1.宗教新論

P9

  宗教新論 

 

 

1. 冊数

   1冊

2. サイズ(タテ×ヨコ)

   203×139mm

3. ページ

   総数: 65

   緒言: 3

   本文: 62

(巻頭)

4. 刊行年月日

   底本:初版 明治21年3月31日

5. 句読点

   なし

       緒  言

一、この論は『仏教活論本論』第一編と同時に世に刊行するの意なりしが、当時不幸にして病魔にかかり、読書、著作を廃せしをもって、その起稿を延遷するに至る。しかるに今ここに病を熱海に養いやや快を得たれば、毎日一時間、人をして余が口述するところのものを筆記せしむ。すなわちこの一編なり。しかしてこれを題して『宗教新論』というは、世人一般に宗教を解して情感的のものとなすをもって、余はこれに反して宗教には智力的の一種あることを論明せるによる。

一、世界中現今存するところの宗教につきてこれをみるに、智力的の宗教はひとり仏教あるのみ。その他はみな情感的の宗教なり。しかして人智進歩すれば宗教もまた智力的のものを用いざるを得ざるはもちろんにして、仏教を拡張するは実に今日学者の急務なりといわざるべからず。これ余が真理のために仏教を護せんとちかうゆえんなり。この編はすなわちその理を明示せんために、哲学上に一種の宗教あることを論述したるものなり。

一、仏教はひとり真理のために護せざるを得ざるのみならず、国家のために興さざるを得ざるなり。そもそも日本人の日本人たるゆえんのものなんぞや。それ従来の風俗、宗教、言語、文章、遺伝、習慣等あるによるや明らかなり。しかして宗教は内には人の精神思想に関し、外には国の風俗習慣に関するをもって、これを一変すれば、他の百般の国風民俗みな従って変せざるをえず。百般の国風民俗ことごとく一変すれば、日本人はすでに日本人にあらず、日本国はすでに日本国にあらざるに至るべし。故に日本国をして日本国たらしめ、日本人をして日本人たらしむるには、第一に日本従来の宗教を護持拡張せざるべからず。しかして仏教は日本宗教中の最も重大なる影響を有するものにして、これを護持拡張するは日本をして日本たらしむるに最も要なるところのものなり。これ余が国家のためにこの教を興さんと誓うゆえんなり。しかれどもこの一編のごときは、全く学理上の論にして実際上の論にあらず。故にその実際上有するところの得失、関係のごときは、他日更に論明することあるべし。読者請う、これを了せよ。

    明治二一年三月                著 者 誌  

 第一節 余、近ごろ『仏教活論』を著して、仏教は智力的道理界の宗教なり、智者学者、上流社会の宗教なることを論じたれば、人あり、これを駁して曰く、宗教はそのいかなる種類を分かたず、人の情感の上に生ずるものにして智力の上に生ずるものにあらず、不学無智の愚民に適するものにして智者学者社会に適するものにあらず、しかして智者学者に適するものはひとり哲学あるのみ。今、仏教はその果たして宗教なるや、その果たして哲学なるや、いまだつまびらかならずといえども、もしこれを宗教とすれば哲学にあらず、もしこれを哲学とすれば宗教にあらず、宗教と哲学の全くその類を異にするは、余は言をまたずして明らかなりと。けだしこの駁論たるや、宗教は全く無智愚民の奉信するところのものにして、智者学者の奉信すべきものにあらずと偏信するによる。しかして道理界中純然たる一種の宗教ありて、智者も学者もみなよくこれを奉信することを得るゆえんを知らざるなり。

 第二節 およそ世人の宗教を説くや、仏教も儒教も回教〔イスラム教〕も婆羅〔門〕教も、みな一種の宗教なるを許さざるにあらずといえども、宗教中の宗教はひとりヤソ教にありとす。その意、ヤソ教は純然の宗教にして、他の諸教は純然の宗教にあらずと信ずるによる。しかしてそのいわゆる純然の宗教は創造主宰の独一神を立てて、いかなる愚民もたやすく奉信すべきものをいう。これをもってヤソ教を純然の宗教となすなり。しかれども独一神を立つるもの必ずしもひとり純然の宗教なるにあらず、創造主宰を説くものまたひとり純然の宗教なるにあらず、愚民をしてたやすく奉信せしむべきもの、またまたひとり宗教にあらず。けだし宗教の宗教たるゆえんのもの、必ず別に考うべき道理なかるべからず。これ余がここにこの一論を草して、『仏教活論』の付言とせんと欲するゆえんなり。

 第三節 そもそも余が考うるところによるに、宗教には直接に無智不学に適するものと、直接に智者学者に適するものの二種あり。すなわち一は情感の上に生ずるものにして、通俗に信ずるところの宗教これなり、一は智力の上に生ずるものにして、哲学上に用うるところの宗教これなり。その図左のごとし。

  第1図

      宗教 情感的宗教(通俗の宗教)

         智力的宗教(哲学上の宗教あるいは道理界の宗教)

 今ヤソ教のごときはこのいわゆる情感的の宗教なること明らかなりといえども、ひとり仏教に至りては智力上の宗教にして、しかもその裏面に情感的の宗教を兼有するをもって、余はこれを智情両全の宗教といわんとす。しかして世人は宗教は全く情感的に属するものと信じ、仏教のごときもまた情感の上に生ずるものなりと想するもの多きをもって、今ここに宗教は真に道理界中に存するゆえんを論明せざるべからず。しかしてこの道理界中の宗教はすなわち哲学上の宗教にして、その理を論明するにはまず哲学と宗教の異同、および哲学の範囲中に宗教の存するゆえんを弁明せざるべからず。これ余がこれより諸学の性質関係を述べて、宗教に智力的、情感的二種あるゆえんに説き及ぼさんとするなり。

 第四節 今,宗教と諸学との性質関係を知らんと欲せば、まずわが住息せる世界に幾種の事物あるを知らざるべからず。およそ宇宙間に現存する事物は、その種その類いくたあるを知らずといえども、これを合類すれば物と心との二種に総括するを得るなり。すなわち物質と心性と称するものこれなり。物質はわれによりて知らるるところの体にして被知なり所観なり、故にこれを客観と称す。心性はこれに反してわが知るところの自体なるをもって能知能観といわざるべからず、故にこれを主観と称す。しかして客観の一境はわが身体五官の外に存するをもってこれを外界と称し、主観の一境はわが心内に現ずるをもってこれを内界と称す。あるいは物界心界、彼境我境等の名称を用うることあり。けだし物質とは我人目を開きてその前に現ずる有形の諸象をいい、心性とは我人目を閉じてその内に連なる無形の諸想をいう。故にあるいは物心世界を分かちて有形無形の両界に属することあり。今、宇宙全界をみるに、この物心両界の外に一事一物なきをもって、宇宙はこの両界より成るということを得るなり。しかるにもし進みてその二者の本源実体を考うるときは、物心の外に身体の現存を想定せざるをえざるに至る。すなわち物と心とは全くその性質を異にし、一は有形に属し一は無形に属するをもって、物より心を生ずべからず、心より物を作るべからず。ここにおいて物心を造出するところの神体を立つるに至る。これを要するに、宇宙は物、心、神三者より成立するなり、余はこの三者を名付けて事物世界の三元とするなり。その図右のごとし。

 第五節 事物世界にすでに物、心、神の三元あるときは、その各体に基づきて立つるところの教学なかるべからず。すなわち理学、哲学、宗教これなり。理学は物の学なり、哲学は心の学なり、宗教は神の教なり。語を換えてこれをいえば、理学は有形の物質を実究するの学にして、哲学は無形の思想を論究するの学なり。その物質、思想の本源実体たる神体を立てて、これを事物の上に応用するものは宗教なり。すなわち理学および哲学は事物の道理を究明するを目的とし、宗教は神の規則を事物の上に応用するを目的とするをもって、一は究理の学、一は実用の法なるの異同あり。これ余がその一を学とし、その一を教とするゆえんなり。しかれどもこの三者は事物世界の三元に基づきて起こりしものなること明らかなれば、余はこれを教学世界の三元とするなり。これを要するに、事物世界に物,心、神の三元あるをもって、教学世界にも理学、哲学、宗教の三元あるなり。

  第3図

      教学 理学(物の学)

         哲学(心の学) すなわち  教学

         宗教(神の教)

