5.解説―井上円了の 妖怪学の歴史的意義:板倉聖宣

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解  説

井上円了の妖怪学の歴史的意義 板 倉 聖 宣

 筆者は井上円了の妖怪学に関して、すでに「妖怪博士・井上円了と妖怪学の展開」というかなり長い文章を書いたことがある(『仮説実験授業研究』第11・12集、仮説社、一九七七年)。そこで、その文章をそのままここに転載してもいいようにも思えるのだが、その文章はすでに筆者の論文集『かわりだねの科学者たち』(仮説社、一九八七年)に収録したうえ、さらにそれを少し増補して国書刊行会版の『井上円了・新編妖怪叢書』(一九八三年)の解説に転用したことがある。そこで、それとあまり重複する文章を書くのは気が引けるし、本書の他の解説文と重複する恐れもある。そこで、すでに書いたことについては簡単に記すだけにして、あとはあまり重複しないようなことを書きたいと思う。ご了解のほど、お願いしたい。

 

井上円了以前のヨーロッパでの妖怪学研究の始まり

 「妖怪学」という独自な学問は、井上円了が創始したものである。しかし、彼の「妖怪学」にも先駆者がいないわけではない。それなら、「これと同じような学問はいつごろどこで始まったか」というと、それは、英国のレジナルド・スコット(一五三八?~一五九九)が一五八四年に著した『魔法の解明』に始まると言っていいだろう。近世初期の欧米諸国=キリスト教諸国では、「魔女裁判」という恐ろしい迷信が流行した。そこで、英国の政治家でもあったレジナルド・スコットは、多くの人びとが魔女の存在を信じていることから解き放ち、「魔女」とされた人びとを魔女裁判から救うために、『魔法の解明』という大著を著して、「魔女が行うとされる魔術は一種の手品に過ぎない」ということを明らかにしたのであった。

 一六一二年にはスコットの『魔法の解明』の一部を抜粋した本が『奇術の技術』と題して出版されて、手品の本として普及したという。スコットの『魔法の解明』は、世界最初の手品の本でもあったのである。

 江戸時代に日本と貿易関係のあったオランダでは、その後一八一一年にボイスが『民衆の科学||誤解・偏見・迷信をしりぞけるために』という科学啓蒙書を著して出版文化賞を受賞したが、その本は日本でも原文のまま翻刻されて、オランダ語や自然科学を学ぶための恰好の教科書として広まった。そしてさらに一八六五(慶応元)年には、佐賀藩の大庭雪斉が日本語に全訳して、『民間格知問答』として出版した。それを読むと、この本も魔女裁判と関係があったことが分かる。

 一八五二~三年のころ、欧米諸国で「心霊術ブーム」が起きた。そのとき、各国の一流の科学者たちもその謎を科学的に解明する仕事を展開した。井上円了が著した妖怪学関係の最初の単行本は『妖怪玄談||第一輯・狐狗狸の事』だが、その本の中で彼がその謎を解明した「コックリさん」は、欧米の「テーブル・ターニング=机転術」が明治初年に日本に伝わって流行したものであった。英語の「テーブル・ターニング=机転術」という言葉が初めて使われたのは一八五三年のことだというが、欧米の一流の科学者たちもその謎の解明に取り組んでいたのである。たとえば、ドイツの有名な大数学者ガウス(一七七七~一八五五)や英国の有名な大物理学者のファラデー(一七九一~一八六七)は、「テーブル・ターニング=コックリさんで机を動かしているのは、その机に手を触れている参加者自身である」ということを実験的に証明した。またロシアでも、原子の周期表で名高いメンデレーエフ(一八三四~一九〇七)が一八七五(明治八)年に、ロシアの物理化学会に「心霊現象を究明する委員会」の設置を要求し、心霊術のカラクリ解明に乗り出していた。マルクスとともに「唯物弁証法」の提唱者として有名なエンゲルスが「心霊界での自然科学」を書いて、心霊学を批判したのは一八七八年のことであった。

 

 井上円了の妖怪学の展開

 日本では、一八六八年=慶応四年=明治元年に明治維新が起きて、ヨーロッパ諸国よりもずっと遅れて近代化の一歩を踏み出したが、明治維新の年の七月には小幡篤次郎の『天変地異』という啓蒙書が慶応義塾から出版された。社会の近代化と妖怪=迷信の退治とは、車の両輪のようなものであったからである。その後一八七三(明治六)年九月には、鳥山啓著『変異弁―天変地異拾遺』という本も出版されている。

 井上円了は、明治維新のとき一〇歳であったが、そのころ通った村の漢学塾でいい先生に恵まれた。幕末の江戸の西洋医学所で西洋医学を学んだ石黒忠悳(一八四五~一九四一)が、維新の戦乱を避けて越後の村で漢学塾を開いたのである。井上円了はこの先生に可愛がられたが、西洋医学を修めた先生から漢学を学んだ彼は、当然のようにして洋学の重要性を悟った。そこで、一八七四(明治七)年五月には新潟学校第一分校(旧長岡洋学校)に入学し、京都の東本願寺の教師教校を経て、一八七八(明治一一)年、東本願寺の留学生として東京大学予備門に入学することになったのである。彼は一八八一(明治一四)年九月に東京大学文学部哲学科に進学して間もなく妖怪学研究に着手したという。しかも、彼が一八八五(明治一八)年七月に哲学科を卒業する少し前に、当時のもっとも権威ある学術雑誌『東洋学芸雑誌』に「奇怪不思議の研究」という文章が載った。筆者は動物学科の同級生であった箕作元八(のち東大西洋史の教授)で、そのころ英国で始まっていた心霊学の研究の動向を紹介したのである。井上円了は、そのような先進国での研究に呼応して、日本で「不思議研究会」を発足させることを提唱して、同志を募ったのであった。

