2.倫理摘要

P139

  倫理摘要 

 

 

1. 冊数

   1冊

2. サイズ(タテ×ヨコ)

   182×135mm

3. ページ

   総数:221

   緒言: 3

   目録: 1

   資料: 37〔術語索引ほか〕

   目録: 7

   本文:163

   資料: 10〔倫理試験問題〕

(巻頭)

4. 刊行年月日

   初版:   明治24年5月22日

   底本:4版 明治34年9月10日

5. 句読点

   なし

6. その他

   (1) 原本の術語索引,倫理学者年代表,倫理試験問題は省略した。

       緒  言

 余は倫理学を専門とするものにあらず。しかるに世間その人に乏しきために、先年普及舎のもとめに応じて『倫理通論』と題する一書を編述せしことあり。その書ベイン、スペンサー、ダーウィン等の書に基づき道徳進化の理を論定せるものなれば、世これを評して教科用書に適せずという。しかして余おもえらく、倫理の道理は古来東洋にありて存し、わが国にもその道あり、なんぞ必ずしも西洋を待つを要せんや。ただ東洋の短所は、実験上の事実をもって論拠を構成せざるの一点にあり。この欠点を補うものは西洋近世の進化説なり。これ余がさきに、進化の原理に基づきて倫理書を編述したるゆえんなり。しかるに昨年以来、郁文館の倫理教員その欠を告ぐるをもって余その講席を占むるに至り、本年また哲学館講師国府寺氏転任以後、同氏に代わりて倫理科を受け持つこととなり、倫理の要領を講述するの際適当の用書の必要なるを感じ、更に一部の倫理書を編述するに至れり。すなわちこの書なり。しかしてその書、普通の教科用書を目的とするものなれば、倫理の大要を略述するに過ぎず。故に題して『倫理摘要』という。

 余は、学校の修身道徳は理論の上にあらずして実行の上にあり、書物その物の上にあらずして教員その人の上にありと信ずるものなり。しかるに今日世の道徳を論ずるもの曰く、古来倫理学者おのおのその説を異にし道徳の原理いまだ一定せざれば、いずれの説によりてこれを実行すべきや、実に惑わさるべからずと。余いささかその惑いを解かんと欲し、本書を編述するに至る。よろしく結論につきてその意を見るべし。

  明治二四年五月一日                  著 者 誌  



   倫理学派名義考

       直覚教(Intuitionalism)

 直覚とは推理思量を待たず直接即時に覚知するを義とし、直覚教とはこの先天性の本心および規律を原理と立てて道徳を講ずるものをいう。故にその学派は経験学派、功利学派に反対して、快楽の目的にあらざることを論ずるなり。

       主楽教(Hedonism)

 主楽教は全く直覚教の反対論にして、快楽をもって人生の目的とする学派なり。古代にありてはアリスティッポス氏およびエピクロス氏これを唱え、近世に至りては倫理学者多くこの主義を取るに至れり。これを要するに、直覚教は道徳の原因について目的を論じ、主楽教は結果について目的を論ずるの別あり。

       感覚教(Sensationalism)

 哲学上にありて人の智識思想は全く感覚より発達するものと唱うる論、これを感覚論もしくは感覚教と名付く。その説、近世ロック氏これを唱え、ミル氏、ベイン氏、スペンサー氏等これを継述せり。この主義に基づきて倫理を論ずるときは、善悪の情操は苦楽の感覚より発達すという。また道徳上肉体の快楽情欲を目的とするものを、感覚主義もしくは唯覚教(Sensualism)と名付くるなり。

       自利教(Egoism)

 自利教あるいは一名主我教は自己を目的とし、あるいは自己を起点と立つるものにして、哲学上にてはデカルト氏およびフィヒテ氏の主我論これに属し、倫理学上にてはホッブズ氏のごとく自利心をもって諸善行の動機原因となすものこれに属するなり。

       利他教(Altruism)

 自利教と利他教とは、前者は自己の快楽を目的とするも、後者は他人の快楽を目的とするの別あり。近世ベンサム氏、コント氏、ミル氏等の功利教は、この利他主義に基づきて社会一般の幸福を目的とするに至りたるものなり。

       功利教(Utilitarianism)

 功利教は社会多数の幸福利益を目的とするものにして、近世ベンサム氏、ミル氏等これを主唱せり。しかしてその説、エピクロス、ホッブズ諸氏の論のようやく発達したるものに外ならず。ベイン、スペンサー諸氏もこの主義に属するなり。

       経験教(Empiricism)

 経験教は経験をもって真理判定の標準とする論にして、倫理学上にありては道徳の性情および行為は教育経験によりて発達したるものとし、感覚教および功利教の唱うる主義に合するなり。

       実験教(Positivism)

 実験教はコント氏の唱うるところにして、学術の研究を実験の範囲内に限り、その外に及ぼさざる論なり。この主義を宗教上に応用して、人間を目的としてこれを崇拝する宗教を組織せり。これすなわち人間教(Religion of Humanity)なり。

       人類教(Anthropomorphism)

 人類教とは、人類の性質を神の上に適用して人性的の神を立つるをいう。しかるにまた人の性質を神とし、人性の外に神なきを唱え天に神ありとするは、人中に包有せる神性の変態に外ならずとする論も、これを人性教すなわち人類教という。この論はフォイエルバッハ氏の唱うるところなり。

       社会教(Socialism)

 社会教は、人間の同等同権なる道理に基づき社会共同主義を唱え、私有財産を廃することを主張するものなり。しかして今日私有財産の制度あるがごときは全く天理に反するものとす。イギリス人ロバート・オーウェン氏この主義を唱えり。

       共産教(Communism)

 共産教は社会教と同じく財産共有論を唱え、共同の労力によりて得たるものを平等に分配し、もって貧富の別なきに至らしむる論なり。その党フランスに起これり。

       虚無教(Nihilism)

 哲学上にありてはヒューム氏の論のごとく物心万有の実在現存を否定して懐疑の極端に陥りたるものを虚無論といい、社会上にては社会主義の極端に走りて社会の一切の階級秩序を破壊するものを虚無党という。その党ロシアに行わる。

       懐疑教(Scepticism)

 懐疑教は、真理は不可知、不可得なるものとし、物心の実在を疑い諸論の断定を排したるものにして、古代にありてはピュロン氏これを唱え、近世にありてはヒューム氏これに陥る。またその道徳を論ずるや、善悪の標準の自然に一定すべきを疑い、風俗、習慣、法律、世論等によりて定まるものとす。

       独断教(Dogmatism)

 懐疑教の反対に立つものを独断教と名付く。独断とは仮定説にして、いまだ証明の十分ならざるものを確実なりと断定するをいう。宗教家の説多くはこれに属す。また近世デカルト学派の説もこの一種となすなり。

       批判教(Criticism)

 経験学派は経験の事実をもって確実なりと仮定し、独断学派は思想の専断をもって真実なりと仮定するも、更にその真否を審判せざるべからず。かくして先天性の道理あることを考定して新哲学を起こしたるものは実にカント氏にして、氏はその哲学を批判教すなわち批判哲学と名付けり。

       道理教(Rationalism)

 道理教一名合理教あるいは唯理教は感覚教に反対して、真理を判定すべきものは感覚にあらずして道理の力なりとす。ライプニッツ氏の説およびカント氏の論のごときは一種の道理教なり。またこれを宗教学上に考うるときは、そのいわゆる道理教は超理教に反対して、神命天啓のごときは道理に一致するものとなす。近世道理によりて宗教上の諸問題を説明せんことを試みたるものは実にスピノザ氏なり。その他カント、フィヒテ等の諸氏も一種の道理学派なり。

       超理教(Supernaturalism)

 超理教すなわち理外教は、神をもって道理以外万有以上に位するものとし、その体のごときは我人の道理によりて到底知るべからざれば、すべからく神の啓示を待たざるべからずと唱え天啓論を主唱するものなり。この論に反対したるもの、一方にありては道理教あり、他方にありては万有教あり。

       神秘教(Mysticism)

 神秘教すなわち秘密教は我人と神と相通ずることを得、神の意はわが心において相感ずるものとし、一切の不思議をみなこの交感の理をもって説明するなり。その説、古代にありては新プラトン学派これを唱え、近世にありてはドイツにエックハルト氏ありてその義を主唱し、ついで神智学派の一人なるベーメ氏またその主義を唱道せり。

       万有教(Naturalism)

 万有教すなわち物理教は、宇宙間の事物はみな万有自然の道理によりて支配せらるるものなることを唱え、唯物教(Materialism)とその論を同じうす。古代分子学派の説、近世フランス唯物学派の論等はみなこれに属す。この論に反対したるものに超絶教(Transcendentalism)および唯心論(Idealism)あり、また超理教あり。超絶教は超理教と異なりて、全く道理以外にあることを意味するにあらずして、我人先天性の道理は経験の範囲を超えてその外に進到すべきことを意味するなり。

       必至教(Necessitarianism)

 必至教すなわち必然教は自由意志論に反対して、我人の行為は因果必然の規律によりて支配せらるることを唱え、物質の変化が必然の規律に従うがごとく心意作用もまたその規律に従うものにして、我人はこれによりてきたすところの影響結果を随意に左右すべからざるものとす。しかしてわが心の作用は必然の規律によりて一定するも、物質の自然律に従うとは多少その性質を異にするをもって、ミル氏のごときは必至教の代わりに定道教(Determinism)の語を用いたり。

       運命教(Fatalism)

 運命教はやや必至教とその意を同じうし、我人の挙動運命は自然に一定して動かすべからざるものとするなり。しかしてその説に二種あり。一は、神人以外に神人を支配すべき一種の勢力もしくは規律ありて、我人は決してこれに抗抵することあたわずといい、一は、神が世界万有の運命を前定したるをもって、我人の力よくこれを動かすべからずという。

       楽天教(Optimism)

 この世界は全智全能の神の創造するところなれば完全快楽の世界なるべしと立つるもの、これを楽天教という。哲学上にてライプニッツ氏の論はこの主義なり。また中世にありてはセント・アンセルムス、セント・トマス諸氏この説を唱えり。

       多苦教(Pessimism)

 多苦教すなわち厭世教は楽天教の反対にして、この世界は苦難不幸の境遇なりとす。これ哲学上ショーペンハウアー氏ならびにハルトマン氏の唱うるところなり。

       厳粛教(Asceticism)

 自ら厳粛なる規律をもって一身を制抑し、固く正義純徳を守るものを厳粛教という。その主義は古代ピタゴラス学派、ストア学派等これを実行せり。

   倫理学略史

 方今倫理学史を講ずるには東西両洋に分かち、東洋倫理学史、西洋倫理学史の二編を設けざるべからず。しかして東洋倫理学史にてはインド、シナ等に発達せる倫理説を叙述し、西洋倫理学史にてはギリシア、ローマ、ならびに近世イギリス、ドイツ、フランス等の諸国に発達せる倫理説を叙述せざるべからず。しかるに東洋の倫理説はそのおもなるもの久しくわが国に伝わり、したがいてその書今なお多く存し、多少その説をうかがわざるものなきをもってこれを略す。故にここに叙述するところは、ひとり西洋倫理学史の要略なり。

 西洋倫理学史は古今その部類を異にするも、一脈の系統に従いて発達せるものなり。あたかも一根より発生したる樹木の数枝を分出するがごとし。故に一脈の系統史によりてその発達を叙述することを得るなり。まずこれを上世、中世、近世の三段に分かつを常とす。あるいは古代近代の二期に分かつことあり。上世倫理史にてはギリシアの諸説を叙述し、中世倫理史にてはローマ以来近世に至るまでの間に起こりたる諸説を叙述し、近世倫理史にては近世イギリス、ドイツ、フランス等の諸邦に起こりたる諸説を叙述するなり。もしその中世の説を上世の部に加えて講述するときは、古代近代の二期に分段すべし。今、余が左に講述せんとするところは、この古代近代二期の分段法によるものなり。なぜなれば、中世の倫理説はギリシアの余派を伝うるものもしくはヤソ教の道徳説に外ならざれば、別にその一段を設くる必要なきをもってなり。

       古代倫理史

 古代倫理史を講ずるにも、これを前中後三期に分かつ方法と、前後二期に分かつ方法あり。前後二期に分かつときは、ソクラテス以前と以後とをもって分段を立つ。前中後三期に分かつときは、ソクラテス以前と、ソクラテス、プラトン、アリストテレス三氏の間と、エピクロス、ストア以後とをもって分段を立つ。あるいはソクラテス以前と、ソクラテスより懐疑学に至るまでと、懐疑学以後とをもって分段を立つることあり。しかして前期の倫理説は別に論ずべき価値を有せず。けだし当時の論題は宇宙万有のいかんにありて、いまだ人倫道徳の上に及ぼさざりき。しかるに宇宙の問題を一転して倫理上に移せしは、ソクラテス氏その人の力なり。故にソクラテス氏は一般に称して倫理学の初祖となす。

 ソクラテス氏 中期の倫理学を講ずるには、ソクラテス氏の説より始めざるべからず。氏は道徳と智識との関係を論じて曰く、徳は智識より生じ不徳は無智より生ずと。その意、人の不善をなし不徳を行うは、不学無智にして是非を弁ぜざるによる。人たれか好みて不善をなすものあらんや。故にもし人をして善に移らしめんと欲せば、その智力を養成し善悪邪正のなんたるを知らしめざるべからずというにあり。これを智徳一体論という。その説、今日の理論に考うるに欠点なきにあらざれども、氏一代の言語行為に至りては一点の間然するところなく、実に古今無比の道徳家と称せざるを得ざるなり。

 ソクラテス氏死後、門弟の説多端に分かれておのおの一派を開くに至れり。その派中、互いに反対して相争いたるものはキニク学派、キュレネ学派の二なり。キニクの初祖をアンティステネスという。その主義は、妄念を離れ貧苦を忍ぶをもって道徳の行為となせり。キュレネ学派の初祖をアリスティッポスと名付く。氏は肉体上の快楽をもって道徳の目的となせり。この二者ともに極端の説たるを免れず。しかるにソクラテス氏の門下より出でて完全の道徳説を起こしたるものはプラトン氏なり。

 プラトン氏 氏はソクラテス氏の高弟なり。その倫理を論ずるや師の智徳一体論を継ぎ、その説をして一層高尚完全ならしめたるものなり。けだし氏は道徳の本源をきわめて理想の本体あることを知り、これに達するをもって政治道徳の目的となせり。我人の精神のごときは、その本源は理想の体より分派したるものなれども、わが肉体の間に存する間は感覚上の諸欲これを纏縛するをもって、我人の目的はこの欲情を制止し、その精神をして自由を得せしむるにありという。しかれども氏は、現在世界を苦界となすにあらず、また苦痛を忍ぶをもって徳行の本意とするにあらず、ただ快楽そのものをただちに倫理の目的とせざるのみ。かつ氏は師の説を継ぎ智識をみがくの必要を説けり。その門下に出でて大儒の名を得たるものはアリストテレス氏なり。

 アリストテレス氏 氏はプラトン氏の道徳論の理想の一局に偏するを見て、中庸の説を立てたるものなり。中庸とは、過不及を制してその中を得るをいう。これを徳とす。しかしていかなる行為は中庸なるやを判定するものは智識の力なり。故にその論ソクラテス氏の智徳一体論と同一なるがごとしといえども、意力をもって過不及を制止せざるべからずというに至りて、ソクラテス氏とその説を異にす。

 ゼノン氏 以上、ソクラテス氏、プラトン氏、アリストテレス氏の三大学派の外に、当時互いに相争いたるものはストア学、エピクロス学の二派なり。ストア学派の初祖をゼノン氏と称す。氏の説は天命論にして、天地自然の規律をもって道徳の原理となすものなり。この道理に背くをもって不善不徳とし、これに従うをもって正道善行とす。その人の目的を論ずるも、快楽は必ずしも善なるにあらず苦痛は必ずしも悪なるにあらず、よく苦痛を堪えて固く正道を守るをもって目的となす。しかしてその道徳は実に厳粛をもって名あり。