 第六節 およそ教と学との別は、一は崇信をもととし一は疑念をもととするにあり。理学哲学は疑念をもととするをもって進みてその理を究めんとし、宗教は崇信をもととするをもって退きてその疑を滅せんとす。かつ宗教に立つるところの神体は全く想像に属するものなり。故にこの教学世界の宗教は世間普通に用うるところの宗教にして、余がいわゆる情感的の宗教なり。この情感的の宗教よりこれをみれば、ヤソ教は完全の宗教なるに似たれども、もし智力的の宗教よりこれをみれば、今日の世界に存するところの諸教中、仏教ひとり完全の宗教なるを知る。しかしてその智力的の宗教は道理界裏の宗教にして、哲学の範囲中に入れざるべからず。しかれどもその範囲中の宗教を論ずるには、まず一般に宗教の発達を論じて、情感的宗教の進みて智力的宗教となるゆえんを示すを必要なりとす。

 第七節 そもそも世人の一般に評するところによるに、宗教は世の進歩とともに発達するものにあらざるをもって、開明の今日といえどもなお古代の宗教を奉ずるなり。これ他なし、宗教は情感的のものにして智力的のものにあらざればなりという。今、歴史についてこれを考うるに、古来の宗教は大抵みな情感的にして、その初め想像憶説より起こりたるはもちろんなりといえども、宗教の思想は人の心中より生ずるものなるをもって、心性発達すれば宗教またこれに従って発達せざるを得ざるは必然の理なり。すでに政治道徳のごときはその初め全く情感より起こりたるも、今日は智力上の基礎を開き、倫理学政治学のごとき純然たる哲学上の一科を組成するに至る。宗教あにひとりしからざるの理あらんや。これによりてこれをみるに、宗教も人智とともに発達して、情感的の宗教の外に哲学上の宗教の生ずるは、理のすでにしかるところなり。

 第八節 今その発達の理をつまびらかにせんと欲せば、まず心性の発達について一言せざるべからず。心性は心理学によりてこれを考うるに、情感、智力、意志の三種の作用を有すといえども、その発達の初期にありてはもとよりこの三種の別なく、ただわずかに情感の一作用を有するを見るのみ。たとえば小児のごとき、その二、三歳のときにありては、ただわずかに苦楽の感覚と喜怒の情緒を有するのみ。古代、野蛮の人民もまた、ただこの単純の情感を有するに過ぎず。しかしてその代々数世間経験するところのものその子孫に遺伝して、ようやく智力思想の発達を見る。これをもって、心性作用より生ずるところの諸学諸教もその初めは情感的のもののみなりしも、次第に進みて智力的に属するものを生ずるに至るを知るべし。しかして智力発達するも情感消耗するにあらざるをもって、心性進化の後に至れば情感智力の両作用を存するなり。故に宗教もその発達の後に至れば、情感的宗教と智力的宗教の二種を有すべし。その図左のごとし。


 第九節 つぎに情感的宗教と智力的宗教の異同を述ぶるに、情感的宗教は人の情感より生ずるものにして、もっぱら恐怖畏懼の情より生ずるものなり。恐怖畏懼の情の生ずるにはおよそ三種の事情あり。すなわち第一に勢力の弱小なること、第二に前途の明らかならざること、第三に危難の近きにあることこれなり。たとえば小児が大人を畏れ、弱兵が強敵を畏るるがごときは、勢力の弱小より生ずるものなり。暗夜に旅行してその心に恐怖の情を生じ、大事を計画してその心ひそかに恐るるがごときは、前途の明らかならざるより生ずるものなり。雷雨の夕にきたらんことをおそれ、敵軍の明旦襲わんことをおそるるがごときは、危難の近きにあるより生ずるものなり。今、宗教の世に起こるゆえんは、我人が神力の強大なるを知りて自身の勢力の弱小なるを畏れ、未来の有無のいまだ判然せざるをもって前路の明らかならざるを恐れ、天堂地獄の存するを想して賞罰の近きにあるをおそるるによる。この畏懼の心より種々想像を現出して、通俗のいわゆる宗教なるものを構成するに至るなり。しかしてそのいわゆる宗教は、もとより論理によりて構立したるものにあらず、ただ畏懼の心より想像したるものなり。故に人ひとたび疑いを起こせば、その立つるところのものを信ずることあたわず。これその情感的の宗教なるゆえんなり。

 第一〇節 古代、人智のいまだ発達せざるに当たりて、愚民の間に存するところのものはみなこの種の宗教なり。人智ようやく進みて始めて人心のなんたるを究め、未来、神仏、禍福、賞罰の理を究明して智力上の宗教を構成するに至る。故に余がいわゆる智力上の宗教とは、ただ畏懼想像より生ずるものにあらずして、論理推究によりて立つるものをいうなり。語を換えてこれをいえば、情感的の宗教は信じてのち知り、智力的の宗教は知りてのち信ずるなり。しかしてそのいわゆる智力的の宗教は哲学の原理に基づきて立つるものなれば、智力発達の後にあらざれば起こることあたわざるは明らかなり。故に智力的の宗教は情感的の宗教の後に起こりたるものと知るべし。

 第一一節 今、仏教とヤソ教とについてその関係を考うるに、仏教は智力的の宗教、ヤソ教は情感的の宗教ということを得べし。なんとなれば、仏教は哲学の原理に基づき論理の規則に従って立てたるものにして、いわゆる知りてのち信ずるものなり。その教に立つるところの仏も未来も地獄も極楽も、もとより単純の想像情感より生じたるものにあらず。しかるにヤソ教はその天帝の想像主宰を説くや、もとより想像より生じたるものにして、全く畏懼の情の発達したるものに外ならず。すなわちそのいわゆる天帝は至大無上の智力意志を有して、よくこの世界を創造し、よくこの生類を主宰し、我人の賞罰、禍福みなその意に出でざるはなし。しかして我人はその力を畏懼するの心あるをもって、その教を崇信するに至るなり。かつその至大無上の智力意志のごときは、全く我人の想像より出でたるものなり。しかして論理上その真否を証明するものなきにあらずといえども、論じて神秘奇怪の点に至ればこれ理外の理にして、この教を信ずるものにあらざれば知るあたわずという。これ余がいわゆる信じてのち知るものなり。故にヤソ教は情感的の宗教なりと知るべし。

 第一二節 かつ天帝説は、この現世の状況を見て想像憶測したるものに外ならず。まずその想像は、この世にありて人に他人を制するものと他人に制せらるるものとの別あるより起こる。しかしてその人を制するものは人に制せらるるものより強かつ優にして、智力も意志も情感もともに常人の上に出ずるものなるは、父母がその子を制し君主がその臣民を制するを見て知るところなり。この世にすでにかくのごとき強弱尊卑の別ある以上は、死後の世界にもまたこの別あるべきの想像を起こし、この世にありて強かつ優なる者は死後に至りてもまた強かつ優にして、弱かつ劣なる者を制するなりと信ずるに至る。すなわち天帝の説はこの想像の一段発達したるものに過ぎず。けだし天帝は幽冥界中のあたかも父母君主なるがごときをもって、その智力も意力もともに他の者の上に立つものと信ずるに至る。故にその天帝の想像は、人智の進歩によりて古今同一なるあたわず。古代にありては人と同一なる状貌を有し言行を有するものと信じ、ただその人に異なるは大小の別あるのみ。その状貌大なりと定むるは、その力の優かつ強なるの想像より起こる。しかるに今日に至りては、天帝は人と同一の状貌言行を有せざるゆえんを知り、ヤソ教に立つるがごとき解釈を天帝の上に与うるに至れり。しかれどもそのいわゆる天帝は、なお人と同一の智力意志を有するものの想像を免れず。故をもって、天帝を解して無上の智力と無上の意力を有して天地万物を創造主宰するものと信じ、あるいは天帝は万物の真父真君なりという。しかしてその智力意志は人の有するところのものとその種類異なるにあらずして、ただその分量異なるのみ。しかるに学理上これを推究するに、たとえ天帝の存するも人の有するがごとき言語行為を有せざるはもちろんにして、人と同種の智力意志を有せざること明らかなり。故にヤソ教の天帝は想像上の天帝にして、人世目前の状況より推想憶測したるによるや疑いをいれず。これまた余がヤソ教をもって情感的の宗教なりというゆえんなり。

