋のつぎに丸屋、 和泉屋、 松屋あり。 いずれも塩原中屈指の旅館にして、  みな内湯あり。 西那須よりここに至る五里、 関谷より二里を隔つるなり。 桝屋一名満寿屋は箒川に臨み、  塩渓第一の奇勝と呼ばるる天狗岩に隣接し、 樹色石影ともに軒に映じ、 波光水声ともに窓に入り、 風光すこぶる秀霊なり。 夜に入りて急湍の声枕頭に響くを聞きて一吟す。

  塩山何処駐吾車、 天狗岩前福渡閭、 箒水終宵鳴不歇、 声々送夢到華胥、

(塩原のいずこにわが車をとめようか、 そこは奇勝天狗岩の前、 福渡の里である。 箱川の水おとは一晩中鳴り響いて、 その音におくられるように、 伝説の黄帝が夢に遊んだ理想郷である華胥国へと自分もまた夢の中で遊んだのであった。)

 十六日    晴れ。 早朝散策して天狗岩の下に至る。 巨巌屹立して空にそびえ、 数十丈の絶壁をなす。 その雄大なる風光は人をして壮快を覚えしむ。 望中一絶を浮かぶ。

  十里塩渓一水斜、 両崖奇勝最堪誇、 就中天狗岩前路、 俯仰何人不駐車、

(十里ほどの塩原の谷あいに箒川が流れ、 両岸には景勝の誇るに足るものがある。 とりわけ天狗岩の前の路は、 上を見たり下を見たりとだれもが車をとどめて眺めるであろう。)

 この前後、 奇勝多し。 更に行くこと数丁にして塩釜の温泉あれども客舎なし。  つぎに、 郵便局の庭内に高尾塚あり。 高尾は吉原の名妓にして、 この地に生まれしという。 山本北山翁の碑文を刻せり。  これより更に数丁を隔てて畑下温泉あり。 清琴楼の外に四戸の客舎を有す。 これよりまた更に数丁にして門前に至る。 客舎宮田屋あり、寺院妙雲寺あり、 街路わずかに一橋を隔てて古町あり、 やや市街の形をなす。 これ塩原の中央に当たる。 海抜一千四百二十尺なりという。 客舎は八戸あり。 そのうち最も清雅なるは楓川楼なり。 その構造のやや大なるものは米屋なり。  しかして設備および風致に至りては福渡の客舎に及ばず。  これより山行二里余、 人煙隔絶せる所に新湯あり。 泉質は硫黄泉なり。  客舎五戸あれども、 みな旧式の建築なり。 余は先年一度ここに入浴せしことあり。これより更に山間三十丁を離れて湯本温泉あれども、 人家一戸あるのみ。 この日、 古町までにて帰宿せり。 途中、奇木珍石の売店多し。  これ当地の名産なり。 その石に鮫石、 鍾乳石、 木葉石、 芋石、 貝石の五種あり。  また、 塩原七不思議と名付くるものあり。  すなわち、 逆杉、  一夜竹、 冬蓼、 冬梅、 夫婦烏、 精進川、 片葉蘆これなり。

 十七日 晴れ。 福渡より十八丁離れたる所に塩泉あり、  これを塩の湯と称す。  塩釜より渓橋を渡り、 小渓をさかのぼること十丁にしてこれに達すべし。 旅館は明賀屋を第一とし、 これに次ぐものは玉屋、 柏屋なり。 この日、明賀屋を訪うて入浴す。 浴場は渓流の岸頭にあり、 客楼より梯階を下ること数十段にしてこれに達す。 浴場にて渓流を対観するところ、 積翠まさに滴らんとし、 幽邃実に掬すべくして最も風致あり。 実に桃花流水別天地の趣を浮かぶ。  塩原は紅葉の期節最も佳なりとはなにびとも唱うるところなるも、 緑葉の期節もまた大いに佳なり。ことに夏時の避暑地としては箱根、 日光の遠く及ぶところにあらず。 三伏のときといえども蚊声を聞かず、 しかも蠅影を見ることまたまれなり。  これに加うるに奇勝多くして散策地に富めるあり。 ただし洋人のここに来遊せざるはホテルの設備なきによる。  これ当地の大欠点なり。 日本客舎は設備のやや大なるものあるも、 待遇の方法いまだ進歩せず。  このごろ電灯の計画ある由なるも、 今日なおランプを用いおれり。  これらの点は塩原が他の温泉場に数歩を譲るところなり。  この日の所吟、 左のごとし。

  箒水源頭夏木稠、 緑将滴処白烟浮、 塩渓浴詠四時好、 何限満山紅葉秋、

(箒川水源のあたりは夏の木々が茂り、 その緑はしたたりおちるかと思われる色彩を見せているが、 そこに白く湯気が浮かんでいる。 塩原温泉の谷あいは沐浴し吟詠するには、 四季を通じて題材が豊かである。いったいすべての山を紅葉にいろどる秋にかぎる必要はどこにあろうか。)

 十八日 晴れ。 福渡より十丁余、 関谷の方に当たり一隧道あり、 白雲洞と名付く。 その傍らに一橋あり、 澄鮮橋と名付く。  この前後の崖石壁立、 碧潭渦を巻く所、 妙趣あり。  これより小径に入り、 懸岩の下を過ぎ、 桟橋の上を渡り、 行くこと三、  四丁にして飛瀑あり、  これを竜化瀑と名付く。  塩原山中に瀑の数七十あり。  そのうち幸を抜くもの七あり。  その七中の第一をこの瀑とす。 巨巌の壁立せる状は人をして戦競せしむ。  この日、 瀑前の仮亭に少憩して帰る。 午後、 渓風強く吹ききたる。 ときに塩原の風景を一括して賦したりる七律一首あり。

  乱峰堆裏樹森々、 峡路風清好洗襟、 天狗岩頭松説法、 箒川湍上石弾琴、 山容自現空中色、 水態能牽物外心、忘浴朝昏探勝去、 塩渓一歩価千金、

(乱れたつ峰々のかさなるなかに樹々がしげり、 山あいの道に吹く風は清らかに襟を洗うかのようである。天狗岩のほとりにたつ松は法を説き、 箒川のはやせのあたりに石は琴をかなで、 山の姿はおのずから空中に万物の理を示し、 流水の姿はよく世俗の外に人の心をいざなう。 沐浴を忘れて朝となく夕となく景勝をたずねて行けば、 塩原の谷間は一歩千金の価値があるのである。)

 十九日    晴れ。 午前、 緩歩して門前に至り妙雲寺を訪う。 臨済宗なり。 堂後に飛泉あり、 常楽瀑という。 背面の山を吐月峰と呼ぶ。 よって一詠す。

  吐月峰根夏木栄、 入門自有道心生、 妙雲寺古鐘声冷、 常楽瀑涵堂影清、

(吐月峰のふもとに夏の木々は繁茂し、 この寺の門を入ればおのずから仏道を求める心が起こる。 妙雲寺の古い鐘の音も涼しく、 常楽瀑は堂宇をうるおしてすがすがしい。)

 少憩ののち帰舎す。

 二十日    快晴なるも、 風力強くして楼を揺るがす。 故に戸を閉じて出でず。  そもそも塩原はその渓山の風光の秀逸なる点において全国の温泉場中第一に位することは、  ひとたびここに来遊せるものの疑わざるところなり。ことに紅葉に至りては箕面や永源寺の比にあらず、 真に日本一なりとは余の常に主張するところなり。 しかるにその名のいまだ広く全国に知られざるは、 塩原のためというよりも、 むしろ風景のために遺憾なりとす。

 二十一日    晴れ。 関西巡講の期日迫れるにより、 早朝塩原を発して帰京す。 浴寓中に哲学堂の由来記を印刷に付せり。  題して「哲界一瞥」という。  その緒言に哲学堂の起源および将来の計画を略言したれば、 後日の参考までに左に掲記す。

 本書のはしがきとして、 哲学堂経営の始末を述ぶるに、 明治三十一年哲学館の敷地内に京北中学校を併設せし以来、 両校を別置するの急要を感じ、 将来哲学館を郡部に移すの意見を起こしたりしが、 幸いに豊多摩郡野方村字和田山に売地あることを聞き、 かつその地は和田義盛の遺跡にして、 東京府下名所の一なることをも知り、 早速購入の上、  これを哲学館将来の敷地と予定し、 その標木を建てた。  その後、 哲学館が文部大臣より大学公称を許可せられたるにつき、 その紀念として明治三十七年に三間四面の一小堂をここに建築したのが、 今日のいわゆる四聖堂にして、 実に哲学堂の起源である。 その後、 余が神経衰弱症にかかりたるために、 明治三十九年一月、哲学館大学、 今の東洋大学を退隠するに当たり、 種々の都合上、  学校移転を見合わすることになり、 後継者と相談の結果、  これを余の退隠所とするの名義をもって、 自らその経営だけを引き受くることに約束した。 いよいよこれを引き受けたる以上は、 将来ながく世道人心を裨補するものになさんとの計画を起こし、  ついに精神修養的公園とすることに定め、 その建築費および維持費として七万五千円を積み立つる予算を立てた。 しかしてこの金額を集むる方法としては、 有志者の寄付金を仰ぐことは本意でないから、 別に工夫することに取りきめた。

 かつて国民道徳のおおもとたる教育勅語の御聖旨を普及徹底せしむるには、  学校教育以外に社会教育、 民間教育を各町村に起こさざるべからずとは、 余の年来の持論にして、 学校退隠後はもっぱらその方に力を尽くさんと思い、 神経衰弱をいやする良法は田舎の旅行にありと聞き、 療養のかたわら日本全国の各郡各郷を周遊して、 その趣旨を演述せんことに定めたが、 開会の経費を支弁する方法を案出する必要が起こってきた。  これにおいて余は生来悪筆なるかどをもって、 数十年間全く禁筆したりしが、 近年余儀なくその禁を解き、 地方巡遊中、 町村有志の所望に応じて額や掛物の揮毫をなすことに決し、 これによりて受けたる謝儀の半額は開会経費に充用し、 もしくは町村の公共事業、 慈善事業に寄付することとし、 他の半額は哲学堂の建築費、 維持費に充用することとして、 明治三十九年より全国行脚の途に就きたる次第である。

 以上の方法により集まりたる金は、  これを支出して逐年哲学堂の建設を進行し、 今日までに六賢台、 三学亭、唯物園、 唯心庭等を竣功することに運んだ。  その詳細は年々発行の「南船北馬集」中に報告してある。 試みに明治四十三年末における全五ヵ年間の収支総計を掲記すれば、

  収入金、  二万四千百八十九円十八銭五厘

  支出金、  二万二千八百九十四円七十九銭五厘

 この支出金の中には土地購入費も合算してある。 その地所の過半は最初哲学館にて購入せしものなれども、 余は己の任意にてその代金は漸次に東洋大学の方へ支払うことにいたした。 その後、 新たに購入したる地所の代金も加わっておる。 今後いよいよ全国を一周し終わるには、 なおこの上に十年間を要するにつき、 それまでに予定の七万五千円を満たしたいと思う。

 かくのごとく悪筆をふるって謝儀を拝受しては、 世間に対して鉄面皮のようなれども、  これもとより余の快しとするところにあらずして、 万やむをえざるより案出したる方法に過ぎぬ。 よってその金は決して一家のため、子孫のために保存するにあらずして、 全く国家社会に対してその恩に報答するためなることを、 広く世間の方々に記憶していただきたい。

 余は幼時より学校教育を受けたる年月は満二十年にして、 自ら学校を作りて人を教育したりし年月も、 やはり二十年間であった。  これあたかも数理において年月の差し引きができるから、 教育より受けし恩債の返却ができたと申してよろしい。 いよいよ学校を退隠するに当たり、 余より、

  財産全部すなわち十三万五千九百三十五円六十一銭七厘

を寄付して、 東洋大学財団および京北財団を組織し、 明治三十九年に文部大臣に申請したる次第である。 これ、まさしく余が教育より受けし恩義に報答したるものと思う。 しかし国家社会より受けたる恩に対してはいまだ報答しておらぬ。 よってその報答として哲学堂の公園を完成し、  これを国家社会に貢献する考えを起こした。 故に他日完成の暁には、 更にこれを財団法人とするか、  さなければその全部を政府へ献上する赤心である。  されば、その経営の決して子孫のためにする私情にあらざることだけは、 天下の公衆に告白しておかねばならぬ。 ただし悪筆をふるいたる点は、 他日完成の日を待ち、 哲学堂内に筆塚を建てて、 広く謝罪するつもりである。

 今より十年を経て全国を巡了したりしときに至り、 己の余命のあらん限りは、 自ら哲学堂の門番となり、 毎朝灑掃の余暇に、 来観の諸氏に対し、 座談説法をなし、 そのかたわら学生の監督をなしたいと思う。 近ごろは地方旅行のおかげにて、 神経衰弱の方は全快したれば、 東洋大学学長に復帰せよと、 内外よりの勧告を受けおるも、固辞して応ぜざるは、  この将来の予望を有する故である。  かつて学校を退隠するときに、 今後の半生は学校教育に従事せずして、 もっぱら社会教育、 民間教育に尽瘁することを公言し、 学校に永訣を告げて去りたることなれば、 再び学校へ戻るときは、 死者の復活かあるいは幽霊の現出と同様であるからと申して固く断り、 引続きて一方にては全国の巡講に東奔西走し、 他方にては哲学堂内に開設すべき図書館、 博物館の経営を進行するつもりなれば、  すこぶる多忙を極め、 到底その傍らに学校の監督経営を兼担する余暇はない。 かくして十年の後に至り、全国の周遊を結了し、 哲学堂の設備を完備したるときには、 堂内に幽棲して老境を送り、 座談説法、 修身講話をもって青年の指導に当たる心算である。 その材料としては死書死学よりも、 むしろ活学活書をとりたいと思う。活学活書とは世界における人間社会の活動せる現状をいうのである。  この目的に対しては今後少なくも一、  二回は世界を周遊して、 今日までいまだ経歴せざる国々を歴訪せなければならぬ。 余の素志は、  一生の間において人間の住んでおる国だけはことごとく歴遊して、 その人情、 風俗、 習慣および活動の実況を目撃視察し、 もって講話の資料を蘊蓄したいと思う。  これがいわゆる活学活書である。  かくして余の学校退隠後の残生は全く国家社会のために尽くし、 世の中より受けたる大恩に報謝する決心に外ならぬ。 古人は児孫のために美田を買わずと申したが、 余は私産を残して公衆に分与せよとの主義を唱えておる。  その詩は左に掲げておく。

人生如夢而非夢、 我食我衣誰所貢、 与下為児孫買中美田、寧遺私産分公衆、

(人生は夢のごとくなるも夢にはあらず、 わが食、 わが衣はだれによるものであろうか。 児孫のために美田を買うなどよりも、 むしろ私産を蓄積してこれを公衆に分配したいと思うのである。)

 右の主義であるから、 己の一身はできうる限り、  質素を守り節倹を行い、  これによりて余したるものは、 公衆に分与する精神にて、 哲学堂の方にあてはむる心得である。 世間あるいは余の本意のあるところを誤解せんことを恐れ、 かくのごとく贅言を記して本書の巻首に掲げたる次第である。(『哲界一瞥」序文)

 


広島県巡講第二回(安芸国)日誌

 大正二年六月二十四日 夜大雨。 十一時、 新橋発車。

 二十五日    晴れ。 朝六時半、 静岡県遠州磐田郡中泉町〈現在静岡県磐田市〉に着し、 午後、 小学校、 夜間、 浄土宗善導寺にて両度開演す。 修養会および是真会の主催にかかる。 しかして発起者は哲学館出身鈴木芳之助氏、 郵便局長佐藤賢三郎氏、 校長杉森正作氏等なり。 当夕、 有志家伊藤甚五郎氏の宅に宿す。 鈴木氏、 随行の用を兼ねらる。 当地方にてはタバコを産出す。  この日、 急に暑気を催す。 某氏の依頼に応じて、 見真大師〔親鸞〕六百五十年忌の一詩を賦す。

  末代欲医枯渇民、 大師営尽幾酸辛、 北陲曾踏越山雪、 東海屢迎常陸春、 浄土教中深究理、 法然門下独開真、恩光六半百年後、 照此迷雲堆裏身、

(末世の枯れつきるような民びとを救わんとして、 大師はどれほどの辛酸をなめ尽くしたことか。  北の果ての地に山雪をふみ越え、 東海の地に久しく常陸〔ひたち〕の春を迎えたのであった。 浄土教に深く入って教理をきわめ、 開祖法然上人の門下で、  ひとり浄土真宗を開いた。 その法恩は六百五十年の後までもかがやき、この迷いの雲のかさなるうちにいる身を照らすのである。)

 二十六日 晴れ。 梅雨すでに去りて炎晴の候に入る。 朝七時、 浜松市〈現在静岡県浜松市〉に移り、 中学校にて開演す。 午後、 更に演武館にて是真会のために講話をなす。 発起は布教師鶴見恂空氏、 郵便局長河村透氏なり。 当タ、 西洋料理店にて中学校長堀重里氏、 哲学館出身寺田伊八、 長根禅提、 鈴木孝治三氏、 ほか数名と会食す。 鈴木氏、 随行の用を務めらる。 浜松は近年にわかに発展し、 静岡をしのぐの勢いあり。 夜中、 市街人群をなす。 休憩所は本称寺なり。 当夜十時半発にて西行す。

 二十七日    晴れ。 正午、 広島県備後国御調郡尾道駅に着し、 同市古谷旅館に休泊す。 随行森山玄昶氏、 出雲よりここにきたりて迎えらる。午後、車行約一里、栗原村〈現在広島県尾道市〉小学校にて開演す。昨今挿秧最中にて、農家すこぶる繁忙を極む。  この地方は稲田と藺田と相半ばし、 藺田の方は七月中旬土用に入りて刈り取り、 その跡にも挿秧をなす。 故に挿秧期は六月下旬より七月下旬までに及ぶという。 古谷旅館には竹と名付くる老女中あり。 十二年間その家に奉公し、 古谷の竹か竹の古谷かと呼ばるるほどの評判高き女丈夫なり。 栗原開会は郡教育会の主催にして、 村長土屋寛氏、 校長早間誠氏の発起にかかる。  郡長沖田義信氏病気のために、 郡視学福島松太郎氏および郡書記吉本弥三郎氏代わりて諸事を斡旋せらる。

 二十八日    晴れ。 福島郡視学とともに早朝六時出帆の東予丸に乗り込み、  七時、 因島重井港に着す。  これより徒歩一里にして中庄村〈現在広島県因島市〉に入り、 末広旅館にて休憩し、 小学校にて開演す。 主催は郡教育会、 発起は村長堀江清太郎氏、 校長柏原豊松氏なり。 島内は挿秧最中にして、 気候炎暑を覚ゆ。 本島の周囲は七里余ありて六ヵ村ここに集まる。 物産は薯を主なるものとす。  これを薩摩イモとも、 唐人イモまたは琉球イモともいう由。  その夕、  七時寄港の汽船に駕せんとて急行、 汗を絞りて重井港に至り、  一葉の端舟に乗じ、 岸をへだつること十余丁の海上に錨を投じ、 徒然として汽船を待つ。 ときに風強く波高く、 端舟の揺動はなはだしく、 激浪の打ち込むこと数次に及ぶ。 乗客みな顚覆の恐れを抱くに至る。  かくして二時間余を過ぎ、 ようやく汽笛の声と汽灯の色とに接触して、  おのおの蘇生の思いをなす。 夜十時後、 古谷旅館に帰着す。 空腹ことにはなはだし。