 不思議研究会の第一回会合は一八八六(明治一九)年一月二四日に開かれたが、このとき会に参加したのは、箕作のほかに、哲学科卒の三宅雄二郎、物理学科卒の田中館愛橘、化学科卒の吉武栄之進、医学部卒の坪井次郎、動物学科学生の坪井正五郎、物理学科卒の沢井廉、東京山林学校学生の福家梅太郎、和漢文学科卒の棚橋一郎、予備門理科卒の佐藤勇太郎、政治学理財学科卒の坪内雄蔵〔逍遥〕という面々であった。井上円了はその会を組織すると、すぐに研究資料の収集をはじめた。その年の四月に発行された彼の『(通信教授)心理学』の第三講「付言」に、「各地方の妖怪に属する事実を考察・報導せられんことを希望してやまざるなり」と記している。

 それからの彼の活動は目をみはるものがある。すなわち、その翌一八八七(明治二〇)年一月には、出版社の哲学書院を創立して、その年五月には、その哲学書院から『妖怪玄談||狐狗狸の事』を出版した。これは妖怪学に関する彼の処女作であった。そして、その年の九月には、現在の東洋大学の前身の哲学館を創立したが、『哲学会雑誌』一一号の巻末広告欄に「小生儀、病気にて読書・著作相廃し候につき、病養のかたわら妖怪事件実地研究いたしたく」と、妖怪に関する事実や解釈を公募した。彼は後には神経症に悩まされて、たえず旅行して歩いたのであったが、その病状がすでに表れていたのかも知れない。一八九〇(明治二三)年にはもう、全国を周遊して妖怪に関する情報を集め、一八九一(明治二四)年に『哲学館講義録』に「妖怪学」の連載を開始した。もっとも、これは本書に掲げてある『妖怪学講義』そのものではない。彼はその後一八九三(明治二六)年秋に「哲学館第七学年度講義録」として、全く新しい妖怪学の講義録を公表しはじめたのである。その連載は一八九四(明治二七)年一〇月に完結したが、それが本書でいう『妖怪学講義』である。

 丁度そのころ、物理学界は、庶民にはまさしく「妖怪」と思えるような発見を相次いでもたらしていた。すなわち、ドイツのレントゲンがエックス線の発見を報告したのは一八九五(明治二八)年一二月のことで、フランスのベクレルが放射能の発見を報じたのはその翌年のことであった。その年の六月八日、井上円了は文学博士の学位を得て、学者としての地位を確立した。

 その後も彼は妖怪学関係の著書を相次いで著した。それを出版年月順に挙げると次のようになる。

  一八九七=明治三〇年一一月、井上円了『妖怪研究の結果―一名妖怪早わかり』哲学館刊。

  一八九八=明治三一年 二月、井上円了『(通俗絵入)妖怪百談―一名偽怪百談』四聖堂刊。

  一九〇〇=明治三三年 四月、井上円了『妖怪学講義』を『妖怪学雑誌』と改題して出版~翌年四月まで。

  一九〇〇=明治三三年 四月、井上円了『(通俗絵入)続妖怪百談』哲学書院発行。

  一九〇一=明治三四年一二月、井上円了『妖怪叢書①哲学うらない』哲学館発行。

  一九〇三=明治三六年一二月、井上円了『妖怪叢書③天狗論』発行。

  一九〇四=明治三七年 一月、井上円了『妖怪叢書②改良新案の夢』発行。

  一九〇四=明治三七年 九月、井上円了『妖怪叢書④迷信解』発行。

  一九〇四=明治三七年一一月、井上円了『心理療法』南江堂発行。

という調子である。そして、その直後の一九〇五(明治三八)年一二月、彼は哲学館大学学長など一切の職を退いたのである。その後も彼は妖怪学関係の著書を著すが、そのことについては後で触れることにする。

 

 彼が外地で病死して以後、日本は軍部という妖怪に操られて、戦争につぐ戦争に突入した。そして、一九四五(昭和二〇)年八月一五日、無条件降伏して、第二次世界大戦を終えた。

 それから間もない一九四六(昭和二一)年一一月二七日、文部省の科学教育局資料課は「各地における慣習状況調査表」を発送して迷信調査を開始した。すなわち、一九四七(昭和二二)年一二月二四日には、文部省に「迷信調査協議会」が設置された。そして、一九四九(昭和二四)年七月五日には、その委員たちによって、叶沢清介編『(迷信教室)雷になった神主』(出水書園)という啓蒙書が発行になり、さらにその年の九月一五日から一九五〇年一二月一五日までの間に、文部省迷信協議会編『迷信の実態』『俗信と迷信』『生活習慣と迷信』という「日本の俗信」(技報堂)三部作が揃った。井上円了が一人で組織した迷信調査は、敗戦後になって初めて文部省が組織的に行ったのである。

 

