6.解説:河波昌

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     解  説                 河 波  昌  

 

 本巻は、主として宗教学関係の著作および講義録を中心として編集されている。刊行の年は、明治二一年から明治三五年に至る五編を収録した。しかしながらその内容は、すべてほぼ明治二〇年代には成立していたものと考えられることができる。

 井上円了(以下、円了と称する)の思想については、すでに本選集の各巻末における解説において詳述されているので、それらとの重複をさけ、本論では宗教学に関連してなお看過することのできない二、三の重要な点について考えてみたい。

       一

 まず第一には円了の思想の内容の多様性、多面性という点であり、更にそれらが円了という一人格において統合せられている点である。彼の宗教に関する思惟もその点を無視しては考えられない。ごく簡潔に彼の思想を通観する時、そこには大乗仏教(浄土真宗を含む)、哲学(東西両洋にわたる)、宗教学、倫理学、教育学、心理学等の多種多様にわたっての展開が見られるのである。そしてそれらが相互に限りなく交渉し、交徹せられているのであって、それらの中のいずれかの一つを取り上げて見ても、その一つの中に全体が不可分に連なりあっているのである。そのことは宗教学においてもまた同様である。本巻はこの選集刊行のなお過程にあるが、すでにその第一巻より第三巻までが哲学部門に、第四巻より第七巻までが仏教部門にあてられ、更に本第八巻の宗教学に関する部門に続いて心理等、倫理学、教育学等の分野についての編集も進行中であるが、それら全体が一つの連関の中でとらえられねばならない。かえってまた、そしてそれら相互の多様性の連関の中から、また円了における広大な視野が開かれてもいったのである。

 たとえば彼は新潟県の一浄土真宗寺院に生まれ、その経歴の必然性からいって宗乗(浄土真宗を中心とした伝統的な真宗教学)を学ぶべき義務を負いながら、それから脱却し(しかしそのことは真宗の信仰そのものの放棄を意味しない)更に東京大学で哲学を学び、広く東西の学を渉猟するにいたった、といった点、また三度にわたる外遊等も、彼の視野を拡大させる要因となっている点はいうまでもない。

 そもそも円了の活躍しはじめた時代は、まさに東洋が西洋と全面的に出会いはじめた時代であった。そして徳川三百年の鎖国が破られ、全世界に向かって開かれた普遍的思考の目覚めの端初ともなる時代でもあった。すでに東京芝・増上寺の管長福田行誡(1806~1888)は、八宗兼学を唱え、従来の宗派仏教の狭い枠組みから脱却して、大乗仏教のもつ本来の精神たる普遍主義を標榜したのであったが、更に進んで西欧思想との出会いは、単なる仏教の枠組みさえ突破して、普遍的思惟が不可避的に要請せられるにいたる。その要請に本質的に対応しうる学問が、円了にとってはほかならぬ哲学そのものであったのである。それゆえ彼においては真宗学も大乗仏教も哲学も、実に同一線上における課題となるものであった。大乗仏教は哲学において改めてその普遍性に目覚めることになる。彼においては仏教学という分野と哲学という分野が相互に独立に存在するといった性格のものではなく、どこまでも一つに連なりあうものであったのである。

 更に大乗仏教にせよ、また哲学にせよ、それらは単なる理論にとどまらず、広く文化全体にかかわるものであり、必然的に心理学、倫理学、教育学等にまでかかわるものであることはいうまでもない。円了におけるその思想の多様性は、どこまでも人間の文化としての精神のかかる健全ないとなみに由来するものであり、それへの展開のない場合は、かえってそのことこそが怠慢といえよう。円了のかかる精神の中には、むしろ現代の大学における極度の専門化による全体的視野の欠落という・・それは実に現代における文化そのものの危機とも関連している・・病因を根底から救済する契機が存しているのである。

 いま、本巻の中心テーマとなる宗教学に関しても、以上のような論述の反省の上から考えられねばならないであろう。彼の宗教論も多様な関連の中で展開されている。それは単なる真宗学や神学の枠にとどまるものではない。また仏教がそれ自体として取り上げられる場合にも、広い東西両洋に立った上での哲学的思惟の展開が見られるのである。彼が仏教を単に宗教としてのみでなく、哲学としての側面から見ようと試みる点などその一例である。

 たとえば本巻の第三部を構成する『比較宗教学』は、当時としては圧巻ともいえるものなのである。すでにマックス・ミュラー(Max Muller 1823―1900)等による西洋の宗教学の多くの業績等をすでに前提としたとはいえ、そこでは古代エジプトやヘブライの宗教から始まり広く全世界の宗教が論じられている。比較宗教学、いわゆる宗教の比較研究は現在においても宗教学の分野の主流を占める部門であるが、円了において方法論的になお不十分の点を残しているとはいえ、すでに日本におけるかかる研究の先駆が見られるのである(中村元の著作『日本における比較思想の先駆者たち』(昭和五七年、広池学園出版部)の中に十数名の比較思想研究にかかわった人たちが挙げられながら、井上円了の名が欠けているのは、いかなる理由によるのであろうか)。

