3.初期論文

P672

   主客問答


 近ごろ世の中に往々心得違いのものありて、 宗教はただ愚民を導くの機械にして、 いやしくも学術に従事 するものにいたりては不用の具なりと思い、 わずかに翻訳書一巻をも読み、 はなはだしきは『万国史略』  一編をも誦する以上は、 心を宗教に傾くるはよほど不見識のことと考え、 また名誉を害するように思うあり。 あるいは自ら学術を知らざるも、 少々衣食に安んじ日用に汲々せざるものは、 すでに宗教は下等貧民社会にのみ行わるべきものにて、 我が輩のごとき中等以上の者の奉ずべきものにあらずと信ずるあり。 あるいはまた、  学術もなく恒産もなくしてなお、 われは士名を負うものなり胆力者なり腕力家なりと称し、 宗教のごときは老弱輩の玩具と思い、 自らこれを奉ずるは士名を汚すように考うる者あり。 たといまた少しく宗教に志あるも、 仏教を信ずるは卑屈あるいは旧弊と考え、 ヤソ教をもってひとり上等の教法と思いこれを奉ずる者あり。  これみな、 惑えるのはなはだしきものというべし。 余、  一夕客舎(相州湯本の温泉場)にありて、 泉をくみ茶を煎じんとす。 たまたま一人の客あり、 来たりて余を訪う。 語次、 宗教の一談に及ぶ。 問答、 時を移す。 幸いに世人の惑いを弁ぜんため、 その茶話のままを録して貴社に投ず。

 客問いて曰く、 余は全く学術を知らざるものにあらず、 衣食に汲々するものにあらず、 また宗教の道理を弁ぜざるにあらず、 少時はしばしば父老の手をたすけて仏寺に詣し、 その説教を拝聞せり。 また、 近年は日曜をもって再三ヤソ宗の説教をも傍聴したり。  そのほかひまあれば、 ときどきその書を閲し、 あるいは諸宗の僧侶にその疑惑をただせしことあり。ひそかに考うるに、わが国古来儒仏神の三道あり、近来またヤソ教の入来するありて以上四教あれども、 わが神教のごときはいまだ完全の教をなさず、  かつややヤソ教に類するところあればここに論ずるを要せず、 儒教は真の宗教なるものにあらざればまたこれを除く。  ただ仏教とヤソ教との二法について、理論上その可否を正さん。 それ、 人おのおの癖するところありて、 その論つねに正を得るあたわず。 仏教の眼をもってこれを見れば、 天下の教門、 仏教より善きはなし。 ヤソ教の心をもってこれを考うれば、 世界の宗旨、 ヤソ教より正しきはなし。 しかれども、 もしこれを宗教の外にありて観ずるときは、 両教ともに癖見偏視たるを免れず。 あるいは仏教の長ずるところあり、 あるいはヤソ教の勝るるところあり、 因果説の信ずべきあり、 創造論のよるべきあり、  いずれが邪いずれが正、いずれが曲いずれが直なるは、 ただ一方の説を聞きて判決すべからず。  ゆえに、 両教中の説教において、 百方譬喩を設け弁論を飾りて、 わが法ひとり正なり、 他教みな邪なり、わが法の福徳利益ある、 他教の遠く及ぶところにあらずと談ずるも、 余は決してこれを信ずるあたわず。  また、 世の宗教を排斥するものは、 ただその陋習悪弊を挙げてその理を破らんとす。  これ、 教法の非なるにあらずして、これを伝うるものの過ちなるをもって、 余またかくのごとき偏論をなすことを好まざるなり。  ゆえに、 両教の是非曲直とその弊習の多少とはしばらくこれをさしおき、 ただその真理についてこれを論ぜん。

 まず余、 ヤソ教に向かいて問わん。 世界創造とはなんぞや、 大洪水とはなんぞや、 天神この民を監護して賞罰に偏頗あるはなんぞや、上古より末世に移るに従い人知の開明に進むはなんぞや。そのほか種々難問を起こしてこれを責むるに、 到底教者は答えて、「これは『バイブル』経中の何編中にあり、かれは天神のなすところにして、わが凡力をもって測るべからず。  ひとたびわが法を信ずるときは、 百疑たちどころに弁ずべし」といわん。これ、 ただヤソ一人を尊敬し、『バイブル』一経を固信するものに向かって証すべきに過ぎず。 もし、 その人を疑いその書を信ぜざるときは、 その法また立つべからず。 仏教またしかり。 因果の理を説いて人世の吉凶禍福を戒むるは、 ヤソ教に勝るもののようなれども、 その真理にいたりては、 これ仏眼力をかるにあらざれば、 凡人にて知るべからずと答うるよりほかなし。  ゆえに、 両教の立つと立たざるは、 ただその教祖と教書を信ずると信ぜざるとによる。 もし、 教祖のなにびとなるを知らず、 教書のなにものたるを知らざるものに向かいては、 その法理を諭すあたわず。 泰西講ずるところの理化学のごときは、これに反し実験をさきとし理論をのちにす。  ゆえに、 われその人を信ぜずといえども、 その説を疑うあたわず。 例えば、 昔時ガリレイ地動説を起こし、  つぎにニュートン重力論を発せり。 今日に至り、 われそのガリレイならびにニュートンのなにびとなるを知らずといえども、 その説にいたりては我が輩現に証することを得べし。 あるいはもし人、 化学書を開き、 水は水酸二素より成る、 空気は窒酸両素より起こるというを疑うときは、 目前にありてわれこれを証することを得、 また算術書を取りて、 正三角の斜辺を自乗すれば他の両辺自乗の和と同じとあるを信ぜざるときは、  われまたこれを幾何の図法をもってただちにその疑いなきを諭すことを得べし。 あえてこれを昔時にたずね、  この論は先聖の教うるところ、  かの説は古書に見えたりと喋々するを要せず。 余、 かくのごとく論じきたらば、 教家は定めていわん。 宗教と理学とは大いにその道を異にして東西相反せり。  理学は実験をさきとして真理をあとにするものなり、 宗教は真理を本として実験を末にするものなり。  ゆえに、 宗教は実験をもって証するあたわずとも先覚の真理を発見するあり、 我が輩その人を見ずといえどもその説の経論中にのこるありて、 現にその真理を聞くことを得。  その遺書の存する以上はその真理を疑うべからず、  これを理学と同視して論ずるなかれと。 余、  この義については別に論あり。 もし、 宗教と理学はその道を異にして、一は真理より考え一は実験より証し、 両学相進みて実験、 真理と相合すべしという説もあれども、 宗教のごときはただに私見憶説をもってこれを不易の真理と定むるものに過ぎず。  しかれども実験なきものはこれを空論といいて、 決して真理と名づくべからず。  たとい教祖一人はこれを真理と認むるも、 今日の余輩にいたりてはすでにそれと地を異にし、 わずかにその遺書によって不変の真理なりと確信するは、 迷えるのはなはだしきものというべし。 そもそも世の変遷するや、 昔日の真理は今日の真理にあらず、 野蛮の法は開化の道にあらず、  すでに仏氏の須弥説も地球儀をもって破られ、 ヤソ者の創造論も変遷論をもって排せられたるにあらずや。  これ、 空論の実験に及ばざるゆえんなり。  上古未開草昧の時はさておき、 今日人文開明の世に当たりては、 空論をもって人を教うべきか、 実理によりて諭すべきか、 空論をもってすれば人信ぜず、 実理によりて証すれば人疑うことを得ず、  これまた、 宗教の日を追って衰うるゆえんなり。 もし人、 真理を講ずるのかくべからざるを知らば、 早く空論を脱して、 泰西研究するところの哲理学により、 実験を本拠とするよりほかなし。 宗教者あるいはいわん。 開明の今日といえども、 天下なお愚民多し。 哲理学のごとき高尚の学を講ずるも、  これを知覚するもの少なし。  かつ人民の愚なる、 哲理学のよく教導すべきものにあらず。 勧善懲悪を伝うるは、 宗教よりよきはなし、 吉凶禍福を戒むるは、 宗教より便なるはなし。 もとより宗教は実験をもっていちいちこれを証明するあたわずといえども、 人間世界の事情を見るに、 神仏なくんばあるべからず、 来世の賞罰なくんばあるべからず。  ゆえに、 宗教は内よりその真偽を試むるあたわず、 外よりその必要なるを証すべしと。  この論のごとくなれば、 宗教は真理を伝うるものにあらずして、  一、  二の方便を設けて愚民を導き、 仮に来世を立てて罪悪を戒むる一時の計策にして、 万古不易の常道にあらず。  人知いよいよ開明に進み、  理学真理を究むるに至らば、 宗教は地を払いて去るべし。 釈迦、 ヤソのごときは、 幸いに未開の世に生まれ、 人民の頑愚に乗じ、  一時の狡計を考え一世の新法を設けて、 もって名誉を世間に売るものにて、 その法を開明の今日に伝うるの意あるにあらず。 もし、 両人をして今日に生まれしめば、 あにまた須弥説を立てんや、 創造論を起こさんや。 必ず自らかくのごとき妄説を談ずるを恥じ、 泰西の哲理学にもとづき真理を証明すべし。 しからざれば、 さらに新法を起こして野蛮の旧法を用うべき理なし。 しかるに、 今日の教徒は数千年前の古代にさかのぼり、 かの一時の方策に基づきその惑いを開明の今日に伝えんとするは、 世の変遷を知らざる愚のはなはだしきものというべし。  

 さきにすでにいいしごとく、 人知の進むや日一日より明らかにして、 昨は是とするもの今は非となり、 昔日の 良策は今日の廃法となる。 須弥説は変じて地球説となり、 創造論は転じて変遷論となる。 往昔は雷を聞いて神なり、 雲を見て神なり、 天変地異みなこれを神仏に帰し、 あるいは山川を祭り日月を拝して、 禍災を免れんことを祈る。 しかるに今日はみな神の所業にあらざるを知り、 雷の鳴るはこの理あり、 雲の起こるはかの訳ありと、いちいち実験をもってこれを証するに至る。  ゆえに余、 昔日の人はおいて問わず、 今日に生まるる者はつとめてこれ、 野蛮の教法をもってその頑愚を永遠に維持するの理あらんや。 もし、 そのしかるゆえんを知らば、 いやしくも衣食に安んじ理非を弁ずるものは、 余輩とともにこの人文を進めて、 かの頑愚を導かざるべからず、 いたずらに宗教のごとき空論に走るべからず。 しかれども以上論ずるところは、 実地今日、 宗教を廃して愚民を保つことを得るというにもあらず。 もとより開化の今日に至りても、 なお未開の人あり野蛮の民あり。  かつ宗教は数千年来人心に固結するものなれば、 たといその惑いを知るとも、 なお人タバコの害を知りてこれをやむるあたわざるがごとく、一朝に医治すべからず。  ゆえに、 実地上よりこれを見れば、 宗教は民間にありて人心を定め、  治道を助くるその功少なからず。 たといまたその利その害に及ばざるも、  一朝にこれを廃することを得べからずといえども、 理論上よりこれを推すに、 宗教は空理を主とするものにて真理を究むるものにあらず、 野蛮の教えにして開化の法にあらず。 この法の民間に流布する以上は国家の開明を全うすべからず、  学術進歩を圧し人心を束縛するその害いうべからず。 ゆえに、いやしくも開明に志ある者、 実学を講じ真理を究め、 人民の頑愚を開き宗教の空論を排して、 斯民をして一日も早く文化真域に達せしめんことをつとめざるべからず。 貴君もし別に考うるところありて、 世の開未を論ぜず学の進否を問わず、宗教の人世中、一日もかくすべからざるものにして、 人の賢愚貧富を分かたず必要なる真法なることを知らば、 請う、これを聞かん。 しかれども、 宗教者の主論は余信ぜざるところなるをもって、 願わくは宗教外よりこれを見て、 人世に裨益あることを証せよ。

 主答えて曰く。 余は生来宗教に志あり、 その教義を研究するや一日にあらず。  ゆえに、 世に益あるを証するも難きにあらず。  しかれども貴問に答えんとするには、 宗教中よりこれを論ずるあたわざるをもって、 余輩の浅学これを証明するに容易ならずといえども、 余また一、二の説なきにあらず、 いささかこれを論ぜん。 貴説のごとく、 教祖のなにびとたるを知らず、 教書のなにものたるを知らざる者に向かって弁明すべからざる宗旨は、 いまだ深く信用するに足らず。 余が貴ぶところは、 人(神仏)を主とせず法を主とする教法にあり。  また貴説のごとく、 実験なきものは空論なるをもって、 宗教は空理を談じて真理を究むるものにあらずとあれども、 空論とはなんぞや。  すでに実験ありてその証明らかなるものを、 なお疑って私論を立つる者をいう。  たとえば、 今日に至りては地球の円体なる、 実験上明らかにこれを証すべし。 しかるになおその理を疑い、  みだりに妄論を起こして、輿地は平坦なりというがごとし。 しかれども、 いまだ実験をもってその真偽を究めざるものは、  一概にこれを空論というべからず。 空とはただ実に対する言にて、 実験に対してはじめて空論の名起こる。 今、 神仏の有無、 心魂の死生いまだ実験の証すべきなし。  これをいかにして空論といわんや。  これを空論という説こそ、 かえって実験なきをもって空論といわんのみ。  かの理学の実験をもって、  一にこれを真理といわんか。 実験なお誤りあり、人知いまだ全からず、 人眼いまだ明らかならず、 昨日の真理も今日の空論となるものあり。

 むかしニュートン氏、 エミッションの説を起こし、光線は分子の飛散なりというも、 その後たちまちこの説の誤りあるを発見してウェーブの説を発し、 空間にエーテルという気あり、 その波動によりて光線を発するなりという。 しかれどもエーテルなるもの、いまだその有無を実視すべからず、 後来この説もまた空論となるべし。 当時、 万物みな六十四元素をもってなるという。 その元素日々に増加して、 六十八元素に至る。 また一説には、  この元素はただ一大元素より成るものならんという。 後来数十の元素も、一、 二の元素に減ずるも知るべからず。実験のよるべからざる、  かくのごとし。  また、 たとい実験上確として動かすべからざる明証あるものも、 いまだこれを真理というべからず。  けだしこれを真理と信ずるは、 人間の知識をもって最上充全のものと認むるより起こる。 もし、 他界の人ありてこれを見るときは、 その惑いたるを笑わざるを得ず。 人間の五官知覚、 決して充備するものにあらず、 その脳力識力、 決して誤りなきものにあらず、 事物の真理、 決して量るべからず。  ゆえに余輩は、 宗教の真理を有すると有せざるとは、  みだりに論ずるを欲せざるなり。 また貴説のごとく、 宗教は野蛮の法なり開化の道にあらずと。 野蛮の法ことごとく開化に用なきか、 開化の世に存するものはみな野蛮の時に見ざるものか、 今日行わるるもの、 たいてい古代より伝わりしものにあらずや。 あるはまた、  上古より今日まで一定して変ぜざるものあり。 野蛮人に病患ありて開化人になきか、 野蛮人に死ありて開化人になきか。 病患は人の常なり、  死は人の非常なり。  人、 病を免るべきも死免るべからず。  人、 死を免るることあたわざる以上は、 宗教廃すべからず。 余、 その理由を説きてこれを示さん。 人のこの世にあるや、 最もその幸福をたすけ快楽を与うるものはなんぞや。 家屋にあるか、 飲食にあるか、 財貨にあるか、 妻子にあるか、  みな多少の差ありといえども、いくぶんの快楽を与うるものなり。  華宅に眠り美服に臥し良食に生けるは、 人生の快楽となすものにあらずや。 富貴に安んじ栄華にふけるは、この世の幸福にあらずや。  人の朝夕汲々として奔走するは、 ただこの快楽を求むるものに過ぎず。 しかれども衣食富貴の楽は、 ただ外身の幸福を助くるものにして、 内心の快楽を与うるものにあらず。 あるいは間接にこれを与うるも、 少分を助くるものに過ぎず。 家屋あれば破壊の憂いあり、 金財あれば盗窃の恐れあり、 妻子あれば養育の苦あり、 富貴に位する者、かえってその心を安んずべからず。ゆえに在昔、クロムウェルのごとき〔平〕清盛のごとき、 身一時の富貴を極めたりといえども、 その死するに臨んで心を安んずるあたわず。 ピューリタン宗徒のごとき楠〔木〕氏一族のごとき、 終身辛苦をなめ骨肉を砕くといえども、 なおその心期するところあり。 ギリシアのディオゲネスのごときシナの顔回のごとき、 生計窮せりといえども、 みなその心に楽しむところあり。  これ、 外身の幸福を助くるものと、 内心に快楽を与うるものと異なるゆえんなり。 もとより人世の幸福は内心のみに限らず外身のみにとどまらず、 内外ともに安楽を受くるにありといえども、 しいてこれを選ばんとすれば、 内を先とし外を後にし、 心を本にして身を末にすべし。 なんとなれば、 外身を安んずるも内心を楽しましむべからず、 しかして内心安んずれば外身したがって安し。 例せば、 金財を得ればたちまち外身を安んずることを得るも、 その心決して苦なきあたわず、 身富み位高ければ、 苦したがって起こる。  これに反して内心快楽に安んずれば、 病難もこれを感ずる薄く、 寿命もこれを保する長く、 労苦もこれに堪うるやすし。ピューリタン宗徒のアメリカに渡るや、  風雪をおかし飢寒を忍び、  なおその心苦を苦とせず労を労とせず、  快楽に安んずることを得たり。  心安ければ身また安し。  聖言を引きてこれを証すれば、  心広体胖なり。  しかれどもピューリタンのごとき、  やや度外に出ずるものにして、  人世の幸福を全うすというべからず。  これを全うするは、内心の幸福と外身の幸福と、  よくその度に適して進まざるを得ず。  果たしてしからば、  貧賤なる者はむしろ外身の幸福を求めて、  富貴なる者はかえって内心の幸福を祈らざるを得ず。  これ、  あるいは富貴の人の学術に志を傾くるゆえんならんか。  学術は衣食財宝に異なりやや内心の幸福を助くるものなれども、  そのうち、  あるいは政論法律にわたり、  あるいは製産工芸に外形の幸福を導く者多くして、  内心の快楽を告ぐる者少なし。  ゆえに、  世に学者ありといえども、  内心おのずから安んずるあたわず。  しからば、  衣食も財宝も妻子も学術も、  みな全く内心の快楽を助くるものにあらず。  いずれが単にその快楽を与うるものなるか。  余これに答えていわん、  宗教なるものありて内心に安んずるのみ。

 客問いて曰く。  泰西に哲学なるものあり、実験を究めて真理を講じ、 もっぱら内心の幸福を導かんとす、ひとり宗教のみならんや。

 主答えて曰く。 しかり。 当時、 スペンサー氏は哲学をもって西洋に名あり。  しかれども、  その帰するところ、いまだ安心するあたわず、 生理の基づくところ心魂の向かうところ、  氏もなお知るあたわず、  宇宙いまだ神仏なきを保すべからず。  ダーウィン氏起こりて変遷論を発し、  大いにヤソ教の勢力をそぐといえども、  その変遷の源始にさかのぼり、  その太初の元素にいたりては、  またなにものたるを知るあたわず、  いまだもって造物者の有無を判ずべからず。  ダーウィン、 スペンサーのごときといえども、  なおその真理を究むるあたわず。  いわんや、  その才学ともに彼より浅劣なるものにおいてをや。

 客答えて曰く。  これ今日、 哲理学いまだその玄義を究めざるが故なり。 後来いよいよその理を講じて、 事理一として証明せざるはなきに至るべし。

 主答えて曰く。  これ余、 貴説を信ずるにあらざるところなり。 人知もと限りあり脳力また度あり、 知り得べきと得べからざるあり、 動かすべきと動かすべからざるあり。  一と二を合して三となるは万古不易の理数にして、決して変動すべからず。  理学進むべしといえども、 人をして月界に遊ばしむべからず。 化学明らかなるべしといえども、 人身を集成してこれに生を与うべからず。 また、 医術その妙を極むべしというも、 人に千万歳の寿を与うべからず。 哲学の真理を究むる、 またかくのごとし。 その心魂をもって性理の何の理なるを知らんとするは、知をもって知を測り心をもって心を考うるものにて、 自身の目をもって自身の眼を見んとするがごとく、 学術いかほど進むとも、 今日の人知をもってこれを測知すべからざるは明らかなり。  ジョウブの時より今日に至るまで、  すでに数十年を経過すといえども、 なおその理を発見せざるにあらずや。 万一、 後来人知をもって知り得ベしとするも、 千百年の間においても必ずこれをよくすべきにあらず。 これ宗教の、 世の古今、  学の進否に関せず人界に要用なるゆえんなり。

