1.妖怪学講義 

緒言 総論

P11


妖怪学講義緒言 総論


1.サイズ(タテ×ヨコ)     


 222×148㎜


2.ページ


 総数:361


 再版につきて一言を題す・合本


 総目録・緒言・緒言に題す・参


 考書目拾遺:49


 目録:10


 本文:302


3.刊行年月日


 初版:明治26年11月5日


    ~明治27年10月20日


 再版:明治29年6月14日


 底本:三版 明治30年8月5日


4.句読点


 あり


5.その他


 (1)初版は『哲学館講義録』の「第7学年度妖怪学」として発行された。その第1号・第2号(第1冊)が明治26年11月5日発行され,毎月2回2号ずつ2冊発行されて,明治27年10月20日,第47号・第48号(第24冊)をもって完結した。その各冊に「総論」をはじめとして「理学」「医学」「純正哲学」「心理学」「宗教学」「教育学」「雑」の各部門が各数ページ分ずつ分けて掲載された。

 (2)再版は講義録完結後,各冊の各部を合綴し,それに「緒言」(明治26年8月24日『妖怪学講義緒言』として発行された45ページの小冊子)と「参考書目拾遺」,「正誤」表および付録あるいは付講を加えて,全8巻全6冊の合本とし,『妖怪学講義』と題して哲学館より刊行されたものである。

 (3)第三版は本文に異同はなく,「再版につきて一言を題す」中にある「緒言に題す」を表題として掲載したものである。

6.発行所

 哲学館



P15


妖怪学講義


再版につきて一言を題す


 余は、数年来研究せる四百余種の妖怪を八大部門に分かち、一昨年一年間を期して講述し、一時その筆記を印刷して有志諸氏に配布したりしが、その後、四方より続々購読を望まるるものありとて、書肆より切に再版を請求しきたれるをもって、ここに旧稿のまま再び印刷に付することとなす。再版は購読者の便をはかり、各部門につきてこれを合綴し、目録および付録を増加し、八大部門を合して六大冊となす。しかして、その印刷は余が哲学館拡張の件につき信州各郡巡回中に着手し、校合も多く他人に一任し、自ら修正を加うることあたわざりしは、余が遺憾とするところにして、かつ、そのことは読者に謝せざるを得ざるところなり。左に初版『妖怪学講義緒言』に題せし序文を掲ぐ。

  この緒言中に述ぶるがごとく、余、独力をもって日業の余暇、妖怪研究に従事することここに十年、その間、自ら四百余種の書類をさぐり、人より四百余項の通知をかたじけのうし、これに加うるに、全国六十余州を漫遊して実地に見聞したるもの、またすこぶる多し。ゆえにその材料、決して乏しというべからず。しかるに、そのうち事実として取るべきものわずかに十分の一に過ぎざれば、これによりて好結果を得ることはなはだ難しとす。ことに、これらの事実を抽象概括して一学科を組織するがごときは難中の難事にして、余輩不肖、遠く及ぶところにあらず。ただその端緒を今日に開かんと欲して、拙劣を顧みず、『妖怪学講義』を世に公にするに至る。こいねがわくば、四方の博覧達識の士、余が微志を助けて好材料を寄送し、もしくは参考書を指示せられんことを。郵書は東京市本郷区蓬莱町二十八番地、哲学館へ向け投函あらんことを請う。まず一言を題して、懇請することかくのごとし。

また、左に初版『妖怪学講義』第一冊に題せしものを掲ぐ。

  余の「妖怪学講義録」を発行せんとするや、世人あるいは、好奇のあまりに出でて無用の閑言語を弄すとなすものあり。それ奇を好み閑言語を弄するがごときは、余の不肖といえども、またあえてなさざるところなり。そもそも余のここに及ぶゆえんのもの、実にやむをえざるものありて存すればなり。余、常におもえらく、わが国明治の鴻業、一半すでに成りて一半いまだ成らず、政治上の革新すでに去りて、道徳上の革新いまだきたらずと。方今、天下法律いよいよ密にして道徳日に衰え、郷曲無頼の徒、名を壮士にかり、もって良民を虐するものあり。不学無術ほしいままに時事を議し、詭譎陰険至らざるなく、居然政事家をもって任ずるものあり。黄口少年、乳臭いまだ乾かず、わずかに数巻の西籍を読み、生呑活剝、儼然学者をもっておるものあり、利をむさぼりてあくなきものあり。節義の風、廉恥の俗、蕩然地をはらう。これ、あに一大革新なくして可ならんや。しかして、これを革新するの道、教育、宗教をおいて、はたいずれにか求めん。これ、余が生を宗教界にうけながら身を教育界に投じ、日夜孜々として国恩の万一に報ぜんとするゆえんなり。しかるに世人の教育、宗教をまつゆえんのもの、余うらみなきあたわず。けだし心中の迷雲、知日の光を隠すによらずんばあらず。余、近年日本全国を周遊して、ますますこのことに感ずるあり。おもうに、世に妖怪多しといえども、要するに一片の迷心にほかならず。その迷心を去れば、道徳革新の功、またおのずから期すべし。これ、余がさきに哲学館を設け、もって教育家、宗教家を養成し、今また『妖怪学講義』を発行し、有志諸君とともに講究せんと欲するゆえんなり。その種目は、もとより本館教授するところの学科による。もし館外員諸君にして、「講義録」に載するところのほか、さらに疑義の解し難きあらば、よろしく本館内に開設せる妖怪研究会に向かいて質問すべし。その説明は、あるいは「講義録」の余白に載せ、あるいは直接に回答せんとす。もし、なお不明に属するものは、先年大学内に開設したる不思議研究会員につき、各専門家の意見を付して回答することあるべし。


明治二十九年五月             講 述 者 誌




 緒 言


                                             哲学館主  井 上 円 了 述


 美妙なる天地の高堂に座して、霊妙なる心性の明灯を点ずるものはなんぞや。だれも問わずして、その人間の一生なるを知る。果たしてしからば、その一生中、森然たる万有を照見するものは実に心灯の光なり。しかして、その光を養うものは諸学の油なり。ゆえに、諸学ようやく進みて心灯ようやく照らし、心灯いよいよ明らかにして天地いよいよ美なり。吾人すでに心灯を有す、あに諸学の講究を怠るべけんや。これ余が先年、妖怪学研究に着手したるゆえんなり。方今、大政一新、文運日に興り、明治の治蹟また、まさに大成を告げんとす。皇化のうるおすところ遠く草莽に及び、余のごとき微臣、なお茅屋の下に安臥して閑歳月に伴うを得。ああ、窓間一線の日光もまた、君恩の余滴にあらざるなし。余輩、あに碌々として徒食するに忍びんや。ここにおいて、積年研究せる妖怪学の結果を編述して、世人に報告するに至る。けだしその意、同胞とともに一点の心灯をかかげきたりて、天地の活書を読まんとし、かつ自ら満腔の衷情をくみきたりて、国家の隆運を助けんとするにほかならず。今やわが国、海に輪船あり、陸に鉄路あり。電信、電灯、全国に普及し、これを数十年の往時に比するに、全く別世界を開くを覚ゆ。国民のこれによりて得るところの便益、実に夥多なりというべし。ただうらむらくは、諸学の応用いまだ尽くさざるところありて、愚民なお依然として迷裏に彷徨し、苦中に呻吟する者多きを。これ余がかつて、今日の文明は有形上器械的の進歩にして、無形上精神的の発達にあらずというゆえんなり。もし、この愚民の心地に諸学の鉄路を架し、知識の電灯を点ずるに至らば、はじめて明治の偉業全く成功すというべし。しかして、この目的を達するは、実に諸学の応用、 なかんずく妖怪学の講究なり。国民もし、果たしてこれによりて心内に光明の新天地を開くに至らば、その功すこしも外界における鉄路、電信の架設に譲らずというも、あに過言ならんや。妖怪学の研究ならびにその説明の必要なること、すでにかくのごとし。世間必ず、余が積年の苦心の決して徒労にあらざりしを知るべし。

 妖怪学とはなんぞや。その解釈を与うるは、すなわち妖怪学の一部分なり。今、一言にしてこれを解すれば、妖怪の原理を論究してその現象を説明する学なり。しからば妖怪とはなんぞや。その意義、茫然として一定し難し。あるいは曰く、「幽霊すなわち妖怪なり」と。あるいは曰く、「天狗すなわち妖怪なり」と。あるいは曰く、「狐狸の人を誑惑する、これ妖怪なり」と。あるいは曰く、「鬼神の人に憑付する、これ妖怪なり」と。あるいは陰火、あるいは竜灯、あるいは奇草、あるいは異木、これ妖怪なりというも、かくのごときは、みな妖怪の現象にして、妖怪そのものの解釈にあらず。しかして、妖怪そのものの解釈に至りては、けだし、だれも確然たる定説を有せざるべし。あるいはこれを解して不思議といい、あるいはこれを釈して異常もしくは変態というも、これみな、妖怪はすなわち妖怪なりというに異ならず。もしこれをもって妖怪の定義とするときは、なにをか不思議といい、なにをか異常というやを解説せざるべからず。しからざれば、思議のなにものにして、常態のいかなる事柄なるやを考定せざるべからず。しかりしこうして、通俗一般に了解するところによるに、妖怪とは普通の知識にて知るべからず、尋常の道理にて究むべからざるものをいうなり。しからばさらに問いを起こして、普通の知識、尋常の道理とはなんぞや。たとえ知識、道理に高下の別ありとするも、いかなる標準を立ててこの分界を定むべきや。かくのごとく推問するときは、その結局、知るべからず解すべからずといいてやむよりほかなし。けだし人知の関するところは、なにごとも四面めぐらすに、不可知的の境壁をもってすることを記せざるべからず。しからば、妖怪は全く不可知的なるか。もし、これを不可知的と断定すれば、これを研究するの愚なることを知らざるべからず。しからば、妖怪はよく知り得べきか。もし、これを可知的とすれば、さらに種々の疑問ありて起こる。これを要するに、妖怪そのもののなんたるを究めてこれに説明を与うるは、すなわち妖怪学の目的とするところなり。しかしてその定義に至りては、妖怪学本論を講ずるときに詳述すべし。

 世人多くは、自己の心鏡に照らして知るべからざるものを妖怪という。ゆえに、甲の妖怪とするものは乙これを妖怪にあらずとし、乙の妖怪とするものは丙これを妖怪にあらずとす。愚民は、なにを見てもその理を知るべからず。ゆえに、事々物々みな妖怪となる。学者は、よく愚民の知るべからざるものを知る。ゆえに、その妖怪を指して妖怪にあらずという。しかれども、もし学者にして妖怪全くなしといわば、これ学者の妄見なり。例えば愚民の妖怪ありとするは、あたかも船に乗りて自ら動くを知らず、対岸のはしるを認めて真に動くと信ずるがごとし。ゆえに、学者は大いにその愚を笑う。しかして学者の妖怪なしとするは、あたかも地球に住息して太陽の上下するを見、これ地球の動くにあらずして太陽の動くなりと信ずるがごとし。もし赫々たる哲眼を開ききたりてこれを徹照しきたらば、またその愚を笑わざるを得ず。なんとなれば、学者の妖怪にあらずとするもの、また一種の妖怪なればなり。仰いで天文を望めば、日月星辰、秩然として羅列するもの、一つとして妖怪ならざるはなし。俯して地理を察するに、山川草木、鬱然として森立するもの、またことごとく妖怪なり。風の蕭々として葉上に吟ずるも、水の混々として石間に走るも、人の相遇って喜び、相離れて悲しむも、怪中の怪、妖中の妖ならざるなし。それ、一杯の水は一滴の露より成り、一滴の露は数個の分子より成り、分子は小分子より成り、小分子は微分子より成り、微分子はすなわち化学的元素なり。もし、そのいわゆる元素はなにより成るを問わば、けだし、だれもこれに答うるものなかるべし。これ、すなわち一小怪物なり。人身の大なる、これを国土に比すれば、滄海の一粟にも及ばず。国土の大なる、これを地球全体に比すれば、また九牛の一毛にも及ばず。地球の大なる、これを太陽系に較すれば、その微小なる、譬喩の及ぶところにあらず。太陽系の大なる、これを無涯の空間に較するに、また比例の限りにあらず。しかして、空間そのもののなんたるに至りては、実に人知の及ばざるところにして、これまた一大怪物なり。果たしてしからば、これを小にしてもこれを大にしても、妖怪その両岸を築きて、人をしてその外に出ずることあたわざらしむ。これ実に真正の妖怪なり。しかして、その間に架したる一条の橋梁は、すなわち人の知識なり。学者この橋上に立ちて、愚俗下流の輩の頑石の間にわだかまり、迷いてその道を知らざるを見て、世に妖怪なしと断言するは、その識見の小なるを笑わざるを得ず。しかりしこうして、愚俗の妖怪は真怪にあらずして仮怪なり。仮怪を払い去りて真怪を開ききたるは、実に妖怪学の目的とするところなり。

 およそ妖怪の種類は、これを細別するにいくたあるを知らずといえども、これを概括すれば、物怪、心怪の二大門に類別するを得べし。物怪はこれを物理的妖怪と称し、心怪はこれを心理的妖怪と称す。しかしてまた、この二者相互の関係より生ずる一種の妖怪あり。例えば、鬼火、不知火のごときは単純なる物理的妖怪にして、奇夢、霊夢のごときは単純なる心理的妖怪なり。しかして、コックリ、催眠術、魔法、幻術のごときに至りては、物心相関の妖怪というべし。

 世人、妖怪の種類を挙ぐるときは、耳目に触るるところの感覚上の妖怪に限るも、余のいわゆる妖怪は感覚以外に及ぼし、卜筮、人相、九星、方位のごとき観理開運に関する諸術、ならびに鬼神、霊魂、天堂、地獄のごとき死後冥界に関する諸説、またみな妖怪の一種に属するなり。およそ世間に人の最も恐れ、かつ最もその心を苦しむるものは、生死の境遇よりはなはだしきはなし。もし、生死の迷門を開きて死後の冥路を照らすものあらば、その人間に与うる福利、これより大なるはなし。しかして、余のいわゆる妖怪学は、実にこの門を開く管鑰にして、またこの道を照らす灯台なり。かつまた、人だれか一身の幸福、一家の安全を祈らざるものあらんや。しかして禍難ときに一身を襲い、災害また一家を侵す。これを予防せんと欲するも、自ら前知するあたわず。ここにおいて、百方力を尽くして、吉凶を予定する風雨鍼を発見せんとし、ついにト筮、人相のごとき諸術の世に行わるるに至る。もしそれ、その風雨鍼のたのむに足らざるを知りて、これに代うるに、禍難に際会するもさらにその害を感ぜざる一種の避雷柱を適用するに至らば、その世を利するや、生死の迷門を開示するとなんぞ異ならん。しかして、これまた妖怪学応用の結果なり。ゆえにその学の講究、あに忽諸に付すべけんや。

 妖怪学は哲学の道理を経とし緯として、四方上下に向かいてその応用の通路を開達したるものなり。もし哲学の火気を各自の心灯に点じきたらば、従来の千種万類の妖怪、一時に霧消雲散し去りて、さらに一大妖怪の霊然としてその幽光を発揚するを見る。これ、余がいわゆる真正の妖怪なり。この妖怪ひとたびその光を放たば、心灯の明らかなるも、これとその力を争うあたわずして、たちまちその光を失うに至るべし。あたかも旭日ひとたび昇りて、衆星その光を失うがごとし。仮にこの大怪を名付けて、これを理怪という。余の妖怪研究の目的の、仮怪を払い去りて真怪を開き示すと唱うるゆえん、ここに至りて知るべし。

 理怪とはなにをいうや。無始の始より無終の終に至るまで、無限の限、無涯の涯の間に、飄然として浮かび塊然として懸かり、自生自存、独立独行、霊々活々の真体をいう。だれもその名を知らずして、その体あるを知る。その体あるを知るも、これに名付くるゆえんを知らず。けだしその体たるや、知るべきがごとくにして、しかして知るべからず、知るべからざるがごとくにして、しかして知るべし。これ実に大怪物なり。これを称して神妙、霊妙、微妙、高妙、玄妙というも、その体より発散せる光気の一部分を形容したるに過ぎず。あるいはこれを字して、老子は無名といい、孔子は天といい、あるいは易に太極といい、釈迦は真如といい法性といい仏といい、ヤソは天帝といい、わが国に神というも、みなその体の一面に与うる仮名に過ぎず。余はこれを理想と称するも、また一部分の形容のみ。だれか、よく有限性の名をもって無限性の体をあらわし得るや。むしろ、これを大怪物として名付けざるをよしとす。しからざれば、有限性の名称を階梯として、その裏面に包有せる無限性を感知領得することをつとむべし。

 吾人、仰いで観、俯して察するときは、自然に一種高遠玄妙の感想を喚起す。これすなわち、理想の大怪物の光景に感接したるときなり。これより、ようやくその心に精究すれば、ようやくその真相を開顕し、ついに心天渺茫たるところ、ただ理想一輪の明月を仰ぎ、一大世界ことごとく霊然たる神光の中に森立するを見るべし。このときはじめて、この世界の理想世界なることを了知するなり。すでにひとたび理想世界なるを知りて再び万有を観見すれば、囀々たる鳥声も姸々たる花容も、みな理想の真景実相なるを領得すべし。これ、いわゆる哲学的悟道なり。ここにおいて、理想に本体と現象との別あるを知るべし。物心万有は現象なり。現象の本体におけるは、影の形に伴うがごとく須臾も相離れず、しかして二者その体一つなり。ゆえに、万有を推究してその神髄に体達しきたれば、ただちに理想の真光に接触すべく、また、理想の本体を悟了して目前の世界を照観しきたれば、事々物々の葉上に霊妙の露気を浮かぶるを感見すべし。三春の花香鳥語における、中秋の清風明月における、夏木の葱々たる、冬雪の皚々たる、一つとして美かつ妙ならざるなし。これすなわち、理想の真相の自然に外界に鍾発したるものにあらずしてなんぞや。けだし、理想の本体は宇宙六合を統轄する無限絶対の帝王にして、この世界に下すに物心二大臣をもってし、吾人をしてその二大臣の従属たらしむ。しかして、吾人の体の物心の二根より成るを知り、ひとたび心灯をかかげきたりて天地を照見するときは、たちまちそのいわゆる二大臣は、全く理想帝王の現象にほかならざるを知るべし。ああ、吾人この美妙なる世界に生まれながら、終身その真相を観見せずして死するもの多し。誠に哀れむべし。もしその人、一団の心灯を暗室に点じきたらば、一大天地たちどころに美妙の光景を現じ、破窓敝屋もたちまち変じて金殿玉楼となり、衆苦多患の世界も仙境楽園となり、そのはじめ妖中の妖たる理想の大怪物、ここに至りて神妙、霊妙、高妙、玄妙、精妙、美妙を現呈し、徹頭徹尾、妙中の妙となるべし。この理を人に示すは実に妖怪研究の目的にして、さきに仮怪を払って真怪を開くとはこれ、これをいうなり。

 かくのごとく仮怪を払い去れば、人をして超然として迷苦の関門外に独立せしむることを得、また、かくのごとく真怪を開ききたらば、人をして泰然として歓楽の別世界に安住せしむることを得べし。ゆえに妖怪研究の結果は、心内の暗天地に真知真楽の光明を与うるにあり。これ余がその功、鉄路、電信の架設に譲らずというゆえんなり。

 世人、一方には妖怪を信じて事実明確、疑うべからざるものとし、一方にはこれを排して無根の妄説なりとす。しかして、これを信ずるものは、単にこれを真とするのみにて、さらにその真なるゆえんを証明せず。いわゆる独断なり。また、これを排するものは、単にこれを虚なりとするのみにて、さらにそのしかるゆえんを説示せず。これまた独断なり。しからざれば懐疑の弊を免れず。これみな説明の、そのよろしきを得ざるものにして、到底一致することなかるべし。けだし、この二種の論者の間に、一条の溝渠ありて相隔つるによる。例えば、甲論者は現に妖怪を実視せりといい、乙論者はこれ神経作用なりという。しかして甲は、なにゆえに実視したるものは必ず真理なるやを証明せず、また乙は、神経作用そのもののなんたるを説明せず。ゆえをもって、世の文運の進むにかかわらず、旧来の妖怪依然としてその形を改めず、かえってその勢力を張らんとす。ここにおいて、余は哲学の利器を提げきたりて、一刀両断の断案をその上に下さんとす。

 余の妖怪説明は哲学の道理によるというも、妖怪中物怪のごときは、その説明は理学をまたざるべからず。また、人身上に発する妖怪のごときは、医学の解釈によらざるべからず。ゆえに余は哲学を礎とし、理学、医学を柱とし壁とし、もって妖怪学の一家を構成せんとす。

 妖怪の種類は、さきに大別するところによれば、物怪、心怪、理怪の三種に分かち、物怪、心怪を仮怪とし、ひとり理怪を真怪とするなり。今、「妖怪学講義」もこの分類に従って順序を立つべきはずなるも、余はこれを諸学科の上に考えて説明を与えんとし、かつ、『哲学館講義録』の上において講述せんとする意なれば、さらに左のごとき部門を設くるに至る。


 妖怪学講義

  第一類 総論

  第二類 理学部門

  第三類 医学部門

  第四類 純正哲学部門

  第五類 心理学部門

  第六類 宗教学部門

    第七類 教育学部門

  第八類 雑部門


これ実に講義の順序なり。もし、その各部門の種類を挙ぐれば左のごとし。

  総論     定義、種類、原因、説明等

  理学部門   天変、地異、奇草、異木、妖鳥、怪獣、異人、鬼火、竜灯、蜃気楼、竜宮の類

  医学部門   人体異状、癲癇、ヒステリー、諸狂、仙術、妙薬、食い合わせ、マジナイ療法の類

  純正哲学部門 前兆、予言、暗合、陰陽、五行、天気予知法、易筮、御鬮、淘宮、天元、九星、幹枝術、人相、家相、方位、墨色、鬼門、厄年、有卦無卦、縁起の類

  心理学部門  幻覚、妄想、夢、奇夢、狐憑き、犬神、天狗、動物電気、コックリ、催眠術、察心術、降神術、巫覡の類

  宗教学部門  幽霊、生霊、死霊、人魂、鬼神、悪魔、前生、死後、六道、再生、天堂、地獄、祟、厄払い、祈禱、守り札、呪咀、修法、霊験、応報、託宣、感通の類

  教育学部門  遺伝、胎教、白痴、神童、記憶術の類

  雑部門    妖怪宅地、怪事、怪物、火渡り、魔法、幻術の類

 これ大体の分類に過ぎず。そのうち二種もしくは三種の部門に関係を有するものあるも、余は講義の便宜に従って、随意に一方の部門にこれを掲ぐ。例えば幽霊のごときは、心理学に関係を有するもこれを「宗教学部門」に掲げ、巫覡のごときは、宗教学に関係を有するもこれを「心理学部門」に掲ぐ。また、ト筮、予知法のごときは、間接に種々の部門に関係を有するも、直接に関係する部門なきをもって、純正哲学の一門を設けてその中に属す。別に妖怪宅地、怪事、怪物のごときは、種々の部門混合せるをもって、雑部門を設けてこれに摂す。これ、ただ便宜に従うのみ。かつ、この分類のごときも、学科上より見るときは不規律、不整頓の感なきにあらざるも、年来収集せる事実にもとづきて種目を定めたるをもって、かくのごとく部門を設けざるを得ざるに至れり。もし、さらに詳細の種目を列挙すれば左のごとし。

      第一類  総論

  第一編 定義  第二編 学科  第三編 関係  第四編 種類  第五編 歴史  第六編 原因  第七編 説明

      第二類  理学部門

  第一種(天変編)天変、日月、蝕、異星、流星、日暈、虹蜺、風雨、霜雪、雷電、天鼓、天火、蜃気楼、竜巻

  第二種(地妖編)地妖、地震、地陥、山崩れ、自倒、地雷、自鳴、潮汐、津波、須弥山、竜宮、仙境

  第三種(草木編)奇草、異穀、異木

  第四種(鳥獣編)妖鳥、怪獣、魚虫、火鳥、雷獣、老狐、九尾狐、白狐、古狸、腹鼓、妖獺、猫又、天狗

  第五種(異人編)異人、山男、山女、山姥、雪女、仙人、天人

  第六種(怪火編)怪火、鬼火、竜火、狐火、蓑虫、火車、火柱、竜灯、聖灯、天灯

  第七種(異物編)異物、化石、雷斧、天降異物、月桂、舎利

  第八種(変事編)変化、カマイタチ、河童、釜鳴り、七不思議

      第三類  医学部門

  第一種(人体編)人体の奇形変態、死体の衄血、死体強直、木乃伊

  第二種(疾病編)疫、痘、瘧、卒中、失神、癲癇、諸狂(躁性狂、鬱性狂、妄想狂、時発狂、ヒステリー狂等)、髪切り病、恙虫

  第三種(療法編)仙術、不死薬、錬金術、御水、諸毒、妙薬、秘方、食い合わせ、マジナイ療法、信仰療法

      第四類  純正哲学部門

  第一種(偶合編)前兆、前知、予言、察知、暗合、偶中

  第二種(陰陽編)河図、洛書、陰陽、八卦、五行、生剋、十干、十二支、二十八宿

  第三種(占考編)天気予知法、運気考、占星術、祥瑞、鴉鳴き、犬鳴き

  第四種(ト箪編)易筮、亀卜、銭卜、歌ト、太占、口占、辻占、兆占、夢占、御鬮、神籤

  第五種(鑑術編)九星、天元、淘宮、幹枝術、方位、本命的殺、八門遁甲

  第六種(相法編)人相、骨相、手相、音相、墨色、相字法、家相、地相、風水

  第七種(暦日編)歳徳、金神、八将神、鬼門、月建、土公、天一天上、七曜、九曜、六曜、十二運

  第八種(吉凶編)厄年、厄日、吉日、凶日、願成就日、不成就日、有卦無卦、知死期、縁起、御弊かつぎ

      第五類  心理学部門

  第一種(心象編)幻覚、妄想、迷見、謬論、精神作用

  第二種(夢想編)夢、奇夢、夢告、夢合、眠行、魘

  第三種(懸付編)狐憑き、人狐、式神、狐遣い、飯綱、オサキ、犬神、狸憑き、蛇持ち、人憑き、神憑り、魔憑き、天狗憑き

  第四種(心術編)動物電気、コックリ、棒寄せ、自眠術、催眠術、察心術、降神術、巫親、神女

      第六類  宗教学部門

  第一種(幽霊編)幽霊、生霊、死霊、人魂、魂魄、遊魂

  第二種(鬼神編)鬼神、魑魅、魍魎、妖神、悪魔、七福神、貧乏神

  第三種(冥界編)前生、死後、六道、再生、天堂、地獄

  第四種(触穢編)祟、障り、悩み、忌諱、触穢、厄落とし、厄払い、駆儺、祓除

  第五種(呪願編)祭祀、鎮魂、淫祀、祈禱、御守、御札、加持、ノリキ、禁厭、呪言、呪咀、修法

  第六種(霊験編)霊験、感応、冥罰、業感、応報、託宣、神告、神通、感通、天啓

      第七類  教育学部門

  第一種(知徳編)遺伝、白痴、神童、偉人、盲啞、盗心、自殺、悪徒

  第二種(教養編)胎教、育児法、暗記法、記憶術

      第八類  雑部門

  第一種(怪事編)妖怪宅地、枕返し、怪事

  第二種(怪物編)化け物、舟幽霊、通り悪魔、轆轤首

  第三種(妖術編)火渡り、不動金縛り、魔法、幻術、糸引き

 以上数種の妖怪は、学科の部門に応じて八類に分かちたるものなれば、これを『哲学館講義録』に掲げ、第七学年度講義録をもって「妖怪学講義録」となさんとす。それ本館発行の講義録は毎年十一月上旬初号を発行し、翌年十月下旬に至りて完結するを例とす。よって、本年十一月上旬より発行する講義録に「妖怪学講義」を掲げ、これを他学年の講義録に区別せんために、第七学年度講義録と名付くるなり。しかして、その講義は理学、哲学諸科の原理に照らして説明を付するものなれば、これを通読するものにひとり妖怪の道理を知らしむるのみならず、あわせて各学科の大要を講究するの便を得せしめ、決して『哲学館講義録』の名義にたがわざらんことを期す。

 そもそも余が妖怪学研究に着手したるは、今をさること十年前、すなわち明治十七年夏期に始まる。その後、この研究の講学上必要なる理由をのべて、東京大学中にその講究所を設置せられんことを建議したることあり。これと同時に、同志を誘導して大学内に不思議研究会を開設したることあり。当時、余の意見に賛同して入会せられたるものは左の諸氏なり。

  三宅雄二郎  田中館愛橘  箕作 元八  吉武栄之進  坪井 次郎  坪井正五郎  沢井  廉  福家梅太郎  棚橋 一郎  佐藤勇太郎  坪内 雄蔵

 しかして、その第一会は、明治十九年一月二十四日、大学講義室においてこれを開きたり。その後、会員ようやく増加せしも、余久しく病床にありて、その事務を斡旋することあたわざるに至り、ついに休会することとなれり。

 また、当時全国の有志にその旨趣を広告して、事実の通信を依頼したることあり。その今日までに得たる通知の数は、四百六十二件の多きに及べり。

 またその間、実地について研究したるもの、コックリの件、催眠術の件、魔法の件、白狐の件等、大小およそ数十件あり。その他、明治二十三年以来、全国を周遊して直接に見聞したるもの、またすくなからず。かつ数年間、古今の書類について妖怪に関する事項を捜索したるもの、五百部の多きに及べり。今その書目を挙ぐること左のごとし。



 妖怪学研究参考ならびに引用書目

 この書目は、余が手帖中に記載せるままここに掲ぐ。序次錯雑なるも、請う、これをゆるせよ。〔原本はいろは順の旧仮名遣いで配列されているが、五十音順に直した。〕

あの部 

  壒囊紗 東鏡〔吾妻鏡〕 愛宕宮笥 熱海誌 「アネロイド」晴雨計詳説及用法 阿弥陀経 安斎随筆 安政雑書万暦大成

いの部

  云波草 伊香保温泉遊覧記 厳島宮路の枝折 医道便易 稲荷神社考 稲生物怪録 淫祀論 印判秘決集 陰陽五行奇書

うの部

  宇治拾遺〔物語〕 雨窓閑話 空穂物語〔宇津保物語〕 雲萍雑志

えの部

  永代大雑書三世相 永代重宝〔記〕 易学啓蒙 易学通解 易経 閲古随筆 江戸名所図会 淮南子 淵鑑類函 延喜式

おの部

 王充論衡 往生要集 王代一覧 欧米人相学図解 大磯名勝誌 大雑書 大雑書三世相鋸屑★(譚の正字) 小田原記 織唐衣 温知叢書

かの部 

 怪談御伽桜 怪談御伽童 怪談実録 怪談諸国物語 怪談全書 怪談登志男 怪談録 貝原養生訓 怪物輿論 河海抄 学芸志林 格致叢書 花月草紙 花史左編 家相図説大全 家相秘伝集 家相秘録 合璧事類 河図洛書示蒙鈔 仮名世説 漢事始 神明憑談 元三大師百籤 元三大師御鬮判断 閑散余録 漢書 観相奇術 広東通志 韓非子

きの部

  奇術秘法 鬼神新論 鬼神論 奇説集艸 奇説著聞集 木曾路名所図会 吉凶開示 亀ト秘伝 救急摘方救荒事宜 嬉遊笑覧 九星方位早操便覧 牛馬問 窮理隠語 強識略 今古未発日時九星弁 近思録 近世奇跡考 近代世事談 禁中日中行事 錦囊智術全書 禁秘抄

くの部

  旧事記 奇魂 倶舎論 蜘蛛の糸巻 群書類従 群芳暦 訓蒙浅語 訓蒙天地弁

けの部

  秇苑日渉 芸文類聚 桂林漫録 家語 蘐園十筆 言海 元元集 元亨釈書 元史 源氏物語 儼塾集 玄同放言 原人論 元明史略

この部

  孝経 考証千典 皇朝事苑 黄帝陰符経 黄帝宅経 弘法大師一代記 古易察病伝 古易八卦考 吾園随筆 後漢書 五行大義 国語 国史略 国朝佳節録 極楽物語 古語拾遺 古今考 古今事類全書 古今神学類聚抄 五魂説 古今著聞集 古今八卦拾穂抄 古今妖魅考 古今類書纂要 五雑俎 古事記 古始太元図説 古事談 五趣生死輪弁義 滑稽雑談 諺草 護法新論 艮斎文略 今昔物語 昆陽漫録

さの部

  西国事物紀原 再生記聞 瑣語 三界一心記〔三賢一致書〕 三元八卦九星方位占独判断 三国仏教略史 三国仏法伝通縁起 三才図会 三災録 三代実録 山堂肆考 算法闕疑抄 三余清事

しの部

  塩尻 塩原繁昌記 史記 詩経 事言要玄集 地獄実有説 自娯集 事纂 子史精華事類統編 資治通鑑 地震考 七十五法名目 視聴雑録 十訓抄 実験須弥界説 支那教学史略 島田幸安幽界物語 沙石集 拾芥抄 周書 十八史略 宗門略列祖伝 周遊奇談 宿曜経 朱子語類 修善寺温泉名所記 出定後語 出定笑語 主夜神修法 周礼 筍子 春秋左伝 遵生八牋 春波楼筆記 商家秘録 消閑雑記 蕉窓漫筆 掌中和漢年代記集成 成唯識論 初学便蒙集 諸活幹枝大礎学 書経 続日本紀 続日本後紀 書言故事大全 諸国怪談空穂猿 諸国奇談西遊記 諸国奇談東遊記 諸国奇談漫遊記 諸国奇遊談 諸国古寺談 諸国新百物語 諸国里人談 諸子彙函 庶物類纂 神易選 人家必用〔小成〕 人国記 新古事談 神社啓蒙 神社考 神籖五十占 神相全編〔正義〕 新続古事談 神代口訣 新著聞集 神童憑談 神皇正統記 神変仙術錦囊〔秘巻〕 神幽弁論

すの部

 水経 隋書 水土解弁 墨色指南 墨色小筌 墨色伝 駿台雑話

せの部

  聖学自在 星経 聱語 正字通 精神啓微 西籍慨論 清明通変占秘伝 清明秘伝速占 性理字義 性理大全 世事百談 世説 摂西奇遊談 説郛 善庵随筆 山海経 戦国策 洗心洞剳記 仙台案内 先哲叢談 先哲像伝

その部

  葬経 宋元通鑑 宋高僧伝 荘子 相州大山記 宋書 相庭高下伝 宋稗類抄 草木子 続高僧伝 続古事談 続文献通考 祖志 息軒遺稿 素問 徂徠集

たの部

  大学 太極図説 〔大乗〕起信論 大聖日蓮深秘伝 大道本義 大日本史 大日本人名辞書 太平記 太平御覧 太平広記 高島易占 高島易断 太上感応篇 霊能真柱 ★(譚の正字)海 耽奇漫録

ちの部

  竹窓随筆 中古叢書 中庸 長寿食事戒 朝鮮征伐記 珍奇物語

つの部

  通変亀鑑

ての部

  庭訓往来 輟耕録 天元二十八宿指南 伝習録 天朝無窮暦 天地麗気記 天地或問珍〔秉燭或問珍〕 天変地異 天変地妖決疑弁蒙〔決疑弁蒙〕 天保大雑書 伝法智恵の海

との部

  東海道名所図会 淘宮学軌範 淘宮学秘書 唐詩選 唐宋八大家 動物電気論 東方朔秘伝置文 東洋心理初歩 兎園小説 読書録

なの部

  夏山閑話 南留別志 南翁軒相法 南斎志 南史 南朝紀伝 南畝叢書

にの部

  二十八宿一覧表 日用晴雨管窺 日用早覧 二程全書 日本往生全伝 日本居家秘用 日本歳時記 〔日本〕社会事彙 日本書紀 日本仏法史 日本風土記 二礼童覧 人相指南 人相千百年眼 人相早学

ねの部

  年山紀聞 年中吉事鑑 年中行事大成 年中八卦手引草 年暦調法記

のの部

  農家調宝記 農政全書 信友随筆

はの部

  梅園叢書 梅花心易掌中指南 売買極秘 馬関土産 博異記 博物筌 博聞叢談 博覧古言 八門九星初学入門 八門遁甲或問鈔 八卦辻占独判断 八宅明鏡弁解 初夢歌合 万金産業袋 万物怪異弁断〔怪異弁断〕 万物故事要略 万宝大雑書 万宝全書 万宝鄙事記 万暦大雑書三世相大全

ひの部

  秘事思案袋 秘事百撰 秘伝世宝袋 一宵話 百物語評判〔古今百物語評判〕 百法問答抄 閩書

ふの部

  風雨賦国字弁 巫学談弊 袋草紙 不思議弁妄 扶桑見聞私記 扶桑略記 物学秘伝 仏国暦象編 仏祖統紀 物理訓蒙 物理小識 物類相感志 筆のすさび 文海披沙 文会筆録 文献通考

への部

  秉燭★(譚の正字) 秉穂録 闢邪小言

ほの部

  法苑珠林 方角即考 方角重法記 方鑒必攜 方鑒弁説 蓬生庵随筆 茅窓漫録 簠簋 北越雪譜 卜筮早考 ト筮増補盲笻 北窓瑣談 ト法類書 法華経 法華宗御鬮絵鈔 本草綱目 本朝奇跡談 本朝高僧伝 本朝語園 本朝人相考 本朝年代記 本朝列仙伝 本命的殺即鑑

まの部

  まじなひ三百ケ条 魔術と催眠術 魔睡術

みの部

  水鏡 道の幸 妙術博物筌 妙薬妙術集 民家必用永代大雑書三世相 民家分量記

むの部

  夢渓筆談 無量寿経

めの部

  明治震災輯録 名物六帖

もの部

  蒙求 孟子 文選 文徳実録

やの部

  夜★(譚の正字)随録 大和怪異記 和事始 大倭国万物記原 大和本草

ゆの部

  唯一神道名法要集 輶軒小録 酉陽雑俎 愈愚随筆 夢合長寿宝 夢はんじ

よの部

  妖怪門勝光伝 楊子太玄経 擁書漫筆 妖婦録

らの部

  礼記 雷震記 羅山文集

りの部

  利運談 履園叢語 理斎随筆 琉球談 劉向新序 梁書 旅行用心集 呂氏春秋

るの部

  類聚国史 類聚名物考

れの部

  霊獣雑記 暦講釈 暦日諺解 暦日講釈 列子 列仙伝 簾中抄

ろの部

  老子 論語

わの部

  和漢三才図会 和漢珍書考 和漢年代記集成 和漢名数 和漢洋開化年代記 和漢暦原考 和訓栞 和名類聚抄

    その他、雑誌、新聞ならびに西洋書籍の目次はこれを略す。


 その書目中、極めて通俗卑近のものまでを掲ぐるは、妖怪の問題は通俗の間に存するもの多きによる。

 それ、余がこのことに拮据するや、ここに十年の星霜を経過すといえども、生来才学拙劣、究索その功を見ず。これに加うるに近年業務多端、もっぱら力をその一事に尽くすあたわず。忙裏荏苒今日に至り、いまだ一回もその結果を世間に報告せざりしをもって、四方より妖怪事実を寄送せられたる諸氏は、これを督責してやまず。余、実に赧然たらざるを得ず。ここにおいて、その研究の未熟を顧みず、匆々編成しきたりて、ここにこれを世に公にするに至る。その疎漏、誤脱の多き、余もとよりその責を任ず。碩学大家の嗤笑を招くも、またあえて辞せざるところなり。ただ余が微意は、さきに述ぶるがごとく、国家の隆治を助けて国民の本分を尽くさんとするにあれば、もしこのことにして幸いに文運の万一を裨補することを得ば、いずれの本懐かこれに過ぎん。余、もと無資無産なれば、実業を興して民力の伸暢を助くることあたわず。また、世情に暗く事理に通ぜざれば、政治を論じて国憲の拡張をはかることあたわず。ゆえに、その妖怪研究に着手したるは、余が衷情のやむべからざるに出ず。請う大方の君子、その微衷を察してこれを推恕せよ。

 哲学は余が専門とするところなれば、年来多少これを研究したるも、理学、医学に至りては、余の全く知らざるところなり。しかれども、この部分を欠きて妖怪学を完結することあたわざれば、ここにその二科を加うるに至りたるも、その説明のごときは、余の憶測をもって論断を下したるものすくなしとせず。これまた、専門の諸士の批正を請わざるを得ず。しかして、哲学に属する部分も、その学とも〔に〕既設の学科にあらずして未設の学科なれば、余の独断憶想にかかるものまた多し。もしその誤解に至りては、他日再考のうえ訂正を加うることあるべし。余自ら知る、この事業は一人一代の力よく成功を期すべからざるを。けだし、その大成のごときは、数世の後をまたざるべからず。ゆえに余は、ただその苗種を学田中に培養するのみ。

 妖怪の事業は多く東洋に伝わるものを収集し、西洋に存するものはわずかに参考として掲ぐるに過ぎざるは、その研究の目的、わが国の妖怪を説明するにあればなり。しかしてわが国の妖怪は多くシナより入りきたり、真に日本固有と称すべきものははなはだ少なし。余の想定するところによるに、わが国今日に伝わる妖怪種類中、七分はシナ伝来、二分はインド伝来、一分は日本固有なるもののごとし。ゆえに、わが国およびシナの書類は、微力の及ぶ限りひろく捜索したるも、西洋の書類は、わずかに数十部を参見せしに過ぎず。

 およそ妖怪の研究は卑賤の事業に似たるも、その関係するところ実に広く、その影響するところ実に大なれば、その説明のごときは、教育家、宗教家に必要なるは論なく、医師、文人、詩客、画工、俳優、史家、警官、兵士、政治家、法律家に至るまで、参考を要することは明らかなり。また、民間にありては、農工商のごとき実業に従事するもの、および婦人、女子に至るまで、みなことごとくその理を知るを要するは、余が弁をまたざるなり。ゆえに講義の目的は、広く通俗をして了解せしむるを主とし、例証はなるべく実際に適切なるものを選び、文章はなるべく簡易明瞭を本旨とし、他書引用のごときは、その書名、巻数、もしくは編名、丁数を掲げて、その捜索に便にす。読者請う、これを了せよ。 余、先年この研究に着手せし以来、文科大学の速成を教授せんと欲して哲学館を創立し、また国学科、漢学科、仏学科の専門部を開設せんと欲して全国周遊の途に上れり。ゆえをもって、余の研究も一時中止せざるを得ざるに至れり。しかれども地方巡回の際、実地見聞したるものすくなからざれば、研究の一助となりしことは疑いをいれず。その巡回の場所は、このことに関係するところあれば、左に掲記すべし。

  巡回中滞在せし場所は、一道、一府、四十八国、二百十五カ所(もしこれにその際通行の国数を加うれば六十二国となる)。

 伊勢国(山田、松阪、津、一身田、四日市、桑名) 尾張国(名古屋、熱田、津島、大野、半田) 三河国(豊橋、岡崎、北大浜、西尾、蒲郡、豊川) 遠江国(掛川、浜松、平田、中泉) 駿河国(静岡、小川、清水、藤枝) 相模国(大磯) 武蔵国(忍) 上総国(千葉、茂原) 近江国(大津、豊蒲、五ケ荘、愛知川、八幡、彦根、長浜) 美濃国(岐阜) 上野国(安中、松井田、里見、高崎、八幡) 岩代国(福島) 陸前国(築館、一迫) 陸中国(盛岡、花巻) 陸奥国(弘前、黒石、板屋野木、鰺ケ沢、木造、五所川原、青森、野辺地) 羽前国(米沢、山形、寒河江、天童、楯岡、新庄、鶴岡) 羽後国(酒田、松嶺、湯沢、十文字、横手、沼館、六郷、大曲、秋田、土崎、五十目、能代、鷹巣、大館、扇田) 越後国(新井、高田、直江津、岡田、安塚、坂井、代石、梶、新潟、沼垂、葛塚、新発田、亀田、新津、田上、加茂、白根、三条、見附、浦村、片貝、千手、六日町、塩沢、小出、小千谷、長岡、大面、寺泊、地蔵堂、新町、加納、野田、柏崎) 丹波国(亀岡、福知山) 丹後国(舞鶴、宮津、峰山) 但馬国(出石、豊岡) 因幡国(鳥取) 伯耆国(長瀬、倉吉、米子) 出雲国(松江、平田、今市、杵築) 石見国(波根、太田、大森、大国、宅野、大河内、温泉津、郷田、浜田、益田、津和野) 播磨国(龍野) 備前国(閑谷) 備後国(尾道) 安芸国(広島・呉) 周防国(山口、西岐波・宮市・徳山、花岡、下校、室積、岩国) 長門国(馬関、豊浦、田辺、吉田、王喜、生田、舟木、厚東、萩、秋吉、太田、正明市、黄波戸、人丸峠、川尻、川棚) 紀伊国(高野山、和歌山) 淡路国(市村、須本、志筑) 阿波国(徳島、川島、脇町、池田、撫養) 讃岐国(丸亀、高松、長尾) 伊予国(松山、宇和島、今治) 土佐国(高知、国分寺、安芸、田野、山田、須崎) 筑前国(福岡、若松) 筑後国(久留米、吉井) 豊前国(小倉、中津、椎田) 豊後国(日田) 肥前国(長崎、佐賀) 肥後国(熊本) 渡島国(函館、森) 後志国(江差、寿都、歌棄、磯谷、岩内、余市、古平、美国、小樽、手宮) 石狩国(札幌、岩見沢) 天塩国(増毛) 胆振国(室蘭)

 これよりこの「緒言」を結ぶに当たり、余の素志、宿望を述べて、天下の諸士に告げんとす。吾人は身心の二根によりて天地の間に樹立する以上は、真理を愛し国家を護するの二大義務を有するものなり。これを内に顧みては、心天雲深きところ真理の明月を開ききたりて、これを愛しこれを楽しむは学者の本分なり。これを外に望みては、世海波高きところ国家の砲台を築ききたりて、これを護しこれを防ぐは国民の義務なり。余は一人にして、この二大目的を達せんとす。ゆえに余、つねに曰く、「権勢の道に奔走して栄利を争う念なく、毀誉の間に出没して功名をむさぼる情なく、ただ終身、陋巷に潜みて真理を楽しみ、草茅に座して国家を思うの赤心を有するのみ」と。その言、狂に近しといえども、余、朝夕心頭に銘じて片時も忘るることなし。さきに妖怪研究に着手し、つぎに哲学館を創立し、つぎに専門科開設を発表し、今また『妖怪学講義』を世上に公にするは、みな護国愛理の二大目的を実行せんとするものにほかならず。妖怪の原理を究めて仮怪を排し真怪をあらわすは、真理を愛するの精神にもとづき、これを実際に応用して世人の迷苦をいやし世教の改進をはかるは、国家を護するの衷情にもとつく。果たしてしからば、妖怪研究の一事、よくこの二大目的を兼行するを得るなり。 

 それ、余は理想の実在を信ずるものなり。これを物界の上に考うれば、天地万有ことごとく理想の結晶、凝塊なるを信じ、これを人界の上に考うれば、皇室国体はまたみな理想の精彩光華なるを信ずるものなり。ゆえをもって、世界の上にありては、万有の美妙と心性の霊妙と相和して、天地六合ことごとく靄然たる神気の中に浮かぶを見、国家の上にありては、皇室神聖の純気とわれわれ忠孝の元気と相映じて、国体全く霊然たる神光の中に輝くを見る。今、余が妖怪研究の結果、よく仮怪を排して真怪を開くを得ば、人をしてこの理に体達せしむることを得べしと信ず。近年、世情ようやく澆季に移り、人心ようやく菲薄に流れ、国体まさにその神聖を減じ、忠孝まさにその活気を失わんとするに当たり、広くこの理を開示するは、ひとり真理のために要するのみならず、実に国家の急務とするところなり。

 さらに一言を宗教、教育の上に加えて、この一論を結ばんとす。余おもえらく、今日の宗教家も教育家もともに、迷雲妄霧の中に彷徨して帰宿する所を知らず。しかして、よくこの雲霧を一掃すべきものは、実に妖怪学の講究なり。妖怪学によりてこれを一掃するは、あたかも心田の雑草を鋤去するがごとし。ここにおいて、はじめて宗教、教育の苗種を繁茂せしむるを得べし。ゆえに余、まさに言わんとす、「妖怪学は宗教に入るの門路にして教育を進むるの前駆なり」と。宗教のいわゆる自力、他力の二宗も、ひとたび妖怪学によりて仮怪の迷雲をはらい去りてのち信念得道すべく、教育のいわゆる知育、徳育も、ひとたび妖怪学によりて真怪の明月を開ききたりてのち開発養成すべし。しかして宗教そのもの、教育そのものに至りては、やや余論にわたるをもって、ここにこれを述べず。これを要するに、妖怪学の目的は仮怪、仮妖を払って、真怪、真妖を開くにほかならず。余が巻首に提唱したる、心灯を点じて天地を読むとはこれをいうなり。ああ、これ人間最上の真楽にあらずや。そのつまびらかなるは、本論に入りて講述すべし。

 〔原本(三版)には、このつぎに「妖怪学講義緒言に題す」という一文(明治二十六年八月十日付)が掲げられているが、すでに同文が本書十三頁八行目より十四頁二行目に掲載されているので、当該文は割愛した〕



 参考書目拾遺

 前に掲げたる書目の外に参考せし書類、およびその後に参考書として購入したる書類を集めて、左のその[書]目を示す。〔原本はいろは順の旧仮名遣いで配列されているが、五十音順に直した。〕

いの部

  威儀略述 夷堅志 ★(頤の略字)生輯要 一言雑筆 因果物語

うの部

  雲臥紀談 雲室随筆 雲楽見聞書記

えの部

  英華故事 煙霞綺談 役君形生記 燕石雑志 燕南記★(譚の正字)

おの部

  往生要集 往生要集指麾鈔 思出草紙 温故要略

かの部

  怪妖故事談 垣根草 学山録 鶴林玉露 嘉多比沙志〔傍廂〕 学海余滴 伽藍雑記 閑際筆記 韓詩外伝 閑聖漫録 勧善懲悪集 閑窓倭筆 感応編

きの部

  擬山海経 鬼神集説 鬼神俚諺鈔 義楚六帖 橘庵漫筆 祈禱感応録 奇病便覧 笈埃随筆 教苑摘要 玉石雑誌 居行子 近世百物語

くの部

  空華随筆 空華談叢

けの部

  荊楚歳時記 啓蒙雑記 啓蒙随録 芸林蒙求 決疑弁蒙 現世利益弁 顯密威儀便覧

この部

  孝感冥祥録 好生録 礦石集 広大和本草 国字蒙求 古今雑談集 故事文選 五朝小説 谷響集 谷響続集 護法資治論 崐玉撮要集 今昔拾遺物語 今昔夜話

さの部

  雑説囊話 簔笠雨談 猿著聞集 山陰雑録 三界義 山海里 三国塵滴問答 三才彙編 三才因縁弁疑 三才窺管 三才諸神本紀 三省録 三宝感応録

しの部

  慈恩伝 支干考 思斎漫録 地震海嘯考 七帖見聞〔天台名目類聚鈔〕 信田白狐伝 事物紀原 持宝通覧 釈氏蒙求 釈氏要覧 釈門自鏡録 拾遺往生伝 拾遺記 拾遺三宝感応伝 宗鏡録 十七史蒙求 修身雑話 修験故事便覧 修験三十三通記 修験道伝記 修験道便蒙 述異記 須弥山略説 修要秘決集 春秋累筆 消閑雑記 笑戯自知録 想山著聞集 小窓間語 松亭漫筆 聖鬮賛 諸国怪談実記 諸国故事談 除睡抄 塵荊博問鈔 新語園 人国記 新沙石集 心性罪福因縁集 神道名目類聚紗 人物故事 神仏冥応論

すの部

  随意録 瑞応塵露集 瑞兎奇談 蒭蕘集

せの部

  西域記 西京雑記 晴明物語 積翠閑話 施食通覧 世説故事苑 禅苑蒙求 僊術狗張子

その部

  僧史略 捜神記 草茅危言 叢林集 続毘陽漫録 俗説弁 続蒙求 祖庭事苑

たの部

  大黒天霊験記 大蔵法数 大蔵輔国集 太平楽皇国性質 太上感応篇持験記 玉櫛笥 談鋒資鋭

ちの部

  智恵鑑 長命衛生論 長明発心集 樗山漫筆 鎮火用心車

つの部

  通俗五雑俎 通俗和漢雑話

ての部

  提醒紀談 天狗名義考 天竺往生験記 天柱五岳余論 天文義論 天文俗談

との部

  唐才子伝 当世両面鏡 桃洞遺筆 唐土訓蒙図彙 童蒙故事談 東遊雑記 它山石

なの部

  南海寄帰伝 南嶺子

にの部

  日月行道図解 日本往生極楽記 日本人物史 日本霊異記 烹雑の記 庭の落葉 忍辱雑記 人天宝鑑

はの部

  梅窓筆記 博物志 万金産業袋

ひの部

  秘事睫 秘密安心往生要集 百因縁集 百家琦行伝 白虎通 病堂策

ふの部

  風俗通 福田殖種纂要 武家故事要言 扶桑隠逸伝 扶桑怪談弁述鈔 扶桑故事要略 扶桑蒙求 峰中根源記 仏牙舎利縁起 仏国暦象弁妄 仏舎利験伝 仏神感応録 仏祖通載 仏法蔵 分類故事要略

ほの部

  報応影響録 法林輯要 北越奇談 北越七奇考 法華経持験記 法華霊験伝 本朝医談 本朝怪談故事 本朝高僧伝 本朝語園 本朝故事因縁集 本朝諸国風土記 本朝神社考 本朝捜神記〔扶桑怪談弁述鈔〕 本朝俗諺志 本朝僅俚諺 翻訳名義集

まの部

  万年草

みの部

  宮川舎漫筆 冥加訓 民間歳時記 民生切要録

むの部

  無鬼論弁

めの部

  名家略伝 明和神異記

やの部

  夜窓鬼談 夜談随筆 破柳骨 大和三教論

ゆの部

  愈愚随筆

よの部

  桜陰腐談 養生主論 養生囊 養生弁 養生物語

りの部

  梨窓随筆 律相感通伝 隆興仏教編年通論 竜舒浄土文 両部神道口訣鈔 霖宵茗談

れの部

  霊魂問答

ろの部

  撈海一得〔漫画随筆〕

わの部

  和漢合壁〔夜話〕 和漢雑笈或問〔和漢珍書考〕 或問止啼銭〔法界或問止啼銭〕



P52


第一総論

井 上 円 了 講述

根 本 和一郎 筆記


第一講 定義編

       第一節 開講

 余や不肖自ら揣らず、一点の心灯をかかげ、もって天地の活書を読まんと欲するに当たり、常に一大妖雲の滃然として人界の上に横たわるものあるを見る。真理、これがためにその光を隠し、道徳、これがためにその影を潜め、教育、宗教、医道、政法またみなこれがために遮蔽せられ、茫々昧々天地否塞す。しかしてこれ、すなわち妖怪の迷雲なり。そもそもこの迷雲の東洋の天地をとざし、欝として開かざるものここに数百年。明治の初年、かつてわが国において、一時その散滅せんとするがごときものあるを見る。しかして、いまだいくばくならず、滅せんと欲してまた生じ、散ぜんと欲してかえってあつまる。ああ、かくのごとくんば芙峰の真面目、また得てしかして見るべからざるや。東海日出ずるの国、また赫然四表に光被するあたわざるや。三千年来長育養成するところの元気、また維持保存するあたわざるや。思いてひとたびここに至れば、あに慨然たらざるを得んや。これ憂国の士、ともに心をつくし力を尽くし、もって国家百年の長計をなさざるべからざるの秋なり。

