3. 南船北馬集

第六編

P259--------

南船北馬集 第六編

1.冊数 1冊

2.サイズ(タテ×ヨコ)188×127㎜

3.ページ

 総数:124

 口絵:1葉

 目次:2

 本文:122

(巻頭)

4.刊行年月日

 底本:初版 明治45年4月25日

5.発行所

 修身教会拡張事務所

P261--------

八丈島および小笠原島紀行

 明治四十三年十一月二十一日 晴れ。午前十時、新橋発車。午後二時、横浜出帆の肥後丸(一千四百トン)に投じて、八丈島に向かう。島司吉川八郎氏と同乗す。

 二十二日 晴れ。午前四時半、八丈島三根湾に入船し、六時、上陸す。歓迎者、岸頭に満つ。ことに三根村〈現在東京都八丈町〉青年諸氏は旗をたて、煙花をあげて迎えらる。これより行くこと十余町にして、旅宿八丈館に入る。夜来晴風穏波、黒潮の波上も夢裏に経過し、暁窓すでに八丈富士の岳影忽然として浮かぶを見る。本島は東西に山岳対峙し、その中間に平原あり。一を三原山という。東岳なり。他を西山という。その形富士に似たるをもって、通称八丈富士と呼ぶ。その雅名は甑峰なり。

  船走玄潮万頃間、霜風吹断汽声閑、暁窓一笛驚残夢、身在小蓮峯下湾、

(船は黒潮の広々とした波間を走り、霜をふくむ風が汽笛の音を吹きちぎってのどかである。あかつきの窓に一声の汽笛がひびいて見残しの夢をおどろかせば、身は八丈富士のふもとの湾にあったのである。)

  玄潮波似乱峯堆、昔謂鳥猶難渡来、明治天恩及孤島、汽船往復月三回、

(黒潮の波はみだれたつ峰のかさなるのに似て、昔は鳥すらもなお渡来することが難しいといったものである。明治の天子のめぐみはこの孤島にもおよび、いまや汽船は月に三回も往復しているのである。)

 従来汽船の往復毎月一回なりしが、本年より三回の出入あり。気候は東京よりも温暖にして、伊豆の沿岸に比すべし。地質は火山灰にして、伊豆大島に同じ。このときいまだ降霜を見ず、いたるところただ椿花の唇を開くあり。

  蓬莱島上気如春、霜月南風見早椿、徐福遺蹤何処在、満山薬草雨余新、

(神仙が住むような島の上は陽気は春のごとく、十一月の南の風に早くも椿の花が見られるのである。不老不死の薬を求めて渡来したという徐福が残したあとはどこにあるのであろうか。山をみたして薬草がのび、雨に洗われて新鮮である。)

 この地、徐福来遊の伝説あれども信ずべからず。されど一見、人をして東海の蓬莱たるを思わしむ。旅館において、有志諸氏数十名と午餐をともにす。午後、小学校にて開会す。島内第一の校舎なり。当夕、船の出航なきを聞きて、更に青年諸氏のために演述す。会後、臨時〔に〕八丈固有の盆踊りの催しあり。その歌の二、三を抄記すること左のごとし。

  招く★★(原文では、くの字点表記)川側柳、水の流れを見て招く、

  タントふれ★★(原文では、くの字点表記)六尺袖を、年のよるさに何にふろし、

  都習ひかお国の作法か、姉が妹の酌にたつ、

  二八が若さのふたゝびあらば、枯木に花のさきとろむ、

 踊り人の姿勢はあるいは高くあるいは低く、波形をえがきて揺動しつつ回旋するなり。あたかも船舶の黒潮の間にゆられつつ進み行くの状に似たり。その歌の調子は全く東京のキヤリ節に似て、極めて楽天的なり。けだしこの踊りによりて、島人の楽天観を助くるもののごとし。そのほかトノサおどり、ヒチャヒチャおどり等も一見せしが、相撲甚句に似たり。すべておどりには音曲を用いず、ただ、ときによりて太鼓を打つことあるのみ。

  両岳峡間沙路平、去来人踞野牛行、客窓一夕観盆踊、歌曲自含歓楽声、

(東西二山の間は砂の道が平坦に、行き来する人、野を牛が行く。旅館の窓から夕べに盆踊りをみれば、歌曲にはおのずから歓楽の声がふくまれているのだ。)

 本島開会の主催は教育会にして、吉川島司その会長たり。島庁課長秋山文太郎氏、視学村木経勁氏等その幹事たり。三根村長持丸庫三郎氏、小学校訓導竹内保雄氏等助力あり。

 二十三日 晴れ。午前八時、乗船。十一時、出帆。風波やや穏やかなり。青ケ島を迎送しつつ進航す。同島は八丈の付属島にして、医家なく寺院なく、多数の女巫〔みこ〕ありて、その代用をなすという。

 二十四日 晴れ。気候とみに暖を加う。暁天はるかに三十マイルを離れて、一点の青螺を見る。すなわち鳥島なり。これより終日雲波渺漠、寸影を認めず。舟中吟一首あり。

  太平洋上路、風静万波青、天際無何見、船居雲是屏、

(太平洋上の航路は、風も静かに波はすべて青味をおびている。天のはてまでなにものも見えず、船はすまいであり、雲はまさに屏である。)

 二十五日 晴れ。午前五時、小笠原父島に入港。八時、上陸。金子旅館に入る。村名を大村と呼ぶ。島庁所在地なり。海岸に沿って茂樹屏立し、海上よりこれを望むに一棟の屋舎を見ず。これを保安林という。その林を隔てて市街あり。家屋はみな一階にして、棟、軒ともに低し。もってその地のいかに暴風の多きかを知るべし。棕櫚の葉を結びて屋根をふき、芭蕉を植えて庭園となす。その間に異様の樹木の鬱然たるあり。その状はややシンガポールに似たり。しかして湾の周囲はみな山にして、山上に棕櫚の群生せるを見る。あたかも琉球および大島に蘇鉄山を見るがごとし。寒温鍼はときなお〔華氏〕七十度を上下し、単衣よく朝夕をしのぐを得。内地の九月中の気節に比すべし。

  環水皆山一角開、湾如明鏡蘸崔嵬、太平洋上狂風起、船避怒涛入港来、

(海にかこまれてすべて山というなかで一カ所が開く。湾は明るい鏡のごとく岩石の険しい山をうつし出している。太平洋上に狂風が起これば、船は怒涛を避けてこの港に入るのである。)

  一条街路緑陰遮、風満芭蕉葉下家、霜雪不侵花不断、三冬光景似新嘉、

(一本の街路を緑の葉陰がおおい、風は芭蕉の葉の下の家にみちる。霜や雪がこの地にふることもなく、花はいつも咲き乱れ、冬三カ月のこの景色はシンガポールに似ている。)

  客身如雁逐時遷、霜月遠游南海辺、蔗雨蕉風孤島夕、保安林下聴涛眠、

(旅の身は雁のごとく四季を追うようにうつりゆき、十一月には遠く南海のはてに至った。さとうきびにふる雨と芭蕉に吹く風のなかで孤島は夕暮れを迎え、保安林のもとで波の音をききながら眠ったのであった。)

 午前、登庁。島司阿利孝太郎氏は母島出張中なれば、課長川手文氏、笹本恕氏に面会し、大村世話掛(村長)久世延吉氏、島庁書記松原守久氏の案内にて、町内を通覧す、午後、更に二見浦に至りて養亀場を訪い、奥村なる雑居部落を一過して、製樟場をみる。警部鮫島正純氏、小学校長島村松之助氏等来訪あり、午後五時、帰船す。

 二十六日 晴れ。朝六時、出航。十時、母島沖村〈現在東京都小笠原村〉港に入着す。まず島庁出張所に至りて阿利島司に面会し、清見寺に小憩して、星平作氏の宅に宿泊す。夜に入りて開会あり。会場は小学校なり。沖村世話掛菊池廉蔵氏、役場書記塩野辛太郎氏、校長原田鈼三郎氏、清見寺住職中沢信光氏等の主催にかかる。母島は全島ほとんど甘蔗田にして、製糖を業とするもの多し。丘山起伏して平地なきは父島にひとし。行路の赤土質にして、スベリやすく、坂路の極めて険峻なる点も、父島に異ならず。かかる樵径を草鞋を用いず、はだしにて自在に上下するは、内地人をして驚かしむ。

  父母両洲蟠太洋、不寒不熱是仙郷、多胡樹下冬猶暖、加納舟中夏自凉、

(父母の両島は太平洋上にわだかまり、寒からずあつからず、まさにこれ仙人の住むところである。蛸の木の下は冬でもなお暖かく、カヌーの舟の中は夏でもおのずと涼しい。)

 これ滞在中の所詠なるが、多胡樹は林投樹の俗称にして、その根上がりて形タコ魚に似たるによる。加納〔カヌー〕舟は南洋漂流人の伝えきたれる異様の葉舟にして、その形大小の鰹節を横に連結して、海中に浮かぶるもののごとし。当地裁判所出張所書記原晤朗氏どくろを愛すというを聞きて、一詩を賦呈す。

  君愛髑髏吾愛霊、両人相対語幽冥、開来生死一如眼、読起世間無字経、

(君は髑髏を愛し、われは霊魂を愛す。二人はむかいあって死者の世界について語り合った。死生は一つであるとの見解を得て、世間無字経を読んだのであった。)

 また、同氏よりどくろの印刻を贈られ、七絶を添えられたれば、これに次韻して答謝す。

  誰言天下無妖怪、明月清風悉妖怪、心地一開哲眼来、談妖怪我亦妖怪、

(だれが天下に妖怪はないというのであろうか。明月、清風でさえもすべて妖怪といえる。心中にひとたび哲学の眼を開けば、妖怪について語るわれもまた妖怪になるのであろう。)

 画工田岡雲挙氏ここに寓せらるるにつき、一絶を賦呈す。

  君能写天美、吾亦弄心声、共荷筆犂去、紙田孤嶋耕、

(君はよく天然の美をうつし、われはまた心の声に耳を傾ける。ともに筆をもってゆき、この孤島に紙筆をもって生計をたてているのである。)

 また、清見寺は母沖山と号するを聞き、中沢氏にも六言一首を賦呈す。

  曝身絶海潮風、寄心彼岸仏地、覚月照母沖山、法雨澍清見寺、

(身を絶海の潮風にさらし、心を彼岸の仏の境地に寄せる。月は母沖山を照らし、仏法の慈雨が清見寺にそそぐをさとったのである。)

 十一月二十七日(日曜) 晴れ、ときどき過雨あり。中沢、田岡両氏とともに山行三里、鞋をうがちて坂を攀じ、北村〈現在東京都小笠原村〉に至る。途中、鴬声断続す。あたかも春時のごとし。

  仙源赤路自崢嶸、跣足人穿牛糞行、緑樹陰濃山寂々、厳霜時節聴鴬声、

(仙人の住むような地の赤土の道はおのずと高く険しく、はだしの人は牛糞にぬかるがごとくして行く。緑の樹々の陰も濃く、山はものさびしく静かに、きびしい霜のおりるこの季節にうぐいすの声をきいたのであった。)