 六月二十九日(日曜)  曇晴。 尾道を発し山行四里、 市村〈現在広島県御調郡御調町〉に至る。 途中、 白衣を着たる団体三々五々列をなし、 法螺貝を吹きて行くに遇う。  四国石槌登山の客なりという。 渓間には藺田と稲田と相交わるあり、 林頭には鵑声のわが行を迎送するありて、 詩思勃然として動く。

  腕車一走送群峯、 藺稲相交田色濃、 六月備西梅雨霽、 杜鵑声下緑陰重、

(人力車は一走して多くの峰々に送られつつ行けば、 いぐさと稲とがまじって田の色は濃い。 六月の備後は梅雨もあがり、 ほととぎすの声のするあたりは木々の緑が重なっている。)

 市村会場は照源寺、 主催は郡教育会、 発起は校長綾目政一氏なり。  この辺りは田植えすでに終わり、 野休み中なり。 その休みを方言にて泥落シという。 村内には蒟蒻畑多し。 宿所は梶彦旅館なり。

 三十日 晴れ。  すこぶる清涼なり。 旅館より渓流にそいて下行すること三十丁、 上川辺村〈現在広島県御調郡御調町、 府中市〉円竜寺に至りて開演す。 不二会の主催なり。 同会は教育家、 宗教家の連合より成る。 教学不二の義をとりて名付けしという。 発起は教育家として綾目氏の外に前原、 有延、 石川、 太田四氏、 宗教家としては池上鉄城、 内海徹心両氏なり。  この日また一作あり。

  渓路一条貫万山、 田家散在白雲間、 御調川上尋蕭寺、 説了倫常拝仏顔、

(谷の道がひとすじ山々をつらぬくように走り、 農家は白雲のあいだに散らばりたつ。 御調川のほとりのこざっぱりした寺院をたずね、 人としてふみ行うべき道について説き、 仏の顔を拝んだのであった。)

 当夜、 はじめて蚊声を聞く。  この地より芦品郡府中町まで渓行二里ありという。

 七月一日    晴れ。 炎暑強く、 土用天気なり。 再び市村を経、 河内村〈現在広島県御調郡御調町〉小学校に至りて開演す。 その里程一里半。 当夕、 市村梶彦に帰宿す。 主催は不二会、 発起は校長林山古郎氏、 宗教家近安最勝氏、その他数名なり。

 二日    晴れ。 市村より二里、 馬の先引きにて嶺をこえ、  宇津戸村〈現在広島県世羅郡甲山町〉に移る。 道路は尾道より甲山、 三次に通ずる県道なれば、  すこぶる好良なるも地勢高低多し。 山林は松樹のみ茂生す。 会場および宿坊は照善寺、 主催は不二会、 発起は住職藤井謙譲、 村長間処憲三、 校長岡田定松等の諸氏なり。 この日、 暑気〔華氏〕八十度にのぼる。 寺内、 井泉清くしてかつ冷ややかなり。 田家すでに耘草に着手す。

 三日    晴れ。 里道車を通ぜざるために二里余の距離の所、 県道を迂回し、 甲山町を経由して坂井原村〈現在広島県御調郡久井町〉に至る。その行程五里あり。途中過ぐるところの久井村は、毎年牛馬の大市あるためにその名県下に知らる。 会場は小学校、 主催は教育会、 発起は助役平房吉氏、 校長平定人氏にして、 宿所は助役の宅なり。 午後、 雨きたる。 本村に名物老婦あり、 その名は丹下マツという。 年齢八十四歳、  すこぶる矍鑠、 単身独居、 大いに公共のために力を尽くせりとて賞典を拝領し、 終年東西に遊寓して、 演説のもとめに応ず。 能弁にしてかつ強記なり。 本村の地位高燥なるも水田多し。 夜に入りて蛙鼓枕頭にやかまし。

 四日    雨。 坂井原を発して嶺頭に至る。 これより下行すること一里半、 駅路、 断崖懸岩の間にありて通ず。 車上渓底を瞰するに、 目まさに眩せんとする所あり、 その危険いうべからず。 雨また劇甚なり。 幸いに無事にて三原町〈現在広島県三原市〉五雲楼に着す。 楼はひろくしてかつ静かに、 庭園おのずから趣をなす。 雨もまた晴るる。 

 この日、 行程三里半。  一作あり、 左のごとし。

  断崖一路雨紛々、 走入壷城晴色分、 双鷺洲前帆似鷺、 五雲楼上客如雲、

(断崖のひとすじの道を行けば雨はみだれふり、 走って壺城下に入れば晴れる景色となった。 双鷺島の前を行く帆は鷺に似て、 五雲楼の上にいる旅人は浮き雲のようである。)

 壷城とは旧三原城の雅名なり。  この地風光に富み、 湾内の双鷺洲まず吟眸に入る。 梁川星巌の七絶は人口に膾炙す。 会場は小学校、 主催は郡教育会、 発起は町長河口貞次氏、 校長高橋雄蔵氏、 僧侶小島秀哲氏なり。

五日    晴れ。 朝七時、 女子師範学校に至りて講話をなす。 校長内田慶三氏は一面識あり。 校地眺望もっともよし。 気候、 位地ともに女子教育を施すに適す。 八時半、 三原を発して鉄路に駕し、 安芸国加茂郡に入る。 御調郡内は各所へ福原郡視学、 吉本郡書記ともに出張して準備の労をとられたるを謝す。 賀茂郡は西条町に降車し、 郡視学広井以忠氏の案内にて、車行一里強、坂路を上下して賀永村〈現在広島県東広島市、竹原市〉小学校に至り開演す。主催は青年会、 会場は超専寺、 発起は青年会長高田義尹氏、 村長荒谷哲造氏、 副会長原田貞夫氏等なり。 なかんずく高田氏は旧哲学館館友なりしためにもっぱら尽力せらる。 宿泊所は高田氏の自宅なり。 壁上に題するに一絶をもってす。

  門帯青田屋負山、 清風洗俗似仙関、 夜深人絶無微響、 惟有蛙声破静閑、

(門前は青い田が広がり、 家屋の背後は山である。 清らかな風は俗世のよごれを洗うように吹き、 あたかも仙人の住む関所のようだ。 夜ふけて人の気配も絶え、 かすかな音もなく、 ただ、 蛙の声のみが閑静さを破っている。)

 旧時は本村より西条に出ずる間に山陽道有名の松子山の難所ありしも、 今は開鑿して人車自在なり。 俗に安芸の禿山と称し、 赤膚を露出せる山多し。 近年各所に防砂工事を施せり。

 七月六日(日曜)  晴れ。 午前十時、西条を発し、 逆行して豊田郡に入る。 ときに冷気を覚ゆ。 会場は本郷村〈現在広島県豊田郡本郷町〉西念寺、 宿所は東雲館(停車場前)、 発起は本村長永井富太郎氏、 助役矢野志一氏、 校長大橋強一氏、 船木村長杉井鶴蔵氏等なり。  この地は小早川先祖の旧跡にして、 山上に今なお城址を存す。 その岩光、吟望に価す。

  一帯清流繞邑閻、 両崖山是古城墟、 本郷駅畔時回望、 岩影懸天夕照虚、

(一本の清流が村里をめぐり、 川の両崖の山上には古い城跡がある。 本郷駅のかたわらで見回せば、 岩の姿が天にかかるように高く、 夕日がむなしく照らしている。

 本村より一里半を隔てて臨済宗一派本山仏通寺あり。  その境内すこぶる幽邃にして、 最も消夏に適すという。

 七日    晴れ。 本郷より沼田川を渡り、 行くこと二十五丁、  上北方村〈現在広島県豊田郡本郷町〉常福寺に移りて、開会かつ宿泊す。 堂後に天然の庭園ありて雅致に富む。 主催は斯民会にして、 発起は村長秦靖造氏、 助役田村敬寛氏、 校長佐々木茂一氏等なり。 夕刻、 雷雨あり。 農夫曰く、 天は雷鼓を鳴らして梅雨の上がりたるを報ずと。

 八日    晴れ。 車行約一里、 沼田西村〈現在広島県三原市〉小学校にて開演す。 主催は村役場、 宿所は長円寺、 発起は助役花本類吉氏、 収入役高下喜次郎氏等なり。 午後、 少雨きたる。 夜中、 蚊雷を聞く。 地形は林密群立、 その間に水田あり。 水田は多く水車を用いて水をくみ上ぐ。 当村学校内に方言を表示せるあり。  その中より数語を抄記す。

 石油を石炭といい、  シカルをヒカル、  オソロシイをイビセイ、 ツバをネト、  ワルイをイナゲ、  シタをベロ、ニラムをネラムという。

 九日    晴れ。 本郷を経、沼田川に沿いて下行すること一里半にして、長谷村〈現在広島県三原市〉耽源寺に至る。曹洞宗なり。  主催は村長田中津治松氏および哲学館出身金春徳助氏とす。  この村内字皆井田に一大池あり、 鯉魚二尾その中に住す。  その長さおのおの三尺余、 その寿幾十年なるを知らず。  人みな呼びて池の主となす。 村長の依頼に応じて鯉碑文を起草す。

 十日    晴れ。 本郷駅より河内駅まで汽車に駕し、 これより犬の先引きにて渓に沿い行くこと二里、河戸に至り、これより坂路を攀ずること半里にして、 戸野村〈現在広島県賀茂郡河内町・福富町、東広島市〉字宇山教念寺に達す。 ここにて開会かつ宿泊す。 その地は豊田郡北部の中央に当たるという。 海抜千四百尺の高地にあれば、 日中なお暑気を覚えず。 朝夕は〔華氏〕六十度に下り、 夜中、 蚊いたって少なし。  主催は村長高橋作太郎氏にして、 昼夜を徹して奔走尽力せられ、 非常の盛会を得たり。 村会議員林登佐二氏、 校長住田源市氏これを助く。 教念寺の小便所に短冊を掲げ、「急ぐとも心静かに露ほども、 外へこぽすな中に小便」と題したるはおもしろき注意なり。

 十一日    晴れ。 宇山を発し、 高橋村長の発起にて開鑿せる新道を経て河戸に出ず。  ここに少憩中、 村長の依頼に応じ、 巌頭に刻入する修路碑の文字を揮毫す。  これより車を駆りて河内駅に至り、 駅をへだつること八丁、 深山公園の勝地ありと聞き、  これを一覧せんと欲せしも、 時間なきをもっ てただちに鉄路に駕し、 本郷駅より更に車行二里にして、 忠海町〈現在広島県竹原市〉に着す。 本郡役所の所在地なり。 会場は明泉寺、 主催は町長松本大吉氏なり。 氏はもと国会議員となりしことあり。 町書記飴本森太郎氏、 同岡崎清次氏、  および近村六ヵ村村長これを助く。 宿所は岡武旅館にして、 岡崎氏これを所有す。 館主のもとめに応じて楼名を酔海楼と命ず。 館前には湾水、 川のごとく横たわり、 前岸に人家および塩田を隔てて遠近の群島を対観す。 しかしてその楼は旅宿に料理を兼ぬるをもっ て、 酔海楼の名もっとも適するがごとし。楼主余に贈るに、海松のその形蛇に似たる杖をもってす。その珍奇大いに愛賞すべし。 また他方には、  黒滝山と名付くる勝地あり。 峰頂に巌石屹立、 観音堂あり。 登躋十四、 五丁にしてこれに達す。 内海の風光眼下に落つという、 実に山陽名勝の一なり。  当夕、 郡長島田尚一氏と会食す。 氏はもと酒豪なりしも、 故ありて全く禁酒せりと聞く。 郡内各所の開会は郡書記寺尾春一氏、 案内の労をとられたり。

 十二日    晴れ。 午前八時、 郡立女子技芸学校にて談話をなし、 続きて県立中学校にて講演をなす。 中学校長は江口俊博氏、 女学校長は内藤晴三郎氏なり。 哲学館出身成田省三氏は中学校に奉職す。 午後二時、 郡視学神崎栄義氏とともに汽船相生丸に投じ、 群巒の間を縫いて五時、 御手洗島に着す。 相生丸は遊覧船の装備を備え、 浴室の設あり。 宿所は坂田旅館なり。 楼上より望むに、  一葦帯水を隔てて予州島と相対す。  すなわち先年巡遊せる岡村なり。 この港は維新前にありて万船常に出入し、 客楼酒楼隣接し、 内海中最も繁華を極め、 九州諸侯の一行は必ずここに船をつなぎて晴雨を卜し、 旅客ひとたびここに至れば必ず留飲をなすを常例とせりという。 今日は大いに衰微し、 商業の傍ら柑橘を培養して生計を営むに至る。  ただし港頭の防波堤の壮観は内海第一の評あり。 当夕の風光を詩をもって写す。

  芸海停船盥島南、 満田柑橘緑於藍、 客楼吟望晩尤好、 纔隔予山月一潭、

(安芸の海の船をとどめるところは盥島の南である。 畑のすべては柑橘であり、 藍よりも緑濃い。 旅館の階上から吟詠の目で一望するときは日暮れがもっともよい。 わずかに伊予の山なみをへだてて月はおく深く見えた。)

 この辺りの島にては生きたる魚類にあらざれば食せず。 しかるに芸備の山間部にては死したる魚貝を食するのみならず、  一間なにほど二間なにほどとして、 間数をもって魚価を定む。 しかして間数の多きほど魚価安しという。 その間数とは、 臭気の一間を離れて感ずると、 二間を離れて感ずるとの意なりと聞く。  これ一奇談なり。

 七月十三日(日曜)  晴れ。 御手洗町〈現在広島県豊田郡豊町〉に滞在。 町名の起源につきては往古、 菅公この島に寄航して手を洗われし伝説より起こるというも定かならず。会場は旅館に隣接せる登光寺にして、主催は青年会、発起は町長進藤小四郎氏、 校長柴田栄一郎氏なり。  この日また一吟す。

  煙舟向三盥、 繋䌫夕陽中、 洗手蓬莱水、 散懐芸予風、 松揺竜印浪、 月上鏡懸空、 望裏衡杯坐、 酔余心亦雄、

(汽船は三盥に向かい、ともづなを夕日のうちにつなぐ。手を神仙の住むという蓬莱に湧くような水で洗い、安芸と伊予の風に思いを散らし去る。 松は竜印の波にゆられ、 月はのぼって鏡のごとく空にかかる。  一望するうちに杯を口にしつつ座せば、 酔うほどに心もまた力づよくなる思いがした。)


十四日 晴れ。  小汽船にて久友村〈現在広島県豊田郡豊町〉に移る。 御手洗島の中にあり。 この日、 純然たる土用天気なり。 途中に大長村あり、 柑橘の本場と称す。 両村の柑実収入額、 毎年五、 六万円に達すという。 小学校の敷地は海中に突出し、 高く防波堤を築く所    一見旧時の砲台の形を有す。 久友村の会場は称名寺、 主催は村有志、発起は村長高橋一雄氏、 農横崎幾太郎氏、 中村和太郎氏、 医師林漸氏等なり。 当夕、 村長高橋氏の宅に宿す。 村長の依頼に応じて柑林熟時の風光を詠ず。

  霜月無山不碧叢、 葉間点々万球紅、 仙源今日勤生産、 培養柑林為奉公、

(十一月になっても山はなお緑におおわれて、 葉の間には点々とすべて紅色の球がある。 仙人の住むような地は、 今日は生産につとめ、  みかんの林を育てて公のために奉仕しているのである。)

 島中四ヵ村あるも、 水田を有するは本村のみなりという。

 十五日 晴れ。 午前八時より和船に悼さし、 十時、 隣島大崎南村〈現在広島県豊田郡木江町〉に着岸す。 宿坊円妙寺は山腰にありて風光明媚、 眺望絶佳、 しかのみならず堂前の老松の風致を添うるあり。 ただ山内、 昼夜ともに蚊軍の襲撃絶えざるを一恨事とす。 会場学校は海浜に新設せるものにして、 これまた光風霽月の良地なり。 全村北は山を負い、 南は海に面し、 冬夏ともに寒暑をしのぐに適す。 海面は群嶼屏立して湖のごとし。  当面に全山石炭より成れる一島ありて、 焼石の白煙空を抹するを見る。  この日、 炎暑〔華氏〕八十八度にのぼる。 本年夏期以来の酷暑なり。 本村は県下の模範村にして、 学校また模範校たり。 開会の主催は青年会にして、 前村長正畑美之氏、助役本田彪氏、 校長福島竜吉氏の発起にかかる。 村内には鍛冶、 大工、 船乗りを業とするもの多く、 鍛冶屋だけにても五十戸以上ありという。

 十六日 晴れ。 朝気、 煙を帯ぶ。 午前中に一悼して木之江港に至り、 豊田銀行支店に一休し、 更に横須賀丸に転乗し、一航して賀茂郡三津町〈現在広島県豊田郡安芸津町〉に移る。大祭の翌日にて、市中なお雑沓の余波をとどむ。主催は隣村早田原村と連合にして、 会場は小学校、 発起は三津町長黒杭徳太郎氏、 校長木阪次郎氏等なり。 宿所吉田旅館は眺望佳良、 満潮の時ことによし。 町内には和酒および煉瓦を製造するもの多し。

 十七日 炎晴。 暑気強し。 汽船にて竹原町〈現在広島県竹原市〉に移る。着船所より更に腕車に駕すること二十丁にして市中に入り、 村上旅館にて午餐を喫し、 午後、 照蓮寺に移る。 本堂は山腰に踞して巍立し、 山門は老松の間に秀出し、 位地、 風致、 建築、 庭園ともに完備し、 全国中他に多く見ざる名刹なり。 高間清綱氏その住職たり。主催は斯民会および青年会にして、 町長村上英氏、 校長谷山寅造氏等の発起にかかる。 宿坊照蓮寺の欠点は昼間蚊軍の襲来なりと聞き、  一絶を浮かぶ。

  転法転来入竹原、 照蓮寺裏養吟魂、 起居不厭蚊軍襲、 時有清風掃百煩、

(仏法を説きつつ法輪をめぐらせて竹原町に入り、 照蓮寺のうちに詩魂を養う。 起きふしに蚊の軍の襲いくるのも気にならず、 ときに清らかな風が吹いて、 もろもろの世のわずらわしさをはらうのである。)

