1.南船北馬集 

第四編

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南船北馬集 第四編

 

1.冊数 1冊

2.サイズ(タテ×ヨコ)188×127㎜

3.ページ

 総数:104

 本文:104

(巻頭)

4.刊行年月日

 底本:初版 明治43年1月30日

5.発行所

 修身教会拡張事務所

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愛媛県紀行第一

 明治四十二年一月二十九日夕、東京を発して神戸に向かう。車中、雑踏を極む。たまたま嘉納治五郎氏と相会す。京阪地方降雪、深さ尺余に及ぶ。近年稀有の大雪なりという。三十日午時、神戸〈現在兵庫県神戸市〉三之宮駅に着し、伊藤長次郎氏(貴族院議員)の控邸に入りて宿す。寒気はなはだし。主人不在なるも、令弟長蔵氏代わりて接待の労をとらる。当夜、兵庫尋常高等小学校に至りて講話をなす。兵庫教育協会の依頼に応ずるなり。池永通氏、藤沢道夫氏等、その主幹たり。

 三十一日(日曜) 晴れ。午前、伊藤氏宅において高等商業学校内仏教青年会のために座談をなす。午後、更に善照寺において公開演説をなす。聴衆、堂に満つ。東洋大学同窓会の主催なり。当夕、改良亭において同窓諸氏と会食す。会するもの左の諸氏なり。

竜野元四、二階堂正信、潮田玄丞、松本雪城、青樹了栄、伊賀駒吉郎、西垣尭則、岡田英定、佐々木祐玄、松井亀蔵、野崎行満、今井豊稚、間人一郎、沖田虎一、横尾照之。

 竜野氏は旧哲学館講師なり。しかして岡田、佐々木両氏、もっぱら幹事の任に当たられたり。

 二月一日 晴れ。午前、播州明石町〈現在兵庫県明石市〉西林寺に移る。二階堂正信氏これに住す。随行は横尾照之氏なり。昼夜二回、朝顔光明寺において開演す。仏教各宗の発起なり。二階堂氏および朝顔助超氏、ともに尽力あり。

 二日 晴れ。明石郡垂水村〈現在兵庫県神戸市垂水区〉小学校に至りて開演す。教育義会の主催にして、村長安井保太郎氏その会長たり。当夕、更に明石町第二尋常小学校において開演す。

 三日 雨。昼間は平野村〈現在兵庫県神戸市西区〉宝珠寺に至りて開会す。主催は住職岡本徳仙氏等なり。夜間は明石町第三小学校において演述す。明石町開会は明石教育会の主催にして、郡長三輪信一郎氏の発意に出ず。郡内開会中は西林寺に止宿し、二階堂氏の歓待をかたじけのうす。楼上の風光、旧によりて明媚なり。望中、一絶を得たり。

  明々明石海、淡々淡州山、対此海山酌、風光照酔顔、

(あかるくかがやくような明石の海に、すっきりした姿を見せている淡路島の山波。この海と山にたいして酒を酌めば、風光の美はわが酔顔をてらすのであった。)

 四日 晴れ。風つよく寒ひどし。加古郡視学正司梅吉氏とともに加古川町〈現在兵庫県加古川市〉に移り、公会堂において開演す。堂新たにしてかつひろく、千人以上をいるるべし。主催は郡教育会および別府天声社なり。郡長山田知秀氏に面会す。また、大内青巒居士と晩餐をともにす。夜に入り、月をいただき霜を踏みて乗車し、急行伊予に向かう。

 五日 晴れ。朝七時半ごろ広島に着す。途上所見一首あり。

  坦々山陽路、鉄車終夕奔、暁天雲断処、遥認予州村、

(平らな地の続く山陽の道を、汽車は夜もすがら疾走する。あかつきの空に雲のとぎれるあたりにこそ、はるかに伊予愛媛の村をみとめたのであった。)

 これより宇品駅に転じ、更に汽船に駕して愛媛県高浜港に着す。県視学露口悦次郎氏、市役所書記内藤丈太郎氏、僧侶加藤法梁氏、校長清水則備氏等の出迎えあり。午後一時、松山市〈現在愛媛県松山市〉城戸屋に入宿し、当日、勧善社において開演す。

 六日 晴れ。午前、午後ともに、公会堂において講話をなす。聴衆は各学校生徒なり。中学校長広田一乗氏(旧知)、師範校長伊野宮茂氏、高等女学校長渡部朋綱氏等と相会す。哲学館出身者丹生屋隆道、吉川昌堂、加藤三雄、陸軍少佐山田元吉、有志家藤岡勘左衛門等諸氏の来訪あり。

 七日(日曜) 晴れ。寒威凜烈。午前、公会堂にて開演す。市長長井政光氏、紹介の労をとらる。当地開会は主として松山教育協会および各宗共立会の発起に出ず。知事安藤謙介氏を訪うに不在なり。事務官竹井貞太郎氏を問うに病臥中なり。松山客中所見一首あり。

  鬱々林丘鎖一辺、楼台巍立欲衝天、予州風月人知否、集在金亀城下阡、

(こんもりしげる林と丘が一方にたちふさがり、楼閣はそそり立って天をもつかんばかりに高い。伊予の国の風月について人々は知っているのであろうか。風月の美はすべて金亀城下の道に集まっているのである。)

 松山の名物はカブラにして、その色朱よりも赤し。けだし全国無類なり。

 八日 晴れ。暁天、霜気をおかして旅館を発し、車行三里にして三坂嶺下に至る。これより草鞋をうがちて険路を攀じ、行くこと二里ばかりにして嶺頭に達す。上浮穴郡視学三好善太郎氏とともに、車を連ねて久万町〈現在愛媛県上浮穴郡久万町〉に入る。ときまさに一時なり。会場は法然寺にして、旅館は橋長なり。四山白雪を冠し、潦水氷を結ぶ。ところどころ氷柱かかりて数十尺に及ぶあり、すこぶる奇観を呈す。三坂嶺頭の風光と久万山中の車道とは、これまた予想の外に出ず。

  久万山中駅路平、腕車如矢截風行、巌頭怪見玲瓏色、氷柱懸成白玉城、

(久万の山中の道は意外にも平坦で、人力車は矢のように風をきって行く。岩場の上にあやしく玉のように光るものが見えたが、それは氷の柱が白玉の城をつくり上げているのであった。)

 郡長松田虎次郎氏、町長船田源松氏等、大いに尽力あり。

 九日 晴れ。轎に駕して小嶺をこえ、川瀬村〈現在愛媛県上浮穴郡久万町〉に至り畑野川小学校において開演す。坂路雪を踏む。山々みな白し。

  風雪夜来侵翠屏、四山皆白一渓青、寒禽不語仙源寂、唯有水声随処聴、

(風と雪が昨夜からしきりに青い山波をおおい、川瀬村をとりかこむ山々はすべて白く、一本の谷川のみが青味をおびて流れている。寒さにこごえる小鳥もさえずることなく、この仙人の住むような地はさびしく、ただ流水の音がところどころで聞かれるのみである。)

 川瀬村長は稲田五郎氏なり。当夕、久万町に帰宿す。

 十日 快晴。早朝、車を駆り、渓行五、六里にして柳谷村〈現在愛媛県上浮穴郡柳谷村〉に至る。途上の所見、詩中に入るる。

  満山霜雪暁如銀、峡路蛇行屈又伸、磵底纔留松竹色、青々自作武陵春、

(山はすべて霜と雪におおわれて、早朝の光に銀色に輝き、谷あいの道は蛇のごとくまがりくねって行く。谷ぞこにわずかに松と竹が残されて、青々とした色はおのずから武陵桃源境の春をおもわせるのである。)

 柳谷は大野ケ原の山麓にして、土佐の国境に接続す。山すこぶる嶮峻、渓また狭隘、ただわずかに車路を通ずるの余地を存するのみ。人家は山腹に点在するも、隣家の来往、なお峻坂を上下せざるを得ず。実に仙洞の趣あり。その地、米穀を産せず、トウモロコシを常食とするは、日向高千穂地方に同じ。午後、小学校において開演す。村長は大窪伝次氏なり。

 十一日(紀元節) 雪。弘形村〈現在愛媛県上浮穴郡美川村〉に移りて開演す。その地、柳谷と久万との中間にあり。会場は小学校なり。この日は紀元節に当たれるをもって、戊申証書拝読の拙作三首を掲げ、その意を敷衍して講述す。

  人文日就月将時、聖徳如天豈有涯、拝詔臣民何以答、只当淬砺護皇基、

(文化は日々に成就し月々に進歩するときにあたり、天子の仁徳は天のごとく大きくかぎりない。この詔書を拝受して、いったい臣下たる民はなにをもってお答えすべきであろうか。ただただ修養に努めて、皇国の基礎をまもるばかりである。)

  大詔何人不服膺、万邦今日悉同朋、此身幸浴文明沢、又仰祖宗遺訓灯、

(戊申詔書はなにびともよく心に刻んで忘れないであろう。すべての国は今日においてはみな同朋である。この身は幸いにして文明の恩沢を受け、いまここに代々の君主によって残されたおしえをともしびと仰ぐのである。)

  聖言雖短意深長、恪守輸誠請自彊、戦後経営日猶浅、百般庶政要更張、

(天子のお言葉は短いが、その意味はまことに深く、つつしんで守り、まごころをささげて、自分の身心をつとめはげまさんと願う。日露戦が終結して、国家経営の日はなお浅く、さまざま多様なまつりごとを改めてさかんにせねばならぬと思う。)

 村長は藤田信三郎氏なり。当夕、夜陰をおかし風雪をつきて久万町客舎に帰る。寒威肌に徹し、四肢まさに凍らんとす。

  講罷遥尋駅舎帰、予山日落夜陰囲、凍風醸霰大於豆、粒々衝車撲客衣、

(講演を終わって、はるかな道のりを旅館をさがすようにして帰った。伊予の山に日が沈めば、夜のやみがとりかこむ。いてつく風は霰をもよおして豆粒よりも大きく、ばらばらと車をうち、旅人の衣をうつのであった。)

 十二日 風雪。早暁、軽輿に駕し、四人これをかつぎ、峻坂を攀じ、深雪をうがち、山行五里、午後二時、小田町村〈現在愛媛県上浮穴郡小田町〉に着す。途上の所見、左のごとし。

  朔風吹雪暁紛々、山影糢糊望不分、下嶺漸知流水近、潺湲声破白烟聞、

(北風がふき吹雪があかつきに紛々と舞い、山の姿もぼんやりとして、望み見るもはっきりとしない。峰を下ってようやく流れに近づけば、さらさらと流れる水音が白くけぶりたつ吹雪のなかから聞こえてきたのである。)

 小田町会場は寺村清盛寺にして、宿所は島田愛衛氏宅なり。発起は村長高井直武氏、住職中本大棟氏、校長河野鹿造氏、および隣村の連合より成る。その地、四面連山をめぐらし、山また山、渓また渓の間に偏在す。聴衆は近郷四、五里の距離より、遠く白雲を破り、積雪を踏みて来集すという。郡内各所の開会に関し、松田郡長の配意一方ならず、三好郡視学および郡吏二名をして随伴せしめられたるは、大いに謝するところなり。

 十三日 晴れ。内子町長佐伯敬二郎氏とともに一条の渓流に沿い、上浮穴郡を去りて喜多郡に入る。轎行里許にして雪ようやく減じ、山ようやく青く、野梅の笑みを含むありて、やや春暖を覚ゆ。

  渓山一色白無涯、荷轎人穿積雪之、路入喜多青始見、松間又認早梅枝、

(谷も山も白雪一色におおわれてはてなく、かごをになう人々は深い雪をうがつようにして行く。道は喜多郡に入ってようやく青味をおびた山が見え、松の木々の間に早くも梅枝の花を見たのであった。)

 内子〔町〕〈現在愛媛県喜多郡内子町〉会場は小学校にして、宿所は大森旅館なり。発起は佐伯町長の外に林正道、河野智清、中野雅夫等の諸氏とす。

 十四日(日曜) 晴れ。臨時〔に〕五城村〈現在愛媛県喜多郡内子町〉高昌寺において講話をなす。住職浅野祖田氏、村長奥村助二郎氏のもとめに応ずるなり。これより新谷村〈現在愛媛県大洲市〉に至るの間は道路平坦にして、腕車を通ず。有志の歓迎あり。新谷会場は小学校にして、宿所は旅館なり。発起は松尾太綾氏(善安寺住職)、香渡真認氏(哲学館館友)、大野虎三郎氏(助役)、河内宇十郎氏(銀行頭取)、佐枝政衛氏(校長)等の有志とす。当地に日曜学校あり。松尾氏の経営するところにして、勅語の聖旨を普及するを目的とす。その生徒、整列してわが行を迎えり。

 十五日 晴れ。車上、路傍の梅花に応接しつつ大洲町〈現在愛媛県大洲市〉に至る。肱川を渡りて旅館油屋に入る。午前、中学校、午後、小学校において開演す。主催は喜多郡教育部会、大洲地方仏教会にして、郡長植田延太郎氏、郡視学藤崎清三郎氏、中学校長村越銃之輔氏、高等女学校長長井音次郎氏、大洲町長松原綱倫氏、大洲村長井林純一郎氏、小学校長小森経夫氏、大禅寺住職河野玄要氏、法華寺住職谷口活宗氏等、みな尽力あり。

 十六日 晴れ。朝、旧哲学館出身者谷口活宗氏、江眠竜氏、久保竜海氏とともに撮影す。県属足達儀国氏、松山より来訪あり。午前、小学校において、夜分、公会堂において開会す。公会堂の聴衆、その数約二千人と称す。希有の盛会なり。その主催は前日のごとし。当地は近江聖人中江藤樹翁の事蹟ありしをもって、藤樹会を組織せられ、銅像を鋳造し、これを仮に中学校に安置す。拝像の詩、左のごとし。

  江西儒日有余明、三百年来照大瀛、豈料予山雲冷処、読書堂裏拝先生、

(近江聖人中江藤樹翁の学はなお恩沢あり、三百年も長きにわたって大海を照らしてきた。思いもよらず、伊予の山と雲の冷たいところ、中学校で先生の像を拝したのであった。)

 また、大洲客中の作二首あり。

  大洲城下路、一望四山青、藤樹先生跡、徳風今尚馨、

(大洲城下の道にたたずみ、一望すれば四面の山々が青い。藤樹先生の事跡と、その感化影響はいまもなおかおり高く残っている。)

  山立直如法、水奔曲似肱、油楼高処望、烟景晩来凝、

(山の立つこと如法のごとくすなおに、水のほとばしること曲がるには肱のように、旅館油屋の楼上より一望すれば、かすみたなびく景色は夜になってこおるのである。)

 山は如法寺山といい、川は肱川という。けだし大洲の風致はこの山と川との間にあり。故にこれを詩中に入るる。夜に入りて、郡長、県属、町長等と会食す。

 十七日 晴れ。早朝、藤崎郡視学とともに腕車を飛ばし、神南山下を一周し、渓流相合する所に出ず。

  海南二月在仙郷、数里駆車破暁霜、春暖神南山下路、軽風習々送梅香、

(四国の二月は仙人の住む里のごとく、数里の間、人力車を駆って夜明けの霜をふみ破った。春の暖かみある神南山のふもとの道には、かろやかに吹く風がそよそよと梅の香りをはこんでくるのであった。)

 成能より小舟に駕し、渓流にさかのぼる。水急にして舟行遅々たるも、酒殽の興を助くるありて、あたかも嵐峡の春遊を演ずるがごとく、快またはなはだし。午後二時、宇和川村〈現在愛媛県喜多郡肱川町、大洲市〉に着し、小学校にて開演し、竜雲館に入宿す。鉱泉あり、竜身泉という。単酸泉なり。その境、幽邃閑雅おのずから桃源の風致あり。

  孤舟載酒泝渓流、晩宿竜身泉上楼、浴後更傾一杯臥、水声入夢浸閑愁、

(一そうの舟に酒をたずさえて渓流をさかのぼり、日暮れて竜身泉なる鉱泉のほとりにたつ竜雲館階上に宿泊した。沐浴ののちに更に杯をかたむけてやすんだものであるが、水音が夢の中にまで入りこんで、ものしずかな旅愁にしみいるのであった。)

 主催は川上教務研究会にして、和気郁太郎氏、福山安逸氏(鉱泉主)等の発意にかかる。

 十八日 晴れ。東宇和郡視学岩口重良氏、本日より藤崎郡視学に代わりて案内の労をとらる。軽輿に乗じて峻坂を上下し、貝吹を経て野村〈現在愛媛県東宇和郡野村町〉に至る。行程三里余あり。この辺りの山地にて轎を用うるものは医者に限る。故に田農野婦は問うに、いずれの所より医を迎えきたるかというをもってす。また、笑うべきなり。

  轎行数里度崔嵬、穿尽予山雲幾堆、野婦不知壮遊事、問従何処聘医来、

(かごにのって行くこと数里、石や岩のあるけわしい山をすぎ、伊予の山と雲のいく層にもつみかさなる地をうがつようにすすんだ。このいなかの婦人は私の意気ごんでの講演の旅であることを知らずに、かごにのる人は医者と心得えて、一体、どこからまねかれてやってきた医者かと問う。)

 野村会場は小学校にして、宿所は清家旅館なり。開会は校長薬師寺恭吉氏、安楽寺住職能仁徳成氏、助役坂上亀三郎氏等の主動にかかる。会後、能仁氏の嘱に応じ、修身教会発起人に対し一言を述ぶ。

 十九日 風雨。轎輿に駕し、泥坂険路を上下して土居村〈現在愛媛県東宇和郡城川町〉に移る。行程三里あり。

  予山深処駕軽輿、樵路如糸巻又舒、半日斜風吹不歇、客衣帯雨入茅廬、

(伊予の山中深いところをかごにのって行けば、きこり道は糸の巻いたりのびたりするような形でつらなる。半日ほどは斜めに吹きつける風はやまず、旅人の衣服は雨にぬれそぼつままにかやぶきの宿に入ったのであった。)

 宿所は旅館たるも、会場は報恩寺にして山腰にあり。発起は村長武石竜太郎氏、校長宇都宮和氏等なり。報恩寺住職は哲学館出身なりという。

 二十日 晴れ。轎行三里、山坂を上下すること数次にして貝吹村〈現在愛媛県東宇和郡野村町・肱川町〉に入る。宿所および会場は西岸寺にして、発起は村長上田直太郎氏、宿寺の村上重光氏等なり。聴衆満堂、大洲以来の盛会を得たり。

 二十一日(日曜) 風雪。貝吹より野村まで轎行、野村より車行して宇和町〈現在愛媛県東宇和郡宇和町〉に移る。北風、雪を巻きて面をつき去り、全身戦慄、膚粟を生ずるの寒気なり。郡長深田覚助氏、町長二宮照敏氏等数名の出迎えあり。大気旅館に入る。ときすでに三時にならんとす。一休ののち会場蚕病予防室に至るに、聴衆、場にあふるるの盛会なり。開題に凝然大徳の事跡を述べ、これを東京なる哲学堂に奉崇せるゆえんを説き、その人は予州の産なるに県民のこれを知るものなきを慨し、左の詩を賦して壁上に掲ぐ。

海南風月明且美、凝然大徳生於茲、該覧博識誰能敵、内典外書無不窺、著作一千二百巻、文章雅麗如古詩、資性温良行篤敬、仏祖遺戒常堅持、不尊人爵重天爵、身潜顔巷下董帷、東大寺畔学林茂、戒壇院上徳華披、古徳又有長寿福、一代八十二春移、予州出此大人物、我来問人皆不知、只言藤樹先生在、恰似灯台不照基、従今願明其事跡、百世永崇此国師、

(四国の風月は明るくかつ美しく、凝然上人はここに生をうく。その学問知識の広いことはなにびともかなわず、内外の典籍で目を通さないものはない。著作は一千二百余巻、その文章は典雅華麗で古詩かと思わせる。天性温良で、その行為は誠実でつつしみ深く、み仏の残された戒律を常に堅持している。人の与える尊位などを問題にせず、天より与えられる徳性などを重んじ、身を孔子の弟子顔回が住んだというようなむさくるしいところにひそめるようにおいて、仏法をただす塾を設けて人々を教えた。東大寺のほとりに学問が盛んに、戒壇院の上に徳の華がひらく。高い徳の僧にはまた長寿の福があり、一代八十二年の生をうけたのである。伊予の国にこのように大人物がでたのであるが、私が来てこの人のことをたずねてみるとだれもが知らぬという。ただ中江藤樹先生がおられたというのみで、あたかも灯台もと暗しのたとえにも似てかえって知らぬのであろう。しかし今からは凝念上人の事跡を明らかにして、百世の後までもながく国家の師としての高僧をあがめん。)

 第十七句中の藤樹先生の四字は、一遍上人に改めたる方あるいは可ならん。なんとなれば、藤樹先生は本州出身にあらざればなり。開会発起は各町村長および有志者にして、なかんずく深田郡長、岩口視学、二宮町長、光教寺住職森賢外氏、高等校長宇都宮忠吉氏等の尽力に出ず。終日終夕風雪やまず、戸隙より雪粉室内に入る。夜に入りて、寒ことにはなはだし。深更、郡長、町長、農学士、議員諸氏と会談す。

 二十二日 雪。東宇和郡を去りて北宇和郡に入る。郡境、法華津嶺頭まで宇和町発起者の送行あり。嶺頭一望するに、積雪皚々の間に白煙の断続浮動せるを見るも、また吟賞するに足る。

  嶺頭雪径曲如弓、四望茫々城霧篭、予海豊山看不見、風光都在有無中、

(法華津峠の頂上に立てば、雪の小道は弓のように曲がり、四方を見渡せば果てしなくひらけて白い霧が立ちこめている。伊予の海と豊かな山は見ることもかなわず、風光はすべてあるようなないようななかにあるのである。)

 岩口視学と吉田町校長赤松三代吉氏とともに、車を連ねて吉田町〈現在愛媛県北宇和郡吉田町〉に入る。岩口氏、連日各所案内の労をとられたるは謝するところなり。会場は劇場にして、主催は吉田有為会すなわち青年団体なり。その団体は陸軍少将奥山義章氏の指導の下にありという。しかして開会の原動者は町長八島伯豪氏、校長赤松氏、明淵寺住職太田正道氏なり。北宇和郡視学清家吉次郎氏ここに来会せらる。宿所左海旅館はすべて茶人めきておもしろし。

 二十三日 晴れ。車行して愛治村〈現在愛媛県北宇和郡広見町〉に向かうに、車の通ぜざる所あれば、更に馬背に転乗して村に入る。途上、菜花を見る。会場は小学校にして、宿所は造酒家玉井卓一氏の宅なり。開会は村長古谷義正氏、校長長谷川直養氏、有志者鈴木庄治氏、および宗教家岡野、松本、三輪諸氏の発起にかかる。

 二十四日 雪。臨時〔に〕三間村〈現在愛媛県北宇和郡三間町〉小学校に立ち寄りて開演す。村長岡本景光氏、校長清家長太郎氏の発起なり。雪降ることはなはだし。三間を去りて宇和島町〈現在愛媛県宇和島市〉に近づくに従い、雪ようやく変じて雨となる。宇和島旅館は居村屋なり。午後三時、公会堂に至りて演説を始む。聴衆、雨中をおかして雲集するもの大約一千人に及ぶ。宇和島町および隣村の発起なり。夜に入りて、更に開演す。各宗寺院の所望による。郡長土居弁次郎氏および町長中原少将、ともに病中なり。清家郡視学および助役桑山吉輝氏、諸事を斡旋せらる。

