3.通俗絵入 

続妖怪百談

P181------

通俗絵入 続妖怪百談

1.サイズ(タテ×ヨコ)184×127㎜

2.ページ総数:189

 目録: 9

 本文:180

3.刊行年月日

 底本:初版 明治33年4月14日

 再版以下略(版次については「その他」の項を参照)

4.句読点

 なし。総ルビ

5.その他

 

 (1)版について:初版ののち,毎年2回ほども版を重ね,明治39年11月15日には第12版(発行所は哲学書院から田中菊雄・瀬山順成堂にすでに変更になっている)が発行された。さらに大正3年5月28日に岡村書店より改版初版が発行され,大正6年12月28日に第4版が発行された。以上が確認できた発行状況である。

(巻頭)

 (2)書名について:何版からかは不明であるが,『通俗絵入 妖怪談』と書名が変更された。ただし,本文は大正6年版のものまで全く変更はなく,目録題・内題・尾題が「妖怪談」に変わっているだけである。(版によっては目録題だけ変えて,あとは初版のままのものもある)本集では最初の書名を生かすため初版を底本とした。

 (3)表紙について:表紙の幽霊図は初版と『妖怪談』に変更後とでは構図はよく似ているが別図であり,大正の改版からはそれが削除され,かわりに口絵一葉が添付された。また,本文の上に頁ごとに細長のカットが置かれた。

6.発行所哲学書院

P183--------

〔序  言〕

 編者いう、「余、かつて妄雲を払って真月を見、偽怪を排して真怪をあらわさんと欲し、『妖怪百談』を編述したりしも、いまだ民間の偽怪を払い尽くすに至らず。ここにおいて、さらに偽怪の種類を収集して、いちいちその妄を弁じ、ようやく積んで百談となる。これを題して『続妖怪百談』という。これ、「真怪百談」に達する階梯のみ。ゆえに、もし識者をしてこれを読ましめば、必ずその説の通俗卑近に過ぐるを笑わんも、余があえて辞せざるところなり」

続妖怪百談

第一談 霊夢の感応

 古来、世に伝うる霊夢はなはだ多きも、余、いまだ真正の霊夢を発見せず。ただ、一事実の霊夢に近きものを得たり。これ、木原松桂氏の一代紀行なり。同氏は安芸国賀茂郡竹原村の産にして、今をさることおよそ百年前、霊夢の感応に接せり。その顛末は同氏の自ら筆記せる紀行中に出ず。余、これを友人に借りて一読し、その実に希代の不思議なるを感じ、これを複写して今なお秘蔵す。左にその要点を摘載すべし。

 わが母上の御名はお{、}さ{、}な{、}。わが家に嫁したまいて四男一女を生みたまう。安永八己亥、わが四歳のとき御里へ帰りたまいて、再びわが家に帰りたまわず。われ十四、五歳に至りて、母上追慕の心いよいよ増さりて、御跡をたずね得んことを心に誓いけれども、家貧にして他行なりがたし。よって医とならんと思えり。これ、諸国を周遊するに便なればなり。寛政五年、われ十八歳のとき医師の弟子となりぬ。享和二年、われ年二十七歳、春正月、母のために周遊せんことを師父に請い、許しを得て出立す。その年十月十六日、阿波の国西林村という所に至り、夢中に母上を見奉る。円頭黒衣の姿なり。同三年正月三日、讃岐金毘羅にて、母上わが家に帰ると夢む。四月六日、高松領歌野郡器土村に宿す。未明に、だれとも知らず母上を伴いきたると夢む。この行、父上の病のため志を遂げずして家に帰る。文化元年三月、夜夢に、海辺にて長き松原の続きたる波打ち際、白雪のごとき砂原にて、黒衣を着たる女僧五、六人連れにて、松原の中、ほりくぼみたる砂道あるを通り、向かいに禅院ありてその方へ急ぎゆきける。その中に、母上の御顔に見違うかたなき女僧あり。ただちに近寄りことばを掛けんとせしに、疾く走りてついにその影を失うと覚えて夢さめぬ。同三年四月二十七日早天、一宇の禅院より母上の白骨を得てわが家に持ち帰ると夢む。同七年三月、夜夢に、前のごとく海辺長き松原続きたる砂原に、漣漪〔さざなみ〕の打ち寄する気色の美なるをながむる所に、墨染めの衣着たる女僧一人忽然と現出し、われに向かい、「汝が母なり」といいて禅院に至る。松崎の中、その影を失うと見て夢はさめぬ。

同八年正月二十九日早天、しきりに眠りを催す。夢に、かの広き海浜の雪のごとき砂原に、小松の列生したる所に至る。北と覚ゆる方は海にて景色よし。はるかに南をながむれば、その間数里にして、連山波涛のごとく東西に走る。中に一山、突兀として削り成せるごとき高峰あり。その左の方に神社ありて、華表〔鳥居〕も見ゆ。はなはだ勝景なり。これをながむるうちに、母上に彷彿たる女僧染衣を着し、われを顧み、かの高峰を指さし、「あの山こそ安芸の」というに、たちまちその影を失いければ、すなわち夢さめぬ。文化十一年の三月、夢に、かの海辺並木のまばらなる、白雪のごとき砂浜を溝のごとく掘りたる道を、女僧五、六人打ち連れ、松間に見ゆる禅院の方へ急ぎ走れり。その中に、またわが母上に彷彿たる一僧あり。早くその道を追いて言わんとせしに、ついにその姿を見失う。

 文政九年四月二十二日、暁の夢に、母上に逢い、「ウジミ坂」とただ一言仰せられたるように覚え、これよりウジミ坂という所はなきやと諸人に問えども、知れる者なし。文政四年ふと思い出だせしは、昔、『西遊記』といえる書を読みし中に、薩摩潟に吹上の浜といえる所あり。その歌に、「吹上の浜は真砂に埋れて老木ながらも小松原かな」とあり。

われ、これをつらつら考うるに、老木をうずむるほどの砂のありける土地、いまだ聞き及ばず。わがこれまでの夢、いつもかわらぬ海辺、幾里ともはかられぬ長き小松原なり。よって今思うに、かの吹上の浜こそわが見し夢によく符合せり。いそぎ薩摩に至らんとしきりに思い立ちける。とかくするうち、今年もすでに霜月に至りぬれど、いまだその日を得ず。この月八日夜、九州行きの路費、かつ留守中のことなど、また来し方母上の御事思い続け、暁鐘を報ずるまで寝につかざりしが、にわかに心神朦朧として覚えず仮寝す。夢に、かの海浜に至りぬ。折から微風吹きそよぎて漣漪〔さざなみ〕、浜の砂を淘げる。その前真向こうに見ゆる孤島ありて、島中みな平地にして松樹生い茂れり。光景極めて美なり。これをながむるうち忽然と染衣の女僧きたり、「われは汝の母なり」と、わが手を取りて小児のごとく背をなで、「汝、積年われを慕う心のうれしや」と涕泣したまう。あまりのうれしさに、しばしは言葉も出でざりしがふと心づき、「今、母上のおわする所をばなんと申すぞ」と問い参らすれば、「ヨナゴなり」と答えたまう。また、「いかなる人の所におわするぞ」と問えば、「ヨネタヤモキチ」とのたまううちに、門前の馬の鈴音、人の放歌の声に夢はさめぬ。

 このとき、わが故郷の兄上、幸四郎といえるもわが家に来たりいませり。夜明けてこの夢を語る。朝飯を喫するとき、門前にたまたま老人の乞者あり。内に呼び入れ食を与えて後、「何国の者」と問うに、「作州津山の者なるが、今は回国の身となり、このたび厳島へ参らんと思いて来たれり。子供も多く田畑も持ちて、若きときは小間物商いして伯耆の米子へ通いしこともありし」と語る。われこれを聞き、夜前の夢の虚実を試みんと、「米子はいかなる所ぞ、宿はなんといいしぞ」と問いければ、「片原町木屋仁左衛門と申して、前は船着き松原あり、後ろも同じく松多くして風景よき所」という。われまた試みに偽り問いて、「われも先年米子に遊びしことあり。米田屋茂吉という者ありて、この家にもと竹原生まれの婦人、かかり人となりておれり。これを知らずや」と問うに、「その人は知らざれども、その米田屋という家は知れり」という。よってその地の風景、全く夢中に見たる所と異ならざるを聞き、これ必ず神霊のわが宿志を果たさしむる祥兆なりと思い、九州行きをやめ急ぎ伯州に赴かんとす。されどこのころは、備雲の間雪深くして二丈余も積もることを聞き、春暖雪尽くるを限り発程せんと支度しぬ。

 文政五年春に至りて、図らざりきわが身、病にかかりて急に発程することを得ず。八月の末に至り、わが足痛すこしく減ぜしかば、われは轎に乗り上下四人、九月朔日に発程す。米子に到着後、両三日ありて足痛癒えければ、かの米田屋茂吉なるもの同所岩倉町にありと聞き、その家に至り聞き合わするに、主人夫婦壮年の者にて、「古きことは一円知らず、近年旅人の寓居せることなし」という。これより米田屋と家号せるものあれば、すなわちゆきてこれを問う。みな、「さることなし」という。米子の近郷はもちろん、南は雲州、東は因幡街道までわれ自らゆきてさぐり、その間にはこのはなしを聞き、「志ある者、似寄りたること聞き出だせば告げきたりしが、みなわが母上にてはなかりき。伯州と雲州との国境は会見郡渡村といえり。この渡を経て雲州縫浦に至る。米子より縫浦まで七里あり。この渡の船人市蔵という者その話を聞き、手をうって、「さても不思議のことなるかな。

その婦人は当村にて死しけるが、今もその家存せり。この村にて夫もありて子も男女あり」とて、生涯のことどもはなしける。よって明日、われ渡村へ行き宿を定めぬ。さて、人あまた集まりてその見聞せることを語りけり。中にその所生の子も来たりおれり。その人、母の故郷にありしときのことども、聞き覚えて語りけるをわれつらつら聞くに、全くわが母上の御事に疑いなし。されども、なおもくわしく聞かんとせしが、夜すでに鶏鳴に至りければ、衆みな辞し帰れり。われも打ちふしぬれど、まどろみもせず。

 今宵この里人の物語を聞き、いとど来し方のなつかしく思い続けて、しののめ近くなりけり。たちまち一睡するうち、夢に以前のごとき白砂の海浜、松樹列生せる所に至り風景を見るうち、黒衣の女僧きたるを見れば母上にていませり。近よりてよくよく見るに、前の夢にかわり昔にあらぬ御事は、両眼ともに盲いたまいけるに、いと悲しくて御手を取り、「情なき御ありさま」と申しければ、わが手をしかととりたまい、なんの言もなく深く涕泣したまいぬ。このときわれいいけるは、「これまでいくたびもこの海浜にて行き逢い参らすれど、はかなき夢にてついに御姿を見失いぬ。今はもはや放しまいらせじ。ただちにこの輿にめしたまえ」と、われ米子にて乗りきたりし輿に乗せ、ただちに高野山の北なる雲州領の番所の前を通り、ここより南なる一人通りの細道、篠笹原の坂路を急がせ帰る折から、思いがけなき篠原おしわけてあらわれ出ずるものあり。ふりかえり見るうちに、宿の主人「朝飯たべよ」と起こすに夢はさめぬ。朝飯終われば渡村の人々また来たりて、かの生前のことを語るを聞くに、これ真の母上にてあるべしとは知りぬ。異父弟長七いう、「われ八歳のとき父源兵衛、汝に母の故郷を教えおかんとて、われを召し連れ御国もとへ至らんと、高の山のあなたまで参りしに、折節五月雨降り続いて行路はなはだ難儀に、その上、少し痛みはじまりて、ついに御国へは至らずして帰りき」と。

 また、ここに一つの奇事あり。今年七月十四日、母の位牌に華の木三本花瓶に挿してそなえしに、生気盛んにして花瓶の中にて新芽を出だし、枝葉繁茂し、はじめの下葉は枯落して、新葉盛んに生じけるゆえ、悪事か善事のあるならんと近隣の者も見に来たり、少しも水を加えざるに、後の枝葉萎落し、また新芽を出だし、日を追って枝葉繁茂すること、また前のごとし。後には瓶中水尽きぬれど、その木はもとの色なりと、誠に奇談というべし。かくて、衆人の言えるところ誠に母上の御事と符合し、かつ、われたびたび見し夢中の地形、この渡村より弓の浜の景色に違うことなければ、これ必ず母上の御事にてあるべしと決しぬ。

 ここにおいて、菩提寺の大祥寺に参り和尚白元に逢う。御墓は大祥寺門より一町半ばかり東、米子より出雲松江の往来渡り口の道の北側にあり。明日、異父弟長七の家に至り御位牌を拝す。さて、御位牌に供えし花の木を見れば、長七が言のごとく、瓶中に挿しながら生気盛んにして仏壇の天井に達す。しかれども、なおその真偽を試みんと欲し、たまたま唐の王少玄が事跡を思い出だし、血を死体にそそぎてもってわが疑いを解かんと、このことを長七に説きければ、しかりとせり。よって長七を伴い寺に至り議しけるに、和尚許諾し、「速やかに試みられよ」といえり。われ、ここにおいてまた考うるに、万一他人の骨にても滲湿して透徹することあらば、このことまた益なし。古人よく自他の骨を試みしやいなやは知るべからずと思いて、これより米子に至り、官に訴えて刑人の枯骨を請い受け、わが血をそそぎ試み、もしこれに浸透するときは、これまたやむにしかずと約して宿に帰りぬ。渡村の人、わが宿に来たり語りけるは、「ここは当春、畑の底を掘ることありしに、たまたま全体そろいたる枯骨あり。

これを大祥寺の墓地に埋めたり」と。われ、これを聞き幸いなりと思い、即時に寺へ行き墓に至り、事すまば供養して参らすべしといいて掘り出だし、顱骨を寺へ持ち来たり、これを洗い、少時ありてわが右手を刺しけるに、おびただしく血出でぬ。ただちにかの顱骨に受けること暫時、その骨上の血の乾くを待ちて洗滌し去れば、もとの白骨となりぬ。ここにおいて、他人の骨には染滲することなきを知れり。かの古骨はもとのごとくうずめ、回向を寺へ頼みて帰りぬ。かくて、衆人と母上の墓所に至り拝礼して、「ただいま御墓所を掘り、わが血を御遺骨にそそぎ滲透せざるときは、わが母上にてはあらざるべし」といいて御墓を掘らせけるに、この地もとより乾脆の粉砂なれば、ついに尊骸を掘り出だしぬ。謹んで拝し奉るに、全身の御骨そのまま存して頽敗せず、御顔と御胸板とには肉も存せり。ことに御両眼閉じたまいて、上下瞼胞の肉もありて、睡眠したまうごとくなり。御歯二枚出でて、われ五歳のとき見奉りしごとくにて、両の御手は膝にもたれぬ。いずれの御骨にかそそがんと、右の御手をなでけるに、御臂骨たちまちわが手に落つ。これを清水にて洗いて後、わが左手を刺せば血またおびただしく出ず。ただちに御骨にそそぎければ、みなあけになりたり。また、新水をもって御骨の血を洗い落とすに従い、赤雲の浮動するごとく浮き出で浮き出で、ただ一面の紅色となれり。われここにおいて、同血分身の理違うことなきを知れり。

なお目を放たずこれを見るに、紅色の一辺のそのうちをきって、また一条の白線色をひけり。その色しばらく変わらざりければ、御臂骨もとのごとく続き合わせ、御尊体をもとのごとく埋葬し奉り、ただちに母上なること明白にして、積年の志願遂ぐることを得、うれしくもまたありがたく、落涙することを覚えざりき。この場に来たれる人々、御両眼の肉脱落せず閉じて眠りたまえるごとく、御胸板もまた痩のあるのみにして、御存生のごとくなるを見て、われこの村に来たるはじめの夜、盲目となりたまいたる夢と、今日御遺骸のありさまと符合せるを奇異のことなりとせり。ここより、わが主従と長七と海浜にそいて長七が家に至る。右の道筋は、みな母上の往来したまいぬる蹤跡なり。

 渡村の南を望むに、この村と雲州領大根島の間、もと十町ばかりありける由。今は両国ともに新田を築き出だし、その間わずかに一、二町ばかりに見ゆ。大根島は平地にて松樹列生し、はなはだ佳景なり。なお、この米子より四里ばかりの行程平地にして、田畑のほかみな白雲のごとき粉砂にして、わずかなる小石もなし。この地、われたびたび夢に見し絶景に変わらず。また、米子より東浜口へ二里ばかりもあらんか。渡村より淀口までは六、七里の行程かの白砂にして、諸人跣足にて歩むこと自由なり。他国にはまたまれなるべし。ここより御国領高野山ならびにカノウ峠を眺望すれば、山形波涛のごとく見ゆ。この地に至り見れば、前年夢中に母上の「あれこそ安芸の山なり」と指したまいしは、このカノウ峠のことなりけん。今、その実なることを知れり。文政五年九月朔日発程して、同霜月十日、ついに積年の志願を遂げて家に帰りぬ。

 以上は木原松桂氏が紀行の要略なり。氏がはじめてその母を夢にみしより、二十一年目にしてその目的を達せり。これ実に奇夢中の奇夢、霊夢中の霊夢というべし。世に夢の符合せるもの多しといえども、いまだかくのごとき奇合あるを知らず。しかるに余は、なおこれをもって霊夢となすに足らずと考うるなり。まず、その符合せざる点を挙ぐれば、第一に、夢中にみしところは染衣の女僧なりしも、実際はその母決して女僧となりしにあらず。これ、あに符合というを得んや。第二に、夢中に聞きし場所はヨナゴなりしも、実際その地は米子にてはあらざりき。たといその近傍なりとするも、いまだもって符合というべからず。第三に、夢中に聞きしところは米田屋茂吉なりしも、実際母の寄留せし家は全くこれに異なれり。その家の名は前に略せしも源兵衛と称せし由。ゆえに、これまた符合せざること明らかなり。しかして、夢中に見し風景が符合せりというも、海岸の風景はいずれの国にても大抵似たるものにして、砂原に松樹の列立せるがごときは、いずれの海浜にも見ることなれば、あえて奇とするに足らず。ただ不思議とすべきは、その母の住せし地は四国あるいは九州ならんと思いしに、雲伯地方なることを夢中によりて得たるの一事のみ。かくのごときは、予がいわゆる偶合に帰するも不可なることなし。その米子に米田屋茂吉と名づくる家ありしがごときは、かつて人の談話中に聞き、もしくは書籍中に見たるもの、無意識的観念となりて記憶中に存せしと解して可なり。

また、同じき夢を数回続きて見たるがごときは、その母を思うの一念によりてよび起こしたるものにして、かくのごときは吾人平常経験せることなれば、もとより異とするに足らず。その墓前に供えし樹木の繁茂したるがごとき、死体の朽ちざりしがごときは、夢と関係なきことなれば、あえて奇とするまでにあらず。かつ、その死体が果たしてその母の死体なりやいなやは、余大いに疑いなきにあらざれど、こは世人の判定に譲りてここに論ぜざるも、そのことたる、なおいまだ霊夢とするに足らざるは明らかなり。けだし、世に霊夢中の霊夢として数十年来伝わりしものすら、なおかくのごとし。いわんやその他をや。

 

第二談 夢の統計

 世間たまたま夢と事実との暗合するあれば、たちまちその不思議を鳴らして、これを精神の感応もしくは神人の感通に帰す。余案ずるに、人々毎夜多少の夢を見ざるはなし。そのうちには偶然事実と暗合するものあるべきは自然の数なり。今、日本一国につきて考うるに、国民の数を四千万とし、毎夜平均一回ずつ夢を結ぶと想像するに、一カ年の夢の総数は、

     40,000,000×365=14,600,000,000

 すなわち、百四十六億の多きに達すべし。もし、毎夜夢を結ばずとするも、九日、十日の間には必ず一、二回の夢を結ぶは明らかなり。もし、十日一夢の割合をもって算すれば、一カ年の総数十四億六千万となるべし。しかして、世間のいわゆる霊夢は一年中にいくたありや。仮に毎年十回ありとするも、総数の一億四千六百万分の一に過ぎざるなり。かく推算しきたらば、世の霊夢はいまだ霊夢とするに足らざるを知るに至らん。

 

第三談 占夢の力

 『晏子春秋』に、斉の景公の病を占夢者の言をもって療せし一話を掲ぐ。これ、精神作用の治病に効ある一端を知るに足る。よって、左にこれを録す。

 景公、水を病みて臥すること十数日。夜夢に、二日と闘いて勝たざるを見る。晏子、朝に登る。公曰く、「昨夕、夢に二日と闘いて寡人勝たず。われ、それ死せんか」と。晏子こたえて曰く、「請う、夢を占うものを召さん」と。閨を出でて、人をして車をもって占夢者を迎えしむ。占者至る。曰く、「なんすれぞ、召さる」と。晏子曰く、「昨夜、公、夢に二日と闘いて勝たざるを見る。公いえらく、『寡人死せんか』と。ゆえに、君に請いて夢を占わしむ」と。かつ晏子、占者に教えて曰く、「公の病むところのものは陰なり、日は陽なり。一陰二陽に勝たず。ゆえに病まさに癒えんとす。これをもってこたえよ」と。占者入る。公曰く、「寡人、夢に二日と闘いて勝たざるを見る。寡人死せんか」と。占者こたえて曰く、「公の病むところは陰なり、日は陽なり。一陰二陽に勝たず。公の病まさに癒えんとす」と。おること三日、公の病大いに癒ゆ。公、よって金を占夢者に賜う。占者曰く、「臣の力にあらず、晏子の臣に教うるところなり」と。公、晏子を召してこれに賜う。晏子曰く、「占夢者、占の言をもってこたう。ゆえに益あり。もし臣をしてこれを言わしむれば、すなわち信ぜず。これ占夢の力なり。臣、効なし」と。公、ふたつながらこれに賜いて曰く、「晏子は人の効を奪わざるをもってこれを賞し、占夢者は人の能をおおわざるをもってこれを賞す」と。

 これ、余が心理療法の必要を唱うるゆえんなり。

 

第四談 海鰮の頭も信心から

 貝原〔好古〕の『諺草』に、「海鰮の頭も信心から」といえる諺を解するに、『風俗通』の一話を引きて説明せり。その原文を和訳すること左のごとし。

 汝南鮦陽に、田において麏を得るものあり。その主いまだゆきて取らざるなり。商車十余乗、沢中を経て行く行く望むに、この麏の縄につくを見る。よって持ち去りてその不事なるをおもい、一鮑魚を持してその所に置く。しばらくありてその主ゆきて、得るところの麏を見ず、ただ鮑魚を見る。沢中は人の道路にあらずして、そのかくのごときを怪しみ、大いにもって神となす。転々相告語して、病を治し福を求むるに、多く効験ありという。よって、ために祀社を起こす。衆巫数十、帷帳鐘鼓、方数百里、みなきたりて祷祀し、号して鮑君の神となす。その後数年、鮑魚の主きたりて祀の下をへて、そのゆえを尋問して曰く、「これわが魚なり。まさになんの神あるべき」と。堂にのぼりてこれを取り、ついにこれを壊つ。伝に曰く、「物の集まる所、ここに神ありというは、ともにこれを奨成するのみ」と。右の意は、醃魚を神なりと信仰して、病を治し福を得しとなり。「鰯の頭も信心から」というも、これと同意なり。

と記せり。これによりてこれをみるに、精神作用の治病に効験あるは、決して疑うべからず。

 

第五談 幽霊をきる

 『霖宵茗談』に、ある僧が幽霊をきりたる話を掲ぐ。

 去るころ洛陽にありしとき、ある人の語りしは、「いにしえ、西の京辺りに真言宗の寺ありしが、この住僧もとより顕密の奥義を究め、ことに九字護身の行法に達せられけるが、ある年の夏、昼の間は極暑の時分なればとて夜学を勤められ、広き書院の戸障子をあけて、宵より夜いたく更くるまで勤学しておられしに、夜も深更に及んであまりに心気疲れしかば、しばらく休らいて庭の方を仰ぎて見られけるに、折しも宵月夜のころなれば、月も入りて暗かりけるが、縁の端にだれとも知らず、白き物を着たる人立ちいたりければ、この僧これを見るより怪しくも怖くも思われければ、白装束なるもの少し動きて歩み行くようにも見えしかば、ハッと思いてそのまま口伝の九字を唱えて九重にきりかけられしかば、かの白装束の人もそのまま倒れて失いたり。さてはと思いて、それより勤学をもやめて寝られけるが、さて夜明けて昨夜の縁に出でて見れば、湯衣を九つにきりて落としおきたり。これは昼のうち行水して湯衣を竿に掛けてほしおきたるを、夜更けて風に当たるを見て怖しと思う遍計の妄情より、たちまち動き歩むように見えたるなり。

 これ、石を見て虎と誤り、縄を見て蛇と認むるの類にして、われわれの幻覚より生ずる幽霊の一例なり。

 