 エピクロス氏 つぎに、エピクロス学派はエピクロス氏の唱うるところにして、氏は快楽をもって善悪の標準とし、苦すなわち悪、楽すなわち善にして、我人の善を求め悪をいとうは、その実、苦を避けて楽に就くの本心に外ならずという。しかして氏は苦楽に肉体上と精神上との二種に分かち、精神上に重きを置けり。故にその目的とするところも下等の快楽にあらずして、高等の幸福を得るにあること明らかなり。またその快楽は、苦痛を除きて心に安息を与うるをもって足れりとす。

 これより以後ギリシアの学、懐疑派の手に落ち、その説、疑念をもととし、いたずらに空理を争うに過ぎず。故に倫理学史上また論ずべきものなし。くだりてローマに入り一、二の学派ありしといえども、その論多くはギリシアより伝わりしものと東洋より入りしものとに外ならざれば、これまた倫理学史上必要の部分にあらず。その後ヤソ教の興るに当たり、世間の道徳は全くその教えの占領するところとなりたるも、これ宗教的道徳なり。今、本書の目的は学術上倫理を講究するにあれば、またこれを除く。くだりて中世の末年に当たり煩瑣学派と称する一種の学行われしも、その説ヤソ教とアリストテレス氏の倫理説を混同せしものに過ぎざれば、これまた考うるに足らざるなり。よってこれより、近代の倫理学家の異説を叙述すべし。

       近代倫理史

 近代倫理史は種々の分段をなすものありて一定し難し。故に余は分段法を用いず、年代の前後と学説の類同とに応じて左のごとく序列せり。

 ホッブズ氏 近世史上一種の倫理を説きたるものはホッブズ氏をもって始めとす。氏は、人の性情は自利自愛に基づくものにして、百般の行為はこれを帰するに自利自愛に外ならず。しかして、よくこの私心を抑制して人をして正義正道を守らしむるは、君主の命令もしくは政府の法律よりよきはなし。故に氏は君主をもって善悪の標準となせり。これをもって、氏の説は政治と道徳とを混同するに至れり。

 カンバーランド氏 ホッブズ氏ひとたび自愛説を唱えてより以来、これに反対する論者続々世に起これり。そのおもなるものはカンバーランド氏、カドワース氏、クラーク氏、プライス氏等なり。カンバーランド氏はホッブズ氏に抗して一種の幸福論を唱うるものにして、道徳の目的は人民一般の幸福を進むるにありという。故にその論、今日の功利学家の説に近し。しかして氏は道徳の本心を論じて、人の善を求め悪を避くる性情は道理力によりて生ずるものなれば、世のいわゆる良心は道理力に外ならずという。すなわち我人が人民一般の幸福を進むるをもって人間の目的たるゆえんを知るは、我人の有する道理力によるという。故にその説を道理教と称す。

 カドワース氏 氏はホッブズ氏に抗して、善悪邪正の基本は天然に定まるものにして、人の意志をもって左右すべきものにあらず。故に政府の法律をもって道徳を規定せんとするがごときは、大いに道理に反するものなり。しかして氏は道徳心の本源は智力なりという。これまた道理教の一種なり。

 クラーク氏 氏は、人の行為の一定の規則に従い、事物の間に適合するをもって道徳の目的とす。すなわち善悪の標準は適合なりという。適合とは言行の一致して相違せざるをいう。しかしてその本心を論ずるに至り、氏はこれを智力の作用に帰す。これまた、その説の一種の道理教たるゆえんなり。

 ロック氏 氏はホッブズ氏の説を継ぎ感覚学派を開きたる人にして、善悪と苦楽との関係を論じ、最上の快楽これを幸福とし、最大の苦痛これを禍害となせり。しかして道徳の発達は天神の賞罰、国法の制裁、世論の勢力によるものとなす。語を換えてこれをいえば、道徳心は経験習慣によりて発達するものとなす。故に氏をもって経験学派に属するなり。

 シャフツベリー氏 氏はもっぱらホッブズ氏の自利説に反対して、人の目的は善を愛求するにありとし、この情はその起源ならびに性質において全く外界の事情より独立せるものにして、賞罰教育等の方法によりて成来するものにあらずという。

 バトラー氏 ロック氏に反対して本然論を唱えたるものはバトラー氏なり。氏は人に本来良心の存するゆえんを説きて、善悪の標準はこの良心に外ならずという。故に氏を称して良心論者となす。かつ氏は人間の目的は自利自愛にあらざるゆえんを論じて、我人の務むるところは良心の命令に従いて仁慈愛他の行為を施すにありという。故にその論、愛他教の一種なりというも不可なることなし。

 ハチソン氏 氏はバトラー氏とその説を同じうせざるも、良心をもって善悪の標準となすに至りては同一なり。けだし氏は情に動静の二種あることを説きて、静情をもって我人固有の本心となせり。しかして静情とは人を愛する無私の公情をいう。故に氏は博愛をもって人間の目的となすものなり。

 ハートリー氏 氏は心理学上において観念連合の原理を唱えたるものにして、その連合の理を倫理学の上に及ぼし、単純の感覚互いに連合して複雑なる道徳上の情操を構成するに至るという。故にハチソン氏のいわゆる無私の公情は、ハートリー氏の説によるに、苦楽の感覚の連合して生じたる結果に外ならざるべし。

 マンドヴィル氏 当時またハチソン氏に反対して、人に天賦の良心の存せざるゆえんを証明せしものはマンドヴィル氏なり。氏は、人の本心は自利の私情のみ、しかして人に愛他の情あるは識者の方便より出でたるものにして、固有の天性にあらずという。けだし氏は人に虚名を好む自尊自負の情あるをもって、おのおの自ら道徳家とならんことを勉むるにより、識者の人を教導して道徳家となすことを得るも、またこの情のその人に存するによるという。これ氏の説を自愛教の一種となすゆえんなり。

 ヒューム氏 当時社会一般の幸福すなわち功利をもって道徳の標準を立てたるものはヒューム氏なり。氏は人に仁慈博愛の心ありと許すも、全く己をすてて人のためにするがごとき無私の愛他心あることを説かず。しかして氏は人の道徳心は愛他の公情と自愛の私情相合するものと信じ、この二情によりて人は自他兼全の幸福を目的とするに至るという。故に氏は功利教の一種を唱うるものというべし。

 プライス氏 当時また道理をもって道徳の本心と定めたるものはプライス氏なり。氏は道理すなわち理解力をもって善悪の標準とし、諸行為の実際に適応してその事情に合同するときは善行となり、適応合同せざるときは悪行となる。しかしてその適不適を知定するは道理力によらざるべからずという。故に氏は道理教の一派なり。かつ氏は自愛論者に抗して人に無私の公情の存するゆえんを説き、また人間の目的は社会一般の幸福にあることを論ぜり。

 アダム・スミス氏 またここに愛他教の一種を唱えたるものはアダム・スミス氏なり。氏は同情すなわち同憐の情をもって道徳の本心となし、この情の発達したるものをもって上等の道徳家となせり。かつ氏は自身の行為の善悪を知らんと欲せば、他人の位置にありて判断を下さざるべからずという。けだし人みな己に偏する弊あればなり。

 リード氏 また別に天賦の良心を唱えたるものはリード氏なり。氏は道理力の道徳の基本にあらざるゆえんを論じて、我人の力は外界の事情を知定することを得るも内界の道徳を判定するにあらず、これを判定するものは本来心内に存する天性なり。これを道念もしくは良心と称すという。

 ステュアート氏 リード氏に継ぎて天賦の良心を唱うるものはステュアート氏なり。氏は道徳の基本は内界にありて存し、人の生来有する天性なりという。

 ブラウン氏 氏はリード氏、ステュアート氏のごとく、本然性の存することを説きて経験説に反対せり。しかして心性の発達については多少連合の理を加えて説明を与えたり。

 カント氏 ドイツ哲学者中大家の名あるカント氏は一種の道理学派にして、道理をもって道徳の基本と定めり。氏の学、これを称して批判哲学という。その中に実践道理批判の一部ありて、もっぱら道徳の原理を論ぜり。氏はその理を体形と実質とに分かち、実質は外界の経験よりきたり、体形は心内にありて本来存する純理より生ずという。純理とは経験の結果にあらざる普遍必要の道理をいう。これ先天性道理なり。この道理に基づきて道徳本心および義務の起こるゆえんを証明せり。これその説を道理教の一種となすゆえんなり。

 ヤコービ氏 氏はカント氏の門弟にして、その説のカント氏に異なるは、道理に代うるに情操をもってしたるにあり。

 フィヒテ氏 氏の説はカント氏より出ずるも多少異なるところありて、氏はもっぱら心内の自由を発揮するを目的とし、道徳上の行為は良心の命令に随順して自由を保全するにありとす。しかしてその目的を達するには、ただにこの現実世界の外に精霊世界の存在を信ずることを要すという。かつ氏は幸福をもって人の目的となさず、徳を修むるをもって最上の善行となす。

 シェリング氏 氏は道徳の基本は天神を信ずるにありとし、道徳の行為は我人の精神その中心なる天神に帰向するより生じ、この帰向あるものこれを徳とす。しかして徳と幸福とは同一にして、徳の完全を得たるものすなわち幸福なりという。

 ヘーゲル氏 氏はシェリング氏を受けてカント氏を継ぐというも、多少両氏に異なるところあり。氏の倫理を論ずるや、その論三段に分かれ、第一は純理の道徳、第二は個人の道徳、第三は社会の道徳これなり。かつ氏は心性作用中意志をもって道徳の起点とし、そのいわゆる善は純理上の道徳を行為上に実践せるに至るものをいい、悪はこれに反するものをいう。

 ショーペンハウアー氏 氏は絶対的意志を説きて、我人の心性の活動は一として大意力の発顕ならざるはなし、しかるにこの世界は快楽少なくして苦痛多きをもって、この不幸の世界に執着する情は務めて抑制せざるべからずという。これ世間その説を呼びて厭世教となすゆえんなり。

 パレー氏 氏は功利説を唱え、道徳の標準は神意および功利にありという。しかして氏は本然の良心を排し無私の公情の存せざるを説くといえども、その論、神意を立つるをもって、人に仁心あるは天神の命ずるところなりという。故に氏の説は功利説と天神説の相合したるものというべし。

 ベンサム氏 現今世間に行わるる功利説はヒューム氏およびパレー氏の説中に起源すといえども、広くその原理を応用して道徳法律一般の目的と定め、かつその論を構成して一科の学説となしたるものはベンサム氏なり。これ氏の功利教の初祖と呼ばるるゆえんなり。氏は道徳も法律も苦楽の両情に基づくものとなし、その情の発達は連想の規則によるものとなす。かつ氏は人間の目的に関して幸福一途を説き、そのいわゆる幸福は無苦有楽を義とし、最大苦を除き最大楽を求むるをもって目的となせり。すなわち最多量の幸福を最多数の人に与うるをもって目的とするなり。

 マッキントッシュ氏 氏はベンサム氏と同じく功利教を唱え、人間の目的および道徳の標準は幸福に外ならずというも、その解釈に至りて少異あり。すなわち氏は、幸福は我人の直接にこれに向かいて進衝するものにあらざるも、諸善行を裁定する標準なりという。かつ氏は、良心は天賦にあらずして経験連想によりて発達したるものなり、しかしてそのいまだ発達せざるに当たりては自利の私心あるのみという。

 クーザン氏 フランス学者中、倫理を論ずるものまた多し。クーザン氏その一人なり。氏は功利説を駁し、道徳は決して経験の結果にあらず、徳義は決して自利心の発達にあらずという。また氏は無私愛他の情操を唱うる論者に対して、感情はときどき変遷するものなれば道徳の原理となすべからずという。故に氏は、道徳の原理は道理に外ならずして、行為の善悪は道理によりて判定すべしという。

 ジュフロア氏 氏はクーザン氏の門弟なるも、その説クーザン氏と少異あり。すなわち氏は純善をもって道徳の基址となし、道理をもって道徳の本心となし、幸福をもって人間の目的となせり。

 コント氏 氏は実験哲学の初祖にして、その倫理を説くも他の学派と大いに異なるところあり。氏は倫理学をもって社会学の一部分とし、人の互いに相愛し相親しむの情は一個人の経験より生ずるにあらずして、人々互いに結合協和すべき天性を有するによるという。故に親愛の情は社会発達の原理にして人世の大目的なりとし、この情に基づきて道徳を講ずるもの、氏の倫理学なり。

 ヒューエル氏 氏は常人普通の知識に基づきて道徳を論ぜり。これを常識論という。およそ常人の考うるところによるに二種の説あり。その一は徳をもってもととし、その二は楽をもってもととす。しかしてひとりその一方を取りて他を排するは世人の許さざるところなり。故に氏はこの両説を統合して、徳と楽との二者をもって道徳の原理となせり。

 ミル氏 近年ベンサム氏に継ぎて功利教を唱うるものはミル氏なり。氏は父子ともにこの説を継述し、道徳の目的および標準は幸福なりとし、幸福は快楽ありて苦痛なきをいい、苦痛と快楽とは人の感情にして、善悪は全く単純の感情より生じ、天賦の良心も愛他の公情もみな単純の感情より生ずという。しかしてその発達は観念連合の規則によるとなす。

 スペンサー氏 氏は功利学家の説のごとく幸福の目的なることを許すも、進化の原理を応用して善悪の標準、道徳の本心の進化を説くに当たりては、大いに従来の功利学家の説に異なるところあり。氏は、道徳上の行為は人類特有にあらずして、下等動物のすでに有するところなり、すなわち下等動物の目的なき挙動進みて目的ある挙動を生じ、目的ある挙動進みて道徳上の行為を生ずという。また天賦良心の起源を論じて父祖の遺伝性なりとなす。これその説を進化教となすゆえんなり。



     第一章 緒 論

       第一節 倫理学の名義

 余これより倫理学を講述するに当たり、まずその名義、性質、関係を説明せざるべからず。そもそも倫理学は人の行為意志の正邪善悪を論究指定する学なれば、道義徳行の学と称するも可ならん。その字、英語のエシックスもしくはモラル・フィロソフィーあるいはモラル・サイエンスを訳したるものにして、エシックスは風俗習慣を意味するギリシア語より転じ、モラルは行儀作法を意味するラテン語より転じきたりて、ともに今日人類の道徳に関する学問に適用するに至れり。近ごろわが国の学者この語を訳して道徳学、道義学、修身学等、種々の名称を用い訳字一定せずといえども、余は倫理学の名称を用うるなり。もしこの学の性質を知らんと欲せば、学と術との別を知らざるべからず。

       第二節 学と術との別

 およそ学と称するものは理論に属し、術と称するものは実際に属す。故に事物の道理を研究するものは学にして、実際の用法を講習するものは術なり。たとえば物理学、化学のごときは学なれども、建築製造のごときは術なり。今、倫理学は学の部門に入るべきや術の部門に入るべきやの問題を考うるに、学と術との二者に関係するもののごとし。すなわち善悪正邪の道理を講究するときは、これを単に学というべし。しかして直接に実際上の行為挙動を講習するに至りては、術といわざるべからず。しかれども余がここに倫理学と題せしは、実際の方法を講習するにあらずして道理を講究するにあれば、もとよりこれを学というべし。もしその方法に至りては、むしろこれを修身の法もしくは術と名付けて、倫理学と称せざるを適当なりとす。

       第三節 倫理学は実用学なること

 すでに倫理学の一科の学なるを知らば、学科中のいかなる部類に属するやを論ぜざるべからず。およそ学科中に理論学と実用学の二種あり。すなわち学中に学と術との二種あるがごとし。そのいわゆる理論学は学中の学、実用学は学中の術なり。これその目的の異なるに従いて、便宜のためにその別を立つるのみ。けだし理論学は単に事物の原理原則を知るを目的とし、更にその実際上の事情いかんを問わざるも、実用学はそのすでに定まりたる原理原則を実際に応用せんと欲して、その方法いかんを講ずるものなり。もしその方法を実施すれば術となる。今、倫理学のごときは理論上道徳の原理原則を研究するも、その目的とするところは実際の応用にありて、実際上の方法いかんを目的として講究するものなればいわゆる学中の術にして、応用学の部類に属せざるべからず。これに反して、心理学のごときは理論上の研究にとどまるをもって理論学というべし。しかりしこうして、倫理学を実用学と定むるは、心理学のごとき理論学に比較していうのみ。もしひとり倫理学中にありてその講究するところを見るときは、理論実用の二科を兼有するものなるを知るべし。