 しからばすなわち、そのいわゆる長計なるもの、果たしていずれの道によりて可なるや。それ、ただ社会の道徳を進むるにあるのみ。しかして、社会の道徳を進めんと欲せば、教育、宗教の二道を振起せざるべからず。教育、宗教の二道を振起せんと欲せば、教育家、宗教家その人を得ざるべからず。しかるに今日、世人往々教育、宗教を藐視し、意を徳義の消長にとどめ、心を風俗の醇漓に存するものに至りては、落々として晨星のごとし。方今、教育は、外振起するもののごとしといえども、内実にしからざるものあり、なんぞや。試みに地方の小学に従事するものをみるに、村民のこれを進退するや奕棋のごとく、そのこれを待つや賤胥俗吏に異ならず。これを昔日に比するに、その師道の尊卑、果たしていかんぞや。しかして営々役々、わずかに口を糊するを得。なお、いずくんぞ余資の新著をあがない、新知識を収むるを得るあらんや。かくのごときもの、十中八九見るところなり。かくのごとくして、しかして完全の教育を望むは、そもそもまた難しというべし。もし町村の父兄にして、教育の重すべく、これを振起するの急務なるを知らば、なんぞ教育家その人の地位を高め、資格を進めざる。しかして、宗教家に至りてはさらにこれよりはなはだしく、世間全くこれを度外に置き、その得喪利害、一つも顧みるところなし。これをもって壊堂破壁の中、香煙凄涼、古墓を守り、いたずらに日月を送るのみ。これ出世間の人、もとよりよろしくしかるべきがごとしといえども、その実、世間のために擯斥せられ、もってここに至るや疑うべからず。しかして、そのしかるゆえんのもの、あるいは宗教家の無学無識自らこれを取るありといえども、世間のこれを待つや、また罪なしとせず。世人もし道徳を進むるの宗教によらざるべからざるを知らば、もとより宗教家を度外視すべからず。しかして、真正の宗教家その人を得んと欲せば、また、なんぞ地位を高め資格を進めざる。高きを辞してひくきにつくは水の性なり、辱を去りて栄に帰するは人の情なり。ゆえに、隆遇優待もってこれが門を開かば、天下有徳の士、またなにを苦しんで宗教、教育の海中に帰入せざらんや。これ、余が今日の教育家、宗教家に代わり、いささか世間に訴えんと欲するところなり。

 方今、人口日に繁殖し、遠からずして六十余州に充溢せんとす。しかして北海不毛の地、また数十年を出でずして、鶏鳴狗吠四境に達するの盛を見るに至るべし。一日、『水土解弁』と名付くる書を読み感ずるところあり。その中に、果物多くなりたる年はその風味うすく、少なくなりたるときは味よろしきがごとしといい、もって今日の人口過多にして、ために無気無力となり、古人にしかざるに至るを慨せり。余おそる、今より数十年の後、人口ますます繁殖し、しかして気象ますます萎靡、ついに秋蠅病蟬のごとくならんことを。果たしてしからば、なにをもって海外の強国と抗衡するを得んや。かつ人口多きに過ぐれば、勢い生存競争、優勝劣敗の野蛮的実況を再演するを見るや必せり。これ、国家自滅の道にして、国民の今よりこれを予防して、道徳挽回の策を講ぜざるべからざるところなり。しかして、余がいわゆる妖雲の天地を否塞するもの、その実、人知の蒙昧より生ずるところの迷夢なるをもって、もとよりこれを妖怪の一部に帰して不可なることなく、予が研究の目的、また実にここにありて存す。ゆえに余曰く、「妖怪学は宗教に入るの門路にして、教育を進むるの前駆なり」と。よろしく「緒言」に述ぶるところを参看すべし。

 ああ、社会を一掃すべき道徳大革命の時機すでに迫るも、多数の人民なおかつ妖雲妄霧中に彷徨して、道徳光明の新天地いずれの所にあるを知らず。それ真正の道徳は、健全の知識をまたざるべからず。ゆえに大賢ソクラテス氏は、「徳は教ゆべし」といえり。予おもえらく、知識の光は日のごとく、道徳の光は月のごとし。月は日によりて明らかなるも、両光相待ちて天地はじめて美妙の光景を現ず。ゆえに、吾人は国家のために妖雲妄霧を払って、知徳の二光を開かざるべからず。儒教これを知仁といい、仏教これを悲知という。その意一つなり。今、予が道徳の大革命とは、この二光を社会の上に開顕するをいうなり。余、不肖といえども、積年丹心をここに注ぎ、もって畏くも皇恩の万一に報じ奉らんと欲す。しかして、今や全国数十万の教育家、宗教家に代わり、いささか社会に向かいて訴うるところあらんとするもの、また、ただ国を憂うるの微衷に出ずるのみ。人もしこの講義を一読せば、余が妖怪学研究の偶然にあらざるを知らんか。

 さらにまた、目を転じて学者社会を一瞰するに、妖雲心天をとざして知日その光を隠すは、ひとり一般人民の罪なるのみならず、学者もまたその責を免れず。方今、世上の学者たるや、そのつねに孜々として研究するところのものは、おおむねちかきを残しこれを遠きに求め、ひくきをすててこれを高きに取り、尋常卑近のことに至りては、置きて顧みざるもののごとし。それ、尋常卑近のことは、その理すでに明らかにして、またこれが解説を要せざるをもってなるか。予おもえらく、しからず。尋常卑近のこと、その理かえって明らかならざるもの多く、人をして往々霧中に彷徨せしむるものあり。しかるに、いまだこれが解説を試むるものあるを聞かざるはなんぞや。これ、諺にいわゆる灯台下暗きもの、また古賢のいわゆる「道在爾、而求諸遠」(道はちかきにあり、しかしてこれを遠きに求む)ものにあらずや。かつて室鳩巣の『駿台雑話』を読みしに、そのうち羅大経が『鶴林玉露』に載するところの、悟道といえる尼の詩を引用せるものあり。曰く、「尽日尋春不見春、芒鞵蹈遍隴頭雲、帰来笑撚梅花嗅、春在枝頭已十分。」(尽日春をたずねて春を見ず、芒鞵踏みあまねし隴頭の雲、帰来笑って梅花をひねって嗅げば、春は枝頭にありてすでに十分)今日の学者、多くはこれ枝頭の春に背き、隴頭の雲を踏むの類にあらざるなきを得んや。しかりといえども、学問の道もとより高遠を窮むるを貴ぶ。いたずらに卑近自らかぎるべきにあらず。要するに、高きに登るにひくきよりするにあるのみ。今それ、灯台はその用、遠きを照らすにあり、しかしてまた近きをも照らさざるべからず。もしあるいは、その光、朦朧として基趾を照らすあたわざらんか、よろしく反射鏡の力を用うべし。学問のことたる、またこれと相似たるものあり。しからばすなわち、尋常卑近のことにして、学術界の反射鏡となすべきものをなにとかなす。曰く、妖怪の研究これなり。そのことたる、卑近に似たりといえども、その理すこぶる高遠にして、世人の明らかにするあたわざるもの多し。かつ、なんぞ知らん、この卑近のことに希有の真理を胚胎するを。学者、決してこれを度外視するなかれ。これ、予が斯学を講究して学問の普及をはかり、真理の月下に道徳の新世界を開き、もって国家の基礎を万世不動の地に置き、もって仰ぎて上は皇室の万歳を祝し奉り、下は同胞の安康を祈らんとするの微意のみ。

 これを要するに、「妖怪学講義」の要旨は、一方は真理に対し、一方は国家に対し、人心の迷雲を払い、社会の弊習を除き、教育、宗教の位置を高めて、道徳の一大革命を実行するの端を開かんとするにほかならず。よろしく「緒言」中に述ぶるところを参見すべし。


       第二節 妖怪と不思議との異同

 これより妖怪の定義を与うるに、まず予が研究する問題の、通俗のいわゆる妖怪のみに限らざることを一言せざるべからず。その主要なる問題は、天地の起源、万有の本体、霊魂の性質、生死の道理、鬼神冥界の有無、吉凶禍福の原理、栄枯盛衰の規則、天災地変の理由、迷心妄想の説明、賢愚資性の解釈等にして、幽霊、狐憑き、天狗等はこれに付属せる問題に過ぎず。しかして、その説明、解釈は学術の道理にもとづき、その目的はこれを応用して国民の福利を進めんとするにあり。よろしく結末に至りてその意を見るべし。

 さて妖怪の定義を下すには、通俗のいわゆる妖怪は、なにを義とするかを考えざるべからず。それ、通俗の妖怪と称するものをみるに、一切の不思議を義とするもののごとし。不思議とはなんぞや。すなわち不可思議の謂にして、人知の測り知るべからざるところのものこれなり。しからば妖怪は、不思議とその意義全く同じきか。曰く、否。かつ、これを通俗の言に徴するも、不思議なるもの、ことごとくもって妖怪とはなさず。すなわち天神のごとき、宇宙のごときは、これを不思議と称するものあるを聞くも、いまだ妖怪と称するものあるを聞かざればなり。しからばすなわち、世間のいわゆる妖怪なるもの、果たしてなにものなるか。梁にうそぶくあり、したがってこれをてらすに見ゆるところなし。人、すなわちこれを妖怪という。堂に立つあり、したがってこれをみるに見ゆるところなし。人、すなわちこれを妖怪という。あるいは動物の化して石となるがごとき、死者のたちまちかたちを現ずるがごとき、またみなこれを妖怪という。しからばすなわち、未知をもって妖怪とするか。曰く、否。およそ宇宙間のことに可知的あり、不可知的あり。不可知的とは、すなわち到底人知の知ることあたわざるところのものにして、いわゆる不可思議なるもの、これに属す。しかして可知的とは、すなわち人知のよく知り得るところのものにして、そのすでに知られたるもの、これを既知といい、いまだ知られざるもの、これを未知という。しかして未知なるもの、またいまだ必ずしも妖怪となさず。すなわち人、あるいは水のなにより生じ、火のなにより成るを知らずといえども、これをもって妖怪となすものあらず。なんとなれば、吾人の平生耳目に接し、見聞に慣るるところのものは、たといその道理は未知なるも、これを妖怪となさざればなり。


       第三節 妖怪と異常、変態との関係

 それ、不思議なるもの、未知なるもの、いまだ必ずしもこれを妖怪となさず。しからばすなわち、妖怪なるものは異常あるいは変態を義とするか。曰く、通俗のいわゆる妖怪はややこの義に近し。すなわち世人、平生その耳目に慣れざるものに接するときは、多くこれを妖怪という。例えば狐狸の化して人となり、あるいは死者の髣髴その容貌を現ずるがごときこれなり。しかれどもまた、いたずらに異常、変態なるのみをもって妖怪となすべからず。なんとなれば、人あり、目にいまだかつて見ざるところの外国人に街衢の間に遇うも、これを呼びて妖怪となさざればなり。しからばすなわち、妖怪とは異常、変態にして、しかもその道理の解すべからず、いわゆる不思議に属するものにして、これを約言すれば不思議と異常とを兼ぬるものなり。


       第四節 妖怪の標準

 すでに妖怪の定義を下して、異常にして不思議なるものとなすときは、なにを標準として不思議を思議に、異常を尋常に分かつや。曰く、これ決して一定の標準あるにあらず。なんとなれば、通俗のいわゆる妖怪なるものは、人と世とに従って変遷するものにして、甲の妖怪とするところ、乙これを妖怪とせず、昔日の妖怪とするところ、今日これを妖怪とせざればなり。すなわち妖怪の有無は、物にあらずして人にあり、客観上に存するにあらずして主観上に存す。妖怪そのもの、実に一定の標準あらざるなり。換言すれば、妖怪の標準は、すなわち人の知識、思想これなり。それ、下等人民のつねに妖怪多きゆえんのものは、その知識浅く経験に乏しく、見聞するところ異常多きをもってなり。これなお蜀の犬、日を見て吠ゆるの類のみ。しかして知識進み経験に富める人にありては、明らかに事物の理に通じ、容易に不思議、異常とするところなきをもって、妖怪またしたがって少なし。これ、その人と世とに従って変ずるゆえんなり。それ妖怪の成立、果たしてかくのごときものならしめば、妖怪そのものに向かいて、学術上別に他の解釈を下さざるべからず。


       第五節 仮怪と真怪との別

 愚民は真に妖怪にあらざるものを誤認して妖怪とし、学者はその妖怪にあらざるを知りて、これを妖怪となさず。すなわち、今日通俗のいわゆる妖怪とするところのものは、真に妖怪にあらざるものを誤り信ずるにほかならざれば、これを妖怪と名付けずして、よろしくこれを迷誤と名付くべし。しからば、学者にありてはその知識明叡にして、もとより迷誤のあるべき理なきをもって、学者の眼中妖怪なしといいて可ならんか。曰く、妖怪に仮怪あり真怪あり。もし妖怪の意義を解して不可思議となさんか、学者なお世に不可思議あることを否定すべからざるをもって、いかなる明叡の学者といえども妖怪ありとせざるべからず。かくのごとき妖怪は、世と人とによりて変ずるものにあらざれば、これを真怪という。しかして、通俗のいわゆる妖怪は、妖怪にあらずして迷誤なれば、これを仮怪といわざるべからず。予が「緒言」に、妖怪〔学〕の目的は仮怪をはらい去りて真怪を開ききたすにありとは、すなわちこれなり。これを要するに、妖怪の定義は、通俗的に解すれば異常、変態、不思議なるものにして、学理上より解すれば迷誤とすべし。換言すれば、仮怪そのものにありては異常を義とし、真怪に対すれば迷誤なるのみ。


       第六節 迷誤の原因

 妖怪を解して迷誤とするときは、迷誤の起こる原因を説明せざるべからず。迷誤は、これを要するに論理の誤謬より起こる。しかして論理の誤謬はまた種々の原因によるも、左の二条の関係を誤用するにほかならず。

  第一 部分、全体の関係

  第二 原因、結果の関係

 およそ論理の作用は、全体より部分に及ぼし、部分より全体に及ぼし、あるいは原因につきて結果をたずね、結果につきて原因を求むるにあり。すなわち、全体において確実なることは部分においても確実なりとするは、演繹論法の起こるゆえんにして、原因、結果の関係にもとづき原理原則を考索するは、帰納論法の起こるゆえんなり。しかるに原因にあらざるものを誤りて原因となし、部分にあらざるものを認めて部分となすときは、種々の迷誤を生ずるに至る。そのゆえんは、後段に至り妖怪の原因を説明するときに詳述すべし。しかして、ただ予は通俗のいわゆる妖怪をもって迷誤と同一にみなし、妖怪学を迷誤学とし、これを一科の学となして論究するの意なれば、まず諸学科の上においてその学の位置を考定せざるべからず。



第二講 学科編

       第七節 妖怪学は既設の学科にあらざるゆえん

 余は妖怪を一科の学となすも、世にいまだこれをもって学となしたるものあるを聞かず。これ畢寛、学者のその研究を妖怪の上に及ぼさざるによればなり。ゆえにその学たるや、もとより既設の学科にあらず。しかれどもすでに妖怪の事実あり。この事実にもとづきてその原理を考究するに至らば、これまた一種の学といわざるべからず。もし、今よりその考究に従事し、これより歩一歩を進むれば、他日一科独立の学となりて、学界上に現るるや期し難きにあらざるべし。ゆえに予は、これをもって既設の学科にあらずして、将設の学科なりとし、実にその端緒を開かんとす。しかして今、その学科の位置を学界上に定めんとするには、まず学問全体の学科表を掲げざるべからず。


       第八節 学問全体の学科表

 学問全体の学科表は、古来の学者おのおのその所見を異にして、いまだ一定の分類法あるを聞かず。ゆえに予は、自ら定むるところの学科表によりて、その位置を定めんとす。しかして、そのこれを知るに当たり、まずその表に二様の別あるを知らざるべからず。


第一表

         物理学

     理論学 化学

         天文学

  理学        

         器械学

     応用学 製造学

         航海学等

学             心理学

          理論学 社会学等

     有象哲学     論理学

          応用学 倫理学

  哲学          美学

              教育学等

          理論学(純粋哲学)

     無象哲学     

          応用学(宗教学)


第二表

               物理学

           理論学 化学

     有形的理学     天文学等

               器械学

           応用学 製造学

  理学           航海学等

               

               心理学

           理論学    

     無形的理学     社会学等

               論理学

           応用学 倫理学

学              美学

               教育学等

               

     理論学(純粋哲学)

  哲学         

     応用学(宗教学) 


       第九節 妖怪学は応用学なるゆえん

 この二表はその実、同一にして、ただ理学、哲学の区域を分かつに広狭あるをもって、その異を見るのみ。もしその詳細を知らんと欲せば、予が著すところの『仏教活論本論 第二編 顕正活論』を参看すべし。しかして、この表中において、妖怪学は理論学に属するか、はた応用学に属するかというに、予はこれを応用学に属さんとす。しかれども、妖怪学は実に理論、応用の二者を兼ぬるものにして、かの妖怪の事実につきてその原理原則を考定するがごときは、これを理論学に属す。また、既定の道理を応用して事実の説明を与うるがごときは、これを応用学に属さざるべからず。予の研究もまたこの二様を兼ぬるものといえども、その原理原則は新たに考定するを待たず、他の諸学科においてすでに考定したるところのものにより説明を与うるの意なれば、むしろこれを応用学に属さんとす。それ、すでにこれを応用学とするときは、その何学の応用なるやを考えざるべからず。しかして予は、これを心理学の応用となさんとす。心理学はこれを学科表中に照らせば、第一表にありては有象哲学中の理論学に属し、第二表にありては無形的理学中の理論学に属す。ゆえに妖怪学は、第一表にありては有象哲学中の応用学に属し、第二表にありては無形的理学中の応用学に属するなり。もしその理由を知らんと欲せば、心性と妖怪との関係につきて一言せざるべからず。


       第一〇節 心性と妖怪との関係

 およそ妖怪に、物に属するものあり、心に属するものあり。天変地異、草木禽獣の変態、異状のごときは物に属する妖怪にして、これを物理的妖怪と名付く。また、幻覚、妄想、精神諸病のごときは心に属する妖怪にして、これを心理的妖怪と名付く。しかれども物理的妖怪も、またわが感覚に触れてのち生じ、わが感覚の状態に応じて変化、異同あるものなれば、決して全く心性を離れて存するものにあらざるなり。かつまた、さきに定むるがごとく、妖怪をもって迷誤となすときは、妖怪そのものは全体、心性に属するや明らかなり。これをもって、妖怪はもとより心性をもととして論ぜざるを得ず。そもそも心性には知、情、意三種の作用あり。しかして、妖怪はそのうちいずれの作用に属するやというに、おもに知に属するなり。さきにいわゆる部分、全体の関係、原因、結果の関係のごときはすなわち知の作用にして、妖怪の生ずるは知力の誤用によればなり。これ畢寛、妖怪の迷誤なるゆえんなり。しかれども情、意もまた全くこれに関係を有するなきにあらずして、妖怪の起こるは多少、情、意両作用の影響を免れず。すなわち、情においては恐怖心のごとき、意においては決断力のごとき、大いに妖怪の原因に関係を有するものなり。『百物語評判』と題する書(巻二)に、「こちらの一心さえただしければ、わざわいにあうべからず。あるいは武勇のさぶらいは、その武勇ゆえ心動かず。博学の学者は、その博学ゆえ内あきらかなり。戒律の出家は、その戒律によって邪魔きたらず。その道おなじからねども、みな内にまもりあれば、妖怪のものも害をなすことあたわざるなるべし」とあり。これ妖怪は心によることを示せるなり。『左伝』には「妖由人興也」(妖は人によりおこるなり)との語あり。これを要するに、妖怪の起こるは、物心二者中、心理の関係最も多く、心理中、知その主因となりて、情、意これが助因となるものと知るべし。


      第一一節 妖怪学と心理学との関係

 妖怪はおもに心理に関するものなるをもって、その学と心理学との関係について一言せざるべからず。もし妖怪をもって心理の変象となすときは、その学は心理学中の変象を説明する学となる。予はこれを変式的心理学と名付く。これに対して普通の心理学は心理の正象を論究する学なれば、これを正式的心理学というべし。このことは、後に変式的心理論を講ずるときに詳述すべし。しかるに、もし妖怪学をもって応用学とするときは、心理学の応用なることもちろんなるも、その応用になお論理学あり、倫理学あり、審美学あり、教育学あり。論理、倫理、審美は心性作用の知、情、意各種の応用にして、真、善、美の三者を目的とするものなり。教育学は知、情、意総体の応用にして、人心の発達、知識の開発を目的とするものなり。しからばこれらの応用学に対して、妖怪学はいかなる応用なるや。今これを挙示すること左のごとし。

  第一種の応用は、理論より実際に向かいて応用するなり。

  第二種の応用は、理論中にありて既定の規則を未定、もしくは誤解の道理の上に応用するなり。

 この第一種の応用は論理、倫理等の応用にして、第二種の応用は妖怪学の応用なり。かくのごとく、妖怪学は既定の規則を未定の道理に向かいて応用するとなすときは、論理学のいわゆる演繹論法に同一なるがごとくなるも、そのいわゆる既定の規則とは、すなわち演繹、帰納両法によりて既定したるものにして、これを誤解、誤用せられたる規則、道理の上に応用するなり。換言すれば、真正なる演繹、帰納によりて論定したる道理をもって、誤謬の道理を正すなり。ゆえに、これを第一種の応用に比すれば、心理学理論上の応用学というべし。


      第一二節 妖怪学と諸学との関係

 妖怪学は心理学の応用とするも、これただその主要なる点につきていうのみ。もしそれ、あまねくその関係するところを挙ぐれば、理、哲諸学の応用学となさざるべからず。ただその応用の他の応用に異なるところのものは、実際上の応用にあらずして理論上の応用なるにあり。例えば、物理的妖怪を説明するがごときは、理化、天文、地質、動植等諸学の原理を応用して、その説明を与えざるべからず。また、人身上に発する妖怪のごときは、生理もしくは医学の原理を応用せざるべからず。また、心理中にありても心性の本体すなわち心体のいかんに至りては、もとより心理学のかかわり知るところにあらざれば、純正哲学を待たざるべからず。予がさきに真怪なるものは、純正哲学の応用によりて知るを得るというところのもの、すなわちこれなり。また、死後の冥界、天道、地獄、霊魂等に関する問題は、宗教学の説明を要するなり。ゆえに妖怪学は、狭くこれをいえば心理学の応用学にして、広くこれをいえば百科諸学の応用学なり。しかして予が講述するところも、心理学を牙城とし、理学を前門とし、純正哲学を後門として、もってその説明を試みんと欲するなり。


       第一三節 第二の分類法

 これによりてこれをみるに、妖怪学をもって心理の応用とするは、学科分類中の一方法たるに過ぎず。ゆえにこれを第一の分類法と名付く。もしその学をもって諸学の応用とするときは、さらに第二の分類法を設けざるべからず。第二の分類法は、妖怪をもって諸学の原理を誤用するより起こるものとする以上は、諸学の講究に二道あることを知らざるべからず。すなわち諸学の正当なる道理を研究する道と、誤解の道理を弁説する道との二者相分かる。予は仮に前者を正式正則の学もしくは常態学とし、後者を変式変則の学もしくは変態学と名付けんとす。すでに妖怪学をもって変式学となせば、その学たるや知者、学者の上に存するにあらずして、愚民、通俗の間に存するや明らかなり。しからばすなわち、別に妖怪学に対する知者、学者の学なかるべからず。これ予がいわゆる正式学なり。正式学は正当の道理により正当の学理を明らかにするものにして、今日学術の目的とするところのものこれなり。それ事物に正変両則ある以上は、学問もまたこの両道なかるべからず。しかして世間の迷誤を匡正するは教育学いくぶんの目的なるべきも、今日実際の教育は、学理上抽象的の道理をただちに人知開発上に応用するのみにして、いまだ妖怪の事実に応用するに至らず。これ畢竟、妖怪学のいまだ起こらざるによればなり。換言すれば、今日の教育学は正式的の応用にして、変式的の応用にあらずというべし。かつ今日の教育は、その区域はなはだ狭く、わずかに学校教育を目的とするに過ぎざれば、広く社会に対し種々の妖怪の事実につきてこれが説明を与うるがごときは、別に一科専門の学を設くるにあらざればあたわず。これ、変式学の正式学に伴って起こらざるを得ざるゆえんなり。

       第一四節 第二の分類表

 かくのごとく論定して学科上にその分類を設くるときは、左表〔次頁〕のごとく定めざるを得ず。

 これ、第二の分類によりて得たる学科表なり。このうち正式学は知者、学者に関し、変式学は愚民、通俗に関するの別あるがごとしといえども、知者、学者なお多少の迷誤あるを免れず。ゆえに完全の知者、学者にあらざるよりは、これを応用することを得べし。要するにその学は、正式学において確定したる道理、規則を尺度として、通俗、民間に存する諸迷誤を検覈匡正せんとするものなり。


              物理学、化学

           理学 天文学、地質学

              動物学、植物学、生理学等

   正式学(常態学)

              有象学(心理学)

           哲学

学             無象学(純正哲学)

               

           理学的(物理学の諸学)

   変式学(変態学)      

               有象学

           哲学的

               無象学


       第一五節 第三の分類法

 以上の分類のほかに、さらに一種の分類あり。それ妖怪学はこれによりて人知発達の程度を測定することを得るものにして、その人知たるや、古今東西を問わず、いやしくも言語、歴史の存するものはこれを測定するを得べく、わずかに一人一代を限るにあらず。けだし迷誤の多少は、大いに人知発達の高下に関するものにして、人知いまだ開けざるときにありては、迷誤の種類はなはだ多く、かつその道理を去ること遠し。しかして、人知ようやく進むに従って迷誤ようやく減じ、ますます道理に近きを得。これによりて考うれば、妖怪学は歴史学および人類学と密接の関係を有するを見るなり。人類学はすなわち人類全体の学にして、動植物に対照して人類の性質事情を論ずるものなり。これに対してまた人種学あり。人種学は、人類中の一人種と他人種との関係、異同を論ずるものなり。しかれども、妖怪学はひとり一人種に限らず、人類全体において知力、論理の発達を研究するものなれば、人種学に属すべからず。しかして人類学はひとり知力のみならず、身心万般の発達事情を考究するの学なるをもって、妖怪学は人類学中の一種の学となすも可なり。また、その歴史学に関係を有するゆえんは、歴史学は人類学とその性質を異にし、天地間の一種の生物として人類の発達成立を考究するものにあらず、一国民として発達したる人類、すなわち社会を成し文明に進みつつある人民につきてその発達事情を考究するものなり。これにまた、社会外界上に現ずる諸事実につきてその発達事情を考究するものと、人間の思想内部の発達事情を論究するものとの二種ありて、その内部の発達を論ずるものは、すなわち歴史哲学なり。今、妖怪学は人知の程度を測定する学なれば、むしろ内部の学に属すべし。しかれどもまた、おのずから異なるところなきにあらず。けだし妖怪学は外界に現ずる風俗、習慣の上につきて人知の程度を論じ、思想そのものを論ずるにあらざれば、むしろ社会学に属すべきか。

 これを要するに妖怪学は、人類社会に関する上より論ずるときは、人類学、歴史学もしくは社会学に密接なる関係を有して、しかも一科独立の学となることを得。なんとなれば、歴史、人類等の諸学は広く人間相互の関係の上に成立するものにして、いまだ主として物心内外相互の関係を論究するものにあらず。また、一個一人として有するところの宇宙万有に対する観念を考究するものにあらず。しかるに妖怪学は、一個人ならびに人類全体の太古より、宇宙万有、諸事諸物につきて有する思想観念の状態、および諸現象変化につきて有する解釈、説明の程度を考究する学なればなり。


       第一六節 学科分類の帰結

 以上述ぶるところによりてこれをみるに、妖怪学の分類に三種の方法あり。第一種は心理学の応用とすること、第二種は諸学の変式変態学とすること、第三種は社会、人類に関する諸学中の一科とすること。しかして第一、第二の分類は一個人の上に考えてこれを定め、第三の分類は社会、歴史上にわたりてこれを定む。今、予が講ずるところのものはこの三種の分類により、狭くこれをみれば心理学の応用、広くこれをみれば諸学の応用として、一人一代の知識の発達のみならず、衆人数代の発達につきてその理を講述せんと欲す。しかしてその講義の目的、方針のごときは、すでに緒言に説示せるをもって、ここにこれを略す。



第三講 関係編

       第一七節 実際上の関係

 前講において学科の分類を掲げ、あわせて妖怪学と他学科との関係を述べたりといえども、これ学科上の関係なり。これに対して実際上の関係を述べざるべからず。実際上にありては、妖怪学は宗教、教育、道徳、政治、医術、実業、風俗、儀式等に大いなる関係を有するものにして、その結果たるや、人の幸福を増進するにあり。宗教、教育、道徳、政治の改良を図りて世の文明を進むるも、またこの妖怪学の結果をまたざるべからず。ゆえにその世を稗益すること、多言を要せずして知るべし。


       第一八節 宗教との関係

 およそ世の宗教信者は、多く迷信、妄想に支配せらるるものにして、そのこれによりてきたすところの弊害また少なしとせず。例えば迷信者は、神の力をもって無量無限のものにして、これを祈念すれば、自ら善因を修めずして善果をうくることを得べしと信ずるがごとき、また、悪をなしてその罰を免れんことを祈り、自らつとめずして僥倖をねがうがごときの類、往々見るところなり。そもそも世間百般の事、人力にて左右すべきものと左右すべからざるものとあり。しかるに、その左右すべからざるものを神力によりて左右し、もって己の欲念をほしいままにし、己の悪心を満たさんと欲するものあり。予がかつて聞くところによるに、有名なる神社仏閣に数十金を喜捨して、さらにその姓名を告げざるものあり。これ単純の信仰より出でたるもののごときも、その中にはあるいは強盗のごとき不正の行為によりて過分の金を得、神罰をおそれて一部分を神仏に寄付するものありという。これを要するに、宗教妄信の害は、第一に、人をしてそのつとむべきをつとめずして、僥倖を祈らしむるの弊あり、第二に、己の欲心を増長して、自利心を強盛ならしむるの弊あり、第三に、罪悪を犯して自らその心に責むることなく、かえって神の冥護を祈らんとするの弊あり。およそこれらは、みな迷信、妄信よりきたるところのものなり。しかして迷信の、ときにあるいは利あることなきにあらず。天道、地獄の賞罰を信じ、これによりて悪心を制し善道に進むの類のごときこれなり。しかれどもこれまた、ついにその弊なきあたわず。すなわち、これを偏信するのはなはだしき人をしてみだりに死をおそれしめ、かつ知力の発達を妨ぐることあり。しかのみならず、世間の猾者、これに乗じて種々の方法により私利を営まんとするもの多し。ゆえに、今より後は宗教の信仰も道理をもととし、迷信、妄信の弊害を除くことをつとめざるべからず。これ妖怪学の目的とするところなり。

 たとい今日の宗教は、今いうところのごとき弊害なしとするも、いまだ真正なる宗教の行わるるものとなすべからず。なんとなれば、今日一般の宗教信者は、死後の賞罰をおそれ、あるいは現世の不幸、災厄を免れんとするよりこれを信ずるもの多く、これまた一種の迷信なればなり。もし、かくのごときものに対して死後の賞罰なしと告ぐるときは、たちまち宗教を信ぜざるに至るべし。けだし宗教の世に存するは、ひとり死後を目的とするものにあらず、また現世の災厄を免るるをもって目的とするものにあらず、実に精神上に無量の快楽を与うるをもって目的とするものなり。この快楽は、有限相対の世界にありては到底望むべからざるものにして、ただ吾人が無限絶対の世界を想定し、これに接触するより起こるものなり。これを人心作用上に考うるときは、有限的知情意によるにあらずして、無限的知情意によりて感知するものなり。しかして今宗教の信仰は、人心中にこの無限性を開発し、精神界に絶対門を開くものなり。しかるに今日一般の宗教は、有限相対上に成立し、はなはだしきに至りては有形上に成立するものと信じ、その信仰も私利私欲のごとき有形上の幸福、快楽を目的とするものあり。予はこれを目して迷信、妄想という。この弊を除きて宗教の真面目を開き現すは、妖怪の説明すなわち妖怪考究の目的とするところなり。


       第一九節 教育との関係

 つぎに、教育上に及ぼせる妖怪学の影響を考うるに、世人多くこの目前の世界に対して、天変地異のいかなる道理にもとづくを知らざるをもって、種々の妄想を起こし、その心大いに不安をいだき、戦々恐々のうちに一生を送らんとす。これ、これを万有上の迷誤という。また、人は吉凶禍福のいずれの道理にもとづくを知らざるをもって、人為をもって左右すべきものとなし、ト筮、人相、九星、方位等の妄誕を信じ、ますます自利の欲心を増長せしむるの弊あり。これまた、人生上一種の迷誤なり。以上の迷誤は大いに文明の進歩を妨げ、かつ事業の発達を害するものなり。しかして、その迷誤によりてきたすところの結果を約言すれば、不快楽、不道徳の二者となす。しかるに学術上その道理を明らかにしてその弊害をいやするは、普通、教育の目的とするところなれども、今日の教育はいまだその目的を達するを得ず。ゆえに予は今、妖怪学考究に力を尽くし、この道理を世人に開示し、もってこれを教育上に応用せんとす。もしくはその世を益するにおいて、小補なきにあらざらんか。また、妖怪と道徳との関係のごときも、これに準じて知るべし。世人もしこの学によりてその心内の迷雲を一掃し去らば、はじめて教育、道徳の必要を感じ、世道人心の一大改新もおのずから成功すべし。

       第二〇節 政治との関係

 さきに妖怪学を解して迷誤を解説する学となしたるも、今論ずるところの宗教、教育上に存する迷誤は、一個人の上に生ずるものに過ぎずして、これを個人的迷誤という。しかしてこれに対して社会、国家の上に生ずる迷誤あり。これを社会的迷誤という。ここにおいて、妖怪に個人的妖怪、社会的妖怪の二種を分かたざるを得ず。今社会的妖怪を考うるに、政治上における迷見、謬論はすなわち一種の妖怪なり。例えば権利、自由、平等等の意義を誤解して、社会党、共産党、虚無党の論ずるもののごときは、一種の迷誤すなわち妖怪たるや明らかなり。果たしてしからば、妖怪学の考究によりて、また政治上の謬理を排除することを得べし。しかして予は、すなわち個人的妖怪のみを説明するの意なれば、本講中には政治上の謬誤を説明せざるなり。


       第二一節 医術との関係

 今日にありても下等無知の愚民は、いまだ疾病の道理を知らざるをもって、宗教上の迷信によりてこれが解釈を与え、人の発病は鬼神あるいは妖魔のなすところと信じ、これを治療するにおいても診断あるいは服薬を用いずして、祈祷あるいはマジナイによりてこれをいやせんとするものすこぶる多し。諸病中なかんずく疫病、瘧疾、癲癇、その他諸精神病のごときは、全く鬼神または狐狸の憑依するところと信じ、その治療法に至りては種々奇怪の方法を用う。これ愚民の治病上に有する迷誤にして、これによりてきたすところの弊害を挙ぐれば、第一、衛生に注意せずして、疫病流行するも御札、マジナイをもって無二の予防法と信ずること、第二、治病に注意せずして、服薬によりて治すべき病を祈禱、マジナイに一任して顧みざること等なり。しかしてこれらの迷誤をいやし弊害を除くは、また妖怪学の目的とするところなり。


       第二一一節実業との関係

 実業とは農業、商業、工業を義とす。しかして、この諸業と妖怪学といかなる関係あるかを一言せんとす。さきにすでに宗教、教育の項において述べたる迷信、妄想の弊害は、ひいて実業の上に及ぼし、己の業をつとめずしていたずらに神仏に祈請するもの多く、農夫は耒耜を事とせずして豊年を望み、匠工は技術をよくせずして籯利を欲し、商賈は肩背を労せずして私利を壟断せんとす。かくのごとき迷信は、大いに実業の進歩を妨げ、国力の消長に影響を与うるや疑いなし。ゆえに、実業に対してこの迷誤を排除するは今日の急務にして、これまた妖怪学の目的とするところなり。


       第二三節 風俗との関係

 社会日常の風俗、習慣、儀式、礼法は、多く迷信、妄想によりて成立するものあり。今その一例を挙ぐれば、死と四と音相同じきをもって、死をいとうのはなはだしき四の数を忌み、人に物品を贈るにも数の四なるを避け、旅店の客室に番号を付するに四番を除き、三番よりただちに五番の名を命ずるものあり。貸家にも四十四番地などは、御幣担ぎ連の大いにいとうところなりという。また世間の礼式中、人のもっとも重んずるところのものは婚礼にして、婚礼は最も縁起を選び、その日のごときは年中第一の吉日をトするものなり。ある人、婚礼の吉日を選ばんと欲して、五行家、暦家、九星、方位、ト筮等を専門とする諸氏にはかるに、一方において吉とする日は他方においてこれを凶とし、一年三百六十五日中、最上の吉日は一日もなかりしといえり。また、家屋を建築し、あるいは転居、あるいは旅行等、その方位、時日をトするは民間の常にして、社会の儀式、礼法は、多くこれらの迷信によりて組織せらるるところなり。しかしてその迷信のきわみ、ついに首をおそれ尾をおそれ、戦々恐々、一日の平安なくして一生をわたらざるべからず。人間の不幸、不利、けだしこれより大なるはなし。ゆえに、その道理を説明して人に安逸を与うるは、また実に今日の急務にして、しかして妖怪学の目的とするところなり。



第四講 種類編

       第二四節 妖怪の分類

 妖怪の分類は、さきに第一〇節に示したるがごとく、物理的妖怪、心理的妖怪の二種に分かつを便なりとす。およそ哲学上、万有を分類するには、物心二者によりて種類を分かつを常とす。仏教においてはこれを色心二法という。けだし宇宙間のもの、形質を有するものと有せざるものとあり。わが目を開きて外に現ずるところのものは、有形質の体にしてこれを物質という。わが目を閉じて内に動くところのものは、無形質の体にしてこれを心性という。今、妖怪は宇宙万有の上に現ずるものなるをもって、これを物心二者に分かち、物理的妖怪、心理的妖怪の二類となすなり。例えば、天変地異のごときは物理的妖怪にして、精神諸病のごときは心理的妖怪なり。なおこれを詳言すれば、有形的物質の変態、異常より生ずるものを物理的妖怪と名付け、無形的精神の変態、異常より生ずるものを心理的妖怪と名付くるなり。しかれどもそのいわゆる妖怪は、その実、妖怪にあらざるものを世間これを誤りて妖怪と認むるをもって、予はこれを物理的迷誤、心理的迷誤といわんとす。これ妖怪学の、迷誤を解説する学たるゆえんなり。


      第二五節 物理的妖怪の種類

 物理的妖怪はその種類はなはだ多く、天象上に現るるものあり、地殻上に現るるものあり、植物上、動物上、水、火、金石、空気上に現るるものあり。例えば流星、竜灯、不知火、蜃気楼、カマイタチ、河童、および京都下加茂社内に移植する樹はみな柊に変じ、尾州熱田社内に奉納する鶏はみな牡鶏に化すというがごときは、物理的妖怪なり。予はこれを学科の種類に従って分類を設けんとす。その表、左のごとし。


      物理学的妖怪(すなわち光線の反射屈折等より生ずる変象のごとき物理学の説明を要するもの)

      化学的妖怪(すなわち諸元素の抱合分解によりて生ずる変象のごとき化学の説明を要するもの)

物理的妖怪 天文学的妖怪(彗星、流星のごとき天文に属するもの)

      地質学的妖怪(化石、結晶石のごとき地質に属するもの)

      動物学的妖怪(熱田の鶏の類)

      植物学的(下加茂の柊の類)


 その他、人身の構造、機能上の変態、異常は、生理学に属するをもって、これを生理学的妖怪というべし。


       第二六節 心理的妖怪の種類

 心理的妖怪またその種類はなはだ多く、これを分類するにおいても、事実の上に考うるものと、学理の上に考うるものとの二様あり。今まず事実上の分類によるに、左の三種となるべし。

  第一種、すなわち外界に現ずるもの(幽霊、鬼神、悪魔、天狗の類)

  第二種、すなわち他人の媒介によりて行うもの(巫覡、降神術、人相、墨色、九星、方位、ト筮、祈禱、察心、催眠の類)

  第三種、すなわち自己の身心上に発するもの(夢、眠行、感通、神通、幻覚、妄想、諸精神病の類)

 そのうち、第一種の幽霊、鬼神等は、たとい精神作用より発するものとするも、一般に外界に現存もしくは現

顕するものと信ずるをもって、夢、眠行等に合せず、しばらくこれを区別するなり。その第二種は、他人ありてわが身心の事情、変化を考定、視察するものにして、すなわち方術に属す。しかして第三種は、他人の媒介を待たず、ただちに自己の身心上に発するものにして、おのずから異なるところあれば、これまたおのおの区別せざるを得ず。ただ第二種、第三種は、他人の媒介あるとなきとの相違あるのみにして、その目的とするところのものわが身心の上にあれば、第一種の外界に現ずるものとは同じからずとなす。ゆえに、さらに左のごとく表示すべし。


      外界(幽霊、狐狸等)

心理的妖怪 

         他人(巫覡、神降等)

      内界

         自身(夢、眠行等)


 その外界とはわが目前の物質世界をいい、内界とはわが体内の精神すなわち心性世界をいう。しかして余は、そのいわゆる外界の妖怪は、みな内界の精神作用より生じ、外物はただこれが誘因、助因となるのみ。ゆえに、心理的妖怪は内界に発顕するものに限るとなす。もし真に外界に存するものあらば、これ心理的にあらずして物理的なり。


     第二七節 心理学上の分類

 つぎに学理上の分類を挙ぐれば、心理学にもとづき、心象の種類に応じて分類を設くること左のごとし。


  第一種、表現的妖怪(感覚および知覚上の妖怪すなわち幻覚、妄覚)

  第二種、再現的実想上の妖怪(再想および構想の妄見、妄想)

  第三種、虚想上の妖怪(概念、断定、推理の迷見、謬論)

  第四種、感情上の妖怪(感情より生ずる迷誤)

  第五種、意志上の妖怪(意志に属する迷誤)

 その、いわゆる妖怪とは、余がさきに述ぶるがごとく、主観的に考うれば人心の迷誤を義とし、錯誤、幻妄等の変象、異常より生ずるものをいう。しかして、第一種より第三種までは知力上の迷誤にして、これ妖怪の主因なり。第四種、第五種はその助因なることは、さきに第一〇節において述ぶるところを見て知るべし。しかれども、知、情、意の三作用は互いに相混じて起こるをもって、実際上、決して三種の迷誤を分別することあたわざるなり。


       第二八節 諸学上の妖怪

 心理的妖怪は、以上事実上および学理上、二様の分類を掲げたるも、なおいまだ尽くさざるところあるをもって、さらに一種の分類を設けざるを得ず。畢竟するに、心理的妖怪は心理現象のみにとどまらざれば、心理学の一科のみによりて解釈し尽くすことあたわず。例えば精神病によりて発するものは、生理学、精神病学等の説明を借らざるべからず。また、宗教上および虚想に関する妖怪は、宗教学および純正哲学の説明を借らざるべからず。ゆえに、さらに左の表を掲げてその種類を示すべし。


      病理的(精神病に属するもの)

心理的妖怪 迷信的(宗教上の妄信より生ずるもの)

      経験的(平常の経験上、事実の偶合適中するの類)

      超理的(理外の理にして人知以上にありと想定するもの)

 これを学科に配当すれば、生理学的(もしくは医学的)、宗教学的、純正哲学的に類別することを得べし。その他、予はさらに教育学的の一部を加えんとす。以上は心理〔的〕妖怪に関する諸学科上の分類なり。


       第二九節 理学的および哲学的妖怪

 さらにこれを学問上に考うるときは、さきにいわゆる物理、心理二種の妖怪は、これを理学的妖怪、哲学的妖怪と名付くるを適切なりとす。しかしてこれを学科に配当して、その部門を設くること左のごとし。


       物理学的、化学的、天文学的

   理学的 地質学的、植物学的、動物学的

       生理学的(もしくは医学的)

妖怪     

       心理学的

   哲学的 宗教学的

       純粋哲学的

       教育学的


 その他、精細に論ずるときは、論理学的、倫理学的、美学的、社会学的、政治学的等を加えざるを得ざるも、今これを略し、余は「理学部門」「医学部門」「純正哲学部門」「心理学部門」「宗教学部門」「教育学部門」「雑部門」に分かつ。これ、今回の講義に用うる分類なり。


       第三〇節 真正の妖怪

 諸学の道理によりて妖怪の原理を考究しきたり、いわゆる超理的妖怪に達すれば、到底人知の測り知るところにあらずして、ただこれを不可思議といってやまんのみ。けだしその妖怪は絶対の大〔妖〕怪にして、その胎内に一切の妖怪を包有し、世間種々雑多の妖怪は、その一分子にもなお足らざるものなり。果たしてしからば、その大妖怪はなにものなるや。狐か、狸か、天狗か、はた大入道か。狐狸、天狗、大入道は、その形見るべく、その声聞くべく、握るべく、さぐるべし。これ、いまだ妖怪と称するに足らず。しかしてそのいわゆる大妖怪は、「師曠の聡」あるも聴くべからず、「離婁の明」あるもみるべからず、「公輸子の巧」あるもいかんともすべからず、声もなく臭もなく、実に妖怪の精微かつ至大なるものなり。この精微至大の体、ひとたび動きて二象を現ず。一つはこれを心と名付け、一つはこれを物と名付く。この二者互いに相接し相交わりて、その間に隠見起滅するものは小妖怪に過ぎず。ゆえに、そのいわゆる小妖怪は、波石相激して白雪を躍らすがごとし。みるもの誤り認めて白雪となすも、これ真の白雪にあらず。今、世人の一般に妖怪なりと信ずるもの、なおこの白雪のごとし。ゆえに予は、そのいわゆる妖怪は真正の妖怪にあらずして、この妖怪を現出するものひとり真正の妖怪なりという。もし吾人この真正の妖怪を接見せんと欲せば、よろしくこの偽物妖怪を一掃して、半夜風波の静定するを待ち、良心の水底に浮かびきたるところの真理の月影を看取せざるべからず。これ、吾人の理想の真際に接触せるときなり。予はこの理想の本体を真正の大妖怪といい、これを真怪と単称す。これに対して、偽物妖怪はこれを仮怪と名付く。さきに「緒言」中に述ぶるがごとし。

 もしまた、吾人外界にありて千万無量の物象を観察し去りて、その裏面に一貫せる理法の中心に洞達し、その実体いかんを想見するときは、またこの大妖怪に接触することを得べし。そもそもこの妖怪は、物心相対の雲路の上にはるかに三十三天をしのぎ、須弥山上なお幾万由旬の高き所に一大都城を開き、理想その帝王となり、物心の二大臣をこの世界に降し、千万無量の諸象を支配せしむ。これ真に妖怪の巨魁にして、吾人の究め尽くさざるを得ざるものなり。これを究めざる間は、決して世に妖怪を尽くすことあたわず。しかして三十三天なお高し遠し。いわんや理想の都城をや。いずれを階梯としてこれにのぼり得べきや。曰く、実験と論究との二者なり。この二者は、物心二大臣より理想の朝廷へ差遣する使節なり。もし吾人その都城にのぼらんとするときは、この使節に随伴せざるべからず。しかして、その使節も関門以内に入るあたわず。ゆえに、吾人も関門をもって限りとせざるべからず。果たしてしからば、世に妖怪の根拠を断絶することあたわざるべし。ゆえに、ただ吾人は仮怪をはらい去りて、真怪を開ききたすをもって足れりとせざるべからず。

第五講 歴史編

       第三一節 妖怪学の歴史

 これより諸学の原理にもとづきて各種の妖怪を説明せんとするに、まず古代原人蛮民が与うるところの解釈より今日に至るまでの諸説を、逐次説明せざるべからず。ここに、これを妖怪学の歴史という。しかして、さきに第一五節に、妖怪学は人類学および歴史学に伴って、古今人類の知力、思想の発達を知ることを得べしと論じたるが、これより述ぶるところの歴史は、すなわちその発達を示すものなり。ゆえに、これを講究するは、学術上大いに有益にして、かつ興味あることなりとす。


       第三二節 太古の時代

 妖怪学の起源は、人類とその始めを同じくするものにあらず。けだし太古の人は、いまだ物心のなんたるを知らず、万有を見てこれを怪しむゆえんを知らず。物心一致、彼我別なく、なお四、五歳未満の幼児のごとく、蠕々蠢々いたずらに両間に栖息するのみ。実に無思無想の時代というべし。かくのごとき時代にありては、いずくんぞいわゆる妖怪なるものあらんや。およそ人の性たる、知力わずかに発育すれば、自然に一種の疑念、内に動きて思想を刺激し、ついに進みて四囲の万象を説明せんとするものなり。妖怪学は、人知ようやく進みて物心内外の別ようやく生じ、結果を見て原因を探り、原因を知りて結果を求むるに至りて、はじめて起こるものなり。このときにありてはすなわち万有ことごとく妖怪にして、日月も妖怪なり、星辰も妖怪なり、風雨山川またみな妖怪ならざるはなし。ゆえに、つとめてこれがためにその原因を究め解釈を与えんとす。しかして、もしその解釈を得ざるときは、胸中一種の疑団ついに散ずるあたわずして、一日もその心を安んずるあたわざるなり。これ、百科諸学の世に起こるゆえんなり。しかれども、今日よりしてこれをみれば、当時のもって説明となすところのものは、一つの迷見のみ、妄想のみ。いまだもって学説となすに足らず。しかしてこれ、すなわち妖怪学の起源なり。それ、かくのごとくその説明たるや、すでに迷誤にほかならずといえども、またその中に多少の真理を胚胎するや疑いをいれず。けだしいかなる説明にても、原因結果の道理にもとつかざるものなし。もし説明せざればすなわちやまん。いやしくも説明せんと欲せば、必ずまず原因につきて結果を探り、結果につきて原因を求めざるべからず。すなわち古代の蛮民が、天につらぬるところの数万の星を見て、雨のおつる孔穴なりと解し、空気の遊動して風をなすを見て、天地の一大活物が呼吸するところと解したるがごときは、もとより妄説に過ぎずといえども、また原因結果の道理によりて解釈を試みたるや明らかなり。しかして、その説の妄なるは、道理そのものの妄なるにあらずして、むしろその応用の誤謬に出ずというべし。かくのごとき誤謬は、学術の発達したる今日にありても往々見るところにして、なんぞひとり古代のみならんや。しかして、その誤謬を考究するは妖怪学の目的にして、さきにその学を解して変式学となすゆえんなり。


      第三三節 発達の時期

 古代蛮民が宇宙万有に向かいて説明を試みし以来、今日に至るまで、一般の知力の発達とともに、説明そのものも次第に進化して、不完全なる説よりようやく完全なる説を得るに至れり。予はこの発達の年代を分かちて三大時期となさんとす。かつてフランスの哲学者コント氏は、古代より今日に至るまでを分かちて、神学時代、形而上学時代、実験学時代の三時期となせしが、予もややこれに倣って左の時代を考定せり。

  第一時期 感覚時代(知力の下級)

  第二時期 想像時代

  第三時期 推理時代(知力の高等)

 これ、人類が万有を解釈せんと欲して試みたる説明を、発達の順序に従って分かちたるものなり。これを感覚、想像、推理の三時代となしたるは、心理学中、知力の発達にもとづきて次第したるものにして、そのいずれの国、いずれの人を問わず、実際必ずこの順序によるやいなやは、いまだ断定しがたしといえども、進化論の規則に従えば、かくのごとく次序せざるべからず。


      第三四節 第一時期

 感覚時代とは、万有の解釈を与うるに、吾人の感覚にて見聞し得らるる、形質上のもののみによりて説明を与うる時代なり。けだし当時の人知いまだ無形無質のものを考うるに至らず、一切の事物はみな感覚以内、経験以内にとどめ、たとい物心の二元あるを知るも、ともに有形質のものと信じ、物質上の説明を与えり。かのイギリス〔の〕哲学者スペンサー氏は、その著すところの『社会学』初編において、宗教の進化を述べきたり一身重我説を唱えたるが、この説は大いに妖怪研究の参考となるものなるをもって、今その大要を略述すべし。古代、人知のいまだ無形の心を考うるに至らざるときにありては、夢のごときものに至りては、はなはだその解釈に苦しむところなり。それ夢は、わが身体ここにありて遠方のものを見、遠方の人に面するを得べく、大いに平時と同じからざるものあり。蛮民はすなわちこれに一種の見解を下し、我なる体に二様ありて、そのうち一我ここにあり、他我かしこに遊ぶものとせり。これを一身重我説と名付く。重我とは、我に二重の体ありて、二者相合してこの一身を成立するを義とす。しかして昼間は二我相合して作用を現じ、夜間は一我内にありて他我外に遊ぶものとなす。この理をもって夢の現象を解釈せり。しかして当時、いまだ無形を想像することあたわざるをもって、その二我はともに有形なるものとなし、有形上の説明を与うるなり。また、この理を推して人の死に及ぼし、死も夢と同一にして、一我ここにありて他我かしこに遊ぶより起こるものと信ぜり。ただその夢と異なるところは、他我の遊ぶところ夢に比すればさらに遠く、かつ久しきの別あるのみ。これをもって、人の夢境にあるときは随意に喚醒するを得べきも、ひとたび死するに及んでは、なにほど大声疾呼するも蘇生することなし。すなわち、死のときは他我の出遊するところはなはだ遠くして、呼び声のこれに達することあたわざるによると信ぜり。 その他、病気、失神、癲狂、狐憑き等も、みな重我の説によりて説明を与うるなり。それ、人の一身は甲乙二我によりて成立するを知り、また、甲我ここにありて乙我外に出ずることを得るとなすときは、一人の乙我の外に出でたるときは、他人の乙我のその中に入りきたることありと想するを得べし。すなわち癲狂のごときは、その人の挙動、平生に比し全く別人の観あるものは、自己の乙我の出遊するに際し、他人の乙我の入りきたるものとなせり。また、すでに自己の乙我の不在に乗じて、他人の乙我の入りきたることを得るとするときは、もし他人の乙我の力強くして、自己の乙我を制することを得るときは、自己の乙我の存在するに、他人の乙我の乱入することなしというべからず。よってこの理を推して諸病の説明を下し、病中は自己の乙我の存在するにもかかわらず、これを苦しむるものありて自ら除くことあたわざるは、他人の乙我の入りきたりて自己の乙我を制するによるとなす。

 かくのごとき説明は、一切の事みな有形の道理をもって証明するものにして、予がいわゆる感覚時代の説明に属す。けだし当時にありては、人すでに死後の世界あるを知るも、その世界はわが感覚上、目前の世界の上にあるものと信じ、現在世界と同一なるものとなし、その鬼籍に入るは、今日現在世界の上において、一地方より他地方に移住するがごときものとなせり。これみな有形上の説明なり。しかして、この時代ようやく進みて鬼神を想するに至るも、その鬼神はなお有形質にして、人類の性質を一層増大にしたるものにほかならずと信ぜり。例えば雷神は太鼓を具し、風伯、雨師、またみなあるいは風囊を帯び、水瓶を携うとなすがごとき類これなり。


