3.日本倫理学案

P211

  日本倫理学案 

 

 

1. 冊数

   1冊

2. サイズ(タテ×ヨコ)

   186×125mm

3. ページ

   総数:224

   勅語: 2

   序言: 4

   目次: 6

   本文:212

(巻頭)

4. 刊行年月日

   初版:   明治26年1月7日

   底本:3版 明治28年8月1日

5. 句読点

   あり

6. その他

   (1) 見出しの一部が目次と本文とで相違していたので,目次のとおりとした。

       勅  語

朕惟フニ我カ皇祖皇宗国ヲ肇ムルコト宏遠ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ済セルハ此レ我カ国体ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦実ニ此ニ存ス爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭倹己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ学ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓発シ徳器ヲ成就シ進テ公益ヲ広メ世務ヲ開キ常ニ国憲ヲ重シ国法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ是ノ如キハ独リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顕彰スルニ足ラン

斯ノ道ハ実ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス朕爾臣民ト倶ニ拳拳服膺シテ咸其徳ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ

 明治二十三年十月三十日

  御名 御璽

       序  言

 近来、倫理の書、続々世に出ずるも、みな西洋倫理の訳述にして、いまだ日本倫理の著述あるを見ず。しかるに明治二三年一〇月、教育の聖諭ひとたび下りてより以来、勅語衍義、注解の書、前後相接して発行あるも、これもとより倫理学として講述したるものにあらず。故にわが国、いまだ自国の倫理書を有せずといわざるべからず。余かつて大いにこれを遺憾とし、すなわち自らその浅学不才を顧みず、あえて日本一種の倫理学を組織せんことを期し、よりて哲学館、倫理科中にその一科を置き、朝夕、学生とともにこれを講究せり。今その要領を編して一冊子となし、題して『日本倫理学案』と名付け、これを世に公にす。すなわちこの一書なり。これ一は哲学館にて教授する倫理の主義のなにに基づくかを世間に知らしめんと欲し、一はわが邦人をして日本倫理学を講究するの必要なるを知らしめんと欲する微意のみ。しかしてこの編はただ要領綱目の順序を掲ぐるに過ぎざれば、その詳細の説明のごときは、目下哲学館にて発行する講義録に登載すべし。

 本書は学理上わが国の人倫を論述せるものなれども、その精神は徹頭徹尾勅語の旨意に基づき、経も緯もともに勅語をもって組織せるものなれば、その主義は儒教にあらず仏教にあらずヤソ教にあらず、すなわち国体主義なり。故に巻初に謹みて勅語の略解を掲げ、つぎに本論に入る。しかしてその略解のごときは、浅学その本義を誤らんことを恐れ、左の数書を参考してこれを定む。

  聖諭大全(国家教育社編)

  教育勅諭衍義(文学博士重野安繹氏撰)

  教育勅語衍義(那珂通世秋山四郎両氏撰)

  勅語衍義(文学博士井上哲次郎氏著)

  勅語詳解(文学博士末松謙澄氏撰)

  勅語解釈(内藤耻叟氏撰)

  勅語講義(栗田寛氏述)

  勅語註解日本教育之基礎(渡辺武助氏撰)

  教育勅語衍義(今泉定介氏著)

 その他二、三の書あれども、これを略す。

 本書の目的は日本の倫理を論定するにありて、世界共通の倫理を論究するにあらず。しかしてその証明は、余が別に著述せる『倫理摘要』に譲る。故に本書を読むものは、よろしく『倫理摘要』を参看すべし。

  明治二五年一二月二〇日          著者 井上円了識す  

 

   勅語略解

  朕惟フニ我皇祖皇宗国ヲ肇ムルコト宏遠ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ

(略解) 謹みて案ずるに、皇祖皇宗とは天皇陛下の御先祖御代々の御事にして、天照皇大神〔あまてらすおおみかみ〕より神武天皇に至るまでを祖と称し、その以下御代々の天皇を宗と称し奉るべし。しかしてこの一章は、祖宗の皇国を開きたまいし功業の大にして、その規模の壮なる、また臣民を愛撫したまいし仁徳、恩沢の深くしてかつ厚きことを詔らせたまえる御辞なり。今これを史上に考うるに、太古わが国いまだ開けざるに当たり、わが天祖天照大神、皇孫瓊々杵尊〔ににぎのみこと〕に三種の神器を授け、この国の主となさしめ、もって皇統一系、天壌無窮の宝祚を定めたまいしより、彦火々出見尊〔ひこほほでみのみこと〕を経て鸕鷀草葺不合尊〔うがやふきあえずのみこと〕に至るまで、三世の間は日向の高千穂の宮にましまししが、神武天皇に至り東征して群賊を平らげ、始めて海内を統一して都を大和の橿原に移したまえり。これ実にわが国の紀元にして、その即位より今日まで、年歴二千五百五十有余年なり。その間、歴代の天皇みな祖宗の遺訓を奉じて万民を愛育したまいしをもって、その恩徳深く民心に感染し、皇運ひとり今日に栄ゆるのみならず、まさに無窮に向かいて進まんとす。ああ、盛んなるかな。

  我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世々厥ノ美ヲ済セルハ此レ我カ国体ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦実ニ此ニ存ス

(略解) 謹みて案ずるに、わが国の人民はもと同一族より出でたるものにして、一人として皇室の臣民にあらざるなし。故に忠孝の関係のごとき、他国にありてはその道異なるも、わが国にありてはその致一なる習俗を成せり。これ真にわが皇祖皇宗の御遺訓にして、君臣の大義なり。億兆の臣民、いにしえよりみなその心を一にしてこの道を尽くしきたれるは、すなわちわが国風の万国に卓絶するゆえんにして、実に皇統一系の国体に固有せる一種の美徳というべし。教育の道もまた実にその源をここに発するものなれば、今後の方針もこれによりて定めざるべからず。この意を本章に諭したまえるなり。そもそも忠孝の道のわが国固有の美徳なることは、上は歴代の天皇より下は億兆の臣民に至るまで、その例、枚挙するにいとまあらず。今、臣民中その著しきもの二、三を挙げば、武内宿禰の五朝に歴任したるがごとき、藤原鎌足の天智天皇を輔翼したるがごとき、和気清麿、菅原道真の忠誠をつくしたるがごとき、楠正成、新田義貞等の勤王を唱えたるがごとき、みな忠君をもって名ある者なり。また平重盛、北条泰時のごとき、孝道をもって聞こゆる者なり。わが国体はこの忠と孝との大道によりて組成せるをもって、外は三韓を征服して国威を海外に輝かししことあり、内は建国以来、一人の神器を覬覦するものありしを見ず。これ実に国体の精華といわざるべからず。

  爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭倹己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ

(略解) 謹みて案ずるに、ここに「爾臣民」と呼びたまいて第一に孝を諭したまえるは、孝は人倫のおおもとなるをもってなり。兄弟の道も夫婦の道も朋友の道も、みなこれより分かる。故に古来、孝をもって百行のもととなせり。父母に続きて親しきものは兄弟なり。友とは兄弟の間のむつまじきをいう。そのつぎは夫婦なり。夫婦は実に一家のもとなり。夫婦和順せざるときは、一家の和合を失う。つぎに、朋友の間は信を重しとす。信とは言行の真実なるをいう。以上は、一家の人倫について詔らせたまえる御辞なり。もしひろく世間に対する徳義を挙げば、己を守り、人に接するに恭、倹、博愛の諸徳を修めざるべからず。恭とは行儀を慎むをいい、倹とは撿束を義とし、身を節制してみだりに費やさざるの意を含む。これを内にして、恭、倹の徳を養い、これを外にしてひろく衆人を愛するは、また道徳の本旨なれば、ここにそのことを諭したまえるなり。そもそもわが国の人倫は君臣の義をもって最も重しとし、これに次ぐに孝をもってし、忠孝一致のおおもとより兄弟、夫婦、朋友の道相分かるるに至りたることは、実に国体に固有せる一種の特性なれば、そののち儒教ならびに仏教の他国より入りきたりたるも、この忠孝一致の大道に基づき、ともにこれを助くることとなれり。故をもって、古来、忠信孝悌をもって世にあらわれたるもの、幾人あるを知らず。あるいは里閭に旌表せられ、あるいは恩典を賜りたるがごとき善行美譚は、枚挙するにいとまあらざるなり。

  学ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓発シ以テ徳器ヲ成就シ

(略解) 謹みて案ずるに、教育は理論、実際、智育、徳育の兼備を要するものなれば、まず学を修めて理論を講じ、業を習いて実際に就き、智育によりて智識、才能を開発し、徳育によりて道義、徳行を養成せざるべからず。智能とは智識、才能を義とし、徳器とは徳と器量とを義とす。この教育学問は古来、歴代の天皇の奨励したまえるところにして、上古にありては神道ひとり存し、中古にありては儒仏二道行われ、ともにわが国の教育学問を組織し、これに基づきて政治を施し、実業を起こすに至れり。くだりて徳川幕府の時代に至りては、もっぱら儒道によりて教育を設け、各藩みな文武二道を策励せり。更に大政一変して明治の昭代に至りては、教育学問の盛んなる、前代いまだその比を見ざるなり。ただ遺憾とするところは、智育余りありて徳育足らず、理論の一方に走りて実業を忘るるの弊をきたせるにあり。これにおいて、天皇陛下この二者の両全を奨諭したまえるなり。

  進テ公益ヲ広メ世務ヲ開キ常ニ国憲ヲ重シ国法ニ遵ヒ

(略解) 謹みて案ずるに、人すでに学業を修め智徳を養いたる上は、進みて公衆の利益を計り、世間の事業を起こさざるべからず。公益とは社会公衆の利益をいい、世務とは世間の利益となる種々の事業をいう。またわが国民たるものは常に国憲、国法を守らざるべからず。国憲とは明治二二年の紀元節をもって発布せられたる憲法をいい、国法とは刑法民法等、種々の法律を総称するなり。まずこの憲法は、わが天皇陛下の祖宗の御遺訓に基づき、国家の隆運を進め、臣民の幸福を増さんと思し召されて発布せさせたまえる万世不磨の宝典なれば、われわれ臣民は子々孫々に至るまで、謹み慎みてこれを遵奉すべき義務を負うものなり。また、われわれ臣民はこの国に住する以上は、国法を守り世益を計るべき責任を有するものなり。

  一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ

(略解) 謹みて案ずるに、緩急とは、緩の字その意味軽くして、単に急といわんがごとし。「公ニ奉シ」とは、国家のために身を致し力をつくすをいう。その意、一旦危急の変乱あらば、われわれ臣民は忠義を守り、勇敢の気風を奮い、死をおかして天下国家のために全力を尽くし、もって国体を維持し、皇室を保護すべきをいうなり。「以テ」以下は、上の「父母ニ孝ニ」より「義勇公ニ奉シ」までを総括してのたまえる御辞なりと見るべし。「天壌無窮ノ皇運」とは、天祖以来一系連綿として今日に及び、天地とともに窮まりなき皇統、宝祚をいう。わが国は前に述べたるがごとく、万国に比類なき一種特別の国体を有し、われわれ臣民は古来、忠信孝悌の人倫を重んじ、智徳を開発し、臣民の義務を尽くし、国の大事あるに当たりては義勇を奮いて身命を顧みず、もって建国以来今日まで皇室国体を護持しきたりし上は、更に今日より天地のあらん限り、万世無窮に向かいて皇運を輔佐し奉らざるべからざるなり。

  是ノ如キハ独リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顕彰スルニ足ラン

(略解) 謹みて案ずるに、「是ノ如キ」とは「爾臣民」以下の諸章を総括してのたまえる御辞にして、孝、友、和、信、恭、倹、博愛の諸徳を修め、学業、智徳の進歩を計り、平常無事の日は実利、公益を興し、国憲、法令を守り、一朝、事あるに当たりては身をもって国に殉じ、もって天壌無窮の皇運を輔翼し奉るは、われらの祖先のわれわれに残せる至善至美の習俗なれば、われわれがこの美風を守るときは、上は天皇陛下に対し奉り忠義順良の臣民たるはもちろん、下はその遺風を子孫に伝えてその徳を万世に輝かし、もっておのおのその祖先に対する孝道を全うし得るなり。これによりてこれをみるに、忠孝二道のその致一なるゆえんを知るべし。

  斯ノ道ハ実ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス

(略解) 謹みて案ずるに、「斯ノ道」とは孝、友、和、信、義勇、奉公等のことにして、わが国倫理のおおもとをいう。すなわち忠孝の大道これなり。前にのたまえる孝、友、和、信等は、これを要するに忠孝の二道に外ならず。しかしてこの二道一致は、天皇陛下の新たに設けさせたまいしにはあらずして、皇祖皇宗の国を開かせたまいしときより成立せる大道なれば、これ実に祖宗の御遺訓なり。故にその道たるや、かしこくも上は天皇陛下を始め奉り、下は億兆の臣民の遵奉して、一日も忘るべからざるものなり。「之ヲ」とはこの道を指す。中外とは国の内外をいう。すなわちこの道は天地の正理、天下の公道なれば、世に古今の異あるも決して変ずることなく、国に内外の別あるも、決して二致あることなきゆえんを論じたまえる御辞なり。

  朕爾臣民ト倶ニ拳々服膺シテ咸其徳ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ

(略解) 謹みて案ずるに、拳々とは捧げ持つを義とし、服膺とは胸に著くるを義とす。故にその意、皇祖皇宗の御遺訓を大切に守り、しばらくも身を離さざるように持つをいうなり。これ天皇陛下の深く祖宗の御遺訓に御心を注がせたまい、億兆の臣民とともどもに、心を一にし力を合わせてこの道を守り、もって祖宗に対せんことを期したまえる懇切なる御聖諭なり。ああ、われわれ臣民は、なんぞこの御聖諭に対して、日夜謹み慎みて遵守することを思わざるべけんや。

 

     第一講 緒 論

       第一節 道徳に理論応用の二種あること

 けだし人倫、道徳の原理は、世の古今を問わず国の内外を分かたず、常に一定して二致なかるべしといえども、これを一国、一社会の上に適用しきたりて可否得失を論ずるときは、その風俗、習慣、政治、国体等の諸事情に応じて、一国、一社会に特有なる道徳を生ずべし。あたかも同一種の草木が地味、気候の異なるに従い、その形状を異にするがごとし。しかしてその特有なる道徳中に、一脈の理法の貫通して存するあり。この理法を講究して原理原則を定むるもの、これを倫理学中の理論に属する部分とし、その世と国との事情に応じて生ずる変化異同を講究するもの、これを倫理学中の応用に属する部分とするなり。応用に属する部分にまた、理論と実際との別あり。すなわち道徳の、世と国とに応じて異なる理由を講究するはいわゆる理論なり。その理論すでに一定せりと仮定して、ただその方法のみを修習するはいわゆる実際なり。実際は技術に属し、理論は学問に属するなり。今、余は便宜のために、その学問中、理論の一方を講ずるものを理論的倫理学と名付け、応用にわたりて講ずるものを実際的倫理学と名付く。これに対して、技術に関する方を修身法もしくは修身術と名付く。しかして余がこれより講述せんとするものは、この実際的倫理学なり。すなわち一国、一社会に一種特有の道徳を生ずる原因、事情を論定するものなり。

       第二節 日本の倫理

 一国、一社会特有の道徳を論定せんとするには、まずある一国を標準と定めて立論せざるべからず。故に余はわが日本帝国を標準と立てて、その一種特有の道徳を論定せんとす。これ余が本論を起草せる目的にして、その意、数十年来、教育社会の一大問題たるわが国の倫理を一定せんとするにあり。しかりしこうして、わが国の教育、道徳の方針は、明治二三年一〇月三〇日をもって、わが叡聖文武なる天皇陛下より下し賜りし勅語によりて一定せりといえども、余がここに論ずるところは、欧米各国において哲学者の一般に講ずるところの理論的倫理学をわが国の上に応用しきたりて、その国体、人情に従い一種特有の倫理を定めんとするにあれば、これまた目下の急務にして、これを講究するは余輩の国家に対する責任なりと信ず。しかれどもその精神は、あくまで勅語の聖旨を守り、あえてその方針を失わざらんことを務む。故に勅語の略解を巻初に掲げ、全編を題して『日本倫理学案』と名付く。これを案というは、世間いまだこの種の倫理を論究するものを見ざれば、余が一己の立案にかかるをもってなり。