 二十五日 晴れ。清家、桑山両氏とともに、一半車行、一半歩行して岩松村〈現在愛媛県北宇和郡津島町〉に移る。峰頂なお雪をとどめ、山風ために寒きを覚ゆるも、梅花すでに落ち尽くして、菜花香を送りきたる。

  地暖風寒南国春、梅花落尽菜花新、宇和城外暁回首、夜雪未消山似銀、

(大地は暖かみを帯びるも、風はまだ寒さをともなっている南国の春景色である。梅の花はすでに落ちはてて、菜の花の香りがあらたにただよう。宇和島町の外で、あかつきのなか見まわせば、夜にふった雪はまだ消えもせず、山はそのために銀色にかがやいている。)

 宇和島地方の人家は多く柱壁を赤く塗る風ありて、一見稲荷社のごとし。また、牛闘は古来より流行すという。これを牛相撲と称す。土佐の闘犬と同じく、これに熱中するもの多し。岩松の会場は公会堂にして、宿所は三好別邸なり。しかして主催は近郷七カ村の連合なり。岩松村長江口守夫氏、有志家居村富士助氏、臨江寺住職東文海氏等、斡旋の労をとらる。清家視学は快活にして、よく酒をたしなむ。よって「一酔呑東西、一読呑古今、一喝呑天地」(一酔して東西をのみ、一読して古今をのみ、一喝して天地をのむ)の句を書してこれに贈る。

 二十六日 晴れ。轎に乗じて岩松を発し、山行四里、内海村に至る。山高く道険なるも、風光の明かつ美なるは、人をして疲労を忘れしむ。峰巒湾を擁し、青松白浪相映ずる所、漁舟片々、木の葉を散ずるがごときは、実に対画の観あり。

  嶺頭一望景何奇、幾曲碧湾巒影欹、点々漁舟散還集、看疑木葉泛盆池、

(嶺の上から一望すれば、その景色はなんとすぐれたものであることか、いくえにも曲がりめぐるみどりの海と山影がそばだつ。点々と海上の漁舟が散ったかと思えばまた集まるように、まるで木の葉がはちのような小さな池にうかんでいるようにみえるのであった。)

 内海村に少憩し、更に小舟に駕して御荘村〈現在愛媛県南宇和郡御荘町〉字平城に向かう。疾風帆を送り、一時間にて三里を走る。平城会場は神宮奉斎所にして、宿所は鹿島屋なり。郡長篠田藤信氏は病臥中にて会するを得ず、郡視学安藤為継氏代わりて諸事を斡旋せらる。しかして主催は御荘村長宮川喜太郎氏、および各村長と各宗寺院なり。

 二十七日 雨。行くこと二里、一本松村〈現在愛媛県南宇和郡一本松町〉に至りて開会す。会場は小学校なり。中尾正忠氏その村長たり。教育家、宗教家等連合の発起にかかる。

 二十八日(日曜) 晴れ。車行して深浦に至り、汽船宇和島丸に投ず。南宇和は県下の最小郡にして、土佐に接続す。故に眼に入る高峰の多くは土州の山なり。郡内山岳の横断するなく、ただ丘陵の起伏するを見るのみ。その特産は牧牛にして、牛の大なると肉のよきは天下第一と称す。気候と風景はともに他に誇るに足るも、地僻にして人朴なるを免れず。

  朝駕田車夕釣舟、雲烟断処好凝眸、予南一路山将尽、湾外青巒是土州、

(あしたには田をゆく車にのり、夕べには舟に釣るといったこの地の、雲ともやのきれるあたりはひとみをこらしてながめるによい。伊予の南の一路をたどれば、山波のつきるところには、湾外に青々とした山峰が見える。その峰々こそ土佐の山なのである。)

 郡吏清家舎氏は内海村より宇和島まで案内の労をとられたり。午後七時、宇和島に入港す。宿所は居村旅館なり。桑山助役、諸事を斡旋せらるること前日のごとし。

 三月一日 晴れ。午前、中学校に至り、中学生および高等女学生のために講話をなす。中学校長は松村伝氏にして、高等女学校長は田中義之氏なり。中学教員及川栄四郎氏は、もと京北中学校よりここに転任せられ旧知たり。午時、乗船。三時、西宇和郡八幡浜〔町〕〈現在愛媛県八幡浜市〉に着岸す。沿岸の風光、いたるところとして詩思を催さしめざるはなし。午後、小学校に至り、特に生徒のために講話をなす。宿所は川一旅店なり。

 二日 晴れ。午後、八幡浜町役場の主催にて、会場は吉蔵寺なり。郡長渡辺綱道、町長菊池虎太郎、有志家中臣近太郎(哲学館館友)、宗教家天羽宗一、教育家新谷信太郎等の諸氏、大いに尽力せらる。当地は県下有数の商業地にして、その勢い今治町と伯仲の間におる。県立商業学校あり、山中安躬氏これに長たり。哲学館出身三好義利氏ここに教鞭をとる。夜中、発起諸氏と晩餐をともにす。おのおの得意の芸を演ぜら〔れ〕しは大いに興味を添えたり。

 三日 晴れ。未明、暗を破りて乗船す。県視学赤松和江氏不在なれば、郡書記猪原常次郎氏同行せらる。浦上一望、暁光の清新なるや睡眼を一洗するに足る。湾曲出没峰巒起伏し、山頂に至るまで麦色青々たるを見る。

  八幡浜外駕軽船、浦上風光入眼鮮、西予農家能力食、山巓無処不耕田、

(八幡浜から軽やかな船に乗って行けば、海べのあたりの風光があざやかに目にうつる。西伊予の農家はよく食糧生産に努力していて、山の頂きまで田畑にしているのである。)

 午前九時、三瓶村〈現在愛媛県西宇和郡三瓶町〉津布理に着す。宿所は有志家和田清治氏宅なり。午前は小学校において生徒のために修身上の講話をなし、午後は高福寺において公衆のために演説をなす。主催は三瓶講話会にして、村長三好甚三郎氏、校長是沢新三郎氏、高福寺住職日下対岳氏、海福寺住職久瀬訓導氏、収入役宮内誠一氏等、みな多大の尽力あり。諸般の準備よく整頓し、意外の盛会を得。過分の厚遇に接したるは、発起諸氏に対し特に深謝せざるを得ず。日下氏は哲学館館友にして旧知たり。妖怪学においては氏のすでに精究せるところなり。故に詩をもってその意を寓す。

  法輪今日転三瓶、高福寺中人満庭、此地何須説妖怪、岳師已解我幽霊、

(仏法の輪をめぐらして今日は三瓶にいたる。会場の高福寺の庭は人で満ちあふれた。この地はもはや妖怪について説く必要はない。なぜならば、対岳師はすでに私の幽霊についての見解をよく理解しているのだから。)

 四日 曇り。朝七時、三瓶を出帆し、十一時、川之石村〈現在愛媛県西宇和郡保内町〉に着岸す。宿所および会場ともに竜潭寺なり。堂宇宏闊、眺望殊絶、県下屈指の巨刹なり。住職鷲嶺瑚山氏は哲学館出身たり。今回の巡遊につき各所開会に関し、奔走交渉の労をとられたるは大いに謝するところなり。左の一首を賦して氏に贈る。

  予山深雪日、堂上弄春晴、鷲嶺花香暖、竜潭月影明、

(伊予の山はなお深雪の日々であり、寺院の堂上では春の晴日をあじわっている。鷲嶺のもとに花の香りも暖かく、竜潭寺にさす月の光はいよいよ明るい。)

 開会は鷲嶺氏および川之石教育会の主催にかかる。村長は宇都宮壮十郎氏、校長は渡辺勘介氏なり。

 五日 晴れ。午前、喜須来〈現在愛媛県西宇和郡保内町〉小学校に至りて開演す。村長は兵藤矩氏、校長は菊池治作氏なり。郡長渡部氏、警察署長白井友景氏等とともに撮影す。再び竜潭寺に帰り、楼上の風光を詩工をもって写出す。

  一湾碧水静如湖、楼上風光入畵図、朝去暮来船不断、川之石是小名都、

(湾のみどりの水は静かなること湖のごとく、寺院の階上よりみる風光は画中のごとし。あしたに行き、暮れにきたる船はひきもきらず、川之石村は小さな都である。)

 午後三時、乗船。終夜、海上にあり。

 六日 雨。朝来、風強く波高し。客船、温泉郡高浜に着するときすでに十一時を報ず。三津浜町〈現在愛媛県松山市〉より有志諸氏の歓迎あり。丹生屋隆道氏もここにきたりてわが行を待つ。三津浜宿所は泉屋にして、会場は定秀寺なり。主催は教育分会なり。町長は逸見義一氏にして、校長は近藤東太郎氏および渡部董氏なり。温泉郡視学野間門三郎氏もここに来会せらる。

 七日(日曜) 晴れ。春眠暁を覚えず、汽笛夢を破るときすでに九時なり。

  春眠未覚日侵軒、汽笛声々敲夢魂、身在三津客窓下、心遊欧米別乾坤、

(春の眠りは深く、朝の光が軒端に光るのも知らぬほどであったが、汽笛の響きに夢を破られてさめたのであった。身は三津浜の旅館の窓べにあるも、心は欧米に遊ぶかのように天と地ほどもかけはなれているのである。)

 三津浜の朝市はその名高きも見ることを得ず。この地、某寺に元日桜あり。かつて日清戦役の際、天覧に供えたることありというを聞き、「古寺老桜在、年々破雪披、征清連捷日、至聖賞其奇、」(古寺に老いた桜があり、毎年、雪を破るかのように花ひらく。日清戦役の連勝の一日、天皇はこの桜のめずらしさをめでられたのであった。)の詩を賦して贈る。これより腕車にて生石村〈現在愛媛県松山市〉に移る。会場は小学校、宿所は清水新五郎氏、主催は青年会なり。関谷良氏その会長となり、垂水彦一氏副会長となる。宿所清水氏家製のブドウ酒を恵まる。その味清くしてかつ美なり。よってこれに名付くるに「清新」の二字をもってし、かつ「春風南海夕、仙館養天真、美酒三杯後、身清心亦新」(春風の吹く南海の夕べに、人界を離れたようなみやびな館で自然の心を養生する。美酒を傾けたのちは、身も清らかに心もまた新たな思いがしたのである。)の詩を題す。主人、大いに喜ぶ。

 八日 晴れ。生石より垣生村〈現在愛媛県松山市〉に移る。会場は小学校、宿所は大原良五郎氏宅、主催は教育分会なり。しかして実業奨励会主として奔走の任に当たる。当村は機織業もっとも盛んなりという。青年会長は西尾鶴市氏にして、実業奨励会長は村上半太郎氏なり。

 九日 雨。午前、余土村〈現在愛媛県松山市〉において開演す。県下の模範村なり。午後、石井村〈現在愛媛県松山市〉に転じて開演す。会場は両所ともに小学校なり。石井村長は相原亀一郎氏といい、高等校長は井上吉利氏といい、ともに発起者なり。当夕、旅亭に泊す。丹生屋氏もここに同宿す。村内の神社は信者の多き、県下屈指の一におる。また、本村は最も耕地に富むという。

 十日 雨。石井校の生徒に送られて乗車し、松山を経て伊予郡郡中町〈現在愛媛県伊予市〉に移る。

  久万連峰鎖半空、山河一望気何雄、暁来春雨車窓暗、鉄路衝烟入郡中、

(久万の連峰は空の半ばをふさぎ、山河を一望すればなんと雄壮な景観であることよ。あけがたよりの春雨に車窓はうすぐらく、鉄路はけぶるなかを郡中に入ったのであった。)

 午後、郡中町小学校において講話をなす。聴衆はみな生徒なり。ついで、栄養寺において公開演説をなす。一町四カ村の主催にかかる。当夕、旅館門田屋において郡長倉根是翼氏、郡視学下村純忠氏、郡書記藤谷呈三氏、町長豊川渉氏、校長重松親正氏等と会食す。

 十一日 晴れ。朝八時、下村郡視学、藤谷郡書記と同船して上灘村〈現在愛媛県伊予郡双海町、伊予市〉に移る。会場は本覚寺、宿所は西村旅館、主催は上下両灘村にして、村長坂内真垣氏、校長井門通修氏、局長奥島友四郎氏等の発起に出ず。村内に一奇勝あり、その名を本尊山という。巌頭高く天を指して屹立す。

 十二日 雨。草鞋をうがちて、渓をわたり嶺を跋す。

  本尊山下一渓深、随処只聞流水音、朝雨未晴泥路滑、草鞋穿上白雲岑、

(本尊山のもとにひとつの谷が深く入りこみ、いたるところにただ流れる水音をきく。朝からの雨はいまだあがらず、泥の道は滑りやすく、そんななか、わらじをはいて白雲たちこめる峰にのぼったのであった。)

 嶺を下る途中、中山村〈現在愛媛県伊予郡中山町〉有志諸氏の歓迎あり。会場は小学校、宿所は灘岡客舎、主催は近村連合なり。村長豊谷大治郎氏、教育家後藤、曾根、吉村三氏、局長玉井浩三氏、有志家大森清幹氏、戊申会長高野品三郎氏等の尽力により、諸般の準備よく整頓せり。

 十三日 晴れ。車行して嶺を下る。その道、蛇のごとく腸のごとく、曲折幾回なるを知らず。一奇観なり。

  一路羊膓曲幾回、腕車転々響如雷、山村愛見春光満、菜麦田間交老梅、

(ひとすじの道は羊の腸のごとくいくたびとなくめぐり、人力車のわだちの音は山あいに雷のごとくひびく。中山村に春の光が満ちていたのをいとおしみ、菜の花と麦畑の間に老梅がまじっているのを見たのであった。)

 郡中町に一休して松前村〈現在愛媛県伊予郡松前町〉に移る。開会は三村合同の主催にかかる。会場は小学校、宿所は有志家武智雅一氏の宅なり。しかして村長は河本治平氏、校長は橘東太郎氏なり。村内の一部落に、頭上に桶をいただきて魚を売る婦女あり、これをタタと呼ぶ。甘蔗、多くこの村より産出す。停車場あれども、極めて矮小なり。

 十四日(日曜) 晴れ。汽車にて松山を経、森松に至り、更に腕車にて原町村〈現在愛媛県伊予郡砥部町〉麻生小学校に入り、ここに開会す。村長は宮脇時行氏、校長は高市慶史氏なり。午後、砥部村〈現在愛媛県伊予郡砥部町〉小学校に転じて開会す。発起者は村長日野喜一郎氏、校長安平照市氏、および神官、医師等なり。当夕、日野村長の宅に宿す。旧家にして、庭内老樹あり。この地、陶器の産地にして、世に砥部焼と称するものを出だす。

  今宵何処寄吟身、障子山陰砥水浜、此地曾聞生計暖、化来泥土作黄金、

(今宵はいったいいずこに吟詠の身を寄せようか、障子山のかげ砥部川のほとりである。この地はかつて生計が豊かであると聞いたのであるが、それは泥土をもって陶器を作り、黄金にかえたからなのである。)

 伊予郡内開会はすべて郡役所の監督するところとなり、郡吏をしてつねに各所に同行せしめ、多大の配意を与えられ、藤谷書記すなわちその専任となられたるは、ここにその労を謝するところなり。

 十五日 晴れ。午後、砥部を発し、温泉郡荏原村〈現在愛媛県松山市〉に移りて開会す。会場は小学校にして、主催は教育分会および荏原各宗共立教会なり。すなわちその主動者は水口頼次郎氏、高須賀重太郎氏、相原佐太郎氏(以上みな村長)、前川俊道氏、正岡宗琢氏、菅慈算氏、八束寿弘氏、芳居竜城氏とす。野間郡視学および丹生屋氏ここに来会せらる。宿所は有志家渡部綱興氏の宅にして、主人俳句をよくす。その号を箕田というを聞き、「城南君子宅、一夜酌春風、読得箕田句、愧吾詩不工」(城南の君子の宅で、一夜、春風のなかで酌む。箕田氏の句を読んで、わが詩のたくみでないことをはじたのであった。)の一首を賦して、壁上にとどむ。また、共立教会より毛筆を恵まれたるに対し、「多謝毛錐恵、貴於幾万銭、従今荷斯筆、耕尽数千田」(毛筆を贈られて感謝す。いく万銭よりも貴いと思う。いまからはこの筆をになって、数千田を耕やしつくさん〔筆をもって食を得ん〕。)の詩をもって謝意を述ぶ。

 十六日 雨。午後、久米村〈現在愛媛県松山市〉小学校に移りて開会す。主催は村役場、教育分会および仏教伝道組合なり。しかしてその主唱者は浅井伍郎、千葉勝太郎(校長)、井上吉利、加藤収蔵、林近隆、加藤宥盛、乃万政次郎(村長)等の諸氏なり。当夕、村書記塩見政市氏の宅に宿す。ときようやく遍路の期節となり、巡礼の来往多し。

 十七日 晴れ。丹生屋氏に導かれ、歩して桑原村畑寺繁多寺によぎる。氏は実にその住職たり。境内、歓喜天を祭る。山に踞し池に面し、清閑水のごとく、もって俗腸を洗うに足る。

  繁多寺却不繁多、終日門庭無客過、隆道法師此留錫、汲来法水洗心魔、

(繁多寺はその名と違って繁多ではなく、一日中、寺門や庭に来客の通ることはない。隆道法師はここに錫杖をとめて、仏法の水をくんで邪道に導く心の鬼を洗い流したのであった。)

 これより行くこと十丁ばかりにして、石手寺に至る。旧知にして先輩たる故僧正高志大了師、ここに住せしことあり。現住は直樹大本氏なり。堂宇は古色を帯ぶ。みな国宝に編せらる。門前に老松あり、臥竜に似たり。

  石手寺臨石手川、老松何意擁橋眠、山門堂塔儼然在、古色蒼々六百年、

(石手寺は石手川に臨んでたち、老いた松はどういうわけか橋をいだいて眠るかのようである。山門も堂塔もいかめしくたち並び、古色蒼然として六百年の歴史を示している。)

  雨晴一路暁鐘聞、認得林端塔影分、壇上焚香人不絶、余烟凝作半山雲、

(雨のはれあがった道にあかつきの鐘が聞こえ、林の端に寺塔がすっきりとした姿でみえる。壇上にたかれる香と人の絶えることなく、これよりたちのぼる香煙の残りはかたまって、山を半ばおおう雲となっている。)

 古宝を拝観して道後温泉に至る。途上、泥打地蔵、粉付地蔵を見たり。迷信者の多きを推測するに足る。午後、道後〈現在愛媛県松山市〉高等小学校にて開演後、入浴を試む。浴室の壮大なるや全国無比と称す。宿所は茶金亭なり。公爵伊藤統監の旅館はその前街にあり。よって戯れに「神様の前に天狗か宿を占め」とうそぶき,かつ一絶を賦す。

  伊藤統監勢如雷、所過寒郷忽湧春、一夕館前天狗伏、鼻頭何事縮難伸、

(伊藤博文韓国統監の勢威はいかずちのごとく、よぎるところの寒い里もたちまち春の気配が湧き起こる。ある夕方、伊藤公爵の旅館の前に天狗が伏して挨拶をしたのであるが、鼻の頭はなんということか縮んで伸びようとしないのである。)

 松山人武市義道氏、不幸にして明を失う。その恵詩に和韻して、「詩与墨跡両清新、字々看来妙入神、心眼却能照天地、失明人勝有明人」(詩と墨跡とはふたつながら清新の気にあふれ、一字一字をみればまさに絶妙入神の技といえよう。不幸にして盲目とはいえ、その心眼はかえって天地を照覧し、この人は目明きの人よりもすぐれているのだ。)を答詞となす。

 十八日 晴れ。朝、来迎寺〔御幸村〈現在愛媛県松山市〉〕によぎりて開演す。住職吉川昌堂氏は哲学館出身たるの故をもってなり。庭前の眺望すこぶるよし。天覧の桜花および露兵の墳墓を巡覧し、観桜の一作をとどむ。

  曳笻何処好、竜穏寺中桜、天覧及斯樹、残花亦有栄、

(杖をついていずれかによいところを求めて、竜穏寺の桜をみる。天子はこの桜もご覧になったそうな、残りの花にもまだほこらしさがとどまる。)

 午後、潮見村〈現在愛媛県松山市〉鴨川高等校にて開演す。村長は白石熊太郎氏にして、校長は大野鬼千代氏なり。当夕、堀江村岩見旅館に至りて泊す。

 十九日 晴れ。河野村〈現在愛媛県北条市〉に移りて開演す。会場は小学校にして、主催は風早郷八カ町村なり。村長田中虎次郎氏、高等校長得居一郎氏、善応寺住職高縄泰応氏等、斡旋せらる。

 二十日 雨。北条町〈現在愛媛県北条市〉に移り、劇場にて演説をなす。寒風雨を吹きて場内に入るにもかかわらず、聴衆群聚せり。久米以来、郡書記豊島久太郎氏、連日案内の労をとられたり。酒造家沼田覚太郎氏の名酒「沼鶴」一瓶を贈られたるに対して、「沼鶴一瓶酒、遠従天外来、幽人時酔臥、夢影見蓬莱」(「沼鶴」なる一本の銘酒は、遠く天の外からもたらされたかと思われ、人里はなれて静かに住みなす人も、ときには酔ってふし、夢に神仙が住むという蓬莱をみるのである。)の詩を録す。

 二十一日(日曜兼春期皇霊祭) 晴れ。汽船相生丸に駕して越智郡菊間町〈現在愛媛県越智郡菊間町〉に移る。舟中の一作あり。

  浦上晴風帆影斜、岸頭点々見春花、一抹炭煙黒於墨、認得林間焼瓦家、

(海のはいりこんだあたりに晴れた風を受けた帆が斜めにはしり、岸辺には点々と春の花がみえる。わずかにのぼる炭煙は墨よりも黒く、それは林のあいだに瓦を焼く家よりあがる煙なのであった。)

 菊間町は瓦の産地なり。会場は名刹遍照院にして、聴衆、堂にあふる。宿所は酒造家寺尾栄二郎氏の宅にして、新築は茶室に擬し、清くしてかつ美なり。住職河原田治世氏、町長清水改三氏、校長中矢清七郎氏、神職池内不加之氏等、みな尽力せらる。

 二十二日 晴れ。大井村〈現在愛媛県越智郡大西町〉に移る。会場および宿所は天理教会場なり。教会長越智久八氏、特に晩餐を設けて饗応せらる。発起は大井村長大成哲則氏、小西村長井手弥市氏、乃万村長神野謙二郎氏なり。本郡に入りて、凝然大徳の遺跡明らかならざるを見て所感を述ぶ。

  凝然大徳跡如何、探尽予州山又川、物換星移人不識、只看流水白雲過、

(凝然法師の事跡はいかがなものであろうかと、伊予の山や川にたずねた。物も歳月もうつりかわって人々は知らず、ただ流れる水と白い雲のすぎてゆくのを見るのみだった。)

 二十三日 雨。今治町吉忠回漕店に少憩して孤舟に駕し、潮流に乗じて関前村〈現在愛媛県越智郡関前村〉に至る。天すでに暮るる。

  潮流一帯急如川、今治湾頭駕客船、細雨斜風天欲暮、棹声破浪入関前、

(潮流があるあたりは川のごとき急な流れがあり、今治湾のほとりで客船にのる。細い雨と斜めに吹く風のなか夕暮れがせまり、櫂の音が波を破るように響くうちに関前村に入ったのであった。)

 当夕善照寺に宿す。住職は真城憲雄氏にして、村長は桧垣信庸氏なり。その地、石灰を産出す。

 二十四日 晴れ。風強く波高し。午後、開会す。聴衆、堂にあふる。主催は住職、村長、および山岡長兵衛氏なり。当夕また善照寺に宿す。

 二十五日 晴れ。岡山村〈現在愛媛県越智郡大三島町〉に渡りて開会す。会場は万福寺、休憩所は木村三郎氏宅なり。村上友次郎氏その村長たり。夜に入り歩して宮浦村〈現在愛媛県越智郡大三島町〉に移り、松浦回漕店に泊す。