       第四節 倫理学と心理学との関係

 更に進みて倫理学のいかなる学問なるやを明らかにせんと欲せば、その学と心理学、純正哲学、宗教学等の関係を論ぜざるべからず。まず心理学は心性の現象を論究する学なれば、余はこれを心象の学という。心象には感情、智力、意志の三種ありて、その各種の性質規則を論究するものを心理学とす(『心理摘要』第五節、第六節、第七節を見るべし)。しかるに倫理学は人の行為挙動の規則を講究するものなれば、この三種の作用中、意志に属する学というべし。なんとなれば、意志は人の行為挙動を命令指揮する作用なればなり。かつ心理学は意志の作用を論ずるも、その性質規則を知るにとどまる。しかるに倫理学はその規則の応用を論ず。これ余が倫理学を実用学となすゆえんなり。今この両学の別を略示すること左のごとし。

  (一) 心理学は広く感情、智力、意志三種の作用に関係し、倫理学はそのうち主として意志作用に関係するなり。

  (二) 心理学は意志の規則を講究するにとどまるも、倫理学はその応用を講究するなり。

 かくのごとく両学その性質を異にするも、二者の間に密接の関係あることは余が弁を待たずして知るべし。たとえば、学理上行為の起源、道徳の本心を知らんと欲せば、心理学によらざるべからざるがごとし。故に倫理学中、その一部分は心理学に属する学理を研究するものなるを知るべし。

       第五節 倫理学と純正哲学との関係

 つぎに純正哲学と倫理学との関係を考うるに、純正哲学は形而上の純理を推究する学にして、倫理学は心身現象の上に発動する行為を論定する学なれば、二者の異なるところあるは明らかなりといえども、またその間に多少の関係ありて存するを見る。たとえば、道徳上人間究竟の目的、善悪絶対の標準等を論定するに至りては、純正哲学の研究を待たざるべからず。これをもって、古代は倫理学を純正哲学の一部分として研究せしことあり。かのギリシアの碩学プラトン、アリストテレス諸氏のごとき、その倫理を論ずるや純正哲学の範囲を出でず。近世に至りても初年にありては純正哲学と混同し、いまだ一科独立の学となるに至らず。しかしてその一科独立の学となりたるは近く昨今のことなりといえども、なお画然たる界線を両学の間に引くこと難し。もし今日にありて研究の方法を論ずるときは、近年実験学の進歩により、倫理学上理学的研究法を開くに至れり。これにおいて今日は、倫理学は理学なるや哲学なるやの問題を引き起こせり。この問題のごときは一、二言のよく説明すべきにあらずといえども、これを理学とするはただその研究上帰納実験の方法を用うるというにありて、その研究の目的とする事柄に至りてはすこぶる無形にわたり、一般の有形的理学と大いに異なるところあり。したがいてその方法も帰納実験のみにて尽くさざるところあれば、やはりこれを哲学の一部分となさざるべからず。ただ今日は純正哲学の範囲を脱して、独立の学科を組成せりというべし(理学と哲学との別、ならびに倫理学は哲学の一種なるゆえんは、余が『仏教活論第二編 顕正活論』総論中に説きしをもって、よろしくその部を参見すべし)。

       第六節 倫理学と宗教学との関係

 つぎに宗教学と倫理学との関係いかんにつきて一言せざるを得ず。およそ宗教はその種類のなんたるを問わず、多少人の道徳を説かざるものなく、いずれの国にありても宗教によりて道徳を立てしは古代一般の風にして、すでに欧州のごときも中古にありては世間の道徳は全く宗教の支配するところとなり、この二者密接の関係を有するのみならず同一なるもののごとく考うるに至りしも、近年学術の進歩に伴い全く宗教の範囲を脱して道徳の独立を見るに至れり。けだし宗教にありては人間の目的、行為の善悪賞罰等、みなその原因を天地以外の世界、人間以上の天神に帰し、その道理を訓示するものをもって宗教学となすといえども、倫理学は人間世界にありて人智をもって道徳の性質を講究するものなれば、両学の別おのずから知るべし。かつ欧州中いにしえの道徳は全く宗教の支配するところなりしも、近年の道徳はようやくその範囲を脱して独立の講究法を開くに至れり。

       第七節 倫理学と政治学との関係

 つぎに政治学と倫理学と密接の関係あれば、その異同を弁ずるもまた贅言にあらざるべし。そもそも人は社会的動物にして、その禽獣と異なるゆえんも、衆人共同団結して社会を成し国家を成すによる。しかしてそのいわゆる社会国家は一個人の集合によりて結成したる団体に外ならざるも、その団体につきて学理を講究するものは社会学政治学なり。なかんずく政治学は国家の機関運動を講究する学なれば、倫理学と同じく人間の目的意志等を論ぜざるを得ずといえども、両学決して相混同すべからず。すなわち倫理学は一個人の上にその目的意志を論じ、政治学は国家団体の上にその目的意志を論ずるの別あり。たとえ倫理学において社会国家に対する義務を説くことあるも、一個人としてその関係を示すに過ぎず。しかれども古代にありてはもちろん、近世に至りても初年にありてはこの二者を混同して説明を下せり。古代孔孟の説、近世ホッブズの学のごとき、みなしかり。また倫理学にありても道徳の規律、義務、賞罰等を論ずるに至りては、二者多少混同して説かざるを得ず。これその関係の密接なるゆえんなり。

       第八節 倫理学を講ずるに諸学を要すること

 以上、心理学、純正哲学、宗教学、政治学と倫理学との関係ならびにその異同を述べたれば、倫理学の独立の学科なることを知ると同時に、倫理学を講究するに他の諸学を参考せざるべからざるゆえんを知るべし。すでに今日にありては倫理学は宗教の範囲を脱し、政治学と区域を異にし、純正哲学と相離れて独立したるも、以上の諸学と密接の関係を有するをもって、倫理学を講究するものは必ず自余の諸学を講究せざるを得ず。ことに心理学のごときは倫理学の一半を占領するものなれば、決してその講究を怠るべからず。その他、論理学、美学、教育学等もみな多少の関係あるをもって、あわせて講究するを要するなり。

       第九節 倫理学講究の方法

 つぎに倫理講究の方法を説かんとするに、倫理学は一科独立の学問にして、その研究は理学実験の方法によることはさきにすでに一言したるも、その方法のいかんに至りてはいまだ説明を与えざりき。けだしその方法に二様あり。一は歴史上倫理道徳の発達進化してきたれるものについて研究する法にして、これを歴史的もしくは沿革上の研究法というべし。一は比較上もしくは分類上倫理道徳に関する事実を彙集対照してその性質を研究する法にして、これを比較的もしくは分析上の研究法というべし。この二種の方法あるも、これみな理学的すなわち客観的研究法なり。客観的研究とは外界に現ずる事実上の研究をいう。これに反して主観的研究法あり。その法はすなわち内界の思想もしくは想像上道徳の原則を考定する研究法なり。これを理学的研究法に比すれば、哲学的研究法と称せざるを得ず。しかるにこの二法のごときはおのおの一方の研究にして、いまだ完全の法というべからず。もしその中に完全の法を得んと欲せば、この二法を統合して更にその上に一法を立てざるべからず。果たしてかくのごとき法を得るに至らば、主観客観の一方に偏する弊を除きて完全の道理に到達することを得べし。余この法を名付けて理想的研究法といわんとす。これを他法に比するに、ひとりこの法のごときは真正の哲学的研究法と称すべし。けだし古代の研究法は主観一方に偏したるもののごとく、今日の研究法は主観客観両法を目的とするも、その実客観一方に偏するがごとし。故に余いまだ理想的研究法の完備したるものを見ず。これを要するに、倫理の研究に主観的、客観的、理想的の三法ありて、客観的研究上にまた歴史的比較的の二法あり。余が本論において講述せんとするものは、この数様の研究法によりて論定したる倫理道徳の性質規則の大要なり。

       第一〇節 倫理学講述の順序

 これより本論に入りて倫理の大要を述べんとするに当たり、まずその順序を一言すべし。およそ人の倫理道徳は行為挙動に関するをもって、その学を講ぜんと欲せば必ず道徳の行為規律を論ぜざるべからず、道徳の行為規律を知らんと欲せば必ずそのよりて起こる道徳の本心を知らざるべからず。その本心はすなわち道念もしくは良心というものこれなり。良心の作用を知らんと欲せば必ず善悪の分かるるゆえんを知らざるべからず。すなわち善悪の標準これなり。しかして善悪の標準は人間究竟の目的に関するをもって、これを知るにはまずその目的を論定せざるべからず。故に本論は左の数章に項目を分かてり。

  目的論  標準論

  良心論  意志論

  行為論  規律論

 このうち目的論、標準論はもっぱら純正哲学に関し、良心論、意志論はもっぱら心理学に関するをもって、両学の範囲に属する部分もあわせて講述すべし。

 

     第二章 目的論

       第一一節 目的論に二種あること

 およそ人のこの世にあるや、必ず一般に目的とするところなかるべからず。もしその目的なきときは、この世に生存すべき理由あるべからず。政治なり道徳なり、みなこの目的を達する方便に外ならず。これを人間究竟の目的という。その目的いかんに至りては学者の説多端にして一定し難しといえども、要するに二種の説あり。すなわちその一は人に一定の目的なしと論ずるもの、その二は人に一定の目的ありと論ずるものこれなり。第一説中にまた三様の見あり。その一は懐疑論より起こり、その二は宇宙論より起こり、その三は進化論より起こるも、これ必ずしも目的なしというにあらず、真正の目的は人智をもって知るべからず、もしくは目的は変遷して一定せざるものなりというにあり。また第二説中に幸福を目的とする論およびこれに反対する論、すなわち幸福論非幸福論の二様あり。この二者をあるいは主楽教直覚教と称す。主楽教とは、幸福快楽を主とするをもってその名あり。直覚教とは、我人が人間の目的を知り道徳を判ずるがごときは、生来固有の能力によりてただちに覚了するものなりと立つるをもってその名あり。しかしてその能力を直覚力という。

       第一二節 目的なしと唱うる論意

 まず一定の目的なしと唱うる論意を述ぶるに、懐疑家は天地万物の現存を疑い、論理思想の規則を疑い、万事万境は知るべからず、あるいは虚無なりと唱うるをもってその名あり。果たしてその言のごとくならば、人間究竟の目的のごときは到底人智をもって知るべからざるものなるべし。また古代懐疑学とその性質を同じうするものに、詭弁学と名付くるものあり。その論によるに、道徳上の善悪は人の意志、世間の世論等によりて定まるものにして、自然に一定せるものにあらずとす。これまた一定の目的を立てざる論なり。宇宙論者は人類をもって宇宙万物の一小部分とし、人間の規則は宇宙万物の規則なりと唱うるをもって、宇宙の目的を離れて別に人間の目的あるにあらずという。これ全く目的なしというの論にあらずして、ただ宇宙の目的の外に特に人間の目的を立てざるのみ。またこの論に似同せる理想論中に、この人間世界をもって迷界とし妄境とするものあり。この説によるも、人間そのものに真正の目的ありというを得んや。つぎに進化論者の論ずるところは、この世界は古来変遷進化してやまざるものなれば、人間の目的のごときも古代は古代の目的あり今日は今日の目的あり、あにその間一定不変の目的あらんやというにあり。これまた一定の目的なしというにとどまり、必ずしも目的なしというにあらず。

       第一三節 幸福論の分類

 つぎに一定の目的ありと唱うる論を考うるに、その一は幸福論なり。この幸福論の中に、自己一人の幸福を目的とするものと社会公衆の幸福を目的とするものの二様あり。そもそもこの幸福論は、古代にありてはエピクロス氏これを主唱し、近世にありてはベンサム氏これを再興し、ミル氏これを継述して、今日大いに勢力を得るに至れり。しかしてベンサム、ミル諸氏の論は社会公衆の幸福利益を目的とするものなれば、これを功利教と名付く。世に実利主義というものこれなり。もし自己一人の幸福を唱うる論者を挙ぐれば、近世にホッブズ氏ありマンドヴィル氏あり、ともに自愛論者なり。自愛は自己一人の幸福を目的とするものなり。これを自愛教もしくは利己主義という。シナに楊朱の自愛説あり、ギリシアにアリスティッポス氏の快楽主義あり。これに対して他人の幸福を目的とする説あり。これを愛他教もしくは利他主義という。孔孟の汎愛を説き、バトラーの良心を説き、アダム・スミスの同憐を説くがごときは、やや愛他教に近し。この自愛愛他両教を兼ぬるもの、これを兼愛教という。シナに墨子の兼愛説あり。ベンサム、ミル諸氏の功利教は墨子の説と大いに異なるところあるも、社会一般の幸福を目的とするものなれば一種の兼愛教というべし。これに対して自愛愛他両説は偏愛教と称せざるべからず。またその幸福を説くや、肉体の快楽と精神の快楽との別あり。快楽はすなわち幸福なり。ソクラテス氏の門下に出でたるキュレネ学派のごときはもっぱら肉体の快楽を説き、エピクロス氏のごときは精神の快楽の肉体の快楽に勝ることを説けり。

       第一四節 非幸福論の種類

 幸福論に反対するものは非幸福論なり。その論者は幸福の目的と定むべからざることを論じて智識、理想、正義、中庸等、種々の目的を唱うるに至る。まずソクラテス氏は智識を進むるをもって目的とし、プラトン氏は理想に達するをもって目的とし、キニク派は欲念を脱するをもって目的とし、アリストテレス氏は中庸を得るをもって目的とし、ストア学派は天命に従い正義を守るを目的とし、釈迦は惑障を断じて涅槃に入るを目的とし、孔子は至善にとどまるにありといい、老荘は無為に帰するにありといい、カドワース、クラーク、プライス等の諸氏は道理教を唱え、バトラー、リード、ステュアート等の諸氏は良心論を唱えて、ともに幸福論を排す。その他種々の異説あるも、要するにその論、全く幸福の正反対を取るものと、幸福の一部分を許すものとの二種に分かつべし。キニク学派のごときはその第一種に属す。なんとなれば、快楽をすてて苦痛を忍ぶをもって徳行とすればなり。ソクラテス、プラトン、アリストテレスのごとき、および近世の非幸福論者のごときは、その論意、諸善諸徳の完全したるものにはおのずから幸福の伴いきたるべきをもって、幸福を得んと欲せば徳義善行を修めざるべからずというにありて、全く幸福を排するにあらず、ただこれを真正の目的とせざるのみ。故にその説、第二種に属すべし。