 客問いて曰く。 しからば、 人みなスペンサー氏のごとく、 他によらず自ら教理を究明してはいかん。

 主答えて曰く。 自ら真理を究め玄義を開くはひとりスペンサー氏のみならず、 世の宗教を立つるものみなしかり。 よって、 今日の人ことごとく未来を考え心魂を究め、  おのおの一派の宗学を開くの才識あらば、 余これを許さん。 しかれども、  かくのごとき才学を兼有するもの世に幾人ぞや。  かつそれ、 自ら玄義を講究するはすこぶる難く、 平凡の浅学菲才のよく堪うべきにあらず、 いわんや学識なき者をや。 けだし、 人迷いなきあたわず。 少しく学識あれば、 惑いいよいよ起こる。 事々物々考うれば、 いよいよ暗くいよいよ惑う。 百事意のごとくならず、死生定まりなく、 禍福期すべからず、 来世は測り難し。 神仏見るべからず、 学者かえって心を安んずべからざるゆえんなり。 しかして、 その心を宗教に帰して迷いを離るるをもって不見識なり、 学者の名を汚すといいてこれを奉信せずんば、 いよいよその惑いを深くし疑いを重ね、 団結とくべからざるに至らん。 人常にかくのごとくんば、 ただに平日その心を安んずべからざるのみならず、 疾病の時に際してはますますその病症を重くし死期を早くし、 臨終の時に至りて生前を思えば茫として夢のごとく、 死後を見れば形として行くところを知らず、 日ごろの迷雲一時に発し疑気にわかに動き、 前後暗くして進退ところを失す。  この時に当たり、  かつて不見識と思いし神仏をも、 心身相向かいて前非を悔い来福を祈らんとするも、 あに得べけんや。 これに反して平日心を宗教に傾けしものは、 内心常に快楽に安んじ、 外身したがって幸福を全うし、 人世不定なるを知り生死の常なきを悟り、禍福の道理を弁じ苦楽の因縁に感じ、 事として惑うなく物として疑うなし。 衣食は神仏の賜うところとし、 進退は神仏の護するものとし、 起居安穏に日を送り、 禍災意に関せず、 難も易となり苦も楽となる。 したがって、 病患少なく身体強壮寿命を延べ、 死に臨んで迷いを発せず疑いを生ぜず、  一心定めて動かず、 安んじてこの世を経過することを得べし。  その快楽は信教者にあらずんば知るべからず。 たとい信教者といえども、 死期に臨んで全く病苦を免るるあたわざるも、 これを無仏者に比すれば、 その苦楽多少の差あるや疑いなし。  ゆえに、 来世の禍福を信ぜざるものといえども、 現世の幸福快楽を祈らんと欲せば、 宗教を奉ずるにしくはなし。

 客問いて曰く。 臨終に至り心の動くは、 幼時に聞くところの天堂地獄の妄談、 脳裏に存するが故なり。 もし生来その妄談を聞かずんば、 安んじて一世を終うることを得べし。

 主答えて曰く。 もとより平常天堂地獄の説を聞けば、 たといこれを信ぜずといえども、 死時に至りてその心を動かすべきは、 なお幼時怪霊の妄談を聞きて、 長じてなおこれを恐るるとその理一なり。 しかれども、 余言うところは迷いにして、 天堂の有無に関せず人迷いなきあたわず。 たとい幼時より来世の禍福を知らざるも、 人世の常なき、 死期の定まらざる、 禍災の時ならざる、 病患の期すべからざる、 その他事々物々目に触れ耳に感ずるものすべて、 これを思いて迷いを生ぜざるはなし。 もし、 その迷いの生ずることなくんば、 人世開始より宗教の起こるべき道理なし。  しかして自然に宗教の考えを人心に生ぜしめたるは、 人自ら迷いを解くあたわざればなり。果たしてしからば、 今日来世の苦楽を信ぜざるものも、  かつてその説を脳裏に存するをもって、  死に臨んでなおいくぶんかその迷いを薄くし、 その心を定むべし。 もし、 心に少しもその考えなくんば、 心中錯乱ほとんどなすところを知らざるに至らん。  ついに、 自ら神仏のごときを脳中に想見することあるべし。 宗教は本来人心に固有のものにして、 人一日も宗教の思想なきあたわず。 百疑千惑、 宗教にあらずんば解くあたわず。  これ、 世と国とを論ぜず、 宗教の常に存するゆえんなり。

 客問いて曰く。 貴説のごときは、 ただ迷いを解き心を定むるというに過ぎず。 しかれども宗教を信ずるも、 釈教正しきかヤソ教是なるか、 いまだ疑いなきあたわず。 むしろ宗教を去りて神仏を談ぜずんば、 心かえって安からん。

 主答えて曰く。 もし人、 この説をもって心を安んずることを得ば、 余あえて拒まず。 しかれどもさきにすでに言いしごとく、 人心決して宗教の思想を去るあたわず。  これ、 固有なり天性なり。  その強壮の時に当たりては、その考えを生ぜざるを得るも、 災難あるいは老病に臨みては、 その思想を発せざるあたわず。  すでにその生ずるものたるを知らば、 少壮の時より早く心を宗教に帰して、 平常心を定め迷いを脱するにしかず。 あるいは貴論のごとく、 宗教を奉ずるも諸教の是非邪正について疑いなきあたわずとするは、 深く心を宗教に傾けざるが故なり。 もしわれ、 ヤソ教を信ずれば天下ヤソ教より正しきはなし、 仏教を奉ずれば世界仏教より是なるはなし。ひとたびこれを奉信すれば、 その心を動かす憂いなし。 これなんとなれば、 我が輩自ら真理を研究するの才識なきをもって、ことごとく迷いを教祖に託し、一にその教えを奉じ、 心身相向かいてたがうことなければなり。  かく宗教の人世に有益必要なるを、  ただ貧愚の玩具なり、 富人学者の用うべき器にあらずとは、 実に思わざるのはなはだしきものというべし。 もし、 さきに論ぜしごとく、 人の幸福は心身内外並び進まざるを得ずといわば、 富人かえって貧者より深く宗教を奉ぜざるを得ず、 また愚人は愚に安んじて惑い少なく、 学者は事に触れて疑いかえって多きをもって、 賢は愚より厚く宗教を信ぜざるを得ず。 ゆえに、 人もし富貴に位し才学を有せば、 貧愚に倍して心を宗教に帰すべし。 宗教ひとり迷いを定め心を安んずるものにあらずというも、  これを欠いて快楽を全うするあたわず。 なお、 衣食ひとり外身を安んずるものにあらずといいて、  これを去りて生を養うあたわざるがごとし。  これによりてこれを考うるに、 人生をこの界に受くる以上は、 貴賤貧富を論ぜず男女老少を分かたず、ただ外身の安楽を求むるのみならず内心の幸福を祈らんと欲せば、 人魂の生死、 来世の有無に関せず、 心を宗教に安んぜざるべからず。  これ、 宗教の世と人とを論ぜず、  一日も人界にかくべからざるゆえんなり。

 客問いて曰く。 宗教の人世に必要なる、 そのほか説なきや。

 主答えて曰く。 いな、 その説一にしてとどまらず。 事物、 世の進むと時の移るにしたがい変ぜざるものあり。衣裳のごとき器械のごとき家屋のごとき山河のごとき、  みな変遷なきあたわず。 昨日は車馬をもって歩行にかえ、 今日は鉄路をもって車馬にかう。上古の通貨は牛馬をもってし、 今日は金銀をもってす。  上古は結縄をもってし、 今日は文字をもってす。 あるいは世論の変ずるあり。 朝には君主専制を可とし、 タベには君民同治をよしとす。 昨日は攘夷を唱え、 今日は開港を許す。 あるいは古今にわたりて変ぜざるものあり。 すなわち道徳仁義の道これなり。 その父を尊びその君を敬し、 悪を悪とし善を善とするは、  上古より今日に至るまで、 いまだ変ずるを聞かず。 宗教はその善を勧めその悪を懲らすものにして、 天理人道を教うる法なり。 世の開明ますます進むというも、 悪人なきを得べきや、 法律廃すべきや、 戦争やむべきや、 黄金世界期すべきや。 世人みな宗教界中の人となるにあらずんば、 黄金世界に達するあたわずその時に至らず。 別に宗教を設けて教うるを要せずといえども、 今日をもってその時を期するに、 幾千万歳の後なるを知るべからず。  これまた宗教の、 世の先後、 人の賢愚を論ぜず、 人世に必要なるゆえんなり。 なお重ねて宗教の欠くべからざるゆえんを論ぜん。  わが国、 維新年なお浅くして進歩目を驚かすといえども、 世論往々浮薄に走り、  わずかに一巻の洋冊をうかがえば、 民権起こすべし日本語廃すべしと喋々するものあり。 洋を見て洋に癖し、 癖して国を忘るるに至るは今日一般の弊風なり。  学なお浅きものはいたずらに口論をみがきて実学を修めず、 少しく専門に入りわずかに一科を究むれば、 愛国勤王を唱うるものを見て心胆狭小なるものとし、 わが国ひとり国ならんや、 わが政府ひとり政府ならんや、 欧米の人も日本の民もみな宇内の人民なり、 地球上の兄弟なりと思うものなきにしもあらず。  これなお、 わが親も親なり人の親も親なり、  ひとりわが親を敬して他の親をうとんずるは、 心胆の狭小なるものと笑うがごとし。  その理非、乳児もなおこれを知る。 人心かくのごとくはなはだしきに至らざるも、 古来わが国民固有の勤王愛国の志、 年を経て減じ、 義気忠烈の勢い、 日を追って衰うるを覚ゆ。 今これを結合せずんば他日事あるに臨んで、 またいかんともすべからず。  すなわちその人心結合の良策は何にあるや。 医方をもって治すべきか、  理学をもって究むべきか、 化学をもって試むべきか、 数字をもって計るべきか。  人心結合の一事に至りて、 諸学諸術の決してよくすべきところにあらず、  ひとり宗教ありて人心を一定すべし民情を一致すべし。 西洋諸国はいにしえよりわが国のごとき忠臣義士の気風なし。 しかして、 よくその民心を結合して動かさしめざるは、 宗教をもってこれを維持すればなり。  ゆえに欧州の大乱はみな宗教より起こる。 しかしてその乱を治むるもまた宗教なり。 英雄の人心を得る、  みな宗教による。 史上その例に乏しからず。 かのマホメットのごときは、 教法を施して兵力を天下に得たるにあらずや。 顧みて本邦に至れば忠愛の気風国に満つるといえども、 なお中古英雄の人心を得る力を宗教にかるもの多し。  北条、 足利氏の長く天下を保有せしは、 宗教をもって人心を得ればなりという説あり。 その真否証すべからずといえども、 それあるいはしからん。 徳川氏の永く治世を維持せしもまたこの一理なきにあらず。 中世義気のもっとも盛んなる時すらなおかくのごとし。 いわんや今後、 忠愛の気風日に衰うの時に当たりては、 宗教にあらずんばいずれがよく人心を結合すべきや。  これ、 方今国家のために宗教を興すの急務なるゆえんなり。

 客問いて曰く。 貴説のごとくなれば、一定の宗教を興さざるをえず、 数宗の教派相混ずれば、 人心かえって分離すべし。  その例、 欧州諸国に乏しからず。 もしこれを一定せんと欲せば、 ヤソ教を選ぶべきか釈教を取るべきか、 あるいはまた両教中何宗をもってせんや。 さきに請いしごとく、 各教の癖見を去りて宗教外よりその説を聞かん。

 主答えて曰く。 宗教の弊習を較せずしてただ教理について可非するは、 貴説のすでに許すところ、 しからば、余ここに一論あり。そもそもヤソ教は何をもって仏教に勝るや。 その教の文明諸国に行わるるをもってか、 その法の福徳利益あるをもってか、その教理の深遠高尚なるをもってか、 その国家政治上に裨益あるをもってか。 曰く、  わが人民のヤソ教を信ずるは、 多くその教旨宗義の良否を問わず、ただ仏教のごときは貧人愚者の法にして、これを奉ずるは自ら不面目と考え、 ヤソ教は開化の道なり学者の教なり、 むしろこれを信ずるは仏教に勝るとひそかにこれを許すのみにして、 別によるところあるにあらず。 しからざれば、 窮貧生計を立つるに難きもの、 ヤソ教の救助を仰ぎてその門に入るものならん。 余案ずるに、 仏教は一に野蛮教にして、 ヤソ教ひとり開化の法なる理あらんや。 また、 仏教は貧愚を導くものにして、 ヤソ教は上等社会を教うるものなるゆえんなし。 その教理を論ずれば、 仏教は深くしてひろし、 ヤソ教は浅くしてせまし。  しかしてヤソ教の人心を束縛する、 仏教よりはなはだしく、 その開明進歩を妨ぐる、 仏教の及ぶところにあらず、 その害を政治上に及ぼす、 また仏教と比すべからず、 その福徳、 仏教より多きにあらず。 方今その文明諸国に行わるるも、 ヤソ教のためにその国文明なるにあらず。

 しかれども余一歩を譲り、 その両教の教旨、 宗義、 福徳、 利益等は、  おのおの長短勝劣ありて平均相償うものと許し、 ただこれをわが国に興して利害あるゆえんを説きてこれを論ぜん。 ヤソ教は従来わが国に行われたるものにあらずして、 近来欧米諸国より来たるものなり。 英、 仏、 魯、 米、  おのおのその国教を奉じてこれをわが国に伝えんとするなり。  その教うるものはたいていみな外人にして日本人にあらず、 その弘むるところ三府五港にとどまらず、 内地を東西奔走してこれをしかんとする。 いたるところ、 金力をもって貧を救い窮を助く。  その教に入りその戒を持するものは、 たいてい貧窮告ぐることなきものなり。  ゆえに、 余その教法を是非するにあらず といえども、 そのよって来たる国を正さざるを得ず。 その国を正さざるも、 そのこれを伝道する人を問わざるを得ず。 その人すでに外人にして日本人にあらず、 その命を奉じその給を仰ぐは、 日本国にあらずして自身の国なり。 しかしてその教うる人民は、 自国の人民にあらずして日本の人民なり。 ゆえに、 たといその人なにほど日本を好むというも、 自国を愛するの情にしかず。 日本国の盛んなるを祝して自国の劣るを喜ぶか、 日本の難に死して自国の危うきを顧みざるか。  一朝両国の間に戦端相発する時は、いずれを助けいずれに抗するや。 情をもってこれを推すに、 自国の害を祝して他邦の利を祈るものなく、 自国をすてて他国を助くるものあらんや。 これ、 人の通情やむをえざるなり。 果たしてしからば、その外人のわが内地を跋渉して民間の事情を探り山河の形勢を知るは、 わが国のためにするにあらずして自国のためにするならん。 みだりに自国の財貨を輸してわが貧民を救うは、 わが国の益をなさずして自国の利をなさん。 そのこれを救扶するの本意は、 ひとえに宗教を宣布するの良心に出でて他に請求するところなきか。  たとい毫も請求するところなきも、 その門弟に連れてその衣食を仰ぎ飢寒を免るるの徒は、 あにその恩を忘るることを得んや。 あるいはわが国の恩よりかの国の仁を重んじ、 われを忘れてかれを愛するに至るも計るべからず。 余聞くところによるに、 府下にしてその門に養わるるもの、 往々みなこの類なりと戒めざるべからず。  わが国維新以来、 年なお浅くして、 いまだ宗教を一定するにいとまあらず。 そのすきに乗じて英、 仏、 魯、 米、 みな相争い来たりてその国教をわが国に入れんとす。 魯教を伝うるものはみな魯のためにせんことを思い、 英宗を弘むるものはみな英のためにせんことを思い、 仏は仏のためにし、 米は米のためにす。 もしかくのごとくんば、  わが国一日も立つべからず。 顧みて欧米諸国の史上を見よ。 他邦の人民を帰化せしめんと欲せば、 まずその宗教を変ず。  すでにその宗教を変じその言語をかえ風俗をうつすときは、 その人民戦わずして従い、その国労せずして取るべし。 あるいは新地をひらき植民を起こし版図を広むる、みな力を宗教にかる。 愚民を抑制して政轄の下に維持する、  また宗教を用う。 ゆえに、 宗教は欧米諸国政策の一つなり。 わが国民たるもの、 それこれを顧みずんばあるべからず。 しからばさきに言いしごとく、 後来宗教を一定して民心を結合せんと欲せば、 釈教を用うるにしかず。 到底ヤソ教を用いては、 いたずらに国家に功なきのみならず、かえって大害を醸すに至らん。

 客問いて曰く。 しからばヤソ教を伝うるに、 外人を廃し日本人を用いてはいかん。

 主答えて曰く。 外人を廃することを得べきや、 そのこれを廃することあたわざるや明らかなり。 たといこれを廃すべしとするも、 その法は外国伝来の法にして、 その書は外国所刊の書あるいはこれを訳するものあるなり。これをわが愚昧の下民あるいは浮薄社会に伝うるときは、 ますます忠愛の気風を減じて洋癖の弊を増すに過ぎず。  これをもって、 決して人心を結合して愛国勤王の気を起こさしむべからず。  かつそれ、 ヤソ教は近年はじめて本邦に渡来するものにして、  これを人心に感染せしむるは一朝一夕によくすべきことにあらず。 これに反し、釈教はわが国に伝うるや年を経ること千有余歳、 人心に感染せるまた一日にあらず。 これを一定して民心を結合するは、 ヤソ教を用うるにこれを較すれば、  その難易遅速ほとんどいうべからず。  かつヤソ教これをわが国に弘むる、 万一その害なしとするも、 釈教に倍蓰するの益なくしてこれを本邦に入るるべからず。 万国交際の今日に当たり、 かの長を取りてわが短を補い、 かの余れるをもってわが不足を助くるはもちろんなりといえども、 益なきものを取りてこれを補うの理なし。 いわんやその害あるものをや。  近来みだりに洋品を用い、 その物の良否損益を問わず、  一にこれを賞してわが国の製品を卑しむの風あり。 故をもって輸出入平均を得ず、 金貨濫出を憂うる者あり。  これ、 西洋に癖するのはなはだしきより生ず。 ヤソ教も自国の製にあらず輸入品なり、これを奉ずるもまた洋癖の名を免るべからず。 近ごろ農工ややその理を知り、 つとめて本邦の製産を起こして外品に争わんとす。  この時に際し、 いやしくも愛国に志あるもの、 国産を用い外品を減ぜざるをえず。 宗教またしかり。 自国の教法を奉じて外教を入れざるは、 またわが愛国の心なり。 ヤソ教のわが国に大害あるは、 われすでにこれを論ぜり。 しからばこれを防御するは、 政府にて命ずべきや法律にて禁ずべきか。 教法自由の今日に至りて、 また昔日のごとく公然これを禁止すべからず。 ただ、 わが国人民の心にあり。 人民みなその心をもって心とせば、 ヤソ教を捨てて釈教を用うべしと欲せば、 まずその弊習を一洗せざるべからず。 その寺院僧徒の風俗品行にいたりては、 ヤソ教に三舎を譲らざるを得ず。 宗風の正しきと品行の美なるは、  ひとりヤソ教の誇るところなり。  わが仏教のごときは数百年来改良を加えず、 悪弊の生ずるはもとよりそのところなり。  ゆえに、 今日の要務はその風俗を改め品行を正すにあり。 論じてここに至れば、 釈教中、 何宗を選んでその法を一定すべきや。 当今、 最海内に遍布し人心を得たるものをもってすれば、 その功を奏するやすくしてかつ速やかなり。 古今諸宗中、 いずれがこの選に当たるべきや。 曰く浄土真宗なり。  かつその教法についてこれを論ずれば、 もっとも方今の時世に適するものは真宗にしくはなし。 しかれども、 これより以上は宗学中に入りてその宗意を論ぜざるを得ざるをもって、貴問のほかにわたるを恐れ、 論をここにとどむ。