 二十六日 曇り。ときどき飛雪天に舞う。その寒気厳冬のごとし。午前、国幣中社に参拝す。象形山根にあり。社前は老樟の肉落ち骨出ずるを見る。よって吟詠す。

  宮湾風月歩堪移、試向鷲形山下之、千古遺蹤共誰語、社頭只有老樟知、

(宮浦湾の風月は歩むにつれて移り、こころみに鷲形山のふもとに向かって行く。千年を経た古い遺跡について一体だれとともに語ろうか。国幣中社の前に残る老いたくすのきだけが知っているのだ。)

  街路一条将尽頭、祠林深鎖午陰稠、誰疑樟樹持忠節、枯骨千年護社邱、

(ひとすじの街路の行きつくあたりに、神社の林が深く日中のかげをとざすようにしげっている。いったいだれがくすのきに忠節あるを疑おうか、枯骨をさらしたようなくすのきが千年もこの神社のたつ丘をまもっている。)

 午後、大通寺にて開演す。住職三島春洞氏は能書をもって名あり。主催は各村長なり。晩に助役菅芳二郎氏、農学士菅菊太郎氏、郵便局長渡辺真一氏、教育家、宗教家等と会食して相わかれ、汽船横須賀丸に投じて今治町に移り、順成舎に入宿す。

 二十七日 晴れ。今治より車行して上朝倉村〈現在愛媛県越智郡朝倉村〉に至る。会場は小学校にして、宿坊は無量寺なり。

  野径尋蕭寺、境清絶俗埃、閑居仏為友、無量寿如来、

(野の小道をゆき、こざっぱりとした寺をたずねた。境内は清らかにたもたれて俗塵を絶つおもいがする。しずかに住まいなして、み仏は友となる、阿弥陀仏。)

 当日、修身教会の発会式を挙行す。発起者は宿寺住職竜田宥量氏および渡辺洋太郎、菅秀円、田窪八束、小沢庫一等の諸氏なり。哲学館出身者中野堅照氏来訪あり。

 二十八日(日曜) 曇りのち雨。今治町〈現在愛媛県今治市〉に帰りて開会す。会場は黒住教会所なり。堂内広闊、千人以上をいるるべし。昼夜両度開演す。夜会のごときは聴衆、堂にあふるるに至る。発起者は町長石原信文氏、高等校長吉田春雄氏、尋常校長矢野定彦氏、正福寺住職谷本忍雅氏、大雄寺住職台俊俊道氏、円光寺住職藤原画鏡氏、神供寺住職古市正運氏等なり。友人吉村善吉氏、丸亀より来訪あり。郡役所にては郡視学渡辺源一郎氏多忙なれば、郡書記原田文太氏をして郡内各所の開会に同行せしめ、大いに便宜を与えられたり。

 二十九日 雨。今治順成舎を辞し、上船して尾道市に向かう。幡勝寺住職武田至誠氏および吉村氏、わが行を送りて同市にきたる。鶴水楼に休憩して午後五時、乗車。翌日二時、帰京す。

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愛媛県紀行第二

 明治四十二年四月六日午後、再び東京を発し、七日午前、摂州神崎駅、三田駅を経て、有馬温泉に入浴す。旧痾を治せんがためなり。池の坊に滞留する四日間にて、十一日午後出発して神戸に向かう。このとき有馬は気候なお寒く、浴客いまだ集まらず。連楼寂寥たるありさまなれば、左の一詩を賦す。

  六甲山陰有馬郷、春風一夜臥池坊、浴期未至連楼寂、唯有鼠軍襲客牀、

(六甲山のかげに有馬温泉郷があり、春風の吹く一夜、池の坊に休息す。時節がまだ寒いため、温泉を利用するにはなお早く、軒を連ねる温泉宿はさびしく、ただ、鼠の群れが浴客のねどこを襲うかのようにかけ回るのみである。)

 その温泉は黄赤色を帯びて泥のごとし。よって更に一詠す。

  馬山扶病遠攀躋、鷲見霊泉色似泥、一浴忽知仙薬混、忘笻日々歩深渓、

(有馬の山に病いの身をささえてよじのぼる。なんとこの霊妙な温泉は泥に似た黄赤色なのだ。ひとたび浴びればただちに仙薬の混じっていることがわかる。それ故に杖を忘れて日々深いたにを歩きまわったのであった。)

 三田駅より有馬に至る。途上の風光、また詩中に入るる。

  半山皆竹半山松、万緑叢中一白縫、近見漸知梅点々、仙家散在暖雲峰、

(山のなかばは竹、半ばは松におおわれ、すべて緑のくさむらに見えるなかに白いものが縫うように見える。近づいて見てようやく梅が点々と咲いているのがわかった。仙人が住むような家が暖かに雲のわく峰に散在しているのである。)

 また、有馬滞浴中つづりたる狂歌数首あり。

  温泉の中で天狗の有馬なる、宿は何坊々々とよぶ、

  有馬にて酒呑坊となつたなら、酔天狗(水天宮)と人やいふらん、

  有馬とは申せど馬はありません、ありますものは湯筆染物、

  馬のなき里も有馬といふからは、池なき宿も池の坊なり、

 十一日 晴れ。神戸行途上、村落の春色おのずから吟情を誘起す。

  春晴渓上路、松竹与梅交、無客門常鎖、有風時自敲、

(春晴れの谷のほとりの道を行けば、村の景色は松、竹、梅がまじり合っている。訪れる人もなく、門はいつもとざされて、風吹くときに門をひとりでにたたくのである。)

 神戸にて少憩し、夜行汽車に乗じ、尾道へ向け直行す。車中なお春寒の身にせまるを覚ゆ。暁天五時、尾道に着す。随行菊池適氏も熊本よりきたりてここに相会す。ともに東予丸に投じて伯方島に向かう。

 同月十二日 晴れ。午前八時、愛媛県越智郡東伯方村〈現在愛媛県越智郡伯方町〉字木浦に着岸す。歓迎者多し。会場、宿所は禅興寺なり。昼夜二回開会す。ともに盛会を得たり。主催は村内有志にして、村長深見寅之助氏、住職台俊俊道氏、校長浅海林次郎氏等、みな大いに尽力あり。台俊氏は曹洞宗会議員にして、今治町大雄寺および禅興寺住職を兼務せらる。この地、薩摩薯の名産地なりという。ときに桜桃ならび開き、春風駘蕩の趣あり。

 十三日 晴れ。東予丸にて津倉村〈現在愛媛県越智郡吉海町〉本庄に渡海して開会す。主催は村役場にして、会場は高等小学校なり。しかして宿所は有志家野間五恵氏の宅なり。同氏は信仏家にして、ときどき高僧を聘し法話を開かるという。昼夜二回開会す。この日、四坂島製銅所の鉱煙、風のために吹き寄せられ、全島煙中に浴し、悪臭人を刺殺せんとす。

  汽笛一声船入津、鴬吟花笑満山春、忽然風起林頭暗、煙臭先来刺殺人、

(汽笛一声、船は津倉の港に入った。鴬がさえずり、花が咲きみだれて、山すべてが春なのである。そんな風光にたちまち風が吹きおこり、林のあたりがうす暗くなった。それは四坂島製銅所からあがる煙と臭みが吹き寄せられて、人々を刺し殺そうとしているのである。)

 また、某氏のもとめに応じて、柑林培養の詩を賦す。

  戦後経営百事繁、要開皇国富強源、奉来尊徳先生訓、培養柑林亦報恩、

(日露戦争の国家の経営は万事に繁多であり、すめらみ国の発展を願うならば富をもって根源を強くしなければならぬ。さすれば二宮尊徳先生のおしえに従って、柑橘の林をそだてるのもまた報恩であろう。)

 当地開会発起の主なるものは村長西部宝順、住職佐々木善識、校長桧垣和孝、実業家野間五恵、片山新太郎等の諸氏なり。本村所在の島を大島という。花崗石を産出す。

 十四日 雨。更に乗船して桜井村に向かう。途中、中野堅照氏の出迎えあるに会す。午前十一時、桜井村〈現在愛媛県今治市〉に着岸するや、煙火をもって迎えらる。まず縄引天神社に参拝す。崇社めぐらすに青松白砂をもってす。これ菅公の遺蹤なり。法華寺に一休す。寺前、眺望すこぶる佳なり。観音堂前に老杉一株あり、これに与うるに大悲杉の名をもってす。昼間の会場は小学校なり。しかして当夕は中野氏所在の寺なる国分寺において更に開会し、かつこれに宿す。同寺は弘法大師の札所にして、しかも脇屋義助氏の墓碑あり。また、境内に老松の鬱然としてわだかまるあり、これを天皇松と称す。よって一吟す。

  山寺春深花落時、尋来脇屋義公祠、南朝千古忠魂色、残在皇松百尺枝、

(山里の寺に春は深く、花も散り果てるころに、脇屋義助公の墓所をたずねる。南朝永久の歴史に忠魂の色は、天皇松の百尺の枝に示されているようだ。)

 発起者は桜井村長曾我部右吉氏、富田村長清水幸太郎氏、国分寺住職中野氏、法花寺住職豊岡敬雄氏、真光寺住職星野鉄定氏、校長桧垣辰次郎氏なり。当日、修身教会設立の件を議定せり。

 十五日 晴れ。哲学館出身者佐々木善親氏、および森井正規氏の前駆にて周桑郡に入る。途中、大館氏明氏戦死の地を過ぐ。すなわち所感を賦す。

  東予一旬寄吾生、世田山下弄春晴、駐車試問忠魂跡、松護孤墳千古清、

(東予の地に十日ほどはわが身を寄せて、世田山のふもとに春の晴れ間を楽しみたいものだ。車をとどめてこころみに大館氏明氏が忠魂のあとはどうなのかとたずねるに、松が孤独にたつ墳墓をまもって、永遠の清らかさを保っているのだ。)

 会場は三芳村〈現在愛媛県東予市〉小学校にして、宿所は吉岡村円照寺、すなわち佐々木氏の寺なり。しかして本郡内の開会主催は周桑教育会および仏教団なり。教育会長は郡長荒田読之助氏、副会長は視学佐藤文雄氏、幹事狩野時二氏、真鍋柳治氏、越智浪四郎氏、および森井氏にして、団長は興隆寺住職岸基自昇氏、理事は豊田寛照氏、向井大貞氏および佐々木氏、評議員は加藤哲宗氏なり。

 十六日 晴れ。壬生川町〈現在愛媛県東予市〉に移る。町長は一色耕平氏なり。会場は公会堂にして、宿所は覚法寺なり。当所は汽船の出入する地なれども、泥砂脚を没する所、里許も歩行せざるを得ずという。

 十七日 晴れ。田野村〈現在愛媛県周桑郡丹原町〉に移る。村長は戸田徳太郎氏なり。会場は小学校にして、宿所は福岡村遍照寺なり。郡衙ここにあり。荒田郡長に会見す。ときまさに桜花満開を過ぎ、片々軽風に舞う。野外の風光ことに佳なり。

  風暖周桑一路幽、春田如海望悠々、看疑麦浪深青裏、浮出菜花黄玉洲、

(風の暖かな周桑の道はひっそりとして、春の田は海のごとく、望めばいよいよはるかである。みれば麦は深い青みのなかに波うつかと思われ、菜の花が黄色く島のように浮き出ているのである。)

 十八日(日曜) 晴れ。小松町〈現在愛媛県周桑郡小松町〉に移る。旧城市なり。町長を佐伯太郎作氏という。会場は公会堂にして、宿所は明勝寺なり。市外近く石槌山と相対し、残雪点々半空にかかるを望むところ、すこぶる壮観なり。随行菊池氏病気のために、郡内は佐々木善親氏代わりて随行せられたり。

 十九日 雨。小松町より新居郡氷見町〈現在愛媛県西条市〉に移る。その距離わずかに十町に過ぎず。会場は小学校にして、宿所は覚法寺なり。開会は町村連合の発起にかかる。しかして氷見町長は久門信太郎氏にして、校長は近藤近一郎氏なり。午後、雨ようやく晴るる。

  夜来春雨暁濛々、路入落花堆裏通、鳥語報晴山漸見、石槌猶在白雲中、

(昨夜からふり続いた春雨はあかつきに霧のようにたちこめ、道は落花のつもるなかをよぎる。鳥は晴れを告げてさえずり、山の姿がようやくあらわれた。しかし、石槌山はなお白雲のなかにあるのである。)

 郡長田中滝三郎氏、視学日浅友次郎氏も来会せらる。

 二十日 晴れ。午前、西条〈現在愛媛県西条市〉中学校に至りて講演をなす。校長は岩田博蔵氏なり。午後の会場は西条町妙昌寺、旅館は金屋なり。町長伊藤健作氏および各村長、校長の発起にかかる。当町は旧城下にして、東予三郡中第一の都会とす。

 二十一日 晴れ。大生院村〈現在愛媛県新居浜市、西条市〉に至りて開演す。会場は小学校にして、宿所は中萩村旅館なり。主催は三村連合にかかる。会場の校長は伊藤祐吉氏なり。この地に農学校あり、坂江小善太氏その校長たり。目下まさしく四国遍路の期節にして、回国巡拝の男女老少、隊を結び群れをなす。

  四月海南遍路繁、一心欲報大師恩、老男少女各為列、五々三々入寺門、

(四月、四国遍路の往来もしげく、一心にみ仏の恩に報ぜんとしているのである。老いた男たちや年端もゆかぬ娘がそれぞれ列をなし、三々五々寺院の門に入って行く。)

  行旅幾群来去頻、看過八十八場春、草鞋木杖君休笑、我亦今年遍路人、

(旅をゆく人々の群れがしきりと去来し、霊場八十八カ所の春をみる。わらじや木の杖をみて笑うのはよそう、私もまた、今年もお遍路の一人なのだから。)

 二十二日 晴れ。泉川村〈現在愛媛県新居浜市〉浦堂寺にて開会す。村長は石川栄六氏にして、主催は各村連合なり。会後、有志家西原栄一氏の宅に移りてこれに宿す。氏は園芸をもって余楽とし、居宅また雅致あり。

 二十三日 晴れ。会場は金子村〈現在愛媛県新居浜市〉小学校の新築校舎なり。主催は町村連合なり。村長は太田武三郎氏、校長は大西国五郎氏とす。しかして宿所は新居浜町養気楼なり。町長は小野神雄氏とす。郡長またここに来会せらる。当地には住友別子銅山事務所あり。

 二十四日 晴れ。十町余の河原をわたりて神郷村〈現在愛媛県新居浜市〉に移る。東予の奇観は水なき河の多き一事なり。村長は永易三千彦氏にして哲学館出身なり。会場および宿所は明教寺にして、主催は四カ村連合なり。郡内は日浅郡視学が各所案内の労をとられたり。

 二十五日(日曜) 晴れ。渓谷の間を縫い、行くこと三里ばかりにして宇摩郡土居村〈現在愛媛県宇摩郡土居町〉に入る。会場および宿所は晩翠館なり。館前に老松一株あり、枝葉の繁茂数十丈に及ぶ。その名を誓松という。

  荷筆天涯客予東、誓松樹下酌春風、月如有意来相照、晩翠楼頭躍玉竜、

(筆をにないて天の果てのような遠く伊予の東に旅客となり、誓松なる名の樹の下で春風に吹かれつつ酒をくむ。月も心あるもののごとくのぼってわが身を照らし、晩翠館の階上に月光を受けて輝く松の枝がゆらめいている。)

 主催は郡役所にして、村長三宅良治氏、蕪崎五智院住職長智栄氏等、助力あり。宿所の酒も肴も床上の挿花も、みな難波屋より持ちきたるといえるを聞きて、「難波屋に酒や此花冬ごもり今を春べと酒やこの花」と書してこれに贈る。

 二十六日 晴れ。三島町〈現在愛媛県伊予三島市〉興願寺にて開会す。真言宗の大坊なり。聴衆満堂、盛会を得たり。この辺り琴平参詣の本道にして、ところどころ里程標を見る。

  春風習々客車軽、東予山河忙送迎、休問琴平社何在、道標随処刻行程、

(春風のそよそよと吹くなか車も軽快に走り、東伊予の山も河もいそがしげにわれを迎えたり見送ったりしている。琴平社がどのあたりにあるかなどとは問うまい、なぜならば、そこに至る道標がいたるところに立てられて行程を示しているのだから。)

 三島町長は横田正史氏にして、校長は清水佳助氏なり。

 二十七日 晴れ。興願寺を去り川之江町〈現在愛媛県川之江市〉妙蓮寺に移りて開会す。宿所は川路旅館なり。この地、讃岐の国境をへだつること一里内外に出でず、土、讃、予三州の山をあわせ見るを得。町助役は薦田円次郎氏、校長は渡部忠太氏なり。郡内開会はすべて郡役所の主催にかかり、郡長坂井牧之助氏、郡視学白石易太郎氏、ともに各所に出席して斡旋せられたり。

 二十八日 雨。ここに愛媛県巡回を結了し、山陰道島根県に転進せんとす。郡長、郡視学、ともに汽船に同乗して送行せらる。汽船今治を経、海上十時間にして、午後八時、尾道に着港す。この日、細雨穏波、輪転の声かえって引睡のなかだちとなる。船窓の風光おのずから詩思を動かす。

  春雨蕭々送客舟、潮時未到水如油、予山芸海茫難見、遥隔雲烟認麦洲、

(春雨はものさびしくふって客船を見送る。ときに潮は動かず、海は油のごとく静かである。伊予の山波も芸州の海もぼんやりと見さだめがたく、はるかに雲のけぶるかなたに麥畑を見たのであった。)

 当夕、鶴水館に休憩し、医師を呼びて胸痛の診察を請い、深更一時、尾道発車にて三田尻に向かう。以下は島根県紀行に譲る。

 ここに愛媛県の紀行を結ぶに当たり、いささか卑見を述ぶるに、その地の延長七十里にわたり、山岳多く、平地少なく、したがって道路の険悪にして車道に乏しきは、紀州牟婁郡もしくは和州吉野郡に比すべし。人情、風俗、言語のごときも各所一様ならず、西南部は土州に類し、東部は讃州に近く、群島に至りては広島県に似たり。これ地勢上しからざるを得ざるなり。これを要するに、讃州と土州とは両極端にして、予州はその中を得たるものならん。教育に至りては別に可否の評を下すべき点あると認めずといえども、山岳連接、道路険峻なるにかかわらず、就学児童数の比較的多きは本県の誇るべきところなり。宗教のごときは概して無勢力にして、ただに信仰心に乏しきのみならず、これを無用視するもの多きがごとし。凝然大徳のごとき名僧をその地より出だしながら、そのことを知るものほとんど一人もなきを見れば、一般の人士が宗教に意を注がざるを知るに足る。したがって迷信の多きは勢いの免れざるところなり。その他、公徳心を欠き、忍耐力に乏しく、地方感情の融和し難き、時間を確守せざるがごときは、決してひとり本県人の短所にあらずして、本邦人の通弊なり。言語は解しやすく、気候は健康に適し、風景は誇るに足るべきものあり。しかして松山の赤かぶら、久万山の唐きび飯、南予の闘牛、宇和島在の赤塗りの家屋、松前のおたた、壬生川の泥渡り、東予の水なしの川などは、本県の七不思議ならんか。愛媛県に対する盲評かくのごとし。

     兵庫県一部開会一覧表

   市郡   町村    会場  席数   聴衆     主催

  神戸市        小学校  二席  三百五十人  兵庫教育協会

  同          寺院   二席  八百人    哲学館同窓会

  同          宿所   一席  三十人    高等商業学校内仏教青年会

  明石郡  明石町   寺院   三席  五百人    各宗共授会

  同    同     小学校  四席  三百五十人  明石教育会

  同    垂水村   小学校  二席  三百五十人  垂水教育義会

  同    平野村   寺院   一席  四百人    村内有志

  加古郡  加古川町  公会堂  二席  三百人    郡教育会

   合計 一市、二郡、四町村、八カ所、演説十七席、聴衆三千八十人、日数六日間

 

     愛媛県開会一覧表

   市郡    町村      会場  席数   聴衆     主催

  松山市           説教場  二席  四百人    松山各宗共立会

  同             公会堂  二席  一千人    各中等学校

  同             公会堂  二席  八百人    松山教育協会

  上浮穴郡  久万町     寺院   二席  五百人    各町村連合

  同     川瀬村     小学校  一席  五百五十人  各村連合

  同     柳谷村     小学校  二席  四百五十人  各村連合

  同     弘形村     小学校  二席  三百人    各村連合

  同     小田町村    寺院   二席  四百人    村内教育会

  喜多郡   内子町     小学校  二席  三百五十人  教育支会

  同     五城村     寺院   一席  二百五十人  寺院

  同     新谷村     小学校  二席  五百五十人  村内有志

  同     大洲町     中学校  一席  四百人    中学校

  同     同       小学校  二席  四百人    郡教育部会および大洲地方仏教会

  同     同       公会堂  二席  二千人    同前

  同     同       小学校  一席  二百人    小学校

  同     宇和川村    小学校  三席  四百人    川上教務研究会

  東宇和郡  野村      小学校  二席  六百人    各村連合

  同     土居村     寺院   二席  四百人    村内有志

  同     貝吹村     寺院   二席  八百人    村内有志

  同     同       寺院   一席  三十人    青年会

  同     宇和町     教室   二席  八百人    各町村連合

  北宇和郡  吉田町     劇場   二席  一千人    有為会

  同     愛治村     小学校  二席  五百五十人  村内有志

  同     三間村     小学校  一席  四百人    村役場

  同     宇和島町    公会堂  二席  八百人    各町村連合

  同     同       公会堂  一席  六百人    各宗寺院

  同     同       中学校  一席  七百人    中学校および高等女学校

  同     岩松村     公会堂  二席  四百五十人  各村連合

  南宇和郡  御荘村     神宮   二席  五百人    郡有志者

  同     一本松村    小学校  二席  四百人    同前

  西宇和郡  八幡浜町    小学校  一席  一千人    小学校

  同     同       寺院   二席  三百五十人  町役場

  同     三瓶村     小学校  一席  五十人    小学校

  同     同       寺院   二席  七百人    三瓶講話会

  同     川之石村    寺院   一席  四百人    小学校

  同     同       寺院   二席  二百五十人  寺院

  同     善須来村    小学校  一席  三百五十人  小学校

  温泉郡   三津浜町    寺院   二席  六百人    町役場および教育分会

  同     生石村     小学校  二席  四百五十人  青年会

  同     垣生村     小学校  二席  五百人    教育分会

  同     余土村     小学校  一席  三百人    青年会

  同     石井村     小学校  二席  五百人    役場および学校

  同     荏原村     小学校  二席  四百人    教育分会および各宗共立教会

  同     久米村     小学校  二席  六百人    教育分会

  同     道後村     小学校  二席  四百五十人  教育分会

  同     御幸村     寺院   一席  一百人    浄教婦人会

  同     潮見村     小学校  二席  三百五十人  教育分会

  同     河野村     小学校  二席  五百人    風早連合会

  同     北条町     劇場   二席  五百人    同前

  伊予郡   郡中町     小学校  一席  七百人    小学校

  同     同       寺院   二席  四百人    町村連合

  同     上灘村     寺院   二席  四百人    両村連合

  同     中山村     小学校  二席  五百人    各村連合

  同     松前村     小学校  二席  九百人    各村連合

  同     原町村     小学校  二席  二百人    役場、学校

  同     砥部村     小学校  二席  八百人    各村連合

  越智郡   菊間町     宿所   一席  二十人    町内発起人

  同     同       寺院   二席  七百人    町役場

  同     大井村     教会所  二席  四百人    各村連合

  同     関前村     寺院   二席  九百人    村内有志

  同     岡山村     寺院   二席  四百人    村内有志

  同     宮浦村     寺院   二席  五百人    各村有志

  同     上朝倉村    小学校  二席  四百人    修身教会

  同     今治町     教会所  二席  八百人    町村連合

  同     東伯方村    寺院   二席  七百人    村内有志

  同     津倉村     小学校  二席  五百人    村役場

  同     桜井村     小学校  一席  六百人    役場、学校

  同     同       寺院   一席  八百人    寺院

  周桑郡   三芳村     小学校  二席  五百人    教育会および仏教団

  同     壬生川町    公会堂  二席  四百人    同前

  同     田野村     小学校  二席  四百五十人  同前

  同     小松町     公会堂  二席  五百五十人  同前

  新居郡   氷見町     小学校  二席  四百人    町村連合

  同     西条町     中学校  一席  六百人    中学校

  同     同       寺院   二席  六百五十人  町村連合

  同     大生院村    小学校  二席  四百人    三村連合

  同     泉川村     寺院   二席  三百五十人  三村連合

  同     金子村     小学校  二席  六百人    町村連合

  同     神郷村     寺院   二席  四百人    五村連合

  宇摩郡   土居村     公会堂  二席  四百人    郡役所および役場

  同     三島町     寺院   二席  六百人    同前

  同     川之江町    寺院   二席  七百人    同前

合計 一市、十二郡、六十六町村(十九町、四十七村)、八十三カ所、演説百四十六席、聴衆四万二千九百五十人、日数六十九日間(二月五日より四月二十八日までのうち十四日間、東京往復日数を除く)