       第三節 理論的倫理学と実際的倫理学との関係

 理論的倫理学にありては、あるいは人生究竟の目的を論じ、あるいは善悪一定の標準を論じ、あるいは良心の起源、意志の自由、行為の進化を論じ、古今に貫通し、万国に普遍せる道理を学術的に講究するをもって、その論、実に精確にしてかつ公正なりといえども、いまだ世間の応用を示さざるをもって、実際上、迂濶の論たるを免れず。あたかも人類生存の重要にして、衣食住の欠くべからざる理由を説きて、更に寒暖、地位に応じて生活の方法を異にせざるべからざるゆえんを示さざるがごとし。故にもし倫理の実用を示さんとするときは、必ず気候、地位、政治、国体、人情、風俗等に応じてその方法を異にするゆえんを説かざるべからず。これここに日本倫理学を講究するの必要なるゆえんなり。しかるにわが邦人は大抵みな、理論的倫理あるを知りて実際的倫理あるを知らざるをもって、人倫の大道は万国同一なれば、よろしく西洋文明国の人倫をもってわが道徳とすべしと論ずるものあるに至る。これあたかもわが気候、地位の異なるゆえんを知らずして、寒帯あるいは熱帯地方の衣食住をそのまま用いきたりて、わが国の衣食住を定めんとするがごとし。今日より後は衣食住の問題は、わが気候、地位に応じて、いかなるもの最も適当せるかを講究せざるべからず。これと同じく倫理学の問題も、わが国体、人情に応じて、いかなる道徳の最も適当せるかを講究せざるべからず。これ余が本論において、実際的倫理学上、わが国特有の道徳を講ずるゆえんにして、理論的倫理のごときは、ただその応用を説くに必要なる点を摘示するのみ。

       第四節 理論的倫理学の問題

 そもそも理論的倫理学において講ずるところの古来の大問題を挙げば、人生の目的および善悪の標準を定むる諸論なり。その論多岐に分かるるも、要するに幸福論と非幸福論との二派なり、本然論と経験論との二種なり。幸福論者は、経験によりて幸福は人生の目的たることを論ず。すなわち功利教等の説これなり。非幸福論者は、我人に先天性道徳心ありて、幸福の有無に関せず独立して善悪を判定すべしという。これ直覚教の唱うるところなり。故に非幸福論者は、人生の目的は幸福にあらずして徳にありとす。かくのごとき問題は、理論上にありては重要なる論点なるも、実際上これを見るときは実に迂濶の論たるを免れず。けだし実際上、全く幸福を離れて完全の徳を見んこと難く、また、徳を離れて高等の幸福を求めんこと難し。もしこの二者ともに、その最も高等完全なるものについてこれを考うるときは、その間に分界を立つることあたわざるべし。しかしてその別あるを見るは、ただ幸福の下等なるものについていうのみ。しかるに古来の倫理学者の、強いてこの二者の間に向背を定めんことを務めたるがごときは、畢竟一種の僻見に外ならず。かつ理論は理論にして、実際は実際なり。理論上いかなる争論あるも、必ずしも実際の関するところにあらず。もしこれに反して、実際上の道徳は理論の一定したる上ならでは講究すべからずとするときは、今日のごとく諸説相争うていまだ定まらざる以上は、実際上講究すべき道徳なしといわざるべからず。しかるに我人の修むべき道徳は自然に一定して、我人、朝夕にこれを実習するはなんぞや。これ他なし、理論と実際と、その問題を異にするによる。たとえば理論上善悪の標準いまだ一定せずというも、実際上自然に一定するところありて、我人は日夜善を修めて、人の人たる道を全うせんことを務む。故に余は、理論上の論究は実際上にありてこれを見るに、迂濶の空論たるがごとしというなり。しかりしこうして、今日倫理学上、人生の目的、善悪の標準について徳と幸福との両説相争うをもって、もし強いてこれを定めんと欲せば、よろしくこの二者を合したるものを取るべし。すなわち完全の徳と高等の幸福と一致合同するものをもって、究竟の目的、最上の善なりと定むべし。これを仮に名付けて福徳一致論という。

       第五節 良心の起源発達

 つぎに理論上、良心、行為の起源発達を論ずるに、また二派ありて、本然論者は道徳の本心は我人固有の天性なりとし、経験論者は経験教育の結果、あるいは進化遺伝の結果なりとす。今その論ずるところを見るに、経験論者は、仁慈、博愛の公情は人の生まれながら有するものにあらずして、知識の発達に伴いてようやく生じたるものなれば、自利、自愛の私心を離れて別に存するにあらずといい、また人類は動物より進化してきたりしものなれば、その善悪を判定する良心のごときも、禽獣の、苦を避けて楽に就く本性の発達したるものに外ならずという。これに反して本然論者は、道徳は人類特有の美性にして、人の禽獣に異なるゆえんのもの、主としてこの性を有するにあり。しかして幼時および古代にその性の作用を見ざるは、心中に胚胎して存し、いまだ外部に発顕せざるのみなりという。しかれどもかくのごときはみな理論上の争論に過ぎずして、実際上にありては我人おのおの生来多少の道徳心を有し、これによりて善悪を判定し、かつ行為を規制するに足るをもって、あえて煩わしくその起源を論ずるを要せず。また理論上一大問題とするところは、意志は自由なりや否やにあれども、実際上にありては、同じくその可否を喋々するの必要なるを見ざるなり。

       第六節 実際的倫理学の問題

 果たしてしからば、実際的倫理学として講究すべき問題は、目的標準のいかん、良心意志のいかんの点にあらずして、一国、一社会の道徳は、いかなる方針を取り、いかなる方法を用うべきかを論定するにあり。語を換えてこれをいわば、一国、一社会の政治、国体、人情、風俗に適応する実際上の道徳を講究するにあり。これを講究するに当たりて要するところは、ただわずかに理論上の原理を既定するにあるのみ。まず人生の目的ならびに善悪の標準については、完全の徳と高等の幸福とをもって最上の善とし、いわゆる福徳一致をもって目的と定むべし。つぎに道徳の本心に関しては、我人今日の社会にある以上は、生まれながら有するところの良心ありとし、これを発育するに教育、経験を要するものと定むべし。その他、あらかじめ論定せざるを得ざるものは義務なり。義務には法律上の義務と道徳上の義務との二種ありて、道徳上の義務は、我人各自の間に自然に成立せる道徳的規律に従いて、我人の必ずなさざるべからざる本分をいう。これにまた、個人に対するものと国家に対するものとの二種あり。今その関係を知らんと欲せば、まず国家の由来を知らざるべからず。太古にありては各人孤立して生存し、いまだ互いに連合して団体を結ぶに至らず、ようやく進みて各人その力を合わせ、その業を分かちて一団体を結ぶに至れば、これを社会という。また更に進みて、一定の土地あり、一定の政府あり、一定の臣民あるに至れば、これを国家という。今日の我人は国家を組織せる社会にありてその一分子をなすものなれば、我人は一個人として生存するのみならず、国家の一部分として生存するものなり。これにおいて我人の義務も、個人に対するものと国家に対するものとの二途に分かれ、したがって道徳上に個人的道徳と国家的道徳との二大綱を分かつに至る。これ、今日教育社会において国家教育論の起こるゆえんなり。

       第七節 理想上の目的

 すでに理論上、人間の目的標準は福徳一致にありとし、我人の義務は個人に対するものと国家に対するものと二種ありとするときは、我人はその目的とするところの完全の徳と高等の幸福とを求めて、一方にありて自己をして円満の人物となさしめ、これと同時に他方に対して、その国をして円満の国となさしめんことを務めざるべからず。語を換えてこれをいわば、個人の福徳を円満ならしむると同時に国家の福徳を円満ならしめ、二者両全をもって目的とせざるべからず。この目的に向かいて進むもの、これいわゆる道徳の進化なり。これにおいて我人は、将来達し得べき円満完全なる個人および国家あることを想定せざるべからず。この想定によりて得たるものは、いわゆる理想上の個人ならびに理想上の国家なり。よろしくこの理想の体をもって我人の目的とすべし。今これを経験上に考うるに、我人は古代より今日まで、ようやく進みてようやく完全を得たるものなれば、今日より将来に向かいても、同じく進化して理想上の完全に達することを務むべし。またこれを思想上に考うるに、我人固有の本性として今日の地位にとどまることあたわず、必ず更に進みて我人の有するところの理想をみたさんことを望む。故に余は、我人の目的は、個人ならびに国家に対して福徳円満なる理想をみたすにありというなり。

 

     第二講 実際的倫理論

       第八節 各国倫理の応用を異にするゆえん

 すでに理論上、倫理の目的ならびに標準を論定したれば、これより一国、一社会に応用するに、種々の事情に応じて倫理に異同を生ずるゆえんを述明せざるべからず。およそ国異なるときは内外百般の事情もまた異にして、これによりて各国特有の性質を生ず。この特性によりて成立せる国家の体、これを国体という。なお人に身体あるがごとし。故に国異なるときは国体もとより異にして、日本には日本の国体あり、シナにはシナの国体あり、西洋には西洋の国体あり。かくのごとく各国みなその国体を異にする以上は、教育、人倫の適用もまた、これに応じて異にせざるべからず。なお人体異なるときは、衣服の裁制をも異にせざるべからざるがごとし。今その国体のよりて起こる原因を考うるに、いずれの国にても、その国創立の当時に存する種々百般の事情、および歴史上経過しきたれる内外の関係、その原因となること疑いなし。しかして一国、一社会の内部より生ずるものを内因とし、気候、地位、国際等すべて外部よりきたるものを外因とす。かくしてひとたび成立したる国体は、いやしくもその国の独立を失わざらん限りは、必ず多少の発達を経て継続するものなり。なお人の身体の、その生命のあらん限り漸々発達して継続するがごとし。

       第九節 国家の体に原形材質の二種あること

 今日の学者は一般に唱えて曰く、国家は一個の有機体なりと。すなわち国家の性質組織の、禽獣人類のごとき生物に類同するところあるをいうなり。果たしてしからば、国家の事情は一個の生物について比考することを得べし。およそ生物の体には原形と材質との二種を有す。たとえば、動物の発育するに要するところの食物は材質を供給するものにして、これを消化吸収してその固有の体質に変ずるは、動物の生来有するところの原力なり。この原力は、よく外界より摂取する種々の材質をして一定の形を取らしむるをもって、これを原形という。この材質、原形の二者、相合して動物の発育を現ずるなり。しかしてこの原形は祖先以来の遺伝性にして、決して材質とともに外界より入りきたりしものにあらず。今これを国家の上に考うるもその理同一にして、国家の体にも原形、材質の二種を具有し、その発達にもこの二者の相合するを要す。しかしてその材質は国外より入りきたるも、これをしてその国固有の特性に一変せしむるところの原力は、国内にありて存せざるべからず。たとえば百般の文物のごとき、国外の諸邦より入りきたるも、これをその国の文物となすには、必ずひとたびその体形に変化するを要す。これすなわち国体中に存する原力の作用なり。これを国家の原形というべし。この原形、よく継続するときは、永く国家独立の命脈を維持することを得るなり。この原形と材質と相合して一体をなすもの、すなわち余がいわゆる国体なり。わが国のごときは建国以来、国体中に存する一種の原力ありて、その発達の際、百般の文物、三韓、シナ等の諸邦より入りきたりしも、これをわが特性に一変してわが体質を構成し、もってその独立を維持し、その国体を継続するを得たり。故に今後もこの国体を発育する養分は広く海外万国に取るも、これをわが固有の原形によりてわが固有の性質に一変し、もって日本国の日本国たるゆえんのものを失わざらんことを務めざるべからず。

       第一〇節 国民の団結

 かくてもしこの国体を万世無窮に維持し、永くその国の独立を失わざらんと欲せば、まず国体をして鞏固ならしめざるべからず。国体をして鞏固ならしめんと欲せば、まず国民の団結を計らざるべからず。国民の団結を計らんと欲せば、まず国家の組織を進め、社会の秩序を明らかにせざるべからず。すでに国家は一個の有機体なる以上は、動物、人類と同一の規則に従うべきこと明らかなり。今、動物の発育するや、身体内部の組織ようやくその部分を分かち、各部もまたその作用を異にし、全身を統轄する神経組織起こり、またその組織中に大脳のごとき中心を生じ、各組織間の関係いよいよ進みていよいよ明らかなるに至る。今これを国家の上に考うるに、その神経組織は政府に比すべく、その大脳は君主に比すべし。この組織間の区域判然として相分かれ、その人民に対する関係いよいよ定まり、各部分の秩序いよいよ明らかなるに至りて、国家の団結を鞏固ならしむることを得るなり。国家の団結鞏固なるときは、国体を万世に維持し、国力を海外に伸べんこと、あえて難きにあらざるなり。

       第一一節 国民の和合

 すでに国家の秩序組織の必要なるを知らば、これと同時に一致和合の必要なることをも知らざるべからず。一国は一家より成り、一家は一人より成る。故に国家団体の元素は人民なり。なお有機体の、細胞より成るがごとし。人民は一国の細胞なり、一家は細胞の小団体なり。一家にありては親子、兄弟、夫婦の別あり、一国にありては君臣上下の別あり。親子夫婦の間和合せざるときは、一家盛んならず。君臣上下の間和合せざるときは、一国盛んならず。しかして一国の和合は一家の和合より成る。一家の和合は必ずその中心となるべき体あるを要す。これ和合のもとにして、また団結のもとなり。すなわち一家にありてその中心となるべきものは父母にして、家族ことごとくこれに向かいて結合するときは、すなわち一家の和合をなすべし。一国もまたしかり。その人民の中心となるべき体なかるべからず。その体はすなわち君主なり。人民ことごとくこの中心に向かいて結合するときは、すなわち一国の和合を見るべし。けだし国に国主あり家に家主あるは天地自然の理法にして、ひとり人間社会にのみ固有なる規則にあらず。一個体の動物もその発育するに従い、組織中に中心となるべき部分生じ、いよいよ進化すればいよいよ中心に諸力の集合する傾向あり。地球もなおその中心ありて、地上の物品みなその中心に引かるるを見、天体も太陽その中心となりて、惑星その周囲に集まるを見る。故にいやしくも国家あるときは必ずその主宰者ありてこれを統治し、人民みなその体を中心として一致の運動をなし、これによりて国家人民の和合を計らざるべからず。

       第一二節 義務に個人的国家的の二種あること

 すでに国家の元素は人民にして、一個人を離れて一国を盛んにすることあたわざるを知らば、これと同時に、一国を離れて一個人の幸福と徳とを全うすべからざるを知るべし。しかして幸福と徳とは前述のごとく我人の究竟の目的とするところなれば、我人は自己の福徳を祈ると同時に国家の隆盛を祈らざるべからず。国家その独立を保つときは、我人その下に安堵することを得、国家その独立を失うときは、我人は外人の奴隷となりて苦しまざるべからず。故に我人いやしくも自己の幸福安寧を全うせんと欲せば、必ず国家の独立を祈らざるべからず。これにおいて、我人の、自己に対する責任と国家に対する責任との二種を有するゆえんを知るべし。語を換えてこれをいわば、個人的義務と国家的義務の二種の存するゆえんを知るべし。すなわち、さきにいわゆる我人の目的は、個人と国家との完全を期するにありとはこのことなり。