 また、 竹原町は頼山陽の出身地にして、 その実家いまなお歴然として繁栄す。 当町は頼氏の一族をはじめとし、古賢先哲の群起せし地にして、 郷賢祠、 忠孝碑のごとき他に類例なきものあり。 澹寧居、 竹原書院等も一顧の価あり。 故に山陽を一過するものは、 必ず車をまげ杖をとめざるをえざるの地なり。 余の竹原所吟二首あり。

  曾繙外史慕山陽、 今日尋来頼氏郷、 先徳古賢蹤歴々、  一軒書院百家香、

(かつて「日本外史」をひもといて頼山陽をしたい、 今日は頼氏のふるさとをたずねた。 むかしの有徳者や賢人の跡はあきらかに一軒の竹原書院、 もろもろの家屋が香り高く残っているのである。)

  芸南竹原里、 其名史上知、 文天書刻石、 賢哲跡留祠、 月朗照蓮寺、 風清勧孝碑、 頼家有余慶、 今日子孫滋、

(安芸の南、 竹原の里、 その名は歴史の上でも知られる。 文天祥の書を模した「忠孝」の碑刻、 賢人、 哲人の足跡は郷賢祠にとどめられている。 月は照蓮寺を明る<照らし、 風は勧孝碑に清らかに吹く。 頼家に善行あって後世に幸福がもたらされ、 今日に至るも子孫はますます繁栄す。)

 当町の産業は造酒と製塩なり。

 十八日    雨。 竹原町をへだつることわずかに十五丁、下野村〈現在広島県竹原市〉浄念寺にて開演す。主催は住職星野恵海氏にして、 村長中川浦次氏等これを助く。 本年は梅雨中に降雨なく、 連日炎晴、 農家旱魃を訴うるに際し、 朝来微雨蕭々として下る。農民は一般に天より甘露を賜りたるがごとく、 一滴千金の価ありとて大いに喜ぶ。当村にはタバコを産出す。

 十九日 曇り。 下野村より車行四里、 東高屋村〈現在広島県東広島市〉字白市に着す。 町は山上にあり。 人家隣接して町形をなすありさまは神石郡油木村に似たり。 毎月牛馬市を開くをもって人ここに集まるという。 会場および宿所は養国寺、 主催は住職藤原諦聴氏、 助役大井亀太郎氏、 校長信原実臣氏等の有志なり。

 七月二十日(日曜)  雨。 朝気冷ややかにして〔華氏〕七十三度に下る。 暁望一首を得たり。

  夏山一抹晩烟横、 簷滴夜来吾夢驚、 晨起開窓試相望、 満林緑雨杜鵑声

(夏の山にひとはけの夕暮れのもやがたなびき、 軒ひさしよりしたたる雨の音に、 昨夜は夢をやぶられた。早朝起きて窓を開き、  一望してみれば、 林に緑を増す雨がみちて、 ほととぎすの声がしていた。)

 白市駅より汽車に投じて西条町〈現在広島県東広島市〉に移る。 この日、 教善寺にて在郷軍人会あり。 連隊司令官平岡鋼太郎氏に出会す。 午後開会。 主催は同町斯民会および軍人会にして、 町長吉井常夫氏、 助役平賀哲太郎氏、軍人分会長長島博三氏の発起にかかる。 当夕、 会場教善寺に宿す。 新築すでに成る。 住職武田智順氏は尚道会長たり。 郡長富樫東十郎氏はもと教育家にして、  二十年前余の著書を筆記し、 今なお保存せらる。 氏のもとめに応じ、 その稿本に題語を録す。 町内には造酒家多く、 その名酒は灘に譲らずという。 また、 壮大なる県立農学校あり。 郡内は郡視学広井以忠氏、 郡書記柏尾輝喜氏、 互いに相代わりて案内せらる。

 二十一日    晴れ。 朝、 西条を辞し、 西条川にそいて下行すること六里、 郷原村〈現在広島県呉市〉に至る。 土地平坦、 川の両岸には稲田相連なる。 芸州第一の平坦部なりという。 本村は県下の雄岳野呂山の麓にあり。 会場兼宿所は浄光寺にして、 堂宇は稲田の間にあり。 住職は飯田淳心氏にして、 その長男は哲学館出身なりしも、 数年前没去せり。  主催は斯民会にして、 発起は村長荒谷節夫氏、 書記寺川玉吉氏および住職なり。  当日の所詠、 左のごとし。

  野呂山根蕭寺孤、 稲田続屋緑如敷、 講余一浴開襟坐、 満院清風暑気無、

(野呂山のふもとにさっぱりした様子の寺がぽつんとたち、 稲田が家屋をめぐって緑が敷かれたように見える。 講演が終わってからひと浴びし、 襟を開いてゆったりと座せば、 僧院をみたして清らかな風が吹き、 暑さは全く感じられないのであった。)

 二十二日    曇り。 ときどき微雨、 霧のごときを催しきたる。 郷原より車行一里、 西条川の全くかかりて瀑布をなすあり。  これを二級滝と唱うるも、 その古名は仏生滝なり。  これよりくだること十町にして、 白糸滝あり。  芭蕉翁の句に「ホロ/\と山吹散るや滝の音」とよみたるものある由。  二級滝は名のごとく上下二段となりて落下するによる。 駅路より下瞰するを得。  すこぶる壮観なり。 また、 岩石の風致も壮観にして、 ともに吟賞するに足る。  ここに水力発電所あり。  これより坂路蛇のごとき所を曲行して広村に入り、 更に一小嶺を登下して仁方村に至る。 郷原より三里あり。 仁方小学校は模範校なりというを聞きて一休す。 本日より暑中休暇に入る。 校舎は一半旧式にして建築美ならずといえども、 灑掃に注意を施せり。 生徒の下駄箱の上に、 各所の工業製作品の見本を陳列せるはおもしろし。 校側に園芸試作地あり。 仁方より和船に駕し、 二海里を一悼して安芸郡下蒲刈村〈現在広島県安芸郡下蒲刈町〉 字三瀬に上陸す。 会場および宿所は弘願寺なり。 目下住職を欠けるをもって大心池慧真氏、 院代をつとむ。 主催は村長木村多代松氏にして、 書記前原米吉氏これを助く。 郡役所より書記の出張あり。 宿寺の居室より一望するに、 眼前は涅槃山に対す。 その形、 釈迦涅槃の図に似たるをもって名付くという。 脚下には海峡の帯のごとく挟まれるあり。 風光の美は真に天然の画図なり。 観月最もよし。  ことに清風の軒に満つるあり。当夕は旧六月十九日に当たる。  この勝景に対し、 あに一吟なきを得んや。

  猫灘一棹入仙関、 堂踞橘巒門枕湾、 講後欲除煩悩熱、 銜杯笑対涅槃山、

(猫灘にひとさおさして仙人の住むようなところに入る。 寺堂はみかんをかたわらに、 山を門とし、 湾を枕とするがごときである。 講演ののちに煩悩の熱さをのぞこうとし、 杯をふくんで笑いながら、 涅槃山に向かい合っているのである。)

 猫灘は海峡の名なり。 更に一詠す。

  朝夕に涅槃の山をなかむれは、 仏になりし心地こそすれ、

 島内は真宗最も盛んなり。

 二十三日    晴れ。 蒲刈より舟行一里、 車行一里にして、 日本第一の模範村の公評ある賀茂郡広村〈現在広島県呉市〉に移る。戸数二千五百余、 県下屈指の大村なり。 全村真宗門徒にして、 信仏の念最も厚く、 その模範村となりしは村長藤田譲夫氏、 助役岩西健造氏、 僧侶大洲順道氏の尽力によることもちろんなるも、 真宗道徳の実践に基づきたるは明らかなり。 故に左の詩を賦す。

  偶到芸陽模範村、 真宗為屋徳為門、 砕身粉骨守遺訓、 併報皇恩与仏恩、

(たまたま安芸の南の模範村に至る。 真宗をもって家屋となし、 徳をもって門とし、 身をくだき、 骨を粉にするように力の限りを尽くして遺訓を守り、 あわせて天子のめぐみと仏の恩にむくいているのである。)

 役場に仏壇を安置するの挙ありて、 余に題字をもとめらる。 よって「洗我以仏」の四字を書す。  これまた全国無比ならん。 会場は一千三百人をいるるべき公会堂をもってあてられ、 開会時間までに聴衆満堂を報じきたる。来聴者中に「今日は煩悩にヒマ貰うて参詣しました」との言あるを聞く。  すこぶる興味深き語というべし。  主催は尚善会、  主動者は藤田村長、 岩西助役にして、 役場吏員みな尽力せらる。 宿所は資産家堀内駅三郎氏の新築邸宅なり。 目下学校休暇となりたれば、 小学児童田に入りて力耘をなす。 この地、 目下電鉄敷設の計画ありと聞く。村内の医師に堂号を妖怪楼と名付けたるものあり。  これをヨカロウと読むはまた妙ならずや。

 二十四日    晴れ。 広村を発し、 車行二里、 呉駅より広島駅まで鉄路をとり、  これより車行半里ばかりにして安芸郡仁保島村〈現在広島県広島市南区〉に至る。 村外に綿畑多し。 いわゆる広島綿の産地なり。 本村は本籍を有するもの三千二百五士戸、 現住二千五百九十九戸、 海外移住二千九百五十人、 そのうち二千三百人はハワイにあり。実に懸下第一の大村にして、 移住者の数また第一たり。 主催は村役場、 会場および宿所は西福寺(住職は北小路祐啓氏)、 発起かつ尽力者は村長中川矩三郎氏、 助役浜井正氏、 収入役黒田伝之助氏、 北小路氏および役場書記なり。 本郡長は古田瀬三氏、 郡視学は荒川蕩亀氏なれども、 ともに相会するを得ず。  この辺りの寺院に往々泥落法話と標示せるあるは、 必ず田植え休みの説教の義ならん。

 二十五日    晴れ。 仁保島より車行一里にして広島市〈現在広島県広島市〉長沼旅館に着す。 旅館としては市中第一の評あり。 日中の暑気炊くがごとし。 後楼の軒下には一帯の清流あり。 小学生徒遊泳の指定地なれば、 日中には数百人の男女かわりがわり浴泳す。 その声、 午眠を破る。 あたかもインド、  ベナレス府のガンジス河上の浄浴をみるがごとくにして、  これを傍観するもまた一興なり。  当日、 午前は県教育会の依頼に応じ、 高等女学校講堂にて講話をなす。 会長は師範学校長浜口庄吉氏なり。 午後、永井貫一氏の案内にて電車により二葉公園を遊覧す。余は明治二十五年二月ここに遊びしが、 その当時に比すれば大いに面目を一新せり。  これより高等師範学校長幣原坦氏の宅を訪う。 庭内すこぶる幽邃閑雅にして全く俗塵を隔つ。 ときに教授塚原政治氏もまたきたり会す。 帰路、 市街を一覧しつつ旅館に帰る。 夜に入るも蚊声を聞かず。

 二十六日    晴れ。 午後、 広島をへだつる一里半、 佐伯郡草津町〈現在広島県広島市西区〉浄教寺において開演す。青年会および婦人会の主催にして、 町長宮本常太郎氏、 校長土井三郎氏の発起にかかる。 宿所は山口健一氏の宅にして、 牡蠣船の所有者たり。 本町に人家約千戸あるも、 大半漁業をなす。 広島名物の〔牡〕蠣と柿とのカキ尽くしの中、 当地がまさしく牡蠣の本場なり。 大阪市中の牡蠣船はこの地より出ずという。

 七月二十七日(日曜)  晴れ。 早朝、 郡視学吉岡吾策氏と同行し、 宇品より引き船に駕し、 能美島柿浦に着す。海上二時間を費やせり。 柿浦より徒歩十四、 五町にして、 大柿村〈現在広島県佐伯郡大柿町〉の開会地に至る。 炎熱はなはだし。 会場は小学校、 主催は自彊会、 宿所は村長灘尾夫士俣氏の宅なり。 灘尾氏はもと哲学館館友なりし縁故をもって、 特に尽力せらる。 村書記仁井谷十一氏これを助く。 当地の物産は木綿織と小豆なり。 愛媛県にては人の死したるときに広島へ綿買いに行いたといい、 この島にては長崎へ茶買いに行いたという由。 けだし死というを避くるより起こりたる寓語ならん。

 二十八日    炎晴。 暁波に一棹して鹿川に着し、  これより歩すること約一里、 中村〈現在広島県佐伯郡能美町〉徳正寺に至る。 住職護山実範氏は旧哲学館出身なり。 今春、 本堂祝融の災にかかれり。  主催は斯民会にして、 発起は村長大石峯次氏および護山氏なり。 書院の軒前に波光山影を映帯するありて対画の観あり。 かつ清風きたりて熱を洗う。

  能美湾頭有梵宮、 午窓一枕臥清風、 醒来掃席軒端坐、 身在天然詩畵中、

(能美湾のほとりに寺院があり、  まひるの窓べに枕して清らかな風に横たわる。  ひとたび午睡よりさめて、軒ばたに座せば、 この身は天然の詩と画の中にいる思いがした。)

 中村は大柿村と同じく能美島中にあれども、 その面するところの海湾を異にす。 したがって海山の風光を異にす。 中村の対岸は江田島なり。 能美島は真宗最も盛んにして、 毎朝夕、 参詣堂に満つ。 故に年中、 常〔に〕説教をなすという。

 二十九日    炎晴。 朝起前、 参詣すでに堂に満ち、 住職説教をなす。  この日、 吉岡郡視学とともに汽船に駕し、宇品に停船、  一時間にて厳島〈現在広島県佐伯郡宮島町〉へ直航す。 宿所は松岡旅館なり。 楼名を遠翠楼と称す。 塔の岡にあり。 海山を双眸の中に納め、 眺望絶佳なり。 また、 庭前に臥松その長さ十余丈に達するあり、 実に奇観なり。  当地は旅館二十戸、 そのうち称首たるものは岩総、 松岡、 錦水館等なりとす。 主催および尽力者は町長岸本斐夫氏、 校長中村一之氏にして、 会場は浄土宗光明院なり。 しかして開会は夜間なり。

 三十日 炎晴。 ただし風ありてしのぎやすし。  この日、 明治天皇御一週年祭に当たるをもって休講す。 早晨四時に起きて草鞋をうがち、 五時に発して弥山へ登る。 坂路十八丁、 六時前頂上に達して旭光を仰ぎ、 東向して遥拝をなす。 茶店いまだ開けず、 石に踞して弁当を喫す。 瀬戸湾内の群嶼、 眼下に碁布し、 その山影の朝霞を帯びて旭光と映射するところ、 実に画人をして紙筆を投ぜしむるの趣あり。 また、 山巓に大石巨巌の累々たるは笠置山と雌雄を争う。 あるいは笠置以上なりという。 要するに東洋の大勝地たり。 世の厳島に遊ぶもの、 ここに登臨せずしてその勝を談ずるものは、 いまだ厳島を知らざるものというべし。 八時までに下山し、 ただちに小学校に至り、 御一週年祭の式に参列して児童のために訓話をなす。 校舎は清新にして、 その応接室は特別の装飾あり。これより本社を参拝す。 五重塔は修繕中、 千畳閣は何十万の杓子をかかぐ。 そのいちいちに寄贈者の名を記入せり。 余が先年ここに登覧せしときに見ざりしものなり。 聞くところによれば、 日露戦役中より起これりという。その意はメシトルの義にして、 戦勝を祝したるものなる由。 客中作三首あり。

  海心一碧挟霊山、 身入万松堆裏攀、 峰頂風光明似画、  七奇八勝映眉間、

(海のまんなかは青々として霊山をいだいている。 身は幾万とある松にうもれるなかをよじのぼる。 峰のいただきは風も光も明るく絵のごとく、  七不思議、 八景勝が目の前にひろがる。)

  厳洲嵐気暁如秋、 攀尽弥山立石頭、 芸嶼予峰横脚下、 関西天地眼中浮、

(厳島の山にたちこめる青々とした気は、 暁に秋のようで、 弥山の頂上にいたって石上にたつ。 安芸の小島と伊予の山は足もとに横たわり、 関西の天地は眼中にありと思われた。)

  華表屹然厳島宮、 廻廊百八浴潮風、 山光不啻冠三勝、 社殿亦為天下雄、

(鳥居のそびえたつ厳島神社、回廊百八間は潮風をあびている。山からの景勝は欧州のノルウェー の西海岸、マゼラン海峡、 日本瀬戸内海の三景勝の一たるのみならず、 社殿もまた天下の雄となすのである。)

 古来伝うるところの厳島の七奇八景とは、

一、 竜灯  二、 弥山の拍子木 三、 松明〔たいまつ〕 四、潮の満干の穴

五、吉備谷の三叫〔みさけ〕 六、 回廊の巨人の足跡  七、 聖崎の蜃気楼

   (以上七不思議)

一、 大元の桜花 二、 滝の宮の水蛍 三、 谷ケ原の麋鹿 四、 回廊の百八灯

五、 御笠浜の暮雪 六、 有の浦の客船 七、 鏡ケ池の秋月 八、 弥山の晩鐘

   (以上八景)

をいう。  当町は人家八百戸、 木工を唯一の産業とす。 その産額一ヵ年二十万円、 そのうち杓子の産額だけにて四万円と算す。  この杓子の製法は今より百年前、 誓信と名付くる人ここにきたりて伝授せりとて、 毎年八月六日、誓信祭をなすを例とす。 本社の大祭は六月十七日なり。  一ヵ年の参詣者は二十五万人ありという。 本島の周囲七里、  その間に七浦あり、  これを一周するを得。 各浦の小祠に供物を献納す。 必ず二羽のからす飛びきたりて、  これを拾い上ぐるという。

 古来厳島は清浄界と定め、 出産を遠ざけ、 死人を置かず、 妊婦は対岸に渡りて出産をなし、 死人は対岸に送りて埋葬するを例とす。 今なおその遺風を伝う。 町内に真言宗、 浄土宗、 禅宗の寺院あれども、 真宗なし。 近年説教場を設くるに至る。 葬式はその家の何宗にかかわらず、 禅宗の寺をして行わしむる規則なるもまた奇なり。 町内腕車を置かざるも清浄界の影響ならん。 余は公開の演説の冒頭に曰く、 かつて英人の南米紀行を読みしに、 欧州ノルウェー の西海岸と、 南米マゼランの海峡と、 日本瀬戸内海とをもって全世界の三大絶勝となせり。  余、 幸いにしてこの三大景を実見するを得たり。 湾曲の多き島嶼のおびただしきは三者の一致するところなり。 しかしてノルウェー の西海岸は山上には残雪皚々、 渓間には松檜蒼々、 海浜には雑草芊々、 その間には赤色に塗りたる民家点在し、 風物明哲、 色彩判明なる状態は智に配すべし。  マゼラン海峡の岩石突兀として立ち、 冠するに氷雪をもってし、 小草のわずかに石間を飾るあるも、 民家なく人跡なく、 太古の趣を存し、 その気勢のすこぶる勇壮なるは勇に配すべし。  これに比するにわが瀬戸内海の風光温和、 四時春のごとくなるは仁に配すべし。 故に余はこれを智仁勇の三大景とす。 しかりしこうして、 瀬戸内海第一の眺望台は厳島の弥山なり。 果たしてしからば、厳島は日本三勝の一なるのみならず、 世界三勝の一といわざるべからず。 本島に住するものこの天幸を有する以上は、 世界万邦の観光客をここに吸引することをつとめざるべからず。 かつまた、 厳島一帯の地勢は東洋第一の名港たる香港に似たるあり。  香港は山上に登るにケーブルカー を用う。 弥山も早晩この設備をなすの必要ありと説き去れり。

