4.仏教活論序論

仏教活論序論

     緒  言

一、余つとに仏教の世間に振るわざるを慨し、自らその再興を任じて独力実究することすでに十数年、近頃始めてその教の泰西講ずるところの理哲諸学の原理に符合するを発見し、これを世上に開示せんと欲して、ここに一大論を起草するに至る。名付けて「仏教活論」と称す。まず第一にその端緒を叙述して真理の性質、仏教の組織を略明し、題して「仏教活論序論」という。本論に入るの階梯に備うるもののみ。本論は「破邪活論」「顕正活論」「護法活論」の三大論に分かち、これより三カ月を経てその稿を終わり、稿終わるののちこれを世間に公布して、世人のいかなる思想感覚をその上に与うるかを試みんと欲するなり。

一、余が仏教を論ずるは哲学上より公平無私の判断をその上に下すものなれば、世間普通の僧侶輩の解するところともとより同一にあらず。また、ヤソ教者の見るところと大いに異なるところあるべし。けだし余が仏教を助けてヤソ教を排するは、釈迦その人を愛するにあらず、ヤソその人をにくむにあらず、ただ余が愛するところのものは真理にして、余がにくむところのものは非真理なり。今、ヤソ教は真理としてとるべからざる成分あり。仏教は非真理として捨つべからざる元素あり。これ余があくまでその一を排しその二を助くるゆえんなり。

  余がいわゆる仏教は今日今時わが国に伝わるものをいい、その教の初祖たるもの、これを釈迦と名付くるなり。故にヤソ教者中、インドに仏教の原書なし、大乗は仏説にあらず、釈迦は真に存するものにあらず等と喋々するものあるも、余がすこしも関せざるところなり。その人の伝記つまびらかならず、その教の由来明らかならざるも、余は決して伝記由来をもって、その教を信ずるがごとき無見無識のものにあらず。ただ余がこれを信ずるは、その今日に存するもの哲学の道理に合するにより、これを排するは哲理に合せざるによるのみ。

一、今、仏教は愚俗の間に行われ、頑僧の手に伝わるをもって、弊習すこぶる多く、外見上野蛮の教法たるを免れず。故をもってその教は日に月に衰滅せんとするの状あり。これ余が大いに慨嘆するところにして、真理のためにあくまでこの教を護持し、国家のためにあくまでその弊を改良せんと欲するなり。しかしてその護持改良の方法は、当時の僧侶と共にはからんとするも、いかんせん、その僧侶の過半は無学無識、無気無力なるを。たとえこれと共にはかるも、その志を遂ぐることあたわざるは必然なり。故に余は世間の学者才子中いやしくも真理を愛し、国家を護するの志を有するものあらば、これと共にその力を尽くさんことを期し、あわせて学者才子に対して、僧侶の外にその教の真理を求められんことを望むなり。

一、余、生来頑僻の性ありて、その自らちかうところ、人のために序を作らず、人に請うて序を作らしめず、人のために文を飾らず、人に請うて文を飾らしめず。故にその述ぶるところの文も、その著すところの書も、通常民間に行わるるところのものと大いにその性質を異にし、これを読む者たやすく余の一癖人たるを知るべし。今この編のごときはあたかもその一例を徴するに足る。それ余は赤貧多病、もとより権勢の道に奔走して栄利を争うの念なく、毀誉の間に出没して功名をむさぼるの情なく、ただ終身陋巷に潜んで真理を楽しみ、草茅に座して国家を思うの赤心を有するのみ。その平常口に発し筆に示すもの、またみなこの心の余滴に過ぎず。故をもってこの論のごときもみだりに人の序賛を請うて、世間の虚名を釣らず、文の修飾を借りて読者の愛顧を引かず、無味無色もって自ら足れりとす。もし人この論を一読して、幸いに余が微志の存するところを知り、共にその力を尽くして、仏日のまさに落ちんとするを支えんと欲するものあらば、請う、余にその意を告げられんことを。余の喜び果たしていかんぞや。伏してこいねがわくは、早くかくのごとき同感同志の士を得て、一夕月明風清のときを待ち、共に大法護持の策を講ぜんこと、これ余が畢生の大願なり。これ余がこの論を起草せし本志なり。

 

  明治二十年二月                  著 者 誌  


   本 論

 人だれか生まれて国家を思わざるものあらんや。人だれか学んで真理を愛せざるものあらんや。余や鄙賎に生まれ、草莽に長じ、加うるに非才浅学なるも、またあえて護国愛理の一端を有せざるものにあらず。朝雨暮風に接するごとに、未だかつて護国の情を動かさざるはなく、春花秋月にあうごとに、未だかつて愛理の念を発せざるはなし。この情この念相結んで余が一片の丹心となる。余よくこの心を養い、この心またよく余を護す。家貧しうして敝衣凍寒を防ぐに足らずといえども、幸いにこの心の存するありて、満身ために暖を加え、非食飢渇を支うるに足らずといえども、また幸いにこの心のみつるありて、全身ために肥ゆるを覚う。ああ、われをして生存せしむるものはこの心なり、われをして活動せしむるものはこの心なり、われをして笑い、われをして語り、われをして泣かしむるものはこの心なり。この心ありてわが身体あり。この心ありてわが生命あり。われあにこの心を守らざるを得んや。われあにこの心のために尽くさざるをえんや。

 そもそも真理を愛するは学者の務むるところにして、国家を護するは国民の任ずるところなり。国民にして国家を護せざるものは国家の罪人なり。学者にして真理を愛せざるものは真理の罪人なり。国家学なきときはその進歩をみるあたわず。学者国なきときはその生存を保つあたわず。学者にして国家を護することを知らず、国民にして真理を愛することを知らざるものも、これまた罪人なり。退きて真理の罪人となり、進みて国家の罪人となる、これあに人の目的とするところならんや。故に人いやしくも罪人たらざらんと欲せば、一臂を奮うて国家のためにその力を尽くし、一志を立てて真理のためにその心をつくし、一毛の国家を利するあるも必ずこれを求め、一髪の真理を防ぐるあるも必ずこれを除かざるべからず。かくのごとき人にして、始めて真正の護国者にして純全の愛理者というべきなり。

 今もし護国愛理の二大事についてその軽重を較するときは、その間必ずしも差等なきにあらず。護国の重くして愛理の軽きことあり、愛理の重くして護国の軽きことあり。今それ真理は万世にわたりて変ずることなく、宇宙を極めて尽くることなく、国家廃頽し人類滅亡するも、その理依然として存し、日月星辰の高き山岳河海の大なる、鳥獣草木の多き、みなその中に同体の真理を胚胎するありて、一点の雲も一毛の塵も一として真理を具せざるはなし。これによりてこれを較するに、国家は真理界中の一小部分を占有するものに過ぎず。あたかも大海の僻隅に一粒の孤島を現ずるがごとし。果たしてしからば、愛理はその任重く、護国はその責軽しといわざるべからず。しかれども国家もし成立せず、人類もし現存せざれば、真理ひとり存するも、だれかよくこれを知り、またよくこれを講ぜんや。けだしこれを講ずるは、知者学者を待たざるべからず。知者学者を生ずるは国家の独立生存を要するなり。故に学者いやしくも真理の講ずべきを知らば、必ずまず国家の独立に向かって祈らざるべからず。これをもって、護国の任は愛理の責に一歩もその軽重を譲らざるを知り、あわせて学者の務むるところ、護国愛理の二大事を兼行するにあるを知るべし。

 これによりてこれをみれば、護国愛理は一にして二ならず。真理を愛するの情を離れて、別に護国の念あるにあらず。国家を護するの念を離れて、別に愛理の情あるにあらず。その向かうところ異なるに従って、その名称同じからざるも、帰するところの本心に至りては一なり。この心もって国家に対すれば護国の丹誠となり、この心もって真理に対すれば愛理の精神となる。故に余まさにいわんとす、国家を護するの心はすなわち真理を愛するの心なり、真理を愛するの心はすなわち国家を護するの心なりと。二者の兼全せざるべからざるゆえん推して知るべし。しかりしこうして、護国愛理はその本心一なるも、その方向異なるをもって、一人にして同時に二者を兼行すべからざるは、あたかも同時に東方と西方とに行くことあたわざるがごとし。これをもって、その時の事情とその人の分限とに応じて、あるいは護国を先にして愛理を後にするものあり、あるいは表に愛理を唱えて裏に護国を祈るものあり。かくのごとく護国愛理の間に先後表裏の次第あるは、勢いのやむをえざるに出でたるゆえん別に論ずるを待たず。かつ世間に国家を護せんと欲して真理を愛し、真理を愛せんと欲して国家を護するものあるゆえんまた知るべし。故に余おもえらく、人にしていやしくも学者の地位に当たるものは、護国のために真理を愛せざるべからず、その真理を愛するはすなわち国家を護するものなり。余や浅学非才にして学者の地位に当たるべきものにあらずといえども、その心ひそかに期するところありて、もっぱら真理を講究していささか国家のために尽くすところあらんとす。故に余は、いわゆる愛理を先にして、護国を後にするものなり。しかれども、その真理を愛するの本心は護国の一念に外ならざるをもって、余が真理のために喋々するもの、みな護国の精神のあふれて外に流るるもののみ。

 余、幼より世人とその好悪を異にし、人の楽しむところにして余かえってこれを憂え、人の憂うるところにして余かえってこれを楽しむ。故をもって、その旧里に在るや同郷の児童と共に遊ばず。およそ児童の楽は飲食遊戯の外に出でずといえども、余の楽はひとりしからず。出でて江山の間に入れば、草木の森々としておのずから鬱茂し流水の悠々として去りて帰らざるを見、心ひそかに怪しむところありて家に帰りてその理を思う。これを思うて達することあたわざれば、ひとり茫然として自失し、幸いにその理に達すれば微笑して自得の状を呈す。これ余が衆と共に群せざるゆえんなり。長じて学を人に求むるに及び、一見一聞みな余が感を惹起し、日夜黙座してただその理を思うのみ。そののち東京に入るに及び、ときまさに百花栄を競うの候にして、東台墨堤の春色、人をして狂せしむ。余これを見て感また感を加うるのみ。これ他なし、人は花の美なるを喜び、余は花のなにによりて美なるや、人のなにによりて狂するやを思うの別あるによる。品海に夏を消し、滝川に秋を賞するもまた世人の快楽とするところにして、余が感慨するところなり。けだし世人は事物の外形を見て、その形裏に胚胎する真理のいかんを問わず。余はただその理を思うて外形のいかんを顧みず。これ余が人とその感を異にするゆえんなり、これ余が衆とその楽を同じうすることあたわざるゆえんなり。

 およそ人たるもの、おのおのその癖するところあり。酒に癖するものあり、色に癖するものあり、武に癖するものあり、文に癖するものあり、いま余は真理に癖するものなり。月に対するも真理を思い、花に対するも真理を思い、山光水色に接するも朝煙暮霞に接するも、未だかつて一念一思の真理のいかんに及ばざるはなし。しかして自らおもえらく、わが生存するところの世界も、わが占領するところの身体もみな真理より成り、その日夜耳目に現ずるところのもの、またみな真理の影像なり。ああ、余は真理を呼吸して生活するものなり。ああ、余は真理を消化して生長するものなり。故に余は真理のためにあくまでこの心を尽くし、あくまでこの力を致さんと欲す。これ余が畢生の大願なり。けだし我人のこの世に来生するの目的、またこれに外ならざるなり。

 それ真理の理たる古今万世を貫きて徹せざるところなく、天地六合を窮めて至らざるところなく、実に無始無終の真理なり、無涯無尽の真理なり。しかるにその考索を全く形而下の事物にとどめて、更にその形外にいかなる真理ありて存するを問わざるは、けだし学者の妄見なり。別して真理を一、二人の説に帰して、他にその存否を究めざるは、実に愚者の浅識のみ。真理あにかくのごとき分限あるものならんや。その他、生物中、人類の外に真理を知るものなく、人類中、学者の外に真理に通ずるものなしというがごときは、もとより一種の僻見といわざるをえず。もしそれわが言の外に真理なし、わが法の外に真理なしというに至りては、僻見中の僻見というべし。真理あにかくのごとき偏僻なるものならんや。余が期するところただ公平無私、普遍正大の真理を愛求するにありて、偏僻不完の真理を愛求するにあらず。故に余はあくまで偏僻の真理を排去して、無私の真理を開発せんことを務むるなり。

 古来世間に真理を考究するをもって目的とするものはなはだ多く、諸学諸術一として真理に関せざるものなし。別して宗教はその目的、古今上下億万の人をして、ことごとく一味同感の楽地に永住せしめんとするにあるをもって、確然不動、一定不変の真理を主唱するものなり。すなわち諸学諸術に立つるところの真理は、あるいは世の進歩と共に変更することあるを許すも、宗教に立つるところの真理は東西古今、不変不易なりと確定するものなり。故に余はしばらく諸学術の真理を究問せずして、もっぱら宗教の真理とするところ、果たして一定不変の真理なるや、公平無私の真理なるやを論明せんと欲するなり。

 世に宗教と称すべきものその類いくたあるを知らずといえども、その最も世間の勢力を有するもの、仏教、ヤソ教、マホメット教の三教とす。なかんずく、当時の世界に立ちて互いに相拮抗すべきものは仏耶両教なり。故に余が期するところ、この両教の間に真理の向背を論じて、その二者の優劣を判ぜんとするにあり。

 仏教を主唱するもの曰く、わが教の外に真理なしと。ヤソ教を主唱するもの曰く、わが教の外に真理なしと。しかして自教の外に果たして純全の真理なきゆえんを証明せざるは、もとより偏僻の妄説にして、その見て真理となすところ、公平無私の真理にあらざること問わずして知るべし。故に余がここに両教の優劣を較するは、公平無私の真理を標準として、無偏無党の哲学上の裁判を二者の上に下すものなり。

 人もし哲眼を開きて宗教世界を一瞰すれば、たやすく公平無私の真理の仏教の大海中に存するを知ることを得べし。しかしてヤソ教のごときは偏僻不完の小真理を胚胎するものに過ぎず、これを仏教の真理に比するに、実に真理の毛端爪頭にして、あるいは真理の虚影空響なりというも不当にあらず。ああ、仏教の真理の明白にして、ヤソ教の真理の曖昧なる、あたかも明月ひとたび出でて衆星その光を失うがごとし。ああ、仏教の真理の正大にしてヤソ教の真理の偏小なる、あたかも百川海に入りてその別を見ざるがごとし。両教の懸隔あに日を同じうして語るべけんや。

 しかるに世間の論者、近日往々説を起こして、真理はヤソ教中にありて仏教中にあらずという。実に惑えりというべし。そのはなはだしきものに至りては、ヤソ教ひとり純全の真理にして、仏教は全く真理に反するものなりという。なんぞ惑うことのここに至るや。しかして未だ一人の公明の判断を仏教の上に与うるものなきは、余がつとに慨するところにして、十有余年の久しき苦心焦思して哲理を研究したるもの、またこの目的を達するためのみ。