 北村にては高橋伊与三郎氏の宅に宿し、小学校にて開演す。助役吉岡千之助氏奔走せらる。萩原轍氏、尾崎政吉氏も助力あり。本村は僅々百戸に満たざる小村落にして、しかも二里の間に散在せるにかかわらず、聴衆、堂の内外にあふれ、三百五十人をもって算せらるるの盛会を得たり。

 二十八日 晴れ。早朝、汽船湾内に入るも、風波のために沖村へ返航せるを聞き、にわかに鞋をうがち、走行二時間に三里を登降し、背汗衣に徹するに至る。かかる絶海の孤島に全国各県より続々移住しきたりて、わずかに数十年の間にこの隆盛をきたせるがごとき進取の気象は、実に嘆称せざるを得ず。よって更に一吟す。

  成功必要去郷関、立志須期死不還、男子何辺埋白骨、無人島上有青山、

(必ず成功をせんと故郷を出でて、志を立てたうえは死すとも帰らずときめている。男子としてどこに白骨を納めようか、無人島の上にも青山〔骨を埋める地〕はあるのだ。)

 父島、母島ともに、湾内の風光おのずから吟情をして勃然たらしむ。午後一時、母島を去りて父島に帰港し、五時、金子旅館に入宿す。

 二十九日 晴れ。午前、対岸なる扇村〈現在東京都小笠原村〉に渡り、小学校にて開会す。世話掛志村文次郎氏等の発起なり。校後の丘上に小笠原無人島の由来を刻せる石碑あり。当夕、大村〈現在東京都小笠原村〉に帰りて小学校にて開会す。

 三十日 晴れ。午前、休養。午後、清瀬苗圃を一覧す。熱帯の植物を収集せる所なり。当夕、発起者久世、杉原、島村三氏および宮内多平氏、青野某氏と会食す。

 十二月一日 晴れ。午前、加納小艇に駕して、対岸に試乗す。軽くしてかつ速やかなり。しかして午後二時、阿利島司をはじめ有志数名に送られて乗船し、八丈島に向かう。

 小笠原島は従来無人島と称せしが、その実、文禄年後ようやくこれに漂着せるものあり。ことに文政以来続々遠洋より漂泊せるものありて、有人島となりおりたり。あるときはイギリスの所領に帰せんとし、あるときはアメリカの配下に入らんとせしも、明治九年、わが邦人これに移住して、はじめて日本の植民地たることを確立せり。

  文禄年来多漂流、無人島作植民洲、米狼英虎将呑噬、神護幸帰日本州、

(文禄の年より多く漂流してくる者があり、無人島は植民の島となった。その間に、アメリカの狼、イギリスの虎のごときはこの島を侵略しようとしたが、神の加護によって幸いにして日本の島となったのである。)

 目下、外国人種に属するものを帰化人と呼び、八カ国の類別あり。よくわが国法を遵守すという。

  二見湾頭樹作門、棕欄家是雑居村、皇威今日震孤島、帰化人皆仰聖恩、

(二見湾のほとりは樹々が門を作り、棕欄ぶきの家は八カ国からの人の住む村である。天子の威光は今日孤島をふるわせ、帰化人はみな天子の恩をあおぐのである。)

 小笠原島の特色は尊皇愛国の精神に富める一事なり。年中最も盛んにかつにぎわえる、天長節の祝典とす。父兄が子弟の教育に重きを置くがごとき、全島に料理店およびこれに類似のものなきがごとき、一村各戸みな近親同様に吉凶相慶弔するがごときは、みな本島の美風とするところなり。宗教に至りては一般に冷淡の方にして、ヤソ教会堂一カ所の外に、父島に真宗一カ寺、母島に浄土宗一カ寺あるも、堂宇の見るべきものなし。しかして迷信は比較的少なきは新開地なる故なり。

 本島にきたりて見聞上奇異に感ずるは、植物に松、杉なく、鳥類に雀、鴉なく、虫類に蛇、蛙、蚤、虱なき等なり。夏日旅行の途上、他人の西瓜畑に入り、無断にて盗み食いするも一般に黙許し、もし一個たりともこれを畑外に帯出することは決して許さざる風習のごときも異風なり。唐辛〔子〕や茄〔子〕の数十年を経たる立木あるも奇怪に感ぜらるるなり。

 二日 晴れ。海上、風ようやく強く、波ようやく高く、夜に入りてことにはなはだし。

 三日 晴れ。午前十時、波際に青ケ島を認め、午後二時、八丈三根に入津す。六、七時間の延着なり。

  一帆遠逐疾風還、再到蓬莱島上関、東岳臥波西岳立、仙家散在両山間、

(帆船は遠くから疾風に追われてかえり、再び神仙の島に上陸した。東山は波間に臥すがごとく、西山は立ちはだかり、仙人の住むような家がこの二つの山の間に散在しているのだ。)

 海岸より村木視学等とともに歩すること里許、大賀郷村〈現在東京都八丈町〉大脇館に入宿す。郡長吉川氏、村長浮田欽吉氏、校長某氏等と相会し、小憩ののち小学校に至りて開演す。聴衆内外にあふれ、六百人の多きに及ぶ。

  小蓮峰下小蓬莱、大詔講筵此再開、日暮街頭皷声起、人如海嘯圧堂来、

(八丈富士のもと神仙の住む村に、詔勅について講演をここに再び開く。日暮れて街頭には太鼓の音が起こり、人々はつなみのごとく講堂を圧するように来たのであった。)

 四日 晴れ。早朝六時半、客舎を発し、馬上一鞭、中之郷村〈現在東京都八丈町〉長楽寺に至りて開演す。哲学館出身明林義之氏これに住職たり。氏は本島開会に関して大いに奔走せらる。演説後、薯酒を傾けて馬をめぐらし、大坂の隧道を出ずる所、西山と小島を眼前に望みて、天成の園池に対する趣あり。けだし八丈第一の絶勝ならん。

  馬上吟行身欲仙、青椿巒与碧湾連、一過隧道更相望、両朶倒蓮懸海天、

(馬上に吟じ行く身は世俗をはなれた仙人になるかと思われた。青い椿の山とみどりの湾とが連なり、ひとたびトンネルをぬけてさらに望めば、ふたつの蓮をさかさまにしたような山が、海と天との間にかけたように見えたのであった。)

 午後一時、帰船。二時、出航す。

 八丈島客中、見聞接触するところを摘載するに、言語は東京と大差なきも、発音の相違多きために、方言のみにて談話するときは解すべからず。井戸をエドといい、湯気をイゲといい、筵をモシロ、虚言をオソ、泥をドル、軒をヌキ、刺身をサスミというの類多し。また、老人をドージン、六月をドクガツというがごときは、鹿児島、熊本地方の方言に同じ。忘れたことをヒツカスツタといい、知らざることをシヨクナーケというがごときは、他に通ぜざる語なり。子供を呼ぶに太郎、次郎、三郎、四郎を、タロー、ジヤウ、サボー、シヤウといい、長女、次女、三女、四女、五女を呼ぶに、ニヨコ、ナカ、テコ、クス、アツパというがごときはやや奇なり。朝の挨拶はオキヤッタカといい、夜寝るときにオヨリヤレというがごときはなお解すべし。然諾の語は、上に向かうときにアー、下に向かうときはヤー、同輩に対するときはオーと答うる由。子供の歌に、

  めでたいものはいものたね、茎ながく葉も広く、子供あまたに、

というはおもしろし。食事は薯を常食とす。酒も薯より製するなり。一升の価通じて十銭とす。酒の価の安きは全国第一なるべし。家屋は一般に一階にして茅屋なり。床高く張り、屋根の勾配急にして、社寺の堂宇の形をなす。外部に板戸あれども錠を用いず。戸内に障子、襖ある家はいたってまれなり。邸宅の周囲に石垣をめぐらすは防風のためならん。また、住家のそばに庫〔くら〕と名付くる物置あり。その構造は一種異なり。四本の大柱を礎として、その上に建てたるものなり。婦人の結髪の後部に垂れおるがごとき、頭上にて物貨を運ぶがごときは大島に同じ。ただし大島は婦人もっぱら労働し、八丈は男子ひとり労働するの別あり。大島はすべて保守的にして、旧態を改めざる風あるも、八丈はハイカラ風にして、言語、風俗ともに東京をならわんとする傾向あり。毎戸、牛を飼養するは両島相同じ。しかして男子が乗牛するに、背上にまたがらずして、西洋婦人のごとく横向きになりて踞座するは、八丈の特色なり。昔時は牛の角ヅキと称して闘牛ありしも、今は行われずという。野獣は狐狸も鼬もすべて住せず、したがって狐つきの迷信なし。ただ、山猫にたぶらかさるるといえる伝説あるのみ。水田あれども蛙なきは奇なり。神に賽するに銭を投ぜずして白砂をまくを常習とす。寺に詣ずるも賽銭を出だすことなしという。徳川時代は神主、僧侶、船頭、最もいばりたるものなる由なれども、今日神仏ともに無勢力にして、全島に寺院二箇あるも、荒涼たるありさまなり。神社も一として見るべきものなし。迷信としては女巫を信ずるもの多き一事なり。年中、雨多く風また強し。八丈に雨風なき快晴は、三百六十五日中わずかに二、三日ぐらいなりという。井水なく池沼なく泥濘なきは、大島と同じく火山灰の地質なるによる。目下、水道架設中なり。風俗に関しては、結婚、葬式ともに内地の風に異なり、結婚は多く自由結婚にして、昔時は往々婦人の野におるものを擁しきたりて、妻となすことありしという。婦人の婚礼のときに携帯すべき要具は、簟笥、長持にあらずして屏風なり。しかして衣服は平常のままなり。結婚の後は両親別居するは大島に同じ。葬式のときは棺の家を出ずるや、婦人号泣するを礼とす。屍体は大瓶の中に納め、その底に穴をうがちおくという。人気は淳朴の方なれども、協同し難く、公徳に乏しき弊ありと聞く。これ孤島として免れ難きところなり。

 五日 晴れ。朝六時、横浜に着岸す。船中、左の一首を賦して船長鈴木金太郎氏に贈る。

  船居雲是壁、露臥海為筵、時与怒涛戦、死生只任天、

(船をすまいとすれば、雲はまさに壁のごとく、露のもとにねて海をむしろとす。ときには怒涛とたたかい、死生をただ天運にまかせるのみ。)

 九時、帰宅す。開会一覧表、左のごとし。

   島      町村    会場  席数  聴衆     主催

  八丈島    三根村   小学校  二席  四百人    教育会

  同      同     同    一席  百五十人   青年夜学会

  同      大賀郷村  小学校  一席  六百人    教育会

  同      中之郷村  寺院   一席  二百人    教育会

  小笠原父島  大村    小学校  二席  五百五十人  村内有志

  同      扇村    小学校  一席  二百人    村内有志

  小笠原母島  沖村    小学校  二席  四百五十人  村内有志

  同      北村    小学校  二席  三百五十人  村内有志

   合計 三島、七村、八カ所、十二席、二千九百人、七日間

    〔演題類別〕

     詔勅および修身に関するもの……………六席

     妖怪迷信……………………………………三席

     哲学および宗教……………………………一席

     実業…………………………………………二席

〔次の「台湾紀行」については、明治四十四年一月一日から二月二十日までの台湾巡講部分を割愛し、二月二十一日の門司入港から二十七日の帰宅までの部分を「広島、岡山両県一部紀行」として掲載した。〕