 妖怪・迷信研究の今日的な意義

 今日の日本では、妖怪とか迷信などというものは、ごく一部の無知蒙昧な人々だけが囚われるもので、大部分の日本人にとってはすでに卒業済みのものにも思える。そう考えると、今さらそれを否定することは「大人気ない」「やぼったい」ように思われてしまう。じっさい、故平野威馬雄氏などは〈お化けを守る会〉などという会を組織して、お化けを退治しようとする人々から守ろうという動きを見せた。しかし、これまでの日本の歴史を見る限り、妖怪・迷信は不滅であった。それは、とうてい「馬鹿げており、すでに卒業済み」などと言って済ませられない状態にあると言っていいだろう。だからこそ、文部省は敗戦直後に「迷信調査協議会」を組織して、迷信・妖怪の組織的な調査を行ったのである。それは、「日本が無謀な戦争を続けた背後には、非科学的な軍国主義思想があった」との反省の上に立つものであった。文部省迷信協議会編『迷信の実態―日本の俗信Ⅰ』(技報堂)などを見ると、井上円了の『妖怪学講義』の内容が彷彿としてくるであろう。

 それなら、「敗戦後の日本人は、各種の妖怪や迷信に惑わされることがなくなった」と言っていいだろうか。 いや、到底そうとは言えそうもない。

 たとえば、「丙午迷信」というのがある。「丙午年生まれの女は男を食い殺す」といって、丙午年生まれの女を結婚から排除する迷信である。「丙午年」というのは、「十干十二支」を利用した古代中国以来の年の表現方式で、「甲子の年/戊辰の年」などというのと同じく、それ自体は何ら迷信ではない。それは、今日の私たちが「西暦○○○○年」などと年を表現するのと同じことだが、ただ六〇年周期で同じ名称の年がやってくることが違っている。ところがその後、その年の表現に陰陽五行説を結びつけることが流行した。そして、「丙午の年というのは、〈火の兄〉の〈午=火性〉で火性が二つ重なった年だから、その年に生まれた女は気性が火のように激しい。そこで、結婚すると夫を食い殺す」などという迷信が発生したのである。

 この迷信のことは、なぜか『妖怪学講義』の膨大な論議の中にも出てこない。この講義の「純正哲学部門」の「第二講 陰陽篇」の「十干十二支」の節や「第七講 暦日篇」、あるいは「教育学部門」の「結婚論/結婚と迷信との関係」などの節で取り上げられてもよかったはずなのに、全く言及されていないのである。ただ「理学部門」の第一講・第十二節「雷電・天鼓・天火」の節の引用文中に、「明くれば天明六丙午、元日も丙午。日蝕皆既いかなる天災にやならんと、諸人安き心はなかりしに」などとあって、「その年月の干支が天変地異に関係する」という考え方が出てくる。井上円了は、「あの人は子年生まれだから、ちょこまかしている」とか、「私は午年生まれだから、足が速い」などという生まれ年による話題は、迷信・妖怪と呼ぶまでもない軽い冗談と見なしたのであろう。

 しかし、彼が『妖怪学講義』を集大成した明治二六~二七年=一八九三~四年からあと一二~一三年後の一九〇六(明治三九)年には、日本の近代化以後最初の丙午の年がやってきた。ところがそのとき、人々はその迷信に大きく支配されていることは無視しえないことが明らかになったのである。「自分たちの子ども、とくに女の子がその年に生まれると、結婚するときになって差別されるかも知れない」と恐れた人々は、その年に子どもを生まないように努めたり、その年に生まれた子どもの誕生年を役所に前後の年と偽って申告したりした。そういう人々の数が、何と前後の年と比べて一〇%に達したのである。

 このことを見て、「やはり明治三九年という時期には、まだ教育が行き届いていなくて、そんな迷信がそんなに人々に大きな影響を与えたのか」と思うのは、早とちりというものである。じつは、それから六〇年後の一九六六(昭和四一)年も「丙午の年」に当たっていたが、この年の出生数はその前後の年と比べて二五%も激減するという結果になったからである。丙午迷信の影響は、明治期よりもずっと教育が普及したはずの昭和期のほうが顕著に表れたのである。筆者はこの事実を詳しく分析して「丙午迷信と科学教育」という論文にまとめて、『科学教育研究』第七集(仮説社、一九七二年)に発表したことがある(筆者の論文集『私の新発見と再発見』仮説社、一九八八年に再録)。欧米人がこの事実を知ったら、「日本人は、産業経済の世界では世界のトップに立ったというのに、なんと迷信・妖怪に弱いのか」と不思議に思い、軽蔑せざるをえないことだろう。

 明治期の丙午年での出生率の低下を道府県別にみると、東京が二〇%減で一番大きく、神奈川・千葉・埼玉・静岡・茨城・山梨という順になっており、東京周辺と旧江戸文化になじみのある地域||茨城県・静岡県・和歌山県などが中心で、中国地方や四国・九州での減少は例外的であった。同じ大都会でも大阪府での減少は四%に止まっていたのである。ところが、昭和期の丙午年にはほとんど全国一律に出生率が激減した。東京都での出生率の減少は明治期の二〇%減に対して昭和期は二三%減とあまり変わっていないが、明治期には三%減に止まっていた福井県では、昭和期には何と三六%も激減した。そこで、昭和丙午年の出生率の減少のとくに激しい都道府県を挙げると、三重・高知・福井の順となっている。明治期には旧江戸文化中心だった丙午迷信は、昭和期になって日本全国に普及したのである。これを見ると、「迷信は無知蒙昧から生ずる」というより、「迷信は一種の文明病である」といったほうがいいことになる。丙午迷信は、昭和期になって、明治期にはなかった婦人週刊誌などのマスコミを通じて、全国に普及したのである。