       第一三節 平等差等の関係

 以上述ぶるところによりて、一人と一家と一国との三者、おのおの密接なる関係を有するを知らば、その三者の間に平等差等の関係あることをも知らざるべからず。およそ社会を組織せる各人は平等同権なりというも、これただ表面のことのみ。もしその裏面に入らば、差等異権の存するを知るべし。今、もし社会の階級を破壊しきたりて、上下の区別を一掃し去るときは、ここに平等同権の真理に達するもののごとしといえども、人にはもとより賢愚強弱の別なきあたわずして、老少男女の別またおのずから存すれば、この数種の人民ことごとく同一の事業に就くことあたわず。必ずやその性質と才力とに相応する社会の地位を占有するに至らん。しかるときは、自然の勢いとして差等異権を生ぜざることを得ず。これ平等と差等と相離れざるゆえんにして、平等の中におのずから差等あるゆえんなり。しかして平等に偏するも差等に偏するもともに真理にあらずして、真理はこの二者の中道にありと知るべし。故に、人の一家に対し一国に対するも、この二様の相離れざる関係あることを忘るべからず。自己と他人とを同視するは平等の見なり。自己と他人とを別視するは差等の見なり。自家と他家とを同視し自国と他国とを同視するはみな平等の見にして、これを別視するは差等の見なり。自己を愛して他人を忘るるは差等に偏するなり、他人を愛して自己を忘るるは平等に偏するなり。自己を愛しながらその裏面に他人の愛すべきを忘れず、他人を愛しながらその裏面に自己の愛すべきを忘れざるは、いわゆるその二者の中道なり。しかしてこの間にまた、先後軽重の順序あることを記せざるべからず。われに父母あり、他人にも父母あり、ともに父母たるにおいては平等なるも、その間にわれと他人との差等ある以上は、わが父母を先にし、他人の父母を後にせざるべからず。わが人民に君主あり、他の人民に君主あり、ともに君主たるにおいては平等なるも、われと他との差等ある以上は、わが君主を重しとして、他の君主を軽しとせざるべからず。これいわゆる平等差等の中道なり。この中道に基づきて、一家および一国の人倫の成立するを見るなり。

       第一四節 国際の関係

 この平等差等の関係は、またこれを国と国との間に適用しきたりて、国際の関係を示すことを得べし。たとえば、自国を愛することを知りて他国を忘れ、そのはなはだしきに至りては平常無事の日にありて他国を敵視し、あるいはこれを軽賎して禽獣視するがごときは、差等の見に偏するものなり。もしこれに反して自国と他国とを同一視し、はなはだしきに至りては自国よりも他国を尊重するがごときは、平等の見に偏するものなり。故に平常の交際上にありては、自国と他国と互いに友情をもって相親しみ、一朝競争するに当たりては、自国を助けて他国を排せざるべからず。これいわゆる平等差等の中道なり。しかりしこうして、時弊を矯正するに当たりては、あるいは平等に重きを置き、あるいは差等に重きを置かざるべからず。すなわち時弊、差等に偏するときは、これを矯正するに平等を用い、時弊、平等に偏するときは、これを矯正するに差等を取らざるべからず。たとえば一国、一社会にありて上下の懸隔はなはだしく、したがって圧制の極端に走りたるときは、平等同権説を唱えてその弊を正さざるべからず。また、同権主義その中道を失いて財産平均論のごとき邪説の行わるるに至りては、差等異権説を唱えてその害を防がざるべからざるなり。

       第一五節 帰 結

 以上述ぶるところのものは、各国に一種特有の国体あるゆえん、国家の独立に要する事情、および一国と一家、一人との関係を示したるのみ。しかしてその要点、左の三条にあり。

  第一に、国家に原形と材質との別ありて、二者相合して国体を形成すること。

  第二に、国家は一家より成り、一家は一人より成り、一人は国家有機体の一元素にして、個人と国家は同一の関係を有すること。

  第三に、一人と一人との間、一人と一国との間、ならびに一国と一国との間に、平等差等の関係あること。

 この三条についてこれを考うるに、我人は一人一家の幸福安寧を計り、あわせて一国、一社会の独立隆盛を祈らざるべからず。かくて我人は、人生の二大目的たる、理想上完全の個人と完全の国家とに向かいて進まざるべからず。以上は、各国一般の上について論じたるものなり。これよりは、この論をばわが国すなわち日本帝国の上に応用して、わが教育の方針、倫理の主義を定めんとす。

 

     第三講 日本国体論

       第一六節 わが国の教育道徳の国体をもととすること

 前講述ぶるところによりて、すでに国異なるときは国体もまた異にして、その国の独立する限りは、この一種特有の国体を維持せざるべからざるゆえんを知らば、すなわちわが国にはわが国特有の国体ありて、我人は全力をつくしてその隆盛を計らざるべからざるゆえんを知るべし。しかしてその隆盛を計らんと欲せば、教育も道徳もともにこの国体を基本として組織せざるべからず。たとえその材料は他邦より入りきたるも、ひとたびこれをわが国体の原形の上に考えて、その固有の体質に一変するを要するなり。今これを歴史に徴するに、上古より中世の間、わが国の教育、宗教等は大抵みなシナ、三韓、インドより漸々入りきたりしも、自然にわが国風に一変し、わが国体を維持するをもって目的とするに至れり。よりて今後の方針も、あくまで国体を基本とせざるべからず。ことに今日のごとき、万国競争の盛んにして優勝劣敗の行わるるに当たりては、我人は諸強国の間にこの国体の独立を維持し、その国勢を振起せざるべからざれば、人民相和し相合して、国家の団結を鞏固ならしめざるべからず。これによりてこれをみるに、教育も道徳も、国体を基本として定めざるべからざるゆえんを知るべし。もししからずば、決して人民の和合、国家の団結を期すべからず。これ今日、国体為本の教育道徳の必要なるゆえんなり。故に余がこれより講ずるところは、わが国体の上に教育道徳を適用しきたりて勅語の聖意を遵奉し、もって日本一種固有の倫理を論定せんとするにあり。

       第一七節 わが国体の一種特殊なるゆえん

 今これを論定せんとするに当たり、まずわが国体の、一種異なるところあるゆえんを述べざるべからず。前に論ぜしがごとく、わが国の国体も建国以来の歴史により、内外百般の事情に応じて発達しきたりしものなること明らかなりといえども、その中に一種不変の精神の相続するありて、内外より摂取せる百般の事情も、その精神のために一変して一種特異の性質を化成し、その建国以来の国体は千秋万歳の久しき、富嶽とともに巍然として東海の表に屹立し、ほとんど宇内を瞰下する勢いあり。かくのごとくその国体の万国に卓絶せるゆえんのものは、上に万世一系天壌無窮の皇室をいただくにあり。しかりしこうして、そのよりて起こる原因を探求するに、実に左の三条の存するを見るなり。

  (一) 皇室ありてのち人民あり、人民ありてのち皇室あるにあらざること。

  (二) 臣民一にして二ならざること。

  (三) 忠孝一致をもって人倫のおおもととなすこと。

 この三条はわが国体の他邦に異なる原因にして、なかんずく第一条を主眼とす。第二、第三は第一条より分派したるものなり。故にまず第一条の意を説明すべし。

       第一八節 皇室ありてのち人民あること

 謹みて案ずるに、太古わが国いまだ開けざるに当たり、四面森林深くとざして農業耕作を業とする者なかりしに、天祖天照大神、皇孫瓊々杵尊に命じてこの国の主となさしめ、もって万世無窮の宝祚を定めたまいしより、三世相伝えて神武天皇に至り、中原を平定して荒野を開き、海内を一統して都を大和に定め、爾来、歴代の天皇一系相受け、もって今日に至る。わが億兆の人民、大抵みな神孫皇族の末裔、もしくは皇室より分かれたる功臣の末孫にして、祖先以来皇室を輔翼し、君命を遵奉しきたりしものなり。その例証のごときはすでに史上に昭々たれば、今あえて証明するを要せず。それすでにしかるゆえんを知らば、ここに皇室ありてのち人民あり、人民ありてのち皇室あるにあらざるゆえんを知るべし。他邦はすなわちしからず。まず人民ありてのち人民中の強者、立ちて酋長となり、進みて君主となり、もって一国をなす。その国体の相殊なること、もとより同日の論にあらず。これわが国に一種特殊の国体を現じたるゆえんなり。

       第一九節 臣民一にして二ならざること

 かくてまず皇室ありてのち人民ありたるを知り、またその人民はみな皇室の一族および臣下にして、君民一家の国風なるを知るときは、四千万の同胞兄弟はみな王臣なり。実に普天の下、王土にあらざるなく、率土の浜、王臣にあらざるなしとは、わが国をいうなり。ここをもって、わが国に限り、臣民一にして二ならず、億兆の人民みなこれ皇室の臣下なり。しかるに他邦にありては、あるいは臣と民とに別ありて、官にありて君に仕うるものを臣といい、下にありて君に治めらるるものを民という。臣は文武百官にして、民は農、商、百姓なり。ひとりわが国は臣民一致の国風を有す。これ第一条なる君民一家の国風より分かれきたりしものにして、わが国体の他邦に異なる一種の特性を組成せるものなり。よりてこれを第二条に置き、もって勅語に天皇陛下の「爾臣民」と呼び掛けたまえる聖意のあるところを恐察し奉るべし。

       第二〇節 忠孝一致をもって人倫のおおもととすること

 すでにわが国はその億兆の臣民みな皇室、皇族の末裔より出で、君臣一家の国風を有するを知らば、古来、忠孝一致をもって人倫のおおもととなせることをも知るべし。これまた、他邦にその例を見ざる一種特有の国風なり。他邦にありては忠孝その道を異にし、シナのごときは孝をもって重しとす。しかるにわが国は、忠をもって最も重しとせり。これ率土の浜みな王臣にして、臣民一致の国風あるによるなり。しかして君につかえて忠なるは、すなわち親につかえて孝なるものとなし、忠孝両全し難きときは、むしろ孝を捨てて忠を取らしめ、もって億兆の臣民みな皇室を輔翼し奉りきたれり。今、更にその起こるゆえんを考うるに、わが国君臣の間はあたかも一家中の父子のごとき関係ありて、天皇陛下はわが父なり。これに忠を尽くすは、父に孝を尽くすと同一の感情を有し、忠は孝の大なるもののごとく考えきたりて、ついに忠孝一致の国風をなし、なかんずく、忠を重しとする人倫をなせり。実にわが人民の忠義の感情は一種特別にして、他邦人種中にいまだその比を見ざるところなり。これこの一種無類の国体をなすゆえんにして、古来、三韓、シナ等より帰化せしものもみなこの国風に感化せられ、忠義を重んずる風俗をなせり。かくのごとく忠孝をもって道徳の大綱となし、その大綱より兄弟、夫婦、朋友に関する人倫の分かるるゆえんを示したるもの、実にわが国の道徳なり。故に勅語に、一家の人倫を諭したまえる前に、「爾臣民克ク忠ニ克ク孝ニ」とのたまえり。また、勅語の終わりに「是ノ如キハ独リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顕彰スルニ足ラン」とのたまえるは、もって忠孝一致の国風なるゆえんを知るに足るなり。

       第二一節 国体の精華

 以上三条によりてきたせる結果は、万国無比の皇統連綿天壌無窮の国体これなり。わが国ひとたび西洋諸国と交通を開きしより以来、一として西洋に対してわが栄誉とすべきものなし。ただわが国体に至りては、西洋人の深く嘆美するところなり。果たしてしからば、わが国一種の人倫たる君臣一家、忠孝一致の国風は、実にわが国の美徳なり。故に勅語に、これを「国体ノ精華ナリ」とのたまえり。けだしわが国の今日まで東海の上に独立しきたりしゆえん、また将来永く万国の間に独立することを得るゆえんのもの、この国体のよりて起こりし原因を離れて他に求むべからず。ここをもって、わが国教育の本源も、また全くここに発せしを知るべし。故に、勅語に「教育ノ淵源実ニ此ニ存ス」とのたまえり。これによりてこれをみるに、皇祖皇宗の国を開かせたまえる規模の大にして功業の壮なるを想見すべし。故に、勅語に「皇祖皇宗国ヲ肇ムルコト宏遠ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ」とのたまえり。

       第二二節 君主は国家の中心なること

 この君民一家、忠孝一致の美風は、ひとり倫理上、一国の精華なるのみならず、国家の団結を鞏固ならしめ、国勢を強大ならしむるに大いに利あるものなり。およそ団体を鞏固ならしむるには、その中心一定して、四方よりこの一点に向かいてその力を集めざるべからず。今わが国の団体は君主をもってその中心とし、億兆の人民みなその心を一にしてこれに帰向し、一国あたかも一家のごとき関係を有するは、国家の団結を成すに最も適したるものというべし。ことに忠孝の二大義を経緯として、もって国体を組織せるがごときは、実にわが国の今日まで独立しきたれるゆえんにして、また将来に向かいて永く独立すべきゆえんなり。およそ国家の独立に最も要するものは、国家、団結の中心ありて一致の運動を有するのみならず、その中心の、古今にわたりて一貫するものなかるべからず。しかるにわが国は一統連綿の皇室ありて、ただに国家、団体の中心となるのみならず、数千年間の歴史を一貫する中枢となれり。すなわち皇室は、国家の縦横にわたりて中心となるものなり。この中心に向かいて周囲の分子、すなわち人民を結合するものは忠孝人倫の大道なり。これわが固有の国風にして、この国風を維持するにあらずば、国家の独立を期し難し。故に我人は互いにその心を一にして、固くこの国風を守らざるべからず。勅語に「億兆心ヲ一ニシテ世々厥ノ美ヲ済セルハ」とのたまえるは、すなわちこの国風を守りて今日に至るを諭したまえる御辞なり。もし果たしてこれによりて国家の隆盛を得るに至らば、これと同時に一家の安寧、一人の幸福を全うすることを得べし。ここにおいて、我人の目的たる自己に対する義務と国家に対する義務とを完成すべし。故に我人はこの一種固有の国体に基づきて、教育道徳の方針を定めざるべからず。しかるにその方針をば、われに捨てて、かえって外国に取らんとするもののごときは、実に盲目の国民たるを免れざるなり。

       第二三節 理想的国体

 かくて教育道徳の方針は一種固有の国体に基づきて定むべきものとするときは、その将来の目的について一言せざるを得ざるものあり。すなわち、さきに道徳の将来に対する目的は、理想上円満完全の個人と国家とを考定し、これに向かいて進まざるべからずと述べたるも、今わが国体の皇室を中心とするものに至りては、その完全なる個人も国家も、忠孝一致の円満なる理想によりて構成し、これに向かいて進まざるべからず。換言せば、円満完全なる忠君の理想をみたすをもって目的とせざるべからず。この理想の中に、完全なる個人と円満なる国家の成立を見るべし。けだし道徳上個人的国家的の別あるも、親子の関係、夫婦の関係、朋友に対する義務、政府に対する義務等の別あるも、これみな表面上の外見に過ぎず。その裏面に入りてこれをみるに、忠孝一致すなわち忠君為本の一大道あるのみ。この大道の理想上に孝、友、和、信等の現象を示すものと想定し、一切の徳行にみな忠君のためなりとの意をもって尽くすべきは、わが国人倫の理想的解釈なり。かくのごとくにして、始めて将来無限の時間に対して、一統連綿天壌無窮の理想的国体を完成するを得べし。

 

     第四講 個人的道徳論 第一

       第二四節 人倫の種類

 すでにわが国体の一種特絶なるゆえん、ならびにその国体に応じてわが人倫の一種特殊なるゆえんを述べたれば、これより人倫の組織ならびに関係を論ぜざるべからず。そもそもわが国は前述のごとく、国体上において君主をもって中心とし、皇室をもって本源とし、忠孝一致をもって大道とし、君に忠を尽くすはすなわち親に孝を尽くすものとなす。これ国家に対する人倫のおおもとなり。もし家族に対する人倫を挙げば、孝をもって基本とす。そもそもさきにすでに述ぶるがごとく、我人の有する義務に二種あり。すなわち個人に対するものと国家に対するものとこれなり。故に道徳おのずから二様に分かる。すなわちその一を個人的道徳といい、その二を国家的道徳という。さきに道徳の目的は個人の完全と国家の完全を期するにありといえるは、この二様あるによるなり。しかして個人的道徳に、自己に対するものと家族に対するものとの二種あり。国家的道徳に、自国の君主、人民に対するものと、外国の君主、人民に対するものとの二種あり。その表、左のごとし。