 第一三節 人ありてあるいは説をなして曰く、古代の宗教は情感的の宗教にして、今日の宗教は智力的の宗教とするときは、仏教は智力的にしてヤソ教は情感的なるは、はなはだ解し難しと。余これに答えて曰く、インドは文化最も早く開け、他邦にさきだちて人智発達せしをもって、釈迦出世のころすでに智力的の宗教を生ずるに至りしなり。しかして情感的の宗教は釈迦以前の宗教にして、釈迦はその情感的の宗教に代うるに智力的の宗教をもってせしなり。当時釈迦の外に智力的の宗教を講ずる者全くなきにあらずといえども、釈迦の宗教は智力的の宗教中最も完全したるものということを得べし。これに反してヤソ教は釈迦の後に起こりたること明らかなりといえども、その地方の文化いまだ発達せざるをもって、ヤソ教はかえって情感的の宗教を起こすに至る。もし情感的の宗教中にありてこれをみれば、ヤソ教はそれ以前の情感的の宗教に比すれば大いに完全したるものにして、情感的宗教中最も発達したるものといわざるべからず。もしまた今日にありてこれをみれば、西洋の文化大いに起こり東洋の文化大いに衰えたるをもって、完全の智力的宗教の仏教はかえって外面に下等の情感的の形状を示し、情感的宗教のヤソ教はこれに種々の理論を付会して智力的の宗教を装うに至る。これをもって世人は仏教は下等の宗教にしてヤソ教は上等の宗教なりと評する者あれども、これただ外面の浅見にして、その内部に入りてこれをみれば、仏教は純然たる智力的の宗教にしてヤソ教は全く情感的の宗教なること、たやすく判知することを得べし。

 第一四節 以上は情感的の宗教と智力的の宗教の異同を述べ、仏教は智力的の宗教にしてヤソ教は情感的の宗教なることを論じたれば、これより宗教の起源を論じて、哲学と宗教の分かるるゆえん、および情感的宗教と智力的宗教の分かるるゆえんを示さんとす。およそ世人の考うるところによるに、宗教は全く理学哲学とその種類を異にするものと信ずといえども、その起源にさかのぼりてこれを見れば、同一種類のものなること多言を要せずして知るべし。かつ情感的の宗教も多少その中に智力の元素を有せざるにあらざれば、これまた諸学とその起源を同じうするものなり。その起源とはなんぞや。曰く、疑懼の心これなり。人に疑懼の心ありて進みてその原因を求めんとするに至りて、始めて諸学諸教の起こるを見るなり。そのいわゆる疑懼の心は情感より生ずるものなれども、結果を見て原因を求むるの思想は論理作用の元素なり。これ他なし、情感中に智力の元素を有すればなり。たとえば人生まれて天地間に住し、次第に成長するに従い感覚思想の発達するありて、仰ぎて天文をみれば、そのいずれのときより現ずるを疑い、伏して地理を察すれば、そのいかにして成るを怪しみ、顧みて人事を思えば、我人のいずれの所よりきたり、またいずれの所に向かって去るを知らず。霊魂のなんたる、神仏のなんたる、みな知ることあたわざるをもって、ますますその心に疑いかつおそるるの情を生じ、始めてその原因を探り、その道理を究めんとするに至る。これひとり宗教の起こるゆえんのみならず、また理学哲学の起こるゆえんなり。しかして理学哲学は一歩進むごとにますますその疑を重ねその惑を生じ、原因に原因を求め道理に道理を究む。宗教は想像上我人の知るべからざる一体を立てて、万事万物の原因、万象万化の道理をその体に帰して、更にそのなんたるを疑わず。これ宗教と理哲両学の分かるるゆえんなり。しかれどもかくのごとき宗教は、余がいわゆる情感的の宗教にして智力的の宗教にあらず。しかして智力的の宗教はその知るべからざる原因道理を究むるものにして、理学哲学の上に立つるところの宗教ならざるべからず。これ余が智力的の宗教をもって哲学上の宗教とするゆえんなり。

 第一五節 すでに宗教と哲学のその起源を同じうするゆえん、およびその分かるるゆえんを論じたれば、これより情感的の宗教に立つるところのもの、智力とともに進みて智力的の宗教に合するゆえんを一言せざるべからず。およそ情感的の宗教に立つるところの万物万化の本源は我人の知るべからざる神体にして、その神体はさきに述ぶるごとく道理によりて立つるものにあらずして、ただ想像によりて設くるものなり。しかれども人智の進むに従い、その想像上の神体も道理上の神体となるは自然の勢いなり。今その神体の変遷を述ぶるに、古代にありては一事一物おのおのその体に神住すと信じ、そのはなはだしきに至りては日月星辰、山川草木みな神なりという。これ多神教の世に起こるゆえんにして、その神はみな感覚上の性質を有するものなり。これを形質神という。かくのごとき宗教は極めて野蛮の宗教にして、当時人智の未開を徴するに足る。人智ようやく進みて多神教は変じて一神教となり、形質神は変じて無形神となる。しかれども当時の人民なお想像上の神体を奉じて、いまだ道理上の神体を立つるに至らず。これ今日ヤソ教の状態を見て知るべし。ヤソ教にありては一個の神体を立てて、その神特殊の実体を有し、その智力意志によりて天地万物を造出すと説くをもって、天帝は万物の外にありて、万物の体天帝なるにあらず、また天帝の自体開発して万物を形成するにあらず。かくのごとき神体を匠工神と称す。匠工はあらかじめその心に経画して家屋を造出するも、家屋の体匠工なるにあらず。この匠工神を仮に個体神と称す。個体神とは万物の外に一個の神体ありて、その体智力を有し意志を有し情感を有し、あたかも人類のごとき性質作用を有するなり。ただその異なるは大小強弱の別のみ。これを独神教の初級とす。これより一歩を進めて、天帝の自体より万物を化生して天神なお万物の外にあり、あたかも父母その子を産出して子の体の外に父母存するがごとしと立つるもの、これを独神教の第二級とす。これやや匠工神とその性質を異にするも、その独一の個体神を立つるに至りては一なり。故にこの二者はみな個体神にして、ヤソ教に立つるところの天帝これなり。人智いよいよ進み事理いよいよ明らかにして、始めて形質を離れ個体を去りて、純然たる道理界中に神体を立つるに至る。これを理体神と称す。すなわち余がいわゆる哲学上の神にして、仏教に立つるところのものこれなり。

 第一六節 古来哲学者の神体を論ずる、あるいは不可知的の妙体に名付け、あるいは絶対の理想あるいは普遍の理性にその名を与えて大いに個体神と異なるところあり。故にこれをここに理体神という。あるいは普神と称することあり。これを普神と名づくるは、その体天地万物の中に普遍して存し、自ら万物を造出するにあらずして、万物自らその体中より現示するをもってなり。故にこれに種々の名称を与えて理体、理想、理性とも、あるいは単に理ともいうなり。さきに挙ぐるところの事物世界の三元中の神は、ここに至りてこれをみれば理といわざるべからず。すなわち情感的の神には神の名称を用い、智力的の神には理の名称を用うるを適当なりとするなり。

 第一七節 この理体神すなわち普神にもまた二種の別ありて、その第一を開発神といい、その第二を同体神という。まず開発神は一理次第の開発にして、易のいわゆる太極両儀を生じ両儀四象を生ずというがごとく、また仏教中『起信論』に論ずるところの一心開発して二門に分かるるがごとく、唯識宗に談ずるところの蔵識の種子より万境を開現するがごとく、平等の理体次第に開発して万差の諸物を生ずるなり。これをたとうるに、一個の種子の次第に発育して草木の枝葉を現出するがごとし。その論個体神に比すれば数等を加うといえども、いまだ一理と万物の関係明らかならざるをもって、これを理体神の初級とす。つぎに同体神は仏教中天台宗に論ずるがごとく同体不離の理体にして、理体万物を離れず万物理体を離れず、水を離れて波なく波を離れて水なく、二者同体不離なりと立つるなり。これを理体神の上級とす。けだし理体と万物との関係を論ずるもの、ここに至りて始めて完全を得たるもののごとし。故にこれを哲学上神体を立つる諸説の極点とするなり。

 第一八節 以上挙ぐるところこれを帰するに、その順序左のごとし。

  第5図

      神体 多神 形質神

            無形神

         独神(個体神) 初級………匠工神

                 上級………父子神

         普神(理体神) 初級………開発神

                 上級………同体神

 このうち多神形質神は野蛮の宗教の神体にして、個体神はヤソ教の神体なり。しかして理体神はひとり仏教の立つるところの神体にしてこれを神と称するも、もとより創造主宰の作用を有するものにあらず。故にこれを理と称するなり。もしまた情感的、智力的の二者に分かつときは、多神形質神は下等の情感に属し、個体神はやや高等なる情感に属し、理体神は智力に属す。これによりて、哲学上の宗教はいわゆるこの理体神を立つるものにして、仏教は智力的の宗教なることを知るべし。