 出典『開導新聞』一四八、一五〇、一五四、一五八、一五九、一六二、一六三、一六五、一六七(明治一四一〇月一一日、一五日、二五日、一一月五日、七日、一三日、一五日、一九日、二五日) 



   尭舜は孔教の偶像なるゆえんを論ず


 余かつて『史記』を閲し、「五帝本紀」を読むに及び、 大いに感ずるところあり。 尭舜の今をさるすでに四千余年にして、 開闢より世を隔つる、 わずかに数十代に過ぎず。 しかして礼楽典刑の制、  治乱興廃の状、 秩然として備わり、 仁義忠孝の跡、 煥乎としてみるべきものあり。  およそ世の開くるや、 野より文に進み、 蛮より華に赴くは自然の理にして、 泰西諸邦の史を検するに、  一としてしからざるはなし。  ひとりシナにいたりては、  上代文物の盛んなる、 近古の遠く及ばざるところ、  これ文より野にくだるものといわざるをえず。 しかして夏殷の本紀を読むに及び、 その二紀中禹湯を除くのほか、  ただただ歴代の帝号を記するのみにて、 その事跡にいたりては毫も見るところなきをもって、 余ややこれを怪しむ。 周以後の紀事を読み、 春秋戦国以来、 歴世治乱存亡の跡、   はじめて瞭然たるを見て、 すなわち尭舜二紀の信ずべからざるゆえんを知る。

 それ人知のいまだ開けざるや、 ただただ耳目に触るるものを考うるのみにて、 見聞のほかを推究する知力なし。 いわゆる形以下のものを知り、 形以上の理を覚知するあたわず。  その進むに従いようやく有形より無形に入り、 実物より理論に及ぶ、 なお人の生長するがごとし。  その幼時に当たりては、 縮緬の白衣より本綿の赤帯を選び、  一円の金貨より一銭の銅貨を取る。  これ、 ただただ物の外形を見て、 その実価を考えざればなり。 知力の増進するに及びて、 はじめて物の良悪を弁じ、 損益を知るに至る。 世の野蛮未開におけるまたしかり。 文字の起源をたずぬるに、 動詞は名詞の後に起こる。  これ人の有形の体を知るは、 無形の理を考うるよりさきなればなり。ゆえに世の上古に当たりては、 たとい一、二の識者ありて、 万世不易の真理を発見するも、 これを世人に了知せしむるあたわず。  これをもって、 諸教の開祖のごときは、 世の未開に出でて、 教理を世人に説きて、 もって世の無常を戒め、 人の作悪を禁ぜんと欲すといえども、 愚民の多きその理を解知するあたわざるを恐れ、 すなわちこれを物形に寓し偶像を造る。 石を刻して曰く、 神なり、 木を彫して曰く、 鬼なり、 十目の像を作りて曰く、 これ人の罪悪を洞視する神なりと。 千手の図をえがきて曰く、  これ善人を救助する仏なりと。 なお、 人民のその神力を疑わんことを恐れて曰く、 飢寒病患は悪鬼のなすところ、 飲食衣服は善神の与うるところ、 喜べば賞あり、 怒れば罰ありと。 もって善悪の果報を戒む。 あるいは天堂は上にあり、 地獄は下にありというも、 またただただ人心の向かう所を定むるのみ。  これ宗教の起こるゆえんなり。 在昔、 ギリシアならびにエジプト人は数種の偶像を奉じ、  ペルシア人は太陽を拝し、 あるいは山川を祭り鳥獣草木を念信する等、 みな人文いまだ開けずして、 無形の真理を覚知するあたわざるをもって、 これを有形に寓して奉信するに過ぎず。

 余『史記』を読み、春秋戦国の世を考うるに、人民文事を修めず、 学芸をみがかず、 ただただ攻戦を事とし、私利を営み制度法律を顧みず仁義の大道を知らず、 文教まさに地におちんとす。 孔子この時に生まれ、 人の利欲にはしるをにくみ、 人道を忘るるを憂い、 徳教を設けて、 これを民間にしかんと欲す。 しかれども当時天下の民、 多く頑愚にして、 これに無形の真理を語るも了覚するあたわざるを恐れ、  これを有形の偶像に寓せんと欲す。 しかれども戦国の人たる、 ただただ一世の名利にはしりて、 来世の苦楽を顧みるものなきをもって、 これに死生禍福を告ぐるも、 その奉信を得難きを知り、  すなわち神仏を設けず、 来世を語らず、 怪力乱神を去りて、 聖人君子の教えを天下に施さんと欲す。  ゆえにその教たる、 神にもあらず、 仏にもあらず、 人の人たる道にして、また人の今世にありて、これを行いこれを全うすることを得るものなり。 なお、あるいは人のこれを疑わんことを恐れ、一、 二の例を古史に徴して、 もってその教の信を示し、 かつその本体を定めんと欲し、 史を探り、 尭舜なるものを得たり。  当時その史伝世に存するもの少なく、 また人のこれを知るものまれなるをもって、  これを呼びて聖人と称し、 教主と定む。  ついにその悪を除き、 その善を補い、 邪を捨て、 正を取り、 百方修飾して聖人を装成す。 孟子ついで起こり、 またこれを潤色す。 君臣父子の義、 孝悌忠信の道、  みなこの二人に寓す。 尭の舜を遇する、 舜の尭に対する事跡を引きて、 もって君臣の義を示し、 舜の父母ならびに兄弟に接する行為を掲げて、もって孝悌の道をあらわす。 尭舜は孔孟をまちてはじめて完全の聖人となるものあり。 孔孟二子微せば、 尭舜かくのごとく聖主明君なるにあらず、  父母兄弟かくのごとく頑囂驕傲なるにあらず。 瞽瞍の頑、 母の囂、 象の傲なる、 みな舜の至孝をあらわさんために孔孟の増飾するものなり。 果たしてしからば、 孔孟の教えを設くる方便を用うるものといわざるをえず。

 古来シナ人、 知いたって浅く学極めて疎なり。  ゆえに人の説を聞けば地と時とを論ぜず、 ただちにこれを信ずるの風あり。 愚の至りというべし。  それ人情風俗は地の遠近、 世の古今に従い、 異同なきあたわず。  ゆえに史上の事跡を論ぜんと欲せば、 まずその地と時とを考えざるべからず。 そもそも尭舜の孔子にさきだつ千有余歳、 世道の変遷一日にあらず、 風俗したがって改まり、  人情また移る。  一は上古野蛮の世にして、  一は中世半開の時なり。 あにこれを同日に論ずべけんや。 余聞く、 尭の宮殿、 土階三等、 茅茨不剪と。  これを孔子の時に論ずれば、天子の質素驚くべしといえども、  これを尭舜の世にかんがうれば、 人民多く巣居野処して、 家屋を設くるものはなはだ少なし。  しかして尭ひとり土階三等の宮室あるは、 奢侈を極むるものといわざるをえず。 また聞く、「舜耕歴山、漁雷沢、陶河浜作什器於寿丘、就時於負夏」(舜、 歴山に耕し、 雷沢に漁し、 河浜に陶し、 什器を寿丘に作り、 時に負夏に就く)と。  これを今日に考うれば、  一人にして諸業にわたる、 舜の労苦驚くべきに似たりといえども、  これを古代に論ずれば、 人民いまだ農工商の別なく、 分業の法を知らず、 井をうがちて飲み、田を耕して食い、 昨は工なり、 今日は商となり、  一人にして諸業を兼ぬるは、  上古一般の風俗なり。 なんぞひとり舜のみしからん。 あるいは曰く、 道おちた〔る〕を拾わず、 夜戸をとざさずと。  これまた人民の寡驚くべきに似たりといえども、 その人実に欲なきにあらず、 外物のもって欲を引くべきなければなり。 男女道を同じくせざるは、 男女の懸隔非常にして、 男の女をみる、 禽獣のごとくなればなり。 耕者畔を譲り、 漁者居を譲るは耕すべき地多く、 漁すべき所乏しからざればなり。 しかるに孔教を奉ずるの徒、 さらに世の古今、 人の文野を問わざるのはなはだしきより、 尭舜の風俗をもって万世に伝えんと欲すといえども、 いやしくも時と勢いとを考うれば、 尭舜の道たる、 孔孟の世人を導くの方便に出でて、 永世不変の法にあらざること明らかなり。

 人あるいはいう、 尭舜の世、 孔孟の時と異同なしと。 余ここに一例を挙げて、 その惑いを解かん。 伝に曰く、尭二女をもって舜にめとらすと。 尭は一天万乗の天子にして、 舜は布衣の賤民なり。  これに女を与うるは、 君臣の序にあらず。 たといこれにめとらすも、一女をもってすべし。 しかして二女を与うるは、 夫婦の礼にあらず。この二者、 ともにこれを孔孟の世に考うれば、 人倫を乱るの大なるものなり。  しかれども尭舜の世、 蒙昧野蛮にして、 君臣の懸隔、 孔孟の時のごとくはなはだしからず、 婚姻の礼、 またいたって疎なり。  ゆえに、 あえてとがむるに足らず。 そのほか二紀中、 記するところのものを見るに、 その人情風俗の朴質疎野なる、 孔孟の時と同日の比にあらざるなり。

 およそ事物の地と時に従いて変遷するは、ただただ人情風俗にあらず、倫常の大道も、 異同なきあたわず。 例えば、 東洋は夫婦有別をもって礼となし、 西洋は男女同権をもって法となす。  わが国は、 天下は一人の天下とす、 米国は、 天下は天下の天下とす。 あるいはただただ父の命これ従うをもって孝となすあり、 あるいは父に争諫するをもって孝となすあり。 尭舜はその子を捨つるをもって父子の仁とす、 湯武はその君を弑するをもって君臣の義とす。  これによりてこれを見れば、 尭舜の世の仁義忠孝なるもの、 孔孟の時と異同なしというべからず。よろしくまず尭舜の時と勢いとを考えて、 しかして後論ずべし。 孔孟の徒、 この理を察せずして、 万世人をして尭舜の道を行い、 尭舜の法を守らしめんとす。 時勢の変遷を知らざるのはなはだしきというべし。

 そもそも尭舜の世たる、 伏羲を去る数十世に過ぎず。 その間数千百歳を隔つとあるも、 古史の妄誕信ずべからず。 けだし、 伏羲はじめて書契を作りて結縄の政に代うといえども、 文字文章のいまだ全く備わらざるや明らかなり。  すでに文字あるもいまだ文章あらず、  すでに文章あるもいまだ史籍あらず、  すでに史籍あるもいまだ治乱興廃の跡を考うるに足らず。 尭舜の世すでに史籍あるも、 わずかに帝号年代を記するのみにて、 事跡のつまびらかなるかんがうべからず。 しかしてその成敗存亡の状、 後世に伝わるもの人の言語に存し、 あるいは後人の仮託に出ずるもの多し。 孔孟の徒その余を受けてこれを増補装飾し、 もって世に伝う。  ゆえに尭舜禹湯文武を除くのほか、 歴代の帝王は史上ただただその名を知るのみにて、  その事跡を考うべからず。 しかして春秋戦国以後、 史籍はじめて備わるは、 孔孟その他の諸子たちてこれを講究すればなり。 あるいはいう、 尭舜二紀は『尚書』による、  ゆえに信を置くべしと。 曰く、いな、 二紀載するところ、  ことごとく『尚書』にもとづくにあらず、 孔孟の論ずるところ、 また『尚書』に見えざるもの多し。  かつ『尚書』は古代の遺書にして、 歴年幽遠残欠多し。 孔子その悪を除き、 その善を補い、 修飾してもって世に伝う。  ゆえに尭舜二典も信据し難し。 孟子いわずや、 ことごとく書を信ぜば書なきにしかずと。 もしそれ、 二典中倫常の大道は孔子の偽作にあらずとするも、 いまだもってことごとく信ずべからず。 なんとなれば、 古代文字の少なきに当たりて一字をもって数語に転用することあり。たとえば楽の字のごとし。 音楽、 喜楽、 好楽の三義を有す。 あるいはまた本紀中、 黄帝、 熊羆、 貔貅、 貙虎を教えて炎帝と戦うことあり。 熊羆等は熊羆にあらずして、 勇士猛卒をいう。  これによりてこれを考うれば、 尭舜の時の仁義忠孝の字、 孔子の時とその義を同じくし、 その用を等しくするものというべからず。 尭舜の仁と称するもの、 鳥獣を憐れみ草木を愛する等の小仁なるも計り難し。  これ、 古書の信ずべからざるゆえんなり。

 かく論じきたるも、 余あえて尭舜は孔孟の仮に設くるものにして、 その実なきものというにあらず、 また歴代の帝王のごとく、 凡庸の君主なりと信ずるにあらず。 しかれども孔孟の徒のごとく、 古今無比の明主、 完全無欠の聖人と称賛するにあらず。  ただただ尭舜は野蛮未開の君主にして、 これを古代に考うれば、 やや良主と称すべきのみにて、 決して開明の世の明君にあらず。 ただただ孔孟の徒が百方これを修飾装成して万世不易の聖君明主となし、 もって世人を導くの方便に用うるものに過ぎず。  ゆえに余曰く、 尭舜は孔教の偶像なり、 また曰く、 尭舜は人造の聖人にして、 天然の聖人にあらずと。

 井上巽軒〔哲次郎〕曰く、 余が東洋哲学史儒学起源のところに、 尭舜は孔孟が嘵々するほどの大聖人にあらざることを論じたるが、 今この編を読むに、 またその意あり。 しかしてその「尭舜は孔教の偶像なり」というがごときは、 実に翻案の妙あり。  読者、 勿々に看過するなかれ。

 出典『東洋学芸雑誌』九(明治一五年六月二五日)

 



   僧侶教育法


 古来、 人の教育と称するものは、 ただ人知を発育するをいう。 しかしてその人知を発育するの方法は、  ひとり学問にありとす。 その学問と称するものは、  読書、 講学よりほかなしとす。 しかれどもつらつらこれを考うるに、 たといその人ひろく見、 多くしるというも、  これを活用するの知力なく、 これを実行するの気力なくんば、いずくんぞ教育を全うするものというべけんや。 もし人、 なにほど学に富み才に長ずるも、 心身ともに柔弱にして、  これを実践するの体力なく、 これを振興するの志力なくんば、  これまた完全の教育を得しものというべからず。  果たしてしからば、 何をか教育を全うするものといわん。 余案ずるに、 人、 知力を長ぜんと欲せば、 必ずまず志力を養わざるを得ず、  志力を長ぜんと欲せば、 必ずまず体力を養わざるを得ず。 肉体の心神に関係あるは、当時諸学上許すところにして、 身体柔弱なれば志気したがって発達せず、 志気発達せざれば、 知力あるもこれを活用実行するあたわず。 体力、 志力、 知力、  この三つのもの一つを欠くも他を全うするあたわず、 三者相まちてはじめて完全の教育を得るなり。 たとえば蒸気機関のごとし。 機関は体力にして蒸気は志力なり。  しかしてこれを運転左右するは知力のいたすところ。 機関あるも蒸気なくんばこれに動力を与うるあたわず、 機関蒸気あるもこれを上下左右するものなくんば、 その功用を見るあたわず。  これによりてこれをみれば、 教育はただひろく書を読み多く事をしるにとどまらず、 知識を発育するにあり、 知識を発育するにとどまらずして、 体志知三カを養成するにあり。  しかれども、  この三カ中もしその平均を失い、  一カの他に勝つことあるときは、 その害なおこれを欠くと異ならず。 体力もし志力に勝つときは禽獣の腕力となり、 志力知力に勝つときは匹夫の勇となる。  ゆえに、 教育は人をして体志知三カの権衡を失わざらしむるにあり。 しかして、 その三カの権衡を失わざらしむるは教育の目的とするところなれども、 その類に応じ種に従って本末軽重の異同なきあたわず。 例えば兵士教育のごときは体力を本とし、 学校教育のごときは知力を重しとす。 教家僧徒のごときは三カもとよりその一つを欠くべからずといえども、 その主としてつとむべきは志力を養成するにあり。 余、  ここにその理由を論ぜん。

 およそ学たる、 形体上にかかるものあり、 心神上に関するものあり。 今、 教法のごときは全く心神にかかわるものにして、  これを興起するはただ人心を感動せしむるにあり。 むかしは兵力をもって教えを弘むるものあり、知力をもって法を起こすものありしといえども、 今時いな将来は兵力をもってもとより法を弘むべからず、 またひとり知力をもって道を伝うべからず。 知力をもってすればわれ理学に敵するあたわず、 兵力をもってすればわれ武人に抗するあたわず。 しかして教法のよく才学兼備の人を感動せしめ、 強悍無双の士を屈伏せしむるは、ひとり志力にあるのみ。  志力とはなんぞや。  鋭意熱心生死を教法とともにするの気力をいう。 あるいは曰く、 教法を弘むるは道徳をおさむるにありと。 世のいわゆる道徳とはなんぞや。 ただ外形の品行にして、 酒を慎み色を遠ざくる等をいうのみ。 人よく酒色を慎むも、 教法を興起するの熱心なくんば、  いかにしてかこれを宣揚せんや。しからば、 酒色を慎むは末にして、  志力を養うは本なり。  すでに志力あり、 またなんぞ酒色にふけるの憂いあらんや。  これ、 僧侶の教育はもっぱら志力を養成するにあるゆえんなり。

 今わが教校〔真宗大谷派の学校〕の僧徒を教育するや、 これを数年前に比すれば、 その方法の改良進歩、 同日の論にあらずといえども、 あるいはいたずらに知力を発育するに汲々として、 志力を養成するに失するのそしりなきを保し難し。 余輩もとより関渉教育の利害を論ずるにあらずといえども、 課書を多くし試験を厳にするは、ただ知力を増進するの法にして、 決して志力を養うの道にあらず。 あるいは、  かえって志知の二力を損することあり。 方今、 世間教育においてもゲルマンのごときは、 課業試験等を厳密にせずして、 もっぱら人をして愛学心を起こさしむるをもって教官の務めとすという。 世間なおかくのごとし、 いわんや僧侶の教育をや。 課業繁にわたり試験厳に過ぐるときは、 人体おのずから柔弱に陥り、 志気おのずから卑屈に沈み、 知力また十分の生長を得ベからざるや必然なり。  かつその生徒の道徳を勧むるや、 ただ外形の品行を戒むるのみにて、 内心の道徳を修めしめず。  これ、 なお枝葉を断って根本をつくさざるがごとし。 またなんの益あらん。 内心の道徳を修めしめんと欲せば、 さきにすでに言いしごとく、 まず志力を養成せざるべからず。 しかれども余がいわゆる志力を養成するとは、 課業を減じ試験を廃すべしというの意にあらず。 課業を設け試験を施すも、 志力を養成するの妨害とならざらんことを要す。  しかして後、 これを養うの法を設けざるべからず。 その法にいたりては、 人の少長、 学の進歩に従いて異にせざるべからず。 余、 その方法の一、二を挙げて後これを論ぜん。

