解説

解説 ー   井上円了の生涯と思想



第一節    円了の受けた学問



漠学

東洋大学の開創者井上円了八五八ー  一九一九)は、 安政五年、 越後国三島郡浦村(現、 新洞県三島郡越路町)真宗大谷派慈光寺に住職井上円悟の長男として生まれた。 明治元年 八六八)数え十一歳、 石黒忠縣(一八四五ー  一九四一)の漢学塾に学んだ。 石黒は年譜(岩波文庫『懐旧九十年」)によると、 十七歳(一八六一)で私塾を開き、 十九歳で佐久間象山を訪ね、 その足で江戸へ出て、 慶応元年から四年まで江戸医学所に入学し、卒業の後医学所句読師となった。 漢学塾は上級と下級に分かれ、 その上級に円了(当時の名は襲常)がいた。 円了について「懐旧九十年」には、


この級から出た者で一番世に知られたのが文学博士井上円了君です。 円了はちが塾に通うたのは八・九歳の時からでした。  この頃妻は襲常は他の子と異うところがありますから後日必ず大成しましょ う、 と言って特に愛育したのですが、 後年、 果して世に知られたので、 妻は大層喜びかつ誇っていました。ある朝大雪で、 通学して来る者もなかったのですが、 戸外にとんとん履物の雪を落す音がしました。 妻はあれはきっと襲常です、 といって戸を開けると、 果して井上襲常でした。  また、  襲常が鼻緒の切れた下駄を下に提げて来たことがありましたので、 妻が何故鼻緒を立て直して来なかったかと問いますと、 そんな事をしていると時間が遅くなって、 先生の講義を聞きはずすといけないから急いで銑足でやって来ました、 といいました。 実に井上は子供の時分から学問に熱心で、 心がけが他と異っておりました。(同書九一\九二頁)

石黒は塾を二級に分け、 円了の入った上級は医・僧または農家の子弟とし、 経書・歴史・算数などを教えた。四書・五経の素読、「小学』「朱子家訓  「国史略  「日本外史』「政記』「十八史略  「元明史略」「古文真宝」「坤輿図誌」「明倫和歌集」その他算術・習字・剣道の型などで(同書五一頁)、 円了自身の記した「履歴書」の中の漢籍の項には、 これらの大部分を含み、 明治六年までに「尚書  「文選」「唐詩選」「蒙求」「史記」「文章軌範」

「世説」「荀子」など多数の漢籍を読んだことが記されている。

円了の幼時からの学問への情熱が見られる。 なお、 石黒は勤皇の志士となり、 その後佐久間象山に会って、 本当の攘夷とは外国に門戸を開き、 外国の文化を摂取して、 その文化で外国を凌駕した時に達成されるとさとされ、  上京して医学を学んで陸軍軍医総監・日赤社長となり、 後年に至るまで円了を援助した。

洋学ー  長岡洋学校

明治維新は円了の十歳の時であったが、  この前後、 円了の近くに激動があった。 その一っ は戊辰戦争であり、他の一っ は廃仏毀釈である。

長岡藩は中立を志向し、 河井継之助が官軍と交渉したが、 官軍は了解せず、 五月長岡城を攻撃、 陥し、  一旦奪回されたが再び八月一日薩長軍に奪われ、 藩主は仙台へ逃れ、 長岡藩は七万四千石から二万四千石へと減禄されこ。

また、 新政府の方針として神武天皇の古に返すことが布告され、 神仏分離が強行された。 政府方針は神と仏、神社と仏閣の習合を停めて分離し、 神道を国教化していくことであったが、 地方官吏の中には平田篤胤流の国学を奉じて廃仏毀釈を強行する者があらわれた。 その先頭を切った所は佐渡であり、 最も激しい処置を試みたのは富山藩であった。(圭室文雄「神佛分離」)

佐渡では、 明治元年十二月、 島内五百力寺余りを八十力寺に合寺し、 特に真宗寺院は約五十力寺を十四カ寺にするように布告された。 真宗の僧には家族も居り、 合寺は困難であった。 強制されて請書を提出したものの、 島を出て大谷派の三条教務所へ訴える者が出て、 事は宗派の問題となって佐渡に止まらず、 各宗からも口上書が提出され、 太政官から明治三年「各管庁において区々の処置を致すまじく」と布告され、「廃仏の義に之なく」「強て合併致すべき御趣旨に意なく」と廃仏の方針は政府にはないことが明らかにされた。 円了の慈光寺はこの三条教区に属する寺であった。 富山藩では明治三年、  各宗一寺とする令が出され、 三百六十余力寺を八カ寺とすることが強制され、 布告の二、 三日中に決行すべしとし、 違反する者は厳罰に処することとし、 兵を要所に伏せて、本山との連絡を絶った。  これも廃藩置県とともに沙汰止みとなった。

こうして円了は直接被害を受けることはなかったが、 身近に維新の激動を見聞し、 単に仏教だけでなく広く真理を求めて、 世界の哲学・宗教の中に真理を求めて、 仏教および中国哲学についての理解をもつだけでは不十分なものを感じ、 英語を学んでキリスト教・西洋哲学の研究に入っていくことになった。

漢学の師石黒忠應が新時代に適応すべく佐久間象山に会って翻意し、  上京して西洋医学を学び始めたのに対して、 円了はなおも長岡藩の儒家であった木村鈍斐について漢学を学び、 十六歳で高山楽群社に入って洋学を学び始め、 明治七年、 長岡洋学校に入学した。

長岡洋学校は戊辰戦争後、 長岡を復興するには人材の喪成が第一と考えた大参事・文武総督小林虎三郎が設立した学校で、 明治三年、 最初に国漢学校を設立した。 従来であれば漢学の学校であろうが、 そこに国文を加えているところが新しい時代の学校となっているのである。 翌年、 廃藩置県により国漢学校は自然廃校となった(長岡高等学校百年史)。  ついで明治五年に長岡洋学校を設立し、 英語教育を行うこととなった。 小林虎三郎は、 佐久間象山塾で吉田松陰(寅治郎)と並び称されて「二虎」とよばれ、 塾頭代理をも務めてオランダ語のできた人であったが、 新しい時代に適応するためには英語教育であるとして、 旧長岡藩士で上京して慶応義塾に学び、 教員となって福沢の第二等にいた藤野善蔵を呼び戻した(因みに第一等は福沢を含め二名、 第二等が三名であった)。 藤野からは、 この頃の教員給与は自分達でも月百円から百三、  四十円くらい、 との返事が来たが、 長岡では十ニカ月の契約で月百二十円で校長として招聘した(松本健一「われに万古の心ありー 幕末藩士小林虎三郎」には年俸と記すが「長岡高等学校百年史    にはグラビアの頁に月給の文書を載せる)。 この学校設立にあたり、

困窮していた長岡藩は、 与藩三根山藩から藩士へと贈られた米百俵を藩士に分けずに学校建設の基金としたことが、 山本有三の戯曲「米百俵」となっているが、  これだけで足りるものではなかった。  そのような中での藤野の俸給は破格のものであった。  この学校の一日の授業は次のようなものであった。(次ペー ジの表参照)

明治七年五月、 すなわち設立後二年の洋学校に入った円了は、  パー  レー の万国史、 ミッチェルの大地理書、  クイケンプスの小米国史・大米国史、 ピネヲの文典、  マルカムの英国史、 グー ドリッチの仏国史・羅馬史の英書を読み、 翌年も多くの書を読み算学(比例・小数・代数学その他)を学んでいる。 明治九年には句読師(助教)と


教科と時間割(火曜以下略)

なり、 漢学の教師を務めた。 六月に辞職して新視英語学校に学び、 十年(二十歳)には県知事の推臆で、 京都の東本願寺教師教校英学生となった。

仏教ー  教師教校

円了の所属する真宗大谷派は佐幕派であったため、 維新後苦難が続いた。 その中にあって人材養成に力を注いで発展の基礎としようとし、 西欧の学問をとり入れて新しい時代に適応する人材の養成を図った。 その方針が過激であるとして責任者が斬殺される事件まで生んだ。 蘭彰院東漉(空覚)は明治元年六十五歳で耶蘇教研究のため、 護法場を高倉学寮内に設置し、 また神道研究も行ったが、 明治四年十月に、  学寮の嗣講寮に押し入った刺客三名のために暗殺された。

大谷派は京都に大教校(貫練場)、 各宗務出張所(教務所)の地に中教校を置き、 その傘下に小教校を置いて、大谷派の教育網を設置し、し条項が定められた。 十八歳以上三十五歳以下の者二十五名を定員とし、 三年卒業の後は中小教校の教師となる証書を提出し、 カリキュラムが定められた。 普通上・下等と専門に分かれていた。 普通上・下等のカリキュラムは次の通りである。

こうして明治八年十二月に発足した。 初年度は四十名の希望者があったが、 九名のみ入学許可された。

その後、 教師教校の学科は専門・普通・英学・仏学の四科に分かれていたが、 明治十一年二月に仏学科が廃止され、 三科となった。

円了は明治十年七月、  二十歳で教師教校英学科へ入学したとのことであるが、 英語に関しても他の学科についても抜群の学力を保持していたのであろう、 三年の卒業を待つまでもなく、 明治十一年四月には東本願寺留学生として上京し、 東京大学予備門、  ついで東京大学の文学部哲学科へ入学した。

なお、 円了が東京へ去った後のものであるが、 参考までに英学科のカリキュラムを掲げておく。

なお、 東本願寺では明治八年教師教校と並んで育英教校

(『配紙』明治十一年四月)学年)を京都に設け、 宗内の俊英を育てることとした。 円了の後に留学生に指名され、 同じく東大哲学科を出て、 哲学館最初の教員の一人となった徳永(清沢)満之は育英教校の出身者なので、 そのカリキュラムを次に掲げておきたい。

これらから、 東本願寺がいかに教育に情熱を注いだかが知られよう。 語学としては英学・仏学のほか、 サンスクリット・プラー クリット、  ベンガル語・ヒンズー 語および比較言語学を行い、 宗教としては天主教大意(カトリック).耶蘇教大意・アメリカ新教大意・ユダヤ教大意・コー ラン教・ギリシャ教大意・古エジプト教・古ギリ

シャ 教・古ロー マ教・古ゲルマン教・ゼジュビット(古代ドイツ教)・ゼントアヴェ スタ(ゾロアスター 教)  四説章陀(インド・ バラモン教)の十三種類に及び、解のか疑うばかりである。


四    西洋哲学

東大予備門へは明治十一年九月に入学し、 明治十四年九月に二十四歳で東京大学文学部哲学科へ入学した。 予備門時代の円了について、 宮本正尊氏は次のように述べている。

十一年九月、 円了が予備門に入った時、  幸にしてその八月、 ハー  バー ド大学出身で、 弱冠二十六歳の青年哲学者、  アー ネスト・フェノロサが外人講師として来任した。 円了はその教養として、孔孟・老荘・諸子を通じての「漢学」と、 確かな英語による読書によって洋学の知識を持っていた。  ここでフェロノサによって、 さらにミルの経験と実証、  スペンサー の不可知論、  コントの実証的な社会論と創造的な人道論、 ソクラテスの無我中道的な実践哲学、 カントの理性と悟性による批判的であるが、 その底に人間の道徳的実践からにじみ出る無執の科学性が円了のどこかに滲みこむものがあった。

(「明治仏教の思潮」佼成出版社、 昭和五十年三月、  二六七頁) 東京大学哲学科へは明治十四年九月に二十四歳で入学し、 西洋哲学をフェノロサ、 東洋哲学を井上哲次郎・原担山・吉谷覚寿等から習った。 明治十八年七月に二十八歳で卒業。 在学中、 カント・ヘー ゲル・コント等の研究会(哲学研究会)を開いて学友とともに研鑽に励み、 大学内に文学会を組織して毎月集会を行い、  さらに哲学会を組織し、 発会式には加藤弘之・西周・西村茂樹・原担山    島地黙雷・大内青密など当時の代表的哲学者仏教者が入会するなど、 大きな活躍をした。 学士号授与式では総代を務めた。


第二節    結婚

明治十九年十一月、 金沢藩医吉田淳一郎氏の娘敬八六ニー  一九五一)と結婚した。 敬は東京女高師出身で当時最高の女子教育を受け、 東洋英和女学校その他で英語の教師をし、 目賀田男爵の仲人(同氏夫人が敬の親友であったため)で円了と結婚した。

敬の曽祖父に吉田長淑(一七七九    一八二四)がいた。 幕府医官蘭学の桂川甫周に入門、 日本最初の閾方の内科医となり、 金沢藩の御典医となった。 金沢藩主が金沢で病にたおれ、 江戸から呼び戻され、 途中病にかかりながら金沢へ赴き、  金沢で死去した。  そのため、  墓が金沢の曹洞宗棟岳寺にあり、 円了は大正二年五月二十四日、金沢を訪れた際に墓参している(「巡講日誌」)。 現在も本堂前の中央に立派な墓が残っており、 棟岳寺では長淑を記念して平成十二年十一月、  日蘭交流物故者法要を行い、 金沢オランダ友好協会を発足させた。 長淑の子孫を探していたところ、 井上家がそれに当たることが分かり、 平成十四年の墓前祭にはお孫さんに当たる井上民雄氏が出席された。

なお、 文京区の養源寺に吉田家の墓所があり、 長淑の碑が建てられている。



第三節    哲学館開創



哲学館開設の意図

円了は東大卒業に際し、  二つの就職の機会があった。一つは教師教校へ入る時、 将来教校で働く旨の誓約をしていたはずであり、 なおその上、 東京へ留学までさせてくれた大谷派から教校の教師になるよう要求されたのに従うことであり、 他の    つは幼少時の漢学の師石黒忠應が、 文部大臣森有礼に話しておいたから文部省へ入るようにとのすすめであった。 ところが仏教に真理性を見出し、 仏教の衰退を嘆き、 日本仏教全体の振興のために働くことを決意していた円了は両方とも断り、 俗人となって活動することとし、 仏教の外護者をもって任じ、 大谷派の承諾も得た。

こうして一方では活発な著作活動を始め、「仏教活論序論    を著して仏教を活発化させるべき所以を述べ、「哲学一夕話等の著作をなして、 哲学仏教の普及につとめた。他の大きな活動は哲学館の設立である。

円了の哲学館開館の趣旨は、 哲学は学問中の中央政府で、 諸種の学問中最も高等に位するもので、 高等の学問によって高等の智力を発達し、 高等の開明に進向するものであるとしている。 日本を高等の開明に進ませるのが最終の目的であり、  このため、 東大では外国人教師が外国語で講義していたのと異なり、 日本語で講義させ、   年の普通科・ニ年の高等科を合わせて三年で一応の知識を得させるのを目的とした。

非常な人気をよび、 当初五十名とした定員を約三倍(百四十五名)にせざるを得なかった。 円了は純正哲学を講じ、 後に真宗大学学監となり雑誌「精神界」を発刊して現在に至るまで大きな影署を与えた徳永(清沢)満之は心理学、 後に東大印度哲学科初代教授・大谷大学長・学士院会員となった村上専精が仏教学、 日本初の本格的仏教大辞典を大正六年九一七)に刊行し、 発刊後約九十年の現在に至るまでなお刊行が続けられている生田

(織田)得能が仏教史を担当した。 円了は、 発足に当たって南北朝作の智慧の菩薩文殊像を贈った勝海舟・帝大総長加藤弘之・東本願寺の東京留学生の一人寺田福寿を三恩人としている。

円了は哲学館において、 教員と正しい思想信仰をもった仏教者を育てることを目的とした。 円了によれば、 明治維新後、 日本は制度的には近代化されてきたけれども本当の近代化は人心の近代化にある。 民衆が古代的迷信にとらわれていれば、 制度的に近代化されても本当の近代化は達成できない。  その近代化の方法として、 近代的合理的精神を身につけ、 諸学の根本にして最も高等なる学問である哲学を身につけた教員を養成することにより、 その教員によって育てられた人々は、 近代的合理的精神を身につけた近代国家の基礎を形成する役割を担う人となるであろう。

第二に、 古代的非合理的思惟の最たるものは迷信である。  そこで円了は迷信の実体を調査し、 そのいわれなきことを証するため、 東大在学中から不思議研究会を組織し、『妖怪学講義    を著し、「迷信と宗教」(至誠堂書店、大正五年)を発刊した。 例えば鬼門について、 中国の古典「海外経」に、 東海の中に山あり三千里にわたる桃の木があって万鬼の集まる東北の門がある、 というのが根源であろうし、 今地球上にこのような島がないことは確証されても、 鬼門の迷信はなくならない。 それはこれが一種の宗教的信念になっているからで、 宗教的迷信を除去するのは正しい宗教によらなければできないと考える。 円了が正しい道理に裏づけられた宗教者を育てようとしたのは、 こうして日本の近代化を促進し達成するためであった。