       第三五節第二時期

 かくして人知ようやく進み、また実際上、有形質のみにて解説すべからざるものあるを知り、自然に無形質を想像するに至る。しかしてこの想像は、さきの有形質を敷演増大して、未経験の新影像を構造するより起こる。けだし感覚上見聞するもの、これを再現すれば再想となり、諸再想を取捨増減して新影像を構造するに至れば構想となる。これいわゆる想像なり。想像作用ようやく進むに及んで、有形質の影像さらに変じて無形質に近づき、ついに感覚以上、経験以外に無形世界を想立するに至る。ここにおいて物心二元中、ひとり心元を無形として想像するのみならず、鬼神も死後の世界も、みなこれを無形として想像するを得。第一時期にありては、すなわち風雨山川みな、おのおのその霊ありとして有形的の多神を信じたるも、ここに至りてその想像ようやく無形に移り、ひとり多神を無形的に考うるのみならず、多神の上さらに一神あるを想定するに至る。この一神の体、物心二者を支配し、一切の現象変化はみな、その創造もしくは媒介によるものとなす。

 ゆえにこの時代にありては、妖怪の説明はみなこれを神力の干渉媒介に帰し、もしくはその天啓感通によるものと考うるなり。これ重我説より一歩を進めたる説明なれども、いまだ学術上の説明に達せず。すなわちその説明たるや想像の作用に属し、しかしていまだ論理思想の作用にあらず。けだし想像は論理の階梯をふまず、直覚的に空想を虚構しきたるものにして、人知いよいよ発達して推理の力完全なるを得るに至れば、到底その説をして人を満足せしむべからず。これ、第三時期を要するゆえんなり。


       第三六節 第三時期

 第三時期は知力の大いに発達したる時代にして、虚構、想像を交えず確実なる推理によりて、卑近より高遠に及ぼし、有形より無形に及ぼし、感覚以内より感覚以外に及ぼすものにして、これ全く今日の学術時代の解釈なり。今日の解釈は宇宙万有の天則天法をもととし、精密にしてかつ確実なる論理によりて種々の現象変化を説明するものなれば、妖怪の解釈ここに至りて一変せざるべからず。すなわち第一時期にありては、万有各体の内に存する他元にその原因を帰するものにして、重我説これなり。第二時期にありては、万有各体の外に存する他体にその原因を帰するものにして、鬼神説これなり。しかるに第三時期にありては、すでにこれを内に存する他元に求めず、またこれを外に存する他体に求めず、万有そのものに固有せる規則もしくは道理にその原因を帰するの別あり。しかして今、予が述べんと欲するところのものは、この第三時期の解釈法によりて説明を与うるにあれば、これよりその時期の説明法につきて一言せざるべからず。

 そもそもこの時期にまた種々の説明法あり。その第一は理外的もしくは神秘的説明法、第二は唯心的もしくは理想的説明法、第三は経験的もしくは自然的説明法なり。しかして第三時期の真面目はこの三種の説明法にあり。左にその各種の大要を述ぶべし。


       第三七節 理外的説明法

 道理上、宇宙間に理内の理と理外の理あり、また可知的と不可知的の二者あることは、学者のすでに許すところなり。果たしてしからば、吾人の知力はもとより無限なるものにあらざるなり。これによりて妖怪のごときはすなわち理外の理にして、人知の到底知ることあたわざるところとなす。もってこれを神力の不思議に帰して神秘的に属し、そのこれを知るには神人の感通もしくは天啓、直覚によらざるべからずとなすものは、理外的説明法にして、宗教学者の解釈多くこれに属す。これ哲学史上に存する一種の学説にして、宇宙の道理にもとづきて論断せるものなれども、畢竟するに、さきのいわゆる第二期の想像説に一歩を進めたるものにほかならず。


       第三八節 唯心的説明法

 神の存否はいわゆる理外の理にして、到底推知すべからずといえども、吾人の心中に精神思想の存することは、なにびとも決して否定すべからず。かつわが目前の世界も、わが心面に現るる現象なること、また疑いをいるるべからず。この理にもとづきて唯心論なるもの起こる。その論によれば、万般の妖怪は精神上の迷誤にほかならず、あるいは精神自ら作為するものにして、心界を離れて別に妖怪あるにあらずという。しかしてこの論一歩を進めば、すなわち理想論に達す。理想論者の説に曰く、「理想と精神とはその体一にして、理想そのものは精神上にその作用を現じ、しかして精神そのものは理想の一部分なり。ゆえに精神そのものの内部を顧み、道理そのものの根元を究むれば、理想と合体するを知るべし。すなわち、人心は理想の玄境に達するの門路なり」と。その論もとより論理によるも、外界の万有をもって、ことごとく心体もしくは理想の現象にほかならずとなす。また、理想の実在を信じ万般の妖怪をもって精神上の迷誤となすも、世間のいわゆる妖怪は、物心万有の間に存するものなれば、唯心一方の説明は妖怪の諸現象をいちいち説明し尽くすあたわざるをもって、予は経験的説明法により、これを万有の規則に考えてその道理を示さんとす。


       第三九節 経験的説明法

 この説明法は、すなわち万有自然の規則に照らして妖怪の現象を解釈するところのものにして、すなわち今日の学術的説明法なり。しかしてその法たるや、唯心論に反対して唯物論を根拠とするものなり。しかるに予は唯物論者にあらずといえども、万有の問に存する妖怪は、万有の道理によりて説明せざるべからずと信じ、この説明法によりて予が目的を達せんとす。しかれども、かくして普通の妖怪を説明し去れば、その極み理想論に達せざるを得ず。もしひとたびその論に達すれば、唯物といい、唯心というも、みな理想そのものを根拠として成立せるを知るべし。なかんずく唯心論は、直接に理想論に連続して存するなり。しかして事実上の経験によれば、物心二元おのおのその体固有の規則を有するにあらずして、二者ともに一大理法により成立するを見る。ゆえに物理的妖怪も、心理的妖怪も、その原理は唯一なるを知るべし。この一原理にもとづきて、物心両界の上に現ずる妖怪に説明を与うるは、実に予の目的とするところなりといえども、もしこの理法によりて解明すべからざる点に達すれば、その上に位する理想論に考えざるべからず。これを要するに、予がいわゆる仮怪をはらい去るは経験的説明法により、真怪を開き現すは理想的説明法によるものと知るべし。

 この経験的説明法の一種に、従来の経験上いまだ確知せざるものを推想憶定して説明を与うる一法あり。これ、よろしく経験的説明法の付属となすべきなり。今試みにその例を挙ぐれば、第一に電気説、第二に精気説これなり。近来、電気説ひとたび世に行われてより以来、一時はかれもこれもみな電気の作用に帰し、いやしくも了解し難き妖怪、不思議あれば、ことごとくこれを電気の作用なりというに至れり。これあたかも中古、知るべからざるものはことごとくこれを神に帰したるがごとし。神は不可知的の体にして、電気また不可知的の作用なり。ゆえに不可知的の原因を電気に帰するは、一つの不可知的を説明するに、ほかの不可知的をもってするがごとし。また近世、光線の説明にひとたび精気を仮定してより、幽冥世界のごときは精気の世界なりと解釈するものあり、また、物理学のいわゆる勢力の理によりて霊魂不滅を証明するものあり。かの著名なる物理学者ステュアートおよびテート両氏の合著にかかる『不可見世界論』のごときは、全く勢力論によりて未来世界の存在を証明したるものなり。あるいはまた、勢力論もしくは精気論によりて、偶合、暗中、前知、予言を解釈し、また、幽霊、鬼神等を説明するものあり。将来、あるいはかくのごとき説明の真理なるを発見するのときあるも計るべからずといえども、今日にありてはいまだ一種の学説として許すべきものにあらず。ゆえに予は、これを経験論の付説とし、ここに掲げて世人の参考に供するのみ。しかして、自らこの理によりて妖怪を説明するの意にあらざるはもちろんなり。

 

       第四〇節 説明法の帰結

 以上述ぶるところの理外、唯心、経験の三論を学科の上に考うるときは、理外論は宗教学に属し、唯心論および理想論は純正哲学に属し、経験論は理学および心理学に属すというべし。ゆえに、左にその関係を表示すべし。


                       物理的(理学すなわち有形的理学)

            経験論すなわち万有的

    理内的(学術)            心理的(心理学)

            理想的すなわち純理的(純正哲学)

説明法

    理外的(宗教)


 もしこれを現象実体の上に考うるときは、理想的は物心万有の実体につきて説明を与え、経験的はその現象につきて説明を与うるものなり。しかして予は経験的、理想的の二法により、物心現象上の妖怪を解説し、進みて理想関内の妖怪を開示せんとす。もしそれ宗教のいわゆる理外的に至りては、論理説明の限りにあらざれば、これにつきて喋々するも畢竟、徒労に属するなり。


   第四一節 妖怪事項の起源および発達

 以上、妖怪説明の世の進化とともに変遷しきたりしゆえん、すなわち妖怪学の歴史を略述したるのみにて、いまだ妖怪事項そのものの歴史を説示せず。しかして妖怪事項そのものの歴史を講究するは、また大いにこの学の研究に必要なることなり。そのことたるや、さきの第二講第一五節に挙ぐるところの分類に関する研究法なれば、予ここに一言せざるべからず。そもそも妖怪事項とはすなわち妖怪談のことにして、その怪談の歴史を講究するに、主観的、客観的の二様あることは、あらかじめ記せざるべからず。客観上にありては、妖怪談はいずれの時、いずれの地に、いかなる出来事によりて起こり、その後いかように発達しきたりしやを明らかにするを要す。今日民間に伝われる妖怪は、多く古来の風説、旧話にもとづきて起こり、新たに発見したる妖怪ははなはだ希少なり。けだし吾人は幼少のときより妖怪談の空気中に養育せられ、先入的思想を構成し、成長の後、暖昧不明の事物に接触すれば、思想の専制によりて予期意向を促し、種々の幻覚、妄見を現示するに至る。

 例えば狐惑、狐憑き談のごときは、最初偶然の出来事より起こりしも、その後相伝えて、世間一般の風説となり、「先入為主」(先入主となる)の観念となり、その心より自らつくり出だせしものなるべし。その果たしてしかるやいなやは、いまだ知るべからずといえども、予は断固として妖怪原因の主要なる点は、この先入思想にありといわんとす。なんとなれば、赤児、白痴のごとき、その心中狐惑談を記憶せざる者にありては、いまだかつて狐狸に誑惑せられたることあるを聞かざればなり。ゆえに妖怪研究には、まず妖怪談の起源を捜索するは実に肝要なりといえども、いかんせん、かくのごとき事項の歴史中に伝わらずして、ただ小説中に散見するのみなれば、その真偽を判知することはなはだ難しとするのみならず、その起源および発達の順序を究索すること、すこぶる困難なるを覚ゆ。

 つぎに主観上にありては、人の知識、思想の発達に伴って、迷信、妄想の変化、および妖怪談の精神上に与うる影響等、精神そのものの歴史上発達しきたれる状態、事情を考究するを要するなり。この考究法は今日すでに進化学、社会学等の進歩によりて、たやすく実施し得べし。吾人もし古代の歴史上その状態を知ることあたわざるも、現時の世界において実験することを得るものとす。すなわち、下等の愚民もしくは幼少の児童について研究するを得べし。今、余が本講に述べたる妖怪説明、すなわち妖怪学の歴史は、このいわゆる主観的研究法なり。


       第四二節 妖怪歴史の分類

 これを要するに、妖怪歴史を述ぶるに、説明と事項との二種あり。事項は妖怪談にして、説明は妖怪学なり。事項は事実にして、説明は道理なり。事項は客観的にして、説明は主観的なり。左にその全表を掲示す。よろしく第三三節の表を参看すべし。


                  第一期(重我説)

     説明すなわち妖怪学の歴史 第二期(鬼神説)

                  第三期(学理説)

妖怪歴史

                   客観的(妖怪事実に関する伝説)

     事項すなわち妖怪談の歴史 

                   主観的(妖怪事実に関する観念)

                   

 しかして妖怪談、主観的の方は妖怪学の歴史につきて知るべしといえども、客観的の方は十分詳説するあたわず。ただ各科の部門において、普通の歴史上に散見したるものを摘載して、わずかに参考となすに過ぎざるべし。



第六講原因編

      第四三節 迷誤の原因

 前講において、すでに妖怪事項および説明の起源、発達を叙述し終われば、これより、妖怪の人心中に起こる原因を開陳せざるべからず。換言すれば、妖怪は迷誤とその意を同じくするをもって、迷誤そのもののよりて起こる原因を説明せざるべからず。しかしてその原因の第一は、古説、旧話の人の記憶中に存し、先入思想となるにあること疑いなしといえども、これ、歴史の考究および教育の事情に属することなれば、ここにこれを略し、もっぽら人心の知愚、世の開否に応じて、妖怪の増減、生滅するゆえんを説明せんとす。すなわち左の三段に分かつ。

  第一、世間に伝うる妖怪は、ことごとく事実として信拠すべからざること。

  第二、知識、学問の進むに従って妖怪の減少すること。

  第三、論理作用の誤謬によりて妖怪を生出すること。

 以下、この三段の順序に従って論明すべし。


       第四四節 妖怪談話の真偽

 古人も、「ことごとく書を信ぜば書なきにしかず」といわれたるがごとく、古書に伝うるところ、決してことごとく信を置くべからず。ひとり古書のみならず、今日世間に伝うるところの談話のごときも、またそのうち信ずべからざるものはなはだ多し。すなわち、毎朝報ずるところの新聞の雑報に徴して知るべし。その記事の事実に合せざるもの多きは、世人の熟知するところなり。ゆえに古今の別なく、伝説、風評は決してことごとく信ずべきものにあらざるなり。しかして、その事実と相違するゆえんは、種々の事情より起こるものにして、第一に、人の性たる、ひとたび見聞したることは、これを他人に伝うるに修飾敷演する傾きあり。これ畢竟、人に小説的思想ありて、その話のなるべく興味ありてかつ完全ならんことを望み、またこれを人に伝えて、その人を感じ、もしくはこれをよろこぼしむることを欲するをもってなり。これゆえに、甲より乙に伝え、乙より丙に伝え、輾転流伝するに従い、ますます小説的に近づき、ついにその実を失うに至る。第二に、人には好奇の情ありて、たまたま平生見聞せざる奇異のことに接すれば自らこれを主張して、その事実をして世間に成立せしめんとするものなり。これをもって、怪談を伝うるものは、みなその弁護者の位置に立てるものというも不可なることなし。これまた、その実を失うに至るゆえんなり。第三に、妖怪のことたる、いたって希有の事柄にして、千百の事実中、わずかに二、三の例外に属するものあるはまた免れざるところなれども、世人は尋常一様のことはこれを軽々に看過して、さらに記憶にとどめず。たまたま奇変に属するものあれば、大いにこれに意を注ぎ、長く把住して忘れざるをもって、古今遠近の伝説、雑然相あつまり、あまたの妖怪、一時に起こりたるもののごとく感ずるなり。なお、鉄道線路に沿ったる電信柱を見るがごとし。各柱の間大いに相離るるも、遠くよりこれを望めばその間の事物を見ざるをもって、おのおの密接して並立するがごとく感ずるなり。

 五井蘭洲の『瑣語』下巻に載するところの語あり。曰く、「世人言、三百六十日、雨不出七十日、験之多然、十日晴、不覚晴、一日雨、便厭之、蓋晴常、雨変也、古人曰、治日少、乱日多、善人寡、悪人衆、是不然、治日善人、雖衆多而常、乱日悪人、雖鮮少而変、常則無事、変則多故、亦是雨晴之説」(世人の言三百六十日、雨七十日を出でず。これを験するに多くはしかり。十日の晴れ、晴れを覚えず。一日雨ふれば、すなわちこれをいとう。けだし晴れは常、雨は変なればなり。古人曰く、治日は少なく乱日は多し、善人はすくなく悪人はおおし。これ、しからず。治日、善人衆多といえども、しかも常なり。乱日、悪人鮮少といえども、しかも変なり。常はすなわち無事、変はすなわち多故、またこれ雨晴の説なり)と。妖怪もまたこれと同じく、そのことたるや希少にして、わずかにあるに過ぎざれども、自ら奇変に属するものなるをもって、人をしてあまたあるがごとく感ぜしめ、もってその実を失うに至る。第四には、人に好悪の情ありて、人より聞きたる談話は、その情に適すると適せざるとによりて、これを了解するに、大いにその感想を異にし、またこれを記憶して他日人に伝うるにも、知らず識らず牽強付会して、あるいはこれを誇張し、あるいはこれを省略し、もってその実を失うに至る。第五に、諺に先入主となるというがごとく、なにびとの心も先入思想に支配せらるるものにして、幼時怪談につきて聞き込みたることは、長く記憶に存してその心を支配し、後に怪事に接することに、自ら意をもってこれを迎うるの傾きあり。しかしてわが国民間において、児童に授くるところの談話は、十中八九みな怪談にして、また、小説、演劇のごときも多少怪談の加わらざるなし。ゆえにその成長の際、自然に怪談をもって先入思想を形成するや疑いなし。

 以上の諸事実によりて、世に怪談意外に多く、またみな実事のごとく伝うるも、その実、決して信拠すべからざるを知るべし。


       第四五節 知識と妖怪との関係

 世に伝うるところの怪談は、ことごとく信拠すべからずとするも、これによりて妖怪全くなしと断言すべからず。予、もとより世間に妖怪の真に現ずるを知る。しかれどもその現ずるや、大いに人知の程度いかんに関係を有するや疑いをいれず。それ世に怪談を伝うるもの、か〔く〕のごとく多しといえども、自らその身に経験せしものはなはだ少なし。予は人に逢うごとに、妖怪を実験せしことありやいなやを問うに、数百人中わずかに一人を得るを難しとす。しかしてそのたまたま実験したるものあるも、学者よりは愚者、男子よりは婦人、都会よりは山野、上等社会よりは下等社会を多しとす。わが国にて古来、士族は一般に学問を修め、社会の上流に位したるものなるをもって、その家において妖怪の起こりたる例はなはだ少なし。土佐のごときは、その地の名物として犬神病あれども、これ平民の家に限り、決して士族の家に作りたることなし。ゆえに人民は、一般にそのいずれの理由たるを知らずして、ただ士族には犬神病全くなきものと信ぜり。また今日、下等人民中、わずかに小学教育を受けたるものにおいても、なお狐憑き、犬神等にかかりたる例はなはだ少なく、阿州三好郡池田村は四国中もっとも犬神の多き地なりと称す。しかるに近年、小学卒業のものにして、いまだこれにかかりたるものあるを聞かずという。かついずれの地方にも、もっとも多き狐憑き病のごときは、下等無知の人民か、しからざれば婦人にあるは、みな人の知るところなり。

 これによりてこれをみるに、道理に明らかに、経験に富み、思想に長じ、心意の強きものには妖怪少なし、しからざるものには多きを知るべし。果たしてしからば、妖怪の有無、多少は、人の心意のいかんに関するや明らかなり。換言すれば、妖怪そのものは客観上にあらずして、主観上に存するなり。これ予が、いわゆる通俗の妖怪は迷誤にして妖怪にあらず、仮怪にして真怪にあらずというゆえんなり。

 ゆえに、今より学問いよいよ普及するに至らば、数年を出でずして通俗のいわゆる妖怪は全く地をはらうに至るというも、あにそれ空想ならんや。


       第四六節 妖怪と論理との関係

 今述ぶるところによりて、妖怪は客観上に存せずして、主観上に存すとするときは、さらに、いかにして主観上に存するやを論明せざるべからず。しかして、これを論明するには、心性諸作用の現象変化につきて、いちいち講述するを要するも、しばらくこれを次講に譲り、ただここに論理上、推理判断の誤謬より妖怪を生ずるゆえんを説示せんとす。そもそも論理上誤謬の起こるは、種々の原因によるも、さきに第六節に挙ぐるところのものにつきてこれを考うるに、第一、部分全体の関係、第二、原因結果の関係にして、第一は演繹論法のもとづくところ、第二は帰納論法のもとづくところなれば、第一より生ずる迷誤は演繹に属し、第二より生ずる迷誤は帰納に属するなり。しかしてそのいわゆる迷誤はすなわち妖怪なれば、この二者を名付けて演繹的妖怪、帰納的妖怪と称するも可ならんか。まず演繹的妖怪を説明すべし。


       第四七節 演繹的妖怪

 演繹的妖怪はすなわち演繹的迷誤にして、演繹法の原理原則たる部分全体の関係を誤認するより起こる。それ論理の規則によるに、全体において真なることは、部分において真なるも、部分において真なることは、必ずしも全体において真なるにあらず。しかるに世人は往々、部分と全体とを同一視し、あるいは部分と部分とを混同し、はなはだしきに至りては、甲の一部分を見て、これと全く関係なき乙の一部分をも定むるがごときこと多し。これ論理のいわゆる虚偽、過失の起こるゆえんにして、妖怪の起こるもまたこれにもとづく。例えば、万有の一部分なる人間に霊魂あるを見て、日月のごとき、星辰のごとき、山川草木のごとき、その他万有ことごとく霊魂ありと論定し、あるいは宇宙の一部分たる天界に変異あるを見て、他の一部分たる人界にもまた変異あるべしと論定し、あるいは今年某月某日に災難あるを見て、これと全く関係なき来年同月同日にもまた災難あるべしと論定するがごときは、これみな演繹論法に属する一種の迷誤と称するも不可なることなし。世間のいわゆる妖怪は、多くこの類なり。

 あるいはまた、神は自在力を有すといえる前提を既定しおきて、妖怪は人力のなすあたわざるところのものなり。ゆえにこれ神の所為なりと論定し、あるいは天道は善に幸いし、悪にわざわいすといえる提案を引ききたりて、天災によりて変死せるものの上に応用し、これ天のその悪を罰したるものなりと論定するがごときも、また愚民の常に用うる論法なり。その他、かくのごとき論理上の過失に属するもの、ほとんど枚挙するにいとまあらず。よろしく論理学に参照して知るべし。


       第四八節 帰納的妖怪 

 論理の過失中、原因結果の関係より生ずる誤謬、すなわち予がいわゆる帰納的妖怪は、種々の妖怪を生ずる主因なり。そもそも原因結果は、相対性の関係にして、決してそのものに固有せるものにあらず。一原因にしてあるいは結果となり、一結果にしてあるいは原因となることあり。これをもってその関係を考定するに、多く迷誤を生じやすし。また、原因結果は必ずしも単純なるものにあらず。あるいは異なりたる原因により同じき結果を生ずることあり、あるいはあまたの原因相合して一結果を生ずることあり、あるいは一原因によりて同時に諸結果を生ずることあり。原因にも近因あり、疎因あり、主因あり、属因あり、結果にもまた直接あり、間接ありて、事物の変化は錯雑なる原因結果の連絡結合より生ず。ゆえに知力の発達したるものといえども、なお誤謬に陥るを免れず。いわんや無知の愚民においてをや。愚民は原因にあらざるものを原因とし、結果にあらざるものを結果とし、属因を誤りて主因と認め、事物の性質中、一部分の相似たるものあれば、これを同種類となして比較するがごときは、世間往々見るところなり。 例えば、大革命のときにさきだちて彗星の出ずるあれば、当時の人民は、彗星をもって革命の前兆もしくは原因とし、甲なる人、乙を殺し、その後自ら病にかかりて死したるときは、その原因をさきに殺せし亡霊に帰し、あるいは甲の夢が乙の思うところに合するときは、乙の精神の甲に感通したるものと信ずるがごとき、この類ほとんど枚挙するにいとまあらず。すなわち愚民は、一事物と他事物との間に存する関係、事情を明察することあたわざれば、ただ時間の上において、前後相接して起こるものを見て、前者を原因とし、後者を結果とし、また空間の上において、遠近の間に同時に併発することあれば、双方互いに相感応したるもののごとく考うるなり。およそ人知の程度低きものは、ただに事物の内部に包有せる理法を考察することあたわざるのみならず、時間、空間上、外部の関係を推究するにおいても、その区域はなはだ狭少に、その論理はなはだ浅薄にして、一日間の原因を見て前日の原因を知らず、一部分の結果を見て他部分の結果を知らず。これをもって、その用うるところの論法、間々大いなる誤謬を生じやすし。しかるに知力ようやく発達すれば、その思想の範囲大いに広く、その論理の考究また深くして、はじめて因果の真正なる関係を精確に知了することを得るなり。

 今、愚民の論理の極めて疎なる一例を挙ぐれば、今を去ること四、五年前、山形県庄内地内に起こりたる一奇談あり。ある夕、一種の光怪の、鳥海山の方より月山の方に向かいて過ぎたるものあり。その声、轟然として雷鳴のごとし。その地方の人、よってこれが説をなして曰く、「これ鳥海山の霊が、月山の霊に国会のことを相談せんと欲して詣ずるものなり」と。けだし、そのときまさに初期国会の開けんとする際なればなり。これ非論理的の妄談なれども、因果の道理を応用して、愚民相応の解釈を与えたるや疑いなし。ただその応用の事実に合せずして、誤謬を生じたるのみ。また、友人清野勉氏が、その著書『帰納法論理学』に一例を引きて曰く、「学士パリス氏の薬剤書をひもときみるに、一原因より生ずる両結果をもって、原因および結果と誤認するおもしろき一つの好適例を載せたり。いわく、『モヤイの一原因よりして両結果を生じ、しかしてその両結果は互いに対峙しながら、しかも相互の間に最も縁遠き関係さえなきことあり。セント・キルダ(Saint Kilda)にては、その港に船舶の到着は、該港一切の住民をして感冒症にかからしむとの信用、一般に行わる。学士ジョン・カンベル氏はすこぶる苦辛してその事柄を取り極め、これをもって人身体より上騰する悪気の結果なりとの説明を付せんとせり。しかれどもこの事柄たる、その実簡単の事柄にて、セント・キルダの地勢において、ぜひとも東北風の吹くときにあらざれば、到着の外人は船舶より上陸し兼ぬるの事情あることにて、すなわちその感冒の疾疫をひき起こすは、この東北風にして外人にはあらざるなり』」と。かくのごとき誤謬は、けだし世に多からん。


       第四九節 因果と妖怪との関係

 この原因と結果との関係は、妖怪の起こるゆえんにして、また迷誤の起こるゆえんなり。これ実に真妄、正邪のよって分かるる岐路なりというべし。それ、いかなる無知の蛮民たりといえども、いやしくも宇宙の現象を見て、これを説明せんとするときは、原因によりて結果を求め、結果によりて原因をたずねざるはなし。しかして誤謬を生ずるは、応用判断のその当を得ざるにあり。換言すれば、因果の形式と外界の事物と、互いに応合せざるにあり。ゆえに予は、これを原形の誤りにあらずして、応用の誤りなりという。しかるにその原形も、人知のいまだ明らかならざるに当たりては茫然として心中に存し、いまだ判然たるあたわざれば、したがって応用の上に誤りを生ずるに至るなり。しかしてこの因果の思想は、先天性なるや後天性なるやは、別問題に属すれば、ここに論ぜざるも、ただわが心内に有する原形は、経験を待ちていよいよ明らかに、外界の事物の講究は、因果の応用によりていよいよ進み、内外相助けて互いに発達するは疑うべからざるなり。ことにこの因果の理法は、妖怪現象を説明するにもっとも必要なるものにして、妖怪、非妖怪のよって分かるるゆえんも、また実にこの理法の明と不明とによらずんばあらず。ゆえに、その理は妖怪学の経緯をなすところのものなり。


       第五〇節 事実考定法

 以上論ずるところによりて、世の妖怪は因果の原形の誤りより生ずるにあらずして、これを事実の上に応用するの誤りより生ずること、すでに明らかなり。果たしてしからば、その応用につきて世人の注意を促さざるを得ざるものあり。すなわち、論理学のいわゆる帰納の法則これなり。その法に五種あり。曰く、契合法、差異法、合同法、残余法、共変法なり。

 例えば、ここに考定せんと欲するところの一現象ありて、そのあらわるる二個以上の場合に通有せる唯一の事情あるときは、その事情は該現象の原因なりというは契合法なり。しかるに世人の妖怪の原因を論ずるは、わずかに一、二回の経験において、一現象と一事情と前後相続きて起こるときは、ただちに甲を乙の原因もしくは結果とし、あるいは二回以上の経験において、二、三回同一の結果をあらわすを見るときは、一、二のこれに反する結果を生ずるあるも、ただちにその間に因果必然の関係ありとなす。これをもって、天変と人事との間に因果の関係あるがごとく考うるに至る。これもとより学術の許すところにあらざれば、今後はよろしく数回の経験において、必ず共通応合せる同一の原因もしくは結果の顕象を見るにあらざれば、甲をもって乙の因とも果とも考定すべからず。つぎに差異法とは、甲場合において起こり、乙場合において起こらざる現象ありて、その事情の甲乙両場合において異なるものただ一つにして、その他はみな同じときは、その異なりたる一事情は、甲場合において特に起こりたる顕象の原因なりと考定するをいう。つぎに合同法とは、契合法と差異法とを合併したるものをいう。つぎに残余法とは、甲事情と乙現象とありて、甲の中よりその知れたる原因を除き去りて、残るところのものは乙現象中に残れるものの原因なりと考定するをいう。つぎに共変法とは、甲と乙との間において、甲を増せば乙もまた増し、甲を減ずれば乙もまた減ずるときは、互いに因果の関係ありと考定するをいう。そのつまびらかなるは、よろしく帰納論理学について講究すべし。今、余はこの法則にもとづきて左の条項を定め、今後妖怪に遭遇したる人に自ら試みられんことを望むなり。

第一項、もし人、自ら妖怪(例えば幽霊)を実視したるときは、自己の感覚をもって満足せずして、その事情

 の許す限り、なるべく多く虚心平気の人をしてこれを実視せしめ、そのおのおの見るところのもの果たして

 一致せるやいなやを考察し、しかしてのち妖怪の真偽を判定すべし。

第二項、もし人、奇異の変象(例えば天変)に際会したるときは、一回をもって足れりとせずして、なるべく

 数回これを経験し、果たしてその現象と他の事実(例えば国家の変乱)との間に必然不変の関係あるやいな

 やを考定し、しかしてのち一現象をもって他の事実の原因となすべし。

第三項、もし人、一原因(例えば御札)によりて不思議の結果(例えば病気の全快)を得たるときは、他の原

 因(例えば御札の代わりに全くこれと関係なきもの)によりて同一の結果を招くやいなやを試み、しかして

 のち原因、結果の関係を考定すべし。

第四項、もし一時代(古代)において甲原因(例えば殺害)によりてただちに乙結果(例えば神罰もしくは祟)

 をきたし、他の時代(近世)においてはさらに甲原因によりて乙結果をきたさざるときは、必ずなにゆえに

 前後かくのごとき相違あるやをつまびらかにして、しかしてのち原因、結果の関係を考定すべし。

第五項、もし一地方において甲原因(例えば狐狸)によりて乙結果(例えば狐惑、狐憑きの類)をきたし、他

 の地方において同一の原因によりてその結果をきたさざるときは、なにゆえにかかる不同あるかを尋究し、

 しかしてのちその関係を論定すべし。

第六項、もし衆人、数回同一のこと(例えばト筮)を試みて、その多数は要するところの結果(例えば予定と

 事実との符合)を得たるも、少数はこれに反する結果を得たるときは、なにゆえに十は十ながら一致せざる

 やを考究して、しかしてのち原因、結果を論定すべし。

 以上の注意によりて、なるべく虚心平気をもって考察を施し、しかしてのち得たる妖怪は必ず真正の妖怪なるべし。しかれども、なおここに疑いを存せざるべからず。なんとなれば、自己一人にて確実なりと考定したる事実も、他人これを試みて確実ならざるを発見し、あるいは今日真正の妖怪と断定せるものも、後日さらにこれを考究してその誤りを発見することあればなり。ゆえに、妖怪の考定は自己の専断に任せずして、各科の学説に考証するを要す。


       第五一節 妖怪総体の大分類

 以上、第四一節以下に述べたる妖怪を、さきに第四講に示したる種類に照合して、妖怪総体の大分類をなすときは、左表のごとく排列せざるべからず。


             全分無根

         人為的 

      虚偽     一分無根

         偶然的

   仮怪              物理的

         客観上すなわち異常

妖怪    事実           心理的

                   演繹的

         主観上すなわち迷誤   

                   帰納的

   真怪


 その表中、人為的は人の故意をもって作為せるより生み出だしたる妖怪を義とし、あるいは好奇心より偽造し、あるいは自ら利を占むるため、あるいは人の喝★(采の旧字)を得んため、あるいは小説的、あるいは弁護的に作為せるものをいう。しかして、そのうち全分無根にして信ずべからざるものと、針小なる事実を棒大に敷衍補飾して大いにその実を誤るも、全く無根にあらざるものとの二様あり。つぎに偶然的とは、故意にて造り出だしたるにあらざるも、偶然に妖怪となりて世に伝わるものをいう。例えば、乞丐が一夜を明かさんと欲して、路傍の空き屋に忍び入り眠りに就きしに、その前を通過せるもの屋内に人あるを知らず、その鼾声の外に漏るるを聞きて妖怪なりと認め、あるいは庭前の樹枝に衣類を乾かさんと欲して、昼間かけおきたるものを、夕刻これを取り入るるを忘れたるに、夜中その樹下を経過せしもの、これをもって幽霊の樹間に現出せるものと認めたるの類をいう。

 予、このことにつき一奇話を聞けり。維新前、ある城内に毎朝鶏鳴にさきだちて「トウテンカ」「トウテンカ」と叫ぶ声あり。思うに鳥の声なり。その語、解すべからずといえども、「トウテンカ」はけだし当天下ならん。果たしてしからば、妖鳥ありて天下に大変動あることを告ぐるものとなせり。しかるに一人ありてその原因を探知せんと欲し、その声のきたる方をたずねて行けば、城内にあらずして城外なることを発見せり。さらに城外に出でてこれをたずぬるに、市に鍛冶屋ありて、毎朝三時ごろ起き鍛工に従事し、「トウテンカ」とはすなわちその声なるを知れりという。かくのごときはみな虚偽にして事実にあらず。世間のいわゆる妖怪は多くこの類なり。

 もし事実についてこれを分かつときは、また主観、客観、すなわち迷誤と異常との二様を設けざるべからず。客観の方は第四講種類編においてすでに詳述し、主観の方は論理的妖怪にして、すなわち本編において説明したるものこれなり。しかして論理的はまた心理的の一種なれば、これを心理学に属して可なり。今、予が目的は心理学を中心として物理的、心理的の妖怪を説明するにあれば、以下述ぶるところは心理学の講義なり。それ心理学は外面にては理学と関接し、内面にては純正哲学と関係し、内外両界の要路に位する学なり。ゆえに、予は心理学をもって、妖怪征伐の元帥もしくは牙城となさんとす。



第七講 説明編第一

      第五一一節心理学上の説明

 前講において妖怪すなわち迷誤のよって起こる原因を説明したるも、いまだ妖怪現象のよって生ずる理由を説明せず。しかしてその理由を説明するは、実に本講の目的とするところなり。そもそも妖怪はさきに述ぶるがごとく、物理的、心理的の二種ありて、物理的妖怪は諸科の理学に関係を有し、心理的妖怪は諸科の哲学すなわち心理学、宗教学、純正哲学等に関係を有するなり。しかしてそのうち、妖怪学講究にもっとも要するところのものは、心理学となす。なんとなれば、物理的妖怪もまた畢竟、心理現象の上に成立するものにして、物理的説明の一半も、心理学によりて講述せざるべからざればなり。しかして諸科の理学および哲学は、各部門において講述するときに譲り、本講はその説明の中心たる心理学の原理を論明せんとす。ゆえにこの編は、総論中もっとも重要なる部分なりと知るべし。しかしてまた、心理学に正則、変則の二様あるをもって、今ここにその別を一言せざるべからず。正則心理学は常態、尋常の心理現象を説明するものにして、変則心理学は変態、異常の心理現象を説明するものなり。予は第二講一四節により、この二種を名付けて左のごとくいわんとす。

  第一種 正式的心理学

  第二種 変式的心理学

 まず正式的心理学を述べ、つぎに変式的心理学を論ずべし。


       第五三節 物心相関の説明

 正式的心理は普通の心理において論ずるところなれば、すでに心理学を通読したるものにありては無用の弁に属するがごときも、変式的心理学を講ずるに当たりて参照せざるを得ざるものなれば、ここにその大要を略述せんとす。すなわち、まずはじめに物心相関を述べ、つぎに心身相関に及ぼし、つぎに神経組織を論ずべし。それ物心は互いに相待ち相対して存するものにして、物なければ心またなく、心なければ物またなし。ゆえに、これを相対性の存立という。しかして物心二者の体おのおの並び存すと立つるもの、これを二元論といい、その一つのみありて他はこれに随伴して存するに過ぎずと立つるもの、これを一元論という。一元論に唯物、唯心の両論あり。その他また物心の本源にさかのぼり、非物、非心の体を想定して、物心二者はこれに属する現象に過ぎずとなすもの、これまた一元論なり。すなわち理想論のごときものこれに属す。今、予は理想論を述ぶるにあらず、物心の本体を論ずるにあらず、ただ二者の現象の互いに相関するゆえんを説明せんとするのみ。しかしてその現象上の関係に至りては、物を離れて心なく、心を離れて物なしといわざるべからず。

 人あり、難じて曰く、「物を離れて心なきは疑うべからざる事実なれども、心を離れて物またなしというに至りてはその意を解するあたわず。なんとなれば、たとえわが心なきも、この天地万有の実に存するは否定すべからざればなり」と。予、これに応えて曰く、「甲某今死してその心滅するも、天地依然として存するものは、乙某の心存すればなり。乙某死してその心滅するも、なお天地依然として存するものは、丙某の心存すればなり。なお一茎の草枯るるも、他の草なお存するときは、草全く滅すというべからざるがごとし」人あり、また難じて曰く、「たとえばここに暗室あり。その中にランプを点ずれば、壁間に陳列するところの書籍一目して知るべし。しかしてランプ滅すれば再び元の暗室に復するも、その室内の書籍これとともに滅するにあらず。今、宇宙間の万有は書籍のごとく、心性はランプのごとし。いずくんぞ心なければ物またなしというを得んや」予、またこれに応えて曰く、「これ、その譬喩すでに誤れり。その論理、あにひとり正当なるを得んや。それ、物をもって書籍にたとえ、心をもってランプに比するは、物心二元全くその体を異にすること、なおランプと書籍とその体を異にするがごとしとするものなり。かくのごとく考うるときは、心を離れて物あるのみならず、物を離れて心ありというを得べし。なんとなれば、ランプなきに書籍あり、書籍なきにランプありというを得べければなり。今、物心をもって相関相対性を有するものとなすは、物を離れて心なく、心を離れて物なきを意味するものにして、書籍、ランプの比喩と同一に論ずべからざるなり。かつ、そのいわゆる心を離れて物なしとは、意識上に感見するところの諸物象なきを義とし、そのいわゆる物象とは色、声、香、味、触の諸象を指すものにして、この諸象を除き去り、あに吾人のいわゆる物なお存すというを得んや。これを要するに、物心両象は互いに相待ちて存すること明らかなれば、その関係の密接なること、もとより喋々をもちいざるなり」 これをもって、物理的妖怪の説明は心理的を待ち、心理的妖怪の説明は物理的を待つゆえんを知るべし。しかして予はこの二大種の妖怪を説明する目的なれども、心理学を中心として説明を与うる本意なれば、精神作用の物象上に及ぼせる影響いかんを詳論せんとす。しかれども、古代の精神学者のごとく、心は全く物の外に独立するものとして論ずるにあらず。なお物心相関の理にもとづき、経験学派の心理論に照らして説明を与えんとするなり。


       第五四節 身心相関の説明

 物心二者は互いに相待ちて存するも、その性質全く異なるところありて、これを同一視すべからず。物は外にありて存す、これを客観といい、心は内にありて存す、これを主観という。ゆえに、物心相関はすなわち内外相関なり。しかしてこの二者の中間にあるものは吾人の身体これなり。身体は物質によりて組成せらるるも、心性その上に作用を現し、物心その上に一致を示すなり。ゆえに、身心の密接なる関係を有することは、問わずして知るべし。しかしてまず身体上の諸事情がその影響を精神上に及ぼせる諸例を挙ぐれば、血液、栄養、消化、呼吸、体温、労働、疾病、健康等なり。すなわち、血液の分量の多寡、成分の適否、およびその循環の遅速等、みな精神上に変動を与え、その作用あるいは過敏となり、あるいは遅鈍となり、はなはだしきに至りては全く停止することあり。しかして食物の栄養、腸胃の消化、呼吸、体温の事情いかんは、これに準じて知るべし。また、あるいは手足を労働し、あるいは身体を傷害するときは、必ず多少精神上に苦痛を感じ、身体強壮、健全なれば大いに爽快を覚うるは、人のみな経験するところなり。これまたもって労働、疾病、健康の、その影響を精神上に与うるを知るべし。

 これと同じく、精神上の変動はまた必ず外貌の上にその事情を示すものにして、喜ぶときは笑い、悲しむときは泣き、はずるときは満面紅色を潮し、おそるるときは全身冷汗を流し、あるいは手ふるえ、足おののき、音声を発する等、これまた人の熟知するところなり。しかれども、以上の関係は間接に属し、いまだ直接の関係にあらず。もし直接の関係を挙ぐれば神経系統にして、なかんずく脳髄なり。例えば、神経健全なるときは感覚を伝うるに異常なきも、もしその組織生来不完なるか、あるいは疾病もしくは他の事情によりて障害を受くるときは、

感覚を伝うることまた不完なり。あるいは神経の一部分を外より強く圧迫せられ、もしくは非常に疲労したるときは、さらに感覚を伝えざることありて、意志をもって運動を命ずるも、これに従わざるものなり。

 つぎに脳髄と精神との関係を述ぶるに、第一に、脳髄の大小は知力の発達に比例するものにして、野蛮人の脳髄と開明人の脳髄とは大いにその大小を異にし、動物中にありても、精神の発達の高下に応じてその容量に差異あるを見る。かつ脳髄の表面には盤曲ありて、知力の高下はその多少に関係ありという。これ他なし、盤曲多きものは面積広きをもってなり。第二に、外部より脳髄に非常の刺激を与え、あるいは高所よりおちて脳と他物と衝突したるときは、たちまち昏迷もしくは失神して精神作用を停止するに至る。第三に、精神を過労したる後には、必ず頭部に疲労もしくは苦痛を感ずるなり。これ、第二の裏面より証するものなり。第四に、白痴症、失語症、その他諸精神病にかかるものは、これを検するに、脳髄の部分において多少の変状あるを見る。第五に、過度に精神を使用したるときは、排泄物中に脳髄を組織するところの成分の多く混入せるを見る。第六に、動物に施せる種々の試験によりて、脳髄と精神作用との密接なる関係あることを証明するを得。以上の理由によりて、身心なかんずく心脳の関係の親密なるを知るべし。


       第五五節 神経系統

 神経組識論は生理学に属する問題なれば、ここに詳述するを要せざるも、今その大略を述ぶれば、神経系統に二種の部分あり。一を神経繊維といい、一を神経細胞という。繊維は白色にして伝導作用をつかさどり、細胞は灰白色にして中枢作用をつかさどる。しかして伝導作用に求心性、遠心性の二種あり。神経の末端に起こるところの刺激を中枢に向かいて伝うるものを求心性神経といい、あるいは感覚神経という。また、中枢に起こるところの興奮を末端に向かいて伝導するものを遠心性神経といい、あるいは運動神経という。この二種の神経、相集合して種々の機関を形成す。その機関を分かちて伝導器、中枢器の二類となす。中枢器は神経細胞より成り、伝導器は神経繊維より成る。伝導器に属する神経に求心性、遠心性の二種の外に、中枢と中枢との間を連絡する中間神経あり。また、中枢器には脳髄、脊髄、神経節の種類あり。その表、左のごとし。


                   遠心性神経

        繊維体すなわち伝導器 求心性神経

                   中心間神経

神経系統括機関                 

                   神経節

        細胞体すなわち中枢器 脊髄

                      延髄

                   脳髄 小脳

                      大脳


 そのうち神経節は中枢器の一種にして、神経細胞より成るも、精神作用を論ずるには必要ならざればこれを略す。脊髄は背骨中に存する一種の中枢器にして、反射作用を有す。例えば熟眠中手足を動かすがごときは、脊髄の反射作用によるものなり。しかして脊髄は脳髄と連絡し、手足その他の部分と脳髄との間にありて、感覚および運動作用の媒介をなすものなり。つぎに、脳髄は頭蓋骨中に存する中枢器の主要なるものにして、これに延髄、小脳、大脳の別あり。延髄は脊髄と大脳との間にありて、上下二者に連絡し、生命にもっとも必要なる機関の反射作用をつかさどる。例えば、心臓、肺臓等の反射運動のごときこれなり。しかして精神作用の本位とすべきものは、ひとり大脳なり。すなわち、心理学のいわゆる知情意の作用は全くここにありて存するものにして、意識に関する諸作用はみなこの部分より発するなり。しかして大脳中また反射作用あれども、その説明は後に譲る。およそ心理作用に反射作用と意識作用との二者あり。反射作用は無意識作用にして、自らその心に感知せざる作用をいう。しかしてこの両作用の関係も、また後に至りて述ぶべし。つぎに、小脳は別に特種の精神作用を有するものにあらず、ただ運動を規制する作用あるのみという。以上の諸機関は人類活動の諸作用にして、もしこれに付属するものを挙ぐれば五官器、筋骨等あり。その各部の関係、左のごとし。


     主体 神経系統

精神作用          運動器(筋 骨)

     属体 諸有機機関    

              覚官器(五官器)


 その他、有機機関中には消化器(腸胃)、呼吸器(肺)、血行器(心臓および血管)等あれども、むしろ生活作用に関する機関なればこの中に加えず。もしまた、これを動物性官能と植物性官能とに分かつときは、精神作用に関する機関はこれを動物性とし、生活作用に関する機関はこれを植物性とするも可なり。


       第五六節 感覚および知覚

 神経系統論は生理学に属する問題にして、いまだ心理学の部門に入らず。心理学の部門は感覚をもって初級とす。ゆえに、これより感覚につきて一言せざるべからず。それ、感覚は実に内外両界の間にありて、物心二者を連合する媒介をなすものなり。ゆえに、その義解を与えんと欲せば、これを内外両面より考察せざるべからず。まず外面すなわち客観上より解するときは、感覚は求心性神経の末端において起こるところの、物質的刺激および神経系興奮にほかならず。しかして、その刺激の主体は外界の物質にして、その物質より与うるところの刺激は神経の興奮を起こし、これより相伝えて脳髄に達し、はじめて一種の感動を生ずるなり。しかれども感覚は、ひとり物質的解釈のみにて説明することあたわず。もしこれを内面すなわち主観上より解するときは、心性作用の直接に外界に接して起こるところの最も単純なるものというべし。これ実に知力の起源なり。しかしてその種類に、普有性感覚すなわち有機感覚もしくは体覚、および特有性感覚すなわち視、聴、嗅、味、触の五感覚あり。普有性感覚すなわち体覚は身体組織間の感覚にして、消化、栄養、呼吸、血行等に伴って飢渇、体温、疲労、爽快等を感ずるものなり。この感覚は人間生活の有機作用に関して起こるものにして、一定せる特種の部位を有せざれば、これを普有性もしくは有機と名付くるなり。つぎに、視、聴等の五感はなにびとも熟知するところなれば、ことさらに解釈を与うるを要せず。すなわち、これ身体中に一定せる特種の部位を有する感覚なるをもって、これを特有性と名付くるなり。その他、感覚に属するものに筋覚と名付くる一種あり。しかれども、これ運動の感覚および抗抵の感覚に与うる名称にして、今挙ぐるところの普有および特有の両種を離れて独立するものにあらざれば、別に一種を設くるに及ばざるがごときも、その性質また大いに両種に異なるところあれば、これを別置するをよしとす。なんとなれば、普有、特有の両種は、その性質ともに所作用にして、外物より与うるところの刺激を感受するに過ぎざれども、筋覚は手足筋骨の運動によりて、外物の上にその作用を与うることを得るをもって、能作用に属すればなり。

 つぎにまた、感覚に四種の性質ありて、第一には事物の度量、第二には事物の性質、第三には時間、第四には位置を感別することこれなり。例えば視感によりて色を見るに、その濃淡の度、赤白の別を知り、また手足によりて外物に触るれば、その物の距離および位置、速度、時間を知るを得るがごとき類なり。その詳細の説明は、心理学(〔井上円了〕『心理摘要』「感覚論」)に譲りてこれを略す。それ、感覚より一歩を進むれば知覚に達するものにして、知覚は感覚のやや複雑にわたり、かつ外物を一個の物体として認識する作用なり。これ、外物より得たる各種の感覚を結合して生ずるところの結果なり。しかして感覚中知覚を形成するに、その力おのおの同一なるにあらずして大いに強弱の差あり。すなわち、視覚のごときは最も知覚を構成するの力強く、嗅覚、味覚および体覚に至りてはその力はなはだ弱しとす。その説明もまた心理学の講義に譲りて、ここにこれを略す。


       第五七節 再想および構想

 知覚より一層高等に位するものに、再想および構想の二種あり。この二者を再現的といい、これに対して感覚、知覚を直現的あるいは表現的という。すなわち、外物との関係において直接、間接の異同あればなり。まず、再想とは再生的想像を義とし、直接に外物を感知するにあらずして、ひとたび感知したるもの心内にその影像をとどめ、そののち再起するをいう。そもそも知覚は直接に外物に接触して起こるものなれども、ひとたび知覚すれば必ずその影像を心面にとどめ、しかして後日再起するに至ればこれを再想という。ゆえに、再想の生ずるに要するものは知覚および記憶にして、また、その起こるに要するところの事情は連想なり。連想とは観念の連合を義とす。観念とは主観上に成立せる事物の思想にして、ここに客観上に数種の事物あれば、主観上にもまたこれに対する数種の観念あり。ゆえに、外界の事物互いに連合して存するを経験すれば、内界においてもまた必ず観念の連合して存するに至る。この観念なるものは、実に再想の起こるに欠くべからざるものにして、吾人は一事一物をみるごとに、必ずこれに連合したる観念を心内によび起こすものなり。しかして記憶作用のごときも、この連想の事情を要するは論をまたず。

 つぎに、構想は構成の想像を義とし、諸再想の一部互いに結合して、ややその形を変じたるものをいう。すなわち、再想上の一影像のある部分を取りて、これを他影像の諸部分と取捨結合するときは、必ず一種の新影像を生ずるに至るべし。例えば、鳥の羽翼を人に加えて空中を飛行する新動物を構成するがごとき、これを構想という。しかして、吾人の普通に唱うるところの想像はみなこの類なり。


       第五八節 虚想

 再想および構想は、個々の事物をその特種の性質につきて想見するものなれば、予、これを名付けて実想という。これに反して、その特種を離れて普通一般の性質を考出するもの、これを虚想といい、その作用を思考作用という。例えば、雲を見てその黒白を判じ、木を見てその大小を知るは知覚の作用に属し、これを再現するに至れば実想に属するも、道徳、良心、権利、義務のごとき、あるいは宇宙、世界、人間、国家のごとき、無形無質に関するもの、もしくは普遍一般にわたるものに至りては、知覚によりて知るべからず、また実想によりて得べからず、ひとり虚想によりて思考するにあらざればあたわず。その他、禽獣の禽獣たるゆえん、草木の草木たるゆえんのごときもまたしかり。しかしてこの思考作用は、実物、実想を種々に抽象概括して得たるものなれば、実想の発達したるものなること明らかなり。この虚想作用を分かちて三種となす。概念、断定、推理これなり。概念は虚想作用中の最も単純なるものにして、実想を彙類比較し抽象概括して得たるところの、普通一般にわたる事物の観念をいう。この概念互いに結合して一連の思想をなすに至れば、これを断定と名付く。ゆえに、断定は虚想のやや複雑となりたるものをいう。この断定、また互いに結合して推理を生ず。これ論理の起こるゆえんにして、演繹推理、帰納推理の二種ありて相分かる。以上の説明もまた心理学(『心理摘要』「虚想論」)に譲る。


       第五九節 感情および意志

 以上は知力の種類の、その初級なる感覚より次第に進みて、その高等なる推理に至るまでの各作用の大略を摘示したるのみ。これに対して感情および意志あり。これまた、その大要を略述せざるべからず。それ知力は識別、思量をもってその性質とし、感情は苦痛、快楽をもってその状態とし、意志は行為、挙動をもってその目的とす。この三者を単称して知、情、意という。これ実に心理作用の三大種なり。しかして、感情はまた分かれて感覚と情緒の二種となる。感覚は知力の一部分にして、また感情の一部分なり。これ感覚に二種の性質を有するによるものにして、その一は事物の性質を識別する作用、その二は苦楽の状況を感起する作用なり。その識別作用は知力に属し、その感起作用は感情に属するものにして、これその知情両部にまたがるゆえんなり。つぎに、感情は単情、複情の二種に分かれ、喜、怒、愛、懼のごときは単情に属し、真理を求め道徳を欲するがごときは複情に属す。複情は一にこれを情操という。例えば、父母の子を愛するは単情の愛にして、学者の真理を愛するは複情の愛なり。父母の愛は知力の発達をまたず、自然に有するところの単純の情愛に出ずるも、真理のごときに至りては、高等の知力を有するものにあらざれば感ずることあたわず。これをもって、禽獣なおその子を愛するを知るも真理を愛するを知らず、ただに禽獣のみならず、人間多数のものにありてもまた真理を愛するを知らず。ゆえに、単情、複情の別は心性発達の程度によりてその別あるものにして、単情ようやく進み諸作用結合していよいよ複雑となり、近きより遠きに及ぼし、有形より無形に及ぼすに至りて複情作用の生ずるを見るなり。

 つぎに、意志にも単意、複意の二種ありて、単純の衝力に応じて起こるものを単意といい、複雑の動機によりて生ずるものを複意という。例えば小児の前に一片の菓子を置けば、ただちに手をもってこれを取らんとす。これ、菓子そのものの影像は心内に映じてこの衝力を与うるによる。しかるに大人に至りては、たとい目前に菓子を見るも、猶予遅疑してあえてこれを取ることをなさず。これ、菓子の影像のみの単純の衝力内部に起こるにあらずして、種々の事情を考出し、種々の動機の起こるによる。畢竟、小児の克己作用に乏しきは、その衝力単純なるにより、大人の克己作用を有するは、その衝力の複雑なるによる。ゆえに意志中、克己作用のごときは複意に属するものと知るべし。しかして今、この感情、意志両作用を詳論するがごときは本講の目的にあらず、かつその余地なきをもってこれを略す。ただ心理作用中、妖怪説明に直接の関係を有するものは、特に一項を掲げてこれを論明せんとす。すなわち、第一、意識論、第二、注意論、第三、習慣論、第四、連想論、第五、信仰論、第六、恐怖論、第七、想像論、第八、願望論これなり。



