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解 説 森 章 司
一
井上円了(以下円了と呼ぶ)が生涯を通じて持ちつづけた世界観の中心には“真理”があったといってよいであろう。血気盛んなる青年時代において円了が激しくキリスト教を排斥し、これに反して仏教を擁護せんとしたのは、つねに円了が
「予がヤソ教を排するも、ヤソその人をにくむにあらず。予仏教を助くるも、釈迦その人を愛するにあらず。ただ予が愛するところものは真理にして、予が排するところのものは非真理なり」(『真理金針 続々編』、『仏教活論序論』、『仏教活論本論 第一編 破邪活論』―以下『破邪活論』という)
というように、それらが真理に合致するか否かということに基準が置かれていた。
そしてその“真理”とは
「論理に合格せるものはこれを真とし、合格せざるものはこれを偽とす。真偽の判定は、すべて論理の原則を待たざるべからず」(『真理金針 初編』)
というように、“自然科学(円了はこれを理学と呼ぶ)や哲学など、近代ヨーロッパの学問が基づく客観的な原理や法則に反しないこと”と定義してよいと思われる。
ところが円了が価値の基準とした“真理”は決してこれにとどまるものではなかった。その名も『真理金針』と名付けられた円了のもっとも初期に著された代表的な著作のうちの一つは、キリスト教排斥を主題とするものであったが、それは理論によるよりも実際によるべきであると強調したように、実際に働きを有するものでなければならなかった。すなわち円了の価値とした“真理”は、更に“実世界において応用され、人々を幸福にし、社会を裨益するもの”でもなければならなかった、ということができる。
それは円了が自然科学や哲学の客観的原理や法則を“真理”として尊重すると同時に、
「わが第一敵は非宗教にして、すべての宗教とその主義を異にする理学哲学の類いこれなり」(『真理金針 初編』)
とし、
「これに対すれば、ヤソ教も仏教も共に同朋同類となる」(同)
とまでいうことに端的に表されている。そして、
「純正哲学において考定したる真理に基づきて、その応用の規則を指示したる学は宗教学なり。この宗教学を実地に施行する術は宗教なり」(『仏教活論本論 第二編 顕正活論』、以下『顕正活論』という)
といい、
「この応用は西洋今日の学者が組織せんことを求めていまだあたわざるものにして、東洋にありては三千年古早くすでにその応用ありしをみる。これ余が仏教を智力的宗教とするのみならず古今不二、万国無比の宗教とするゆえんなり」(同)
とするように、自然科学や哲学の上に宗教を置くのをみれば明白である。
このように円了は、自然科学や哲学において求められた客観的な法則と同時に、それが現実の面に働き出すという面をも含めて“真理”をとらえようとしていた。その上で円了は前者の側面を〈愛理〉と表現し、後者の側面を〈護国〉と表現したと解釈することができる。
したがって〈愛理〉と〈護国〉は“真理”のもつ二つの側面であって、決して別のものではなかった。しばしば
「余が真理のために喋々するものみな護国の精神のあふれて外に流るるもののみ」(『顕正活論』)
とか、
「仏教はその説くところ真理に合するのみならず、世の開明を進め国家の独立を助くるの実益あり」(『仏教活論序論』)
といい、
「人だれか生まれて国家を思わざるものあらんや。人だれか学んで真理を愛せざるものあらんや」(同)
という情熱のほとばしりを聞くと、〈愛理〉と〈護国〉とが、円了の中ではもともと一つのものであったことを納得せざるをえない。
以上は円了の著作活動としては初期にあたる『真理金針』や『仏教活論』をもとにしたものであるが、それが円了の生涯に変わらぬ一貫した姿勢であったことは、死去の二年前、すなわち大正六年に刊行された『奮闘哲学』において、
「余は先年『仏教活論』を起草せし当時、吾人の目的は護国愛理に外ならずと公言した。そのわけは学者としては真理を愛し、国民としては国家を護すべきものとの意見であった。今日にありても同主義であるが、今述べたるところにあてはむれば、哲学の向上門の目的は愛理にして、向下門の目的は護国ということになる。もしこれを今日の時弊と国家の気運とに照らして軽重を定むるに、向下に重きを置くと同時に、護国に重きを置くことになる。ただし余は世間に対して護国愛理は余の生涯を一貫せることを記憶ありたいと思う」
として稿を閉じていることによって知られる。
そしてこの文章にもみられるとおり、円了の置かれた時弊と国家の気運が、〈護国〉といういかにも大仰で大時代的な表現にさせてしまっているが、今日風に、しかもより平凡に表現するとするなら、それは、さきに定義したように“人々を幸福にし、社会を裨益する”というほどの意味になるであろう。