       第一五節 非幸福論者の唱うる難問四条

 これより幸福論と非幸福論とを対照して両論の長短を示すべし。まず非幸福論者の幸福論を排する論点、左のごとし。

  (一) 幸福は人間唯一の目的にあらざること。

  (二) 人々の幸福おのおの別にして一定すべからざること。

  (三) 幸福は古来経験の結果に過ぎざること。

  (四) 幸福の性質分量は算定すべからざること。

 第一条の意は、事実についてこれを考うるに、古今万国あまたの人民中には、現に幸福をもって目的となさずして幸福に反対する禍害をもって目的となすものあり、また幸福に関係なき徳義をもって目的となすものあるを見る。故に幸福は人間一般の目的とするところにあらずというにあり。第二条の意は、甲某の幸福とするところにして乙某の幸福とせざるものあり、丙某の禍害とするところにして丁某の幸福とするものあり、あるいは妻子をもって最上の幸福とするものあり、あるいは富貴をもって第一の幸福とするものあり、あるいは妻子も富貴も幸福にあらずして知識学問をもって無比の幸福とするものあり。故に幸福は一定すべからずというにあり。第三条の意は、たとえ一定の幸福ありと許すも、我人が幸福の目的たることを知るは従来の経験によるのみ、すなわち従来の経験上、社会多数の人みな幸福をもって目的としたる結果を見て、幸福は人間の目的なりと想定するに過ぎず。しかれどもひとり従来千百年間の経験の結果を見て、いずくんぞ幸福は将来永遠の目的と憶断するを得んや、いわんや人を命令してこの目的に服従せしむるをや。我人の必ずしもこれを遵守せざるべからずというべき道理なきは明らかなり。故に幸福は人間の目的にあらずというにあり。第四条の意は、幸福はすなわち快楽にして、快楽を離れて幸福あるにあらず。しかして快楽には肉体の快楽あり、精神の快楽あり、耳目の快楽あり、思想の快楽ありて、その種類一ならざれば、その分量を推算測定することはなはだ難し。もし人の行為の善悪を判定するに当たり、多少の苦と多少の楽と同時に起こるときはいずれを取るや。必ず苦の量と楽の量とを比較して、楽多きを得たる方を取らざるべからざるべし。しかれども一事の善悪を知らんと欲してあらかじめ諸苦諸楽を加減し、その結果の幸福分量いかんを知らんとするも、到底算定すべからざるは明らかなり。故に幸福をもって目的となすべからずというにあり。

       第一六節 幸福論者の第一条に対する答弁

 以上四条の難点につき幸福論者の答弁を挙ぐるに、第一条に対する答弁は事実上これを考うるに、幸福に反対するものをもって目的となすものあるがごとく見ゆれども、その実決してしからず。たとえば身を殺して仁をなすものあり、苦を侵して道を求むるものあるは幸福に反対するがごとしといえども、もしその人の本心に入りてこれを見るに、その人自ら最も幸福とするところのものを選びてこれに就きしは明らかなり。すなわち道を求むるものは道をもって最上の幸福とし、仁をなすものは仁をもって第一の幸福とするによる。けだし快楽に肉体上精神上の二種あるをもって、肉体の快楽をすてて精神の快楽を求むるも、これ決して幸福論に反するものにあらず。かつ人の心性作用には習慣連合の規則ありて、幸福快楽と正義徳行とは我人の思想上互いに連合するをもって、幸福の目的を徳義の上に移し、幸福に関係なき徳義をもって目的とするものなきにあらず。これあたかも幸福と財宝との間に観念の連合するありて、幸福の真正の目的なるを忘れ、財宝を求むるをもって目的とするものあるがごとし。故にあまたの人民中には幸福外の目的を求むるものあるも、その実全く幸福を離れたるものにあらざるなり。これによりてこれをみるに、幸福は人間唯一の目的なりと論定することを得べし。もしまた真に一身の快楽をすつるものあるも、その人の意は他人の幸福を進むるにあるは明らかなるをもって、社会公衆の幸福とする功利教の説には反せざるものというべし。

       第一七節 幸福論者の第二条に対する答弁

 つぎに、第二条に対する答弁は甲、乙、丙、丁おのおのその幸福とするところを異にするも、これただ物柄の相違のみ、幸福の相違にあらず。妻子と富貴とはその物柄異なるも、幸福というに至りては一なり。故に幸福は人間の目的なりというも、なんの不可あらんや。かつそれ幸福の物柄のごときも、社会一般に認めて幸福とするものに至りては大抵一定して動かざるものなり。たとえば、健康長寿は人の一般に幸福とするところにして、疾病短命は一般に不幸とするところなり。たまたま二、三のこれに反対を唱うるものあるも、その説をもって一般の通則となすべからず。もしその一般に幸福とするところのものについて論ずるときは、人の目的はおのずから一定すべし。かつ人はその平常なすこと行うこと、みな直接もしくは間接に幸福を目的とせざるはなし。故に幸福の目的たることは実際上、世人のことごとく許すところなり。ただその幸福に、品位の下等なるものと高等なるものあり、自己一人のためにするものと社会公衆のためにするものとの別あるのみ。故に我人はなるべくその品位を進め、なるべく多数人民の幸福を計らざるべからず。これ世に功利教の起こりしゆえんなり。

       第一八節 幸福論者の第三条に対する答弁

 つぎに、第三条の幸福は経験の結果なりという駁論に対して答弁するところを見るに、およそ将来の目的を定むる良法は、従来の経験に考うるより外なし。もし経験によらず事実に照らさずして目的を定むるときは、その説空想たるを免れず。かつ経験上これを見るに、太古より我人は幸いに幸福を目的としたるをもって、社会人類ともに繁栄して今日に至りしなり。もしこれに反し、仮に幸福は目的にあらずして禍害すなわち目的なりと定むるときは、いかなる結果をきたすべきや。人類社会ともにたちまち滅亡して、今日に現存すべからざるは必然なり。故に人間の目的は経験の結果によりて定めざるべからずというにあり。

       第一九節 幸福論者の第四条に対する答弁

 つぎに、第四条に対する答弁は、人の行為を見ていちいちその結果までを予定し、その幸福の分量を推算するはすこぶる難事なりといえども、我人には従来の経験あるをもって、その経験に照らすときは、いかなる行為は幸福をきたし利益を生ずるやを知ること容易なり。またこれによりて、目的と行為と適合するとせざるとを判定すること難からず。すなわち我人は将来の経験によりて、甲の行為は福利を生ぜり、故に目的に合す、乙の行為は禍害を起こせり、故に目的に反すと知りて、だれも疑わざるものなり。故に我人は行為を判定するに、いちいちその結果を推算するを要せざるなり。

       第二〇節 幸福論中功利教の勢力

 以上の説明を見るに、幸福論に対する難問はことごとく答弁することを得。かつその論は経験上の結果、事実上の定則に基づくものなれば、今日大いに学問社会に勢力を得るに至れり。しかしてその勢力を得たるものは幸福論中、社会公衆の幸福を目的とする功利教の説なり。功利教は最多量の幸福を最多数の人に与うるを目的とするものなれば、これを一名最大幸福説という。いわゆる自他兼愛説なり。自愛は自己に偏し愛他は他人に偏する弊あれば、兼愛の方その中を得たりといわざるべからず。かつ今日社会団結のときに当たり、我人みな社会の一元素なれば、自己一人に対する外に社会に対する責任を有するは明らかなり。故に最大幸福説をもって目的とせざるべからず。これによりてこれをみるに、幸福論はこれを理論に考うるも事実に照らすも、諸論中最もその当を得たる目的というべし。これ幸福論者の論点なり。

       第二一節 非幸福論の長所

 しかるにまた非幸福論を主唱するものは、その論の長所を挙げて幸福論を排斥す。そのうち第一四節に挙ぐる第一種の説のごときは、これを主唱するもの少なしといえども、第二種の説に至りては、これに同意を表する学者すこぶる多し。その論点はさきに述ぶるところを見て知るべしといえども、更にその要を摘出すれば左のごとし。

  (一) 人間の目的は全く幸福を離れたるものにあらざるも、幸福の外に別に我人の求むべき目的ありて、幸福はこれに伴いて生ずるものに過ぎず。その意すなわち幸福は目的にあらずして結果なりというにあり。

  (二) 人間の目的はいやしくも人たるもの必ず共同一致して遵奉せざるを得ざるものにして、我人はこれを遵奉する義務を有するものなり。すなわち人間の目的は単にかくのごとしというにあらずして、かくのごとくあらねばならぬというにありて、我人はこれに対してかくのごとくなさねばならぬという義務を有するものなり。しかるに幸福論は従来の経験に照らして人間の目的はかくのごとしというに過ぎざれば、これ決して人を命令してその目的を遵奉せしむる力を有せざるものなり。

  (三) 人間の目的はこれを外界に求め経験に尋ぬるを要せず。いやしくも人たるものはだれにてもその心中に胚胎して存する一定の目的あるをもって、顧みて内界をみるときは、一種の心力のわれを命令するを覚ゆ。しかして我人はその命令に応じて行為を施すに至れば、人間の目的を達することを得べし。故にその目的我人の心内に一定して存在するものにして、幸福論のごとく人々おのおの別なるものにあらず。

  (四) 人間の目的はかくのごとく心内に一定して存するをもって、たれびともこの一種の心力によりて即時直接に人間の目的を判定することを得べく、幸福論のごとく経験の結果を思量計算するを要せざるなり。

       第二二節 幸福論者の説明

 以上は非幸福論の要点にして、そのいわゆる一種の心力はあるいはこれを天神の力に帰し、あるいはこれを理想の作用に属し、あるいはこれを天賦の良心となす等種々の異説あれども、後章に至りて説明すべきをもって今これを略す。この論点に対する幸福論者の説は、さきにすでに示すごとく、幸福の人の目的たることは従来の経験上より疑うべからざる事実なれば、ただこれを経験の結果とするのみならず、これを将来の目的とすることを得べく、またこの目的は人の必ず遵奉せざるべからざるものなりということを得べし。しかして我人の内界に存する一種の心力のごときは、経験上の結果心内に積集して一種の性力を習成したるものに過ぎずして、最初より内心に存するにあらず。その即時直接に目的行為を判定することを得るがごときも、数回経験の末、習慣連想の規則によりてこの行為は目的に合し、かの行為は目的に反すと常に信じて疑わざるに至るのみ。この点も後に経験論および進化論を説くに当たりて証明すべし。

       第二三節 幸福非幸福両論の優劣

 以上講述するところこれを約言するに、およそ道徳は人の行為挙動に関するものなれども、その善悪邪正を論ずるに至りては人間の目的を知らざるべからず。けだし道徳のことたる、この目的を達する方便に外ならず。しかしてその目的を定むるに至りては、古来学者の論多端にして是非を判知し難しといえども、要するに幸福論非幸福論の二者に出でず。他語にてこれをいえば、主楽教直覚教の二者に出でず。そのうち最も今日に勢力を有するものは幸福論すなわち主楽教なり、なかんずく功利教なり。この説は近年理学の進歩に伴い事実上の研究によりて得たるところのものにして、さきにいわゆる客観的研究法の結果というも可ならん。もし主観的研究法によるときは、非幸福論かえって勝ちを制するに至るべし。余をもってこれをみるに、古来の学者大抵みな幸福論非幸福論の二者の一端に偏して、いまだその中を得ざるものなり。しかしてこの二者必ずしも調和すべからざるにあらず。もし二論おのおの他の長を取りてその短を補うに至らば、始めて完全の目的に論到することを得べし。かつその研究法のごときも、客観一方に偏せず主観一方に偏せず、二者相待ちて局外より真正の目的を考定せざるべからず。これ余がいわゆる理想的研究法によらざるべからず。この法によらば、幸福非幸福両論のごときも必ず調和一致することを得べし。その理由は結論に譲り、ここにこれを略す。

 

     第三章 標準論

       第二四節 標準と目的との関係

 前章すでに人間の目的を略述したれば、これよりまさしく倫理学中に入り、善悪の標準を論定せざるべからず。これ倫理学上至要の問題なり。なんとなれば、行為の善悪を判ぜんと欲せば、まず善悪の標準を知らざるべからず、標準定まりてのち始めて善悪を論ずべし。すなわちその善とはこの標準に合するものをいい、その悪とはこの標準に合せざるものをいう。しかりしこうして、人間の目的を論定すれば、おのずから標準のなんたるを推知すべし。すなわちその目的に合するものを善とし、これに反するものを悪とすべし。たとえば、人間の目的は幸福なりと定むるときは幸福すなわち標準にして、これを助くる行為は善となり、これを害する行為は悪となるべし。故に目的すなわち標準なりというべし。しかれども古来、学者の善悪の標準を論ずるに種々の異説あれば、ここにその一、二を略述すべし。

       第二五節 標準説の種類

 古来の諸説中そのおもなるものについてこれを大別するに、第一に一定の標準なしという説あり、第二に一定の標準ありという説あり。この第二種の説中に数様の異見あり。第一は天神をもって標準となし、第二は天命をもって標準となし、第三は君主をもって標準となし、第四は道理をもってし、第五は道念をもってし、第六は自利をもってし、第七は利他をもってし、第八は功利をもってし、第九は進化をもって標準となす。この九説はみな標準ありと立つる論にして、これに標準なしという一説を加うれば一〇説となるべし。しかして標準なしという論は前章目的論中に述ぶるものと異ならざれば、重ねてここにこれを論ぜず。かつ進化論のごときは標準の進化を論じ、昔日は昔日の標準あり今日は今日の標準ありと唱うるも、いまだ全く標準なしと唱うるにあらず。故に余は、ここにその論を標準ありという説中に加えたれば、後に特にその一節を設けて説明すべし。

       第二六節 道徳に一定の標準あるべき理由

 標準の有無に関しては別に論述するを要せずといえども、標準論者の非標準論者に対して論弁するところを一言すべし。その論者曰く、道徳に一定の標準なきときは行為に一定の善悪あるべからず、行為に一定の善悪なきときはなにによりてか修身の道を講ぜん。これ実際上道徳の標準の必要なるゆえんなり。もしこれを理論上に考うるも、人間に一定の目的ある以上は行為に一定の標準なかるべからず。目的すなわち標準なり。これ標準論の目的論に伴いて起こるゆえんなり。しかして古人の標準と信ずるものと今人の標準と立つるものと、甲の標準と乙の標準とおのずから異なるところありて一定し難し。これ標準説の分かるるゆえんなり。まず古代にありては一般に天神の命令をもって標準としたるもののごとし。これ当時宗教が道徳を支配したるによる。けだし古代の人民は智力いまだ進まざりしをもって、学理上道徳の原理を講究する力なく、ただ想像上道徳の標準を立てしのみ。故をもって天神を標準となすに至れり。今日は天神の外に学理上の標準を立つるものあるも諸説一定せざれば、またその真否を判定することはなはだ難し。今、試みにその諸説を比考すべし。

       第二七節 天神標準説

 第一は、天神をもって標準となすは古代の説なるも、今日なおその説を唱うるものあり。すなわちヤソ教の道徳論これなり。その論のごときは天神の命令をもって唯一の標準となし、その命に合すればこれを善とし、その命に反すればこれを悪とす。近世哲学中にも有神論者の立つるところの標準は、この説を継述するものなり。余はこれを標準説の第一となせり。もしその神体の解釈を変じて純正哲学にて論究するがごとき理想の体となすときは、仏教の道徳論に近きものとなるべし。仏教は真如涅槃の体に帰向するをもって目的とし、その道徳もこれによりて立つるものなれば、理想をもって標準となすものというも不可なることなし。そのいわゆる真如涅槃は理想の体をいうなり。プラトン氏の道徳論も、理想を道徳の本源と立つるをもって理想標準説に属すべし。

第二八節 天命標準説

 この天神標準説と理想標準説とは、ともに形象以上人間以外の標準説というべし。かつこの両説はただ神体の解釈を異にするのみにて、原理においてははなはだ相近きところあり。けだし天神説一変して理想論となりしものならん。つぎに標準説の第二に位する天命説は、形象以下万有自然の規則すなわちいわゆる天則なるものをもって標準と立つる説にして、古代にありてはギリシアのストア学派、シナの孔孟学派はこれに属するもののごとし。ストア学派の天命とはすなわち自然の法則をいい、孔孟学派の天命天道もやはり天地自然の規則に外ならず。近世にありて理学者の宇宙の天則に基づきて修身の道を立つるがごときも、この天命説の一変したるものというべし。