 第一九節 今、人の想像思想の発達もまたこの順序による。およそ蛮民のいまだ智力を有せざるものに至りては、神と人との関係はなはだ近く、神は人のやや高等なるもののごとき想像を有せり。故をもって神は人のごとき形質身体を有するものとなす。これを形質神という。そのはなはだしきに至りては獣類同様の形質を有する神ありて、禽獣草木に至るまでみなこれを神とするに至る。これ多神教の世に起こるゆえんなり。しかるに人の思想ようやく進むに従い神と人との関係ようやく遠く、そのいわゆる神は人獣のごとき形質身体を有するにあらざるの想像を起こし、有形質より無形質に入らんとするの傾向あり。すでに有形より無形に入れば、多神の想像も次第に進んで独神となるに至る。ここにおいて個体神の思想を生ずるに至る。個体神はもとより人獣のごとき形質状貌を有するものにあらずといえども、なお人と同一の性質作用を有するなり。すなわち人と同一の智力、情感、意志の三種の作用を有するなり。ただその異なるは分量の多少にありて、神はその多量を有し、人はその少量を有するものなり。故に形質神も個体神も、ともに人類の形質作用に比して想像したるものなること疑いをいれず。すなわち情感上構成したるものなり。もし道理上その体を推究すれば、決して人類のごとき形質作用を有するものにあらずして、普遍の理体なることを知るべし。故に理体神は智力的に属さざるべからず。

 第二〇節 以上の論は神体の論にして、もしこれを宗教の上に考うるときは、多神を立つる宗教もまた情感的の宗教にして、一神中個体神を立つる宗教もまた情感的の宗教なり。しかして理体神を立つる宗教は智力的の宗教なり。もしまた宗教を分類して多神教、独神教、普神教の三種となすときは、ヤソ教は独神教にして仏教は普神教なり。今、神体と宗教を智力的と情感的の二種に分かつこと左のごとし。

  第6図

      神体 情感的(形質神および個体神)

         智力的(理体神)

  第7図

      宗教 情感的(多神教、独神教)

         智力的(普神教)

 およそ人智の進歩は有形より無形に入り、有象より無象に入り、事物より理性に入るものなり。その順序まさしく多神より独神、個体より理体と次第に変遷するを見て知るべし。これを要するに、宗教は多神を立つるに始まり普神を立つるに終わる。またその立つるところの神体は、人の形質作用に近きものより始まり遠きものに終わる。

 第二一節 しかるにここに一人の論者ありて、宗教に情感的、智力的二種の別あるはただ宗教の原理の上に存するのみ、その実際の応用に至りては二者同一にして、ともに愚民の間にその用を示すより外なしと難ずるものあらん。余これに対して、宗教は道理上にその原理を有するのみならず、智者学者の間にその用あるゆえんを論明せんとす。語を換えてこれをいえば、無智愚民の宗教の外に智者学者の別に存するゆえんを証示せんとす。今その理を証示するに当たり、まず哲学の諸科を分類して宗教のその中に存するゆえんを述べざるべからず。

 第二二節 哲学は前に示すところによりて心性の学、思想の学なることすでに明らかなりといえども、その学もとより心性自体の性質作用を論究するにとどまらず、いやしくも心性の関するところ、思想の及ぶところ、みな哲学に属さざるはなし。故をもってその学中、心性の性質作用を論究する一科あり、これを心理学といい、論理の法式応用を明示する一科あり、これを論理学といい、物心神三者の実体を論究しかつその関係を明示するものあり、これを純正哲学といい、道徳の学あり、これを倫理学といい、美術の学あり、これを審美学という。その他、社会学、教育学等種々の学科あり、これみな哲学なり。

 第二三節 今この諸科を分類合種するには、事物に有象と無象との二種あることを知らざるべからず。さきにすでに述ぶるごとく、理学は有形の物質を実究する学にして哲学は無形の心性を論究する学なるをもって、あるいは一を有形の学とし一を無形の学とするなり。しかしてこの無形に属するものはひとり心のみにあらず、物の実体も神の実体も、いやしくもわが耳目の感覚の外に存する以上は、すべて無形に属さざるべからず。しかるに心の無形は神の無形と大いにその関係を異にして、心はその体、形質を有せざるも、その作用を外界に現示するものなり。神体はこれに反して間接にその象を現示するも、直接にその象を現示せざるものなり。すなわち神も心もともに無形なるも、心は現象を有し、神は現象を有せざるの別あり。語を換えてこれをいえば、心は無形質にして有現象なり、神は無形質にして無現象なり。故に無形の事物中に、現象を有するものと有せざるものとの二種を分かたざるべからず。これを有象無象の二種とす。その図左のごとし。

  第8図

      事物 有形(有形質)

         無形(無形質) 有象(有現象)

                 無象(無現象)

 さきに理学哲学を解して一は物の学、一は心の学としたるも、ここに至りてこれをみるに、理学は有形の学、哲学は無形の学と称するをかえって適当なりとす。

 第二四節 つぎに物心二者について、おのおの体象の二種あることを知らざるべからず。今、心は無形中の有象に属するをもって、その外界に現示する象をこれを心象という。すなわち心性の現象を義とするなり。その心象の実体となるものこれを心体という。心体は現象の外に存するをもってこれを無象に属す。すなわち心性には心体心象の二種あるなり。つぎに物質にもまた体象の別ありて色、声、香、味、触はそのいわゆる物象にして、その物象の実体となるものこれを物体とす。故に物象は有形に属するも、物体は無象に属せざるべからず。これによりてこれをみるに、無象に属するものひとり神体のみならず、心体も物体もみな無象に属するを知るべし。

 第二五節 以上は事物の分類にして哲学の分類にあらざるも、およそ哲学は百般の事物に関するをもって、その範囲中にまたこの別あるを見る。まず純正哲学は神体、物体、心体の三者を論究する学なるをもって無象の学といわざるべからず。つぎに心理学は心象を論究するの学なるをもって有象の学に属さざるべからず。その他の論理、倫理、社会学等の諸科もまたみな有象の学なり。これを要するに、無形の事物に有象無象の別あるをもって、その無形に属する哲学中にまた有象の学、無象の学の二種あるなり。その図左のごとし。

  第9図

      哲学(無形の学) 心理学等(有象の学)

               純正哲学(無象の学)

 第二六節 つぎに有象学中、論理学、倫理学、審美学、社会学等の諸科はいかなる関係を有するかを述べんとするに、まず理論学と実用学の異同を知らざるべからず。理論学とは事物の性質作用を論究して一般の規則を考定するの学をいい、実用学とはその規則を実際に応用して人を命令指揮する学をいう。たとえば理論学は甲種の性質を研究してその規則はかくのごとし、乙種の作用を研究してその道理はかくのごとしというにとどまり、すこしも人を命令指揮してこの規則に従うべし、かの道理に基づくべしということなし。これに反して実用学はこの規則に従うべし、かの道理に基づくべしと人を命令するを主とす。これ理論学と実用学の異同あるゆえんなり。たとえば理学中において物理学、純正化学、天文学等は、外界の諸象万化を実究してその普通の規則を考定するにとどまるをもっていわゆる理論学なり。器械学、製造学、航海学等は、理論上考定するところの規則の実際に応用したるものなるをもっていわゆる実用学なり。今、哲学中にもまたこの理論、実用の二種の別あるを見る。心理学はそのいわゆる理論学なり、論理倫理等は実用学なり。なんとなれば、心理学は心性の性質作用を論究してその一般に関する規則道理を考定するにとどまり、更にこれを実際上に適用してその可否得失を論示することなし。しかるに論理学は思想の法規、推論の方式を設けて諸説諸論の可否得失を論じ、その一定の規則方式に従わしめんとす。倫理学は行為挙動の規則道理を明らかにし、その利害得失を論じて人をしてまたその規則道理に従わしめんとす。これみな人を命令指揮するものなり。故にこれを哲学中の実用学とす。

 第二七節 更に心理学と論理倫理等の関係を述ぶるに、心理学は心性作用を分類して情感、智力、意志の三種となし、その各種の性質規則を考定するものなり。論理、倫理、審美の三学はその各種の実用を説くものなり。すなわち情感の実用を説くものは審美学なり、意志の実用を説くものは倫理学なり、智力の実用を説くものは論理学なり。その他教育学の一科ありて、これまた心理学の実用を説くものなり。すなわち教育学中、智育、徳育、体育の三種ありて、智育は智力の実用、徳育は意志の実用に外ならず。故に教育学もまた一種の実用学なり。