第六談 心の鬼、自ら心を悩ます

 また同書〔『霖宵茗談』〕に、幽霊の妄覚をいやしたるおもしろき話あり。これ、余が心理療法の好材料なれば、左に抜記す。

 いにしえ、梅津の里辺りの百姓の妻、あるとき産の上にて命終わりしかば、〔夫は〕嘆きの上にもひとしお、産の上にて死したることを悲しみて、後の世のことまでも不愍〔便〕に思いやりて、寺に送り葬いして後も、過ぎ去りし妻がことのみ、とやかくとかねて言いしことなど、夜臥してもつやつや寝もやられず、来し方行く末をおもいやりて、魚目鰥鰥として目も合わせずしてありけるが、折しも夏のころなりしが、蚊帳の外へ死したる女房来たりて、しおしおとしていたりしゆえ、夫これを見ておそれて、いよいよ寝もやられず、息をもせずしていたりけるが、明け方になりて、かの亡妻出でて行きけり。それよりは毎夜来たりては明け方に帰りければ、夫は怖さたえ難く夜の目も寝ざれば、色青く痩せ衰え、心気疲れてただうかうかとなれり。

一族ども笑止に思いて、「なんと気色にてもあしきにや、とにかく顔色も衰えたれば、薬にても用いたまえかし」といえば、「いや、別に気色もかわることなし」とて子細をも言わずしてありしが、毎夜亡妻来たるゆえなんとも怖く、日暮れになれば、はや来たらんかと苦になりければ、次第に気も衰えけるまま、なんともすべきようもなくて、菩提寺へ行きてひそかに和尚に対面して、はじめよりの様子を語りて、「それがし、亡妻がことを不愍〔便〕に存じて、朝暮絶えずおもいやり候ところに、ある夜より亡妻来たりて蚊帳の外にいて、明け方まで帰り申さず。毎夜のことにて候えば、おそろしさのあまりなかなかうるさく、日暮るればまた来たらんことの苦になりて、思わず心気衰え疲れて、かように顔色憔悴いたし候。定めて悪趣にもや迷い候わんまま、和尚の御慈悲にて亡者の迷いを転じて、再び来たらざるようになしてたまわり候え」と、涙とともに始終を語りければ、この趣を和尚とくと聞きて、「なるほど、亡者の迷いを転じて再び来たらざるようにして得さすべし」とて、かたわらの菓子盆にありし煎豆をつかんでこの男に与え、「汝が手のうちにしかと握りて開くことなかれ。

今夜臥しても、しかと掌に握りて臥すべし。さて、亡妻来たらばおそれずして、この握りたる手を出だして、亡妻に『これはなんぞ』と問うべし。そのとき、亡妻定めて『煎豆なり』と答うべし。また、『数はなにほどありや』と問うべし。そのとき、亡妻定めて答うことあるべからずして去るべし」と教えられければ、この男、なんとも心得ずとは思いけれども、和尚の教えなれば、かの煎豆を握って宿に帰り、さて夜に入りてもしかと握りつめて臥しけるが、案のごとく亥の刻過ぐるころと思うとき、また亡妻来たりていつものごとく蚊帳のかたわらにおりければ、この男おそろしくは思うけれども、握りたる手を出だして、「これはなんぞ」と問いければ、亡妻案のごとく「煎豆なり」と答う。また、「数はなにほどありや」と問いければ、亡妻答うことなくして立ち去りて見えず。それより明夜も来たらず、なにごとなく五七〔三十五〕日になれども来たることなし。

 この男、不思議に思いて、また寺へ行きて和尚に対面して始終を語り、「さてさておかげゆえ、亡妻この間は来たらず、心安く寝候いて、少し心地も快くなりて、ありがたく存じ候なり」と数々御礼をいいて、「さて、いかようのことなれば、煎豆にて亡妻の幽霊再び来たらず候やとて、ものごとに子細を仰せ聞かせられたまわりたし」と申し候えば、和尚笑いて、「なるほど、これにて今よりは再び来たるまじ。別にほかの子細とてはなし。それはみな、はじめより汝が心より起こる迷いなり。全く亡妻の来たるにあらず。はじめ汝、亡妻がことを明け暮れ心のうちに思いて不愍〔便〕に存じ、後世は定めて迷いぬらんと、よしなきことを案じける心の鬼が亡妻となりて、毎夜来たりしなり。この亡妻と思いしは全く汝が迷いの心なり。それゆえにわれ、これを考えて煎豆を汝に握らせて亡妻に問わせければ、もとより汝が心に煎豆と知るゆえ、亡妻もまた煎豆なりと答う。数を問わせければ、もと汝が心にも数を知らぬゆえ、また亡妻も答うることなし。これ、汝が心に心を問わせたるなり。あさましき愚夫の妄情より、心の鬼に心を悩ませるなり。今よりは再び来たるまじ」と教訓せられければ、この男も得心して涙をながし和尚に礼して帰りけるが、それより再び来たることなし。誠に至極せる和尚の当意即妙なる了簡なり。

 その他、いにしえの話に、茄子を踏みつぶして蛙かと疑いければ、そののち多くの蛙きたりて己を苦しめたるを見しも、この例に同じ。古人曰く、「妖由人興」(妖は人によりて興る)と。余曰く、「妖由心興」(妖は心によりて興る)と。

 

第七談 疑心病を生ず

 諺に「疑心暗鬼を生ず」というがごとく、疑心病を生ずることあり。その例は『怪妖故事談』に出ず。『北夢瑣言』には、「一婦人、誤りて小虫を食す。爾来これを疑いて疾を発す。名医、その病の疑心より生じたるを知り、ことさらに薬を与えて吐瀉せしめ、看病婦に教えて、吐瀉物の中に一小蝦蟇ありて飛び出でたりと言わしめければ、病者これを聞きて安心し、病とみに癒えたり」という。また『名医類案』に、「人あり、姻家に招かれて大酔し、夜半酒渇にたえず、石槽にたくわうるところの水を傾く。翌朝これを見れば、槽中の残水に小紅虫充満す。爾来、鬱々として楽しまず。腹中常に蛆物あるがごとく覚え、ついに病を発す。名医呉球と名づくるもの、この病は疑心より生じたるを知り、紅色の結線、その状小虫のごときものを取り、これを薬品に加えて数十丸となし、もって病人をして暗室中にありて服せしめ、しばらくありて盆中に水を入れてこの内に瀉出せしむるに、薬中の結線あたかも蛆のごとし。病人をしてこれを見せしめたれば、その病たちどころに全治せりという。

 以上はみな疑心より生じたる病なれば、これを医するの法も、ただその疑いを解くべき処方を用いるをもって足れりとす。

 

第八談 陰陽家は鬼のために嫉まる

 世に陰陽を判ずるもの、およびこれを信ずるもの、多くは貧窮にして、その家災害多し。これ、なにをもってしかるや。『顔氏家訓』には、「陰陽を解する者は鬼のために嫉まれ、貧窮の者多し。近古以来、その術に精妙なる者は、ただ京房、管輅、郭璞のみ。しかしてみな官位なく、その多くは災いにかかれり」という(以上『諺草』)。果たしてしからば、陰陽家は鬼のために嫉まるるか。笑うべきの至りなり。

 

第九談 家造心得

 家相、方位は付会の妄談なることは、余ひとりこれを唱うるにあらず、古今の随筆中にもこれを非とするものすくなからず。今その一例として、『一言集』の一節を抜記すべし。

 家居を造るはたやすからざることゆえ、はじめによく考えあるべし。まず建地を設くるとき、南東をひらき、また北を少し開けて、夏目のしのぎをいたし、空地もあらば、追って建て足しのできるようなる設けもあるべし。もっとも、丈夫をおもにし飾りをはぶき、分限よりは手軽なるがよし。後年、修補のためにも利あり。また、壁の腰張り、襖戸、障子、畳などは、いつにても取り替えのなるものゆえ、ずいぶん手軽にしておくべし。また、世間に家相を正すといいて、ここかしこ禁戒を定め、これに習えば勝手便利の間取り、屋根の水取りなどよからぬようになり、しなじな差し支えあり。これ、すなわち家相のあしきなり、用うるにたらず。家相を正すというは、夏すずしく冬暖かに、奥より勝手向きの便利をよくし、盗賊、火災の防ぎ方を設け、地低の所は出水の手当ていたし、小破れを繕い、常に火の用心大切にして住む家を、すなわち吉相の家というべし。ただ、その家の主人の心相をよく吟味あるべし。

 東京には家相の迷信家すこぶる多ければ、すべからく右の一節を熟読すべし。

 

第一〇談 方角、生剋の弁

 『橘庵漫筆』に方角、生剋の妄を弁ずる一節、また引証するに足る。すなわち左のごとし。

 方角、時日を選ぶ説、往古はなかりしとぞ。周の代にようやく「甲子の日、君子楽せず」といえるは、紂王甲子の日ほろびしゆえなり。しかしながら、『六韜』に巫覡を禁ずる旨あれば、方位、時日の沙汰も民間にありしと見えたり。その後、戦国のときに至りてもっぱら方角、時日の説あるは、貪をつかい愚をはげます術に設けたり。李祐が往亡日のごときは、すなわちそれなり。往亡日はゆきてほろぶる日なりとて士卒進まざりしに、李祐がいわく、「われゆきて彼をほろぼす日なり」とて、軍を出だして勝利を得たり。畢竟、士卒を進退せしむる術に設けたるのみ。吉事を行えばいつも吉日なり、悪事を行えば悪日なり。臨んで時に日を卜すに及ぶまじ。

 五行の相生相剋をもって事を定むるに、相生を吉とし相剋を凶とすること、理において当たらず。孟浪たる俗説にして、事物の費え多し。それ『洪範』に曰く、「相生せざれば通達せず、相剋せざれば裁制なし」とて、さらに相生相剋に吉凶あるべからず。いわば火、金を剋すればこそ釜鼎、刀剣、金銭、鉏鍬となり、金、木を剋して耒耜、舟楫、匵函、家宅となる。かくのごとく相剋して、万民用をなし利を得るなり。陳図南〔陳摶〕の『神相全編〔正義〕』にも、「寒金微火を帯びて剋用をなす」といえり。相剋を凶とのみするは庸学のわざのみ。

 右のごとく、古来学者をもって目せらるる人にして、方位、生剋の説を信ずるものなし。しかるに、明治の昭代に生まれて、なおかかる妄説に迷うものあるは、実に嘆ずべきの至りなり。

 

第一一談 九星の迷信

 過日、『読売新聞』はがき集の中に迷信生の投書あり。すなわち左のごとし。

 近ごろ結婚したる二十六の男と二十一の女とあり。仲むつまじかりしに、男は酉の一白、女は寅の五黄とて、九星上、将来大凶なりとの迷信より、飽きも飽かれもせぬなかを離縁話が持ち上がりおれり。世には同じ年回りにて、無事幸福に暮らしおる人いくらもあるべければ、その例を知らせやりて、この哀れなる迷信の犠牲を救いたまえや。

 これまた、九星家の妄を解くに足る。

 

第一二談 厄年のこと

 わが国、民間一般に男女の厄年を妄信する風あり。これ、古代より伝うるところにして、そのことは『擁書漫筆』につまびらかなり。しかして、そのよって起こる原因に至りては明らかならず。『橘庵漫筆』には、男子は四十二を厄年とし、女子は三十三を厄年とする理由につき、左のごとく記せり。

 あるいはいう、「四十二は死という訓にて、三十三は散々という音なり。ゆえに疫年として忌めり」といえり。いずれより出でし説やしらず。なんぞ四十二、三十三にかぎるべけんや。一生涯を常疫とし、平素その独りを慎まば、鬼神、巫覡を頼むにまさらん。

 また、俗間に四十二歳の二つ子と称することあり。これ、四十二に二を加うれば四十四になり、国音死に死を重ぬる意に通ずるゆえに、これを大不吉とし、一度は必ずその子をすつるを例とす。『和漢合壁夜話』には左のごとく記せり。

 世にいい伝うるは、四十二の二つ子は他の姓をつがするものなりとて、かり親を頼む。丑年の子は兄にたたるといい、つちにあたる子はそだたぬといい、ひのえ午の女は夫にたたるというの類、世の俗説多くあることなり。

 『和漢三才図会』にも左のごとく記せり。

 男四十二を大厄となす。前年を前厄といい、翌年を跳厄といいて、前後三年を忌む。あるいは四十一歳、子を生めば、すなわちこれを四十二の二歳子といいてこれを忌み、他姓を称してもって他人の子となすの類、また惑えるのはなはだしきものなり。

 また、『本朝俚諺』には、世間四十四の二つ子を忌むゆえんを示し、かつ、これを駁して曰く、

 世俗、男の四十二歳を厄という。四十二を略すれば四二なり。これ死に通ずといい、四十二歳にて二歳の子あれば、父子の歳をあわせて四十四、略すれば四々なり。これ死に通ずといいて、子を捨つるものなり。このこと和漢の書にかつてなし。蒙昧の所為といいながら、その罪悪なげくに余りあり。これらの俗習をかたく禁ずべし。

 また、『和漢三才図会』に、除厄の方法につきて弁明して曰く、

 およそ厄に当たる前年節分の夜、追儺の炒り豆は年数を用い、銭を添えてこれをすつ。あるいは古犢鼻褌を取り、これを道衢に捨つれば、すなわち祟なし。これらはみな、その心を慰め禍を避くるなり。忌の字はすなわち己の心なり。小人といえども、貪欲度を守り、飲食、色欲節を守るは、厄を祓い災いを除く上策なり。太公曰く、「刀剣よしといえども無罪の人をきらず、横禍は慎家の門に入らず」と。

 これ、実に卓見というべし。しかるに、世に愚民の多き、この理を知らざるは慨嘆の至りなり。ただ、古来経験上の結果として、男子は四十二歳、女子は三十三歳前後に、疾病にかかるもの多き事情ありしによりて、かかる俗説の起こるに至りしならん。しかれども、これ必ずしも四十二歳、三十三歳に限るの理あらんや。

 

第一三談 シナの捨て子

 わが国にて四十二歳の二つ子を捨つるがごとく、シナには五月五日に生まれたる子を捨つという。左にこれを引証せん。

 『風俗通』に曰く、「俗説、五月五日子を生めば、男は父を害し、女は母を害す」と。

 『史記』に曰く、「田嬰、子四十余人あり。その賎妾子あり、文と名づく。文、五月五日をもって生まる。嬰、その母に告げて曰く、『あぐることなかれ』と。その母ひそかにあげてこれを生む。長ずるに及び、その母、兄弟によってその子文を田嬰にまみえしむ。田嬰、その母に怒って曰く、『われ、汝をしてこの子を去らしむ。しかして、あえてこれを生むはなんぞや』と。文、頓首す。〔よって〕曰く、『あげざるゆえんは、五月の子、その長戸とひとし。まさにその父母に利あらざらんとす』と。文曰く、『人生まれて、命を天に受くるか、はた命を戸に受くるか』と。嬰、黙然たり。文曰く、『必ず命を天に受く。君、なんぞ憂えん。必ず命を戸に受くれば、すなわちその戸を高くせんのみ。だれかよく至らん』と。嬰曰く、『子休せよ』」と。

 かく子の生日を忌むは、なんの理にもとづくを知らずといえども、古今東西、愚民の迷信、たいてい相似たるものなり。

 

第一四談 運と非運

 友人三宅〔雪嶺〕氏、先年『日本人』雑誌に、「運と非運」と題して左のごとく記せり。

 今上天皇陛下と誕生の日を同じくする者、おおよそ一千人なるべく、一千人のうちには時刻を同じくする者、少なくも十人あるべし。この十人の者、みな大幸というべきか。しかるに、みな今いずくにかある。市役所、郡役所にて討査せば、あるいはいわゆる饑饉流隷、道路に饑寒し、短褐の襲、儋石の蓄えあらんことを思い、願うところは一金に過ぎず。まさに★(講の旧字)壑に転死して終わらんとするあらん。運命といえども、また、むしろあはれむべきにあらずや。天長節に際し、特にこれらに物を賜るは、また、けだし朝礼を美にし、民情を厚くするゆえんなりと恐察す。

 余、かつてこれを聞く、「およそ世界の人類は、一秒時に六十人ずつ生まれ出ずる割合なり」と。果たしてしからば、釈迦、孔子、家康もしくはナポレオンと同日同刻に生まれたるもの、必ず五、六十人あるべし。もし、人の運、非運はその生まれたる時日によりて定まるものならば、これらの人はみな、釈迦、孔子、ないしナポレオンと同一の運命に際会すべき理なり。しかるに実際上、貧富、禍福、各大いに異なるところあるはいかん。これ、生年月をもって人の運命を鑑定するの非なるを知るに足る。

 

第一五談 帽子、山中に入りて見せ物となる

 余、先年、夏帽を新調して会津山中に遊びしことあり。そのとき、ある茶店に小憩してまさに去らんとするに、たちまち帽子の所在を失う。左右を捜索するも見当たらず、かかる山中なれば、だれありて盗むものあるべからず、また人の悪戯とも想像し難く、自らその意を解するに苦しむ。少時にして家婦、帽子を携えて帰り来たり、余に謝して曰く、「御前様の帽子があまり珍しき形して不思議の帽子であるから、近所近辺へ持ち回りて人々に見せてきました」と。余が帽子、図らずも村内の見せ物となれり。諺に「雀海中に入りて蛤となる」というがごとく、「帽子、山中に入りて見せ物となる」かかる山間の人には、なにを見せても奇怪に思い、したがって種々の怪談を生ずるに至るべし。古来、僻地愚民の間に怪物多きも、あえて怪しむに足らざるなり。

 

第一六談 天狗祭り

 去るころ、『岐阜日日新聞』に「愚民の妄信」と題して天狗祭りの状態を記せり。すなわち左のごとし。

 飛騨国大野郡辺りにてこのごろ流行する天狗祭りの起由を聞くに、今を去ること三十年前、越中国東砺波郡の増太郎といえるもの、一日天狗にさらわれたりしが、このほどふと帰村していえるよう、「〔明治〕二十七、八年の日清戦争にわが国が首尾よく勝利を得しは、ひとえに天狗の助けなり。さるを国民は少しも天狗を祭りて謝意を表せざるにより、非常に憤怒し、現に昨年のごときは、種々の害虫を下してこれを罰したまえり。本年も再び、同様害虫を下したまうべし」といいたりとの訛言、飛騨一円に伝わり、同国各町村は競いて天狗祭りを執行し、神楽をかつぎだして踊り回りおるよし。目下、大野郡清見村小鳥地方にては、例の天狗祭りに狂いおるありさま、狐つきならで天狗つきとはこれらのことならん。

 愚民の迷信は大抵この類なり。

 

第一七談 不知火

 筑紫の不知火といえばたれびとも知らざるなく、わが国にて最も名高き妖怪なり。先年、熊本高等中学校の教員は、これ海中の虫ならんとて、その試験を施したることあり。しかるに余、近日『不知火考』と題する書を読むに、別に一説を掲ぐるを見る。

 ある人いう、「不知火といえるは、かたもなきいつわりごとにて、昔よりその名たかく見る人多かれど、みないつわりに欺かれたるにて、その実を知らざるなり。これ、実は八代郡の海辺鏡村などいえるあたりより出ずる漁火にて、あくるあした八月朔のもうけの魚をとるなり。その夜は、かの村人もこれを竜灯といいて、いざ竜灯に出でんとてものするなり。それを遠くより見る人、不知火といえるは、いとおこ〔痴〕のわざなり。こは、はやくその郡のこと知れる某が、村民のまさしくいうを聞いてたずねたるに、漁火なることうたがうべくもあらず。かかれば、かのいにしえ、天皇のみそなわして岸につきたまいしも、漁火にやありけん。古人のおおらかなる心にて、里人の主しらぬ火といえりしを、くわしくもたずねず、語り伝えたるままに史にも記せしなるべし。今、くわしくその村民につきてただしたることなれば、うたがうべきにあらず。世人、昔よりあらぬいつわりごとに欺かれおるは、いとおこ〔痴〕なるわざなりといえり」と。

 この説たやすく信許すべからずといえども、わが国にて海浜往々、竜灯あるいは神火と称して、海上に火を見ることあり。このうちには、漁火を誤り認めたるものなきにあらず。ゆえに、竜灯、神火の怪のごときも、深く探見するにあらざれば、その実を知るべからず。

 

第一八談 狐の玉

 世間往々、狐の玉を秘蔵するものあり。なかんずく信州の山間にこれを拾い得たるもの多し。すでに『信濃奇談』には、「狐の玉」と題して左のごとく記せり。

 わが藩士に岡田の某という人あり。秋の末つかた、網もて三峰川の辺りを行けるに、白き狐のあこがれて、右に左に飛んで戯るるを見て、ためねらいて網打ちかければ、おどろきあわてて逃げ失せぬ。後を見れば光ある玉あり。拾いて見れば、白き毛もて作れるようの玉なり。今にその家にひめ置きぬ。『五雑俎』には、蜘蛛、蜈蚣、蛇の類にも玉あることをいえり。また、吉田氏にも狐の玉あり。その玉を得しようは岡田氏と同じ。なお、他州にもこれに類することありと聞きぬ。

 余、先年、信州にありてこれを実視せるものに聞くに、肉の一端が毛の付きたるままにて縮みたるものにして、決して玉にあらず。もし、これを試みんとすれば、狐が兎を捕らえて、毛の深き所の肉の一小部を切り取れば、即時に玉の形をなす。よってこれ、あえて奇とするに足らずという。余、いまだこれを実験せずといえども、『信濃奇談』に出ずるところによりて想するに、狐が網をくぐりて逃るる際、その尾の一端が自然に切れたるにはあらざるか。他日、よろしく実験して知るべし。

 

第一九談 生き上人の木像

 ある地方新聞の雑報に、某村の寺院に安置せる木像の額より流汗せしことありとて、左のごとく記述せり。

 某寺開基上人の木像は、当寺第一の宝物にて、かねて生き上人とて諸人の信仰するところなれば、いち早く担ぎだし参られ、とある門前の民家に安置せしところ、不時の火災に、この生き上人の額より流汗淋漓たるありさま尊しとていいだせしものありしを、なにがさて信心に凝り固まりし善男善女、その赫然たるありさまを拝せんとて、集いきたる者引きも切らず。一時なにごとならんとまでの騒ぎなりしが、警官出張して取り調べしところによれば、火中より背負い出だすとき、灯台の油の木像に掛かりしものと知れたるより、ようやく鎮静するを得たりしという。

 かくのごとき誤怪は地方にありがちのことなれば、今後よく注意してその原因を探究するをよしとす。

 

第二〇談 神仏を偽りて私欲をたくましくす

 世に神仏の名をかりて私欲をはかるもの、いくたあるを知らず。これ、罪悪中の最も重きものなり。今、その一例を挙ぐれば、民家にて井戸屋に命じて井の底をさらわしむるに、井の神様に御神酒を献ぜんとて酒を請求す。よってこれに酒を与うれば、井戸屋自らこれを酌み尽くす。また、余かつて舟にて越後上田川を下るに、小千谷町をさる一里以南に、信濃川と合流する場所ありて、従来相伝えてこれを難場と称す。もし舟ここに至れば、船頭、客に請いて水神に献ずる御酒料を徴集す。しかして、その金はみな舟子の一夕の酔いを買うの資となるのみ。かくのごときは、神仏を偽りて私欲をほしいままにするものというべし。

 

第二一談 ヤソ教師の偽怪

 余かつて、これを某氏に聞く。ヤソ宣教師、アフリカ内地に入り土人を集めて説教する際、ひそかに鳩を養いおき、会堂の壇上より縄を引けば、たちまち鳩の聴集の前に飛び下りるように仕掛け、やがて説教を終わり、まさに祈祷を行わんとするときに、聴衆に告げて曰く、「鳩は神の使いなれば、余が祈祷よく神に通ずるを得ば、必ず鳩のくだりきたるあらん」と。一心に祈念しながらしきりに縄を引くも、さらに鳩の出でてきたることなし。すでにして黒奴の僕、内より走り出でて告げて曰く、「ただいま猫が鳩を捕らえ去れり」と。聴衆はじめて、宣教師の詐術にくむべきを知れりという。この一話は、ヤソ宣教師の愚民を瞞着する手段の一端を見るに足る。

 

第二二談 杯中の蛇

 『和漢合壁夜話』に、『晋書』を引きて幻視の一例を出だせり。

 『晋書』に、「楽広、字は彦輔、南陽淯陽の人なり。河南尹にうつる。かつて親客あり。久闊にしてまたきたらず。広、そのゆえを問う。答えて曰く、『さきに、座にありて酒を賜うことをこうむる。飲むにあたりて、杯中蛇あるを見る。意にはなはだこれをにくむ。すでに飲みおわりて疾む。ときに、河南庁事の壁上に角弓あり。漆画蛇を作る』と。広、思えらく、杯中の蛇はすなわち角弓の影なりと。また酒を前所に置き、客にいいて曰く、『杯中また見るところありやいなや』と。答えて曰く、『見るところはじめのごとし』と。広、すなわちそのゆえを告ぐ。客、豁然として意解け、沈痾にわかに癒ゆ」

 これ、本邦の八幡太郎鳴弦の故事と相同じ。

 

第二三談 生霊、死霊の祟

 愚俗には、生霊、死霊の祟あることを信ずるもの多し。ある人これを評して、「おのれ怨恨ありとて、生きてはつき、死してはつきて、そのうらみをさほど自由に報ゆべきことならんには、大義にかかる。源義経、武蔵坊弁慶などは、早速に梶原〔景時〕をとり殺し大義の本意を達すべきに、さもせざりしは、さてさて無思案なれ。このほかこの類のことども、なにほどもあり。たまたま『太平記』に、『楠正成が亡霊、一条の戻り橋にて、女に化けて大森彦七をおどしたり』と見えたり。さてもさても、正成も存生のときと違い、死ぬればさほどまで鈍にはなりしものかな。正成が恨むべき者は、北朝方の大将より始めてなにほどもあるべきに、それをさしおきて彦七をおどしかけしは、なんぞ内証にうらむべきわけこそありつらん」といえり。