二
以上のように、円了のもつ世界観の中心にある“真理”は、簡単にいえば“道理にかない”“実用の働きを有する”というものであったから、円了の生活態度は書斎にとじこもって、哲学に沈潜するという類いのものでなかったことは容易に想像がつく。
まず第一に「ものの道理」は哲学の中にだけあるものではない。自然現象の中にも、社会のいとなみの中にも、日常生活の細々とした中にも道理は隠されている。あるいはこの道理ということを哲学と言い直すなら、すべての現象の底に哲学があるということになり、それが「諸学の基礎は哲学にあり」とも表現されるのである。そこであらゆる現象の中に隠されている道理を発見し、それをあらわならしめるのは〈愛理〉を第一義とする者の務めであった。そこで
「回顧すれば先年相撲流行の際に相撲玄談を著し、日清戦争の際に戦争哲学を著ししをもって、当時の評にあまり投機に過ぐるがごとく言いし者あり。しかれども余の意は社会百般のことみな裏面に哲理を具するをもって、時に臨みてその哲理を外面に開示するは学者の責任にして、かつ余の一家の憲法中第一条の哲学普及の目的に合することを知り(筆者注。円了は生涯の大方針として、一、哲学の理論を世間に応用してその普及に意を用すること、二、東洋の諸学をわが国に再興してその発達に力をつくすこと、という二条を掲げている。その第一条をさす)、かくのごとき世間にいまだその名を聞かざりし著作あるに至れり。ただにこれのみならず今後事情の許す限り商業哲学、工業哲学、農業哲学、医術哲学等の著述を試むる意なり。しかるときは世間必ず余を目して付会学者、瞞着学者なりと言わんも、余自ら信ずるところありてその所信を世に表白する者なれば世評のいかんはあえて問うところにあらざるなり」(「漢字存廃問題に就て」『甫水論集』)
という発言となり、しかもその道理を「実用に働かしめる」ことが不可欠であるから、つづいて
「世間百般のことに哲学を応用して社会の実益を示さんことを期せり。なお理学が高尚なる理論を器械工芸に適用して大いに世間を裨益せるがごとくなさんと欲せり」(同)
という発言にもつながらざるをえないのである。
実際円了は、その著述活動だけをとってみても、実に多方面な分野において、おびただしい数の書物を出版している。専門とする哲学・倫理学・宗教学・インド哲学・仏教学はいうに及ばず、心理学・教育学・民俗学・妖怪学・政治学・国語学などの分野において学術書を刊行する傍ら、紀行文や随筆・漢詩をものにし、『哲学飛将棋』(明治二三年)、『星界想遊記』(明治二三年)やら『珠算改良案』(明治三五年)、『改良新案の夢』(明治三七年)といった、ちょっとおもしろい本まで残している。試みに円了の考えた「改良新案」なるものは、改良筆立・黒板の改良・即座に蝋燭立を作る法・ねずみを捕る法・少食にて腹を満たす法などであって、その実用はここまで徹底していたわけである。
もちろん著述活動のみではなく、たとえば哲学館開設についてもこうした世界観が直接に関わっていたわけで、円了自身が〈愛理〉と〈護国〉の二大義務を完成するというその目的を「実際上に応用せんとするには、まず学校を設立するの必要を感じたるをもって、さきに哲学館を設立した」(『教育宗教関係論』)と語るとおりである。
それではこうした真理を最高の価値とする世界観が、円了に確立したのはいつのことであったのであろうか。円了は『仏教活論序論』に
「一昨明治一八年は広く内外東西の諸書を捜索し、毎夜深更に達するにあらざれば、寝褥に就かず。褥に就く後といえども、種々の想像心内に浮かび、終夕夢裏に彷徨して堅眠を結ぶあたわず。故をもって、日夜ほとんど全く精神を安んずることなし。かくのごときものおよそ数カ月に及び、心身共に疲労を感ずるに至るも、あえてこれを意に介せず。刻苦勉励常のごとくなりしが、ついに昨春より難治症にかかり、病床にありて医療を加うることここにすでに一年をこゆるに至る」
といい、そうして「空しく病床に臥して戸外をうかがわざること半年の久しきに」及んだが、しかし
「護法愛国の一心に至りては、ただますますさかんなるを覚うるのみ。これ余が病苦を忘れて半年の日子を経過せしゆえんなり。」
と書いている。そうしたのちに