  道徳 個人的 自己

         家族

     国家的 国内

         国外

 国家の元素は一個人にして、一家の分子は一人なり。一人相合して一家を成し、一家相集まりて一国をなす。故に一人の幸福は進みて一国の幸福となり、一国の利益は分かちて一家の利益となり、互いに利害得失を同じうするものなり。今、道徳を個人、国家の二大部に分かち、もってわが国の人倫を見るに、一家にありては孝を主とし、一国にありては忠をもととするなり。これより、まず自己に対する道徳を説き、つぎに一国の上に及ぼし、忠孝二道の、人倫の大綱なることを論定せんとす。

       第二五節 自己に対する徳義

 そもそも自己に対する道徳は実に人倫の起点にして、一国、一社会の道徳はみなその源をここに発せざるはなし。故に自己の道徳を全うするときは、一国、一社会の道徳をまっとうすることを得べし。語を換えてこれをいわば、人生の目的たる福徳二者を円満ならしむることを得べし。まず人の、自己の身心に対してなさざるべからざるものを挙げば、左のごとし。

  (第一) 身体を健全にすべし。

  (第二) 智識を開発すべし。

  (第三) 徳性を養成すべし。

 この三者は、人のその身に尽くすべき義務にして、教育上のいわゆる体育、智育、徳育これなり。その他、人は情操を純良にせざるべからず。これいわゆる情育なり。人の心性作用は情、智、意の三種に分かるるをもって、教育上にも情育、智育、徳育(すなわち意育)の三種なかるべからず。この諸義務を全うするときは、ひとり一人の幸福のみならず、一家もこれによりて栄え、一国もこれによりて盛んなり。もって父母に対するときは孝道となり、もって君主に対するときは忠義となるべし。

       第二六節 身体を健全にする義務

 まず体育すなわち身体の健全についてこれを述べんに、身体は精神、思想の根拠とするところにして一国、一社会の基本なれば、我人の第一に愛重すべきは身体の健全なり。身体健全ならずば、学問事業を成すことあたわず、智識徳義を養うことあたわず。身体健全なるときは無病長寿の幸福を得るのみならず、一家の財産も一国の富強もみなこれによりて起こり、もって父母の心を安んずべく、もって君主の恩に報ずべし。ことに万国競争の今日に当たりては、一国人民の体育の発達は国家の独立に欠くべからざるものなり。かつそれ、人はこの天地間に生育する以上は、その生存を保全し、その種属を継続する義務を有するものなり。故に人たるものは、その生命をまもり健全を祈りて、もって子孫の繁殖を期せざるべからず。決してみだりに身体を毀傷し、あるいは自殺をはかるべからず。これによりてこれをみるに、一身の健全は忠孝二道を全うし、人生の目的を達すべき起点なり。しかりしこうして、身体ひとり健全なるも、智識、徳義を開発するを知らず、一国、一社会を利益するを知らざるに至りては、父母に対して不孝、君主に対して不忠なるはもちろん、かくのごときは禽獣と同一にして、人類と称し難し。これあに、人生の目的ならんや。

       第二七節 智識を開発する義務

 つぎに、智識を開発するは、また人のその身に対する義務の最も大切なるものにして、人類の人類たるゆえん、人類の禽獣に異なるゆえん、主としてここにあり。かつ智識進まざるときは一家の事業起こらず一国の文運盛んならず、智識進むときは一家、一国の幸福これとともに進むべし。たとえば、一家の中に智識の人に勝れたるものあるときは一家の名誉となり、一郷中に智者、学者の起こるあるときは一郷の利益となり、これを拡むるときは一国、一社会の名誉利益となるべし。すなわち古代インドおよびギリシアに学問盛んなりしをもって、その国ひとたびほろびたるも、その名は依然として万国の史上に輝くにあらずや。また西洋諸国、近世大いに富強を得たるも、その原因は智識、学問の進歩によらざるなし。今日、万国競争のときに当たり、優勝劣敗は必然の勢いなりというも、単に兵力、腕力をもって競争するにあらず、智力、道理をもって理非を闘わしめざるべからず。故に智識、学問進歩するときは、国際の競争に加わりて優勝の地に立つことを得るなり。果たしてしからば、智識を開発するは、一家に対しては孝となり、一国に対しては忠となり、人生究竟の目的を達することを得べし。しかれども、智識一方をみがきてこれを実行するゆえんを知らざるときは、いたずらに空論虚想に走り、ややもすれば軽躁浮薄に陥り、国家の進歩を妨ぐる恐れあり。故に、人すでに多少の智識を得たらば、いかにしてこれを実行すべきかを考えざるべからず。一国の人民ことごとく学者となるの必要なしといえども、農商工に従事する者、従前のごとく無智不学にては、到底今日の世界に立つことあたわず。いわんや外国と競争して、実業上に智力を闘わすにおいてをや。故に国民たるもの、みなことごとく智識を開発し、あわせて実業を研習し、もって国家の隆盛を祈らざるべからず。たとえ学者たりとも、学問に迷酔して社会、国家を忘れざらんことに注意せざるべからず。勅語に「学ヲ修メ業ヲ習ヒ」とのたまえるは、学問と実業との両全を諭したまえる御辞なれば、われわれ、あに慎みてその意を体認せざるべけんや。

       第二八節 徳性を養成する義務

 つぎに、徳性を養成するは人生の最もあがむべき美風なり。人もし智ありて徳なきときは、あたかも木ありて葉なく、花ありて香なきがごとし。かつ徳性は万般の事業の基本にして、いやしくもこれを欠かば、なにごとも成すべからず。一家の和合も一国の団結も、この性を離れて他に求むべからず。およそ世間のいわゆる徳とは、人心中の善を行い道を守らんとする性質を義とし、その種類に、個人に関するものと社会に関するものとの二様あり。社会に関する方は後に一家および一国に対する道徳を述ぶるときに譲り、今ここにただ個人に関する部分のみを挙げんに、第一に、節制の徳を守らざるべからず。節制とは衣食酒色等の諸欲を制止して、極端に走らざらしむるをいう。たとえば奢侈を戒め倹約を守り、無益に費やさざるがごときも、この徳に属すべし。一家の富も一国の富も、一人の節制倹約によらずば決して興すべからず。かつ節制倹約は体育と密接の関係を有するをもって、一身の健全上欠くべからざるものなり。また、遊惰に日を送り、無益に光陰を費やさざることに注意するも、倹約の一なり。時間は金銭なり。無益に時間を費やすは、無益に金銭を費やすに同じ。もし人みな事務を勉励し、無益に時日を消費せざるときは、家として栄えざるはなく、国として盛んならざるはなし。ただ倹約の弊は、その適度を失して吝嗇に陥るにあり。これもとより人の戒めざるべからざるものなり。第二に、個人の守るべき徳は恭譲なり。恭譲とは、一身の行儀を慎み礼譲を重んずるをいう。これまた人の美風にして、一家の和合、一国の団結に欠くべからざる徳義なり。もし人みな倣慢不遜にして、他人を軽賎し礼譲を知らざるときは、各自の間に不和闘争を生ずるより外なし。いずくんぞよく社会の秩序安寧を保たんや。これ世間に礼節の必要なるゆえんなり。ただその弊たる、卑屈に流るるにあり。故に礼譲を守るも、卑屈に陥らざることに注意すべし。勅語に「恭倹己レヲ持シ」とのたまえるは、この節制、恭譲をいうなり。第三に、個人の徳とすべきは智慮なり。智慮とは、なにごとに限らずその結果、影響の利害得失を先見して、みだりに着手せざるをいう。もし人にして智慮なくば、禽獣にひとしき行いをなすに至るべし。他人の行為の意に適せざることあるもみだりに憤怒せず、一時の薄利を見てただちにこれに走らざるは、智慮あるによる。大事大業は、必ず遠大の智慮あるにあらずば、なすあたわざるなり。ただ智慮に過ぐるの弊は、決心、断行の力を減ずるにあり。この弊を防ぐは、勇気によらざるべからず。しかして勇気は、我人の第四に要するところの徳なり。人に勇気なきときは、小難を恐れ細事に屈し、なにごともなすあたわず。一家の事業も一国の事業も、勇にあらずば決して成功すべからず。しかしてまた、勇の弊は粗暴に流るるにあり。この弊を救うは、智慮を待たざるべからず。もしひろく勇の意味を適用せば、克己作用のごとき、勉強、耐忍のごとき、みな勇の一種に属すべし。これ人の精神の力にして意志作用に属すべきものなれば、これを意志の勇力と名付けて不可なることなし。しかして克己作用のごときは道徳中最も大切なる部分にして、諸善行大抵これに基づかざるはなし。また勉強、耐忍のごときは百般の事業の無形的資本にして、一家の繁昌も一国の富強も、一としてこれによらざるはなし。農工商のごとき諸業は、これを拡張するに金銭等の資本を要すというも、これよりも一層大切なるものは、勉強と耐忍なり。これ実に人の職業に対する義務というべし。更に進みて勇気の最も大なるものを挙げば、国民の元気、愛国の精神ありて存す。これをわが国にては日本魂という。これ国家の独立を維持する一種の霊気なれば、我人必ずこれを養成せざるべからず。その他、個人的徳性に属するものに廉直、公平、潔白、温順、厳重等の名目あれども、今述ぶるところのものと後に述ぶるところのものとを参考せば了解すべきをもって、いちいちここに説明せず。これを要するに、人もし以上の諸徳を養成するときは、忠孝の大道も人生の目的も、一時に全うすることを得べし。しかりしこうして、わが国維新以来、学問大いに進みたるも徳義ようやく衰え、愛国の精神もこれに従いて地を払うに至れり。ここにおいて、教育上もっぱら徳育を奨励せざるべからず。これかしこくも天皇陛下の勅語を下し賜いし御趣意にして、その中に「智能ヲ発シ徳器ヲ成就シ」とのたまえるは、智徳兼備を奨諭したまえる御辞なり。

       第二九節 情操を純良にする義務

 以上、体育、智育、徳育を講述したれば、更に情育について一言せざるを得ず。情育は人の情操を純良にする方法にして、智識、徳義に伴いて進歩するものなれば、別にその養成法を講ずるを要せざるがごとしといえども、情そのものの性質は多少他の作用に異なるところあれば、ここに別に一項を掲げて論ぜざるを得ず。およそ人の情は野鄙に流れやすきものにして、その快楽とするところも下等に傾きやすきものなり。しかるにその弊を制止して、高等純良の情操を発達せしむるは、情育の力なり。また、人は小事の意に適せざるあるも、たちまち激怒し、あるいは鬱悶する習性ありて、不幸、災難に会するときは、人をうらみ天をののしるがごとき情癖あり。しかるに、よくこの情癖を医して不平を和ぐるは、情育の目的とするところなり。故に情育その目的を達するときは、ひとり一身の快楽をまっとうすべきのみならず、人と人との間を調和し、家族の交情を親密ならしめ、社会の交際を円滑ならしむるを得べし。かつ愛国の精神のごときも、これを一種の情操として、情育の方法により養成せざるべからず。真理を講究するをもって無上の快楽とし、事業を成就するをもって至極の幸福とするがごときも、またこれ一種の情操にして、これを発達するには情育の方法を待たざるべからず。故に、かくのごとき高尚重要の情操を育成するは、人のその一身に対する義務の一なりというべし。しかしてこれを育成する法は、要するに美術によらざるべからず。人もし美術によりて、まず個人的情操をして純良完美ならしめたる上は、これを一国、一社会の上に応用して、愛国の感情を発育せしめざるべからず。かくのごとくにして、始めて人は個人に対し、また国家に対して人生の目的をまっとうし、あわせて忠孝二道を全うすることを得べきなり。

 

     第五講 個人的道徳論 第二

       第三〇節 一家に対する徳義

 前講は、個人的道徳中、自己に対する道徳を述べたるのみ。つぎに、一家に対する道徳、すなわち家族に対する関係ならびに義務を説かざるべからず。家族の道徳は、左の三種に分かる。

  第一 父母に対する道、すなわち孝。

  第二 兄弟に対する道、すなわち友。

  第三 夫婦に対する道、すなわち和。

 これを勅語に「父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ」とのたまえり。この三種中、父母に対する道、すなわち孝をもってもととするは、わが国の人倫なり。およそ家族の組織中、縦的に重要なるものは親子の関係、横的に重要なるものは夫婦の関係なり。この二者中、西洋は夫婦の間に重きを置き、わが国は親子の間に重きを置くの異同あり。かつその親子の間のごときも、親が子に対する務めよりは、子が親に対する務めをばむしろ重しとするは、わが国の人倫なり。かくのごとく内外その道徳を異にするは、全く国風、人情の同じからざるより起こりたるものなり。人倫のおおもとは万国同一なりといえども、その関係に至りては、内外、軽重なきことあたわず。しかしてその軽重あるは、道理のもとよりしかるところなり。ことにわが国のごときは、さきに述べたるがごとく、君臣、一家、父子の関係を有し、忠孝二道一致の人倫を有する国風なれば、一家にありては父母をもって中心とし、孝道をもって基本とせざるべからず。果たしてよくかくのごとくにして一家すなわち和合すべく、一家和合して一国また和合すべく、国家の独立、富強もみなこれによりて全うすることを得べきなり。故にこの孝道為本の人倫は、実にわが国体の他邦に卓絶するゆえんにして、数千年来東海の上に独立したるゆえんなり。

第三一節 父母に対する義務

 まず父母に対する義務を挙げんに、ただ孝道を尽くすの一あるのみ。しかして父母の子に対する徳義は愛なり。およそ人たるものは、なにびとにても父母ありて、しかる後その身あり。父母なきときは、始めよりその身あることなし。すでに母の胎内を離れてより、その独立して生存するまでには、十数年の久しき、その養育に父母の身心を労すること、ほとんど言語に尽くし難きものあり。けだし父母のその子を愛する情は、愛情中の最も厚きものにして、その恩、実に山よりも高く、海よりも深しというべし。我人は、この洪大の恩義に対して、あに報答するところなくして可ならんや。けだし我人の最も貴重するところのものは、自己の身よりはなはだしきはなし。故に、その身を育成したる父母は、我人の最も尊崇するところのものならざるべからず。これ古来、孝をもって人倫のもととし、百行のもととしたるゆえんなり。今、人類と禽獣とを較するに、親の子を愛する情は、人類ひとりこれを有するにあらずして、禽獣もなお多少これを有せり。しかれども子の親に尽くすところの孝は、人類ひとりこれを有す。また、禽獣は親の養育を受くる年月短きをもって、子のこれに対して尽くすべき義務もまたしたがって軽かるべき道理なれども、人類はすなわちしからず。その親の養育を受くる年月最も長く、かつ親の身心を労すること最も多きをもって、これに対して尽くすべき義務もまたしたがって最も重かるべきは、理の当然なり。故に孝道は人間の人間たる道にして、その特に禽獣に殊なるところなりというべし。かくて子たるものよく孝道を守るときは、一家の和合、安楽を得るのみならず、一国の団結、幸福もこれによりて全うすることを得べし。しかりしこうして、孝道の要は親の心を安んずるにあれば、子たるもの、まずその身体を健全にし、その智徳を開発し、身を立て名をあらわすことを務むべし。かくのごときは最も父母の心を安んじ、かつ楽しましむるものなり。すでに子の親に対する義務を述べたれば、また、親の子に対する徳義を述べざるべからず。およそ親たるものは慈愛をもってその子を養育し、これをして学問を修めしめ業を習わしめ、もって世間に恥じざる人物となさざるべからず。もし親にして子を教育することを知らざるときは、蛮民となんぞ選ばん。故に、子を教育するは親の子に対する義務というべし。また、親たるもの、いまだ老衰せざるに早く世を退き、みだりに子を役して、ひとり自ら酒食にふけるがごときは、これ親の子に対する情義にあらざるのみならず、社会、国家に対する義務を尽くさざるものというべし。故に親たるものは、強壮の日にありてあらかじめ老後の備えをなし、老いきたりてもなお身体強健ならば、その社会に対して尽くすべき務めを尽くし、ようやく衰え去りて、またなにごとをもなすべからざるに至りて、始めて万事をその子に依頼すべきなり。しかして子は老後の親を養うにとどまらず、その死後までもその葬祭を営み、遠きを追い、もって生前の恩義に報答せざるべからず。その葬祭を重んずるがごときも、またわが国一種の美風というべし。