 「迷信は一種の文明病だ」ということは、今日のテレビでの超能力番組の盛行を見ても察することができる。井上円了が本書の中で詳しく説明しているコックリさんは、明治初年になって外国から伝来したもので、当時は新しい妖怪・迷信であった。ところが、彼がその謎を解明したあとも、絶滅あるいは衰退するどころか、今日なお「キューピットさん」などとその名を変えるなどして、その流行を繰り返している。また、「今年=一九九九年七月に人類絶滅の大事件がある」という「ノストラダムスの大予言」の普及もテレビやマスコミが煽って、大学生でもその半分近くに大きな影響を与えたという。それに、オウム真理教の犯した大きな犯罪が、学歴エリートたちによって行われたという事実もよく知られている。このように、迷信とか妖怪というものが一種の文明病だとすると、迷信・妖怪克服の仕事は、「卒業済み」といって済ませることでないことが明らかであろう。井上円了の仕事は、文明の先端を行く仕事でもあったのである。

 

 迷信・妖怪はなぜなくならないのか

 それでは、なぜ妖怪や迷信はなくならないのか。それは、「マスコミが煽るから」というだけでは説明がつかない。「もともと多くの人びとは迷信好き、妖怪好き、超能力好き」ということがなければ、マスコミもそんな話題を繰り返し繰り返し取り上げるはずもないのである。それなら、どうして人々は迷信・妖怪・超能力にそんなにも興味をもつのだろうか。

 それは、一つには、迷信というものは生活上で役立つことが少なくないからである。多くの人びとは、「迷信は有害無益だ」とのみ考えているので、「迷信が役立つ」などというと、その非常識さに驚くかも知れないので少し詳しく説明しよう。

 たとえば、人びとは今日なお、結婚式を挙げるのに「日の吉凶」を問題にして日をえらんだりする。あれは「結婚式を挙げるのに縁起のいい日がある」という確信に基づくというよりも、「何時でもいい」というと「日を選ぶのに任意性がありすぎて大変だ」ということがあるからでもある。アメリカ人などに「今度また何時かいらして下さい」などというと、「何時?」「あした?」「来週の今日?」などと尋ね返されて慌てることがある。当人は、単なる外交辞令で「今度また何時かいらして下さい」と言ったつもりではなくとも、そうすぐに日を決めることなど考えていないことが多いからである。しかし、「今度また何時かいらして下さい」と言われて、実際に行きたいと思っていても、大抵の場合はその日を選ぶのが大変だ。「ある日が都合よくて他の日は都合が悪い」ということはあまりないからである。そこで、ふだん忙しい人のほうが、その日を決めやすいことになり、却ってそういう人のほうが事がはかどることがある。

 「理屈はどうでもいいから、何かの根拠で日を決めてもらったほうが行動が起こしやすい」ということも少なくないのである。だから、「結婚式を挙げるのにいい日」とか、「旅行にいい日」などという日があると便利なことがある。「土用丑の日、ウナギの日」などというのも、その手のキッカケの論理に役立ったりするわけである。私たちは、あまりにも任意性があると、判断するのが面倒になる。食堂などでメニューが豊富過ぎると、選ぶのが大変だ。そこで「本日お勧めの料理」とか「店長お勧めの料理」などとあると、選択が楽になる。今日の私たちは、昔の人々よりもはるかに束縛がなくなって自由に行動できるようになった。そこで却って、多くの自由の中からどれを選んだらよいかとても困ることが少なくないのである。

 どちらに進んだほうがいいか、選択する根拠が全くなくても、どちらかを選択しなければ行動が起こせない。道に迷ったときには、どちらに進んだらいいか分からないのだから、「理由のない行動が出来ない人」は、どちらに進むことも出来なくなる。そういうときには、「棒を倒して倒れた方向に進む」というやり方でもいいから、一方に進むよりほかない。人生上の問題では、かなりの判断を他にまかせて、「占いにでも頼ったほうが楽」ということも少なくない。だから「人びとは自由になるほど占いに頼る」ということにもなるのである。

 そこで私は、「選択の根拠がなくて困るときに、何か行動を起こすキッカケをつかむためには、それが迷信であると承知の上で迷信を使うといい」と考えて、『火曜日には火の用心||暦にのこる昔の人びとの智慧と迷信』(国土社、一九七三年)という本を著したことがある。じつは、井上円了は筆者よりもずっと前に同じことに気づいていた。彼は、「同じ占いならこんな占いはどうか」といって、「哲学占い」というものを考えだしたのである。彼の「哲学占い」だって易者の占いとかわることはなく、デタラメである。彼はそのことを十分承知の上で「哲学占い」を推奨したのである。易占いを神秘的に信用しすぎると、ときには行動の自由を縛られ過ぎて困ることもある。そういうことにならないようにするためには、彼の「哲学占い」のほうがいいわけである。彼が「妖怪叢書」の一冊として『哲学うらない』を書いたのは、「彼の妖怪学が単なる妖怪退治ではなかった」ということを示すものと言えるだろう。

 

 「妖怪・迷信」扱いされたものでも間違っているとは限らない

 妖怪や超能力がなかなかなくならないのは、それが人びとの好奇心を満たして、手っとり早く分かりやすいからでもある。今から見ると単なる迷信・妖怪としか見られないものも、はじめにそれを考えた人々にとっては、「とても豊かな空想を伴う仮説」であった。「仮説」と考えれば、それは科学に近いものであった。そこで、迷信・妖怪の研究は、「結局は間違ってはいても、人々の考え方、好奇心の持ち方を示すもの」として、とても面白いのである。井上円了があれほど熱心に妖怪学の研究を続けたのも、妖怪退治の社会的な意義を自覚したためだけではなくて、人びとが妖怪に仕立てあげた好奇心そのものにも興味があったからではないだろうか。それに、実際、権威ある人びとから長いあいだ「迷信・妖怪」扱いされてきたものでも、そのすべてが「迷信・妖怪」とは限らず、正しいものもあることを忘れてはならないのである。