 人あり、 余に語りて曰く、 諸州小教校に在学するの僧徒数をもってすればすなわち多しといえども、 たいてい無気無力の輩にして、 これをして志力を発達せしむるははなはだ難しと。 余思えらく、 たとえその人無気力無精神の者というも、  その実木石にあらず、 是非を弁ずべき知覚あり、 利害を判ずべき識力あり、 なんらこれをして志気を憤起せしむべからざるの理あらんや。 難易はただその方法のいかんにあるのみ。 もしまた、 百方その法を尽くしてなお覚悟発奮せざるの徒あらば、  これを教育するも、 ただに教家に益なきのみならずかえって害あり。その害を知りてしかしてなおこれを教育するは、 教法の衰滅を祈るものというべし。  そもそも方今の世たる、 世人はただ利用に汲々として教法を忘れ、 学者は理学に孜々として神仏を顧みず、 たまたま意を宗教に傾くるものあるも、 転じてヤソ教に入り、 もってわが法を撲滅せんとす。 仏教をこの際に振興して将来に維持せんとするは、 実に難中の難事といいつべし。 無気無力の徒幾万ありといえども、 もとよりよくすべきところにあらず。 また一、  二人の有力者ありとも、  これをいかんともすべからず。  一宗挙げて丹心熱志思いを尽くし力を窮むるにあらずんば、いずくんぞよくこれを将来に維持せんや。 無気力無精神の徒、 僧侶の過半を占むる以上は、 到底教法の隆盛を期すべからず。  かくのごとき徒を減少するは、 当時教家の急務なるところなり。 百方これを鞭撻してなお憤起するの気力なくんば、  これを教育するもなんの益あらんや。  ゆえに、 教校の教えを設くる志力を養うをもって本とせざるべからず、 その志力を養うには体力を育せざるべからず。 体志両力あれば、 また知を磨かざるをえず。  かつそれ、 東西奔走し山河を跛渉して教法を弘通するには、 身体の強壮を得ずんばあるべからず。 身体すでに強壮にして志気また伸暢すれば、 したがいてその機を見、 よろしきに乗ずるの知力なくんばあるべからず。ゆえに、 僧侶の教育もこの三カの権衡を得せしむるにあるはもちろんなれども、 その本とするところは志力にあり。 しかして当時教校の教えを立つる、 ただ知力をみがくを主として、 その本とすべき精神すなわち志力を養うの設なきがごとし。  これ、 教育法の一大欠事というべし。 しからば、 いかにしてその法を設くべきや。 左にこれをあげてその理由を説かん。

  第一 体操運動を盛んにすること

  第二 奢移虚飾の風を禁ずること

  第三 課業書を選ぶこと

  第四    教師を選ぶこと

  第五    討論演説を設くること

 第一 体操運動を盛んにするは、 もっぱら体力を養わしめんがためなり。 体力強壮ならざれば志力伸びず、 志力を伸暢せんと欲せばまず体力を養わざるをえず。

 第二 奢修虚飾を禁ずるは、 志力の柔弱に流るるを防ぐためなり。  人、 美服を着け外容を飾るときは、  おのずから無気力無精神に沈むのおそれありて、 敝衣陋食はかえって大いに志力の発達を助くるものとす。

 第三 課業書を選ぶというは、 志力を養成するに便なる書を用うるなり。 書は大いに読者の心を動かすものにして、 道徳家の書を読めばおのずから道徳をたっとぶの人となり、 慷慨家の書を見ればおのずから感慨悲憤の人となる。 例えば、  わが国の史を閲し南北朝の時に至れば、 憤然自ら奮うの勢いあり、 フランス史を読み革命の編に至れば、 悚然として自らおそるるの状あり。  シナ史のごときにいたりては、 毫もわが教家の志力を発起し、 後来の目途を卜見するの益なし。 史の用これを要するに、前をかんがみ後を戒むるにあり。 今、 シナ史のごとき、『史記』といい『漢書』といい  その巻冊いたって多しといえども、一もってわが教家の戒めとなすべきものなし。 転じて西洋諸史を検すれば、 政体といい教法といい、 その沿革変遷はみなわがいまだ経験せざるところのものにして、  これをかんがみずんば、 いずくんぞわが宗教将来の景況を卜し、 維持方法を立つることを得んや。 西哲かつていえるあり、 野蛮人は数十種の食物を用い、 しかしてこれを食する量はいたって多し、 開化人は一、 二種の食物を用い    その量またいたって少なし。 しかれども、  一は滋養素を含有する少なくして一は多きをもって、 野蛮人の多量を食うは開化人の少量を食うにしかずと。 学問またこれに類するあり。 和漢古来の学問は、 書の良悪利害を問わず、 多く読み多く見るをもってよしとす。  ゆえに、 力を用うること多くして益を得ること少なし。 西洋人はこれに反し、 まず書の良悪を選び損益を計りて、 而後これを読む。  ゆえに、 学者のもっとも心を用うべきは書を選ぶにあり。

 第四 教師を選ぶは最も志力を養うに関係あり。 教師たるもの無力無気をもって生徒を教授する時は、 生徒また無気無力の徒となる。  これを教うるもの丹心熱志をもってすれば、 その教えを受くるの徒、  おのずから感憤興起するの勢いあり。 生徒の志力を発揮するは多く教師の精神にあるをもって、 教師を選ぶは志力を養うに必要なるものと知るべし。

 第五 討論演説を設くるは、 大いに生徒の志力を発揮し精神を活発にし、あわせて知力を進達するものなり。かつその論弁討議するもの、 宗教を本としその将来の目的維持の方法等を研究するときは、 大いに学問を実際に活用して死物となるの憂いなし。 志力を養成するも、 その実ただ教法を実際に振起せんがためなり。 しからば、討論演説を設けて弘法の策を講ぜしむるは、 志力を養うの一助となること明らかなり。

 その他種々の方策ありて、 あるいは篤志勉学の者にときどき賞誉の典を行い、 これをしてその恩に感泣し憤起して心力を教法に尽くすの思いをなさしめ、 あるいはまた現今のわが教法の事情、 外教の景況を報告して、  これを維持しかれを保護するの方法を建議せしむる等、 すべて師弟上下の際、 親密共和を本とし、  こと弘教の方法にわたらば互いに相咨問しともに相討議して、 毫も隠すところなくはばかるところなく、  父子兄弟の情誼を結び、同心異体の地位に至らんことを要す。 しかるに上下つねに隔絶し、 師弟互いに排抑し、 互いに相疑い相怨むの勢いに至らば、 教法の地に落つる日を期して待つべきなり。  ゆえに、 志力を養成して教法を振興せんと欲せば、  上下の親密共和を本とせざるべからず。  みだりに規律をもって互いに圧制排抑するは、 志力を養成する法にあらず、 また教法を興隆するの策にあらざること、 論をまたざるなり。

 僧徒の志力を養成するの法は、 以上の五、 六条をもって尽くせりというにあらず。 年の少長、  学の進否にしたがいて、 その法また変ぜざるを得ずといえども、 要するに以上論ずるところは、 その年を問わずその学を論ぜず、 通じて志力を養うの器械となるべきものと知るべし。

 出典『開導新聞』二八五、 二八六、 二八八(明治一五年八月三日、 五日、 九日)

 



   宗  教  編


 余は白面の一寒生なり。 つとに身を教法に帰し、 幸いに命を本山〔東本願寺〕に奉じ、 東西師を求め、 朝夕学を修め、 いまだかつて一日も寧居安臥せず。 その間、 簞食わずかに飢えを支え、 敝袍寒をしのぐに足らざることありしといえども、  一片の丹心常にわれを護するありて、 満身ために暖を覚ゆ。 その心、 あに片時も教法を忘れんや。 昨夏、 遠く病を箱根山間に養う。 駅内ヤソ教蔓延の勢いあるを見て、 感慨おくあたわず。すなわち「主客問答」と題する一編を草し、 もって教法の世に益あるゆえん、 ならびにヤソ教の国に害あるゆえんを論じたり。 今歳また暑を郷里に避く。  たまたま故旧の余をたずぬるありて、 親しく布教の実況を語る。 余が郷、  幸いにいまだ一人のヤソ教を信ずるものなきを聞き、 余、 心ひそかにこれを喜ぶ。  一日、 有志数名と相会す。 諸氏すなわち曰く、 昨秋国会開設の詔ありてより以来、 地方の人気にわかに変じ、 少しく志ある者、  みなもっぱら政治を談じ法律を講じ、 またわずかに学識あるものはただ理学を研究するのみにて、一人の心を教法に帰するものなく、 はなはだしきは教法をもって国家に大害あるものとし、 一日も早くこれを破滅せんとつとむるものあり。  この勢いをもって進むときは、 教法を後来に維持すべからざるや必然なり。 これをいかにしてか防ぐべきや。 余これを聞き、 憤然として奮いて曰く、 はなはだしいかな世間軽躁浮薄の論者多き、 いやしくも各人の幸福を長じ国家の富強を増さんと欲せば、 教法によらざるべからず、 政治、 理学等のひとりよくすべきところにあらざるなり。 たとい理学その奥を究め法律その理を尽くすも、 教法地を払うの道理あらんや。 しかれども、 今ここにその道理を証せんと欲せば、 哲学上より論ぜざるべからず。  ゆえにこれを証する容易ならずといえども、 あにあえて教法の地に落つるの憂いあらんや。 諸氏また曰く、 わが県地僧侶いたって多しといえども、いまだ一人ありて哲学のなにものたるを知るものなく、 また教法の諸学にいかなる関係を有するかを知るものなし。 願わくは、 その一斑を講ぜられんことを。  余ここに至りて思えらく、 余、 在郷中いくぶんか護法のために益することあらば、  これを辞するも本意にあらずと。  ここにおいてか一場の講筵を開かんことを約し、 題するに宗教編をもってし、  これを十講五十二段百余節に分かち、 日を連ねて宗教の真理を弁明せり。 講終わりて余再び京に上る。 着していまだわらじを解かざるに、本山の門戸に迫り末寺総会議を強願するものありと聞き、 余また感嘆に堪えず。 よって考うるに、  当時本山の事務あるいは弊害なきにあらずといえども、 昨今の憂いこれよりさきにしてかつ急なるものあり。 なんぞ、 他をおもんぱかるにいとまあらんや。  すなわち、  ここにかつて講ぜしところの宗教編を稿成して、 教法の本体、 諸学の関係、 僧侶の目的、 布教の方法等を開陳し、 もって宗教の真理と護法の精神を発達せんとす。  そのつまびらかなるは本論について見るべし。 講目、 左のごとし。

第一講 緒論 第二講 政治法律論(第一回) 第三講 政治法律論(第二回) 第四講理学論(第一回) 第五講 理学論(第二回) 第六講 宗教論(第一回) 第七講 宗教論(第二回) 第八講    宗教論(第三回)第九講 宗教論(第四回) 第十講    結論

       第一講    緒    論

 講義の旨趣ならびに分科の理由を述ぶ 

 第一段    布教の目的ならびに方法

 第二段    理論と実行の関係

 第三段  わが教法の敵手

 第四段  将来の教学

 第五段  他教諸学の関係

 第六段    説教と講談の別

 第七段  分科の理由第一段

        第一段 布教の目的ならびに方法

  教家の目的を定め布教の方法を論ず

 第一節 目的方法の弁

 第二節 僧侶の目的

 第三節 布教の方法

        第一節    目的方法の弁

 目的、 方法の同じからざるはみな人の知るところなれども、 世間往々この関係を弁ぜざるものあり。 人、 目的なくんばすなわちやまん。  いやしくも目的あらば、  これに達する方便すなわち方法なくんばあるべからず。  ゆえに、 目的と方法とは互いに相まつものにして、 その一つを欠くも他のあるべき道理なし。 しかれども、 世間その関係を異にするあり。 今そのゆえんを証せんため、 左の順序によりてその別を明かす 

 第一条    目的まず定まりて方法のちに起こるものとす

 第二条    目的は一なるも方法は一ならざるものとす

 第三条  方法変じて目的となり、 目的変じて方法となることあり

  第一、  およそ事をなすに、 目的つねにまず定まりて方法つぎに起こるものにて、 方法ありて而後目的あるにあらず。 例えばここに人あり、 西京に上らんと欲し、 路を陸路に取る。 西京は目的にして、 陸行は方法なり。 西京に上るの目的まず定まるゆえに、 陸路を行くの方法したがって起こる。 今、 僧家の教法における、 またしかり。まずその目的を定めざるべからず。 目的定まりて而後方法を論ぜざるべからず。 今、 余この一編を講ずるに当たり、 第一に教家の目的を論じ、 つぎにその方法に及ぼすも、 またこの意にほかならざるなり。 つぎに、 目的一つなるも方法は一つに限るにあらず。 例えば西京に上るをもって一目的と定むるに、  これに達するの方法は陸に行くあり海に乗るありて、一つに限るにあらず。 今、 布教の方法を考うるに、 またこれに類するあり。 ただ、 その方法中の最も便にしてかつやすきものを選ばざるべからず。  これ、 余が段を追いて論ぜんと欲するところなり。つぎに、 方法の変じて目的となるは前例をもって証すべし。 今、 仮に陸路を行くをもって西京に上るの方法と定むるに、 その陸路なるものまた両途ありて、 東海道を上るあり中仙道を行くあり。  東海道をもって一方法と定むるときは、 陸路を行くは目的となる。  また、 東海道を上るにも歩行するあり乗車するあり、 乗車をもって一方法とすれば東海道は目的となる。  ゆえに目的と方法とは、 定まりありて定まりなきがごとし。 ただ、 その大小をわかたざるべからず。 西京に上ると東海道を行くはともに目的となるべしといえども、 西京は大目的にして東海道は小目的すなわち方法なり。 小を思いて大を忘れ、 方法を求むるに汲々としてかえって目的を害するに至るは、決して得策にあらざるなり。 かのフランス大革命のごときは、  この目的の大小を誤るより起こる。 かの国国会を設くるに当たり種々の政党起こり、 互いに相排抑せんとす。 甲党勢いを得れば乙を制し、 乙党上に立てば甲を伏し、 ために国運の衰頽をきたすに至る。  これ、 他なし。 各党互いに他を強圧するをもって、 国家に尽くす大目的と思うが故なり。 しかれども、 政体を変じ国会を設け政党を結ぶ等は、  みなただ国家を富強にする方法のみ。 決して大目的にあらず。 その大目的なるものは、 国家の富強を増進してますます将来に隆盛ならしむるにほかならず。  しかるに、 政党を起こさんと欲して国家の衰運をきたすもののごときは、 小目的あるを知りて大目的あるを知らざるものというべし。 今、 僧家の教法におけるまたこの大小の目的あるが故に、 まずその別を知り順序を失わざるをもって心に期せざるべからず。 そのつまびらかなるは後節に譲りてこれを論ぜん。

       第二節    僧侶の目的

 僧家の目的とするもの、 自ら教法を信ずるにとどまるか、 また人にこれを伝え世にこれを弘むるにあるか。 余案ずるに、 いやしくも僧家と称する以上は、 その目的、  一般の世俗と同一なるの理なし。 もしその目的自身にとどまるものとなさば、 何をもって世俗にわかたんや。 しからば僧侶の目的たる、 自ら教法を信ずるにとどまらずして、 なおこれを人に伝え世に弘むるにあること明らかなり。 余、  ゆえに曰く、 僧侶の目的は教法を世間に弘むるにありと。  つぎに再びこれを論じて、 その時の方向を定めざるべからず。 教法を世間に弘むるは、 昔日にあるか、 今日にあるか、 将来にあるか。 昔日に弘めんと欲するも、  すでに及ぶべからず、 今日に伝えんとすれば、 なお行うべし。 しからば、 今日に弘むるをもって目的とするか。 今日なお足らず、 将来を待たざるべからず。 もしその目的今日にとどまるならば、 なんぞあえて将来をおもんぱかることをせんや、 なんぞあえて明日に伝うることをせんや。  これによりてこれをみれば、 教法を今日に弘むるは、 将来にさかんならしめんとするにあること疑いなし。  ゆえに余、 論じてここに至りすなわち曰く、 僧侶の目的は教法を世間に弘め将来にさかんにするにありと。 これわが大目的にして、 おのおのその心に期して片時も忘るべからず。 余が以下に論ずるところのもの、みなこれを根拠としこれを標準として、 決してその外に出ずることなし。 全編の本意はこの一条でありというも可なり。 余はみなこの目的を達するの方法なるをもって、 その実これに離るることなし。  すでに目的定まれば、 方法したがって起こらざるをえず。  ゆえに余は、 以下にその方法を論究すべし。

       第三節    布教の方法

 さきにすでに論ぜしごとく、 目的は一つなるも方法は種々あり。 教法を世間に弘むるにも、 弁説をもってするあり、 恩義をもってするあり、 実行を施して伝うる者あり、理論を究めてしく者あり。 説教も方法の一つなり、読経も方法の一つなり、 宗学を研究するも方法の一つなり、他教を防御するも方法の一つなり。 余輩のごとく哲学の真理を論じ、 政治理学を駁し、 宗教編を講ずるも、 また方法の一つなり。 方法は種々ありて一つならずといえども、 その方法中最も便にしてかつやすきを選び、 急にしてかつ重きものをさきにせざるべからず。 これ、余がもっぱら論ぜんと欲するところなり。 世間の僧侶中には、 この目的と方法の別を知らず、 方法をもって目的と信じ、 目的をもって方法と思うの徒少なしとせず。 余、  一日一人の僧に遇い、 教家の目的は何をなすにあるやと問うに、 教家の目的はヤソ教を防御するにありという。  これ大いなる誤りなり。 なんとなれば、 ヤソ教はいずれの世にもいずれの時にもあるべきものにあらず。  すでにわが国のごとき、 数十年以前にはその教を見ず。 しかして当時なお、 僧侶の目的はこれを防御するにありというべきや。  これ、 ただ一時の小目的にして、 古今通じての大目的にあらざること瞭然たり。 つぎに、 ヤソ教は世界万国に行わるる法にあらず、 あるいはこれを奉ずる国あり、これを入れざるの地あり。 もし、 わが法ヤソ教のいまだ行われざる国にあるときは、 その防御するの教なきをもって、 僧侶に目的なしというべきや。  すなわち知るべし、 これを防御するは一方の布教の方法にして、 万国布教の目的にあらざるを。  かつまた真の目的ヤソ教防御にありといわば、 僧家はことごとく防御の一事を任じてしかるべし。 また、 あえて他事に関するを要せず。 しかして、 よく将来のわが法の繁盛を期すべきや。 また、 ことごとく防御に従事してヤソ教地を払うに至るときは、 僧家の目的この点に尽くるものとするか、 その後に生ずる僧侶は目的なきものとするか。 近くわが国を見るに、 ヤソ教を奉ずるものはなはだ少なくして、 全く教法を信ぜざるもの多し。  ひとり外教防御をもって目的とするときは、 僧侶は無教者に対して目的なしといわざるをえず。 しかるに後来、 外教地を払うに至るも、 無教の徒国に満つるときは、 わが法興隆するの道理なく、僧侶また目的を達するものとすべからず。 しからば、 教家の目的は決してヤソ教防御の一点にあらざること明らかなり。その目的なるものは、 余が前節に述ぶるごとく、 教法を世間に弘め将来にさかんならしむるにあり。 ヤソ教を防御するは、 ただこの目的を達するの一方法に過ぎず。 もしその方法を論ぜば、 ヤソ教を絶滅するをもって、  ひとり布教の方法となすべからず。 政治法律の真理を究め理学の実験をたずぬるも、 その心に大目的を忘るることなくんば、 みな布教の方法となる。 あるいはこれに反し、 口にヤソ教を防御するを唱え、心に教家の大目的を忘るるときは、 かえって布教に害あるのみ。 しかるに世間のものは、 ここに一人の僧ありて力を外教防御に尽くすを見れば、すなわち思えらく、 彼は護法の熱心家なり。 また一人ありて洋学を修め政治法律を究め理学をみがくを聞けば、 すなわち曰く、これ目的を知らざるの僧なり、 これ法を破るの徒なりと。 ああ、 またなんの言ぞや。  これ、 ただその外を知りて内を察せず、 形を見て実を考えざるのみ。 愚もまたはなはだし。  ゆえに余、 第二段に至りてその理由を証し、 もって世人の惑いを解かん。