 また彼の宗教学はどこまでも哲学的精神によって媒介されたものであり、それ故かかる円了の宗教には宗教哲学的な契機とも不可分である。宗教学においても彼における多様性という特色が、哲学というものを排除して単なる科学としての限定された宗教学の一面性への陥落(それは現代の東京大学を主流とする日本宗教学の伝統となっている)から免れているのである(現在のいわゆる宗教学は明治三八年、東京大学における姉崎正治によって創設せられた宗教学の伝統の流れを受けており、そのような視点に立てば、たとえば高木きよ子氏のいうように、「……(姉崎)以後の日本の宗教学の流れの中で、井上(円了)宗教学が埋没してしまった……。明治以来の日本の宗教学の流れの中では狭い意味での宗教学の体系作りがなされた。その主流は一宗一派に属さない官学の中での研究であったといえる。この趨勢の中で、日本でもっとも古く「宗教学」という題名の著作のものにした井上円了の名は埋もれてしまったのである。」)(高木きよ子「井上円了の宗教学」『井上円了の学理思想』東洋大学、二二八頁)。

 しかしながら一つの限定された科学としての宗教学(いわゆる狭義の宗教学)に対して、より広い視野に立っての宗教学がまた不可欠である(狭義の宗教学が日本において一応主流となったということの背景には、いくつかの文化的要因も考えられよう)。

 哲学的精神によって貫かれている円了の宗教は、それが宗教学とよばれても、それは狭義の宗教学をそのうちに包みながらも、むしろ円了自身の立場からいって、どこまでも宗教哲学に近い宗教学ともいうべき性格のものでもあった。それは姉崎正治からいえば、

「一体宗教学という名は、その前には井上円了氏が哲学館講義録で理論的並びに実際的宗教学という講義をしていたが、その内容は吾々の所謂宗教学とはまったく別であった。」(上掲高木論文、二二八頁)

ともいわれるゆえんである。

 しかしながら広義に考えれば、人間の文化的いとなみとして宗教の学問的研究を考える場合、哲学を排除した科学的宗教学とともに、他方、哲学、更にはキリスト教や仏教等の個々の宗教をも単に客観的に考察するのみならず、それらをその内面から考察する宗教哲学的な宗教学もまた不可欠である。円了の場合、彼の宗教学とは限りなく狭義の宗教学をも内包しながら、しかも宗教哲学に近い宗教学ともなっているのである。本巻所収の第五部は『宗教哲学』であり、原文で三七七頁にもわたる相当量のページ数を占めるその内容は、円了宗教学の一つの特色を示している。

 そもそも宗教学の展開もまた多様の展開が見られるのであり、いわゆる宗教学といってもその内実は宗教社会学であったり、宗教民俗学であったり、また宗教心理学であったり、宗教哲学であったり、そして狭義の宗教学であったりもする。とくに現在においては、宗教現象学、宗教史、比較宗教学等がその中でも広大な領域を占めている(日本宗教学会の部会の構成はまさにそのまま日本宗教学の全容を物語っているともいえよう)。そうした中で円了宗教学を考える場合、その限りなく宗教哲学に近い宗教学とは、たとえば近代西洋における宗教学派の中の一つの大きな主流をなすドイツ・マールブルク学派(ルドルフ・オットー、フリートリッヒ・ハイラー、あるいはエルンスト・ベンツ等によって代表される宗教学派)と極めて近似し相応するものがあるのである。それはどこまでもキリスト教的、ドイツ的な宗教的伝統に立ちながら、しかもまた限りなく東洋への展望を開いている学派であるが、かかるマールブルク学派と、他方、どこまでも東洋的、仏教的な基盤に立ちつつ、しかもまた限りなく西洋の宗教文化の世界にも開かれていた円了の宗教学との間には、相互に対応し、共通の世界宗教学的な展望への開けが存しているのである。