 そもそも余が純全の真理の仏教中に存するを発見したるは、近々昨今のことなりといえども、そのこれを発見するに意を用いたるは今日今時に始まるにあらず。明治の初年にありて早くすでにその意を起こし、爾来このことに刻苦することここに十有余年、その間一心ただこの点に会注し、未だかつて一日もこれを忘れたることなし。しかれども、余あえて初めより仏教の純全の真理なることを信ぜしものにあらず。未だその純全の真理なることを発見せざるに当たりては、あるいはかえってこれを非真理なりと信じ、誹謗排斥することすこしも常人の見るところに異ならず。余はもと仏家に生まれ、仏門に長ぜしをもって、維新以前は全く仏教の教育を受けたりといえども、余が心ひそかに仏教の真理にあらざるを知り、顱を円にし珠を手にして世人と相対するは一身の恥辱と思い、日夜早くその門を去りて世間に出でしことを渇望してやまざりしが、たまたま大政維新に際し一大変動を宗教の上に与え、廃仏毀釈の論ようやく実際に行わるるを見るに及んで、たちまち僧衣を脱して学を世間に求む。初めに儒学を修めてその真理を究むること五年、すなわち知る、儒学も未だ純全の真理とするに足らざるを。ときに洋学近郷に行われ、友人中すでにこれを修むるものありて、余に勧むるにその学をもってす。余おもえらく、洋学は有形の実験学にして無形の真理を究むるに足らずと。故をもって一時その勧めに応ぜざりしも、退きて考うるに、仏教すでに真理にあらず、儒教また真理にあらず、なんぞ知らん、真理はかえってヤソ教中にありて存するを。しかしてヤソ教を知るは洋学によらざるべからず。これにおいて儒をすてて洋に帰す、ときに明治六年なり。その後もっぱら英文を学び傍ら『バイブル』経をうかがわんと欲すれども、僻地の書肆未だその書を有せず。たまたまその書を有するも、家貧にしてこれを購読するの余財なし。すでにして友人中シナ訳の一本を有するものあり。ついでまたその原書を得、原訳相対して日夜熟読するに、ややその意を了することを得たり。読み終わりて巻を投じて嘆じて曰く、ヤソ教また真理とするに足らず。余これに至りてただますます惑うのみ。かつ怪しみておもえらく、儒仏の非真理すでにかのごとく、ヤソ教の非真理またかくのごとし。しかるに世人の、あるいは儒仏を信じ、あるいはヤソ教を信ずる者あるはなんぞや。けだし世人の知力よくその非真理を発見せざるによるか、またその非真理を知りてこれを信ずるによるか。余は決して真理にあらざるものを真理として信ずることあたわず。これにおいて余断然公言して曰く、旧来の諸教諸説は一も真理として信ずべきものなし。もしその信ずべき教法を求めんと欲せば、自ら一真理を発見せざるべからず。余これよりますます洋学の蘊奥を究め、真理の性質を明らかにして、心ひそかに他日一種の新宗教を立てんことを誓うに至る。爾来、歳月匆々、早くすでに十余年の星霜を送る。その間余がもっぱら力を用いたるは哲学の研究にして、その界内に真理の明月を発見せんことを求めたるや、ここにまた数年の久しきを経たり。一日大いに悟るところあり、余が十数年来刻苦して渇望したる真理は、儒仏両教中に存せず、ヤソ教中に存せず、ひとり泰西講ずるところの哲学中にありて存するを知る。ときに余が喜びほとんど計るべからざるものあり。あたかもコロンブスが大西洋中に陸地の一端を発見したるときのごとし。これにおいて十余年来の迷雲始めて開き、脳中豁然として洗うがごとき思いをなす。

 すでに哲学界内に真理の明月を発見して更に顧みて他の旧来の諸教を見るに、ヤソ教の真理にあらざることいよいよ明らかにして、儒教の真理にあらざることまたたやすく証することを得たり。ひとり仏教に至りてはその説大いに哲理に合するをみる。余これにおいて再び仏典を閲しますますその説の真なるを知り、手を拍して喝采して曰く、なんぞ知らん、欧州数千年来実究して得たるところの真理、早くすでに東洋三千年前の太古にありて備わるを。しかして余が幼時その門にありて真理のその教中に存するを知らざりしは、当時余が学識に乏しくしてこれを発見するの力なきによる。これにおいて余始めて新たに一宗教を起こすの宿志を断ちて、仏教を改良してこれを開明世界の宗教となさんことを決定するに至る。これ実に明治十八年のことなり。これを余が仏教改良の紀年とす。

 それ仏教は日本固有の宗教にあらずして他邦より漸入したるものなりといえども、すでに今日にありてはその本国たるインドはほとんどその痕跡を絶し、わずかにその地に存するものは仏教中の小乗浅近の一法のみ。その最も深遠高妙なる大乗の法は、その書その宗共に今日のインドに伝わらず。これをもってヤソ教者は大乗非仏説を唱うといえども、大乗の深法は愚俗のよく解すべきところにあらざるをもって、インドにその法の今日伝わらざるはその地の文化衰頽をきたせしによるのみ。しかしてシナに至りては大乗の宗書共に今日わずかに存すといえども、その宗は大抵禅家にして経論を用いず。その僧は大抵暗愚にして仏教を知らず。その勢い実に衰頽を極めたりという。しかしてその宗、その書、その人、共に存して大乗の深理を知り、一乗の妙味を知るべきものひとりわが日本あるのみ。その宗衰えたりといえども、なおよく頽勢を挽回するに足り、その書欠けたりといえども、なおよく深理を捜索するに足り、その人乏しといえども、なおよく妙味を感伝するに足る。もし今日これを日本に維持せずして、その人去り、その書亡びその宗廃するに至らば、仏教またいずれの地にありて興らんや。これ余がその教をわが国に維持するは今日の急務なりといわんとするゆえんなり。

 およそ物その初め他邦に産するも、これを自国に将来して数年力をその培養の方法に尽くし、今日幸いにその良種を得るに至り、しかしてその本国にありてはすでにその種を絶し、またこれを再培するの勢いなきときは、これを自国特有の産物として他邦に輸出するもあえて不可なるの理なし。果たしてしからば、今日の仏教は日本の仏教なり、日本の特産なり。今後ますますこれをわが国に培養して、遠く外国に流布せざるべけんや。そもそも本邦産するところのものその類はなはだ多しといえども、自国の特産にして西洋にその類を見ざるものはなはだ少なし。百般の物品器用はもちろん、政治、法律、軍制、教育、百科の理学工芸に至るまで、ことごとくその供給を西洋に仰ぐは、みな人の知るところなり。しかして西洋に全くその類なくして日本に存し、またこれを外国に伝えて声価を得べきものひとり仏教あるのみ。仏教の理論は西洋近世の哲学のすでに論ずるところなれども、その理を実際に応用して世間の宗教を立つるに至りては、泰西古来未だかつてみざるところなり。かつ今日その地の学者のヤソ教を厭苦して哲学上の宗教を求め、日夜汲々するの状あるを見るに、他日仏教ひとたびかの地に伝うるに至らば学者の喜び、けだしまた計るべからざるものあらん。

 方今西洋の学者中往々仏教を講究するものありといえども、その訳して西洋に伝わるもの、みな今日インドに遺存せる仏典にして、すなわち仏教中の小乗浅近の経文のみ。また西洋人の日本にきたりて仏書を訳し、これをかの地に伝うるものなきにあらずといえども、これもとより仏教の一部を捜索するのみにて、未だ全教の極意を了知するに至らず。かつ筆してこれを西洋に伝うるものみなヤソ教者の手に成るをもって、その書を読むも仏教の真意を知るべからざるはまた必せり。これをもって西洋の学者は、異口同音に仏教を評して虚無寂滅の法となし、浅近とるに足らざる教となす。あに仏教のために慨せざるべけんや。あに真理のために嘆ぜざるべけんや。

 現今仏書のわが国に存するもの、大乗小乗共に幾百千種あるを知らずといえども、その書みなシナの訳文にして今日すでに世人の解するに苦しむところなり。しかして今日はなお仏学者の世に存するあるをもって、ややその意を了すべしといえども、その学者永く世に存すべき理なく、かつかくのごとき学者の将来続々世に起こるべき理なきをもって、今日これを講究して世間に伝えざれば、その教の世界に地を払うに至るは、けだし遠きにあらざるべし。かつ今後わが言語文章の世道人心と共に変更するに至らば、仏教の再興また決して望むべからず。これ余がその再興をもって自ら任じ、また人をしてその任に当たらしめんことを勧むるゆえんなり。

 その他、仏教をわが国に再興せざるをえざるゆえんは、その東洋文明の基本たるにあり。インドの文明はもちろん、シナの文明も仏教大いにあずかりて力あり。その日本の文明におけるもまたしかり。シナ宋朝に至りて諸学大いに進みたるは当時仏教の人の思想に入りしにより、日本中古戦国の際、文教地に落ちずして今日に伝わるもの、またみな仏教の力なり。しかしてその影響ただに学問上に存するのみならず、わが言語、風俗、人情に至るまで多少その影響を有せざるはなし。かつそれ宗教は人の精神と直接の関係を有するをもって、その廃立必ず思想の独立を動かすに至り、かつ愚夫愚婦の心中に感染するをもって、その変革必ず一国の精神を損ずるに至る。今仏教は千有余年日本に伝来し、その人心に感染し文明を維持する一日にあらず。たとえ陽にその影響の一国の精神思想の上に存するをみずといえども、陰にその影響あるは必然の勢いなり。故にもし東洋の文明を廃し日本の独立を失うをもって、我人の国家に対する義務となさば、すなわちやまん。いやしくもその文明を維持し、その独立を振起せんと欲せば、あくまで仏教の再興をはからざるべからず。しかるに世上の論者は喋々外教の利害を説きて、仏教の盛衰を顧みざるもの多きは余輩憂国の士と共に慨せざるべけんや。

 かつそれ一国の独立するゆえんのものなんぞや。その国固有の政治、宗教、人種、交情、言語、文章、学問、技芸、風俗、習慣の存するによるや明らかなり。もし政治を変じ、宗教を変じ、その他百般の事物を変ずるときは、すなわちその国を変ずるものにして、これを変ずると同時にその国の独立を失うものなり。そのうち最も重大の関係影響を有するものは宗教にして、宗教は間接または直接に政治風俗に関し、言語交際に関し、精神思想に関するをもって、これを変ずれば他の百般の事物みなこれに従って変ぜざるをえず。今仏教はわが国千余年来の宗教にして、重大の関係を百般の事物の上に有するものなり。これを変ずればその勢い他の百般の事物も早晩変ぜざるをえず、百般の事物変ずればわが国これと同時にその独立を失うに至るべし。これ余が国家のために仏教を護持せざるべからずというゆえんなり。

 およそ生物の発育するや順応遺伝の二種の規則互いにその作用を営むによる。社会国家の発育もまたしかり。その従来有するところのものを維持するは遺伝なり。その形を変じて外情に適合せしむるは順応なり。遺伝のみありて順応を欠くときはその進歩を見るあたわず。順応のみありて遺伝を欠くときはまた大いに害あり。例えば衣食住のごときこれを西洋風に変ずるは順応なれども、その順応中日本人の形質を維持するには、従来の日本風のまたおのずから欠くべからざるものありて存するを見る。これいわゆる遺伝なり。衣食すらなおかくのごとし、いわんや一国全民の精神思想の関するものにおいてをや。現今わが国の宗教は多少その外情に応じて改良を加えざるをえざるはもちろんなれども、全くこれを衰滅に帰して他邦の新思想をわが人民の精神中に注入するは、これいわゆる日本の遺伝性を失うものにして、ただにその発育に害あるのみならず、その独立を失うに至るは必然なり。これをわが国の大勢について考うるに、維新の初年に当たりては一時百事みな旧をすてて新を争うに至りしも、その後数年を出でずして、また旧に復するの勢いあり。しかして今日の事情新旧両方を取捨折衷するを主として、その目的順応遺伝の権衡を保持せんとするにあれども、なお往々その一端に偏倚するの傾向ありて、その勢いあたかも外よりにわかに懸垂に運動を与えたるがごとし。明治の維新はわが国の輿論に大運動を与えたるものなり。そののち輿論常に順応遺伝の両端に来往して、その衡平を保持せんと欲して未だあたわざるなり。他日その衡平を得るの点は、決して仏教をして廃滅に帰せしむるにあらざることは理すでに明らかなり。余案ずるに、古来東洋別して日本の文明を維持し日本の精神を培養して今日にきたるもの、仏と儒との勢力によらざるはなし。しかして儒は外にわたり仏は内に関するをもって、人の精神思想の上に重大の影響を有するもの仏を第一とす。故にわが国人たるもの、今後いやしくも日本人の精神思想を維持せんと欲せば、仏教を興隆せざるべからざるはまた道理のしかるところなり。

 かつ今日わが国人の西洋をとり英独を学ぶの本意、日本をして外国に追従随行せしむるにあらずして、今よりして後、西洋に競争抗敵して、その上に超駕せしめんとするにあるは問わずして明らかなり。果たしてしからば、日本旧来の事物、学問、精神、思想の善悪良否を問わず、一にこれをすててことごとく西洋を待つは、わが得策にあらざることまた瞭然たり。けだし人の跡を追い先を譲るときは、到底その人に超過すべからざるは自然の理なり。これを一国の上に考うるも、その理の適合すべきは別に証するを要せず。かつまた外国交通の本意、かれが長を取りてわが短を補うにありて、わが長を捨ててかれが短を取るにあらざるはまた言を待たず。今、仏教はわがいわゆる長ずるところのものなり。これをわが国に培養して外国に流出せざるときは、なにをもって外国に伝えんや。有形の物品はみなかれの長ずるところなり、無形の学問またかれの長ずるところなり。ひとり宗教に至りてはわが長ずるところなり。この長ずるところの名産、インド、シナにすでにその良種を絶したるは、わが国不期の幸というべし。今日これを日本に培養して、他日これを外国に伝播するに至らば、ただに国家の栄誉を助くるのみならず、わが国の精神を外人の心中に注入するありて、その間接の影響決して少々にあらざるは余が確信して疑わざるところなり。おもうに有形の物品はこれを西洋に待つも、その影響大ならずといえども、無形の精神に至りてはその変革決して一、二の影響にとどまるにあらず。別してわが国の精神を他邦に入るると、他邦の精神をわが国に入るるとは、その利害決して同日の論にあらざるなり。いやしくもわが国、外国交際の本意、かれと競争抗敵するにある以上は、今日仏教をわが国に改良し、他日これをわが名産として西洋に輸出するを務めざるべからず。しかして余がこれをもって学者の責任となすゆえんは、学者の外その任に当たるべき人なければなり。わが国の農業を盛んにして、その得るところをもって外国に輸出せんとするは農夫の義務なり。商業を興して外人と競争せんとするは商家の義務なり。学事教法を興隆して遠く西洋に宣布するは、学者の国家に対する義務なりと知るべし。

 かくのごとく仏教を日本に興して遠く西洋に伝うるは、ただにわが国の裨益のみならず西洋の裨益なり。ただに西洋今日の裨益のみならず世界万世の裨益なり。これを古来の史跡に考え、これを万国の事情に徴するに、いかなる学問宗教にても一主義の一国中に行わるるは、その進歩上不利なるはもちろんにして、その害国家の上に及ぶの例はなはだ多し。シナ漢以後学問の衰えたるは、儒家の一主義世に行われたるにより、西洋中古文化の振わざりしは、ヤソ教の一主義人の精神を圧したるによる。しかしてシナ春秋戦国の間に文化の盛んなりしは、諸主義の並び行われて互いに相競争せしにより、西洋近世の隆運は諸学諸術互いに相競争するによる。これによりてこれをみれば、わが国今日の勢い、仏教日に衰滅しヤソ教日に興隆して、他日ヤソ教の一主義、世に行わるるに至らば、わが国の文化開明の進歩に妨害あるは必然の理なり。また西洋にても従来ヤソ教の外、一の宗教なきをもって、その勢い往々理学哲学の進路を閉塞せんとするの弊ありしといえども、仏教ひとたびその地に入らば大いにその弊を減じ、理学哲学の進歩を助くるやまた疑いをいれず。かつヤソ教も仏教と互いに競争するときは、かえって一層の進歩をみるべし。この点よりこれを考うるも、仏教を日本に興隆するは今日の急務たるゆえんを知るべし。

 これによりてこれをみるに、将来わが国の学問をして東洋に独立せしめ、わが国の宗教をして西洋に超駕せしむるものは、それただ仏教にあらんか。わが国の教学をして世界を圧倒し地球を併呑せしむるものは、またただ仏教にあらんか。わが日本の国威をして宇内に輝かしめ、わが日本の名声をして万世にとどろかしむるもの、またまた仏教にあらんか。ああ、我人は国家のためにこの教を護せざるべけんや。ああ、我人は真理のためにこの法を愛せざるべけんや。

 しかるに世上の論者中、人種を改良するもヤソ教にあり、人知を開達するもヤソ教にあり、国力を養うもヤソ教にあり、国威を輝かすもヤソ教にあり、ヤソ教を奉ずるものにあらざれば真の護国者にあらず、真の愛理者にあらずと唱うるものあり。しかしてその仏教を評するや、かれは亡国の教なり、破産の法なりと。なんぞ思わざるのはなはだしきや、なんぞ妄なるのはなはだしきや。余その妄を問わずしてやまんと欲するもいかんせん。一犬虚を吠えて、万犬実を伝うるがごとく、朝野その説に雷同するもの日一日より多きをみる。これ余が感憤切歯に堪えざるところにして、いずくんぞよく傍観座視、黙してしかしてやむに忍びんや。今余が十有余年来実究するところによるに、人種を改良するも、人知を開達するも、国力を養うも、国威を輝かすも、みな仏教の力ひとりよくなし得べきところにして、なんぞ必ずしもヤソ教の待つを要せんや。いわんやヤソ教は純全の真理にあらずして仏教は純全の真理なるをや。これ余がこの教を助けかの教を排するは、わが国の学者の真理に尽くし国家に尽くすの義務なりというゆえんなり。