       第二九節 君主標準説

 つぎに君主標準説を述ぶるに、以上の天神説天命説はともに人間以外に立つるところの標準なれば、これに対して人間以内に立つるところの標準なかるべからず。すなわち君主説その一なり。これホッブズ氏の標準説なり。けだし氏の意を案ずるに、人は自利を本性とするをもって、その相集まるや互いに競争抗排するより外なし。もし人をして平和を保たしめんと欲せば、必ず外より抑制する方法を用いざるべからず。しかして宗教によりて抑制するも一種の方法たるも、その立つるところの天神はその体遠く我人の外にありて、目前に現見することあたわず。またその所在をつまびらかにせざれば、その果たして人を賞罰するや否やを知るべからず。しかるに君主は目前にありて直接に我人を命令賞罰することを得るものなれば、よろしくこれを標準とすべしというにあり。しかしてそのいわゆる君主は、この世にありて天神の命を奉じ善悪を裁判賞罰する体なりと立てて、天神の代理者というがごときものなれば、実際上今日にかくのごとき君主を得べからざるは明らかなり。かつこれを標準となすがごときは実際上の便宜というに過ぎざれば、道理上立つるところの標準にあらず。もしその説のごとく君主を標準とするときは、道徳と政治との混同を免れず。故に道徳上善悪の基本を定めんと欲せば、君主の外に標準を求めざるべからず。しかるに近世コント氏が従来の宗教の今日に適せざるを見て、人間以上の天神を排し人間以内に宗教を立てんと欲し、人情宗もしくは人間教なるものを組織せり。その教意は人間相愛の情によりて人間社会を目的としたるものなり。これ人間をもって標準となすものなりというも可ならん。

       第三〇節 道理および道念標準説

 以上二説すなわち君主説人間説ともに人間以内に標準を立つるものなれども、なお身外の標準にして、いまだ心内の標準にあらず。これに対して心内に標準を立つるものあり。その一は道理説なり、その二は道念説なり。道理説はカドワース、クラーク、プライス等の諸氏これを唱え、人の言行相合する行為はこれを善とし、相反する行為はこれを悪とし、その行為を判定するは道理力の作用によるという。故にこの説を道理標準説もしくは智力標準説と称す。さきに道理教と名付けしものこれなり。カント氏の純理の作用によりて行為の正否を判定するというがごときは、その論カドワース氏等と異なるところあるも、道理教の一種に属せざるべからず。つぎに道念説は一名良心説と称し、バトラー、リード等の諸氏これを唱え、シナの孔孟諸氏もこれをとる。その他シャフツベリー、ハチソン両氏の説もこの一種にして、ただ古来の説を改良して今日の説に適合せるもののみ。そもそも道念すなわち良心とは、我人が生まれながら善悪正邪を弁別し、善の求むべく悪の避くべきを知るところの本能力をいう。孟子のいわゆる良知良能これなり。しかしてこの心の命令判断によりて行為の善悪を裁定すべしと立つるもの道念標準説なり。これ直覚教者の唱うるところなり。その性質起源いかんに至りては、次章に道徳の本心を説くに当たりて説明すべし。

       第三一節 自利および利他標準説

 この道理説と道念説とはともに心内に立つるところの標準説にして、道徳の起こる本心原因について標準を立つるもののみ。もしその本心の行為上に発現するところの結果について考うるときは、更に他に標準あることを説かざるべからず。すなわち自利説、利他説、功利説これなり。これを前章目的論において自愛教、愛他教、兼愛教と名付けり。この三説はみな行為の結果について立つるところの標準なり。まず自利説によるに、人の道徳は自利自愛の心より生じ、愛他も兼愛もみな自愛に外ならず、ひろく他人を愛するがごときもその心、他人の己を愛せんことを欲してなりという。これホッブズ氏の自愛教を起こせしゆえんにして、これをもって善悪の標準となせしものはマンドヴィル氏なり。氏は自利をもって道徳の標準と定め、その一身に利あるものは善となり、害あるものは悪となり、善悪の別は自利を離れて存せずという。しかるにこれを実際上に考うるに、自利決して善悪の標準にあらず、世間一般に利他を善とし自利を悪とするにあらずや。たとえ利他の本心は自利より生ずとするも、利他は利他にして自利にあらざれば、ただちに利他を指して自利というべからず。これにおいて利他標準説起こる。その説は、利他の行為は善にして自利の行為は悪なりと立つるものなり。これバトラー、リード諸氏の説にして、すなわち良心論者の説なり。アダム・スミス氏の同憐の情を道徳の本心と定むるがごときも、利他説の一種となさざるべからず。

       第三二節 功利標準説

 この自利利他両説を合し、社会一般の幸福をもって人間の目的となし、またこれを道徳の標準となすものはベンサム氏の功利教なり。この説は自己の幸福と他人の幸福との兼全を期し、よくこの目的を助くる行為はこれを善とし、これを妨ぐる行為はこれを悪とするものなり。いわゆる最大幸福をもって善悪の標準と定むるものなり。故に自己一人を利して他人を害する行為、およびひとり他人を利して自己を害する行為は、みな悪にして善行と称し難し。しかるに今日の事情必ずしも自利利他兼行することあたわずして、あるいは一方を取りて他を捨てざるを得ざることあるべしといえども、その目的とするところは自利利他兼行、社会一般の幸福利益を期せざるべからずという。この幸福説とその目的を同じくしてその原理を異にするものは進化説なり。進化説はダーウィン、スペンサー諸氏の唱うるところにして、功利教のごとく幸福の目的たることを説くも、道徳の進化を説くに至りてはベンサム氏等と意見を異にす。故に、左にその大要を一言せんとす。

       第三三節 進化標準説

 今進化説によるに、人は下等動物より次第に進化してきたりしものなれば、人間の道徳のごときも下等動物の挙動の進化したるものに外ならず。故に今日我人の道徳上の行為と称するもの、ならびにその標準と立つるものは動物界に存するものと大いに異なるところあるも、これその発達の前後異なるをもって、ただその別を見るのみ。すなわち動物は道徳のいまだ発達せざるものにして、人類はすでに発達したるものなり。たとえば、動物は苦楽の感覚を有するのみにていまだ善悪の思想を有せざれども、その感覚発達すれば人類のごとき善悪の思想を有するに至るべし。しかしてかくのごとく発達するゆえんは、生存を保全せんと欲して進化するによる。故にその目的は生存保全に外ならず。これをもって、善悪の標準も生存保全にあるを知るべし。すなわち生存に利ある行為挙動は善にして、害ある行為挙動は悪なり。これにおいて行為の善悪起こる。今日我人の目的は最大幸福なりとなすも、この目的の進化したるものに外ならずという。

       第三四節 諸説の批評

 以上、標準論を約言するに、一定の標準ありと唱うる諸説中、第一、天神説ならびに理想説は形象以上に標準を立つるものなり、第二、天命説もしくは自然説は形象以下なるも、人間以外に標準を立つるものなり、第三、君主説は人間以内なるも、人心以外に標準を立つるものなり、第四、道理説ならびに第五、道念説は人心以内なるも、道徳の本心の上に標準を立つるものにして、いまだ結果の上に標準を定むるものにあらず、第六、自利説、第七、利他説、第八、功利説は結果の上に標準を立つるものなるも、いまだ標準の進化するゆえんを説かず、これを説くものは第九、進化説なり。かくのごとく論じきたるときは、進化説最も完全の標準なるがごとしといえども、もしその進化のよりて起こる本源ならびにその将来の結果を考うるときは、いまだたやすく判知すべからざるものあり。また、何故に進化するや、何故に進化せざるを得ざるや等の問題につきその原理原則を推究するときは、また知るべからざるものあるを見る。これにおいて進化説の外に、他に考うべき標準あることを唱うるものあり。故にもし公平の見をもって判定を下さんと欲せば、その諸標準を合してその中を得たるもの、最も完全の標準と称すべし。

 

     第四章 良心論

       第三五節 良心の解釈

 前章は道徳上善悪の別はなにを標準として定むべきやを述べたれども、いまだ人の道徳心はいかにして生ずるやを論ぜず。故に、ここにその心の起こるゆえんを示さんとす。それ世の古今を問わず国の開否を論ぜず、いやしくも人たるものは必ず多少の道徳心を有せざるはなし。すなわち人みなその善を善とし、その悪を悪とし、善のもって求むべく、悪のもって避くべきを知る能力あり。これを道徳の本心という。さきにいわゆる良心これなり。この心はなにものにして、いかにして発生したるやの問題は、これより余が説明せんと欲するところなり。

       第三六節 良心論の種類

 古来この本心を論ずるに二種の説あり。その一は天賦論もしくは本然論と称し、その二は経験論と称す。本然論によるに、道徳心は人の生来有するところの天賦の能力にして、経験によりて化生したるものにあらずといい、経験論によるに、道徳心は教育経験によりて発生したるものにして、人の生来有するところの能力にあらずという。けだし近世哲学史上において学者の大問題となりたるものは人性人智の本源論にして、すなわちこの経験本然の二論なり。しかして経験論を主唱せしものはロック氏にして、本然論を唱えしものはライプニッツ氏なり。これを折衷して、人智の一半は経験より生じ一半は生来存すというものはカント氏なり。しかしてまた近年一種の折衷論起これり。すなわちスペンサー氏の唱うるところの遺伝論これなり。その意、道徳の本心のごときは教育経験よりきたるも、ことごとく一人一代の経験より生ずるにあらず、数人数代の経験より生ずるものなり。これをカント氏の折衷論に比するに、その一半の生来存すと立つるものは、スペンサー氏の数人数代の経験よりきたるとなすものなり。すなわちスペンサー氏が天賦の良心を一人一代の経験より生ずるものにあらずとするは天賦論者の唱うるところと同一なるも、これを数人数代の経験より生ずるものとするは経験論者の唱うるところと同一なり。故に第三の遺伝論は、本然と経験との二論を結合したるものというべし。しかれどもその実、一種の経験論なり。

       第三七節 本然論者の駁論

 まず第一に本然論者の唱うるところの理由を述ぶるに、その要点は左の数条なり。

  (一) 我人の善悪を判定するは即時直接に起こり、決してこれを判定するに当たり思考推究するを要せず。あたかも目をもって色を見ればただちにその黒白を弁じ、皮膚をもって温度に接すればただちにその寒暖を知るがごとし。たとえばここに一人の窃盗をなしたるものありと想するに、これを聞くものみな即時にその行為の悪なるを知り、これをその心に推究してのち始めてその悪を知るにあらず。これ人に本然の良心あるゆえんなり。

  (二) 道徳心は人間共有の性質にして、世の古今、国の東西を問わず、人の賢愚利鈍を分かたず、いやしくも人たるものはみな同一に善悪を判定する力を有し、善を善としてこれに就き、悪を悪としてこれを避くることを知る。これまた人に生来道徳心の存するゆえんなり。

  (三) 生来道徳の教育を受けず平常不良の習慣に接するものも、なお道徳の本心を有して善悪を弁別することを得るを見る。これ道徳心の教育経験によりて注入せられざるゆえんなり。

  (四) 道徳心は、その性質は他の心性作用と大いに異なるところあり。たとえば、智力作用のごときはこれを弁別力、契合力等の単純の作用に分解することを得るも、道徳心はこれを単純の作用に分解することあたわず。これ道徳心は智力のごとく経験積集の結果にあらざるゆえんなり。

 この四条の理由は、道徳心は人の生来有するものなるゆえんを示すに足る。故に本然論者は、この理由を口実として経験論を排斥せり。

       第三八節 経験論者の答弁

 経験論者はこの駁論に答えて曰く、第一に、善悪の判定は人の即時に覚知するものなるも、これいまだ天賦の能力なりというべからず。およそ人の心性作用は、経験数回にわたれば思考推究を待たずただちに判定することを得るに至る。たとえば裁判官が訟事を審判するがごとし。経験に乏しきときは思考推究を待ちて始めて理非を弁ずるも、経験数回にわたれば習慣の力即時に判決することを得るに至るべし。かつまた行為の善悪はたやすく判定することを得というも、これ単純の行為に限る。もし複雑なるものに至りては、その善悪を判定することはなはだ難し。たとえば湯武のその君を殺せし可否いかん、伯夷の首陽山に餓死せし利害いかん等の問題のごときは、即時に判定することあたわざるべし。第二に、道徳は人間共有の性質なりというも、ただその大なるものに限る。もしその小なるものに至りては、古今東西大いにその説を異にす。たとえば、多妻を蓄うるがごときはこれを不道徳とするものとせざるものあり、また夫婦別あるをもって道となすものと別なきをもって道となすものあり。第三に、不良の習慣に接するもなお道徳心を失わずというも、諺に「朱に交われば赤くなり、悪人に交われば悪人となる」というにあらずや。第四に、道徳は分解すべからずというも、進化論によりてこれを考うるに、善悪の思想は苦楽の感覚より発達したるものなりという。果たしてしからば、これまた他の心性作用のごとく分解することを得るなり。

       第三九節 経験論の例証

 更に進みて経験論者の自らその説の例証となすものを挙ぐるに、論者曰く、これを実際に考うるに、道徳心は人の成長の際、教育経験を待ちて発達することは明らかなる事実にして、経験に富みたるものは道徳心に富み、経験に乏しきものは道徳心に乏し、善良の教育に接すれば善人となり、不良の教育に接すれば悪人となるにあらずや。これ一般の通則なり。たとえ一、二例のこの通則に反するものあるも、これ人みな同一の経験に接し同一の教育を受くることあたわざるによるのみ。かつ教育に父母の教育、朋友の教育、社会の教育等種々ありて、一方の教育善良なるも、他方の教育不良なることあり。故をもって、その結果に異同を生ずることあるも、教育経験によりて道徳心の発達するゆえんの原則は、確然として動かすべからざるものなり。

       第四〇節 折衷論

 これに対して本然論者は必ずいわん、道徳心は人の生来有するものなりというも、ただ道徳の種子となるもの本来存すというのみ。これをして発達せしむるものは、もとより教育経験の力なり。これ余がさきに述べたるカント氏の折衷論に類するものにして、道徳を構成すべき原力は本来人心中にありて存し、その原力によりて構成せらるべき資料は教育経験を待ちて外界より入りきたるなりという。これ大いに道理あるに似たれども、その論のなお解し難き点は、第一に、人になにほど教育経験を与えても、本然の能力の発達せざるものあるはいかん、第二に、人になにほど同種同量の教育経験を与うるも、その結果人々みな異なるはいかん、第三に、そのいわゆる本然の原力はいずれよりきたりしや等の諸条にあり。しかしてこの点は、経験論によるも明らかに解釈すべからず。なんとなれば、人の良心は果たして教育経験より生ずるときは、経験同一なれば同一の良心を生じ、教育善良なれば善良の人を生ずべき理なり。しかるにこれを実際に考うるに、その例に反するものあり。これにおいて遺伝論の調和説起こる。

       第四一節 遺伝論の大要

 遺伝論者は曰く、そのいわゆる天賦の原力は父祖数代の遺伝によりて発育せしものにして、その原力は人々の遺伝おのおの異なるをもって生来同一なるあたわず。またその遺伝性不良なるときは、なにほどこれに善良の教育を与うるも、その性を一変して善人となすべからざることあるべし。故に遺伝論は本然論経験論二者の不足を補いて、その難点を会通するものなり。今、遺伝論の大要を述ぶるに、およそ人は父母祖先の体質を遺伝するのみならず、その心性を遺伝するものなり。その心性を遺伝する以上は、道徳の本心を遺伝すべきは理の当然なり。しかしてその本心は父母祖先の遺伝するところ異なれば必ず多少の不同あるは、なお面貌の人々おのおの異なるがごとし。故に、人に生まれながら行為の善悪を弁別して、その善に就き悪を避くる良心あるは遺伝の結果にして、その良心の人々同一なるあたわざるもまた遺伝の結果なりという。しかして遺伝論者は、良心の発達はひとり遺伝の結果となすにあらず、遺伝と経験との二者によりて発達すという。これを順応、遺伝の規則とす。順応とは、人の一生間外界の事物に接し、自体を変化してその事情に適合する作用にして、いわゆる経験これなり。この二者相合して始めて道徳の進化を見る。すなわち人その一生の間経験順応によりて得たるところの道徳心はこれをその子に遺伝し、子はその一生間経験順応によりて得たるものをまたその孫に遺伝し、遺伝は元金のごとく順応は利息のごとし。元利相合して道徳の進化を見るなり。これを遺伝論の大要とす。