 愚俗、もしこの評を一読し去らば、迷信のいくぶんを減ずるを得ん。

 

第二四談 奸物、豪商を欺く

 ある書(『怪談弁妄録』)に、偽怪の好適例を示せり。左にその全文を掲ぐ。

 京都三条街に鍋釜商あり。豪富をもって名あり。その家あらたに妻をうしないければ、たちまち一人の道士来たり告げていわく、「貧道、このごろ道を修行のため羽黒山に上りしに、途中にて一人の婦人われにいいて曰く、『都へ上りたまうならば、ことづけ申すべし。われ罪業ふかく度脱を得がたし。願わくは、家人に告げて月牌の資を高野山へあげ、わが冥福をいのりくれよ』といいしまま、その所を問えば、尊眷なるよし。『もし家人信ぜずば、これをもってしるしとなしくれよ』と、綵帛一懐をいたせるゆえ、今、持ちきたり申す」といいすてて去らんとするを、家人いそぎあわててひきとどめ、膳具を供えて敬礼し、また金子をつつみ、「とてものことに、高野山へおくり下されよ」と頼みしまま、道士も辞することを得ず許諾す。

主人大いによろこび、別れに金子若干を封じて道士に布施す。道士これを懐中して、いとまをつげ去る。一小廝あり、年十七、八ばかり。もとより道士のいいしことをあやしく思いて、あとより道士のゆくところにしたがいゆくに、三条より東へ、京極をすぐに伏見路へ向かう。にわかにして西へふりかえり、朱雀街を北へ上り、北野七本松へいたり一草舎へ入れり。小廝もしたがい入るに、冶婦あり。小廝をみておどろき、にげかくる。これ、釜屋さきにおくところの下婢なり。妻の病みしとききたり訪いしが、そのとき綵帛を盗みしものならん。小廝そのわるだくみを近隣へつげしらせ、大いに罵り愧じしめてかえる。家人、はじめてその奸計にあたりしをさとれりという。

 ああ、一小廝もと学才なきといえども、その本心あきらかにして、妖妄のあざむきをさとりてその奸状をあらわす。いわんや堂々たる大丈夫をや。しかるに、漢武の欒大における、宋徽之の霊素における、みな甘心してその欺きをうく。嗜欲これをおおいて、天その明鑑をうばえるなりと、〔伊藤〕東涯先生の『盍簪録』にも記し置かれたり。世の奇怪と称するもの、多くはかくのごときことおおし。それ、これを見てさとるべし。

 世に奸物の多きには、神仏もさぞ閉口なるべし。

 

第二五談 幽霊の間違い

 余、かつて『宮川舎漫筆』を読み、幽霊の間違い話を見て、古来の幽霊談中には、必ずかくのごとき間違いを伝えしもの多かるべきを知る。今、左にその一話を転載す。

 予が母方の叔父なるもの、講談をもって活業とし、あるとき甲州遊歴の折、ぬしは婦人をさそい出だし、事むつかしくすでに公訴にもならんとせしゆえ、両人とも江戸を立ち退き、身をしばらく隠せしかば、嘆き悲しみ種々手を尽くし探せどもしれず。あるいは卜を置き、神鬮を取りしかども、行方わからず。海川などにや入りしかと、心も心ならず。ある人がいう、「四谷大木戸の先なる寺の墓所に、相対死のものあり」と告げしゆえ、親なるものすぐさま四谷に行きしところ、もはや検視相済み埋葬せしあとなれば、ぜひなくその様子を聞きしところ、背恰好といい衣類に至るまで少しも相違なく、その上この婦人、国もとより六寸ばかりの鏡一面を持ち参りしところ、その鏡まで持ちおりしかば、いよいよ相違なく、若気とはいいながら不便の死を遂げしものかな。

今さらいたしかたなく、寺に至り、少しゆかりの者のよし申し述べ、回向を頼み戒名をもらい、泣く泣く戻りて追善の法事を営み、七々〔四十九日〕の供養懇ろに取り行いしに、月日には関守なく、はや百カ日の忌辰となりしかば、おのおの心ばかりの志とて、予〔の〕父母方にも萩餅をこしらえおりしに、叔父には痩せ衰え、色青ざめ、髪を乱し、玄関の障子を細目にあけ顔さし出だし、「ただいま戻りし」といいしに、予が母ふりかえり見て、はっと驚き、「あれ、幽霊がきたりし」と声を立てしかば、家翁おっ取り刀にて立ち出でて、「やあ、汝この世に迷いしことの情なや。生者必滅の理を会得して往生を遂げよ」といいければ、叔父は笑い出し、「われ、死せしことの覚えなし。いかなることの候ぞや」といえども、みなみな驚き恐怖なすばかりなり。家翁、やがて叔父の脈を探りて、はじめて立ち戻りしを悟り、大いに喜び、かたみに笑いあえり。また酒巻といえる方にても、みなみな幽霊ぞと驚きしが、酒巻の妻なるもの、叔父の裾をかかげて、幽霊には足なきものなりとて、改め見しもおかしからずや。さて、これまでの始末を語り、実に心中なせしことと思い、きょう百カ日に相当たり、志の餅こしらえしところへ立ち戻りしゆえ、いよいよ幽霊と思いしなり。

 このとき、もし、その叔父が幽霊と認められしを気味悪く思い、再び去りて他国に遊び、また故郷に帰らざるに至らば、その後永く幽霊談となりて世に伝わるや疑いなし。ゆえに、この一話は古来の幽霊談の誤怪を正す一助となるべし。

 

第二六談 鹿の妖怪

 『和漢合壁夜話』に「鹿の妖怪」と題して、精神作用の好材料となるべき一例を示せり。左にこれを引用す。

 加賀の国に一人の士あり。常に猟を好みて多くの鹿を殺す。その後ふと思いつき、たちまち悔いて思うよう、「われ多くものの命を害す。罪悪まぬがれがたし」と。これより病となりて、常に枕もとにおびただしき鹿を見る。これを追い駆れども去らず。鬱々として日を送る。飲食すすまずして、すでにあやうきになんなんとす。ここに一人の老人ありて、錦の袋に刀を入れ、右の病人につたえていうよう、「そもそもこの刀は神息とて、天下にかくれもなき名剣なり。これを家内におけば、いかなる妖怪でも近づかぬことゆえに、さるお屋敷よりかりうけ、そこもとへかしまいらする。ずいぶん大切にかけらるべし。もし、そこもと病気平癒ならば、早速お返しなさるべし」とてかしければ、右の士これをかりうけ床の間に置きけるに、自然、鹿は一匹もきたらず。食もすすみ気分もだんだんと平癒しければ、ひとえにこの名剣のゆえなりと信仰して、かの老人の宿所へ至り、右の刀を返し、厚く礼をいいければ、そのとき老人のいいけるは、「この刀は神息にてはなし。鞘屋店にて買い取りし数打ちの奈良物なり。すべての祟物、狐魅、邪祟の類というものは、人の虚より入るものなり。そこもと、おびただしく鹿を殺せし罪いかがあるらんとおじおそれし心の虚より、見えもせぬ鹿が目にさえぎりしなり。さるところを狐狸の類がうかがいて、邪気の虚に乗ぜるならん。みな、わが心のまよいが鹿と見えたり。その心から、この数打ちの奈良物を神息と一心に信仰せられしゆえ、鹿のことをば打ちわすれ、この刀の霊なるに心が移りしゆえ、その病いえたり」といえり。

 これ、世の神経病者の迷いを解くに足る。

 

第二七談 病は気より起こる

 余、年来、心理療法の理を研究し、病気は精神によりて起こり、また精神によりて癒ゆることあるを知る。その例、世間に多きも、左に『日本霊異記』に出ずる一話を掲げん。

 讃岐国山田郡に、布敷臣というもののむすめに衣女というものあり。あるとき、やまいをうけてあやうし。医療そのしるしなし。このゆえに、百味をもとめそなえて疫神をまつり、命をたすからんことをいのる。ある夜のゆめに鬼ありていわく、「汝、われをもてなすことねんごろなり。われ、その恩を報ぜんことを思う。もし、同国に同姓同名のものあらば、汝がいのちにかゆべし」と。衣女夢中にこたえて、「同国鵜足郡に同姓同名の女あり」という。鬼すなわち衣女をともない、鵜足郡の衣女が家にゆき、緋ぶくろより一尺ばかりの鑿を出だし、ひたいにうちたつると思えば、悩み臥して苦しむと覚えて夢さめたり。これよりして山田の衣女はやまい癒え、鵜足の衣女は病重りて死したり。

 右は、精神の作用に帰するよりほかなし。もし、これを精神作用とすれば、この一話のごとき、あえて怪しむに足らず。ゆえに、妖怪の説明は物理上の道理のみによるべからず、必ずや心理上の道理をまたざるべからざるなり。

 

第二八談 淫祀の弊

 中井積善〔竹山〕かつて『草茅危言』を著して、いたく淫祀の弊を論ぜり。左にこれを抄録す。

 神祀の巫祝、妖言をなして国守、吏民を溺惑せしを厳に禁絶し、妖言永く絶えたるは、『文徳実録』に見ゆ。前後にもなおまたかかる例もあるべけれども、事湮滅して伝わらぬこと多かるべし。王室の衰うるより、巫祝家の説おいおい盛んなり。さまざまの淫祀、天下に満ちたり。仏もまた一種の神なり。この二を合しては一向、数限りもなきことなるべし。そのうちになんの由緒もなき瑣細煩猥なる分は、おいおい禁毀を行い、あるいは焚毀まではなくも、遷祀合併して格別に数を減じ、社人は農に帰し、その社地の広きはただちに就いて耕さしむべし。

たとい由緒あっても社人の風儀あしく、さまざま妖妄の説を造り設け、民の大害となりたるあり。これ、正祀を転じて淫祀としたるなり。その一を挙げていえば、江州山王祭これなり。この神事に妄説を設けて、神輿は人の血を見ざれば渡らずとて、社人さまざま狼籍をなし、見物人に争闘を催し、必ず人をきることとす。往年、官より厳禁を受け、その後、神事に供する社人の分手に末広扇を放すこと禁ぜられて、刀剣を弄することすこぶるやみたれども、今もって末広扇を手にくくりつけ、落とさぬようにして兵を弄するものあり。これまた、神事七日前より山王社地の民、湖上にうかみ、旅人往来の舟を取り巻き金子をねだり取り、その舟子と馴れ合い、過分の金子を出ださねば、いつまでも舟を前へ動かさず。また、街道へ出張って行人を欄住し無法をいいかけ、金子を取ること同断なり。官よりこれは禁止もなきか、あっても用いざるか、憎むべきのはなはだしきなり。

山王は正祀なれども、この地のものの凶暴ゆえ、江州の山王ばかり大淫祀となりたり。もし、禁令ありしうえ改めずば、社頭ともに焚毀あるべきものなり。他所にもこの類の鬼神をいいたてて、奸を行うこといろいろありと聞く。出雲大社の竜灯、備中吉備津の宮の釜鳴り等、鬼神の威令に託して巫覡輩の愚民を欺き銭を求むるの術とす。そのほか讃岐金毘羅、大和の大峰など、種々の霊怪を唱え、また稲荷、不動、地蔵をまつり、吉凶を問い、病を祈り、よって医者の方角をさし示し、あるいは医薬をやめ死に至らしめ、蛭子、大黒をまつりて強欲奸利の根拠とし、天満宮を淫奔のなかだちとし、観音を産婆代わりとし、狐狸の妄談、天狗の虚誕、いささかの辻神、辻仏に種々の霊験をみだりにいいふらし、仏神の夢想に託し妄薬粗剤を売りひろめ、男女の相性、人相、剣相、家相を見るの類、邪説横流し、愚民を眩惑矯誣するの術にあらざるはなし。かかる怪妄世界、頑鈍風俗、誠に嘆ずべきあわれむべきのはなはだしきなり。請う、速やかに淘汰を加え厳禁を施し、将来を懲らしたきものなり。「王制」〔『礼記』〕にも、「鬼神、時日、卜筮をかりて衆を惑わすものは、殺してゆるすことなし」と見えたり。なおざりに捨て置くべきものにはあらざるべし。

 昔日の淫祀すら、なおその弊を痛論することかくのごとし。しかるに今日、淫祀依然として民間に行わるるに、世これを責めざるは、あに怪しまざるべけんや。

 

第二九談 迷信家の皮相論

 およそ迷信家は道理の根元を究めずして、ただ皮相上の浅見に安んずる風あり。これをたとうるに、田舎ものが太陽の出所を論じたる話に比すべし。あるとき、信濃山中の者と伊豆の七島の者と、偶然東京の旅店に相会し、互いに話を交うるの際、太陽はいずれの所に出でて、いずれに没するやの問題が起これり。信州の者は「山より出でて山に没す」といい、七島の者は「海より出でて海に入る」といいて、互いに相争いおれり。傍らに旅店の小僧ありて曰く、「太陽は山より出でて山に入るにあらず、海より出でて海に没するにもあらず、人家の中より出でて人家の中に入るものなり」と。迷信家の見るところは、その信州人の説、もしくは七島人の説に近し。しからざれば旅店の小僧説に似たるものなれば、他日道理の根底を極めたる暁には、おのずから大いに開悟するところあるべし。

 

第三〇談 「くさめ」の説

 俗に、「くさめ〔くしゃみ〕」につきて吉凶を卜することあり。

  一、ほめられ  二、くさされ  三、ほれられ  四、かぜひく

 今、『皇国性質』と題する書を読むに、このことは、よほどいにしえより伝えたることなりという。『詩経』の「邶風」に、「寤言不寐、願言則嚔。」(寤めて言に寐ねられず、願いて言にすなわち嚏す)とありて、その「注」に、「今俗人嚏云人道言、此古之遺語。」(今、俗人は嚏をいい、人の言をいう。これ古の遺語)なりとあるを見れば、「くさめ」して「人、われをうわさする」というは、古くより伝えたることなり。『瑣砕録』には、「くさめを占う法あり。子の日酒食、卯の日大吉、辰の日婚合し、午の日喜びごと、酉の日客至る、戌の日疾、亥の日君子思う、余みな凶なり」と見えたれば、「くさめ」もその日によりて吉凶ありとは、笑うべきの至りなり。『皇国性質』にこれを評して曰く、「今も長崎へ持ちきたる唐物のうちに平安散というあり。小さき焼物にいれたる赤き薬なり。これを嗅げば、たちどころに『くさめ』続いて出ず。鬱したるときなど嗅いでしばしば『くさめ』すれば、大いに気を散ずるように覚ゆ。されど、その日によりて吉凶あらば、平安散もみだりには嗅がれずというべし」とあり。

 

第三一談 横浜の人魂騒ぎ

 昨年夏ごろ、横浜に人魂騒ぎありしが、当時『時事新報』、その顛末を記して曰く、

 過日来、横浜市常盤町二丁目二十一番地なる紙帳面商小駒支店、松井栄吉(三十六)方の軒端より毎夜人魂出ずとの評判高く、市内の者はもちろん、本牧、根岸、さては神奈川保土ヶ谷辺りより、草鞋ばきにて見物に押し掛くる者、去る五日の夜には七、八百人、六日の夜、暴風雨中にも八、九十人、七日、八日の夜には実に千人以上に達し、昨今に至りなお群集なすありさまにて、その筋の取り締まりもなにぶん行き届きかぬるほどの雑踏なるよし。

愚にもつかぬことにて、かくまで人の騒ぎ立ちたるは、近来珍しきためしなるべし。事の起こりは、去る七月中、米吉の女房キン(三十三)が、ことのほかの難産にて、いまだ分娩をおえざるさきに死去したるに、このキンは生前、米吉に内々にて愛国生命保険会社と千円の保険契約をなしおりしかば、米吉はキンの死後、あたかも拾い物したる思いにて早速これを受け取りながら、なみなみはずれて葬儀を薄くしたるより、死者の遺恨はさこそならめと、近所にての風評に続きて、たちまち同家より人魂の飛び出ずるよし言い出だせる者あり。近隣の子供三、四人、および菓子屋の職人某、向かい側なる印版屋の主人、同町三丁目の生け花師匠某、住吉町一丁目の某ら、いずれも夜を異にして見たりといい、それより大騒ぎとなりて、米吉の屋前には毎夜人の山を築き、雨戸を攀ずるもの、戸をたたくもの、石を投げ込む者さえあり。その極、同家の本店なる浅草区南元町小駒半治郎は、これも畢竟、米吉が平素の仕打ちのよろしからざるためなりと本支店の縁を絶ち、また市中のならずものは、米吉の弱味に付け入りて同家へ押し掛け、穏やかならぬ挙動に及ぶ者も多しとぞ。

さて、人魂の正体はもとよりなんでもなきことにて、キンの死後、幼女キヨが母のきたりたるを夢み、ある夜不意に泣き出だしたると、またある夜、同家表二階の座敷の格子に白地浴衣をかけ、その上の釘に黒き帽子をかけおきたるを、おもてより見たるものありて、幽霊なりと吹聴したる間もなく、同家の欄間にはめあるガラスに、筋向こうの印版屋稲葉方照り返しランプの反射したるを認めて、人魂なりと迷信したるならんといえり。米吉の迷惑はいうまでもなけれど、かかることに立ち騒ぎて、心あるものの笑いを招く人々こそ気の毒なれ。

 世間の幽霊談は、大抵この一例によりて推測するを得べし。

 

第三二談 神田明神下の化け物沙汰

 昨年六月発行の『中央新聞』に、神田明神下の化け物騒ぎの顛末を掲げたり。今、これを左に転載すべし。

 四、五日来、神田区明神下なる台所町七番地、足袋商平野由之助方と、同番地糸商松屋との間なる空き屋に、夜な夜な化け物現るるとのうわさ、だれいうとなく伝わりしより、だれもかれもと奇を好む人、心に正体見届けて話の種にせんものと、見物日々山を築く騒ぎとなりけるを、都下の二、三の新聞が由ありげに書き立てたれば、この沙汰ますます広がりて、見物の足いよいよ繁く、昨今、同所界隈はさながら火事場のごとき雑踏を極めいるに、両隣の足袋商と糸商は、これがため非常に迷惑を感じ、毎夜寝ずの番をなし、巡査も始終二人にて空き屋に見張りをなし、集いくる見物を制止しいるありさまなれば、わけ知らぬ通行人もこの群集を見て、いかなる珍事の出来せしかと、おのずと足をとどむるばかりなり。

 昔より、幽霊、怪物の騒ぎは尾花薄の正体にきまりて、なんのことだと笑いに落ちざるはなければ、右の騒ぎも事ぎょうぎょうしく書き立つるほどの子細なきはもちろんのことなれど、婦女、童幼の惑いを解かんため、この沙汰の起こりし顛末を略記すべし。元来、前記の糸商と空き屋とは、一軒の家なりしを二つに仕切りしものなるが、今より数年前まで、三河屋といえる界隈屈指の呉服屋にて、主人を川島弥兵衛といえりき。明治十年、隣家畳屋より出火して、一夜のうちに烏有に帰したれど、負けぬ気の弥兵衛は大枚の借金して、ただちに新築に着手し、以前にかわらぬ家屋、土蔵をみごとに建てすませしが、同年鹿児島戦争起こりて、人気は上方に奪われ、東京は非常に不景気となりしため、商売はにわかに落ち足となりて、借金返済の道も月々におぼつかなく、最愛の一人娘おたけというは、わがえり好みにて、芸能もなきノッペリ男を婿に取る。

両親は気に入らず、一家は不和になる。肝腎の商売はますます不景気になりて、一家立ち難くなりしより、弥兵衛は累代の大店を泣く泣く星野仙太郎というに譲り、浅草鳥越町にわび住まいの身となりぬ。仙太郎はその跡に松月という餅菓子屋を開業して、四、五年間住まいけるが、女房病身にてやりきれず、かねて取引先なる日本橋堀留町二丁目十七番地、乾物雑穀商藤田勘蔵に家を抵当に借金し、返弁の道つかぬより、ついに三百円にて流したれば、こんどは勘蔵の所有に帰し、久しく空き屋になしおきしを、二十四年、台所町の荒物商石塚伊喜に四百五十円にて売却せり。伊喜は大家なればこれを二つに仕切り、表側の店を前記糸商に売り、他を貸屋となせしが、この家は土蔵と糸屋との間に挟まれ、店の向きもよろしからず。土地は下谷万年町、山伏町などにつぐ貧乏町を裏側に控えるなど、すこぶる陰気なる所なれば、たまたまこの家を借りる者あるも、一年と住みつく者なく、去る十二日までは産婆の新井シゲという者住まいおりしが、これも一カ月とは続かずして引っ越したり。

その後は、今日まで空き屋となりおりしが、持ち主の石塚方では無人なるため、産婆の移転後はとかく戸締まりを怠りしため、いつか狐狸ならぬ乞食のすみかとなり、夜な夜なはいりこみおりしを、去る十五日、持ち主は同所の大工大木徳次郎を雇い、造作せんと突き戸をあけしに、中より二人の乞食現れたり。持ち主は大いに驚き、しきりに乞食らをしかりののしるところへ巡査きたりしより、同日、明神の中祭りに出かけし見物は、空き屋に巡査のはいりしを見て、いかなることの起こりしにやと、しきりになんだなんだと騒ぎ立て、ドシドシ空き屋に押し掛け、中にも気早やの子供らは、「化け物だ、化け物だ」と大工の徳次郎に追い払われしを真に受けて、化け物と騒ぎ出して家に逃げ帰り、また同夜、久しく肺病に悩みたる隣家足袋商の女房が死亡せしより、これも化け物の祟と甲伝え乙和して、かの空き屋には産婆が子供を殺したそうなが、その子供の幽霊が出るとのことなど、さらぬことまで言いはやせしより、この沙汰ますます高くなり、かくはおちこちより先を争いて見に来る群集引きも切らずなりて、日々非常の雑踏を極め、巡査の見張りをもなすに至りしが、この騒ぎいつやむべしとも見えざるより、神田警察署は一昨二十日、警部出張して念のため空き屋を取り調べたる由なるが、全く前記の次第にて、乞食の入り込みたるがこの評判の原因なりと分かりしよし。さるにても、奇をもてあそぶ世の人心かな。

 この一例によりてこれを考うるに、世の妖怪は多くは、「一犬虚をほえて万犬実を伝うる」の類なり。

 

第三三談 七十五日ということ

 俗に、「人のうわさも七十五日」「産のけがれも七十五日」といい、また、「初物食いすれば七十五日生き延びる」という。余、その出拠を知らんと欲して諸書をひもとくに、『東里新談』中に左のごとく記するを見る。

 今の世の人、常に七十五日ということあり。産後七十五日、初物食って七十五日寿を延ぶる、戯文(浄瑠璃本)に「七十五日〔立ち〕もせで」などいう。これも由縁あることなり。『二程全書』に、「澶娘すでに死して、七十五日にして葬る」とこれなり。これまた本由あることなり。『荀子』に、「殯久不過七十日」(殯は久しきも七十日に過ぎず)とこれなり。殯は「かりもがり」とて、棺を表座敷の客位に置くことなり。

 けだし、これらの故事に起源したるならん。

 

第三四談 利休の碑

 『大阪毎日新聞』は広く不思議談を募集して、一時、毎号連載したることありしが、その中に泉州堺市にある利休の碑について、付会せる俗説を掲げたり。すなわち左のごとし。

 当堺市の南端に、有名の南宗寺という寺あり。境内樹立繁く、ものしずかなる所なるが、同寺の境内に茶人千利休の碑あり。その形、不格好の雪見灯篭のごとくにして、その火袋に直径六寸余の円き穴あり。人もしこの碑の近傍に行けば、茶釜のたぎる音を聞くよしなれば、小生はものずきにもわざわざ実地につきてその真偽を確かめんものと、火袋の穴に耳をつけて聞きしに、たちまち蝉の声のごとく、また松風にも似たる音を判然と聞き得たり。穴を離るれば声なく、穴に近づけば音あり。かくのごとく試むること五回なりしが、さらにかわることなし。これは洞中にこもれる空気の流動より発する音と思わるれど、俚俗は、利休は地下千歳の後までも、なお茶の湯をたのしみおるものなりといいはやせり。

 京都紫野大徳寺にも、これと同じき俗説を伝う。もし俗人にして物理の一端を知らば、その音は洞内の空気の流動より発するものなるを了せん。

 

第三五談 簑火

 越後および近江の国に、簑火あるいは簑虫と名づくる怪火あり。越後の簑火は『怪談実録』に出でて、近江の簑火は『不思議弁妄』に出ず。かつ、『不思議弁妄』にはその説明をあわせ載せたり。よって、その一節を抜粋す。

 近江の琵琶湖に不思議の火ありとは古老に聞きたることにして、吾人はいまだ実際にこれを見ざるなり。さても五月ごろ霖雨濛々、咫尺を弁ずるあたわざる暗夜に当たり、湖水を往来する舟夫の簑に、ほとんど蛍火のごとく点々たる光を放ち、これをおもむろに脱ぎ置けば、自然とその光を消失すべきも、もし狼狽してその火を払えば、また微塵に砕けてさらに億万の火となり、再びいかんともすべからざるに至る。もっとも、この火は一種のガス体なれば、いまだ物を焼くの力なし。すなわち、いわゆる琵琶〔湖〕の簑火なるものこれなり。しかして、世の伝うるところを聞けば、曰く、「この簑火は、往古より湖水にて溺死せし人の怨霊火なり」と。しかれども、世にいわゆる怨霊火なるものありや、吾人は断じてそのあらざるを知るなり。しからば、いかがしてこの簑火なるもの生ずるか。