哲学館事件

明治三十五年十月、 教育部第一科(倫理科)の試験に文部省視察官隅本有尚等が臨監し、 中島徳蔵の倫理学説の試験の答案の中に、人は彼が予知せざりし結果に対しては 責任ありと云ふを得ず。 且又単に彼の志向たるに止りて動機ならざりし結果の部分を見て之に善悪の判断を下すべきものにあらず。 否らずんば自由の為に試虐をなす者も賞罰せらるべくという答案を見て、 天皇試逆を肯定する文であるとし、 教師がこのような内容の教科書に何の意見も加えずに講義したことを責めて、 不穏な倫理説を教授しているものとし、 その試験を受けた三名の教員免許状の許可を取り消し、 哲学館の教員免許証の無試験検定許可も取り消され、 哲学館に大きな打撃を与えた。

この事件の本質は、 私見をもってすれば、 近代的合理的国家建設を志向する哲学館の教育方針が、 神武天皇の創業の昔に帰し、 神道国教化を強行して天皇神格化を推進する文部省の国体観念との衝突であったのでないかと思われる。

中島はこの事件の三年前、 明治三十二年に出版した「倫理学講義」(六月初版、 十一月再版、 冨山房)で、 国君の命令も善であれば我々は従う義務がある、 と説いている。  国君という語は外国の君主を含むものであろうが、 日本の天皇も含めて考えられよう。

要するに政治上、 国君の命令する所、 及び宗教上神の命令する所でありましても、 其国君が強大なるカ、 陸海軍の力と云ふものを以て我に臨み、 又神が有りと有らゆる天然の力を以て、 或る事を我に命令し給ふても、 其力の大なるがために、 我は道徳上それに服従する義務はない、 唯其命令が善であるならば、 始めて我々は是に従はねばならぬこととなるのであるから、 他律の道徳説は要領を得ないのです。 誓へば三つ児であろうが、 砂たる一個人であろうが、 其命令にして善ならば、 道徳上是に従ふの義務がある。 けれども、其命令が悪なれば、 私がよし国君のために若くは又神のために殺されやうとも、 私は道徳上是に服従するの義務がないと云ふことが、 我々の道徳的意識に照して最も明白なる事実であります。(同書一八七頁)

このような天皇観が文部省の立場と相反することは明らかであろう。 中島は極力辞退したにもかかわらず、 この二年前に文部省の修身教科書の起草委員に任ぜられたが、 小学生の修身教科書は天皇観    国家神道を国民全体に徹底する手段として用いられ(村上重良「国家神道』)たものであるにかかわらず、 中島は「智仁勇」の徳目を中心に据えようとし、「修身ハ教育勅語ノ旨趣二基ヅキテ児童ノ徳性ヲ涵養シ道徳ノ実践ヲ指導スルヲ以テ旨トナス」という委員が多く、 対立した。「教育勅語は前段で記紀神話を前提とする骸国の由来と「国家の精華」とを説き、「教育の淵源」がここにあるとする。」(「国史大辞典」吉川弘文館)。 中島による教育勅語批判がなされたであろうといわれており、 翌年起草委員を辞任して哲学館に復帰したが、 実際には「文部省編纂委員を免ぜられた」とする報道もあり(『東洋大学百年史」通史編ー、 第七章哲学館事件)、 ここに文部省対中島徳造の思想的対立は明らかとなり、  ひいてはこのような教師によって育てられた学生に教育をまかせられないとする文部省方針となったものではないかと考えられる。

因みに、 太平洋戦争敗戦前の小学校教科書では国史の教科書も、 第一  天照大神    第二  神武天皇    第三  日本武尊    と神話を歴史的事実として扱い、 文部省が編纂した戦争遂行の書『国体の本義「第 大日本国体」に、昭和十二年初版)では大日本帝国は、 万世一系の天皇皇祖の神勅を奉じて永遠にこれを統治し給ふ。  これ、 我が万古不易の国体である。 而してこの大義に基づき、  一大家族国家として億兆一心聖旨を奉体して、 克<忠孝の美徳を発揮する。  これ、 我が国体の精華とするところである。(九頁)

と神話に基づく天皇を中心とする国体の永遠性が謳われている。  これに関連してみられるかと思われる円了の考え方を挙げれば、 地球が生成から最後滅亡に至る星の    つである以上、 その上にある国家もまた無常なものである、 というのである。(「哲学新案」「井上円了選集」一巻、  二九三頁)



第四節

社会的活動

雑誌「日本人」


明治二十一年四月、 雑誌「日本人』第一号が発刊された。  これは加賀秀一、島地黙雷・辰己小次郎・三宅雄二郎    井上円了・志賀重昂ら十一名で政教社を結成し、「今ヤ眼前 二切迫スル最重最大ノ問題ハ蓋シ日本人民ノ意匠卜日本国土二存在スル万般ノ囲外物トニ恰好スル宗教、 教育、 美術、 政治、 生産ノ制度ヲ選択シ以テ日本人民ガ現在未来ノ需背ヲ裁断スル哉」(第一号表紙裏)と宣言し、 第一号は僅か本文三十頁の小冊子にすぎないが、かなり好評で三版まで出ていたようである。  一部定価六銭五厘、 毎月三日と十八日の二号発売であった。 円了は第一号に「日本宗教論緒言」を載せ、 第四号にその一、 第六号にその二、 以下続いている。

この雑誌の目的とする生産の制度に関するものであろうが、 六月十八日発売の第六号に面白い記事がある。

「高島炭鉱の惨状」と題し、 松岡好一が九州の高島炭鉱へ行き、 坑夫とともに坑内へ入りその実状を調査したところ、 坑夫の就業時間は十二時間で、 採炭した石炭を十五、 六貫乃至二十貫を這うようにして運ぶ。 小頭(下級管理職)は青鬼赤鬼のようで、 坑夫を根棒で殴打し、 あるいは後ろ手に縛し梁上につり上げて足と地を應尺するに及んで打撃を加える、 などの実状を報告している。  この記事は、 明治前半期最大の労働問題事件であった、   わゆる高島炭坑事件を引き起こした。「事件の展開は第一期(明治二十年十一月ごろより二十一年五月ごろまで。

「福陵新報をはじめとする関西以西での報道の時)、 第二期(二十一年六月より九月中ごろまで。「日本人」によってはじめて問題が中央に提起され、 有力雑誌のほとんどが取り上げ、 :大きな社会問題に発展し、  ついに政府が現地視察を行い、 三菱に改善勧告を出し発展した。

このような記事をも載せる雑誌であった。)」(「国史大辞典」第九巻、 吉川弘文館)ということにまで



講演活動

こうして円了は一方では次節で説くように体系的哲学思想家であるとともに、 日本の近代化を促進し、 迷信を除去する啓蒙思想家としての仕事を始めた。 哲学館事件の際は外遊中であった円了は翌年帰国、 哲学館を哲学館大学と改称し、 修身教会設立趣意書を配り、 中野区江古田に哲学堂を建立し、 釈迦.孔子・ソクラテス・カントの四聖を祀った。

円了は直接日本全国を巡講し、 講演会を催して民衆に働きかけ、 啓蒙の実をあげようとした。  この巡講は三浦節夫氏によると(「井上円了選集」一五巻、  四四三頁以下)、 明治二十二年三十二歳の時に始められ、 後半生のベ十七年間に及ぶものであって、 明治三十九年哲学館大学長引退の前後で二期に分けられ、 円了自身、 前期を「館主巡回日記」とよび、 後期は「紀行」「巡講日誌」としている。  巡講総日数は三千百八十七日、  四十四県九十三市三区三島二千九百六十二町村に及び、 巡講した所を平成七年の市町村に比較すると、 その五三%(三府一道四十三県)に当たるとのことである。

宮本正尊氏の推計によると、 明治四十年から大正六年までの十一年間の講席は四千七百五席であり、 明治二十三年から三十九年までの十七年間の講席は約二千四百三十八席となり、 合計七千百四十三席であり、 聴講者数を

平均五百人とすれば二百八十五万七千二百人乃至三百五十七万一千五百人にのぼる(「明治仏教の思潮    二六四— ニ六五頁)という。 厖大な数の民衆に直接語りかけた努力にも驚かされるが、 これだけの数の講席を用意した

哲学館卒業生達の熱意にも驚かされるものがある。  このような巡講を行った理由として、 蓮門教会の島村ミッが三十年伝道し数百千の信者を得たこと、 川の中の大石は洪水の度に逆に川上へ上っていくこと「大石は逆流に遡り、 大人は逆運に上る。」、 弘法大師のように上層社会ばかりでなく地方人民のためにも尽くしたい、 と考えたことがあげられる。 謝金は哲学館の基本金とした。 講演の内容は「国民道徳の普及の旨趣の外に教育、 宗教、 倫理道徳、 妖怪学、 旅行談、 等」であった。  その講題の中には教育勅語や戊申詔書などの解説が含められている。 円了は外国へも講演旅行を行い、 最後は大正八年六月六日、 中国大連の本願寺附属幼稚園で講演中、 脳溢血にたおれ、 東本願寺別院で急逝した。


第五節    思想

中道の論理

明治十九年七月、  二十九歳で円了は「哲学一夕話」を刊行し、 思想の基底を形成した。 哲学を究理の学問と規定し、 無形の心性に属する学問とする。 唯物の面から見ればすべては唯物に見え、 唯心の立場から見ればすべては唯心に見えるが、 唯物も唯心も一方的な片寄った見解であるに過ぎず、 非物非心の理を本としなければならず、 唯理論にしても物心を含み、「相離れざるもその別なきにあらず、  これを哲理の中道とす」と述べて、 物心、理と現象(物心)の中道に真理の存することを主張している(『井上円了選集」一巻、 三五頁)。「差別中に無差別を有し、 無差別中に差別を有して、 差別すなわち無差別、 無差別また差別」(「井上円了選集」一巻、  四四頁)の道理である。  この哲理の中道は、 太極(易)、 真如(仏説)、 無名真宰(老荘)、 本質(スピノザ)、 自覚(カント)、 絶対理想(ヘー ゲル)、 不可知的(スペンサー )と、 古今東西に通ずる哲理を合したる名称(「井上円了選集」一巻、  四八頁)である。 神の本体もまた有神論と無神論の一方に僻するを排して、「存するがごとくしてかえって存せず、 存せざるがごとくにしてかえって存するもの」(『井上円了選集』一巻、 五頁)と立てるところに哲理の中道がありとし、 真理の性質もまた、「もし純全中正の標準を論立せんと欲せば、 物心内外の中道をとらざるべからず」(『井上円了選集」一巻、 六八頁)と中道の標準を開示している。

世界哲学の構想と「外道哲学」

円了は明治十九年九月「哲学要領 前編、 明治二十年四月後編)を刊行し、 世界の主要な哲学についての叙述を試みた。 序に「古今東西の哲学を列叙対照し、 読者をしてたやすく哲学全系の大綱要領を知らしむべしと信ず」(「井上円了選集」一巻、 八七頁)という。

その範囲として次の分類を挙げる。

このうちインド哲学は第十五節史論、 第十六節比考、 第十七節種類、 第十八節婆羅教、 第十九節釈迦教の五節に分けて説いているけれども全体で僅か四頁半にすぎず、 とにかく挙げてはある、 という程度に止る。  シナ哲学も僅か四頁に止っている。

後半には哲学概説が記されており、 その主題は「哲学一夕話」に通ずる。

円了の経歴からすれば、  シナ哲学はすでに長岡洋学校で助教を務めたほどの実力をもち、 仏教哲学、 特に西洋哲学は専門に学んだので、 最も不十分なのはインド哲学であったであろう。 そこで漢訳の仏典および漢訳のインド哲学論書に資料は限定されるものの、 厖大な資料を収集して、「外道哲学」は明治二十九年十一月下旬に着手し、 三十年二月に刊行されたものである。 円了自身はこれを日本仏教研究の十五篇の第一篇として著作したもので、 従って仏教研究のための入門的意味をもって著作されたものとされている。

こうしてこの書は、  一面インド哲学自体の研究書であると見られるが、 この点からいえば、 現在のインド哲学研究はサンスクリット語の研究による原典研究が主流であるのに対して漢訳のみの資料では、 それなりの意味はもち得るものの価値は限定されたものとなろう。 しかし、 他方、 円了自身が意図したように、 漢訳仏典の理解のためのものとしてみれば、 漢訳の仏教論書の多くはインド哲学への批判を含んでその内容の理解に不可欠のものであり、 著述後百年近く経っている現在にあってもなおその価値を有する著作であろう。

円了はまた中学の教科書として「印度哲学綱要」を明治三十一年に発刊している(「井上円了選集」七巻)。重重無尽の相含

円了の哲学思想の到達点を示すものは「哲学新案」(明治四十二年)であり、  ここではすべての物・思想が矛盾するように見えて実は相含む関係にあって一体のもので、 無限に重なり合って一如の世界を形成しているものと見ている。  これを仏教の見地から見ると「一即一切・一切即一・重重無尽」を説く華厳教学の現代化のように見える。

星は地球を含めて生成から滅亡に向かうもので、 地球が滅亡する以上、 すべてのものが無限の進化を遂げることはあり、 進化あれば退化あり、 現実の世界を見るも、 物と心は互いに相含んで一体不二のものであり、 現象と本質は一体であり、 心界についてみても、 有限性の知・情・意と無限性の理性・信性また一体不二で、 宇宙はこうして無限に相含し合って一如の世界を形成し、 絶対的立場からみると、 心に有限性と無限性が一体化され、 生死即涅槃で、 生死は迷妄の世界となっており、  そのまま生死を超えた一如の世界に住することができるとする。

仏教の中道

円了は仏教についても数多くの著作を行っているが、 その中の「日本仏教」について概観していきたい。  これは教育家は仏教を知る必要がある、 という立場で、 分かりやすく入門書として書かれたものである。 そして仏教全体を概観しながら日本仏教の特質に及んだものである。

第一、 小乗哲学門 婆羅門教から始めて小乗説一切有部倶舎宗の教義に及ぶ第二、 権大乗哲学門    唯識法相宗の教義ニ論宗の中道思想第三、 実大乗宗 天台宗・起信論華厳宗・真言宗大乗を有宗、 権大乗を空宗、 実大乗を中道宗とする(「井上円了選集」六巻、  七四頁)第四、 実際宗    以上を理論宗とし、 鎌倉仏教を実際宗とす浄土宗・真宗・融通念仏宗・時宗日蓮宗

実際宗については、 他に『真宗哲学序論』(明治二十五年初版)、「禅宗哲学序論

明治二十六年初版)、「日宗哲学序論」(明治二十八年初版)の三著がある。「真宗哲学序論」では先ず哲学原理論をあげて、  二様並存一体両面の真理としての中道思想を掲げ、 仏教原理論として天台・華厳・真言等の中道説を挙げ、 天台宗は平等の上に理論を立てながら差別の上に実際を立て、 日連宗は平等の上に実際を説き、 禅宗は中道の真理に基づいて心の体を真如の理性とし、 浄土門は客観上に成仏を立て井上円了選集」六巻、 ニ二頁)、  理論上の差別論と実際上の平等論、 表面は感情にして裏面は智力という、 それぞれ両面を表裏に含んで中道となっている。(表面)(裏面)

こうして、 西洋哲学・仏教を通じて、 中道をもっ てその本質として綜合する一大思想大系を樹立しているのである。


第六節

円了の評価宮本正尊故東大教授・東洋大学講師宮本正尊博士の御尊父実成師は、 兄の死により寺の跡を継ぐことになった。 実成師は「東洋大学(当時、 哲学館大学)出身の兄影幽が東京大学病院で病死したため、 陸軍教導団をでて軍職にあったのを退き、 東洋大学学長井上円了先生の書生をしながら卒業」(『宮本正尊博士の世界略歴)という、 東洋大学    井上円了と深い関係にあった。 但し、 東洋大学の卒業生名簿には記載されていない。 博士も哲学館初代の教員の一人である清沢満之の思想的影響を受けて医学から仏教学に転じ、 同様に哲学館初代の教師の一人である村上専精の弟子であった。 しかもその学問は中道思想を軸として展開され、 中道と涅槃に仏教の本質を見ていった。 ところがその著「明治仏教の思潮 ハ上円了の事績」(佼成出版社、 昭和五十年)には、「第六章井上円了、その思想その事業」を設けて、 約七十頁に及び詳細に円了の事績を紹介しながらその中道思想に触れることなく、 僅かに円了が英国で感得したものは、 英国民が実際生活のモッ トー  としているゴー  ルドン・であったのである。 釈尊の中道・中国の中庸に通ずるものである。 円了がこうした人類の秘義に徹して帰朝したことは、 喜ぶべきことであり、 東洋大学精神の真髄にはっきりした核ができたといってよい。

要は、 円了のこの会得を後代の若手たちがというに止っているのには、 むしろ驚かされる。

いかに枯花微笑するかにかかっている。(二四四頁)