       第二段    理論と実行の関係

  理論と実行と相関するゆえんならびに二者の布教に欠くべからざる理由を論ず

 第一節    理論と実行常に相離れざるゆえん

 第二節    理論は常に実行にさきだつゆえん

 第三節  理論実行ともに布教に必要なるゆえん

       第一節    理論と実行常に相離れざるゆえん

  前段において目的、 方法の別を論じ、 僧家の目的を定むるをもって、 これよりその目的を達する方法に及ぶべし。  およそ方法に二種の別あり、一は理論をもって推し、一は実行をもって施すものとす。 二者おのおのその途を異にすといえども、 その実つねに相従い、 互いに相離るべからざるものなり。  理論もし実行を用いざるときは空論となり、 実行もし理論に従わざるときは徒労に属す。二者相関する、 なお方法の目的に従うがごとし。  これを例するに、一人あり東京より西京に至らんとするに、 なにほど思慮を労し理論を究むるも、 旅行の実行を施さざればその目的を達すべからず。 あるいはまた旅程に上り実行を施すも、 方向の東西も察せず、 道路の遠近も計らず、 旅費路用の多少も算せず、 いたずらに足を労しむなしく歩を進むるも、 またその目的を達すべからず。  たとい達することあるも、 無益の労を費やし無用の金を投じて、 十分の志望を達するあたわざるや必せり。 見よ、コロンブスのアメリカ州を発見するを。 彼、  ただ一朝思いを発し一夕実行を施すものにあらず。 そのいまだ発航せざるに当たり、 深く考え常に思い、 その心中輿地円体にして、 西方にインド地あるべきを信じ、 毫も疑いなきに至り、 はじめてこの理を実行に施し、 数月の航海を経て一世界を発見するを得たり。  これ、 氏は理論実行の二者をもって目的を達せしものというべし。 平常の俗事におけるまたしかり。 甲あり、 大事または巨財を乙に委託せんとするときは、 まず乙の心中を探り行跡をたずね、 而後これを行う。  また、 人の器物を求め飲食を欲するも、 たいていその利害を先知し損益を予定するをもってなり。 だれか器の用を知らずしてこれをあがない、 薬の効を計らずしてこれを服するものあらん。 これみな、 実行と理論と常に相離れざるゆえんなり。 世上百般の事物、一としてしからざるはなし。 あに、  ひとり宗教上のみ理論を用いざるの道理あらんや。

       第二節    理論は常に実行にさきだつゆえん

 理論と実行と常に相離れざるゆえんすでに明らかなりといえども、  二者いずれを先にしいずれを後にするや、いまだ知るべからず。 余、 断固としていわんとす、 理論は実行にさきだちてこれを啓導し、 その方向を定むるものなりと。 前節の例をもって考うるに   コロンブス氏の新世界を発見するも、 旅人の西京に上らんとするも、みな理論を先にし実行を後にす。 かつこれを実際に徴するに、 理論をもって実行の後に施すも、 なんの益あらんや。 ゆえに余曰く、  理論は常に実行にさきだつものなりと。

 しかれども、  二者必ずしも一人をもってなすべきを要せず。 小事を行うに当たりては一人にして弁ずべしといえども、 大事をなすに臨んでは、  一、 二人の力よくすべきにあらず。  おのおのその力を分かちて事に従うを便なりとす。  ここにおいて、 理論家と実行者互いに相分かれざるを得ず。 一人は日夜思慮を焦がし理論を究めて実行者の方向を示し、  一人は朝夕力を労し身を投じ実行をもって理論に従い、 而後大事業を成すことを得るものとす。しかるに世間の実行者はあるいはこの理を誤り、常に理論のみを唱うるものを目して空論者なりといい、 その論を名づけて書生論と称し、 ただにこれを実施せざるのみならず、 その是非当不当を問わず、  一にこれを廃するに至る。 故をもって万世不易の正論も、一時の空論虚説と混視さるること少なからず。 あに惜しむべきにあらずや。 今、 余がこの宗教編のごときは、 もとより理論にとどまるものなりといえども、 あるいは全く空論虚説に属するものにあらず。  これを実施するときは布教の一助となるべきを信ずるをもって、 世のこの編を読むもの、一にこれを書生論視して廃棄せられざらんことをねがう。  かつ余がこの論たるや、 その実全く空想妄考に出でたるものにあらず。 遠く海外諸教の実況を聞知し、 近くわが国布教の真情を実視し、 多年焦思苦心の余り、 結びてこの一編をなすことをもって、 実験の集まりて理論となるものなり。  ゆえに、  これを読むもの、 またよろしくその論の是非を考え理の当否を弁じ、 勿々に看過せざるべし。

       第三節 理論実行ともに布教に必要なるゆえん

理論と実行の相関するゆえんは、 前節において略弁したるをもって、 この二者の世上百般の事業に必要なるゆえんは、  すでに明らかなりと信ず。  ゆえにこれより一歩を進めて、 僧侶の目的を達するにも、  この二者の欠くべからざるゆえんを論ぜんとす。 教法のいわゆる実行とはなんぞや。 曰く、 その教法の定むるところの教えに従って行為を施すものをいう。  理論とはなんぞや。 曰く、  その定むるところの教えこれなり。 しからば、 僧侶は理論を講ずるものにして、 信徒は実行を施すものといわざるべからず。 しかれども、 僧侶は自らその教えを信じ、かつこれを人に伝うるを本分とするをもって、  理論実行の二者を兼有するものというべし。  これ僧侶の目的、 世人と異なるゆえんなり。 

 今、 余がここに論ぜんと欲するところは布教の方法を主とするをもって、 いわゆる僧家の理論についてその急務を論ぜざるべからず。  それ、 僧侶の教えを人に伝うるは理論に属すといえども、 そのうちまたおのずから実行と理論の別ありて、 実行を示して弘むるあり、  理論を究めて伝うるあり。 ただ普通の法を談じ尋常の経を誦して愚俗を化導するがごときは理論中の実行にして、 教法の真理を究め諸学の関係を論じその是非利害を較するがごときは理論中の理論なるものなり。  この二者互いに相まつものにして、  一を欠くも他を全うするあたわずといえども、 もしその前後軽重を論ぜば、 理論はさきにしてかつ重く、 実行は後にしてかつ軽し。 今その理を当時に徴するに、 世間あるいはヤソ教を奉ずるの徒あり、 あるいは一つも教法を信ぜざるの輩あり、 あるいは教法のごときは全く有害無功のものと思い、  一日も早くこれを撲滅せんとつとむるものあり。 少しく学識を有し衣食に汲々せざるの徒は、  たいていこの三者の一に属するものにして、 愚かつ貧なるものひとりわが法を固信するに過ぎず。 これによりて将来を卜するに、 わが法日を追いて衰滅するや必然の勢いなり。 僧侶たるもの、 あに傍観座視するに忍びんや。 余が第一段に論ぜしごとく、 僧家の目的は将来の隆盛を期するにあるをもって、 教法の衰頽は僧侶その目的を達せざるによる。  かくのごときの徒は真に仏者の罪人なり。 いやしくもその顱を円にしその衣を染むるもの、 あに憤勉せざるべけんや。  すでにその目的定まりその志立つときは、 実際について方法を求めざるべからず。 しかりしこうして、 世間の無教者に対していかなる方法を用いて可ならんや。  これ、 余がいわゆる理論中の理論を研究するよりほかなし。 なんとなれば、 世間の無教者は概するに多少学識あるものなれば、  これに対して尋常普通の教理を談じ、 愚夫愚婦を導くの法を用うるも、 到底その信仰を得るあたわず。  ここにおいてか、 理論中の理を講論せざるべからず。  ここにおいてか、 純粋の宗教学興さざるべからず、 高尚の哲学究めざるべからず、 政治法律学ばざるべからず、  理学みがかざるべからず、 かの短を見わが長を知らざるべからず、  かの害を探りわが益をたずねざるべからず。  しかして、 よく世上軽躁浮薄の徒をして教法の真理を解し、  その実益を知らしめざるべからず。  ゆえに余曰く、  理論を研究するは方今の急務なりと。 しかるに顧みて僧侶社会を見るに、 たいてい固く旧習を守り深く頑眠に沈し、 依然として数百年前の風情を改めず、 しかして曰く、 僧侶は一宗の学を講ずるにとどまる、 あえて他学に関するを要せず、 あるいは曰く、 僧侶は実行を修むるをもって足れりとす、 なんぞ煩わしく時勢を知り人情を察することをせんやと。  たまたま理論を専攻するものあればすなわち曰く、 彼は空論者なり、 彼は教家に益なきものなりと。 あるいはまた、 他学を兼修するものを見ればすなわち曰く、 彼は仏敵なり、 彼は仏者の罪人なりと。 しかしておもえらく、 教法を今日にしくは数百年前の旧習によらざるべからずと。  その時勢を知らざる、 かくのごとき妄見をなすに至る。 あにあわれまざるべけんや。  そもそもわが教法は、 いずれの時に伝えいずれの国に弘むべきや。 いやしくもこの世に対しこの人に向かってこれを宣布せんと欲せば、  その時機に応じその人情に問い、 しかしてその方法を変ぜざるべからず。  ここにおいてか、 時勢察せざるべからず、 人情知らざるべからず。 見よ、 今日の活動社会は日に進み月に移り、  駸々として一時もとどまることなく、 実験ますますその妙を尽くし、 理論ますますその真を究む、 また昔日の比にあらず。 しかして、 僧家ひとり旧風を固守するの理あらんや。 世間は活社会なり、  活眼をもって教法を弘むるにあらずんば、 その隆盛を期すべからず。 無気無力の徒幾百万ありといえども、 またよくこれをいかんせん。 今、 わが僧侶中この気力を有しこの精神を抱くもの、 果たして幾人あるや。 余、 思ってここに至れば、 いまだかつて憤然として涙をふるわざるはなし。 ああ、 わが教海に遊ぶの徒、 よろしく頑眠を破り活眼を開き、 精神を育し気力を養い、 外には理論を研磨し内に実行を勉励し、 活社会と並び立ちて永くその勢いを争うべし。  これ、 余が切望するところなり。

       第三段    わが教法の敵手

  わが教法の敵手数種あるゆえんならびにこれを防御する方法を論ず

 第一節 ヤソ教はわが第一の敵にあらざるゆえん

 第二節 第一敵を防御する方法

 第一節 ヤソ教はわが第一の敵にあらざるゆえん

 わが僧侶中、 たいていヤソ教をもってひとりわが仇敵とし、 これを防ぎこれをとどむればわが法の繁盛を期すべしと信じ、 他に最も恐るべき大敵あるを知らざるものあり。  その識見の狭小なる、 実に笑うに堪えたり。 余、いささかここにその理由を開陳して、 論者の惑いを解かん。

 近く日本国中の人民をもってこれを考うるに、 わが国当時行わるるところの教法、 神仏儒の三教およびヤソ教等の数種ありて、 もとより一つならずといえども、 三千余万の人民ことごとく教法を信じ、 諸教中の一つに帰依するものと断言することをえず。  これを概するに、 教法を奉信せざるものかえって多きに居る。 しからばわが人民中には、 教法を信ずるものと信ぜざるものの二種ありと知るべし。  すでに二種の別ありて並行対立するときは、 その間おのずから互いに相敵視するの風なきあたわず。 教法家は無教者をもってわが敵とし、 彼はまたわれをもってその敵となすや必せり。 無教者中にはまた二種の別ありて、  一は教法を信ぜざるにとどまり    一はこれを排斥しこれを絶滅せんとつとむるありといえども、 合してこれをいえば、  みなわが敵なり。 ヤソ教または神教のごときは教法中の一部分にして、 無教者に対するときはみなわが兄弟なり同朋なり。  これをいかにしてか、わが大敵と称するをえんや。 見よ、わが国現今の景況を。 不学無知にして教法のなにものたるを知らざるの徒は、自らこれを信ぜざるのみにて、 あえてわが法の妨害をなすことなしといえども、  わずかに理学の一端をも知り法律の一部をも講ずるの輩は、 教法は大いに社会の進歩に害あり、 僧侶は国家の富強に益なきをもって、  これを撲滅するは方今の急務なりと唱うるに至る。  上下みなこの説を信じ、 賢愚みなこの論をたすくるに至らば、 教法なるものいずれの地に伝わり、いずれの人に存せんや。 果たしてしからば、 かれの盛んなるはわれの衰うるなり、かれの興るはわれの廃するなり。 これを防御するは僧侶の本分にして、 方今の急務これより先なるはなし。  つぎに、 ヤソ教は教法中の同朋なり兄弟なりといえども、 あえてこれを保護しこれを扶助するの道理なし。  その教の蔓延するはもとよりわが法の繁盛に害あるをもって、  これまたわが敵となさざるべからず。 しかれどもその敵たる、  これを無教者あるいは排教者に比すれば小敵といわざるをえず。  ゆえに、 余これを第二の敵と定む。 しかしてその敵たる、  ひとりヤソ教に限るにあらず、 儒教も神教も回教も、 いやしくも教法内にありて教理宗体を異にするもの、  みなわが第二の敵中に位するものなり。 試みにわが教家の尽力によりて、 いったんヤソ教地を払うとするも、 神教日を追って国内に滋蔓し、 儒教月を重ねて民間に伝播するときは、 またわが法の繁盛を期すべからず。  すなわち知る、 ヤソ教はわが第一の敵にあらざるのみならず、 第二敵中の一部分たるに過ぎず。 しかしてわが敵たる、 第二にとどまるにあらず第三、 第四、 第五、 第六、 種々の敵あり。  これを例するに、 わが法すなわち釈教は一部の宗教なりといえども、 そのうちまたあまたの宗派ありて、 多少その主義を異にするをもって、 またわが敵とせざるをえず。  すなわち、 真宗の一宗より他宗の禅宗、 真言、 日蓮等を見るときは、  みなわが比敵なり。 また、 同宗中にもいくたの分派ありてその方法を異にするをもって、  一派より他派を見れば、  すなわちその敵とすべし。 しかしてまた、  一派中にも若干の寺院ありてこれに属する以上は、 その間互いに相敵視競争するの精神なくんばあるべからず。  一寺中にも数名の僧侶ありて法務を負担する以上は、 自身より他僧を敵視し、 互いに優劣を争うの志力なくんばあるべからず。  ゆえに余、 わが教法の敵手を論じてその大小前後の別を示す、 左のごとし。

  第一敵 無教者あるいは排教者    政治法律学者、 理学者、  その他すべて教法を奉信せざるの徒をいう

  第二敵 他宗ヤソ教、 儒教、 神教のごとき、 教法の本源を異にし、 教体宗義同じからざるものをいう

  第三敵 他教 禅宗、 真宗、 日蓮のごとき、 教法の本源を同じくすといえども、 中間その流派を分かち伝来を異にするものをいう

  第四敵 他派    東西両派、 仏光寺派のごとき、  一宗の開祖の同じくすといえども、 伝来の久しき脈派を異にするものをいう

  第五敵 他寺   一派中にて寺院を異にするものをいう 

  第六敵  他僧   一寺中にてその職を分かつものをいう

       第二節    第一敵を防御する方法

 前節論ずるところをもって、 ヤソ教はわが第一の敵にあらずして、 その敵となすべきものは無教者あるいは排教者なることは、 すでに明らかなりと信ず。 しかしてその第一敵中、 最も恐るべくかつこれを防御するに最も難きものはなんぞや。 曰く、 理学者なり、 政治法律学者なり。 一は理論をみがき、一は実験を究め、 もってわが宗教の空理妄論を看破せんとす。 ヤソ教のごとき、 僻見邪説をもってわれに抗抵するものにあらざるなり。  かれ邪説をもって駁すれば、  われこれを弁明する容易なりといえども、 かれ正理実験をもって抗すれば、 われこれを防御するいたって難し。  ゆえに、 第一敵を防御すると第二敵を排斥すると、 その難易、 日を同じくして語るべからざるなり。

 顧みてわが国現今の事情を考うるに、 ヤソ教大いに蔓延の兆しありといえども、 その実これに固着深信するものはなはだ少なし。  その教の最も盛んに行わるるは東京とせんか。 しかれども、  これをその人口に比するに微々たるものというべし。 そのほか、 地方にいたりては往々その門に入るものあるを聞くといえども、 内心深くこれに帰依するもの、一州中に幾人ありや。 しかりしこうして、 余がいわゆる第一敵に属するもの日に増し月に加わいたるところとしてこれなきはなし。 見よ、 当時小学に在学するもの、 口に『世界国尽』の一巻をも誦し、目に『窮理図解』の一枚をも見る以上は、 教法をもって空論とし妄説とし、 僧侶のごときは愚俗を誑惑するの徒なりと信じ、 これとともに談ずるを恥ずるの勢いなり。  学識に乏しく事理に達せざるものすらなおかくのごといわんや学富み才高く事理物情に明らかなるものをや。 その教家を蔑視する、 あえて言を費やすを要せざるなり。 故をもって、 わが法日に衰え月に微にして、 現今はわずかに愚老貧婦の間に存するにとどまる。 あにかなしまざるをえんや。 わが教法、 果たして愚夫愚婦の玩具にして貴顕富豪の門に用なきか、 野蛮草昧の法にして文化開明の教にあらざるか。  その教の性質もしかくのごとくんば、 千万辛苦してこれを世に伝うるも、 またなんの益あらん。 ああわが僧侶、 わが法をもって理学に抗すべからずとするか、 政治法律に敵することあたわずとするか、 ヤソ教に争うべからずとするか。 もしよくこれを知らば、 なんぞ早くこの教を捨てて他の法を取らざるや、なんぞ無用のものに汲々として益なきことをつとむるや。  その教もし純良至善にして万世不変の法ならば、  これを世に伝えて益なきの理なく、 貧愚を導くべくして賢富を教うべからざる理あらんや。 しかしてその世上に盛んならざるは、  これを伝うる者の罪なり。 僧侶その職を尽くしその目的を達せざればなり。 教家学識に暗く事情に迂なればなり、 僧家学に暗く事に迂なり。  ゆえに世人これを蔑視す、 あえて教法の真理を擯斥するにあらざるなり。 果たしてしからば、  この法をして今日に盛んならしむるは、 ただ僧侶の心力にあり学識にあり。 なんぞ憤起してこれを興隆せざるや、 なんぞ甘んじて世人の侮慢を受くるや。 よろしく活眼を開き偏見を去りて、 今日の社会を見るべし。  上等社会にわが法を奉信するものありや、 学者中にわが教を尊戴するものありや。 けだしその人たる、 神教を奉ずるにもあらず、 ヤソ教を信ずるにもあらず、 ただ教法のなにものたるを知らずして、 みだりにこれを蔑視するのみ。 もしこの輩をして神仏ヤソ三教中、  その一つを選びこれを奉ぜしめば、 いずれをか取らん。 余をもってこれを考うるに、 神教を用うるならん、 しからずればヤソ教ならん。 その無信者のいまだ他教に入らざるに乗じて、 わが教に導かざるべからず。 ああ、 わが僧侶つとめよや、 方今世間、 理学法律日を追って盛んなりといえども、 これを防ぐに方あり、 これを導くに術あり、 またいずくんぞ憂うることをせんや。  その方術とはなんぞや。 曰く、  学識なり。 その学識とはなんぞや。 曰く、 ただにわが法の教理宗体を究むるのみならず、内外東西の学を講じて、 よく時勢を観察するの識見を開かざるべからず。 そもそもわが教たる万世不易の法にして、 法律のよく論破すべきところにあらず、  理学のよく攘斥すべきところにあらず、 神教のごとく狭きものにあらず、 ヤソ教のごとき浅きものにあらざるなり。 いやしくもわが僧侶、  学富み識高きの地位に至らば、  これを世に隆盛にするも、 なんの難きかこれあらん。  ゆえに余曰く、 第一敵を防御するの方法は、 ただ学識を研磨するにありと。 もしこの理を疑うものあらば、 よろしく余が本論に入りて論出するところを見るべし。

 余、  宗教編を論じてここにすでに八回の多きに及ぶといえども、  いまだその第一講を終うるに至らず、 極めてこれを概論略記するも、一百余回を経るにあらざれば、一編を全うするあたわず。  しかして年光勿々、日すでに歳晩に迫り、  世事擾々、人奔走に苦しむ。  貧生また小計を営むに忙しく、  また筆墨を弄するにいとまあらず。  すなわち旧稿をここにとどめ、  新年の来たるを待ちて次稿を起こさんとす。  読者、  幸いにこれを了せよ。

 左に掲録するところは一編全論の科目にして、  初回より論じきたるものならびに明年より稿を起こさんとするものを示すのみ。


 