 三十一日    晴れ。 朝八時の連絡船に駕して西行し、 午後二時半、 馬関〔下関市〈現在山口県下関市〉〕に着す。 細江光明寺の講習会に出講するためなり。

 八月一日    晴れ。 今日より五日間、 毎日午前、 世界人文の大勢と教育宗教関係論につきて講義をなす。 余の外に講師として文学士村上俊江氏、 同泉道雄氏出席せらる。 午後は曾我是一氏の法話あり。 主催は光明寺住職泉含章氏なり。

 二日    晴れ。 午後、 旧友斎藤軍八郎氏(市立商業学校長)および布教師旭真乗氏等来訪あり。 光明寺は関門第一の勝地を占め、 堂内に座臥して鎮西の諸山を対観すべく、 呼べばまさに応ぜんとする趣あり。 余のこの寺に遊ぶこと、 ここに三回なり。

  再遊連日酔忘還、 風月依然赤馬関、  一峡炭煙何得礙、 杯中浮出鎮西山、

(再びここを訪れて連日この景勝に酔うがごとく帰るのを忘れる思い。 風月は依然として赤間関〔下関〕は変わらず。 海峡にのぼる炭煙はなんのさまたげにもならず、 杯中に九州の山々が浮かぶようにうつっているのである。)

 出来るなら此風景を都地の、 友に贈らん小包にして、

 これ客中の駄作なり。 光明寺の山門に標示して曰く、「此門通り抜を禁ず、 若し万止むを得ざる場合には念仏を三唱して出入すべし」とあるは名案にして、 真宗寺の真面目を示すものというべし。 午後、 同窓会を大成館に開く。 料理店なり。 泉含章氏、 田中鉄道氏、 来嶋好間氏、 部坂俊亮氏来会す。 席上吟一首あり。

  長北何辺解客愁、 光明寺畔大成楼、 絃声舞影春如湧、 況復清風夏若秋、

(長北の地のいずこに旅の愁いを解こうか。 同窓会が開かれた光明寺のかたわらにたつ大成館、 絃の音、 舞う影に春を思わせる雰囲気が湧き出るようであり、 ましてやまた清風吹いて、 夏なのに秋気ただようようにすがすがしさがあった。)

 当夕、 市内勝安寺にて臨時開演す。

 八月三日(日曜)  晴れ。 日中は炎熱を感ずるも、 朝夕は大いに清涼を覚ゆ。  この夕は、 宮川春雄氏所住の妙蓮寺に至りて開演す。 光明寺は毎朝四時に本堂の読経を始め、 その後、 役僧一同堂内庭前の大灑掃をなす。 その清潔なること禅寺のごとし。

 四日    晴れ。 午前、 郵便貯金支局に至りて講話をなす。 局長は牧野宝一氏なり。 講後、 暗算合計の実習を一覧す。 心理研究の資料となる。 午後、 汽車にて約二里隔たりたる勝山村〈現在山口県下関市〉大玄寺に至りて開演す。

 青年会の主催にして、 会長は磯谷春二氏なり。 帰路、 長州一の宮官幣中社に拝詣す。

  五日    晴れ。 この日、 講習結了。 午後、 小汽船に駕して彦島を一周し、 更に壇浦に至りて帰航す。 消暑の遊覧、なにものかこれに過ぎん。 村上学士の韻を次ぎて所見を賦す。

  関頭半日試清遊、 松影潮声送客舟、 千態万容看不尽、 風光自使酔吟眸、

(下関のあたりで半日の清遊をなす。 松の姿と潮の音が舟を送るかのようであった。 そのありとあらゆる姿は見あきることなく、  その風景はおのずと吟詠の目を酔わせるものがあるのである。)

 当夕、 十一時の汽車に駕して芸州に向かう。

 六日    炎晴。 午後五時、 佐伯郡大竹町〈現在広島県大竹市〉に着駅す。 当地は青年会最も盛んにして、 幅八間、 長さ十三間の大会館を有す。 産業は製紙を第一とす。 その一年の産額二十三万円を算す。 紙質は雑用のすき返し紙なり。 そのつぎを養蚕とす。 開会は夜分なれども聴衆、 会堂にあふる。 約一千五、 六百人との目算なり。  この地は川を隔てて防州と相対するをもって防州人も相加わる。 主催は青年会にして、 会長奥原威六太氏(校長)もっぱら尽力あり。 当地には資産家二階堂三郎左衛門氏ありて、 大いに村内の発展に尽瘁せらるという。

 七日    晴れ。 大野村〈現在広島県佐伯郡大野町〉に移る。 宮島駅より一里、 西教寺にて開会。  主催は青年会、 宿所は松原円助氏の宅、 発起および尽力者は村長石井竜平氏、 校長兼青年会長広幸平太郎氏なり。 維新前長州征伐の際、 大竹町より本村へかけ、 両軍兵を交えり。 ときに慶応二年なり。 所在、 古戦場多し。 よって一詠す。

  襟山帯海一村長、 所過林密旧戦場、  当面蒼然厳島聳、 風光自作小仙郷、

(山と海が襟や帯のようにめぐる村は長くのび、 とおりすぎた林も岡も戦場の跡であった。 正面にはうっそうとしげる厳島がそびえ、 風景はおのずから小さいながら仙人の住む里となっている。)

 松原氏は新楼を構成せるにつき撰名をもとめらる。 宅外に柑橘園あるにちなみて、 柑香楼と命名す。 郡役所よりは郡書記大森盛恵氏、 各所へ同行せらる。

 八日    雨。 大野村より車行二里、 地御前村〈現在広島県廿日市市〉西向寺に至りて開演す。 住職板垣仏眼氏、 村長永井助太郎氏、 青年会長八林三四一氏等の主催なり。 本村は五百戸未満にして、 海外移住者六百人あり。  一戸につき一人二分の割合なり。 朝来久旱後の降雨なりとて、 村民みな金玉を得たる心地をなす。

 九日    朝雨、 午後晴れ。  この日、 行程四里、 坂路にしてかつ悪道なれば二人引きにて登行す。  四時間を費やして津田村〈現在広島県佐伯郡佐伯町〉に至る。 途上、 潮見坂を上下す。 嶺頭より海潮を一望すべし。 故にその名あり。馬車にて木材を運出すること日々百台以上なりという。 主催は斯民会、 会場は小学校、 宿所は中川為助氏宅にして、 会長は長尾春次氏、 校長は大前源市氏なり。

 八月十日(日曜)  晴れ。 車行二里半、 玖島村〈現在広島県佐伯郡佐伯町〉勝善寺にて開会す。  この地方は丘山多けれども、 谷間広く、 したがって水田に富む。 開会発起は村長下田亀太郎氏なり。 当夕、 勝善寺に宿す。 日中は〔華氏〕八十二、 三度にのぼりしも、 夕時は〔華氏〕七十二、 三度に下り、 大いにしのぎやすきを覚ゆ。

 十一日    晴れ。 車行一里半、 渓山の間を出没して砂谷村〈現在広島県佐伯郡湯来町〉に入り、 小学校にて開会す。主催および尽力者は村長伊藤百太郎氏なり、 講後、 更に行くこと十余丁、 有志家竹内節造氏の宅に宿す。  その宅は阿弥陀ケ峰の山根にありて、 雲白く風清し。 壁上に頼春水の詩幅を掛けるを見て次韻を試む。

  渓山為緯又為経、 繞屋業松陰是枕屏、 風洗客襟心亦浄、 十年塵夢一時醒、

(谷と山とを横糸としたり縦糸としたりあやなし、 邸宅をめぐる松かげは枕と屏にす。 風は旅人の襟を洗うように吹き、 心もまたきよらかに、 十年ちりのごとき夢も一時にさめる思いがした。)

 十二日    晴れ。 朝霧あり。 砂谷より一渓の清流に沿いて下行す。 路程約三里、 中間に発電所あり。 両崖に樹木鬱然としてかかり、その幽邃にしてかつ清涼なること木曾峡の趣あり。会場および宿所は八幡村〈現在広島県広島市佐伯区〉正覚寺なり。 寺は田間にありて堂後青田をめぐらす。 主催は青年会にして、 発起は住職滝淵実法氏、 医師荒木質氏、 教員山野井吾市氏なり。

 十三日 晴れ。 車行約一里、 五日市町〈現在広島県広島市佐伯区・西区、廿日市市〉に移りて医師加藤寛氏の宅に休泊す。 その宅新築完成したるも、 いまだ堂号を定めずというを聞き、 養浩堂と命名す。 軒前近く稲田に対し、 遠く弥山を望むところ、  おのずから浩然の気を養うに足る。  主催は青年会、 会場は小学校、 発起は町長谷口嘉一氏、校長内田広蔵氏なり。 郡長山根蕭氏来会せらる。 本町は海外移住者多く、  一戸平均一人ずつの割合なりという。

 十四日 晴れ、 暑気強し。 五日市より車行一里弱、廿日市町〈現在広島県廿日市市〉海水浴旅館桜尾楼に休泊す。一楼全く海に向かって開き、 弥山眼前に秀出し、 清風きたりて座をはらうあり。 実に消夏の良地にして、 浴客遠近より雲集す。

  群巒続海々如湖、 満目風光欺画図、 桜尾楼頭時酔臥、 弥山嵐気染吟鬚、

(山々は海をめぐり、 海は湖のごとく静かに、 見わたすかぎりの風景は絵かと疑う。 桜尾楼にときに酔っては臥し、 弥山の青々とした山気は吟詠の人のひげを染めるかのようである。)

 午後、 小学校にて開会。 郡教育会の主催にして、 山根郡長その会長たり。 たまたま旧盆十三日に当たり、 町家繁忙を極めたるをもって、 聴衆は七、 八分どおり教育家なり。 当夕は本郡最終の講話なれば、 郡長、 郡視学等と会食す。

 十五日    晴れ。  この日、 佐伯郡を去りて安佐郡に入る。  その道順は廿日市より午前六時の汽車に駕し、 横川駅より軽便鉄道に転乗し、 古市橋より腕車に変じ、  これより車行四里坂路あり、  この間三時間半を費やせり。 戸山村〈現在広島県広島市安佐南区〉宿坊浄宗寺に着するときすでに正午なり。 汽車中にて友人有馬祐政氏の九州より帰東せるに会す。 戸山村は模範村にして、 林業もっとも盛んなり。 小学校の新築に村内有志より四万八千本の木材を寄付したるために即時に竣功せりという。 会場は小学校にして、 老弱男女ことごとく集まり、聴衆内外に満ち、大盛会を得たり。 主催は本村および久地村連合にして、 発起者は戸山村長荒木静衛氏、 久地村長村岡吾郎氏、 神職佐々木進氏、 僧侶釈正真氏、 同佐義海氏等なり。 夜に入り風清く月白く、 虫声喞々、 秋のきたるを報ずるもののごとし。

  避暑深渓宿梵城、  一天雲絶月華清、 草根露満虫声冷、 山村今夜覚秋生、

(暑さを避けて深い谷の寺院に宿泊すれば、 天には雲もなく、 月の光は清らかである。 草の根には露が満ちて、 虫の声も冷ややかに、 山の村に今夜は秋の気配の生じたのを知ったのである。)

 この日、 郡書記遠路来訪あり。

 十六日 晴れ。 戸山より坂路を下りて伴村〈現在広島県広島市安佐南区〉専念寺に至る。門側に大石の忠魂碑あり。主催は住職竜山恵文氏、 村長五藤哲夫氏、 校長中村喬氏なり。 当夕はまさしく旧盆十五夜にして、 一天片雲なく、清光大千に満つ。  この日、 加藤咄堂氏本県安芸郡より寄せられたる恵詩に対し、 次韻をもって回答に代う。

  論陣堂々随処攻、 雄姿早已圧西東、 登壇一喝揮長舌、 芸備山河落掌中、

(論陣をはること堂々として、 随所に攻む。  その雄姿は早くもすでに東西を圧した。 壇に登って一喝しいよいよ弁舌をふるう。 安芸の備後の山河はその掌中にありといえよう。)

 八月十七日(日曜)  炎晴。 伴村より車行二里、祇園村〈現在広島県広島市安佐南区〉に入り、郷社祇園社前の客舎に宿す。  この日、 炎熱燬くがごとく、 日中〔華氏〕九十度以上にのぼり、 夜に入るも〔華氏〕八十五、 六度を下らず。本年中の最高暑なり。 会場は勝惣寺にして、 村長田中潤一氏、 住職竜田秀円氏の発起にかかる。 郡長田原喜蔵氏、郡書記をしたがえて来会あり。  この辺りはすべて旧盆中の休日なれば、 夜一時まで街上の来往絶えず。 しかして午前二時より荷物を運搬せる馬車、 絡繹として広島に向かう。 その響き枕頭にやかましく、 終夜熟眠を得ず。

 十八日 晴れ。 車行半里、三川村〈現在広島県広島市安佐南区〉に移る。街路連日炎晴、降雨なきをもって砂塵を飛ばす。 会場および宿所は本村字古市浄宗寺なり。 村長須磨直太郎氏、 校長藤井正賢氏、 住職竹林真道氏の主催にかかる。 古市は市街の形をなし、 産業は苧麻製造にして、 その収入金高、 近在を合わせ一か年五、 六十万円と算せらる。 しかして原料は他地方より輸入を仰ぐ。  この夕、 雷雨あり。

 十九日 晴れ。 夜来の雷雨にて暁天一新、涼気おのずから加わる。古市より緑井村〈現在広島県広島市安佐南区〉の会場兼宿坊たる浄土宗寺院専蔵坊まで駅道わずかに半里、 その寺は山腰に踞して静閑なり。 主催は本村と川内村との連合にして、 緑井村長は中道卯之進氏、 川内村長は丸林亮助氏とす。  この夜また一天洗うがごとく、 明月清輝を放ち、 露華光を生ず。

 二十日    晴れ、 午後雨。 朝、 村長中道氏の宅に少憩す。 その家造酒を業とす。 名酒を「旭緑」という。 昨夕これを傾けて賦したる一絶あり。

  驟雨一過消宿炎、 山堂涼気晩殊添、  坐傾旭緑敲詩句、 月浸酔眸風掃髯、

(にわか雨がひとたびすぎて、 続いた暑熱を消し、 山の寺堂の涼気は日暮れてことに増す。 座して名酒「旭緑」を傾けては詩句を推敲し、 月は酔った目をうるおし、 風はひげをはらって吹くのであった。)

 このごろ庭園新たに成るを見て、 主人のもとめに応じ緑泉庭と命名す。  これより半ば便鉄により半ば腕車により、深川村〈現在広島県広島市安佐北区〉に至る。その距離一里半なり。会場および宿所は西法寺、主催は五ヵ村連合、発起者は本村長山村松之助氏、 助役古河俊吉氏、 収入役武田新之助氏、 住職小田志邃氏等にして、 昼夜にわたり三席の講話をなす。  この地は遠からざる内に、 広島より三次へ通ずる鉄道を架設すべし。

 二十一日    雨。 車行一里、本郡役所の所在地たる可部町〈現在広島県広島市安佐北区〉に移る。この町は広島をへだつること四里、 軽便の終点なり。 会場勝国寺は真宗の三業惑乱を鎮定せる碩学大瀛師の所住せし寺にして、 境内にその碑あり。 よって一詩をとどむ。

  何辺仏草最相滋、 芸備古来人所推、  一喝銷沈三業乱、 真宗傑是大瀛師、

(いかなるところが仏に帰依する民草が最も多いのであろうか。 安芸と備後の地は古来、 人のもっとも推薦するところである。  一喝して三業の乱をしずめた大瀛師は真宗の英傑である。)

 主催は町長熊野愛造氏にして、 本町の開会に尽力せられしのみならず、 郡内各所の開会にも助力せられたり。町長は酒の代わりに大いに茶をたしなみ、 旅行中必ず茶器を携帯すという。  この日、 田原郡長不在のために、 首席書記佐久間啓荘氏代わりて諸事を斡旋せらる。 宿所小林旅館は余霞楼の額を掲ぐるはおもしろし。 本町の名産は山繭織、 広島縞および釜風呂(長州風呂)なり。 安佐郡内は数十年まで藍の産出地にして、 その額阿州に次ぐほどなりしが、 近年は全くこれを廃するに至れりという。

 二十二日    晴れ。 降雨のために朝夕やや秋冷を覚ゆ。 車行三里、 坂路を上下して鈴張村〈現在広島県広島市安佐北区〉に移る。 会場兼宿所たる称名寺は八年前全焼、 爾来転地再建に着手し、 昨年竣功せり。 主催は横山玉之助氏、永井穆煕氏、 村上廓然氏、  上畠伊藤次氏等の村内有志なり。  この日の所詠、 左のごとし。

  芸陽駅路度林巒、 昨雨今晴地未乾、 山寺踞渓涼気満、 午風一枕水声寒、

(安芸の南の村をつなぐ道は林や山をすぎて、 昨日の雨で今日は晴れても大地はまだ乾かない。 山中の寺は谷のかたわらにたち、  それ故に涼気は満ち、 まひるの風に一睡すれば水の声も寒さを伝えてくる。)

 二十三日    晴れ。 朝気〔華氏〕六十八度。 この日、 里程三里、 山麓を迂回して県下第一の山地たる山県郡に入る。

 会場および宿所は本地村〈現在広島県山県郡千代田町〉浄専坊にして、主催は住職三枝霊善氏なり。村長田辺権六氏等も助力あり。 郡役所よりは郡長塚部峰之進氏代理として、 首席書記清水増治氏出張せらる。 郡衙所在地の加計町は本村をへだつること六里の山間にあり。 本日の途上吟一首あり。

  乱峰堆裏入山県、 涼気欺秋雨後天、 万頃稲田皆吐穂、 農家処々祝豊年、

(乱れたつ峰々の重なるなかを山県郡に入る。 涼気は秋かと思わせる雨の後の空である。 広々とした稲田はみな穂を出し、 農家は所々で豊作を祈っているのである。)

八月二十四日(日曜)  暁雨のち晴れ。 車行五里、 大朝村〈現在広島県山県郡大朝町〉円立寺に至り、 昼夜とも開会す。 同寺は芸州山間部第一の大坊にして、 本堂、 庫裏ともに広闊、 庭園また雅致あり。 住職能美善秀氏は哲学館館賓にして、 創立の際助力せられたり。  主催は能美氏の外に軍人会長川上求氏、 斯民会長藤田源吾氏、 青年会長進藤熊吉氏なり。  この地石州に接し、 その国境までわずかに一里半を隔つるのみ。 よってまた一吟す。