〔広島、岡山両県一部紀行〕

 〔明治四十四年二月〕二十一日 晴れ。午後一時、門司に入港。これより馬関〔下関〕に上陸し、二時四十分発にて東行し、海田市より転乗して夜十一時、呉市〈現在広島県呉市〉に着す。中学校長宮本正貫氏の案内を得て、貴族院議員沢原俊雄氏の宅に宿泊す。主人、議会のために在京中なれば、沢原精一氏代わりて接待せらる。

 二十二日 曇り。午後、明法寺にて開演す。呉市教育会の主催にかかる。会長は沢原氏、副会長は宮本氏なり。

 二十三日 曇り。風なきも気寒し。夜来、山上に雪を降らせるを見る。午後、西教寺説教所において開会あり。主催、前日のごとし。夜に入りて、明法寺において開演す。呉仏教青年会の発起にかかる。佐々木吾八氏、勝豊吉氏、熊橋朝一氏、岡本善助氏、その幹事たり。当夜の聴衆は堂にあふれて庭に及ぶ。約一千五百人と目算せらる。沢原氏大人(名為綱)は別に草庵の下に隠棲し、謡曲と囲碁をもって老後の逸楽として、閑日月を送らる。余、一作を賦呈す。

  偶訪仁人宅、老来気未衰、閑居多楽事、謡曲与囲碁、

(たまたま仁徳の人の宅を訪ねた。老いてなお意気は衰えることなく、のどかにすまいして楽しむことも多く、謡曲と囲碁を主としている。)

 その宅は庭前に一盆の池と一株の梅を控え、すこぶる閑雅幽趣あり。ここに当市開会は全く沢原、宮本両氏の厚意になりたるを深謝す。

 二十四日 曇り。早朝、呉を発し、岡山駅に一休して、更に中国線に移乗し、津山に着するときすでに夜九時なり。これより更に腕車をはしらせ、苫田郡寺元駅旅館対泉楼に着宿す。ときに十一時なり。

 二十五日 晴れ。午前、大野村〈現在岡山県苫田郡鏡野町〉吉祥寺にて休憩し、午後、小学校にて開演す。主催は村長金田正志氏、吉祥寺住職中村道栄氏、小学校長日笠平吉氏等にして、両氏の尽力最も多しとす。

 二十六日 曇り。早朝、寺元旅館を発し、津山駅にて乗車す。坪井貞純氏、迎えかつ送らる。車中、春寒料峭を覚ゆ。

  探春深峡中、一路鉄車通、備水風猶冷、作山雪未融、

(春を求めて深く山あいの中を行く。ひとすじの鉄道が通じ、備前の水も風もなお冷たく、美作の山の雪はまだとけていないのである。)

 岡山駅にて中野堅照氏と襟を分かち、急行にて東に上る。二十七日午前十一時、無事帰宅す。

 〔次の「台湾開会一覧表」は割愛した。〕

 

     帰路山陽道開会

  広島県  呉市      寺院   四席  一千人    市教育会

  同    同       寺院   一席  一千五百人  仏教青年会

  岡山県  苫田郡大野村  小学校  二席  三百人    村内有志

   右合計 一市、一村、三カ所、七席、聴衆二千八百人

    演題類別

     詔勅および修身     三席

     妖怪迷信        一席

     哲学および宗教     二席

     実業          一席

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日本全国講演開会地総計表

 ○五畿内(五国、十六郡、四十三市町村)

   山城国(一市、二郡、二町)

京都市

(紀伊郡)伏見町

(久世郡)宇治町

   大和国(九郡、十町、十八村)

(生駒郡)郡山町

(山辺郡)二階堂村

(磯城郡)三輪町、香久山村

(宇陀郡)榛原町、松山町

(高市郡)今井町、真菅村

(北葛城郡)高田町

(南葛城郡)御所町、吐田郷村、掖上村

(宇智郡)五條町

(吉野郡)上市町、下市町、四郷村、高見村、小川村、川上村、国樔村、竜門村、大淀村、吉野村、南芳野村、天川村、宗桧村、賀名生村、下北山村

   河内国(一郡、一町、三村)

(北河内郡)枚方町、四条村、門真村、交野村

   和泉国(一市、一郡、二町)

堺市

(泉南郡)岸和田町、貝塚町

   摂津国(一市、三郡、四町)

大阪市

(三島郡)茨木町

(有馬郡)三田町

(川辺郡)伊丹町、尼崎町

 ○東海道(十五国、三島、六十三郡、百八十市町村)

   伊賀国(二郡、二町、三村)

(阿山郡)上野町、河合村、山田村

(名賀郡)名張町、阿保村

   伊勢国(三市、五郡、二町、十一村)

津市、宇治山田市、四日市市

(桑名郡)桑名町

(河芸郡)一身田村

(飯南郡)松阪町

(多気郡)相可村

(度会郡)宿田曾村、五ケ所村、穂原村、南海村、鵜倉村、吉津村、島津村、柏崎村、滝原村

   志摩国(一郡、一町、七村)

(志摩郡)鳥羽町、的矢村、鵜方村、波切村、甲賀村、立神村、和具村、浜島村

   尾張国(一市、四郡、八町)

名古屋市

(愛知郡)熱田町

(丹羽郡)古知野町、布袋町、岩倉町

(海東郡)津島町

(知多郡)半田町、大野町、常滑町

   三河国(一市、四郡、五町)

豊橋市

(碧海郡)大浜町

(幡豆郡)西尾町

(額田郡)岡崎町

(宝飯郡)豊川町、蒲郡町

   遠江国(四郡、六町、一村)

(小笠郡)掛川町、平田村

(周智郡)森町、山梨町

(磐田郡)袋井町、見附町

(浜名郡)浜松町

   駿河国(一市、二郡、二町、一村)

静岡市

(安倍郡)清水町

(志太郡)藤枝町、焼津村

   甲斐国(一市、八郡、六町、九村)

甲府市

(東山梨郡)勝沼町、日下部村、七里村

(東八代郡)英村

(西八代郡)市川大門町

(南巨摩郡)鰍沢町、増穂村、西島村

(中巨摩郡)鏡中条村

(北巨摩郡)韮崎町

(南都留郡)谷村町、瑞穂村

(北都留郡)上野原町、大原村、広里村

   伊豆国(二郡、四町、二十一村)

(賀茂郡)下田町、松崎町、仁科村、岩科村、南上村、三浜村、竹麻村、南中村、中川村、稲梓村、上河津村、下河津村、三坂村、稲取村、稲生沢村

(田方郡)三島町、伊東町、修善寺村、中大見村、上狩野村、下狩野村、江間村、田中村、韮山村、戸田村

   相模国(一市、四郡、六町)

横須賀市

(鎌倉郡)鎌倉町、戸塚町

(高座郡)藤沢町

(愛甲郡)厚木町

(中郡)大磯町、秦野町

   武蔵国(二市、十二郡、十五町、四村)

東京市、横浜市

(豊多摩郡)中野町、淀橋町、渋谷町

(北豊島郡)坂橋町、巣鴨町、中新井村

(南葛飾郡)船堀村

(南多摩郡)八王子町

(北多摩郡)立川村

(北足立郡)浦和町

(比企郡)松山町、小川町、玉川村

(秩父郡)大宮町

(児玉郡)本庄町

(大里郡)熊谷町

(北埼玉郡)忍町、羽生町

(南埼玉郡)岩槻町

   安房国(一郡、四町、二村)

(安房郡)北条町、保田町、曦町、和田町、富崎村、太海村

   上総国(五郡、十七町、五村)

(市原郡)八幡町、鶴舞町、海上村

(君津郡)木更津町、久留里町、佐貫町

(夷隅郡)大多喜町、勝浦町、大原町、長者町、国吉町

(長生郡)庁南町、一宮町、茂原町、土睦村

(山武郡)大網町、東金町、松尾町、成東町、片貝村、二川村、睦岡村

   下総国(四郡、五町)

(千葉郡)千葉町

(印旛郡)成田町

(猿島郡)境町、古河町

(北相馬郡)取手町

   常陸国(一市、五郡、七町、四村)

水戸市

(西茨城郡)笠間町、岩間村、西那珂村

(稲敷郡)生板村

(筑波郡)谷田部町、北条町

(真壁郡)下館町、下妻町

(結城郡)結城町、水海道町、宗道村

   付

豆南諸島(三島、十一村)

(大島)元村、野増村、差木地村、波浮港村

(八丈島)大賀郷村、中之郷村、三根村

(小笠原島)父島大村、同扇村、母島沖村、同北村

 ○東山道(十三国、七十二郡、二百二十五市町村)

   近江国(一市、五郡、三町、三村)

大津市

(神崎郡)五個荘村

(愛知郡)愛知川村

(蒲生郡)八幡町、常楽寺村〔=安土村〕

(犬上郡)彦根町

(坂田郡)長浜町

   美濃国(一市、六郡、十二町、二十一村)

岐阜市

(恵那郡)岩村町、長島町

(土岐郡)土岐津町、多治見町、瑞浪村

(可児郡)御嵩町、兼山町、姫治村、平牧村

(加茂郡)太田町、八百津町、川辺町、加治田村、西白川村

(武儀郡)上有知町、関町、神淵村、富之保村、洞戸村

(郡上郡)八幡町、嵩田村、下川村、相生村、口明方村、奥明方村、西和良村、和良村、東村、山田村、弥富村、牛道村、上保村、高鷲村

   飛騨国(三郡、五町、十六村)

(大野郡)高山町、久々野村、清見村、丹生川村、荘川村、白川村

(吉城郡)古川町、船津町、国府村、河合村、上宝村、阿曾布村

(益田郡)萩原町、小坂町、中原村、上原村、竹原村、下呂村、川西村、高根村、朝日村

   信濃国(二市、十六郡、十八町、六十五村)

長野市、松本市

(南佐久郡)臼田町、野沢町、小海村、穂積村、青沼村、海瀬村、田口村

(北佐久郡)岩村田町、小諸町、望月村、茂田井村、山部村

(小県郡)上田町、東内村、神川村、別所村、塩尻村

(埴科郡)屋代町、松代町、杭瀬下村

(更級郡)稲荷山町、上山田村、牧郷村、笹井村

(上高井郡)須坂町、井上村、小布施村

(下高井郡)中野町、平穏村

(上水内郡)朝陽村、高岡村、鳥居村、中郷村、三水村、古牧村

(下水内郡)飯山町、常盤村、柳原村

(南安曇郡)豊科村、東穂高村、温村、高家村、梓村、明盛村

(北安曇郡)大町、池田〔町〕村

(東筑摩郡)中川手村、島立村、笹賀村

(西筑摩郡)福島町、吾妻村、駒ケ根村、木祖村、奈川村

(諏訪郡)上諏訪町、下諏訪町、境村、玉川村、北山村、米沢村、中洲村、湖南村、平野村

(上伊那郡)伊那町、高遠町、朝日村、中箕輪村、宮田村、赤穂村、飯島村

(下伊那郡)飯田町、山吹村、市田村、座光寺村、上郷村、喬木村、松尾村、千代村、平岡村、下條村、竜丘村、伍和村、伊賀良村

   上野国(二市、五郡、七町、三村)

