4.南船北馬集 

第七編

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南船北馬集 第七編

1.冊数

 1冊

2.サイズ(タテ×ヨコ)

 188×127㎜

3.ページ

 総数:116

 目次:2

 本文:114

(巻頭)

4.刊行年月日

 底本:初版 大正2年6月18日

5.発行所

 国民道徳普及会

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豆相漫遊記

 明治四十五年一月二十二日、南半球周遊の目的を達して帰国し、長途の疲労をいやせんと欲し、二月二十日より豆州熱海に入浴す。ときに梅園の残花まさに落尽せんとするを見て一吟を試む。茅軒あり、その名を撫松庵という。

行尋仙洞入山隈、一白埋渓雨後梅、吟賞撫松廬下路、落花与我共徘徊、

(仙人の住まいするような所をたずねようとして、山のくまに入れば、一面に白く谷を埋めるように雨後の梅の花が散りしいている。撫松庵の下の道に吟じめでつつ、散る花びらと私とはともにさまようのでありました。)

 客居中、別に一作あり。

雨時居守坐、晴処歩移笻、呌石梅渓水、吟風錦浦松、海開宜散鬱、気暖不知冬、浴後凭欄聴、温泉寺裏鐘、

(雨のときはじっと座を守るようにうごかず、晴れたおりには杖をついてそぞろあるく。夜泣き石をみ、梅の花咲く谷川をゆき、錦ケ浦の松を見ては詩を吟ず。海のはるかな広がりは心にこもるものを発散するによく、この地の気候は温暖にして冬を知らぬといってよい。入浴の後には宿の手すりにもたれて、温泉寺でつく鐘の音に耳を傾けるのである。)

 また、熱海今昔の感を賦したる一絶あり。

一生性癖耽温泉、為客此遊三十年、熱海誰知今昔変、医王墓跡浴桜連、

(一生、もって生まれたくせで温泉を楽しみ、浴客となってここに遊ぶこと三十年に及んだ。熱海の昔と今の変わりようはなにびともわからなかったであろう。いまや仏の道を説いた人の墓跡にも温泉旅館が軒をつらねているのである。)

 滞在中、『南半球五万哩』、『南船北馬集第六編』、『明治徒然草』を脱稿して上梓す。『〔明治〕徒然草』に題する一律は左のごとし。

草鞋竹杖席難温、浮浪身猶浴聖恩、沐雨梳風知世態、食蔬飲水味天尊、曲肱枕上眠能熟、容膝廬中楽却存、無位無官吾事足、終生不敢伺権門、

(わらじに竹の杖をもって席を温めるいとまもなく、このようにさすらう身にも天子の恩沢をこうむっている。雨にあらわれ風に髪をくしけずって世のすがたを知り、粗食飲水にみ仏の慈悲を知る。ひじを枕として熟睡し、膝を入れるほどの小さないおりにこそ楽しみがある。無位無官で十分満足であり、世を去るまであえて権勢ある人の門を訪ねることはするまい。)

 また、客居中、御詔勅の大意を賦したる長編一首あり。

我皇仁雨潤如春、滴々能蘇枯渇民、勅語言々悉温故、詔書句々是知新、祖宗樹徳普天下、億兆輸誠率土浜、国体精華千載美、人文恵沢万邦均、孝忠為本淵源遠、勤倹相持慶福臻、啓発智能開世務、更張庶政行経綸、常懐義勇奉公志、須尽自彊不息身、両訓読来堪感泣、聖恩優渥実無倫、

(わがおお君の仁愛は雨のごとくうるおして春のあたたかさにもにて、したたりしみて枯れはてた木さえよみがえらせ、民は仰ぎしたう。勅語の一言一言はふるきをたずねる意をつくし、詔書の一句一句は新しい知識を得る意にみちている。皇祖の初めより仁徳の政をうちたてられて天下にあまねくゆきわたり、億兆の民もまた至誠をつくすこと地のかぎりに及ぶ。わが国体のすぐれた美しさは千年の後までうるわしく、文化の恩沢はあらゆる国にひとしくゆきわたる。孝と忠をもととしてその深い源は遠古よりし、勤倹の精神をもってめでたい福はあつまりいたる。智能を開発して世の務めをひろめ、もろもろのまつりごとをさらにあきらかにして治めととのえる。つねに義に勇なる心をいだいて公につくす志をもち、みずからをつよくすることにつとめて身を安息におかず。忠孝の二つの教えを読んで感涙にむせび、天子のめぐみはねんごろで、まことにたぐいないのである。)

 また、自己の平素とるところの主義を賦したる一絶あり。

人生如夢而非夢、我食我衣誰所貢、与為児孫買美田、寧遺私産分公衆、

(人生は夢のようであるが、しかし夢ではなく、われの衣食するところはだれの給するものであろうか。児孫のために美田を買って残さんよりは、むしろ私産を公衆に分配しようと思うのである。)

 三月十日、熱海より帰り、同下旬、箱根諸湯に入浴す。そのとき春寒なお減ぜず、浴客いまだきたらずして、楼々みな寂寥たり。よって一詠す。

函山三月鎖寒烟、無客暁窓春寂寥、梅未全開鴬未語、洗心楼上聴泉眠、

(箱根の山の三月はさむざむとしたもやにとざされ、浴客のいない明けがたの窓に、春もまたわびしい。梅の花はまだ咲きほころぶまでにいたらず、鴬の声も聞かれず、洗心楼の上で、泉水の音をききながら眠りを得たのであった。)

 その他、長短数首あり。

脱去黄塵万丈間、探幽欲養老余孱、峯々呈媚相州道、壑々競流函嶺関、橋畔停笻俯聴水、樹陰踞石仰看山、仙楼懸処霊泉湧、一浴洗除諸病還、

(黄塵万丈の俗世間より脱け出して、奥深い地をたずねて老いの残りのよわいをやしなう。峰々の美しさを見せる相模の道をゆけば、谷間には水がきそい流れ、やがては箱根の関所に至る。橋のかたわらに杖をとめて水流の音に耳を傾け、樹のかげの石にこしかけて山々をあおぎみる。仙人の住むような幽雅な楼閣のある所には、霊験あらたかな温泉が湧き、ひとあびして、もろもろの病根を洗い流してかえろうと思う。)

函山一路水声幽、聴到鳳来峯下楼、新築正成室皆浄、忘帰万客此停留、

(箱根の山の一路は水の音もものしずかに、鳳来山下楼にもかすかにきこえてくる。新しく建築がまさに完成したばかりで部屋もきれいであり、その心地よさに帰ることを忘れたような多くの浴客はここに逗留しているのである。)

春入函山風漸暄、早桜花底酌茅軒、一盆蕎麦扶吾酒、酔裏石泉鳴不喧、

(春が箱根の山にやってきた。風にもようやくあたたかさがふくまれて、早咲きの桜のもと、かやぶきの軒下に酒をくむ。ひとはちのそばはわが酒のすすむをたすけて、酔ううちに岩から流れでる泉の音も遠のいてゆくのであった。)

雨歇花朝睡客亭、鴬声入夢々初醒、窓前春色夜来改、一帯函山化画屏、

(雨のやんだ花の咲いている朝、客室に眠りをむさぼっていたところ、鴬の声が夢のなかにきこえて、そこではじめてめざめたのであった。窓の前にひらける春の景色は一夜のうちにようすをかえ、箱根の山一帯は屏風に描かれた絵のような美しさとなった。)

 以上は箱根客中の漫吟なり。詩中の洗心楼とは塔之沢福住をいい、鳳来山下楼とは小湧谷三河屋をいう。滞在中『日本仏教』と題する新著の起草に従事し、十五日帰京す。これより関西漫遊の準備にかかる。

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京紀旅行日誌

 明治四十五年四月二十六日。妻とともに京都本願寺および紀州高野山を参拝せんと欲して、朝八時、新橋より乗車。当夕、名古屋市停車場前、支那忠支店に一泊す。

 二十七日 晴れ。名古屋駅より関西線に駕し、奈良市に降車し、三笠山下武蔵野に投宿す。楼頭の晩望ことに佳なり。偶然、一絶を得たり。

  三笠山南晩望開、蔚然東大寺門堆、隔林一杵鐘声動、身在斜陽影裏台、

(三笠山の南に日暮れの眺めがひらけ、東大寺の門が高々とそびえている。林をへだててひときねの鐘の声がひびき、身は夕日の光のなかの台上にあったのである。)

 四月二十八日(日曜) 晴れ。午前中に奈良より桜井駅に移り、多葉市(皆花楼)に少休し、午後、多武峰談山神社に登詣す。渓行一里半、道わずかに腕車を通ず。ようやく登りて渓橋を渡れば、老杉並列し、樹陰の清風、満身の発汗を払い去る。渓林尽くる所に、朱門紅欄の桜楓に相映ずるあり。これすなわち談山神社にして、その中に藤原鎌足公を祭る。堂塔の美観は関西日光の称あり。十三層塔は小なりといえども、他所に見ざるものにして、第一に人目を引く。

  渡橋一路入渓間、人向老杉深処攀、先認朱門更移歩、十三層塔是談山、

(橋を渡ってひとすじの道は谷間に入り、人々は老いた杉の奥深いところに向かってのぼる。まず朱門をみ、さらに歩をすすめれば、そこに十三層の塔があり、これが談山神社なのである。)

 多武峰を下りて桜井に帰り、更に軽便に駕して長谷寺に詣す。牡丹花まさに盛んにして、遠近より来観せる人、群れをなし山を築く。牡丹の数は千株以上ありて、全国第一と称す。ときに事務所長丹生谷隆道氏に面会し、即吟一首をとどめて帰る。

  尋春四月入和州、復向観音山下遊、富貴花開長谷寺、香雲堆裏仏堂浮、

(春をたずねて、四月に大和に入り、また観音山のもとに遊ぶ。牡丹の花が長谷寺に開き、花がすみの高くただようなかに仏堂が浮かんでいるのである。)

 当夕、皆花楼に一泊す。

 二十九日 晴れ。桜井を発し、高田にて転乗し、吉野口駅にて降車し、更に腕車を走らして吉野山に登る。遅日暖風春事幽の好時節、好天気なり。桜花全く落尽して、ただ満山の新緑のみを残せるは、人をして一層感慨を深からしむ。

  春過芳山夏木栄、無花之処却多情、杜鵑猶帯当年恨、偏在延元陵上鳴、

(春のすぎた吉野山は夏の樹木がさかんに茂り、桜の花のないところに、かえって多くの感慨が生まれる。ほととぎすはなお南朝当時の恨みをおびた声で、延元陵の上にあまねく鳴いているのである。)

 余の芳山に遊ぶは、ここに三回目なり。先年両度とも桜花満開のときなりしが、その当時を追懐して更に一作を浮かぶ。

  一路春花送又迎、風光何事動吾情、南朝五十五年恨、発作芳山万朶桜、

(ひとすじの道に春の花に送られまた迎えられ、風景はなにごとか私の心をうごかした。それは南朝五十五年の遺恨が、吉野山の万朶の桜となって花ひらいたと思われたのだ。)

 この日、竹林院、奥千本、中千本、如意輪寺等を一巡し、同寺にては井上徳成氏に面会して、芳山館に帰宿す。当夜十一時、わずかに一丁を隔てて火災あり。類焼十七戸に及ぶ。吉野山希有の大火なりという。四隣喧擾はなはだしく、終夜一眠を得ず。

 三十日 晴雨不定。午前十時、吉野を発し、午後三時、高野口に降車し、これより五十丁、腕車を用い、更に轎に転乗し、約三里にして、高野山の裏門に達す。途中、不動坂を登攀するとき、日すでに暮るる。門外にて録事井村米太郎氏、そのほか数名に迎えられて、宿坊明王院に入る。時鍼まさに九時を指さんとす。余のここに登山するは第二回目にして、前後相隔つること二十年余なり。山内の風情も星霜とともに一変せるを覚ゆ。

 五月一日 晴れ。午前、奥院参拝、午後、金堂、山門および国宝を拝観し、続きて大学林〔高野村〈現在和歌山県伊都郡高野町〉〕に至り、生徒のために演説す。夜に入りて大雨あり。明王院住職は中僧正高岡隆心氏なり。哲学館出身山階清剛、松永有見両氏は学林に奉職す。野山所吟二首あり。

  樹鎖清渓昼自昏、無心鳥亦唱真言、廟門深処山神粛、嵐気使人洗六根、

(樹々は清らかな谷をとざして、日中もおのずからくらく、心なき鳥もまた仏の言葉をさえずるように思われる。寺門の深いところは山神もしずかに、山の風は人の欲を生ずる六根を洗い流すのである。)

  一帯玉川随処喧、登山人蹈白雲行、歩来祖廟門前路、皆唱南無遍照名、

(ひとすじの玉川の流れはいたるところでかしましく、山に登る人は白雲をふむようにして行く。祖廟門前の道に歩をすすめながら、みな口々に南無遍照の名を唱えるのである。)

 二日 晴れ。朝、草鞋をうがち、泥途をわたりて下山す。乞食、路傍に連なりて恵与を要請す。その数、百以上に及ぶ。イタリア、スペインも、かくのごとくはなはだしからず。実に文明国の体面を汚す。よろしく制裁を加うべし。高野口を経て粉河に詣す。関西第三番の観音なり。堂宇壮大なるも、やや廃頽の色あり。

  山深高野山、寺古粉河寺、入寺拝観音、関西占三位、

(山深い高野山、寺古し粉河寺、寺に入りて観音をおがむ、関西第三位の地位を占める。)

 これより更に乗車し、和歌山を経て和歌浦に至る。蘆部屋を訪うも空室なきをもって望海楼に宿す。余のここに遊ぶもまた三回目なり。この日は高野の気候春のごとき所より紀陽の平原に出でたるをもって、にわかに夏熱を覚ゆ。当夕、また一作を得たり。

  探勝南紀城外郷、電車停処欲斜陽、和歌浦上海如鏡、巒上老松投影長、

(景勝を南紀城外のさとにたずねれば、電車のとどまるところに夕日がさそうとしている。和歌浦のほとりの海は鏡のごとく静かに、山上の老いた松影がながながとのびていたのであった。)

 三日 晴れ。紀三井寺に登臨す。これ第二番観音なり。石階二百三十段あり、更に上方に四十九段あり。台上の眺望、旧によりて絶佳なり。午時、浜寺公園をたずね、一力支店にて午餐を喫し、友人浜田健次郎氏を訪うも不在なり。これより大阪を経て京都〈現在京都府京都市〉に入る。哲学館同窓生の歓迎あり。宿所は例によりて河六なり。夜、風雨はなはだし。

 四日 晴れ。午前、大谷派本山に参詣し法主に謁見す。これより府立第一中学校に至りて講筵す。校長は森外三郎氏なり。午餐は新町徳兵衛氏宅にて喫了し、午後、田島教恵氏創立の淑女高等女学校に移りて演述す。当夕、八新にて哲学館および東洋大学の同窓会あり。出会者は旧哲学館大学講師松本文三郎博士の外に、

井ノ口泰温、大江文城、大崎竜淵、新町徳兵衛、原田秀泰、藤川吉次郎、田中了恵、上村観光、田島教恵、福井了雄、松本雪城、青樹了栄、市村与市、近藤寿治、高安博道、久保雅友。

 田島および久保両氏幹事たり。

 五日(日曜) 晴れ。早朝、東大谷、本派本山、興正寺本山へ参詣し、大谷瑩亮氏、藤島了穏氏を訪問す。午後、府教育会の依頼に応じ、第一高等女学校にて講筵す。聴衆、堂に満つ。校長河原一郎氏尽力せらる。更に伏見町〈現在京都府京都市伏見区〉大谷派別院に至りて談話をなす。輪番松本雪城氏の案内にて松筑庵に憩い、晩餐を喫す。楼上の風光、吟賞するに足る。夜に入りて、仏教懇話会の依頼に応じて、市会議事堂において講演す。聴衆、堂にあふるるの盛会を得たり。

 六日 晴れ。朝、金子弥平氏を訪問し、これより祇園、円山、清水等に散策す。午時、福井了雄氏の宅に休憩せるに、昼餐を設けらる。当夕の急行にて帰東するに当たり、河原校長ほか十余名の諸氏の送行をかたじけのうす。金子氏が自ら新邸に名付けて三松五石庵とせられたるを聞き、一詩を賦呈す。

  五石々間路、三松々下廬、羨君占斯境、白日閲仙書、

(五石の石の間の道、三松の松の下のいおり、君がこの境地を独占して、日中に仙人の読むような書をひもとくのがうらやましい。)

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函嶺再遊記

 明治四十五年七月三日。東京を発し湯本福住に一泊、翌四日、旧道をたどりて元箱根村に入宿す。大場金太郎氏の周旋により平井嶋太郎別室を借り受く。行路吟一首あり。

  看過相灘茫渺間、電車一路向函関、杜鵑花尽早雲寺、梅雨天昏双子山、

(相模灘のひろくはてしないようすを眺めるまに、電車は一路箱根の関所に向かう。ほととぎすの鳴く声も花の時期も終わった早雲寺をみつつ行けば、梅雨空のくらいなかに双子山があるのであった。)

 五日。快晴なれば湖上を渡りて姥子温泉に遊ぶ。余のここに至るは三十年目なり。温泉および客室の装置は昔日とすこしも異なることなく、諸事不潔の感なきあたわず。ただ、富峰の卓然として軒前に秀出するところ、人をして百煩を忘れしむ。

  暑風一棹渡蘆湖、走入泉楼気欲蘇、望裏晴空雲集散、倒蓮忽有忽還無、

(あつい風が芦ノ湖をさおさすように渡り、温泉旅館にかけ入って蘇生の思いがした。一望すれば晴れた空に雲が集散し、富士山は見えたかと思えばたちまちにしてまた姿を消すのである。)

 これより後は連日の降雨にて倦怠を生ず。当時、梅霖いまだ去らざるによる。一日わずかに少晴を得て三島街道接待茶屋に遊ぶ。旧東海道の遺物として、今なお存するものは甘酒茶屋と接待茶屋のみ。箱根滞在中、『活仏教』の著述に従事す。寒暖計は土用に近きも、〔華氏〕六十度ないし七十度の間を昇降し、朝夕綿衣を要するほどなり。実に消夏避暑の良地たり。夜は蚊なきをもって読書に便なるも、昼は蒼蝿に苦しめらるるの不便あり。ただし鴬語鵑声の間断なきは、都人をして仙郷にあるの思いをなさしむ。十六日、家事のために雨をおかして帰京せるに、その後、聖天子御不例にわたらせらるるを聞き、登山を見合わせたり。いよいよ御危急の報を聞き、和田山哲学堂に立てこもり、御回復を祈りしも、間もなく崩御の凶報を拝受し、驚愕恐懼おくところを知らず。拙作をもって敬弔謹悼の至情を表し奉る。

溘然聖帝去何辺、朝駕六竜登九天、大内愁雲昼如夜、秋津涙雨国成川、江山変色凄凉見、日月失光黯澹懸、人満二重橋外路、哭声撼地禁廷伝、

(にわかに聖帝はいずこに去られたのか、天子の六竜にひかせた車は九重の天にのぼられた。宮中はかなしみの雲におおわれて昼もなお夜のごとく、日本国中の涙は雨のごとく川となり、川も山も色を変えてすべてがものさびしく、日月も光を失ってうすぐらくかかる。人は二重橋の外路にみち、その泣く声は大地をうごかして宮廷に伝わるのである。)

聖明無比徳無量、真是東洋第一皇、子育六千万黎首、君臨四十五星霜、恩波蕩々同滄海、威望巍々侔太陽、遽聴崩殂皆恐愕、慟天哭地割愁腸、

(天子の聡明はたぐいなく、その仁徳ははかられぬ。まことに東洋第一の皇帝である。六千万の民を子のごとく育てられ、君主として臨むこと四十五年であった。恩徳は波のごとくよせ、広大なることはあお海原にひとしく、おごそかに尊敬をうけること高大な山のごとく太陽にひとしい。にわかに崩御せらるるをきいてみな驚愕し、天も地も泣き悲しみ、ために愁いの腸もさけんばかりである。)

 ときに明治四十五年七月三十日なり。即日、皇太子殿下一系連綿の宝祚をふみ給い、改元して大正元年とするの御宣命あり。よって更に増詠して微衷を表し奉る。

竜駕登遐四海驚、自今何処復輸誠、新天子忽継鴻業、旧暦号俄改大正、愁裏威風加草莽、喪中仁雨潤蒼生、在朝元老献籌策、皇運誰疑千載栄、

(天子の御車は遠く天にのぼりたまい、天下驚愕し、いまよりいずこにまた真心をささげようか。新しい天子はにわかに帝王の大業を継がれ、もとからの年号もにわかに大正に改められた。悲しみのうちに威厳は民間に加えられ、喪中にも仁徳の雨は人民をうるおす。朝廷の元老は国家のはかりごとを献じ、皇国の将来についてだれもが永久の宋えを信じているのである。)

 これより後は和田山に静居端座して謹慎し、箱根行をとどむることに定む。

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明治年間の著書および講筵 付

哲学堂雑事

 大正改正につき余が明治年間における事業を一括するに、その大要は『南船北馬集』第一編より第六編までに記述しおけり。ただしその中に漏れたる分をここに付加すれば、著述の方にては、第二編の巻尾に掲げたる書名の後に発行せるもの左のごとし。

  南船北馬集  一編より六編まで六冊

  自家格言集  四十二年十月、妖怪研究会発行

  哲学新案   四十二年十二月、弘道館発行

  日本周遊奇談 四十四年六月、博文館発行

  南半球五万哩 四十五年三月、丙午出版社発行

  明治徒然草  四十五年四月、妖怪研究会発行

 明治年間に起草せる『日本仏教』と『活仏教』の二書は、大正に入りて発行することとなる。

 つぎに、地方における開会講演につきては、本年に入りて一月より七月までの分を表示すれば左のごとし。しかして東京市内の開会はここに略除す。

   地名          会場      席数   聴衆     主催

  横浜市         会席       一席  五十人    医学会

  茨城県稲敷郡龍ケ崎町  中学校      一席  四百人    校友会

  横浜市         大谷派別院    一席  二百五十人  法話会

  和歌山県伊都郡高野村  高野山大学林   一席  三百人    大学林

  京都市         第一中学校    一席  六百人    中学校

  同           淑女高等女学校  一席  二百五十人  同女学校

  同           第一高等女学校  一席  千二百人   教育会

  同           市会議事堂    一席  二千人    仏教懇話会

  京都府紀伊郡伏見町   大谷派別院    一席  二百人    同別院

  栃木県下都賀郡栃木町  中学校      一席  七百人    校友会

  千葉県香取郡佐原町   郡会議事堂    二席  五百人    仏教会

   合計 二市、五郡、五町村(四町、一村)、十一カ所、十二席、六千四百五十人

 横浜〈現在神奈川県横浜市〉医学会講演は二月一日、同法話会は三月十日なり。龍ケ崎〈現在茨城県龍ケ崎市〉中学校は二月十六日にして、校長は板垣源次郎氏なり。栃木〈現在栃木県栃木市〉中学校は五月二十七日にして、校長は劉須氏なり。佐原〈現在千葉県佐原市〉仏教会は六月二十日にして、発起者は松浦忍、坂悌児等の諸氏なり。当夕はその地木内楼に入宿す。その他は京紀紀行中に出だせり。

 『南船北馬集』第六編(四十頁)に掲げたる日本全国講演開会地総計表は、明治二十三年十一月より明治四十四年二月まで満二十一年四カ月間の総合計なり。これに前記の分を加うれば左表のごとくなるべし。(そのうちより重複せる分はこれを除く。ただし第六編の表中に近江国坂本村比叡山開会を脱せしにつき追加す。)

  総合計 八十七国、四百八郡、一千五百八十三市町村

 右、明治年間における開会地の総表なり。そのうち明治二十三年より三十八年までは、哲学館大学拡張の講筵にして、三十九年以後は修身教会普及の講筵なり。

 修身教会は大正改元とともに、その名を改めて

  国民道徳普及会

とす。

 明治四十五年に入りて哲学堂庭園を広げ、各所に命名したるもの左のごとし。

 (総名)哲学堂 唯心庭 唯物園

 (各名)哲理門(俗称妖怪門) 四聖堂 六賢台 三学亭 鑚仰軒

   一元牆 鬼神窟 無尽蔵(書庫)  時空岡 宇宙館 (この中に皇国殿あり)

   幽霊梅 相対渓 理想橋 絶対境 聖哲碑 意識駅

   直覚径 認識路 論理関 心字池 概念橋 主観亭

   倫理淵 理性島 先天泉 心理崖 独断峡 学界津

   百科叢 懐疑巷 二元衢 造化澗 神秘洞 後天沼(一名扇状沼)

   原子橋(一名扇骨橋) 博物隄 理化潭 客観廬 物字壇

   進化溝 万有林 感覚巒 経験坂 天狗松 万象閣

   髑髏庵 常識門

 そのうち輪廓を付したる分は未建設なり。

 左に明治四十五年中の哲学堂雑詠数首を掲ぐ。

野方村尽処、邱上設仙荘、天狗松陰路、幽霊梅畔堂、汲泉晨煮茗、掃席晩焚香、入夜裁詩句、閑中自有忙、

(野方村のつきるところ、丘の上に俗気をはなれた別邸を設けた。天狗松のかげの道、幽霊梅のかたわらの堂、泉にくんで早朝には茶をせんじ、席を掃き清めては暮れて香をたき、夜もふけては詩句を考え、のどかななかにもおのずから忙しさがあるのである。)