 ただマールブルク学派における場合、ドイツ・ロマン主義的な精神的基盤の上に立って、そこに一連の学問的伝統の連続性が見られるのに対して、円了の場合、一見するところ、確かに東京大学宗教学の伝統といった視点の上から見れば、その伝統のうちに埋没していったという見方も一応は成り立つ。しかしながら広義の宗教学(たとえば宗教哲学的な宗教学)という視点に立てば、円了宗教学は新たな脚光を浴びるのである。それはすなわち具体的にたとえば西田哲学(その全体は宗教哲学を根幹として成立している)、更にはそれに続く京都学派(かかる宗教哲学的宗教学の主流は京都大学宗教学科へと流入している)との関連においてである。すでに西田幾多郎はその思想形成期において円了の哲学的洗礼を受けており(円了の最初期の哲学著書『哲学一夕話』を西田は読んでいる。『選集』第一巻、針生清人の解説による。同書四二七頁参照)、円了の果たし得なかった宗教哲学大成の意図を西田が完遂していった、という側面も考えられるのである。かかる観点からいえば、円了は西田以前の西田ともいえ、西田は円了以後の円了ともいえる一面をもつものともいえよう。なお、梅原猛は、「円了の道を受け継ぎ、その道を歩んだのが西田幾多郎であった」と、円了と西田との関係に言及している(平成二年六月一八日東京・朝日ホールにおける公開講演)。また、円了―西田の展開を一連の日本宗教哲学の一つの伝統として考えることができるとすれば、それは日本におけるマールブルク学派的宗教学の展開ともいえ、またひるがえってマールブルク学派とはマールブルクにおける日本宗教哲学の一連の展開にも類比せられる契機が考えられるであろう。

 いずれにせよ、そこでは東西両洋の出会いの中で従来の限定された思惟(それは仏教についてと同様キリスト教についても言えるところである)でなく、開かれた多様の思惟が不可避的となるが、そうした中で円了の思惟もまた多様に展開せられるのであり、円了宗教学においてもかかる思惟が十全に展開されていたのである(円了と西田哲学ないし京都学派との関係は更なる論究が必要であろう。なお、それらを単なる日本的観念論の形成としてとらえるのは不適当である。観念論とは唯物論の対概念として唯物論の立場から構想された一観念の所産であり、もし日本的観念論ということばが用いられるにせよ、それらは観念論そのものの成立する次元をどこまでも超えたところで展開されている点も考慮されねばならない。唯物論の人たちは、これらの人たちを観念論と定義したその時から、それらへの真の理解を自ら閉ざしてしまっている、といった点も考えられるのである。そのような点も含めて、日本近代思想史上の円了の意義は更に深く検討し直される必要があるであろう)。

       二

 円了は哲学的な理論とともに、それにおとらず実践面に対する関心も極めて高かった。宗教学自身においても同様である。彼の宗教学に関する著述として『比較宗教学』『宗教哲学』等の講述あるいは『理論的宗教学』(明治二四年)、またそれに対する『実際的宗教学』(明治二四年)が刊行されている。前者の『理論的宗教学』は、後年『宗教哲学』(明治三五年刊、本巻所収)にまとめられ、後者の『実践的宗教学』は、ほぼ同じ内容を保持しつつ『宗教学講義 宗教制度』(明治二八年)にまとめられて刊行されている。その特色は、単に理論面にとどまらず、どこまでも実践的関心によって貫かれているという点であろう。

 そもそもギリシア以来の伝統的学であるphilosophiaとしての哲学にしても、また戒定慧の三学として説かれる仏教の「学」にしても、それらは単なる知や理論の領域にとどまらず、どこまでも不可分的に実践の問題と結びついていたのである。カントにおいても理論理性に対する「実践理性の優位」Primat der praktischen Vernunft(『実践理性批判』)が説かれ、またヤスパースも「哲学することとは、存在意識の変革die Veranderung des Seinsbewutseinsであるとさえ断言している(『理性と実存』)。しかしながらそれにもかかわらず、ともすれば理論と実践との両者は分離しがちであり、とりわけ日本アカデミズムにおいてその傾向が著しい。そうした中にあって円了は宗教研究においても単に理論面にとどまらず、実践面も強調したのである。そしてこうした場合、円了はいわゆる理論的宗教学の範疇のうちに宗教哲学、比較宗教学等を入れ、更に純正哲学、倫理学、心理学等をも関連させて考えようとするのである。それに対し、実践的宗教学のうちに、政治、道徳、教育、風俗等を入れて考えている。彼が「宗教制度」と称する場合も、それは実践的宗教学の範疇のものにほかならない(『宗教学講義 宗教制度』序論参照)。

 本解説では円了の実践的宗教学の中でもとくに、政治と教育の面に関連して、彼の宗教思想の内容に立ち入って考えてみよう。

     (1) 政治面に関して

 『日本政教論』(明治二二年刊、本巻所収)は、第一回の欧米視察の結果生まれた実践的比較宗教学ともいえるものである。政教とはもちろん政治と宗教の意味で、この「論」はまさにかかる両者の関係を論じたものである。全体でわずか二九頁の分量に過ぎぬが、とくに外国視察にもとづき、欧米と対比しながら日本における宗教と政治の問題をテーマとしている。一言でいえば、宗教が国家自体に大いなる影響を与え、宗教が国家成立の基盤となっている点の指摘がなされている。たとえば彼は、