第八講 説明編第二

       第六〇節 意識論 第一 定義

 それ心理現象の根基となり、諸知識の本素となるものは意識なり。ゆえに知といい、情といい、意という、みなこれを解釈することを得べきも、ひとり意識に至りては義解を施すことを得ず。なんとなれば、一切の説明、解釈はみな意識内にありて現ずればなり。もし強いて意識を解せんと欲せば、意識は意識なりといってやまんのみ。あるいは意識を解して感情となすものあり、あるいは知識となすものあれども、これみな意識中の一部分にして、意識そのものの解釈にあらず。けだし、意識はこれらの諸現象を総括したる名称なり。しかれども全く解釈を与えざれば、そのなんたるを知るべからず。ゆえに今、仮に心理学上一般に用うるところによるに、あるいはこれを解して自知なりという。自知とはなんぞや。すなわち心にある情態を自ら知ることにして、吾人は今思考せるか、想像せるか、はた感覚せるかを自ら知るをいう。換言すれば、心自ら心を知るの意なり。ゆえに、心はよく決断しながらその決断せるを知り、憤怒しながらその憤怒せるを知るなり。この意義によるときは、吾人は自知そのもののほかには、一つの知識も一つの言語も有せざれば、意識につきてなんらの定義を与うることあたわず。しかれども通常、吾人のいわゆる意識は、ただ無意識に反対したるものをいう。すなわち、人の熟眠中に手足を動かすがごときは無意識に属し、醒覚のとき意志をもって身体を動かすは意識作用なり。また、醒覚のときといえども、覚えず手を出だし足を伸ばすことあるは、これまた無意識作用なり。かくのごとく無意識に対照して考うるときは、意識の意義を心中に自得するにおいて、はなはだ難きにあらざるべし。ゆえに、あるいは意識を解して直接の知識なりという。直接の知識とはなんぞや。請う、例をもってこれを明かさん。今、吾人は往年、親友とともにある勝地に遊びしことを憶起せるあらんに、これ突然わが心中において構造したるものにあらず。実に数年前においてひとたびわが意識の上に経験せしことを、現在において再び憶起せるものにほかならず。しかしてその数年間は、往時の知識全く消滅したりというを得ず。なんとなれば、真に消滅せしものは再び憶起すべき理なければなり。しかるに、座ながら随意に往年の壮遊を憶起し、四辺の風光躍然として目前にみるがごときは、これ数年の久しき消滅せずして、よく心内に蓄蔵せられたるや明らかなり。

 かくのごとく知識は消滅せずして蓄蔵せられ得るも、意識の範囲はただ直接現在の覚知に限り、そのいわゆる知識の蓄蔵に及ばず。しかしてその蓄蔵の知識は、むしろこれを記憶に属すべし。すなわち潜伏せる知識は記憶にして、発現せる知識は意識なり。ゆえに記憶中に存する知識の、いやしくも再現して心中に想起することあれば、これを意識内の知識という。もし記憶は、かつて経験せしより以来いたずらに蓄蔵せるのみにして、いまだ心中に再現せざれば、その果たして記憶せるやいなやも得て知るべからず。しかして、吾人はすでにある知識を記憶したりといえば、そのことは意識上に再現したる現在直接の知識ならざるべからず。これ、意識を解して直接現在の知識なりというゆえんなり。

 あるいはまた、意識を解して心性の生命なりというものあり。なんとなれば、意識にありてはじめて心のあるを知り、意識なければまた心なく、意識の心におけるは、なお延長の物におけるがごとくなればなり。あるいはまた、心内の光明となすものあり。すなわち心内に種々個々の観念あるも、意識のこれを照らすにあらざれば、知識として現ずることあたわず。これをたとうるに、暗室内に種々個々の物品あるも、灯光のこれに照らすにあらざれば見ることあたわざるがごとし。これみな、意識と無意識とを区別して与うるところの義解なり。もしそれ、無意識の無意識たるを知るも意識なり、意識の無意識に異なるを知るもまた意識なり、意識の範囲を離れて一歩も出ずることあたわずとなすに至りては、吾人は、意識はすなわち意識なりといってやまんのみ。

 ゆえに予は、意識に絶対的、相対的二様の解釈あるを知る。絶対的意識は意識、無意識の二者を総合包含したるものにして、相対的意識はこの二者を対立併存したるものなり。しかして予が今講ずるところは、絶対的にあらずして相対的にあれば、経験学派の論によりて意識の起こるゆえんを説明せんとす。およそ意識の起源を論ずるに、唯心、唯物の両論あり。唯物論者はその原因を脳髄内部の構造、機能に帰し、唯心論者は脳髄を組織せる物質を離れて心性の存在を唱う。今この両論を対照してその是非、優劣を判ずるは、もとより容易のことにあらず、かつ本講の目的にあらざれば、予はしばらく両論の中間に立ちて身心一体両面説をとり、外面には物質的組織あり、内面には心性的作用ありて、互いに相待ち相伴うものにして、その体一なりといわんとす。しかして、唯物論より論ずるも、物と力との二者あることはそのすでに許すところにして、この二者は一体両面の関係を有すとなさざるべからず。また、唯心論より論ずるも、心は物によりてその作用を現じ、精神は身体の発達に伴ってその性質を開顕することは、否定すべからざるところなり。ゆえに両論を調和すれば、身心一体両面説を唱えざるを得ざるに至る。すでに二者両面の関係を有すとするときは、その体を論究するに、一方は客観上の事実に照らし、一方は主観上の思想に考えざるべからず。

 しかして、心そのものに至りては、実験思慮外にありていかんともすべからずといえども、これを探究するに二法あり。すなわち、その一は諸動物および他人の上に考え、その二は社会、国家の上に考うるものこれなり。この二法ともに比較、推測にほかならざるも、これを離れて別に探るべき道なきをもって、まず真理に近きものとしてこれを許さざるべからず。しかして、この方法によりて証明せんと欲せば、さらに動物学、社会学等の諸科をも講述せざるを得ざれば、これまたすこぶる難事なりとす。ゆえに予は、従来諸家の研究せる方針にもとづき、自ら私見を立てていささか証明するところあらんとす。


       第六一節 意識論第二意識、無意識の別

 以上解説するところにより、意識は心内の光明なりとしてこれを考うるに、その光明は心性固有の本性にして先天性といわざるべからず。もしこれを唯物論の上より解すれば、物質の内部に包有せる真相なりとす。しかしてその真相は外部の発達に伴って次第に開顕するものにして、脳髄の構造、機能いよいよ完全に達すれば、その光輝もいよいよ円満なるに至るなり。ゆえに、意識の光明はこれを先天性となすも、その発達は外部の組織に伴うものなるを知らざるべからず。しかれども、ひとり光明のみありて、もしこれに触るるものなきときは、その光明の有無、かついまだ知るべからず。なお吾人は耳目を具するも、これに触るるものあらざれば、視聴の感覚あるを知らざるがごとし。ゆえに、五官より入りきたるところの感覚的影像は、すなわち意識の光明に触るるところの物体にして、その光明に照らされて個々の観念の心内に現存するを知り、また、この観念によりて意識の光明の存するを知るなり。これを暗室にたとうるに、ランプの光明ありて室内に陳列する諸品あるを知り、また、その諸品によりて光明の明暗を判ずるがごとし。しかして、その光明は先天性なれども、その個々の観念は外界より感覚を経て入りきたりたるや明らかなり。かつまた意識の光明中には、諸観念を結合、分解して、知識を構成組織する作用を有するや疑うべからず。なんとなれば、その作用あるにあらざれば、知識そのものの生ずべき理なければなり。これ、なお材木あるもこれを構造する工匠あるにあらざれば、家屋を成すあたわざるがごとし。果たしてしからば、意識に原形と材質との二者ありとなさざるべからず。そのいわゆる原形は先天性光明にして、材質は感覚的影像なり。この二者相合して意識、および知識の成立するを見る。しかして、これが基礎をなすものは記憶保持の力なり。この力あるにあらざれば、感覚的影像を心内に住止せしむべからず。しかしてこれまた、意識中に固有するところの先天性なり。

 しからば、意識に対して無意識の存するはなんの理によるや。意識は先天性光明なりといえども、そのいまだ発達開顕せざるに当たりては、心内全く暗黒の世界にして、太陽いまだ昇らずして四面なお暗夜なるがごときのみ。ゆえに動植物のごときは、いまだ意識の光明を見ずして暗黒の世界にありて存するなり。しかして動物中の高等なるものにありては、一部分の光輝を現ずるも、なお鶏鳴、日いまだ昇らずして、東天わずかに微白を漏らすがごとし。ひとり人間に至りては、意識の日輪、心天高き所にかかり、光輝赫々として四面を遍照するも、なお知力発達の程度において、大いにその光輝に厚薄、深浅の差あるを見る。しかして、もしその光の浅薄なるものにありては、たとい種々の影像外界より入りきたるも、意識の光に接するもの実に鮮少にして、かつ判明ならず。ゆえに無知下等の人民は、一事一物の原因結果を考定するに、その見るところはなはだ狭く、かつその論理極めて疎なり。なお、光輝すこぶる微薄なるランプによりて、室内を照らさしむるがごとし。これ、動物および野蛮人種に無意識作用多くして、高等人種に意識作用多きゆえんなり。しかして、その無意識はすなわち反射作用なり。反射作用は、もと外界の刺激に応じて起こるところの感覚の、意識の命令を待たずしてただちに外界に向かいて反射応答を現ずるを義とすれば、生活体に固有なる物理的もしくは機械的作用にして、精神的に属すべきものにあらず。しかれども、精神作用と反射作用とは互いに連結して存し、その間に決して画然たる分界を立つべからず。ゆえに、あるいは反射作用一変して精神作用となり、あるいは精神作用一変して反射作用となることあり。これによりてこれをみれば、意識も無意識もまた、その間に決して先天性の分界あらざるや明らかなり。 例えば脳髄中に発する作用に、意識を要するものと要せざるものあり。今ここに人ありて詩文を吟誦するに、字々句々の間に、心力を用いて読み下さざればあたわざるものあり、知らず識らず口舌に任じて読み下すを得るものあり。その一は意識作用にして、その二は無意識作用なり。無意識にて吟誦し得るものも、そのはじめはけだし意識を用いたるによる。意識を用いざればあたわざるものも、反覆吟誦すればその終わり無意識に変じ、無意識にて吟誦し得たるものも、久しくこれを反覆せざるときは、また意識を要するに至る。僧侶の経文を読誦するに、はじめは意識を用いてこれを記憶し、ついで朝読夕誦、数回反覆するに従いおのずから無意識に変ずるも、そののち久しく読習せずして数年を経てこれを暗誦せんとするときは、また意識作用に変ずるを見て知るべし。かくのごとく意識作用の無意識に変ずるは、反覆習慣の力によりて機械的に変じたればなり。この習慣性はひとり肉体上に存するのみならず、心性の諸作用またみな習慣性を有せざるなし。ゆえに、意識も習慣によりて無意識に変ずることあるは、もとより怪しむに足らず。かくしてすでに習慣によりて無意識に変じたる後は、その習慣ひとたびやまば、またはじめの意識作用に変ぜんとする傾向あるも自然の道理なり。もし、その習慣にして確然不動の天性を形成するに至れば、本能性となりてこれを子孫に遺伝し、また意識に変ずるのおそれなし。ゆえ

に、無意識の意識に変ずるは、習慣のいまだ全く熟せざるによるものというべし。今その理由を明かさんと欲せば、左のごとく説示せざるべからず。


       第六二節 意識論 第三 心力と意識との関係

 唯物論者の説によれば、人の心性は物質固有の勢力の一種なり。ゆえに人類の思想力も、動物の感覚力も、植物の生活力も、みな同一種ならざるべからず。また、唯心論者の説によるも、今日は古代学者の唱うるがごとく、人類の心と禽獣の心と本来全く別種なりとする者なく、唯物論者のごとく、生活力も感覚力も思想力もみな同一種のものにして、ただ発達の程度の高下に応じてこの別を生ずるなりという。これによれば、唯物、唯心両論ともに動植、人類は同一種の心性を有すと仮定して論ずるも、もとより不可なることなきなり。

 しからば同一種の心性上に意識、無意識の別あるは、なにによりて生ずるや。それ、意識はすでに解して先天性の光明となせり。しかしてその光明の明、不明は、一に発顕する心力の分量いかんにあり。すなわち、その力一点に積集して多量を得るに至れば、その光いよいよ明らかに、もしその力一点に積集することなければ、その量したがって少なく、その光また明らかならずして、ほとんど無意識のありさまを現ずるなり。しかして心力の一点に集まると集まらざるとは、これに抗抵するもののいかんにあり。すなわち、ここに一つの抗抵するものありて、心力のこれに勝つに多量を要せざるを得ざるときは、自然にその点に向かいて積集するをもって意識の光を現ず。もしこれに反して抗抵するものなきときは、心力の積集することなきをもって、意識その光を発せざるに至る。たとえば、ここに一条の流水あり。その水路に当たり、巌石の横たわりてこれに抗抵するものあれば、水自然にここに集まり、その量たちまち増して大となり、ついにその石を越えてこれに上るに至り、もし、しからずして、これに抗抵するものなきときは、さらにその勢いをさまたぐるものなく溶々として流れ去り、その量を増すを見ざるがごとし。諺に「対手なくして相撲取れず」というもの、ややこの意に近し。ゆえに心内の事情、一大心力を要する機会に接すれば、その力たちまちここに積集して意識を現ずるも、もしこれを発顕するにその対手となるものなくんば、心内に意識の光明を包有すというといえども、またこれをいかんともすることあたわず。しかしてそのいわゆる対手は、従来の習慣を有せざるところの新経験のことに会するか、もしくは心内に種々の観念錯合して、その中より適応のものを発見するの難きに接するがごとき場合これなり。この二者は、ともに心力に多少の抗抵を与うる事情なり。

 そもそもスペンサー氏は意識、無意識をわかちて、経験の多少と習慣の有無に帰したるは、予の同意するところなれども、氏は意識をもって心性内包の力となさざるは、その論のすこぶる浅薄なるを覚うるなり。予はすなわち、無意識の諸作用はみなその内部に意識の光明を包有するも、いまだこれを外発する程度に進まざるものなりといわんとす。しかしてその無意識の意識に変じ、意識の無意識に変ずるがごときは、心力一点に積集すればその光明を発し、放散すればその光明を失うものとなすなり。しかれども予が意、動物も人類もある一点に心力を積集することあれば、同じく意識の光明を発すべしというにあらず。動物のごときは、神経組織いまだ意識を発顕する程度に発達せざるをもって、意識の光明を外発することはなはだ難しとす。これを例うるに、地球の内部に火気を包有するは、いずれの所を問わずみな同一様なりといえども、噴火口あらざる所には火気を噴出することなきがごとし。また、たとい意識を発顕すべき構造、機能を有するも、心力の一点に会集する事情に接せざれば、また意識の光を示さざることあり。なお、火気を噴出する火口を有するも、晴雨、気圧等の事情によりて、その噴火の有無、多少を異にするがごとし。

 これを要するに、意識の有無は、一は神経組織の構造、機能いかんに関し、一は心力積集の事情いかんに関するなり。しかして、その事情いかんにつきては、予が論スペンサー氏の論と大差なきも、氏が先天性意識の無意識中に内包せるを示さざるは、予が説に異なるところなり。


       第六三節 意識論 第四 意識の範囲

 それ、下等動物の反射作用のごときは、物質的すなわち器械的習慣性に従って生じ、人類の精神中の無意識作用のごときは、精神的習慣性に従って生ずるの別あるも、二者ともに習慣によるや明らかなり。ただ下等動物にありては、身心両面の発達いまだ内包の意識を開顕するに至らざるのみ。しかして予はすなわちおもえらく、意識作用も、無意識作用も、生活力も、感覚力も、思想力もその体一にして、ただ発達の高下、分量の多少に応じてその別を見るのみ。例えば一塊の氷をとり、これをある一定の温度に達すれば水となり、さらにある一定の温度に達すれば蒸気となるがごとし。ゆえにまた、ある事情によりては互いに交代往来することあり。すなわち意識の無意識に変じ、無意識の意識に変ずるがごときこれなり。しかして、すでに身心ともに発達して内包の意識の開顕するに至りて、もし未経験にしてかつ錯雑なる事情に接すれば、心力その一点に会注して意識を感ずるに至る。しかしてこれを数回反覆して習慣を養成し、変じて無意識となるときは、さらに他部分の意識を要するところに向かいて心力の注向するを見る。かくのごとくして、その部分また習慣の力によりて無意識に変ずれば、また転じて他部分に向かいて集合するなり。これを例うるに、一条の水路に巌石のその流れをさしつかうるあれば、水激してその点に集まり、すでにこれを越えて流るれば、さらに他巌石に向かいて集まるがごとし。しかしてこれ大いに知力、思想の進歩を助くるものにして、心理発達上欠くべからざる事情なり。

 例えば書を読み文を学ぶに、はじめは一より十に至るまで意識の作用を要せしも、習慣、熟練の功ようやく無意識に傾くをもって、さらに進みて高等に向かうを得るなり。しかしてその事情を察するに、意識はすでに熟達、成功したる部分はこれを無意識すなわち反射作用に譲り、自ら進んで未経験に向かってその力を用うるもののごとし。ここにおいて、意識の有限なるや無限なるやを考えざるべからず。意識果たして無限ならば、なんぞその一部を無意識に譲るを要せんや。しかして、そのこれを譲るは有限なること明らかなり。予はすでに意識の発達は身心両面に伴うものと定むるをもって、たとい内包の意識は無限なりとするも、外発の意識はもとより有限なりとせざるべからず。かつその有限の範囲は、発達の程度に応じて大いにその大小を異にするものなり。それ、かくのごとく意識をもって有限なりとするときは、内界に存する観念をことごとくその範囲内にいるることあたわずして、観念の部分に意識内にあるものと、意識外にあるものの二種を生ずるなり。これをもって、記憶の範囲の、意識の範囲より大なることを知るべし。しかれども、意識の光は一部分に限りてこれを照らすにあらず。あるいは右方を照らし、あるいは左方を照らし、あるいは前部分、あるいは後部分と、次第に移転するを得るをもって、記憶中に存する諸観念も、順次に意識中に浮かび現るることを得るなり。これを例うるに、ランプをもって一室を照らすに、全室一時に照らすことあたわざるも、これを携えて一部分より他部分に移せば、四辺に陳列するところの諸品を、いちいち照見し得るがごときなり。しかれどもまた、ついに諸観念をして、ことごとく意識中に入らしむることあたわざるものあり。すなわち、諸観念中に自然一種の優勝劣敗ありて、観念の明らかにしてかつ強きものは早く意識の中に浮かび、しからざるものは特殊の意力を用うるにあらざればその中に現ぜず。また、なにほど意力を用うるも、到底浮かばざるものあり。なおランプの四方に転ずるも、微細なるものに至りては照らすことあたわざるがごとし。これ、発顕せる意識の力すでに有限なりとすれば、またやむをえざる事情なり。

 そもそも吾人の自己すなわち我と称するところのものは、唯心論者中には一種特殊の霊魂のごとく考うるものあれども、その実、内界の意識の範囲に属し、いわゆる我の本位は、諸観念の比較結合より生じたる中心にほかならず。なお、一塊の物質にその重力の中心を生ずるがごとし。しかして意識はときどきその中軸を転ずるをもって、我の本位もしたがって変更せざるを得ず。これをもって、いわゆる我{・}の観念も、幼時と成時と多少の相違なきあたわず。また、醒時の我{・}と酔時の我{・}と、喜ぶときの我{・}と怒るときの我{・}と、みな同一なるあたわず。これ、人に悔悟の起こるゆえんなり。しかれども意識の移動は、全く我{・}をして別物に変ぜしむるがごとくにはなはだしからず、ただわずかに少々の変動あるに過ぎざるのみ。しかして、その平常、精神の激動せずして水平を保つときは、意識も正位を守り、そのいわゆる我の本位も一定の中心に立つべし。さらに、その理を明らかにせんと欲せば、観念論につきて一言せざるべからず。


       第六四節 意識論 第五 意識と観念との関係

 内界中に個々の観念ありて、その中に意識中に現ずるものと現ぜざるものあり。例えば甲の部分の観念、意識中にあるときは、乙の部分の観念その外にありて無意識の境となり、乙の部分の観念、意識中にきたるときは、甲の部分の観念またその外に出ずることありて、すなわち内界の記憶上に存する諸観念、新陳代謝して、意識の内外の隠見、起伏する状あり。これによりてこれをみれば、観念の数はこれを意識の範囲に比するに、その量多きに過ぎて、その中に同時に併見することあたわざるもののごとし。

 今、図をもって示すに、大圏は内界の全面を表し、小圏は意識の範囲を表し、小圏は内界の全面を表し、イロハの記号はここの観念を表するなり。しかして、この小圏は一方より他方に移動することを得るをもって、意識外にあるイロトのごときもたちまち意識内に入ることあり。これを例うるに、一個のランプ全室を照見する力なきも、これに移動を与うれば順次に四隅を照見することを得るがごとし。しかして、その意識内と意識外とは、必ずしもその間に判然たる分界あるにあらず。これまた、小ランプをもって広き室内を照らさしむれば、近き所は明らかにして遠き所は暗きも、その明所と暗所との間に判然たる分界なきがごときなり。しからば、意識は心性の内部もしくは脳髄の実質中に包有する一種の光明の、身心の発達に伴って発顕したるものにほかならざるを知るべし。しかしてその光明の内界全面に平等に照らし及ばざるは、内界に存する観念および内外相関の事情、常に平等同一なることあたわざればなり。すなわち、心性の海面に高下の波瀾を起こし、意識の光はその各波の関係より一定しきたる中心に向かいて発するなり。ゆえに、その関係異なればしたがってその中心の上に多少の変動をきたすは、ひとり道理上しかるのみならずして、実際上経験せる事実なり。これ、予がさきに、我{・}そのものは内界の事情によりて変動すといえるゆえんなり。しかして、意識の一隅より他偶に移るは、観念と観念との間に存する連合、習慣、遺伝等の事情、および内外両界の相関の事情によるや明らかなり。ゆえに、意識と観念との関係は、内界および内外両界の関係いかんによりて定まるものと知るべし。


       第六五節 意識論 第六 意識と社会との比較

 さらに観念と意識の関係を明らかにせんと欲せば、社会の組織に対照して考うるをよしとす。それ内界に個々の観念あるは、社会に個々の人民あるがごとし。その人民結合して政府を組織するは、これを観念結合して意識の範囲を開立するに比すべく、意識中に知力、感情、意志の別あるは、政府中に内閣、八省の別あるに比すべく、意識内にある観念と意識外にある観念とは、政府に奉職する人民と民間に屛居する人民とに比すべし。しかして観念結合によりて組織するところの政府は、君主政体にあらずして共和政体なり。そのいわゆる意識の中心に立つところの観念は、新陳代謝することを得るのみならず、一観念より他の観念に移り行くことありて、もし甲の観念が意識の中心に立つときは、甲と親密の関係を有するもの意識内に入りきたり、乙の観念が中心に立つときは、これと関係あるもの意識内に入りきたること、一国中に甲党の首領政府に立つときは、これと同主義のもの政府に入りきたり、乙党の首領政府に立つときは、またその同主義のもの政府に入りきたるに異ならず。しかして通常その中心に立つところのものは、生来遺伝しきたれる本性および習慣に応じて大抵一定し、たとい内外一時の事情によりて小変動あるも、なお同主義の観念その中心を相続するものとす。ゆえに、さきのいわゆる我{・}は、内界中にありて自然に一定の位置を相続し、身体の変化、意識の移動のうちに、おのずから一定の中心を保持するを見るなり。しかるに精神諸病にかかりたるものは、その判断、思想に大いなる変動あるは、全くその中心の変動して別主義の観念、意識の中心に入りきたりて主作用をなすによる。これを政府に例すれば、なお大革命ありて別主義の党派代わりて政府を占領するがごときなり。狐憑き、神憑り等のごとき、みなこの例に準じて知るべし。これ、後に「心理学部門」を講ずるに必要なる説明なれば、あらかじめここに一言しおくのみ。

 かくのごとく内界をもって社会に比論するは非論理的に属するがごときも、すでに今日は社会をもって一個の有機体とし、一個人につきて発見せる規則はこれを社会の上に応用し、一個の人体に比例して説明を与うるに至る。ゆえに、もしその反対の方向より証明せんと欲せば、社会の上に存する関係、事情を見て、これを内界の上に考うるもまた、全く道理なしというべからず。かつ社会は一個人を増大したるものに過ぎざれば、一個人中の微細のことは社会の上につきて比考すべし。これ、顕微鏡の方便によりて微細のものを見ると同一理なり。すなわち、社会は一個人をみるの顕微鏡なりとするも、あに理なしといわんや。


       第六六節 注意論 第一 注意の義解および性質

 意識と密接の関係を有するものに、意向すなわち注意と名付くるものあり。注意は精神のある一点に会注してその力を強むる作用なり。ゆえにこれを解して、意識の集合もしくは一定の事物上に会注する心力なりという。その種類に無意自然に起こるものと、有意に起こるものとの二種あり。また、無意自然に起こるものに、身体上の活動より起こるものと、感情上の願望より起こるものとの二種あり。例えば、強大の音響耳官に触るれば覚えずその方に注意を起こし、腹中に苦痛を感ずれば自然にこれに注意をひくがごときは、身体上の活動より生ずるものにして、意力によりて制止することあたわず。また、錦衣玉食を欲し、名誉快楽を望むは自然に注意の向かうところなれども、意力によりてあるいは制止し、あるいは制止すべからざることあり。しかるにこの二者に反して、有意より起こる注意は、全く意力によりて左右するを得べきものとす。しかして注意のよって起こる原因をたずぬれば、意志、願望、活動その他、内外種々の事情によること問わずして明らかなり。ただその強弱の度は、一には、刺激の事情による。すなわち、感覚上の刺激強ければ強きほど注意の度を強くするなり。二には、身体および精神の状況による。すなわち、身体衰弱しもしくは精神疲労したるときは注意の力弱く、これに反するときはその力したがって強し。三には、動機および感情の事情による。それ、動機および感情は心内にありて精神を刺激するものにして、意志のよって起こる原因なれば、注意の起因となることもとより論なきなり。

 つぎに、注意の発達につきて一言すれば、児童の注意は多く反射的すなわち無意的なり。しかして、これよりようやく発達して有意的注意を生ず。けだし児童の注意は、つねに刺激の強きものに帰向す。これ、その反射的なるによればなり。しかるに年齢ようやく長ずるに従い、刺激の弱きものに向かいて注意することを得。しかしてさらに進むに及びては、よく刺激に抵抗してこれに反する注意を喚起するに至る。これ全く有意的注意の力なり。また、注意の区域につきて、古来一疑問あり。すなわち、同時に二物に注意し得るやいなや、これなり。二物論者は曰く、「吾人は同時に発する二種の音響を弁別するを得るは、同時に二物に注意し得る証拠なり。もし同時に二物に注意しあたわずとせば、比較作用または弁別作用の起こるべき理なし。なんとなれば、比較、弁別は二物を対照するにあらざれば、なすあたわざればなり」と。

 一物論者はまたこれに反して曰く、「吾人は実際上において二物同時に感得するは、注意の一物より他物に移動する時間の非常に駿速なるによる。ゆえに比較弁別のごときも、その実、時間の上に前後の別あるも、その移りゆくこと極めて瞬間なれば、その別を見ることあたわざるなり」と。この両論いずれが真なるやいまだ容易に判定すべからずといえども、注意の全力を一物一点に集むると二物二点に分かつとは、数理上すでに分量の別ありて、一物のみに注意するときと二物同時に注意するときとは、その感得するところ、明確の度において大いに異なるを覚ゆるなり。例えば注意の全力を十と定むるに、これを一物に集むればその力十となり、これを二物に分かちてはその力五となるべし。かつそれ吾人の実験上、同時に二物に注意せんとすれば自然に感得の力を減ずるも、一物のみに注意すればその力まったきを得るをもって、これをみれば二物論は理あるに似たり。なんとなれば、もし同時に二物を感得することあたわずとせば、一物に注意するも二物に注意するも、もとよりその力に異同あるべき理なければなり。


       第六七節 注意論 第二 注意と意識との関係

 注意の種類に無意的、有意的の別あるも、二者ともに意識の範囲に属するなり。しかして意識の範囲と心界全面との関係は、さきに第六四節に掲げたる図を見て知るべし。すなわち、意識は心界よりその範囲小にして、注意はまた意識に比すればその範囲さらに小なり。これ、注意は意識のある一点に会注したるもの、換言すれば、意識の光明のある一点に向かいて集まりたるものなればなり。それ、注意は事物の研究において極めて必要なるものにして、注意によりて事物を研究するは、なお顕微鏡によりて微細なる動植物を見るがごとし。古来ニュートンのごとき大家はもっともこの注意力に富みたる人にして、ただに意識を一点に会注する力に富めるのみならず、その力をながく一点に保持することを得る人なり。かくのごとき人にあらざれば、決して造化の機密を看破することあたわず。けだし世にいわゆる天稟なるものは、この力に富める人となすもあえて不可なることなし。余、かつて心理の経済を論じたることあり。これ、この論に関係あれば、左に掲出すべし。

 仮にここに甲乙二人ありて、生来同量の心力を有するものと定め、その心力の量を便宜のために三百と定むるに、その分量は成長するに従い次第に増加するは、あたかも財の年を追って息を生ずるがごとし。しかしてその増加の分量は、教育経験のそのよろしきを得ると得ざるとによるといえども、余はしばらくその量に増減なきものと定めて論ずべし。すなわち、三百の分量は終始変ぜざるものと定め、使用法のよろしきを得ると得ざるとによりて、賢愚の分かるるゆえんを示さんとす。まず人の心力は知と情と意の三種あるをもって、その全量をこの三種に平分せざるべからず。しかるときは三種おのおの百の量を得るなり。もし人にして知、情、意ともにかくのごとき同一の割合を有するときは、甲乙ともに同等の才力を有する理なり。しかるに心力の全量はこれと同一なるも、その量を経済的に利用するときは、甲をして乙に倍する才力を有せしむることを得るなり。

 およそ人のその心を用うるや、知、情、意の三者、おのおの同一の作用を要するにあらず。あるときは知力の多量を要することあり、あるときは情力の多量を要することあり、あるときは意力の多量を要することあり。ゆえに知、情、意三者中、その一者の力多量を要するときは、他の二者の力を減じてその要するところの部分に加うるも、あえて妨げなかるべし。かつ知、情、意は一者その力を増せば、他者これに従ってその力を減ずるを常とす。これを抗排性という。例えば人、知力を用うることその度に過ぐれば、情、意二者ともにその力を減ずるに至る。これ他なし、心力の全量に一定の限りありて、その定限の外に出ずることあたわざればなり。しかるにその力に一時の増減あるを見るは、知、情、意各部分の間にその力を融通運転することを得るによる。余はこれを経済的利用法という。この利用法によりて、甲をして乙に倍するの力を有せしむることを得るなり。例えば、甲をしてその知力を要するときに当たり、情、意二者の力の半ばを減じて知の上に加うるときは、その従来有するところの百なる力は、たちまち二百の力を有するに至るべし。しかして、乙は知を要するときに当たりて、やはり百の力のみを用うるときは、甲は乙に倍する作用を呈するに至るべし。もしまた情を要するときに当たり、甲は知、意二力の一半を減じて情の上に加え、乙は依然として同量の割合を持続するときは、これまた、甲をして乙に倍する力を示さしむることを得るなり。意の場合もまた、これに準じて知るべし。今、左の図によりて、甲の知の乙に倍する例を示すべし。

 もし甲をして情力および意力を倍せしむるときは、左のごとくなるべし。

 この利用法によるときは、通常心力の少量を有する愚者も、知者に倍する力を示すことを得るなり。例えば、甲は二百四十の心力を有し、乙は三百の心力を有すと定めて、その比較を示すときは左のごとし。

 すなわち、甲は乙より愚なるを知る。しかれども、もし甲をして融通運転の利用法を行わしめ、乙をしてその利用法を行わしめざるときは、甲をして乙に倍するの知者となさしむべし。その図、左のごとし。

その他、これに準じて甲の情および意をして、おのおの乙に倍せしむることを得るなり。この一方の力を減じて他方に加うる利用法は、心理学上にては心性集合の作用にもとづくものにして、精神の全力をしてその要するところの部分に集合せしむるものこれなり。けだし、人の学才に富み世才に長ずるものを見るに、必ずしもその生来の力、常人に倍蓰するにあらず。ただ、この集合力の強きによるもののごとし。しかれども、もしその集合一方に偏着して他方に運転することあたわざるときは、あるいは一、二の専門の事業においては、かえってこれがために益することなきにあらずといえども、多数の人はこれによりて偏僻人もしくは頑固人となるべし。世のいわゆる英雄、豪傑は、この集合力をして、よくその場合に応合して適用運転することに長じたるものなるや疑いをいれず。ゆえに、人をして英雄ならしむるには、心力を集合する力と、時宜に応合して運転適用する力とを要すること明らかなり。

 この図中に示せる知、情、意は、意識作用を総括して挙げたるものにして、そのいわゆる集合力は注意力をいうなり。およそ通常の注意は随意に一点より他点に移動することを得るも、もしある事情によりて一点に固着し、意志をもって左右すべからざるに至り、その点にある観念が思想の中心となりて精神全域を支配するときは、精神作用の変態をきたし、狂人の状態を現ずるなり。その説明は後に変式的心理学を講ずるときに譲る。



第九講 説明編 第三

       第六八節 習慣論 第一

 余は、さきに説明編を分かちて正式的心理学、変式的心理学の二段となしたるが、その正式的心理学の講義、またおのずから総論、各論の二段に分かる。すなわち、第七講の説明編第一は正式的心理学の総論と称すべきものにして、身心の関係より心性の種類、作用を講述せり。つぎに、説明編第二より正式的心理学各論に移り、心性中特殊の作用にして、もっぱら妖怪学に関係を有するものを掲げきたりて、今すでに意識、注意の二論を講述し終われり。この二論は各論中の総論というべき部分にして、妖怪に関する各作用の根基となるべきものを論述したりしなり。その妖怪学といかなる関係を有するやは、後に変式的心理学を講述するときにおのずから了解し得るをもって、ここに説明せず。しかして、これより開陳するところは、各論中の各論にして、ただちに妖怪に関係する心理作用なれば、ただその性質を解説するのみならず、これによりて妖怪を生ずるゆえんまでを論明せんとす。

 まず、意識、注意に伴って第一に説明せざるを得ざるものを習慣性とす。習慣性は物理上、心理上、ともにこれを説くといえども、今述ぶるところは心理的習慣性にして、これを単に習性と名付く。習性は経験を反復するによりて生ずる身心上の一種の性力なり。しかして、その種類に二つあり。一つは身体上すなわち動物的習性にして、一つは心性上すなわち精神的習性なり。この精神的習性にまた道徳的および知力的の二種あり。すなわち、悪を避け善につき、己にかちて礼にかえるは習慣の力にして、これを道徳的習性という。もしそれ、習慣上、識別思量する力の発達したるものは、これを知力的習性という。それ、習性と本能とはその起源おのずから異なるも、その性質はすなわち同一なりとす。そのゆえは、本能は人の生まれながら有するところの能力にして、習性は生まれてのち得たる能力なるも、二者ともに意志、思想を用いずして自然に作用を現示し得るをもってなり。換言すれば、習慣は第二の天性すなわち本能にして、本能は遺伝したる習慣に外ならざればなり。これを精神中の物理的能力もしくは器械的能力となす。また、習性を分類して能作用、所作用の二種となすことあり。所作用は知覚、理解に関する習性にして、言語を聞きて自然にその意味を了解するがごときこれなり。能作用は意志、行為に関する習性にして、自然にその心に思うところを言語に発し挙動に示し得るがごときをいう。

 しかして、習性の身心上に与うる影響を述ぶれば、第一に、感情上に関係を有すること。例えば、美食もこれを習慣とすればその味を減じ、悪食もこれを習慣とすればその苦を感ぜざるがごとき、また、渓流の耳にやかましきも、激浪の夢を驚かすも、労役の艱難なるも、病室の憂鬱なるも、ともに習慣によりてその感覚苦痛を減ずるは、みな人の経験するところなり。第二に、知力上に関係を有すること。すなわち書を読み字を解するに、習慣の力によりて進歩することを得るは、これまた人の知るところなり。第三に、意志上に関係を有すること。すなわち言語、動作、道徳、品行の発達は習慣によるを見て知るべし。今、さらに習慣の起こるゆえんを考うるに、求心性神経によりて、ひとたび伝えたる感覚は、必ずしもただちに遠心性神経に伝わりて運動を示すものにあらず。その波動の脳髄に入るやその中に散失して、ゆく所を知らざることあり。しかるに、ひとたび脳髄中より遠心性神経を経て外界に運動を示し、再三これを反復すれば、ついに習慣によりて、感覚と運動との間に一種の連合を見るに至る。また脳髄中にありても、一観念と他観念との間に生ずる連合の強弱は、習慣の事情いかんによる。しかして、習慣いよいよ完全に達すれば、有意作用は変じて無意作用となり、意識は変じて無意識すなわち反射となる。ゆえに、注意と習慣とは自然に反比例をなし、習慣強きものは注意を要すること少なく、注意を要すること多きものは習慣いまだまったからざるなり。これを要するに、習慣は第二の天性にして、人を知者にするも徳者にするも、その影響ならざるはなく、実に教育上重大の関係を有するものと知るべし。

 今、習慣の吾人の上に与うる重大の影響につきてさらにこれを詳述すれば、第一に、人の学問、職業、技芸の発達は主として習慣による。近世経験学派の泰斗たるロック、ヒューム諸氏のごときは、知識、思想の発達をもって、全く経験、習慣の力に帰せり。また、シナ学派中に荀子は習慣論者にして、その言に「注錯習俗、所以化性也。」(注錯、習俗は、性を化するゆえんなり)あるいは「聖人者、人之所積而致也。」(聖人なるものは、人の積みて致めたるところなり)と説けり。今、先輩の説はしばらくこれをおき、実際上にこれを考うるに、児童の家庭にありて父母の教育を受け、進みて学校に入りてあるいは書を読み、あるいは文を解し、あるいは講義をきき、もってその知力を進めその思想を高むるは、反復数回、積習の功にあらざるはなし。例えば一巻の本を読むに、反復これを熟習すれば自然に暗誦するを得。したがって、意力を用いずして容易に全巻を読下することを得るは、すなわち習慣の力なり。すでに前に述ぶるごとく、習慣によりて意識は無意識に変じ、有意作用は無意作用に変じ、最初困難を感じたることは平易に変ずるものなり。これによりて学業の進歩をきたすことを得べし。また、職業、技芸におけるもその理同一にして、あるいは音楽を学び、あるいは書画を習うも、みな反復積習によりてその進歩を見るなり。

 もっとも、習慣の外に天稟の有無によりてその進歩を異にするは、疑いをいれざる事実なり。ことに技芸に至りては、その差最もはなはだし。古来、有名の楽人、画工のごときは、ひとり勉強反復の功によりてその芸を得たるにあらずして、天授の才能を有せるによる。しかれども、その才能も習慣、勉強によらざれば発育すべからざれば、習慣の力大いにあずかりて力あることまた明らかなり。およそ事業はその種類に難易の別あるをもって、習慣のみによりていたすことを得るものと、習慣のほかに天稟を要するものとの二様あり。また、世間尋常の一科専門の学者、技士となるは、習慣、勉強のみによりて達し得るも、抜群、絶倫の名を得るに至るは、必ず天稟のこれに加わるを要す。予、かつてこれを棋客に聞く。たれびとも幼時より囲碁を勉強積習すれば、初段までに進むことを得べし。しかれども初段以上に至りては、天稟の碁才を有するものにあらざればあたわずと。けだし、他の学業、技芸にも必ずこの道理あるべし。習慣の学業の進歩に功ある、すでにかくのごとし。

 第二に、習慣と幸福との関係を述ぶるに、前にも一言するがごとく、いかなる苦痛も不愉快も習慣によりて多少これを減じ得るものにして、人の幸福も多くは習慣によりて得るものなり。例えば、たれびともその郷里を愛し、またこれを慕わざるはなし。諺にも「住めば都」と称して、いかなる僻地偏境にても、これに住すること久しければその地を愛慕するの情を生じ、これを去りて他郷に出ずるを好まざるものなり。また、たとい出でて他郷に遊ぶも、その当時は毎夜の夢に郷里のことのみを見るものなり。また、雨晨風夕、あるいは不幸、災難に際会したるとき、あるいは老衰、病弱に及びたるときは、思郷の念、堪え難きものなり。羽州酒田港を去ること海上数十里の所に、飛島と名付くる孤島あり。その周囲数里を出でざる小島なれども、ここに住するものはその地をもって都と思い、人生の快楽はその地を離れて得べからざるもののごとくに考え、出でて他郷に住するを好まざる風あり。ゆえにその島にありては、小児の泣くときにこれを叱するに、酒田へ追いやるべしといえば、小児これを恐れてその泣きをやむる由。また、伊豆の熱海をさる海上三里に、初島と名付くる小島あり。その周囲わずかに一里、戸数わずかに四十二、三戸に過ぎず。その地より出でて他郷に遊ぶものあるも、数年の後みなその村に帰り、かくのごとき小島を極楽のごとくに感ずるという。これみな「住めば都」の諺の理にして、習慣の力にあらざるはなし。果たしてしからば、習慣は人の幸福を増進するといいて可なり。すでに郷里を愛する情の習慣によりて生ずるを知らば、世間のいわゆる愛国心もまた習慣によること論をまたず。これを小にしては愛郷心、これを大にしては愛国心、みなこれに住み慣れし土地の習慣より生ずる一種の愛情にほかならず。また、一家の中にありて親子、夫婦相集まりて互いに快楽を感ずるも、また習慣の影響ならざるはなし。毎日、見慣れ聞き慣れする間におのずから和親の情も起こり、その間に幸福を感ずるものなり。わが国にては、女は人の家に嫁し、その家の父母と同居するの風あるをもって、往々親子の間の不和をきたすことあるも、数年の久しき同居すれば、自然に習慣によりてその不和を減じ、最初不愉快と思いし家も、後には愉快に思うに至る。果たしてしからば、一家の和合、快楽も、また習慣によりてきたすを得べし。その他、親戚、朋友の親睦およびこれによりて生ずる快楽も、また習慣によりて生ずることは言をまたずして知るべし。

 つぎに、習慣と道徳との関係につきては、これまた大いなる影響を有するものなり。およそ道徳の発達、良心の形成は、人をして良習慣を養成せしむるにほかならず。人の一家にありて幼時父母より得たるところの良習慣は、すなわち良心を形成し、長じて悪をなさんとするも、その動機を生ずることあたわざるに至る。諺に「朱に交われば赤くなる」といいて、悪友に交われば悪性を増長することを戒めたるもこの理にほかならず。家風の厳

なる家に成長したるものは、おのずからその品行も厳正に、一村一郷の風俗淳良なる所に生長すれば、おのずか

らその性質も淳良なるを得るは、これまた習慣の力なることは論をまたず。ゆえに教育上にありては、児童にもっぱら良習慣を与うることに注意せざるべからず。

 つぎに、宗教と習慣との関係を述ぶるに、人の信仰心は生来有するものとするも、これを発育するは全く習慣の力による。幼時より宗教に熱心せる父母に養われ、長じて宗教学校に入りて教育を受くるときは、自然に宗教信者となるものにして、また、一村一郷の人ことごとく宗教信者なるときには、自然にその風に化せられて自身も宗教信者となるものなり。これ、これを習慣の力といわずしてなんぞや。わが国において本願寺の勢力の大なるその原因も、要するに習慣に外ならず。その信者にありては、本願寺法主は活仏のごとく考うるは、幼時よりかくのごとく教育せらるるによる。ゆえにヤソ教家は、もっぱら学校教育によりて、その教えをわが国に弘布せんとす。これによりてこれをみるに、教育上最も重大の影響を有するものは習慣なり。ことに人の幼少のとき得たる習慣は、その力最も強きものなり。ゆえに教育上、家庭教育をもって最も重要なるものとなさざるべからず。

 今、さらに近き例を挙げて、習慣の吾人の行為上に力あることを示さば、晨起の習慣なり。毎朝一、二時間早起きするの習慣を養えば、そののち毎朝その時刻に至れば、自然に醒覚して起きざるを得ざるに至る。これに反して二、三日おそく起きるときは、たちまち習慣となりて、毎朝早起きすることあたわざるに至る。しかして悪習慣は得やすく、良習慣は得難きものなり。これまた、人の注意せざるべからざるところなり。その他、酒をたしなみ色にふけり遊惰放蕩するごときも、習慣を積みてこれに至るものなり。これに反して堪忍、勉強よくその業をおえ、その事を成すがごときも、習慣を積むの功ならざるはなし。


       第六九節 習慣論 第二

 以上は教育上注意すべき点を述べたるのみ。もし習慣と妖怪との関係を考うれば、世間のいわゆる妖怪は、習慣によりて生ずること多きを知るべし。けだし、世人は経験上奇異なるものを見聞すれば、これを称して妖怪という。言を換えてこれをいえば、経験上従来の習慣なきものに接触すれば、これを妖怪とするなり。これに反して、いかなる奇異の現象も、毎日これに接して見慣れ聞き慣るるに至れば、また奇異にあらざるに至る。例えば奇草、異木のごとき、あるいは妖鳥、怪獣のごとき、人の指して妖怪とするは、従来これを見たる習慣なきによる。また、彗星のごとき、人みなこれを妖怪とするも、その常に見ざるによるなり。しかして太陽のごとき、これを妖怪とせざるは、毎日これを見るによるなり。もし二者の間にいずれが真に妖怪なるやを較するときは、彗星よりは太陽の方、一層妖怪なりと称して可なり。また、天地間にありてその真に妖怪、不可思議なるものは、奇草、異木、彗星等にはあらずして人類なり。人類は実に宇宙万有中の最大怪物なるべきも、だれもこれを妖怪とせざるはなんぞや。これ、わが平生熟知するところのものなるによるなり。その他、一滴の水も、一片の雲も、一根の草も、みなこれを妖怪とすれば実に妖怪なり。しかるにだれもこれを妖怪とせざるは、平常接見するによるのみ。これによりてこれを考うるに、妖怪と習慣とは大いなる関係を有することを知るべし。

 つぎに、教育上、習慣の妖怪上に及ぼせる影響を挙ぐれば、幼少のときに家庭にありて怪談をもって教育すれば、おのずから性質上に一種の習慣を与え、長じて妖怪ならざるものに接するも、その心に妖怪の観念を呼びこして、妄想、幻覚を生ずるに至る。しかれどもまた、これに反する習慣を与うれば、その習性に改変することを得べし。例えば、幼時にありて妖怪を信ぜし家に養われ、すでに妖怪を恐るるの性を得たるも、長じて妖怪を信ぜざる家に住すれば、自然に妖怪を恐るるの度を減ずるに至る。しかれども、幼時の習慣はその力最も強きものなれば、長じてこれを変ずること、はなはだ難しとす。これをもって、妖怪学上、大いに注意すべきは家庭教育のいかんにあり。その理由は教育学部門を参見して知るべし。今日、わが国の家庭は怪談をもってみたされ、その昔噺も十中八九怪談ならざるはなし。これ、わが国と西洋とを較するに、わが国に妖怪多き一原因なり。すでに幼時の習慣あるをもって、あるいは夜中歩行して柳陰、墓畔を通過したるときには、種々の妄想心内に起こりて、微音小響よく妖怪を現出するに至る。しかれども、もし数回その道を通過し、あるいは久しくその辺りに住居するときは、旧時の習慣は一変して、さらに妖怪を恐れざるに至るべし。ゆえに、そのこれを恐れざるに至るもまた習慣の力なり。これを要するに、妖怪と習慣とは大いなる関係を有するをもって、もし妖怪を減ぜんと欲せば、習慣に注意せざるべからざるなり。


       第七〇節 連想論 第一

 習慣性と密接の関係を有し、しかも妖怪と重大の関係を有するものは連想なり。連想とは観念の連合を義とし、甲の観念と乙の観念と互いに連合するをいう。しかして、その作用は習性の一種となすも可なり。なんとなれば、甲乙両観念の互いに連合するには、反覆数回の経験を重ね、その間に習慣を生ずるによればなり。すでに諸観念の間に連合を生ずるに至れば、一感覚もしくは一観念の起こるあれば、これに連合せる観念の伴生するを見る。これを連想の規則という。その伴生するや、感覚が原因となるときと、観念が原因となることあり。換言すれば、その原因の外界に存するときと、内界に存するときの別あり。例えば、現に一物を見てこれに連合せる観念をよび起こすは、その原因外界にありというべし。これに反して、一種の観念によりて他の観念を連起するときは、その原因内界にありというべし。しかして、この内外の原因に伴って起こるところのものは、必ず内界の観念なり。およそ連想の起こるには、必ず従来多少の経験あるを要す。その経験数回にわたりて、その間に習慣性を養成するに至れば、連想の力ようやく発達して、ついに無意識となるに至る。これをもって、連想に無意的と有意的との二種を分かつなり。またその種類に、付近上、類似上および背反上の連合あり。例えば、海と船とは互いに付近連接し、鶏鳴と日の出とはまた互いに付近前後するをもって、思想上においてもまた、みな互いに連合して生ずるなり。また、酒と水とは性質上互いに類似するをもって、酒客は水を見て酒を思い、氷と火とは性質上全く相反するをもって、氷によりかえって火を思うことあり。あるいはこれを時間上の連合、空間上の連合の二種に分かつことあり。あるいは原因、結果の連合、全体、部分の連合等に分かつことあり。

 例えば、農家を思えば田圃を想出するは空間上の連合にして、電光に接して雷鳴を想起するは時間上の連合なり。あるいは雲を見て雨を想起し、病を見て死を想出するは原因結果の連合にして、イギリスの名を聞きてロンドンを思い、豊前の山を望みて九州を想するは部分全体の連合なり。これを要するに、観念の連合は外界の事情に伴うものにして、外界において甲乙二物の間に付近もしくは類同の関係を有するときは、内界上これに相応する連合を見るなり。約言すれば、内界は外界の写影に外ならず。これ、すなわち経験学派の論にして、ロック氏が、人心はその初めて生まるるときにありては白紙のごとしというゆえんなり。この論もとより一理ありて、これを事実に照らすに確実なるがごときも、もしこれをして連合せしむる力はいずれにありて存するかの問題に至りては、内界にありて、はじめより存するものとなさざるべからず。これいわゆる先天性なり。ゆえに連合の原因は、ひとりこれを後天性に帰すべからずとなす。これ、先天論者の後天論者すなわち経験学派に対して述ぶるところにして、その論また一理ありといわざるべからず。

 つぎに、連想と心性発達との関係を論ずるに至りては、その影響の大なること、もとより予が弁をまたず。すなわち、知力の発達は全く連想の規則によるというも不可なし。今日の経験学派は、観念連合の理によりて、人の思想の感覚より発達するゆえんを説くこと、実につまびらかなり。また、平常の談話、記憶のごときも、一つとして連想に基づかざるはなし。例えば、両人相対座して言語を交うるに、種々雑多の談に移るも、その間を連絡するものは連想の事情なり。また、事物を記憶するには、ことさらに連想を要す。例えば、書を読みてその文字その意義を記憶するには、大抵、性質、語音の類似によりて、他の観念と連合して脳中に把住するなり。邦畿千里とあれば、帚千里と記憶し、顔淵、閔子騫とあれば、残念鬢四間と記憶するがごときは、語音類似の連合なり。連想と記憶との関係は、後に教育学部門を講ずるときに詳述すべし。


       第七一節 連想論 第二

 およそ世のいわゆる妖怪は、観念連合によりて起こるもの最も多とす。ゆえに、ここに連想と妖怪との関係につきて講述せざるべからず。第一に、感覚上の連合につきてこれを述ぶれば、外界に現ずる事物の色および形が、平常見慣れざる奇怪の性質を帯ぶるときは、人の心中に妖怪の観念を惹起するものなり。例えば、鬼形木骨の例のごとく、外界に存する木骨を見て鬼形と認めたるは、木骨真に鬼形なるにあらず。薄暮、夜中のごとき、その形判明せざるときには、わが心中より妖怪的観念を呼び起こすによる。世にかくのごとき例は最も多く、幽霊のごときも十中八九はみなこの類なり。これ全く視覚上の連想にして、その連想たるやいわゆる類同連想なり。もっともその起こるには、必ず前に経験上妖怪の観念を有せざるべからず。その観念が、実際目撃せる事物の現象の判明せずして奇怪の状態を示すときには、たちまち心内に発動してこれに類同したる観念を惹起し、鬼神、幽霊の幻覚を生ずるに至る。ゆえに視覚上妖怪の起こるは、外界の事物を内界の観念と連合伴生せるによる。しかしてこれを起こす事情は、外界にありては薄暮もしくは暗夜のごとき物象の判明せざるとき、また、内界にありては精神上に多少の変動予期することあるときなり。ゆえに、白昼物象の判明せるとき、および精神の安定せるときには、妖怪を見ること少なし。かつ、たとえ外界に奇怪の形象を見るも、その人の心中に妖怪の観念を有せざるときには、また幽霊、鬼神のごとき妄象を見ざるものとす。その例は小児につきて知ることを得べし。

 二、三歳の幼児には、いかなる奇怪の形象ありてその目に触るるも、さらに妖怪に驚かさるることなし。これによりて、妖怪の起こるは、わが従来有するところの観念の連起によること明らかなり。しかして、その観念は自ら経験して得たるものよりは、幼時より人の談話、昔噺等によりて得たるもの多しとす。予がさきに述べたる、わが国の家庭は妖怪の空気をもってみたされたりといえるは、この観念連合の起こるゆえんなり。つぎに、聴覚と妖怪との関係につきて、連想のこれが原因となる例を挙ぐれば、かつて妖怪の観念を有したる人が、夜中空室に座し、あるいは深林の中を通過したるときには、自己の足音、水の流れ、木の動く声まで、みな妖怪観念を連起する誘因となり、種々の幻聴、妄覚を生ずるに至る。これまた視覚と同じく、心内の観念と外界の現象との連合によるものにして、幼時より保有せる観念が、内外の事情に応じて連起したる結果なり。

 つぎに、触覚と妖怪との関係につきてこれを述ぶるに、これまた、その例民間に少なからず。例えば深夜、林下を通過して木の枝あるいは手足に触るることあれば、たちまち怪物の触れたるがごとくに感じ、そのはなはだしきは失神気絶するものあり。また、夜中熟眠せる際に一物の上より落ちきたることあり、あるいは鼠属の手足に触るることあれば、夢たちまち驚き覚めて、幽霊、亡者の自体に触れたるごとくに感ずるものあり。これみな、その原因は外界にありて存すといえども、これに伴うところの妖怪観念は、自ら心中に保有せるものならざるべからず。つぎに、嗅覚、味覚につきてこれを考うるに、この二覚によりて妖怪観念を連起することは、その例いたって少なしとす。しかれども、嗅覚によりて妖怪観念を喚起することなきにあらず。例えば、死人の嗅気を感じて幽霊の妄想を呼び起こすがごときをいうなり。