無客門常鎖、菜畦路稍通、洗心玉渓水、養気鼓岡風、酔処吾忘我、吟辺色即空、俗塵渾不到、静坐守仙宮、

(客のない門は常にとざし、菜園のあぜ道がようやく通じている。心を美しい谷の水に洗い、気を鼓ヶ岡の風に養う。酔ってはわれを忘れ、色即是空を吟ず。俗世のわずらわしさは全くいたらず、静かに座してこの仙人の居を守るのである。)

不伍小人争利名、友賢師聖養残生、樹封門巷四隣寂、境隔俗塵千古清、理性島難容客膝、先天泉足洗吾纓、徘徊心字池頭路、漱石枕流観世情、(唯心庭)

(つまらぬ人間と肩をならべて利益や名誉を争わず、賢師、聖人を友として残りの生命を養う。樹は門や通り道をとざしてあたりは静かに、境地は世俗のちりをへだてて永久に清らかである。理性島は客の膝をいれるにはせまく、先天泉は清らかでわが冠のひもを洗うことができる。心字池のほとりの道をめぐりあるき、石にくちすすぎ、流れに枕する負け惜しみの精神で世情をみるのである。)

居離村落静無譁、読後携書歩沼涯、造化澗辺橋一曲、懐疑巷畔路三叉、洗心学界津頭水、遣悶客観廬下花、回杖更攀経験坂、万松林外夕陽斜、(唯物園)

(すまいは村落をはなれて静かにかまびすしきことなく、読んでは書物を手に沼のみぎわを歩く。造化澗のあたりに橋でひと曲がりし、懐疑巷のほとりで道は三つにわかれる。心を学界津のほとりの水に洗い、なやみを客観廬の下の花にやる。杖をめぐらしてさらに経験坂にのぼれば、万松林のかなたに夕日がななめにさしている。)

梅霖漸歇望蒼然、夕照入林烟満田、食後曲肱無一事、朦朧月下聴蛙眠、

(梅雨はようやくやんで一望すれば青々として、夕日は林に差し込んでもやは田に満ちる。食事の後にひじを曲げて枕としてなにごともなく、おぼろ月の下に蛙の声をききながら眠るのである。)

髑髏庵下伴書檠、凉満茅窓睡味清、半夜夢醒風在樹、仙郷八月聴秋声、

(髑髏庵の下で読書の灯をかたわらに、涼は粗末な窓にみちてねむ気もすがすがしい。夜半に夢よりさめてみれば風が樹に吹いて、仙人の住む里の八月に秋の声をきくのであった。)

 哲学堂静居中に書生の境涯を賦したる戯作一首あり。

東京由来名物多、春時賞花墨田河、言問団子味尤美、一喫三盆未為過、帰到吾妻長橋畔、炙鰻香来鼻漂波、観音寺後有蕎麦、与酒共傾顔已酡、更到上野訪氷月、呑了汁粉又及他、曾聞獣肉富滋養、転入豊国命牛鍋、腹未全満銭已尽、欲講金策心如梭、西洋料理非不好、嚢無一物難奈何、空回靴頭向帰路、握拳街上高放歌、意気揚々如無敵、不厭巡査被弾呵、翼日腹痛実難忍、購求胃散呼按摩、如此時代今已去、在校終日競琢磨、暴飲過食各相戒、専重摂生貴中和、愧吾昔日蛮亦甚、何知身為酒食魔、今時書生全一変、行有規律学有科、身自健全心自楽、文明恵沢堪吟哦、

(東京はもともと名物は多い。春は花を隅田川にめで、言問団子はもっとも美味にして、一度に三皿を食するもまだ食べすぎとは思えない。吾妻橋のほとりに戻れば、鰻を焼くにおいが鼻にただよいくる。観音寺の後に蕎麦屋があり、酒とともにかたむければ顔は早くもあかくなる。さらに上野に至って氷月をたずね、汁粉をたべて、そのうえ他のものも注文してしまう。かつて獣の肉は滋養に富むと聞いていたが、一転して豊国に入って牛鍋を注文する。さて、まだ満腹とまではいかぬが銭はすでに尽き、金策を考えようとすれば心は梭〔ひ〕のごとくゆれ動く。西洋料理は好まないわけではないが、さいふには一銭もなくいかんともしがたい。むなしく★(靴の旧字)の先をめぐらせて帰路に向かい、こぶしをにぎりしめて街頭に高らかに歌をうたう。意気揚々として敵なきがごとく、巡査のとがめただされることも気にならぬ。ところが、翌日には腹痛をおこして実に耐えがたく、胃散を買いもとめ、按摩を呼んだのであった。しかし、このような時代はすでに去り、学校では一日中切瑳琢磨をきそい、暴飲や食べすぎをそれぞれ戒め、もっぱら摂生を重んじて中和を貴んでいるのである。自分がかつて蛮行のはなはだしかったことがはずかしく、自分の身が酒食魔となったことがわからなかったのだ。いまやこの書生はまったく一変し、行いに規律があり学問にはすじめをもち、身体はおのずから健全にして心はおのずから楽しく、文明の恩恵を受けて吟詠をなすのである。)

 『活仏教』に題するために仏教革新主義を賦したる一首あり。

仏界不知文運隆、頑雲四鎖昼冥濛、誦経僧似蛙呼雨、聞法人如馬触風、迷信草埋生死路、悲観涙満涅槃宮、常懐報国心難黙、起唱革新為奉公、

(仏教界では学問、文化のさかんになる気運も知らずに、頑迷なる雲が四面をとざして昼なおくらい。経をよむ僧は蛙の雨を呼ぶかのごとくであり、仏法を聞く人も馬の風を受けるがごとくである。迷信ははびこって生死の道を埋め、悲観の涙は解脱の境地に満ちる。常に国に報いんとする心をいだいて黙ってはおられず、仏教革新を唱えて真剣に奉公せんとするのである。)

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埼玉県巡講日誌第一回

 明治四十五年七月三十日。明治天皇崩御以来、哲学堂内に篭居して、謹悼敬弔の微衷を表し奉りしが、九月十三日の御大葬後、更に先帝の御遺訓たる教育勅語、戊申詔書の聖旨を民間に普及開達せんと欲し、地方巡講を開始することに定む。御大葬当日、乃木大将殉死の報を聞きて、所感を賦す。

  皇沢欲霑天地涯、斯時聖帝遽登遐、将軍一死従竜駕、真是神州独特花、

(天皇の恩沢は天地の果てまでもうるおさんとするに、このときにあたって明治帝はにわかに崩御あそばされた。乃木将軍は殉死して天子のお車につき従ったのは、まことにわが神国独特の精髄である。)

 大正改元とともに従来の修身教会を国民道徳普及会と改称し、全国の同胞諸兄に左の告示をなせり。

先年両度世界を周遊し、西洋各国の教育、宗教の現状を視察したりし結果、校務の余暇をもって修身雑誌を発行して、本会の主旨を唱導したりしも、僻邑偏郷まで徹底することの難きを自ら遺憾となせり。しかるにその後、精神過労のために神経衰弱症にかかり、閑地に就きて加療することになり、二十年来独力経営せる哲学館大学(改称東洋大学)、京北中学および京北幼稚園を退隠し、小生より財産十三万五千余円を挙げてこれを学校に寄付し、もって財団法人を組織し、その経営を全く後継者に一任し、もっぱら療養のために全国を周遊して、積年の素志たる聖諭の普及に全力を尽くさんと決心し、すでに全国の大半を巡了したり。ときに最近における世界の大勢を実視するの必要を感じ、昨年にわかに南半球一周の長途に上り、豪州、南ア、南米、南洋を歴遊し、あわせて欧米各国を歴訪し、五大州の大勢を一覧して帰り、これより更に地方の遊説に取り掛からんとするに当たり、あに図らんや。

先帝崩御の大凶に際会し、恐愕恐惶の至りに堪えず、哲学堂内に謹慎して、敬悼謹弔の誠意を表する間に、自ら念ずらく、竜駕の登遐は到底人力をもってまためぐらすべからざるも、その御遺訓たる二大詔勅は儼然として存する以上は、われわれ六千万の赤子は在天の神霊に忠孝の大義を尽くすの心得をもって、一刻片時も拳々服膺を怠るべからず。ことに今や、新天子一系連綿の宝祚をふみて、明治中興の大業を継がせ給う。このときこそ実に国民道徳の普及を拡張する好機なるべけれと自ら信じ、かく一事をもって先帝の天地に比すべき御恩徳に報い奉り、今上天皇の日月に比すべき御英明に対し奉り、いささかもって淬砺の誠をいたさんことを期す。これにおいて再び草鞋竹杖の行脚に就き、山陬海隅の遊説を試むることに決せり。しかりしこうしてその遊説は、他の諸会のごとく地方に分会を設置するにあらず、また会員を募集するにあらず、ただ各町村において公衆を集め、開会し得る便宜を与えられんことを望むのみ。

 この旨趣を埼玉県知事島田剛太郎氏に寄贈して所望を述べたるに、氏は好意をもって各郡長へ紹介の労をとられ、ここに大正改元第一回の巡講を埼玉県より開始することとなる。

 大正元年九月二十七日 晴れ。午前、随行永井快胤氏とともに上野を発車し、熊谷駅より県会議員大沢寅次郎氏(白鳥村)、郡会議員新井定三郎氏(樋口村)に迎えられ、秩父郡樋口村〈現在埼玉県秩父郡長瀞町〉小学校に至りて開演す。同村および白鳥村連合の発起なり。この両村は秩父の関門と称すべき地形に当たり、荒川の両岸に対立せる山脈の間にあり。産業は養蚕を専一とす。樋口村長宮沢良吾氏、校長松本徳三郎氏、白鳥村長新井福太郎氏等数十名の有志、みな尽力あり。郡視学原金三郎氏ここに来会せらる。演説後、更に汽車に駕して宝登駅に降り、秩父第一の勝地たる長瀞に至りて休泊す。旅館を長瀞館といい、鉄道会社の経営にして、新築すでに成る。このときたまたま中秋明月に会し、臨時列車の往復ありて、観月の客群集し、楼上立錐の地を余さぬほどなり。館は荒川の渓流に枕し、白鳥島の奇巌に面し、対岸の松巒はあたかも鏡台のごとく、その上に一輪の明月をいただくところ、実に赤壁の趣あり。

  幾級重巌両岸連、巒光石影映晴川、楼頭対月思佳句、唱起蘇翁赤壁篇、

(いく段かに重なる岩石が両岸につらなり、山影や石の輝きは見わたす川面に映えている。長瀞館の階上に明月に対して美しい語句を思えば、おもわず蘇軾の「赤壁の賦」をくちずさんだのであった。)

 人呼びて秩父赤壁となす。また、観客を慰むるためにときどき煙火を放つあり。

 二十八日 晴れ。早朝、館前より渓流にさかのぼり、四十八沼を一覧す。その名は巌石の間に散在せる小池、その数四十八あるより起こる。大旱のときといえども決して枯渇したることなし。よって俗にその底は竜宮に通ずという。この辺り一体の岩層は地質学研究の好資料となる由にて、毎年数回、大学生ここに来集すという。故にこれを天然の地質学教室と称す。また、この駅より八丁を隔てて宝登神社あり。県社なり。これより腕車にて国神村〈現在埼玉県秩父郡皆野町〉小学校に移りて開演す。主催は東北部教員講習会にして、会長は小林為助氏なり。当村には山田懿太郎氏ありて、多年子弟を訓育せられ、目下、小学教員に列するもの多くその門より出ず。よって秩父孔子の称あり。当夕、角屋旅館に入宿す。

 二十九日(日曜) 曇り。秩父鉄道は国神以上に通ぜず、故に腕車を雇いて大宮〔町〕〈現在埼玉県秩父市〉に向かう。途上吟一首あり。

  随候去来身似鴻、秋寒秩父峡間風、今朝武甲山陰路、聴水看雲入大宮、

(季節につれて去来する身は渡り鳥のかりにも似て、ときに秋の寒さひとしおの秩父山峡に風が吹きぬける。今朝は武甲山北側の道をたどって、水流の音をきき、行く雲を見上げながら大宮の町に入ったのであった。)

 会場は高等小学校、主催は郡教員会および教員講習会。その代表者は横瀬校長島田正氏、大宮校長浅見宇三郎氏、郡書記長島和作氏、郡視学原金三郎氏なり。郡長戸田五郎彦氏も出席せらる。氏は九州男児にしてすこぶる快活なり。夜に入り、旅館竹寿館において郡長および当地有志家福島寿照氏、宮前藤十郎氏等と会食す。大宮町は秩父の首府にして、余のここに至る、前後三回に及ぶ。

 三十日 雨。早朝、原視学とともに大宮を発し、武甲山北をめぐり、渓行して強石に至りて昼食を設く。これより馬上にまたがり、雨をつき雲を破りて三峰山下を右旋し、小耶馬渓とも称すべき奇勝に接し、ここに隧道を一過し、大滝村〈現在埼玉県秩父郡大滝村〉字落合に至り、役場階上にて開会す。主催は村教育会にして、その代表は村長広瀬菊次郎氏、郡会議員中山宗治氏、校長柴崎瑠璃吉氏なり。途上の風光は詩をもって写出す。

  秩父山中桟道長、一渓秋雨樹将黄、前泉迎我後泉送、聴入蕎花白処郷、

(秩父の山中には長い木の橋がかけられ、渓谷にふる秋の雨は、いまや樹々の葉を黄色にそめようとしている。前路にある泉が私を迎え、通りすぎればしりえに私を送る。きくところによれば、ここは蕎麦の白い花の咲きみだれるさとであるとのこと。)

  渓頭石渓曲如弓、馬上吟行渡半空、終日雨懸随処暗、三峰深在白雲中、

(谷川は岩石によって弓のごとく円を描いて流れ、馬上にゆられながら詩を吟じつつ、谷にさえぎられた空のもとを行く。一日中降りつづく雨に暗さを増した所も多く、三峰山のふところは深く、まさに白雲の中にいるおもむきがある。)

 大滝村の山勢は熊野または飛騨山中に似て、山嶮に渓深く、人家の上下に点在するあり。蒼樹の巌頭に鬱生するありて、実に仙境の趣を現出す。都人士ひとたびここに遊ばば、満胸の塵垢を一洗するに足る。村内の面積は長さ十里余、幅七、八里ありて、普通の一郡よりも広し。深谷には熊野山中のごとく水草を追うて移住する樵夫ありという。落合より甲州に通ずる山道と信州に通ずる山道と両様ありて、信州線の水源に中津川と名付くる小部落あり。肥後の五家、飛騨の白川に比すべき僻郷なる由。この日、行程七里余、夜に入りて茅店に宿す。

 秩父の崇山峻嶺は武甲山、両神山、三峰山なり。これを秩父三山と称す。そのうち三峰山最も登山の客多く、山頂には約一千人をいるるべき坊舎あり。余は今より三十年前ここに登宿せしことあり。坊内にては一切魚類を食せず、給仕はすべて男子を用う。飲用水は八丁下より運び上ぐるという。嶺麓に一茶店あり。昔年その店に休憩して蕎麦を食せしことを記憶せり。秩父の風俗として世に紹介すべきは左の二首なり。

  秩父名物御存じないか、カカーデンカに屋根の石、

  秩父名物御存じないか、アチャ、ムシ、ダンベに吊し柿、

 アチャはソレデハの義、ムシはゴザリマスの義、ダンベはデアロウの義なり。アグラカクことをブチカルといい、ナをアというも秩父の方言なり。産業は薪炭と養蚕とを主とす。毎日深谷より炭を運出するに、普通、女子は二俵、男子は三俵または四俵、馬は六俵を負担して行く。一俵の目方八貫目あり。その杖は天然木の形、曲がりかぎに似たるものを用う。これをニンボウと呼ぶ。荷棒の義ならん。民家は比較的広く、二階造りにして階上を養蚕室に当つ。屋根は板ぶきにして石を載す。飛騨の山家に同じ。食物は極めて質素にして、雑食をなすも、また飛騨に似たり。軒前にトウモロコシをさらす。これを粉にして焼き餠をつくるという。郡内、寺院の数二百七十カ寺あり。七十戸につき一カ寺の割合なり。故に生計に困する寺院多し。大半曹洞宗なり。秩父三十三番の霊場いまなお存するも、廃頽せるもの多し。武甲山の背後にある浦山村は、民俗おのずから他とことなりて、異人種ならんとの評あり。

 十月一日 晴れ。馬上にて強石まで戻り、贄川より山路を横断し、川流を徒渉して小鹿野町〈現在埼玉県秩父郡小鹿野町〉に至り、劇場にて開会す。町長田隖唯一氏、校長逸見軍次郎氏、講習会長加藤国作氏等の主唱にかかる。この日の行程五里なり。宿所寿旅館は奇石を所蔵す。夜中、特に仏教家の依頼に応じて講話会を開く。両神山はこの町より五里ありという。

 二日 曇り。小鹿野町には山中に珍しき勅任馬車あり。これに駕して下吉田村〈現在埼玉県秩父郡吉田町〉に至りて開演す。郡内第一の新築校舎あれども、いまだ開校するに至らず。故に会場は旧校舎なり。柱礎傾斜して、地震の際顛覆の恐れありとて、校長は生徒をしてときどき戸外へ駆け出だす練習をなさしむるとの話を聞く。戸田郡長ここにもまた来会せらる。宿所は斎藤旅館にして、主唱者は村長船崎森作氏、校長増田玄次郎氏、学友副会頭新井捨次郎氏等なり。

 三日 曇りのち晴れ。秩父駅より熊谷を経由して、児玉郡本庄町〈現在埼玉県本庄市〉に至る。会場は丸山座、宿所は五州園、主催は町長松本文作、女子小学校長奥正次郎、教員上田保次、主山丑三郎、春山藤太等の諸氏なり。奥氏、最も尽力あり。郡長白倉通倫氏、郡視学守屋喜元氏来会せらる。郡長は詩書をよくすと聞く。宿所に一作をとどむ。

  平田如海濶無辺、看到関東第一川、攀入山荘疑対画、五州風色眼前懸、

(広々とした田園は海のごとくかぎりなく、関東第一の川である利根川を見る。高台にある山荘に入れば、画にむかい合うような美しい景色が広がり、この五州園からの風光こそ、眼前にかかる画軸なのである。)

 今より十四、五年前、ここ五州園に遊びしことあり。家は高台の上にありて、眺望すこぶる佳なり。

 四日 晴れ。松久村〈現在埼玉県児玉郡美里町・児玉町〉那珂小学校に至りて開演す。三村青年連合会の主催にして、東児玉村校長上田楽三郎、松久村校長大木台三郎、大沢村校長島田安蘇太郎の三氏、もっぱら尽力あり。当夕は児玉町旅館田島屋に移りて宿泊す。途上、白雨に会す。ときまさに桑枯れ稲熟す。その風色は詩をもって写す。

  車過刀水秩山間、稲熟桑枯野色斑、蚕事漸終秋穫近、田家猶未得農閑、

(車は利根川と秩父の山のあいだを行く。稲は熟した黄金色となり、桑は枯れ果てて野の色はまだらになっている。養蚕のこともようやく終わり、秋の収穫が近づく。農家ではまだまだ暇な時をむかえることはできないのだ。)

 五日 晴れ。児玉町〈現在埼玉県児玉郡児玉町〉実相寺にて開会す。主催代表は町長伊予部平吉氏、校長山田耕作氏なり。晩餐は二葉亭にて設けらる。席上、当地名物の謡曲の演奏あり。宿所は前夕に同じ。

 十月六日(日曜) 晴れ。児玉町をへだつる半里ばかり、塙検校の旧屋および墳墓ありと聞き、これを訪問して所感を賦す。

  桑林深処草堂寛、一幅瞽賢懸壁端、拝像更尋荒径去、秋風蕭颯古墳寒、

(桑林の奥深いところに草堂がゆったりと建ち、一幅の塙検校の画巻が壁の一方にかけられている。遺像を拝してからさらに荒れた小道をたどれば、秋風のものさびしく吹くなかに古びた墳墓がさむざむとして存するのであった。)

 旧屋には遺像の外に遺物数品あり。これより、一、二丁を隔てて墳墓あり。碑石に和学院殿心眼智光大居士、文政四辛巳年九月十二日臨終と記せり。当日は七本木村〈現在埼玉県児玉郡上里町〉小学校にて開演す。その主催代表者は校長井上三郎氏なり。車を本庄町松葉館にめぐらして宿泊す。

 七日 晴れ。神保原村〈現在埼玉県児玉郡上里町〉に至り安盛寺にて休憩し、上喜多小学校にて開演し、医師小林兵蔵氏宅にて宿泊す。発起者は校長神保億二氏、住職保坂真哉氏なり。野外の風光、また詩中に入るる。

  武野連毛野、山河気象豪、車行児玉路、当面赤城高、

(武蔵野と連なる上毛の野、山河のおもむきにはすぐれたものがある。車を走らせて児玉の道を行けば、面前に赤城の山が高々とそびえている。)

 郡内各所へ守屋郡視学出張して斡旋の労をとられたり。児玉郡内の方言にして他に通ぜざるものは、邪魔にすることをニカシニスルといい、無慈悲のことを「親ゲナイ」というの類なり。

 八日 曇り。県下蚕業の本場たる児玉郡を去りて北足立郡に入り、中丸村〈現在埼玉県北本市〉に移る。この地方は甘薯の産地なり。小学校にて開演し、役場楼上にて休泊す。青年会長内田滝三郎氏(村長)、副会長宮倉庭三郎氏(校長)の主催なり。当日、村内に真症コレラ患者を生ぜりとて、多少警戒の模様あり。

 九日 雨。桶川町〈現在埼玉県桶川市〉小学校にて開会す。郡長早川光蔵氏、雨を冒してわざわざ来会せらる。町長長嶋平吉氏、校長矢作太一氏および栗原豊夫、天沼億太郎、岸茂八、大野金太郎諸氏の発起なり。町内はサナダ織を業とするもの多しという。埼玉県下はいたるところ語尾にダンベを添う。これ関東の通癖なり。戯れに一詩を案出せるあり。

  曠野渺茫如海平、村家断続路縦横、里人未脱関東癖、語尾猶添檀遍声、

(ひろい平野は茫々としてはてしなく海のようであり、村も家もその所々に断続してあり、道もまた縦横にのびている。この地に住む人々は関東の口癖に同じく、言葉の最後にダンベの語を添える。)

 当夕、武村旅館に入宿す。

 十日 晴れ。田圃の間を車行して南埼玉郡内菖蒲町〈現在埼玉県南埼玉郡菖蒲町〉に至る。駅路泥ありて車遅々たり。農夫、地を耕すにエグワと名付くるものを用う。けだし柄鍬ならん。柄の長きこと普通の鍬の二倍にして、手足ともにこれにかけて運用す。その勢い勇ましきものなり。県下は多くこの鍬を用う。これまた名物の一に算すべし。開会発起は町長倉持隆次郎氏および近在六村長なり。学校にて開演し、松崎屋に休泊す。郡役所より郡視学植村善作氏来訪あり。

 十一日 晴れのち雨。この日、急に北風寒を送りきたる。久喜町〈現在埼玉県久喜市〉に移るに、途上吟一首あり。

  駅路秋風冷似冬、薯田漸尽稲田従、不知刀水何辺在、雲際蒼然是筑峰、

(駅をつなぐ道に秋風が冷たく吹いて冬を思わせる。このあたり甘薯畑がようやくなくなって稲田が広がる。利根川がいったいどの辺りにあるのかは知らねど、雲のあるところに青々と見える山は筑波の峰である。)

 会場は富寿館にして、郡内第一の公会堂なり。平素は料理店を兼ね、発起は鷲宮村長高橋政治氏、久喜町助役井上信四郎氏、および三箇村、日勝村両村長なり。夜に入りて藤田屋に宿す。

 十二日 晴れ。南埼玉郡より北葛飾郡に入り、幸手町〈現在埼玉県幸手市〉にて開会す。会場小学校は明治十年の建築にして、その当時、日光街道における第一の西洋館と称せられ、米国グラント将軍来遊の節、特に休憩所に充用せられたりし歴史を有す。主催代表は小学校長高橋浅次郎氏なり。郡長武田熊蔵氏はここに出会せらる。当夕、三層旅館新井宅に宿す。町内マニラ麻の織物盛んなり。

 十月十三日(日曜) 晴れ。午前、吉田村〈現在埼玉県幸手市〉にて開会す。途上、草露白くして霜のごとく、晩秋に入りたるを覚ゆ。会場観音院は廃寺同様にて、村役場をその堂内に置く。村長川島庫平、校長川越隆、鈴木又次郎三氏の発起なり。千葉県関宿町は一里内外の所にあり。午後、車を馳せて杉戸町〈現在埼玉県北葛飾郡杉戸町〉に向かう。稲田熟して一面に黄色を浮かぶ。一昨年は未曽有の水害にかかりしも、本年は豊作なりとて、農民の喜び一方ならず。

  平野如海望無窮、秋入孤村柹実紅、一道晴風黄稲漲、新霜猶未染林楓、

(平野は海のごとくはるかに見渡しても果てがない。秋はこの村にもおとずれて柿の実が赤く熟している。道を行けば、晴れた空と風のもとに熟した稲の黄金色が田に満ち、あらたにおりた霜はなおいまだ林や楓を染めるほどではない。)