「……日本人心を維持し、日本独立を保存し、日本人の日本人たるゆえん、日本国の日本国たるゆえんのものを養成せんと欲せば、この旧来の宗教を永続せざるべからず。」(同書第五段。五五頁参照)

と述べているが、日本国の独立のために、その日本国民の根底にある旧来の伝統的宗教の維持の必要であることを論じているのである。日本国を日本国たらしめるとは、日本国民のアイデンティティの確認であり、それが伝統的宗教において確保せられるというのである。この場合、旧来の宗教とはいわゆる神道であり、とりわけ円了にとっては仏教にほかならない(なお国家のアイデンティティの契機の一つとして言語も考えられるべきかも知れない。しかしながら現代においても、たとえばフランス語、オランダ語、ドイツ語の三カ国語が公用語となっているベルギーにおいて、それらを包括するカトリックがそれらを根底から支え、ベルギーの一国家としてのアイデンティティを構成している点で考慮さるべき一例である。また共産主義国家としてのソ連において、なおその未来においてロシア国民のアイデンティティを保証する不可欠の契機としてロシア正教が改めて大きくクローズ・アップされつつある昨今、宗教の国家に対する影響には、あるいは両者の内面的関係には無視し難いものがある)。

 円了が活躍していた時代、日本は欧米列強の圧倒的な影響下にあった。そして植民地化を免れ、日本が日本として独立することは死命を制する最優先の課題でもあった。富国強兵は当然のことながら、それにもまして円了にとって、その日本国家を内面から支える精神的な契機が重要であったのである。とりわけ外遊を通じてキリスト教的宗教圏にある欧米諸国におけるキリスト教と国家との関係は彼にとって最大の関心の一つであり、その紹介は詳細にわたっている。そしてそれらの観察を通じて日本国家とその宗教との関係を改めて考察し、その必要性を痛感したのである。

 国家とは単に政治的次元の問題のみに終始する性格のものではない。それはその根底において宗教と深くかかわっており、各国民がそれぞれ固有の宗教へかえることによって、国家のアイデンティティが内から確保されるのである。円了においてもまさにその点で護法↓愛国(いわゆる護国愛理)の精神が考えられるにいたるのである。

 ただ、かかる円了の国家主義は、単なる偏狭なナショナリズムとは異なる。それはどこまでも愛理(普遍的な真理への愛)の精神を前提した上でのことであったからである。愛理(真理への情念的志向)が忘却されて、愛国のみとなるとき、国家は自己目的化し、悪しきナショナリズムに陥る。円了の護国思想としてのナショナリズムはかかる次元のみで考えられるべきではない。二〇世紀の最大の課題の一つは、ナショナリズムとインターナショナリズムの相剋という点にもあった、といえよう。そして多くの場合、インターナショナリズムの立場からのナショナリズムの断罪ということが主たる一つの傾向ともなっていたのである。そしてそのような傾向から円了のナショナリズム的な思想に対する一つの批判も世間に流布していた点も考えられよう。

 むしろ護国愛理における愛理とは、どこまでも民族国家の対立を超えた脱国家主義的契機を有するものであり、かかる普遍主義的(哲学的)地平でなお不可避的な課題として国家の問題を考えた円了の立場は改めて評価し直されねばならない。むしろインターナショナリズムという仮面をかぶった、しかしその内実はどこまでもロシアの国家主義でしかなかった共産主義(N・ベルジャーエフの定義・・それは現実に実証されつつある・・)に惑乱され続けてきた日本知識人たちの呪縛から円了の思想を解放することが、さしあたり現今の極めて重要な課題の一つともなるであろう。インターナショナリズムという観点からいえば円了の愛理の立場こそが、いわゆる二〇世紀を風靡したインターナショナリズムをはるかに超えて普遍的であり、インターナショナルであったのである。

     (2) 教育面に関して

 円了は『教育宗教関係論』(明治二六年四月)において、哲学館(現東洋大学)設置の目的に関して、教育家と宗教家の養成を主張している(高木宏夫「井上円了の宗教観」『井上円了研究』五、三頁参照)。そして教育と宗教との目的は、「知識の開発」と「心霊の安定」であることが述べられ、その実際上の応用として、学校と寺院の組織が考えられるのである(同書一三頁)。

 右のごとき意見は、円了自身、日本近代国家形成期にあって、宗教と教育による、あるいは宗教精神にもとづいた教育による人間形成という目下の急務ともいうべき要請から生まれたものであった。すなわち円了の哲学館大学の創設の根底には、右のような哲学的、あるいは宗教的精神に根ざした人間形成という実践的理念が根底にあったのである。その場合、哲学的ないし宗教的精神とは、西洋精神をも展望しながらも主として東洋的、仏教的精神のことであり、かかる精神的基盤に立った上での教養、陶冶(人間形成・・パイディアpaideia)の理念が貫かれていたのである。