 以上の五種の感覚は、ひとり直接に妖怪観念を連起するのみならず、間接に連起するもの、その例かえって実に多し。今ここに直接、間接の別を挙ぐれば、奇異なる現象に接触してただちに妖怪観念を呼び起こし、種々の妄覚、幻象を見るは直接的連想なり。今述ぶるところの諸例は、みな直接的連想を示すものなり。これに反して、さらに奇異の現象を接触せざるも、かつてこの地、この場合、もしくはこの家に妖怪の起こりたることありしを聞きたるものがその所に至れば、外界に誘因なきも、心内より種々の妄覚、妄想を連起して、実際、妖怪を目撃することあり。これを間接的連想という。この間接的連想は、外覚に属するよりはむしろ内想に属すべきものとす。また、諸感覚が各範囲内において同種の観念間に互いに連起伴生するのみならず、一感覚と他の感覚との連合によりて、一方の刺激が他方に妄覚を生ずることあり。例えば、奇怪の音を聞きて妖怪の観念を連起すると同時に、視覚上種々の妄象を現見することあるこれなり。けだし、一感覚と一観念とが互いに連合するのみならず、一感覚と他の感覚とが互いに連合し、また感覚と運動と互いに連合するをもって、一原因によりて種々なる妖怪を連起するに至るなり。

 その他、感覚上の観念連合につきて一言せざるを得ざるものは、文字および言語の連合なり。文字も言語もともに事物を表示せる符号にして、その符号おのおのこれに対する観念と連合するものなれば、言語の音声の似たるもの、または文字の形画の似たるものによりて、種々の妖怪的観念を連起伴生することあり。例えば、昔時、文部大臣たりし森有礼子爵の名を聞けば、幽霊を想起するの類これなり。また、俗間の御幣かつぎ連が縁起を説くがごときは、みな文字、言語の連合によるものにして、一般に四の数をいとうは四と死と音相通ずるにより、十九の年を嫌うは十九と重苦と音相近きによる。また、マジナイのごときも、多くは文字、言語の連想に基づくもの多しとす。その他、妖怪連想の事情と称するものに、内界に属するものと、外界に属するものと、内外両界に属するものとの三種あることを知らざるべからず。外界に属する事情は薄暮、暗黒、深林、深更の類をいい、内界の事情は従来記憶中に保持せる妖怪的観念の恐怖の情、あるいは予期、専制等によりて発動するがごときをいう。内外両界の事情とは、柳陰、墓畔、あるいは従来妖怪の言い伝えある場所は、幽霊、怪物の観念を連起しやすき事情あり。これに加うるに、種々の昔噺、伝説の記憶中に存して妖怪の観念を形成せる内界の事情ありて、内外相合して妖怪を生ずるをいう。

 以上、感覚上の連想によりて妖怪の起こる原因、事情を略述したれば、これより、内界において起こる妖怪連想を説明せざるべからず。しかるに感覚にも体外の感覚と体内の感覚、すなわち視聴等の五種の感覚と体覚との別あれば、これより体覚の連想につきて一言せざるべからず。体覚は諸感覚中最もその位置を知定すること難きものなれば、したがってこれによりて幻覚を生じやすきものなり。その例は精神病患者、狐憑き病、犬神病等において多く見るところなり。すなわち、狐憑き病患者が体内のこの部分に狐の住するありというがごときは、その実、多少の感覚によりて幻覚を連起したるか、あるいは実際、些少の感覚なきも、自ら妄想をもってその感覚を喚起するによる。けだし、外部の感覚はその位置、状態を明知することを得るをもって、自ら欺き、また人を欺くこと難しといえども、内部の感覚に至りては、己も人もともに欺きやすきものなり。したがって、精神病患者が体内に種々の妄覚を感ずるに至るも、また連想の作用なり。

 つぎに、内想につきて妖怪の連想の起こるゆえんを述ぶるに、心内の観念は互いに相連合して存することは別に証するを要せず。しかして一観念が発動するに、外界に誘因を有するものと、内界に原因を有するものとの二種あることも、前すでにこれを述べたり。果たしてしからば、妖怪の観念の起こるに、必ずしも外界の感覚によらずして、内界特殊の原因によりて、静座閉目の際、自然に想像上、妖怪的観念を連起することあり。その連起の観念は、漸次に発動せる思想、精神の状況、事情によるといえども、いちいちその連絡を明示することあたわず。また、心内一時の事情によりて妖怪観念を特発することあるも、これまた、その事情を明示することあたわず。しかれども今日の心理学上、一切の心象はみな原因結果の連絡によりて結合し、なんらの原因なくして観念を連起する道理なしと確定せる以上は、決して偶然に妖怪観念の起こるべき理なきは、われらの疑わざるところなり。かくして一観念起これば、これより第二、第三、第四と、種々の観念前後相続きて連起伴生し、極めて複雑なる妖怪想像を内界にありて構成するに至る。これを要するに、一切の妖怪は連想に関係せざるものなしと知るべし。

 妖怪と連想との関係に連帯して、妖怪と記憶との関係を一言せざるべからず。そもそもひとたび見聞経験せる妖怪的現象が心内の観念となりて、若干の時日を経過したるのち再起、再生するは、畢竟、記憶中にその観念を保持せるによるや疑いなし。しかるにその保持したるもの、あるいは意識となりて発顕し、あるいは無意識となりて潜伏するをもって、妖怪的観念にも、無意識的記憶と意識的記憶との二種あることを知らざるべからず。しかして意識内にその記憶を再現するは、内外の諸事情によること、また明らかなり。およそ吾人の心海は外界の風縁によりて波動してやまざるものなれば、心面は常に静定することあたわずして高低の動揺を見る。しかして、その低所にくだるものは、無意識的観念となりて全くわが記憶に存せざるもののごときも、その点一変して高所に浮かび出ずるに至れば、意識的観念となりて記憶上に再現するに至る。ゆえに、平常、無意識的観念となりて記憶上に浮かばざることも、決して心内に消失したるにあらず。常に保持するに疑いなしといえども、そのあらわるると隠るるとは、ただ事情のいかんによるのみ。


       第七二節 信仰論 第一

 連想に関係を有するものに、また信憑すなわち信仰作用あり。信仰は感覚の内外にわたり、時間の前後に及ぼすものなり。例えば食事に肉の出ずるを見て、われはこの肉の豚肉なることを信ず。なんとなれば、その質柔らかにして、かつ脂肪多ければなりというがごときは、感覚以内の信仰なり。また、死後、未来のことを論じて、われは霊魂の不死を信じ、天堂、地獄の必在を信ずというがごときは、感覚以外の信仰なり。また、記憶によりて過去の事実を憶起してこれを信ずるがごとき、あるいは将来を推測してこれを信ずるがごときは、時間の前後に及ぼす信仰なり。この将来に対する信仰の一種に、予期意向と名付くるものあり。これ、自ら信仰するところによりて、かくあるべしと予期する作用なり。しかしてその作用の説明は次講に譲る。

 また、信仰を分かちて単信、複信の二種となすものあり。単信とは単純の現象、事実を信憑するをいい、複信とは種々の原因、事情相合して起こりたる、極めて複雑なる現象、事実を信憑するをいう。しかしてまた、この単信に不変化性と変化性との二種あり。因あれば必ず果あり、生あれば必ず死あるがごときは、その事柄の必然不変なる道理にもとづくをもって、これを信ずるは不変性信仰なり。これに反して、明日の晴雨、寒暖のごときは変化しやすきものなれば、これを信ずるは変化性信仰なり。つぎに複信の例を挙ぐれば、天気の晴雨も多少複雑したる現象なれども、これを人事社会の現象に比すれば、なお単純なるものなり。社会上のことに至りては、他人の意志、思想を推量してその上に信仰を置くこと難きのみならず、自己の価値を定めて自信するがごときもいたって難きものなり。ゆえに、自らその身の価値を推量して、かくのごとき位置におるものと信憑するも、なお他人の目よりこれをみれば、あるいは自尊自大に過ぎ、あるいは自卑自遜に過ぐることあり。これを要するに、信仰作用は種々の原因より起こりて、決して単純なる作用にあらず。あるいは習慣により、あるいは連想により、あるいは感情によるものをもっとも多しとす。習慣、連想によりて反復経験を重ね、観念と観念との連合ますます強ければ、その信仰もしたがってかたきを見るなり。また、感情によるの例は、己の情に適することは信仰しやすく、適せざるものは信仰し難きにおいてもこれを知るべし。

 つぎに信仰と知識とを較するに、二者その範囲同じからず。普通に解するところによりてこれをみるに、例えばここに一つの酒器あり。今その中に酒の有無を知らずして、ただ推想をもってこれを断定するがごときは、余はこの中に酒あるを信ずというべくして、酒あるを知るというべからず。もしその中をうかがい真に酒あるを実見したるがごときは、酒あるを知るというを得べし。これ、その知ると信ずるとの同じからざるゆえんなり。しかしてつぎに信仰のなんたるを推究するに、これを知識、思慮の根基なりと論定せざるを得ず。なんとなれば、一切の推理、断定は信仰によりて成立するものなればなり。例えば、人は一種の動物なりと断定するは、自らかくのごとく信ずるによる。また、西洋諸国の富強なるを見て白人種は優等人種なりと推理するも、自らかくのごとく信ずるによる。古来、哲学上に独断、懐疑の二論派ありて、独断派は信仰に偏し、懐疑派は信仰に反すというといえども、懐疑派は畢竟、懐疑そのものを信ずるや明らかなり。ゆえに、吾人の思想は必ず信仰の基礎の上に成立するを知るべし。


       第七三節 信仰論 第二

 この独断、懐疑の二論派は大いに妖怪説明に関係を有するものなれば、ここに論述せざるべからず。およそ宗教家は独断に偏し、哲学家は懐疑に偏するの弊ありて、ともにその中正を失するや明らかなり。今これを妖怪の上に考うるに、旧来の妖怪論者は多く独断に偏し、なんの理由もなく、ただ一に妖怪はあるものなりと憶定して動かざるもの多し。これに反して、今日の論者は徹頭徹尾、妖怪談を目して虚妄なり無根なりと排斥し、あるいは一切の妖怪はみな神経の作用に外ならずと速断し、さらにその理由を示さざるの弊あり。かくのごときは懐疑に似て、かえって独断のはなはだしきものなり。なんとなれば、一切の妖怪は神経作用なりと独断して動かざればなり。また、独断の極論なる論者のいうところは、かえって懐疑に陥るの傾きあり。なんとなれば、自己の信ずるところをひとり守りて、他のいうところはいかなる理由あるにもかかわらず、一切これを信許せざる傾きあればなり。例えば、宗教家が自ら信ずるところの教えは、徹頭徹尾、確実なるものと固執し、他の宗教はなにほど明確なる道理を有するも、さらに理非を問わず、徹頭徹尾、非真理として排斥する風あるは、いずれの宗旨にも見るところなるが、これ独断のはなはだしきと同時に、懐疑のはなはだしきものといわざるべからず。果たしてしからば、独断の極みは懐疑となり、懐疑の極みは独断となると知るべし。ゆえに、独断に偏せず懐疑に傾かずその中庸をとるは、妖怪学研究において必要なることなり。

 予が妖怪論は、従来の迷信者よりこれを見れば、懐疑に偏する論者の一人なるがごときも、決して世間の妖怪談を目して、徹頭徹尾、妄談無根となす者にくみするにあらず。かくのごとき極端の懐疑論者よりこれを見れば、予が論はかえって独断的に偏するものというなるべし。もし果たして一方より評して独断とし、他方より評して懐疑とするときは、その論やや中正に近きものとみなして可ならんか。まず試みに、懐疑家の一人となりて従来の独断論者の信ずるところを排斥するに、世間の論者は曰く、「世に妖怪の存することは決して疑うべからず。なんとなれば、古書の中にかくかくの事実を伝うればなり」と。その論たるや極めて薄弱の論理にして、もしその論をして成立せしめんと欲せば、さらに古書に伝うるところのものは必ず確実なることを証明せざるべからず。しかるにその証明なきのみならず、吾人はこれを従来の経験に徴するも、古書の伝説の妄談無根なることを発見したる例、はなはだ多きを知れり。また、論者ありて曰く、「世に妖怪は真に存するには相違なし。なんとなれば、われこれを友人に聞くに、数年前妖怪を実視せりといえり」これまた薄弱なる論点なり。これを古書を信ずるに比すれば、妖怪を実視したる人なお存命せるをもってやや確実なるべきも、さらに友人のいうところ、決して虚妄、虚構なきことの証明を要するなり。もしその人、平素正直にして、いまだ一回も言を食みたることあらずとするも、この特殊の事実においては、いまだ必ず平素のごとく虚構なしというべからず。なんとなれば、世間に平素正直家と知られたる人にして、ある特殊の場合に虚言をなしたるものあればなり。もしその人はこのことに限り真に事実を告げたるものと仮定するも、いまだその事柄をもって確実なりと信拠すべからず。なんとなれば、そのことたる、論者自ら実験せるにあらずして伝聞に属すればなり。たとえ存命せる友人より伝聞するも、数年前に伝聞したるものと、二、三日前に伝聞したるものと、わが記憶において大いに異なるところあり。ゆえに、もしその伝聞が数年前にありしものならば、たとえ今日確実なりと記憶せるも、記憶そのもののいくぶんか消失する点なきあたわざれば、いまだそのことを確信するあたわず。また、二、三日前に伝聞したるものとするも、その人の感覚、思想と、自己の感覚、思想とは大いに異なるところあるは疑いなきをもって、いまだその人のいかなる性質なるやを熟知せざる以上は、その伝聞また信ずべからず。たとえ性質を熟知せるも、その人のいかなる事情、いかなる感動のときに妖怪を実視したりしやを知らざる以上は、また信ずべからず。

 これを要するに、他人より伝聞したりしものは、必ずいくぶんの虚妄、誤謬をその中に混入するを免れざれば、そのことの全体を信憑することあたわざるなり。果たしてしからば、その身に実験したることにあらざれば確実となすべからざるかというに、自ら実験したるもの、なお確信し難し。なんとなれば、前時の記憶は時日を経るに従って多少消失変更し、またその当時、内外前後の事情によりて妄想、妄覚を起こすことあればなり。あるいはまた、両人して同一の事実に接見したることあるも、これいまだ確実なりと許すべからず。なんとなれば、人もしその思惟し、かつ予期するところ同一なれば、これによりて同一の幻覚、妄覚を生ずることあればなり。すなわち一人ありて、予期思想によりて妄覚上幽霊を見ることを得る以上は、これと同一の予期思想を有するものは、また妄覚上同一の幽霊を見るべき理なり。この理を推してこれを考うるに、三人、四人以上ありて同一の妖怪事実を接見したりというも、いまだ信憑すべからず。また、数回の経験によりて同一の妖怪事実に逢遇したりというも、いまだもって確実なりというべからず。もしわが心においてある一事に思想を全注し、その予期するところ前後同一なれば、数回の経験において同一の妄覚を生ずることあり。かつ、たとえ数回の経験によりて実視するところのもの、精神上の幻覚、妄覚にあらずして客観上成立せる事実なりとするも、決してこれをもって、因果必然の関係のその間に存するものとなすべからず。

 例えば、生あるものは必ず死ありといえる規則のごときは実に必然の理法にして、これを一種の真理として確信することを得れども、冬時雪多く降りたる年は翌年豊作なりというがごときは、いまだ必然の規則として確信すべからず。たとえ古来の経験上、数回その事実なるを認めしも、これなお偶然もしくは蓋然と名付くべきものにして、古来の経験中、十は十、百は百ながら、ことごとくこの規則の確実なることを証明するにあらず。また明朝、太陽東に出ずべしというがごときは、これ実に必定すべきものにして、百は百ながらその予定に反することなかるべしといえども、もし極端の懐疑論によりてこれを究むるときは、いまだ確実なりというべからず。なんとなれば、一夜の中にいかなる変動の太陽系中に生じて、明朝一定の時刻に太陽の出でざることなきを保すべからざればなり。もしこの理を推して考うるに、生あれば必ず死ありといえる規則のごときも、いまだ確信すべからず。なんとなれば、その規則の確実なりというは従来の経験に照らして定めたるのみにて、将来の経験上いかなる反則の起こるやを保すべからざればなり。かくのごとく懐疑的に論じきたるときは、一と二を合して三となり、三角の総和は二正角に同じといえる数学の規則のごときも、いまだ確実として許すべからざるに至る。なんとなれば、かくのごときはわが今日の感覚上の経験によりて定めたるのみにして、経験そのもののいまだ果たして確実なるやを保すべからざればなり。

 かく論じきたるときには、世のいわゆる妖怪の一つとして信ずべからざるのみならず、今のいわゆる真怪もまた、その実在を否定せざるべからず。しかして予は、かくのごとき極端の懐疑論を賛成するにあらず。また、その論のその理にあらざることは、従来の学術上の研究によりてすでに証明したることなれば、妖怪学研究においてその論を提出する必要なしといえども、世の妖怪論者は、あまり信憑に過ぎ独断に偏し、書に読み人に聞き、自ら幻覚、妄覚したるものを確実なりと固執するをもって、予はこれを排斥し、あわせて独断学派の偏見を論破したるのみ。

 つぎに、妖怪排斥論者の述ぶるところを見るに、これ全く浅薄もしくは極端の懐疑論にして、一切の妖怪は虚妄にして真実にあらず、しかして人のこれを実視することあるは神経作用によるのみと。これ、懐疑の極み、独断に走りたるものなり。なんとなれば、一切の妖怪は神経作用なりと独断して、さらにその説明を与うることを用いざればなり。もし妖怪の原因を神経作用に帰するときには、なにゆえに神経組織にこの作用を起こすやを説明し、かつ神経そのもののなにものにして、外界といかなる関係を有するかを説明せざるべからず。また、たとえ神経は妖怪を現出する力ありとするも、もとより原因なくして偶然に起こるべき理なし。例えば、鐘は音響を発する力を有するも、これを打つものなければその音を発せず、水は波動の性を有するも、これを動かさしむるものなければ波を生ぜざるがごとし。しかるに、世人は多く妖怪の原因を神経に帰して、さらにその神経の原因を説明せざるは、ただに浅薄の懐疑論として排すべきのみならず、極端の独断論としてしりぞけざるべからず。けだし、世人のいわゆる神経作用とは精神作用を義とし、これによりて妖怪を生ずといえるは、幻覚、妄覚を事とするなり。しかるに幻覚、妄覚の起こるには必ずその原因ありて起こり、決して偶然に発するにあらず。

 しかしてその原因は、大抵内界にありて存す。たまたま外界に原因あるを見るも、これただ誘因となるに過ぎず。もしその内界の原因をたずぬるに、思想の専制、意向の予期などの事情あるによる。もし、さらにその専制、予期の原因を究むるときは、その一部分は外界にありて存するを知るべし。けだし、吾人の日夜外界の諸家に接触して生長発育する間に、これに関する種々の観念、内界に形成し、またその間に連合の生ずるありて、直接もしくは間接に、外界の一事情によりてよび起こされたる観念が他の観念を惹起し、甲乙丙等種々の観念が互いに連起伴生して、妄覚、幻覚の原因を心内に生ずるに至る。あるいはまた昔時、談話、伝説等によりて一度記憶せし妖怪事実が、数年ののち内外の事情に応じて再起することあり。これらの原因、事情を説明するは実に心理学の研究にして、余はこれを心理的説明法という。ゆえに、もし心理的説明によるときは、妖怪の現出するはたとえ幻覚、妄覚によるとするも、みな必然の原因、事情ありて起こるものなれば、決してこれを評して単に虚妄なりというべからず。これ、予が世の懐疑的妖怪論者に賛成を表せざるゆえんなり。

 以上は、信仰論につきてその大いに妖怪と関係あることを論ぜんと欲し、今日の妖怪論者に独断、懐疑の二派あることを弁じ、あわせて予はいずれにも賛成せざることを示せり。しかして予の説はこの両派の折衷論にして、なるべく懐疑に偏せず独断に傾かず、もっぱら論理の権衡中正を保持せんとするにあり。


       第七四節 驚情論 第一

 以上は知力に属する諸作用中、特に妖怪現象と関係を有するものを掲げて論明したるが、これより感情作用中、妖怪に関係を有するものを述べんとするに、さきに恐怖の情のみを掲げて、もっぱらこれと妖怪との関係を論明する意なりしも、恐怖の情のほかに、妖怪に関する情に驚情なるものあり。これ妖怪と大いなる関係を有すれば、ここにその一節を掲げて論述することとなす。そもそも驚情とは、ひとり驚愕の情をいうにあらずして、あるいは新奇の情、あるいは変化の情など、みなこの中に摂するなり。しかして、これを総じて相対性の情となす。相対性とは、甲乙二者、相対比してその作用を現ずるものをいう。けだし一切の知識、一切の感情、一つとして相対ならざるはなしといえども、そのうち特別に相対によりて成立するものを、ここに相対性の情と名付く。今、驚愕、新奇、変化の情のごときは、全くその作用を異にするがごとしといえども、その実、同一理に基づくものなり。すなわち相対性これなり。

 およそ人の情は、平等一様に継続するときは、その苦楽を感ずる力ようやく減じて、なんらの感動を見ざるに至る。いかなる快楽もながく同一の状態をもって継続するときは、ついに快楽を感ぜざるに至り、また、いかなる苦痛もながくこれに接するときは、ついに苦痛を覚えざるに至る。例えば風月の美も、衣食の美も、音楽の美も、毎日朝夕これと相接して離れざるときには、ついにその美を感ぜざるに至る。あるいはまた、久しく病床に呻吟し、もしくは獄中に憂欝するときには、さほどその苦痛を感ぜざるに至る。もしこれに反して、ときどき種々の変化に接触して、常に耳目を一新するがごとき感ある場合には、なんとなく愉快を感ずるものなり。これをもって、人は変化を好むの情あり。すなわち変化は、人の情に快楽と趣味を添うるものなり。これに反して、不変化は人に多少の不快を与うるものなり。人の旅行を好み、風景の新奇なるを喜び、地を転じ居を移すを好むは、この理にほかならず。また、人の旅行するときに、その途上に変化少なき場所は、短き距離も長く感じ、その途上に変化多き場所は、長き里程も短く感ずるものなり。奥羽鉄道の汽車に乗るときには、たちまち退屈をうながし、東海鉄道に駕するときには、終日その倦むを覚えざるも、またこの理なり。人の天地間に生息するに、あるいは春あり秋あり、あるいは寒あり暑あり、四時の変化のいちじるしきは、人をして終年、快楽を感ぜしむるゆえんにして、もし春夏秋冬一様の気候にして同一の風景なるときは、人をして大いに不愉快を感ぜしむるは必然なり。世人往々、言をなして曰く、「春秋二季の彼岸の気候は不寒不熱なれば、終年かくのごとき気候を見んことを望む」と。もし終年二季の彼岸と同一の気候を見るに至らば、人の愉快を減ずることは免れざる道理なり。けだし、人の天地間にありて五十年前後の生涯を送り、その間、不幸、患難多きにもかかわらず、人生相応の快楽を感じ、一般にこの世を去ることをいとうの情あるは、一は四囲の現象、自然的、社会的ともに変化してやまざるによる。これをもって、変化は人に快楽を与え、不変化は快楽を減ずるものなることを知るべし。これをもって、人はその自然の性として変化を好み、不変化をいとうの情あるに至るなり。これすなわち、人に新奇を好む情あるゆえんなり。それ新奇とは、平常見慣れ聞き慣れざる事物に接するときに起こるものにして、変化、相対によりて生ずるものなり。食物、衣服、居所、器具、風景、人事、社会の現象に至るまで、いやしくもその平常に異なるところあれば、これに接して新奇の感情をひき起こすは、すなわち変化の情なり。

 今、驚愕の情もこれと同一理にして、その生起するところの現象、変化が、わが予想に反するときに起こるものをいう。これを驚情と名付く。これに苦痛、快楽および不苦不楽の三事情あり。例えば、在郷の父母の無異なるを知りて、すこしもその死を予想せざるに、突然訃音に接したるときに驚くがごときは、苦痛性の驚情なり。これに反して、遠く他郷に遊んで数年間音信を絶ちたる郷友に邂逅せるときに驚くがごときは、快楽性の驚情なり。その他、一時偶然驚愕したる場合には、苦にもあらず快にもあらざることあり。ゆえに驚情も変化、新奇の情とその性質を同じくし、平常の状態に異なりたる変化事情に際会するときに起こるものなり。これみな、その平常接見したる事情に比較対照して起こる情なれば、これを総じて相対性の情と名付くるなり。この情に抑制および自由の情を加うることあり。抑制の情とは、例えば心中に一種の情あるに、これに反対したる情の起こるありて、一情をもって他情を抑制せんとするときに感ずる情態をいう。この情は苦痛性にして不愉快を感ずるものなり。すべて人の性情は常に一種の情をもって支配することあたわずして、ときどき二、三の情が並び起こりて、その間に競争、抗排することあり。かくして、その力強きものは弱きものを圧せんとするに至らば、すなわち抑制の情を感起するなり。そのときには多少の不愉快を感ずるものなれども、もしそのうちの一情を制して自由を得、したがって心面の競争静定するに至らば、愉快を感ずるものなり。これを自由の情と名付く。すなわち、自由の情は抑制の情の反対にして、抗排性の情を除きたるときに起こる快楽性の情なり。この情は抑制の情に相対して起こり、その情の強弱はまた抑制の情の強弱に伴うをもって、これを相対性の情とするなり。


       第七五節 驚情論 第二

 前節に驚情の性質、種類を述べたれば、これより驚情と妖怪との関係につきて述べざるべからず。そもそも驚情は大いに妖怪現象をひき起こすの原因となるものにして、なかんずく新奇、変化の情は必ず妖怪現象に連結して存するものなり。すでに余は妖怪を解して異常、変態となせしが、そのいわゆる異常、変態とは全く変化、新奇を義とするものにして、世人もし平素に異なれる事物に接見するにあらざれば、妖怪の観念をひき起こさざるなり。例えば古代にありて、彗星の天界に出ずるを見てこれを妖怪とし、虹蜺の雲間に現るるを見てこれを妖怪とし、流星の落つるを見て妖怪とし、夏天に雪を降らすを見て妖怪とするがごとき、みな平常に異なりたる現象に接見するによる。また、奇草異木を見てこれを妖怪とし、あるいは奇鳥異獣を見てこれを妖怪とし、また、平常見慣れたる草木、動物にても、その年を経ること非常に古く、その生長繁茂すること非常に著しきときには、これを見て妖怪となす。例えば、老松古杉のごときこれを神木として祭るがごとき、わが国に多く見るところなり。果たしてしからば、妖怪の一部分は驚情によりて起こるといって可なり。今その情は快楽なるか苦痛なるかをたずぬるに、妖怪の情は大抵苦痛性の情に属するものなり。しかるに新奇、変化の情は快楽性の情なれば、この二者その性質を異にするにあらずやという者あらん。

 新奇、変化の情は快楽性の情たるに相違なきも、もしその極端に達すれば苦痛を生ずるものにして、いかなる快楽の情もその適度をこゆるに至らば、みな苦痛性の情とならざるを得ず。これ苦痛と快楽とその種類を異にせざるを得ざるゆえんにして、スペンサー氏は同一の心象にして、過不及の両端は苦痛にして、その中間は快楽なりと解釈せり。ゆえに、人は気候、風景の変化といえども、もしその変化が適度を失して極端に走るときには、かえって不愉快を感ずるものなり。今、妖怪のごときは変化のやや極端に走りたるものにして、愉快の程度をこえて苦痛を起こさしむるものなり。ことに妖怪現象の人に不安の情を抱かしむるは、その原因の不明なるによる。すべて原因の不明にして道理の疑わしきものは、人に危懼、不安の情を起こさしむるものなれば、人の妖怪現象に接して不安を感ずるは、もとより当然のことなり。すでに妖怪は新奇、変化の極端に達したるものなれば、これに接して驚愕の情を起こすに至るべし。これ、ひとりその現象の予想外なるのみならず、その原因の知識以外なるによりて一層の驚愕を感ずるなり。例えば、知識の浅少なる者が知識以外のことに接するときには必ず驚愕するものにして、これと同時に恐怖の情を呼び起こすものなり。ゆえに、妖怪によりて起こすところの驚情は、快楽性にあらずして苦痛性なり。しかれども、人に新奇、変化を好むの情あるをもって、妖怪の驚怖すべきを知りながら、またこれを好むの情あり。これをもって、世人は普通の談話よりは妖怪の談話を喜び、妖怪にあらざることまでも、敷衍増飾して妖怪に仮装することをつとむる傾向あり。かつ、人は生来、多少妖怪を弁護する癖ありて、他人より伝聞したる妖怪をさらに他人に向かいて語るときには、自らその弁護者の位置に立ちて、なるべくこのことをして完全ならしめんことを望む弊あるは、全く人に新奇、変化を好むの情あるによる。人のみだりに妖怪事実を仮設、虚構して民間に怪談のすこぶる多きは、みな人にこの情あるによるや明らかなり。また、家庭にありて小児のごときも、普通の談話よりは妖怪の談話を聞くことを好むの風あり。これ他なし、人は幼時よりすでに新奇を好むの情を有するによるなり。これをもって、わが国のごときは怪談をもって家庭をみたすに至る。あるいはまた、芝居、小説、新聞、寄席のごときに至るまで、妖怪談によりて客を引かんとする風あるも、やはりこの情の人に存するによるのみ。かくのごとく、妖怪の情は苦痛性にして、しかも人にこれを好むの情あるは、その理はなはだ解し難しといえども、これひとり妖怪談のみしかるにあらず。

 人の地震あるいは噴火を恐れながら、これによりて圧死したる状態を聞くことをいとわざるも、その理同一にして、だれも震災そのものを喜ぶにあらざるも、これにつきてわが心に同情を表し、したがって種々の想像を心中にえがきたるときには、そのことを聞きてその想像をみたすは、かえって人に満足を与うるゆえんにして、いくぶんの快楽をその間に感ずることを得べし。これ、安心はすなわち快楽なるゆえんなり。かつ、人は苦痛性、快楽性の別なく、自らいまだ経験せざる事実を見聞するを喜ぶものにして、その情たるや、全く新奇を好む情より発するや弁解を要せず。人の演劇を見て喜ぶも、その理またこれに同じ。演劇にて見るところのものは、多く人世の不幸、苦難を示して苦痛の状態を現すをもって、これを見る者、実にその苦痛にたえずして、涙を含んで同情を表するにもかかわらず、これを見ることを喜ぶは、その理、解し難きに似たれども、これまた、人の想像を満足せしむるをもって快楽を感ずるなり。しかれども、もし一身の上に直接に苦痛を感ずるがごときに至らば、だれもこれを喜ぶものあらんや。

第七六節 恐怖論 第一

 驚情のほかに、あるいは愛情、あるいは怒情、あるいは我情、力情、行情等、みな多少妖怪と関係を有せざるはなし。例えば、親が子を愛することの切なるより、種々の妄想、幻覚を呼び起こし、不幸にしてその子の死することあらば、その亡霊を見るがごときは、愛情によりて妖怪を生ずと称して可なり。また、人の大いに忿怒したるときは、精神多少錯乱して正しく事物の現象を感覚することあたわず、また、その道理を弁別することあたわず、あたかも一時の狂態を呈することあり。これまた、妖怪現象の一種の原因となして可なり。また、人に利己の情あるをもって、故意に妖怪を作為して私利を営まんとするものあり。これ、余がいわゆる人為的妖怪の生ずるゆえんにして、世に虚構に出でたる妖怪の多きは、全く人にこの情あるによる。また、人に己の人に勝れたるところあることを示して、もって自ら喜ぶがごとき虚名を好む情ありて、したがって妖怪を故意的に作為するもの多きに至る。けだし、英雄の権謀術数をもって妖怪を作為したる例の古来多きは、全くこの情に支配せらるるによる。しかしてかくのごとき情は心理学のいわゆる我情にして、換言すれば利名の情なり。また、力情、行情のごときも要するに我情の一種にほかならずして、人と人と互いにその力を較して、その勝つときは喜び、負くるときは悲しむ、これを力情と名付け、自ら一事をなさんと欲してその成功に達するを喜ぶは、これを行情と名付く。

 しかして人為的妖怪には、この二情によりて生ずるものまた少なしとせず。けだし人はみな他人に勝たんとする情あるも、世間のことの意のごとくならざるをもって、一片の迷雲たちまち心天をとざし、鬼神、魔力に依頼してその目的を達せんとし、商法家も工業家もみな神に祈願して富をいたさんことを望む。あるいは福神を祭り疫神を祭り、もって一家一身の幸福、安全を祈らんとす。また、自ら計画せる事業の大成を期して神仏の助力を仰ぎ、あるいは酒をたちて祈念し、あるいは食をたちて祈願し、あるいはお札、お守りを用うるがごとき、みな力情、行情の刺激にあらざるはなし。これを要するに、今日世の迷信者は力情、行情の奴隷となりて、自己の私情をたくましくせんがために神仏を使役する罪に座せざるを得ず。ことにこの行情に至りては、その結果、成功の必定すべからざることほど、人のこれに迷うものにして、鉱山事業のごとき、投機商のごとき、最も人の迷いやすき事業なり。かくのごとき結果の必定し難きものは、人力のみにて達すべからざるを知り、これを神仏に祈願するも、なおもって足らずとなし、あるいはト筮、あるいは人相、あるいは御鬮などによりて、その結果をト定せんことを求む。ト筮、人相家のごときは、人にかくのごとき投機心あるに乗じて種々の方略を設け、よってもって私利を営まんとする弊あり。果たしてしからば、我情、力情、行情の三者も、大いに妖怪を起こすに関係ありといわざるを得ず。しかれども、単情中最も妖怪に関係あるものは恐怖の情なり。ゆえに余は、特に恐怖論を掲げてその性質を細論せんとす。

 まず、情緒は前に述べたるごとく、これを分けて単複二情となし、単情に驚情、愛情、怒情、懼情、我情、力情、行情の七種あり。そのうち特に妖怪と密接の関係を有するものは、懼情すなわち恐懼もしくは恐怖の情をもって第一とす。そもそも恐怖の情は苦痛性の情にして、その苦痛はまさにきたらんとする災害、苦難を前知するより生ずるなり。例えば震災を恐れ、火災を恐れ、水災を恐れ、疾患を恐るるがごときは、これによりてきたすところの災害、苦悩を想像するより生ずるなり。もしその想像を有せざる小児のごときに至りては、いかなる災害のまさにきたらんとすることあるも、さらに恐るる色あるを見ず。しかるに小児はかえって両親を恐れ大人を恐るることあるは、これ災害を前知するというより、むしろその力の微弱なるを感ずるより起こる。動物の人類を恐れ、奴僕の主人を恐るるもこれと同一にして、みな身心もしくは権力の薄弱なるより生ずる恐怖なり。また、道理の不明および結果の不定によりて起こすところの恐怖あり。学生が試験を恐れ、人民が法廷を恐れ、田舎者が他国に出ずるを恐れ、不学の者が知識あるものを恐るるがごときは、みな道理、結果の不明、不定なるによる。また、たれびとも未経験の新事業に従事するときには、必ず多少の恐怖を生ずるものなるも、その理同一にして、けだしその人自ら、よくそのことにたえ得べきかいなかを疑懼するによる。しかして、人の最も恐るるものは死をもって第一とす。世間一般に天災を恐れ、病患を恐れ、あるいは戦争あるいは航海を恐るるは、要するに死を恐るるによる。しかして人の死を恐るるは、一生の快楽志望の絶滅するを恐るると、ならびに前途の暗くしていずれに帰向するかを知るべからざるとによる。

 これを要するに、恐怖の情の起こる原因を考うるに、第一に危難の前知、第二に良心の薄弱、第三に結果の不定、第四に道理の不明、第五に前途の冥暗、第六に快楽の減滅等なり。しかして、恐怖の反対は勇気なり。もし人に勇気を欠くときには、必ず恐怖を生ずべし。しかしてその勇気は、一は体力、二は情力、三は知力、四は意力によりて発するものにして、また人に自信の力を要するなり。体力のみありて、その力よく鼎をあぐるに足るも、知力、意力のこれに伴うにあらざれば、恐怖の生ずるを免れず。また、知力を有して、眼に万巻の書を読むも、意力を欠くときには、事に臨んで猶予躊躇して、果断の行をなすあたわず。また、意力に富みて果敢勇断の風あるも、体力薄弱もしくは知識、想像の明瞭ならざるときは、恐怖なきあたわず。しかれどもこれらの原因、事情は、ひとり教育によりて養成すべきにあらず、また、ひとり意志によりて左右すべきにあらず。人に生来多少の恐怖心を有するありて、その情は機に触れ事に臨んで自然に発動しきたり、決して随意に抑制すべからざるものあり。例えば道理上、深夜、墓畔を通過するも、すこしも恐るるべきことなきを知るも、夜中そこに至れば知らず識らず、これを恐るる情が心内に動きて、自ら制することあたわざるものなり。また、昼間は意気堂々として天地も狭しとするくらいの豪傑風の人が、夜間灯なければ戸外に出ずることあたわざるものなり。ゆえに吾人の恐怖心は、遺伝性もしくは本能性となりて存するを知るべし。かの宗教信者が、未来に快楽の世界あることを信じてさらに疑わざるも、なお死することをいとうがごときは、全く死を恐るる一種の遺伝性を有するによる。これをもって、人に恐怖の情あるは人間自然の本性にして、教育、経験の力によりて改変することあたわざるものなり。しかれども、教育の力によりて多少その性を変化し得るは明らかなり。すなわち体力、知力、意力、情力を養成するときには、その結果として恐怖心を減じ得べきは、また疑うべからず。今さらに、なにゆえに人に遺伝性として恐怖心を有するやの問題につきて、その原因を講究するは妖怪説明をなすに必要なることと信じ、ここにいささかその道理を論述せんとす。

 そもそも吾人の今日の生存をなすに至りしは、極めてながき年月の間種々の競争に加わりて、よく生存を保持しきたりたる結果にあらざるはなし。すなわちその目的は、生存保全の一途を追って進行しきたれるものに外ならず。この生存保全に自己の生存と種属の生存との二様ありて、自己の生存を害し、あるいはこれに不利を与うる方に向きて進むときには、もとより今日の生存を見ることあたわず。また、種属の生存を妨ぐる事情に向かいて進むも、今日の結果に達することあたわざるは明らかなり。吾人は今日すでにかくのごとき繁昌せる社会を有する以上は、古来吾人の進路は、自己の生存および種属の生存を助くる事情を通過してきたりたるや疑いなし。すなわち種々の競争に加わりて、勝利を占めてここに至りたるや疑いなし。果たしてしからば、吾人は自然にその生存に害ある事情を避け、その生存に利ある方向につきて進化しきたりたるや明らかなり。これすなわち恐怖の情の起こるゆえんにして、生存に害ある天災、地災、人災のごときはこれを恐れて免れんとし、また、その力の強かつ大なるものはこれを恐れて避けんとし、もってこの情を養成するに至りたるなり。ゆえに人に恐怖の情あるは、その生存を保全するに欠くべからざる事情ありて起こり、その発達も決して一人一代によりて成りたるものにあらずして、数世数代を経て遺伝性となるに至りたるものなり。果たしてしからば、もとより一時の教育の力によりて変更すること難かるべし。しかれども、進化の規則に遺伝と順応との二法ありて、吾人の性質はひとり父祖の遺伝性によりて成るにあらずして、その一代の教育、経験に順応適合して成りたるものなれば、人性固有の恐怖心のごときも、またいくぶんか教育によりて改変することを得べき理なり。ことに無知より生じたる恐怖心のごときは、教育上知育の進歩によりて除き去ることを得べし。しかるに人の妖怪を恐れ、あるいは恐怖によりて妖怪を生じたるがごときは、多く無知より生ずるものなれば、これをいやするの法もまた、教育によるをもって足れりとす。


       第七七節 恐怖論 第二

 すでに恐怖心の性質、起源を説示したるをもって、これよりその情と妖怪との関係につきて述べざるべからず。すでに恐怖心の生ずるに種々の原因ある以上は、恐怖そのものにも種々の類別なかるべからず。今、妖怪の恐怖につきても、あるいは幽霊を恐れ、あるいは鬼神を恐れ、あるいは狐狸を恐れて、祈禱、禁厭によりてこれを避けんとし、あるいは天変地異を恐れ、あるいは病患、失敗を恐れて、ト筮、人相等によりて吉凶を前知せんとするがごときは、ともに恐怖心に出ずるというも、またおのずからその種類を異にするや疑うべからず。これによりて、妖怪と関係を有する恐怖心にいかなる種類あるかを考えざるべからず。およそ世のいわゆる妖怪は幽霊、狐狸等を称すれども、これに接して起こるところの恐怖の情は、決して一つに限るにあらず。種々の恐情相結んで妖怪現象を呈し、ついに予期意向、専制思想を生じ、したがって幻覚、妄覚を生ずるに至るなり。今その恐情のおもなるものを挙ぐれば、あるいは恐ろしく感ずるあり、あるいは怖く感ずるあり、あるいは気味悪く感ずるあり、あるいはものすごく感ずるあり。その見るところのものの容貌および体力非常に強大にして、自らこれに敵するあたわざるを知り、自然にその身に危難を思い出だし、もって恐るるがごときは普通の恐怖なり。しかるにまた、一身上に危難を予想せざるも、その状貌の常に異なるを見て気味悪く感ずることあり。これまた一種の恐怖心にほかならずといえども、危難を予想して生ずる情とはその性質を異にするや明らかなり。これむしろ事柄の不明にして、その理の了解し難きより生ずる恐情なり。例えば鬼を見て恐れ、大入道を見て恐るるがごときは、一身上の危難を予想して生ずる恐情なるべきも、幽霊を見て恐れ、陰火を見て恐るるがごときは、その心に怪しむところありて疑懼するより生ずる恐怖なり。あるいは深夜、森林の中を通過して、小児もしくは婦人に逢遇したるときに恐怖するがごときも、決して一身上の危難を予想して生ずるにあらず。むしろ、その道理の解し難きによりて起こるものなり。

 また、俗にいわゆる気味悪く感ずるとは、その意また異なれり。例えば、食事に当たりて米飯の中に味噌の一片存するを見るとき、あるいは汁の中に一粒の米飯を見るときに気味悪く感ずるといい、あるいは虱のごとき、蛆、糞虫のごとき、不潔の虫多く集まるを見て気味悪く感ずるというも、これらは決して道理の不明瞭なるによりて生ずる恐情にあらず。むしろ人の清潔を好み、不潔をいとうの情より出ずるものなり。しかれども、もしさらに、なにによりて人にかく不潔をいとう情ありやをたずぬるときは、一身の健康に関係して起こりたるや明らかなり。けだし吾人の身命を維持せんと欲せば、清潔の地を選んでこれにつき、清潔の食を選んでこれを取らざるべからず。これをもって、古来進化変遷の際、自然に不潔をいとい清潔を好むの情あるに至り、したがって清潔と不潔と相混ずるを見れば気味悪く感ずるに至るなり。しかれども、そのいわゆる気味悪く感ずる中には、多少その状態の常に異なるを怪しみ、その結果の予定し難きを恐るるなどによりて生ずるものあり。ゆえに、一般に気味悪く思う中にも種々の恐情を含有するを知るべし。

 また、ものすごく感ずるという中にも、幽霊もしくは陰火の青白き色を見て感じ、あるいは荒れ果てたる景色、もしくは幽邃を極めたる山水を見て感ずるなど、決して一様ならず。しかしてまた、恐怖の情のみによりて妖怪を生ずるにあらず。これに伴って起こるところの、種々の観念、思想によりて発するなり。ことに幽霊のごときは最も精神作用に関係を有するをもって、精神の事情によりて大いにこれを恐るる度を異にす。もしその人、かつて他人を苦しめ、あるいはこれを害してその怨恨を有したるときは、その妖怪を恐るることはなはだしく、あるいは自らこれによりて精神病をひき起こすことあり。もしそれに反して、心中に一事の他人を害したる記憶を有せざる人は、たとえ現に幽霊を見ることあるも、これを恐るること、またはなはだしからず。これによりてこれをみれば、幽霊を恐るるがごときは、その人の心中の状態、大いにこれに関係を有するを知るべし。かつ、かくのごとき妖怪は、多く薄暮もしくは夜中に出ずるものにして、白昼にこれを見るははなはだまれなり。これ、白昼は吾人の視覚判明にして、これに伴うところの種々の事情、道理の明瞭なるによる。これまた、恐怖の情は白昼に起こること少なくして、夜中ことに暗夜、深更に多きゆえんなり。

 しかるにここにまた一種、その性質を異にする恐怖の情あり。例えば、白昼といえども四隣寂寥たる空室に独座し、あるいはいたって広き座敷に終日閑居するときには、なんとなく気味悪く感ずるものなり。この恐怖は無人の境を旅行して生ずる恐怖と同一にして、人の自然の性より発するものなり。しかしてその発する原因は、人力の微弱にして、孤独をもって生存すること難きを知るによる。これに反して、他に依頼するところあれば、人意に力を添え、恐怖すること少なきものなり。ゆえに、多人数相結んで旅行し、あるいは多人数相集まりて居住するときには、さらに恐怖を生ぜざるものなり。かくのごとく人の自然の情として、白昼広き座敷に独居するときに恐怖の情を生ずる以上は、もし夜中ここに住せば一層の恐怖を生ずべき理なり。これをもって、大名、華族の家には、古来多くの妖怪の出でし例あるなり。

 今、試みに妖怪に関する恐怖の情を分類するに、まずこれを陰陽二性に大別し、その各性を左表のごとく、有

体、無体に分かたざるべからず。


         有体(陽性)

      陽性

         無体(陰性)

妖怪的恐怖

         有体(陽性)

      陰性

         無体(陰性)


 陽性とは、妖怪そのものの力、強剛にして、これに接すると同時に一身上の危難を感じ、これを恐るる情もまた強剛なるものをいい、陰性とは、妖怪そのものの力、微弱にして、恐怖の度一時に強からざるも、その量に至りては、これを陽性に比してかえって大なるを覚ゆるものをいう。換言すれば、陽性は強くして小に、陰性は弱くして大なるがごとき別あるなり。今その例を挙ぐれば、膂力人に勝れたる大怪物に接したるときに、これを恐るるがごときは陽性に属する恐怖なり。これに反して、よわよわしき幽霊の柳枝にかかりたるを見、あるいは鬼火の青白く燃え上がるを見て、これを恐るるは陰性なり。つぎに、有体とは目前に妖怪そのものの体を現見するをいい、無体とはしからざるをいう。例えば、陽性的有体は今挙げたる大怪物のごときをいい、無体とはその形を見ざるも、あるいは夜中家屋のまさに倒れんとする響きを発するがごとき、あるいは石の窓より入りきたり、あるいは物の上より落つるありて、直接にその身に危難を感ずるの類をいう。これに反して、陰性的有体は幽霊、鬼火を見て恐るる類にして、無体は空室に独座して恐怖を発するがごときをいう。この有体、無体は、またおのずから陰陽両性の別を有するをもって、余は陽性的無体は陽性中の陰性にして、陰性的有体は陰性中の陽性なりとなす。また、この陰陽両性には平常妖怪ならざるものにして、時と場所とにより、妖怪的恐怖を発するの類をも加えざるべからず。例えば、婦人、小児のごときその力の極めて微弱なる者は、白昼これを見て恐るることなきも、深夜、深林の中に女子もしくは小児に遇いたるときに、かえって大いに恐るるものなり。かくのごとく講究しきたるときは、妖怪学のみをもって一科の心理学を完成することを得べし。

 以上述べしところによりて、妖怪の恐怖に種々の類あること明らかなり。しかしてその情は、多く自然に発動し、意力をもって左右すべからざるものなり。これ、その情の数世を経て進化発達したる遺伝性の情あるによる。しかしてその発達は進化の大法にもとづき、生存保全の規則に従いたるや疑いをいれず。すなわち、生存に不利もしくは障害あるものに向かいて、これを恐怖する性を遺伝するに至りしなり。しかるに、ここにさらに一論題ありて起こる。すなわち、その恐るるところの物柄につきて、いちいちこれを分析解剖して、その各部分はいかなる関係を生存の上に有するかを論定せざるべからず。もしこれを論定せんと欲せば、さらに怪物そのものの性質を考究せざるべからず。これまた心理学上の問題にして、あたかも美学上、美の性質を考定する必要あるがごとし。世人は、一般に美の美たるを知りてこれを怪しむものなしといえども、学術的に考究しきたるときには美そのものを分析して、いちいちその成分を示さざるべからず。例えば、美そのものは美麗、宏壮、適合、統一などによりて成るがごとく、妖怪そのものもまた種々の性質より成ること明らかなり。例えば幽霊につきてこれを述べんに、いちいちその色、その形、その他種々の性質を分解して、これに説明を与えざるべからず。しかれども、この問題はひとり恐怖に関することにあらざれば、ここにこれを略す。

 さらに、恐怖につきて一考を要する点は同情の事情なり。およそ一人の恐怖は他人の上に感伝して同情を起こし、一層その感覚を強むるものなり。ゆえに、一人の者が恐怖を発すればたちまち他人に伝染し、衆人同一に恐怖を生ずることあり。ここにおいて、個人的恐怖と社会的恐怖との二種あることを知るべし。論じてここに至れば、複情について講述するを要す。


       第七八節 複情論 第一

 そもそも情に単複二種あることは前すでにこれを述べたるも、いまだ複情と妖怪との関係を明らかにせざりしをもって、まず複情の性質を述べざるべからず。およそ複情は単情の種々相合し、これに加うるに知力の混ずるありて、一層複雑の状態を有するものなり。また、単情は自己的すなわち個人的の情にして、直接に自己の利害に関するものより起こり、複情は非個人的にして、社会あるいは世界の観念より起こるの別あり。今、同情は社会的情操の根基にして、他の複情のよって起こる本源なり。例えば、人の他人を愛し国家を愛するがごときは、みな同情より生ずるものにして、道徳の情のごときは多く同情によりて成立するものなり。ゆえに、これを複情の初級となす。これに次ぎて、知情すなわち知力の情、美情すなわち美術の情、徳情すなわち道徳の情、宗情すなわち宗教の情あり。これみな複情なり。まず、知情は真理を得ることを楽しむ情なれば、その目的は真にありというべし。つぎに、美情はその目的美にあること弁解をまたず。つぎに、徳情は道徳上善を得ることを楽しむ情なれば、その目的善にありというべし。ゆえに、以上の三者は真、善、美を目的とするものなり。これに対して、宗情は真、善、美の相合して一つとなりたるものを目的とす。これを仏教にては悲知円満の体を目的とすというべし。しかるに、余はこれを妙と呼ばんとす。すなわち宗教の目的は妙にあり。これに対して、妖怪の情は驚情、懼情のごとき単情に属すというも、これ愚俗の情のみ。もし多少の知識を有するものの、妖怪に対して生ずる情は複情の一種ならざるべからず。しかしてその普通の複情に異なる点は、快楽性にあらずして、むしろ苦痛性なるにあり。換言すれば、知情、徳情、美情等は積極的情操にして、妖怪の情は消極的複情なり。なかんずくその情は宗情の反対性にして、これと表裏の関係を有するなり。余はこの情を怪情と名付けて、これよりいささか複情中の怪情を述ぶべし。


       第七九節 複情論 第二

 そもそも複情的怪情は、ひとり恐怖の情によりて成るにあらず。あるいは驚愕、新奇、あるいはわが力行の諸情相結び、これに加うるに知力作用の混ずるありて、一種の複情を形成するなり。しかしてその情は個人性の情なれども、もしその複雑なるものに至りては多少の同情これに加わり、非個人性を帯ぶるに至る。今その理由を述ぶるに、まず人心中の妖怪を感ずる作用は、果たして情緒の作用に属するかいなやを論定せざるべからず。余はすでに第一講において妖怪を解して迷誤なりとなし、迷誤によりて妖怪を生ずるに至りしゆえんを説明したるは、これひとり知力と妖怪との関係を示せるもののみ。しかるに妖怪は、果たして知力一方によりて生ずるものなるか。これ、はなはだ疑うべきことにして、我人の精神は知情意の三作用を具有するも、その三者互いに相連結し、一作用起こるごとに必ず他作用のこれに伴って起こるは、精神の各作用について知ることを得るなり。しかれどもその作用中、また自ら知に関すること多きものと、情に関すること多きものとの別なきにあらず。今、妖怪はいずれの作用と直接の関係を有するかを考うるに、知力と情緒とに関すること最も切なりとす。しかして知力と妖怪との関係は、前数講においてすでに論明したるも、いまだ情緒と妖怪との関係を明示するに至らず。しかるにその間に密接の関係あるゆえんは、吾人が妖怪に接触して必ず苦楽の情を誘発するを見て知るべし。その情たるや通常苦痛性なれども、また快楽性を帯びざるにあらず。もしこれを単情の上に考うれば、怪情は驚情と懼情すなわち恐情との二種より成るとするに、恐情は苦痛性なれども、驚情は苦痛性なるあり、また快楽性なるあり、ことに新奇の情に至りては全く快楽性なり。ゆえに単情的怪情は、苦楽両性を兼有するものというべし。このことは前すでに講述したればこれを略し、今特に複情的怪情を述ぶるに、妖怪に仮怪、真怪の二種を分かちて、その各種について論ぜざるべからず。

 まず仮怪の複雑なるものに至りては、その情は美情の反対にして、不美の情と相関するものなり。なんとなれば、妖怪に種々あるうち、大入道、青入道、一ツ目、三ツ目のごときは、みな美性に反対したる不美性のものにして、これによりて起こすところのものは苦痛性なり。その形のごとき、その色のごとき、全く美の性質と相反し、醜の性質を帯ぶるものなり。その三ツ目のごとき、決して美貌を示すものにあらず。その青色のごとき、決して美色を呈するものにあらず。その各部分、ことごとく醜をもって成るといいて可なり。俗にいわゆる幽霊のごとき、余自らこれを実視せずといえども、その画工の手に成りたるものを見るに、一目して不美性のものたるを知るべし。かの〔円山〕応挙の幽霊のごとき、人みなその妙を称すれども、だれもこれを見て美貌となし、またこれによりて快楽を感ずるものなかるべし。

 西洋の幽霊は、四肢五体を存すといえども、その容色決して美を示すというべからず。ゆえに怪情は美情の反対にして、複情中の苦痛性の情なりとなす。今、余はこの情の目的を妖にありといわんとす。妖とは美に対すれば醜なれども、あえて醜のみによりて成るにあらず。さきにすでに知情の目的は真、美情の目的は美、徳情の目的は善、宗情の目的は妙を得るにありといいたるが、怪情の目的はまさしくその反対にして、不真、不美、不善を具するにあり。すなわち、偽、醜、悪をもって怪情の目的とす。今、余はこの三性を合したるものを妖と名付くるなり。ゆえに妖は妙の反対なり。かく妖はその性、醜なるも、そのうちにまた美性を帯ぶるところなきにあらず。幽霊、亡者のみ妖怪にあらずして、一功の奇々怪々、不可思議なるもの、またみな妖怪なれば、その中には多少美麗、宏壮等の性質を帯ぶるものもあり。例えば奇草、異木、嘉祥、奇瑞のごとき妖怪は、あえて苦痛性にあらず。また、深山に入りて、完全無欠にして人界に見るべからざる美人に会することあらば、これを妖怪となすも、すこしも醜性を帯ぶるにあらず。