「すでに哲学界内に真理の明月を発見して更に顧みて他の旧来の諸教をみるに、ヤソ教の真理にあらざることいよいよ明らかにして、儒教の真理にあらざることまたたやすく証することを得たり。ひとり仏教に至りてはその説大いに哲理に合するをみる。余これにおいて再び仏典を閲しますますその説の真なるを知り、手を拍して喝采して曰く、なんぞ知らん、欧州数千年来実究して得たるところの真理、早くすでに東洋三千年前の太古にありて備わるを。しかして余が幼時その門にありて真理のその教中に存するを知らざりしは、当時余が学識に乏しくしてこれを発見するの力なきによる。これにおいて余始めて新たに一宗教を起こすの宿志を断ちて、仏教を改良してこれを開明世界の宗教となさんことを決定するに至る。これ実に明治一八年のことなり。これを余が仏教改良の紀年とす」
といった一種コンバージョンともいうべき覚醒が起こされたのであろう。明治二六年に刊行された『教育宗教関係論』にも、
「大学在学中その考え一変して、人生の目的に護国愛理の二大義務を尽くすにあるを覚り、その後仏教活論序論を著述せるは全くこの意に基づけり」
と書かれているから、おそらく七月に大学を卒業した明治一八年がその年に当たるのであろう。
このように考えると、さきの『教育宗教関係論』にも述べられているように〈愛理〉と〈護国〉という円了に新たに確立され、そして一生涯を貫くものとなった世界観のエッセンスが燃えるような情熱をもってたたきつけられたのが『仏教活論』であったことが分かる。
『仏教活論』はその『序論』が明治二〇年二月に、つづく『本論 第一編 破邪活論』が明治二〇年一一月、そして『本論 第二編 顕正活論』が明治二三年九月に刊行されたものであって、その最後にあたる「護法活論」は、かなり長い間をおいて『活仏教』と改題されて、大正元年九月に発行された。それはすでに円了の晩年と称してよい時期である。
このように『仏教活論』刊行の経過をみると、まさしくこれは円了の主著であり、またライフワークでもあったということが分かる。
『井上円了選集』の第四巻たる本書は、このうちの「序論」を除く、『仏教活論』を収載したものであって、本選集の核心をなすものといっても過言ではないであろう。
三
以上に引用した円了の著作のいくつかの断片からも分かるとおり、円了の世界観の中心をなす「道理にかない」「実用の働きがある」という真理の二つの側面を具備するもの、それは仏教であった。
それでは仏教がどのように、真理のこの二つの側面を備えているのであろうか。それはこの『仏教活論』やその他の円了の著作を読むことによって納得していただくより方法はないが、しかしなかなか難解であるのも事実である。ここ一〇年ほど東洋大学でも円了研究のプロジェクトが組まれ、研究が推進されてきたにもかかわらず、必ずしも円了の実像がはっきりとは把握されていないといううらみの残ったのは、一つには、円了の世界観の中心に座る仏教が、真理の二側面を兼備するというもっとも大切なところが理解されにくいということによるのではないかと思われる。
そこでしばらく円了から離れて、仏教における“真理”とはどういうものであったのかを説明してみよう。
円了がその著作の中でしきりに用いるように、仏教においては真理は“真如”と表現される。“真実”とか“如実”という言葉が用いられることもあり、また“諦”という語も同じ語源からつくられた同意語である。
それではこれらの語は、その原語である古代インド語たるサンスクリットではなにに当たるかといえば、それはtathataとかbhuta,yathabhutaあるいはsatyaという語である。
tathataは「それ」とか「これ」を意味する指示代名詞tadからできた語であり、「それがそれとしてあること」というほどの意味である。仏教における覚者たる仏の異名に「如来」があるが、それはtatha-agataの訳であり、「真如より来た人」という意を表す。
またbhutaは「ある」とか「存在する」という英語でいえばbe動詞に相当する動詞bhuの過去分詞であり、「あること」「存在すること」あるいは「あるもの」「存在するもの」の意である。yathabhutaはこのbhutaと関係代名詞yaから作られたyathaとの合成語であって「それがそれとしてそのようにあること」あるいは「それがそれとしてそのようにあるもの」を意味する。
またsatyaはもう一つのbe動詞であるasの現在分詞であるから、「ありつつあること」「存在しつつあること」あるいは「ありつつあるもの」「存在しつつあるもの」を原義とする。
このように仏教において真理を意味する“真如”などの語は、「それ」とか「これ」という意の代名詞や「ある」「存在する」を意味するもっともありふれた基本的な動詞からつくられたものであって、
「それがそれとしてあること」
というほどの意味でしかないわけである。そして「それがそれとしてあること」とは「あるがまま」ということに外ならないから、そこで漢訳ではこれが「如」とか「如実」「真実」あるいは「真如」と訳されるのである。