 しかるにわが国の学者中ヤソ教を主唱するものは、その教の西洋に実益ある例をあげて、これを日本に用うべしというといえども、けだしその益あるはその害あるゆえんにして、一利一害は事物の免るべからざるところなり。しかしてひとりその利をあげてその害を説かざるは、学者の僻見といわざるをえず。たとえまたヤソ教は真に西洋に利ありと許すも、これを日本に用いて必ずしも益ありというの理なし。例えば政法治道のごとき、これを西洋諸国に施してその利あるも、これをわが国に用いてかえって害あるものあり。これ他なし、西洋には西洋人固有の性質、気風あり、日本には日本人固有の性質、気風あればなり。宗教またしかり、西洋の風俗人情に適するもの必ずしも日本の風俗人情に適するにあらず。故にヤソ教を日本に入るるも、その教の西洋に生ずるところの結果と同一の利益を生ずべきは、余が信ずることあたわざるところなり。

 人あるいはヤソ教は大いにその力を政治社会に与うるありて、建国利民に益あるも、仏教はしからずというものあれども、これ仏教の性質もとよりしかるにあらずして、他に考うべき原因あるによる。今その原因の主たるものを挙ぐれば、第一に、仏教はその伝来の際、世人の俗事に偏するの弊あるを見て、これを矯正せんとするの事情あるにより。第二に、そのシナに入るに当たりて、政治道徳の全権は儒教の占有するところとなり、他教のその間に入るべき余地なきをもって、仏教中その政治道徳に属する部分はこれを儒教に譲り、その世間に関せざる部分のみひとり発達せしにより。第三に、東洋諸邦は国際の関係はなはだ少なきをもって、政略上宗教を保護して一国の独立を維持するの必要なかりしによる。その他、種々の事情によりて、仏教は政治社会に関せざるに至るなり。ヤソ教はこれに反し、その伝来の際、政治社会に関せざるをえざる事情ありしをもって、歴史上建国利民を助けたるの例あるをみる。しかれども、その教のまた大いに国家の進歩を妨げたることあるは、欧州の諸史に考えて明らかなり。別して人の精神を圧抑して学術の進路を遮塞したることは、またみな人の知るところなり。しかしてその教を奉ずるの国駸々として文明に進みたるは、ヤソ教の直接に与うるところの影響にあらずして、全く他の種々の事情ありしによる。これまた欧史に明らかなるものの、みな許すところなり。これによりてこれをみれば、ヤソ教の政治社会に実益を与えたるは、ヤソ教の性質必ずしもしかるにあらずして、当時の事情しからざるをえざる勢いあるにより、仏教の政治社会に関せざるに至りしは、仏教の性質真にしかるにあらずして、またその伝来の際の事情によるものなり。故にもし今日仏教を改良して世間に活用するに至らば、その社会の競争に加わりて世間に実益を与うるは、一歩もヤソ教に譲らざるを知る。あるいはかえってその右に出づるも計るべからず。

 しかるにまた論者ありて、西洋人は仏教を奉ずる国を野蛮国とし、これを信ずる人民を下等人種とするをもって、万国交際上西洋人と同等の交誼を開かんと欲せば、ヤソ教を奉ぜざるべからずというといえども、これただ外見上皮相の評を下すに過ぎざるなり。けだし西洋人のヤソ教を尊信して仏教を軽賎するは、第一に仏教の性質を知らざるにより、第二に自国の奉ずるところの宗教と異なるにより、第三に自国の精神を他邦に入れんとするによる。果たしてしからば、わが国民たるもの今後ますます仏教を拡張せざるべからず。かつわが国今日の勢い百事みな西洋を学ばざるをえずというも、言語、風俗、人情、教育、宗教、衣食、器用、その他大小百般の事物ことごとくかれを学び、かれにならい、かれがいうところに従い、かれが要するところに応ずるにおいては、さきにすでに述ぶるごとく、これわが国をかれにするなり、わが人民をかれにするなり。果たしてここに至らば、わが日本の名いずれのところにか立たん、わが日本人たるの精神はいずれの地にか存せん。別して仏教を廃しヤソ教を入るるをもって、交際の便路を開き、国憲の拡張を助け、条約改正の目的を達する方便となさんとするがごときに至りては、余が最も解することあたわざるところなり。国憲拡張、条約改正は今日今時の急務にして、わが国民たるもの百方力を尽くさざるをえずといえども、その目的を達するに必ずしもヤソ教を奉ずるを要すというの理なく、またこれを奉ずれば必ずしもその目的を達すべしというの理なし。そもそも西洋人をしてわが国を文明国と信じ、わが人民を開明人と思い、同等の交際を開かしむるは、ただみだりに西洋人のなすところを学び、西洋人の用うるものを用い、事々物々、風俗宗教に至るまでみなことごとくかれに模倣するにあるか。余をもってこれをみれば、かくのごとく事々物々みなかれに模倣するに至らば、かれかえってわれを軽賎しわれを属国視すれども、同等視すること万あるべからず。また外人をしてこれを評せしむれば、その政略はただ西洋人にこびうるものというより外なし。果たしてしからば、西洋人はわが無気無力にして、独立の精神なきを笑わんのみ。試みに見よ、わが国今日西洋人と同等の交誼を通ずることあたわざるは、宗教、言語の異同によるにあらずして、その国力全体のかれに及ばざるによることは、今更余が弁明するを待たざるところにして、内には財力充満し外には兵力強大なるに至らば、その国内の人民はいかなる宗教を用うるも、西洋人と同等の交誼を通じ、条約改正もたちどころに履行するに至るべきは必然の勢いなり。もしこれに反して、ただ一にかれのなすところを学び、かれの用うるものを用い、わが国を変じてヤソ教国とするも、ひとりわが無気無力を西洋人に示すに過ぎずして、かれのわれを軽侮する、かえって昔日に数倍するに至らん。故に余はかくのごとき政略を評して、拙策の極といわんのみ。

 以上論ずるところによりてこれをみるに、仏教はその説くところ真理に合するのみならず、世の開明を進め国家の独立を助くるの実益あり。語を換えてこれをいえば、仏教は論理上ヤソ教に超過するのみならず、実際上また決して一歩を譲らざるなり。しかしてその今日の勢い、わが教のかれに及ばざるところあるをみるは、仏教の真にしかるにあらずして、世間の弊習ひとりしかるのみ。故に今仏教を日本に再興せんと欲せば、まずその弊習を改良せざるべからず。これを改良するは、全国の人民の国家に尽くすべき義務にして、別して学者の自ら任ぜざるをえざるものなり。故に余は全国の人民に代わり、学者の先鞭をとりて、天に誓うてかの教を排し、地にちかうてこの教を助けんと欲するなり。

 余かくのごとくヤソ教を排するも、ヤソその人をにくむにあらず。余かくのごとく仏教を助くるも、釈迦その人を愛するにあらず。ただ余が愛するところのものは真理にして、余が排するところのものは非真理なり。今余がヤソ教を排するは、その真理とするところ純全の真理にあらざればなり。しかれどもヤソ教も一種の宗教にして、人に安心立命の道を説き、勧善懲悪の教を立つるをもって、みだりにこれを排しこれをにくむべき理なし。けだしその目的に至りては、余が期するところと同一にして、共に道徳の大本を説き迷悟の大道を教えて人をして至善至楽の地に住せしめんと欲す。これによりてこれをみれば、ヤソ教すなわち余が唱うるところの宗教にして、その教を奉信するものすなわち余が同胞兄弟なり。故に余は今後真理の向背に関してなにほどヤソ教者と争うことあるも、社会の交誼に至りては吉凶相弔賀し、死生相送迎し、懇切丁寧常に相接し、決して同朋兄弟の情義を破らざらんことを期し、一朝大事あるに際しては共に協心戮力して、まさに大いに国家のために尽くすところあらんことを望むなり。故に余がヤソ教を排するは、ただにヤソその人を排せざるのみならず、ヤソ教の目的とヤソ教者の精神とを排するにあらず。ただ余が排するところは、その教に立つるところの説にあるのみ。故に余はヤソ教を固信する者に接すれば殊更に友情を尽くしてこれに交わり、ヤソ教の会堂に入れば殊更に謹慎してその説くところを聴き、未だかつてこれを魔法視せず、未だかつてこれを仇敵視せず。今後といえどもまたちかうて交際上の友誼を全うし、あくまで同胞兄弟の名義に背かざらんことを祈る。余平常『バイブル』経を机右に置き、ときどきこれを習読するに、またかつて拝一拝して巻舒せざるはなし。けだし人の愛重するところ、余あにひとりこれを軽賎するの理あらんや。かつヤソ教はたとえその唱うところ真理にあらざるも、すこしもその経文に罪あるの理なく、その教祖ヤソといえども当時世間の学術未だ開けざるをもって、その説真理に合せざるところあるのみにて、別にその人に罪あるにあらず。請う、見よ、ヤソは生まれて三十年間は東西奔走して親しく四方の人情風俗を観察し、出でてその実究するところを人に伝え、説法誘導すること未だ三年に満たずして、一朝死刑に処せられ十字架上に一命を終うるに至れり。だれかこれを聞きて感涙を催さざるものあらんや。ああ、数十年の苦行、一朝の絶命、自らこれをいとわずして、甘んじてその地につきたるは、実にヤソのヤソたるゆえんにして、一死もって法のために尽くすものなり。故に余はヤソを評して一世の英雄豪傑なりと呼ばんとす。古来世に豪傑をもって知らるるもの幾人あるを知らずといえども、宗教界にありては余はヤソ、釈迦、マホメットの三祖をもって三大傑と称するなり。しかして歳月最も短く説法日なお浅くして、その教の大いに宣布するに至りしは、ヤソをもって第一とす。ああ、これを英雄と呼ばずしてまたなんとかいわんや。ヤソすでに古代の英雄豪傑なれば、これに対して敬礼を尽くすは、もとより後進の先輩に対して尽くすべき義務なり。別してその衆人を化益せんがため一死を顧みざるの赤心に至りては、余輩欽慕に堪えざるところなり。今余も微力といえども、一死もって護国愛理に尽くさんと欲するものなり。ああ、ヤソは余が同志の兄弟なり。その年の相へだたる二千年を隔つといえども、その精神の向かうところに至りては符節を合するがごとし。ああ、ヤソは余が赤心の朋友なり。もしヤソをして余が精神のあるところを知らしめば、かれ必ず余を評して千歳の朋友なり兄弟なりというべし。故に余はあくまでヤソその人を敬礼せんと欲す。ヤソもまた必ず余を親愛すべしと信ずるなり。

 余かくのごとく論じきたるも、あえて自らヤソ教を信ずるにあらず。かつヤソ教は真正の真理なりと許すにあらず。別してヤソ教者のいうがごとく、ヤソは天神の子にしてヤソその人は神なりと断定し、ヤソ教は世界不二、万世不変の宗教にして、その外に真理なしと公言するに至りては、余が百方信ぜんと欲するも信ずることあたわざるところなり。その他、創世、洪水、昇天等の説に至りては妄説中の妄説にして、これを聞くすらなお両耳に恥ずるところなり。故に余は社会の一人となりて交誼を通ずるにおいては、務めてヤソを敬礼しその徒を親愛するも、真理相争うの一点に至りては、あくまでその非真理を排斥し、その妄誕を論破して一毛の余塵なきに至りてやまんとす。しかれども、またあえてその説くところことごとくこれを排斥するにあらず。そのうち真理として許すべきものはこれを存し、非真理にしてとるべからざるものはこれをすてて、公明正大の裁判をヤソ教の上に下さんと欲す。しかしてまた余が仏教を主唱するはその世間に伝わりて、今日に存するものことごとく純全の真理なりというにあらず。その真理にあらざるものはこれを非真理とし、その真理なるものはこれを真理として、また無偏無党の裁判を仏教の上に下さんと欲す。これ余が真理に尽くすの義務なりと深く信ずるなり。

 余すでにヤソ教の非真理なるを知り、なおこれを真理として許すときは自ら欺きまた人を欺くのみならず、もしこの教をわが国に行われしむるに至らば、人知の発達を害し開明の進歩を防ぐるの恐れなきにあらず。すでに今日にありても、ヤソ教の害毒を西洋社会に与うるところをみるに、実におそるべきものあり。今その一例を挙ぐるに、世の婦女子は喜怒愛悪の情感に長ずるも、是非分別の知力に乏しきを常とす。故にこれを誘入して非真理の宗教海中に沈溺せしむるは、はなはだやすしとするところなり。しかるにヤソ教者はまず婦女子を誘引してその法に入らしむるをもって、西洋の婦女子は貴賎上下を論ぜず、大抵みなヤソ教に沈溺するものなり。これをもって世間の学者才子にして、たとえ自らヤソ教を信ぜざるもその配偶を求めんと欲せば、まず陽に宗教を信ぜざるべからず。もし宗教を信ぜざれば、男子たるもの婦女子に向かって交婚を求むることあたわざるの勢いあり。かつ婦女子すでにヤソ教に固着すれば、その生育するところの小児は知力の未だ発達せざるにあたりて、早くすでにこれにヤソ教の思想を与え、幼時の教育をして終生の習慣を養成せしむ。その長じて世間に出づるに及び、ヤソ教すでに上下一般の風俗を形成せるをもって、これを奉ぜざれば共にその社会に立つことあたわざるの勢いあり。これをもって、人をしてヤソ教の外に純全の真理を求むるの見識を生ぜざらしむ。けだしヤソ教のかくのごとく西洋社会に盛んなりしは、中古数百年間百般の学術地を払うに当たり、その教ひとり社会に勢力をほしいままにするに至りたるによる。他語にてこれをいえば、理学の思想にさきだちて非真理のヤソ教人心に入りたるによる。これをもってヤソ教は今日なお欧州社会に行わるるも、大いに人知の発達を害し開明の進歩を防ぐるや疑いをいれず。けだし欧州今日の文明はヤソ教の直接に与うるところの影響にあらずして、その間接に与うるところの影響なり。語を換えてこれをいえば、数百年来ヤソ教の人知を圧迫したる反動によりて生ずるものなり。故にヤソ教はその性質決して社会の開明を助くるものにあらざること明らかなり。これ余があくまで国家のためにこの非真理の宗教を排駁せんことを祈るゆえんなり。

 退きて考うるに、欧州今日の宗教はすでにその今日の事情に適せざるところ多しといえども、その教の依然として社会に勢力を有するは、一はヤソ教者の百方力を尽くし、これをして当時の事情に適合せしめんとするにより、一は千百年来習慣の余力の存するによるのみ。かつ今日にありても欧州過半の人民は無知不学にして、いかなる真理新見のヤソ教の外に存するも更に知らざる者多し。これによりてこれをみるに、ヤソ教を一変して宗教の改進を計るは到底西洋の地にありて望むべからず。これを改良するもこれを一変するも、地球上日本の外その地なきを信ず。故にわが国の学者才子は東洋固有の宗教を拡張して、欧州の宗教を一変するをもって目的とせざるべからず。もしこれに反して、わが国の学者才子はみなヤソ教を奉信して、仏教の拡張はひとり無学無識、無資無力の僧侶にまかするに至らば、わが国西洋と同一にヤソ教国となるの日けだし遠きにあらざるべし。果たしてかくのごときに至らば地球広しといえども、いずれの地にありて宗教の真理を開発せんや。日本人多しといえども、誰人ありてか、わが国の独立を維持せんや。いやしくも真理を愛し国家を思うもの、あに慨嘆せざるべけんや。