 第二八節 以上述ぶるところの諸学は主として一個人の上に関する学にして、いまだ一国一社会の上に関する学あるを説かず。すでに心理学のごときは一個人の中に生ずる心性作用にして、一国一社会の上に生ずる現象をいうにあらず。しかして別に一国一社会の上の現象を論究する一科あり、これを社会学という。社会学は社会の現象を論究してその規則を考定するをもって目的とするも、その規則を実際に応用して利害得失を論ずることなきをもっていわゆる理論学の一種なり。もしそれ一個人と一国または一社会の間に関する実用学を挙ぐれば、政治学のごときものあり。しかして政治学はこれを心理学の上に考うるに意志の実用に属すべきものなれども、その倫理学と異なるは一個人と一個人との間の関係を示すにあらずして、一国一社会の関係を示すにあり。以上の諸学の外、哲学の範囲中に編入すべき学科種々ありて、あるいは理論学の一部に属し、あるいは実用学の一部に属すものなきにあらずといえども、今はただその主なるものを挙ぐるのみ。

 第二九節 以上述ぶるところの諸科を左のごとく分類することを得るなり。しかしてさきにすでに示すごとく、事物の実体を論究するものは純正哲学にして、現象を論究するものは心理学、社会学等なりという。故にこの二者を区別せんために、一を形而上哲学といい一を実験哲学と称するなり。これを実験哲学と称するは、事物の現象の上に実験を施すによる。今、理学も実験学なれども、そのいわゆる実験は有形の事物の形質上の実験にして、哲学の実験は無形の事物の現象上の実験なり。故に実験哲学をあるいは称して形而下哲学という。これを形而下と称するも、有形質の義にあらずして有現象の義なりと知るべし(左の図中、理論実用の両学を設け形而下哲学の諸科を分類するも、もとよりその両学の間判然たる分界あるにあらず。たとえば論理学、倫理学のごときは実用の一種とするも、その中にはあるいは理論を用うることあり、あるいは形而上の問題を論究することありて、決して単純の実用学にあらざるなり。故に余がこの分類においてもまた、ただその大要の関係を示すもののみ)。

  第10図

      哲学 形而上哲学(純正哲学)

         形而下哲学(実験哲学) 理論学 心理学

                         社会学

                     実用学 論理学

                         倫理学

                         審美学

                         教育学

                         政治学

 第三〇節 この図によりてこれを考うるに、形而下哲学には理論学と実用学の二種あれども、形而上哲学にはこの二種なく、ただ純正哲学の一科あるのみ。しかして純正哲学は物、心、神三体の性質関係を論究して事物の原理原則を明らかにするの学なれば、いわゆる理論学にして実用学にあらざること明らかなり。果たしてしからば、形而上哲学には理論学のみにして実用学なしといわざるべからず。これ余がはなはだ怪しむところにして、数年来哲学諸科を研究し、その中に純正哲学の実用あらんことを捜索せしなり。しかして近年仏教を研究するに至り、始めて純正哲学の実用は宗教なることを発見せり。故に余は第6図を変じて左のごとくなさんとす。

  第11図

      哲学 形而上哲学 理論学(純正哲学)

               実用学(宗教学すなわち智力的宗教)

         形而下哲学 理論学(前図のごとし)

               実用学(前図のごとし)

 第三一節 かくのごとく宗教をもって純正哲学の実用とするときは、人あるいは説をなしていわん、宗教は哲学の範囲内に入るるべからず。余これに答えていわん、宗教も世俗一般に信ずるがごときいわゆる情感的の宗教に至りては決して学問の範囲内に入るるべからずといえども、学者の信ずるがごときいわゆる智力的の宗教は諸学の原理に基づきて組成せるものなれば、これを哲学の範囲中に入るるは当然の理なりとす。およそ哲学はさきにすでに示すごとく思想道理の学にして、いやしくも智力上道理をもって組成したるものは必ずその範囲内に属さざるべからず。今、宗教も諸学の原理に考え思想の原則に基づきて組成したる以上は、その体すなわち哲学なり。しかれども宗教は純正哲学、心理学のごとく、理論上規則を考定するものにあらずして実際上応用を示すものなれば、その学はすなわち実用学ならざるべからず。かつ宗教中論ずるところのものは物、心、神三元の本源実体にして、もとより有形有象の事物を説くものにあらざれば、形而上哲学の実用学ならざるべからず。これ余が宗教をもって純正哲学の実用とするゆえんなり。すなわち純正哲学中論定するところの物、心、神三元の性質関係を実際に応用するこれを宗教という。あたかも論理倫理等の実用学の心理学におけるがごとく、器械学、製造学等の実用学の物理化学等におけるがごとし。しかしてそのいわゆる宗教は智力的の宗教にして道理界の宗教なれば、これを通俗の宗教すなわち情感的の宗教に区別せんために宗教学の名称を用うるなり。これによりて哲学界中に智力的宗教の存するゆえんを知るべし。

 第三二節 人あるいはいわん、純正哲学の実用は宗教にあらずして形而下哲学なりと。しかれども余をもってこれをみるに、形而下哲学の論理倫理等は全く形而上哲学に関せざるにあらずといえども、純正哲学の間接の実用にして直接の実用にあらず、ひとり直接の実用は智力的宗教なること明らかなり。なんとなれば、論理倫理等の原理は心理学の考定するところにして、心理学の原理は純正哲学の考定するところなれば、その実用は間接の実用といわざるべからず。たとえば論理倫理等は心象の実用なり、その心象の規則を考定するものは心理学にして、その心象の実体を論究するもの、これ純正哲学なり。故に心理学も論理倫理等も、みな心体の直接の実用にあらざること明らかなり。これに反して智力的宗教はその心体の直接の実用なるをもって、これを形而上哲学の実用学とせざるべからず。

 第三三節 以上は哲学の範囲中に宗教の存するゆえんを述べて、智力的宗教は哲学上の宗教なることを論明せり。故にこれよりその哲学上の宗教の、情感的の宗教とその種類を同じうするゆえんを弁明せざるべからず。これを弁明するには、宗教の性質と哲学の性質の異同を略言せざるべからず。第一に、宗教は実用を主とす、哲学は理論を主とす。第二に、宗教は信をもってもととし、哲学は疑をもってもととす。第三に、宗教は真理を往古に定め、哲学は将来に期するの異同ありという。これ宗教と哲学とのその性質を異にするゆえんなれども、今、哲学上にもまたこの性質あるを免れず。第一に、哲学中にも理論と実用の二種ありて、純正哲学の実用はすなわち智力的の宗教なるを知れば、理論をもととする哲学中に実用の宗教あることを知るべし。

 第三四節 第二に、宗教は信をもってもととするも、その信には情感的の信と智力的の信との二種ありて、一は道理分別なくただ一心に信ずるのみ、これを通俗の信という、すなわち情感的の信これなり、一は道理を究め論理を尽くしてのち生ずるところの信なり、これを学者の信とす、すなわち智力的の信これなり。さきに述ぶるところの信じてのち知るの信は情感的にして、知りてのち信ずるの信は智力的なり。今、哲学は疑をもってもととするというも、ひとたび疑を起こしてその理を究め、究め終われば信ずるより外なし。古来の学者おのおの先輩の説を疑い、これを排して一種の新見を立つるも、その自ら信ずるところの説あるは疑いをいれず。もし果たして信ずるところなくんば、一定の説あるべき理なし。すでに一定の説あるは、その自ら信ずるところあればなり。故に信にも情感的と智力的の二種ありて、哲学上の宗教はこの智力的の信をもととするものと知るべし。

 第三五節 第三に、宗教は真理を往古に定むるの性質あるをもって、述べて作らざるを主とし、教祖の言は万世不易の金言と立つるなり。しかるに哲学は真理を将来に期するをもって、先輩の説はこれを疑い自ら一真理を発見せんとす。故にその主とするところ作りて述べざるにあり。しかれども、哲学者といえども自ら一理を究めて、その得るところ古人の説と符合してすこしも違うところなくんば、古人の説を述ぶるより外なし。また千歳の後にありて古人の書を読み、その理を究めて一点の疑いをいるることあたわざるときは、その説を信ずるより外なし。故に哲学上にもまた述べて作らず、真理を往古に考うることありと知るべし。

 第三六節 その他、宗教には真理を往古に定むるをもっておのずから退守の風あり、哲学は真理を将来に期するをもって進取の風ありというといえども、哲学上にもまた全く退守の風なきにあらず。けだし哲学のその目的を達せざるに当たりては、あくまで進取の気風を発し、千思万考してその心を苦しむるを要すといえども、すでにその目的を達するに至れば、退きてその結果を保守するより外なし。これまた哲学中に宗教の性質あるゆえんなり。