    もし演説につきてその種類を区分すれば

     詔勅に関するもの …三十四席

     迷信に関するもの …二十八席

     道徳に関するもの …二十四席

     教育に関するもの …二十席

     宗教に関するもの …十八席

     実業に関するもの …十六席

     雑題 …六席

      合計 百四十六席

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島根県〔紀行〕第一、石州および松江市の部

 明治四十二年四月二十九日、午前八時半、三田尻駅に着し、茶店に少憩の上、腕車をやとい、風雨をおかして行くこと十七里、夜に入りて島根県石見国鹿足郡津和野町〈現在島根県鹿足郡津和野町〉に入る。途中、歓迎者あり。車上、出雲に入るの予吟を試み、二詩を得たり。

誰使吾曹進教軍、如今大道乱紛々、已培徳樹去伊予、再転法輪来出雲、友愛情深人易近、志須音混語難分、宍湖依旧明如鏡、照見三千年古文、

(いったいだれがわれらに教えの軍を進めさせたのであろうか、いまや人のふみ行う大道は紛々と乱れはてている。すでに道徳の樹ともいうべき種をまいてから伊予の国を去り、ここに再び仏法の法輪をめぐらして出雲に来たのである。この地の人々の友愛の情は深く、人を受け入れる。ただ、しとすの音が混ざってわかりにくい。宍道湖はもとのままに鏡のごとく明るく、三千年の古い文化を照らしているのである。)

  曾揮哲剣払諸魔、䟦渉妖山与怪河、我入雲州先欲問、人狐消息近如何、

(かつて哲理の剣をふるってもろもろの魔ものを打ち払い、あやしげなる山や河をふみわたったものである。私が出雲の国に入ってまずたずねたいのは人狐〔ひとぎつね〕についての消息はちかごろどうなのであろうかということなのだ。)

 津和野町宿所は綿屋旅館なり。

 三十日 晴れ。昼夜二回、小学校において開演す。郡長土肥忠雄氏、郡視学川島秋太郎氏、校長青直樹氏、町長原新七氏、哲学館出身頼峰徳準氏、有志家堀九郎兵衛氏等の発起にかかる。津和野は四面めぐらすに山岳をもってし、深谷の間に僻在すといえども、その風光の人目を引くは、青野山の泰然として安座するところにあり。

  石南一路入仙源、満目風光洗百煩、青野山衝碧空立、津和川破白雲流、

(石見の南部を一路仙人の住むような地に入った。見渡すかぎりの風光はあらゆる世のわずらわしさを洗い流すかのようである。青野山は青空をつきあげるように立ち、津和野川は白雲をやぶるように流れている。)

 県庁より藤岡宏氏の来問あり。

 五月一日 快晴。朝気、霜を帯ぶるがごとし。郡視学とともに畑迫村〈現在島根県鹿足郡津和野町〉小学校に至りて開会す。村長堀毎之助氏、校長小川恒太郎氏等の発起にかかる。本郡に入りてより第一に客眸に触るるものは、赤色の屋根瓦を用うるにあり。畑迫のごとき一村は、瓦のために赤しといいて可なり。村長の宅に少憩して薄暮、津和野綿屋に帰る。途上吟、左のごとし。

  雨余渓上水声肥、樹色春深翠滴衣、一抹炊煙天欲暮、時看童子采薇帰、

(雨あがりの谷川は水音もたかく、樹々の色にも春たけなわのおもむき深く、みどりは衣にしたたりそめるかのようである。一抹の炊事の煙がたちのぼるうちに日も暮れようとし、ときに、わらべがわらびを摘みとって帰えるのを見たのであった。)

 二日(日曜) 晴れ。横山郡書記の先導にて日原村〈現在島根県鹿足郡日原町〉丸立寺に至りて開演す。村長内藤留治氏、有志家水沢直太郎氏等の主催なり。しかして宿所は林屋旅館なり。これより高津川船運の便あり。

 三日 雨。哲学館大学出身馬場樹心氏および美濃郡役所書記岡崎格氏と同行して、美濃郡豊田村〈現在島根県益田市〉字横田に入る。宿所は有志家潮房太郎氏の宅なり。午後、小学校にて開演す。校長は安原正男氏なり。開催は豊田、高城両村の発起にして、豊田村長椋熊治郎氏、同助役澄川益太郎氏、高城村長石川房次郎氏をはじめとし、各校長等の尽力に成る。郡長千代延聡建氏、郡視学田中為一氏も雨をおかして来会せらる。宿所主人潮氏は矍鑠たる老翁にして、柑橘を培養するをもって楽しみとす。よろしく柑仙と称すべし。

 四日 晴れ。天気晴朗、紫明の山水に応接しつつ高津村〈現在島根県益田市〉に至る。これ柿本人丸逝焉の地なりとて、社を建ててこれを祭る。県社なり。会場は教西寺にして、住職を宮内義亮氏という。宿所は山下喜三右衛門氏の宅なり。開会発起者として尽力せられし人々は、村長河津直二氏、局長服部佐市氏、郡会議員隅崎与吉氏、有志家池野、植木、山下、永富、石橋、尾木、狩野等の諸氏なり。この地には柿本社の外に蟠竜湖の勝あり。

 五日 曇り。高津を辞するに臨み、一首を賦す。

  高津川上路横斜、尋到人丸社畔家、終夕思歌々未就、不呈一句忽回車、

(高津川のほとりの道は横ざまにあるいは斜めに通じ、柿本人麻呂をまつる人丸社近くの家をたずねた。夜もすがら歌わんことを思いつつついにできず、一句も示すことなくたちまち車をめぐらせたのであった。)

 途中、益田町順念寺に一休す。これ馬場樹心氏の寺なり。これより岡崎郡書記とともに渓水にそいて上ること数里、東仙道村〈現在島根県美濃郡美都町〉に至る。会場は学校にして、宿所は野村茂吉氏宅なり。開会は校長福知繁次郎氏、住職吉部諦念氏、前田修三氏(哲学館出身)等の発起による。

 六日 晴れ。更に渓上にさかのぼること一里半にして都茂村〈現在島根県美濃郡美都町〉に達す。残春の山光また愛すべし。

  仙道渓頭破暁霞、懸崖曲折路如蛇、葉間点々紅交紫、不見行人只見花、

(仙人のふみ通うような道が谷ぞいにあり、あかつきのもやをつき破るように行けば、おおいかぶさるけわしい崖がまがりくねり、道もそれにしたがって蛇のごとく曲折する。木々の葉の間には点々と紅と紫の色がまじってみえ、道を行く人もなくただ花の色を見るのみであった。)

 両崖には緑葉の間に往々、蹲躅花と桐花と藤花とを散見す。都茂会場は清源寺にして、主催は村長山根啓治氏および寺戸定人氏、木戸竜蓋氏なり。

 七日 晴れ。益田行途上、町長椋本正道氏、署長橋本喜次郎氏、田中郡視学等の迎行あるに会す。宿所順念寺に入る。午後、公会堂〔益田町〈現在島根県益田市〉〕にて開会す。階上満員、床まさに落ちんとするのおそれあり。当夕、宿寺において婦人会のために演説す。益田町は石州第二の都会なれば、したがって聴衆また、昼夜ともに群聚す。

 八日 晴れ。昼夜両度、宿寺において開演す。発起者中の主なるものは郡長、郡視学をはじめとし、馬場樹心氏等の諸有志とす。校長は山路忠恭氏なり。宿寺所蔵の「藤岡氏生死巻」を読み、所感二首を賦して、もって山主に贈る。

  掃尽心中煩悩埃、生何足喜死何哀、凡夫与仏元同体、無悟無迷無去来、

(心のなかの煩悩のほこりをはらいつくす。生というものをいったいどうして喜ぶに足るとし、死をどうしてかなしいとできようか。凡夫と仏とはもとより一体であり、悟ることも、迷うことも、去来することもない境地なのだ。)

  誰言人世本無常、諸法寂然万劫長、若向西方念真仏、必遊不生不死郷、

(だれが人の世はもとより常なしといったものか、諸法は寂然としてきわめて長く、もし西方に向かってみ仏に念ずれば、必ずや不生不死のさとに遊ぶであろう。)

 九日(日曜) 晴れ。更に渓流に沿いて上り、種村〈現在島根県益田市〉竜光寺に至りて開演す。主催は青年親友会にして、住職川本義教氏、村長松永専蔵氏、校長中尾佐太郎氏、農会長斎川晴雄氏等の発意なり。

 十日 晴れ。馬上、緑煙を破りて安田村〈現在島根県益田市〉に移る。宿所矢富半次郎氏の宅は海に面し、一碧万頃を望むところ、実に壮快を覚ゆ。楼名を定めて対碧楼とし、かつ題するに一詩をもってす。

  楼向北溟遥処開、万波一碧望無隈、曾聞日露戦酣日、遠聴砲声呼快哉、

(対碧楼は北の海に向かってはるかかなたを見渡せ、波のすべてと紺碧一色をかぎりなく望み得る。かつて、日露戦のたけなわなる日には、遠く砲声をきき、快哉を叫んだものだと聞いた。)

 会場は観音寺、主催は青年会、発起は会長大久保浅吉氏、副会長厚東伴吉氏、村長伊藤清太郎氏、県会議員大島牧太氏、および前田得念氏等なり。郡長千代延氏またここに来会せらる。

 十一日 晴れ。一半人車、一半轎輿にて鎌手村〈現在島根県益田市〉西楽寺に移る。住職川本法味氏は哲学館大学出身たり。山門新たに成り、渓を隔てて望むことを得。

  軽輿緩々度林巒、坐臥不知行路難、今日初来西楽寺、山門屹立隔渓看、

(軽やかな輿〔こし〕はゆっくりと林や岳を越えて行き、起きふしにもゆく道のけわしさはわからぬ。こんにち初めて西楽寺をたずねたが、山門が高くそびえて谷をへだてて見えるのであった。)

 馬場樹心氏および郡書記、余を送りてここに至る。別れに臨みて馬場氏に、「矛盾せる事のみ多き世なりとて若き男をババサンと呼ふ」の狂歌一首を贈りて後日の笑いぐさとなす。

 十二日 雨。鎌手を去りて那賀郡三隅村〈現在島根県那賀郡三隅町〉に転ず。会場および宿坊は正楽寺なり。主催は数カ村連合にして、三隅村長澄川民助氏、西隅村長田中時太郎氏、岡見村長寺戸善吉氏、古市場、西湊組合村長大橋茂太氏、井野、芦谷組合村長三浦慶太郎氏等、みな尽力あり。郡役所よりは郡視学苅田吉四郎氏、ここに出張して斡旋せらる。

 十三日 晴れ。三隅より浜田町〈現在島根県浜田市〉に移る。途中、哲学館大学出身たる多田知敏氏(中学校教員)、出でて迎えらるるに会す。駅道曲折、海山の間を出没して行く。往々、風光の明媚なるを認む。

  合海又離海、出山還入山、軽車石州路、尽日水雲間、

(道は海にあい、また海を離れ、山より出たかと思えば、また山に入る。軽やかな車が石見の道を行けば、一日中、水と雲の間を抜けてゆくかのようである。)

 また、雲石二州を対照して賦したる一首あり。

  石見山銜石、雲州水帯雲、此雲兼彼石、随処入詩文、

(石見の国の山は石をふくみ、出雲の国の水は雲をおびている。この雲はかの石を兼ねて、随所に詩文に入るべきものなのだ。)

 浜田町の宿所および会場は楓川教校なり。しかして主催者は郡長猪股定重氏、町長三浦博智氏なり。昼夜二回、ともに聴衆、堂にあふる。約二千人と目算せらる。すこぶる盛会を得たり。郡長および町長の指揮の下に、苅田郡視学をはじめ郡書記福原磯助、佐々木富次、平野五郎、平島錦一郎、町書記加藤重貞、斎藤好太郎、今村松治、千野菊太郎、千代延平作等の諸氏、奔走の労をとらる。銀行頭取田中知邦氏も助力あり。真光寺住職大原義賢氏、郡会議員岡本俊信氏には十八年ぶりにて再会せり。杵束村、雲城村へは時日なきをもって巡回を謝絶せしは遺憾なり。

 十四日 晴れ。浜田を去り、国分村〈現在島根県浜田市、江津市〉金蔵寺に至りて開会す。聴衆、堂に満つ。住職朝枝誓実氏は朝鮮平壌以来の相識なり。主催は朝枝氏および村長吉野留次郎氏にして、校長岡本常吉氏、教員尾崎竹一氏、朝田周一氏もまた助力あり。

 十五日 晴れ。有福村〈現在島根県浜田市〉に移る。会場は光現寺にして、宿所は温泉旅館観泉楼なり。しかして主催は村長森脇惣一氏、住職福島僧潭氏なり。温泉場は渓谷の間に僻在せるも、浴客雲集、ほとんど空室なし。

  石北小渓将尽辺、源頭一帯浴楼連、寒村生計為湯暖、振古称来有福泉、

(石見国の北部の小さな谷がまさに尽きるあたり、みなもとのほとり一帯には温泉旅館が軒をつらねている。このわびしげな村の生活は温泉のおかげでゆたかであり、むかしから福泉と称せられてきたのである。)

 十六日(日曜) 雨また晴れ。会場は川波村〈現在島根県江津市〉大字敬川蓮敬寺にして、宿所は有志家横田逸太郎氏の宅なり。しかして主催は横田氏、千代延寛二氏、黒川坂太郎氏、寺迫幸太郎氏等なり。

 十七日 晴れ。江津村〈現在島根県江津市〉西暁寺にて開会す。同寺は先年巡回の際、宿泊せし所なり。主催は住職旭行俊氏、村長徳田繁嗣氏、助役日高万次郎氏、校長森藤保吉氏等となす。

 十八日 晴れ。江津滞在、一作あり。

  江津川上一橋長、両岸山田麦欲黄、仙客不知農事急、酔余呼枕臥僧堂、

(江津川の上に一本の長い橋がかけられ、両岸の山や田には麦が黄色になろうとしている。仙人のごとく俗事にうとい旅客は農事の多忙も知らぬげに、酔ってのちには枕をとりよせて僧堂にねるのであった。)

 当地は県下第一の長流郷川の河口にあり、これに架したる長橋もまた県下の第一なり。昼間は蝉声を聞き、夜間は蚊帳を用う。

 十九日 晴れ。跡市村〈現在島根県江津市〉千田浄光寺にて開会す。住職能美貞政氏は十八年来の旧知たり。石州大坊の一に算せらる。

  麦風一路入千田、寺在武陵渓上辺、仙洞猶知春已尽、老鴬声裏聴新蝉、

(麦に吹く風のなかを一路千田の村に入った。寺院は武陵桃花源のような谷川のほとりにある。仙人の住むようなところにも春はすでにすぎようとしていて、春が終わってもなお鳴く鴬の声のなか新たに蝉の声がきこえてくる。)

 主催は村長小武彦郎氏なり。

 二十日 晴れ。早天、猪股郡長の浜田より来訪あるに会す。わが行を送らんがためなり。苅田郡視学は懇ろに各所へ案内の労をとられたり。跡市より山行四里にして邑智郡市山村〈現在島根県邑智郡桜江町〉に入る。途中、雷雨に雹を交ゆるに会す。会場および宿所は正蓮寺なり。主催は数カ村連合にして、住職服部浄開氏、村長井上浄治氏、校長佐々木熊市氏、有志湯浅善太郎氏等、尽力あり。郡役所より書記斎藤延七氏、ここにきたりてわが行を迎えらる。

 二十一日 晴れ。市山より川本村に至るの間、一条の山道、渓流にそい上下屈曲するところ、山紫水明の趣あり。

  渓流一道午風清、花木春過夏已生、随所吟情誰不動、満山新緑杜鵑声、

(渓流ぞいの道にまひるの風も清く、花木に春はすぎて夏がすでに見られる。いたるところでなにびとといえども吟詠の情が動かされ、山はすべて新たに緑となって、ほととぎすの声が聞こえてくるのである。)

 山行七里にして川本〔村〕〈現在島根県邑智郡川本町〉に着す。会場は法隆寺にして、宿所は三上旅館なり。主催は村長寺本松若氏にして、助役河村雅美氏、住職岩誠泰氏も助力あり。郡長横山喜雄氏と会食し、食後、有志諸氏のために座談をなす。郡視学は中谷昌左氏なり。

 二十二日 晴れ。馬上渓行、三里ばかりにして断魚渓に達す。これ山陰道の耶馬渓の称あり。その中心は千席澗にして、一石その広さ千席をいるるべし。その石間に一条の渓流かかりて瀑のごとし。魚上りてここに至ればまた進むを得ず、故に断魚の名を有す。前に楯巌の絶壁あり、上に馬背山の奇峰あり。澗頭石を席として樽を開き、杯を含みて回望する間に、左の二首を得たり。

  一渓水貫碧山流、桟道如蛇懸岸頭、歩到断魚千席澗、看疑身入月球遊、

(渓水はみどりの山をつらぬいて流れ、桟道は蛇のように崖ぞいにかけられている。断魚渓の千丈敷きに歩をすすめれば、まるで自分が月に行って遊んでいるかと思われたのであった。)

  路入断魚心欲馳、鬼峰神澗眼前披、停笻歎賞天工妙、一石刻成十二奇、

(道は断魚渓に入ってわが心は馳せめぐりたい思いにかられた。馬背山の峰や千人敷きの広い渓谷が眼前にひらける。杖をとめて自然のたくみな造形に感嘆した。この岩場には十二の景勝があるという。)

 前後の奇景、合して十二種ありという。ときまさに初夏の候にして、緑葉森々の中、交ゆるに残花をもってし、鴬語蝉吟の間に鵑声の伴うありて、奇勝に風致を添うるの妙あり。多数の歓迎者に導かれて、矢上村〈現在島根県邑智郡石見町〉服部利夫氏の宅に入る。会場は妙賢寺なり。村長奥野作太郎氏、校長大島茂太郎氏、宗教家河智大遵氏、白須真覚氏の発起にかかる。

 二十三日(日曜) 晴れ。この日また鞍馬に鞭うちて嶺をこえ、市木村〈現在島根県邑智郡瑞穂町、那賀郡旭町〉に移る。会場は巨刹浄泉寺にして、宿所は酒井旅館なり。村長中島重寿氏の主催にして、住職朝枝蓮城氏、校長三田史郎氏、局長石橋忠市氏等の助力あり。この地、浜田より広島に通ずる駅路に当たる。

 二十四日 晴れ。車道をとるために迂回して芸州に入り、更に石州に入り、出羽村〈現在島根県邑智郡瑞穂町〉に至る。その道程九里に及ぶ。

  市木村南路、石山与芸連、車行纔半日、穿破二州烟、

(市木村の南の道は、石見の山と芸州とをつなぐ。車で行くことほぼ半日で、この二州のかすみを破って進んだのであった。)

 会場は小学校なるが、聴衆群れをなす。主催は村長三上五一郎氏にして、宿所もその居宅なり。しかして他村長日高勝人氏、兼崎源太郎氏、末田光次郎氏、校長菅原荒夫氏等、助力あり。当地は旧来鋼鉄の産地なりという。

 二十五日 晴れ。出羽を去りて都賀に至るの途中、すでに挿秧を見る。邑智郡はいたるところ連山波をなし、平地に乏しきも、渓谷の間水田をもって満たされ、山上はことごとく林木繁生し、一の禿山を見ず。嶺をおりること数十曲にして郷川を渡り、都賀村〈現在島根県邑智郡大和村〉本郷西円寺にて開会す。宿所田中旅館の新室に命名して紫明台とす。

  羊腸一路曲千回、車自緑陰堆裏来、夏木森々渓水碧、呼舟尋到紫明台、

(細くまがりくねる一すじの道は千回もめぐるかと思われたが、車は緑のうっそうとしげるなかからあらわれでた。夏の木々は高くそびえて茂り、谷の水はあくまでもあおく、舟を利用して紫明台にたずね至ったのである。)

 主催は村長田中謙三郎氏にして、校長田中房太郎氏、神官山東有仲氏、宗教家岡波、高橋、金沢諸氏、これを助く。

 二十六日 雨。舟行三里、浜原村〈現在島根県邑智郡邑智町〉に至る。江上の煙景は詩をもってこれを写す。

  江上晴風一棹閑、銜杯愛見翠屏山、問君春過紅何処、不在残花在酔顔、

(川面には晴れた日の風が吹き、舟のさお使いもまたのどかであり、杯をかたむけつつ緑をまとってたちふさがるような山をいとおしく眺める。こころみに問うが、春はすぎてあの花のくれないはいったいどこにあるのであろうかと。なごりの花もなく、いまや酔った顔にあかみがあるのだ。)

  一川百折水高低、両崕山光緑欲迷、如矢急湍送舟去、浜原猶在数峰西、

(川はいくえにも折れ曲がり、高低をくり返すように流れて、両側の崖と山影の緑に迷う思いがする。矢のゆくような急流に船は送られて行くのであるが、浜原村はなおいくつかの峰の西方にあるのだ。)

 会場は小学校にして、村長小割元吉氏、校長坂本増治氏、住職熊谷恵海氏の発起なり。横山郡長、送別のためにここに来会せらる。郡内巡回中は斎藤郡書記、始終同行して諸事斡旋の労をとられたり。当夕、旅館に宿す。

 二十七日 晴れ。山行五里にして迩摩郡大森村〈現在島根県大田市〉に着す。途上の風物、詩中に入るる。

  我行今日度崔嵬、渓上孤村向水開、児女相呼路傍立、指頭点々算車来、

(今日、私は岩石のごろごろとある険しい山を行く。谷のほとりにぽつんと村が水流に向かってひらけている。児女が声をかけあって道の傍らに立ち、指の先で一台ずつ車をかぞえているのである。)

  夏山経両緑逾清、一道薫風覚暑生、花落深渓無客過、鴬残猶有弄春声、

(夏を思わせる山は雨にぬれて緑はいよいよ清らかに、道を吹く薫りたつ風に暑さのふくまれていることを感じた。花の散った深いたには通る旅人もなく、なごりの鴬の声になお春をめでる音色があるようだ。)