 たとえば、今ではほとんど忘れ去られているが、明治・大正期には、「麦飯や玄米飯には脚気を予防する効果がある」ということが広く信じられていた。そのような療法は、江戸時代から一部の漢方医たちに認められ、民間療法ともなっていたのである。ところが、明治以後、そのような療法は西洋医学者たち、とくに東大医学部の教授たちや陸軍の軍医本部(陸軍省医務局)の西洋医者たちによって、「全く根拠のない迷信」として激しく批判攻撃されてきたのであった。しかし、それから五〇年以上もたって、それは正しい療法で、脚気を「一種の感染症」とする権威者たちの考えのほうが迷信そのものであることが明らかになったのであった。

 じつは、「麦飯による脚気予防法」を長いあいだ「迷信」と決めつけた陸軍軍医本部の中心人物は、井上円了が故郷長岡で漢学を教わった恩師、石黒忠悳その人であった。石黒はその後東京に戻り、西洋医学所の後身の大学東校の教師を経て、兵部省(のちの陸軍省)に入り、陸軍の軍医部門の組織を確立する仕事をなし遂げた。そこで彼は、当時の日本の陸軍での一番の問題=脚気の克服にも取り組まないわけにはいかなかった。徴兵令のもとで東京や大阪の兵営にやってきた兵隊の半分近くもの者が、毎年夏になると脚気になった。そこで石黒たちは、東大医学部の前身の東京医学校のお雇い外人教師に助けを求めたが、脚気は日本というかアジア独特のもので、欧米では全く知られない病気だったために、外人教師たちも確かなことを言えなかった。そこで石黒は、それらの外人教師のもとで本格的なドイツ医学を学んだ日本人学生がその謎を解明してくれることを期待して、東大医学部の卒業生たちを大量に陸軍に入れた。のちに作家として有名になった森林太郎=鴎外は、石黒がもっとも期待をかけた医学者であった。

 軍隊だけではない。東京や大阪に集まってきた学生たちの多くも脚気に苦しんだが、明治一〇年には、明治天皇まで脚気になり、天皇の叔母に当たる皇女和宮=静寛院宮も脚気になった。その時天皇は、転地療法のために箱根に移った静寛院宮の治療のために、自分の侍医たちを箱根に派遣したのだが、その治療も効なく間もなく死んでしまった。当時日本最高と思われていた西洋医たちも和宮の命を救えなかったのである。そこで、天皇は侍医や重臣たちの意見を聴かなくなり、明治一一年には天皇のお声がかりで「脚気病院」が設立されたが、その治療法は確立されなかった。

 しかし、陸軍の脚気は明治一七(一八八四)年以後、急速に減少した。大阪鎮台の堀口利国軍医部長が、西洋医学者たちの常識を破って、麦飯支給を実現して以後のことである。海軍もそれに続いて麦飯を支給して、脚気を撲滅した。しかし、石黒忠悳や森鴎外らの陸軍軍医本部は、脚気の減少を麦飯支給によるものと認めず、「麦飯に脚気予防効果がある」という考えを、「漢方医学の迷信に過ぎない」と批判してやまなかった。東大医学部の教授たちも陸軍軍医本部と同じであった。彼らは、脚気をコレラ・赤痢などと同じような感染症の一種と考え続け、「脚気菌」の発見に懸命になったのであった。その人びとの「麦飯脚気予防説」に対する迷信呼ばわりは徹底していた。

 それにもかかわらず、日本各地の部隊の軍医部長たちは、相次いで大阪の師団の兵食の変更による脚気撲滅の成果を受け入れて、自分の受け持ちの師団の兵食を麦飯に切り換えて成果をあげた。そこで、日本の現場部隊の兵食はすべて麦飯となって、日清戦争までには、日本の軍隊からは脚気はなくなっていたのである。ところが日清戦争が起きると、戦地への食料支給の権限を握っていた陸軍省医務局は戦地へ白米だけを送った。その結果、戦地で膨大な脚気患者が発生するに至った。それでも、東大医学部と陸軍省医務局は、「戦地の脚気は〈戦時脚気〉という特別な脚気で、麦飯を支給しなかったためではない」と主張し続けたのであった。そして、日露戦争のときも、同じ間違いを犯したのであった。当時の日本最高の医学者たちは、「〈麦飯に脚気予防効果がある〉という迷信の撲滅」を至上の課題としていたのである。

 その間に脚気が一種の栄養障害症であることは、オランダ領インドシナ(現在のインドネシア共和国)に派遣されてきたオランダの軍医たちによって解明され、一九一二年にはビタミン概念が提出されるまでになった。それでも、東大医学部の教授たちはなかなか、脚気がビタミン欠乏症であることを認めなかった。森鴎外とともにもっとも強固な「麦飯迷信論者」だった東大医学部長の青山胤通が脚気のビタミン欠乏症であることを認めたのは、彼が死の床にあった大正六(一九一七)年のことである。

 以上、日本における脚気の研究の話をかなり詳しく書く結果になったが、この歴史ほど「科学と迷信」の境界を定めることがいかに困難であるかを物語るものはないと思うからである。じつは、このような歴史は筆者自身が一九八八年に著した『模倣の時代』上下二冊(仮説社)によってはじめて明らかにされたことで、それまで東大医学部と陸軍軍医本部の恥になることとして秘密にされていたのである。妖怪学の研究というものも、そう容易ではないのである。