前橋市、高崎市

(群馬郡)渋川町、伊香保町、白郷井村

(碓氷郡)安中町、松井田町、八幡村、里見村

(山田郡)桐生町

(邑楽郡)館林町

(佐波郡)伊勢崎町

   下野国(一市、三郡、四町、一村)

宇都宮市

(上都賀郡)鹿沼町、足尾町

(芳賀郡)真岡町、山前村

(足利郡)足利町

   磐城国(四郡、六町、一村)

(田村郡)三春町、小野新町、守山町、七郷村

(刈田郡)白石町

(伊具郡)角田町

(亘理郡)亘理町

   岩代国(一市、三郡、五町)

福島市

(耶麻郡)喜多方町、塩川町、猪苗代町

(安積郡)郡山町

(岩瀬郡)須賀川町

   陸前国(一市、九郡、九町、二村)

仙台市

(柴田郡)大河原町

(名取郡)岩沼町

(宮城郡)原町

(玉造郡)岩出山町

(遠田郡)涌谷町

(志田郡)古川町

(栗原郡)若柳町、築館町、一迫村

(桃生郡)広淵村

(牡鹿郡)石巻町

   陸中国(一市、一郡、一町)

盛岡市

(稗貫郡)花巻町

   陸奥国(二市、五郡、六町、一村)

青森市、弘前市

(西津軽郡)鯵ケ沢町、木造町

(南津軽郡)黒石町

(北津軽郡)五所川原町、板柳村

(上北郡)野辺地町

(三戸郡)八戸町

   羽前国(二市、五郡、五町)

山形市、米沢市

(東村山郡)天童町

(西村山郡)寒河江町

(北村山郡)楯岡町

(最上郡)新庄町

(西田川郡)鶴岡町

   羽後国(一市、七郡、十四町、二村)

秋田市

(飽海郡)酒田町、松嶺町

(南秋田郡)土崎港町、五城目町

(北秋田郡)鷹巣町、大館町、扇田町、釈迦内村

(山本郡)能代港町

(仙北郡)大曲町、六郷町

(平鹿郡)横手町、浅舞町、沼館町、十文字村

(雄勝郡)湯沢町

 ○北陸道(七国、四十一郡、二百八十五市町村)

   若狭国(三郡、一町、六村)

(遠敷郡)小浜町、今富村、瓜生村

(三方郡)八村、耳村

(大飯郡)高浜村、本郷村

   越前国(一市、七郡、七町、二十村)

福井市

(足羽郡)麻生津村

(吉田郡)西藤島村

(坂井郡)三国町、丸岡町、金津町、蘆原村、鷹巣村、棗村、吉崎村、大安寺村、鶉村

(大野郡)大野町、勝山町、上味見村、下味見村

(今立郡)鯖江町、上池田村、粟田部村、国高村、河和田村

(丹生郡)糸生村、四ケ浦村、越廼村、国見村、織田村、三方村

(敦賀郡)敦賀町

   加賀国(一市、四郡、七町、二十七村)

金沢市

(江沼郡)大聖寺町、黒崎村、山代村、山中村、動橋村

(能美郡)小松町、木津村、寺井村、浅井村、沖杉村、草深村、千針村、山口村、串村、金野村、宮内村

(石川郡)松任町、金石町、美川町、鶴来町、旭村、二塚村、出城村、柏野村

(河北郡)津幡町、高松村、倶利伽羅村、金川村、七塚村、東英村、種谷村、中条村、大浦村〔=河崎村〕、笠岡村

   能登国(四郡、七町、三十七村)

(羽咋郡)羽咋町、高浜町、河合谷村、北大海村、末森村、志雄村、若部村、東土田村、釶打村、富来村、西増穂村

(鹿島郡)七尾町、余喜村、大呑村、徳田村、越路村、滝尾村、鳥屋村、田鶴浜村、熊木村、中島村

(鳳至郡)輪島町、穴水町、宇出津町、仁岸村、阿岸村、黒島村、七浦村、櫛比村、浦上村、大屋村、三井村、河原田村、南志見村、町野村、島崎村、東保村、中居村、兜村、鵜川村、諸橋村、三波村

(珠洲郡)飯田町、小木村

   越中国(二市、八郡、二十二町、三十九村)

富山市、高岡市

(上新川郡)東岩瀬町、針原村、大庄村、大広田村、船峅村、熊野村、大久保村

(中新川郡)滑川町、東水橋町、上市町、宮川村、東谷村、舟橋村、柿沢村、音杉村、高野村

(下新川郡)魚津町、生地町、三日市町、入善町、舟見町、泊町、椚山村、大家庄村、若栗村、浦山村、新屋村、横山村、野中村

(婦負郡)八尾町、寒江村、熊野村

(射水郡)伏木町、新湊町、小杉町、下村、黒河村、二口村、横田村

(氷見郡)氷見町、布勢村、阿尾村

(東砺波郡)城端町、井波町、中田町、福野町、出町、五鹿屋村、般若村、油田村、太田村、柳瀬村、南般若村、下麻生村、平村、上平村

(西砺波郡)石動町、福光町、戸出町、北蟹谷村、西野尻村

   越後国(二市、十四郡、三十二町、七十一村)

新潟市、長岡市

(北蒲原郡)水原町、葛塚町、新発田町、笹岡村、熊堂村、本田村(天王)

(中蒲原郡)村松町、新津町、沼垂町、亀田町、白根町、庄瀬村、袋津村、茅野山村、酒屋村、曾川村

(西蒲原郡)巻町、燕町、地蔵堂町、吉田村、麓村、福井村、粟〔生〕津村

(南蒲原郡)三条町、見附町、加茂町、今町、中之島村、塚野目村、田上村、大面村

(三島郡)与板町、寺泊町、出雲崎町、村田村、脇之〔町〕村、本与板村、関原村、王寺川村、深才村、来迎寺村、片貝村、塚山村

(古志郡)十日町村、上北谷村

(南魚沼郡)六日町、塩沢町

(中魚沼郡)十日町、千手町村、水沢村、田沢村、貝野村、鐙坂村、仙田村、上野村、真人村

(北魚沼郡)小千谷町、小出町

(刈羽郡)柏崎町、石地町、新町村、加納村、野田村

(東頚城郡)安塚村、奴奈川村、山平村、浦田村、松代村、松之山村

(中頚城郡)高田町、直江津町、新井町、板倉村、頚城村、里五十公野村、黒川村、上黒川村、柿崎村、旭村、上杉村、斐太村、中郷村、関川村、豊葦村、原通村、姫川原村、津有村、保倉村、潟町村、犀潟村、上吉川村、明治村

(西頚城郡)糸魚川町、立名町、能生町、大和川村、木浦村、南能生村、中能生村、東早川村、根知谷村、田海村

(岩船郡)村上町

   佐渡国(一郡、三町)

(佐渡郡)相川町、河原田町、両津町

 ○山陰道(八国、三十二郡、百三十四市町村)

   丹波国(五郡、五町、五村)

(南桑田郡)亀岡町

(何鹿郡)綾部町

(天田郡)福知山町

(永上郡)柏原町、久下村、佐治村、成松村、黒井村、石生村

(多紀郡)篠山町

   丹後国(三郡、三町)

(加佐郡)舞鶴町

(与謝郡)宮津町

(中郡)峰山町

   但馬国(二郡、二町)

(城崎郡)豊岡町

(出石郡)出石町

   因幡国(一市、三郡、二町、十五村)

鳥取市

(八頭郡)若桜町、智頭村、用瀬村、河原村、安部村、賀茂村

(岩美郡)大岩村、本庄村、宇倍野村、三戸古村

(気高郡)鹿野町、豊実村、吉岡村、小鷲河村、宝木村、正条村、青谷村

   伯耆国(三郡、六町、十六村)

(東伯郡)倉吉町、八橋町、長瀬村、宇野村、日下村、由良村、東郷村

(西伯郡)米子町、境町、御来屋町、淀江町、大高村、大和村、大篠津村

(日野郡)二部村、溝口村、江尾村、根雨村、黒坂村、阿毘縁村、宮内村、石見村

   出雲国(一市、六郡、七町、二十六村)

松江市

(八束郡)本庄村、講武村、秋鹿村、揖屋村、熊野村、玉湯村、宍道村

(能義郡)広瀬町、安来町、母里村、荒島村、能義村、布部村、比田村

(仁多郡)三成村、横田村

(大原郡)大東町、木次町、加茂村

(飯石郡)掛合村、赤名村、頓原村、三刀屋村、鍋山村、志々村、西須佐村

(簸川郡)今市町、杵築町、平田町、直江村、久村、布智村、知井宮村

   石見国(六郡、六町、三十一村)

(安濃郡)大田町、佐比売村、川合村、波根西村、波根東村

(迩摩郡)大森町、温泉津町、大家村、波積村、大国村、五十猛村、静間村

(邑智郡)川本村、市山村、矢上村、市木村、出羽村、都賀村、浜原村

(那賀郡)浜田町、三隅村、国府村、有福村、川波村、江津村、跡市村

(美濃郡)益田町、高津村、豊田村、東仙道村、都茂村、種村、安田村、鎌手村

(鹿足郡)津和野町、畑迫村、日原村

   隠岐国(四郡、一町、七村)

(周吉郡)西郷町、中条村、東郷村

(穏地郡)五箇村、都万村

(海士郡)海士村

(知夫郡)黒木村、浦郷村

 ○山陽道(八国、三十郡、八十三市町村)

   播磨国(一市、十三郡、七町、三十六村)

姫路市

(明石郡)明石町、垂水村、平野村、魚住村

(美嚢郡)中吉川村

(加東郡)社村

(多可郡)中村、津万村、黒田庄村、松井庄村

(加西郡)北条町

(加古郡)加古川町、高砂町

(印南郡)伊保村、阿弥陀村

(飾磨郡)余部村、御着村〔=御国野村〕、広村、置塩村、菅野村

(神崎郡)船津村、粟賀村、屋形村〔=川辺村〕、田原村、香呂村、甘地村

(揖保郡)龍野町、網干町、新宮村、大津村、斑鳩村、御津村

(赤穂郡)赤穂町、高田村、有年村、上郡村、鞍居村、船坂村

(佐用郡)佐用村、三日月村、平福村

(宍粟郡)安師村、神戸村

   美作国(二郡、二町、一村)

(苫田郡)津山町、大野村

(英田郡)倉敷町

   備前国(一市、二郡、一町、一村)

岡山市

(上道郡)西大寺町

(和気郡)伊里村(閑谷)

   備中国(二郡、二町)

(上房郡)高梁町

(阿哲郡)新見町

   備後国(一市、一郡、一町、一村)