 大森町会場および宿寺は西性寺にして、昼夜二回いずれも盛会なり。主催は町長河泉波衛氏にして、西性寺住職竜善明氏、永泉寺住職赤松慈潭氏これを助く。郡長片野淑人氏、郡視学勝部貞太郎氏、郡書記清水光虎氏も来会して、諸事を指示せらる。当所も余が再遊の地なり。

 二十八日 晴れ、ただし雷雨あり。大家村〈現在島根県大田市〉明円寺にて開会す。小笠原了遠氏その住職たり。村長今田正雄氏および他村長武田靖十郎氏、三浦多一氏等の発起にかかる。その翌日は東宮殿下行啓の一期年なれば、小学校にて祝意を表するの挙あるを聞き、「学窓留鶴影」(学校の窓に東宮殿下のお姿がとどまる。)の五字を書して寄贈す。

 二十九日 晴れ。明円寺より波積村〈現在島根県江津市〉光善寺に移りて開会す。住職は波北功城氏なり。寺は大家山の脚下にあり。

  大家山脚近、光善寺門深、樹密午陰鎖、清風足洗心、

(大家山のふもとに近く、光善寺の門は奥深い。樹々がこまやかに立ち、ひるまの光をとざし、清らかな風はよく心を洗うに十分なものがある。)

 発起は波積村長山崎徳市氏、福浦村長福富章次氏、福光村長香川小市氏なり。

 三十日(日曜) 晴れ。温泉津町〈現在島根県迩摩郡温泉津町〉西楽寺にて開演す。郡内屈指の大伽藍も聴衆をもって充溢す。住職菅原誓成氏、町長山田信太郎氏を主催とし、大浜村梅田謙敬氏、木村紏夫氏、湯里村三明得玄氏、家迫伊三郎氏等の発起なり。当所は港湾と温泉を有す。午前、入浴を試む。

  一碧湾辺有小津、四時泉湧暖如春、楼頭不独風光美、浴後呼杯魚亦新、

(青々とした湾に小さな港があり、いつも温泉が湧き出て春のような暖かさをかもしだしている。階上から見渡しての風光の美しさだけではない。入浴後にかたむけた杯と魚もまた新鮮なものであった。)

 西楽寺の後庭は一大断嵓の屏風のごとく立ち、その中腹に一龕を嵌ぜしは、奇にしてかつ趣あり。夜に入りてこれに光を点ずれば、あたかも竜眼を見るがごとし。故にこれを竜眼灯と名付けて可なり。

  再来西楽寺、依旧石成屏、初夜竜開眼、一光照樹青、

(再びこの西楽寺を訪れてみれば、もとのままに岩が屏風のように立っている。夜になって初めて岩の中腹にうがたれた竜眼のごとき龕に灯がともされ、竜の眼の開かれたような感じでその光は樹の青さを照らしたのであった。)

 三十一日 晴れ。早朝より天神山公園に登りて遊覧し、亭名を選して雲波亭、松月亭と書し、更に車を駆りて石州の一勝地たる琴浜に至る。京北中学出身者山崎久敬氏、あらかじめ砂上に小亭を仮設してわが行を迎う。人の砂をふみて行くに、その声琴音に異ならず。

  馬路浜頭傍水行、曾聞此地有琴名、白沙一帯清如洗、歩々自成天楽声、

(馬路の浜辺を海にそって行く。かつてこの地には琴の名がつけられていると聞いた。白い砂のところは清らかにあらったかのごとく、一歩一歩の足もとからその名のごとく天然の琴の音が起こるのであった。)

 この辺りすべて余が旧遊の跡なり。更にまた車を飛ばして大国村〈現在島根県迩摩郡仁摩町〉満行寺に入る。石州第一の大坊なり。小笠原浄覚氏これに住す。開会は大国村長中原乙市氏、有志家安井好尚氏、馬路村長小田善之助氏、宅野村長河峰卓郎氏等の発起にかかる。安井氏は旧知にして、開会に尽力あり。遠く浜原まで出でてわが入郡を迎えられたり。聴衆満堂、千人以上と称す。

 六月一日 晴れ。朝来、海浜にそいて車行し、左方に辛島を望み、波光松影の間を縫って、五十猛村〈現在島根県大田市〉正定寺に至り、ここに開演す。村長柿田徹夫氏、浄円寺住職藤本文豪氏等の発起にかかる。また、林愛吉氏の宅に少憩して留精松を見る。

  留精松是世伝喧、尋得山陰深処村、驚見一幹囲六尺、九岐二十五枝繁、

(留精松は世に広く喧伝されるところであり、いま山陰の地の奥深い村にたずねることができた。幹の周囲は六尺、九本に枝わかれし、さらに二十五本の枝が繁茂するさまを驚き見入ったものである。)

 午後、静間村〈現在島根県大田市〉に転進す。会場は円通寺、宿所は楫野卯一郎氏の宅なり。別室新たに成り、楽善堂という。正面に三瓶山を雲際に望む。題するに一絶をもってす。

  楽善堂成結構新、薫風一夜寄吟身、隔烟瓶岳濛難認、只与蛙声月色親、

(楽善堂が新たに竣成して立派なものである。かおり高い風の吹く一夜、吟遊の身を寄せた。かすみにへだてられて三瓶山はぼんやりととらえがたく、ただ蛙の声と月の光にしたしんだのであった。)

 発起者は宿所主人をはじめ、村長楫野義雄氏、同卓治氏、石川勝貞氏、山内条之助氏等なり。片野郡長もここに来会せらる。本郡内は各所開会に郡視学および郡書記、交代して案内の労をとられたり。

 二日 晴れ。安濃郡大田町〈現在島根県大田市〉にて開演す。会場は明善寺、主催は至成会、宿所は本田禎次郎氏の宅なり。当所は郡役所所在地にして、助村一氏その郡長たり。夜に入り、天神倶楽部にて婦人会のために講話をなす。会長は助村寅子なり。至成会の方は宿寺住職竜末法憧氏、県会議員福間貫造氏、助役浜田栄次郎氏、銀行員吉村金作氏等の発起にかかる。宿所主人本田氏も尽力あり。隣村長久村は日割の都合にて開会できざるために、ここに連合することとなる。村長は植地郡次郎氏なり。

 三日 晴れ。大田町滞在にて開会す。郡視学中林八太郎氏は郡内各所同行を約せらる。

 四日 曇りのち雨。車行四、五里、三瓶山の右麓をめぐり、佐比売村〈現在島根県大田市〉字志学温泉場に至る。途上、牧場を過ぎ、牛馬点々意に任せて野草の間に起臥する状は、あたかも欧米内地を旅行するの観あり。会場は西教寺、宿所は北原旅館、主催は教育会なり。すなわち会長森山義八郎氏、村長花田治太郎氏、校長坂田惣太郎氏等の発起にかかる。旅館内に入浴場あり。温泉、瀑のごとく落ちきたり、泉量の豊富なるは他に多く見ざるところなり。

  三瓶山腹沸泉清、一浴初知志学名、洗去身塵与心垢、何人不起読書情、

(三瓶山の中腹に清らかな温泉が湧き出ており、入浴してからはじめて志学〔論語の為政篇に、吾、十有五にして学に志す、とある〕温泉の名であることを知った。かくて身の塵と心の垢とを洗い流せば、いかなる人も読書への意欲を起こさずにはおられぬ。)

  佐姫岳麓荒原濶、志学泉頭浴客多、誰道山中無美味、三瓶蕎麦勝更科、

(佐姫嶽〔佐比売山〕のふもとに荒原がひろがり、志学温泉には浴客が多い。いったいだれがこの山中には美味はないなどといえようか、三瓶の地の蕎麦は信州の更科蕎麦よりも美味である。)

 蕎麦、山葵等は三瓶の名物なり。その地、高燥にして消夏避暑に適すという。陸軍演習地あり。

 五日 雨。腕車、風雨と戦い、川合村〈現在島根県大田市〉善性寺にきたりて開演す。住職菅洪範氏、余にもとむるに堂号を選ばんことをもってす。その人となり、心広く体胖〔ゆたか〕なるの風あり。かつ洪範は広胖と音相通ずるをもって広胖堂と命名し、これに添うるに一詩をもってす。

  初逢如荘士、再会似禅僧、雄弁流無尽、堂々説大乗、

(初めて逢ったときにはまるで壮士のような印象を受けたが、二度目のときには禅僧のおもむきがあった。口を開けば雄弁にして流れるように尽きることなく、堂々として仏教の深遠な教理を説くのである。)

 主催は村長佐々木清四郎氏にして、有志家丸清左衛門氏、校長大久保盛入氏等これを助く。当時、挿秧中なり。

 六日(日曜) 晴れ。波根西村〈現在島根県大田市〉に至りて開演す。会場は小学校にして、主催は教育会なり。当地は養蚕最中なるにもかかわらず、多数の聴衆あり。宿所は有志家有馬完次郎氏の宅なり。門庭めぐらすに松樹をもってし、樹間より波根湖を望むを得。

  村外高人住、松陰鎖半庭、巒光和水色、烟凝一軒青、

(村はずれの高みに住まいする人があり、その門庭をめぐって茂る松樹のかげは庭のなかばをとざしている。山の影と波根湖の水の色とがなごみ、たなびく煙は青味をおびて軒にまつわっているのである。)

 よって軒名を選して煙青軒とす。

 七日 晴れのち雨。滞在、松林寺にて開会す。両日間の尽力者は村長三谷清七氏、宿主有馬完次郎氏、校長吾郷幸次郎氏、局長有馬寛一郎氏等なり。また、刺鹿村円光寺のもとめに応じて「遥望円光寺、忠魂碑柱長、英霊千載下、当有此円光、」(はるかに円光寺を望めば、忠魂碑が高くそびえている。英霊は千年の後世まで、まさにこのみ仏の円光のうちにある。)の詩を賦す。

 八日 晴れ。波根東村〈現在島根県大田市〉に移る。会場および宿坊たる長福寺は、村を離れ山によりてすこぶる静閑なり。住職を清水臨応氏という。主催者は加藤公平氏にして、大いに尽力あり。助村郡長ここに来会せらる。中林郡視学も最初より同行してここに至る。これ石州開会の最後なり。本県巡回中、各所において余の好むところに応ぜんとて、食品調理に意を凝らす人ありと聞き、左のごとく好むところをつづる。

  (われの好むところは)われすきは豆腐、味噌汁、香の物、とはいえなんでも人のくうもの、

  (われの好まざるは)われすかぬものは間食ばかりなり、御茶の外には間飲もせぬ、

  (わが酒は)朝はいや昼は少々、晩たっぷり、とはいうものの上戸ではなし、

 九日 雨。今市町より高等小学校長坂倉周作氏出でて迎えらるるに会し、氏とともに石州を去りて雲州に入る。田岐茶亭にて少憩の際、簸川郡長須藤虎吉氏、郡視学佐藤賢伍氏の歓迎あり。田岐村長落合義雄氏もここに会す。杵築湾の風光、雲煙のために遮られて見ることを得ざるは遺憾なり。これより郡視学の前駆にて今市町〈現在島根県出雲市〉黒崎旅館に入る。この日、行程九里なり。

 十日 晴れ。午前、女子師範学校において講話をなす。出席者は師範校生および高等女学生なり。永瀬伊一郎氏その校長たり。校内清潔にしてかつ整頓せり。午後、高等小学〔校〕において開演す。養蚕の時期にもかかわらず、千人以上の聴衆あり。発起者は町長日野卯助氏、校長坂倉氏、神官須佐建勲氏、同金本由之助氏、僧侶松田誓乗氏、清原峻峰氏、哲学館大学出身板倉慶之助氏、町書記松井金八郎氏等なり、みな尽力せらる。夜に入り、寺院にて婦人会のために演述す。今市婦人会長は遠藤良子にして、仏教婦人会長は竹原ヤス子なり。

 十一日 晴れ。松江仏教会幹事長河内忠助氏、幹事湯原弥一郎氏の案内にて、荘原より汽船に乗じ、十一時、松江市〈現在島根県松江市〉に着す。県庁事務官鯉沼巌氏、市長福岡世徳氏、弘道会支会長中村秀年氏、市助役兼教育会長高橋義比氏、市学務課長伊藤蔓之助氏、および松江仏教会諸氏等、数十名の歓迎に接す。宿所は大橋旅館なり。午後、洞光寺にて開会す。松江仏教会の主催なり。夜中、西光寺藤原氏の依頼に応じ、恩敬寺にて大谷派婦人会のために演述す。

 十二日 晴れ。午後、同じく仏教会のために明宗寺にて開演す。両日とも盛会なり。仏教会は河内、湯原両氏の外に秦、万田、林、石倉、長岡、三木の諸幹事および顧問長谷川宇一郎氏、曾田吉右衛門氏等、みな大いに尽力あり。当日、丸山知事、藤本、鯉沼両事務官等を訪問す。哲学館大学出身坂本教訓氏(農林学校教員)および関元松氏(天倫寺住職)の来訪あり。片寄義研氏は当市所住の由なれども面会せず。松江客中の作二首あり。

  烟水微茫月未生、楼頭回望夜分明、一条橋路人如織、都在電灯影裏行、

(かすみのかかった水もさだかでなく、月もまだのぼらず、客楼に見まわせば夜のとばりがおりる。かけられた橋を行く人は織るように多く、なにごとも電灯の光のなかに進行しているのである。)

  船入山陰第一都、宍湖風月勝琶湖、三層楼上呼杯坐、酒有正宗膾有鱸、

(船は山陰の地の第一の都に入った。宍道湖の風月の美は琵琶湖以上である。三層の楼上より酒杯を頼んで座せば、酒は正宗であり、なますはすずきであった。)

 十三日(日曜) 雨。午後、旧城跡公園を遊覧し、天守閣に登臨し、東宮殿下奉迎殿を拝観し、後に市会議事堂に至りて開演す。松江市弘道会支部および市教育会の主催なり。すなわち福岡市長、高橋助役、伊藤課長、中村支部長、足羽副長等の発起にかかる。当夕、臨水亭の晩餐会に出席す。師範学校長児玉鑑三氏をはじめとし、五、六十名の紳士相会す。宍道湖上吟一首あり。

  巒是枕屏湖是盆、芙蓉一朶挿天門、古神曾構斯仙殿、結得八重垣上婚、

(山をもって枕屏風とし、宍道湖をもって盆と見なし、蓮の花の一枝を天の宮門にたてる。いにしえの神〔素戔嗚尊(すさのおのみこと)、奇稲田姫(くしいなだひめ)の二神〕はかつてここに宮殿をかまえ、幾重にもつくられた垣根のうちにすまわれたのであった。)

 十四日 晴れ。松江を発するに当たり、諸氏の送行をかたじけのうす。以下は隠岐紀行の部に入るる。

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島根県紀行第二、隠岐の部

 明治四十二年六月十四日、隠岐に渡らんと欲し、松江市より汽車に駕し、米子を経て鳥取県西伯郡境町〈現在鳥取県境港市〉に至る。旧知友郡視学羽山八百蔵氏の出でて迎うるに会す。会場は小学校、主催は町役場、旅館は油屋なり。すなわち町長加島恵太郎氏、校長杉山喜代美氏、光祐寺主菅原慶禅氏等の発起にかかる。楼上の晩景、詩中に入るる。

  一湾碧水狭如川、楼上送迎来去舟、雲隠斜陽望還好、汽烟凝処暮山円、

(この湾のみどり色の水は対岸との間に川のように狭く、旅館の階上から往来する舟を送迎する。雲は夕日をさえぎって一望するにまたおもむきがあって好ましく、汽船の煙がかたまっているあたり、暮れなずむ山もおだやかである。)

 十五日 晴れ。朝来、羽山視学、黒見助役とともに美保神社に詣す。舟行三十分にて達すべし。社頭吟、左のごとし。

  美保関将尽、社頭風月閑、客楼茶当酒、笑対大神山、

(美保関の町の尽きようとするところ、美保神社のあたりは清風と明月とともにのびやかである。客舎の茶は酒であるべく、笑いつつ大仙山に対面したのであった。)

 大神山は大仙をいう。当社は穀種を出だす。遠近よりきたりてこれを受くるもの多し。午後、大篠津村〈現在鳥取県米子市〉小学校にて開会す。村長は安田正氏、校長は安田節三氏なり。境町に帰宿す。隠岐より東島司文輔氏、視学安部栄重氏、哲学館出身魚山徳次郎氏、海士村書記村上盛太氏の来航あるに会す。

 十六日 晴れ。安部、魚山、村上諸氏とともに払暁五時乗船。海上穏晴なるも、波やや高し。舟中吟一首あり。

  向隠岐投客舟、晴空遠影入吟眸、伯山如立雲山臥、対坐欲談前後洲、

(はるか隠岐に向かう客船にのれば、晴れた空に遠く島かげが吟詠のひとみに見えた。白山は立ちふさがるように立ち、雲のかかる山々が臥すように見え、対座して島前、島後とかたりあおうとしているかのようである。)

 午前十時、隠岐の崎港に入る。これより数港を経由して午後二時、海士村〈現在島根県隠岐郡海士町〉菱港に着す。歓迎、人山を築く。ただちに宿所竹中旅館に入る。楼頭の晩望、画中の趣あり。

  夕陽影裏坐軒端、海似菱形狭又寛、天未全昏山已暗、水為明鏡照欄干、

(夕日の光のなかで軒ばたに座せば、海は菱形にひらけて広さと狭さとがある。空はまだ全く暗くなったわけではないが山はすでに暗くしずみ、海水は明鏡となって欄干に照りはえている。)

 当夕、前代議士渡辺新太郎氏、村長小谷琢五郎氏等と会食す。渡辺氏の歓迎の詩韻をつぎて左の一絶を賦呈す。

  薫風何処洗塵心、一夜寄身家督陰、隠海波根猶覚浅、比君情底万尋深、

(かおり高い風にいずこで世俗の塵に汚れた心を洗おうか、まさに一夜を家督山のふもとに身を寄せて洗われる思いがした。隠岐の海の波の根はなお浅く思えて、思わず君の情の万尋の深さにくらべてしまうのである。)

 村内の高峰を家督〔あとど〕山という。

 十七日 晴れ。午前、魚山氏の宅にて茶菓の饗応にあずかり、更に湾を渡りて後鳥羽上皇の御陵を参拝す。陵は諏訪湾頭にあり。所感二首を賦す。

  古陵寂々鎮林巒、一拝々終千感残、絶海潮風孤島雨、当年天子御魂寒、

(後鳥羽上皇の御陵は古色ただよい、ひっそりと林や山をしずめたまい、いくたびか拝礼しおわれば多くの感慨が起こる。絶海の潮風と孤島の雨は、その当時、天子のみたまをこごえさせたことであろう。)

  諏訪湾頭有廟門、拝陵帰去暗消魂、誰知七百年前事、欲問老松々不言、

(諏訪湾のほとりに廟の門が立ち、御陵に参詣して帰れば人知れず深く感じて魂もきえるかと思われた。いったいだれが七百年前のことを知っていようか、老いた松にたずねんとするも松はなにごとも語らないのだ。)

 村役場に少憩し、海士小学校に至りて開演す。目下挿秧最中、農家繁忙なれば、中等以上のもののみ来聴す。当夕、竹中旅館に帰宿す。旅館は通称菊屋という。眺望の佳なるは誇るに足る。

 十八日 晴れ。午前、対岸の黒木村〈現在島根県隠岐郡西ノ島町〉に渡りて開会す。後醍醐天皇行在所のある所なり。その跡は松巒の上に残礎を見るのみ。

  一帯翠巒湾上横、老松陰是古皇城、昔時風浪猶含恨、今日翻為万歳声、

(一帯のみどりの山は湾上に横ざまに見え、老松の陰こそは天皇行在所の跡である。むかし、風にも浪にもなお恨みがこもっていたのであろうが、今日はかえって万歳の声があるのである。)

  黒木湾頭丘一堆、皇居跡古樹将摧、想来遷幸当時事、松籟波光亦涙媒、

(黒木湾のほとりの丘にうずたかくなっていて、行在所の跡もいまや古樹がくだきさろうとしている。思えばこの地にうつられた当時のことは、おそらく松風の音も波にきらめく光も涙をさそうものであったであろう。)

 丘上の眺望尋常ならず、波光松影の間に茶菓を喫してときを移す。更に正木旅館にて喫飯の後、隣家にて開演す。村長は中西松太郎氏なり。午後、船をめぐらして菱港に至り、福井小学校において講話を開く。当夕、菊屋にて送別会を催す。興たけなわにして隠岐の俗謡ドッサリ歌起こる。ドッサリの字義ともに知るものなし。余、これを漢字に配して突去、毒去または訥去となす。その曲、楽天の調べあり。

  隠州風物自清明、海易垂綸山易耕、客舎深更聞突去、島謡猶帯楽天声、

(隠岐の島の風物はおのずから清らかにおだやかで、海はつり糸をたれるによく、山は耕すによい。旅館の深夜に突去〔ドッサリ〕の歌が聞こえてきた。島の民謡には天命を楽しむ風があるように思われる。)

  はるばると隠岐の都に来て見れば、酒も殽も歌もドツサリ

 ドッサリの一曲、「大仙山から隠岐の国見れば、島が四島に大満寺」とあるを漢訳して七絶を賦す。

  自大仙山望隠州、波間点々四洲浮、四洲浮処見頭角、角是高峰満寺頭、

(大仙山から隠岐の島を眺めると、波間に点々として四つの島が浮かんでいる。四島の浮かぶところにぬき出るものが見える。それこそが島の最高峰大満寺山なのである。)

 大満寺は隠州第一の高峰なり。全州を分かちて島前、島後とす。島前また三島に分かるる。合して四島となる。また、島前に知夫、海士の二郡あり、島後に周吉、穏地の二郡あり。地勢峰巒に富むもみな高からず、その最高峰を大満寺山という。ドッサリの後に隠岐の盆踊り起こる。越後の踊りに類す。更に第二次会を開き、ほとんど夜を徹するに至る。海士開会に関し、特に尽力せられしは渡辺、小谷、魚山三氏をはじめとし、校長宮田沢四郎氏、原六郎氏、毛利権八氏、五島金太郎氏、有志家藤田為若氏、永原安治氏、竹中菊次郎氏等なり。神官、僧侶も助力せらる。

 十九日 雨。汽船にて浦郷村〈現在島根県隠岐郡西ノ島町〉に渡りて開会す。会場および宿所は常福寺にして、主催は村長今崎半太郎氏をはじめとし、真野巌氏、真野又太郎氏、中島万次郎氏なり。島前滞在中、隠岐の生産を詠じたる一律あり。

  碧湾多出入、全島事農漁、風定海垂釣、天晴家晒魚、山田当牧畜、土窟蔵甘藷、生計皆豊富、年々食有余、

(みどりの湾に出入りする舟は多く、全島は農と漁とを仕事としている。風が静かなときにはつり糸をたれ、晴れた日には家々では魚を干す。山の畑は牧畜によく、土ぐらは甘藷を貯蔵するによい。生活はみなゆたかであり、毎年食糧にも余裕がある。)

 二十日(日曜) 晴れ。安部視学および西郷より出会せる蓮光寺青山常丸氏、哲学館出身津森百太郎氏と同乗して島後に向かい、午後五時、西郷町〈現在島根県隠岐郡西郷町〉に入港す。歓迎者多し。当日、舟中の一作あり。

  松為頭髪石為骸、応接群巒散客懐、舟入西郷日将夕、島前已被暮雲埋、

(松の樹は頭髪のごとく陸地をおおい、岩石は骨格をなしているように思われ、山々に迎えられて旅客の感懐もちりうせた。舟は西郷町に入って日はようやく暮れようとし、ふり返れば島前の島々はすでに日暮れの雲のなかにうもれていた。)