       第四二節 遺伝論の説明

 しかるにここに一論あり。遺伝論はいまだ道徳論の発達を証するに足らずという。今その意を述ぶるに、天賦の良心は父母祖先より遺伝したるものとなすときは、悪人の子には必ず悪人あり、善人の子には必ず善人あるべき理なれども、古来聖人の子に不肖あり悪人の子に善人あるはいかんというものこれなり。遺伝論者は必ずこれに答えていわん、父母の遺伝善良ならざるも、その一生間の順応よろしきを得るときは、悪人の子に善人あるべき道理なり。また父は善良の人なるも母の性質不良なるときは、その遺伝によりて善人の子に不良の者あるべし。もしまた父母両方の性質善良なるも、その祖父母の性質不良なるときは、不良の子を生ずることあるべし。けだし遺伝には連続性と間歇性との二種あり。父母の性質ただちにその子に遺伝するは連続性遺伝なり、一代もしくは数代を経てその子に遺伝するは間歇性遺伝なり。なお人の体質面貌のその父母に似たるものと、その祖父母もしくは二、三代前の祖先に似たるものとの別あるがごとし。故に良心は遺伝によりて発達するの原理は、決して疑うべからずというにあり。

       第四三節 諸説の比較ならびに批評

 以上の論これを約言するに、古来道徳の本心の起こるゆえんを論ずるに二種の説あり。その一は天賦論もしくは本然論にして、その二は経験論なり。そのうち本然論は第二章に挙ぐるところの直覚教に属すべし。なんとなれば、本然論者の説くところは道徳のことたる、我人の即時直接に覚知するところのものにして、善悪の判決を下すに当たり思考推究を要せざるものなれば、我人生来有するところの直覚の力なりというをもってなり。これに反して、経験論は先章のいわゆる功利教に属すべし。なんとなれば、功利教は経験の結果によりて起こりし論にして、経験論とその説を同じうすればなり。故に本然論経験論の争いはすなわち直覚教功利教の争いなり。しかしてこの本然経験両論を調和したる経験論は進化論者の唱うるところにして、その説進化論に属すといえども、直覚功利二教に対してその所属を定むるときは、やはり功利教の一種なり。なんとなれば、その説全く本然経験を調合したるものにあらずして、経験論のその形を変じたるものに過ぎず、すなわち経験論者のいわゆる一人一代の経験を変じて数人数代の経験となしたるに過ぎざればなり。しかりしこうして、今日倫理学上に最も勢力を有するものは功利教の説にして、良心の本源を論ずるにも経験論遺伝論最も勢力ありといわざるべからず。なかんずく遺伝進化論最も世間の信用を有するがごとし。これ果たして完全の説なるや。けだしその説、客観的研究においては事実上得たるところの結果なれば真理に近きものといわざるべからずといえども、もし遺伝の根元にさかのぼり良心の初めて発生せし本源を究むるに至りては客観的研究の及ばざるところにして、遺伝論のいまだ尽くさざるところあり。これ主観的研究もしくは理想的研究を待たざるべからず。

 

     第五章 意志論

       第四四節 道徳と心性作用との関係

 前章に道徳の本心すなわち良心の起源を論じたるも、道徳の作用は心性作用中意志に属するものなれば、意志の性質ならびに意志と道徳上の行為との関係を論ぜざるべからず。もしその関係を知らんと欲せば、まず意志と他の心性作用すなわち感情智力両作用の関係を述べざるべからず。すなわち意志の感情智力によりて発動し、道徳上の行為を現呈するゆえんを講述せざるべからず。すでにそのしかるゆえんを知るときは、更に進みて古来の大問題たる意志は自由なるや自由ならざるやを判定せざるべからず。これを自由意志論という。その論、良心論と同じく倫理学上至要の問題なれば、もとより本章において論述せざるを得ざるなり。

       第四五節 意志の説明

 まず意志そのものの性質を考うるに、意志とは心性の外界に対し発示する行為挙動に与うる名称にして、すでに行為上に発示したる挙動のみをいうにあらず。いまだ発示せざるも、その方向に進まんとする心性作用はすべて意志と称す。かつ意志は必ずなさんとする目的を有するものなれば、あるいはこれを解釈して目的ある作用となす。この解釈によりて、意志と道徳と同一の関係を有するゆえんを知るべし。そもそも意志は、これを分かちて単複二種もしくは内外両作用となす。内作用とはいまだ外界に発示せざる内界の心性の方向目的をいい、外作用とはすでに発示したる行為挙動をいう。単意とは単純の意志を義とし、他の作用の混入せざるものをいう。たとえば小児の挙動のごとし。複意とは複雑の意志を義とし、智力感情の多少混入したるものをいう。たとえば大人の行為のごとし。今、道徳のごときはこの内外両作用に関し、複意に属するものなり。その複意の上に善悪を論ずれば道徳となる。

       第四六節 意志と感情との関係

 つぎに、意志ならびに道徳上の行為を引き起こし、これをして発動せしむるものは、けだし感情と智力との二者なり。感情に感覚と情緒の二種ありて、感覚に視、聴、触、嗅、味の五感および有機感覚あり。目はみんことを欲し、耳は聴かんことを欲するがごときは、我人が五感の上に有する欲にして、これを五官の欲という。飢えて食を欲し、渇して飲を欲し、疲労して休息を欲するがごときは、我人の有機感覚上に有する欲にして、これを体欲という。この五官の欲ならびに体欲は、我人の意志ならびに行為の原因となるものなり。しかしてその欲はみな現在目前の事情より生ずるものにして、往時の経験を追憶して起こるものにあらず。故にこれを肉体上すなわち身体構造自然の性質より生ずるものとす。もし心性上往時の経験を追憶して、その想像上に存するものと現存の事情と相合せざるをもって、これを合せんとするときに起こる欲、これを願望という。たとえば、貧賎の地位にありて富貴を来めんことを願い、無智の人にして智識を得んことを望むがごときものこれなり。けだしこの欲は情緒と智力と両作用相合して起こるものなり(『心理摘要』第七六節を見るべし)。つぎに、情緒は感覚より一層高等に位し、心内に発する感情作用なり。これに単情複情の二種ありて、驚、愛、怒、懼、我、力、行の七情は単情に属し、同、智、徳、美、宗の五情は複情に属す(『心理摘要』第六四節を見るべし)。複情は一に情操と名付く。たとえば、子弟を愛し、危難を恐れ、智識を来め、美術を喜び、徳義を重んずるがごときは情緒の作用にして、その作用は意志ならびに道徳上の行為の起源となることは言を待たずして知るべし。

       第四七節 意志と智力との関係

 しかるに道徳上の行為はひとり感情の作用によりて発するのみならず、智力の作用によりて生ずるなり。すなわち再想、構想、推理(『心理摘要』〔第〕二一節ならびに〔第〕二二節を見るべし)の諸作用によりて生ずるなり。たとえば、往時の記憶を再現してこれを欲する意起こり、種々の想像を構成してこれを得んとする心生ずるがごときは、再想構想の作用によるものなるは、前節に挙ぐるところの願望を見て知るべし。また思想上推理論究して意志を起こすものあり。これ推理作用より起こるところの行為といわざるべからず。その他、道徳上の行為の原因となるものは習慣と連想なり(『心理摘要』第二五節を見るべし)。習慣の行為挙動に関係あることは言を待たず、連想の関係あることもまたたやすく知るべし。けだし習慣と連想とは心性発達の事情にして、道徳の本心ならびにその行為もこれによりて発達するや明らかなり。

       第四八節 心性作用と善悪との関係

 以上挙ぐるところによりて、道徳上の行為は感情智力両作用によりて発動するの理すでに瞭然たり。しかしてこれによりて善悪の起こるゆえんは、ここに一言するを要す。まず感情についてこれを考うるに、体欲のごときは我人が生命を保全せんとする自然の性力によりて発動するものなれば、その発動を見てただちに善とも悪とも判定すべからざるも、もしその適度を失えば悪行といわざるべからず。また願望情緒のごときも我人自然の性にして、そのものに本来善悪を含有するにあらざるも、行為上に現ずる結果に至りては善悪の別ありて起こる。つぎに智力についてこれを考うるも、智力作用そのものに善悪の別あるにあらず、行為に関するに当たりて善悪邪正を生ず。たとえば、智力は善悪を弁別する力を有するをもって、これによりて生ずる判断は必ず善ならざるべからざるがごとしといえども、その判断のときどき正当を失することあり、また人はその智力によりて悪事を企つるものあり。かくのごときは不正の作用といわざるべからず。しかして我人がよくその行為の善悪を知り、これを判定して誤らざるは、さきにいわゆる天賦の良心の存するによるという。これ本然論者の唱うるところなり。また我人が錯雑なる事情に接し、種々の衝力心内に起こり猶予して決し難きに当たり、意志の作用よくこれを裁決しかつこれを選択するは、我人に自由意志なるものありて存するによるという。これ自由意志論者の唱うるところなり。そのうち良心の起源は前章すでにこれを論ぜしをもって、これより自由意志の起源を説くべし。

       第四九節 自由意志の解釈

 余がここに自由意志とは、我人の有する自裁自断、自択自制の力に与うる名称にして、その力の自由を唱うるもの、これを自由論と名付く。その説によるに、たとえば我人の行為中その一を捨てて他を取る選択作用のごとき、および己を制して善に帰る克己作用のごときは、みな人に一種独立の意力ありて決断命令を下すものにして、内外の諸事情原因によりて起こるものにあらずという(『心理摘要』第八二節を見るべし)。これに反して、自択自制の作用のごときは内外両界の諸事情諸原因によりて起こるものにして、一種独立の心性作用にあらずというもの、これを必然論と名付く。この論は古来哲学上の一大問題にして、自由意志に与うる義解ならびに説明は人によりて異なるといえども、まず余が定むるところの義解により今日の学説に考うるに、意志は自由独立の作用なるがごとしといえども、その実、必然の事情によりて生ずるものなるゆえんを示すべし。

       第五〇節 必然論の説明

 必然論は宇宙万有の規則に基づくものにして、その規則とは、原因あれば必ず結果あり、結果あれば必ず原因ありて、一事一物としてしかるべき原因事情なくして生起するにあらずというがごときものこれなり。今、意志作用もこの規則によりて起こるものとす。そもそも人の行為挙動を進衝する原因は苦楽の両感にして、苦を避け楽に就くは人獣一般の通性なり。しかして苦楽ともに種々の階級ありて、感覚の苦楽あり、情緒の苦楽あり、想像の苦楽あり、現在一時の苦楽あり、未来永遠の苦楽あり。この諸苦諸楽互いに相加わり相和し、その結果、一方に向かいて心力を衝動するに至る。これを動機すなわち精神の衝力と名付く。その衝力によりて意志の作用を現ず。故にその作用は、内界外界の事情より生ずる結果なりといわざるべからず。外界の事情とは、わが身外の諸象のわが感覚に接触して意志作用を衝動する事情をいい、内界の事情とは、わが心内の思想上に往時の経験を追憶して種々の思想を連起する事情をいう。この諸事情によりて生ずるところの衝力、互いに抗排し互いに結合して意志作用を現ずるなり。あたかも諸事情の相合して毎日の晴雨の定まると同一般なり。ただその事情いたって錯雑、その衝力いたって多様にして、一行為あるごとにその原因を測定すべからざるのみ。もし種々の衝力同時に起こるも、一方の力他方より強きときは、その方に向かいて意志の作用を現ず。これを決断と名付く。もしその衝力互いに相抗排し強弱相敵するときは、暫時前後の事情を比較して猶予せざるを得ず。これを思慮と名付く。その思慮の間あるいは更に他の事情を想起して、一方の力他方より強きを得るに至れば、その方に向かいて決断選択等の意志作用を現ずるなり。克己作用のごときもこの理に外ならず(『心理摘要』〔第〕八〇節ならびに〔第〕八一節を見るべし)。故に意志の諸作用は、みな内界外界の事情より生ずる結果なりといわざるべからず。

       第五一節 自由論と必然論との問答

 これに対して自由論者は曰く、我人の選択決断の作用のごときは、第一に、即時に起こるものにして諸事情を比較酌量するを待たざるものなり、第二に、その作用は当時の内外の諸事情に全く関係なき結果もしくはこれに反対したる結果を示すことあり、これ意志の自由独立なるゆえんなりと。必然論者はこれに答えて曰く、その作用の即時直接に起こるがごときは経験習慣の結果なるにより、その当時の事情に反したる結果を示すがごときはその事情の錯雑にして測定し難きによるのみ。たとえば、昨日は北風吹き今日は南風吹くと定むるに、その風位の異なるはしかるべき原因事情あるや疑いなしといえども、その事情錯雑なるをもって、いちいち原因と結果との関係を明知することあたわざるがごとし。その他種々の証明あれども、今これを略す。

       第五二節 両論の帰結

 以上述ぶるところこれを帰するに、道徳上の行為は意志作用に属するをもって、その行為を論ずるには意志の性質を説かざるべからず。意志の性質を知るには、その発動の原因となる感情智力の事情を説かざるべからず。しかして感情智力の事情を説きて意志の起こるゆえんを知るに至れば、更に一大問題ありて起こり、意志は本来自由なるか自由ならざるかの論を生ず。これを自由とする論を自由論といい、これを自由にあらずとする論を必然論という。この二論いずれが果たして真なるやいまだ判定すべからずといえども、必然論の方道理あるに似たり。なんとなれば、この世界に存するもの、一としてその変化発動するや必然の規則によらざるものなければなり。もし進みてその自由論をこの世界全体の上に移し、必然の規則の起こるゆえんは一大意志の発動によるものにして、天地万物の運動はみな意志の作用なりというがごとき理論に至りては、倫理学の問題外にわたるをもって、余輩ここに論弁するを欲せざるなり。またこの世界には必然の規則のみ存すとするときは、他にその規則を制限するものなきをもって、必然すなわち自由にして必然論すなわち自由論なりと唱うるがごときも、今ここに論ぜず。もしそれ物心の本源にさかのぼり、意志は理想の発動なりと解するに至らば、理想そのものは無限自由なるべきをもって、一切の規則はみな自由をもって体とすというべし。しかるに余がここに意志論を掲げたるは、決してかくのごとき自由論を意味するにあらずして、ただ意志は良心と相合してわが道徳の行為を命令指示するものなれば、我人が欲を制し己にかち、悪心を転じて善心に変ずる等の、果たして意志の自由より起こるや否やを一言したるのみ。

 

     第六章 行為論

       第五三節 行為の発達

 前二章は心理上道徳の作用を論じたれば、これよりその作用の外界に対して現示する行為の性質およびその発達を論明せんとす。そもそも古来の道徳論者は、道徳は人間特有の性質にしてその有無をもって人獣の区域を立てしも、今日進化論の起こるに当たり、人類特有の道徳は動物界より発達進化したるものなりという。けだし道徳上の行為は、同一人類中にありても古代と今日と大いに異なり、野蛮人と開明人と大いに異なるところありて、古代の蛮民のごときはその挙動全く道徳を知らず、禽獣とその別を見ざるものあり。しかして動物中の高等なるものに至りては、かえって多少の道徳を有するを見る。畢竟するに、道徳の有無をもって人獣の分界となすべからず。これ今日、道徳進化論の起こりしゆえんなり。これに反対して道徳は進化の結果にあらずと唱うるもの、これを非進化論という。しかして現今は進化論の方、大いに学者社会に勢力を有するに至りしをもって、ここにその大要を略示せんとす。

       第五四節 道徳進化の大要

 およそ地球上に生活を有するものは、禽獣魚虫を問わず必ず多少の挙動の発達して一定の目的を有するに至れば、これを行為という。行為進化して善に就き悪を避くるに至れば、これを徳行すなわち道徳上の行為という。たとえば、魚の偶然水中に動くがごときは目的なき挙動にして、犬の食を見てこれに就くがごときは目的ある挙動すなわち行為なり。もし人ありて、他人の飢ゆるを見てこれに食を与え、他人の恩を思いてこれに報ゆるがごときは、徳行といわざるべからず。この徳行の目的なき挙動より発達したりとなすもの、これを道徳進化論という。その進化の原因は生存保全の規則に外ならず。生存保全とは生物がその生存を保全せんとする規則にして、これに自己の生存と種属〔族〕の生存との二種あり。自己の生存とは自己一人の生存を保全せんとするものをいい、種属の生存とは子孫同類の生存を永続せんとするものをいう。この二種の規則を、あるいは自保もしくは自存の規則と名付く。これ進化の目的なり。いやしくも生を天地間に有するもの、この目的に向かいて進まざるはなし。もしその挙動の知らず識らず無意偶然にこの目的に合するものはいまだ目的ある挙動といい難しといえども、多少の意識ありてこの目的に合する挙動を示すに至れば、これを行為というなり。