 つらつら聞きたるままこの簑火なるものを考うるに、全く地気の作用にほかならず。すなわち、地中の熱気、空中に蒸昇せんと欲するに、連日の雨天にて蒸暑の気候に覆われ、地上に少しずつ発するに、可燃性のガス体と相触れ、ついにその光を生ずるのみ。例えば、なお燐素の空中に燃ゆるがごとし。しかるに、もし気候の都合により風あるときには、その気を吹き払うべけれども、近江の国たる四方みな山にして、一体風少なし。しかのみならず、空気温静、少しも風なきときあり。このときに当たり、勇壮血気に乗ずる舟夫らの奮励して進む勢いに、空中の可燃性さらに熱を増し、ついに微塵の火となることあり。ここにおいてか、ついにいわゆる簑火を製出すべし。

 余、いまだこれを実視せざれば、そのなんたるを明言し難しといえども、その原因を可燃性のガスもしくは電気に帰するよりほかなかるべしと考うるなり。

第三六談 河童の怪

 わが国、古来河童の怪物あることを伝え、民間これを信ずるもの多し。『善庵随筆』および『百物語評判』などにその説明を掲げしも、首肯し難し。ただ、『荘内可成談』に述ぶるところ大いに取るべきものあり。すなわち左のごとし。

 河童というものあり。夏より初秋の末まで、水中にあって人を取る。その形を見ることなし。多くは蛇なりという。その取られたる死骸は、肛門より入り、裂け口より出でたりとて、前歯を欠く。みなしかり。いまだ歯の欠けざるは、腹中に蛇あってこれを殺すといえども、たしかに見たるものなし。みな、さもあらんと推量の説なるべし。案ずるに、物ありて人を取るにあらず、その人々霍乱転筋して水に投じ死するなるべし。これ転筋の証なり。湿に霍乱する者は、水に入らずしても転筋し手足なえ、吐瀉なければ必ず死す。その吐瀉きわめて強く発するゆえ、吐も瀉もはじめは鉄砲の発するごとし。

水に入ればおのずから水を多く飲む。ゆえに腹太鼓のごとく、邪気のためにこの水発するにほかならず。上下より出ずるゆえに、食いつめたる歯はいたみ、肛門は裂けるなるべし。この河童に取らるるというは、水に浴し川をわたり、洪水のときおよぐにも限らず。しかも中秋より三冬春の末までは、この沙汰なきものなり。蛇は中春より出でて中秋まであるものなれども、そのときわざわいすることなきにて知るべし。また、河童と名づけしことは、このもの西国にありと見えたり。その形は蟇がえるに似て人に類し、身にねばりあり。頭にくぼかなるところありて水ありと、みな人の知るところにして、人に化しては人をわざわいす、淫夫と化しては女を惑わす、忌まわしき獣とあり。はなはだ力強くして、このものを組みとめたる強士など、西国のこと記せる書に見えたり。また、『落穂集』後編に見えたるは、すこぶるこれに異なりといえども、大同小異なり。

 このゆえに、水中にてわざわいするものは、異国、本朝その類多しといえども、庄内に伝えきたるところは、河童、川熊、川坊主、鼈、蝮蛇なり。このうち、河童は前にいうがごとし、川熊というものは見しものなし。たまたま見たりという者のはなしを聞くに、川獺なり。獺は遊ぶに、獺の戯れとて、追いつ追われつ食い合い、また多く群がるときは、前に行く獺の尾に取り付き、またその尾に取り付きて、二、三も続きて浮き沈みして遊ぶゆえ、臆病なるものはこれを見るときは、はなしに聞き及ぶゆえ川熊といい、または蝮というなるべし。川坊主は川熊よりも浅はかなることなり。ある人、大山川にて見しとて、乱杭に目鼻口あるごとき坊主の水中をおよぎ、羽抜け鴨を追いかけ取り食いしといいしは全く空言にて、鮒を釣る場所へ人のきたらざらんためにかく言いしと。そのほか見たりという人もみな人たばからんため、海坊主というより始めて形なきことは川熊と同事なるべし。鼈に取られたる者は酒田近辺古川などにはまれにありて、死骸出ずればその肉ばかりを吸いたるように食いたりなどいう、さもあるべし。

蝮蛇、これも人にわざわいするものなれどもまれなることにて、また深淵によりてきわめて人の死する所あり。河童に取られたりといえども身体いたみなし。これは深淵ゆえに水毒も深く、邪気に当たるゆえなるべし。死石などありという人は、そのよりどころあるべし。江州膳所の死石、または有徳院様御代に御馬場より出でたる死石を、松下専助が預かりしこと、みな人の知るところなり。その石は後に淵に沈めたりといえり。かかる物水中にあって人死し、水毒にあたって死するを、河童に取らるるというか。また同じ川にても、陽気なる所はさびしからずわざわいもなし、陰気の勝ちたる所は極暑の節にもものすごくして、人馬、犬猫の死骸までもその所へは流れかかるものなり。よくよく試みみるべし。人の死する淵も、いつも同じ近辺なるものなり。このゆえに、河童ありて人を取るというなるべし。

 この説にて知らるるがごとく、河童は想像的怪物にして、真に存するものにあらざることは、余が重ねて弁明するを要せざるところなり。

 

第三七談 殺生石

 野州那須野の殺生石はだれも知らざるものなく、人畜のこれに近づくものあれば、たちまち斃死すという。けだし、その石たるや砒石あるいは礜石の類ならんとは、みな人の想像するところなり。しかるに、吉田彦六郎氏の『化学書』には左のごとく記せり。

 硫化水素……二酸化硫黄ガスのほかに、硫黄と水素とよりなれる毒性悪臭の化合物あり、これを硫化水素という。このガスは二酸化硫黄ガスと伴随して、しばしば火山近傍に発散すること、箱根大地獄、福島県吾妻山等において見るがごとし。しかしてこのガスは、火山逬発の後その力やや衰えたるとき、ことに多量に発散するものにして、ためにその近傍の空気を有毒ならしめ、往々鳥獣の斃死することあり。かの有名なる那須野原に、殺生石の人畜に禍害を加えたりしは、けだしこのガスの盛んに発生せしによるものならん、云云。

 これ、大いに参考すべき説なり。

 

第三八談 魔鏡

 古来、神社仏閣の宝物中に魔鏡と称するものあり。その鏡たるや、光線のこれに触るるときは、その面より種々の影像あるいは文字を反射するの妙あり。例えば、観音の像を反射し、あるいは六字名号を反射するの類これなり。今、その原因を考うるに、その反射するところの幻影は、全く鏡の裏面に存する仏像あるいは名号なること疑いなし。もし、裏面に仏像のごときものありて多少の凸凹あるときは、その鏡面をみがく際に、自然に表面にも多少の凸凹を現すに至る。かくして、表面にいやしくも多少の凸凹あれば、その光線を反射する度において、全面一様なることあたわず、したがって裏面の影像を表面に反射するに至るなり。よって今日は、これに魔鏡の名を命ずるの不当なるを知る。

 

第三九談 わが国妖怪の親玉

 わが国、妖怪の種類すこぶる多し。しかして、妖怪の親玉と称すべきは天狗なり。他の妖怪は、わが国に存するのみならず他邦にもこれあり。ひとり天狗に至りては他邦に聞かざるところなり。ゆえに、わが国の学者にして古来、天狗説をなすものはなはだ多し。左に、余がその説を見聞せし書目を挙ぐれば、


本朝神社 考徂徠集中古叢書 谷響集秉燭或問珍 忍辱随筆 天狗名義考 牛馬問 年山紀聞 古今珍書考 闇の曙 秇苑日渉

古今妖魅考 桂林漫録 烹雑〔の〕記 雑笈問答 駿台雑話 善庵随筆

消閑雑記 俗説弁 訓蒙天地弁 聖鬮賛 居行子

 その他、近来の著書にて『夜窓鬼談』『恕軒文鈔』等にも天狗のことを論ぜり。また、『明六雑誌』には津田真道氏の「天狗説」を掲げしを見る。以上、各家の説一様ならずといえども、余いまだその説の信ずべきものを見ず。しかるに余、別に説あり。他日これを一冊子として世に公にせんと欲す。今はただ、左に津田氏の「天狗説」を抄録せん。

 五大州中、人間世界に天狗なし。しからばすなわち、人間世界のほか、天地間に天狗ありや。曰く、「わが太陽天内行星中にもまた、わが地球の動物に髣髴たるものありて生活す。これ、近今欧州星学士のその顕象を測量して推考するところにして、徴拠すこぶる明確、わが輩これを疑うことあたわず。しかれども、いわゆる天狗は、余いまだこれを知らず。けだし、天狗あることを信じて、呶々としてその虚偽にあらざるを妄証する者は、ひとりわが大日本帝国の愚民のみ。そもそも欧米各国は更なり。天竺、漢土に論なく、本邦の上古においてもまた、いまだかつて天狗の談あるを聞かず。天狗の名あるは、わが帝国、中古以来のこととす。

 わが帝国特有天狗の由来を探索するに、妖僧の誣妄に出ずること疑いなし。けだし中古、浮屠氏のその法をわが帝国にひろむるに当たりて、当時愚民の多きに乗じそのことを神奇にし、愚民を恐嚇してその道を信ぜしむるの具とせしに過ぎざるのみ。ゆえに、往昔名僧と称し、今なお仏菩薩というところの浮屠輩、概するに、古来人跡いまだかつて至らざる所の大沢をわたり、高山に攀じ、榛★(莽の大が犬)を開き、霊場を建て、魔鬼、天狗等をもって呵護神とし、愚民の信を取り、自ら開山上人となる。これをもって、わが帝国の名山大岳、概するに仏宇にあらざるはなし。また、仏法未入前よりして天神地祇垂迹の山岳と称するも、たいてい仏徒の侵触をこうむらざるものなし。後世、源空、親鸞の徒、一種の機軸を出だして山によらざるも、なお開山上人の号を用うる者は、因襲の称呼に従うのみ。

 それ、人知開明なるものは、教うるに道理をもってすべし。そのいまだしからざるものは、一はもってこれを恐嚇し、一はもってこれを怡悦せしむ。これ、極楽地獄の説あるゆえんなり。そのいまだここに至らざる者は、最初ただこれを恐嚇し、漸をもって善道に馴致す。これけだし、事情やむをえざるの勢いなり。浮屠氏の往昔、鬼神を役し天狗を使うも、また深くとがむべからざるところなり。しかりしこうして、かの深山幽谷、人跡絶無の地は、杉檜蓊鬱、幽邃深奥、あたかも魑魅罔両の窟宅に入るがごとく、物理明晰なる学者にあらざれば、勇三軍に冠たる偉丈夫も、その絶えて恐るるところなきを保ち難し。いわんや愚民においてをや。そもそも日蝕、雷霆の理の近今明瞭なるも、孔聖〔孔子〕なお恐懼して形を変ず。いわんや愚民においてをや。しかるを、浮屠輩その神通法力をもって竜蛇、雷霆を駆り、鬼怪、妖霊を退け、あるいは山神を呵嘖し、魔鬼を禁呪すと妄称し、愚蒙誑惑して己を渇仰尊信せしむ。〔役〕小角、最澄、空海、日蓮等の術、みなしからざるはなし。

 しかして、いわゆる天狗は概するに有名なる行者、山伏の変化するところ、叡山、鞍馬、愛宕、金比羅、大峰、御嶽、大山、妙義、秋葉、日光の次郎、太郎、僧正、三尺坊等は、その最も著名なるものなり。そもそも三千年前、霊鷲山において釈迦の方便を設くるにあたりて、なんぞかつてわが大日本帝国の天狗、その徒の作意に出ずるを知らんや。けだし、天竺の悪魔、シナの仙人、わが国の天狗とほぼその類を同じくす。ただ、仙人は淡泊愛すべく、天狗、悪魔は獰悪いとうべきのみ。

 目今、富士講、〔御嶽講〕の類、愚民の結社は、いわゆる恐嚇神道のもっとも卑下拙陋なるものにして、その天狗の妄談を尊信する、もとより深くとがむるに足らず。ひとり怪しむ、博覧多識の学者先生にして、天狗、木霊の偽妄を悟らざるなり。もっとも怪しむべき一派の皇学者流、喋々として人間界の上にさらに天狗界あることを説く。〔あに〕小角、空海の故知を襲ぐものか、はた千歳の末、なおその霧中にあるものか。

 この説の要は、古来の天狗談は、仏家が愚民を恐嚇して自ら利せんとする悪手段に出ずというに帰す。これ、従来の漢学者流の破仏的論断に過ぎざるなり。

 

第四〇談 天狗の文字

 余、往々天狗の筆跡を秘蔵せるものを見る。その文字一様ならずといえども、多く梵字に類似す。しかして、そのいずれより得たるを問えば、山間あるいは深林中に得たりというものあり。これ、好事家が梵字を転化して奇異の字体を造り、ことさらにこれを山間あるいは林中に散布し、もって人をして自然に天狗の文字なりと鑑定せしめたるものならんか。その一例は、ある「筆談」に、「唐土皇祐年間、蘇州の民家ある夜人ありて、その牆壁にことごとく怪しき文字を記し、一夕の間に数万家残すところなかりき」というを見て知るべし。かくのごときは、みな人の好奇心より出ずるものにして、一種の偏狂に属するものなり。

 

第四一談 隠形術

 世に隠形術あることを伝うるも、その妄笑うにたえたり。ある書(『民生切要録』)に、隠形術の一笑話を載す。その意に曰く、「楚人『淮南子』を読みて、螳螂、蝉を捕るとき、自ら木の葉を障えて形を隠すということを誤り伝えて、隠形の術なりと思えり。よって、林中にゆきて螳螂、蝉の障うるところの葉を求む。たまたまこれを得たるも、覚えず樹下におとせり。折節、落葉堆積して、いずれなるを知らず。すなわち、落葉数斗をはらい取りて家にかえり、一葉をもって面に障えて妻に問うて曰く、『わが形見ゆるかいなや』と。妻曰く、『見ゆ』と。またほかの葉を障えて曰く、『わが形見ゆるか』と。妻はじめは答えて曰く、『見ゆ』と。かくすること数回に及ぶ。妻、厭倦にたえず。すなわち欺きて曰く、『君が形見えず』と。楚人喜んで、ひそかに市中にゆきて葉を面に障えて、みだりに人の物を奪い取る。市人これを捕らえて官に送りたり」という。余おもえらく、世の妖術を信ずるもの、大抵この類ならん。

 

第四二談 訛言の怪

 世に訛言相伝えて、妖怪となることあり。その例は『怪談弁妄録』に出ず。いまその要を述ぶれば、「貞享四年七月十八日夜半のころ、京都の市中一人の怪しき男ありて、急に人の門戸をたたき、『今夜毒あり、井の中に生ず。早速水をくむべし』とて知らせければ、みななにびとのしわざを知らず、しばらくして四隣互いに告げしらせ、急に水をくみて水瓶、手桶の類にたくわえ、少時の間に近所近辺互いに相伝えて、京中はもちろん近村一、二里の間に及び、家々みな水をくみてたくわえり。しかして、だれがこれを言い出だせしかを知らず。これ全く訛言なり。また宝永年中、ただいつとなく鬼物ありて、人家にあるところの石臼の界をほりかえるという。その言、賀越の間に始まりて畿内海内に及べりという。これまた訛言なり。僧兼好の『徒然草』に、応長のころ鬼のことを記せると同じことにて、みな人妖なり」と。余、察するに、民間の怪談中に、けだしかくのごとき人妖必ず多からん。

 

第四三談 竃神の由来

 竃神を祭ることは和漢相同じ。しかして、その名異なれり。『群砕録』に、「竃神、姓は張、名は禅、字は子郭、一の名は隈」とあり。『五経異義』に、「竃神、姓は蘇、名は吉利、夫人、姓は王、名は搏頭」とあり。『群砕録』に、「祝融、火化をつかさどるゆえに、祭りてもって竃神となす」と。鄭玄いえらく、「竃神は祝融という、これなり」と。『諸説弁断』に、「本朝も異朝も竃の神を祭ることは同じけれども、神の名は異なれり。しかれども理は一致なるべし。異朝の竃神も火のこと、本朝の竃神も火のことなり。名異なるのみ」と。これによりてこれをみるに、古代にありては人生に必須なるもの、あるいは人生に災害を与うるものあれば、これを崇敬して神となし、もってこれを祭る。これ古代にありて、あるいは山を祭り水を祭り、あるいは日を拝し月を拝し、風雨、草木を供養するゆえんにして、拝物教の世に起こりしゆえんなり。かくして、最初火を祭りてこれを神に配したりし風習が、ようやく伝わりて竃神を祭るの風習をきたせしなるべし。しかるに今日、竃の位置について種々付会の説を唱うるものあるは、愚妄の極みなり。なるべく諸事に都合のよき場所に置くを最上とするのみ。

 

第四四談 金神七殺

 わが国の民俗の最も恐るるところは、鬼門と金神となり。金神の由来は『簠簋内伝』に出ず。その文に曰く、「この金神は巨旦大王が精魂なり。七魂遊行して南閻浮提の諸衆生を殺戮す。ゆえに、もっともいとうべきものなり」と。その他、『永代大雑書三世相』にその由来を示すことややつまびらかなり。すなわち左のごとし。

 金神というは『簠簋』にいう、「これより南三万里に国あり。夜叉国といいて、その主を巨旦という悪鬼神なり。これを金神という。常に人を悩まして日本のあだとなる。このゆえに、午頭大王南海よりかえりたまうとき、八将神をつかわして討ち平げたまう。この巨旦は金性なるにより、金神と名づく。金性のたましい七つあり。この七つのたましい七所にいて害をなすゆえに、金神七殺という。殺はころすとよむゆえ、この方をおかせば必ず七人取り殺すゆえに七殺ともいう。家に七人なければ、隣をそえて殺すという。よくよくつつしむべし。五節句のとりおこないは、この巨旦を調伏する儀式なり。まず、正月の白赤の餅は巨旦が骨肉なり、三月三日の草の餅は巨旦が皮膚なり、五月五日の菖蒲の粽は巨旦がたぶさなり、七月七日のそうめんは巨旦の筋脈なり、九月九日のきくのさけは巨旦が膿血なり、七夕の鞠は巨旦が首なり、的は巨旦が目にかたどり、門松をたてて墓じるしとす」といえり。また、「午頭大王南海よりかえりたまいて、祇園精舎において六月朔日より三十日が間、巨旦を調伏したまうなり。このゆえに、今の世まで六月朔日の歯がためをば正月の儀式というは、このことなり」という。

 また、『茅窓漫録』『本朝俚諺』等にも金神のことを詳述す。しかしてその名称は、『山海経』および『五雑俎』に出ず。これ、シナ人の妄想作説なること明らかなり。わが日本帝国の人民にして、かかる妄説を信ずるは恥ずべきの至りなり。

 

第四五談 日本の地形

 『東牖子』(一名『橘庵漫筆』)と題する書中に、鬼門の妄を弁じて、わが国の鬼門張りの国たることを論ぜり。その説ややおもしろければ、左に抜粋す。

 鬼門とて方を忌み、家宅を巫覡の徒にゆだねて補理変えるもおかし。諸書に論じ尽くしたれども、また思うところあればここに述ぶ。まず、京都は大阪より鬼門に正当せり。移住および縁談、そのほか俗間にて方を忌むというときは、京都の方にむかいてはいかんともすることなし。ことに、俗間に医者を招かんと方角を巫覡に求むるの徒は、大阪より、とても京師の医は死しても求むること難かるべし。ないし地球の図を見るに、六合の間およそ本朝の出羽奥州へ広ごりたるほど、鬼門へ張り出でたる国もなし。しかれども、本朝の万邦に異なるは、皇孫連綿と正統を䟭まし䟭まし、各補佐の御家他姓に及ばず、天長地久無双の神国なり。予が愚なる心より見れば、鬼門の張りたる国ゆえ、めでたく治まりしか。ただしは鬼門のはりしは、朝日の太陽光を受くることさかんなるゆえに〔や〕。異邦にすぐれたるか。いかさま家相の行われぬ〔以前〕も、貧窮患難に苦しむ人ばかりもなく、家相の大いに行われしより、別に家相をあらためて巨万の福者になりたりという人の、戸口の増したるも聞こえず。

 この説のうちにて、日本は世界中最も鬼門に張り出だしたる地形を有しながら、万世一系のめでたき国なるはいかんと難じたるがごときは、すこぶる卓見なり。

 

第四六談 盗人の神頼み

 先年、『読売新聞』に左の一事を載せたり。

 築地南小田原町二丁目十五番地、荒物商古沢国蔵方同居、高梨常吉長女おまさ(二十三年)は、さきごろより新栄町四丁目の鍛冶職神崎競方に雇い奉公目見え中、主人のすきをうかがい、箪笥のひきだしより十円紙幣一枚を窃取し、なにくわぬ顔にて去る一日、深川区成田山不動開帳に参詣し、「不動様、大日様、どうか泥棒したことが知れませぬように」と一心に祈願をこめ、これでまず一安心と帰家したるところを、京橋署の手で捕縛されたりとぞ。

 世の神仏を祈願するもののうちには、かくのごときの徒なきにあらざるべし。

 

第四七談 新井白蛾の狐狸論

 新井白蛾がその著書『闇の曙』に、狐狸につきて左のごとく論ぜり。

 狐狸にばかされ、あるいはつかるるということ、しばしば聞くことなれども、これらは大抵、形は人なれども心は畜類に等しきゆえなり。そのうちに一、二は、病後などにて血気おとろえ疲れたるをつけこみ、食のためにつくもあり。

 さて、二条河東寺町本正寺住寺、守善院日束といいしは、予が久年懇意の門人なり。この僧、わかきときより日蓮宗の験者にて、もっぱら祈祷を行いしが、年寄りては祈祷もやめたり。予、狐の妖怪をなすことを問う。本正寺が曰く、「狐というやつめは、向こうの人によりて、あるいは神となり仏となり、あるいは生霊といい死霊といいて、人をたぶらかすなり。祈祷者どもが食物をもって飼いなつくるなり。狐は生得に疑い深く、とかくにうそつくものゆえ、ついには祈祷者ぐるめに欺くものなり。祈祷者もたびたびだまされ仕損ずるゆえ、後には追放す。それよりにわかに飢えを苦しみ、かの祈祷者に仇をする。それゆえ、祈祷者の果ては大概あしきものなり」と語りき。このほかいろいろ手段あることを聞きぬれど、事長ければ略しぬ。予、一とせ伊勢へ下向のとき、中の地蔵という所の宗安寺に逗留す。着きし夕べ、法幢和尚曰く、「当寺にふる狸の候が、なにもあしきことはいたさず候えども、初めての宿り客候えば、夜更けには縁などへ出でて咳ばらいなどし、座敷の辺りを回りて客の目を覚し候。

昨夜も松坂の某寺の和尚初めてとまり候いしが、夜半過ぎに愚僧が臥房にきたり、『盗賊こそ忍び入りたりとおもわるるほどに、はやく、みなみな呼び起こし候え』と驚きける。愚僧答えて、『それは狸にて候ほどに、心安く寝たまえ』と申せしなり。『先生も初めての御宿りにて候えば、さおぼしめし、御休み候え』」と申さる。予、「それは珍しくおもしろかるべし」といいけり。半月あまり逗留せしが、一度も出でざりき。

 近世は姦慝邪曲の悪僧悪俗ども、狐に神号をつけ何々明神様と称し、文盲無知の者をまどわしたぶらかし、金銭をむさぼりかすめ取りて世渡りする奸悪人多し。それがために惑わされ、これを敬い崇め立願し、祈り拝するものあり。すでに聖人も「人は万物の霊」と述べたまい、人ほど貴きものはなし。かかる貴き人と生まれて、畜類を拝礼しかがむは、誠に憐れむべく痛むべきことなり。これらは仏家にいえる「この世より畜生道におつる」というその一なり。ある知識の曰く、「この類は人に似たる人でなし」といわれし。このごろひそかに承れば、貴門の中よりも、婦女などは人でなしの仲間入りせらるる人もありとなん。にがにがしき世のありさまかな。これ、もと学校のおしえなく、人民なべて文盲なるがゆえなり。無学の人民、正理をしらず、ただ幸福を祈り求むる欲心より迷い初むることなれども、本心あらん人は恥ずることなからんや、慎むべきことなり。これほどの道理は、文盲愚鈍なる人にても、よくおもいみば無造作に解通ゆくべきことなれども、このうえに臆病心というやまいに悩まされ、もし信仰をやめなば罰あたらんかなどと卑劣心の疑念を生じ、なおもうろうろと酔人のごとくにて、明徳の本位にかえり志を立つることあたわず、一生迷い死にすべし。

 右のごとく、狐を神と崇め祭るこの類を邪神淫祀といいて、上古聖人の御代にはことごとく打ち毀ちすてられしなり。およそ陰巧邪奸をもって人心を惑わし迷わし邪路に引き入るる者は、これ人心をむしばみそこなう陰悪の罪人なれば、刑罰に行われ、人民を正道に導きおしえたまうなり。人の心に蠱を生ずるは、すなわち明徳をうしなうの病根なれば、聖賢のうれい悲しみたまうことの第一なり。