  六旬避暑在仙寰、 身似浮雲去復還、 稲雨松風芸西路、 併看備石二州山、

(六十日の長きにわたって暑さを避けて仙人の住むような地におり、身は浮き雲にも似て去ってはまた帰る。稲にふる雨と松に吹く風のある安芸の西の道は、 備後と石見の二国の山をあわせて見ることができるのである。)

 本郡の稲田はみな穂を吐き、 豊年の兆しあり。 山は松樹あるのみ。

 二十五日    晴れ。 車行四里半、壬生町〈現在広島県山県郡千代田町〉に移る。大朝および本町には三日前赤痢発生せしも、 非常の盛会を得たり。 会場は教得寺、  主催は住職大仏亮泰氏、 町長国光唯市氏、 校長国近貫作氏、 助役前原準一氏等にして、 なかんずく国光町長大いに尽力せらる。 宿所は常盤屋にして、 揮毫所望者多く、 深更ようやく眠りに就く。

 二十六日 晴れ。 渓行三里、 高田郡刈田村〈現在広島県高田郡八千代町  吉田町〉に移る。 高田郡役所より書記中道卓助氏、 本日より郡内各所を案内せらる。 会場兼宿所は専念寺、 主催は隣村連合、 発起者中特に尽力せられたるは村長水吉省三氏なり。 当地を流るる川は高田川と称し、 源を大朝に発し、 壬生、 刈田、 高田を経て三次に至り、郷川となりて北海に注ぐ。

 二十七日 晴れ。 車行二里半、 吉田町〈現在広島県高田郡吉田町〉に移る。 郡内の稲田みなすでに穂を垂る。  一般に豊稔の評あり。 会場は福泉坊、 主催は町村連合、 発起は町長三村慎一氏、 助役富田義道氏等なり。 旅館は当町第一の伊呂波家なり。 宿泊料を一覧するに    一等二円、  二等一円五十銭、 三等一円、  四等七十銭、 五等五十銭、

と表記す。 当夕、 郡長上田実氏、 郡視学栗原次郎氏等と晩食をともにす。

  二十八日    晴れ。 旅館を発して行くこと五、 六町、 毛利元就、 隆元両公の墳墓に登詣す。 その祠宇は山上万松の間にあり。 所感一首を賦す。

  攀尽万松堆裏苓、 墓前懐古感殊深、 大江一脉勤王水、 潤殖明治文武林、

(よじのぼって尽き果てるところ、 多くの松がかさなる峰に至り、 墓前にいにしえを思って感ずるところはことに深い。 大江の流れひとすじは勤王の水であり、 明治の文武の世界をうるおし育てたのである。)

 毎年七月十六日に祭典ありという。 その近傍は毛利、尼子両軍の古戦場たり。 これより車行二里弱、 丹比村〈現在広島県高田郡吉田町〉教善寺に至る。寺は山腹にあり。途中、小学児童の歓迎を受く。主催は住職粟津徹翁氏なり。

 二十九日 晴れ、 朝霧あり。 山行四里、 新道いまだ成らず。 車をおり徒歩すること数次に及び、 途中四時間を費やせり。郡内は松巒各所に群立し、 その間はすべて稲田なり。地形世羅郡に似たり。会場は北村〈現在広島県高田郡美土里町〉安楽寺なり。 当所より石州邑智郡まで二里を隔つという。 主催は斯民会、 発起は村長菅野覚氏、 校長住田友一郎氏なり。 会場をへだつること十町、 秋山旅亭に宿す。 昨今、 朝夕秋冷を催し、 夜に入るも蚊声を聞かず。

 三十日 朝霧のち晴れ。 霧は本郡の名物にして、 夏より秋へかけて晴天の朝には必ず起こるという。 車行一里半、 来原村〈現在広島県高田郡高宮町〉に移る。 主催は産業組合長岩崎猛二氏にして、 会場は正光坊なり。 当夕、 岩崎氏の邸宅に宿す。 軒前の風光大いに雅致あり。  また、 満田の穂光すだれに映ずるところ一段の趣を添う。 よって題するに一吟をもってす。

  芸山深処緑如煙、 半是松巒半稲田、 路過来原時一宿、 穂光映屋示豊年、

(安芸の国の奥深い地は緑がけぶるがごとく、 なかばは松の山であり、半ばは稲田である。 道は原をよぎり、ときに一宿すれば、 稲穂のかがやきは家屋に映ずるように豊年をあらわしている。)

 主人、 性快活、 よく力を産業の発展に尽くす。

 八月三十一日(日曜)  雨。 車行三里半、  小田村〈現在広島県高田郡甲田町・吉田町〉高林坊に至る。 郡内第一の大寺なり。 檀徒二千五百戸ありという。 本堂十二間四面、 丘上に書院あり、 回廊をもって接続す。 主催は小田、 甲立、入島三村連合にして、 小田村長は鹿尾幾三郎氏なり。  この日は今上天皇降誕日なりとて一般に休業す。  その意を賦したる一絶あり。

  暁来白雨洗黄塵、 正是聖皇降誕辰、 身在芸山深処境、 高林坊裏説彛倫、

(暁よりにわか雨が黄ばんだちりを洗い流す。  まさに大正天皇降誕日の朝である。 身は安芸の山深いところにあり、 高林坊の中で人として守るべき不変の法を説くのである。)

 九月一日    朝霧のち晴れ。 秋冷肌を侵す。 朝気〔華氏〕六十五度に下る。 行程二里半、  この間に坂路らしきものなきも分水嶺ありて、  一方は北海に注ぎ 一方は南海に流る。 会場は坂村〈現在広島県高田郡向原町〉円光寺なり。

 村長青木群蔵氏の主催にかかる。  この日、 農家の厄日として恐るる二百十日なるも、 穏晴無風なり。

 二日    霧のち晴れ。 冷気大いに加わる。坂村より一里半にして、井原村〈現在広島県広島市安佐北区〉養泉寺に至り開会す。 寺は丘上にあり。  四ヵ村連合の発起にかかる。 井原村長は正木謙一郎氏なり。  この日、 随行森山氏と相別れ、 余は東京に向かい、 氏は山陰に向かう。 氏まず惜別の詩を賦す。 余これに和すること左のごとし。

  不問青山陰又陽、 白雲深処是吾郷、 与君連日遊仙境、 芸水源頭洗俗膓、

(問うなかれ、 青山には陰も陽もあると。 白雲の深い所はわが故郷である。 君とは連日仙人の住むような地に遊び、 安芸の水の源で俗塵にまみれた腸を洗ったのだ。)

 連日案内の労をとられる中村郡書記ともここに袂を分かち、 午後六時、 井原を発す。 道路よし。 腕車二台前後相連なり、 前車には余自ら駕し、 後者には荷物を載せ、 犬の先引きを用い、 灯を点じて疾走す。 途中、 後者の車夫腹痛を起こして進行するを得ず。  これに代わるべき車夫なく、 やむをえず余の車に荷物を併載し、 辛うじて広島駅に達す。 ときに十一時十五分なり。 少憩の後、 夜半の特別急行に乗り込み、 三日午後八時半、 新橋に安着す。

 芸州を巡了せしにつき、 旅行中耳目に触れたる雑事を記せんに、 安芸の名物は第一は仏法、 第二は海外移民、第三は酒、 第四は柑橘ならん。 古来備前法華、 安芸門徒と称し、 真宗にこり固まりたる所なり。 しかし逐年勢力を減ずるがごとし。 海外移民は安芸郡、 安佐郡、 佐伯郡最も多く、 その中には大金を貯蓄して帰りたるものは郷里において田地を買い入るるを無上の名誉とし、 互いに競争の結果、  一段歩時価三、  四百円の田地が一千円以上に上がり、 はなはだしきは千八百円にて買い入れたるものありという。 従来労働賃銀の安かりし地なりしに、 意外に高くなりしも移民の結果なり。 酒は主として賀茂郡の産出にして、 石高は遠く灘に及ばざるも、 品質はすこしも譲らずという。 柑橘は主として群島中より産出す。 その産額の最も多き御手洗島のごときは従前桃の産地なりしが、 近年は全く柑林に変ぜり。 食事は山間部にては一日四回をきまりとす。 午前は五時と十時、 午後は二時と七時なり。 故に演説開会は午後二時後にあらざれば来聴せず、 さなければ重一時ごろに開会するをよしとす。農夫のうがつ野袴(モンピ)をウングリと呼ぶは奇なり。 芸州はもと綿の産地なりしが、 綿畑を変じて米田となしたるために灌漑に困難せる所多し。  九州佐賀県にて使用せる足踏み水車を用い毎朝夕水をくみ上ぐ。  つぎに、芸州方言は豊田郡沼田西村の下に掲げしも、  その他になお記すべきものあり。 戸外へ出ずることをアタエデルという。 この語は役員の出張にも用う。 アノヒトというべきをアンコといい、 コノヒトというべきをコンコという。また、 民間に用うる茶に代用する一種の茶あり。  これを地方により浜茶とも豆茶とも大師茶とも弘法茶ともいうが、 芸州にてはカラ茶という。 また、 芸州海岸の船頭唄は左のごとし。

 船は出て行く帆かけて走る、 宿の娘は出て招く、

 先頭可愛や今朝出た舟は、 どこの港に泊るやら、


広島県第二回開会一覧

市郡    町村   会場    席数     聴衆        主催

御調郡   三原町  小学校  二席     四百五十人    郡教育会

    同   女子師範学校 一席      三百人      校長

    栗原村  小学校    二席    三百人      郡教育会

    中庄村  小学校    二席    三百五十人    郡教育会

    市村    寺院    二席    四百五十人    郡教育会

   上川辺村  寺院    二席    三百人      不二会

   河内村   小学校    二席    四百人     同前

  宇津戸村   寺院    二席    三百五十人   同前

  坂井原村    小学校    二席    四百五十人   郡教育会

豊田郡 忠海町  寺院    二席    五百人       町長

   同     中学校   一席       四百人     同校

   同    女子技芸学校  一席    三百人       同校

  御手洗町   寺院      二席   四百五十人    青年会

  本郷村   寺院      二席   三百五十人    村長

  上北方村   寺院      二席    七百人     斯民会

  沼田西村 小学校    二席    六百人     村役場

  長谷村   寺院     二席     四百五十人  村長

 同   戸野村   寺院     二席     八百五十人   村長 

  久友村   寺院     二席     六百人     村有志

 大崎南村  小学校     二席     六百五十人    青年会

賀茂郡 西条町 寺院     二席     八百人     斯民会および軍人会

  竹原町   寺院     二席     五百人     斯民会および青年会

  三津町   小学校   二席    八百人      斯民会および青年会

  賀永村   寺院    二席    四百人     青年会

  下野村   寺院    二席    三百五十人   住職

 同   東高屋村 寺院    二席    九百人    住職 

  郷原村  寺院    二席    六百五十人   斯民会

  広村    公会堂   二席     一千人     尚善会

安芸郡 下蒲刈村 寺院     二席     八百人     村長 

  仁保島村 寺院                        二席          八百人                   村役場

佐伯郡 廿日市町 小学校   二席    三百人      郡教育会

  草津町   寺院    二席    七百人     青年会および婦人会

  厳島町   寺院    二席   五百人     町長および校長

  同   小学校    一席   五百人     校長

 大竹町   青年会館   二席   千五百人    青年会

 五日市町  小学校    二席   七百五十人   青年会長および町長

 大柿村    小学校    二席   五百五十人   自彊会

 中村    寺院    二席   七百人    斯民会

 大野村    寺院    二席   六百人    青年会

 地御前村  寺院    二席   六百人    住職および青年会

 津田村   小学校    二席   七百五十人    斯民会

 玖島村   寺院     二席    三百人     同村

 砂谷村   小学校    二席  四百五十人    村有志者

  八幡村   寺院     二席   四百人    青年会

安佐郡 可部町 寺院    二席  八百人     町長

 戸山村   小学校    二席  一千三百人    ニヵ村連合

 伴村   寺院     二席    四百五十人    村長、 校長、 住職

 祇園村   寺院     二席   四百五十人      同村

 三川村   寺院     二席    四百人      村長、 校長

 同  緑井村   寺院     二席   三百五十人    二ヵ村連合

 深川村   寺院     二席    千百人      五ヵ村連合

 鈴張村   寺院     二席    六百人       同村

山県郡 壬生町  寺院   二席    一千二百人     町長、 住職等

 本地村   寺院     二席    八百人       住職

 同  大朝村   寺院    二席  一千百人       諸団体

高田郡  吉田町 寺院    二席   五百五十人   一町、 ニヵ村

 刈田村   寺院     二席    六百五十人     三ヵ村連合

 丹比村   寺院     二席    四百五十人      住職

 同     寺院     一席    三百人        校長

 北村   寺院     二席    八百五十人      斯民会

 来原村   寺院     二席    四百五十人      産業組合長

 小田村   寺院     二席   五百五十人      三ヵ村連合

 坂村   寺院     二席    六百五十人      村長

 井原村   寺院     二席    五百人       四ヵ村連合

広島市  高等女学校     二席  四百人      県教育会

合計 一市、 八郡、 五十九町村(十四町、  四十五村)、 六十五ヵ所、 百二十五席、 聴衆三万八千七百人、

〔日〕数六十三日(遠州および馬関行はこの中に算入せず)

(この八郡中、 御調郡を除き他はみな安芸国なり)

演題類別

詔勅および修身に関するもの 五十四席

妖怪および迷信に関するもの 十七席

哲学および宗教に関するもの 三十二席

教育に関するもの 八席

実業に関するもの  七席

雑題(旅行談等)に関するもの 七席


遠江国開会一覧

浜松市      中学校    一席    六百人     校長

      演武館      一席     四百人    是真会

磐田郡 中泉町 小学校    一席   六百五十人    修養会

   同     寺院      一席    四百五十人   是真会

合計 一市、一郡、一町、  四ヵ所、  四席、 聴衆二千百人、〔日数〕二日間


演題類別

詔勅に関するもの 二席

宗教に関するもの 一席

教育に関するもの 一席


 

付下関市開会一覧

下関市      寺院       五席    五百人   講習会

       寺院         一席    三百人    同前

       寺院        一席      五百人  同前

      郵便貯金支局     一席    三百五十人 共済義会

豊浦郡 勝山村 寺院       二席    四百人   青年会

合計 一市、  一郡、  一村、 五ヵ所、 十席、 聴衆二千五十人、 日数五日間


演題類別

詔勅および修身に関するもの 四席

宗教に関するもの      四席

教育に関するもの      二席

 



山口県巡講第一回(長門国)日誌

 大正二年九月九日。 山口県長門各郡を巡回せんと欲し、 午後三時、 新橋発。  翌十日午後、 山陽線糸崎駅前の旅館風月楼に一休し、 夜に入りて乗車す。  この日、 曇天なり。

 十一日    雨。 朝七時半、 長州厚狭駅に着。 八時半、 大嶺線に転乗、 駅路二里を駕して厚保駅に降車す。  この日の会場は美禰郡西厚保村〈現在山口県美祢市〉小学校新築校舎にして、休泊所は村長三戸虎三郎氏宅なり。しかして主催は本村長および東厚保村長石村輝一氏の両名なり。 両役場員ともに尽力せらる。 村外には林巒多きも、 谷間はことごとく稲田にして、 昨今稲花期すでに過ぎ、 穂垂れて、 地に向かう。  一般に豊作と称す。 久しく炎晴相続き、人みな雲寛を望みしところ、 朝来豪雨あり、 農民大いに喜ぶ。 随行来島好間氏(旧哲学館出身)は豊浦郡豊田前村よりここにきたりて相会す。 また、 美禰郡視学末村吟蔵氏、 郡役所より来問せらる。

 十二日 晴れ。  鉄路に駕して渓間をさかのぼり、三里ほどにして大嶺〈現在山口県美祢市〉駅に降り、大字麦川西音寺にて開演す。  主催は村長波佐間潤蔵氏にして、 銀行支店長北村院氏、 教育家小方圭一氏、 波佐間霊氏、 村吏吉村文治氏、 河野虎五郎氏等なり。 宿所は大嶺炭山集会所にして、 これ海軍の所有に属す。 大嶺村は一千三百戸の大村にして、 その地内に無煙炭を産出せるをもって、 にわかに発展せる山村なり。 今日、 約二百戸相連なりて市街の形を成せる所は、 十年前、  一寺院と民家二、三戸を有する寥々たる部落なりし由。 聞くところによるに、一年中の採炭額十万トンなりという。 夜景一首を賦す。

  一条鉄路渉群巒、 大嶺渓間炭寛、 煙突凌空山館夕、 電灯光底挙頭看、

(ひとすじの線路は山々をぬって走り、 大嶺の谷間には炭鉱の町がひろがる。 煙突は高く空にそびえ、 山中の館に夕闇がしのびよるのを、 電灯の光のもとに目をあげて見たのであった。)

 波佐間村長は達磨図を愛賞し、 余に賛をもとめらる。  しかして氏の風采また、 よく達磨に似たり。 模範村長の評あり。 当夕は揮毫に忙殺せらる。

 十三日    曇り。 ときどき雨を催しきたる。 大嶺より於福村〈現在山口県美祢市〉まで三里ほどの内、 半里汽車、ニ里半腕車、 休泊所は金山朝日館新築楼上なり。  これより会場寂定寺は十余丁を隔つ。 主催は村長佐賀春三氏にして、 宗教家柏月蔵、 安井定晃、 平佐秀玄、 藤井玄朗、 萩嶺芳秀、 河内海竜等の諸氏、 ともに尽力せらる。  郡内は山群れども高からず、 渓多けれども狭からず、 稲田いたるところに連なれども、  一里四方にわたれる平地なし。ただし車道よく各所に通じて、 坂路の高低少なし。

 美禰無村不続山、 人家多被白雲関、 稲花期過秋将熟、 穂末帯黄田色斑、

(美禰の地は村落も少なく山といえるものもない。  人家は多く白雲にとざされたようにもの静かである。 稲花の時期もすぎて、 いまや秋のみのりに向かい、 その稲先には黄色みさえおびて、 田の色は緑といりまじっている。)

 夜に入りて明月輝きを放つ、 ときに旧八月十三夕なり。

 九月十四日(日曜)  雨。 於福より車行二里、 共和村〈現在山口県美祢郡秋芳町〉字嘉万妙覚寺に至りて開演す。 会後、 更に車を駆りて渓行一里半、 同村字八代明教寺に移りて講話す。 住職田中義了氏(旧姓上山)は旧哲学館出身にして、 今より二十二年前、 長州北部巡回の節随行せしことあり。 その縁故にて同寺に宿泊す。 堂前に二株の老杉あり、 堂後に林泉ありて風致を有す。 終夜、 泉声われを欺きて、 雨のきたるかを疑わしむ。

 長山深処梵城孤、 蔚然護門杉二株、 堂後石泉鳴不歌、 声々恰似唱南無、

(長門の山深い地に寺院がひっそりとたち、 うっそうと茂る杉の木が二本、 寺門をまもるかのようにたつ。寺のうらには岩から流れ出る泉が水音をたててやむことなく、 その音はあたかも南無南無と唱えるがごとく聞こえるのである。)