宗教編目次

     第一講 緒論

  講義の旨趣ならびに分科の理由を述ぶ

第一段 布教の目的ならびに方法

 第一節 目的方法の弁

 第二節 僧侶の目的 

 第三節 布教の方法

第二段 理論と実行の関係

 第一節 理論と実行常に相離れざるゆえん

 第二節 理論は常に実行にさきだつゆえん

 第三節 理論実行ともに布教に必要なるゆえん

第三段 わが教法の敵手

 第一節 ヤソ教はわが第一の敵にあらざるゆえん

 第二節 第一敵を防御する方法

第四段 将来の教学

 第一節 理学と政治法律学の後来に盛んなるべきゆえん

 第二節 神教は将来の教法にあらざるゆえん

  第一由 神教は万国普通の教にあらず

  第二由 神教は万世不易の法にあらず

 第三節 将来の教法となるべきものは釈迦、 ヤソ両教にあるゆえん

 第四節 釈教は従前の法をもって後来に伝うべからざるゆえん

第五段 他教諸学との関係 

 第一節 古来和漢学者の説

 第二節 近時ヤソ教家の論

 第三節 将来理学の実験

第六段 説教と講談の別

 第一節 説教と講談の目途を異にするゆえん

 第二節 政事社会と学者社会の景況

 第三節 講談の方法

第七段 分科の理由

 第一節 本論を政治、 理学、 宗教の三科に分かちたるゆえん

 第二節 政治法律と理学の性質組織を論ずるの必要なるゆえん

     第二講 政治法律論    第一回

  政治法律の大体を論ず

第一段 政治と法律の別

第二段 政治法律の目的

第三段 人生の目的

 第一節 人のこの世に生まるるや目的あるゆえん

 第二節 目的を定むる二原則

   第一則 人の目的は一人または一世をもって定むべからず

   第二則 人の目的は人のほかにあるものをもって定むべからず 

 第三節 原則の起こる二条

   第一条 時勢は変遷すべきものなること

   第二条 社会は活動物なること

 第四節 和漢古来の諸説

 第五節 西洋近世の諸説

第四段 政治法律の功用

 第一節 政治法律は人の目的を達するの用具たるゆえん

 第二節 政治法律なくんば社会の安寧を保全すべからざるゆえん

第五段 政治家の評論

 第一節 宗教は人生目的の二原則に相反するゆえん

 第二節 宗教は人世の幸福を増進するものにあらざるゆえん

 第三節 宗教は将来衰えざるをえざるゆえん

     第三講 政治法律論 第二回

  政治法律の真理にあらざるゆえんを論ず

第一段 哲学の義解

 第一節 哲学の通義 

 第二節 他学との関係

第二段 真理の主体

 第一節 真理の有無 

 第二節    真理の本体

 第三節    真理の標準

   第一準    真理は一事について数様あるべからず

   第二準    真理は人の疑いをいるるべきものにあらず

   第三準    真理は時と地によりて変ずべきものにあらず

第三段    多数の説正論にあらざるゆえん

 第一節    近世の政治は輿論をもって定むるゆえん

 第二節    近時の理学

     第四講    理学論    第一回

  理学の起源ならびにその大綱を論ず

第一段    理学は実験をもって真理を究むるゆえん

第二段    実験学の起源ならびにその由来

 第一節    上古ギリシア学

 第二節    近世理学

第三段    理学の実験確実証明なるゆえん

 第一節    実験の疑うべからざるゆえん

 第二節    数理の誤りなきゆえん

第四段    宗教の衰うるゆえん

 第一節    昔日の宗教

 第二節    神仏の体第

五段    宗教の真理

 第一節    宗教は実験説なるゆえん

 第二節    宗教は真理にそむかざるゆえん

第六段    宗教は人の目的を定むる二原則にたがわざるゆえん

 第一節    第一則にたがわざるゆえん

 第二節    第二則にたがわざるゆえん

     第五講    理学論    第二回

  理学の実験真理を究むるに足らざるゆえんを論ず

第一段    理学は世を経て変遷するゆえん

第二段    人の感覚不完全にして真理を究むるに足らざるゆえん

 第一節    五官にて感ずべからざるものあるゆえん

 第二節    五官いまだ全く聡明ならざるゆえん

第三段    数理の測り及ばざるものあるゆえん

 第一節    人の知り得る数は限りあるゆえん

 第二節    数はただ関係をもって成るゆえん

第四段    宇宙間理学の究め実験の測るべからざる力あるゆえん

 第一節    物理学

 第二節    化学 

 第三節    星学

 第四節    動植物学

 第五節   数学 

 第六節 世態人事

第五段 理学実験の結果二条

   第一条 宇宙間理学の実験をもって測り知るべからざる力あること実験上明らかなり

   第二条 真理は人の力にて知るべからざること真理なりと知るべし

      第六講 宗教論 第一回

  宗教の性質ならびに目的を論ず

   序言

    第一項 哲学上宗教を論ずるの公正なるゆえん

    第二項 世界中教法と称すべきものは釈迦、  ヤソ両教にして、  そのよく哲学の理に合するものは釈教にあるゆえん

第一段 宗教の起由ならびにその目的

 第一節 政治法律の悪を懲らし善を勧むるに足らざるゆえん

 第二節 理学の惑いを解き心を定むるに足らざるゆえん

 第三節 宗教の目的二途

   第一途 勧善懲悪

   第二途 安心立命

第二段 宗教の他の諸学に異なるゆえん

 第一節 法律に異なるゆえん

 第二節  理学に異なるゆえん

第三段 宗教の性質ならびに主体

 第一節 不思議のカ

 第二節 輿論の正理にあらざるゆえん

第三節 正論かえって少数中に起こるゆえん

第四段 法律は正法にあらざるゆえん

 第一節 法律は腕力を本とするゆえん

 第二節 法律は外を罰し内を戒めざるゆえん

 第三節 忠邪正不正は成敗にあるゆえん

第五段 人の目的と定むるものいまだ全く真理にならざるゆえん

 第一節 人の目的は真理の原則に合せざるゆえん

 第二節 人の目的は実験をもって定むるものにあらざるゆえん

     第七講 宗教論 第二回

  宗教は理学より駁撃すべからざるゆえんを論ず

第一段 宗教は空論妄説にあらざるゆえん

第二段 理学中論ずるところの因果は宗教の因果に異なるゆえん

第三段 理学中論ずるところの時と空は宗教の時と空に異なるゆえん 

第四段 宗教は数理の外にあるゆえん

第五段 宗教は人力の外にあるゆえん

 第一節 人の感覚正しからざるゆえん

 第二節 人の思想誤りあるゆえん

 第三節 宗教の理を知らんとするは、 なお自身の目をもって自身の目を見んとするがごときゆえん

 第四節 人は常に五感圏内ありて宗教はその外にあるゆえん

     第八講 宗教論 第三回     

  人魂、 死生、 来世、 苦楽の理を証す

第一段 創造説

第二段 因果説

第三段 人魂不死説

 第一節 有形物の増減生滅なきゆえん

 第二節 無形物の増減生滅なきゆえん

 第三節 人は有形無形の二素より成るゆえん

第四段 三界流転説

 第一節 迷いは人心に従うゆえん

 第二節 人死するも迷いを脱するあたわざるゆえん

第五段 転迷開悟説

     第九講 宗教論 第四回

  宗教の世に益あるゆえんを論ず

第一段 心を戒むるの益

第二段 迷いを去るの益

第三段 民心を一結するの益

 第一節 西洋諸邦古来力を宗教にかりたるゆえん

 第二節 わが国将来力を宗教にからざるをえざるゆえん付その原因

      第一因 天候

      第二因 地勢

      第三因 人種

      第四因 交際

      第五因 習慣

      第六因 政治

      第七因 学術

第四段 人心を安定するの益

第五段 幸福を全うするの益

 第一節 心神と肉身の関係 

 第二節 宗教と諸学の関係

 第三節 内心の幸福を増進するは宗教にあるゆえん

第六段  心神に尽くすの義務

第七段 宗教は世の開明に妨害なきゆえん

 第一節 世人の宗教をもって開明の進歩に害ありとなす二由

  第一由 能教者より起こる

  第二由 所教者より起こる

 第二節 教法の真体

 第三節 宗教の教うるところ、人の目的を達するに害なきゆえん

     第十講 結論

  前論の大意を結び宗教将来の目的方法を定む

第一段 前論の大意

第二段 世人の評論

 第一節 宗教後来衰うるの説

 第二節 宗教後来衰えざるの理

第三段 宗教の組織

 第一節 宗教は正変両部より組成するゆえん

 第二節 宗教は時勢に従いて変遷すべきゆえん

第四段 将来の目途

 第一節 将来の教法

 第二節 釈教の教理 

 第三節 ヤソ教の地位

 第四節 布教の目的を達する良法

    以上 宗教編

 

 出典『開導新聞』三一五、三一七、三一八、三二二、三四七、 三四八、 三四九、 三五、 三五一、三五二(明治一五年一〇月五日、 九日、一一日、 二一日、一二月一五日、一七日、一九日、 二一日、 二三日、 二五日) 



   読  荀  子


 余かつて『荀子』を読み、 大いにその活眼卓識に感ずるところあり。 しかるに古来、 世儒のこれをそしるもの多きはなんぞや。韓退之曰く「孟氏醇乎醇者也荀与揚大醇而小疵。」(孟子は醇乎として醇なるものなり。 荀と揚とは大醇にして小疵あり。)また曰く「荀与揚択焉而不精語焉而不詳」(荀と揚とは択んで精しからず、 語って詳かならず)とあるは、 孟子と荀揚との優劣を評せしに過ぎざれども、 蘇東坡の論にいたりては誹謗も実に極まれりというべし。 その論に曰く「荀卿者喜為異説而不譲敢為高論而不顧者也。」(荀卿なる者は、 喜んで異説をなして譲らず、 あえて高論をなして顧みざるものなり。)また曰く「意其為人必也剛愎不遜而自許太過。」(意うにその人となり、 必ずや剛愎不遜にして自ら許すこと太だ過ぎん。)しかしてまた曰く「李斯以其学乱天下其高談異論有以激之也」(李斯その学をもって天下を乱る。 その高談異論のもってこれを激することあればなり)とあり。その意、 李斯の秦王につかえて六経を焚き古法を変ぜしは、 けだし荀子の教えしところなりというにあり。 なんぞ誣ゆるのはなはだしきや。 余その書についてこれを考うるに、 議兵篇に荀子と李斯との問答をあげたる一章あり。 荀子曰く「汝所謂便者不便之便也吾所謂仁義者大便之便也」(汝のいわゆる便とは不便の便なり。  われのいわゆる仁義とは大便の便なり)等と、 喋々仁義の利を述べて李斯を戒めたるは、 その意、 秦の暴政をとどめんとするにあり。 かつ荀子の仁義を説くや、 本書中いちいちその例を徴するにいとまあらずといえども、 今その一、二を挙ぐるに、 不荀篇に「唯仁之為守唯義之為行」(ただ仁のみを守となし、 ただ義のみを行となすべし)とあり、 非相篇に「君子之行仁〔也〕無厭」(君子の仁を行うや厭くことなし)とあり、 栄辱篇に「先義而後利者栄先利而後義者辱」(義を先にして利を後にするものには栄あり、 利を先にして義を後にするものには辱あり)とあり、 議兵篇に「仁者愛人愛人故悪人之害之也義者循理循理故悪人之乱之也」(仁者は人を愛す、 人を愛するが故に人のこれを害することを悪むなり。 義者は理に循う、  理に循うが故に人のこれを乱ることを悪むなり)とあるは、 これみなその説の孔孟と同一なるゆえんを証するに足る。 あに、 ひとり荀子を誹謗排斥するの理あらんゃ。  しかるに世儒の口を交えてこれを攻むるは、  一はその性悪論を唱えしをもってなり。 孟子曰く「人性之善也猶水之就下也人無有不善水無有不下」(人性の善なるは、 なお水の下きに就くがごときなり。 人、 善ならざることあることなく、 水、 下らざることあることなし)荀子曰く「今人之性悪必将待師法然後正得礼義然後治」(今、人の性は悪にして、 必将ず師法を待ちて然る後に正しく、 礼義を得て然る後に治まる)孟子曰く「仁義礼智非由外鑠我也我固有之也弗思耳突」(仁義礼智は外よりわれを鑠するにあらざるなり。 われこれを固有するなり。 思わざるのみ)荀子曰く「礼義法度者是生於聖人之偽非故生於人之性也」(礼義法度なるものはこれ聖人の偽より生じ、 故人の性より生ずるにあらざるなり)等と。  かく荀子の言うところ、 全く孟子の論に相反すといえども、孔子の性相近の説よりこれをみれば、  二者ともに一局に偏したる僻論にして、  ひとしくその当を得ざるものというべし。  ゆえに、  この点をもっていまだ二氏の優劣可否を判決すべからざるなり。  つぎに、 荀子の人に擯斥せらるるゆえんは、 主として非十二子篇にあり。 その篇中、 子思、 孟子等を嫌悪して曰く「今夫仁人也将何務哉上則法舜禹之制下則法仲尼子弓之義以務息十二子之説如是則天下之害除仁人之事畢聖王之跡著突」(今それ仁人は将なにをか務めんや。  上はすなわち舜・禹の制に法り、 下はすなわち仲尼・子弓の義に法り、 もって十二子の説を息めんことを務むべし。かくのごとくんばすなわち天下の害は除かれ仁人の事はおわり、 聖王の跡も著れん)と説きたるがごときは、 荀子の一僻といわざるべからず。  しかれども、  これただその見るところ孟子と同じからざるに出でて、 その舜、 禹、 孔子を模範とするの極意に至りて毫も異なることなし。 もし孟子をして荀子の後に生まれしめば、 また必ずかくのごとく言わんのみ。 あえて深くとがむるに足らず。 しかるに世の学者その事情を察せず、  みだりにこれを誹謗し、一にこれを排棄して、 いかなる活眼卓識のその中に存するあるも、ついに世人をしてこれを知らざらしむ。  これ、 余が憾となすところなり。

 『荀子』書中論ずるところ、 もとより偏僻の説多く論理また明瞭ならざるをもって、これを今日に考うれば深く称嘆すべき良書にあらざるはもちろんなりといえども、 そのうちおのずから古代の新説名論を包含するありて、これを他の古書に比すれば、 また大いに採るべきところあり。 今、 性悪論は『荀子』全巻の要点にして学者のつねに評論するところなるをもって、 まずその可否を討究せざるべからず。 余、 さきに「排孟論」を草して孟子の性善なりと論定したるを駁し、 性は本来善とも悪とも決すべからざるゆえんを証明せしが、この理によりて考うるに、 荀子の性悪なりと断言したるもまたひとしく正論にあらざるなり。 今、 試みに荀子の言うところを挙げんに、 性悪篇に曰く「人之性悪其善者偽也」(人の性は悪にしてその善なるものは偽なり)栄辱篇に曰く「人之生固小人無師無法則唯利之見耳」(人の生まれつきはもとより小人なり、 師なく法なければすなわちただ利を見るのみ)とありて、これを証するに人の性、 生まれて利を好むあり悪をにくむあり耳目の欲あり、これに従えば争奪生じ残賊起こり淫乱の風行われ、 礼義文理ことごとくほろぶるに至る。  ゆえに師法を設け礼義を興し、 本来の性を矯正偽飾して正道に合せしめざるべからずという。 余をもってこれをみれば、 人の性たる、 利を好み悪をにくみ声色を欲するがごときは進化遺伝の結果にして、 人々もとより有せざるべからざる能力なりといえども、  これを有するもあえて不善なるの理なくこれに従うも必ずしも悪なるの理なし。 長じて善行をなすも悪事を行うも、 みなこの性力の進長因習するによる。  人の孳々として道徳を全うせんとするも汲々として富貴を積まんとするも、  一としてこの性によらざるはなし。  ゆえにこれをもって性悪の証となすに足らず。 荀子また曰く「今人之性飢而欲飽寒而欲煖労而欲休此人之情性也今人飢見長而不敢先食者将有所譲也労而不敢求息者将有所代也」(今、人の性は飢えて飽かんことを欲し、 寒えて煖ならんことを欲し、 労して休まんことを欲するは、これ人の情性なり。 今、 人飢うるも長を見ればあえて先ず食せざる者は、 まさに譲るところあらんとすればなり。 労してあえて息を求めざる者は、 まさに代わるところあらんとすればなり)等とありて、 人の尊長に対して相譲の行為あるはいわゆる礼義の文理にして、 固有の性に反し情にもとるものなりというといえども、 子の父に譲り弟の兄に譲り弱の彊に譲るがごとき、 必ずしも師法教育をまちてしかるにあらず。  社会の進化の際、 競争淘汰の勢いおのずからここに至らざるをえず。 しかるに世間ことさらに師法を設け教育を施すものは、 ただその勢いを養成して早く結果の点を達せんとするにあるのみ。 これによりてこれをみれば、 人の善悪はその固有の勢力とこれに接する外情と、  二者の交互作用より派生するものにして、 本来その定まりあるにあらず。 今、 荀子の論ずるがごとき、 孟子と同じく性の本質のなんたるを推究せず、 ただ結果の一点を見て原因を仮想せしに過ぎず。 しかして孟子は人に善心あるの一端に僻し、 荀子は人に悪行あるの一局に偏し、 ともに公正の論にあらざるや明らかなり。

 今、 荀子の説を西洋哲学に比考するに、その言うところ経練学家の論に符合するあり。 勧学篇に曰く「干越夷貂之子生而同声長而異俗教使之然也」(干越夷貂の子、 生まれたるときは、  すなわち声を同じくせるも、 長ずればすなわち俗を異にするは、 教これをしてしからしむるなり)また曰く「君子生非異也善仮於物也」(君子も生まれつき異なるにはあらず、 善く物に仮るなり)栄辱篇に曰く「越人安越楚人安楚君子安雅是非知能材性然也是注錯習俗之節異也」(越人の越に安んじ楚人の楚に安んじ君子の雅に安んずるは、  これ知能材性のしからしむるにあらず、 これ注錯習俗の節の異なればなり)また曰く「尭禹〔者〕非生而具者也夫起於変故成乎脩脩之為待尽而後備者也」(尭.禹なる者も生まれながらにして具わるものにあらず。  それ変故に起り脩為に成り、 尽くすを待ちてしかる後に備わるものなり)儒効篇に曰く「注錯習俗所以化性也」(注錯習俗は性を化するゆえんなり)性悪篇に曰く「聖人者人之所積而致也」(聖人なる者も人の積みて致るところなり)とあるは、 その意、 人の聖賢となり君子となるは経験積習のいたすところにして、 本来これを有するにあらずというにあり。 その論全く、 経練学祖ロック氏の知識はことごとく経験よりきたるという原理に符合し、 またその注錯習俗を説くは、 ヒューム氏およびミル氏等の唱うるところの習性連想の理法に応同す。 ただしその異なるは、 荀子の悪心邪知の生ずるをもって、 本然の性より起こるものとなすにあり。  ゆえに、 性悪篇中に「今人之性生而有好利焉順是故争奪生而辞譲亡焉生而有疾悪焉順是故残賊生而忠信亡焉生而有耳目之欲有好声色焉順是故淫乱生而礼義文理亡焉」(今、 人の性は生まれながらにして利を好むことあり。  これに順う。  ゆえに争奪生じて辞譲亡ぶ。 生まれながらにして疾み悪むことあり。  これに順う。  ゆえに残賊生じて忠信亡ぶ。 生まれながらにして耳目の欲の声色を好むことあり。  これに順う。ゆえに淫乱生じて礼義文理亡ぶ)等と論ぜり。 しかれども栄辱篇にいたりてこれを見れば、 悪もまた注錯積習の力によるというの意あり。  すなわち「可以為尭萬可以為桀跖可以為工匠可以為農賣在勢注錯習俗之所積耳」(尭・禹ともなるべく桀・跖ともなるべくエ匠ともなるべく農買ともなるべし。 注錯習俗の積む所にあるのみ)また「君子注錯之当而小人注錯之過也」(君子は注錯の当たれるものにして小人は注錯の過ちたるものなり)というがごときは、 禹桀聖悪ともに、 注錯習俗の当不当によりて分かるるの意を述ぶるや明らかなり。 しかるに荀子の性悪論の一偏に僻するに至りしは、 余案ずるに、一は孟子に反対せんとするの本心に出でしならん。  それ孟子は孔子に次ぎて世に生まれ、 聖門仁義の教えを広めて、 もって異端邪説を排せり。  当時その議論の大いに世上に影響を生ぜしは必然なり。 荀子その後に出でて、また仁義の道を説きて孟子に競争せんとす。その勢い、  一家の異見を起こさざるをえず。ここにおいて、 自ら性悪論を唱うるに至りしならん。