 

 『妖怪学講義』以後の日本に大流行した妖怪||千里眼事件その他

 もちろん、妖怪とか迷信は時代とともにその姿を変えて現れる。だから、井上円了が本書の中で詳しく論じた妖怪がそのまま残っているとは限らない。そこで、彼の『妖怪学講義』の出版以後に日本で大流行した主な妖怪・迷信を補っておこう。

 その第一は、すでに挙げた「丙午の迷信」であるが、その次に起きた大事件は、一九一〇(明治四三)年からその翌年にかけて、当時の唯一のマスコミ=新聞紙上を大きく賑わせた「千里眼・透視」事件である。詳しく書くときりがないので、年表的に日時を追って記していくことにしよう。

 事件の発端は、一九一〇(明治四三)年四月に、〈京都帝国大学医科大学教授の精神病学者今村新吉〉と〈東京帝国大学文科大学助教授で変態心理学者の福来友吉〉とが、熊本の御船千鶴子の「透視能力」を研究して、とくに福来助教授がその異常な能力を紹介推奨したことから始まった。「透視能力」というのは、「不透明なものを透して物を見る能力」で、一八九五年にレントゲンがすでに発見していたエックス線の働きに似ている。そこで「これは物理学的な現象だ」というので、物理学者も加わって研究することになった。そこで、その年の九月一四日、物理学者で少し前まで東京帝大と京都帝大の総長を兼ねていた山川健次郎をはじめ、田中館愛橘(東大物理)・三宅秀・大沢謙二・片山国嘉・呉秀三・入沢達吉(以上、東大医学)・井上哲次郎(東大哲学)・丘浅次郎(東京高等師範学校・生物)・後藤牧太(同前校・物理)という当時もっとも有名だった大学教授たちが、当時最大の出版社=博文館の社長・大橋新太郎邸に集められて、御船千鶴子の透視=千里眼能力の実験を行ったのである。ところが、このとき「鉛管すり替え事件」が起きて、実験結果はうやむやになった。そこで、九月一七日に、第二回の実験が行われたが、これまた明確な結論が得られなかった。

 この事件が報じられると、愛媛県丸亀の判事夫人・長尾郁子をはじめ、「透視能力がある」というものが、全国各地に現れるようになった。しかも同年一二月二〇日ごろには、京都帝大の心理学専攻の三浦恒助という学生が、丸亀で長尾郁子の〈写真感光能力〉を実験して、「これは未知の光線の働きによるに違いない」として、その光線を「京大光線」と命名して発表した。そこで、事件はさらに人びとの関心を引くようになった。

 その結果、一九一一(明治四四)年一月三日~八日には、東京帝大の物理学科大学院学生の藤原咲平・同教室の関戸雄次助手、山川健次郎、東京帝大物理の藤教篤講師(報知新聞社嘱託)、第五高等学校の小野澄之助講師が、それぞれ丸亀にやってきて、〈長尾郁子の写真感光能力〉を実験することになった。ところが、そのときも実験サンプルが盗難されるなど奇怪な事件が相次いで起こり、実験は中止になった。そこで、藤教篤・藤原咲平は『千里眼実験録』と題する著書をまとめ、「当時の東大物理学科の教授陣のすべて」と言っていい山川健次郎/中村清二/田丸卓郎/石原純の序文・跋文を付して、同年二月一五日に大日本図書から出版した。丸亀の長尾郁子は、これに強く抗議したが、二月一八日には、熊本の御船千鶴子が自殺するに至り、同月二六日には、丸亀の長尾郁子が感冒のため急逝するという事件が重なった。

 そこで、東大物理学科教授の中村清二は、三月二一日の夜、東京帝大法科大学第三二番教室で、「理学者の見たる千里眼問題」と題して講演して、聴衆約四〇〇人の前で自ら手品の実験を見せた上で、「千里眼は一種の手品に過ぎない」と断定するに至った。その翌一九一二(明治四五)年一二月一三日には、福来友吉助教授の上司であった東京帝大文科大学心理学教室主任教授の元良勇次郎は事件の心労のためか亡くなっている。その翌一九一三(大正二)年七月二六日、その後任として京都帝大教授の松本亦太郎が、東京帝大の心理学教授に転職したが、同年八月、福来友吉は『念写と透視』を著して、〈透視能力〉の実在を主張し続けた。そこで、事件の打開をはかった東京帝国大学は同年一〇月二七日、福来友吉助教授を休職処分とし、間もなく退職に追い込む結果となった。

 これで、事件は表面的には鎮静化し、大部分の物理学者たちはその後この種の事件に関わらなくなったが、その後も〈千里眼〉とか〈透視〉という「超能力者」が相次いで現れた。一九一八(大正七)年二月には、三田光一という男が上京し、念写・透視の実験を行ったが、「金の延べ棒事件」を引き起して詐欺罪により逮捕されるという事件も起きている。このころ、東大天文学科中退の教育者隈本有尚は『天文による運勢予想術』(一九一四)を著したが、これは占星術そのものであった。日本の科学は、一九一〇年頃になって、こういう事件を経験して、妖怪を卒業したのである。