それではこのような意味をもつ真如が、円了が真理に合致しないとして激しく排斥したキリスト教の真理とどのように異なるかをみてみよう。それにはこのような仏教の真理観がもっとも端的に教説としてまとめられた“四諦”をみてみるのが便利である。
四諦というのは、苦諦・集諦・滅諦・道諦であって、諦というのは、さきに紹介したsatyaの漢訳語であるから「四つの真理」というほどの意味である。ところで苦諦(苦しみという真理)はふつう「生・老・病・死」という四つの苦しみと「怨憎会苦」「愛別離苦」「求不得苦」「五取蘊苦」の四つを合わせた八つの苦しみで説明され、これが俗にもよく使われる「四苦八苦」である。要するに、私たち生きとし生ける者は生まれれば老い、病気し、そして死ななければならないという苦しみを背負っているという「あるがまま」の状態を真理と呼んだのである。
また集諦の集は「種々様々な原因」という意であって愛欲とか生存欲などの煩悩で説明される。すなわち生まれれば老い、病気し、死ななければならぬということが苦しみであるのは、私たちにさまざまな煩悩があるからに外ならないという姿を「あるがまま」の真理としたのである。
滅諦の滅はさとりであって、原因たる煩悩が滅すれば必然的に苦しみも滅するからであり、これもまた覚者の「あるがまま」の姿であるから、これを真理としたのである。
道諦は文字どおり修行道としての道を真理としたもので、ふつう八つの正しい生活方法をもって説明される。この八つの正しい道はまさしくさとりへと導く「あるがまま」の姿であるから、これも真理とされたのである。
ところでキリスト教における真理は神にのみあって、私たち人間にはない。われわれは原罪を背負う罪人であり、智慧すらも所有していない。すなわちすべての価値の基準は神にあって、神によって義とされるものだけが正しいのである。したがって神こそが真理であり、しかも善なる者、美なる者、聖なる者であって、これらの特性を人間は有しない。
すなわち普遍妥当性を有する絶対的な価値は、真・善・美・聖なる神であって、したがって真理なるものは必然的に善であり、美であり、聖なるものでなければならないのである。このことはヨーロッパの認識論的傾向を有する哲学にも一貫する価値観であるといってよいであろう。
ところが仏教ではさとりや修行道と共に苦しみや煩悩をも真理と把握した。それは明らかに善でもなければ美でもない。もちろん聖でもないのはいうまでもない。それにもかかわらずそれが真理と把握されたのは、キリスト教の真理観と仏教のそれがまぎれもなく異なるなによりの証拠であろう。
このことは諦という語が用いられる他の教説、すなわち「二諦」説についてもそのまま当てはまる。二諦とは円了もしばしば言及する「世俗諦」と「勝義諦」あるいは「俗諦」と「真諦」であって、さまざまに解釈されるけれども、つぎのように理解するのが穏当であろう。
「世俗諦」というのは、現象として現れている世俗そのままが真理であるという意であって、その原語はsamvrti-satyaあるいは、loka-samvrti-satyaである。samvrtiとは「覆い隠す」という意であり、lokaは「世間」と訳されるが、意をとってこれをいえば現象ということになろう。すなわち「世間」として現れている現象は、その背後にあって「それ」を「それ」として成り立たせている法則とか原理といったものを覆い隠しているが、それもそのままで真理であるというのである。とすればその背後にある「それ」を「それ」として成り立たせている法則とか原理ももちろん真理であることはいうまでもなく、これを勝義諦とか真諦というのである。
したがってこの世俗諦と勝義諦は二つであって、また二つではない、ということになる。円了がしきりに万法現象は、決して真如そのものではないが、しかし真如と離れているのではない、要するに「万法即真如」であり「真如即万法」であるというのは、このような意味である。
そしてここでも、ヨーロッパの哲学が真理に背反するものとみる、真理を覆い隠している現象そのものが、あるいは普遍妥当性たる聖に対する俗が、仏教においてはそのまま真理と把握されていることに注目しなければならない。
それでは何故仏教が、キリスト教や認識論の真理に反するものとみる苦しみや煩悩、あるいは現象そのものを“真理”と把握したのであろうか。それは仏教の真理が、「それ」とか「これ」という指示代名詞や、「ある」「存在する」という動詞からつくられた、「あるがまま」を意味するからである。すなわち苦しみは苦しみとして、煩悩は煩悩として、あるいは私は私として、万法は万法として「あるがまま」にしかありようがないから、それはそのままで真如以外のなにものでもないのである。大乗仏教が好んで用いる「諸法実相」という言葉も、まさしくこうした意を表すものであって、「ありとあらゆるものはそのままが真実である」という意味なのである。