       第五五節 自保自存の規則と善悪との関係

 かくのごとく諸生物が外界にありて諸経験の結果この自保の規則を知り、その目的を達せんと欲して行為を呈するに至れば、自然に善悪の二種ありて分かるるに至る。すなわち行為のよくその目的に合するものはこれを善とし、合せざるものはこれを悪とするなり。けだし善悪の語はその初利と不利とに与えたる名目にして、善行とはその生存に利あるものをいい、悪行とはその生存に害あるものをいう。語を変じてこれをいえば、その自身に利あるものこれを善とし、害あるものこれを悪とす。すなわち自身の生存をもって善悪の標準となすものなり。これをもって、禽獣世界および野蛮人種の最下等に至れば、ただ自利の行為を有するのみにて、利他の行為を有せざるなり。もしその種属について道徳を論ずるときは、自利すなわち善といわざるべからず。なんとなれば、自利にあらざれば生存保全の規則をまっとうすることあたわざればなり。しかるに禽獣なおその子を愛するを知り、蛮民なおその眷属を親しむを知るはなんぞや。これその種属保存に必要なる事情あるによる。これをもって、愛他心の一端早くすでに禽獣世界にありて生ずるを見る。この一端の心次第に発達して高等の道徳心を化成するに至りしは、社会団結の結果なり。

       第五六節 社会団結の結果

 人類はその初期にありては禽獣のごとくおのおの離散して住居し、いまだ一家一社会を成すに至らざりしも人口繁殖、自然の勢い互いに群居し競争淘汰、自然の結果互いに団結せざるを得ざるに至れり。社会団結の今日にありては、自身の生存を保全せんと欲せば、必ず他人の利益を計らざるべからず。われより他人を愛すれば他人またわれを愛し、われより他人を害すれば他人またわれを害すべし。これにおいて、他人を愛する行為は善となり、自己を利する行為は悪となるの習慣を養成するに至る。これ利他博愛の、道徳の行為となりしゆえんなり。しかれどももしその他人を愛するの本心を尋ぬるときは、自身を愛するの情より生じたることたやすく知るべし。故に愛他は自愛の極ここに至るものなり。

       第五七節 習慣教育等の影響

 かくのごとき社会団結の後に至れば、愛他の行為にあらざれば自愛の目的を全うすることあたわざるをもって、人みな自然に利他の必要を感じ、かつひとたびこれを試みてその身に益あるを経験すれば再びこれを重ねんとし、再三これを重複すれば習慣の力ついに一種の性質を造成するに至る。その他、教育遺伝等種々の事情のこれに加わるありて、一種固有の道徳心を現示するに至る。これ人に良心の起こるゆえんなり。かつ人に愛他の心を生ぜしは、生来名誉を欲する情および同類相憐れむ情を有せしによる。その他、政治上の賞罰、宗教上の勧懲等の方法によりてその発達を助けしは疑いをいれず。これにおいて、人に天賦の良心を現ずるに至る。故に良心も進化の結果なりというべし。

       第五八節 苦楽と保存との関係

 以上は進化上保存の規則と、行為の善悪との関係を述べたるのみ。もし心理上保存の規則と苦楽の感覚との関係を考うるときは、善悪の行為は苦楽の感覚より発達したるゆえんを知るべし。およそ我人の性たる、楽感はこれに就き近づかんとし、苦感はこれを避け遠ざからんとするものにして、我人の保存に益あるものはこれに接して快楽を生じ、保存に害あるものはこれに接して苦痛を生ずるものなり。もしこれに反して我人の性たる、保存に益あるものはこれに触れて苦痛を生じ、保存に害あるものはこれに触れて快楽を生ずるに至らば、我人は一日もその生存を全うすべからざるは必然なり。なんとなれば、保存に益あるものを避けて、保存に害あるものに就くに至るべきをもってなり。故に苦楽と保存の間に密接なる関係を存するは進化自然の結果なり。すなわち進化自然の勢い、保存に益あるものはこれに接して快楽を生じ、かつこれに就かんとする性を発達するに至り、保存に害あるものは苦痛を生じ、かつこれを避けんとする性を発達するに至るなり。

       第五九節 苦楽と善悪との関係

 すでに保存と苦楽の密接なる関係を有するを知り、また保存に益ある行為を善とし、保存に害ある行為を悪とする規則を知るときは、快楽すなわち善、苦痛すなわち悪にして、善悪の別は苦楽の感覚より生ずるゆえんを知るべし。けだし善悪の思想は人類特有の性質にして、動物界にありてはいまだその別を見ずといえども、苦楽の感覚に至りては諸動物大抵みなこれを有し、楽に就きて苦を避くるの性は禽獣ことごとくこれを有す。もし果たして人類は動物より進化したるものと定むるときは、人類中の善悪の行為は、その原因すでに動物中にありて存すべき理なり。しかるに動物はいまだ善悪の行為を有せざるも苦楽の感覚を有するをもって、この二種の感覚次第に発達して善悪の行為を化成するに至れりということを得べし。すなわち我人の経験上、快楽を生ずる行為はようやく進みて善行となり、苦痛を有する行為はようやく積みて悪行となる。これもとより一朝一夕に成るにあらず、数世数万年間の経験相積み、遺伝相重なりてここに至るなり。かくのごとく善悪と苦楽と同一の関係を有するゆえんを知れば、禍福と善悪との同一の関係を有するゆえん、またしたがって知るべし。果たしてしかるゆえんを知らば、さきにいわゆる人間の目的は幸福なり、善悪の標準は幸福なりとの説を了解すべし。

       第六〇節 道徳発達の諸事情

 かくのごとく道徳の発達を論ずるときは、世にいわゆる仁も徳も諸善諸行も、その実みな快楽幸福に外ならざるを知るべく、愛他の行為は自愛の本心より起こりしを知るべし。しかして世間一般の道徳は自愛を悪とし愛他を善とし、自己一人の利益を計るものを悪人とし社会共同の利益を計るものを善人とするに至りしは、内界にありては習慣連想の事情の存するあり、外界にありては社会団結の事情の存するありて、二者相助けて道徳の発達せるによる。語を換えてこれをいえば、心理の進化、社会の進化相合して道徳の進化を見るに至りしなり。その他、教育、宗教、法律、世論の勢力のこれに加わるありて、人をして自ら悪をいとい善を求めしむるによるや明らかなり。すなわち法律世論は外部より制裁を与えて人をして悪を避けて善にうつらしめ、教育宗教は直接に内心を責めて徳性を養成するなり。

       第六一節 智力言語の発達と道徳の発達との関係

 以上の諸事情の外、道徳の発達に必要なるものは智力の発達と言語の発達なり。智力のいまだ発達せざる動物にありては、過去の経験を想起して未来の結果を前定すること難し。また言語のいまだ発達せざる獣類にありては、衆人の経験思想を連合してその結果を指示することあたわず。故に禽獣動物にいまだ道徳の発達を見ざるなり。しかるにすでに言語智力の発達せる人類にありても、下等野蛮の人種は記憶および推理の力はなはだ弱きをもって、一時直接の快楽を知るのみにて永遠間接の幸福を知らず、かつ言語の発達不完全なるをもって、一人の利害を知るのみにて衆人の利害を知らず。したがいてその道徳上の行為は極めて下等なり。これをもって、言語智力の発達と道徳の発達の相伴うゆえんを知るべし。

       第六二節 進化論は万有の通則なること

 以上の論これを要するに、道徳上愛他の公情は自愛の私情より発達し、利他の行為は自利の行為より進化し、善悪の思想は苦楽の感覚より成来せりというにあり。これ全く進化自然の結果にして、下等動物の進みて高等動物となり、野蛮人種の進みて開明人種となるの際、その保存永続に必要なる事情ありてここに至るなり。他語にてこれをいえば、保存の規則に従いて進化せしなり。これ進化論者の唱うるところの要点にして、その論はひとり実際上の経験によるのみならず、理論上の推究に基づくものなり。すなわち今日進化の原理は天地万物、諸学諸術の通則となりし以上は、道徳ひとりその規則の外に立つの理あらんや。語を換えてこれをいえば、天地も進化し万物も進化し、動物も進化し人類も進化し、心性も進化し社会も進化せし以上は、道徳また進化の結果ならざるべからず。これをもって、倫理学上進化論を応用するに至れり。故にこの論のごときは実に事実上疑うべからざるものにして、また理論上動かすべからざるものなり。ただ進化の本源、進化の終極、および進化の原力を論ずるに至りては、いまだ明らかならざるものあり。これ今日、非進化論のなお世に存するゆえんなり。今日の非進化論者は全く進化の事実を排するにあらざるも、進化は宇宙万物の大目的にあらずして、ただその目的に向かいて進む序次階梯に過ぎざるなり。かつ道徳の原理原則のごときは古今一定して動かざるものなれば、進化の結果にあらざるなりという。その他、非進化論者の唱うる論点は、さきに本然論直覚教の下に述べし条款を参見して知るべし。

 

     第七章 規律論

       第六三節 実行上の問題

 前数章は道徳の本心および行為の起源発達を講述したれば、これよりその行為の規則すなわち道徳の規律の性質、ならびにこれに関する賞罰義務を略弁すべし。これ理論上の問題にあらずして実行上の問題なり。すなわち我人の実行上守るべき規律、ならびにこれに対する義務いかんの問題なり。第二章第三章は道徳の原理を論じたるをもって純正哲学に関し、第四章第五章は道徳の心理を論じたるをもって心理学に関し、第六章は行為の進化を論じたるをもって進化論にわたりて講述したりしが、本章の問題は政治と直接の関係を有し、あるいは宗教と密接の関係を有するをもって、その論ずるところこの二者と相混ずる恐れなきにあらざるも、余は務めてこれを道徳の範囲内にとどめ、その外に及ぼさざるべし。ひとり賞罰の一段に至りては、政治上に関係して説かざるを得ざるものあり。なんとなれば、道徳上の賞罰の一部分は政治上にありて存すればなり。

       第六四節 規律の種類

 およそ規律と称するものに四種あり。その一は自然律、その二は宗教律、その三は政治律、その四は道徳律これなり。自然律とは天地万物の規律にして、宇宙の大法もしくは万有の天則と名付くるものをいう。この規律は我人の決して抗すべからず破るべからざるものなり。宗教律とは宗教上に定むるところのものにして、天神の命令によりて成り、天神の意志によりて賞罰を与うるものなり。政治律とは一国の政府もしくは主権者によりて定められたる法律にして、これを犯すものを懲罰する方法なり。道徳律とは道徳上の規則にして、善悪の行為を制裁するに社会の上に賞罰法を立つるものなり。しかしてこの道徳律を実施するに、古来宗教と政治との力を用いたるをもってたやすくその功を奏せしといえども、今日はその二者を離れて独立する際なれば、賞罰の方法を立つるに至りてやや困難を覚ゆるなり。

       第六五節 賞罰の種類

 およそ宗教は人を勧懲するに未来世界の賞罰を用うといえども、道徳のごときは目前現在世界の上に賞罰を設けざるべからず。しかして現在の賞罰に二種あり。その一は国法上よりきたるものにしてこれを法律的賞罰といい、その二は社会朋友間の信用名誉上よりきたるものにしてこれを社会的賞罰という。今、道徳上の賞罰はひとりこの社会的賞罰を用うべき道理なるも、実際国法上にて制裁すること多きをもって、この二者を合して道徳上の賞罰を説かざるべからず。すなわち人もし道徳上の規則を犯すときは、これを罰するに法律的社会的の二法をもってし、人もしその規律を守るときは、これを賞するにまたこの二法をもってす。これ道徳の規律を実施し、人をしてこれを遵守せしむる法なり。

       第六六節 法律的賞罰

 初めに法律的賞罰を述ぶるに、政治律と道徳律とはある部分は互いに一致し、ある部分は全く関係なきものなり。たとえば、盗賊を禁制するがごときは二者一致するも、外寇を防禦するがごときは政治律に関係ありて道徳律に関係なきものなり。故に、国法中に道徳に関する部分と関せざる部分と二種あるべし。この二者の別は判明し難しといえども、国法中直接に一個人の行為に関するものはこれを道徳に関する部分とし、しからざるものはこれを道徳に関せざる部分とするなり。今、余はそのうち道徳に関する部分のみを論ぜんとす。まず国法上の罰法は、政府もしくは主権者が罰と称する一種の苦痛を設けてその配下にある人民を制裁し、これをして善行を遂げしめ悪行を避けしむる方法をいう。これに対して人民は、この苦痛を欲せざる限りは道徳の規律を遵奉せざるべからず。つぎに、国法上に定むる賞法は、賞与をもって人を誘引してその善行を奨励する方法なりといえども、これ全く政府の本分にあらず、政府はただ罰則を設けて人を懲戒するのみ。しかるに政府が位階、年金等をもって人の功労を褒賞し人の善行を表顕することあるがごときは、例外のこととなすべし。

       第六七節 社会的賞罰

 第二に、社会的罰法は政府が法律上これを執行するにあらずして、社会の人民が一個人たる資格をもって懲罰する法なり。その法は人民が互いに悪行をなしたるものを擯斥し、その名誉を奪い、その人を遠ざくるがごとき方法にして、すなわち社会朋友間の交際、名誉信用上より生ずる苦痛をいう。これいわゆる社会の制裁なり。つぎに、社会的賞法は社会公衆が一個人の資格をもって善行者を称揚尊崇し、あるいはその恩恵に報酬し、あるいはその功労を表顕する等をいう。かくのごとく社会一般より名誉信用を得るは、人々の快楽とするところなり。故に人はこの社会的賞罰によりて、国法上の禁制を待たず悪を去りて善に移らんと務むるものなり。

       第六八節 肉体上および精神上の賞罰

 以上、道徳上の賞罰に法律的と社会的との二種あることを説きたるも、この二者はその苦痛も快楽もみな身体外より自己の上に及ぼせる影響に過ぎず。これに対して自己の身心上に直接に発する賞罰あり。その賞罰にまた二種あり。すなわちその一は肉体上に発するもの、その二は心性上に生ずるものこれなり。たとえば、人たるもの暴飲過食、放蕩遊惰なるときは、その身体を害し生命をそこなう等の結果を見るは肉体上直接の罰法にして、欲を制し徳を修むるときは、衛生健康に利あるは肉体上直接の賞法なり。かつまた不法不正の行為をなすときは良心の内に責むるありて、心中おのずから不快苦痛を感ずるがごときは心性上直接の罰法にして、不法不正をなさざるものはその心常に安んじて、安楽を感ずるがごときは心性上直接の賞法というべし。この身心上の賞罰を前の外部より与うる賞罰に加うるときは、道徳上の制裁に四種あることを知るべし。すなわち第一は法律の制裁、第二は社会の制裁もしくは世論の制裁、第三は身体自然の制裁、第四は良心の制裁これなり。これにもし宗教の賞罰を加うれば、五種の制裁あるを見るなり。