 これによりてこれをみれば、怪情はひとり美情の反対なりというべからず。また、不美性妖怪のごときも、これを美術に写し想像にえがくときは、また多少の美を示し、いくぶんの快楽を生ぜざるにあらず。これをもって、人は妖怪の小説を喜び、妖怪の絵画をいとわざるなり。これを要するに、妖怪に苦痛性、快楽性二種ありて、その苦痛性も、想像上に考うるときは、快楽性となることありと知るべし。果たしてしからば、複情的怪情の要素は、単情中の驚恐二情の発達したるものとなすも可なり。その他、怪情はまた知情と関係を有して、まさしく知情の反対なり。それ知情は知識を喜び無識をいとうものなるに、妖怪はすでに迷誤より生ずるものなれば、無識の上に現ずるものといわざるべからず。ことに迷誤は非真虚妄にして、その性たるや偽りなり。すでにしからば、怪情は知情の反対にして、しかも苦痛性なること明らかなり。仏教にて妖怪を解するときは、これを人の迷妄とするよりほかなし。その結果は苦悩なりといわざるを得ず。これその教えの、生死の苦界を脱して涅槃の楽岸に達するを目的とするゆえんなり。

 しかりしこうして、人の怪談を聞くを喜び、その道理を明らかにせんことを願うは知情の作用にして、知情ようやく進めば怪情ようやく衰うるの傾向あり。これ他なし、普通の怪情は仮怪の情にして、知識進めば妖怪おのずから退くことあるによる。また、徳情と怪情とを比するに、やはり正反の関係あり。なんとなれば、一切の道徳はみな善を目的とすれども、妖怪はおもに不善に関係して存すればなり。例えば、天災地変のごとき天地の大妖怪は、人類、生物を災害する作用なれば、これ実に不善性の作用といわざるべからず。あるいは幽霊、怪物のごときも、多く罪悪、怨恨等と関係を有するものなり。道徳家の生霊、死霊はだれもこれを恐れず、大悪、大奸、もしくは怨恨あるものは、その死するに当たりて一般にこれを恐れ、あるいは幽霊、怪物となりて世に現ずるものとなす。ゆえに余は、怪情は悪性に関すという。しかれども、そのうちまた善性を有することなきにあらず。かつ、その悪性のごときも悪人を懲戒する方便となし、その目的全く道徳のいわゆる善を達するにありとなすときは、妖怪と道徳と相合すといって可なり。

 以上は仮怪と複情との関係を示したるのみ。もし真怪を論ずるに至りては、全く宗情と相合するを見る。なんとなれば、真怪そのものは宗教のいわゆる無限、絶対、不可思議の体に外ならざればなり。余はこの不可思議を呼んで妙と名付く。しかして妙に反するものは不妙にして、不妙は不真、不善、不美、すなわち妖なり。ここにおいて、仮怪は宗教の反対にして、真怪は宗教と合体するを知るべし。しかるに、今はしばらく怪情をもって知、美、徳、諸情の正反対にして、苦痛性(消極性)のものとなして表示するときは左のごとし。


               知情……真

           相対性 美情……美

               徳情……善

   快楽性(積極性)

複情         絶対性、宗情……妙(真、善、美)

   苦痛性(消極性)=怪情……妖(不真、不美、不善、偽、醜、悪)すなわち不妙


 これ、もとより仮怪について与えたる分類なり。もし真怪を論ずるに至らば、もとより快楽性(積極性)にして、かつ真、美、善と相合せざるべからず。


      第八〇節 複情論 第三

 上来述べしところの情緒論は、べーン、サリー等の諸氏の心理学にもとづき、普通の分類に従いて説明を与え、かつその各作用と妖怪との関係を弁明したるに過ぎず。ただ、余が複情の一部分に怪情の一種を設けて、他の諸情の反対性の情なることを論明したるは、普通の心理学の説かざるところなり。しかるに余はさらに進みて、先輩の分類によらず、妖怪学上一種特別の分類を情緒の上に設けんとす。これ、従来の心理学者のいまだかつて唱えざる説にして、余が一種の新見なり。しかしてその分類の一種特別なるは、情緒を分かちて単複二情あるいは驚情、愛情、怒情等となさずして、最初より常情、怪情の二種となすの点にあり。今その理由を述べんに、一切の事物に常態と変態との二種ありて、吾人の精神作用もまた常態と変態との二様あり。これをもって、余はさきに第二講学科編において、学問全体を分類して正式、変式の二科となしたるゆえんなり。また、さきに理論の応用を論ずるに当たりても、自ら内外二途あることを述べ、あわせて心理学そのものも正式、変式の二様あることを述べたり。換言すれば、客観的事物にも、主観的精神にも、物理、心理ともに常変二態あることは、事実に照らしても道理に考えても、ともに明らかなり。果たしてしからば、心理作用中の一種たる感情作用にもまた、常変二態すなわち正変二式あるは、演繹的に推論するも、たやすく了知するを得べし。これ、余が情緒を大別して常情、怪情の二種となすゆえんなり。そのいわゆる怪情はすなわち変情なり。そもそも変情には精神病に属する状態を義とするときと、余がいわゆる妖怪を義とするときと、おのずから二様の別あり。ゆえにその分類を示すときには、左表のごとくなるべし。


     単情

  常情

     複情

情緒

     病情

  変情

     怪情


 今、しばらくかくのごとく分類して、さらにこれを考うるに、病情そのものもまた一種の怪情にほかならざるを知るべし。余はすでに精神病をも妖怪の一種に属せしめしをもって、病情はもちろん怪情の一種ならざるべからず。しかるときは変情すなわち怪情なり。しかれども病情は例外の例にして、常体の妖怪とはまたいくぶんかその性質を異にするところあれば、しばらくこれを除きて、ひとり普通の怪情を論ずるも可なり。まず、余は情緒を分かちて常情、怪情の二者となし、かつこの二者の異なるゆえんを述ぶるに、さきに妖怪を解して、変態、異常、または不可思議なる事実および観念に与えたる名称なりと言いたるが、今、怪情もやはり変態、異常、不可思議に対し起こるところの感情なりといわざるべからず。およそ人はその自然の性として、異常もしくは不可思議に接触するときはたちまちこれを怪しみ、かつその理由を知らんことを求むるものなり。また、すでにその理由を知れば、さらに進んで他の不可思議を考定せんことを求むるものなり。これをもって、人は妖怪、不〔可〕思議に向かいてその情を走らせ、既知、既明の位地に安んずることあたわずして、常に未知、未明の境遇に向かいて進まんとする傾きあり。ゆえをもって、人はだれも妖怪を好み、かつ怪談を聞きて自ら楽しみ、また、妖怪事実を潤飾、増補して、これを回護せんとする情あるに至る。これ余が、人に本来怪情ありというゆえんなり。今、さらに常情と怪情との別を、変態、異常の上に考えずして不可思議の上にたずぬるに、世に可知的界と不可知的界あり。その一は有限相対の境遇にして、その二は無限絶対の世界なり。しかして有限相対界にありて、情緒の発動を見るは、すなわち常情の作用にして、無限絶対界に対して情緒の進向を見るは、すなわち怪情の状態なり。この二者の別を推究すれば、おのずから情緒に常、怪二種あるゆえんを知るべし。

 しかりしこうして、ここに有限より無限に進向する情は宗教の情にして、これ怪情にあらずという者あらん。けだし、怪情も宗情もその結帰するところ一なりといえども、また、おのずからその範囲を異にするところあり。そもそも宗情にも通俗的と理想的との二種あるも、余はひとり理想的宗情についてこれを述ぶるに、そのいわゆる宗情は、余がいわゆる真怪に向かって発動する情操なり。しかして、余がいわゆる怪情は仮怪、真怪を合称したる情にして、ただその仮怪に対する感情も、その方針はあくまで真怪に向かう途次にあるものなれば、これを有限より絶対に進向する情なりとなすのみ。かくして仮怪極まれば真怪に達するに至るべし。真怪は宗、怪二情の合して一つとなる点にして、この点は実に諸情の最上なり。ゆえに余は、妖怪極まりて宗教はじめてその真光を開現すといわんとす。しかるに、ここに達する途次を照らすものは教育の灯台なり。換言すれば、仮怪を払うは教育にして、真怪を開くは宗教なり。ゆえに余は、宗教、教育二道の進歩によりて、世にいわゆる一切の妖怪は必ず雲消霧散して、その形をとどめざるに至るべしと信ずるなり。しかりしこうして、宗教、教育ともに外因にして内因にあらず。その内因は吾人の有するところの怪情なり。すでに怪情は迷誤の情なりといえども、その裏面には真怪に向かって進まんとする一種の蒸気力を有するものなり。換言すれば、外部に仮怪の迷情を示し、内部に真怪の実相を含むものなり。ここに至りてこれをみれば、怪情ははるかに常情の上に位するを知るべし。もし、さらにこの情の意義を拡充していうときは、一切の常情はみな怪情の真相より発現すというも、あに不可ならんや。

 以上論じてここに至れば、妖怪に仮怪、真怪の二種あるをもって、怪情そのものもまた仮情、真情の二種あることを知るべし。すなわち、外部表面に発動するところの情は仮情にして、内部裏面に含有するところのものは真情なり。仮情は仮怪に関するをもって教育と関連し、真情は真怪に関するをもって宗教と関連す。ゆえに、さらに情緒を分かちて左のごとくなさんとす。


     単情

  常情

     複情

情緒

     仮情

  怪情

     真情


 もし、人この理を推究するときは、妖怪学は宇宙の機密に体達する一種の別門たることを知るべし。

 以上述ぶるところの怪情を前節に述ぶるところに比するに、単情の上にありては怪情の一半は奇情すなわち新奇の情、一半は恐情すなわち恐怖の情の相合して有限相対の境遇にありて存し、複情の上にありては単情的怪情、さらに一歩を進めて宗教的情操と連接し、もって絶対的境遇に関係して存するなり。かつ、前節に述ぶるところと今述ぶるところの異なるは、前にはおもに消極的よりこれを論じ、今は主として積極的より論じたるの別あるによるのみ。


       第八一節 想像論 第一

 余、すでに感情中の妖怪に関する諸情を講述したれば、これより意志について妖怪に関する作用を説明せざるべからず。しかるに、ここに知力ならびに感情に関する一種の作用あれば、そのことについて一言するを要するなり。これすなわち想像作用なり。そもそも想像には、さきに第五七節に示せしごとく再想、構想の二種あるも、今ここに掲ぐるものは、そのうちの構想なりと知るべし。構想に三種あり。知力的構想、感情的構想、意志的構想これなり。例えば、学者の真理を究明し新説を発見せんとするときは、必ずまず想像によりて仮説を構成し、これよりして研究を施すがごときは知力的構想なり。小説家、詩人、画工等の、いまだかつて見聞せざるところの風景、人物を描き出だして、人の情に満足を与うるがごときは感情的想像なり。また、吾人が言語、動作をなすに当たり、あらかじめその目的およびこれに達する方法を想定して、言行をしてこれに適合せしむるがごときは意志的想像なり。しかしてこの三種の想像中、最も妖怪に関係を有するものは感情的想像なり。感情的想像は喜怒、恐怖等の情に従って起こるものにして、必ずしも道理に合するものにあらず。しかれどもその最も高等なるものにありては、ただに道理に合するを得るのみならず、またよく理想に合体するを得といえども、その最下等なるものに至りては、全く経験上の事実に反したるものにして、これを妄想、迷見という。 あるいはまた、想像を分かちて分解的および創設的の二種となすことあり。分解的とは、種々の再想をいちいち分解して、甲の一部分と乙の一部分と互いに結合して新想像を構成するをいう。例えば人に鳥の羽翼を付加して、空中を飛行する怪物を想像するがごとし。つぎに創設的とは、全く一種の新想像を創造しきたり、その各部分ともに、いまだかつて経験上見聞せざる新影像をもって成りたるものをいう。しかして細かにその各部分を験すれば、その実、従来経験、見聞したる事物の観念が、種々に結合、変成したる結果なるや疑いなしといえども、ただこれを分解的に比すれば、あまり錯雑に合成しきたりて、いちいちその各部分の出ずるところを、つまびらかにすることあたわざるによるのみ。語を換えてこれを言わば、分解的は単純の構想にして、創設的は錯雑の構想なり。あるいはまた、増大的および幻妄的の二種に分かつことを得べし。増大的とは、実際見聞したる事物の再想が、その形状を増大して構想上に現出するをいう。もしその構想と実物とを較するときは、ただ数倍その形状の増大したるのみにて、あえて実物の性質を失うにあらず。例えば、普通の人類はその身長五尺ないし六尺に出でずといえども、構想上にえがききたるときには、数十尺の身長を有する人を想見することを得べし。しかれども人はやはり人にして、ただ大小の別あるのみ。つぎに幻妄的に至りては、全く実物、実際と相反したる想像を構成し、経験上たれびとも見聞し得べからざるものを構造するをいう。例えば夜叉のごとき、幽霊のごとき、一ツ目、三ツ目、入道のごとき、到底、実際上目撃すべからざるものを構造するをいう。これすなわち心理学のいわゆる幻象、妄象の起こるゆえんにして、感覚上に幻妄を生ずるは、けだしこの想像がその原因となるによるべし。これに対して増大的想像は、変覚、変象の起こる原因なり。

 以上はみな感情的想像にして、知力、意志の制裁を欠きたるものなれば、そのはなはだしきに至りては、みな幻妄の想像を呼び起こすに至るべし。しかりしこうして、また全く道理上にて考出し得べからざるものを、想像上に構成すべからず。例えば一図形をして、同時に円形にしてかつ方形ならしむることを想出せんとするも得べからず。また、この世界より時間、空間を除きたる状態を想出せんとするも得べからざるを見て知るべし。ゆえに、構想上の幻妄は実際上見聞せざるものを想見するを得るも、思想、道理の相いれざるものを想出することあたわざるなり。また、想像に有意的と無意的との二種あり。有意的想像は、吾人の意志をもってあらかじめ想像上にえがくところのものを計画するをいう。例えば小説家、画工、詩人のごとき、種々に工夫、思考して想像を構成するがごときこれなり。無意的想像とは、吾人の意志をもって左右するを待たず、自然に想出するものをいう。すなわち吾人が平常見聞、経験の際、種々の想像の意力によらずして自生、自変するものをいう。以上は想像の種類につきて、各種の性質を説明したるものなり。これより、想像と妖怪の関係を述べざるべからず。


       第八二節 想像論 第二

 そもそも想像に知、情、意三種あるうち、感情的想像はまさしく妖怪に関係したるものにして、これを一名妖怪的想像と称するも可なり。およそ妖怪とは外界に実見せる現象に与うる名称なるも、十中八九はわが精神作用の影響によりて生ずるものなり。例えば幻覚、妄覚のごとき、みなわが精神の激動、変態によりて生ずること明らかなり。また、世に存する妖怪談は、大抵みなその事実を増大、潤色して小説的に構造したるものなるが、これらはまた、もとより吾人の有する妖怪的想像によらざるはなし。また、妖怪には人為的と自然的との二種ありて、人為的は吾人の意志をもって工夫造出したる一種の偽怪にして、これ全く有意的想像によるものなり。これに反して、自然的妖怪は有意的および無意的想像によるものなり。しかるに、その自然的妖怪にまた仮怪と真怪とありて、仮怪は知、情、意三種の想像の有限性によるものにして、真怪は無限性によるものなり。ここにおいて、想像を分かちて有限性、無限性の二種となさざるべからず。しかしてまた、有限性に道理に合するものと合せざるものとの二種あれば、さらに分かちて合理的、非合理的の二種となさざるべからず。その他非合理的に、感覚に属する想像と情緒に属する想像との二種あり。その表、左のごとし。


            感覚的

       非合理的

            情緒的

   有限性

       合理的

想像

   無限性すなわち理想性


 このうち感覚的想像は、五感の欲すなわち体欲に応じて起こるところの最下等の想像にして、その不合理なるは論をまたず。また、情緒的想像も喜怒の発情に応じて起こるところの想像にして、往々妄想に走ることあり。例えば、みだりに富貴を得ることを想像し、またみだりに名誉を得ることを想像するがごとき、その一例なり。この感覚的、情緒的の二者は、さきのいわゆる感情的想像なり。つぎに、合理的想像はすなわち知力的想像にして、吾人の知力によりて想像を制限し、かつ道理によりて各部分を構成するものをいう。ゆえにこれを合理的と名付く。しかるにまた、道理そのものに有限性、無限性の二種ありて、普通の知力的想像はそのいわゆる有限性道理に基づくものなり。例えば、コロンブスが新世界を発見する前にこれを想像したるがごとき、あるいはニュートンが引力を発明したる前にこれを想像したるがごときは、みな有限性合理的想像なり。なんとなれば、これみな有限相対の事物につきて推理したるものにほかならざればなり。

 しかるにもし、想像上、無限絶対を想出し、有限の範囲を超えて、その外に達するがごときは無限性想像なり。しかるにこれに達する階梯に、道理を用いるものと用いざるものとあり。もし道理によらずして妄想的に想出するがごときは、たとい有限より達すというも、畢竟、不合理的感情に属する想像にほかならず。もし徹頭徹尾、道理によりて無限絶対と達観するに至らば、これいわゆる無限性合理的想像にして、これを理想的想像もしくは単に理想と名付くるなり。この理想の中には知、情、意三種の想像相合して一体となり、あわせて無限そのものに合体するなり。今、余がいわゆる真怪はこの理想的想像によりて達観し得るものにして、諸想像の最上に位するものなり。これに対して、有限性想像は有限の事物の上に仮怪を構成するものに過ぎず。そもそも吾人のこの世界に生息するや、喜あれば憂あり、悲あれば苦あり、あるいは笑いあるいは泣き、社会、人情の風波の間に浮沈出没して、一生の浮き橋を渡らざるを得ず。

 ゆえに、この世は決して絶対的快楽の世界にあらず、無限的幸福の国土にあらず。ここにおいて、吾人は想像の界裏に無限絶対の別乾坤を開立し、朝夕歓楽の花園に遊び、不死の仙境に住せんことを望む。これみな想像の力なり。ああ、この不幸の世界に生息せるこの多患の人に、満足、幸福を与うるものは実に想像のたまものなりというべし。しかるに、もしその想像が不合理的に陥り感覚的に走るときは、真正の快楽を得べからざるのみならず、かえって不幸に不幸を重ね、多患に多患を加うるに至るべし。なんとなれば、これによりて想起するところのもの、すべてこれ有限相対の一苦一楽の状態なればなり。

 これに反して、無限性道理によりて理想性想像を起こし、これによりて絶対世界を達観するに至らば、真怪の霊光、吾人の心中に開発しきたり、方寸界中に極楽浄土を現立することを得べし。ああ、この不幸、多患の人よ、よろしく理想の舟に駕して、絶対の世界に遊ばんことを願うべし。しかして、よくここに至るの要道はまた、みなその心中に仮怪の迷雲を排し、もって真怪の明月を望むにほかならず。これ、余が妖怪研究の必要を唱うるゆえんなり。


       第八三節 願望論 第一

 想像および感情に連帯して妖怪に関係あるものは願望なり。願望とはわが精神上に有する欲望にして、想像と実行との相伴わざるより起こる心性の状態なり。およそ人の性たる、快楽を欲して苦痛をいとわざるはなし。しかして、自らその快楽を想像してこれに達し得べき力なきに当たり、ここにおいてか願望なるもの起こる。ゆえに、もしその目的にして容易に達し得べきものならしめば、いまだ願望の起こるを見ざるなり。例えば、親子同居、朝夕首をあつむるのときにおいては、互いに相見んと欲するの願望を起こさざるも、一朝遠く数百里の外に離るるに当たりては、ほとんど椅門の情にたえざるものあるがごとし。それ、かくのごとく願望は、その望みを達するあたわざるときにおいて起こるものなりといえども、また、吾人の力の到底よくするところにあらざる不能的のことに至りては、かえってこれを起こすものなし。例えば、風に乗じて月世界に遊ばんと欲してこれを遂ぐるあたわざるも、いまだその心に願望の切なるを覚えざるがごとし。これ願望と想像との異なるゆえんにして、想像は人力以内より人力以外に走らんとする傾向あり。しからばすなわち、願望は吾人の経験上、その力これをよくするを知るも、現在の事情のこれを許さざるときにおいて、もっとも切なるを感ずるなり。これ、全く人の快楽を求むる情と、従来経験上にてその快楽の状況を記憶せると、現在これを実行することあたわざるを感じたるとによりて起こる。ゆえに、願望は感情および想像より起こること明らかなるも、また、願望によりて一層想像を増大にすることあり。しかしてまた、その想像によりて多少願望に満足を与うることを得るなり。例えば、貧賤の中にありて富貴を願望するに、他日富貴を得んことを想像して満足し、あるいは死後、天国に生まれて無上の快楽を得んことを想像して満足するがごとし。

 この願望に反対するものを嫌悪という。願望は快楽を欲するより起こり、嫌悪は苦痛をいとうより起こる。ゆえに、その一は快楽性、その二は苦痛性なり。しかりしこうして、この二者は必ずしもただちに苦痛、快楽そのものにつきて起こるにあらず、すべて苦楽に関係を有する事物につきて起こる。例えば名誉、富貴、金銭を願望するがごとき、そのものただちに快楽にあらざるも、人に快楽を与うる要具なればなり。もしこれに反対する不名誉、貧賤は、そのものただちに苦痛にあらざるも、これによりて苦痛を引き起こすをもって、人みなこれを嫌悪するなり。かくして、人の願望と嫌悪と同時に起こることあり。また、種々の願望あるいは種々の嫌悪の同時に起こることあり。例えば、名誉を願望すると同時に金銭を願望し、富貴を願望すると同時に知識を願望し、あるいは妻子、財宝を願望すると同時に、これを嫌悪する心の起こることあり。しかるときは、自然にその間に選択作用起こる。しかして一時の後、その力最も強きものに向かいて意志の定まるを見る。ここにおいて、意志と願望とは密接なる関係を有し、またその性質も二者相似なるところあり。ただその異なるは、願望は精神上の欲望にして、さらにこれを実行する方法いかんを問わざるなり。しかるに意志は実行に関する作用なれば、ただに一種の目的に向かいて欲望するのみならず、この目的に達する方法、手段を指定するを要す。換言すれば、願望は想像的にして、意志は実行的なり。

 もし例を挙げてこれを示さば、富貴につきての願望は、鉅万の財を一時に掌握せんことを望むをもって足れりとするも、意志はこれを得るの目的に向かいて、その方法を実行せんとする行為に関する作用なり。しかりしこうして、意志作用には願望そのものが原因となることは明らかなり。ゆえに、願望と動機と同一なりやいなやというに、動機はすべて意志の原因に与うる名称にして、願望もある場合においては意志の原因となることあり。しかれども、その二者の間にまたおのずから異なるところあり。なんとなれば、動機は直接に意志の原因に与えたる名称なれば、必ずその結果を行為の上に発現する性質を有するも、その目的の快楽を生ずるか苦痛を生ずるかは、さらに関係せざるところなり。しかるに、願望は必ずしも意志の原因となるにあらず、またその性質も必ず行為の上に発現する傾向を有するにあらず。しかしてその起こるや、必ず快楽に向かいて発動するなり。これ動機と願望との異なるゆえんなり。


       第八四節 願望論 第二

 すでに願望の性質を略述し終わるをもって、これより願望と妖怪との関係を説かざるべからず。そもそも妖怪に苦痛性と快楽性の二種あることは、前すでにこれを述べたり。幽霊のごとき、鬼物のごとき、人の恐情をよび起こすものは苦痛性なり。これに反して、鳳凰、麒麟のごとき、奇情を引き起こすものは快楽性なり。また、天災、地災は苦痛性にして、瑞気、祥雲は快楽性なり。そのすでに快楽性なるものはこれに対して願望を起こし、その苦痛性なるものは嫌悪を生ず。しかしてその苦痛性も、直接に自身に苦痛を感ぜざる限りにおいては奇情の起こるありて、かえってこれを願望する傾向あり。かくのごとく願望と情緒と互いに関係を有するをもって、情緒に常情、怪情の二種あるがごとく、願望にもまたこの二種なかるべからず。すなわち左のごとし。

  常態的願望すなわち常情に伴う願望。

  異情的願望すなわち怪情に伴う願望。

 たれびとも多少異常的願望を有し、妖怪の現象を見んことを欲し、妖怪の談話を聞かんことを望むものなれども、これを常態的願望に比するに、願望中に自ら嫌悪を混じ、好悪の二者相半ばするがごとき事情あり。例えば幽霊談、怪物談のごときは、人これを聞かんことを欲すといえども、決して自らかくのごとき境遇に接するを好むにあらず。ただ、一種の奇情に動かされてその談話を聞かんことを望むのみ。しかれども、人にすでに多少妖怪を願望する傾向あるをもって、これに乗じて人為的妖怪の虚構、虚誕に属するもの世に起こるに至るなり。また、人に願望、嫌悪の両性を有するをもって、これに乗じてト筮、人相等の諸方術民間に行われ、かつこれを専業とするもの世に起こるに至れり。

 以上は、余がいわゆる偽怪および仮怪と願望との関係を示したるのみ。もし真怪に至りては、最も高等なる願望にあらざればあずかり知らざるところにして、もとより普通的願望の関するところにあらず。そのいわゆる願望とは、有限より無限に向かいて起こすところの願望なり。そもそも吾人の知識は有限性にして、吾人の世界もまた有限性なり。吾人の願望するところの富貴も財宝も名誉も妻子も錦衣玉食もみな有限性にして、これに対して起こすところの願望は、またみな有限性願望なり。しかるに吾人は有限性願望をもってとどまらず、さらに進んで無限絶対の境遇に向かいてこれに達せんことを願望するは、これを無限性願望という。これすなわち真怪に対する願望なり。今これを表示すること左のごとし。


         常態的願望

   有限性願望

願望       異常的願望

   無限性願望すなわち真怪的願望


 このいわゆる真怪的願望は宗教のよって起こる本心にして、下等の宗教は有限性願望によるも、高等の宗教は無限性願望によること、問わずして明らかなり。しかれども、普通の宗教もこの無限性に向かいて進むの途次にあること、また疑いをいれず。ゆえにこの真怪的願望は、高等および普通の宗教と直接に関係するものといいて可なり。例えば、宗教を信ずるものが死後の世界に生まれんことを望むは、その意、この世の有限性願望を捨てて、未来の無限性願望をおこすにあるや明らかなり。たとえ愚民の想像するところの死後の世界は有限性をもって成るとするも、その目的、無限性を期するにあることまた瞭然たり。すでに宗教のいわゆる極楽世界は不生不滅の世界にして、絶対的快楽の世界なる以上は、これに対して願望するは、いわゆる無限性願望なり。これに反して、この世にありて富貴、財宝を得んことを願望し、あるいは健康、安寧を得んことを願望し、卜筮、人相等の方術に依頼するがごときは、有限性願望といわざるべからず。ゆえに余は、卜筮、人相は有限性願望に基づき、宗教は無限性願望に基づき、前者は仮怪の範囲に属し、後者は真怪の範囲に属するものとなすなり。


       第八五節 意志論 第一

 人の心性作用中、知と情の二者は直接に妖怪に関するも、意志はほとんど妖怪に関せざるもののごとし。ゆえに余は、最初、意志論を提出せざる意なりしも、また多少の関係を有するところあれば、ここに一言するの必要を感じ、意志論の一題を提起せり。そもそも意志に単意、複意の二種あることは、第五九節においてすでにこれを示せり。また、意志に有意、無意の二作用あり。もと意志は意識内に起こる目的を有する作用なれば、無意偶然に起こるものは意志というべからざれども、有意と無意との間に界線を引くこと難きをもって、有意作用に関係して、無意作用を説かざるべからず。人為的妖怪はもとより有意作用に限るべきも、自然的妖怪に至りては無意、有意の両作用の相混ずるを見る。例えば、自己の意志をもって予期して妖怪を現見するがごときは、有意作用によりて起こるところの自然的妖怪というべし。そもそも意志の変動するには、知によりて起こるあり、情によりて起こるあり、あるいは体欲、願望によりて起こるあり、あるいは自然の活動によりて起こるあり。その原因をすべて動機と称す。その動機、種々同時に併起することあり。しかるときには、各動機の間に進化学のいわゆる生存競争を起こし、その結果優勝劣敗を成し、その力最も強きものの勝ちを制するは自然の勢いなり。もしその動機の種類を挙ぐれば、第一に感覚的動機、第二に情緒的動機、第三に思想的動機に分かつことを得べし。 感覚的動機とは、身体の状態より起こるところの原因にして、腸胃に食物を与えざるときには、その自然の状態より飲食せんとする動機を発し、身暗室にありて見ることを得ざるときには、光線を求むる動機生ずるがごときこれなり。情緒的動機とは、苦楽の状況に応じて起こるところの発情より生ずる動機なり。例えば、怒るときには人を打たんとする動機を生じ、恐るるときにはこれを避けんとする動機を生ずるがごときこれなり。思想的動機とは、利害得失を思慮分別して生ずる動機にして、害よりは利多きを見てこれを実行せんとする動機の生ずるの類これなり。これらの原因によりて起こるところの諸衝力すなわち動機の間に、優劣相較して多少の思慮の後、選択あるいは決定作用を現ずるを見る。しかして意志の上にありて、もっぱら論ずべきものは行為の善悪なり。これ、道徳の行為は意志作用に属するゆえんなり。すべて克己修徳は意志作用に属する問題にして、一切の道徳は克己に基づかざるはなし。しかして克己は意志の制裁にして、下等の動機の起こるに当たり、さらに高等の動機によりてこれを制止するをいう。今、妖怪と意志との関係を論ずるに、第一に、情および知に関係して妖怪に対して起こるところの意志を論じ、第二に、妖怪上の挙動に善悪を存するやいなやを論ぜざるべからず。


       第八六節 意志論 第二

 これより妖怪と意志との関係を考うるに、意志そのものに常意、変意の二種あることを知らざるべからず。すでに情緒の上に常情と変情との二種あることを述べしが、これに準じて意志にもまたその二種ありて、左表のごとき分類をなさざるべからず。


      単意

   常意

      複意

意志

      病意

   変意

      怪意


 そもそも常意の起こるは、心内に存する諸観念の平等一様に意識内に現出し、その各部の比較関係よく平均権衡を得たるときに生ずる状態にして、吾人の平常のときにありて現ずるところの意志これなり。しかるにわが心内の意識観念は、常に平均権衡を保つことあたわずして、ある特殊の事情によりて内界上に一大変動を起こし、精神作用の権衡を失することあり。かくのごとき場合においては、意志もその常態を保つことあたわずして、あるいは一隅に滞積してその中心を変ずることあり。あたかも洪水によりて河底を一変したるときのごとし。あるいはみだりに動揺してとどまらざることあり。あたかも盆中の静水に激動を与えたるときのごとし。かくのごとき場合における意志を変意という。変意に病意、怪意を分かつも、病的意志はやはり妖怪的意志にほかならざれば、変意すなわち怪意なりと称して可なり。しかれども、尋常の怪的と病的とはややその性質を異にするところあるをもって、ここに変意を分かちて病意、怪意の二種となせしなり。もしその二者を区別していうときには、病意は病的事情によりてひとたび意志作用の上に違和を呈し、その原因去るもなおその元に復せず、ついに一種の痼疾をなすがごときものをいう。これに反して、怪意は一時の激因によりて精神その常態を失い、意志その平均を保たざるも、その原因去らば早晩その元に復するものをいう。

 例えば、躁性狂のごときは一種の精神病にして、あるいは物を破壊し、あるいは人を殺害せんとする挙動を呈するに至るは、必ず最初これを誘起せし原因ありしに相違なかるべきも、その原因早くすでに去りてなお精神上に狂態をとどめ、ついに一種の病的となり、その常態を失したる意志は、ながくその異常を継続する傾向あり。たとえ躁性狂は鬱性狂と交代して発することあるも、その浮沈の波動は容易に静定すべからずして、ながく継続せんとす。しかるに怪意の事情は大いにこれに異なるところありて、あるいは驚愕あるいは恐怖のごとき一時の原因によりて一時の変態をきたし、あるいは意志全くその力を失い、あるいは判断の大いに誤まることあり。あるいは挙動の大いに平常に異なることあるも、その原因すでに去りて一時を経過すれば精神もまたその常態に復し、意志も静定してその権衡を保つに至る。これ怪意と病意との異なるゆえんにして、前者は久時性、後者は一時性の別あり。

 今この怪意の起こる原因を案ずるに、これにまた内外二種あり。外因とは、外界に現ずる怪事、怪物につきて吾人の精神上に驚愕、恐怖等を起こし、これによりて意志の変動を引き起こすがごときこれなり。つぎに内因とは、精神内部の一種の事情によりて、あるいは思想専制をきたし、あるいは予期意向を生じ、その結果、行為、挙動の上に異常を呈するがごときこれなり。なかんずく予期意向は変意に関する作用にして、これによりて生ずるところの不覚筋動もまた変意の作用なり。この不覚筋動は、精神の変動によりて意志その権衡を失したる場合に、病的にありても怪的にありてもともに多少生ずるところの現象にして、妖怪学を講ずるに欠くべからざる問題なり。しかしてその場合は、精神病において最も多しとす。すなわち、精神病者には時々刻々なすところの行為、挙動は、さらにこれを覚えざるもの多し。かつ、この状態は平時にありても吾人の経験するところにして、一時の激因によりてこれを生ずるはもちろんなれども、その原因なきも、吾人の一挙一動、自らこれを識覚せずしてなすことあり。これによりてこれをみるに、病意も怪意も常意も、決してその間に判然たる分界あるにあらずして、ただ比較上この三者の別を立つるのみ。換言すれば、この三者はその種を異にするにあらずして、ただその度を異にするなり。ゆえに余は、変式的心理学は正式的心理学を離れて存するにあらず、二者同一の規則、道理に基づくというゆえんなり。しかれども外面より観察するときには、常意と変意とその態を異にするをもって、便宜のためにこの二者を分かつなり。ゆえにその異なるは、規則の異なるにあらずして応用の異なるなり、道理の異なるにあらずして事情の異なるなり。これまた余が、正式的心理学のほかに変式的を設くるの必要を唱うるゆえんなり。

 今、さらに変意の状態を図式によりて表示するに、第六七節の諸図を参見して知るべし。

 この図の大圏は心界の全面を示し、小圏は心面上に存する各種の観念を示し、その小圏と小圏との間の連絡はすなわち観念の連絡なり。もし一原因の上に生ずるときは、その連絡によりて伴起する各観念の結果、一種の動機を生じ、これによりて意志作用を呈するものなりと仮定するに、その結合に加わる観念の種類と数との異同によりて、その動機および意志の上に異同を見るは自然の道理なり。もし心内の変動はなはだしきときは、各観念の中心一変して自己の位置を変ずるに至る。これをもって、精神そのものの上に変動あるときには、感覚、知覚の上に幻妄を生じ、知力、推理の上に迷誤を生ずるのみならず、行為、挙動の上に異常を起こして変意作用を呈するに至るなり。


       第八七節 意志論 第三

 つぎに、変意作用と道徳作用との関係を述ぶるに、病的および怪的意志によりて生じたる行為、挙動は、善悪を論ずべきやいなやを考定せざるべからず。すべて意志行為の上に善悪を論ずるは、その作用の意識内において起こり、および自由意志に基づきて起こりたるものに限る。もし不覚無識によりて生じたる行為、あるいはたとえこれを識覚するも、わが意志をもって自由に動かすべからざる事情ありて生じたる場合には、たとえその行為善なるもこれを賞するに足らず、悪なるもこれを責むべき理なし。これをもって道徳論者は自由意志論を主唱し、もし意志にして自由ならず、物理的必然の理法によりて支配せらるるにおいては、道徳上の責任を論ずべからずというなり。とにかく、行為の善悪は意識内にありて、意志によりて選択左右し得らるべきものに限るといって可なり。しかるときには、常意の上には悪意を論ずべきも、変意の上には悪意を論ずべからざるや明らかなり。

 例えば、精神病にかかりたる者はその行為、挙動の意識内において起こるも、その意志は選択取捨する自由を有せざるをもって、その行為の凶悪なることあるも、決してその罪を問うべからず。ことに狂人は、多く善悪を弁別すべき良心を有せず、もしくはその作用を欠くをもって、法律上にても精神病者の罪悪はこれを問わざるなり。しかるに妖怪的意志作用に至りては、もとより病時と同一視すべからずといえども、精神の変動より生じたるものなれば、善悪の弁別も選択も、もとより完全なることあたわず。ゆえに、これによりて生ずる行為も、尋常の行為と同じく善悪を論じ難し。しかれども、世のいわゆる妖怪には人為的と自然的の二種ありて、人為的妖怪にありては故意に出でたるものなれば、もとよりその罪を問わざるべからず。ただ、自然的妖怪にありては精神の変態、異状より発するものなれば、その罪を問わざるを当然なりとす。しかりしこうして、人為的と自然的とはこれを弁別すること容易ならず。すでに人為的は故意によりて自然的を装うものなれば、その実状を発覚することはなはだ難し。これ、妖怪的行為を鑑定するの難きゆえんなり。以上は妖怪中の偽怪、仮怪につきて論じたるもののみ。もし真怪に至りては善悪の範囲外にありて、相対性善悪をもって論ずべきものにあらず。もし強いてその上に善悪を判ぜんと欲せば、真怪に対する意志行為は絶対的善なりと称するをもって足れりとす。これに対して、偽怪、仮怪上の相対的善悪は絶対的悪といわざるべからず。

 以上述ぶるところによりてこれをみるに、世のいわゆる妖怪中、人為的にあらざる限りは全く道徳の関係なしといって可なり。しかれども、もしこれに接続して起こる種々の事情に至りては、世の教育、徳義に関すること多けれども、これ「教育学部門」において論ずべきものなれば、ここにこれを略す。


       第八八節 情意論 帰結

 本講は正式的心理学の各論にして、精神作用中もっぱら妖怪に関係せる作用を特に掲げきたりて、その性質、変化を講述せり。しかるに、各作用の平時の状態のみを説明するのみにとどまらず、その作用と妖怪との関係を講述したるは、次講に変式的心理学を講述するの準備にして、これを変式的心理学の前論となすも可なり。今、本講中に講述したるところを約言するに、知、情、意三者ともに常態と変態との二種ありて、その変態を論ずるものをもって変式的心理学となす。しかして知力作用の変態は前数講においてすでに論明せるところにして、さきに妖怪学を解して人の迷誤より生ずるものなりとなしたるがごときは、全く妖怪学は知力の変態を論ずる学なりとなせしものなり。ゆえにこの編に至りては、もっぱら情、意二者の変態を説明して、前数講の欠を補うに至れり。すなわち、情も意もともにこれを常、変の二種に分かちて、情に常情あり変情あり、意にまた常意あり変意ありとなせしなり。もしこれを知力の上に考うるときは、知にもまた常知、変知の二種を分かちて論ずるを適当なりとす。さきにいわゆる迷誤によりて生じたるものは変知に属し、および感覚上の幻妄もまた変知に属すべし。しかして、その変知も情、意の二者のごとく病知、怪知の二種に分かたざるべからず。今その分類を示すごと、左表のごとし。


         常知

      知力    病知

         変知

            怪知

         常情

   心象 感情    病情

         変情

            怪情

心性       常意

      意志    病意

         変意

            怪意

   心体


 この表中の常知、常情、常意を講ずるものは正式的心理学にして、変知、変情、変意を講ずるものは変式的心理学なり。その変式的心理学の病的知情意を論ずるものは精神病学にして、怪的知情意を論ずるものは妖怪的心理学なり。しかれども、余がいわゆる妖怪は病的を合わせ称するをもって、変式的心理学をもってただちに妖怪的心理学とするなり。もし心体に至りてはひとり真怪の関するところにして、心理学の範囲に属すべきものにあらず。しかしてその分類を、さきに第五一節に掲げたる表に照らして定むるときは、左のごとく表示せざるべからず。しかして左表と第五一節の表との異なるは、仮怪のほかに偽怪を置きたるにあり。これ余が種々工夫の末、仮怪と偽怪とを区分するの必要を感じたるによる。


           人為的          

   偽怪(一名虚怪)             

           偶然的          

                        

妖怪                      

                  物理的   

      仮怪すなわち自然的妖怪     変知

                  心理的 変情

   実怪                 変意

      真怪


 さきに第五一節の表には客観上、主観上の分類を設けて、ここに挙ぐるものと異なるゆえんは、知力作用を中心として分類したるによる。

 以上すでに変式的心理学の前講として、心理学上の妖怪と関係を有する諸作用を略述し終わりしをもって、これより変式的心理学本講に移り、内外両界の上において妖怪現象の起こるゆえんを説明せんとす。



第一〇講 説明編 第四(変式的心理学 総論)

       第八九節 妖怪的現象

 身心内外に生ずるところの種々百般の変態、異常にかかる現象、これを妖怪的現象といい、その理を講究するもの、これを変式的心理学という。余はさきに妖怪を解して迷誤学となしたるも、これ民間にて妖怪の起こるゆえんを知らずして、真に妖怪なりと妄信するものに名付くるのみ。もしそれ、学理上妖怪の起こるゆえんをたずぬるに至りては、その中に一貫せる道理の存するありて、妖怪的も非妖怪的も決して別物にあらざるを知るべし。しかしてこの理を説明するものは、実に今日理学、哲学の応用にして、なかんずく心理学の応用なり。そのこれを変式的心理学と名付くるゆえんのものは、ただ普通の心理学に区別していうのみ。その原理に至りては、さきに述べたるがごとく、変式的といい正式的というも、決して二致あるにあらざるなり。そもそも世に例外と名付くるものありて、世間一切のこと、ことごとく同一の規則に従うものにあらず。十中一二の、あるいは規則外に出ずるもの決してなしとせず。

 例えば、人類は言語を有するをもって一般の原則となすも、啞のごときはこれを有せず。また、人類は道理を解する力を有するをもって常則となすも、白痴のごときは全くこの力なし。雪は冬時に降るべきに夏日に降ることあり、桜は春時に開くべきに秋天に開くことあり。かくのごときの類これ、これを例外という。しからばすなわち、例外は果たして規則外なるか。しかしてもしこれを規則外となせば、宇宙外の天則、天法に二様あることを許さざるべからず。しかれども、学術上の講究によるときは、かつて一つの例外なるものあるを見ず。その、みてもって規則外となすところのものは、すなわち規則内に存するを知る。これ、予が正式的心理学の道理を変式的の上に応用して、妖怪的現象を説明せんと欲するゆえんなり。

第九〇節 変態の起源

 およそ物心二象の上に変態、異常の起こるは、その原因もとより物心二者の上に存するも、余は今、主として心理的変態、異常の起こるゆえんを説明するの意なれば、まずここにその一端を述ぶべし。それ心理作用を有形上より考うるときは、生理学の研究によらざるべからずして、すでに第五五節に示せるがごとく、心性作用は外界より与うるところの刺激、求心性神経を経て大脳に達し、これより遠心性神経を経て外界に向かいて運動を呈するをもって常となす。しかれども、いまだ大脳に達せずして、脊髄よりただちに反射して外界に運動を示すことあり。また、外界より与うるところの刺激を待たず、脳髄中より自発せる動機によりて運動を呈することあり。また、外界より入りきたるところの刺激、脳中に入りて自然に澌尽消滅し、さらにその反動を外界に示さざることあり。

 これをもって、心理作用は必ずしも常に一轍を守るものにあらず。また、通常外界より与うるところの刺激は、感覚を経て思想に達するを正規とすれども、思想中の概念が感覚上に発し、外界に向かいて幻覚、妄象を示すことあり。例えば、声なきに声を聞き、形なきに形を見るがごときこれなり。これ実に精神上の変態にして、狂人中に幻妄的感覚を生ずる者あるゆえんなり。外界の現象が感覚を経て思想中に観念を形成するは、なにびとも怪しまざるところなれども、思想中の一観念が感覚上に妄象を現示するに至りては、一般にこれを指して妖怪となすなり。

 しかれども、深くその理を考察するときは、いずれが真に妖怪にして、いずれが妖怪にあらざるやは、容易に判定すべからず。ただ、世間一般に目して妖怪となすものを、妖怪的現象となすよりほかなし。すでにこれを現象と名付く。その仮怪なるは言をまたざるなり。

 今、妖怪的現象を説明するに当たり、まず内外両界の上にその原因を考えざるべからず。ここにこれを妖怪の要素と名付く。その表、左のごとし。


        個体性質

     外界     

        自他関係

                 

          空気および精気

        外         

          時間および空間

妖怪要素 中間

          身体

        内   

          神経

             

           感覚

        外覚   

           知覚

     内界       

           想像

        内想    

           思想


 かくして外界は、物質そのものの性質、および他物との関係の二様に分かちて論ずべし。内界は心理学上においては知情意の三者に分かつを常とすれども、余は最初より知力を中心として講述しきたれるをもって、ひとり知力作用を掲げ、これを外覚、内想の二者に分かてり。しかしてこの両界の間に立ちて、二者の媒介をなすものに種々あり。外界に対しては空気およびエーテルすなわち精気あり、また時間および空間あり、内界に対しては身体および神経あり。もしこれを物理的妖怪、心理的妖怪に分かつときは、外界および中間の要素は物理的に属し、内界は心理的に属するなり。


       第九二節 外界の要素

 前節述ぶるところの外界の要素中、いわゆる個体性質とは物質そのものに固有せる性質をいう。すなわち、水には水の性質あり、火には火の性質あり、水素、酸素、元素、分子、動物、植物また、みなおのおのその固有の性質あらざるはなし。もしまたこれを細分すれば、有機、無機、動物、植物、物理的、化学的等に分かたざるべからず。しかしてこれらの諸物質、おのおの多少奇異の性質を有せざるにあらざるも、その一性質の孤立独存するのみにては、いまだ純然たる妖怪を現示するに至らずして、これに他物の分合関係するありて、はじめて種々の変化を現じ、したがって奇異の現象を示すことあるなり。これを自他の関係という。すなわち、種々の元素、互いに結合し互いに分解するによりて化学的変化を生じ、種々の物質および勢力の、相互の作用関係によりて物理的変化を生ずるがごときこれなり。今それ酸素、炭素に合すれば火気を発し、温熱、水に加われば蒸気となる。しかしてその間、自然に奇変、特異の現象を生ずるに至る。かくのごとき類これ、これを心理的妖怪に対して物理的妖怪という。

 もし、この妖怪の道理を知らんと欲せば、まず個体の性質をつまびらかにし、つぎに自他の関係を明らかにせざるべからず。しかしてこれ、諸科の理学において研究するところなり。理学中には、あるいは天文学、あるいは地質学、あるいは動物学、植物学等の科目ありて、ともに妖怪現象を究明するに要するものなれども、なかんずく物理、化学の講究を要するなり。まず物理学によりて、運動および勢力の性質を知り、物質の諸事情に応じて変化する状態を究め、光熱、音響、電気等の性質、状態を明らかにし、もって妖怪的現象を説明するに至らば、従来不思議、異常として一般に妖怪視したるもの、必ずまた妖怪にあらざることを発見するに至らん。また、化学の講究によりて各元素の性質を究め、その化合、分解の状態を明らかにし、もって妖怪的現象を説明するに至らば、また昔日、不可知的視したるものも、物理によりて説明し得るに至らん。その他、天文に現ずる妖怪は天文学によりてこれを究め、地質に関する妖怪は地質学によりてこれを講じ、動物的妖怪は動物学によりて説明し、植物的妖怪は植物学によりて説明し、人身上に現ずる妖怪は生理学によりて説明するに至らば、天地万有の上において従来妖怪視せられたる現象、必ずことごとく妖怪にあらざるに至らん。これ、学術と妖怪とは並行並進することあたわざるゆえんにして、学術明らかなれば妖怪ようやくその跡を絶つに至るべし。換言すれば、妖怪と学術とは反比例をなすというべし。

 しかれども、そのいわゆる妖怪は余がいわゆる仮怪にして、仮怪その跡を絶つと同時に、真怪いよいよその実相を開顕するに至らん。ゆえに、学術と真怪とは互いに正比例をなすというべし。すでに学術と妖怪とはかくのごとき関係あれば、予は第二五節において、物理的妖怪を各学科に照らして分類をなせり。果たしてしからば、妖怪の講究は諸科の学に一任し、別に妖怪学の一科を置きて講究する必要なきがごとしといえども、外界の現象に常象すなわち普通的現象、および変象もしくは異象すなわち妖怪的現象の二種ありて、今日の学術はそのうちもっぱら常象を研究するものなれば、ここに別に異象を講究する学を組織するの必要を感ずるなり。そもそも常象も異象も、もとよりその道理一本にして二致なしといえども、すでに外見上常異の別を示す以上は、もっぱら異象を研究してその内部に包有せる常理を開示するは、また学術の目的ならざるべからず。これ、余が妖怪学の必要を唱うるゆえんにして、かつ各学科に正式、変式の二科を分かつの必要を唱うるゆえんなり。

 今、物理的妖怪現象は、物理、化学等の諸科に照らして講究するを要すれども、余はもと哲学を専修したる者にして、理学の諸科に暗ければ、その講究はしばらくその道に専門の人に譲り、ただここに外界要素の名称を掲ぐるのみ。もし、その説明に至りては、「理学部門」においてわずかにその一端を摘示するに過ぎず。しかして外界の妖怪は、必ずわが感覚、思想をまちてその現象を呈するものなれば、余は特に心理学に基づきてその理を示さんとす。


       第九三節 中間の要素 第一

 外界の妖怪は、必ず内外両界の中間に存する要素の加わるありてはじめて起こるものなれば、ここに中間要素の性質、事情を一言せざるべからず。まず、その外界に対する要素を挙ぐれば、空気および精気にして、そのうち空気のごときは全く物質性のものなれば、これを外界の要素に属するをもって当然となせども、事物の変化は空気を媒介として起こるもの最も多く、かつ吾人は空気中に生息せる動物なれば、その四囲の現象は必ず空気を経過して吾人の感覚を起こし、その現象は空気の状態によりて必ず異同を生ずるものなれば、ここにこれを中間の一要素となすなり。すでに空気をもって中間の要素となさば、水もまた変化の媒介をなすものなればその一種に加えざるを得ざるも、吾人は水中に生息するものにあらざれば、ひとり空気を挙ぐるをもって足れりとす。ゆえに、今しばらく音響と光線との媒介をなすものにつき、空気、精気の二種を掲げたるのみ。それ音響は空気の波動により、光線は精気の波動によりて相伝わるものにして、吾人の声を聴き色をみるも、みなこの二者の媒介によらざるはなし。

 ゆえに、もしこの媒介物に変動あれば、したがって音響、光線の上にもまた異象を示すや疑いなし。その他物質中、内外両界の中間に立ちて諸現象、変化の媒介をなすものはなはだ多きも、今いちいちこれを挙ぐるにいとまあらず。

 つぎに、中間の要素にして、物にも属すべからず心にも属すべからざるものあり。これを時間、空間となす。しかしてこれを物質に属するものは唯物論者にして、これを心性に属するものは唯心論者なり。しかれども今、二論の損失を論じ本来の所属を問うを要せず、ただこれを中間の要素となすなり。しかしてこれ、実に要素中の最大至要なるものというべし。なんとなれば、物にしてこの要素なくんば、ただにその変化を現ぜざるのみならず、物自体の成立をも、かつ保持すべからず。また、物心相互の関係もこの要素を離れて存立せざるはもとより論なく、物心両者もまたこの要素のほかに存立することあたわざるなり。

 ゆえに、これをもって特に要素中に入るるを要せざるがごときも、また、時間の長短、空間の遠近等は、大いに事物の現象、変化上に関係することあるをもって、ここにこの二者を掲げて、妖怪現象の中間要素の一端となすなり。


       第九四節 中間の要素 第二

 つぎに、中間要素の一種となすべきものは、身体および神経なり。この二者はその体、物質より成りて精神の住息する機関なれば、物心交互錯綜のところなり。しかして、もしその組織中に精神ありとせば、なお空気、精気の外界におけるがごときのみ。ゆえに、これを内界に属するも不可なしといえども、余は人心に有形、無形の両面ありとし、その無形面のみを内界に属し、有形面を中間に属するなり。しかして、身体および神経の精神と関係するがごときは、さきに第五四節に挙ぐるところによりて知るべし。また、その外界に関するがごときも、これに準じて知るべし。それ、外界より内界に入るも、内界より外界に出ずるも、ともに身体および神経によらざるべからざれば、身体および神経上に変動あるときは、必ずその影響を内外両界の上に及ぼすや明らかなり。例えば甲乙両人は、もとより各神経組織を異にするをもって、その感覚するところまた異なるは当然のことなりといえども、同一人にありて身体各部その組織を異にするにより、その感覚同一なるあたわざるがごとき、また、身体の温度、血液成分の異同等によりて感覚上に変化を生ずるがごときは、平生多く見るところにして、いちいち証明するを要せず。

 その他、覚官および神経の不完なるもの、あるいは病患によりて変質せるものに至りては、物心内外の感覚、現象に異常を呈するは、また理のまさにしかるべきところなり。これを例うるに、着色の玻璃窓を用うるときは、室の内外の風光、その色に従って変ずると同一般なりとす。


       第九五節 内界の要素 第一

 つぎに、内界の現象を挙ぐれば、その第一は外覚にして、これに感覚、知覚の二種あるも、今ここにその二者を合して論ぜんとす。そもそも外覚には常覚、変覚、幻覚、妄覚の四種ありて、常覚は普通尋常の感覚にして、変覚、幻覚、妄覚は妖怪的感覚なり。この妖怪的感覚を異覚もしくは単に変覚と称す。変覚はその原因全く外界にありて、ただその前後、周囲の事情の異同に応じて、多少その実状を変化して吾人の感覚に現ずるものをいう。例えば、明月の夜に星を見ることまれにして、月なき夜に星光明らかなるがごときはいわゆる変覚の一例にして、その星の明微はわが思想の変動によりて起こるにあらず、月光と星光との関係より生ずるものなり。その他、外界の諸事情によりて、小なるもの大なるがごとくに見え、高きもの低きがごとくに見ゆるは、吾人の常に経験するところにして、みなこれを変覚となす。

 つぎに、幻覚はその原因内外両界にあり。すなわち外界の現象に、わが精神作用の加わりて生ずるところの状態なり。例えば、道に縄の横たわるを見て蛇なりと感ずるがごときの類にして、その感覚は縄の現象を見て起こりたるものなれども、これを蛇と認めたるは全くわが精神の作用なり。かくのごとく外界に現ずるものを誤り認めて、異物に感ずるを幻覚という。つぎに、妄覚は全く外界に原因なくして、ひとり内界の精神作用によりて現ずるところの状態をいう。例えば物なきに物を見、声なきに声を聞くがごときこれなり。ゆえに、妄覚は全くわが精神作用の変幻に属するなり。

 しかれども、この三種の感覚の間に判然たる分界を立つることあたわず。かつ妄覚のごときは、全く精神内部の事情によりて生ずるものなるべきも、覚官の病症によりて、往々物なきに物を見ることあり。ゆえに、覚官の上に起こる変幻と精神内部に起こる変幻と、これを区別することはなはだ難しとす。また、かくのごとき変幻に、久時の病患によりて生ずるものと、一時の変動によりて生ずるものとの二種を分かつを要す。病患によるものを病的と称し、変動によるものを怪的と称す。病的は精神病学の講究に属し、怪的は妖怪学の講究に属するも、余がいわゆる妖怪は病的を合称するものなれば、あえてこれを区別するを要せず。

 以上、すでに外覚上の妖怪現象を変覚、幻覚、妄覚というも、これ主観的の名称なり。もしこれを客観的に名付くるときは、変象、幻象、妄象と称せざるべからず。今その全表を示すこと左のごとし。