したがって仏教におけるこのような意味での真理を、単に“真理”という言葉をもって表現することは誤解を呼び起こすもとになるであろう。すなわち「真理」という言葉は仏教ではむしろ特殊な言葉であって、ほとんど用いられることはなく、普通には円了が好んで用いる「真如」という言葉や、「真実」という語が使われる。あるいは現代語的なニュアンスでいうなら、「事実」という言葉がこれに相当するであろう。したがって仏教における「真如」は神のもとにあって私たちの知覚することのできないものでもなく、また現象の底にひそやかに隠されているものでもない。「それ」とか「これ」と指し示すことのできる、私たちの身辺にある「あるがまま」の事実そのものであるのである。
四
以上のように仏教でいう真理は「あるがまま」であり、したがって仏教用語としては「真如」が、また現代語としては「事実」という語のほうが、その内容にふさわしい。
ところがこの「真如」「事実」は苦しみも煩悩も、世俗として現れた現象のすべても意味するのであるから、これには本来なんの価値も付与されていない。決してそれは善でもなければ、美でも、聖でもないのである。といってさとりも修行道としての正しい生活方法も「真如」であり「事実」であり、それをそれとして成り立たせる法則や原理もまた「真如」や「事実」なのであるから、悪なるものや、醜なるもの、俗なるもののみが「真如」であり「事実」であるとされたわけでもない。要するに「事実」はあくまでも「事実」であって善なる「事実」もあれば悪なる「事実」もあり、美なる「事実」や聖なる「事実」もあれば、醜なる「事実」や俗なる「事実」もあるのであり、もちろんこれらのうちのどちらともいえない「事実」もあるのである。
ということになると、世の常識に反して、仏教の「真如」というものは、あまり有難味のない、値打ちのないものとなってしまう。実はそのとおりであって、仏教においては「真如」や「事実」はあまり意味のないものなのである。もう一度ふり返っていただきたい。私たちは生まれれば老い、病気をし、そして死んでいく。それが「苦としての真如」であるが、これが果たして有難いといえるであろうか。
実は仏教においてほんとうの価値が認められるのは、私たち主体の側の態度である。すなわち「真如」を「真如」として知見すること、それが尊いのである。換言すれば真如とは「あるがまま」のことであるから、「あるがまま」を「あるがまま」に見ることであって、これを「如実知見」という。そしてこの「如実知見」こそが仏教における最高の智慧すなわち般若である。
四諦の教えでも、二諦の教えでも、それらは「生老病死は苦しみですよ」「現象として現れているままが真如ですよ」と示すことに意味があったのではなく、「生老病死は苦しみであることをあるがままに見よ」「現象として現れているままが真如であるとあるがままに観ぜよ」というのが第一義であるわけである。
このように「あるがまま」を「あるがまま」に知見することが仏教の智慧であり、さとりであり、また仏教の基本的立場であるとすると、それは自然科学や哲学的な立場と全く共通するものといわなければならない。またそこから得られた知見なり法則なりが、自然科学や哲学のそれと対立し矛盾するということもありうべからざることである。
ここにおいて円了のもつ“真理”の「自然科学や哲学など、近代ヨーロッパの学問が基づく客観的な原理や法則に反しない」という側面が、そのまま仏教に具備されていることが分かるであろう。
ところが単にこれのみにとどまるなら仏教も、「わが第一敵は非宗教にして、すべての宗教とその主義を異にする理学哲学の類いこれなり」として排されるであろう。すなわち「実用に応じて働く働き」がこの中から生まれてこなければならないということである。
そこでこんどは、さきの「如実知見」をもう少し詳しくみてみよう。
五
さきに仏教における真理たる「真如」は、また現代的にいえば「事実」であって、そこには善なる事実も、悪なる事実も含まれていると書いた。それは四諦において滅せられるべき苦しみも、証せられるべき滅諦も、同時に「諦」と把握されていることが端的に物語っている。
そして仏教における智慧は、こうした「あるがまま」たる「真如」「事実」を、「真如」「事実」のままに「あるがまま」に知見することであった。