 第三七節 以上三種の性質は哲学と宗教の異なるゆえんなれども、哲学上にもまたその性質の存するを知れば、哲学上に宗教の存するゆえん、あわせて哲学上の宗教すなわち智力的の宗教は情感的の宗教と全くその性質を異にせざるゆえんを知るべし。故にこれより智力的宗教と純正哲学との関係を述べんとす。すなわち第三〇節に示すごとく、形而上哲学中に純正哲学と宗教学との二者を分かちたれば、これよりその二者の関係を論ずべし。

 第三八節 およそ哲学の要旨は疑を起こし理を究むるにあれば、日夜汲々として思慮を労せざるべからず。しかるに宗教の要旨は疑を滅し信を起こすにあれば、心意を安んずることを得べし。語を換えてこれをいえば、一は究理、労慮をもって本意とし、一は起信、安心をもって本意とす。今、純正哲学と宗教学との関係もこれと同一にして、純正哲学の要旨は究理にあり、宗教学の要旨は安心にあり。かつ宗教学は純正哲学より得るところの結果を実用するものなれば、純正哲学は目的を達する方便にして、宗教学は目的を達したる結果なりと定むることを得べし。かつ宗教は自らその結果を楽しむにとどまらず、人をしてこれを楽しましむるを主とす。仏学のいわゆる自利、利他これなり。これまたその純正哲学と異なるゆえんにして、純正哲学はもっぱら一人の思想に関し、宗教学は衆人の思想に関するなり。これを要するに、宗教学すなわち智力的宗教は純正哲学においてすでに究めたる道理を自ら楽しみ、またこれを人に伝えてその心を安んぜしむるものなり。これすなわち、さきにいわゆる究理極まりて信を生ずるものにして、純正哲学の結果を広く実際に応用するものなり。故に宗教学の義解を左のごとく定めんとす。

  智力的の宗教は純正哲学の結果を実際に施して自ら楽しみ、かつ人をしてその心を安んぜしむるものなり。

 第三九節 かくのごとく考うるときは、純正哲学と智力的宗教の関係は一範囲の中にありて前後左右の別あるゆえんを知るべし。すなわち純正哲学はこの安心の目的を達せんと欲してその方向に進むものなり、智力的宗教はすでに達したる目的を応用して実際の方向を取るものなり。

 第四〇節 およそ人たるものはさきにすでに述ぶるごとく、仰ぎて天文をみ、ふして人事を思えば必ず知るべからざるものあるを免れず、知るべからざるものあれば必ず疑を生ず、疑あれば必ず迷を生ず、迷あれば必ずその心を苦しむ、その苦を去らんと欲して理を究むるはけだし哲学の世に起こるゆえんにして、哲学上一事を究めてその理を尽くせばまた他の理を考え、他の理を考えてその極に達すれば更にまた他の疑を起こす、これ哲学の進歩するゆえんなり。故に純正哲学全くその目的を達するに至れば、諸疑諸惑ことごとく滅絶して安楽の全地を占むることを得るも、そのいまだ達せざるに当たりては一思一考必ずその心を苦しめ、その精神を労せざるべからず。その労苦あるは、純正哲学は疑をもってもととするによる。疑すでに尽きて自ら楽しむに至るは信ずるところあるによる。いやしくも信ずるところあればこれ宗教なり。故に純正哲学と智力的宗教の性質上異なるは、苦と楽とにあるゆえんまた知るべし。

 第四一節 この苦楽の関係を明らかにするには、比喩を用うるを最も便なりとす。純正哲学は戦時のごとく進みて思想上事物の真理を討究して一刻もその心を安んずるあたわず、智力的宗教は平時のごとく退きて自ら安んじ、また人とともに楽しむことを得。あるいは一は動作のときのごとく、一は休息のときのごとし、あるいは一は労苦して自ら福利を収得せんとするがごとく、一はそのすでに収得したる福利をもって自ら楽しむがごとし。すなわち純正哲学は資財を養成するものにして、智力的宗教はその福利を受用するものなり。これ余が智力的宗教は純正哲学より得るところの結果なりというゆえんなり。

 第四二節 かくのごとく論ずるときは、人あるいは智力的宗教は純正哲学のすでに全くその真理を究めたる後に起こるものにして、そのいまだ究めざるに当たりてはその実用なしというものあるべしといえども、まずこれを体質上に考うるに、人一定の時間筋骨を労すれば必ず一定の時間休息を取らざるべからず、一労一息互いに相待ちて始めて一大事業を完成すべし。人の思想もまたしかり。人ひとたびこれを用うれば、またこれをいこわしめざるべからず。これをいこわしめてまたこれを用い、これを用いてまたこれをいこわしめ、かくして思想は始めてその目的を達することを得るなり。もしこれに反して一生心を労して一時も安んぜざらんと欲するも、そのあたわざるは必然の理なり。しかして純正哲学は人の心を労し、智力的宗教はこれを楽しましむるを主とするをもって、純正哲学と智力的宗教とともに哲学中にありて常に相並行して存せざるを得ざるゆえん、また了すべし。

 第四三節 人あるいは純正哲学その目的を全うせざるの際、いかんして我人その心を安んずることを得るやと難ずるものあるべしといえども、宗教の楽は必ずしも純正哲学その目的をまっとうするの日を待たざるなり。純正哲学その目的をまっとうするの日はいずれの時にあるかは今日をもって期すべからざるをもって、智力的宗教果たしてその時を待ちて起こるものとなすときは、その起こるいずれの時にあるや、また知るべからず。しかるに我人、哲学未完の今日にありてもその研究の際、時々刻々に宗教の思想を起こして、おのおのその心に楽を営むことを得るにあらずや。すなわち純正哲学において一理を考え一事を究めてその一部分の真理に達するときは、その全体の真理はいまだ知るべからずといえども、自らこれを信じて心をその一点に安んずることを得べし。これすなわち智力的宗教なり。もしなおこれを疑って他の真理を発見せんとするは、これ純正哲学なり。故に純正哲学の進達の際、歩々に智力的宗教の思想を起こして心に安息を与うることを得るなり。これをたとうるに、旅人の道を行くの際ときどき休息を取るがごとし、その進みて行くは純正哲学にして、そのとどまりていこうは智力的宗教なり。また労力者の昼間労動して夜間休息を取るがごとし。その労動は純正哲学にして、その休息は智力的宗教なり。別して人その晩年に臨みて従来疑うところの説始めて定まり、おのおのその信ずるところに従って安楽の境に入るがごときは、純然たる一種の宗教なり。これをもって宗教は人心固有の性質にして、道理界中、常に哲学の思想に伴って生ぜざるを得ざるゆえんを知るべし。

 第四四節 かくのごとく宗教を論ずるときは、世に無宗教者あるべき理なし。しかるに世間の学者中に宗教を信ぜざる者多きはいかにというに、これその人自ら宗教を信ぜずと思うのみにて、その実、宗教者なること疑いを入れざるなり。けだし世人は従来伝わるところのヤソ教または仏教をもってひとり宗教とみなし、それを信ずるものにあらざれば宗教者と呼ぶを許さざるをもってかくのごとき誤解を生ずといえども、世間従来伝わるところの宗教の外、別に宗教なしというの理なし。すべて宗教の原理に基づきその性質を有するものみな宗教にして、これを信ずるものみな宗教者というべし。故に人いやしくもその自ら信ずるところに従って満足安心するもの、みな一家の宗教者なり。ヤソ教を奉ぜざるものも仏教を排するものも、各別に自ら信ずるところの説ある以上は、これを宗教者と呼ばんのみ。もしその説これを人に伝えて同じうするものあるときは、ついに一派の宗教となるべし。これを要するに、天下に一人の無宗教者なし、その自ら無宗教者と称するものは、世間一般に奉ずるところの宗教を信ぜざるのみ。

 第四五節 そもそも宗教の名目は人その心に崇信憑依するところあるの義にして、その崇信するところの体は必ずしも有意有作の神体に限るにあらず、天堂地獄の未来をいうにあらず。いやしくも人その心に崇信するところの体を立て、これによりて安心の目的を達することを得るものは、一として宗教ならざるの理なし。これ余が哲学中に宗教の実用あるを唱うるゆえんなり。およそ世俗に立つるところの宗教は有意有作の神体に限るをもって、純然たる宗教はヤソなりと唱うるといえども、さきに重ねて弁明せるごとく、かくのごとき宗教は情感的の宗教にして智力的の宗教にあらず。智力的の宗教は純正哲学において立つるところの原理を崇信して、安心の目的を達するものならざるべからず。たとえば純正哲学中、唯物論者の立つるがごとき物の外に心なくまた神なきの一説を信じて、よくその心を安んずるを得るときは、これまた一種の宗教なり。唯心論者の立つるがごとき心の外に物もなくまた神もなきの一説を信じて、よくその心を安んずることを得るときは、これまた一種の宗教なり。かくのごとき唯物唯心の宗教は、情感的の宗教にあらずして智力的の宗教なること、言を待たずして明らかなり。故に人ありて、われは神仏の賞罰を信ぜず、未来の極楽を信ぜずというものあるも、その人別に自ら信ずるところは疑いをいれず。すなわち神仏を信ぜざるは神仏なきの説を信ずるにより、極楽を信ぜざるは極楽なきの説を信ずるによる。しかしてその信ずるところによりて自ら安心することを得るときは、すなわち宗教なり。故に余曰く、世に真の無宗教者なし、そのいわゆる無宗教者は世人一般に奉ずるところの宗教を信ぜざるのみ。