 右に述ぶるごとく、狐を大明神など〔と〕号し祭りしが、近ごろにていろいろ名を改め、地蔵菩薩ともいい、あるいは不動または観音などもあり。このごろはむかしと違い、神にも仏にも畜生あるこそきのどくなれ。

 大阪上町に、何右衛門とやらいう寄り祈祷をする者あり。女に幣をもたせ、狐をつかせ、いろいろのことをしゃべらせ、人を欺きたぶらかして金銭をかすめ取りしが、後には寄り女もやめ、己が身にただちに神々乗り移りたまうとて、種々妄言をしゃべりける。さても人は愚鈍の多きものかは、これを信ずるあほうものども講中をむすび、衆盲集い貴びよろこぶ。かの横道ものがしゃべりたてし声にて、あの御声は熊野権現様、これは春日明神様などと称しておぼれ貴ぶ。これらはごくごくの馬鹿もの、真のきつねにばかさるるよりも、今二、三等も上なるおおたわけなり。この講中という人に予が知りたる者ありしが、ついに身代失いてうろたえし。

 およそ神号を賜るは、まず神祇官に命じて、その人の徳行、勲功を選ばしむ。神祇官人勅を奉じ、選論定まりて勘文を献ず。その上にて神号勅許あることなり。近代もその例あるを見たり。かくのごとく厳重高貴の御事なるを、卑々下々の妄僧頑俗ども、畜類に神名を付くること、非礼の非礼、私の私なり。その罪、刑罰をのがるべからざるの罪人なり。

 これ、世人の一読すべき論なり。

 

第四八談 剣相の説

 相者は人相、家相を唱うるのみならず、刀剣の相までを喋々すと見ゆ。余、『皇国性質』と題する書を読みてこれを知りたり。その書に論ずるところ左のごとし。

 近世、剣相ということ行われて、その持ち主の性によりて、「この剣は災いあり、この刀は福徳あり」など言いて人を惑わし、金銭をむさぼるのやからあり。人またそれを信用して、先祖より什来の物といえども、その性に合わずといえばたちまちに売り払い、別に価貴き刀を求め、吉剣なりといいて珍重す。その愚なるこというべからず。楠正成の壁書というものにも、「刀は骨の切るるをもって善とす、あえて作を好まず」とあり。いわんや剣相をや。衣服、器財の類こそ、悪しといいてかうることもなれ、もし「汝の人相悪し、必ず疾病、憂患あらん」ときくとも、首を切り手足をきりてかうることなるまじ。吉凶禍福は天なり命なり、また己が心にあり、なんぞ器財にあらん。

よしや吉剣なりというとも、ゆえなく人を切らば、その身安穏なるべきや。人々これを察すべし。思うに、世間好事になりて、その類少なきものを愛す。いわば烏の黒きは常なるに、白き烏ありときけば、人争い求むるがごとし。しかれども、珍器はあながち求むべからず。珍器は世に益なくして人に害あり。得がたきの宝によりて身をあやまつもの、古来今往その数多し。「宝をいだいて害を買わず」と『文選』にも見えたり。むかし、一人の武士のもとへ剣を売らんとして持ち行き、「これは古今無類の吉剣なり、求めたまわんや」という。武士がいわく、「この剣、いずれより持ちきたれるぞ。その売り主はいかなる人にや」とたずねしに、「これはさる武士の所持したまいしが、この節、金子入用のことありて売り払いたまうなり。いささか出所に疑いなき品なり」といえば、かの武士こたえて、「いないな、それは求むべからず。すでに古今無類の吉剣を持ちながら、困窮して売り払わるるといえば、吉剣なんの用にか立たん」とて戻したりとなん。

これは、これ宋の『名臣言行録』にいえる、「孫甫之翰という人のもとに、あるもの一つの硯を持ちきたりて、『この硯、おのずから水出ず。価三十銭』といいしに、孫甫答えて、『一担いの水だに、価わずかに三銭なり。これを求めてなににかせん』といいき」と記せし★(譚の正字)と、和漢同日の談にや。されば心あらん人、かようのことに惑いて、心を労し金銭を費やすことなかれ。

 これまた、好事者の戒めとなるに足る。

 

第四九談 日取り、方角と戦争との関係

 古来、戦争には日取り、方角を選ばざるべからざるように信じおりしが、これ全く迷信にして、今日これを弁ずる必要なかるべしといえども、愚民中にはなお、かく妄想を抱くもの、いまだ必ずしもなしとせず。よって、『武家俗説弁』の一節をかりて、その妄を弁ぜん。

 いにしえより和漢ともに、「天官の吉凶によって、かならず戦い勝つことあり」といい伝えたり。これゆえに、『武備志』『登壇必究』等の書に天官の吉凶を記して、後世の人を惑わすこと多し。これにより、本邦の軍家もまたこれをまねして、一流を立てて兵書をつづるほどの人は、必ず日取り、時取りに吉凶あるの術をその書に載せて、また多くの人をあやまらしむ。実に笑うべく嘆くべし。およそ、いかほど天の時、日取り、方角の吉なるを得たればとて、良将練兵を敵に受けて、愚将蒙卒をもって勝つべきいわれなし。陣中に兵糧もなく、しかも小勢にして天の時吉なればとて、糧に飽き満ちたる大軍には、別にかわる謀なくしては、戦い勝つべからず。『孟子』に、「天時不如地之利、地之利不如人之和。」(天の時は地の利にしかず、地の利は人の和にしかず)といえり。軍の法は全く天道の吉凶によって勝利あるものにあらず、良将にして一和の兵なれば、大軍の敵といえども必ず勝つべし。

 その他、『武家故事要言』にも「武将は奇妙に迷わざること」と題して、迷信の惑いを戒めたり。昔日すでにしかり、いわんや今日の軍人においてをや。

 

第五〇談 馬琴の吉凶説

 滝沢馬琴は、わが国小説家の泰斗にして、妖怪を信ずる一人なるも、奇異なる現象につきて吉凶を判ずるがごときは、馬琴なおこれを取らず。左にその証を示さん。

 馬琴曰く、「古人今俗、奇を好まざるものまれなり。しかれども、北越の七奇異、南海の平家蟹、西海の不知火、関東の富士の農男などは、常に見もなれ聞きもなれしゆえ、奇なりとしりつつ奇なりとせず、狗の長鳴き、鶏の宵鳴き、烏のしばなくを聞けば、驚き怪しみて不祥とし、衣に飛鳥の糞をかけられ、帯のおのずから結ばるることあれば、これを祝して吉祥とす。その不祥ならざるも、にくみて不祥とするゆえに、ついに凶事を招き、その吉祥ならざるも祝して吉祥とするゆえに、ついに吉事なし。予をもてこれを弁ずるときは、怪は時あって吉、時あって凶、また吉もなく凶もなきことおおかり」と。(『燕石雑志』)

 これ、奇異の現象と吉凶とは全く関係なきをいうなり。

 

第五一談 卜筮は臨機応変

 『万年草』と題する書中に、卜筮に関して左のごとく記せり。

 昔物語あり。ある主人の夢に、足に毛の生じたるを見て、卜者に占わしめたれば、「加増を得べし」という。果たして加増を得たり。その家来なる奴も、足に毛の生じたる夢を見て、喜んで卜者に占わしめたれば、「長病なるべし」という。奴、大いに怒って曰く、「主人へは加増といい、われを長病という。その異いかん」と。卜者のいわく、「臨機応変」と。

 この臨機応変の四字、誠に味あり。これ、卜筮の秘訣ならん。

 

第五二談 十二支と十二獣との配当の出拠

 古来、子、丑、寅、卯等の十二支を鼠、牛、虎、兎等の十二獣に配当したる出拠は仏経中にあることは、余がかつて聞くところなるが、その経文は『大集経』に出ず。すなわち、「菩薩所住の所、東方に三窟あり、毒蛇、馬、羊なり。南方に三窟あり、獼猴、鶏、犬なり。西方に三窟あり、猪、鼠、牛なり。北海の山に三窟あり、獅子、兎、竜なり。この十二獣、昼夜に閻浮の内に行く。人天恭敬す、云云」とあり。また、『十二因縁生祥瑞経』に出ず。すなわち、「鼠、牛、虎、兎、竜、蛇、馬、羊、猴、鶏、犬、豕」にして、『大集経』に同じ。しかるに、王充『論衡』にも十二獣の名目ありて、しかもこれを十二支に配合して示せり。

すなわち、同書「物勢篇」に、「寅は木なり、その禽虎なり。戌は土なり、その禽犬なり。丑、未また土なり。丑の禽は牛、未の禽は羊なり。亥は水なり、その禽豕なり。巳は火なり、その禽蛇なり。子また水なり、その禽鼠なり。午また火なり、その禽馬なり」とあり。また、「子は鼠なり、酉は鶏なり、卯は兎なり」と。また、「亥は豕なり、未は羊なり、丑は牛なり、巳は蛇なり、申は猴なり」とあり。『事物紀原』には、「黄帝は、子丑の十二辰を立ててもって月に名づけ、また十二名獣をもってこれに属す」とあり。

〔滝沢〕馬琴これを評して、「仏法は漢の明帝の時、はじめて唐山に入るという。王充は後漢の人なり。ないし『大集経』の説はのちにして、『論衡』に説くところさきなるも知るべからずという。余案ずるに、『事物紀原』の「黄帝云云」はもとより信ずべからず。王充の説に至りては、仏教より取りきたりたるものならんか。なんとなれば、仏教は公然シナに入りたるは後漢の明帝の時なるも、前漢の時ひそかにシナに行われしは、学者のみな疑わざるところなり。果たしてしからば、仏教の説、『論衡』の前にありといわざるべからず。さらに一歩を進めて考うれば、仏書中の十二獣は、決して仏のはじめて説かれたるものにあらざるべし。これ、必ず仏以前インドに行われし説なること、やや推知すべし。果たしてしからば、漢以前にシナのある地方にインドの古説を伝えたりしは、なお信ずるに足る。とにかく、その起源は同一なるべし。さなければ、かく両説の符合する理なし。ただその異なるは、仏教の方には虎なくして獅子をあぐるにあれども、獅子はシナになき獣なれば、多分虎にかえたるならん」と。この馬琴の説は『燕石雑志』に出でて、仏の説は『法苑珠林』および『聖鬮賛』に出ず。

 

第五三談 五行生剋は付会牽合の説

 貝原益軒「五行生克論」〔『自娯集』〕を作り、もってその妄を弁ず。すなわち左のごとし。(漢文和訳)

 五行の相生は、ただこれ四時の代々めぐり、四気のたがいに盛んなる、その次第かくのごときをいう。けだし、春木夏火を生じ、夏火土旺を生じ、土旺秋金を生じ、秋金冬水を生じ、冬水また春木を生じ、その相生おのずからかくのごとし。五行の形質本始、必ずこれによって生ずるをいうにあらず。もし、その形質の初生をいうものあらば、すなわち、すべからく水火木金土の序のごとくなるべきなり。けだし、木火を生ずるがごときは、ただこれ火ありて後、薪をもって相伝うべきをいうなり。そのはじめ、木より火を生ずるをいうにあらず。けだし、水火は陰陽の徴兆にして、金木にさきだって生ずるなり。金木の気をもって、はじめて生ずるものにあらず。もし、木をきってすなわち火を生ずといわば、すなわち石をきってもまた火生ず。一に木に生ずるのみにあらず、火土を生ずるがごときは、もし火物をたけばたちまち灰となり、灰化してのち土となるといわば、なお可なり。しからば、木の腐朽もまたよく土を生ず。もし土の始生のとき、火によって生ずといわば、すなわち不可なり。けだし、土はすなわち地にして、地のはじめて生ずるや、天と相対して成る。混沌の気、軽清のもの、運転して天となる。

重濁のもの、凝集して地となる。しからばすなわち、土あに火によってのち成るものならんや。土金を生ずるがごときは、誠にこれかくのごとし。金水を生ずというがごときは、最も理なし。水火は陰陽のはじめて生ずるもの、前にいうところのごとし。天下、水多く金少なし。天下いくたの水、あに特に微妙の金気をまってのち生ぜんや。水木を生ずとは、まことにこの理あり。

 しかるに土よく木を生ずるは、その初生、みな特に水よりして木を生ずるにあらず、かつ五行の相剋また必ずしからず。木土にかつがごときはこの理なし。木は土によって生ず、土にかつというべからず。土水にかつとは、これ堤防をもっていうか。あるいは水中土を加えて混雑すれば、すなわち水たちまちに汚濁し、久しくしてのち乾涸す。これをもって、これを土水にかつというか。しかして水の土中に生ずるや、至陰の気集まり潤うによりて出ず。なお、木の土より生ずるがごとし。しからばすなわち、土水を生ずというも、これ可なり。けだし、土の水にかつはやや小にして、水の土より生ずるもの常に多し。ただ、水火にかつがごときは、分明なること、これかくのごとし。しからば、火煎熬すれば、すなわち水もまた耗尽す。これを水火にかつというもまた可なり。火金にかつがごときも、またまことにかくのごとし。

しかるに、金火をもって鍛錬して成れば、すなわち金もまた火によって成る。ひとえに火金にかつとのみいうべからず。金木にかつがごときは、まことにこれ、かくのごとし。しかるに火の木をたくや、ことごとく形質を滅す。火木にかつというべきなり。それ生剋の理は、古人の説まことに必ずしかるものあり、また必ずしからざるものあり。ただこれ四時相生の序にして、万物自然の常理にあらず。ここをもって常理となす。思うにこれ術者の説、付会牽合の論のみ。おそらくは聖賢至当の達論にはあらざるなり。

 貝原翁なおこの言をなす。五行生剋の妄説なること、あに疑いをいれんや。

 

第五四談 人狐弁惑談

 出雲に人狐と名づくる妖怪あり。けだし、四国にて犬神と名づくるものに同じ。これ狐憑き病の一種なり。しかるに、世俗その病症を悟らざるをもって、牽合付会の説をなす。惑えるもまたはなはだしというべし。余、一日『人狐弁惑談』を読むに、その論やや取るべきものあり。よって左にこれを録す。

 伯州、雲州、人狐と呼ぶもの、漢名いまだつまびらかならず。先年、松江侯この獣を京師に上せ、漢名をたずねさせたまえども、知る者なかりしと伝え聞く。またある人、小野蘭山先生にたずねければ、「黄県志」の皮狐にちかしと答えられしとなり。雲伯の俚俗、このものの人を悩ますことをいえども、人を悩ますものにあらず。その弁、下につまびらかなり。和名人狐と呼ぶべからず。名正しからざれば、人の惑いとなる。雲州には山みさき、また薮いたちというもののよし、御触れありしとなり。本藩まま、小いたちと呼ぶ者あり。予が辺りにては、水辺の石垣などの内に住みて、山にはすくなし。また、薮におること多しというにもあらず。形、鼬に似て鼬より小さく、尾、鼠より短くして毛あり。形状をもっていわば、小鼬と呼ぶところ相応せり。色、おおむね鼠色にして黄色を帯べり。あるいは、鼠色より黒色濃くして黄色なきものもあり。その黒色こきうちにもまた濃淡あり。また、黄色をおぶるにもまた濃淡あり。あるいは、まれに斑なるものもありと聞けども、予いまだこれを見ず。あるとき、親四子をつれあそぶを見しに、子はみな鼠色より黒色こくして黄色なし。愚案するに、子はみな黒色こくして黄色なく、長ずるに従って黒色うすくして黄色をおび、老ゆるに従って黄色こきがごとし。

 さて諸国のことを伝え聞くに、九州には河太郎というものあり、四国には猿神というものあり、備前には犬神というものあり、また備前、備中に日御碕というものあり、備中、備後にとうびょうというものあり。いずれも人について人を悩ますことをいえり。その人を悩ますというところを通考するに、その名異なりといえども、その実は一なり。人を悩ますといえども、いずれもその形見えざれば、人狐といえば人狐なり、河太郎といえば河太郎なり、猿神といえば猿神なり。犬神、日御碕、とうびょうもみなしかり。国々の俚俗、その実をしらず、その呼ぶところを異にす。いずれもその名目あたらず。予をもってこれをみるに、みなこのものの所為にあらず、その実は病症なり。しかるに国々の俗、これに迷いてわざわいとなること少なからず。雲伯二州は迷うことはなはだしく、わざわいとなること最も多し。ゆえに、まずまのあたり見聞するところの人狐のことをもって、おおむねこれを弁ず。国々呼ぶところの名目異なりといえどもその実一なれば、これをもって類推すべし。

予、俚俗の人狐の所為というものをみるに、ことごとく顕然たる病症なり。あらかじめその病症をいわば、癲症、卒然として転倒し人事を知らず。この症、あるいは一発あるいは二発して、また発せざる者あり。あるいは初発怒りをなし、有り合うものを投げ打ちし、のち転倒して人事を知らざる者あり。あるいは転倒して、さまざまのあやしき声をする者あり。また癇症、卒然として泣き出だし、あるいは笑い、あるいは恐るる者あり。また健忘の症、ふとものをわすれ、恍惚として言語みだれ、あるいは山野に出でて石をつみ土をもて遊び、あるいは流水にはいりて小児のあそび戯れをなし、家に帰ることを知らざるものあり。また奔豚の症、にわかに臍下より悸し、豚のごときもの胸さきへ上がり、四肢逆冷振寒するものあり。また痙病、にわかにそりかえり、角弓反張の形をなすものあり。また痛風、ここかしこと抜け回るように痛むものあり。また傷寒、譫言妄語あるいは独語、鬼状をみるがごとく、あるいは血症狂のごときものあり。また眩暈の症および痧病、にわかに倒れておぼえざるものあり。また小児驚風の症、にわかにたおれ、直視、あるいは上竄、あるいは反張、あるいは搐揉、人事をしらざる者あり。また呃逆の症、その声連綿たること久しくしてのち人事をしらず、覚えきたればまたもとのごとく、数日癒えざる者あり。

 また、諸病の壊症、偏味を好み、土砂をくらい、〔あるいは〕松脂、炭灰を食らい、〔あるいは〕角の櫛、笄を食らい、〔あるいは〕髪を食らい、そのほか種々のものを食らう〔者〕あり。そのうちにも、櫛、笄、髪を食らうはあまり偏なることゆえ、婦人どもは他聞を恥じて、ひそかに櫛、笄をかくし食らい、人の目を忍びて己が髪をきり取り食らう者あり。傍人、櫛、笄のくいかけ、髪のきりあとを見付け、奇異の思いをなすことあり。また狂症、にわかにかけ出でてくるい歩き、あるいは山に入り、あるいは川沢に飛び込む者あり。あるいは年々二度ぐらい発し、五日、十日ばかりにして治まり治まりする者あり、あるいは発して半日、一日ばかりにして治まる者あり。あるいはその応対常のごとくにして、折々言葉の端に符合せざることをいう者あり。この症、ふと言語みだれ動静常ならざる者、俚俗、人狐の所為とこころえ、西よりきたりたるか東よりきたりしかと厳しく問いかくれば、その調子にのり、西よりきたりたるの、東よりきたりしのということあり。俚俗これを聞くより大いに怒り、あるいはたたき、あるいはつめり、帰るか除くかと責め難ずれば、そののがれ言葉に帰るの除くのといえば、まさしく人狐に相違なしといって、かわるがわる法者を招き、しげしげに祈祷すれども、そのしるしあることなく、おいおい日を積み月をかさぬれば、俚俗も自然と狂症なることを知り疑うところなく、ついに終身の患いとなる者多し。

 この説によれば、人狐は一種の狂病なりとなす。すなわち精神病の一種なり。

 

第五五談 竹の子笠、怪をなす

 枯れ尾花が幽霊と化するがごとく、竹の子笠が怪に変ずることあり。その談は『武将感状記』に出ず。すなわち左のごとし。

 中川修理太夫秀重の家来、赤座七郎兵衛は鉄砲頭なり。赤座が妻の弟村井津右衛門、浪人にて赤座が所におれり。岡の城は地理嶮岨にして、諸士の居宅ここかしこにありて相続かず。十丁ばかり家離れの所に墓原あり。いつのほどよりか、この墓原に風雨の夜、物の羽たたきして鳴く声あり。化け物出できたれりといいふれて、農商、女童、大いにこれを恐れ、かくて五七〔三十五〕日過ぎて、村井ある方に行き、夜に入りて帰らんという折ふし、雨風はげしく夜もふけたり。その座中の人々、「帰路にかの墓原を過ぐる所なれば、このごろの化け物出でぬべし。ただここに宿せられよ」ととどめける。村井なんの思慮もなく、粗忽のことばかな、さ言われては宿せらるべきかと心中には思いけれども、さらぬ体にて、「赤座に必ず帰らんと申しつれば、寝ずして待ちおりさぶらうべし」とて帰りけるが、墓原近くなり、羽たたきし、鳴く声聞こゆ。されば実なりと思い、その声について歩みよる。風の絶え間に声またやむ。この辺りならんと声せし所に近づくに、風吹ききたるとひとしく、はたはたひょうひょうといって頭の上にかかる。かねて、きるところにあらず、捕らうべしと覚悟したれば、これを捕らえて手探りにして見るに、竹の子笠を墓原の竹垣に掛け置きたるにてぞありける。

これをはずせば、風吹けども声なし。この竹の子笠を取り帰りて、赤座はとく寝ねたるを起こし、「われ今夜、かの化け物をきりとめ候」という。赤座は奇怪のことかなとて、そのことを問う。村井、人を退けて、「こうこうの首尾に候え」といえば、赤座「実ないいそ、ただきりとめたるにせよ」とて、明日人に逢いてこれを語る。はたはたとは笠の垣にあたる音、ひょうひょうとは竹の穴に風の笠にさえられて激する声なり。その後、羽たたきも鳴く声もなかりければ、人、村井がきりとめたることを信ず。世上、妖魔などいい伝うるもの、その実を正さば、みな竹の子笠の類なるべし。

 世の臆病連中も、右の話を一読しきたらば、必ず大いに悟るところあるべし。

 

第五六談 彗星と兵乱との関係

 古代はもちろん今日にても、愚民なお彗星と兵乱とは必ず関係あるもののごとくに考うるも、『武家俗説弁』には、「天変地妖は一定することなし。いにしえより彗星出ずることたびたびなりといえども、吉あり凶あり、一偏に論ずべからず。たとえば、彗星出でたりとも、国主、領主の政道正しく人事よく治まるときは、必ず吉なるべし。また、彗星出でずとも、国主、領主の政道正しからずして人民恨みいからば、必ず兵乱起こるべし。これ、いわゆる妖は徳に勝たざるの理なり。あに彗星の出ずるをもって、必ず兵乱ありとせんや」などと論じてその非を弁ず。また同書に、「破軍を繰りて軍に勝つ」という説の妄を弁ず。かくのごとき迷信の、明治の昭代にありてなお行わるるは、実に国民の恥辱なれば、ここに一言の注意を述ぶるなり。

 

第五七談 家相の吉凶は問うに及ばず

 家相の吉凶を談ずるは愚民の迷信なること、古人すでにこれを弁明せり。その一例として、『人狐弁惑談』の一段を抜記すべし。

 法者家相をみて、「この家相あしきゆえ病人たえず、あるいは短命、あるいは貧窮、あるいは子なし、何世の後この家滅亡す」などといえば、世俗ふかく心にかけて安からず、ついに蔵、廏、雪隠を建て直し、家の間割をかえ、戸口をあけなおし、あるいは家を建て直す者多し。その費、あげて数うべからず。愚案するに、家相のことは知らざれども、人の禍福は家相によらず人の行いによれり。書〔『書経』〕にいう、「作善降之百祥、作不善、降之百殃。」(善をなせば、これに百祥をくだし、不善をなせば、これに百殃をくだす)と。またいう、「天道福善禍淫」(天道は善に福し、淫に禍す)と。孟子いわく、「禍福無不自己求之者」(禍福は己よりこれを求めざる者なし)と。これ、その行いによることを知るべし。家相あしきゆえ病人たえず、あるいは短命、あるいは貧窮といえども、みな家相によらず人の行いによれり。貝原〔益軒〕先生『願成就之記』に曰く、「世人、神仏に詣で願うところのことをきくに、息災延命、家業繁昌と祈れり。

これ、もっともなる願いなり。願うとおりに身に行えば、ただちに成就することなり。もし、口にいい心に思うを願かけたりと心得ては、大いに違うなり。信実の願というは、身の所作にあり。ゆえに、主人、気随気ままに我意をふるまえば、家内混乱の願成就す。大酒淫乱なれば、不息災短命の願成就す。農商手をつかねて遊びおれば、たちまち不作、商いなく、貧窮の願成就す。無理をいい無理をすれば、悪事の願成就す。不慎にて人にむごくつらければ、災難の願成就す。ゆえに、上を敬い下を憐れみ、忠孝実義に夫婦兄弟むつまじければ、家内安全の願成就す。不養生せず心を清く持ち身をつとめば、息災延命の願成就す。百姓は農業に気をくばり出精おこたりなく、町家は売りさき買いさきを主人父母のごとく大切におもい、売買正直丁寧にしておこたらざれば、家業繁昌の願成就す。御法度をかたく守り、柔和にして我をたてず、人をあなどらず人と争わず、慈悲ふかく料簡つよく、よろずにわれかしこしと思わずば、悪事災難なき願成就す。かくのごとく心得て、なおこの上をまもらせたまえと神慮にまかせ奉るを、まことの願といい、成就せずということなし」となり。