それではもし「悪なる事実」が「悪なる事実」として「あるがまま」に如実知見されるとするなら、どうなるであろうか。「悪なる事実」は「悪なる事実」として認識してとどまるであろうか。かつて一世を風靡した『スーダラ節』なる流行歌が、「わかっちゃいるけどヤメられねぇ」と歌ったように、分かったままで「やめる」という働きが生じないようなら、それは実用の働きのない、単なる認識であるといわなければならない。心底から酒の飲みすぎは身体に悪く社会的信用をなくすると「あるがまま」に如実知見されているなら、「酒をやめる」という働きが生じてこなければならない。湯が煮えたぎるように熱くなっていると知らなければ、あるいはその湯に足を入れるかも知れない。しかし知っていて足を入れる人はいないであろう。
このように「悪なる事実」を如実知見できれば、必然的に悪をやめ、更なる悪を作さないという働きが生じなければならないのである。断じられなければならない苦しみが如実知見できれば、生老病死の苦しみをなんとかして乗り越えようとする働きが生じなければならないのである。社会的な不正を不正と知って、行動として発動しないものは、その認識がいまだ如実知見に至っていないのである。
そこで経典では四諦はつぎのように示される。少し長くなるが全文を引用してみよう。
苦諦とはこれである。生まれることも苦である。老いることも苦である。病いも苦である。死も苦である。憎い者に会うのも苦である。愛する者と別れるのも苦である。求めて得られないのも苦である。要するに五取蘊(煩悩にとらわれている凡夫としての存在)は苦である。
集諦とはこれである。生存というものを存続させる盲目的な欲望であって、性欲と生存欲と生存を否定する欲望である。
滅諦とはこれである。八つの正しい道である。すなわち正しい見解・正しい考え・正しい言葉・正しい行い・正しい生活・正しい努力・正しい念い・正しい禅定である。
比丘たちよ、この苦諦は知られなければならない。
集諦は断じられなければならない。
滅諦はさとられなければならない。
道諦は実行されなければならない。
比丘たちよ、私(釈尊をさす)は苦諦を知り、集諦を断じ、滅諦をさとり、道諦を実行し、これらを「あるがまま」に知ったが故に仏となったのである(『サンユッタ・ニカーヤ』五六―二、取意)。
このように「悪なる事実」は断じられなければならないし、「善なる事実」は実行し、証せられなければならない。そしてこのような働きが生まれて始めて、「如実知見」といわれるのであり、それを得たものが覚者と称されるのである。
円了は仏教の中に真理を発見した。それは以上のような「如実知見」をもとにするものであったが故に、そのまま実行に移され、実用に資されなければならなかったのである。円了のもつ、もう一つの真実の側面たる、「実際に応用され、人々を幸福にし、社会を裨益する働きをもつ」ということが、実は真理のもつ第一の側面と離れるものではなく、不即不離であったというゆえんである。
円了の世界観の中心には生涯を通じて“真理”というものがあった。そしてその真理は「道理にかない」「実用の働き」をもつという二つの側面を備えるものであった。そして円了はこの二つを共に仏教の中に発見して、コンバージョンともいうべき覚醒に欣喜雀躍したのであった。そのエネルギーのほとばしりの一つが名著と誉れ高い『真理金針』であり、他のもう一つが『仏教活論』であったわけであるが、とくに『仏教活論』はその世界観の中心たる仏教を正面から論じたものとしてまさしく円了生涯中の第一の書といってもよいのである。
六
『仏教活論』は、大ざっぱにいえばつぎのような構想のもとに書かれている。すなわち
『序論』…………………………………仏教が真理にかなうということ
『破邪活論』……………………………キリスト教の創造神が真理にかなわないということ
『顕正活論』……………………………真理にかなう仏教の組織体系化の試み
「護法活論」すなわち『活仏教』……真理にかなう仏教の実用に際しての改良の試み
を述べんとしたものである。『序論』は本選集の第三巻に収められ、その巻末において解説されているので、ここではそれ以外のものをもう少し詳しく紹介することにしよう。
仏教活論本論 第一編 破邪活論
「余がこれより論ぜんと欲する点は、哲学上真非の判断をヤソ教の原理の上に下すにあれば、ヤソ教者が信ずるがごとき奇跡怪談を批評するにあらず。また実際家の唱うるがごとき改良交際の方便とする説を可否するにあらざること明らかなり。ただ余は本編においてその創造主宰を談ずる有神説を排斥するのみ」
というように、本書ではキリスト教のもつ絶対唯一の主宰神たる神が真理に合致しないことに論点をしぼって証明しようとしたものである。
円了はこれよりもさきに、『真理金針』の初編(明治一九年)、続編(明治一九年)、続々編(明治二〇年)を出版して(これらは本選集の第三巻に所収)、さまざまな視点からキリスト教を批判しているし、また世間にも