 第四六節 以上は哲学中に宗教の存するゆえん、および世に真の無宗教者なきゆえんを示したりといえども、いまだ宗教の組織すなわち宗門宗派の生ずるゆえんを論ぜず。故にここにこれを論ずる最も必要なりとす。およそ宗教の組織と称するものは、もとより宗教の原理、性質と同一にあらず。宗教の原理上これをみれば人々ことごとく宗教者なるべきも、各人有するところの宗教思想は必ずしも宗教の組織をなすものというべからず。なお人々哲学思想を有する以上はみな多少の哲学者なりといえども、いまだ哲学の一家または一派をなすに至らざるがごとし。けだし学問上一組織をなすには、一類の思想種々結合して一主義のその間に貫徹するところなかるべからず。別して宗教は実際に関するをもって、一人の有するところの宗教思想は衆人の上に及ぼし、衆人の思想互いに結合して始めて宗門宗派の組織を見るなり。故に一人一己の説をもって自ら信じ自ら安んずるも宗教組織の一部分存するのみにて、もとより宗教の一派をなすものにあらず。かつ宗教の目的は自他ともに利するにあるをもって、衆人の安心を営まざる以上はいまだ一種の宗教と称するを得ず。しかれども宗教はこの一人一己の思想を離れて別に存するにあらざるをもって、余はただこれを宗教組織の元素というのみ。

 第四七節 果たしてしからば、宗門宗派はいかにして生ずるや。曰く、ここに一人あり、哲学上一理を究めてその真に達し、自らこれを味わいてその惑を解きその苦を去り、またこれを人に伝えて人またそのしかるゆえんを疑わず、同機相感じ相投じてともにその真境に入り、互いに相結合して同一味を楽しむに至るときは、始めて一派の組織をなすものというべし。けだし世人はその性おのずから賢愚利鈍の別ありて、おのおの同等の才学を有するあたわず。その才学の最も発達したる哲理を考えて安心の法を立つれば、これを才学のいまだここに及ばざるものに伝えて広くその楽を同じうすることを得、あるいはまた甲なるもの一理を考えてその得るところの結果乙に符合するときは、甲乙互いに相助けてその楽を長ずることを得、また甲は甲の理を考え乙は乙の理を考え、おのおのその得るところの結果をもって、互いに相交換して楽を補うことあり。これみな各宗教者の一派の宗門を開くに至るゆえんなり。およそ人たるもの、かくのごとく互いにその及ばざるところを助け、互いにその足らざるところを補い、互いにその信ずるところを語り、互いにその安んずるところを告げて同味同感の楽境に達するは、宗教の組織をなすに最も要するところなり。

 第四八節 かつ人はさきに述ぶるごとく、生まれてはそのよりてきたるところを怪しみ、老いてはその向かって去るところを疑い、仰ぎては宇宙のなんたるを考え、ふしては心霊のなんたるを思う。ここにおいて疑団百結、霧海千里、方向に迷うに至る。ひとたび迷を生ずれば必ずその心を苦しむ、その心を苦しむればまたこれを去らんことを求むるは自然の性なり。ここにおいて人みな哲理を講ずるに至る。哲理を講じてその真に達すれば、心おのずから快を覚う。その快を人に語りて互いに相楽しむは宗教なり。その同感同楽のもの相会して一派一門をなすに至れば、いわゆる宗教の組織をなすものなり。

 第四九節 かくのごとく論ずるときは、純正哲学の組織も智力的宗教の組織も同一なるに似たれども、純正哲学の組織は事理を究むる上において生ずるところの組織にして、智力的宗教の組織はすでに究めたる結果を実用する上において起こるところの組織なり。たとえば純正哲学において心性の起源を論ずるにも、外界の経験説を取ると内界の本然説を取るの異説あるがごとく一論数説に分かれ、いよいよ研究するに従いますます多岐に分かるるの傾向ありといえども、宗教はただその一説を取りて、衆説をしてこれに帰せしむることをつとむ。これ他なし、一は疑をもととし、一は信をもととするによる。故にその組織二者また異にして、純正哲学は捜索の起点異なるに従って組織に不同を生じ、宗教は哲学に定むるところの結果の異なるに従って組織に不同を生ず。語を換えてこれをいえば、一は哲学研究の方法の上に生じ、一はその結果の応用の上に生ずるなり。

 第五〇節 これによりてこれをみれば、純正哲学は万殊にして智力的宗教は一致なることまた知るべし。すなわち純正哲学はその起点同一なるも、その向かうところおのおの異なるをもってその道多岐に分かる。智力的宗教はこれを会して一点に帰せんとするをもってそのよるところ万差なるも、安心の地に至りては二致なし。これをもって仏教のごときその法八万四千の多岐にわたるも、その要ただ安心立命の地に達するにあるをもって、これを一類の宗教となすなり。けだし哲学と宗教とかくのごとき異同あるは、一は研究の方法にして、一は結果の実用なるによる。故に哲学、他日もしその目的を達して事物の真理を開現するに至らば、多岐合して一途に帰せざるべからず。果たして一途に帰するに至らば、道理界ことごとく宗教界に入るなり。なんとなれば、智力的宗教は純正哲学研究の結果なればなり。

 第五一節 この理を推して理学哲学は日に月にその進歩を見るも、宗教は古今変遷すること少なきゆえんまた知るべし。けだし理哲両学に定むるところの大原則、大理法は大抵古今変せざるを常とす。たとえば物質不滅、勢力保存等の理法は、たやすく変ずべきものにあらざるがごとし。智力的宗教はかくのごとき諸学の証明せる大原則に基づきて立つるをもって、世の変遷に従ってその変遷を見ざるなり。これをもって古代の宗教も今日の宗教となることを得るなり。

 第五二節 しかれども宗教を人に伝うるの方法に至りては古今一定なるあたわず。その方法は世の勢いと人の情とに従って変ぜざるべからず。これ一教中に諸宗の起こるゆえん、諸派の分かるるゆえんなり。しかして宗教はたとえ多少の変遷あるも、またおのずからその思想の常に一点に帰するの傾向あり。哲学はこれに反しもっぱらその方法の変じ、その道の分かるるをもってその進歩を見るなり。たとえばここに甲説あれば乙説のこれに反するあり、甲乙両説あれば丙説のこれに抗するありて、自他互いにその真理を闘わすいわゆる学界の一戦場なり。これをもって、哲学にありては一時もその思想を安んずることあたわざるなり。宗教もし哲学のごとく真理の争闘をこととするに至らば、到底安心の地に達すべからず。いやしくも安心の地に達せんと欲せば、道理界の平和を保たざるべからず。これ宗教の古今一道に帰せんとする傾向あるゆえんなり。これをもって、宗教には「述べて作らず」(述而不作)の主義起こるに至る。けだし「述べて作らず」(述而不作)を主義とするは安心の目的を達する良法なればなり。もしこれに反してみだりに人の説を疑い、つとめて異説を求めんとするときは、到底安心の地位に達することあたわず。故に古来宗教の一轍を守らんとするの傾向あるは、人心自然の勢いここに至るなり。