池田英俊池田英俊氏の「明治の新仏教運動吉川弘文館、 昭和五十一年十二月)は、 六章十八節に分かって明治時代の仏教についての包括的叙述を試みた著作であり、  この「第五章仏教の哲学的形成と破邪顕正運動」の「第一節井上円了の破邪顕正運動」として約二十頁にわたって井上円了について紹介している。 その第一を「啓蒙活動の歴史的意義」として「井上円了(安政五ー  大正八)は国粋主義の勃興期に仏教の哲学的形成を目ざして活躍した二十年代の代表的な仏教啓蒙家の一人であった」(ニニ七頁)と冒頭に仏教啓蒙家と規定し、「仏法の真理と哲学的真理との合一に顕正観を求めている」(ニニ八頁)と顕正の意義を認めている。  そこで、 仏法の真理と哲学的真理との合一をいかなる点に認めていったかが問題になるが、  この後は池田氏は井上の業績の紹介を続けていくばかりで、 中道・真怪にその根源を求めて合一を果たしている点には何ら触れていない。 円了の思想の本質を捉えることはできなかった、 と評すべきであろう。


高坂正顕

西洋哲学者の評価を見ると、 高坂正顕氏の「明治思想史

昭和三十年初版、 京都哲学撰書第一巻、  一九九九年初版、 燈影舎)には「第四章一八九年より一九年に至る」の第二節の一として「両井上と雪嶺」の項に

簡単に触れられている。 井上哲次郎・井上円了・三宅雪嶺に共通する態度として、「彼らの恩索は学的な哲学というには未だ遠かったのである。 そこには確かに一種の形而上的気分は見られる。」「その論述は、 論証というよりは描写であり、 論理的な分析や証明ではなくして、 美辞麗句をつらねた比喩であり、 東西哲学の綜合といっても、  その西洋哲学の理解そのものが極めてお粗末であったと言わざるを得ない。」(二六五頁)と評する、  この点は認めざるを得ないであろう。  ただ、 西洋哲学理解の草分け的な時代であったという点は考慮さるべきであろう。 むしろ英語等での講義によって西洋哲学のある程度の理解に達し、 以後の哲学研究の基礎をなしていった積極的な面をも同時に認めるべきなのではないかと思われる。

井上円了の特色として、  一、 時代とともに動いていた、  二、 キリスト教の天帝特造説と耶蘇昇天説に嫌 らなかった、 三、 本来の傾向が天台などの理の立場であったため、  ヘー ゲルの汎論理主義に心を惹かれた、 という三点をあげる。  このような性格は認められるにしても、 たとえプリミティ プな論であっても、 円了の中道に東西哲学の窮理を見出す点の紹介と論評を欠いていては、 その思想の本質を捉えての議論とはいえないと思う。

四    船山信

これに対して船山信一氏の「明治哲学史研究」(昭和三十四年初版、  こぶし書房「船山信一著作集第六巻、一九九九年九月)に、 本篇の最初の「明治哲学における現象即実在論の発展」の「一井上円了の現象即実在論」として二十七頁にわたる論述を、 井上哲次郎・清沢満之・三宅雪嶺より前に紹介し、 その後も「井上円了のキリスト教批判」「井上円了の無神論」「井上円了をめぐる唯物論論争」「井上円了のキリスト教批判における進化論の理解」「井上円了における進化論の理解」と、 その他、 円了思想の多くの面に触れて論述している。

船山氏は明治哲学を五期に分かち、 第一期実証主義の移植、 第二期観念論と唯物論の分化、 第三期日本型観念論の確立、 第四期哲学啓蒙家、 第五期日本型観念論の大成、 としており、 その第二期に「井上円了の仏教哲学もドイツ哲学なしには考えられない」(「船山信一著作集」六巻、 三一頁)伝統的思想への反省の項で「後者(仏教への反省)を代表するものが井上円了」(同書一ニニ頁)、「仏教の立場に立ってただキリスト教だけを批判した」

(同書、 三三頁)、 西洋哲学史への関心、 と多くの面を紹介し、 第三期においても「井上円了などの仏教的唯心論も心即物という論理によって実証主義を含んでいる」(同書三七頁)、「日本哲学の国権主義化がどのように強く推し進められたかを示す事件に 哲学館において中島徳蔵が学生に課した倫理学の試験問題に対する解答が国

民道徳に反するとして文部官僚に糾弾された事件」(同書三八頁)を挙げている。 第四期にも関説されているが、ほぼ第ニ・三期の学者としている。  そして「哲学一夕話」を西田幾多郎の「善の研究」にも匹敵する書物とし、体系的哲学者と位置づけていて、 最も正統な評価を下している著者であると考えられる。

以上代表的な四名の評価を見てきたが、 円了に対する評価が定まっているとはいい難い点がある。



第七節    結ー  今後の課題

本稿を書きながら、 多くの疑問を持たざるを褐なかった。 思想的な面でいえば、 統一的な体系的哲学者という面と啓蒙思想家という面と両面を持ちながら、 啓蒙思想家としての面の方が多く見られているのではないだろうか

体系的思想家としてもその研究の課題が多く残されているように思われる。 第一は中道の思想が仏教でいえば真如でありながら、 中国の太極・無名真宰・西洋哲学の本質・自覚・絶対理想・不可知的と古今東西にわたる哲理に通ずるという時、  これらの思想との共通点と相違点を検討することによって、 円了の思想の特質を知ることができるのではないだろうか。  また、 妖怪学では、 仏教のいう不可思議を真怪と名づけて、  これは人間の能力を超えているもので、 思惟することもできず、 言葉でも表現することもできないが、 その他のことは思惟の範囲内であるという時、 この真怪と重重無尽の一如との関連が明示されていないように思われる。

啓蒙思想家としての面を見ても護国愛理を標榜する時、 哲学館建設の頃は愛理に基づく国家の近代化を目標としていながら、 実際に講演活動を行うようになると、  その講題には明治の国家神道の樹立を目論む政府の意向に沿う題目が多く取り上げられ、 政府の意図に沿うものとなっている。 この間に思想的転換が行われ、 護国は護国、 愛理は愛理という、 真宗の真俗二諦論(仏法は真諦であり、 王法は俗諦である)に類する立場に変化していったのではないか。「哲学新案』の序文には、 神経衰弱にかかり、 講演旅行がそれをいやすことになったと記しているが、  この神経衰弱の原因は何であったか、 つの思想的転回の悩みだったのではないか、 等の疑問を持たざるを得なかった。  これらの疑問の解明は、  そのまま明治思想史の解明にもつながるものであろう。 円了をめぐって残された問題はまだ多いのである。

(東洋大学名誉教授)




解説 井上円了の『外道哲学』


日本仏教は室町時代半ばにしてその創造力を失ったのではなかろうか。 六世紀に仏教が導入されて以来、 ほんのわずかな時間で日本人は仏教思想を理解した。 聖徳太子の「法華義疏」などの著作は、 たとえ朝鮮人の師との共同作業の成果であるにしても、 仏教導入以来、 半世紀あまりの期間しかなかったことを考えるならば、 奇跡という他ない。 聖徳太子以後の日本には最澄、 空海、 法然、 親鸞といった仏教者が輩出した。 彼らの信仰あるいは思想は、 今日の社会においてもみずみずしい生命を保っている。 しかし、 室町時代の後半以後日本仏教にあっては、 それ以前のように真に創造的な仏教者はほとんど出世しなくなってしまったのではないか。

江戸時代には白隠とか良寛といった人物が現れた。 しかし、 彼らは日本の仏教史を根本的に新しく塗りかえるといった人々ではなかった。  一方、 江戸後期から明治にかけては神道系の宗派が勢力を持つに至った。 天理教、金光教、 黒住教などの神道系の新しい宗教が近代日本社会の中で、 それまでの伝統的仏教が持ち得なかった機能を果たしたのである。  これらのいわゆる新宗教は、 結婚し、 子供を養育しながら社会の中で働くといった一般の人々の生活規範のあり方に正面から関わった。 天理教に特に顕著であるような社会への積極的参加の側面は、 伝統的な仏教では弱い側面だった。


明治に入っ て伝統的仏教は近代化への試みを行った。 特に真宗の東本願寺系の人々の中では、 清沢満之をはじめとして多くの仏教思想家が現れた。 清沢はヘー ゲル哲学などをも視野に入れながら、 それまでとは異なった方法で、 自らの信仰を自分の言葉によって他の人々に伝えようとしたのである。  この彼の態度は今日においても真宗のある人々には受け継がれている。 真宗のみならず、 浄土宗、 禅宗、 日蓮宗などの各宗派もそれぞれの立場から近代化を試みた時代が明治だった。

井上円了はこのような時代にあって、 彼は彼独自の方法によって仏教の近代化をおし進めた人物である。 彼は真宗の寺院に生まれたのではあるが、 清沢満之のように阿弥陀仏への信仰に生きた人ではない。 鈴木大拙のように禅の伝統に生きた人でもない。 彼は日本に伝えられていたもろもろの仏教の伝統を、一つの近代的なシステムへと仕上げようとしたのである。 彼のその作業の対象となった伝統の主要なものは、 倶舎、 法相(唯識)、 三論

(中観)、 天台、 華厳および真言の六宗であった。 彼はこれらの六つの伝統(六宗)を、 彼が信ずる仏教の展開の歴史的原理によって並べることによっ て、 仏教思想を統一的なシステムにつくりかえようと思っ た。 少なくとも、  そのような統一的原理が仏教のもろもろの伝統の中に流れていることを示そうとしたのである。

井上円了はかの六つの伝統、 六宗の歴史全体を貫く発展原理を彼の著作のあちこちで述べている。  この六宗の発展原理についてはすでに拙稿「井上円了の仏教思想」(「日本印度学仏教学研究」四九巻一号  年ニ 二  頁)に書いたのでここではくり返さないが、 円了のこの仏教思想史の図式は、 しかし、 その後の仏教界あるいは仏教学研究の中でそれほど注目されたとは思えない。

明治後期から第二次世界大戦後の日本における仏教思想の近代化は、 先程述べた清沢満之の後継者である曽我量深、 金子大栄、 安田理深といった真宗の人々や、 鈴木大拙をはじめとする禅の伝統に属する人々などによっておし進められてきた。 また昭和においては、 西田幾多郎、 田辺元などの京都学派の人々が西洋哲学の方法を意識しながら仏教思想の近代的、 現代的展開を試みた。  この京都学派の試みはかなりの成功をおさめた。 というよりも、 現代の日本における仏教的伝統に基づく現代的思想は何かと問われたとき、 われわれは西田哲学、 田辺哲学の内の仏教思想に関係する部分を指さすことになるのである。 同じく京都学派を代表した西谷啓治は、 西田哲学の流れを受けている。 欧米において「ニシタニ哲学」という語が用いられているが、  これは西谷啓治の哲学が日本以外の土地においても現代思想として認められていることを意味している。 また現在、 西洋哲学、 宗教学の方法を意識しながら禅の伝統の解明を続けておられる上田閑照氏も京都学派を代表する思想家である。

井上円了に話を戻そう。 円了の活躍した時代は西田、 田辺たちの時代よりはるか以前であり、 円了は西洋哲学に関しても西田や田辺が接したように接したわけではなかった。 また円了をとりまく歴史的状況と西田や田辺がおかれていた状況とはまったくといってよいほど違っていた。

明治の前半には日本から南條文雄をはじめとして幾人かの研究者が、  サンスクリットを学習し、 西洋の文献学の方法を身につけるためにヨー ロッ パにわたっている。 円了はこのようなヨー ロッ パ流の文献学的訓練を受けなかった。 したがって、 自らサンスクリットの原典を読んで古代インドの息吹に触れることもなかった。 しかし、おそらくは円了がサンスクリッ ト研究者の道を歩んでいなかったことが、 彼の思想形成に幸いしたのであろう。もしも彼がサンスクリットの原典を扱っていたならば、 今われわれが円了の思想の現代的意義を問うこともなかったと思われる。 円了は仏教全体を自らの思想によって構築しなおそうと試みた。  これは、 彼が本願寺に職員として務めることなく、 原典研究に没頭することもなかったからできたことであろう。 とはいえ、 円了は仏教の歴史的展開はもちろんヒンドゥー 哲学、 西洋哲学、 儒教などの歴史的展開を無視したわけでは決してなかった。

円了の著作の一つ に『外道哲学」がある。 五八六頁の大著は「外道」つまりヒンドゥー 哲学を扱っている。

「外道哲学」は仏教哲学系統論の第一編であると円了はいう(「外道哲学」緒言)。  つまり、 円了にとってヒンドゥー 哲学研究は仏教哲学の系統を明らかにするための基礎的作業であった。 円了の仏教系統論は「客観唯物の浅見を起点とし」(緒言)、「理想唯心の深理に」(緒言)至るものであり、 いわゆる外道は客観論、 唯物論、 有神論であるが、  これに対して仏教は主観論、 唯心論、 無神論である。  インド哲学をこのように客観論としての外道哲学と主観論としての仏教哲学に大別した後、 円了は「仏教中の小乗は主観論の中の客観論であり、  理想論中の実体論であるゆえに、 小乗を佛教内の外道と考える」(緒言)とつけ加えている。 たしかに円了のいうように、空の思想を提唱する大乗仏教と有部などのいわゆる「小乗」とは思想的にかなり異なったものであり、 有部の思想は空の思想と比較するならば、 ヒンドゥー 教哲学に近い要素を有している。

しかしながら、 円了のインド哲学二分論はいささか固式的ではある。 ヒンドゥー 哲学を有神論と呼び、 仏教を無神論と呼ぶことはともかくとしても、 ヒンドゥー 教を実体論、 仏教を理想論と呼ぶことには、 抵抗のある人が多いであろう。

ともあれ円了は外道哲学を(一)緒論、  (二)総論  (三\六)各論および(七)結論の七編に分けて論述している。 第一編(緒論)はさらに三つに分かれ、 第一編(一)は「インド」の名称、 地理、 歴史および風俗を扱う。 第一編(二)はバラモン、  クシャ トリア、  ヴァ イシュヤおよびシュー ドラの四姓を、 第一編(三)は五明すなわち医学、 建築・工芸、  サンスクリット文法、 論理学および経典・教説という五学問を扱う。 第一編(三)のサンスクリッ ト文法を扱う節において複合語(六合 釈 )や格変化(八転 声 )に対しては多くの漢籍を列挙し、

その説明にもかなりの頁を割いている(ニ節)。「外道哲学」が出版されたのは明治三年であるが、 当時はすでに日本人によるサンスクリット研究が進んでいた時代であるゆえに、 円了もその動向を意識していたと思われる。

また円了は第一編(三)の論理学(因明)の節において「私はアリストテレスの論理学は直接あるいは間接にインドの因明より流伝したものであると信ずる」(二九節)と述べる一方で「西洋の帰納法のごときものは純然たる学術研究の方法であり、  インドの因明にこれがないのはその論理が応用的であるからだ」(二九節)とも述べている。 円了のこの理解の是非はともかくとして、 円了は当時すでに日本において西洋とインドの論理の比較研究があることを記し、「外道哲学    では扱わないと述べている(二九節)。




第二編総論の第一章は仏教文献に見られるヒンドゥー 哲学の名称や種類を挙げ、 第ニ・三章は仏教文献の中に述べられるヒンドゥー 哲学を、 第一章よりもさらに詳しく論じている。 第四章は仏教およびヒンドゥー 学派の年代を扱う。


第一章において、 円了は当時の西洋の学者の一般的理解に従ってヒンドゥー 哲学の六派を挙げている(三七節)。 六派とは

ニャー ヤ学派(論理学派)

ヴァ イシェー シカ学派(勝論学派)

 サーンキャ 学派(数論学派)

喩伽学派すなわちヨーガ学派(秘密学派)

マーンサー 学派    声論学派)

 ヴェーダーンタ学派



円了によれば、 これらの六派哲学はヴェー ダ哲学すなわちウパニシャッドから発達あるいは分化したものに外ならない。 六派の内、  ヴァ イシェー  シカ、 サー ンキャ、  ヴェー ダー ンタの三派は理論のもっとも発達したものであり、 ニャー  ヤ学派はいわゆる因明学派であり、「論理の法則を論定するにすぎない」(三七節)。  琺伽すなわちヨー ガ学派は「秘密教にして神怪に属することが多いので哲学の価値を有することが少なく」(三七節)、「ミーマー ンサー に至ってはその目的はヴェー ダ神典の儀式に関することの説明にあるゆえに、  これに哲学の名称を与えることすら不当であると思われる」(三七節)と円了は述べている。

この円了の理解は今日の眼から見ればあてはまらない点もある。 例えば、 ミー マー ンサー 学派においてまさに哲学的論議がなされたことは見過ごされている。 しかし、 全体としては円了の理解は各学派の特徴を捉えている