 顧みてわが僧侶の内情を察するに、その過半は無学無識にして時勢を知らず。無資無産にして生計に苦しみ、その力仏教を改良して開明の宗教となすあたわざるは必然の勢いなり。わが国大政維新以来、百般の学問工芸みな一時に進歩し、国家富強の基礎したがって定まり、政法治道また大いに興る。ことにさる十四年国会開設の詔ひとたび発してより、上下競うて泰西の学を講じ政法の理を究めて、立憲の政度ようやく全うし、しかして僧侶社会は明治の維新にあうも、依然旧を守り、国会開設の期にせまるも頑眠未ださめず。進みて功を国家に立つるものなく、退きて力を護法に尽くすものなし。しかしてその教法は孤城落日の勢いをなし、存亡旦夕にせまるも更に知らざる者のごとし。ああ、明治二十三年も近きにあり、今後世道人心の変革また昔日の比にあらざるべし。仏者今よりこれを備えざるは、いずれの日にか仏教の再興を期せんや。請う、見よ、今日は仏界落日のときならずや。しかして一人の進みて回天の功を立つるものなし。今時は法林歳寒のときならずや。しかして一人の退きて後凋の節を抱くものなし。実に今日の僧侶は無資力、無精神、無学識、無道徳の極に達したりと称して可なり。およそ人たるもの一志もって護法に立つるなく、一事もって愛国に尽くすなくんば、なんの面目ありてよく社会に対し、よく世間に接せんや。これ実に国家の罪人にしてまた教法の罪人なり。かくのごとき僧侶をもって仏教の改良を実行せんとするは、山を挟んで海を超ゆるよりも難きを知る。もし果たして仏教の改良をかくのごとき輩に委するに至らば、世間無比、万世不二の真理をして、空しく地を払わしむるに至らん。いやしくも真理を愛するもの深く慨せざるべけんや。故に余は方今の学者才子と共にはかりて、あくまでこの教を日本に維持しこの真理を将来に伝え、後の真理を求むるもののために、その針路を学海中に開かんことを祈念し、あわせて東洋固有の文明、日本従来の思想を護持拡張して、将来永くわが国をして西洋に抗敵対立せしめんことを切望してやまざるなり。

 しかるにわが国の青年の才子にして、将来に望みをたくすべきもの、早くすでにヤソ教に入り、その教のために一身を犠牲にせんとするものありという。余これを聞きて、嘆また嘆を加え覚えず流涕潜然たり。ああ、世間識見未だ富まず、思想未だ定まらざる者ひとたびヤソ教に入り、再三これを重ぬれば、習慣の力ついにその門に迷い、活眼を開きてその外に立つことあたわざるに至るは、自然の勢いにして真理を開発すべき力を有する才子をして、空しく非真理の犠牲とならしむ。これ余が感慨に堪えざるところなり。かつこれらの人にしてヤソ教の奴隷となりて、その使役を甘んずるがごときは、ただに一身の栄誉にあらざるのみならず、また一国の栄誉にあらざるなり。その人もし果たして真に国家の有力者ならば、なんぞヤソ教の外に立つの卓識を有せざるや。その人いやしくも国家を愛するの志あらば、なんぞ自国従来の宗教を拡張するの精神を発せざるや。もしその人いやしくも僧侶の無学無識にして共に仏教の再興を図るに足らざるを知らば、なんぞ僧侶の外に仏教改良の策を講ぜざるや。これらの人にして仏教の弊習と僧侶の無学とを厭苦したるは、一段の活識を示すに足るといえども、西洋の糟粕を甘んじ、ヤソ教の奴隷を快しとして一見一識のその上に出でて、仏教を改良して世界の宗教を一変するの点に及ばざるはかえって識者の笑を免れず。たとえ世人はこの卑屈の精神をもって満足するも、余は死すともこれをもって満足することあたわず。ただ余は確固不抜斃而後己〔確固として抜斃して後やまざらん〕の精神をもって西洋人の上に出でて、宗教の真理を学海に開発し、東洋人のさきに立ちて国家の独立を世界に公布せんことを熱望するものなり。

 以上挙ぐるところの道理によりて、余は断然仏教を改良して開明の宗教となさんことを期するなり。これ一は学者の真理を愛求するの目的に合し、一は社会の一個人となりて国家に尽くすの義務を全うするものと信ずるによる。それ余が自ら務むるところ、政治を談じて国憲を拡張するにあらず、経済を講じて国本を養成するにあらずといえども、またあえて素餐遊食、社会の盛衰を顧みざるものにあらざるなり。退きて考うるに、国を興し家をさかんにするの法は、ひとり政治経済にとどまるにあらず。社会の改進をはかり国家の秩序を保つの道は、ひとり有形の学術に限るにあらず。こと間接にわたり力外面にあらわれずして、かえって重大の影響を有するものあり。故にただその外面の一斑をみて、内実のいかんを評すべからず。今宗教はその利害間接にわたり外面にあらわれずといえども、人の精神に浸入し思想に感染するをもって、その弊習を改良するの国家に裨益を与うるは、もとより有形上の学術に一歩だも譲らざるは明らかなり。しかして仏教現今の事情一日も改良を加えずして不問に付すべからず。しかるにわが国の学者傍観座視して、更にその改良のいかんを問わざるは、果たしてなんの心ぞや。余思うてここに至れば、未だかつて慨然として嘆じ、憤然として起こらざるはあらず。これ余がわが国の仏教を改良して国恩の万一に報ぜんと欲するゆえんなり。

 余この改良に関してひそかに自ら経画するところありて、一昨明治十八年は広く内外東西の諸書を捜索し、毎夜深更に達するにあらざれば、寝褥に就かず。褥に就く後といえども、種々の想像心内に浮かび、終夕夢裏に彷徨して堅眠を結ぶあたわず。故をもって、日夜ほとんど全く精神を安んずることなし。かくのごときものおよそ数カ月に及び、心身共に疲労を感ずるに至るも、あえてこれを意に介せず。刻苦勉励常のごとくなりしが、ついに昨春より難治症にかかり、病床にありて医療を加うることここにすでに一年をこゆるに至る。その間、居常怏々として飲食味をなさず、声色楽を生ぜざるも、余なお病をもって心を労せず、ただ仏教改良の策未だ立たざるを憂うるのみ。しかしてまたおもえらく、余がこの病を得たるは仏教改良に苦心したるによる。もし人をして、この病は果たして仏教改良のために得るところの結果なることを知らしめば、たとえ余が身、今死するも、余が真理に尽くすの精神は日月と共に万世に存すべし。思うてここに至れば、いささか余が心を慰するに足る。しかれども、その任ずるところ重く、その期するところ遠し、今中道にして廃絶するに至りては、遺憾自らやむあたわず。余もとより知る、輿論にさきだちて一大宗教を改良せんとするは、その艱難実にいうべからざるものあるを。故に余は今後いかなる艱難の道に当たることあるも、あえて避けざるところなりといえども、すでに一大事を経画して未だその成否いかんをみるに及ばずして、この病患にかかる。余が心あに一日も安んずることあらんや。これをもって治しやすき病症もたやすく治せず、功験多き薬石も功験をみず、空しく病床に臥して戸外をうかがわざること半年の久しきに及べり。一時大いに身体の憔悴をきたしたるをもって、自ら全治の期し難きを知るも、護法愛国の一心に至りては、ただますますさかんなるを覚うるのみ。これ余が病苦を忘れて半年の日子を経過せしゆえんなり。

 余一日病床にありて慨然として嘆じて曰く、当時世間に立ちていやしくも学識を有するものは、みな仏教を厭悪し僧侶を擯斥せざるはなし。しかるに僧侶社会にありては専心鋭意よく護法愛国の志を立つるもの微々として、あたかも暁天の星のごとし。その他はみな無気無力その心中愛国の一片だも有せざる輩にして、畢竟国家の有害物たるに過ぎず。余病中に在りといえども、あにこれを黙視するに忍びんや。これにおいて一時病苦を侵して喋々数万言を縷述し、もって僧家の無精神を痛責したることあるも、いかんせん、未だ一人の余が声に応ぜしものあるを見ず。あに長大息に勝うべけんや。余が病ここに至りて一層加わるを覚う。余かつて無精神の僧侶に対して戒めて曰く、人にして護法愛国の一片を有せざるものは国家の大罪人なりと。しかして今難症にかかり、宿志のいよいよ遂げ難きを知り、自らまた国家の罪人たらんことを恐れ、半夜寒窓に対して旻天に号泣すること数回に及べり。近頃ようやく快方に趣きいくぶんの体力を回復するに至り、天の未だ余をすてざるを知り心ひそかに喜ぶところあるも、わが生もと朝露の一滴を浮世の葉上に結ぶものにして、いずれの日にか忽焉として空中に散ずるを知らず。そもそも貧賎に生まれて貧賎に死するは、余がもとより辞せざるところなるも、この赤心ありてこれを果たすことあたわざるは、余が死すとも決して瞑することあたわざるところなり。しかしてまたおもえらく、たとえ自らその志を遂ぐることあたわざるも、他日もしこの遺志を継ぎて起こるものあらば、またもって余が心を慰するに足るべしと。ああ、仰ぎて仏典をうかがえば真理の精気巻面にあふるるを見、俯して仏理を思えば真理の輝光心内を照すを覚う。実に前代未聞、世界不二の宗教なり、実に完全無欠、万世不変の宗教なり。余輩あに真理のためにこの教を護持せざるべけんや。ああ、余が日夜有するところの赤心これに外ならず。ああ、余が畢生の目的またこの外に出でず。今後いかなる変革の世道人心の上に生ずるも、余誓うてこの心を変ぜざるなり。すでに今日にありて将来を卜するに、あるいは知らん、日本全州ことごとくヤソ教となるの日あらんことを。しかれども余まさに断固としていわんとす、余が一命の存する間は、わが三千四百九十九万九千九百九十九人をしてことごとくヤソ教者となさしむべきも、三千五百万の人をしてことごとくヤソ教者となさしむべからずと。

 以上すでに学者の目的は国家を護し真理を愛するにあるゆえんを述べ、あわせて仏教中に真理の存するゆえん、およびこれを今日に護持拡張するは愛国の一策なるゆえんを弁じたるをもって、これより仏教の真理は果たして純全の真理にして、理哲諸学の原理に合するや否やを論ぜざるべからず。それ仏教は大数八万四千の法門ありというも、これを合類してあるいは大小二乗とし、あるいは頓漸二類とし、あるいは一乗三乗、あるいは顕教密教あるいは聖道浄土等に分かつなり。まず聖道、浄土の名目について、その義解を述ぶるに聖道門は自力難行の教にして、浄土門は他力易行の教なり。しかして聖道門にありて、人もし成仏せんと欲せばまず自らその理を究め、その行を修めざるべからず。浄土門にありては、自身の力によって成仏するを要せず。ただ他の力によりて成仏すべしと勧むるなり。故に一を自力の法とし、一を他力の法とす。自力の修行は難く、他力の修行は易し。これその難易二行に分かるるゆえんなり。今、人の心力は賢明鋭利にしてたやすく事物の道理に通達すべきものあり、無知愚鈍にしてこれに達することあたわざるものあり。その賢明なるものはよく自力の修行によりて成仏すべしといえども、愚鈍なるものに至りては他力の修行によらざるべからざるは問わずして明らかなり。故に聖道門はその目的とするところもっぱら知者学者にあり、浄土門はその目的とするところもっぱら愚夫愚婦にありという。これを宗旨に配するに華厳、天台、倶舎、唯識等の諸宗は聖道門なり、浄土宗および真宗は浄土門なり。通常人の解するところによるに、聖道門は哲学にして浄土門は宗教なり。故に仏教は哲学と宗教と相混じたるものなるも、ヤソ教はこれに反して純一の宗教なりというといえども、これ決してその意を尽くすものにあらず。けだしかくのごとく耶仏両教の性質を分かつは情感より生ずるものを宗教と定め、知力より生ずるものを哲学と定むるによる。しかれども宗教は必ずしも情感より生ずるものに限るにあらず。古代の宗教のごとき全く人の想像より出でたるものは、これを情感に属してしかるべしといえども、理哲諸学の原理に基づきて立てたる宗教は、知力より生ずる宗教といわざるべからず。けだし人は情感知力の両種の心性作用を有するものにして、宗教またこの二種なからざるべからず。ヤソ教のごときは情感の宗教なり、回教またしかり、ひとり仏教に至りては、概してこれをいうに知力の宗教にして、その聖道門のごときは正しく哲理をもって組成したる宗教なり。世間これを評して一種の哲学なりというは、すでにその教の情感の宗教にあらずして、哲学上の宗教なるによるや明らかなり。しかして聖道門の外に浄土門あるは、仏教は知力の宗教の外に情感の宗教を含有するによる。故に余は仏教を評して知力情感両全の宗教なりといわんとす。すなわち知力をやわらぐるに情感をもってし、情感を導くに知力をもってし、知力情感互いに相助けて二者の両全を得せしむるもの、これわが仏教なり。これを社会の上に応用するときは賢愚利鈍、貴賎上下の人をしてことごとく機根相応の利益を得せしめ、開明を進達し野蛮を教導するの良法も、けだしまたこれに過ぎたるものなし。もしこれを一個人の上に服膺すれば、その人、情感知力の権衡を得て、一方に偏して他の発達を害するの弊なからしむ。これによりてこれをみれば、現今開明社会の宗教に適し、将来道理世界の宗教となるべきもの、仏教を離れて他に求むべからざること疑いをいれず。果たしてしからば、わが国将来の宗教を定むるに、仏教を用うるはその他日の益、けだし計るべからざるものあらん。これ余が平素護国愛理の赤心をもって、仏教を改良して国恩の万一に報ぜんことを期するゆえんなり。

 世なにほど開明に進むも、天下に愚民の痕跡を絶つことあたわざるは、余がもとより知るところにして、情感の宗教は全く廃すべからざること瞭然たり。かつ人、知力の宗教のみを求めて全く情感の宗教を欠くときは、また大いに弊害あるべきをもって、知力の宗教に伴うて情感の宗教を保持せざるを得ざること、また言を待たず。故にヤソ教も将来に必要なるは、余がすでに許すところなり。しかるに余が学理上ヤソ教を排して仏教をとるは、第一にヤソ教は情感一辺の宗教なるをもって、これを用うるときは別に知力の宗教を用いざるべからず。仏教はこれに反して知力情感両全の宗教なるをもって、これを用うるときは更に煩わしく他の宗教を用うるを要せず。かつ仏教中の浄土門はその性質情感の宗教なれども、その実聖道門の哲理に基づきて立てたるものなれば、空想中におのずから知力を包含するありて、ヤソ教のごとき情感一辺、空想一方の宗教とはもとより同日の談にあらず。近世に至りてはヤソ教の学者中、道理をもってその空想説を解釈せんことを務むるものありといえども、わずかに牽強付会するに過ぎずして、これをして十分学理に適合せしむることあたわざるは、その書を一読して知るべし。かつその解釈も今日すでに満点に達したるをもって、この上に一歩を進むることほとんど難し。もし強いて一歩を進むるときは、ヤソ教の範囲を脱して一種の新宗教とならん、あるいは思うに一種の仏教とならん。これ余が常にヤソ教に学理上の解釈を与うるときは、その教転じて仏教となるべしと唱うるゆえんなり。しかれども、今後いかなる解釈をヤソ教の上に付会するも、これをして天神特造説およびヤソ昇天説を廃せしむることを得ざるは、余が信ずるところなり。果たしてしからば、ヤソ教は空想一方、情感一辺の宗教たるの面目を改むべからざるなり。もし情感は知力と全くその性質を異にして、二者共に発達するを要せざるにおいては、情感の宗教はひとりヤソ教に定めてしかるべしといえども、情感は知力の発達に従って共に発達せざるを得ざる以上は、これを導く宗教も仏教中の浄土門に定むるを大いに便益ありとす。浄土門は情感中に知力の元素を含有したる宗教にして、情感を導きて次第に高等に進むることを得るは必然なり。かつ高等の情感は知力の発達を待ちて始めて発達するものなれば、情感の宗教も情感一辺に偏したるものを用うるより、情感中に知力を含有するものを用うるの便益あること、また明らかなり。

 これを要するに仏教は聖道浄土の二門ありて、聖道門は哲学の宗教なり、浄土門は想像の宗教なり。語を換えてこれをいえば、一は知力の宗教なり、一は情感の宗教なり。この二門兼備するをもって、仏教は下等社会に用うるも、上等社会に用うるも、知者学者に用うるも、無知愚民に用うるも共に相応の利益あるべし。すなわち知力の宗教は直接に知者学者に適し、情感の宗教は直接に愚夫愚婦に適するなり。しかして愚夫愚婦に適する浄土門中に、またおのずから知者学者に適するものあり。これ他なし、浄土門は想像の宗教中に哲理を含有するによる。これ余が浄土門を評してヤソ教の上に位するものなりというゆえんなり。これ余が仏教を評して、古今不二の宗教なりというゆえんなり。