 しからば、家相よしといえども、主人気随気ままに我意をふるまえば、家内混乱す。大酒淫乱なれば、不息災短命なり。農商手をつかねて遊べば、たちまち貧窮す。家相あしといえども、百姓は農業に気をくばり出精おこたりなく、町家は売りさき買いさきを大切に思い、売買正直丁寧にしておこたらざれば、家業繁昌す。その他、枚挙におよばず。孟子も、「不違農之時穀不可勝食也」(農時を違えずんば、穀勝げて食うべからず)といえり。農家は、春は耕し、夏は耘り、秋は収めておこたらざれば、穀物多くして貧窮することなしとなり。また、家相あしくして子なしといえども、婦人の七去に聖人子なきものをさるとのたまえり。家相のことを教えずして婦人を去るとのたまうは、家相のあしきによらざればなり。また、家相あしきゆえ、この家何世にして滅亡すといえども、『易〔経〕』にいう、「積善之家必有余慶、積不善之家必有余殃。」(積善の家には必ず余慶あり、積不善の家には必ず余殃あり)と。これ、家相あししといえども、世々善を積む家は、福慶子孫に及ぶ、なんぞ滅亡することあらん。家相よしといえども、不善をつむ家は災い後世につたう、その家必ず滅亡すべし。これ、家相にかかわらず、かつ世に亀鑑多し。数代家道ゆたかなる豪家も、分限に応ぜざる奢侈をいたし、放埓にして家業をおこたる者できれば、その家たちまち衰微し、あるいは滅亡するもの多し。『孝経』に曰く、「居上而驕則亡、為下而乱則刑。」(上にいて驕ればすなわち亡ぶ。下となりて乱るればすなわち刑せらる)と。

ゆえに、桀王は頑昏暴戻にして美人を愛し、佞人を用い、忠直の諌臣をころし、国政乱れて、夏の代四百五十八年にして亡ぶ。紂王もまた、暴戻、奢侈、荒淫にして、美人を愛し、長夜の飲をほしいままにし、酒池肉林をつくり、孕婦の腹をさき、朝にわたるの脛をきり、比干が胸をさき、梅伯を焼き殺し、文王を★(羐の艹が艹)里にとらえ、佞人を用い、諌めをいれざれば、殷の代六百四十四年にしてほろぶ。その他、枚挙に及ばず。また、下として乱れて法を犯し刑せらるる者、あげてかぞうべからず。これみな、行いのあしきによりてなり。ある人の曰く、「善人、悪人のできるも家相の吉凶による」と。

 予が曰く、「しからず。今、吉相の家を作り子を育てば、書読のことを教えず道を学ばずして、おのずから博識の君子となるべきや。決してなることあたわず。道を学ばざれば道を知らず。ゆえに、孔子も、『吾嘗終日不食、終夜不寝、以思、無益、不如学也。』(われかつて終日食わず、終夜寝ねず、もって思う。益なし。学ぶにしかざるなり)と。また、『思而不学則殆』(思うて学ばざれば、すなわち殆うし)などとのたまえり。みな、学ばずんばあるべからざることを示したまうなり。

このゆえに、文、行、忠、信の四つをもって教えたまえり。また曰く、『性相近也、習相遠也』(性相近きなり。習相遠きなり)とのたまえり。人、善にならえば善となり、悪にならえば悪となる。ゆえに、『与善人居、如入芝蘭之室。久而不聞其香。即与之化矣。与不善人居、如入鮑魚之肆。久而不聞其臭。亦与之化矣。』(善人とおるは、芝蘭の室に入るがごとし。久しくしてその香を聞かず。すなわちこれと化せり。不善の人とおるは、鮑魚の肆に入るがごとし。久しくしてその臭を聞かず。またこれと化せり〔『孔子家語』〕)とものたまえり。幼稚のときより善事を見聞けば、おのずから善にうつる。ゆえに、孟子の母は居所をうつして孟子をそだて、鄭玄が家の奴婢は、みなおのずから書を読む。これ、善人、悪人のできる家相の、吉凶によらざること明らかなり。禍福は人の行いによれり、家相の吉凶によることなし。しかるに、法者のいえる家相によると心得るは、大いなるあやまりなり」

 これ、家相迷信家の一読すべき文字なり。

 

第五八談 口寄せのこと

 わが国にて古来、市子、口寄せと名づくるものあり。今、『和漢合壁夜話』によってその大略を述ぶれば、「口寄せというものは、下方なる生まれの子供を養育し、その子に、なににてもすき好むことをさせ、食いたがるものをくわせ、この子供によく合点させて後その者を殺し、その首をほしかため、箱に入れて持ちありく。なににても聞きたきことがあれば、その下方に聞くに知れぬことなし。その下方がみな、人の口をよせることを教えきかしむるといえり。また、ある人のいえるは、人の死したる墓所へ夜丑の時に至り、七本卒都婆の頭を下よりだんだんと折りとり、七七四十九日がうちに、人の知らぬように右の七本卒都婆の頭を折りとりてたくわえおけば、右の人の思うことを知るといえり。下のひくき方の頭よりとるゆえ、これを下方というともいえり」と。

 この口寄せにつきては、『闇の曙』に左のごとく評論せり。

 覡婆の口寄せとて、死したる人を招きて物語をさせ、また生霊を呼びあらわしてそのうらみをしゃべらす。これ、もとより儒道、神道になきことにて、また仏家にもかつてなきことなり。愚俗の老夫老婆の、誠に仏のことなりと思いまどいよろこぶこと、さてさてきのどくなることなり。仏説において、天堂に生まれ地獄に堕するというは、いたってわけのあることにて、覡婆なんどが肉身不浄の身にて、小弓を取りぴんぴんならすと、はや天堂より地獄より飛び出できたるべきようなるあさあさしきことにあらず。予、このことを書きて、五山の長老たちに序跋を請いて愚盲の惑いを助けんと、かねて長老たちにはなしおきしかど、他の筆用多く、いまだそのことを遂げず。さて、この口よせにも巧と拙とあり。これにつき一つの話あり。大和田何某が曰く、「拙者、ただいまの妻は後妻にてはべり、先妻は五、六年の長病にて、身代かたぶくほど費えいたし、いろいろ養生を尽くしはべる。

あるとき妻が母しのびて、かの小北山へ行きて例のぴんぴんを頼みしに、生霊出でて曰く、『われを妻に持つべき契約を変じ、今の妻に見かえられたるうらみは、なかなか忘るべからず。必ず取り殺すべし』という。妻が母大いに嘆き帰り、婿大和田にしかじかのことをかたり、『そなた、すぐに行きて右の段々聞いてくれよ』とわりなく頼むゆえ、大和田もぜひなく右の覡子へ行き、またぴんぴんを聞くに、姑のいうにたがわず。大和田答えていうには、『それは近ごろよきことを聞きぬ。ひとときもはやく取り殺しくれなば、われらはなはだ勝手になることなり。とても本復なきことは諸医もかねがね申され、こなた覚悟のことなれども、息のあらんほどは人情なれば、捨て置くこともならず。五、六年の病中、物入り多く身代傾きたれば、この上また長くわずらいいては看病人もつづかざるに、取りころしくれんとは千万うれしきなり。さてまた、われ前々より女房にせんと約束せしもの幾人も覚えあり。そのうちにて、その方は何町のだれなるや、名はなんといいしものぞ、早速たずね行きて、じきじき物語りすべし。町所、また名も聞かん』と問いかけければ、生霊返答に困り、たちまちやみぬ」となん語りし。かようなることを聞いても、かしこき人は惑いを解くべし。

 江戸にて三月ごろ、笋笠を着けて町々を通る女は口寄せみこなり。それゆえ、江戸の女子に笋笠を着けるもの一人もなし。今はいかがあるやしらず、裏借家などに住める愚かなるじじばばども呼び入れて口よせさすれば、近隣同じ類のものども集まり、かわるがわる口よせ涙を流し、親じゃの子じゃのといい、生きたる人にあうごとくよろこびかたるなり。予が若きとき、常々わが宅へもきたる二十二、三ばかりなる男の、気軽なるおどけ者あり。このもの、老婆どもあつまり、かの口よせするを見て、しおしおとしたる風情にて、行きて手向けの水をそそぎたれども、なぐさみごとなれば、なんと指すものもなし。しかるに若き男なれば、覡子推量し、妻の別れとやおもいつきけむ。寄り来るもの、恋慕の情をいうなり。この男おかしくおもえども答えて、「われ、少しも色情などのことはつゆも覚えなし。なにびとが寄りきたるや」ととえば、いうところそろそろ変じて、「姉と聞こゆ」「これも覚えなし」といえば、またかわりて、「母と聞こゆ」この男、「いま両親ともに堅固なり」といえば、覡子もせんかたなくやみぬ。この男はわれよく知りたる人にて、両親ともまだ四十あまりにて、ただ独り子なりし。さても下手なる覡子なりとて、みなみな笑いのたねとせり。これは、最初に程を取りそこないたるなり。さればこそ、寄せを頼む人に返答せよといいて、いと口をくり出だすなり。はじめに知りがたきとき、先祖など、祖父などよりしゃべりかけるなり。「手向けにあらず」といえば、「手向けにはあらねども、水はさかさには流れぬゆえなり」と答えて、後の程を見合わすなり。

 この説によりて考うれば、巫覡の予言もたいてい推し測らるることなり。

 

第五九談 妖は徳に勝たず

 古来、「妖は徳に勝たず」という。その一例は『先哲叢談』に出ず。

 人あり、狐のために魅せらる。諸術避くることあたわず。たまたま〔伊藤〕仁斎の徳、よく妖を服すと聞きて、これを招請す。仁斎至る。口、いまだ一言を吐かずして、狐慴服して罪を謝し去る。

 これ、あえて仁斎をまたず。狐なにほど猾なりといえども、あに人に勝つを得んや。

 

第六〇談 和漢の妖怪

 本邦の妖怪とシナの妖怪とは、たいてい相似たるところあり。新井白石の『鬼神論』に、両者を比較して示せり。その文、左のごとし。

 本朝のむかし、人変じて天狗というものになりぬといいも伝う。これらは鬼仙といいしものにはあらずやという人もあれど、いかがあるべき。世の伝うることのごとくば、かの天狗というものは、おおくは修験の高僧のなりたるなり。経に、「仏教は上は鬼宿に属す」とみえたり。「鬼星くらければ仏教おとろう。仏はすなわち一霊鬼なり」ということもはべれば、身すでに鬼教を行わん人の、鬼のために摂せらるることもあるべしや。されど、もろこしの書に、それに似たることもおぼえず。ただ唐の時、蜀の国にて仏寺に大会を設けしに、いろいろの見せ物ありしが、その中に十歳になる童児の、竿の上にてよく舞うありけり。人多くあつまりてこれをみるうちに、たちまちに鵰のごときもの飛びきたりて、とりてゆきけり。見る人、大いにおどろき、にげ散りぬ。数日の後、高き塔の上にありしをその父母見つけて、のぼりばしごしてとり得たりしが、つれづれとなりて居ける。ほどへて人心地になりし後、「仏寺の壁にえがける飛天夜叉のごときもののためにいざなわれて、この塔の内に入らんとす。日々にくだもののたぐい、飲食の物をたびたびくいけり」といいしよし、『尚書故実』に見えはべる。飛天夜叉に似たるとは、鬼のかたちにて翼生えたるものにや。いわゆる天狗のふるまいによく似たり。

これらは、多くは山林霊気の生ずるところの木石の怪なるべし。『述異記』に見えし山都、『幽明録』にみえし木客などいうもの、そのかたちも物いいも、まったく人のごとくにして、手足の爪鳥のごとく、つねに山ふかく巌けわしきところに住みて、よく変化してその形を見ることまれなりという。これら、世にいう天狗に似たり。山姥といえば嶺南の山姑に似て、山姫というは日南、南丹等の地の野女、野婆に似たり。河太郎というものは、宋の徐積が廬川の河のほとりにて、とり得たる小児、白沢図にいわゆる封の類にて、海小僧というものは、南海の海人、かたち僧のごとくにして、すこぶる小さきなりというに似たり。猫またというも、金華の人の家に飼う猫、三年の後はよく人をまどわすというの類にて、犬神というものは、尸子の地狼、夏鼎志の賈、白沢図にいわゆる「木の精を彭侯という、かたち黒き狗のごとし」などいうの類とは見えず。これ、犬をころして祭りて妖術をおこなうこと、日南、蛮方の蠱毒のことに似たり。

 かく和漢妖怪の相同じきもの多きは、わが国の伝説、迷信、大抵みなシナに起因せるによる。

 

第六一談 古来学者の鬼門論

 古来、わが国学者の鬼門を論じたるものすこぶる多し。今左に、余が一読せし書目を挙ぐれば、

秉燭惑問珍 博物筌 随意録 本朝俚諺 谷響集

無鬼論弁 百物語評判 閑窓瑣談 東牖子 居行子後篇

梨窓随筆 叢林集 諸説弁談

 以上の数書に論ずるところ、みな鬼門の迷信を破するにあり。そのうち、左に『居行子後篇』の所論を転載せん。

 当世、陰陽師、山伏等、銭もうけの種として、愚昧の人を惑わし、普請、造作をして不自由ならしめ、闊世界を狭くして、はなはだしきは向鬼門と名づけ、西南の方までを忌み恐れしむ。俗人みなこれをおそれ、祈祷者の奴婢となりてうかがい仰ぐ。陰陽家の書物にさえ、しかと沙汰のなきことにくくられ、ゆきたき家へもえうつらず、建てたき普請もえせず、陰陽師、修験者などにつきまわされ、不自由な目をするも嘆かわしきことなり。それ、天地の方位に品々あり。南極を午とし、北極を子とし、正東を卯とし、正西を酉として、十二方を配るこの一品なり。それさえ天地はもと円体のものゆえ、子午の天頂も卯酉の天頂も、人のおる州々にしたがい、その所々の地平かわるなれば、その地平に応じて十二方さだまることなり。かくのごとくみれば、州々十二方同じからず。ゆえに、方位の品数かぎりなし。

いわんや人々毎戸の東西南北は、ここの東はかしこの西、かしこの北はここの南、家ごとに東西南北おなじからず、十二方もそれにつれて移る。いずくを真ん中として丑寅の鬼門にあつるや、悪鬼、人ごとに宿替えして祟もなすまじ。天地の真の方角沙汰は、天学にくらき祈祷者なんどの知るところにはあらず。渡世のために加持祈祷などをする不学文盲の者のいうことを、恐れ惑うは愚なることなれども、いま世上一統に数百年染まりきったることなれば、これをそむけば鼻欠け猿のたとえにひとしく、牆やぶりのとがをこうむる。なにごとも風俗にならい、よく世とおしうつるをよしとするなれば、王法のそむけぬようにして、心のうらは「普天の下、率土の浜、王土にあらず」ということなし。いずくか鬼のすみかなるべきと悟り、たとえたまたま鬼門の祟をうけしというたしかなる証拠ありときくも、これみなその人の運のなすところ、本人の心の鬼門にとがめられたることと思うべし。化け物にあったとて、後によくよく吟味すれば、二階の灯火の影ぼうしなりというたぐいと思いとるべし。たとい歳徳の吉方へ建て出だしたりとも、御願い申していたすべき田舎などにて、御願いも申さず気ままにし、さらばその方に悪神なしとも、たちまち御祟をこうむるべし。ことさら知行取り、仕官人等は、なおもってなり。鬼門にかぎらず、金神、八将神の方にても、御主人より屋敷替え、国替え等おおせつけらるるとき、方あしきとて御断り立つべきや。これらのことを思い合わせ、王法とたてて、われと心にまよいて恐るることはなかるべきなり。

 昔日すら、鬼門を信ぜざることかくのごとし。いわんや、今日の昭代にありて鬼門を恐るるがごときは、あに日本国民の名に対して恥じざるを得んや。

 

第六二談 人の相生

 人の相生に関して、『闇の曙』に一問答を掲ぐ。これまた一読の価値あり。

 ある人きたり問いて曰く、「拙者、このたび手代を召し抱え候に相定め候ところに、物しれる人の申され候は、この人はそのもとと相生あしく候えば、無用にいたすべき由申され候。このこと御示しにあずかりたし」という。予曰く、「そのもとには家来何人ほどつかい申され候や」彼が曰く、「これまで手代一人、小奴一人つかい候。こんど、いま一人召し抱えたく候」予曰く、「五人、十人の家来抱え候は、主従の相生を合わせ求めたりとも調ぶべきなれども、百人、二百人ないし千人、万人の家来、大名などは、いかにしてか主従の相生を求めん」と答え、あまりおかしく、われしらず吹き出だしければ、問う人、にがにがしき顔つきにて帰りぬ。また、同日同時のあほうものありていう、「およそ病人は医者と相生を合わせて、相生する医者の薬を用うべし。相剋するは、その薬ききめなし」となん。日本一のばかものども、予もながいきして、種々の妄説を聞くことかな。さてもさても。

 この評によれば、相生相剋を信ずるものは、日本一の馬鹿またはあほうものなりという。もし五行家をしてこのことを聞かしめば、これをなんとか言わん。

 

第六三談 糸引きの名号

 守田宝丹翁は、大福長者なり、大楽隠居なり、大信仏家なり、大慈善家なり。その宅、駒込動坂の上にありて、余が居を去ること遠からず。翁久しく糸引き名号と名づくるものを秘蔵し、これを合掌礼拝する者は、必ずその指端より五色の糸の出ずるを見るという。一日、翁自らその糸を携えきたりて余に示さる。けだし糸引き名号は、古来民間に伝うるもの一ならず。『世事百談』の中に、「弥陀の手糸」と題し二、三の書を引証せるを見れば、その由来の久しきを知るべし。しかれども、これあえて奇とするに足らず。余よって、翁のこれを奇とするの点いずれにあるかと問うに、翁曰く、「今日の愚民に仏教を勧むるに、高尚の理屈をもってするも、これを誘入すること難し。むしろ、かくのごとき直接に目に触るるものをもってするにしかず」と。余、ここにおいて、翁のために左の一言を書してもって贈る。

 それ、怪に虚怪あり、実怪あり、仮怪あり、真怪あり、秘怪あり、霊怪あり、妙怪あり。いま糸引きのごときは、余、なんの怪に属するかを知らず。もしこれを理学者に問わば、必ず仮怪をもって答えん。もしこれを宗教家に問わば、必ず秘怪をもって答えん。余をもってこれを見るに、これなお小怪のみ。たとえこれを一種の秘怪とするも、いまだ宗教のいわゆる霊怪、妙怪とするに足らず。吾人、もしひとたび仏性を開顕しきたらば、天地万物ことごとく霊妙の光景を示して、わが眼界に現ずるに至るべし。しかるに、無始以来の迷雲深く吾人の心天をとざし、永く霊光に接することを得ざるは、あに終生の遺憾ならずや。幸いなるかな、ここに浄土一門ありて、これより西方の遺教にもとづき、凡愚ただちに霊界に到達する別途を開きたるは、あたかも闇夜に一点の灯光に接するがごとき感あり。しかるに世人の浅識なる、その深旨を了得するあたわず、むなしく五里霧中に彷徨するもの多し。かかる衆人に霊界の不可思議を知らしむる良法は、けだし宝丹翁の糸引きの試験ならんか。もし、この一種の小怪を示してより、衆人に霊妙不可思議の大怪を悟らしむることを得ば、翁の功、実に千百人の僧侶の教化に勝ること万々なり。ゆえに余は、これを随機開導の善巧方便となして、翁の護法に厚きを称賛せんと欲す。ああ、翁は近世の生き菩薩なるかな。いささか所思を記して翁に送る。

 宝丹翁大いに喜び、これを印刷して知人に配布せり。

 

第六四談 まじないの話

 愚俗、多くまじないの効験を信ずるも、これただ気休めに過ぎず。たとえば、蛇の出でざるまじないに、

 この山に鹿子まだらの虫あらば山立姫に告げて取らせん

 右の歌を書して戸障子に張り付け置けば、蛇出ずることなしというも、全く道理なきことなり。『宮川舎漫筆』に、まじないの失策話を左のごとく掲げり。

 予生父、理斎翁、ある人より蜂にさされぬまじないを受けしとて、予に伝えたまう。われ、もとよりものごとけなす癖あれども、父の命令もだしがたく、よんどころなく受けしところ、折しも蜂飛びきたれば、これぞよき試みならんと、右の呪文を心に念じ、手に取るやいなや掌の内を十分にさされ、その痛みたえがたし。ああ、毒のこころみはせぬことと、腹を抱えて笑い合いぬ。

 世間のまじないは、多くこの類なり。

 

第六五談 霊怪、容易に信ずべからず

 『擬山海経』に『朝野僉載』を引きて曰く、「東海の孝子郭純、母に喪して哭するごとに、群烏大いに集まる。使いをもって検するに実あり。よってその門を旌表す。後にとえば、すなわちこれ、孝子哭するごとに餅を地に散ず。群烏争いきたりてこれを食す。その後しばしばかくのごとし。烏、哭声を聞きてもって度となし、競湊せずということなし。これ、霊あるにあらざるなり」と。また同書を引きて曰く、「河東の孝子王燧が家、猫犬互いにその子を乳す。州県上言す。ついに旌表をこうむる。すなわちこれ、猫犬同時に子を産むに当たり、猫児を取りて犬窠のうちに置き、犬子を取りて猫窠の内に置きて飲ましむるに、その乳に慣れて、ついにもって常となす。異をもって論ずべからず」と。世の霊怪には、かくのごとき人作に出ずるもの多し。ゆえに余曰く、

「霊怪は容易に信ずべからず」と。

 

第六六談 英雄なお迷信を免れず

 物〔荻生〕徂徠は学者中の豪傑なり。その学識ともに海内を風靡す。しかれども、なお迷信を免れず。その終わりに臨み、天まさに雪ふる。徂徠、人にいいて曰く、「海内第一流の人物、茂卿まさに命をおとさんとす。天ためにこの世界をして銀ならしむ」と。また、その病重きに際し、侍者に語りて曰く、「宇宙、俊人の死するや、必ず霊怪あり。今まさに紫雲舎を覆うことあるべし。汝ら出でてこれをみよ」と。そのいよいよ危うきに臨んで、なお紫雲を呼号して口を絶たざりきという(『先哲叢談』)。徂徠の人物にしてこの語ある、はなはだ解し難しといえども、余案ずるに、徂徠、平素思慮を労するその度に過ぎたるをもって、死に臨み精神の錯乱をきたせしならん。

 

第六七談 焼傷の御札

 東京麻布一本木に焼傷の御札あり。その形名刺に似て、その表面に「上」の字あり。この札をもって火傷の場所を摩すれば、たちまち癒ゆるなり。しかるに人あり、御札の代わりに自分の名刺を用いたるに、同じく効験ありきという。

 

第六八談 一輪車の怪

 愛知県葉栗郡浅井村に数十年前、一輪車の怪と名づくるもの現れたり。けだしその怪たるや、一夜のうちに村内いたるところ、一輪の車轍縦横に交わりしを見るも、だれのなすところなるを知らざりきという。かくのごとき怪事再三に及びたれば、村民大いに変災のきたらんことをおそれ、神仏に祈請してもってこれを除かんとせしが、その後、日ならずして、ある家に猫の夜遊びを防がんために、毎夜その足に鉄棒を結び付けおきしに、猫はよくこれを引きながら街上を歩き回りしことを聞き込み、さきの一輪の車轍は全く鉄棒の跡なることを知れり。これ、余が誤怪の一例なり。

 

第六九談 霊験は信仰より生ず

 神仏を祈念して効験あるは、信仰作用のしからしむるところにして、その問題は心理学の研究に属す。余は、偽信を排すると同時に信仰作用の必要を唱うるものなり、迷信を破すると同時に道理的信仰の利益を唱うるものなり。平田篤胤翁は有神論者の一人にして、余とその意見を異にするも、信仰作用を説明せる一段に至りては、余が同意を表するところなり。左に『鬼神新論』の一節を引いて翁の意見を示さん。

 木、石、金、土などをもって造りたる像代に祈りて効験あることは、その祷りをかくる人の念じたる某々の神霊よりきたりて験あるにて、さらに疑いなし。いかに念を凝らしたりとも、心を赴くる方なくては、失いたる物のたちまちに在所が知るばかりの霊は、己が心とはいでこぬわざなり。志を赴くる方ありてこそ、感応もあるべきことなれ。これはことふりたる譬えなれど、石と金とをきしりて火を出だすと同じ理にて、石も金も火を含みたるものなれども、石一つにて打つことなければ火出ずることなく、金一つにても同じことなり。もっとも、人もあやしき霊のあるものにて、その霊を凝らして祷るときは、神それに感て応験あるなり。この理によく思いを潜めて考えたらんには、今の疑いは自然に晴れなん。されば、木像、石像などようの物も、人信心を発して祈れば、神霊これによりて実に神なり、人祈らざれば、神霊去りてただに木像、石像なり。木ならんには薪ともなすべく、石ならんには礎ともなすべし。俗の諺に、「鰯の頭も信心から」ということのある、これ実にさることにて、赤県にて鮑魚を祭りたる祠に祈りて感応ありしこと、また、道の傍らなる立ち樹に打ちかけたる草鞋の幾千々となく積もりたるを、草鞋大王となづけて祭りたるに効験ありしというの類、和漢に多くあり。