ということができよう。「古来仏教中に用いる分類には六派学派に分けているのを見たことがない」(三八節) と円了はいうが、  この指摘は今日においても十分な価値がある。「外道哲学」には引用文献表が付けられているが、その文献の数は約七である。  これらの文献の中にはサー  ンキャ学説の綱要書である「金七十論など仏教文献以外のものも含まれてはいるが、  ほとんどが仏教に関する文献である。「外道哲学」を円了が著した意図は、当時の日本に残っていた中国、  日本の仏教文献の中でヒンドゥー  哲学学派がどのように扱われているかということであっ た。  今日ではコンピュー  タで検索すれば、  円了が「外道哲学』において行っていることの多くの部分は瞬時に分かるかもしれない。  しかし、  今日まだデー  タ ベー  ス化されていない文献を円了は扱っているし、  項目や語句の検索のみでは円了が行ったことに置き換えられるわけではない。

第二編第二章では、  三種、  九五種などの外道の学説が「仏教文献」の中でどのように伝えられているかを述べている。  ここにいう「三種」とは「大日経」第一章住心品に言及される学説であり、  世界の根源として時間、  地の元素等三が挙げられている。  第三章では「八計」、 「 一八計」  「六二見」などと呼びならわされてたさまざまな哲学的見解(ダルシャナ)がどのような仏教文献に言及されているかを述べている。


円了は第三編各論一の始めに「第二編において示したように、  仏教中には外道を分類する方法はさまざまであるが、  私は別に自分の定めた方法によっ て各派の外道を分類する」(五六節) と述べている。  第三編から第六編までが各論第一から第四であり、  それぞれの編のタイトルは次のとおりである。


第三編各論第一

第四編各論第二

客観的単元論客観的複元論

第五編各論第三    主観的単元論第六編各論第四    主観的複元論


円了は「外道全体を客観論と主観論の二部門に大別し、 客観論中の単元論を有質論(色、 形あるものが根源であるという説)と無質論(色、 形ないものが根源であるという説)に分け、 複元論を有神論と無神論に分け、 客観論より主観論に及び、 単元論より複元論に及ぶという順序をとろうと思う。 そして、 客観論のもとには有形の物質あるいは外界の存在(境遇)をもって哲学の原理と立てる諸派を論述し、 主観論のもとには無形の自我性

(我性)あるいは内界の作用をもって原理と立てる諸派を論述する」(五六節)と述べている。

円了によれば、  これらのヒンドゥー 哲学の諸学派の中には一種の変遷が見られる。  つまり、  客観論の「極」 まり変遷の最後の形は有神論となり、 有神論は無神論となるのである(五六節)。 もっともこのような変遷が年代順にインドで起きたと円了は主張しているわけではない。「思想発達の原則に基づき、 普通、 浅近の説より漸く高尚深遠の論に及ぶという順序をとった」(五六節)のである。 哲学において何が浅く何が深遠なのかはともかくとして、「外道哲学」各論第一\ 四における構成は円了自身のパラダイムによるのである。

第三編の単元論から第六編の複元論までの項目を医示すれば次のようになろう。

内、 単一なものである方向、 時間といった存在を世界の根源であるとする無質論を第三編客観的単元論後半において列挙、 紹介している。

地の元素とか原子とかが世界の根源であるという学説は、 結局はこの現象世界の展開を的確に説明できるものではなく、「有神論を呼びおこす」(六九節)ことになったと円了は述べ、 第四編前半において有神論を扱っている。  さまざまな有神論として、 第一に声明論が挙げられる。 声明論はすでに『外道哲学』総論の中で、 声明論すなわち文法学として扱った。  この第四編では「大日経疏宥快抄』に述べられている「声論とは帝釈(インドラ)

による論である」(六九節)という説や「大日経疏拾義抄』にある「声論とは、 帝釈による論あるいは梵王    梵天、  プラフマー )が説いた四ヴェー ダの内の随一である声明論である」(六九節)という説に基づいて、 円了は声明論が有神論に属すと考えている。

第四編第二章天論は、 帝釈大、 梵天、 自在天(シヴァ)などが世界の根源であるという説を仏教文献中に見ようとするものである。  ただ第二章は円了のいういわゆる有神論の各種類を紹介しているのみであって、  それぞれの有神論の詳細は第三章一因論において述べられる。

「インドは太古においては多神教であったが、 その後ようや 神教に移り、 梵天や自在天をもって神の本源的実体となし、 他の諸神は皆その属性、 表象に外ならないと考えられるようになった。  それゆえにその論は一神解 教でありかつ汎神である。 したがって、  ユダヤ教、 キリスト教等と同じではない」(七八節)と円了はいう。  ヴェー ダの宗教における多神教的崇拝から後世のヒンドゥー 教における一神教的形態への移行というのは円了のいうとおりであろうし、 ヒンドゥー 教が一神教でもあり汎神教であるという指摘は、 当時にあっては斬新であったであろうし、 今日においてもその意義を失っていない。

第三章一因論の第一は毘陀論であるが、「毘陀」とはヴェー ダの音写であり、 円了はこの学説をミー  マー  ンサー 学派と同一視している(八三節)。 円了によればこの説は、「ナー ラー ヤナつまりヴィシュヌの謄より蓮華が生まれ、 その蓮華よりプラフマー が生まれ、 この神より生類および生命のなきもの一切万物が造出された」(七九節)という神話を核としており、  ヴィ シュヌと関連していると考えている。 もっとも、 ミー マー ンサー 派とヴィシュヌ派とは異なるものである。

次には摩陸首羅(マヘー  シュヴァ ラ)つまりシヴァ 派の説が扱われている。 円了はこの学派をヴェー ダー ンタ学派と同一視している(八三節)。 彼の中で、  ヴェー ダー ンタ学派とシヴァ派との区別がどのようであったかは明白ではない。 資料は『成唯識論」『大日経疏」「喩伽論」などであり、『成唯識論」の「大自在天(シヴァ)

身体は世界に遍く存在し、 常住であり、 諸々のものを産出する能力がある」(八    節)という説をこの学派の説として紹介している。「仏教はさまざまな道理をもっ て、  この学派の妄計つまり誤った考え方を論破してきた」

(八    節)と円了は主張する。  そもそも円了にとっ て、 外道すなわちヒンドゥー 哲学のすべては仏教に至る前の段階のものであって、 仏教の方が優位に立っているのである。

ヴィ シュヌ教、  シヴァ教の説について述べた後で、 円了は安荼論師つまりプラフマー 神を崇拝する人々ついて述べる。「安荼」とは卵のことであり、  ここでは世界がそこから生まれる宇宙卵を指し、  プラフマー 神はしばしば卵のごときものとして表象されるのである。 もっとも、  プラフマー 派というヒンドゥー 教の一派が、  ヴィ シュヌ派やシヴァ 派が存在しているように、 存在したわけではない。 元来は別個の伝統として存続したヴィ シュヌ崇拝とシヴァ崇拝とが、 ヒンドゥー 教という全インド的な伝統が生まれるときに、 両者のいわば緩衝帯としてプラフマー 崇拝が組みこまれたのであって、 ヒンドゥー 教におけるプラフマー 崇拝の勢力は小さなものであった。 ともあれ、 円了は「外道小乗涅槃論 、『成唯識論    などを資料として「大卵化成説」を紹介している。

次に「外道哲学」客観的複元論の最終章である第四章は、 単一なものを宇宙の根源であるというのではなく、複合的なものを根本と立て、 しかも無神論である諸学説を扱っている。 円了によれば仏教は無神論であるゆえに、 ヒンドゥー の諸学説の中心も無神論的立場に立つものの方が有神論的学説よりも優れているのである。 したがっ て、 第三章で有神が扱われた後、 第四章で無神論の立場に立つ自然論が考察されるのである。 この「自然論」とは、  この世界は神などの根源から生じたのではなく自然にして生ずるという説をいう。

地・水などの元素が世界の根源であるという説から、  シヴァ神などの創造主の存在を主張する説へと移行したが、 世界の成立を説明することができなかった。 したがって、 ヒンドゥー 哲学はついに自然無因論を主張するように原理的には進んできたと円了はいう。  つまり、 彼の理解によれば、 唯物論(第三編に述べた地等の元素や時間が根源とする説)は一変して有神論(第四編第三章に述べたヴィ シュ ヌ神やシヴァ 神が根源とする説)となり、 有神論は再び無神論へと変わったのである(八四節)。  この自然論には、「無因外道」すなわちこの世界の成立には原因のないことを強調する説や「虚無外道」すなわち虚無が世界の根源であるとする説などがあるとして、 円了は「喩伽論」、『顕揚論 佛本行集経」等から引用して紹介している。

「外道哲学」第三編は客観的で単一なものが根源と考える立場を、 第四編は客観的で複合的なものを根源とする立場を扱う。 第五編は主観的で単一なものを根源とする考え方を、 第六編は主観的で複合的なものを根源とする考え方を扱っている。 円了の理解では「仏教は主観論であり唯心論である。 ヒンドゥー 哲学(外道)は客観論であり唯物論である。  これがヒンドゥー 哲学と仏教との相違の要点ではあるが、 主観的世界観の仏教の中にあっても客観論と主観論との両方がある。  すなわち小乗仏教は客観論であり、 大乗仏教は主観論である。  これに対し、 客観的世界論を有するヒンドゥー 哲学の中にも、 客観論と主観論との二種類がある。 ヒンドゥー 哲学の主観論は客観論の上に一歩を進めたものであり、 やや仏教に近きものである。」(九    節)

「大日経」住心品には三種の単元論が述べられていることはすでに述べたが、 この三種を円了は、 人計(人身を根源とみる考え方)知計(内的知、 外的知などを根源とみる考え方)および我計(我執などを根源とみる考え方)の三種に分けている。  このような分類は、 単元論から複元論へというパター ンが客観論においても主観論においても見られるはずだ、 という円了の思想の発展形態への信念の結果であるということができよう。

次に「外道哲学」は第六編各論第四の主観的複元論に進む。  ここでは尼健子(にけんし)、  若提子(にゃくだいし)、 数論(サー ンキャ)および勝論(ヴァイシェー  シカ)の四学派が考察される。 尼健子と若提子は今日では共にジャ イナ教を指すと考えられ、 円了もそのような理解があることは知っているのではあるが 節)、

円了が依拠した資料の つである「外道小乗四宗論」にはこの両者が区別されている。 円了はこの二派を「外道」つまり仏教以外の教えに含めている。

外道小乗四宗論」には、 先述の四学派の特徴が一っの図式に示されている。  つまり、 数論によれば一切のものは つのもの、 勝論によれば一切法は異なるものであり、 尼健子によれば一切のものは一でもあり異でもあり、 若提子によれば一切のものは一でもなく異でもないという 五節)。 もっとも、  このような理解がヒンドゥー 教あるいはジャ イナ教においてなされていたとは思えない。  この理解はあくまで後世の仏教徒の理解であり、  それを円了が引用しているのである。

第六編第一章では例の「四大外道」(尼健子、 若提子、 数論、 勝論)の学説の総説を行い、 第二章では尼健子と若提子の学説を、 第三章では勝論を、 第四では数論を扱っている。 ジャ イナ教の二派の説を考察した後、 円了は「四大学派中もっとも最たる勝論および数論の大綱を弁明しようとする」際に円了が用いた資料は、 主として「勝宗十句義論」およびその注である。


二節)。 勝論の学説を考察する


『勝宗十句義論」は慧月(訳五五〇\六五    年)が著したヴァ イシェー  シカ哲学の綱要書であり、 唐の玄哭訳があるが、  サンスクリット・テキストは失われており、 チベッ ト訳もない。「句義」( パダ・アルタ)とは文字どおりには言葉の対象をいうが、 哲学的用語としてはキャ テゴリー を意味する。  すなわち、  ヴァ イシェー  シカ哲学は初期には、 実体、 属性、 運動、 普遍、 特殊、 和合の六つの句義(キャ テゴリー )の存在を認め、  この六つの組み合わせによって世界の構造を説明しようとした。 紀元一、  二世紀の『ヴァ イシェー  シカ経』や六世紀ごろの「ハダー ルタダルマ・サングラハ」などでは六つのキャ テゴリー を教えている。


慧月の「勝宗十句義論」は、 今まで述べた六つの句義に加えて中間的普遍(倶分)、 可能力(有能)、 無能力(無能)および無(無説)の四句義を認める。 中間的普遍とは慧月が普遍を最高位の普遍である存在性のみにかぎったために、 中間位にある普遍を独立のキャ テゴリー として立てたものである。 可能力とは実体、 属性、 運動が組み合わされることによってその結果を生む能力のことであり、 無能力とはそのような能力の欠如をいう。 無つまり欠如は、  この時代あたりから独立のキャ テゴリー として認められるようになった。 後世のヴァ イシェー  シカでは、 元来の六句義に無が加えられて七句義とする説が一般的となった。 日本に伝えられた漢文によるヴァイシェー  シカ学説の綱要書としては「勝宗十句義論    以外に見あたらず、 円了はこの著を主要資料としてヴァ イシェー シカ学説を考察しているのであるが、 この学派が一般に六句義を立てていることを知らないわけではなか

三節)。 一三節には、 六句義説と慧月の十句義説とがどのような関係にあるかを比較検討し、 四節では「勝宗十句義論」の説を考察している。

十句義あるいは六句義を立てるのであるから、  ヴァ イシェー  シカ学派は多元論であると円了はいう。 さらに彼によれば、 第一のキャ テゴリー である実体は地、 水、 火、 風、 空間、 時間、 方向、 我および意という九種に分けられるが、  これらの九つの内、 始めの七つは「客観であり」、 我と意とは「主観である」ゆえに、  この学説の説は物心二元論と呼ぶことができる。 しかし、  この二元論を克服しなければ涅槃つまり最終の精神的至福を得ることはできない(一    六節)。

実体である我には、 知、 楽、 苦、 欲、 瞑などの性質あるいは属性が和合するが、  この際和合が起きる「因縁」つまり基体となるのが我であり、 円了はヴァ イシェー  シカ学派を実我論と呼ぶ六節)。


円了はヴァイシェーシカ学派とローカーヤタ(順世外道)とを比較し、 両者とも常住実在である原子によって世界が形成されていることを認めるので共通点がないわけではないが、 両者には相違点もあり、 後者を唯物一元論、 前者を物心二元論と呼ぶべきであろうという。 そして、 円了は「ヴァ イシェー  シカはロー カー ヤタの一変したものということが可能であり、  ヴァイシェー  シカがさらに一変すれば小乗有部(節一切有部)の説と合同することになろう」といいきっている 六節)。 円了にとってヴァイシェーシカは「外道中の仏教」なのであった。

七節)。  つまり、 有神論ではなく、 我の実在性を認めはするがその我が仏教におけるごとく否定されれば、 我に和合するあるいは我を基体として存する楽、 苦、 欲、 瞑なども我には存することができないゆえに、 涅槃に近くなるという意味においてである。


第六編最後の章である第四章は「外道哲学の中の最勝である」数論を扱う。 資料は「金七十論」が主要なものであるが、 他に「智度論」、「成唯識論」、「因明大疏」、「百論疏」、「倶舎光記」などが用いられている。 数論すなわちサー ンキャ 学派は、 純粋精神(プルシャ)と世界の展開の質量となる原質(プラクリティ )とに基づく二元論を提唱しているが、 円了は漢訳の伝統に従って前者を「神我」、 後者を「自性」と呼ぶ。 まだ顕わになっていない自性は、 力のかたまりともいうべきマハッ ト(大)あるいはプッ ディ (覚)から自己感覚へと展開する。  この自己感覚は集合的な自己統覚作用の原初的形態である。  つまり、 自己意識というよりは世界全体の心的原理である。  この心理原理から、 異なる二つの方向へと転変を続ける。  つまり、  一方では感覚器官などの主観的現象世界へと転変し、 他方では客観的現象世界への転変する。  この転変は出発点である第一原理自性から第二四番目の思惟器官(心)平等根( 九節)の顕現まで続き、 第二四の原理が顕わになったときこの現象世界は成立するのである。 第二五番目の原理である( 九節)我神は第一から第二四までの転変を見守るのみである。  このように数論は、  二五の原理によって世界とそれを見守る純粋精神を説明するのである。 世界の成立に関しては自性という原因が素材となって、 眼前に見るような世界が成立するというのであるから、 因中有果論(原因の中に結果がすでに含まれているという考え方)と呼ばれると円了はいう九節)。


円了によれば、 数論は「因中有果論であって自性の中に世界を有し、 原因の中に結果を持ち、 原因と結果は同一のものである」 二四節)と主張する。 自性は開発の力を有するが、 神我はそれを有しない。 自性は根本(本)であって神我は本ではない 一九節)。 円了は「唯識述記」の解釈に従い「数論は実有論であり、 大(マハッ ト)などの諸法は実有なものであって仮のものである゜という。 仏教はこれを批判して、 諸法は仮のものであって実有ではないことを論証する」 二四節)という

本章の結論として、 円了は勝論と数論を仏教に比較している。  すなわち、 勝論は「横に分析上万有の存立を論ずる」という意味で佛教のいわゆる実有論であり、 後者は「竪に開発上万有の生起を論ずる」という意味でいわゆる縁起論である。  ゆえに勝論が一変すれば小乗の倶舎哲学となり、 数論が一変すれば大乗の「起信論」哲学となるという。 要するに、 数論と勝論は外道哲学中、 上位にあり、 なかんずく数論は最上であり、 仏教に近いというのである。