 孟子性善を論じて、 人みな人に忍びざるの心ありといい、 人善ならざることあるなしといいて、 我人の本来有するところの性力ことごとく同一なりと信ぜり。 荀子また人の性、 賢愚みな一にして教育積習を同じくすれば、みな同等の善人に化すべしと思えり。  ゆえに、 栄辱篇に曰く「材性知能君子小人一也」(材性知能は君子も小人も一なり)性悪篇に曰く「凡人之性者尭舜之与桀跖其性一也君子之与小人其性一也」(およそ人の性は、 尭・禹の桀・跖に与けるもその性一く、 君子の小人に与けるもその性一なり)と。  これ、 全く遺伝の理法を知らざるの論なり。 遺伝の理法によれば、 人々本来有するところの知能性力、 多少の差異なきあたわず。  ゆえに、 たとい教育積習を同一にするも、 その知力の発達にいたりてはおのおの異にして、 賢愚善悪おのずから相分かるるに至るなり。 荀子の教育を論ずるがごときは、 ただ順応の一端を知りて、 遺伝の理法を知らざるや明らかなり。 しかれどもその意、 勧学脩身を本とするをもって、 性一論のごときは人をして彊学力行せしめんとするの方便とみなすときは、 また良法というべし。

 荀子の説中その最も卓見と称すべきは、 天に常道あるの一論なり。  すなわち天論篇中に「天行有常不為尭存不為築亡応之以治則吉応之以乱則凶彊本而節用則天不能貧養備而動時則天不能病脩道而不弐則天不能禍」(天行、常あり。 尭のために存せず、 桀のために亡びず。  これに応ずるに治をもってすれば、  すなわち吉、  これに応ずるに乱をもってすれば、  すなわち凶なり。 本を彊めて用を節すれば、  すなわち天も貧ならしむることあたわず、 養の備わりて動の時なれば、 すなわち天も病ましむることあたわず、 道を脩めて弐わざれば、  すなわち天も禍することあたわず)また「本荒而用侈則天不能使之富養略而動罕則天不能使之全倍道而妄行則天不能使之吉」(本の荒れて用の侈なれば、すなわち天もこれをして富ましむることあたわず、 養の略にして動の罕なれば、  すなわち天もこれをして全ならしむることあたわず、 道に倍きて妄行すれば、 すなわち天もこれをして吉ならしむることあたわず)また「君子敬其在己者而不慕其在天者是以日進也小人錯其在己者而慕其在天者是以日退也」(君子はその己にあるものを敬みて、 その天にあるものを慕わず、  ここをもって日に進むなり。  小人はその己にあるものを錯きてその天にあるものを慕う、  ここをもって日に退くなり)と説きて、 もって人の彊学力行せずしていたずらに僥倖を望むものを戒めたるは、 荀子の新論というべし。 しかしてこの理をもって、  人のみだりに天災地変をおそれ、 卜筮祈雩するの愚なるゆえんを論明せしは、 また称するに足る。  すなわち曰く「星墜木鳴国人皆恐曰是何也曰無何也是天地之変陰陽之化物之空至者也怪之可也而畏之非也」(星墜ち木鳴る。 国人みな恐れて曰く、これなんぞやと。 曰く、 なにもなきなり。  これ天地の変・陰陽の化にして物の罕に至るものなり。  これを怪しは可なるも、 これを畏るるは非なり)また曰く「雩而雨何也曰無佗也猶不雩而雨也」(雩して雨ふるはなんぞや。曰く、 佗なし。 なお雩せずして雨ふるがごときなり)とあるは、 天行の常に定まれるありて、 人為をもって自在に動かすべからざるの理をいうなり。  しかしてまた「日月食而救之天旱而雩卜筮然後決大事非以為得求也以文之也」(日月食してこれを救い、天旱にして雩し、卜筮してしかる後に大事を決するは、もって求めを得るとなすにはあらず、 もってこれを文るなり)と説きたるは、また一代の活眼なり。 けだしその意たるや、古来聖君英主の卜筮祈雩するがごときは、政事を文飾して百姓の名望を得んとするの方便にほかならずというにあり。しかれども、その説また人力の一偏に局するの弊あり。 天論篇に曰く「治乱天邪曰日月星辰瑞歴是禹桀之所同也禹以治桀以乱治乱非天也時邪曰繁啓蕃長於春夏畜積収蔵於秋冬是又禹桀之所同也禹以治桀以乱治乱非時也地邪曰得地則生失地則死是又禹桀之所同也禹以治桀以乱治乱非地也」(治乱は天なるか。 曰く、日月星辰の瑞歴するはこれ禹桀の同じきところなり、禹はもって治まり、 桀はもって乱る。治乱は天にあらざるなり。時なるか曰く、 春夏に繁啓蕃長し、 秋冬に畜積収蔵す、これまた禹桀の同じきところなり、禹はもって治まり、 桀はもって乱る。 治乱は時にあらざるなり。 地なるか。 曰く、地を得ればすなわち生じ、地を失えばすなわち死す、これまた禹桀の同じきところなり、 禹はもって治まり、 桀はもって乱る。 治乱は地にあらざるなり)また曰く「受時与治世同而殃禍与治世異不可以怨天其道然也」(時を受くることは治世と同じきに、 しかも殃禍は治世と異なれり。 もって天を怨むべからず、  その道しかるなり)君道篇に曰く「有乱君無乱国有治人無治法」(乱君ありて乱国なく、 治人ありて治法なし)致士篇に曰く「有君子而乱者自古及今未嘗聞也」(君子ありて乱るる者は、 古より今に及ぶまでいまだかつて聞かざるなり)とあるは、 国家の治乱興廃は君主の良悪にありて、天行にその別あるにあらずとの意なり。しかりしこうして荀子、 国の隆替はまたおのずから世運時機の存するありて、いかなる英君明主といえども、 これをして意のごとくならしむるあたわざるものあるを説かざるは、 また僻論というべし。 かつそれ天論篇に、道を脩むるものには天も禍するあたわざるゆえんを論じて、「水旱不能使之飢渇寒暑不〔能〕使之疾祅怪不能使之凶」(水旱もこれをして飢えしむることあたわず、寒暑もこれをして疾ましむることあたわず、 祅怪もこれをして凶ならしむることあたわず)というがごときにいたりては、 偏するもまたはなはだし。 この一論のごときは、 墨子の非命論とその意を同じくす。 墨子曰く「昔者桀之所乱湯治之紂之所乱武王治之此世不渝而民不改上変政而〔民〕易教其在湯武則治其在桀紂則乱安危治乱在上之発政也則豈可謂有命哉」(昔は桀の乱すところ、湯これを治め、紂の乱すところ、 武王これを治む。 これ世渝らず、 民改まらざるに、上政を変ずれば、 民教えを易う。  その湯・武にありては、  すなわち治まり、 その桀・紂にありては、 すなわち乱る。 安危治乱は、 上の政を発するにあるなり。  すなわちあに命ありというべけんや)とあるは、『荀子』天論篇にいうところと異なることなし。  けだし、 世運人事は人力のよく動かすべきものと動かすべからざるものあるに、 今荀墨のごときは、ただその一端を知りて他を知らざるものなり。 しかりといえども、 余、 荀子の意を察するに、 勧学修身を本とし人に彊学力行を勧めんとするにあるをもって、 その論一端に走るに至るも、 またやむをえざるなり。

 つぎに、荀子の活眼と称すべきは非相、 解蔽の二篇にして、その論ずるところもとより浅近なりといえども、古代の妄信謬見を開発するに足る。 非相篇に曰く「相人之形状顔色而知其吉凶祅祥世俗称之古之人無有也学者不道也故相形不如論心論心不如択術形不勝心心不勝術術正而心順則形相雖悪而心術善無害為君子也形相雖善而心術悪無害為小人也」(人の形状顔色を相いてその吉凶祅祥を知る。 世俗はこれを称するも古の人はありとすることなく、 学者は道わざるなり。 ゆえに形を相うは心を論ずるにはしかず、 心を論ずるは術を択ぶにはしかず。 形は心に勝たず心は術に勝たず、術の正しくして心の順なれば、 すなわち形相は悪しといえども心術はよく、 君子となすに害なきなり。 形相は善しといえども、 心術の悪ければ小人となすに害なきなり)また曰く「長短小大善悪形相非吉凶也」(長短・小大・善悪の形相は吉凶にあらざるなり)とあるは、 荀子の意、 時人の妄誕を信ずるものを開導して実学を修めしめんとするにあり。 解蔽篇に曰く「凡観物有疑中心不定則外物不清吾慮不清則未可定然否也冥冥而行者見寝石以為伏虎也見植林以為後人也冥冥蔽其明也」(およそ物を観るに疑ありて中心の定まらざるときは、 すなわち外物も清ならず。 わが慮の清ならざるときは、 すなわちいまだ然否を定むべからざるなり。 冥々にして行く者、 寝石を見て伏虎とおもい、 植林を見て後人とおもうは、 冥々その明を蔽えばなり)また曰く「凡人之有鬼也必以其感忽之間疑玄之時正之」(およそ人の鬼ありとするは、 必ずその感忽の間の疑玄の時をもってこれを正む)とあるは、 荀子の意、 世人の信ずるところの鬼神妖怪のごときは、 その実体あるにあらず中心定まらずして、 その見るところ明らかならざればなりというにあり。 孔子は怪力乱神を語らざるに、 荀子これを説くは孔子の意に反するがごとしといえども、 孔子はこれを語りて世人の惑いを増さんことを恐れ、 荀子はこれを説きて世人の惑いを解かんことを欲す。  二氏の意、 その惑いを減滅せんとするの点にいたりては一なり。しかして余おもえらく、 道理をもって怪力の起こるゆえんを弁明するは、これを無言に付するに勝ること万々なりと。

 荀子は世の学者、事必ず上古にならい言必ず先王を称するの弊あるを察し、自ら後王の師とすべきゆえんを論じたるは、 また一代の卓見というべし。 非相篇に曰く「欲観聖王之跡則於其粲然者矣後王是也彼後王者天下之君也舎後王而道上古譬之是猶舎己之君而事人之君也故曰欲観千歳則数今日欲知億万則審一二欲知上世則審周道欲知周道則審其人所貴君子」(聖王の跡を観んと欲すれば、  すなわちその粲然たるものにおいてせよ、 後王これなりと。 かの後王なるものは天下の君なり。 後王を舎てて上古を道うは、  これをたとえばこれなお己の君を舎てて人の君に事うるがごときなり。  ゆえに曰く、 千歳を観んと欲すれば、  すなわち今日を数べ、 億万を知らんと欲すれば、 すなわち一、二を審らかにし、上世を知らんと欲すれば、  すなわち周の道を審らかにし、 周の道を知らんと欲すれば、  すなわちその人の貴ぶところの君子を審らかにせよと)不荀篇に曰く「天地始者今日是也百王之道後王是也」(天地の始なるものも今日こそこれなり。 百王の道も後王こそこれなり)とあるを見れば、 荀子の意、今日にありてわが師とすべき王者聖人起こるときは、 われこれを師とし、 あえて百事ことごとく上世の帝王を師とするを要せずというにあり。  一歩を進めてこれを考うれば、 社会は下等より高等の地位に進化するをもって、今日の師法礼義は今日に存し、  上世に存するにあらざるの理を包含するもののごとし。

 荀子は戦国の晩年に生まれ濁世の余流に長じ、 天下治乱の定まりなく国家存亡の速やかなる実況を観察して、大いに社会人事の変遷一日もやむことなきゆえんの理を発見したるは、その王霸篇に説くところを見て知るべし。 曰く   「一朝之日也一日之人也然而厭焉有千歳之固〔国〕何也」(一朝の日、一日の人にしてしかも厭焉として千歳の国を有するはなんぞや)その注に曰く「言事之易変人之寿促如此〔此〕何故有黶然深蔵千歳不変改之法乎」(言う、 事の変じやすく、 人の寿のすみやかなることかくのごとし、 これなんの故に、 黶然として深く蔵し、 千歳変改せざるの法あらんや)とあり。 しかりしこうして、 荀子自らこれに答えて曰く「援夫千歳之信法以持之也」(かの千歳の信法を援きて、 もってこれを持するなり)とあるは、 社会は変遷すといえども、  これを維持するの法は千歳変ぜずというの意なり。 これ、 荀子の進化の一斑を知りて全局を知らざるによる。 なんとなれば、社会変遷すれば、  その法もまた変ぜざるをえざればなり。

 荀子また、 社会の団合は競争より成るの理を知るもののごとし。 富国篇に曰く「欲悪同物欲多而物寡寡則必争矣」(欲するもの悪むもの、 物を同じくし、 欲は多くして物は寡なく、 寡なければすなわち必ず争う)とあり。これ、 マルサス氏およびダーウィン氏の、 人口と食物の平均し難きをもって、 競争をその間に生ぜざるをえざるの論に符合するに似たり。 しかして荀子曰く「能不能兼技人不能兼官」(能も技を兼ぬることあたわず、 人も官を兼ぬることあたわず)また曰く「同求而異道同欲而異知」(求めを同じくするも道を異にし、 欲を同じくするも知を異にする)とあるは、 人の能力に一定の限りあるをいうなり。 これ、社会を団合するには分業の制を設け、上下の序を分かたざるべからざるゆえんにして、 競争淘汰の結果ここに至るなり。 荀子またこれを論じて「人之生不〔能〕無群群而無分則争争則乱乱則窮矣」(人の生は群するなきことあたわず、 群して分なければすなわち争い、 争えばすなわち乱れ、 乱るればすなわち窮す)「離居不相待則窮群而無分則争」(離れおりて相い待たざればすなわち窮し、 群して分なければすなわち争う)「群道当則万物皆得其宜」(群道まさにすなわち万物みなそのよろしきを得)といえり。 その意、 人みな自然の勢い群居せざるべからず、 群居すれば分労協力の制を設けざるべからずというにあり。 社会進化の理、 けだしこれにほかならず。 別して荀子の王制篇に論ぜしところを見るに、「水火有気而無生草木有生而無知禽獣有知而無義人有気有生有知亦且有義故最為天下貴也力不若牛走不若馬〔而〕牛馬為用何也曰人能群彼不能群也人何以能群曰分分何以能行曰以義故義以分則和和則一一則多力多力則彊彊則勝物故宮室可得而居也故序四時裁万物兼利天下無亡故焉得之分義也故人生不能無群群而無分則争争則乱乱則離離則弱弱則不能勝物故宮室不可得而居也不可少頃舎礼義之謂也」(水火には気あるも生なく、 草木には生あるも知なく、 禽獣には知あるも義なし。  人には気あり生あり知ありてまたなお義あり、 ゆえに最も天下の貴たるなり。 力は牛にしかず、 走ることは馬にしかず、 しかるに牛馬の用をなすはなんぞや。 曰く、 人はよく群し、 彼は群することあたわざればなり。人はなにによりてよく群するや。 曰く、 分なり。 分はなにによりてよく行わるるや。 曰く、義なり。 ゆえに義もって分すればすなわち和し、和すればすなわち一、一なればすなわち力多く、 力多ければすなわち彊く、 彊ければすなわち物に勝つ。  ゆえに宮室にも得ておるべきなり。 ゆえに四時を序し、万物を裁して天下を兼利するは它の故なし。 これが分義を得ればなり。 ゆえに人は生まれれば群するなきことあたわず、 群して分なければすなわち争い、争えばすなわち乱れ、 乱るればすなわち離れ、 離るればすなわち弱く、弱ければすなわち物に勝つことあたわず。 ゆえに宮室にも得ておるべからざるなり。 少頃も礼義を舎つるべからざるの謂なり)というがごときは、 社会進化の原理を尽くせりというべし。 荀子また王霸篇中に分業の利あるゆえんを論じきたりて、「今以一人兼聴天下日有余而治不足者使人為之也」(今、一人をもって天下を兼ね聴きながら、 日に余りありて治の足らざるは、 人をしてこれをなさしむればなり)といえり。これを要するに、 荀子は人の禽獣に異なるは、 そのよく群居団結して協力分労するにあり、 しかしてその協力分労のよく物に勝つゆえんは、 そのよく和一団合して力を生ずること多く、 物に応ずること強ければなりというの意なり。スペンサー氏社会論といえども、 帰するところこの原理にほかならざるべし。  その他、 荀子の言うところ今日の定論に符合する諸点を挙ぐれば、 彊国篇に「人莫貴乎生莫楽乎安」(人には生より貴きはなく、 安より楽しきはない)とあるは、生存安寧の人生の目的たるゆえんをいうなり。 性悪篇に「人之性生而有好利焉順是故争奪生」(人の性は生まれながらにして利を好むことあり。  これに順う。 ゆえに争奪生ず)等とあるは、 人、 生存安寧を利せんと欲して競争を生ずるの理をいうなり。 富国篇に「彊脅弱也知懼愚也」( 彊は弱を脅かし、知は愚を懼す)とあり、  王制篇に「善択者制人不善択者人制之善択之者王不善択者亡夫王者之与亡者制人之与人制之也」(善く択ぶ者は人を制し、 善く択ばざる者は人より制せられ、 善くこれを択ぶ者は王たり、 善く択ばざる者は亡ぶ。それ王者と亡者と、 人を制すると人より制せらるると)とあるは、優勝劣敗あるいは適種生存の意を含有せり。儒効篇に「習俗移志安久移質」(習俗は志を移し、 安久は質を移す)とあり、勧学篇に「君子〔居〕必択郷遊必就士」(君子の居るには必ず郷を択び、遊ぶには必ず士に就く)とあるは、 進化論中の外物順応の理を知るもののごとし。 また『荀子』正名篇において心理上名実の関係を論ぜしは、 荀子一家の心理学というべし。

 前条言うところよりこれをみれば、 荀子は人の一社会を組成するには群居結合せざるべからざるの理を知り、かつ協力分労の制、 君臣上下の別、 設けざるべからざるの理を知るや明らかなり。  これ、 荀子の礼をもって道の大本としたるゆえんなり。  すなわち礼論篇にその論ずるところを見るに、「人生而有欲欲而不得則不能無求求而無度量分界則不能不争争則乱乱則窮先王悪其乱也故制礼義以分之以養人之欲給人之求使欲必不窮乎物物必不屈於欲両者相持而長是礼之所起也」(人は生まれながらにして欲あり。 欲して得ざればすなわち求めなきことあたわず。 求めて度量分界なければすなわち争わざることあたわず。 争えばすなわち乱れ、 乱るればすなわち窮す。 先王はその乱を悪みしなり。  ゆえに礼義を制めてもってこれを分かち、 もって人の欲を養い、 人の求めを給し、 欲をして必ず物に窮せず、 物をして必ず欲に屈さず、 両者相持して長ぜしむ。  これ礼の起こるところなり)とあるは、 礼を設くるの目的、 乱を定め窮を救うにあるをいうなり。 しからば荀子のいわゆる礼なるもの、 坐作進退の風儀をいうにあらず、 社会の秩序、 自他の分限、  上下の関係等を合称していうなり。 ゆえに、 本書には「礼者法之大分群類之綱紀也」(礼は法の大分、 群類の綱紀なり)「礼者貴賤有等長幼有差貧富軽重皆有称者也」(礼なるものは貴賤等あり、 長幼差あり、 貧富、 軽重みな称あるものなり)「礼者断長続短損有余益不足〔達〕愛敬之文而滋成行義之美者也」(礼なるものは長を断ちて短を続ぎ、 有余を損して不足を益し、 愛敬の文を達して滋々行義の美を成すものなり)「礼者節之準也」(礼なるものは節の準なり)「礼者養也」(礼なるものは養なり)等とありて、 礼の字に数様の定義を下せり。 しかして荀子は、 社会百般の事、 礼をもって論ぜざるはなし。 一はこれをもって心を養うの術となす。 ゆえに、脩身篇に「治気養心之術莫径由礼」(気を治め心を養うの術は、 礼によるより径かなるはなし)とあり、 あるいはこれをもって脩身の道となす。  ゆえに、また脩身篇に「礼者所以正身也」(礼なるものは身を正すゆえんなり)とあり。 あるいはこれをもって治国の法となす。  ゆえに、 王制篇に「礼義者治之始也」(礼義は治のはじめなり)また同篇に「脩礼者王」(脩礼は王なり)富国篇に「兼足天下之道在明分」(天下を兼ね足らしむるの道は分を明らかにするにあり)とあり、  社会のよく群居団合するも、 また礼分にありとす。  ゆえに、 栄辱篇に「是夫群居和一之道也」(これかの群居和一するの道なり)とあり。  これによりてこれをみれば、 政治も道徳も宗教も、 荀子はみな礼の一法をもっ てこれを論じ、 孔孟と同じくその別を立てざるなり。  かつ『荀子』の君道篇を見るに「請問為国曰聞脩身未嘗聞為国〔也〕」(国を為めんことを請い問う。 曰く、身を脩むることを聞くもいまだかつて国を為むることを聞かざるなり)とあるは、 為国の本は脩身にあるの意にして、 毫も孔孟の論ずるところに異ならず。  しかして儒効篇を見るに、「不聞不若聞之聞之不若見之見之不若知之知之不若行之学至於行之而止矣」(聞かざることは聞くことにしかず。 聞くことは見ることにしかず。 見ることは知ることにしかず。 知ることは行うことにしかず。 学は行うに至りて止む)とあるは実行を主とするの論にして、 これまた孔孟とその意を同じくす。  ただその異なるは、  一は仁義を本とし一は礼を本とするにあれども、かくのごときは時勢の同じからざるに出でて、 またやむをえざるなり。