 それはたとえば近代国家形成の要請から主として西欧の技芸学術の輸入紹介を主たる役割をもつものとしていた東京大学、あるいはまた政経を中心として実学の立場をモットーとした早稲田大学等に対して、哲学館はまさに日本における東洋思想に根ざしたパイディアを理念とする最初の本格的な大学(ユニヴァーシティ)としての意義を担っていたのである。それはまさしくヴィルヘルム・フォン・フンボルトWilhelm von Humboldt(1767―1835)のえがいた西欧の大学の理念に対応するものであったといえよう。フンボルトの目指した一般陶冶(ビルドウング Bildung)を目指す人文主義的思想は、新興ドイツ観念論哲学と融合することによって、はじめて「学問によるビルドウング」の理念となることができ、それがベルリン大学の創設(一八〇九年)へと結実せられていったのである。そしてこのベルリン大学こそは、近代大学の模範としてその名声が内外にうたわれるにいたるのである。フンボルトは職業教育の意味における専門学校という思想を強く排除し、彼においてはヨーロッパ伝統精神にもとづく哲学を基盤とする人間形成がその大学の理念の上に貫かれていたのである(西村貞二『フンボルト』清水書院、一〇三・一一一頁参照)。「諸学の基礎は哲学にあり」とする哲学館大学の創立の理念は、どこまでもかかるフンボルトの理念の東洋的基盤の上で改めて自覚的に展開された点が考えられるのである(ただしフンボルトの構想による大学の理念は、突如として成立したものではなく、更にその背景には深い哲学的反省を伴った前史があり、円了の大学理念を考える上に考慮せられねばならないであろう。それはたとえばカントの「諸学部の争い」Der Streit der Fakultat(一七九二年刊)における、哲学部を大学の中核とし、神、法、医の三学部は従属的性格たるべきであるとする立場、あるいは更に徹底してフィヒテに見られるような、いわゆるそれら三学部の存在を解体し去り、哲学中心の、学部なき大学の構想、といった考え方においても見ることができるのである(『世界教育学選集・大学の理念と構想・フィヒテ他・』明治図書出版、梅根悟、巻末解説、二五五頁)。

 そして右におけるようなベルリン大学において結実せられていった近代西欧に見られる哲学的精神が、大学における自己完成の意味における人間の陶冶Bildungと一つに結びついていたのである。以上のような理念はまた哲学館の、そしてまた日本の大学自体にとっての必須の今日的な課題ともならなければならないところのものであろう。このように円了の宗教的、哲学的立場は、単に科学的、理論的次元のみの内へ閉じこもろうとする(たとえばその典型の一つが東京大学宗教学である)アカデミズムの限界を突破して、東西両洋に開かれた人間の文化そのもののいとなみとしての実践に即したパイディアの原点に立とうとするものであった。

       三

 本巻は左のような構成より成る。すなわち、

  一、宗教新論………………………明治二一年三月

  二、日本政教論……………………明治二二年九月

  三、比較宗教学……………………明治二六年一一月(推定)

  四、宗教学講義 宗教制度………明治二八年一一月(推定)

  五、宗教哲学………………………明治三五年一〇月(推定)

 以下においてそれらの内容について略述してみよう。

 

   宗教新論

 この著書は、円了が病身のため、口述筆記をもとにして成立したものである。またこの著作は、『仏教活論』出版後のもので、『活論』の付言の意味をも有している。

 題目は『宗教新論』であるが、その内容は主として仏教そのものである。しかしながら仏教を改めて宗教という地平から見直した、という点で、やはり宗教論である。

 最初に仏教は宗教か哲学かを論じ、キリスト教が情感にもとづく宗教であるのに対し、仏教が智的な要素をもち、宗教であると同時に哲学的原理をそなえ、キリスト教的宗教よりすぐれている点を論じている。そこには当時、キリスト教が高級であり、仏教が低級であるとする一般に流布していた当時の偏見を打破し、仏教の本来の意義に目覚めさせようとの円了の意志がうかがえるのである。