 主催は村長阿武義一氏にして、 発起かつ尽力せる人々は阿武、 田中両氏の外に、 助役坪井良一氏、 収入役福田武吉氏、 書記、 議員等の数氏なり。  この近郷はすでに穫稲に着手せり。  八代より一嶺をこゆれば大津郡に入るべし。

 十五日    晴れ。 朝気〔華氏〕六十八度、秋冷を覚ゆ。午前、八代より嘉万を経て秋吉村〈現在山口県美祢郡秋芳町〉長久寺に至る。 行程三里半、 開会主催は住職福井基代氏なり。  この地に県下第一の奇勝と称せらるる竜窟あり。  その窟内はようやく入りてようやく広く、 いよいよ進みていよいよ奇なり。 屈曲数回、 数十丁の間、 自在に出入り往還するを得べし。 実に但州玄武岩と対立する奇観たり。 その名を問えば滝穴という。 村長渡辺伍一郎氏のもとめに応じ、 余これに雅名を与えて竜水洞となす。 竜水とは滝の字を分解したるなり。 その内部を一観する時間なければ、 絵葉書の写景に照らして一絶を案出す。

  長山竜窟亦奇哉、 洞路如螺曲幾回、 暗裏自開別天地、 有田有沼有楼台、

(長門の竜窟はまたみごとである。 洞窟の通道はまき貝のように何度もめぐる。 暗いなかにもおのずから別天地がひらけ、 田のごときあり、 沼のごときあり、 台座のごときもある。)

 この詩のごとく、 暗窟中に天然に田形をなせる所あり、 台状をなせる所ありという。 これより更に車行二里半、綾木村〈現在山口県美祢郡美東町〉に至りて開演す。会場および宿所たる明林寺は郡内大寺の一なり。主催は綾木村、真長田村、 岩永村青年会連合にして、 綾木村長井上岩熊氏、 校長中村甚一氏、 小村文雄氏、 県会議員楢崎国太郎氏、 郵便局長安田栄作氏、 および他村長、 校長等、 みな尽力せらる。 当夕はまさしく旧八月十五夜に当たれるも、月食皆既、 かつ雲煙に遮られて望むを得ず。

 十六日 晴れ。 綾木村より車をめぐらすこと一里、 郡内の首府たる大田村〈現在山口県美祢郡美東町〉福田寺に転じて開会す。 主催は青年会にして、 発起者は村長津田半五郎氏、 校長木村信作氏、 その他会員諸氏なり。 当夜、大呑旅館に入宿し、 郡長桑原昌資氏、 末村視学、 町長、 校長等と会食す。 楼名は大呑屋なるも、 あえて大呑みしたるにあらず。 夜に入り明月皎々たり。 福田寺住職田中正範氏は東洋大学の出身たり。 本郡内は米穀をもって特産とす。 他に産業あるを聞かず。 広島県のごとく山上に田畑を作るにあらず、 また人工的植林もなく、 ただ松竹の天然に茂生せるを見る。 故に雑木に富みて用材に乏し。

 十七日 曇り。 大田を発し、山行四里、駅路高低多し。阿武郡明木村〈現在山口県阿武郡旭村〉小学校にて開演す。青年会の主催にして、 村長藤井倉太郎氏これを助く。  この日、 途上、 蕎花を見て秋の深きを知る。 稲葉いまだ全く 黄ならざるに、 稲刈りすでに始まる。 休憩所は小島屋旅館なるも、 県農会長滝口吉良氏(元貴族院議員)の好意に迎えられ、 同家に移りて酒杯を傾く。 庭内清冷寸塵をとどめず、 日すでに哺時を過ぐ。 萩青年会員の自動車を携えて歓迎せらるるあれば、  これに駕して二里半の行程を三十分間にて萩町〈現在山口県萩市〉に入る。

  稲黄蕎白覚秋生、 身向長山尽処行、 自動駆車疾於矢、 初更破暗入萩城、

(稲は黄いろに蕎の花は白く、 ともに秋のおとずれが知られるなか、 身は長門の山の尽きはてる地に向かって行くのである。 自動車の速きこと矢のごとく、 とっぷりと暮れた初更のころに、 暗をつき破るように萩の町に入ったのであった。)

 本邦において自動車の歓迎を受けたるは、  これを嚆矢とす。 近来、 萩より小郡駅まで十二里間、 自動車の往復を開く。  一人の賃銭二円二十八銭なりと聞く。 萩町の宿所は大坂屋旅館なり。 浴室大いにひろし。 当夕、 町長内田一心氏、 郡視学浅田五一氏、 校長谷井磯太郎氏、 仏教青年会講師河名識雄氏、 同幹事諸氏と会食す。

 十八日 開晴。 午前、 本願寺別院にて開演す。 聴衆、 大堂に満つ。 仏教青年会の主催なり。 午後、 劇場栄楽座にて公開す。  これまた聴衆、 場にあふる。 郡教育会および萩町の主催なり。 当地の名産は夏蜜柑と松下焼というにつき、 回想せしことあり。 明治二十五年二月、 初めてここに来遊せしとき、 萩の名物は蜜柑にあらず、 陶器にあらず、 堂々たる明治元勲なることを演述して、 大いに喝采を博せしことあり。 しかして蜜柑は年を追いて発展し、 目下萩町だけにて畑百七十町、 株数十五万本、一年の産額 三十万円に下らずとす。 盛んなりというべし。  これに反し元勲は漸次にこの世を去りて寂寥たるを覚う。 今まさに萩人士の大いに感奮して、 第二の元勲を産出すべきときに際せり。 今一つ当所の名物は蚊なりと聞く。 十月後に至るもいまだ死せず、 蚊帳と炬燵と交換すという。 その蚊の多き原因は柑林のためならん。市中各戸の庭内は柑葉日光を遮り、 昼なお暗きありさまなり。つぎに、 当町の尋常高等小学校は明倫校と称し、 生徒数二千五百人を有す。 その生徒数の多きは日本全国中第一位におるという。 開会に関し尽力せられたるは郡長横俊治氏、 中学校長村上俊江氏をはじめとし、 上記の内田、 浅田、谷井、 川崎諸氏、  および青年会幹部の諸氏なり。

 十九日 晴れ。 風位北に変じ、 冷気にわかに加わり、 朝気〔華氏〕六十四度にくだる。 車行して市外に至れば松陰神社あり、 県社なり。 その境内に松陰先生の遺物を保存す。 社後に松下村塾の古屋あり。  一見、 懐古の情を動かす。

  仰瞻古屋俯思君、 顔巷育英王事勤、 門下当年竜虎出、  一声喝破幕天雲、

(松下村塾の古びた家屋を仰ぎみ、  こうべをたれて松陰先生の事蹟を思う。 むかし孔子の弟子顔回が住んだと伝えられるようなむさくるしいちまたに、 英才を育て勤王をすすめたのだ。 松陰の門からは当時竜虎のごとき英傑が輩出して、 大声一呼、  おおった雲を破るがごとく幕府をくつがえしたのである。)

 一拝の後、 更に車に駕し、 右方に東光寺の山門を望む。 寺は黄檗宗に属し、 旧毛利家の菩提寺たり。  これより長坂一里半を攀ず。嶺頭に近づけば萩町を一瞰する所あり。更に第二の坂路を上下して吉部村〈現在山口県阿武郡むつみ村〉に入る。 行程五里半、 会場は小学校、 宿所は有志白井直熊氏宅、 主催は村長前島団清氏等なり。 午後、 暑気とみに加わり、 会を閉ずるころ驟雨きたる。 白井氏邸宅はすこぶる清新なり。

 二十日    雨。 車行八里、 坂路多し。 馬の先引きにて進行す。 五時間を費やして小川村〈現在山口県阿武郡田万川町〉に入る。 山ようやく急に、 渓ようやく狭し。 山畔には櫨葉のすでに紅に染まるあり、 田頭には狐花(方言にて痢病花またはゴウラ花という)の深紅火の燃ゆるごときあり、 また、 いたるところ萩花の残るありて、 大いに旅情を慰む。

  客身九月在長州、 応接林巒寄旅愁、 爾雨凄風阿武路、 紅櫨染出半山秋、

(旅客としてこの九月は長州にいる。 村や山をながめては、 旅のうれいをかきたてられるのだ。 ものさびしくふる雨、  さむざむしい風の吹く阿武の道は、 あかく色づいた櫨〔はぜ〕の木が山の半ばを染めて秋の姿をみせているのである。)

 会場は小学校、 宿所は久保田旅館なり。 旅宿料の掲示を見るに、 特等一円、  上等七十五銭、 中等六十銭、  並等四十五銭とあり。 石州国境まで一里半、 美濃郡高津町まで五里を隔つ、 江崎港まで二里強、 本郡の北海道の称あり。 当地の副業は製紙なりとて、 椿、 三叉を培養す。 開会は村主催にして、 村長田原義一氏尽力あり。 校長は朝枝忠治氏なり。

 九月二十一日(日曜)  晴れ。 小川を去りて福賀村まで前日の道を繰り返し、  これより分岐して峻嶺急坂を下行し奈古村〈現在山口県阿武郡阿武町〉に至る。 行程八里の間に六時間を費やせるを見て、 その難路たるを知るべし。会場兼宿所法積寺は浄土宗なり。 主催青年会長中村利亮氏は当地の資産家なり。 校長山内正繁氏、 村長小野弥市氏等、 みな尽力あり。 民家は相連なって市街をなす。

 二十二日    快晴。 奈古より萩町に至る四里の間は大道新たに成り、 その坦といしのごとく、 県下第一の車道と称す。 腕車一走、  一時間半にて達すべし。 途上、 湾外の六連島を送迎し、 当面、 萩城跡たる指月山に対向す。 その山は海中に突出し、 蔚然たる孤峰なり。 その麓に志都岐神社あり、 県社なり。 市街に入るとき失火あるに会し、往来雑沓を極む。

  奈古湾頭駅路平、 天開車上弄秋晴、 送迎六嶋更相望、 開笑顔来指月城、

(奈古湾のあたりの道は平坦に、 空は広くひらけ、 人力車の上から秋晴れのさまをめでたのであった。 沖あいの六つの島が私を送り迎えするかのようにかわるがわる姿を見せ、 指月城は笑顔で迎えてくれる思いがしたものである。)

 萩町より更に行くこと一里にして、 山田村〈現在山口県萩市〉光山寺に至り開会す。寺は山腰に踞し、堂後に細泉糸のごときものの懸かれる〔を〕見て一吟す。

  蕭寺渓頭在、 踞山又対山、 懸泉細於雨、 滴々使心閑、

(こざっぱりしたたたずまいの寺が谷のあたりにあり、 山にうずくまり、 また山に向かってたつ。 寺堂のうしろには泉水が雨よりも細く流れ落ち、  一滴一滴は心をみやびなものにさせるのだ。)

 村長大田民蔵氏、 校長山内清次氏、 住職武田了真氏は主催にして、  かつもっぱら尽力せらる。  この夜、 はじめて蚊帳を廃す。

 二十三日    晴れ。 車行一里、小坂を上下して三見村〈現在山口県萩市〉善照寺に至り開演するに、聴衆、堂の内外に充溢す。  この日は本村斯民会の発会式なれば、 槇郡長も出席せらる。 幹事は村長神田光蔵氏、 住職陶月弾氏、神官中原亀年氏、校長山中貞七氏にして、役場、学校、社寺協同の発起にかかる。 揮毫所望者ことに多し。 本村は三分〔の〕二は農家、三分〔の〕一は漁家なり。  この沿海の魚類は味もっとも美なりと称す。 海上十三里を隔てて見島と名付くる孤島あり、 その山影、 波上に蒼然たり。

 二十四日(秋季皇霊祭)  晴れ。 午前、三見より小舟一悼、海上を渡りて大津郡三隅村〈現在山口県大津郡三隅町〉字津雲に登岸し、 宝国寺に至り講話をなす。 住職中川哲雄氏は哲学館大学出身たり。 午後、 同村明倫小学校に移りて開演す。 聴衆、 校外にあふる。 主催は伝道会にして、 発起兼尽力者は伊木尚義(村長)、  上利恭助、 和正道、 藪木獅弦、 斎藤宗拙等、 十四名の諸氏なり。  この日、 朝来秋天遠くはれ、 風光明媚を極む。 よって舟中吟一首を得たり。

  晴風軽棹海村秋、 遠嶼近洲波上浮、 仰望満韓只一碧、 白帆点々是漁舟、

(晴れた空のもと、 吹く風にかいも軽やかに行く海辺の村は秋の気配、 遠く近く島々が波間に浮かぶ。 仰いではるかに満州、 朝鮮を望むも、 ただ青い大海原がひろがるのみ、 白い帆の点々と見えるのは漁船である。)

 阿武郡より大津郡に入れば晩稲多く、 田色なお青し。 宿坊は西福寺なり。 副住職和道実氏は東洋大学出身たり。その他、 岩崎純証氏も出身を同じくす。 夜、 蚊帳を用う。

 二十五日    晴れ。 西福寺より仙崎村〈現在山口県長門市〉に至る。途次に村田春風翁の遺跡あり。その傍らを一過して村に入る。 行程一里半、 会場は遍照寺、 旅館は橋長なり。 主催は村役場および寺院にして、 村長寺戸嘉一氏、助役藪木本智世氏、 書記福原濠一氏、 僧侶南部恵明氏、 林了応氏、 松浦隆信氏等、 十二名みな尽力あり。 寺戸村長より高松鯨の歯牙を寄贈せらる。 本村は魚市をもっ て名あり。 街上、 魚臭を聞く。  これより海峡約二丁を隔てて青海島あり。 周囲七里、 戸数七百、  この島中に大日比法円寺と称する浄土宗の名刹あり。  その中に別置せる尼寺にては、 男子の出入するごとに必ず塩をふりまきてきよむという。

 二十六日    大雨。 深川村〈現在山口県長門市〉正明市まで約一里、 午前、 大津郡立高等女学校へ立ち寄り、 一席の講話をなす。 校長森脇俊作(旧名岡村俊雄)氏はもと哲学館に在学せしことあり。 午後、 法蓮寺にて開演す。 豪雨をおかして来聴するもの堂に満つ。 旅館吉富は二十二年前、 旧遊当時宿泊せし所なり。  主催は村内有志および寺院連合にして、 赤間英太郎氏(村長)、 林定吉氏、 新庄貞之氏、 安藤文平氏、 藤本栄太郎氏、 藤田惣左衛門氏、および寺院八ヵ寺の発起にかかる。 林氏は昔年よりの旧知にして、 今回大いに尽力せらる。 郡長前田蕃穂氏は病臥中にて面会するを得ず。 視学保仙寅太郎氏は各所へ案内の労をとらる。 会場住職は濃見顕彰氏なり。 本村は近松門左衛門の出生地なりと聞けり。 字正明市は郡衙所在地たり。

 二十七日    晴れ。 午前、 車行一里半、 湯本温泉場に至りて休泊す。 客舎は枕水亭すなわち水津旅館なり。  浴場は共同設備にして、 坂上坂下の二ヵ所にあり。  上なるを礼湯といい、 下なるを恩湯という。 恩湯は温度低く、  礼湯は温度高し。 余、 昔遊の際、 寒を冒してここに入浴し、 恩湯を温湯と思い、 礼湯を冷湯と信じ、 いずれを好むかと問われたるに対し、 寒中なればとて恩湯を選びて大いに失策せし奇談あり。 当所は世に深川温泉、  または大寧寺温泉として知られ、 県下に名高きも、 交通不便のためにその発展遅々たり。  一条の渓流街路にそい、 架するに三橋をもってし、 両岸に人家あり、 瓦屋は草屋と相半ばす。 客舎総じて十二、 三戸ありて、 水津、 大谷、 秋山等を一等旅館とす。 物品としては陶器を出だす、 深川焼これなり。 午後、 製陶場を一見し、 更に渓流にそってさかのぼること一里半、 渋木浄土寺に至りて開演す。 途中、  懸崖の下を通過する所あり。 山上は松竹をもって満たされ、 田頭は狐花〔きつねあざみ〕黄稲と相映じ、 いささか吟望するに足る。 農夫はすでに穫稲に着手せり。 演説後、 湯本に帰宿す。 入浴中の一作あり。

  一水三橋浴舎連、 曾聞神授出霊泉、 礼湯在上恩湯下、 共是大寧寺福田、

(渓流に三本の橋がかけられ、 温泉旅館が軒を並べる。  ここはかつて住吉明神のお告げで霊妙な温泉が湧き出たのだと聞いた。礼湯は坂上にあり、恩湯が坂下にある。そして、両湯ともに大寧寺の所有であるという。)

 温泉は大寧寺の所有なれば、 ここにその福田となせり。 湯本も渋木もみな深川村内なり。 昨今両日ともに、 揮毫に忙殺せらる。

 九月二十八日(日曜)  晴れ。 午前、 湯本より正明市に帰り、 小学校にて開催せる郡教育会の総会に出演し、 更に車をめぐらして県下の名刹たる大寧寺を訪う。 大内氏創立の古寺院にして、 堂後に義隆父子の墳墓あり、 古色蒼然たり。 門前には天然石の架橋ありて、 渓泉その下にむせぶ。 伽藍は一時廃頽せしも、 修繕ややその緒に就けり。 その地形はシナの蘆山に似たりとて、 古来、 東蘆山の称あり。 よって一詠す。

  寺立東蘆山下村、 半千年古跡猶存、 墓前苔径無人掃、 唯有鳴泉護石門、

(寺は東蘆山のふもとの村にたち、 五百年を経た古跡は今もなお存する。 義隆父子墓前の苔むした小道は掃ききよめる人もなく、 たださらさらと音たてて流れる泉水が石の門をまもるかのようである。)

 住職は細田徹梅氏なり。これより馬の先引きにて長坂を上り、俵山村〈現在山口県長門市〉西念寺に至り開演す。正明市より行程二里半あり。  主催は村役場にして、 村長植木研弌氏、 助役吉村源弌氏、 住職深川且成氏の発起なり。 宿寺の山門新たに成り、 後庭に小飛泉あり、 門外には佐久間大将紀念碑あり。 本村は同大将の出身地なりという。  この地にも温泉場あれども、 宿所より三十丁を隔つる由なれば、 入浴を試みず。 これを俵山温泉と称す。

 二十九日    晴れ。 俵山を発し、大寧寺および正明市を経て日置村〈現在山口県大津郡日置町〉字黄波戸に立ち寄り、 海岸寺において臨時開演す。 平山詳策氏および石川貞右衛門氏の発起なり。  この部落は漁家多し。 これより婦人の先引きにて坂路をのぼり、 日置村字古市に至り、 新築劇場千秋座において開演す。 俵山より黄波戸を経てここに至るの車道は五里あり。  主催は村長黒瀬吉兵衛氏、 助役洛野完氏、 校長藤岡政治郎氏等の有志なり。  この地方は一帯の平田数里に連なり、 稲まさに熟し、 秋風一過、 田頭黄波をみなぎらすの趣あり。  また、  ここに産する米穀は長州米中の第一位を占むという。 当夕は千葉〔せんば〕旅館に宿す。