 小学校にて開会す。武田郡長、諸事を指揮せらる。町長は漆原嘉吉氏なり。当町は元来日光街道に当たり、郡衙所在地なるも、町家振るわずという。夜に入り高館屋に宿す。

 十四日 晴れ。汽車および腕車にて吉川村〈現在埼玉県北葛飾郡吉川町〉芳川小学校に至りて開演す。郡視学小林倭子氏出席せらる。校長針ケ谷松三、村長戸張理助両氏の発起なり。旅館福寿亭は庭屋ともに雅致を帯び、軒前には両川合して一となるあり、流れて中川となる。一棹して東京に達すべし。また、一橋の眼前に虹のごとく横たわるも、風致を助く。

 十五日 晴れ。やや暑気を覚ゆ。この日、北葛飾郡を脱して再び南埼玉郡に入り、越ケ谷町〈現在埼玉県越谷市〉小学校にて開会す。しかして休憩所は役場楼上なり。主催は教育部会および町役場なるも、町長大塚善兵衛氏もっぱら尽力せらる。同校には四十余年一校勤続の老教員あり。当地の名産は味噌にして、多く東京へ輸出す。流山味噌、野田醤油と互いに鼎立する勢いあり。この夕は有志家田中吉之助氏方に投宿す。主人、書画を愛す。土方伯の額面に「至誠無魚」とありとて、その意味を解説せんことをもとめらる。余、その問いに答えて、おそらくは至清無魚の誤字ならんという。この近傍に宮内省御猟地あり。

 十六日 晴れ。天気やや暑し。粕壁町を経て岩槻町〈現在埼玉県岩槻市〉に至る。旧城下かつ郡衙所在地なるも、鉄道の便を欠けるために、商工業盛んならず。従来より雛人形を製出す。主催は教育会にして、会頭は森歓吾氏(校長)なり。郡長水谷麻之助氏出席せらる。しかして植村郡視学、諸事を斡旋せらる。宿所は武蔵野倶楽部にして、貴族院資格斎藤善八氏の所有にかかる。

 十七日(神嘗祭) 晴れ。北足立郡大宮町〈現在埼玉県大宮市〉東光寺に移りて開会す。町長関根嘉重氏の主催なり。当地は官幣大社所在地にして、その公園の名は遠近に聞こゆ。ことに近来鉄道の要路に当たれるために、戸数とみに増加し、その小学校のごときは一千七百人の生徒を収容し、全国中屈指の大校なり。下平末蔵氏その校長たり。夜に入りて停車場前岩井館に泊す。

 十八日 晴れ。浦和を経、荒川を渡り、志木町〈現在埼玉県志木市〉小学校にて開会す。町長西山鉄五郎氏、校長小沼佐吉氏の発意に出ず。宿所は万松亭なり。

 十九日 曇りのち晴れ。秋風颯々落葉蕭々たり。膝折村〈現在埼玉県朝霞市〉〔小〕学校にて開会す。校長宮寺滝蔵氏、独力奔走せらる。この地はいわゆる川越薯の産地なり。また、水利を利用せる針金工場数棟あり。夜に入りて秋空遠くはるる。明月をいただきて川越街道大和田町大和屋に転宿す。当町には臨済宗名刹平林寺あり。住職は峯尾宗悦師なり。膝折の村名に対して、入間郡川越町在の村落に脚〔すね〕折ありという。これ好一対なり。

 十月二十日(日曜) 快晴。再び志木町を過ぎ、荒川を渡り、県庁所在地たる浦和町〈現在埼玉県浦和市〉女子師範学校に至りて開会す。教育会の主催にして、各校長尽力あり。郡視学上村英夫氏も助力せらる。早川郡長は各郡長中の年長者なる由。町長平野勝明氏の案内にて、島田知事を訪問す。宿所は伊勢屋なり。

 二十一日 晴れ。蕨町〈現在埼玉県蕨市〉三学院に移りて開会す。その寺は新四国観音の礼所なれば、堂内広し。町長は岡田健次郎氏なり。町家は多く機業に従事し、木綿織をその特産とす。この日、哲学館出身菅原通氏の遠く仙台より来訪せらるるあり。また、碁客五段関源吉氏に会す。

 二十二日 晴れ。鉄道を横ぎりて、鳩ケ谷町〈現在埼玉県鳩ケ谷市〉小学校に至り開演す。校は丘上にありて、広く稲田を一瞰すべし。ときまさに秋晩なるも、春靄朦朧の観あり。

  秋晴今日気如春、欲問何辺刀水津、暖靄朧朦難遠望、只看黄稲渺無垠、

(秋晴れの今日、おもむきは春のようであり、いったいいずこに利根川の渡しがあるのであろうか。暖かくかすみがたなびき、かすんでいるために遠く望むこともできぬが、ただ黄色く熟した稲がはるかに限りなく見えるばかりなのである。)

 発起者は町長稲垣積三郎氏、校長今井省三氏なり。哲学館得業上村教仁氏、当町寺院に住す。今夕たまたま旧暦九月十三夜に当たり、明月皎々たり。月影を踏みて赤羽駅に至り、即夜帰京す。

 

     埼玉県第一回開会一覧

   郡     町村    会場   席数   聴衆     主催

  秩父郡   大宮町   小学校   二席  四百人    郡教育会および講習部会

  同     小鹿野町  劇場    二席  七百五十人  町教育会および講習会

  同     同     同     二席  五百人    仏教会

  同     樋口村   小学校   二席  六百五十人  両村有志

  同     国神村   小学校   二席  三百五十人  教員講習部会

  同     大滝村   役場    二席  百五十人   村教育会

  同     下吉田村  小学校   二席  四百人    学友会

  児玉郡   本庄町   劇場    二席  一千人    教育部会

  同     児玉町   寺院    二席  七百人    教育部会

  同     松久村   小学校   二席  八百人    三村青年会

  同     七本木村  小学校   二席  三百人    教育部会および青年会

  同     神保原村  小学校   二席  五百五十人  教育部会および青年会

  北葛飾郡  杉戸町   小学校   二席  四百人    教育会支部

  同     幸手町   小学校   二席  三百人    教育会支部

  同     吉田村   村役場   二席  二百五十人  青年団

  同     吉川村   小学校   二席  三百五十人  教育会支部

  南埼玉郡  岩槻町   小学校   二席  三百人    郡教育会

  同     越ケ谷町  小学校   二席  四百人    教育部会および町役場

  同     菖蒲町   小学校   二席  四百人    行政事務会

  同     久喜町   会館    二席  三百五十人  行政事務会

  北足立郡  浦和町   女子師範  二席  三百五十人  教育支会

  同     桶川町   小学校   二席  三百五十人  青年会

  同     大宮町   寺院    二席  三百人    町長

  同     志木町   小学校   二席  二百五十人  町教育会

  同     蕨町    寺院    二席  二百五十人  町教育会

  同     鳩ケ谷町  小学校   二席  三百人    教育支会

  同     中丸村   小学校   二席  二百人    青年会

  同     膝折村   小学校   二席  三百人    教育会講習部

   合計 五郡、二十七町村(十六町、十一村)、二十八カ所、五十六席、聴衆一万一千六百人、日数二十六日間

    演題類別

     詔勅および修身に関するもの      二十一席

     妖怪および迷信に関するもの       十八席

     哲学および宗教に関するもの        三席

     教育に関するもの             四席

     実業に関するもの             三席

     雑題(旅行談)等に関するもの       七席

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兵庫県武庫郡および但馬国巡講日誌第一回

 大正元年十月三十一日 大雨。午後七時、新橋発、兵庫県巡講の途に上る。

 十一月一日 曇りまた雨。午前九時、摂州武庫郡西宮駅に降車。これより十余町にして今津村〈現在兵庫県西宮市〉小学校に至る。郡視学稲見国松氏の出でて迎えらるるあり。昼間は休憩し、夜間に開演す。宿所は醸酒家長部文治郎氏別荘なり。前面は海を枕とし、後面は田を控え、側面は山を望み、大いに風光に富む。新築ようやく成りて清美を極むるも、いまだ楼名を定めずというを聞き、主人のもとめに応じて、洗心閣と命名す。その家にて醸造せる名酒「大関」は、その名声天下にとどろく。よって一吟を試む。

  前面雲波側面山、風光明媚映吾顔、楼頭吟望無余念、不覚重杯酔大関、

(前面は雲の波、側面は山、風光明媚はわが顔にあい映ず。別荘のたかどので吟詠しつつ一望して他の思いはなく、おぼえず杯を重ねて「大関」に酔ったのである。)

 また、「大関」に題する和歌をもとめられ、余儀なく狂句をつづる。

  大関と名をつけたれど、其実は横綱なりと人やいふらん、

  大関を造りし人の名を問へば、酒の都の長部なりけり、

 開会主催は助役長部勇治氏、校長堤恒也氏なり。

 二日 快晴。一天洗うがごとし。朝気冷ややかにして、〔華氏〕五十六度を示す。哲学館大学出身松井亀蔵氏(御影師範学校教員)の案内にて午前、御影町〈現在兵庫県神戸市東灘区〉増谷裁縫女学校において講話をなす。同校は三十年前より継続せる歴史的裁縫学校なりという。校長は増谷亀子女史なり。生徒二百五十人あり。ときに師範学校長和田豊氏に会見す。午後、精道村〈現在兵庫県芦屋市〉芦屋に移り、小学校にて講演を開く。宿所は有志家山村吉蔵氏の宅なり。新築まさに成り、めぐらすに庭園をもってし、その雅麗大いに客情を慰するに足る。楼上の一吟、左のごとし。

  背山面海両軒開、帆影松声入座来、冬夏更無寒熱苦、光風霽月是蓬莱、

(山を背後にし海を前面にして前後の軒が対す。帆舟の姿と松風の音が座に入りきたる。冬と夏はさらに寒さ暑さの辛さはなく、風景と晴れた夜の月はまさに神仙住む地である。)

 その楼の前軒は海に面し、後軒は山に対するをもって、海山軒と命名せり。この地もと農村にしてかつ貧村なりしが、近年にわかに阪神紳士の別荘地となりて好景気を呈し、目下別荘の数、百四十戸に及ぶという。その地形は東南に海を帯び、西北に山を負い、青松白砂、不寒不熱の仙郷なり。また、この地をへだつることわずかに半里にして岡本梅園あり。その名関西に高し。昔時は五千株ありて月瀬をしのぎたりしも、今は減じて三百株なりという。開会発起者は、教育会長斎藤幾太氏、村長大利平吉氏、校長橋本三之介氏等なりとす。

 十一月三日(日曜) 快晴、その温かさ春のごとし。電車に駕して御影町に移らんとするも、各車満員、入乗を許さず。この日は旧天長節にして、しかも本願寺別邸二楽荘縦覧日なるによる。二楽荘は、精道と御影との中間の山腹にあり。群衆雑沓の中をしのぎて御影小学校に至り、午後、その講堂にて開演す。同校は建築の壮麗なると、設備の完備せるとは、日本全国中にその比を見ずとの評あり。人をして一見たちまち中学以上の校舎なるを疑わしむ。その建設に十万円を費やせりという。郡長内海忠誨氏も特に来会せらる。哲学館大学出身潮田玄丞氏、岡田英定氏来訪あり。また、湯崎弘雄氏も但馬よりきたりて訪問せらる。宿所は聴松亭支店なり。海涛、欄下に鳴る。よろしく聴松を改めて聴涛亭と名付くべし。楼頭の遠望すこぶる快活を覚ゆ。開会発起は町長殿村善四郎氏と校長玉木敬二郎氏なり。殿村氏の風采は西郷南洲に類するところあり。

 四日 曇り。旅館を出でて行くこと半里にして、都賀浜村〈現在兵庫県神戸市灘区〉会場善立寺に至る。昼間開会は同村および西灘村両校連合の主催にかかり、都賀浜村長若林与左衛門、同校長広瀬亀太郎氏、西灘村長西岡卯之吉氏、同校長青木勝氏等、その代表者たり。夜間臨時に、住職松岡道隆氏の依頼に応じて仏教講話をなす。善立寺の建築は柱礎強健見るべきものあり。

 武庫郡巡講地は精道村を除くの外、みな造酒の本場なり。これを総じて灘と呼ぶ。灘は郷名なり。今津、西宮、魚崎、御影、都賀浜、これを従来灘五郷と称して、実に日本酒醸造の本場なり。日露戦役の際の評定によれば、左の五種を五大名酒と呼ぶ。

  大関(今津) 白鷹(西宮) 桜正宗(魚崎) 菊正宗(御影) 富久娘(都賀浜)

 この五郷中にて醸造する石高は毎年五十万石にして、その税金一千万円なりという。その中には一家にして二万石以上を醸造し、税金四十万円以上を収むるものもある由。実に驚かざるを得ず。これ日本帝国における酒都なれば、ボルドーのブドウ酒におけるがごとく、ミュンヘンのビールにおけるがごとく、天下の好酒家は必ずこの酒都に一遊せざるべからず。

 五日 晴れ。午前、電車にて神戸市を一貫し、須磨町〈現在兵庫県神戸市須磨区〉に至り、午後、小学校にて開演す。主催代表者は町長兼吉藤兵衛氏、教育会長直井藤左衛門氏、校長柏木元一氏、区長頼広正之助氏なり。当町は関西第一の別荘地にして、その数二百五、六十戸あり。別荘、児童のみを集めて私立小学校を設置しおけり。休泊所は海月館にして、電車の終点なり。楼上の風光明媚なるは吟賞するに余りあり。午前、ここに着せしとき朝霧いまだ散ぜず、糢糊中に淡州の山影を浮かぶるを見て一詠す。

  摂陽無処不仙関、沙白松青水作湾、暁到須磨烟未散、糢糊影是淡州山、

(摂津の南はすべて仙人の住むような地で、白砂青松に海は湾をつくっている。夜明けに須磨に至れば、もやはまだ消えもせず、ぼんやりとした影と見えるのは淡路島の山である。)

 小学校には哲学館出身、間人一良氏奉職す。その姓をハシウドと読む。神戸人なり。しかるに丹後に同姓あるも、呼び方同じからず、タイザと読むというは奇なり。須磨に湯屋を業とし、傍ら印刻を楽しむ風流人あり。湯の字を割きて自ら易水と号するもまたおもしろし。当日は忠海郡長も出席せらる。稲見郡視学は郡内各地へ出張して、諸事斡旋の労をとられたり。

 六日 晴れ。須磨を発車し、姫路より播但鉄道に転乗し、但馬国朝来郡生野町〈現在兵庫県朝来郡生野町〉に至る。武庫郡随行は森山玄昶氏なりしが、今日より潮田玄丞氏これに代わる。この日、先帝百日祭に当たれるをもって、生野町にても遥拝式を行い、その後にて開会し、先帝御聖徳の一滴を演述す。会場は小学校講堂にして、その広さ幅八間、長さ十三間、百坪余、実に稀有の巨室なり。町長長谷秀一氏の主催にして、校長下野亀治氏、役場員能見新氏助力あり。郡長松永荘吉氏、郡視学松岡佐氏も来会せらる。当初には古来有名の鉱山あれども、時間なきをもって一覧するを得ず。この日の途上吟一首あり。

  須磨浦上穏如春、路入播州景更新、秋熟稲田黄一色、黒衣点々刈禾人、

(須磨浦のあたりは穏やかで春のごとく、道は播磨に入って景色はさらに新たとなった。秋たけなわで稲田も黄一色となり、黒衣が点々と見えるのは稲を刈る人である。)

 昼間の暖気〔華氏〕七十度にのぼる。夜に入りて原田旅館に宿す。

 七日 曇晴。朝気〔華氏〕四十九度にくだり、にわかに寒冷を感ず。午前乗車、和田山を経て養父郡養父駅に下車し、腕車に移り、県社養父神社の前を過ぎ、広谷村〈現在兵庫県養父郡養父町〉に至る。途上、江風冷ややかにして、雪片を飛ばすこと数次に及ぶ。全く冬時の気候なり。ところどころ紅葉をみる。会場は小学校、旅館は田中屋なり。開会は校長山内寅次氏の主催にして、村長太田垣利謙氏、有志者中島節太郎氏、林保太郎氏等助力あり。林氏は仏暁、生野まで出でて迎えらる。郡長東文輔氏は先年隠岐行の節はじめて面会せしが、ここに再開するを得たり。郡視学早川政治氏も出会あり。当地満願寺は哲学館出身湯崎弘雄氏の住職せる寺にして、門内の果林は但州第一の評あり。かつその寺に観音堂ありというを聞き、一詩を賦呈す。

  広渓深処有僧房、堪仰観音救世光、余徳及来厚生道、一林果気満山香、

(広谷村の奥深いところに僧院があり、観音の世を救うめぐみを仰ぎみる。その余徳は人生を豊かにするにまで及び、くだもののかおりは山に満ち満ちている。)

 郡内は稲刈りいまだ終わらず、農事繁忙なるもののごとし。

 八日 晴雨不定。早朝、広谷を発し、八鹿を経、関宮にいこい、八重坂をこえ、車行に継ぐに歩行をもってす。嶺を下りて美方郡に入れば、気候たちまち一変し、寒気衣に徹す。ただし満山の紅葉の青松と相映ずるところ、大いに客懐を散ずるによろし。郡視学八木広吉氏案内せらる。嶺北の村落は秋穫全く終わり、やや農閑に入る。この日行程七里にして、午後一時、村岡町〈現在兵庫県美方郡村岡町〉井筒屋に着す。町長久茂田源治氏、助役西村藤十郎氏等の発起にて、中島館にて開会あり。郡長柴原琢氏出席せらる。中島館は公会堂にして劇場を兼ぬる折衷的建築にして、すこぶる新意象なり。本郡は但馬牛の産地にして、村岡にその市を開き、終夜牛鳴の声たえず。よって一詠す。

  朝気欲晴猶未晴、満山紅葉助吟行、晩来雨歇客窓寂、隣舎牛鳴夜有声、

(朝のようすは晴れそうでなお晴れるにいたらず、全山の紅葉は吟詠の旅を助ける。昨夜からの雨もやんで旅館の窓べはわびしく、ただ、隣り合った建物の牛の声は夜をとおして聞こえていたのであった。)

 九日 晴れ。朝気〔華氏〕四十七度に下る。村岡に滞在して開演す。郡教育会の主催にして、会長は郡長、副会長は郡視学、理事は池田久太、沢田金太郎両氏なり。会場および宿所は前日に同じ。

 十一月十日(日曜) たちまち晴れ、たちまち雨。北国冬時の天候を実現す。村岡を発して渓間に入る。紅葉緑水の間に赤ケットをかぶりて緩歩する旅人を見るところ、美術的の観あり。関西にては但馬の赤ケットと称し、その名物の一に数えり。けだし但州の農夫は旅行に多く赤ケットを用うる故ならん。これより有名なる春木嶺にかかる。山麓より車を降り、徒歩して登る。冬時、積雪電柱を埋め、行人、針金をまたぎて過ぐという。ときに紅葉乱飛、風に舞い空に躍るところ妙趣あり。嶺頭より小径に入り、落葉を踏み泥路をうがち、身まさに顛ぜんとすること数次に及ぶ。途中、急雨の霰を交えて降るに会し、午後一時、照来村〈現在兵庫県美方郡温泉町〉に着す。実に寒村なり。小学校新築いまだ落成せず、旧校舎にて開演す。信用組合長坂本尚義氏の主催にて、校長細見兵吉氏これを助くるもののごとし。行程五里、やや疲労を覚ゆ。演説後、灯を点じて行くこと里許、温泉村字湯村富屋に至りて入宿す。一夜、天然の温泉に浴し、旅労おのずから平癒す。この日の途上吟、左のごとし。

  但陽無路不崔嵬、跋嶺渉渓望未開、紅葉紛々秋已老、寒風時巻雪花来、

(但馬の南の道は石や岩のごろごろしている険しい山道であり、嶺をふみ谷をわたるもなお視界が開けず、紅葉はしきりと落ちて秋はすでにふけ、寒風はときには雪を巻きあげて吹くのであった。)

 十一日 快晴。一天雲なし。朝気〔華氏〕四十八度。渓流に沿いて下ること二里、浜坂町〈現在兵庫県美方郡浜坂町〉に達す。会場は町役場楼上にして、郡教育会の主催なり。役場は西洋館にして、その壮大なるは人目を引く。宿所は鯛屋なり。谷垣邦義氏は鳥取県岩美郡より来訪あり。晩食に当地の蕎麦を喫す。これ名物の中に加えてよろし。町家の赤瓦の屋根にトッテようのもののつきおるは、また名物の一なり。これ冬時、雪の屋上より崩下するを防ぐためならん。

 十二日 晴れ。森山氏再び潮田氏に代わりて随行す。車をめぐらして湯村温泉〔温泉村〈現在兵庫県美方郡温泉町〉〕に帰り、午後、小学児童に対して談話をなし、その木工部の実習を一覧す。小学校に木工部を置くは、温泉場としては適切の設置なり。つぎに、正福寺において開演す。区長岡田実蔵氏、校長深田慶治氏の発起に出ず。本村の温泉は温度沸騰点以上にして、多量に冷水を混和せざれば入浴するを得ず。その泉源の所には村民集まりて種々の野菜を温泉に浸して煮るを見るも、また奇観なり。紀州熊野湯之峰の温泉に似たり。また、その地形の両山の間に挟まれ、渓流に浜して浴舎の並列せるは因州岩見温泉場に似たり。ただし客室および浴槽の設備いまだ完備せざるために、上等客の入浴のすくなきを遺憾とす。雑吟二首あり。

  一渓流水両崖家、山繞四隣篭翠霞、不啻風光明且美、熱泉沸処煑芋茄、

(谷川の流れの両岸の崖の上に家が見え、山々がとりかこむようにめぐって、みどりのかすみたつところをとじこめている。風光は明るくかつ美しいのみならず、熱い泉のわきたつところに芋やなすをゆでるのである。)

  熱泉湧処白煙生、浴後移歩先訪黌、堪喜学童能習業、読書声裏木工声、

(熱湯のふき出すところに白く湯気が生まれ、温泉を浴びた後に歩いて学校を訪ねた。喜ぶべきことに学童は実業を学習し、読書の声のなかに木工の音がするのである。)

 宿所富屋の長女は、その肥大横綱を圧す。体重二十八貫目ありという。

 十三日 晴れ。早朝、湯村を発し、浜坂駅より山陰線に駕し、美方郡を去りて城崎郡に移る。但馬は兵庫県中の北海道をもって目せられ、美方郡は但馬中の北海道と称せられ、従来交通極めて不便なりしも、近時鉄道の恵沢に浴し、一隅に汽車の出入するあり。しかれども今なお郡役所所在地たる村岡は、いずれの方面に向かいても鉄道まで七里を隔つる不便を有す。郡内いたるところ渓山のみにて、平地と称すべき地なく、その生計に資すべきは牧牛と養蚕と出稼ぎなり。冬時は農事の終わるを待ち、他国へ争って出稼ぎをなす風あり。男子一人につき五十円ないし百円を得て帰るという。八木郡視学は城崎郡内まで送行せられたり。

 浜坂より城崎に入る間の鉄路は、隧道の多きと鉄橋の壮なるをもってその名高し。なかんずく余部鉄橋は全国無比と称す。また、この間の巒影波光は対画の観あり。午時、城崎郡香住村〈現在兵庫県城崎郡香住町〉香涛軒(通称山城屋)に入りて休泊す。午後、公園岡見亭を訪う。脚下に激浪の巨巌を洗い去るところ、勇壮快活を覚ゆ。ときにこの亭にありて岩と松と帆と島と雲と波と雪と月との八景をみるによろしというを聞き、狂歌一首を浮かぶ。

  岩と松雲波雪月帆や島を、ながむる時ぞ岡見八目、

 また、一絶を得たり。

  欲向北溟放大観、須遊香住尽頭巒、仙巌鯨浪足娯目、況有松風洗俗肝、

(北の果てに向かおうとし大いなる眺めをほしいままにす。まさに香住尽頭山に遊ぼうとした。姿すぐれた岩や大なみは目をたのしませるには十分であり、ましてや松に吹く風には世俗に汚れた肝を洗うものがある。)

 更に新館別軒を建設する挙あるを聞き、もとめに応じてあらかじめ大観楼、瞰瀾亭の命名をなす。これより道を転じて大乗寺を訪う。すなわち世にいわゆる応挙寺なり。昔、〔円山〕応挙が京都円山にありしとき、生計に困せしに、この寺の住職、数百金を投じてこれを助けたり。後に応挙、業成り名あがりし後、この寺にきたりて報恩のために筆をふるい、墨痕をして山内にあまねからしめたり。今日、その画の国宝に編入せらるるもの多し。山門および堂宇の建築も古色を帯びて荘厳なり。余、ときに一作をとどむ。

  路過香住入山門、古殿墨痕今尚存、応挙当年遊此寺、壁間留得報恩心、

(道は香住をよぎりて山門に入れば、古色をおびた客殿に応挙の墨痕はいまもなお存在する。応挙は当時この寺に遊び、壁に恩返しの意をこめてえがいたのである。)