 かくのごとき完全無比の宗教の三千年前の上古に起こりたるは、一は当時インドの文明他邦にさきだちて開けたるによるというも、またもって釈迦の活眼卓識を知るに足る。およそいずれの国にありても、古代は野蛮にして近世は開明なるを一般の通則となすも、上世に文化盛んにして近世に衰えたるものまた少なしとせず。シナ、インド、ギリシア、ローマ、エジプト、アラビア等これなり。そのうち思想の学問の最も進みたるものをインドとし、インド哲学中その最も完全を得たるものを釈迦の哲学とするなり。実験の諸学は近世に至りて始めて完全を得たりといえども、思想の学問は上古すでにインドに完備し、西洋今日の哲学といえども、決してその右に出づることあたわず。ただ西洋今日の哲学の長ずるところは、理学の実験に考えてその論礎を構成するにあるのみ。しかしてその原理に至りては、三千年前に定むるところのものとすこしも異なることなし。あに嘆服せざるべけんや。

 今、更に仏教の原理の西洋哲学の原理と相合するゆえんを示さんと欲せば、仏教中哲学に属する部分すなわち聖道門の組織を略言するを必要なりとす。そもそも西洋哲学はいかなる諸論をもって組成せるや。曰く、唯物、唯心、唯理なり。他語にてこれをいえば、主観、客観、理想の三論なり、あるいは経験、本然、統合の三論なり、あるいは空理、常識、折衷の三論なり、あるいは一元、二元、同体の三論なり、これを哲学の歴史に考うるに、初めにロック氏経験論を唱え、つぎにライプニッツ氏本然論を唱えたるをもって、終わりにカント氏これを統合するに至り、ヒューム等の学派は唯物に偏するの傾向あり、バークリー等の論は唯心に偏するの傾向あるをもって、リード氏この二者を折衷して物心二元論を起こすに至り、フィヒテ氏は主観をとり、シェリング氏は客観をとるをもって、ヘーゲル氏理想論を唱えてまた二者を調和し、ゲルマン学派は空理に偏し、スコットランド学派は常識に偏するをもって、この二者を統合したるものフランスのクーザン氏なり。スペンサー氏また可知境と不可知境の両端の一方に偏するの弊を恐れて両境を立つるなり。近世哲学の全系けだしこの諸説の外に出でず。しかしてその説おのおの論理の一端に走り、学者その中正を保持せんと欲して未だその目的を達することあたわざるなり。

 しかるに釈迦は三千年前の上古にありて、すでにその一端に偏するの弊あるを察して中道の妙理を説けり。そのいわゆる中道とは非有非空 亦有亦空の中道にして、唯物唯心を合したる中道なり、主観客観を兼ねたる中道なり、経験本然を統合したる中道なり、可知境と不可知境と両存したる中道なり。この中道の中にはあらゆる古来の諸論諸説みなことごとく回帰して、あたかも万火の集まりて一火となり、万水の合して一水となるがごとく、更にその差別を見ず、実に無偏無党の中道なり、公明正大の中道なり。一論として欠くるなく、一説として足らざるなく、真にこれ思想の大海、哲理の源泉にして、古今東西の諸論諸説みなその一滴、または一分子に過ぎず。実に広大無辺の中道なり、円満完備の中道なり。かくのごとき公明正大、円満完備の中道は、世界万世未だかつてその比類を見ず、実に世界不二の中道なり、万世無比の中道なり。その理の幽玄微妙なる口舌のよく開示するところにあらず。筆紙のよく模擬するところにあらず。その妙真に言語文章の外にありて、ただこれを単に妙というてやまんのみ。

 しかるに釈迦はこの中道の妙理を開顕するに五時の説教あり。第一時に華厳経を説き、第二時に阿含経を説き、第三時に方等経を説き、第四時に般若経を説き、第五時に法華涅槃経を説く。法華涅槃はいわゆる中道の妙理を説きたるものなり。阿含は有を説き、般若は空を説く。その有とは万物の実体真に有りと立つるものにして、その空とは万物の実体なしと唱うるものをいう。これを大小二乗に配するときは、阿含は小乗にして、般若は大乗なり。小乗とは仏教中の浅近なる部分をいい、大乗とは高尚なる部分をいう。しかして大乗中の大乗を中道とす、すなわち法華涅槃これなり。華厳も中道の一なり。ひとり方等は有空相対して説くをもって、大小両乗に通ずるものとす。またつぎにこれを宗旨の上に考うるに、仏教中に倶舎、成実、法相、三論、華厳、天台の諸宗あり。この諸宗はあるいは直ちに釈迦の経文について開きたるものと、あるいは釈迦の後に起こりたる諸師の論文について開きたるものあり。一を経宗といい、一を論宗という。華厳、天台は経宗なり。倶舎、成実、法相、三論は論宗なり。この経論両宗を大小二乗に配するに、倶舎、成実は小乗宗なり。法相、三論、華厳、天台は大乗宗なり。またこれを有空二門に配するに、倶舎、成実は有門なり。法相、三論は空門なり。華厳、天台は中道なり。しかしてまた有宗中にも有空の二門ありて、倶舎は有門、成実は空門なり。空宗中にも有空の二門ありて、法相は有門、三論は空門なり。これを統合したるものを中宗とす。中宗はすなわち華厳、天台の中道をいう。中道とは有にして有にあらず、空にして空にあらず、有と空の中を立つるものをいう。故にこれを非有非空の中道とも亦有亦空の中道ともいうなり。しかしてこの諸宗中、余が主として論ぜんと欲するものは、倶舎、法相、天台の三宗なり。これをさきに述ぶるところの唯物、唯心、唯理の三論に配するに、倶舎は唯物なり、法相は唯心なり、天台は唯理なり。すなわち倶舎は物体を主として説き、法相は心体を主として説き、天台は非物非心の理体を主として説くによる。その理体これをここに真如という。それ真如の理体たる物にもあらず心にもあらず。故にこれを非物非心という。これを非物非心というも、その体全く物心を離れて別に存するに非ず。物心すなわち真如の理体なり。故にこれを唯理というももとより理の一辺に偏するものを義とするにあらず。いわゆる中道の妙理なり。その理すなわち非有非空の理にしてあわせて亦有亦空の理なり。語を換えてこれをいえば、非物非心の理にしてあわせて亦物亦心の理なり。故にあるいはこの理を名付けて完理または中理と称すべし。

 さてこれより有空中すなわち物心理三宗の性質を考うるに、第一に唯物宗すなわち倶舎宗の大要を略言せざるべからず。倶舎宗は仏教中の初門にして、その意世俗一般に主観すなわち我境の実在を信じ、彼我差別の見を離れず、ために迷いを起こして心を苦しむるをもって、その苦を去らんと欲し唯物の理を説くものなり。故にその宗に説くところ、我境は空にしてその体なしという。すなわち五蘊四大と称する諸元、種々集散分合して仮りに我境を結ぶのみ。故にこれを分散すればまた我境なしという。しかれどもその諸元の実体は真に有りと立つるなり。すなわち倶舎に三世実有 法体恒有というものこれなり。しかしてその諸元を分析して更に分かつべからざるの点に至れば、これを極微と名付く、極微とはいわゆる化学的の元素なり。この元素相集まりて物質を形成す。倶舎の極微所成というものこれなり。故にこれを散ずればまた元素に帰すべし。元素の体はつねに存すれども、これより形成せる万物はその変化定まりなし。この理によりて我境の実体なきを証す。故に余は倶舎をもって唯物論とするなり。あるいはこれを哲学中の実体論とも称すべし。実体論は万物の実体真にありと説くをもって、倶舎の法体恒有の説とやや同一なるがごとし。しかれどもその説の詳細なる点に至りては、二者の間多少の異同あるを免れず。別して倶舎の唯物論と西洋の唯物論とは大いにその性質を異にするところあり。西洋の唯物論は物質の外に心性なしと唱うれども、倶舎は物心二元を説きて、物質と心性両存を立つるなり。すなわちそのいわゆる五蘊とは色、受、想、行、識の五種にして、色は物質なり、受想行識は心性なり。この物と心と相合して仮に人を形成するという。これによりてこれをみれば、倶舎は哲学中の二元論なり。しかして余がここにこれを唯物論に属したるは、諸元相合して人を成し、極微相集まりて物を成し、これを分析すればただ一定の諸元あるのみと唱え、その説西洋の唯物論と同一理に基づくによる。ただその元素中に心性の一元を加うるをもって、西洋の唯物論に異なるのみ。これを要するに、倶舎は我人の身体は若干の諸元より成り、その諸元を離れて別に我と称すべきものなしと立つれども、その諸元の実体に至りては真に存せりという。故に倶舎は我境の実体なきを証示すれども、未だ我境を組成せる諸元の実体なきを説明せず。これを仏教にては我執を空して法執を空せずという。すなわち我執とは我境の実体真にありと固執するをいい、法執とは我境を組成せる諸元の実体真にありと確信するをいう。この我法二執を空滅して、彼我両境の実体なきを証示するは大乗の諸説に限る。しかして倶舎の法執を空するの力なきは、その教の小乗にして仏教中の浅近なる法門なるによるなり。

 小乗中倶舎のつぎに成実宗と称するものありて、倶舎は小乗の有門、成実は小乗の空門なることはさきにすでに示したるところなるが、成実を空門とするはその説ただに我境を空するのみならず、諸元の体もまた空なりというによる。故に成実は小乗極まりて大乗に入らんとするの階梯にして、小乗極まりて大乗の初門に入るは唯物論変じて唯心論となるものなり。小乗倶舎にありては諸元の実体真に存せりと立つれども、一歩を進めてその体のいかんを思えば、その真に存するや否やも知るべからず。ただにその存否のいかんを知るべからざるのみならず、元素の実体のいかんもまた知るべからず。これを西洋の哲学に考えてその理を示すに、唯物論者は物質の外に心性なく、物質は若干の元素よりなるというも、その元素はいかなるものにして、いかにして生ずるかの問題に至りては、決して物理上の解釈を与うることあたわず。けだし物理の解釈この点に至りて極まる。しかして顧みて心界のいかんを思えば我境は実に空なり、諸元の体は実に有なりと想するもの全く心性の作用にして、元素の実体知るべからず、その存否定むべからずというもまたみな思想の作用に外ならず。すなわち知るべし、この世界は心性思想の範囲中にありて存するを。他語にてこれをいえば、森羅の諸象はことごとく心体の鏡面に浮かぶところの影像にして、その出没変化あるは思想海中の波動に過ぎず。故に唯物より一歩を進めれば唯心に帰すべし。唯心上物界の諸象は心界の変化より生ずと立つるもの、これ仏教中法相宗の唱うるところにして、すなわち森羅万象 唯識所変と談ずるものこれなり。法相宗は一に唯識宗という。唯識とは余がいわゆる唯心なり。今その立つるところをみるに、万物万境の開発を証するに八種の心性を設くるなり。その第八種の心性を阿頼耶識と称す。これを訳して蔵識という。すなわちその心体中に万物万境の元子を含蔵し、その元子の体開発して万物万境を現ずるによる。故にこれを頼耶縁起と称す。すなわちその説阿頼耶の心体を立つるによる。その心体はカント氏およびフィヒテ氏の絶対主観とやや同一なるがごとし。故に法相宗は唯心論なり。

 法相の唯心論はこれを小乗の諸宗に比するに、我境を空なりとし、かつ我境を組成せる諸元の体を空なりとし、いわゆる我法二執を空滅して唯識所変の理を証立するをもって、これを空宗とするなり。しかれどもさきにすでに示すごとく、大乗の空宗中にも有空の二門ありて、法相は有門、三論は空門なり。法相を有門とするは、その説心外の諸境は虚妄なりと立つれども、心内に現ずるところの諸象は有にして、空に非ずと定むるによる。この諸象を空滅して一切皆空の真理をあらわすもの、これを三論宗とす。故に三論宗は大乗中の空門なり。かくのごとく、内外の諸象諸境を空滅して、その極点に達すれば一理体の歴然として存するをみる。これ空門の極まりて中道に入るものなり。

 中道は大乗の奥義にして有空両門の極まりたるところなり。すなわち華厳天台両宗の唱うるところのものこれなり。その説これを法相の頼耶縁起に対して、真如縁起と称す。すなわち物心二元を真如の一理に帰して、この理の外に物もなく、また心もなしと立つるによる。これ余がこれを中道宗と名付けて、唯物唯心を合したる唯理論と称するゆえんなり。しかしてこれを中道と称するは、さきにしばしば述ぶるごとく、小乗の倶舎は有に偏し大乗の初門は空に偏するの癖あり。また大乗中法相は有に偏し、三論は空に偏するの癖あるをもって、その有空の両端を接合して中庸をとるによる。つぎにこれを真如の理体の上に考うるに、物質の外に我境なしと立つる唯物論は物の一方に偏し、心性の外に万境なしと定むる唯心論は心の一方に偏し、共に中正の論にあらず。けだし物と心とは互いに相対待して存するをもって、物心は相対の名なり、なお左右というがごとし。左なければ右もまたなく、右なければ左もまたなき理なり。故に物のみありて心なしというも、心のみありて物なしというも、共に一僻論たるを免れず。さきにすでに倶舎の唯物論進んで大乗の唯心論となりたれども、これを唯心と立つるは、能観の心の外に所観の境なしと立つると同一なり。他語にてこれをいえば、主観ありて客観なしというに同じ。主観は客観に対して並存するものにして、客観なくして主観ひとり存すべき理なし。故に物心の本体を定むるにはまず非物非心の理体を立つるより外なし。その理体これを真如という。真如は物にして物にあらず、心にして心にあらず。いわゆる非物非心にしてまたよく是物是心なり。これを非有非空 亦有亦空の中道という。故に余はここに唯理論の名を用うるも、その説あえて理の一辺に偏するものをいうにあらず、理と物心と相合して不一不二の関係を有するものをいうなり。これ余があるいはこれを名付けて中理論、または完理論と称するゆえんなり。

 今ここに真如中道の妙理を解するにあたり、まず天台のいわゆる一心三観 一念三千の法門を略弁せざるべからず。しかして一心三観の理を解するには、まず空、仮、中、三諦の関係を知らざるべからず。我人目前に見るところの万物、その宝体を究索するに、一としてつねに存し、永く住するものなし。故にその体すべて空なりとす。これを空諦という。しかしてその目前に見るところの万物の諸象は、現に存するものにして空にあらず。これを仮という。すなわち万物はその実体空なるも、内外の諸事情相合して、仮に目前に結ぶところの諸象は有にして空にあらずという。かくのごとく、空にして有、有にして空なるをここに中というなり。これを合して空仮中の三諦とするなり。この三諦の理、一心の中にありと観するを一心三観の法門という。その一心の中に本来千万の諸象を具して彼我の諸境を現示するは、そのいわゆる一心三千の妙理なり。その一心の開きて三千となり、一理の発して万境を生ずるゆえんは、以下逐次略明せんとす。

 古来哲学上の研究によるに、物心の二元初めよりその体別なるに非ず。太初物心未開のとき、すでに非物非心の原体存するありて、その体よく物心二元を開発するゆえんはたやすく了すべしといえども、その原体いかにして二元を生じ、その二元いかにして原体と相関するかの二大疑問に至りては、今日未だ完全の解釈を与えしものあるを見ず。ひとり仏教中にその解釈の完全なるものを得たり。今その理由を示さんと欲せば、まず体象力の関係を論ぜざるべからず。物心は象なり、真如は体なり、物心の真如より開発するは力なり。象と力とは我人の直ちに接するところなれども、体は我人の知らざるところなり。しかしてよくその体あるを知るは、その象の現ずるにより、その象の現ずるはその力の発するにより、その力の発するはその体の存するによる。故に我人直ちにその体の存するを知らざるも、その象とその力との生ずるゆえんを推すときは、またその体あるを知るべし。言を換えてこれをいえば、体は力の原因に名付け、象は力の結果に名付くるをもって、すでにその果あればその因なかるべからず、すでにその象あればその体なかるべからざるの理なり。けだし真如はその自体に有するところの力をもって、自存、自立、自然にして進化し、自然にして淘汰して物心両境を開き、万象万化を生ずるものなり。これをもって、天台にては真如の理体に本来三千の諸法を具するゆえんを論じ、また起信論には一心より二門を開き、二門より万境を生ずるゆえんを説けり。これを要するに万境の生ずるは、その初めすでにこれを生ずべき力ありて存せざるべからず。しかして宇宙間に真如を離れて世界なきをもって、その力は真如界中にありて存せざるべからず。故に真如はその未だ物心を開発せざるに当たりて、すでにこれを開発すべき力をその体中に有するものと断言するも、理のもとより許すところなり。