 かく礼法節度をもって社会を維持するには、その本源中枢となるものなくんばあるべからず。 ゆえに、 荀子は君主をもってその中枢となす。 今、 荀子の君主に与うるの義解を見るに、「人君者所以管分之枢要〔也〕」(人君なる者は分を管るゆえんの枢要なり)「主者民之唱也上者下之儀也」(主なる者は民の唱なり、 上なる者は下の儀なり)「人主者天下之利勢也」(人主は天下の利勢なり)「君者国之隆也」(君なる者は国の隆なり)「君者民之原也」(君なる者は民の原なり)等とありて、 君主をもって国家の中枢とし礼法の本源と定む。 その論、  ホッブズ氏のいうところに似たり。  しかしてまた荀子の意、 君民の別を明らかにし、 礼法の制をくわしくして、 もって是非曲直を判然たらしめ、 賞罰を公平ならしめんとするにあり。 王霸篇に「人主胡不広焉無卹親疏無偏貴賤唯誠能之求」(人主なんぞ広焉として親疏を卹みることなく貴賤に偏することなくただ誠能を求めざる)とあり、 また「有不理者如豪末則雖孤独鰊寡必不加焉」(不理なる者豪末のごときあれば、 すなわち孤独鰈寡といえども、必ずこれを加えず)とあるは、 正理を本として毫も私すべからざるを戒むるなり。 正論篇に「治則刑重乱則刑軽」(治にはすなわち刑重く、 乱にはすなわち刑軽し)とあるは、 国を治むるには軽く刑罰を用いるべからざるゆえんをいうなり。

 しかれども余をもってこれをみれば、荀子の説くところ、 礼分の一偏に局するの弊なきにあらず。脩身篇に曰く「国家無礼則不寧」(国家も礼なければすなわち寧からず)議兵篇に曰く「礼者治弁之極也強国之本也威行之道也功名之総也」(礼なるものは治弁の極なり。 強国の本なり。 威行の道なり。 功名の総なり)脩身篇に曰く「由礼則治通不由礼則勃乱提慢」(礼によらばすなわち治通し、 礼によらざればすなわち勃乱提慢す)とあるは、その意、 身を脩め家をととのえ、 国を治め天下を平らにするの法礼よりほかなしというにあり。 しかして世間、礼のほかに天下国家を維持するの良法あるを知らざるは、 礼に偏するの僻論というべし。  それ、 礼法節度は社会の秩序を保持するに欠くべからざるものなりといえども、  これに偏すれば社会の開進を妨害するの害ある、  また勢いの免るべからざるところなり。 余かつて社会学を研究し、 はじめて社会の一個の有機体なるゆえんを知る。今、 有機体の発育を験するに、 その成長するも衰殺するも、 遺伝と順応との二力の交互作用するありて、 平称点をその間に維持せんとするによる。  社会の進化するもまたしかり。 秩序を重んずると改進を主とするとの二主義の互いに相作用するありて、 はじめてその権衡を保持することを得るなり。 しかるに、 もしその一主義に偏倚するときは、  社会その平均力を失い、 多少その進化上に害を与うるは必然の勢いなり。 荀子の政法のごときは秩序を重んずるの一方に偏するをもって、 今日の社会学よりこれを考うるに、  その論決して正当を得たるものと称すべからず。 しかりといえども、 荀子の政論にこの弊ある、 またその理なきにあらず。 なんとなれば、 荀子の時たるや戦国の末、 乱世の極に当たり、  上下その序を失い天下紛然たるをもって、 これを救うの術、 礼法を興し秩序を立つるよりほかなければなり。

 かく論じきたりてこれを考うれば、 荀子の言うところ一得一失、 長ずるところあり短なるところありといえども、 余案ずるに、  その論の一局に偏するに至るは、 時世の勢いやむをえざるに出でて、 全く荀子の罪にあらざるなり。  その人の性全く悪なりというも、 賢愚みな同一の性を有すというも、  治乱は人にありて天にあらずというも、  治国の法は礼義よりほかなしというも、  みな時弊を救わんとするの術策なるや明らかなり。  当時天下の勢い、  上下ことごとく功利を争い権勢を競い攻戦を事として、 礼譲仁義のごときは人みな富国彊兵の要道にあらずと思えり。  この際にありて仁義礼譲を唱え勧学脩身を興さんとするには、 その論、 自然の勢い一偏に走らざるをえざるなり。 余、 本書中荀子の論ずるところを見て、 ただちに当時の勢い戦国乱世の極点に達したるを知り、 また荀子のもっぱら礼譲を説きたるは、 その意この弊を救わんとするにありしを知る。 その時を救わんとするの本心にいたりては、 あに感嘆にたうべけんや。 そもそも荀子は孔子におくるること数百歳、 時勢の同じからざるは言をまたず。 時勢同じからざればその弊を救うの術また同じからざる、 もとよりそのところなり。 孟子と荀子はわずかにその前後を異にするに過ぎずといえども、 時勢また多少の差異なくんばあるべからず。 その説くところ両者おのおの異なるところあるも、 またやむをえざるなり。 荀子を読むもの、 これこれを察せずして、 みだりにその説を非議することをえんや。 しかるに世の学者、 荀子の書中、一、二言の孔孟に同じからざるところあるを見て、  これを聖人の道にあらずといい、 これを異端の学なりと称し、 さらにその書のなんたるを研究せざるは、またすでに過甚なり。 荀子の書これを論孟に比すれば、 たとい数等を譲り難破すべき点またしたがいて多きも、そのうちまた一代の活眼卓見と称すべきところあり。 その点、 今日に至りてこれを考うれば、 極めて不完全なるはもちろんなりといえども、 荀子以後の学者およそ二千年の久しき、 その真理を研究して増補修飾するところあらば、 定めて今日西洋に譲らざる好結果を得たるなるべし。 しかるに、 その真理をしてわずかに萌芽を生ぜしにとどまりて、 永く発達進長せざらしめたるは、 遺憾もまたはなはだし。 後の学に志すもの、 鑑せざるべけんや。

  出典『学芸志林』一五ー 八五(明治一七年八月)

 


   哲学の必要を論じて本会の沿革に及ぶ


 月界に立ちて地球の全面を一瞰するに、その三分の二以上は海洋、 江湖等の水体にして、 陸地はわずかにその三分の一に過ぎざるを見るべし。 しかれども、これただ表面の観のみ。 もし、 その水底に入りてこれを験すれば、  すべてこれ陸地なるを知るべし。 果たしてしからば、 海洋、 江湖の根拠となりて、 これをしてその区域を保ち、  これをしてその位置に安んぜしむるものは陸地なり。 今、 学問世界もまた、 これに類するあり。 人もし、 世俗社会にありて学界の全面を望観すれば、 哲学はその一小部分を占有するに過ぎずして、 その大部分は理学、工学、 文学、 史学、 法学、 政学等の諸学科より成るを見る。 しかれども、これまた表面の浅見のみ。 もし、 その深底に入りてこれを験すれば、 理、 文、 政等の諸学の根拠となりて、 これをしてその区域を保ち、 これをしてその位置に安んぜしむるものは哲学なり。 哲学の関係、 実に大なりというべし。

 それ哲学は通常、 理論と実用との二科に分かつも、 要するに理論の学にして、 思想の法則、 事物の原理を究明する学なり。  ゆえに、思想の及ぶところ事物の存するところ、一として哲学の関せざるはなし。 政法の原理を論ずるもの政法哲学あり、 社会の原理を論ずるもの社会哲学あり、 道徳の原理を論ずるもの倫理哲学あり、 美術の原理を論ずるもの審美哲学あり、 宗教の原理を論ずるもの宗教哲学あり、 論理の法則を定むるもの論理哲学あり、 心理の法則を定むるもの心理哲学あり、 歴史には歴史の哲学あり、 文学には文学の哲学あり、 教育学も哲学の理論により、 百科の理学も哲学の規則に基づく。 ゆえに、 余まさに言わんとす、 哲理ようやく明らかにして、はじめて諸学の進歩を見るべしと。 哲学の必要推して知るべし。 しかりしこうして、 今日の哲学は古代の哲学と大いにその性質を異にして、  一理一論必ず種々の事実に考えて証立せざるべからず。 そのこれを証立するは、 百科の理学をまたざるべからず。  ゆえにまた、 あるいはいわん、 理学いよいよ明らかにして、 はじめて哲学の進歩を見るべしと。 しかれども、  理学はその目的とするところ、 事物の一部分を実験するにありて、 その全体を論究するにあらず。  かつその力、 事々物々・宇宙・天神・心霊のいかんにいたるまで、  ことごとく究明することあたわざるは必然なり。  これ、 その学の哲学をまたざるべからざるゆえんにして、 古来哲学の義解を下して、 あるいは理学の諸規則を統合する学なりといい、 あるいは理学の原理原則を論定する学なりというゆえんなり。 しかしてまた、 哲学中にもその原理の原理、 その原則の原則を論究する一学科あり、  これを純正哲学と称す。

 余、  かつて学問世界の諸科を政府の組織に比して、 百科の理学は地方政府なり、 哲学は中央政府なり、 哲学中の諸科は中央政府中の諸省なり、 純正哲学は中央政府中の内閣なりと定めたることあり。  この比較は、 もとよりよくその意を尽くすものにあらずといえども、 また全くその関係なきにあらず。 純正哲学において論定せるものは、 倫理、 論理、 その他の諸哲学の原理原則となり、 哲学諸科の論定せるものは、  理学、 法学、 その他の諸学科の原理原則となりて、 学問世界の中央政府はすなわち哲学なり。 今、 地方の人民中その最も無学無知なるものにいたりては、 ほとんど全く地方政府のその上に存するを知らざるものあり、 わずかに地方政府の存するを知るも、 中央政府のその上に存するを知らざるものあり。 しかして、 自らその日夜独立生存することを得るは、  ひとり自身の力によるものにして、毫も政府の力をまつにあらずと信ず。 世人の哲学をみる、 あたかもこれに異ならず。  その最も学識なきものにいたりては、 さらに理学、 法学の世間を益するを知らず、 わずかにその益を知るも、 哲学の社会を利するを知らず。 しかして自らいう、 世の文明はひとり国力を養成し兵力を拡張するにあり、しからざれば、 ひとり政治、 法律を講ずるにありと。 これ世間一般に唱うるところにして、 いまだ一人の哲学は諸学諸芸の中央政府にして国家に実益あるゆえんを知るものを見ず。 余輩、 あに慨嘆せざるをえんや。

 そもそもわが国の文明を進むるは、 政治、 法律のひとりよくするところにあらず、  理学、 工芸のひとりよくするところにあらず、 その諸学の政府となり、 その諸芸の根拠となりて、 よくこれを統轄し、 よくこれをしてその区域を保ち、 その位置に安んぜしむるの学を講究するを要するなり。 請う、 試みに欧州文明のよりて起こるゆえんを見るべし。 その文明の国力とともに近世に盛んなりしは、 ただ政治、 法律、  理学、 工芸の進歩によるにあらず、 その原理原則を論究する哲学の振起せしによるや、 余が弁をまたずして明らかなり。  すでに今日にありては、 その地の学者互いに相競って哲理を講究し、 その得るところこれを世間に応用して、 その文明を進めその社会を益する、 実に計るべからざるものあり。 ああ、 また盛んなりというべし。 顧みてわが国の事情を察するに、ただにこれを講究する人なきのみならず、 ほとんどその学の何たるを知るものなく、 たまたまその何たるを知るものあるも、いたずらにこれを目して世間無益の学なりと称し、 またこれを顧みざるもの多し。 それかくのごとし、いずくんぞよく国家の文明を振起するを得んや。  ことにわが東洋にありては、 西洋人のいまだ研究せざる従来固有の哲学ありて、 その中にまた、  おのずから一種の新見ありて存するを見る。 もし、 今日これをわが国に研究して西洋の哲学に比較対照し、 他日その二者の長ずるところを取りて一派の新哲学を組成するにいたらば、  ひとり余輩の栄誉のみならず、 日本全国の栄誉なり。  学者、 あに猶予因循これを弗講におくべけんや。

 余、つとにここに見るところありて、 さきに井上哲次郎、 有賀長雄、 三宅雄二郎、 棚橋一郎等の諸氏にはかり、ついで加藤弘之、 西周、 西村茂樹、 外山正一等の諸先生にはかりて、 哲学講究の一会を開設せんことを計画せしに、 幸いに有志の賛成を得て、 はじめて哲学会を創立するに至れり。  けだし、 東洋に哲学研究会ある、これを濫腸とす。 その将来、 わが国の文明を進め富強を助くるの益ある、 すでに当時にありて、 あらかじめこれをトすることを得たり。 あに賀すべきことならずや。

 今、  その創立以来の記事を略叙するに、 明治十七年一月二十六日、 有志数十名学習院内に相会し、 本会創立のことを議し、 規則八条を設く。 これを本会創立第一会とす。 当日入会の承諾を得たるもの、 加藤弘之、 西周、 中村正直、 西村茂樹、 外山正一、 原坦山、 島地黙雷、 北畠道龍諸氏以下、 総じて二十九名なり。 翌二月、 第二会を東京大学内に開き、 島地黙雷氏、 法の説、 井上哲次郎氏、 シナ哲学概論を演説せり。 第三会には、 外山正一氏、スペンサー氏不可知的を論ず、 原坦山氏、 インド哲学と諸学の径庭ある説の演説あり。 第四会には、 神原精二氏、 依正二報の演説あり。 第五会には、 嘉納治五郎氏、 意を論ず、 長瀬時衡氏、 身体の強弱人寿の長短を論ずの演説あり。 第六会には、 三宅雄二郎氏、 ヤソを論ず、 吉谷覚寿氏、 諸法の原理の演説あり。 第七会には、 寺田福寿氏、 仏教と理学との関係の演説あり。 第八会には、 加藤弘之氏、 男の女を圧するの要、 小崎弘道氏、 キリスト教を信ずるの理由、 佐々木東洋氏、 仏教に信を起こせしゆえんの演説あり。 第九会には、 小崎・佐々木両氏、 前会の続きを演説せり。 第十会には、 原坦山氏、 仏教の実帰。 第十一会には、 中村正直氏、 われは造物主あることを信ず。 第十二会には、 南条文雄氏、  インド哲学中数論の綱領の演説あり。 第十三会には、 棚橋一郎氏、 信と理との弁、 高橋五郎氏、 仏教哲学一斑の演説あり。 第十四会には、 余、 偶然論を演説せり。 第十五会には、 吉谷覚寿氏、 仏教についての疑問に答うの演説あり。 第十六会には、 余、 第十四会の続きを演説し、 原坦山氏、  学教の異同および仏教諸教の異同を演説せり。 第十七会には、 島田重礼氏、 東洋哲学の概略、 有賀長雄氏、 孔門哲学或考。 第十八会には、 寺田福寿氏、 真宗大意の演説あり。 第十九会には、 有賀氏、 第十七会の続きを演説し、 第二十会には、 原坦山氏、 仏教につきての疑問に答う、 外山正一氏、 読心術の演説あり。 第二十一会には、 小崎弘道氏、  スピリチュアリズムならびにメスメリズム。 第二十二会には、 加藤弘之氏、  社会の外に道徳なし、 清野勉氏、 心理学上の一説。 第二十三会には、 島地黙雷氏、 因縁の種類。 第二十四会には、 西村茂樹氏、 洛日克と因明との異同の演説あり。 第二十五会には、 高島嘉右衛門氏、 神人感通の理由の演説あり。 当日衆議の上、 従来の規則を改正増補して十章十八条となし、 会長、 副会長を置くことに決し、 加藤弘之氏を会長に、 外山正一氏を副会長に選定せり。  ついで本会雑誌発行の議起こり、 臨時会を開きてその件を議定す。 時に明治十九年十二月十八日なり。  翌二十年一月二十日、 第二十六会を開き、 嘉納治五郎氏、 功利教の演説あり。

 以上は本会創立より雑誌発行までの小記事にして、 その年歴三年に余り、 その会数二十六回にわたり、 会員七十名の多きに及べり。 しかして今二月に至り、 規則ようやく整頓して雑誌発行の挙あるを見るは、 実に本会の隆運を徴するに足る。  これよりしてのち世人をして、 哲学は学問世界の中央政府にして、 諸学諸芸の根拠なるゆえん、 ならびにこれを講究するの必要と、 そのよく文明を進め国益を助くるゆえんを知らしむべしと信ず。  これ、余がここに雑誌の発行を喜びて、 本会創立以来の沿革を略叙するの小労をいとわざるゆえんなり。

   出典『哲学会雑誌』第一冊第一号 四―九頁、第二号 四一―四四頁(明治二〇年二月五日、三月五日) 



   

   哲学館開設の旨趣


 世運の開明に進躋するゆえんのもの、 もとより内外百般の事情によるというといえども、 主として知力の発達による。 知力の発達するゆえんのもの、 教育の方法によるというといえども、 主として学問の種類による。 今もし子弟を教育するに、 下等の学問をもってすれば下等の知力を発達し、 高等の学問をもってすれば高等の知力を発達すべきは、  理のもとよりしかるところなり。 しかして諸種の学問中、 最もその高等に位するものはすなわちこれ哲学にして、 よくこれを研修するにあらずんば、 もって高等の知力を発達し、 高等の開明に進向するあたわず。  これまた当然の理なりとす。 哲学の必要たる、ここにおいか知るべきなり。 それ哲学は百般事物につきて、その原理を探りその原則を定むるの学問にして、  上は政治法律より下はもって百科の理学工芸におよび、  みなその原理原則を斯学に資取せざるはなし。  すなわち、 哲学は学問世界の中央政府にして万学を統轄するの学と称するも、 決して過褒の言にあらざるなり。 しかるに当今、 哲学を専修するを得るはひとり帝国大学に限り、 世間またこれを教うるの学校あるを聞かず。 近歳訳述の書ようやく世に出ずるといえども、  これによりて原文の真意を了解せんこと、 またすこぶる難し。 故をもって、 晩学にして速成を求むる者、 貧困にして資力に乏しき者、 洋語に通ぜずして原書を解せざる者等にいたりては、 いまだかつてこの高尚なる哲学の一斑だもうかがい知るあたわずして、 まさにむなしくその知力を自暴自棄せんとす。  これ実に昭代の一大欠点にして、 真正学事に志ある者の深く慨するところなり。 余ここにおいて、 頃日専門の諸学士とはかり、 哲学専修の一館を創立し、 これを哲学館と称し、 もって世の大学の課程を経過するの余資なき者、 ならびに原書に通ずるの優暇なき者のために、 哲学速歩の楷梯を設け、  一年ないし三年にして論理学、 心理学、 倫理学、 審美学、  社会学、 宗教学、 教育学、 政理および法理学、 純正哲学、 東洋諸学、  およびこれらと直接の関係を有する諸科を研修するの捷径便路を開かんとす。おもうにその異日に企望するゆえんのもの、 果たしてよく成功に至らば、 社会に益し国家を利し、 またいずくんぞその世運開進の一大補助とならざるを知らんや。  ここに本館開設の旨趣をのべ、 もって学修者の陸続として至るをまつという。

 明治二十年六月                                                 設立者 井    上    円    了

 出典『教学論集』四五(明治二〇年九月五日)