尾道市

(深安郡)福山町、川北村

   安芸国(二市)

広島市、呉市

   周防国(五郡、七町、二村)

(玖珂郡)岩国町

(熊毛郡)室積町

(都濃郡)徳山町、下松町、花岡村

(佐波郡)三田尻町、宮市町

(吉敷郡)山口町、西岐波村

   長門国(一市、五郡、二町、十四村)

下関市

(厚狭郡)船木村、吉田村、王喜村、生田村、厚東村

(豊浦郡)豊浦町、長府村、豊東村、川棚村

(美禰郡)大田村、秋吉村

(大津郡)深川村、黄波戸村〔=日置村〕、菱海村、向津具村

(阿武郡)萩町

 ○南海道(六国、三十六郡、百四十五市町村)

   紀伊国(一市、七郡、十一町、二十二村)

和歌山市

(伊都郡)高野村

(有田郡)箕島町、湯浅町、保田村、宮原村、広村

(日高郡)御坊町、南部町、印南町、湯川村

(西牟婁郡)田辺町、南富田村、川添村、日置村、周参見村、田並村、潮岬村、富二橋村

(東牟婁郡)新宮町、古座町、高池町、田原村、下里村、那智村、本宮村

(南牟婁郡)木本町、五郷村、尾呂志村

(北牟婁郡)尾鷲町、相賀村、桂城村、赤羽村、二郷村

   淡路国(二郡、二町、一村)

(津名郡)洲本町、志筑町

(三原郡)市村

   阿波国(一市、四郡、四町)

徳島市

(板野郡)撫養町

(麻植郡)川島町

(美馬郡)脇町

(三好郡)池田町

   讃岐国(二市、七郡、十一町、十七村)

高松市、丸亀市

(香川郡)仏生山町、鷺田村、中笠居村、上笠居村、太田村

(綾歌郡)坂出町、滝宮村、山田村、川西村、岡田村、山内村

(仲多度郡)琴平町、善通寺町、多度津町

(三豊郡)観音寺町、豊浜町、常盤村、辻村、詫間村

(小豆郡)土庄町、草壁村

(大川郡)志度町、三本松町、津田町、長尾村

(木田郡)氷上村、池上村、古高松村

   伊予国(一市、十二郡、十八町、四十八村)

松山市

(上浮穴郡)久万町、川瀬村、柳谷村、弘形村、小田町村

(喜多郡)大洲町、内子町、五城村、新谷村、宇和川村

(東宇和郡)宇和町、野村、土居村、貝吹村

(北宇和郡)宇和島町、吉田町、愛治村、三間村、岩松村

(南宇和郡)御荘村、一本松村

(西宇和郡)八幡浜町、三瓶村、川之石村、喜須来村

(温泉郡)三津浜町、北条町、生石村、垣生村、余土村、石井村、荏原村、久米村、道後村、御幸村、潮見村、河野村

(伊予郡)郡中町、上灘村、中山村、松前村、原町村、砥部村

(越智郡)今治町、菊間町、大井村、関前村、岡山村、宮浦村、上朝倉村、東伯方村、津倉村、桜井村

(周桑郡)小松町、壬生川町、田野村、三芳村

(新居郡)西条町、氷見町、大生院村、泉川村、金子村、神郷村

(宇摩郡)三島町、川之江町、土居村

   土佐国(一市、四郡、三町、二村)

高知市

(長岡郡)国府村

(香美郡)山田町

(安芸郡)安芸町、田野村

(高岡郡)須崎町

 ○西海道(九国、七十五郡、三百七十二市町村)

   筑前国(一市、九郡、十一町、三十村)

福岡市

(朝倉郡)甘木町、宮野村、三奈木村、大三輪村、夜須村

(筑紫郡)大宰府町、住吉村、曰佐村、席田村、千代村

(早良郡)姪浜町、原村、入部村、脇山村

(糸島郡)前原町、長糸村

(糟屋郡)香椎村、宇美村、志賀島村

(宗像郡)東郷村、下西郷村、河東村

(鞍手郡)直方町、植木町、若宮村、新入村

(嘉穂郡)飯塚町、大隈町、穎田村、稲築村、穂波村、上穂波村、千手村、宮野村

(遠賀郡)若松町、蘆屋町、八幡町、折尾村、香月村、長津村、島門村

   筑後国(一市、六郡、十一町、十五村)

久留米市

(三池郡)大牟田町、三池町、江浦村、二川村

(山門郡)柳河町、瀬高町、富原村

(三瀦郡)大川町、城島町、木室村、木佐木村、大善寺村

(八女郡)福島町、黒木町、水田村、岡山村、光友村、辺春村、木屋村、横山村、中広川村

(三井郡)御井町、善導寺村

(浮羽郡)吉井町、田主丸町、椿子村

   豊前国(二市、六郡、九町、三十二村)

小倉市、門司市

(企救郡)企救村、東谷村、足立村、曾根村、松ケ江村、柳ケ浦村、東郷村

(京都郡)行橋町、豊津村、苅田村、黒田村、犀川村、伊良原村

(田川郡)香春町、後藤寺町、添田村、糸田村、神田村、方城村

(築上郡)八屋町、椎田町、千束村、黒土村、合河村、岩屋村、西吉富村、上城井村

(下毛郡)中津町、尾紀村、三保村、城井村、三郷村

(宇佐郡)四日市町、宇佐町、長洲町、八幡村、安心院村、南院内村、東院内村、駅館村、封戸村

   豊後国(十郡、二十一町、二十村)

(南海部郡)佐伯町

(北海部郡)臼杵町、佐賀関町

(大野郡)三重町、犬飼町、牧口村、田中村

(直入郡)竹田町、長湯村、久住村、城原村、荻村

(大分郡)大分町、鶴崎町、戸次村、日岡村、植田村

(速見郡)別府町、浜脇町、豊岡町、日出町、杵築町、御越町

(東国東郡)国東町、安岐町、富来町、伊美村、熊毛村

(西国東郡)玉津町、高田町、田染村、田原村、岬村、臼野村

(日田郡)日田町、大鶴村

(玖珠郡)森町、北山田村、万年村、東飯田村、野上村

   肥前国(三市、十四郡、十二町、四十四村)

長崎市、佐賀市、佐世保市

(佐賀郡)春日村、中川副村

(藤津郡)多良村、八本木村、能古見村、北鹿島村、南鹿島村

(杵島郡)武雄町、北方村、福治村

(西松浦郡)伊万里町、有田町、黒川村、大川村、大坪村、曲川村、大山村

(東松浦郡)唐津町、浜崎村、鬼塚村、相知村

(小城郡)小城町、牛津町、多久村

(神埼郡)神埼町、蓮池村、城田村、脊振村

(三養基郡)鳥栖町、基山村、田代村、麓村、中原村、北茂安村、三川村

(西彼杵郡)矢上村、瀬戸村

(東彼杵郡)大村町

(北高来郡)諌早町

(南高来郡)島原町、愛野村、堂崎村、東有家村、南有馬村、口之津村、加津佐村

(北松浦郡)平戸町、福島村、志佐村、世知原村、山口村、佐々村

(南松浦郡)福江村、富江村、岐宿村、大浜村

   肥後国(一市、十二郡、三十二町、五十五村)

熊本市

(飽託郡)春日町、高橋町、川尻町、小島町、大江村、清水村、池上村、西里村、奥古閑村、藤富村

(宇土郡)宇土町、三角町、松合村

(玉名郡)高瀬町、伊倉町、長洲町、南関町、弥富村、江田村、高道村、六栄村、緑村

(鹿本郡)山鹿町、来民町、植木町、広見村、山本村、三玉村、千田村

(菊池郡)隈府町、大津町、陣内村、合志村、泗水村、西合志村、田島村、加茂川村

(阿蘇郡)宮地町、馬見原町、内牧町、坂梨村、山田村、北小国村、南小国村、白水村

(上益城郡)御船町、甲佐町、木山町、浜町村、六嘉村、高木村

(下益城郡)松橋町、小川町、隈庄町、守富村、中山村、東砥用村、西砥用村

(八代郡)八代町、鏡町、宮原町、吉野村、野津村、和鹿島村、有佐村、種子山村、河俣村、竜峰村、宮地村、太田郷村、松高村、植柳村、下松求麻村、上松求麻村

(葦北郡)日奈久町、佐敷町、田浦村、水俣村

(球磨郡)人吉町、上村、多良木村

(天草郡)本渡町、富岡町、牛深町、姫戸村、上村、今津村

   日向国(八郡、九町、二十八村)

(宮崎郡)宮崎町、佐土原町、大淀村、田野村、生目村、瓜生野村、広瀬村、住吉村、檍村、赤江村、木花村

(南那珂郡)飫肥町、油津町、南郷村、福島村

(北諸県郡)都城町、三股村、山之口村、高城村、庄内村、高崎村

(西諸県郡)小林村、高原村、飯野村、加久藤村

(東諸県郡)高岡村、本庄村

(児湯郡)高鍋町、美々津町、下穂北村、三財村、川南村、都農村

(東臼杵郡)延岡町、細島町、富高村

(西臼杵郡)高千穂村

   大隅国(三郡、十二村)

(囎唹郡)東志布志村、財部村、大崎村、松山村、末吉村

(姶良郡)加治木村、国分村、横川村

(肝属郡)鹿屋村、小根占村、垂水村、花岡村

   薩摩国(一市、七郡、二十二村)

鹿児島市

(鹿児島郡)谷山村、西桜島村

(揖宿郡)喜入村、今和泉村、指宿村

(川辺郡)加世田村、東加世田村、東南方村、川辺村、知覧村

(日置郡)吉利村、伊作村、阿多村

(薩摩郡)隈之城村、入来村、佐志村、上東郷村

(出水郡)上出水村、下出水村、阿久根村

(伊佐郡)大口村、東太良村

     付

西南諸島(三国、四郡、十二市町村)

   壱岐国(一郡、六村)

(壱岐郡)武生水村、沼津村、那賀村、田河村、石田村、香椎村

   対馬国(一郡、一町、一村)

(下県郡)厳原町、鶏知村

   琉球国(二区、二郡、二村)

那覇区、首里区

(国頭郡)名護村

(島尻郡)糸満村

 ○北海道(十国、三十六郡、六十四市町村)

   渡島国(一区、三郡、一町、二村)

函館区

(亀田郡)大沼村

(茅部郡)森村

(桧山郡)江差町

   後志国(一区、九郡、四町、七村)

小樽区

(寿都郡)寿都村、黒松内村

(歌棄郡)歌棄村

(磯谷郡)磯谷村

(岩内郡)岩内町

(余市郡)余市町

(美国郡)美国町

(積丹郡)余別村

(古平郡)古平町

(小樽郡)銭函村、朝里村

   天塩国(四郡、一町、五村)

(増毛郡)増毛町

(留萌郡)留萌村

(苫前郡)羽幌村、焼尻村

(上川郡)士別村、名寄村

   北見国(六郡、二町、八村)

(利尻郡)鬼脇村、鴛泊村、沓形村、仙法志村

(宗谷郡)稚内町

(枝幸郡)枝幸村

(紋別郡)紋別村、湧別村

(常呂郡)常呂村

(網走郡)網走町

   根室国(一郡、一町、二村)