 三十日 快晴  ゜一天雲なく、かつ風なし。午前、古市を去り、車行一里にして菱海村〈現在山口県大津郡油谷町〉字人丸峠に至る。 柿本人丸の神社あるによりてその名を生ず。  これまた余の旧遊地なり。 途上一吟を試む。

  長北江山横又斜、 稲田十里望無涯、 秋風一路黄波漲、 看到人丸社畔家、

(長門の北の地は川と山が横ざまにあるいは斜めにあり、稲田は十里四方にひろがって一望するも果てなし。秋風の吹きぬけるひとすじの道に稲のみのる黄いろい波がみなぎる。  かくして、 柿本人丸神社のかたわらの家に至ったのであった。)

 会場は浄泉寺、 主催は青年会、 休憩所は松月楼、 発起および尽力者は住職上山月潭氏、 村長高橋金槌氏等なり。本村と連結せる一半島あり、 向津具村〈現在山口県大津郡油谷町〉と称す。 その字川尻は従来、 捕鯨をもってその名高し。 余、 昔遊の際、  ここに至りて捕鯨を実視せしことあり。 今回は時日なきをもって再遊するを得ず、 菱海の開会に連合することとなれり。 村長は中村虎蔵氏なり。 演説後、 更に車を馳すること一里余、 夕照稲田に入り、天地まさに黄ならんとするときに菱海村字伊上西念寺に移る。住職蓮哲雄氏は東洋大学出身たり。夜に入りて開会す。  主催は青年会にして、 会長は石塚久熊氏(校長)なり。 宿寺の堂後に別殿あり。 松丘の上に立ち、 向津具半島と対峙し、 油谷湾を一瞰すべく、 その眺望は長州第一と称す。  その名を波光亭という。 本願寺光瑞法主の命名せられしところなり。 しかしてその湾内に二小嶼ありて眼下に点在するも、 いまだその名を有せず。  余は住職のもとめに応じて、  その近き方を竜眼島と名付け、 遠き方を鶴栖島と名付く。  かつ賦するに一絶をもってす。

  蕞爾松邸擁仏堂、  一湾風月不尋常、 波光亭対竜眠島、 看訝蓬莱深処郷、

(小さな松林の丘が仏院をいだくようにあり、  この湾の自然の美しさは尋常なものではない。 別殿の波光亭は竜眠島とむかいあい、 仙人が住むおく深い里ではあるまいかと目を疑う。)

 十月一日    晴れ。 伊上を発し、 油谷湾にそい、 湾内の風光に応接しつつ、 豊浦郡に入る。  この日、 粟野村開会の予定なりしも、 村社祭典のために田耕村と交換することとなり、 行程総じて五里、渓山を跋渉して田耕村〈現在山口県豊浦郡豊北町〉妙久寺に至る。 本村は名のごとく農家のみなり。 所在、 柿、 栗ともに熟せるを見、 また松茸の期節に入りたれば、 秋味津々たるを覚ゆ。 開会主催は村長林新作氏なり。 住職は岡四依氏という。

 二日    晴れ。 田耕より山行三里、 道路平夷ならず、 車輪揺動はなはだし。 阿川村〈現在山口県豊浦郡豊北町〉に入り善照寺において開演す。 同村および神田下村連合の主催なり。 阿川村長を時田桃太郎氏といい、 神田下村村長を藤村宗助氏という。  しかして会場住職は百済黙存氏なり。 堂後海水を擁し、 濤声座に入りきたる。 当夕は隅屋旅館に宿す。 夜に入りて暖気にわかに加わり、 風雨の兆しあり。

 三日    風雨。 海浜に沿いて行くこと一里余、 粟野村〈現在山口県豊浦郡豊北町〉礦泉場坂井旅館に一休し、 午後、更に行くこと半里余、 小学校にて開演す。 青年会の主催にかかる。 村長は西島寛之助氏、 校長兼青年会長は山田墨三郎氏なり。 これより更にまた二里を走りて滝部村〈現在山口県豊浦郡豊北町〉に至る。 日すでに暮るる。 風雨ますますはなはだし。 当夕、 今田旅館に泊し、 安養寺に至りて夜会を開く。 風強く雨はげしきために、 参聴者百人に満たず。  主催は青年会にして、 発起は村長藤井与四郎氏、 校長北村卯一氏なり。 住職は中山浄薫氏という。

 四日    晴雨不定。 滝部より渓山の間を一貫せる駅道をたどり、行程約五里、車行三時間を費やして西市村〈現在山口県豊浦郡豊田町〉に入る。 郡内東北部の一都会なり。 途上の所見を記するに、 山田には稲あり蕎ありて黄白相交わり、  これに加うるに櫨葉の紅を帯ぶるあり、 また、 半空に華山の登立するありて、 やや吟情を動かす。

  稲田蕎圃繞渓山、 一鳥不啼秋意閑、 凄雨暁来未全霽、 華峰半在白雲間、

(稲田と蕎畑が谷や山をめぐるようにひろがり、  一羽の鳥の鳴く声も聞こえぬしずかな秋である。  さむざむとした雨が明け方から降りしきって、 いまだなおはれあがらず、 華山のなかばは白い雲のなかにとざされている。)

 会場は小学校、 宿所は中野万七郎氏宅なり。 その宅は旧家にして、 かつ郡内屈指の資産家なる由。  主催は西市村と豊田前村および下村の連合より成る。  しかして西市村長林田実氏、 助役木下勝三郎氏、 豊田前村長林孫三郎氏、 下村長吉村政次郎氏等、 みな尽力あり。 当夕、 割烹店洗心楼上にて有志一同と会食す。 楼は三層にして全市を 一瞰す。

 十月五日(日曜)  開晴。 西市より車行四里、 田部駅を経て岡枝村〈現在山口県豊浦郡菊川町〉快友寺に至りて開演す。 その寺は浄土宗西山派の大坊にして僧正地なり。 桂公爵の祖先この寺より出ずという。 目今、 桂真亮氏その住職たり。  主催は岡枝、 楢崎両村連合にかかり、 岡枝村長垣田昌槌氏、 校長岡部官太郎氏、 楢崎村長藤野好太郎氏、  および各宗寺院等その発起たり。 この両村と豊東村、 内日村とは山間の平坦部にして、 約二里にわたれる平田あり、  これを小日本と異名す。  その由来を聞くに、 ある山中のもの嶺上に登り、  この平田を望み、 日本国は広闊なるものなりといいし話に基づくという。 当夜、 蚊声を聞く。

 六日    晴れ。 快友寺を発して行くこと一里、 内日村〈現在山口県下関市、豊浦郡菊川町〉小学校にて開演す。 校舎は昨年、 大半焼失せり。 事務室は神社の旧堂をここに移せるものなれば、  一種の特色を存す。 主催は村長村田長一 氏にして、 宿所もその邸宅なり。 庭前に飛泉あり。 その家、 醸酒を業とす。 校長は三浦半四郎氏なり。 本村は農家のみなるも、 その一部落に和傘製造を業とせる所あり、 毎年二万本を輸出すという。

 七日    晴れ。  暖気を催し、 朝針〔華氏〕七十度に上る。 内日より車行四里、 禿頭の山を昇降して西浦の一都会たる小串村〈現在山口県豊浦郡豊浦町〉に至る。 山上に私設公園夢ケ岡楽天園あり。 宿所および会場は安楽寺なり。 寺は一昨年、 川棚よりここに移しきたり、 建築ようやく竣功す。 後庭には巨石累々、 天然の石庭をなす。 堂前は響灘と対向し、 厚島顔前にあり、 蓋井島望中に浮かぶ。 余、 よってその書院の階上に命名して、 背石面波楼となす。かつ一絶を賦す。

  豊浦尽頭湾一弓、 秋清安楽寺前風、 帆光島影暮潮穏、 都在夕陽明滅中、

(豊浦の地の海に尽きるところは湾が弓のごとくしてひらけ、 秋のすみきった風が安楽寺の前に吹く。 帆影の浮かぶ島の姿に夕暮れの潮もおだやかに、  すべては夕日の明滅するなかの風景である。)

 住職は谷実成氏にして旧識たり。  主催は青年会にして、 尾畑淳一氏の発起にかかる。 衆議院議長大岡育造氏はこの村より出ず。

 八日    晴れ。 小串を発して青松白砂の間を一過し、稲田をわたり山根に達すれば霊泉あり、川棚〈現在山口県豊浦郡豊浦町〉温泉という。 行程一里余、 浴場五あり、 みな共同湯なり。 客舎十余戸、 その第一たる新店旅館に休憩す。これに次ぐものを於多福楼という、 その名おもしろし。 入宿料は上等一円二十銭、 下等五十銭と標榜す。 目下、農繁期に入るをもって浴客少なし。

  黄稲田間路一条、 青竜湯在臼山腰、 村家農事今将急、 客舎無人秋寂蓼、

(黄いろに色づいた稲田のなかにひとすじの道がのび、 青竜湯は茶臼山の中腹にある。 村々はいまや農事に多忙であり、 旅館には人影もなく、 秋はいよいよさびしい。)

 湯名を青竜湯と呼び、 山名を茶臼山という。 客舎にありて、 はるかに響洋を望む。 会場妙青寺は古色を帯びたる禅宮なり。 主催は村長吉田謙介氏、 学務主任田村弥平氏等、 村内有志の発意に出ず。 午後、 更に行くこと一里、黒井村〈現在山口県豊浦郡豊浦町〉に移りて開演す。 馬関〔下関〕より小串に至るの間、 鉄路敷設の工事中なり。  主催は自彊会、 会場は真蔵寺、 宿所は前原旅館、 発起は山田保吉氏、 佐々木高好氏等とす。

 九日    晴れ。 車行一里半、 豊西上村〈現在山口県下関市〉字吉見にて開会す。 これより馬関まで四里を隔つ。 会場小学校は壮大なる新築にして、 階上一千人をいるるべき長講堂あり、 校庭の眺望すこぶる佳なり。 吉見駅は昨春ほとんど全焼の大火にかかりしも、 各戸新築みな成る。 旧哲学館〔館〕友大田常吉氏来訪あり。  主催は校長林正助氏、 村吏八田政之助氏等の有志なり。

 十日    晴れ。 吉見旅館田中屋店前に未明より朝市を開き、 囂々の声、 暁眠を破る。 午前、 車行約一里半、 安岡村〈現在山口県下関市〉横野妙光寺に至りて、午後開演す。 副住職東大恵氏は台湾台中の布教師にして、 先年の旧識なりしが、 帰省中にて再会するを得たり。 堂後の正面に蓋井島を望む。  この地より産する横野柿は長州名物の一に加わる。  また、 本村は青物野菜の本場にして、 近くは馬関、 門司、 遠くは朝鮮、 満州へ輸出す。 その影響にて田の価より畑の価、  二、 三倍高しという。  主催は青年会にして、 軍人会長多田教平氏、 住職東伯道氏、 校長清田篤之進氏、 実業家桶尾喜三郎氏等の発起に成る。

 十一日    晴れ。 車行二里、 長府町〈現在山口県下関市〉に移る。 旅館林屋は客舎的の設備にあらずして、 かえって趣味あり。 会場は徳応寺、 主催は町役場、 斡旋者は助役益本農治郎氏、 書記国貞一郎氏なり。 郡長磯部輪一氏不在なれば、 郡書記中津井信治氏代わりて来訪あり。 しかして西部巡講の際は、 郡書記原田清輔氏案内せられたり。当地は故乃木大将の出身地なれば、その旧邸に紀念事業を設けんとて目下経営中なりと聞き、余も寸志を表せり。かつ所感の一首を得たり。

  身是将軍心是神、 長山尽処出斯人、 英魂一去今何到、 必在天原侍帝宸、

(故乃木大将の身は将軍にして心は神のごとく、 長門の山の尽きるこの地にこの人は生まれ出たのである。そのすぐれた霊魂はひとたび去って、 いまいずこに至ったのであろうか。 必ずや天上界にあって明治帝のおそばに仕えているのであろう。)

 この日偶然、 旧友和田義睦氏と相会す。 当夜は旧九月十二夕にして、 天空雲影なく、 明月ひとり皎然たり。   

 十月十二日(日曜)  曇晴。 汽車四十分間、 小月、 埴生両駅を経て厚狭郡厚狭駅に着し、 祐念寺にて開会す。 西村〈現在山口県厚狭郡山陽町〉役場の主催なり。 住職有馬清信氏は前すでに面識あり。 村長木村幸三氏、 助役山県淳一氏、 書記西原常松氏、 有志者伊藤政介、 山県聞一両氏、  みな尽力せらる。 また、 太田芳甫氏、 出会村よりきたりて哲学堂賛成の意を表せらる。 また、 蓮哲雄氏、 伊上より来会あり。 当夕は山県寿雄氏の宅に宿す。 同氏は近年、 余の家と親戚の関係を生ぜり。 食後、 欄に倚りて一吟す。 晩来微雨一過、 浮き雲の断続せるあり。

  長陽有友笑相迎、 酔倚楼欄到二更、 正是晩秋十三夕、 淡雲擁月却多情、

(長門の南の地に友人知己が笑顔で迎え、 酔っててすりにもたれて十一時ごろにもなった。 ときにいまや晩秋の十三夜、 淡い雲が月をかこむように流れて、 むしろ人の情をかきたてるのである。)

 また、  主人その寿八十に達するを聞きて一詠す。

  七十古来少、 君齢達八旬、 不疑迎米寿、 意気似青春、

(人生七十は古来まれなりというが、 君のよわいは八十に達した。 米寿を迎えられることは疑いもない。 なんとなれば君の気性はあたかも青年のようであるから。)

 この地、 松茸最も多し。 昨今、 採集最中なり。

 十三日 晴れ。 汽車行四十分、 船木駅に降車し、  これより腕車にて鉄路にそい、 逆行すること二十丁、 松丘の上に小学校あり、これ厚東村〈現在山口県宇部市〉立なり。時たまたま戊申詔書渙発の紀念日なりとて捧読式あり、その席にて講話をなす。  主催は青年会、 発起は村長小林勇八氏、 僧侶藤井順教氏、 校長河村隆助氏なり。 藤井氏は哲学館出身にして、 今より二十二年前、 九州地方巡遊のときに随行せられたり。 午後、 更に腕車を飛ばし、 行くこと一里、 船木村〈現在山口県厚狭郡楠町〉正円寺に至りて開演す。 この席においても捧読式の挙行あり。 宿所は哲学館館友にしてかつ旧知たる加藤熊太郎氏の宅なり。 本日、  暖気急進し、 日中〔華氏〕七十八度に上る。

 十四日 雲り。 船木に滞在。 午前、 午後、 開演。 公会の後、 更に技芸女学校に至り、 求道篤志者のために哲学上の講話をなす。 日すでに暮るる。  これより願生寺に移り、 懇話会に出席す。 住職山名神達氏は紀念として、 余に天然木の如意を恵まる。 当夕会する十余名は今後毎月継続して学話会を開くことを約し、 その命名をもとめられ、 余は向上会と名付く。  当地の主催は加藤、  山名両氏をはじめ、 村長浦喜孝策氏、 校長為近喜平氏等の有志家なり。 本村は郡衙所在地なるも、  鉄道駅をへだつること里余、 交通不便のために、 先年漫遊せしときよりも衰微の現象あり。  その村より工芸品として櫛を産出す。  また、 硯工あり。 赤馬〔間〕関硯は多くこの地より輸出す。 郡長新庄祐治郎氏は他行中なれば、 郡視学遠藤五郎太氏、 会場に出席せらる。 厚狭郡は気候温暖のために田には晩稲多く、 その色いまだ全く黄ならず、 穫取はなお旬日の後にありという。

 十五日 晴れ。 船木より車行一里、 高千帆村〈現在山口県小野田市〉私立興風中学校に至りて開演す。 校舎は丘上にありて、 近く湾内の連檣を見、 遠く豊前の連山を望むを得。 在校生二百人あり。 哲学館出身黒瀬吉之進氏ここに教鞭をとる。  主催は校友会にして、 校長は金子健吉氏なり。 村長日高栄太郎氏も助力あり。 午後、 更に車行一里、 須恵村〈現在山口県小野田市〉字小野田報恩寺に至りて開演す。 当所は県下第一の工業地にして、 煙柱空をしのぐ。 主催は村役場にして、 村長佐藤嘉助氏、 校長村岡百千代氏、 村吏上田千代松氏の発起にかかる。 豊浦郡以来ときどき神社の祭典と衝突し、 聴衆、 ために少なし。 当地またしかり。 東洋大学出身加納与次郎氏、 藤山村より来訪あり。

 十六日 大雨。 終日やまず。 腕車欠乏のために午前遅発。 車行一里半、  泥途のため、 車足また遅々たり。 藤山村〈現在山口県宇部市〉善福寺にて開演す。 とき午時を過ぐ。 雨はなはだしきにもかかわらず、 聴衆、 堂に満つ。 本村は哲学館出身新町徳兵衛氏の郷里なり。 開会は村長渡辺伝四郎、 助役松谷菊市郎、 村会議員名和田松太郎等の諸氏の尽力に成る。 これより急に車を走らすること里許、 宇部村〈現在山口県宇部市〉教念寺に至りて開演す。 その寺は県下における本願寺派中屈指の大坊にして、 伽藍またすこぶる大なり。 演説後、 十余町を離れたる新川岡村旅館に至るとき、  すでに点灯せり。  主催は村長藤田豊氏にして、 助役新谷軍二氏、 収入役西村保十氏等、  みな尽力せらる。 当夕、 哲学館出身曾我是一氏来訪あり。 本村は戸数六千、 人口三万、 全国中大村の称首となる。  その字新川の一区のごときは、  二十年前わずかに十二、 三戸ありしが、 目下その区だけに三千戸ありという。  これ全く炭坑開鑿の結果なり。  この日の一作は左のごとし。

  長南一路望悠々、 当面青山是九州、 転向新川天漸黒、 煤煙染出炭田秋、

(長門南部の一路は望めばはるかに遠く、 海に浮かぶ青い山は九州の地である。  ひとみをめぐらせて新川をみれば、 天さえうす黒くよごれている。 それは煤煙が炭田の秋を染めあげているのである。)

 十七日(神嘗祭)  雲り。 前日の大雨、 昨夜より強風に変じ、 朝来なおやまず。 車行一里半、 平坦なり。 吉敷郡西岐波村〈現在山口県宇部市〉西光寺に至りて開会す。当所も余の旧遊地なり。そのとき各所開会の労をとられたる工藤誓行氏(旧哲学館出身)は本村に所住せしが、 今日すでに隔世の人となる。  その他、 旧友の故人となりたるもの多し。 たまたま工藤氏の後住誓乗氏の来訪につき、 所感を賦してこれに贈る。 氏また哲学館出身なり。