 第五三節 以上論ずるところによりてこれをみるに、今日宗教と称するもの必ずしもヤソ教または仏教に限るにあらず。いかなる学者、いかなる無宗教者といえども、おのおの自ら信ずるところの一定の説ありて、これを人に伝えて自他ともにその惑を解き、その心を安んずることを得るときは、その人一種の宗教家と呼ぶもすこしも不可なるの理なし。しかるに西洋にありてはヤソ教ひとり非常の勢力を社会に有するをもって、学者みなこの外に宗教なしと考え、これに反対せる者はことごとく宗教にあらずと信じ、世間道理上別に安心の実益を与うるものあるも、みなこれに哲学の名を下して宗教の範囲に入れず。これをもって世人は、宗教は想像にとどまり、ひとり道理に基づくものは哲学なりと信ずるに至る。かのカント、ヘーゲル等の諸氏は、世間これを目して一に哲学者と称すれども、その実多少の宗教者なり。ただ諸氏はいまだ純然たる宗教の組織を開かざるのみ。もし諸氏の自ら信じ自ら楽しむところのものをもって、よくこれを人に伝えてその迷苦を去り、同味の快楽を感受するに至らば、諸氏は堂々たる宗教家なり。さきに重ねていうがごとく、智力上の宗教は哲学研究の結果を安心の実際上に施すものなるをもって、哲学者は大抵みな宗教者なり。そのうちただ宗教の組織をなすものとなさざるものとの別あるのみ。しかして宗教の要、安心の一道に会帰するにあるをもって、あえて哲学のごとく新見異説を求むるを要せず。故に古代の教法にても、よく安心の実益を受くるに適するときは、これを今日に信ずるもすこしも不可なることなし。これ仏教等の今日の教法となるゆえんなり。

 第五四節 前節述ぶるごとく、宗教果たして哲学界中に存する以上は、西洋今日哲学の盛んなるその勢い、ヤソ教に抗して別に一宗教の起こるべき理なり。しかるにその起こらざるはいかにというに、これ一は従来の教法非常の勢力を有するをもって、新宗教のこれに抗して起こるの難きにより、一は社会の過半は愚民より成るをもって、哲学上の宗教は世にいれられざるにより、一は哲学の近世に興る日なお浅く事理の研究はなはだ忙しきをもって、いまだ宗教を組成するのいとまなきによるや必然なり。将来もし今日の宗教と称するもの廃絶するに至らば、哲学界中事理を研究する部分とその結果を応用する部分と判然相分かれて、智力的の宗教世に起こるべきは進化自然の勢いしからざるを得ざるなり。もしこれを証せんと欲せば、仏教の性質事情を論ずるを必要なりとす。

 第五五節 それ仏教は純正哲学の原理に基づきて組成したるものにして、さきにいわゆる智力的の宗教とすこしも異なることなし。故にその教中説くところのものまさしく西洋哲学の諸論にして、そのこれを宗教の上に応用したるがごときは、全く純正哲学の実用に外ならず。今これを証示するも、あえて難きにあらず。まず仏教は物心二元の外に第三元を立てて諸事諸物の起源関係を明示するは、あたかも情感的宗教において創造主宰神を立てて物心の本源を説くと同一なりといえども、その第三元は情感的宗教の神体と大いにその性質を異にして、さきにいわゆる理体神すなわち普遍の理体なり。しかしてその第三元は仏教中、唯識宗と天台宗との談ずるところ不同ありといえども、ともに哲学上立つるところの体なるは疑いをいれず。

 第五六節 その他、仏教は大小二乗に分かれ、またこれを有、空、中の三門に分かつことあり。すなわち小乗は有宗、大乗の初門は空宗、実大乗は中宗なり。これを宗旨に配すれば、倶舎宗は有宗、唯識宗は空宗、天台宗は中宗なり。余はこの有、空、中の三を物、心、理の三宗に配することを得べし。倶舎は物宗、唯識は心宗、天台は理宗なり。その三宗の大要は余が著すところの『仏教活論』につきてみるべし。

 第五七節 純正哲学の組織を考うるに、さきに第二五節に述ぶるごとく物,心、神三体を論究するものにして、そのいわゆる神は理体神にして個体神にあらず。故に物、心、理と称するを適当なりとす。しかして智力的宗教はその原理を実際に応用するものなれば、宗教中に物、心、理の三宗なかるべからず。かつ今日にありては純正哲学中いまだ分科の設けなしといえども、将来に至らば必ずその学科中に物体哲学、心体哲学、理体哲学の三科ありて分かるることあるべし。しかるときは、智力的宗教中にもまた物宗、心宗、理宗の三種ありて分かれざるを得ず。物宗は物体哲学の実用なり、心宗は心体哲学の実用なり、理宗は理体哲学の実用なり。故に将来もし智力的宗教の世に起こるあらば、自然の勢いこの三宗に分かれざるを得ず。しかるに今、仏教は数千年の太古に起こるも、すでに物、心、理三宗の設けありて、今日の純正哲学の組織と全く応合するものなり。今、仏教を改良すれば、あえて新たに智力的宗教を組成するを要せず、将来智力的宗教の西洋に起こるも、また必ず仏教の組織を変ずることあたわざるべし。これ余が数年来仏教を実究して、智力的宗教を開かんと欲するゆえんなり。余が日夜国家のために孜々としてその志を尽くさんと欲するものも、またただこの一教の改良に外ならず。実に仏教は世界無比、古今不二の宗教なりといわざるべからず。

 第五八節 しかるに宗教には智力的と情感的の二種ありて、仏教は智力的の宗教にしてヤソ教は情感的の宗教なりとするときは、通俗の宗教はヤソ教に定めざるべからずというものあらん。余これに答えて、仏教は智力的の宗教なれども、またその中に情感的の一門ありて、ヤソ教によらざるも通俗の宗教を立つることを得るなり。これ仏教に聖道、浄土の二門ありて、聖道門は智力的宗教なり、浄土門は情感的宗教なり。この二門あるをもって、仏教は賢愚利鈍八万の諸機諸類をして、ことごとく一味の安楽に住せしむることを得るなり。ヤソ教はこれに反して情感的一辺の宗教なるをもって、一方に便なるも他方に不便なるの憂なきにあらず。かつその勢い往々智力の発達を害し、学問の進歩を妨ぐるの例なきにあらず。仏教はしからず。そのいわゆる浄土門のごとき情感的の宗教も、その実智力的の宗教より出でたるものなれば、これを信ずるものをして情感とともに智力の発達を進むることを得べし。すなわちその宗に立つるところの第三元すなわち仏は、ヤソ教の第三元すなわち創造主宰神と大いにその趣を異にして、智力的の神体にはなはだ相近きものなり。故に浄土門は表面に情感的宗教を示して、裏面に智力的宗教を含むものなり。これ他なし、浄土門も聖道門もともに一仏教なればなり。故に余は情感的の宗教も、ヤソ教の代わりに仏教の浄土門を用うるを益ありとす。これ余が『仏教活論』中において詳論せんと欲するところなり。

 第五九節 終わりに臨みて一言を加えざるを得ざるものあり。およそ事物の発達進歩は、異種の元素相合して新化合物を生ずるにあり。たとえば東洋の文化をしてこれに一段の進歩を与えんと欲せば、西洋の元素に混和せしむるを要す。果たしてしからば、宗教の進歩も東西両洋の宗教を結合せざるべからず。すなわちヤソ教と仏教と相合して、一種の新宗教を生ぜざるべからずというものあらん。これ余がもとより許すところなれども、ひとり仏教に至りてはこれをして西洋の宗教に混和するを要せず。たとえヤソ教と仏教を混和結合するも、その結果すなわち仏教なり。なんとなれば、仏教は諸教諸法を合してその中を取るものなればなり。かつそのいわゆる八万四千の法門中には一切の教理を摂有すればなり。およそ宗教上には情感的、智力的の二種あるも、仏教はこの二種を兼有することは前節にすでに論ずるところなり。かつ宗教上の論は大別して有神論、無神論の二種となすも、仏教は公平にこれを評すれば、この二種を合したる論なり。そのいわゆる普神教は神なきの論なれども、理想の本体を立つるに至りてはまた一種の神ありの論というべし。これを要するに、仏教は諸教諸説を網羅兼有したる完全の宗教なり。故に余は『仏教活論序論』中に、仏教中に立つるところの中道の妙理を説きて曰く、そのいわゆる中道とは非有非空、亦有亦空の中道にして、唯物唯心を合したる中道なり、主観客観を兼ねたる中道なり、経験本然を統合したる中道なり、可知的と不可知的とを両存したる中道なり。この中道の中にはあらゆる古来の諸説諸論みなことごとく会帰して、あたかも万火の集まりて一火となり、万水の合して一水となるがごとく、更にその差別を見ず、実に無偏無党の中道なり、公明正大の中道なり。一論として欠くるなく、一説として足らざるなく、真にこれ思想の大海、哲理の源泉にして、古今東西の諸論諸説みなその一滴または一分子に過ぎず、実に広大無辺の中道なり、円満完備の中道なり。かくのごとき公明正大、円満完備の中道は、世界万世いまだかつてその比類を見ず、実に世界不二の中道なり、万世無比の中道なり。その理の幽玄微妙なる、口舌のよく開示するところにあらず、筆紙のよく模擬するところにあらず、その妙実に言語文章の外にありて、ただこれを単に妙というてやまんのみ。