(根室郡)根室町、和田村、落石村

   釧路国(一郡、二町、一村)

(厚岸郡)釧路町、厚岸町、浜中村

   十勝国(一郡、一町、一村)

(河西郡)帯広町、大津村

   石狩国(一区、六郡、四町、十村)

札幌区

(上川郡)旭川町、近文村〔=鷹栖村〕

(空知郡)岩見沢町、妹背牛村、砂川村、歌志内村、市来知村〔=三笠山村〕

(札幌郡)江別村、琴似村、軽川村

(石狩郡)石狩町

(厚田郡)厚田村

(夕張郡)栗山村〔=角田村〕、由仁村

   日高国(四郡、一町、三村)

(浦河郡)浦河町

(三石郡)三石村

(静内郡)下下方村

(沙流郡)門別村

   胆振国(三郡、一町、四村)

(室蘭郡)室蘭町

〔勇払郡〕早来村〔=安平村〕、鵡川村

〔幌別郡〕幌別村、登別村

 ○新領土(三国、三十六市町村)

   台湾(九庁、二十街、七庄)

(台北庁)台北街、基隆街、滬尾街、仇份庄、焿仔藔庄

(宜蘭庁)宜蘭街、羅東街

(桃園庁)桃園街、興南庄

(新竹庁)新竹街、苗栗街

(台中庁)台中街、東勢角街、彰化街、鹿港街

(南投庁)康封家庄

(嘉義庁)嘉義街、斗六街、五間暦庄、新営庄、南靖庄

(台南庁)台南街、安平街、打狗街、鳳山街

(阿緱庁)阿緱街、蕃薯藔街

   樺太(二町)

大泊町、豊原町

   朝鮮 付

満州(七都邑)

(朝鮮)京城、仁川、金山、平壌

(満州)大連、安東県、鳳凰城

  以上総合計 八十七国、四百五郡、一千五百七十九市町村

〔以下、「豪州および南ア紀行」「英国および欧州大陸紀行」「南米紀行 付

メキシコおよびハワイ紀行」「南半球十二勝」「南半球および欧州周遊総里程表」「世界周遊前後三回の足跡」「前回世界周遊吟」「拾遺吟草」は割愛した。〕

P299--------

明治十八年以後の略歴および備忘録

    東京大学卒業後略歴

 明治十八年七月十日東京大学文学部を卒業し、同年十月三十一日文部省より文学士の学位を授けられ、卒業後ただちにインド学研究を命ぜられ、もっぱらその研究に従事せしも十九年春より病気にかかり、療養年余に及びしをもってこれを辞したり。二十年九月哲学館を設立し、二十一年五月より二十二年六月まで欧米各州を歴遊して東洋学流行の実況を視察したり。二十九年六月八日文部大臣より文学博士の学位を授けられ、三十年十月十八日京北中学校を設立しその認可を得たり。三十三年四月二日文部省より修身教科書調査を嘱託せられ、三十四年十月二十五日内閣より高等教育会議議員おおせつけられたり。三十五年十一月より三十六年八月までインドおよび欧米各州を一周して学校以外の教育を視察し、その結果として三十七年二月十一日修身教会の旨趣を発表したり。三十八年一月十二日再び高等教育会議議員をおおせつけられ、同年三月十四日京北幼稚園を設立し、三十九年一月哲学館大学および京北中学校を自ら退隠し、その両校を財団法人となし、これと同時に哲学館大学を東洋大学と改称したり。これに続きて京北幼稚園も中学に合して法人となし、園長の任を他人に譲与したり。これより後は日本全国周遊の途に上り、修身教会の旨趣なる御詔勅の聖旨を普及開達することに奔走し、四十四年四月初めより四十五年一月末まで、豪州、南ア、欧州、南米諸州を一巡して各地の風教を視察したり。以上、明治十八年七月より四十五年一月までの略歴なり。

 

    東洋大学財団法人始末〔原文のママ〕

(明治三十九年七月十一日発行の『修身教会雑誌』をもって広く世間に発表したりしものをここに転載す)

 私立哲学館大学は、六月二十九日文部大臣の認可を得て、私立東洋大学と改称し七月四日更に財団法人として設立の件許可せられたり、寄附行為及財産目録左の如し、

        寄 附 行 為

          第 壱  目 的

 第壱条 本財団法人は高等、普通の学術技芸を教授し併せて之に関する有益の図書講義録及雑誌を発行す

          第 二  名 称

 第二条 本財団法人は私立東洋大学と称す

          第 参  事務所

 第参条 本財団法人の事務所は東京市小石川区小石川原町拾七番地に置く

          第 四  資産に関する規定

 第四条 文学博士井上円了の所有に属し従来其設立に係る私立東洋大学に充用せる現在の動産不動産全部並右井上円了が今回新に寄附したる財産を以て本財団の資産とす

 第五条 本財団法人の事業年度は毎年四月一日に始まり翌年三月三十一日に終る

 第六条 本財団法人の経費は基本財産より生ずる収入、生徒の授業料其他臨時の雑収入を以て之を支弁す

 第七条 本財団法人の資産は主事たる理事之を管理す但し経費支弁の上現金に剰余ありたるときは理事の協議を以て確実なる有価証券を買入るるものとす

      本財団法人に対して贈与を為さんとする者あるときは理事に於て諾否を決し若し之を受くるときは基本財産に組入るるものとす

      経費支弁の為臨時有価証券(基本財産に属する分は之を除く)を換価する必要あるときは理事の協議を以て其価格換価方法を定むるものとす

 第八条 本財団法人が解散するに至りたるときは其解散当時に於ける商議員の決議を以て財産帰属権利者を指定す

 第九条 清算人の選定は前条に掲けたると同一の方法に従ふものとす

          第 五  役員に関する規定

 第拾条 本財団法人を代表し其事務を処理せしむる為め理事二名を置く但し理事の内一名を学長と称し他の一名を主事と称す

      理事は商議員会の決議に反して法人の事務を処理することを得ず

      理事は当然商議員を兼ぬるものとす

 第拾壱条 本財団法人に監事一名を置き財産及業務執行の状況を監査せしめ若し不整の廉あるときは之を主務官庁に報告せしむるものとす

 第拾弐条 理事は法人設立許可の時及毎事業年度の終に於て財産目録並に出納に関する計算書を作成し監事の承認を経て商議員会の決議を受くべきものとす

 第拾参条 理事及監事の任期は満五箇年とす但再任を妨げず

 第拾四条 理事監事及商議員の選任、辞任、又は免黜は商議員会の決議を経べきものとす

      学長たる理事に欠員を生じたる場合に於て前任者の指名ありたるときは商議員会は之に基きて議決するものとす

 第拾五条 本財団法人には商議員拾七名を置き本寄附行為所定の事務及其他重要なる事項を審議するものとす但其任期は満六箇年とし再任を妨げず

 第拾六条 商議員に欠員を生じたるときは従来私立東洋大学に縁故あるもの及嘗て商議員たりしものの中より商議員会の決議を経て理事之を依嘱す

 第拾七条 商議員会の議事は其過半数を以て之を決定す

 第拾八条 理事監事及商議員の補欠員の任期は前任者の残任期間とす

          第 六  寄附行為の変更

 第拾九条 本寄附行為は目的に関する規定を除く外商議員会の決議に依り主務官庁の認可を得て之を変更することを得

          附 則

 第弐拾条 本法人設立許可の際は前田慧雲安蔵〔藤〕弘の二名を理事とし前田慧雲を私立東洋大学長に安藤弘を同大学主事に湯本武比古を同大学監事とす

 第廿一条 本法人設立許可の際は前条理事二名及石川照勤 伊藤長次郎 滝川浩 田中治六 武信之 中島徳蔵 村上専精 内田周平 山脇貞夫 八木光貫 松本文三郎 斎藤唯信 境野哲 桜井義肇 森田徳太郎を以て商議員とす但本寄附行為許可の日より満参箇年を経過したる後前商議員(理事たる商議員を除く)の内八名は抽籤に依り改選するものとす

   明治参拾九年六月六日 東京市本郷区駒込曙町参番地 平 民   

 私立東洋大学設立者 井 上 円 了   

            財 産 目 録

 財団法人私立東洋大学の資産を組織する金銭物件次の如し

        甲 基本財産の部

          第 壱  土 地

 一参仟九百拾参坪伍合九勺

   此時価金六万八仟四百八万六円七銭伍厘也

          第 弐  有価証券

 一額面価額金四仟壱百円也

   此時価金参仟八百九拾伍円也

        乙 基本財産以外の財産

          第 壱

 一拾八棟 外に表門及裏門廊下

   此時価金壱万七仟八百参拾六円弐拾銭也

          第 弐  動 産

 一金七仟四百円伍拾弐銭也    現金及預ケ金

 一図書什器類八仟壱百七十壱点

   此時価金七仟六百弐拾七円壱銭也

 資産総額金拾万伍仟弐百四拾四円八拾銭伍厘也

  右の通相違無之候也

   明治参拾九年六月六日

 東京市本郷区駒込曙町参番地 平 民   

 私立東洋大学設立者 井 上 円 了   

 

    両校退隠の理由

(この理由書は『修身教会雑誌』明治三十九年二月十一日発行の紙上に載せたりしものをここに再録す)

 今回、余が突然哲学館大学長および京北中学校長を辞し、両校全部を挙げて他人に譲与したる件につきては、世間に種々の推想憶説をなすものあり。したがって浮説流言を放つものもある趣なれば、ここに腹蔵なくその顛末を開陳して、両校関係の諸君に告げ、あわせて世人の疑いを解きたいと思います。