第七編結論において円了は、 外道すなわちヒンドゥー 教およびジャ イナ教哲学は仏教へ進むものであり、 それは「人智進化思想開発の順序である」

二六節)と述べて、 いわゆる外道と仏教との思想史的一を再確認している。

円了によれば、 外道すなわちヒンドゥー およびジャ イナ思想は、 我が実在するという説(実我論)と世界は実在であるという説(実有論)との二説にまとめることができるが、 仏教は無我論および仮有論(世界は仮のものであるという説)にまとめることができる。 世界が実在であるという考え方はもろもろのもの(法    に対する執着を「外道」の者たちの心の中で生む一方、 我に対する執着は「外道」の者たちが小乗仏教の悟りを開くこともできなくする二八節)と円了はいう。  

このようにして、「外道哲学」において円了は仏教はヒンドゥー 教およびジャ イナ教より秀でており、 思想の必然的な展開の原理によれば「発展すれば」仏教に近きものとなると信じていたのである。

頁に近い明治三年発行のこの大著を、 今日われわれはどのように評価すべきか。 円了はサンスクリット・テキストやチベット文献に基づいて研究したわけでもなく、 今日われわれの眼から見れば明白なことも、 当時はよくわかっていなかった点も多くあるだろう。 いわゆる近代的な意味の文献学的歴史学的観点から見るならば、「外道哲学」はヒンドゥー 哲学研究としてはそれほど意味がないかもしれない。  そもそも「外道」という語を用いること自体も今日では問題であろう。 さらに「外道」が仏教と較べて劣っているという前提も、 今日では受け入れるのは難しい。

では「外道哲学」は、 今日のわれわれにどのような意味を持つのか。  それは、 円了がヒンドゥー 哲学とジャ イナ哲学を素材にして描いた壮大な哲学・思想のパラダイムである。 円了自身がいうように、 それは決して歴史的発展をいうわけではなかった。 あくまで円了が考えた思想の型の図である。


我つまり自己は実在なるものではなく、 世界も実有なるものではなく、 仮にその存在が定立されているにすぎない。  これは円了が仏教を理解するときの大前提である。 仏教者が自分の立場に立って思想を構築しようとする際、 その仏教者は当然のことながら、 他の立場に較べて自分の立場の優位性を自らの図式に従って示さねばならない。 その際には、 仏教と非仏教の両者を納得させる普遍的原理は存在しないのである。


円了は研究者としてではなく、「神学者」つまり仏教者として「外道哲学を書いたのである。  この著作は古典として残るであろう。  それは諸文献に散見する該当箇所を集めた資料集としてではなく、 仏学者井上円了の思想パラダイムを見せるからである。

(国立民族学博物館教授)


解説 井上哲次郎「印度哲学史」草稿と井上円了の『外道哲学』


一、 はじめに

井上哲次郎と井上円了(以下、 哲次郎、 円了という)は高坂正顕『明治思想史」において両井上と呼ばれ、 明治思想史における哲学者としてならび称されている人物である。  すでに両者のプロフィー ルや思想と学説およびその評価については、 多くの研究者によって紹介し論じられているので繰り返さない。

題目の円了著「外道哲学」は明治三年二月刊行され、 現在においても、 仏教学印度哲学の研究者の間で知られているが、 哲次郎の「印度哲学史」は、 全くといってよい程、 知られていなかった。 この草稿は今西順吉氏により復刻され初めて学界に知られるようになった  「わが国最初の「印度哲学史」講義(一)(二)ー  井上哲次郎の未公刊草稿ー  」「北海道大学文学部紀要』三九の一、  二所収一九九年。「わが国最初の「インド哲学史」

講義(三)ー  井上哲次郎の未公刊草稿ー  」(井上哲次郎とその時代背景)「同前」四二の一所収一九九三年。

「漱石と井上哲次郎の「印度哲学史」講義」「財団法人松ヶ岡文庫研究年報第四号所収    一九九年)。

今西氏によると、  この草稿は東京都立中央図書館に所蔵されているが、 第四(第八章と第九章)と第七(第一四章と第一五章)の二巻のみである。 しかしその構成から見て、 氏は「草稿の第七で「印度哲学史」は完結していると判断することが出来る」とされている  「松ヶ岡文庫研究年報    七四頁)。

本稿は円了の「外道哲学」と、 哲次郎の「印度哲学史」草稿の第八・九章及び第一四章の構成と資料を検討し、 両者のインド哲学観を比較し、  ひいては「外道哲学」を我が国における初期インド哲学研究史に位置づけることを目的としているが、 先に両書の性質を見ておきたい。


二、  成立

「印度哲学史」から見てゆきたい。 哲次郎は自伝の「助教授時代」において「明治一七年二月に官命を帯びて独逸に留学した。 独逸に留学する前に約一年間大学で助教授として、 東洋哲学史を講じた。 その時自分の講義を聴いた者は十数人であったが、 殆ど故人となつて仕舞ひ、 生存している者は三宅雄二郎氏一人に過ぎないであろう。 故人としては井上円了、 棚橋一郎、 松本源太郎、 日高真実等がいる」(「井上哲次郎自伝ー  学界回顧録ー  」昭和四十八年十二月    冨山房    八頁)といっている。

山口静一氏の「フェノロサと井上円了」(講演)【資料】一の二「東京大学文学部哲学科学生(井上円了)の履修学科」によると、 明治一六年度第三学年〔東京大学法理文学部一覧(明治一七)および東京大学第三年報により推定〕には、 哲学(外山正一)心理学、 近世哲学(フェノロサ)カント、  ヘー ゲル、  スペンサー の哲学、 支那哲学・漢文(中村正直)四書五経、 印度哲学(原坦山)「維摩経』、 印度哲学(吉谷覚寿)『八宗綱要」「四教儀東洋哲学(井上哲次郎)とある(井上円了センター 年報

しかし、「東洋哲学(井上哲次郎)」の科目には講義内容あるいはテキストの記載がない。 したがって円了が聴講した〔と想われる〕東洋哲学の内容は解からないが、 今西氏は哲次郎の主著の    つである「日本陽明学派之哲学    の「序」(明治三十三年九月二十四日)の記述から「井上哲次郎の企図する「東洋哲学史」が日本の儒学を含むことは本書「日本陽明学之哲学」自身が示している通りであるが、  さらに「支那哲学」ばかりか「印度哲学」を含むものであることが明言されている。  そして全体の完成までには今後なお十年余を必要とすると述べている。 日本の儒学に関する著作は本書を含めて三部作をもって間もなく完成することになるのであるから、 支那哲学や印度哲学に関するものがその後に発表を予定されていたことになる。 彼の計画している「東洋哲学史」の輪郭がこれによってほぼ示されている」という(第二篇    三\ 四頁)。  したがって、 明治一六年度に哲次郎が担当した「東洋哲学」の内容は日本儒教であって印度哲学ではなかった。

彼は六年十ヵ 月のドイツ留学を終えて明治二三年十月に帰朝し、 教授に任ぜられて西洋哲学を担当する。「大学の西洋哲学講義として、 カント、  ショー  ペンハウエルの哲学を講じたが、  その傍ら東洋哲学として印度哲学を凡そ七年間に亘っ て講義した」。 そして印度哲学を講義するに至った動機について、 次のようにいっている。

「印度哲学を講義するやうになったのは、 独逸留学の際、 万国東洋学会に出席して各国の東洋学者に接近し、殊に印度哲学者の錘々たる人々(印度のパンヂッ トを含む)と会談した結果、 どうしても吾が日本のやうな仏教国に於ては、 日本の学者として、 印度哲学を知らぬと言ふやうなことではならないと痛感したからである。 加之、 宗教としても亦仏教は将来大いに研究さるべきものであり、 殊に日本に於ては、 哲学を講義するに当って印度哲学を無視してはならないと考へたからである。 処が、 西洋哲学の研究に対しては、  独逸の学者が種々の著述を公にしているのに反して、 印度哲学に関しては、 未だその道が拓けていなかった。 そこで、 自分はこれに先鞭をつけて印度哲学を講義することとなり、 先ず仏教以外の諸種の哲学、 即ち六派哲学は勿論、 それ以外の諸派哲学に亘り、 内外の著書を参考として講じ、 最後に仏教に及んだのである」(自伝、 四四頁)。

彼はすでにドイッセン、  オルデンベルヒなどを知っていたが、 万国東洋学会でビュー  レル、  ケルン、 ファ ウスマックス・ミュ ラー などの印度学者、  シュ レー ゲル、  コルヂェ、 ヒルトなどの支那学者とも知り合いになっている(自伝 郎の「釈迦牟尼伝二三頁)。  しかし、「自伝」によっても「印度哲学史」の時期は明らかではない。 今西氏は哲次明治三五年初版)の「序」の記述から「ここでは講義の実態について多くのことが語られている。 第一に印度哲学の講義は東洋哲学史の一部分をなしていたこと、 第二に印度哲学の講義の中で釈迦伝を扱っていたこと、 そして第三に釈迦伝は仏教起源史の一部分であったこと、 などである。 従って印度哲学の講義は印度哲学と仏教起源史とに大別されていたことが解る」とし、「序」の「明治二十五年秋から仝三十年夏に至るまで大約五年間」を信頼できる時期として、「自伝」の「凡そ七年間」を斥けている(第二篇四頁)。

以上によって、 哲次郎の「印度哲学史」は日本、 中国、 印度三国にわたる壮大な東洋哲学史の一部をなし、 明治二五年秋から三    年夏までの約五年にわたって講義されたことになる。 したがって、  この草稿が書き始められたのはこの時期より少し早かったかもしれない。

円了の「外道哲学」はその緒言に明言されている通り、 著作の意図は「哲学上日本仏教ノ組織系統ヲ撰述」し、「仏教哲学系統論」として著すことであった。  主眼はどこまでも仏教に置かれていた。 彼は印度哲学を客観論(外道哲学)と主観論(仏教哲学)に分け、 さらに主観論の仏教哲学を客観論(小乗)と主観論(大乗)、 主観論の大乗を唯心論(権大乗)と理想論(実大乗)に分けている。  この分類を日本仏教各宗に適用しているから、  主観論と客観論とを基本軸として日本仏教を哲学的に論じることを所期の目的としていたのである。 したがって「仏教哲学系統論」の構想は第一編の外道哲学、 第二編の異部哲学はインドの思想・哲学であるが、 第三編の倶舎哲学から第十五編の日宗哲学は、 第八編の起信哲学を除き、 奈良時代に成立した学派的仏教と現今の宗派仏教である。

「外道哲学」の草稿は「明治二十七年八月鎌倉成就院の小庵にて「日本仏教哲学系統論」を草し、 田中治六、田中善立二氏之が筆録に当る」(「東洋大学創立五十年史』五一四頁)とあるから、 起草はこの時期より早かったと思う。  しかし、  この草稿がどれほどの規模のものであったかについては不明である。 第一編の『外道哲学」についても、 明治二九年 一月下旬に印刷を開始したが「十二月十三日夜俄然哲学舘ノ焼失 二会シ、 余ガ寓居ハ将二延焼セントシテ僅 二免ルヲ得タルモ、 参考書類或ハ焼失シ或ハ散失シテ何レニアルヲ知ルベカラザルモノアリ」という不幸に見舞われたことを著者が述べている(「外道哲学    一頁、 本書一三頁)から、 第二編以下については尚更である。 しかし、 第一四編は「真宗哲学序論明治二五年五月五日哲学書院)、 第二編は「禅宗哲学序論明治二六年六月一九日哲学書院)、 第一五編は「日宗哲学序論明治二八年三月二日    哲学書院)として準備されていたが、  この三書の論調は学術的な「外道哲学    とは全く違い、 論証もなく、 文字通り「序論」であった。 果たし得なかった所期の企図は、 小規模ながら、  一般読者を対象とした「日本仏教」(大正元年九月一    日    同文舘)に結実された。

ここで、「外道哲学」と「印度哲学史」との成立に関わる思想的背景の相違について触れておきたい。 哲次郎は安政二年(一八五五)の生まれであり、 円了は同五年(一八五八)の生まれである。 僅かの期間の師弟関係(二九歳と二六歳)にあったとはいえ三歳の違いであるから、 円了が東京大学に入学した当時、  二人は共通の時代認識と各自の目的を持っていた。

二人は漢学、 洋学(英語)、 哲学の道を歩んだのであるが、 幼少期の思想的体験と印象は随分異なっている。

哲次郎は医者の家に生まれたが、 医者になる気はなく、 八歳の時、 儒者の中村徳山から「大学    や「中庸」などの素読を習い、  一四歳のころ「論語」を読むに及び、「論語    に説いてあるようなことを「実践に移したいという強烈な欲求」を起こしたという(自伝    四頁)。 円了はよく知られているように、 真宗の寺院に生まれ、三年余の間、 懸命に仏教を学んだが、「心ひそかに仏教の真理にあらざるを知り」仏教を誹謗排斥していた。 たまたま廃仏毀釈の時代であったので、 僧侶の修行をせず、 五年間は儒学を学び、 次に、 友人に勧められて、 洋学を学んだ。  しかし、「洋学は有形の実験学にして無形の真理を究むるに足らず」と思い洋学をやめた。 仏教にも儒教にも満たされなかった彼は真理をキリスト教に求めた。  この時明治六年、 彼が一五歳の時である。 そのために英語を学び、 聖書を読もうと思ったが手に入らず、 初めは友人の漢訳聖書を読み、 遂に英語の聖書を手に入れて熟読した結果、  キリスト教にも真理を見出すことが出来なかった(「仏教活論序論、「井上円了選集」第三巻二三六頁)。

この回想によると、 哲次郎はこれを「実践」しようと熱望するほど「論語    に感激しているのに対して、 円了は冷静に「真理」を求めている。 その後は二人とも西洋哲学を探求するのであるが、 円了は西洋哲学に「十数年来刻苦して渇望したる真理」を発見して「十余年来の迷雲始めて開き、 脳中裕然として洗うがごとき思い」をする。 改めて、 むかし否定した諸学を検討した結果、 仏教の中に「真理」を発見することが出来たという(同前三三七頁)。 時は明治一八年である。  この前年、 哲次郎は文部省の命によりドイツ留学に旅立っている。 哲次郎は明治二三年帰朝後、  主に、 ドイツ哲学を講義したのであるが、 印度哲学の研究は後継者に任せ「自分は支那学として、 支那の方の研究に大いに力を注いだ」(自伝    四五頁)。 彼は明治三    年パリの万国東洋学会に出席して、「日本哲学に関しての講演」をし、 帰国後は「日本の思想史とも言うべきものを纏めて見たいと言ふ考へが起こって来たので、 大学でもさう言ふ意医から、 日本の陽明学、 古学、 朱子学、 折衷学等各学派の哲学について講義した」(同前)。 彼の仏教との出会いは明治二年原坦山の『大乗起信論を聴いたときである。「自分が初めて大乗仏教に興味を覚えたのはこの時であるが、 他にも自分と同様の影響を受けたものが勘くなかったであろうと推察される。 自分が今日に及んでも猶ほ大乗仏教の哲学的研究を怠らないのは、 抑々何に由って然るかと言へば、 固より哲学としてこれに興味を持つからであるが、 その興味を喚び起こさせたものは、 蓋し坦山氏である」という(同前る。七頁)。 彼にとって仏教は終始知的対象にすぎなかったが、 円了の場合はこれと対照的である。

円了は「哲学上に於ける余の使命」において、 珍しく個人的心情を述べている。「余の信仰に就て一言して置きたい。 其信仰を自白すれば、 表面には哲学宗を信じ、 裏面には真宗を信ずるものである。  人或は信仰に二途あるべからずといふであろうも、 余は信仰其物にも表裏両面があると思ふ。 已に我心に知情両面あるが如く、 信仰にもやはり此両面が出来るやうになる。  之と同時に其体は    つであるから、 哲学宗の立て方を裏面より眺むれば忽ち真宗となりて現れて来る。 もとより真宗に限るといふ訳ではない。 其中余は生来の因縁により、 幼時に信仰の根抵を真宗の地盤に植付けてあるから、 我が心眼には真宗となって現るるのである」(『東洋哲学』第二六編二号大正八年二月、 石川義昌編「哲学堂案内」昭和一六年十月五八頁)。


このように両者の仏教観は根本的に違っていることが伺える。 哲次郎にあっては、 仏教は知(理性)の対象であり、 円了にとって仏教は真理の対象(哲学宗)でもあれば信仰の対象(真宗)であって、 両者は表裏一体なのである。 したがって両者の著作態度も当然違ってくる。 哲次郎の「印度哲学史」は日本儒学、 中国哲学、 印度哲学という東洋哲学の発想が動機となっているから、 全体として一貫した流れに位置づけられ得ない。 円了の場合は、 前述の通り、「外道哲学」を日本仏教哲学の系統論における序論として位置づけているから、 思想的一貫性が失われていない。とはいえ、  二人は広義の明治文明開化期(明治五・六年\明治二    年、 狭義には明治十年前後ー  高坂正顕説)、