 もし、その神霊のよって起こる本源を論ずるに至りては、余は翁と大いにその見解を異にするなり。

 

第七〇談 浦島太郎

 わが国、昔より浦島太郎の竜宮談を伝う。これ、もとより小説なれば信ずるに足らず。しかるに、『燕石雑志』に〔滝沢〕馬琴の弁ずるところを見るに、シナの小説によりて付会したるものなるを知る。左にその文を転載す。

 昔より童子の話柄とすなる浦島が子のこと、もと『日本紀』に載せられたるよしはしらざるものなし。今案ずるに、世にいう浦島が玉手箱というものは、陶淵明〔陶潜〕が『捜神後紀』に見えし袁相、根碩らが事を付会したるならん。陶潜が本文には腕嚢とあり。この腕を手とし嚢を箱として、玉手箱と名づけたるにはあらずや。玉は褒美の詞なり。また、命を玉の緒といえば、魂出匣の義か。古書には玉の匣とありて手の字なし、云云。(『捜神後紀』の文はあまり長ければこれを略す)

 その他、わが国の史談にシナの事実を模擬して作為せるもの多ければ、容易に信拠し難し。

 

第七一談 英雄はみな人相家なり

 天海僧正は木下順庵の幼年のとき、これを一見して曰く、「この子、非凡なるところあり」と。すなわち、養いてもって法嗣となさんとし、熊沢蕃山は由井正雪の人相を熟視して、近づくべき人にあらざるを知り、伊藤仁斎は大石良雄を見て、「彼凡庸の器にあらず、他日必ずよく大事をなさん」と評したりという。かくのごとく英雄、人を相したる例、枚挙にいとまあらず。しからば、人相術もまた全く排斥し難し。しかれども、今の人相家が五行を配当して、その人の吉凶禍福を喋々するに至りては、嘔吐を催さざるを得ず。

 

第七二談 山神の霊験

 孔子の生まるるや、その父これを尼丘山に祷り、山崎闇斎の生まるるや、これを比叡山神に祷り、大塩平八郎の生まるるや、豊国大明神(京都阿弥陀が峰)に祷りたるがごとき、古来、聖賢、大家は山神に祷りて得たるもの多きはなんぞや。世間これを評して神の霊験となすも、これ必ずしも霊験のしからしむるところにあらず。父母両親が聖賢、俊傑を得んとする一念の至誠、これをいたすなり。果たしてしからば、これまた精神作用のしからしむるところなり。

 

第七三談 食忌み

 人に生来食忌みの癖ありて、あるいは鯰をきらい、あるいは鰻をきらい、あるいは介類を忌み、あるいは葷種を忌むものあり。はなはだしきに至りては、沢庵づけを食することあたわざるものあり。これなお、人に雷をおそれ、地震をおそれ、蛇、蛙、蜘蛛等をおそるるがごとし。この一事につき、『南嶺子』に左のごとく記せり。

 蜘蛛におそれ、蟇に色を変ずる類は、活物なればさもありぬべし。京都に名高かりし半仲といいし優曲の者は、刀豆に恐れ、色変わり魂を失う。これを秘して和物にして出だすに、よく知りて、その座にたまり得ず。また、導引の手術に妙ある医人あり。高麗煎餅を見てはたちまちに色青くなり、おそるることはなはだし。小田垣氏聞いて、但馬出石という所にも、刀豆におそれて、これをみること蛇蝎のごとくにげまどいし人ありとぞ。しからしむるゆえんをしらず。しかれば、薬の相おそるる理もおしがたきことにや。

 かかる特殊の嫌忌するものある人は、これに対する感覚の過敏なること、実に驚くべきことあり。これによってこれを推すに、精神の変態をきたしたる人が、常人の感じ得られざる事柄を感じ得ることあるも、決して驚くに足らざるなり。

 

第七四談 幻視、妄覚を医する法

 すでに幻視、妄覚のわれわれの精神より生ずるを知らば、これを医するもまた精神作用によるべきを知るべし。その一例は、豆州熱海町、山田長助老母の話なり。老母、平素猫を愛することはなはだしく、猫もまた老母を慕いてやまず。すでにして、老母病にかかりて病床にありしが、毎夜、猫の棒をかかえて枕頭に立つを幻視し、あるときは数千百頭群集して種々の芸を演ずるを見、終宵、毫も眠ることあたわず。かくして、日一日より病勢ようやく加わるによって、自ら思えらく、これ、猫のわれを悩ますなり、猫を殺さざればわが病癒えずと。ここにおいて、家族の者、猫を縛してこれを銃殺せしかば、老母の病気全く癒えたりという。世間、これを評して猫のつきたるものなりといわんも、その実、一種の精神病なれば、精神作用また、よくこれを医するに至りしなり。

 

第七五談 僧、生き物を踏み殺す

 南秋江の『鬼神論』に曰く、「むかし禅僧あり。夜、厠にゆく堂を下りて生き物を踏み殺す。磔々然として声あり。僧よって思う。日午金蟾の階下に伏すを見る。思うに踏み殺すものは必ず蟾ならん。おもえらく、まさに地獄に入りて、必ず蟾を殺すの報いを受くべし。惴々焉として寝ねることあたわず。曙になんなんとして仮寝す。蟾、冥司に訟状し、牛頭の使いきたりて僧を十王の前につなぎ、まさに炮烙の刑を加えて、もって万劫不還の獄に納めんとす。僧、覚めてますますこれを神なりとし、座して旦を待つ。たちて階下を見れば蟾なし。ただ、瓜子、当陛践踏の所に破砕するのみ」と。瓜を踏んで蟾と誤れば、蟾の夢を結ぶ。これ幻覚の一例なり。

 

第七六談 一心の通徹

 ある書に、「なまくら刀を正宗の名作なりといい伝えて、瘧を落とし狐狸のつきたるを除く、みな一心のなすところなり。一心より通徹するところ、みなしからざるところなし。このこと学才ある人ならでは、ともに論じ難し。迷盲の人と語るべからず」とあり。これ、一心の妙用のしからしむるところなり。しかるに、世間その理を知らざるもの多きは、あに慨嘆の至りならずや。

 

第七七談 幻視、妄覚の例

 『怪妖故事談』に、多く幻視の例を出だす。『太平御覧』に、「沈僧翼というもの、眼痛を患い、多く鬼物を見てやまず」とあり。『古今医統』に、「一婦人あり。熱眼を病み、たちまち壁上に紅蓮華の満々たるを見る」とあり。また同書に、「一人、心疾を患うことやや久し。物を見るに、ことごとくみな獅子の像に見ゆ。これをおそれあやしめども、見ることさらにやまず」とあり。また、ある書に、「一人、眼前常に禽虫の飛躍するを見、これをとらえんとすれば形なし」とあり。かかる幻視、妄覚は、病気のときに限りて現ずるにあらず、平常にありても感覚および思想上に多少の変動あるときは、幻視、妄覚を現ずることあり。これみな、われわれの精神より生ずるものなれば、あえて驚くに足らざるなり。

 

第七八談 念力岩を通す

 諺に「念力岩を通す」ということあり。これ、精神作用の一端を弁ずるに足る。『諺草』に引証するところ、大いに参考すべし。『韓詩外伝』に曰く、「楚の熊渠子、夜行きて寝石を見、もって伏虎となしこれを射るに、金を没し羽を飲む。これをみれば石なり。よってまた石を射るに、矢くだけて跡なし」と。『漢書』に曰く、「李広、北平に守たり。出でて猟す。草中の石を見て、もって虎となしこれを射る。あたって鏃を没す。これを見れば石なり。明日またこれを射るに、石入ることあたわず」と。『後周書』に曰く、「李遠、かつて莎柵に校猟して、石を叢薄中に見る。もって伏虎となし、射てこれに中つ。鏃入ること寸余。ついて見ればすなわち石なり」と。これみな、至誠心の一念力をもって岩を通すこと、かくのごとし。劉向が曰く、「誠の至るや、金石これがために開く、いわんや人をや」と。程子が曰く、「陽気発するところ、金石もまたとおる。精神一到すれば、なにごとか成らざらん」と。以上はみな、われわれの守るべきよき訓言なり。

 

第七九談 天竺の刑法

 『三国塵滴問答』と題する書に、『五雑俎』によりて、天竺の人は、犯罪者を吟味するに四種の方法あり。第一は水、第二は火、第三は称、第四は毒なり。第一の水といえるは、石と人とをはかりて、同じ重さに比べ合わせてこれを水中に投げ入るるに、石浮かめる者はその人の意に邪曲あるなり、また、人浮かめるはその人直なりと定む。第二の火といえるは、鉄をやきてその罪ある人に抱き持たしむ。曲がれるものはさけびて熱にたえず、直なるものはいささかも損ずることなし。第三の称というは、人と石とその重さをひとしくして、これを秤にかけてくらぶれば、その人いつわりあれば石の方軽く、実なれば人の方軽し。毒とは、毒をもって羊のももの中に入れてこれを食わしむ。曲なるときは毒発し、直なる者はつつがなしという。

 これ、インド古代の刑法ならん。もし、この方法にて罪人を鑑定するを得ば、実に奇怪千万といわざるべからず。しかるに余おもえらく、これあえて奇怪とするに足らず。人の体重のごときは、罪の有無によりて軽重を異にする理なしといえども、その心に疑懼するところあるときは、自然にその挙動の安静を保つあたわず。これによりて、その結果はいくぶんか軽重の不同を現ずるに至らんか。例えば、水中に入るるにあたって、その身心ともに安静なれば水面に浮かぶべきも、身心ともに動揺するときは水底に沈むべきがごとし。また、熱鉄に触るるときも、その心に疑懼するところあれば火傷し、安静するところあれば火傷を免るる例は、焼きたる火箸を握る場合について明らかなり。これをもって、古代はわが国にても、罪人に熱湯を探らしめたることあり。つぎに、毒のあたるとあたらざるとは、その心に疑懼するとせざるとによりて起こるは、実例を挙示するをまたず。これを要するに、精神作用の肉体上に及ぼす影響をつまびらかにするを得ば、以上の四法もあえて怪しむに足らざるなり。

 

第八〇談 夢と体覚との関係

 夢は身体の感覚より呼び起こすこと多きは、みな人の実験するところなり。例えば、足を重ねて眠れば、高所に登りてまさに落ちんとするを夢み、尿内に満つれば、便所に至るを夢みるの類これなり。今、『奇談新編』にその一例を掲ぐ。

 人あり、居常、金を拾わんことをこいねがう。一日家を出でて行くに、たちまち遺金を見る。時まさに厳冬なれば、財布地に凝着して離れず。よって努力してこれを引く。俄然としてさむれば、すなわち夢にその陰嚢を引きたるを見る。

 人の夢を結ぶ多くはこの類なり。夢、あに奇とするに足らんや。

 

第八一談 偽夢

 世のいわゆる悪人に、陽悪を企つるものと陰悪を謀るものとの二種あり。その罪いずれが重きを知らざれども、陰悪をなすものかえってにくむべし。その一例は、『怪談弁妄録』に出ずる一話なり。左にこれを転載す。

 城州伏見に市郎兵衛というものあり。仏道に帰衣して朝夕の勤行おこたることなく、いとまあれば寺に詣で説法をきき、殺生戒をたもちて諸虫をふまざるほどのものなりしかば、そのあたりの人、名をよばずして仏と〔異名〕しけるが、仏ある宵のゆめに、忽然として阿弥陀あらわれ出でて告げて曰く、「われ、汝が隣家の門口の土中にうずもれかくるること年久し。汝が信心の厚きに感じ、特にきたりて告ぐために、土をひらきわれを出だせよ」というと覚えてゆめさめたり。翌朝に及んで、ゆきて隣の主にそのことを告ぐるに、隣の主まことなりとせず、「夢は五臓のなすところ、なんぞ証拠とせん」といいて、あえて掘ることを許さず。しかしてより、夢みること連夜にして七日に至る。〔強いて〕隣の主にこいて閾下の土を掘ること五尺、一物なし。隣の主しかりて曰く、「夢妄なり」という。また、強いて掘ること尺余、一躯の銅像を得たり。隣近やかましく伝えて、感得の妙という。市郎兵衛、まさに奉じてかえらんという。

隣の主これをあたえず、「夢は汝の感ずるところ、宅はわが住する所なれば、あえてわたすことあたわじ」と、相待ちて互いに下らず、ついに官に訴う。そのころ、邑吏水野侯、良吏なり。そのふるまい疑わしとて、二人をとらえて鞠訊につかしめんというに、二人大いにおそれて、ともに訴えて曰く、「前年、われら両人謀ってひそかに土中にうずめおきて、このごろ夢にたくしてほりいだし、利を射ん」とせしわけをつぶさに言上して、万死をゆるされんことを願う。侯、大いに両人〔の者〕をしかって死をゆるされたりという。

 著者の評に、「たいてい夢寐の兆しというもの、みなこの類なり。奸者これをなして、愚者甘心し欺かるるものなり。夢想と称するもの世に多し。ああ、妄なるかな、奸者は誅すべし、愚者はあわれむべし」という。世の怪を伝うるものの信じ難きは、この例に照らして知るべし。

 

第八二談 夢中の詩作

 古来、夢中に文を作り詩を賦し、あるいは難句を解し難題を判じたる例少なからず。今、その一例として、『新著聞集』に出でたる事実を記せん。

 江戸品川伯船寺住持、延宝七年十一月二十四日の夢に、高僧きたらせ、「汝は来年二月二十四日に身まかるなり。その心得あれ」とて、詩を賦して示したまう。

  六十四年混世塵 夢中不覚養残身

  不来不去是何者 二月花開南谷春

  (六十四年世塵に混わり、夢中に覚らず残身を養う。

  来たらず去らずこれ何者ぞ、二月の花開く南谷の春)

 翌朝より、このことを口癖のようにいわれし。明くる庚申の年の元日の発句に、

  見じ聞かじいはぬがましじゃ申の年

といい戯れて、二月中旬より違例の心地にてさのみ悩む気もなく、二十四日に六十四歳にて正念に臨終せられし。この人は常に大酒を好み、仏道におろかに見えければ、他の嘲りも多かりしかど、心中にいかなるめでたきことありしやと、人々慚愧しけり。

 かくのごとき事実は、世人の大いに奇怪とするところなれども、夢は精神の一部の作用より発し、外部の感覚の休止する間に起こるものなれば、醒時よりもかえって詩句を想出するに便なる事情なきにあらず。ことに身体の健康のごとき内部の状態に関しては、感覚の活動するときよりも、かえって感じやすき事情あり。ゆえに、夢中、詩を作り、あるいは死の近づくを知りたることあるも、いまだ奇怪とするに足らざるなり。

 

第八三談 夢は見ざるものを見ず

 『草木子』に諺を挙げて、「南人は駝を夢みず、北人は象を夢みず」というは、見ざるところに欠くなりとありて、一回も見聞せざることの夢中に現ずる理なし。ゆえに、アメリカ発見前にアメリカを夢みたるものなく、西洋交通前に西洋を夢みたるを聞かず。夢、あに怪とするに足らんや。

 

第八四談 狐誑

 石川鴻斎の『夜窓鬼談』に狐誑談を載す。その要を挙ぐれば、尾州藩臣某氏の別邸は広袤千畝、奇樹怪石羅列して地を覆う。園中沼あり、広さ数頃、葭葦叢生す。鴎鷺きたり戯る。池に臨んで三層の高楼を構う。風景絶佳なり。廃藩の後、一時遊観の場となる。しかして平居、楼を守るものは老僕一、二人のみ。たまたま貴客あり。男女五、六人、酒肴を携えきたり、楼を借りて一遊せんことを請う。老僕許す。おのおの上層に登り終日歓笑す。帰るに臨んで、僕に告げて曰く、「いささか借楼の報をむくいんためとて、些金を包みて床頭にあり。なお肴核をあます、別に二筐あり。請う、晩酌の助けとなさん」と。僕、唯々厚意を謝す。数人みな酣酔して帰る。僕、楼に登れば果たして紙包みあり。ひらいてこれを見れば木の葉のみ、筐を開けば土塊と馬糞のみ。僕怒って曰く、「われ、老狐のためにたぶらかさる」と。著者これを評して曰く、「けだし好事者、狐妖の風説のかまびすしきに乗じ、戯れて狐妖を装いて楼に登り、僕をして疑惑せしめたるなり」と。余は、世にかくのごとき偽怪多きを知る。あに、ひとり狐妖を擬するのみならんや。

 

第八五談 神巫の所為

 『怪談弁妄録』に、神巫の詐術の発覚せる一例を挙ぐ。

 京師里村某の家、あるとき一器物を失う。あまねくもとめさがせども、うることあたわず。隣家に神巫あり。占いをよくし、また祷り祭りして疾病そのほか諸事をよく転換し、ことに失せものなど妙にそのあり所をしると、ややこれをすすむ。よって招請してこれをもとむ。巫いたりて壇に醮をもうけ、紙の幣をたてて主人にいう、「あまねく家人をして、かくのごとく壇の前にとおさしめよ。もし盗みしものあれば、幣おのずから揺動せん」といいて、秘文をとなえて虚祷す。主人その言葉にしたがい、家内の人をのこらずその前をとおらしむ。他、異なることなし。一小僕すぐるにおよんで、紙の幣たちまちふるいうごく。衆人、大いに驚きおそれて神妙なりという。小僕たちまちうでをまくりて、大喝一声して巫の胸をついて地に倒擲す。巫の足のおやゆびより、長き糸をもって幣の柄にゆいつけたり。家人またおどろき、大いにしかりののしりてこれを追う。巫、大いに錯愕してにげかえれり。

 本書の著者、これを評して曰く、「世間の占児、妖巫、奸僧の所為、みなかくのごとし。庸人知識なきがゆえに甘心して、これがためにその欺きを受くる者多し。ただ妖巫、奸僧のみにあらず、狐狸にわざわいせらるるもの、また知識なきゆえなり」と。この評、大いに愚民の妄を解くに足る。

 

第八六談 丙午の女は男を殺す

 民間の諺に、「丙午の女は男を殺す」ということあり。これ、五行家の妄説にして取るに足らずといえども、左に『本朝俚諺』に出ずる説明を掲げん。

 この説、和漢の書によりどころなし。近ごろ好事の鑿説に、「丙午の女をめとるを忌む。そのゆえは、丙は陽火なり、午は南方の火なり。火に火を加うるゆえにあしし」といえり。およそ人の寿夭はみな命なり。妻が性によって、夫みだりに死せんや。笑うべきのはなはだしきものなり。

 夫婦の縁談に系図、血統を聞き正すはよし、生まれ年の相性を鑑定するは愚の極みと知るべし。

 

第八七談 人相論ずるに足らず

 人相の信ずるに足らざることは、今より二千年のむかし、荀子すでにこれを弁ぜり。今、さらに論ずる必要なしといえども、桂秋斎の相術を評したる一言を左に録す。

 世に相者という者あり。その伝一派ならず、愚民のこれに惑うはさることなり。悟りを開くという禅僧まで、これをたのみて吉凶を苦楽す。痴人論ずるに足らずといえども、これもまた巫覡に属すべし。漢土より渡りし相書そこばくを見しに、迂遠付会、よき人の用うべきことにあらず。

 今の相者、あるいは人の面を三十六禽になぞらえ、虎に似たるは虎の性をもって一生を説き、鼠に似たるは鼠の陰なる性を一代へあてて説く類、半猫半鼠とて、額は猫に見たて往事を猫にて説き、向後のことを鼠にて説くなど、または福寿貧夭の四十二相を図せしものありて、これにて考うるもあり。みな不稽妄誕にして、見てもらう心から気をうばわれ合うがごとくに覚ゆ。

 この説も一考となすに足る。

 

第八八談 河内の姥が火

 『牧笛類叢』に姥が火に関する一話を掲げて曰く、「河内国に姥が火というあり。ある町人、雨の夜、野はずれを通りしに、向こうの方より青く燃ゆる火飛びきたる。こは気味あしきことかなと傘を傾けて通りしが、ほどなくかの火、傘の端にとまりけるゆえ、いかなる物ぞと恐ろしながら見るに、白髪の婆のかお、目、耳、鼻あざやかにして、口より青き火を吹き出だすなり。この者二目と見もやらず、傘を捨てて逸足を出だして逃れて、とある家へ駆け付けて急に戸をたたくゆえ、内より戸をあくれば、『あっ』といって内へ倒れ入りたり。かの家の者ども大いに驚き、気付け薬など与えて種々介抱するに、ようやく人心地ついて件の様子を語るゆえ、みなみな怪しみけるが、この男腰ぬけてえ立たざるゆえ、かごにて宿へ送りしが、それより病気となりてついに死しけり」とあり。

 雨夜、野外に燐火の浮かび出ずるごときは、あえて驚くに足らざることなれども、白髪の老婆を見たりというがごときは、人の大いに怪しむところなり。しかるに、心理学上よりこれを考うれば、これ全く自己の恐怖の一念よりひき起こしたる幻視、妄覚にして、その家に帰りて発病、ついに死したりというがごときも、また自己の精神より招くところなれば、毫も奇怪とするに足らざるなり。

 

第八九談 釜鳴りの怪

 わが民間にて、釜鳴るときはその家に吉凶の変ありとなす。このことはシナより伝わりしがごとし。すなわち、『輟耕録』に「鼎作牛鳴」(鼎牛鳴をなす)の怪事を掲げり。本邦にありては、『拾芥抄』『谷響集』『本朝語園』『秉燭惑問珍』『雑笈問答』『怪談故事』『消閑雑記』『怪異弁断』等の数書に出ず。そのうち今人の著書にては、『吾園随筆』(細川潤次郎翁著)にこれを説明して曰く、「蒸騰の気、釜蓋の下に鬱積し、まさに漏れんとして菜葉に遇いて、揚起するもの相激して声をなす。少しも怪しむに足るものなし」と。これ、吾園氏の家にて菜飯を炊きしときに、この怪事ありしによる。その後、余、『東洋学芸雑誌』を一読して、後藤牧太氏の「釜の鳴るはなにゆえなるか」の一論あるを見る。その文、左のごとし。

 自然の現象にリズム(Rhythm)すなわち浮沈をなすものあることは、しばしば見るところなり。例えば、行灯の油のほとんど尽きんとするとき、その炎が交互に大きくなり小さくなりして浮沈することあり。なにゆえかく浮沈するかというに、油の供給不十分なるがために炎が小さくなり過ぎたりとすれば、これに準じて油の消費減ずるがゆえに、その供給の量、消費の量に過ぎ、油が灯心の端に蓄積せられ、炎は一時〔大きくなる。炎が〕大きくなれば、供給足らずして再び小さくなる。順次かくのごとくなりて浮沈するなり。ゆえに、油の尽きんとするとき、この浮沈を誘起する瑣細の原因あれば、浮沈は漸次増大し、ついに実際見るがごとき現象を生ずるなり。すべてかくのごとき浮沈の変化あるは、その変化に逆比して、これを生ずる原因に変化を起こすによりてなり。

 釜の鳴ることは古来人々の見聞きするところなれども、いまだこれを説明したる者あるを聞かず。余は冬期において物を蒸すときに、これを経験したること数回あり。よってその理を考うるに、蒸し物を釜の上に置くときは、蒸し物が冷ややかなるため、釜中の湯より昇る蒸気は急に凝結して消失するがゆえに、蒸気の占めたる場所をみたさんとして、空気が外より蒸し物の中に流れ入るべし。しかるときは水蒸気の凝結すること減じ、したがって空気の流入やみ、ついで水蒸気は下より蒸し物の中に流通し、再び水蒸気は急に凝結し、また空気の流入を生ずべし。順次かくのごとくして、間断ある水蒸気の消失は波動を起こし、釜内の気体をして振動せしめ、釜鳴りを起こすなり。浮沈ある水蒸気の凝結がこの振動の原因なれども、オルガン管において、空気が尖りたるかどに衝突して生じたる波動が、管内の空気の振動によって支配せらるるごとく、釜鳴りの場合においても、釜内の気体の振動は水蒸気の凝結の浮沈を支配し、相調和してこの現象を生ずるなり。

 これ純然たる物理的説明なれば、これを一読するもの、だれかまた釜鳴りの怪を説かん。

 

第九〇談 自ら怪を作る

 紀州のある地方にて、村外の火葬場に毎夜怪物出現するとの評判はなはだ高く、だれもこれに近づくものなし。一夕、有志の者相集まり、よくその場所に至りて帰るものあらば、これに賞を与えんという。一人の壮士ありて曰く、「われよくその募に応ぜん」と。すなわちこれに杭を授け、「その現場に至りたる証拠として、この杭をとどめて帰るべし」と告ぐ。壮士諾して行き見るに、なんらの怪物の目に触るるなし。よってその地に自ら携うるところの杭を打ち込み、まさに身を翻して帰らんとするに、その背後より着物の裾を引きてたたしめざるものあり。なにほど力をこめて去らんとするも、進むあたわず。よって自ら思えらく、われ怪物のために捕らわれたりと。ついにその場にたおれたり。有志の者、壮士の帰らざるを怪しみ、二、三相誘い提灯を点じてその場に至れば、当人、己の着物の裾を地中に打ち込みて、自らたおれたるを見る。けだし、杭を地に打つ際、己の裾を打ち込みたるによる。およそ世の怪を語るもの、多くはこの類なり。

 