南渓和上『淮水遺訣』(慶応四年)、慨癡道人『護国新論』(慶応四年)、威力院義導『護法建策』(慶応四年)、雲英晃曜『護法小言』(明治元年)、慨癡道人『筆誅耶蘇』(明治元年)、雲英晃曜『護法総論』(明治二年)、田島象二『耶蘇一代弁妄』(明治七年)、田島象二『耶蘇教意問答』(明治八年)、田島象二『新約全書評駁』(明治八年)、栗生偑弦『耶蘇教正謬』(明治八年)、中島弘毅『外道通考』(明治一一年)、佐田介石『仏教創世記』(明治一二年)、福田行誡『外道処置法』(明治一四年)、藤島了穏『耶蘇教の無道理』(明治一四年)、奥尊厚『駁邪新論講話』(明治一五年)、川合梁定『旧約全書不可信論』(明治一五年)、吉岡信行『破邪顕正論』(明治一五年)、富樫黙恵『破邪論』(明治一六年)、平井金三『新約全書弾駁』(明治一六年)、島地黙雷『復活新論』(明治一六年)、目賀田栄『洋教不条理』(明治一六年)、吉岡信行『破邪顕正邪正問答編』(明治一七年)、垣上縁『耶蘇開明新論』(明治一七年)、英立雪『西洋宗教実理審論』(明治一八年)、水谷仁海『仏法耶蘇二教優劣論』(明治一八年)、垣上縁『仏陀耶蘇両教比較新論』(明治一八年)、吉田嘉雄『日本魂耶蘇退治』(明治一八年)、目賀田栄『弁斥魔教論』(明治一八年)、佐治実然『破邪訣』(明治一八年)、島地黙雷『耶蘇教一夕話』(明治一九年)、龍華空音『通俗耶蘇教問答』(明治一九年)、
などおびただしい排耶書が出版されており(桜井匡『明治宗教史研究』春秋社、一九七一年五月、による)、この中で光と日月を別に造った矛盾、ノアの洪水を起こして無数の人間を殺した罪やイエス・キリストの処女懐胎・十字架上の贖罪といった「奇跡怪談」、あるいはキリスト教の布教は日本魂を蹂躙するとか、外教師を開導して帰仏させるといった「改良交際の方便」といったことはすでに論じられているので、その論難の中心を創造神が真理に反するという一点に絞ったのである。
本書はこれを原因論・秩序論・進化論・道徳論・人性論・神力論の六つの方面からなさんとするのであるが、その帰するところは、さまざまな視点からみるも「ヤソ教の有神説は陰証ありて陽証なし」であるから、真理に照らし合わせてその存在を信ずることはできず、それを説くことは誤りであると主張することにあったとすることができる。
なお、本巻に底本として使用したものは明治三六年の第五版であるが、縮刷した明治二二年の版で、細かな字句にとどまるとはいうものの、ほとんど全ページにわたって訂正がなされている。初版からわずか二年後にこうした改訂を施そうという意気ごみのあったことも注意すべきであろう。
仏教活論本論 第二編 顕正活論
世上円了は「仏教に哲学的基礎を与えようとした」とか「西洋哲学を背景にして仏教の新解釈を試みた」「仏教哲学に西洋哲学を結びつけて説いた」などと評される。たしかにこうした見方のできる部分も存するが、しかし少しくピントがぼやけているという感じが否めない。
それは円了のバック・ボーンはあくまでも仏教であって、いつの場合も座りは仏教に置かれていたということが明確に認識されていないからであろう。したがって仏教と哲学との関わりをもう少し正確に表現するなら、円了は、二千年余の発展の過程において、種々様々な教えとして複雑化した仏教を哲学的な分析方法を借りて組織・体系化しようとした、ということになろう。すなわち円了自らの用語を借りるなら、伝統的な仏教には三時教や五時八教あるいは五教十宗といった組織・体系化の試み∥すなわち教相判釈∥があったけれども、哲学的な方法論を借りて、もう一度現代的な「一種の新解釈」を試みようとしたということができる。あるいはまた円了はいう。
「仏教をして一種の系統を有する学に組織するをいう。その組織法に至りては哲学の規則によらざるべからず。これ余が哲学をもって仏教発達の栄養となすというゆえんなり」と。
そしてこのように哲学の方法論を借りて仏教の組織体系化を図るということは、従来の仏教学が経論の注釈的研究に終始してきたのと決別することでもあった。それは円了が
「仏教の全理を組織して一科の学となすものなれば、世間注釈的学風を追うものとその見解を異にするは必然たり」
というとおりであるが、その背後には円了の独自の仏教観があって、これが大きく影響したものと考えられる。
それは円了が、仏教たるものは社会が進歩発達すれば、それに応じて進歩発達しなければならぬものとして、仏教を「活物」とみたということであり、―したがって本書もまた『仏教活論』と命名されたわけであるが―したがって円了のとらえていた仏教は、注釈的研究の対象となるような過去に停滞して動かないものではなく、「今日今時わが国に伝わるもの」ですでに「純然たる日本固有の宗教」となっている仏教であったということである。そこで