或はこれと重なる啓蒙思想期に青少年時代を生き、 同じ様な教育を受けて成長したのであるが、  二人が自立した頃は、 既に、 啓蒙思想家たちの使命は終り、 色川大吉氏のいう明治青年の第二世代の時代であった。  二人が体験した大きな思想的変化は啓蒙思想に対する反動思想の台頭であった。

その象徴的な例は加藤弘之の天賦人権思想から進化論への思想的転向(明治    二年の「真政大意」など三部作の絶版から明治十五年の「人権新説」の出版へ)、 明治一六年四月からの東京大学における邦語での授業、 明治一八年二月の和漢文学科の設置などを挙げることができる。 加藤は「経歴談」(明治二九年)で自分に対する攻撃をこのように述べている。「加藤はもっぱら欧米の学問を取ることのみに偏して、 和漢の学を粗略にすることはなはだし。 大学において和文学・漢文学を講ぜざるにあらざるも、 そはただ歴史・文章等を教うるにとどまりて、 わが邦の国体またはシナ聖賢の道徳を教うる方法とてはたえて備わりおらず。 云々」(「日本の名著」三四、四九一頁)。  これに応えて、 彼は「大学にては、 哲学科シナ哲学とて孔・孟の経学等を教え、 また和漢文学科にてはもっぱら和漢古代の文学を教え、 史学科にてはもとより和漢の史学を教うることなれば、 その中にてわが国体もシナ聖賢の道徳も、 みなこれを学習せしむるの道は備わりおりしなり」という(同前)。

哲次郎は明治十三年東大文学部第一期生として卒業し、 明治十五年文学部哲学科助教授に就任し、 円了は明治十四年九月に入学し、 明治一八年第六期の卒業であるから、 加藤の思想的転向や大学における学科改編を直接目の当たりにしている。  この共通の体験が二人の研究に影響しなかったとはいえない。

二人は啓蒙思想家たちとは違い、「大本(実在)を講究」する「哲学士」たる自覚をもっ ていた。 哲次郎は明治一四年で口頭発表し、 後「学芸志林」に掲載したという「倫理新説 明治一六年刊)の中で「時ノ古今ヲ問ワズ、 洋ノ東西ヲ論ゼズ、 荀も公平ノ眼ヲ以テ宇宙ノ解釈ヲ求メシ者ハ、 必ズ萬有成立ヲ奉信セリ。 唯其名ヲ異ニスルノミ。 孔丘ノ徒ハ之ヲ太極卜曰ヒ、 老聘ハ之ヲ無名卜云ヒ、 荘周ハ之ヲ無無卜云ヒ、 列子ハ之ヲ疑独卜云ヒ、 釈迦ハ之ヲ如来蔵卜云ヒ、  ゼノフハニー  ス氏ハ之ヲ泰一卜云ヒ、想編」四ニニ頁)。」と述べている  「明治文化全集・思円了はこれを熟読したようである。「哲学一夕話・第一編・序 明治十九年)で、 丁氏に「哲学は孔孟の学のごとき浅近のものにあらず。  われかつて井上哲次郎氏の倫理新説を読み、 哲学の高尚なるに驚けり」と語らせている(「井上円了選集」第一巻二三頁)。「同第二編・序」で円了は「もしこれ(道の本体・筆者)に与うるに太極の名をもってすれば、 彼は易説をとるものなりといい、 これに与うるに真如の名をもってすれば、 彼は仏説によるものなりといい、  これに名付くるに無名無宰の語をもっ てすれば、 彼は老荘をまなぶものなりといい、本質の名称をもってすれば、  スピノザの徒なりといい、 不可知的の名称をもってすれば、  スペンサー 氏の論を述ぶるものなりというべし」といっている(同前    四八頁)。  これは「円了」という彼の名と同じ語をもって「道の本体」を表すのは不遜ではないかという非難に答えた文章の前段であるが、 哲次郎と同じく実在的観念の概念を求めている。 しかし高坂正顕氏が指摘されるように、 無造作な折衷説を排し、 もっと論理的であることを哲学に要求することは大西祝の批判主義を待たなければならない。  この点では、  二人は旧時代を脱し切れていなかったと言わざるを得ない。

しかし二人とも、 啓蒙思想家と違い、  この両書に見られるようにインド哲学の体系化を目指していることは確実に見て取れよう。 哲次郎の「印度哲学史」には仏教文献に見られない諸説が取り入れられているが、 それ以外の哲学説では、 円了の「外道哲学」と共通する多くの仏教文献が使用されている。 次節でこの比較を通して、 両書の共通点を見てゆきたい。

一、「印度哲学史」と「外道哲学」の比較

今西教授の調査の通り哲次郎の「印度哲学史」は第一、 第二、 第三、 第五、 第六冊の草稿が発見されていないので全体の構成は不明である。 不明の部分の各章は第一\第七章(第一\第三冊)、 第十\第十三章(第五、 六冊)であるが、 各章の主題は全く不明である。 後に示す各論の比較によって明らかなように、「外道哲学」(以下〔外〕と略す)の構成と「印度哲学史」(以下〔哲〕と略す)の構成は非常に似ている。

特に目立つ点といえば、〔哲〕はマー ダヴァ (摩施婆)の「サルヴァ・ダルシャ ナ・サングラハ」を資料として哲学派を立て、 哲学説、 特にニャー  ヤ、  ヴァ イシェー  シカに関しては西洋の研究成果を採り入れていることである。〔外〕は「西洋所伝」としてこれら西洋の研究成果を無視する立場を堅持する。 したがっ て、〔哲〕一四章・一項の十二\二十一は無視し、 また「四大外道」について「哲学上西洋所伝ノ六大学派中ノ首領タルベキモノハ、 僧怯、 毘世史迦、 吠檀多ノ三大学派ナルベシ、  之ヲ仏教所伝ノ上ニテ云ヘバ数論、 勝論、 声論(若クハ毘陀論師外道)ノ三大学派ナリ、 其中声論ハ客観論中ノ複元論トシテ論ジタレバ、 此二主観論中ノ複元論トシテ数論勝論ノニ大派並二尼健子若提子ノニ派ヲ論ゼント欲ス」(四六三頁、 本書五四頁)とし、  ヴェー ダー ンタとミー  マー ンサー を無視している。〔哲〕は第十四章第三に六派哲学の名称を挙げ、 さらに同第十五にマー ダヴァ説を挙げて、 問題の「シャー ンカラ・ダルシャナ」(〔哲〕吠施派)について「吠檀達派ハ別二著作スル所アルノ故ヲ以テ唯唯名称ノミヲ存セリ」とカウエルの英訳からの引用を載せている。

このようなことから以下の比較において欠落した章の主題を推定した。  この比較では〔哲〕の記述を主とし、〔外〕の対応する節を挙げる。〔哲〕は第十四章(各ノ哲学派)の構成を第一項と第二項とし、 各項はただ通し番号に従って記述しているのみであるが、 彼は西洋における研究成果を僅かながら取り入れている。 円了は第三十五節(本論ノ篇目)において、「本論」を総論(第二篇)・各論(第三篇\六篇)・結論(第七篇)とし、 総論で哲学派の分類を論じ、 各論で哲学説を主観・客観に分け、 さらに各々を単元論・複元論に分けている。「哲学派」の分類に際して、 両人ともに「ウパニシャッド」(優波尼沙土・優波尼薩土)文献群をインド哲学の源泉としているが、 哲次郎は「歴史二徴スベキモノナキガ故」、 円了は「支那二訳述セサリシヲ以テ」、 哲学派との関係を明らかにすることは出来ない、 としている。

客観的単元論

地論師派 第五十七節    地論第二、服水論師派 第五十八節    水論第三、火論師派第五十九節    火論第四、第五、風仙論師派ロカ論師派第六十節 風論 第六十五節    虚空論第六、時論師派 第六十七節    時論第七、 方論師派第六十六節    方論

第四篇    各論第 客観的複元論

四、  学派の分類に使用した漢訳経論

第十四章に関しては二人ともに漢訳経論を資料として論述している。 特に円了は著述目的からして当然である。 彼は第三十四節(蔵経中ノ外道論書)において、「其他専ラ外道ノ種類及其主義ヲ掲ゲテ之ヲ論破シタルモノニ、 提婆ノ外道小乗四宗論、 井外道小乗涅槃論アリ。 是レ明蔵大乗論ノ部門中 二出ズ。  若シ経論疏釈中二往々外道ノ事ノ散在セルモノニ至テハ幾多アルヲ知ルベカラズ」と述べて、 主な経論四十三種を挙げている。  これは「外道哲学参考引用書目」(七\二十頁、 本書二四\三七頁)に挙げる六百五十一種の一割にも満たないが、 彼は

「往々散見」(二種)とか「散見」(七種)と附記しているので、 その利用状況が判る。 しかし、 第八章「尼夜耶学派」、 第九章「衛世師学派即ち勝論派」では事情が異なる。 哲次郎は西洋の成果をふんだんに利用している。ここでは、〔外〕が利用した経論は種類が多いので、〔哲〕が利用した経論を中心にしてみてゆくことにする。 利用した経論が〔哲〕と〔外〕が同一である場合は〔外〕を付け、 同じ経論であっても、 引用が違う場合は〔外〕は付けない。

第四冊

第八章    尼夜耶学派

〔外〕二八\ 一六七頁(本書一五三一八七頁)

第一節はヴァ イシェー  シカ学派の通説ー  ヴァ イシェー  シカはニャー ヤより派生したので、 学者はこの両学派を一学派として取り扱うー  を否定して〔外〕、「尼夜耶ハ論法ヲ明ラカニスルヲ主トスルガ故ニ    箇ノ哲学組織卜云ウヨリ寧口諸学二必要ナル方法論 ナリ、 然ルニ衛世師ハ一種ノ物理的世界観ニシテ自ラ哲学組織ヲ成セリ」と明確に区別し、 両者の前後関係に関して、 西洋学者の説を紹介している。

第二節は学派創始者「 ゴタマ」について、 多く西洋の学説を引くが、 因明論大疏巻一「劫初足目創標真似」を引く〔外〕。

第三節は、 まず、「 ゴタマ」も「カナー ダ」も議論の定式として「叙述、 定義、 研薮」を基礎とするが、 尼夜耶派の特徴として十六諦(スー トラ一・一・一)列挙し、 さらに百論疏の記述と比較している。

第四節は十六諦中の第

「量諦」、  つまりプラマー ナの四撮〔外〕を金七十論のサー ンキャ説と比較して、「誓喩量」が加えられていることを指摘する。

第五節では「比量」を「アリストテレスの推測式卜相類ス」として、 五支分法の名称を示し〔外〕、 その具体例(スー トラ一・一・三十二)を挙げる。

第六節は十六諦中の第二「対象」(所量)の十二(スー トラ一・一・九)を列挙し〔外〕、 各項目を解説している。  そうして、 四量(スー  トラ一・一・三)を解説し、

第七節の「九句」、「十四過類」に繋げている。「九句」の創始者が「足目」であることを前出の因明論大疏の句〔外〕、 慧晃の因明三十三過本作法纂解巻上〔外〕、 因明正理門論により検証し、「九句因」〔外〕(宗・因・喩中、 因の正不正の判断)を解説している。

第八節で、 因明正理門論、 因明大疏巻二により「ミー  マー ンサー 学派」(声顕・声生)八派の説を論駁する具体例を挙げる。

第九節は「反対者ノ過誤ヲ発見スル」十四過類を因明正理門論の名称に従って解説する。

第十節は因明説に言及している漢訳経論ー  瑞源記巻一、 解深密経巻五、 方便心論、 顕揚論、 雑集論、 如実論

〔外〕を挙げる。 次いで、 陳那の弟子商澤羅主(天主)の因明入正理論〔外〕に触れ、 その後の中国、  日本における因明の展開を「瑞源記(寛永年間 二成ル)ノ終 二載スル所ノ書目ヲ見ルニ、 印度人ノ著二係ルモノ、 十六部、 支那人ノ著二係ルモノ五十九部、 日本人ノ著二係ルモノ、 八十四部アリ、 又東域伝燈録二和漢因明ノ書類九十八種ヲ録セリ、 此レニ由リテ因明学ノ一時和漢ニモ頗ル盛ナリシヲ察知スルヲ得ベキナリ」と、 述べている。これにも拘らず、 哲次郎は西洋の成果と学説に重点を置いている点に特徴がある。

円了は「尼耶也学派」を仏教の「所謂因明学派」と規定して、 医方明(十四節)、 工巧明(十五節)、 声明六\二十二節)、 因明(二十三二十九節)、 内明(毘陀論三十    三十三節)の五明の一つとして、 因明を取り扱っている。  この点で観点を異にする。 円了とて西洋の学説に触れているが、「余ハ因明大疏六巻(窺基)、 因明義断一巻(慧沼)、 因明纂要一巻(慧沼)、 因明疏前記二巻(智周)、 同後記二巻(智周)、 直解、 直疏、 因明大疏裏書三巻(明詮)、 因明明燈抄十二巻(善珠)、 因明論俗詮一巻(善範)、 因明大疏抄十巻(善俊)、 因明瑞源記八巻(鳳渾)、 因明四相違註解、 同私記、 因明三十三過本作法纂解(慧晃)、 同輯釈四巻(悦仙)、 因明纂解鼓攻三巻(林常)等ノ数書ヲ参照シテ僅 二其一端ヲ開陳セルニ過ギズ」と、 徹底して伝統的因明の解説に終始し、 古因明と新因明(第二十六節)の相違、 三支作法(第二十七節)、 三十三過(第二十八節)を主題としている。 最後の二十九節(東西論理の異同)では〔哲〕と同じくアリストテレスの演繹法との類似を指摘するが、「印度ハ之ヲ実際的二応用シ、 西洋ハ之ヲ理論的二講究シタルノ異同ナキニアラズ、 換言スレバ印度ハ甲乙対論者アリテ、一問題ノ勝敗ヲ決スルニ当リ、 己ヲ立テテ他ヲ排セントスル場合二此法ヲ応用セリ、 然ルニ西洋ニテハ対論者ノ有無二拘ラズ、 広ク一真理ヲ論定セント欲スルトキニ、 必ズ此法ニョ リテ其真偽ヲ證明スルナリ」と、 その機能に関する自らの判断をくだしている。


第九章    衛世師学派即チ勝論派

〔外〕四九一五一八頁(本書五七八\六七頁)

この章に入ると〔哲〕は近代インド学の成果を前章にも増して活用する。 サンスクリッ ト語のロー  マ字に加えて、 デーヴァ・ナー ガリー 文字が現れる。 資料として付けたものである〕、 参考書として

〔これはガウフの英訳に注釈の大要をなど欧文のものが増える。 解説にはスー トラ頌を「衛世師経」として用い、  シャ ンカラミシュラの註とジャ ヤナー ラーヤナ複註をふんだんに引いている。 しかし、 論証、 検証に当たっては漢訳資料によることは一貫している。

第一節はスー トラの著者カナー ダを主題とする。  その漢訳の名前、 年代、 出身地などを唯識疏巻一末、 大乗成業論、 玄応音義巻廿四、 唯識述記(〔外〕)、 止観輔行(〔外〕)、 百論疏(〔外〕)により検証している。

第二節は前掲のサンスクリット・テキスト英訳、 漢訳テキスト・慧月の勝宗十句義論一巻、 漢訳テキストの中国・日本における注釈書、 参考書(〔哲〕は十一本、〔外〕は八本)を挙げる。  この中〔哲〕、〔外〕ともに最良の書としているのは、 林常の十句義論決澤五巻であるとしている。

第三節は句義の意味、 次に六句義と十句義の名称についてサンスクリット語、 英訳、 漢音写を挙げる。  六句の名称と漢音写は、〔外〕によると、 止観輔行(〔外〕)、 倶舎恵暉抄(〔外〕)に依っていることが判る。 実、 徳、 業の三句は仏教でいう鉢・相・用に相当するとする〔外〕。 第七句の無説(ア バー  ヴァ)は、  ジャ ヤナー ラー  ヤナ註の英語の解説を引き、 後人の付加であるという。〔外〕は「西洋所伝ノ句義ニハ本師ノ六句 二無説ヲ加工テ七句トナセリ」という。  また因明大疏巻三により慧月が異・有能・無能・無説を加えたというのは間違いで、 慧月は同異性を異と倶分とし、 有能と無能を加えたが、 倶分は六句中の同異性であるから、 慧月が加えたのは三句である、 と解釈している。

第四節は六句義の概念と相互関係を主題とする。 六句はカントの範疇論と同主旨であり、「六句中ノ実徳業ノ三句ハ実体、 性質、 作用ナルガ故二其意義如何ニヨリテハ、 世界ノ諸現象ヲ包含シ尽クスヲ得、 然レドモ三句ノ中ニテモ実ハ万物ノ根基ニシテ徳業ノ如キハ之ガ付属 二過ギズ、  若シ実ナケレバ徳業モ依托スル所ナカルベシ、