第九一談 幽霊の写真

 昨年、仙台『東北新聞』の報ずるところによれば、青森県上北郡に幽霊の写真に現れたる怪事ありという。その報、左のごとし。

 青森県上北郡三沢村、石橋寅次郎の母は、同県八戸町、石橋亀吉の母とともに、さる二十三日写真師を招き、相並びて撮影せしに、不思議なるかな、二人の姿の間にありありと現れたる姿あり。なにものにやと熟視すれば、これぞ、さる明治十九年コレラにて没せし、寅次郎が母の夫なるにぞ。一同写真を眺めて、ひたすら怪しみおる由。

 余、先年奥羽漫遊の際、やはり上北郡横浜村にこれと同一の事実あるを見、その以前熊本にもこのことありしを聞けり。よって余は、その節写真師に尋問せしに、写真師曰く、「これ決して怪事にあらず。一度写したるガラスをよくみがかずして再び写しとるときは、先影の朦朧としてその形をとどむることあり。ゆえに、このことは故意にても偶然にても、とにかくでき得ることなれば、あえて不思議とするに足らず」と。

 

第九二談 不成就日

 世間往々、不成就日を忌み嫌うものあり。その迷信たるや、余が喋々をまたざるところなりといえども、世すでにその人ある以上は、一言もって弁明せざるを得ず。今、左に新井白蛾の言〔『闇の曙』〕をかりてその惑いを解かん。

 近年、不成就日ということをいいはやらし、中にはことのほかに忌み嫌うあほう多し。先年、長崎になにがしという人あり。かの地にておとなという役を勤む。京都の宿老というに同じ。されども京の町々の宿老と違い、長崎のおとなは公儀より役料下され、日々に御奉行所へ出勤するなり。この人、不成就日を忌むことはなはだし。しかれども役中なれば、毎日御奉行所へ出勤欠くことならず。式日など不成就日にあたれば、いたって難儀におもいうれい、衣服もこの日に着はじめたるはまた二度着用せず。門を出でて葬礼または僧尼に逢えば、私宅へ帰りて出直しけり。予、六年以前長崎へ遊行のとき、この人訪いきたり、己が身しかじかのことをかたりて曰く、「自身も心ぐるしくはべれば、これまで諸先生の教訓にもあずかり、もっともとは存じながら、なにぶん心底安魂することなし。なおまた、烏鳴きのあしきも心がかりなり。今度まれの御下向にはべれば、おしえを垂れよ」と請う。予が曰く、「心は一身の主なり。その主たるもの、さほどに凝りかたまりておもうことならば、この上はなおもいよいよ忌みたまうべし。しかし人の品位をもっていわば、御自分より年寄衆は上たるべし、年寄より御奉行はまた上たるべし。それよりだんだん御老中までは、一段一段に高貴なり。さて、高貴の極まりについて申さば、予が若きころなり、今その年はわすれぬ。伊勢の御遷宮十一月二十一日、不成就日なり。また近世御即位四月二十八日、また延享の御代譲り、御本丸、西の御丸とあらたまり移ります九月二十五日、みな愚俗のいう不成就日なり。わが朝においてこの上やあり、それさえもかくのごとし。

足下の身柄はなにほど貴く、なにほど大切なれば、さほどに日を選びはべるや。さてまた予が若きとき、老人のはなしに、むかし禁裏炎焼の前日より、南殿、清涼殿より南門、唐門の上まで、一面に烏群らがりなきて、真っ黒に見えしとかたりき。いかさま、一天の君の大宮づくりの焼変なれば、天感前表を示したまわんもことわりなり。そのほか、諸侯はその地その地の守なれば、これもまた前表もありなんか。なんぞ卑々下々の鄙人、数にもたらぬ斗筲の人に烏を鳴かせて凶事を示したまわんには、天道も御世話つづき申すまじ。かつまた、鳶も雀もやといて鳴かせずば、烏ばかりにてはゆき届き申すまじ」と戯れければ、右の人はなはだ感服、解悟して退きしが、その日より妄惑の念一時にはれて、世上一様の人となりき。予が逗留中たびたび訪いきたり、このごろはさてさて気楽になりぬとて、大いによろこべり。その人の親類もきたり、よろこびて曰く、「彼が身は父母産めり。このたび常人となり安心に日を送ることは、先生新たに産みたまうぞ」と謝して去りぬ。

 この一例は、日の吉凶を談ずる迷夢を一破して余りあり。

 

第九三談 浅虫の怪談

 本年三月ごろ、青森県浅虫村に一大怪事現出し、一時非常の評判となり、各新聞にその状態を記して世間に紹介したることあり。今、左に『東京朝日新聞』の報道を掲げん。

 青森県は東津軽郡野内村字浅虫といえる小村に、目下起こりつつある怪談こそ不思議なれ。今、『東奥日報』の記者某と駐在巡査某とが、去る二十一日の夜より探査に赴き、実地に目撃したるを記さん。けだし、この巡査はすでに三回までも、その奇々怪々を実見せし人なり。

 さて、家は浅虫の山手にあり。都合三軒の合借家にして、その街道に向かえる楼上には小笠原某なる者居住し、その下には江口某住み、その奥には蝦名仁三郎という者住めるが、家屋の構造は図のごとしという。

 さるほどに、記者と巡査はその夜そこを訪れけるに、あたかもこの不思議を目撃せんとて、遠近より集まりきたれる者すこぶる多く、みな酒など飲みつつその不思議を語りいたり。記者はまず最近の不思議をたずねしに、この前日すなわち二十日の午前八、九時ごろとかや、二階なる小笠原方にて突然、神棚にありし鈴の落ちしより、家人は大いに驚きありしところ、またもや、そこに載せありたるろうそく立ての飛び落ちたり。かくすること各二回ずつにてやみけるが、その飛ぶや別に音なく、ただそのおつる際において大なる響きを発し、同時にその物を見得しとなり。二階におけるこの不思議なる出来事に、家人らいずれも驚愕と恐怖の念もてみたされ安き心もなかりしに、同じ不思議は階下なる江口方にも起こりぬ。引き続きて蝦名方にも起こりぬ。かくてこの三家にて同日種々の物品の飛びしこと十五、六回、記者らの訪れし日も十七、八回飛びしといえり。

 しかるに、記者と巡査が訪れし当夜は、十一時過ぐるまでも不思議なかりしかば、記者はいったん旅舎へ引き返し、同家の人々も一同ねむりに就きけるが、翌朝六時過ぎに至り、果然、江口方の仏壇なる大黒天はそのつぎの室へ飛び、また蝦名方の仏壇の鈴は江口方へ飛び行きしのみならず、ことにいぶかしきは、蝦名方にて茶碗に冷水をくみて仏壇へ捧げ置きしに、ややありてこれも江口方へ飛びぬ。これを検するに、水はいずれへこぼれけん、ただその底に数滴残りありしのみなりとぞ。この事実は、翌朝記者がいまだ同家へ赴かざりし以前の出来事なりしという。よって、記者は江口方にて人々と炉を囲みつつ雑談してありしに、このときガチンと怪しき響きして、仏壇のそばなる戸をうちしようなるが聞こえたり。さてこそと記者をはじめ一同は立ち上がりてその辺りをしらべみたるに、仏壇の前の机の上に蝦名方の鈴が転がりきたりあり。この鈴は記者の至る前にすでに一回飛びきたれるものの由にて、蝦名方にては再び飛び去らんことを憂い棚の上より下ろし置きしを、記者が再び棚の上へ置かせしものなりしという。午後また同一の物品は、同一のありさまもて繰り返さるること十数回、しかして四時より五時までの間最もはなはだしく、一時間に五回の多きに及べり。

 そのうちの二、三を記せば、蝦名方の鈴が江口方へ飛びきたりしをもって、居合わせたる人々これをおさえんとしし一刹那、江口方の鈴は蝦名方に落ちたり。されば、人々やや恐怖の念を生じて、大黒天および恵比須等はこれを祭るこそよけれと話しある瞬間、突然、大黒天の飛び去りしがごとき、ほとんど人意を察知しての仕業かと推し測らるるものなきにあらず。なお、ここにまたやや異なりたるは、鈴の落ちし際、その近くに爪音のごときを聞きたると、鈴のカチカチと音したるごときは、大いに怪しむべしとなり。不思議の原因はいまだ探究せざるが、この出来事の最初起こりしは去月二十日のこととか、二階に住める小笠原方へ、遠隔の地にて死去せる者の白骨を送りきたりしが、その夜かかる不思議ありしを、家人らは秘して他へもらさざりしとぞ。もっとも、この三軒には猫二匹を飼養したれば、あるいは猫の仕業なるべしと推する者もあるよしにて、去る二十三日に至り、右三軒とも大掃除を行いしところ、江口方の四畳間より二階へ通ずるはしごあり。その裏より蝦名方の仏壇ある部屋への通りに、一尺に五、六寸の穴あり、床下に猫四匹あるを発見せしのみにて、他に怪しむべきものを発見せず。ただし、四匹の猫のうちの小さき一匹は捕らえ得しも、他は逃れ去りしという。されば、この怪談の諸方に流伝するや、去る二十二日には、青森警察署よりも巡査部長の出張あり。浅虫の電信取り扱い係は、「貴駅に化け物出ずるよし。事実ならばゆきて見たし」などの問い合わせ続々あり、繁忙を極めおるほどなりという。しばらく聞けるままを記して、円了博士その人の鑑査をまたんかな。

 余は右の報を得て、これ必ず人為的妖怪ならんと察せしが、数日の後、同新聞に左の報知を掲げられたり。

 青森県東津軽郡浅虫なる蝦名、江口両家における種々の不思議は、さきごろの本紙にも掲げしところ、ついに、右は三人の女の仕業なること現れたり。そは前号電報欄内に記載したるが、なおその詳報を聞くに、青森警察署長内田信保氏は、特に浅虫へ出張して取り調べたる末、右は蝦名方の二階に止宿せる館山おきん(四十九)、娘おはき(十九)の両人が仕業ならんと断定し、駐在巡査葛西平次郎氏をしておきん母子の挙動に注意せしめたり。よって葛西氏は青森駅長花田氏とともに同家に赴き偵察せしに、なお江口の娘おしゅん(十五)という少女も共謀し、袖の下に箸を隠し持って今しも投げんとするところなるを両氏は見るより、そのままおしゅんを引致し、だんだん尋問せしに、全くおきんの教唆によって、おはきとともに種々のいたずらをなし、蝦名、江口両家の品物を人知れず隠し置きては投げ付けしなりという。すなわち、さらにその原因につき、おきん、おはき等を詰問せしも、一向口を開かず今もって判然せざれど、かく人間の仕業と知れし以上は、不思議もたちまち消滅して、人々一笑に付し去りしとぞ。

 古代の怪談も多くこの類なるべきも、当時は人みな質撲にして、かつ警察の探偵等なかりしをもって、幸いに発覚せざりしならん。

 

第九四談 禽獣なお道を知る

 古来、「烏に反哺の孝あり、鳩に三枝の礼あり」と称して、禽獣なお道を知ることを説き、もって人の戒めとなせども、これその当を得ざるものなり。例えば『百姓嚢』と題する書中に、左のごとく論ぜり。

 人は万物の霊なれども、鳥獣に及ばざること多し。慈烏は反哺の孝養を知って百日父母をやしない、鴛鴦は夫婦の貞義厚く、羊は乳哺に危座し、豺狼は霜降の節に感じて獣を祭り、正月の中節、獺、魚を取りて水神を祭る。かくのごときの類はなはだ多し。鴻雁燕鴬みな時節を知って往来し、時気に感じて啼鳴す。すべて鳥獣、時に感じて妻を恋い、おのおの子を育するの道、だれに習うともなく、おのずから知ってあやまつことなし。

 もし、かくのごとく解しきたらば、水は卑下につくをもって謙譲の行いあり、石は吹けども動かざるをもって慎重の性あり、水石なお道徳を知ると称するも可ならんか。ゆえに今後の教育には、かくのごとき例を除かざるべからず。

 

第九五談 堂塔、伽藍を車のごとく回す術

 ある秘術を集めたる冊子中に、「堂塔、伽藍を手をつけずして車のごとく回す妙術」と題したる一項あり。余、そのところをひらきてこれを見るに、「いたみもろはく〔伊丹諸白〕へ南蛮酒を等分に加え、よきほどにあたため、首をぬらすほどずいぶん飲みて、しばらくありて松坂踊り二、三番おどりて後、座にすわりて見よ。堂も伽藍も山も川も、目に見ゆるほどのもの、みな回ることぶんまわしのごとし」とありて、図らずも一笑したり。民間の伝授本などは、大抵この類なり。

 

第九六談 物を知り当てる術

 『秘事思案袋』の書中に、「手のうちに握りたる物、左右を知る術」と題して左のごとく記せり。

 一方には物を握り、一方は空手にして、両手ともにかくし握りて、「いずれの手に物をにぎりたるぞ」と問うとき、いずれの古歌にても心に浮かぶにまかせ吟じて、その一首の中に「の」の字、半あるを左とし、丁あるを右とするに、必ず当たること妙なり。

 これ、決して十は十ながら当たるべき道理あるべからざるも、十回中せめて五、六回も当たることあれば、十は十ながら当たるように唱うるなり。すべて卜筮の百発百中と申すは、みなこの類なり。

 

第九七談 愚俗を惑わす道具

 新井白蛾は愚俗を惑わす道具をかぞえて、左の数種なりとせり。

家相  人相  〔墨色〕  字画の占い  金神および仏神の祟  剣相  日取り星転  つきもの

まじない  不成就日  辻占  死霊生霊

 もし、余が算するところによれば、数百種の多きに及ぶべし。これみな偽怪、仮怪にして、実怪、真怪にあらず。

 

第九八談 天地万物悉皆妖怪の説

 余は元来、天地万物悉皆妖怪説にして、雲の飛び水の歌うも妖中の妖、怪中の怪なり。もしこれを怪とせざれば、宇宙間、妖怪、不思議なしと断言して可なり。新井白蛾の『牛馬問』に述ぶるところ、大いに余が意を得たり。

 白蛾曰く、「天地の間はみな怪なり。昼の明、夜の闇、冬の寒、夏の暑、雪と降り、雨と化し、雷風のさわがしく、潮の満干、常に目なれ聞きなれたれば怪しとも思わず、まれにあることは、みな人これをあやしむのみ。

 しかるに、愚民の見識のここに及ばざるは、誠に憫然の次第なり。

 

第九九談 春花秋月みな不思議

 天地万物、これを不思議とすればみな不思議、妖怪とすればみな妖怪なり。天台曰く、「一色一香無非中道」と。余曰く、「一色一香無非妖怪」と。人もし活眼をもって宇宙を達観しきたらば、春花も不思議なり、秋月も妖怪なり。自己の一笑一語、一挙一動に至るまで、妖怪、不思議ならざるなし。ゆえに、人もし妖術を見んと欲せば、まず自己の言動を見よ。『居行子外篇』に西村遠里の論ずるところ、やや余が意を得たり。左にその一節を割載せん。

 奇妙不思議なるゆえに見たしといわば、妖術はさておき、自分の身の、ものいわんと思えば声出でて、歩行せんとおもえば足動き、物をとらんと思えば手出ずるの類、いかなる理にてかくなるということ、一切しるべからず。春は花、秋は実り、碧丹の色を、地中よりだれかこれを染めわくらん。朱子学の究理も、ここに至りて弁の究するところなり。しかるに、妖術のみを不審がるは愚なり。弘法大師、あれほど奇妙に名の立ちし人なれども、〔みずから〕「正法に奇特なし」といわれしならずや。かようの類は、彼にさそわるる心なく心正しきものを、妖術者これをいかんとかせん。

 その前後あまり長ければこれを略す。もし、不思議の真境を知らんと欲せば、余が「真怪百談」の出ずるを待て。

 

第一〇〇談 諸家の批評

 余が「百談」につき、大内青巒居士は左のごとく評せられたり。

 韓愈いわく、「甚矣人之好怪也」(はなはだしきかな、人の怪を好むなり)と。世に怪あること久し。怪の義を考うるに、『説文』はこれを解して異なりとし、『風俗通』はもって疑なりとす。しからばすなわち、常に異にして疑うべきの意か。怪の物たる、また時に従って同じからず。昔もって怪とせるもの、今あるいは怪とせざるあり。けだし、学術の発達、知識の進度ひとしからざればなり。すなわち、その常とするところの範囲、広狭の差あるを免れざるか。『周礼』にいわく、「凡日月食、四鎮五岳崩、大傀異烖去楽。」(およそ日月の食、四鎮五岳の崩、大傀異災楽しみを去る)と。傀は怪と通ず。日月の食や四鎮五岳の崩や、当時もって怪異となし、しかして天文、地理の学、大いに進めるの今日にありては、みなもって常となして疑わざるなり。孔子「怪力乱神を語らず」孔子の怪とするところ果たしていかん。その博物の知、萍実、啇羊、土羊、防風氏が骨、西狩の麟、みな当時の怪とするところにして、孔子はもって怪となさざりしといえども、迅雷風烈には必ず変ずというを見れば、これあるいは、そのなおもって怪とするところなるか。しかも気象学よりこれをいえば、また常事にして疑うべきものなし。荘子曰く、「斉諧者志怪者也」(『斉諧』とは怪をしるすものなり)と。その言を察するに、夸大誕謾、方物すべからず。

思うに、傀字は人にしたがい鬼にしたがう。およそ鬼にしたがうもの、大抵奇偉特絶の義あり。嵬、瑰、磈、醜の類のごとし。『書』〔『書経』〕の「禹貢」にいわゆる鉛、松、怪石のごとき、またその状貌の瑰偉をいう。すなわち『斉諧』にいうところの怪、あにこの種を指すか。しかも聞見のますますひろき、天地の間、奇偉特絶の物、またみなその生の賦するところに従って、しかしてその性を遂ぐれば、すなわち黴菌の植物たる、マストドンの動物たる、珊瑚虫の島嶼を造る、また異とすべきなし。鯤の鵬となるというがごとき、むしろその誕のなおまた怪ならざるを笑うべきのみ。もしそれ人妖物孽の怪たる、揚雄がいわゆる物怪、邦俗のいわゆるモノノケというもののごときに至りては、かの土の書、『捜神記』『続斉諧〔記〕』以下、こなた古賀侗庵の『今斉諧』等に載するところ、世俗なお惑う者多し。

そのうちまた真偽あり。偽とは人作の欺騙、俗習の迷想に出でて、しかしてその実跡なきものをいう。真とはその実跡ありて、しかして常理のもって解すべからざるものをいう。ただし、いわゆる常理の範囲、すでに時に従って広狭あれば、すなわち今のもって実跡ありとするところのもの、他日の空想とするところならんもまた、いまだ知るべからず。文学博士井上円了君、その偽なるものの世俗をまどわすこと多く、その真なるものの明らかならざるがために、学理の進歩を妨ぐること多きを慨し、これをひらくこと、はなはだつとめたり。けだし、妖怪の学ある君より始まるという。それ、怪字は心にしたがう。君の怪をひらくや、また心の妄作するところたるの説あり。要するに、人をして怪の心によりて起こるを知らしめて、もって世をして怪なきの域にのぼらしめんとするにあるか。果たしてしからば、君のもって怪なきの域となすもの、それはた、なんらの境ぞ。君の著『妖怪百談』にわが言を徴するに及んで、いささか卑見を述べてもってこれをただすという。

  明治戊戌春日 城南麻阜露堂堂処において

 また、土屋鳳洲翁は左のごとき叙文を贈られたり。

妖怪生於惑。故不以怪為則天下無復有妖怪矣。井上博士之著妖怪百談。即所以袪世人惑也。博士嘗奉浄土真宗。後学于欧洲。学已成。識高一世。嘗日欲進今人而達文明之域。不可不先開智識排妖怪。因渉猟古今書。得事関妖怪者四百余種。徴之東西学説。一一弁晣。名曰妖怪学講義録。其目有偽怪仮怪等。後又鈔属偽怪者百種。是為妖怪百談。頃復続其編。属余一言。余曰吁是亦格物致知之学也。蓋聖人之学。論其養才。則曰礼楽射御書数。論其為学。則曰明徳。新民。止至善。曰格物。致知。誠意。正心。★(脩の攵が夂)身。斉家。治国。平天下。而以開物成務為急。聖人之成才達徳。有本末秩序如此。後世儒者。就其高者。徒談性命之理。卑者竭精於文詞之修飾与字句之考証。自以為学者能事終於此。是聖学之所以愈蕪廃堙没也。博士則独異其撰。以平易之辞。析深遠之理。挙鄙俗之事。説正大之道。是以其言易暁。使読者津津不知倦。不独是而已。設哲学館。以精窮東西之学説。陶鋳有用之人才。行将興東洋大学。何其識見之超卓乎。嗚呼親鸞上人。以英邁之資。剏一派之宗教。風靡海内。今博士以其徒。崛起於六百余歳之後。以研東西学術。覚世人迷夢自任。可謂善継祖師志者矣。抑方今世上妖怪之類甚夥。壊世道蠱人心。其禍有難測者。摧陥廓清之功。吾更有望之於博士也。明治庚子二月土屋弘撰。

(妖怪は惑に生ず。ゆえに怪の為と以ざれば、すなわち天下にまた妖怪あることなし。井上博士の著『妖怪百談』は、すなわち世人の惑を祛るゆえんなり。博士かつて浄土真宗を奉じ、のちに欧州に学んで、学すでに成り、識は一世に高し。かつて曰く、「今人を進めて文明の域に達せんと欲すれば、まず知識を開き妖怪を排せざるべからず」と。よって古今の書を渉猟し、事の妖怪に関するもの四百余種を得、これを東西の学説に徴して、いちいち弁晢し、名づけて『妖怪学講義録』という。その目に偽怪、仮怪等あり。のちまた、偽怪に属するもの百種を鈔し、これを『妖怪百談』となす。頃ろまた、その編を続けたり。余に一言を属しむ。余曰く、「ああ、これまた格物致知の学なり」けだし、聖人の学はその才を養うを論ずれば、すなわち曰く、「礼、楽、射、御、書、数」と。その学を為むるを論ずれば、すなわち曰く、「明徳、新民、止至善」と。曰く、「格物、致知、誠意、正心、修身、斉家、治国、平天下」と。しかして、開物をもって務めとなすを急となす。聖人の成才達徳には本末秩序あること、かくのごとし。

後世の儒者のその高きにつく者は、いたずらに性命の理を談じ、卑き者は、文詞の修飾と字句の考証に精を竭くし、自らもって学者の能事ここに終わるとなす。これ、聖学のいよいよ蕪廃堙没するゆえんなり。博士すなわち、ひとりその撰を異にし、平易の辞をもって、深遠の理を析き、鄙俗のことを挙げ、正大の道を説く。これをもって、その言は暁りやすく、読者をして津々として倦むを知らざらしむ。ひとりこれのみにあらず、哲学館を設け、もって東西の学説を精窮し、有用の人才を陶鋳し、ゆくゆくまさに東洋大学を興さんとす。なんぞその識見の超卓なるや。ああ親鸞上人、英邁の資をもって一派の宗教をはじめ、海内を風靡す。

今、博士はその徒をもって、六百余歳ののちに崛起し、もって東西の学術を研め、世人の迷夢をさまさんとして自ら任ず。よく祖師の志を継ぐ者というべし。そもそも方今の世上は妖怪の類はなはだ夥し。世道を壊り、人心をまどわすこと、その禍は測り難きものあり。廓清の功を摧陥せん。われ、さらにこれを博士に望むあり。明治庚子二月、土屋弘撰)

 また、信夫恕軒翁は左の一文を寄せられたり。

鮮血淋漓。被髪而色青者。東家之妖耶。一眼巨口。円顱而矮身者。西隣之怪耶。或梟叫狐号。或狸鼓猫舞。於是巫卜信焉。呪文霊符崇焉。不知是神昏心惑乃然也。至其迷信之甚。既築復毀。昨娶今出。拘忌求福。反得禍。家相方位。不足信亦可知矣。蓋見怪而不怪。厥怪乃滅。見怪而怪之。厥怪益現。井上円了博士著妖怪百談。天下無復可怪者焉。夫氓之蚩蚩。握粟出卜。是無論耳。今也貴顕縉紳。口唱文明。往往艮位鬼門。迷而不悟。比之碧眼朱髯。縦横駆逐于東西万里之外。能無愧乎。読此書者。其知所戒哉。

(鮮血淋漓、被髪にして色青き者は東家の妖か。一眼巨口、円顱にして雉身の者は西隣の怪か。あるいは梟叫び、狐なき、あるいは狸つづみうち、猫舞う。ここにおいて、巫卜信ぜられ、呪文、霊符を崇めらる。知らず、これ神昏く、心惑いてすなわち然るなり。その迷信のはなはだしきに至りては、すでに築きてまたこわし、昨に娶って今にいだす。拘忌しては福を求め、かえって禍を得。家相、方位信ずるに足らざることまた知るべし。けだし、怪を見て怪とせざれば、その怪すなわち滅す。怪を見てこれを怪とせば、その怪ますます現る。井上円了博士『妖怪百談』を著す。天下にまた怪とすべきものなし。それ「氓の蚩々たる、粟を握って出でて卜く」と。これ、論なきのみ。今また貴顕、縉紳、口に文明を唱え、往々艮位、鬼門、迷いて悟らず。これを碧眼朱髯と比するに、縦横に東西万里の外に駆逐して、よく愧じるなからんか。この書を読む者は、その戒むるところを知るかな)

 以上諸家の論、みな世の迷信を撹破するに足る。