 かかる名刹なれば、山内火之用心肝要なり。寺は真言宗古義派に属す。一方に天然の美あり(岡見公園)、他方に人造の美あり(大乗寺)。いやしくも風流美術に趣味を有するもの、必ずひとたびここに遊覧すべし。帰路、幽霊山通玄寺と号する禅寺あり。幽霊の縁起を有すと聞きしも立ち寄らず。夜に入りて降雨あり。小学校にて開演す。発起者は村長山田五郎兵衛、助役西村章治、校長山田喜代松、実業家伊藤源右ヱ門諸氏なり。山田校長は模範的教育家なりという。郡視学前田秀太郎氏もここにきたりて迎えらる。香住村は鉄道開通前までは、いずれの方面より出入するも坂路多く、小学児童のごときは人力車を見たることなかりき。一度車を担ぎてここにきたりしものあれば、児童は車は人を載するにあらずして、背上に負うものなりと解せりとの奇談あり。旧郡名は美含郡といい、香住は霞とも書きしことありという。いずれも美的名称なり。

 十四日 晴れ。午前、城崎町を一過して、山陰唯一の奇勝たる玄武洞を遊覧す。駅を下りて、円山川(雅名蓼川)を渡れば、岸頭の山骨すべて玄武岩より成る。その形は五角または六角の石柱なり。越後中魚沼郡七ツ釜と天然の構造を同じくするも、またおのずから趣を異にするところあり。七ツ釜は狭小なる激流の両岸に玄武岩を見るのみ。もし英国アイルランド北浜の巨人庭に比すれば、玄武洞なお小規模なるを覚ゆ。実に巨人庭は世界一の名に背かずというべし。余は幸いにこの三奇勝ともに遊覧するを得たり。もし仮にこの三者を対照すれば、巨人庭は親のごとく、玄武洞は男児のごとく、七ツ釜は女子のごとし。洞前に公園開設の準備中なり。余、一絶をとどめて去る。

  但山深処一渓通、天柱築成玄武宮、造化由来有奇癖、無人之境弄神工、

(但馬の山の奥深いところに谷があり、天を支える柱をもって玄武岩の宮殿をつくりあげている。自然というものはもとより変わった癖があり、人のいないところに神秘な作品をつくったのである。)

 更に城崎〔町〕〈現在兵庫県城崎郡城崎町〉に引き返し、三木屋別館に入る。当地には壮大の旅館すこぶる多きも、三木屋、油洞屋をもってその冠たるものとす。別館は瑶池館と称す。豪産家の別邸の風致あり。館主のもとめに応じて拙作をとどむ。

  瑤池館上四時春、万客如雲来往頻、身浴霊泉心亦暖、食霞吸気養天真、

(別館の瑤池館のあたりは四季を通じて春のごとく、万客は雲のごとく来往することしきりである。身は霊妙な温泉を浴びて、心もまたあたたかに、かすみや気をとりこんで自然そのものを心中に養うのであった。)

 会場は小学校なり。その建築は町内を装飾する一大美観となる。しかして長さ十二間、幅六間の講堂を有す。すべて清美ならざるはなし。開会主催は教育会なるも、その代表は町長片岡平八郎氏、助役安田貞吉氏、同松村静雄氏、校長伊丹武司氏なり。市街は前後に山脈を負い、中間に清流を帯び、両岸に数層の浴楼軒を並べ、水上に数条の橋梁虹を形づくるあり。その外観内容ともに、山陰第一の温泉場たるの名に背かず。

  畵屋仙橋映水明、神泉湧処紫煙横、万人養病来相浴、不背山陰第一名、

(画のような家と仙人の住む里にかけられるような橋は水流に映えて、神秘な温泉の湧くところに紫がかった色の煙が横ざまにただよう。多くの人々は療養のためにおとずれて沐浴し、まさに山陰第一の温泉地たる名にそむかない。)

 なかんずく浴槽の設備は改築まさに成り、その美を尽くしたる点は、天然温泉場として日本全国第一というも決して過称にあらず。ただし浴場が有馬や道後のごとく客舎の外にありて、一の内湯なきは不便を感ずるところなり。片岡町長は瑶池館主人を兼ね、安田助役は俳句にくわしと聞く。この日、郡長小林正義氏は特に豊岡町より来会せられ、新聞記者安田篤氏も来訪あり。小林郡長と対酌するに、氏は大杯を好み、余は小杯を愛し、おのおの一癖あるはおかし。夜に入りて凍雨雪となり、霰声枕頭を襲いきたる。

 十五日 雨。午前は雨雪ともに下る。本年中の初雪なり。四山みな白し。汽車にて江原駅に降り、更に行くこと里許、国府村〈現在兵庫県城崎郡日高町、豊岡市〉に至る。この辺りは但馬第一の平原なりというも、四面みな山なり。宿所は国眼一郎氏の宅、会場は善応寺にして、発起兼尽力者は村教育会長赤木八左ヱ門氏、連合青年会長長谷川善吉氏なりとす。夜に入りて開会。演説後、更に懇話会あり。

 十六日 晴れ。朝、国府を発して日高に向かう。車上近く紅葉をみ、遠く山雪を望むも、また一興なり。

  秋雨晩来寒更加、夜窓温酒臥仙家、暁晴国府村南路、紅葉林間認雪花、

(秋の雨が昨夜から降りつづいて寒さはさらに加わった。夜の窓辺に酒をあたためて仙人の住むようなみやびな家で寝たのであった。暁には晴れて国府村の南の道を行けば、紅葉の林間からは山雪も見られたのである。)

 日高村〈現在兵庫県城崎郡日高町〉会場小学校は新築ようやく成りて、校舎すこぶる清新なり。その名を啓成小学校という。助役上坂豊治氏、収入役小谷与之助氏、教員森川直治氏および書記木下梅太郎、赤木哲造、三木醇三諸氏、みな尽力あり。宿所は江原駅野村屋旅館なり。前日、千家男爵の講演会ありしと聞く。

 十一月十七日(日曜) 開晴。江原駅より乗車、城崎郡を去りて再び養父郡に入る。前田郡視学は各所案内の労をとられ、ここに至りて手を分かつ。哲学館大学出身朝倉晃応氏もここに送行せらる。車窓吟一首あり。

  暁卜新晴発客亭、銕車傍澗入山屏、万林霜葉千峰雪、紅白映天々愈青、

(暁に新たに晴れるであろうとさだめて旅館を出発し、汽車は谷川にそって山の屏のごとくたつあいだを行く。林はすべて霜をこうむった葉にいろどられ、峰々は雪に染められ、紅葉と白雪は天にはえるように、天はいよいよ青いのであった。)

 郡衙所在地たる八鹿村〈現在兵庫県養父郡八鹿町〉にて開演す。郡教育会の主催にして、副会長西村重三郎氏、郡視学早川政治氏、小学校長拓植鋭次郎氏、有志家岸田久一氏、諸事を斡旋せらる。会場共楽館は村岡町のごとく、公会堂兼劇場式の建築なり。当夕、諏訪屋旅館に宿す。当村には県立蚕業学校あり。

 十八日 晴れ。未明に起き、暗をおかして宿舎を発し、六時、八鹿駅にて鉄車に駕す。霜気稜々たり。教育会代表者の和田山駅まで送行せらるるあり。これより生野、姫路を経て神戸に向かう。車中、また一詩を浮かぶ。

  暁破暁風去但州、路過生野試回頭、鬼山不見天橋遠、纔認残楓寄客愁、

(朝早く暁の風を打ち破るようにして但馬の国を去り、道は生野の地をへて、こころみにふり返って見れば、鬼の住むようなけわしい山も見えず、天にかかるような高い橋も遠くなり、わずかに名残りの楓の葉をみて旅の思いをはせたのであった。)

 但馬は三丹中の山国にして、山と谷との外に平地なきありさまなり。その谷々の間に村落あり人家あり。よって狂作を試む。

  但馬地は千々の谷間に人ぞすむ、谷間の国と我は名けん、

 生野は但馬の中に加わるも、その町民は自ら但馬人といわず、生野人といい、但馬の内部に入るを但馬に行くという由。甲州郡内の人が自ら郡内と称して、甲州と呼ばざるに同じ。生野を過ぎて播州に入れば、気候とみに暖を加う。正午十二時、神戸〈現在兵庫県神戸市〉三之宮駅に着し、岡田英定氏、潮田玄丞氏とともに駅外に少憩して午餐を喫し、午後三時、高等商業学校に至りて講話をなし、学生集会所に一休して再び乗車し、翌十九日朝九時、帰京す。

 

     兵庫県五郡開会一覧

   郡    町村    会場     席数   聴衆     主催

  武庫郡  御影町   小学校     二席  四百人    教育義会

  同    同     裁縫女学校   一席  二百五十人  同校

  同    須磨町   小学校     二席  三百人    町教育会

  同    今津村   小学校     二席  二百人    村内有志

  同    精道村   小学校     二席  二百五十人  村教育会

  同    都賀浜村  寺院      二席  二百人    両村学校

  同    同     同       二席  百人     仏教有志

  朝来郡  生野町   小学校     二席  四百人    町長

  養父郡  八鹿村   会館      二席  三百五十人  郡教育会

  同    広谷村   小学校     二席  四百人    校長

  美方郡  村岡町   会館      二席  三百五十人  郡教育会

  同    同     同       二席  三百五十人  町役場

  同    浜坂町   町役場     二席  三百人    郡教育会

  同    照来村   小学校     二席  二百五十人  信用組合

  同    温泉村   小学校     一席  三百五十人  校長

  同    同     寺院      二席  三百五十人  村内有志

  城崎郡  城崎町   小学校     二席  三百五十人  町教育会

  同    香住村   小学校     二席  七百人    村および青年会

  同    国府村   寺院      二席  五百人    村教育会および青年会

  同    日高村   小学校     二席  六百人    村教育会および青年会

  神戸市        高等商業学校  一席  五百人    校友会

   合計 一市、五郡、十六町村(六町、十村)、二十一カ所、三十九席、聴衆七千四百五十人、日数十八日間(東京往復の日は除く)

    演題類別

     詔勅および修身に関するもの     十四席

     妖怪および迷信に関するもの     十一席

     哲学および宗教に関するもの      三席

     教育に関するもの           三席

     実業に関するもの           五席

     雑題(旅行)等に関するもの      三席

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福島県東部巡講日誌

 大正元年十一月二十二日 雨。朝、上野を発し、午後三時、福島県郡山駅に着し、随行永井快胤氏とここにて相会し、ともに鉄道馬車に駕し、三里の間を走るに馬足遅々、田村郡三春町〈現在福島県田村郡三春町〉に着せるは夜六時半なり。雨はげしく泥深くして、馬脚疲れたるによる。同町は一昨秋の開会地にして、今回は再遊なり。旧知に迎えられて天沢寺に至る。寺は丘上にありて人家と隔離す。堂広く室寒し。住職は岩城天秀氏なり。少憩ののち小学校に転じ、実業会のために講話をなす。会長高橋友治、副会長斎藤徳明両氏その主催となる。郡長更科熊彦氏、町長佐久間昌熾氏も出席せらる。

 〔二十〕三日(新嘗祭) 雨。早朝、天沢寺を出でて行くこと五、六丁、芹ケ沢公園休亭に至りて当地の名物の鳥飯を喫す。その公園は、三春の有志家橋本柳平氏の私産を割きて開設せられたるものなりという。山あり、谷あり、水あり、樹あり、青松ことに多し。規模すこぶる大なり。これに加うるに、遠近の風光また佳なり。実に天然的公園の趣あり。壁上に拙作をとどむ。

  欲使窮民浴聖恩、割来私産設公園、君家余徳同松樹、千載不摧伝後昆、

(貧窮の民を聖上の恩徳に浴さしめんとして、私財を割いて公園を設けたという。こうした行いをなした君の家の後世に及ぶ恩徳は、松樹の幾世も繁茂するように、千年もくだかれず子孫に伝えられるであろう。)

 この日、凄雨斜風をおかし、片曾根村〈現在福島県田村郡船引町〉大字船引に向かう。丘山起伏、駅路高低、二人引きにてようやく進む。穫稲すでに過ぎ、落葉また尽き、枯木空林蕭々たり。午後、小学校にて開会す。村長安瀬熊十氏、校長岡山又四郎氏、その他数氏発起となり、東光寺、般若寺これを助く。当夕、御代田旅館に宿す。この地、不日鉄路の開通ありとて、人気大いに振るう。

 十一月二十四日(日曜) 晴れ。早朝、旧館内員福島正氏とともに、腕車を連ねて美山村〈現在福島県田村郡船引町〉鹿又に向かう。泥深くして車動かざる所あり。午前十時、照光寺に着してただちに開演す。主催は会長斎藤市治氏なり。途上吟一首を得。山容の人目を引くものあり、その名を美山という。村名これより起こる。毎年五月の気節、杜鵑花乱れ開き、満山染むるがごとしという。また、この界涯牧場多し。故にこれを詩中に入るる。

  昨雨漸収晴色佳、美山猶被暁雲埋、高低泥路車難進、牧馬場頭人洗鞋、

(昨日からの雨もようやくあがり晴れる気色もよい。しかし美山はなお暁雲に埋もれている。高低ある泥濘の道は車も進みがたく、牧馬場のあたりで人がくつを洗っている。)

 午餐後たちまち車を飛ばして、常葉町〈現在福島県田村郡常葉町〉小学校に至り開演す。町長吉田忠蔵氏、校長箭内辰次氏等の発起なり。校庭背面の丘上に遊園を開くというを聞き、銘を録す。

  風光清朗、与衆登臨、四時朝暮、散欝洗襟、

(風光も清らかにくもりなく、衆とともに高きに登って眺む。四季の朝暮は、うれいを去り心を洗う。)

 宿所は安瀬旅館なり。この町は郡内牧馬の中心に当たる、いわゆる三春馬の産地なり。夜に入りて寒月霜気を帯びて皎々たり。

 二十五日 快晴。早暁、一路山をめぐりて渓に入る。「落木千山天遠大」(葉の落ちた木々と山々、天はいよいよ遠大。)の趣あり。鎌倉山の石骨を露出して卓立せるところ、吟情おのずから動く。

  霜風一路烈如刀、石骨懸空鎌岳高、落木蕭々岩井沢、寒渓隔水聴松涛、

(霜のおりた風が路上に吹いてそのはげしさは刀刃をあてられるように、石骨が空にかかるように鎌倉山が高くそびえている。冬枯れの木がものさびしい岩井沢、さむざむとした谷に水をへだてて松風の音をきくのであった。)

 午前十時、都路村〈現在福島県田村郡都路村〉大字岩井沢に入る。渓底石間に清水の噴出せる所あり、これを岩清水という。村名これより起こる。その傍らに碑を建てんとて、碑文のもとめあり。これに応じて由来を記す。

鎌倉山東有一村落、名岩井沢、渓底石間清泉湧出、其冷甚於氷、雖大旱時未曾涸、実神泉也、名之為岩清水、蓋村名従是起云、余遊此地、応村民之需記其由来、

(鎌倉山の東に一村落がある、名は岩井沢。谷底の石間より清泉が湧き出て、その冷たきことは氷よりもはなはだしい。この泉は大旱のときでも、かつてかれたことはない。まことに神泉である。これに名付けて岩清水という。思うに村名はこれによって起こったのであるという。余はこの地に遊び、村民のもとめに応じてその由来を記したのである。)

 いたるところ牧場多し。長岩寺において開演す。住職岩沢竜岳氏の主催にして、総代渡辺吉太郎氏ほか両氏これを助く。同行福島氏は昨年転任して、目下この字の小学校長となる。午後、大字古道小学校に移りて開会す。校舎清新なり。都路村役場はこの字にあり。夜に入りて寒気加わり、霜月清輝を放つ。発起者は村長渡辺升治氏、助役吉田右左司氏、古道校長渡辺誠彰氏、警察員荒川城吉氏等なり。荒川氏は余と県地を同じくす。このとき、渡辺校長は紀念品として奇形の火鉢を贈らる。

 二十六日 晴れ。朝気〔華氏〕四十二度に下り、潦水ことごとく氷を結ぶ。霜風を破りて悪道を行くこと二里、ようやく嶺頭に達す。旧三春領と相馬領との分界なり。茶店一戸あり、天然木を収蔵す。茶器一個を購う。泥路凍りてとけず。更に下ること二里にして、双葉郡大野村〈現在福島県双葉郡大熊町〉野上温泉に着す。途中、象が鼻の奇勝あり、岩形の象鼻に似たるもの渓頭に突出す。人その下を過ぎて行く。前後、紅於の花をとどむるあり。田村郡には紅葉全く落ちたるに、ここになお残楓を見るは、山脈の向背によりて寒暖を異にせるを知るべし。

  嶺頭茶店客過無、只有渓泉随処呼、象鼻巌辺紅点々、残楓何意笑迎吾、

(嶺の上の茶店に客の寄ることもなく、ただ谷に温泉が随所にありという。象の鼻岩のあたり、かえでの葉の紅が点在し、残りの楓がいかなる意か笑うように私を迎えるのである。)

 温泉はその実冷泉にして、旧時盛りなりしも、今大いに衰え、客舎寂寥たり。キリキズ、皮膚病に特効ありという。福島氏は田村郡役所の嘱託により、余を送りてここに至る。京北出身鈴木弘恵氏きたりて余を迎う。一浴の後、馬背にまたがり歩すること里余、大野村小学校に至りて開会す。所在、牧場多し。いわゆる相馬馬の産地なり。村長渡辺則綱氏、吏員半太政吉氏の発起にかかる。郡視学石田弼常氏ここにきたりて迎えらる。宿所は堀川林之助氏の宅なり。

 二十七日 晴れ。大野駅より鉄路に駕して、郡衙所在地たる富岡町〈現在福島県双葉郡富岡町〉に至り、小学校にて開会す。町長渡辺詮助氏、校長斎藤喜四郎氏の発起にかかる。渡辺町長は県下奇傑の一人なりという。郡長目黒俊彦氏も出席せらる。目黒郡長は酒と茶とをのまず、生来いまだ茶の味を知らずというもまた奇なり。当夕、猪狩旅館に宿す。

 二十八日 晴れ。暁寒強く、厳霜地に敷く。汽車にて長塚駅に降り、新山村〈現在福島県双葉郡双葉町〉小学校に至り、旧校舎において午後開会す。主催は村長天野庸隆氏なり。この日、車窓吟一首あり。

  鉄車破暁度林巒、碧浪青松窓底看、霜気稜々双葉路、山風吹送客衣寒、

(汽車は暁をついて林と山の間を行く。青々とした波と青松を車窓にみて、霜気のきびしい双葉の道に、山からの寒風吹きすさび、旅人の衣はいよいよ寒い。)

 二十九日 晴れ。朝来北風寒を送りきたり、晴天に雪片を散ずるを見る。浪江町〈現在福島県双葉郡浪江町〉に移りて開会す。会場は浪江座にして、主催は町長大場永春氏なり。校長門馬豊八氏、常福寺住職広畑法信氏、正西寺住職小丸善竜氏等これを助く。小丸氏は旧哲学館出身なり。当地には相馬焼の陶器を産出す。その産額は相馬中村よりも多しという。また海産物に富む。宿所は百足屋なり。

 三十日 晴れ。朝気〔華氏〕三十六度、瓶水氷を結ぶ。双葉郡を去りて相馬郡に入る。両郡の田家は稲をかりてなおこれを田間にさらし、いまだ屋内に入れず。また、いまだ刈り取らざるもあり。この方面は降雪遅くして、かつ少なきためなりという。土地余りありて人民不足なれば、いまだ開墾せざる原野あり。また、農家一戸の耕作地、平均二丁歩に当たるという。これを関西地方に比するに大いなる相違あり。今朝の汽車および停車場の非常に混雑せるは、軍人入営を送るためなり。故に中村町〈現在福島県相馬市〉に三十分延着す。中学校長桜井賢三氏、郡視学太田宗雄氏、光善寺住職松山善教氏、ほか数氏に迎えられて、旅館新開楼に入る。この日、北風はげしく吹く。午後は教育者団体代表者田村忠顕氏(第一小学校長)、竹村福弘氏(第二校長)等の発起により、実科高等女学校内において開会し、夜分は仏教慈善会長田中白弁氏等の主催により、中村座において開会す。

 十二月一日(日曜) 晴れ。早朝、旧城跡を登覧す。今なお旧形を存す。藩士も土着して実業に就き、他藩のごとく散失せずという。県社中村神社、および相馬神社をも一拝し、更に歩を移すこと五、六丁にして、二宮尊徳翁の墓所に詣す。宇多川上、風光明媚なる高丘の尽頭にあり、墓石に誠明先生墓と刻せり。けだし日光、今市より分骨せしものならん。慈隆和尚の墓と隣接す。これより石階を下ること数段にして小庵あり、その中に翁の木像を安置す。更にくだりたる所に、その嫡孫たる二宮尊親氏の宅あり。氏は先人の遺訓を守りて、報徳主義を実現せらる。ときに所感一首を賦す。

  馬陵城与草邱連、尽処松林是墓田、清矣宇多川上月、自教後進憶前賢、

(馬陵城と草丘とが連なり、その尽きる所の松林こそ墓所である。清いかな、宇多川を照らす月。みずから後進を教導するようになって、徳すぐれた往昔の賢人をおもうのである。)

 馬陵城とは相馬城の雅名なり。二宮氏余に贈るに、先人の遺書『仏説真楽経』の写本をもってす。これを一読して、また所感を賦す。

  冥府天堂在眼前、誰言三世隔坤乾、欲知此理君須読、尊徳先生真楽篇、

(冥土と極楽は目の前にあるもので、だれがいったい三世乾坤を隔つなどといったのであろうか。このことわりを知ろうとするならば、尊徳先生の真楽篇を読むべきである。)

 これより笻をめぐらして高等女学校に至り、報徳婦人会のために講話をなす。その発起は泉田タカ子、加藤トク子なり。午後、相馬中学校に至り、一般公衆のために演述す。これ、郡長石部豊氏、町長泉田胤信氏等の発意に出ず。宿所は前夕のごとく新開楼なり。この楼は奥羽にて有名なる旅館にして、俗歌中にもその名を歌い込みおれり。世にいわゆる相馬ブシと名付くる歌曲の中に、

  相馬中村の新開楼が焼ける、寝てゝ金取るそのばちだ、

の一節あり。昔時は貸し座敷なりしと聞く。今日にありては建築の美、大いなるためにあらずして、むしろその歌のために名高きなり。また、相馬の風景として世に知らるるものは、松川浦を第一とす。従来、小松島の称あり。余の中村にあるや、その距離わずかに一里半に過ぎざるも、余暇なきをもって遊覧するを得ず。ただ絵葉書を見て、その一斑を模写したる一作あり。

  水茎山角好凝眸、十二風光眼下浮、波上青巒如対畵、由来呼作小松洲、

(水茎山の一角は絶景を見るによく、風光十二景を眼下に見渡せる。波上の青い山々は画を見るがごとく、由来ここを小松島という。)

 水茎山は内湾外海の間に突起せる岬角にして、十二景を一瞰するを得という。

 二日 晴れ。午前、桜井校長の依頼に応じ、中学校にて生徒のために修養上の講話をなす。その教員中に京北出身木宮振作氏の加わりおるを知る。帰路、実科高等女学校へも立ち寄りて談話をなす。今村敬明氏その校長たり。東洋大学出身久松林之助氏ここに教鞭をとる。これより旅装を装い、鹿島町〈現在福島県相馬郡鹿島町〉に向かいて出発す。午後、同町勝縁寺にて開会。町長佐藤正信氏、および三カ村長の連合発起にかかる。宿所は中村屋なり。その町はもとより一小駅なるも、文明の恵沢に浴し、電灯、電話の設備あり。

 三日 晴れ。原町〈現在福島県原町市〉に移り、大谷派本願寺別院に宿泊す。輪番羽田広円氏は旧知たり。本堂、屋根、改造中なり。午前、婦人会の依頼に応じ、新禅寺において講話をなす。偶然、哲学館出身渡辺宗全氏に会す。氏は居を東京に定むるも、この寺の住職名義を有すという。午後、別院において、本郡および本町の主催にかかる講話会に出演す。発起者は松本良七氏、遠藤周輔氏、佐藤徳助氏等なり。当地方は維新前未開の原野にして、野馬多く住せしをもって、毎年馬追い祭りをなす旧例あり。今なおこれを行う。これ相馬名物の第一なり。そのときは壮士武装して馬を追う。すこぶる勇壮の観ありという。余、その話を聞きて一詠す。

  蹈尽奥東知幾程、城西十里草原平、年々七月営神事、演武人追野馬行、

(奥東を行き尽くしてどれほどの広さであるかを知った。町の西十里ほどに平らかな草原があり、毎年七月には神事が行われる。武装した人が野馬を追って行く勇壮なる行事なのである。)

 その区域は幅一里、長さ三里の原頭なり。同町は近年大いに発展し、中村をしのぐの勢いあり。

 四日 穏晴。朝気〔華氏〕三十五度、瓶水みな凍る。汽車にて太田村〈現在福島県原町市〉に移りて開会す。会場は学校庭内にして、野天演説をなす。風なきは僥倖なり。藤田直助氏、手来直太郎氏、坂地孚光氏等の発起にかかる。当村は米産地なり。その夜、島原旅館に宿す。

 五日 快晴。暁窓一望、霜白くして雪のごとし。農家、稲を田頭にさらして、家に入れんとする最中なり。この日、小高町の都合により、予定日割りを変更して、双葉郡木戸村〈現在福島県双葉郡楢葉町〉に至りて開会す。この辺り海岸一帯、南北数十里の間、平坦にして水田多し、かつ耕地整理行われて田区井然たり。午後、木戸小学校にて開会す。有志および青年の歓迎あり。校舎一半すでに成りて、一半いまだ成らず。主催は村長阿部康信氏なり。哲学館出身島賢亮氏この村に住す。川内村より矢内賢光氏、浪江町より広畑法信氏来訪あり。今日の車窓吟、左のごとし。