(衛世師経一巻一章十五節)」と述べ、 十句決欅義論を引き「実は自存的、 徳業は依存的」とする。〔外〕は十句義を主題とする。

第五節は第一句義の実(ドラヴヤ)の九種とその性質を主題とする。 地、 水、 火、 風、  空、 時、 方、 我、 意の各々の原語と英語を挙げ、 衛世経と唯識疏一末を引き前五実と後四実の相違を説明した後、 九実の各々を、 英訳を批判し、 百論疏の漢訳との相違を挙げながら解説する。 次いで、 宝雲の十句義聞記〔外〕を引きつつ、 九種の実の性質を六項に分けて説明している。〔外〕は十句義論、 十句議論訣澤による。


第六節は第二句義の徳(グナ)十七種を主題とする。 しかし、 七種の徳を加えるシャ ンカラミシュラ説(衛世師経、  一巻・一章・六節)と十句義論の二十四徳説を採り(〔外〕)、 その総てを詳説している。 次に、 十句義論決探(〔外〕)を参照して、 諸徳の相違点の八種

 現境と非現境、

所作と非所作、

 覚能と非覚能、

諸徳の原因、

依一実体と非依一実体、

遍所依と不遍所依、

相違と不相違、

 有実と無実)を詳説する。〔哲〕は第六徳である「祉」の解説において、 世界の成立の原理を説くが、〔外〕は唯識二十論述記巻下、 十句義論釈巻上を引き、「是レ勝論師ノ世界成立論、 人身成形論及有命無命物ノ成来論ナリ、 而シテ其論意ノ唯物 二本クコトハ言ヲ待タズ」と、 自説を展開している(五一五頁、 本書六五頁)。


第七節は第三句義の業(カルマ)を主題とする。 業を作用動作の義と規定し、 その五種ー  取業、 捨業、 屈業、伸業、 行業ー  の英訳を示して、 その概念を説明する。 次いで、 徳と同じように各々の相違点の四項 、 十一種の別、、 取、 捨、 行の三業と屈、 伸の二業の別、、 遍所依と不遍所依、、 和合因縁と不和合因縁)を設定して解説する。  ここでも、 衛世師経と十句義論決澤巻五に依り検証している。〔外〕は一括して「実、 徳、 業の関係」(第百十五節)とその他の句義を論じる。

第八節は第四句義の大有(サー  マー ニャ)を主題とする。  これを定義して「実、 徳、 業、 ヲシテ継続セシムル所ノ原能カナリ」という。 次に漢訳異名八種ー  同(十句論、 唯識疏)、 有性(同前)、 有(唯識疏、 因明疏、 光記)、 大有(因明疏、 唯識疏、 玄談)、 大同(唯識疏)、 線同(倶舎、 光記)、 純諦(方便心論)、 総相諦(百論疏、弘決、 暉紗)を挙げて、 その正当性を論じる。 次いで、 高等( パラ)と劣等(アパラ)の二種、 大有の十一性質を論じている。


第九節は第五句義の同異(ヴィセー  シャ)を主題とする。  これを定義して「同異ハ恵月ノ所謂倶分ニシテ実、徳、 業、 ヲシテ或ハ同類或ハ異類ナラシムル原能カナリ」という。 次に因明疏巻五を典拠として、 これを詳説する。 更に同異は十句義の第九の倶分句義に相当し、 十句義の第五の異句義とは別であると述べ、 唯識疏一末によりこれを検証し、 慧月が同異句義を倶分と異に二分したことを論じている。 また、 モニエル・ウイリアムスの説(同異は十句義の異に当たる)を紹介し、 次いで、 異句義の特殊な性質を一三項に分けて論じている。

第十節は第六句義の和合(サマヴァー  ヤ)を主題とする。 第五句義の同異との相違を説くことから始めている。「即チ附着性ナリ、 実等已二存在スト雖モ、 同異ノ之レヲ分離スルノミニテハ万物尽ク分立別行、 唯唯差別ノミアリテ世界ハ為メニ成立セズ、 然ルニ此二和合句アリテ始メテ能ク一切万物ヲシテ調和セシム」という。  そうして両者の対立概念を拒力と引力、 離心力と向心力、 厖雑と純一と規定している。 次いで和合句の特殊な性質を七項目に分けて論じている。 最後に、 六句義の有機的関係を論じている。

第十一節は勝論の六句に加えられた四句ー  有能、 無能、 倶分、 無説ー  について解説する。 まず、 有能と無能は「因果ノ法ヲ成ス」と規定して、 両者の性質を十一項に分けて解説している。 第九句義の倶分については第九節の繰り返しであるが、 第十句義の無説(アバー ヴァ)について、 字義の通りであれば「無有」の意味であるが、漢訳が「無説」である点を不審として、 光記五と基疏一末の二説を引いて、「無有」の訳を採っている。「無説」を句義とするのは、 恐らく、 慧月が最初であると思うが、 衛世師経第九巻により、 十句義論の「五無」に対応するサンスクリット語をデー  ヴァ・ナー ガリー 文字で挙げているが、 第四の不会無に対応する原語はないので、「恵月ノ附加セル所ナラン」としている。 そこで、 涅槃経陳如品、 金七十論備考会本巻上により四無説を、 喩伽論巻十六により五無説を検証している。 結論として慧月の五無説と琺伽論の五無説は一致しないとする。

第十二節は十句義を(一)多数と唯一、(二)常と無常、(三)有質凝と無質凝、(四)現童と比量に類別して、これを表示している。  ここでは唯識疏一末に依っている。 最後に勝論哲学は「仏教の不可思議、 カントの物其れ

〔自〕身、 ハルトマンの不覚的、  スペンサー の不可知的」といった観念に思い至っていない、 と批評している。

第十三節は九種の実(実体)の内、 特に、「我」と「意」とを、 特に採りあげて主題とする。 最初に、 我の本質について、 成唯識論、 唯識疏一末、 因明疏巻五、 金七十論巻上、 因明疏巻三、 あるいは衛世師経七・一・ニ十二、 三・ニ・ニ十、 三・ニ・四を引いて、 八項目にわたり、 解説している。  興味深いのは、 個我と最高我を立てる尼夜耶学派の説を「タルカ・サングラハ」の英訳によって言及している点である。 次に、「意」についても八項目にわたり唯識疏巻一末、 因明疏五、 決欅巻四、 論釈巻下、 傍観録(光厳)、 決澤巻二、 十句義論、 百論疏上中、 義林章三、 などの漢文資料と衛世師経三・ニ・ニ・注、  七・一・ニ十三、 三・ニ・一、 三・ニ・三を引き、批判的に解説している。 なお、 欧文参考書にエルヒィ ンストンの「印度史」が引かれ、 アリストテレス、  エムペドクレス(ギリシャ語文)説などとの対比がなされている。

第十四節は十句義論の第二十四の徳(グナ)である「声」を主題とし、「声」の常住を主張する「ミー  マー ンサー  」学派に対立する、 勝論派、 尼夜耶派、 僧怯派の無常説について、 衛世師経ニ・ニ・ニ十六により勝論の声無常説を論証し、  ムイルの「サンスクリット・テキスト因明新疏巻二、 因明大疏抄巻五による(五一五頁、 本書六をひいて、 尼夜耶派のそれを検証している。〔外〕五頁)。


第十五節は神観念を主題とする。 衛世師経

三とシャンカラミシュラの註釈により勝論派が「神」(伊湿伐羅・イー  シュヴァ ラ)を認めることを論証している。 しかし、  ここでもモニエル・ウイリアムスの説により、 尼夜耶派も勝論派も、 共に、 世界の成立に「不可思議カ・アドリシュタ」を認めるから有神論であるが、

「勝論派ノ全体ノ思弁ノ傾向ハ無神的ナリ」と断定している。〔外〕は「西洋ニテハ或ハ勝論ハ有神論ノ一種ノ如クニ論ズルモノアレドモ、 是レ亦仏書中二見エス、 而シテ仏教所伝ニョ レ バ却テ無神論ナリ」と述べ(五一七頁、 本書六頁)、 百論巻上により、「神・知二元論」とする(五二頁、 本書六一頁)。


第十六節は勝論派の特徴である「因中無果説」を主題とする。  この説の対極は数論派の「因中有果説」である。 先ず、「勝論派ノ因中無果論ハ二比スベシ二比スベク、 数論派ノ因中無果論ハ」と姐盆疋してから、 金七十論上、 義林章一本、百論疏上中によりこれを検証し、  さらに、 衛世師経九・一・一、 ニ・一・ニ・四により論証している。

第十七節は総評として、  (一) バルトの説、 ドイッセンの説ヲ物理、 即チ特殊的若クハ感覚的ノ対象 二用フ、 モニエル・ウイリアムスの説、  ヘー ゲルの説「心」を紹介して、「然レドモ勝論派ノ学問ハ畢党塵世ヲ解脱シテ涅槃ノ境界二達スルニアリ」と勝論派の究極の目的は「解脱」にある、 と述べ、外道小乗涅槃論、 慈恩伝巻四により、 これを検証し、 衛世師経一・一・ニおよび註釈により、 論証している。  ここで〔哲〕は「高邁は楽園、 至善は解脱 」という原文を載せている。(二)勝論派が空、 時、 方を実体とする点について、 ライプニッツはこれを「真実なる本体」、 カントは

「直観の図式」とすると指摘して、 外道小乗涅槃論、 大日経義釈巻二から「方論師説」と「時計外道説」を引き、これを論証している。(三)勝論派の「原子論」がチロイキッ プス、 デモクリトスの説と暗合する五点を列挙する。  また、 人類が土から成るという説がパルメニデス、  エムペドクレス、 列子(天瑞篇)の説と類似しており、創世記ニ・七と一致する、 として漢訳聖書の該当部分を引用している。〔外〕は「其論西洋近世ノらいぷにっ つ氏、  へるばると氏等ノ元子論二比スルニ、 宮二其所立ノ同ジカラザルノミナラズ、 其論理考證ノ疎密固ヨリ同日ノ論ニアラズト雖モ、 希臓哲学ノたー れす氏、 あなきさごらす氏、  でもくりたす氏ノ諸論二比スレバ其右二出ズルト謂モ、 敢テ其当ヲ失セズト信ズ」と、 総評している。 全体として、〔外〕は勝論説を仏教資料によっ て解説しているので客観的であるが、 時には仏教からの論駁を挙げることもある。

華厳経十廻向品(八十華厳巻廿六)「願一切衆生、 得如来幡、 推滅一切九十六種外道邪見」。大智度論巻廿二「世間諸法実相宝山、 九十六種異道皆不能得」。〔外〕

大智度論巻廿七「九十六種外道、  一時和合、 議言、 我等亦是一切知人」。

翻訳名義集外道篇「垂裕云、 準九十六外道経、 於中一道は是正、 即佛也、 九十五皆邪」。


第二、九十五派〔外〕二二三頁(本書二五三二五四頁)

涅槃経衆問品    会疏巻十「世尊常説、  一切外学九十五種、 趣皆悪道」。〔外〕涅槃経現病品    会疏巻十「当為外道九十五種之所軽慢、 生無常想」。起信論    義記下ノ末「不為九十五種外道鬼神之所惑乱」。


第三、六派    〔外〕一九〇\ 一九一頁(本書ニ二\ニ三頁)

「西洋ノ学者ハ婆羅門ノ哲学派ヲ六種二分ツヲ通例トス」〔哲〕

「西洋ニアリテハ近来印度哲学二関スル著書続々世二出デ其用フル所ノ分類モ亦一定セズト雖諸家多ク六大学派二之ヲ分ツ」〔外〕

尼夜耶派(即チ因明派)喬答摩衛生師派(即チ勝論派):迦那陀僧怯派(即チ数論派) 張曼薩派(即チ声論派)迦比羅 喩伽派(即チ観行派):閣伊張尼 吠檀達派(即チ吠陀派)波騰閣梨 婆達羅耶那〔外〕祖師名なし。 音写に相違あり。  ロー マ字表記あり。


第四、 三十派〔外〕ニ九\ニニニ頁(本書二四八\二五一頁)

大日経住住心品、 特に同義釈巻二により三十派を挙げ、 義釈の説を批判的に解説している。 例えば義釈の「経云復計有時者、 謂計一切天地好醜皆以時為因」に対して「第一、 時論:    計時外道ヲ謂フ」、 義釈の「次云時者、輿前時外道宗計小異皆自在天種類也」に対して「第八時論

第一ノ時論卜少シ異ナリト云エドモ、 如何ナル点ニ於テ異ナルカ、 詳ナラズ」という論調である。〔哲〕の解説は義釈の文と対比しなければ、 その解説の客観性を明確にすることはできないが、 煩雑であるので省略する。 以下三十派の名称のみを挙げておく。〔外〕は大日経住心品の経文を引き、 次いで住心品疏科文巻三、 大日経開題巻一、 果宝紗巻二を勘案して名称を決め、 解説は各論に譲っている。 しかし、「論」の字は付けていない。

第一、 時論。 第二、 地等変化論ー  〔外〕地等変化地水火風空(五大外道)。 第三、 喩伽我論ー  〔外〕琺伽我(相応)。 第四、 建立浄論ー  〔外〕建浄。 第五、 不建立無浄論。 第六、 自在天論。 第七、 流出論。 第八、 時論。 第九、 尊貴論。 第十、 自然論。 第十一、 内我論。 第十二、 人量論。 第十三、 遍厳論。 第十四、 寿者論。 第十五、 補特迦羅論ー  〔外〕補特迦羅(数取趣)。 第十六、 識論。 第十七、 阿羅耶論。 第十八、 知者論。 第十九、 見者論。第二十、 能執論。 第廿一、 所執論。 第廿二、 内知論。 第廿三、 外知論。 第廿四、 社但梵論。 第廿五、 摩奴閣論ー〔外〕摩奴閣(意生)。 第廿六、 摩納婆論ー  〔外〕摩奴婆(儒童)。 第廿七、 常定生論。 第廿八、 声顕論。 第廿九、声生論。 第三十、 非声論。第五、 十六派    〔外〕二五一頁(本書二九一頁)喩伽論巻六・七〔外〕、 顕揚論巻九・十〔外〕、 毘婆娑論巻十一・十二〔大乗義林章巻一〔外〕を資料として、主に大乗義林章によって解説している。〔外〕は解説を各論に譲っている。

第一、 因中有果論。 第二、 従縁顕了論。 第三、 去来実有論。 第四、 計我実有論ー  〔外〕計我論。 第五、 諸法皆常論ー  〔外〕計常論。 第六、 諸因宿作論ー  〔外〕宿作因論。 第七、 自在等因論ー  〔外〕自在等為作者論。 第八、害為正法論。 第九、 辺無辺等論ー  〔外〕有辺無辺論。 第十、 不死矯乱論。 第十一、 諸法無因論ー  〔外〕無見因論。 第十二、  七事断滅論    〔外〕断見論。 第十三、 因果皆空論ー  〔外〕空見論。 第十四、 妄計最勝論。 第十五、妄計清浄論。 第十六、 妄計吉祥論。〔哲〕は「コウエル、 ガウフニ 氏ノ英訳アリ」と注記し て、 摩廂婆の「哲学纂論」を、 漢音写とサンスクリット語(ロー  マ字)を付けて、 紹介している。〔外〕は大乗義章巻六、 法界次第巻上ノ上により十六派の異説を出す。


第六、 十三派〔外〕ニ七頁(本書二四六\二四七頁)

哲〕は成唯識論巻一による。〔外〕は義林章科図(甲図)と唯識図解(乙図)により、「此両図小異アリト雖モ、 共 二十二計ナリ。 然ルニ唯識述記ニハ別破十三計ノ語アリ。  蓋シ其十三計ハ乙図ノ声論師外道ヲ明論即チ毘陀論卜声論即チ声顕声生論二分ツニョ ル」する。

第一、 数論。 第二、 勝論。 第三、 大自在天論。 第四、 大梵天論。 第五、 時論。 第六、 方論。 第七、 本際論。 第八、 自然論。 第九、 虚空論。 第十、 我論。 第十一、 声生論。 第十二、 声顕論。 第十三、 順世論。

〔哲〕の第十一、 十二は〔外〕では明論と声顕声生論となる。〔哲〕は第三を湿婆崇拝派、 第四を吠檀達派、 第七を本生安荼論師、 第九を口力論師、 第十を宿作論師と説明している。


第七、  二十派〔外〕ニ九頁(本書二四八\二四九頁)

〔哲〕は外道小乗涅槃論による二十派の分類は仏教の「涅槃説」に基づくものであるが、「印度ノ哲学派ハ大抵皆涅槃ヲ以テ収局ノ目的トスルヲ以テ此分類ハアラュ ル当時ノ哲学派ヲ包容スルモノト見倣スヲ得ベキナリ」と