 宿所は徳田旅館なり。後楼は湾に向かいて開く。

 二十一日 晴れ。午前、短艇に乗じて湾内をさかのぼり、東郷村〈現在島根県隠岐郡西郷町〉なる商船学校に至り、生徒のために演説す。寄宿舎は船中にあり。

  扁舟一棹到商船、故為学生開講筵、海国男児須自愛、戦後重任在君肩、

(小舟に棹さして商船学校に至り、もとより学生のために講演をなす。海国の男子としては当然みずからを大切にし、日露戦の後についてこそ任務は重く、君らの双肩にかかっているのである。)

 また、「以天為屋、以海為筵、勇気一振、指揮万船」(天をもって屋根となし、海をもって敷きものとなし、勇気ひとたびふるいおこして、千万の艦船を指揮せん。)の句を書して贈る。校長は杉江吉治氏なり。午後、小学校講堂〔西郷町〕にて開演す。発起者は町長松浦寛信氏、校長大谷次郎氏、有志家高橋重太郎氏、小笹平三氏、奥村友太郎氏および小室、青砥、大西等の諸氏なり。ついで、蓮光寺において開演す。青山常丸氏の主催にして、仏教講話会、仏教婦人会等の発起にかかる。しかして婦人会長は東悦子なり。

 二十二日 晴れ。午前、小学校講堂において開演す。町内有志の主催なり。午後、中条村〈現在島根県隠岐郡西郷町〉にて開会す。会場は原田小学校、宿所は若林金太郎氏の宅、主催は村長長谷川穆太郎氏なり。西郷よりここに至る二里ばかりの間、みな水田にして秧色青々、あたかも内地を旅行するがごとき観あり。しかして山には樹木の鬱葱たるを見る。ときまさに旧暦端午に当たり、紙製の鯉魚、軒前に舞う。

  重五佳辰在隠東、行過黄麦緑秧中、山村猶守旧時俗、一紙鯉魚舞午風、

(五月五日のよき日に、隠岐の東の地に身を置き、行きすぎるところは黄色い麦と稲の苗の青々としている中である。山あいの村はなお昔の風俗を守るかのように、紙製の鯉のぼりがまひるの風の中におどっているのである。)

 二十三日 晴れ。午前、長谷川村長の尽力により、わが一行のために闘牛を演ぜしむ。番付にて大関の名を占むるものをはじめとし、幕内、幕下に加わる数十頭の牛、たちどころに相集まり、四、五回の試合を見たり。その角を組み額を合わせ、全身の体力をこれに集めて押し合うところ、すこぶる壮快を覚ゆ。闘牛もまた尚武の一道というべし。全国において闘牛を演ずるは、越後の二十村、伊予の宇和島、隠岐の島前島後の三カ所にして、越後にては牛の角ヅキといい、伊予にて牛相撲といい、隠岐にては牛ヅキといい、おのおのその称を異にするもまた奇なり。午後開会の時間迫りたれば、闘牛のいまだ終わらざるに中条を発し、鞍馬に鞭撻を加え、嶺を越えて五箇村〈現在島根県隠岐郡五箇村〉字郡に移る。その行程三里余なり。この地、国幣中社あり。宿所は社側の藤田旅館、会場は社後の小学校なり。校舎の新築は島後第一の評あり。しかして主催は助役瀬尾淨氏にして、柳原、三淵両氏これを助く。

 二十四日 雨。朝出発に際し、わが行を送るにドッサリの島謡をもってす。これより馬上、雨をおかして都万村〈現在島根県隠岐郡都万村〉鵬鳴館に至る。生徒の歓迎あり。この日の行程約五里。館は鏡のごとき円湾に対し、頭髪のごとき松巒を望み、風光すこぶる美なり。よろしく鏡浦松州の称を付すべし。会場は小学校にして、主催は村役場なり。すなわち村長乃木増一氏、助役永海赳夫氏、校長福田樂市氏の発起に成る。当夕、隠岐名物の蕎麦をもって送別の宴を張る。これ実に隠岐開会の最後なり。

 二十五日 雨。未明三時に早起して、旅装を整え、四時漁舟に乗じ、雨をつきて櫓を押すこと一時間余、幸いに村長の一樽を秘携するあれば、舟中これを開きて雨中の宴を設く。ときに酒あれども肴なし、この大雨をいかんせんとの嘆声起こる。ここにおいて安部視学、漁夫を呼びて新釣の鮮魚を割かしめ、これをなますにしてついに一樽を倒す。実に太古の遊をなせるの感あり。

高田山下一湾開、松影侵舟曙色催、有酒無殽奈斯雨、何人時購白魚来、

(高田山のもとに湾がひらけ、松の姿が舟にまでとどくように思われるうちにあかつきの気配が起こる。舟中に酒はあるが肴はなく、この雨もいかんともするなく、なにびとか時に白魚をあがないきたれるを幸いとしたのであった。)

 高田山は湾後に屹立せる奇峰なり。この間、小山並立し、おのおの青松をいただく。故に小松島の称ありという。津戸港にて汽船を待つこと約三十分にてこれに移る。津森百太郎氏は島後の各所を同行して助力せられ、ここに至りて相別る。これより菱港に寄航し、魚山氏の来訪に接し、さらに崎湾に寄航し、安部視学および亀井梵行氏と袂を分かつ。安部氏は境町以来十余日の間、同行して斡旋せられたるは、深謝するところなり。東島司〔氏〕松江行のために、島内にては相会するを得ざりき。しかしてわが行の境に帰着せるは午後五時なり。ときに八束郡長村上寿夫氏、郡書記池尻玄一氏の埠頭に迎えらるるに会し、ともに油屋旅館に入る。この日、海上平隠なり。

 隠岐を一巡してその見聞上の所感を述ぶるに、まず拙詩一首を紹介せざるを得ず。

隠島多名物、錫魚為最優、野猫狡於犬、蹄石潤如油、菱浦聞盆曲、中条見闘牛、風光明且美、到所洗吟眸、

(隠岐の島には名物は多く、スルメは最もすぐれたものである。野猫は犬よりも狡滑であり、馬蹄石は油のように潤滑である。菱浦では盆のうたを聞き、中条村では闘牛を見る。風光明媚、いたるところで吟詠の目を洗うごとく楽しませてくれたものである。)

 隠岐には、古来野猫の多きことその名物の一なり。その猫、人に憑依すという。島前には百年以前、出雲より人狐の迷信入りきたりて、狐つきにおかさるるものあるに至れるも、島後には今日なお猫つきありて、狐つきなしとのことなり。つぎに、隠岐の名産は東郷村字津井にて産出せる馬蹄石なり。その地に昔時、池月磨墨の名馬を産せしと伝うる男池、女池あり。その間よりこの石を出だす。つぎに、隠岐第一の海産物たる鯣魚〔するめ〕には必ず穴あるの特色を有す。これ、乾かすときに串をさしたる跡なり。また、耕地と牧場とを輪換する一事も他に見ざるところなり。例えば甲乙両地ありて、甲地を耕地にすれば、乙地を牧場とす。かくして四、五年を経れば、甲地を牧場に変じ、乙地を耕地に変ず。更に四、五年を経れば、また双方転換す。また、車道あれども人車を業とするもの一人もなきは不思議の一なり。各所の崖下に横洞深穴をうがち、その中に食用中の主なる薯を蓄蔵す。いわゆる薯倉〔いもくら〕なり。これ腐敗を防ぐためなるも、その穴をいたるところに見る、また奇なり。よって隠岐の七不思議を左のごとく選定せんとす。

  一、ドッサリの歌  二、薯倉  三、野猫  四、穴あき鯣  五、牛づき  六、牧耕輪換

  七、人力車のなきこと

 その他、杉皮ぶき屋根にして石を載せたるものの多きこと、川なきために材木を筏に組み立て、これを舟にて湾内をひき回ること、普通の民家には中等以上の家にても、座敷付きの便所なきこと、飯櫃は楕円形にして、両角の立ちたるものを用うること、毎朝、京都や奈良のごとく茶粥を食すること等をかぞえきたらば、十四、五の不思議となるべし。これを要するに、人は醇朴質素にして、古俗旧風を存し、忠君愛国の情に富み、外来の賓客を歓待する風あり。飲酒は一般に流行し、絶海の孤島なるにもかかわらず、楽天的の気風あり。ただし進取堅忍の気象において乏しきもののごとし。気候は冬も寒からず、夏も暑からず、魚類に富み、風光の明媚と空気の新鮮とは、この島の最も誇るところなり。これに加うるに、いたるところ海湾出入し、水の清きこと徹底見るべし。故に消夏避暑の最好地なり。宗教に至りては、維新の際一時排仏熱流行し、村々落々相集まりて伽藍をこぼち、仏具を焼くがごとき暴行をあえてしたりしために、今日なお排仏の余習をとどめ、仏教を信ずるもの少なきのみならず、宗教の信念に乏しく、したがって迷信の弊多し。ただし祖先の位牌をあがめ、墳墓を重んずるがごとき祖先教の風は、今に至りて衰えずという。隠岐より帰航後、更に一詩を賦す。

  探尽隠州風月清、穏晴波上一舟軽、帰来連夜眠難熟、耳底猶留突去声、

(隠岐の島をたずねつくせば風月も清らかに、おだやかに晴れた波の上では舟も軽やかにすすむ。帰りきたれば連夜熟睡しがたく、耳の底にはなお突去〔ドッサリ〕の声が残っているのである。)

 この詩をもって隠岐人士の款待の厚意に答謝せんとす。また、俗歌一首あり、「沖の暗いのに明りが見ゆる、あれは岐の国烏賊〔いか〕の舟」という。これ夜中の実景なれば、あわせて紀行の尾に付記す。

P81----------

島根県紀行第三、出雲の部

 明治四十二年六月二十六日 晴れ。朝、八束郡長村上寿夫氏とともに、境町より汽船に乗じて八束郡本庄村〈現在島根県松江市〉に移る。着船の所に一楼あり。楼上よく仙山と錦海とを一握するを得べし。これを泉屋旅館、一名対仙閣という。これ宿所なり。会場は清安寺にして、主催は隣村連合なり。本庄村長松本甚平氏、助役内田虎太郎氏、収入役宮本茂韶氏、校長正井儀之丞氏、住職新宮梵顒氏、二子村長渡部幸松氏、および川津、片江両村長等、みな尽力あり。演説後、茶話会を開き、当所は武蔵坊弁慶の産地なりといえるを聞き、一作を試む。

  本庄湖畔酌清風、酔後凭欄望遠空、一握仙山兼錦海、慨然想起古英雄、

(本庄村の湖畔で清らかな風の中に杯を傾ける。酔った後は欄干にもたれて遠い空をながめた。ひとにぎりほどに見える大山と錦海をあわせみて、ため息とともに、この地の生まれといういにしえの英雄〔武蔵坊弁慶〕を思い起こしたのであった。)

 二十七日(日曜) 晴れ。郡書記とともに松江市を経、車行して講武村〈現在島根県八束郡鹿島町〉に至る。会場は小学校にして、校舎の位置、設備ともによし。主催は講武、法吉、生馬、御津、大芦、加賀、佐太、恵曇の八カ村連合なり。その尽力せられたる主なる人々は、村長木村由之助氏、助役井長之助氏、同中島八十郎氏、収入役宮廻清之助氏、校長松浦真治氏、薬師院住職小川義秀氏、医師本田繁蔵氏および役場書記、学校教員等とす。学校にて演説および揮毫を終えたるとき、すでに夜に入る。郡視学永江真澄氏とともに灯を点じて更に行くこと八、九丁にして薬師院に至る。この日、炎暑蒸すがごときも、宿寺の幽邃清涼なるや、身心を一洗するの思いあり。

 二十八日。朝、深院にありて鳥語を聞き一詩を得たり。

  林壑繞僧堂、噴泉夏自凉、坐深山寂々、幽鳥一声長、

(林と山にかこまれた僧堂、噴き出る泉水に夏ながらおのずから涼しい。この深い山中に座せばいよいよ静かに、奥ぶかくすむ鳥の一声が長く尾をひいたのであった。)

 これより郡視学、郡書記とともに佐陀神社の下より小流に舟を浮かべ、両岸の清風に送られつつ宍道湖に出でて、十六ハゲと名付くる断崖に沿いて秋鹿村〈現在島根県松江市〉に着す。舟中に一樽を携え、図らず〔も〕快遊を試むるを得たり。秋鹿の宿所は福島旅館なり。宍道湖の眺望はこの地をもって最とす。しかして旅館はその景を占有す。故に楼名を選して酔湖楼とし、添うるに一詩をもってす。

  十六丹崖過、登楼一望新、湖光濃似酒、酔殺幾多人、

(十六の赤い断崖をすぎて秋鹿村に着き、旅館の楼上より一望すれば新たな眺めとなった。湖のかがやきは濃い酒のごとく、いったいどれだけの人がこれに酔いしれたのであろうか。)

 会場は小学校にして、盛会を得たり。主催は秋鹿、伊野、大野、古江の四村連合なり。尽力者は村長朽木鐐次郎氏、助役吉岡周一郎氏、収入役小村直夫氏、農会長加藤伝之助氏、校長奥原福市氏をはじめとし、他の三カ村長、教員、村吏、村会議員等なり。夜に入りて、旅館に晩餐会を開く。おのおの隠し芸を出だし、芸人を圧倒するの勢いあり。

 二十九日 雨。また酒を携えて舟に上がり、一棹して松江市に至る。雨ことにはなはだし。湖上の風光、雲煙のために遮られて見ることを得ざるは遺憾なり。松江市より汽車にて揖屋村〈現在島根県八束郡東出雲町〉に移る。会場は小学校にして、主催は村役場なり。聴衆は大雨をおかして来集す。村長石原久重氏、収入役谷川元太郎氏、校長井上為若氏、意東、出雲郷、大庭、朝酌、各村長、吉川、岡村両書記等、尽力あり。宿所は橋本屋にて、一家街路を挟む。鰻魚その名物たり。

  客舎呼杯坐、鰻魚上膳時、香来先動鼻、未食舌将馳、

(旅館に酒を頼んで座す。名物のうなぎが膳の上にのぼるとき、においがやってきてまず鼻をうごかされ、まだ口に入れる前に舌が先に向かっていこうとするのであった。)

 村上郡長と同宿す。

 三十日 晴れ。これより山間に入り、熊野村〈現在島根県八束郡八雲村〉常栄寺にて開会す。住職藤田撃鳴氏一人の主催なり。村長長沢儀太郎氏、岩田、森本両校長、桑原、小松、福島諸有志家これを助く。本村は県下の模範村なり。宿寺は位置高燥にして、深林の清風を醸すあり、飛泉の暑氛を洗うありて、清涼を覚ゆ。

  熊野山中寺、軒端坐夜陰、泉声落如雨、終夕浸禅心、

(熊野の山中の寺、その軒ばたに夜のくらがりの中で座す。泉の音は雨が降るかと思わせ、夜もすがら世俗をはなれたおもむきに浸ったのであった。)

 書してもって、山主藤田氏に贈る。

 七月一日 晴れ。玉湯村〈現在島根県八束郡玉湯町〉に移りて開会す。会場は小学校にして、主催は玉湯、乃木、忌部三村連合なり。玉湯村長吉木栄太郎氏、収入役富田虎之助氏、農会長糸原文之助氏、校長海野林太郎氏、および他村長、尽力あり。夜に入りて、更に青年会のために講話をなす。宿所は温泉旅館保性館なり。県下の諸温泉中、旅館の設備は本館をもってさきがけとす。軒前に酉字をさかさまにして貼付せるあり。けだし魔よけならん。故にこれを字して倒酉楼とす。

  倒酉楼上客、一浴洗心機、如入竜王窟、皆携宝玉帰、

(倒酉楼に客として泊まり、ひとたび沐浴して心の動きを洗い新たにする。もし竜王窟に入ったならば、人はみな宝玉をもち帰るのであろう。)

 当地は瑪瑙の産地なり。

 二日。宍道村〈現在島根県八束郡宍道町〉に移る。途上、生徒の出迎えあり。宿坊専称寺に着し、ただちに富豪木幡久右衛門氏の山荘に遊ぶ。その名を独楽園または十千年荘という。園、池ともに古色を帯び、老樹鬱葱としてその閑雅、塵心を洗除するに足る。なかんずく茶亭のごときは、歴史的の古木旧材を集めて造営せり。これ十千年荘の名あるゆえんなり。

  結得十千年古廬、観来如読史家書、何図汽笛穿林処、有此羲皇以上居、

(十千年荘なる古いいおりが建てられて、みるほどに歴史家の書を読む思いがする。こうした所に、なんとしたことか汽笛の音が林をぬけてきこえてきた。それにしても、これは古代の伏羲氏の質素なすまいの上に出るものであろう。)

 この羲皇以上の草廬にて、村上郡長とともに午餐の饗応を受けたり。会場は小学校にして、主催は宍道、来待両村なり。宍道村長持田虎太郎氏、助役葉山源之助氏、来待村長武田来次郎氏、校長松岡功氏、宿寺住職藤原賢順氏等、おのおの尽力あり。本郡は郡役所の斡旋周到にして、多大の便宜を得たり。郡書記安達確郎氏、池尻玄一氏、石倉秀逸氏、梅原与太郎氏、田部熊市氏、立花観一郎氏等、二、三人ずつ各所へ出張して開会の準備をなし、郡長、郡視学代わりあいて注意を与えられしは、深くその厚意を謝するところなり。

 三日 晴れ。八束郡を去りて簸川郡直江村〈現在島根県簸川郡斐川町〉に入る。同郡視学佐藤賢伍氏案内せらる。途上吟一首あり。

  稲田万頃裏、一水自淙々、坦矣簸川路、駆車入直江、

(稲田の広々とひろがるなかに、一本の川がさらさらと流れている。簸川の道は平坦で、車を駆って直江村に入ったのであった。)

 会場は高等小学校の講堂にして、同校は三殿下御休憩の栄をになえり。午前、午後、両度開会す。その間、毎度楽隊の奏楽あり。主催は学事会と出雲仏教会なり。学事会の方にては高等校長森脇村次郎氏、村長伊藤弥太郎氏、局長江角文之助氏、尋常校長永江正四郎氏、および他村長の尽力により、仏教会の方にては武原玉英氏、藤原順励氏、藤波経氏の斡旋によれり。郡長須藤虎吉氏来訪せらる。当夕は発起人諸氏とともに、宿所川島旅館において晩餐をともにす。森脇校長校歌を奏してより、おのおの一芸ずつを演じ、雅にして俗ならざる盛会を見たり。森脇氏は先年以来の旧知なり。

 四日(日曜) 晴れ。直江より平田町〈現在島根県平田市〉に移る。また、途上作一首を得たり。

  雨歇梅天霽、秧田一望青、孤村家点々、防風樹作屏、

(雨がやんで梅雨の空が晴れあがり、稲田は望むかぎり青一色である。ぽつんとある村に家が点々とたち、風を防ぐ樹木が屏を作り上げている。)

 家ごとに屋より高き防風樹の垣墻のごとく整列せるは奇観なり。平田の会場および宿所は大林寺とす。壮大にして清閑なり。原徹堂氏これに住す。昼間は一般公衆のため、夜間は婦人のために演述す。町長山本福太郎氏、校長木佐平四郎氏、鹿田熊八氏、神職河瀬幸麿氏、宿寺住職および山崎海印氏等の発起にかかる。当夕、須藤郡長と会食す。

 五日 雨。早朝、車を飛ばして杵築大社を参拝す。ときに梅雨蕭々として昼なお暗きも、かえって敬神の念を深からしむ。社頭吟一首あり。

  一脉神山万古清、社林粛々鳥無声、満天梅雨祠門暗、胆仰何禁感涙生、

(ひとすじの神々しい山々は古く万年の清らかさをたもち、大社の林はしずまりかえって鳥の声すらない。空をおおう梅雨にやしろの門も暗く、あおぎみて感激の涙の流れるのをどうしてもとめることができなかったのである。)

 特に宝物の拝観を許さる。殿堂の荘厳なるはいうまでもなし。千家宮司、千家管長、北島男爵三家を訪問す。ただちに三家より来問をかたじけのうす。午前は中学校講堂〔杵築町〈現在島根県簸川郡大社町〉〕にて、学生のために訓話をなす。校長加藤常七郎氏は旧知なれども上京中なり。首席中村新三郎氏、舎監林栄太郎氏は応接、斡旋の労をとらる。午後また同講堂にて、公衆のために開演す。発起者は町長森田準一郎氏、神職長谷川静義氏、同富永猪三郎氏、同島多豆夫氏、僧侶渡部清巌氏、北島嶺秀氏、教員曾田斧治郎氏、同河井勝三郎氏にして、おのおの大いに尽力せらる。宿所は因幡屋旅館なり。その壮大にして整備せるは山陰道第一と称す。藤井又右衛門氏の来訪あり。氏は先年の旧知なり。夜に入りて発起諸氏と会食し、快談深更に及ぶ。

 六日 晴れのち雨。布智村〈現在島根県出雲市〉弘法寺に至りて開会す。弘法大師の旧跡なり。住職板倉学長氏一人の発起にかかる。夜中静閑、ただ蛙声を聴くのみ。

 七日 晴れ。知井宮村〈現在島根県出雲市〉に移りて開演す。主催は哲学館出身森山玄昶氏にして、教員、僧侶等これを助く。会場は小学校にして、蓄音器をもって演説の間を補充す。しかして宿所は県下第一の富豪山本厚太郎氏の宅なり。邸内広くしてかつ静かに、双松の庭を護するあり。故に双松軒という。偶成二首を得たり。

  尋到仁者宅、双松護半庭、清風明月夜、竜影入軒青、

(仁徳ある人の邸宅をたずねる。二本の松が庭のなかばをまもるようにたつ。清らかな風が吹く明月の夜は、松の姿が軒にまで青々と影をおとすのである。)

  門深人到少、坐臥絶塵囂、入夜林禽黙、蛙声破寂寥、

(門内は深く人の訪れることも少なく、立ち居ふるまいは俗世間と隔絶している。夜ともなれば林中の鳥も沈黙を守り、蛙の声がこのさびしいほどの静けさを破るのであった。)

 八日 晴れ。本日の会場および宿所は久村〈現在島根県簸川郡多伎町〉西楽寺なり。同村有志の発起にかかる。村長森広作助、助役持田千市、収入役柳楽門太、宿寺住職藤原演暢、校長錦織源之助等の諸氏、みな尽力あり。この開会は本郡の最終なれば、須藤郡長も来会せられ、ともに別杯を傾く。佐藤郡視学は郡内各所へ同行して斡旋の労をとられたり。郡書記藤田、岸、吉見、伊藤の四氏も助力あり。

 九日 晴れ。馬上にて飯石郡視学矢田部敬太郎氏とともに同郡西須佐村に向かう。行程五里の間、山ようやく深く道ようやく険なり。途上一作あり。

  峡樹残紅尽、夏山万緑連、隔渓林末白、焼炭一団煙、

(谷あいの樹々にはもはやあかい花もなく、夏の山はすべて緑色が連なる。谷の林をへだててその果ての白く見えるのは、炭を焼くひとかたまりの煙なのである。)

 午後一時、西須佐〔村〕〈現在島根県簸川郡佐田町〉に入る。歓迎者多し。会場は小学校、宿所は旅館、主催は須佐教育会なり。すなわち県会議員土谷松太郎氏、村長相原小四郎氏、校長岩崎達一郎氏、同西村百太郎氏、同吉川潔氏、僧巌真照氏、同藤井義岳氏の発起および尽力に成る。