        病的

     性質   

        怪的

妖怪現象      

                変象

        客観的(異象) 幻象

                妄象

     種類         

                変覚(変視、変聴、変触、変嗅、変味)

        主観的(異覚) 幻覚(幻視、幻聴、幻触、幻嗅、幻味)

                妄覚(妄視、妄聴、妄触、妄嗅、妄味)


 この異象、異覚を講究するは、妖怪学の問題に属するなり。しかして今、異象、異覚の起こる原因を考うるに、およそ二種あり。第一、事情、第二、相対、これなり。今その事情を考うるに、また分かちて二種となす。第一、身心の状態、第二、習慣の影響、これなり。身体および神経組織の病患、変質等によりて外覚の上に変動を生ずるゆえんは、前節すでにこれを述べたりといえども、これ身辺より論じたるものにして、いまだ身心相関の点より論ぜず。ゆえに、これより身心相関上、体気および精神の状態の、大いに感覚そのものに関係を有するゆえんを述べざるべからず。すなわちこれを、ここに事情と称す。今その事情は、たやすく吾人の身心上に考えて知ることを得べし。それ同一里程なり。

 しかして、早朝家を出でてこれを歩行すると、終日労働したる後にこれを歩行するとは、その感覚において距離の長短、大いに異なるを覚ゆるなり。また、同一物体なり。しかして、いまだ疲労せざる前これを支うると、すでに疲労したる後これを支うるとは、またその量の軽重、大いに異なるを覚ゆるなり。その他、時間の長短のごときも、体気の状況によりて大いにその感覚を異にするものなり。また、年少強壮のときと老羸憔悴のときとにおいて、空間、時間、重量等の感覚、大いに不同なるがごときもこれと同一理にして、今、別に煩わしくその例を引くを要せず。

 以上述ぶるところはむしろ身体上の事情なり。しかしてこれに対して精神上の事情あり。例えば、精神に爽快を感ずるときは、感覚鋭敏にしてかつ明瞭なるを得、あるいは精神に鬱憂を感ずるときは、感覚遅鈍にしてかつ不明となるがごとき類なり。その他、喜怒苦楽の諸情によりて生ずる影響は、いちいちこれを挙ぐるにいとまあらず。つぎに、経験、習慣の異同によりて生ずる影響を述ぶるに、例えば同一の道路を歩行するにも、慣れたる道と慣れざる道とは大いにその距離の感覚を異にし、あるいは同一の風景を賞するにも、最初これを見たるときと数回反復してこれを見たるときとは、また大いにその感覚を異にするがごときこれなり。しかして、その感覚上に異同を生ずるは、相対の原因に関することもっとも多しとす。すなわち、これより感覚に異象の生ずる第二の原因、すなわち相対につきて述ぶべし。

 それ相対とは、諸事物もしくは諸観念の間に比較対照して起こるところの一種の事情にして、客観上の相対、主観上の相対、および空間上の相対、時間上の相対の数種あり。客観上の相対とは、一物と他物と比較対照するによりて生ずるものにして、紅花と緑葉と対照して見るときは、一層その色の鮮明なるを覚え、風雲の流動する間に一輪の明月を見るときは、月のはしることまた非常に速やかなるを覚ゆるがごとし。主観上の相対とは、観念と観念との相対もしくは観念と外物との相対にして、そのうち感覚上の相対は観念と外物との相対をいう。すなわち、記憶上に存する観念と目前に現ずる外物との相対なり。例えば、蟻封丘垤のみにして、高山峻嶺なき土地に成長したるものは、山岳の多き地に至れば非常にその高大なる感覚を起こすは、これ平常有する山岳の概念に比較をとるより生ずるものなり。あるいは陋巷茅屋のみに住居したるもの、たちまち金殿玉楼に入れば、その美麗を感ずること一層はなはだしきがごときも、これと同一理なりとす。つぎに、空間上の相対とは、同時に前後の二物を比較して感覚するをいい、時間上の相対とは、前時に感覚したるものと後時に感覚したるものと互いに比較するをいう。

 例えば、西洋人と日本人と相並んで歩行するを見て日本人の矮小なるを感じ、日本国の地図とシナ国の地図と相対照してシナ国の大なるを感ずるがごときは、空間上の相対なり。また、電気灯を点じたる街衢より去りてこれを点ぜざる街衢に至れば一層その暗きを覚え、寒地より移りて暖地にきたれば一層その温暖を覚ゆるがごときは、前時の影像もしくは概念と対照するより起こるものにして、なおこれ相対の一種なり。その他、内界の一観念と他観念との間に存する相対は、これをもっぱら主観的相対と称し内想の範囲に属す。しかして外覚の相対はすべてこれを客観的と称す。その他、精神内部すなわち内想より与うるところの感覚、知覚の変幻あるも、これ内想の部類に入るるをもって、後に思想の異状を論ずるときに述ぶべし。ゆえに、外覚上の要素を表示すれば左のごとし


            感覚上

         種類    

            知覚上

外覚上妖怪的現象       身心の状態

            事情     

               習慣の影響

         原因         

                   客観上および主観上(外物と外物)

            相対(客観的)       

                   時間上、空間上


 これ外覚の分類なり。つぎに、内界の要素を述ぶべし。


       第九六節 内界の要素 第二

 感覚、知覚はこれを内界の要素とするも、その実、内外両界の間にまたがりて、思想と外物との媒介をなすものなり。ゆえに、その一半は客観的にして、他の一半は主観的なる性質を有す。換言すれば、内界中の外界なり。しかして、これより論ずるところはまさしく内界中の内界にして、諸感覚の休止する間にもなおその作用を現じ、内界のみによりて発現するところの状態なり。これに想像と思想との二種ありて、想像を実想と名付け、思想を虚想と名付くる等のことは、さきに第五七節および第五八節に述ぶるところを見て知るべし。これ、変式的心理学を講ずるに最要至重の部分にして、余が「妖怪学講義」の骨子なり。およそ妖怪現象は、その一半は外界にありて存すと称するも、もと外界の現象は吾人の心面に映写して、初めて現見するものなれば、外界の現象はすなわち心面の現象なり。これをもって、外界の妖怪現象はすなわち内界の妖怪現象なることを知るべし。しかしてその現象は内界中、外覚の上に存すというも、外覚そのものは内想の意識の光に照らされて、はじめてその作用を現ずるものなれば、これまた内想の写影といわざるべからず。ゆえに、外覚上の妖怪はまた内想上の妖怪なるを知るべし。かく論じきたるときは、妖怪の根拠、巣窟は内想中にあること明らかなり。これ、余が心性をもって妖怪の本城とし、心理学をもって妖怪学の神体となすゆえんなり。しかして、内想に想像、思想の二種ある以上は、その各種につきて妖怪の起こる原因、事情を論ずべきはずなれども、かくのごときは次講の変式的心理学各論に譲り、今ここにはただ内想全体につきて述ぶべし。これにまた常状と異状との二種ありて、常状を講究するは正式的心理学に属し、異状を講究するは変式的心理学によること、および異状に怪的、病的の二種あることは、前の外覚に準じて知るべし。しかして今、もっぱらその異状の起こる原因、事情を考うるに、これを左の五段に分かつなり。


第一段  相対(主観的)

第二段  専制(知情意)

第三段  変識(無識および重識)

第四段  幻境

第五段  真際(真怪)


 かくのごとく分段を設けて、いちいち説明を下さんとす。しかしてその説明は、精神作用中もっぱら知力に基づくものなれども、情意の二者もあわせて説明すべし。

 まず第一に相対とは、内界の観念と観念との比較対照にして、純然たる主観的相対なり。けだし、吾人の内界に併存せる種々の観念は互いに比較対照して、各観念の性質、状態を明らかにすることを得るものなり。ゆえに、もしその比較を欠き、あるいはこれを誤るときは、想像および思想上に大いなる誤謬をきたすことあり。すなわち時間の前後、空間の遠近等のごときも、種々の観念の比較によりて知ることを得るものにして、もしその比較を誤るときは、これが判断に大いなる錯誤を生ずるに至る。今、その最も了解しやすき例を挙ぐれば、夢中の情況にしくはなし。それ人、夢中にありては、遠き距離を近く感じ、長き時間を短く感じ、微小なる刺激を至大に感ずるがごときは、全く内界の一部分醒覚して、他部分なお安眠せるによる。これ、相対比較のその正を得ざるゆえんなり。しかれども、平常にありては記憶に浮かばざることにして、夢中かえって明瞭に憶起することあり。これ、なお星は昼夜の別なく天につらなるも、太陽西に没してはじめてその光を現じ、隣室の時計は二六時中一様に響きを発するも、夜深く人定まりてはじめて耳に入るがごとく、醒覚のときには種々雑多の顕著なる記憶、観念のみ現出するも、安眠せる夢境にありては、微薄なる記憶、観念をもなお現出するをもってなり。これを要するに、主観上比較相対によりて事物の状態を判定するをもって、またその比較相対によりて誤認、謬解を生ずることあるなり。

 第二に専制とは、思想のある一点に集まりて、他の部分はみなその支配を受くるをいう。すなわち、さきに第六五節に論ずるがごとく、内界に存する種々の観念中、一種の観念、主作用の地位に立ちて他観念を統轄することあり。なお民間の一政党進みて、政府の地位に立ちて政権を握ると同一様なりとす。これを思想の専制という。すなわち、共和政体あるいは立憲政体において、政党の専制あるがごとし。しかしてこの専制の生ずる原因は、内外種々の事情によるも、人もし多少の事情によりて、内界の一点すなわち一種の観念の上に心力を会注すると

きは、自然に思想の専制を起こすに至る。しかしてこの事情を反覆して習慣を生ずるときは、専制思想の固着して動かざるに至る。すでに思想の固着するに至れば、旧思想と新思想とは全くその中心を異にし、これによりて得るところの判断、推理も、また前後、黒白の異同を生ずるを見るなり。例えば、ここにイロハニホへの五個の観念、内界に併存すと定むるに、平常はイ観念が思想の中心にありたるも、一時の変動によりてロ観念これが中心となり全思想を専制するに至れば、前後の判断全く異ならざるを得ざるべし。なお、駿河台にありて東京の全景を臨眺すると、愛宕山にのぼりて臨眺すると、大いにその観を異にするがごとし。これ常人と狂人と、その判断の氷炭相反するゆえんなり。

 しかしてまた、この専制に関係して予期意向、無識筋動の二種の事情あり。予期意向とは、わが心においてあらかじめかくあるべしと期することにして、すなわち意をもってこれを迎うるをいう。もし吾人一心に意をもって迎うるときは、耳目の感覚、多少これに従うに至る。しかして、意向ようやくその度を進め、思想の専制をきたすに至れば、感覚全く思想の支配を受くるに至り、種々の幻象、妄覚を現ずるなり。かくのごとく予期意向の作用起これば、また一方においてその力自然に遠心性神経の上に及ぼして、筋肉の上に動作を現示するに至る。しかして、自らさらにその動作を覚せざることあり。これを無識筋動あるいは不覚筋動という。しかして、その無識なる度は一に予期の強弱に比例し、予期の力全く専制思想を起こすに至れば、ますます筋動上に不覚を生ずるを見るなり。例えば、小児の目前に菓子を出だせば、これを取らんとする一念に支配せられて、覚えず両手を出すがごとき、また、たれびともその心に非常の快楽を感じ、歓喜おくあたわざるときは、手の舞い足の踏むを知らざるがごとき、また、人の詩歌を吟ずるを聞きて深くその心に感ずるときは、自然に唇吻を動かしてこれに和するがごとき、また、軍中にありて敵に追撃せらるるときは、畏懼の念に制せられて知らず識らず逃走するがごとき類これなり。これを要するに、精神の集合すなわち思想の会注するときには、一方には求心性神経の上に予期意向を起こして感覚を変動し、これと同時に、他方には遠心性神経の上に不覚筋動を起こして運動を専制するに至る。ゆえに、これみな専制思想に伴うところの事情なり。しかして今、さらに専制思想もしくは精神の集合の感覚上に与うる影響につきて、カーペンター氏〔の〕『心理書』に出でたる例を訳して左に挙示すべし。

   一僧侶の語るところによれば、あるとき、その管内にて、一婦人のその嬰児を毒殺したるものありとの嫌疑を生じたることあり。ここにおいて、その棺を墓中より発掘したりしが、医師とともに死体を検せんために臨席せし州官は、すでにその腐敗の臭気を感じてまさに失心せんとし、到底この場にたえずとて、倉皇ここを去れり。しかるに棺蓋を開くに及び全く空虚なることを発見し、かつその後に至り、この婦人はかつて子を産せしことなく、したがってすこしも殺害を行いしものにあらざりしこと明白となれりと。

   西紀一八五一年のころなりき。一屠者のいたましき負傷を受けたりとて、近傍の市場より薬材家マクファールランなる人の店頭に担いきたれることあり。そも、この屠者は重大の獣肉をその頭上に懸垂せんとし、誤りて脚を失し、その手腕を鋭鉤に貫かれて、かえってこれにわが体をかくるに至りたるものなりき。すなわちこれを検するに、彼は蒼然として面色灰のごとく、またほとんど脈拍なく、その状、苦悩にたえざるもののごとし。しかして、しばらくして腕を動かすも非常の痛みを感ずるをもって、その筒袖を切断する際はしばしば悲鳴したり。しかも袖を去りて腕をあらわすに及び、鉤はただ上衣の袖を貫きしのみにして、その体は全く安全なりしことを発見したりという。

   ブレード氏の試験したるところによれば、齢五十六歳にして十分に健全なる一貴婦人あり。氏の暗室に導かれしかば、婦人は十分熱心に馬蹄磁鉄の極を見、もってそのみたるところを語らんことを望めり。しかるに、しばらくの間これを眺めし後、すこしも見えたるものなしと言えり。よってブレード氏は、これを注視せば火光の発することをみるならんと告げしに、婦人はこれよりただちに火光の閃々たるをみ、またいくばくならずしてその盛んに噴出するは、なおかつて婦人がある公園にてみたりしヴェスヴィアス火山の人造形のごとくなりしといえり。この間に、婦人の知らざるがごとく磁鉄を入れおきし匣をおおいしに、婦人はなお同一の現象をみらるることを語れり。これより種々の疑問を発して、暗室の他部(純然たる壁のほかは一物なき所)において、みたるところを語らんことを問いしに、婦人は氏がその根本の観念を変ぜしめん目的をもって発したる種々の疑問に応じて、最も燦爛たる閃光および火炎のさまざまなる形状をみたることを語りたり。かくのごとき試験をしばしば反復せしに、つねに同一の成績を呈せり。それより磁鉄を他室に持し去りし後、右の婦人を暗室に導きしに、この室にはすでに純然たる四壁のほかは、この結果を呈せしむべき一物なきにもかかわらず、なお同一の閃光および火炎の現象を知覚したり。しかして磁鉄を去りしのち二週日を経て、婦人は自らこの暗室に入りしに、単に観念の連合よりして、よく同一の閃光および火炎の現象をみることを得たり。実に婦人は始めて数回の間、閃光および火炎をみたりし後は、暗室に入るごとに、常に同一の現象をみるに至りしなり。

   また、ブレード氏はこれと同一の方法をもって、婦人の熱心せるこのときに磁鉄の極にふれしめたりしに、その手指と磁鉄との間にはすこしも牽引の象を呈せざりしが、いったん婦人は磁鉄の強大なる引力にひかれて、全くその手を引き離すことあたわざるならんとの観念を告知せしに、このときよりして同一の結果を呈し、また他の新観念を提起してこれを分離せし後、他の極はさらにその手上に引力を及ぼすことなからんと告げつつ、同様にこの極に触れしめしに、果たしてこれに応じて、ただちにかくのごとき消極的の結果を呈したりという。ブレード氏曰く、「予はこの婦人が、予あるいはその他ここに臨める人々を欺罔せんとするがごときことなきを知る。むしろ婦人は先入観念の専制によりて自ら欺かれ、またこれに魅せられしものにして、この試験を目撃せる人々と等しく、磁鉄のさまざまなる勢力を呈することを吃驚せり」と。

 また、専制予期によりてその身心の作用が他人の命令に従う一例に、カーペンター氏の記するところを挙ぐれば、一貴女はその鼻下に当てたる手巾には、クロロホルムを含めることを信ぜしめしに、漸次ねむりに陥り、さきにこの麻酔剤を吸入したりしときと同一の徴候を示し、全く無覚の状となりしが、また数分時にして自ら醒覚したり。つぎに、この貴女は施術者より二分時を出でずして眠りに就くべきことを確説せられ、かつ施術者よりは呼ばれざるまでは醒覚せざるべしと命ぜらるるや、他人よりあるいは耳に接して大鈴を振り鳴らすか、あるいは羽毛をもってその鼻孔を深く摩する等、いかなる普通の手段をもってするも、すこしもこれを覚ゆるしるしなかりしといえども、施術者よりおもむろにその名を呼ばるるに及び、ただちに眠りを破りて醒起せり。また、シンプルトン氏の言によれば、あるとき氏の施術を受けたる者は、かくのごとくねむれること三十五時間の長きにわたり、その間許されて暫時醒覚せしこと、わずかに二回のみなりしという。この例は、後に催眠術を説明する一助となるべし。また、専制思想のあるいは偏向意志、精神病の上に与うる影響につきても、カーペンター氏〔の〕『心理書』に適例を示せるをもって、左に掲ぐべし。

   エディンバラ〔の〕モーニングサイド癲狂院の紀元一八五〇年の報告によれば、一婦人あり、その知力にはすこしも異常の点なく、また妄念より苦しめらるることなしといえども、ただ「殺さん、あるいはむしろ特に縊殺せん」とて単純なる抽象的観念に悩まさるるものにして、この目的を達せんがため種々さまざまの人に迫り、特にその姪および親戚をも害せんとすることしばしばなり。実にこの婦人の縊殺せんとするは、そのいかなる人種なるやは関するところにあらずして、要はただある人を殺すことを得ば足れりとす。かくしてこの婦〔人〕は厳厲なる監督をこうむりて、大いに自制力を回復し、洗濯室にて作業することを許さるるまでに至りしといえども、なお常に「われはこれをなさざるべからず」「いずれの日かこれをなすや必せり」「われはこれを忍ぶことあたわず」あるいは「なにびともわれのごとき恐るべき苦悩を受けしものなからん」など口外し、また、なにびとを問わずこれに接近して、おもむろにその手を喉辺にいたし、温然たる勧奨の語を発して曰く、「われはあたかもかくのごとくなさんことを欲す」と。また、しばしばこの世界の人々を一挙に縊殺せんため、男女老幼はことごとく合して一頸とならんことを望むなどいえり。しかりといえども、この婦〔人〕は誠実温柔の資質にして、院内の患者より親愛せらるること少なからず。かつ信仰心に富み、好みて祈禱会に臨み、あるいは病者を訪問して、その福を祈るを常となせり。

   以上記するところは、第二回の癲狂にかかりしときの状態なるが、その第一回にありては、この婦人は自殺をはかりしという。しかしてその妹および母の、ともに自殺を行いたりしをもってみれば、けだしその病は全く遺伝にして、元来この種の病的衝動を発せんとする強傾向を有し、決してその詭欺に出でしものならざること疑うべからず。かつまた、この婦人はかくのごとき衝動の不良なること、ならびにこれに左右せられてある罪悪を犯すときは、必ず責罰の免るべからざることを熟知すといえども、しかもこれを克制することあたわざりき。ゆえに、常に己がここに恐るべき偏向に悩まさるることを愁然として嘆ぜしという。また同院、紀元一八五三年の報告によれば、右の婦人は例の殺人癖に刺衝せられて、まさにその妹の児子を縊殺せしんとしたるが、再び入院するに至れり。しかして、この回もすこしも妄念あるいは観念の倒乱を呈することなく、ただいちいちの強大にして検束し難き抽象的偏向、すなわち己の邪悪なりと知れるところのものを遂行せんとする思念に刺衝せられ、自ら深く己の宿運を悲嘆するのみなりという。

   カーペンター氏の記するところによれば、ドクトル・オッペンハイム氏は、かつてある人の、喉を断ちて自殺を行いしも、その要所を遠ざかりしため、しばらく苦悶せし後、ついに没したる者の身軀を請いて解剖せんとなしし際、戯れに従者にいいて曰く、「なんじ、もし己の喉部を断たむ意あらば、決してかくのごとき拙方にならうべからず。これをして少しく左方に偏せしめば、必ず喉部の動脈をたちて速死すべし」と。しかるに、かくのごとき不吉の勧言を受けたる従者は、沈着穏当の人にして、家族ならびに通常の資産を有し、安楽にその日を送り、決して毫末も自殺せんとの傾向なく、また、これを行わんとの念なき者なりしが、奇なるかな、自ら右の死体ならびに該医師の検察するところをみるに及び、たちまちその心中に自裁の念をひき起こし、ますます増長してついにこれを実行するに至れり。しかれども、幸いにさきの教示ありしにもかかわらず、その動脈を断たざりしがゆえに、よく快復することを得たりとそ。これすなわち、かつてその傾向をも経歴せしことなく、また、全く情緒の性を欠ける病的衝動の、俄然として専制をたくましくしたる好例なりとす。

 これみな病的専制、予期偏向の影響を示すものなれば、「医学部門」において説明する精神病の参考となすべし。

 以上の諸例によりて、その起こるゆえんを考うるは、さきに第六七節に示せし図につきて、その理を知るを得べし。すなわち、一方に心力を集むれば、他方にその力を減ずるはもちろんにして、もし一方に全力を凝集するに至らば、他の部分において不覚無識を生ずるもまた当然の理なり。しかして心力の一方に偏傾凝集するは、一は人の生来の性質により、一は内外一時の事情による。けだし人には生来、精神を一方に凝集しやすきものと、しがたきものあり。その凝集しやすきものに至りては、些少のことに心を奪われて、一方に専制を生じ、他方に不覚を生ずるなり。また、その凝集しがたきものも、一時の事情によりてその心を激動することあれば、必ず多少の専制不覚を生ずるは、みな人の知るところなり。もし、その一方に偏傾したる性質の、一時の後その元に復せざる場合においては、一般にこれを精神病に属するも、その精神病なるとならざるとは、その間に判然たる区別あるにあらずと知るべし。また、精神の専制に知、情、意三種の別ありて、ひとり思想の上にのみ存するにあらず。今、知力の一方に心を集むれば、全く覚官上の刺激を感ぜざるに至る。例えば、学者が書を読み会心のところに至れば、人のきたりその名を呼ぶもこれを覚えず、時間の移り食時のきたるもさらに知らざるがごときこれなり。なお、はなはだしきに至りては、碁客が局に対し輸贏を闘わすに当たり、その親の死を報ずるに会うも、かつこれを覚えずという。

 しかしてこれ、ひとり知力思想にのみ限るにあらず。専制思想に対して、また専制感情、専制意志あり。専制感情とは、大いに憤怒したときのごときこれなり。すなわち、このときにあたりては全く感覚力を失い、またその間の挙動は、多く自らなしたるを覚えずして、他人のなしたるごとく感ずることあり。また、専制意志すなわち意力の専制するときには、知慮分別なく、慈悲哀憐なく、軽挙妄作もしくは英断果決に偏し、その極端に達しては、また自らその挙動を覚知せざることあり。この専制不覚作用は、最も宗教信者に多しとす。その最も熱心なるものに至りては、一朝火刑に処せらるるも、自らさらにその苦痛を覚えざるもののごとし。古来西洋においてはヤソ・キリストをはじめとし、宗教信者の死刑に処せられしもの幾人あるを知らず。また、ブルーノ氏のごとき火刑に処せられし者も少なからず。その他、いずれの国にても宗教家は千死百難をおかして、さらにこれを意とせざるは、東西の歴史に徴して、その例枚挙するにいとまあらず。これ畢竟、信仰の力によりて精神を一点に凝集し、自ら身体上の苦痛を覚知せざるによる。もしこれを証せんと欲せば、吾人の大火のとき、もしくは戦場にありて縦横に奔走し、ために身体に負傷を受けたるも、さらにその苦痛を感ぜざるを見るべし。これ精神のある一点に集まりて、他の部分に存せざるによるにあらずしてなんぞや。今、宗教熱心家の苦痛を感ぜざるも、これと同一理なり。

 カーペンター氏はその書中に一例を示して曰く、「演説をもって有名なるロベルトホール氏が、病中にありながらその苦痛をおかして講壇に登り、喋々として演説するにあたりては、さらになんらの苦痛も覚えず、ほとんど病気を忘れたるもののごとし。しかして講壇をおりるや、たちまち苦悶にたえずしてたおれたり」という。これみな理のもとよりしかるべきものなれば、あえて怪しむに足らず。今すでにそのしかるゆえんを知らば、人工によりてことさらに専制不覚を生ぜしむることも、またあえて難きにあらず。西洋にありて、古代いまだ麻酔薬の発見せざりし時代には、人の精神をある一点に凝集せしめ、もって手術を行えりという。このことにつきては、予も自ら試みしことあり。すなわち足部に手術を受くるときには、あらかじめその心を他の一定の部分において集合せしむれば、その苦痛を感ずる度をいくぶんか減ずることを得るなり。

 以上、すでに専制を説明しきたりて、ついに不覚無識の起こるゆえんまでに論及したるも、今ここに特に変識の一項を掲げて、その種類を示さざるべからず。

 〔第三に〕無識とは、無意識、無知覚を義とす。これに反して重識と名付くるものあり。これ、二様相反の意識が一心中に並起するをいう。今ここに、この無識と重識とをあわせてこれを変識と称し、まず無識についてこれを述ぶれば、あるいは感覚上に無識を生ずることあり、あるいは思想上に無識を生ずることあり、あるいは知の上に変じ、あるいは情の上に変じ、あるいは意の上に変ず。ここにおいて、無識情動、無識想動の名称あり。しかして数種の無識、大抵みな専制の反対にして、精神の一方に凝集するあれば、必ずその結果として他方に無識不覚を生ずべし。しかるに、その間に呈するところの行為挙動は、無意識反射に属するものなり。ゆえに、無識作用はみな反射自動によりて発するものと知るべし。今、無識作用の種類を挙ぐれば、自ら怒りてこれを覚えず、自ら悲しんでこれを覚えざることあるは、これを無識情動といい、また、自ら分別し自ら判断し自ら推理してこれを覚えざることあるは、これを無識想動といい、また、自ら選択し自ら取捨し自ら動作してこれを覚えざることあるは、これを無識意動という。およそ無識の起こるはもとより種々の原因によるも、一には、専制凝集によりて精神の全力ある一点に偏傾吸収せられて無識を生ずることあり、二には、意をもって自ら迎えて無識に入ることあり、三には、急劇の変動もしくは過度の疲労によりて失神気絶し、もって無識を起こすことあり、四には、一種の病患によりてここに至ることあり。その例は、前に挙ぐるところのものと、ならびに心理学部門に示すところのものにつきて知るべし。

 つぎに重識とは、反対したる二重の意識の一心中にありてその作用を現じ、一方の意識はかくのごとくなすべしと命令し、他方の意識はかくのごとくなすべからずと命令することあり。また、一方において自己と認むるものと、他方において自己と認むるものと相反することあり。この例は精神病者にありて多く見るところのものにして、狐憑き病の一種に、意識の一半は狐の作用を示し、一半は人間の思想を有することあり。その他、種々の精神病に、二重意識によりて苦しめらるるものあるを見る。昨年、予が宅にきたりし某学生は、久しくこの重識を憂えてその療法を施さんことをもとめられたり。その人の述ぶるところによるに、人を見るごとに、その父母、親戚たりといえどもこれを殺さんとする意志を生じ、これと同時にその意を制止せんとする意志を生じ、常に自らはなはだ危険に思えども、いかんともすべからず。ために、大いにその心を苦しむるといえり。また、一人の学生ありて、余を訪い語りて曰く、「朝夕家の内にあれば、その家いままさに倒れんとするがごとく感じ、家の外に出ずれば、樹木のまさに倒れ、地のまさに陥りて、自らその生命を失わんとするがごとく感じ、これと同時にその精神中に、決してかくのごときことなきを知りてその意を制せんとするも、またあえて制止することあたわず。かくのごとく常に二様の意識ありて相戦い、ために自ら苦痛にたえず」と。

 これらはいまだ純然たる精神病というべからざるも、その始期たるや明らかなり。もしこれを生理的によりて説明すれば、吾人の脳髄は左右両半球より成るをもって、もしその半球互いに孤立して作用を呈するときは、二様相反の意識を生ずべしというも、これあまり有形に偏したる説明にして、心理学者はこの説をもって満足することあたわず。ゆえに、さらに他の説明に考えざるべからず。そもそも吾人は、平時にありても往々意識の二様に分かれてその作用を現じ、あるいは二個の思想の互いに相抗排することあり。例えば毎日晨起するにあたり、晨起を促すところの思想と、これを妨ぐるところの思想と両様ありて相戦うを見る。その他、なにごとをなすにも二様相反の思想の同時に起こりて、その勢い容易に決断を与うることあたわざるあり。これ他なし、吾人の意識、思想は、観念の比較連合の異同によりてその範囲を異にし、一部分の観念の比較連合より生ずる思想および意志と、全部分の観念の比較連合より生ずる思想および意志とは、もとより同一なるあたわず。また、一部分の連合と他部分の連合と、これによりて起こすところの結果は、またおのずから異ならざるべからず。これをもって、いわゆる動機の生ずるに二様相反の衝力を生じて、互いに相抗排することあり。今、病的重識もただこの事情のその度を強めたるものにして、吾人平常有するところの状態と、あえてその種類を異にするにあらず。その例証のごときは、「医学部門」および「心理学部門」に譲る。

 第四に幻境とは、無識界中に一種の識界を開き、その世界は全く現世界と異なるはもちろんにして、無識以前の心界と大いに異なる世界を現見するをいう。これ、精神病者において多く見るところなり。しかれどもまた、いまだ精神病者と称するに至らざるも、種々の心術を施してここに至ることあり。この境遇にありては全く妄覚、妄想をもって成り、別に一種の幻天地を開くものなり。しかして幻境に一分と全分との二種あり。一分幻境また、これを分かちて内界と外界の二種とす。すなわち外界に幻境を見、妄視、妄聴を感ずるものと、内界に妄想、妄見を現ずるものとの二種なり。しかして、一分幻境は幻現両境を一心中に併見することを得、全分幻境は身心内外全く幻境に入り、精神そのものの幻化したるものなり。けだし幻境の起こるは種々の事情によるといえども、要するに内界の想像をもってただちに外界の境遇を組織し、あたかも夢中における境遇を現見するによるなり。しかしてその内界の想像も、もしよくその順序を保ち、その連絡を有するときは、いまだもって幻境となすべからず。しかるにその想像が常態を失していわゆる妄想、妄見を起こし、これを実際に照合するに大いに事実に反するところありて、全く平時の想像とは相異なるをもって、これを幻境というなり。その原因は前すでにこれを述べ、また「医学部門」においてもこれを説明する意なれば、今ここに贅言するを要せず。ただし吾人の精神作用は、ひとたび無識の境遇に入るときは、またその一部分に意識の境遇を開くことあり。しかしてその意識は健全ならず、またその権衡を保つことあたわずして、いわゆる妄意識の境遇を現ずることあり。かつ、わが心に自制、自裁の力を失し、単に他人の命令に応じて、心内に外境を構成することあり。これらの状態は、催眠術の場合において、もっとも明らかに知ることを得。ゆえにその説明は、また「心理学部門」心術編に譲るべし。

 第五に真際とは、一切の心象の境遇を超過して、心体の本境に達せしものをいうなり。前に述べたる幻境および種々の妄念、妄想のごときは、これを総じて妄境という。この妄境を払い去りて後に開顕するところの、一種高等玄妙なる意識の別境、これを真際というなり。幻境にありてはその状態、平常の境遇すなわち現境に異なれども、けだしその異なるは精神界裏の一部分に意識を開きて、外界の対照なく、かつ内界全部の意識を有せざるによる。しかるに真際に至りては、現境および幻境の有するところの意識精神の状態を離れて、別に一種玄妙なる意識の関門を開現するものなり。この現境と幻境とは、ともに心象の上に現わるる境遇にして、要するにその別は一部分の意識なると、全部分の意識なるとの異あるのみ。これに反して、真際は心象にあらずして心体の境遇なり。そもそもこの心体とはなにものなるかの疑問に対しては、これひとり心の本体たるのみならず、また宇宙万有の本体にして、いわゆる唯心一元の体なりというべし。ゆえに、その体は彼此自他の差別なく、平々等々たる無差別の境遇なり。この境遇のひとたび動くときは、ここに吾人の自他差別の心象を現ずるものにして、たとえば、あたかも静水のひとたび動きて波を生ずるがごとし。また、心象は自他相待ちていわゆる相対有限なり。しかるに心体に至りては、自存自立して他に待つことなく、また他の制限をも受くることなく、いわゆる絶対無限なり。しかして、この絶対無限の体の表面に、有限相対の心象を開くものとす。果たしてしからば、吾人の心は差別相対の心象なれども、その本体は無限絶対の体にして、心象はすなわち心体の一部分たること明らかなり。すでにその一部分なる以上は、心体と連結して相離るるべからざることも、また疑うべからざるなり。これをもって吾人、有限の心象上に無限の神光を開くことを得べく、したがって世に宗教の成仏悟道の法あるに至る。すでに禅宗のごとき本来の面目、本地の風光を開現すというは、これすなわち差別相対の心象上に、無限絶対の心体を開現するの謂にあらざるはなし。けだし、そのいわゆる座禅といい観法といい、みなこれに達する階梯に過ぎざるべし。また、仏教の目的は転迷開悟と称して、生死の迷いを転捨して涅槃の悟りを開現すというも、そのいわゆる涅槃は、これすなわち無限絶対の心体にして、これを真如というも可なり、これを理想というもまた可なり。要するに、その名称は異なりといえども、その体に至りてはもとよりみな同一なり。ゆえに、吾人もし現境、幻境の妄境より進みてこの真際に達すれば、あたかも雲霧晴れ渡りて、中天に明月を仰ぐがごとき感あるべし。

 この真際の一論に至りては、すでに心象の範囲を超脱したるものなれば、心理学の範囲に属することなし。ゆえに、これを変式的心理学の一部として論ずるはその当を得ざるもののごとしといえども、元来吾人の心象は現境、幻境ともに、その内部に心体の世界を具するものなるをもって、勢い心象に連絡して心体を説かざるを得ず。かつ、予がいわゆる妖怪学の研究はひとり仮怪を論ずるにあらず、あわせて真怪をも論究せんとするものにして、今、右真際の一論のごときは全く真怪の問題に属するなり。しかして、この真怪は仮怪を離れて別に存するにあらずして、仮怪の裏面、心象の内部に存するものなれば、現境一変して無識界となり、無識一変して幻境となり、幻境一変せばここに真際を開くことあるべし。ゆえに、以上において真際のことを一論したるも、なお結論に至りて詳説すべきをもって、その他はこれを略することとなせり。


       第九七節 情、意の異状

 上来講述しきたるところ、内界の要素は知情意中、知力にもとづき感覚、思想の両範囲の下において論述したるも、元来知情意は一心中の現象に過ぎざれば、その互いに関係するところあるは論をまたず。ゆえに、思想そのものには情も意もともに相加わり互いに助くるものにして、これと同時に思想に専制あれば情、意また専制あり、思想に無識あれば情、意また無識あること、前節述ぶるところのごとし。しかして今ここに、意力の欠乏したる場合につきてさらに一言せざるべからず。それ夢中の想像のごとき、あるいは精神病のごときは、意力をもって思想もしくは感情を制止することあたわざるものあるは、果たしてなにによりてしかるや。この理を説明せんと欲せば、まず意力の起こるゆえんを述べざるべからず。そもそも意力の起源につきては古来種々の説ありて、あるいは意志は本来自由なるものにして、万有の規則の外に立つものなりと唱うるものあり、あるいは意志は万有自然の規則に従い、因果必然の理法によるものと唱うるものあり。しかるに余は、たとえ意志の本性は自由なりとするも、いやしくも人身中にありて脳髄組織の中にその作用を現示する以上は、自然の規律、必然の天則に従わざるべからずと信ずるものなり。しかしてこの説に従えば、また意志の起こるゆえんを説明するを得べし。それ意志には単意、複意の二種あることは、第五九節においてすでに略述し、またその作用変化は、第八五節、第八六節、第八七節においてこれを示せり。ゆえに、またここに贅言するを要せずといえども、この意志に対して、無意に属する作用と有意に属する作用あり。しかしてひとり単意、複意の間に判然たる分界なきのみならず、有意、無意もまたいまだ判然たる分界あらざるなり。ゆえに余おもえらく、夢中および病中のごときも全く意志なきにあらず。ただ、その意志は平常健全のときに比して不完なること、なお夢中にありては情、知二者の平常に比して不完なるがごときのみ。けだし、意志に単複二種の分かるるは、心性発達自然の勢いにして、二者の原因もとより一にして二ならず。すなわち、一部分の心象もしくは一個の観念が刺激となりてその挙動をなすと、全部分の心象もしくは全体の観念の比較対照より生ずる結果によりて行為を現ずるとの相違あるのみ。

 例えば一社会にありても、一個人の意志と社会全体の意志とは互いに抵触することありて、そのときに至りては、一個人の意志をまげて社会全体の輿論に従うことあると同一なりとす。今これをたとうるに、ここに甲なる一物ありて、その周囲にイロハニホへの数個の事物ありと仮定し、イの力甲の上に及ぼしてこれを引かんとし、ロハニホへはすこしもその力を加えざるときは甲はイの方に引かるべきも、もしロハニホへともに同様の力をもって甲を引くときは、その結果必ず異なるべきと同一理なり。しかるに夢中あるいは病中にありては、心象中の一部分活動して他部分休止せるをもって、平常健全のときに有するがごとき複意の作用を見ざるも、極めて下等、不完全の意志、もしくは無意同様の作用の存するや疑うべからず。しかして普通一般に、かくのごときありさまを称して意力の欠乏という。もし例を社会のことにとりてこれを考うれば、平常無事の日には社会全体の意志相合して輿論を形成するも、一朝革命、変動の生ずるに当たりては、一部分の意志ひとり主作用の地位に立ちて社会を専制し、大いに平時の意志と異なりたる運動を呈することあり。心性作用もなおこれと同じく、平時と変時とにより意志の作用を異にすることあるも、その原理に至りては決して二致あるにあらず。それ、かくのごとく心性上に変動あるにかかわらず、多少の意志あらざるはなしといえども、しかれども一方に心力の会注専制あれば、他方に欠乏無識を生ずべきは自然の道理にして、心性作用の変態、異常あるに当たりては、知もしくは情ひとり強盛を極め、意は全く欠乏休止することあるべし。しかしてその休止にありて意力の作用を見ざることあるも、あえて怪しむに足らざるなり。また、これと同じく感情作用の欠乏することありて残忍苛刻のことを行うも、さらにその心を動かさざることあるも、同一理によりて知るを得べし。また、情、意二者の専制の起こるゆえんは、前節の知力の専制を述べたるときにすでにこれを説明せり。

 以上の道理によりて、病的および怪的の変情、変意を了解すべし。今、左にカーペンター氏の『心理書』にもとづき、情、意の変態の一例を挙示せん。

   ドクトル・タムソン氏の報ずるところによれば、一紳士あり、往々克制し難き憤激を発し、次第にその傾きを増長するがゆえに、知友はこれを狂癲と認め、その自由を拘束せんと欲すれども、しかもその談話および行為に徴するときは、毫末もかくのごとき強制手段の作用を是認すべき、顕然たる理由を発見することあたわず。ここにおいてか、数人の医師に請い、種々の方法をもってその狂性たるゆえんを透察せんとはかりたれども、いずれもその目的を達せざりき。ついにタムソン氏もまた学者として右の紳士に紹介せられ、例の検察を依頼せられたり。さて氏のその居間に入るや、懸鏡の亀裂せる椅子、その他、華麗なる調度の破損せる等、一見してただちにその激情のときどき発作せることを顕示する証左歴然たり。すなわち氏はたちまち心中に、この紳士の知力あるいは情緒に倒乱あらんことを会し、これを発見せんため、種々雑多の談話を始めたり。しかしてタムソン氏は有名なる博識、雄弁の人なり。また、その対手も文学、技芸に達せる多才、巧弁の紳士なりければ、交互の応答、流暢自在にして渋滞なく、わずかに二時間にして談、万般の事項にわたり、奇趣、妙味湧くがごとく、氏も、いまだかつてかくのごとき愉快、有益の対話をなしたることなしといえり。されども氏は、ついにその眼目たる秘密を発見すべき緒を得ず、ほとんど失望にひんせしが、あたかも話柄の動物、電気のことに移るや、該紳士はその親族中のある人々が、この作用にかりてわが身を感動、左右したりしことを説き、もっとも熱心に、己がこの方法のために非常の苦難を受けたりしことを語り、ついに憤然と激昂して、必ずこの加害者に復仇せんことを誓えり。その状、実に恐るべきものあり。ここにおいてか、これらの人々ならびに紳士の安全を保せんには、これを検束せざるべからざること、はじめて明瞭となれりという。

    また同書に、情緒の激動の身体上に及ぼせる影響につきて一、二例を挙示せり。

   ドクトル・フォン・アムモン氏の記するところに曰く、「一工匠あり、その家に合宿せる一兵士と争論をひき起こし、ついに兵士は剣を抜きてこれに迫るに及べり。ここにおいて、工匠の妻は恐怖してなすところを知らざりしが、たちまち身を両戦士の間に投じ、剣を奪いてこれを寸断せり。この間に隣人も馳聚して両人を分かち、事ようやく鎮静に帰せり。しかるに妻はこの事変により痛く激動せる際、当時あたかも健全にして嬉戯せる児童を揺籃よりとりて哺乳せしめしに、数分時にしてこの赤児は哺乳をやめ、四肢は不動となり、気息喘々としてたちまち眠るがごとく、母の胸上に俯せり。すなわち、倉皇に医師を呼びて百般の方法を施ししも、ついにその効なかりし」という。

   ブルダッハ氏の記するところによれば、ある嬰児は、その母の悲傷すべき事変に会せし後ただちに哺乳せしに、その身体の右方は痙攣を起こし、左方には半身不随症を呈せしという。また、母犬のはなはだしく狂激せし後、これより哺乳したる犬児は癲癇的の痙攣を起こししことありという。

   一婦人あり、嬉戯せるわが小児を看護しいたりしに、その頭上より重き窓戸の墜落しきたりて小児の三指を砕截せしことをみ、驚惶、悲傷のあまり、これを救助すべき術を知らざるに至れり。かくて外科医きたりてその創傷を包帯し、つぎにその母に面せしに、今や婦人もまた愁然として己が指の苦痛を訴えてやまざりしが、これを検するに及び、あたかも児童のそこないしと同一なる三指の、はなはだしく脹起して炎熱を発することを見たり。しかしてこの三指は、現事変以前にありてはすこしも苦痛を覚えたることなかりしものなり。それより二十四時間を経て、右の部を切開して膿を去り垢を除きしに、ついに癒合するに至りしという。

 また同書に、意志の身体挙動の上に及ぼせる影響につきて左の例を示せり。

   プロフェッサー・ベンネット氏の記するところによれば、一紳士あり、自己のなさんと欲する所業をしばしば遂ぐることあたわず。すなわち、己の衣着を脱せんとつとむるも、ほとんど二時間を経過するにあらざれば、これを果たすことあたわざるはしばしばなりき。されどもその心力は、意志を除けばことごとく完全にして欠くるところなし。また、あるときは下婢に一杯の水を命ぜしに、それを捧げらるるに及び、いかに気をいらだつるも杯をとることあたわず。下婢をして空しく半時間ほど侍立せしめたる後、ようやくにその障害にかつことを得たりという。

   右に比すれば、さらにその特性の一部に限れるものあり。すなわち、ある一紳士は街道を歩行するにあたり、もし家続きの断絶せる場所にきたるときは、たちまちその身体、運動不如意となり、また、前進することあたわず。かくのごとく、街道において家屋の建築なき場所は、必ず該人を抑留せり。その他、街道を横断することもすこぶる難事にして、また、門戸を出入りせんとする際も、つねに数分時の間、制遏せらるという。これらの両人は、その抑制せらるる当時の感応を写出して、あたかも己が意力を他人に占有せられたるもののごとしといえりとぞ。

 この意志の一例は、「医学部門」〔第二講〕意志狂の一節を参見すべし。以上の諸例によりて、情、意の変態の、他の精神作用の上に影響を及ぼすのみならず、身体の上に影響するを知るべし。


       第九八節 妖怪要素の全表

 上来、心理的変態、異常の起こる原理を総説したるをもって、これよりその各項につきて細論せざるべからず。ゆえに、変式的心理学もまた、正式的心理学に準じて総論、各論の二段に分かつ。しかして、これより各論に移らんとす。よってさらに表を掲げ、妖怪の要素を明示すること左のごとし。


          個体性質           

       無機                

          自他関係           

     外界                  

          個体性質           

       有機                

          自他関係           

                         

          空気および精気        

        外                

          時間および空間        

     中間                  

          身体             

        内                

妖怪要素      神経             

                         

                      身体上

                   事情    

                      精神上

        外覚(感覚および知覚)

                   相対(客観的)

                          

                          

                   相対(主観的)

                        専制思想

     内界              種類 専制感情

                   専制    専制意志

                  

                        予期意向

                     事情     

                        不覚意志

        内想(想像および思想)      無識想動

                      無識 無識情動

                   変識    無識意動

                      重識

                      

                          外界(幻象、妄想)

                     一分幻境    妄象

                          内界

                             謬論

                   幻境        自然的

                          怪的   

                             人為的

                     全分幻境       

                          病的


 この要素は妖怪そのものの起因にして、迷誤そのものの原因にあらず。しかして、迷誤の原因はすでに第六講において説明したるをもって、ここに略す。以上掲ぐるところの種々の要素の、一部分もしくは全部分相合して世のいわゆる妖怪を組織せるも、これを分解していちいちその説明をたずぬれば、決して真に妖怪なるものにあらず。その理由のごときは、以下各論においてさらにこれを説明せんとす。しかして、各論は主として心理現象の上に起こる妖怪を説明するにあれば、この要素中、外界の部はこれを除き、中間、内界の二者につきていちいちその例証を挙示せんとす。これ、余が説明の心理学を牙城とするゆえんなり。



第一一講 説明編 第五(変式的心理学各論 第一)

       第九九節 感覚論の順序

 前講に変式的心理学総論を述べたるをもって、これよりその理を心理作用の各種に考えて、これが説明を与えんとす。しかして、その説明は心理学部門に再説せざるを得ざるをもって、ここにただその大要を述ぶるのみ。まず感覚につき、左の順序に従っていちいち説明すべし。

  第一、視覚  第二、聴覚  第三、触覚  第四、嗅覚  第五、味覚  第六、有機感覚すなわち体覚

 この諸覚は、外は中間物の事情に関し、内は精神作用に関するをもって、前節掲ぐるところの表により、中間および内界の要素につきて、これを考えざるべからず。


       第一〇〇節 視覚の異象 第一

 感覚中、最も知力の発達を助くるものは視覚なり。しかしてまた、よく吾人を欺きかつ惑わしむるものも視覚なり。まず視覚と中間物との関係を述ぶるに、中間物に光線の屈折、反射によりて異象を現ずることあり。例えば、空気、水液の類の光線を屈折する力を有することは、たれびとも実験するところにして、すなわち空中に蜃気楼を見るがごときは、空気の変状によりて、これを経過する光線の屈折するにより、また、入湯のとき試みに指の一半を水上に出だし、その一半を水中に沈むるときは、その形の異様を呈するを見るがごときは、水液の光線を屈折するによるものなり。あるいはまた、杯中に銭を入れ、三、四尺離れて斜めにその中を見るに、銭は視線の下に隠れて見るを得ざるも、その杯に水をみたすときは、銭影たちまち視線の上に浮かびて眼中に入るがごとき、またもって水液の光線を屈折する例となすべし。つぎに反射につきて述べんに、ガラス、鏡等の物影を反射する力を有するは、またなにびともよく知るところにして、例えば、汽車中にありて、ときどき樹木、人家の影像のガラス窓に浮かぶがごとき、また、理髪場に入り両鏡相対するを見るときは、その形互いに反射して窮まりなきごときこれなり。また、中間物の色相によりて、物色に変化を与うることあり。すなわち空気、水液、ガラスの色相に従って見るところのもの、その色を異にするにおいて知るべし。これを要するに、視覚の上に現ずる物象は、中間物の性質と色相とによりて異象を現示し、実物の性質と視覚の現象と一致することを得ざらしむるものなり。

 つぎに、中間物の一種たる時間、空間と視覚との関係を述ぶるに、およそ物象は同一物にして、時と所とによりて異なり、清晨これを見ると、薄暮これを見ると、大いにその観を異にし、冬夏、晴雨また、みなしたがって観を異にせざるはなし。また、距離の遠近、位置の前後によりて物体の形状を異にするも、人の熟知するところなり。今かつ、ここにその諸例を挙ぐれば、四面秋気澄清にして満天点翳なく、明月高く懸かるがごとき夜に当たりて四山を望むときは、はなはだ低くしてかつ遠きを覚え、密雲雨ふらんと欲し天色朦々たるときに当たりてこれを望めば、高くしてかつ近きを覚ゆ。これをもって、航海に慣れざるものは、月夜に山色を望みて、その距離を誤ること、往々これありという。これ光線と視覚との関係なるも、また空間に対する感覚上の異象なりとす。また、春日遠山を望めばその形朦朧、秋天これを望めばその影明朗たるものは、山の異なるあるにあらず、時の異なるをもって、その間に変化を呈するによる。そもそも物の形状、大小は、位置、距離によりて異なるは論をまたず。さきのいわゆる空気、水液等の光線の屈折、反射、色相も、時間、空間の事情によりて、さらにその変化に強弱、厚薄の差を見るなり。ゆえに時間、空間も、視覚の異象を生ずるに一要素に加えざるべからず。

 つぎに、中間要素の第二種なる身体、および神経の事情を述ぶべし。それ、人間の眼球の組織は、これを動物に比するに大いに発達したるところあるも、いまだもって完全なるものと称するを得ず。ゆえに、平時にありてもなお種々なる誤覚を生ずるは、また免れざるところなり。例えば、眼球の内部に盲点と称する一点あり。しかして、吾人もし一眼のみを有するときは、外物の影像、球内に入りきたりてその点に落つるも、これを見ることを得ざるなり。また、明視点と称する一点ありて、外物の影像その点に落つるにあらざれば、これを明視することあたわず。また、指頭をもって強く眼瞼を圧するとき、もしくは両眼に力をこめて一物を凝視するときは、二重の物象を見るなり。

 また、甲を両眼と定め、乙を左指とし、丙を右指とし、その距離およそ一尺と定め、甲の眼軸を乙の点に集めて丙を見るときは、丙は二重となりて現じ、甲の眼軸を丙に集めて乙を見るときは、乙は二重となりて現ずるなり。また、ときどき眼球内に透明の球体の動くを見ることあり。これ、血球の内に動くものの視神経に映じたるものなり。しかして、病時にありては、種々の変状を現ずること一層はなはだし。すなわち、黄疸病にかかるものは見るものことごとく黄色を帯び、熱病にかかるものまた種々の幻影を見るがごとき、いちいち枚挙にいとまあらず。また、色盲と名付くるものありて、七色各種を感ずることあたわず。しかしてそのうち、赤色を感ずるあたわざるもの最も多しという。これけだし、その色を感ずべき神経を欠くによるものなり。これを要するに、視覚は中間物の異同によりて大いに物象の異変あるを見るも、もしひとたび中間物そのものの性質、事情をつまびらかにするときは、すこしも怪しむべきところのものにあらず。しかして人のこれを怪しむは、全く迷誤に出ずるものといわざるべからず。ゆえに、かくのごとき妖怪は、ひとたび学問の電灯を心内の公園に点ずるときは、たちまちその影を滅するに至るは必然なり。


       第一〇一節 視覚の異象 第二

 視覚は身心の状況および経験の影響によりて、その感ずるところ大いに異同あり。例えば松島にありて平日、島煙浦月の間に逍遥するも、関東にありて朝夕、富士の秀色を餐するも、ときにその感ずるところを異にすることあるは、ただに晴雨、日時のためのみならず、身体活発にして精神爽快なるときと、身心ともに疲労厭倦したるときとによりて、その感覚を異にするものなり。また、いかなる佳景絶勝も、朝夕その間に起臥するときは、習慣となりてその興味を減じ、いまだ多くこれに遊ばざるの地にありては、新奇の感情によりて大いに好景を増すものなり。これ経験、習慣より生ずる結果なり。つぎに、視覚は相対性によりて、また大いにその感覚を異にするものなり。およそ物の色相、形容は大抵互いに比較対照して感ずるものにして、いわゆる「江碧 鳥逾白、山青 花欲燃 。」(江みどりにして鳥いよいよ白く、山青くして花燃えんと欲す)のごときは感覚の相対なるものなり。また空間上、距離の長短、遠近を判ずるも相対比較による。しかしてその比較に主観、客観、もしくは時間上、空間上ありて、目前に二物の併観して互いに相較すると、往時の経験によりて得たる心内の記憶と、目前の物象と互いに相較するとの二様あり。その例証は心理学部門にゆずる。かくのごとく、相対によりて視覚上に誤覚を生ずる、これを変視という。その最も著しき例は、日月の昇るときと中するときと、大小を異にするを見て知るべし。

 余かつて一夜、満月のとき月の中するを待ち、その目に感ずるところの大小を試験したることあり。また、菅茶山の『筆のすさび』といえる随筆中に、月を見る説と題する一章あり。曰く、「友人橋本吉兵衛、名は祥、きたり語る。人の月見るに、人によりて大小あり。おのれは径二、三寸のまろき物と見しが、人によりて径六、七尺にも見ゆるあり。六寸ばかりに見ゆるは尋常の人の目なり。されば、いわゆるぬか星などは、おのれが目には見えざるべしという。人々みな試みしことにや、予ははじめてききぬ」と。これ空間上の相対にあらずして、時間上の相対なり。すなわち、種々脳中に記憶せる観念と、その現に見るところの月との比較より成るところのものなり。しかしてその結果、各自に見るところを異にするや、かくのごとし。つぎに精神上の関係を考うるに、幻視、妄視の二種あり。すでに第九〇節に示すがごとく、感覚は外界の刺激によりて生ずるを常とすれども、ある場合においては内界の精神思想その原因となりて、感覚上に幻視、妄視を生ずることあり。幻視は精神上の予期意向もしくは信仰もしくは恐怖等によりて、外界の事物を全く別物のごとく感ずるをいう。例えば、怯者が枯尾花を認めて幽霊となすの類これなり。しかして妄視とは、精神上の変動によりて、その実、存在せざるものを実に存在するがごとくに見るものにして、例えば熱病あるいは精神病にかかりたるものは、目前に種々の妄象を見るがごときこれなり。けだしこの妄視は幻視の極端に走りたるものにして、多少精神病中に属すべきものなり。以上述ぶるところによりてこれを考うるに、視覚上に現ずるものは、決してことごとく事実として信ずべからず。しかしてその変幻、錯誤あるも、みなそのよろしくしかるべき道理ありてしかるものなれば、またあえて怪しむに足らざるものなるを知るべし。