       第三二節 兄弟に対する義務

 つぎに兄弟の関係を述べんに、わが国にては親子の関係を最も重要となすことなるが、父母に続きてもっとも親しきものは兄弟なり。これ、ともに父母の骨肉を分かちたるものにして、かつともに孝道を尽くさざるべからざるものなれば、互いに友愛親睦をもって交わらざるべからず。兄弟、姉妹互いに相争うときは、ここに一家の不和を起こし、一家の不和はついに一国の不和を起こし、一国の不和はすなわち一国の不幸にして、一家の不和はすなわち一家の不幸なり。かくのごとき不幸を生ずるに至らば、親に対しては孝ならず、君に対しては忠ならざるものというべし。かつ兄弟相愛する徳義は禽獣の有せざるところのものなれば、また人類特有の道徳といわざるべからず。つぎに、兄弟の間にも長幼の序あれば、兄は弟を愛し、弟は兄を敬するをもって徳義とせざるべからず。兄弟の姉妹におけるも、姉の妹におけるも、またおのずからその間に長幼強弱の差あれば、強は弱を助け、幼は長を貴び、互いにその順序を守らざるべからず。かくてその順序よろしきを得るときは一家和合をなし、よろしきを得ざるときは不和をなす。兄弟たるもの、あに戒めざるべけんや。しかりしこうして、兄弟またおのおの独立自存の精神なかるべからず。弟はみだりに兄に依頼し、兄はみだりに弟に依頼して、互いにその務むべきを務めざるがごときは、兄弟の友義に背き、かつ国家独立の力を減殺するものというべし。

       第三三節 夫婦に対する義務

 つぎに、人倫中の肝要なるものは夫婦の関係なり。夫婦は他人の結合より成り、元来骨肉の親あるにあらざるも、ひとたびその縁を結びたる以上は、二人同体の関係を生じ、兄弟よりも一層親密なる情義を有するものなり。しかして夫婦は一家のもとにして、親子兄弟の関係もこれより分かるるものなれば、互いに和順をもって交わらざるべからず。夫婦和順せざるときは一家治まらず、一家治まらざるときは一国の安寧を保つことあたわず。故に社会、国家の富強も幸福も、みな夫婦の和順より起こるというべし。かつまた、夫婦の間には互いにその道を守るはもちろん、また互いにその資性に適応する業務を修めざるべからず。けだし男女はおのおのその資性を異にし、男はその身心ともに強剛にして、女は柔弱なり。故に夫婦相和して一家を治むるにも、男は外に出でて業務に就き、女は内にありて家政を執るべし。一国は一家の大なるものにして、一家は一国の小なるものなり。一家にありて家計をなすものと、一国にありて国事をはかるものと、その業務を分かつはこれ事の順序にして、また男女自然の性質のしからしむるところなり。ここをもって、夫婦は社会に立ちておのおのその地位、業務を異にするに至る。しかして互いに一致和合するには、夫は婦をたすけ、婦は夫に順うを要するなり。かく互いに一致和合して一家の幸福安寧をはかるは夫婦の道にして、男女同権の理もこの中にありて存す。世人ややもすれば男女その権を同じうするをもって、夫婦は互いに同等の地位に立ち、同等の職権を執らざるべからずといわんとす。これ決して真正の同権論にあらず。真正の同権論によるに、男も女もその人たるにおいて同一なれば、その徳と力との同一なる限りは、よろしく同等の地位に立ち、同等の職権を執るべきも、いやしくもその徳と力とを異にする以上は、相異なりたる地位に立ち、相異なりたる職権を執らざるべからざる理なり。さきに述べたる平等差等の関係を参見すべし。すでに男の性は強剛にして女の性は柔弱なれば、互いにその性に適応するところの業務に就きて一家を維持するは、すなわち男女同権の理に基づくものというべし。しかしてまた、男はみだりにその権力に乗じて酒色の欲をほしいままにし、あるいはめかけを蓄え、あるいは妻を圧して僕婢のごとく使役するがごときは、男子の罪といわざるべからず。かくのごときは夫の婦に対する徳義に背くのみならず、一家の人倫を破り家庭の規律を乱るものなれば、男子の大いに慎まざるべからざることなり。かつかくのごときは野蛮の遺習というべきも、決して文明の美風と称すべからず。けだしわが国にありて夫婦相和せず離婚するものの多きは、主としてこの弊風あるによる。しかも夫婦の不和はひとりこの弊風によるのみならず、また単に父母の意によりて結婚を定むる風あるにもよるなり。けだし男子の不品行もこのことに原因するもの、また少なしとせず。その他、早婚の弊、近親間の結婚の弊等も、大いに子孫の智識、体格の発育に関係を有するをもって、これまた今より改良せざるべからず。そもそも夫婦の和合は一家の利害、禍福の大いに関するところなれば、父母たるものもその和合に注意し、男女たるものも決して軽々しく結婚を行わず、また軽々しく離婚を行わざらんことに注意すべし。ことに夫婦は家庭の教訓を施すべきものなれば、互いにその品行を正しくし、幼児の模範となることに注意せざるべからず。かくて夫婦和合するときは、一家これによりて栄え、一国これによりて興り、その幸福、安楽は、決して夫婦両人の間にとどまらざるなり。

       第三四節 僕婢と家主との関係

 すでに夫婦を説き終わりたれば、一家の人倫はここに尽きたりといえども、中等以上の社会にありては、一家中に僕婢ありて家事を助くるものなり。この僕婢と家主との関係は、あたかも一国中に君臣の関係あるがごとく、その間に人倫徳義の自然に存するあり。故に、一家の人倫の付講として、僕婢に関する徳義について一言するも無用にあらざるを知る。そもそも僕婢の良否は、大いに一家の経済ならびに児童の教育に関するものなれば、その人を選び、かつこれが監督をゆるがせにすべからず。家いよいよ富み、事いよいよ多きを加うるに至りては、ますます多数の僕婢を要するなり。ますます多数の僕婢を要するときは、またますます選択監督の必要を感ずるなり。一家の資産の破壊するも、多くは僕婢のそのよろしきを得ざるより起こる。児童の徳義、品行の修まると修まらざるとは、またこれに接する乳母、僕婢の良否によること少なしとせず。かつ一家の和するも和せざるも、僕婢その媒介となるがごとき、世間その例に乏しからず。故に一家の主人たるものは、深く僕婢の監督に注意せざるべからず。しかしてこれを監督するに、寛に過ぐべからず、また厳に過ぐべからず。親しみ過ぐるも不可なり、疎んじ過ぐるも不可なり。なるべく公平を主として、愛憎の私に偏せざらんことに注意すべし。けだしその適度を誤らざるは、主人の智力と経験とによるなり。これに対して僕婢たるものは、正直、勉強、従順を守らざるべからず。この三者は、実に僕婢の徳義なり。これを合するときは忠義となる。一家の主人は君のごとく、僕婢は臣のごとし。君主につかえて忠なるものは、家主につかえてまた忠なるを得べし。わが国、中世封建制の盛んなりしに当たりては、僕婢の家主に対する忠義の感情は、他国の比にあらざりしを見る。これ畢竟、わが人倫の古来、忠をもって基本とする国風の結果にあらざるはなし。故に今日にありても一家中、主僕間の忠実の感情を養いて、集めてこれを皇室にいたさざるべからず。その他、地主と小作との関係も、これに準じて知るべし。

       第三五節 親戚に対する徳義

 すでに一家の人倫を説き終わりたれば、これに付属して親戚の関係を説かざるべからず。親戚はもとわが親子兄弟の一族なれば、その情義は決して他人のごとくならずして、常に親密に交際せざるべからず。人世は今日幸いに無事なるも、明日いかなる禍災あらんも知り難し。もし不幸にして一家ことごとく病患にかかり、あるいは親子を失い、あるいは水災、火難等にかかりたらんときに、我人のたのむべきは世間ひとり親戚あるのみ。故に親戚の間は、互いに親睦をもととすべし。しかれどもまたみだりに親戚の友情を頼みて、独立自活する精神なきときは、これかえって親戚の情義に背き、かつ社会の進歩を妨ぐるものなり。およそ人は、独立の精神あるをばもっとも肝要なりとす。一人の独立は、これを拡めて一国の独立となる。しかるにわが国の風たる、各自独立の精神に乏しく、親戚朋友に有力者あるときはこれに頼りて生活せんと欲し、自ら独立することを得るものも、ついに独立せざるに至る。かかる弊風は、今より改良せざるべからず。しかれども、またあえてみだりに親戚朋友の交わりを絶ちて孤立するがごときは、大いに国家の団結力を減殺するものなり。故に、独立するも孤立せざらんことに注意すべし。すなわち親戚間にありて互いに独立を競うと同時に、互いに共同をはからざるべからず。これを一国、一社会の上に考うるも、その理一なり。かくのごとく一家、一族ことごとく和合一致するときは、我人は忠孝の義務を尽くし、人生の目的をまっとうするを得べし。ことにわが国は四千万の人民みな一族、一門より相分かれ、皇室をもって宗家としたる国なれば、畢竟、一国ことごとく親戚なりといわざるべからず。故に今日にても、全国の人民を指して四千万の同胞兄弟とはいうなり。すでにしからば、我人は互いに相愛し相親しみて、国家の団結を鞏固ならしめ、国体の独立を安全ならしめざるべからず。

 

     第六講 国家的道徳論 第一

       第三六節 国家的道徳の種類

 前講は一身、一家に関する徳義を述べたれば、これより社会、国家に関する義務を述ぶべし。それ家族、親戚は社会、国家の一部分にして、一家は小社会なり、一国は大家族なりというも不可なることなし。故に親戚に対する情義を一歩進むれば、社会、国家に対する徳義となるべし。およそ道徳上のいわゆる徳に二種を分かつ。すなわち自己一人に関する徳、および社会公衆に関する徳これなり。その第一種に節制、勇気等あることは、前すでにこれを述べたり。第二種に仁愛、正義、信実等の諸徳あり。これ我人の、社会公衆に対して守らざるべからざるものなり。今、余は社会の徳義中、まず朋友に対する徳義を述べて、逐次、君主および政府に対する義務に論及せんとす。その順序、左のごとし。

  国家的 国内 人民 朋友

            公衆

         政府

      国外

 かくのごとく、国家的道徳は一国全体に関する道徳なれば、その外国に対する徳義を述ぶるの必要なるを感じて、ここに国内、国外の二種を分かつに至る。しかして国の内外に対してその徳義の最も重大なるものは愛国の精神にして、その精神のもとは忠君なり。忠君と愛国と一にして二ならざるは、実にわが国特有の国家的道徳なり。故に、これより述ぶるところの道徳は、忠君をもって眼目とすと知るべし。

       第三七節 朋友に対する徳義

 まず前講に述べたる親戚に対する徳義を進めて朋友の上に及ぼし、これを社会の人民に対する徳義の起点として、これより述ぶるところあらんとす。そもそも朋友には、郷党の朋友あり、学窓の朋友あり、職業上の朋友あり、政治上の朋友あり、宗教上の朋友あるも、ひとしく懇切をもって接し、信実をもって交わらざるべからず。勅語に「朋友相信シ」とのたまえるはすなわちこれなり。けだし信は団結のもとにして、人たるもの互いに相信ずること厚きときは、団結することまた固し。故に、一国の強弱興亡は、朋友相信ずる力の厚薄によるというも不可ならず。今、我人の、人間社会にありて朋友を要するゆえんを述べんに、いやしくも一事業をなさんとするときは、他人の力をからざるべからず。一人の力にて成らざることも、多数の力を集むるときは必ず成るべし。たとえば、大事業を成すに会社を設立するがごときこれなり。また、人おのおのその職業を異にし、その長所を異にするをもって、自ら長ずるところをもって他を助け、他人の専門とするところを取りて己を補い、もって各自の目的を達し、幸福を進めざるを得ず。かつ人は平常ことなきに当たり、孤独にて日を送るは極めて不愉快なるものにして、同志の友を得て遊び、日夜相会しておのおのその思うところを語るは、大いに快楽を感ずるものなり。これ人世に朋友の必要なるゆえんなり。朋友を得てよくこれと交わるときは、これを小にしては個人の快楽を増進し、これを大にしては社会の事業興り国家の富強成り、もって人世一般の幸福を増進することを得べし。しかりしこうして、朋友を得るに道あり。善友あり悪友あり、益友あり損友あれば、よろしくその友として益あるものを選ばざるべからず。親たるものその子を教育するに、必ず善友を選びてこれと交わらしめざるべからず。朋友は一種の教師なり。児童の善人となるも悪人となるも、朋友の感化によるもの少なしとせず。よって教育上にありては、よろしく朋友を選ぶことに注意すべし。

       第三八節 師弟の関係

 すでに社会に朋友あれば、年齢の長ずるものあり、地位の高きものあり、経験に富めるものあり、才能の勝れたるものあり、学力の優等なるものあり。これみなわが長者なれば、これに対して相応の崇敬をいたすは、また徳義の一種なり。ことに教育社会において、最も徳義を要するものは師弟の間なり。弟は師を敬し、師は弟を愛し、その間あたかも親子兄弟のごとき情義行われて、始めて教育の実効を見るべきなり。けだし子弟を教育する教師は第二の父母にして、父母は第二の教師なり。父母は子を教育すべき責任を有するも、自らその任を尽くすことあたわざるをもって、教師の力をからざるを得ず。教師はよく父母を助けて、その責任を全うせしむ。故に教師は、第二の父母というべし。しかして父母もまた家庭にありて子の教育を監督せざるを得ざれば、これまた第二の教師というべし。かくのごとく、教師は社会にありて重要の地位に立ち、重大の責任を有するものなれば、これを崇敬優待するは、ひとり師弟の間の徳義なるのみならず、また社会公衆の、長者に対する徳義というべし。その他、我人の、古人先輩に対して敬礼をいたすも、また長者に対する徳義なり。たとえその人、千百歳の前に出でて今世にあらざるも、我人その遺訓を今日に受くるものなれば、これまたわが師たること明らかなり。故に、我が輩これに敬礼の意を呈して、もってその恩義に報答せざるべからず。かくのごときは社会の美風にして、ただに教育上に影響を有するのみならず、国家の独立、国民の和合上に間接の関係あること、あにまた疑いをいれんや。