 十日 雨。馬背にまたがり渓山を上下し、更に進むこと五里にして志々村〈現在島根県飯石郡頓原町〉に達す。途上吟また一首あり。

  馬上雲南路、山連一峡深、渓泉鳴不歇、随処没禽音、

(馬上で出雲の南の道を行く。山は連なり一つの谷は深くきり込んでいる。谷川の音は鳴りやまず、いたるところで鳥の声も水音にかきけされているのだ。)

 会場および宿所は八神明眼寺なり。楼上、風清く景またよし。この地、三瓶山麓にあり。主催は志々村役場にして、村長木村景範氏、局長永田栄蔚氏、宿寺住職菅無涯氏、医師柳沢渉氏、有志今田実氏等の発起にかかる。

 十一日(日曜) 晴れ。志々より更に渓山を横断して赤名村〈現在島根県飯石郡赤来町〉に至る。その地、広島より松江に通ずる国道の衝に当たる。会場小学校は新築壮大なり。主催は村役場にして、村長沢田友市氏、校長谷田寅若氏、僧侶嘉本賢道氏、有志家矢飼憐之助氏、伊藤源三郎氏、安井豊市氏、後藤延太郎氏等の尽力多きにおる。宿所は沢田旅館なり。当地は石州備後と隣接し、三国の山河をあわせ見るを得。よって一詠す。

  雲陽路将尽、当面備山連、一抹是何物、石州川上煙、

(出雲のみなみの道のちょうど尽きるところ、正面は備後に連なる。一抹の煙はいったいなにものであろうか、それは石見の国の川上にたちのぼる煙なのである。)

 十二日 雨。大道を上下して頓原村〈現在島根県飯石郡頓原町〉に至る。会場は西正寺、宿所は片岡旅館、主催は倶楽部会なり。村長朝山弁之助氏、局長片岡逸氏、医師土屋益太郎氏、住職佐和田応順氏、教員星野保三郎氏等、約二十名の諸氏を発起者中の主なるものとす。昨日以来、代議士恒松隆慶氏と十八年ぶりにて邂逅す。氏および発起諸氏とともに、旅館において晩餐会を開く。すこぶる盛会なり。席上「恒松石頭生、鬱々聳雲端、隆盛坐蔵脚、弁慶又脱冠」(恒松〔恒松氏、かわらぬ松〕は石上にのび、その茂るさまは雲の端をおかすようにそびえている。その隆盛なるさまは、とうてい弁慶の弱点のごときもなく、弁慶もまた脱帽せん。)の狂詩を扇面に録して贈る。

 十三日 晴れ。坂路を登ることわずかに一里、下ること三里余にして掛合村〈現在島根県飯石郡掛合町〉に達す。これ郡衙所在地なり。郡長大道繁太氏には頓原にて会見し、互いに前後してここに至る。この日、炎暑はなはだし。会場は公会堂にして、主催は村役場、宿所は岩田旅館なり。村長板垣栄次郎氏、有志家白築幸幹氏、校長杉原竜蔵氏、僧侶禿観三氏、徳岡起天氏、その他福場、秦等の諸氏、みな尽力あり。

 十四日 晴れ。暑気更に強し。坦々たる駅道により鍋山村〈現在島根県飯石郡三刀屋町〉に移る。宿所は学務委員原秀氏の宅なり。同氏および村長秦豊市氏、校長栗栖忠員氏、医師藤原薫氏、石飛、名原、鳥屋等の諸氏の尽力により、役場の主催にて小学校において開会す。原氏の邸宅は石山を襟とし、渓流を帯とし、その幽邃閑雄なること真に愛すべし。

  抱屋渓流走、枕頭風自生、水声来洗耳、終夜夢魂清、

(邸宅をめぐって谷川の水が走り、枕べには風がおのずから生まれる。流水の音が耳を洗うがごとくきこえ、一晩中、夢も魂も清らかさのなかにあったのである。)

 右の小詩を蚊帳に録す。当夕は山間の僻邑にもかかわらず、久しぶりにて西洋料理の饗応を受けたるは、実に予想の外に出でたり。

 十五日 晴れ。車行一里余にして三刀屋村〈現在島根県飯石郡三刀屋町〉に達す。これに至りてはじめて平坦部を見る。飯石郡は邑智郡と同じく連山波を成し、山また山、渓また渓なり。その間わずかに国道の横断するありて腕車を通ずるのみ。町家には北国風の石を載せたる板ぶき屋根多し。村長福庭義三郎氏、校長三成松太郎氏、同堀江由太郎氏、有志家松尾清三郎氏、楠剛氏および仏教青年会員の尽力により、村内の主催にて浄土寺において開会す。宿所は和田旅館なり。本郡は始めより終わりに至るまで矢田部郡視学同行せられ、毎度紹介の労をとられ、かつ諸事につき大いに斡旋せられたり。

 十六日 晴れ。大原郡木次町〈現在島根県大原郡木次町〉に移りて開演す。町は斐伊川のほとりにありて、水底平地より高く、屋上堤防より低きは一奇観なり。宿所は小林旅館にして、比較的高かつ大なる方なれども、高堤に遮られて、河水を見ることを得ず。

  木次村臨水、堤高於屋高、楼頭河不見、隔岸望林皐、

(木次村は斐伊川に臨んでいるが、堤防の方が屋根よりも高くきずかれている。それゆえに旅舎の階上からさえも川水は見えず、岸をへだてたかなたに林と丘が望めるのみ。)

 会場は円覚寺、主催は町役場、発起者中の主なる人々は和久利万市氏、校長佐藤貫一氏、神職松岡庫之進氏、同陶山清之進氏、僧侶堀江春量氏、同菅田霊穏氏、その他役場員および有志家なり。

 十七日 晴れ。炎暑炊くがごとし。四カ村連合の発起にて、加茂村〈現在島根県大原郡加茂町〉慶円寺にて開会す。宿所は今市屋なり。当所の風景を詩中に入るる。

  麻山産明月、赤水醸清風、加茂橋頭望、四時楽不窮、

(麻山からは明月がいで、赤川からは清らかな風が生ずる。加茂橋のところからはるかに望めば、春夏秋冬とながめの楽しみはきわまりない。)

 尽力者は村長黒田勘十郎氏、僧侶多田納大安氏、同久我覚英氏、同鱸南大謙氏、校長村上慶次郎氏等なり。

 十八日 晴れ。郡衙所在地たる大東町〈現在島根県大原郡大東町〉宗専寺に至りて開会す。住職和多田専心氏は村上専精博士の令弟なり。主催者は村上氏、町長竹内虎之助氏、海潮村長曾田市三郎氏、阿用村長三原千一郎氏、春殖村長上代豊三郎氏とす。郡内は郡視学手島務氏案内の労をとられ、伊藤、平井、武田郡書記助力あり。郡長内田正矩氏と会食す。当地には牛馬の市場あり。郡内は三カ所ともに盛会を得たり。

 十九日 晴れ。大原郡より仁多郡に入る。群山縦横に起伏す。登嶺三回にして三成村〈現在島根県仁多郡伝多町〉に着す。途上の所見、左のごとし。

  路入仁多山鬱葱、合歓花発半渓紅、炎威如燬何須避、到処深林送凍風、

(道は仁多郡に入って山々はうっそうとし、ねむの花が咲きほこって谷の半ばは紅にそまっている。ときに炎暑はやきつくように、なにをもって避けるべきか、いたるところの深い林からつめたい風が送られてくるのである。)

 また、山家には独木米つき器、すなわち一木の両端を水を受くるように作り、水車の代用をなさしむる器械多し。これを方言にて僧都という。よって「山里や僧都はだかで米を搗く」と歌いつつ会場地に至る。主催は教育会なり。多来亭に一休の後、小学校において開演す。宿所は八川村富豪糸原武太郎氏の宅なり。氏は教育会長にして、かつ貴族院議員なり。副会長兼郡視学馬場惞輔氏は、大東町よりわが行を迎えて案内の労をとられたり、幹事は松浦準蔵氏、橋本末三郎氏、角良次郎氏、影山定助氏なり。富豪桜井三郎右衛門氏、校長横谷八代松氏も助力あり。会後、郡長藤田幸年氏と車を連ねて糸原氏の宅に至る。宅美にして庭広く、飛泉かかりて清風を送る。雅名を烟霞屋という。

  烟霞屋深処、夜坐愛風清、庭際龕光冷、熒々照水声、

(烟霞屋の奥深いところで、夜はそぞろに風の清らかさをめでる。庭の端にある石塔からの光も冷ややかに、かがやきは水の音をも照らしているように思われたのであった。)

 邸内に製鉄工場を設く。

 二十日 晴れ。横田村〈現在島根県仁多郡横田町〉小学校にて開演す。主催は前日に同じ。宿所は安楽寺なり。村長横田氏助力あり。当所は算盤の製造地なり。郡内は板ぶきの屋根多く、地質は白色を帯び、雨きたるも泥をなさず。

 二十一日 晴れ。能義郡長青山久之助氏および署長影山岩八氏に迎えられて、同郡比田村〈現在島根県能義郡広瀬町〉に入る。仁多より本村に至るの間は、米質佳良にして、かつ砂鉄を産出す。

  何地富源在、山中無暦辺、仁多村漸遠、能義境逾偏、採鉄穿千壑、流沙埋百川、昔時開鉱跡、今日化良田、

(いずれの地に富の源があるのであろうか、この山中では暦を必要としないゆったりしたところである。仁多村からもしだいに遠く、能義のさかいはいよいよはなれている。鉄を採るためにあらゆる谷を掘り、流れ出た砂はあらゆる川を埋めた。しかし、むかし鉱石を出した跡は、今日はみごとな良田になったのである。)

 会場および宿所たる常福寺は、室広くしてよく風をいるる。芳川祖服氏これに住す。主催は村長土居伝次郎氏にして、若槻、足達等の諸氏これを助く。

 二十二日 晴れ。布部村〈現在島根県能義郡広瀬町〉安養寺に開会す。主催は村内有志にして、助役家島享一氏、収入役荒島藤市氏、その他数名の書記等、みな尽力あり。会場兼宿寺の住職は村上道薫氏なり。

 二十三日 晴れ。一嶺を上下して郡衙所在地たる広瀬町〈現在島根県能義郡広瀬町〉に移る。会場は洞光寺、宿所は鈴木旅館、主催および尽力者は町長和田米太郎氏、青年会長清水静磨氏なり。会場住職は池上観禅氏とす。陸軍少将熊谷氏ここに退隠せるも、老いてますます壮にして、その勢い青年を圧倒す。当地は西方に三笠山を控え、東方に月山を仰ぎ、富田川のその間を流るるありて、趣味ある地勢なり。かつ尼子氏の遺跡あり。名物に吐月糖あるは、月山の月を吐くに起由す。ときに旧暦五、六日ごろにして、夜に入りて月すでに三笠山に隠れ、旅館の地位は観月に適するも、月を賞することを得ざるは遺憾なり。

  江上清風夏自凉、両崖巒影夜蒼々、笠山呑月月山暗、灯下空甞吐月糖、

(富田川の川面を清らかな風が吹いておのずから涼しく、川をはさんだ崖と山影は夜のうすぐらさのなかにある。三笠山に月がのまれるようにかくれて月山は暗く、ともしびのもとでむなしく名物の吐月糖を口中にふくんだのであった。)

 この地、尼子氏の義士山中幸盛に関係ありとて、校長山口氏その伝を作り、かつ詩を賦して次韻を求められる。よって左の四句を案出す。

  身命比鴻毛、如君是古豪、巍然忠烈気、高似月山高、

(身命を鴻毛の軽きになぞらえ、君のごときはまことにいにしえの豪傑である。そびえたつ忠烈の意気は、高きこと月山の高さにも似ている。)

 市中に茅屋軒を連ぬるは一奇観なり。

 二十四日 炎晴。早朝、車を馳せて能義村〈現在島根県安来市〉農業学校に至りて演述す。主催は農業学校および巳酉会にして、校長八木岡新衛門氏、医師杉原六郎氏の発起にかかる。つぎに、荒島村〈現在島根県安来市〉円光寺に移りて開会す。住職光田海満氏、村長清水環氏、校長武上令四郎氏、岩田、金山、佐々木等の諸氏の主催なり。

 二十五日 炎晴。午前は安来町〈現在島根県安来市〉小学校において教育講習会のために演述す。会長は青山郡長、幹事は郡視学寺戸義暢氏なり。午後も同所において町内有志のために開演す。町長山本良次郎氏、校長福田蔵三郎氏、僧侶石田、市橋、橘等の諸氏の発起にかかる。しかして宿所は荒文館なり。

 二十六日 晴れ。早朝、車行して清水寺に登山す。樹深く風清く、堂宇宏壮、風景秀逸、おそらくは山陰第一ならん。なかんずく三層塔上の眺望は快絶というべし。

  清水寺中山、林風清似水、登台一望開、錦海横掌裏、

(清水寺の山中は、林を吹く風の清らかなること水にも似て、三層の塔にのぼって一望すれば視界が開け、錦海がよこたわり、たなごころのうちにあるようであった。)

 書院にて再び恒松代議士に会見す。山を下りて行くこと半里ばかりにして雲樹寺に至る。これまた古刹にして、山門は国宝に加わるという。

  雲樹山門古、星霜幾変更、朽余為国宝、門亦有光栄、

(雲樹寺の山門は古色をたもち、年月はどれほどうつったことか。ふるびたのちに国宝となり、門もまた栄誉を得たのである。)

 これより一走して母里村〈現在島根県能義郡伯太町〉永昌寺に至る。寺広くして風清し、住職は黒川知全氏にして尽力家なり。昼間の開会は村長奥野仁兵衛氏、助役木代元太郎氏、内藤亀次郎氏、柴田覚次郎氏等の発起にかかり、夜間は婦人会の主催に出ず。

 二十七日 晴れ。更に車をめぐらして安来に至り、汽車にて帰京の途に向かう。郡内巡回中は郡書記山崎増平氏、石田愛典氏、清水静磨氏相代わり、案内かつ斡旋せられしは謝するところなり。出発に際して青山郡長、寺戸郡視学および県属藤岡宏氏の送行をかたじけのうせるも謝せざるを得ず。森山玄昶氏は臨時副随行として荒島以来同伴し、ここに至りて相別る。石田郡書記、菊地随行員は境港連絡船中にきたりて手を分かつ。これより舞鶴に上陸し、阪鶴線より東海〔道〕線に移り、二十八日夜は静岡大東館に一泊し、二十九日、三十日清水に滞在し、八月一日午後六時、帰宅せり。

 ここに島根県紀行を結ぶに当たり、特に雲石二州の見聞上に触れたることを紹介すべし。まず二州の人情、気風の相違は、あたかも地形の相異なるがごとし。雲州は比較的平田多く、石州は山地多し。雲州の地は湖水に富み、石州の山は岩石に富む。故に余は一言をもって評して曰く、雲州人は水のごとく、石州人は山のごとし。また曰く、雲州人は雲のごとく、石州人は石のごとし。換言すれば、石州人は勇の方、雲州人は智の方なり。すなわち文武の別あるがごとし。しかして武の弊は粗野頑強に陥りやすく、文の害は薄志弱行に傾くにあれども、あえてかかる弊害を認めず。もしこの一方の文と一方の質とを合わせきたらば、彬々たる君子となるべし。また、雲州人は一般に茶人的趣味を有すれども、石州はその趣味に乏し。つぎに言語につきては、石州は解しやすく、雲州は解し難し。宗教に至りては、石州は仏教勢力を占め、雲州は神道勢力を占む。仏教中にありては、石州は真宗多く、雲州は禅宗多し。教育に至りては、雲州の方は概して石州の上にあるがごとし。迷信に関しては、石州には犬神あり、雲州には人狐あり。しかして人狐の迷信はその害、犬神よりはなはだし。人狐持ちと称せらるる家に対しては、これと結婚せざるのみならず、その家の所有地はこれを購入することを嫌う風あり。人狐系の家には七十五頭の人狐同棲すと信じ、現にその実物を見たるものありという。近来動物学者の話に、これ雌鼬〔めいたち〕なる由。これに関して妄説すこぶる多く、その弊害、社交上に及ぶ。故に教育会などにて、人狐の迷信排除をつとむるものあり。また、出雲人は言語上ヒフ、シス、チツを混じ、一をフトツといい、二をヒタツというがごとき語ありて、聴き取り難きこと多し。方言につきては、人の問いに対して打ち消す語すなわち否というべきをイヤデスと答うるがごとき、語を強めるときにズンドの語を添うるがごとき、一休するをタバコするというがごとき、悉皆をカイシキといい、始終をコンリンというがごとき、すりこぎをメグりといい、すり鉢をカガツといい、氷柱をサイガサガルというがごとき、いちいち列挙するにいとまあらず。もしまた風俗につきて他州人の注目を引くものは、

  一、赤色を帯びたる瓦を用うること

  二、人狐の住する家あること

  三、樹木を防風塀に作り立つること

  四、朝飯の饗応に蕎麦を用うること

  五、鯉の糸作りを刺身に代用すること

  六、椀に二階付きのものあること

  七、人力車の横に鉄棒の出でたるものあること

 以上は島根県、なかんずく雲州の七不思議と仮定せんとす。もし人気のいかんに至りては、雲石二州は質朴淳良にして、人を遇すること厚く、いわゆる醇厚俗を成すものというべし。今後、他県と交通頻繁なるに及びても、この美風を失わざらんことを望む。以上、人情、風俗の一端を叙述しきたり、更に巡回中多大の厚意をにない、分外の優待を受けたることを謝するなり。

 

     島根県開会一覧表

   市郡   町村    会場     席数   聴衆     主催

  松江市        市会議事堂   二席  六百人    市教育会および弘道会支部

  同          寺院      四席  七百人    松江仏教会

  同          寺院      一席  五百人    大谷婦人会

  八束郡  本庄村   寺院      二席  六百人    近村連合

  同    講武村   小学校     二席  五百人    近村連合

  同    秋鹿村   小学校     二席  七百人    近村連合

  同    揖屋村   小学校     二席  三百人    近村連合

  同    熊野村   寺院      二席  五百人    寺院

  同    玉湯村   小学校     二席  七百人    近村連合

  同    同     小学校     一席  百五十人   青年会

  同    宍道村   小学校     二席  七百五十人  近村連合

  能義郡  広瀬町   寺院      二席  六百人    町役場

  同    安来町   小学校     一席  三百五十人  教育会

  同    同     小学校     二席  五百五十人  役場および有志

  同    母里村   寺院      二席  五百人    役場および有志

  同    同     寺院      一席  二百人    婦人会

  同    荒島村   寺院      二席  六百人    役場および寺院

  同    能義村   農業学校    一席  四百人    巳酉会および農学校

  同    布部村   寺院      二席  五百人    村役場

  同    比田村   寺院      二席  六百人    村役場

  仁多郡  三成村   小学校     二席  四百五十人  教育会

  同    横田村   小学校     二席  八百五十人  同前

  大原郡  大東町   寺院      二席  八百人    町役場

  同    木次町   寺院      二席  七百人    町役場

  同    加茂村   寺院      二席  六百人    四村連合

  飯石郡  掛合村   公会堂     二席  三百人    村役場

  同    赤名村   小学校     二席  九百人    村役場

  同    頓原村   寺院      二席  七百人    倶楽部

  同    三刀屋村  寺院      二席  五百人    村役場および仏教青年会

  同    鍋山村   小学校     二席  五百人    村役場

  同    志々村   寺院      二席  六百人    村役場

  同    西須佐村  小学校     二席  五百人    連合教育会

  簸川郡  今市町   女子師範学校  一席  三百五十人  女子師範および高等女学校

  同    同     小学校     二席  一千人    町内有志

  同    同     寺院      一席  四百人    今市婦人会および仏教婦人会

  同    杵築町   中学校     一席  五百人    中学校

  同    同     同前      二席  六百人    町内有志

  同    平田町   寺院      二席  六百人    町内有志

  同    同     同前      一席  三百人    婦人会

  同    直江村   小学校     三席  八百人    学事会および出雲仏教会

  同    久村    寺院      二席  四百人    村内有志

  同    布智村   寺院      一席  三百五十人  寺院

  同    知井宮村  寺院      二席  五百五十人  青年会

       (以上出雲国)

  安濃郡  大田町   寺院      四席  六百人    至成会

  同    同     倶楽部     一席  二百人    婦人会

  同    佐比売村  寺院      二席  五百人    村内教育会

  同    川合村   寺院      二席  五百人    村内有志

  同    波根西村  小学校     二席  八百人    村内教育会

  同    同     寺院      二席  五百人    村内有志

  同    波根東村  寺院      二席  六百人    村役場

  迩摩郡  大森町   寺院      二席  八百人    町役場

  同    同     寺院      一席  五百人    婦人会

  同    温泉津町  寺院      二席  一千人    町村連合

  同    大家村   寺院      二席  五百人    村役場

  同    波積村   寺院      二席  七百人    村役場

  同    大国村   寺院      二席  一千人    近村連合

  同    五十猛村  寺院      二席  三百人    村役場

  同    静間村   寺院      二席  五百五十人  村役場

  邑智郡  川本村   寺院      二席  八百人    村役場

  同    市山村   寺院      二席  七百人    村役場

  同    矢上村   寺院      二席  七百五十人  村役場

  同    市木村   寺院      二席  六百人    村役場

  同    出羽村   小学校     二席  八百人    村役場

  同    都賀村   寺院      二席  六百人    村役場

  同    浜原村   小学校     二席  五百人    村役場

  那賀郡  浜田町   教校      三席  一千五百人  郡役所および町役場

  同    三隅村   寺院      二席  五百人    近村連合

  同    国府村   寺院      二席  九百人    役場および寺院

  同    有福村   寺院      二席  四百五十人  役場および寺院

  同    川波村   寺院      二席  四百人    村内有志

  同    江津村   寺院      四席  八百人    村役場

  同    跡市村   寺院      二席  七百人    役場および寺院

  美濃郡  益田町   公会堂     一席  六百人    郡役所および宿寺

  同    同     寺院      二席  七百人    同前

  同    同     寺院      一席  七百人    婦人会

  同    高津村   寺院      二席  四百五十人  村内有志および役場

  同    豊田村   小学校     二席  五百人    両村役場

  同    東仙道村  小学校     二席  五百五十人  学校および寺院

  同    都茂村   寺院      二席  四百五十人  役場および寺院

  同    種村    寺院      二席  四百人    青年会

  同    安田村   寺院      二席  五百人    青年会

  同    鎌手村   寺院      二席  七百人    役場、寺院等

  鹿足郡  津和野町  小学校     三席  四百人    郡役所および町役場

  同    畑迫村   小学校     二席  二百人    村役場

  同    日原村   寺院      二席  百五十人   村役場

       (以上石見国)

  隠岐島  西郷町   小学校     四席  四百人    町役場

  同    同     寺院      二席  三百五十人  仏教講話会

  同    東郷村   商船学校    一席  百五十人   商船学校

  同    中条村   小学校     二席  四百人    村役場

  同    五箇村   小学校     二席  四百人    村役場

  同    都万村   小学校     二席  四百人    村役場

  同    海士村   小学校     二席  三百五十人  村役場

  同    同     小学校     二席  百五十人   村役場

  同    黒木村   民家      一席  五十人    村役場

  同    浦郷村   寺院      二席  二百五十人  村役場

合計 一島、一市、十二郡、七十八町村(十四町、六十四村)、九十五カ所演説、百八十五席、聴衆五万一千八百人、日数八十八日間(四月二十九日より七月二十七日までなれども、そのうち二日間は鳥取県にて開会せるをもってこれを除く。)