 つぎに物心二元のいかに真如の理体と相関するかを尋ぬるに、天台にてはこの二者を同体不離と立つるなり。これを同体というも、二者必ずしも同一なるに非ず。故にこれを一にして一にあらず、二にして二にあらずという。今その理を知らんと欲せば、まず相対と絶対との関係を知らざるべからず。物心二者は互いに相対して存するをもって相対門に属し、真如の理体は純一不二なるをもって絶対門に属す。かくのごとく定むるときは、まずこの絶対門は相対門の内にあるか外にあるかの疑問を判定せざるべからず。もしこれを外にありとするときは、我人の心よく絶対の体のいかんを知るべき理なし。なんとなれば、我人は相対の中にあるをもって、その心に想するところのものみな相対のみなればなり。故に絶対果たして相対の外にあるときは、その体我人の知識の範囲外にあるなり。知識の範囲外にあるもの、我人いずくんぞよくこれを知り、かつこれを論ぜんや。しかるに我人いやしくも、その有無を知り、かつこれを論ずる以上は、その絶対の体我人の知識内に存すべき理なり。すなわち絶対は相対を離れて別に存するに非ざるゆえんを知るべし。易のいわゆる太極は絶対なり、両儀四象は相対なり。この相対の体は太極に非ずというときは、太極は万物の外にありて存せざるべからず。もし太極すなわち万物にして、万物すなわち太極なりというときは、絶対相対の同体不離なるゆえんを示すものなり。しかれども、シナ学者の太極説はこの同体不離の関係を明知せざるもののごとし。つぎに西洋にありてはシェリング氏の哲学は相対の外に絶対を立つるをもって、ヘーゲル氏これを駁して相絶両対不離なるゆえんを証せり。今仏教に立つるところのものはこの両対不離説にして、ヘーゲル氏の立つるところとすこしも異なることなし。すなわち仏教にては相対の万物その体真如の一理に外ならざるゆえんを論じて、万法是真如といい、真如の一理、物心を離れて別に存せざるゆえんを論じて真如是万法といい、あるいはまた真如と万物と同体不離なるゆえんを論じて、万法是真如 真如是万法、色即是空 空即是色という。色はすなわち物にして、空はすなわち理なり。なお物即是理 理即是物というがごとし。この関係を示すに水波のたとえをもってす。水は絶対の真如に比し、波は相対の万物に比し、万物の形象一ならざるは波の形象万殊なるに比し、真如の理体の平等普遍なるは水の体の差別なきに比し、真如是万法 万法是真如、色即是空 空即是色の関係を例えて、水即波、波即水といい、万物と真如の相離れざるゆえんを示して、水を離れて波なく、波を離れて水なしという。しかしてそのいわゆる万法とは万有というがごとし。かくのごとく論ずるを真如縁起という。

 今、更にこの真如と万法との同体不離の関係を明らかにせんと欲せば、平等と差別との関係を説かざるべからず。差別は平等ならざるに名付け、平等は無差別に名付く。今、真如の理体は常住普遍にして絶対不二なるをもってこれを平等とし、物心の諸境は彼我万差の諸象を有するをもってこれを差別とす。故に物心二元は差別なり、非物非心の一元は平等なり。直ちにこれをみれば、平等は差別に非ず、差別は平等に非ざるをもって、二者全く相反するもののごとしといえども、深くこれを考うれば差別平等の同一なるゆえんを知るべし。例えば平等は差別にあらず、差別は平等にあらざるをもって、平等も差別も共に差別あり。かくのごとく論ずるときは平等すなわち差別となる。平等も差別なり、差別も平等なれば二者同一にしてその間差別なし。かくのごとく論ずるときは差別すなわち平等となる。この理を推して絶対相対の関係を知るもまた容易なり。絶対は相対にあらず、相対は絶対にあらずといえども、相対は絶対に相対して存し、絶対は相対に相対して存するよりこれをみれば、絶対すなわち相対なり。絶対も相対にして相対も相対なれば二者同一にして、これに相対するものなし。かくのごとくみるときは、相対すなわち絶対となる。これをもって万法是真如 真如是万法、色即是空 空即是色の関係を知るべし。

 これによりてこれをみれば、物心の万境と真如の一理とは同体不離にして、その間差別をみることなし。しかるにその差別を有するはいかにというに、これまた比喩をもってたやすく証示することを得べし。これを例うるに、物心二元は一枚の紙に表裏の二面あるがごとし、表面よりこれを見てこれを物といい、裏面よりこれを見てこれを心という。すなわち心は物にあらず、物は心にあらざるは、なお表面は裏面にあらず、裏面は表面にあらざるがごとく、心は物に対して存し、物は心に対して存するは、なお表面は裏面に対して存し、裏面は表面に対して存するがごとし。表裏はすなわち相対なり。しかれども表裏その体全く異なるにあらず。一枚の紙すなわちその体なり。紙の体を離れて表なくまた裏なし。故に紙の体よりこれをいえば、その体すなわち絶対なり。しかれども表裏を離れて別に紙の体なきをもって、絶対は相対を離れて別に存するにあらず。相対の表裏すなわち絶対の紙体なり。かくのごとく一枚の紙体にして、表裏の差別を有し、表裏の体すなわち紙なるをもって、一真如の体にして物心の差別を有し、物心の体すなわち真如なるゆえんを知るべし。かつ表裏と紙体とはまたおのずから異なるところあるをもって、真如と物心の同一ならざるゆえんまた知るべし。これを要するに真如と物心の関係は同すなわち異、異すなわち同なり。一にして二、二にして一なり。これを仏教にては円融相即の法門という。天台家に談ずるところのものこれなり。

 再びさきに挙ぐるところの空仮中の三諦の理を考うるに、心鏡の表面に一点の妄塵なきこれを空といい、その面に諸象歴然として現見するこれを仮といい、鏡体これを中という。この三者すなわち一、一すなわち三なるを三諦円融の妙理という。これ理をもって煩悩即菩提 生死即涅槃の理を知るべし。涅槃は真如の理体、菩提はこれを証する知恵にして共に平等の絶対なり。これに反して煩悩および生死は差別の相対なり。その他これによりて理具即事造、事造即理具の理を了すべし。理具とは真如の理体に本来差別の事物を具して、すこしもその象を見ざるをいい、事造とはその差別の事物開発してその象を外に現ずるをいう。この三者互いに相融通して、おのおのその他を具備するをここに理具即事造、事造即理具というなり。

 以上すでに物心の同体なるゆえん、万境と真如の同体なるゆえん、およびその同体にして差別を有するゆえんを証せしをもって、これより物心の一部分と真如の全体といかに相関するかを究めんとす。直ちにこれをみれば、物心二者相合して真如とその体を同じうするをもって、物は真如の一半にして、心また真如の一半なりといわざるべからず。果たしてしからば、一半の心にしてよく真如の全体を想出するははなはだ解し難きに似たれども、これまたあえて怪しむに足らず。心は真如の一部分にして同時に全体をその中に含有せざるを得ざるなり。これを例うるに、一枚の紙の一半を示すところの表裏の各面のごとし。表面よりこれを見るも、裏面よりこれを見るも、ひとしく紙の全体を現ず。物心またしかり。物の一半よりこれを見るも、心の一半よりこれを見るも、ひとしく真如の全体をその上に現ずるなり。

 およそ真如界に現ずるところのものは、物心の一半ひとりよく真如の全体を含有するのみならず、事々物々みな真如の一部分にして、またよくその全体を包容すべし。これを例うるに、我人の眼球は宇宙の一部分にして、またよく宇宙の全体をその内に浮かぶるにあらずや。宇宙もし眼中に入るにあらざれば、我人宇宙間の諸象を見るあたわず。わが心真如の体に通ずるにあらざれば、その体の存するゆえんを知るべき理なし。これをもって宇宙間に存するところの事々物々、みなその中に真如の全体を含有するゆえんを知るべし。故に仏教には芥子納須弥、須弥納芥子の語あり。華厳宗に談ずるところの事々無礙の法門、またこの理に基づく。その法門とは一塵一毛もその体真如より現ずるをもって、おのおのその中に真如の理を具すると唱うるものをいう。これによりて宇宙間の事物互いに相融通して、更にその間に隔歴するところなきを知るに足る。その他、仏教中に十界互具の義ありて、十界中おのおの他の九界を具するゆえんまた推知すべし。

 かくのごとく論ずるときは、事々物々一として真如ならざるはなく、微花小草もみな真如の理を具し、一滴の水も一点の雲もみな真如の理を具す。故に涅槃経に諸動物ことごとく本来真如の理性を具するゆえんを述べて、一切衆生 悉有仏性と説けり。仏性はすなわち真如の理体なり。ただに動植物この仏性を具するのみならず、金石土木みなこれを具するゆえんを述べて、円覚経に衆生国土 同一法性といえり。これをもって、天台にては草木国土 悉皆成仏の法を談ず、これを一乗の法という。しかるに法相宗にありては三乗各別と立てて、諸生物にその種類を分かち、おのおのその類に従って得るところの果に不同ありと説くといえども、天台一乗の法門に至りてはただに禽獣草木のみ成仏するにあらず、国土山川みなことごとく成仏すべしと立つるなり。

 更にこれを実際に考うるに、人類は成仏することあるも未だ禽獣草木の成仏せしを聞かず。いわんや、国土山川においてをや。また人類中にも賢愚利鈍ひとしく仏性を具するをもって、みなことごとく成仏すべき理なれども、成仏するものとせざるものとの別あるはいかんというに、これ成仏の原因を修むると修めざると、成仏の事情を得ると得ざるとによる。例えば氷は水と同体なれども、これを溶解せざれば水とならざるがごとし。氷堅きものはこれを溶解する難く、氷薄きものは易し、動植土石のごときは氷の最も堅きものなり。故に成仏する最も難し。人類はその最も溶解し易きものなれども、そのうちまた厚薄の不同ありて、成仏に難易の別を生ずるなり。故に人ことごとく仏性を具するも、その厚薄難易の度に従ってこれを開発する原因を修めざれば、煩悩の氷を溶解するあたわず。煩悩の氷溶解せざれば成仏の果を得るあたわず。煩悩とは仏性を纏縛する惑障をいう。これをもって仏教は修行の階級を立てて成仏の道を教うるなり。

 かくのごとく我人同一に仏性を具するをもって、みなことごとく成仏の果を得べき理なれども、成仏の道を修めざればその果を得ることあたわずと教うるもの、これいわゆる因縁の道理なり。因は原因にして、縁は事情なり。因縁相合して生ずるもの、これを果という。果は結果なり。もし人、本来仏性を具せずして、成仏の果あるものとなすときはこれ因なきに果あるものなり。もし本来仏性を具するもの、成仏の道を修めずしてその果を得るものとなすときは、これ縁なきに果を得るものなり。これを例うるに、氷体もし水ならざればこれを溶解するも水となるべき理なく、またこれを溶解すべき事情を得るにあらざれば水とならざるがごとし。すでに成仏の果あるは仏性を有するによる。仏性を有するものことごとく成仏せざるは、その道を修めざるによる。これみな因果の理にして一因あれば必ずその果あり、一果あれば必ずその因ありといえる規則これなり。故に仏教の成仏を談ずるは、全く因果の規則に基づくものと知るべし。しかして縁すなわち事情は因を助けて果を生ぜしむるものなるをもって、果に対してこれをみれば縁もまた一原因なり。故にもし因を分かちて内因外因となすときは、内因はそのいわゆる因にして、外因はそのいわゆる縁なり。かくのごとく解してもまた不可なることなし。

 この因果の規則は理学の原理にして、今日唱うるところの物質不滅、勢力保存の理法に応合するものなり。けだし物質は千態万状の変化を営むも、その元素に至りては一定の数量ありてすこしも増減生滅あることなし。また勢力は事情の異なるに従い、種々その作用を異にするも、その定量に至りてはすこしも増減生滅あることなしという。この理を推してこれを考うるに、一因あれば必ずその果なかるべからず、一果あれば必ずその因なかるべからず。一物の生ずる必ずそのよりて生ずる原因あり、一事の起こる必ずそのよりて起こる事情あるは理のもとよりしかるところなり。もしこれに反し、因なきに果を生じ、事情なきに事物の起こるあらば、物なきに物を生じ、力なきに力を生ずることあるべし。これ全く物質不滅、勢力保存の理法に反するものなり。故に仏教の因果の規則に基づきて成仏の理を談ずるは、今日の学説に符合せるものというべし。

 今、更にその因果の理法はいずれより生ずるかを尋ぬるに、その理法はすなわち真如自体の規則といわざるべからず。なんとなれば、我人の意識内の現ずるところの万象万化一として真如ならざるはなく、宇宙至るところ必ず因果の理法ありて存するをみればなり。故にこの理法は真如自体の性質にして、真如の理の存するところ必ずこの理法ありて存するなり。しかるに我人の経験上因果の理法の外に別に一理の存するがごとく見ゆるは、その理の真に存するにあらずして、我人の知識の範囲小なるによる。けだし事物の原因結果共に我人の知識内にあるときは、これを必然に起こるものといい、その外にあるときは偶然に起こるものという。すなわち必然とは因ありて果あるものに名付け、偶然とは因なくして果あるものに名付くといえども、我人経験上因なくして果あるものをみるは、わが知識の範囲小にして、その果を知りてその因を知らざるのみにて、その因真に存せざるにあらず。故に我人の知識の範囲いよいよ大なるに至れば、偶然の事実は次第に減じて必然の道理に帰せざるを得ず。すでに今日にありても、昔日偶然と信ぜしものの必然となりしは幾多あるを知らず。これを推して将来を卜するに、他日必ず世界の事物はことごとく必然の一理に帰するときあるべし。これを要するに真如界にはその自体に有するところの因果必然の理法ありて、その間に生存するものみなこの理法に従わざるべからざるの理なり。故に仏教にては因果の理法は仏陀の作為にも非ず、人天の造作にも非ずと説きて、仏もその因を修めざれば自ら要するところの果を生ずることあたわずと立つるなり。

 この因果の理法を立つるときは過去、未来、現在の三世を説かざるを得ず。三世とは人の一生の前後のみをいうにあらず、すべて時の前後をいうなり。今日にありては昨日を過去とし、明日を未来とす。昼にありては朝を過去とし晩を未来とす。これをもってこれを推すに、一分一秒時間にも早くすでにこの三世の差別ありて存するを知るべし。しかして今日今時に修むるところの因はその果を未来に生じ、今日今時に生ずるところの果はその因を過去に修むるによるというもの、これを三世因果の規則とす。故にすでに因果あれば時の前後なかるべからず。因は前の時にあり、果は時の後にあり。これ仏教にて三世を説きて教を立つるゆえんなり。しかしてこの三世の間に事物の変化遷流するは、因果の応報によるというより外なし。例えば今日今時に雷鳴することあるは、その前の時すなわち過去にすでにこれを催すべき事情ありしにより。また今日今時に降雨を催すべき事情あるときは、必ずその果を未来の時に生ずべし。これを推して人事を思い、人心を考うるに、生前死後の因果応報もまた説くことを得べし。これをもって仏教には六道輪廻を談ずるなり。