       第六九節 義務の種類

 以上すでに道徳上の規律ならびに賞罰の種類を略述したれば、これより義務のいかんについて一言せざるべからず。義務とは我人の実行せざるべからざる本分をいう。これに二種あり。その一は自己に対する義務、その二は他人に対する義務これなり。すなわち個人的義務と社会的義務の二者なり。この二者に天神に対する義務を加えて三種となすは宗教上の説なり。もしこれを細別すれば、自己の身心に対する義務、家族に対する義務、社会国家に対する義務あり。自己身心の義務にまた、身体に対する義務と精神すなわち智識、感情、意志の三種に対する義務あり。これに基づきて教育上には体育、智育、美育、徳育の四種を分かつに至る。家族の義務中に、父母に対する義務、兄弟に対する義務、夫婦に対する義務あり。これに基づきて孝悌貞順の徳義起こる。また社会国家に対する義務中に、朋友に対する義務、公衆に対する義務、君主に対する義務、政府に対する義務等あり。しかして家族は一私人の関係より成立するものなれば、その義務を個人的に属して合類するときは、個人的義務社会的義務の二種となるべし。人をしてよくこの義務を実行せしむるものは、前節に挙ぐるところの賞罰の二法なり。その二法を宗教にては天神の力に帰するをもって、これを実行する力いたって強きも、もしこれを社会の制裁、良心の制裁のみに任ずるときは、あるいは人をして義務を尽くさしむる力を減ずる恐れありといえども、人智いよいよ発達して目前一時の利害に制せられず、永遠死後の利害までを通察するに至れば、ただにその方向を誤らざるのみならず、すこしも義務を実行する力を減ぜざるに至るべし。これと同時に宗教的賞罰のその功を奏せざるに至るべし。かつ児童の教育法いよいよ進歩して完全に達すれば、ますます善を求め悪を避くる本心すなわち良心の発達するありて、天神の命令、政府の法律なきも、自然にその人たる義務を全うするに至るべし。

       第七〇節 徳の解釈ならびに種類

 義務に関したる語に徳と称するものあり。徳とは人心中の善を行わんとする一種の習慣にして、義務を全うすべき性質をいう。その義務との異同は、徳は人の性に関し、義務は人の行に関するにあり。すなわち心内の性質と心外の関係との別あり。社会的義務に関する徳に仁愛、正義、信実(すなわち仁、義、信の三徳)の三種あり。これ自己と他人との関係上に成立する徳なり。個人的義務に関する徳に節制、清浄、勇気、智慮の四種あり。これ自己一人の上に成立する徳なり。古代プラトン氏は徳を分かちて四種となせり。すなわち智慮、正義、勇気、節制これなり。中古に至りて仁愛、清浄等を加えて数徳となせり。また宗教にありては別に崇敬の一徳を加えて、天神に対する徳義となせり。しかるに孔孟学派は徳を分かちて智、仁、勇の三徳となせり。その智はいわゆる智慮、その仁はいわゆる仁愛、その勇はいわゆる勇気なり。あるいは仁義礼智といい、あるいは忠信孝悌といいて、シナ学派の徳義を説くこと実につまびらかなり。かくのごとく徳の種類を挙ぐること古今東西異なりといえども、その性質においては同一なりというべし。

       第七一節 政治と道徳との異同

 すでに道徳の規律上義務を略述したれば、ここにその起源を論ずる必要を感ずるなり。すなわち人にその行為を命令する義務の本心ならびに人の遵奉すべき規則は、なにによりて起こるかを論ぜざるを得ず。この問題に関して先天論後天論の二派あり。先天派はこれを人心固有の本性とし、後天論はこれを経験遺伝の結果に帰す。なお第四章第四三節に述ぶるがごとし。かつこの一論のごときは倫理学の問題にあらずして、むしろ純正哲学の問題なれば、ここにこれを略す。しかして本章中に論ずるところのものについてこれをみるに、政治と道徳の関係密接にして、その間に分界を立つべからざるものあるを覚ゆ。故にその関係について一言すべし。そもそも政治と道徳との間に分界を立つるは、もとよりただ大体の上のみ。今その二者の異なる点を挙ぐれば、政治は国によりて異なるも道徳は万国同一なり、政治は世によりて異なるも道徳は古今同一なり、政治は言行上に発したるもののみを論ずるも、道徳は言行のみならずその本心いかんに及ぼすの別あり、政治は人をしてその義務に服従せしむるに強力によりていわゆる強行的手段を用うるも、道徳はしからざるの別あり。しかるに道徳中に、世と国とによりて変ずる部分と変ぜざる部分との二者あり。たとえば、多妻をもって不道徳となす国となさざる国あり、奴隷売買をもって不正不法となすときとなさざるときあるがごとし。しかしてかく変遷する部分は道徳中、風俗、習慣、人情に関するもの多しとす。もし社会の安寧、一身の生存に関する必須の道徳に至りては、大抵古今一定して動かざるもののごとし。たとえ進化論のごとく道徳の変遷を説くも、一身の保全、社会の永続は我人の目的たるものなれば、これに関する部分は変遷なしというべきなり。

 

     第八章 結 論

       第七二節 全論の批評

 前数章講述するところこれを帰結するに、第一章に倫理の解釈を定めてその諸学との関係に論及し、第二章に人間の目的を論じて幸福論非幸福論の二者あることを示し、第三章に善悪の標準を論じて古来九説あることを示し、第四章に道徳の本心を論じて本然論と経験論の二者あることを示し、第五章に意志の作用を論じて自由論と必然論の二者あることを示し、第六章に行為の発達を論じて進化論と非進化論の二者あることを示し、第七章に倫理の規律を論じて先天論と後天論の二者あることを示せり。これによりてこれをみるに、古来倫理上の諸説いまだ一定せざるをもって、後世これを研究する徒をして方向に迷わしむる嘆きなきあたわず。しかるに余が考うるところによるに、その諸説必ずしも一定せざるにあらず。その相争うは、おのおのその説の極端を固執するによる。故にこれみな僻論にして、正論にあらずといわざるべからず。

       第七三節 直覚教主楽教の解釈

 およそ倫理学上の諸説幾種あるを知らざるも、これを概括するに目的論も標準論も本心論も、これに関する異説はみな直覚教と主楽教との二類に分かつことを得べし。直覚教とは、さきにすでに義解を与えしがごとく、我人の道徳に関して有する善悪の判定のごときは経験推究を待たずただちに覚知する作用にして、すなわち心性作用中直覚力に属する作用なりと唱うる論をいう。しかして直覚力とは、目をもって色を知り、耳をもって声を判じ、時間空間等を識覚する作用のごとく、直接即時に覚知する力をいう。天賦論良心論はみなこの直覚教に属す。これに反して、我人の有する道徳の本心も行為もみな快楽幸福を目的とし、経験推究の結果なりと唱うる論を主楽教と名付く。さきにいわゆる経験論も進化論も、要するにみなこれに属す。けだし道徳上の諸論諸説はこの二教の外に出でず。故にこの二教の性質関係を掲げて本書の結論となさんとす。

       第七四節 常識的哲学の解釈

 まず直覚教派の中において人間の目的、善悪の標準を立つるにその説多岐に分かれ、あるいは天神をとり、あるいは天命をとり、あるいは正義、あるいは智識をとる等あるも、幸福をもって真正の目的となさざるに至りては一なり。しかしてその説に常識的と哲理的の二種あり。常識的直覚教とは、普通一般の見解により人には生来良心の存するあれば、その命令に従いて道徳を守らざるべからざるものと信じ、更にその理を推究せざるものをいう。哲理的直覚教とは、道徳の本心性質を論究し、その原理を証明して直覚の道理を示すものをいう。つぎに、主楽教の中に自己一人の快楽を目的とする説と、他人の快楽もしくは社会共同の幸福を目的とする説あり。さきに自愛教、愛他教、兼愛教と称せしものこれなり。また肉体上の快楽を主とするものと、精神上の快楽を主とするものとの別あり。かつこの主楽教にも常識的哲理的の二種あること直覚教に同じ。これを要するに、主楽教はその説多端なるも、快楽幸福を目的とするに至りては一なり。

       第七五節 経験本然二論と直覚主楽二教との関係

 また道徳心の起源を論ずるに種々の異説あるも、要するに経験論と本然論の二者に出でず。この二論たるや純正哲学ならびに心理学上の一問題にして、智識思想の本源を論定するに、この両説の分かるるに至りしなり。しかしてこれを統合したるもの、さきにカント氏あり後にスペンサー氏ありといえども、カント氏はその実本然論者の一派にして、その道徳を論ずるがごとき先天性道理をもととしたるものなれば、もとより本然論者といわざるべからず。これに反してスペンサー氏は、前にも述ぶるごとく経験論者の一人なり。故に両氏の統合調和説も本然経験の二論に出でざるべし。もしこれを直覚主楽の両教の上に考うるときは、本然論は直覚教に属し、経験論は主楽教に属するなり。なんとなれば、直覚教は道徳の原理は人の直覚力より起こり経験の結果にあらざることを説き、主楽教は経験の結果について幸福快楽の一般の通則なることを説けばなり。

       第七六節 直覚主楽二教の一致

 これによりてこれを見るに、今日の倫理説は直覚主楽の二教の外に出でずといわざるべからず。しかしてこの二者は果たして反対に立ちて到底一致すべからざるものなるか否かは、余がこれより論ぜんと欲するところなり。もし人あり、局外に立ちてこれをみるときは、けだしその両説ともに一方の僻論たるを免れざるべし。故に将来果たしてよくこの二説を統合してその中を得るものあらば、必ず完全の倫理説となるべし。かつもし我人が深くその理を推究するときは、たやすくこの二者の一点に会帰するを見るべし。たとえば直覚論についてこれを考うるに、その目的とするところ快楽をすつるにありというがごときも、下等肉体の快楽を義とするに過ぎず。もしその最上究竟の幸福に至りてはもとよりその学派の望むところにして、その徳を修め智をみがくゆえんのものも、進みてこの幸福を得んとする本心に外ならず。果たしてしからば、これすなわち幸福論の一種なりというべし。また主楽教についてこれを考うるに、そのいわゆる快楽に五官の快楽あり精神の快楽あり、一人の快楽あり衆人の快楽あり、下等の快楽あり上等の快楽あり、しかしてその目的となるところのものは、品位の最良にして分量の最大なるものを得んとするにありて、いわゆる最大最良の幸福を最多数の人に与えんとするにありというに至りては、直覚教派の目的とするところとその結果を同じうするや明らかなり。果たしてしからば、世の道徳に志あるもの、その理を論究してこの二教派の目的の同一点に帰するを知らば、その方法を講ずるに、あにまた方向に迷うの恐れあらんや。もし良心の起源を論ずるに至りて、両教その説を異にするがごときは理論上の争いに過ぎずして、実際上の道徳を講ずるにすこしもその必要を感ぜざるなり。

       第七七節 進化非進化二論の一致

 しかるにまた道徳の標準を論ずるに進化論と非進化論の二種ありて、進化論者は道徳は世によりて変遷し古今一定の標準なしといい、非進化論者は道徳の基本は古今一定して変遷することなしという。これまた人をしてその方向に迷わしむる一点なり。けだし進化論者は進化上にて主楽教を論じ、非進化論者は進化を排して直覚教を唱うるものなり。故にこの二者到底一致し難きもののごとしといえども、その実ただ二者のみるところ異なるによりて一致せざるのみ。すなわち進化論者は外部より道徳の発達を見て古今変遷して一定することなしといい、非進化論者は内部よりこれをみて一定して変ぜざるものなりという。たとえば草木の発達のごとし。一人は外部よりこれを見て、一粒の種実が次第に発達して茎幹を生じ枝葉を生じ、常に変遷して一定せずといい、一人は内部よりこれを考え、その発達の際一定不変のものありてその中に存し、草木の草木たるゆえんの原理依然として変化せざるなりという。けだし二者の論、一方は変遷する形象を見て説を起こし、一方は変遷せざる原力を見て説を起こすによる。故にもしその説のおのおの一方の偏見なるを知らば、両説の一致すべき点あるゆえんを知るべし。たとえまた進化論一方をとるも、その説くところ、今日の道徳は不完全なるものにして、その完全に達する日は将来にありという。果たしてしからば、我人は実際上の道徳を講ずるに当たりて、その将来の完全なる道徳をわが理想の上に構成し、その体を目的としてこれに向かいて進むにおいて、あにまたその方向に迷うことを要せんや。

       第七八節 理想的研究法

 かつまた道徳の起源本心を論ずるに異説あるがごときも、ただその見るところの地位異なるによるのみ。けだし学理を研究するに客観的主観的の二法あることは、さきにすでに述ぶるところなり。今、経験論進化論のごときは客観的研究法によりて得たるところの結果にして、本然論直覚論のごときはこれを客観的と称するよりむしろ主観的研究法によるものというべし。しかして真正の研究法は、主客両観を合してその中を得たるものならざるべからず。これ余がいわゆる理想的研究法なり。理想的研究法は主客両法の上に位するも、この二法を離れて別に存するにあらず。もし二者の研究を進めてその蘊奥を窮め同一点に会帰するに至れば、すなわち理想的に入るものといわざるべからず。しかして今日、直覚論者が主観一方より進みて理想的に達したりというがごときは、その言いまだ信ずべからずといえども、将来もし進みてその理を窮むるに至らば、主楽教も直覚教もともに理想的に達する日あるべし。今、良心を経験の結果となすも天賦の本性となすも、進化となすも非進化となすも、みな主観客観の一端をとりて互いに相争うものに過ぎず。もし今後理想的研究法により、その二者のおのおの一方の偏見なるを知るに至らば、必ず二説の合同一致する日あるべし。

       第七九節 道徳の変遷

 およそ世の道徳を研究するものは、古来の学者のその当時の人情、習慣、風俗等の異なるに従い、多少その説を異にせしところあるを知らざるべからず。しかしてその相異なるは、学者の道徳を講ずるはその意、時弊を矯正するにあるによる。なお病の異なるに応じて薬を異にするがごとし。果たしてしからば、学者の説なにほど異なるも、その当時の国風人情を参照するときは、その異なるゆえんの理を解すべし。しかしてその説の本旨に至りては古今東西符節を合するがごとく、その致あに二趣あらんや。故に余が第七一節に述ぶるごとく、道徳を講ずるものは道徳中に時勢に応じて変遷すべき部分と、変遷せざる部分との二者あることを知らざるべからず。古今の学者中、その説の大いに異なるところのものあるはすなわち変遷すべき部分にして、その説中合同するところのものあるは変遷せざる部分と知るべし。かくのごとく想定して道徳を講ずるに至らば、またその方向に迷わざるを得べし。

       第八〇節 道徳の要は実行にあること

 以上の論これを要するに、古来倫理学上の問題に関し種々の異説あるも、その論は必ず一致するときあるべく、またたとえ一致するときなきも、これただ理論上のことのみ。実際上の道徳を講究するに当たりては、ほとんど全く関係を有せざるもののごとし。たとえば、実際上衆人一般に善行と称するものは学理上やはり善行と許すところのものにして、古来いまだ人を殺し物を盗むを見て善行なりといいたる人あらず。故に我人が一家の徳行家となるには、世人一般に善と称するものについてこれをその身に行うをもって足れりとす。余は近年世人が道徳の必要を感じ道徳学を講ずるの急務を知るも、その弊、論理に偏して実行を忘るるに至るやの疑いあり。しかしてその口実とするところを見るに、道徳はその原理いまだ一定せざるをもって、いずれをとりてその身に行ってしかるべきや、初学の惑うところなりという。これ大いなる誤見なり。けだし道徳は実行を主旨とし、理論はこれに付属するものに過ぎず。かつ理論上その説一定せざるも実際上その規則大抵一定せるをもって、これをその身に行うに当たりて、あに惑うことを要せんや。しかりしこうして、余がこの論を講述せしは、理論上研究するところその説氷炭相いれざるもののごとしといえども、その帰極するところ一点にあることを知らしめんとするの意に外ならず。故に余が望むところは、世の道徳に志あるものは実行をさきにし理論を後にし、一家にありて一家の道徳を立てんと欲するものはまずこれをその身に行い、一郷にありて一郷の道徳を興さんと欲するものはまずこれをその家に養い、学校にありて生徒の道徳を振起せんと欲するもの、および教会にありて信徒の道徳を維持せんと欲するものは、まずこれを自己の身心上に修め、人をしてみな道徳の標準はわが身にあり、道徳を学ぶものはわがごとくせよというに至らしめんとするにあり。しかりしこうして、実際の道徳を講ずるに当たりて我人の更に注意すべきは、国家社会の人情、風俗、政治、国体のいかんにあり。これにおいて、国異なればおのずからその国特有の道徳を講ぜざるを得ざるに至る。これ倫理学に理論的と実際的とを分かたざるべからざるゆえんなり。