 それなら、井上円了はこの事件をどのように見ていたのだろうか。不思議なことに彼は何も発言していない。何も発言していないといえば、当時の日本最高の物理学者だった長岡半太郎や本多光太郎もそうだが、それは彼らが当時外国に留学していたことによる。井上円了はこの事件を馬鹿らしいものとして、圏外に立ったのであろうか。それでも彼は、一九一四(大正三)年七月に、『おばけの正体』を著して、自分のペースで妖怪学の研究成果を発表し続けた。そして一九一六(大正五)年三月には、『迷信と宗教』を世に出し、一九一九(大正八)年三月、『真怪』を著し、その年の六月六日に、大連幼稚園で講演中に倒れて亡くなったのであった。

 しかし、彼の『妖怪学講義』はその著者の亡くなったあとも、長く出版され続け、読まれ続けた。すなわち、一九二二(大正一一)年九月には、大鐙閣版『妖怪学講義』が発行されたが、これには全文にルビが付けられて、読みやすくなった。そのあと、一九三一(昭和六)年二月には、井上円了妖怪学刊行会版の『妖怪学』が全一冊本として刊行された。そして、その翌々年七月には、巧人社版の『妖怪学』六冊本が発行された。

 

 井上円了の『妖怪学講義』には、「透視・念写」という妖怪現象はまったく取り上げられていないが、その他にも『妖怪学講義』には全く取り上げられていない妖怪・迷信で、今日まで大きな影響を与えているものに、「血液型占い」がある。日本における「血液型占い」は、もともと教育学者の古川竹二が一九三一(昭和七)年一月三〇日に世に出した『血液学と気質』(三省堂)だから、井上円了が亡くなって以後に始まったことである。

 ユリ・ゲラーが日本テレビの「木曜スペシャル」に登場して〈スプーン曲げ〉などを〈超能力〉として宣伝して〈超能力ブーム〉を巻き起こしたのは、一九七四(昭和四九)年三月七日のことであった。そのとき「コックリさん」も日本中に大流行した。一九八九(平成元)年一一月には、福岡県中間市立中間中学校の三年生一二人が〈コックリさん〉の集団中毒にかかるという事件も起きている。井上円了の時代にはテレビはもちろん、ラジオもなかった。だから、テレビで超能力放送がこれほど盛行するということなど予想できなかったことだろう。

 本書には、もちろんノストラダムスの大予言も、オウム真理教も出てこない。そこで、オウム真理教の事件のことは今なお記憶に新しいが、これも間もなく忘れさられてしまうに違いないから、簡単に記録を止めておくことにしよう。

 麻原彰晃=松本智津夫が㈱オウムを設立したのは、一九八四(昭和五九)年二月のことで、一九八七(昭和六二)年八月に〈オウム神仙の会〉を〈オウム真理教〉と改称していた。そして、一九八九(平成元)年二月に、麻原彰晃の『滅亡の日』が出版されて、危険な宗教の様相を明らかにしていく。そこで、その年の一〇月二一日には、坂本堤弁護士の指導で〈オウム真理教被害者の会〉が設立されたが、同年一一月三日には、坂本弁護士一家が行方不明となった。一九九〇(平成二)年二月一一日に衆議院選挙が実施されたとき、オウム真理教は教祖をはじめとする沢山の候補を立てたが、麻原彰晃はわずか一七八三票で落選している。その翌年一〇月一九日には、麻原彰晃が『宗教にだまされるな』という著書を出しているのも教訓的である。そして、一九九四(平成六)年六月二七日に松本市でサリン事件が起きて七人が死亡するのである。その翌一九九五(平成七)年三月二日、麻原彰晃は『日出づる国、災い近し』という著書を出したが、その年の三月二〇日に東京地下鉄サリン事件を引き起こして、一一人を死亡させ五〇〇〇人以上を負傷させた。そしてその年五月一六日になって麻原彰晃が逮捕されるのである。

 これらの事件はもちろん井上円了の没後に流行したものである。今日の日本に闊歩している妖怪の正体を暴くには、この妖怪学の全集の六巻をしても不足なのである。

 

 近代科学以前の日本人の自然観の宝庫としての本書の意義

 本書に取り上げられている妖怪の中には、〈コックリさん=キューピットさん〉など、今日なお健在なものも少しはある。しかし、今日の日本人は、本書に取り上げられている妖怪の大部分は卒業済みで、ここに取り上げられている膨大な研究資料も、現代の〈妖怪・迷信〉退治の文献として直接生かせるものはあまりないと言ってもよい。そこで、「本書は〈妖怪・迷信に関する先駆的・古典的な研究書〉としての歴史的意義しかない」とも言えそうである。しかし、筆者はそうは考えない。「井上円了の妖怪学研究は、妖怪学だけでなく、もっと広く日本人の自然観を研究するための資料集として生かすことができる」と思うからである。

 今日の日本は、井上円了の時代とは違って、すでに産業の近代化に成功して産業経済大国になり、本書に直接取り上げられている妖怪の多くは卒業したとは言っても、科学研究の上ではまだまだ欧米諸国に大きく遅れている。一般的にいって、「一つの国の科学研究の水準は、その国の産業経済の発展に比例する」と言ってもいいのだが、今日の日本の場合は、その法則から大きく外れているのだ。そこで、われわれはいまなお、そのギャップを埋めるためにも、「日本人に何が欠如しているのか」という問題を改めて考えなおすことを必要としている。そのためには、日本人の古くからの自然の事物、自然現象に対する見方考え方を研究することの必要があるのである。その点、井上円了の『妖怪学講義』は「日本人の自然学」を研究するための宝庫と言っていいのである。