 この著においてもキリスト教と仏教との比較論的考察という点で、比較宗教学の先駆をなすものであり、たとえば神観をめぐって、キリスト教的神観念としての「個体神」と仏教的な神体として「理体神」といった対比における考察がなされている。そこには曇鸞教学(竜樹の空思想に連なる)の系譜にある真宗教学の立場からのキリスト教的人格神への批判といった意味もこめられているのである。二〇世紀キリスト教神学における非神話化Entmythologisierungの問題ともかかわる点で興味深いものがあろう。かかる円了の立場からすれば、それなりに非神話化論は乗り越えられているといった点も考えられるのである。哲学を自らのうちに含む仏教は、智力的宗教であり、彼にとっては、「純正哲学の実用」そのものが宗教(仏教)であるのである(第三〇節)。明治初期から中期にかけて、外来宗教(キリスト教)を冷静に受けとめ、それを学習しながらも単にそれに追随することなく、それらを比較、反照せしめつつ自らの伝統のうちにその本来の価値を認め、その立場に立ってその哲学を積極的に展開していった円了の立場は高く評価さるべきであろう。

 

   日本政教論

 本書は実際的宗教学の日本的応用編ともいうべきである。すでに述べたように、この著は円了が欧米各国を視察し、とくに宗教事情に関しての考察にもとづいたものである。その内容は政治と宗教との関係についてであり、この両者の関係が重要である旨を述べようとする点にある。すなわち、

「そもそも宗教の政治上に与うるところの勢力およびこれによりて生ずるところの運動は、国家安危の関するところにして、その力よく国を興し、その力よく家をほろぼすは、古今東西その例はなはだ多し。故に、政教の関係は実に国家の一大事なり」(第一段)

と述べ、更に、

「政教混同するは政治上の妨害をなすの恐れあるも、政教分離するは必ずしも政治上に便益あるを保し難し。……(旧)憲法第二八条に信教自由の布達あるも、政教の関係、いまだ判然たらず」(同上)

と、政治と宗教との関係の問題点を提示している。

 彼によれば、欧米各国の宗教はロシア(革命以前)やイギリス等に見られる国教と、フランス、オーストリア等に見られる公認教の両範疇に分けられるという。この場合、公認教とは、彼によれば、

「……特認、もしくは特待教の義にして、政府にてその国多数人民の奉信する宗教は、少数人民の奉信する宗教に区別して、特別の待遇法を設くるものをいう。」(第二段)

 そして、

「政治の目的は国家の安寧、社会の幸福を増進するにありとしてこれを考うるに、政治上公認教を設くること必要なりと信ずるなり。」

と述べ、日本において、国教でなく公認教の必要性を説いている。そしてその宗教が伝統的な神仏二教であるべきであることを主張している。そしてかかる伝統的宗教が否定されれば、国家安泰の否定につながり、それゆえ伝統的宗教保持の重要性が強調せられるのである。とりわけ歴史の変動期にある時、宗教までもキリスト教等の外来宗教に変えられた場合、それは重大事を招くことになり、むしろ伝統的宗教の不動性の保持こそが日本の文化、精神を安泰ならしめ、そのことが日本文化を根底から支える力になりうる(第一五段)といった指摘は、注目さるべきである。大嘗祭等に関して政教の一致か分離かといった今日的な論争をめぐって、なおその問題は未解決であるが、単なるイデオロギー論争にとどまらず、より広大な文化史的、哲学的立場からの考察も必要であろう。円了がこの著作において投げかけた問題は、今日、なお重要である。

 

   比較宗教学

 本書は一九世紀後半に展開された、ダーウィンやスペンサーの進化論、あるいはマックス・ミュラーの比較宗教学、比較言語学等の学問的業績にもとづきながら、広く世界の諸宗教に関して述べたものである。ただ仏教およびキリスト教に関しては、他の著作等で詳述されているところから、この著書では、それら両宗教を除く諸宗教、ないし宗教一般についての論述が主たる内容となっている。

 本書は大きく二編に分けられ、更にその上で各論が展開される。その大体はつぎのとおりである(原文の見出しに、編と講を付した)。すなわち、

  第一編 宗教思想の起源および宗教学の起源

  第二編 宗教の分類

   第 一 講 エジプトの宗教

   第 二 講 バビロンの宗教

   第 三 講 アッシリアの宗教

   第 四 講 婆羅門教

   第 五 講 拝火教(ゾロアスター教)

   第 六 講 ギリシア古教

   第 七 講 ローマ古教

   第 八 講 ユダヤ教

   第 九 講 アメリカ古教

   第一〇講 欧州古代宗教

   第一一講 ドイツ(ゲルマン)古教

   第一二講 マホメット教

 一九世紀後半、西欧において、とくに宗教の起源論、宗教の定義(両者は密接にかかわりあっている)等について種々の論究がなされた。たとえば宗教ということばに相当するラテン語のreligioがre-ligareまたはre-legereから論じられている点(前者は再び集める、熟慮するの意、後者は再結の意である)等の言語的分析は周知のところである。また、そもそも神を立てるか立てないか等の問題も宗教の定義上大いに論議の的となるところであるが、マックス・ミュラー、ティーレ(C・P・Tiele)等の説を紹介しながら種々の考え方が紹介されている。