第一、 小乗外道論師。 第二、 方論師。 第三、 風仙論師。 第四、 章随論師。 第五、 伊除那論師。 第六、 保形外道論師。 第七、 毘世師論師。 第八、 苦行論師。 第九、  女人脊属論師。 第十、 行苦行論師。 第十一、 浄眼論師。 第十二、 摩施羅論師。 第十三、 尼健子論師。 第十四、 僧怯論師。 第十五、 摩薩首羅論師。 第十六、 無因論師。 第十七、 時論師。 第十八、 服水論師。 第十九、 ロカ論師。 第二十、 本生安荼論師。

〔外〕は同じく外道小乗涅槃論を資料としているが、「 :・・・論師説」として二十の名称を列挙するのみ。 解説は各論に譲っている。

第八、 四派

〔哲〕は外道小乗四宗論(菩提流支訳)を資料とし、 その記述に従って解説している。〔外〕も四宗論を引用し、 他の論疏と比較している。 特に唯識論巻一の「数論、 勝論、 無悪、 邪命」四種と一致すると推定している。

第一、 僧怯論師。 第二、 毘世師論師。 第三、 尼健子論師。 第四、  若提子論師。

第九、 六派    〔外〕二五\ニ二頁(本書ニニ八\二四一頁)

この六派は第三の「六派哲学」ではなく「六師外道」である。〔哲〕、〔外〕共に註維摩経巻三を主に、 翻訳名義集、 止観輔行(〔哲〕の輔行口か)を資料とする。〔哲〕はサンスクリッ ト語のロー  マ字を付ける。 なお、〔哲〕は「仏教小史」(四十四頁)という欧文と思われる文献を参照している。

第一、 冨蘭那迦葉。 第二、 末伽梨拘除梨。 第三、 剛閣夜毘羅抵。 第四、 阿者多翅舎欽婆羅。 第五、 迦羅鳩駄迦栴延。 第六、 尼健陥若提子。

第十、 十八派〔外〕ニ四   ニ 五、 ニ八頁(本書二四二\二四四、  二四八頁)

〔哲〕は註維摩経の六師外道に就いての記述「此六師尽起邪見、 裸形苦行、 自称一切智、 大同而小異耳、 凡有三種六師、 合十八部、 第一自称一切智、 第二得五通、 第三誦四窟施、  上説六師、 是第一部也」と百論疏上中〔外〕を典拠とする。  したがっ て、 具体的な名称は挙げていない。  つまり、 六師外道、 五神通力を得た六派、   ヴェー ダを誦する六派の計十八派である。〔外〕は四教義巻二(註維摩経に基づく)の「一者一切智六師、  二者神通六師、 三者窟陀六師」を引き、 典拠とする。  さらに、 聖閾賛巻四の図を挙げ、「此三種約六師、 有六十八種外道也」の記述を否定している。

第十一、 十派〔外〕二四六\二五頁(本書二八 了   二九    頁)〔哲〕、〔外〕共に首榜厳経巻十上を資料とする。〔哲〕は経の記述に従って解説し、 派の名称を挙げているが、〔外〕は該当部分の原文を挙げるのみである。

第一、 無因論。 第二、 円常論。 第三、 分常論。 第四、 有辺論。 第五、 不死矯乱論。 第六、 有相論。 第七、 無相論。 第八、 倶非論。 第九、 断滅論。 第十、 現涅槃論。


第十二、 六十二派〔外〕二五八二\三六頁)

仏教において古くから云われる「六十二見」の算出方法について、〔哲〕は前項の十派を辺見と邪見、  さらに辺見を常見と断見に分けて三種に分類する。 そして常見に四十、 断見に七、 邪見に十五ありとする。

常見 円常論ー  四、 分常論ー  四、 有相論断見    ・・断滅論ー  七十六、 無相論ー  八、 倶非論ー  八邪見 無因論ー ニ、 有辺論ー  四、 不死涅槃(?矯乱)論ー  四、 現涅槃論ー  五

この説は〔外〕が挙げる義林章巻四(唯識論の六十二見を喩伽論、 顕揚論などによって解釈する)、 同科図巻下による説(二六一頁、 本書三    五頁)にちかい。〔哲〕はその他仁王経巻二、 喩伽論巻五十八、 八十六、 成唯識論巻六、 義林章巻四など散見される経論を挙げている。〔外〕は翻訳名義集、 三蔵法数により二種の算出法を解説している。 また参照している文献は実に多い。

五、 哲学説の説明に使用した漢訳経論

第一、 地論師派。  〔外〕二九七

二九九頁(本書三四四\三四七頁)


大日経義釈巻二。  〔外〕大日経十心品疏冠註巻四、 十住心論巻一、 その他、 住心品疏宥快紗巻四、 大日経疏拾義紗巻五、 呆宝抄巻一、 住心品略解巻五  ゜

第二、 服水論師派。 〔外〕水論二九九\三    二頁(本書三四七_  二四九頁)

大日経義釈巻二、 外道小乗涅槃論(〔外〕)、 草木子管窺篇(明・葉子奇)〔外〕管子水地篇、 春秋元命芭。 葉子奇の説は仏教説の借用ではない、 とする。 希臓ではター  レスがこの説を説く〔外〕。 〔外〕中論疏巻三、 大日経疏宥快紗巻四、 涅槃経(北本)巻十六、 注菩薩戒経巻上、 舎頭練経、 渉典続紹など。


第三、 火論師派。 〔外〕三二    三    五頁(本書三五三頁)

大日経義釈巻二、 方便心論〔外〕、 管関手子四符篇  ゜ヘラクレイトスの主張と類似する〔外〕。 ピタゴラス、 デモクリタス、  ストア学派等は皆火を原理とする。 ゾロアステルの拝火教の主義と暗合する。〔外〕火事外道について、 百論疏巻上中、 榜厳眼随巻三、 大日疏輔闊抄巻五  ゜


第四、 風仙論師派。 〔外〕風論五\三六頁(本書三五三\三五四頁)

大日経義釈巻二、 外道小乗涅槃論〔外〕。 アナキシメ子ス〔外〕、 ヂオゲ子スの説と類似する。〔外〕住心品疏、倶舎論巻一、 勝論十句義論。

第五、 ロカ論師派。  〔外〕虚空論三一九\三二七頁(本書三七一\三七九頁)

大日経義釈巻二、 外道小乗涅槃論〔外〕、 タイッ チリヤカ・ウパニシャドニ・一。「ロカ」は「 」の訳であっ て、 吠檀多哲学中に出るからロカ論師は吠檀達であっ て、 虚空 は婆羅吸曼である。  これは老子の「無名」、 荘子の「無無」の観念と類似するという。 成唯識論にいう虚空論に当たる。

〔外〕中論疏巻三、 華厳玄談巻八、 百論疏巻下、 住心品疏、 榜厳眼随巻三下、 涅槃経(南本)巻三十三、 倶舎論巻十二、 名義集巻二、 梵漢難名三四など。〔外〕は外道小乗涅槃論によると、 虚空は摩醸首羅の頭であり、 風はその命であるとする、 そうすると「ロカ」は梵天の呼吸と考えてよい。  このことが正しいとすれば、 ロカ論師は自在天外道の一派であるかもしれない。 華厳演義紗には「因力論師」とあり、 華厳玄談にはロカ論師とあり、

「因力論師」は誤字であるという。


第六、 時論師派。  〔外〕時論三二八\三三四頁(本書三八三八九頁)


 マイテエル氏の字典の「ゾロアステル」の項により、「時ハ不変ノ因ニシテ実在」たることを述べる。〔外〕外道小乗涅槃論、 喩伽論巻六、 顕揚論巻五、 十住心論科註巻三、 住心品疏冠注巻四、 果宝抄巻一、 華厳玄談巻八など。 特に「時解」(第六八節)の節を設けて解説している。 住心品疏冠注巻四、 翻訳名義集巻二、 智度論巻一、 百論疏巻下、 中論疏巻一、 大蔵法数巻二十一によって、「時」(迦羅)の概念を明らかにしている。


第七、 方論師派。  〔外〕方論三二七\三二八頁(本書三八〇\三八一頁)

外道小乗涅槃論〔外〕。〔哲〕が「方論師派ガ人ヨリ天地ヲ生ズト主張スル事甚ダ奇ナリ、天地ヲ生ズルノ意力、  之ヲ確定スベキ歴史的事実ノ訣乏セルハ最モ遺憾トナス」と指摘することを、〔外〕も「方論外道アリテ方ヨリ人ヲ生ジ、 人ヨリ天地ヲ生ズト説クモ、 其道理如何ヲ證明セザルハ、 畢覚空想ノ甚ダシキモノト云ウベシ」と、 同趣旨のことを述べている。〔外〕の資料は唯識論巻一、 華厳玄談巻八、 百論巻下であるが、「仏教ハ本来十方空無」を説く故、 外道と見解を異にすると念を押している。


第八、 無因論師派。  〔外〕無因外道四    五\ 四九頁(本書四七七八一頁)


外道小乗涅槃論〔外〕。「其因果ヲ否定スル所ハ懐疑論者ノ如ク、 其造化ヲ否定スル所ハ唯物論者ノ如ク、 其自然ヲ収局ノ目途トスル所ハ老荘卜相似タリ、 大日経及ビ成唯識論等ニハ此派ノ主義ヲ自然論卜称セリ」と論評している。〔外〕喩伽論巻七、 顕揚論巻十、 唯識論巻一、 住心品疏冠註巻五。「自然外道」とする資料に就いては、広百論釈論巻一、 維摩経疏(会本)巻四、 維摩義記巻二。 無因外道に対する反論は、 住心品疏略解巻五、 瑞伽論巻七。 唯識論巻一の引用(四いる。頁、 本書四七七\四七八頁)中の「此方外道」は老荘の説である、 と指摘して

第九、 本安荼論師派。  〔外〕安荼論師計三九四三九六頁(本書四六二\四六六頁)

外道小乗涅槃論〔外〕、 成唯識論〔外〕。「安荼」の語につき、 大安荼 を「鶏卵ノ如ク」と、 その意味を具体的に示している。  この世界開闊説は列子の説「清軽者上為天、 濁重者下為地」と類似している、 と いしう。 また、 ゲオゲ子スの開闊説も観念的にはこれに近いとする。〔外〕華厳玄談により大卵化成説と規定して、

「本際計」、「本生計」を同義語として挙げる。 淮南子巻 二、 日本書紀巻一、 元元集巻一により、 類似の諸説を挙げる。  しかし、  これらは太初に水が在ったとするから宇宙水鉢論である、 という。 これに似た伝説を観仏三昧経巻一から紹介している。


第十、 祈婆迦派。 〔外〕順世外道    三六\三一五頁(本書三五四三六六頁)

成唯識論〔外〕、 法華玄賛巻九、 摩施婆の哲学纂論 。 祈婆迦の音写)は創唱者の名前であり、  この派は所謂順世外道である。 順世は路伽耶施の訳であり、 路伽 は世界、 阿耶隆は流布という意味であり、「世界 二流布スル」ということである。  この派の説を摩随婆により

(一)知識論、(二)唯物論  (三)自然論、(四)快楽論の項目の下に解説する。〔外〕唯識述記巻一末、 義林章巻一、 中論疏巻四末、 広百論巻三、 喩伽論巻七により、 この派の説が唯物論であることを検証している。

「順世ノ名義」(六十二節)を慧琳音義巻十五、 翻訳名義集巻五、 法苑義鏡巻五、 唯識論略解巻上、 法華新註巻五、 飾宗記巻七などのより「世間凡常ノ説 二随順スル義」を論証している。 そうして、 西洋でいう「常識」にあたるかと述べている。「極微ノ性質」(第六十三節)では、 対法抄巻二、 倶舎頌疏巻十二、 百論疏巻下中により

「極微」の意味と異説を挙げる。 次いで、 勝論との相違を中心に、 その説を唯識述記巻一末より略説している。

詳細は「小乗哲学ヲ講ズル時 二譲リテ弁明スベシ」、「其詳ラカナルハ後二唯識哲学ヲ講ズル時 二譲ル」としている。


第十一、  若提子派。  〔外〕若提子外道四八二四八五頁(本書五六七\五六九頁)

外道小乗四宗論〔外〕が僧怯(数論)、 毘世子(勝論)、 尼乾子、 若提子を四宗と規定し、 涅槃経、 維摩経等が六師外道の第六師を尼健陀若提子としているので、 疑念を招いた。〔哲〕は尼健子と若提子が別派であるか否かについての疑問の解明に大半を費やしている。 維摩経の羅什訳注、 僧肇の維摩註経(共に註維摩詰経十巻によるか)、 慧琳音義廿六の説を批判的に解釈し、「外道小乗涅槃論二尼健子卜若提子ヲ分チテニ派トシタルハ最モ解シ難シ」と、 ビュー  レルの説(「尼健施若提子 ヲ以テ閣伊那派ノ創唱者タル摩詞毘羅トセリ」、を支持している。 しかし、 この派の哲学説を百論疏上中〔外〕によって紹介するが、「是 二由リテ之レヲ考フルモ、 若提子卜尼健子ノ間二親密ノ関係アルヲ知ルベキナリ」と二派とする伝統説に従っている。〔外〕は既に四種外道(四十一節)、 六師外道(四十二節)、 尼健子 九節)の解説において上述した問題に言及しているが、  ここでは維摩狡朦抄巻三、 倶舎恵暉抄巻三、 倶舎指要紗巻八等により「邪命外道」との関係を論じ、「尼健子ヲ邪命卜名クモ可ナリ、 亦若提子ヲ邪命卜名クルモ可ナリ、或ハ尼健子若提子ヲ合シテ邪命卜名クルモ可ナルベシ」という。  その哲学説については、〔哲〕と同じ資料により「其他仏書中二特 二若提子外道ノ字義教理二就キ論述セルモノヲ見ズ、 蓋シ其説尼健子卜同キニョ ルナラン」と、 述べるに止めている。

第十六、 晒婆派。  〔外〕三八一\三九三頁(本書四四七\ 四六二頁)

「晒婆派ハ湿婆ヲ崇拝スル一派ニシテ所謂摩醸首羅論師、 是レナリ」と断定し、 外道小乗涅槃論〔外〕を典拠とする。 十四の分派を列挙しているが、 第十七の波輸鉢多派(第五)、 波羅底耶毘闇那派(再認識派    第七)、 羅斯湿伐羅派(水銀派    第八)のような体系的なもの、 宗教的標識によるものが混在している。 この派の哲学説として神・精神・世界の三諦と学問・儀式(法務)・静慮・徳行の四法の「三諦四法」を建て、 各々詳説している。

〔外〕は外道小乗涅槃論、 摩登伽経巻上、 三論玄義接幽紗巻一所引の百論疏によりその神観を凡神論とする。次いで、 摩陸首羅の漢訳は自在天であることを唯識論述記巻一末、 住心品疏略解巻五、 喩伽論巻七、 中論疏巻一末等により検証している。 その哲学説は百論疏巻上中に説かれる「十六諦」(十六原理)を列挙して、 各々の概念を説明するに止めている。 次いで、 第八十一節において自在天所属外道として、 住心品疏冠註巻五、 呆宝抄巻ニにより「遍厳」、 住心品疏略解巻五、 喩伽論巻八三により「摩奴閣」、 外道小乗涅槃論により「伊除那外道」、「女人脊属外道」を挙げている。する。


第十七、 波輸鉢多派。  〔外〕三一五\三一九頁(本書三六六\三七頁)〔外〕は「獣主及遍出」と一括

波輸鉢多はの漢音写であることを明らかにして、 湿婆を崇拝するはであるとする。により、  この派が印度教の一派であることを證明する。 次いで、 玄応音義巻二十三、 倶舎光記巻九、 唯識述記巻一〔外〕、  により、 この派が塗灰外道、 獣主外道ということを論証している。 この派の説の基本を「八種の五事」(表示あり)と「三種の法務」とし、 更に「我とシヴァ神との合一」を目的とする哲学説を解説している。〔外〕は第三篇・各論第一・客観的単元論    第二章    極微論の下で論じている。「獣主」は「播輸鉢多」の漢音写であることを唯識述記巻一により示す。 唯識義蓋巻一の「牛主」との同異を検討した後、 結果的には「其他仏書中獣主遍出」の名義を解説したものは無い、「余ガ聞ク所 二ヨレバ獣主ハ梵語ノ誤訳ナリト、 其果シテ然ルヤ否ヤハ宜シク散斯克(サンスクリット)学者 二就キテ之ヲ質スベシ」という。  その哲学説に就いては、 唯識演秘巻一、 起信論幻虎録巻四により、  これは極微論、 唯゜物論といえないが順世外道の説に近い。 しかし、 義琳章巻一、 喩伽論巻六等によると計我論であると、 とヽしう

第十八、 波利伐羅勺迦派。  〔外〕同前

波利伐羅勺迦はの漢音写、 その他、 般利伐勺迦、 波利咀羅拘迦、 簸利婆羅闇迦、 般利伐羅多迦などの漢音写を挙げる。 次いで、 倶舎光記巻九、 唯識述記巻〔外〕、 玄応音義巻二十四により    これが「遍出」