  客裏匇々歳月過、寒来奈我薄衣何、暁窓一望霜如雪、田婦見晴晒晩禾、

(旅のうちにあわただしく歳月はすぎ、冬の寒さに襲われてわが薄衣をどうしようかと思う。暁の車窓から一望すれば霜が白々として雪のように輝き、農婦の天日にさらしたおくての稲をとり込んでいる姿が見える。)

 宿所は橘屋なり。その室内に掲示せる宿泊料を見るに、一等五十銭、二等四十銭、三等三十銭なり。もって相馬地方の生活の程度いかんを推測するに足る。夜に入り涛声枕上に響く。

 六日 晴れ。再び逆行して相馬郡小高町〈現在福島県相馬郡小高町〉に至る。本日は米穀品評会の初日にして、種々の展覧会を付設し、煙火あり見せものあり、旗を掲げ灯を垂れ、弓門を作りて大祭典のごとし。したがって近村近郷より老弱男女雲集す。会場は小学校なり。郡長石部豊氏、郡視学太田宗雄氏ともに来会せられ、太田氏もっぱら斡旋せらる。しかして発起者は町長大隅進一氏、校長田中等氏、宗教家田中月潭氏、白江慶順氏、その他村長、校長、僧侶数氏なり。演説後、妙見社に拝詣す。社殿新築すでに成る。毎年、遠近より参拝するもの多しという。小高町は機業盛んにして、工場の大なるものあり。市中の土蔵の屋根に草ぶき多きは、質素の一端を見るに足る。宿所は小松旅館なり。

 七日 穏晴。相馬郡を去り、重ねて双葉郡に入る。この間、数日間に汽車往復四回に及ぶ。午後、久之浜町〈現在福島県いわき市〉にて開会す。町長村岡極太氏の主催なり。当町は郡内第一の漁場にして、漁家多し。校長は標葉長治氏なり。郡視学石田氏は郡内各所案内の労をとりてここに至られたり。宿所は高木屋にして、軒窓海に向きて開き、波光涛声ともに楼に入る。夏時は海水浴客の入りきたるありという。

 左に相馬、双葉両郡を合して、異風殊俗の見聞に触れたる点を挙示するに、相馬の名物たる野馬追い、松川浦は前すでに掲げたり。両郡ともに概して質素の風あり。民間中等以上の家にて、お客に出だす茶菓子は白砂糖を常とす。中以下は赤砂糖もしくは香の物なりという。田村郡もまたしかり。また、いかなる貧民といえども、麦稗を食せずして、米一色を用う。客のきたりしときには、新たに米飯を炊きて出だすを御馳走とす。農家は自ら作り取りたる米のうち、品質の最も好良なるものを自家用として蓄え、その他を売り出だすという。また、北国のごとく板ぶき屋根に石を載せたるもの多し。これ相馬の名物と称するも、聞くところによるに、この地方は天明の大飢饉に餓死せしもの多かりしために、北国より農民を移住せしめたりという。そのとき、北国風を伝えしならん。風俗中に越後と同一なるものを見受くるも、その故ならん。美濃柿を一般に富山柿と名付く。越中人その種子を持ちきたりし故ならんか。従来の市街地には道路の中央に小流あるを常とす。山間の市街に同じ。ただし新市街地にはこれを設けず。停車場に人力車なき所多し、道路に砂利を入れざる所多し、原野の耕作せざる所多し。また、冬時に晴天多くして、夏時に雨天多しという。言葉の語尾にダンベーを添うるは東京近県に同じ。田村郡より相馬へかけて、戸主が隠居するときには、必ず隠宅を設けて別居するを常とす。その風は伊豆七島にあり。田村郡にては隠居の重なりたる場合には、古き方を閑居といいて隠居と区別すという。この風は嫁と姑との間の衝突を防ぐに便なりとす。また田村郡より相馬へかけ、食事のときに菊花のヒタシモノを用い、食膳にて茶を用いずして、白湯をのむがごときは越後に同じ。

方言につきてはいちいち列挙しがたきも、その二、三を示さば、牛をベーコ、犬をエッコ、人形をデクロコなどなり。名詞にコを付くるは南部地方に同じ。兄をオヤカタ、赤児をオトまたはヤヤ、どもりをポッポ、癩病をトノサマという。会津にては癩病を大名という。その意は、われらはこれとともに結婚することができぬの意にて、敬遠の意味なる由なり。葬式をジャジャンボ、墓場をランバという。その中には相馬、双葉両郡一般に通ぜざるものと、福島県全体に通ずるものとあり。また、あまり下卑たる話なれども、両郡の山間僻地における糞紙のいかんをたずねたるに、紙の代わりにあるいは藁、あるいは木の葉等、なかんずく竹片を用うるもの最も多しという。要するに風俗は質素にして、人情は淳朴、かつ真面目の方なり。演説中に滑稽を交えても、聴衆中に笑うもの少なきを見て知るべし。

 十二月八日(日曜) 晴れ。海浜を緩歩すること里許、波立寺に登詣す。寺は郡内第一の古刹にして、大同二年、徳一上人の開基なりという。筑波山と開祖を同じくす。その古色愛すべきも、頽廃の姿なり。堂内に薬師を安置す。今は臨済宗の所轄たり。西行の歌に「東路の木ぬみが浜に一夜ねて、明日や拝まん波立の寺」とあるを見て、その当時いかに名高きかを想すべし。台上にありて一望すれば、くまなき太平洋の蒼波を眼中に浮かべ、壮快きわまりなし。また、崖下に小嶼あり、深潭あり、これを鰐ケ淵という。当山に七奇と称するものあり。すなわち藜柱、霊泉、常夏胡味、黒古、三叉竹、竜灯、五月蓼穂なり。余、即吟一首あり。

  洗眼鰐淵巌上風、水天一碧望無窮、松洲雖美何能及、波立寺前気象雄、

(鰐ケ淵の巌上の風に眼を洗われる思いがする。水と空がみどりに溶け合って一望果てもなく、松島の美観も及ばないであろう。波立寺前景のおもむきは雄大である。)

 少憩の後、更に歩を続きて崖頭を攀ず。巨巌頭上にかかり、激浪脚下を洗う。その危険いうべからず。これを越後の親不知に比するよりも、四国のハネ石、飛石、ゴロゴロ石の険に比するを適当とす。この日、波高し。かくして双葉郡を去り、石城郡に入る。当日の会場は四倉町〈現在福島県いわき市〉小学校なり。開会は四倉町長猪狩文助氏、校長木幡次郎氏、署長大竹直衛氏、如来寺住職小松学俊氏等の発起にかかる。この地は海産物と海水浴とをもって名あり。夏期には一帯の海浜に数千人きたりて浴泳すという。旅舎海気館は眺望、設備ともによし。夜に入れば灯台(塩屋)はるかに照らし、漁火、楼に入る。

  潮風吹暑夏猶寒、海気楼頭好洗肝、日落灯台烟裏見、光和漁火照欄干、

(潮風が吹くと夏でもなお肌寒いが、海気館楼上からの眺めは心肝を洗う思いがする。日落ちて灯台のあかりがけぶるような闇に見え、その光と漁火とが欄干をほのかに照らしている。)

 これ、余が夏時を推想して賦したるものなり。晩来、石城名物のカラ風吹ききたり、その勢い車を飛ばし、肌を裂かんとす。市中、茅店多し、ただしセメント工場の壮大なるものあり。小松氏、余に請うに雅号を付せんことをもってす。その宗は弘法大師の末流をくむものなれば、法の字を割きて去水と命名す。随行永井氏よりも同様のもとめありたれば、永字を割きて二水と命名す。

 九日 晴れ。早発して、福島県海岸線第一の都会たる平町〈現在福島県いわき市〉に移る。歓迎者多し。町長伊坂員正氏、郡視学永山芳之助氏等の有志者とともに、車を連ねて一等旅館住吉屋に入る。午後、中学校および高等女学校に至りて講話をなす。ともに丘上にあり、しかも女学校は旧城址にあり、新築大半すでに成りて少半いまだならず。中学校長は西村岸太郎氏にして、女学校長は長岡恒喜氏なり。夜分、聚楽館において開演す。聴衆一千人以上の盛会を得たり。主催は仏教慈善会にして、会長真言宗旭純栄氏、副会長曹洞宗鮫島素雄氏(好間村竜雲寺)の発起にかかる。しかして幹事性源寺住職渡辺則成氏、最も尽力せらる。伊坂町長および軍人丹呉良吉氏またこれを助く。鮫島氏は哲学館出身たり、旭氏は平より三里隔たりたる閼伽井岳峰頂にある常福寺の住職なり。山上の妖怪は竜灯なるを聞き、他日探検に登山せんことを約す。石城名物のカラ風は、この山より吹き下ろすという。演説後、懇親会あり。当地の紳士ことごとく集まる。平町は炭坑の中心にして、近来の繁盛驚くに堪えたり。その勢い福岡県の炭坑地に次ぐ。したがって物価また高し。旅宿料一等二円、二等一円二十銭、三等八十銭なるを見て、相馬地方と多大の径庭あるを知る。唯一の欠点は井水の悪きなり。この地に飯田一二氏ありて一徳教会を設立す。

 十日 晴れ。夜来雪花を散らし、暁庭ために白し。午前、郡長中村直敬氏来訪ありて、郡会の円満を期するために、議事堂の門標を認めんことを嘱せらる。朝来揮毫に忙殺せられ、午時ようやく筆を納めて内郷村〈現在福島県いわき市〉に至る。午後、内郷座において開会す。青年会長菅波忠、校長関口③助、同佐々木雅俊、同斎藤伝蔵四氏の発起にして、いずれも尽力あり。旅館の名もまた内郷なり。本村は戸数約二千、県下第一の大村なる由。故に小学校も三校あり。本村産出の石炭はその量多額に上り、当地の停車場より運出する炭量は全国中第三位に位すという。

 十一日 晴れ。朝気〔華氏〕三十三度、水かたく凍り、冱寒のときのごとし。夜来のカラ風のためなり。午前中に湯本村〈現在福島県いわき市〉に移り、三函座において、午後と夜分と両度開演す。村長中村立躬氏、校長高槻忠致氏、会社員角地藤太郎氏、その他神職、農商等、諸有志の発起なり。宿所湯本ホテルは従来新滝と称し、今より十五、六年前、一度宿泊せしことあり。当地もまた採炭盛んにして、温泉の脈路を切断するに至り、噴泉の量を減ずるに及べり。しかれども、今なお浴客に給するだけの泉量に不足を見ず。

 十二日 穏晴。早暁、地上微雪の敷くを見る。馬鉄に駕して小名浜〔町〕〈現在福島県いわき市〉に至る。途上これをみるに、田頭に稲をさらすものなく、みなすでに家に納め、やや農閑に就きたるありさまなり。小名浜の地は漁業場にして、かつ海水浴場たり。また、製塩所あり。会場は小学校にして、発起は校長会田照次郎氏、助役鈴木栄氏、同窓副会長志賀義次氏、同幹事小野晋平氏、教員篠山廉氏等なり。会田校長は県下の模範校長にして、同校に二十五年勤続せりという。学校もまた模範学校の候補に加わると聞く。本年はこの地方サンマの大漁にして、一尾の価五厘なり。これに反して大根一本二銭を要す。故に野菜を食するよりも、魚類を食する方かえって廉なり。当夕、三階旅館新米屋に宿泊す。茶を煮るに文福茶釜の鉄瓶を用う。その形すこぶる妖怪なり。よって楼主にはかり、鉄瓶の交換を行う。将来、哲学堂の妖怪館に陳列する予定なり。

 十三日 穏晴。かつ暖かにして日中〔華氏〕五十五度に上る。朝来、馬鉄および汽車に乗じて勿来駅に下り、これより十余丁を歩して、勿来関の旧址を訪う。山腹の眺望絶佳なり。頂上老松の間に石碑ありて、「吹く風を」の歌を刻す。茶店あれども人住せず、ただ松風の颯々たるを聞くのみ。なんとなく懐古の情に堪えずして、二首を吟出す。

  一路勿来関下過、降車得々歩嵯峨、山桜無跡霜風冷、空対荒碑読古歌、

(一路勿来関を目指し、車を降りてわざわざ険しい道を歩く。歌に見える山桜はなく霜をふくむ風も冷たい。むなしく年を経て荒れた碑にむかい、古歌を読んだのであった。)

勿来関古昼森々、一首国詩堪朗吟、欲使山風不吹散、奈何満地落花深、

(勿来関は古色につつまれ昼なお森々として、一首の和歌は朗吟するによし。山風に吹き散らぬようにと願うも、いったい地に満ち満ちる落花の深さはどうしようもないのだ。)

 また、石城のカラ風につきて戯れによむ。

  カラ風を勿来関と思へども、磐城平の冬の名物、

 これより平瀉方面の道を下り、白砂青松の間をわたりて駅畔に至る。途中、麦田にいちいち麦稈をたてて防風をなせるを見る。もってカラ風の強きを知るべし。駅頭より更に馬鉄に駕し、行くこと里許にして窪田村〈現在福島県いわき市〉に入る。村内米田多く、かつ炭坑あり。午後、小学校にて開演す。村長鴨初五郎氏、校長鈴木清風氏、郡会議員安島大次郎氏、学務委員赤津作太郎氏、有志家赤津庄兵衛氏、宗教家鎌田蘭秀氏等の発起なり。当夜、鈴木旅館に宿す。

 十四日 晴れ。午前十時、勿来駅発車。永山郡視学は四倉以来日々案内の労をとられ、ここに至りて手を分かち、次回の再遊を約す。しかして上野着は午後五時なり。

 ここに石城郡の特色の点を指摘するに、第一はカラ風、第二はジャンガラおどり、第三はサイダイコ、第四はテンノクボ、第五は背中の灸点、これをその地方の名物とす。ジャンガラおどりは念仏おどりなり。サイダイコは大根を細かに切りて、これを豆の汁にて煮だしたるものをいい、テンノクボとは食物を小皿に入れず、ただちに手のヒラに受けて食するをいい、背中の灸点とは石城郡内の人は大抵裸体になれば、背中に灸の跡あるをいう。方言としてはソウダンベをソウダンペといいて、べがぺに変ずるなり。

また、婦人は多く語尾にシを付くるという。すべて人情といい、風俗といい、石城郡すなわち磐城平地方は相馬地方と大いに異なりて、淳朴というよりはむしろ快活という方なり。また、生活程度は比較的高く、衣食住ともに進みおるは炭坑の多き結果なり。しかるに、これと同時に悪影響を受けたる点もすくなからず、一般に酒色遊興の方に傾き、実着質素の風を欠ける弊ある由にて、今より大いに精神修養に力を用いざるべからずとは、識者のもっぱら望みおるところなり。宗教に関しては、この地方に限らず福島県全体にわたりて不振の方なり。寺院ありても廃頽せるもの多し。聞くところによれば、先年県庁より各町村において神職には一定の俸給を贈るようにせよと訓達し、後に調査したれば、神職の年俸五十銭に定めおきし所ありという。これ神職に対してのみならず、寺院に対しても檀家信徒の納金極めて少なく、したがって寺院も振るわず、宗教家も自棄する風あり。ただし、近年県下各郡にわたりて仏教慈善会の組織せらるるありて、僧侶の着々活動せる傾向あるは、大いに喜ぶべき兆候なり。余の巡講中も、その会員にしてもっぱら奔走せられたる向きもすくなからず。願わくば、永くこの活動を継続せられんことを。

 

     福島県四郡開会一覧

   郡    町村    会場       席数   聴衆     主催

  田村郡  三春町   小学校       二席  二百五十人  実業会

  同    常葉町   小学校       二席  五百人    町内有志

  同    片曾根村  小学校       二席  三百人    青年会

  同    美山村   寺院        二席  二百五十人  青年会

  同    都路村   小学校(古道)   二席  三百人    村役場

  同    同     小学校(岩井沢)  一席  二百五十人  寺院

  相馬郡  中村町   高等女学校     二席  二百人    教育者団体

  同    同     劇場        二席  四百五十人  仏教慈善会

  同    同     高等女学校     二席  二百五十人  婦人会

  同    同     中学校       二席  四百五十人  郡および町

  同    同     同         一席  五百人    中学校

  同    同     高等女学校     一席  二百人    高等女学校

  同    鹿島町   寺院        二席  三百五十人  町村有志

  同    原町    別院        二席  六百人    郡および町

  同    同     寺院        二席  百五十人   婦人会

  同    小高町   小学校       二席  一千人    青年会および仏教慈善会

  同    太田村   小学校       二席  五百人    両村有志

  双葉郡  富岡町   小学校       二席  三百人    町長

  同    浪江町   劇場        二席  五百人    町長

  同    久之浜町  小学校       二席  四百五十人  町長

  同    大野村   小学校       二席  三百五十人  村役場

  同    新山村   小学校       二席  四百人    村長

  同    木戸村   小学校       二席  四百人    村長

  石城郡  平町    劇場        二席  一千二百人  仏教慈善会

  同    同     中学校       一席  五百人    校長

  同    同     高等女学校     一席  二百五十人  校長

  同    四倉町   小学校       二席  六百人    町内有志

  同    小名浜町  小学校       二席  八百人    同窓会

  同    内郷村   小学校       二席  四百人    青年会

  同    湯本村   劇場        四席  八百人    村内有志

  同    窪田村   小学校       二席  七百人    学校および役場

   合計 四郡、二十二町村(十二町、十村)、三十一カ所、五十九席、聴衆一万四千百五十人、日数二十二日間(開会せざる日を除く)

    演題類別

     詔勅および修身に関するもの     二十二席

     妖怪および迷信に関するもの       七席

     哲学および宗教に関するもの       八席

     教育に関するもの            十席

     実業に関するもの            三席

     雑題、旅行談等に関するもの       九席

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淡路国巡講日誌

 大正元年十二月十五日 雨。午後七時発新橋急行にて淡路巡講の途に上る。

 十六日 晴れ。午前九時、神戸着。東洋大学出身浅田経洞氏、余を迎えてここにあり。氏とともに十時半、兵庫より乗船。午後一時、淡路国津名郡仮屋町に着し、休宿所を長松旅館に定む。少憩の後、浦村〈現在兵庫県津名郡淡路町・東浦町〉小学校に至りて開会す。村長正木伊与吉氏、校長平松織蔵氏等の発起にかかる。郡視学北山虎吉氏、ここに出張して迎えらる。余の出生せし地名は越後の浦村にして、号を甫水というはその村名よりとれり。しかるに今日、同名の村にきたりて開演せるは、多少の感なきあたわず。仮屋往復途上には根の上がりたる老松の路傍に並列せるありて、大いに風致を添う。

 十七日 晴れ。朝気〔華氏〕五十度。午前より海岸にそって松影波光の間を過ぎ、生穂村〈現在兵庫県津名郡津名町〉に至る。会場は小学校にして、宿泊所は西明寺なり。村長今岡義之氏、校長阪東芳之助氏、農会長平林紋次氏等の発起にかかる。福島県よりこの地にきたれば、冬よりにわかに春に転じたる心地をなす。ことに本日は春靄朦朧の観あり。

 十八日 風雨。松籟涛声を聴取しながら志筑町を経て洲本町〈現在兵庫県洲本市〉に入る。志筑は先年漫遊の際開会せしも、今回は立ち寄らず。夜に入り南風強く、暖気〔華氏〕六十六度に上る。弁天座において夜会を開く。郡長藤井雅太氏、郡視学北山氏、ともに出席せらる。藤井郡長は旧識たり。町長藤木主一郎氏は発起の主なるものなり。宿所鍋藤旅館は軒前に港湾を控え、檣影窓に入るの趣あり。一名、淡州第一楼と呼ぶ。

 十九日 晴れ。夜来の暴風のため万船港内に集まり、連檣林立せるは奇観なり。望中一詩を浮かぶ。

  尋到淡州第一津、客窓報暁汽声頻、潮風昨夜吹寒去、冬日暖於三月春、

(淡路島第一のみなとにたずね至れば、旅館の窓には暁を告げる汽笛の声がしきりと入ってくる。潮風が昨夜吹きつのって寒気は去り、冬の日にもかかわらず三月春の暖かさとなった。)

 この日、淡州第一の勝地たる先山に登らんと欲し、車行里余、山麓の盛光寺に一休し、これより轎に駕し、青松の間にある曲径をたどりて山頂に達す。坂路十八丁あり。寺は千光寺と称し、淡路霊場第一番の観音を奉崇す。現住職は櫟圭巌氏なり。しかして前住は哲学館出身中の先輩たる桂義性氏にして、当寺の修繕に尽力せられしも、不幸にして隔世の人となれり。まず観音を参拝し、つぎに桂氏の墓所を拝訪して、本坊に休憩す。堂畔の眺望すこぶる快闊にして、一目の下に十三カ国を一瞰するを得。実に天然の大公園なり。余、先年讃州屋島に登覧して、その風光の雄大なるを吟賞せしも、先山ははるかに屋島以上たり。これを先山と名付けしは、日本先開の山の義なりという。年中いかなる風雨の日といえども、寒暑をわかたず。一日に四、五十人の登山者なきはなしと聞く。その山形円錐状をなし、四面八方いずれより遠望するも富士のごとく、向背の別なし。故に人呼びて淡路富士という。山上所詠二首あり。

  淡山連処一峰尖、蒼樹鬱然堪仰瞻、日々登躋人不絶、観音慈雨満場霑、

(淡路島の山の連なる所に一峰のみがするどく、青々とした樹々がしげりあおぎ見るによい。日々にこの山に登る人々は絶えず、観音のめぐみの雨がこの地すべてをうるおすのである。)

  巌頭一路曲如鉤、攀尽千光寺畔休、吟賞先山天地濶 望中掌握十三州、

(大きな岩のあたりで道はかぎのごとく曲がり、この山のいただきにのぼりつめて千光寺のかたわらに休む。先山の天も地も広々とした風景を吟賞し、一望のうちに十三国を掌にするように思われた。)

 千光寺は昔時は津名郡に属せしも、今日は三原郡加茂村の地内に入る。午後、徒歩にて山を下り、三原郡倭文村〈現在兵庫県三原郡緑町・三原町〉に至りて夜会を開く。この村名をヒトオリと読むは奇ならずや。会場は小学校にして、宿所は平等寺なり。校長松下増平氏、青年会長川崎豊太郎氏の主催にかかる。深更に至りて褥に就く。数日来の暖気にわかに変じ、寒威肌に徹するを覚ゆ。この日、やや疲労を感ず。

 二十日 晴れ。午前中に倭文村より広田村〈現在兵庫県三原郡緑町、洲本市〉に移る。会場は小学校、宿所は村長川道繁松氏の宅なり。近郷五カ村連合の主催にかかる。校長は高田格郎氏なり。両日ともに郡役所より書記天羽俊太郎氏出張せらる。

 二十一日 雨。この日より哲学館出身松帆憲応氏が、浅田氏に代わりて随行することとなる。広田を発し、坂路を上下して三原平原に入る。その広さ約四里四方ありて、兵庫県下における第二の平原なりという。みな水田なり。中央に淡州第一の三原川ありて流るるも、平素ほとんど水なきがごとし。車行四里余にして阿万村〈現在兵庫県三原郡南淡町〉に至る。これ淡州の最南端なり。その最北端たる岩屋より大約二十里あり。会場および宿所とも神宮寺なり。村長郷孫助氏の主催にかかる。

 十二月二十二日(日曜) 晴れ。北阿万村に淡陶会社あり。淡路焼陶器を製造すと聞きてこれを入覧す。職工二百人ありという。社長は欅田善九郎氏なり。午後、郡衙所在地たる市村〈現在兵庫県三原郡三原町〉において開演す。郡教育会の主催にして、郡長神原清太郎氏、郡視学桑田悦蔵氏、主席郡書記大内宗次郎氏等出席せらる。会場にあてられたる公会堂は本州第一の会堂と称す。約百五十畳敷きなり。武徳館を兼ぬ。その堂前の街路は、老松の左右に並列せるあり。よって一詠す。

  車到先山南麓郷、老松挟路一条長、入村新館巍然立、武徳館兼公会堂、

(車は先山南麓の村に至れば、老いた松が道をはさんで長々とつづく。村に入れば新しい建物が高々と立ち、武徳館と公会堂とを兼ねているという。)

 宿所広田屋の楼上に先年怪談に類する出来事ありしが、その原因は額面の文字の不祥なるより起これり。よってこれを取り除きたりし以来、怪事なしとの話を聞けり。隣村志知村に哲学館出身石野日亮氏住す。

 二十三日 晴れ。北風やや強し。車行約五里、津名郡の西浦なる都志村〈現在兵庫県津名郡五色町〉に至る。途中、榎列村の磤馭盧〔おのころ〕島(自凝島)に立ち寄りて参拝す。その地たるや田間に挟まれる一小松丘なり。丘上に小社あり、近年、保存会を設立せり。会長は真野喜平氏なり。社畔に鶺鴒石あり。ここをへだつること二、三丁の路傍に天浮橋あり。一巨石の地上に突起せるものなり。

  田間認得古松陵、社殿新成是自凝、欲向鶺鴒問当代、化為石骨復何讐、

(田のあいだに古松の岡をみとめた。社殿は新しく建てられ、ここが自凝〔オノコロ〕島なのである。せきれいに当時のことをたずねたいと思うも、化して石となったのはいったいなんのむくいなのであろうか。)