 また宗教の起源およびその発達をめぐっても、進化論的な考え方を依用しながら当時の学界の内実が詳論されるのである。

 第二編に相当する宗教の分類についても、種々の考え方が示される。たとえば、(1)教義による場合と(2)人種による場合の区分、あるいは(1)自然教と(2)天啓教による分類、あるいはまた(1)情感教と(2)智力教との分別等である。そして一応かかる分類の方法が提示されて、その上で世界の諸宗教の紹介がなされるのである。かかる講述は往時において世界的な視野に立って諸宗教に対する知識を得させる意味において、大いに啓蒙的な役割を果たしたことが考えられるのである。

 

   宗教学講義 宗教制度

 本講義の副題、宗教制度とは、円了によれば実際的宗教学のことである。すでに円了は『実際的宗教学』の題名での講義録をすでに明治二四年一一月に刊行しており、本テキスト『宗教学講義 宗教制度』の中には、『実際的宗教学』の内容のほとんどが収められている。更に「宗教制度」には多くの事項が増補されており、それ故、従来の実際的宗教学をも集大成してできたものが本「宗教制度」であるといえよう。

 彼は宗教研究について、学科的研究法と教説的研究法の両者に大分するが、後者は伝統仏教における宗乗やキリスト教における神学に相当するものとして、一応、宗教学の立場から除き、前者の学科的研究法をもって円了自らの宗教研究の立場とする。更にその上で、この学科的研究法を理論的宗教学と実際的宗教学とに分類し、前者には宗教哲学、比較宗教学、そして更には純正哲学、倫理学、心理学等を関連せしめ、後者の領域として政治、道徳、教育、風俗(民俗学)等をかかわらしめるのである(まさに学際的である)。

 更にまた宗教研究の方法として、(1)外部より比較的に研究する方法(歴史的研究)と(2)内部より組織的に研究する方法(宗教哲学、比較宗教学等)を挙げているが(序論)、かかる研究方法に対する見解は、すでに現代宗教学への展望を十全に内包しているのである。かかる点で円了宗教学ではどこまでも広義の宗教学の健全な展開が考えられるのであり、現代宗教学の立場から見ても十分にその意義は積極的に評価されるべきであろう。

 本講義録はつぎのごとき構成である。すなわち、

  第一段 宗教の種類

  第二段 宗教の制度

  第三段 宗教の儀式

  第四段 宗教の効用

  第五段 宗教の歴史

 これらの詳細は本文にゆずるほかはないが、第一段としての宗教の種類として顕示教(啓示宗教)と自然教の分類にもとづく論述がなされ、第二段は政治と宗教の関係が主たるテーマとされ、国教、公認教(その他に平民教が加えられている)への論究がなされている点は既述のとおりである。また教会制度についても言及され、管長制度、会議制度、独立制度等、宗教制度のあり方が述べられ、更に第三段、宗教儀式では(1)社交的儀式、(2)宗教的儀式、(3)国家的儀式、(4)国際的儀式等と詳細にわたる宗教儀礼への論究がなされている。また第四段では宗教の効用が論じられ、

  効用 直接的効用(安心立命)

     間接的効用 教育上(道徳練習)

           政治上(交際結合)

のごとき構図における展開がなされるのである。

 第五段、宗教の歴史は現在の宗教学の一主流となるものであり、円了もこの項に関しては別に一科の学として独立に講ずべきであると述べているが本段では世界宗教史の概観を試み、各宗教の大意を述べて、その一応の役割を果たしている。

 いずれにせよ円了は日本宗教学の先駆としての意義をもっている。その先駆性の故に十分にその展開がなされえなかったのはむしろ当然であり、それの更なる展開こそが後継者の責務であろう。そしてより広い視野から展望する時、日本宗教学の展開は、なお円了自身が提起した種々の問題の未解決の面を残しながらも、現在において実り豊かな展開が見られるのである(未解決の問題としては、たとえば宗教と国家、政治等との関係等についてである。一方的なイデオロギー的断定による論議の強圧的な判断停止等も、それらの課題を本質的に取り上げることなく未発のままに終わらせている一要因となっているのである)。

 

   宗教哲学

 本著書は、明治二四年一一月から翌年一〇月にいたる一年間の講述『理論的宗教学』を受け構想されたものである。そして『理論的宗教学』がその「序論」におけるマイスター・エックハルトからレッシングにいたるまでの講義内容で、時間的な制約のためか、カント以前までにとどまっているのに対し、『宗教哲学』では、本格的な宗教哲学の登場を意味するスピノザから開始せられ、カントにいたっては五一頁にもわたる詳論がなされ、フィヒテ、シェリング等のドイツ観念論者たち、またノバーリス、シュライエルマッハー等のドイツ・ロマン主義者たちに対する本格的な論究がなされている。