       第三九節 博 愛

 つぎに、人たるもの、ひろく社会公衆に対し、その朋友なるとしからざるとを問わず、必ず尽くさざるをえざるものは、公益を計り博愛を施すことこれなり。およそいずれの国にても、多数の人民団結して生存するものなれば、その国の安寧、幸福は決して自己一人の力にあらざること明らかなり。また、我人が社会にありて自由に衣食住を得、無事安楽に世間を渡り得るは、社会公衆の、直接および間接に与うるところの恩恵ならざるはなし。果たしてしからば、我人はこれに対して尽くすべき義務なかるべからず。すなわち自己一人のみを愛せずして、ひろく公衆一般を愛することを務めざるべからず。また進みて、世間の利益になる事業を興すことを計らざるべからず。これ勅語に「博愛衆ニ及ホシ又公益ヲ広メ世務ヲ開キ」とのたまえるゆえんなり。そもそも仁慈博愛は人のこの世に処する道徳中の主眼にして、人の人たるゆえんの大道なり。公益を広め世務を開くも、要するにこの博愛の意に外ならず。我人はひとり親戚、朋友を愛するのみならず、一国、一社会の人民はみなわが親疎の親戚、朋友なれば、ひとしくこれを愛せざるべからず。かつ人類の禽獣に異なるゆえんも、ひろく同類を愛憐するにあり。故に、世に鰥寡孤独のものあり、天災不幸にかかりたるものあるときは、必ずその分に応じて救助せざるべからず。しかれどももし世の貧民、窮子にして、その慈善を頼みて、自ら務むべきことを務めざるがごときものあらば、これかえって国家の罪人というべし。また、慈善を行うものも、先後軽重を分かたずみだりに救助するは、決して称賛すべきことにあらず。たとえば、自己の親戚の不幸を顧みずして他人を救助し、今日慈善のために祖先伝来の家産をなげうち、明日他人に向かいて救助を仰ぐがごとき、これ慈善の極端に偏するものにして、さきにいわゆる平等差等の権衡を失えるものといわざるべからず。しかりしこうして、もし一国、一社会の大事あるに当たりては、あるいは親戚、朋友を顧みず、あるいは家産をなげうち身命を捨てて、全力を国家の救助に尽くさざるべからず。これ勅語に「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ」とのたまえるゆえんなり。かくのごとき慈善は忠君愛国の精神に基づくものにして、実に国民たるものの本分というべし。

       第四〇節 公 益

 我人の社会公衆に対する義務は、慈善博愛の外に実際上、有益の事業を興すにあり。農家は国家のために農業を盛大にせんことを祈り、商工は国家のために商工を振起せんことを願い、政治家は政治の改良を計り、学者は学問の進歩を計り、ともに世益実利のために一身を犠牲にして、目的を貫徹せんの精神なかるべからず。その平常学を修め業を習うは、他日これを世間に活用せんの準備をなすものなり。故に、もしその活用を欠くときは、なんぞ学業を修むる必要あらんや。金銭を貯蓄するもまたしかり。みだりに金銭を費やすはもとより不可なりといえども、みだりに貯蓄をこととし、更にこれを社会有益の事業に活用することを務めざるがごときも、また大いに不可なりとなす。しかれどもまた、その事業の即時目前に結果を示すを見て、ただちにこれに満足すべからず。けだし遠大の事業は永遠を期して達せざるべからざるものなれば、即時目前に利益を見ざる事業の、かえって多年の後に大功績を奏することあるべし。故に、学業を修むるにも速成に失せず、実業に就くも軽躁に走らざらんことに注意すべし。また、世間には高尚の学問を見てその実用を疑うものあるべしといえども、これその識見の浅きによるのみ。故に、高尚の学問を修むるものは、殊更に永遠を期して、急進に失せざらんことを務めざるべからず。これを要するに、一国人民たるもの、社会有益の事業を起こすを目的とし、もってその国を守らば、いずれの国か隆盛ならざるものあらん。忠君、愛国の二大義も、この一事を離れて、あに他に存せんや。また、これによりて名を後世に挙ぐるに至らば、父母に対してその孝道を全うすというべし。

       第四一節 正 義

 その他、社会公衆に対して我人の守るべきものは正義なり。正義の義務に四種を分かつ。すなわち第一に生命に対するもの、第二に財産に対するもの、第三に自由に対するもの、第四に名誉に対するものこれなり。すでに前にも一言したるがごとく、人はその生存を保全する義務を有する以上は、他人に対してその生命を損害するの不正義なること論を待たず。たとえば暗殺のごとき、たとえその人死に当たるほどの罪ありとするも、国法を顧みずして一人の私意をもってこれを行うは、もとより不正義たるを免れず。すでに人にその生命を保存する義務あり、またこれを防護する権利ありとするときは、自己の財産を享有する権利、および他人の財産を損害せざる義務を有するなり。なんとならば、生命を保全するに財産を要すればなり。世間あるいは財産共有を正理となすものあれども、財産は人の労苦によりて得たる報酬なれば、みだりにこれを平等に分配するは不正義たること明らかなり。また、人には自由の権利を有す。身体の自由、思想の自由、信仰の自由これなり。身体の自由とは自由にわが手足を使用するをいい、思想の自由とは言論の自由をいい、信仰の自由とは自由にその好むところの宗教を信ずるをいう。以上の自由を抑止するを圧制といい、その自由を奪去して、物品同様の取り扱いをなすを奴隷制度という。これみな不正義なること言を待たず。また、人に自己の名誉を保全し、かつ他人に対してその名誉を妨害せざる義務あり。たとえば、他人を讒謗するがごときは大いにその名誉を害するものなれば、正義の義務を破るものというべし。故に我人は、自己の生命、財産、自由、名誉を保護すると同時に、他人の生命、財産、自由、名誉を損害せざらんことを務むべし。これいわゆる社会に対する正義の義務なり。かくのごときは世に法律ありて禁制するをもって、道徳のこれに関するを要せざるがごとしといえども、法律の裏面には道徳ありて、互いにその目的を助成せざるべからず。かつ法律は外部より強行手段をもって不正の行為を制止するも、道徳は内部より良心の制裁を用うるものなれば、いやしくも法律上不正の行為と認むべきものは、道徳上にもその不正を責めざるべからず。その他、社会に対する徳義として、我人は公衆一般に接するに、信実をもってせざるべからず。なんとならば、社会みな直接および間接にわが朋友、兄弟なればなり。また、他人に対してみだりに憤怒すべからず、あるいはまた、みだりに他人を軽侮すべからず。平常にありては温良恭譲をもってこれに交わり、礼節、礼法を重んずべし。礼節、礼法は、社会の秩序を保ち、国家の団結を固くするに欠くべからざるものなれば、我人はこれを守ることを務めざるべからず。以上の徳義はみな一国、一家の幸福、安寧に直接の関係を有するをもって、忠孝二道ももとよりその中に含蓄して存するものなり。

       第四二節 君主に対する義務

 以上は、一国、一社会の人民について、これに対する徳義を述べたるのみ。これより、国家の一大機関たる政府について、これに対する義務を述べざるべからず。しかしてまず君主に対する義務を述ぶべし。その義務は、忠の一字をもって尽くすことを得るなり。さきにしばしば述べたるごとく、わが国は一種特別の国風を有し、君主をもって国家団体の縦横に貫通せる中心とし、皇室をもって政府および人民のよりて起こる本源とし、億兆の臣民みなその心を一にしてこれに帰向し、忠孝一致の大道をもって人倫の基本とせり。ここをもって、皇統連綿、万世無窮の国体を見るに至れり。故に、わが国にありては、国家全体に対する義務も政府に対する義務も、ともに君主に対する義務中に一切包容して存するなり。そもそも君主は一国の主宰にして、統治の大権をその身に具し、国家の機関に生命を与うるものなり。もし人いやしくも相結びて社会を成し、社会また進みて国家を成すに及びては、必ずこれが首領たるものありて統治するを要するは、実に天地必然の理なり。あたかも人身に四肢百体を具すれば、またこれを統轄する心意なかるべからざるがごとし。故に、いやしくも国家君〔主〕の組織生ずるときは、自然の勢い必ず君民の区別起こり、君主の一身に統治の大権集合するに至るべし。故に、君主は実に国家団結の中心なり。その中心に衆力集合するときは団結いよいよ固く、集合せざるときは団結ようやく解く。ここをもって、君主、上にありて統治そのよろしきを得るときは、人民、下にありてその権利を全うし、国家またその独立を保つべし。果たしてしからば、我人は君主に対して尽くすところの義務なかるべからず。ことにわが国は君民一家、忠孝不二の美風を存するをもって、我人はあくまで必死を期し、全力を尽くして皇室を輔翼し、国体を護持せざるべからず。数千年来この国の依然として独立したるゆえん、および今日、社会の安寧、臣民の幸福の増進するゆえん、またわが国体の万国に卓絶せるゆえんを考えきたらば、我が輩、あに皇恩、君徳の洪大なるを思わざるべけんや。勅語に「我カ皇祖皇宗国ヲ肇ムルコト宏遠ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ」とのたまえるを見て知るべし。われわれ臣民はこれに対して、忠誠の一心をもって報答せざるべからず。わが百般の徳義みなこの一心より出で、またわが自己の名誉も一家の幸福も、これによりて起こる。これ勅語に「是ノ如キハ独リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顕彰スルニ足ラン」とのたまえるゆえんなり。

       第四三節 政府の組織

 すでに前に述べたるがごとく、国家は一個の有機体にして、君主はこれに生命を与うるところの心意なり。この心意に応じて国家の活動するには、必ず多少の機関なかるべからず。これ政府の組織の起こるゆえんにして、すなわち立法部、行政部の起こるゆえんなり。この諸部は人民の世論を君主に通じ、君主の命令を人民に伝うる機関にして、立法部は法律を議定してこれを君主に呈出し、君主はこれを裁可して行政部に下し、行政部はその命を奉じてこれを実施するなり。もしこれに司法の一部を加うるときは三大部となる。この三大部は、実に政治の三大機関なり。この三大機関を統轄する主権は、君主国にありては君主にありとす。故に君主は、この機関に活動を与うるものというべし。しかして国民たるものは、かくのごとき組織に対して尽くすべき義務を有す。法律にしたがうことその一なり、租税を納むることその二なり、兵役に服することその三なり。今、第一条なる法律にしたがうといえる義務について、これを勅語の上に考うるに、「国憲ヲ重シ国法ニ遵ヒ」と諭したまえるをもって、これより国憲、国法の二条を設けて、述ぶるところあらんとす。

       第四四節 国憲に対する義務

 そもそも国憲、国法は人の最も貴重なる権利を維持し、かつこれを伸暢するものなれば、我人はこれによりて生命、名誉、財産等を護し、社会の秩序を保ち、国家の幸福を進むることを得るなり。まず国憲とは、明治二三年紀元節において、わが天皇陛下の発布せさせたまえる憲法にして、前代いまだかつて見ざりし立憲政体のもと、これにおいて始めて定まる。およそ各国の政体に君主あり共和あり、君主政体に専制あり立憲あり。わが国、従前は君主専制の政体なりしも、今や一変して立憲政体となり、君民ここにおいてその権限を明らかにし、われわれ臣民ここにおいて大政に参与することを得て、国民の権利ここにおいて大いに伸暢することを得たり。東洋諸邦中いまだかくのごとき政体を有する国を見ざるに、わが国において早くすでにこれを見るは、われわれ臣民たるもの、あに国家のためにその栄誉を祝し、あわせて聖恩の優渥なるに報答するゆえんを思わざるべけんや。ことに我人、これによりて各自の権利を伸暢し、これによりて国家の幸福を増進し得る以上は、われわれ臣民たるもの、謹みてその法を遵奉せざるべからず。かつ我人、これによりて議員を選定し議会を組織する以上は、自利の私情を去りて公利衆益を祈らざるべからず。そもそも立憲政体は西洋諸国すでにこれを実行し、わが国はこれに模倣したるに似たりといえども、わが立憲政体はわが国体に基づきて定めたまいしものなれば、また大いに西洋諸邦に異なるところのものあり。すなわちその第一条に「万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」とあるがごとき、万国の憲法にはいまだその例を見ざるところなり。これ実にわれわれ臣民の外国に対して有するところの栄誉なれば、わが臣民は、進みてわが一種特絶の政体を維持せざるべからず。

       第四五節 国法に対する義務

 つぎに国法は、臣民各自の権利を全うし国家の安寧を保つために、一国の君主もしくは主権者の規定するところの法律なれば、臣民たるものは必ず遵守せざるべからざるものなり。もし一国にして国法なくば、われわれの身体、財産、名誉等、他人のこれを妨害するあらんも、なにをもってかこれを防護すべけん。畢竟、我人の権利を防護するものは、法律の力にあらざるはなし。ひとりわが一身のみならず、わが一家も親戚、朋友も、みなこれによりて安全を得、国民一般もこれによりて幸福を得るものなれば、われわれはその法律を恪守して、これを内にしては国家の福利を進め、これを外にしては国権の拡張を計らざるべからず。しかりしこうして、法律のみにては一国の安寧を期し難し。必ず法律に伴いて、道徳なかるべからず。すなわち法律の及ばざるところは、道徳をもって補わざるべからず。法律は、人の行為の、他人の権利を妨害するにあらざるよりは、これを問わず。もし人の本心に入りて、その意志を責むるものは道徳なり。しかしてその起源に至りては同一にして、最初はひとり道徳のみなりしも、社会の進化するに従い、道徳中よりこの二途を分派するに至りしなり。かつこの二者は、その目的においてもともに社会の幸福を増進するにあれば、これまた同一なりといわざるべからず。ただその異なるところは、方法のいかんにあるのみ。すなわち法律は強行的手段を用い、道徳は社会の褒貶および良心の制裁に任ずるの異同あり。しかりしこうして、この二者相待ち相助けて、国家の安寧、幸福を増進せしむべきなり。

       第四六節 租税を納め兵役に服する義務

 つぎに、国民の義務として租税を納めざるを得ざるゆえんは、いやしくも政府ありて人民の生命、権利、名誉、財産等を保護せんとするときは、必ず多少の資財を費やさざるべからず。行政部を置くにも、裁判所を設くるにも、教育を施すにも、外寇を防ぐにも、みな経費を要することは問わずして明らかなり。ただ専制政府にありては、不当の租税を課する恐れあるのみ。しかるにわが国のごときは、今や立憲政体を実施し、国家の経費および租税は、国会の可決を経てこれを実行するものなれば、国民たるものはもとより納税の義務を拒むべからず。もしこれを拒むときは国法にて処分する規則ありといえども、人に道徳心なきときは種々奸策をめぐらして政府を欺き、もって納税を免れんとするものなきにあらず。故に、国民をして道徳上、納税の義務あるゆえんを知らしめざるべからず。また、つぎに兵役に服することの必要を述べんに、国家は我人の国家にして、国家の独立は我人の任ずるところなれば、その保護のために設くる兵備も、また我人を外にしてだれかこれが任に当たらん。すでにその任、我人、国民の上にありと知るときは、少壮の男子の必ずこれに任ずべきゆえんは、言を待たずして知るべし。なんとならば、このことたる、婦女子、老年輩のよく任ずべきところにあらざればなり。また、少壮の男子にしてその任に当たらんと欲せば、必ず平常多少の習練を要す。これ徴兵服役の制あるゆえんなり。我人もしその制を守らざるときは、これを罰する国法ありといえども、道徳上その義務あるゆえんを知らしめざるときは、種々これを免れんとする奸計をめぐらすのみならず、一朝、事あるに当たりて、更にその用をなさざるべし。これ道徳教育の、兵事に必要なるゆえんなり。ことにわが国のごときは、一種特絶の国風を存する国家なれば、兵役に服するがごときは、われわれが皇室に対して必ず尽くさざるべからざる義務なりと自ら信じ、あくまで忠誠の一心をもってこれに従事せざるべからず。これ勅語に「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」とのたまえるゆえんなり。その他、租税を納むるがごときも、忠君の精神をもって国家に尽くさざるべからざるは、わが国風なりと知るべし。

 