 かつ仏教にては通常説くところによるに、我人世々転生してその六道の間に出没するもの、これを生死の迷とし、その迷を離れて生滅なきものに至ればこれを涅槃の悟とす。涅槃はすなわち真如の理体なり。これを哲学上にては現象無象の両界とす。生死の境はすなわち現象界にして涅槃の体はすなわち無象界なり。今世界はその現象の上よりこれをみれば、生滅出没の変化ありていわゆる生死あれども、無象の実体に入りてこれをみれば、不生不滅ならざるべからず。故にその体すなわち涅槃なり。しかして物ひとたび迷の因を得れば生死海に浮沈して涅槃の岸に至ること難きは、物理学にいわゆる習慣の規則あるによる。すなわちひとたび生死の習慣を生ずる以上は、その習慣力によりて世々転生するも涅槃の理体に帰することあたわず。もし涅槃の理体に帰せんと欲せば、よろしくこれに反対したる習慣を養成せざるべからず。あたかも動物の進化してひとたび人類となれば、その代々有するところの遺伝性によりて、また以前の動物に帰ることあたわざるがごとし。もしこれをして動物に帰せしめんと欲せば、人類の遺伝性を変化して動物の遺伝性を養成せざるべからず。そのいわゆる遺伝性は余がいわゆる習慣力なり。しかしてこの習慣力なるものまた全く因果の規則に基づくものなり。すなわち数世間相続したる因は、またその果をして相続せしめんとするの性あるによる。

 かくのごとく仏教に生死を説き六道を談ずるは、前に述ぶるところの物質不滅、勢力保存の原理を応用したるものに外ならず。もしこれを真如一元の理体についていえば、その体不生不滅なるをもって、その体より生ずるところの物心の変化は外見上生滅あるも、その実時の前後にわたりてすこしも増減生滅あるべき理なし。もしこれを物心二元の現象についていえば、物も心も共に不増不減なるをもって、たとえ目前一時の出没変化あるも、その実時の前後にわたりてまた決して増減生滅あるべき理なし。すでにその体その象共に時の前後にわたりて増減生滅なき以上は、その間に現見する変化は因果の応報によるというより外なし。すでに因果の応報によるときは、その因よきものは良果を生じ、その因悪しきものは悪果を生ずべき理なり。この理によりて仏教にては善因善果 悪因悪果の応報を談じ、現世の吉凶、来世の禍福を教うるなり。かつすでに今日の因はその善悪の果報を未来に生ずべきを知る以上は、現世の禍福はその原因過去にありて存せざるを得ずというも、また理のしかるところなり。故に仏教の三世因果、六道輪廻は全く空想より出づるものにあらずと知るべし。

 以上論ずるところによるに、仏教は真如の理体を道本とし、因果の理法を規則とし、これを宗教の上に応用して安心立命の道を教うるものなり。これ余がしばしば仏教は哲学の論理に基づき、理学の実験によるものなりというゆえんなり。しかれども上来は主として仏教中哲学に属する部分、すなわち純正哲学に関する部分のみを論ぜしをもって、これよりその理を宗教の上に応用するゆえん、および仏教の目的を略言するを必要なりとす。

 およそ仏教の目的は転迷開悟とも断障得果ともいうて、その要、安心の二字に外ならず。他語にてこれをいえば、脱苦得楽なり。けだし迷は苦なり、悟は楽なり。迷を転じて悟を開くは苦を去りて、楽につくなり。これをもって、仏教の目的は禍害を去りて幸福を求むるにあるゆえんを知るべし。

 今、仏教中各宗に教うるところの安心立命、脱苦得楽の法はいかんというに、まず倶舎にありては人の迷いを生じて心を苦しむるには、彼我差別の見を有するによる。しかるに我境のなんたるを究むれば、もとより実体あるにあらず。しかしてその体実に有りと思うは迷にして、その迷を離るるものこれ悟なり。故に人たるものその迷を去りて、彼我の間にその心を苦しめざらんことを要すと勧むるなり。つぎに法相宗にありては心の外に物ありと思うは迷にして、森羅万象 唯識所変と観ずるは悟なり。およそ人のその心に苦を生ずるは、心の外に物ありと迷うによる。故にその迷を去ればただ楽あるのみと教うるなり。つぎに天台宗にありては空、仮、中、三諦の理、わが一心中にありと観じて中道の妙理を体するなり。その他、諸宗談ずるところおのおの異なりといえども、その要に至りては一味にして二致あることなし。今、ここにそのいちいちを挙ぐるにいとまなきをもって略するのみ。

 果たしてしからば、仏教の目的も幸福に外ならざるなり。しかれどもその幸福は未来の幸福にして、今世の幸福にあらずというものあれども、仏教は現未二世の幸福を勧むるものなり。ただし浄土一門のごときはひとり未来の幸福を勧むれども、その意未来の幸福を求むればこの世の幸福おのずから生ずべしと教うるをもって、全く現世の幸福を顧みざるものにあらず。またあるいは仏教の幸福は心性の快楽に外ならずして、肉身の快楽を勧むるものにあらずというものあれども、これ仏教は宗教にして有形の学術にあらざれば、またやむをえざるなり。故に肉身の快楽を増進するの方法は、これを生理、器械、製造等の諸学に譲り、ひとり心性の幸福を増進するをもってその目的とす。しかれども心性の幸福おのずからその影響を肉身上に及ぼし、心身共に安楽の地位に達することを得べきをもって、心性の幸福を勧むるものは肉身の幸福もまたおのずから助くるに至るべし。しかしてここに人の仏教に対して難詰するは、その心性の幸福を勧むるの方法は、肉身の幸福を害する方法を用うるというの一点にあり。これ余が後に至りて再び論ぜんと欲するところなり。

 更に問を発して仏教のいわゆる幸福は一人の幸福をいうか、また衆人の幸福をいうか。余これに答えてもとより衆人の幸福なりといわんとす。しかれども仏教中小乗のごときは自利のみありて利他なきをもって、これ一人の幸福を主とするものといわざるを得ざるも、かくのごときは仏教中の浅近なるものにて未だ完全の宗教と称し難し。そのいわゆる大乗は自利利他兼行を目的とするをもって、衆人の幸福を勧むるものなり。これ泰西諸学家の今日唱うるところの最大幸福説と同一に帰するものなり。

 これを要するに仏教の目的はその帰するところ現未両世、心身内外、自他衆人の幸福快楽を兼全ならしむるにあるも、その時とその人とに応じて必ずしも両全を勧むるにあらず。人もし肉身の幸福の一方にはしりて心性の幸福を求むることを知らざるときは、これに教うるにひとり心性の幸福を求むべきゆえんをもってし、現世目前の幸福の一途に迷うて未来永遠の幸福の存することを知らざるときは、これに勧むるにひとり永遠の幸福をもってし、その人愚鈍にして自利利他兼行するの力なきときは、これに授くるに一人の幸福を全うする道をもってすることあり。これみなやむをえざるに出でたるものにして、その本意に至りてこれをみれば、現未心身、自他兼全の幸福を目的とすること明らかに知ることを得べし。

 以上論ずるところ、これを要するに仏教は唯物に始まりて中理すなわち中道の理に終わる。これを仏教中哲学の組織とす。その哲理を応用して安心立命の道を立つるをもって、仏教は哲学上の宗教なること問わずして明らかなり。すなわち知力的の宗教なり。しかるにここに一言を加えざるを得ざるは、釈迦は何故に一仏教中に唯物、唯心、中理の三論を併説するや、いずれの説をもって真実としてしかるべきやの点を解釈するにあり。その論に曰く、唯物、唯心、中理の三説中の一説のみ真実ならば、他の説は虚偽ならざるべからず。釈迦は何故に虚偽の説を設くるや。もしまたその三説共に釈迦の真実とするところならば、釈迦は実に一定の説なき者といわざるべからず。余この疑問に答えて釈迦の意中道の理を真実とするにありて、他の唯物唯心は方便なりといわんとす。これを釈迦一代五十年間の説教について案ずるに、さきにすでに示すごとく、第一時に華厳を説き、第二時に阿含を説き、第三時に方等を説き、第四時に般若を説き、第五時に法華涅槃を説く、これを五時の説教という。すなわちその説教、華厳に始まりて法華涅槃に終わる。そのうち華厳と法華は中道の理を説きたるものなるをもって、これを大乗極致の経とす。阿含は小乗経にして有宗の理を説く。いわゆる唯物論なり。般若は大乗経にして空宗の理を説く。いわゆる唯心または唯理論なり。方等は大小両乗に通じて有空を兼説す。いわゆる唯物より進みて唯心に入るの論なり。今釈迦の第一に華厳を説きたるはその意中道の理を示すにあれども、当時世人一般に彼我差別の妄見を固執するをもって、これに対して直ちに中理を説きたるも、聞くものみな唖聾のごとくにして、更にその意を解することあたわざりしという。釈迦ここにおいて聞者の知力をはかり小乗浅近の教理を説きて、単に我見の空すべきゆえんを示せり。これ第二時の阿含経なり。すでに阿含を説き終わりて人の彼我の見を去りたるを見、更に大乗の空理を示さんと欲して、第三時に方等を説くに至り。方等を説き終わりていよいよ大乗の空理を明かし、小乗の浅近にして真理を尽くすに足らざるを示せり。これ第四時に般若を説くゆえんなり。しかしてすでに有門を説きまた空門を説きたるをもって、始めて中道真実の妙理を明かすに至る。これを第五時の説教とす。故に法華も華厳もその説くところ小異ありといえども、共に中理を説きたるものなること疑いをいれず。これによりてこれをみれば、釈迦の本意中道の極理を明示するにあることたやすく知るべし。故に法華にきたりて開方便門 示真実相と説きて、法華の真実にして阿含般若等の方便なることを示せり。しかしてこれを方便とするも、その説虚偽なりというに非ず。方便とは真実に達する階梯なり。すでに目的あれば必ずこれに達すべき階梯なかるべからず。その階梯によりて目的を達するに至れば、方便すなわち真実となるべし。例えば富を作るをもって真実の目的とせんか。商家は商法によりて富を得たるときは商法すなわち真実なり。農家は農業によりて富を得たるときは農業すなわち真実なり。なんぞ農商の間に一は真実にして、一は虚偽なりというの理あらんや。その期するところの目的に達すれば、諸方便ことごとく真実となる。孔子は人に仁の意を説くに種々の説をもってし、決して一定の義を用いざりしはいわゆる方便なり。しかれどもその説一として虚偽なるにあらず。その言によりてよく仁の意を体すれば、種々の方便すなわち一味の真実となる。かつそれ真実は方便に対しての真実なり。方便は真実に対しての方便なれば、真実を離れて方便なく、方便を離れて真実なく、方便すなわち真実にして、真実すなわち方便なり。これを例うるに、人のこの世に生活するはその目的幸福を得んとするにありとするときは、幸福は真実にして生活は方便なり。しかれども生活を離れて別に存する幸福あらざれば、生活すなわち幸福となるべし。快楽は真実なり。金銭は方便なるも金銭を離れて別に快楽の目的を達することあたわざるときは、金銭すなわち快楽となる。しかれどもまたあえて方便と真実とその別なきに非ず。金銭は金銭にして快楽は快楽なり、生活は生活にして幸福は幸福なり、法華は法華なり、般若は般若なり、阿含は阿含なり、方等は方等なり、この関係を知らんと欲せば更に平等と差別の理を論ぜざるべからず。

 そもそも平等差別の関係は前にすでに略弁したるも、これ仏教の要義秘訣なれば重ねてその意を述ぶべし。およそ事物その差別なきこれを平等といい、平等ならざるこれを差別という。故に平等と差別とは全く相反するものなり。かくのごとくみるときはこれを相対とす。もし差別は平等に相対し、平等は差別に相対し、二者共に相対にして無差別なりとみるときは共に平等となる。もしまた平等は差別に非ず、差別は平等に非ず、二者共に差別ありとみるときは共に差別となる。共に差別となるときは平等も差別なり、差別も差別にして二者おのおの平等となる。故に平等すなわち差別、差別すなわち平等ということを得。これ余がさきにすでに述べたるところなり。これをもって平等の上よりこれをみれば、平等も差別も共に同一となり、差別の上よりこれをみれば、平等と差別とは同一ならざるを知るべし。これを例うるに、氷と水とは同一なりとみるは、平等の上より論ずるなり。氷と水は同一にあらずとみるは、差別の上より論ずるなり。この理を推して方便と真実との関係を知るべし。方便は真実にあらず、真実は方便にあらずとみるは差別上の論なり。方便すなわち真実にして、真実すなわち方便なりとみるは平等上の論なり。生活は幸福にあらずというは差別なり、生活すなわち幸福なりというは平等なり。故に平等上これを論ずれば、阿含も方等も般若も共に真実にして、みな中道の一理に帰するに外ならず。差別上これをみれば、阿含は阿含なり、方等は方等にしてその別あり。かくのごとく平等差別、同体不離を立つるもの、これを有機性組織と称し、平等差別、各殊不同を説くもの、これを無機性組織と称す。仏教は全くこの有機性組織より成る。これ人の思想発達の規則によるものなり。

 これによりてこれをみれば、釈迦の目的とする真実は華厳天台の中道の理にありて、唯物唯心、有空両門はこれに達する方便に過ぎず。しかれどもその方便は真実に対しての方便にして、真実を離れての方便にあらざれば、有空両門もまた真実なり。その他、釈迦の初めに唯物唯心を説きて、最後に中理を説きたるもまた思想発達の順序に基づくものなり。

 およそ人の思想は外界の経験より生ずるものにして、人の知識もまた外物を知るに始まる。未だ外界のなんたるを知らざる野蛮人および小児輩は、ただに内界のいかんを知るべからざるのみならず、天地の諸象のごとき有形の物質すら知覚することあたわざるはもちろんなり。すなわち人の知力の発達はまず外界の存するを知りてのち始めて内界の存するを知るものなり。今、心性は形質なきをもって、知力に乏しき者はこれを知ることはなはだ難く、物質は形色を有するをもって、これを知ることはなはだやすし。これ人知の外界より始まるゆえんなり。すでに内外両界の存するを知れば、あくまで物心の懸隔を信じ、二者全くその性質を異にして氷炭相いれざるものと執着するに至る。これにおいて彼我差別の見を生じ、主客両観の全くその関係を異にして、永く相合せざるものと固信するに至るべし。これより一歩進みて考うるときは、彼我の差別の永く存せざるを知り、あわせてわが体は物心二元の相合して結ぶところの影像に過ぎざるを知るべし。しかれども、なお物心二元の実体は永く存するものと固執するの見を脱し難し。もし更に進みてこれを考うるときは、その二者の差別も一心の海面に生ずるところの波動に過ぎずして、これまたその実を窮むれば虚無なるゆえんを知るべし。更に重ねて一歩を進めてその理を考うるときは、彼我、物心、差別の諸象は決して虚無なるに非ず。たとえその実体必ずしも存するにあらざるも、その目前に現ずるところの象は必ず存するものなるゆえんを知るべし。これいわゆる中道の理にして、物心二者、有空二門の相合して一に帰するところなり。けだし思想の進歩ここに至りてとどまり、また進むべからず。もしこれより一歩を進むれば、再び唯物有門の説に帰するより外なし。

 これによりてこれをみれば、釈迦のまず有空を説きて後に中を説きたるは、思想発達の順序によること明らかなり。かつ当時の勢いこの順序によらざるを得ざる事情あるに出でたるもまた明らかなり。さきにすでに示すごとく、当時の人みな我見の一方に僻するをもって、もしその間に中道の理を保持せんと欲せば、これに反対したる説をとらざるべからず。すでにその反対をとりて、人のかえってその一方に僻するをみれば、また他の一方をとらざるべからず。かくのごとくその僻するところを去り、僻せざるところをとるものすなわちこれ中道の権衡を保持するものなり。故に有説も空説も、唯物も唯心も、みな中道の権衡を保持するために説きたるものに外ならざれば、またみなこれを真実の中道と直指してしかるべき理なり。