 本書は、最初に宗教哲学を論じる上において、宗教と哲学との関係について深い考察が加えられ、その反省の上で宗教哲学が論じられるのである。彼自身は「……哲学上、宗教を論究する時においては、信と不信とを問わず、自由に研究して可なり。」と、自らの哲学的立場を明確に表明している。

 本書は日本における最初の本格的な宗教哲学に関する著書の部類に属する。その内容の詳細は本文にゆずるとして、特に注目すべき二、三の特色を述べてみよう。

 まず第一に、中世ドイツ神秘主義、とくにマイスター・エックハルトへの詳細な言及がなされ、更にその思想的系譜がルターからベーメ等を通じてドイツ近代思想(とくにシュライエルマッハー、更にはドイツ観念論哲学等)にいたる展望が見られる点である。とりわけ『理論的宗教学』ではエックハルトから開始せられている点で興味深いものがある。エックハルト等、いわゆるドイツ神秘主義(円了においてはこの神秘主義Mystikは神秘教の名称で論じられている)と近代ドイツ哲学等の関係については、西田幾多郎をはじめ京都学派の最大関心事となるところのもの(その学問的業績は上田閑照編『ドイツ神秘主義研究』昭和五七年刊等の著作に集約されている)であり、またマールブルク大学の宗教哲学者エルンスト・ベンツ教授等の研究の中心的な内容とも重なるところのものであり、注目すべき点である。異なる両者がなお一つの共通の問題点に大いなる関心が示されるという現象が生ずる場合、その異なる両者にも一つの共通の精神の流れを推論することができるのである。このことは円了と京都学派との間の内面的な連関性を考える上でも一つの重要な契機となるであろう(両者がともに伝統的な東洋的、仏教的な共通の基盤に立って、そこから哲学的思惟を展開した、という点でその内的近親性は否定すべくもないところである)。円了のエックハルトとシュライエルマッハーとの関係等を論じている点などにもその内容の一端をうかがうことができる。

 第二に、その著作の各所において比較哲学的立場からの論考がなされているという点である。その一つの例としてカントやドイツ観念哲学と大乗仏教とを対比しつつ、

「カントは……その実、唯心論にして、分析上に心を説明し、もって心の本体あるを発見せしもなお心の本体よりこの世界を開発せるを説かず、故にこれまた権大乗の位置なり。しかるにヘルダー、シェリング、ヘーゲル等に至りては、活動力を有せる神よりこの世界を開発するを説くをもって、仏教の真如縁起説に近し。……故にヘルダー以下の哲学をもって実大乗とみなすもまた可ならんか。」

と述べている。心の分析に終始したいわゆる権大乗の法相唯識と実大乗である『起信論』の真如縁起との対比をそのままカントとヘルダー以後の哲学の展開の上に比較論究している点で、単なる西洋哲学を解釈し追随するだけの立場からすでに一歩踏み出すところの積極性が見られるのである。

 なお、今後、西洋哲学の研究のよりいっそうの展開と呼応しつつ、そこからかえって円了哲学への反照がなされ、円了哲学自身の意義の発見ということも考えられるべきであろう。

 たとえばその一具体例として円了の「相含説」が挙げられる。この「相含説」に関して針生清人氏は、「一元素は宇宙世界の内に包含されていると同時に、宇宙世界は一元素の内に包括されている」関係として述べているが(本選集第一巻、四六八頁参照。かかる円了の哲学の展開の背景には、宇宙の中の極小部分である一微塵の中に三千大千世界が包含されている、と説く『華厳経』(性起品)の思想等が予想せられる)、また近年、ニコラウス・クザーヌスのテキストの刊行およびその研究の発展によって円了の相含説には『知ある無知』De docta ignorantia 1440における内包complicatioと展開explicatioと相応する新しい視点が見られるのである(ライプニッツの「単子(モナド)」の思想もクザーヌス的な哲学的思惟の系譜の上で考えられるのである)。以上に見られるように円了の宗教哲学には豊かな比較思想的展望が存しているのであり、その方面におけるよりいっそうの研究の発展が望まれるところである。

 

 なお、この『宗教哲学』は、明治三五年一〇月に合本として刊行されたテキストを用いた。合本される以前の更に古い原テキストの存在が予想され、しかも『理論的宗教学』との関係からそれは明治二〇年代の中頃と考えられる。『比較宗教学』『宗教学講義 宗教制度』についても同様のことがいえるのである。このような過程については、今後さらに研究が必要と考えられる。

 また、『宗教改革案 付宗教改良案』(哲学書院、明治三五年六月)については、同書が本選集の第四巻(五一三―五三六頁)にすでに収録されているので割愛したことを付言しておきたい。