    もし演題につきてその種類を区分すれば

     詔勅に関するもの     五十三席

     迷信に関するもの     三十九席

     道徳に関するもの     二十五席

     宗教に関するもの     二十四席

     教育に関するもの     二十三席

     実業に関するもの      十八席

     雑題             三席

      合計 百八十五席

 その他、左に鳥取県両日間の開会を付記すべし。

  西伯郡  境町    小学校  二席  二百人  町内有志

  同    大篠津村  小学校  二席  二百人  村内有志

   合計 演説四席、聴衆四百人

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伊豆大島紀行

 大島紀行の前に、島根県巡回以後の経過を記せざるべからず。〔明治四十二年〕八月末より播州を経て鳥取県巡回の予定なれば、同月十九日東京を発し、駿州清水町〈現在静岡県清水市〉に滞在し、同町温譲会の依頼に応じ、二十五日午後、同町会席において修身上の講話一席をなす。聴衆、約二百人あり。演説おわりて発起諸氏とともに、朝陽館に至り会食し、帰りて寓所に入れば、急電の飛報に接す。「母病い重し早く帰れ」の急報なり。その翌日山陰道へ向け出発せんとて、すでに旅装を整えおきたるにもかかわらず、播州および鳥取県へは巡回延期を打電して、深夜一時の急行にて帰郷の途に上る。かくして二十七日午前十一時、郷里に着駅するや、その時刻より二時間前に母すでに絶命して不帰の客となる。人生は無常なり、老少は不定なり、盛者必衰、会者定離なれば、母の老躯にしてこの事あるはあえて驚くに足らざるがごときも、余は平素東奔西走の身にして、孝養の務めを欠くのみならず、その発病に当たりても看護するあたわず。しかして今やすでに隔世の人となられたれば、茫然として自失し、悵然として長嘆し、追慕の念胸中に湧くも、またいかんともするあたわず。二十九日葬儀を行い、ついで法要を営み、九月上旬帰京し、喪中は和田山哲学堂に幽棲することに決す。その間、往事を追憶するのあまり、余の平素懐抱せる人生観、宇宙観を発表せんと欲し、倉皇筆をとりて『哲学新案』を起草せり。

 十月中、微恙ありて箱根芦之湯および底倉に入浴し、静養を加うること旬余に及ぶ。清水および箱根の吟草、左のごとし。

        望岳二首

  姿勢堂々立海東、光顔八面玉玲瓏、満胸塵苦掃難去、出対斯山忽作空、

(堂々たる姿で東海にたち、かがやくその形はいずれから見ても玉のごとく美しく透き通っているようである。胸いっぱいにふさがる俗世のわずらわしさや苦しさを掃きすてるのは難しいものだが、戸外でこの山に対面したときは、たちまちそれらもふきとんで虚心になるのであった。)

  一峰巍立抜群巒、雲作衣裳雪作冠、欲接神州高潔気、虚心須対此山観、

(一つの峰が高々と大きく、多くの山々より抜け出すようにそびえたち、あたかも雲をもって衣裳とし、雪をもって冠としているようである。わが国のすぐれたきよらかさ、けだかさに触れたいならば、虚心にこの山にむかってじっとみつめるべきである。)

        函嶺客舎雑詠数首

  凾嶺四時賑似京、浴余呼酒万人傾、貧生買楽銭無用、盗聴隣楼糸竹声、

(箱根の山は四季を通してみやこのようなにぎわいをみせ、入浴のあとは酒をとりよせてすべての人は杯をかたむけるかのようだ。そして貧しい書生は楽しみを得るにも金銭を使わずに、となりの宿から聞こえてくる管絃の音をぬすみ聴くのである。)

  連日冥濛百事慵、晩晴迎我促吟笻、秋霖洗尽天如拭、月満凾山第一峰、

(毎日の雨にくらがりのような中にいて万事にものうく、夕映えは私を迎えて、杖つきながらの吟詠を催促する。秋の長雨にきれいに洗われた空はぬぐうがごとく澄みわたり、月の光は箱根第一の峰に満ち満ちている。)

  誰言凾嶺乏風光、歩自芦湯到湖傍、茅店懸辺停杖望、山眠水笑是仙郷、

(だれが箱根の山は風景にとぼしいといおうか。歩んで芦の湯から潮畔に至り、茅ぶきの店のあたりに杖をとめてはるかに望めば、山は眠るがごとく、水は笑うがごとく、ここは仙人の住む里なのである。)

  凾関一路出林之、如鏡湖光眼下披、仰見富峰臨又見、海東此景最為奇、

(箱根関所の道をたどり林をぬけてゆけば、鏡のようにひかる湖が眼下にひらける。仰いでは富士山をみ、見おろしては湖をみ、交互にみて、東海におけるこの風景は最もすぐれたものと思ったのであった。)

  十月凾山樹鬱葱、客窓影暗昼冥濛、秋風一夜吹雨去、染出林頭点々紅、

(十月の箱根の山は樹々がうっそうと茂り、旅館の窓辺もくろぐろとして、昼なおくらがりの中にあるようだ。秋風が一夜吹きぬけるとともに雨もあがって、林のこずえのあたりには点々と紅の色が染め出されたように見られるようになった。)

  尋来凾嶺尽頭村、一望何人不動魂、荒廃古関路難認、只看残礎著苔痕、

(箱根山上のきわまるところの村をたずねたが、一望していかなる人も魂をゆり動かされずにはおれぬ。荒れ果てた古い関所、道もわからぬほどとなり、ただわずかに残る土台石には苔のあとが残っているのを見るのみなのだ。)

  一路回頭憶旧年、轎夫歌過白雲巓、箱根八里馬猶越、欲渉難能大井川、

(ただひとすじの道にふりかえって昔を思えば、かごかきの歌が白雲のたなびく山のいただきをすぎてゆく。箱根の道程八里はいまなお馬で越すこともできようが、大井川はかちわたりしようとしても無理であろう。)

 また、箱根客中、自己流の狂歌数首をつづる。一読たちまち不知歌斎道人の作なるを知るべし。芦の湯は紀の国屋、底倉は蔦屋を旅館とす。

  芦の湖と駒ヶ岳との夫婦にて、産み出せる子は二子山なり、

  思ひきや地獄に隣る芦の湯に、此極楽の里あらんとは、

  湯花さく芦湯の秋を尋れは、只紀の国の賑ひそ見る、

  十五夜の月は箱根に嫉まれて、雲の牢屋に閉ぢられにけり、

  また今日も雨と思へはいやになる、只楽みは酒と入浴、

  秋雨のシャボンをつけて洗ひし歟、今宵の月の顔のさやけさ、

  芦の湯の湯花にあきて明日よりは、谷そこくらの蔦を尋ねん、

  底くらき谷間にしげる蔦の葉は、秋の錦を染め出しにけり、

        箱根温泉つくし二首

  湯本より塔の沢へて宮の下、底倉木賀の次は芦の湯、

  其外に堂ヶ島あり小涌谷、剛良湯の花、姥子温泉、

 これよりさき、『自家格言集』を編述するに際し、一夜勅命の下りしを夢み、記夢一首を作る。

  天子親臨拝勅宣、赤手握来兵馬権、半夜夢醒灯影暗、依然身在破窓前、

(天子みずから臨まれて勅命を拝し、素手で戦争の権を握ることとなった夢をみた。夜中に夢さめてみればともしびも暗く、いぜんとして身は破れた窓の前にあるのであった。)

 箱根より帰京の後、およそ一カ月間在宅、更に離島周遊の準備をなす。

 明治四十二年十一月十一日夕、霊岸島より乗船、単身にて伊豆七島中、大島に向かう。海上平穏、舟中雑踏す。京北中学出身秋田栄治氏と相会す。船名は祝丸なり。

 十二日 晴れ。午前三時、大島元村〈現在東京都大島町〉に着岸す。船中にとどまること二時間余にして上陸す。ときに旭光天城連山に映射し、富峰雪をいただきて碧空の間に巍立するところ、壮観を極む。

  相海風光漸入冬、時尋孤島訪仙蹤、朝暉射処豆山赤、白印青空是富峰、

(相模の海の風景はようやく冬のおもむきを加え、ときに孤島をたずねて仙人のあとをおとずれようとしたのである。朝の陽光は伊豆の山を赤く染め、青空にくっきりと純白であるのは富士山のいただきである。)

 島司小池有徳氏は懇ろに出でて迎えらる。旅館は千代屋なり。楼上海を隔てて豆相の連山と相対し、われ呼べば彼答えんとする勢いあり。これを加うるに一朶の芙蓉の天空にかかり、破顔微笑の趣あるは、三保松原の望岳の比にあらず、はるかにそれ以上の壮観なり。「富士を見るなら大島に来れ三保や竜華寺の比ではない」と歌わざるを得ず。なかんずく夕景最も佳なり。噴火山あり、三原山という。その名称雅ならず、よって詩中、仙原の字を用う。

  仙原山下坐孤楼、望裏送迎来去舟、一碧暮天雲断処、倒懸白扇豆洋秋、

(仙原山〔三原山〕のふもとにぽつんとある旅舎のたかどのに座して、はるかに送迎往来の舟を望む。青々とした夕暮れの空の雲切れるところ、富士山の白扇をさかさまにかけたようにうかぶ伊豆の海の秋である。)

 当夜、小学校に至り、戊申詔書の一端を開演す。発起者は当地の有志者にして、村長代理清水岩蔵氏、主として斡旋せらる。

 十三日 晴れ。午後、島庁書記光野晴次氏とともに元村を発し、行くこと里許、野増村〈現在東京都大島町〉に至る。村長坂上周之助氏、校長近藤善蔵氏、有志者神原正一氏等の発起にかかる。しかして宿所は旅館、会場は小学校なり。当村は椿油を特産とす。

 十四日(日曜) 晴れ。午前、村長の案内にて三千年古の遺跡を探り、石砕瓦片を得たり。地名を竜の口という。絶壁の岸頭にあり。午後、丘壑を上下し、砂浜に出入し、利島、新島を波上に応接しつつ差木地村〈現在東京都大島町〉に至る。行程二里半なり。その中間の砂原は砂の浜と呼ぶ。噴火石の点々散在するを見る。その形糞に似て、その色あるいは黒を帯び、あるいは黄を含み、あるいは赤を浮かぶ。よろしく糞石と名付くべし。当地の所見、詩中に入るる。

  豆海孤山聳、寒村繞四辺、椿林庭自暗、牛路糞相連、貯両家炊飯、戴鋤婦向田、客居茅屋下、坐臥静如禅、

(伊豆の海にぼつりと山がそびえ、わびしげな村はまわりをかこむ。椿林の庭はおのずと暗く、牛の通る道には糞が連なるかのように落ちている。余裕のある家は飯を炊き、すきを肩にした婦が畑に向かう。旅客はかやぶきの家にいて、座るも臥すも静かであることは禅の修行に似ている。)

 会場は小学校、主催は青年会なり。昨今、本島は農繁の時期なれば、開会はすべて夜間に定む。村長は松島朝太郎氏にして、校長は新見虎吉氏なり。当地は海草を特産とす。

 十五日 晴れ。午後、波浮港村〈現在東京都大島町〉に移る。距離一里弱なり。はるかに無線電柱の高く天を刺さんとするを見る。湾を渡りて村に入る。湾形瓢に類するところあり、これを瓢湾と称して可なり。丘上に望楼あり。日露戦役中に建設せりという。

  瓢形湾上有仙郷、堪仰電標千尺長、望海楼前時極目、蒼茫色是太平洋、

(ひょうたん形の湾のあたりに仙人の住むような里があり、そこに立つ電柱は千尺の高さもあろうかと仰ぐばかりである。海を望む望楼の前に立ってはるかに見渡せば、広々とはてしなく、これぞ太平洋なのである。)

 会場は小学校、宿所は秋田栄治氏の宅なり。しかして開会は村長秋田米次郎氏、校長松木国次郎氏等の主催にかかる。当港は伊豆七島中第一の防風湾にして、漁船の入泊四時絶えず。村民、多く漁業を営む。本島は毎年七五三の祝い最も盛んにして、本日はまさしくその祝日にあたる。小児の三歳または七歳に達するもの、衣服を新調して氏神に参拝し、萩餠を製して祝す。衆人その家に入りて杯を挙ぐ。多大の冗費を要すという。近年、勤倹主義より、波浮港のごときはこれを廃するに至る。

 十六日 穏晴。天朗らかに気清く、風和してあたかも春晴のごとし。老婦の案内を得て三原山に登臨す。午前十時、波浮を発し、岩を攀ぢ樹を排して行くこと二里、砂原に出ず。およそ数里の間草木なく、渓谷なく、ただ糞石の遠近に点在せるを見るのみ。前を望めば一帯の峰巒の屏立するあり。その内部より雲煙の飛騰するもの、これ噴火口なり。後ろを顧みれば、伊豆五島の点々眼前に散布するあり、房総二州の脈々脚下に横臥するありて、ともに一握掌中に入らんとする状あるは、壮快もまたはなはだし。砂路をうがつこと里許、更に石間を攀じ、ようやく峰頂に達す。火口の大なるや、直径六、七丁、周週半里と称す。その中央より噴煙蒸騰す。その勢い、万竜の一時に昇天するがごとし。

  十里曠原一望開、石如馬糞土如灰、仰看天半雲竜躍、峰頂登臨呼快哉、

(十里四方もあろうかと思われるほど広々とした砂原は一望のもとに開け、そこは石が馬の糞土のごとく点在し、あるいは灰のようでもある。仰いで空をみれば、天の半ばは噴煙におおわれ、竜のごとく勢いよくたちのぼる。峰のいただきに登り、四方の景観を目におさめて、思わず快哉をさけんだのであった。)

  峰角攀来立碧空、噴煙蕩々気何雄、回頭千里無遮目、長嘯太平洋上風、

(峰のとがったところによじのぼり、青空のなかに立つ。噴煙は広大に、勢いのなんとさかんなことよ。見まわせば千里の果てまでさえぎるものもなく、太平洋上より来る風がうそぶくかのごとく吹いている。)

 日すでに二時ならんとす。峰を下りて行くこと里許、ようやく林丘に入る。いたるところ椿桜多し。一茅店あり、これを湯場と称す。天然の蒸風呂を設く。ここに少憩して本島名物の甘藷を食す。ときまさに四時を報ず。渓路みな凹形をなす。落葉を踏んで元村に帰る。この日、行程総じて六里余なり。

  秋晴扶杖上仙原、帰到湯場日欲昏、落葉満渓埋凹路、不知何処是元村、

(秋晴れのもと、杖をたよりに仙原〔三原山〕にのぼり、帰る途中の湯場に着いたときには、日も暮れようとしていた。落葉が谷いっぱいに敷きつめられ、くぼんだ道を埋めている。さて、いったいどこが元村なのかさえわからない。)

 仙原はすなわち三原山なり。

 十七日 晴れ。便船なきをもって滞在す。本島は中央に三原噴火山あり、その周辺海浜にそいて元村、野増、差木地、波浮港、泉津、岡田の六村あり。明治三十三年、元村に島庁を置かれしより、諸事ようやく面目を一変するに至れるも、風俗、人情のごときは、依然として旧慣を存し、一見異域に遊ぶがごとき思いあり。なかんずく婦人の風俗は奇観なり。襷をかけ前垂れを帯び、鉢巻きを結び、頭上に物をいただき、米一俵はたやすく運搬し得るなり。強力の婦人は二十貫目以上を戴運し得という。すべて伐木、耕稼、運搬等の労働は婦人もっぱらこれを任じ、男児はその一部を助くるに過ぎず。人の妻となりて夫を扶養し得ざるものは婦人の恥辱となすという。概して婦人の体格、骨相、姿勢は佳良なり。一般の風習として男女結婚すれば、その両親たるもの隠宅を構えて別居す。故に各村戸数の一半は隠宅なり。住家はその構造、間取り大抵一定し、牛屋、便所を別置す。建築は比較的堅牢にして、耐風の力あり。戸ごとに石垣を築き、はき出し戸口を設けず、二階を作らざる等は、みな風害を恐るるによる。板をもって壁に代え、雨水をもって飲用にあて、甘藷をもって食料を補い、牛糞、蒼蝿、強風、椿桜、薪炭、牛乳の多きは本島の特色とす。もし無の字をもってその特色を列挙すれば、

  島無米    野無菜    山無狐    渓無水    路無川

  田無蛙    邸無井    居無壁    家無階    内無廁

  炊無釜    婦無帯    歩無鞋    寺無法    婚無式

  会無礼    人無等    村無争    館無浴    径無凸

 全島に河川なく、したがって水田なく橋梁なく、児童、婦人にして島外に出でざるものは、蛙、蛍、鰌を知らずという。畑は切り替え畑と称し、十五、六年ごとに薪林と畑作とを交代す。畑には多く麦、薯を作り、野菜に乏し。井水なきために、天水を貯蔵するの法の発達を見る。山には狐狸の住せざる故、狐つきの迷信なし。その代わりに人をたぶらかすものは鼬なりと信ず。鬼門、金神、死霊、生霊、天狗、山男、船幽霊、祟り等の迷信あり。室内にはみな天井を張り、畳を敷き込み、地炉を設け、仏壇あり神棚ありて、比較的清潔なり。旅行には鞋をうがたずして草履を用う。旅館あれども浴場の設備なし。寺院あれども布教をなさず。葬式は厳粛にして、読経中、哭泣の声絶えず。喪中謹慎を守り、墓参、供養等もよく勤め、墓地の灑掃を怠らざるも、宗教の信仰に至りては極めて淡薄にして、現世の利福を主とし、死後の冥福を祈ることなし。夫死すればその家の檀那寺にて葬式を行い、妻死すれば妻の実家の寺にて行うを常例とす。婚礼は簡単にして、内地のごとき複雑せる儀式を行わず。要するに村民の間、貧富の懸隔なく、上下の等差なく、人と相会するも、頭をたれて挨拶を述ぶる風を見ず、応接はすべて簡略なり。人情質朴にして淳良の方なれば、喧嘩争論もまれにして、尭舜の民たる風あり。道路は一般に粗悪にして、凹形をなすもの多く、車を通ずべからず。牛糞の臭気の鼻をつくは、外来の人をして不快を感ぜしむ。ただし牛乳の値一合一銭五厘、一升七、八銭ぐらいなるは全国無比なり。また、男子は多く酒をたしなみ、ときどき会飲をなすという。

 言語は方語、訛言多くして解し難し。カ行をハ行になまること多し。ネコをネホといい、肩をハタといい、桶をオヘというの類なり。朝の挨拶はオヒタナーまたはクッタナーといい、寝るときはウンネライという。「内地言葉ぢやオヤスミナサイ、島のアンコ等はウンネライ」とよみたる歌あり。アンコとは女子のことなり。名詞には多くコを添え、茶碗をチャワンコと呼ぶは奥州に似たり。汝をニシといい、食器をジャウゲといい、ニゴリサケをゴンクといい,仏壇をオトリサマといい、病気のことを哀イといい、疲れたことをヌタッタというがごとき方言は、列挙にいとまあらず。方歌すなわち俗謡中にもおもしろきもの多し。左に二、三を抜記す。

  私たしや大島雨水そだち、胸にぼーふら絶えはせぬ、

  わたしや大島荒島そだち、色の黒いも親ゆづり、

  大島の島といふ字は山偏に鳥だ、鳥が飛んでも山残る、

 十七日。午後は元村の神社仏閣を一覧す。村社は吉谷神社と号し、祭神不明。けだし三原山を祭りたるものならん。寺院は曹洞宗金光寺、浄土宗潮音寺、日蓮宗海中寺の三カ寺にして、島内ほとんどこの三カ寺の檀家なり。社寺ともにテマリ麻をささげおくは、祈願の印なるべし。社内の小木に幣束を立て、茅をもってまといおくは、神を奉祀する意なりという。寺院はみな貧地なり。本島の人情、風俗は、近来内地の交通頻繁なるために漸々改変すという。

 十八日 晴れ。風強く波高く、便船きたらず。当夕、小学校にて開演す。

 十九日 晴れ。午後、雨あり。閑に乗じて俗調二、三をつづる。

  大島に風と牛糞なかりせは、不寒不熱の極楽の里、

  炭を焼き薪を売りて米を買ひ、残るオアシで酒をたつぷり、

  朝遇へばオヒタナといひ夜になれば、ウンネライとは島の挨拶、

  大島の山で織り出す白煙り、流れて富士の衣とぞなる、

  笑ふは富士、眠るは天城、大口を、あいて烟草を吹くは大島、

 気候は夏暑からず冬寒からず、大いに健康に適す。泉津村に老桜のその大きさ八人にて囲繞すべき大木と、役行者の住せしと伝うる岩窟ありというも訪尋せず。源為朝の遺跡は確実なるものを認めず。毎年一月二十四日、二十五日に日忌祭をなす。その夕、船の幽霊きたると信じ、固く戸を閉じて外に出でず。その遺風、今なお泉津に残るという。大島に隣接して利島、新島、神津島、三宅島、御倉島あれども、船便悪きために回遊せず。当夕九時半、汽船徳山丸に駕して、十二時半、伊豆国伊東町猪戸温泉枡屋に入宿す。数日間滞在。雑詠二首あり。

  沸泉処々気如雲、浴後凭欄送夕曛、仙窟堪驚古今変、電灯光底閲新聞、

(わきでる湯がところどころにあり、湯気は雲のごとくあがる。入浴ののちは手すりにもたれて夕日のくすみつつ沈むのを見送った。御岩屋は今昔の変わりように驚いているであろう。いま私は電灯の光の下で新聞をひろげているのだ。)

  三面皆山一面開、潮風調節暑寒来、客楼况復霊泉湧、真是人間不老台、

(三面は山に囲まれ、一面が海に向かって開いており、潮風が暑さ寒さを調節しているようだ。ましてや旅館楼閣には霊妙な温泉が湧きでているのである。まことにこれこそ人間界の不老のうてなであろう。)

 二十五日 晴れ。伊東を発し、大仁駅より汽車に駕して帰京す。大島開会表、左のごとし。

   地名      会場  席数   聴衆    主催

  大島元村    小学校  四席  百二十人  村内有志

  同 野増村   小学校  二席  八十人   村内有志

  同 差木地村  小学校  二席  五十人   村内有志

  同 波浮港村  小学校  二席  百二十人  村内有志

   合計 四カ村、十席、三百七十人

 十二月五日の郵船にて八丈島、小笠原島を周遊せんと欲し、すでに旅行の準備をなしたるも、風邪におかされ、やむをえず延期するに至る。

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〔明治〕四十二年度統計

 以上表記せる各所の開会、演説、聴衆を統計すること左のごとし。

  兵庫県=一市、二郡、四町村、八カ所、十七席、三千八十人(六日間)

  愛媛県=一市、十二郡、六十六町村、八十三カ所、百四十六席、四万二千九百五十人(日数六十九日間)

  島根県=一市、一島、十二郡、七十八町村、九十五カ所、百八十五席、五万一千八百人(八十八日間)

  鳥取県西伯郡=二町村、二カ所、四席、四百人(二日間)

  清水町および大島=五町村、五カ所、十一席、五百四十人(九日間)

 その総計を左に表示す。

  開会=三市、百五十五町村、百九十三カ所

  演説=三百六十三席

  聴衆=九万八千七百七十人

  日数=一百七十四日(東京往復および途中滞在日数はこの中に算入せず)

 本年はこれを昨年に比するにほとんどその半数なるは、母の喪のために数カ月間巡回を中止せるによる。つぎに、本年中の著述事業としては左の二書を発行す。

  『自家格言集』全一冊=四十二年十月十五日出版

  『哲学新案』全一冊=同年十二月九日、弘道館発行

つぎに、哲学堂の工事は、六賢台、三学亭の内容と山門の建築と庭園の起工との三件なり。