  駆車一路截秋風、 防水長山望不窮、  二十年前旧遊跡、 再来只恨故人空、

(車を走らせて一路秋風をきってすすめば、 周防灘も長門の山も望み見るもはてはない。  二十年前、  ここはかつて遊説の地であるが、 いまふたたび来てみれば、 昔なじみの人がむなしくなっていて、 ただただそれが残念なのである。)

 本村の主催は村長加藤亮吉氏にして、 校長国吉六郎氏、 県会議員土屋峰松氏、 郡会議員加藤一郎氏等、  みな尽力せらる。 宿寺住職佐々木通玄氏は旧知たり。 村内の戸数は千戸の内、 三分〔の〕一は漁家、三 分〔の〕二は農家とす。 農産物中おもなる輸出は沢庵漬けにして、 その産額、  一年間に六、  七万円に達す。 その大根の原種は東京府下の練馬より伝えたるものなるも、  その質は同じからず。 沢庵の小にして堅きをその特色とす。 豆州熱海の沢庵と相似たり。 吉敷郡役所より郡視学桂木彦一氏、  ここにきたりて迎えらる。

 十八日 晴れ。 ただし驟雨二、 三過ぐ。 車行里余、 大根畦頭を通行す。 その色一面に青きも、 往々蕎花の白きを交うる所あり。東岐波村〈現在山口県宇部市〉小学校に立ち寄りて会場西福寺に入る。住職白松月象氏は東洋大学出身たり。 主催は青年会にして、 会長は国重嘉吉氏(医学士)なり。 演説後、 青松白砂にそいて行くこと約半里、本村内の小半島丸屋崎、 部坂俊亮氏の宅に至る。 その大人部坂経三氏は入院中にて不在なるも、 俊亮氏は哲学館大学出身たる縁故をもってその宅に迎えらる。 入浴後、 更に同氏の別亭に移る。 その名を呑月堂と呼ぶ。 その実、呑月のみならず、 海を呑み山を呑むほどの壮観を有す。 その位置巌頭にあり、 階下に波雨の礎を洗うあり、 軒端に潮風の塵をはらうあり、 顔前に周防灘を隔てて正面には豊前国東半島の連山と相対し、 左方には西予の山影を望見す。 四時の眺望絶佳、 なかんずく観月対旭のときを最もよしとす。 壁頭に伊藤春畝公の七絶を掛くるあれば、その韻をけがして一吟を試む。

  碧波紋上白帆飛、 雲鎖豊山翠影稀、 呑月堂端晩傾酒、 嘯天吟地酔忘帰、

(青々とした波の上に白い帆が飛ぶように行き、雲は豊前国東半島の山々をかくして、みどりの色もあわい。呑月堂の端に日くれて酒を傾け、 天をうたい地を吟じて、  ついに酔って帰るのを忘れたのであった。)

 その夕、 雲月朦朧たるを遺憾とす。 村長は三戸喜市郎氏、 校長は東条三郎氏なり。

 十月十九日(日曜)  晴れ。 ただし日中一回驟雨あり。 部坂氏別亭より車行一里半、 途中、 西舞子と称する老松森立の間を通過す。 その地名を波雁という。 一勝地なり。 会場および宿所は井関村〈現在山口県吉敷郡阿知須町、山口市〉字阿知須本竜寺なり。 住職部坂乗雲氏も哲学館出身たり。 開会は村長江崎島一氏、校長塚本小治郎氏、 上田鹿之助氏等の発起にかかる。 晩食は海浜の一新館たる大潮館上にて供せらる。 設備は東京風にして、 調理は大阪風なり。夜に入りて一天洗うがごとく、旧九月二十日の月ようやく東山にのぼり、海潮ようやく満つるに従い、一面に金波を湧かす。 その風光、 筆紙に尽くし難し。

  大潮館上晩銜杯、 入夜秋天四面開、 月映波心明似昼、 清光照我酔顔来、

(大潮館の上で日暮れには酒杯をかたむけ、 夜も深まるにつれて秋の空はぬぐうがごとく澄みわたる。 月は波にかがやいて昼のように明るく、 その清らかな光はわが酔顔を照らしだす。)

 二十日    晴れ。 今朝、 室内冷気〔華氏〕五十三度にくだる。 露気薄霜を結ぶ。 午前、 本竜寺を出でて阿知須市街に出ずれば、 巨石の路頭に鼎座するあり。 これより車行二里にして嘉川村〈現在山口県山口市〉に達す。 稲田すでに熟するも、 いまだ収穫に着手せず。 会場は小学校なり。  その教室中の一棟に、 維新前旧幕時代の籾倉のそのままを転用せるものあり、 実に珍舎なり。 他日、 小学校にも国宝を認定せらるる場合には、 必ず第一にその選に加わるべし。 さきに述べたる内日村の事務室と好一対なり。 主催は青年会にして、 村長上田義助氏、 助役原田芳雄氏、収入役伊藤嘉蔵氏、 校長伊藤孝太郎氏、 同今井勇熊氏等、 もっぱら尽力せらる。 また、 浄福寺住職蓮上恭竜氏(哲学館出身、 元名荒次郎)も助力あり。 しかして宿所は江崎屋なり。 伊藤氏は余が幽霊の図を集めつつありというを聞きて、 その所蔵の一幅を恵まる。 余、  一詩を贈りて答礼をなす。

  幽霊君所蔵、 日夜欲迎郎、 今有因縁熟、 嫁来入哲堂、

(幽霊の図は君が所蔵のものであって、 日夜よき男子に迎えられることをねがっていた。  さていま因縁の十分にととのって、 哲学堂に嫁入りすることとはなった。)

 二十一日    穏晴。 嘉川を発して行くこと半里、 渡し船あり。 水浅くして船底砂に付着し、 棹、 櫓、 その用をなさず。 船婦ともづなをひき、 徒渉して対岸に達す。 更に行くこと一里半、 秋穂二島村〈現在山口県山口市〉八幡社前の呉服店(開地喜次郎氏宅)楼上に休泊す。  その社は県社にして、 老松鬱然たる林間に社殿あり、 太鼓形の石橋数帯を経てこれに達す。  社側に弘法大師を祭れる堂ありて、 神仏軒を連ねて立つはおもしろし。 秋穂半島中に八十八ヵ所の大師あり、  これ、 その一番なり。 日々巡拝するものたえずという。  社林の北方に当たり一峰のそびゆるあり、 これを日の山と名付く。 また、 西方に当たりて海山の眺望を独占する高丘あり、 これを朝日山と名付く。ともにこの地方の名所たり。  しかして山に禿頭の多きと、 川に灌漑の用なきとは、 またその特色とす。 会場は小学校、 主催は元村長中川治郎吉氏、 現村長福井麻太郎氏、 校長進藤保介氏、 助役福江貞一氏、 収入役福永幸右ヱ門氏等なり。 福永氏画をよくするも、 いまだ雅号を有せずと聞き、  二島にちなみて双洲と命名す。

 二十二日    晴れ。 朝、 紀念のために八幡社殿前において撮影す。 また、 明年、 神社の一千百年祭を執行するにつき、 奉納の額面の依頼に応じて揮毫す。 これより二島を去り、 車行一里にして名田島村〈現在山口県山口市〉小学校に着し、 午後開演す。 校地は稲田の間にあり、 校舎の規模壮大なるにあらざるも、 設備完備し、  ことに校内清潔にして寸塵もとどめず。 新築は昨年落成、 その費用三万余円、  一村の人家三百九士戸に配当すれば、  一戸平均八十余円の負担となる。  幸いに村内は米田に富み、  一戸平均一町以上に当たる。 かくのごとき多くの米田を有するは県下に類例なき由。 要するに本校は県内の模範校なりという。 主催は校長秋本潤輔氏、 村長武田義雄氏等、村内有志なり。 演説後、 車を連ねて行くこと一里、  小郡町〈現在山口県吉敷郡小郡町〉藤田旅館に入宿す。

 二十三日 晴れ。 午後、 小郡町小学校講堂において開演す。 幅七間、 長さ十五間の大堂なり。 当地の県立農業学校の生徒みな出席せり。  主催は町長古林新治氏、 農業学校長桜田丑雄氏にして、 助役篠原恒一氏、 町吏兼行基太郎氏、 ともに尽力あり。

 二十四日    晴れ。 朝気〔華氏〕五十一度、新寒を感ず。小郡駅より鉄路三十分にて山口〈現在山口県山口市〉駅へ着す。 旧識佐波成章氏、 横地石太郎氏(高等商業学校長)等、  数名の歓迎あり。 昨日、 今日ともに当地の招魂祭にて、 市中大いににぎわう。 着駅ただちに旅館坂田屋に入る。  その家、 間口狭くして奥深し。 午後、 師範学校において開演す。 校長は広瀬為四郎氏、 首席は重富亀一氏なり。 終わって桂郡視学の案内にて亀山公園を一覧す。 旅順砲台の模形あり、 毛利諸公の銅像あり、 地形、 眺望ともによし。 南米チリ国首府サンタ・ルシア公園に類似せるところあり。 夕刻、 湯田温泉瓦屋に至り、 哲学館同窓会に出席す。  来会者は戸田福蔵、 岡原尭鉄、 河島雅弟、佐波成美、 桃林皆遵、 和道実、 来島好間、 東信海等の諸氏なり。

 二十五日    快晴。 午前、 高等商業学校、 午後、 中学校にて講話をなす。 中学校長は杉田平四郎氏なり。 更に法界寺に移りて公開演説をなす。 これ仏教各宗寺院の主催にかかる。 その代表者は川瀬道本、 笹尾祥海、 熊野潤教、名護谷竜然、 同教恵、 佐波成章、 同成美等の諸氏なり。 郡長原要二氏も出席せらる。 当夕、 佐田料理店において、各宗代表者より慰労の晩餐会を設けらる。

 十月二十六日(日曜)  晴れ。 朝霧あり。 午前、 真証寺に至りて同窓者の撮影に加わる。 午後、 法界寺に至り再び公会に出演す。 発起者は前日のごとし。  これより知事馬淵鋭太郎氏、 事務官真中直道氏、 後蔵隆三氏、 藤岡兵一氏の諸宅を歴訪して倶楽部に至り、 横地高商校長の紹介により、  一席の談話をなす。 山口町の開会に関し佐波氏、 戸田、 岡原両氏の特に尽力せられたるを謝す。 当夕八時、 山口出発。 小郡駅にて特別急行に転じて東に向かう。 山口付近は九分どおり穫稲を終わる。 山には松樹多く、 紅葉いたってまれなり。

 二十七日    快晴。 午前八時、 大阪〈現在大阪府大阪市〉に着す。 播州地はやや稲刈りに着手せるを認む。 着阪ただちに北区西寺町法界寺に入りて休憩し、 午後二時、 天王寺公園内公会堂において、 文学士大村桂巌氏とともに演述す。  主催は仏教各宗有志懇話会なり。 哲学館出身高安博道、 岡田桂岳両氏、 諸事を斡旋せらる。 演説後、 茶臼山町雲水寺(本名邦福寺黄檗宗)に移り、  一山伝来のシナ式精進料理の晩餐会に列す。 大迫師団長も出席せらる。夜に入り、 大阪第二北野尋常小学校至誠会発会式に出演す。 校長は若林常順氏なり。 当夜、 十一時半発の急行にて東に向かう。

 二十八日    穏晴。 午前四時半、 名古屋着。 駅前の清駒旅館に休憩し、 八時半、 乗車。 九時半、 三河国碧海郡安城〔町〕〈現在愛知県安城市〉着。 昼間は大谷派説教場、 夜間は役場議事堂において開演す。 各宗寺院連合会の発起にかかる。 その主唱者は字箕輪光明寺鈴木了道氏なり。 氏は先年、 飛騨国高山町において相識となれり。  当夕、 駅前豊田屋に宿す。 安城町は戸数 三千の内、 市街をなす所に五百戸あり。 停車場を開かれしより、 無人家の地にこの繁栄をきたせりという。  この町に県立農林学校あり。 尾三両州は昨今いまだ刈稲期に入らず、 その着手はなお数日の後にあるべし。

 二十九日    晴れ。  この日、 大谷派門跡安城町説教場へ巡教せらるる由にて、 早朝より善男善女、 遠近より雲集す。 午前中に車行二里半、 黄稲田間を一過して明治村〈現在愛知県安城市、 碧南市、 西尾市〉栄願寺に至り、 午後、 開演す。 西端積善会の主催にして、 住職杉浦晃赫氏、 会長杉浦八十五郎氏、 村長鳥居栄太郎氏、 青年会長原田高明氏、 校長粟屋鉚太郎氏等の発起にかかる。 村外四望稲田海のごとく、 秋すでに熟して碧海の名、 黄海に変ずるの趣あり。  この地は桃林をもってその名高し。

 三十日 開晴。 ただし風あり。 早朝、 宿坊栄願寺にて一席の講話をなし、 応仁寺に至り中興大師蓮師の旧跡を参拝す。 毎年、 御忌には非常の群参をなすという。 その堂は丘上にありて、 崖下に油ケ淵あり。 風光やや佳なり。所感一首を綴る。

  法運依然碧海郷、 中興遺跡有余光、 油淵一帯明如鏡、 影是応仁古仏堂、

(仏法の推移は昔ながらに碧海の里にあり、 中興の大師蓮如上人の遺跡は、 いまになお恩徳がある。 油ケ淵の一帯はくもりない鏡のごとく、 影があるとすればそれは応仁寺の古仏堂である。)

 これより車行一里にして高浜町〈現在愛知県高浜市〉恩任寺に入る。 当町は瓦、 土管等の製造地なり。 午後、 開演す。 住職石川現道氏の主催にかかる。 晩食後、 腕車を駆りて刈谷駅に至る。 三河三ヵ所の随行は哲学館大学出身静恵循氏なり。 刈谷より名古屋に転じ、 夜半十二時発の急行に乗り込む。

 三十一日(天長節)  晴れ。 午前九時、 新橋着。 午後、 東洋大学紀念祝賀会に出席す。 その後、 腸胃病を発し、箱根温泉湯本福住楼に入浴して、 滞留週余に及ぶ。


 

山口県開会第一回一覧

市郡     町村      会場     席数   聴衆     主催

美禰郡 太田村      寺院     二席     六百人    青年会

   西厚保村     小学校     二席     七百人    ニヵ村長

   大嶺村       寺院     二席      一千人    村長

   於福村       寺院     二席      八百人    村長

   共和村(字嘉万) 寺院     二席     八百人    村長

   同(字八代)    寺院     二席     四百人  村長および住職

   秋吉村       寺院     二席     四百人    住職

   綾木村      寺院     二席    一千人   三村連合青年会

阿武郡 萩町       別院     二席    千三百五十人 仏教青年会

   同       劇場     二席   千六百人  本町および郡教育会

  明木村      小学校     二席    六百五十人  青年会

  吉部村      小学校     二席    五百五十人   同村

  小川村      小学校     二席    六百五十人   同村

  奈古村      寺院       二席   七百人   青年会長

 山田村          寺院       二席   八百人 村長、 校長、 住職

 三見村        寺院       二席   千二百人    斯民会

大津郡 深川村(字正明市) 寺院     二席   六百五十人 村有志および寺院

  同(字渋木)  院       二席    六百五十人   同前

  同      高等女学校     一席     二百人    校長

  同     小学校        一席     三百人   郡教育会

 三隅村(字土手) 小学校      二席    千二百人    伝道会

 同(字津雲)  寺院       一席    三百五十人   住職

 仙崎村     寺院         二席   千百五十人 村および寺連合

 俵山村     寺院         二席    七百人     村役場

 日置村(字古市) 劇場         二席   一千百人    村有志

 同(字黄波戸) 寺院       一席     三百人    村有志

菱海村(字人丸) 寺院       二席    一千百人    村役場

 同(字伊上)  寺院       二席    八百人     青年会

豊浦郡 長府町  寺院       二席    五百人     町役場

 田耕村     寺院         二席    五百五十人   村長

 阿川村     寺院        二席     七百人    ニヵ村連合

 粟野村    小学校        二席     六百人    青年会

 滝部村     寺院        二席     百五十人  青年会

 西市村    小学校        二席     八百人    三村連合

 岡枝村     寺院        二席    六百人    ニヵ村連合

 内日村    小学校        二席    五百五十人    村長

 小串村     寺院        二席          三百人     青年会

 川棚村     寺院        二席          三百五十人    同村

  黒江村     寺院        二席          三百五十人    自彊会

 豊西上村   小学校        二席          二百五十人     村有志

 安岡村     寺院        二席           六百人      青年会

厚狭郡 船木村  寺院      四席     六百人      村役場

  同   技芸女学校      二席     二十五人    向上会

 厚西村     寺院       二席    六百五十人    村役場

 厚東村     小学校      二席            五百人     青年会

 高千帆村   中学校      二席          三百人       校友会

 須恵村     寺院         二席          三百五十人    村役場

 藤山村     寺院       二席           六百人      同村

 宇部村     寺院       二席          六百五十人      村長

吉敷郡 山口町  寺院      四席     六百人      各宗寺院

 同    高等商業学校     一席   三百五十人      同校

 同     師範学校      一席    六百人        同校

 同      中学校      一席    六百人        同校

 同      倶楽部      一席    五十人       同会員

 小郡町    小学校        二席    七百人      町長、 校長

 西岐波村   寺院        二席    八百人       村長

  東岐波村   寺院        二席   六百人      青年会

  井関村     寺院       二席    四百五十人      村有志

 嘉川村    小学校      二席    五百人        青年会

 秋穂二島村  小学校       二席    四百五十人     村長

 名田島村  小学校       二席    五百人        同村

以上合計    六郡、 四十八町村(四町、  四十四村)、 六十一ヵ所、 百十八席、 聴衆三万七千八百七十五人、 日

数四十六日間(東京より往復日数を除く)

(この六郡中、 吉敷郡を除くの外はみな長門国なり)

演題類別

詔勅および修身に関するもの   五十一席

妖怪および迷信に関するもの   十六席

哲学および宗教に関するもの   二十三席

教育に関するもの   十四席 

実業に関するもの   七席

雑題(旅行談等)に関するもの  七席



付大阪市および三河国開会一覧

大阪市   天王寺公園  公会堂  一席  四百人   仏教懇話会

     同       寺院  一席  八十人    同前

    北区北野  小学校   一席  一千三百人     至誠会

三河国碧海郡 安城町   説教場  一席  五百人   各宗寺院連合

     同      議事堂  一席  四百五十人   同前

    高浜町     寺院  二席  六百人    住職

    明治村     寺院    三席  八百人   積善会

合計 一市、  一郡、 三町村(二町、  一村)、  七ヵ所、 十席、 聴衆四千百三十人、 日数四日間


演題類別

詔勅および修身に関するもの 五席

哲学および宗教に関するもの 二席

教育に関するもの 一席

雑題に関するもの 一席

(注 意)

毎編紙数に限りあるために、 山口県第二回巡講日誌および大正三年度報告は、 次編すなわち第九編に譲ることとなす。