 筆者は、日本の科学史の研究を始めるようになって、それまでの日本科学史の研究のほとんどが「西洋の科学の摂取の歴史」に終始していることに強い不満を抱くようになった。「日本人は独自に近代科学を生み出すことが出来なかった」とはいっても、日本にだって欧米の科学者たちが研究対象としたのと同じ自然があった。だから、「日本人が自分たちの回りの自然現象や技術的に現れる現象をどのように見てきたのか」を明らかにして、「日本人は科学的な考え方にどれほど近づいていたか、どうして近代科学的な考えそのものに達することができなかったのか」ということを明らかにするのも、科学史研究の重要な課題ではないか、と考えたからである。しかし、そのようなことを研究しようとしても、資料的な手掛かりがなかなか得られないで困っていた。そんなときに、井上円了の『妖怪学講義』に行き当たり、「これを手掛かりにすれば、日本人の自然学に関する研究を進めることができる」と大いに喜んだのであった。

 すでに述べたように、いまから見ると単なる「妖怪」としか見えないものも、はじめにそれを考えた人々にとっては、〈とても豊かな空想を伴う仮説〉であった。そういえば、「この大地は丸い球体=地球の一部だ」という地球説だって、「地球は太陽の周りを猛烈な速度で回っている」という地動説だって、はじめてそれを聞いた人びとにとっては、とてつもなく妖怪的な発想としか考えられなかっただろう。その発想の元を辿れば「妖怪・迷信と科学とは紙一重の違い」とも言えるのである。そこで迷信の研究は、「結局は間違ってはいても、人々の考え方・好奇心の持ち方を示すもの」として、とても面白いのである。

 「近代科学を受容する以前の日本人が広い意味での物理化学現象をどのように理解していたか」ということに関する事柄は、主として『妖怪学講義』の「理学部門」の「第一講 天変篇」と「第二講 地妖篇」「第六講 怪火篇」で取り上げられている。その具体的な問題についての議論は「星雲説」から始められていて、地球もはじめ高熱だったのがだんだんと冷えて固まったとされているが、本書が書かれたのは放射能が発見される少し前のことであったから止むを得ない。科学の最先端の自然哲学に近い内容をとりあげれば、本書で説く科学知識の内容自体が間違っていても仕方がないのである。先端の自然哲学に関する事柄はいつだって怪しげで、妖怪的になってしまうのである。

 そのあと本書は、「地球論/空気論/風・暴風・回風・竜巻/水気論・露・霜・霧・雨・雪・霰・雹」といった自然現象についての昔の人びとの理解の仕方を詳しく紹介して、

 「気象の変化を悉く陰陽の理に由りて説明するは、固より無稽の憶想にして、今日の学理に照らさば蛮万の間に行われし妄信と一般、さらに取るべき所なしと雖も、これを古代各国の神代史中に説けるが如き、〈風雨雷震みなその神あり〉とする説に比せば、一歩を進めし説たるや疑いなし」

と説いている。同じく「間違っている」といっても、「アニミズム的な幼稚な間違い」と、「自然そのものの働き」として考えようとして間違えたのとでは、その間違いの質が違うのである。

 そこで「雷電・天鼓・天火」の節では、「『秉燭或問珍』と題せる書によるに、左の如き説明あり」として、

 「霹靂は天地の怒る気なり。雷は正しきことにても怒れば、悪気あり。天の怒りと人の悪気と相感じて雷を引いて打たるることあり。たとえば鐘をうてば響きそのまま応ずるが如し。悪をなすものは鐘を打つが如し。雷これを打てばその響きの応ずる道理なり。自然に然るなり。菅丞相〔菅原道真〕ほどの賢公をも、感応の理を知らざる輩は〈雷となりて祟りをなし給う〉という。浅ましきかな。かの時平ごときの佞臣、讒口を構えて忠貞の菅公を流罪に沈め奉りしその悪逆によりて天雷の怒気あい感じ打たれたるものなり」

 これも明らかに間違っている。今では小学生でも〈雷は自然現象である〉ということはほとんど理解していると言ってよい。日本の理科教育も、その程度には普及し成果を収め得ているのである。しかし、いまの日本の小学生は、ここに書かれている「鐘をうてば響きそのまま応ずる」ということは知らないと言っていいだろう。中国人は古代から「二つの琴の同じ音の弦同士は共鳴現象を起こし、一方の琴の一つの弦が鳴れば他方の琴の弦も」ということを知っていた。そこで、「同じ物同士は共鳴しあう」という事実を万物の法則に拡大して適用して間違えたのである。同じ間違いとはいえ、かなり高等な知識を知っていたための間違いでもあったのである。

 しかし、「間違ったことを考えてはいけない」ということになったら科学研究は出来ない。科学は大いなる空想を伴う仮説とともにはじまり、討論と実験をへてはじめて真実と認められるようになるものだからである。イタリアのガリレオだって、古代のアリストテレスなどの〈間違ってはいたが、興味深い考え方〉があってはじめて、それを批判克服する仕事を通じて近代科学の基礎を確立することができたのである。だから、「結果的には間違ってはいても、近代科学を受け入れるまでに日本人、東洋人が自然現象についてどのように考え模索していたか」ということを知ることは意味のあることなのである。

 『妖怪学講義』にはこの種の話題が沢山ある。しかし、元の版では出典の著者名や出版年または成稿年が記してなくて、とても使いにくかった。今回の妖怪学の全集本では、それらの事項が補われているので、この本はいよいよ「江戸時代の日本人の自然学」を集大成した本として完成することになったことを喜ぶものである。

(国立教育研究所名誉所員)