     第七講 国家的道徳論 第二

       第四七節 愛国の精神

 前講は、一国の内部にありて、政府ならびに人民に対する義務を述べたるのみなるが、更に進みて、外国に対する徳義を述べざるべからず。すなわち、国と国との間に関する徳義を論ぜざるべからず。およそ道徳は、個人と個人との間に存する関係を義とするものなれども、一国が他国に対し、一国民が他国民に対する交際上にも、なお徳義をもってもととせざるべからず。しかして我人が他国に対するときは、たとえ一個人の交際にても、必ず愛国の精神をもって徳義の根本とせざるべからず。故に、ここに愛国の精神について特に一言するを要するなり。およそ人は、自己を愛する情を有せざるものなし。しかして一個人相結びて一国を団成する以上は、また自国を愛する情なかるべからず。けだし愛国は自愛の大なるものなり、一国は一人の大なるものなり。一人の上に存する徳義をば一国の上に適応するときは、すなわち一国の徳義となり、一人の他人に対する徳義をば国際の上に適用するときは、すなわち外国に対する徳義となり、一人の幸福、完全を欲する情を推して、もって一国の幸福、完全を祈るに至るときは、すなわち愛国の情操となる。この情操あるにあらずば、これを内にして社会の安寧を保つことあたわざるのみならず、これを外にして国家の独立、富強を全うすることあたわざるべし。故に我人は、必ず愛国の精神を養わざるべからず。ことに我人が外国に対するときは、その国家を代表するとしからざるとを問わず、その一挙一動みな一国の名誉、権勢に関することなれば、必ずなにごとも愛国の精神をもってもととせざるべからざるなり。しかりしこうして、わが国のごときは一種無類の国体を有し、また、我人のごときはこの国体を数千年間保持しきたれる一種不変の元気を有す。この元気は一般に日本魂と称して、わが国民の一種独立の精神たり。この精神中には忠君、愛国の二大義を包含するをもって、これによりて外国に対し外人に接し、よろしく国の名誉、権勢を減損せざらんことに注意すべし。果たして、よくかくのごとくなるときは、ここに忠孝の大道を全うせりというべし。

       第四八節 国民間の徳義

 およそ外国に対する徳義上、一国として交際すると、一個人として交際するとの二種あり。そのうち、まず一個人として外国人に対する徳義を述べんに、明治維新の前にありては、わが国民は一般に外国人を夷狄禽獣視したりしも、これ全く我人の外国の事情を知らざりしより出でたることにして、今日にありてはみなその非なるを知り、互いに相愛し相敬して、友情を尽くさざるべからざるを知る。しかれどもまた、外人を優待するにその適度を過ごすべからず。たとえば、わが国民を忘れてかえってかれを愛し、わが国体を軽んじてかえってかれを重んずるがごときは、いたずらに徳義の順序を誤るのみならず、また国家の大罪人たるを免れず。かつ我人の、外国に対して重んずべきは信用を守るにあり。たとえば、商業上外国人と通商するに、詐術を行い偽造をこととし、約を破り信を失うに至りては、大いに商業拡張の妨害となるのみならず、国家の名誉を毀損するは必然なり。また、外人のわが国に来遊するに際し、その待遇のごときは、よろしく懇切と信実とをもととすべし。しかるときは、かれまた、われを遇するに親切をもってすべし。かくのごとく、互いに友情を尽くして交際するも、また、これと競争するの志望を絶つべからず。もし一朝、事あるに当たりては、外国人はみなわが敵となり、わが兄弟相結びて、これと戦場に相まみえん日の、いまだ必ずしもなしというべからず。たとえかくのごとき場合なしとするも、自国の商業、工業、農業等をもって平生外国と競争し、よりてこれをしてますます大ならしめんことを務めざるべからず。




       第四九節 国際上の徳義

 また、つぎに、一国が他国に対するにも、国際上の徳義なかるべからず。平常無事の日にありては、その交際も友情に基づき、国賓の待遇、使節の応接等、みな親愛、敬信の徳義によらざるべからず。かくのごときは、すべて全国を代表するものにして、大いに国家の名誉に関するものなれば、格別に注意を加えんことを要す。また、たとえ一朝、故ありて互いに敵国となりて相争うことありとも、今日の争いは昔日のごとく腕力一方の争いにあらずして、道理、智力の争いなり。その戦端を開くに至るまでは、多少の道理、徳義をもって応接せざるべからず。かくて、もし徳義、道理をもって是非曲直を弁ぜざるに至らば、その最後の手段は、一に兵力に訴うるにあり。しかもその兵力に訴うるや、また必ず道理上、口実とするところのものなかるべからず。故に、兵力は道理を貫徹する器械なりというも、またあえて不可なることなかるべし。今日、国と国との際には一定の条約ありて、彼我互いにこれを守らざるべからず。もしこれを守らざるものあるときは、これに対して戦争を宣告するを得べしといえども、必ずまずその宣告の果たして正当なりや否やを考定せざるべからず。たとえ優勝劣敗は天則なりとはいえども、今日のごとき道理の世界にありては、なにごとも正当の理由をもって口実とせざるべからず。すでにこの理を知らば、我人はよろしく心を一にし、力を合わせ、一方には道理をみがき、他方には兵力を進めざるべからず。しかして兵力の拡張は財力を要し、かつ国民一般の元気に関するものなれば、全国の人民互いに共同団結して、国家の富強を祈らざるべからず。これ一人ならびに一国に対して、ともに徳義の必要なるゆえんにして、なかんずく、外国に対しては徳義上、愛国の精神の必要なるゆえんなり。しかりしこうして、わが国にありては、国内に対するも国際に対するも、その徳義の主要は忠君にして、忠君も愛国もその致一なれば、国民一般に忠君愛国の精神をもって、国体を維持せざるべからず。しかるときは、その国は確固不抜、泰然不動の地に立たんこと、疑いをいれず。これ余が、国家的道徳のもとは愛国にあり、愛国のもとは忠君にありというゆえんなり。

       第五〇節 死後に対する徳義

 以上、国家的道徳の大要を講述し終わりたれば、これより、以上講述しきたりしものの範囲を拡めて、その理を人の死後ならびに人類社会の外に及ぼし、すなわち、死後に対する道徳と、万物に対する道徳とを説かざるべからず。こは元来、道徳の範囲外に属すべきことなれども、また多少道徳に関係を有するをもって、ここに国家的道徳の付講として、そのことを論ぜんと欲するなり。まず死後に対する道徳は、主として死後の名誉に対する徳義を意味し、個人的道徳の部類なれども、死後の名誉は社会、国家のために事業を起こし、大いに功労ありたるものならでは伝わらざるをもって、国家的道徳に連繋して死後に対する道徳ありといわざるべからず。およそ人は、その一人をもっていうときは五〇年ないし一〇〇年を限りとすれども、その社会、国家をもっていうときは子孫万世に及ぼすものにして、我人の名誉はその社会、国家のあらん限り、幾千万歳の後までも伝うることを得るものなり。故に我人は、一人一代を目的とせずして国家万世を目的として、死後の名誉に対してあらかじめ尽くすところの道徳なかるべからず。これすなわち、人に死後の名を愛する情あるゆえんなり。それ死は一なり。王公も死し聖賢も死し、だれびとも免るべからざるものなれば、みだりに長寿をむさぼるは、決して我人のよろしく務むべきところにあらず。もし国家のため一身を犠牲にせざるべからざる場合あらんには、これ人たるもののまさに死すべき好機会とこそいうべけれ。果たしてよく一死をこの際に決することを得ば、その名は子孫万世を照らして、永く滅せざるべきこと明らかなり。かくのごときは、これ人の死後の名誉に対する義務というべし。また、あるいは学問上の一大真理を発見し、もって万世を利するがごときも、未来後世に対する徳義の一種となさざるべからず。しかれどもまた、みだりに名誉のみを目的として事業を企つべからず。語を換えてこれをいわば、名誉の奴隷となるべからず。けだし名誉は功業の報酬にして、われよりこれを請求するを要せず。ただわれは、名もまたわが身の一部分なれば、これを全うして死後に朽ちざらんことを望むべきのみ。かつそれわが国のごとき、忠君をもって道徳百行のもととなす国風においては、その死後の名誉を祈るは、あえて己のためにするにあらずして、実に皇室、国体に尽くす徳義の一部分なることを知らざるべからず。なんとならば、一人の名誉はこれを合して一国の名誉となり、一国の名誉はこれを集めて君主の名誉となればなり。

       第五一節 万物に対する徳義

 つぎに、宇宙万物に対する徳義を述べんに、一人の道徳は進みて一国の道徳となり、国内の道徳は推して国外に対する道徳となり、すなわち個人的道徳、国家的道徳の名称を分かつに至るといえども、これ畢竟、みな人類間のことなるのみ。しかるに人類の外には禽獣あり、草木あり、無機物あれば、またこれに対する道徳なかるべからず。これ国家的道徳の更に進みて、人類以外に推及したるものというべし。さて万物の中にも、有機物に対する徳義と無機物に対する徳義との二種あり。また有機物の中にも、動物に対するものと植物に対するものとの二種あり。動物は万物中最も人類に近きものにして、なかんずく、高等動物に至りては多少の感情、智力を有するものなれば、人類相愛の一端をば推して禽獣の上に及ぼし、牛馬を使役するにも過度に失せざらんように注意するがごときは、動物に対する徳義というべし。また、植物は人類を去ることやや遠くして、苦楽の感覚を有せざるものなれば、これを愛憐するを要せざるがごとしといえども、我人の衣食住は多く草木より得るものなれば、なるべくこれを濫用せざらんように注意すべし。これを草木に対する徳義といわんは、用語あるいは穏当ならじといえども、またあえてその意味なしというべからざるなり。果たしてしからば、なにほど財産を有すとも、無益の奢侈にふけりて天物を暴殄するがごときは、これ有機物に対する徳義に背くものというべし。また、無機物に対するもその理は同一にして、空気なり日光なり水なり土なり、みな我人の生活を支うるに一刻片時も欠くべからざる必要のものたれば、我人はこれに対する徳義として、無益に光陰を費やし、無益に品物を耗することなく、必ず自然の理法に従いてこれを利用し、もって天地間に人の人たる本分を全うせずばあるべからざるなり。これによりてこれをみるに、さきに個人的道徳の条下に述べたる勉強、耐忍、節倹の諸徳のごときは、まさにこの有機無機の諸物に対する徳義なることを知るべし。しかして天地万物に自然に具有する理法は、人を生育すると同時に人を殺害するものあり。すなわち烈風、洪水、飢饉、病患等これなり。人もしかくのごとき災難に際会するときは、あるいは自然に向かいて怨嗟を発するものあれども、およそ一利一害、一苦一楽は世界の常則なれば、我人は災難に遭うごとにますます戒慎して、もって幸福の臻るを待たざるべからず。これまた、我人の自然に対する徳義の一なり。今また、これをわが国風に考うるに、皇室ありてのち人民ありし国なれば、衣食住の道もおおむねみな皇祖皇宗の教えたまいしところにして、この国土も皇室の国土なることは、史に徴して明らかなり。果たしてしからば、われわれ臣民は天地万物に対してその徳義を守るは、すなわちこれ皇室に対する報恩の意に外ならざることを忘るべからず。換言せば、この豊饒なる国土にありてこの秀霊なる風色に接し、もってこの身心を健全に保つを得るは、全く皇恩君徳の余沢にして、この天地自然に尽くすゆえんのものは、すなわちわが君主に尽くすゆえんなることを記せざるべからざるなり。

       第五二節 神に対する徳義

 その他、道徳上、神に対する徳義あり。これ宗教に属するものなれども、天地万物に対する徳義を述べたる以上は、また神に対する徳義をも述べざるを得ず。そもそも神とは種々の解釈あるも、要するに宇宙の本源、万有の本体にして、無限の生存、絶対の性質を具有する体に名付けたるにあらざるはなし。ヤソ教にてはこれを造物主と称し、仏教にてはこれを真如という。ただ、ヤ仏両教の相異なるところは、その体と世界との関係を説明する点にあり。ヤソ教にては、まず造物主ありて世界万有を創造せり、故に世界に開端の原始ありと説き、仏教にては、真如の自体、開発して世界万有を現出せり、故に世界は無始にして、その体すなわち真如なりと説く。この神に対して我人の尽くすべき徳義は、古来一般に崇敬にありとせり。これおもにヤソ教中に挙ぐるところの名称なれども、これを局外より考うるに、すでに天地万物に対して我人の尽くすべき徳義ありとするときは、その本源、実体たる神に対して尽くすべき徳義あるべきこともちろんなり。しかしてこれに対して崇敬を尽くさんと欲せば、よろしくその現象たる目前の事物に向かいて尽くすべし。神は形象を有せざるものなれば、ただ我人の心中にその存在を想定するのみ。しかして目前の一事一物、みなその造出あるいは開発に出でたるものなれば、この事物の上に神の実在を想出し、天地万物はみな神の子孫もしくは一部分なることを思い、これを大切に守るこそ、神に対する徳義とはいうべけれ。かつわが身も神の子孫もしくは一分子なれば、これを愛重するも敬神の一なりと知るべし。しかりしこうして、これをわが国の、忠君をもって徳義の根本とせる国風の上に考うるときは、神の理想をば君主の上に適用しきたりて、我人の君主に対して忠順を尽くすは、すなわち神に対して崇敬を尽くすものと想定して、我人の君主をみること神をみるがごとくし、敬神と忠君とその致一なる国風を養成し、神に対しては忠君を思い、君に対しては敬神を思い、もって天皇の神聖を護し、皇室の尊厳を保つべし。これまた、臣民の皇室に対する義務の一なりとするも、あに不可ならんや。

 

     第八講 賞罰ならびに教育論

       第五三節 前数講の要旨

 上来、数講にわたりて述べたるところは、これを要するに、人の個人ならびに国家に対する道徳、義務を示したるものなり。これいやしくも人たるものの、なにびとも守らざるべからざる普通必要の道徳なり。故に、勅語に「之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス」とはのたまえり。しかりしこうして、わが国体は一種、他邦に卓絶するものなれば、道徳の主眼とするところ、必ず他邦と異なることなきあたわず。すなわち、さきにしばしば述べたるがごとく、忠孝一致をもって道徳の基本とすることこれなり。けだしわが国の風たる、個人的にありては孝をもって主眼とし、国家的にありては忠をもって骨髄とし、その二を合して忠の一に帰するは、実にわが国、一種固有の倫理なり。これすなわち、わが国体の今日まで伝わりきたれるゆえんにして、将来永くわが国の独立すべきゆえんも、またここにあるなり。この意を述べんと欲して、道徳の区域をば個人的、国家的の二大部に分かち、我人の身体より始め家族に及ぼし、親子、兄弟、夫婦、主僕、親戚より進みて、社会なる朋友、師弟、公衆、君主、国憲、国法、ならびに国際の関係に対する徳義をも漸次に説ききたりて、動物、植物、無機物、および神に対する徳義までを説示したり。しかしてその裏面にありては、徹頭徹尾忠君をもって骨髄とし、国体をもって主眼とし、我人百般の道徳は一系連綿、天壌無窮の理想を目的とすべきゆえんを示したり。しかるに、なおいまだこの目的に達するゆえんの方法、手段を述べざるをもって、これよりその方法手段として、賞罰法および教育法の種類を掲げざるを得ず。

       第五四節 賞罰の種類

 およそ賞罰に三種あり。第一は宗教的賞罰、第二は法律的賞罰、第三は道徳的賞罰なり。宗教的賞罰は宗教の異なるに従いて不同あるも、普通の宗教にありてはその権、天帝にありとし、現世においてこれにもれたるものは、必ず死後冥界においてこれを受くとなす。法律的賞罰にありては、国家の法律によりて刑罰を用うるなり。しかるに道徳的賞罰に至りては、おもに社会の制裁に任ずるなり。法律的と道徳的とはともに現世目前の賞罰にして、宗教的は死後の賞罰なれば、決してこれを混同すべきにあらざるも、古代にありては宗教と道徳と相混じ、道徳上の賞罰をもみな天帝の意志に一任したり。しかれども今日にありては、道徳は宗教を離れて現世の上に賞罰を立てざるべからず。しかるに、かくなれば、またおのずから法律と混同する恐れあり。そもそも道徳と法律とは元来密接なる関係を有して、その二者の分界を定めんことはなはだ難しとす。たとえば窃盗、詐欺のごときは、道徳上罪悪と認めらるると同時に、法律上にもまたこれを罪悪として罰するなり。これに反して、世の慈善家、徳行家を褒賞するがごときは、もとより法律の本分にあらざるも、政府の命令をもってこれを行う風習あり。これ法律と道徳と、その賞罰に関して分界を立つることあたわざるゆえんなり。故に、道徳的賞罰は大別して、国法によりて定むるものと、社会の制裁に任ずるものとの二種となすなり。