 以上は余が考定せる外界、内界、中間の三要素について、視覚の異常の起こるゆえんを説明したりしが、あるいは感覚器の上において起こるものと、中枢器の上において起こるものとの二種に分かちて、幻覚、妄覚を論ずることあり。今その方法に従い、視覚の異常につきて一言せざるべからず。まず感覚器の上に起こるものを考うるに、これにまた二、三の種類あり。その第一は平常の場合にして、視官の一時の事情によりて起こる幻視あり。例えば、一物を凝視しおる間に、おのずから二物にみゆるに至ることあり、あるいは指をもって一方の目を圧すれば、必ず一物を二様にみるべく、またはある距離の一点に両眼を注ぐときは、その点より近き方にある物は二つにみゆるがごときこれなり。もし疾病によりて動眼神経の一部分に麻痺または傷害を受けて、一物の二重に感ずるときのごとき、あるいはまた網膜面に運行する血液をみて小球のごとく感ずるときのごとき、その他、外物の映像正しく眼球内の盲点に落つるときのごときは、もとよりこれ感覚器の上に起こる幻視、妄視なり。第二には、過度の刺激によりて起こるところの幻視あり。例えば、赫々たる日光を見たる後に他物をみるときは、太陽と同じようなる白圏の目に触るることあるこれなり。第三は、病患によりて起こるところの幻視なり。この幻視は感覚器の上において、あるいは神経の麻痺、またはその白質の傷害を受くるよりして視覚の上に障害を生じ、小を大とし、近を遠とし、あるいはこれと反対の結果あり。あるいはまた、黄疸病にかかりし人の事物を黄色にみ、あるいは眼病にかかりし者の、火花の閃くがごとき幻状をみることあるの類これなり。

 これらは、もっぱら感覚器の上において起こるところの幻視、妄視の状態なり。今もし、中枢すなわち内部の思想のこれに加わるときは、さらに種々の幻視を生ずることあり。その例はすでに前に述べたりしをもって、さらにここに説明するを要せざれども、第一は事物の明瞭ならざるときに起こすところの幻視、第二は内界の思想によりて比較相対をなすの関係より起こるところの幻視、第三は精神病より起こるところの幻視等これなり。


       第一〇二節 聴覚の異象第一

 つぎに聴覚の事情を考うるに、まず聴覚と中間物との関係を知らざるべからず。それ聴覚はなお視覚のごとく、空気、水液等の媒介によるものなり。ゆえに、音響の強弱、高低、遠近は、大いに空気、風位の事情に伴って変化するものにして、もしその事情を知らざるときは、音響を発する原体の遠近を誤ることあるは、吾人のつねに経験するところなり。例えば、一室内にありてその東を開き西を閉じて、西方より発するところの音響を聞くときは、多くその方向を誤まることあり。また、同一の鐘声にして、南風のときと北風のときとにより著しくその声に大小あるを覚え、また、高きによりて呼ぶと、平地にありて呼ぶと、海上にありて呼ぶと、陸上にありて呼ぶと、その声の及ぶ所に遠近の差あるがごとき、もって徴すべし。その他、音響に返響と名付くるものあり。これを山彦の声と称す。これ光線の鏡面に触れて反射するがごとく、音響の反射なればあえて怪しむに足らずといえども、古来これをもって一種の妖怪となせるなり。『秉燭或問珍』巻二に、これにつき一問を挙げて曰く、「谷音はいかなるものにや、人の声を発しぬれば呼ぶに従って響き応ず。わが朝には往古より山彦と名付けて、木の精、谷の神の応ずるところなりといい伝えり。いまだ会意せず。予がために話せ。答えていう、谷音はこれ空谷の神なり。神といえども物ありて応ずるにあらず。すべて神というは形なく色なく、また声なし。しかるに声達する

ときは響きこれに応ずること、凡物のこもりたるところより生ずる空音なり、云云」とあれども、当時いまだ声

音の反射するゆえんをつまびらかにせざれば、種々の妄想、憶説をこれに付会したるなり。

 また、聴覚と時間、空間との関係を考うるに、聴覚は視覚に比すれば、空間上の位置、距離を明知する力に乏しといえども、両耳に感ずるところの音響の強弱おのずから相異なるものなるをもって、その高低顕微により、やや方位、遠近を察知することを得べし。ゆえにまた、これによりてその距離を誤認すること往々にしてこれあり。すなわち、緑陰の鬱葱たるときと、木葉の凋落せるときとは、大いに鐘声の遠近を誤認し、雨前と雨後、もしくは昼間と夜間と時間を異にするときは、また大いにその距離を誤認すること少なしとせず。そもそも聴覚特有の性質は、時間の前後、連続を感知するにありといえども、これまた身体、精神、相対等の事情によりて変化するものなれば、時間の長短を誤認することもっとも多し。畢竟、聴覚は空間上の位置を変じ、時間上の時日を変ずるときは、同種の音響も種々に変化して、全く別種の音響のごとく誤認しやすきものなるをもって、時間、空間の上に最も注意を加えざるべからず。しかしてこの二者によりて変化を生ずるは、外界にありては空気、水液等の諸媒介物およびその他の諸事情の変化あるにより、内界にありては相対、精神等の影響によるなり。以上、聴覚と外界的中間物との関係を述べたるをもって、これより聴覚と身体、神経との関係を述べざるべからず。それ聴官の発育は人々互いに異なるところありて、音響を感ずる力またしたがって径庭あり。すなわち、盲人のごときはいくぶんか特別に聴官の発育せるものにして、楽工には盲人をもってよしとす。しかして聴官の組織不完全なるものに至りては、通常の音調だもなお聴きわくることあたわざるものあり。あるいは病気、傷害等によりて聴官に変動を与え、したがって聴覚に変化を起こすものあり。また、聴官内に起こる小音微響をもって、外より入りきたるがごとく誤認することあり。ゆえに、聴覚は身体上の構造、機能の異同に応じて変化するものと知るべし。


       第一〇三節 聴覚の異象 第二

 つぎに、内界上に起こる聴覚異象の原因を考うるに、身体および精神の情況に関係するや疑うべからず。別して音響を感じて、あるいは喜びあるいは悲しみ、あるいは快としあるいは不快とするは、身心当時の情況によるもの実に多しとなす。ゆえに、体気、精神とともに活発清爽なるときは、耳に入るの音響ことごとく愉快にして、松韻鳥語また天然の音楽となして感ずるなり。もし、心衰え貌悴するのときに当たりては、いわゆる「鈞天の広楽」を聞くも、なお快楽を喚起することあたわず。これをもって、音響の感は身心の事情によりて異なるものなるを知るべし。しかして、ひとりこれのみならず、また経験、習慣によりて異同を生ずることあり。例えば好音、美声も、まれにこれを聞くによりてその好美を感ずるも、これを習慣として欄熟するに至りては、その楽を知らざるものなり。つぎに、聴覚の相対を考うるに、同時に二種の音響を聞くときは、二者相比較してその別いよいよ明らかに、また先後に二種の音響を聞くときは、また二者の対照によりてその別いよいよ明らかなるものなり。また、音響は同時に大小、高低の諸音雑然として奏するときは、小音は大音に圧せられ、低声は高声に奪われて聞くべからざるも、大音、高声の静止すると同時に、小音、低声のいちいち聴取し得るに至るなり。例えば海浜の村落にありて、昼間は実に波浪の声を聴かざるも、夜半、群動屛息するに至れば、岸をうつの声、喧訇眠りを驚かすがごときこれなり。これみな、音響と音響との比較対照より起こるものなり。また、聴覚も視覚と同じく、精神、思想これが原因となりて変聴、幻聴を生ずることあり。例えば、深夜人定まりたる後、孤影孑然、街衢の問を歩行するときは、足音にだまさるるということあり。これみな、予期意向より生ずるものならざるはなし。もし病的にかかるものに至りては、声なきに声を聞くことあり。いわゆる幻聴を生ずるなり。

 また、幻聴、妄聴の原因を、感覚器の上において起こるものと、中枢器の上に起こるものとの二種に分かちて論ずることあり。まずその第一の場合を挙げんに、耳官の傷害を受け、あるいはその他の病気によりてこれに変動をきたすときは、一音を二音に聞くことあり。かくのごとき人にありては、二人の者ありて一事を同様に己に告ぐるがごとく感ずべし。また、右のごとく一音を二音に聞くのはなはだしきに至らずとも、あるいは耳鳴りと称して、実際に存せざる音声を感知するものあり。その他、また感覚器の上に起こる幻妄は両耳に起こらずして、一方の耳のみに発することあり。かくのごとき人は、他方を閉じて右の一耳を用うれば幻聴を生じ、これに反して他方の耳を用うれば幻聴なきなり。つぎに、中枢器の上において起こる例を挙ぐれば、内部の想像および思想の加わりて幻聴を生ずる場合これなり。すなわち、音響の明瞭ならざるときに多く起こるものなり。時計の振音を人の語るがごとく聞き、鉄瓶の沸々たる湯声を誦経となし、波濤の音を風声、松籟と誤るがごとき、みなこれに属し、人々の常に経験するところのものなり。また、音声は人々の予期によりて大いに変ずるものにして、法華宗の人はうぐいすの鳴き声をもって法華経をさえずると称し、その意向をもって聴くに、果たしてかくのごとし。しかるにまた、真宗の人はうぐいすは「法を聞け」と鳴くものなりといい、その意をもってすれば、またまたしかるもののごとく聞こゆるを覚う。

 これを要するに、聴覚も種々の事情によりて変幻、奇怪を生ずるも、学術上もとよりその道理を説明し得べきものなれば、またあえて妖怪とするに足らず。


      第一〇四節 触覚の異象 第一

 触覚は直接に外物に接触する感覚なれば、空気、水液等の媒介物を要せずといえども、時間、空間には大いに関係を有するなり。しかして触覚に牽連して筋覚あることは、さきに略述したるところなるが、今ここにこれ二者を合して論ぜんとす。それ空間上、物質の大小、容量、距離、方位等は触覚によりて知り得べきはもとより論なく、時間の経過もまた触覚によりて知り得るなり。すなわち、一個の物質を手に支うるに、その疲労の度によりて時間の経過をトするを得べし。しかしてまた、触覚は同一物にして場所と時日とによりて、大いにその感を異にすることあり。例えば物質の重量のごときは、水中において感ずると空気中において感ずると、大いにその軽重を異にし、また温度のごときは、これを水中に試むるに、朝においてすると日中においてすると、大いにその寒温を異にし、また幼時みてもってその大なるを感ずるもの、長じてその小なるに驚くことあり。

 つぎに、筋覚上の運動の感覚につきては、余かつて東京各市街間の距離を憶定することを試験したることあり。その成績をみるに、人々大いにその遠近の感覚を異にするを知るべし。これ一、二回通行したるときの記憶、心内にとどまりて、この憶測を与うるものなり。また、重量の感覚につきて試験したることあり。これまた感覚の識別力の、人によりて大いに異なるを知るを得たり。けだし重量は学術上最も精細なる成績を示すものにして、化学上、元素分合物質の不滅を知るは、全くこの重量を標準とするによる。しかれども、器械の助けをからずして自ら験せんとするときは、大いなる過誤を生ずることあり。つぎに、身体、神経の組織、構造の触覚に関係を有することを述べんに、これ別に証明を要するに及ばざるところにして、触覚はすべて一身全体の外面に存するも、なかんずく指端、唇頭、目蓋をもって、その力最敏なりとするもののごとし。しかしてその敏なるものと鈍なるものとの別あるは、一に身体構造のいかんによりてしかるものとす。しかしてまた、その身体および神経の構造、組織に関係を有することは、病的あるいは故意的に神経を圧迫もしくは傷害するときは、不覚、不随を生ずることあるを見て知るべし。


       第一〇五節 触覚の異象 第二

 触覚の内界における関係は視聴両覚と同じく、身心の活発、疲労等の情況によりて、その感ずるところに異同あり。しかしてまた、習慣、経験の影響に関すること多しとす。例えば児童の遊戯に、両手を膝上に置き、一手はこれを握りて膝をうち、一手はこれを平らにして膝をなで、隔番に両手をして互いにそのなすところを換えしむるものあり。しかしてすこぶるこれを習熟したるものにあらざれば、しばしば誤りを生ずるものなり。また、第二指と第三指、もしくは第三指と第四指とを交差して、その間に一物を挟むときは、なお二物のごとくに感ずることあり。これ他なし、従来一物にして、この両指の側面に同時に触るる経験なきによればなり。また、鼻の残欠したるときに、額上の肉を取りてこれを修補することあり。しかるときには、蚊虻の鼻端に止まることあるも、なお額上に止まるがごときの感覚ありという。また、吾人は身に衣服をまとい、足に足袋をうがち、頭に帽子をいただき、しかして自らこれを感ぜず。ゆえに、頭に帽子をいただきながらこれをたずね、耳に鉛筆を挟みながらこれをさがすことあり。これみな習慣となりたるものは、自ら感ぜざるに至るによるなり。つぎに、相対性につきてこれを考うるに、毎朝井水をくむに、冬夏もとよりその温度を一にするも、夏はことに冷を覚え冬は温を覚ゆるものは、相対によりてしかるなり。また、重きものをあげて後に軽きものをあぐれば、一層その軽きを覚え、麤なるものに触れて後に滑らかなるものに触るれば、一層その滑らかなるを覚ゆるがごときもまた、みな相対よりきたるものなり。かくのごときの例、なおはなはだ多し。

 つぎに、精神の影響につき幻触、妄触の二様あることを述べんに、触覚上に些少の刺激あればよほどの刺激のごとく感じ、もってその物を誤認するは、すなわち幻触にして、予期意向その原因たり。また、一物の刺激なきに大いなる刺激あるがごとく感ずるは、すなわち妄触なり。例えば、地方にて人の死を菩提寺に報ぜんとしてはしるものの背上に、死人の負われてゆくことありというものあり。これ、その形を見たるにあらざるも、自ら非常の重量を負うがごとき触覚を有するより想像したるものなり。また、精神病患者には、だれもその傍らにおらざるに、その身体を圧迫し、その手足を約束し、その咽喉を緊縊するがごとき幻触を生ずることあり。しかれども、要するにこの触覚上種々の異象はみな、その生ずべき理由ありて生ずるものにして、決して妖怪とするに足らざるなり。


       第一〇六節 嗅覚の異象

 嗅覚は視聴二覚と異なりて、香物より発散せる分子ただちに嗅神経に刺激を与えて生ずるものなれば、中間物の媒介を要せざるはなお触覚に同じ。しかれども、その原体は嗅官を離れて存するをもって、分子の発散も、両者の間に存する空気の事情および風の有無、方位等によらざるはなし。しかしてこれらの事情によりて、あるいは著しくその香気を感じ、あるいはほとんど感ぜざることあり。また、触覚によりて多少その原体の距離、方位を推定することを得。また、時間および場所を異にするときは、同一の香気も異なりたる感覚を生ずるは、別に例証を要せずして人の知るところなり。つぎに、中間要素の一種なる身体および神経と嗅覚との関係を考うるに、人に生来嗅覚の敏なるものと鈍なるものとあり。また、感冒等によりてさらに香気を感ぜざることあるは、嗅神経の状態によるものなり。つぎに、内界の事情を考うるに、身心の現状により嗅覚に異同ありて、これによりてあるいは快を感じ、あるいは不快を感ずることあり。また、習慣によりて従来感じ得たる香気を、さらに感ぜざるに至ることあり。また、数種の香気を比較して感ずるときは、相対上、その種類、性質の異同、一層著しく感ずるものなり。また、精神作用の影響によりて幻嗅、妄嗅を生ずることあり。すなわち些少の刺激も、自ら予期意向をもってこれを迎うるときは、その種類、性質を誤認するに至ることあるは幻嗅にして、全く香気の刺激なきに、そのこれあるがごとく感ずるは妄嗅なり。しかしてこれらは、精神病者において多く見るところなり。


       第一〇七節 味覚の異象

 味覚は全く中間物の関係を離れ、その性質一種の触覚なり。ゆえに、味覚によりて外物の距離、方向は知るべからずといえども、味覚の連続する長短によりて、多少時間の経過を知ることを得べし。また、時間の異なるにより、その感覚に異同を生ずることあり。ゆえに、味覚は空間よりはむしろ時間に関係を有すること多しとす。しかして時間によりて味覚に異同を生ずるは、外界の事情によるにあらずして内界の情況による。また、身体、神経の組織、状態によることは、感冒のときにさらに味を感ぜざるを見て知るべし。つぎに、内界の事情を考うるに、身心の情況、習慣の影響によること、および精神作用によりて幻味、妄味の異象を生ずることは、嗅覚の例に照らしてこれを知るべし。それ、味因ありて味覚を生ずるは当然のことなりといえども、味因なくして味覚を生ずることあり。これを妄味という。妄味は全く精神内界の衝因、神経の上に動きて生ずるところなり。


       第一〇八節 有機感覚の異象

 有機感覚は、全く外界の関係を離れ内界の事情のみを感ずるものなれば、もとより空気、水液等の中間物要素を論ずるを要せず。そもそもこの感覚の有するところのものは、ただ時間の経過を知るの力と、また多少身体中の部位を感ずる力となり。しかしてその力、大いに時間、年齢等によりて異同あり。これ畢竟、身体および精神の事情異なるによるものなり。それ、この感覚は身体内部組織間の感覚なれば、その構造、機能に関係を有するはもとより論なく、身体および精神の情況にも関係を有するなり。また、経験、習慣にも関係を有し、体内の一部に疼痛を感ずるがごときも、これが習慣となるに至れば、さほどその苦を意とせざるものなり。また、相対性に関係を有することは平常多く見るところにして、例えば腹痛を感ずると同時に、これより一層強き歯痛を感ずるときは、ついにその腹痛を忘るることあり。また、前時に経験したるものと比較して、あるいは一層感覚を増し、あるいはこれを減ずることあり。また、精神作用の影響によりて、幻覚および妄覚を生ずることあり。有機感覚は他の感覚に比して、その位置および性質を識別すること難きをもって、感情、精神の影響を感ずること一層大なり。ゆえに、平日にありても気分の持ちように従いて、あるいは心意に爽快を感じ、あるいは不快を感ずることあり。また、疾痛、疴癢の体内に起こるがごとき、意志をもって大小、軽重を変更し得べきはまた人の知るところにして、狐憑き、犬神等に至りてはことにはなはだしとす。


       第一〇九節 知覚の異象

 知覚は感覚の複雑なるものにして、諸感覚の結合より成るものなり。しかして中間物に関することは、各感覚の条下においてすでにこれを述べたるをもって、今これを論ぜず。また、知覚の相対等の諸事情によることも、前に論ずるところにつきて推知し得べければ、ここにただ思想上より与うるところの影響を一言せんとす。それ知覚は諸感覚を結合して、一物を一個体として認識する作用なれども、感覚中の一部分を現見して、他部分は記憶中に存する観念をもって補充するを常とす。ゆえに、知覚は一部分、再現作用より成るというも可なり。これをもって、一物を知覚するにおいても、種々の錯雑、変幻を生ずるなり。例えば、木片の輪囷離奇なるものを見て夜叉と認め、柳枝に紙鳶の飄揺するを見て幽霊と誤るがごときこれなり。しかして、通俗のもって妖怪となすところのものは、多くこの類なり。また、思想もしくは情感の専制によりて予期すること強きときは、ただに変象を生ずるのみならず、ついに幻象、妄象を知覚し、全く幻境、妄境を目前に現見することあり。その例証は「心理学部門」〔付録〕第一講付講に示すべきをもって、ここにこれを省略す。



第一二講 説明編 第六(変式的心理学各論 第二)

      第一一〇節 内想の異状 総論

 思想に実想、虚想の二種あり。実想に再想、構想の二種あることは、正式的心理学において、すでにこれを述べたり。そもそもこの数種の思想は、感覚の材料、外より入りきたりて現象を成立するものなれば、思想上の錯誤は感覚、知覚よりきたることもちろんなりといえども、思想はひとり外部より入りきたるのみならず、また内部の観念によりて成立するをもって、観念そのものの事情によりて内より幻妄を起こすことあり。ゆえに、思想上の妖怪は、その原因を感覚より思想に進達する途次において生ずるものと、思想内部において生ずるものとの二段に分かたざるべからず。しかして思想内部は、さきに表示せるごとく、相対、専制、変識、幻境の四項となし、またこれを内外両面より考え、内面は思想の内部のみに起こる異状を説き、外面は外界に向かいて呈するところの運動の異状を述ぶべし。その順序は、第一再想、第二構想、第三虚想、第四感情、第五意志となす。


      第一一一節 再想の異状

 再想の異状の起こるは、第一にその材料たる感覚および知覚に種々の異象あるによること、前節すでに述ぶるところのごとし。しかして、ひとり感覚、知覚の事情にとどまらず、この二覚より再想に達する中途において生ずるところの妖怪あり。すなわち再想は、ひとたび経験上脳中にとどめたる記憶上の観念の、諸事情関係によりて生じたるものなり。しかして知覚および記憶の強弱、完不完によりて、再想の誤りを生ずることもっとも多し。また、習慣、連想等の事情によりて誤りを生ずることあり。しかれども、しばらくおきてこれを論ぜず、今ここにもっぱら内界の原因につきて述ぶべし。しかしてその原因種々あるも、まず第一、相対となす。それ相対はすでに感覚の条下においてこれを設けたるも、今また再びここに設けざるべからざるものあり。なんとなれば、相対はただに一感覚と一感覚との相対、もしくは一感覚と一観念との相対のみならずして、また一観念と一観念との相対あればなり。これすなわち思想内部の相対なり。今、再想上一観念を再起するに、その明不明は暗に他の観念と対照するによるものにして、例えば昨年面会したる友人を追憶するに、その面会したる場所の風光および同時に会合したる人々を再現し、かつこれと対照して懐憶するときは、一層明瞭にその影像を心中に浮かぶることを得るなり。つぎに、再想の生ずるに要するところのものは注意にして、心力のある一点に会注するときは、一影像の非常に判明なるを得。しかして、その一点なお一層心力の専注するに至れば、他観念の再起を妨げ、一観念ひとり専制横行して、これに関係を有するもののみ再起するに至る。さきにいわゆる専制思想、すなわちこれなり。

 例えば人ありて、その心に狐を想起してこれに全力を専注すれば、自ら狐なるがごとくに感じ、狐の態貌、声音等を再起してこれを擬するに至る。しかして、すでに心内に〔この〕ときのごとき専制再想あるときは、ついに外部に示し、運動を現じて自らこれを覚知せざるなり。いわゆる無識筋動これなり。それ、一方に心力を専注すれば他方に無識を生ずるは自然の理にして、このときにありては意志全くその力を失いて、自らさらに前後の事情を覚知せず、無意の境遇に入るものなり。しかしてひとり、ある一点はその影像非常に判明にして、現に感覚上にあらわれたるもののごとく想見するに至る。これいわゆる幻境にして、すなわち前講説くところの幻覚、妄覚の起こる原因なり。例えば、父母死してこれを思慕するの切なるときは、見るところのもの父母のかたちとなりて現るるがごとき、あるいは蛇をおそるるものは蛇なき所に蛇を見、虫をおそるるものは虫なき所に虫を見るがごときこれなり。ことに病患にかかり精神上に変動を生じたるときは、種々の幻境を見ること、なお夢中に種々の妄境を見るがごとし。かくのごとき場合にありては、現幻その別を見ることあたわず。しかして世のいわゆる妖怪は、多くかくのごときときに現見するものをいう。わが国において古来天狗に誘われ、一日中に諸国の高山を歴観したるものあるを伝うるも、これけだし、その者一時夢境に入りて、平生天狗に関して聞きたる観念、心内を専制して、種々の妄境を現見するに至りたるなるべし。


       第一一二節 構想の異状

 構想の異状は、感覚、知覚の異象より生ずるはもとより論なく、また再想の変状より生ずるなり。なんとなれば、構想は記憶中に存する観念の一部分を除去して他部分を付加するものにして、再想の一種にほかならざればなり。しかしてその新影像を構成するや、あるいは事実に近きものあり、あるいは事実に遠きものあり。人に羽翼を具したるもの、光明を発するもの、風に御し雲に駕するもの等、これみな構想の構成するところの新影像にして、この影像を心内に想見するにもまた相対の事情を要することは、前節述ぶるところに異ならず。しかして、その観念に思想の専制するあれば、ここに専制を起こし、全思想ただ一種の構想に支配せらるるに至る。ここにおいて、無識筋動また無識情動、無識意動等を起こし、心内の想像、外界に現在するもののごとく考え、もって幻境を現示するなり。ただその幻境たるや、再想より一層高等の妖怪なるがごとくに感ずべきのみ。かの極めて宗教の熱信者は、往々天堂、地獄の冥界を現見することあるも、これみな構成想像の専制にほかならず。しかして、精神病者にはその例もっとも多しとす。これを要するに、再想の妄象、幻境を現ずるはこれを妄像といい、構想の妄象、幻境を現ずるはこれを妄想という。


       第一一三節 虚想の異状 第一

 虚想の第一に位するものは概念にして、概念は実想の諸観念を比較、分類、抽象、概括したるものなれば、実想そのものに誤謬あるか、もしくはその比較、抽象作用に誤謬あるときは、これより得たるところの概念また誤謬なきあたわず。しかして断定はまた概念を結合して成るものなれば、たとい概念に誤謬なきも、その結合、正を得ざるときは、ついに虚偽に陥るを免れず。一人は曰く「雷は神なり」、一人は曰く「雷は獣なり」と。それ、この二者ともに断定の形式を有するも、その結合、正を得ざるをもって、道理に合するあたわざるなり。なんとなれば、概念を結合するは経験上の事実に照らさざるを得ざるも、知力のいまだ発達せざるものにおいては、因果の関係を明知することあたわずして、迅雷のときに雷獣の降るあればただちにこれを指して雷となし、しかして獣と雷との間にいかなる関係あるやを推究せざればなり。また、銀漢をみて天河となし、月中の影をみて玉兎となすがごときもこれに同じ。つぎに、推理は断定相合してこれを構成するものなれば、すでに断定に誤謬の起こるゆえんを知れば、推理に誤謬の起こるゆえんもまたおのずから知るべし。かつ、この推理に誤謬の起こるゆえんは、さきに原因編において、すでにこれを述べたるをもってここに略す。これを要するに、概念の錯誤、迷妄はこれを妄念といい、断定の錯誤、迷妄はこれを妄断といい、推理の錯誤、迷妄はこれを妄理という。


       第一一四節 虚想の異状 第二

 つぎに、虚想内部の情況によりて妖怪、変幻の生ずるゆえんを考うるに、第一に相対にして、また実想と同じくその範囲を離るるべからざるなり。それ、部分を知るは全体あるにより、原因を知るは結果あるにより、諸思想、諸知識、一つとして相対の関係を有せざるはなし。ゆえをもって、人知の性質は、一に相対に限るものとす。すなわち、有機は無機に相対し、有知は無知に相対し、東洋は西洋に相対し、文明は野蛮に相対して、互いに知るを得るなり。これゆえに、経験の範囲狭小にして、記憶するところの事実に乏しきものは、相対上の思想大いに誤謬あるを免れずして、同じく神なり霊魂なりにつきて有する思想も、知識、経験に乏しきものと富めるものとにおいて迥然同じからざるものあるは、みな人の知るところなり。しかして知者、学者の神および霊魂につきて有する高尚の思想も、また目前に現見せる諸象に相対して想定するものにして、すなわち形而上は形而下に相対し、無限は有限に相対し、絶対は相対に相対して知るものなり。しからばすなわち、そのいわゆる神とし霊魂とするところのものも、果たしてその真に神霊なるやいなや、いまだ知るべからざるなり。いわんや愚者の想定するところのものにおいてをや。

 第二に、虚想の専制を考うるに、およそ学問上の研究は思想の全力を一点にもっぱら集合し、その一点の思想が専制をなすにあらざればあたわざるものなりといえども、もしその思想をしてさほど社会に有益ならざること、もしくは自己一身の利益のみにとどまることに専注し、あるいは不道理的、不正義的の事項に集心するときは、またこれを一種の迷誤となさざるべからず。例えば、自らその身に僥倖を得んと欲してこれを神に祈願し、もしくはト筮、人相等によりてこれを前定するがごときこれなり。しかして、かくのごときものは全思想、一にこのことにのみ専注するをもって、必ず多少の効験あるべしといえども、これ、畢竟迷誤たるを免れず。しかして、その効験あるゆえんのものは、ト筮、人相の力にあらずして専注集心の力なり。人もし一点に向かいて専注するときは、その一事を識覚する力はなはだ強くして、他の諸事は無識不覚の中に経過し去り、しかして諸事実のうち、その最初予定したるもののみを識覚するに至る。すなわちト筮によりて、今より何日の後に幸福を得べきを知るときは、たとえその日において多少の不幸あるもこれを意にとめず、わずかに小幸福あればこれを大幸福のごとくに感じ、もってその言を実にするなり。また、これに反して不幸、災難ありとの予言に接すれば、小不幸をみて大不幸のごとく感ずるのみならず、沮喪失望して自ら災害を招くことあり。これみな専注、専制もしくは信仰の結果なり。また、世間の家を破り産をうしなうものは不幸しきりに至り、家を興し業を恢にするものは幸福かさねきたるは、あるいは天運のしからしむるところというといえども、また人力によりて自ら招くもの多きにおる。けだし、人ひとたび不幸に沈淪するときは、多少精神錯乱して、自ら慎重、事を処すと思えるものも、なお往時の精確なるがごときあたわずして、疎漏を免れざるもの多し。これ商人のひとたび失敗すれば、再三失敗するの傾向あるゆえんなり。しかして、幸福に際会するものに至りては、心やすらかに気盛んに、その思想、精審確当にして、ますます幸福を得るに至るべし。かくのごときものも、また専制の道理によりて説明せざるべからざるものとす。


      第一一五節 虚想の異状 第三

 一方に専制あれば他方に無識を生ずるはもとより論なきも、また、一方に専制なくして全面に無識を生ずることあり。すなわち睡眠中のごとき、内に観省し外に作為したること、多く自ら覚知せざるものなり。また、一時思想の専制あれば、ついで無識に変ずることあり。また、思想に前後二様相現ずるときは、前と後と全く反対に立ちて、互いに相抗争することあり。また、二様相反の思想、同時に併存することあり。また、全く反対の思想の専制することあり。これを左に表示すべし。

  (甲) 前時に専制ありて後時に無識に変ずることあり。

  (乙) 前時の思想と後時の思想と全く相反することあり。

  (丙) 同時に二様相反の思想併存することあり。

  (丁) 反対の思想のみ専制することあり。

 この(丁)は全く幻境に入りたるものなり。

 (甲)前時に思想の専制ありて後時に無識に変ずるは、吾人日夜これによるものにして、あえてあやしむに足らず。すなわち昼間は多少思想の専制ありて、夜間寝に就くに及んでは無識に変ずるなり。しかして、精神病のごときに至りては、その変化の極端に達したるものなり。

 (乙)前後の思想相異なるは、さきにいわゆる意識の中心一変して、最初甲点にありたるもの、後に乙点に移るによる。なお、甲党、政府を占領したりしが、一変して乙党これを占領するに至りたるがごとし。例えば精神病、狐憑き病のごとき、病前と病中と全く別思想を有し、にわかに別人に化したるがごとく見ゆるものは、これその中心となりて内界を支配する主観念の、その位置を変ずるによると解するよりほかなし。しかるに、ここに一説あり。すなわち、脳髄は左右両半球に分かるるをもって、平常は左半球ひとり作用を営み、右半球は休止せるも、精神病、狐憑き病にかかりたるときは、右半球その作用を呈するに至る。ゆえをもって、前後全く思想を異にするなりと。しかして、余はいまだこの説を信ずるあたわず。なんとなれば、一半球ひとり活動して他半球の休止すべき理なければなり。もしこの憶説によるときは、平常は両半球互いに一致適合して作用を呈するも、病時にありては両半球おのおの独立して作用を呈するものと解するか、しからざれば、両半球二様に分かれて作用を呈するものと解する説、やや一理ありというべし。

 また、(丙)同時に両様の思想並立するは、平時にありても往々自ら経験するところにして、ことに病中に至りては一層そのはなはだしきを見る。例えば狐憑き病によりて、自己の思想と憑依せる狐の思想と両様並存するがごときは、これ内界中にありて甲乙両中心の並立して作用を呈するによる。なお、両党対立して一国を支配するがごとし。もしまた半球説によれば、左半球と右半球とふたつながら同時に作用をなすと解すべし。また、余が仮定せる憶説によれば、両半球の一致作用と別立作用と同時並存するによると解すべし。

 また、(丁)平常の思想全く消滅して、これに反対する思想のひとり全界を専有するに至ることあり。これいわゆる幻境に入りたる状態にして、あるいは全分精神病界に入りたる境遇なり。すなわち、前に掲ぐるところの図中においては、乙なる観念、思想の中心を専有して全界を支配するによる。また、半球説によれば、半球のみひとり作用を呈するによる。しかして、この状態におよそ三様あり。

 その一は、自己の精神はある方法によりて、その中心を失い全く休止するに至り、他人の思想により機械的にその命令に応ずることあり。これ、催眠の境遇に入りたるありさまにして、自ら自己の中心を失い、他人の思想をもって付せらるるなり。これをたとうるに、一国すでにその主権を失い、他国の政令の下に立つがごとし。その二は、思想作用の変動にして、感覚境は依然として平常のごとく現見するも、論理、断定の力もしくはその中心を失い、全く平常に反対したる思想をもって判断を下すことあるなり。例えば、狂人中に妄想狂と名付くるものありて、富岳を挟みて東洋を越えんことを図るがごとき、あるいは太平洋に鉄橋を架設せんと計画するがごときこれなり。自身においてはこの妄想をもって確実なるものと信じ、さらにこれを怪しまず。しかして他人のこれを怪しむを聞きて、かえって一般の人を狂人のごとくに考うるなり。その三は、感覚上に幻境を現じて、人の見ざるものをみ、聞かざるものをきき、目前に全く別世界を見るをいう。これ精神病者にありて多く見るところなり。

 けだし人には肉眼と心眼とありて、外界の現象を見るは肉眼の力にして、内界の観念を見るは心眼の力なり。もし心眼その力をもっぱらにして肉眼その力を失うときは、心内の幻境のごとくに見るに至る。しかして平常の人といえども、夢中にありてはつねに見るところにして、決して怪しむべきにあらず。ただ醒時にありて夢境に入れば、すなわちこれを精神病中の状態となすのみ。


       第一一六節 感情の異状 以上は思想上に現ずる異象を述べたれば、この理を推して、感情および意志上に起こる変幻を知ることを得べし。感情もまた思想と同じく相対を免れずして、苦に対して楽あるを知り、楽に対して苦あるを知る。もし楽のみありて苦なきときは、楽そのものはすでに楽にあらず。ゆえに、苦楽ともに決して一定せるものにあらずして、精神上の状況によりて種々に変更するものなり。また、感情の専制ありてそのさかんなるときに当たりては、心内の諸思想、全く感情の命令によりて左右せられ、その悲しむときは理非を弁ずることあたわず、そのおそるるときは進退を処することあたわざるに至る。しかしてその専制の極に達すれば、一方に不覚を生ずるのみならず、一心全く無識の境遇に入ることあり。ゆえに人、憤怒してその熱度最も高きに至れば、自らその挙動を覚知せざることあり。あるいはまた、感情専制のさかんなるより、種々の幻境を現じて別世界を見ることあり。宗教信者の熱度高きものは、地獄、極楽の景況を現見することあるを見て知るべし。しかして、これまた思想の中心一変して、一種の感情その中心となるによる。なお感情各種の説明は、さきに第七四節以下に詳述したれば、ここにこれを略す。


       第一一七節 意志の異状

 知力、感情ともに相対を性とするはすでに前述せるところなるが、意志もまたしかり。そもそも意志は、自由を性とするをもって相対の範囲外に立つもののごとくなるも、その発動するやなお心内の諸状態により、しかしてその諸状態は、諸観念の間に互いに比較対照するによる。ゆえに、一挙一動といえどもまた、比較対照の結果ならざるはなし。それ、意志を鼓動する衝力はこれを動機という。実に意志の原因なり。この原因あまた競起するときは、必ずその間に比較対照なかるべからず。しかしてその結果、一方に向かいて意志の挙動を決するに至る。ゆえに、これまた相対よりきたるものなり。その他、意志作用中、選択、決断等みな相対ならざるはなし。また、意志にも専制ありて、その起こるときに当たりては一切の挙動を覚知せざることあり。

 すなわち、いわゆる眠行の夢中語を発し、あるいは起きて歩行するがごときこれなり。また、病気もしくは酩酊のときにありては、自らなせる挙動を覚知せざるのみならず、その挙動の全く平時に異なりて、別人に出ずるがごときことあり。あるいはまた、全く幻境にありて、物なきにこれをとらえんとし、声なきにこれを聴かんとし、実に奇怪の挙動を呈することは、精神病者において多く見るところにして、幻覚、妄想のしからしむるところなり。また、催眠術のごときは、その挙動、他人の命令に応答し、自ら己を制する意力を有せず。これ内部の思想のその連絡を失い、外部の命令に反射する状態にあればなり。なお、意志の各作用については第八五節以下を参見すべし。


       第一一八節 説明編 結論

 上来論じきたる妖怪学「総論」は、心理学を中心とし本城として論明せるものなるが、その講述一年間にわたれるをもって、前に説かずして後に述べ、前につまびらかにして後に略せしところあり、あるいは前後重複するところ少なからず。ゆえに、ここに心理学の分類に関する略表を掲げて一覧に便にす。それ余は、心理学を正式的、変式的の二段に分かちたるが、今、左にその二者に関する全表を示すべし。ただし、この表は前に第八八節に示したるものと重複せるも、結論なれば、さらにここにこれを掲ぐ。


         常覚

      感覚    病覚

         変覚

            怪覚

         常知

      知力    病知

         変知

   心象       怪知

         常情

      情緒    病情

         変情

            怪情

心性       常意

      意志    病意

         変意

            怪意

            

   心体(真怪)   


 この表中、心体は真怪に関し、心象は仮怪に関し、あわせて理怪に及ぼすものなり。心象は知情意の三者に分かつを常とすれども、余は便宜を図りて感覚、知力、情緒、意志の四種に分かてり。そのうち常覚、常知、常情、常意を攷究するは、正式的心理学に〔して、変覚、変知、変情、変意を攷究するは、変式的心理学なり。その変式的心理学に〕病的と怪的とあり。病的は精神病に属し、怪的はまさしく心理的妖怪学に属するものなれども、病的もやはり心象の変態、異常なれば、また変式的心理学に加えざるべからず。今これを心象各作用の上に考えて、その妖怪に属する分類を与うれば、まず変覚を分かちて左表のごとくすべし。


   変覚(変視、変聴、変嗅、変触、変味)

変覚 幻覚(幻視、幻聴、幻嗅、幻触、幻味)

   妄覚(妄視、妄聴、妄嗅、妄触、妄味)

  (ここに変覚の各称重複せるをもって、あるいは総称の方を異覚とするも可なり)

 これ主観上の分類なり。もしこれに対する客観の境遇を示すときは左表のごとし。

 

  変覚(主観的)………変象(客観的)

  幻覚(主観的)………幻象(客観的)

  妄覚(主観的)………妄象(客観的)

  

 そのうち変覚は、事物と事物との関係相対によりて、多少その形を変じてわが感覚上に現るるものをいう。例えば同一の太陽にして、朝時と中天の時とにより、その大小を異にするがごとし。つぎに幻覚とは、その原因は外界より入りきたりしも、これに心内の想像の加わるありて、全く別物として感ずるをいう。例えば縄を見て蛇と認め、木骨を見て鬼形となすがごとし。つぎに妄覚とは、全く外界にその原因なく、ひとり内界の想像によりて起こるものにして、例えば物なきに物を見、音なきに音を聞くがごときをいうなり。つぎに、変知の分類をなすこと左のごとし。


   外覚         

              

変知       再想(妄像)

      実想      

         構想(妄想)

   内想         

             

             妄念

         有限性 妄断

      虚構     妄理

         無限性   


 この分類は、常知の分類に対照して設けたるものなり。ただその無限性を置きたるは、これ仮怪と真怪との関係を示すものにして、有限の道理窮まるときは無限の真怪を現すゆえんを明かすものなり。つぎに、変情の分類を示すこと左のごとし。


       苦痛性

   単情性    

       快楽性

変情        

       相対性

   複情性    

       絶対性


 その単情に属する苦痛性の情を挙ぐれば、すべて妖怪に関する情を怪情となす。もしこの怪情が恐怖の情に連絡して起こるときは苦痛性となるべく、もしまた怪情が新奇を好むの情と連帯して起こるときは快楽性となるなり。これ、人には妖怪を恐るると同時に、これを好むの情あるゆえんなり。また、複情の上においても、その相対性には苦痛性および快楽性の二種あり。しかして、ここに相対性と絶対性との二つを設けたるは、同じく仮怪と真怪との関係を示さんがためなり。つぎに、変意を表示すること左のごとし。


       悪意

   単意性   

       善意

変意       

       相対性

   複意性   

       絶対性


 この単意の上に善意、悪意の別を設くるは、仮怪に関する意志は善悪を論ずべき理なしといえども、偽怪に関する意志はもと故意に出ずるものなれば、その善悪を論ぜざるを得ざればなり。ゆえに、意志の上に善悪の二種を設けて考究せんことを要す。つぎに、複意の上に相対性と絶対性との二つを設けしも、これまた真怪との関係を示せるものなり。

 以上の分類は、変式的心理学すなわち心理的妖怪に関する心象の分類なり。これより、心体につきて真怪のいかんを一言せざるべからず。


      第一一九節 真怪論

 そもそも真怪のなんたるかにつきては、前すでにしばしば述べしところによりてほぼ知ることを得べしといえども、ここに真怪と仮怪との関係を論じて、もって真怪の結論となさんとす。まず仮怪と真怪とを比較せんに、仮怪は心象、物象の上に現ずるものなれば、もとより有限、相対、差別にして、しかも可知的なり。これに反して、真怪は無限絶対にして不可知的なり。すでにこれを不可知的なりとせば、その内部の状態を知るべからざるはもちろん、そのものの存するかいなやをも得て知るべからざるがごとしといえども、つまびらかに仮怪を講究しきたるときは、おのずから真怪の存することを知るべく、また、心象の内部を達観するときは、おのずから真怪の霊光に接触することを得べし。吾人は理論よりするも実際よりするも、ともに真怪の存在を証明することを得るなり。宗教にてはこれを天啓という。つまびらかにいわば、吾人の真怪に接触体達することを得るは、吾人の力にあらずして、真怪の本境より吾人に啓示するものとなすなり。この二者の関係につきては、仏教においてもおのずから自力、他力の二道に分かる。もし吾人の力によりて真怪を開示することを得となすときは、これいわゆる自力なり。もしまた、吾人の力これに達することあたわずして、真怪の本境より吾人の上に啓示するものとせば、いわゆる他力なり。しからばこの二論につきていずれを取るべきか。

 曰く、「二者はその実、同一なり」けだし吾人の心をもって、相対性の心象にして絶対性の心象にあらずと解するときは、わが心の上に真怪の光を発するは吾人の力にあらずといわざるべからず。もしこれに反して、吾人の心はたとい相対性の心象なるも、この心象はもと絶対性の一部分なれば、おのずから吾人の心中に絶対の真怪を含有するものとなさんか。これに体達するところのものも、また吾人の力にほかならず。ゆえに、仏教中の自力を唱うる宗旨にありては、わが心の本体すなわち仏にして、「一切衆生悉有仏性」と説き、吾人の感応、悟道は、本来わが心象中に包有せるところの心体を開現するにありとなすなり。これ自力および他力のよって分かるるゆえんにして、また同一の宗教にもこの二説の存するゆえんなり。しかれども、さらに両説の本源にさかのぼりて推究するときは、その理もと一にして二致なきことを知るべし。

 つぎに、真怪はいかにして宇宙万有の上に関係をなすかというに、そもそもこの天地も万物も、もとみな真怪の本体より開発しきたりしものなれば、眼前の万有万象の上にその真相を開示すべきこと、もとより当然なるべし。この開示には内、外の別あり。換言すれば、内界の開示と外界の開示とあり。外界の開示とは物界の上にその真相を開現するものにして、内界の開示とは心象の上に真相を現ずるをいう。内界の開示は、さきに真際を論ぜしときに述べしがごとく、わが心象の内部に不可思議の霊光を開現し、吾人にして深思静慮せば、おのずからその霊光に接触することを得るものこれなり。また、外界の開示とは、吾人が天地万有を観見するときは、おのずからその間に美妙の観念を浮かべ、あるいは天文の上にその美を見、あるいは山川の上にその美を見、あるいは草木禽獣の上にその美を認むるは、いわゆる外界の開示にして、この美たるやただちに無限の本境より開現しきたりしものなれば、吾人はこれに接して、また無限の感想を惹起すべきなり。しかして外界にありてこの美を示すものは太陽にして、内界においてその神を示すものは良心なり。その一は美妙の相を現じ、その一は霊妙の光を開く。ゆえに、二者はただちに真怪の神気を開発したるものというべし。もし外界にありて太陽なくば天地暗黒にして、吾人はついにその美妙を観見するに由なく、もし内界にありて良心なくば、またいかにして霊妙の神光に接触することを得んや。このゆえに、この両者は実に真怪の本境よりただちにその実相を開現したるものにして、また、吾人がその真体に接触するゆえんの関門なり。今、物界に開現せしものと心界に開現せしものとを分かたんがため、外界の開現を霊怪といい、内界に開現するものを神怪という。

 この霊怪および神怪はともに不可思議にして、吾人の到底知るべからざるものとなし、人知以上、道理以外となすときは、これを秘怪というべし。すなわちこれ、理外の理なるものなり。しかれども、この理外の理は必ずしも理外の理なるにあらず、人知以上のもの必ずしも人知以上なるにあらず。そのしかるゆえんはなんぞ。曰く、「もし吾人の心をもって有限となすときは、真怪の境遇はもとより人知以上、道理以外となさざるべからずといえども、もしまたこの有限の心は無限の心の一部分にして、有限の心中におのずから無限の心を包有するものとなすときは、この理外なるもの、なおよく理内となすことを得べし。言を換えていえば、吾人の有する有限の心よりすれば理外なれども、無限の心よりすれば理内たらざるべからず」今これを知力の上に論ずるも、無限性と有限性との二種ありて、もし無限性の知力よりするときは、真怪も心体もみな道理以内のものとなるべし。これをもって、道理には有限性と無限性との二種あることを知らざるべからず。普通の道理は有限性なれども、高等の道理に至れば無限性なり。ゆえに、もしこの無限性の道理によりて真怪を論ぜんか。その体は秘怪にあらずして理怪なりといわざるべからず。予かつて、吾人の心には知情意三種の作用あれども、その体はもと無限の心体上に現れしものなれば、三者ともに外面には有限性を有すれども、その内面には無限性を具するものにして、宗教はみなこの有限性を脱却して無限性に体達するをもって目的とす。しかしてこの体達には、あるいは無限性の知力によるものあり、あるいは無限性の感情によるものあり、あるいは無限性の意志によるものあり。ゆえに、天台のごとき知宗あり、禅宗のごとき意宗あり、浄土門のごとき情宗あることを論じたることあり。

 すでに知情意ともに無限性を帯ぶるものとなすときは、真怪を名付けて秘怪というも、また理怪というも、いずれも不当なることを覚ゆべし。なんとなれば、この二者ともに道理の上より与えたる名称なればなり。すなわち、秘怪とは道理以外にあるもの、理怪とは道理以内にあるものに名付く。しかして、その以外とは有限性の道理に対していい、その以内とは無限性の道理に対するものなり。ゆえに、もしこれに無限性の情、無限性の意と

加うるときは、これを名付けて妙怪というべし。この妙怪とは有限性の知情意を脱して、無限性の知情意に達し

たる、真善美の円満なる体に名付けしものなり。かつまた秘怪とは、道理以外と以内とにより、そのみるところ

を異にするがため、その名称をも異にすれども、しかもこの二者相合して一となることを知らざるべからず。一

方よりみて秘怪なるも、他方よりみるときは理怪となり、表面より認めて理怪となすも、裏面より考うれば秘怪

なり。換言すれば、真怪なるものは理怪なるがごとくにして秘怪なり、秘怪なるがごとくにして理怪なり、理外

なるがごとくにして理内なり、理内なるがごとくにして理外なり。これがゆえに、真怪は秘怪とも理怪とも、ま

た理外とも理内とも名付くべからず、ただこれを呼びて妙怪というよりほかなし。しかして予が妖怪学は主とし

て知力、道理により論明するものなれば、この点よりするときはこれを名付けて理怪となすも、またあえて不可

なかるべし。今、以上論述しきたりし真怪の分類表を示せば左のごとし。


      霊怪

   秘怪   

      神怪

        

真怪 理怪   

        

   妙怪   


       第一二〇節 結論

 以上、真怪を論結したれば、全論ここにその終わりを告げんとす。しかして前に述べたるところ、これを一結して妖怪の全表を掲げ、もって総論の結論となすべし。


                 個人的妖怪          

       偽怪(人為的妖怪)                

                 社会的妖怪          

    虚怪                          

                 客観的妖怪          

       誤怪(偶然的妖怪)                

                 主観的妖怪          

                                

                             天文的

                         無機的 地理的

                             物理的

                             化学的

妖怪              物怪(物理的妖怪)       

                             植物的

                         有機的 動物的

       仮怪(自然的妖怪)             人類的

                                

                          変覚    

                心怪(心理的妖怪) 変情    

    実怪                    変知    

                          変意    

                                

                    霊怪          

                 秘怪             

                    神怪          

       真怪(超理的妖怪) 理怪             

                                

                 妙怪             


 右の表中、偽怪とは人の意志、工夫によりて構造、作為せる妖怪にして、これに個人的および社会的の二種あり。個人的にまた奇情的と利己的の二種あり。あるいは虚言、大言のごときは、奇情より起こるものと、利己より起こるものとの二様あり。あるいは詐偽、掩蔽等の行為は、多く利己より起こる。つぎに、社会的にまた、平時に属するものと変時に関するものの別あり。その平時は政略上の権謀術数にして、変時はこれに天災と戦乱との別あるも、戦乱中にありては戦略上の謀術これなり。しかれどもこの人為的妖怪は、今回の講義にはこれを略せり。

 つぎに、誤怪とは偶然に起こりし出来事が、誤りて妖怪と認められたるものをいう。これに外界一方と内界一方において起こるものの二種あり。これを客観的妖怪および主観的妖怪という。また、内外両界の間に起こるものあり。これを例すれば、二回もしくは三回の大火が、年を異にして同月同日に起こりたるときは、この日をもって大火と関係あるもののごとく考え、これを目して凶日となすがごときは、偶然に暗合したるものを、誤りて不思議の関係ありと解釈せしものなり。また、夢に人の死亡を見しに、実際その死に会することあれば、世人はただちにこれをもって妖怪となせども、その実、これ多くは偶然に出ずるものにして、不思議とするに足らざるなり。その他、臆病者あり、夜中旅行して道に他人にあい、これを認めて怪物となせしがごとき、あるいは樹枝に提灯を掲げしものを、遠方より望みて怪物現出したりとなせしがごとき、みな世間往々見るところなれども、これらはそのものに怪あるにあらず、ただ偶然認めて妖怪となせしものなれば、これを総称して誤怪という。

 つぎに、仮怪は人為にもあらず偶然にもあらず、自然に起これるものにして、この妖怪には物の上に現ずると心の上に現ずるとの別あれば、一を物怪すなわち物理的妖怪とし、他を心怪すなわち心理的妖怪とす。しかして物怪に属するものは、あるいは天文学、あるいは地質学、あるいは物理、化学、あるいは動物学、植物学によりてその理を考究することを得べく、また、心怪に属するものは、心理学によりてその理を説明すべし。

 つぎに、真怪とはこれ真正の妖怪にして、さきにいわゆる絶対無限の体を指して名付けしものなり。仮怪は実怪の一つなれども、これを講究してその原理に達すれば、尋常一般の規則と同一の道理に基づくことを知るべく、もしたとい今日の人知にては妖怪たるべきものも、他日の人知によりてその理を知悉するを得べし。これに反して、真怪はいかに人知進歩すとも到底知るべからざるものにして、これ超理的妖怪なり。このいわゆる真怪の本体は、いたるところに遍在するものなれば、物の上、あるいは心の上を問わず、ようやくこれを研究してその本源、実体に達するに至れば、みなついに真怪となり、不可知的不可思議に終わるべし。すなわち、物には物の現象と本体とあり、心には心の現象と本体とあり、物の本体に達すればすなわち真怪というべく、心の本体に達するもまたこれ真怪なり。今この二者を区別せんため、一つを霊怪、一つを神怪という。霊怪は物の本体の妖怪にして、神怪は心の本体の妖怪なり。しかして霊怪および神怪の二者はともに神秘不測にして、人知以上、道理以外にありとするときは、これを合称して秘怪とす。もし霊怪、神怪の二者相合して一体となり、しかも道理と一致して二途なきに至らば、これを理怪というなり。かくのごとく真怪には三種の別あれども、その実は通じて一たるものなり。

 以上、数種の妖怪につきて見るに、偽怪ならびに誤怪はこれもとより妖怪にあらずして、全く人の虚構、誤謬に出でたるものなり。ゆえに、これを妄有とす。つぎに、仮怪は道理上、真に妖怪なるにはあらざれども、事実上妖怪となりて現ずるものなり。換言すれば、裏面にありては妖怪にあらざるも、表面にありては妖怪なりとす。ゆえに、これを仮有とす。しかして真怪に至りては、これひとり真正の妖怪にして、これを除きては他に真の妖怪なるものなし。ゆえに、これを真有とす。この四種の怪中にて、偽怪、仮怪および真怪をもって三大怪とす。これを世界の上に考うるに、世界には無限絶対の世界と、有限相対の世界あり、また別に人間世界あり。この人間世界は右両界の間にまたがりて、よく二界と相通ずるものなり。これを三大世界となす。今この三大世界に相応して妖怪にも三大種あり。すなわち、真怪はいわゆる絶対世界の妖怪にして、仮怪はそのいわゆる相対世界の妖怪、偽怪はいわゆる人間世界の妖怪なり。しかして誤怪に至りては自然と人為との間に位するものにして、偽怪および仮怪の上に偶然生じたるものなれば、別にこれに対すべき世界あるにあらず。ゆえに、これをもって一大種の妖怪となすを要せざるなり。これをもって、妖怪の種類を挙ぐるときは、偽怪、仮怪および真怪の三大種となすなり。なかにつきて真怪に関係してその理を人に開示し、またよくこれに体達する道を講ずるものは、すなわち宗教なり。つぎに、仮怪の道理を研究してこれを明らかにするものは一般の学科なり。しかして偽怪に関して成り立つものは、人情、風俗、政事等これなり。

 ゆえに、偽怪を研究するときは、おのずから社会人情の奇知妙用を知ることを得べく、仮怪を研究するときは、もって万有自然の奇変妙化をさとることを得べく、また真怪を研究するときは、もって神仏の奇相妙体を悟ることを得べし。このゆえに、社会人情の機密を知らんと欲せば偽怪を攷究し、物心万有の機密を知らんと欲せば仮怪を攷究し、神仏幽冥の機密を知らんと欲せば真怪を攷究すべし。けだし、その第一は政治に関係を有し、その第二は教育に関係を有し、その第三は宗教に関係を有す。これ予が妖怪学研究の順序にして、その目的は、偽怪を去り、仮怪を払いて真怪を開くにありというゆえんなり。