 都志村は先山背面の海岸にあり。この村を離るること約一里の所に五色浜の名所あり。碁石大の五色石ほとんど無尽蔵なりという。会場および宿所は長林寺にして、清水宗次郎氏、勝矢順吉氏尽力せらる。住職は長村良厳氏なり。夜間開会す。真言宗法務支所長谷内清巌氏(安平村蓮花寺)来訪あり。氏は寺院の方面へ紹介の労をとられたり。

 二十四日 晴れ。勁風、寒を送りきたる。朝気〔華氏〕四十三度。都志を発して淡山の間を縫い、曲径を蛇行して山田村〈現在兵庫県津名郡一宮町〉に出でて、高山勝楽寺にて開演す。主催代表者は産業組合理事芦原要次郎氏、助役権上猪之松氏なり。芦原氏は当村の産業を振起せし有志家なりという。この日、小学校生徒の出迎えを受く。途上吟一首あり。

  西浦路崢嶸、牛車載米行、冬晴風却勁、松竹送寒声、

(西浦の道はけわしく、牛車が米をつんで行く。冬晴れの風はかえってつよく、松や竹が寒々とした音をたてているのである。)

 この辺りは青松緑竹の間に村家の点在せるありて、仙郷の趣あり。随所、風光よし。当時盛んに荷車にて米を運送するは、徳島県造酒の原料に用うるためなりという。この夕、同寺に宿するに、寒月まさにまどかに、一天皓々たり。本村には揮亳の所望者最も多し。

 二十五日 晴れ。風なおやまざるも、やや穏やかなり。郡家村〈現在兵庫県津名郡一宮町〉に移り、午後、小学校講堂において開演す。主催代表者は校長森川春吉氏なり。学校の設備完全せり。本村は全部日蓮宗なりと聞く。当夕、有志家春海佳作氏の宅に宿す。この日また一作あり。

  林巒起伏路高低、西浦風光与画斉、前望播山後先岳、中間蒼海自成渓、

(林も山も起伏するごとく、道もまた高低する。しかし、西浦の風景は画と同じく、前には播磨の山々、後ろは先山、中間のあお海原はおのずから谷となっているのである。)

 路上、蒼波を隔てて播州の連山と相対す。

 二十六日 穏晴。西北風ようやくやむ。日中に至れば、その暖かきこと春のごとし。午前、官幣大社伊弉諾神社に拝詣す。社は多賀村にあり。杜林老樹多くして森然たるも、平地なれば眺望全くなし。

  暁晴風穏気如春、多賀村頭詣大神、一鳥不啼人不賽、拝終独与老松親、

(暁には晴れて、風もおだやかに気候は春のようである。多賀村のほとりの大社に詣でる。鳥のなき声もなく、参詣する人もない。参拝し終わってひとり老松と親しんだのであった。)

 午時、江井村〈現在兵庫県津名郡一宮町〉に至り、小学校にて開演す。本村は港湾ありて、従来通商をなせるもの多かりしも、近年汽船の各所に通ずるために旧時の勢いを失えりという。村長坂東清良氏、校長東甚一氏、同広田和五郎氏、教員松葉喜一郎氏、村会議員広田直三郎氏等の発起にかかる。当夕は学務委員にして有望家なる森政治郎氏の宅にて晩餐を喫し、哲学館出身中の先輩たる本多霊祥氏の寺に宿す。その寺は本福寺といい、本村字柳沢にあり。堂内清新にして、かつ清閑なり。淡州西浦の開会は多く本多氏の尽力に成る。氏は先年漫遊の際も、桂氏とともに各所案内の労をとられたり。紀念のために、氏の姓名を冠せる五絶を案出してこれをとどむ。

  本来修宿福、多幸占清閑、霊鶴栖仙苑、祥雲繞寿山、

(本来まえまえからの福を修得し、多幸はこの清らかで静かな寺院を占めている。神霊なる鶴がこの俗界をはなれた苑にすみ、めでたい雲が長寿の山をめぐっているのである。)

 二十七日 晴れ。風また起こる。郡家を経て育波村〈現在兵庫県津名郡北淡町〉に至る。その中間の村落はマッチ箱製造を業となせるもの多し。育波村だけにても一カ年一万二千円の収入ありという。よく熟練せるものは一日に四千箱を作る。その手間賃、一千個につきわずかに八銭五厘なりと聞く。会場は小学校、休憩所は校長宅にて、発起は村長浜田賢蔵氏、教育会長繁田栄氏、校長石田浦次郎氏なり。演説後、ただちに二人びきにて車を飛ばし、四里半の行程をわずかに一時〔間〕四十五分にて走り、岩屋町〈現在兵庫県津名郡淡路町・北淡町〉観音寺に着す。ときすでに夜に入る。浅田経洞氏その住職にして、もっぱら同町開会に尽力せらる。晩食後、小学校にて開会す。町長井筒敦次郎氏、校長岡上杢太郎氏の発起にかかる。当夕、郡書記洲本より出張あり。

 二十八日 雨、その細きこと春雨のごとし。宿坊観音寺は高燥の地にありて、播州明石と相対し、海峡の風景を占領す。その建設といい位置といい、淡路寺院中の第一に位す。暁望一首を得たり。

  細雨欲晴烟未収、糢糊影裏去来舟、忘冬早暁開窓坐、風暖観音寺畔楼、

(細かい雨が晴れようとして、かすみがまだ残っている。ぼんやりとかすかな中に舟が往来する。冬の寒さを忘れ、早朝に窓を開いて座す。ここは風も暖かい観音寺の楼である。)

 更に五絶をとどむ。

  明海水常明、淡山雲自淡、大悲閣上居、万象凭欄瞰、

(明石の海は常に明るく、淡路の山の雲はおのずとあわい。観音堂の上にいて、あらゆる姿をてすりにもたれてみるのである。)

 午後二時、乗船、四時、神戸着。六時半発にて東京へ直行す。

 ここに淡路を一巡しおわりたれば、旅中の所感を述ぶべし。小学校は各所ともに平均して、校舎および設備そのよろしきを得。三、四年前、各村競って一時に校舎を改築せし結果なりという。宗教はほとんど全部真言宗古義派にして、総計百三十八カ寺あり。外に少数の日蓮宗、真宗、禅宗ありという。寺は大なるもの少なきも、よく修繕を得て頽廃せるものを見ず。海上より本州を望むに、山のみなれば、水田乏しかるべしとなにびとも想像するも、貯水工事大いに発達して、山頂に近き所まで水田を有するは他に見ざるところなり。かつ地味豊かに収穫多く、上田に至っては一反につき四石を得という。したがって売買の価高く、一反千円ぐらいなるものあり。その小作料のごときも、一反につき米二石と麦五斗を地主に納むる所ありと聞く。土地の面積に照らせば、人口多きに過ぎ、一方里に七千人の割合なれば、日本各国中、人口の多き点にては第一に位す。農家一戸の平均四、五反を耕す割合なりという。物産は米を第一とし、これに次ぐものは海産なり。その他、大阪方面へ出稼ぎするもの多し。本州内にて最も人口の多きは三原郡に属する孤島沼島なりとす。半里内外の島にて、従来千戸ありといえり。水田なきをもって米は全く島外より輸入す。これに輸入税を課して村費に充つという。島内に馬なきをもって、小学校にて生徒に対し、馬と猫といずれが大なるやと問いたれば、一人もよく答うるものなかりしと聞く。その島にて対岸の陸に渡るを単に国へゆくという由。余、淡州の耕作と学校との盛んなるを見て一詩を賦す。

  水色山光帯紫明、看過二十里余程、仙郷堪喜人文遍、雨則読書晴則耕、

(水の色と山の姿は明るさと紫色をおび、二十里余の行程をみてきた。この仙人の住むような里で喜ぶべきことに文化があまねくゆきわたり、雨ふればすなわち書を読み、晴れた日にはすなわち耕すのである。)

 人は淳朴にして外来客を歓待する風あり。空気、魚類ともに清新。料理は大阪風、景色は秀霊、気候は温暖なれば、漫遊の良地なり。ただ不足をいえば、いずれに宿るも枕の小にしてかつ堅き一事のみ。これ余の実験談なり。言葉は通じやすきも、多少の方言の解し難きものなきにあらず。その一例を挙ぐれば、まるで間違ったというべきを、マンデシャガという。また、行くことをイクケ、行かぬことをイカンケという。今より二十年前漫遊せしときには、聴衆中一割以上の結髪者を見受けたりしが、今日は全く見ることを得ず。要するに、人気は保守的にして小成に安んずる弊あり。今後、勇進活動、堅忍不撓の気風を鼓舞する必要ありと知る。

 

     淡路国開会一覧

   郡    町村   会場  席数   聴衆     主催

  津名郡  洲本町  劇場   二席  四百五十人  教育会

  同    岩屋町  小学校  二席  五百人    校長

  同    浦村   小学校  二席  三百五十人  教育会

  同    生穂村  小学校  二席  四百五十人  村教育会

  同    都志村  寺院   二席  四百人    村教育会

  同    山田村  寺院   二席  六百人    役場および産業組合

  同    郡家村  小学校  二席  四百人    教育会

  同    江井村  小学校  二席  四百人    村教育会

  同    育波村  小学校  二席  二百五十人  村教育会

  三原郡  市村   公会堂  二席  二百人    郡教育会

  同    倭文村  小学校  二席  六百人    学校および青年会

  同    広田村  小学校  二席  三百五十人  五カ村連合

  同    阿万村  寺院   二席  五百五十人  村長

   合計 二郡、十三町村(二町、十一村)、十三カ所、二十六席、聴衆五千五百人、日数十二日間(東京往復の日を除く)

    演題類別

     詔勅および修身に関するもの     七席

     妖怪および迷信に関するもの     八席

     哲学および宗教に関するもの     三席

     教育に関するもの          三席

     実業に関するもの          四席

     雑題(旅行等)に関するもの     一席

P402--------

大正元年度報告

 余の本年度の事業を報告せんに、七月三十一日大正改元前の分は前に掲げおけり。七月三十一日後の分としては、著述の方は左の二書なり。

  活仏教  全一冊  大正元年九月五日  丙午出版社発行

  日本仏教  全一冊  大正元年九月十日  同文館発行

 哲学堂経営としては、物字園を完成せり。なお引き続きて講堂(宇宙館)を建設することに定む。巡講の方は前掲の日誌中に出だせるも、更にこれを統計するに、

    七月三十日前の分

  二市、五郡、五町村、十一カ所、十二席、六千四百五十人

    七月三十一日後の分

  五郡、二十七町村、二十七カ所、五十六席、一万一千六百人(埼玉県第一回)

  一市、五郡、十六町村、二十一カ所、三十九席、七千四百五十人(兵庫県一部)

  四郡、二十二町村、三十一カ所、五十九席、一万四千百五十人(福島県東部)

  二郡、十三町村、十三カ所、二十六席、五千五百人(淡路国)

    総計 三市、二十一郡、八十三町村、百三カ所、百九十二席、四万五千百五十人

 すなわち演説百九十二席を重ねて、四万五千百五十人に精神修養の講話をなせり。

   哲学堂会計報告

(収入)金二千百二十八円八十銭      揮亳謝儀

(支出)金二千五百七十二円五十八銭

   内訳 金五百円五十五銭       前年度不足分

金八十二円二十銭       塚地四十二坪購入代

金一千三百十四円十七銭    物字園建設費および各所修繕費

金百二十五円六十六銭     贈呈書籍、報告書、規則書類印刷代

金五百五十円         事務費(俸給、手当等)

(差し引き)金四百四十三円七十八銭    不足

  以上  大正元年十二月三十一日決算

 年度報告の終わりに一言せんと欲するは、先般南半球巡了して帰国せし後、今後の方針は読書、著作を本務とし、その余暇に地方巡講を継続する予定なりしも、先帝崩御し給いし以来、その御遺訓たる教育勅語、戊申詔書の聖意を普及開達する急要を感じ、九月末よりもっぱら地方巡講に奔走することに定めり。ただしこの巡講は余のいわゆる死書を捨てて活書をとり、死学を去りて活学に就くものなれば、やはり読書、講学なり。これと同時に有志の助力を得て、哲学堂内に講堂および図書館を建設することに着手せり。この段、熟知諸兄に拝告す。

   大正元年十二月三十一日 井 上 円 了   

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埼玉県巡講日誌第二回

 大正二年一月一日は東京自宅にありて諒闇中の新年を迎う。世間寂寥たるも政海ひとり囂々たり。余の新年作一首あり。

  門無松竹路無賓、迎得大正第二春、諒闇未終家寂々、只騒政海渡頭人、

(門には松も竹もなく、訪れる賓客もない。それでも大正二年の春を迎えることができた。天皇はまだ喪に服しており、したがってわが家も静かなのである。ただ政治の世界にいる人々のみは騒がしい。)

 一月四日 快晴。一天雲なくかつ風なし。午前十時、浅草駅より東武線に駕して、埼玉県第二回巡講の途に上る。車外残雪皚々、寒威凜々たり。越ケ谷駅にて降車し、行くこと里許、北葛飾郡松伏領村〈現在埼玉県北葛飾郡松伏町〉に至り、午後、小学校にて開演す。主催代表者は静栖寺住職斎藤護道氏なり。当夕、同寺に宿するに、名のごとく閑静なるも、寒気骨に徹す。この辺りは武蔵野の中央にして、各方面二十八里の間、山なし〔と〕いう。

 一月五日(日曜) 晴れ。この日、北埼玉郡加須町開会の日割りなりしも、都合により見合わせとなりたれば、ただちに不動岡村〈現在埼玉県加須市〉総願寺に向かって出発す。夜来の北風ようやくしずまる。当寺は郡内第一の巨刹にして、その安置せる不動尊は信者遠近より来詣し、門前ために市をなす。堂宇は二百年前の建築にして、古色蒼然たり。そのうちの一室に深夜妖怪の出ずる所ありと聞くも、真偽定め難し。本村に私立埼玉中学ありて、五百人の生徒を有すという。郡役所より書記水谷孝次郎氏出張せらる。この日、休養す。宿所は別荘的旅館亀屋なり。

  講道尋来不動岡、村家尽処有僧堂、入門残雪猶堆積、人破凍風賽仏忙、

(人のあるべき道を説きつつ不動岡村に来た。村の人家のはずれに総願寺が建っている。門を入れば残りの雪がなおうず高く積もっているが、人々は凍てつく寒風のなかをせわしなく不動尊におまいりしている。)

 六日 晴れ。沍寒朝気〔華氏〕三十七度に下る。午後、総願寺にて開演。発起者は住職山口定道氏、村長峯岸伝三郎氏、区長大木和吉氏なり。峯岸氏は俳句の宗匠をもってその名高し。哲学館出身中の先輩たる五十嵐光竜氏も、東京より出張して助力せらる。日没後、氏とともに腕車を駆り、氷雪をわたり、凍風をおかして新郷村〈現在埼玉県羽生市、行田市〉に至る。有志数名、提灯を携えて村外に迎う。途中、一里余の森林あり。夜会の場所は下新郷小学校、休憩所は大光院、宿所は漆原亮太郎氏宅にして、主催は校長兼住職たる萩原光淳氏なり。漆原氏は旧家にして、その門は二、三百年前の建築なる由。民間の迷信として麻疹流行の際には、その柱を削りにきたるものありという。

 七日 晴れ。暁寒凜冽〔華氏〕三十四度、水みな凍る。下新郷を発し、羽生町を経て手子林村〈現在埼玉県羽生市〉に至る。途上、民家機織の声相伝う。村々みな木綿織を副業とす。雪泥深くして車夫の脚を没する所あり。

  埼北原頭雪未融、駆車日々破寒風、千村万戸機声滑、農暇半年勤織工、

(埼玉北部の平原のあたりはまだ雪もとけず、人力車を駆って日々寒風を破るように行く。多くの村々と多くの人家から機織の音がみだれ聞こえてくる。この地では農閑期の冬場半年ほどは機織の仕事にいそしむのである。)

 会場は広聞小学校、主催は青年共攻会、代表者は校長出井元次郎氏なり。当夕、富徳寺に宿す。住職は茶をたしなみ、書画骨董に趣味を有す。村長関根長蔵氏は二十余年勤続せりと聞く。

 八日 晴れ。手子林より羽生町〈現在埼玉県羽生市〉に移る。郡内の工業地にして木綿メクラシマを特産とす。会場は劇場、宿所は大黒屋なり。しかして発起は町長大木啓三郎氏、助役入江幾三郎氏、校長五月女甲次郎氏、飯塚多市郎氏、および医師、商家等なり。

 九日 曇り。太田村〈現在埼玉県行田市、羽生市〉に移りて午後開会す。会場は第一小学校、主催は家庭会、発起は村長田島春之助氏、助役岡田宇吉氏、校長村越源太郎氏、木村良蔵氏、および各区長なり。田島氏は県会議員を兼ぬ。その本家田島竹之助氏は貴族院議員たり。郡視学片山正資氏は、一昨日以来案内の労をとらる。氏は視学中の年長者なりという。

 十日 晴れ。忍町、行田を一過して大里郡に向かう。北風寒を送りきたり、車上にありて手足痛みを感ず。行田は足袋の産地にして、一カ年には約一千五百万足を作る。一足を十五銭ずつとして算するに、一カ年の収入二百二十五万円となる。開会地は熊谷町〈現在埼玉県熊谷市〉にして、会場は石原小学校なり。講習会の主催にして、郡長島崎広太郎氏、町長荒木最三氏、講習会頭田島辰五郎氏、課長春山治重郎氏、郡視学上村英夫氏、郡書記各小学校長等、みな発起に加わる。島崎郡長出席せらる。田島氏は石原小学校長なり。上村氏は近ごろ北足立郡より転任せられたり。宿所田島屋は熊谷寺の前にあり。その境内に蓮生坊の墓あり。堂宇は火災にかかりしも、再建ようやく成る。

 十一日 穏晴。風雲なく和気靄々、春天のごとし。早朝、北埼玉郡長小木利金太氏、忍町より来訪せらる。この日、郡書記根岸千引氏の案内にて妻沼村〈現在埼玉県大里郡妻沼町〉に至る。車行二里、道路よし。その辺り一帯利根川に浜し、水害地をもってその名高し。昨秋は数十年来かつてなき豊作を見たりという。村内に聖天山歓喜院あり。堂塔、林間にそびゆ。二王門二棟あり。本堂は古色蒼然として彫刻、彩色の見るべきあり。慶長年間の建築なりという。全く神社式なり。この近郷はみなその氏子にして、古来伝うるところの迷信あり。松を厭忌し、雉子を崇敬す。故に村落に一株の松なし。もし風のために松の種子の吹き寄せられて生ずるときは、大いに不吉として、おはらいをなすという。他地方にては松をめでたきものとするに、この地方に限りて不吉とするは奇なり。その由来を問うも明らかならず。故をもって新年にても松を飾らずという。すなわち迷信なり。

  利根江畔望無辺、駅路降車詣聖天、古殿抜林露頭角、壁光樹影共蒼然、

(利根川のほとりに立って望めば果てしなく、宿駅の道で車よりおり聖天山歓喜院に詣でた。古い本殿などは林の間にそびえて、壁の様子や樹木の姿はともに古色蒼然たるものがある。)

 会場は小学校、宿所は鈴木屋、発起者は講習会頭掛川茂一郎氏ほか九名なり。しかして村長は井田諄氏なり。むかし、『江戸繁昌記』の著者寺門静軒、この村にありて塾を開きしが、その故屋は今なお存すという。

 一月十二日(日曜) 晴れ。車行、深谷町〈現在埼玉県深谷市〉に向かう。凍風顔をつき、肌まさに裂けんとす。

  赤城より吹きくる風に養はれ、尚武に富める武蔵野の人、

  武蔵野の人のたけきも道理なり、風はカラ風、川は荒川、

 かくうそぶきつつ深谷に着し、午後、小学校にて開会す。主催代表者は、校長飯島田作、小林常重、小島正中、田中島吉三郎諸氏、および町長竹之内其治氏なり。当夕、近彦旅館に宿す。この地方は郡内第一の蚕業地なり。

 十三日 晴れ。風やみて日穏やかなり。桑林の間を一過して、花園村〈現在埼玉県大里郡花園町〉字小前田に至る。この地は秩父街道なり。途上吟詠、左のごとし。

  桑麦田間一路縫、草枯野曠武州冬、遠山戴雪皆平臥、卓立摩天独富峰、

(桑と麦の田畑の間を一すじの道が縫うように走り、草は枯れはて野はさえぎるもののないほど広いといった武州の冬景色である。遠い山は雪をいただいて思いのほか低く臥すがごとく、ひとり天をさしてそびえたつのは富士の峰だけである。)

 当日の会場は長善寺、宿所は岸屋なり。しかして発起者は校長山口義一、関丹平、田辺鷹四郎、市川丈七、町田喜平、小川藤重、黒沢峯次、小高千代、吉滝清太郎諸氏なり。

 十四日 晴れ。小前田を発し、荒川仮橋を渡り、林丘を上下して比企郡八和田村〈現在埼玉県比企郡小川町〉に着し、村役場に一休し、学校にて開演し、月影を踏みて村長樺沢与平氏の宅に宿す。校長は高橋伴吉氏なり。郡視学小川与之助氏ここに来訪せらる。

 十五日 晴れ。朝気〔華氏〕二十八度に下り、柱にかけたる手拭まで氷を結ぶ。この日、小川町を経て旧秩父街道に入る。途上の村落は渓流に樹皮を浸し、毎戸紙を製す。あたかも土佐山中に入りたるがごとし。車路平らかにしてかつ滑らかなり。槻川村〈現在埼玉県秩父郡東秩父村〉にて開会す。山間の僻村なるがごとき趣あり。残雪なお屋上および庭際に満つ。会場は小学校にして、宿所は旅館なり。当村より秩父大宮まで山行四里あり。しかしてこの辺り一帯を名付けて外秩父という。また、この辺りのものは大宮へ行くことを秩父に行くという。あたかも自ら秩父郡なるを知らざるもののごとし。会場は小学校にして、校長は松本喜久蔵氏なり。しかして主催は青年会なり。郡視学原金三郎氏、雪嶺を越えてここに来会せらる。

 十六日 晴れ。渓流に沿いて下行して大河原村〈現在埼玉県秩父郡東秩父村〉に至る。一村の産業は製紙なり。

  武陵渓上水流遅、製紙人来浸樹皮、積雪堅氷山寂々、春風猶未到梅枝、

(武陵桃源のごとき谷川のほとりは水流もゆるやかに、紙を漉く人が来て材料の樹皮を浸す。山は雪が積もり、堅い氷におおわれてものさびしく静まりかえり、春風はなおこの地の梅枝にも訪れていない。)

 会場は小学校、発起者は戸口増蔵氏ほか数名なり。当夕、松沢氏宅に宿す。

 十七日 曇り。朝、〔華氏〕四十一度。夜来の暖気雨を催しきたり、間、雪片を交ゆ。途中、娯山堂宮崎犬丸氏の宅に少憩して、此企郡平村〈現在埼玉県都比企郡幾川村〉に入る。地勢は村名と異なりて山また山なり。ただ、一帯の渓流をはさみてその両岸に人家の点在せるを見る。産業は植林、製材を主とす。この日、新築小学校にて開会す。聴衆、約五百五十人、すこぶる盛会なり。一村三百戸の小村にしてこの聴衆を得たるは、一戸より二人ずつ出席せる割合となる。主催代表者は村長内田佐久三氏、信用組合長峯岸信作氏、校長高橋輝治氏、訓導戸口保三氏、僧侶武田宗伯氏なり。

 十八日 穏晴。早朝、雪泥をわたりて慈光寺に登詣す。白鳳年来の古刹にして、坂東第一の旧地とす。国宝また多し。しかれども堂宇廃頽し、寺に住職なく、仏に賽客なく、ほとんど廃寺に似たり。

  都幾山上詣慈光、白鳳年来古仏堂、遺跡荒涼無客訪、観音台下独彷徨、

(都幾山上の慈光寺に詣でる。白鳳年代以来の古寺であるが、堂宇は荒れ果てて人の訪れることもなく、観音堂のもとにひとり彷徨するのであった。)

 これより渓行一里にして秩父郡大椚村〈現在埼玉県比企郡都幾川村〉に至る。大野および椚平を合して一村とせるも、戸数わずかに百六十、実に山間の孤村なり。会場小学校にして、校長戸口増蔵氏、村長野口清次氏等の発起にかかる。当夕、前田栄三郎氏宅に宿す。本村は林業をもって唯一の産業とす。村内に収穫する米穀は、正月三カ日間の食量に充つるに過ぎずという。晩に至り微雪下り、夜に入りてたちまちはれ、霜月皎々たり。

 一月十九日(日曜) 晴れ。外秩父を出でて入間郡に入り、越生町を経て毛呂村〈現在埼玉県入間郡毛呂山町〉に至る。これより一里を隔てたる梅園村には梅樹多く、新月瀬の称あり。開会は毛呂、山根両村合同の発起にして、毛呂村長福田金太郎氏、山根村長奥泉伊佐吉氏、もっぱら尽力せらる。会場は東雲高等小学校にして、宿所はその校内新営の裁縫教室なり。毛呂村は機業盛んにして、戸々機声を聞かざるなし。権田直助氏この村より出でしという。郡役所より書記神山太三郎氏出張せらる。