    第一の理由

 退隠の理由の第一は、余が脳病のために劇務に当たることのできぬことである。その脳病は神経衰弱にして、その兆候は一昨年の夏期ごろより起こりたるように感じておる。その当時、半日仕事をすれば半日眠息を要し、昼間わずかに業務に当たれば、夜間大いに疲労を覚ゆるありさまでありました。そのとき考うるに、余の最も身心を労せしは哲学館の経営なりしが、今後かかる健康の状態にては到底独力にて経営を継続すること難ければ、一身上善後策を講じなければならぬと思い、更に回想するに、哲学館創立の初志は、広く世間の人に哲学のなにものたるを知らしめんとするにありて、その目的は今日すでに達し得たりと思えば、学校組織を解散して、講習会組織に変成するにしかずと考え、その内意を二、三の人にはかりたることありしも、だれもこれに同意するものなければ、自ら継続のやむをえざるものと決心し、そののち健康の方も格別の異状も見えざれば、戦争の終局を待ちて一大発展を計るの準備をなすことに定めました。しかるに昨年四、五月ごろより再び精神の疲労のはなはだしきを覚え、徒然として日を送ること多く、ときとしては悲観に流れ、なにごとも意に適せざるように感じたれば、医師の診察を請い、そのときはじめて神経衰弱症なることを知ると同時に、哲学館大学長および京北中学校長は、しかるべき人に譲与して自ら退隠せんとの志を起こしました。とにかく暑中休暇も近きにあれば、休暇中旅行して休養せんと思い立ち、七月中旬より熱海に入浴し、ついで東海道、山陽道を経て九州に入り、各所の講習会に出席したるに、気分大いに爽快を覚え、すこしも病中にあるの思いをなさず、九月に入り東京に帰りたる後も、ほとんど全治の心地にて、精神の状態昔に変わることなきようなれば、学校は今より一段の拡張を計りたる後これを他人に譲与せんと決し、その前に小学校を設置し、自ら小学校長となり、これと同時に哲学館大学と京北中学校の方を退隠せんと思い、近く一、二年の間にこの理想を実現せんことを、ひそかに予期しておりました。しかるに十一月ごろよりまたまた神経衰弱の兆候を起こし、とかく悲観に沈む傾向あり、なかんずく学校の俗務をいとうの念、日一日よりはなはだしかりしが、十二月に入り、庭前にて卒倒せんとしたること前後二回に及び、家族の者も大いに懸念して万一のことあらんを恐れ、切に静養を勧むるなどありて、その結果、小学校を開設するを待たず、昨年十二月限り、両校全部を挙げて他人に譲り、自ら退隠することに決心し、突然今回の更迭を見るに至りたる次第であります。そのことたるや、あまり不意に起こりたるようなれども、余の心中にてはかねて期するところにして、ただ病気のために予定より一、二年早かりしまでである。これが退隠せし第一の理由なりと、ご承知あらんことを願います。

    第二の理由

 退隠の暗潮は発病以来、余が心海中に流れつつありしも、断然昨年十二月限りと決心を定めたるはまさしくその月の十三日の夜であります。当日は例年のごとく、哲学館大学紀念会を開き、上野精養軒において祝宴を挙げしに、来賓中石黒〔忠悳〕男爵、大内〔青巒〕居士の演説が大いに余が心頭に感動を与え、帰宅後百感一時に湧き出だし、終夜眠ることできず、あるいは往事を追懐し、あるいは将来を予想し、人生のなんたる、死後のいかんまでを、想し去り想しきたり、感慨極まりなきありさまでありました。元来十三日という日は、哲学館の三大厄の起こりたる日にして大いに紀念すべき日なれば、余の胸中に無量の感慨の浮かぶも自然の勢いであると思わる。つらつら考うるに、哲学館経営以来ここに二十年に達せんとし、その間数回の厄災にかかり、全国を周遊すること前後二回に及び、終年校務のために牛走馬奔し、俗事日を追って繁劇を加え、一巻の書も精読するのいとまなきほどなれば、自ら二十年来不読書と唱え、全力を学館の拡張に注ぎ、その業いまだ大成を告げしにあらざるも、仮にその一半はすでに成功したりと許し、更に顧みて自己の春秋いかんを思うに、人生五十年の光陰は、わずかに一、二年を余すのみの晩景に迫り、一歩は一歩より老境の淵に近づきつつあるを認め、指を屈して既往大数五十年間を通算するに、最初の十年間は夢中にて日を送り、次の二十年間は人より教育を受け、次の二十年間は人を教育したれば、国家社会より受けたる教育上の恩義の負債は、差し引き償却し得たりと考え、この上は境遇を転じて閑散の地に就き、二十年前の往時に立ち戻り、読書研学の生涯を迎え、明窓浄几の間に残生を送るべき時節今や到来せりと確信し、かつて「欲読書則業不成、欲成業則書難読」(学問を修めよう〔学者になろう〕とすれば、学校経営はできない。学校経営を成功させようとすれば、学問を修めることはむずかしい。)と詠じつつ数十年間読書を廃してもっぱら学校経営に従事せしも、その素志は他日業成らば書を読みて老境を送らんとするの覚悟なりしが、今や人寿の断岸も数歩の内に近づき、余命なお幾年を保つべきやは計り難しといえども、忙裏に彷徨しつつある間に、無常の妄風に際会し、生死の灯、いつ滅せんも知るべからず、しかるときは、書を読まんとする素志に背きて空しく黄泉の客とならざるを得ず。これ実に終天の大恨事なりと発憤し、万劫にも得難き人身を受けてここに生まれ出でて、一去再来を期し難き一生なるを思い合わせ、せっかく生まれたる一大紀念を残さざるべからざるを考えきたるに、二十年来の学校経営は精神上の紀念というよりは、むしろ物質上有形上の紀念に過ぎず、なおこの外に精神上理想上の紀念を造るの義務ありと自覚し、その義務は今日の塵境を脱して閑地に就き、読書三昧の生涯を送るにあらざれば遂行することあたわずと決意するに至りました。更に往時を回想すれば、今より二十年前にありて、微力ながら東洋哲学の精華を発揮せんと欲し、著作に従事したりしが、学校経営に着手せし以来は、年一年より塵務に忙殺せられ、著書のいまだ完結せざるもの多きために、世間より督促の声あるもその約を履行するあたわず。これもとより自ら快しとせざるところなるも、当時の勢いいかんともすることできざれば、深く遺憾に思い、早晩閑散の身となりてこれらの大成を図りたいと思いおりたる宿念も同時に湧き出でて、一昨年来の病魔は実に余をして境遇を一転するの好機を与えたるものと信じ、これすなわち余の一大事因縁ならんかと考え、一日も早く忙境をのがれて静養を試み、全快の上はこの一大事に余生を送り、理想上の紀念物を造り、もって永眠に就かんとの一大決心を起こすに至りました。すでに五十年を人寿とすれば、これより再生の思いをなして新生涯を迎うべきときなれば、今や俗界を脱して学界に逍遥するの時機熟せりと申してよろしい。しかして学校の経営のごときは、必ずしも余の力を待たず、だれにでもなし得ることにして、しかもその位置に適する人物多々あるべきも、この理想上の経営は、余が先天的の約束のあるところにして、他人をして代わらしむべきことにあらず。ああ、畢生の大事軽々に看過すべからず、大いに決心すべきはこのときにありと覚悟し、自ら慨然として奮起したりしは、実に十三日の夜である。これが第二の理由であります。

    第三の理由

 従来独力にて学校を経営したりしは、余が社会国家に対する一事業として、己の力を試んとする目的より出でたることにして、創業の当時にありては、二十年間に大成を見んとの予想なりしも、なにごとも意のごとくならざるは人生の常態にして、種々の厄災のために妨げられ、順境よりは逆境多く、得意のときよりは失意の場合多く、創業二十年の今日に至るも、一半成功して一半未成のありさまである。退きて考うるに、これ余の微力のしからしむるところにして、決して人を恨むにも及ばず、天をとがむるにも及ばず、己の運命の限りを尽くしたるものと思えば、なんらの遺憾もなきはずなれば、今よりこれを他人に譲与して、その事業は決して余が一身一家のために起こせしにあらざることを証明するのとききたれりと考えました。これまで余が独力にて経営せるために、世間往々これを永く余の私有物として子孫に伝うるもののごとく想像する人もあり、あるいは一宗一派の学校なるがごとくに憶測するものもありて、種々の非難を招きしも、これみな余の本意を誤解せるより起こりたるものである。さればこの惑いを解くには、自らその位置を他人に譲り、将来他人をして相続せしむる道を開くより外に良策なしと考えました。・

果してしかるときは、学校は一身一家の私有物にあらずして、社会国家の共同物たることが分かると同時に、余が公共事業として経営したることの証明ができる。ただし余はなるべくこれを哲学館出身者に譲与せんとの望みなりしも、その時節いまだ至らずして、神経衰弱症にかかり、昨年十二月限りにて退隠することに決心したれば、その後継者としては、講師を推選せんことに定め、内々二、三の先輩にはかりたる結果、前田〔慧雲〕博士が最も適任者なりとの衆評にて、これに譲ることとなり、即時に交渉を開きたるに、博士も速やかに快諾せらるるに至り、余も大いに安心し、日ごろの願望一時に成就せるがごとくに感じました。前田博士に対しては、

 (一)哲学館創立の旨趣を継続すること。

 (二)財団法人になすこと。

 (三)他日学長を辞するときは、出身者中の適任者をもって相続せしむること。もし出身者中に適任者なき場合には、講師をしてつがしむること。

 右の意味にて契約を結び、哲学館全部を挙げて譲与することに内定し、つぎに京北中学校長は、湯本武比古君に後継者たらんことの談判をなし、同君も快く承諾せられ、十二月十三日夜において決心したりし退隠の一事が、二週日を出でずして契約を結了し、諸事ことごとく落着したるは、人為にあらずして天の命ずるところなるがごとくに感ぜられます。

 この譲与一条は、あらかじめ二、三の諸君には相談したるも、一般の職員にも、講師にも、出身者にも、賛成者にも、相談せざりしは、専断に過ぐるの誹は免れ難きも、自ら思うに、到底相談をもって実行し得ることにあらず、もし相談すれば、議論百出を招くより外なく、その結果、余の留任に帰するに至らんことを恐れ、すでに自ら畢生の一大事と覚悟したる以上は、多少の非難は忍ばざるべからずと思い、専断の罪をおかしてこのことを決行したる次第である。この点は幾重にも謝罪せなければならぬ。しかるに一月八日これを発表したるに、講師も、出身者も、その専断を譴責せずして、余が志望をいれられたるは、余の欣然に堪えたるところである。更に館賓館友等の賛成諸君および遠隔の地にある出身者に対して、同じく謝罪するつもりである。諸君願わくば、余が二十年間学校経営に身心を労役し、昨今健康常態を失したるの事情を察して、退隠休養を許容せられんことを。これ余が切に望むところであります。

 人あるいは哲学館の内情を知らざるものは、余が学館の衰微して、到底維持する見込みなきを見て、これを他人に譲与するに至れりと想像するものあらんも、もしその説のごとくならば、だれありて後任者に当たるものあらんや。哲学館は、先年の認可取り消しと、戦争の影響とによりて、生徒減少したるは事実にして、衰運に際会せると申しても差し支えない。したがってその維持法も、これを先年に比して困難なるに相違なきも、すでに平和克復になりたれば、戦争の影響を憂うるに及ばず。文部省の認可も進行中なりとのことに聞き及び、その他遠からずして哲学館近傍まで電車の開通ありとのことなれば、従来の衰運を転じて、隆運を開くことは自然にできるに相違ない。もし依然として従来の衰運を転ずることを得ずと仮定するも、目下その財産は、価格十万円以上あれば、一年に五千円ずつ消費しても、二十年間継続し得る割合である。ただしその財産中には、敷地、校舎を算入したるものなれども、敷地、校舎の外に公債および積立金もあれば、もし学制を改変して経費節減の方法を立つるにおいては、今日のままにて継続することもできる。しかるに余がかつて人に対して、学館の維持の困難を説きしことあるは、戦争の永続を予期せると、従来のごとく生徒の月謝のみにて維持法を立つる見込みより申したる次第である。とにかくその財産は、近日財団法人となりて発表せらるるときに分かることなれば、ここに喋々するに及びませぬ。