       第五五節 道徳的賞罰

 この二種の道徳的賞罰中、国法によりて定むる方は強行的すなわち刑罰的制裁にして、法律に属するものなるをもって今これを略し、社会の制裁に任ずる賞罰法を述ぶべし。この賞罰は、社会の人民が一個人の資格をもって、互いに悪行をなしたるものを擯斥し、善行をなしたるものを称賛するをいう。すなわち世論の制裁なり。しかるに、これ外部の制裁に過ぎず。これに対して身体の制裁あり。身体の制裁とは、身体の組織上に自然に発する賞罰をいう。たとえば、人たるもの暴飲、過食、放蕩、遊惰なるときは、その身体を害し生命をそこなう等の結果を見、欲を制し徳を修むるときは、衛生健康に利あるを見る。これ社会の制裁にあらずして、人身自然の制裁なり。その他、心内に生ずる制裁あり。たとえば、不正無道の行為は良心の内に責むるありて、心中不快を感じ、事変に遇うごとに心思動きて定まらず、恐怖、苦痛の情を脱し難し。これに反して徳行家は、その心常に安うして、動くことなく惑うことなく、幸福満足をもって生涯を送ることを得るこれなり。これを良心の制裁という。そのうち前者は肉体上に関し、後者は精神上に関するも、ともに社会的賞罰に伴いて、道徳的賞罰を組織するものといわざるべからず。なかんずく、精神上の賞罰のごときは、大いに道徳上の賞罰に関係を有するものなり。だれしも善をなして愉快を感ぜざるはなく、悪をなして不安を感ぜざるはなし。たとえ悪をなして一時快楽を感ずることありとも、少時の後は多少その心に痛苦を感ぜずということなかるべし。これ我人固有の良心の与うるところの賞罰にして、人は世間を欺くことを得るも、良心を欺くべからざるによる。これを要するに、道徳的賞罰は法律の制裁、社会の制裁、身体の制裁、良心の制裁の四種となるなり。その他、間接の賞罰を挙げば、一人徳を守り善を行うときは、その一家これに倣い、もって近隣に及ぼし、その感化力の大なる、子孫数世の後に至るも永く滅せず。これ積善の家には余慶あるゆえんなり。これに反して積不善の家は、その不善の影響をば子孫、近隣に及ぼすをもって、たとえ一代の間さいわいに無難なりとも、子孫に至りては必ず不幸を免るることあたわず。すなわち、世に徳によりて興りたる家は永く存し、不義によりてえたる財産は永く伝わらざるは、この理なり。また、徳を積みたる人は、たとえその一代の間は不幸にして社会にいれられざるがごときことありとも、その美名はついに死後数世に伝わり、子孫永くこれを称揚すべし。これに反して不道徳をなしたるものは、たとえその一代は僥倖を得ることありとも、悪名を子孫百世の後に流し、永く世間に擯斥せらるべきなり。

       第五六節 教育法の種類

 つぎに道徳の教育法を述べんに、これに直接と間接との二種あり。直接とは、人のただちに児童に接して教育する法をいい、これにまた、家庭、学校、社会の三種あり。間接とは、他の事物を媒介として教育する法をいう。これにまた、美術と自然との二種あり。その表、左のごとし。

  教育法 直接 家庭

         学校

         社会

      間接 美術

         自然

 この表中なる直接教育法は、言語、書籍によりて教育する方法と、行為、習慣によりて教育する方法との二種あり。余はこれを言訓、行訓と名付くるなり。

       第五七節 家庭教育

 まず家庭教育は、父母の家にありて父母、兄弟より授くるところの教育にして、人の最も幼稚なるときの教育なり。しかして幼稚教育は、教育中最も重要なるものとするなり。諺に「先入、主となる」といえるがごとく、無念無想の幼児の心中に注入する最初の教育は、これによりて人間一生の性質を造成するものにして、もしこのとき、ひとたびその方向を誤るときは、のち数年の教育をこれに加うるも、そのもとに復せんことほとんど難しとす。かつ幼時の教育は模倣一方のものなれば、これを口に説きて道理をもって諭すよりは、これを行いに示して、自然にこれに倣わしむるをよしとす。ことに道徳の教育に至りては、もっぱら実行にあるものなれば、父母たるものはなるべくこれをその身に行いて、児童に示さざるべからず。これ余がいわゆる行訓なり。かつ道徳の教育は習慣性を養成するを重要となすをもって、家庭にありてはもっぱら児童の良習慣を養成することに注意すべし。すでにして就学年齢に達し、出でて小学教育に就くに至るとも、なお学校にある時間よりは家庭にある時間の多きものなれば、父母はなお家庭教育を継続せざるべからず。

       第五八節 学校教育

 つぎに学校教育とは、小学、中学等の学校にありて教育するをいう。これ人にやや理解力の生ずるに及びて施すものなれば、書籍、器械につきて講義、説明するものなれども、修身の一科に至りては、必ず、言訓に伴うに行訓をもってせざるべからず。すなわち、教師その人が書籍につきて説明するのみならず、またその身に行いて示さざるべからず。なんとならば、道徳の要は理論にあらずして実行にあればなり。ことに小学生徒のごときは、理論を解する力よりは、行為を模倣する力強きものなればなり。故に、学校の教師を定むるには、ただその学力のみを標準とせずして、人物、人品の高下、良否、および道義、徳行のいかんを考察せんことを要するなり。

       第五九節 社会教育

 つぎに社会教育とは、人が社会にありて、その朋友およびその一村一郷の人民に交際して、これより得るところの教育をいう。これ、前なる二種の教育とはややその性質を異にし、一定の教師ありて意志をもって教育するにあらず、交際上、他人の言語、行為を見聞して、知らず識らざる間に感化を受くるをいう。しかるに、その教育上に与うる影響は実に重大なれば、これを教育法の一種に加えて論ぜざるべからず。しかしてこの教育法を区分するときは、交際、風俗、世論の三種となるべし。まず交際とは、朋友、他人と交わる際、その人のなすところを見て、あるいは善人となり、あるいは悪人となるをいう。諺に「朱に交われば赤くなる」といえるはこれなり。さきに教育上、朋友を選ばざるべからずと述べたるもこの故なり。つぎに風俗とは、その一村一郷もしくは一地方の風俗、習慣の純良なるときは、その感化を受けて純良の人となり、その風俗猥褻なるときは猥褻の人を生ずる類をいう。つぎに世論とは、その時代の人民一般の唱うるところの説に感動せられ、勤王論盛んなる時代には勤王の思想を発育し、民権論盛んなる時代にはまたその主義に感動せらるる類をいう。これみな、社会にありて朋友、人民より多少直接に受くるところの教育なり。

       第六〇節 美術教育

 つぎに、間接教育中美術とは、詩歌、音楽、絵画等の教育上に与うるところの影響をいう。家庭、学校、社会の三種の教育にありても、これを助けて人心を感動するに最も力あるものを美術とす。なかんずく、絵画のごときは視感上の美術にして、視感は五感中その力の最も強きものなれば、人心を感動するに大いに力あるものなり。善悪の賞罰のごときは、これを絵画に現して児童に示すときは、そのこれを感ずること、書につきて読むよりもはなはだし。これに続きて詩歌、音楽も大いに功あるものなり。およそ美術の目的は多数の人に快楽を与うるにあれども、またよく人の情緒を和らげ、嗜好を高尚にするをもって、したがって徳育上に大いに功あるものなれば、無智不学のものをして徳義の必要を感ぜしむるには、美術によらざるべからず。まず家庭教育上に美術の関係を有するものは、玩具および遊戯なり。小児の玩具の智育、徳育に関係あるは言を待たず。碁、将棋、カルタのごときは、美術とはその性質を異にするも、なお一般の美術同様に教育上に影響を与うるものなれば、よろしくこれを改良して教育の一助となすべきなり。学校教育にありては、絵画、音楽、詩歌等の美術を加えて、教育の一助となさざるべからず。また社会教育にありても、絵画、音楽等は大いに人心を感動するに力あり。その他、演劇、舞踏等も同じく教育上に重大の影響を及ぼすものなるをもって、これを改良するは、また教育改良のために欠くべからざることなりとす。

       第六一節 自然教育

 つぎに、自然の教育について一言せざるべからず。自然教育とは、天地自然の気候、地形、風色等、我人の四囲に現ずる諸象の、教育上に与うる影響をいう。たとえば、気候温和の国にあるときは、その人の心もまた温和となり、地形広濶の地に住するときは、その心もまた広濶となるがごとし。他もこれに準じて知るべし。けだし土地の異なるに従いて人情、気風の異なるは、要するに気候、地形の異同より生ずるものなり。果たしてしからば、天地自然もまた人を教育する力ありというべし。故に人たるものは、必ずまずその地位を選びて住居を定めざるべからず。また、家庭および学校教育にありても、休暇および晴天の日には、父母および教師たるもの、児童を野外に提携し、自然の事物、風色に接見して教育を施さざるべからず。これ児童に博物の知識を与え、かつその心身の発達、健全を助くるものなればなり。

 

     第九講 結 論

       第六二節 全講の総括

 上来講ずるところ、これを総括するに、道徳の原理は古今万国に通じて一定せるものなれども、これを実際に応用するに当たりては、国々おのおの多少その道徳を異にせざるべからず。これ他なし、国異なるときはその政治、国体、人情、風俗もまたおのずから異にして、甲の国において軽しとするところも乙はこれを重しとし、乙の社会において先とするところも甲はこれを後にするがごとき別あるによる。ここをもって、わが国にはわが国一種の道徳あり、他国には他国特有の道徳あり。今わが国の道徳を考うるに、忠孝一致をもって人倫の基本とするなり。しかして忠孝一致は、君民一家の国風より起こる。これわが国体の一種他国と異なるゆえん、またその国体の数千年来継続せるゆえんなり。この倫理の大綱、分かれて個人的、国家的の二種となり、個人的にありては孝をもってもととし、国家的にありては忠をもってもととするもの、またわが国一種特有の道徳なり。故にわが国にありては、忠と孝とは経となり緯となり、もって一種特絶の国体を組織するに至る。これを内にして社会の安寧を保全するにも、これを外にして国家の独立を維持するにも、ともにこの経緯によらずということなし。しかしてその経緯に貫通するところの一種の精神ありて、人倫これによりて定まり、国体これによりて安し。これを日本魂と称す。これ実に国民の元気なり。我人はこの元気と、かの経緯とによりて、一人ならびに一国の福徳を完全ならしめ、理想的絶美の国体を円満ならしむることを目的とすべし。この目的に達する方法、手段は前講に述べたるも、更にその方法をばわが国人倫のおおもとたる忠孝の上に適用して、一言せざるべからず。

       第六三節 愛国的感情の必要

 古来わが国民の忠孝に対する感情は実に一種特別にして、なかんずく、忠に対する感情の厚きことは、他邦にその比を見ざるなり。しかしてこの感情によりて、良心の制裁ならびに社会の制裁を生じ、古来忠臣、孝子は多くわが国に出でたるも、二千五百余年の間、一人の天位を覬覦するものありしことなく、もって一系連綿の皇室をいただき、もって金甌無欠の国体を維持することを得たり。これみな、この制裁の結果ならざるはなし。故に、忠孝に対する賞罰はこの良心ならびに社会の制裁に任じ、今後ますますその制裁力を強からしめんことを務むべし。ただわが国、今日までの感情はひとり国内に対するもののみに厚くして、国外に対する感情の大いに薄きを覚ゆ。これ畢竟、従来外国の関係を有せざりしときの余習、しからしめたるによる。しかるに今日は、外国に対して一国の独立を維持することの急切なるに会したれば、そのいわゆる忠も、外国に対する愛国的感情をもって主とせざるべからず。良心ならびに社会の制裁も、またこの感情をもととせざるべからず。しからずば、もって一国の独立を維持せんこと難かるべし。

       第六四節 教育法の改良

 つぎに、教育法に関し今より改良を施さざるを得ざる急務は、またこれ外国に対する一国独立の感情を養成せしむるにあり。けだし従来の教育家は、多く一個人の完全を目的として、国家の独立といえるがごときことには多く注意せざりしも、今日はこれ、国家の独立をさきとせざるべからざる時機に会したることなれば、教育上もっとも国民的感情もしくは国家的感情を養成せざるべからず。これ今日、世間にて国家的教育の必要を唱うるゆえんなり。わが国、従来の忠孝に対する我人の感情は、すなわち内国に対する感情にして、一人一家の完全を目的とするものに過ぎず。しかるに今より後は、忠も孝も外国に対して、一国の独立を維持する目的に向かいて進めざるべからず。語を換えてこれをいわば、忠孝ともに国家の完全を目的として養成せざるべからず。果たしてしからば、家庭、学校、社会の三種の教育も、ともにこの方針に向かいて進め、ことに美術の教育のごときは、人の感情を動かすに大いに力あるものなれば、絵画もなるべく国家の独立に関係を有するものをもってこれを示し、詩歌、音楽も国家的精神をもってこれを製作し、演劇、遊戯に至るまで、国家的思想をその中に寓するに至らば、人民の愛国的観念、大いに発達せんこと必然の勢いなり。かくのごとくにして、始めて国家の完全を期すべきなり。

       第六五節 全講の完結

 ここに全講を完結するに当たり、更に謹みて勅語を引証して、余が論旨の全く勅語を精神としたるゆえんを示さんとす。そもそもわが国に、古来一種特有なる忠孝為本の道徳あり。これによりて一種特有の国体を維持し、もって今日の隆運を開くに至りたるは、実にわが国の美風にして、教育のよりて起こるところなり。故に、勅語に「我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世々厥ノ美ヲ済セルハ此レ我カ国体ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦実ニ此ニ存ス」とのたまえり。しかしてその本源を究むるに、これ実に建国以来、皇祖皇宗の遺訓にして、またわれわれ祖先の遺風なり。この遺訓を奉じ、この遺風を守り、もって上は皇室を輔翼し奉り、外は国権を海外に拡張するに至らば、われわれ臣子たるもの、忠孝二道を両全することを得べし。また、個人ならびに国家に対して、人生の目的を大成することを得べし。これ勅語に「朕惟フニ我カ皇祖皇宗国ヲ肇ムルコト宏遠ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ」とのたまい、また「是ノ如キハ独リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顕彰スルニ足ラン斯ノ道ハ実ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所」とのたまえるゆえんなり。われわれ、あに臣子の本分を尽くして、天恩の万一に報ぜざるべけんや。一朝、事あるに際しては、よろしく身命をなげうちて皇室、国体を防護すべし。永く勅語の「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」との聖意を忘却すべからず。しかしてまた、その結文に「朕爾臣民ト倶ニ拳々服膺シテ皆其徳ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ」とのたまえるに至りては、聖諭の懇切なる、われわれ臣民、あに謹み慎みてこれを奉戴せざるべけんや。ああ、わが国土はこれ皇室の国土なり。ああ、わが財産はこれ皇室の財産なり。わが衣食住はことごとく天皇の恩賜にして、わが身体も生命も天皇より授けたまえるものと理想上に想定しきたり。身命をなげうち、心力をつくして世界無比、万世不変の国体を絶対的に完成せんことを期し、もって天よりも広く地よりも厚き君恩、皇徳の万一に報答し奉らずばあるべからず。これ余が日本倫理学講述の精神にして、また実にその目的なり。