 二十日 快晴。鶏鳴に起き、霜気凜々たる中をおかして途に上る。飯能を経て二人引きにて渓間にさかのぼり、秩父郡武甲山南の名栗村〈現在埼玉県入間郡名栗村〉に至る。行程八里を四時間半にて達す。屋上、庭際雪なお残り、軒前に氷柱の垂るるを見る。この地、林業最も盛んにして、山林蒼々鬱々として、吉野山中に入りたる心地をなす。

  遥聴鶏声日未昇、一天霜気暁稜々、駆車更泝渓頭路、満目蒼然林靄凝、

(はるか遠くに鶏の夜あけをつげる声を聴いたが、日はまだ昇らず、天にみなぎる霜の気配は暁にいよいよきびしい。人力車を駆ってさらに谷川ぞいの道をさかのぼれば、見渡すかぎりうすぐらく林にたちこめるもやがかたまっているのである。)

 会場は上名栗第一小学校にして、発起者は村長浅見武平氏、校長神能徳治郎氏、町田角太郎氏、鈴木石禅氏、林業家浅見丑太郎氏、加藤幹一氏、医師原田東太郎氏、ほか八名なり。みな大いに尽力せらる。浅見村長は郡内町村長中の高老なりと聞く。宿所は下名栗加藤氏の宅なり。終夕、揮毫に忙殺せらる。

 二十一日 晴れ。この朝、原郡視学と相別る。氏は最も長く案内の労をとられたるは深謝せざるを得ず。午前七時、名栗早発、再び飯能を経て十一時、豊岡町〈現在埼玉県入間市、狭山市〉に着す。行程八里。この日、寒暖〔華氏〕四十三度。午後一時、小学校にて開会す。時間最も精確なり。当町は模範町村にして、校長も模範校長なりという。主催は町教育会、青年会、弘道会支会にして、尽力者は町長繁田武平氏、助役中野長造氏、校長桑田源次郎氏、ほか十一名なり。聴衆、堂にあふれ、千百をもって算す。当夕、宿所は繁田町長の宅なり。醤油および茶を製するを本業とす。その両親の金婚式を挙げらるるを聞きて一絶を賦呈す。

  繁田名不空、子々孫々茂、况復会金婚、人々来献寿、

(繁田の名はむだではなく、子々孫々繁茂し栄えてきた。ましてやまたここに金婚式が挙行され、人々がやってきてお祝いを申し上げている。)

 親子ともに名望あり。弘道支会長発智庄平氏は霞ケ関村より来会せらる。

 二十二日 雪。十時後大雨となる。豊岡町字黒須を発し、雪道を踏みて車行するに、泥深くして輪を没す。午後、三ケ島村〈現在埼玉県所沢市〉に至りて開演す。雨雪をおかし泥濘をうがちて会する聴衆二百人に及ぶ。村長粕谷金十郎氏等、村内有志の発起にかかる。会場および宿所は小学校楼上なり。この辺りはいわゆる狭山茶の本場なりと聞く。当日、郡視学高塚幾次郎氏、積雪深泥をうがちて出張あり。

 二十三日 晴れ。三ケ島より所沢町を経て三芳村〈現在埼玉県入間郡三芳町〉に至る。雪泥深くして車動かず。二人びきが三人びきとなりてようやく進行す。会場は小学校にして、村長は武田藍太郎氏、校長は水村梅次氏、宿所広源寺住職は一適徳柔氏なり。同校の教員には神官もあり僧侶もありという。本村は川越薯の本場なり。なかんずく真の本場は三丁ぐらいの小部分なりという。

  山遠水長林野連、雪泥没脚路難前、入間川上時回首、半是茶園半薯田、

(山は遠く水流は長々とよこたわり、林と野が連なる。雪は泥のごとく、足をとられて道はすすみがたい。入間川のほとりでときどき頭をめぐらせてみれば、この地の半ばは茶園であり、半ばは甘薯の畑なのであった。)

 二十四日 晴れ。川越街道杉の並木の間を一走して川越町〈現在埼玉県川越市〉に至る。途上、機織の声しきりなり。午後、会館において開演す。主催は郡教育会にして、会頭は郡長市川春太郎氏なり。川越の名物は喜多院と初音料理店と佐久間旅館なりと聞きしが、その名物の一たる旅館に宿す。けだし客舎としては県下第一ならん。市川郡長、高塚視学、および第一課長田島紋次郎氏とここに会食す。当町郵便局長松下定雄氏は四十年前の同郷同窓の旧友なり。

 二十五日 曇り。朝、喜多院に詣す。天海僧正の寺だけありて、古宝のみるべきもの多し。僧正の遺像は温々たる恭人の風采あり。また、その境内に石像五百羅漢あり。住職遠賀亮中氏は哲学館大学の出身たり。つぎに旧城址を一過して中学校に至り、大演習当時の行在所を拝観す。午後の開会地は比企郡伊草村〈現在埼玉県比企郡川島町〉にして、会場は小学校、宿所は落合橋畔小沢屋なり。楼上の眺望やや佳なるも、風強く寒はなはだしくして窓を開くを得ず。郡長奥田栄之助氏ここに来会せらる。村長は富田一郎氏、校長は飯野明久氏なり。

 一月二十六日(日曜) 晴れ。朝七時、寒風をつきて車走す。手、足、耳ともに凍痛を覚ゆ。ときに寒暖〔華氏〕三十度にくだる。松山町を経て百穴および高壮館を一覧す。同館は岩窟より成る大ホテルにして、その竣功は百五十年を期すという。来往の人は車をとめて可なり。これより西吉見村〈現在埼玉県比企郡吉見町〉息障院に至りて開演す。その寺は郡内屈指の名刹にして、その住職は現今真言宗智山派の管長たり。主催は教育部会にして、発起者会頭沖田秀明氏、校長岩崎文太郎氏、深谷彪氏、大畑哥氏、橋本堅次郎氏、鷲蜂玉瑞氏等、大いに尽力あり。揮毫所望者最も多く、終日筆を躍らすもなお尽くすを得ず。夜に入りて車を松山町〈現在埼玉県東松山市〉にめぐらし、城恩寺において開演す。助役竹内覚春氏、校長石井金平氏等の発起なり。深更に至り奥田郡長、小川視学等と会食す。

 二十七日 晴れ。松山より鴻之巣駅にて鉄路に駕し、岡部駅におりて大里郡榛沢村〈現在埼玉県大里郡岡部町〉に至る。発起者は青年会頭角田保治氏、村長篠崎京作氏、校長高松倉吉氏等なり。渋沢男爵の出身地は隣村八基村字血洗島にして、その距離一里なりという。当夕、帰京す。

 埼玉県の人気は群馬県とともに関東の気風を代表し、その快活勇壮にして義侠心に長ずるは、実に称揚すべき点なれども、その弊や、あるいは粗野に流れ、あるいは残忍に走るの傾向なきにあらず。この弊を防ぐの方法としては宗教の清涼剤を投ずるを要す。しかるにその県内における宗教は、各宗ともに振るわずして殺風景を極む。故に今より後は本山の当路者がその方面に布教の方針を向け、枯渇の民心をして早く慈雨に浴せしめんこと、切望の至りにたえざるなり。

 

     埼玉県第二回開会一覧

   郡     町村    会場  席数   聴衆     主催

  北葛飾郡  松伏領村  小学校  二席  二百人    各宗協会

  北埼玉郡  羽生町   劇場   二席  六百五十人  町内有志

  同     不動岡村  寺院   二席  六百人    寺院、役場合同

  同     新郷村   小学校  二席  四百人    区内有志

  同     手子林村  小学校  二席  五百五十人  青年会

  同     太田村   小学校  二席  四百人    家庭会

  大里郡   熊谷町   小学校  二席  五百人    講習会

  同     深谷町   小学校  二席  五百五十人  講習会

  同     妻沼村   小学校  二席  五百五十人  講習会

  同     花園村   寺院   二席  四百人    講習会

  同     榛沢村   小学校  二席  四百人    青年会

  比企郡   松山町   寺院   二席  四百五十人  同町

  同     八和田村  小学校  二席  五百人    村教育会

  同     平村    小学校  二席  五百五十人  同村

  同     伊草村   小学校  二席  三百五十人  村教育会

  同     西吉見村  寺院   二席  三百人    教育部会

  入間郡   川越町   会館   二席  五百人    郡教育会

  同     豊岡町   小学校  二席  一千百人   町教育会、青年会、弘道支会

  同     毛呂村   小学校  二席  四百五十人  両村合同

  同     三ケ島村  小学校  二席  二百人    同村

  同     三芳村   小学校  二席  四百人    村教育会

  秩父郡   槻川村   小学校  二席  二百人    青年会

  同     大河原村  小学校  二席  二百五十人  講習部会

  同     大椚村   小学校  二席  二百人    青年会

  同     名栗村   小学校  二席  三百五十人  同村

   合計 六郡、二十五町村(六町、十九村)、二十五カ所、五十席、聴衆一万一千人、日数二十四日間

    演題類別

     詔勅および修身に関するもの      十六席

     妖怪および迷信に関するもの      十五席

     哲学および宗教に関するもの       二席

     教育に関するもの            四席

     実業に関するもの            六席

     雑題(旅行談等)に関するもの      七席

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徳島県巡講日誌

 徳島県教育会の招聘に応じてこれに赴かんとするに際し、持病をいやせんと欲し、大正二年一月二十九日より旬日の間、伊豆国修善寺温泉に入浴す。同所に浴すること三十年間に六回なり。旅館としては新井、菊屋、浅羽、大川を最大とす。今回ははじめて菊屋別館に滞泊す。本、別を合すれば客室百六十ありという。全国の旅館中かく多くの客室を有するもの、いまだ他にあるを見ず。入浴中の漫吟二首あり。

  偶宿修禅寺外台、浴余欲睡酒為媒、隔窓終夜渓泉叫、夢裏使人疑雨来、

(たまたま修禅寺のはずれの台上に建つ旅館に宿泊し、沐浴の後に眠ろうとし酒をなかだちとする。窓の外では一晩中谷川の音がひびき、夢のなかで雨がふっているかと思わせられたのであった。)

  独鈷投来桂谷淵、霊湯沸出過千年、不疑一浴治諸病、元是大師遺愛泉、

(桂川のふちで独鈷を投じ、霊妙なる湯が湧き出してから千年を経た。疑いもなく一浴すればもろもろの病をなおす。元来この温泉は弘法大師が遺愛の湯なのである。)

 このころ二宮尊徳翁の報徳訓に擬して、教育報徳訓を作る。

教育淵源在教育勅語、忠孝根元在祖宗遺訓、国体精華在億兆一心、道徳振興在教育普及、教育完備在国家経済、国本養成在国民智徳、智徳開発在学校教育、学校発展在教師努力、教育実効在訓育感化、感化教育在教師人格、人格完成在自己修養、当教育者不可怠修養、

(教育の源は教育勅語にあり、忠孝の根元は先祖の残されたおしえにある。国体の精髄は億兆人民の心をひとつにするにあり、道徳の盛んなるは教育の普及にある。教育が完成されるには国家経済の豊かさにあり、国の根本が養成されるのは国民の智徳の完成にある。智徳を啓発するのは学校教育にあり、学校の発展は教師の努力による。教育の実際の効果はおしえ育て感化するにあり、感化と教育は教師の人格による。人格の完成は自分自身の修養により、教育に当たる者は修養を怠ってはならない。)

 また、自ら名刺を作り、題するに五首をもってす。

  姓為井上名円了、随候去来身似鳥、巣在紅塵万丈中、心常超出青雲表、

(姓は井上、名は円了たり。季節にしたがって去来する身は渡り鳥に似ている。巣はあかいちりのつみかさなる中にあるが、心は常に青雲のなかたをこえて行くのである。)

  陋巷一生簟食甘、東京何地有吾庵、本郷区内駒篭里、富士前街五十三、

(せまい路地裏の生活は飯を竹のうつわに盛っておいしいと満足す。東京のいずれの地にわがいおりがあるのか。それは本郷区内の駒込の里、富士前町五十三である。)

  妖怪道人号已陳、旅行博士是今身、漫揮訥弁無他意、願使舌痕印四浜、

(妖怪道人と号してすでに開陳、旅行博士というのが現在である。みだりに口べたにもかかわらず話すのは、ほかに意味するものがあるわけではない。願わくば舌をもって天下にその跡をしるそうというのである。)

  講道終年免素飱、布衣何敢伺権門、破窓薄褥吾生足、坐臥不知官俸温、

(道徳を説いて年を終えるまで、才能もないのに禄をはむといったことをのがれ、無位無官にしてどうして権力者のごきげんをうかがおうか。破れ窓にうすい布団でわが生活は十分であり、立ち居振るまいに、官位俸禄の温かさを知らないのである。)

  哲学堂成身未耄、友賢師聖守高蹈、和田山下汲泉流、永作門番従灑掃、

(哲学堂は成り、身はまだ年老いてはいない。賢人を友とし聖人を師として世俗を超越して隠居の生活を守る。和田山のもとに泉流をくみ、長く門番となって掃除を仕事としよう。)

 修善寺の帰路、車窓より富士を望みて、一首をよむ。

  仰ぎても又仰ぎても白妙の、雪の富士こそ気高かりけれ、

 大正二年二月十四日夕七時、新橋発にていよいよ徳島県巡講の途に就く。翌十五日朝、神戸着。十一時半、兵庫桟橋より乗船。海上平穏、春靄朦朧として遠近の山影望中に入らず。夕五時半、徳島〈現在徳島県徳島市〉湾に着岸し、平亀楼に入宿す。明治二十四年二月、四国一周の際、この楼に滞泊せしの記憶あり。今回は再遊なり。各所開会は県教育会の主催にかかる。

  知 事(県教育会総裁)渡辺勝三郎氏  事務官(同   会長)川越 壮介氏

  同 上(同   理事)堀口 満貞氏  師範学校長(同 理事)渡辺千治郎氏

 その他の事務員姓名はこれを略す。

 二月十六日(日曜) 晴れ。朝気〔華氏〕四十七度。東京より五、六度温暖なり。午前、県視学豊崎長蔵氏の案内にて渡辺知事、川越、堀口両事務官を歴訪し、更に歩を転じて城山に登臨す。これ旧城址にして市内の公園たり。一方は市街を挟みて大滝山と対峙し、一方は川渠を隔てて海湾を瞰下す。その山もとより蕞爾たる一孤丘に過ぎざるも、風光絶佳これに加うる〔に〕林木蔚生して山腰をめぐるところ、南米チリ国首府のサンタ・ルシア山に似たり。ときに一吟す。

  徳島湾頭宿客楼、当軒山是古城邱、登臨脚下全街伏、浦上風帆似葉浮、

(徳島湾のほとりの旅館に宿泊す。軒ばたちかくの山がすなわち古城の丘である。これに登って脚下をのぞめば、徳島の街はすべて下にあり、海辺の風をはらんだ帆は、木の葉の浮かぶごときである。)

 つぎに紀念館(千秋閣)を拝観し、物産陳列所を通覧す。当地の名産は縅織と権衡器なりという。陳列所の階上は徳島県の遊就館兼美術館の趣あり。午後、知事の寵招によりて大滝山頭菅楼に会食す。川越、堀口両事務官および赤十字主事相馬恒彦氏も同席せらる。楼上の眺望またすこぶるよし。暮靄蒼然中に十万の人煙を映射しきたるところ、最も妙趣あり。山内に大滝公園あれども、前遊の際一見せしをもって巡覧せず。聞くところによれば、徳島市の欠点は井水塩分を帯びて飲料に適せざるにありという。帰りて客楼に入れば、本州第一の名物たる義太夫の声隣家に起こる。

 十七日 晴れ。朝、渡辺校長の依頼に応じ師範学校に至りて一席の講話をなし、ただちに腕車を駆りて行くこと二里、勝浦郡小松島町〈現在徳島県小松島市〉に着し、午後、議事堂において開演す。不日、徳島よりこの地まで鉄道を開通すという。港湾あり、船をつなぐによし。一帯の海浜、青松白砂多し。小松島の名これより起こる。目下、松露を産す。本郡の名産は蜜柑にして、その名を里婦人と呼ぶはおもしろし。当夕、万野旅館に宿す。深夜に至るまで絃歌の声を聞く。郡長登原猪之助氏、郡視学天根五百枝氏等、諸事を斡旋せらる。

 十八日 曇り。登原郡長の案内にて小松原を去り、弘法大師霊場立江寺を訪う。堂内、地蔵尊を安置す。参詣人、日々たえずという。この日、行程四里、那賀郡富岡町〈現在徳島県阿南市〉に至りて開会す。勝浦、那賀両郡は稲田多くして県下第一の米産地なり。会場は小学校にして、旅館は丸登館なり。本県南部は魚類清新にして、その価すこぶる廉なりとす。これより津の峰まで一里を隔つ。山上の眺望その名高し。この日、途上吟一首あり。

  海南気暖老梅花、麦色春来緑更加、行過武陵渓上路、青松紅橘繞仙家、

(海南の地の気候は温暖で梅花もおとろえ、麦の色は春の到来でいよいよ緑色をくわえている。理想郷の武陵の谷のほとりの道を行けば、青い松とあかいみかんが、仙人の住むような風流な家をめぐって植えられているのである。)

 当夕、宿所において歓迎会あり。晩来雨を催し、気にわかに暖かなり。本郡の山間に岩谷と名付くる一小部落あり。ここに出入するには鳥道獣径を上下せざるを得ず。道狭くしてかつ険なり。労牛をこの地に入るるに、その幼なるときをもってす。もし大なるに至らば、峻坂隘路、牛をいるるの余地なしという。そのいかに僻郷なるやを想見すべし。郡長祖川豊氏、臥病中なり。郡視学富永只一氏、町長久米頼治氏、校長粟飯原悟郎氏等、尽力せらる。この地に中学校あり。

 十九日 晴れかつ暖。富岡を発し山行七里、海部郡日和佐町〈現在徳島県海部郡日和佐町〉に移る。本郡は県下における北海道の称あり。途中、橘港を通過す。湾内広闊、めぐらすに青巒松嶼をもってし、宛然一大湖たり。波光松色相映じ、風光画を欺く。実に県下の勝地なり。これより山また山、渓また渓、山紫水明の間を出没し、隧門を一過して日和佐に入る。日中の温度〔華氏〕六十度にのぼる。町家を離れて山根に名刹あり、薬王寺と名付く。阿州霊場の最終にして、二十三番に当たる。石階に上下二級あり。一を男厄坂という、四十二段なり。二を女厄坂という、三十三段なり。その数、男女の厄年にとりたるはおもしろし。遠近より厄よけをなさんためにここに登詣す。台上、海湾を一瞥すべし。一小嶼の孤立せるあり、これを立島と名付く。この日、堂内において開会す。郡長河原正名氏、町長由岐玄次郎氏、郡書記西田隆喜氏、同森田清一氏、校長福井秀三氏等、みな尽力せらる。これより土佐国境まで十里あり。その間、車道のいまだ通ぜざる所二、三里ありという。郡内の特産は木材を第一とす。薬王寺所見一首あり。

  阿州尽処有霊場、二十三番是薬王、男女坂頭回首立、一湾風月入僧堂、

(阿波の国のつきる所に霊場があり、二十三番札所のこれが薬王寺である。男厄坂と女厄坂に立ってこうべをめぐらせば、湾の風と月は僧堂に入るがごとくひらける。)

 当夕、川口屋に宿す。

 二十日 開晴。風ありてやや寒し。同駅路を回行し、午餐を富岡にて喫し、薄暮、徳島に帰着す。行程十三里。当夕、徳島高等女学校において妖怪談をなす。夜に入りて月満ち光白し。

  勁風吹断夕陽催、復向大滝山下来、客舎無人春寂々、一痕寒月宿残梅、

(つよい風が夕日のせまるのを吹き断ち、ふたたび大滝山下に向かって行く。旅館には人影もなく春もさびしげに、寒々とした冬の月のあとかたに残りの梅がとどまる。)

 二十一日 温晴。徳島より車行四里、船橋を渡ること三、四回に及ぶ。みな四国第一の大河吉野川の分派なり。板野郡撫養町〈現在徳島県鳴門市〉に至りて開会す。県下第二の都会なり。会場は中学校講堂。休憩所は小学校にして、郡長鳥居和邦氏、郡視学高橋徴三郎氏、中学校長佐藤慎一郎氏、小学校長鳥畠栄一郎氏等、尽力あり。宿所は明治屋なり。藤見紫雲氏と同宿す。撫養の特色は市街の内外に塩田を有するにあり。市外の妙見山は大鳴戸を一瞰して眺望に富む。先年この地より怒潮を横ぎりて淡路に移りしを回想せり。

 二十二日 晴れ。風和し気暖かにして、〔華氏〕六十五度に上る。徳島市に帰行して鉄路に駕し、名西郡石井町〈現在徳島県名西郡石井町〉に至りて開会す。その地、徳島をへだつる三里、町外みな水田なり。郡長井内恭太郎氏、郡視学酒巻清吉氏等、尽力せらる。晩来雨降り、夜に入りて近隣に失火あり。旅館に一泊す。宿料表を一見するに、一泊上等一円、二等七十銭、三等四十銭と記せり。

 二月二十三日(日曜) 曇晴。北風強くして寒気復旧す。川島駅より渡船して阿波郡に入り、市場町〈現在徳島県阿波郡市場町〉にて開会す。途上、桑林多し。会場は小学校にして、宿所は村上旅館なり。この町をへだつること約一里、山腹に十番の霊場あり、切幡寺という。登山者多し。郡長は梶浦鉚之助氏、町長は妹尾卯太郎氏なり。

 二十四日 晴れ。風やむ。吉野川水量加わり、渡船二回を要す。麻植郡川島町〈現在徳島県麻植郡川島町〉に移りて開会す。会場は小学校講堂にして、その位置眺望に富む。発起者は郡長宮城庄三郎氏、郡視学竹内兼太郎氏、校長田中岩太郎氏等なり。当夕、綿屋旅館に宿す。

 二十五日 晴れ。川島駅より船戸に至るの間、高越山麓を一過す。車窓より一望するに、山容大いに趣あり。麻植郡の村名に学島村あり、その字に学村あり、学駅あり、また寺院に童学寺あり、いずれも奇名なり。吉野川の峡間は一見、長野県南信の伊那峡に似たり。郡内川田村は芳川〔顕正〕伯の出身地なりという。鉄路は船戸駅を終点とす。これより渡船、車行一里、美馬郡脇町〈現在徳島県美馬郡脇町〉に入る。その間に拝原川あり。一掬の水なく、ただ小石の積堆せるのみ。吉野川北岸には水なしの川多し。この日、春寒料峭、日中なお〔華氏〕四十二度よりのぼらず。脇町は徳島市をへだつること十里。昔時藍業の盛んなりしに当たりては、その中心となりしが、近来藍作の衰うるに従い、次第に衰微に傾けりという。会場は中学校講堂にして、校長田中留之助氏、主席細江省吾氏、郡視学吉田永太郎氏、 斡旋せらる。 宿所は稲原旅館なり。 たまたま吉村善吉氏、 丸亀税務監督局より出張せらるるに会し同宿す。 先年漫遊の際は吉野川沿岸ほとんど藍田のみなりしが、 今は全く桑田に変ぜり。 よって所感を賦す。

長川縦貫万村奔、 山自成屏気自暄、 今日再遊歎世変、 藍田多是化桑田、

(吉野川は多くの村々を縦に貫いてはしり、 山はおのずから屏となり、 気候もおのずからあたたかい。 今日、再び遊歴しきたりて、世の変わることの激しさを慨嘆す。すなわち藍田の多くは桑畑となっていたのである。)

美馬郡は深く山間に入り、 遠く土佐の国境に連なり、 四国第一の高嶺剣山もこの郡内にまたがる。 その山奥に祖谷村と名付くる一郷あり。 異風殊俗、 実に仙境なる由。 東西二村を合して千七百戸ありて、 小学十四校を有す。医家なく寺院なし。 病人あれば買薬を用い、 死者あれば葬儀を行わずして埋葬す。 しかして年中一回、 他村の寺院より僧侶の出張するあり。 そのとき一度に一年間の死亡者の葬祭を行うという。 家ごとに三戸ぐらいを設け、長子結婚すれば、 両親第二戸に入りて隠居し、 更に隠居を重ぬるに至れば第三戸に入りて閑居す。 その隠居閑居の風あるは福島県田村郡に似たり。  その三戸、 各地所を所有して耕作をなし、 別に生計を立つる由。 風俗、  人情ともに淳朴にして、 路上他人に会するときは、 その知ると知らざるとを問わず、 必ず挨拶をなす。 その挨拶は必ず「今日ハ」といい、 ただちに「サイナラ」というを常とす。 三好郡よりこの村に入る所に蔓橋あり。 その長さ三十三間、 幅六尺にして、 高さ十八丈なり。 全く蔓縄をもってこれを懸く。 実に全国無比と称す。

 

二十六日    曇晴。 吉村氏と同行して三好郡池田町に向かう。 その距離約十里。 途中、 江口渡船場にて南岸に移り、 辻町を一過す。 対岸に箸蔵山を望む。 昔時は讃州金比羅の奥院と称したりしが、 今なお登山参拝するもの多し。 余は先年ここに登詣せり。 山上、 堂宇の壮観あり。  この日また寒く、 指頭凍痛を感ず。 車行五時間、 正午、池田町〈現在徳島県三好郡池田町〉旅館松又楼に着す。 楼の設備すこぶる大なり。 けだし当地にタバコ専売所および製造所あるによる。  この地は四国名物犬神の本場なりとの評あれども、 近年その病にかかるもの大いに減ぜりという。  これより吉野川にそいて土州に入る国道あり。  その間に大歩危、 小歩危の絶勝あり。 昔年、 余の渉せし際はわずかに一小石径を通ずるのみにてすこぶる危険なりしが、 今時は新道を開通し、 車馬の通行自在となる。会場小学校は丘上にありて、 講堂高闊、 眺望大いによし。 発起者は教育衛生会長松浦主雄氏、  理事松永、 藤岡、伊予三氏、 町長島崎伝吉氏等なり。  この日途上、 剣山を望むもひとみに入らず。 剣山は国道、 県道のごとき腕車の通ずる地面にては、 決して望見するを得ずという。 故に一吟す。