「大乗は仏説にあらず、釈迦は真に存するにあらず等と喋々するものあるも、余がすこしも関せざるところなり」(『序論』)
とまでいうのである。
このように仏教はつねに生々躍動しており、その結果、今日今時の日本仏教として結実しているのであるから、円了の仏教研究が注釈的研究にとどまるわけはなかった。しかも今日今時の仏教は、インド・中国・日本と三国にわたって二千数百年の歴史をもち、さまざまな社会背景を栄養としながら発展してきた結果、日本固有の仏教となったものであり、そこで円了の言葉を用いるなら「発達的」にとらえる必要があり、このために哲学の規則を借りて「教相判釈」しなければならなかったのであった。これが円了の仏教学であって、その最初の試みがまさしく本書であったのである。
円了はのちにいささかの自負をもって、
「わが国において始めて仏教を達意的に研究する必要を唱え、かつこれを実行したのは失礼ながら拙者であると思う。さきに東京大学在学中よりこの主義をとり、その後自ら達意的の著述をなし、更に哲学館設立に及び、仏教の講師に書籍によらずして、達意的の講義を授くるように依頼をしたのである」(『奮闘哲学』)と語っている。
活 仏 教
本書は『仏教活論』の帰結として、『序論』『破邪活論』『顕正活論』にひきつづき、「護法活論」として執筆されるはずのものであったのが、哲学館を開設して校務多端であったことと、時機のいまだ熟しなかったことによって、『顕正活論』を編述してから二五年の星霜を隔て、その内容も先年の腹案と同轍ならざるところもあるので、題目も『活仏教』と改めて刊行されたものである。
ところで円了は、仏教が真理には合致するけれども、今のままで十分であるとは考えていなかった。それは今の仏教が「人々を幸福にし、社会を裨益する」、円了の用語に従えば〈護国〉の働きに欠けるところがあるとみていたからである。すなわち仏教には教理はあるけれども、仏教の宗教としての働きがないというのである。
それはすでに『真理金針』の続編において、仏教今日の事情として、
(甲)出世間に偏する風あること
(乙)理論に僻するの弊あること
(丙)仏者一般の学識の世間一般の標準より下がること
(丁)僧家みな貧困にして布教の資力なきこと
(戊)僧侶の徳行精神に乏しきこと
(己)僧侶の国益をなさざること
という六項が挙げられていることにもうかがうことができる。
すでに書いたように、円了は仏教を「活物」ととらえていた。したがって、
「いかに宗祖伝来の語といえども、時に応じ機にしたがい改変なきあたわず。根本の真意を失わざる限りこれを改変するは、かえって仏教の仏教たるゆえんなり」
ということにならざるをえなかった。すなわち仏教が真理にかなうということは、すでに論じられているので、その真理が躍動するごとく働くために仏教を革新しようとしたのが本書であって、まさしく『仏教活論』の結部に相当するのである。ところでその仏教革新の方策は旧宗を破壊して新宗を開立するとか、旧宗を統一するといった過激なものではなく、今日存在する各宗をそのまま存置し、ただその教義を一変しさえすればよいというものであった。すなわち、
一 従前の出世間一方に偏したるを補うに、世間道をもってして、二者の権衡を保たしむること。
二 従前の自利的個人的なる性質を変じて、利生的国家的にすること。
三 従前の消極的退守的なる風あるを回らして、積極的進取的に変ずること。
というものであり、円了の真理のもつ第二の側面の本旨が奈辺にあったかを象徴的に示すものといってよい。またこれが〈護国〉の内容でもあったのである。
なお本書には付録として、第一編「信仰告白に関して来歴の一端を述ぶ」、第二編「人生人事の悲観すべきか楽観すべきかを論ず」、第三編「宗弊刷新に関する意見」の三編が収められている。
これらはもちろん本書の本編中の主張に深く関わるが故に、収録したものであるが、とくに第一編は短いものながら、円了の唯一といってよいほどの自伝であり、その信仰が奈辺にあったかを告白したものであって注目に価する。なおこれは『東洋哲学』の第一九編第一号(大正元年一二月一五日発行)にも再録されている。
また第二編と第三編は旧稿の再録であって、第二編は『修身教会雑誌』第一二号(明治三八年一月一一日発行)の「人生の話」をもとにして若干の修正を加えたもの、第三編は「この一論は今より一二年前の起草にかかり、当時の新聞や雑誌等に掲載したる旧稿である」というが、現在初出の新聞・雑誌を調査中である。ただしすでに明治三五年五月に『宗教改革案 付宗弊改良案』なる一書が刊行されていることを付言しておきたい。