 従来賛成者より寄付せられたる分はことごとく敷地の購入と、校舎の新築とに用いたりしが、その寄付金の総計は、

  金一万〔一〕千七百三十七円一銭六厘

   資本寄付金総計

  金二万六千九十九円四十銭五厘

   新築寄付金総計(この新築寄付金中には京北中学校の分をも含む)

  右合計 金三万七千八百三十六円四十二銭一厘

 しかるにこの寄付金は、一銭も減少することなく、かえって二、三倍以上に増殖することを得たるは、余の深く喜ぶところにして、今退隠するも、寄付せられし諸君に対して、すこしも自ら恥ずるところなく、またこれを財団法人として永存する以上は、寄付せられし諸君においても、定めて安心せらるることならんと思います。

    第四の理由

 余が子孫をして哲学館を相続せしむるとすれば、今日のままに任せ、別に後継者を定むる必要なきも、子孫相続は余の本意にあらず、かつ学校は公共事業なれば、他人をして相続せしむるが正当である。果たしてしかりとせば、今日のありさまにて、もし余の生命に万一のことあらば、学校の経営をなにびとに託し、かついかように処すべきやとは、愚妻らが平素懸念するところにして、今より哲学館と井上家との別を判然たらしめ、もって他日の困難を避くるようにせよと余に迫りおる次第である。余が家系は、代々卒倒して死する遺伝あれば、余が脳患のために卒倒せんとせしを聞きて、家族らが一層このことを憂慮し、いついかなる変事の起こらんも計り難ければ、なるべく速やかに死後の方針を定むべしと、余を促すこと一層切なるに至りたれば、余も大いに決心し、いま己が死したるものとなりて、死後の経営をなすの必要を感じ、今回の病気を好機会とし、学校全体を挙げて他人に譲与し、自ら退隠して、他人相続の道を開きたるわけである。余の退隠の場所は、和田山哲学堂と定め、四聖の堂守となりて光月霽月の間に東西の聖賢に奉事し、晴耕雨読の境界を送る見込みなれば、十二月十三日夜において、ひとたびこのことを決心するや、その翌々日和田山に至り、ここに永住するの計画をなし、帰りきたりてまず第一にその事情を家族に告げたれば、退隠の一事は一同の賛成を得たるも、和田山永住につきては児女の教育に不便なりとて同意を得ず、よってやむをえず余一人は和田山に退居し、家族は当分曙町の茅屋に引き移ることに定めました。余の今回の決心は、自ら今死したるものと仮定し、生時中に死後の始末までを取りきめ、いつ山に倒るるも、川に没するも、遺憾なきようにせんとの心掛けより起こりたることにして、遺言の実行ともいうべきものである。さればこの上は、いつ卒倒して死するも安心なれども、今日いまだ家族を養うに足るだけの資産なく、児女みな幼少にして、独立の生計を営むまでには、なお十数年を要することなれば、決して楽隠居の境界を送ることはできない。ただし今年中は、療病のため一カ年間気楽に保養する見込みなれども、来年よりは衣食のため、相当の労をとらねばならぬ。その節は二十年前の昔に立ち戻り、責任ある位置は一切これを避け、ただ著作、講義、演説をもって家計を補充するつもりである。されば従来は学校のために苦心し、今後は家計のために苦心し、一方に安心するところあれば、他方に安心し難きところあり。一苦一楽は人生の常態にして、なにびとも免れ難きところとあきらめねばならぬ。たとえ生計の小苦を脱せずとするも、今より朝夕四聖の影前にひざまずき、千古不滅の真理の光を仰ぐことを得ると思えば、無限の楽を冥々のうちにうくることができる。これは余の一身にとりて、なによりのしあわせとするところである。

 以上述べたる退隠の理由は、都合四カ条にて、その第一は病気のため、第二は事業のため、第三は社会のため、第四は家族のために、退隠のやむをえざるに至りたる次第である。なかんずく病気が、この大決心を起こすの因縁となりたるは、実に宿縁の開発なりと自らひそかに信じかつ喜ぶところである。願わくば館賓館友等の諸君および出身者の諸君において、余が衷情を察して退隠休養の一事を許容せられんことを、深く懇望する次第であります。

(退隠以後、転地療養の目的にて地方周遊にとりかかり、もっぱら修身教会の旨趣を演説し、かたわら哲学堂拡張の助力をもとめたり。)

 

    京北財団法人始末〔原文のママ〕

京北中学校及京北幼稚園を合して京北財団法人となし明治四十年三月三十日付を以て文部大臣へ申請し四十一〔四十〕年五月十日付を以て認可せられたり

     寄 附 行 為

    壱  目 的

第壱条 本財団法人ノ目的ハ私立京北中学校及私立京北幼稚園ヲ維持拡張シ且其ノ他ノ教育事業ヲ経営セントスルニアリ

第弐条 前条に掲ケタル私立京北中学校及私立京北幼稚園ノ規則ハ別ニ之ヲ定ム

    弐  名 称

第参条 本財団法人ノ名称ハ京北財団トス

    参  事務所

第四条 本財団法人ノ事務所ハ東京市小石川区小石川原町拾九番地ニ置ク

    四  資 産

第五条 文学博士井上円了ハ其設立ニ係ル私立京北中学校及私立京北幼稚園ニ充用セル現在ノ動産不動産ノ全部ヲ寄附シ之ヲ本財団法人ノ資産トス

第六条 本財団法人の事業年度ハ毎年四月壱日に始マリ翌年参月参拾壱日ニ終ル

第七条 本財団法人ノ経費ハ資産ヨリ生スル収入生徒ノ入学金授業料及其他ノ雑収入ヲ以テ之ヲ支弁ス

第八条 資産ノ管理ニ関スル規程ハ別ニ之ヲ定ム

第九条 本財団法人ハ法定ノ解散事由ノ発生スルニ非レバ解散スルコトナシ

第拾条 本財団法人解散スルニ至リタルトキハ理事全員ノ決議ヲ経タル後主務官庁ノ許可ヲ得テソノ資産ヲ本財団法人ノ目的ト同一ナルカ又ハ之ト類似セル他ノ学校団体若クハ学会ニ寄附シテ本法人設立者ノ目的ヲ永遠ニ継続セシムルコトヲ計ルベシ

    五  役 員

第拾壱条 本財団法人ヲ代表シ其事務ヲ処理セシムル為メ理事七名ヲ置ク

第拾弐条 理事ハ私立京北中学校及私立京北幼稚園ノ職員中ヨリ之ヲ選任ス若シ理事ニシテ其職員ヲ止メタルトキハ理事ノ資格ヲ失フモノトス

第拾参条 理事ニ欠員ヲ生シタルトキハ理事全員及文学博士井上円了若クハ其相続人の決議ヲ以テ之ヲ選定ス

     但選定ニ関スル規定ハ別ニ之ヲ定ム

    六  寄附行為ノ変更

第拾四条 本寄附行為ハ目的ニ関スル規定ヲ除ク外理事全員ノ決議ニヨリ主務官庁ノ許可ヲ得テ之ヲ変更スルコトヲ得

      附 則

第拾五条 本財団法人設立許可ノ際ハ湯本武比古、杉谷佐五郎、田中治六、三島定之助、安藤弘、三石賎夫、神崎一作ヲ理事トス

 明治四拾年参月参拾日

 東京市本郷区駒込曙町参番地 井 上 円 了   

    財 産 目 録

財団法人京北財団ノ資産ヲ組織スル金銭物件左ノ如シ

   第壱 建 物

一私立京北中学校建物七棟

   此時価金壱万弐千九百九拾八円六拾五銭也

一私立京北幼稚園建物弐棟

   此時価金弐千八百六拾円也

   第弐 動 産

一私立京北中学校器具器械標本図書類壱万四千壱百拾弐品

   此時価金七千九百弐拾七円五拾九銭也

一私立京北幼稚園器具器械類四百九拾弐品

   此時価金壱千壱百弐拾四円四拾六銭也

一預金及現金五千七百八拾円拾壱銭弐厘也

資産総額金参万〇六百九拾円八拾壱銭弐厘也

 右之通相違無之候也

 明治四拾年参月参拾日

 東京市本郷区駒込曙町参番地 井 上 円 了   

(同年中に本郷区富士前町五十三番地に転住す)

 修身教会事務所の広告

        広    告

井上博士は二十年間独力経営せる哲学館大学を退隠し文学博士前田慧雲氏をして其後継者たらしめ又二十年間独力経営せる京北中学校及ひ三年前創設せる京北幼稚園を退隠し湯本武比古氏をして其後継者たらしめ之と同時に財産拾参万五千余円を寄附して財団法人を組織せられたり

      稟     告(諸新聞に広告)

今般私立哲学館大学を私立東洋大学と改称し同大学に充用せる現在の資産全部金拾万五千弐百四拾四円八拾銭五厘を寄附して之を財団法人組織とし左の者を役員に指名し

   理事(学長) 前 田 慧 雲    理事(主事) 安 藤   弘

   監事(一名) 湯 本 武比古

  商議員十七名 石川 照勤  伊藤長次郎  滝川  浩  田中 治六  武  信之

中島 徳蔵  村上 専精  内田 周平  山脇 貞夫  八木 光貫

松本文三郎  斎藤 唯信  境野  哲  桜井 義肇  森田徳太郎

及前記理事二名

本月四日文部大臣の許可を得たり依て同学に関係ある諸君に稟告す

 明治三十九年七月六日 設 立 者  井 上 円 了   

      稟     告(諸新聞に広告)

今般私立京北中学校京北幼稚園とを合し中学校に充用せる資産全部及び幼稚園に充用せる資産全部を合し総計金参万〇六百九拾円八拾壱銭弐厘を寄附して京北財団法人を組織し七名の理事を指名し

    理事(校長) 湯 本 武比古   理事(教頭) 杉 谷 佐五郎

    理事(幹事) 田 中 治 六   外四名(姓名略之)

本月十日文部大臣の許可を得たり此段同校関係者に稟告す

 明治四十一〔四十〕年五月二十日 設 立 者  井 上 円 了   

右の如く目下閑散の位置に立たれたれは専ら地方を周遊して修身教会の旨趣を演述せらるゝことゝなる此段広く全国の有志諸君に拝告す

 東京本郷区駒込富士前町五十三番地   

 明治四十年七月 修身教会拡張事務所   

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明治四十四年度決算報告

     収  入

金一千二百九十四円三十九銭   前年度繰り越し

金二千六百十七円三十七銭    揮毫謝儀

  合計 金三千九百十一円七十六銭

     支  出

金百九十円也     梵鐘および什器購入費および技師へ謝儀

金百三円四十七銭   堂舎および庭園修繕費

金六十八円八十四銭  贈呈書冊および規則書印刷代

金五百五十円也    事務費および維持費

金三千五百円也    南半球旅行費補助

  合計 金四千四百十二円三十一銭

  差し引き 金五百円五十五銭  不足

   明治四十五年二月

        今後の方針につき予告

 退隠後、旅行を専門としての結果、心身ともに健康を回復したれば、本年よりは退隠当時の素志に立ち戻り、読書、著作を本務とし、その傍ら従前のごとく地方巡回講演を継続する予定なれば、ここに知友諸氏に拝告す。

  明治四十五年二月

 井 上 円 了