駅路霜風烈似刀、 峡間一水自滔々、 岸頭挙首看難認、 剣岳摩天白雪高、

(村への道は霜をふくむ風がはげしく刀に似たするどさがあり、 山峡の水はおのずからとうとうと流れる。岸べにこうべをあげて見ようとしても見えないが、 剣山は天をさし、 白雪をのせて高々とそびえているはずである。)

 

二十七日 晴れ。 夜来降雪、 暁窓一面銀世界となり、 眺望すこぶる佳なり。 朝気〔華氏〕三十五度、 瓶水氷を結ぶ。 船戸より池田まで十里余の間、 鉄道架設中にて道路往々腕車の通じ難き所あり。  ただし本年中に竣工の予定なり。 池田を発し雪をふみて車行五里、 美馬郡半田村〈現在徳島県美馬郡半田町〉神宮寺に至る。 村は渓間の一平原中にありて、 寺は登攀三丁以上の丘上にあり。 村内には漆器を製する家ありという。 午後、 雪また霏々たり。 夜に入りて晴れ、 ただ松風の颯々たるを聴く。

半田渓上路、 風物動吟情、  一夜神宮寺、 松声入夢清、

(半田村の谷のほとりの道、 風物は吟詠の情をうごかす。 神宮寺の一夜、 松風の音が夢のなかに入りこんですがすがしいのであった。)

昼夜ともに開会す、 発起かつ尽力者は住職佐伯道明氏、 県会議員木村佐吉氏、 村長大久保亀吉氏、 校長折目義三郎氏、 医師北室、 逢坂両氏等なり。 当夕、 名物トロロ蕎麦を食す。

二十八日    曇り。 勁風寒威強し。 半田より五里、 船戸に一休し、 汽車に駕して徳島市平亀楼に帰着す。 ときに午後二時なり。 千秋閣にて開会す。 聴衆満場。 徳島市および名東郡連合の主催にして、 その発起は教育会長一坂俊太郎氏、 副会長玉置保次郎氏、 名東郡会長三木利五郎氏、 副会長塩川久太郎氏等なり。 当夕、 越後亭において知事、 両事務官、 師範学校長(渡辺氏)、 女子校長(寄藤好実氏)、 中学校長(木村猪久次氏)、 県視学(豊崎氏)と晩餐をともにす。 食後ただちに乗船、 十時解䌫、 大坂に向かう。 本県開会に関し渡辺知事の分外の厚遇をかたじけのうせるは、 深く謝するところなり。 事務官、 師範学校長、 県視学の配意もまた謝せざるを得ず。 岡村光武 氏、 勝浦久太郎氏、 みな助力せらる。 しかして教育会書記浜田賢治氏は、 各郡巡回の案内者となりて随伴せられたり。 また、 哲学館出身者中村了諦氏、 井上徹禅氏等来訪あり。 両氏ともに名東郡に住職す。 中村氏の所住の寺が井上村井戸寺なるはやや奇名なり。

徳島県を巡了してここに耳目に触れたる点を指摘すれば、  二十年前と今日とを対照するに、 各所ともに道路と旅館と食事の改良発達は大いに異なりたるを覚ゆ。 小学校の建築の一般に清新なるも一大進歩なり。 その名物たる義太夫と馬かけは今昔を通じて衰えず。 昨今教育会において、 義太夫中の風教に利あるものと害あるものを分類して、 矯風の一助となさんとする計画あるは一美事なり。 国道、 県道の吉野川を横断する所、 撫養に至るの間に船橋あるのみにて、 その他には全く橋梁なく、  すべて渡船を用い、 船橋、 渡船ともに渡し賃を徴集するは、 他県に多く見ざるところなり。 県下の馬車の赤身白衣なるも一奇観とすべし。 車身を赤く塗り、  これを覆うに白布をもってせり。 男子の実名に一の字を付くるものすこぶる多きも特色の一なり。 串柿を藁に包みて蓄うるも一奇なり。 宗教に至りては九分どおり真言宗にして、 その寺院数四百二十七ヵ寺あり。  これみな古義にして、  一カ寺の新義なきは奇といわざるを得ず。 民家一般の生活は極めて質素にして、 常食は米一分、 麦稗薯九分の割合なりという。 しかしてその質素が消極的なれば、 今より積極的勤倹を奨励するを要す。 聞くところによるに、 本県は徳島市を中心として南北両部に分かれ、 人情、 気質大いに異なれり。  そのいわゆる北部とは吉野川沿岸をいう。北部は怜悧にして朴直ならず、 南部は朴直にして怜悧ならず、  北部は利己に過ぎて公共の精神を欠き、 南部は小成に安んじて進取の気風に乏しという。  これ地理の影響、 交通の結果なること明らかなり。 本県の人物は北部より出でて南部より産せざるもまた、  この理に外ならず。 もしその怜悧と朴直とを調合するを得ば、 必ず文質彬々たる君子となるべし。  つぎに一県全部にわたりて評すれば、 公徳に乏しくして迷信の多き一事なれども、  これひとり本県の短所なるのみならず、 各県の通弊とするところなり。 犬神と天狗は本県迷信中の主なるものなるが、古来犬神は士族の家に入らざるものとし、 士族を侵すものは天狗に限るがごとく信じきたれりという。  この迷信をいやし公徳を進むるには宗教家の活動を要するも、 本県の宗教家中この任に当たり得るもの幾人かある、 その多数はかえって迷信を助長する方ならん。県下の寺院の多きに過ぐるにもかかわらず、よくこれを維持しきたり。弘法大師を尊信する念深く、 遍路巡礼を厚遇する風ある等を見るに、 たとえ習慣仏教なるにもせよ、 仏教の民心に感染しおることの浅からざるを知るべし。 故にもし仏教家が社会に活動して人民を善導するに至らば、 必ずその効果の大いにみるべきものあらんと信ず。 また、 本県の地勢より考察を下すに、 内地との交通不便なる上に、峡間渓頭に僻在屈住する村落多く、 その接触するところ極めて小天地にして、 管中の天をうかがうに似たりといえども、 山河においては四国第一の剣山と吉野川とを専有するをもって、 人物においても四国第一の名を専有するに至らざるべからず。 今より後は本県人の遠く海外に向かいて飛躍するを要す。 もしその質素の気風をもって励精奮闘するに至らば、 成功の岸に達すべきは必然なるべし。 余は本県のため国家のために海外発展を望みてやまざるなり。 また、 本県人と高知県人との別を聞くに、 種々の異点ある中の一例として、 高知県人は悪事をなしてその発覚せられたる場合には、 たちまち理に服して白状する風あるも、 本県人は証跡を挙げてこれに示すも終局まで自白せずという。 もししかりとせば、 願わくば善事の方にこの固執の念を向けられたきものなり。 郷土異なれば情性また同じからず、  その特性はかえって保存するをよしとす。 しかしてこれを戒むるはただ悪用せずして善用するにあり。 方言のごときは比較的解しやすし。 もし他県人に通じ難き語を摘載すれば、 左のごとし。

イシダンをガンギ、 ソラをテントサン、  イドをイツミ、 ケレドモをケンド、 アタラシイをサラ、  バカナコトをタッスイコト、  サシミをスズケ、フエルをモエル、 ジュクスをウレル、 オトナをオセ、 ネムルをネブル、クダサイをッカサレ、  コワシテをメイデ、 タクサンをジョウニ

その他はこれを略す。




徳島県開会一覧表

市郡    町村    会場    席数    聴衆    主催

 

徳島市 名東郡連合  紀念館  一席  八百人   県教育会

 

         高等女学校 一席  百人  市内有志

          師範学校 一席  四百五十人 校長

勝浦郡 小松島町   議事堂  二席  二百五十人 県教育会

那賀郡        富岡町 小学校 二席        六百五十人        同前

海部郡        日和佐町 寺院 二席        四百人 同前

板野郡        撫養町 中学校 二席        七百人 同前

名西郡 石井町 議事堂 二席 四百五十人 同前

阿波郡        市場町 小学校 二席        四百人 同前

麻植郡        川島町 小学校 二席        四百人 同前

美馬郡        脇町 中学校 二席        六百人 同前

一席        百五十人 中学校有志

半田村 寺院 二席 五百人 村内有志

三好郡  池田町 小学校 二席 七百人  県教育会

 

以上合計 一市、 九郡、 十町村(九町、  一村)、 十四ヵ所、  二十五席、 聴衆六千五百五十人、 日数十三日間


演題類別

詔勅および修身に関するもの  十二席

妖怪〔および〕迷信に関するもの 七席

実業に関するもの 一席

雑題(旅行)に関するもの  五席


 



 


 


兵庫県巡講日誌第二回


 大正二年三月一日。 午前七時、 汽船、 大阪河口に入着す。 暁天降雪、 岸頭みな白し。 昨夜徳島出航以来、 風収まり波平らかにして、 船進むこと速やかに、 予定より一時間早く入港したり。 兵庫県武庫郡大庄村の迎え人とともに梅田より電車に駕し、武庫川停留場に降車す。 会場は大庄村〈現在兵庫県尼崎市〉小学校にして、 宿所は円徳寺なり。 主催は村青年会にして、 奔走尽力せられたるものは河原定音氏(宿寺住職兼教員)、 宮下貞次郎氏等なり。本村は尼崎町と今津村の中間にありて、 大阪をへだつることわずかに三里なるも、 全く農村なり。 学校も田間に孤立して四隣に人家なし。 朝雪、 のち曇り、 午後に至りてようやくはるるも、 風強く気寒し。 夜中は各戸、 寝具の内に置き炬燵を設く。 徳島県とは大いに寒温を異にす。 稲見郡視学来会せらる。 随行後藤菊丸氏また播州よりきたれり。

三月二日(日曜)  開晴。 朝気〔華氏〕三十八度、 瓶水結氷す。 大庄村より車行一里半、 武庫村〈現在兵庫県尼崎市、西宮市〉に至る。 これまた農村なり。 会場小学校の田間に孤立せる状は大庄村に同じ。 主催は村青年会にして、 村長松本四郎兵衛氏、 助役高寺栄次郎氏、 校長柏岡茂丸氏、 もっぱら尽力せらる。 当夕、 助役高寺氏の宅に宿す。この日、 遠山みな白く、 北風寒を送りきたる。

二日    曇り。  やや暖気に復す。 午前、 武庫村を発し、 武庫川甲武橋を渡る。 百五十間の長橋なり。 両岸の堤上に松樹相連なり、 その長さ数里に及ぶ。 更に水なき川(仁川)を渡りて、 良元村現在兵庫県宝塚市字宝塚温泉場門樋楼に入る。 楼は新築ようやく成りて、 室内清かつ美なり。 調理、 待遇ともによし。 着後ただちに迎賓橋を渡りて新温泉場に入る。 これまた新設備にして、 全く西洋式なり。 その浴室、 湯槽の美を尽くせるは日本全国無比、欧米にも多く見ざるところなり。

一水二橋両岸楼、 四時万客此来遊、 湯槽浴室尽其美、 凌駕欧洲与米州、

(ひとすじの川に二橋がかけられ、 両岸に旅館が並び、  四季を通して万人の客がこの地に来遊する。 湯槽も浴室も美を尽くせりというべく、 ヨーロッパとアメリカをもしのぐほどである。)

 余は三年前この地に遊びしが、 その当時と今日とはほとんど別天地の観あるに驚きたり。 旅館、 現今四十戸あり、 なお漸次に増加すべしという。 午後、 良元小学校において開演す。  主催は村教育会にして、 発起者は村長中川重助氏、 元村長一室正氏、 校長吉積竜太郎氏、 収入役田中梅太郎氏、 学務員友金繁蔵氏および各区長なり。 なかんずく吉積校長、 大いに尽力あり。 当夜は揮毫に忙殺せられ、 深更一時後に至りて筆を擱す。

四日    晴れ。 晨起七時発、 阪鶴線にて丹波に向かう。 車中、 仮寝をなす。  一覚すれば満地一白、 積雪窓に映じきたる。 福知山駅にて換車し、 朝来郡梁瀬〈現在兵庫県朝来郡山東町〉駅に降車す。 車行五時間を費やせり。 会場は小学校、 宿所は月見館、 主催は梁瀬村ほか二村連合、 発起は村長田治米績氏、 校長三谷金蔵氏および他村長なり。郡役所より視学片山清暁氏来会せらる。  この日、 会場の往復に雪を踏む。

五日    晴れ。 朝気〔華氏〕三十七度。 汽車にて八鹿駅に降車し、 旅館富田屋に少憩し、  これより二人びきにて関宮村現在兵庫県養父郡関宮町字大谷小学校に至りて開会す。 地上および屋上には積雪尺余あり。 晴天なるも、 ときどき雪花を散じきたる。  学童はみな頭上より毛布をかぶりて来往す。  一見、 小達磨のごとし。 旅館の各室には炬燵の設備あらざるはなし。

万壡千峰白似銀、 但州三月雪猶新、 鉄車窓外玲瓏色、 即是山陰深処春、

(谷という谷、 峰という峰は白く雪にうまってしろがねのようである。 但馬の国の三月は雪はなお新たにふりつもる。 汽車の窓の外は玉のごとくあざやかに美しい。  すなわちこれが山陰の奥深いところの春の景色なのである。)

主催は関宮村、 高柳村連合にかかり、 発起は関宮村長森本保太郎氏、 高柳村長千葉胤造氏、 校長小垣又吉氏、小川敬次郎氏、 山口良広氏にして、  みな尽力あり。 郡長東文輔氏、 視学早川政治氏、 雪を踏みて来会せらる。 宿所は当地の素封家米田又一郎氏の宅なり。 梁瀬より当所まで七里あり。

六日    晴れ。 早発、 雪泥みな凍る。 山路の堆雪を避けて迂回し、 八鹿より豊岡を経て出石郡出石町〈現在兵庫県出石郡出石町〉に向かう。郡書記出迎えにきたりしも出会するを得ず。豊岡より三里の間平坦にして、路上雪すでに消尽す。  一条の流水にそいて山隈に入る。 路外には桑田と柳圃と相半ばす。  この辺り多く柳行李を造出す。 出石町は鉄道をへだつること、 豊岡駅よりも八鹿駅よりも江原駅よりもおのおの三里あり、 仙石家の旧城下にして、老博士加藤弘之氏の旧里なり。 市外に鶴山あり、 年々白鶴きたりて巣を営むという。 当町有志家志水与三氏発起となり、 鶴山の詩歌を全国より徴集し、 その稿積みて数冊をなす。 会場は弘道小学校にして、  主催は町内有志なり。 郡長森岡二郎氏(法学士)、 町長福富源蔵氏、 校長渡辺幸蔵氏等、 みな発起者となる。 なかんずく志水与三氏、最初より大いに尽力あり。 余の二十余年前ここに遊びし当時のことを記憶せられしは町長一人のみ。 本郡は山間に僻在し、 各渓流に沿いて村落をなし、 総じて一町、 六村、 十九校の小郡なり。 今日なお鉄道なく電灯なきも、各村に通ずる電話の設備あるは文明の恵沢なり。 当日、 玉井旅館に休泊す。 先年、 鶴山の詩を賦して贈りしことあるも、 酔後戯れに狂句をよむ。

  蓬莱は波路の外と思ひしに出石の山に鶴ぞすみける

 七日    暁天雨、 たちまち雪と化す。 旅館を発するとき、 雪すでに道を埋没す。  二人びきにて鯵山峠を攀じ、 渓行五里、 高橋村〈現在兵庫県出石郡但東町〉に達す。 会場および宿所は光蓮寺なり。 郡書記大橋礼吉氏、 案内せらる。聴衆、 風雪をおかして遠近より来集し、 その中には丹波地よりきたれるものありという。 演説にさきだちてすでに堂にあふる。 人情すこぶる淳朴なり。 先年、 山陰道巡回の際随行せし本多善円氏はこの村の所生なるも、 五、六年前すでに隔世の人となれり。 開会は村長和田市太郎氏、 校長堀芝之助氏、 宗教家松谷円覚氏等の発起なり。

八日    晴れまた雪。 夜来の積雪尺余に及び、 林壡一面銀世界と化しきたる。

積雪夜来俄作堆、 暁窓一望白皚々、 但山深処高橋里、 欲禦暁寒漫挙杯、

(雪は昨夜から降り積もって、 にわかにうず高いものとなった。 暁の窓から一望すれば白一色である。 但馬の山深いところにある高橋村で、 夜あけの寒さをふせごうとして、 みだりに杯をかたむけたのであった。)

宿寺を発する後、 風雪はげしく面をかすめてきたる。 先発車は三人びき、 後列は二人びきにて、 積雪を排して進む、  その最も多き所は約二尺あり。 村落には男女ともに藁にて造りたる深靴をうがちて、 路雪を排除しおるを見る。 渓行四里にして資母村〈現在兵庫県出石郡但東町〉に入る。 途上の雪景おのずから詩思を動かす。 会場は蔵雲寺、 宿所は渋谷旅館なり。 聴衆満堂、 丹後より来聴せるものあり。  この地、 丹後と境を接し、 大江山も遠きにあらず。 しかして資母の村名の孝子にちなめるを思い、  でたらめをうそぶきたるも、 旅中の一興なり。

思ひきや出石の山の奥ふかき、 鬼すむ里に資母を見んとは、

村長能勢兵次郎氏、 農会技手橋本吉之亮氏、 校長高橋清喜次氏等、 みな大いに尽力せらる。

三月九日(日曜)  晴れ。 雪道をうがち、 車行四里強、 出石町に至りて玉井屋に一休す。 森岡郡長をはじめ、 志水氏等ここにありて迎えられ、 ともに昼餐を喫し、 急行して城崎郡豊岡町に向かう。 別れに際し、 出石郡内発起者より名産出石焼を寄贈せらる。この辺りの腕車みな地名を記せる小旗を掲げて走るは、他に見ざるところなり。豊岡町〈現在兵庫県豊岡市〉の会場たる郡公会堂に着するとき、郡長小林正義氏ここにありて迎えらる。開会は町教育会の主催にして、 町長佐川恒太郎氏、 助役小田切時之助氏、 校長平井慶治氏その発起たり。 天候寒く、  かつ町家昼間多忙なるために聴衆少数なり。 宿所海士館は一帯の長流に臨み、 対岸に山雪を望み、 水漫々雪峩々、  一は青く一は白く、 その風致また画中の趣あり。 当町の特産は柳行李にして、  一年の産額約八十万円という。 発起者より旅行用のカバンを恵与せらる。

十日 曇り。 ときどき朔風雪をもたらしきたる。 汽車にて竹野村^現在兵庫県城崎郡竹野町〉に移る。 会場は小学校、 宿所は竜海寺なり。  この地は北海に面し、 松巒の海中に突出せるありて、 巒上一望、 遠く満州を睥睨するの慨あり。 往昔、 柴栗山翁ここに遊び、 記文をとどめられしより、 その名ようやく世に知らる。  その文中の句に基づき楼名を選して浩然館とし、  かつ賦するに一絶をもってす。

青松巒与白浜連、 当面蒼波望傻渺然、 憶昔栗山遊此境、 把杯牌脱満州天、

(青い松の山と白い浜が連なり、 正面の青々とした波を一望すればはるかに広がる。 むかし柴野栗山がこの境地に遊ぶをおもい、 杯を手にはるか満州の空をうかがいみたのであった。)

市街尽頭に菅公社あり。  社側に望台あり。 その上に登れば松巒眼前に横たわる。 砂路をわたりてここに達すべし。 夏時の避暑、 浴詠に適す。 主催は村教育会にして、 村長増田久左衛門氏、 校長土屋志摩稲氏、 青年会長清水万太郎氏、 もっぱら尽力あり。 小林郡長ここに来宿せらる。 深更および早朝ともに、 揮毫に多忙を極む。

十一日    雪。 汽車に駕して江原駅に降り、これより渓行二里余、積雪二尺、馬の先引きにてようやく清滝村〈現在兵庫県城崎郡日高町〉に達す。 郡視学前田芳太郎氏同行せらる。

渓頭一望白漫々、 雪後無風気自寒、 路有高低車不進、 馬扶人力度林巒、

(谷のほとりで一望すれば白雲がどこまでもつづき、 雪降ったあとは風もなく、 寒気はおのずときびしい。道は高低することはなはだしくして車は進まず、 馬が人力車の先引きをして林や山をぬけて行ったのであった。)

会場は小学校、 主催は青年会、 発起かつ尽力者は村長前田孫左衛門氏、 校長村尾俊蔵氏、 宿所は村長の宅なり。村内積雪多き所は地上三尺に及ぶ。 余は四十年来はじめてかかる雪を踏めり。  当地は渓流のかかりて瀑布をなす所ありて、 山水の景色に富む。 村名もこれより起こる。 よって一詩をとどむ。

渓行数里路猶平、 水色山光自紫明、  一帯清流懸作瀑、 由来称得起村名、

(谷を行くこと数里にして道はなお平らかに、 水の色と山のようすはおのずから紫をおびて明るい。 ひとすじの清流が空中にかかるように滝となり、 もとよりこれが村の名となったのである。)

十二日    晴れ。 朝気〔華氏〕三十二度。 簷滴みな凍り、 氷柱屋をめぐる。 清滝を発して江原に憩う。 中尾某氏、

往復とも送迎せらる。これより汽車にて朝来郡に入れば路上雪を見ず、ただ田圃の間に点在するのみ。竹田村〈現在兵庫県朝来郡和田山町〉にて開会す。 主催は樹徳会、 発起は村長石原廉吉氏、 校長宮本信道氏、 学務委員木村勘左ヱ門氏、 会場は小学校、 宿所は松浦旅館なり。 樹徳会は余がはじめて修身教会を設立せしとき、 その旨趣に基づきて開設せるものなりと聞く。 当地には山名宗全氏の築せし古城跡あり。残礎なお依然として山上に存す。 また、朝来山下の桜樹はその名高く、 花期遊覧者多しという。 故に一作をとどむ。

環境皆山一水清、 風光明媚竹田城、 里人不問英雄跡、 只賞朝来峯下桜、

(めぐるのはすべて山で、  ひとすじの水が清らかに流れ、 風光明媚な竹田城である。 村人は英雄の跡をたずねようともせぬが、 ただ朝来山下に咲く桜だけは遊賞するのである。)

客庭、 紅梅花まさに盛んなり。

十三日    曇晴。 但馬を去りて播州に出ずれば、 山上なお雪をとどめず、 気候大いに異なるを見る。 播但線山崎駅に降車し、 これより二里、 加西郡北条町〈現在兵庫県加西市〉に至り、 西岸寺にて開演す。 随行後藤氏所住の寺なり。  主催は修養会にして、 会長は森源兵衛氏、 副会長は福永恒三郎氏なり。 両氏の尽カ一方ならず。 夜に入りて南半球旅行談をなす。 余のここにきたるは二回目なり。 郡内の村名に読み難きものあるを聞く。 鎮岩村をトコナべといい、 両月村をワチといい、 越水村をウテミという由。 揮毫所望者多きために、 夜半後寝に就く。

十四日    晴れ。 五時に起き、 六時に発す。 夜ようやく明く。  北条町を出ずれば満地白く、 濃霜ほとんど雪を欺く。 山崎駅より乗車し、 姫路を経て備後地に向かう。 

暁行の詩一首あり。 暁出寺門霜色新、 麦田一面白如銀、 今年何事寒難去、 三月播州気未春、

(暁に寺の門を出ずれば霜の色も新しく、 麦田は一面に白くしろがねのようになっている。 今年はどうしたことか寒さが去らず、 三月の播磨の国はまだ春には遠い。)



 

兵庫県開会一覧表(二)

郡     町村      会場     席数    聴衆    主催


武庫郡 大庄村  小学校    二席  三百五十人  村青年会

   武庫村   小学校  二席  五百人   村青年会

   良元村   小学校  二席  三百人   村教育会

朝来郡 梁瀬村  小学校    二席  四百人   三村連合

   竹田村   小学校  二席  五百五十人 樹徳会

養父郡 関宮村  小学校   二席   六百人   二村連合

出石郡       出石町        小学校          二席         六百人   町内有志

   高橋村         寺院   二席         七百人   村内有志

   資母村         寺院   二席         六百人   村内有志

城崎郡       豊岡町        公会堂         二席         二百五十人       町教育会

   竹野村         小学校         二席         五百人   村教育会

   清滝村         小学校         二席         四百人   村青年会

加西郡       北条町        寺院     二席        五百五十人       修養会

   同    同      一席   五十人   有志者

 

以上合計  六郡、 十三町村(三町、 十村)、 十四ヵ所、  二十七席、 聴衆六千三百五十人、 日数十三日間


 演題類別

詔勅および修身に関するもの 十二席

妖怪および迷信に関するもの 十二席

哲学および宗教に関するもの 一席

実業に関するもの  一席

雑題(旅行)に属するもの  一席