 今ここにわが横浜より直ちにアメリカ、サンフランシスコを指して航行する一船ありと仮想するに、サンフランシスコはわが正東に当たるをもって、船の方向もまた正東の中道をとらざるべからず。しかるに、もしその船風波のために中道をとることあたわずして、北方に向かって走り、サンフランシスコを東南の斜方位に指すに至れば、そのときなお正東に向かって進行してしかるべきか。曰く、東南の斜方位に向かって進まざるを得ざるなり。もしまたその方位を誤りて南方に向かって走り、サンフランシスコを東北隅に見るに至れば、そのときなお東南の斜方位に向かって進行してしかるべきか、あるいはまた正東に向かって走りてしかるべきか。曰く、否、このとき東北隅に向かって走らざるを得ざるなり。しかしてその東南隅に向かって走るも、東北隅に向かって走るも、その実正東の中道を保たんとするにあり。ただその船の中道の方向を失するをもって、その進路ときに従って変ずるのみ。今、我人は海中に浮む船のごとし。この人を教導して中道の地位を保たしめんと欲せば、社会の風潮に従ってその方便を変ぜざるを得ず。もしその人、唯物の方位にあるときは、これをして唯心の方位をとらしめざるべからず。もしその人、有宗の方位にあるときは、これをして空宗の方位をとらしめざるべからず。しからざれば、中道を保たしむることあたわず。かくしてようやく唯物唯心の中道に達し、空有両宗の中理に合するに至れば、ここにおいて始めて中道の妙理を示すべし。すでに中道の妙理に達してこれをみれば、さきのいわゆる唯物唯心も有空両宗もみな中道の真実に外ならざるを知るべし。なおサンフランシスコに達してこれをみれば、さきの東南に向かって進みたるも、東北に向かって進みたるも、みな正東の中道を保つにありたることを知るがごとし。しかるに人あり、その東南に向かって進むを見て、彼はサンフランシスコの方位を知らざる者なりといい、その東北に向かって進むを見て、彼は正東の中道を知らざるものなりというて評するものあらば、ただこれをその人の愚といわんのみ。果たしてしからば、釈迦のあるいは阿含を説き、あるいは方等を説き、あるいは般若を説き、終わりに至りて始めて中道の理を明かしたるは、時機に応じて中理の権衡を保持するの意に出でたること明らかなり。これいわゆる事情のやむをえざるものなれば、いずくんぞこれを評して虚偽の方便なりというを得んや。

 およそ人の教法を立つるは、必ず世人の正道を失して邪道に走るの時弊あるによる。この弊を矯正せんと欲して、孔子は倫常の道を説き、釈迦は中道の理を教うるものなり。故にたとえその意真実の一理を勧めんとするにあるも、すでに世人の正道の外にあるをいかんせんや。あたかも汽船の正東に行かんと欲して、誤りてその路を失して東北隅に走りたるがごとし。この弊を救うの術は、しばらく正東の中道を説かずして東南一隅の異論を勧めざるべからず。かつそれ当時の人、学理に暗くして直接に中道の理を解することあたわざるをもって、もしこれをしてその理を解せしめんと欲せば、浅より深に漸及するの秩序階梯をとらざるべからず。例えばここに一童子あり。これを教育して経済学者となさしめんと欲せば、直ちに経済書につきてこれを教えてしかるべきや。曰く、否、これを教うるの秩序階梯ありて、まずこれに数学を教え、まずこれに歴史を教えざるべからず。しかるに人あり、これを見て彼の目的は経済学を教うるにあり、なんぞ数学や歴史を教うることを要するや。これ全く虚偽の方便なり。もしわれをしてこれを教えしむれば、例えその童子数学を知らず、年代を知らざるも、直ちに経済書につきて教うべしという者あらば、だれかその狂を笑わざるものあらんや。かつこれに直ちに経済書を教えんとするも、そのよくせざるをいかんせんや。これにおいて階梯方便を用うるを要す。すでにその方便によりてその目的を達するに至れば、さきの方便すなわち真実なることを知るべし。これ釈迦の漸次にその道を説きて法華に至りしゆえんなり。法華を真実とするも方便すなわち真実なるをもって、阿含も般若も方等もみな真実なり。世人常に物心の中間に立ち有空の中点を守るときは、直ちに法華中道の真実を説きてしかるべしといえども、世の変遷、社会の風潮常に人をして、その中道の地位にあらしむることあたわずして、あるいは有宗の一方に僻し、あるいは空宗の一方に僻す。そのすでに僻するに当たりては、真実の中道も直ちにこれに教えて真実となることあたわず。世人有に僻するに当たりては、空を教うる者かえって真実となり、世人有に僻するに当たりては有を説く者かえって真実となる。かつ世界の広き人類のおおき、あるいは有に僻する者あり、あるいは空に僻する者あり。故に阿含も方等も般若もその人とその時に応じてみな真実の中道となる。故に余いわく、方便も真実となり、真実も方便となると。

 この理を推して釈迦の出世間の道を説きたるゆえんを知るべし。けだし釈迦は人の世間の一方に僻するをみて出世間の道を説き、人をして世間を離れて修行を求むることを教えり。しかして有空を説き終わりて中道に至れば、世間も出世間も一体となり、煩悩を離れて涅槃なく、凡夫を離れて仏なく、世法を離れて仏法なく、この世を離れて未来なきの理を示すに至れり。これに至りてこれをみれば、釈迦の本意は全く出世間の一道にあるにあらざることすでに明らかなり。すなわち釈迦は表面に出世間を説き、裏面に世間を説くものなり。けだしその説くところこの表裏の次第あるは、時と人との事情によるのみ。もし果たしてその意出世間の一道にあるときは、あに煩しく中道の理を説くことを要せんや。

 その他、仏教に女子を遠ざけ肉食を禁ずることあるも、またこの表裏両面の関係より生ずるなり。その肉食妻帯を禁制したるは仏教の表面に説くところにして、もしその裏面に入りてこれをみれば、釈迦の意必ずしも肉食妻帯を禁ずるにあらざるゆえんおのずから知るべし。これをもって仏教中真宗のごときは、すでに公然肉食妻帯を許すに至る。そのこれを許すも仏教なり、そのこれを禁ずるも仏教なり。なんとなれば、表裏両面相合して始めて仏教の全系を完成すればなり。ただ世の勢いと人の情けとによりて、あるいはこれを許し、あるいはこれを禁ずるの異同あるのみ。しかるに世人はこれを禁ずるの一方をみて、仏教は開明の進歩に害あり、人種の改良に適せず等と喋々するものあれども、これ全く仏教の極意を知らざるの論なり。かつ仏教に女子を軽賎するの風あるも、またその表面に説くところによるのみ。裏面よりこれをみれば、ただに男女の間懸隔なきのみならず、禽獣草木に至るまでことごとく同等同権なりと唱うるものなり。すなわち涅槃経に一切衆生 悉有仏性と説きたるをみて推知すべし。かくのごとく仏教の所説、表裏両面の差別あるは、釈迦は氷炭相いれざる二様の説を述べたるもののごとしといえども、表裏全くその体を異にするにあらず。表面を離れて裏面なく、裏面を離れて表面なく、その体同一なり。これを平等という。この差別と平等と相合するものこれを中道とす。故に男女同権も異権も、万民同等も異等も、みな仏教の中道の理を示すものなり。ただ当時の勢いと人とに応じてその説くところ同一ならざるのみ。故に世間仏教を目して人情に反する教なり、開明を妨ぐる法なり等と称するものは、全くこの差別平等、表裏両面の関係を知らざる妄評というべし。

 更に進みてこれを考うるに、仏教中に聖道浄土二門を設くるゆえんも同一理をもって解することを得べし。聖道浄土の別はさきにすでに述ぶるごとく、一は自ら理を究め、一は他に信をおくの異同あるによる。他に信をおくは愚夫愚婦に至るまでも、みなよくなしやすしとするところにして、もっぱら人の情感想像の上に生ずるものなれば、これを情感的の宗教とす。これに対して聖道門を知力的の宗教とす。直ちにこれをみれば、仏教は知力的の宗教なるに似たれども、その間にまたおのずから情感の宗味を胚胎するあり。これすなわち釈迦の表面に知力の宗教を説き、裏面に情感の宗教を説くによる。故に知るべし、聖道浄土もひとしく表裏両面の関係を有するものなるを。かつこれに至りて釈迦の本意は聖道浄土の権衡を保ち、知力情感両全を期するにあることまた明らかに知るべし。他語にてこれをいえば、仏教は知情両宗教の中道を立つるものにして、これまたいわゆる中道なり。

 これによりてこれをみれば、仏教中諸宗諸派の分かるるゆえんは、仏すでにその説を多岐に分かつにより、仏これを多岐に分かつは、諸機諸類をしてことごとく一仏乗海に入らしめんとするにありて、その意すなわち中道を保全するにあることおのずから知るべし。およそ人はおのおの固有の病癖ありて、これをしてことごとくその癖を去りて中道に入らしむるには、千種万様の薬法を用いざるをえず。人の病一ならざれば、これに与うるところの薬また同じからず。薬同じからざるも、その病苦を去りて安楽の果を得るに至りては一なり。故に知るべし、仏教は大数八万四千の法門あるも、その要ただ中道を保全して一味の安楽に住せしむるに外ならざるを。

 上来論ずるところこれを約言するに、仏教は聖道浄土の二門に分かれ、聖道門は有、空、中の三宗に分かる。有は唯物なり、空は唯心なり、中は唯理なり。この物、心、理の三論は哲理をもって立てたるものにして、思想発達の規則によりて生ずるものなり。この哲理を応用して宗教を立つるものすなわち仏教なり。故にこれを知力的の宗教とす。しかしてその物、心、理の三段を分かちて初めに有を説き、つぎに空を説き、次第に進みて中に至るゆえんはただに思想発達の規則によるのみならず、時と人との事情によりてしかるなり。かつ釈迦の本意中道を立つるにあるによる。すなわち中道は仏教の真実なり。これに対すれば有空は方便に過ぎず。これを方便とするも真実を離れての方便にあらず。その時と人とによりて方便かえって真実となる。その世間出世間の両道を説くも聖道浄土の二門を分かつも、みなただ真実の中道を保全するに外ならず。故に仏教は全く真実一道の教にして、一切の衆生をしてことごとく同味同感の楽地に住せしめんとする広大無辺の宗教なり、公明正大の宗教なり。これをヤソの小宗教に比すれば、その懸隔ただに天壌の比をもって論ずべからざるなり。

 以上章を重ね段を追うて反復論明したるがごとく、仏教は知力に基づき学理に合し、中正を守り文明に適し、社会国家の利益を補うの性質あるは、ヤソ教の遠く及ばざるところなり。実に世界無二の法、開明至適の教というべし。しかるに当時その教ただに西洋諸邦に伝わらざるのみならず、インド、シナにほとんどすでに地を払い、日本にややその全教をみるも、穢風のために晩翠の色を変じ、妖雲のために明月の光を失わんとするの状あり。しかして世人は雲を隔てて明月を評して曰く、仏教界は暗夜にして開明の月を見るべからずと。ああ、これなんの言ぞや。ああ、これなんの評ぞや。しかれども、かくのごとく世人の妄評をきたすに至りしもの、畢竟仏者中にその罪あるによる。ひとりこれを世人に向かってとがむるをえんや。その罪とはなんぞや。曰く、今日の僧侶は長夜一夢暗裏に彷徨して、社会の風潮いかんを知らず、仏界の形勢いかんを知らざるものこれなり。故をもって仏教は世間の実益を与うることあたわざるに至る。国家の不利けだしこれより大なるはなし。故にもしこの僧侶の頑愚を医し、この仏教の実益を起こすに至らば、その国家を利する決して少々にあらざるなり。これ余が一片の丹心、仏教を改良して国家の裨益を計らんとするゆえんなり。他日もし果たしてこの教をわが国に再興して、遠く欧州に伝うるに至らば、ヤソ教に代わりて文明の中心を占領し、地球の周囲に蔓延し、仏教界内に日の没したることなしの勢力を有するに至らんというも、また決して架空の言にあらざるを知る。果たしてかくのごときに至らば、わが日本の光栄また必ず大なるべし。これ余が日夜孜々として仏教の性質を研究し、旦暮切々として仏教の改良を経画するゆえんなり。ああ、余が愛国の一念、護法の一心結んでこの一編の言となる。請う、読者軽々に看過するなかれ。請う、看官よく余が精神のあるところをみるべし。そもそも余が仏教の改良を主唱するは、私に仏教を愛するにあらずして、そのよく真理に合し、開明に適し、国益を助くべきところあればなり。余がヤソ教を排するは、私にヤソ教をにくむにあらず、その真理に反し、開明を妨げ、国益を与えざるところあればなり。請う、四方の看官、内外の読者、虚心平気、公明正大の哲眼をもって余が論評の果たして私に出づるや否やをみるべし。余幼にして辞章を修めず、長じて久しく筆硯をとらざるをもって、文その意を尽くさざるところ多しといえども、また余が真理を愛するの精神は字々句々の間に隠見して存するを知る。伏してこいねがわくは、わが同胞三千余万の人民ことごとくこの一論を読了して、余にそのいかなる感覚を生ぜしやを示されんことを。同胞諸君もし果たしてこの論に感ずるところありて、共に心力を尽くして仏教実際の改良を図るの同意を得るに至らば、余が幸いけだしこれよりはなはだしきはなし。

 今この一論を結ぶに当たり、更に一言を付して仏教の深遠幽妙なることを嘆称せんと欲す。それ仏教は道理世界の一大海洋にして、その理を究めて底止するところを知らざるは、あたかも海底の測るべからざるがごとく、その道を講じて尽くるところを知らざるは、あたかも洋面の津涯を見ざるがごとし。いかなる識者といえども、この中に入りて自己の見識の小なるを見、いかなる学者といえども、この中に入りて自己の知力の足らざるを知り、自らその知力を屈し、その見識を卑しうして仏界の広大無辺、深遠不測なるに驚嘆せざるものなし。余もまたこの海中に入りて始めて疑念を一断し、迷夢を一覚することを得たり。その状あたかも暗雲を開きて明月を見るがごとし。その際またおのずから妙味の言うべからざるものありて現ずるを知る。ああ、世間この妙味を知らずして死するもの多し、誠に哀しむべし。余思うてこの妙味のいかんに至れば、胸中の迷雲豁然として開き、真如の一月を心内に現ずるを覚う。なんぞそれ幸いなるや。請う、試みにその味の一斑を示さん。我人仰ぎて観俯して察するに、一事一物として心内に現ぜざるはなし。ただに目前に見るものひとり心内に現ずるのみならず、目もって見るべからず、耳もって聞くべからざる、いわゆる不可知的もまた心内の一現象なり。宇宙の外に神ありと思うも、宇宙の間に神ありと思うも、またみな一心中のことのみ。かくのごとく唱うるものこれを唯心論とす。仏教中の唯識これなり。もし一歩進みて心は物に対して知るべく、物は心に対して知るべく、物心共に相対の名なりと定むるときは、その原理非物非心の絶対となる。仏教のいわゆる真如これなり。しかしてその真如界中、前後左右の差別を生じて、本来因果の相関するをみる。これを因果の関係と名付く。すなわち真如理体の性質なり。この性質あるをもって無差別の理体中に差別の万象万化を生ずるに至るも、その理の全体は本来不生不滅、不増不減なり。その体不生不滅、不増不減なれども、前後相対してみるときは、本来因果の次第ありて存するをみる。これにおいて生滅増減の変化あり。しかしてその変化の自性をみるに、一因として偶然に起こるなく、一果として卒爾に滅するなく、その因の起こるは他の因あればなり、その果の滅するは他の果を生ずればなり。故に一物の上に生滅あれば因果の外象に過ぎずして、その実不増不減なり。すなわち因果の理は理学のいわゆる勢力保存の理と同一なり。仏教の原理これに至りて理学の原理と合体す。その理決してヤソ教のごとき人なきに人を作り、万物なきに万物を創するというがごとき妄説にあらざるなり。しかしてこの因果の理はいずれより起こり、いずれよりきたるや。曰く、これ真如自体に有するところの力なり。その力によりて一体の真如、あるいは開きて万境となり、あるいは合して一理となり、一開一合もって生滅の変化を現ずるに至る。起信論に挙ぐるところの一心二門の法門は全くこの理による。今その論の意を述ぶるに、一心の体その未だ生滅の変化を現ぜざるに当たりてはこれを本覚の仏と称し、すでにこれを現じて再び不生不滅の理に帰するに至れば、これを始覚の仏と称す。この二者迷の前後によりてその名を異にするも、その体同一なり。故に迷うも真如の力なり、悟るも真如の力なり。真如ひとりよく迷を転じて悟を開かしむべし。しかして我人の自らその因を修めて悟を開くもの、これまた真如の力なり。故に我人の体、真如の一部分なるも部分を離れて全体なきをもって、我人の体すなわち真如なり。我人の力すなわち真如の力なり。これをもって我人の力またよく迷を転じて悟を開かしむべし。これによりてこれをみるに、仏教中の唯心の論、真如の説、因果の理はヤソ教の未だその味を感ぜざるところにして、実に釈迦の卓見活識、万世人をして驚嘆に堪えざらしむというべし。ああ、金言歳月を経て始めてその不朽を見、妙味万世を待ちて始めてその真を知る。あに称賛せざるべけんや。